COP15、生物多様性の回復目指す歴史的な目標を採択
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蒙恬から逃げるように露台から離れた信は、苦虫を噛み潰したような表情で宴が行われている間へと戻った。
中身の入っている酒瓶は握ったままだったが、飲み直す気にはなれない。
今でも蒙恬があの約束を守っている理由が、信には分からなかった。
蒙恬とあの約束を交わしたのはまだ彼が子どもの頃で、自然に消滅してしまう口約束だと言っても良い。
あの場を切り抜けるために、蒙恬に合わせて約束を交わしただけであり、信は少しも本気にしていなかった。
それが、約束通りに軍師学校を首席で卒業し、ご丁寧にその報せも送って来て、あっという間に将軍の座に上り詰めた。その実力は本物で、蒙恬の将軍としての才は誰もが認めるものである。
約束がなかったとしても、きっと蒙恬は聡明な秦将として中華全土に名を轟かせていたに違いない。
「………」
先ほどの蒙恬とのやり取りを思い出し、信は唇を噛み締める。
どうして未だに自分に執着するのだろうか。蒙家という名家に生まれただけで、嫁にする女など選び放題だというのに、未だに約束に縛られていることが不思議でならない。
酒を飲み交わしている者たちが心から宴を楽しんでいる姿を見て、暗い表情を浮かべているのは自分だけだと気づき、このまま抜けてしまおうかと考える。
此度の戦には飛信軍は参加しなかったので、副官や兵たちは宴には来ていない。
再び廊下に出たところで、総司令官である昌平君の姿を見つけ、信は駆け出した。
「昌平君!」
早々に宴を抜けようとしていたのだろう。彼があまり賑やかな席を得意としないことは信も知っていた。
名前を呼ばれた昌平君が静かに振り返る。
「呼び止めて悪いな」
「何か用か」
宴の席であっても少しも楽しそうじゃない昌平君に、信は苦笑する。
一度くらい酒に酔わせて、普段の彼からは想像も出来ない姿を見てみたいと思うのだが、今はそんなことはどうでもいい。
首席で軍師学校にいた蒙恬の指導者として傍で見ていた昌平君ならば、蒙恬が自分以外の女性に興味を抱いていたかを知っているかもしれない。
蒙家の嫡男である彼には大いに交友関係がある。その中から多くの嫁候補だってあったはずだ。
自分との約束に縛られている蒙恬だが、一人や二人くらいは気に入っている女性に出会っているに違いないと信は考えた。
「えっと…蒙恬のことなんだけどよ」
「?」
戦での武功が認められ、将軍昇格となった蒙恬の話題が出たことに、昌平君は瞬きを繰り返していた。
「…軍師学校にいる時のあいつって、どんな様子だった?」
目を泳がせながら、信が問い掛ける。
「漠然とした問いだな。何が知りたいのか言ってみろ」
遠回しに尋ねようとする意図を見抜かれたらしい。昌平君に真意を探られて、信は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。
「…女との付き合い、とか…」
「………」
これでもまだ遠回しに答えた方だっだ。しかし、信の表情から昌平君は真意を察したらしい。
「多くの縁談があり、色んな女を相手にしていたらしい」
「そ、そうか!そうだよな!」
その話を聞いて、信の暗い表情に光が差し込んだ。
「じゃあ、その中で一人くらい結婚相手が…」
蒙恬が縁談を断っているのは、彼の教育係であり、楽華隊の老将の胡漸から聞いていた。
しかし、胡漸が知らないだけで、もしかしたら蒙恬には一人か二人くらいは気に入った女性がいるかもしれない。希望の光を追い求め、信は昌平君の言葉に耳を傾ける。
「…お前との約束を守るために、最終的には全て断っていたようだ」
約束。またその言葉が出て来て、信は頭痛を覚えた。
昌平君まで知っているということは、蒙恬は幼い頃のその約束をあちこちで言いふらしているのかもしれない。完全に外堀を埋められた気持ちになり、信は愕然とした。
こめかみに手をやりながら柱に凭れ掛かった信に、昌平君が眉根を寄せる。
「なんで、あいつ…いつまでもそんなことを…」
少しも蒙恬の考えが解せないと信が唸り声を上げたので、昌平君は彼女の考えを何となく察したのだった。
蒙恬が信に好意を寄せているのを知っているのは、信の予想通り、当事者の二人だけでない。
彼が軍師学校にいる間、信との約束のために主席を目指しているのだと話していたこともあって昌平君は、蒙恬が信に好意を寄せていることを知っていた。
楽華隊の隊長として戦に出るようになってから、蒙恬は信と共に行動している飛信軍の男にあからさまな敵意を向けていた。
河了貂と蒙毅の話だと、飛信軍が楽華隊と共に同じ持ち場を任された時は、蒙恬の嫉妬が凄かったらしい。
もちろん立場は弁えていたというが、その嫉妬の眼差しだけで人を殺してしまいそうなほど、恐ろしい双眸だったと噂で聞いていた。
そのせいか、秦軍の大半は、蒙恬が信に好意を寄せていることを知っている。
昌平君としては、ここまであからさまに好意を向けられているのに、彼に心を開かない信の方が不思議だった。
しかし、一歩引いてみれば元下僕と名家の嫡男。信は王騎と摎の養子として、名家である王家の分家へ迎え入れられたが、戦で両親を失った今の信には、下僕時代と同様に後ろ盾がない。
恐らく、信が気にしているのはそこだろうと昌平君は考えていた。
「…蒙恬の将軍昇格のことは聞いたのか?」
「え?あ、ああ」
その反応に何かを察したのか、昌平君が腕を組み、呆れ顔になる。
「祝いの言葉の一つもかけなかったのか」
「う…」
信の顔色が曇る。どうやら図星のようだ。
わざとらしく溜息を吐いてから、昌平君は言葉を続けた。
「約束を抜きにしても、蒙恬の努力は認めてやっても良いのではないか。戦で飛信軍が立ち回りやすいよう、軍略を企てたのも蒙恬だろう」
「………」
諭すように言われ、信は確かにその通りだと口を噤んだ。
楽華隊が飛信軍の下についた時は、蒙恬は楽華隊隊長として飛信軍の強さを発揮できるように軍略を授けてくれた。
軍師学校を首席で卒業するほど聡明な彼の軍略には確かに幾度も助けられた。
敵の伏兵がありそうな場所を事前に通達してくれて、飛信軍が敵軍に壊滅させられる危機を回避したのだって蒙恬のおかげだ。
いつも優れた軍略で戦況を傾けてくれたことに感謝はしていたが、昇格の度に信は蒙恬へ祝いの言葉を掛けなくなっていた。
あっと言う間に千人将になった時には、あの幼かった蒙恬がこんなにも活躍するとはと、自分のことのように喜んでいたのに。
昇格する度に蒙恬に約束の話を振られるものだから、信は危機感を抱いていたのだ。
それは自分のためでなく、蒙恬に関してだ。
自分が名家の嫡男につり合う立場でないことは信も分かっている。そんな女を名家に迎えることになれば、確実に家臣たちから不満を抱かれるだろう。
蒙家の安泰のためには相応しい女を迎えた方が良いと何度も蒙恬に言っているのに、蒙恬は少しも信の話を聞こうとしないのだ。
元下僕である自分が王騎と摎の養子として選ばれた時も、家臣たちから大いに反対されたのは知っている。
生まれた時から恵まれている者とは待遇が違うのは、この中華では当然のことだ。
信が蒙恬からの求婚を拒絶しているのは、他の誰でもない蒙恬のためでもあった。
(でも…おめでとうの一言くらいは、確かに言ってやらねえとな)
昌平君に諭されたように、蒙恬の将軍昇格は約束を抜きにしても彼の努力が成した成果だ。ちゃんと祝ってやらなくては。
「蒙恬のとこ、行って来る」
昌平君が静かに頷いたのを見て、まだ蒙恬がいることを願いながら、信は先ほどの露台へと戻るのだった。
足早に信が去った後、蒙恬は露台で城下町を見下ろしながら長い溜息を吐いた。
酔いが回っている体に夜風が心地よい。しかし、酒で火照った体とは正反対に心は冷え切っていた。
「将軍昇格だというのに、浮かない顔をしているな」
信の言葉を思い返し、溜息を吐いていると、背後から聞き覚えのある声を掛けられた。
「大王様っ!」
秦王である嬴政だ。蒙恬はすぐにその場に膝をついたが、嬴政はそれを止めて顔を上げるように言う。
宮廷の中とはいえ、嬴政は護衛もつけずに歩いていた。
嬴政が守られるばかりの弱い存在でないことを蒙恬は知っているが、いつ何人が狙っているかも分からないのだから警戒は怠らない方が良い。
「ここは見晴らしが良いだろう」
「ええ、そうですね…」
蒙恬の心配をよそに、嬴政は風を浴びて気持ち良さそうに城下町を見下ろしていた。
「…成蟜から政権を取り戻した時も、信とここで過ごしていた。…もう、随分と昔のことだがな」
昔を懐かしむように、嬴政が思い出話を始めた。
二人が成蟜から政権を取り戻す時からの長い付き合いであるのは、秦国では有名な話である。
まさかこの露台で二人きりで過ごしていた思い出があったとは知らなかった。蒙恬の胸に嫉妬と不安の感情が浮かび上がる。
秦王という立場である嬴政は、子孫を繁栄のために後宮にごまんを女性を抱えている。
真面目な性格ゆえ、いたずらに女性たちをたぶらかすことはしないが、だからこそ嬴政に選ばれる女性は羨望の眼差しを向けられていた。
向という女性を正室に迎えた話は聞いていたが、正室の他にも選ばれる女性はいる。
そして、蒙恬はそれが信になるのではないかという不安に苛まれていた。
大将軍の座が簡単に空くことはないと分かっていたが、もしも信が嬴政の子を孕むことがあればすぐにその席は空くことになるだろう。
いや、もしかしたら子を孕む前に後宮に入れられて側室になることを命じられるかもしれない。
(もし、信を後宮に連れて行かれたら…二度と会えない…)
後宮にいる女性は誰もが嬴政の寵愛を受ける権利を持っている。
選ばれるのはほんの一握りであるが、後宮にいる限りは他の男との接触を禁じられる。
秦王以外の男と間違いを起こさぬよう、身籠った子が秦王の子だと僭称する者が現れないよう、男性としての生殖機能を持たない宦官だけが出入りを許されているのはそのためだ。
いかなる理由であっても、宦官と皇族以外の男が後宮に立ち入ることは叶わないし、女性の方も理由がなければ後宮を出ることも叶わない。
このことから後宮制度というものは、秦王から寵愛を受けた女性を逃がさないための檻とも言える。
嬴政が信を一人の女として見ているとしても何らおかしいことではない。それだけ二人が共に過ごした時間は長く、深い信頼関係で結ばれているのだ。
後宮にいる女性たちは嬴政の寵愛を受けようと、いつも敵対心を燃やしているという。そんな彼女たちであっても、信が嬴政の寵愛を受けるとなれば納得せざるを得ないだろう。
嬴政に求婚をされたらと思うと、蒙恬は耐え難い不安に襲われた。
他の誰でもない秦王の命令だ。さすがの信でも断ることは出来ないだろう。
「あの…大王様」
恐る恐る蒙恬は声を掛けた。顔色の優れない彼を見て、嬴政がぎょっと目を見開く。
「どうした。何かあったのか」
意を決したように蒙恬は嬴政の瞳を真っ直ぐに見据えた。睨み付けたと言っても良い。
「今後も秦国のため、大王様のために尽力致します。それで、一つだけお願いしたいことが…」
「なんだ?言ってみろ」
嬴政は続きの発言を許可した。すぐに蒙恬はその場に跪き、深々と嬴政に頭を下げ出す。
まさか玉座の間でもないのに、こんなところでそのような態度を取られるとは思わず、嬴政は瞠目した。
論功行賞の場で褒美は伝えたはずだが、名家の生まれである彼は金も土地も興味がないのだろう。だとすれば、別に欲しい褒美があるのだろうか。
三百人将からあっと言う間に将軍の座に上り詰めた蒙恬の活躍は凄まじい。
その聡明な知能で、これからも秦のために尽力してくれるという期待をしていたこともあり、可能な褒美なら何でも取らせようと嬴政は考えた。
しかし、蒙恬が欲する褒美は、嬴政の予想を上回るものだった。
「―――信を、どうか信を、後宮に入れないでください!」
「…は?」
予想もしていなかったことを懇願され、嬴政の頭は一瞬だけ真っ白に塗り潰された。瞬きを繰り返しながら、嬴政は今の蒙恬の発言を何とか理解しようと思考を巡らせる。
「どうか、お聞き届け願いたく…!」
額を擦り付ける勢いで蒙恬が懇願するものだから、嬴政は狼狽えた。
すぐに返事をされないことから、蒙恬はやはり嬴政が信を後宮へ連れて行こうとしているに違いないと錯覚する。
「蒙恬ッ!!」
急に怒鳴り声が響いたかと思うと、その場にいなかったはずの信が顔を真っ赤にして駆け出して来た。
どうして先ほど去っていったはずの彼女が戻って来たのだと内心驚いたが、蒙恬は顔を上げず、嬴政に頭を下げたままでいる。
「とっとと立てっ!なに政に訳わかんねえこと言ってんだよ!」
信は蒙恬の腕を掴むと、その体を無理やり立ち上がらせた。どうやら今の話を聞いていたらしい。
しかし、蒙恬は信の方を見向きもせずに、再び跪こうとしている。信がそれを阻止しながら何をしているのだと再び怒鳴りつけていた。
「…悪いが、少しも話が見えない。蒙恬は何を言っているのだ?」
もっともな疑問を嬴政が口にすると、蒙恬は俯きながら口を開いた。
「信が、後宮に行ったら、俺は彼女と二度と会えなくなります…」
今の発言は処刑に値するものだと、蒙恬も自覚していた。
もしも嬴政が信を後宮へ連れていくのが本当だったとすれば、自分は秦王の女を奪おうとしている不届き者となる。蒙恬は処刑を覚悟の上で懇願したのだ。
しかし、自分が知らない場所で二人が本当に想いを寄せ合っていたのなら、そんな姿は見たくない。
愛しい女が他の男に抱かれ喜ぶ姿など耐えられないし、心から祝福なんて出来るはずがなかった。
腕を組んだ嬴政が呆れたように肩を竦めて溜息を吐いたので、次に口から発せられる言葉に、蒙恬の心臓は激しく脈を打っていた。
「……なぜ信を後宮に連れていく必要がある?」
「へっ?」
間の抜けた声を上げ、今度は蒙恬が瞬きを繰り返す番だった。
先ほどから蒙恬の腕を掴んでいる信が顔を真っ赤にして、ぶるぶると震えているのを見て、嬴政が納得したように頷いた。
「安心しろ。お前が心配しているようなことは絶対にない。秦王の名の下、ここに断言しよう」
「え…」
穏やかな笑みを口元に携えながら嬴政がそう言ったので、蒙恬は呆気にとられた。
急に目つきが切り替わり、鬼のような形相を浮かべた嬴政が信の耳を思い切り引っ張る。
「いでででッ!政!何しやがる!」
「逃げてばかりでここまで拗らせたお前が悪いんだろう」
耳から手を放した嬴政がそう言ったので、信はばつが悪そうに目を反らした。
「ちゃんと二人で納得するまで話し合え。もしも次に会った時に改善されていないのならば、二人とも伍長に降格させるぞ」
「はあッ!?お前卑怯だぞッ!」
自分が仕えている王に卑怯という言葉を投げかけるのは信だけだろう。しかし、彼女のそのような無礼は昔からであり、嬴政は少しも気にしていないようだった。
颯爽と行ってしまった嬴政の背中を見つめながら、信は何か言いたげに唇を戦慄かせていたが、それは声にはならなかった。
「………」
気まずい沈黙が二人を包み込む。先にその沈黙を破ったのは信の方だった。
「…お前、政に何変なこと言ってんだよ。俺は大将軍だぞ?後宮なんて場所、無縁に決まってるだろ」
呆れ顔で信が声を掛けると、蒙恬は下唇を噛み締めた。
「本当に、大王様と本当に何もないのか?一度くらい、伽に呼ばれたり、とか…」
「する訳ねえだろッ」
顔を真っ赤にした信が怒鳴るように否定をしたので、どうやら本当のようだと蒙恬は安堵した。むしろ拍子抜けしてしまった。
自分が知らないだけで、嬴政と信がそういう仲であったらどうしようという心配は杞憂で終わったらしい。
「…信、俺のこと、もっと嫌いになった?」
嬴政に後宮に連れて行かないでくれと懇願したのは確かに早とちりだったかもしれないが、ますます信に悪い印象を与えてしまった気がして、蒙恬は叱られた子どものように縮こまった。
「嫌いになったなんて、今まで一度も言ってねえだろ」
目を反らしながらではあるが、信が即答する。呆気にとられた蒙恬は何度か瞬きを繰り返した。
「じゃあ、俺のために戻って来てくれたの?」
信は何も答えずに、露台から城下町を見下ろしている。
「…昔、城下町で奴隷商人に攫われただろ」
「え?信が助けてくれた、あの時のこと…?」
ああ、と信が頷く。彼女の視線は明かりの灯る城下町に向けられていた。
祝宴で賑わっているのは宮中だけでなく、城下町もだ。民たちが楽しそうに話している声が聞こえる。
「…あの時、捕らえたのは違法の奴隷商人だった。育ちも顔も良い貴族の娘や息子たちを攫って、娼館や後宮に売り払ったり、悪趣味な成金男に売り捌いてたんだよ」
あの時の二人組は信と蒙恬の活躍によって捕らえられ、後に処刑されたと聞いていた。
しかし、今になって、どうしてそのような話をするのだろう。蒙恬は黙って彼女の話に耳を傾けていた。
「お前、自分がいくらで売られそうになったか知ってるか?」
ようやく蒙恬の方を振り返った信は、口元には笑みを浮かべていたが、瞳には悲しい色が宿っていた。
「さあ…奴隷商人が処刑されたのはじィが教えてくれたけど、そこまでは知らないな」
素直にそう答えると、信は「だろうな」と口元の笑みを深めた。
「…俺は他の奴隷と同じように馬数頭分の値で売られたが、お前が売られてたら金五斤はくだらねえ額だったろうな」
ようやく振り返った信は真っ直ぐな瞳で蒙恬を見据えた。
「…分かるか?生まれた時から今も、これからも、俺とお前じゃ価値が違うんだよ」
彼女が何を言おうとしているのか、蒙恬には手に取るように分かった。約束をしておきながら、信が数多くの縁談を断り続けている理由もそこにあったことも同時に理解した。
信は下僕出身である自分の価値を低いものだと決めつけているのだ。
彼女が幼少期に戦で両親を失い、奴隷商人に売られたのは知っていた。そして、下僕として売られた奉公先で仕事をこなしながら、六大将軍である王騎と摎に引き取られたという話は秦国では有名な話である。
しかし、大将軍の座に就いておきながらも、下僕出身である事実は変わらない。そのことを理由に、自分は誰とも釣り合わない、隣に並んではいけないと考えているのだろう。
「…信」
蒙恬が名前を呼ぶと、信は声を掛けられるのも拒絶するように俯いた。それでも蒙恬は言葉を続ける。
「俺が信に感謝してるのは、本当。それに、信のことが好きなのも本当。それはこれからも変わらない」
「…だからっ!」
どうして分かってくれないのだと言わんばかりに、信が蒙恬を睨み付ける。
「蒙家の安泰がどうとか言うんでしょ」
言葉を遮ると、信が一瞬戸惑ったように目を見開いた。
「分かってんなら、なんで…」
「信こそ、飛信軍が戦に参加していない時でも、論功行賞や宴に来てただろ。それって楽華隊の、俺のためだって自惚れてたんだけど、本当はどうなの?」
「それは…」
まさかそんな質問返しをされるとは思わなかったようで、信があからさまに狼狽える。
戦に参加していない時でも、信は論功行賞の場に必ず現れた。祝いの言葉を掛けることはなくても、論功行賞で蒙恬の名前が呼ばれる度に、論功行賞が行われている間の後ろの方で静かに微笑んでいた。
恐らく信は隠れていたつもりだったのだろうが、いつも蒙恬はそんな信の姿を遠目に気付いていたのである。
「…お前が三百将の時からずっと見てたから…弟みたいな感覚っていうか…」
しどろもどろに言葉を紡いだ信に、蒙恬はこめかみに鋭いものが走ったのを感じた。
「…嬉しくない。弟みたいに思われてたなんて、そんなの知りたくなかった!」
つい口調が荒くなり、声も大きくなってしまう。普段ならこんな些細なことで怒りを露わにしないはずなのに、酒のせいだろうか。
「なんでっ?ずっと信のこと好きだって言ってるのに、なんで逃げるの?」
信が何か言いたげに唇を戦慄かせていたが、蒙恬が彼女の言葉に耳を傾けることは出来なかった。一度堰を切ってしまった想いは止まらず、次から次へと溢れ出て来る。
「信が下僕出身だから、俺が蒙家の嫡男だから、そんなのはもう聞き飽きた!信が本当に思ってることを知りたい!教えろよ!言ってくれなきゃわからないだろ!」
畳み掛けるように言葉を投げつけ、蒙恬は肩で息をしていた。
「お前…なんで…そこまで」
今にも消え入りそうなほど、小さな声だったが、蒙恬の耳にはしっかりと届いた。
「信が好きだからだよ。ただ、それだけ」
その言葉を聞いた信はしばらく俯いたまま黙り込んでいたが、やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「俺は、…下僕出身で、顔も名前も知らねえ男どもの使い古しだぞ」
この身は既に汚れているのだと、自虐的な笑みを浮かべながら信がそう言ったので、蒙恬は肩を竦めるようにして笑った。
「…だから、何?」
驚きも失望もせず、蒙恬が聞き返したので、信は驚いたように目を見張った。信の両肩をしっかりを掴み、蒙恬は彼女の瞳を覗き込みながら言葉を続ける。
「俺が信を好きな気持ちは変わらない」
信が顔ごと目を逸らそうとしたので、蒙恬は彼女の頬をそっと両手で包んだ。
顔を背けられなくなっても、小癪にも視線を逸らそうとする信を叱りつけるように、蒙恬は顔を寄せる。
「う、んッ…ぅ…!?」
唇を重ねると、信が驚いたように目を見張った。
ようやく自分を見てくれたことに蒙恬は安堵しながらも、唇を重ねたまま彼女の体を抱き締める。
腕の中で信がじたばたともがいていたが、逃がしはしないと蒙恬は腕に力を込めた。
「ふ、はっ…」
ようやく唇を離した時、信は肩で息をしていた。
彼女の柔らかい唇の感触の余韻に浸るように、蒙恬はぺろりと自分の唇を舐める。
借りて来た猫のように腕の中で縮こまった信は、湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしていた。
「顔、真っ赤」
過去に相手をした生娘よりも初々しい反応に、蒙恬は愛おしさを噛み締める。
俯いたまま顔を上げられずにいる信は、諦めたように小さく息を吐いた。
「…そんなに娶りたいっていうんなら、せめて何番目かの妾にしとけよ。それならいつでも捨てられるだろ」
「絶対やだ」
妥協案に蒙恬が即答したので、信は上目遣いで睨み付けた。
「何度も言ってるだろ?お前が考えるのは、俺のことでも、お前の幸せでもない。蒙家の安泰だ」
「それもやだ。俺、一途だもん」
はあ?と信が顔を強張らせる。
「たくさんの女侍らせておいて、一体何言って…」
「あれ、知ってるんだ?俺に興味ないフリしてただけ?」
ぎくりと信の顔が強張る。
自分以外に蒙恬が興味を持っている女がいないか調べるために胡漸や昌平君から話を聞いたことが裏目に出てしまった。
「あれは予行練習。いつも目を瞑って、信だと思って抱いてた。自慰みたいなもんでしょ」
当然のように返した蒙恬に、信が青ざめている。
「…最低だな、お前」
「今さら気づいた?悪いけど、諦めるつもりなんてないから、覚悟しといてよ」
腕の中に閉じ込めたままでいる信にそう囁くと、彼女は大袈裟な溜息を吐いた。
「ったく、お前ってやつは…ああ、そうだ」
蒙恬の執念とも言える付き纏いに白旗を上げることになり、いつもの調子を取り戻した信が、にやっと白い歯を見せて笑った。
「蒙恬将軍、よくここまで頑張ったな」
「…っ!」
自分にだけ向けてくれた満面の笑みに、蒙恬の心臓が痛いくらいに締め付けられる。
「信、大好きだよ」
気が付けば、蒙恬は再び信の体を強く抱き締めていて、そう口走っていた。
信は返事をしてくれなかったが、背中にそっと腕を回してくれる。
その手は、奴隷商人から幼い自分を自分を助けてくれた時と同じ、温かさと優しさが詰まっていた。
此度の勝利で秦国の領土を広げることになった。この様子だと、あと二日は祝宴が続くだろう。
将軍昇格の武功を挙げた楽華隊の活躍は大いに称賛を浴びている。
楽華隊隊長である蒙恬が祝宴の主役に立っても良いというのに、信に「二人きりで飲み直そう」と提案したのは蒙恬本人だった。
信は賑やかな席の方が好きなのだが、蒙恬のお願いを断る理由もなく受け入れた。
咸陽宮の一室では、宴の賑やかな音が遠くに聞こえる。宴のような賑やかさはここにはないが、静かに飲む酒は美味かった。
「あーあ…これからは信と同じ持ち場につくことが少なくなるだろうし、ちょっと寂しいかも」
「なんでだよ」
はは、と信が笑う。
「………」
空になった杯に酒を注ぐことはせず、蒙恬が台に杯を置いた。
「信」
真剣な眼差しを向けられ、信は思わず固唾を飲んだ。
「信のこと、抱きたい」
「は…?」
遠回しでも何でもなく、直球に告げられて、信は目を見張る。
言葉を失っている信を見ても、蒙恬は退かなかった。
「な、何言ってんだよ」
「今までもそういう目で信のこと見てた。でも、無理やりはしたくない」
…先ほど無理やり唇を重ねて来たことは数に加えていないらしい。
重い沈黙が二人の前に横たわる。蒙恬は信の瞬き一つ見逃すまいと、じっと彼女を見つめていた。
「…俺は」
「知らない男たちの使い回しって卑下するんでしょ?」
言葉を遮って、信が言わんとすることを代弁した蒙恬は悲しそうに眉を下げる。どうして蒙恬がそんな表情をするのか分からず、信は怪訝な表情を浮かべた。
蒙恬が椅子から立ち上がり、信の前にやって来る。
その場に膝をついた蒙恬は、座ったままでいる信の膝に頭を摺り寄せた。まるで子が母に甘えるような仕草だ。
「俺の大切な人に、そんな酷いこと言わないでよ」
はっとした表情を浮かべ、信は下唇をきゅっと噛み締めた。
「…俺さ、信に口づけたの、さっきのが初めてじゃないんだよ」
埋めていた膝から顔を上げて、上目遣いで蒙恬が信を見上げる。酔いのせいだろうか、悪戯っぽく笑った。
「楽華隊が飛信軍の下についた時、戦が始まって二日目の夜だったかな?眠ってる信に口づけちゃったんだ」
まだ蒙恬が千人将だった時、飛信軍と同じ持ち場を任された戦があった。
信や他の将たちと軍略について話し合う機会があったのだが、飛信軍はその強さ故に激戦地となる前線を任されることが多い。
多くの敵兵を薙ぎ払った彼女は天幕で気絶するように寝入っていた。
ちょうどその時に、翌日の楽華隊と飛信軍の動きについて軍略を告げようと、蒙恬が信の天幕に訪れたのである。
その時の蒙恬は苛立ちと不安に襲われていた。
戦で飛信軍の活躍を間近に見るようになってから、信がいかに多くの者たちから慕われているかを知らされたのだ。同じ軍の副官や兵だけでない、他の軍や隊の将や兵たちだってそうだ。みんな信を慕っている。
幼い頃から信の隣に並び立つために、その背中を追い掛けていたけれど、既に信の隣に並び立つものは多くいるのだと思い知らされた。
焦燥感と嫉妬に駆られた蒙恬は、気づけば眠っている彼女に口付けていたのである。
約束である軍師学校は首席で卒業したものの、まだ大将軍の座には程遠い千人将という立場ながら、早まったことをしてしまったという自覚はあった。
もちろんすぐに我に返り、慌てて天幕を飛び出したのでそれ以上は襲わずに済んだ。
あの時の信は眠っていたので、もちろん彼女は知らないだろうが、このまま胸に秘めておく訳にもいかず、蒙恬は素直に打ち明けたのである。
「………」
「信?」
信が狼狽えたように視線を泳がせたので、てっきり怒鳴られると思っていた蒙恬が小首を傾げる。
「ねえ、もしかして、知ってたの?」
「ッ…」
酔いとは別に顔を真っ赤にさせている。その態度こそ肯定だと分かり、さすがの蒙恬も驚く。
その恥じらいの表情に蒙恬は堪らず生唾を飲み込み、立ち上がって彼女の背中と膝裏に腕を回していた。
「うわッ!?なにしてんだよッ!降ろせッ」
抱き上げられて、急な浮遊感に襲われた信が目を見開いている。
しかし、蒙恬は何も答えずに部屋の奥に用意されている寝台へと向かった。抱きかかえた体を寝台の上に横たえ、蒙恬は彼女の体を組み敷く。
「蒙恬ッ…?」
驚愕と怯えが混じった顔で信が蒙恬を見上げる。
男と身を繋げるのが初めてではないとはいえ、きっと乱暴に扱われたことで、信は身を繋げる行為を苦手としているのかもしれない。
性欲の捌け口として、信を乱暴に扱った奴らの行方はもう掴めない。
それが私情だと蒙恬には十分に自覚はあったが、もしも彼らの行方を掴めたら、信を汚した代償を何としてでも払わせたかった。
しかし、今は憎しみよりも、目の前の女を好きにしてしまいたいという欲情の方が大きい。
「信…」
自分でも興奮で息が荒くなっているのが分かり、蒙恬は自分の余裕のなさを自覚した。
こういうことは、約束通りに婚姻を結んでから行うべきだと頭では理解しているのに、そこまで待つことは出来なさそうだった。
他の女性を褥へ導く時には余裕を見せつけていたのに、愛する女の前ではこうも心が搔き乱されてしまう。格好つけたかったのに、下半身は痛いくらいに重くなっていた。
「っ…」
体を組み敷かれた信は戸惑った表情を浮かべているが、逃げ出す素振りを見せない。
「…逃げるなら今のうちだけど?」
あえて問い掛けたのは、信に逃げる意志があるのかを確かめるためだった。
酔いが回ってるとはいえ、力が入っていない訳ではないし、逃げ出そうと思えば出来るはずだ。
無理強いはしたくないことも伝えたし、だとすれば信が逃げない理由は何なのだろう。
もしかして期待しても良いのだろうかと蒙恬が生唾を飲み込む。
「信」
視線を泳がせている彼女が何か言いたげに唇を戦慄かせる。蒙恬はすぐにでも彼女の体を好きにしたい欲を必死に押さえつけながら、信の言葉を待った。
「…もう、とっくの昔に諦めてた」
その言葉に、一瞬呆けた顔をして、蒙恬はぷっと吹き出した。
「じゃあ、もう遠慮しないで良いってことだね」
「遠慮してたようには見えねえけどな」
呆れ顔で言われてしまい、蒙恬は確かにそうかもしれないと頷いた。
「信、大好きだよ」
「………」
愛の言葉を囁いても、信は困ったように笑みを浮かべるばかりで、返事をしない。
しかし、蒙恬はいずれ同じ言葉を返してくれるはずだと信じて疑わなかった。
後編はこちら
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