動画:ソウル繁華街で149人死亡 ハロウィーン祝う群衆殺到
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このお話はアナーキーの後日編・完全IFルート(恋人設定)です。
秦王嬴政の正妻である向が、子を身籠っていることが発覚してから早三か月。
飛信軍の女将軍・信は、嬴政より火急の報せを受け、秦の首府である咸陽へと駆けつけた。
玉座の間に向かうと、嬴政は人払いをし、信と二人きりになる。他者に聞かれてはまずい話なのは分かったが、一体何があったのだろう。
「信、お前に頼みがある」
神妙な顔つきで自分に頼みごとをする親友の姿を見るのは、これが初めてではなかった。
以前、桓騎軍の素行調査をして欲しいと頼まれた時も、嬴政は重々しい空気をその身に纏って、信に頭を下げたのだ。
今回は一体どんな用件だろうと信は身構え、彼の言葉を待つ。
「…向が、何者かに命を狙われている。後宮に行き、彼女を守ってやって欲しい」
「……はっ?」
信は間抜けな顔で聞き返した。
始まりは、向の食事を毒見した女官が帰らぬ者になったことだった。
たった一口食しただけで血を吐き、その血が肺に流れ込んだことでたちまち呼吸困難に陥ったのだという。
少量だけでも死に至らしめた強力な毒を食事へ混入させた犯人は、未だに分かっていない。
毒に反応して変色する銀製の食器を使用していたのだが、食器には何も変化がなかった。だというのに、食事に毒が盛られていたことに、女官たちは騒然となったそうだ。
毒を盛った犯人は未だ分かっておらず、手がかりが少な過ぎて、目星もつけられずにいるのだという。
後宮には千人以上の女官たちがいる。後宮の出入りが許されているのは、王族、そして、後宮だけでなく宮廷での仕事も請け負っている宦官くらいだ。
疑いを掛けることが出来るものたちはある程度絞られるにしても、これだけの人数から犯人を炙り出すのは困難なことだった。
嬴政の正室として迎え入れられた向は、その身に王族の子孫を宿しているということもあって、以前よりも多数の護衛がつけられていた。
武器を持って戦う術を持たぬ者たちが集う後宮は、決して平穏ではない。大王の寵愛を狙う者、正室の立場を狙う者、様々な者たちの欲望が渦巻く場所でもあるのだ。
そして、その欲望は時に狂気を孕み、邪魔な者を消し去ろうという殺意にも変わることがある。今回の毒混入事件は、向を敵視している者がいる何よりの証拠だ。
しかし、正室である向は後宮で過ごす他ない。
身の回りの者たちが自分の命を庇って亡くなっていくのも、いつ自分と愛する我が子が狙われるかと思うと、向も精神的に疲弊しているのだという。
いつ命を狙われているかという危険が付き纏うのは堪えるものだ。幾度も死地を駆け抜けて来た信だって同じ状況に立たされれば疲弊するに決まっている。
しかし、向は秦王の子を身籠っているという責任から、何としてでも我が子を守らねばならないという母としての尊厳も保持しなくてはならなかった。
秦王の正室である以上、簡単に弱音を吐き出すことも、弱みを見せることも出来ない。
しかし、毒の混入事件があってから、色んなことが向を追い詰めているようで、嬴政は頻繁に後宮に訪れて彼女の体調を気にするようになっていた。
嬴政も大王としての政務があり、常に向の傍にいられる訳ではない。そこで親友である信に助けを求めたという訳だ。
「…俺に、女官として後宮に行って、妃を守れっつーことか?」
「お前にしか頼めない」
真剣な顔で嬴政が言う。普段なら即答するのだが、信は腕を組むと険しい表情を浮かべた。
自分の知らない組織に変装して潜入するのを頼まれるのは、今回が初めてではなかった。
以前頼まれたのは桓騎軍の素行調査だったが、今回は後宮に住まう妃の護衛という訳だ。
向の周りにいる者たちは信と違って戦う術を持たぬ者たちであり、相手が宦官であっても、信は容易に手出しはさせぬ自信はあった。だが、問題はそこではない。
「…毒を入れた犯人も分からねえのに、俺が護衛についたところで何も変わらねえだろ」
相手が一人なのか、複数いるのか、女官なのか、宦官なのか、それともまた別の誰かか。何も手がかりがないというのに、姿も分からぬ相手から向を守れというのはなかなか無茶な要求だ。
後宮にいる者が犯人であるという仮説は立てられても、千人以上もいる女官たちから犯人を探し出すのは不可能に近い。
食事に毒を用いたということは、犯人は下手に足がつかぬように工夫をしているはずだ。直接彼女に手を出して来る真似はしないに違いない。
きっと嬴政もそれを分かっているはずなのに、それでも信に妻の護衛を頼むということは、彼も相当追い詰められているのだろうか。
しかし、嬴政が発した言葉は信の予想を上回るものだった。
「信。お前には毒の耐性があるのだろう?」
「なッ…」
思わず信は顔を強張らせた。信が毒に対して耐性を持っていることはあまり知られていない情報である。親友である嬴政にもそれを告げた覚えはなかった。
信が毒に対する耐性を持っているというのは、多数の足を持つ毒虫…ギュポー嫌いなことに関連している。
幼い頃にギュポーに手を噛まれ、三日三晩その毒に寝込んだ信は、幸か不幸か、毒への耐性を持ってしまったのだ。
頭痛、発熱、悪寒、嘔吐、下痢、呼吸困難、謎の発疹…さまざまな症状に苦しめられた信は、あれほどまで苦しい経験を過去にしたことがなかった。
今思えば、三日三晩さまざまな症状が出て寝込んだのは、体が変質していた影響だったのかもしれない。
当時の辛い記憶が今も信の中に恐怖として根付いており、この年齢になっても信のギュポー嫌いは克服されていない。
天下の大将軍である王騎と摎の養子であり、今や信自身も両親と同じ六大将軍の座に就いている。そんな自分がギュポーなどという毒虫が苦手だなんて笑い話である。
飛信軍だけの機密事項として取り扱っていたのだが、嬴政の指示で行った桓騎軍の素行調査中にギュポーと遭遇したことがきっかけで、信のギュポー嫌いの噂は呆気なく広まってしまったらしい。
毒に耐性があることを告げると、芋づる式にギュポーが嫌いだということに気付かれてしまうので、信は今までずっと内密にしていたのだ。
桓騎軍の素行調査中も、毒に耐性があることは誰にも告げなかったはずなのだが、まさか嬴政が知っているとは思わなかった。
大抵の者は信がギュポーが嫌いということに、驚くか腹を抱えて笑うのに、それをしないというのはさすが親友であり、秦王の器を持つ男である。
「心苦しいことだが、後宮を出入りする者は限られている。俺も常に向を守ってやれる訳ではない…お前にしか頼めんのだ。妻を守ってやってほしい」
「つまり、俺に護衛と毒見役をしろってことか」
嬴政は辛そうな表情を浮かべて頷いた。
弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いであり、今や親友である彼女に護衛だけではなく、毒見役まで頼むのは、きっと苦肉の策だったのだろう。
しかし、他に頼める者がおらず、信に頼むことを決めるまで嬴政も苦悩したに違いない。
「頼む、信」
玉座に腰掛けている嬴政が、信に深く頭を下げた。親友であり、秦王である彼にそこまで頼まれては、信は拒絶する訳にいかなくなる。
「…犯人が見つかるかはあんまり期待するんじゃねーぞ。あくまで毒見役と護衛ってだけだからな」
「ああ、感謝する」
信が引き受けてくれたことに、彼は不安と安堵が入り混じったような複雑な表情を浮かべて頷いた。
嬴政からの頼み事を聞いた後、信は後宮に行く手筈が整うまで、数日の猶予をもらった。
秦王の勅令であり、信に初めから拒否権などなかったのだが、嬴政は無理強いはしなかった。他国の王ならば、一人の将に頭を下げて「妻を守って欲しい」だなんて言わないだろう。
大勢の妻を抱えている王だっている。一人の妻が毒殺されかけたところで、配下たちに丸投げする王もいるかもしれない。
もしも嬴政がそんな男だったならば、信は早々に彼を見限っていただろう。
秦の未来のためにも、大将軍である自分は、向とその胎に宿る子を守らねばならない。
親友の頼みだからこそ引き受けた信だったが、咸陽宮を出てから、かなりの大役を引き受けてしまったのではないだろうかと不安になった。
後宮で起こっていることは、信が経験したことのない争いだ。
命を狙われているという点では戦場なのかもしれないが、後宮の勝手がわからない信には、分からないことだらけである。
毒に耐性のある自分が毒見役を引き受けたのは良いとして、どこに敵が潜んでいるのかなど予想もつかない。戦場とは違い、武器を持たぬ者たちの争いというものに、信は経験がなかった。
後宮には千人以上もの女官と宦官がいる。毒を入れた疑いがある者は少しも目星がついていないということは、全員を疑うべきだろう。
全員を敵とみなしたとして、果たして本当に自分は向と嬴政の子を守り切れるのだろうか。
「………」
黒ずんだ不安が胸に渦巻き、信は手綱を引いて愛馬の駿の足を止めた。主を心配するように駿がぶるると鼻を鳴らしたので、信は鬣をそっと撫でてやる。
「…駿、悪い。ちょっと寄り道だ」
自分が住まう屋敷に戻ろうと思っていたのだが、信はここ最近になって通い慣れた道の方へと駿を走らせた。
桓騎の屋敷に到着した頃には、既に陽が沈みかけていた。
従者からこちらに馬を走らせている信の報告を聞いたのか、彼は屋敷の外で待ってくれていた。
「珍しいな。呼んでねえのに、お前の方から来るなんてよ」
紫色の着物に身を包んでいる彼が、馬から降りた信に声を掛ける。
「………」
いつもならすぐに用件を話し出す信だったが、今日は違う。桓騎の小言にも反応を示さないし、何か言いたげに唇を戦慄かせているが、躊躇うように口を閉ざしてしまう。
視線も合わず、桓騎は彼女が悩みを抱えていることを察した。嘘を吐けない素直の性格している信は、すぐに表情に出すのでとても分かりやすい。
桓騎軍の素行調査として、百人隊の兵に紛れていた時も、それはもう面白いくらいに顔に動揺を出していた。
思い出し笑いを噛み殺しながら、桓騎は信が何を言おうとしているのかを考える。
今日のように、急に彼女が屋敷へ訪れる時は決まって何かを悩んでいる時だ。助言をもらいに来たというよりは、ただ不安な気持ちをどうしたら良いのか分からずに持て余してしまうのだろう。
将軍には本能型と知能型の二種類がある。信は前者で、桓騎は後者だ。
考えるよりもすぐに行動に移すことを何よりも得意とする信は、頭を使うことが苦手らしい。本能型の将軍が単純というのはまた違う。こればかりは信の元々の性格だろう。
「…どうした?」
桓騎が穏やかな声色で問うと、信は少し目を泳がせてから、ゆっくりと口を開いた。
「その…しばらく、会えなくなる」
「は?戦か?」
特にこの頃は隣国の動きに異常はなかったはずだと、桓騎が今日まで聞いた報せを思い返していると、信が首を振った。
「詳しくは言えねえんだけどよ。政の頼みで、ある女の護衛につくことになったから…」
不安な気持ちを打ち明けに来たのではなく、しばらく会えなくなることを伝えに来たらしい。少なくとも数か月は会えないのだと言われ、桓騎の眉間に皺が寄った。
「…なるほどな」
護衛を任せられた者について詳しく話そうとしない信に、桓騎は小さく頷く。
「後宮で妃の護衛か。それとも、毒見役にでも抜擢されたか?」
「そう…って、なんで知ってんだよッ!?」
ぎょっとした表情で信が問う。向の護衛を行うことは嬴政と信しか知らないはずなのに、一体いつ情報を手に入れたのかと信は驚愕していた。
しかし、桓騎からしてみれば、秦王である嬴政からの頼みであり、女ということさえ分かれば、正解を聞いたようなものだった。
後宮には王族の子孫繁栄のために千人以上の女性が集められている。しかし、嬴政が褥に呼ぶのはほんの一握りどころか、一つまみであった。
嬴政自ら信に護衛を頼む女性といえは血縁者くらいだろう。母である太后には元々十分過ぎる護衛がついている。だとすれば消去法で、嬴政の子を身籠っている后という訳だ。
さらには嬴政が信頼を置いている将は他にもいるが、信でなければいけない理由…それは他でもない性別である。
后は宮廷の奥にある後宮で生活する決まりがある。後宮には女性か、男であって男の機能を持たぬ宦官か、王族しか出入り出来ない仕組みになっているのだ。
飛信軍の女将軍である信の名前は後宮にも広まっているが、彼女は戦で顔を隠していることや後宮に出入りすることがないため、後宮に住まう者たちには顔を知られていないのだ。
大将軍の座につくほど武力をその身に備えているだけでなく、毒に耐性を持っていることも理由の一つに違いない。
…要するに、信は后の護衛に一番相応しい存在ということである。
限られた情報でそこまで答えを導き出した桓騎に、信は苦笑を深めることしか出来なかった。
駿を厩舎に預けた後、桓騎は信を屋敷へ招いた。寝室の扉を閉めた途端、いきなり腕を引かれて抱き締められ、信は目を見開く。
桓騎の両腕に抱き締められているのだと分かり、信は戸惑ったように体を強張らせた。
「…いつまでかかる」
「え?」
「後宮にいる期間だ」
腕の中で、信は借りて来た猫のようにしゅんと縮こまった。
「分かんねえよ…そんなに、長い間はいられねえと思うけど…」
信自身も大将軍としての役割がある。戦がない間の飛信軍の指揮は副官である羌瘣や、他の将に頼むことは出来るだろう。しかし、いつまでも後宮で后の護衛をすることは出来ない。
嬴政もそれを分かっているはずだが、それでも信に向の護衛を頼んだということは、よほど向の命の危機を感じているということに違いない。
毒見役の代わりなどいくらでも用意出来るだろうが、自分に仕える女官が自分のせいで命を奪われるなど、並大抵の者は耐えられるものではない。
戦場で多くの敵味方の死を経験して来た信でさえ堪えるものがあるのだから、向の心にはきっと重く圧し掛かっているはずだ。
そういった配慮も込めて、信頼している自分に依頼したのかもしれないと信は思っていた。
「そりゃあ、犯人さえ見つかれば、すぐに戻って来られるだろうけどよ…」
信が言葉を濁らせる。千人以上の女官がいる後宮で、毒を盛った犯人を捜すのは至難の業だ。
嬴政から話を聞いた時点で、信は毒殺を未然に防ぐことは出来たとしても、犯人を見つけることは不可能であると察していた。
「無理だろうな」
信の黒髪を指で梳きながら、桓騎が苦笑した。彼も同じことを考えていたらしい。
「………」
遠慮がちに信が桓騎の背中に腕を回す。性格上、普段から大胆に身を寄せて来ることがない恋人が、こうして甘えて来るのは随分と珍しいことだった。
素直に寂しいと言えない頑固な性格も愛らしい。
しばらく無言で身を寄せ合っていたが、桓騎は思い出したように顔を上げた。
「すぐ後宮へ発つのか?」
信は首を横に振った。
「羌瘣やテンたちに軍を任せなきゃならねえから、あと数日してから、後宮に行くつもりだ」
信頼している仲間たちよりも先に自分へ会いに来てくれたことに、桓騎はつい口の端をつり上げた。誰が見ても彼の機嫌が良くなったことは明らかである。
夜通し馬を走らせれば仲間たちの下へ辿り着くだろうが、それをせずにこの屋敷に立ち寄ったということは、今夜は一緒に過ごしたいという信の気持ちの表れである。
次に会えるのが一体いつになるか分からないのならば、今日は存分に楽しむしかない。
「ほらよ」
桓騎は台の上に置いてある飲み掛けの酒瓶の中身を杯に注いで、それを信へと手渡した。
酒杯を受け取った信が酒を口に含む前に匂いを嗅いでいる。どんな酒か確かめているのだろう。
「鴆酒だ」
「えっ!」
正解を教えてやると、信が目を輝かせた。
鴆酒というのは滅多に出回らない酒であり、この酒を作ることが出来る者もかなり限られている。その理由は鴆酒が毒だからだ。
鴆の羽毛に含まれている猛毒から作られているこの酒は、嗜好品ではなく、暗殺の道具として使用されている。
普通の人間なら一口飲んだだけでも、たちまち毒に身体が蝕まれ、命を落とす代物だ。…だというのに、酒瓶は既に開けられて、何者かが飲んだ形跡があった。
「最近目を付けた酒蔵に鴆者がいたんだ。それなりに良い味だぞ」
毒に対する耐性を持っているのは、桓騎もだった。
猛毒である鴆酒だと分かった信は迷うことなく杯に口をつけ、一気に喉に流し込んだ。
焼けつくような熱さと同時に、強い痺れが舌と喉を襲うが、その刺激が堪らない。信はぶるぶると歓喜に体を震わせた。
毒虫であるギュポーは大嫌いだし、毒を受けたせいで失ったものもあるのだが、毒酒の美味しさを実感出来るようになったことは唯一感謝すべきことである。
「ふはー、鴆酒なんて飲むの久しぶりだなあ」
中華全土のどこを探しても、毒酒を愛飲しているのは信と桓騎だけだろう。
酒好きで知られる麃公でさえも、毒の耐性を持っていないため、この鴆酒だけは飲めない。麃公とは幾度も酒を交わしていた仲だったので、この美味さを分かち合えないのは残念だと信は思っていた。
久しぶりに鴆酒を飲んだ信は先ほどまで暗い表情を浮かべていたが、今はすっかり笑顔になっていた。
屋敷に訪れた時は寂しそうな表情をしていた信が、太陽のような明るさを取り戻したのを見て、桓騎も思わず頬を緩めていた。
酒瓶がすっかり空になった後、どちらが誘う訳でもなく、二人は体を重ね合った。
鴆酒は一般的に猛毒に分類されるものだが、二人にしてみればただの酒でしかない。酔いも合わさって、普段以上に激しい情事になった。
すっかり疲れたのか、褥の中で信は桓騎に抱き着いたまま、寝息を立てていた。
窓から差し込む月明りだけが部屋を薄く照らしている。
「………」
眠るとより幼さが際立つ寝顔を見つめながら、桓騎はそういえば久しく娼婦を抱いていないことを思い出した。
娼婦に興味がなくなったのは、信と今の関係になってからだ。
肌はあちこち傷だらけで、中には目も当てられぬような深い傷跡だってある。醜い傷跡が肌に残っているなど、女としては致命傷だろう。
それでも情事の最中にその傷跡に舌を這わせることは、桓騎は嫌いではなかった。むしろ自分だけの証として、醜い傷痕を増やしてやりたいとさえ思った。
これまで桓騎が抱いて来た娼婦たちのように、信は特別な美貌や玉の肌を持ち合わせていない。
論功行賞や宴の席ではそれなりに身なりを整えて来て、美しい女に化けることは分かっていたが、彼女は男の喜ばせ方を何一つ知らないのだ。桓騎にはそれが好ましかった。
一から自分好みに染められるという男の優越感もあるのかもしれない。
夜の指南に戸惑いながらも従う信は、確実に自分の好みの女へと成長しているし、ますます愛おしさが込み上げる。
優越感と同時に、独占欲まで広まってしまったようだ。もう他の女では満足出来ないかもしれないと思えるほどに。
「…ん…」
前髪を指で梳いてやると、眠っている信が小さく声を上げた。ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、ぼんやりとした瞳が桓騎を捉える。
「まだ寝てろ。朝にはすぐ発つんだろ」
頷いた信が瞼を擦ってから、桓騎の胸にすり寄った。
「…なあ」
「ん?」
信が不安そうに眉を寄せている。
「相手に、確実に毒を飲ませる方法って…あると思うか?」
「あぁ?」
寝起きだと言うのに、信の目は真剣だった。嬴政に后の護衛と毒見役を頼まれてから、ずっと気になっていたことだったのかもしれない。
「そのために毒見役がいるんだろうが」
「………」
信の髪を撫でながら言うと、信はあまり納得いかない表情で口を閉ざしてしまう。
嬴政自ら后の護衛と毒見役を頼んで来たということもあって、何としても后を守らねばならないと重責を感じているようだ。
「もしも、后を毒殺しようとしているのがお前なら、絶対に毒見役の目をすり抜けるだろ」
彼女の言葉に桓騎は苦笑を浮かべた。奇策を用いて戦う自分を敵に回せば、確実に標的を殺すに違いないと思われているらしい。
「やろうと思えばいくらでもあるな」
宦官ではない桓騎が後宮に入れるかどうかは置いといて、彼の頭に毒殺の方法はいくらでもあるようだ。
「例えば?」
「井戸に毒をぶち込むのが一番手っ取り早い」
「おいっ」
「冗談だ」
冗談でも物騒なことを言うなと信が桓騎が睨んだ。井戸に毒なんて流せば、大勢の者たちが被害に遭うだろう。
見境ないやり方に桓騎らしさを感じてしまうあたり、この男の性格に随分と慣れて来た証拠なのかもしれない。
頬杖をつきながら、桓騎が口を開く。
「…確実に殺すなら、一度に致死量を飲ませる必要はない。食事や香に混ぜるだけでじわじわ効いていくだろうな。女なら、紅やおしろいに混ぜれば確実に吸うだろ」
普段の食事や、部屋に焚く香。さらには女が普段から行っている化粧品にまで毒を盛るだなんて、本当にこの男だけは敵に回したくないなと、つくづく信は思うのだった。
「后だけを確実に毒殺する方法か」
桓騎は静かに目を伏せた。
「…毒見役で気づかれるっていうんなら、毒見役になって食事に毒を盛ればいい。目の前で飯を食った毒見役が何ともねえって言うんなら、疑うことなく食うだろ」
「………」
信の眉間に深い皺が寄る。毒殺を防ぐ方法として、逆に桓騎だったらどのように毒殺をするかを聞いてみたのだが、さすが奇策の持ち主だ。
毒見役を演じておきながら、何ともなく食事をする姿を見せれば、食事に毒が盛られていないと誰もが信じるだろう。
「…後宮ではお前が毒見役をやるんだろ?それをすり抜ける方法か…」
なぜか楽しそうに桓騎の口元が緩んだ。
後宮へ行くのは后の護衛であって、決して遊びに行く訳ではない。信がきっと目を吊り上げると、桓騎は頭を乱暴に撫でた。
「あるぜ」
「え?」
「毒見役の目を誤魔化して、確実に后だけを毒殺する方法だ」
桓騎がにやりと笑った。
明朝に桓騎の屋敷を発ち、信は自分の屋敷へと帰還した。仲間たちにしばらく不在する旨を伝えてから、信はすぐに咸陽へと戻るのだった。
信が後宮にいる向の護衛につくことを知っているのは嬴政と向、それから桓騎だけである。
秦国を幾度も勝利へ導いている飛信軍の女将軍の話は後宮内でも有名だった。そんな女将軍が直々に護衛につくとなれば、毒を盛った犯人が安易に手を出せなくなることは目に見えている。
信が後宮を出るまで向に手出しはしないだろうが、それでは根本的な解決にはならない。信の目がなくなってから再び動き出すに違いなかった。
あくまで今回の目的は后である向の護衛と毒見が主なのだが、犯人を捕まえられるならば、それに越したことはない。
大将軍の座に就いている信が後宮にいられる期間はそう長くないのだ。具体的な日数は決められていないとはいえ、いつ近隣の国が攻め込んで来るかも分からない乱世である。戦の気配があればすぐに呼び戻されるだろう。
可能ならば、自分が後宮に滞在している間に、向を毒殺をしようとした犯人を捕まえたかった。
後宮へ赴く日。信は後宮に身売りされた下女という後ろ盾のない立場を装った。
犯人を刺激しないよう、飛信軍の女将軍であることは内密にしなくてはならないのだが、女官の仕事着に身を包んだ信は誰がどう見ても下女にしか見えないだろう。
後宮には幾つもの宮殿があり、一番大きいものは嬴政の母親である太后が住まう宮殿だ。その次は嬴政の正室である向が住まう宮殿である。
必要最低限の荷物を抱えてその宮殿を訪れると、働いている侍女たち全員が暗い雰囲気に包まれているのが分かった。
毒殺事件があってからまだそう日は経っていないのだ。全員がどこか怯えた表情を浮かべている。
「あら、あなたは…」
信に気付くと、廊下の掃除を行っていた女官が無理やり笑みを繕った。年は信よりも上だということがすぐに分かる。
敏と名乗った彼女は、この宮殿に務める女官たちの中では一番長く後宮に務めており、女官たち統率する侍女頭の役割を担っているのだそうだ。
「話は聞いているわ。今日からよろしくね。ええと、名前は…」
「信だ」
偽名を使うのは面倒だったので、素直に名前を名乗った。まさか名前だけで飛信軍の女将軍だとは気づかれないだろう。
敏は悲しみ込めた眼差しを信に向けてから、笑顔を繕った。
どうしてそんな目を向けられるのか信には分からなかったが、新しい毒見役として遣わされたことから、恐らく哀れんでいるのだろう。
嬴政から聞いた話だと、向の食事を確かめた毒見役の女官は即死で、最後まで苦しんでいたそうだ。恐らく信も同じ目に遭うのだという同情のような哀れみ込められているのだと気づいた。
「…それじゃあ、向様のお部屋へ案内するわね」
女官に案内されながら信は廊下を歩いた。窓を開けて換気しながら女官たちが宮殿の清掃に勤しんでいる。
「…掃除は毎日してんのか?」
「もちろん。大王様の御子を抱えた大事なお体ですもの。こまめに空気も入れ替えているのよ」
一度に致死量は飲ませず毒殺するのなら、部屋に焚く香にも毒を仕込ませると桓騎は言っていたが、その点は心配なさそうだ
「あの、あなた…向様の前でその口調は、ちょっと…」
振り返った敏が言葉を濁らせる。
「下僕から身売りされた立場なんでな。あんまりそういった教育は受けてねえんだ」
嘘は吐いていない。王騎と摎の養子になってから、淑女としての教育は受けたことはあったが、微塵も直らなかったのも事実である。
将としての才能以外はからきしだと理解した両親も諦めたようで、気付けば何も言われなくなっていた。
もしも淑女としての教育がしっかりとされていたのなら、信は将ではなく、どこかの名家に嫁いでいたかもしれないと母によく笑われたものだ。
「…向様のご不快になるようなことだけは、気をつけてちょうだいね」
本来なら口酸っぱく指導するところだろうが、毒見役を担っているため、長い付き合いにはならないかもしれない。
今日明日にでも毒殺されてしまうのかという危惧しているのか、敏はそれ以上は何も言わなかった。
下女の替えなどいくらでも利く。毒見役など所詮は捨て駒に過ぎない。侍女頭の敏の態度はまさにそれを示していた。
替えられない命といえば、嬴政からの寵愛を受ける向と子どもの命だ。彼女たちを守るためにも捨て駒の存在は欠かせないのだろう。それは秦の未来のための礎とも言える。
(向に会うのは久しぶりだな…)
秦王の后に仕える立場として無礼は許されないというのは承知していたが、向と会うのは初めてではない。
幾度も嬴政から話を聞いていたし、何度か嬴政と二人でいるところにも遭遇したことがあり、そこで会話を交わしたことがあった。
後宮には大勢の美女がいるというのに、特別美人でもない田舎娘を選んだ嬴政には大笑いしてしまったものだ。
しかし、向と関わっているうちに、何となく嬴政が彼女を選んだ理由を信も分かるようになっていた。
高貴な生まれである娘と違って、向には芯の強さがある。そして何より、后という立場に興味を持たず、嬴政のことを愛していることが分かった。
秦王の后になることを羨望する娘は多い。しかし、誰もが后という国母に憧れているばかりで、夫となる秦王には興味を抱かない者も多いのだ。
信は後宮に出入りしたことはこれまでなかったのだが、母の摎からそのような女性もいるのだと聞いた覚えがあった。だからこそ、戦とは違った争いが絶えないらしい。
「向様がいるのは、あの部屋よ」
突き当りの部屋の前に、一人の宦官が立っていた。
(見張りはちゃんとついてるんだな)
あの部屋が嬴政の正室である向がいる部屋のようだが、御子を身籠っている彼女の護衛をしているのだろう。
嬴政でさえ一人になることは滅多にないくらい護衛がついているのだ。その后ともなれば、護衛がつくのは当然だろう。ましてや、王族の子を身籠っているのだから、護衛がつかないはずがないのだ。
王族以外の男の出入りが許されない後宮では、男としての生殖機能を持たない宦官でも十分に護衛の役割を担うことが出来る。
女の力で敵わないことを分かっているからこそ、毒殺に目をつける者も多いのだろう。
目に見える凶器を振り払えたとしても、隠された凶器を見抜くのは、いかに力を持つ者でも至難の業である。
侍女頭である敏の姿を見ると、宦官は何も言わずに扉の前からその身を退いた。宮殿の女官たちを統率しているということもあって、彼女は随分と信頼されているらしい。
「向様。新しい女官を連れて参りました」
「あ、はい。どうぞ…」
扉を開けると、信は久しぶりの再会に喜ぶよりも前に、驚愕の表情を浮かべた。
向の体は、かなりやつれていた。ふっくらとした腹を見ると妊婦らしい体に思えるが、目の下の隈や、顔色の悪さから、健康でないことは誰が見ても明らかだったのだ。
驚きのあまり、信は向に掛ける言葉を失い、呆然としていた。
しかし、嬴政から話を聞いていたようで、信の姿を見た向は今にも泣きそうなくらい顔を歪めている。
挨拶もせずに呆然と后の顔を見ている信に、侍女頭の敏が焦った表情を浮かべた。無礼をしないように忠告はしていたが、頭を下げることもしない信に敏が慌てて口を開く。
「も、申し訳ありません!この子は下賤の出でして、ご無礼を…!」
「いえ、良いのです。あの、二人でお話をしたいのですが…」
向の言葉を聞いた侍女頭は不思議そうに目を丸める。
二人に面識があることは誰にも口外していない。そこにはどこに潜んでいるか分からない犯人を警戒させぬためという目的があった。
しかし、名も知らぬ初対面の下女と二人きりになりたいと言った向に、侍女頭は不安そうな表情をする。向もそれを察したのだろう、咄嗟に上手い言い訳を口にした。
「ええと、毒見役として来てくれているのですから…私の口からぜひともお話をしたくて…」
毒見がいかに危険な仕事であるかは誰もが分かっている。向の心遣いを察した侍女頭は深く頷いて部屋を後にした。
「信さまぁあぁ…!」
背後で扉が閉まった途端、向はずっと堪えていた涙を溢れさせたかと思うと、子どものようにその顔をぐちゃぐちゃに歪ませて泣き始めたのだった。
「お、おいっ?いきなり泣くなよ…!」
動揺した信は一体どうしたら良いのか分からず、向の背中を擦ってやる。
とりあえず座らせると、部屋に用意されていた水甕から杯に水を汲んだ。
毒殺の方法の一つとして、井戸に毒を入れると言っていた桓騎の言葉を思い出し、試しに一口飲んでみる。唇や舌に痺れは感じないし、喉にも違和感はない。毒は入っていないようだ。
一頻り泣いてからようやく落ち着いたのか、向がぐすっと鼻を啜る。
「…信様。ご迷惑をお掛けしてすみません…」
「迷惑なんて言うなよ。お前は政の妻で、子どもを身籠ってるんだ。守られて当然だろ」
信が当然のように発した言葉を聞き、向の瞳に引っ込んだはずの涙が再び現れる。
「でも、でもぉ…!私のせいでッ…あの子が…」
あの子というのは亡くなった毒見役の女官だろう。
自分と身籠った子の命よりも、亡くなった者のことを想って涙を流せるのは、きっと嬴政が彼女を選んだ何よりの理由だろう。
信は苦笑を浮かべて彼女の頭を乱暴に撫でてやった。先ほどの侍女頭がまだこの場にいれば、后の頭を撫でるなんて無礼だと激怒されたに違いない。
「向」
信は真っ直ぐな瞳で彼女を見つめた。
「…お前のせいじゃないとか、そいつを忘れろだとか、そんなことは言わねえ。だがな…政のやつも、たくさんの命を背負って進んでんだよ」
嬴政の話が出たことに、向がぐっと歯を食い縛る。
その反応を見れば、いつまでも悲しみに囚われている訳にはいかないのだと彼女自身も分かっていることは明らかだった。
「お前が今やるべきことは、いつまでも不細工な泣き顔晒すことじゃねえはずだろ。亡くなった毒見役のことを想ってんなら、尚更だ。お前は生きなきゃいけねえんだよ」
信の言葉に、向は乱暴に涙を拭い、大きく頷いた。
勢いで言葉を綴ってしまったが、后本人に不細工だという言葉を投げ掛けたのは、中華全土どこを探しても信一人だけに違いない。
向が嬴政に告げ口をしたら、厳しい処罰を言い渡されるかもしれないと信が危機感を抱いたのは、随分と後のことだった。
今度こそ涙が落ち着いて、向はごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。
豪快な飲みっぷりに、泣いたせいで失われた水分を取り戻そうとしているのと、毒殺事件があってから、ろくに食事を摂取出来ていないことが分かる。
「…あの、大王様から信様が毒見をするから大丈夫だって聞いていたのですが…」
言いにくそうに向が口を開いたので、信はあっさりと頷く。
「ああ、俺は毒が効かねえからな」
「ええッ!?」
信じられないといった表情をされる。毒が効かない人間など本当にいるのかと疑っている顔だ。
この反応を見る限り、どうやら嬴政は信の特殊体質のことを向に話していなかったらしい。
「毒見と護衛を兼ねて俺に頼んだんだろ。まあ、そんな訳だから、お前は安心して飯を食え」
「…本当に、体には何も支障がないのですか?」
疑うのも当然だろう。信自身も、毒が効かない特殊な体質である人間は、自分と桓騎以外に出会ったことがない。
それだけ珍しいものであるのは信にも自覚はあったが、体に支障がないといえば嘘になる。
「毒の症状は何も出ないけどよ…将軍の座に就いている俺には丁度良いんだ」
信がどこか寂しげな表情を浮かべながら自分の下腹部を擦った。
どうやら真意に気付いたようで、はっとした表情になった向は相槌も打てないほど驚いていた。
毒の耐性を持った代償として、信は子を孕めなくなったのだ。
幼少期にギュポーの毒を受け、毒の耐性を持つ特殊な体質へ変化した時に、どうやら女としての生殖機能を失ってしまったらしい。
信の年齢であれば、大抵は嫁に行っているし、子を産んでいる女もいる。しかし、信には未だ初潮が来ていなかった。
医師の診察を受けても、原因は分からないと言われた。しかし、思い当たることといえば、幼少期に毒を受けたことしか思いつかない。
他に居ない毒耐性を持つ特殊体質ということもあって、医師からはこの先も初潮は来ないかもしれないとまで言われていた。女としての生殖機能がないという意味だ。
子を孕めないと分かっても、信に焦りや不安はなかった。
大将軍の座に就いている以上、安易にその座を明け渡す訳にもいかなかったし、将軍として生きる道を選んだのだから、女としての幸せは不要だと思っていたからだ。
自分が将軍にならなければ、王騎と摎の養子として、どこかの名家にでも嫁いでいたのかもしれない。もしそうなっていれば、子を孕めないことに焦りや劣等感に苛まれていたに違いないだろう。
「もし戦に出られなくなったなら、その時はお前専属の毒見役になってやるよ。大王様のお墨付きだぞ?」
カカカ、と信は陽気に笑った。しかし、向は複雑な表情を浮かべていた。
一頻り笑ってから、信は思い出したように顔を上げる。手招きをして、顔を寄せてくれた向に小声で囁いた。
「政から聞いてるかもしれねーけど…」
この部屋には信と向しかいないのだが、普段の声量で話せる内容ではない。
「俺があいつに伽で呼ばれる時は、後宮での状況を報告するだけだから、くれぐれも誤解するんじゃねえぞ」
「はい。大王様から伺っております」
信はほっと胸を撫で下ろした。
自分と嬴政は親友という関係で結ばれているが、男女であることから、実は親友以上の関係で結ばれているのではないかという噂がどこからか広まっていた。
もちろんそんなことは絶対にないのだが、情報が限られている後宮では男女の色事についての噂が広まるのは早い。向の耳にも、その噂が届いたに違いない。
不本意だが、噂を止める術というものは未だ見つかっておらず、ほとぼりが冷めるまで待つしかないのだ。
「もし、本当に信様が伽に呼ばれたとしても、それは大王様のご意志ですから」
「誓ってお前の夫に手を出してねえし、出されてねえ。これからも絶対にないから安心しろ」
嬴政のために剣を振るうことはあっても、彼のために足を開くことは絶対にない。信は断言出来た。
彼女の言葉を聞いた向が曇りない笑顔を浮かべる。
「信様には心に決めた殿方がいらっしゃると、大王様から伺っていました」
「…はっ?」
まさかそんなことを言われるとは思わず、信の心臓が跳ね上がった。
心に決めた殿方と言われ、瞼の裏に桓騎の姿が浮かび上がる。嬴政に桓騎との関係は一度も告げたことはないのだが、どうして彼が知っているのだろうか。
桓騎と信の関係が深まったのは、信が桓騎軍の素行調査を行ったことがきっかけだった。
桓騎軍は元野盗の集団で構成されている。訪れた村を焼き払い、村人を虐殺し、金目の物を奪うという悪事の噂を聞きつけた嬴政が親友である信に、桓騎軍の素行調査を依頼したのである。
強豪である飛信軍の兵たちで結成した百人隊に紛れ、桓騎軍を見張っていたのだが、桓騎は初めから監視されていることに気付いていたらしい。
同じ大将軍である信が内密に素行調査を行っていたことをすぐに見抜いた桓騎は、逆上することなく信に酒を酌み交わそうと声を掛けた。
その時に差し出されたのが鴆酒だった。決して桓騎は逆上している訳ではなかったのだが、猛毒の酒を飲ませて藻掻き苦しむ信の姿を楽しもうとしていたのだ。
しかし、ここで予想外のことが起きる。それは信が桓騎と同じで毒に耐性を持っていたことだった。
―――う…美味いッ!なんだ、この酒!?初めて飲んだぞ!
―――…は?これは鴆酒だぞ?
普通の人間なら、鴆酒を飲み込めば、まず助からない。
解毒の方法がまだ解明されていないこともあるが、即効性がある毒だ。喉に流し込めば、吐き出す間もなく毒が回って死ぬことになる。
―――珍酒?そっか、だから飲んだことねえ味してんのか!
しかし、信は目を輝かせて、初めて飲んだ鴆酒の美味さに感激していた。
苦しむどころか、満面の笑みで鴆酒を飲み続ける彼女に、桓騎は呆気に取られる。
―――鴆酒だ。…お前、毒が効かねえのか?
桓騎の言葉に頷きながら、信は彼の手から酒瓶を奪い取り、お代わりを注いでいた。
美味しそうにごくごくと喉を鳴らしながら鴆酒を飲んだ信は、そこでようやく鴆酒を自分に飲ませた桓騎の意図に気が付いたのだった。
―――てめえ!俺のこと殺そうとしたなッ!?
二杯目を美味しく飲み終えてから憤怒した信に、桓騎は肩を震わせ、今さらかよと大笑いしたのだった。
素行調査では噂通りの悪事を目撃することは出来なかった。しかし、桓騎と距離が縮まったのは、お互いに毒を飲んでも平気だという共通点があったからだろう。
桓騎は毒を持つ生き物の珍味や酒など珍しい物をよく取り揃えており、時々、信に美味いものが手に入ったと酒の席に誘ってくれるようになった。
この中華全土のどこを探しても、毒酒の美味さを分かち合えるのは自分たちだけだろうと信は思った。
猛毒が入っているとはいえ、二人にしてみれば美味い酒であることには変わりない。
―――体を重ねたのは、何度目かの酒の席で、酔った流れだった。
先に唇を重ねて来たのはどちらだっただろうか。酒に酔った朧げな記憶ではそれさえも覚えていないのだが、決してどちらも嫌がらなかったことだけは覚えている。
「…あいつには、孕めない俺が都合良いんだろうな」
苦笑を滲ませながら、信は呟いた。
大将軍である桓騎は端正な顔立ちで、金で夜を買われた娼婦たちも彼のために喜んで足を開いている。元野盗の性分や悪事はともかく、大将軍という高い地位についているのだ。妻になりたいという女性も多くいるのも頷ける。
だが、桓騎がいつまでも妻を娶らずにいるのは、気ままな性格に婚姻という束縛をされるのが嫌なのだろうと信は思っていた。
毒酒の味を分かち合い、子を孕めない自分は、きっと桓騎にとって都合が良い女でしかない。
それでも桓騎に求められれば、舌を絡めながらその情欲に応えたし、肌を重ね合うあの時間は嫌いではなかった。
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屋敷に到着すると、すぐに医師がやって来た。初老の医師で、李牧とはそれなりに長い付き合いらしい。
寝台へ寝かせた李牧の傷口の状態や、脈を確認し、手慣れた手つきで処置を行っていく。
この屋敷に来るまで時間が経っていたせいか、額の傷は縫合するほどではないとのことで、軟膏を塗布した後は清潔な布を宛がい、包帯を巻いて様子を見ることになった。
頭を強く打ったことは大丈夫なのかと信が医師に尋ねると、眼球を見る限りそういった心配はないと医師に言われ、彼女はようやく安堵することが出来たのだった。
あの時は酔っ払い男に父を侮辱された怒りのあまり、手を出してしまったのだが、これで李牧の命を奪ってしまったらと思うと、とても夢見が悪かった。
こんな形で父の仇を討っても、恨みが晴れることはなかっただろう。静かに寝息を立てている李牧に、信は複雑な気持ちを抱いていた。
処置を終えた医師は屋敷で働いている李牧の従者たちと何やら話をするために部屋を出て行った。
医師の手配と馬車の用意をしていたという慶舎は部屋に来ていなかったこともあり、今は李牧と二人きりである。
「はあ…」
寝台のすぐ傍にある椅子に体を預け、李牧の寝顔を見つめながら、信は溜息を吐いた。
こんな騒ぎを起こしておいて、趙国から出るどころではない。あの場は李牧が上手く収めてくれたとはいえ、彼に謝罪も告げないで趙から去る訳にもいかなかった。
普段の態度はがさつでも、こういう律儀な性格だからこそ、信は多くの兵や民に慕われているのだ。
「う…」
小さな呻き声がするのと同時に、眠っている李牧の瞼が鈍く動いたので、信は思わず彼の名を呼んでいた。
「李牧!おい、しっかりしろ!」
ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、現れた瞳がぼうっと天井を見つめている。それから隣にいる信へと視線が動いた。
「信?ここは…」
信は扉の方に一度視線を向けて、この場に自分たちだけしかいないことを確かめてから答えた。
「お前の屋敷だよ…慶舎と俺で連れて来たんだ」
配下の名前を聞き、李牧は納得したように頷いた。
酒瓶で殴られた額が痛むのか、李牧が苦悶の表情を浮かべる。包帯を巻かれている額に触れると、彼は全てを思い出したように瞬きを繰り返した。
「…そうでした。あなたが着替えている間、慶舎に馬車の手配を頼んでいたんです」
城下町を出たらその馬車を使って関門へ向かうつもりだったのだと李牧は言った。
やり手の女主人がいる呉服店に自分を置いてどこへ行っていたのかと思ったが、やはり李牧は考えなしに動くような男でない。
途中ではぐれてしまったことは予想外だったろうが、もしあのまま李牧と一緒に城下町を出ていたら、今頃は秦への帰路を急いでいたかもしれない。
(…全部、俺のせいだな)
簪が売られている店で女性客たちからの視線を受け、正体を気づかれていると早とちりをしてしまった。
本当に気づかれていたのかは分からなかったが、自分が逃げ出さずとも、きっと李牧が何とか場を収めてくれたに違いない。
そして何より、あの酔っ払いに父を侮辱されて、怒りに我を忘れることもなかっただろう。結果的に李牧に傷を負わせてしまったことで、信は後悔の念に駆られていた。
「…!」
寝台に横たわったまま、李牧が信の頭を優しく撫でたので、信は驚いて顔を上げた。
「何するんだよっ」
まるで子どもを慰めるように頭を撫でられたことに、信がきっと目を吊り上げる。
「とても悲しそうな顔をしていたものですから、つい」
何の悪気もない笑顔を向けられると、信の胸は罪悪感でちくりと痛んだ。
「…勝手なことして、悪かった…」
今にも消え入りそうな声で信が李牧に謝罪すると、李牧は目を瞬かせている。どうして謝罪されたのか、理由が分からないでいるらしい。
信は膝の上で両手を強く握り締め、俯いてしまう。
城下町で、李牧があの男に掛けた言葉が鼓膜に蘇る。
―――王騎将軍の侮辱は、彼と同じ戦場に立っていた者として、断じて許しませんよ。
侮辱された父を庇うように、敬うようにあの男に掛けた言葉を、信は未だに信じられなかったのだ。
李牧が父である王騎の仇なのは変わりない。どうしてそんな男があのような言葉を掛けたのか、信には理解が出来なかった。
李牧が嘘を吐いている様子はなかった。しかし、それが本心なのかは分からない。
あんな風に思っているのなら、どうして殺したのかというのは愚問だろう。
今日、李牧と共に邯鄲を歩きながら、彼が多くの民や兵に慕われていることを知った。李牧にとって大切なこの領土を守るために、敵将を討ち取ったに過ぎない。
信が過去に討ち取って来た敵将たちだって、同じように家族や仲間から悲しまれただろう。もし、李牧が討たれたら、彼を慕っている民や兵たちも大いに悲しむはずだ。
(…そういえば、こいつって…)
謝罪の後、信が不思議そうな表情を浮かべて、自分の顔を覗き込んで来たので、李牧は小首を傾げた。
「どうしました?」
「そういや、お前…民衆の前で、俺のこと妻って呼んだよな」
ああ、と李牧が思い出したように頷く。
「あの場では仕方ないでしょう」
「………」
自分の正体を気づかせまいとするためだったのだろうが、咄嗟の嘘にしては無茶だったのではないだろうか。
そもそも、李牧の家族について何も知らない信からしてみれば、本当の家族から恨まれるのではないだろうかと不安になった。
「お前くらいの立場なら、妻の一人や二人いてもおかしくないだろ。戦場で死ぬならまだしも、くだらねえ色事に巻き込まれて死ぬなんて、俺は嫌だからな」
信がげんなりした表情で言うと、李牧はゆっくりと上体を起こそうとしていた。
「お、おい、あんまり無理するなよ…!」
全力で殴ってしまった手前、無茶をさせる訳にはいかないと信は李牧の肩を支えて、上体を起こすのを手伝った。
信の手を借りながら何とか上体を起こした李牧は体の前で手を組み、目を伏せる。
「…私には昔、許嫁がいたんです」
なぜ過去形なのか疑問に思ったが、信は口を挟むことなく彼の話に耳を傾ける。
李牧の過去を信は何も知らない。しかし、宰相の座にまで上り詰めた彼のことだ。きっと多くの武功を挙げて来たのだろう。
だが、李牧の表情に宿っていたのは、過去の栄光を想像させるものではなく、ただの悲しみだった。
「…当時の私は、今より愚かな男でした。彼女より、戦での武功を優先していたのです」
本当に愚かな男でした、と李牧は悔しそうに拳を握っていた。
拳が白くなるほど強く握り締めているのを見て、本気で悔やんでいることが分かる。
「…久しぶりに屋敷へ戻ると、元々体の弱かった彼女は…」
暗い表情のまま、李牧は口を噤んだ。
続きを促さなくても、許嫁の女性がどうなってしまったのか、誰もが理解する。亡くなったのだろう。
許嫁がいたのだと過去形で話していた理由が繋がり、信は掛ける言葉に迷ってしまう。安易に妻の話を持ち掛けてしまった先ほどの自分を殴りたくなった。
重い沈黙が二人を包み込む。いたたまれなくなった信が李牧に謝罪をしようと思ったその時だった。
「…と言って、涙でも拭う仕草をしておけば、縁談を断る理由になるので便利なんです」
「……はっ?」
突然李牧が笑顔を浮かべた。つい先ほどの暗い表情を浮かべていた彼とは別人のように切り替わったのである。
何が起きているのか少しも理解出来ず、聞き返した信に、李牧が目を丸めている。
「何か?」
「つ、作り話…!?」
あれだけ他人の同情を誘う演技までしておいて、まさか許嫁など初めから存在しなかったというのか。信が大口を開けて驚愕する。
「どこかの国の仏教の言葉らしいですが、嘘も方便とはよく言ったものです」
回りくどい言い方ではあるが、許嫁の存在が嘘だと認めた李牧に、信は開いた口が塞がらないままでいた。
「おや、あなたも信じましたか?」
少しも悪いと思っていないらしい李牧に問われ、信のこめかみに鋭いものが走った。酒瓶で思い切り殴りつけた非は謝罪しない方が良かったのかもしれない。
驚愕していた信がみるみるうちに憤怒の表情に変わっていくのを見て、李牧が困ったように笑う。
「こんのッ…嘘吐き野郎ッ…!」
「ですから、嘘も方便というやつです」
「んなこと言っても嘘は嘘だろッ!」
納得出来ないと信が噛みついて来る。納得出来ないのを理由に、感情論を押し通そうとする信に、李牧の苦笑はますます深まるばかりだ。
「…しかし、駆けつけて驚きました。まさかあなたが一人の男に襲われているのかと…実際には襲っている方でしたけれど」
さり気なく李牧が話題を切り替えたことに、信は気付かず、小さく頷いた。
しかし、そこでも信は李牧の嘘に気付くことになる。
「…駆けつけた?…お前そういえば、足挫いたって言ってなかったか?」
「ああ、すっかり治ったようですね」
李牧がまた悪気のない笑顔を浮かべたので、信は腸が煮えくり返りそうになった。
「まさか、てめえッ!それも嘘だったのか!?」
着物を掴んで睨み付けると、李牧が顔をしかめる。
「…思い出したらまた痛くなって来ました。あいたたた…」
わざとらしく左足を擦る李牧に、信の堪忍袋の緒がいよいよ切れた。
「―――捻ったっつったのは右足だろッ!もう騙されねえぞッ!」
腕を組み、信が李牧から思い切り顔を背ける。
全て演技だと見抜かれてしまったことに李牧は諦めたように笑った。
「それでは、これから関門を抜けるための書簡を用意しますから、少し待っていて下さい」
寝台から立ち上がろうとした李牧に、それまで憤怒の表情を浮かべていた信が不安げな顔になる。
「お、おい、立ち上がって大丈夫なのかよ…」
「いつまでも寝てる訳にはいかないでしょう。それとも、付きっきりで看病してくれますか?」
「嫌だね」
即答した信に「でしょう?」と李牧が笑う。本当によく笑う男だと信は思った。
筆を取った李牧が関門を通るのに必要な書簡の準備を始めたので、信は黙って彼の背中を見つめていた。
許嫁の存在も、右足を捻ったのも嘘だと分かったが、額の傷だけは誤魔化せない。
そういえば医者からは、特に安静にしていろとも言われなかった。本当に見た目ほど傷は深くないのだろうか。
酒瓶で殴りつけたせいで失神までしたのだから、そんな浅い傷のようにも感じられない。とはいえ、医学の知識がない信には医者の言葉を信じるしかなかった。
「…そうだ。信、こちらへ来てください」
振り返った李牧が手招いたので、信は何用だと近づいた。
「え…?」
呉服店の女主人によって結われていた髪に何かを差し込まれる。
「ああ、やはり着物の色と同じ色にして正解でした」
まるで鈴の音のように美しい音が聞こえ、信がそれを手に取ると、花の形を象った青水晶がついた金色の簪だった。あの時の店で購入したのだろうか。
信が目を丸めていると、その反応を楽しむように李牧が口元を緩めている。
満足したのか、再び筆を走らせる彼を見て、信はまさかこれもくれるのかと驚愕するのだった。
青水晶だけでも高額だというのに、金まで使っている。もしかしたら着物よりも高額なのではないだろうか。着物の価値も簪の価値もよく分かっていない信でもそのくらいの知識はあった。
「お、お前、この着物もそうだけど、簪まで…なんつーもんに金掛けてんだよ!?」
「別に良いでしょう。せっかく趙へ来たのですから、土産の一つくらいないと寂しいじゃないですか」
土産という言葉で収まるほどの額ではないはずだ。
しかし、趙へ連れて来られた時の着物は後宮に身売りされた時に奪われてしまったし、後宮を抜け出す時に着ていた着物も呉服屋に置いたままだ。今さら取りに戻る訳にもいかないだろう。
李牧からの土産であるこの着物を着たまま秦に帰るしかないだろう。趙で過ごした数日を思い出させるようなものは持ち帰りたくなかったのだが、そうもいかない。
「…さて、これで良いでしょう。一番早い馬を使ってください。護身用に剣の一本もあった方が安心ですね。すぐに用意をさせます」
関門を抜けるのに必要な書簡を書き上げた李牧は紐で丁寧に包むと、立ち上がって信にその書簡を差し出す。
「ああ…えっと…」
そういえば李牧からは土産という名の着物から簪、それから関門を通るために必要な書簡や馬、はたまた護身用の剣など、もらってばかりだ。
礼を言うべきなのは分かっているのだが、先ほど騙されたと気づいて逆上したせいか、信は素直に感謝の気持ちを伝えられなかった。
「どうしました?」
だが、李牧は信よりも大人で、信が気にしていることなど大して何とも思っていないようだった。
いよいよ秦へ帰る手筈が整ったというのに、李牧への感謝の気持ちを伝えねば、いつまでも胸に残るだろう。
李牧に会えなかったら、もしかしたら今頃は後宮へ連れ戻されて悼襄王の伽の相手を強要されていたかもしれないし、正体が気付かれて首を晒されることになっていたかもしれない。
無事に趙から出られることになったのは全て李牧のおかげである。
きっと、彼と次に会うのは戦場だ。軍師である彼と戦場で相まみえるということは、戦況が大きく傾いている時に違いない。
もしかしたら次の戦場では彼を討つことになるのかもしれないと思うと、礼を言う機会を先延ばしにする訳にはいかなかった。
「李牧…」
礼を言おうと、意を決して、信が顔を上げた時だった。
「ん…ぅっ…!?」
両肩をそっと抱かれたかと思うと、視界いっぱいに李牧の顔が映っていて、唇に柔らかいものが押し当てられている。口付けられたのだと頭が理解するまでには時間を要した。
唇を交えながら、信が握っていた簪が李牧の手によって奪われ、再び彼女の結われている髪に差し込まれる。
「え…」
唇がゆっくりと離れていく。信は白昼夢でも見ていたのではないかと思った。
しかし、未だ唇に残っている柔らかい感触に嘘偽りはなく、李牧と唇を交わしたことが現実であることを知る。
「ああ、すみません。どうやら立ち眩みを起こしてしまったようで…」
わざとらしく言う李牧に、信はきっとそれも演技であることをすぐに理解した。
「な、何してんだよッ!」
唇に残っている感触を手の甲でごしごしと拭いながら顔を真っ赤にしている信に、李牧が肩を竦める。
「随分と無粋なことを聞きますね。さあ、これから秦国へ帰るのでしょう?今、必要な物の手配を行いますから、そこで待っていて下さい」
未だ動揺冷めやらぬ信の脇をすり抜け、李牧は部屋を後にした。
立ち眩みをしたと言っていた割に、しっかりとした足取りで歩いている。やはり立ち眩みも嘘だったに違いないと信は確信したのだった。
必要な物を持った後、信は馬を走らせて祖国へと出立した。
本当ならば関門を抜ける辺りまで同行したかったのだが、生憎、宰相という立場である以上、そこまで時間を割くことは出来ない。
束の間だったとはいえ、彼女と過ごした時間を李牧は静かに思い返していた。
「ただいま戻りました」
屋敷に戻ると、手の甲に乗せた蜘蛛と戯れていた慶舎が李牧を出迎えた。
「…傷の具合は」
慶舎の視線が包帯に包まれている李牧の額に向けられる。
「少し痛むくらいで、何ともありません。心配をかけましたね」
安心させるようにそう言った李牧の言葉に、慶舎は小さく頷いた。
「てっきり、頭を殴られて気を失われたのかと」
「あれくらいで倒れる私ではないですよ」
「では、なぜあのような演技を?」
演技という言葉に反応したのか、李牧が困ったように肩を竦めた。
「残念ながら演技ではありませんよ。私はどうも昔から酒が苦手でして…」
自らを下戸なのだと証言した師に、慶舎は表情を変えずに頷いた。
李牧があの場で意識を失ったのは信に酒瓶で殴りつけられたからではない。中に入っていた酒を浴びたせいである。
昔から酒の匂いでも気分が悪くなってしまうほどの下戸である李牧は、苦手な酒を頭から浴びてしまったせいで意識を失ってしまったのだ。
酔っぱらっていた男は、龐煖が討ち取った王騎に対して何か言っていたらしいが、忠告はしてやった。二度と王騎を侮辱をすることはないだろう。
あの時の李牧は酒を浴びたせいで、少々気が立っていた。しかし、信と民衆の前ということもあり、酔いを堪えながら、誰もが慕う宰相を演じ切ることが出来たのだ。
父の仇として自分を憎んでいた信も、僅かに心境の変化があったのはそのおかげだろう。
「…王騎の娘。逃がしても良かったのですか?」
手の甲から腕を這い上がる蜘蛛を眺めながら、慶舎が声色を変えずに問う。意外だという瞳で李牧は弟子を見た。
「おや、いつから気づいていました?」
信は戦で仮面で顔を覆っているため、慶舎は信の素顔を知らないはずだった。こちらは何も告げていないというのに、一体いつ王騎の娘だと気づいたのだろうか。
「李牧様ご自身が、あの娘を信と呼んでいました。そして、王騎の侮辱を許すまいと、絡んで来た男を殺そうとした…李牧様を二人で馬車へ運んだ時、腕が傷だらけで、剣に覚えがある手をしていました。病弱な許嫁でも、普通の女でもないでしょう」
「さすがは慶舎です」
そこまで注視していたなんてと李牧は素直に慶舎を褒める。
偽装工作のために、信を呉服店に預けた後、李牧は共に宮廷に来ていた慶舎に馬車と、足の速い馬の手配を頼んでいた。
護身用に持たせるための剣も馬車へ積んでおくよう声をかけていたのだが、僅かな情報だけで信の正体に気付くとは、李牧は感心してしまう。
本来の計画ならば、城下町を出た後すぐに秦へ続く関門へ向かう予定だった。
しかし、李牧が同行出来るのは途中までで、関門に必要な書簡も、本当は馬車の中で用意するつもりだったのだ。
大きく予定が狂うこととなったが、その分、贈り物も出来たし、今の李牧はとても機嫌が良かった。
「彼女のおかげで、久しぶりに楽しい時間を過ごすことが出来ました」
額の傷がある部分にそっと触れながら、李牧が微笑んだ。その言葉に嘘偽りがないことを、慶舎は彼の声色から察した。
「…せっかく趙へ誘い込んだというのに、なぜ逃がす真似をなさったのか、理解し兼ねます」
信が趙へ来たのは、いくつもの不運が重なってのことだった。しかし、慶舎は全てを見透かした瞳で師である李牧を見つめる。
李牧は意味ありげに笑みを深めると、首を横に振った。
「…たまたまですよ。信がこの国に来たのを、いくつもの不運が重なったと言うのなら、私が彼女に会えたのは、いくつもの偶然が重なっただけということです」
慶舎の疑問には一切答えず、李牧はそう答えた。
偶然という言葉で都合よく片付けようとする師に、慶舎は表情を変えないで口を開く。
「…奴隷商人を装えば、秦への関門を越えるのは容易いことでしょう」
慶舎の言葉に、李牧は噛み堪えていた笑いを抑え切れなくなっている。
「いやあ、まさかあの子は酒癖が悪いだなんて、本当に知りませんでした」
肩を震わせた後に大笑いを始めた李牧に、慶舎は相変わらず表情を変えないでいたのだが、頭の中では、全て彼の策通りに物事が動いていたのだと納得出来た。
今回のことは全て、李牧の中では単なる偶然として片づけられる出来事だったのだろう。
秦国の情報を探るため、配下に奴隷商人を装うよう指示を出したこと。
関門を抜けて秦国に潜入したところで、李牧が恋い焦がれてやまぬ女将軍が酒に酔って寝入っていたこと。
趙への移動中に彼女が目覚めぬよう薬を盛られてしまったことも。
ちょうど人手が足りないと言われていた妃が住まう宮殿に、彼女が下女として身売りされてしまったことも。
悼襄王が久しぶりに妻に会いに後宮へ赴き、そこで彼好みである少年のような風貌である下女を気に入ったことも。
後宮から彼女が脱出に使いそうな場所があそこだけだったのも、そして李牧があの場に通りかかったことも―――
李牧の中では、七つとも、全て偶然なのである。
宰相である李牧に年下の美人な妻がいるという噂が広まり、密かに彼に想いを寄せていた女性たちは悲鳴に近い声を上げたという。
噂を聞きつけた李牧の側近であるカイネも、その真相を確かめるべく李牧の下を訪ねた。
彼女が李牧の屋敷に着いたのは、ちょうど信が出発した後だった。
「り、李牧様…」
難しい表情で書簡に筆を走らせている李牧に、カイネが恐る恐るといった様子で声を掛ける。
「カイネ、すみません。急いでこの書簡を送らないといけないので、このままで許してください」
先ほど屋敷に戻って来たばかりの李牧は、すぐに書簡の準備をするように家臣たちに声をかけていた。
どうやら急ぎの用らしく、李牧は筆を動かしながらカイネに用件を尋ねた。もちろんですと頷いた後、カイネは意を決したように顔を上げる。
「…あのっ、以前、李牧様にはお体の弱い許嫁がいると…」
「ええ、それが何か?」
早鐘を打つ胸を押さえながら、カイネは口を開く。緊張のあまり、口の中がからからに乾いていた。
「その、先ほど…城下町で、若い女性とご一緒されていて、その方を妻だと、李牧様がおっしゃったのだと…民の間で噂になっておりました…」
あくまで民の噂だと仄めかせ、カイネは李牧から真相を聞き出そうとした。
途中まで書いた文字に目を通しながら、無慈悲にも李牧が口を開く。
「はい、許嫁の彼女です。体調が良い日は、夫婦で一緒に出掛けるんですよ」
カイネの頭に鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。
誰よりもずっと長く李牧に仕えていたというのに、一度も李牧の浮いた話を聞いたことが無かったカイネには衝撃的な内容だったのである。
体の弱い許嫁がいるのだという話を聞いた時から、きっとその女性は病で亡くなり、それから李牧は恋愛不振になっているのだろうとカイネは考えていた。
それがまさか、こうもあっさりと否定され、その許嫁とめでたく結婚していただなんて。
側近という立場である自分にどうして一言もそんなおめでたい話をしてくれなかったのかとカイネはやるせなくなった。
李牧は宰相の名を語るだけでなく、軍の総司令を務めているほどの立場の男だ。
多くの民や兵たちにも慕われている彼が選んだ女性を気になる者は趙に多かった。体格も顔立ちも性格も立場も申し分ない。李牧に声を掛けられれば多くの女性が頬を染めて笑顔を浮かべることだろう。
実際に李牧に選ばれた女性が病弱という話から、可憐な花のような美女を想像する者も多かった。
カイネは実際に妻と呼ばれた女性を見ていないのだが、噂によると、誰もが振り返るほどの美しさを秘めていたんだとか。
自分のために簪を選ぶ李牧を見て、妻の女性は恥ずかしそうに俯いていたのだという。
高価な物を勧めても目を光らせない、欲の少ないその女性こそ、宰相の立場を鼻にかけずに民たちに慕われる李牧に相応しいとまで噂が広まっていた。
「し、失礼します…」
噂が本当だったのだと分かったカイネは顔から血の気を引かせてふらふらと歩き出し、おぼつかない足取りで部屋を出て行く。
再度筆を取った李牧に、部屋の隅で、未だ一匹の蜘蛛と戯れている慶舎が視線を向けた。
「…聡明な李牧様のことですから、その方が色々と都合が良かったのでしょう」
その言葉を聞き、李牧は動かしていた筆をぴたりと止めた。
一度筆を置いた李牧は墨が乾くのを待つフリをして、慶舎の方を振り返った。
「…今は訳あって、別の場所で暮らしていますが、全てが終わったら迎えに行くつもりですよ」
「秦国にですか?」
李牧が苦笑を深める。どうやら慶舎にはお見通しだったらしい。
「ええ。何年後になるかは分かりませんが…私の目が黒いうちに、必ず」
再び筆を取った李牧が竹簡に続きを書いていく。
「…李牧様のお望みが叶うよう、尽力致します」
供手礼をした慶舎に、李牧がにこりと微笑む。
「ありがとうございます。…それでは、その第一歩として、この書簡を至急、秦へ届けるように手配を頼みましたよ」
「はっ」
たった今書き上げたばかりの書簡を、李牧は慶舎へ手渡した。
見慣れた景色が視界に飛び込んで来て、無事に帰還が叶ったのだと噛み締めた。
「や、やっと、帰って来れたぜ…!」
母国の土を踏み締めているだけで、目頭に熱いものが込み上げて来る。一時はどうなることかと思ったが、敵国から生還出来て本当に良かった。
みんな心配しているに違いない。
飛信軍の仲間たちはもちろんだが、父である王騎の副官として長年仕えていた騰や録嗚未たちも、信にとっては家族のような存在だ。自分に何かあれば王騎に申し訳が立たないと思っているに違いない。
幼い頃から過ごしていた王騎の屋敷に帰宅すると、家臣たちが無事に帰って来た信に大騒ぎしていた。
「御無事で何よりです」
幼い頃から信の世話をしてくれた年老いた侍女たちは涙を流している。
「悪いな…随分、心配かけちまって」
戦に出た訳でもなく、連絡もなしに失踪したことで大いに心配をかけてしまったと信は家臣や仲間たちに深々と頭を下げた。
もちろんどこで何をしていたのかまでは告げなかったのだが、秦王にはそんな訳にはいかないだろう。
趙を出てから、信はずっと此度の言い訳を考えていた。
元を辿れば、武器も持たずに外で眠っていた自分にこそ非があるのだ。酒に酔ってしまい、寝具を被って眠るのは暑いからという安易な考えから、屋敷の外で眠ったことが最大の原因である。
そういえば眠る寸前、道に迷ったという商人に道を教えてやった気がする。何度も感謝された男に名前を尋ねられ、飛信軍の信だと答えてから記憶が無くなっていた。
…もしかしたら、あれも夢だったのだろうか。
趙へ連れていかれたのは、色んな不運が積み重なった末に起きた更なる不運だ。同情をして欲しい訳ではないが、真実を告げたところで、信用してくれないに違いない。
翌日、嬴政に告げる上手い言い訳を決めた信は、日の出と共に咸陽宮へと馬を走らせた。
普段ならば秦王の前に姿を見せる時には、きちんとした身なりをするよう言われていたのだが、今回は事情が事情だ。
自分に礼儀というものを教えてくれた両親に心の中で謝罪しながら、信は咸陽宮の門をくぐった。
衛兵に声をかけて、秦王である嬴政に謁見を申し出ると、すぐに部屋へ案内された。
どうやら宴の後から信が失踪していたことは秦国中で噂になっていたようで、衛兵たちも、すれ違う官吏や女官たちも信を見て大層驚いた顔をしていた。
「―――信!今まで一体どこで何をしていた!」
政務中だっただろうに、帰還の報せを聞いた嬴政がばたばたと走って彼女の前に現れる。
玉座に腰掛けることもなく、嬴政は今にも信に掴みかからん勢いで怒鳴りつける。
大王という立場の彼がこれほど取り乱している姿を見るのは初めてのことだった。ぐうの音も出ず、信はその場に膝をついて頭を下げている。
現れたのは嬴政だけでなく、側近たちもだ。彼らも心配してくれていたのだろう。信の姿を見てほっと安堵した表情を浮かべている。
しかし、嬴政だけは信が無事で良かったという意志は感じられず、目をつり上げて、彼女を睨み続けていた。
心配の裏返しなのだろうが、そこまで怒りを露わにされると、委縮してしまう。
「…あのー…色々あって…だな…」
そう。宴の後から今日に至るまで色々とあったのだ。言葉を濁らせて、語ろうとしない信に、嬴政の瞳がさらに怒りで染まっていく。
「大王である俺に言えぬことか?」
「う…」
卑怯な物言いをすると信は俯いたまま奥歯を噛み締めた。素直に答えなければ打ち首にするぞと脅しているようなものではないか。
しかし、真相を告げたところで信じてもらえる訳がない。
大将軍である自分が下女として奴隷商人に売り飛ばされたなどと笑い話でしかないし、出来ることなら墓まで持っていきたい秘密だった。
「えっと…」
信が用意していた言い訳を話し出そうとすると、背後で扉が開き、衛兵が膝をついて頭を下げる。その手には書簡が握られていた。
「大王様!趙の宰相から、秦国宛てに至急の書簡が」
「…李牧から?」
嬴政が目を見張る。李牧からの書簡が来たことによって、それまで信に向けていた怒りが消え去ったらしく、信はほっとした。
(ん?なんで李牧から至急の書簡なんて来るんだ?)
しかし、まるで機を見計らったかのような書簡の存在に、李牧がどのような書簡をよこして来たのだろうと信は気になった。
右丞相の昌平君が衛兵から書簡を受け取り、中身を確認している。
軍の総司令官を務めていることもあり、多少のことでは動じない昌平君であったが、書簡の内容を読み進めていくにつれて眉間に皺が深まっていった。
全員がその表情の変化に、何か悪い内容なのだろうかと考える。
(何だ…?ものすごい嫌な予感がする…)
ここからの位置では書簡に何が書かれているのかは少しも分からない。
しかし、李牧の名前を聞いた瞬間から、自分に関する内容が書かれているのではないかと信は不安に襲われた。
それは幼い頃から戦場に身を置いて来たことによる野生の勘だったのかもしれない。
「………」
「………!」
昌平君と目が合う。
彼の瞳に呆れの色が宿ったのを見て、信は顔から血の気を引かせた。
「昌平君、李牧からの書簡には何が書かれていた?」
「は…」
嬴政の問いに、昌平君が書簡の内容を読み上げようと口を開く。
立ち上がった信は、慌てて昌平君の手から書簡を奪い取ろうと駆け出した。
「読むなーッ!」
突進して来た信に書簡を奪われないよう、昌平君は瞬時に書簡を高く掲げた。
長身の彼が腕を上げると、信がどれだけ手を伸ばしても、跳ねてみても届かない。
後宮から脱出した時のように、助走をつければ取り戻せたかもしれないが、昌平君が相手では助走をつけたところで意味はないだろう。
信が血相を変えて慌てふためいている様子に、その場にいる者たちも小首を傾げている。
しかし、嬴政は彼女が慌てふためく理由が書簡の内容に隠されていると分かり、傍にいる昌文君に声を掛けた。
「昌文君、あの書簡をこちらに」
「はっ」
長身の二人が信の手の届かない高い位置で書簡を受け渡している。
「オッサン!だめだ、頼む!やめてくれ!」
昌文君に渡った書簡を取り戻そうと、信が兎のようにぴょんぴょんと跳ねた。
しかし、昌文君は構わずに受け取った書簡を高く掲げ、信に奪われないように嬴政の下へと向かった。
もはや半泣きになっている信に、嬴政は顔を引き攣らせる。
(趙の宰相である李牧からの書簡と、信のこの反応…まさか…)
信じたくないが、まさか信は趙と密通していたのだろうか。
ありえないと嬴政は否定したが、信の慌てぶりを見る限り、気づかれたくないという気持ちが前面的に押し出ている。密通を疑わざるを得ないだろう。
まだ秦趙同盟が解消されていないとはいえ、趙の宰相と繋がりがあるだなんて、忠義の熱い信が一体どうして。嬴政の胸に不安が広がっていく。
「政、頼む!後生だ!それを読むのはやめてくれ!」
結局、昌平君に羽交い絞めされる形で抵抗が出来なくなった信は、懸命に嬴政へ呼びかけていた。
一体何が記されているのだろう。
「………」
生唾を飲み、嬴政は昌文君から書簡を受け取った。
そこに記されていた内容に、嬴政は違う意味で驚愕することとなる。
信の身に起きた数々の不運。
趙の宰相である李牧という男に魅入られてしまったことこそ、信の七つ目の不運だったのである。
信は大王嬴政の前で正座をして、ぐすぐすと鼻を啜っていた。
彼女の頭には立派過ぎるほど大きなたんこぶが出来ている。大王嬴政からの立派な賜り物である。
この中華全土どこを探しても、大王から鉄拳を受ける女など信くらいだろう。
信の涙が滲んでいるのは決して頭を殴られた痛みからではなく、羞恥心によるものだ。
大王嬴政は腕を組み、玉座にふんぞり返っている。過去に政権を握っていた弟の成蟜を思わせるような態度だ。やはり兄弟に共通点というものはあるらしい。
嬴政がそのような態度を取るのはとても珍しく、すなわち、まだまだ彼の怒りは引くことはないということでもある。
「他の者たちにも伝わるよう、大きな声で読んでみろ。一言一句違えることなく読め」
「う…うう…」
握った拳が白くなるほど信は力を込めている。どうしてこんな辱めを受けているのだろうと信は自問自答した。
彼女の前に広げられている書簡は、先ほど届いたもので、それは趙の宰相である李牧が秦国宛てに送ったものである。
「…飛信軍の信将軍が、趙国、後宮の、下女として…過ごしていた事に、ついては、…」
たった今、信が音読させられている内容を要約すると、彼女が敵国である趙へ渡った経緯が記されていたのである。
恐らく、李牧としては気遣いのつもりだったのだろう。
秦の大将軍である彼女が一人で趙へ行くはずがない。秦趙同盟の期間内とはいえ、目的も告げずに趙へ行くなんて密通を疑われてもおかしくない行為だ。
だからこそ李牧は信が密通をしていないことを証言するために、彼女から聞いた事実を書簡にして嬴政に送ったという訳である。
信にとっては墓場まで持っていくつもりだった秘密事項が事細かに記されており、このまま舌を噛み切って死んでしまいたいほどの屈辱だった。
震える声で李牧からの書簡を読み終えた信はいよいよ限界で、双眸から涙を流し始める。
話を聞いていた官吏たちは皆、今日まで信の身に起きた事実に唖然としており、一番初めに書簡を読んだ昌平君だけが表情を変えずにいた。
「はあー…」
嬴政は玉座からゆっくり立ち上がると、わざとらしく大きな溜息を吐く。
まさかこれ以上の辱めを受けさせるのかと、信は嬴政に怯えた瞳を向けた。
「大将軍とあろう者が、酒に酔って外で寝ていたところを、奴隷商人に捕らえられ…」
「う…」
「そのあげく、趙に着くまで爆睡していて、後宮に身売りされ?悼襄王の寵愛を受けるとこだった?」
「うう…」
「…お前は、秦国の大将軍だという自覚があるのかッ!!」
「うううう…!」
嬴政の怒鳴り声に、信はいよいよ顔を上げられなくなった。
周りにいる官吏たちは誰一人として嬴政の怒りを宥めようとしない。全て信が招いた結果であることは李牧の書簡の内容から一目瞭然だったからだ。
「…李牧に礼を言わねばならんな」
呆れた表情のまま、嬴政が呟く。書簡に記されていた内容から、趙国で李牧が信を助けてくれたということは誰が見ても明らかだった。
(くっそー!全部李牧のせいじゃねえか!)
腹の内をむかむかとさせながら、信は李牧になんて余計なことをしてくれたのだと怒鳴り散らしたくなった。
彼が真相を記した書簡を送って来なければ、秦王からここまでお咎めを受けることにはならなかっただろう。
信は、山の王である楊端和に美味い酒を持っていく代わりに、今回の件の口裏を合わせてもらう作戦を考えていた。山の民に会いに行っていたのだと言えば、数日の不在くらい誤魔化せたに違いない。
そして楊端和は六大将軍の一人であり、嬴政も信頼を置いている女性だ。その彼女が率いる山の民たちの下へ行っていたのなら、嬴政だって咎めることは出来ないだろう。
想定外だったのは、李牧が事実を記した書簡を送って来たことだ。
(あの野郎…!今度会ったらもう一発殴ってやる…!)
李牧の余計な気遣いのせいで、こんなことになってしまったと信は奥歯を噛み締める。
頭を下げながら、静かに李牧への怒りを募らせていく信に、嬴政はようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「…経緯は見過ごせぬが、お前が無事で良かった」
本当にそう思ってくれているのだろう。とても穏やかな声色だった。
「……悪かっ…も、申し訳、ありません…」
礼儀にうるさい官吏たちの目もあったので、ぎこちない謝罪をして、信は頭を下げたままでいた。
信が無事だったことと、彼女の口から謝罪の言葉を聞けたことで、嬴政は長い息を吐く。
「…では、此度の騒動における処罰を言い渡す」
その後、信は謹慎処分を受けることとなった。
謹慎処分と言ってもそれは名ばかりで、通常通りの生活は保障されている。飛信軍の鍛錬の指揮を執らなくてはならないし、大将軍としての仕事が大いにあるのだ。
しかし、面倒なのは、外出の際に必ず護衛の兵をつけなくてはならなくなったことである。
謹慎処分が始まって数日後、友人である蒙恬が噂の真相を確かめるために屋敷を訪ねて来た。
嬴政に報告しに咸陽宮へ行ったあの日、偶然にも別用で訪れていた蒙恬と出会ったのだ。
その時には長ったらしい秦王のお説教も終わり、さっそく謹慎処分として命じられた護衛の兵と共に信は廊下を歩いていた。
余程、嬴政の説教が堪えたのか、ともすれば、幼子のように泣き出してしまいそうな信を見て、蒙恬は彼女が何かやらかしたのだと察したらしい。
彼も蒙家の嫡男として忙しい身であるに違いないだろうに、こんなことに時間を割いている暇があるのだろうか。
追い返す訳にもいかず、信は蒙恬を客室へともてなした。話題はさっそく信の謹慎処分についてである。
「ねえ、信ってば一体何やらかしたの?教えてよー。俺たちの仲じゃん!」
「別に何もやらかしてねえよ。むしろ俺は被害者だ!」
ムキになって反論すると、蒙恬がにやにやと嫌な笑みを浮かべる。
「嘘だあ。だって秦国中で、信が失踪したって大騒ぎだったんだよ?どこ行くにも護衛の兵までつけられてるし、何かあったんでしょ?」
「言わねえ!墓場まで持ってくって決めたんだ!」
趙国へ連れていかれたことは、あの玉座の間にいた者たちだけの機密事項となった。
密通ではないことは李牧によって証明されたが、下手に噂が広まれば、違う場所で密通を疑う者も出て来るかもしれないため、情報操作を行っている。
「ちぇ、せっかく来たのに」
信が頑なに口を開こうとしないので、蒙恬は諦めたように肩を落とす。その時、蒙恬の視界に、台の上に置いてある青水晶と金色の簪が目に入った。
「…あれ?珍しい。新しい簪買ったの?青水晶に金って、かなり高価なものじゃん」
化粧や装身具には少しも興味を示さない信が新しい簪を購入したのかと蒙恬が小首を傾げている。
青水晶と金色の簪から連鎖的に李牧の姿が瞼に浮かび上がった。
「あ、いや、それは…も、もらい物だ!その、世話になった男から…」
嘘は言っていない。もらい物であるのも事実だ。束の間ではあったが、簪をくれた男の世話になったのも事実である。
実際の額は分からないが、安易に捨てられるような代物ではない。とはいえ、普段から簪を身につける習慣のない信にはどう扱うべきか分からずにいたのである。着物も同様だ。
名前は出していないのだが、男からの贈り物という言葉が気になったのか、蒙恬が目を見張る。
「…え?もしかして、素直に受け取ったの?」
意味深な言葉に、信はきょとんとした。その反応を見て、蒙恬はまさかと顔を引き攣らせている。
「男が女に簪を贈る意味…分かってる?」
「は?ただのもらい物だろ。意味なんてあるのか?」
当然のようにそう答えた信に、蒙恬が呆れた表情を浮かべる。両手を頭の後ろに回し、蒙恬は椅子の背もたれにどっかりと体を預けた。
「あーあ、その人かわいそー」
「はあ?」
信に簪を贈った男――李牧になぜか同情する意味が分からず、信がどういう意味か教えろと催促する。困った笑みを浮かべながらも、蒙恬が正解を教えてくれた。
「簪の価値が高価であればあるほど、誠実さと身分を証明できるってことだよ」
「ああ、まあ…それなりに身分の高い奴ではあるな」
李牧の正体を勘付かれないように、信は当たり障りのない答え方をした。
しかし、誠実さと身分を自分に証明するというのは一体どういう意味なのだろう。
誠実さというものを証明するのなら、もしかしたら、趙から脱出することを協力すると、簪を使って自分に知らせたかったのだろうか。
「もちろんそれだけじゃないよ」
まだ他に意味があるのかと信が頭に疑問符を浮かべている。やはり理解していないのだと察した蒙恬があははと笑った。
「…要するに、男が女に簪を贈るっていうのは…好きですっていう想いを告げて、求婚してるみたいなものだよ。ま、信はこの手の話に疎いから、知らなかったのも無理はないだろうけどね」
「……え?」
「何も知らないで受け取っちゃったんなら、そのうち、迎えに来るんじゃないの?」
信の中でその瞬間、確かに時間が止まったのだった。
終
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李牧が宮廷から屋敷に戻った頃には、既に陽が沈みかけていた。
従者に馬を預け、すぐに信のいる部屋へ向かうと、留守を任せていた慶舎が扉の前に立っていた。手の甲に蜘蛛を歩かせて遊んでいる。
鍵を外してしまったこともあり、扉の前で立ち塞がって鍵代わりになってくれていたらしい。本当に良く出来た律儀な弟子だ。
師である李牧が帰宅したことに気付くと、慶舎はゆっくりと顔を上げた。
「李牧様。あの娘、また脱走しました」
「おや、随分と元気なのですね。安心しました」
扉の前に立ちはだかりながら報告するということは、今回も無事に脱走は阻止されたのだろう。
今頃は部屋の中で泣いているに違いないと思ったが、すすり泣く声が聞こえなかったことから不貞寝しているのだろうと考える。
「李牧様」
手で蜘蛛と戯れながら、慶舎が李牧に声を掛けた。
「なんですか」
「…人を愛するとは、好きになるとは、どういうことなのでしょう」
まさか弟子からそのようなことを問われるのは初めてのことだったので、李牧は驚いた。
戦に関すること以外は、良い意味で損得勘定を持たぬ慶舎が人の感情について尋ねるとは珍しい。
「…なぜ、そのようなことを?傅抵にでも何か言われたのですか?」
普段から色話をするのも聞くのも好きな傅抵ならば、思い当たる節はあるのだが、慶舎が自分に尋ねるというのは、よほどの好奇心が彼を動かしているということだ。
「いえ。秦の、あの娘に」
「信が?」
扉の方を見やりながら慶舎が言ったので、李牧はまたしても目を丸めた。
「彼女が、あなたに何を?」
「…“ただ黙って脚を開くのは、好きになることではない。そんなのは、娼婦と同じだ“と」
そんな風に慶舎に話していたのか。李牧は苦笑を浮かべることしか出来なかった。
「李牧様があの娘を愛しておられるのは承知しております。しかし、なぜあの娘が李牧様を愛さないのか、理解出来ないのです。これほどまでに李牧様から寵愛を受けているのに、一体なぜ」
幼い頃、両親を目の前で殺されたという慶舎には、感情というものを理解する力が他者より乏しい。それは軍略に長ける彼の弱点とも言える。
李牧はまるで慈しむような優しい瞳で微笑んだ。
「軍略と同じで、人を愛することには色んな形があるんです。ただ、あなたは絶対に真似をしてはいけませんよ」
趙の未来を想ってこそ、自分が知り得る軍略なら惜しみなく授けよう。しかし、この愛し方だけは絶対に真似をさせる訳にはいかなかった。
ただ、この弟子には自分と近いものを感じる。それは、欲しい物を手に入れるためならばどんな手段も厭わない強欲な一面があることだ。
李牧は、愛しい女を手に入れるために自分が行って来たことを、一度も間違いだと思ったことはない。
しかし、その方法はあまりにも強欲過ぎたのだ。歴史を改変させてしまうほど、李牧の想いは揺るぎなく、そして強かった。
本当に相手のことを想うのならば、この手段はあまりにも残酷過ぎる。それでも李牧がこの道を選んだのは他でもない彼女との約束を守るためだった。
「…私も、不思議なんです」
瞳に寂しい色を浮かべながら、李牧が口を開いた。
「彼女から微塵も愛されていないと理解しているのに、彼女を手に入れたことに幸せを感じている。…彼女と会った時に、私は、狂ってしまったのかもしれませんね」
「…あの娘と会ったというのは、戦場で、ですか?」
二人の出会いを知らない慶舎の問いに、李牧はゆっくりと首を振った。
「いいえ。私と慶舎が出会う前…まだ将として戦っていた時に、実は一度だけ彼女に会っているんです。家族も仲間も、守るべきものを全て失い、あとは野垂れ死ぬのを待つだけだった私を、信は手厚く介抱してくれたんです」
あの恩は一生忘れません、と李牧が呟いた。
長い付き合いである弟子や側近たちでさえ知らない過去を知り、慶舎は何度か瞬きを繰り返した。
「……なぜ、そのことをあの娘は覚えていないのです?」
信は自分が将軍にならなければ李牧に見初められることはなかったと話していた。李牧に手厚い看病をしていたというのに、まるでそのことを知らないような口ぶりだったことに、慶舎は疑問を抱く。
しかし、李牧は当然のように答えた。
「十年以上も前のことですし、初めて会った当時の彼女はまだ子供でした。…どうやら、王騎の手厳しい修行の最中だったようです。彼女も厳しい修行をこなすのに必死だったんでしょう」
その時のことを思い出したのか、懐かしむように李牧が頬を緩めた。
「…まさか、あの時の少女が秦の大将軍にまで成長するなんて、当時は思いもしませんでした。そして私も、趙の宰相になり、敵として再会することになるなんて、想像もしていませんでした」
「………」
伏し目がちに、李牧が言葉を続ける。
「春平君が呂不韋によって拉致され、秦趙同盟を結んだあの日…宴の席で信と出会って、すぐにあの時の少女だと分かりました。でも、残念ながら、彼女は何も覚えていなかったんです。私と交わした約束のことも、何もかも…」
「………」
何も答えず、微塵も表情を変えず、慶舎はじっと李牧のことを見据えている。視線に気づいた李牧は困ったように肩を竦めた。
「ふふ、こんな話を聞かせてしまってすみません。…でも、彼女と再会したことに、私は何か縁を感じてどうしようもなかったんですよ」
「………」
「たとえ、信が二度と笑顔を見せてくれないとしても。私は、欲張りですから、誰にも彼女を渡したくなかったんです」
強欲。それが李牧が信を手に入れるために秦を潰した何よりの原動力だ。
「…きっと私は、彼女よりも先に逝くでしょう。国の命運と同じで、寿命は変えられませんからねえ」
あはは、と李牧が笑う。
「でも、私はとても意地悪なんです。寿命が来て、私が信の傍を離れることになっても、彼女を解放したくありません。だから、彼女がいつだって私を思い出せるように、子を孕ませたのですよ」
「聡明なお考えかと」
嫌味でもない、社交辞令でもない、何の感情も籠っていない慶舎の言葉に、李牧は少しだけ救われた気になった。
「そんなことを言ってくれるのは慶舎だけですね。カイネや傅抵たちに言えば、きっと軽蔑されてしまいますから」
李牧の大きな手が慶舎の頭を優しく撫でた。
それから彼は一度も振り返りもせず、信がいる部屋の扉を開けて中へ入るのだった。
―――袖の中に死骸の耳を詰め込んだ後、幼い信は長い時間を掛けてようやく崖を登り切った。
突き落とされるのは簡単だが、崖を登るのはかなり至難の業だ。子どもの身軽さを持ってしても、苦難の連続である。
幾度も滑り落ち、爪は剥がれ、数え切れない擦り傷が出来た。ようやく崖を登り切ったところで、信はやっと帰れるのだと思うと、安堵のあまり、大声を上げて泣き喚いてしまった。
崖に落とされた時は愕然とするばかりだったが、一度も涙は流さなかった。
どこの国かも分からない兵たちに襲われて剣を振るい、その命を奪った時も信の心は既に麻痺をしていたのだ。
握り締めた柄越しに感じた肉と血管を絶つ嫌な感触。それを今になって思い出し、信は胃液を吐いた。
思えば人を殺すのは初めてだったのだが、他に自分を助けてくれる者はいないのだと思うと、そんなことには構っていられなかったのだ。
ようやく帰れるという安心感に包まれたことで、あの森で過ごしていた数日が、いか日常を逸脱していたものかを痛感する。
あの森にいた兵たちの人数など、戦場に立つ父と母にしてみれば生温いことだろう。
鍛錬用の木刀を振るい、目に見えぬ敵をいくら切ったところで、それは何の力にもならないのだと信は改めて思い知らされた。
実践を重ねた数だけ、死地を乗り越えて来た数だけ、それは確実に力となる。それはまさに父と母の六大将軍と称される強さを裏付けるものだった。
涙と吐瀉物で顔をぐちゃぐちゃにしながら、尚も泣き続けていると、上から大きな影が現れて信の体を包み込んだ。
「ココココ。思ったより早かったですねェ」
父だった。凰という名の愛馬から降りて来ると、まじまじと信のことを見つめた。
娘の着物と背中に携えている剣は血に塗れていたが、屋敷に帰る条件として与えたものは何処にも見当たらない。
「…十人討ち取った証はどうしたのです?それがなければ屋敷には入れませんよ」
信は涙を拭うこともせず、着物の袖から十人分の耳を取り出し、地面に並べた。全て左耳であることから、十人とも別の人間であることを理解し、王騎が満足そうに「ンフゥ」と微笑んだ。
「あなたのことだから、てっきり十人分の首を担いで来ると思っていたのですがねェ」
「十人の首担いで崖なんか上がれねえだろッ」
それまで幼子のように泣きじゃくっていた信がようやく普段の自分を取り戻したかのように、目をつり上げて父を睨み付けた。
「信!」
少し離れたところから女性の声がして、信は反射的に振り返る。こちらに馬を走らせている母だった。
ずっと心配してくれていたのだろう、今にも泣きそうに顔を歪めている母の顔を見ると、信の瞳から引っ込んだはずの涙が溢れ出て来る。
馬から転がるように降りて来た摎が、自分の着物が汚れるのも構わずに娘の体を抱き締める。
「よく頑張った…本当に、よく、生きていてくれたね…」
母の腕と愛に包まれ、信はそれまで張り詰めていた糸がふつりと切れ、再び大声を上げて泣き喚いた。
本当は怖くて堪らなかったのだ。弱い自分がたった一人で生き抜くことなど出来るのかと不安で堪らなかった。
摎は信の気持ちを受け止めるかのように、ずっと娘の体を抱き締め続けていた。
…やがて、泣き疲れて摎の腕の中で眠りに落ちた信を見下ろし、王騎がようやく彼女の頭を撫でた。
「素直に抱き締めてあげたらどうです?崖から突き落としておいて、王騎様だって心配していたくせに」
細い体に見合わず、摎は娘の体を片手でひょいと担いで馬に跨った。
まるで虎の親子のように、崖から娘を蹴落とした王騎だったが、娘がいつ帰って来るのか一番気になっていたのは王騎本人だったのだ。
いつもこの場所まで馬を走らせては、崖の下を覗き込み、信が上がって来る気配を探っていた。声を掛けた訳でもなかったのだが、摎も必ず一緒だった。
「信に嫌われても知りませんよ」
愛馬の凰に跨った王騎が、妻の言葉にココココと独特な笑い声を上げる。
「摎」
「はい」
「…あの簪、良かったのですか?」
眠っている信の髪に差していたはずの簪がなくなっていることに気付いたのは、摎だけではなく、王騎もだった。
摎は少しの沈黙した後、ゆっくりと頷いた。
「…ええ。きっと、あの簪に宿る王騎様の想いが、信を守ってくれたのでしょう」
そう言って微笑んだ摎の瞳には、哀愁のようなものが浮かんでいた。
信の髪に差していたのは、摎が王騎と婚姻をする時に、王騎から授かった物だった。
男が女に簪を渡す意味を知っていた摎は、王騎と婚姻をする約束であった百個目の城を落とした時より歓喜したことを覚えている。
宝物のように扱っていたその簪を、摎は此度の修行が始まる時に、娘の髪に差してやり、無事に帰って来るよう祈っていた。
突き落とされた崖の下では、多くの者と戦ったのだろう。傷だらけの身体と血塗れの着物と剣がそれを示していた。
信とは血の繋がりはない。しかし、養子として引き取ってからは本当の親のように慕ってくれている愛しい娘である。
親である自分たちの影響なのか、いつからか剣を振るい出した信の素質を見抜き、王騎は彼女を戦場へ連れ出すようになっていた。命がけの厳しい修行も、彼女が死地を生き抜くためには欠かせないものである。
…きっと、あの簪は戦いの最中で落としてしまったのだろう。
それでも、お守りとして渡していた物だったのだから、こうして無事に帰って来てくれただけで十分だ。
愛する夫からの初めての贈り物だったこともあり、未練がないといえば嘘になる。それでも娘の命には代えられないと摎は何度も自分に言い聞かせていた。
今となっては、簪よりも、この娘の存在が二人の宝なのだから。
信はゆっくりと重い瞼を持ち上げる。視界に見慣れた天井が広がっており、自分はまだ悪夢の中にいるのだと信は溜息を吐いた。
慶舎に部屋へ連れ戻され、ずっと泣き続けていたせいで頭が痛む。泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。
(夢…?)
随分と昔の夢だった。朧げな記憶ではあるが、自分が初めて人を殺した時だというのは覚えている。
こちらは何もしていないというのに自分の身なりを見て、金目の物を奪おうとしたのか、子どもであっても容赦なく武器を向けて来た兵たちがいた。生き抜くために、両親の下へ帰るために、信は彼らの命を奪ったのだ。
剣の柄を通じて感じた肉と血管を断つ、あの嫌な感触。今では何とも感じなくなっていたが、当時の幼い自分には衝撃が強過ぎた。
記憶に靄が掛かっているのは、あまりにも辛かった記憶であるため、体が思い出さないようにしているのだろう。正気を保つための術なのかもしれない。
もう一つ覚えていることがある。不安と孤独に苛まれていた時に、傷だらけでぼろぼろだった一人の男を助けたことだ。
顔はよく覚えていないが、今思えば、兵たちに追われていた彼は、敗国の将だったのだろう。
―――すまない…全て、俺の責だ…全て…俺が…
意識のない彼が誰かに謝りながら涙を流している姿を見て、この男も辛い思いをしているのだということは子どもながらに理解出来た。
大人とは泣かない生き物なのだと子どもながらに思っていたが、それは違ったらしい。
この男も自分と同じように孤独に苛まれているのだと感じ、信は着物の裾を破って、男の傷口を止血し、水を飲ませて、出来る看病を行った。
自分がここで死ねば、この男もじきに死ぬ。
両親のような大将軍になりたいと大口を叩いておきながら、目の前にある弱い命を救えずに、本当に将になるつもりなのかと信は自分に問うた。
男が何者なのかは結局わからなかったし、顔も名前も覚えていない。しかし、彼のおかげで信はあの厳しい修行を生き抜くことが出来たのだ。
「―――!」
扉が開く音がして、信は反射的にそちらに目を向ける。李牧だった。
城の建設や守備の手配で激務な日々を送っている彼と最後に会ったのは一体いつだっただろう。確か赤子が初めて腹の中で動いた時だっただろうか。
「顔色は良さそうですね」
目が合うと、彼は相変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべて、こちらへ近づいて来た。寝台の端まで身を捩り、信は李牧のことを睨み付ける。
威嚇する子猫のような態度が可愛らしく、李牧は思わず笑ってしまった。挑発するつもりは一切なかったのだが、その笑い声に、信の目がますますつり上がる。
「ぅ…」
その時、腹の内側をゆっくりと抉られるような、何とも言い難い感触がして、信は思わず呻き声を上げた。咄嗟に膨らんでいる腹に手を当てると、赤子が中で動いているのが分かる。
寝台に腰掛けた李牧がその手を伸ばして彼女の腹に触れる。胎動を感じたのか、李牧の目が嬉しそうに細まる。
「今日、趙王にも報告をしたのですよ。この子の名前を考えてくださるそうです」
「っ…!」
触るなとその手を払いたかったのだが、睨み付けることしか出来ないのは、李牧に全てを奪われたことに対する恐怖が怒りよりも上回っているからだ。
相国という立場まで上り詰めた男ならば、王族のように、妻が何人いてもおかしくはない。だというのに、李牧は信だけを妻に迎え入れ、子を孕ませた。
それは信を逃がさないための足枷を作るためだけの行為であり、恐らく赤子に対しての感情など持っていないに違いない。
だからこそ、李牧の機嫌一つでこの尊い命も簡単に奪われてしまうのではないかと思うと、信は恐ろしくて堪らなかった。
心が彼に屈し始めていることに、信は気づいていない。
「…信」
優しい声色のはずなのに、信には恐ろしい響きだった。
袖の中から何かを取り出した李牧が、信の手の平にそれを握らせる。
「ようやく、あなたにこれを返すことが出来ました」
赤い宝石が埋め込まれた金で出来た簪にはひどく見覚えがあり、信は目を見開いた。
「…この、簪…」
顔から血の気を引かせて震え始める信を見て、李牧は思い出に浸るように目を伏せる。
「…昔、命の恩人から頂いたものなんです。頂いてからは、ずっと、私のお守りでした」
お守りという言葉に、信の頭がずきりと痛んだ。
―――綺麗でしょ?
確か亡くなった母もその言葉を使って、これとそっくりな簪を大切に扱っていた。
大切な物なのだと言っていた母の笑顔が瞼の裏に浮かび上がる。
その簪が王騎から初めてもらった贈り物だというのを知ったのは、信があの修行を終えてからのことだった。
何も知らずに信は剣を振るう時に邪魔だからと男に渡してしまい、ひどく後悔したことを覚えている。しかし、父も母も簪を失くしたことを責めることはなかった。
信が生きて帰って来てくれたのは、きっとあの簪のおかげなのだと母は言っていた。
簪を渡してしまったことを素直に告げるべきか信は悩んだが、両親の気持ちを考えると、どうも後ろめたさがある。そのせいで、信は修行中に一人の男を助けたことも、その男に大切な簪を渡してしまったことも言えなかった。
あの時に助けた男の顔も名前も覚えていないのだが、父が母へ贈った大切な物だと知らずにその簪を渡してしまったことだけは、未だに信の心の中にわだかまりとして残っていた。
龐煖によって両親の命が奪われ、信も戦場に出るようになってからはすっかり忘れてしまっていたのだが…。
懐かしい夢を見ただけでなく、二度と取り戻せないと思っていたその簪がまた目の前に現れたことで、信の記憶の糸が一気に引き戻された。
生唾を飲み込んで、信は簪と李牧を交互に見た。
まるで信の想像を肯定するように李牧が微笑んだので、その瞬間、確かに信の中で時間が停まった。
「ま、さか…」
頭が割れそうに痛み、信は両手で頭を押さえる。何の感情か分からない涙が溢れて止まらない。
青ざめている信を見つめながら、李牧は優しい声色で言葉を続けた。
「…あなたと昔出会ったのは森の中でした。すぐ近くに川があって、あなたは息も絶え絶えの私に、水を口移しで飲ませてくれた」
「……、………」
昔話でも言い聞かせるかのような穏やかな口調で話し始める李牧に、青ざめた信が首を横に振る。
―――頼む。やめてくれ。それ以上言わないでくれ。もうこれ以上自分から何も奪わないでくれ。
驚愕のあまり、喉が塞がってしまい、李牧に制止を求めることも出来ない。
頭を掻き毟りながら、認めたくないと首を横に振っている信を見ると、李牧がくすくすと笑った。
「秦趙同盟の宴で再会した時は、何も覚えていなかったのに、ようやく思い出してくれたのですね」
「……、……、……」
嘘だ、と信の唇が戦慄く。しかし、その言葉は声にならなかった。
李牧の指が信の涙を優しく拭う。どれだけ拭っても、涙は溢れて止まらなかった。
「…俺が、助けた、せい…で」
振り絞った声は情けないほど震えていた。涙に濡れている信の瞳から、意志の光が失われていく。
幼い頃の自分は、なぜこの男を助けてしまったのか。
自分がこの男を助けなければ、父が討たれることも、秦が滅ぶこともなかった。
信の言葉を聞いた李牧が、自分の口元に手をやる。それは彼が何かを考える時の癖だ。
「…結果論で言うと、そうですね。あの時、あなたが私を見捨てておけば、王騎は死なず、秦は滅ばなかったに違いありません」
「―――ッ!」
自分の過ちが認められたことに、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
嫌な汗が止まらず、がたがたと震え始める彼女を見て、李牧は慰めるように背中を擦ってやる。
衝撃のあまり、上手く呼吸が出来ずにいる信に苦笑を浮かべながら、李牧は残酷なまでに、無慈悲な言葉を続けた。
「全ては、私を生かしたあなたの責です」
もはや李牧の言葉は、信の耳に届いていないのかもしれない。
虚ろな瞳を見開き、涙を流し続けている信の肩を抱いた李牧は、彼女の耳元に唇を寄せた。
「…ですが、このことを知っているのは私とあなただけ。このまま二人の秘密にしておきましょう?」
肩を抱いていた手を滑らせ、李牧は信とお互いの小指を絡ませ合う。
「ぅ、あ…」
もう信を責める者はどこにもいないというのに、守るべき国を、仲間を、全てを失った彼女の心は罪の意識に苛まれていた。
なぜ自分だけが生きているのかという罪の意識に、信は寝台の上で泣き崩れた。
「ぁあああああああッ!」
もう彼女には抵抗する気力など微塵も残っていないようだが、自分自身が祖国を滅ぼす元凶だと知った今なら、赤子の命など構わずに命を断とうとするだろう。この場に刃物があったなら、きっと迷うことなく彼女は自らの首を斬っていたに違いない。
もしかしたら食器や備品を割って、自ら首を掻き切ろうとするかもしれない。万が一のことを考えて、今日からは両手を拘束しておこうと李牧は考えた。
「…信」
「ぅあぁっ、ぁあっ…」
名前を呼んでも信は泣きじゃくるばかりで返事もできずにいる。恐らく李牧の声は彼女の耳に届いていないのだろう。
「私はあなたに、あの日の恩を返しに来たんですよ」
そう囁くと、李牧は腹に負担を掛けないように、優しく信の体を抱き締めた。
秦との戦に勝利した後、趙へと向かう馬車の中でも彼女の体を好きに扱ったが、今になってようやく彼女を心身共に手に入れた実感が湧いた。
「…百倍、いや、千倍ですね。約束通り、欲張りなあなたに恩を返すために、私は生き続けて来ました」
嗚咽を零す信の背中を何度も擦ってやりながら、李牧は歌うように言葉を続ける。
「将軍として死地に立ち続ければ、あなたはいずれ殺されてしまう。…だから、あなたをそこから救い出すことが何よりの恩返しだと思ったんです」
二度と死地に立てないようにすることが、信から大将軍の座を奪うことが、滅ぶ運命にあった秦から救い出すことが、彼女に命を救われた李牧の考える返礼だった。
たとえそれが信が望まないものだとしても。もう二度と、彼女が自分以外の誰かに傷つけられる日は来ないのだ。
「愛しています、信」
心からの愛の言葉を囁いて、李牧は彼女に唇を寄せる。
李牧にとってはここが楽園であり、信にとっては死に場所でしかなかった。
終
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