中国各地に残る歴史的舞台建築「古戯台」
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苦手な方は閲覧をお控え下さい。
このお話は軍師学校の空き教室の後日編(恋人設定)です。
芙蓉閣:咸陽にある信が立ち上げた保護施設。戦争孤児や行く当てのない女子供を保護している。元は王騎と摎が住まう予定の民居だった。名前は王騎が生前好んでいた花から信が名付けた。
燈:芙蓉閣に保護された女性。現在は芙蓉閣に住まう女性たちに織り子の仕事を教えながら、まとめ役を担っており、信からの信頼も厚い。商人の夫がいる。
宸:芙蓉閣で失踪した男児。芙蓉閣に保護された戦争孤児で、信を姉のように慕っており、飛信軍に入ることに憧れていた。
涵:芙蓉閣で生まれた少女。宸の妹のような存在で、失踪した彼の行方を案じている。手先が器用で織り子の仕事を手伝っている。
肖杰:太后が後宮権力を思うままに操っていた時代に、後宮に務めていた宦官の医者。後宮を追放され、現在は咸陽で街医者として働いている。民たちから慕われており、芙蓉閣の出入りも許されている。
昌平君と別れ、信は咸陽の城下町にある診療所へと向かった。
元は後宮に務めていた宦官の医者である肖杰の診療所に到着した信は、思わず小首を傾げてしまった。
家格を象徴する屋敷の大門にはほとんど装飾がされておらず、門の前には階段もない。
それどころか、彩色のされていない灰色の瓦で作られた屋根を見れば、医者という立場でありながら、他の民たちと何ら変わりない大きさの民居である。
「肖杰はいるか?」
扉に取り付けられている銅製の取っ手を台座に叩きつけると、鈍い音が響いた。呼び鈴の役割も担っているその音を聞きつけ、少ししてから門が開かれる。
「はい。どちら様で?」
現れたのは初老の男だった。屋敷の外装と同じで派手ではないものの、小綺麗な格好をしている。ほっそりとした体格で、気の弱そうな顔をしていた。
「飛信軍の信だ。街医者の肖杰ってやつに聞きたいことがある」
秦国の大将軍の名前を聞き、その気の弱そうな男はぎょっと目を見開く。それから急に膝をついて頭を下げたので、信も驚いた。
「信将軍自らおいでくださるとは…このような街医者に何用でございましょう」
その言葉に、信はこの初老の男が肖杰なのだと理解した。
「そういう堅苦しいのはいい。患者が来てないなら、少し話をしても良いか?」
肖杰はもちろんですと頷いた。
「もう少ししたら病人の家へ往診へ行く予定でしたので、それまでの間でしたら…」
「悪いな」
「いいえ。夕刻まで戻らぬところでしたので、入れ違いにならなくて良かった」
すぐに肖杰は信を客間へと案内してくれた。
街の診療所だと聞いていたが、この民居の一室を診療所として提供しているだけで、入院させるような部屋は用意していないらしい。
(こいつ、左足が…)
客間へと案内するために回廊を歩いている肖杰が、左足を引きずっていることに気付いた。
太后が後宮権力を意のままに操っていた時代に、彼は何か失態を犯して後宮を追放になったと聞いていたが、その際に罰を受けたのだろう。
今は着物で隠れているが、腱を切られたか、骨を砕かれたかどちらかに違いない。
追放になったとはいえ、医者という職業はどこでも重宝される。足が不自由でも、食べていくには困らないのだろう。
(色んな部屋があるな…)
芙蓉閣ほどではないが、そこらの民が住まう屋敷より広かった。
しかし、自ら来客を案内しているところによると、助手の一人もいないようだ。敷地の中には他の者の気配もなく、どうやら妻子もいないらしい。外出中なのだろうか。
その足では随分と不便に違いない。食うに困らない職をしているのならば、使用人の一人でも雇えば良いのにと信は考えたが、彼にも都合があるのだろう。
(…なんか、嫌な臭いだな…)
屋敷の敷地内には独特な匂いが漂っていた。どこかに薬草を植えているのかもしれない。
身体が丈夫で病とは縁がない信に、薬草の匂いは耐性がなかった。
客間に通されると、肖杰が茶の準備をしようとしたので、不要だとすぐに断った。
木製の椅子に腰を下ろし、信はまじまじと肖杰を見る。
「…そういや、あんたと顔を合わせるのは初めてだったな」
「戦でご活躍をされている信将軍ですから、私のような街医者とはご縁が無くて当然です」
穏やかな声色で肖杰が答える。
「芙蓉閣の女子供も診てくれてるんだろ。あそこは俺が立ち上げた施設だからな、いつか礼を言おうと思ってたんだ」
とんでもございませんと肖杰が頭を下げる。随分と腰が低い男だ。
「将軍たちが戦で命を張って国を守ってくださるように、私も医者としての責務を果たしているだけです」
髭も薄く、声も僅かに高くて中性的だ。そして、彼がこんなにも物腰柔らかなのは、宦官として男の生殖機能を失った影響なのだろうか。
「それで、本題だ」
声を低くした信に、真剣な眼差しを向けられたことで、肖杰がごくりと生唾を飲み込んだ。
「ここ最近、芙蓉閣でガキが十人行方不明になってる。お前のとこに、菓子をもらいに来たりしなかったか?」
その問いに、肖杰はすぐ首を横に振った。
「いえ…常備薬を渡す以外で、最近は…私の方も少々忙しくて、診療所ではなく、病人の家へ往診をすることが多く、留守にしていたものですから…」
「そうか…」
ここにも手がかりがないことが分かると、信は重い溜息を吐いた。
「いきなり押しかけて悪いな」
「いいえ、こちらこそお役に立てず…」
椅子から立ち上がると、肖杰は左足を庇いながらゆっくりと立ち上がった。
客間を後にした信は肖杰に見送られながら屋敷を出た。入って来た門を潜り、そういえばと振り返る。
「お前…ここにはずっと一人なのか?色んな患者を診てんなら、助手の一人くらい雇えばいいだろ」
人を雇わないのは彼にも都合があることなのだろうが、左足の不自由を考えると、信はやはり心配になった。
必要なら支援の手配をしようかとも考えたのだが、肖杰は薄い笑みを顔に貼り付けて首を横に振った。
「後宮を追放となった罪人が一人でいるのは、相応しい処遇でしょう」
「………」
そう言われてしまえば、信は言葉を返せなくなる。
一人と言い切ったことから、恐らく妻子とも離れ離れになってしまったのだろう。
後宮を追放されてから一人で仕事をこなすのは、彼にとって罰を受けているのと同等らしい。
然るべき罰はもう受けただろうに、肖杰自身は未だ自分を許そうとしていないのだと察した。
どのような罪を犯したのか、さすがに本人に聞くのは野暮だろう。
「…そうか」
それ以上、信は彼に質問をしなかった。
「邪魔したな。これからも芙蓉閣のことを頼むぜ」
「ええ、もちろんです。それでは…」
肖杰が門を閉める時、信ははっと目を見開いた。
彼の背後に見覚えのある子供たちの姿が見えたからだ。
「待っ…!」
手を伸ばすが、肖杰は気づかずに門を閉めてしまった。
(見間違い…だったか?)
思わず目を擦る。将として戦場に出ているせいか、いつだって人の気配に敏感な信だが、敷地内に子供たちがいた気配は少しも察せなかった。
「………」
やはり、気のせいだったのだろうか。
信は後ろ髪を引かれる思いを断ち切るようにして、馬に跨り、診療所を後にした。
一度芙蓉閣に引き返した信だが、先ほどの肖杰の屋敷で見たあの光景を忘れることが出来なかった。
回廊の柱に寄りかかりながら、信はずっと考えていた。
「………」
案内されたのは客間だけだったが、回廊を歩いている時には幾つもの部屋があった。
追放をされなければ、本来は後宮での任期を終えた後、あの屋敷に家族水入らずで暮らすつもりだったのだろう。
使われていなさそうな部屋もあったが、処置に必要な道具や医学書だったり、たくさんの物を置いているのかもしれない。
(…まさか)
信が訪れていない他の部屋に、子供たちがいるのかもしれない。
あの時に見た子供たちの姿が幻の類だったとしても、手がかりなら何だって欲しいし、納得するまで調べないと自分を納得させることは難しそうだった。
―――…気をつけて行け。何か手がかりを掴んでも、一度引き返せ。独断での行動は控えろ。
昌平君の言葉を思い出すが、今の時点では、まだ何も手がかりを掴んでいない。
もう一度、彼の屋敷に行って部屋を見せてもらうことは出来ないだろうか。
こちらが疑っていると分かれば肖杰も良い気分はしないだろう。しかし、子供たちがどこかの部屋に閉じ込められているのならば、それを隠される前に見つけ出す必要がある。
肖杰が不在の時間を狙って屋敷に侵入することは叶わないだろうか。もちろん家主の留守中に忍び込むのは道徳に反した行為であると自覚はある。
常備薬を受け取りに来たとでも言って、用事があるフリをして侵入するべきか。だが、肖杰の目があるうちは他の部屋の侵入は難しいだろう。
「信さま」
悶々と侵入経路について考えていると、燈の声がした。盆に茶の入った器が載っている。茶を淹れて来てくれたようだ。
「悪いな」
いいえと燈が穏やかに微笑む。
「肖杰の屋敷に行って来たんだが、あいつも特に知らねえみたいだった」
「そうですか…」
切なげに眉根を寄せて、燈が頷く。
「最近は先生も往診でお忙しいようですね。他の者から聞きました」
「往診…ああ、そういや俺と会った後も往診に出掛けるって言ってたな」
「この芙蓉閣にも頻繁に来て下さって、子供たちが怪我をしたら、甲斐甲斐しく面倒を見てくれていたんですよ」
ふうん、と信が頷く。
気の弱そうな男ではあったが、やはり医者として人助けをしたいという信念は強くあるのだろう。芙蓉閣にいる女子供からも大いに慕われているらしい。
「宸が城下町で貴族の子供たちと大喧嘩した時も手当てをしてくだったんです」
「ああ、噛みついて泣かせてやったって言ってたな」
思い出し笑いをしながら信が言うと、燈も静かに口角をつり上げた。
燈までもが信頼を寄せている医者だが、信の中にはずっと引っ掛かるものがあった。それはやはり先ほどの、屋敷を出る時に見た子供たちの姿である。
信が複雑な表情を浮かべていることに気付かず、燈が言葉を続けた。
「先生もあまりお体が強くないのに、重い葛籠を背負って、芙蓉閣まで往診にいらしてくれるんですよ」
「あの足でそんなことしてるのか?」
後宮追放の処罰を受けた左足を引き摺りながら、まさかそんな重労働を続けていたのかと信は驚いた。
「え?足ですか?」
不思議そうに燈が聞き返したので、信は頷いた。
「あいつ、左足を引き摺ってるだろ」
信が屋敷に訪れた時に、左足を庇うようにして歩いていた肖杰の姿を思い浮かべながら言い返すと、燈が何か考えるように小首を傾げていた。
「いえ…そんなことはなかったと思うのですが、どこかでお怪我をされたのでしょうか?」
「………」
自分よりも肖杰と面識のある燈が、彼の左足のことを知らないはずがない。もしかしたら普段は左足の痛みをさほど感じていないのだろうか。
「…悪い。やっぱり、もう一回肖杰の屋敷に行って来る!」
何か違和感を覚え、信はすぐに肖杰の屋敷へと引き返すことを決めた。
今は患者の家に往診へ行き、不在にしているはずだ。
わざわざ芙蓉閣に引き返さなくても、肖杰が外出するのを分かっていたのなら、屋敷の近くで待機していれば良かった。しかし、彼が戻って来るという夕刻まではまだ時間がある。
愛馬の駿を走らせればすぐに到着する距離なのだが、もしも彼が戻って来た時に厩舎に見知らぬ馬がいることを怪しまれてはまずいと思い、駿は同行させなかった。
厩舎にいる駿から、まるで自分を置いていくのかとでも言わんばかりの悲しい視線を向けられて、信はばつが悪そうな顔をした。
「すぐ迎えに来てやるから、ここで待っててくれよ」
宥めるように駿に声を掛けると、駿が不満げに嘶いた。いつも一緒にいてくれる相棒に嫌われるのは信としても気分が良いものではない。
「…そんじゃあ、これを人質として置いてく」
信は髪を結んでいた青い絹紐を解くと、駿の手綱にきつく結びつけた。涵からの贈り物だが、大切な品であることには変わりない。
「必ず迎えに来る約束の証だ。これでいいだろ?」
駿の鬣を撫でつけながら言うと、渋々納得してくれたように耳を動かしていた。
(急ぐか)
信はすぐに芙蓉閣を出て、肖杰の屋敷を目指した。
人通りの多い城下町だが、診療所でもある屋敷は端の方にある。人目を気にしながら、あまり人通りの少ない裏路地を通って、信は肖杰の屋敷の裏に回った。
先ほど肖杰を訪ねた時に通った正門よりも狭い門を見つける。正門と同じで、装飾が一切ない簡素な門だった。
試しに手で押してみるが、門が開く気配はない。
(さすがに開いてねえか…)
予想はしていたが、内側から鍵が掛けられているようだ。
この裏門はあまり手入れが行き届いていないようだ。門も壁も随分とくたびれていて、欠けている部分もある。
「………」
壁の欠けている部位をまじまじと観察した信は、良い足場になりそうだと考える。
(飛び越えるか)
辺りを見渡して、誰もこの場にいないことを確認すると、門から距離を取った。
「―――ふッ!」
助走をつけて、欠けている壁の一部に足を掛けた信は、大きく飛び上がった。瓦の屋根を掴み、腕力だけで自分の体を持ち上げる。
「よっ、と…」
敷地内に足をつくと、信は長い息を吐いた。薬の独特な匂いが再び鼻を突いた。
内側から鍵の役割をこなしている閂を外そうと考えたが、屋敷を出た後に裏門の鍵が開いていることを、肖杰が不審がらないように触れないでおいた。
(まだ戻って来てねえな)
気配を探るが、肖杰は往診に出たようで敷地内に気配はない。
「宸、いるか?」
声を掛けながら、信が回廊を進んでいく。
客間以外の部屋の扉を次々と開けて中を覗き込む。部屋を見て回ったが、子供たちの姿はどこにもなかった。
(やっぱりここにはいないか…)
やはり、肖杰の屋敷を出た時に見た彼らの姿は見間違いだったのだろうか。諦めて信は往診に出ている肖杰が戻って来る前に、屋敷を出ようとした。
「え?」
その時、後ろから誰かに着物を引っ張られたような気がして、信は反射的に振り返る。
(なんだ?風か…?)
最後に覗いた部屋から風が吹き抜けた。導かれるように信はもう一度その部屋の中を覗き込むと、窓が開けっぱなしになっていた。
たくさんの木簡が棚に敷き詰められていて、机には筆や木簡が置かれている。どうやらここは書斎として使っているようだった。
「ん?」
読みかけだったのだろうか、机に広げられている木簡が目に留まった。随分とくたびれていて、墨も掠れていることから、かなり年季の入った古書だと分かる。
びっしりと字が書き込まれており、恐らく医学に関することが記されているのだろうと思った。
医学に関しては全く知識がないこともあって、まるで読む気にはなれない。しかし、信は妙にその古書が気になった。
養子として引き取られてから字の読み書きは一通り教わったが、専門知識に関しての用語はさっぱりだ。
読み取れる文字だけを目で追っているうちに、信の顔色はみるみるうちに曇っていった。
「…なんだ、これ…」
古書に記されていたのは、信が一度も聞いたことのない話だった。しかし、これが医学に関する知識でないことは明らかである。
思わず生唾を飲み込んだ。
子供たちの失踪がこの木簡に関する内容と関わりがあるかもしれない。信は冷や汗を浮かべた。
(こんなのを知って、肖杰の野郎は…)
手に取ったその木簡を読み続けていると、扉の方から物音が聞こえ、信は弾かれたように顔を上げた。
そこには、夕刻に戻ると話していたはずの肖杰が立っていた。
「あ…」
まずった、と信は顔を強張らせる。
夕刻まで戻らないと聞いていたので、まさかこんなに早く戻って来るとは思わなかった。
古書を読むのに夢中になっていて、近づいて来る気配に気づけなかったのだ。信の失態である。
驚愕のあまり、手から古書を滑り落としてしまい、乾いた音が室内に響き渡った。
心臓が激しく高鳴る。不法侵入が気づかれたことに関する焦りではない。
この古書に記されている内容を彼が行おうとしている、あるいは既に実践したことを気づいてしまったからである。
「忘れ物を取りに来たのですが…信将軍、ここで何を?」
背中に大きな葛籠を背負っている肖杰は、落とした古書に視線を向けながら、信へ静かに問い掛ける。
無断で屋敷に立ち入ったことを咎めることもせず、まるで世間話でもするような、穏やかな表情を浮かべていた。
「ッ…!」
質問には答えず、背中に携えている剣を掴みながら、信は肖杰を睨み付けた。睨まれた肖杰は少しも怯む様子を見せない。
「お前…これはなんだ?」
鞘から刃を引き抜いた信は、肖杰に鋭い切先を突きつけながら、床に落ちている古書に視線を向けた。
―――男児の心臓を食えば失われた器官が再生する。女児の子宮を食えば寿命が伸びる。
古書にはそのように記されていた。
こんな内容、迷信にしたって一度も聞いたことのない話だ。どこから出回った情報なのだろう。
刃を向けられているにも関わらず、肖杰は少しも取り乱す様子がない。床に落ちているその木簡を拾おうと、彼はゆっくりと身を屈めた。
「うぅ…」
後宮で処罰を受けた左足が痛むのか、膝を擦っている。
「…?」
着物越しに擦った箇所に赤い染みが出来ている。床に小さな血溜まりが作られているのを見て、肖杰の左足から出血していることが分かった。
彼が後宮を追い出されたのは、少なくともここ最近の話ではない。太后がまだ後宮権力を好きに振るっていた時代に追い出された聞いていたから、左足の傷はもう塞がっていてもおかしくない。
しかし、屋敷に戻って燈から話を聞いたが、彼女は肖杰の左足のことを知らなかった。
新しく怪我でもしたのだろうか。それにしても床に血溜まりを作るほどの傷ならば、相当な深手だろう。
「ああ、すみませんがね、少し手当てをさせてください」
「………」
信に刃を向けられたまま、肖杰は不自然なほど笑顔を浮かべながら、背負っていた葛籠を床に降ろすと、近くにあった椅子に腰を下ろした。
「一週間ほど前の傷なんですが、なかなか治りが悪くて…」
葛籠を開けて、中を漁っている。葛籠の中には漆塗りの薬箱や処置に必要な道具が入っていた。
左足の着物を大きく捲ると、脛の辺りに包帯が巻かれており、赤い染みが出来ているのが見えた。後宮で受けた古傷が開いたのではなく、新しい傷だとすぐに分かった。
「!」
慣れた手つきで包帯を外していくと、そこには咬み傷があった。
獣に噛まれたものではなく、人間の歯形だと分かり、信は全身の血液が逆流するような感覚に襲われる。
肌に深く刻まれた上下の歯型に沿って血と膿が溢れている。傷口が化膿しているのか、周辺も赤く腫れ上がっており、見るだけで痛々しかった。
信が驚いたのはそれだけではない。てっきり足を引き摺っていたから、後宮で処罰を受けたのだとばかり思っていたのだが、捲った着物の下にあるのは咬み傷だけだったのだ。
「おいッ!どういうことだッ!」
大股で近づいた信は、剣を持っていない反対の手で肖杰の着物をさらに捲り上げる。膝を見るが、やはりそこにも傷はない。
彼が足を引き摺っていたのは、この咬み傷のせいだったのだ。
肖杰の処罰は後宮追放だけであったと分かると、信は痛々しい咬み傷を睨み付ける。
傷の小ささから、大の大人ではなく、子供が噛んだものだとすぐに分かった。
―――貴族の奴らがうるさいから、噛みついてやったら、泣き喚いて逃げてったんだ!
城下町で貴族の貴族の子供たちから心無い言葉を向けられたことで大喧嘩し、仕返しに噛みついてやったのだと誇らしげに話していた宸の姿を思い出す。
「一週間前…?」
肖杰が先ほど話した言葉が引っかかり、信は嫌な汗を浮かべた。
確か、最後に失踪した子供…宸がいなくなったのも一週間ほど前だ。これは偶然なんかじゃないと信の心が叫ぶ。
肖杰の左足についている咬み傷が、宸が抵抗の際につけたものだとすれば、そう考えるだけで信の背筋はたちまち凍り付いた。
「…まさか、お前…食ったのか?」
自分でも驚くほど、その声は冷え切っていた。剣を持つ手が震え、肖杰に向けている切先までもが揺れ始める。
椅子に座りながら懐紙で傷口を止血している肖杰がゆっくりと顔を上げる。
「宸や、他のガキどもを、殺して…食ったのか?」
信の言葉を聞き、それまで穏やかな表情を浮かべていた肖杰が、急に血走らせた双眸を向けて来た。
「ああ、食ってやったさ!」
まるで人が変わったように肖杰が声を荒げたので、信は思わず肩を竦ませる。こちらの問いに肖杰が肯定したことを、すぐには信じられなかった。
殺しただけではなく、まさかあの古書に書いてあることを鵜呑みにしたというのか。
男児の心臓を食えば失われた器官が再生する、女児の子宮を食えば寿命が伸びる。
まさかそんな馬鹿な迷信を信じて、十人もの子供たちの命を奪ったのか。いや、もしかしたら信が知らないだけで、芙蓉閣以外の子供たちの命までも奪ったのかもしれない。
「――――」
驚愕のあまり、信の喉は塞がってしまい、言葉を失っていた。
凍り付いたかのように動けなくなった信に、肖杰が笑い出す。男としての生殖機能を失ったせいなのか、耳につく甲高い笑い声だった。
「あのガキどもッ!私の、私の前で、薪を割るとはしゃいで、指を切って、斧の刃が欠けていると言って、私を、私を侮辱したんだッ」
笑いながら怒鳴り散らす肖杰は、本当に狂っているのかもしれない。
割る、切る、欠ける。これらは宦官であること、つまり生殖機能を失ったことを恥じる男に対して禁句とされている。男性器を失った時のことを連想させるからだろう。
涵の話では、薪割りや他の仕事を手伝えば肖杰がおやつをくれると言っていた。この広い屋敷で仕事をこなしながら生活するにあたり、相手が子供でも、やはり人手は欲しかったのだろう。
しかし、子供たちがわざとそんな言葉を並べたはずがない。
全員まだ年端もいかぬ子供たちで、宦官とは何かさえ分かっていない者だっていたはずだ。肖杰が宦官であることを恥じている理由など、子供たちが知る由もない。
そんなことも冷静に考えられず、自分を侮辱していると思い込んだ肖杰はよほど宦官であることを恥じているのだろう。
この古書を所持していると知った時点で、本性に気づくべきだったのだ。
今まで肖杰の悪事に気付かなかったのは、彼の前で禁句を言わない限り、親切な街医者でしかなかったからだろう。
殺された子供たちの共通点は、母親がいないことだと思っていたが、それは本当に偶然だったらしい。
肖杰に殺された子供たちの本当の共通点は、その禁忌を口にしてしまったことだったのだ。
「そんな理由でッ…!」
信は悔恨のあまり、奥歯を噛み締めた。
彼女の言葉が気に障ったのか、肖杰が鬼のような形相を浮かべる。
「そんな理由だとッ!?」
「うッ!」
床に落ちていた古書を顔面に投げつけられ、信は視界を遮られてしまう。まさか反撃をされるとは思わず、油断してしまっていた。
その弾みに剣を手放してしまい、信はすぐに拾い上げようとした。
憤怒のあまり左足の痛みを忘れているのか、肖杰に思い切り体当たりをされ、信は床に倒れ込んでしまう。
強く背中を打ち付け、信はむせ込みながら立ち上がろうとする。
しかし、それよりも早く肖杰が乗り上がって来て思い切り頬を殴られ、頭が真っ白に塗り潰された。
視界に色が戻って来た時には、信は両腕を背中で拘束されていることに気が付いた。先ほど殴られた頬が引き攣るように痛み、口の中は血の味が広がっている。
「うぅ…」
この屋敷に来た時から鼻についていた嫌な臭いを強く感じて、信は思わず顔をしかめた。
どれだけ気を失っていたのかは分からないが、殺されはしなかったらしい。
水の入っていない青銅製の浴槽に寝かせられていることに気付き、浴室に移動させられたのだと気づく。
壁のくぼみに置かれている灯心に火が灯されていた。どうやらもう陽が沈みかけているらしい。
「…?」
すぐ傍で何かを研ぐ音が聞こえて、浴槽からそっと顔を覗かせると、肖杰が砥石を使っている姿が見えた。研いでいるのは信の剣だった。
「秦王から賜ったという剣…とても切れ味は良いでしょうが、念には念を入れておこうと思いまして」
信が目を覚ましたことに気付いたのか、肖杰は剣を研ぎながら、穏やかな視線を向ける。
(くそ…)
両腕は縄によってがっちりと拘束されている。
拘束さえされていなければ、すぐにでも剣を奪還し、この男を叩き斬っていただろう。
「!」
縄を解こうと腕に力を込めていると、寝かせられている青銅製の浴槽に赤い染みがこびりついているのが見えた。
それが血の痕だと気づいた信は、後処理をしやすいように、この浴室で子供たちが殺されたのだと瞬時に悟る。浴室ならば、診療に訪れた患者の目に触れることもない。
この独特な薬草の臭いは、このむせ返るような強い血の匂いを誤魔化していたのだろう。
剣の刃を研ぎ終えたのか、肖杰は切先を向けて来た。
ぎらりと光る刃に、自分の強張った顔が映っており、信は思わず生唾を飲んだ。
「…大将軍が急に姿を消せば、当然怪しまれる。あのガキどもとは比べ物にならない捜索が行われるでしょう」
まるで信の反応を楽しむかのように、剣の刃を彼女の首筋に宛がいながら肖杰が言葉を続けた。
「この咸陽にも荒くれ者は多くいる。民たちを守るために、その者たちと刺し違えたとでもすれば、大将軍の名誉でしょう」
「…!」
やはり自分も殺すつもりなのだと信は目を見開いた。ご丁寧にも、大将軍としての名誉ある死を偽ろうとしているらしい。
剣の柄を握り直しながら、肖杰が口の端をにたりと吊り上げる。血走った瞳と目が合うと、背筋に氷の塊を押し当てられたような感覚に襲われた。
「古書には女児の子宮とあったが、あなたのような女性を食らえば寿命も多く伸びるでしょう」
その言葉を聞いて、信の顔が引きつった。殺されるだけじゃ済まないのだと分かり、冷や汗が止まらない。
戦場で戦っている時とはまた違う命の危険を感じ、全身がこの男に対する拒絶を剥き出しにしていた。
「お前…どこまで、あのバカな迷信を信じて…」
両腕が拘束されているのだから、逆上すればろくな抵抗も出来ずに殺されることは信も分かっていた。
しかし、そう言わずにはいられなかった。
殺されるかもしれないという恐怖より、彼が迷信を信じて子供たちの命を奪った非道さに憤怒していた。
バカな迷信という言葉に反応したのか、肖杰が胸倉を掴んで来た。視界いっぱいに彼の凄んだ顔が映り込む。
「…この世で最大の親不孝がなにか分かるか?」
今の彼に余計な口を出せば、すぐに首を掻き切られて臓器を食われるだろう。信は下手なことを言えず、沈黙を貫いた。
「…跡継ぎがないことだ。子孫が絶えれば、死後の祀りをしてもらえなくなる」
その言葉を聞くのは、初めてではなかった。この中華で跡継ぎを作ることは一族を繁栄させるのに必須な行為で、そしてそれは親孝行だとも認識されている。
「私に兄弟はいない。父も幼い頃、病で亡くなり、年老いた母だけ。貧しいながらも勉学に励み、後宮に務める医者になったが、今の私では子孫を作れない…」
それまで憤怒の表情を浮かべていた肖杰の瞳に、悲しみの色が浮かんだのを見て、信は息を飲んだ。
「だから…あの古書を…?」
「そうだ!男児の心臓を食らえば、私は子孫を成すことが出来る!それまでは死ねない…死ぬことは許されないッ!寿命を寄越せッ!」
もうこの男は後戻りが出来ないほど、狂気の道を進んでしまったのだと信は察した。
後宮に務めるに当たって男の生殖機能を失い、子孫繁栄を成せぬ罪の意識に苛まれたことで狂ってしまったのだろう。
「寄越せッ!私に寿命を寄越せえッ!」
肖杰が叫んだ途端、信の中で抑え込んでいた怒りが爆発した。
両手を後ろ手に拘束されており、相手が凶器を持っている状況でも、信は怯えるだけの弱い女ではなかった。
「このッ…バカ野郎ッ!」
信が勢いよく体を起こし、肖杰の額に自分の額を打ち付ける。
鈍い音と共に、肖杰が悲鳴を上げて仰け反り、物をなぎ倒しながら床に倒れ込んだ。彼の手から滑り落ちた剣が鈍い音を立てて床に転がっていく。
額にじんと痺れるような痛みを堪えながら、信は寝かせられていた浴槽から転がり落ち、拘束されている両手を解放しようとした。
「くそッ…」
しかし、両手首を一括りにしている縄は頑丈で、一人では解けそうにない。両手が使えないせいで、立ち上がって逃げることも叶わなかった。
「この女ッ…よくも…!」
「!」
倒れで込んだ肖杰は怒りで頭に血が昇っていたのか、意識を失わずにいた。立ち上がった彼は血走った瞳で信を睨み付けている。
せっかく子供たちを殺した犯人を見つけたというのに、こんなところで殺されてしまうのか。
冷や汗を流しながら、信が肖杰を見上げていると、門の方から大きな声が響いた。
「先生!お願いです!どうか診て下さい!」
「お願い!開けて!」
がんがんと銅製の取っ手を台座に叩きつける音が聞こえる。この部屋まで響いた声は高く、複数の子供の声だとすぐに分かった。
急な患者の訪問に、肖杰も信も驚いた。
「ちぃっ…」
多くの民たちに慕われている街医者の立場では、急患を断ることは出来ないのだろう。
「そこから動くなよ」
「………」
肖杰がそう言ったので、信は彼が急患の対応に行くのだと察した。その隙を突いて逃げ出せるかもしれない。
彼は懐から何か瓶を取り出すと、手巾に瓶の中身を染み込ませている。薬独特の匂いを感じて、信は思わず顔をしかめた。
「何すんだッ、放せッ」
謎の薬を染み込ませた手巾を近づけられ、信は咄嗟に顔を背ける。
しかし、後ろ手に拘束された体ではその手を突き放すことも出来ず、信は手巾で口と鼻を覆われた。
「―――ッ!」
吸ってはいけないのだと頭では理解しているのだが、当然ながら呼吸を止めるのは長く続かない。
「んぅッ」
手巾に染み込んだ謎の薬を吸い込んでしまう。つんと沁みるような匂いが鼻腔を突き抜けた途端、信の喉に焼けつくような痛みが走りった。
それだけではなく、目の前がぐらぐらと揺れ始める。
(なんだッ…これ…)
信が薬を吸い込んだのを確認した肖杰はようやく手巾を離す。
「…ここから逃げ出そうとしたら、生きたまま子宮を抉り出して、お前の目の前で食ってやる」
低い声で囁き、肖杰は足早に浴室を出て行った。幸いなことに剣は床に投げ捨てられたままだった。
「―――ぁ、……ッ!」
焼けつくような痛みが喉から引かず、声を出そうとしたが、掠れた空気が洩れるばかりだった。
(くそ…!)
薬で喉を腫らされたのだと理解し、助けを呼ぶことが叶わないことを悟る。
眩暈も止まらず、信は気持ち悪さのあまり吐き気が込み上げて来た。
しかし、ここでじっとしている訳にはいかない。急患の対応を終えて肖杰が戻ってくれば、その時こそ彼は自分を殺すに違いない。
「…!」
床に転がったままの剣を見つけ、信は身を捩った。鞘から剥き出しになった刀身で縄を切ろうと、背中で縛られた両手首を近づけ、縄を切ろうとする。
少しでも縄が緩まればあとは自力で解くことが出来る。
(痛ッ…)
腕を動かすと縄で縛られている手首の近くに鋭い痛みが走った。背後で腕を縛られていることもあり、上手く縄を切ることが出来ず、刃が違う部位を傷つけたのだ。
剣の切れ味の鋭さは持ち主である自分が一番よく知っている。さらに肖杰によって研がれた刃は持ち主にも牙を剥いた。
しかし、痛みによって意識に小石が投げつけられ、眩暈が少しだけ和らぐ。
腕にいくつもの傷を作りながら、どうにか縄を切り、信は両腕が自由になったことを実感した。
床に血溜まりが出来ていたが、気にしている時間はない。
早くここから逃げないと肖杰が戻って来てしまう。先ほどよりも和らいだとはいえ、未だ続く眩暈のせいで、まともに剣を振るう自信はなかった。
(ち、くしょ…)
ふらつきながら立ち上がると、和らいだはずの眩暈が再び大きくなる。思わず剣を手放してしまいそうになり、信は両足に力を込めた。気力だけで意識を繋ぎ止めているようなものだった。
浴室の床に葛籠が置いてあるのが見えた。
肖杰が往診に行く時に背負っていたもので、中に漆塗りの薬箱だったり、処置に必要な道具が入っていたはずだが、今は空っぽだった。
子供一人なら余裕で入れそうな大きなをしている。大人であっても、体を部品を切り刻んで詰め込めば余裕で入るだろう。
浴槽と同じように内側に赤い染みを見つけ、まさかと信は息を飲んだ。
(芙蓉閣へ往診に来る時も、この葛籠を背負ってたんなら…)
血の痕があることから、既に事切れた状態で葛籠に詰め込まれて、あるいは今の信のように薬で声を出せなくして、子供たちは人目につかないように運ばれたのかもしれない。
もしかしたら、おやつをもらいにこの屋敷にやって来て襲われたのかもしれないが、芙蓉閣で失踪した子供たちの目撃情報がなかったことは、この葛籠で運んだことが関係していそうだった。
(あの野郎ッ…!)
信の胸が殺意でいっぱいになる。薬を使われていなければ、すぐにでも彼のことを叩き斬っていただろう。
しかし、今は堪えて逃げねばならない。自分が殺されてしまえば、失踪した子供たちの死の真相は闇に葬られてしまうのだから。
眩暈が止まらず、吐き気が込み上げて来た。痛みで眩暈が和らいだことを思い出し、信は意を決したように大きく息を吸い込む。
(ぐうッ…!)
迷うことなく、彼女は自ら右の太腿を傷つけた。
激しい痛みに信は座り込んでしまいそうになったが、歯を強く食い縛って耐える。痛みに意識が向けられ、眩暈が大きく和らいだ。
(今は、ここから逃げねえと…)
この屋敷は人通りの多い城下町に位置している。屋敷さえ脱出できれば、肖杰もさすがに追っては来ないだろう。
壁に手をつきながら浴室の扉を開けようとした。しかし、肖杰が通った道をいけば、戻って来た彼と遭遇してしまうかもしれない。
(どうする…)
傷つけた右足の出血が止まらず、右足の感覚が少しずつ麻痺して来た。力が抜けてしまいそうになり、立っていることも困難になっていた。急がねばならない。
「…!」
目に付いた窓から部屋を出ることにした。屋敷の構造は分からないが、窓を通れば敷地内のどこかに出る。
この足では、侵入した時のように高い壁を登ることは出来ない。どこかで身を潜めておき、閂を外して正門か裏門を抜ける方法しかないと信は考えた。
しかし、窓を通るには窓枠を壊さねばならないし、血の痕を辿って肖杰がすぐに追いつくかもしれない。だが、今さら他の脱走手段を考える時間は残されていなかった。
「ッ…」
窓に嵌め込まれている枠を壊そうと、信は剣の柄を振り上げた。右足の出血のせいか、それとも嗅がされた薬の影響か、両手に上手く力が入らない。
「…!」
そのせいで剣の柄は呆気なく弾かれてしまい、それどころか剣を落としてしまう。その音は耳を塞ぎたくなるほど、浴室に大きく反響した。
(まずい…!)
物音を聞きつけて、急患を相手にしていた肖杰が戻って来るのではないかと振り返る。
そして、その嫌な予感は見事に命中してしまうのだった。
(くそっ…!戻って来やがった…!)
ばたばたと荒々しい足音が近づいて来るのが分かり、信は思わず後退った。
血相を変えた肖杰が扉を破る勢いで部屋に入って来る。怒りのあまり、左足の怪我など少しも気にしていないようだった。
拘束が解かれて立ち上がっている信を見て、肖杰の顔が再び憤怒に染まる。
「大人しくしていろと言っただろうッ!」
背後を気にせずに怒鳴りつけるということは、急患は適当にあしらったのだろうか。
信は反射的に床に落としたままの剣に手を伸ばすが、薬を嗅がされたのと怪我のせいで、身体が言うことを聞いてくれない。肖杰の手が信の頬を殴りつける方が早かった。
「ッ…!」
一切の加減をされず殴られた信は、腫れ上がった喉のせいで悲鳴を上げることも叶わない。浴槽にぶち当り、派手な音を立てて身体が崩れ落ちた。
右足の傷も肖杰に味方したのか、いよいよ立ち上がることも叶わない。目の前がぐらぐらと揺れる。
(さすがに、もう…これ以上は…)
信は何度目になるか分からない死を覚悟した。ここは戦場でもないというのに、敵将でもない男に殺されることになるとは予想もしていなかった。
自分が殺されれば、子供たちの死の真相が闇に葬られてしまう。自分は殺されても良いが、せめて、この男に罰を与えたかった。
尊い命を奪ったこの男に重い罰を与えねば、殺された子供たちも報われない。
「先ほど言ったように、生きたまま子宮を抉り出して、お前の目の前で食ってやる」
床に落ちていた信の剣を掴んだ肖杰が不敵な笑みを浮かべる。
「…!」
彼が剣を振り上げたのを見て、信は激痛に身構えるために、強く目を瞑った。
「ぎゃあッ!」
激痛の代わりに肖杰の悲鳴が降って来た。いつまでも痛みがやって来ないことに、信は恐る恐る目を開く。
自分を殺そうとしていた肖杰がうつ伏せに倒れており、そして、見覚えのある紫紺の着物の男がこちらを見据えていた。
「信ッ!」
紫紺の着物の男が駆け寄って来る。それまで信は術を掛けられたかのように硬直していたが、聞き覚えのある声によって、その硬直が解けた。
右手に剣を持つ昌平君の姿がそこにあった。珍しく取り乱していたのか、汗を浮かべて髪が乱れている。
「…、……」
恋人の名前を呼ぼうとした信の口からは、掠れた音しか出ない。
唇は動かしているのだが、声を出せずにいる信に気付いたようで、昌平君はすぐに膝をついて彼女と目線を合わせた。
「無事…ではないな」
声を出せないでいるところや、殴られて腫れ上がった頬と切れた唇、血で真っ赤に染まっている右足と手首の傷を見て、昌平君が眉根を寄せる。
「遅れてすまなかった」
懐から手巾を取り出すと、昌平君は未だ出血が続いている右足をきつく縛った。
(なんで、ここに…?)
色々と聞きたいことはあったのだが、信の胸は安堵でいっぱいで、ただ昌平君を見つめることしか出来ない。
そうしているうちに騒がしい足音や気配が増えていき、信たちがいる浴室には黒騎兵たちが集まって来た。
昌平君の近衛兵でもある彼らがいるということは、まさか救援に駆けつけてくれたのだろうか。
「きさ、貴様らッ!」
背後から斬られた肖杰は死んでいなかった。
昌平君ほどの武力の持ち主ならば、いともたやすく絶命させることも出来たはずだが、わざと致命傷には至らないように加減したのだろう。
自分の屋敷に右丞相と彼の近衛兵が駆け込んで来た状況を、肖杰が理解出来ずにいるらしい。それはもちろん信も同じだった。
「こんなことをして、ただで済むと思っているのかっ!」
血走った眼で侵入者たちを睨み付ける。しかし、兵たちに囲まれると、さすがの彼も狼狽えていた。
「私は、多くの民たちの命を救った医者だぞッ!貴様ら如きが、この私を罰するつもりかッ!」
無様に怒鳴り散らす肖杰の姿に、信は憤りを通り越して哀れみを視線を向けた。
表面上は多くの民に慕われる医者でありながら、この男は狂っていた。しかし、今この場で彼が行っていた残虐非道な行いを知っているのは信だけだ。
「っ…、……」
すぐにでも昌平君に伝えたかったが、喉の腫れが引かなければ声を出すこともままならない。
必死に何かを訴えようとしている信に気付いた昌平君は静かに立ち上がり、ゆっくりと肖杰の方を振り返った。
「…豹司牙」
「はっ」
名前を呼ばれた豹司牙が前に出る。昌平君直属の近衛兵とはいえ、まさか黒騎兵団の団長である彼まで来ていたことに信は驚いた。
「私が今斬った男は何者だ?」
その声は、刃のように冷え切っていた。普段から聞き慣れているはずの声なのに、信は思わず恐ろしくて身震いしてしまう。
主の問いに、豹司牙は顔色一つ変えることなく、口を開く。
「…司令官様が斬ったのは、この咸陽を騒がせている罪人にございます。信将軍を殺そうとしたのも、ここにいる全員が証人になるかと」
傷だらけの信の姿と、血に染まっている浴室を見渡しながら豹司牙が答えた。納得したように昌平君が頷く。
「ならば、これで何ら問題ない行為だと証明できたな。捕らえろ」
昌平君が指示を出すと、兵たちがすぐに肖杰の身柄を取り押さえた。
致命傷には至らない傷とはいえ、背中に大きな傷がある肖杰が兵たちの手から逃れようと暴れる。
「放せえッ!私は、私は子孫を成さない限り、死ねないッ」
「連れて行け」
騒ぎ立てる肖杰が兵たちに連行されていくのを呆然と見つめ、信はようやく安堵の息を吐いた。
(たす、かった…)
駆けつけてくれた昌平君に礼を言おうとしたのだが、それまで張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れる。
ここに来てようやく意識を手放すことを許された信が床に崩れ落ちる寸前、昌平君の両腕がしっかりと彼女の身体を抱き止めた。
後編はこちら
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