ポーランド監督解任 W杯で36年ぶりベスト16も
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このお話は軍師学校の空き教室の後日編(恋人設定)です。
軍師学校の一番奥にある空き教室。そこはいつの間にか恋人と月見酒をする場所になっていた。
信が五千人将だった頃、戦で率いていた隊を壊滅させるという失態を犯したことがあった。
養父である王騎から軍略について学んで来いと、この軍師学校に投げ込まれたのだ。あの半年間の強化合宿があったからこそ、信は大将軍の座に就いたと言っても過言ではない。
あの日々を共に過ごすうちに、軍の総司令官である昌平君と恋仲になった信は、今日もこの空き教室で月見酒をしていた。
互いにやるべきことを多く抱えているため、頻繁に会うことはないのだが、逢瀬の時はこうして共に酒を飲み、褥を共にするようになっていた。
時々、軍略囲碁を打つこともある。未だ勝てたことはないのだが、お陰で軍略についての学びが深まり、以前よりも戦での立ち回りが上手くなったと自負していた。
今や、信が率いる飛信軍の存在が秦国に欠かせない強大な戦力となっていることから、それは明らかだった。
その夜、軍師学校の空き教室で、二人で静かに酒を飲んでいた。
昌平君は時間を無駄にするのを好まない性格であり、何かしら思考を巡らせたり、執務に関連する木簡を読み漁っているのだが、今日は珍しく木簡を持ち込むこともなく、静かに酒を飲んでいた。
「信、聞きたいことがある」
「ん?」
月を眺めていた信が振り返り、どうしたのだろうと目を丸めた。
僅かに眉根を寄せている昌平君にじっと見据えられ、信は思わず顔をしかめる。
(待てよ、まさか…筆のことが気づかれたんじゃ…)
先日、昌平君の寝室で共に夜を明かした信は、朝になって寝台から降りた時に転んでしまったのだ。
久しぶりの再会ということもあり、会えなかった時間を埋めるように互いを求め合い、ここ最近の中で一番激しい情事だった。そのせいで足腰が立たなかったのだ。
転んだ拍子に、偶然床に落ちていた筆を額で折ってしまったのである。昌平君が愛用しているものだと知っていた信は絶望した。
泣きそうなくらい額も痛かったが、恋人の大切なものを壊してしまった罪悪感の方が上回った。自分の石頭を呪っても、筆は元に戻らない。
執務があるため、昌平君は先に出ていたので、部屋には信一人だけだった。
これ幸いと折れた筆を隠し持って、信は早々に証拠隠滅を図ろうと企んだのである。
城下町でなるべく似た色合いの新しい筆を購入し、黙ってそれを置いていったのだが、愛用していた筆が急に新品になっていたのなら誰だって気づくだろう。
謝罪もせずにいたのだから、きっとそのことを咎められるに違いないと信は青ざめた。
「い、いや…あの、あれは違うんだ!転んだ先に、偶然あの筆があっただけで、わざとじゃなくてっ…」
両手を挙げながらしどろもどろに答えると、昌平君が何度か瞬きを繰り返した。
「…何の話だ」
どうやらその話ではなかったらしい。信は「何でもない」と首を振った。
「戦で親を失った孤児はどこに集められる」
「は?なんでそんなこと…」
昌平君の口から戦争孤児の話が出て来るとは思わなかった。冗談を言う男ではないし、表情を見る限り、とても真剣であることが分かる。
その質問を信にしたのは、彼女が下僕出身だからだろう。
「どこって言われても…ふらふらしてるところを奴隷商人に捕まって、馬車に乗せられて、どっかに売られるんじゃねえのか?運が良ければ保護されることもあるだろうけどよ…」
「…そうか」
反応を見る限り、あまり欲しい答えではなかったらしい。
昌平君は寡黙な男で、感情の変化が分かりにくい。総司令官を務めている上、安易に思考を読まれぬように無意識に身体がそうさせているのかもしれないが、信は彼の僅かな表情の変化や返答の間など、些細なことから昌平君の感情が何となく分かるようになっていた。
どうして戦争孤児の話題を出したのかは分からないが、信が下僕出身であるからこそ、自分の知らない情報を持っていないか確かめたのだろう。
「ガキの頃のことなんて、あんまり覚えてねえよ。奴隷商人に目ぇつけられるよりも、野垂れ死んでいるガキの方が多いかもしれねえぜ。まあ、咸陽は大分マシになっただろうけどよ…」
「………」
口元に手を当てて、何かを考えている。彼の感情の変化には気付くようになったものの、秦軍の総司令官であり、右丞相を務めている彼の考えていることなど、信の理解には及ばなかった。
彼と今の関係を築いてから、もっと聡明な女を隣に置くべきではないかと時々思うことがある。
右丞相という地位に立つのだから、彼の妻になりたい女など山ほどいるに違いない。
蒙恬と違って少しも色話を聞かないのは、右丞相と総司令、それから軍師学校の指導者という激務のせいだろう。
こうして軍師学校の空き教室で酒を飲み交わす時や、共に褥で過ごす以外は一体いつになったら休んでいるのだろうと思うことがある。
「…これは機密事項だが、お前には言わなくてはならない。決して口外はするな」
「え?」
いきなり話を切り出されたので、信は驚いて目を丸めた。
一部の者しか知らない機密事項を自分に教えるということは初めてのことだった。昌平君の真剣な眼差しを受けて、信は思わず生唾を飲み込む。
「…ここ最近、芙蓉閣で子供が攫われているらしい」
「なんだとっ?」
信は思わず立ち上がった。
芙蓉閣というのは咸陽にある女子供の避難所のことだ。秦王である嬴政が弟の成蟜から政権を取り戻し、その後に信が立ち上げた施設でもあった。
戦争孤児だけでなく、世継ぎを産めずに夫に捨てられた女性や、夫から逃げて来た女性、奉公先で辱めを受け、生家にも帰れない女性を主に保護している。
身籠った者もいれば、幼い子を連れて必死に生き場所を探している者もいた。
支援を提供しているのは信だけではない。信がこのような活動をしていると知った蒙恬と王賁はすぐに支援の協力に名乗り出てくれた。
后である向も、国母としての立場で協力をしてくれており、芙蓉閣は支援施設としてその知名度を上げていた。
極秘事項だというのに、昌平君が自分に話してくれたのは、信が芙蓉閣の立ち上げに大きく関わった人物だからだろう。
「なんで極秘事項なんだよ」
そのような事件が起こればたちまち噂になるはずだが、極秘事項にしている理由が分からなかった。
昌平君は机の上に手を組んで、彼女の問いに答えた。
「目撃証言が少な過ぎる。いつの間にか居なくなっていたという話ばかりで、そもそも人攫いなのかも未だ判別がついておらぬ」
「え…」
信が眉根を顰めると、昌平君は小さく溜息を吐いた。
「手がかりが少な過ぎて、役人も動くに動けんということだ」
芙蓉閣には、逃げ込んだ妻を追い掛けて来る夫や、自分の悪事が明るみに出るのを恐れて連れ戻そうとする男もいて、容易に外部の者が立ち入りが出来ぬよう護衛をつけている。
護衛の者たちは交代で夜通し見張りをしているのだが、不審な人物の出入りはそもそも許さないし、姿が消えたという子供が出て行く姿は見ていないのだという。
目撃情報も、芙蓉閣を出入りした不審な人物もいないことを理由に役人たちも子供たちを探す手がかりすら掴めていないのだという。
「じゃあ、消えたガキどもは一体どこに…?」
「それが分からないから私にまで話が回って来たのだろう」
昌平君がゆっくりと目を伏せた。
「表向きは、外出中に子供が失踪したことになっている」
「はあっ?なんで芙蓉閣内で失踪したことを隠してるんだよ」
納得出来ず、信はどういうことだと詰め寄った。
「…そのような事実が明るみに出れば、保護施設としての品性や評判に影響しかねる。それゆえ、芙蓉閣内で子供が失踪したことは、一部の者だけが知っている極秘事項だ」
「今はそんな評判なんかどうでもいいだろ!」
芙蓉閣内で子供が失踪したことを知っているのほんの一握りの女性たちと、それから昌平君の周辺の一部のみだという。
目撃情報を持つ者がいるかもしれないのに、そのような不吉な噂が出回ることで芙蓉閣の評判が落ちるより、今は失踪した子供たちの行方を掴むほうが先決だと信は反論した。失踪した子供の母親が不安で堪らないはずだ。
しかし、昌平君は眉根を寄せて静かに首を振る。
「この情報操作は独断ではない。彼女たちからの頼みだ」
「!」
昌平君の独断ではなく、芙蓉閣の評判を落とさぬように、芙蓉閣にいる女性たちの頼みだと聞かされ、信は言葉を失った。
失踪した子供たちの生死や安否が気になるのは当然だが、それを知るためには少しでも手がかりを探さなくてはならない。
「…誰に何を言われようが、俺は捜しに行くぞ」
酔いが回っているというのに、信が空き教室を出て行こうとしたので、昌平君は彼女の手を掴んだ。
「んだよ、放せって」
「此度の件、私は奴隷商人に目をつけている」
奴隷商人という言葉を聞き、信がはっと目を見開いた。
何か思い当たる節があるのか、視線を左右に泳がせた信はゆっくりと椅子に腰を下ろす。
「……商売が干上がってる奴隷商人どもから、恨みを買ってる自覚はある」
重い口を開き、信は呟くようにそう言った。
芙蓉閣の存在が、行き場を失った女子供から重宝されているのは確かだ。しかし、同時に反対の感情を抱く者もいる。
逃げた妻や侍女を連れ戻そうとする男たちもそうだが、その次は奴隷商人だ。彼らにとって、行き場のない女子供というのは商品同然の存在である。
下僕の使い道は様々だ。農耕、荷役、徴兵、織布、家事という重労働を安い金銭で行わせることが出来るので、下僕自体の身分は低いものだとしても、需要と供給は大きく成り立っている。
女なら見目が優れていれば、娼館で買われることもある。もしも人気の妓女になれば、その売り上げの一部が手に入るので、奴隷商人にしてみれば、いつまでも金が手元に流れて来る仕組みが出来上がるというわけだ。
奴隷商人は当然ながら芙蓉閣に立ち入ることができないため、商売道具がそこにいると分かっていても、指を咥えることしか出来ない。
秦国の大将軍である信に直接文句を言いに来るような奴隷商人はいないのだが、彼らから商売道具を横取りされたと恨まれていることは分かっていた。
彼らも下僕を売り捌くことで生計を立てているのだから、このまま商売が干上がれば、明日をどう生きるかを考えなくてはならない。
どうやら、そのことで昌平君も奴隷商人に目をつけたのだという。
「明日には報告が入るはずだ。今は待て」
既に咸陽周辺の奴隷商人について調査を指示していたらしい。さすが仕事が早い。
「…ただでさえ忙しいのに、悪いな」
本来なら芙蓉閣を立ち上げた自分が受け持つべき話だったかもしれないと信は謝罪した。
しかし、大将軍である信には軍事力以外に人脈がない。
反対に右丞相ともなれば、県尉や県令との関わりがあり、何より顔が利くのだろう。捕吏たちに失踪した子供たちの手がかりを探させるよう指示を出してくれたことに、信は感謝した。
話し過ぎて乾いた喉を酒で潤すと、昌平君は鋭い眼差しを向けた。
「先日、私の部屋で誰かが筆を折ったのも仕事に支障をきたしている。いつの間にか新しい筆が置かれていたが、使い慣れるまで時間が掛かりそうだ」
まさかここで筆の話が出て来るとは思わず、信が顔を引き攣らせる。ずきりと額が痛んだ。
「へ、へえー?新しく替える時機だったんだろ、きっと、は、ははは…」
「………」
無言の眼差しに、信は冷や汗を浮かべた。
聡明な昌平君が気づかないはずがないと分かっていたが、いざ咎められると、罪悪感で胸が締め付けられる。
「あー、もう!悪かったって!わざとじゃねえんだから怒んなよ!新しいやつ置いといたんだから良いだろッ」
白旗を上げながら逆上した信に、昌平君は静かに目を伏せる。
「…お前から初めての贈り物だな」
てっきり叱られるとばかり思っていた信は、予想外の言葉を掛けられたことに目を丸くした。
「…嫌だったか?」
「そんな訳ないだろう」
顔は相変わらず不愛想だが、声色は優しい。どうやら本当に喜んでくれているようだ。
慣れ親しんだ筆と急に別れることになったとはいえ、恋人が初めてくれた贈り物ということもあって、大切に扱ってくれているらしい。
「顔は全然嬉しそうに見えねえけどなあ」
昌平君の前にずいと身を乗り出し、信は彼の口元に手を伸ばした。両手の人差し指で口角を無理やり引き上げて、笑顔を作らせてみる。
「………」
「………」
形だけの笑顔を作らせてみたものの、信は眉根を寄せて何か言葉を探しているようだった。感想に困っているのだろう。
あからさまに狼狽えている信の両手をそっと引き剥がし、昌平君が目を反らす。納得したように信が大きく頷いた。
「やっぱり、お前が笑った顔は、たまに見るくらいがちょうど良いな」
「…褒めているのか?」
ああ、と信が頷く。
「無理に笑ってなくても、綺麗な顔してるから、いつ見ても俺は眼福だぜ?」
まさかそのような言葉を掛けられるとは思わず、今度は昌平君が目を丸める番だった。耳からその言葉が脳に染み渡るまで時間がかかった。
言葉の意味を理解した途端に、昌平君はさり気なく口元に手をやって、溢れそうになる笑みを堪えていた。
「お前という女は…」
「ん?なんか変なこと言ったか?」
信は、良い意味でも悪い意味でも、相手の心に土足で踏み込んで来る。
時々そういうところが他の男の心を刺激しないか心配になるのだが、きっと信は気づいていないだろう。本人も心に踏み込んでいることに自覚がないのだ。
「結果が出たら、すぐに報せを出す」
話を逸らすように、昌平君がそう言うと、信は大きく頷いた。
「そっちは任せた。俺は明日、芙蓉閣の視察に行って、手がかりを探ってみる。…つっても、話を聞くことしか出来ねえだろうけど」
行方不明になった子供たちの母親に会いに行くのだろう。芙蓉閣にいる女性たちや信の気持ちを考えると、引き留める理由などなかった。
まだ陽が昇り始める前だというのに、目を覚ました時には、隣で眠っていた昌平君の姿はもうなくなっていた。
風邪を引かぬように、しっかりと寝具を掛けてくれた形跡だけが残っていたのだが、二度寝をする訳にはいかず、日が昇り始めた頃に信は咸陽宮を発った。
しばらく馬を走らせて、芙蓉閣に到着する。見張りの兵たちは信の姿を見ると、すぐに門を通してくれた。
門を潜り、回廊を進んでいくと中央にある中庭に辿り着いた。
子供たちが楽しそうな笑い声を上げながら、中庭で走り回っている。女性たちも朝から食事の支度や洗濯など忙しそうにしている。
「信様!」
「将軍っ!」
信が来た途端、芙蓉閣にいる女性たちがざわめいた。
頭を下げようとする彼女たちに「構うな」と顔を上げさせると、信は中庭にいる子供たちに目をやった。
最後に信が視察に来たのは先の戦を終えてからであり、すでに三か月は経過している。昌平君の話だと子供たちが失踪したのはここ一月の出来事らしい。
「信様、よくおいでくださいました…」
声を掛けて来たのは燈という女性だった。芙蓉閣を立ち上げてから、一番初めにやって来た女性でもある。
彼女は嫁ぎ先に恵まれず、夫や使用人たちからの暴力に耐え兼ね、身一つで逃げ出したのである。ろくに食事も与えられなかったらしく、咸陽で行き倒れていたところを信が保護したのだ。
今はこの芙蓉閣に住まう者たちのまとめ役を担ってくれており、幼い頃から続けている織り子の仕事もこなしていた。
絹織物の需要はどの国でも高く、織り機を使えれば仕事にありつける。
そのため燈は芙蓉閣にいる女たちに織り機の使い方を教え、絹産業の仕事に就けるよう手助けをしているのだ。
細かいところまで気が付く燈を慕う者たちは多く、信も芙蓉閣のほとんどのことを彼女に一任していた。
昨年、咸陽で名の知れた商人と婚姻をしたこともあり、この芙蓉閣を寝泊まりすることはなくなったが、夫と共に住まう屋敷はこの近くにあるのだという。
燈が何か言いたげにしていることに気付き、信は彼女と共に中庭を出て回廊を進んだ。
回廊の一番奥にある部屋に入ると、燈は暗い表情のまま、重い口を開く。
「信様がここにいらっしゃったということは…」
「ああ、昌平君…右丞相から聞いた」
右丞相に反応したのか、燈ははっとした表情になり、その場に膝をついて頭を下げようとする。
「おい、やめろ!お前、身重だろっ?」
慌てて燈の腕を掴んで立ち上がらせると、彼女の円らな瞳には涙が浮かんでいた。
今は新しい夫との命をその胎に宿しているというのに、彼女は芙蓉閣を任されている責任を強く感じているのだろう。
「居なくなったガキは?」
「…十人です。男児が六人、女児が四人。最後に消えたのは、宸。一週間前の昼のうちから姿が見えなくなりました」
「宸もか?」
子供が失踪していることは事前に昌平君から知らされていたので驚かなかったが、まさか十人もいたとは。そして宸もそのうちの一人だったことに、信は驚愕した。
宸は戦で親を失った孤児だ。橋の下で物乞いをしているところを、通りがかった昌平君直属の近衛兵である黒騎兵が保護してくれたのだ。
やんちゃな男児で、まだ十になったばかりだというのに、芙蓉閣にいる子供たちの面倒を見てくれて、兄のように慕われている子である。
何かと気が短く、喧嘩早いのは難点であったが、素直でいい子だ。それゆえ、女たちも宸を我が子のように可愛がっていた。
―――貴族の奴らがうるさいから、噛みついてやったら、泣き喚いて逃げてったんだ!
城下町で戦争孤児だとバカにして来た貴族の子供と大喧嘩をして、思い切り噛みついて泣かせてやったのだと誇らしげに勝利報告をしていた彼を、大笑いしながら褒めてやったことはよく覚えている。心根の強い男児だった。
時折この芙蓉閣に訪れる信の姿に影響されたのか、大きくなったら飛信軍に入るのだと夢を語っていた彼の姿は鮮明に信の記憶に残っている。
名前の音が同じであるせいか、妙に親しみがあって、信も年の離れた弟のように可愛がっていた。
「外部から誰かが出入りしてたワケでもないんだろ?なんで消えちまったんだ?」
信が問い掛けると、燈が神妙な面持ちで口を開いた。
「…昼間、他の子供たちと遊んでいるのは見ていたのですが、気づいたらそれっきり…」
「まさか、全員がそうなのか?」
燈が頷いた。
他にも失踪した子供たちが中庭で遊んでいた姿を目撃した者は多くいる。
しかし、気づいた時には姿を消していて、芙蓉閣の中にいるとばかり思っていたのだが、夕食の時間になっても戻って来なかった。
一緒に遊んでいた子供たちも、どこへ行ってしまったのか見ていないのだという。失踪した子供たちに関する情報が少ないと言っていたのは、このことだったのか。
「肖杰先生のところに行ったのかと思って、お訪ねしたのですが、先生も姿を見ていないと…」
「ああ、あの街医者か」
肖杰というのは咸陽の城下町に診療所を構える街医者である。元は後宮に務めていた宦官だ。
今は雍城へ幽閉されている太后が後宮権力を意のままに操っていた頃、彼は失態を犯したらしく、それが原因で後宮を追放になったという。
自分の利になることには目ざとく、山の天気のように機嫌が変わる太后の気に触れてしまったのだろう。さすがに同情するしかなかった。
どんな失態を犯したかは知らないが、肖杰の医者としての腕は確かだ。多くの民が頼りにするほど優秀な男だと聞く。
貧しい民がいても金銭を要求することなく無償で診察や治療を行っており、大勢から慕われているらしい。
彼の優しい心根や宦官であることを理由に、信は女たちからの頼みもあって、肖杰の芙蓉閣への立ち入りを特別に許可をしていた。
許可を出しながらも、信は肖杰に会ったことは一度もない。戦で傷を受けた時は救護班か医師団の治療を受けるので、将軍である彼女は街医者とは縁がないのだ。
「時々、子供たちに先生の診療所へ常備薬を受け取るお使いを頼んでいたんです。でも、その日は先生のところにお使いを頼んだ者もいなくて…」
「そうか…母親たちも心配してるだろ」
燈が「それが」と言葉を濁らせたので、信は続きを促した。
「消えた十人は、母が居ない子たちなんです」
言われてみれば、宸も他の失踪した子供も、戦争孤児として行き場を失っていたところを保護された子たちだ。
全員が共通して、この芙蓉閣に母親がいない。
攫われたのだとしたら、その共通点は意図的なものなのか、ただの偶然なのだろうか。
今、
この芙蓉閣にいる女子供は合わせて五十人程度だ。子供はそのうちの半分にも満たなかったのだが、それだけの人数がいる芙蓉閣で目撃証言がないのは、やはり気になる。
「昌平君…右丞相も、この件については気にかけてくれてる」
大王の傍に仕えている高官が関わっていると知り、燈は驚愕の表情を浮かべた。安心させるように信が微笑むが、彼女の表情は暗いままだった。
失踪した子供たちの足取りさえ分かっていないことから、今後も手がかりが見つかるか不安なのだろう。
昌平君が奴隷商人の調査をしていることを伝えようかとも考えたのだが、あれは極秘事項だ。安易に洩らす訳にはいかなかった。
「信将軍」
扉の外から見張りの兵に声を掛けられて、信は振り返った。
「どうした」
返事をすると、すぐに扉が開けられる。
兵の後ろに見覚えのあり過ぎる顔の男が立っていて、信はぎょっと目を見開いた。昌平君だった。
「な、なんで昌平君が、ここに?」
「調査の報告だ」
報告と言われ、信は昨夜の奴隷商人の件だとすぐに気づいた。
目配せをすると、昌平君を案内してくれた兵も燈も速やかに退室していく。
後ろで扉が閉められたのを確認してから、昌平君が僅かに眉根を寄せた。その表情を見て、どうやらあまり好ましい結果は得られなかったのだと気づいた。
「…逃げられたのか?」
いや、と昌平君が否定する。
「他国の奴隷商人の仕業かもしれぬ。可能性としては、咸陽に近い楚か韓だ」
秦と国境を隔てて隣接している二国の名前が出たことに、信は胸に鉛が流し込まれたような感覚に襲われた。
言葉には出さないが、追跡は困難かもしれないと、昌平君は伝えたかったのだろう。
「…すまぬ」
昌平君の謝罪に、信は弾かれたように顔を上げた。
「な、なんでお前が謝るんだよっ!本来なら、ここを立ち上げた俺がやらなきゃいけねえことなのに…」
「………」
何か言いたげに昌平君が唇を戦慄かせたが、信は遮るようにして彼の肩を掴んだ。
「その、大丈夫だ。俺の方でも探ってみる。十人も居なくなってんだ。きっと何人かは消えた奴らを見てたはずだろ」
「ああ。捕吏たちには、引き続き手がかりを探すよう指示を出している」
どうやら昌平君は信がそう答えるのを分かっていたかのように、既に手を回していたらしい。
「ありがとな」
「………」
昌平君の眉間に寄った皺は消える気配がなかった。
「お前…笑わなくても良いけどよ、そんな顔続けてたら、皺が消えなくなるぞ?」
彼の眉間に、信が人差し指を押し当てる。ぐりぐりと皺を引き延ばすように指の腹で揉んでやると、昌平君がやめろと信の手首を掴んだ。
部屋を出て回廊を歩いていると、昌平君が興味深そうに中庭や建物を見渡している。そういえば彼が芙蓉閣に訪れるのは、今日が初めてだと信は気づいた。
「…立派な民居だな」
褒めるように声を掛けられ、信は口元に薄く笑みを浮かべながら振り返る。
「元々は王騎将軍と摎将軍がこっちに移り住む予定だったんだ。…まあ、その予定は無くなっちまったんだけどよ」
今は亡き将軍たちの名前が出たことに、昌平君は些か呆気にとられる。
王騎と摎といえば六大将軍であり、下僕である信を養子として引き取った夫婦だ。趙の龐煖によって討たれてしまったのだが、それがなければ、ここは保護施設ではなく二人が住む民居になっていたらしい。
「…そのあと、王翦将軍が買い手になってくれようとしてたんだが、俺がワガママ言って譲ってもらったんだよ」
「……」
本来は養子である信に受け渡るものだと思ったが、王一族の本家である王翦の方が立場としては強いのだろう。それでも信の想いを考慮して、王翦は彼女に民居を譲ったのだ。
回廊を通って中庭に下りると、至る所に花が植えられていることに気が付いた。ここに住まう女たちが熱心に世話をしているのか、綺麗に咲いている。
「…それで芙蓉閣か」
白や桃色の花を眺めながら昌平君が腑に落ちたように呟いた。
芙蓉とは、この中庭に咲いている花の名だ。
馬陽の戦いで没した王騎は、男にしては珍しく花を愛でる趣味があった。
王騎がまだ生きていた頃、信に軍略を学ばせてやってほしいと頼まれたことがある。その時、昌平君は王騎と信が住まう屋敷に訪れたのだが、その屋敷にもこの花が咲いていた。王騎が好んでいた花の名前を名付けたのだろう。
「父さんは、いつも風呂に花を浮かべてたからなあ」
「………」
昔を懐かしむように笑った信に、昌平君は瞬きを繰り返した。
花を愛でる趣味は知っていたが、まさか風呂でも花を愛でていたというのか。
咲いている花を眺めながら、信が花の風呂について色々と教えてくれた。王騎軍の兵たちも厳しい鍛錬を乗り越えて良い体格をしているが、彼らもその風呂に入るのだという何とも信じられない光景があったようだ。
確かに王騎からは花の香りがするとは思っていたが、まさかそんな方法で花の香りを纏っていたとは初耳だった。
「…!」
隣にいる信から、時々花の良い香りが漂って来ることを思い出し、昌平君ははっとなる。
「?なんだよ」
「いや、何でもない」
平静を装いながら返答したが、昌平君の頭は激しく動揺していた。彼女も王騎と同じように、花を浮かべた浴槽に浸かっているのだと分かったからだ。
そういえば今までも花の香りがするとは思っていたが、女物の香を焚いているのだとばかり思っていた。
互いに肌を重ねたことは何度かあったが、彼女が入浴する姿はまだ見たことがない。
愛しい者の姿、ましてや一糸纏わぬ姿なら、何度見たって飽きないし、むしろ芸術品のように隅々まで眺めたいものである。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
昌平君は煩悩を振り払うために自らの太腿を思い切り殴りつけた。鈍い音がして、信が驚いて振り返る。
「な、何してんだ?」
「気にするな。虫を追い払っただけだ」
「?」
追い払うというより確実に殺しにいった動きに、信は頭に疑問符を浮かべる。
しかし、門の向こうで馬の嘶きが聞こえたことで、彼女の意識がそちらに向けられた。
「執務を抜け出して来たんだろ?悪かったな」
「これも執務の一環だ。また何か情報が入り次第、伝える」
「わざわざお前が直接言いに来なくなって、使いを出せばいいいだろ」
「………」
執務を理由に会いに来たのだと、素直に言えなかった。
この反応を見る限り、信は自分が会いに来たことを喜んでいるようには見えない。
今の彼女の頭は、失踪した子供たちに対しての心配でいっぱいになっている。それは昌平君も分かっていた。
しかし、彼女が一人で今回の件を気負い過ぎていないか、無茶な行動をしないか、心配でならなかった。余計な気遣いだと笑われるかもしれないことも十分に理解している。
(そろそろ戻らねば)
あまり馬車の騎手を待たせる訳にはいかない。他の執務も溜まっているし、そろそろ咸陽宮に戻らなくてはならないかと昌平君が考えていると、背後から何者かがこちらに駆け寄って来る音が聞こえた。
「信さまッ!」
「うおぉッ!?」
振り返ると、髪を二つ結びにしている少女が信の背中に抱き着いていた。信の腰元に頭が来るくらいの幼い少女だった。
「涵か。元気だったか?」
振り返った信が少女の頭を撫でてやりながら、信が笑顔で声を掛ける。少女の名前は涵というらしい。
後で信から聞いた話だが、奉公先の主人によって性暴力を受けた女性がこの芙蓉閣に逃げ込み、出生したのがこの少女なのだそうだ。
涵はその円らな瞳にうっすらと涙を浮かべながら、俯いた。
「宸のお兄ちゃんがね…迷子かもしれないの」
信は慰めるように、涵の頭を撫でてやった。
「お前は、妹みたいに可愛がられてたもんな」
最後に失踪したと言われている宸自身もまだ子供だったが、この芙蓉閣で過ごす子供たちからは兄のように慕われていた。
失踪した子供たちのことは、この芙蓉閣の中でも一部の者しか知らない。しかし、子供は好奇心旺盛のせいか、変化に気づきやすい生き物だ。
きっとここで過ごす子供たちには伝わっていないだろうが、それでも毎日顔を合わせていた兄妹のような存在たちが居なくなったことには気付いているだろう。
芙蓉閣で生まれた涵からしてみれば、この芙蓉閣に住まう者たちは家族同然の存在である。心配で堪らないのだろう。
「…宸も他の奴らも、きっと帰って来るから、お前はちゃんといい子で待ってろ」
信の言葉に、涵は不安げな瞳のまま頷いた。
「お兄ちゃん…先生のところに、おやつをもらいに行ったのかなあ?」
先生とは街医者の肖杰のことだろう。
「おやつ?」
信が小首を傾げると、涵が「そう」とぎこちない笑みを浮かべた。
「先生、お薬だけじゃなくて、おやつも作れるの。薪割りのお仕事とか色んな手伝ったら、内緒でおやつくれるの。お兄ちゃん、時々みんなのおやつをもらいに行ってたから」
その情報は知らなかった。燈の口からも聞かなかったし、もしかしたら子供たちだけの秘密事なのかもしれない。
(肖杰のとこに行ってみるか…)
おつかい以外で、子供たちが診療所に行っていたのなら、肖杰が失踪した子供たちの情報について何か手がかりを持っているかもしれない。
「そうだ!」
思い出したように涵が顔を上げた。
「あのね?これ、信さまに作ったの。今度会えたら渡そうと思って」
着物の袖から何かを取り出すと、それを信に差し出した。正絹で出来た青い紐だった。
「もしかして、涵が作ったのか?すげえな!」
受け取った絹紐をまじまじと見つめて、信が目を輝かせる。涵が嬉しそうに笑っていた。
信の方が確実に年上だというのに、その反応だけ見ればどちらが子どもか分からない。彼女が子供たちに懐かれる理由もそこにあるのだろう。
いつまでも変わらない信の無邪気さに、昌平君は思わず口元を緩ませていた。
「こんなのを作れるようになるなんて、涵もでっかくなったんだなあ」
赤ん坊の頃から涵の成長を見て来た信はしみじみと呟いた。
正絹を紐にするには手先が器用じゃないと難しい。しかし、涵が作ったというそれは品物として売っていても何ら不思議でないほど、上質に編み込まれていた。
織り子として女たちに仕事を教えている燈から作り方を教わったのだという。
「この青色も綺麗だな~」
絹紐を上に持ち上げて、陽射しに透かしながら信がうっとりと目を細める。
「…草木染か」
「草木染?」
深みのある青色を見て、昌平君が呟いた。聞き馴染みのない言葉に信が小首を傾げる。
「植物の茎や樹皮を染料として利用する方法だ」
へえ、と信が興味深そうに頷く。涵の話によれば、その方法も燈から教わったのだという。
「こんな綺麗な紐、本当に俺がもらっていいのか?売り物にした方が良い値がつくだろ。それで美味いモン食った方が良いんじゃねえか?」
少女からの贈り物だというのに、何とも思いやりのない言葉だと昌平君は苦笑した。
世辞も嘘も言えない素直さが信の魅力だと分かっていながらも、本当に鈍い性格である。
「いいの、あげる!」
信が美しい絹紐を返そうとするが、涵は決して受け取ろうとしない。どちらの言い分も分かる。
「宸のお兄ちゃんにも、お守りで同じのあげたの。だからあげる」
「でもよぉ…」
このままでは埒が明かないと判断した昌平君は、信の手から青い絹紐を奪い取り、少女を見下ろした。
「ならば私が買おう」
「えっ?」
二人が同時に昌平君を見上げる。
その場に膝をついて少女と目線を合わせた昌平君は、懐からあるだけの所持金を取り出して、小さな両手に握らせた。
見たことのない大金を、文字通り手にした涵が瞬きを繰り返している。
「で、でも…信さまにあげようと思って…」
おろおろと戸惑う涵に、昌平君は信に視線を向けてから、穏やかな顔を向けた。
「ちょうどこの者に贈り物を考えていたところだった。素敵な品を作ってくれたこと、礼を言う」
信の手元に絹紐が渡ると分かっても、こんな大金を受け取って良いのかと、涵は困惑した眼差しを昌平君と信へ交互に向ける。
「買ってもらえって!大将軍だけじゃなくて、右丞相様も気に入ってくれたんだって、どこに行っても自慢出来るぞ!」
まるで自分のことのように、信が満面の笑みを浮かべて涵の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
信に背中を押してもらったことによって、涵も嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「ありがとう!おじさん!」
感謝の言葉と共に投げられた「おじさん」という言葉に、信が盛大に噴き出した。
受け取った大金をしっかりと両手に抱えて、涵は母親の元へと戻っていった。
「ふはっ、くく…おじさん…!おじさんだとよッ…!」
彼女の後ろ姿を見送りながら、信は腹を抱えて大笑いをしている。
笑い過ぎだと鋭い眼差しを向けると、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら「悪い悪い」と少しも心の籠っていない謝罪をされた。
年端もいかぬ少女からしてみれば、昌平君の年齢の男はみんな「おじさん」に分類されるものである。
もちろん昌平君自身もそれは自覚していたのだが、信が大笑いしていることには納得がいかなかった。
「昌文君のオッサンなら分かるけどよ、…ぷッ、くく…そっか、お前も涵からしてみたら、オッサンかあ」
「…後ろを向け」
わざとらしく溜息を吐いた昌平君がそろそろ本気で怒りそうだと気づき、信は大人しく従うことにした。
後ろで一つに結んでいた髪紐が急に解かれる。
「ん?何してんだよ」
「そのまま動くな」
素直に従い、信は昌平君に背中を向けたままでいた。
解かれたと思っていた髪が、再び一つに括られていくのが分かった。
「…思わぬところで筆の礼を返せたな」
先ほど涵から買い取った青い絹紐で、信の髪を結び終えた昌平君が満足そうに呟いた。
いつもは適当な紐で括っていただけだった黒髪が青い紐で結ばれただけだというのに、上品な印象に見える。
「あ、ありがとな…」
まさか髪紐として利用するつもりだったとは信も想像していなかったらしく、彼女は恥ずかしそうに目を泳がせた。
「これからどうするつもりだ」
昌平君にいきなり今後のことを尋ねられ、信は切り替えた。
「…街医者の肖杰のとこに話を聞こうと思う」
「そこに子供たちが行ったのか?」
「燈の話だと、肖杰のとこに常備薬を取りに行くよう頼むことがあったらしい。ガキ共が消えた日には頼んでなかったみたいだが…あの街医者はよくガキどもに菓子を渡してたらしいからな。大人が知らない間に、ガキどもがそれ目当てに診療所に行っていたかもしれねえ」
「………」
昌平君は口元に手を当てて何かを考えていた。
「もしかしたら、その行き帰りで奴隷商人に目をつけられたかもしれねえし…とにかく、何でもいいから手がかりが欲しい」
彼女の言葉に、昌平君は何か言いたげに唇を戦慄かせた。しかし、言葉にはせず、昌平君は真っ直ぐに信の目を見つめる。
「…気をつけて行け。何か手がかりを掴んでも、一度引き返せ。独断での行動は控えろ」
端的に用件を伝えると、信は肩を竦めるようにして笑った。
信は感情的になりやすく、怒りに自分を制御することが出来なくなることがある。もちろんそれは将としての弱点だと、彼女自身も理解していた。
今回の件も子供たちの手掛かりを掴めば、周りに相談する前に自分で解決しようと突っ走るかもしれない。
彼女一人だけで解決できる問題ならば良いが、今回の件に関しては情報が少なく、相手が複数犯なのかさえ分からない。
子供たちの安否が気になるのはもちろんだし、本当に奴隷商人の仕業ならば、彼女が簡単にやられるとは思わない。
しかし、恋人として、昌平君は彼女を危険な目には遭わせたくなかった。彼女が幾度も死地を乗り超えた強さを持っていたとしてもだ。
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