質の高い自然科学研究への貢献度 中国が初めて米国を抜いた
≫続きを読む
Just another WordPress site
苦手な方は閲覧をお控え下さい。
「信、その人に騙されちゃだめえーッ!」
部屋の外で待っていたはずのオギコが飛び込んで来た。
「オギコッ?ど、どうしたんだよ」
本当に野盗だったのかと疑うほど、オギコの円らな瞳に涙が浮かんでいたので、信は驚いた。隣で小さな舌打ちが聞こえたが、きっと気のせいだろう。
オギコに両肩を掴まれて、信は体をがくがくと揺すられる。
「信!浮気したらお頭が悲しむよ!お頭が泣いちゃうよ!?」
「う、浮気ぃッ?」
まさかオギコの口からそんな物騒な言葉が出て来るとは思わず、信は眉根を寄せた。
どこから話を聞いていたのかは知らないが、妙な誤解をされては堪らない。
確かに蒙恬の妻になる話をしていたが、それはあくまで蒙驁を安心させるための単なる偽装工作だ。本当に婚姻を結ぶわけではない。
しかし、オギコはこちらの話を聞く素振りを見せず、蒙恬を指さした。
「その人っ、ずっと前からお頭が嫌いって言ってた!信のこと狙ってるって!」
「え、俺?」
まさかオギコからそんなことを言われると思わなかったのだろう、蒙恬が呆気にとられた顔を浮かべる。
同じく呆気に取られている信の腕をぐいぐいと引っ張り、オギコはまるで蒙恬から守るように自分の背中に隠そうとした。
「信は強くても騙されやすいから心配だって、お頭いつも言ってたよ!特にその人は危ないって!」
「え?え?」
まさかここに来て、桓騎が自分の心配を、それも蒙恬から騙されるのではないかということを話していたと知り、信は困惑した。
いつも戦況を手の平で転がしているあの桓騎でも、心配事を口に出すことがあったのかと驚いていると、蒙恬が困ったように苦笑を深めた。
「心外だなあ。俺が信将軍を騙すと思われてるだなんて」
やれやれと肩を竦めながら蒙恬が笑うものだから、信も同じようにオギコに呆れた笑みを浮かべた。
「そうだぞ、オギコ。蒙恬が俺を騙すなんて、そんなことするワケねーだろ。今は、その…作戦会議してたんだ。悪いが、話は後でな」
さすがに最初から説明するのは面倒だったし、オギコが全てを理解するとは思わなかったので、信は適当に話を終わらせることにした。
しかし、オギコは信の腕を掴んだまま離さない。
「オギコ?」
なおも引き下がろうとしない態度に、信は珍しいなと目を丸めた。
「信!騙されちゃダメ!信は、お頭のお嫁さんになるんだからッ!」
真面目な顔でオギコがそう言い放つものだから、信は頭がくらくらとした。
(桓騎のやつ、オギコになんつー話をしてんだよッ…!)
昔から桓騎が自分に想いを寄せているのは知っていたが、まさかそれを仲間たちにも話しているとは思わなかった。
円らな瞳に涙を浮かべているオギコに真っ直ぐ見つめられると、信の良心がぐらぐらと揺れてしまう。
オギコが蒙恬を敵視したまま引き下がらないので、信は仕方ないと頷いた。
きっと自分と蒙恬が二人でいる限り、オギコは心配してここから立ち去らないだろう。
「あー…それじゃあ、蒙恬は王翦軍の補佐を頼む」
こちらの制圧手続きは摩論が取り仕切っているので、二人でいたところで特にやることはないのだ。撤退の準備も城の制圧手続きが終わらない限りは始められない。
王翦軍の方は、王翦を慕う優秀な配下たちによって制圧手続きをしているだろうが、主が不在である分、なにかと指揮を必要としているかもしれない。
蒙恬は王翦よりも立場は下だが、優秀な知将であると秦国で評価されている。信からの命令だと言えば、王翦の配下たちも嫌な顔をすることなく指揮を任せてくれるだろう。
しかし、蒙恬は不思議そうな顔で小首を傾げていた。
「え?王翦将軍なら、制圧手続きを終えて、すでに撤退をしているようでしたけど…」
「…はっ?」
王翦がすでに撤退を終えていると聞き、今度は信が小首を傾げる番だった。
「間違いないのか?」
「ええ。俺が到着する前には、すでに撤退を終えているようでした。道中すれ違ったので、間違いないかと」
鈍器で頭を殴られたような衝撃に、信は思わず座り込んでしまいそうになった。
「桓騎の野郎…わざと声掛けなかったな…!」
副官の二人で蒙驁の見舞いに行くように伝えた時、桓騎は王翦には自分から声を掛けると言った。しかし、蒙恬の証言によると、王翦自身が制圧と撤退の指揮を取っていたという。
どうやら桓騎は彼に声を掛けずに蒙驁のもとへ行ったらしい。きっと桓騎のことだから面倒臭がったに違いない。
危篤の報告は王翦にも送られていたようだし、帰還後に見舞いに行ってくれるならと思ったが、今はそれよりも桓騎が自分に嘘を吐いたことが許せなかった。
しかし、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない。
桓騎へのお説教は帰還後にするとして、今は目の前のことに集中しなければ。
信は溜息を吐いてから蒙恬に向き直った。
「こっちは今、摩論が仕切ってんだ。せっかく来てもらったのに、悪いが…」
今は特にやることがないのだと申し訳なさそうに信が告げると、蒙恬はにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「いえ、信将軍と一緒にいられれば、それで」
端正な顔立ちである蒙恬に笑顔でそんな甘い言葉を囁かれれば、女なら確実に心を奪われるだろう。
しかし、信の心は微塵も揺らぎはしなかった。
信の鈍さはある意味、長所であるが、それは裏を返せば短所にもなり得る。桓騎が危惧していたのはそこだった。
甘い言葉を囁けばすぐに女を落とせる蒙恬が、唯一信だけは落とせない。それは蒙恬の勝負心に火を点けてしまう。
いずれ蒙恬が強硬手段に出ると睨んでいた桓騎は、蒙恬と信を二人きりにさせる訳にはいかなかったのである。
謙虚さとは異なるかもしれないが、とにかく、信は自分のこととなると自覚が足りない。それが危ないのだと桓騎が愚痴を零していたのをオギコがよく覚えていたことが幸いしたのだった。
桓騎以外の仲間たちにもバカだと罵られるオギコではあるが、こう見えて物覚えは良い方なのである。
「ねえ、信!やっぱりこの人危ないよ!お頭がこの人と信を二人きりにさせたらダメって言ってたの、オギコ、聞いてたもん!」
「あのなあ、オギコ…」
困ったように信が頭を掻く。
決してオギコを信頼していない訳ではないのだが、いきなりそんなことを言われても困ってしまう。
「信将軍、お待たせしました」
ちょうどその時、制圧手続きを終えた摩論が部屋にやって来た。
蒙恬の姿を見て、なぜ彼がここにいるのかと驚いていたものの、彼はまず報告を始める。
「提出する書簡の準備も終わりましたので、明日の早朝に出立しましょう」
「はあッ!?明日の朝だとッ?」
数日待たされた上に、まさか今夜もここで一夜を明かすことになるとは思わず、信はつい声を荒げた。
しかし、摩論は冷静に相槌を打つ。
「ええ。もう日が沈み始めていますし、今から出立準備を行えば、夜になってしまいます。明日の朝から出立準備を始めるのが適切かと」
窓を見れば、確かにもう日が沈み始めている。そういえば蒙恬がここに到着した時にはすでに日が傾き始めていた。
夜に野営をするには様々な危険が伴うものだ。
当然だが、陽が沈むと視界が悪くなる。あとは秦へ帰還するだけとはいえ、移動には不向きな時間帯となる。
魏軍からの奇襲の心配はないとしても、夜間の冷え込みを軽視するわけにはいかない。負傷した兵たちに酷な環境で休養を取らせることになってしまう。
諦めて朝まで待てという摩論の言葉に、信は歯がゆい気持ちに襲われた。
蒙驁のことが心配だし、桓騎がちゃんと彼の見舞いに行けたのかも気になるが、自分がいかに焦ったところで、確かに今から撤退を始めるのは現実的ではない。
「…分かった。明朝にここを発つぞ。全員に伝えろ」
「畏まりました」
信は諦めて、今夜もこの城に留まることを決めた。
明日ここを発つとして、秦に帰還するまでにはまた数日掛かる。
帰還したら蒙驁のところに顔を出したいが、桓騎にも説教をしなくてはならないなと考えた。
焦燥と苛立ちに険しい表情を浮かべていた信だったが、摩論の美味い手料理で腹を満たすと、すぐに機嫌は良くなった。
腹が満たされれば機嫌が良くなるだなんて、我ながら単純だと思ってしまう。
報告を受けた後から、摩論がやけに気前良く接して来たので、信はてっきり制圧手続きが遅くなったことを許してもらおうとしているのだと疑わなかった。きっと城の中に、金目の物をたくさん見つけたのも、彼の機嫌が良い理由だろう。
本来ならば手に入れた物資は、価値に関係なく上に報告しなくてはならないのだが、信は仕方なく目を瞑ることにした。
いくら桓騎の管轄下にあったとしても、元野盗の連中で形成されている軍だ。時には卑怯な手を使って金品を奪うこともあることを信は知っていた。
もしもこれが制圧した城ではなく、魏の民たちが住まう村から強引に押収していたとなれば、信も黙ってはいなかっただろう。
「信将軍。食後にこちらをどうぞ」
酒瓶を差し出され、信はまさかここで酒が飲めることになるとは思わず、目を見張る。
「地下倉庫に保管されていました。どうやら地酒のようでして、お頭も大層気に入っておりました。どうぞこの機にご賞味あれ」
「おう」
酒瓶を渡されて、信はすぐに受け取った。
大した働きはしていないが、制圧手続きが終わるまで大人しく待ってやったのだから、これくらいの気遣いは受け取ってやろうと、信は上機嫌になる。
「あ、いいなあ」
蒙恬がもの欲しそうに酒瓶に視線を向けている。
目が合うと、蒙恬は慌てて口を閉ざし、何事もなかったかのように咳払いをして取り繕っていた。
「お前も飲むか?」
酒瓶を手に取りながら気さくに誘いを掛けるが、蒙恬は困ったように眉根を寄せている。
桓騎と違って、自分の立場をよく心得ている蒙恬は、安易に信からの誘いを承諾出来ないのだろう。
次の戦で武功を挙げれば蒙恬も五千人将だが、それでも将軍である信よりも下の立場だ。
しかし、幼い頃は無邪気に自分に絡み付いて来た少年の頃に比べると、蒙恬も立派に成長している。
軍師学校を首席で卒業したという話を聞いた時は、自分のことのように喜んだものだ。懐かしい思い出につい頬が緩んでしまう。
いずれは自分と肩を並べて戦に出る日も近いだろう。
「どうせもう、あとは帰還するだけなんだ。そう畏まるなよ」
信がそう言うと、蒙恬は少し悩む素振りを見せてから、甘えるように上目遣いになった。
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
にやっと蒙恬が口角をつり上げる。
「信と一緒に飲むなんて、久しぶりだね?前の祝宴以来だっけ」
「ああ、そうだな。あの時は介抱させちまって悪かったな」
祝宴で酒の失敗をしたことを思い出し、信は照れ臭そうに笑う。
「ううん。あの時の信、面白かったよ」
将軍という呼称をつけず、敬語もなしに会話をするのは随分と久しぶりだった。
李牧率いる合従軍との激しい防衛戦の後は、被害を受けた城や領土の修繕と療養に専念していたため、祝宴は行われなかった。
深手を負った信もずっと屋敷で療養していたため、酒を飲むのも久しぶりで、つい上機嫌になってしまう。
二人分の杯を摩論に用意してもらってから、蒙恬は笑顔で信に酒を注いだ。
ちょうど喉が渇いていたのもあって、蒙恬が自分の杯に酒を注ぐのを待たずに信は杯を呷った。
「…おっ、美味い酒だな」
倉庫で見つけたという地酒は、清涼感を感じられるすっきりとした味わいのものだった。後味に独特な苦味を覚えたが、口当たりが軽いせいか、飲みやすい印象がある。
しかし、酒を流し込んだ喉がじんわりと熱くなったので、それなりに強い酒なのだろう。飲み過ぎないように気をつけた方が良さそうだ。
「うん、これは味わい深いね」
向かいの席に座っている蒙恬も、美味そうに杯を呷る。
あっと言う間に空になってしまった杯におかわりを注ぎながら、信は夕食の感想でも語るような、さり気ない口調で蒙恬に問い掛けた。
「で?本当は何しに来たんだよ」
驚いたように蒙恬が顔を上げる。
「…何のこと?」
わざとらしく聞き返されたので、信は肩を竦めるように笑った。
「別に話したくないなら良い」
こちらも興味がある訳ではないと素っ気なく返し、信は酒を口に運んだ。
蒙驁が危篤状態を脱したとはいえ、蒙恬にとって大切な祖父であることには変わりない。
いつ何が起きても看取りが出来るよう、傍についてやれば良いのに、蒙恬が自分の補佐をするためだけに、わざわざやって来たとはとても思えなかったのだ。
屋敷に来るような距離ではなく、魏の敵地まで来るのだから、何か相当な理由があるに違いないと信は睨んでいた。
そしてそれが蒙驁を安心させるために、蒙恬の妻のフリをするという頼み事でないことも分かっている。
あれはきっと自分をからかっただけだろう。オギコが止めに来てくれなかったら、蒙恬の口から種明かしをされると信じて疑わなかった。
「………」
何かしら自分の協力を必要としているのかもしれないと思っていたが、蒙恬は困ったような笑みを浮かべるばかりで、何も答えようとしない。
気のせいならそれでいいし、いずれ本当に手が必要になったのなら、その時はきっと蒙恬の方から話し始めるだろう。あまり深く考えないことにした。
「…桓騎と結婚するの?」
まさかここで桓騎の話を、しかも婚姻の話題を投げ掛けられて、信は大きくむせ込んだ。酒が引っかかった喉が焼けるように熱くなる。
「いきなり、何の話…!」
どうにか呼吸を整えながら蒙恬を睨みつける。
しかし、いつものような薄い笑みはそこになく、まるで体の一部が痛むかのような顔で、じっと信のことを見つめていた。
そんな痛ましい表情をしている蒙恬を見るのは初めてのことで、信は呆気にとられた。
「蒙恬?」
空になった杯を机に置くと、蒙恬は静かに手を動かして、信の手を上から包み込むように握って来た。答えるまで逃がさないとでも言っているかのようだ。
「…分かんねえよ」
抵抗のつもりで、信は視線を逸らす。しかし、答えをはぐらかした訳ではない。本当に分からないのだ。
今の関係になるより、もっと以前から桓騎から求婚はされていたのだが、適当にその話を流して、返事をずっと先延ばしにしていた。
信の生きる道が将という道しかないことも桓騎は受け入れており、自分の妻になったとしても、将の座を降りる必要はないと言われた。
子を成すこともないのなら、婚姻を結ぶ意味などないと思っていたのだが、桓騎としては自分たちの関係に正式な名前が欲しいらしい。
李牧とのことがあってから、求婚される数と頻度が増えたのはきっときのせいではない。
嫉妬深い彼のことだから、自分の妻という名目をつけることで、虫除けをするつもりなのだろう。
しかし、信が彼の求婚を承諾しないことには理由があった。
戦以外何も知らぬ自分は、これからも幾度となく命の危機に晒される。そんな女を妻に迎えても、良いことなど一つもない。
親友の嬴政が中華統一の夢を果たすまで、簡単にやられるつもりはないのだが、李牧と再会してから弱気になってしまうことがあった。
王騎を討ち取るほどの軍略を企てた李牧に、勝てるのだろうかと不安が耐えないのだ。
李牧率いる合従軍が秦を滅ぼそうと侵攻して来たのは、そう遠い昔の話ではない。
秦趙同盟で再会をした時に、李牧が趙へ来いと言ったのは、秦がいずれ滅びる未来を予言してのことだった。李牧と決別をしても、絶対にこの国を守り抜くと心に誓っていたが、合従軍の侵攻の伝令が聞いた時は愕然とするしかなかった。
防衛は成功に終わったが、もしも山の民の救援がなかったのなら、蕞は敵の手に落ち、あの戦いで嬴政の首も奪われていただろう。
あの戦いで、信は李牧の揺るぎない意志を目の当たりにした。次に同じようなことが起きれば、果たして自分は国を守り切れるだろうか。
合従軍の侵攻があってから、信は心の中で不安を抱えており、桓騎からの求婚の返事を考えられずにいたのだ。
「信?」
声を掛けられて、信ははっと我に返った。
急に押し黙ってしまったこと彼女に、蒙恬が不思議そうに小首を傾げている。
何でもないと返し、信は蒙恬に握られていた手をさっと離した。
「桓騎のこと、考えてた?」
こちらの反応を少しも見逃さないと言わんばかりの眼光を向けられる。
「いや…」
敵の宰相、それも合従軍を率いて秦に攻め込んで来たあの男と過去に繋がりを持っていたことは、そうやすやすと打ち明けられるものではない。下手をしたら密通の疑いを掛けられてしまう。
もちろん自分を全面的に信頼してくれている仲間たちが、簡単に謀反の疑いを向けて来るとは思えないが、王騎を討ち取った軍略を企てた男と関係を持っていた事実を快く思わない者たちだっているだろう。
「ふうん?」
追求されることはなく、蒙恬は大人しく引き下がってくれた。
そのことに安堵していると、急に瞼が重くなって来て、信は反射的に目を擦った。
「ふあ…」
堪えようと思ったのに、大きな欠伸が出てしまう。程良く酒が回って来たのだろう。
「信将軍、もうお休みになった方がよろしいのでは?」
眠そうにしている信を見て、蒙恬が気遣うように声を掛けてくれた。
先ほどまでは砕けた口調で会話をしていたというのに、急に蒙恬が礼儀正しい口調に切り替わったことに苦笑を深める。
桓騎も蒙恬のように、こういった立場の使い分けを上手く出来るようになってもらいたいものだが、あの性格はきっと生まれ持ってのもので一生変わることはないだろう。
「…そうだな。明日は早いし、そろそろ休むか。お前も休めよ」
「はーい」
間延びした返事を聞いてから立ち上がった途端、
「ッ…!」
目の前がくらりと揺れて、信は咄嗟に机に手をついた。
「大丈夫?」
こちらに駆け寄って来た蒙恬が、心配そうに顔を覗き込んで来る。
口にした時から強い酒だと分かっていたので、飲み過ぎないように気をつけてはいたのだが、一気に酔いが回ってしまったのかもしれない。
「…、…ぁ、…っ…?」
心配させないよう、何ともないと言おうとして、信は舌のもつれを自覚した。
口が上手く回らず、舌に僅かな痺れを感じる。
(何か、おかしい…)
身体に上手く力が入らず、信はずるずると椅子に座り込んでしまう。自分の意志と反して脱力してしまう身体に、信は違和感を覚えた。
(なんだ?何が起きてる?)
舌の痺れだけでなく、身体の芯から力が抜けたように、信は机に突っ伏してしまう。
瞼は変わらず重い。酔いが回ったせいで眠気が来たのかとも思ったが、舌の痺れや脱力感から察するに、酔いが原因ではないことは明らかだった。
「…信。動けないなら、運んであげる」
動けずにいる信を見下ろしている蒙恬は、やけに楽しそうな声色だった。
こちらはまだ何も答えていないというのに、動けないことを知っているかのような言葉に、信は警戒する。
しかし、背中と膝裏に手を回されたかと思うと、簡単に身体を横抱きにされてしまう。
「ほら、ゆっくり休んで?」
部屋の奥にある寝台に身体を寝かせられると、もう休んで良いのだと体が訴え始め、信の睡魔はますます重くなって来た。
「…蒙、恬…ッ…?」
気を抜けば目を閉じてしまいそうなのを何とか気力で堪えながら、信はどうにか蒙恬を睨みつける。
もつれた舌で名前を呼ぶと、彼は驚いた顔をしていた。
「まだ起きていられるんだ?すごいね」
彼の独り言を聞きつけ、それが何を意味しているのかを考えるが、頭も働かなくなって来た。
こうなれば自ら痛みを与えて、強制的に睡魔を遠ざけようと、信は腕を動かす。太腿に爪を立てようとしたのだが、蒙恬は軽々とその手を押さえ込んだ。
「眠っていいよ、信。その方が俺も心が痛まないし。押さえつけて無理やり犯す趣味はないから」
「っ…」
言葉の半分も理解出来ないまま、信は瞼を下ろしてしまう。視界が真っ暗になった途端、たちまち睡魔によって、意識が塗り潰されていく。
「…そうだ。本当は何しに来たか、教えてあげるね」
蒙恬の指がそっと信の前髪を梳いた。
「夜這いってところかな?」
その声はもう、信の意識には届いていないようだった。
「…信?」
名前を呼んでみたが、もう彼女の意識には届いていないようで、返事はない。代わりに静かな寝息だけが聞こえた。
確実に眠っていることを確認してから、蒙恬は一度寝台から離れると、扉の方へ向かう。
途中で邪魔が入らないように、扉に閂を嵌め、準備が整ったと言わんばかりに目を細める。
再び眠っている信のもとへ近づいた蒙恬は、手を伸ばして、彼女の頬に触れた。
「あーあ、もう泣き落としは効かなくなっちゃったか。昔はこれで楽勝だったのになあ」
幼い頃だったならば、信はきっと騙されてくれただろう。
泣き落としも演技だと気づかれているのなら、多少強引な手段で落とすしかない。
(まさか桓騎に先を越されるとはね…)
名前を口に出すのも腹立たしいくらいだが、信が桓騎と恋仲になったのは事実だ。
素性も分からぬ下賤の出であるあの男は、保護してくれた信のことを随分と慕っていた。生意気にも彼女を娶ろうとしており、蒙恬はずっと昔から阻止しなくてはと考えていた。
桓騎が信に惚れ込んでいるように、蒙恬だって桓騎が信と出会うよりも、もっと前から信に想いを寄せていたのである。
自分の方が桓騎よりも長く一緒にいたのに、蒙恬はどうして信があの男を選んだのかが今でも分からなかった。
素性が分からないとしても、信が目の前で困っている人々を放っておけない質であり、桓騎も彼女に助けられた多くの人々の中のたった一人に過ぎない。
信も桓騎のしつこさには困っているように見えたし、彼からの好意を軽くあしらっている姿を見ていたので、二人が結ばれることはないと過信していた。
しかし、秦趙同盟の後に二人はめでたく結ばれ、その噂が大いに秦国で広まった時、蒙恬はあまりの衝撃に眩暈を起こしてしまった。
こんなことになら、早々に行動をして関係の発展を阻止しておくべきだったと後悔している。
それでもまだ、蒙恬には一つだけ勝算が残されていた。
これが卑怯な方法であることは、蒙恬はもちろん理解していた。
一生信に嫌われることになり兼ねないこと分かっていたし、それでも蒙恬がこの卑怯な方法を実行に移したのは、他でもない信を手に入れるためである。
「ごめんね、信」
薬で眠っている彼女に謝罪するものの、その口角は僅かにつり上がっている。
罪悪感で良心が痛まない訳ではなかったし、信に嫌われることは極力避けたい。しかし、それよりも彼女を手に入れる報酬の方が大いに価値があった。
(俺の方が、桓騎よりずっと長く一緒にいたのに)
つい愚痴のように零してしまう。共に過ごした時間で言うならば、明らかに桓騎より自分の方が長い。
幼い頃、ようやく自分の足で立てるようになった頃から、信とは面識があった。
王騎の養子として引き取られた信は、時々蒙家の屋敷に訪れていたのである。
父の蒙武と、信の養父である王騎はあまり仲が良くなかった。
冗談を言って相手をからかうことが大好きな王騎の性格と、いつだって武に一途である蒙武の性格と単純に馬が合わないらしい。
それゆえ、王騎から蒙武に何か言伝がある時は、よく信が駆り出されていたのである。王騎自身も蒙武をからかい過ぎてしまうという自覚があってのことだったのだろう。
伝令に任せれば良いものを、王騎が信に言伝を頼んでいた理由は、蒙恬も聞いたことがないのでよく分かっていない。
父である蒙武が本能型の将であることから、彼と関わる機会を少しでも作ることで、王騎は娘の信に何かを学ばせようとしていたのかもしれない。
信のことは蒙武も嫌悪している様子はなかったし、言伝も素直に聞いているようだった。それから考えると、やはり信に使いをさせたのは、王騎に考えがあってのことだったのだろう。
王騎が討たれた今となってはそれが何か知る由もないし、以前酒の席でそれとなく信に尋ねた時も、彼女は知らないと言っていた。
理由が何であれ、王騎のおかげで、信は蒙家の屋敷に顔を出してくれて、蒙恬は彼女に想いを寄せるようになっていたのである。
…それが気づけば、桓騎という男に信の心が盗まれてしまっていた。
芙蓉閣という信が立ち上げた保護施設があり、そこは行き場のない女子供の避難所である。桓騎は信に保護された戦争孤児だという。
信が身寄りのない子供を保護するのは別に珍しいことでもないし、桓騎が特別な存在になるとは予想もしていなかった。
調査によると、桓騎は保護された幼少期からずっと信に好意を寄せていたという。
将軍としての執務もあり、頻繁に芙蓉閣に訪れることが出来ない信を呼び出すために、あれこれと問題を起こしていたらしい。
とっとと追い出せば良いものを、信は桓騎に説教をするために、将軍としての執務を投げ出してまで芙蓉閣に赴いていた。それを分かった上で、桓騎は騒動を起こしていたのだ。
聞けば聞くほど、桓騎は幼少期から聡明な頭脳を持っており、信との時間を作るために様々な策を仕掛けていたようだ。
蒙恬が桓騎の存在を知ったのは、祖父の蒙驁の副官として彼が採用されてからである。
それまでは桓騎の存在どころか、彼が信に好意を寄せていて、熱心に彼女の心を掴もうとしていることなんて微塵も知らずにいた。
思えば、その時に邪魔をしていれば、信の心は桓騎のもとに渡らなかったかもしれない。
当時の自分は桓騎よりも幼かったとはいえ、名家の嫡男である立場を鼻にかけていて、信のことも手に入れられるという根拠のない自信を持っていたのである。
それがいざ、蒙恬が初陣を済ませた頃には、彼女は桓騎のことを男として意識をし始めていた。
二人が正式に交際を始めたというのはつい最近の話であるが、桓騎がずっと信のことを愛していたように、信も少しずつ桓騎に心を傾けていたことを蒙恬は気づいていたのである。
信自身は自覚がなかったようだが、物思いに耽るように、遠目で桓騎のことを見つめている姿を何度も見たことがあった。
桓騎を通して別の誰かを思い浮かべているのか、それとも純粋に桓騎のことを異性として意識しているのか分からなかったのだが、二人が結ばれた今となっては後者であったことが分かる。
仮に前者だったとしても、桓騎を通して信が思い浮かべていた誰かは、きっと自分ではない。
それは普段、信が自分に接してくれる態度から、嫌でも認めざるを得なかった。
それでも、蒙恬はどんな手を使ってでも信のことを手に入れたかった。
卑怯だと罵られようが、信に嫌われることになろうが、最終的に彼女がこの腕の中にいれば良い。
桓騎は自分に引けを取らぬほど独占欲が強い男だ。
オギコの話を聞く限り、きっと自分が信を手中に収めようとしていることには勘付いている。だからこそ、桓騎という邪魔がいない間にことを進める必要があった。
信を手に入れるためならば、何だって利用する。祖父の蒙驁でさえもだ。
偉大なる父を持つ自分の腹の黒さは、一種の才能かもしれないし、祖父から受け継いだものかもしれなかった。
信は元下僕出身だが、これまで多くの人々と関わって来た情があるのか、家族の話を持ち出されることに弱い面がある。そこを突けば彼女の心は簡単に揺らぐのだと蒙恬は予想していた。
下賤の出であるものの、将軍にまで這い上がった実力を持つ信が蒙家に嫁ぐことになれば、蒙驁だけでなく家臣たちも喜ぶことだろう。
信の養父である王騎が生存だったなら話はまた違ったが、彼女に後ろ盾がない今だからこそ成し遂げられる策だった。
―――だからこそ、信を自分の妻にする前に、先に母親にしてしまえばいい。
たかが一人の女を手に入れるために、これだけの策を練ることになった自分の余裕のなさには苦笑するしかない。
今まで相手にして来た女性たちと信は、何もかもが違うのだ。手に入れる方法が異なるとしても、それは仕方のないことだろう。
蒙恬は自分にそう言い聞かせて、眠っている信の額に唇を落とした。
The post 平行線の交差、その先に(桓騎×信←蒙恬)中編① first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.