仏、公用携帯電話でのTikTok禁止 娯楽用アプリ全般が対象
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激しい雨が身体を叩いている。冷たい地面に横たわりながら、体温を雨と地面に吸い取られていくような気がした。
瞼が重くなっていき、目を開けていられない。体はこれ以上ないほど冷え切っていて、歯を打ち鳴らすことかおろか、指先一つ動かせなくなっていた。
「………」
このまま眠ってしまえば、もう二度と目覚めなくて済むのだろうか。
(こんなクソみたいな世の中、死んじまったほうが楽だろうな)
少年は意識の糸を手放す寸前まで、この世を憎んでいた。
怒りの矛先をこの世に向けていたところで、力のない自分があがいても何も変わらないのだと、頭では理解していた。
それでも少年がこの世を憎み続けるのは、それが少年にできる唯一の抵抗だったからである。
このまま死んでしまえば、明日の今頃にはカラスか野犬の餌にでもなっているのだろうか。
自分の亡骸がどうなってしまうのかさえ、少年は興味を失っていた。
「…?」
意識の糸を手放しかけた瞬間、痛いくらいに身体に叩きつけられていた雨が急に途切れた。
しかし、雨音は変わらない。何かが雨を遮っているのだ。
「…死んでるのか?」
雨音に重なるように、誰かの声が響いた。
(誰だ?)
目を開けて声の主を探そうとしても、衰弱し切った身体は瞼を持ち上げることさえ叶わず、鈍く動かすことが精一杯だった。
「お、まだ生きてるな」
温かい手が唇に触れたのを感じた。息をしているか確認したのだろう。
声は確かに女だったが、その手は傷があるのか、随分と爛れている。言葉遣いもそうだが、水仕事を一切しない貴族の娘でないことは明らかだ。
「………」
普段ならば、自分に近づく者は例外なく振り払っていたのに、少年はもう指一本動かせる体力も残っていなかった。
背中と膝裏に手を差し込まれた後、ぐんと身体を持ち上げられる浮遊感に少年は手放し掛けていた意識の糸を掴んでしまった。
(余計なことしやがって)
自分を助けようとしているのか、それとも商売道具として利用するつもりなのかは分からないが、少しでも慈悲を与えてくれるのならば、このまま見殺しにしてほしかった。
放っておけと言えば望みを叶えてくれるだろうか。少年は僅かに残っている力を振り絞って重い瞼を持ち上げると、自分を抱きかかえているその人物を睨みつけた。
「起きたか」
自分の体を抱き上げていたのは、意外にも女だった。生きているか確認するために自分の唇に触れた女だと、少年はその声で気づいた。
自分よりも一回りは上だろう。しかし、掛けられる口調から淑やかな女であるとは言い難い。淑やかな女だとしたら、こんな風にどこの生まれかも分からないみすぼらしい子供を抱きかかえる真似などしないはずだ。
先ほど唇に触れられた時に感じた爛れていた手にも、何か事情があるような気がした。
「………」
ゆっくりと目だけを動かして周りを見てみるが、女の他には誰もいない。
従者にでも自分の身体を担がせたのかと思っていた少年は、まさか女に抱きかかえられるとはと驚いた。
彼女は器用に首と肩の間に簦 の持ち手を挟みながら、自分たちの体が濡れないようにしている。
「……?」
ずっと簦を差していたようで、自分と違って彼女の身体は少しも濡れていなかったのだが、なぜかその頬には水滴が滴っていた。
「なあ、お前…名前は?」
美しい黒曜の瞳に見据えられると、不思議とこの女になら殺されても良いという気になれた。
女の問いに、少年はずっと閉ざしていた唇を動かした。
「…桓騎」
ふうん、と女が楽しそうに目を細める。
「父さんと同じ名だな」
(お前の父親なんざ知らねえよ)
生意気に言い返そうとした桓騎だったが、彼女の腕に包まれる温もりがあまりにも心地よくて、すぐに意識が溶け落ちていく。
瞼を下ろす寸前、自分たちの足元に、もう一本の簦 が落ちているのが見えた。彼女が差しているものとは別のものだ。
あの簦の持ち主が誰だったのか、桓騎は今もその答えを知らない。
芙蓉閣は咸陽にある信が立ち上げた避難所であり、行き場を失った女性や、戦争孤児など、女子供を多く保護している。
信は六大将軍と称えられた王騎と摎の二人の養女である。二人から将の才を見抜かれ、彼女の才は着実にその才の芽を伸ばしていった。
飛信軍を率いる女将軍。今や秦国のみならず、中華全土に信の名を知らぬ者はいない。
王騎と摎に劣らぬ強さは、まさしく秦国を勝利に導くために与えられた才だったのだろう。
信自身が戦争孤児の下僕出身という弱い立場であり、彼女は自分のように恵まれなかった者たちの末路を多く目にしていた。
少しでもそういった者たちを減らす目的で、信は将軍昇格と同時に、芙蓉閣を立ち上げたのである。
駆け込んで来るのは、奉公や嫁ぎ先に恵まれなかった女性たちや、奴隷商人の商売道具として取引される親を失った戦争孤児たちが主である。
こういった保護施設を展開している場所は他になく、信の名前が広まるのと同等に、芙蓉閣の存在は中華全土に広まっていた。
信が独自に行っていた慈善活動だが、今では彼女の親友でもある嬴政や、名家の出である友人たちからの支持と協力を得ている。
捕虜や女子供には手を出さないとして有名な飛信軍と、芙蓉閣の存在は、たちまち中華全土で高い評判を得るようになっていた。
桓騎という名の美しい顔立ちの少年も、戦争孤児として、数年前にこの芙蓉閣に保護された一人である。
おおよそ一月ぶりに芙蓉閣へ視察に訪れた信は、回廊を大股でずんずんと歩いており、誰が見ても苛立っているのが分かった。
今や中華全土にその名を轟かせている女将軍の機嫌が悪いことに、芙蓉閣の者たちは何があったのだろうと怯えている。
回廊の途中にある一室の扉を声も掛けずに勢いよく開けると、信は中にいた桓騎をぎろりと睨みつけた。
後ろをついて回る侍女たちは憤怒している信に怯え切っているというのに、桓騎だけは違った。
大将軍を前にしても頭を下げる様子は一切なく、椅子に腰掛けたまま堂々と寛いでおり、それだけではなく、信の怒りを煽るかのように、大きな欠伸をかましていたのである。
「桓騎」
低い声で名を呼ばれても、桓騎は退屈で気だるげな表情を崩さない。この芙蓉閣で信にそんな態度を取れる者といえば彼だけだった。
他の者たちは信に助けられたという恩を感じているため、彼女に感謝こそすれ、怒らせるような真似は絶対にしないのである。
だというのに、ここ数年の間、信は芙蓉閣で怒鳴り散らすことが増えた。その原因は、全て戦争孤児として保護された桓騎にある。
「なに怒ってんだよ、信」
憤怒の表情を浮かべている信に、桓騎がにやりと笑みを浮かべる。
「んな怒ってたら嫁の貰い手がなくなるぞ?ま、俺がもらってやるから丁度良いけどな」
「そんな話をしに来たんじゃねえッ!」
いつも武器を握っており、女らしさの欠片もない傷とマメだらけの手で拳を作ると、桓騎の頭に振り落とす。鈍い音がして、桓騎は脳天に走った激痛に目を剥いた。
室内に響き渡った音と桓騎の表情を見れば、その一撃がどれほどの威力を持っていたが分かる。
もしも彼女が秦王から賜りし剣を振るっていたのなら、桓騎の首と身体は繋がっていなかっただろう。
「ってーな!何しやがる!」
げんこつを喰らった頭頂部を擦りながら、涙目で睨みつける。しかし、信の怒りは未だ収まることはないらしい。
「また奴隷商人を懲らしめたんだとッ!?手ェ出すなって何度言ったら分かんだよ!」
心当たりのある話を持ち出され、桓騎はつまらなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「どこぞの名家のガキを攫おうとしてたから、とっ捕まえて、見逃してやる代わりに有り金全部くすねてやっただけだ。何か悪いことしたか?」
そのまま役人の元へ連れ出しても良かったのだが、戦争孤児でもない子を商品として売買しようとした罪は重く、間違いなく処刑になるだろう。
役人に突き出さなくても、子供の親のもとへ連れていけば、それはそれで無残に殺されたに違いない。
何としてでも自分の首を守るために、奴隷商人の男は桓騎に必死に命乞いをしたのだという。まだ子供である桓騎に頭を下げてまで。
有り金をあるだけ渡すのを条件に、桓騎はその奴隷商人を見逃してやったらしい。
芙蓉閣は信が立ち上げた保護施設であるが、彼女自身は将軍として戦場に赴くことや兵たちの鍛錬を主としているため、数か月に一度、視察に訪れるくらいだった。
視察に行けない間も、芙蓉閣の管理をしている代人から近況について記された木簡が送られる。
今回送られて来た木簡には、桓騎が奴隷商人から金を巻き上げたことと、それがとんでもない額であったこと、そして全額をこの芙蓉閣に寄付したのだと記されていたのである。
寄付された額を見て、信は目を剥いた。下僕出身であり、あまり金勘定に詳しくない信でさえも大金だとすぐに分かるほどの金額だったのだ。恐らく子どもでも大金だと分かる額だろう。
桓騎が奴隷商人から巻き上げた金は、論功行賞の時に秦王から褒美として授かる額と、ほぼ同等だったのである。
木簡を読んだ信は全ての執務を放棄し、こうして馬を走らせて芙蓉閣までやって来たというワケだ。
女子供を売り物にする奴隷商人がそれほどの金額を稼いでいたという事実は見逃せないが、何よりまだ子供でありながら、そこらの野盗よりも大金を巻き上げたことに驚かされた。
表面的には憤怒しているが、もちろん心配の感情の方が強い。桓騎もそろそろ徴兵に掛けられる年齢とはいえ、まだ子供であることには変わりない。
「一人で危ないことすんじゃねーッ!何度言ったら分かんだよ!」
二度目のげんこつが振り落とされたが、桓騎は後ろに一歩下がることで軽々と避けた。一度目は受けてやっても、同じ手は食らわないことを信条にしているらしい。
「いちいちうるせえなあ。資金繰りに協力してやってんだから感謝しろよ」
わざとらしく溜息を吐きながらそう言うと、信の怒りがますます燃え上がった。
「資金繰りなんてガキが口出す話じゃねーだろ!」
顔を真っ赤にして額に血管が浮き上がっている信を見て、これ以上刺激すると本当に面倒なことになりそうだと桓騎は話題を変えることにした。
芙蓉閣が登場する話(昌平君×信)はこちら
「なら、とっとと俺を飛信軍に入れろよ。そうすりゃ監視下に置けるだろ」
腕を組みながら言うと、怒り一色だった信の表情が一瞬だけ曇った。
「…いや、頼む側のお前が何でそんな偉そうな態度なんだよッ!」
もっともな言葉に、桓騎は肩を竦めるようにして笑う。
「そろそろ恩を返してやるって言ってんだよ」
相変わらず傲慢な態度を続ける桓騎に、先に折れたのは信の方だった。
「はあ…お前ってやつは、どうしていつもそう、太々しいんだか…」
長い溜息を吐いた後、彼女は後ろで苦笑を浮かべている侍女たちに視線を向ける。
彼女の意志を察した侍女たちは礼儀正しく一礼し、その場を離れていく。どうやら桓騎と二人きりで話をしたいようだ。
「飛信軍に入りてえなら、ちゃんと試練に合格してからだ」
試練という言葉を聞き、桓騎の表情がおもむろに曇った。ついでに舌打ちまでしている。
今や中華全土にその名を轟かせている飛信軍に入るには、体力試練というものに合格しなくてはならないのだという。
信を筆頭に、副官を務める羌瘣、そして軍師の河了貂の三人の女性を目当てにやって来る男共も少なくない。
まだ飛信軍が隊の時からその体力試練は行っていたらしいが、彼女たちに近づきたいという安易な理由で体力試練を受けた男たちは必ずと言って良いほど泣かされることになるらしい。
その噂は桓騎の耳にも届いていた。しかし、彼女に命を救われた桓騎は、信さえ言い包めてしまえば自分も飛信軍に入れるものだと思い込んでいたのである。
情に厚い信なら、恩を返したいといえばきっと応えてくれると思ったのだが、どうやらそれで一度痛い目を見たことがあるらしく、総司令や飛信軍の仲間たちからこっぴどく叱られたらしい。
そもそも嘘を吐けない素直な性格の信が、裏での行いなど一切出来ないことは何となく察していた。
彼女らしいと言えば正しくその通りなのだが、桓騎自身も早く飛信軍に入りたいという焦燥感があった。
桓騎には、将軍や軍師として戦場に立ちたいといった想いは一切ない。
彼が飛信軍に入りたいと考える理由は何とも単純なもので、信がいるからであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
芙蓉閣に彼女が訪れるのは視察の時だけで、戦が始まれば長い期間会えなくなる。いくら大将軍の座に就いているとはいえ、いつ敵将に討たれるかも分からない。もしかしたら次に会うことはないかもしれないのだ。
飛信軍に入れば、いつだって彼女に会えるし、傍で彼女を守ることが出来ると桓騎は信じて疑わなかった。
「…そりゃあ、飛信軍が良いって言ってくれるのは嬉しいけどよ…」
不機嫌に顔色を曇らせた桓騎を見て、信が慰めるように言う。彼女の言葉から察するに、どうやら自分が信を目当てに飛信軍に入りたいと思っていることには一切気づいていないようだった。
もしかしたら、今日こそは諦めて飛信軍に入れてくれるのだろうかと桓騎が期待に目を輝かせていると、
「んー…でも、お前が飛信軍に入ると、何だかややこしいことになりそうだって言われてるんだよなあ…」
「あぁ?誰にだよ」
不機嫌に眉を寄せて聞き返すと、信が目を泳がせながらすぐに白状する。
「父さ…王騎将軍だよ」
王騎は天下の大将軍として中華全土に名を轟かせ、そして下僕であった信を養子として引き取った男だ。
さすがに養父の言葉を無視するわけにはいかず、信も悩んでいるようだった。
(余計なこと吹き込みやがって…)
王騎と直接の面識がある訳ではないのだが、信が芙蓉閣での様子や、桓騎のことをよく話しているのだという。
信がどのように自分のことを伝えているのかは分からないが、今回のような奴隷商人から金を巻き上げたことは過去に何度もある。その話だけ聞いた者たちから、自分が相当な問題児とみなされているのは分かっていた。
飛信軍に入るためには信の返事一つあれば良いのだとばかり思っていたが、他の者たちからの許可も必要になるのだとしたら相当面倒だ。
そういった者たちの弱みを事前に握っておけば、飛信軍に入ることを推薦してくれたかもしれない。今回の奴隷商人から巻き上げた資金を賄賂として渡しておけば、全面的に信の説得を強力してくれたのではないだろうか。
そんなことを考えていると、信が思考を読んだのかあからさまに顔色を曇らせた。
「その悪知恵は一体どこで身に着けて来たんだか…」
溜息交じりで信がそう言ったので、桓騎は得意気に笑ってみせた。
「将来困らせることはねえぞ。むしろ傍に置いてて良かったって思うはずだ」
はいはい、と信が呆れた表情で聞き流されて、桓騎は舌打った。
こうなればいくら信でも、まともに取り合ってくれないだろう。
「…そんなに戦に出たいのか?」
束の間、室内が沈黙で満たされた後、信が静かに問い掛けて来た。目を合わせることなく、じっと俯いている。
その問いの真意から、桓騎はまだ自分が子供扱いをされていることを嫌でも理解した。
「俺が犬死にすると思ってんのか」
もしそう思われているのなら、自分は随分と甘く見られているらしい。
信にとってまだ自分は幼い子供で、戦とは無縁の存在だと思われていることは随分と前から分かっていた。
戦で武功を挙げれば相応の褒美がもらえるし、地位や名声を手に入れることだって出来る。しかし、桓騎はそういったものには一切の興味を示さなかった。
飛信軍に入れば、戦場に立つことが出来たのならば、信の傍にいられる。彼女を守ることが出来る。
しかし、桓騎がそれを言葉にしないのは、信から「そんな理由で」と罵られることを分かっていたからだ。
徴兵を掛けられれば、大人しく従わなくてはならない年齢であることは信も分かっている。わざわざ信に懇願しなくても軍に入れられるだろうが、それが飛信軍であるとは限らない。
信がいない軍に入っても、無意味だと桓騎は考えていた。傍で彼女を守れなければ、何の意味などないのだ。
少しでも目を離せば、二度と彼女に会えなくなるかもしれない。そう思えば思うほど、桓騎の中で飛信軍に入りたい気持ちが膨らんでいくのだ。
芙蓉閣を立ち上げたのは信だが、他にもこの保護施設を支援をしている者は大勢いるという。
差配状況が悪くはないことは知っていたが、何かしら騒ぎを起こさないと信は今日のように駆けつけて来ない。
桓騎が初めて芙蓉閣で騒ぎを起こしたのは、この保護施設に逃げ込んで来た自分の妻を追い掛けて来た夫を凝らしめた時だった。
見張りの兵たちを目を潜り抜け、芙蓉閣の敷地内に侵入して来たその男は血走った目で声を荒げながら、自分の妻を探していたのだが、桓騎は怯むことなくその男に立ち向かったのである。
刃物を持っていた男によって多少の怪我は負わされたものの、子供の身軽さを最大限に利用し、結果的には桓騎の圧勝で男を懲らしめた。
その騒動はすぐに信の耳にも入り、怪我の手当てを受けている桓騎のもとにやって来た。
てっきり褒められるのかと思ったが、そうではなかった。自分の顔を見るなり、信に思い切り頬を打たれたことと、その痛みは今でもよく覚えている。誇張なしに鼓膜が破けたかと思った。
他の者たちの被害がなかったことを考えれば、男を捕まえた自分の活躍を褒め称えるべきだろうと逆上すると、
―――ガキのくせに一人で危ないことするなッ!
逆上した桓騎も思わず縮こまるほど、信が憤怒したのだ。思えば、信が桓騎に怒ったのはあの時が初めてだったかもしれない。
怒りと不安と悲しみが織り交ぜられた、何とも言葉にし難い表情を浮かべた彼女に抱き締められ、桓騎は初めて誰かから心配という行為をされたのだと気づいた。
芙蓉閣には桓騎以外にも大勢の女子供がいる。信だって大将軍として多くの執務があるというのに、彼女はそれらを全て投げ打ってまで、駆けつけてくれたのだ。他の誰でもない自分のために。
信に心配を掛けないよう、大人しくしていれば良かったのだが、桓騎はここで騒動を起こせば信が駆けつけてくれると学習してしまったのである。
一度味を占めた桓騎は信に迷惑を掛けないように、こちらに一切の非がない状況を前提として、騒動を起こすようになった。信の顔に泥を塗る迷惑な行為は一切しないが、顔を見ないと安堵できないような心配させるようになった。
芙蓉閣への不法侵入者や奴隷商人といった相手を選び、桓騎がそういった者たちを嬉々として懲らしめるようになったのはその頃からだった。
桓騎が信に好意を寄せているのは誰が見ても明らかだったのだが、なぜか信は未だに気付いていない。
「じゃあな」
どうやらお説教と言う名の用件はこれで終いらしい。まだ陽が沈んでいないことから、今日はこのまま屋敷に帰るらしい。
桓騎は咄嗟に信の腕を掴んでいた。
「ん?」
なんだよ、と信が振り返る。
「………」
あからさまに視線は逸らしているものの、桓騎の手は彼女の腕を放そうとしない。
執務を途中で放棄してやって来たので、そろそろ戻らねばならないのだが、引き留められると、お人好しの信はつい立ち止まってしまう。
それこそが桓騎の足止めであると、彼女は未だに気づいていない。もちろん桓騎の方も気づかせるつもりはなかった。
陽が沈み始めるまでここで粘れば、彼女は諦めて芙蓉閣で一夜を過ごすしかなくなることを桓騎は知っていた。飛信軍の話をしたのも、そのための足止めである。
「………」
「桓騎…お前…」
ばつが悪そうな表情をしている桓騎を見て、信が此度の件を反省しているのだろうと思った。
もちろん表面的な態度だけである。簡単に騙されてくれる信に、桓騎は内心ほくそ笑んでいた。
「………」
信は腕を組んで何かを考えるように目を伏せた。
「…じゃあ、ちゃんと考えといてやるから、もう今回みたいな無茶は二度とするなよ」
「!」
確定ではないが、それでも希望が持てる返事が来たことに、桓騎はすぐに頷いた。
心の中で舞い上がっていると、「じゃあな」と軽快な挨拶と共に、桓騎の腕を振り解いた信はさっさと部屋を出て行ってしまう。
あっ、と桓騎が走って追い掛けた時には、既に彼女は正門に待たせていた愛馬に跨っているところだった。
「信!」
「悪いな。また来るから、いい子にしてろよ」
馬上から腕を伸ばして来たかと思うと、頭をぐしゃぐしゃと乱雑に撫でられた。相変わらず女の上品さなど一欠片も持たない手付きだ。
「あっ…おい!」
手綱を振るうと、すぐに愛馬が駆け出した。子供の足では追えないほど、遠くに行ってしまい、桓騎は重い溜息を吐く。
もう少し足止めをしておけば、久しぶりに一夜を共に過ごすことが出来たのにと桓騎は舌打った。
彼女が眠る布団に忍び込むのも、呆れた彼女に抱き締められながら共に夜を過ごしたのは一体いつが最後だっただろう。
次にそんな機会が来れば、もう簡単に彼女の身体を組み敷くことが出来るほど、この体は男として成長しているかもしれない。
成長した自分を見て、顔を赤らめる信の姿を想像し、桓騎はその日が来るのを楽しみに待っていた。
そして飛信軍に入ることが出来れば、いつだって彼女の褥に潜ることが出来るのだと、幼い頃から桓騎は疑わなかったのである。
大人になれば、さぞや黄色い声を上げられるだろうと芙蓉閣に住まう者たちから期待されていた桓騎は、その想像通りに、端正な顔立ちに加えて大人の魅力を増幅させた。
さまざまな女性から黄色い声を上げられ、多くの視線を向けられるようになったというのに、予想外にも、信だけは桓騎に対する態度を微塵も変えることはなかった。
こんなにも良い男に成長したというのに、いつまでも彼女にとっての桓騎は子どものままらしい。
それでも進展があったといえば、彼女が戦に出ることを認めてくれたことだろうか。
徴兵が掛けられれば従わなくてはならない年齢だった時も、彼女は言葉にせずとも、桓騎を戦に出したくないと思っているようだった。
その理由は恐らく子どもだからだろう。いつまでも彼女が自分を子ども扱いすることが腹立たしかった。
桓騎が信に向けている好意は紛れもなく愛情である。
大将軍に対する尊敬だとか、家族に向けるような恩愛ではなく、桓騎にとって信は唯一無二の存在だった。
しかし、信が桓騎に向ける感情は男女のものではない。きっと幼い頃から自分を保護している慈愛なのだろう。
それから数年の月日が経ち、桓騎は蒙驁将軍の副官として、秦軍を勝利に導いている。
知将として名を広めている彼のもとに、信が訪れた。
論功行賞でも桓騎の活躍は大いに称賛され、褒美として与えられた屋敷は信が住まう屋敷に劣らず立派なものである。
「久しぶりだなあ、桓騎。元気だったか?」
相変わらず護衛を率いることなく愛馬と共にやって来た信は、屋敷の門で出迎えてくれた桓騎を見て、にやっと笑った。
此度の戦に参戦しなかった彼女が、祝杯を手土産に桓騎を労いに来たのだ。
領土視察の任務のために、此度の戦は出陣せず、祝宴にも論功行賞にも顔を出せなかったようで、信が桓騎に会うのは随分と久しかった。
屋敷の一室に案内された信は、持って来た酒瓶をさっそく開け始める。
「今回の戦でも随分活躍したらしいな。やっぱり蒙驁将軍に頼んで正解だったぜ」
二人分の杯に酒を注ぎながら、信が大らかに笑った。
「………」
祝杯だというのに、桓騎の顔に喜色は浮かんでいない。出迎えてくれた時から一度も笑みを見せてくれないことに、信は不思議そうに首を傾げた。
その顔は普段通りの表情ではあるものの、機嫌の悪い空気を発している。
幼い頃から桓騎の成長を見守っていた信は、彼が不機嫌であることに気づいていたのだが、その理由だけが分からずにいた。
「どうした?」
「…白老は、人が良い御仁だ」
他人を蹴落とすことが大好きな桓騎が、ここに来てようやく他人を褒めたことに桓騎の成長を感じながら、信は小首を傾げた。
「…だがな」
桓騎が喉を鳴らして、一気に酒を飲み干す。酒好きな麃公に勧められた酒だろうか。喉が焼けるように熱かった。
「なんで飛信軍じゃなかったんだよ」
手に持っていた酒杯を、わざと音を立てて机に置いた桓騎に、信はきょとんと目を丸めた。雰囲気だけではなく、態度や仕草も完全に怒っている。
そこまで怒りを剥き出しにする桓騎を見るのは随分と久しぶりのことだった。
他の者であれば、その鋭い眼差しに凄まれれば術を掛けられたかのように動けなくなるだろうが、信は違った。
「は?そりゃあ、俺の軍に入れたら贔屓だろ」
酒を注いだ自分の杯を手繰り寄せながら、信が冷静に答える。
少しも躊躇うことなく、あっさりと返答されたことに、桓騎の眉間にますます深い皺が寄った。どうやらまだ納得出来ないでいるらしい。
「良いじゃねえか。俺の下につかなくても、このまま蒙驁将軍の役に立ってれば、すぐにまた昇格するだろ」
笑いながら向かいの席に着いている桓騎の肩を叩くと、ますます切れ長の目がつり上がった。
今から数年前、信は白老と称される蒙驁将軍に、桓騎の身柄を引き渡したのである。
あの生意気な性格とまともに付き合えるのは、心が広い蒙驁将軍だけだろうという判断だった。
徴兵が掛けられる前に、桓騎の身柄を蒙驁へ引き渡したのには理由があった。
この男が配属された軍で大人しく上からの指示に従うとは思えなかったし、気の合わない仲間がいれば容赦なく手を出すだろうと思ったからだ。
それにもしも、養父である王騎の軍に入れば、その態度を問題視されて即座に首を撥ねられることは明らかだった。
桓騎と王騎に面識はないが、芙蓉閣で桓騎が起こした幾つもの騒動は、信の口から王騎の耳にも入っている。昔から桓騎が飛信軍に入りたいと話していることも、信を通して聞いていたのだが、あまり良い顔をされないのは今も同じだった。
恐らく王騎軍以外の軍に入らせても、良い顔はされなかっただろう。
もとより、桓騎は縛られるの嫌がる性格だ。
ある程度の自由を約束されないと独断で何をしでかすか分からないし、それが騒動になれば連帯責任として、桓騎を受け入れた将が罰せられる。
その点、蒙驁は桓騎のような自由人を好きに泳がせる傾向にあった。それでいて桓騎の才を見抜き、それを芽吹かせたのだから、彼には感謝しかない。
桓騎の目を盗んで、信は幾度も蒙驁と連絡を取り合い、彼の口から直接桓騎の様子を聞くこともあった。
その聡明な頭脳を用いることで、初陣を済ませてから桓騎はすぐに昇格していき、今では蒙驁の右腕として活躍している。
蒙驁自身も随分と助けられていると言い、逆に彼から桓騎を軍に入れてくれたことを感謝された時、信は自分の判断が間違っていなかったのだと胸を撫で下ろした。
今や知将としての才をどんどん芽吹かせている桓騎の活躍を知った王騎が「やはりそうでしたか」と意味深に呟いていたことも、信は気になっていた。
まさかここまで桓騎が知将の才を芽吹かせるとは信も予想外だったが、結果としてはこの道に進ませて良かったのだろうと思えた。
…だというのに、桓騎自身は未だ飛信軍に未練があるらしい。
「別に飛信軍に入らなくたって良いだろ。桓騎軍だって、今じゃ秦国には欠かせない存在だ」
望むだけの褒美も大方手に入ったと思うのだが、どうして未だ飛信軍に未練があるのか分からない。
「…お前、俺が将軍昇格だとか、褒美目当てでここまでやって来たと思ってんのか?」
予想もしていなかった言葉を返されて、信の顔から表情が消えた。
「えっ?じゃあ、なんだよ」
本当に分からないといった表情で聞き返されて、桓騎は謎の頭痛に襲われた。
(この鈍感女め)
あからさまに好意を告げても、信は冗談だとしか思っていないらしい。どれだけ真面目に訴えても結果は同じだった。
それはまだ彼女の中で、桓騎という存在が大人の男に昇格出来ていない何よりの証拠である。
信は情に厚い女だ。たかが行き倒れの男児一人くらい見殺しにすれば良かったものを、彼女は目に留まる人々を見捨てられない性格なのである。信自身が下僕出身で、王騎に拾われた過去が影響しているのかもしれない。
飛信軍が捕虜や女子供を殺さないという話が中華全土に広まっているのも頷ける。それは決して噂ではなく、事実だった。
芙蓉閣に住まう女子供や飛信軍の兵たち、民の笑顔を見れば、大勢の人々が信を慕っていることが分かる。
信にとって、自分もそのうちの一人に過ぎないのだろうか。桓騎は時々訳もなく不安を覚えることがあった。
咸陽宮に趙の一行が来ているという報せは、桓騎の耳にも届いていた。
呼び出しを受けた訳ではないのだが、信が赴いているという噂を聞きつけ、久しぶりに彼女の顔を見ようという安易な理由で、桓騎は宮廷へと訪れた。
趙の一行が何用で秦の首府に訪れたのかは分からない。聞いたような気がするが、興味のないことを桓騎は一切記憶しないのだ。
宮廷の廊下を慌ただしく従者たちが行き来している。酒や料理の準備をしている姿を見て、宴の準備が始まるのだと察しがついた。
趙の一行をもてなすのだと分かったが、彼らが来ると分かっていながら、事前に宴の準備をしていなかったのは何故だろうか。
廊下の隅で官僚たちが何やら声を潜めて話をしている姿を見て、桓騎はそちらの方向に用があることを思わせるような、自然な足取りで歩いた。
すれ違い様に彼らの話に耳を傾けると、どうやら秦趙同盟が結ばれたのだという。
(随分と急だな)
馬陽の戦いから一年の月日しか経っていない。それに、秦と趙の現在の情勢からして、同盟を結ぶような必要などないようにも思う。
総大将を務めた王騎の死により、馬陽の戦いでは秦軍が敗北となった。相手は趙軍で、出陣しなかった桓騎の耳にも、王騎の死と敗北の報せは届いた。
こちらが勝利しようが敗北しようが興味はなかったのだが、飛信軍が相当な被害を受けた話だけは聞き逃さなかった。
さらに、信の養父である王騎の死は、信の心に相当深い傷をつけたらしい。
王騎の弔いの儀の後、見舞いと言う名目で信の屋敷を訪れたが、そこに信はいなかった。侍女たちに話を聞くと、どうやら彼女は幼少期を過ごしていた王騎の屋敷に引き籠っているのだという。
今でこそ、ようやく普段通りに話をすることが出来るようになったのだが、あの時の信はまるで抜け殻のようだった。
桓騎の前では気丈に振る舞い、涙こそ流していなかったが、ふとした拍子に今にも泣き出してしまいそうな子供のような表情を浮かべていたことはよく覚えている。
(信は宮廷に呼び出されたのか?それとも自ら赴いたのか?)
王騎を討ち取ったとされる敵国との同盟を、信が素直に認めたのかが気になる。もちろん同盟成立において、将軍である彼女の意志が尊重されることはない。
この場に彼女が来たのは高官から呼び出されたのか、それとも自らの意志なのだろうか。
何となく後者な気がしていると、回廊を歩く信の後ろ姿を見つけた。地面を睨みつけながら歩いているが、随分と重い足取りだった。
「信」
背後から声を掛けると、一度立ち止まった彼女は、表情を繕ったのか、少し間を置いてからこちらを振り返った。
「よお、桓騎。お前も来てたのか」
口元だけに笑みを携えている、下手な作り笑いだ。嘘を吐けない彼女が無理をしている時、いつもぎこちない笑みを浮かべる。
何と言葉を掛けるべきか一瞬悩んだが、同盟のことには触れない方が良いだろう。その延長で王騎の話題にでもなったら、間違いなく信は悲しむ。
今でも養父の死を悼んでいることから、彼女の心の傷がまだ癒えていないのは明らかだったし、彼女のことが大切だからこそ、自分の不用意な発言でその傷口を抉るような真似をしたくなかった。
適当な話題でもしようと桓騎が口を開いた時だった。
「久しぶりです、信」
自分の知らない間に、背後に誰かが立つというのは嫌悪に直結するものだ。反射的に桓騎は振り返った。
声を掛けて来たのは金髪の男だった。青い着物に身を包んでいて、すらりと背が高く、桓騎も僅かに視線を上向けなければならないほどだった。
着物から覗く首筋や手首のがっしりとした骨付きを見ると、筋骨の逞しい体をしていることが分かる。
しかし、その体格とは真逆で、威圧的な雰囲気は微塵もなかった。
むしろ誰とでもすぐに打ち解けられそうなほど、人の良さそうな笑みを浮かべている。
(こいつ…)
しかし、彼の瞳は鋭利な刃物のように鋭く、決して触れてはいけない何かを持っていることを危惧させる。
腹の内にどんな黒いものを隠しているのかが分からず、桓騎は思わず眉根を寄せた。
「李牧…」
驚いた信が男の名を呼んだので、知り合いなのだろうかと桓騎は二人を交互に見た。
喜悦と困惑が入り混じった表情で身じろいだのを見ると、信がこの李牧という男にどういった感情を抱いているのかが分からなかった。
信と共に過ごす時間はそれなりに長かったはずだが、李牧という名は一度も聞いたことがない。
震えるほど強く拳を握った信が李牧を睨みつける。彼女が首を真上に向けなければならないほど、李牧と信はかなりの身長差があった。
信に睨みつけられているというのに、李牧は少しも臆する様子はない。それどころか、慈しむような眼差しを向けていた。
「馬陽での戦…お前の軍略だったんだろ」
低い声を震わせ、信が唸るように言った。その声には、凄まじい怒りで込められている。
信の言葉から察するに、この男は趙の軍師らしい。王騎を討つ軍略を企てたのがこの男だと、信は分かっているようだった。
「ええ、そうです。戦では姿を伏せていましたが、あなたなら気づくと思いました」
あっさりと頷いた李牧に、信が力強く奥歯を噛み締めたのが分かった。
「…対抗策を投じる時間も与えたつもりだったのですが、残念ながら結果は変わりませんでしたね」
その言葉が火種となったのか、信は弾かれたように駆け出し、彼の胸倉を掴んだ。
「なんでッ…!なんで、父さんを…!」
その言葉を聞いた桓騎は二人の関係に仮説を立てた。元々面識があったのだろうが、王騎の死をきっかけに、二人の間に大きな亀裂が入ったのだろう。
好敵手という関係で結ばれているのかとも思ったが、李牧の微塵も揺らぐことのない余裕ぶりを見る限り、そういった関係ではないことは明らかである。
もともと二人の間に亀裂が入っていたのかは定かではないが、王騎のことをきっかけに、元には戻れぬほど深い溝が広まってしまったようだ。
父の仇ならばさっさと斬り捨てれば良いものを、それをしないのは、秦趙同盟が成立してしまったことも関わっているのだろう。
しかし、それだけではなく、王騎を死に至らしめた理由を問うていることから、信はこの男を殺せないのは、何か別の感情が邪魔をしているからなのだと桓騎は思った。
「………」
信に凄まれても、李牧は眉一つ動かすことはしない。
(こいつ…)
余裕しか持ち合わせていない態度に、二人を見ている桓騎もやや苛立ちを覚えた。
胸倉を掴んでいる信の手を覆うように、そっと大きな手で包み込んだ李牧は穏やかに笑んだ。
「こちらの目的を果たしただけです」
「目的…?」
信が眉根を寄せて聞き返す。
「王騎の死。それが馬陽での目的でした」
ひゅ、と信が息を飲んだのが聞こえた。それまで憤怒していた彼女の表情に、怯えとも不安とも似つかない色が浮かび上がった。
みるみる青ざめていく彼女を慰めるように、慈しむように、李牧は反対の手で彼女の頬を撫でる。
まるで触れられた場所から凍り付いていくかのように、信は身動き一つ出来ずにいた。唇を戦慄かせてはいるものの、声を象ることはない。
「馬陽には、あなたも出陣していたのですよね?…無事で良かった」
信の無事に安堵するその言葉には、やや矛盾を感じさせるものがあった。
この男が趙の軍師だということは確定したが、王騎を敵視していながら、なぜ信の無事を喜ぶのだろう。二人の間に、桓騎の知り得ない事情があるのは明らかだった。
信の頬を撫でていた李牧が心配するように、信の顔を覗き込んだ。
「…少し熱がありますね。悪化する前に、きちんと休まなくてはいけませんよ。宴の席は出ない方が良い」
「触んなッ!」
弾かれたかのように、信は李牧の腕を振り払う。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
肩で息をしているところを見れば、王騎を殺した張本人を前にして憤怒していることが分かる。しかし、相変わらず背中に携えている剣を抜こうとはしない。
感情的になりやすい彼女が、自らを制するように拳を握り締めているのを見て、桓騎は違和感を覚える。
その拳から赤い雫が滴っていることに気付き、桓騎はすぐに声を掛けた。
「おい、信ッ…!」
「信、無意味なことはやめなさい」
李牧は穏やかな声色を崩すことなく、彼女を諭すようにして、血を流している右手をそっと両手で包み込んだ。
「ッ…!」
深く爪が食い込んだ手の平を開かせると、李牧は迷うことなく、そこに唇を寄せた。
信が目を見開いていたが、驚いて声を喉に詰まらせるばかりで、先ほどのように振り払うことはしない。
懐から手巾を取り出した李牧が、傷ついた手の平をそっと包み込む。
きつく手巾を結んでやり、簡易的に止血の処置を行うと、彼はにこりと微笑んで彼女の手を放した。
「では、また」
さりげなく再会の約束を取り付け、李牧は背を向けて歩き出す。宴が行われる間に向かったようだ。
桓騎の存在はずっと視界に入っていたはずだが、まるでそこにいないものとして扱っているように、李牧は一瞥もくれずに去っていった。
(あいつ…)
その無言の態度が、まるで敵視する価値もないと言い表しているようで、桓騎は腸が煮えくり返りそうになる。
残された信は遠ざかっていく李牧の背中を見つめながら、何か言いたげに唇を戦慄かせていたが、言葉に出すことはせず俯いてしまう。
「おい、信」
声を掛けると、彼女は弾かれたように顔を上げた。
すぐにでも李牧とどういった関係なのか問い詰めたかったが、桓騎は手巾で包まれた信の手を掴んだ。
「手当てに行くぞ」
「…ほっとけよ。こんなの、すぐ治る」
先ほど李牧が唇を寄せていたことを思い出し、桓騎は反吐が出そうになった。
本当に戦場で武器を振るっているのかと疑わしくなる細い手首を掴み、桓騎は彼女を引き摺るように歩き出す。
自分以外の男に、特にあの男のせいで信の傷が癒えるなんて、考えたくもなかった。
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