中国高速鉄道の「静音車両」 72本に拡大
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苦手な方は閲覧をお控え下さい。
このお話は「初恋は盲目」の後日編です。
一人で別院の寝室に引きこもっていると、廊下から足音が聞こえていた。
「…信、ここにいる?」
「ッ!」
扉の外から蒙恬に声を掛けられたので、信は驚いて声を上げそうになった。家庭教師の女性は帰ったのだろうか。
自分のことを探しているのはその口調から分かったが、子どものように嫉妬したことを恥じて逃げ出した手前、蒙恬と顔を合わせるのが気まずくて堪らない。
嫉妬しただけで直接無礼を働いた訳ではないし、咎められるようなことはしていないと頭では分かってはいるのだが、自分の幼稚さが許せなかったのである。
「………」
瞼を下ろし、寝台の上でじっと息を潜める。寝たふりを決め込んだものの、このまま蒙恬が気づかずに別院から去ってくれることを願った。
「いないのかな」
扉越しに独り言が聞こえ、信はほっと胸を撫で下ろした。
しばらく待ってみたが、蒙恬は部屋に入ってくることはない。母屋の方へ行ったのだろう。
母屋にも自分が居ないことを不審に思った蒙恬がまたここに戻って来るかもしれないと思い、信はゆっくりと寝台から起き上がった。
もしかしたら別院を出た時に従者たちに見つかれば、蒙恬に居場所を告げ口されるかもしれないので、誰にも見つからないよう、こっそりと別院を出ることにした。
蒙恬に黙って遠くに行かないという約束をさせられたが、こんな気持ちのまま彼に会っても気まずいだけなのは分かっている。
時間を置けば少しは気が紛れるかもしれないので、まずは屋敷から離れるために、厩舎に馬を取りにいこうと考えた。
まるで盗みでも働いているかのように、静かに扉を開けると、
「あ、やっぱりここにいた」
「うおわああッ!?」
扉を開けると、蒙恬に笑顔で出迎えられて信は敷地内に響き渡るほど大きな悲鳴を上げた。驚いて蒙恬が両手で耳に蓋をする。
「そんなに驚かなくなって…」
「な、なんで、出てっただろ…!?」
「最初からここにいるか、来てくれるか、どっちかだと思ってたから待ってたんだ」
悪気なく言う蒙恬に、胸が締め付けられるように痛んだ。約束をした手前、守ってくれると信じていたのだろう。
「きゃ、客はどうしたんだよ」
目を逸らしながら、信が家庭教師の女性のことを問いかける。
「少し話したらすぐに帰ったよ。信が心配するようなことは何もしてない」
まるでこちらの考えなどお見通しだと言わんばかりの顔で、蒙恬が穏やかに笑みを浮かべていた。
嫉妬していたことを見抜かれたのだと思うと、信はそれだけで恥ずかしくて、いたたまれなくなって俯いてしまう。
湯気が出そうなほど顔が赤くなっている妻を見て、蒙恬の笑みがますます深まっていく。
「…今夜は久しぶりにこの部屋で、婚姻前のことでも思い返してみる?」
「ば、ばかッ!」
やけに熱っぽい視線を向けられて、蒙恬がナニを考えているのかすぐに察した信は慌てて後退る。
幾度となく体を重ねたというのに、未だに羞恥心が抜けない。
王騎の養子として引き取られてから、信はもともと色事には一切の興味関心がなく、ただ武功を挙げるために鍛錬を積み重ねる毎日だった。
王騎も将軍になりたいという信の気持ちを理解していたからこそ、淑女の礼儀作法よりも、ひたすら実践や訓練を優先させていた。
異性と一切縁がなかった娘が、まさか蒙恬と婚姻を結ぶことになるだなんて、きっとあの世で驚いているに違いない。
「信」
蒙恬が一歩迫る度に後退するのを続けていくと、あっという間に壁際に追い詰められてしまった。
両手を壁につけ、その中に閉じ込められてしまった信は身動きが取れず、真っ赤な顔で蒙恬を見上げた。
「…可愛い」
静かにそう囁いて、蒙恬の顔が近づいて来る。唇が重なりそうになり、信は反射的に目を瞑った。
顔を背けることも、蒙恬の胸を突き飛ばして逃げることも出来たはずなのに、まるで術に掛けられたかのように体が動かない。
蒙恬からの口づけを待ち望んでいる自分がいるのだと認めるしかなかった。
唇に蒙恬の吐息がかかり、もうすぐそこまで唇が迫って来ているのだと悟った瞬間、
「蒙恬様ー!」
どこからか従者の声がして、蒙恬は名残惜しそうに顔を離したのだった。
「…続きはまた夜にね」
口づけが出来なかった代わりに、蒙恬は信の耳元で甘く囁いた。
耳元で言葉を囁かれただけなのに、気持ちがいいほど背筋が痺れてしまう。信は顔を真っ赤にした状態で硬直し、部屋を出ていく蒙恬の後ろ姿を見つめることしか出来なかった。
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蒙恬が別院を出て行ったあと、しばらく一人で呆然としていた信はようやく我に返った。
こんな顔のまま屋敷を歩けば、従者たちに余計な心配をかけさせてしまうだろう。
「んっ」
両手で頬をぱちんと叩き、普段通りの自分を取り戻した信は、何事もなかったかのように別院を後にした。
「…ん?」
母屋へ戻ろうと思ったのだが、正門の方に蒙恬と従者の姿が見えた。腕を組んだ蒙恬が険しい表情で従者に指示を出している。
(え?)
蒙恬に声を掛ける前に、信は驚いて立ち止まってしまった。
ちょうど蒙恬と従者に隠れて見えなかったのだが、あの家庭教師の女性がそこにいたのである。
先ほどまで笑顔で話していた姿とは一変し、泣きそうなほど狼狽えている様子だったので、直感的に何かあったのだと察した。
「信」
蒙恬がこちらに気づいて声を掛けてくれる。
いつも穏やかな笑みを浮かべているはずの彼が、今だけは表情が優れなかった。
「何があったんだ?」
「うん…どうやら屋敷を出たあと、馬車が野盗に襲われたらしいんだ」
「野盗だと?こんな刻限に?」
信が聞き返すと、蒙恬が暗い表情で頷いた。
野盗といえば人目のつかない夜に活動することが多いが、今はまだ陽が沈み始めている刻限だった。
まだ明るいうちに野盗が襲撃するなんて珍しい。それに蒙家の嫡男である蒙恬が住まうこの屋敷の周辺でそんな事件が起こるのは初めてだった。よほど怖いもの知らずか、世間知らずの野盗だったのだろうか。
「幸いにも怪我人はいないし、馬を持って行かれたくらいで、他に被害はないようなんだけど…」
蒙恬の視線を追い掛けると、家庭教師の女性は真っ青な顔で震えていた。野盗の襲撃がよほど恐ろしかったのだろう。
怪我は見られないが、髪も着物も乱れている。馬車以外に被害はなかったというが、きっと必死に逃げ出して来たに違いない。
話を聞けば、野盗からなんとか逃れたあと、まだそう遠くに離れていなかったこの屋敷に助けを求めて駆け込んで来たのだという。
命を奪われるかもしれなかったという恐怖や、命こそ奪われなかったとしても、もしかしたら慰み者にされたかもしれないと、女性は震えるばかりでろくに返事が出来ないようだった。
「………」
馬車と護衛の手配をして、屋敷に送り届けるのは簡単だが、蒙恬はその指示を悩んでいるようだった。
言葉にこそしないが、蒙恬はこんな状態で帰す訳にはいかないと考えているらしい。
それは信も同じ考えだったのだが、もしかしたら先ほどのことがあったばかりなので、蒙恬は自分に気を遣っているのではないかと考えた。
「落ち着くまで、ここで休んでいったらどうだ?」
信の方から提案すると、女性は瞳に涙を溜めながら何度も頭を下げる。
「もう大丈夫だから、安心して休め」
震える肩を擦ってやると、家庭教師の女性はわっと泣き崩れ、信の胸に倒れ込んで来た。咄嗟にその体を受け止めた信は、震えが落ち着くまで彼女の背中を擦ってやっていた。
「…それじゃあ、俺は客室の手配をしてくる」
蒙恬がなにか言いたげな表情を浮かべていたが、いつもの笑みを繕うと、従者と共に母屋の方へと戻っていく。
その背中を見送りながら、信はまさかこんな刻限に野盗が現れるなんて、見回りを強化するべきだろうかと考えていた。
他国との戦の気配が濃くなったり、国政に陰りが出ると、野盗のような存在が増える。
野盗を生業としている者がいる一方で、景気が沈滞することで安定した生活を送れず、生きるために仕方なく他人の物を奪い取る者も現れるのだ。
蒙家のような名家や、将ではないものの裕福な屋敷に常に見張りがいるのも、そういった者たちの襲撃や潜入に常日頃から備えているためである。
「…大丈夫か?」
ようやく震えが止まったのを見計らい、信は女性の顔を覗き込みながら声を掛けた。
その顔はまだ青ざめてはいたものの、こちらの問いに小さく頷いたところを見ると、少しは落ち着いたらしい。
「今日はゆっくり休め。帰りのことは心配するな」
蒙恬が客室の手配をしてくれたはずだと思い、信は彼女の手を引きながら母屋へと向かった。
一晩休み、明日には護衛と馬車の手配をして屋敷まで送らせようと考えた。蒙恬のことだから、明日のこともすでに手配しているかもしれない。
客室に案内すると、侍医が薬を煎じている姿がそこにあった。どうやら眠り薬を煎じているらしい。
怪我はないものの、まだ野盗に襲撃された恐怖は完全にはなくなっておらず、落ち着いて休むことが出来ないのではないかという蒙恬の配慮だった。
日が沈み切ってから夕食も手配するようだったが、この分では食事も喉に通らないだろう。
休む部屋だけでなく、そういったところにまで気配りが出来る夫の優しさに、信はさすがだと感心する。
「ゆっくり休めよ」
なにかあれば従者に言うように女性に声をかけ、信は部屋を後にした。
夫婦の寝室に戻ると、すでに蒙恬は部屋に戻って来ており、口元に手を当てながら何か考えているようだった。
まるで軍略でも企てているかのような真剣な眼差しだったのだが、信が戻って来たことに気づくと、すぐに顔を綻ばせる。
「まさか屋敷のすぐ傍で野盗が出るなんてな」
信が独り言ちると、蒙恬が深く頷いた。
「戦乱の世に安全な場所はないからね。俺の腕の中は別だけど、どう?」
両腕を軽く開いて、蒙恬が抱擁を誘ってくる。相変わらず物事を茶化すのが好きな男だ。
「明日のことは?」
二人きりとはいえ、今はそんな冗談を言い合う訳にはいかない。明日の予定を尋ねると、蒙恬の眼差しに真剣さが戻った。
「御者と護衛の手配はもう済んでる。屋敷に送り届けるだけだし、俺も一緒についていこうかな」
予想通り、蒙恬は従者たちに指示を出していた。しかし、まさか蒙恬自身もついていくとは思わず、信は呆気に取られる。
「宮廷から戻って来たばっかりだろ?行くなら俺が…」
「信の顔を見たら疲れなんて吹っ飛んだから心配いらない。それに、先生には随分とお世話になったんだから、従者に任せっぱなしって訳にもいかないだろ」
「………」
正直納得は出来なかったものの、蒙恬の頑固さはよく理解していたので、信は大人しく引き下がった。
宮廷から戻って来たばかりで疲れているだろうに、蒙恬は家庭教師の女性を恩人と慕っていることもあって、無事に屋敷まで送り届けなくてはと考えているようだった。
「俺が先導するから、お前は屋敷で休んでろ」
信は反論こそしなかったものの、やはり夫を休ませたいという気持ちが勝ってしまい、自分が屋敷まで送り届けると提案した。
どうやら信からそんな提案が来るとは予想していなかったようで、蒙恬は驚いて目を丸める。
「蒙恬様」
その時、扉の向こうから侍女の声がした。
「どうした?」
入室を許可すると、侍女が困った表情で部屋に入って来た。
何か言いづらそうな雰囲気を醸し出していたので、蒙恬と信も顔を見合わせる。彼女は侍医の言伝を持って来たようだった。
「声が…出ない?」
言伝を聞いた蒙恬と信は、急いで家庭教師の女性がいる客間へと向かった。
眠り薬を煎じていた侍医が頭を下げ、困ったように眉根を寄せている。少し話しづらそうにしていたものの、蒙恬が許可をすると、侍医は女性の容体について話し始めた。
どうやら野盗に襲われた恐ろしさのせいで、声を出すことが出来なくなってしまったのだという。
女性は喉元に手を当て、なんとか声を出そうと試みているものの、掠れた吐息が僅かに聞こえるばかりだった。
恐らく精神的なものが影響しているので、医者は治療法はないと断言した。野盗に襲われた恐怖心を克服するまでは、恐らく声を出せないのではないかという見解も添えて。
外傷はなかったものの、心に深い傷が刻まれてしまったのだと思うと、信はやるせない気持ちに襲われた。
目に見える傷ならば適切な処置さえ行えば癒える。しかし、心の傷を治す手段はない。どんな高価な薬草を使っても、国一番の医師が診ても、治らぬ病なのだ。
「…先生」
侍医の話を聞いた蒙恬は、穏やかな声色で彼女を呼んだ。
家庭教師の女性は今にも泣き出してしまいそうな顔をしており、不安げな瞳で蒙恬を見上げた。
「色んなことがあって心細いでしょうから、どうぞ落ち着くまでうちで休んでいってください」
温かい言葉を掛けると、家庭教師の女性は両手で顔を覆い、体を震わせる。声なき声を上げて泣く彼女を見て、信も背中擦ってやることしか出来なかった。
二人は部屋を出て、互いに顔を見合わせた。
言葉はなかったものの、信は頷いて承諾の意志を示す。明日、家庭教師の女性を屋敷まで送り届ける予定であったが、数日は屋敷で療養させた方が良さそうだという蒙恬の判断に、信はもちろん従ったのだった。
「…野盗の捜索をする」
彼女を襲った野盗がまだ近くに潜んでいるかもしれないので、見回りの強化をする必要がありそうだ。
すぐにでも屋敷を飛び出しそうな信の手を掴み、蒙恬はゆっくりと首を横に振った。
「少し気がかりなことがあるから、このまま泳がせて、様子を見たい」
「放っておいたら、他の奴らが被害に遭うかもしれねェだろ」
野盗を野放しにしておくなんて、他にも新たな被害が出るかもしれないと信は食い下がった。相変わらずの正義感の強さに蒙恬は穏やかな笑みを浮かべる。
「…うん。それじゃあ、怪しいやつらがいたら殺さずに捕らえることにしよう。先生の証言と照らし合わせて、そいつらが先生を襲った野盗か確かめないと」
「そうだな」
信は頷くと、さっそく厩舎から愛馬を連れて来て、屋敷の周囲の見回りを行った。
家庭教師の女性が被害に遭った場所の周囲も捜索したが、野盗の手がかりになるものは何も見つからなかった。
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その翌日も、信は野盗たちの調査を行ったのだが、それらしい手がかりは見つからなかった。
彼女を馬車で送迎していた御者の男から野盗の特徴については聞いていたが、黒い布で顔を隠している者ばかりだったという。
それ以外にも、野盗の特徴について家庭教師の女性から聞き出そうとしたのだが、その話を口にするだけで、彼女は声を上げることなく泣き出してしまう。
まだ心の傷が癒えていないうちに、野盗のことを聞き出すのも酷だと思い、信と蒙恬は野盗の話題を控えるように決めた。
その後も見張りを続けたが、野盗は現れることはなかった。これだけ日数が空いたのなら、逃がしてしまったかもしれない。蒙恬も信も言葉にせずとも、同じことを考えていた。
…となれば、残された問題は家庭教師の身柄だけだ。
御者の男に馬を貸し、蒙恬は書簡を持たせた。彼女を保護していることを伝えて欲しいと頼み、御者の男に先に屋敷へ戻るよう指示したのである。
数日経過したものの、未だに女性の声は戻っていない。こればかりはいつ治るか分からなかった。
蒙恬も信も彼女の部屋を訪れ、ゆっくり療養するように声を掛けるのだが、仮面のように表情が乏しく、回復の兆しは見えない。
…一月ほど経過してからも、結局野盗の手がかりはなく、家庭教師の女性の心の傷は癒えることはなかった。
夜になり、寝台に寝転びながら、信は今日も野盗に対する手がかりがなかったことに、重い溜息を吐いた。
「信、そんなに落ち込まないで」
隣に横たわった蒙恬が慰めるように髪を撫でてくれる。
「野盗は逃がしてしまったかもしれないけれど、こうなったら、あとは先生の心の問題だ。それは俺たちにはどうしようも出来ない」
「………」
諭されるように言われるが、信は納得出来ずに蒙恬に背を向けてしまう。寂しい視線を背中に感じるものの、信の中でまだ気持ちの整理がつかずにいた。
野盗の存在はどの国にもあるし、被害に遭っているのは家庭教師の女性だけではない。全員を救いきれないことは分かっているが、せめて目の前にいる者たちだけは救うことを信念をしている信は、犯人を野放しにしておくことが許せなかったのである。
幼少期、奴隷商人によって攫われたところを彼女に救われた蒙恬も、もちろん信がこのまま諦めるとは思わなかった。
だが、互いに将軍という立場である以上、いつまでもこの件に構っている訳にはいかない。信もそれを理解しているからこそ、葛藤しているのである。
「…信」
優しい声色で夫から名前を呼ばれるものの、信は振り向かなかった。もしも蒙恬からもう諦めろと言われたら、口論になるのは目に見えている。
背後で蒙恬が困ったように笑った気配を察し、信は唇を噛み締めた。
「もう寝ちゃったんだ?」
信がまだ眠っていないどころか、無視を決め込んでいるだけだと分かり切っているだろうに、蒙恬はわざとらしくそう言うと、自分たちの体に寝具を掛けた。
「………」
自分の信念を曲げたくないとはいえ、子どものような拗ね方をしてしまったことに罪悪感を覚えてしまう。
信は寝返りを打つフリをして蒙恬の方を向くと、彼の胸に顔を埋めた。
「…悪かった」
小声で謝罪すると、蒙恬はすぐに抱き締めてくれた。
「可愛い寝言だね」
からかうようにそう言われたので、信は咄嗟に顔を上げてしまった。
「寝言じゃなくて、本音だっ…」
すぐに訂正すると、蒙恬の整い過ぎた顔が目の前にあって、柔らかいものが唇に重なった。
口づけられたのだと理解した途端、信は顔から湯気が出そうなほど顔を赤らめて言葉を失ってしまう。もう幾度となく唇どころか、体も交えているというのに、相変わらず初々しい反応に、蒙恬の顔からにやけが止まらない。
「~~~ッ!出てけ!今夜は一人で寝るッ!」
「ええーっ!それはやだ!」
再び背を向けた信に、蒙恬は本気で怒っていることを察したらしい。
背中を包み込むように抱き締めて来て、絶対に離れないぞという意志を示すが、信は遠慮なくその腕を振り払ったのだった。
その翌日から、家庭教師の女性は客室を出て、ときどき庭を散歩するようになっていた。
声はまだ出せないようだが、顔色も随分と良くなったことに信は安堵する。しかし、まだ馬車に乗るのには恐怖心があるようで、定期的に屋敷に書簡を送っていると報告を受けた。
蒙恬のもとにも、彼女の両親から感謝の書簡が送られてきたという。
書簡には野盗の襲撃に対抗出来るような護衛の者が見つからず、娘を迎えに行ずに申し訳ないという謝罪も書かれていたそうだ。
蒙恬も信も自らが護衛役を務めるつもりでいたのだが、まだ家庭教師は屋敷の外に出るのを怯えている。
引き続き、野盗の行方は追っているものの、あれから一度も目撃情報はなかった。犯人が捕まらないうちはやはり不安を拭うことは出来ないのか、家庭教師はすっかり屋敷で暮らすようになっていた。
表向きは客人で、蒙恬も彼女の滞在を承諾しているため、文句をいう使用人たちはいないのだが、それでもいつまで留まるつもりなのだろうと信は思うことがある。
時々、庭先で蒙恬が彼女に話しかけている姿を見る度に、信の胸は複雑な思いに駆られた。
なんとなく、二人の距離が縮まってきているような気がしてならなかったからだ。
もちろん二人はもともと関係性が構築されているので、自分の知らない話をすることもあるし、二人だけで盛り上がる会話もあるのだろう。
着物の裾を踏んでしまい、躓きそうになった家庭教師を抱き止めた蒙恬の姿を見てしまったのも良くなかったと思う。
声を出せない代わりに、身振り手振りで主張しなくてはならないこともあって、彼女はやたらと蒙恬の体に触れるようになった。
肩を触ったり、腕を組んだりといったものなのだが、その仕草から、なんとなく女の顔を見せるようになっているような気がした。
それは単なる信の直感であり、確証はないものだ。だが、家庭教師が蒙恬を見据える熱い眼差しに、どうしても恋幕を感じずにはいられない。
蒙恬の家庭教師に対する態度が一貫して変わらないのは救いだったが、自分が見ていない時は違うかもしれない。
家庭教師の女性が初恋相手だったというのは、信も蒙恬自身から聞いていた。子どもの頃とはいえ、もしかしたら当時のことを思い出して、蒙恬は彼女に対する恋愛感情を取り戻しているのではないだろうか。
(もしかして、このまま…)
まだ婚姻を結んでから一年も経っていないというのに、信は蒙恬が自分以外の女を娶るのではないかという不安に襲われた。
蒙家の繁栄のため、世継ぎを産ませるために妾を娶ることは正式に認められている行為であり、信に止める権利はない。
以前、婚姻を申し込んで来た蒙恬に、自分を正妻にするのではなく、何番目かの妾にするべきだと信は訴えた。
下僕出身である自分よりも、きちんとした家柄の出で、礼儀作法をしっかりを学んでいる女性こそが蒙恬に相応しいと伝え、幾度となく蒙恬からの婚姻を拒否していたのである。
それでも蒙恬が信を正妻にするのを諦めなかったのは、信を愛しているという理由だけであり、その想いの強さを証明するかのように、父の蒙武や祖父の蒙驁までもを黙らせたのである。
愛情を試した訳ではなかったのだが、それを知ったとき、蒙恬が本気で自分のことを愛してくれているのだと理解した。
しかし、蒙恬の心には、やはり初恋相手である家庭教師の女性がいつまでも残っていたのだろう。
家庭教師への態度は変わりないとはいえ、彼女に向ける蒙恬の眼差しは優しい。その眼差しに、愛情が混じっているような気がして、信はいたたまれない気持ちになった。
(やっぱり、蒙恬は…まだ好きなのかもしれねえな)
二人が一緒にいるのを見るのが辛くなって来たことは自覚していたし、それが嫉妬のせいだということも分かっていた。
蒙恬を困らせたくないと言えば聞こえが良いが、本心は違う。蒙恬に本当の気持ちを確かめるのが怖かったのだ。
彼女を妾として迎え入れると言うのではないか。もしそうなら、自分を正室に迎え入れたのは間違いだったと言われるかもしれない。さまざまな不安が波のように押し寄せて来る。
日を追うごとに増していくその不安は、もはや嫉妬の感情を覆い尽くすほど、大きなものになっていた。
その日の夜、寝室で信は荷を纏めていた。明朝になったら、今は騰が管理をしてくれている王騎の屋敷に帰るつもりだった。
蒙恬と共に両親の墓前に婚姻報告はしていたが、その後は一度も屋敷に帰っていなかったし、里帰りをすると言っても怪しまれることはないだろう。
それに、少しだけ蒙恬と距離を置けば、この不安も緩和されるのではないかと考えた。
滞在する期間は決めていないが、家庭教師の帰宅が決まるまでは、蒙恬と離れていた方が気持ちが掻き立てられないかもしれない。
もしかしたら自分が不在の間に二人の関係が今以上に深まってしまうのではないかという不安もあったのだが、もしもそうなった時は離縁も視野に入れるべきだろう。
蒙家嫡男である彼には、やはりきちんと礼儀作法が行き届いた地位のある女性の方がふさわしい。
蒙恬から離縁を求められたなら応じるつもりだったし、家庭教師を正妻に迎え入れるのを反対する者はいないはずだ。
(ま、これくらいで良いだろ)
蒙家に嫁ぐことが決まり、この屋敷にやって来た時と荷の量は大差なかった。荷の中身といえば着替えくらいである。
荷を布に包んだあと、信は蒙恬に気づかれないように荷を隠すことに決めた。
室内を見渡し、なるべく目につかない場所を考えていると、背後から足音が聞こえた。信は慌てて寝台の下に荷を投げ込み、寝台に勢いよく寝転んだ。
「信?」
蒙恬だ。湯浴みを済ませて来たのか、頬が火照っており、僅かに髪が濡れている。
「もう寝るの?」
「お、おう。今日はちょっと疲れちまって…」
何事もなかったように取り繕いながら、瞼を下ろす。
自分が嘘を吐けない性格なのは重々承知しているので、怪しまれないために早々に寝ることを決めた。
素直に王騎の屋敷に帰るなどと言えば、まずは理由を尋ねて来るだろうし、納得できる理由でなければ外泊など許されない。無論、家出など許されるはずがなかった。
だからこそ信は蒙恬に気づかれないように、明朝に屋敷を抜け出すつもりでいた。
従者たちにも家出計画を知らせるつもりはないが、妻が屋敷からいなくなったとなれば騒動になるのは目に見えている。
剣の腕が落ちているので、しばらく騰に稽古をつけてもらうと適当な理由を書いた木簡を用意し、先ほどの荷と一緒に忍ばせておいた。
屋敷を出る前にその木簡を残していけば、少なくとも居場所は分かるのだからそこまで大きな騒動には発展しないだろうという信の気遣いだった。
馬を走らせて迎えに来るかもしれないが、騰に任せておけば簡単に追い返してくれるだろう。
蒙恬は鋭い観察眼を持つ。相手の些細な言動から嘘を見抜くことが出来るので、嘘を吐けない信とは抜群に相性が悪いのだ。
しかし、蒙恬は朝が弱い。執務や用事がある時は目を覚ますが、そうでない時は信が起こすまでずっと眠り続けている。
声を掛けず、物音を立てずにそっと部屋を出れば彼を起こさずに部屋を出られるし、早朝に剣の鍛錬をする時はいつもそうしていた。
信は下僕時代のことや、王騎のもとで修業をしていたことがあるので、日が昇る前に目を覚ますのが習慣になっている。
いつも蒙恬よりも先に目を覚ますので、明日もそうして寝室を抜け出すつもりだった。
「今、何してたの?」
荷を隠したことを気づかれたのかと思い、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚に顔を引きつらせた。
「寝ようとしてた…けど…」
「ふうん?寝るならちゃんと布団掛けないと、風邪引くよ」
「あ、ああ…」
蒙恬に指摘されて、信は布団の中に潜り込む。慌てて寝台に寝転んだので、布団もかけずに寝たふりを決め込むところだった。
蒙恬も湯浴みを済ませたのだから、あとは眠るだけだろう。しかし、彼は何かを考えるように口元に手を当てており、神妙な表情を浮かべている。
薄目でその表情を見た信は、心臓がどきどきと激しく脈を打ち始めるのを感じていた。
(も、もしかして、バレたか…?)
荷を用意しているところも寝台の下に隠したのも、見られてはいないはずだが、鋭い蒙恬のことだから怪しんでいるのかもしれない。
「ね、寝ないのかよ」
さりげなく蒙恬の思考を邪魔するように、信が声を掛ける。考えるのをやめたのか、蒙恬は微笑を浮かべると、
「もう少し、髪を乾かしてから寝るよ。布をもらってくる」
「ああ、分かった」
湯浴みでまだ髪が乾き切っていないことが気になっていたのか、そう言って彼は寝室を後にした。
彼が寝室を出て行ったあと、信はそっと寝台から降りた。
(やっぱり隠し場所を変えた方が良いな…蒙恬に見つかるかもしれねえ)
寝台の下を覗き込み、先ほど乱暴に投げ捨てた荷と木簡を手繰り寄せる。
蒙恬が戻ってくる前に、別の場所に隠しておこうと考え、信は室内を見渡した。寝台の下は覗き込めばすぐに気づかれてしまうし、だとすれば衝立の後ろが良いだろうか。
「うーん、どこにすっかなぁ……ん?」
荷と木簡を抱えながらどこに隠すべきか狼狽えていると、不意に背後から視線を感じ、信は反射的に振り返った。
「俺に隠し事するなら、もう少し上手くやった方が良いよ。信」
寝室を出て行ったとばかり思っていた蒙恬が、入り口でこちらをじっと見据えていたのである。
鎌をかけられたのだと信が気づいたのはその時だった。
驚愕のあまり悲鳴を上げることも出来ず、信は抱えた荷と木簡を落としてしまった。
着物はともかく、木簡の内容を読まれるのはまずい。慌てて手を伸ばすものの、蒙恬が木簡を取る方が早かった。
「………」
木簡に記された内容を読んだ蒙恬の表情が強張った。
(やべぇ!バレた!)
このままでは家出計画を阻止されてしまう。
荷を持って行くのを諦めて、信はとにかく屋敷からの脱出するために、蒙恬の後ろにある扉を目指して駆け出した。
「おわあッ!?」
しかし、蒙恬に足を引っ掛けられて、あっさりと逃亡は阻止されてしまう。
前のめりに倒れ込んだところを蒙恬の両腕がさっと抱き止めてくれたので、顔面を強打するのは回避出来た。
しかし、二本の腕にしっかりと抱き締められてしまい、信は敗北を認めるしかなかった。彼の俊敏さに敵わなくなって来ているのは、剣の腕に限った話ではなかったようだ。
「これはどういうこと?謄将軍に稽古をつけてもらうのに、家出同然に出ていく必要なんてないだろ」
稽古以外に別の目的があるのではないかという蒙恬の疑問に、信が表情を曇らせる。
その表情を見た蒙恬がますます鋭い観察眼を働かせた。
「…先生のことが気になるのかもしれないけれど、信が心配しているようなことはなにもないよ」
優しく言葉を掛けられるものの、信は思わず唇を噛み締める。
きっと蒙恬は、自分と離縁はしないと言いたいのだろう。家庭教師の女性を正妻ではなく、妾に迎え入れるつもりなのだろうか。
しかし、考えてみれば蒙恬が信と離縁をしないのには大きな理由があった。元下僕とはいえ、信はあの六代将軍二人の養子という立場だ。さらには蒙武と蒙驁を説き伏せてまで婚姻を結んだのだから、今さら離縁することも出来ないのだろう。
「…先に面倒な女を娶っちまったって思っただろ」
低い声で言いながら腕を振り解くと、蒙恬がきょとんと目を丸める。
「信?なに言ってるの?」
「俺と婚姻していなかったら、あの女を妾じゃなくて、正妻として娶ることが出来たもんな」
その言葉を聞き、蒙恬がまるで体の一部が痛むように顔をしかめた。図星だからそんな表情を見せるのだろうと信は疑わなかった。
強く拳を握り、信はこみ上げる衝動のままに言葉を続ける。
「だから俺と婚姻するなら妾にしとけって言ったんだよ!そうすりゃいつだって捨てられただろ!?」
「信!なんでそんなこと言うんだよッ!」
いつも冷静に諭してくる蒙恬が珍しく大声で反論して来たが、信はこみ上げて来る衝動を押さえ込むことが出来なかった。
「お前なんか嫌いだッ!」
勢いのまま言い切ってから、しまった、と思った。
The post 初恋のまじない(蒙恬×信)中編① first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.