WHO、イスラエル軍支配下の病院から患者32人移送 ガザ南部
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見上げれば、弱者から得られる甘い汁を吸いながら生きる権力者が雲の数ほどいる。
見下ろせば、権力者の機嫌を損ねないように無様に頭を下げながら泥水を啜る弱者の山がある。
そんなもの、数えたところでキリがない。道端に落ちている石ころの数になど興味はない。
自分の立場を考えると、王族だとか名家だとかそういう恵まれた血筋ではないものの、大勢を見下ろしている側に立っていると断言出来た。
その観点からいうと、元野盗である桓騎には一つ気に食わないことがある。
それは桓騎の上官にあたる、信という名の女将軍のことである。下僕という身分から将の地位を築いた女だ。
下僕は絶対的弱者であり、卑しい身分とも言われる。もちろん親の顔も名も知らぬ戦争孤児が軍の中に縁故関係があるはずもない。
権力者を見上げることなど許されない身分でありながら、信と桓騎が秦国の将になったのは単純な理由なことで、実力を買われたからだ。
桓騎は知略を、信は武を評価され、今の立場を築いたのである。
信はこの秦国一の権力者ともいえる秦王嬴政との繋がりがあった。嬴政と成蟜との権力争いの際、信はどういった経緯か嬴政側に就き、勝利をもたらした。
その功績が称えられた信は、若いながらも三百人将への昇格し、その後の戦でも数多くの武功を挙げるようになっていた。
時を同じくして、桓騎も蒙驁の副官を務めていた。しかし蒙驁は山陽の戦いで負った傷が癒えずに没することとなる。
蒙驁の服喪期に入り、桓騎は信の副官として仕えるようになった。
それは誰かに指示を受けた訳ではなく、桓騎自らが志願したのである。信の方も断る理由はなく、彼を副官として受け入れた。
まだ数年しか経っていないが、桓騎は信とそれなりに信頼関係を築けていると思っていた。
飛信隊の援助は滞りなく行っているし、桓騎しか知り得ぬ奇策で戦を勝利に導いて武功を挙げ続けている。副官としては申し分ない働きをしていると桓騎は自負していた。
しかし、信の態度から察するに、自分は未だ彼女から厚い信頼は得られていないらしい。
宮廷の廊下では宴の準備のために、酒や食事を乗せた盆を抱えた侍女たちが慌ただしく動き回っていた。広い厨房では庖宰 たちが休むことなく食事の支度をしている。
先ほど論功行賞を終えたばかりであり、これから戦の勝利を祝う盛大な宴が行われるところだった。
桓騎と信は此度の戦での活躍を評価され、秦王から直々に褒美を授かったのである。
このあとは勝利を祝う宴が始まるのだが、そういった集まりには興味がない。早々に桓騎は屋敷に帰宅することにした。
他の将と交流を深めるつもりなどなかったし、付き合いの長い仲間たちと共に過ごす時間の方が気兼ねなく寛げる。
無駄に広い作りになっている宮廷の廊下を進んでいると、前方に見覚えのある女が歩いているのが見えた。
この宮廷で堂々と背中に剣を背負っている女など、あの女しかいない。
「李信将軍」
桓騎は自分の前を歩いている上官の名前を呼んだ。
「………」
ゆっくりとこちらを振り返った信が桓騎を黙認すると、何の用だと言いたげな瞳で見据えられる。
これから宴が行われるというのに、相変わらず化粧気がなかった。
将軍という高い地位に就いておきながら、着物もそこらの民が着ている物と変わらない。日焼けで傷んだ髪には相変わらず艶はないし、香油を使ったこともないのだろう。
顔の傷は白粉を叩けば誤魔化すことは出来るだろうが、これだけの傷を負っているなら女としては致命傷だ。
信は将軍として生を全うすると決めているようで、嫁にいく気はないようだから、女としての幸せには興味がないのだろう。
将軍という立場で相当な給金を得ており、戦での褒美も山ほどもらっているくせに、信は少しも金を遣っている様子がない。
装飾品の一つも興味がないようで、もともと物欲がない女だというのは、桓騎は出会った頃からなんとなく察していた。
「何の用だ」
素っ気なく呼び止めた理由を問われる。
論功行賞で秦王や仲間たちには笑顔を見せていたというのに、桓騎は未だ彼女から笑顔を向けられたことはなかった。
信は寡黙な女ではない。しかし、桓騎を前にした時は途端に口数が少なくなる。
戦において必要な軍略や情報を共有する時くらいしか、まともな会話を交わした記憶がなかった。戦を終えた後は労いの言葉を掛けられるが、それが本心かどうかは分からない。恐らくは形式的な建前だろう。
信が自分に向ける視線からはいつも棘を感じる。戦ではいつも飛信隊の補佐を行い、救援だって積極的にやっているというのに、どうやら桓騎は信頼されていないらしい。
反乱の意志など見せたこともないし、そんな予定も今のところはないのだが、信の態度から警戒されていることは明らかである。
過去に嫌われるような言動をした自覚もなく、信から避けられている理由が分からなかった。
「宴には出席されないおつもりで?」
この自分が年下の、それも女に敬語を使っていることに、桓騎は未だ違和感が拭えずにいた。あの女の副官になると志願した時、仲間たちから大層驚かれたことは今でもよく覚えている。
将の中でも一番地位の高い大将軍ならともかく、どうしてあの小娘に仕えるのかと幾度となく理由を問われた。
結局、桓騎が副官に志願した理由を配下たちに答えることはなかったのだが、納得できないとしても、桓騎の決定に反論する配下はいない。
桓騎軍の中で桓騎に意見出来る者は昔から付き合いの長い重臣くらいだ。しかし、彼らは首領が一度決めたことを曲げぬと知っている。
さんざん文句を言われたものの、最後は桓騎の判断に従ってくれた。
「先の戦で受けた傷が痛むのですか?」
「………」
今は着物で隠れているが、信の右肩に包帯が巻かれていることを桓騎は覚えていた。先の戦で矢傷を負った箇所だ。
救護班から適切な処置は受けていたので、あとは傷が癒えるのを待つだけらしい。
戦が終わってからまだ日は浅い。傷が癒えていないとしても不思議ではないが、彼女が宴を欠席するのは珍しいことだった。
信は桓騎と違って、他の将や高官たちとの交流には積極的である。以前、戦いの最中に落馬して肋骨にヒビが入った時も、脇腹を抑えながら参加していたくらいには宴が好きらしい。
昇格のために周りに媚びを売っているのではなく、単純に宴の賑わいが好きなのだろう。信の表情を見ればすぐに分かる。しかし、今日は珍しく宴には欠席らしい。
「お前もゆっくり休めよ。じゃあな」
桓騎の問いには答えず、信は形だけの労いの言葉を掛けるとすぐに背を向けて歩き出した。
右肩を庇うような動きは見られなかったものの、表情は優れないままだ。宴を欠席するくらいなのだから、きっとまだ傷が癒えていないに違いない。
つまりは多少の無理も出来ぬほど、右肩の傷が深いというワケだ。
(まァ、当然だろうな)
桓騎は僅かに口角を持ち上げた。
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宝石姫 |
「李信将軍」
「ッ…」
足早に彼女に近づき、背後から右手首を掴んだ。信が奥歯を食い縛って痛みを堪えたのを桓騎は見逃さなかった。
右肩を負傷していることは知っていたのに、傷に響くように右手を掴んだのはわざとである。
いつもなら彼女の体に触れようとしても、すぐに振り払われるのがお決まりだが、それをされなかったのはまだ傷が癒えていない決定的な証拠だ。
「良ければ、此度の勝利を二人きりで祝いませんか?」
「いや、今日は療養に専念する。お前も節度を守って仲間たちと楽しめ」
手を振り払われることはされなかったものの、信の言葉は桓騎の誘いを拒絶するものだった。
信から誘いを断られるのは初めてのことではない。成功した試しは一度もなかった。
美味い酒を手に入れたことや、参謀である摩論の手料理をエサにすれば、少しは理性が揺らぐかもしれないと思ったこともあったが、この女は頑なに誘いを断るのである。
酒や料理でも靡かないのなら、次なるエサは奇策だ。
「此度の戦で使用した奇策の全貌を、ぜひとも信将軍だけにお伝えしようと思ったのですが」
「………」
話に興味が湧いたのだろう。痛みではなく、僅かに信の片眉が動いたのを桓騎は見逃さなかった。
しかし、信は静かに首を横に振る。
「そりゃ興味深いが…悪ィな、まだ戦の事後処理が残ってんだ」
療養だけじゃなく、総司令官に会いに行かなくてはならないというもっともらしい理由をつけて断られてしまう。
事後処理が残っているのが嘘か本当か、桓騎にはどうでも良かった。こうなればいかなる誘いをかけたところで信は拒絶するだろう。
引き際を見定めるのも肝心である。桓騎は素直に彼女の右手を放した。
「では、また」
拱手の挨拶を交わし、桓騎は何事もなかったかのように踵を返す。
少しでも気を抜くと盛大に舌打ちをしてしまいそうで、静かに歯を食い縛ることで耐えた。どうやらあの女は微塵も自分に靡かないつもりらしい。
「ちっ…」
桓騎の姿が見えなくなってから、信は乱暴に舌打った。
彼に掴まれた右手首が痺れるように痛む。未だ肩に残っている傷も引きつるように痛んだ。
自分を酒の席に誘うためだったとはいえ、掴んだその手は一切の加減をしていなかった。恐らくは右肩に響かせるためだろう。
まだ傷が治り切っていないのは桓騎も知っていたくせに、わざと右手を掴んだのだ。本当に性格の悪い男だ。掴まれた部分にはくっきりと指の痕が残っていた。
敵味方の区別はついているくせに、それが誰であっても相手の嫌がることしか考えていない。
自分の副官になりたいと志願された時、信は彼の考えが少しも分からなかった。
これまでの功績が称えられ、副官という立場に留まる必要はないほどに自分の実力を示したというのに、なぜ桓騎は自分の副官になりたいと考えたのだろう。
何か裏があるとしか思えないのだが、それが読めないため、下手に断ることも出来なかった。
断れば良からぬ仕打ちをされるような気もするし、奇策を用いて相手を貶める桓騎をこのまま野放しにしておくことは気が引けたのだ。
王翦のように国を作る野望を持っている訳ではないし、反乱の意志は感じられないが、蒙驁の管轄下にあった時でさえ、桓騎軍の周囲には良からぬ噂ばかりが付き纏っていた。
悩みはしたが、信は監視役を兼ねて、桓騎の志願を受け入れたのである。
奇策で敵兵を翻弄する桓騎の軍略は、確かにこの秦国に勝利を貢献している。敵の行動を先読む鋭い観察眼を持っており、桓騎の指示によって敵の策を回避出来たことも多い。
犠牲を最小限に、秦軍を勝利に導く桓騎の才には感謝をしているが、信は彼と軍務以外での付き合いを控えていた。
理由は単純なもので、信が桓騎という男を好きになれないからである。
自分の中でなにかが彼を拒絶しているのだ。それは言葉には上手く言い表せないが、恐らくは本能的なものだろう。
それに、彼が秦国に忠誠を誓っていないのは明らかだ。蒙驁が没した後は潔くこの国を見限るのではと思っていた。
腹の内では何を考えているのか分からない男と杯を交わすなんて危険過ぎる。いつ手の内を返されて首を掻き切られるか分からない。
自分はともかく、嬴政にまで危害が及んだらと思うと、信はますます桓騎を警戒するばかりだった。
論功行賞が終わってから、信はしばらく自分の屋敷で療養していた。
右肩の矢傷は塞がったものの、まだ引きつるような痛みが残っている。そのせいで思うように手指に力が入らず、自分の意志のままに動かせないことがあった。
流れ矢に当たるのは初めてのことではない。
大抵のものは鎧で食い止められるのだが、肩を貫通するほど強力な矢を受けたのは随分と久しぶりのことだった。
傷口が塞がっているのに痛みが残っているということは、もしかしたら当たった位置が悪かったのかもしれないと軍医に言われた。
日を追うごとに肩の痛みは軽減して来ているので、そのうち治るだろうということだったので、信は大して気に留めていなかった。
鍛錬で武器を振るった拍子には思い出したように痛むが、今のところ生活に大きな支障はない。何か力を入れる動作をしなければ何ともなさそうだった。
戦を終えたあとで飛信隊の兵たちにはゆっくりと休養を取らせている。鍛錬を再開するのはまだ先になりそうだ。
「李信将軍」
屋敷で剣の手入れをしていると、伝令兵が木簡を抱えてやって来た。まだ戦を終えてから日は浅い。軍の総司令を務める昌平君からだろうか。
「どうした。昌平君からか?」
戦時中での報告や事後処理はすでに済ませたはずだが、まだ何かあるのだろうか。
「いえ、桓騎将軍からです」
桓騎の名前を聞いた途端、信は内容に意識を向けるよりも先に、反射的に溜息を吐いていた。
屋敷で療養していることは桓騎も知っているだろうに、そんな中でわざわざ屋敷に書簡を寄越すなんて何の用だろうか。
渡された木簡を開くと、そこには見舞いの言葉が綴られていた。どう考えても本心とは思えない。
桓騎は奇策を用いて敵を陥れることを得意としているが、前提として相手を苦しめるのが大好きな男である。
先日だって心配するような言葉を並べておきながら、信の右手首を掴んだ時の桓騎の手は少しも加減していなかった。
自分から副官になりたいと志願したくせに、自分のことが気に食わないのだろう。副官の立場になれば自分と接する機会が増える。それを利用して嫌がらせをしているとしか思えなかった。
元野盗の魁を務めていたあの男が、年下であり女の自分に従うだなんておかしい話だ。戦の才は認めているものの、信は桓騎のことを信用していなかった。
「…ああ、確かに受け取った。もう行って良いぞ」
「失礼します」
すぐに伝令兵を下がらせたのは、桓騎に返事を書くつもりがなかったからだ。
木簡を薪にでもしてやろうと思ったのだが、療養を終えたら自分の屋敷で酒でも飲み交わそうという誘いの言葉が並べられているのを見つけて手を止めた。
思えば、桓騎と酒を飲み交わしたことは一度もなかった。これまでも幾度か誘いは受けていたものの、理由をつけて断っていたのだ。
酒の席であろうとなかろうと、あの男に一瞬でも隙を見せれば寝首を掻かれるに決まっている。今後も二人きりで酒を飲み交わす機会などないだろう。
信は最後まで桓騎からの書簡を読むことなく、木簡を乱雑に折り畳んだ。
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宝石姫 |
近くにいた従者に薪にしていいと桓騎からの木簡を手渡し、信は書斎に戻って筆を取った。親友に書をしたためようと考えたのである。
先日趙国から届いた漂からの書簡には、こちらは特に変わらないと記されていた。親友である漂は今、趙国に捕虜という立場で囚われている。
漂から書簡が送られて来る前は、酷い拷問を受けていないか、きちんと食事は与えられているのか、安否を心配するばかりだったのだが、彼自身の言葉で近況を知ることが出来て安心した。
彼が捕虜となってから初めて送られて来た書簡には、今は捕虜という立場で労役をこなしているが、下僕時代の頃に比べたらなんてことはないと書かれており、信は笑ってしまった。
漂は共に下僕時代の苦悩を乗り越えた唯一無二の親友で、信には欠かせない存在だった。
まだ趙国では捕虜たちを解放する気配がない。秦国と次の戦が起こる前に、人質として交渉材料にするつもりなのだろうか。
人質は漂だけでなく大勢いる。それだけ大勢の命を天秤にかけた交渉には大いなる価値があるので、趙国も簡単に彼らを解放しないのだ。
「………」
信は筆を取ったまま、何を書こうか考えた。
互いに近況を知らせてるのはいつもそうだが、この書簡は漂の手に届く前に必ず趙の者に見られてしまう。
暗号を紛れ込ませれば漂は気づいてくれるに違いないが、趙国の者に勘付かれたら危険な目に遭わせてしまうかもしれない。
それに自分の近況を赤裸々に伝えれば、秦国の内政状況を突き止められてしまう恐れがある。本当は漂に伝えたいことが山ほどあるのだが、趙国の者の目に留まる以上は下手なことは掛けなかった。
(漂…)
書簡の文面から漂は健気に解放される日を待っていることが分かる。しかし、いつまでも解放される気配がなく、労役を強いられる日々に嫌悪しているに違いなかった。
もしかしたら漂のことだから、自分を心配させないために、本当はもっと酷い目に遭っていることを黙っているかもしれない。
漂は子供の頃から我慢強い。どれだけ苦しい想いをしていても、いずれそれは過ぎ去ると信じてじっと苦痛に耐えていた。
共に下僕という身分を脱してからも、漂は持ち前の忍耐力でこれまでの苦難を乗り越えて来た。そんな彼に何度も激励されたおかげで信は将の座にまで上り詰めた。
漂がいなければ、きっと自分は将軍の座に就くことはなかっただろう。
辛抱強い親友にいつだって信は救われて来たし、今度は自分が漂を助ける番だと思っていた。
しかし、こればかりは信の独断で解決出来る問題ではない。
軍政に携わる官吏であったなら趙国に赴いて交渉をすることが出来たかもしれないが、将軍という立場ではそうもいかない。
一刻も早く趙国から捕虜解放の報せが出ることを祈るものの、将軍という立場であっても自分は親友を救い出すことが出来ないのだという無力感に、信は重い溜息を吐いた。
こちらは特に変わりないという近況と、体を大切にするようにという健康を尊重した言葉を書いてから、信は裏庭に出た。
辺りを見渡して従者たちの姿がないことを確認してから、信は裏庭の中を進んだ。中央にある広い池には頑丈な石橋が掛けられている。
橋から池に転落せぬよう欄干 があり、欄干の柱には雨水などによる木材の腐食を抑える役割を持つ金具が一定の間隔で設置されていた。
石橋の中央を渡って五歩目、そこから右に三歩進み、欄干の中柱に設置されている金具に触れる。
すると、その金具だけはほかの箇所と違って蓋の役割をしており、簡単に開いた。
中には書簡を入れられる空洞があり、信はもう一度辺りを見渡して、誰も見ていないことを確認してから漂に宛てた書簡をその空洞へ押し込んだ。
あとは密偵がここから書簡を持ち出して趙へと運んでくれる。
次にこの金具を開けた時、漂からの返事が届いていることを期待して、信は何事もなかったかのように金具の蓋を戻したのだった。
信は静かに目を閉じると、温かい日差しを浴びながら漂の無事を祈った。
(俺の寿命の半分やるから、漂が無事に秦国に帰って来るように)
物心がついた時から両親の顔も名も知らぬ信は、神の存在などいないものだと思って生きていた。
しかし、漂の身を案じる時間が長く続き、彼女は形のないその存在に縋るようになっていた。そうでもしないと不安で胸が押し潰されてしまいそうになるからだ。
書簡が届く度に安堵はするものの、次に返事が来なかったらと思うと、夜も眠れなくなる。
いつまでもこんな思いをするくらいなら、自分が漂の代わりに捕虜になれば良かったと思うほどに。
しかし、漂にそんなことを言えばきっと叱られてしまうだろう。彼が敵地で耐えているのだから、自分もやるべきことをやらなければいけない。
それから数日後。昼を回った頃に桓騎が信の屋敷を訪れた。
これまでも書簡を送られることは何度かあったのだが、桓騎の方から屋敷を尋ねることは今までなかったので、突然の来訪に信は驚いた。
適当に理由をつけて追い返そうとしたのだが、用があるらしく正門の前から動こうとしないらしい。見舞いの言葉でも掛けに来たのだろうか。
仕方なく出迎えると、桓騎は馬から降りた状態で腕を組んで待っていた。信が門から姿を現すと、すぐに姿勢を整えて礼儀正しく拱手する。
「お迎えに上がりました」
「…はっ?」
開口一番そんなことを言われて、信は大口を開けて聞き返した。
なにか約束を交わしていただろうか、軍政のことで呼び出しでもあったのだろうか、思考を巡らせるものの、思い当たる節は一つもない。
あからさまに戸惑っている信を前にして、桓騎は僅かに呆れたように肩を竦めた。
「返事を頂けなければ承諾とみなしますと、先日の書簡に記していたのですが」
(しまった)
桓騎の言葉を聞いて、ようやく状況を理解した信はあからさまに顔を引きつらせた。
確かに先日、桓騎から酒の席に誘う内容の書簡が届いた。しかし、最後まで目を通すことなく、信はその木簡を薪にしてしまったのである。
きっと桓騎は信が返事を寄越さないことを知った上で、返事を寄越さないなら、誘いに承諾したとみなすと記したのだろう。
案の定、信にはその文面を読んだ記憶がなかった。恐らくは書簡の最後の方に記されていたに違いない。
(くそ…)
もしかしたら、信が最後まで書簡を読まないことも想定した上での計画だったのかもしれない。
もしも書簡に軍政のことを書いていたのなら、最後までしっかり目を通していたはずだが、桓騎にしてやられたというワケだ。
右肩の怪我が治り切っていないことを理由に断ろうとも思ったが、それならばなぜ返事を出さなかったのかと問われるに決まっている。
「あー…すぐに支度する。ちょっと待っててくれ」
「お待ちしております」
書簡をきちんと読んでいなかったことも、薪にしたことも本人に向かって言えるはずもなく、信は部屋に戻って大袈裟なまでに深い溜息を吐いた。こうなれば仕方ない。
(一度だけ付き合ってやれば、しばらく誘われないだろ。だが、用心はしとかねえとな)
渋々身支度を済ませたあと、信は桓騎と共に彼の屋敷へと向かうのだった。
桓騎の屋敷には初めて訪れたのだが、門楼を潜ると、予想通り派手な作りだった。
この屋敷の主は桓騎一人で、代々名家が受け継いでいる豪邸でもないのに、母屋以外にも別院がいくつもある。
使用人も大勢雇っているようだ。使用人の女性たちは娼婦かと思わせるような派手な化粧と香を着物から漂わせている。さまざまな香の匂いが混ざり合い、信は思わず鼻を塞ぎそうになった。
招かれた立場で嫌悪感を露わにするわけにはいかず、信は奥歯を噛み締めて何とか表情に出すのを堪える。桓騎はこの香りに何も感じないのだろうか。
派手なのは着物や化粧だけでなく、色鮮やかな宝石が埋め込まれた腕輪や簪などの装飾品もだった。まるで妓楼にでも招かれた気分だ。
元野盗である彼は手に入れた敵の領土から強奪をすることを当然としている。
しかし、鎧ならともかく、派手な装飾品には何の意味があるのだろう。
自分の地位や名誉を示すのは武功と名前があれば十分だと思っている信には、桓騎の金銭の使い道はよく分からなかった。
将も給金を与えられるし、戦での活躍が認められれば報酬を与えられる。
使い道に口を出すことはなかったが、敵地の領土を手に入れた際に、その地に住まう民たちを虐殺したり、財産を強奪することだけは許さなかった。
桓騎も信の言葉に従っているものの、他人を欺くのを何よりも得意としていることから、こちらの目の届かぬ場所で何をやっているか分からない。
かといって監視をつければその監視役の命も危ういため、信も完全には桓騎という男を管理し切れていない自覚があった。
客間に案内されると、信は桓騎に勧められるまま、長椅子に腰を下ろした。
長椅子には白虎の毛皮の中に綿を詰め込んで作った座布団が置かれている。柔らかくて座り心地は良いが何とも悪趣味だ。
桓騎軍には拷問に長けている砂鬼一家がいるので、もしかしたら屋敷のどこかに人の皮で出来た家具があるのではないだろうかと不安になる。
念のため、座っている長椅子に触れてみたが、これは本当に黒檀で出来ているようで安心した。
桓騎が向かいの席に腰を下ろすと、すぐにあの派手な格好をした侍女たちがやって来て酒や料理を並べていく。宮廷や店で振る舞われるのとは違う、皿の中央に少量だけという特徴的な盛り付け方には見覚えがあった。
「摩論の料理か?」
「お好きでしょうから、用意させました」
桓騎軍の参謀であり重臣の一人である摩論はいけ好かない男だが、料理の腕前は確かだ。桓騎軍と共に出陣した際の野営生活で摩論の手料理を振る舞われた時、素直に信はその料理を称賛した。
今日は鴨肉の味噌漬けと根菜の付け合わせだ。湯気と共に良い香りが漂ってくる。他の料理も今作っている最中らしい。
量が少ないことだけは不満だが、摩論曰くその食材の中で一番良い部位だけを使っているから仕方ないのだそうだ。
摩論の手料理を食べられるなら来た甲斐があったものだが、桓騎の腹の内が読めない以上、あまり長居をしたくなかった。
料理を堪能して酒はほどほどに、右肩の傷が癒えていないことを理由にして早々に帰還しよう。
屋敷の留守を任せている従者たちには桓騎の屋敷に行くことを伝えているし、もしも帰宅が遅くなるようなことがあれば必ず迎えに来るよう指示をしていた。
あえて桓騎が見ている前でそのような指示をしたのは、彼への抑止力になると考えたからである。
もしも桓騎が自分の命を狙っていて、行動しやすい自分の屋敷で殺害計画を実行するつもりなら、証拠隠滅を図って死体を見つからぬように処理するかもしれない。
簡単に殺されてやるつもりはないが、従者たちに迎えの指示を出しておけば、もしも自分の身に何かあったとしても、桓騎に容疑を掛けられるのは間違いない。
唯一信が失敗したことといえば、桓騎から届いた書簡を薪にしておけと指示したことだった。とはいえ、彼が信を酒の席に誘ったことは事実だ。言い逃れは出来ないだろう。
「贔屓にしている酒蔵から取り寄せたものです」
ぎらぎらと怪しく光る金の杯に酒を注ぎ、桓騎は信に手渡した。
素直に受け取ったものの、信はその酒を飲むことなく彼の前に置く。それから桓騎の手にある酒瓶を奪うと、信はもう一つの杯を手繰り寄せて酒を注いだ。
「いつも誘いを断って悪かったな」
正直、罪悪感など微塵も感じていないが、何かと理由をつけて酒の席を断っていたのは事実だ。
桓騎が注いだ方の酒は彼に渡し、信は自らが注いだ方の杯を軽く掲げた。
杯に口元に寄せながら、桓騎も同じように杯を煽るのをじっと見据える。彼が喉を動かしたのを見届けてから、信もようやく酒を口に含んだ。
桓騎が酒を飲む時に躊躇う様子はなかった。つまりは酒にも杯にも毒や薬の類が盛られていないことが証明されたというワケである。
「…うん、美味い。良い酒だ」
雑味が少しもなく、滑らかな舌触りだ。喉を流れ落ちた後に胃が燃えるように熱くなったので、かなり強い酒であることが分かった。これは飲み過ぎると確実に酔い潰れてしまうだろう。
年齢が近いながらも、自分を慕ってくれている蒙恬や王賁たちの前で酔い潰れたなら快く介抱してもらえるが、信頼に欠ける桓騎の前では決して隙を見せたくはなかった。
酒の酔いを理由に転んで頭をぶつけただとか、不審に思わせないような死を演出されるかもしれない。この男の前では弱みや隙を見せることは命取りになると信は疑わなかった。
つい不吉なことを考えてしまったが、自然に振る舞おうと会話を続ける。
「こんな美味い酒を造れるなら、お前がその酒蔵を贔屓にするのも分かるな」
「李信将軍に称賛されたとなれば、醸造家も本望でしょう。良ければご紹介しますが」
「ああ、頼む」
桓騎はすぐに侍女を呼び寄せると、木簡を持って来るよう声を掛けた。贔屓にしている酒蔵の情報を教えてくれるのだろう。
少ししてから侍女が一つの木簡を手に部屋へと戻って来た。桓騎に手渡すと、すぐに一礼して下がっていく。
派手な身なりはともかく、礼儀を弁えていることから、きちんと教養を受けている者たちを雇っているらしい。
「どうぞ」
手渡された木簡を、信は疑うことなく開いた。
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「―――」
木簡に記されている言葉を目視して、信は思わず目を見開いた。
桓騎が贔屓にしている酒蔵の場所が記されているのだとばかり思っていたのだが、そうではなかった。
(なんで俺の書簡がここに…?)
それは明らかに自分の文字で、趙国にいる漂に宛てたものだったのだ。桓騎からの書簡が届いたあの日に、信が送ったものである。
何度か読み返してみるが、やはり自分の字だ。確かに石橋の欄干 に隠したはずなのに、どうしてこの書簡が今ここにあるのだろうか。
「………」
桓騎は信の動揺を見逃すまいとして、瞬き一つせずにこちらを見据えている。その視線を受けながら、信は思わず身震いした。
(こいつ、一体なんのつもりだ)
背中にじわりと嫌な汗が浮かぶ。まさか桓騎が自分の屋敷に忍び込んで盗んだのだろうか。
元野盗の彼が屋敷に忍び込むのはあり得なくはないが、あの隠し場所を突き止められたということは以前から行動を見張られていたのかもしれない。
屋敷の敷地内とはいえ油断した。この書簡がここにあるということは、信が内密に趙国に書簡を送っていることが気づかれたということになる。
機密情報の類は誓って口外していないが、秦将である自分が敵国に密書を送るとなれば裏切り行為であると誤解されかねない。謀反の意志があると思われても仕方ないだろう。
人質になっている親友の安否を心配しているからだったとはいえ、内密にしていたことには確かに後ろめたさはあった。だが、それを素直に白状したところで敵国に書簡を送るのを禁じられるのは目に見えている。
それでも信は、親友との連絡手段を絶つことは出来なかった。漂は自分の命よりも大切な存在で、漂も信のことを同じように想ってくれている。
自分からの書簡が途絶れば、趙国で人質として耐えている彼の心の拠り所を失いかねない。
そんな事情を桓騎が知っているはずがないだろうが、この書簡を持ち出したということは何か自分と取引でもしたいのだろうか。
(いや、違う)
これは取引ではなく脅迫だ。信は直感した。
自分に利がないと動かない桓騎が一体なぜ副官になったのかを、信は未だに理由が分からずにいた。もしかしたら自分の弱みを握るためだったのだろうか。
生唾を飲み込んでから、信はようやく桓騎と目線を合わせた。
「…何が望みだ」
低い声で問いかけると、桓騎はその言葉を待っていたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべたのだった。
The post イリバーシブル(桓騎×信)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.