福田康夫元首相「アジアの時代がやって来る」
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中編はこちら
気をやった信の体を抱えて救護室を出ると、先に出て行ったはずの蒙恬が廊下に立っていた。
壁に背を当てながら、欠伸をする姿を見れば、恐らくずっとそこにいたのだろう。
昌平君の腕の中で寝息を立てている信を横目で見た蒙恬は、特に何かを言うこともなく背中を向けて歩き出した。
情事を見聞きしていたこと、自分と信の関係を他者に洩らすような脅迫をする訳でもない。かと言って、口止めに何か取引を持ち掛けるようなこともされなかった。
蒙家の嫡男である彼は、欲しいものは一通り手にしている。他者を陥れるような脅迫をしたところで、今さら欲しいものなどないのだろう。
興味本位で近づいたとして、信にだけちょっかいをかけるのなら、飼い主である昌平君が傍にいない機会を狙う方が手っ取り早い。
だというのに彼は、昌平君がこの救護室に来ることを知っていて、信を軍師学校に招き入れた。
…このことから、蒙恬がずっと廊下で待ち伏せをしていた理由は一つに絞られる。救護室に他の生徒が寄り付かないよう、見張りの役目を担っていたのだろう。
普段は滅多に利用されることのない救護室とはいえ、信が心配していたようにいつ誰が来るか分からない。
自分たちの関係を知られないよう、細心の注意を払ったのだろうが、蒙恬にそのような気遣いをされる覚えはなかった。
「…蒙武からの命か?」
その場を去ろうとしている蒙恬の背中に問い掛けると、彼はぴたりと足を止めて、人懐っこい笑みを浮かべて振り返った。
「先生なら気づくと思いました」
蒙恬の父である蒙武が関わっているとは、さすがの昌平君も予想外だった。可能性として浮上した理由を問い掛けたまでだが、正解だったらしい。
長きにわたる友が息子に何を命じたというのだろう。表情に出さず思考を廻らせるが、信が関わっていることは明らかだった。
「父上も、ああ見えて心配性な面があるので」
その言葉から、蒙武が自分の息子に、信がどのような人物であるかを調査するよう命じたのだと察した。
配下を使わず、わざわざ息子の蒙恬頼むということは、それだけ蒙武が信のことを気にしている証拠だろう。
もしくは、過去に信を尾行させていたが、撒かれた経験があって聡明な息子に頼んだという説もあり得る。
「…今日、信と話して、色々分かりました」
蒙恬が未だ眠り続けている信の顔を見やる。
信の人柄を知るだけならば軍師学校に来る必要はないのだろうが、きっと自分を前にした時の態度についても知りたかったのだろう。だからこそ蒙恬は、ここに信を招き入れたに違いない。
未だ目を覚まさずにいる信を見つめながら、
「信は、先生のことが大好きないい子だってこと、からかったら怒りやすいこと…それから」
口元に薄く笑みを象りながら、蒙恬が言葉を紡いだ。
「信って、先生以外を嗅ぎ分けられないんですよね?だから戦にも出せないし、先生以外の人に仕えさせられない」
こちらの動揺を、瞬き一つ見逃すまいとして蒙恬が視線を向けている。
あくまで信を犬に見立てた言葉であったが、彼が言わんとしていることは理解していた。
「よく気づいたな」
保護した時からずっと、信は主以外の人間を見分けられないのである。
二人で話していたのがどれだけの時間かは分からないが、未だ他の者には気付かれていないというのに、そこまで見抜いた教え子に称賛の言葉を贈った。
「信と、一度も目が合わなかったから」
自分の額と鼻の辺りを指さし、
「相手のこの辺りに視線を向ければ目が合うと教えたのも、先生ですか?」
「そうだ」
主従契約を結んだあの日から、信は主以外の人間の顔の違いを見分けられなくなったのだという。
相手の輪郭や髪型、体格や声、その者が纏っている香りなどの情報は分かるらしいが、顔だけは影が掛かったかのように何も映らないのだという。
医者に診せても、その主訴は過去に前例がなく、果たしてそれが病なのかどうかも判別がつかないと言われた。
相手の顔を判別できないことこそ、昌平君が信を戦に出さない一番の理由であり、常に彼を傍に置いている理由でもあった。
信がいかに武に優れていようとも、敵味方の区別がつかない者を戦には出せない。
昌平君以外の相手の顔が分からないことを信自身も告げていないだろうに、彼の言動一つでそこまで見抜いた蒙恬はやはり優秀な教え子である。
信は、その者を判断する決め手である声を聞かないと、最終的な判別が出来ない。
唯一顔を見分けられる昌平君であっても、顔を隠せば誰だか分からないのだという。
もしもこれが自分と主従関係を結んだゆえの代償なのだとしたら、そう想うと、昌平君は優越感を覚えてしまう。
自分という主を失えば、信は二度と顔を認識出来なくなる。
主以外の人間を見分けられないからこそ、信は自分に捨てられたくないと依存しているのだ。これを愛らしいと言わずして何と言えよう。
「…先生が信の引き紐をしっかり握っていると伝えれば、父上も安心するかと。いつか信に寝首を掻かれるのではないかと心配していましたから」
「………」
まさか蒙武がそのような心配をしていたとは思わなかった。
ある日、領地視察で出会って連れ帰って来た下僕の少年を、彼は信用していなかったらしい。素性の分からぬ信の企みを危惧していたようだ。
「それじゃ、俺はこれで」
「蒙恬」
今度こそ帰ろうと歩き始めた蒙恬を呼び止めると、彼は不思議そうに振り返った。
「…蒙武に、初めから首輪をつけられていたのは、私の方だと伝えておけ」
「え?」
その意味がすぐに理解出来なかったらしく、蒙恬が眉根を寄せた。
聡明な頭脳を持つ彼が、その答えを導き出す前に、昌平君は信の体を抱えたまま軍師学校を後にする。
背中に蒙恬の視線を感じていたが、振り返ることはなかった。
勝利した戦で手に入れた領地の視察に赴いた時だった。
戦に巻き込まれた村が一つあったことは聞いていたのだが、余程大きな被害を受けたらしい。辺りには屍が幾つも転がっていた。
槍で貫かれた老人だけでなく、逃げようとして背中に矢を受けた女子供の亡骸があった。野盗の襲撃を受けるよりも酷い有り様である。
戦の悲惨さを知らぬわけではないが、改めてそれを感じながら、昌平君は視察を続けていた。
もう村としての再建は不可能だろう。避難した者も多少はいるようだが、転がっている屍の数を見る限り、圧倒的に被害者の方が多い。
屍を弔った後は、残っている物を全て取り壊すつもりだった。これだけの被害を受けたのなら、全てを更地にした方が領土としての使い道がある。
この村で生まれ育った者たちの故郷を取り壊すことに心が痛むが、どれだけ願ったところで村人たちが生き返る訳でもない。いつまでもこの地をこのまま残しておく訳にもいかなかった。
「…?」
不意に背後から視線を感じ、昌平君は視線の主を探すために振り返った。
視線の先に、馬車があった。馬が引いているのは車輪のついている木製ではあるが堅牢な檻。その中には何人もの子供たちが座り込んでいた。
どの子供たちも目が虚ろで、これから自分の処遇にも興味がないように見える。
彼らが奴隷商人の商売道具だということは、すぐに気付いた。荷のように馬車へ積まれたのだろう。
(…戦争孤児か)
奴隷商人が先に来ているということは配下からの報せで聞いていた。
集められているのは村の子供たちだろう。親を亡くしたり、住んでいた地を失って行き場のない子供たちはこうして奴隷商人によって集められる。
子供であっても、僅かながら労働力になるし、需要は耐えることがない。
「………」
檻の隙間からこちらをじっと見つめる少年がいた。視線の主だろう。眼光の鋭い子供だと思ったことは今でもよく覚えている。
手を伸ばせば噛みつかれてしまいそうなほど、しかし、その瞳の奥には怯えが浮かんでいる。野犬よりも、野良猫のような印象があった。
他の子供たちと違って、その少年だけはまだ目に光が残っている。だからだろうか、昌平君は妙にその少年のことが気になった。
「………」
目が合っても、その少年は言葉を発さない。助けを求める訳でもなく、ただ昌平君のことをじっと見つめていた。
領土視察を終えてからも、何かに駆り立てられるように、昌平君は幾つもの村を渡り歩いた。他でもないあの少年を探すのが目的だった。
奴隷商人によって売られた子供たちの使い道は決まっている。
まだ小さい体ではそれほど労力もないので、家事手伝いが主であり、村の長であったり、それなりに裕福な屋敷で使われるのだ。
見目に優れている者ならば幼い頃から娼館に禿 として売られることもある。しかし、それは大半が女児だ。
中には物好きな男に買われる見目麗しい男児もいるが、それはほんの一握りに過ぎないし、あの目つきの鋭い少年にその説はなさそうだ。
奴隷商人もあれだけの人数の子供たちを引き連れているのなら、それなりに食い扶持がかかる。手っ取り早く銭に替えるのならば、移動に何日もかかる遠方の地や、他国にまで赴くことはないだろう。
戦に巻き込まれたあの村からそう離れた場所にはいないはずだ。
名も知らぬあの少年の眼差しを忘れることが出来ず、あの少年と再会して、何をしたいのかさえ明確な目的も考えずに、昌平君は捜索を続けていたのである。
助けを求められたわけでもない。ただ、目が合っただけだ。
あの少年との関わりはたったそれだけだというのに、昌平君がこれほどまで夢中となって何かに駆り立てられるのは、思えばこれが初めてのことだった。
少年と再会を果たすまで、そう長い月日は掛からなかった。せいぜい数か月といったところだろう。
訪れた村の長を務めている者の屋敷に、その少年はいた。何か粗相をしたのだろうか、屋敷の裏庭で罰として鞭で体を打たれていた。
鞭が皮膚を打つ音は、大人であっても顔をしかめてしまうほど、痛々しいものだった。
大人が渾身の力で振るう鞭のせいで、子どもの柔らかい皮膚はところどころ裂け、血が滲んでいる。少年は痛みに歯を食い縛っているようだったが、決して声を上げることはしなかった。
痛みに泣き喚くことも、許しを請うこともしない少年は心根が強いのか、それとも口が利けぬのだろうか。
たとえ子供だろうが、下僕がこのような仕打ちを受けることは大して珍しいことではない。
しかし、少年の体を見る限り、鞭で打たれた痕の他にも、さまざまな痣が目立っていた。
頬には殴られたような痣もあったし、唇も切れている。腕には太い指が食い込んでうっ血している箇所もあったし、硬い靴底で踏みつけられたことを思わせる痕もあった。
ろくに食事も与えられぬまま仕事をさせているのか、暴力によって乱れた着物の隙間から肋骨が浮き出ているのも見えた。
そして痣の色を見る限り、治りかけの傷から、つい最近の傷、そしてたった今つけられた傷までたくさんのものがある。
仕置きの範囲を越えているのは誰が見ても明らかで、これはただの虐待だ。
鞭を振るいながら、男は歯茎が見えるほどの不敵な笑みを浮かべている。恐らくこうやって過去にも奴隷の少年少女たちを甚振って来たのだろう。
彼の家族も加担していたに違いない。直接手を出さなかったとしても、少年の衰弱具合から、誰も助けようとしなかったのは事実だ。
昌平君の後ろに控えている近衛兵たちが睨みを利かせたところで、村長はようやく来客の存在に気付いたらしい。
前触れもなく右丞相が訪れたことに、随分と慌てていた。
事前の訪問を伝令しなかった旨を形だけ謝罪し、昌平君は地面に倒れたまま動かない少年に目を向けた。
行き過ぎた暴力であったことは村長も自覚があったようで、ばつの悪そうな顔をしている。
こちらは何も訊いていないというのに、下僕の少年がした粗相をべらべらと話し出し、見苦しいまでに自分の行動を正当化しようとしていた。
「…?」
不意に視線を感じ、昌平君は倒れている少年に目を向けた。彼は地面に倒れたまま、瞳だけをこちらに向けている。
か細い呼吸を繰り返し、意識の糸を手放し掛けているものの、何かを訴えるようにこちらを見据える。
「………」
昌平君が近衛兵たちを一瞥すると、優秀な彼らは主の意を察してその場を後にした。
右丞相と二人きりにさせられたことで、村長は何事かと驚いている。
しかし、秦国への貢賦を欠かさずに行っていることを労いに来たのだと言えば、村長の男は安堵したように笑んだ。
先ほどまでの不敵な笑みで、あの子供を鞭打っていた男と同一人物とは思えないほどの豹変ぶりに、つい反吐が出そうになる。
右丞相からの称讃に、村長の男は屋敷にいる一族の者たちを呼び出した。
すぐにもてなしの準備を始めるよう指示を出す村長は、下僕の少年から興味を失ったらしい。
準備が整うまで客間へ過ごすよう勧められたが、昌平君はそれを断った。
「………」
昌平君は倒れている少年の前までやって来ると、着物が汚れることも構わずにその場に膝をつく。
噛みつかれるのも覚悟で、腫れ上がっている頬に手を伸ばすと、少年は黙って昌平君のことを見据えていた。
奴隷商人の馬車に乗せられた時、僅かに怯えを浮かべていた瞳が、今は憎悪で満ちていた。
そしてその憎悪から発せられる殺意は、間違いなく村長の男に向けられている。
少年が切れた唇を震わせているのを見て、昌平君はその場に跪いたまま、その言葉に耳を傾けた。
「…あいつら、ころして?」
それは昌平君に与えられた、初めての命令だった。
瞬きをした後、それまで平穏だった村の日常の一部が崩壊してしまったことに気が付いた。
村長とその一族の者たちが足下に転がっていて、誰もが声も上げず、動き出さぬことから、もう二度と生き返ることはないのだと分かった。
護身用に携えていた剣が刃毀れをしており、血が滴り落ちている。
柄を握り締めている手に、肉を断つ感触がはっきりと残っていた。無様な悲鳴や許しを請う声も、余韻のように鼓膜を震わせている。
(…静かだな)
突如訪れた右丞相をもてなそうと騒がしかった屋敷一帯が、今では沈黙に包まれている。
下がらせた近衛兵たちは、恐らく屋敷内の騒ぎを聞きつけているはずだった。
しかし、非常事態だとして駆けつけなかったのは、主である昌平君の行動を理解しているからだろう。
「………」
少年は、返り血に塗れた体をゆっくりと起こし、その口元に引き攣った笑みを浮かべていた。
この場を目撃したのは自分と少年の二人だけ。屋外でありながらも、完全なる密室。
共犯関係となった少年の前に、昌平君は再び跪く。血で真っ赤に染まった紫紺の着物がこれ以上汚れようとも構わなかった。
土埃と血で汚れた、少年の成長し切っていない小さな手が、褒めるように昌平君の頭を撫でる。
「…いい子」
少年は穏やかな笑みを浮かべながら、まるで飼い主が自分の命令に従った飼い犬を褒めるように、昌平君の頭を撫で続ける。
「いい子、いい子」
単調ではあるが称賛の言葉と、頭を撫でる手の温もりを心地よく感じたことに、昌平君は既に自分とこの少年の間で主従関係が固く結ばれていたことを悟った。
思えば、奴隷商人の馬車に乗せられた少年と目が合ったあの瞬間から、主従関係が結ばれていたのかもしれない。
言葉を交わさずとも、互いに存在を認識し合ったあの瞬間に、主従関係は成立していたのだ。
引かれ合うべくして引かれ合ったとでも言うのだろうか。
あの時すでに、自分の首にはこの少年の飼い犬としての首輪が巻かれていたのだ。
そして首輪を巻かれた犬は、首輪から伝う引き紐を辿り、自分を従える飼い主を見つけたのである。
一頻り飼い犬を褒め称えた後、飼い主である少年は、不思議そうな表情で辺りを見渡していた。
下僕である自分を甚振っていた者たちが事切れているのを確かめているのか、それとももう興味を失ってしまったのだろうか。
村長からの暴力を受けてたせいで顔に疲労の色を濃く滲ませながら、少年が昌平君を見つめる。
もうその瞳に憎悪の色はなく、代わりに慈愛に満ちた温かいものが秘められていた。
「…飼って、くれる?」
掠れたその言葉を聞き、聡明な飼い犬である昌平君はすぐに主の意図を察した。
即座に立ち上がると、先ほどまで主と慕っていた少年を冷たい瞳で見下ろす。
「―――これは私とお前の主従契約だ」
すでに主従関係は成立しているものの、昌平君は主からの二度目の命令に忠実に従った。
「私の言うことには全て従え。歯向かうことは決して許さぬ」
その言葉とは反対に、すでに結ばれている主従関係の立ち位置は、少年が飼い主であり、昌平君は飼い犬だった。
しかし、主からの命令を断わるはずがない。聡明な飼い犬というものは、主の意図を聞かずとも察し、大人しく従うものである。
主が自分を飼えと言ったのならば、その命令に従うのみ。
駒同然に動き、犬のように従順に従う。主のためなら駒同然に命を投げ捨てる従順なる犬。駒犬こそが、主の側に付き従うべき形なのだ。
「…この手を取るのなら、その命、私が生涯責任を持って飼おう」
手を伸ばすと、すぐに少年はその手を取ってくれた。
村長一家を全て消し去った共犯関係にあるはずなのに、傷だらけの少年の手は、人殺しの手とは思えぬほど、温かかった。
自分の首輪から伸びている引き紐を握っている少年の手が、今以上に血に塗れようとも、昌平君は飼い主に一生従うことを決めたのである。
懐かしい夢を見ていたせいだろうか、眠りから目を覚めても、まだ頭がぼんやりとしていた。
「…?」
見覚えのある天蓋が視界に入り、信は主の部屋の寝台で眠っていたのだと気づく。
窓から月明かりが差し込んでいて、もうとっくに陽が沈んでいるようだった。
喉の渇きを覚えて、寝台の近くにある水差しを取ろうと、ゆっくりと身体を起こした。いつの間に眠っていたのだろう。
水を飲み終えると、傍に昌平君の姿がないことに気付いた。
「…?」
重い瞼を擦り、信は辺りを見渡した。夜更けでも、蝋燭に明かりを灯して木簡を読んでいることは時々あったが、室内に主の姿が見当たらない。
目を擦りながら、眠る前に何をしていたのか記憶の糸を手繰り寄せると、蒙恬と共に軍師学校に侵入したことを思い出した。
彼に唆されたのだと分かったのは、主が救護室に来た時だった。誰が来るか分からない救護室で主と身体を重ね合い、途中で意識を失ったらしい。
「……、……」
ここまで昌平君が運んでくれたのだろうか。きちんと着物が整えられていた。
こんな夜更けだというのに、どうして主が部屋に居ないのだろう。命令違反をした自分に嫌悪したのだろうか。
不安で心が支配されてしまい、針で胸を突かれたような痛みを覚えた。
昌平君から何処へでも行ってしまえと言われるくらいなら、いっそ斬り捨ててほしかった。
「っ…!」
鼻を啜っていると、扉が開けられる音がして、信は弾かれたように顔を上げた。
逆光のせいで顔はよく見えないが、嗅ぎ慣れた香りと影の輪郭から、すぐに昌平君だと気づく。
「昌平君ッ…!」
寝台から転がり落ちるようにして、信は彼の元へ駆け寄り、その体に抱き着いた。
迷子が母親を見つけたかのように、不安と安堵が入り混じった表情でいる信を見下ろし、昌平君は慰めるようにその頭を撫でてやる。
発言の許可を出していないにも関わらず、自分の名前を呼んだことと、力強くしがみついて離れない信の姿に、彼は何かを察したようだった。
「…信」
昌平君は迷うことなくその場に片膝をつくと、今にも泣きそうな弱々しい表情でいる信を見上げた。
彼にしか見せない穏やかな笑みを浮かべ、昌平君は信の胸に頭を摺り寄せる。それは駒犬が主に甘える仕草でもあった。
しばらく押し黙っていた信だったが、ゆっくりと右手を持ち上げて、昌平君の頭を優しく撫で始める。
「…いい子」
久しぶりに囁かれた言葉に、昌平君は思わず目を細めた。
いつもは自分が掛けている言葉なのに、信に言われると、それだけで胸が高鳴ってしまう。もしも自分に尻尾があったのなら、大きく振っていたことだろう。
もっとしてほしいと、甘えるように彼の胸に頭を摺り寄せると、困ったように信が笑った。
「…今日は、俺が主か?」
その問いに、昌平君は苦笑を浮かべた。
「何を言っている。最初からお前が私の主だろう」
納得のいく答えだったのだろう。信の目がうっとりと細まる。
慈愛に満ちた黒曜の瞳を見るだけで、昌平君の瞼の裏に、初めて主従契約を交わした時のことが浮かび上がった。
あの日から、自分は信の駒であり、犬となったのだ。
口づけを交わしながら、信がしきりに着物を引っ張るので、昌平君は苦笑を浮かべながら彼に身を寄せた。
信が久しぶりに飼い主に戻る時は、いつも我を通そうとするせいか、未だ子供っぽさが抜けていない。
それを指摘すれば、たちまち機嫌を損ねてしまうことを昌平君は理解していたので、何も言わずに従っていた。
二人して寝台に倒れ込むと、今日は信の方から体を組み敷いて来た。
一言命じさえすれば、自ら着物を脱ぐことだって、主の着物を脱がすことだって喜んで行うというのに、信は主として命じることをあまりしない。
時々は今のように、正しい主従関係に戻るものの、信は懸命に自らを使って行為に及ぶ。
「ッ…昌平君…」
名前を呼びながら首筋に舌を這わせて来る信が、忙しない手付きで着物の帯を解き、襟合わせを開いていく。
積極的に奉仕してくれる姿が、いつも演じている駒犬と大して変わりないことを本人は自覚しているのだろうか。
「…信」
「ぅ、ん?」
名を呼ぶと、上目遣いで見上げて来て、どうしたのだと甘い声で囁いて来る。
普段の偽りの主従関係を結んでいるうちは、信は積極的に発言が出来ないので、名を呼んでくれたり、素直に感情を口に出す今は貴重な時間でもあった。
だからこそ、昌平君はこの時間は普段よりもかけがえのないものと感じている。
「ん、んっ…」
いつも自分がしているように、肌に舌を這わせながら、信が胸に唇を押し付けていく。
自分の着物も煩わしいと帯を解いていく姿を見ると、信がいかに自分を求めているのかが著明に態度として現れており、愛おしさが込み上げた。
まだ触れてさえもいないというのに、信の足の間にある男根が上向いている。
早く触れてほしいと全身で訴えているのが分かったが、昌平君はまだ何も命じられていないことを理由に、あえて言葉も掛けず、動かずにいた。
一糸纏わぬ姿となると、仰向けになったままの駒犬の体に覆い被さるようにして、信が抱きついて来る。
「ふぁ…あ…」
昌平君の体に抱きつきながら、信が腰を前後に揺すり始めた。互いの性器を擦り合っているだけだが、既に涎じみた先走りの液が出ていた。
救護室では紐を使って男根を戒めていたこともあり、押さえ込んでいた情欲を吐き出したくて堪らないらしい。今の信にはどんな刺激にも堪らなく快感に変換されるのだろう。
「ん、ぅ」
愛らしいその姿に、堪らず昌平君は口付けていた。信もそれに応えるように昌平君の頭を抱きながら舌を伸ばして来る。
舌を絡ませながらも、信が腰を動かして男根を擦りつけて来るので、まるで駒犬の体を使って自慰をしているように見えた。
傍から見れば滑稽な姿かもしれないが、昌平君の双眸には淫靡な姿にしか映らない。
同じように先走りの液を滲ませながら、昌平君の男根も確かに猛々しく硬くなっていく。お互いを求め合っている何よりの証拠だ。
長い口づけを終えると、一刻も早く自分を飲み込みたいのか、身を起こした信が仰向けになったままの昌平君の体に跨った。
無駄な肉など微塵もない腹筋のついた美しい腹を突き出し、信が腰を持ち上げた。
「んっ…」
男根の先端を後孔に押し付けて来る。普段は固く口を閉ざしているのだが、救護室での情事もあってか、今では女の淫華のように柔らかく解れていた。
まるで其処が別の生き物のように、先端を咥え込もうと卑猥に蠢いている。
「は、ぁ…」
男根の根元をやんわりと握って固定すると、艶めかしい吐息を零しながら、信が腰を下ろしていく。
ゆっくりと彼の中に男根が入り込んでいき、温かい粘膜に包まれる感触に、昌平君も無意識のうちに長い息を吐いていた。
「ん、んんっ…」
根元まで呑み込んだ後、信は切なげに眉を寄せたまま、肩で息を繰り返す。
僅かに膨らんだ腹を擦りながら、唾液で濡れた唇で妖艶な笑みを浮かべたのを見て、昌平君は思わず生唾を飲み込んだ。
「ッ…」
温かくて滑った粘膜が男根に吸い付いて来る。
態度だけじゃなく、体が自分を求めて離さないのだと思うと、それだけで男の情欲が激しく駆り立てられる。顔が燃え盛るように上気したのが分かった。
すぐにでも律動を始めようと、主の腰に手を回した昌平君の思考を読んだのか、
「待て」
「!」
僅かに汗ばんだ額に張り付いた自分の黒髪を手で掻き上げ、信が昌平君を見下ろしながら意地悪な笑みを浮かべた。
命令通りに動きを止めた飼い犬を褒めるように、信が優しい手つきで頭を撫でる。
「…いい子」
あの日と同じだ。命令に従えば、主は従順な態度を褒めてくれる。
しかし、信と繋がっている部位は違う。一刻も早く抽挿を始めたくて、下腹部が熱く疼いて仕方がない。
主の許可がないのに、自らの欲望を優先して腰を動かせば、たちまち信から冷たい瞳を向けられるだろう。
それに、蒙恬との一件で、昌平君は信に耐え難い躾を施した。絶頂に達することを禁じたあの仕返しをされるかもしれない。
いや、もしかしたら信は既にその仕返しを始めようとしているのではないだろうか。昌平君の背筋に冷や汗が伝った。
「んッ…んぅ…ふ、ぅ…」
昌平君の肩に手を置きながら、信がゆっくりと腰を持ち上げた。自分の上に跨っているせいか、繋がっている部分がよく見える。より結合の実感が湧いた。
悩ましい声を歯の隙間から洩らしながら、信は腰を小刻みに上下させている。激しく腰を動かさないのは、自分の男根を存分に味わっているからだ。
今まさに主によってこの身が喰われているのだと思うと、昌平君は歓喜のあまり、身震いしそうになった。
「はあ、ふ、はぁ…」
体と視線を絡め合い、信は喜悦の吐息を零しながら、徐々に腰の動きを速めていく。
自分の肩を掴んでいる手が軽く爪を立てたのを合図に、昌平君はようやく主の腰に手を回すことを許された。しかし、腰を動かす許可はまだ出されていない。
繋がっている部分から、性器と性器が擦れ合う卑猥な音が響く。鼓膜までもが信との結合を意識してしまい、情欲がますます膨れ上がってしまう。
信が腰を動かす度に、熱くて滑った粘膜が男根を擦り上げるだけではなく、決して放すまいと強く締め付けられた。
「ッ…、…」
これ以上ないほど身を繋げているというのに、信と口づけがしたくても、まだ許可を得られていない。
主からの命令を待つ立場は、ひたすらにもどかしかった。
「ッ…、…くッ…ぅ…」
切なげに眉根を寄せている昌平君が息を切らしているのを見て、もうそろそろ限界が近いのだと察した信が妖艶な笑みを浮かべた。
それまでは昌平君の体に跨ってその体を跳ねさせていた信が、覆い被さるようにして抱きついて来た。
すぐに背中に両腕を回して来る昌平君の耳元に、信がそっと唇を寄せる。
「待て」
先ほどと同じ指示が出たことに、昌平君が目を見開く。
「ッ…!」
命令に応えるために、昌平君が奥歯を強く噛み締めて下腹に力を入れたのが分かると、信はうっとりと目を細めた。
追い打ちを掛けるかのように、信が赤い舌を耳に差し込んで来る。
「う…」
ぬめった舌が耳の粘膜を直にくすぐるその感触によって、昌平君が鳥肌を立てた。
耳に舌を差し込まれた状態で、今信が腰を前後に動かし始めたので、昌平君は歯を食い縛って快楽の波に呑まれぬよう、懸命に意識を繋ぎ止めていた。
少しでも気を抜けば、快楽の波に呑まれて意識が溶かされてしまうのは明らかだった。信もそれを分かっているのだろう。口元に妖艶な笑みが象られたままだった。
「はあ、ぁ…」
主導権を握りながらも、信自身も快楽の波に呑まれかけており、蕩けた表情を見せている。
ここまで信の体を育て、躾けたのは他の誰でもない自分だというのに、昌平君は過去の自分を憎らしく思っていた。
積極的な信の姿が見れるのは嬉しいことだが、ここまでやんちゃが過ぎると、次に信が駒犬を演じる時にはとことん仕返しをしてやりたくなる。
そこまで考えて、やはりこれは軍師学校の仕返しなのかもしれないと思った。
(…後で覚えておけ)
奥歯を食い縛りながら、息を荒げている昌平君が睨みつけるように信を見上げる。
もう二度と、信が飼い主に戻りたいと思わなくなるほど、躾けてやりたくなる。
「…ははッ」
駒犬からの視線に気づいた信が、彼の思考を読み取ったのか、まるでやってみろと言わんばかりに挑発的な笑みを浮かべる。
さらに挑発するように、主が艶めかしい赤い舌を覗かせた瞬間、昌平君の中で何かがふつりと切れた。
「うおっ…!?」
声を上げた時には、既に信の視界は反転しており、寝台に背中が押し付けられていた。
恐ろしいまでに情欲でぎらついている瞳に見下ろされていることから、自分の下にいたはずの昌平君に押し倒されたのだと分かり、信は不機嫌に眉根を寄せる。
「まだ、待てだって…」
「聞けんな」
従順だとばかり思っていた飼い犬から、まさか反論されるとは思わず、信は瞠目した。
「あっ、ぁあっ…!?」
動揺が止まぬうちに、腰を抱え直されて律動が始まったので、つい声を洩らしてしまう。
律動だけではなく、上向いている信の男根を扱かれて、指の腹で敏感な先端を擦られた。先走りの液がぬるぬると滑りを良くして、より快楽を増幅させる。
「待て!待て、だって、言ってるだろ…ッ!」
目が眩みそうな快楽に、意識が呑まれてしまいそうだった。
制止を求めて昌平君の体を押し退けようとするのだが、敷布の上にその手を押さえられてしまえば、抵抗する術はなくなってしまった。
全ての主導権はこちらにあったはずなのに、すっかり逆転されてしまった。
「はあッ…」
覆い被さるように主の体を抱き締め、耳元で荒い息を吐きながら、昌平君が腰を打ち付ける。
つい先ほどまでの騎乗位で散々焦らされ、高められた欲を吐き出すかのように、主の命令に背いて好きに腰を動かしていた。
「ッぅうう!」
これ以上ないほど最奥を貫くと、信が背中を弓なりに反り返らせる。男の精を求め、痛いくらいに締め付けて来た。
自分という存在が、奥深くまで信を支配していると錯覚した。いや、事実に違いない。
「信、いい子だ」
そう囁いてから、今は自分が駒犬の立場であることを思い出した。
本当の主は信だというのに、彼の命令によって主を演じていた時間が長いあまり、未だ信を駒犬として扱ってしまうことがある。
「んんッ…ぅぐッ…!」
しかし、いつもの褒め言葉に反応したのか、痛烈に男根を締め付けて、今にも絶頂を迎えてしまいそうなほど、顔を歪めている。
もう信の体は駒犬の立場に染まっており、既に昌平君を主だと認めている。そして彼の心も、自分の存在を主だと認めようとしていた。
「いい子だ、信」
「~~~ッ!」
腕の中で反り返ったその体をきつく抱き締めると、信も縋りつくように背中に腕を回して来た。
体がばらばらに砕かれてしまいそうな衝動が脳天を貫いた瞬間、腰の奥から燃え盛る快楽が迸った。最奥で精を吐き出す感覚は何度経験しても幸福感で胸が満たされる。
「昌平、君ッ…」
腹に熱いものが降り注いだのを感じ、信の男根からも精液が迸っているのが分かった。
「信…」
絶頂の衝動と余韻が過ぎ去るまで、二人は荒い息を吐きながら、お互いの体を抱き締め合っていた。
昌平君が首輪を巻かれたあの日、信にも同じように首輪と引き紐が繋がれていた。
互いの首には、互いの名を記した首輪が嵌められていて、互いの手には、首輪から伸びている引き紐が握られている。
その首輪と引き紐を、他者が触れることは決して許されない。
たとえ二人であっても、飼い主と駒犬の関係を、断ち切ることは許されないのである。
終
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