美術家ボテロ氏が死去、91歳 ふくよかなフォルムで世界的人気
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このお話は「初恋の行方」の後日編です。
宮廷に到着し、蒙恬は昌平君が執務に使っている一室へと案内された。
しかし、昌平君の姿はそこになく、どうやら軍師学校での執務を終えて今向かっている途中なのだそうだ。
昌平君が来るまでは軍政の話も進まないので、蒙恬は椅子に腰を下ろして、師である彼を待つことにした。
(信は一人で練習してないかな…無茶してないと良いけど…)
気品高い歩き方というものは、良い家柄に生まれた者が幼い頃からその身に叩き込まれる習慣である。
しかし、下僕は重い荷を背負ったり、農作業や家事など、常に下を向いて重労働を行う。もちろん主や家の者が現れると、作業を中断して頭を下げなくてはならない。
歩幅や着物の乱れをいちいち気にしていては仕事が進まないし、仕事が滞れば主から厳しい罰を与えられる。
それが日常である下僕は、背筋を正して歩幅や着物を気にしながら歩く習慣とは無縁だった。
貴族の娘の侍女として仕えるのなら多少の教育は受けるようだが、信は違う。幼い頃はその外見のせいで、男同然に重労働や家事を強いられていたようだし、王騎の養子となってからも、淑女としての教育は一切受けなかった。
王騎は信の将の才を見込んで、身寄りのない彼女を迎え入れた。養子だとしても命の危機に晒されるほどの厳しい鍛錬を強いられて、信曰く下僕時代よりも地獄の日々を送ったのだという。
王騎は信を嫁がせるつもりなどなく、秦軍の戦力の一つとして彼女を育てていたのだろう。それほどまでに信の将の才は凄まじいものだったのだと分かる。
鍛錬といえど、常に命の危険と隣り合わせだった信には、淑女としての教育を受ける時間などなかったのだ。
信自身も必要ないと感じていたのだろうに、他でもない自分のために練習をしてくれていると思うと、愛おしさが込み上げて来る。
信と自分が出会ったのは、他でもない彼女が天下の大将軍を目指していたからこそで、彼女が下僕のままだったのなら一生出会うことはなかったに違いない。
奴隷商人から自分と大勢を救い出してくれた信の勇姿は今でも覚えているし、今思えば、あの一件を通して自分は彼女に心を奪われたのだ。
(あーあ、早く会いたいなあ)
頬杖をついて蒙恬は信に想いを馳せる。離れていても信のことばかり考えてしまう。
信が傍にいる時はもちろん、そうでない時であっても機嫌が良いことを従者たちによく指摘されるのは、彼女と婚姻出来る幸福と、その先にある夫婦としての生活に胸が満たされているからだ。
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宝石姫 |
「蒙恬将軍」
扉の外で待機していた兵に声を掛けられ、蒙恬はようやく昌平君が来たのかと立ち上がる。
しかし、声を掛けてくれた兵は何やら焦った様子で扉を開けると、困ったように蒙恬に視線を向けて来た。
「どうした?」
「来客がいらっしゃったのですが…その…」
言葉尻を濁した兵は、何か言いたげに蒙恬と扉の外にいるらしい来客へ交互に視線を向けている。
通して良いのか判断を蒙恬に委ねようとしているようだが、あまりにも困惑した表情でいるため、蒙恬は小首を傾げた。
(…もしかして、信?)
嬴政のもとに顔を出したいと話していた彼女が、こっそりついて来たのだろうか。
思い立ったら考えるよりもすぐ行動へ移す彼女ならやりかねないと、蒙恬は肩を竦めた。
自分の嫉妬で秦王には会わないでほしいと訴えたものの、やはり二人の親友という関係性は手強い。
宮廷に来てしまったのなら追い返す訳にもいかないし、信も言われていたのに宮廷に来てしまったことに罪悪感を覚えて顔を出しに来たのだろう。
「いいよ、通して。あ、しばらく人払いもしておいてくれる?」
「よ、よろしいのですか?」
蒙恬が指示を出すと、兵が再確認をして来た。どうしたのだろうと思いながらも、蒙恬は頷いて信を待つ。
兵が来客を通すために一旦下がると、蒙恬はやれやれと苦笑を浮かべた。
屋敷で待つように話していたのに、わざわざ自分に会いに来た信の気持ちを考えると無下には出来ないし、愛おしくて堪らなかった。
「信ってば、屋敷で待っててって言ったのに……えっ?」
入って来たのが自分の妻になる女性ではなく、全く面識のない女性であったことに、蒙恬は大口を開けた。
上品な着物を身に纏い、髪も丁寧に結い上げられている彼女を見れば、どこかの令嬢であることが分かる。
気品高く歩き、蒙恬の前にやって来たその彼女は意志の強い瞳を持っていた。
ぴんと張られた一本の弦のように立ち姿も美しい。見目からして、恐らくは蒙恬と同い年くらいだろう。
(えーっと…?)
蒙恬が言葉に悩んだのは当然だった。
自分を尋ねて来たということから、彼女の方には蒙恬に面識があるのだろうが、蒙恬にその女性に関しての全く記憶がないのだ。
記憶の糸を手繰り寄せて見るものの、名前の一つも出て来ない。
これだけ美しい令嬢であるのなら、忘れるはずがないと思うのだが、記憶からは何も手がかりが出て来なかった。
とはいえ、自分を尋ねてくれた女性に恥を欠かせる訳にはいかない。
当たり障りない対応で何とかこの場をやり過ごし、令嬢には早々にお帰り頂くことに決めたのだった。
「どうも、ご機嫌麗しゅう」
酒の酔いで褥を共にした女性でないことを祈りながら、蒙恬はいつものように人の良い笑みを繕う。
信と褥を共にする日のために、蒙恬はそれなりに夜の場数を踏んで来た。一々名前など覚えていないのだが、もしかしたらその女性のうちの一人かもしれない。
蒙恬の言葉に女性は笑顔を浮かべると、これまた美しい一礼で返した。
「…あなた様が蒙恬将軍ですね?突然のご訪問、申し訳ございません」
(ん?初対面で間違いないのか?)
確認するように名前を復唱されたことから、向こうにも自分の面識がないのではないかと考えた。
こちらに面識があるのならば、名前を確認するような質問はしないだろう。
だとすれば、思い出せないとしても納得がいく。そもそも彼女とは出会ったことがないのだから、思い出せないのは当然のことだ。
「それで、本日はどのような用件で?」
心の中でこっそり安堵しながら、彼女の来訪の目的を問う。
「実は、十年以上前のことなのですが…蒙恬様に助けていただいたことがあるのです。将軍昇格をされたと伺い、ささやかではございますが、お祝いの言葉を」
「ああ…」
なるほどと蒙恬は頷いた。
一応、初対面ではないようだが、彼女の言葉を聞く限り、こちらが思い出せないとしても不思議ではない。
それに、宮廷を出入り出来るということは、恐らく父親が宮廷を職場にしている高官なのだろう。
今日は宮廷に自分がいると知り、ついでに顔を出したというところだろうか。
そうと分かれば、不安に思うことは何もないと、蒙恬は笑みを深める。
「信将軍とのご婚約もおめでとうございます。心から祝福致しますわ」
「ありがとうございます」
蒙恬が信と婚姻する話は、すでに秦国で広く知れ渡っている事実だ。
過去に褥を共にした女性たちからは恨みつらみが綴られた書簡が送られることもあったのだが、彼女の言葉には一切の棘を感じないので、蒙恬との婚姻を狙っていたわけではなさそうだ。腹の内を探る必要もないだろう。
「それで、あの…是非とも蒙恬様にお伺いしたいことがございまして」
どうやら本題はそちららしい。将軍昇格と婚約の祝辞は建前といったところか。
「答えられる範囲であるならば、何なりと」
機密事項は洩らすことは出来ないことを前提に返すと、令嬢の目の色が変わったので、蒙恬は思わず身構えた。
「あの時、蒙恬様とご一緒に、奴隷商人を成敗してくださった方を探しているのです」
「………」
蒙恬はしばらく沈黙した。
彼女が自分に助けられた十年以上前の話をしているのだというのは理解したのだが、その言葉だけではあまりにも情報が欠けている。
過去に奴隷商人を成敗したことなんて、あっただろうか。
「ええと、奴隷商人から…?」
「はい」
蒙恬が聞き返すと、令嬢は大きく頷いた。
先ほどまでお淑やかにしていた彼女が前のめりで詰め寄って来るあたり、どうやら相当その情報が欲しいらしい。
敵地の領土を手に入れた時の制圧手続きで、親を失った子どもたちが奴隷商人たちに引き取られていくのを見たことはあったが、直接働きかけた覚えはなかった。
必死に蒙恬が記憶の糸を手繰り寄せていると、
「覚えておられませんか?私もあなたも、奴隷商人の馬車に乗せられ、何処ぞへ売られそうになったのです」
「…ああ!」
彼女の言葉を助言に、信と初めて出会った日のことを思い出した蒙恬はつい大声を出した。
「もしかして、城下町で…?」
蒙恬の言葉を聞いた、令嬢が満面の笑みを浮かべて何度も頷く。
「そうです!あの時、私も家臣たちと離れたところを狙われてしまい、蒙恬様と同じように馬車の檻に囚われていたのです」
それはもう今から十年以上も前の話だ。
蒙恬はまだ幼い子どもだったにも関わらず、家庭教師の女性に恋をしていた。
もちろんその初恋は実ることなく、子どもながらに失恋の辛辣さを経験した息子を気遣い、父が咸陽に連れていってくれたのだ。
父の蒙武が宮廷での執務をこなしている間に、蒙恬はじィの胡漸と城下町を回っていた。
普段目にしない露店や並んでいる品々に蒙恬ははしゃぎ、大勢の民衆が行き来する城下町の中で胡漸とはぐれてしまったのだ。
その時に、一緒に胡漸を探すのを手伝ってくれようとした親切な男がいて、後に正体を知ることになるのだが、彼は違法の奴隷商人であった。
やり方は実に姑息で、戦争孤児でもない家柄の良い子どもたちに親切に近づいては、馬車の檻に閉じ込めて、そのまま商品として売りに出していた。
蒙恬も胡漸とはぐれて一人でいるところを、その違法の奴隷商人に目を付けられてしまったのである。
馬車の檻に閉じ込められて、このまま見知らぬ土地へ売られてしまうのかと心が絶望に沈んでいたところを助けてくれた者がいる。その救世主こそ、信だった。
彼女は咸陽で起こる人攫いの事件を独自に調査しており、蒙恬が連れて行かれるのを見つけ、尾行していたのである。
違法の奴隷商人は二人組だった。
一人は蒙恬に声を掛けたように、商品となる子供を連れて来る役割を担い、もう一人は馬車の檻に閉じ込めた子どもたちを見張る役である。
信が連れ去られる蒙恬を尾行したことによって現場を突き止めたのだが、子どもたちの見張りをしていた男は、何としても逃れようと馬車を走らせた。
馬車の檻に囚われている子どもたちごと逃がしてしまうと信が必死に追いかけたものの、人と馬ではあまりにも足の速さは違う。
そこで蒙恬は他の子どもたちと共に檻から脱出を試みた。
その甲斐あって、全員が多少のかすり傷は負ったものの、捕らえられていた子どもたちは無事に脱出したのだった。
さらには、これ以上の被害者を出さぬように、蒙恬は機転を利かせて信と協力し、馬車を転倒させて、二人の奴隷商人を逃すことなく捕らえたのである。
「檻から脱出する時は、とても怖かったですが、蒙恬様の力強いお言葉が背中を押してくれたんです」
「…まさか、あの時…一緒に檻の中に!?」
蒙恬が驚愕の表情のまま問うと、令嬢は何度も頷いた。
あの時はとにかく脱出することと、奴隷商人を捕らえることに必死だったので、一緒に捕らえられていた子どもたちの顔など朧げにも覚えていなかった。
しかし、あの場にいた者しか知らない状況を話していることから、嘘偽りではなく、彼女もあの時の被害者だったのだと直感する。
彼女が蒙恬のことを知っていたのは、蒙恬が馬車に乗せられそうになった時に、奴隷商人たちが蒙家の嫡男だと話をしていたことを覚えていたからだったという。
「お互い、無事で良かった」
思わぬ共通点の発覚に、蒙恬は素の笑顔を浮かべた。すっかり敬語も砕けてしまう。
あの時に信が助けてくれなかったら、自分たちは見知らぬ地に売り飛ばされていたかもしれない。
もしそうなっていたら、自分たちがここで再会することもなかっただろう。低い身分に落とされて労働を強いられていたかもしれないし、妓楼や物好きな男のもとで奴隷同然の生活を送っていたかもしれない。
蒙恬が信に恋心を抱いたのはこの後で、男だと思っていた英雄の正体が、実は自分と少ししか歳の違わない少女であったと知ってからだった。
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「それで、ええと、何だったっけ」
すっかり懐かしい思い出話に花を咲かせてしまい、蒙恬は令嬢の目的を忘れてしまっていた。
嫌な顔一つすることなく、彼女は先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「あの時、蒙恬様とご一緒に、奴隷商人を成敗してくださった方を探しているのです」
その言葉を聞いて、彼女が探し求めているのは信だと確信した。すぐに伝えようと思ったのだが、
「あの青い着物の御方にも、ぜひお礼を申し上げたくて…」
「………」
白粉で白く見せているはずの肌が、赤く火照ったのを見て、蒙恬は答えるのを躊躇ってしまった。
頬を赤く染めて、悩ましげに眉根を寄せているその表情を見れば、彼女が自分たちを助けてくれた英雄に、どういう想いを抱いているのかが分かる。
「…蒙恬様?」
声を掛けられて、蒙恬は何とか笑顔を繕った。
「もしかして…君は、その人のことが…?」
「………」
彼女は返事をしなかった。
しかし、より頬を赤らめて俯いたところを見る限り、肯定していると言っても過言ではないだろう。
十年以上前になるとはいえ、今でもずっとその英雄に…つまりは信のことを想い続けているようだ。
蒙恬はあの後で信が女だと知る機会があったものの、どこからどう見ても同じ男だと思っていたのに、少女だと知った時はとても驚いた。
(うーん…どうしたら…)
あの時自分たちを助けてくれた英雄の正体が女だったと知ったら、彼女は恥をかいたと思うのではないだろうか。
今では中華全土でその名を知らぬ者はいない信将軍だと告げれば、納得してくれるかもしれないが、長年ずっと女に恋をしていたという事実を知り、行き場のない怒りの矛先を信本人に向けるのではないかという不安を覚えた。
正体を告げれば、彼女を傷つけることになり、それだけではなく信にも何かしらの被害があるのではないかと思うと、蒙恬はなかなか切り出せなかった。
「えっと…」
少し考えてから、蒙恬はゆっくりと口を開く。
「俺も、その人にお礼を言おうと思ってて、ずっと探していたんだけど、手がかりが全然なくて…」
言葉を濁らせると、令嬢は残念そうに笑った。
どうやら蒙恬が英雄の正体を知らないと答えることは、彼女の中では想定内だったらしい。
「そうですか…あの後、奴隷商人たちを役人へ引き渡すのに、すぐに行ってしまいましたものね」
「うん、残念だけど…」
このまま英雄の正体を明かさない方が彼女のためだと、蒙恬は考えた。
それが勝手な考えだとしても、傷つくことを分かっていながら辛辣な真実を告げるのは、必ずしも正しいとは思えない。
蒙恬は英雄の正体を隠し通すことを決めたのだった。
「…それにしても、もう十年も前の話なのに、今もよく探していたね」
感心しながらそう言うと、令嬢は恥ずかしそうにはにかんだ。
奴隷商人たちを役人に引き渡した後、信は蒙恬のもとへ戻って来てくれた。一緒に城下町を歩いているときに蒙恬とはぐれてしまったのだと胡漸が泣きながら信に助けを求めたらしい。
もしも胡漸が信に助けを求めていなかったら、きっと信は奴隷商人たちを引き渡したあとに、蒙恬に声をかけることなく王騎と共に帰還していたに違いない。
蒙恬と同じように攫われた子供たちは、目の前の彼女を含めてすぐに保護された。
あの奴隷商人たちを捕らえた者に、子供たちの親は是非ともお礼をしたいと探していたらしい。
しかし、信は善意と正義感から子供たちを助けたとはいえ、褒美目当てに行ったわけではない。そのため、騒動が落ち着いてからもずっと名乗らずにいたらしい。
「役人の御方たちにも聞いて回ったのですが、さすがに当時のことを覚えている方は一人もいらっしゃらなくて…」
「…それは、仕方ないね」
信から奴隷商人の身柄を預かった役人たちまでもが彼女の名前を出さなかったのは、王騎が裏で情報操作を行っていたのかもしれない。
話を聞く限り、どうやらこの令嬢は名前も名乗らずに去っていった英雄の手がかりをあちこちで探していたらしい。
十年以上も前のことだというのに、諦めずに今でも手がかりを探しているということから、相当な執念を感じさせる。
それだけ信へ強い想いを寄せているのだと思うと、ますます正体を明かせなくなった。
「お礼も伝えていませんし、ましてやお礼の品も受け取られていないのではないかと思うと…」
信は褒美目当てに事を起こすような女ではない。
もしも信が褒美目当てに事を起こるような将だったのなら、幼心に蒙恬も感付いただろう。
信がひたむきに天下の大将軍を志していたからこそ、蒙恬はいつまでも変わらないその真っ直ぐな心と強さに惹かれたのだ。
「私…」
令嬢が寂しそうに微笑んだので、蒙恬は思わず小首を傾げた。
「…私も、もう来月には嫁ぐ身。どうか、あの方にお礼を告げて、思い残すことがないようにと思っているのです」
令嬢の言葉を聞く限り、そしてその表情を見れば、彼女が信を男性だと思い込み、恋をしているのは明らかである。
婚約者がいる立場でありながら、まだ彼女の心にはわだかまりが残っているらしい。まさかそこまで信のことを想っているとは思わなかった。
「あれだけ大いなるご活躍をされたというのに、讃えられることもなく、褒美さえ受け取られていないのではないかと思うと、なんだか心苦しくて…」
「ああ、うん。信は褒美なんて欲しがる性格じゃないからね」
「え?」
「あっ」
つい洩らしてしまった蒙恬の独り言を聞きつけ、令嬢が目を見開いた。
「今…もしかしてあの御方のお名前をおっしゃいました!?」
「いや!今のは…」
しまったと思った時には時すでに遅し。令嬢の勢いに火を点けてしまったようだ。
「やっぱり何か知っていらっしゃるのですね!」
珍しく口を滑らせてしまったと後悔するものの、反省するのは後だ。
とにかく今は何とかこの場をやり過ごさなくてはと、蒙恬は頭を切り替える。
「今のは本当に、本当に、ただの独り言で、助けてくれた人とは関係ないよ」
笑顔を繕って何とかその場をやり過ごそうとするのだが、令嬢の勢いは止まらない。蒙恬の両肩を掴むと、まるで餌を前にした飢えた獣のように目をぎらつかせる。
「いいえ!確かにお名前をおっしゃいました!何かご存じでしたら、どうか教えてください!」
うろたえている蒙恬を逃がすまいと令嬢が両肩を掴む手に力を入れて来る。
「うわッ!?」
後ろに逃げようとした途端、足がもつれてしまい、その場に倒れこんでしまった。蒙恬の両肩を掴んでいた令嬢も、その勢いのまま一緒に倒れ込んでしまう。
「きゃっ」
自分が下敷きになったせいで令嬢が怪我を負うことはなかったものの、背中を打ち付けた蒙恬は痛みに歯を食い縛った。
「大丈夫ですかっ?」
我に返った令嬢が心配そうに顔を覗き込んできたので、蒙恬は何とか笑顔を浮かべて頷く。
さっさと退いてくれるのかと思いきや、どうやら令嬢はまだ信のことを聞き出すのを諦めていなかったらしい。
「どうかもう一度あの方のお名前を教えてください!」
まさかこの状況でも話を続けられるとは思わず、蒙恬は顔を引きつらせた。
礼儀作法がしっかりしている令嬢だと思っていたのに、自分の想い人のことになるとそれしか考えられない性格らしい。まさに恋は盲目というやつだ。
蒙恬は信に出会う前に、家庭教師の女性に初恋を抱いていたが、当時の年齢で考えると、この令嬢の初恋相手は信なのかもしれない。
ずっと信に片思いをしていた蒙恬も、その気持ちが分からないわけではなかった。
それでもここは引けない。令嬢の気持ちを傷つけないため、そして何より信のためを想ってのことだった。
「さ、さっきのは本当に違うんだって!」
「何が違うというのですか!あの方のお名前でしょう!?」
想い人でも婚約者でもない男を押し倒しているところを誰かに見られたら確実に大変なことになると、今の彼女の頭にはないらしい。
長年の片思いが実り、やっと信と婚約が決まったというのに、悪い噂が流れれば確実に信を傷つけてしまう。
信と婚姻を結ぶことを夢見て、大勢の女性たちを過去に相手して来たが、今ではその関係をきっぱりと絶っている。だというのに、この場を誰かに目撃されてしまえば、すべてが水の泡だ。
「だ、だからっ、俺の話を聞いてって!」
令嬢の両手首を掴んで、多少強引に彼女の体を押しのけようとする。
「いいえ、もう我慢なりません!」
しかし、制止すればするほど、探し求めている人物の情報を持っていると確信されてしまったようで、少しも引く気配を見せない。
参ったなと蒙恬が何とか言い訳を考えていると、背後で扉が開けられた音がした。
反射的に振り返ると、屋敷にいるはずの信が呆然とした表情でこちらを見つめている。
目が合って、蒙恬はまるで頭から水をかけられたような、全身から血の気が引いていく感覚を覚えた。
「えッ!な、なんでここに!?」
今日は屋敷にいると話していたはずの彼女がどうして宮廷にいるのだろうか。やはり親友に会いに来たのかと考えるものの、蒙恬はそれよりも今の状況を思い出して、さらなる冷や汗を浮かべた。
令嬢に押し倒され、蒙恬は彼女の両手首を掴んで抵抗を試みているのだが、何も知らぬ者が見たら男女の仲だと思われてもおかしくはない。
たとえ蒙恬が信と婚姻を結ぶことが決まっていたとしても、不貞をしていると誤解されてもおかしくない状況だった。
「―――破談だ」
低い声できっぱりとそう言い放った信が足早に行ってしまう。
破談という言葉が耳から入って脳に伝わった瞬間、蒙恬はひゅっ、と笛を吹き間違ったような音を口から零した。
「し、信っ!待って!誤解だからーっ!」
必死に呼びかけるものの、信が戻ってくることはなかった。
(…終わった…)
蒙恬は魂が抜け落ちてしまったのではないかと思うほど、ぽかんと口を開けたまま、虚ろな表情を浮かべていた。
ようやく退いてくれた令嬢が、信が出て行った扉と蒙恬を交互に見る。
「い、今の御方は…まさか、信将軍ですか?」
「……うん」
この世の終わりだという顔で蒙恬が頷いた。
令嬢もやっと冷静になってくれたようだが、もう全て手遅れである。
今にも自害してしまうんではないかというほど暗い表情のまま、蒙恬は膝を抱えた。
長年の片思いがようやく実り、そして信も自分を同じ想いであったのだと知って有頂天になっていた罰が下ったのだ。
こんな大きな幸福に対して、いつか恐ろしい代償が来るのではないかと不安に思っていたが、まさに今がその時である。
すぐに追いかけて誤解を解くべきだと考えたものの、こうと決めたら絶対に意志を曲げない信が大人しく話を聞いてくれるとは思えなかった。
さすがに令嬢も自分の行動で破談に直結してしまったことを反省しているのか、申し訳なさそうに眉根を寄せている。
「あ、あの…先ほど、信将軍と同じ名前を…?」
膝を抱えながら、蒙恬は小さく頷いた。
「そ、それじゃあ…あの時、私たちを助けてくださったのは…」
「うん、そう…信だったんだよ」
先ほどまでは令嬢の気持ちや信への被害を考慮していたのだが、今となってはもうどうでも良かった。
ずっと探し続けていた英雄の正体が、中華全土で名を広げている女将軍であったと知り、令嬢は愕然としている。
わなわなと唇を震わせて青ざめている様子を見れば、ずっと想いを寄せていた英雄の正体が女だったという事実を受け入れられないでいるようだった。
「…ごめん」
本当は正体を隠しておこうと考えていたのだが、思わぬ形で勘付かれてしまい、蒙恬は謝罪した。
「本当は、君の話を聞いて、すぐに信だって分かったんだ。でも…君がそれを知って傷つくのは、目に見えていた」
令嬢の顔が悲痛に歪んだのを見ても、蒙恬はもう何も感じなかった。
「正体を知らなかったとはいえ…君が真実を知って、辱めを受けたことを理由に、信に何かをするんじゃないかって思うと、嫌だったんだ。…悪いけど、こっちが本音」
あの英雄の正体が実は女だったと知って、彼女を傷つけたくなかったという気持ちがあったのも本当だ。
しかし、蒙恬の中では、最愛の信を傷つけられることが一番許せない。夫になるのだから、守り抜くと誓えばいいものを、自分の見ていない場所で信を傷つけられるのではないかという不安は拭えなかった。
自分はなんて弱い男なんだと蒙恬は自己嫌悪に走る。
すぐに追いかけて誤解を解こうとしなかったのも、本当は彼女に罵詈雑言を向けられるのが怖かったからだ。
長年の片思いが実り、さらには信が自分と同じ気持ちだったと知ってから、彼女を失うことをますます恐れるようになっていた。
ずっと恐れていた現実が急に目の前に現れて、蒙恬は弱々しい表情で膝を抱えることしか出来ない。
この場に令嬢がいなければ、幼子のように大声を上げて泣き喚いていたに違いなかった。もしそんなことになれば、屋敷の留守を任せている胡漸が泣き声を聞きつけて何事かと飛んで来るに違いなかった。
「軽率なことをしてしまい、…本当に、申し訳ありません…」
泣きそうになっていたのは令嬢もだった。その謝罪を聞いても蒙恬の胸の痛みが引くことはない。
しかし、逆上されなかったことから、英雄の正体が信であるという事実を受け入れてくれたようだ。
膝を抱えながら、蒙恬は乾いた笑みを浮かべることしか出来ない。
彼女が信の正体を今さら知ったところで、自分たちの婚姻が破談となったことは変わりないのだから。
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宝石姫 |
普段よりも早足に廊下を進みながら、信はこみ上げる怒りを何処にぶつければ良いのか悩んでいた。
(ふざけやがって…!あいつ、本当は女に会うために宮廷に来たのかよ!)
昌平君と軍政の執務があると話していたのに、いざ蓋を開けてみれば見知らぬ女性と密会をしていただなんて思いもしなかった。
普段なら扉の前に見張りの兵が立っているはずなのに、それもなかったことから、恐らく事前に人払いをしていたのだと気づく。
執務だと嘘を吐いてまで、こんな昼間から不貞行為をしようとしていた婚約者に、信は殺意に近い怒りを抱いていた。
自分を欺いた男と婚姻を結ぶなんて考えたくもない。婚姻を結ぶ前に蒙恬の不貞を知ることが出来て良かったとさえ思う。
これが婚姻を結んだ後に発覚したのなら、確実に蒙恬は処罰を受けていただろうし、信も減刑を嘆願することはなかったに違いない。
幼い頃からの付き合いもあり、不貞の罪で処罰を下される代わりに、婚約を白紙に戻すことで解決に合意してやろうと考えた。
自分と恋仲になる前から、女に不自由していなかったのだから、今後の婚姻に関しては何ら問題ないはずだ。
それこそ信がずっと蒙恬に言い聞かせていた蒙家の未来を想えばこその、相応しい女性が妻になることだろう。
もう二度と顔も見たくないと、信は荒い息を吐きながら、ひたすらに廊下を進む。
「わぶッ!?」
曲がり角のところで、信は誰かと思い切りぶつかってしまい、派手な音を立てて尻もちをついた。
「ってーな!どこ見て歩いてんだよ!」
怒気を籠めながら、ぶつかった人物の方を睨みつける。
自分の不注意だとは百も承知だが、相手のことを気遣う余裕など、今の彼女には微塵もなかった。
「よそ見をしていたのはお前の方だろう」
尻もちをついている信に手を差し伸ばしたのは昌平君だった。
反射的に信がその手を掴むと、軽々と体を起こされる。普段は頭ばっかり使っているくせに、いったいどこにそんな腕力を隠し持っているのか、信には不思議でたまらなかった。
「はあ…」
痛む尻をさすりながら重い溜息を吐くと、昌平君の眉根が不機嫌の色を浮かべた。
「人の顔を見て溜息を吐くな」
もっともらしい指摘を受けるが、信は何も言い返す気になれなかった。
ここに昌平君がいるということは、蒙恬が昌平君に宮廷に呼び出されたというのも嘘だったのだろう。
親友である嬴政に見初められたら嫌だという理由で、宮廷には来ないでほしいと言われたが、それさえも不貞の現場を目撃されないように吐いた嘘だったのだ。
あれだけひたむきに愛情を向けられていたと思ったのに、結局は独りよがりだった。
「……う…」
みるみるうちにその瞳に涙を浮かべて鼻をすすった信に、昌平君が珍しくぎょっとした表情を浮かべる。
堪えようと思えば思うほど、目に涙が押し寄せてきて、いよいよそれを堰き止められなくなると、滝のように涙が溢れ出た。
「うううー」
顔をくしゃくしゃに歪ませて涙を流している信に、昌平君が唖然としている。傍から見れば昌平君が泣かせたと誤解されかねない状況だ。すれ違う侍女や兵たちが不思議そうな顔をして二人に視線を送ってくる。
しかし、信は彼らの視線や、わずかに狼狽える昌平君のことなど構いもせずに胸の奥から押し寄せて来る言葉を吐き出した。
「お、俺が、浮かれてたんだ…やっぱり、蒙恬が、俺なんかを選ぶはずがなかったんだ…」
しゃっくりを上げながら、信が言葉を紡ぐ。
まるで状況がわからないとはいえ、彼女が蒙恬の名前を出したことに、昌平君は溜息を吐いた。
「…痴話喧嘩なら屋敷でやれ」
文句を言われるものの、堰を切ったように溢れる涙と同様に愚痴が止まらない。
「あ、あいつ、お前に呼ばれたって嘘吐いて、俺に隠れて、浮気してたんだよッ!!」
頬を伝う涙を手の甲で拭いながら事実を訴えると、昌平君は片眉を持ち上げた。
「…不貞行為は知らぬが、私が軍政のことで蒙恬を呼び出したのは事実だ」
「え…」
「軍師学校の執務が予定より長引いたので、これから蒙恬と合流するところだ」
昌平君の言葉を理解するまでに、やや時間がかかった。
「え…じゃ、じゃあ、お前に宮廷に呼び出されたのは、嘘じゃないのか…?」
ああ、と昌平君が頷く。
驚きのあまり、ようやく涙が止まってくれたが、それでも胸を締め付ける不安を拭うことは出来なかった。
聡明な蒙恬のことだから、昌平君の不在を良いことに、女性を呼び出したとも考えられる。
誤解が一つ解けたところで、蒙恬が不貞を働いたのは覆せない事実だ。
複雑な表情を浮かべたまま俯いてしまった信を見て、昌平君は深い溜息を吐いた。
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