イリバーシブル(桓騎×信)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・将軍ポジション。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/漂×信/シリアス/上下関係逆転/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

脅迫

桓騎は不敵な笑みを浮かべたまま、まるで信の反応を楽しんでいるかのように、何も喋らなかった。

これが間違いなく親友に宛てた書簡――敵国への密書――である以上、信は桓騎に将としての未来を握られているということになる。

謀反の疑いがあると軍の上層部に告発されたなら、処刑されることになるかもしれない。

桓騎は地位や名誉に興味を持たず、他人から命や財産を奪うことに微塵も罪悪感を覚えない男だ。
信の将としての未来を費やすどころか、親友を救い出せずに殺されるという苦痛を味合わせるつもりなのだろうか。

桓騎がいつどこで書簡を盗んだのかを問い詰めるつもりはなかった。

だが、漂を助け出していないうちに命を奪われるのだけは何としても避けたい。今はとにかく自分の首を守る手段を見つけなくては。

何を言われるのか信がじっと身構えていると、桓騎が椅子の背凭れに体を預け、大胆に足を組んだ。

これまでは信の前でそのような横暴な態度を取ることはなかったのに、ずっと仕えて来た上官の弱みを握ることが出来て優越感にでも浸っているのだろうか。

「………」

心臓が痛いくらいに脈打っていたが、信は冷静を装って桓騎から一度も目を逸らすことをしなかった。無様に許しを乞うことはしたくなかったし、動揺する姿を見せればこの男をますます楽しませるだけだと分かっていたからだ。

「随分と冷静だな」

「………」

信が思うように動揺しなかったことが気に食わなかったのか、桓騎はつまらなさそうな表情を浮かべる。

興を削ぐことが出来て何よりだが、こちらが不利な立場であることには変わりない。
少しの沈黙のあと、桓騎は信の目を真っ直ぐに見据えながら口を開いた。

 

 

命令

「今ここで脱げ」

桓騎は頬杖をつきながら、信にそう命じた。
その命令を聞いても、信は眉一つ動かさない。木簡を渡してから動揺している様子は見られないが、かといって素直に従うつもりはなさそうだ。

「………」

着物を脱ぐよう指示をした理由を尋ねることもしないが、信は棘を持った視線を向けて来るばかりで動き出す様子がなかった。

桓騎はわざとらしく溜息を吐く。

「俺の気が長くないのは知ってるよな?」

副官として信に仕えるようになってからそれなりの年月が経っていたし、桓騎の性格については信もよく理解していることだろう。

「………」

桓騎の言葉を合図に信の左手が動き、自らの帯に手を掛けた。織物の軋む音を立てながら結び目が解かれて、着物の衿合わせが開く。

態度はともかく、こちらの命令に従ったということは、あの書簡のことを上層部に告げ口されては都合が悪いのだろう。

催促するように信を睨むと、彼女は自分の皮を剥ぐように着物を脱ぐ。着物が床に落ち、続いて信は躊躇うことなく※ズボンを脱いだ。

さらしで包まれた胸と、必要なところにしっかりと筋肉が兼ね備えられている体が現れる。

その行動に少しも恥じらう様子がないのは残念だが、こちらの興を煽ぐまいとして気丈に振る舞っているのはすぐに分かった。

「…色気のねえ体だな」

右肩には先日の戦で受けた矢傷が残っていた。包帯は外れていたが、まだ完治はしていない。

女の裸は見慣れている桓騎だったが、信は今まで見て来た女とは随分と違う体を持っていた。傷だらけで、それが過去の戦で受けたものなのは分かったが、中には目を背けたくなるような大きな古傷もある。

普段から着物や鎧で隠れている傷だらけの肌は、血管が浮かび上がるほど青白かった。しかし、女にしかない胸の膨らみや腰のくびれには、男としてそそられるものがある。

「………」

桓騎の視線を受けながらも、信は恥ずかしがる素振りを見せなかった。てっきり羞恥を堪えながら、頬を赤らめて涙目で俯く姿を見せてくれると期待していたのに残念だ。

何の反応も示さず、言われるまま指示に従って沈黙を貫いているのも、恐らくはこちらの興を削ぐために違いない。

これから何をされるのかという不安を顔に出さないように努めているようだが、僅かに体が強張っているところを見れば、緊張しているのは明らかだった。

だが、今日という日を待ち侘びていた桓騎は、もちろんこの時間を簡単に終わらせるつもりなどなかった。

目の前にいるこの女を抱くと以前から決めていたが、決行するまでに随分と遠回りをしていた・・・・・・・・ことを認めざるを得ない。

 

それまで無表情を貫いていた信が顔色を変えたのは、胸を包んでいるさらしを外そうとした時だった。

「っ…」

まだ右肩の痛みが残っているようで、さらしの結び目を解こうとした時に苦悶の表情を浮かべたのである。

着物と褲は命令通りに脱いだので、それくらいは許してやろうと桓騎は考える。

「来い」

顎をしゃくると、信は左手で右肩を押さえながら近づいて来た。まだ眉間のしわが取れないのは痛みを感じているからだろう。

「跨れ」

さらしを外してやろうと思い、桓騎は自分の太腿を軽く叩いて新たな命令を告げた。

「………」

命じられるままに桓騎の膝に跨った信は、後ろで結ってある自分の髪に左手を伸ばす。髪を一括りに結んでいる紐を解くと、日に焼けて傷んだ黒髪が広がった。

これから自分に抱かれるのを受け入れたかのように思えたが、桓騎はその行動に僅かな違和感を覚えていた。

普段から諦めの悪いこの女が嫌悪している相手に対して、こんなにもあっさり白旗を揚げるだろうか。

「―――」

瞬間。視界の端で何かが光って、反射的に体が動いた。それは本能が危険を察知したことによる防衛機制に違いなかった。

「うぐッ」

咄嗟に信の左腕を押さえ込んで、反対の手で彼女の頬を打つ。加減は一切しなかった。

後ろに仰け反った体が床に倒れ込む前に、桓騎は掴んだ左腕を引き寄せて、勢いのまま長椅子の上に押し倒す。

「…確かに、色気のないお前には簪よりもこっちの方が似合ってるな」

信の左手に握られているを奪い取りながら、桓騎が独り言ちた。鋭い先端が黒ずんでいるその暗器を見て、毒か薬の類が塗られていることに気づく。

「ぐあぁッ!」

焦った信がすぐにその暗器を取り戻そうとしたので、桓騎は未だ治り切っていない彼女の右肩をわざと握り込んだ。容赦なく握り込んでやったせいで、信の口から悲鳴が洩れる。

もしも彼女がこの屋敷に来るにあたって、簪の一本でも差していたのなら、それで眼か首を突いてくるのではないかと警戒しただろう。

目の前で着物を脱ぐように指示をしたのは暗器の類を持ち込んでいないかの確認の意味もあったのだが、まさか結っていた髪の中に隠していたとは思わなかった。

「随分と楽しませてくれるじゃねェか」

一瞬でも反応が遅れていたら、今頃無様に寝かせられていたに違いない。

…とはいえ、殺されることはなかったはずだと断言出来るのは、彼女から微塵も殺意を感じられなかったからである。そのせいで隠し持っていた暗器を警戒出来ず、反応が遅れてしまった。

さらしを外そうとして右肩を庇ったのは、こちらに疑われずに接近をするための演技だったのかもしれないが、傷が癒えていないのは確かのようだ。

「くっ…」

信は悔しそうに桓騎を睨みつける。どうやらこの暗器が最後の抵抗手段だったらしい。

桓騎は表情こそ変えなかったが、これまで抑え続けていた征服欲がはち切れんばかりに湧き上がって来て、興奮のあまり自分の唇を舐めずった。

ようやくこの女を好きに扱える時が来た。

 

 

歯を食い縛りながらも、信は桓騎を睨みつけたままでいた。

嫌っている男に組み敷かれる屈辱と右肩の痛みが同時に襲って来て、苦悶の表情を滲ませている。

やっと見せてくれたその表情に、桓騎の口角は無意識のうちにつり上がっていた。

きっと右肩を負傷していなければ、今こうして桓騎に組み敷かれることはなかっただろう。抵抗する両手を押さえ込むのに時間がかかっていたかもしれない。

それにしても結った髪の中に暗器を忍ばせておくくらいだったのだから、信は相当自分を警戒をしていたに違いない。今となっては全て無駄だったのだが。

「どうした?普段よりも調子が出ねェな」

「っ…」

右肩の傷は塞がっていて包帯は外れていたのだが、まだ痛むのだろう。信の表情を見ればそれは明らかだった。

普段よりも治りが遅いことを彼女は気にしていたが、それは当然のことである。

「当然か。お前の右肩は俺が射抜いた・・・・・・んだからな」

「…は?」

信がこちらの言葉を理解するまでに時間を要した。しかし、正解に辿り着くより前に、桓騎は追い打ちをかけるように言葉を紡ぐ。

やじりに微量の毒を塗っておいた。死ぬことも腕が腐ることもねェが、完治するまでにはまだ時間がかかるだろうな。だが…」

言いながら桓騎は信の手首を頭上で一纏めに押さえ込んだ。

「これで十分だ」

男女の力量差を教え込むように、桓騎がにやりと笑った。

 

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仕組まれた罠

「ぐ、ぅ…!」

いつもならすぐに振り払えるはずなのに、右肩の痛みが信の抵抗を邪魔する。

―――背後から右肩を射抜かれた時、信は戦場を飛び交う流れ矢に当たったのだと直感した。

敵の弓兵部隊は後方からこちらを攻撃していたが、それは自軍も同じである。戦場で流れ矢を受けたことは初めてではなかったし、信も大して疑問を抱かなかった。

先の戦では、桓騎軍が飛信隊の後方を持ち場としていた。飛信隊を前面に出すことで、敵兵の戦力を中央に集めさせる目的である。

敵兵が飛信隊と応戦している間に、その背後で桓騎軍が奇策を成す動きを悟られないようにというもので、それは紛れもなく桓騎の指示であった。

武器を握る利き腕を負傷したのは痛手であったものの、致命傷には至らなかったし、自分を射抜いた相手が誰かなど考えもしなかった。

しかし、戦を終えてからは療養に専念していたというのに、矢傷の治りが普段よりも遅いことに信は疑問を抱いていた。

まだ痛みはあるものの、きっと生活と鍛錬を続けているうちに治るだろうと言われていたので、信も深くは気にしていなかった。

それがまさか、桓騎が意図して自分を狙ったという言葉を聞き、信は驚愕のあまり言葉を喉に詰まらせてしまう。

今思えば、右肩を流れ矢で貫かれたのは、桓騎軍が敵の本陣を落としたという報告を聞いて信が油断した時だった。矢を射った時機さえも見計らったのだろうか。

(何の目的で…)

戦を利用してまで確実に毒創を負わせるなんて、桓騎は自分を殺害しようという計画を企てていたのか。

だが、致死量を塗らなかったと自白したのは殺意の否定に違いない。

今この場で桓騎に組み敷かれている状況から、恐らくは抵抗が出来ないように枷を嵌めたつもりでいるのだろう。

着物を脱げと言われた時から薄々予想はしていたものの、まさか自分がそんな対象・・・・・として見られているとは思いもしなかった。

「…女なら、この屋敷に余るほどいるだろ」

「生憎、お前は一人しかいねェからな」

皮肉にも上官として特別扱いはしてくれているようだが、小娘を敬うつもりなどなかったことがこれで証明された。凌辱を強いた後に、拷問にでも掛けて殺すつもりなのだろうか。

この屋敷に自分の味方はいない。自分の身は自分で守らなくてはと思い、袖の中や帯の裏地に暗器を忍ばせていたのだが、着物を脱ぐように指示をされたのはきっと桓騎も警戒していたからだろう。

最後の抵抗手段として、痺れ薬を塗布してある針を結った髪の中に忍ばせていた。しかし、それすらも奪われてしまった。

自分の身に何かあった時のために、帰宅が遅くなるようなことがあれば迎えに来るようにと従者には頼んでいたが、到底まだ来る刻限でもなかった。

もしかしたら桓騎はそれを見越して、酒を飲み交わしてからすぐに木簡を差し出して来たのかもしれない。

 

 

桓騎に両手を押さえ込まれているせいで身動きが取れない。幸いなのは両手首を拘束しているのが縄の類ではなく、桓騎の手であることだ。
隙を見て拘束を振り解き、漂に宛てた書簡を取り返す機会を伺う。

(くそ…)

右肩さえ負傷していなければ力づくで頭を殴りつけていただろうが、今はそうもいかない。どうにか桓騎に奪われた暗器と木簡を取り戻せればと思い、信は必死に思考を巡らせていた。

そんな彼女の考えを読んだのか、桓騎は怒りを煽るように笑う。

「それにしても、お前のとこの護衛は警戒心が緩いな。あんなアホみてェな訓練させておいて、名ばかりか?」

「おい、どういう意味だ」

急に衛兵たちを小馬鹿にするような話を桓騎が持ち出したことに、何故そんなことを言い出すのか、信は意図が分からずに聞き返した。

伝令の鎧を着ていれば・・・・・・・・・・腰牌※身分証明証も確認せずに通しちまうんだからな。形だけの護衛だって言ってんだよ」

「な…」

驚愕のあまり、言葉が喉に詰まってしまった。

秦将として活躍する信のもとには頻繁に書簡が届けられる。軍の総司令を務める昌平君や、共に出征する仲間からのものがほとんどだ。

そのため、屋敷には頻繁に伝令兵が出入りする。屋敷の警備に当たっている兵たちもその存在を黙認していた。

漂に宛てた書簡が今この場にあるのは、元野盗である彼が警備が手薄になる隙を突いて、屋敷に忍び込んでいたのかと思っていたが、そうではなかった。

(まさか)

顔から血の気を引く感覚に眩暈を覚える。
桓騎の言葉は、彼自身が伝令兵に成り済まして、堂々と屋敷に侵入していたことを示していたからだ。

―――李信将軍。

―――どうした。昌平君からか?

―――いえ、桓騎将軍からです。

先日、書簡を持って来た伝令兵とのやり取りを思い出し、信は目を見開いた。

その伝令兵はかぶとを深く被っており、書簡を渡す時には礼儀正しく頭を下げていることもあって、顔をよく見ていなかった。

しかし今思えば、その伝令兵はいつも桓騎からの書簡を携えて信の屋敷にやって来た。それが伝令兵に扮した桓騎だったというのなら、

「いつ、から…?」

動揺を態度に出せばこの男を楽しませると分かっているものの、信は震える声で問いかけた。

この男は、一体いつから自分の屋敷に侵入していたのだろうか。いつから趙にいる漂と書簡のやり取りをしていることに気づいていたのだろうか。

どうやらすぐに正解を教えるつもりはないようで、桓騎は楽しそうに目を細める。

 

 

桓騎からの書簡が屋敷に届けられたのは先日が初めてではない。今までも他愛もない内容や、軍政についての書簡を送って来ることがあった。

思い返してみると、それは桓騎が信の副官に志願してから始まっていた。
あの伝令兵――伝令兵に扮した桓騎――が屋敷に来るようになったのは、その時からだと思い出す。

「まさか、俺の副官になってから・・・・・・・・・・、ずっと…?」

「さあ?どうだろうな」

あえて正解を語ろうとしない相変わらずの性格の悪さに信は激昂した。その言葉が問いを肯定していると直感したからである。

この男は、自分の副官になってから、趙国への密書をしていることを知っていたのだ。

「てめえッ!」

勢いのまま、信は桓騎の体を蹴り上げようと試みた。しかし、馬乗りの体勢では彼を押し退けることも出来ず、悔恨に顎が砕けそうなほど歯を食い縛る。

自分を見下ろしながら桓騎がクク、と喉奥で声を上げて笑った。

「もう抵抗する手段が残ってねえようだが…この後はどうする?」

「ッ!」

ますますこちらを挑発するように桓騎が顔を寄せて来たので、信は反射的に彼の喉笛を食い千切ろうとに獣のように大口を開けて牙を剥いた。

しかし、寸前のところで顔を背けられて、未遂に終わってしまう。

「ハッ、飢えた野良犬かよ」

一撃でも与えることが出来れば逃げ出す隙が作れるというのに、全て回避されてしまい、信は怒りを上回る焦燥感に冷や汗を滲ませた。

 

ご馳走の下準備

片手で信の両手を押さえ込みながら、桓騎は反対の手で何かを手繰り寄せる。それは信が護身用に髪の中に隠していた暗器だった。

「…この程度で俺を黙らせられると思ってんなら、随分と甘く見られたもんだ」

使うことがないように祈りながら忍ばせていた護身用だったのだが、まさか失敗するなんて思いもしなかった。

「だが」

暗器を見据える桓騎の目がにたりと怪しく細まったのを見て、信はなにか嫌な予感を覚えた。

この表情を見るのは初めてではない。相手の裏をかく時や、相手を苦しめる時、桓騎はいつも嫌な笑みを浮かべるのである。

「これが薬と毒のどっちなのか、興味があるな」

二本の指で針を持ち直した桓騎は、あろうことか信の首筋に針の先端を突き付けたのである。

針の先端が黒ずんでいるのは、強力な痺れ薬を塗布してあるからだ。
毒ではないので命に別状はないと頭では理解しているものの、信は咄嗟に顔を背けて針先から逃れようとする。

「…やッ…!」

首筋に一突きされれば数刻は動けない。
意識はあっても手足の自由が利かなくなるし、舌にも痺れが出るので、ろくに言葉を話すことも出来なくなってしまう。

抵抗出来ない状態で拷問にでも掛けられるのだろうかと思うと、背筋が凍り付いた。

先ほど阻止されなければ、今頃は漂に宛てた木簡を取り戻して早々に逃げ出していたはずだった。

もしも従者たちに引き止められても、桓騎が酔い潰れたので先に帰宅すると言えば怪しまれることはないだろうし、薬で動けない桓騎を見れば従者たちも眠っていると信じ込んだだろう。

失敗さえしなければ、適当に理由をつけて誘いを断っていればと、信の中で後悔が駆け巡った。

「うっ…!」

無情にも首筋に走った小さな痛みに、信は桓騎に敗北したことを嫌でも悟った。

首筋から針が引き抜かれてから、すぐに異変が起きた。指先が痺れ始め、力が入らなくなって来たのである。

「あ…だ、誰かッ、誰か来てくれッ!」

舌にも僅かな痺れが襲ってきて、信は口が塞がれてしまう前に、最後の希望に追い縋ろうと大声を出した。

この屋敷に自分の味方など一人もいないのだと分かっていても、無様に助けを求めずにはいられなかった。

(まだ、まだ死ねない。漂を助けるまで、こんなところでくたばるワケには)

目まぐるしく思考する頭とは反対に、少しずつ体に力が入らなくなって来る。まるで手足が鉛になってしまったかのような重さを感じながら、信は涙を流した。

もしもこんな場所で桓騎に殺されたら、殺されなくても手足の何本かが使い物にならなくなるようなことがあれば、漂を助けられなくなってしまう。

自分の命が奪われるよりも、漂を助けられなくなることが恐ろしかった。

「いや、だ…」

必死に声を振り絞って拒絶の意志を示すが、桓騎は薬が効いていき人形のように動かなくなっていく信を楽しそうに見つめるばかりだった。

 

 

信が暗器に塗布していたのは即効性の痺れ薬だったようで、彼女の体はみるみるうちに動かなくなっていった。先ほどまで喚いていたうるさい口もようやく静かになる。

呼吸は阻害されていないものの、信の瞳は涙を浮かべていた。どうやら自由を抑制するようだが、彼女の顔を見れば意識だけは繋ぎ止められていることが分かる。

頭上で抑え込んでいた手首を放しても、信が逃げ出すことはない。ようやく桓騎は彼女の足首に枷を嵌めることが出来た安心感を覚えた。

彼女の体から退くと、涙を浮かべた弱々しい瞳が桓騎の姿を追い掛ける。動けないながらも意識だけは鮮明にある今の状況下で、信は何を思っているのだろうか。

「来い」

部屋の外に待機している侍女たちに声を掛け、桓騎はある物を持って来るように指示を出した。
持って来させたのは女物の着物と化粧品、それからと爪紅の塗料だった。

脱力した体を抱き起こすのは多少面倒ではあったが、道具を持って来させた侍女たちの手を借りて着付けを進めていく。

やわらかい灰みが入り交ざった青色の着物には、銀の糸で竹の花の刺繡がされていた。
花弁が多い花や、存在感のある大きな花が描かれているものを好む女性も多いが、それらに比べると味気ない竹の花の着物を選んだのは桓騎の好みである。

せっかくなので信が普段着ることのない色や、艶やかな花が刺繍されている着物を選別しても良かったのだが、やはりこの着物にして正解だった。

信から一体何をしているのだという視線は向けられていたものの、桓騎は侍女たちと黙々と準備を済ませていった。

彼女が化粧をすることや、※スカートを穿くのは国家行事の時くらいで、桓騎も彼女の副官になってから滅多に見ることが出来ない姿であった。信が着飾ることの方が国家行事くらい頻度が少ないと言ってもいい。

論功行賞ですら、そこらの民が着ているような普段のみすぼらしい格好なので、それとなく指摘したことがあったのだが、大王から許しを得ているので問題はないのだそうだ。

侍女に着替えや化粧を任せていたが、信の黒髪だけは丁寧に梳いただけで結い直すことや、簪を差すことはさせなかった。
彼女に装飾品を与えればそれを武器として抵抗するに違いないし、それがたとえ簪や紐一本でも使い道によっては凶器となる。薬はまだ効いているとはいえ、油断はできない。

着替えと化粧が終わったあと、桓騎は信の体を抱きかかえて寝台へと運んだ。彼女の体に触れるのは初めてではないが、抱えるのはこれが初めてだった。
脱力しているというのに、想像していたよりもその体は軽く、こんな体でよく死地を生き抜いて来たものだと思う。

寝台に体を下ろしてから、まじまじと豹変した信の姿を眺めていると、信から嫌悪を込められた瞳で凄まれる。眉間は少しも動いていないが、睨まれていることが分かった。

白粉で顔の傷が隠れ、瑞々しく色をつけた唇目つきはともかく、やはり女だ。しかし、鋭い眼差しを向けられて桓騎は口角を持ち上げた。

自由の利かない体になってもなお、諦めることも自分を受け入れようともしないこの女に、桓騎は堪らなく加虐心を煽られた。全身の血液が沸き上がるように昂っていく。

主が爪紅の準備を始めたのをきっかけに、侍女たちは足早に退出していった。

 

 

筆と爪紅の塗料が入っている小皿を手繰り寄せ、寝台の端に腰を下ろす。それから桓騎は信の脱力している手を持ち上げた。

何をするつもりだという視線を向けられたのが分かったが、桓騎は信の手から視線を逸らさない。

手の平は武器を強く握り込むせいでまめだらけで、手の甲は傷だらけだった。家事などの水仕事をしている女の手とはまた違う。こちらにも白粉を叩くべきだっただろうか。

怪我の絶えない信から戦という存在を切り離すことが出来ない。それこそが信から女らしさを感じさせない原因だろう。

そんなことを考えながら、桓騎は筆の毛先に紅花を磨り潰した塗料を馴染ませた。

「動くなよ。やりづらくなるからな」

薬のせいで動けないことは分かっているものの、桓騎はわざと声を掛けた。器用に筆を動かして、彼女の爪に紅い塗料を塗っていく。

「……、…」

僅かに信の唇が慄いた。しかし、それは言葉にはならず空気を僅かに震わせるだけだった。
その後は桓騎も言葉を発することなく、黙々と作業を進めていく。

常日頃から傷だらけのせいで、信の爪の状態は良いものとは言えなかったが、それでも色を塗っていけば女らしさに磨きがかかる。

丁寧に筆を動かし、一枚ずつ爪を赤く染めていく。時間をかけて両手の十枚の爪に塗料を塗り終えると、桓騎は上を向いて凝り固まった首を動かした。随分と夢中になって塗り続けていたらしい。

心地良い疲労感を感じていたものの、信からは相変わらず嫌悪を込めた瞳を向けられていた。

手首を持ち上げて、塗料を乾かすために爪に息を吹きかける。その刺激に連動するように、それまで脱力していた信の体がわずかに動いたのを桓騎は見逃さなかった。どうやら痺れ薬が切れ始めて来たらしい。

薬が完全に切れて信が自由を取り戻したとしても、桓騎には勝算しかないのだが、あまり喚かれるのは面倒だ。

塗料が完全に乾いたのを見計らい、外見だけは誰が見ても女になった信を見下ろし、ようやく食べ頃になったことを察したのだった。

 

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凌辱

寝台の上に寝かせている信の体を組み敷くと、桓騎を睨みつけていた信の目が僅かに見開かれた。まさかこれで解放されると思っていたのだろうか。

身を屈めて首筋に唇を押し当てる。太い血管がある首には、他の箇所と比べて傷が圧倒的に少なかった。

侍女たちの手を借りて着用させた上質な着物の中に手を忍ばせると、信の瞳が左右に泳ぐ。直に肌を触れられて戸惑っているようだった。

「っ…」

傷だらけの肌を手の平で味わいながら、今度は耳元に唇を寄せて舌を差し込んだ。信が声成らぬ声を上げて、鳥肌が立ったのが分かった。痛みとは違って経験したことのない刺激に戸惑っているのだろう。

信が生娘処女であることは以前から何となく察していた。

こればかりは確実な証拠を目撃したというわけではないのだが、男関係に疎い彼女のことだからそういうこと・・・・・・は未経験に違いないと思っていた。

しかし、この反応をみれば、信が男に抱かれたことがないのは間違いないだろう。

「っ、ぁ…」

掠れた声が聞こえて、どうやら口の痺れも少しずつ解けて来ているようだ。
まだしっかりとした言葉を成さなくても、やめろと言われているのは手に取るように分かった。

額や頬に唇を押し当てながら、ゆっくりと帯を解いていき、果物の皮を剥くように着物の衿合わせを丁寧に開いていく。

胸の膨らみを手で包み込むように持ち上げる。柔肉に指が沈む心地良い感触に、女を抱く楽しみを再認識させられた。

数多くの女を相手にして来たが、こちらに憎悪を向けて来る女を抱くのは信が初めてだ。

この女の反抗心を完膚なきまで崩してみたいという好奇心を覚えたのは一度や二度の話ではなかった。

 

 

せっかく良い着物と化粧で着飾らせたのに全て脱がしてしまうのは惜しい。桓騎は※スカートをたくし上げて、筋肉で引き締まった内腿をそっと撫ぜた。

常日頃から馬に乗っている信は、そこらの女よりも腰回りの筋肉がついている。強い締まりが期待出来そうだ。

膝を開かせて剥き出しになった淫華に視線を向けると、まだ男の味を知らないそれはくすみもなく鮮やかな色をしていた。

「は…っ…」

唇を震わせながら信の顔が赤く上気したのを見て、羞恥に悶えていることが分かる。

顔を動かすことは出来ないらしく、天井を見つめることしか出来ずにいるが、視覚が制限されるせいで敏感に反応してしまうのだろう。

過去の戦で信が救護班の手当てを受けており、ほぼ半裸である姿は幾度も見たことがあったが、その時は微塵も恥ずかしがる様子を見せなかった。(あの時は副官と軍師の娘たちによって早々に天幕から追い出された。

しかし、これから女にさせられるのだという事実にまだ抗おうとしているようだ。
信の反応を楽しみながら、桓騎は手を動かすのをやめない。

「や、め…」

「ん?」

空気を震わせるばかりだった唇が、僅かに言葉を紡いだので桓騎は小首を傾げた。

どうやら下準備に時間を要したせいで、少しずつ痺れ薬の効果が薄まって来ているらしい。とはいえ、まだ言葉を出すのが精いっぱいのようで、手足は動かないままだ。

たとえ信が将軍とはいえ、女一人を相手に自分が負けるとは思わないが、完全に自由を取り戻せば面倒なことになる。信は身軽ですばしっこい。反撃を受けることはないとしても、隙を見せれば逃げ出されるだろう。

せっかくここまで下準備をしてご馳走に昇格させてやったのに、逃げられては意味がない。

動けないことを良いことに、彼女の体を心行くまで味わい、嬲るつもりでいたのだが、桓騎は計画を変更した。

 

 

桓騎が指を口に含んで唾液を湿らせたので、信が僅かに顔を歪めた。声を出す以外にも顔の筋肉を動かせるようになったようだ。

湿らせた指で花弁の合わせ目をなぞると、信が喉を引きつらせた。
他の女ならば、すでにぐずぐずに蜜を垂れ流しているはずの淫華はまだ固く口を閉ざしたままで、蜜を零す気配すらない。

「なに、してっ…」

男と身を繋げるために何をするか知らないはずがないだろう。

「ひっ」

唾液の滑りを利用して、固く閉ざされた淫華の中に指を鎮めていくと信の体が仰け反った。自分でも弄ることはしないのか、中はかなり狭い。

すぐに突っ込んでも良かったのだが、こんな狭さでは入り口を抉じ開けるのに時間がかかりそうだ。

入口をくすぐるように指を出し入れしていると、信の顔が苦悶に歪んでいく。初めての刺激に戸惑っているようだ。

休むことなく指を動かしながら、開いた衿合わせから覗く胸に顔を寄せる。素肌に溶け込んでしまいそうな桃色の芽に吸い付いた。

「ふ、…ぅ…」

口に含んだ芽を舌で軽く弾くと、信が下唇を噛み締めたのが分かった。舌と唇で刺激を続けていくと、口のなかで少しずつ勃ち上がって来る。

上と下の刺激を続けていくにつれ、少しずつ淫華の内部が潤み始めていった。

「ああっ」

先ほどよりも指が動かしやすくなり、根元まで突き入れると一気に女の艶を帯びた声が上がった。

淫華の襞が指を押し返そうとしているのか、桓騎の指を締め付ける。親指の腹で花芯を擦り上げると信の顎が跳ね上がって白い喉を晒した。

「ひぃ、んっ」

前歯で胸の芽に甘く噛みつくと、信が僅かに腰をくねらせた。やはり薬の効果が薄まって来ているらしい。

 

漂との約束

桓騎に甘噛みされた乳首が疼くように痺れた。しかし今度は優しく舌で転がされて、むずかゆい感触に襲われる。

自分でも滅多に触れない場所を桓騎の指が動く度に勝手に腰が跳ねてしまう。血が滲むような激痛を与えられたのなら理性を繋ぎ止めることが出来たのに、初めての感覚に信は戸惑うことしか出来ない。

痺れ薬が切れて来たのか、先ほどよりは動けるようになって来たものの、手足の自由はまだ戻っていない。

(くそっ…)

本当に身を繋げることになる前に何とか逃げ出さなくては。薬の効果が切れたなら、桓騎の頭を殴りつけて逃げ出そうと考えていた。

しかし、桓騎も薬の効果が切れ始めていたことに気づいている。下の入り口を押し広げる指が増やされたことに、信は危惧感を抱いた。

何としても逃げ出さなくてはならない。たとえ卑怯な手を使って、自分の信念に背いたとしても、信は絶対に桓騎と身を繋げるわけにはいかなかった。

信は自分の破瓜を捧げる相手を、漂だと決めていたからだ。

幼い頃からずっと一緒で、大将軍になるという夢を持つ親友で、下僕の身分を脱してからも好敵手としてお互いを高め合う存在だった。

唯一無二の親友を異性としても意識するようになったのは信だけでなく漂も同じで、互いに夢を掴んだのなら、その時は一緒になろうと言ってくれた。

捕虜となっている以上、漂は出征できずに武功が挙げられないし、もしかしたら趙国で殺されてしまうことになるかもしれない。

まだ二人とも大将軍の座には及ばないが、それも時間の問題だろう。
二人で天下の大将軍になることと、その時は婚姻を結ぼうと約束したことを、信は一日だって忘れたことはなかった。

その約束を守るために、漂が生還して二人で大将軍の座に就くまで、彼を裏切るわけにはいかない。それは信が命を懸けてでも守るに値する約束であった。

「そろそろ良いか」

淫華が奥までよく濡れていることを確認し、桓騎が独り言ちたので、信は死罪を宣告されたような心地になった。

 

更新をお待ちください。

桓騎×信のバッドエンド話はこちら

桓騎×信の立場逆転設定のお話はこちら

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初恋のまじない(蒙恬×信)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/嫉妬/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「初恋は盲目」の後日編です。

中編①はこちら

 

喧嘩

慌てて口を閉ざしたものの、すでにその言葉は蒙恬の耳にも入ってしまい、今さら取り消すことは出来ない。

まるで水を被せられたかのような静けさが部屋に広まる。気まずい沈黙に、信は肺に鉛が流し込まれたかのような感覚を覚えた。

嫌いだなんて、もちろん本心じゃない。しかし、それを否定する言葉を掛けられないのは、信の胸の内に湧き上がっている嫉妬心のせいだった。

「…信」

いきなり低い声で名前を呼ばれたので、信はどきりとする。恐る恐る顔を上げると、

「今のはさすがに傷ついたよ。謝らなくて良いから、今の言葉だけは撤回して」

怒りとも悲しみとも似つかない複雑な表情を浮かべた蒙恬から、真剣な眼差しを向けられる。

感情が波立ったあまり、歯止めが利かずに言葉を吐き出してしまった自覚はあったが、今さら撤回する気にはなれなかった。

自分に非はないのは確かだし、言葉を撤回すれば、蒙恬が自分以外の女性と関係を持とうとするかもしれない。

自分との婚姻が決まってから、蒙恬はそれまで築いていた女性との交流を一切絶ったというが、家庭教師の女性が現れたことで、信の中に不安な気持ちが戻って来てしまった。

妾を持つのは蒙恬の意志で決めることだが、彼が自分以外の女性を娶る選択をすると思うと、嫉妬で胸が締め付けられ、苦しくて堪らない。

こんな子供じみた嫉妬を露わにすれば、蒙恬に見放され、彼の気持ちはますます他の女性の方を向いてしまう。頭では理解しているのに、止められそうになかった。

先日、宮廷で昔助けた令嬢と蒙恬が恋仲だったと勘違いした件もあり、しっかりと蒙恬の話を聞くべきだという反省をしたばかりだというのに、信は後に引けなくなっていたのである。

「っ…う、うるせえッ!本気で言ったんだ!」

撤回するつもりはないと、信は蒙恬の言葉を踏み倒す。振り上げた拳を下げ切れなかった自覚は十分すぎるほどあった。

それどころか、素直に言葉を撤回すればよかったものの、嘘を重ねてしまった。

「っ…」

気まずさに耐え切れず、信はその場から逃げ出そうと蒙恬に背中を向けた。
戦場では安易に背中を見せてはならないと養父から厳しく言われていたのに、この気まずさにはとても耐え切れそうにない。

「信」

「っ…」

後ろから手首を掴まれたので、信は反射的に振り返ってしまう。

腕を掴む手を振り解こうとしたものの、すぐ目の前に蒙恬の整った顔が迫っていたことに驚いた信は隙を見せてしまった。

 

 

「大人げないのは分かってるけど、さすがに俺も怒ったよ」

それまで信の手首を掴んでいた蒙恬の手が、信の着物の帯を外しにかかったので、信はぎょっとしてその手を抑え込んだ。

「な、なに考えてんだよッ!おいっ!?」

声を掛けても蒙恬がやめる気配はなく、帯を強引に外された。さらにはその帯を使って信の両手首を一纏めに縛り上げてしまう。見事な手捌きだと見惚れてしまいそうなほど、その動きは素早かった。

「外せよッ!」

「さっきの言葉を撤回してくれるなら、外してあげる」

そんな言葉を掛けられるとは思わず、信は目を逸らしてしまう。本心ではないと自覚はあったのだが、今さら撤回することは出来なかった。

なんとか手首を拘束する帯を解こうとするものの、あの短時間でどんな手を使ったのかとこちらが問いかけたくなるほど結び目は頑丈だった。もしかしたら拘束をすることに慣れているのだろうか。

蒙恬の気迫に負けてたまるかと、信は力強く睨み返した。

「お前こそ、話を逸らしてんじゃねえ!あの女を正妻にしたいならそう言えよ!」

「そんなこと思ってない。それに先生は…」

否定されるものの、きっと裏があるに違いない。納得できるかと信は蒙恬の言葉を聞き入れなかった。

「言い訳考えてんなら無駄だぜ。お前の初恋相手なんだろ?隠さずにそう言えばいいだろッ!」

頑なにあの女性のことを教えようとしない蒙恬に、信は声を荒げた。

初恋相手であったことは昔聞いていたし、彼女に向けている想いがまだ残っていたとしてもおかしいことではない。初恋というのは、実ろうが散ろうが、ずっと心に残るものだからだ。

それに、夫が妾を娶ると決めたのなら、妻にそれを拒否する権利はない。それは蒙恬も分かっているはずなのに、どうしてあの女性の関係を隠そうとするのか、信には彼の考えが少しも分からなかった。

そんな信の気持ちを知ってのことなのか、蒙恬は真っ直ぐに目を見据えて来た。

「…俺のことを信じて、もう少しだけ待ってて欲しい」

両肩を掴まれて、縋るように訴えられる。

しかし、信は首を横に振った。

「こんな時に信じろなんて、都合の良いこと言うなよっ…!本当は、あの家庭教師を…妾じゃなくて、正妻にしたかったんだろ?」

信の言葉に、蒙恬が体の一部が痛んだように眉根を寄せる。それから目を逸らし、蒙恬は暗い表情で溜息を吐いた。

(やっぱり、そうなんじゃねえか)

それが肯定だと分かり、心臓を鷲掴みにされるような感覚に息を詰まらせた。

喉がつんと痛み、瞳に涙が溢れて来る。泣き顔を見られたくなくて、信は俯くと、前髪で顔を隠した。

 

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喧嘩 その二

「んッ…!?」

込み上げて来る嗚咽を噛み堪えていると、強引に唇を重ねられた。何をするんだと開きかけた口に無遠慮に舌が入り込んで来て、信の舌を絡め取る。

「んんっ、ぅっ、ん」

咄嗟に身を捩って口づけをやめさせようとしたものの、逆に抑え込まれてしまい、壁に背中がぶつかった。逃げ場を失ってしまったことを悟る。

それならばと蒙恬を突き放そうと伸ばした両手も、呆気なく捕らえられてしまった。帯で拘束されたままの両手は少しも使い物にならない。

ぬるりと舌が入り込んで来て、歯列をなぞり、舌を吸われる。下腹部が切なく疼き始めて、まずいと信は顔をしかめた。

「っ、んんーっ、ぅッ…!」

このまま口づけが続けば、足腰から力が抜けてしまい、蒙恬が欲しくて堪らなくなってしまう。

信の言葉に傷ついたと話していたのは本当のようで、普段よりも強引な口づけと手つきは、普段の蒙恬とは別人のようだった。

「あ、はあっ…」

息が苦しくなった頃にようやく蒙恬が顔を離してくれた。唾液の糸が互いの唇を繋いでいたが、それも逃がすまいと蒙恬が舌を伸ばす。

「っ…」

肩で息をしながら睨みつけたものの、蒙恬の冷え切った瞳に見据えられ、信は思わず身震いしてしまう。

普段は誰にでも慕われる優しい表情をしているというのに、普段見ることの少ないその冷たい瞳に見据えられると、それだけで足が竦んでしまいそうになる。

蒙恬が初陣に出る前は、少しも彼に怖いなどという感情を抱いたことはなかったというのに、この威圧感はやはり蒙家の血を継いでいることを認めざるを得ない。
しかし、ここで怯めば蒙恬に負けたことになってしまう。

罪悪感はあったが、振り上げた拳を下げ切れなかったのは事実だし、今さら発言を撤回する気にはなれなかった。信は両足にしっかりと力を入れて、蒙恬を睨みつける。

「信、なにがそんなに気に食わないの?」

蒙恬といえば信に睨まれても少しも怯む気配を見せなかった。そういえば蒙恬が本気で怒ったところを今まで見たことがない。

声を荒げたり、手を上げるような短慮な性格ではないことは分かっていたが、いつも冷静に物事を見ており、感情よりも理性を優先する男だからだ。

だが、今目の前に立っている蒙恬は、表情こそ普段通りに見えるものの、その瞳からは静かな怒りが伝わって来る。

さすがにこれ以上、彼の怒りを煽るのはまずいと頭では理解しているものの、家庭教師の女性のことを教えてくれないのなら、このまま引くに引けない。

「…あの女を娶るなら勝手にしろよ!正妻に迎えたいっていうんなら、さっさと俺と離縁すれば」

不自然に言葉が途切れたのは、再び蒙恬が唇を重ねて来たからだった。

 

 

今度は先ほどと違って、まるで獣が餌に食らいつくような口づけだった。

信の意志など構わないと言わんばかりに唇を押し付け、口内で逃げ惑う舌を絡めて来る。
先ほどよりも激しい口づけに眩暈がしそうになり、下腹部の疼きが激しくなる。

壁に信の体を押し付けた状態で、蒙恬は彼女の両脚の間に自分の片脚を滑り込ませた。

「んんッ、ん、ぅーッ」

激しい口づけを続けながら、敏感なそこを蒙恬の長い脚がくすぐる。小刻みに片脚を動かされる度に、信は切ない声を鼻から洩らした。

「あっ、はあっ…ぁ…」

ようやく唇が離れて、信が肩で息をする。
上目遣いで蒙恬を見上げると、彼はいつものような人懐っこい笑顔ではなく、褥でしか見せない妖艶な笑みを浮かべていた。

(まずい)

急いで逃げなくてはと、信は冷や汗を浮かべた。彼がこれから何をしようとしているのか、信は手に取るように分かった。

こんなことで家庭教師の件をうやむやにされるのは嫌だったし、蒙恬への信頼を失いかけているこんな状況で彼に体を暴かれるのはもっと嫌だった。

「は、放せよッ」

甘い刺激に力が抜けそうになる体に喝を入れて、何とか逃げ出そうと抵抗を試みる。しかし両手首を一括りに拘束された状態では、蒙恬を押しのけることも叶わなかった。

「うわッ!?」

信の抵抗を嘲笑うかのように、蒙恬は膝裏と肩に手を滑らせて、彼女の体を横抱きに持ち上げた。急な浮遊感に驚いて声を上げてしまう。

軽々と抱き上げられた体を、部屋の奥に設置されている寝台に落とされる。すぐに自分の体に馬乗りになって来た蒙恬に、信は青ざめた。

「お、おい、こっちは縛られてんだぞ?まさかお前、自分の妻を辱めようってのか?」

がむしゃらに抵抗しても蒙恬が見逃してくれないことは分かっていたので、信は彼の良心に呼びかける作戦に変更した。

しかし、信よりもはるかに聡明な頭脳を持ち合わせている蒙恬は、すぐにその作戦に気づいたらしい。

「だって、俺のこと嫌いなんだろ?離縁してもいいくらいに」

離縁という重い言葉を持ち出され、信は奥歯を噛み締めた。
先ほど自分と離縁して家庭教師を正妻に迎えればいいと言ったことを根に持っているのだとすぐに察した。

しかし、今さら発言を撤回することは出来ない。

「くそッ、どけよ…!」

何とか蒙恬の下から逃げ出そうとするのだが、両手が拘束されているせいで上手く体を動かすことが出来ない。

ならば拘束されていない両脚で抵抗を試みる、ことはしなかった。

容赦なく蹴り飛ばすのはきっと簡単だし、たかが両手を拘束されただけで男に屈するほど信は貧弱でないはずなのに、相手が蒙恬だと思うと本気で抵抗が出来ない。

傷つけたくないという気持ちが信の足に枷を巻いているのだ。

 

拒絶

「嫌なら本気で抵抗したら?」

言葉ではそう言いながら、まるで信が本気で抵抗出来ないことを分かっているかのように、蒙恬は妖艶な笑みを浮かべた。

「そうじゃないと、このまま続けるよ」

低い声で囁いた蒙恬は、彼女の拘束された両手を頭上で押さえつける。

「いやだ!」

そのまま蒙恬が口づけようと顔を寄せて来たので、信は咄嗟に顔を背け、拒絶の意志を示した。

「俺のこと蹴り飛ばしてでも逃げなよ。本当に嫌なら出来るだろ?」

両手を拘束した上に、もともと埋まらない男女の力量差は確かにあるものの、本気を出せば自分を押しのけることなど容易いはずだと、蒙恬は信の拒絶の意志が本物か確かめているらしい。

「もしかして、嫌がってる演技してるだけ?」

「ちがうッ…」

「本当かなあ?」

柔らかい唇が首筋に押し付けられて、信は顎が砕けるくらい歯を食い縛った。

帯が解かれてしまったせいで、簡単に着物の衿合わせが開き、形の良い胸に蒙恬は顔を寄せて、赤い舌を覗かせる。

「あっ…」

ぬるりとした感触が胸の先端を撫ぜた時、信は思わず声を洩らしてしまった。

反応すれば彼を楽しませるだけだと分かっているのに、幾度も身を重ねていたせいか、少しの刺激でも体が反応してしまう。

上目遣いで蒙恬が信の反応を楽しみながら、乳輪をなぞるように舌を這わせて来る。

今思い出したのだが、家庭教師の女性がこの屋敷に居候するようになってから蒙恬と体を重ねることがなかった。久しぶりの愛撫に体が喜んでいるかのように、ぞわぞわとした甘い痺れが背中に走った。

「うッ…」

咄嗟に目を瞑って蒙恬を視界から消して声を堪えようとするのだが、どうやらこの反応さえも蒙恬は楽しんでいるようで、小さく笑う声が聞こえた。

 

 

蒙恬の手が信の豊満な胸の感触を味わうように優しく包み込む。

男にしては小綺麗な指先が敏感な先端を優しく突いたり、挟んだりしていくうちに弄りやすくなっていく。

「っ…ん、…ぅ、…」

蒙恬の手が、指が、舌が、肌の上や敏感な胸の芽を這う度に下腹に切ない疼きを感じる。唇を噛み締めて懸命に声を堪えていると、蒙恬が不思議そうに小首を傾げた。

「…あれ?逃げないの?」

からかうように耳元で囁かれ、信は顔から火が出そうになった。

「ッ!」

反論しようと口を開いた途端、蒙恬の手が脚の間に伸ばされたので、驚いて声を喉に詰まらせてしまう。

足の間に差し込まれた指から湿り気と熱気を感じ、蒙恬が僅かに目を細めた。

「信の考えてること、全部分かってるよ」

胸やけを起こしそうなほど甘い言葉を囁かれるものの、信は必死に首を横に振った。

きっと他の女ならばすぐにでも蒙恬に我が身を委ねるだろうが、今の信は違う。
嫌だと言っているのにやめてくれない蒙恬を拒絶し切れない自分の甘さに対する怒りや、体を重ねることで家庭教師の件をあやふやにしようとしているのではないかという不信感で頭がいっぱいだった。

「ひ、あっ…!」

蜜を滲ませている其処に蒙恬の長い指が入り込んで来て、信は思わず体を仰け反らせた。

初めて身を繋げた時はあんなに痛かったのに、何度も蒙恬の男根を受け入れた其処は指じゃなくて別のものがほしいと涙を流し続けている。

「最近シてなかったから、ちゃんと慣らしておこうね」

「ううっ」

中を広げるように蒙恬が指を動かしたので、その刺激に連動するように信は身を捩った。蒙恬が指を動かす度に卑猥な水音が響き、自分の体を浅ましく思ってしまう。

蜜を零し続ける中と信の反応を見ながら蒙恬が指の数を増やしていく。三本の指が中を弄り、それがゆっくりと引き抜かれて、両膝を持ち上げられた時、次に何をされるのかを察した信は思わず叫んでいた。

「やだあっ、挿れんなッ、バカッ!」

子どものように泣きじゃくりながら、思い出したように抵抗を試みる。
やっと拒絶の意志が伝わったのか、今まさに男根を挿入しようとしていた蒙恬がぴたりと動きを止めた。

淫華は蜜でぐずぐずぐに蕩けて男根を求めており、男根の先端を飲み込もうと口を開いていた。

蒙恬が腰を前に押し出せば、こんな抵抗もどうせ無駄に終わると思っていたのだが、彼は動きを止めたまま、信を見下ろした。

「それじゃあ、我慢比べしようか」

「へ…?」

蒙恬の言葉がすぐには理解できず、信は呆けた顔で聞き返す。

淫華が男根を欲しているように、男根も淫華に食われたいと苦しいまでにその身を曝け出しているというのに、蒙恬は挿れようとしなかった。

「我慢出来なくて俺が挿れちゃったら信の勝ち、信が欲しいって言ったら俺の勝ち。単純でしょ?」

簡潔に我慢比べの詳細について語った蒙恬に、信はただ疑問符を浮かべる。なんのためにそんなことをするのだろうか。

荒い呼吸を繰り返しながら呆然としていると、蒙恬が腰を引く仕草を見せたので、そのまま挿れられるのではないかと信は慌てた。

「えっ、あっ、挿れんなって!」

「挿れないよ。我慢比べだもん」

「っうぅ…!」

硬くそそり立った男根を淫華に挿れることはなく、花芯を擦り上げるように、蒙恬が腰を前後に動かし始める。すでに勝負は始まっているらしい。

言葉で理解出来なかった信も、その行動に意図を理解した。これは本当に我慢比べだ。
どちらかが相手を求めてしまったら、その時点で勝敗が決まるという、確かに単純なものである。

 

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宝石姫

 

「はあッ…あ…」

蒙恬も苦しそうに顔を歪ませて腰を動かしている。

本当は今すぐにでも淫華に男根を突き挿れたくてたまらないのだろう。信の膝裏を抱えている手から震えが伝わって来た。

「んうっ」

男根が花芯を擦り上げる度に背筋が甘く痺れる。
信が処女だと発覚してからというものの、その後の情事でも前戯は必ず時間をかけていた蒙恬であるが、こんな風に焦らされることはなかった。

こちらが欲しいと言えば素直に挿れてくれたし、蒙恬の方から挿れたいと求められることだって珍しくなかったので、経験したことがないもどかしさに信は戸惑った。

だが、いかに焦らされたところで、ここで欲しいと素直に訴えれば自分の負けである。家庭教師のことで腹を立てていた信は、絶対にこの勝負に負けるわけにはいかなかった。

「うっ、うぅ…」

敷布を握り締めて、信は歯を食い縛る。

蒙恬の男根から先走りの液が涎のように滲み出て、淫華の蜜と絡まり、卑猥な水音を立てていた。

耳まで犯されているような感覚に、体が勝手に期待で震えてしまう。

何度も蒙恬と交わった体が、目の前の彼を求めている。こんな状況でなければ焦らすなと怒鳴っていただろうに、それも出来ずに、信はただ歯を食い縛っていた。

 

決着

「んっ、んんっ…」

鼻から抜ける声を上げる信がその瞳に涙を滲ませているのを見て、蒙恬が余裕のない笑みを浮かべる。

「挿れてほしい?降参するならすぐに挿れてあげる」

「だ、誰がっ…、降参なんか、するかよっ…」

ここまで責め立てられても白旗を上げない信は、相当な頑固さを兼ね備えているようだ。
もちろん一筋縄では落とせないことは分かっていたが、ここまで素直にならないのなら、どこまでいったら限界なのかを確かめてみたくなる。

蒙恬は薄い笑みを顔に貼り付けたまま、信の淫華に指を差し込んだ。

「あっ、えっ…!?」

細くて長いそれが男根ではないと分かり、信が戸惑ったように眉根を寄せる。

「ひっ、卑怯だぞッ、お前!」

「なんのこと?指は入れちゃだめなんて言ってないよ」

先ほど蒙恬が明かした我慢比べの詳細に、指は含まれていなかった。
とぼけるように小首を傾げた蒙恬に、初めからそういう作戦だったに違いないと直感する。

指で刺激なんかされたら、こちらが不利に決まっている。
今さら気づいてももう遅いのだが、やられたと思い、信は思い切り蒙恬を睨みつけた。

「んんッ」

淫華の中で指を鉤状に曲げられて動かされ、信の腰が勝手に跳ね上がる。先ほどのように中を広げる動きではなく、確実に弱い箇所を狙って来ている。

「指なんかじゃなくて、もっと別のが欲しい?欲しいよね?」

まるで信の気持ちを代弁するかのように、早く降参を誘導するような甘い言葉を掛けられる。

意地を張らずに素直に頷けば蒙恬は望むものをくれると頭では理解していた。それでも信は強く拳を握り締めて、拒絶の意志を示す。

「いら、な、ッ…!」

「強がらないで良いんだよ。信のここ、もうこんなになってる。俺が欲しいって泣いてるよ」

 

 

早く降参するように催促され、信は奥歯を噛み締める。

「ほ、しくないぃ…ッ」

少しでも気を抜けば事切れそうになる理性で必死に抵抗した。今の信は、手の平に食い込んだ爪の痛みと、屈したくないという自尊心だけで何とか意識を保っている。

「嘘吐き」

「ひぅっ」

耳元で低く囁かれたかと思うと、淫華の中にある指が腹の内側を突き上げる。

腹の内側の刺激だけでも目が眩んでしまいそうなのに、耳に熱い吐息を吹きかけられると、与えられる快楽から意識を逸らせない。

蒙恬に組み敷かれてしまった時点で信の敗北は確定していたのだろう。家庭教師に嫉妬をしていたのは事実だが、彼女を娶ると決めたのなら止める者は誰もいないのに、こんなことをして話をうやむやにしようとする蒙恬の事が許せなかった。

こちらの心情など露知らず、蒙恬は信の腰を引き戻して両膝を持ち上げた。

「えっ…?」

再び淫華に男根が宛がわれて、信の心臓がどきりと跳ねた。

先ほどのように花芯に男根を擦り付けようとする動きではなく、花弁を押し開いた中にある入り口にしっかりと男根の先端を宛がい、そのまま腰を前に押し出して来たのだ。

「ぁあっ、えっ、ぁ…?入って、…」

狭い其処を押し開かれていく感覚に信は狼狽えた目線を送った。

「うん、俺の負けで信の勝ち。喜んでいいよ」

「ぁああッ!?」

蒙恬の敗北宣言を理解するよりも先に、ぐずぐずに蕩け切った淫華に硬い男根が叩き込まれて、信は大きく体を仰け反らせた。

一気に最奥まで男根が叩き込まれて、信はその衝撃と全身を貫いた快楽に目を向いた。

 

事件

…翌日。信が目を覚ました時にはすでに昼を回っていて、蒙恬はすでに支度を済ませて部屋を出ていた。

どうやら情交の途中で気絶するように寝入ってしまっていたらしい。
蒙恬はその若さゆえか、性欲に歯止めが利かなくなって激しい情交になるので、いつも信は途中で意識の糸を手放してしまうのは珍しいことではなかった。

「はあ…」

寝台の傍に置かれていた水差しでからからになった喉を潤し、信は長い息を吐いた。

ずっと蒙恬の男根を咥え込んでいた下腹が疼くように痛んだ。あの美しい顔からは想像出来ない大きさなので、苦しいくらいに中を押し広げるのである。

寝具は掛けられていたのだが、肌寒さを覚えて信は用意されていた着物を身に纏った。

(そういえば…)

昨夜準備しておいた荷はどうなったのだろう。辺りを見渡したものの、木簡も着物を包んだ荷も見当たらない。屋敷に戻らないように片されてしまったのだろうか。

この屋敷で暮らすようになってから、身支度も侍女が手を貸すように蒙恬が指示していたのだが、信はそれを断っていた。下僕時代から身支度は自分で行うのが当たり前だったので、侍女たちにとても驚かれた。

蒙恬や王賁のような生まれた時から裕福な生活をしている者は、着物を着るのにも人手を必要とするらしい。

信も鎧を着るときには手を借りる時もあるが、生活をする上ではあまり他者の手を借りない。

王騎と摎の養子として引き取られた時は鍛錬漬けの毎日だった。名家の養子になったはずなのに、自分でやれることは何でも自分でやれと言われて育った。

とはいえ、腹が減ったら温かい飯が用意されて、頑丈な屋根の下、温かい寝具の中で眠れるだけで信は天にも昇るような気持ちだったので少しも気にしなかったのだが、それを伝えると蒙恬から悲し気な顔をされたことを覚えている。

「うーん…」

情交の疲弊がまだ残っており、体を動かすのが億劫だった。今日は部屋でゆっくり過ごそうかと考える。この部屋で過ごしていれば、蒙恬と家庭教師の女性が二人でいるのを見ることはない。

だが、姿を見ることがないだけで、二人が仲睦まじく過ごしているのではないかという不安が波のように押し寄せて来る。

(…ん?なんだ?)

外から騒ぎが聞こえて、信は導かれるようにして窓を開けようと起き上がる。寝台から降りるために、両足を床に着けた途端、腰に鈍痛が走った。

 

 

「ど、どうかお許しをっ!」

窓を開けると、狼狽えた男の声が響いて来たので、使用人が何か失態を犯して叱責を受けているのだろうかと考えた。

蒙恬は父・蒙武のような威圧感はなく、寛大な心の持ち主であることから、使用人たちの失態は大目に見ることがほとんどだ。
そもそも使用人たちも蒙一族という名家に仕えるにあたって、そのようなことが起きないように日頃から全員が努力している。

蒙恬は幼い頃からそれを傍で見ていたし、そんな彼が怒るということは本当に感情が波立った時なのだろう。

―――大人げないのは分かってるけど、さすがに俺も怒ったよ。

昨夜の喧嘩のきっかけとなった信の不本意な発言は、本当に蒙恬の機嫌を損ねてしまったのだろう。

嫉妬のせいで子供じみた言動をしてしまったことを後悔したが、今はそんな場合ではない。

(何の騒ぎだ?)

信は窓から身を乗り出して、男の声がする方を覗き込んだ。

ちょうど建物で遮られてよく見えない位置だったが、使用人たちが野次馬となってその騒動を見届けているのが分かった。

普段真面目に仕事をこなしている使用人たちが仕事を中断してまで野次馬をしているなんて珍しい。

同時にそれほど大きな騒動になっているのだと気づき、信は痛む腰を擦りながら、部屋を後にしたのだった。

 

更新をお待ちください。

このシリーズの本編はこちら

蒙恬×信・王賁×信のお話はこちら

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毒も過ぎれば糧となる(李牧×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/毒耐性/シリアス/バッドエンド/野営/IF話/All rights reserved.

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このお話は「毒も過ぎれば情となる」(桓騎×信)のバッドエンド番外編です。

 

国境調査を開始してから三日。
まだたったの三日しか経っていないというのに、予期せぬ事態の連続に、信は将としての判断を迫られていた。

国境調査に連れて来た三百の兵たちが、ほぼ壊滅状態に追い込まれていたのである。

敵の襲撃に遭った訳でもない。災害に見舞われた訳でもない。国境調査を開始し、拠点を設置したあとから、次々と体調不良を訴える兵が現れた。

いかに厳しい体力試練を乗り越えて鍛錬を積み重ねている屈強の兵たちとはいえ、病には敵わない。

体調不良の原因は、長時間の移動による疲労や冷え込みによるものかと考えたのだが、眩暈や嘔吐といった冷え込みと関連性のない症状を主訴にする兵が大半であった。

ただでさえ冷え込みが厳しくなっている中で、物資も限られている。拠点近くに生えている植物を薪代わりにし、暖を取るように指示をしていたのだが、今思えばそれがいけなかった。

火を焚けば焚くほど兵たちに体調不良者が広まり、症状が悪化していく一方で、救護班たちも倒れていく。

なにかしらの病の感染が広まっているのだと思っていたが、こんな短期間にこれだけの感染力を持つ病などあるのだろうかと考え、信は独自に原因の調査を行った。

暖を取るために薪代わりにしていた植物は、竹のような長い葉と桃のような花をつけた特徴的な植物であったのだが、その煙を吸った時、信は鼻の奥に独特な痺れを感じたのである。

幾度か感じたことのあるその痺れの正体が毒であると気づいた時には、信以外の全員が毒にやられており、そのほとんどが息を引き取っていた。

家族のもとに帰ることが出来なくなった彼らの亡骸を手厚く葬り、謝罪の言葉を掛けていると、まるでこちらが壊滅状態になるのを待っていたと言わんばかりに、崖下から趙軍の伏兵が現れる。

生き残っている兵たちも毒が回っており、とても武器を振るうことなど出来ない。応戦は無理だと即座に判断した。

すぐに撤退を命じたのだが、毒に侵されて衰弱した兵たちは逃げることもままならない。
突然の襲撃に対抗できる兵力はもう残っておらず、信はたった一人になっても武器を振るい続け、やがて力尽きたところを取り押さえられた。

 

…この地に拠点を作ることも、冷え込みを警戒して周囲の植物を薪代わりにすることも、全ては趙軍の策だったのだと信が気づいた時には、すでに何もかもが手遅れであった。

 

捕虜

…目を覚ました時、信はまさか自分が生きていると思わず、状況を確認するために辺りを見渡した。

「っ」

鎧は脱がされていて、着物姿のまま両腕は後ろで拘束されている。両足も自由に動けぬように縄で一括りに拘束されていた。

客室と言っても頷いてしまうほど丁寧に整えられ得た部屋に、信は違和感を覚える。寝かされていたのも床の上ではなく、寝台の上だった。

拷問にかける、もしくは殺すだけならこんな部屋に連れて来ないだろう。
血の処理のために藁を敷いている訳でもない。黴臭い地下牢ならまだしも、この部屋はあまりにも綺麗だった。

もちろん武器は奪われていたが、手足を拘束しておきながら、このような部屋で寝かせておくなんて、捕虜にする扱いには思えない。

「っ、ぅ…」

舌を噛み切ってやろうと思っていたのに、その考えを読まれたのか、信は口に布を噛ませられていること気づいた。後ろ手に拘束されているので、轡も外すことは出来ない。

(この布…なんだ?それに、この味…)

咥えさせられた布は初めから濡れていた。歯を食い縛る度にそれが口の中に絞られる。
脱水にならないように、かと言って飲み水を飲ませる時に布を外した隙を突いて舌を噛ませぬために、あらかじめ布を濡らしていたのだろう。

てっきり飲み水で湿っているのだとばかり思ったのだが、幾度も慣れ親しんだその味が鴆酒であると、今の信には気づく余裕などなかった。

しかし、捕虜になったことは間違いないだろう。生かしておいたのは何か目的があるからに違いない。

 

 

パチッと火が弾ける音が聞こえ、信は音がした方に顔を向けた。

「…?」

部屋の隅に青銅の火鉢が置かれている。部屋を暖めるために火が焚かれていることが分かる。

これから拷問でも掛けて機密情報を吐かせようとしているのかと思ったが、まるで冷えた体を温めるような気遣いに、信は思わず眉根を寄せた。

(くそ…)

敵に情けを掛けられるなど、屈辱でしかない。
どんな拷問を受けたところで絶対に情報を教えるつもりはなかったし、無様に首を晒されるくらいなら、潔く自分で命を絶つつもりでいた。

その後で首を晒されぬように屍が見つからぬ場所か、顔が認識されないよう粉々になってしまうような死に方が良い。

しかし、手足を拘束された今の状態では不可能だろう。信は火鉢に目を向けて、公衆の面前で首を晒されても自分だと分からぬように、顔を消してしまおうと考えた。

頭から火鉢に顔を突っ込めば火傷は免れず、それでいて絶命出来る。火傷の浮腫によって気道が塞がれるからだ。

苦痛を伴う方法ではあるが、無様に殺されるより何倍もマシだと思い、信はさっそく行動を起こした。

「んっ…!」

寝台から転がり落ち、身を捩って少しずつ火鉢へと近づいた。

口は布で塞がれているものの、目と鼻は自由が利く。火鉢に近づくにつれ、嗅いだ覚えのある香りが鼻腔を漂い、信は思わず顔をしかめた。

(?…この匂い…)

鼻についた煙の匂いには覚えがあるのだが、木炭ではない。ゆっくりと体を起こし、火鉢の中を覗き込み、その匂いの正体を探った。

 

 

(まさか…この植物…!)

灰の中に竹のように長い葉と桃のような花が見えて、自分たちが拠点を作っていた周辺に生えていたあの植物だと気づく。

あの植物――夾竹桃――を燃やすと強い毒性がある煙が出ると気づいたのは、兵たちの体調に異変が起きてからだった。

(まずい…!)

このまま毒煙を吸い続ければ、毒の副作用――まるで媚薬を飲まされた時のように性欲の増強と感度が上昇する――を起こしてしまう。

どの程度この毒煙を吸い込めば症状が起きるのかは分からなかったが、かなり強力な毒性を持っていることのは兵たちが苦しむ様子を見て分かっていた。

部屋に充満する毒煙を吸わないようにと思うものの、轡を噛まされているせいで鼻で息をすることしか出来ない。結果的に火鉢に近づいたせいで濃い毒煙を吸い込んでしまう。
この部屋に寝かされていた時からずっと火は焚かれていた。

眠り続けている間も煙を吸い込んでいたとすれば、副作用を起こすまできっとあまり時間は残されていない。

「ううッ…!」

毒煙を吸い込まないように火鉢から顔を背けたが、毒煙は部屋に充満していく一方だ。

煙のせいで息がしづらくなってくる。布を咥えながら咳き込むものの、夾竹桃が燃え盛っていく度に部屋の煙が濃くなる。

毒の成分だけならまだしも、煙が充満していくせいで上手く息が出来ない。
拘束されている手足で何とか体を動かし、扉の前まで向かおうとするが、意識が朦朧としてきた。

ここでようやく信は地下牢ではなく、この部屋に閉じ込められた理由を悟った。

地下牢では鉄格子があり、密室にならない。この毒煙を利用するために、この部屋に連れて来たのだろう。

信が毒への耐性を持っていることを知っている者は秦国でも限られている。しかし、敵国で知っている者といれば、ただ一人だけ。

全てがその男の策だった・・・・・・・・のだと信が気づくのは、もう少し後のことである。

「ううっ…」

煙が目に染みて涙が止まらなくない。新鮮な空気を求めて勝手に開いてしまう口から濃い煙が入って来て呼吸が阻害された。

 

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毒煙

夾竹桃が燃え尽きた頃を見計らい、李牧はその部屋を訪れた。煙が充満した部屋は噎せ返るようなほど、甘い香りに包まれていた。

夾竹桃は美しい花と葉を持つだけでなく、白粉のような優しく湧き上がる甘さを漂わせる植物だが、その美しい外見と甘い香りとは反対に、強力な毒性を兼ね備えている。

青銅の火鉢の傍で信が倒れ込んでいた。手足を拘束して寝台に寝かせていたはずだが、火鉢に灰に顔から突っ込んで自害でもするつもりだったのだろう。

鴆酒を染み込ませた轡を噛まされた上に、両手を拘束された状態で自害を試みるのなら火鉢を利用するというのは李牧の読み通りだった。

しかし、残念ながら夾竹桃の毒煙を強く吸い込む結果となってしまったらしい。

「う…ん、…」

苦しそうに肩で息をしていたので轡とを外してやったが、意識は戻らない。
ずっと火鉢の傍にいたからか、信の体は焼け付くように熱かった。見たところ、火傷は負っていないようで安堵する。

火照っている彼女の体を抱きかかえ、李牧は寝台へと連れて行く。

すでに火は消えているとはいえ、毒煙に満たされた部屋である。しかし、李牧は布や手で顔を覆うこともしなかった。毒煙を吸い込んでも、彼は顔色一つ変えない・・・・・・・・

寝台に信の体を寝かせると、李牧は身を屈めて彼女の薄く開いたままの唇に己の唇を押し当てた。

「…ああ、やっと口づけられました」

秦趙同盟の際は毒を受けることを警戒して、鴆酒を飲んだ彼女と口づけることは叶わなかったのだが、こんなにもあっさりと叶うとは思いもしなかった。

手足の縄を外してから、恋人同士のように信の手に指を絡ませて、口の端を濡らす唾液を舌で舐め取り、李牧は何度も唇を重ねる。

酒は得意な方ではないのだが、鴆酒の味はやけに甘く感じるものであった。菓子のような甘さとはまた違い、奥深くて優しい口当たりだった。

もしも毒という物質がこのような甘味だったなら、夢中になってしまうのも分かる。秦趙同盟のあとの宴で、信が美味そうに鴆酒を飲み干していたのも納得出来た。

解毒剤を内服していなければ違った味だったかもしれないが、それでも信と同じように毒酒の味を分かち合うことが出来たことに、李牧の胸は満たされていく。

「ん…」

柔らかい唇の感触を何度も味わったあと、李牧は白い首筋に強く吸い付いて、赤い痕を残していった。

「は、ぁ…」

まだ意識は戻っていないが、信の体は反応を見せ始めた。彼女の肌が赤く上気しているのは火鉢で暖められたせいではないようだ。

「毒の耐性を得ることは不可能かもしれませんが、時間と材料さえあれば、解毒剤を作ることは可能なんですよ?…聞こえていないでしょうが」

「ふぁ、あ…んぅ、…」

眠りながら喘ぐ信を見下ろしながら、李牧が肩を竦めるようにして笑う。

よほど強く毒が回っているのか、信は口を閉じられず、幼子のように唾液を流していた。

李牧は唾液さえも逃がさないと言わんばかりに舐め取った。無色透明なそれが甘美な味をするのは、きっと気のせいではないだろう。

 

李牧の策

秦国が国境調査を行う場所は以前から調べがついていた。

見晴らしの良い崖上に拠点を作り、定期的にこちらの動きを探ることを秦の総司令が指示をしていることも密偵から報告を受けていたのである。

国境調査を任されるのは名のある将ばかり。それは趙国を常に警戒している表れとも言える。

李牧があの地に夾竹桃を栽植するよう指示したのは、秦趙同盟を終えてからだ。
理由としては、毒に耐性がある不思議な体質の信と出会って、彼女に興味を抱いたからであり、ただの好奇心でもあった。

普通の人間でいう致死量の毒を盛られたところで信は痛くも痒くもないらしいが、媚薬を盛られたかのように性欲と感度が上昇するらしい。秦趙同盟のあの夜に、李牧は自らの目でそれを確認していた。

冬になれば薪の消耗が激しくなるので、栽植しておいた夾竹桃を薪にしようと考える。この植物を燃やすと強力な毒煙が発生することを知っている者は少ない。何の疑いもなく薪代わりに利用することだろう。

冷え込みの激しい過酷な環境下で、治療は困難を極める。薪として使用している夾竹桃が毒の源であると気づかなければ被害は拡大する一方だ。

案の定、なにかの病だと誤解したことで、原因の除去への対応が遅れてほぼ壊滅状態へと追いやられてしまう。

もしもこの罠に陥るのが飛信軍であったのなら、毒に耐性を持つ信を捕らえられるし、他の軍だったのならば簡単に一掃することが出来る。どちらが掛かっても趙が優位に立てる李牧の策であった。

結果、仕掛けておいた罠に引っ掛かったのは信だった。それは李牧にとって、運命を感じさせる結果でもあった。

飛信軍の壊滅と、信を捕らえたという報告を聞いた時、蜘蛛の巣に飛び込んだ蝶がもがく姿が李牧の脳裏に浮かんだ。

 

 

信は李牧を敵国の宰相であることのほかに、養父である王騎の仇としてその首を狙っている。

だが、秦趙同盟の際、呂不韋の企みで李牧は鴆酒で毒殺されかけたのだが、寸でのところで信が阻止したのである。

鴆酒で苦しむ自分をせせら笑い、見殺しにすることは容易かったはずだ。だが、信はそれをしなかった。

養父の仇である自分を恨みはするものの、決して卑怯な方法では報復しない彼女の信念に惹かれたのである。この戦乱の世でそのような綺麗事を貫ける彼女がどこまで行くのか、成長を見届けたいとも思った。

信を傍に置いておきたいと思うようになったのはいつからだっただろう。

趙の宰相と秦の女将軍という敵対関係にある立場は、平行線のように交わることのない関係性だ。

それでも戦や軍政で接点を得ることがある。信を手に入れるのなら、彼女を罠に嵌めるのが一番手っ取り早い。

秦王に厚い忠誠を誓っている彼女が、敵国である趙に決して平伏しないと断言出来た。
人質になることで秦国に不利益を与えたり、辱めを受けるくらいなら信は自ら命を絶つに決まっている。だが、それでは意味がないのだ。

抵抗の意志を削ぐ方法など幾らでもある。まずは彼女の身柄を抑えることが最優先だった。

しかし、夾竹桃の栽植という手の込んだ指示は事前に行っていたものの、信を手に入れるとなると、随分余裕を欠いてしまう。

それほど彼女に恋焦がれているのだと、嫌でも自覚せざるを得なかった。

 

 

帯を解いて果物の皮を剥くようにして着物を脱がせていくと、相変わらず傷痕が目立つ肌が現れた。

(これは、矢傷ですね。ここは…剣で裂かれたのでしょうか)

瘢痕の大きさをみると、相当な深手だったことが分かる。鎧を着ておきながらこれだけの深手を負っただなんて、よく死ななかったものだと感心してしまう。

初めて彼女と身を繋げた時にも、彼女の裸体は見たことがあったが、あの時に比べると傷痕は圧倒的に増えていた。

それを決して醜いとは思わない。むしろこの醜い傷があるからこそ、信の勇ましさを感じとることが出来た。

「う、…ん…」

戦乱の世を生き抜いてきた証とも言える傷痕を指でなぞっていると、信がくすぐったそうに身を捩った。

ただ指を這わせているだけなのにそんな反応を見せられると、今すぐにでも強引に体を繋げたくなってしまう。

「んんっ、ぅ…は、ぁ…」

唇を重ねると、意識を失っているはずの信が切なげな吐息を零した。

舌を差し込むと、もどかしげに膝を擦り合わせる。意識は眠りの世界に落ちているものの、自分という存在を感じてくれているのだと思うと、李牧は思わず目を細めた。

将軍として多くの兵たちを導いている彼女の体には、必要な部位にしっかりと筋肉がついている。しかし、胸の膨らみは紛れもなく信が女である象徴だ。

すくい上げるように胸をそっと掴むと、手の平いっぱいに柔らかい感触が広がって、夢中になって揉み込んだ。

信が生娘でないことはあの夜から知っていた。体に刻まれている傷の数は増えていたが、胸の芽が素肌に溶け込んでしまいそうな桃色なのは変わりなかった。

胸の膨らみを愛でていると鼻に抜ける声が聞こえて、李牧は視線を持ち上げる。

「うっ…ん、っ…!」

くすぐるように乳輪をなぞり、芽を指で弾く。指で優しく摘まんでやると、少しずつ硬さが増して来た。

あっという間に立ち上がった胸の芽を今度は舌で可愛がってやる。

「ふ…ぅ…」

くすぐったそうに信が身を捩った。胸に触れられるのが好きなのかもしれない。

片方の胸の芽を吸いつき、舌で転がしながら反対の胸を弄っていると、しきりに信が膝を擦り合わせる回数が増えて来た。

 

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発覚

「…信」

頬に口づけながら、李牧は着物から覗く彼女の脚の間に手を伸ばした。

「あっ…」

内腿に指を這わせただけだというのに、甘い声が洩れる。
男の欲を掻き立てるその声に気分を良くしながら淫華に指を伸ばすと、すでにそこは蜜を垂れ流していた。

「う、んん…あ…?」

信が薄く目を開いたことに気づき、李牧は自然な手つきで彼女の両手首を握り込んだ。

あれだけ毒を吸い込ませたのだから、体に力が入らなくなっているとは思うのだが、彼女の忍耐強さには幾度も辛酸を舐めさせられた。

養父の仇である自分に恥辱を受けるとなれば最後まで抵抗を続けることだろう。喉笛を食い千切って逃げるかもしれないし、抵抗が敵わないと分かれば自ら舌を噛み切るに違いない。

目を覚ました彼女が今の状況をどう受け入れるかで、李牧もこの後の予定を変更するつもりであった。

何とか瞬きを繰り返してから、信は不思議そうに李牧の姿を見つめている。夾竹桃の毒煙のおかげか、まだ意識は朦朧としているようだ。

「あ…ぇ…?桓、騎…?ま、た、鴆酒ぅ…?」

聞き覚えのあり過ぎるその名前を聞いた途端、李牧ははっと目を見開く。

「も、たらふく飲んだから、いらねえって…お前が飲めよ…」

まだ意識がはっきりしていないせいで、信は李牧のことを桓騎と勘違いしているようだった。

桓騎に鴆酒を飲めと促す言葉に、李牧は一つの仮説を立てた。それは毒への耐性を持っている者が、信の他にもいたということである。

しかもその人物があの首切り桓騎となれば、なかなか厄介だ。他の兵たちは一掃出来たとしても、毒への耐性を持っている彼を消し去ることは出来ない。

面倒だとは思いながらも、彼に接触する前にその情報を得られることが出来たので、ある意味においては収穫である。

そして、桓騎と信の関係性についても情報を得ることが出来た。毒耐性という共通点から、二人は特別な関係性・・・・・・を築いているに違いない。

毒を摂取し過ぎることで媚薬を飲まされたかのように体が敏感になるようだし、異性であることを考えればそのようなことが起きても不思議ではない。

そこまで考えて、李牧は秦趙同盟の夜に信を抱いたとき、彼女の体に刻まれていた赤いあの痣は桓騎がつけたものだったのだと気づいた。

あの首斬り桓騎にとって信が特別な存在にまで昇格しているのなら、ますます信には人質としての価値が深まる。

強大な戦力を持つ信と桓騎の二人を同時に始末することは、趙国にとって大いなる利益があった。

自然と口角がつり上がってしまうのは、思わぬ収穫が得られたことによる優越感のせいだろう。

思わず笑みを噛み堪えて、李牧は赤く上気している信の首筋に唇を押し当てた。

 

 

重い瞼を持ち上げた時、信は意識を失う前のことをすっかり忘れていた。

柔らかい寝具の上に寝かされて、誰かに体を組み敷かれていたので、桓騎と鴆酒を飲んでいたのかと思い込んでしまう。

(あれ、俺…寝てたのか…?)

頭が鈍く痛んで、それが酒の酔いだと信は疑わなかった。

もしかしたら鴆酒を飲んで眠ってしまったところを桓騎が寝台に運んでくれたのかもしれない。

もう鴆酒はいらないと声を掛けたものの、桓騎は自分の上から降りる気配がない。それどころか身を屈めて、首筋に唇を押し付けて来たではないか。

「ん…」

柔らかい唇の感触が気持ち良くて、下腹部が甘く疼いてしまう。もっとして欲しいという気持ちが湧き上がって来る。

普段なら叱りつけるところだが、毒酒が入った状態で体を組み敷かれると、桓騎に触れてほしいという気持ちになってしまうのだ。そんな風に桓騎を求めるのは、酒の酔いのせいだと疑わなかった。

(…?)

身を委ねるために体から力を抜いていると、自分の首筋に顔を埋めている桓騎の香りに違和感を覚えた。

まだ酔いと眠気で重いままの瞼を擦ろうとしたのだが、両手首を押さえられている。
何度か瞬きを繰り返しているうちに、ぼやけていた目の前の景色がはっきりと移り込んで来た。

自分を組み敷いている男がゆっくりと顔を上げ、それが何者であるかを認識した瞬間、信は心臓の芯まで凍り付いてしまいそうになった。

「桓騎、じゃ、ない…」

どうしてここに養父の仇であるこの男がいるのだろう。
顔から血の気が引いていくのが分かり、頭にかかっていた靄が一瞬で消え去った。

 

 

「久しぶりですね、信。おはようございます」

こちらの動揺を煽るかのように、李牧から軽快な挨拶を返される。
なぜ自分が敵である趙国の宰相に組み敷かれているのか、今の状況が少しも理解出来なかった。

「は、放せッ!」

状況を理解するよりも先に抵抗を試みたのは、目の前のこの男が養父の仇だということが一番の理由だった。

力の入らない腕で李牧の体を押し退けようとするものの、両手首はすでに押さえ込まれており、彼の下から抜け出すことが叶わない。

着物もほとんど脱がされていて、唾液のべたついた感触が肌に残っていることに気づくと発狂しそうになった。

一度この男とはすでに身を繋げているのだが、あれは毒酒のせいで魔が差しただけだ。

過去の清算と養父の仇を討つのために、何としてもこの男の首は取らなくてはと思っていたのに、二度も組み敷かれるなんて思いもしなかった。

「クソ野郎!殺してやるッ!」

恐怖の感情の次に湧き上がったのは怒りだった。
自分でも驚くほどの怒鳴り声を上げると、両手首を押さえているから耳に蓋を出来なかったのだろう、李牧は眉間に深いしわを刻む。

「…残念ながら、私を殺せなかったから、あなたは今ここにいるのですよ」

冷静に李牧に諭されても、信は彼を殺意を込めた瞳で睨み続けた。

「無知なあなたが殺めたのは、大勢の味方兵たちだったと思うのですが?」

ひゅ、と信が笛を吹き間違ったかのような音を口から洩らした。

 

全滅

怒りで真っ赤になっていた顔が再び血の気を引いて青ざめていく。

その様を楽しそうな視線で眺めていると、信の体が震え始めた。どうやら国境調査で起きた事態を思い出したようだった。

「へ、兵たちは…」

「残念ながら、全滅したという報告を受けました」

少しも残念などとは思っていないし、追い打ちをかけるつもりはなかったのだが、律儀に質問の答えを返してやる。

それまで憎悪と殺意を秘めた眼で睨みつけていた信は初めて目を泳がし、呼吸を乱し始めた。

国境調査という名目のため、普段の戦で率いるよりも兵数は少なかったが、それでも三百の損害である。

投降兵や女子供には手を出さない信にとっては、軽く受け流すことが出来ない事実だったようだ。

「仕方ありませんよ。この冷え込みが激しい時期に火を絶やす訳にいきませんから」

「……、……」

「ただ、薪として代用した植物に毒が含まれていたのは不運でしたね」

夾竹桃のことを告げると、信の瞳が大きく開かれた。
まさかという視線を向けられて、李牧はゆっくりと口角を持ち上げる。

「全部、お前が…仕組んだのか…?」

「ええ」

李牧は迷うことなく頷いた。

てっきり逆上すると思っていたのだが、呆然とした表情で見上げられる。唇を震わせて、掠れた吐息を零していた。

どうやら全てがこちらの策通りだったのだという事実を知って怒る気力もなくなってしまったらしい。彼女の愚鈍さに堪らなく愛おしさが込み上げて来た。

李牧は信の顎に指をかけると、唇が触れ合いそうなほど顔を近づける。

「残念ながら、もう手遅れですよ。なにもかも」

涙を浮かべている信の瞳を覗き込みながら、李牧はにっこりと微笑むと、静かに唇を重ねたのだった。

 

更新をお待ちください。

このお話の本編はこちら

The post 毒も過ぎれば糧となる(李牧×信)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

イリバーシブル(桓騎×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・将軍ポジション/桓騎が信の副官
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/漂×信/シリアス/立場逆転IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

下僕出身と野盗出身の二人の将軍

見上げれば、弱者から得られる甘い汁を吸いながら生きる権力者が雲の数ほどいる。
見下ろせば、権力者の機嫌を損ねないように無様に頭を下げながら泥水を啜る弱者の山がある。

そんなもの、数えたところでキリがない。道端に落ちている石ころの数になど興味はない。

自分の立場を考えると、王族だとか名家だとかそういう恵まれた血筋ではないものの、大勢を見下ろしている側に立っていると断言出来た。

その観点からいうと、元野盗である桓騎には一つ気に食わないことがある。

それは桓騎の上官にあたる、信という名の女将軍のことである。下僕という身分から将の地位を築いた女だ。

下僕は絶対的弱者であり、卑しい身分とも言われる。もちろん親の顔も名も知らぬ戦争孤児が軍の中に縁故関係があるはずもない。

権力者を見上げることなど許されない身分でありながら、信と桓騎が秦国の将になったのは単純な理由なことで、実力を買われたからだ。
桓騎は知略を、信は武を評価され、今の立場を築いたのである。

信はこの秦国一の権力者ともいえる秦王嬴政との繋がりがあった。嬴政と成蟜との権力争いの際、信はどういった経緯か嬴政側に就き、勝利をもたらした。

その功績が称えられた信は、若いながらも三百人将への昇格し、その後の戦でも数多くの武功を挙げるようになっていた。

時を同じくして、桓騎も蒙驁の副官を務めていた。しかし蒙驁は山陽の戦いで負った傷が癒えずに没することとなる。

蒙驁の服喪期に入り、桓騎は信の副官として仕えるようになった。
それは誰かに指示を受けた訳ではなく、桓騎自らが志願したのである。信の方も断る理由はなく、彼を副官として受け入れた。

まだ数年しか経っていないが、桓騎は信とそれなりに信頼関係を築けていると思っていた。

飛信隊の援助は滞りなく行っているし、桓騎しか知り得ぬ奇策で戦を勝利に導いて武功を挙げ続けている。副官としては申し分ない働きをしていると桓騎は自負していた。

しかし、信の態度から察するに、自分は未だ彼女から厚い信頼は得られていないらしい。

 

宴の夜

宮廷の廊下では宴の準備のために、酒や食事を乗せた盆を抱えた侍女たちが慌ただしく動き回っていた。広い厨房では庖宰ほうさい ※料理人たちが休むことなく食事の支度をしている。

先ほど論功行賞を終えたばかりであり、これから戦の勝利を祝う盛大な宴が行われるところだった。

桓騎と信は此度の戦での活躍を評価され、秦王から直々に褒美を授かったのである。

このあとは勝利を祝う宴が始まるのだが、そういった集まりには興味がない。早々に桓騎は屋敷に帰宅することにした。

他の将と交流を深めるつもりなどなかったし、付き合いの長い仲間たちと共に過ごす時間の方が気兼ねなく寛げる。

無駄に広い作りになっている宮廷の廊下を進んでいると、前方に見覚えのある女が歩いているのが見えた。

この宮廷で堂々と背中に剣を背負っている女など、あの女しかいない。

「李信将軍」

桓騎は自分の前を歩いている上官の名前を呼んだ。

「………」

ゆっくりとこちらを振り返った信が桓騎を黙認すると、何の用だと言いたげな瞳で見据えられる。

これから宴が行われるというのに、相変わらず化粧気がなかった。

将軍という高い地位に就いておきながら、着物もそこらの民が着ている物と変わらない。日焼けで傷んだ髪には相変わらず艶はないし、香油を使ったこともないのだろう。

顔の傷は白粉を叩けば誤魔化すことは出来るだろうが、これだけの傷を負っているなら女としては致命傷だ。

信は将軍として生を全うすると決めているようで、嫁にいく気はないようだから、女としての幸せには興味がないのだろう。

将軍という立場で相当な給金を得ており、戦での褒美も山ほどもらっているくせに、信は少しも金を遣っている様子がない。

装飾品の一つも興味がないようで、もともと物欲がない女だというのは、桓騎は出会った頃からなんとなく察していた。

 

 

「何の用だ」

素っ気なく呼び止めた理由を問われる。

論功行賞で秦王や仲間たちには笑顔を見せていたというのに、桓騎は未だ彼女から笑顔を向けられたことはなかった。

信は寡黙な女ではない。しかし、桓騎を前にした時は途端に口数が少なくなる。

戦において必要な軍略や情報を共有する時くらいしか、まともな会話を交わした記憶がなかった。戦を終えた後は労いの言葉を掛けられるが、それが本心かどうかは分からない。恐らくは形式的な建前だろう。

信が自分に向ける視線からはいつも棘を感じる。戦ではいつも飛信隊の補佐を行い、救援だって積極的にやっているというのに、どうやら桓騎は信頼されていないらしい。

反乱の意志など見せたこともないし、そんな予定も今のところはないのだが、信の態度から警戒されていることは明らかである。

過去に嫌われるような言動をした自覚もなく、信から避けられている理由が分からなかった。

「宴には出席されないおつもりで?」

この自分が年下の、それも女に敬語を使っていることに、桓騎は未だ違和感が拭えずにいた。あの女の副官になると志願した時、仲間たちから大層驚かれたことは今でもよく覚えている。

将の中でも一番地位の高い大将軍ならともかく、どうしてあの小娘に仕えるのかと幾度となく理由を問われた。

結局、桓騎が副官に志願した理由を配下たちに答えることはなかったのだが、納得できないとしても、桓騎の決定に反論する配下はいない。

桓騎軍の中で桓騎に意見出来る者は昔から付き合いの長い重臣くらいだ。しかし、彼らは首領が一度決めたことを曲げぬと知っている。

さんざん文句を言われたものの、最後は桓騎の判断に従ってくれた。

 

 

「先の戦で受けた傷が痛むのですか?」

「………」

今は着物で隠れているが、信の右肩に包帯が巻かれていることを桓騎は覚えていた。先の戦で矢傷を負った箇所だ。
救護班から適切な処置は受けていたので、あとは傷が癒えるのを待つだけらしい。

戦が終わってからまだ日は浅い。傷が癒えていないとしても不思議ではないが、彼女が宴を欠席するのは珍しいことだった。

信は桓騎と違って、他の将や高官たちとの交流には積極的である。以前、戦いの最中に落馬して肋骨にヒビが入った時も、脇腹を抑えながら参加していたくらいには宴が好きらしい。

昇格のために周りに媚びを売っているのではなく、単純に宴の賑わいが好きなのだろう。信の表情を見ればすぐに分かる。しかし、今日は珍しく宴には欠席らしい。

「お前もゆっくり休めよ。じゃあな」

桓騎の問いには答えず、信は形だけの労いの言葉を掛けるとすぐに背を向けて歩き出した。

右肩を庇うような動きは見られなかったものの、表情は優れないままだ。宴を欠席するくらいなのだから、きっとまだ傷が癒えていないに違いない。

つまりは多少の無理も出来ぬほど、右肩の傷が深いというワケだ。

(まァ、当然だろうな)

桓騎は僅かに口角を持ち上げた。

 

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拒絶

「李信将軍」

「ッ…」

足早に彼女に近づき、背後から右手首を掴んだ。信が奥歯を食い縛って痛みを堪えたのを桓騎は見逃さなかった。

右肩を負傷していることは知っていたのに、傷に響くように右手を掴んだのはわざとである。

いつもなら彼女の体に触れようとしても、すぐに振り払われるのがお決まりだが、それをされなかったのはまだ傷が癒えていない決定的な証拠だ。

「良ければ、此度の勝利を二人きりで祝いませんか?」

「いや、今日は療養に専念する。お前も節度を守って仲間たちと楽しめ」

手を振り払われることはされなかったものの、信の言葉は桓騎の誘いを拒絶するものだった。

信から誘いを断られるのは初めてのことではない。成功した試しは一度もなかった。

美味い酒を手に入れたことや、参謀である摩論の手料理をエサにすれば、少しは理性が揺らぐかもしれないと思ったこともあったが、この女は頑なに誘いを断るのである。

酒や料理でも靡かないのなら、次なるエサは奇策だ。

「此度の戦で使用した奇策の全貌を、ぜひとも信将軍だけにお伝えしようと思ったのですが」

「………」

話に興味が湧いたのだろう。痛みではなく、僅かに信の片眉が動いたのを桓騎は見逃さなかった。

しかし、信は静かに首を横に振る。

「そりゃ興味深いが…悪ィな、まだ戦の事後処理が残ってんだ」

療養だけじゃなく、総司令官に会いに行かなくてはならないというもっともらしい理由をつけて断られてしまう。

事後処理が残っているのが嘘か本当か、桓騎にはどうでも良かった。こうなればいかなる誘いをかけたところで信は拒絶するだろう。

引き際を見定めるのも肝心である。桓騎は素直に彼女の右手を放した。

「では、また」

拱手の挨拶を交わし、桓騎は何事もなかったかのように踵を返す。

少しでも気を抜くと盛大に舌打ちをしてしまいそうで、静かに歯を食い縛ることで耐えた。どうやらあの女は微塵も自分に靡かないつもりらしい。

 

 

「ちっ…」

桓騎の姿が見えなくなってから、信は乱暴に舌打った。
彼に掴まれた右手首が痺れるように痛む。未だ肩に残っている傷も引きつるように痛んだ。

自分を酒の席に誘うためだったとはいえ、掴んだその手は一切の加減をしていなかった。恐らくは右肩に響かせるためだろう。

まだ傷が治り切っていないのは桓騎も知っていたくせに、わざと右手を掴んだのだ。本当に性格の悪い男だ。掴まれた部分にはくっきりと指の痕が残っていた。

敵味方の区別はついているくせに、それが誰であっても相手の嫌がることしか考えていない。

自分の副官になりたいと志願された時、信は彼の考えが少しも分からなかった。

これまでの功績が称えられ、副官という立場に留まる必要はないほどに自分の実力を示したというのに、なぜ桓騎は自分の副官になりたいと考えたのだろう。

何か裏があるとしか思えないのだが、それが読めないため、下手に断ることも出来なかった。

断れば良からぬ仕打ちをされるような気もするし、奇策を用いて相手を貶める桓騎をこのまま野放しにしておくことは気が引けたのだ。

王翦のように国を作る野望を持っている訳ではないし、反乱の意志は感じられないが、蒙驁の管轄下にあった時でさえ、桓騎軍の周囲には良からぬ噂ばかりが付き纏っていた。

悩みはしたが、信は監視役を兼ねて、桓騎の志願を受け入れたのである。

奇策で敵兵を翻弄する桓騎の軍略は、確かにこの秦国に勝利を貢献している。敵の行動を先読む鋭い観察眼を持っており、桓騎の指示によって敵の策を回避出来たことも多い。

犠牲を最小限に、秦軍を勝利に導く桓騎の才には感謝をしているが、信は彼と軍務以外での付き合いを控えていた。

理由は単純なもので、信が桓騎という男を好きになれないからである。
自分の中でなにかが彼を拒絶しているのだ。それは言葉には上手く言い表せないが、恐らくは本能的なものだろう。

それに、彼が秦国に忠誠を誓っていないのは明らかだ。蒙驁が没した後は潔くこの国を見限るのではと思っていた。

腹の内では何を考えているのか分からない男と杯を交わすなんて危険過ぎる。いつ手の内を返されて首を掻き切られるか分からない。

自分はともかく、嬴政にまで危害が及んだらと思うと、信はますます桓騎を警戒するばかりだった。

 

誘い

論功行賞が終わってから、信はしばらく自分の屋敷で療養していた。

右肩の矢傷は塞がったものの、まだ引きつるような痛みが残っている。そのせいで思うように手指に力が入らず、自分の意志のままに動かせないことがあった。

流れ矢に当たるのは初めてのことではない。
大抵のものは鎧で食い止められるのだが、肩を貫通するほど強力な矢を受けたのは随分と久しぶりのことだった。

傷口が塞がっているのに痛みが残っているということは、もしかしたら当たった位置が悪かったのかもしれないと軍医に言われた。

日を追うごとに肩の痛みは軽減して来ているので、そのうち治るだろうということだったので、信は大して気に留めていなかった。

鍛錬で武器を振るった拍子には思い出したように痛むが、今のところ生活に大きな支障はない。何か力を入れる動作をしなければ何ともなさそうだった。

戦を終えたあとで飛信隊の兵たちにはゆっくりと休養を取らせている。鍛錬を再開するのはまだ先になりそうだ。

「李信将軍」

屋敷で剣の手入れをしていると、伝令兵が木簡を抱えてやって来た。まだ戦を終えてから日は浅い。軍の総司令を務める昌平君からだろうか。

「どうした。昌平君からか?」

戦時中での報告や事後処理はすでに済ませたはずだが、まだ何かあるのだろうか。

「いえ、桓騎将軍からです」

桓騎の名前を聞いた途端、信は内容に意識を向けるよりも先に、反射的に溜息を吐いていた。

 

 

屋敷で療養していることは桓騎も知っているだろうに、そんな中でわざわざ屋敷に書簡を寄越すなんて何の用だろうか。

渡された木簡を開くと、そこには見舞いの言葉が綴られていた。どう考えても本心とは思えない。

桓騎は奇策を用いて敵を陥れることを得意としているが、前提として相手を苦しめるのが大好きな男である。

先日だって心配するような言葉を並べておきながら、信の右手首を掴んだ時の桓騎の手は少しも加減していなかった。

自分から副官になりたいと志願したくせに、自分のことが気に食わないのだろう。副官の立場になれば自分と接する機会が増える。それを利用して嫌がらせをしているとしか思えなかった。

元野盗の魁を務めていたあの男が、年下であり女の自分に従うだなんておかしい話だ。戦の才は認めているものの、信は桓騎のことを信用していなかった。

「…ああ、確かに受け取った。もう行って良いぞ」

「失礼します」

すぐに伝令兵を下がらせたのは、桓騎に返事を書くつもりがなかったからだ。

木簡を薪にでもしてやろうと思ったのだが、療養を終えたら自分の屋敷で酒でも飲み交わそうという誘いの言葉が並べられているのを見つけて手を止めた。

思えば、桓騎と酒を飲み交わしたことは一度もなかった。これまでも幾度か誘いは受けていたものの、理由をつけて断っていたのだ。

酒の席であろうとなかろうと、あの男に一瞬でも隙を見せれば寝首を掻かれるに決まっている。今後も二人きりで酒を飲み交わす機会などないだろう。

信は最後まで桓騎からの書簡を読むことなく、木簡を乱雑に折り畳んだ。

 

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囚われの親友

近くにいた従者に薪にしていいと桓騎からの木簡を手渡し、信は書斎に戻って筆を取った。親友に書をしたためようと考えたのである。

先日趙国から届いた漂からの書簡には、こちらは特に変わらないと記されていた。親友である漂は今、趙国に捕虜という立場で囚われている。

漂から書簡が送られて来る前は、酷い拷問を受けていないか、きちんと食事は与えられているのか、安否を心配するばかりだったのだが、彼自身の言葉で近況を知ることが出来て安心した。

彼が捕虜となってから初めて送られて来た書簡には、今は捕虜という立場で労役をこなしているが、下僕時代の頃に比べたらなんてことはないと書かれており、信は笑ってしまった。

漂は共に下僕時代の苦悩を乗り越えた唯一無二の親友で、信には欠かせない存在だった。

まだ趙国では捕虜たちを解放する気配がない。秦国と次の戦が起こる前に、人質として交渉材料にするつもりなのだろうか。

人質は漂だけでなく大勢いる。それだけ大勢の命を天秤にかけた交渉には大いなる価値があるので、趙国も簡単に彼らを解放しないのだ。

「………」

信は筆を取ったまま、何を書こうか考えた。
互いに近況を知らせてるのはいつもそうだが、この書簡は漂の手に届く前に必ず趙の者に見られてしまう。

暗号を紛れ込ませれば漂は気づいてくれるに違いないが、趙国の者に勘付かれたら危険な目に遭わせてしまうかもしれない。

それに自分の近況を赤裸々に伝えれば、秦国の内政状況を突き止められてしまう恐れがある。本当は漂に伝えたいことが山ほどあるのだが、趙国の者の目に留まる以上は下手なことは掛けなかった。

(漂…)

書簡の文面から漂は健気に解放される日を待っていることが分かる。しかし、いつまでも解放される気配がなく、労役を強いられる日々に嫌悪しているに違いなかった。

もしかしたら漂のことだから、自分を心配させないために、本当はもっと酷い目に遭っていることを黙っているかもしれない。

漂は子供の頃から我慢強い。どれだけ苦しい想いをしていても、いずれそれは過ぎ去ると信じてじっと苦痛に耐えていた。

共に下僕という身分を脱してからも、漂は持ち前の忍耐力でこれまでの苦難を乗り越えて来た。そんな彼に何度も激励されたおかげで信は将の座にまで上り詰めた。

漂がいなければ、きっと自分は将軍の座に就くことはなかっただろう。

辛抱強い親友にいつだって信は救われて来たし、今度は自分が漂を助ける番だと思っていた。

しかし、こればかりは信の独断で解決出来る問題ではない。
軍政に携わる官吏であったなら趙国に赴いて交渉をすることが出来たかもしれないが、将軍という立場ではそうもいかない。

一刻も早く趙国から捕虜解放の報せが出ることを祈るものの、将軍という立場であっても自分は親友を救い出すことが出来ないのだという無力感に、信は重い溜息を吐いた。

 

 

こちらは特に変わりないという近況と、体を大切にするようにという健康を尊重した言葉を書いてから、信は裏庭に出た。

辺りを見渡して従者たちの姿がないことを確認してから、信は裏庭の中を進んだ。中央にある広い池には頑丈な石橋が掛けられている。

橋から池に転落せぬよう欄干らんかん ※手すりのことがあり、欄干の柱には雨水などによる木材の腐食を抑える役割を持つ金具が一定の間隔で設置されていた。

石橋の中央を渡って五歩目、そこから右に三歩進み、欄干の中柱に設置されている金具に触れる。
すると、その金具だけはほかの箇所と違っての役割をしており、簡単に開いた。

中には書簡を入れられる空洞があり、信はもう一度辺りを見渡して、誰も見ていないことを確認してから漂に宛てた書簡をその空洞へ押し込んだ。

あとは密偵がここから書簡を持ち出して趙へと運んでくれる。
次にこの金具を開けた時、漂からの返事が届いていることを期待して、信は何事もなかったかのように金具の蓋を戻したのだった。

信は静かに目を閉じると、温かい日差しを浴びながら漂の無事を祈った。

(俺の寿命の半分やるから、漂が無事に秦国に帰って来るように)

物心がついた時から両親の顔も名も知らぬ信は、神の存在などいないものだと思って生きていた。

しかし、漂の身を案じる時間が長く続き、彼女は形のないその存在に縋るようになっていた。そうでもしないと不安で胸が押し潰されてしまいそうになるからだ。

書簡が届く度に安堵はするものの、次に返事が来なかったらと思うと、夜も眠れなくなる。

いつまでもこんな思いをするくらいなら、自分が漂の代わりに捕虜になれば良かったと思うほどに。

しかし、漂にそんなことを言えばきっと叱られてしまうだろう。彼が敵地で耐えているのだから、自分もやるべきことをやらなければいけない。

 

桓騎の罠

それから数日後。昼を回った頃に桓騎が信の屋敷を訪れた。

これまでも書簡を送られることは何度かあったのだが、桓騎の方から屋敷を尋ねることは今までなかったので、突然の来訪に信は驚いた。

適当に理由をつけて追い返そうとしたのだが、用があるらしく正門の前から動こうとしないらしい。見舞いの言葉でも掛けに来たのだろうか。

仕方なく出迎えると、桓騎は馬から降りた状態で腕を組んで待っていた。信が門から姿を現すと、すぐに姿勢を整えて礼儀正しく拱手する。

「お迎えに上がりました」

「…はっ?」

開口一番そんなことを言われて、信は大口を開けて聞き返した。

なにか約束を交わしていただろうか、軍政のことで呼び出しでもあったのだろうか、思考を巡らせるものの、思い当たる節は一つもない。

あからさまに戸惑っている信を前にして、桓騎は僅かに呆れたように肩を竦めた。

「返事を頂けなければ承諾とみなしますと、先日の書簡に記していたのですが」

(しまった)

桓騎の言葉を聞いて、ようやく状況を理解した信はあからさまに顔を引きつらせた。

確かに先日、桓騎から酒の席に誘う内容の書簡が届いた。しかし、最後まで目を通すことなく、信はその木簡を薪にしてしまったのである。

きっと桓騎は信が返事を寄越さないことを知った上で、返事を寄越さないなら・・・・・・・・・・、誘いに承諾したとみなすと記したのだろう。

案の定、信にはその文面を読んだ記憶がなかった。恐らくは書簡の最後の方に記されていたに違いない。

(くそ…)

もしかしたら、信が最後まで書簡を読まないことも想定した上での計画だったのかもしれない。

もしも書簡に軍政のことを書いていたのなら、最後までしっかり目を通していたはずだが、桓騎にしてやられたというワケだ。

右肩の怪我が治り切っていないことを理由に断ろうとも思ったが、それならばなぜ返事を出さなかったのかと問われるに決まっている。

「あー…すぐに支度する。ちょっと待っててくれ」

「お待ちしております」

書簡をきちんと読んでいなかったことも、薪にしたことも本人に向かって言えるはずもなく、信は部屋に戻って大袈裟なまでに深い溜息を吐いた。こうなれば仕方ない。

(一度だけ付き合ってやれば、しばらく誘われないだろ。だが、用心はしとかねえとな)

渋々身支度を済ませたあと、信は桓騎と共に彼の屋敷へと向かうのだった。

 

 

桓騎の屋敷には初めて訪れたのだが、門楼屋根つきの門を潜ると、予想通り派手な作りだった。

この屋敷の主は桓騎一人で、代々名家が受け継いでいる豪邸でもないのに、母屋以外にも別院がいくつもある。

使用人も大勢雇っているようだ。使用人の女性たちは娼婦かと思わせるような派手な化粧と香を着物から漂わせている。さまざまな香の匂いが混ざり合い、信は思わず鼻を塞ぎそうになった。

招かれた立場で嫌悪感を露わにするわけにはいかず、信は奥歯を噛み締めて何とか表情に出すのを堪える。桓騎はこの香りに何も感じないのだろうか。

派手なのは着物や化粧だけでなく、色鮮やかな宝石が埋め込まれた腕輪や簪などの装飾品もだった。まるで妓楼にでも招かれた気分だ。

元野盗である彼は手に入れた敵の領土から強奪をすることを当然としている。

しかし、鎧ならともかく、派手な装飾品には何の意味があるのだろう。
自分の地位や名誉を示すのは武功と名前があれば十分だと思っている信には、桓騎の金銭の使い道はよく分からなかった。

将も給金を与えられるし、戦での活躍が認められれば報酬を与えられる。
使い道に口を出すことはなかったが、敵地の領土を手に入れた際に、その地に住まう民たちを虐殺したり、財産を強奪することだけは許さなかった。

桓騎も信の言葉に従っているものの、他人を欺くのを何よりも得意としていることから、こちらの目の届かぬ場所で何をやっているか分からない。

かといって監視をつければその監視役の命も危ういため、信も完全には桓騎という男を管理し切れていない自覚があった。

 

もてなし

客間に案内されると、信は桓騎に勧められるまま、長椅子に腰を下ろした。

長椅子には白虎の毛皮の中に綿を詰め込んで作った座布団が置かれている。柔らかくて座り心地は良いが何とも悪趣味だ。

桓騎軍には拷問に長けている砂鬼一家がいるので、もしかしたら屋敷のどこかに人の皮で出来た家具があるのではないだろうかと不安になる。

念のため、座っている長椅子に触れてみたが、これは本当に黒檀で出来ているようで安心した。

桓騎が向かいの席に腰を下ろすと、すぐにあの派手な格好をした侍女たちがやって来て酒や料理を並べていく。宮廷や店で振る舞われるのとは違う、皿の中央に少量だけという特徴的な盛り付け方には見覚えがあった。

「摩論の料理か?」

「お好きでしょうから、用意させました」

桓騎軍の参謀であり重臣の一人である摩論はいけ好かない男だが、料理の腕前は確かだ。桓騎軍と共に出陣した際の野営生活で摩論の手料理を振る舞われた時、素直に信はその料理を称賛した。

今日は鴨肉の味噌漬けと根菜の付け合わせだ。湯気と共に良い香りが漂ってくる。他の料理も今作っている最中らしい。

量が少ないことだけは不満だが、摩論曰くその食材の中で一番良い部位だけを使っているから仕方ないのだそうだ。

摩論の手料理を食べられるなら来た甲斐があったものだが、桓騎の腹の内が読めない以上、あまり長居をしたくなかった。

料理を堪能して酒はほどほどに、右肩の傷が癒えていないことを理由にして早々に帰還しよう。

屋敷の留守を任せている従者たちには桓騎の屋敷に行くことを伝えているし、もしも帰宅が遅くなるようなことがあれば必ず迎えに来るよう指示をしていた。

あえて桓騎が見ている前でそのような指示をしたのは、彼への抑止力になると考えたからである。

もしも桓騎が自分の命を狙っていて、行動しやすい自分の屋敷で殺害計画を実行するつもりなら、証拠隠滅を図って死体を見つからぬように処理するかもしれない。

簡単に殺されてやるつもりはないが、従者たちに迎えの指示を出しておけば、もしも自分の身に何かあったとしても、桓騎に容疑を掛けられるのは間違いない。

唯一信が失敗したことといえば、桓騎から届いた書簡を薪にしておけと指示したことだった。とはいえ、彼が信を酒の席に誘ったことは事実だ。言い逃れは出来ないだろう。

 

 

「贔屓にしている酒蔵から取り寄せたものです」

ぎらぎらと怪しく光る金の杯に酒を注ぎ、桓騎は信に手渡した。

素直に受け取ったものの、信はその酒を飲むことなく彼の前に置く。それから桓騎の手にある酒瓶を奪うと、信はもう一つの杯を手繰り寄せて酒を注いだ。

「いつも誘いを断って悪かったな」

正直、罪悪感など微塵も感じていないが、何かと理由をつけて酒の席を断っていたのは事実だ。

桓騎が注いだ方の酒は彼に渡し、信は自らが注いだ方の杯を軽く掲げた。

杯に口元に寄せながら、桓騎も同じように杯を煽るのをじっと見据える。彼が喉を動かしたのを見届けてから、信もようやく酒を口に含んだ。

桓騎が酒を飲む時に躊躇う様子はなかった。つまりは酒にも杯にも毒や薬の類が盛られていないことが証明されたというワケである。

「…うん、美味い。良い酒だ」

雑味が少しもなく、滑らかな舌触りだ。喉を流れ落ちた後に胃が燃えるように熱くなったので、かなり強い酒であることが分かった。これは飲み過ぎると確実に酔い潰れてしまうだろう。

年齢が近いながらも、自分を慕ってくれている蒙恬や王賁たちの前で酔い潰れたなら快く介抱してもらえるが、信頼に欠ける桓騎の前では決して隙を見せたくはなかった。

酒の酔いを理由に転んで頭をぶつけただとか、不審に思わせないような死を演出されるかもしれない。この男の前では弱みや隙を見せることは命取りになると信は疑わなかった。

つい不吉なことを考えてしまったが、自然に振る舞おうと会話を続ける。

「こんな美味い酒を造れるなら、お前がその酒蔵を贔屓にするのも分かるな」

「李信将軍に称賛されたとなれば、醸造家も本望でしょう。良ければご紹介しますが」

「ああ、頼む」

桓騎はすぐに侍女を呼び寄せると、木簡を持って来るよう声を掛けた。贔屓にしている酒蔵の情報を教えてくれるのだろう。

少ししてから侍女が一つの木簡を手に部屋へと戻って来た。桓騎に手渡すと、すぐに一礼して下がっていく。
派手な身なりはともかく、礼儀を弁えていることから、きちんと教養を受けている者たちを雇っているらしい。

「どうぞ」

手渡された木簡を、信は疑うことなく開いた。

 

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動揺

「―――」

木簡に記されている言葉を目視して、信は思わず目を見開いた。
桓騎が贔屓にしている酒蔵の場所が記されているのだとばかり思っていたのだが、そうではなかった。

(なんで俺の書簡がここに…?)

それは明らかに自分の文字で、趙国にいる漂に宛てたものだったのだ。桓騎からの書簡が届いたあの日に、信が送ったものである。

何度か読み返してみるが、やはり自分の字だ。確かに石橋の欄干らんかん ※手すりのことに隠したはずなのに、どうしてこの書簡が今ここにあるのだろうか。

「………」

桓騎は信の動揺を見逃すまいとして、瞬き一つせずにこちらを見据えている。その視線を受けながら、信は思わず身震いした。

(こいつ、一体なんのつもりだ)

背中にじわりと嫌な汗が浮かぶ。まさか桓騎が自分の屋敷に忍び込んで盗んだのだろうか。

元野盗の彼が屋敷に忍び込むのはあり得なくはないが、あの隠し場所を突き止められたということは以前から行動を見張られていたのかもしれない。

屋敷の敷地内とはいえ油断した。この書簡がここにあるということは、信が内密に趙国に書簡を送っていることが気づかれたということになる。

機密情報の類は誓って口外していないが、秦将である自分が敵国に密書を送るとなれば裏切り行為であると誤解されかねない。謀反の意志があると思われても仕方ないだろう。

人質になっている親友の安否を心配しているからだったとはいえ、内密にしていたことには確かに後ろめたさはあった。だが、それを素直に白状したところで敵国に書簡を送るのを禁じられるのは目に見えている。

それでも信は、親友との連絡手段を絶つことは出来なかった。漂は自分の命よりも大切な存在で、漂も信のことを同じように想ってくれている。

自分からの書簡が途絶れば、趙国で人質として耐えている彼の心の拠り所を失いかねない。
そんな事情を桓騎が知っているはずがないだろうが、この書簡を持ち出したということは何か自分と取引でもしたいのだろうか。

(いや、違う)

これは取引ではなく脅迫・・だ。信は直感した。

自分に利がないと動かない桓騎が一体なぜ副官になったのかを、信は未だに理由が分からずにいた。もしかしたら自分の弱みを握るためだったのだろうか。

生唾を飲み込んでから、信はようやく桓騎と目線を合わせた。

「…何が望みだ」

低い声で問いかけると、桓騎はその言葉を待っていたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべたのだった。

 

中編①はこちら

The post イリバーシブル(桓騎×信)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

夜目、遠目、恋慕のうち(王賁×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/蒙恬×信/シリアス/甘々/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編②はこちら

 

解毒

医師団の治療を受けて五日目の夜。陽が沈んだあとに、王賁はようやく両目の包帯を外された。

「ゆっくりと目を開いてみてください」

指示通りにゆっくりと瞼を持ち上げると、部屋の明かりが差し込んで瞳がずきずきと痛んだ。

しかし、その痛みが落ち着いてくのと同時に、少しずつ色を映し出す。これまで靄が掛かっていた視界がすべて洗い流されたように目の前の景色をはっきりと映していた。

「…見える。手指も、不自由はない」

視力だけでなく、両手の震えや痺れもなくなっていた。掌握をしてみるが、問題なく力も入る。

毒を受ける前の自由な体を取り戻したのだと実感し、王賁は長い息を吐いた。医者も大層安堵した表情を見せた。

「解毒は完了したようです。また何かしらの症状が出るかもしれませんので、あと数日はこの部屋で安静にしていらしてください」

「感謝する。これで将としての未来を潰えずに済んだ」

「いえ、とんでもございません。…そのお言葉はどうぞ信将軍にお伝えください」

深々と頭を下げ、医者は他にも執務があると言い、部屋を後にした。

 

 

部屋は灯火器の明かりで照らされていたが、以前のように、視界が暗闇に邪魔されることはない。
今までは蛍石の明かりを頼りにしていたが、それも不要になるほど視力が戻ったのである。

「………」

以前のように、目の前の景色を映してくれる両目に対して安堵の感情が込み上げて来て、放心状態になっていた。

信が嬴政と医師団を頼んでくれなかったら、もうこの両目が光を映すことはなかっただろう。
医者に言われたように、信に感謝を伝えなくてはと思うのだが、気恥ずかしさがあるのは彼女に弱みを知られてしまったからかもしれない。

このまま将の座を降りるしかないのだと諦めていた自分に、彼女が喝を入れてくれなかったら、今でも自分は蛍石の僅かな明かりに縋って夜道を歩いていただろう。

これからも信と蒙恬と肩を並べて将の座に就いていられるのだと思うと、胸に歓喜が湧き上がって来る。

礼を言うならすぐにでも伝えるべきだ。あまり日が空くと気恥ずかしさのせいで、伝えられなくなってしまうかもしれない。

自分の治療は宮廷に滞在していると信は話していた。しかしもう夜は遅い。明日必ず感謝を伝えようと心に決め、王賁は寝台に横たわった。

 

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真相

翌朝。目を覚ましても視界は変わりなかった。寝台から降りて体を動かしてみても、両手は自由に動かせる。

解毒によって症状が消失したとはいえ、しばらくは安静にするようにと医師から言われており、療養に専念しなくてはならない。

「っ…」

窓から差し込む陽の光が目に当たり、突き刺さるような痛みが走った。眩しくて目が開けていられないのだが、医者が言うにはそれも時間が解決するという。

窓から差し込む温かい光くらいならば、問題なく目を開けられるし、はっきりと色も分かる。

槍を振るうのもしばらく控えるよう言われたものの、治療を乗り越えて視力を失わずに済んだ王賁にとって、この療養期間は少しも苦痛ではなかった。

しかしこの五日間、ずっと横になっていたせいで下肢の筋力も衰えていることを自覚し、王賁は一刻も早く戦に出陣出来るように体を取り戻さなくてはと考えた。

しかし、まずは信に礼を言わなくてはならない。

見返りに何を要求されるのかは分からないが、彼女のことだから美味い酒と料理を要求されそうだ。僅かに口角を持ち上げ、王賁は部屋を出た。

広い宮廷を歩き回ったものの、どこにも信の姿がない。礼を伝えようと思ったのだが、先に屋敷へ戻ってしまったのだろうか。

信も自分も将としての執務がある。いつまでも宮廷に留まっている訳にもいかなかったのだろうと勝手に納得し、王賁は自分の屋敷へ帰還することを決めた。

書簡で礼を伝えるわけにはいかない。一度屋敷に帰還したあとに、信の屋敷に訪ねようと考えた。

療養の間に借りていた部屋で荷を纏めていると、蒙恬が訪れた。

「元気そうで何より」

本当にそう思っているのか疑わしいほど不満気な顔で、快気祝いの言葉をかけられた。

先日見舞いに来た時は、軽口を叩きながらも心配してくれていることが声色から察していたのだが今日は違う。

言葉と態度がつり合っていない時の蒙恬は、大抵本心を隠している。それなりに長い付き合いなので分かっていたが、今の状況に限っては悪い冗談とも思えなかった。

「何の用だ」

「まさか帰るつもりか?まだ信に会ってないだろ」

王賁は頷いた。宮廷のどこにも彼女の姿がなかったから、屋敷に戻っているのだと王賁は信じ込んでいた。

しかし、どうやら蒙恬の口ぶりから察するに、まだ信は宮廷にいるようだ。

 

 

「…賁。今回の解毒治療について、俺の口から説明してあげる」

「そんなものは不要だ」

もう解毒は出来たのだから、その経緯など知ったところで意味はないと王賁は言い捨てる。構わずに荷を纏めていると、

「聞け」

蒙恬はそれを許さないと言わんばかりに、王賁の肩を掴む。肩に指が食い込むほど強く力を込められて、思わず眉根を寄せた。

「信は、お前に飲ませる血清を作るために、自ら毒を受けたんだ」

「…は?」

その言葉を聞き、王賁はまさかと目を見開く。
眦が裂けんばかりに目を開いた蒙恬に睨まれ、決して冗談ではないことを悟る。

医学に携わっていない王賁でも、血清に関しての知識は浅く持っていた。体に毒を入れることで免疫を作り、その血を抗毒血清と呼び、すなわち解毒剤にするのだと。

―――快方に向かった際は、どうぞ信将軍に今のお言葉をお伝えください。

治療を開始したばかりの頃に、医者がそう言った言葉を思い出す。昨日包帯を外された時も、医者は似たようなことを言っていた。

あの時は嬴政と医師団の協力を求めた信の行動のことを指しているのだとばかり思っていたのだが、そうではなかった。

そして、医者が解毒剤の詳細を語ろうとしなかった理由と真相が結びついた。

信が抗毒血清を作るために自らの身を差し出したからで、恐らくその事実を医師に口止めをしていたからだ。

蒙恬は幾度か王賁の見舞いにも来ていたし、信にも会ったと話していたが、彼女の詳細については語ろうとしなかった。蒙恬自身も信から口止めをされていたのだろう。

 

 

信の心情は分かる。もしも自らを犠牲にして解毒剤を作るなど言ったら、王賁は確実に止めていたし、その解毒剤を飲むことはしなかった。きっと自分ならそうしたに違いないと王賁は断言出来た。

「…今、信は医師団の監視下にある。お前を助けた代わりに、信が死ぬかもしれない」

殺意に近い怒りが込められた瞳に睨まれながら、信じられない事実を教えられ、王賁は心臓の芯まで凍り付いてしまいそうになった。

普段から冷静沈着な友人があからさまに狼狽えている姿を見て、蒙恬は「やっぱりそうか」と溜息を吐いた。

「…まあ、信のことだから全部黙ってると思ったけど…俺も口止めされてたし」

予想通り、蒙恬は今回の件を信から口止めされていたらしい。

真実を打ち明けた蒙恬は、もうこれ以上隠しても意味はないと悟ったのか、今までの経緯を語り始める。

毒に侵された王賁に一刻の猶予も残されていないと知るや否や、信は自分が血清の材料になると医師団に名乗り出た。

抗毒血清を作るために協力してくれる人材を選別をする時間も惜しいと、信は医師団を説得したのである。

「医師団も手を尽くしてくれているから、どうなるかは信次第だろうけれど…でも、お前は今すぐ会うべきなんじゃないか。信に言うことがあるはずだろ」

最後まで蒙恬の言葉に耳を傾けることなく、王賁は弾かれたように駆け出していた。

 

激昂

宮廷を走り抜けて、医師団の仕事場がある建物に向かった王賁はそこで信の姿を探した。

今回のことで礼を言うために宮廷を探し回ったが、医師団のもとにいるとは全くもって盲点であった。

自分の世話をしてくれた医者を見つけ、信のことを問い質すと、彼はこれまでのことを白状したのだった。どうやら彼も信から口止めをされていたらしい。

だが、素直に打ち明けたということは医者の見立てでも、信の状態が良くないということだろう。王賁は氷の塊を背中に押し付けられたような感覚に陥った。

すぐに信にいる部屋に案内させると、そこには変わり果てた彼女の姿があった。

信は寝台の上で眠っていたのだが、胸が上下に動いていなければ、つまりは呼吸をしていなければ死人だと見間違えてしまうほど、その顔色は悪かった。

「信…」

やっと喉から絞り出した声は情けないほどに震えていて、しかし、名前を呼ぶのが精いっぱいだった。

まるで笛を吹くようなか細い音が信の口から洩れている。今にも止まってしまうのではないかと思うほど呼吸は弱々しい。

布団を掛けられていたが、覗いている左腕は包帯で覆われていた。
包帯の隙間から見えた手指は人間のものとは思えないような紫色になっており、今にも張り裂けてしまいそうなほど膨れ上がっている。

これはもう手遅れだと王賁は直感した。

「なぜ、ここまで…」

膝から力が抜けてしまい、王賁はその場にずるずると座り込んでしまう。

「…お前の解毒が終わるまで、信は毒を受けた体で五日間も過ごしたんだ」

どうやら追いかけて来ていたらしい蒙恬が、ゆっくりと背後から近づきながらそう言った。

王賁の解毒治療に必要な血清を提供するために、信は五日間も強力な毒を受けた状態で過ごしていた。

無事に王賁の解毒が完了し、すぐに信の解毒治療も始まったのだが、これほどまでに根付いた毒を取り除くのは容易ではない。

適切な解毒薬を飲ませているというのに、症状が少しも改善しないのだそうだ。
わざわざ蒙恬から説明を受けなくても、今の彼女の状態を見ればそんなことは嫌でも理解出来た。

 

 

包帯に包まれた左手に触れると、血液が通っていないのではないだろうかと思うほど、氷のように冷え切っていた。

そこが毒蛇に噛まれた箇所らしい。利き手ではなく左手を選んだのは信らしいなと思うが、今はそれどころではない。

「…誰が、お前に助けを求めた」

腹の底からせり上がって来たのは、怒りだった。

このまま信が死んでしまうかもしれないという恐れの感情よりも、怒りが勝ったのである。
それは信の死が自分のせいだと認めたくない罪悪感の裏返しでもあった。

「俺のことなど、捨て置けば良かっただろうッ!」

毒に蝕まれ、二度と戦場に立てなくなった役立たずの将など見殺しに出来たはずだ。

蒙恬の屋敷で酒を飲み交わしたあの夜、信に気づかれなければきっとこんなことにはならなかった。

もう治療法がないと諦めていたが、信はそうではなかった。嬴政と医師団の力によって、最後の治療法を見つけてくれた。

それがまさか信自身の命と引き換えという治療法だったなんて、誰が想像出来ただろう。

解毒剤と言われて飲まされていたあの苦い薬の正体が信の血だったのだと思うと、王賁は喉を掻き毟りたい衝動に襲われる。

しかし、どれだけ信に罵声を浴びせたところで、彼女の体を蝕む毒が抜けることはない。

信が無理やりにでも自分を宮廷へ連れて来たおかげで解毒が出来たことに、強い感謝の気持ちが込み上げたのだが、彼女の命と引き換えに生き長らえたことだけはどうしても認められなかった。

 

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危機

「もう、助からないのか」

自分でも驚くほど冷静に、王賁は医者に訪ねていた。
王賁の背後で医者は深々と頭を下げながら、重い口を開く。

「解毒剤の量を増やし、全てお飲み頂ければ、確実に軽快するのですが…ただ…」

「構わん。続けろ」

言葉尻を濁らせたので、王賁は続けるように指示する。

「もう呼びかけにも反応がなく、薬を口に含ませても飲み込むことが出来ずにいるのです。水や食事も…」

解毒剤だけでなく、水や食事も飲み込めぬほど衰弱しているのだと聞かされ、王賁は鈍器で頭を殴られたような感覚に襲われた。蒙恬も体の一部が痛むように眉根を寄せている。

医者の手には今煎じたばかりの解毒剤があった。口に流し込んでも飲み込む力がなく、眠りながら吐き出してしまうらしい。

口に流し込むのは簡単だが、飲み込ませるのは医者でも至難の業だ。少量でもいいから解毒剤を飲ませないと、もう命の灯は消えゆく一方なのだと医者は宣告した。

「…貸せ」

解毒剤が入った器をふんだくり、王賁は迷うことなく口に含んだ。

濃い緑色のどろりした煎じ薬の苦さが舌の上に広がった瞬間、反射的に吐き出してしまいそうになった。しかし、王賁は強く拳を握り締めてそれを堪えると、信に唇を重ねた。

血色の失った唇も氷のようで、人間と唇を重ねているとは思えないほど冷たかった。

信と唇を重ねたのはこれが初めてではない。以前、酒の酔いによって魔が差したのだ。
互いに忘れようと誓った過去だが、あの時の口づけとは比べ物にならないほど、無機質なものだった。

「ん…」

薬を口移しで流し込むものの、信が喉を動かす気配はない。意識がないのだから当然だ。

しかし、王賁は信の頬をしっかりと掴んで顔を固定させると、解毒剤を嚥下するまで唇を塞いだままでいた。

 

 

「っ…うぅ、ん…」

僅かに呻き声が洩れる。唇を塞がれて息苦しさを感じているのかもしれない。
しかし、僅かに信の喉が上下に動いた気配を感じ、王賁は唇を離そうとした。その時、

「う…!」

きりきりと下唇が摘ままれるように痛み、思わずうめき声を上げた。

「賁?」

その声を聞き付けた蒙恬が心配そうに駆け寄って来る。

咄嗟に王賁は信から顔を離したが、口の中に解毒剤ではない苦みが広がって、下唇の痛みが尾を引いている。手で拭ってみると血がついていた。どうやら信に下唇を噛まれたらしい。

「優しい口移しのつもりが、噛まれたんだ?」

下唇に血が滲んでいるのを見て、蒙恬が肩を竦めるように笑う。

気にせずに王賁が信に目を向けると、彼女は解毒剤を飲み込んでくれたようだった。意識がない中でも苦みを感じているのか、僅かに眉を寄せている。

毎度噛みつかれるのはごめんだが、口移しなら解毒剤を飲ませることが出来そうだ。医者もほっとした表情を浮かべている。

「王賁だとまた噛みつかれるかもしれないから、次は俺が飲ましてあげるよ」

明るい声色で蒙恬が提案する。顔は笑っているが、目が本気だったので決して冗談ではないことが分かった。

「いらん。俺がやる」

「えー?信は賁からの接吻嫌がってるみたいだけどなあ。俺は信になら舌を噛まれてもいいけど」

「………」

無言で睨みつけると、恬がこちらの怒りをますます煽るように蒙恬が軽快に笑った。

「冗談だって。信に救われたお前が、責任もってちゃんと解毒剤を飲ませてやれよ」

「無論そのつもりだ」

その返事を聞いた蒙恬は満足そうに頷いた。

「唇が使い物にならなくなったら俺が代わってあげるから、いつでも呼んだらいい」

「貴様はとっとと帰れ」

殺意を感じ取ったのか、蒙恬はさっさと踵を返して部屋を後にした。

 

風前の灯火

次に薬を飲ませる時刻に部屋を訪れると、驚くことが起きた。相変わらず顔色は悪いままだったが、ずっと眠り続けていた信が僅かに目を開いていたのである。

「信!」

寝台に駆け寄ったのはほとんど無意識だった。

「分かるか」

「…、……」

声を掛けると、信が唇を震わせた。しかし、唇の隙間から掠れた空気が洩れるばかりで、声にはなっていない。

台の上に置かれていた水差しを手に取って、それを彼女の口元に当てようとして、王賁は自分の口に水を含んだ。虚ろな瞳で信が王賁の行動を見つめている。

「っん…」

薬を飲ませた時のように水を口移しすると、信の目が大きく開かれた。

「ぅ、ん、んんっ…」

氷のように冷え切った手で力なく体を押しのけようとしたので、王賁は彼女の両手を押さえ込んで水を流し込む。

「ッ…!」

反射的に喉を動かして水を飲み込んだ信は、またもや抵抗しようとして、王賁の唇に再び噛みついたのだった。先ほどの傷口が再び開いてしまう。

唇が血が滴り、信の口の中に流れ込んでしまったのか、彼女は血の味にますます顔をしかめていた。

 

 

「………」

なんとか顔を離すと、信がぼんやりとした表情で王賁の事を見据えている。瞳は開いているはずなのに、目は合わなかった。

「…信?」

声をかけても反応がない。それどころか、瞼がゆっくりと閉ざされていく。

やっと感謝を伝えられると思ったのに、自分を助けた代償を信がその命で払おうとしているなんて、認めたくなかった。

「信っ…目を覚ませ!」

泣きそうな声で名前を呼んだあと、王賁は思い出したように台の上にあった解毒剤を口に含んだ。

慣れることのない苦みに再び吐き気が込み上げるが、構わずに口づける。

「ん…ぅ」

解毒剤を流し込んでも飲み込む気配はまるでなかった。それどころか薄く開いたままの口から解毒剤が溢れ出てしまう。

「飲めッ!ここでくたばるのは許さんぞ」

しっかりと顔を固定させながら、王賁は口移した解毒剤を飲むように指示をした。つい声に怒気が籠ってしまう。

彼女の耳にこの声が届いているのかどうかは分からないが、怒鳴らずにはいられなかった。

 

毒蛇の傷痕

「…、……」

信は薄口を開いたまま眠り続けていた。王賁は再び解毒剤を口に含むと、先ほどよりも乱暴に彼女の顔を押さえ込んで口移す。

「う…」

僅かな呻き声がしたものの、もう噛みつかれることはなかった。噛みつく気力もなくなってしまったのだと思うと、それだけで王賁は心臓の芯が凍り付いてしまいそうになる。

「…、っ…」

心の中で何度も解毒剤を飲むように訴えながら、王賁は信と唇を重ねたままでいる。

…やがて信の喉が上下に動いたのを察して、王賁はようやく唇を離した。

「こほっ…」

小さくむせ込んだ声を聞き、王賁が視線を下ろす。涙で潤んだ瞳と目が合った。

「信?」

「お、う…ほん…?」

掠れた声で名前を呼ばれた途端、王賁の瞳に熱く込み上げるものがあった。

目を覚ますようにと何度も願っていたはずなのに、いざそれが実現されると何を話すべきなのか分からなくなる。

しかし、意外にも先に口を開いたのは信の方だった。

「よか、った」

まさかこんな状態で彼女からそんな言葉を掛けられるとは思いもしなかった。

自分の身を案じるのではなく、王賁が解毒治療を終えたことに安堵しているらしい。

「なにが良かっただ、このバカ女ッ」

安堵した束の間、先ほどよりも怒りが込み上げて来て、王賁は彼女の体を抱き締めた。氷のように冷え切った体に、王賁は自分の体温を分け与えるように包み込む。

「だ、って、こうする、しか」

言い訳じみた言葉に、王賁はますます苛立ちを覚える。自分を助けるために、彼女が命を懸けたのは紛れもない事実だ。

「お前の犠牲で生き長らえただなど、王一族の恥だ。もしもこのまま死んだら舌を噛み切って死んでやる」

「な、んで…素直に、感謝、でき、ね、んだよ」

せっかく助けてやったのに自害を宣言されるとは信も予想外だったようで、顔に苦笑を浮かべていた。

 

 

寝台に腰かけたまま、王賁は信の左手を持ち上げた。

毒蛇に噛ませたそこは紫色で下手に触れれば弾けてしまうのではないかと思うほど腫れ上がっていた。

信が普段武器を握るのは反対の腕だが、もしも隻腕になったら戦では不利になる。馬の手綱を握りながら武器を振るうことが出来なければ、騎馬戦は特に不利だ。

「………」

このまま腕を切り落とすことにならないことを祈りながら、王賁は彼女の左手をそっと握り締める。

普段の自分ならば絶対にそんなことはしないと断言出来たのだが、包帯を外したあと、手の平に唇を押し当てた。どこか呆けた様子で信がその姿を見つめている。

「お、王、賁…?」

蛇の歯形が残っている親指の付け根の辺りにも唇を押し当て、強く吸い付く。まだここに毒素が残っているのなら、少しでも吸い出して楽にさせてやりたかった。

しかし、歯型は残っているものの、毒は吸っても出て来ない。未だ信に噛まれた唇がひりひりと痛むが、王賁は構わずに強く吸い付いていた。

「あつ、い…」

急に熱いと言われて、王賁は彼女の左手からようやく唇を離した。ずっと唇を当てて吸い付いていたからだろうか。

これほどまでに冷え切った手に、熱いという感覚は未だ残っている。それだけでも分かって安心した。

王賁は懐から以前まで肌身離さず持ち歩いていた蛍石を取り出した。左手首に紐を通すと、腫れ上がった手指にその石を握らせる。

夜目が利かなくなった王賁が持ち歩いていたものだと思い出したようで、信が何か言いたげな視線を向けて来た。

 

蛍石の贈り主

「…父から贈られたものだ」

「え…?」

王翦からの贈り物だったのだと知り、信は驚いたように目を見開いた。
先の戦で毒を受けたことを伝えたというのに、彼は何の興味も示さなかったと話していたはずだ。

医者の手配どころか見舞いにも来なかったという王翦に、信は無性な苛立ちを覚えていたのだが、やはり彼は父親として息子のことを気に掛けていたのだ。

王翦のことだから、王賁が夜道を照らすのに使っていたように、そちらの使い道を主旨として贈ったように思う。
御守りとして送ったというのなら、それはそれで父親としての愛情に違いないが。

「………」

蛍石を握らせた信の左手ごと包み込み、王賁はじっと目を伏せた。
言葉に出さずとも、早く信が良くなることを祈ってくれているのが分かる。

(あ、まずい…)

不意に強い眠気が瞼に圧し掛かって来て、信はいけないと思いつつ、瞼を下ろしてしまった。

次に目を覚まさなかったらどうしようという不安を感じる間もなく、信の意識は眠りの世界へと溶けていってしまった。

 

 

静かな寝息が聞こえて来て、王賁は目を開いた。

先ほどとは違って、どこか安らいだような寝顔をしている信の姿がそこにあり、王賁は複雑な気持ちを抱く。

「信…?」

名前を呼ぶが、反応がない。

解毒剤を飲み込んだことで症状が回復に向かっていくのなら良いが、今の状態で深い眠りにつくことで、二度と目を覚まさないのではないかという不安があった。

蛍石を大切そうに握り締めてくれているのを見て、王賁はただ彼女の無事を祈るしか出来なかった。

もしも彼女の解毒に犠牲が必要だと言われたのなら、王賁は躊躇うことなく自分の命を差し出しただろう。

せっかく助けてやったのにと信から怒鳴られるのは目に見えていることだが、彼女の命を奪ってまで生き長らえるつもりなどなかった。

それは信も同じ考えなのかもしれないが、だからこそ分かってほしかった。

本当に信の命がこのまま散ってしまったのなら、王賁は自ら舌を噛み切って命を絶つという先ほどの言葉通りにするつもりだった。

愛しい女の命を犠牲にしてまで生き長らえた弱者に、戦場に立つ価値などない。

これからも共に生きたい。まだ彼女に伝えていない言葉がたくさんある。感謝の言葉だって伝えそびれてしまった。

「…死ぬな、一緒に生きろ」

王賁は僅かに開いている彼女の唇に、再び自分の唇を重ねたのだった。

…それから、驚くべきことが起きた。

 

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もう一つの抗毒血清

「王賁様!」

翌朝。信の世話をしていた医者が王賁の部屋に飛び込んで来た。

信に何かあったのだと直感する。最悪の状況が頭に思い浮かび、顔から血の気が引く。
医者の話を聞くよりも先に、王賁は部屋を飛び出していた。

(死ぬなと言ったのに)

一方的に取り付けた約束とはいえ、裏切られた気分だ。自分の許可なく勝手に死ぬなんて絶対に許さない。

「信!」

扉を蹴破る勢いで開けると、昨夜とはまるで別人のような信の姿がそこにあった。

「数日とはいえ、まともに食ってなかったから、どれだけ食っても足りねえ~!お代わりだ!」

それは王賁が良く知る信そのもので、実は毒を受けていなかったのかと思うほど元気に寝台の上で食事を頬張っていたのである。
右手に箸を、左手には椀をしっかり握っており、さらにはお代わりまで所望している始末。

「…は?」

部屋に入るなり、その豹変ぶりを目の当たりにした王賁は、夢でも見ているのではないかと思わず自分の頬を捻った。夢ではなかった。

「あ、王賁!」

何杯目かのお代わりの最中らしいが、王賁の来訪に気づいた信が満面の笑みで手を振る。

左手は未だに青みがかっていたものの、腫れはすっかり引いており、昨日よりも随分と改善したように見えた。手首には蛍石が括られた紐が巻かれている。

状況が理解出来ない王賁に、追いかけて来た医者が説明を始めた。

…どうやら、信の抗毒血清を飲んで王賁が解毒をしたように、信も王賁の抗毒血清・・・・・・・によって解毒が叶ったのではないかという。

遅延性の毒を受けていたことで、図らずとも王賁の中で抗毒血清が出来ていたらしい。しかし、彼女に血を飲ませた覚えはなかったはずだ。

昨日までのことを思い返してみると、

(まさか)

王賁は信に口移しで解毒剤を飲ませていた。その際、下唇に噛みつかれ、血を流したことを思い出す。

たった数滴だったかもしれないが、それが強力な解毒剤の役目を果たしていたのかもしれない。

それだけではない。腫れ上がっていた左手にも、早く治るように願掛けの意味を込めて唇を押し付けた。

もしかしたら毒蛇に噛まれた傷口に血が付着したことで、抗毒血清が働き、図らずとも解毒が叶ったのかもしれない。

医者の見解を聞きながら納得した反面、幾度となく信に口づけをしていたのを他者に見られていたのだと思うと羞恥が込み上げて来る。

しかし、信といえば王賁の気持ちなど露知らず、今度は湯浴みをして来るとまで言い出して寝台から立ち上がった。

 

 

「おわッ」

「信!」

信の足元がふらつき、王賁は咄嗟に駆け出して彼女の体を抱き止めた。昨日と違って、人間らしい温もりが戻っていた。

信の体を抱き締めたまま、つい長い溜息を吐いてしまう。

「わ、悪ぃ…」

腕の中で顔を上げた信は、申し訳なさそうに謝罪する。

これだけ元気になったとはいえ、ずっと寝たきりの状態でいたのだ。信の意志と反して、体は随分と弱っている。そして数日の間で随分と痩せたようだ。

王賁も解毒治療を終えてから筋力が衰えたことを実感していたので、無理はさせられなかった。

「王賁?」

抱き締めたままでいると、不思議そうに信が名前を呼んだ。

はっと我に返り、王賁は慌てて彼女から手を放した。振り返ると、医者が一礼して、物音を立てぬように部屋を出ていく姿があった。気を遣わせてしまったようだがありがたい。

「…そうだ。これ、返すぜ」

昨日彼女に渡していた蛍石を差し出される。
昼間の内に陽の光を存分に浴びたそれは、夜には美しく光り輝くことだろう。しかし、王賁はもう足元を照らす必要はなかった。

「いい。お前が持っていろ」

左手はまだ青みがかっており、ひんやりと冷たかった。一晩でこれだけ回復したのなら、数日で左手も改善するだろう。

左手の状態によっては、体にこれ以上毒が廻らないように切り落とすことになるのではないかと危惧していたが、杞憂で済みそうだ。

しかし、完治するまで御守りとして持っておいてほしかった。

「そんじゃあ…もう少しだけ、借りとく。ちゃんと返すからな」

素直に蛍石を受け取った信は少し照れ臭そうに笑った。

「もうこれで夜道を照らす必要はないんだよな?」

確認するように信が王賁を見上げた。頷くと、心底安堵したような表情を見せる。
今は自分が解毒治療を受けている最中だというのに、信は王賁が助かったことを本当に喜んでいるようだった。

(そういうところだ)

いつだって自分を犠牲にして、誰かを救おうとする信に、王賁は無性に苛立ちを覚えた。同時にそれを上回る愛おしさが込み上げて来る。

「夜になっても、ちゃんと俺の顔、見分けられるんだよな?」

その問いにはどんな意図があったのだろう。
考える前に、王賁は彼女の顎をそっと持ち上げていた。

「たとえこの目が潰えたとしても、お前のことなら見分けられる」

唇を重ねる瞬間、信が恍惚とした瞳に涙を浮かべ、ゆっくりと瞼を下ろしていく姿が見えた。

 

ボツシーン・プロット(1470文字程度)はぷらいべったーにアップしてます。

現在このお話の後日編を執筆中です。更新をお待ちください。

王賁×信←蒙恬のバッドエンド話はこちら

嬴政×信のバッドエンド話はこちら

The post 夜目、遠目、恋慕のうち(王賁×信)後編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

絶対的主従契約(昌平君×信)後日編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話の本編はこちら

後日編①はこちら

 

出立

「宮廷へ発つ。すぐに支度をしなさい」

信が執務室の清掃を行っていると、主である昌平君が筆を置くなり、そんなことを言ったものだから、信はきょとんと目を丸めた。

今日という日に宮廷へ行くことは先日から聞いていたが、自分を同伴する話はなかったように思う。

しかし、支度をしなさいという言葉は、確実に自分に向けられたものである。今この執務室には昌平君と信しかいないからだ。

「えっ?お、俺も一緒に行くのか?」

聞き間違いかもしれないので、念のため確認してみると、昌平君が頷いた。

「そこの着物に着替えなさい」

立ち上がった昌平君が信の背後を指さした。
反射的に振り返ると、青藍※紫を含んだ暗めの青色の着物と紫紺の帯が丁寧に折り畳まれた状態で置かれている。

早朝にこの執務室に入ってからその着物が置かれていることには気づいていたのだが、てっきり昌平君の着物だと思っていた。まさか宮廷に行くために自分の着物を用意してくれたとは。

手に取ってまじまじと眺める。
ほつれや汚れは見当たらず、触り心地が良さそうな生地が使われていることから、着物の価値が分からぬ信でも、これが上質なものであることが分かった。

…とはいえ、信にはそのような上質な着物を着た経験などなく(李一族にいた頃は着ていたのかもしれないが)、本当にこれを着るのかという緊張が走る。

礼儀作法といった教養を一切知らないため、粗相をして着物を汚してしまう自信しかなく、信は呆然としていた。

着物を見つめるばかりで動き出さない信に、昌平君がゆっくりとした足取りで近づいて来る。

 ※ズボンはそのままで、着物だけ変えればいい」

「わ、分かった…」

声を掛けられて、信は丁寧に畳まれていた青藍の着物を広げた。
しっかりと手首まで袖がある新品で上質な着物は、普段着用しているものと違ってずっしりと重みがあった。

さっそく腕を袖に通してみたものの、手首まで覆う袖がくすぐったくて、なんだか落ち着かない。そして袖を通してから、着物の大きさが自分にぴったりであることに気づいた。もしかして今日のために仕立てていたのだろうか。

(なんのために?あとでなんか要求でもされんのか?)

信は戸惑ったように昌平君を見た。
秦国の行政と軍政を司る昌平君は、相手に考えを読ませぬためなのか、もともとそういう仏頂面の星に生まれて来たのか、滅多なことでは表情を変えない。

自分を宮廷に連れていくのにはどんな考えがあるのだろう。普段の仕事ぶりを評価するにしても、こんな上質な着物を贈ることには何か裏があるような気がしてならなかった。

信が眉間に不安の色を浮かべているのを見た昌平君は呆れた表情で小さく溜息を吐く。

それから紫紺の帯を手に取ってその場に片膝をついたので、思わずぎょっとする。
侍女にでも頼めばいいものを、昌平君は信を抱き込むようにして紫紺の帯を結び始めたではないか。

 

 

「べ、別にお前がやらなくたって…!」

「動くな。やりづらい」

前合わせが開かないように、しっかりと帯を結ぶと、昌平君が膝をついたまま信を見上げた。

身長差と立場の違いから、いつも見下ろされているのが日常だったので、昌平君に見上げられるのはなんだか落ち着かない。

「苦しくはないか」

「え?ああ…」

頷くと、昌平君がすぐに立ち上がった。
いつもの着物よりも布の面積が広く、首から手首と足首まで体をすっぽりと包み込まれる違和感に、信は戸惑ったように昌平君を見上げた。

「なあ」

「着たくないのなら屋敷に残ってもいい」

信が何を言わんとするかすでに察していたようで、昌平君は容赦なく留守を言い渡した。

「ま、まだ何も言ってねえだろッ!ど、どれくらい宮廷にいるのかと思って…」

留守番は嫌だと、信が慌てて言い返した。

過去に宮廷に行ったことはあるが、指で数えられるくらいしかないので、信にとってはかなり貴重な遠出なのだ。昌平君の執務が終わったのなら城下町にも連れて行ってくれるかもしれない。

「明日の拝謁が終わればそれで終いだ。終わり次第すぐに屋敷へ戻る」

「ふ、ふーん?」

堪え切れない喜びが顔に滲んでいたが、信は大して興味もなさそうな返事をする。

以前、宮廷へ連れて行かれたことがある。あの時は秦王への拝謁ではなく、昌平君の私用だった。

用を済ませた後、腹が減ったと駄々を捏ねる信に、城下町で昌平君が包子※中華まんのことを買ってくれたことがある。

帰りの馬車の中で食べた包子の味を思い出し、信は思わず涎を垂らしそうになった。信の両手ほどもある包子はちょうど蒸かし立てで、皮はもちもちとした弾力があり、中には細かく刻まれた野菜と肉を混ぜたものが入っていた。

具材の旨味も逃がさないように、甘辛い味がついている餡で包まれていて、信は口の中を火傷しながら頬張ったのだが、あれほど美味い包子を食べたのは初めてのことだった。

下僕たちは冷めた食事を食べるのが当たり前だったこともあり、作り立ての食事にありつけた感動も大きかったのである。

あまりの美味さに感動した瞬間、馬車の揺れのせいで包子を落としてしまったのだが、それでも信は構わずにかぶりついた。(腹を壊すから落としたものを食うなと昌平君から嫌悪されたが、構わずに平らげた)

お代わりを所望したのだが、すで馬車が動き始めたあとだったこともあり、信は遠ざかっていく城下町を恨めしそうに見つめていたのである。
露店は入れ替わりが激しいと聞いていたが、まだあの店はやっているだろうか。

 

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出立 その二

馬車に乗り込み、馬を走らせると、信が窓から見える景色を見て目をきらきらと輝かせていた。

信を宮廷へ連れていくのはこれが初めてではないのだが、回数としてはかなり少ない。

普段通ることの少ない道を眺め、信は楽しそうに目を細めていた。
そんな彼の様子を横目で時々眺めながら、昌平君は秦王嬴政に上奏する内容が記された書簡に目を通す。

拝謁の予定は明日なのだが、宮廷に到着するのは今日の昼を過ぎた頃になるだろう。
相手が秦王ということもあって、時間に遅れる訳にはいかなかったので、前日に宮廷へ到着しておく予定だった。

「…なあ、今日はなんで俺も一緒なんだよ?秦王の前に出る執務の時は、今まで一度も連れてってくれなかったじゃねえか」

素朴な疑問を口すると、昌平君は目を通していた木簡を折り畳んだ。

「新しい茶葉を購入しておけ」

なるほど、と信が頷いた。
屋敷から近い街にあった茶葉屋でこれまでは茶葉を購入していた店があったのだが、今は事情があってその店を利用していない。今後もその茶葉屋を利用することはないだろう。

信には具体的に事情を告げなかったし、今後も告げるつもりもないのだが、納得してくれたようだ。

「あ、じゃ、じゃあっ…」

両目をきらきらと輝かせながら、何かを期待するように信が昌平君を見た。昌平君は思い出したように懐に手を忍ばせる。

「余った分は好きに使いなさい」

「よっしゃあ!」

懐から銀子を取り出して信に手渡すと、あからさまに喜んでいた。いつも茶葉を購入したあと、残りの金額で好きなものを買い食いすることは信の楽しみらしい。

主の目を盗んでまで奴隷解放証を手に入れようとしていたのに、その銀子を逃亡用の資金として貯めずににいるのは、少々頭が足りないからなのだろうか。

とはいえ、たまの贅沢に好物を購入したり、屋敷の同僚たちにこっそりとお土産を渡していることは、陰で信の監視を行っている豹司牙から報告を受けていた。

好きに使えと命じたのは自分の方だし、使い道に関しては干渉するつもりはないのだが、信らしいと思う。

李一族の中で厳しい鍛錬を続ける日々の中でも、信は時々街に出て好きに買い食いを楽しんでいた。街へ出る時は欠かさず家臣たちにも土産を買っていたし、記憶を失ったとしても、彼の根本的なところは何も変わっていない。

そのことに昌平君が安堵していると、聞いている方もつい気が抜けてしまうような情けない音が馬車の中に響き渡った。

「………」

「………」

それが信の腹の虫だというのはすぐに分かったが、宮廷に着くまではまだしばらくは時間がかかる。

 

食事休憩

「…腹減った」

いわゆる食べ盛り成長期である信が朝餉を抜いたとは思えない。

生意気な態度からは想像出来ないだろうが、下僕としての生活が長かったせいか、彼が朝寝坊をしたことは一度もないのである。

今朝は執務室の清掃くらいしか行っていなかったと思うが、信の空腹状態を放置しておくと、普段の生意気な態度に拍車がかかり、それはもう面倒なことになる。

「休憩だ」

御者に声をかけると、すぐに馬車が停まった。

信が移動中に空腹を訴えるのは予想していたので、あらかじめ食料を積んでおくよう事前に指示をしていたのである。

移動しながら馬車の中で食事をさせるのではなく、わざわざ食事休憩のために馬車を停めたのには理由があった。

以前、信を連れて行った時のことだ。帰りの馬車の中で、城下町で購入した包子を食べていたのだが、揺れのせいで信が手に持っていたその包子を落としてしまった。

そして運悪く、その食べかけの包子は昌平君の膝に落ちてしまい、着物を汚してしまったのである。(構わずに信は包子を平らげていた)

用を済ました帰り道であったから良かったものの、屋敷に着くまで肉の脂が染み込んだ着物を着たままでいることに、昌平君は嫌悪したものだ。

信といえば豹司牙にげんこつを落とされて説教をされても、蒸したての包子の美味さに感動しており、昌平君の着物を汚したことを忘れたかのようにはしゃいでいた。

…そういった経緯があり、必ず馬車の外で食事をさせるようにしていたのである。

道端に馬車を寄せ、従者たちが馬車のすぐ傍にある平地に敷物を広げ、飲み物や積んでいた料理を並べていく。

食料を積んでおくように指示をしたのは昌平君自身だったということもあり、まさか主ではなくて、下僕の信がこの料理を全て平らげるとは従者たちも思っていないだろう。

しかし、満足するまで腹を満たせば、信はすぐに眠ってしまうことを昌平君は知っていた。

屋敷に要れば仕事があるので居眠りをする暇などないのだが、宮廷に到着するまでは特にやることはないので、移動中の昼寝だけは特別に許していた。

豹司牙から食事の準備が出来たと報せが入り、昌平君は馬車を降りる。その後ろを信が続いた。

並べられた料理を見て、大袈裟なほど騒ぎ立てるだろうと思っていたのが…。

「…?」

敷布の上に並べられている料理を前にしても感嘆の声がしなかったので、昌平君は不思議に思い、後ろを振り返った。

信といえば料理には目もくれず、というより気づいていないようで、茂みを覗き込んでいるではないか。

 

 

「あった!」

昌平君が声を掛けようとした途端、信がその茂みに手を突っ込んだので、何事かと驚いた。

(なんだあれは)

信が手にしている丸い実を、昌平君は一度も見たこともなかった。
長生きしていると自慢できるほどの年齢ではないのだが、信よりは長く生きており、人生経験はそれなりに豊富な方である。

しかし、信が手に持っているそれが果実なのか、木の実なのか、はたまた別の何かなのか少しも分からない。初めて見るものだった。

黒ずんでいる見た目から、成熟をはるかに通り越していることは誰が見ても明らかだ。率直に言おう。あれは確実に腐っている。

しかし、なぜか信は目をきらきらとさせており、今にも涎を垂らしそうなほど口を開けていた。

明らかに腐っているだけでなく、毒かも分からない実を食べようとするとは見境がなさすぎる。

こちらにきちんとした料理が並べられているというのに、それも気づかないほど空腹だったのだろうか。

「………」

昌平君が僅かに頬を引きつらせ、信が握っている何かの実を見つめているものだから、優秀な重臣である豹司牙がすぐに信の手からその実(のようなもの)を取り上げた。

「あーっ、なにすんだよ!食いたいなら自分で取って来いよな!」

なぜか豹司牙がその実を食べたがっていると誤解した信が慌ててその実(のようなもの)を取り戻そうとする。

「こんな得体の知れないもの…口にすれば腹を壊すぞ」

子供である信との身長差を利用して、豹司牙は取り返されないように、奪った実(のようなもの)を高く掲げていた。

「はあ?この色の時が一番美味いんだよ!」

「………」

「………」

出征経験のある昌平君も豹司牙も、腐った馬の肉くらいは口にしたことはあるのだが、信が手に持っている黒ずんだ実(のようなもの)からは少しも味の想像が出来なかった。

凝視していると、そもそもそれが実なのかさえ分からなくなってくる。
しかし、下僕としてあの辺鄙な集落で暮らしていた頃は厳しい里長によって、ろくに食事も与えられていなかったようだし、その辺になっている実を食べるのも、飢えをしのぐために腐ったものを口にするのも日常的だったに違いない。

それにしても本当にそんな粗末なものを食べて生き長らえていたのかと思うと、もっと早く見つけ出してやればよかった。
表情は変わらないまま、昌平君の良心がしくしくと痛んだ。

「信、来なさい」

未だに豹司牙の手にある実(のようなもの)に執着している信に声をかけると、ようやく彼は並べられた料理に気づき、目を輝かせた。

「わ、すっげー料理!」

もしも信が料理よりも、あの謎の実(のようなもの)を選んだらどうしようという不安があったのだが、それは杞憂で済んだらしい。

しかし、あの謎の実(のようなもの)を掴んだ手で料理に触ろうとしたものだから、昌平君はすぐにその手首を掴んだ。

「なんだよ。食って良いんだろ?」

「手を洗ってからにしなさい」

その言葉を聞いた豹司牙が信から奪った実(のようなもの)を遠くに投げ捨て、水の入った竹筒を手に取ったので、信は渋々といった様子で両手を差し出した。

しかし、もう信の興味は並べられている美味しそうな料理に向けられている。

あ~、腹減った~」

竹筒の水で手を洗った後、濡れた手を拭かせようと昌平君が手巾を差し出す。
しかし、信の視線と興味はずっと料理に向けられており、彼は近くにあった布――昌平君の着物――で手を拭いたのだった。

「信ッ!!」

豹司牙のこれほど激しい怒声と血相を変えた姿は珍しいことで、昌平君も見聞きしたことがなかったのだが、まさか宮廷への道中で目の当たりにするとは思わなかった。

 

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予定変更

豹司牙の強力なげんこつが落とされ、堪らず涙を流していた信だったが、空腹に勝てなかったようで、立派なたんこぶを抱えながらも颯爽と食事を平らげたのだった。

「ふい~、食った食った~!」

満腹になった合図なのか、信が膨らんだ自分の腹をぽんと叩く。もうたんこぶのことなど忘れてしまったらしい。

食事の件はこれで良いとして、問題は着物だ。以前のように肉の脂が染み込んだ訳ではないのだが、秦王に拝謁する立場としては、汚れた着物のまま会うわけにはいかない。

汚されないように食事を用意していたものの、予想外の行動によって着物が汚されてしまった。

さすがの昌平君もこれは想定外であったので、生憎にも着物の替えを持って来ていなかった。それで豹司牙の怒りも倍増したのだろう。

拝謁の予定は明日であり、着物を用意するなら今日中だ。当然ながら仕立ててもらう時間はないので、城下町で見繕うしかないだろう。

馬車に乗り込むと、腹を満たして昼寝でもするつもりだったのか、我が物顔で椅子に横たわる信の姿があった。

「…予定を変更する」

「ん?」

「着物を変えねばならん」

城下町で着物を購入すると伝えると、信が再び目を輝かせて体を起こした。

「じゃあ、昌平君も城下町に行くんだな?」

「私は着物を見立てなければならない。店を回るなら豹司牙と行け」

「えーっ!」

楽しみにしていた自由時間を豹司牙と一緒に過ごさなくてはならないのだと分かり、信があからさまに駄々を捏ねた。

どうやら茶葉を購入したあとで、城下町で好き勝手出来ると思っていたらしい。

人の行き来が激しい城下町で子ども一人を歩かせれば、迷子になってしまうかもしれない。それにまだ先日の件があったばかりだ。李一族の生き残りを探している者に狙われるのではないかという心配が絶えなかった。

豹司牙を同行させるのは万が一のときの護衛のためなのだが、信は豹司牙と二人で行動するのは気が重いらしい。

しかし、背に腹は代えられないし、李一族の生き残りを狙っている輩は咸陽宮にいる。城下町に見張りを放っているとしてもおかしいことではない。用心はしておいた方が良いだろう。

「あ、そうだ!俺がお前の着物を選んでやるよ!それなら…豹司牙と一緒にいなくてもいいだろ?」

馬車の外で御者を先導している豹司牙に聞かれないようにか、一度視線を窓の方に向けてから不自然に声を潜めたのをみると、よほど豹司牙と一緒に行動したくないらしい。先ほどの件を責められて、またげんこつを落とされるのではないかと怯えているようだ。

だが、豹司牙との行動することを強要したら、信は豹司牙の目を盗んで一人で街を歩くかもしれない。信はまだ子どもということもあって、身軽ですばしっこいのだ。

城下町には多くの人が出入りするし、あの人ごみの中で信を見失えば、いくら豹司牙とはいえ見失ってしまうだろう。

「…決して私の傍から離れるな」

信の本当の素性を知っている自分か豹司牙が一緒なら安全だろうと思い、昌平君は仕方ないと頷いた。

 

 

城下町に到着すると、相変わらず人の出入りが激しかった。この人ごみの中にいるだけで正直気分が悪くなりそうだ。

げんなりとしている昌平君とは反対に、信の方は笑顔で露店を見渡していた。
今にも一人で勝手に動き出しそうな彼に危機感を抱き、昌平君はしっかりと信の腕を掴む。

「なんだよ、放せよ」

「離れるな」

まるで幼子のような扱いを受けたことで、信が鬱陶しそうに昌平君を見上げる。

しかし、馬車を先導している豹司牙に鋭い視線を向けられると、信は何事もなかったかのように昌平君の着物を掴んだ。

「これでいいだろ」

「絶対に放すな。この人ごみの中でお前を見失っても、見つけられる自信はない」

「お前でもそんなこと言うんだな」

自信がないと言った主に、信は珍しいと目を丸めた。
主をお前呼ばわりする相変わらず無礼な態度に、傍にいる豹司牙の視線がますます鋭くなっていく。殺気に近いものを感じたのか、信が昌平君の背後に身を隠して縮こまった。

昌平君が豹司牙に「もう行って良い」と目で合図を送ると、優秀な配下である彼は一礼して、再び馬に跨り、馬車を先導していく。

馬車と荷を預けに行った豹司牙の後ろ姿を見て、信はほっと安堵しているようだった。

「………」

豹司牙に叱られるのが怖いのなら、どうして叱られないように態度を改めないのか、昌平君は信の学習能力のなさが不思議で堪らなかった。李一族の頃の記憶と共に学習能力まで失ってしまったのだろうか。

しっかりと信が着物を掴んでいるのを確認しながら、昌平君は城下町にある呉服店へと向かう。

「うわー、あれ美味そうだな」

その間も信の興味は美味しそうな食べ物を売っている露店へと向けられていた。

先ほど腹を満たしたというのに、まだ食べたいのだろうか。子どもというのは無限の食欲を持っているらしい。

しかし、先に着物を購入しなくてはならないので、信の用事は後回しだ。新しく購入した着物も汚されないように気を付けなくてはならない。

 

呉服店にて

何の前触れもなく、右丞相が来店したことで、呉服店の当主は驚いて頭を下げていた。気にしなくて良いと声を掛け、商品として並んでいる着物にざっと目を通す。

秦王に拝謁することや、自分自身の右丞相という立場を考えると、落ち着いた色合いのものしか選択肢がない。

もともと派手なものを好まないことや、時間を無駄にしたくない性格であることから、今着ているものと同じ色合いの着物を選ぼうとした時だった。

「これが良い!」

少し離れた場所で信が急に大声を出したので、昌平君は反射的に顔を上げた。

「ほら、これ!これにしろよ」

信が指さしている着物は、昼間の晴天の空を切り抜いたかのような青色の着物だった。青と白の中間の、明るい淡い色を見て、昌平君は信に言われるままに、その着物を手に取っていた。

「………」

直接指で触れてみると、生地が厚く、しっかりと重みがある。仕立てる時の糸が多く、職人が時間をかけて作り上げた証拠だ。これだけ淡い色を出すために、染料を作製するのにも時間がかかったに違いない。

男物ということで柄や刺繍は入っていないが、昌平君はその空色の着物に好感を抱いた。

「これを貰おう」

店主に代金を支払い、着物を包んでもらっていると、信は誇らしげな顔をして隣から視線を送って来た。

選んでやった礼を寄越せと言わんばかりの表情に、目的は露店の食べ物かと考える。

信が率先して着物を選んだのは、もしかしたら早くこの用事を終わらせて街を歩きたかったからという単純な理由なのではないかと思った。

「なぜこの着物にした?」

だから、あえて本人に問いかけてみたのだ。
慌てて理由を考える素振りを見せれば黒、そしてすぐに答えられたのなら白。

「え?この中で一番きれいだったから」

「………」

黒と白の中間である灰色という回答は、昌平君の中では想定外であった。

 

単独行動

店主から着物を受け取り、二人は呉服店を後にした。

相変わらず何か期待するように、信が隣から熱烈な眼差しを送って来る。なにか露店で売られている食べ物ががあるのだろう。

今度こそ着物を汚されまいとして、昌平君は着物が入っている包みをしっかりと抱きかかえた。

「あ、あった!」

何を言われるのかと身構えていると、急に信が昌平君の向こうを指さす。

つられてそちらに視線を送ると、人ごみの向こうに包子※中華まんのことを売っている店があった。湯気と一緒に蒸したての包子の良い香りが漂ってくる。

そういえば以前、城下町に二人で行った時も、腹が減ったと喚く信に包子を買い与えたことを思い出す。

蒸したての包子は匂いから美味そうで、信が買ってくれるまで動かないと強固な意志を見せていたので、一つ買い与えてやったことを昌平君は覚えていた。(そして帰りの馬車で信が包子を落とし、着物を汚されたことも覚えている)

どうやらあの包子が人気なのは今でも変わりないようで、店の前には人だかりが出来ている。
蒸し終えた包子を、恰幅の良い店主が慣れた様子で売り捌いていく姿がそこにあった。

「あっ、あーっ!急がねえと売り切れちまう!」

あっという間に一つ二つと売れていく包子に、自分の分が無くなってしまうと焦った信が走り出した。

「信ッ!」

自分から離れるなと口酸っぱく告げていたのに、信はそんなことを忘れたと言わんばかりの勢いで店へと向かっていく。

何とか人ごみを掻き分けながら、昌平君は信の姿を見失わないようにしながら、必死に追いかけた。

まさかこんなところに右丞相がいるとは誰も思わないのだろう、昌平君に道を譲ろうとする者は誰もおらず、昌平君は人ごみの中でもみくちゃになっていた。

そこらの客よりも背丈が高いことが幸いし、なんとか包子を売っている店は見失わずにいたのだが、小柄な信は人ごみの中に紛れてしまうと、見分けがつかなくなる。

「信!」

もう一度名前を叫んでから、昌平君は慌てて口を噤んだ。

もしもこの人ごみの中に李一族の生き残りである彼を探している者がいたら、存在が気づかれてしまう。

この雑踏では昌平君の声など誰にも聞こえていないに等しいかもしれないが、それでも警戒を怠るわけにはいかない。

あの時のように、自分の知らない場所で命を奪われるのではないかという不安が波のように押し寄せて来た。

今は豹司牙も傍にいない。この人ごみの中で見失い、二度と信が戻って来ないのではないかと思うと、それだけで心臓の芯が凍りつきそうになる。

両手でどうにか人ごみを掻き分けながら前に進み、なんとか包子の店の前に到着した。
恰幅の良い店主が申し訳なさそうに頭を掻いた。

「ああ、悪いけど売り切れだよ。今日はもう食材がねえからまた明日にでも来てくれ」

肩で呼吸をしている昌平君を見て、店主は包子を買いに来た客であると疑わなかったらしい。
それはそうだろう。人ごみの中をもみくちゃになって進み、いつも丁寧に整えているはずの髪も着物も激しく乱れている。

こんな無様な右丞相の姿を民に見せたことなど一度もないのだから、気づかれなくて当然だ。
しかし、そんなことはどうでも良かった。

「青い着物の子供はっ?」

店主の言葉が言い終わる前に、昌平君は声を被せるようにして尋ねた。鋭い目つきを向けられた店主はぎょっとした表情になる。

「一人でこの店の包子を買いに来たはずだ。青い着物の、」

「あっ、昌平君」

余裕のなさから沸き起こる苛立ちを押さえながら、信の特徴を伝えていると、背後からのんきな声が聞こえたので、昌平君は反射的に振り返った。

 

 

こちらの心配など微塵も感じていないような満足げな表情で、二つの包子をしっかりと両手で抱えている信がいた。

間違いなく信だ。姿を見た途端、昌平君の肩から一気に力が抜けてしまい、長い息が零れる。

「私から離れるなと言っただろう」

僅かに声を荒げると、信は驚いたように目を見開いた。
それからしゅんと肩を落として、こちらの顔色を窺うように上目遣いで見上げて来る。

「わ、悪い…人気だから、売り切れちまうと思って…」

反省している姿を見て、昌平君もようやく我に返ったのだった。
無事だったのならばそれで良いはずなのに、大人げなく声を荒げてしまうなんて。少し離れただけでこんなにも不安に駆られてしまったことに、昌平君は己を恥じた。

「しょ、昌平君っ?」

無意識のうちに昌平君は信の体を両腕で抱き締めていた。いきなり抱き締められたことに、信が驚いて目を見開く。

「………」

いかなる場面であっても余裕を繕う必要はないが、焦燥感や不安は視野と思考を狭める。

多くの将と兵の命を預かっている軍の総司令という立場である自分が一番よく理解しているはずだったのに、どうも信のことになると感情が前面に出てしまう。

李瑤りよう ※信の父・李一族の当主との約束を守らなくてはという私情だと、昌平君も理解していた。

亡き師との約束を違えるわけにはいかないという義務感から来ているのは分かっていたのだが、先日の庖宰ほうさい ※料理人との一件があってから、余計にその義務感を強く抱くようになっていた。

「…あっ、あっ…潰れるっ!潰れちまう!」

腕の中にいる信が焦った声を上げたので、はっと我に返って昌平君が手を離す。

「せっかく買ったのに、お前のせいで台無しになるとこだった!」

信が抱えていた二つの包子が少し形が崩れていた。昌平君が強く抱き締めたせいだろう。
中の具材は出ておらず、食べるのには問題ないようだが、信が目尻を吊り上げて昌平君を睨みつける。

「…すまんな」

余裕を欠いていたとはいえ、自分らしくないことをしたことは自覚があったので、昌平君は素直に謝罪した。

「別に、食えるから良いけどよ」

そこまで気にしていないと言うと、信は何かに気づいたように目を丸めた。

「…あれ?そういえばお前、買った着物は?」

店を出た時には抱えていたはずの着物がなくなっていることに気づいたのは、信に指摘されてからだった。
信を探すのに必死だったとはいえ、あの人ごみの中で手放してしまったのだろう。上質な着物であったことから、きっと今頃、誰かの手に渡ってしまったに違いない。

「………」

あからさまに落胆している主の姿を見て、信がにやっと笑い、包子を一つ差し出した。

「腹満たしてから、また考えようぜ!」

刺客から信を守るために厳格な主で装わなくてはと思うのだが、眩しいほどの笑顔を向けられると、それだけで全てを許してしまいそうになる。

少しだけ形を崩れた包子を受け取ると、そういえば腹が減っていたことを思い出す。隣で美味そうに包子を頬張る信を眺めながら、昌平君も包子に噛り付いたのだった。

 

昌平君×信の別の主従関係話はこちら

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初恋のまじない(蒙恬×信)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/嫉妬/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「初恋は盲目」の後日編です。

前編はこちら

 

おあずけ

一人で別院の寝室に引きこもっていると、廊下から足音が聞こえていた。

「…信、ここにいる?」

「ッ!」

扉の外から蒙恬に声を掛けられたので、信は驚いて声を上げそうになった。家庭教師の女性は帰ったのだろうか。

自分のことを探しているのはその口調から分かったが、子どものように嫉妬したことを恥じて逃げ出した手前、蒙恬と顔を合わせるのが気まずくて堪らない。

嫉妬しただけで直接無礼を働いた訳ではないし、咎められるようなことはしていないと頭では分かってはいるのだが、自分の幼稚さが許せなかったのである。

「………」

瞼を下ろし、寝台の上でじっと息を潜める。寝たふりを決め込んだものの、このまま蒙恬が気づかずに別院から去ってくれることを願った。

「いないのかな」

扉越しに独り言が聞こえ、信はほっと胸を撫で下ろした。

しばらく待ってみたが、蒙恬は部屋に入ってくることはない。母屋の方へ行ったのだろう。
母屋にも自分が居ないことを不審に思った蒙恬がまたここに戻って来るかもしれないと思い、信はゆっくりと寝台から起き上がった。

もしかしたら別院を出た時に従者たちに見つかれば、蒙恬に居場所を告げ口されるかもしれないので、誰にも見つからないよう、こっそりと別院を出ることにした。

蒙恬に黙って遠くに行かないという約束をさせられたが、こんな気持ちのまま彼に会っても気まずいだけなのは分かっている。

時間を置けば少しは気が紛れるかもしれないので、まずは屋敷から離れるために、厩舎に馬を取りにいこうと考えた。

まるで盗みでも働いているかのように、静かに扉を開けると、

「あ、やっぱりここにいた」

「うおわああッ!?」

扉を開けると、蒙恬に笑顔で出迎えられて信は敷地内に響き渡るほど大きな悲鳴を上げた。驚いて蒙恬が両手で耳に蓋をする。

「そんなに驚かなくなって…」

「な、なんで、出てっただろ…!?」

「最初からここにいるか、来てくれるか、どっちかだと思ってたから待ってたんだ」

悪気なく言う蒙恬に、胸が締め付けられるように痛んだ。約束をした手前、守ってくれると信じていたのだろう。

 

 

「きゃ、客はどうしたんだよ」

目を逸らしながら、信が家庭教師の女性のことを問いかける。

「少し話したらすぐに帰ったよ。信が心配するようなことは何もしてない」

まるでこちらの考えなどお見通しだと言わんばかりの顔で、蒙恬が穏やかに笑みを浮かべていた。

嫉妬していたことを見抜かれたのだと思うと、信はそれだけで恥ずかしくて、いたたまれなくなって俯いてしまう。

湯気が出そうなほど顔が赤くなっている妻を見て、蒙恬の笑みがますます深まっていく。

「…今夜は久しぶりにこの部屋で、婚姻前のことでも思い返してみる?」

「ば、ばかッ!」

やけに熱っぽい視線を向けられて、蒙恬がナニを考えているのかすぐに察した信は慌てて後退る。

幾度となく体を重ねたというのに、未だに羞恥心が抜けない。
王騎の養子として引き取られてから、信はもともと色事には一切の興味関心がなく、ただ武功を挙げるために鍛錬を積み重ねる毎日だった。

王騎も将軍になりたいという信の気持ちを理解していたからこそ、淑女の礼儀作法よりも、ひたすら実践や訓練を優先させていた。

異性と一切縁がなかった娘が、まさか蒙恬と婚姻を結ぶことになるだなんて、きっとあの世で驚いているに違いない。

「信」

蒙恬が一歩迫る度に後退するのを続けていくと、あっという間に壁際に追い詰められてしまった。

両手を壁につけ、その中に閉じ込められてしまった信は身動きが取れず、真っ赤な顔で蒙恬を見上げた。

「…可愛い」

静かにそう囁いて、蒙恬の顔が近づいて来る。唇が重なりそうになり、信は反射的に目を瞑った。

顔を背けることも、蒙恬の胸を突き飛ばして逃げることも出来たはずなのに、まるで術に掛けられたかのように体が動かない。

蒙恬からの口づけを待ち望んでいる自分がいるのだと認めるしかなかった。
唇に蒙恬の吐息がかかり、もうすぐそこまで唇が迫って来ているのだと悟った瞬間、

「蒙恬様ー!」

どこからか従者の声がして、蒙恬は名残惜しそうに顔を離したのだった。

「…続きはまた夜にね」

口づけが出来なかった代わりに、蒙恬は信の耳元で甘く囁いた。

耳元で言葉を囁かれただけなのに、気持ちがいいほど背筋が痺れてしまう。信は顔を真っ赤にした状態で硬直し、部屋を出ていく蒙恬の後ろ姿を見つめることしか出来なかった。

 

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再来

蒙恬が別院を出て行ったあと、しばらく一人で呆然としていた信はようやく我に返った。
こんな顔のまま屋敷を歩けば、従者たちに余計な心配をかけさせてしまうだろう。

「んっ」

両手で頬をぱちんと叩き、普段通りの自分を取り戻した信は、何事もなかったかのように別院を後にした。

「…ん?」

母屋へ戻ろうと思ったのだが、正門の方に蒙恬と従者の姿が見えた。腕を組んだ蒙恬が険しい表情で従者に指示を出している。

(え?)

蒙恬に声を掛ける前に、信は驚いて立ち止まってしまった。
ちょうど蒙恬と従者に隠れて見えなかったのだが、あの家庭教師の女性がそこにいたのである。

先ほどまで笑顔で話していた姿とは一変し、泣きそうなほど狼狽えている様子だったので、直感的に何かあったのだと察した。

「信」

蒙恬がこちらに気づいて声を掛けてくれる。
いつも穏やかな笑みを浮かべているはずの彼が、今だけは表情が優れなかった。

「何があったんだ?」

「うん…どうやら屋敷を出たあと、馬車が野盗に襲われたらしいんだ」

「野盗だと?こんな刻限に?」

信が聞き返すと、蒙恬が暗い表情で頷いた。
野盗といえば人目のつかない夜に活動することが多いが、今はまだ陽が沈み始めている刻限だった。

まだ明るいうちに野盗が襲撃するなんて珍しい。それに蒙家の嫡男である蒙恬が住まうこの屋敷の周辺でそんな事件が起こるのは初めてだった。よほど怖いもの知らずか、世間知らずの野盗だったのだろうか。

「幸いにも怪我人はいないし、馬を持って行かれたくらいで、他に被害はないようなんだけど…」

蒙恬の視線を追い掛けると、家庭教師の女性は真っ青な顔で震えていた。野盗の襲撃がよほど恐ろしかったのだろう。

怪我は見られないが、髪も着物も乱れている。馬車以外に被害はなかったというが、きっと必死に逃げ出して来たに違いない。

話を聞けば、野盗からなんとか逃れたあと、まだそう遠くに離れていなかったこの屋敷に助けを求めて駆け込んで来たのだという。

命を奪われるかもしれなかったという恐怖や、命こそ奪われなかったとしても、もしかしたら慰み者にされたかもしれないと、女性は震えるばかりでろくに返事が出来ないようだった。

「………」

馬車と護衛の手配をして、屋敷に送り届けるのは簡単だが、蒙恬はその指示を悩んでいるようだった。

言葉にこそしないが、蒙恬はこんな状態で帰す訳にはいかないと考えているらしい。
それは信も同じ考えだったのだが、もしかしたら先ほどのことがあったばかりなので、蒙恬は自分に気を遣っているのではないかと考えた。

 

 

「落ち着くまで、ここで休んでいったらどうだ?」

信の方から提案すると、女性は瞳に涙を溜めながら何度も頭を下げる。

「もう大丈夫だから、安心して休め」

震える肩を擦ってやると、家庭教師の女性はわっと泣き崩れ、信の胸に倒れ込んで来た。咄嗟にその体を受け止めた信は、震えが落ち着くまで彼女の背中を擦ってやっていた。

「…それじゃあ、俺は客室の手配をしてくる」

蒙恬がなにか言いたげな表情を浮かべていたが、いつもの笑みを繕うと、従者と共に母屋の方へと戻っていく。

その背中を見送りながら、信はまさかこんな刻限に野盗が現れるなんて、見回りを強化するべきだろうかと考えていた。

他国との戦の気配が濃くなったり、国政に陰りが出ると、野盗のような存在が増える。
野盗を生業としている者がいる一方で、景気が沈滞することで安定した生活を送れず、生きるために仕方なく他人の物を奪い取る者も現れるのだ。

蒙家のような名家や、将ではないものの裕福な屋敷に常に見張りがいるのも、そういった者たちの襲撃や潜入に常日頃から備えているためである。

「…大丈夫か?」

ようやく震えが止まったのを見計らい、信は女性の顔を覗き込みながら声を掛けた。

その顔はまだ青ざめてはいたものの、こちらの問いに小さく頷いたところを見ると、少しは落ち着いたらしい。

「今日はゆっくり休め。帰りのことは心配するな」

蒙恬が客室の手配をしてくれたはずだと思い、信は彼女の手を引きながら母屋へと向かった。

一晩休み、明日には護衛と馬車の手配をして屋敷まで送らせようと考えた。蒙恬のことだから、明日のこともすでに手配しているかもしれない。

 

後遺症

客室に案内すると、侍医が薬を煎じている姿がそこにあった。どうやら眠り薬を煎じているらしい。

怪我はないものの、まだ野盗に襲撃された恐怖は完全にはなくなっておらず、落ち着いて休むことが出来ないのではないかという蒙恬の配慮だった。

日が沈み切ってから夕食も手配するようだったが、この分では食事も喉に通らないだろう。
休む部屋だけでなく、そういったところにまで気配りが出来る夫の優しさに、信はさすがだと感心する。

「ゆっくり休めよ」

なにかあれば従者に言うように女性に声をかけ、信は部屋を後にした。

夫婦の寝室に戻ると、すでに蒙恬は部屋に戻って来ており、口元に手を当てながら何か考えているようだった。

まるで軍略でも企てているかのような真剣な眼差しだったのだが、信が戻って来たことに気づくと、すぐに顔を綻ばせる。

「まさか屋敷のすぐ傍で野盗が出るなんてな」

信が独り言ちると、蒙恬が深く頷いた。

「戦乱の世に安全な場所はないからね。俺の腕の中は別だけど、どう?」

両腕を軽く開いて、蒙恬が抱擁を誘ってくる。相変わらず物事を茶化すのが好きな男だ。

「明日のことは?」

二人きりとはいえ、今はそんな冗談を言い合う訳にはいかない。明日の予定を尋ねると、蒙恬の眼差しに真剣さが戻った。

「御者と護衛の手配はもう済んでる。屋敷に送り届けるだけだし、俺も一緒についていこうかな」

予想通り、蒙恬は従者たちに指示を出していた。しかし、まさか蒙恬自身もついていくとは思わず、信は呆気に取られる。

「宮廷から戻って来たばっかりだろ?行くなら俺が…」

「信の顔を見たら疲れなんて吹っ飛んだから心配いらない。それに、先生には随分とお世話になったんだから、従者に任せっぱなしって訳にもいかないだろ」

「………」

正直納得は出来なかったものの、蒙恬の頑固さはよく理解していたので、信は大人しく引き下がった。

宮廷から戻って来たばかりで疲れているだろうに、蒙恬は家庭教師の女性を恩人と慕っていることもあって、無事に屋敷まで送り届けなくてはと考えているようだった。

「俺が先導するから、お前は屋敷で休んでろ」

信は反論こそしなかったものの、やはり夫を休ませたいという気持ちが勝ってしまい、自分が屋敷まで送り届けると提案した。

どうやら信からそんな提案が来るとは予想していなかったようで、蒙恬は驚いて目を丸める。

「蒙恬様」

その時、扉の向こうから侍女の声がした。

「どうした?」

入室を許可すると、侍女が困った表情で部屋に入って来た。
何か言いづらそうな雰囲気を醸し出していたので、蒙恬と信も顔を見合わせる。彼女は侍医の言伝を持って来たようだった。

「声が…出ない?」

 

 

言伝を聞いた蒙恬と信は、急いで家庭教師の女性がいる客間へと向かった。

眠り薬を煎じていた侍医が頭を下げ、困ったように眉根を寄せている。少し話しづらそうにしていたものの、蒙恬が許可をすると、侍医は女性の容体について話し始めた。

どうやら野盗に襲われた恐ろしさのせいで、声を出すことが出来なくなってしまったのだという。

女性は喉元に手を当て、なんとか声を出そうと試みているものの、掠れた吐息が僅かに聞こえるばかりだった。

恐らく精神的なものが影響しているので、医者は治療法はないと断言した。野盗に襲われた恐怖心を克服するまでは、恐らく声を出せないのではないかという見解も添えて。

外傷はなかったものの、心に深い傷が刻まれてしまったのだと思うと、信はやるせない気持ちに襲われた。

目に見える傷ならば適切な処置さえ行えば癒える。しかし、心の傷を治す手段はない。どんな高価な薬草を使っても、国一番の医師が診ても、治らぬ病なのだ。

「…先生」

侍医の話を聞いた蒙恬は、穏やかな声色で彼女を呼んだ。
家庭教師の女性は今にも泣き出してしまいそうな顔をしており、不安げな瞳で蒙恬を見上げた。

「色んなことがあって心細いでしょうから、どうぞ落ち着くまでうちで休んでいってください」

温かい言葉を掛けると、家庭教師の女性は両手で顔を覆い、体を震わせる。声なき声を上げて泣く彼女を見て、信も背中擦ってやることしか出来なかった。

二人は部屋を出て、互いに顔を見合わせた。

言葉はなかったものの、信は頷いて承諾の意志を示す。明日、家庭教師の女性を屋敷まで送り届ける予定であったが、数日は屋敷で療養させた方が良さそうだという蒙恬の判断に、信はもちろん従ったのだった。

「…野盗の捜索をする」

彼女を襲った野盗がまだ近くに潜んでいるかもしれないので、見回りの強化をする必要がありそうだ。

すぐにでも屋敷を飛び出しそうな信の手を掴み、蒙恬はゆっくりと首を横に振った。

「少し気がかりなことがあるから、このまま泳がせて、様子を見たい」

「放っておいたら、他の奴らが被害に遭うかもしれねェだろ」

野盗を野放しにしておくなんて、他にも新たな被害が出るかもしれないと信は食い下がった。相変わらずの正義感の強さに蒙恬は穏やかな笑みを浮かべる。

「…うん。それじゃあ、怪しいやつらがいたら殺さずに捕らえることにしよう。先生の証言と照らし合わせて、そいつらが先生を襲った野盗か確かめないと」

「そうだな」

信は頷くと、さっそく厩舎から愛馬を連れて来て、屋敷の周囲の見回りを行った。

家庭教師の女性が被害に遭った場所の周囲も捜索したが、野盗の手がかりになるものは何も見つからなかった。

 

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嫌悪

その翌日も、信は野盗たちの調査を行ったのだが、それらしい手がかりは見つからなかった。

彼女を馬車で送迎していた御者の男から野盗の特徴については聞いていたが、黒い布で顔を隠している者ばかりだったという。

それ以外にも、野盗の特徴について家庭教師の女性から聞き出そうとしたのだが、その話を口にするだけで、彼女は声を上げることなく泣き出してしまう。

まだ心の傷が癒えていないうちに、野盗のことを聞き出すのも酷だと思い、信と蒙恬は野盗の話題を控えるように決めた。

その後も見張りを続けたが、野盗は現れることはなかった。これだけ日数が空いたのなら、逃がしてしまったかもしれない。蒙恬も信も言葉にせずとも、同じことを考えていた。

…となれば、残された問題は家庭教師の身柄だけだ。

御者の男に馬を貸し、蒙恬は書簡を持たせた。彼女を保護していることを伝えて欲しいと頼み、御者の男に先に屋敷へ戻るよう指示したのである。

数日経過したものの、未だに女性の声は戻っていない。こればかりはいつ治るか分からなかった。

蒙恬も信も彼女の部屋を訪れ、ゆっくり療養するように声を掛けるのだが、仮面のように表情が乏しく、回復の兆しは見えない。

…一月ほど経過してからも、結局野盗の手がかりはなく、家庭教師の女性の心の傷は癒えることはなかった。

 

 

夜になり、寝台に寝転びながら、信は今日も野盗に対する手がかりがなかったことに、重い溜息を吐いた。

「信、そんなに落ち込まないで」

隣に横たわった蒙恬が慰めるように髪を撫でてくれる。

「野盗は逃がしてしまったかもしれないけれど、こうなったら、あとは先生の心の問題だ。それは俺たちにはどうしようも出来ない」

「………」

諭されるように言われるが、信は納得出来ずに蒙恬に背を向けてしまう。寂しい視線を背中に感じるものの、信の中でまだ気持ちの整理がつかずにいた。

野盗の存在はどの国にもあるし、被害に遭っているのは家庭教師の女性だけではない。全員を救いきれないことは分かっているが、せめて目の前にいる者たちだけは救うことを信念をしている信は、犯人を野放しにしておくことが許せなかったのである。

幼少期、奴隷商人によって攫われたところを彼女に救われた蒙恬も、もちろん信がこのまま諦めるとは思わなかった。

だが、互いに将軍という立場である以上、いつまでもこの件に構っている訳にはいかない。信もそれを理解しているからこそ、葛藤しているのである。

「…信」

優しい声色で夫から名前を呼ばれるものの、信は振り向かなかった。もしも蒙恬からもう諦めろと言われたら、口論になるのは目に見えている。

背後で蒙恬が困ったように笑った気配を察し、信は唇を噛み締めた。

「もう寝ちゃったんだ?」

信がまだ眠っていないどころか、無視を決め込んでいるだけだと分かり切っているだろうに、蒙恬はわざとらしくそう言うと、自分たちの体に寝具を掛けた。

「………」

自分の信念を曲げたくないとはいえ、子どものような拗ね方をしてしまったことに罪悪感を覚えてしまう。

信は寝返りを打つフリをして蒙恬の方を向くと、彼の胸に顔を埋めた。

「…悪かった」

小声で謝罪すると、蒙恬はすぐに抱き締めてくれた。

「可愛い寝言だね」

からかうようにそう言われたので、信は咄嗟に顔を上げてしまった。

「寝言じゃなくて、本音だっ…」

すぐに訂正すると、蒙恬の整い過ぎた顔が目の前にあって、柔らかいものが唇に重なった。

口づけられたのだと理解した途端、信は顔から湯気が出そうなほど顔を赤らめて言葉を失ってしまう。もう幾度となく唇どころか、体も交えているというのに、相変わらず初々しい反応に、蒙恬の顔からにやけが止まらない。

「~~~ッ!出てけ!今夜は一人で寝るッ!」

「ええーっ!それはやだ!」

再び背を向けた信に、蒙恬は本気で怒っていることを察したらしい。

背中を包み込むように抱き締めて来て、絶対に離れないぞという意志を示すが、信は遠慮なくその腕を振り払ったのだった。

 

 

嫌悪 その二

その翌日から、家庭教師の女性は客室を出て、ときどき庭を散歩するようになっていた。

声はまだ出せないようだが、顔色も随分と良くなったことに信は安堵する。しかし、まだ馬車に乗るのには恐怖心があるようで、定期的に屋敷に書簡を送っていると報告を受けた。
蒙恬のもとにも、彼女の両親から感謝の書簡が送られてきたという。

書簡には野盗の襲撃に対抗出来るような護衛の者が見つからず、娘を迎えに行ずに申し訳ないという謝罪も書かれていたそうだ。

蒙恬も信も自らが護衛役を務めるつもりでいたのだが、まだ家庭教師は屋敷の外に出るのを怯えている。

引き続き、野盗の行方は追っているものの、あれから一度も目撃情報はなかった。犯人が捕まらないうちはやはり不安を拭うことは出来ないのか、家庭教師はすっかり屋敷で暮らすようになっていた。

表向きは客人で、蒙恬も彼女の滞在を承諾しているため、文句をいう使用人たちはいないのだが、それでもいつまで留まるつもりなのだろうと信は思うことがある。

時々、庭先で蒙恬が彼女に話しかけている姿を見る度に、信の胸は複雑な思いに駆られた。
なんとなく、二人の距離が縮まってきているような気がしてならなかったからだ。

もちろん二人はもともと関係性が構築されているので、自分の知らない話をすることもあるし、二人だけで盛り上がる会話もあるのだろう。

着物の裾を踏んでしまい、躓きそうになった家庭教師を抱き止めた蒙恬の姿を見てしまったのも良くなかったと思う。

声を出せない代わりに、身振り手振りで主張しなくてはならないこともあって、彼女はやたらと蒙恬の体に触れるようになった。

肩を触ったり、腕を組んだりといったものなのだが、その仕草から、なんとなく女の顔を見せるようになっているような気がした。

それは単なる信の直感であり、確証はないものだ。だが、家庭教師が蒙恬を見据える熱い眼差しに、どうしても恋幕を感じずにはいられない。

蒙恬の家庭教師に対する態度が一貫して変わらないのは救いだったが、自分が見ていない時は違うかもしれない。

 

 

家庭教師の女性が初恋相手だったというのは、信も蒙恬自身から聞いていた。子どもの頃とはいえ、もしかしたら当時のことを思い出して、蒙恬は彼女に対する恋愛感情を取り戻しているのではないだろうか。

(もしかして、このまま…)

まだ婚姻を結んでから一年も経っていないというのに、信は蒙恬が自分以外の女を娶るのではないかという不安に襲われた。

蒙家の繁栄のため、世継ぎを産ませるために※愛人を娶ることは正式に認められている行為であり、信に止める権利はない。

以前、婚姻を申し込んで来た蒙恬に、自分を正妻にするのではなく、何番目かの妾にするべきだと信は訴えた。

下僕出身である自分よりも、きちんとした家柄の出で、礼儀作法をしっかりを学んでいる女性こそが蒙恬に相応しいと伝え、幾度となく蒙恬からの婚姻を拒否していたのである。

それでも蒙恬が信を正妻にするのを諦めなかったのは、信を愛しているという理由だけであり、その想いの強さを証明するかのように、父の蒙武や祖父の蒙驁までもを黙らせたのである。

愛情を試した訳ではなかったのだが、それを知ったとき、蒙恬が本気で自分のことを愛してくれているのだと理解した。

しかし、蒙恬の心には、やはり初恋相手である家庭教師の女性がいつまでも残っていたのだろう。

家庭教師への態度は変わりないとはいえ、彼女に向ける蒙恬の眼差しは優しい。その眼差しに、愛情が混じっているような気がして、信はいたたまれない気持ちになった。

(やっぱり、蒙恬は…まだ好きなのかもしれねえな)

二人が一緒にいるのを見るのが辛くなって来たことは自覚していたし、それが嫉妬のせいだということも分かっていた。

蒙恬を困らせたくないと言えば聞こえが良いが、本心は違う。蒙恬に本当の気持ちを確かめるのが怖かったのだ。

彼女を妾として迎え入れると言うのではないか。もしそうなら、自分を正室に迎え入れたのは間違いだったと言われるかもしれない。さまざまな不安が波のように押し寄せて来る。

日を追うごとに増していくその不安は、もはや嫉妬の感情を覆い尽くすほど、大きなものになっていた。

 

 

家出準備

その日の夜、寝室で信は荷を纏めていた。明朝になったら、今は騰が管理をしてくれている王騎の屋敷に帰るつもりだった。

蒙恬と共に両親の墓前に婚姻報告はしていたが、その後は一度も屋敷に帰っていなかったし、里帰りをすると言っても怪しまれることはないだろう。

それに、少しだけ蒙恬と距離を置けば、この不安も緩和されるのではないかと考えた。

滞在する期間は決めていないが、家庭教師の帰宅が決まるまでは、蒙恬と離れていた方が気持ちが掻き立てられないかもしれない。

もしかしたら自分が不在の間に二人の関係が今以上に深まってしまうのではないかという不安もあったのだが、もしもそうなった時は離縁も視野に入れるべきだろう。

蒙家嫡男である彼には、やはりきちんと礼儀作法が行き届いた地位のある女性の方がふさわしい。

蒙恬から離縁を求められたなら応じるつもりだったし、家庭教師を正妻に迎え入れるのを反対する者はいないはずだ。

(ま、これくらいで良いだろ)

蒙家に嫁ぐことが決まり、この屋敷にやって来た時と荷の量は大差なかった。荷の中身といえば着替えくらいである。

荷を布に包んだあと、信は蒙恬に気づかれないように荷を隠すことに決めた。
室内を見渡し、なるべく目につかない場所を考えていると、背後から足音が聞こえた。信は慌てて寝台の下に荷を投げ込み、寝台に勢いよく寝転んだ。

「信?」

蒙恬だ。湯浴みを済ませて来たのか、頬が火照っており、僅かに髪が濡れている。

「もう寝るの?」

「お、おう。今日はちょっと疲れちまって…」

何事もなかったように取り繕いながら、瞼を下ろす。
自分が嘘を吐けない性格なのは重々承知しているので、怪しまれないために早々に寝ることを決めた。

素直に王騎の屋敷に帰るなどと言えば、まずは理由を尋ねて来るだろうし、納得できる理由でなければ外泊など許されない。無論、家出など許されるはずがなかった。

だからこそ信は蒙恬に気づかれないように、明朝に屋敷を抜け出すつもりでいた。

従者たちにも家出計画を知らせるつもりはないが、妻が屋敷からいなくなったとなれば騒動になるのは目に見えている。

剣の腕が落ちているので、しばらく騰に稽古をつけてもらうと適当な理由を書いた木簡を用意し、先ほどの荷と一緒に忍ばせておいた。

屋敷を出る前にその木簡を残していけば、少なくとも居場所は分かるのだからそこまで大きな騒動には発展しないだろうという信の気遣いだった。

馬を走らせて迎えに来るかもしれないが、騰に任せておけば簡単に追い返してくれるだろう。

蒙恬は鋭い観察眼を持つ。相手の些細な言動から嘘を見抜くことが出来るので、嘘を吐けない信とは抜群に相性が悪いのだ。

しかし、蒙恬は朝が弱い。執務や用事がある時は目を覚ますが、そうでない時は信が起こすまでずっと眠り続けている。

声を掛けず、物音を立てずにそっと部屋を出れば彼を起こさずに部屋を出られるし、早朝に剣の鍛錬をする時はいつもそうしていた。

信は下僕時代のことや、王騎のもとで修業をしていたことがあるので、日が昇る前に目を覚ますのが習慣になっている。

いつも蒙恬よりも先に目を覚ますので、明日もそうして寝室を抜け出すつもりだった。

 

「今、何してたの?」

荷を隠したことを気づかれたのかと思い、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚に顔を引きつらせた。

「寝ようとしてた…けど…」

「ふうん?寝るならちゃんと布団掛けないと、風邪引くよ」

「あ、ああ…」

蒙恬に指摘されて、信は布団の中に潜り込む。慌てて寝台に寝転んだので、布団もかけずに寝たふりを決め込むところだった。

蒙恬も湯浴みを済ませたのだから、あとは眠るだけだろう。しかし、彼は何かを考えるように口元に手を当てており、神妙な表情を浮かべている。

薄目でその表情を見た信は、心臓がどきどきと激しく脈を打ち始めるのを感じていた。

(も、もしかして、バレたか…?)

荷を用意しているところも寝台の下に隠したのも、見られてはいないはずだが、鋭い蒙恬のことだから怪しんでいるのかもしれない。

「ね、寝ないのかよ」

さりげなく蒙恬の思考を邪魔するように、信が声を掛ける。考えるのをやめたのか、蒙恬は微笑を浮かべると、

「もう少し、髪を乾かしてから寝るよ。布をもらってくる」

「ああ、分かった」

湯浴みでまだ髪が乾き切っていないことが気になっていたのか、そう言って彼は寝室を後にした。

彼が寝室を出て行ったあと、信はそっと寝台から降りた。

(やっぱり隠し場所を変えた方が良いな…蒙恬に見つかるかもしれねえ)

寝台の下を覗き込み、先ほど乱暴に投げ捨てた荷と木簡を手繰り寄せる。
蒙恬が戻ってくる前に、別の場所に隠しておこうと考え、信は室内を見渡した。寝台の下は覗き込めばすぐに気づかれてしまうし、だとすれば衝立の後ろが良いだろうか。

「うーん、どこにすっかなぁ……ん?」

荷と木簡を抱えながらどこに隠すべきか狼狽えていると、不意に背後から視線を感じ、信は反射的に振り返った。

「俺に隠し事するなら、もう少し上手くやった方が良いよ。信」

寝室を出て行ったとばかり思っていた蒙恬が、入り口でこちらをじっと見据えていたのである。

鎌をかけられたのだと信が気づいたのはその時だった。

 

 

失敗

驚愕のあまり悲鳴を上げることも出来ず、信は抱えた荷と木簡を落としてしまった。

着物はともかく、木簡の内容を読まれるのはまずい。慌てて手を伸ばすものの、蒙恬が木簡を取る方が早かった。

「………」

木簡に記された内容を読んだ蒙恬の表情が強張った。

(やべぇ!バレた!)

このままでは家出計画を阻止されてしまう。
荷を持って行くのを諦めて、信はとにかく屋敷からの脱出するために、蒙恬の後ろにある扉を目指して駆け出した。

「おわあッ!?」

しかし、蒙恬に足を引っ掛けられて、あっさりと逃亡は阻止されてしまう。
前のめりに倒れ込んだところを蒙恬の両腕がさっと抱き止めてくれたので、顔面を強打するのは回避出来た。

しかし、二本の腕にしっかりと抱き締められてしまい、信は敗北を認めるしかなかった。彼の俊敏さに敵わなくなって来ているのは、剣の腕に限った話ではなかったようだ。

「これはどういうこと?謄将軍に稽古をつけてもらうのに、家出同然に出ていく必要なんてないだろ」

稽古以外に別の目的があるのではないかという蒙恬の疑問に、信が表情を曇らせる。
その表情を見た蒙恬がますます鋭い観察眼を働かせた。

「…先生のことが気になるのかもしれないけれど、信が心配しているようなことはなにもないよ」

優しく言葉を掛けられるものの、信は思わず唇を噛み締める。

きっと蒙恬は、自分と離縁はしないと言いたいのだろう。家庭教師の女性を正妻ではなく、妾に迎え入れるつもりなのだろうか。

しかし、考えてみれば蒙恬が信と離縁をしないのには大きな理由があった。元下僕とはいえ、信はあの六代将軍二人の養子という立場だ。さらには蒙武と蒙驁を説き伏せてまで婚姻を結んだのだから、今さら離縁することも出来ないのだろう。

「…先に面倒な女を娶っちまったって思っただろ」

低い声で言いながら腕を振り解くと、蒙恬がきょとんと目を丸める。

「信?なに言ってるの?」

「俺と婚姻していなかったら、あの女を妾じゃなくて、正妻として娶ることが出来たもんな」

その言葉を聞き、蒙恬がまるで体の一部が痛むように顔をしかめた。図星だからそんな表情を見せるのだろうと信は疑わなかった。

強く拳を握り、信はこみ上げる衝動のままに言葉を続ける。

「だから俺と婚姻するなら妾にしとけって言ったんだよ!そうすりゃいつだって捨てられただろ!?」

「信!なんでそんなこと言うんだよッ!」

いつも冷静に諭してくる蒙恬が珍しく大声で反論して来たが、信はこみ上げて来る衝動を押さえ込むことが出来なかった。

「お前なんか嫌いだッ!」

勢いのまま言い切ってから、しまった、と思った。

 

中編②はこちら

The post 初恋のまじない(蒙恬×信)中編① first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

駒犬の愛で方(昌平君×信←桓騎)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • めちゃ強・昌平君の護衛役・側近になってます。
  • 年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/桓騎×信/執着攻め/シリアス/特殊設定/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

作戦会議

桓騎が部屋を出て行ってから、信から怯えた眼差しを向けられた。命令もなしに桓騎を引き留めたことを咎められると思っているらしい。

経緯がどうであれ、信の咄嗟の行動によって桓騎が軍馬盗難の件に協力(と言っていいものか悩ましいものだが)してくれることになったのは間違いない。

「………」

昌平君は腕を組むと、しばし瞼を下ろした。

桓騎という男が扱いにくいのは、今に始まったことではない。しかし、今回の軍馬盗難の件に関して、関わっていないという線が濃そうだ。

もしも桓騎が主犯としてこの件に関わっていたとすれば、わざわざ犯人探しに協力するだろうか。自ら手の内を明かすようなものである。

だが、もしかしたらそれも桓騎の策なのかと思うと、事実をはっきりさせるまで疑うしかない。腹の内を一切見せない桓騎だからこそ、昌平君は中途半端な調査は出来ないと考えた。

「…、……」

着物の袖を軽く引っ張られ、昌平君は目を開いた。

信が戸惑った視線を向けている。次の指示を仰いでいることは、その表情を見てすぐに理解した。

しかし、昌平君は桓騎の次の行動を予見することに思考を巡らせており、駒犬への指示を考える余裕をなくしていた。

「………」

何も指示を出さない昌平君に、信がその顔に不安の色を浮かべる。

その場に膝をつき、信は縋るように、昌平君の足元に頭を摺り寄せた。二人きりとはいえ、人の出入りが多くある宮廷でそのような態度を取るのは珍しいことだったので、昌平君の意識は駒犬へと引き寄せられた。

「……、……」

昌平君が何も話し出さないことから、怒っているのだと誤解しているようだ。

怒ってはいないし、咎めることもしないと、昌平君は信の頬を撫でる。今すべきことは駒犬を叱責することではなく、明日からの軍馬盗難調査についてだ。

桓騎は人を欺くのを得意をする男だが、律儀にも約束は守る面がある。無理やりこじつけた約束とはいえ、彼の中で信を連れて行くことはもう決定事項になっている。

規律に則るのならば、軍馬百頭の行方を追い、売買をした者や他国へ密通をした者を裁かなくてはならないのだが、右丞相である昌平君が同行することは不可能だ。

それは決して私情ではなく、国政に関しての他の執務を優先しなくてはならないためであって、今回の軍馬盗難の件に関してはこれ以上の指示を出すことは出来ない。
きっと桓騎もそれを分かった上で、信を連れて行こうとしているのだろう。

自分の目の届かない場所で桓騎が信に何をするつもりなのか、昌平君は大きな不安に駆られた。

 

 

出来ることなら、信を桓騎の傍に置くことはしたくない。

何か上手い言い訳を考えるものの、あの男のことだから信を同行させないとなれば、今回の軍馬騒動の件をあっさりと見限るに決まっている。

どうしてこうも面倒なことになってしまったのかと、昌平君はこめかみに手をやった。

いっそ不慮の事故に見せかけて、信の手や足の一本を折って同行出来ない理由を作り上げようとも考えたのだが、あまりにも折が良すぎると、かえって桓騎から疑われることになるだろう。

軍馬盗難の犯人捜索の合間に、また厄介事を増やされるのではないかという心配もあるのだが、信の身に危険が及ばないかが一番心配だ。

桓騎軍の悪行については、昌平君もよく知っている。戦の最中、敵国の領地にある村を焼き払い、そこに住まう人々に暴虐の限りを尽くし、捕虜や投降兵たちの首も容赦なく斬り捨てたという。

相手が味方ではなく、そして敵の領地だったからという安易な理由であったものの、視察した兵の話ではまるで地獄のような光景が広まっていたのだという。

皮肉にも、桓騎の存在は秦軍には欠かせないものであり、それを咎めることが出来ない。

もしも信を調査に同行させ、戻って来た時に手や足の一本が無くなっていたらと思うと、それだけで昌平君は心臓の芯まで凍り付きそうになった。

信に手を出すなと自分が命じたところで、桓騎が素直に従うとは思えないし、彼は誰を敵に回そうが何も恐れない男だ。

警戒すべきは桓騎だけでなく、元野盗の仲間たちもだ。桓騎軍の兵たちの横暴な態度については以前から報告を受けていたし、桓騎軍の何者かが戯れに信を弄んで傷つけるのではないかという心配が絶えない。

昌平君は強く拳を握ると、深い溜息を吐いた。
私情はともかく、出立は明日だ。今日のうちに出来ることをやっておかなくては。

信も自分の身を守ることは出来るほどの武力を供えているとはいえ、知将の才を持つ桓騎が相手ではどうなるか分からない。

 

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準備

「信、来なさい」

昌平君は信と共に部屋を後にする。
まず向かったのは医師団たちのいる仕事場、それから近衛兵である黒騎団が鍛錬場としても利用している軍拠点、最後に昌平君が普段から出入りしている軍師学校だ。

「………」

軍師学校にやって来ると、信が落ち着きなく辺りを見渡し、それから戸惑ったように昌平君の紫紺の着物を掴んだ。

普段は立ち入りを許されていない場所だというのに、どうして自分を連れて来たのかという視線だった。

普段は立ち入りを禁じられている信は同行させていない。だからこそ、なぜ連れて来られたのかが分からないのだろう。

「足を踏み入れるのは初めてではないだろう」

「………」

信は体の一部が痛むように、僅かに眉根を寄せた。

事実を言ったまでだが、棘のある言い方をしてしまっただろうかと昌平君は内心後悔する。信が蒙恬に唆されて、立ち入りを禁じているはずの軍師学校に足を踏み入れたのはそう昔の話ではない。

それは蒙恬の父であり、昌平君の旧友である蒙武の指示だった。素性も分からぬ信が大人しく付き従っているのを怪しんでいたようだが、あの一件以来、特に蒙恬が信に接触して来るようなことはない。

どうやら蒙武も息子からの報告を受けて、信が昌平君を裏切る可能性はないと納得したのだろう。

建物の中には入らず、昌平君は校舎の裏へ回る。信も大人しく後ろをついて来た。
今の時刻、生徒たちは教室で軍略囲碁を行ったり、戦術の書に目を通しているのだろう。校舎裏には誰もいなかった。

 

 

「右手を貸せ」

「?」

昌平君は先ほど黒騎団の軍拠点から持ち出した墨玉ぼくぎょくの腕輪を懐から取り出すと、それを信の右手首に嵌め込んだ。

普段、装飾品など身に着けない信の手首に、重厚感のある漆黒の墨玉は不釣り合いだったが、今回は仕方ないだろう。

見た目に反して墨玉の腕輪はそこまで重くないし、剣を振るうのにも邪魔にならないはずだ。あくまでこれは御守り・・・である。効力が発揮しないことを祈るばかりだ。

「…信」

墨玉の腕輪ごと信の手を握り込み、昌平君は真っ直ぐに彼の目を見た。

「…相手が誰であろうと、どういう状況であろうとも、身の危険を感じたらすぐに退け」

「………」

「桓騎のことも軍馬盗難のことも気にしなくて良い。自分を優先しろ」

桓騎と軍馬盗難のことを付け足したのは、その責任感の強さから信が自分の安全を後回しにするかもしれないという危惧からだった。

ただでさえ独断で桓騎を引き留めたことを気にしているようだし、その根本にある主の執務負担を減らしたいという気遣いが駒犬に無理を強いてしまうことを昌平君は知っていた。

「…、……」

しかし、主の気持ちを知ってもなお、信はなかなか頷こうとしない。
信の頑固さは忠実で従順な駒犬であるからこそだと昌平君も分かっているのだが、今に限ってはその反抗的な態度が苛立たしかった。

「自分の命を軽視するような駒犬に育てた覚えはないぞ」

「………」

「軍馬盗難の犯人を目撃したという桓騎の証言が嘘か事実か、そんなことはどうでもいい」

「?」

昌平君は墨玉の腕輪に視線を落とし、溜息を飲み込んだ。

まだ信の中では自分が面倒を起こしたせいで、軍馬盗難の解決が遠のいてしまったという後悔が消えていない。

いつだって主の顔色と言動に敏感な駒犬に、これ以上不安を抱えさせたくなかった。

「必ず無事に戻れ。必要なら命令違反など厭わぬ。…ただし、桓騎だけは殺すな」

「………」

信が力強く頷いたのを見ても、昌平君の胸の内が晴れることはなく、ただ無事を祈ることしか出来なかった。

隙を突いて桓騎の首を斬るのは容易いだろう。しかし、桓騎という存在はこれからも秦軍には必要不可欠だ。私怨で命を奪うことは許されず、昌平君は何度目になるか分からない溜息を飲み込んだ。

 

出立

翌朝。桓騎は約束通りに信を宮廷へ迎えに来た。

軍馬盗難の犯人捜索以外にも、将軍は執務を多く抱えている。
戦がなくとも、兵権と給金が発生する以上、軍政に関しての執務や兵たちの指揮を行わなくてはならない。いかに自由奔放に過ごしている桓騎も例外ではなかった。

「十日だ」

だからこそ、昌平君は今回の犯人捜索に期限を設けたのである。

軍馬盗難の報告を受けてからすでに数日経過しており、もしかしたらすでに軍馬がどこかへ引き渡された可能性も考えられる。

「進展がなければすぐに撤退しろ。無駄に時間を掛ける必要はない」

昌平君が低い声で命じると、桓騎はつまらなさそうに頷いた。
宮廷を出て馬陽へ向かうまで数日かかる。正確にいえば、犯人捜索に費やせる日数は十日ではない。

桓騎が犯人を目撃したという周辺で犯人捜索を行うのだろうが、昌平君は桓騎が犯人を捕らえて来るとは微塵も思っていなかった。

そもそも軍馬盗難の現場を目撃しておいて、自分には関係ないと放置した男に期待など出来るはずがない。

ただ、信さえ無事ならそれでいい。それ以外は何も望まなかった。

 

 

昌平君から見送りを受けたあと、信は用意された軍馬を渡された。

その馬は主の髪と同じ色をしており、目つきが鋭いところも何となく主に似ていた。軍馬としてよく訓練されているようで、信が触れても抵抗するどころか、気持ちよさそうに鬣を撫でられている。

しかし、荒い鼻息を吐いているところを見ると、初対面である信のことを警戒しているようだった。

訓練されている軍馬の中にも、人間嫌いの性格の馬がいる。厳しい訓練を強いるせいで、人間を背に乗せたくないと思う馬もいるが、この馬はどちらかといえばあまり人間が好きではないらしい。

戦になれば将も兵も馬との相性など気にしていられない。気性が荒く、誰も背に乗せないような馬は戦で使い物にならないため、農耕や運搬に利用されることもある。

この馬は厳しい訓練の末に人間に屈したのだろう。どこか怯えにも似た色が瞳に浮かんでいるのを見て、信はなんとなくそう思った。

主以外の人間は顔に靄が掛かったように映るのだが、動物はそうではない。だから信は動物の表情の変化に気づくことに敏感だった。

(短い間だけど、よろしくな)

言葉を発せない代わりに、信は動物の目をよく見て、耳や尻尾の動き、ちょっとした仕草から動物の感情を読み取ることに長けていた。

信が動物の中でも、一番触れ合うことのあるのは馬だ。
宮廷から急きょ呼び出しがあった時には、信が御者を務めることがあるし、主と二人で遠乗りをすることもあるので、馬の扱いは特に慣れている。

時々野良犬や野良猫の類は屋敷の裏庭で見かけることもあるが、昌平君は常に機密情報を周囲に置いているため、台無しにされないように屋敷内で動物を飼育することは許されない。

(ああ、悪いな。そろそろ出発だ)

馬の鬣を撫で続けていると、馬の片耳が退屈そうに揺れた。鼻息が落ち着いたところを見ると、どうやら信に向けていた警戒心は薄まったらしい。

 

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首輪

「おい、犬っころ」

桓騎に名前を呼ばれ、信は反射的に振り返った。この男はよく口角がつり上がっている。

昨日、昌平君に呼び出しを受けた時も、軍馬盗難の事件の話をしている時も、彼は口元の笑みを崩さなかった。

どんな状況であれ、常に優位に立っているのは自分だと主張しているのかもしれないが、感情の変化の幅が狭いように見えた。

感情がないというワケではないが、桓騎という男は昌平君とは別の意味で感情の変化が乏しいように感じる。

顔には靄が掛かっているので、口元と同じように瞳も笑っているのかは分からないのだが、声の調子からすると愉悦を感じていることは明らかだ。

「後ろを向け」

「?」

いきなりそんな指示をされ、信は戸惑った視線を向けた。もう馬に乗って出立する時刻だろうに、何をするつもりなのだろうか。

「早くしろ」

桓騎の指示の意図が読めなかったが、低い声で催促されてしまったので、信は警戒しながらも彼に背中を向けた。

「…!?」

瞬間。首に何かが巻き付いた。
金属独特のひんやりとした感触と、ずっしりとした重みを感じる。何事かと首に手をやりながら桓騎の方を振り返ると同時に、ちりんと鈴の音が鳴り響いた。

桓騎があの嫌な笑みを浮かべているのを見ながら、信は自分の首を覆うように取り付けられた輪っかを手で掴み、同時にそれが何であるかを理解した。

獄具の一種であるかなぎ ※鉄製の首枷だ。ご丁寧に鈴までついている。
しかもその鈴は、妓女が舞を踊る時に着物や手足に取り付けるような音色の良い鈴ではなく、薄汚れた銅の鈴だった。

「似合うじゃねえか。野良はともかく、飼い犬には首輪がねえとな?」

(ふざけやがって!)

銅の鈴は罪人がつけるものだと主から教えられていた信は憤怒のあまり、桓騎の顔面に蹴りを入れそうになった。

本来、銅の鈴がついた釱は、囚人が労役を行う際に逃亡を阻止する目的で使用される。または公衆の面前で釱を装着させ、見せしめとして刑罰を加える目的もあった。

そんなものをご丁寧に用意して自分の首に嵌めた目的といえば、単純に信を辱めるためであり、その延長で桓騎自身が楽しむためだろう。

 

 

「~~~ッ」

両手で釱を外そうとするものの、鉄製のそれはとても頑丈で、外れる気配がない。
信が動けば動くほど耳障りな鈴の音が鳴り、首の薄い皮膚に釱が擦れてひりひりと痛む。

「ああ?俺からの贈り物だってのに、気に入らねえのか?」

信の瞳には桓騎の口元から上は靄が掛かって見えるのだが、きっと憎らしいほどにその瞳も笑っているに違いない。

なんとか外せないか釱を触っていると、項の辺りに鍵穴のようなものがあった。恐らく鍵は桓騎が持っており、その鍵を使わないとこれは外せない。

顎が砕けるほど歯を食い縛り、信は桓騎に今すぐこれを外せと目で訴える。

「お前が迷子になったら俺が総司令から怒られるだろ」

「!?」

その口調から、桓騎に脱走を疑われていることを信はすぐに察した。

身の危険を感じたのならばすぐに退却しろと昌平君から指示を受けていたが桓騎はそれも見越しているのかもしれない。

もしかしたら、自分の楽しみのために適当な理由をつけて外さないだけなのかもしれないが。

とにかく、釱に銅の鈴を取り付けてたのは、信を辱めるためと脱走防止の二つの目的があるらしい。

「………」

幸いだったのは、釱に取り付けられているのが鈴だけだということだ。

もしもこの釱に引き紐が取り付けられていて、桓騎がその引き紐を握っていたのなら、信は事故を装って桓騎の腕を切り落としてでも逃げ出しただろう。

 

出立

結局、桓騎はかなぎ ※鉄製の首枷を外すことなく出立準備を進めた。
釱の鍵を持っているのはきっと桓騎だ。今すぐにでも鍵を手に入れなくてはと信は慌てて駆け出す。

「っ…!」

馬に乗ろうとする桓騎の腕を掴み、信は自分の首を指さして、早くこれを外せと訴える。

「心配しなくてもよく似合ってるぜ」

こちらの怒りを煽るように桓騎がそう言ったので、信はその腕に噛みついてやろうかと思った。
もしも昌平君からの許可があったのなら、躊躇わずに指を噛み千切るくらいはしてやるつもりだった。

顎が砕けそうなほど歯を食い縛って睨みつけるものの、桓騎といえば信から向けられる殺意にこちらを振り向くことさえしない。

(くそっ…あの野郎…!)

きっと昨日のうちに、信が昌平君の命令なしでは話せないことを悟ったのだろう。反論しないのと出来ないのでは怒りの度合いが大違いだ。

さっさと馬に跨った桓騎が手綱を上下に叩いて馬を走らせたので、信も慌てて自分の馬に乗った。

すぐに彼の背中を追い掛けるのだが、馬に体を揺れる度に銅の鈴が耳障りな音を立てる。
苛立ちの感情に流されながら、信は主が桓騎に苦労している理由を改めて理解した。主が普段から堪えているのだから、駒犬である自分も耐えねば。

信は手綱を強く握り締めることで、前方を走る桓騎の背中に殺意を向けるのを控えることにした。どうせ殺意を向けたところで、あの男は薄ら笑いを返すだけだろう。

こちらが反応すれば桓騎を楽しませるのなら、何の反応も示さないでいれば彼の興味を削ぐことが出来る。

昌平君は相手に動揺を悟られぬために普段から感情を表に出すことはない。(もともとそういう性格なのもあるかもしれないが)
いつだって冷静に物事を対処する主の姿を瞼の裏に思い返し、信は苛立ちで乱れていた呼吸を整えた。

もしも身の危険が迫った時は命令違反も厭わないと昌平君から言われていたが、それは最終手段だ。もしも自分が任務を投げ出せば、最終的に昌平君が面倒を引き受けることになる。それだけは何としても避けたかった。

 

 

馬陽へ向かっている最中に、ある村に辿り着いた。村人が全員で百人もいないとても小さな村だったが、なぜか桓騎たちはその村で馬を止めたのだ。

(今日はこの村で休むつもりか…?)

日が沈み始め掛けていたので、この村で休むことにしたのだろうか。しかし、これだけ規模が小さい村なら寝床を借りられるとは思えない。

こちらは桓騎と信を含めてたったの十人だったが、将軍という高い地位に立つ桓騎が指示すれば、村人たちは拒絶出来ずに寝床を用意することになる。

野営の備えもあるというのに、村に立ち寄るということは物資を消費したくないという気持ちの表れなのだろうか。

突然現れた桓騎たちを見て、村人たちが驚いた様子で一斉に頭を下げた。

桓騎の後ろに控えている桓騎軍の兵たちも、軍で配給されている鎧を身に纏っているものの、顔の一部には刺青が彫られている者がほとんどだ。言葉で名乗らずとも悪人を物語っている威圧感に村人たちがあからさまに怯えていた。

信も同じように怯えた視線を向けられていることに気づいた。
首に巻かれている釱と薄汚れた銅の鈴を見れば、罪人だと誤解されても仕方ないだろう。しかし、こんなやつらの身内だと思われてしまったようで複雑な気持ちになる。

「この村を取り仕切ってるやつを呼べ」

馬上から指示をすると、村人の一人がすぐに村長を呼びに走り出した。
桓騎は馬から降りる様子もなければ、その場から動き出す様子もない。他の兵たちは桓騎の前に出て、村人たちが妙な動きをしないか目を光らせている。

(今なら釱の鍵を取れるんじゃ…)

こちらに背中を向けている桓騎を見て、信は首に巻かれた釱の鍵を奪い取ろうと考えた。

桓騎だけでなく彼に付き従う兵たちも、今は村人たちに意識を向けており、こちらを振り返る様子はない。

鍵を手に入れるなら今しかないと考えて、信はまず釱の鍵が入っていそうな場所を考えた。鎧には衣嚢※ポケットのことはついていないし、そう考えれば着物に忍ばせたと考えるのが普通だろう。

鍵があるのは袖の中か、それとも着物の衣嚢か分からない。しかし、村長が来てしまったら鍵を手に入れる機会を逃してしまうと思い、信は一か八かで桓騎の袖の中を探ることに決めた。
信は鈴ごと釱を握り締め、音を立てぬように馬の横腹を蹴りつける。馬が一歩ずつ前に進み、手を伸ばせばすぐ桓騎の背中に触れられる位置に到着した。

こちらを振り返らないか、しきりに桓騎の後頭部に視線を向けながら信はゆっくりと手を伸ばした。

あともう少しで鎧の隙間から着物に手が入る、その時だった。

「慣れてねえくせに盗みなんざするんじゃねえよ」

「―――ッ!」

こちらを振り返ることもせず、桓騎に手首を掴まれてしまい、驚きのあまり悲鳴を上げそうになった。

「盗みなんざやったら、飼い犬の目印がになっちまうだろ?」

骨が軋むくらい手首を強く掴まれ、苦痛に顔を歪めた信に桓騎が笑いながら囁いた。

声に怒りの感情は感じられなかったが、余計に桓騎の愉悦を煽ってしまったと思うと、信はますます腹立たしくなる。

お前の飼い犬になった覚えはないとその手に噛みついて、無理やり鍵を奪ってやろうかと思ったが、先ほどの村人が村長を連れて戻って来たので諦めるしかなかった。

 

村の事情

村長の男は足腰が弱いのか、村人に手を引かれた状態で桓騎たちの前に現れた。

頭に白髪が多く混じっており、村人の中では年老いている方だ。
村にいるのは女子供や老人ばかりで、若い男が少ないのは先の戦で徴兵に掛けられたからだと分かった。ほとんどが帰って来なかったのだろう。

「このような村に将軍様が何用でございましょうか」

桓騎の前で深々と頭を下げると、村長の男は僅かに声に怯えを含ませながら用件を尋ねて来た。

「この辺りで軍馬百頭が盗まれた。なにか見聞きしてる奴はいるか?」

「…?」

信は思わず眉をひそめた。
昌平君に尋問された蕞、桓騎は軍馬盗難の手引きを行った現場を見た――すなわち、犯人を知っていると答えた。だというのに、どうして村長にそのようなことを尋ねたのだろう。

しかし、自分が途中で口を挟むわけにはいかない。信は黙って桓騎が何をするのかを見守っていた。

「い、いいえ、何も知りませんが…見てお分かりいただけるように、女子供や年寄りばかりですから、村の外に出ることがほとんどなく…」

桓騎と兵たちが放つ威圧感に、村長も村人たちも相変わらず怯えている。

問い詰めるまでもなく、この村は無関係だろうと信は考えた。しかし、桓騎があえてこの村に立ち寄った理由が何なのか分からない。

「一つ頼みがあったんだが…ここじゃ話しにくいな」

(何言ってんだ、こいつ)

急に桓騎が下手に出るようなことを言い出したので、信は気味が悪そうに顔をしかめた。

 

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その言葉を聞いた村長が戸惑ったように狼狽える。

「しょ、将軍様…申し訳ございませんが、この村は見ての通り、御客人を受け入れる余裕はなく…」

「一夜の宿なんざいらねえよ。少し聞きたいことがあるだけだ」

村に泊めることは出来ないという村長の言葉を桓騎が遮る。桓騎がこの村で宿も食事も不要だと言ったことに、正直信は驚いた。

あれだけ横暴な態度で村人たちを怯えさせていたのだから、きっと好きに仲間たちと飲み食いして、自分が満足するまで気兼ねなく過ごすのだろうと思っていたのだ。

桓騎から他の者には聞かれたくないという意志を察したのか、村長は屋敷の客間を準備すると言ってくれた。

「行くぞ、犬っころ」

(なんで俺も…)

桓騎に声を掛けられ、信は不満気に口を尖らせる。

しかし、気分次第でこの男が村長を手に掛けるのではないかと不安になり、信は大人しく桓騎に同行することにしたのだった。

馬から降りて兵に手綱を預けると、信の馬は不満気に耳をぱたぱたと動かし、何だか落ち着きなく辺りを見渡している。

威圧感のある桓騎軍の兵たちのもとに残していくのだから、不安があるに違いない。

(少し待っててくれ。すぐに戻るからよ)

鼻頭を撫でてやったものの、馬は何か言いたげにぶるると鼻を鳴らし、信のことをじっと見据えていた。

 

更新をお待ちください。

このお話の本編はこちら

昌平君×信の軍師学校のお話はこちら

桓騎×信←那貴の桓騎軍潜入捜査のお話はこちら

The post 駒犬の愛で方(昌平君×信←桓騎)中編① first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/ギャグ寄り/野営/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編②はこちら

 

事後処理

宮廷に到着するなり、信は軍の総司令官である昌平君のもとへと向かった。

国境調査の目的は趙国の動きを探る目的であったが、撤退日に襲撃に遭ったことを報告すると、昌平君も予期していなかったようで大層驚いていた。

しかし、文字通り無傷である信の姿にも驚いているようだった。

「兵の犠牲はなかったのか」

「ああ。反撃をしてから撤退した。追撃はなかったから、一掃出来たんじゃねえか?」

桓騎が救援に来てくれたことは内密にして、早々に反撃と撤退の指示を出したことで大きな被害はなかったと伝えると、昌平君は安堵したように頷いた。

「趙軍の襲撃を回避するだけでなく、一掃するとは…やはり、此度の国境調査は飛信軍に任せて正解だった。大王様から褒美を与えられることだろう」

称賛の言葉をかけられるものの、信の胸の内は晴れない。

それは当然だ。趙軍の襲撃を回避出来たのも、それどころか一掃出来たのは自分の武功ではなく、すべて桓騎の策なのだから。

「どうした?」

称賛の言葉を掛けても、憂いの表情を浮かべている信を見て、昌平君が不思議そうに問い掛ける。

桓騎が来てくれたから助かったのだと素直に伝えればどれだけ良かっただろう。今回の件で褒美を与えられるのは、自分ではなく桓騎こそ相応しい。

しかし、それを打ち明けるということは、桓騎が無断で屋敷を不在にしていたこと、すなわち軍法違反を犯したと告発するのと同じである。

「…褒美は、いらねえ。俺にもらう権利はない」

強く拳を握り、そう答えるのがやっとだった。

余計なことを喋れば勘の鋭い昌平君に、桓騎が救援に来たことを気づかれてしまうかもしれない。せっかく自分たちを助けてくれた彼に罰則が科せられることは何としても避けたかった。

「報告は以上だ。じゃあな」

何か言いたげな昌平君の視線を背中に感じていたが、信は振り返ることなく宮廷を後にした。

 

桓騎の策~前日譚~

調査報告を終えてから、信は国境調査を同行してくれた兵たちに労いの言葉を掛けた。

自分たちを襲撃しようと企んでいた伏兵を一掃したことから、恐らくは趙軍もしばらくこちらの出方を探るようになるだろう。戦の気配は一先ず遠ざかったと言っても良い。

冷え込みが激しい中での野営生活が続き、疲労しているだろうから、ゆっくり休むように声を掛ける。それから信は桓騎と那貴が引き連れた兵たちを探した。

二十名ほどの少人数部隊だったが、彼らが的確に火矢を放ってくれたおかげで桓騎の策が成り立った。
趙軍の襲撃を聞かされて不安の中、桓騎の指示に従ってくれたことに礼を言わなくてはと考えたのである。

しかし、ここで驚くべきことが起きた。

今回の国境調査に連れ立った兵たちの誰もが口を揃えて、その部隊を知らない・・・・・・・・・と言ったのである。

「…は?知らないって…どういうことだよ!?」

信も驚いて兵たちの番号呼称を行ったのだが、軍師の河了貂と副官の羌瘣や那貴を抜いて、三百の兵は一人も欠けることなく揃っていた。

(…じゃあ、那貴と桓騎についてたあの兵たちは…)

そこまで考えて、信の中でふつふつと怒りが込み上げて来た。
背後で素知らぬ顔をする那貴の方を振り返り、今にも掴み掛かる勢いで彼に詰め寄った。

「那貴ぃッ!てめェ、全部知ってるな!?」

怒鳴り声を上げると、那貴はまるで降参だと言わんばかりに潔く両手を上げた。

「あの兵たちは何だったんだよ!?」

「桓騎軍の密偵だ」

あっさりと答えた那貴に、信は驚いて大口を開けた。

「密偵だと!?」

「ああ」

飛信軍の救援に来たのは、桓騎一人ではなかったというのだ。
驚愕のあまり言葉を失っている信に、那貴が薄ら笑いを浮かべる。

「あそこに来たのがお頭一人だけなんて言ってたか?」

信は思わず顔をしかめる。

桓騎がやって来たのは撤退する三日前だったが、拠点にやって来たのは間違いなく桓騎一人だったはずだ。

――― 一人で来るなんて危険なことすんなよ!

―――ガキじゃねえんだから一人で来たって問題ねェだろ。

単騎で来るなんて危険なことをするなと咎めたことは覚えている。あの時の桓騎は一人で来たことを否定していなかった。

…いや、会話の内容を思い返す限り、桓騎が一人で来たのは事実だろう。
だが、桓騎が一人で来たのが事実なら、密偵は一体いつから・・・・拠点に来ていたのだろうか。

 

 

狼狽えている信を見て、那貴は困ったように笑うと、正解を教えるために口を開いた。

「国境調査を始めたばかりの頃、夾竹桃が増えていることが気になってな。お頭に書簡を送ったら、返事の代わりに密偵を送ってくれたんだよ」

「~~~ッ!?」

那貴曰く、桓騎の指示によって送り込まれた密偵というのが、あの少人数部隊だったという。

国境調査を始めた初日から、那貴は夾竹桃の存在に気づき、兵たちに毒性があるから気を付けるように呼びかけていた。

まだ桓騎軍に身柄を置いている時の国境調査の時では、あの地に夾竹桃はそこまで生えていなかった。
人為的に栽植されたとしか思えないと考えた那貴は、趙軍の罠である可能性を考えて桓騎に見解を求める書簡を送ったのである。

国境調査中は定期的に物資が届けられるため、那貴が桓騎に書簡を出すのは決して難しいことではなかった。

そして那貴から書簡を読んだ桓騎は、返事の代わりに密偵を送り、飛信軍の拠点周囲を探らせたのである。

もちろん密偵がヘマをすれば趙軍の襲撃が始まり、飛信軍は壊滅するほどの被害を受けることになる。

そのため、趙軍に動きを悟られぬよう、かなり迂回した場所から密偵は調査を行い、崖下に趙軍の拠点を見つけたのだった。

すぐさま密偵は桓騎に報告の書簡を送ったが、その時にはいつでも飛信軍の襲撃が出来るほど趙軍の準備が整っており、早急に反撃の策を練らなければ飛信軍の壊滅は免れない危機的状況にあった。

密偵からの書簡を受け取った桓騎はすぐさま状況を把握し、反撃の策を講じるため、自らの目でその地を確認する必要があると、単騎で拠点に駆け付けたのである。

(桓騎の野郎…)

桓騎が拠点に駆け付けてくれるまでの経緯を知り、信は愕然とするしかなかった。

将が無断で屋敷を空けるのは重罪だと分かっていながら駆け付けてくれたのも、それだけ日進軍が危機的状況に陥っていたということだろう。

結果的に桓騎の策のお陰で助かったのは事実だし、那貴が夾竹桃の存在を不審に思い、桓騎に書簡を送ったことが此度の勝利に繋がった。

趙軍の伏兵どころか、桓騎軍の密偵の存在を見抜けなかった自分の不甲斐なさに、信の胸に悔恨が湧き上がる。

「…つーか、何で桓騎に書簡を送ったことを俺に教えねぇんだよ!?」

八つ当たりだとは自覚していたが、書簡を送ったことや密偵が送られたことを黙っていた那貴に、憤りが抑えられない。

那貴は少しも悪いと思っていないのか、表情を変えることなく、肩を竦めるようにして笑った。

「お前の考えていることも言いたいことも分かる。…だが、襲撃に気づいたと向こう趙軍に知られたら、その時点で俺たちの敗北は決まっていただろ」

「~~~ッ」

もしも那貴が夾竹桃が増殖していたことから、趙軍の策かもしれないと伝えていたのなら、きっと信は兵たちに警戒するように呼びかけたはずだ。

こちらが警戒態勢を取ると言うことは、すなわち趙軍に伏兵による襲撃に気づいたと知らせるのと同じことである。

だからこそ那貴と桓騎は、あえて信に伝えず、密偵を送り込んで偵察を行っていたのだという。

結果だけ見れば、桓騎のおかげで被害を出さずに趙軍を一掃したのだから良しとしたいところだが、複雑な気持ちが拭えない。

 

 

そんな彼女の心情を察したかのように、那貴はゆっくりと口を開いた。

「…お頭がお前を信頼してなかったワケじゃない。今回は状況が悪かっただけだ」

薄い笑みを顔に貼り付けたまま、那貴は言葉を続ける。

「策を講じる時間がなさ過ぎたんだ。一歩でも間違えれば、趙軍の襲撃で俺たちは壊滅していた。そうならないよう、お頭は最大限の警戒をしてたってことだろ」

「………」

慰めるように、那貴の大きな手が信の肩をぽんと叩く。

「それに今回は、」

那貴が言葉を紡いだ途端、背後から河了貂の大きな声が響き渡った。

「信~!腹減ったぞ!俺と羌瘣にたらふく美味い飯食わせてくれる約束だろ!?」

「あ?ああ、そうだったな」

桓騎の策に従う代わりに、河了貂と羌瘣が満足するまで飯を食わせるという約束をしていたことを思い出した。

長旅を終えて疲れているだろうに、河了貂と羌瘣は早く食事をしたいと信の腕を引っ張った。

「飯は逃げねえんだから慌てんなよ」

「ご飯は逃げなくても、お前は逃げるかもしれないだろ」

羌瘣に鋭い眼差しを向けられ、信があははと笑う。どうやら約束を破るのではないかと疑われていたらしい。

女子二人に囲まれて、すっかりいつもの調子を取り戻した信は、笑顔で那貴に手を振った。

「じゃあな。那貴もゆっくり休めよ」

「ああ」

河了貂と羌瘣に引っ張られて、城下町の飯屋へ向かっていく信の後ろ姿を眺めながら、那貴は小さく息を吐いた。

これは告げるべきだと思っていたのだが、無事に帰還出来た喜びを邪魔するわけにはいかない。
桓騎に口止めをされた訳ではなかったが、黙っておいた方が信のためだろうと那貴は考えた。

―――…趙の宰相に好き勝手させるのは癪だからな。

桓騎が送り込んだ密偵が趙軍の拠点と伏兵を発見した時、隙を見て趙兵の一人を連れ去り、拷問にかけて機密情報を吐かせた。

夾竹桃を薪代わりさせることで早々に壊滅を狙うつもりだったようだが、それは叶わず、次の策を実行に移すことに決めたという。

第二の策。それは長い野営生活によって疲弊している飛信軍の撤退を狙って襲撃をするというもので、夾竹桃の栽植も合わせ、それを指示していたのは趙宰相の李牧だったのである。

桓騎は以前から李牧のことを敵視していたが、彼が企てる軍略に関しても目を光らせていた。

密偵の報告によって、飛信軍の壊滅を企てたのが李牧だと知った桓騎は、飛信軍だけでは対応出来ないだろうと即座に判断したのである。

桓騎自らが救援に駆け付けたのも、今回の趙軍の背後に李牧という強敵がいたからだ。
しかし、それを伝えていたら彼女は逆上したに違いない。憤怒の感情のままに趙の伏兵部隊に突っ込んでいっただろう。

李牧は信の養父である王騎の仇に等しい存在だ。復讐のために、信が自分の手で討ち取ると決めている男でもある。

だが、李牧を討ち取るのは至難の業だ。夾竹桃を栽植していたところから李牧が手を回していたというのに、信はそれに気づきもしなかった。その時点で、埋まらない実力差があり過ぎる。

言葉には出していないが、桓騎が危惧していたのは、毒耐性を持っている信に李牧が夾竹桃を差し向けたことだろう。

秦趙同盟のあの夜、信に毒耐性があることを知ったならば、夾竹桃の毒は効かないと分かっているはず。
それはすなわち、他の兵たちを一掃し、毒が効かぬ信を孤立させる目的があったということになる。

味方を失った彼女を討ち取るのは安易なことだろうが、信を孤立させることには何かほかに目的があるに違いない。

そこで桓騎は、李牧が信を捕らえようとしているのではないかと危惧したのである。

以前、情報操作によって抹消させた信との婚姻を諦めていなかったのかもしれないし、秦軍に欠かせない将である彼女を利用することで、趙国が優位に立つような交渉を行うつもりだったのかもしれない。

どちらにせよ、桓騎は信が趙軍の手に渡らぬよう、何としても李牧の企みを阻止しなくてはならなかった。

風向きと地の利を活かして夾竹桃を燃やし尽くし、炎と毒煙で趙兵を容赦なく一掃したのは、桓騎なりの李牧に対する宣戦布告でもあったのだ。

 

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謝意

河了貂と羌瘣に食事を奢る約束を果たしたあと、胃袋がもうこれ以上は入らないと悲鳴を上げていた。

二人と別れてから桓騎の屋敷に向かわず、信は一度自分の屋敷に戻り、泥のように眠りに落ちてしまった。長期間の野営生活によって、体がくたくたに疲れ切っていたのだ。

目を覚ました時にはすでに昼を回っていて、満腹だった胃袋はすっかり空になっていた。

どうせ桓騎の屋敷に行けば、摩論の上手い手料理が振る舞われるだろう。それに、毒酒をもてなしてくれるのも分かっていたので、空腹のまま信は愛馬の駿を走らせて桓騎の屋敷に向かった。

屋敷に到着した時にはすでに日が沈み始めていた。

「あっ、信だ~!」

馬を降りると、薪割りをしていたオギコが満面の笑みで駆け寄って来た。

もう冬が目前に迫っているというのに、いつだってオギコは裸に近い格好をしていて、風邪を引かないのか心配になる。頭はともかく、そこらの男よりも筋力はあるので寒さを感じないのだろうか。

「おう、オギコ。久しぶりだな」

馬を降りて手綱を厩舎に繋ぎながら、オギコに声を掛ける。

「お頭に会いに来たの?」

「ああ、世話になったからな」

そう言ってから、信はしまったと思った。先日、桓騎に礼を伝えたものの、手土産の一つくらい持って来るべきだっただろうか。

今回は桓騎のお陰で無事に生還出来たのだから、美酒や美味い食材でも用意しておけばよかった。
食材程度で返礼出来るような軽いものではないと分かっているものの、屋敷に来いと誘ってくれたのは桓騎の方とはいえ、手ぶらで来てしまったのは図々しいだろうか。

今から美味い食材でも買いに行こうかと思ったものの、この時刻ではもう店はやっていないだろう。

どうしようかと考えていると、オギコが小首を傾げていた。

「お頭、信のこと待ってたよ?早く会いに行ったら?」

「へ?お、おいっ?」

「ほらほら急いで!」

オギコに背中を押され、信は屋敷の裏庭へと連れて行かれた。

いつもなら屋敷の一室で毒酒を交わすのにと不思議に思いつつ、顔を上げるとそこに桓騎がいた。相変わらず椅子にふんぞり返っている。

椅子に腰かけている桓騎の向かいには焚火があった。まさか外で自分のことを待っていたのかと信は驚いたが、桓騎のすぐ傍にある机にさまざまな食材が並べられていることに気が付いた。

 

 

焚火を挟んで桓騎の向かいの椅子に腰を下ろし、机の上に並べられている食材をざっと見渡す。

「おおっ、串焼きか!」

食材がすべて串に通されているのを見て、焚火で焼き料理をするのだと分かり、信は目を輝かせた。

肉と野菜が交互に刺さっている串がたくさん並べられていて、信はすっかり空腹だったことを思い出した。連動するように腹の虫が鳴き出す。

手土産を持って来るべきだったかと後悔していた信だったが、ご馳走を前にしたことで、そんな悩みなどすぐに吹き飛んでしまった。

桓騎の傍に酒瓶がいくつか置かれていたが、どれもまだ未開封だ。どうやら信が来るのを分かっていて用意していたらしい。

国境調査へ発つ前に、鴆酒を飲む約束をしていたことを覚えてくれていたらしい。

桓騎は意外にも約束を守るという律儀な一面がある。興味のないことは最初から約束は取り付けないようにしているらしいが、信と約束を交わすことは多かった。それがなぜかを信は知らない。

「お頭、薪はここに置いとくよ!」

「ああ」

オギコが脇に抱えていた薪を焚火の傍に置き、鼻歌を歌いながら去っていく。少ししてから向こうでまた薪を割る小気味いい音が響いたので、どうやらオギコは薪割りを再開したようだ。

「報告は無事に終わったのか?」

「あ、ああ…少し長引いたけどな」

国境調査の報告自体はすぐに終わったのだが、河了貂と羌瘣に食事を奢る約束をしており、そのせいで遅れたことは黙っておいた。

二人が桓騎を嫌っているのは、桓騎も自覚があるらしい。もしも河了貂と羌瘣に桓騎と男女の関係であると伝えたら、確実に怒鳴られて反対されるだろう。
面倒なことは極力控えたいので、信は二人に桓騎との関係については黙っていた。

 

 

「美味そう!」

「摩論特製の猪肉の塩漬けだ」

焚火に串料理を焼き始めると、煙と共に肉の脂の良い匂いが漂ってきて、涎が込み上げて来た。

分厚い猪肉が串に通されていて、薪の火で炙られていた。脂が滴り落ちると、火が勢いよく燃え盛る。良い脂である証拠だ。塩漬けされたこの肉もさぞ美味いことだろう。

肉の焼ける音と食欲をそそる良い匂いに、信の視線はその串料理に釘付けになっていた。

「焼けるまで待ってろ。間違っても生焼けで食うなよ」

信は待てを命じられた忠犬のように、ご馳走が焼き上がるのを待っていた。

(はー、すっげえ匂い…)

涎が溢れてしまいそうなほど、勝手に口が開いてしまう。

目の前のご馳走に意識を向けてしまうが、今日の目的はそれじゃない。信は咳払いをして、焚火を挟んで向かいに座っている桓騎を見た。

「…那貴から全部聞いたぞ」

「何をだ」

「那貴からの書簡を読んで、密偵に周囲を探らせてたんだろ。火矢を放つ部隊も全部お前のところの兵だったのかよ」

「別にどうでも良いだろ」

話を逸らそうとするということは図星、すなわち那貴の話はすべて事実だ。

隠し事をされるのは気分が良くないが、那貴が桓騎に書簡を出してくれなかったら、桓騎が密偵に指示を出して、自ら策を講じてくれなかったら今頃自分はここにいないだろう。

「…ありがとな。助かった」

再び信から礼を言われるとは思わなかったようで、桓騎は僅かに片眉を持ち上げた。

何も言わないところを見ると、もう今回の件はすべて終わったこととして処理したのだろう。信もまだ色々と考えることはあるのだが、今は無事に生還出来たことを喜ぶべきだ。

桓騎は台に置かれている酒瓶を一つ手に取ると、蓋を開けて用意していた二つの杯になみなみと鴆酒を注ぐ。

「ほらよ」

「おう」

桓騎から杯を手渡され、お互いに杯を傾け合う。言葉のない乾杯を交わすのはいつものことだった。

喉を鳴らして鴆酒を一気に流し込むと、酒の味を追うように喉が痺れた。やはりこの痺れに勝る旨味は他にないだろう。

「んんーっ!やっぱり鴆酒が一番美味いなッ!」

さっそくお代わりを注ぎ出す信を横目に、桓騎もゆっくりと鴆酒に口をつけている。
…わずかに桓騎の口角がつり上がっていることに、信は気づけなかった。

 

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宝石姫

 

祝宴の罠

しっかりと猪肉と野菜に火が通ったのを確認して、信は串を手に取った。

「よっしゃ!食うぞ!」

桓騎も串を手に取っていたが、ずっと空腹を抱えていた信は遠慮せずに串料理を頬張った。

猪肉の旨味が口の中いっぱいに広がる。塩漬けしていたと聞いていたが、そのおかげだろうか、これだけ分厚い肉なのに簡単に噛み切れるほど柔らかかった。

摩論の手料理を食べるのは初めてではないのだが、肉料理には大抵よくわからない調味料が添えられている。もちろんそれも美味いのだが、今回の串料理は肉を食べている充実感があり、信の好みだった。

飲み込んだ直後、喉に僅かな痺れ・・・・・を感じて、信は思わず小首を傾げた。

「とっとと食えよ。冷めちまうぞ」

桓騎も焼き上がった猪肉を頬張り、美味そうに眼を細めていた。

先ほどの痺れは鴆酒と一緒に味わっているせいだろうと考えながら、信は二口目を頬張る。猪肉を噛み締めると再び脂が口に溢れ出て来た。よく火を通したせいか、野菜も甘みを感じる。

鴆酒と串料理を交互に堪能しながら、信は満足するまで腹を満たすことに集中するのだが、

「…ん?」

何となく、喉の痺れが強くなって来たような気がした。

鴆酒を飲んだ時に感じる症状なのだが、まだ二人で一瓶を開けたくらいの量で、こんなに痺れを感じることはなかったので、信は違和感を覚えた。

猪肉は塩漬けだと話していたし、猪肉と一緒に串を通されている野菜にも毒が塗られているようには見えなかった。

この場にある毒物といえば鴆酒だけなのだが、普段よりも酔いが早く回っているのだろうか。

 

 

ちょうど焚火に当てていた串料理を全て食べ終わってしまったので、信は立ち上がった。

台の上にはまだ焼かれていない串料理が並んでいる。大食いの信のために摩論が多く用意してくれていたのだろう。

お代わりを焼こうと串料理に手を伸ばした時、

「…けほっ」

風が吹いて、信は目の前の焚火から上がっている煙を吸い込んでしまった。

ちょうど向かい風だったということもあり、先ほどから少し煙が目に染みていたのだが、食欲に勝てず、席を移動することなく串料理と鴆酒を堪能していたのである。

(煙のせいか?)

煙のせいで喉が傷んだのだろうか。早々に席を移動すれば良かったのに、猪肉が焼ける良い匂いに気を取られてしまっていた。

「薪が燃え尽きそうだな」

桓騎が小さく呟きながら、食べ終えた串を焚火に放り込んだ。さらにオギコが用意してくれた薪を焚火に放り込む。

信が屋敷に到着した時、オギコが薪割りをしていた姿を見ていたのだが、薪にしてはなんだか細い枝が多いように思う。この季節なので、木々がよく育たなかったのだろうか。

「…ん?」

薪割りをしていたオギコが切り忘れてしまったのか、薪の一つに竹のように長い葉・・・・・・・・桃色の花・・・・がついており、信は瞠目した。

見覚えのあるその薪をまじまじと見つめていると、まるで天が正解だと言わんばかりに、強い向かい風が吹き上げた。

「うぇっ、げほげほッ!」

向かい風のせいで、焚火から上がっている煙を思い切り吸い込んでしまい、信は激しくむせ込む。喉が焼け付くように痛んだ。

息を整えながら、信は薪を指さして桓騎を睨みつける。桓騎といえば口元に楽しそうな笑みを浮かべていた。

「お、お前っ!まさか…あそこに生えてたあの植物夾竹桃、持ち帰って来たのか!?」

「串と薪の代わりにするのにちょうど良いと思ってな」

あっさりと答えた桓騎に、信は愕然として眩暈を起こした。

まさか国境調査の拠点地に栽植されていた夾竹桃を持ち帰っていただなんて思いもしなかった。薪にするだけでなく、串にも利用していたなんて。

もしかしたら地の利を活かして趙軍の伏兵部隊を一掃したように、風向きを予想して、夾竹桃の毒煙を自然と吸い込めるこの位置に信の席を設置していたのかもしれない。

夾竹桃の伐採は密偵にやらせていたのだろうか。それとも日中ふらりと姿を消していたのは、屋敷に夾竹桃を持ち帰るために桓騎自らが夾竹桃を伐採していたのかもしれない。この男が木を切る姿など微塵も想像出来ないが。

しかし桓騎の意地悪な笑みを見れば、鴆酒と夾竹桃の毒を利用して、わざと信に毒の副作用を起こさせようと企んでいたのは明らかだった。

いや、それよりももっと先に気づくべきだったのだ。冬が目前に迫って来ているというのに、桓騎がなぜか外で串料理と鴆酒を振る舞った理由を。

「…く、くそっ…やられた…!」

ふらついた体を、立ち上がった桓騎が咄嗟に支えてくれたものの、信は体の異変を自覚してしまう。

 

祝宴の罠 その二

二人で鴆酒を一瓶開けたくらいなら酔うことはないのだが、串料理を堪能するために、夾竹桃の煙を吸い込んでしまった。

枝を燃やすと毒性の強い煙が出るのだと那貴から忠告を受けていたが、桓騎もそれを知っていた。だからこそ串と薪代わりに利用したのだろう。

過去に雷土がこの毒煙で苦しんだというが、毒への耐性を持つ信と桓騎の場合は別だ。
毒を摂取し過ぎると、毒の副作用――まるで媚薬を飲まされた時のように性欲の増強と感度が上昇する――を起こしてしまうのである。

「はあっ…あ…」

体の内側が燃え盛るような灼熱感に、呼吸が乱れてしまう。
自分の体を支えるために肩を抱いてくれている桓騎の手の感触が気持ち良くて、このままではまずいと危惧する。

「か、帰るっ」

毒の副作用を起こした時に、桓騎が何をして症状を抑えてくれるのか、信には分かり切っていた。

しかし、いつもと違うことがある。それは外にいるということだ。
いつもなら室内で鴆酒を飲み交わし、副作用が起きれば二人して寝台になだれ込むのだが、今日はそうもいかない。

外には薪割りをしているオギコもいるし、他の重臣たちが通らないとは限らない。桓騎と二人きりでいるならともかく、他の者たちに醜態をさらす訳にはいかなかった。

「はなせっ…帰る…!」

なんとか厩舎にいる愛馬のもとに辿り着けば、賢い愛馬は事情を理解して屋敷まで連れて行ってくれるだろう。信が手綱を上下に叩かなくても目的地へ連れて行ってくれる賢い馬だ。

「お前、そんな状態で馬に乗れると思ってんのか?」

「おわあッ」

軽々と横抱きに全身を持ち上げられ、急な浮遊感に信は悲鳴に近い声を上げた。

 

 

「この前、馬に乗ったら股が擦れて気になるとか何とか言ってなかったか?」

「だ、だからっ、あれは、お前とそういうことするの、しばらくやめるって…!」

…国境調査に行く前に、信はしばらく毒物の摂取を控えると言い出したことがあった。

毒の副作用を起こせば、増幅した性欲を鎮めるために、体を重ねる行為が必須ともいえる。
しかし、信は毒の副作用を起こして桓騎と激しい一夜を(時には朝まで続くこともあるが)過ごしたあと、乗馬に支障が出るようになってしまったのだと訴えた。

どうやら馬に乗った時、鞍に股間が擦れるのが気になるのだという。妓女でも経験出来ないほど激しい行為が続くのだから無理もないのだが。

まだ体は重ねていないとはいえ、毒の副作用を起こした今の状態で馬に跨れば、それだけで情けない声を上げるのは目に見えていた。

信の愛馬である駿とはそれなりに良い関係を築いているものの、この女を快楽に導くのはこの世で自分一人だけでいい。

好きなだけ寝て良い・・・・・・・・・って言ったのはお前だろ。約束通り、俺が飽きるまで付き合えよ」

国境調査の最終日に信が自分に向けたセリフをそのまま言い返すと、信が悔しそうに顔を歪めた。

「あ、あれは、そっ、そういう意味じゃ、んんっ…!」

まだ抵抗を続けようとする体を抱き込んで、やかましい口を唇で蓋をしてやる。舌を差し込むと、信の体にぶわりと鳥肌が立った。

「ふう、ん、んんっ…!」

猪肉の塩辛い味に苦笑を深めながら、桓騎は彼女を抱きかかえながら歩き始める。

寝室に行くために屋敷の入り口へと向かう二人を、天が冷ややかな目で見るかのように冷たい風が吹いた。

夾竹桃の苦い毒煙を吸い込んでしまい、二人は小さくむせ込む。それから熱っぽい視線で見つめ合い、信は諦めて桓騎の胸に凭れ掛かるのだった。

…翌年。桓騎の屋敷の庭一面に、竹のように長い葉と、桃のような花を持つ特徴的な植物が育っていたという。

 

このお話の前日譚「禁毒宣言!(5700文字程度)」はぷらいべったーにて公開中です。
出会い編「毒を盛る(4900文字程度)」はpixivにて公開中です。

 

伏兵部隊の壊滅報告~趙国~

飛信軍に奇襲をかける予定だったはずの伏兵部隊が壊滅したという報告を受け、李牧はまさかと目を見開いた。

「…壊滅?それは本当ですか?」

「ま、間違いありません。どうやら、飛信軍が撤退間際になってから、こちらの伏兵に気づいたようで…」

死角となる崖下に隠れた兵たちに、飛信軍を殲滅させる機会を伺わせていたはずだが、まさか気づかれるとは思わなかった。

しかし、李牧の中では伏兵が壊滅することは決して想定外ではなかった。

伏兵が気づかれる可能性は絶対にないとは言えなかったし、相手はあの飛信軍だ。国境調査という名目で人数が少ないとはいえ、信を含め、副官も兵たちも強大な戦力を持っている。

そして飛信軍が国境調査を開始してから、特別大きな動きがなかったことに、李牧は違和感を覚えていた。

冷え込みが激しくなる夜に、薪の消耗は必須となる。飛信軍が拠点としたあの場所に生い茂っている木々を、彼らが薪代わりにするだろうと睨んでいた。

毒性を持つあの木々を薪代わりにすることで、飛信軍はその一夜のうちに毒煙にやられて壊滅すると李牧は考えていた。
…もちろん毒が効かぬ特殊な体を持っている彼女一人を除いて。

(考えが甘かったでしょうか)

今回の策は李牧が秦趙同盟を終えた後から企てていたものであり、そのために国境付近に生えていたあの木々――夾竹桃――を増殖させるよう指示を出していた。

この策が成功し、生き残るとすれば毒が効かぬ信だけであることも李牧は分かっていたし、彼女は生け捕りにして連行するように指示を出していた。

毒耐性を持つ信が、あの夾竹桃に毒があることを知っていたのだろうか、それともこちらの策に気づいた者がいたのだろうか。

秦趙同盟で彼女が堪能していたのは鴆酒と呼ばれる毒物であったが、仲間が誤って口をつけないように、日頃から毒を愛飲しているとは思えなかった。

毒に耐性があっても、そこまで毒物に対しての知識がないのではないかというのが李牧の見解で、今回の策はそれに対する賭けでもあったのだ。

しかし、こちらの部隊が壊滅をしたという事実は、信との賭けに負けたことを意味する。

「み、見張りの報告によると、飛信軍がこちらの伏兵を風下に誘導して、周囲の夾竹桃に火矢を放ち、毒煙によって壊滅させたと…」

「それは妙ですね」

その報告を聞いた李牧は思わず口元に手を当てた。

 

 

飛信軍の特徴はよく知っている。いつも戦の前線で戦い、道を切り開く彼女が使う策だとは思えなかった。毒煙を利用して部隊を壊滅させるなど、飛信軍の軍師が考えるだろうか。

地の利を生かした策を講じるのは別におかしなことではないが、信は正攻法で戦う将である。
もし軍師がこの策を講じたとして、投降兵や女子供には手を出さない彼女が、敵兵を抹殺するような策を許したとはどうも考えにくい。

毒の耐性を持っているとしても、秦趙同盟の際、彼女はそれを鼻にかけることはしていなかった。

だからこそ、毒を使った今回の策に、李牧は飛信軍ではなく、別の軍師か将の存在があったのではないかと考えた。

国境調査という名目で待機していた飛信軍に救援があったとは考えにくい。
しかし、結果だけ見れば、飛信軍以外の別の軍師か将の存在を疑わざるを得ないだろう。

自分も毒煙に呑まれる危険性を冒してまでその策を成し遂げたのだから、よほどの命知らずか、信と同じように、毒が効かぬ体質の者であった可能性も考えられる。

この広い中華全土であっても、毒が効かぬ者などそう多くはいるまい。
つまり、その者は毒の耐性という共通点を理由に、信と密接な関係にあると考えて良いだろう。

こちらの策に気づいて飛信軍の救援に来たのか、それとも、常日頃から信の傍にいるのかは不明だが、その者の正体を探る必要がありそうだ。

秦趙同盟の際、李牧は信の弱点を知った。
それは彼女が感情的になりやすいということであり、大切な仲間を傷つけられれば怒りで我を失い、簡単にこちらの罠にかかるということだ。

こちらが優位に立つために、秦軍に欠かせない存在となっている信を交渉材料として利用することには大きな価値がある。

だが、彼女の性格を考えれば、捕虜になったところで命乞いなどするはずがない。
交渉材料として利用されたり、敵国で無様に首を晒すくらいなら、自ら舌を噛み切ることを選ぶに違いない。それでは意味がないのだ。

以前、呂不韋から提案された信との婚姻話はいつの間にかなくなってしまっていたのだが、李牧は未だ彼女の存在を諦めていなかった。

「…り、李牧様?」

声を掛けられて、李牧は無意識のうちに自分の口角がつり上がっていたことに気が付いた。こちらの伏兵が壊滅したというのに、笑みを浮かべている李牧に兵が怯えている。

しかし、李牧はその笑みを崩すことなく、次なる命令を告げたのだった。

「今回の失態ですが、飛信軍に協力者がいたはずです。その協力者が何者であるか、必ず突き止めてください」

その協力者が信と密接な関係にあるとすれば、その者を人質に、信と独自に交渉をする機会が作れそうだと李牧は考えたのだった。

 

このお話の李牧×信のバッドエンド番外編はこちら

The post 毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)後編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/野営/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編①はこちら

 

作戦決行前夜

桓騎が救援に来たことを趙軍に気づかれれば、間違いなく警戒を強められるだろう。彼が企てた策を成すためには、不用意にその存在を広める訳にいかない。

この拠点に桓騎がいると知っているのは、信と那貴だけだ。作戦決行まであと三日とはいえ、さすがに仲間たちに存在を隠し通すのは厳しい。

もしも見つかってしまえば飛信軍の中で大いに話が広まり、こちらの動きを警戒している趙軍にも桓騎が来たという情報が筒抜けになってしまうかもしれない。

そこでまず信は、副官である羌瘣と軍師の河了貂を呼び出し、桓騎が来ていることと、彼が知らせてくれた趙軍の動きについてを知らせた。

二人があまり桓騎の存在をよく思っていないことは知っていたのだが、案の定、桓騎がこの拠点に来たのだと告げると、二人は驚愕のあとに嫌悪の表情を浮かべたのだった。

河了貂は、桓騎の手を借りず、残して来た疎水たちや他の兵を救援に呼ぶ方法も考えたようだが、今から伝令を出したとしても撤退時には間に合わない。

現時点で今回の国境調査に連れて来た三百で趙軍に対抗するには、桓騎の策を採用する以外に対抗手段はないと諦めたのか、しぶしぶ承諾してくれた。

国境調査が終わってから、たらふく美味い飯を食わせるという約束を二人と交わして、信は桓騎から聞かされた策を告げる。
それから兵たちに桓騎が来たこと、趙軍の襲撃についてを水面下で報せ、撤退時の行動についてを指示したのだった。

しかし、それは策を成す上での自分たちの行動であり、策の全貌ではない。

桓騎は、相変わらず策の全貌を語らなかった。那貴の話によると、普段は重臣の中でも、ほんの一部の者にしか策の全貌を明かさないのだという。

信と那貴にも兵たちへの指示を告げただけで、その策がどのように趙軍を一掃するのか分からない。

桓騎が策の全貌を明かさないのは、奇策を成すために目の前のことに集中しろということなのかもしれないが、確実な勝利を手にするためには策の全貌を仲間たちで共有すべきではないのだろうか。

尋ねたところで桓騎が薄ら笑いを浮かべるばかりで答えてくれないことは分かっていたので、信は大人しく引き下がったのだが、本当に大丈夫なのだろうかという不安があった。

彼の策を信頼していないわけではないのだが、本当にあの指示通り・・・・・・に動くことで、趙軍の襲撃を回避出来るのか、先の見えない不安に駆られてしまう。

…その後、桓騎といえば特に策を成すために何かするわけでもなく、時々ふらっと姿を消すこともあったが、ほとんど信の天幕に入り浸っていた。

 

 

作戦決行を控えた二日目の夜。
信が見張りを終えて戻って来ると、桓騎はその体を腕の中に抱き寄せて眠り始めた。

きっと信が不在の間も、天幕で眠っていたのだろうに、まるで冬眠する熊のように桓騎は眠り続けている。

「…お前よくそんなに寝てられんな」

呆れ顔で、信は目の前にある桓騎の寝顔に語り掛けた。
話を聞くと、信が居ない間にも眠っているらしい。それほどまで惰眠を貪っているくせに、よく眠り続けられるものだと感心してしまう。

普段は眠りが浅くて寝酒が欠かせないと話していたくせに、こんな寒い地の、しかも普段使っているものとは正反対の固い寝床で眠る桓騎に信は驚いていた。

寝惚けているのか寝たふりをしているのか、信のことを抱き締めながら、桓騎の手が胸に伸びたり足の間に伸びたりすることもあった。その度に信が頭突きをして抵抗したので未遂で済んだものの、本当に人目を気にしない男である。

(…いよいよ明日か)

桓騎の腕の中で、信は明朝の作戦決行のことを考えていた。

もしも桓騎が来てくれなかったなら、国境調査を終えてようやく帰宅出来ることに安心して、今頃は仲間たちに労いの言葉を掛けて回っていただろう。そして撤退時に趙軍の襲撃を受け、もしかしたら壊滅させられていたかもしれない。

向こうもそのつもりで身を隠していたのだから、こちらが気づかないのも当然といえばそうなのだが、もしも壊滅したとなればそれは将の責だ。

この辺り一帯に夾竹桃が栽植されていたことから、自分たちがこの地を拠点にすることも見抜かれており、すでに趙軍が手を打っていたことに気づけなかった自分の力量不足を信は恨んだ。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
宝石姫

 

追憶

三日後の明朝。信は緊張のせいか、朝陽が昇る前に目を覚ました。冬が近いせいか、朝陽が昇るのは遅い。

戦時中であれば、体を休ませるためにすぐに眠りに落ちるのだが、今はそうではない。

桓騎は相変わらず信のことを湯たんぽか抱き枕だと思っているのか、両腕でしっかりと抱き締めたまま寝息を立てている。

普段、信でさえ桓騎の寝顔を見るのは珍しいというのに、桓騎がここに来て三日間、信はよく彼の寝顔を見ていた。

いつもは桓騎の方が先に目を覚ますのだが、趙軍の襲撃が迫っていると聞かされた信は緊張のあまり、目が冴えるようになっていた。

(こいつは本当に呑気だな)

この男には緊張感という人間の感情が欠落しているのではないだろうか。オギコとは違った能天気さに満ちている。

…桓騎には失敗や敗北といった恐れが存在していないのだ。だからこそ、戦の前でも、今日のような作戦決行前でも、余裕でいられるのだろう。

信は前線で敵兵を薙ぎ払うが、桓騎は後方で指揮を執ることが多い。養父である王騎が、将には本能型と知略型の二種があると話していたように、自分たちは種が異なる。

出会ったばかりの頃は、自分たちは平行線のように決して交わることはないと思うほど、険悪の仲だったというのに、毒という奇妙な共通点によって交わることが出来た。

きっとその共通点がなければ、桓騎という男の本質を理解しようと思わなかっただろう。

 

 

(毒がきっかけなんて、本当に変な縁だ)

桓騎の寝顔を見つめながら、初めて出会った日――親友に頼まれた桓騎軍の素行調査――のことを思い返し、信は思わず口角をつり上げる。

あの時は潜入調査だったというのに、あっさりと桓騎に気づかれてしまい、鴆酒でもてなされた。

桓騎は信に毒の耐性があることを知らずに毒酒を出したようだが、そんな事情は知らず、信は鴆酒を堪能していた。

初めて飲んだ美酒に気分を良くした信だったが、毒の耐性があることを告げた覚えはないのに、なぜ毒酒を振る舞ったのかと考えた時、桓騎は自分を苦しませる目的で毒酒を差し出したのだと気づき、信は憤怒した。

綺麗に毒酒を飲み干してから怒り始めた信に、桓騎は高らかに笑った。

噂で聞いていたように、残虐極まりない男だとばかり思っていたのに、その笑顔を見た途端、信の中で桓騎に対する印象が少しだけ変わった。

そして桓騎の方も、自分と同じように毒に対する共通点を持つ信に興味を抱いてくれたようだった。

毒酒や毒料理の味を分かち合える人物がいたのが嬉しかったのか、それから桓騎は信を屋敷に呼び出すようになり、必然的に二人で会う機会が増えていった。

酒が入れば酔いのおかげで話は盛り上がるし(桓騎が酔うことは滅多にないが)、毒料理の感想を言い合ったり、毒酒を製造している酒蔵の情報を共有し合う良い関係を築いていたと思う。

もしも桓騎と、毒に耐性という共通点がなかったら、互いに興味を抱くことはなかっただろうし、そして今のこの状況下で桓騎が来ることはなかっただろう。

救援という言葉は使わなかったが、桓騎が来てくれなかったら、今日という日に趙軍の襲撃を受けて、全員が命を失っていたかもしれない。

(…帰ったら、毒酒で乾杯だな)

無事に帰還して、また共に毒酒を飲み交わそうと、信は桓騎の寝顔を見つめながら心に語り掛けた。

 

出立前

信が微笑を浮かべたことに反応するように、桓騎の瞼が鈍く動いた。

ゆっくりと瞼を持ち上げていき、まだ眠気の引き摺っているとろんとした瞳と視線が交じり合う。

桓騎の寝顔を見るのが珍しいなら、寝起きのぼんやりとした顔を見るのも珍しいことだった。

「………」

睡魔に耐え切れなかったのか、桓騎が瞼を下ろしたので、信が慌てて彼の肩を揺すった。

「おっ、おい、寝てる場合じゃないだろ!」

趙軍の襲撃に備えなくてはいけないというのに、桓騎はまるで屋敷にいるかのような寛ぎぶりを見せている。

「…まだ時間がある。黙って寝かせろよ」

眠い目を擦りながら、桓騎が信の体を抱き締め直す。
彼が眠いと訴えるのも、二度寝をしようとする姿を見るのも、そういえば初めてかもしれない。

しかし状況が状況だ。安易に二度寝を許すわけにはいかなかった。

「おい、放せって。帰ってから好きなだけ寝れば良いだろ」

腕の中から抜け出そうとすると、信のせいで睡魔が消え去ったのか、桓騎が煩わしそうに顔をしかめた。

「好きなだけ?」

確認するように顔を覗き込んで来たので、信は頷いた。

「ああ。無事に帰還出来りゃ、どんだけ寝ようがお前の自由だろ」

そのために、何としても今日は趙軍の襲撃を振り切って撤退しなくてはならない。
信の言葉を聞いた桓騎は納得したように頷いた。

「…なら、何が何でも帰還しねえとな?」

急にやる気を見せた桓騎に、普段の信なら何か企んでいるに違いないと警戒するのだが、趙軍の襲撃のことで頭がいっぱいになっている今の彼女にはそんなことを考える余裕はなかった。

 

 

その後、信は桓騎の指示通りに撤退の指揮を行った。

事前に指示していた通りに、兵たちは趙軍の襲撃に警戒しつつ、撤退のために荷をまとめ始める。

襲撃があると分かっているのなら、荷を捨てて早々に撤退した方が良いのではないかと桓騎に提案したのだが、承諾されなかった。

襲撃を回避出来たとしても、ここから咸陽までの道のりは遠い。冷え込みが激しくなっている中で、十分な備えがないまま野営生活を続ければ、帰還中に余計な犠牲が出てしまう。物資の供給はあるとはいえ、届くまでには時間がかかるし、備えはあった方が良い。

かといって、こちらが撤退を決めていた今日よりも早い日に、荷を纏めて撤退準備を行えば、襲撃計画に気づいたと教えるようなものだ。そうなれば趙軍も飛信軍を逃がすまいとして、遠慮なく襲撃して来ることだろう。

だからこそ、桓騎は趙軍の襲撃計画を知りつつも、今日という日まで信たちに撤退を促さなかったのである。

「はあ…」

国境調査の目的でいるこちらは兵力も武器の備えも十分ではない。少しの犠牲を出さぬよう努めなくてはと、信は目を覚ました時から気が重かった。

しかし、嘆いてばかりもいられない。自分が弱気になっていれば、それは兵の士気にも自然と影響してしまう。養父にも幾度となく教わったことだ。

信は両腕を伸ばしながら、朝の冷え込んだ空気を存分に胸いっぱいに吸い込んだ。

「うおッ!」

息を吐こうとした途端、背後から二本の腕に抱き締められる。振り返ると、支度を終えた桓騎が信の体を抱き締めていた。

「むぐぐっ」

他の兵たちの目もあるのに、何をするんだと腕の中から抜け出そうとした途端、口の中に異物が突っ込まれる。それが桓騎の指だと気づいた信は驚愕し、くぐもった悲鳴を上げた。

「むぅーっ!」

桓騎は信の口に咥えさせた指に唾液を絡ませ、二本の指で舌を挟んだり、舌や口の中の感触をしばらく楽しんでいるようだった。いい加減にしろと思い切り噛みつくと、ようやく指を離してくれた。

「な、なにすんだよッ!」

顔を真っ赤にして桓騎を睨みつけるが、彼は朗らかな微笑を浮かべており、信の怒りなど気にしていないようだった。

指には綺麗に歯形が刻まれていたが、痛がっている様子はない。
それどころか、唾液に塗れて歯形の残るその指を頭上に掲げて、愛おしげに見つめているので、とても気味が悪かった。

 

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作戦決行

それから、撤退の準備が七割方進んだところで、崖の方から雄叫びが聞こえ、信は弾かれたように顔を上げた。

(来た!)

目を凝らすと、それは桓騎の予想通り、崖を昇って来た趙軍の襲撃であった。

兵力差はまだ明らかになっていないが、次から次へと崖を昇って来る兵たちの数を見れば、こちらの倍近くはありそうだ。

「後ろは振り返んじゃねえ!撤退だ!」

全員に声をかけ、信は馬を走らせた。兵たちを先導するために、ただひたすら信は前を走る。

後方の指揮は副官の羌瘣に任せている。荷を纏めていた兵たちが逃げ遅れないよう、彼女に援護を頼んでおり、安心して背中を任せられた。

「退くぞ!」

背後から迫りくる趙軍が弓矢を使わないことも桓騎の予想通りだった。

趙軍は崖を昇って来てから襲撃を開始するため、兵たちは複数の武器を所持出来ない。
かといって、弓兵だけに攻撃を任せれば、少人数でも接近戦に強い飛信軍の反撃を受けることになりかねない。それは趙軍が飛信軍を警戒している何よりの証拠だ。

そしてこちらの兵力が三百であることも事前に知られているのなら、数で潰しに来るだろう。よって、三百以上の兵が崖を昇って来ることも桓騎は予想していた。

事前に襲撃を知らされたおかげで、冷静に撤退を行うことができ、背後から迫りくる趙軍との距離が開いた。
もしも趙軍の襲撃を知らずにいたのなら、撤退も出来ないどころか、あっという間に壊滅させられていただろう。

趙軍は崖を昇るために馬を使えず、歩兵だけで構成されている。
対して、飛信軍も歩兵が中心だ。信や羌瘣たちは馬を使っているが、他の馬といえば荷を運ばせる馬車馬が十頭だけ。馬車馬は軍馬としての調教を受けておらず、速度は出せない。

よって、こちらは趙軍に追いつかれぬように、兵たちを前進させるしか方法はなかった。

 

毒も過ぎれば情となる 図2

「信!本当にこれで良いんだよなッ!?」

隣に馬を寄せて来た河了貂が必死な形相で問いかけて来る。桓騎の指示を告げた時、軍師である河了貂も不安な表情を見せていた。

桓騎が奇策を成そうとしているのは河了貂も信も分かっていたが、なにせ彼は策の全貌を明らかにしないので、飛信軍に指示した行動にもどのような意味があるのか、この場にいる全員が理解していないのである。

しかし、後方から迫りくる趙軍の襲撃は激しく、追いつかれて交戦が始まれば大きな被害を受けることになる。それこそ桓騎が予測していた通りに、壊滅という結果に追い込まれるだろう。

手綱を握り締め直した信は、向かい風に顔をしかめながら、力強く頷いた。

「桓騎を信じるしかねえ!あいつの言う通りにしてりゃあ、どうせ全部上手くいく!」

夾竹桃が生い茂る森を走りながら、後方では趙軍の兵たちが列を作り始めていた。多くの木々が道を阻むので、森の中を突き切るためには同じ道を通らなくてはならない。

「走れッ!」

信は声を大にして叫び、兵たちを急がせた。まるで信の指示に連動するかのように、強い向かい風が吹き上げる。

その瞬間、視界の端に赤い何かが横切ったのを、信ははっきりと見たのだった。

 

策の詳細

…桓騎がこの拠点に訪れた三日前の夜、信は真剣な顔で、桓騎の駒として動くことを決めた。

「俺は何をすればいい」

真剣な表情で指示を仰ぐと、桓騎はゆっくりと口を開いた。

何もしなくていい・・・・・・・・

「…はっ?」

信と那貴は大口を開けて桓騎を見た。二人が間抜け面を並べていることに桓騎が相変わらずあの意地悪な笑みを浮かべる。

策を成すにあたっては、敵を誘導したり、ある程度の敵の戦力を削いだり、囮役として引き際を見定めるなど、さまざまな行動がある。

しかし、桓騎が信に告げたのは何もせず、撤退に集中しろという命令だった。それのどこが策なのだろうか。

「い、意味わかんねえよ!分かるように説明しろ!」

納得出来ないと食い下がる信に、桓騎は呆れたように肩を竦めた。

「お前らは何もしないで撤退するだけだ。これ以上分かりやすい説明があるか?」

「逃げるだけかよ!?」

「そうだ」

「~~~っ…」

あっさりと桓騎が肯定したので、信はそれ以上尋問する気を失った。

納得したのではなく、これ以上何を言おうとも、桓騎が策の全貌を明かすことはないと理解したからだ。

那貴は桓騎との付き合いが長いせいか、信よりも早いうちに桓騎の言葉を吞み込んだようだった。
しかし、信は桓騎の策の全貌どころか、指示の意図が分からず、不安が募ってしまう。

桓騎の指示は、奇策を成すために必要な行動なのかもしれない。しかし、それだけで背後から迫り来る趙軍を撒けるとは思えなかった。

もしかしたら奇策など初めから考えておらず、潔く撤退に集中しろということなのだろうか。いや、桓騎に限ってそれはないだろう。考えもなしに動くような男ではない。

しかし、趙軍にこちらの行動が筒抜けである以上は、なにか対抗策を講じない限り、壊滅させられてしまうかもしれない。

桓騎が考案した対抗策が何なのか分からず、しかし、どれだけ食い下がっても桓騎が策の全貌を明かすことはなかった。

 

桓騎の策

兵たちに振り返るなと指示を出しておきながら、視界の端を横切った赤いものの正体を探るために、信は振り返ってしまう。

続けて、風を切るような音が幾度も聞こえ、赤いそれがまた信の視界の端を横切った。

「な、なんだ…?」

河了貂も信も手綱を引いて馬を止めてしまい、状況を把握しようと辺りを見渡している。
後方から迫りくる趙軍たちの雄叫びが、悲鳴に変わったのはその時だった。

殿しんがりを務めていた羌瘣や最終尾の歩兵たちを守るように、広い範囲で炎の壁が出来上がっていたのである。

「火の手が上がった!?」

こちらは反撃することなく、ただ撤退に集中しろという桓騎の指示を守っていただけだというのに、趙軍の行く手を阻もうと燃え盛る炎に信は愕然とした。

「あっ、信!あそこ!」

河了貂が指差す方に視線を向けると、桓騎と彼の背後にいる兵たちが火矢を構え、趙軍に向かって放っている姿が見えた。
桓騎と反対の方向には、同じように趙軍に火矢を放っている那貴の姿があった。

 

毒も過ぎれば情となる 図3
桓騎も那貴も、少人数の兵を連れている。策を決行するにあたり、数名の兵を同行させるというのは聞いていたが、合わせて二十程度のかなりの少人数の部隊だ。

たかがその人数で火矢を放っただけで、ここまで炎が燃え広がるなんて思いもしなかった。
事前に火矢を放つ場所に油を敷いていたのかと思ったが、油の匂いはしなかった。

それに、馬や歩兵たちの足を滑らせる原因にもなりかねないことから、飛信軍の撤退を阻害することに成り兼ねない。恐らく、油は使用していないだろう。

では、なぜここまで炎が燃え盛ったのか。

「うおっ!?」

信の疑問に答えるかのように、強い向かい風が吹くと、風下にいる趙軍たちに大きな炎が襲い掛かる。
どうやら風向きが味方をしたことで、趙軍たちを炎で足止めをすることが叶ったようだ。

(まさか、桓騎の野郎…!)

撤退準備を始める前に、桓騎が後ろから抱き締めて来て、自分の口の中に指を入れて来た不可解な行動を思い出す。

唾液で湿らせた指を翳していたのは、風向きを確かめるため・・・・・・・・・・だったのだ。自分の指でも確かめられるだろうに、信は腹立たしくなる。

風に煽られてたちまち炎が大きくなっていき、道を阻まれた趙軍が迂回しようとする動きが見えた。

再び風が吹き、燃え盛る炎がますます激しくなる。風向きを味方につけられなかったら、この策は成り立たなかっただろう。桓騎のことだから別の策も用意していただろうが。

「急げ!」

趙軍が迂回する隙を突き、自軍に撤退を急がせる。指示を出してから、信は思わず目を見開いた。

炎に阻まれた兵たちが次々と倒れていく姿が見えたのである。

 

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桓騎の策 その二

挟撃するように火矢を放った桓騎と那貴の姿はもう見えなくなっており、足止めをした趙軍を追撃している訳ではないらしい。
火の手は大きく、追撃するよりも避難した方が良いと判断したのだろうか。

だが、避難を優先したのなら、どうして彼らの姿が見えないのだろう。信の胸に不安が湧き上がり、思わず馬を止めてしまった。

「信ッ!何してんだよ!早く行くぞ!」

桓騎と那貴の姿を探す信の背中に、河了貂が怒号を浴びせる。
はっと我に返った時、後方で兵たちの援護をしていた羌瘣がちょうど戻って来た。彼女がここまで来たということは、趙軍から距離を取れたということだ。

「那貴と桓騎を見たか?」

いや、と羌瘣が首を横に振る。それから彼女は燃え盛る炎に視線を向けながら、捲くし立てるように言葉を続けた。

「夾竹桃の毒煙で趙軍は追って来れない。風向きが変わると、こちらも被害を受けるかもしれないから急いで撤退するぞ」

その言葉を聞き、信と河了貂は顔を見合わせた。
この周囲一帯に生えている夾竹桃の特徴は、燃やすと強力な毒煙を発生させる・・・・・・・・・・・・・・・ことだと思い出した。

「ほんとに…全部、上手くいった…」

これが桓騎の策の全貌だったのだと気づき、信はもちろん、河了貂も呆然としていた。

趙軍の襲撃を予想した桓騎は、那貴と共に趙軍を挟撃するように火矢を放った。風向きが味方し、さらには燃え盛る夾竹桃の毒煙によって趙軍の動きを完全に封じる。

―――お前らは何もしないで撤退するだけだ。これ以上分かりやすい説明があるか?

桓騎が自分たちに命じたのは、撤退に集中することだけ。
それに加えて、風向きと地の利を生かした桓騎の策によって、趙軍の襲撃を逃れることが出来た。

振り返っても、趙軍がこちらを追い掛けて来る様子はない。きっと夾竹桃の毒煙によって身動きが取れなくなり、迂回することも撤退することも出来なくなったのだろう。

夾竹桃の毒煙が強力であることは那貴から聞いていたし、あれだけ広範囲に火の手が上がり、周辺の夾竹桃を燃やし尽くしたとなれば、ほとんどの兵が毒煙を浴びたに違いない。
風によって毒煙が蔓延し、後方にいた兵たちも逃れられなかったはずだ。

…つまり、趙軍は桓騎の策により、ほぼ壊滅状態に陥ったと言っても過言ではないだろう。

 

 

「な、なんとか、逃げ切ったな…」

しばらく走り続け、趙軍が追って来ないのを確認した河了貂はようやく安堵の息を吐いた。

「あ、那貴たちもいたぞ!」

少し遅れて後方に那貴と桓騎、それから数名の兵たちの姿が見えた。彼らも無事に撤退出来たらしい。

もしかしたら夾竹桃の毒煙に巻き込まれないように、火矢を放ったあと、迂回して撤退をしていたのかもしれない。

特に怪我を負っている様子もなく、馬を走らせている二人の姿を確認した信も、ほっと胸を撫で下ろした。

「…信?」

信が安堵の表情ではなく、憂いの表情を浮かべたことにいち早く気づいた羌瘣が心配そうに声を掛けてくれる。

「いや、何でもねえよ。とっとと帰ろうぜ」

…結果だけ見れば、趙軍の襲撃を回避しただけでなく、地の利を生かした策で反撃し、壊滅状態に追いやった。桓騎の武功はきっと高く評価されることだろう。

もしも桓騎が来てくれなかったら、きっと自分たちが趙軍によって壊滅させられていたのだと思うと、やはりやるせない気持ちに襲われてしまう。

 

勝利

火矢を放った後、那貴は桓騎の指示通りにすぐさま迂回して、その場を離れた。風向きは趙軍の方に向いているとはいえ、夾竹桃の毒煙を吸い込めば身動きが取れなくなる。

趙軍の兵たちは毒煙のせいで、悲鳴を上げることも出来ず、身動きが取れないまま、そのほとんどが燃え盛る炎に飲み込まれていった。
炎に呑まれなかった後方の兵たちも、風に乗った毒煙で苦しんでいるに違いない。

あれだけ炎が上がったのは、風向きを味方につけただけではない。
飛信軍が行動している日中は、この周辺に敵兵が来ないことを知った上で、火矢を放つ場所の偵察と、火種の準備をしていたのだ。

飛信軍が撤退するためにこの道を通ることも、追い掛けて来る趙軍が、木々で阻まれた道を進むために、左右に広がらずに縦に列を作って進むことも想定した上で、桓騎は今回の策を企てた。

火種になる水分が抜けた枯葉を集め、それを火矢の的代わりに設置していたのも今日という日のためだ。
大きな火の手が上がれば、十分に趙軍の足止めは出来る。

風向きが味方しなかった時にはまた別の策で、さらなる足止めを考えていたに違いないが、どちらにせよ桓騎を敵に回した時点で、趙軍に勝機はなかったのである。

「…よし、俺たちも撤退だな」

那貴は趙軍の追撃がないことを確認し、毒煙を浴びないよう注意しながら森の中を大きく迂回し、撤退した飛信軍を追い掛けた。
前方には先に撤退を始めていた桓騎と兵たちの姿があった。

(さすがお頭だ)

襲撃を回避するどころか、地の利を生かして逆に趙軍を壊滅に追いやった桓騎には感服してしまう。

国境調査の名目で秦軍がこの地に拠点を作ると想定し、事前に夾竹桃を栽植していた此度の趙軍の策は、桓騎ほどの知将でなければ見抜けなかったに違いない。

さらに言えば、桓騎が信のことを気に掛けていなかったら、飛信軍は今頃壊滅していただろう。
夾竹桃の知識を持っていた那貴がいなければ、もっと早い段階で襲撃を受けて壊滅されていたかもしれない。

「…お頭、一つ聞いても良いスか?」

那貴は桓騎の隣に馬をつけると、にやりと笑みを浮かべながら問いかけた。

「聞き過ぎだ。次から金取るぞ」

今回はまだ支払わなくていいらしいので、遠慮なく問いかける。

「俺が飛信軍に行くのを許可したのって、今回みたいな危険を回避させるためだったんですか?」

手綱を握り締め、那貴は桓騎の瞳をじっと見据えながら尋ねた。

「…は?お前が勝手に抜けたんだろうが」

「ははっ」

その返答は予想していたものの、那貴は笑わずにいられなかった。

以前、那貴が桓騎軍を抜けるに当たっては、桓騎の重臣である雷土たちからかなりの罵声を浴びせられたものだが、桓騎だけは違った。

軍を抜ける理由だけを問い、それきり那貴から興味を失くしたようだった。
敵の背中は容赦なく斬り捨てるくせに、自らの意志で去っていく仲間は決して追い掛けない。桓騎とはそういう男だ。

きっと那貴がどんな理由を告げたとしても、桓騎は引き留めることはしなかっただろう。

野盗時代からの付き合いだというのに、引き留めてくれなかったことを悲しんでいる訳ではないが、素直に飛信軍へ行かせてくれた理由がずっと気がかりだった。

 

 

「昔より、今のお頭の方が人間味があって良いっすね」

「昔は化け物だったみたいに言うな」

苛立っているような声色に聞こえるが、桓騎の表情には微笑が浮かんでいた。

彼の視線の先を追い掛けると、信の姿があった。河了貂と羌瘣に先導と指揮を任せているのか、馬を止めて、どうやら自分たちのことを待ってくれていたらしい。

信を見据える桓騎の瞳が、今まで見たことのない柔らかな色を宿していることに那貴は気づいていた。それだけ桓騎の中で、信という存在は深く根強いていることも。
そして信の方も、今では桓騎が欠かせない存在になっている。

毒の耐性という奇妙な共通点から、今や誰が見ても相思相愛である二人だが(信はなぜか桓騎との関係を隠し通せている気になっているようだが)、これほどまでに桓騎が一人の女に興味を示す姿は初めてのことだった。

それも、単騎で危機に駆け付けるどころか、無償で策まで講じるなんて、那貴の知っている桓騎はそんな面倒なことを絶対にしなかったはずだ。

だからこそ、気になることがある。

もしも、信が自らの意志で桓騎の元を去るとしたら、その時はどうするのだろう。自分が軍を抜けると言った時と同じように、理由だけを尋ねて、興味を失くすのだろうか。

桓騎が何者かを引き留める姿を一度たりとも見たことがなく、そんな姿を想像出来なかった那貴はほんの好奇心で問いかけてみた。

「…もし、信がお頭から離れるって言ったら、その時はどうするんです?」

信の名前に反応したのか、一瞬だけ桓騎の瞳の色が変わったような気がした。
しかし、それがなんの感情だったのか、はたまた動揺だったのか、那貴には分からない。

手綱を引いて馬を止めた桓騎は、凄むような目つきで那貴を見据えた。

「俺は気に入った女は逃がさない主義だ」

どのような返答が来ても驚くまいと思っていたのだが、まさか執着じみた答えが来るとは思わず、那貴はぽかんと口を開けた。

桓騎の瞳や声色から、それが決して冗談ではないと分かる。

いつも女から追われる側である桓騎が、初めて追う側に立つという。今回の彼の行動だけでも驚くべきことだが、これは相当な執着を感じさせた。

信に限って、自らの意志で桓騎から離れるようなことや、彼以外の男を選ぶことはないだろうが、そんな日が来ないように願うばかりだった。

「随分と信に毒されて・・・・ますね、お頭」

信と桓騎にとって、毒という言葉は決して悪しきものではない。むしろ、毒の耐性という奇妙な共通点こそが、二人を固く繋ぎ止めているものである。

二人にとって毒こそが強い絆であり、好敵手や友情という関係性を示すものでもあり、愛情であると言っても過言ではないだろう。

「そこらの毒なんかと比べ物にならないくらいにはな」

那貴の言葉に、桓騎は微笑を浮かべたまま、再び馬を走らせた。

 

帰還

趙軍の襲撃を回避した後、飛信軍は咸陽への帰還を行った。
必要な物資の撤収もしていたので、帰還中の野営でも冷え込みに対しての対策が出来たし、誰一人として犠牲を出さずに帰還することが叶ったのである。

無事に咸陽に到着した頃、桓騎が不意に馬を止めたので、信はどうしたと振り返った。

「俺は先に帰るぜ」

「え?」

国境調査の報告と合わせて、此度の趙軍の襲撃についても報告しなくてはと考えていたのだが、てっきり桓騎も一緒に報告をしてくれると思っていたので、信は驚いた。

「屋敷を無断で留守にしてたのがバレたら軍法会議モンだろ。頭の固いクソジジイ共の小言を聞くのは面倒だからな」

「あー…」

そう言われて、信は納得したように頷いた。

将が屋敷を長い間不在にするのは重大な過失である。
いつ何時も戦の気配があればすぐに駆け付けられるよう、断りもなく屋敷を留守にすることは許されない。

戦に遅れるということは国の存亡にも関わるため、軍法会議に掛けられて罰則を科されることになるほど重罪なのだ。
桓騎が一人で拠点に訪れた時に、信が激怒したのにはそういった理由も含まれていた。

「大丈夫なのかよ。もし不在にしてたのがバレたら…!」

「当たり前だろ。なんのために雷土や摩論たちを残して来たと思ってる」

その言葉を聞き、桓騎がたった一人でやって来たのは、重臣たちを残しておくことで、桓騎が不在であることを誤魔化すためだったのだと気が付いた。

桓騎軍の素行の悪さに関しては、叱責したところで改善されるものではないと分かっているのだが、気づかれなければ何をやっても良いという認識だけは改めてもらいたいものだ。

しかし、今回に限っては桓騎が救援に来てくれなければ、飛信軍は彼の読み通りに壊滅していただろう。

 

 

「総司令への報告は上手くやれよ」

じゃあな、と桓騎が飛信軍の列を外れて、屋敷の方へ馬を向かわせる。そういえば此度の救援の礼をまだ伝えていなかったことを思い出した。

「桓騎!」

呼び止めると、桓騎が馬を止めて、ゆっくりとこちらを振り返る。

「その、…お前のお陰で、助かった…」

不在にしていたことを咎めた手前、少し照れ臭くなってしまった信は、桓騎と目を合わせないで感謝を告げた。

「ん?声が小さくてよく聞こえねえな?」

絶対に聞こえているだろうに、桓騎がこちらの羞恥を煽るような嫌な笑みを繕って聞き返して来る。

こういうところがとことん嫌いだと思いながらも、信は隔てりを埋めるように馬を近づけて、桓騎の目前まで近づく。口元には自然と笑みが浮かんでいた。

「感謝してるって言ったんだよ!」

今度は聞き返されないように大声で感謝を伝えるものの、桓騎のことだからきっとまた違うやり方でからかわれると思い、信は反射的に身構えた。

「…え?」

しかし、予想に反して、桓騎は信の頭を撫でて来たのである。

てっきりまたからかわれると思い込んでいたので、壊れものでも扱うようなその優しい手つきに、信は呆気に取られてしまった。

「なら、国境調査の報告を終わらせたら、とっとと来い。俺が飽きるまで付き合えよ。それでチャラだ」

心地良い低い声で囁かれ、信は無意識のうちに頷いていた。

彼女の返事に満足したように微笑んだ桓騎は馬の横腹を蹴りつけ、馬を走らせる。

遠ざかっていく桓騎の背中を見つめていると、背後から河了貂と羌瘣から視線を向けられていることに気づき、信は何事もなかったかのように前を向き直して、宮廷への帰路を急いだ。

そのせいで、信は桓騎が跨っている馬に謎の荷・・・が積まれていることと、彼を追うように少人数の部隊・・・・・・が後ろをついていったことに気づけなかったのである。

 

後編はこちら

The post 毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)中編② first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

夜目、遠目、恋慕のうち(王賁×信)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/蒙恬×信/シリアス/甘々/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編①はこちら

 

 

見舞い

王賁の治療が始まってから三日目。信は昨日よりもさらに体調の悪化を自覚していた。

微熱が続いているせいか、倦怠感が取れない。水を飲むのに体を起こすのも一苦労で、ひたすら寝台に横たわっていた。

しかし、王賁の方は抗毒血清が効き始めたおかげで症状も改善して来ているという。

王賁が快方に向かっているのなら毒を受けた甲斐があるものだが、今や王賁のことを心配する余裕もなくなってしまうほど、信の体調は悪化していた。

一番つらい症状は倦怠感だが、その次は左手が腫れており、思うように動かなくなっていたことだった。

さらに今朝、目を覚ましてから舌がもつれて、上手く発音が出来なくなっていたのである。

医者によると随分毒が回って来たという。倦怠感が強いのは脈が乱れ始めて来ているのも影響していると言っていた。

王賁の治療が終わるまであと二日。時間が経過するにつれて今よりも体調が悪化するのかと思うと、信は億劫な気持ちに襲われていた。

もう少しだと自分を激励するものの、倦怠感のせいか頭がぼうっとして、何かを考えることさえも億劫になっている。

「…?」

扉が叩かれた。返事をするのも億劫で、信は寝台の上から扉の方を見つめる。

「信?入るよ」

聞き覚えのある声がして、扉が開かれる。蒙恬だった。

「おー、蒙、恬…」

寝台の上から返事をすると、蒙恬は信の姿を見て、言葉を探すように唇を震わせた。

いつもなら、手を振りながら笑って挨拶をするのだが、今は声を出すのが精一杯で、腕を持ち上げることも、笑みを繕うことも出来なかった。

 

 

早足で近づいて来た蒙恬は、言葉を選ぶように何度か視線を泳がせてから、ようやく唇を動かした。

「…賁のことも、医師団から全部聞いた」

「あ、ああ…」

そういえば蒙恬の屋敷で宴の最中に抜け出してしまったのだった。その時のことを謝らなくてはと思い、起き上がろうとするのだが、体に上手く力が入らない。

毒に苦しむ信の姿を目の当たりにして、蒙恬は体の一部が痛むように顔をしかめた。

「信…前からバカなのは知ってたけど、本当にバカなことをしたんだな」

まるで慈しむように、しかし棘を持たせた言葉を蒙恬から掛けられる。

医師団から話を聞いたというが、二人で宴を抜け出してから宮廷に向かったことも、王賁が毒を受けた話も、どこで知ったのだろうか。

しかし、それを探ることも、問いかけることも出来ないほど、今の信は衰弱し切っていた。

「バ、バカって、言うな、…んな、バカなこと、しねえと、王賁が、し、しん、死んじ、まう、から」

舌がもつれてしまうせいで、不自然に言葉が途切れ途切れになってしまう。なんとか言葉を紡ぎ切ったものの、ちゃんと伝わっただろうかと不安を覚える。

痛々しい信の姿に蒙恬は顔を歪め、それからゆっくりと口を開いた。

「信はそう思っているのかもしれない。…でも、俺は自分の知らない間に、大切な友を二人を失うかもしれなかったんだよ。…俺だけじゃなくて、信と王賁のことを大切に思う人たちのこと、一度でも考えてくれた?」

「………」

低い声で、まるで信を諭すように、しかし、詰問されているようにも感じた信は思わず眉根を寄せてしまう。

蒙恬の言うことはもっともだ。
しかし、信の中では、王賁も自分も死ぬという結末は、可能性として考えもしなかった。絶対に王賁を助けてみせると誓っていたし、自分もたかが毒如きに負けるつもりはなかったからだ。

しかし、憤怒の表情を浮かべている蒙恬の瞳に悲しみの色を見つけた信は、ここに来て罪悪感を覚えた。

王賁を助ける気持ちを優先し過ぎたあまり、他のことを何も考えていなかったことに気づいたのである。

嬴政はとやかく言うことなく、信の選択を肯定してくれたが、きっと葛藤していたに違いない。

 

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見舞い その二

「…わ、悪、い…俺…」

反省したように信が縮こまり、もつれた舌で謝罪する。顔色の悪さも伴って、今にも泣きそうなほど弱々しい態度だった。

蒙恬は小さく溜息を吐いてから、首を横に振った。そんな顔をさせるつもりはなかったと、彼は俯いて前髪で表情を隠す。

王賁の体が毒に侵されていたことも、信が嬴政と医師団を頼って王賁と共に宮廷に向かったことを、蒙家の息がかかった者たちからの報告で知った。

自分の力を過信しているからか、昔から人を頼ることを知らない王賁のことだから、毒に侵されていることも重臣くらいにしか口外しなかったのだろう。

恐らくは信が彼の蛍石を届けに行った際にそのことを知り、嬴政と医師団のいる宮廷へ直行したに違いない。

そして、医師団を頼るということは、もはや簡単には解毒出来ないほど、毒が進行してしまっている証拠だ。

その結論に行きついた時、どうして黙っていたのだと蒙恬はやるせなくなった。

王賁にも名家である嫡男としての自尊心であったり、色々と思うことがあったのだろう。気持ちはわからなくもないが、偶然にも毒を受けたという事実を知った信が、自分を犠牲にして抗毒血清たる解毒剤を製薬しようとしたことにも驚いた。

命を落とす危険があるかもしれないのに、信が我が身を差し出したのは、きっと王賁に残されている時間が少なかったからに違いない。

友人だというのに、どうして二人はそんな大切なことを自分抜きで決断してしまうのかと、蒙恬は子供のように拗ねている自分を自覚し、そして恥じた。

少し言葉を選ぶように間を置いたあと、蒙恬はゆっくりと顔を上げる。

「…俺も、大人げなかったね。二人が死ぬかもって知って、怖くなったから…ごめん」

謝罪を受けた信は首を横に振った。

「お前は、悪く、ない」

「………」

薄く笑みを浮かべた蒙恬は彼女の冷え切った左手に自分の手を重ね、包み込むように握り締める。

「じゃあ、これで仲直り」

「……、……」

信もなんとか口角を持ち上げたものの、強烈な倦怠感のせいで、その手を握り返すことも出来ない。瞼が重く、すぐに目を閉じてしまう。

「信」

その様子を見た蒙恬が切なげに眉根を寄せて、信の手を握り直した。

「なにか、俺に出来ることある?」

自分に出来ることなら何でもしてあげたい。
それは友人として出来ることなら何でもやってあげたいという善意であって、決して見返りを求めるようなものではなかった。

「…風呂、入り、たい…」

信は瞼を閉じたまま、ゆっくりと色の悪い唇を開いた。

「えっ?お風呂?」

まさかそんなことを頼まれるとは思わず、蒙恬は呆気に取られる。

毒を受けてからずっと横になっていて、風呂に入れていないのだという。
これで信の性別が自分と同じだったのなら、もちろんと手を貸していたのだろうが、さすがに女性を風呂の介抱をするわけにはいかなかった。

信とは友人関係にあるが、異性であることには変わりない。もしもそんな現場を誰かに目撃されたら、確実に誤解されてしまう。

 

 

「いや、それは…ほら、今はふらふらだから、お風呂に入るより、拭いてもらったら?頼んで来るよ」

さりげなく入浴の介助を断って、別の提案をしてみる。

「…なら、からだ、拭いて、くれ…」

まさか頼まれることになるとは思わず、蒙恬はぎょっと目を見開いた。

「お、お湯を持ってくるのは頼んで来るけど、さすがにそれは、うん、俺はそういうのに不慣れだから、侍女にやってもらった方が良い」

体を拭くだけとはいえ、着物を脱がせなくてはならないのは同じだ。

女性の裸体を見ることに抵抗がある訳ではないのだが、蒙恬の中では女性が肌を曝け出すというのは、夜の二人きりの褥の中であると決まっていた。

看病の一環だと自分に言い聞かせても、やはり信の裸体を見ることには抵抗がある。きっと信は何も気にしないだろうが、蒙恬の中ではこれまで築いて来た友人関係に亀裂が入ってしまうのではないかという心配があった。

「汗かいて、気持ち悪ぃんだ…頼む…」

蒙恬の返事を聞いていないうちに、信は寝台の上で着物を脱ぎ始めた。

呼吸を圧迫させない目的で今は帯は閉められていない。胸元がはだけないように着物の内側に紐が取り付けられていて、その紐を解けばすぐに前が開くようになっていた。

「わわわッ!し、信!前隠して!」

普段と違って今はさらしも巻いていない信の胸が露わになり、蒙恬は驚いて両手で自分の目を隠す。

両手で目を覆った上に、蒙恬は強く目を閉ざして顔を大きく背け、絶対に見ない意志を訴えた。

「はあ?な、なんだよ、体、拭くだけ、だろ」

大袈裟と言っても過言ではないくらいに友人の裸体から目を背ける蒙恬に、信はもはやからかう余裕もなく、早くしてくれと催促する。

「いや、まずは湯の準備をしなくちゃいけないだろ!?風邪引くからまだ着てた方がいい」

「あー…それも、そうかあ…」

諭されるように声を掛けられて、信はようやく納得したように頷いた。
彼女の判断力が普段以上に鈍っているのは蒙恬も察していたし、もし体調が悪くなければ自分に体を拭いてほしいなどと頼むことはなかったかもしれない。

「そ、そう。だからまずは着物を着て…」

前が開きっぱなしになっている着物を何とか着直してもらおうと思ったのだが、信は「んー」と気怠げな声を上げる。

しかし、着物の紐を再び結ぶのも億劫なようで、信は胸元を露わにしたまま静かに寝息を立て始めていた。

「し、信ッ!そんな恰好で寝るなよ!」

僅かに目を開いた蒙恬が指の隙間から、まだ彼女が半裸であるのを見つけ、慌てて声を掛ける。

一夜を共にする美女だったなら喜んでその豊満な胸に飛び込んでいたが、信は昔からの友人だ。異性を相手にするのに慣れているはずなのに、どうしていいか分からず、蒙恬は困惑していた。

 

秦王の見舞い

その時、背後で扉が開く音がして蒙恬は反射的に振り返った。

てっきり信の様子を見に来た医者か世話係だろうと思っていたのだが、そこにいたのは秦王嬴政であり、蒙恬は息を詰まらせてしまう。

「だ、大王様ッ!?」

慌てて拱手礼をして頭を下げるものの、今度は冷や汗が止まらなくなった。

信と嬴政は親友で、彼女のために見舞いに来たのだというのはすぐに分かったものの、こんな状況で秦王が来るとは思わなかった。

「…何をしている?」

寝台の上で半裸で眠っている信と青ざめている蒙恬を交互に見て、当然の疑問を投げかけられる。

「おっ、恐れながら!あの、これには事情が…!」

毒で弱っており、抵抗も出来ない信を襲おうとしていたと誤解されても仕方のない状況だ。

元下僕の身でありながら、信が嬴政の親友であることは秦国では広く知られている。親友が寝込みを襲われていると誤解されたら、蒙恬の首どころか、蒙一族の末裔まで処刑にされてしまうかもしれない。

蒙恬は自分の名誉と首を守るため、即座に弁明しようとした。

「おー、政じゃねえか…悪ィけど、体、拭いて、くれねえか…」

どうやら見舞い客が増えたことに気づいたらしく、信が寝台の上からか細い声を掛けた。
その言葉を聞き、嬴政は呆れたように肩を竦める。

「お前というやつは…」

それから嬴政は自らの手で、乱れている信の着物を整えてやった。
大王自らが妃でもない女性の着物を整えるなど前代未聞だろう。相変わらずの態度に、蒙恬はあんぐりと口を開けていた。

もしも信の着物を整える嬴政の姿を昌文君が見たら、きっと彼は激昂するだろう。いくら信が毒に弱っていたとしてもだ。

汗でべたつく体が気持ち悪いから拭いてほしいと訴えた信に、嬴政はこれまでの経緯を察したのだった。

「毒に蝕まれていても中身は相変わらずだな。少しだけ安心した」

肩まで布団をしっかりと掛けてやりながら、嬴政は溜息交じりに呟いた。

「んー…相変わ、らず、難しい、こと、言ってんな…」

「いくら毒を受けて弱っているからといって、そのようなことで蒙恬に面倒を掛けるな」

蒙恬は供手礼を崩さず、恐れ多いと言わんばかりに頭を下げる。
多忙な政務の合間に、親友の顔を見に来たらしい嬴政が部屋を出て行ってから、蒙恬はようやく安堵の息を吐いたのだった。

 

 

その後、様子を見に来た医者から、入浴は体力を大きく消耗することを理由に禁じられ、代わりに侍女が清拭を行うということに話が決まった。

「風呂は…?」

医者とのやり取りを聞いていなかったのか、信が蒙恬の方を見る。

「しばらくはだめだって。侍女に頼んでおくから、あとで体を拭いてもらおう」

真っ青な顔に虚ろな瞳をしたまま信が頷いたので、蒙恬はこんな状態であと二日も耐えられるのだろうかと不安を覚える。

弱気になっている様子は見られないが、体が衰弱と疲弊しているのは誰が見ても明らかだった。

毒は彼女の体を蝕んでいく一方だ。
このまま体力だけでなく気力までも落ちてしまえば、王賁は助かっても、信が犠牲になってしまうかもしれない。
二人の友人として、それだけは何としても回避したかった。

先ほど様子を見に来た医者が置いて行った食膳を見て、蒙恬は信に声を掛ける。

「信、食事にしよう?」

「んー…飯は後でいい…」

いつもなら食事と聞いたなら目を輝かせて喜ぶというのに、今の彼女は少しも食欲がないらしい。休ませてあげたい気持ちもあったのだが、少しでも体力をつけてもらいたかった。

それに、きっと今少しでも食事をさせなければ、すぐに眠りに落ちてしまうに違いない。次に目を覚ました時、今よりも毒が進行しているのは間違いないだろうし、食べさせるなら今しかないと考えた。

蒙恬は寝台の傍に椅子を引き寄せて腰を下ろすと、粥の入った器と匙を手に取った。

「…食欲がないのは分かるけど、少しでも食べて」

粥をすくった匙を信の口元に近づける。すると、信が大人しく口を開けてくれたので、蒙恬はほっと安堵した。

口の中に粥を入れると、信がもくもくと咀嚼する。噛み砕かなくても飲み込めるほど柔らかく煮込んであるのだが、たった一口の粥を飲み込むまでにかなりの時間を要した。

「信、ほら、口開けて」

「……、……」

二口目の粥を口元に運ぶが、信はなかなか口を開けない。
食べたくないと拒絶をしているのではなく、すでに瞼が半分落ちかかっており、眠気に負けそうになっているのだ。

こんなにも弱っている信を見るのは初めてのことだった。

 

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蒙恬の看病

蒙恬は一度食事を中断し、匙と粥を机に置いた。

ほとんど意識の糸を手放しかけている信に向き直り、彼女の耳元に顔を寄せる。思い切り息を吸い込み、

「信、起きろッ!!」

「どわあッ!?」

耳元で叫ぶと、信が飛び起きた。

「な、な、なっ、何だよっ!?」

いきなり耳元で叫ばれて、半ば強引に起こされた信は蒙恬を見上げた。

いつも薄ら笑いを浮かべ、女性たちから黄色い声援を浴びているはずの端正な顔立ちの蒙恬が、珍しく怒りを剥き出しにしていたので、信は驚いた。

「王賁を助ける代わりに信が犠牲になるなんて、俺は許さない」

「……、……」

反論する気もなくさせるほど、蒙恬は低い声でそう言い放った。顔を真っ赤に染めて、肩で息をしている蒙恬を見れば、本気で怒っているのだと分かる。

それほどまでに蒙恬が怒りを剥き出しにしているのを見るのは初めてのことだったので、信は罪悪感に襲われた。

「…悪い…」

信は力なく謝罪をすると、気まずい沈黙が二人の間に横たわる。
わざとらしく溜息を一つ吐いてから、蒙恬は椅子に腰かけ直した。粥の入った器と匙を再び手に取る。

「それじゃあ、これ全部食べるなら許してあげる」

「………」

許してもらうために条件を飲むしかない。
食欲がないのは確かだが、これ以上蒙恬を心配させるわけにはいかなかったし、王賁の回復を見届けるためにも、少しでも食べて体力をつけなくては。

頷くと、蒙恬は匙で粥をすくって信の口元に宛がった。

「ほら、口開けて」

「う…」

こんな風に人に食事を食べさせてもらった経験がなく、戸惑ってしまう。

それに、名家の嫡男ともあろう男が、元下僕である信に看病をしている姿なんて見たら、きっと従者たちは驚くだろう。

「………」

食べてくれないのかと蒙恬が切なげに見つめて来るので、信は諦めて口を開けた。ぱくりと匙を口に含み、粥を啜る。

粥はすっかり冷めていたのだが、一口飲み込んだだけでも胃が温まるような感覚があった。

ずっと食事を摂っていなかったせいで、空腹だったことを思い出したのか、もっとよこせと腹の虫が鳴る。その音を聞いた二人は顔を見合わせて、小さく笑った。

信が粥を飲み込んだのを確認してから、蒙恬がすぐに二口目を差し出した。

「…なんか犬猫に餌付けしてる気分。変な感情芽生えそう」

「馬鹿、言うなよ。俺は、人間だ」

まだ少し食べたばかりだというのに、蒙恬の冗談にもちゃんと反応が出来るようになって来た。

本当ならこんな風に食べさせてもらわなくても良かったのだが、左手を上手く動かせないせいで、蒙恬の好意に甘えることにしたのだ。

 

 

こんな風に誰かに看病をしてもらうなんて、いつが最後だっただろう。

物心がついた頃にはもう親はいなかったし、下僕仲間であった漂と肩を寄せ合って生きてい
た。漂がこの世を去ってからは、天下の大将軍に一歩でも近づくために、武功を挙げるのに必死で、王賁や蒙恬に後れを取るものかと意固地になっていた。

特に王賁の前では欠点や弱みといったものを見せないように努めていた。生まれながらの身分差というものを口うるさく指摘する王賁に、これ以上馬鹿にされたくなかったのである。

共に武功を競い合う好敵手だったというのに、いつからか安心して背中を預けられる味方になり、今では肩を並べて酒を飲み交わす友人にまで関係が発展していた。

王賁を失いたくないという気持ちに嘘偽りない。
抗毒血清を作ると決めたときに、どれだけ苦しんでも王賁を救い出し、絶対に自分も生きると誓ったのに、危うく意志が揺らぎかけていた。

毒の進行によって、苦痛も比例していくことは事前に聞いていたものの、これほど辛辣なものだとは正直思わなかったのである。

蒙恬が喝を入れてくれなかったのなら、きっと今も食事を抜いて眠り続けていたことだろう。

「…王賁には、会いに行ったのか?」

なんとか粥の半分ほどを食べ終えた頃、信は思い出したように蒙恬に問いかけた。わざわざ宮廷に来たのは自分と王賁の見舞いのためだろう。

「ああ、ここに来る前に顔を見て来た」

粥を匙で掬いながら、蒙恬が失笑する。

「少なくとも、今の信よりは元気だった」

王賁の様子については医者から聞かされていたものの、蒙恬の目から見ても元気だったというなら、本当に回復へ向かっているに違いない。

「良かっ、た…」

安心するとまた瞼が重くなってくる。

「信、まだ残ってる」

まだ粥を食べ終えていないのに眠るなと叱られてしまい、信は苦笑を深めた。

自分の毒治療は王賁が治療を終えたあとだ。三人でまた酒を飲み交わす日々を夢見て、信はなんとか粥を食べ切った。

「それじゃあ、また明日も来るから」

粥を全て食べ終えてくれたことで蒙恬は安心したように微笑んだ。

「蒙、恬」

立ち上がった蒙恬を引き留めようと、信が右手を伸ばす。上手く力が入らず、彼の着物を掴むことは叶わなかったものの、用があるのかと気づいた蒙恬が顔を覗き込んでくれた。

「王賁には、薬の、ことを、言わないで、くれ」

王賁が飲んでいる抗毒血清が、百毒を受けた自分の血であることを知られたくなかった。

抗毒血清を作ると決めたのは自分の意志であり、誰に頼まれたものでもないし、決して王賁に貸しを作ったわけでもない。もちろん彼を救うために自分を犠牲にするつもりもなかった。

だが、王賁がその事実を知ればきっと憤怒するのは分かっている。こちらが何を言おうとも、王賁はきっと許してくれないだろう。彼が義理堅い男なのは、蒙恬も信も知っていた。

「…うん、わかった」

なにか蒙恬は考える素振りをみせたものの、信の気持ちを考慮して頷いて、静かに頷いてくれた。

「気をしっかり持てよ。王賁の治療が終わり次第、次はお前の番なんだ」

その言葉を聞いて、信は返事の代わりに何とか笑みを繕った。

こんなところで負けるわけにはいかないと何度も誓ったものの、蒙恬が部屋を出て行ってから結局、気持ち悪さに耐え切れず、食べ切った粥をすべて戻してしまうのだった。

 

五日目

その後、信は深い眠りに落ちてしまい、目を覚ますと五日目の朝を迎えていた。

この時には信の左手の感覚はほとんどなくなっており、指の曲げ伸ばしどころか、腕を持ち上げることも出来ないほど、左腕は指先まで醜く腫れ上がっていた。赤紫に腫れ上がった指はまるで人間のものとは思えず、化け物の手のようだった。

「……、……」

反対に、顔と唇はまるで死人のように血色を失っており、天井を見上げながら呼吸を繰り返すのがやっとである。

(今日で、何日目だ…?)

これまで感じたことのない強い倦怠感に、信は今日が何日目であるのか、どうして自分がここにいるのかも思考を巡らせることも億劫になっていた。

時折、瞼の裏に王賁の姿が浮かび上がる度に、信の意識は夢の世界から引き戻される。
嬴政や蒙恬とも約束したのに、こんなところでくたばる訳にはいかない。

(でも…)

しかし、信はいよいよ死の気配を察するようになっていた。

戦場で強敵と戦った時とは違う、静かに迫って来る死の気配に、信は成す術もなく、今では弱々しい呼吸を繰り返すのが精一杯である。

もしも自分の命を代償に、王賁が助かったとして、王賁がそれを知ったらどう思うだろうか。

相手に借りを作るのを良しとしない王賁のことだから、怒鳴りながら自分の亡骸をぶん殴るのではないだろうか。死者への冒涜だと化けて出た自分にも、怯えることなく掴みかかってくるかもしれない。

「…はは…」

乾いた笑いを浮かべ、信は王賁の無事を祈ることしか出来なかった。

 

更新をお待ちください。

王賁×信←蒙恬のバッドエンド話はこちら

嬴政×信のバッドエンド話はこちら

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夜目、遠目、恋慕のうち(王賁×信)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/蒙恬×信/シリアス/甘々/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編①はこちら

 

 

見舞い

王賁の治療が始まってから三日目。信は昨日よりもさらに体調の悪化を自覚していた。

微熱が続いているせいか、倦怠感が取れない。水を飲むのに体を起こすのも一苦労で、ひたすら寝台に横たわっていた。

しかし、王賁の方は抗毒血清が効き始めたおかげで症状も改善して来ているという。

王賁が快方に向かっているのなら毒を受けた甲斐があるものだが、今や王賁のことを心配する余裕もなくなってしまうほど、信の体調は悪化していた。

一番つらい症状は倦怠感だが、その次は左手が腫れており、思うように動かなくなっていたことだった。

さらに今朝、目を覚ましてから舌がもつれて、上手く発音が出来なくなっていたのである。

医者によると随分毒が回って来たという。倦怠感が強いのは脈が乱れ始めて来ているのも影響していると言っていた。

王賁の治療が終わるまであと二日。時間が経過するにつれて今よりも体調が悪化するのかと思うと、信は億劫な気持ちに襲われていた。

もう少しだと自分を激励するものの、倦怠感のせいか頭がぼうっとして、何かを考えることさえも億劫になっている。

「…?」

扉が叩かれた。返事をするのも億劫で、信は寝台の上から扉の方を見つめる。

「信?入るよ」

聞き覚えのある声がして、扉が開かれる。蒙恬だった。

「おー、蒙、恬…」

寝台の上から返事をすると、蒙恬は信の姿を見て、言葉を探すように唇を震わせた。

いつもなら、手を振りながら笑って挨拶をするのだが、今は声を出すのが精一杯で、腕を持ち上げることも、笑みを繕うことも出来なかった。

 

 

早足で近づいて来た蒙恬は、言葉を選ぶように何度か視線を泳がせてから、ようやく唇を動かした。

「…賁のことも、医師団から全部聞いた」

「あ、ああ…」

そういえば蒙恬の屋敷で宴の最中に抜け出してしまったのだった。その時のことを謝らなくてはと思い、起き上がろうとするのだが、体に上手く力が入らない。

毒に苦しむ信の姿を目の当たりにして、蒙恬は体の一部が痛むように顔をしかめた。

「信…前からバカなのは知ってたけど、本当にバカなことをしたんだな」

まるで慈しむように、しかし棘を持たせた言葉を蒙恬から掛けられる。

医師団から話を聞いたというが、二人で宴を抜け出してから宮廷に向かったことも、王賁が毒を受けた話も、どこで知ったのだろうか。

しかし、それを探ることも、問いかけることも出来ないほど、今の信は衰弱し切っていた。

「バ、バカって、言うな、…んな、バカなこと、しねえと、王賁が、し、しん、死んじ、まう、から」

舌がもつれてしまうせいで、不自然に言葉が途切れ途切れになってしまう。なんとか言葉を紡ぎ切ったものの、ちゃんと伝わっただろうかと不安を覚える。

痛々しい信の姿に蒙恬は顔を歪め、それからゆっくりと口を開いた。

「信はそう思っているのかもしれない。…でも、俺は自分の知らない間に、大切な友を二人を失うかもしれなかったんだよ。…俺だけじゃなくて、信と王賁のことを大切に思う人たちのこと、一度でも考えてくれた?」

「………」

低い声で、まるで信を諭すように、しかし、詰問されているようにも感じた信は思わず眉根を寄せてしまう。

蒙恬の言うことはもっともだ。
しかし、信の中では、王賁も自分も死ぬという結末は、可能性として考えもしなかった。絶対に王賁を助けてみせると誓っていたし、自分もたかが毒如きに負けるつもりはなかったからだ。

しかし、憤怒の表情を浮かべている蒙恬の瞳に悲しみの色を見つけた信は、ここに来て罪悪感を覚えた。

王賁を助ける気持ちを優先し過ぎたあまり、他のことを何も考えていなかったことに気づいたのである。

嬴政はとやかく言うことなく、信の選択を肯定してくれたが、きっと葛藤していたに違いない。

 

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見舞い その二

「…わ、悪、い…俺…」

反省したように信が縮こまり、もつれた舌で謝罪する。顔色の悪さも伴って、今にも泣きそうなほど弱々しい態度だった。

蒙恬は小さく溜息を吐いてから、首を横に振った。そんな顔をさせるつもりはなかったと、彼は俯いて前髪で表情を隠す。

王賁の体が毒に侵されていたことも、信が嬴政と医師団を頼って王賁と共に宮廷に向かったことを、蒙家の息がかかった者たちからの報告で知った。

自分の力を過信しているからか、昔から人を頼ることを知らない王賁のことだから、毒に侵されていることも重臣くらいにしか口外しなかったのだろう。

恐らくは信が彼の蛍石を届けに行った際にそのことを知り、嬴政と医師団のいる宮廷へ直行したに違いない。

そして、医師団を頼るということは、もはや簡単には解毒出来ないほど、毒が進行してしまっている証拠だ。

その結論に行きついた時、どうして黙っていたのだと蒙恬はやるせなくなった。

王賁にも名家である嫡男としての自尊心であったり、色々と思うことがあったのだろう。気持ちはわからなくもないが、偶然にも毒を受けたという事実を知った信が、自分を犠牲にして抗毒血清たる解毒剤を製薬しようとしたことにも驚いた。

命を落とす危険があるかもしれないのに、信が我が身を差し出したのは、きっと王賁に残されている時間が少なかったからに違いない。

友人だというのに、どうして二人はそんな大切なことを自分抜きで決断してしまうのかと、蒙恬は子供のように拗ねている自分を自覚し、そして恥じた。

少し言葉を選ぶように間を置いたあと、蒙恬はゆっくりと顔を上げる。

「…俺も、大人げなかったね。二人が死ぬかもって知って、怖くなったから…ごめん」

謝罪を受けた信は首を横に振った。

「お前は、悪く、ない」

「………」

薄く笑みを浮かべた蒙恬は彼女の冷え切った左手に自分の手を重ね、包み込むように握り締める。

「じゃあ、これで仲直り」

「……、……」

信もなんとか口角を持ち上げたものの、強烈な倦怠感のせいで、その手を握り返すことも出来ない。瞼が重く、すぐに目を閉じてしまう。

「信」

その様子を見た蒙恬が切なげに眉根を寄せて、信の手を握り直した。

「なにか、俺に出来ることある?」

自分に出来ることなら何でもしてあげたい。
それは友人として出来ることなら何でもやってあげたいという善意であって、決して見返りを求めるようなものではなかった。

「…風呂、入り、たい…」

信は瞼を閉じたまま、ゆっくりと色の悪い唇を開いた。

「えっ?お風呂?」

まさかそんなことを頼まれるとは思わず、蒙恬は呆気に取られる。

毒を受けてからずっと横になっていて、風呂に入れていないのだという。
これで信の性別が自分と同じだったのなら、もちろんと手を貸していたのだろうが、さすがに女性を風呂の介抱をするわけにはいかなかった。

信とは友人関係にあるが、異性であることには変わりない。もしもそんな現場を誰かに目撃されたら、確実に誤解されてしまう。

 

 

「いや、それは…ほら、今はふらふらだから、お風呂に入るより、拭いてもらったら?頼んで来るよ」

さりげなく入浴の介助を断って、別の提案をしてみる。

「…なら、からだ、拭いて、くれ…」

まさか頼まれることになるとは思わず、蒙恬はぎょっと目を見開いた。

「お、お湯を持ってくるのは頼んで来るけど、さすがにそれは、うん、俺はそういうのに不慣れだから、侍女にやってもらった方が良い」

体を拭くだけとはいえ、着物を脱がせなくてはならないのは同じだ。

女性の裸体を見ることに抵抗がある訳ではないのだが、蒙恬の中では女性が肌を曝け出すというのは、夜の二人きりの褥の中であると決まっていた。

看病の一環だと自分に言い聞かせても、やはり信の裸体を見ることには抵抗がある。きっと信は何も気にしないだろうが、蒙恬の中ではこれまで築いて来た友人関係に亀裂が入ってしまうのではないかという心配があった。

「汗かいて、気持ち悪ぃんだ…頼む…」

蒙恬の返事を聞いていないうちに、信は寝台の上で着物を脱ぎ始めた。

呼吸を圧迫させない目的で今は帯は閉められていない。胸元がはだけないように着物の内側に紐が取り付けられていて、その紐を解けばすぐに前が開くようになっていた。

「わわわッ!し、信!前隠して!」

普段と違って今はさらしも巻いていない信の胸が露わになり、蒙恬は驚いて両手で自分の目を隠す。

両手で目を覆った上に、蒙恬は強く目を閉ざして顔を大きく背け、絶対に見ない意志を訴えた。

「はあ?な、なんだよ、体、拭くだけ、だろ」

大袈裟と言っても過言ではないくらいに友人の裸体から目を背ける蒙恬に、信はもはやからかう余裕もなく、早くしてくれと催促する。

「いや、まずは湯の準備をしなくちゃいけないだろ!?風邪引くからまだ着てた方がいい」

「あー…それも、そうかあ…」

諭されるように声を掛けられて、信はようやく納得したように頷いた。
彼女の判断力が普段以上に鈍っているのは蒙恬も察していたし、もし体調が悪くなければ自分に体を拭いてほしいなどと頼むことはなかったかもしれない。

「そ、そう。だからまずは着物を着て…」

前が開きっぱなしになっている着物を何とか着直してもらおうと思ったのだが、信は「んー」と気怠げな声を上げる。

しかし、着物の紐を再び結ぶのも億劫なようで、信は胸元を露わにしたまま静かに寝息を立て始めていた。

「し、信ッ!そんな恰好で寝るなよ!」

僅かに目を開いた蒙恬が指の隙間から、まだ彼女が半裸であるのを見つけ、慌てて声を掛ける。

一夜を共にする美女だったなら喜んでその豊満な胸に飛び込んでいたが、信は昔からの友人だ。異性を相手にするのに慣れているはずなのに、どうしていいか分からず、蒙恬は困惑していた。

 

秦王の見舞い

その時、背後で扉が開く音がして蒙恬は反射的に振り返った。

てっきり信の様子を見に来た医者か世話係だろうと思っていたのだが、そこにいたのは秦王嬴政であり、蒙恬は息を詰まらせてしまう。

「だ、大王様ッ!?」

慌てて拱手礼をして頭を下げるものの、今度は冷や汗が止まらなくなった。

信と嬴政は親友で、彼女のために見舞いに来たのだというのはすぐに分かったものの、こんな状況で秦王が来るとは思わなかった。

「…何をしている?」

寝台の上で半裸で眠っている信と青ざめている蒙恬を交互に見て、当然の疑問を投げかけられる。

「おっ、恐れながら!あの、これには事情が…!」

毒で弱っており、抵抗も出来ない信を襲おうとしていたと誤解されても仕方のない状況だ。

元下僕の身でありながら、信が嬴政の親友であることは秦国では広く知られている。親友が寝込みを襲われていると誤解されたら、蒙恬の首どころか、蒙一族の末裔まで処刑にされてしまうかもしれない。

蒙恬は自分の名誉と首を守るため、即座に弁明しようとした。

「おー、政じゃねえか…悪ィけど、体、拭いて、くれねえか…」

どうやら見舞い客が増えたことに気づいたらしく、信が寝台の上からか細い声を掛けた。
その言葉を聞き、嬴政は呆れたように肩を竦める。

「お前というやつは…」

それから嬴政は自らの手で、乱れている信の着物を整えてやった。
大王自らが妃でもない女性の着物を整えるなど前代未聞だろう。相変わらずの態度に、蒙恬はあんぐりと口を開けていた。

もしも信の着物を整える嬴政の姿を昌文君が見たら、きっと彼は激昂するだろう。いくら信が毒に弱っていたとしてもだ。

汗でべたつく体が気持ち悪いから拭いてほしいと訴えた信に、嬴政はこれまでの経緯を察したのだった。

「毒に蝕まれていても中身は相変わらずだな。少しだけ安心した」

肩まで布団をしっかりと掛けてやりながら、嬴政は溜息交じりに呟いた。

「んー…相変わ、らず、難しい、こと、言ってんな…」

「いくら毒を受けて弱っているからといって、そのようなことで蒙恬に面倒を掛けるな」

蒙恬は供手礼を崩さず、恐れ多いと言わんばかりに頭を下げる。
多忙な政務の合間に、親友の顔を見に来たらしい嬴政が部屋を出て行ってから、蒙恬はようやく安堵の息を吐いたのだった。

 

 

その後、様子を見に来た医者から、入浴は体力を大きく消耗することを理由に禁じられ、代わりに侍女が清拭を行うということに話が決まった。

「風呂は…?」

医者とのやり取りを聞いていなかったのか、信が蒙恬の方を見る。

「しばらくはだめだって。侍女に頼んでおくから、あとで体を拭いてもらおう」

真っ青な顔に虚ろな瞳をしたまま信が頷いたので、蒙恬はこんな状態であと二日も耐えられるのだろうかと不安を覚える。

弱気になっている様子は見られないが、体が衰弱と疲弊しているのは誰が見ても明らかだった。

毒は彼女の体を蝕んでいく一方だ。
このまま体力だけでなく気力までも落ちてしまえば、王賁は助かっても、信が犠牲になってしまうかもしれない。
二人の友人として、それだけは何としても回避したかった。

先ほど様子を見に来た医者が置いて行った食膳を見て、蒙恬は信に声を掛ける。

「信、食事にしよう?」

「んー…飯は後でいい…」

いつもなら食事と聞いたなら目を輝かせて喜ぶというのに、今の彼女は少しも食欲がないらしい。休ませてあげたい気持ちもあったのだが、少しでも体力をつけてもらいたかった。

それに、きっと今少しでも食事をさせなければ、すぐに眠りに落ちてしまうに違いない。次に目を覚ました時、今よりも毒が進行しているのは間違いないだろうし、食べさせるなら今しかないと考えた。

蒙恬は寝台の傍に椅子を引き寄せて腰を下ろすと、粥の入った器と匙を手に取った。

「…食欲がないのは分かるけど、少しでも食べて」

粥をすくった匙を信の口元に近づける。すると、信が大人しく口を開けてくれたので、蒙恬はほっと安堵した。

口の中に粥を入れると、信がもくもくと咀嚼する。噛み砕かなくても飲み込めるほど柔らかく煮込んであるのだが、たった一口の粥を飲み込むまでにかなりの時間を要した。

「信、ほら、口開けて」

「……、……」

二口目の粥を口元に運ぶが、信はなかなか口を開けない。
食べたくないと拒絶をしているのではなく、すでに瞼が半分落ちかかっており、眠気に負けそうになっているのだ。

こんなにも弱っている信を見るのは初めてのことだった。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
宝石姫

 

蒙恬の看病

蒙恬は一度食事を中断し、匙と粥を机に置いた。

ほとんど意識の糸を手放しかけている信に向き直り、彼女の耳元に顔を寄せる。思い切り息を吸い込み、

「信、起きろッ!!」

「どわあッ!?」

耳元で叫ぶと、信が飛び起きた。

「な、な、なっ、何だよっ!?」

いきなり耳元で叫ばれて、半ば強引に起こされた信は蒙恬を見上げた。

いつも薄ら笑いを浮かべ、女性たちから黄色い声援を浴びているはずの端正な顔立ちの蒙恬が、珍しく怒りを剥き出しにしていたので、信は驚いた。

「王賁を助ける代わりに信が犠牲になるなんて、俺は許さない」

「……、……」

反論する気もなくさせるほど、蒙恬は低い声でそう言い放った。顔を真っ赤に染めて、肩で息をしている蒙恬を見れば、本気で怒っているのだと分かる。

それほどまでに蒙恬が怒りを剥き出しにしているのを見るのは初めてのことだったので、信は罪悪感に襲われた。

「…悪い…」

信は力なく謝罪をすると、気まずい沈黙が二人の間に横たわる。
わざとらしく溜息を一つ吐いてから、蒙恬は椅子に腰かけ直した。粥の入った器と匙を再び手に取る。

「それじゃあ、これ全部食べるなら許してあげる」

「………」

許してもらうために条件を飲むしかない。
食欲がないのは確かだが、これ以上蒙恬を心配させるわけにはいかなかったし、王賁の回復を見届けるためにも、少しでも食べて体力をつけなくては。

頷くと、蒙恬は匙で粥をすくって信の口元に宛がった。

「ほら、口開けて」

「う…」

こんな風に人に食事を食べさせてもらった経験がなく、戸惑ってしまう。

それに、名家の嫡男ともあろう男が、元下僕である信に看病をしている姿なんて見たら、きっと従者たちは驚くだろう。

「………」

食べてくれないのかと蒙恬が切なげに見つめて来るので、信は諦めて口を開けた。ぱくりと匙を口に含み、粥を啜る。

粥はすっかり冷めていたのだが、一口飲み込んだだけでも胃が温まるような感覚があった。

ずっと食事を摂っていなかったせいで、空腹だったことを思い出したのか、もっとよこせと腹の虫が鳴る。その音を聞いた二人は顔を見合わせて、小さく笑った。

信が粥を飲み込んだのを確認してから、蒙恬がすぐに二口目を差し出した。

「…なんか犬猫に餌付けしてる気分。変な感情芽生えそう」

「馬鹿、言うなよ。俺は、人間だ」

まだ少し食べたばかりだというのに、蒙恬の冗談にもちゃんと反応が出来るようになって来た。

本当ならこんな風に食べさせてもらわなくても良かったのだが、左手を上手く動かせないせいで、蒙恬の好意に甘えることにしたのだ。

 

 

こんな風に誰かに看病をしてもらうなんて、いつが最後だっただろう。

物心がついた頃にはもう親はいなかったし、下僕仲間であった漂と肩を寄せ合って生きてい
た。漂がこの世を去ってからは、天下の大将軍に一歩でも近づくために、武功を挙げるのに必死で、王賁や蒙恬に後れを取るものかと意固地になっていた。

特に王賁の前では欠点や弱みといったものを見せないように努めていた。生まれながらの身分差というものを口うるさく指摘する王賁に、これ以上馬鹿にされたくなかったのである。

共に武功を競い合う好敵手だったというのに、いつからか安心して背中を預けられる味方になり、今では肩を並べて酒を飲み交わす友人にまで関係が発展していた。

王賁を失いたくないという気持ちに嘘偽りない。
抗毒血清を作ると決めたときに、どれだけ苦しんでも王賁を救い出し、絶対に自分も生きると誓ったのに、危うく意志が揺らぎかけていた。

毒の進行によって、苦痛も比例していくことは事前に聞いていたものの、これほど辛辣なものだとは正直思わなかったのである。

蒙恬が喝を入れてくれなかったのなら、きっと今も食事を抜いて眠り続けていたことだろう。

「…王賁には、会いに行ったのか?」

なんとか粥の半分ほどを食べ終えた頃、信は思い出したように蒙恬に問いかけた。わざわざ宮廷に来たのは自分と王賁の見舞いのためだろう。

「ああ、ここに来る前に顔を見て来た」

粥を匙で掬いながら、蒙恬が失笑する。

「少なくとも、今の信よりは元気だった」

王賁の様子については医者から聞かされていたものの、蒙恬の目から見ても元気だったというなら、本当に回復へ向かっているに違いない。

「良かっ、た…」

安心するとまた瞼が重くなってくる。

「信、まだ残ってる」

まだ粥を食べ終えていないのに眠るなと叱られてしまい、信は苦笑を深めた。

自分の毒治療は王賁が治療を終えたあとだ。三人でまた酒を飲み交わす日々を夢見て、信はなんとか粥を食べ切った。

「それじゃあ、また明日も来るから」

粥を全て食べ終えてくれたことで蒙恬は安心したように微笑んだ。

「蒙、恬」

立ち上がった蒙恬を引き留めようと、信が右手を伸ばす。上手く力が入らず、彼の着物を掴むことは叶わなかったものの、用があるのかと気づいた蒙恬が顔を覗き込んでくれた。

「王賁には、薬の、ことを、言わないで、くれ」

王賁が飲んでいる抗毒血清が、百毒を受けた自分の血であることを知られたくなかった。

抗毒血清を作ると決めたのは自分の意志であり、誰に頼まれたものでもないし、決して王賁に貸しを作ったわけでもない。もちろん彼を救うために自分を犠牲にするつもりもなかった。

だが、王賁がその事実を知ればきっと憤怒するのは分かっている。こちらが何を言おうとも、王賁はきっと許してくれないだろう。彼が義理堅い男なのは、蒙恬も信も知っていた。

「…うん、わかった」

なにか蒙恬は考える素振りをみせたものの、信の気持ちを考慮して頷いて、静かに頷いてくれた。

「気をしっかり持てよ。王賁の治療が終わり次第、次はお前の番なんだ」

その言葉を聞いて、信は返事の代わりに何とか笑みを繕った。

こんなところで負けるわけにはいかないと何度も誓ったものの、蒙恬が部屋を出て行ってから結局、気持ち悪さに耐え切れず、食べ切った粥をすべて戻してしまうのだった。

 

五日目

その後、信は深い眠りに落ちてしまい、目を覚ますと五日目の朝を迎えていた。

この時には信の左手の感覚はほとんどなくなっており、指の曲げ伸ばしどころか、腕を持ち上げることも出来ないほど、左腕は指先まで醜く腫れ上がっていた。赤紫に腫れ上がった指はまるで人間のものとは思えず、化け物の手のようだった。

「……、……」

反対に、顔と唇はまるで死人のように血色を失っており、天井を見上げながら呼吸を繰り返すのがやっとである。

(今日で、何日目だ…?)

これまで感じたことのない強い倦怠感に、信は今日が何日目であるのか、どうして自分がここにいるのかも思考を巡らせることも億劫になっていた。

時折、瞼の裏に王賁の姿が浮かび上がる度に、信の意識は夢の世界から引き戻される。
嬴政や蒙恬とも約束したのに、こんなところでくたばる訳にはいかない。

(でも…)

しかし、信はいよいよ死の気配を察するようになっていた。

戦場で強敵と戦った時とは違う、静かに迫って来る死の気配に、信は成す術もなく、今では弱々しい呼吸を繰り返すのが精一杯である。

もしも自分の命を代償に、王賁が助かったとして、王賁がそれを知ったらどう思うだろうか。

相手に借りを作るのを良しとしない王賁のことだから、怒鳴りながら自分の亡骸をぶん殴るのではないだろうか。死者への冒涜だと化けて出た自分にも、怯えることなく掴みかかってくるかもしれない。

「…はは…」

乾いた笑いを浮かべ、信は王賁の無事を祈ることしか出来なかった。

 

後編はこちら

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昌平君の駒犬(昌平君×信)後日編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • めちゃ強・昌平君の護衛役・側近になってます。
  • 年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/特殊設定/媚薬/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は本編の後日編です。

 

主の失態

(…やられた)

屋敷へと帰る馬車の中で、昌平君が吐いた溜息は深かった。
今日も今日とて呂不韋の外交・・・・・・に同席させられたのだが、まさか酒に薬を盛られるとは思わなかった。

呂不韋だけが楽しめばいいものを、なぜ毎度自分を巻き込むのだろうか。女付き合いに一切興味のない昌平君を、呂不韋は定期的に妓楼に連れていく。

妓楼の女性たちは強い香を焚きつけた着物を身に纏い、髪に艶を出すために桂花や茉莉花といった花の香油を塗っている者がほとんどだ。

さらには、肌を白く見せるために叩くおしろいにも、原料となる鉛白の独特な匂いが混じっている。

ただでさえ強い酒の匂いが堪えるというのに、妓女の人数が増えるごとにさまざまな香りが入り交じり、気分を悪くするのがいつもの決まり事だった。

そんなさまざまな香りを漂わせる妓女たちをいつも周りに侍らせるだけでなく、その肩を抱いたり、膝に頭を乗せたり、抱き締める呂不韋は、もしかしたらとうの昔から鼻が利かなくなっているのではないだろうか。

昌平君はもともとこういった店に興味はなく、女の一夜を買うつもりなどないのだが、呂不韋は大の女好きであり、こういう場には頻繁に足を運ぶのである。

昌平君がこういった華やかな場を苦手としていることは、呂不韋はよくわかっているはずだ。
一人で楽しめばいいものを、自分を誘うのは嫌がらせとしか思えない。断れば後々面倒なことになる。

何度か理由をつけて断っていると、有無を言わさず女の一夜を買わされそうになったことは、不快な記憶として刻まれている。被害を最小限に留めるためには、大人しく付き合うしかないのだ。

妓楼に連れて来られた昌平君の過ごし方といえば、呂不韋が妓女たちと談笑している傍で、静かに酒を飲むだけだった。

もちろん傍についた妓女が酒を注いでくれるのだが、会話らしい会話は一切ない。昌平君の周囲だけが切り取られた空間にいるかのように無音だった。

昌平君が右丞相であり、軍の総司令官という高貴な立場であることは妓女たちも分かっており、さまざまな話題を振ってくれるものの、赤の他人に宮廷や執務に関しての情報を洩らす訳にはいかず、答える気はないことと態度で示してしまう。

…となれば、妓女が振ってくる話題も限られてくる。
当たり障りのない世間話にはもともと興味がないし、時間の無駄でしかない。妓女たちと会話が発展することは一度もなかった。

隣では呂不韋と妓女たちの談笑が盛り上がっていき、やがていつものように部屋を移動する。彼は商人から今の立場まで実力で昇格するほど優れた頭脳を持っているくせに、酔いが回ると、女の温もりを欲するらしい。

呂不韋が妓女と席を立てば、ここに留まる理由はもうないと、昌平君も遠慮なく帰宅出来るのだが、今回は普段と違う点があった。

 

 

いつもは隣についた妓女が酒を注いでくれるのだが、なぜか今日は呂不韋が酒を注いだのである。

普段は自分のことなど忘れたように、妓女たちと楽しく談笑しているはずの彼が、自ら酒を注いでくれたことに、昌平君は違和感を覚えた。

何か企んでいるようだと警戒したものの、昌平君は疑うことなくその酒を飲み干してしまった。

酒を飲んだあと、呂不韋は普段通り妓女たちと談笑していたものの、時々こちらを振り返っては体調に変化はないか尋ねて来るので、昌平君は違和感を確信に切り替えた。

ここ最近は呂不韋からの誘いを断っていなかったのだが、一向に妓女と盛り上がらないでいる自分に妙な気遣い・・・・・を起こしたのかもしれない。

このままでは、呂不韋の未だ明らかになっていない企み通りに事が進んでしまうと危惧した。

国政に関しての重要な執務があることを思い出したと切り出し、昌平君は呂不韋が呼び止めて来るのも無視して、早急に妓楼を後にしたのである。

この時すでに体に異変が起き始めていた。脈は早まり、酒の酔いとは違う、内側からじわじわと燻されるような火照り感があった。盛られたのは媚薬の類だろう。

妓楼についてから口にしたものといえば酒だけだ。そして普段と違うことがあるとしたら、呂不韋が酒を注いでくれたことだけである。

きっといつも通り酒を飲むだけの自分に、妓女の一夜を買わせようと呂不韋が酒に薬を仕組んだに違いなかった。

酒瓶を運んで来たのは、呂不韋と面識のない禿かむろ ※見習い芸妓であったことから、疑いなく飲んでしまったことが悔やまれる。

もしかしたら酒ではなく、酒を注いだ杯の方に細工をしていたのかもしれないが、どちらにせよ、気づかなかった自分の失態である。

 

 

呂不韋から逃げ切ったところで、口の中に指を突っ込んでみたものの、すでに症状が出始めていることから、酒と薬が体に吸収されてしまっていたようだ。吐き出しても効果は見られなかった。

吐き出しても効果がないのなら、大量に水を飲んでさっさと排泄するしかない。

待たせていた馬車に乗り込み、竹筒の水を飲み干すものの、移動中の馬車に備えてある水はこれだけだった。屋敷に到着するまでまだ時間はかかるし、そうなれば媚薬は完全に吸収されてしまうだろう。

呂不韋の企みを阻止できなかったことは腹立たしいが、今さら後悔したところでもう遅い。御者に急ぐよう指示を出し、昌平君は屋敷に戻ってからのことを考えた。

このまま帰宅すれば、確実に自分の駒犬である信を襲ってしまうと断言出来た。

屋敷に帰るのは遅い時刻になることは分かっていたので、先に眠っていろと伝えたが、従順なあの子は眠らずに待っていることだろう。
どれだけ眠くても、主が床に就くまで眠ることを駒犬自身が許さないのだ。

目を擦って、自分の帰りを待っている健気な姿を思い浮かべるだけで、昌平君はますます息を荒げた。

性欲に逆らえなかったという理由で、大切な駒犬に無理強いをさせるなど、飼い主失格だ。ならば性欲に打ち勝てば良いだけの話なのだが、一体どこで手に入れたのか、呂不韋が飲ませた媚薬はかなり強力なものだった。

「くそ…」

酒と共に飲まされたことで、早く効果が現れたのだろう。すでに昌平君の男根は着物の下で窮屈になっている。

時間が経てば薬も抜けるに違いないが、性欲は昂る一方だった。主からお預けを食らったときと同じく、どうしようもなくもどかしい。

「っ…」

拳を握って強く目を瞑り、なんとか性欲から意識を逸らそうと試みるものの、瞼の裏に浮かび上がるのは、やはり信の姿だった。

 

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主の失態 その二

「…!」

遠くから馬の蹄の音を聞きつけた信は、急いで屋敷の正門まで走り、馬車の姿を探した。

それまではほどよい疲労感・・・・・・・と眠気に襲われて、重い瞼を持ち上げるのがやっとだったのだが、主が帰って来る気配を嗅ぎつけただけで眠気は吹き飛んでしまう。

呂不韋の外交(という名の妓楼での接待)は夜遅くまでかかるのだが、いつもよりも早い時間帯だったので、もしかしたら昌平君ではないかもしれないと不安を覚えたものの、物凄い勢いでこちらに向かって来る馬車は間違いなく昌平君が乗っているものだった。

二頭の馬に鞭を振るう御者の手つきを見て、よほど焦っていることが分かる。何かあったのだろうか。
馬車が正門の前で止まると、御者がすぐに屋形の扉を開けた。

「…?」

普段なら颯爽と降りて来るはずの主が出て来ないので、信は思わず眉根を寄せる。
気になって中を覗き込むと、昌平君は椅子に腰かけたまま、前屈みになって荒い息を吐いていた。

「!」

呂不韋の外交からこんなに早く帰宅したことは初めてだったのだが、もしかしたら体調が優れずに早急に帰宅したのかもしれない。

信はすぐに中に入り込み、昌平君の腕を自分の肩に回して何とか立ち上がらせた。

「…信、放せ」

荒い息を吐きながら、昌平君が信の体を押しのけようとする。
苦しそうにしているものの、意識があることに安堵しながら、信は主の言葉を聞き入れずに馬車を降りる。

許可を得ていない勝手な行動だという自覚はあったものの、こんなに苦しそうにしている主を前にして、命令を待つ訳にはいかない。罰なら後でいくらでも受けるつもりだった。

いつも送迎をする御者も、信が昌平君の命令がない限り、言葉を発せないことは分かっているので、すぐに家臣たちに声を掛けに屋敷へと駆け出した。

寝室へ続く廊下を歩きながら、信はわざと大きな足音を立て、壁を何度も叩いた。

それは主の命令がなければ言葉を発せない信の合図であり、長年連れ添っている家臣たちもその合図を聞きつけて次々とやって来る。

火照った顔と荒い呼吸を繰り返している当主の異変に気付き、家臣たちがあたふたと侍医の手配をしたり、刺客に襲われたのかと不安を露わにしていた。

…もちろん強力な媚薬を飲まされて悶々としているだけなのだが、それを知っているのは昌平君本人だけで、信を含め、家臣たちは当主の危機だと疑わなかった。

 

 

(まずいことになった)

膨れ上がる性欲に苦悶しているのは事実だが、家臣たちの慌てぶりを見て、思ったよりも大事になっていることに昌平君は危機感を抱いた。

あれよあれよという間に侍医の手配までしてくれたようだが、媚薬の効果を打ち消す薬などあるはずがない。これは自分との長い戦いであると昌平君は眉根を寄せた。

「…大事ない」

寝室に運び込まれたあと、家臣たちを安心させる言葉をかけてみるものの、誰一人として聞き入れてくれない。

普段は自分の顔を見れば考えていることを読み込んでくれる信さえも、一体何を言っているのだと疑惑の眼差しを向けており、少しも信じてくれそうになかった。

たしかに、こんな真っ赤な顔をして、荒い息を吐きながら「何ともない」と言っても説得力は皆無だ。頭では理解しているものの、他に伝える術がなかった。
…布団を被せられたおかげで、下半身の主張には誰も気づいていないのは幸いであった。

「酒に酔っただけだ。一晩眠れば治るだろう」

苦し紛れの言い訳だと自覚はあったが、酒を飲まされたのは事実だ。

しかし、呂不韋に妓楼へ連れて行かれたことは家臣たちも知っているので、酒に酔ったという当主の言葉を聞き、誰もが腑に落ちたような表情を浮かべる。

昌平君は飲酒を習慣にしていないものの、酒豪である旧友との定期的な付き合いがあるせいか、それなりに酒は強い方であり、酔い潰れることは滅多にない。

もともと華やかな宴の場を得意としないし、右丞相と軍の総司令という立場であることから早急に指示を仰がれることもあるため、軽い酔いを感じた頃に飲酒を中断するようにしている。

しかし、誘いを断れない呂不韋によって、普段よりも多く無理やり飲まされたのだろうと家臣たちは勝手に納得し、同情までしてくれた。

…自分のことを健気に心配してくれる家臣たちに少々罪悪感を覚えるが、事実を打ち明けたところで困惑させるだけだろう。

侍医は昌平君の触脈を行い、脈が速まっていることを指摘し、他の症状はないか問診する。頭痛や胸の痛みはないことを知って、命に別状はないと判断したらしい。

昌平君の主訴通りに酒の酔いだろうと誤診してくれたおかげで、下半身に起こっている異常については気づかれずに済んだ。

酔いを早く覚ますには、ひたすら水を飲んで排泄を促すしかないと、侍医は酔い覚ましの煎じ薬と大量の水を用意してくれた。

「心配するな。なにかあれば信を遣わせる」

家臣たちはいつ何時も主の傍から離れない駒犬の忠誠心を信頼しているので、昌平君の言葉を聞いて、ようやく部屋を出て行ってくれた。

 

 

主の失態 その三

「………」

家臣たちが部屋を出て行ってから、信は寝台に横たわっている昌平君に近づくと、首筋にあたりまで顔を近づけてすんすんと鼻を鳴らした。

酒に酔ったと言ったくせに、主の体から酒の匂いをあまり感じられなかったので、本当に酔っているのか疑っているのだろう。

酒を飲んだのは事実だが、量としては呂不韋に注がれた一杯だけだ。昌平君から酒の匂いがしないのも当然だろう。

信は医学に携わっていないものの、主以外の人間を見分けられない目を補っているのか(昌平君以外の人間は顔に靄が掛かって見えるらしい)、観察眼ならぬ観察鼻を持ち合わせている。

「……、…」

信が顔をしかめる。疑惑の眼差しが強まったのは、昌平君の嘘を見抜いたことを物語っていた。

心配しているというよりは、不快感を露わにしている嫌悪の色が見て取れた。着物に染みついていた妓女たちの香りが気に障ったのかもしれない。

昌平君が呂不韋の外交を断れないことを、信も理解しているものの、執務以外で自分以外の誰かが主の傍につくことが許せないらしい。

外交に行く度に駒犬が拗ねる理由が、そんな愛らしい嫉妬だったと知った日には何度体を重ねても足りないほどだった。

自分たちが身を繋げるのに、薬など不要だ。この愛おしさがあれば、一つになりたい気持ちなど無限に湧き上がるのだから。

「…呂不韋に薬を盛られた」

「!」

正直に白状すると、信がはっと目を見開いた。

「待て。行かなくていい」

すぐに侍医のもとへ向かおうとする彼の手首を掴み、昌平君は腕の中に閉じ込める。赤く火照った体に、自分よりも体温の低い肌が気持ちが良かった。

「……、……」

横たわる昌平君の体に圧し掛かるような体勢になり、信が困ったように眉を寄せる。これほどまで苦しんでいるのだから休ませてやりたいという気持ちもあるのだろうが、昌平君の両腕は信の体を離さなかった。

それに、何の薬を盛られたのか気になるようで、信の視線が狼狽えている。

「安心しろ。毒の類ではない」

命に別状はないと侍医も診察していたし、毒ではないと聞かされて安心したものの、信の視線はなにかに導かれるよう下がっていった。

「…!?」

密着していることで、硬く張り詰めているなにかが触れて、その正体に気づいた信がぎょっとした表情になる。

布団越しとはいえ、何度もその身に咥え込んだことのある主のそれ・・に、信が気づかない訳がなかった。

言葉を発さずとも、表情を見れば信が何を考えているかなどすぐにわかる。彼は顔に表情が出やすいのだ。

自由に発言出来るはずの昌平君の方が、感情に表情が伴っていないせいで、何を考えているか分かりにくいと蒙恬から指摘されたのはつい最近のことであった。

「っ…!」

主の顔と下半身に視線を交互に向け、薬を飲んでいないはずの信の顔も、昌平君と同じように赤く染まっていく。主が媚薬を飲まされたのだと気づいたようだった。

 

何とか呼吸を整えようとするが、媚薬の効果はまだ切れそうになかった。しかし、このまま信と密着していると、性欲に負けてしまいそうだ。

普段は褥を共にしているが、今夜だけは別の部屋で休むように指示を出そうとした時、体を起こした信が布団を捲り上げたので、昌平君はまさかと顔をしかめる。

その予想は的中し、次に信は帯を解こうと手を伸ばしたのである。

「信、よせ」

駒犬の手を抑えようとするのだが、媚薬で火照る体は倦怠感も伴っており、普段よりも反応が遅れてしまう。

信は慣れた手つきで帯を解くと、無遠慮に着物を開いて、硬く張り詰めた男根の前に身を屈めたのだった。

切なげに眉根を寄せるその表情を見る限り、悪戯やワガママで困らせているのではなく、薬で苦悶している主を楽にしてやりたいという慈愛が見て取れた。

「信っ…いい加減に、」

やめさせようとしたのだが、媚薬で敏感になっている先端に温かく染み渡るような感触が走り、言葉が途切れてしまった。信が鈴口を掃くように舐め上げたのである。

「ん…」

柔らかい唇で先端をやさしく啄まれる。あたたかい口腔の粘膜に亀頭が包み込まれると、反射的に切ない溜息を零してしまう。

頭を動かしてゆっくりと咥え込み、優しい舌使いが陰茎を撫でつけた。男根が唾液塗れになったあと、信は一度唇を離して、陰茎を優しく握り込んだ。
亀頭部と陰茎のくびれ部分や裏筋のあたりを扱きながら、時折、熱い吐息を吹きかけられる。

「はあっ…」

雲の上を歩くような高揚感に、思わず喉が引きつり、腰が落ち着かなくなる。

こんなにも敏感になっているのは媚薬のせいだと理解しているものの、この調子では一度達したところで性欲は落ち着きそうもない。

もしも理性が効かなくなったら、大切な駒犬を乱暴に扱ってしまいそうで、昌平君は歯を食い縛って快楽を耐えた。

「信、もう放せっ」

余裕のなさを声と表情に出しながら、信の体を突き放そうとしたのだが、

待て・・

「ッ…!」

信から急に低い声で命じられ、昌平君は反射的に手を止めてしまう。

体が無意識で命令に従ってしまったその瞬間、二人の主従関係は本来のもの・・・・・に逆転するのだった。

「言い訳は聞かない」

僅かに怒気が含む低い声を向けられて、咄嗟に昌平君は頬を引きつらせた。

飼い主の立場に戻った信は、その口元に妖艶な笑みを浮かべる。男根を弄ぶ手指の動きにも淫蕩さが増したのはきっと気のせいではないだろう。

まず感じたのは、喜悦よりも危機感であった。

「…呂不韋の企みを見抜けなかったのは、たしかに私の責だが、決して間違いは犯していない」

喉から押し寄せて来たのは、主からの信頼を失われないための、事実を織り交ぜた主張である。

自分が呂不韋の外交を断れないことを信も分かってくれているはずだし、妓女と一夜を共にしてないことは、早急に帰還したことが何よりの証拠である。

むしろ自分は被害者で、あれは不可抗力だったと無実を訴えながら慈悲を乞う昌平君に、信の瞳がにたりと細まった。
こめかみに青筋が浮かび上がっているのは見間違いではないだろう。

「油断したお前が悪い」

慈愛に満ちた眼差しではなく、扇情的なその熱っぽい瞳を向けられて、昌平君はますます頬を引きつらせる。

躾なのか、仕置きなのか、八つ当たりなのか、それとも全てか。ともかく、昌平君は信の中の苛立ちを感じ取り、身の危険が迫っていることを察したのだった。

 

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少しざらつきのある舌腹で亀頭部を擦られたあと、尖らせた舌先が鈴口を穿るように突かれる。

「っ、く…」

情けない声を上げないように歯を食い縛る昌平君を、信がその瞳に喜悦を浮かべて、上目遣いで見つめている。

「ん、ん」

涎じみた先走りの液をちゅうと吸い上げると、信は頭を前後に動かしながら、陰茎に舌を這わせる。

「はあっ…」

唇が覆い被さって来て、あたたかい感触に包まれると、無意識のうちに熱い吐息を零してしまう。

口淫をしている最中に、頬にかかる髪を邪魔だと耳にかける仕草さえも昌平君の情欲を煽った。

性欲と感度が高まっているせいで、普段よりも早く射精の衝動が駆け上がって来る。

しかし、ここで安易に達してしまうなんて、男としての尊厳に傷がつく。恐らく信の狙いはそれだろう。油断して媚薬を飲まされた自分を行動で責め立てているのだ。

「く、…ぅ…」

主の思惑を阻止するために、顎が砕けそうになるほど歯を食い縛って、昌平君は吐精感を堪える。

自分が負けず嫌いな性格だと知ったのは、今のように本来の主従関係が戻った時、信に指摘されたからだった。

必死に吐精を堪える昌平君に、信が男根を咥えながら挑発的な視線を向ける。

普段は駒犬として大人しく従っているせいか、本来の主従関係に戻ると、信は本当の飼い主は自分であることを知らしめようと、やや威圧的な態度を取ることがある。まさに今がその時だった。

男根を口から離した信は、まるで玩具でも弄ぶかのように、指先で鈴口をやさしく突いて反応を楽しんでいる。そんな僅かな刺激にさえも、快楽の波として押し寄せた。

互いの唇が触れ合いそうな距離で、信は駒犬が苦悶する表情を見つめながら、男根を扱き続ける。

「っ…う、…くっ…」

血走った眼で見据えるものの、信の愉悦を煽るだけだった。
強弱をつけた刺激を与えられ続けていき、堪え切れないほどの大きな吐精感が押し寄せて来た時に、ようやく信は手を放してくれたのだった。

「はぁッ…」

安堵したのは束の間で、信は口淫を再開するつもりもなければ、もう男根に触れようともしない。

まさかと息を飲んだ昌平君から目を逸らし、信は興味を失くしたように立ち上がる。

「っ…!」

そのまま部屋を出て行こうとする信の手を掴んだのは、ほとんど無意識だった。

目が合うが、信は手を振り払うこともしなければ、新たな命令を下すこともしない。その表情に嫌悪の色が浮かんでいないことに安堵し、昌平君は掴んだ手を引っ張って、信の体を抱き締めた。

一言でも拒絶すれば、昌平君が従うしかないことを信も分かっているだろう。

それをしないということは、自分と同じで、きっと信も続きを期待しているのだと疑わなかった。

 

 

信は昌平君に跨ると、中途半端に脱がされていた着物の衿合わせに手を掛けた。

胸板を確かめるようにまさぐられ、昌平君はそれを合図に信の着物の帯を抜き取った。躊躇うことなく、唇を重ね合いながら、お互いの着物を脱がせ合う。

「ふ…ぅ…」

信の舌使いから焦燥感が感じられた。早く欲しいと訴えているのはすぐに分かった。唇と舌を絡め合うだけで、腰が蕩けてしまいそうになる。

着物を脱いで露わになった信の肌には、先日昌平君がつけた赤い痣がまだ残っている。体を重ねる度に、もっと信を欲してしまう。自分のものだと証を残したくなる。

駒犬という立場で烏滸おこがましいが、他の誰にも首輪と引き紐を渡さないでくれと懇願してしまうのだ。

それが醜い独占欲だというのは自覚しているが、気持ち一つで抑制出来るものではない。それほどまでに信の存在は、昌平君の中で強く根を張っているのである。きっと信も同じだろう。

「ん、っ…!」

上体を起こした昌平君は信の首筋に唇を押し付け、舌を首筋に這わせる。それから耳の中をくすぐるように尖らせた舌先をねじ込むと、信がぶわりと鳥肌を立てた。

「は、ぁ…ぁ…」

耳の粘膜をくすぐっているだけだというのに、信の体が小刻みに震え始める。

足の間にあるそれが ※ズボンを押し上げているのを見て、昌平君は自分に跨っている信の肩を押しのけて、そっと寝台に横たえた。

「あっ、おいッ…!」

後ろに倒れ込んでしまった信が驚いているうちに、昌平君は褲を乱暴に脱がしてしまう。

自分と同じように、信の男根は硬く張り詰めていて苦しそうだった。駒犬の視線が下肢に向けられたことに気づいたのか、信は焦ったように口を開く。

「あっ、待っ…!」

命令されるよりも先に、昌平君はその男根を口に咥え込んでいた。
待てと命じられたならば、即座に手を止めなくてはいけないのだが、主から命令を下される前に動けばいいだけのことだ。

この手法を用いるのは初めてではない。ずる賢い知恵を得たものだと信から呆れられていたのだが、昌平君は構わなかった。

「んんっ…!」

陰茎の根元に指を絡ませながら、先端に舌を這わせると、信の体が仰け反った。すでに硬く張り詰めていた男根はあっという間に昂り切る。

すぐに「待て」が来ると思ったのだが、意外にも信は口に手で蓋をした。声を堪えるのは、従者たちに聞かれないようにするためなのだろうか。

「ぁっ…ん…!」

口の中で舌を動かす度に信の腰が震えた。
睫毛を恥ずかしげに伏せ、切なげに顔を歪める主を見て、昌平君はもっと乱れさせてやりたいと情欲を膨らませる。

 

 

主の失態 その四

頭を前後に動かして、口の中で信の男根を扱き始めると、信が大きく首を横に振った。

「だ、めだ…!待て…っ!」

口に蓋をしていた手指の隙間から、苦しげな声が零れる。主から待てと命じられた昌平君は諦めて口を離した。

身を捩って昌平君の下から抜け出した信は、彼の肩を乱暴に掴む。横になれという合図だった。

命令をされる前に行動を起こすのはやり過ぎただろうかと、内心反省しながら仰向けに横たわると、信が再び腰の上に跨って来る。

何をするのかと見据えていると、驚くべきことが起きた。
まだ後孔に触れてもいないというのに、信が昌平君の男根を咥え込もうとしていたのだ。

「信、待て」

今は自分が駒犬の立場だ。信に「待て」は通用しない。

しかし、慣らしもしていないのに、自分を欲していることによほど余裕がないことが分かる。何度も男根を腹に受け入れているとはいえ、入り口は狭いし、女と違って自ら濡れる機能を持っていないので、無理をすれば裂けてしまう。

昌平君が止めようとしたものの、すでに信は彼の男根をしっかりと掴んでいて、硬い先端を自分の後孔に導いた。

「ふ…ぅ…は、ああぅ…」

硬い男根の先端が後孔を押し入ると、信が溜息のような吐息を洩らす。

粘膜の温かい感触に包まれて、信がゆっくりと腰を下ろしていき、騎乗位の姿勢で男根を奥へと引き込んでいく。
潤み切った肉癖が蠢くように男根を包み込むこの感覚は、何度味わっても、男に狂気じみた快楽と喜悦を与えてくれる。

「うぅ、…ん…!」

男根を全て腹に咥え込むと、信がその瞳にうっすらと涙を浮かべていた。身を繋げると信はよく瞳に涙を溜める。その表情が男の情欲を煽ると知っているのだろうか。

「ふ、はぁ…ぁ…」

腹に咥えたばかりの男根が馴染むまで、信は呼吸を整えていた。

昌平君自身もまだ動くつもりはなかったのだが、ひとつ気になることがあり、ゆっくりを身を起こすと、信の腰を包み込むように優しく掴んだ。

 

 

女と違って自ら濡れることのない其処は、なぜか奥までよく濡れていた・・・・・・・・・・。いつもは固く口を閉ざしているはずなのに、入り口も中も、柔らかく男根を包み込んで来る。

「…私が帰るまで、自分で中を弄っていたのか?」

「ッ」

それはほんの些細な疑問だったのだが、信がぎょっとした表情で視線を左右に泳がせる姿を見れば、正解を聞かずとも理解した。

普段は中に唾液や香油で潤いを与えながら、時間をかけて存分に解してから挿入するのに、その手間を省いたのは、信自身が昌平君を受け入れる準備をすでに済ませていたからだったのである。

「ぁ…う…」

僅かな明かりだけが部屋を照らしているというのに、信が湯気が出そうなほど顔を赤らめているのはすぐに分かった。

呂不韋の外交に行くたびに、信は必ずと言っていいほど不機嫌になる。昌平君が誘いを断れないことも知っているので、苛立ちをぶつける先がなく、態度に出てしまうのだろう。

自分の帰りを待ちながら、どんな気持ちで後孔を弄っていたのだろう。
情欲に負けて淫らな行為に耽るだけではなく、きっと自分のことを考えていたに違いない。

信の心情を想像するだけで、昌平君は莫大なる優越感に陶酔する。酒の酔いとは比べ物にならいほそ、気分の良い酔いだった。

「寂しい想いをさせたな」

口角がつり上がりそうになるのを堪えながらそう言うと、それまで顔を赤らめていた信が急にむくれ顔になった。

「わかってる、…から…」

一人でいるときの不安や寂しさを押し隠そうと平静を装っている姿に、昌平君の胸は締め付けられるように痛んだ。

しかし、信も昌平君の立場を理解しており、自由に発言が許される飼い主の立場に戻ってもそれを訴えることはない。

普段は駒犬としての責務を全うし、気丈に振る舞って見せるものの、それはただの虚勢だ。

呂不韋の誘いを断れないとはいえ、寂しい想いをさせるだけでなく、我慢までさせてしまっていることに、昌平君は改めて罪悪感を覚えた。

「信」

「あ…」

繋がったまま、両腕でしっかりと信の体を抱き締めて肌を密着させる。犬らしく頭を摺り寄せると、信が少し躊躇いながら頭を撫でてくれた。

上目遣いで見上げると、信は恥ずかしそうにしながらも、両手で頭を抱き締める。視線が絡まり合い、引かれ合うように唇を重ね合った。

 

 

「ん、ぅう、んっ」

唇と舌を絡ませながら、信は腰を前後に動かし始めた。ぐずぐずに蕩け切った媚肉が男根を締め付けて来る。何度も繋がったことで自分の形を覚えて、嬉々として締め付けて来るのだと思うと、ますます男根が熱く昂ってしまう。

「ふあ、あぁ…」

腹の内側を擦られ、気持ちよさそうにうっとりと目を細める。口づけをしながら、夢中で腰を動かしているせいか、息が続かず、信は体を慄かせた。

「はあっ、ぁ、んっ、ぁあっ」

前後に動かすだけでは物足りなくなったのか、今度は寝台に足裏をつけて腰を上下に揺すり始める。寝台の軋む音に、信の喜悦交じりの嬌声が混じった。

動けという指示をされない以上、昌平君は主に身を任せるしかないのだが、あまりの気持ち良さに頭の芯までもが痺れて来る。

もうこれ以上ないほど信のことを求めているというのに、淫らな姿を目の当たりにするだけで、ますます情欲が駆り立てられる。

首輪と引き紐だけじゃ足りない。このまま体だけでなく、本当の意味で一つになってしまいたいという恐ろしい気持ちが膨れ上がっていく。

頭の中でふつりと何かが切れた音がして、気づけば昌平君の両手が信の腰をしっかりと掴んでいた。信の腰の動きに合わせて、下から突き上げるように腹の内を穿つ。

「あッ、また勝手に…!」

命令を出していないのに勝手をする駒犬を叱りつけるように、信が目をつり上げた。腰を掴む両手を外そうとするものの、奥を抉ってやると、手指から力が抜けてしまう。

快楽に打ちひしがれる主の姿に、もう制御が効かなくなってしまい、昌平君は勢いのまま信の体を押し倒した。

「悪く思うな」

薬のせいだと言い訳がましい謝罪をし、昌平君は獣のように腰を前に突き出した。

「んううっ、あ、んっ、はあっ」

喘ぎ声と共に、熱い吐息が鼻を抜けた。切羽詰まったその声さえ、昌平君の欲望を煽る。

「っ…!」

息を止めて怒涛の連打を送り込むと、腕の中汗ばんだ体が大きく仰け反った。

「あっ、も、もう…、――ッ!」

焼いた鉄でも押し当てられているかのように、信が必死の形相で身を捩る。内腿を生暖かいものが濡らす感触があって、絶頂を迎えたことが分かった。

連動するように男根を痛いくらいに締め上げられる。絶頂の余韻に打ち震える信の体を抱き押さえながら、頭の芯まで快楽が突き抜ける。

「くッ…」

熱い粘液が男根の芯から駆け上がって来る。目が眩んでしまうほどの衝撃に襲われ、信の腹の内に熱い精を注いだ。

 

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飼い主と駒犬の失態

熱い子種が腹に注がれるのを感じながら、信は絶頂の余韻に浸りながら息を整えていた。

自分の苗床でその子種が実ることはないが、自分の体で昌平君を絶頂に導くことが出来た何よりの証であり、幸福だと感じる。

今も腹の内に昌平君の男根を感じながら、信は静かに目を伏せた。

「…信、大丈夫か?」

幸福感で胸が満たされると、なぜか涙が溢れてしまう。涙を流す信を見て、心配そうに昌平君が顔を覗き込む。

媚薬を飲まされて苦しい想いをしているのは昌平君の方なのに、こんな状況でも自分の心配をする駒犬に、信は胸が締め付けられた。

「っ…」

昌平君の頭を掻き抱き、信は腰に脚を絡ませる。
自分こそが昌平君の飼い主だというのに、駒犬を演じる期間が随分と長かったせいか、甘える方が得意になっていた。

「…ん?」

吐精して少し萎んだはずの男根が、また腹の内側を押し広げるように硬くなったのを感じ、信は思わず目を開いた。

咄嗟に昌平君が目を逸らしたのを見ると、どうやら勘違いではなかったらしい。まだ媚薬の効果は健在なのだ。

気まずい沈黙が二人の間に横たわるものの、信は昌平君の体を押しのけることはしなかった。

「…ははっ、仕方ねえな」

諦めたように信が笑い、昌平君の背中に回した腕に力を籠めた。

「………」

目が合うと、昌平君から許しを強請るような眼差しを向けられる。
絶頂を迎えたばかりでまだ息も整っていないこともあって、随分と余裕のない表情だった。昌平君のこんな弱々しい姿は自分しか知らないだろうと思うと、優越感を覚えてしまう。

「…良いぞ」

信が許可を出すと、昌平君は止めていた腰を再び動かし始めるのだった。

媚薬の効果が消えるまで、今日は終わらないだろう。
そんなことになれば二人とも起きられなくなって執務が溜まり、困るのは昌平君自身だというのに、信も湧き上がる情欲を抑えられなかった。

 

…結局、朝方まで行為が続いたのは、媚薬の効力がそれほど強力だったのか、それとも媚薬の効力が消えてもなお、駒犬の性欲が消退しなかったからなのか、気を失うように寝入ってしまった信にはわからなかった。

 

おまけ後日編「~好敵手の失態~(昌平君×信←蒙恬)」(7900文字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

このシリーズの番外編①はこちら(昌平君×信←桓騎・現在連載中)

The post 昌平君の駒犬(昌平君×信)後日編② first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/ギャグ寄り/野営/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

恋人の来訪

目を白黒させながら、信は必死に桓騎の腕の中でもがいていた。

仲間たちが信の悲鳴を聞いて駆け付けぬように、桓騎はずっと彼女の口に蓋をしたままだし、反対の手は着物の中で好きに動いている。

まさかこんなところで恋人に寝込みを襲われるだなんて誰が想像出来ただろう。

桓騎と体を重ねることは嫌いではないが、だからと言ってどんな状況であってもそれが許されるわけではない。
そもそもどうして彼がここにいるのだろうか。

「んー!んうーッ!!」

「いってーな」

口に蓋をする手に噛みつくと、桓騎は痛みに手を離した。その隙を逃さず、彼の腕を振り解いて立ち上がり、秦王から授かった剣の切っ先を突き付ける。

「な、なな、何しやがんだッ!?」

動揺のあまり、切っ先がぐらぐらと揺れ、狙いが少しも定まらない。本当に傷つけるつもりはないのだが、一先ずは距離を取って心を落ち着かせたかった。

くっきりと歯型が刻まれて、わずかに血が滲んでいる手の平を不機嫌に見下ろしながら、桓騎もゆっくりと立ち上がる。
これ以上彼がこちらへ近づかないように剣を突き付けながら、一定の距離を保っていたが、未だ信の混乱は解けずにいた。

(なんで桓騎がここに!?)

幻かと思ったが、本当に目の前に桓騎がいるのだ。しっかりと二本足で立っているし、何より自分の体に触れていたのだから、絶対に幻の類ではない。

「…お頭自ら来たってことは、やっぱりそういうことっスか?」

「ぎゃあッ!?」

気配もなく、いつの間にか那貴が二人のすぐ傍に立っていて、信は悲鳴を上げて飛び退いた。

まるで桓騎が来るのを予想していた・・・・・・・・・・・・・かのような発言だったが、そんなことには気づかず、信は片手で剣を構えたまま、反対の手で乱れた着物を整える。

慌てふためく信に一瞥もくれず、那貴は桓騎が質問に答えるのを待っているようだった。

「…趙の宰相に好き勝手させるのは癪だからな」

肩を竦めるようにして、桓騎が笑った。

桓騎が、趙の宰相――李牧――の存在を口に出したことに、信の口角が引きつってしまう。

数年前の秦趙同盟の際、信は李牧と一夜の過ちを犯してしまい、それからというものの、李牧の名前を聞く度に、信はあの夜のことを思い出すようになっていた。

撤退命令に不安を覚えた河了貂が、李牧のことを話していた時もそうだった。

元はといえば、あれは呂不韋の姑息な企みによる暗殺計画で、信も李牧を助けたことに後悔などしていないのだが、そのあとのことは不可抗力だったと主張できる。

暗殺に使用されるはずだった鴆酒を奪い、全て飲み干したのは確かに自分だ。しかし、副作用は自分の意志一つでどうこうできるものではない。

翌朝になってから李牧と一夜を過ごしたことを激しく責め立てた桓騎も、こちらの言い分も聞いてから判断するべきだったと思う。

どうやら未だに桓騎はその時のことを根に持っているようで、いつも余裕を繕っているだけで、案外嫉妬深い男なのだという新たな一面を知るのだった。

 

このシリーズの番外編①(李牧×信)はこちら

 

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ようやく鼓動が落ち着いてから、信は咳払いをして桓騎に向き直った。

「色々と聞きたいことはあるけどよ…なんでお前がここにいるんだ?」

軍の総司令官を務める昌平君の指示でやって来たわけではないのは確かだろう。昌平君から撤退するように飛信軍に指示が出ていたのだから、桓騎軍を向かわせるはずがない。

しかし、桓騎の口から李牧の名前が出たことや、彼がここにやって来たということは、もしかしたら独自に戦の気配を嗅ぎつけたのかもしれない。

那貴が険しい表情を浮かべて、桓騎の返答を待っている。瞬き一つ見逃すまいとしているのは、桓騎の思考を読み取ろうとしているのだろうか。

「たまには一人で馬を走らせたかっただけだ」

しかし、桓騎は本当に散歩でもしていたような、軽い口調で答えたのだった。

散歩と呼べる距離でもないし、敵国との国境は遠乗りに選ぶ地でもない。そこで信は桓騎が一人・・と言った言葉に思わず大口を開けた。

「…お前、まさか一人でここまで来たのかッ!?」

てっきり重臣たちを引き連れて軍を動かしたのかと思っていたが、そういえば大勢の軍馬が移動するような地響きは感じなかった。もしも大勢が近づいて来たのなら、すぐに気配を察知出来たはずだ。

しかし、秦の大将軍の一人という立場で、護衛も連れずに単騎でここまでやって来たという桓騎の独断に、信はこめかみに青筋を立てた。

「一人で来るなんて危険なことすんなよ!」

どうやら単騎でやって来たことに信が腹を立てるのは予見していたのか、桓騎はふんと鼻で笑う。

「ガキじゃねえんだ。別に問題ねェだろ」

「なんかあったらどうするんだよ!」

「何もなかったからここにいるんだろうが」

売り言葉に買い言葉だ。
確かに怪我一つなく、ここまで到着したのだから、桓騎の言葉は事実なのだが、それでも納得いかないと信は食い下がる。
軍の秩序を乱したと高官たちから責められるのは、他でもない桓騎自身なのだから。

「まあまあ、それは後で良いだろ」

ケンカの火が大きくなろうとしていることを察した那貴が穏やかに二人の間に入った。

感情論を訴える信と正論を突き付ける桓騎の喧嘩は誰かが間に入るか、返す言葉をなくした信が「もういい!」と怒鳴って喧嘩の舞台から降りるか、激昂のあまり手を出すかしないと終わらないのである。

滅多に感情的になることのない桓騎だが、愉悦は別だ。

信をからかうのが楽しくなってくると、わざと正論で痛いところを突いて、もっと彼女の反応を見ようとする。
それを悪い癖だと自覚しているのかは分からないが、とにかく桓騎は相手の感情を煽るのが好きらしい。

たとえ好きな女であっても、相手が嫌がることをすればするほど、桓騎の心は潤うのだろう。
きっとこの中華全土で、誰よりも心が歪んでいると言える。

…最終的には信の逆鱗に触れ、顔も見たくないと言われて、屋敷に行っても追い返されて、ご機嫌取りに苦労することになるのは目に見えているというのに、何度経験しても桓騎は飽きないようだ。

どうして二人とも学習しないのだろうと、過去に那貴が頭を抱えたのは一度や二度ではない。

唯一救いなのは、信が単純な性格であることだ。喧嘩別れをしても、いずれ時間が解決する。どれだけ激昂したとしても、美味いもので腹を満たして一晩ぐっすり眠れば、信の怒りは大抵鎮まるのである。

彼女がそんな性格だからこそ、二人の関係は成り立っていると言っても過言ではない。

しかし、いくら信とはいえ、桓騎の顔を見れば怒りを再燃することだってある。
ご機嫌取りに訪れても追い返されてしまい、信と会えない期間が長引くことで桓騎の不眠症が再発してしまうので、結果的には周りが気苦労することになるのだ。

面倒臭い二人の喧嘩を早々に終わらせるには、第三者が介入するしかないのだと、那貴は以前から知っていた。ちなみにこれは桓騎軍の重臣全員が共有している知識である。

 

作戦会議

その場に座り直した桓騎の前に、那貴が地図を広げる。地図にはこの周辺の地形が記されていた。

一人でここに来た本当の目的も、桓騎は何も言っていないというのに、まるで那貴は彼の考えを読んだかのように行動をしていた。もともと桓騎の下についていたこともあって、勝手が分かるのだろう。

「こっちの撤退はいつだ?」

桓騎が地図に視線を向けながら問いかけた。

「え…三日後の朝だけど…つーか、なんで俺らが撤退すること知ってんだよ」

撤退するよう指示が記された書簡が届いたのはつい先ほどのことだったのに、どうして彼が撤退することを知っているのだろうか。

問いかけても桓騎は答えない。地図から視線を離さず、顎に手をやって何かを考えている。
地図を挟んで、桓騎の向かいに腰を下ろした那貴が声を掛けた。

「この辺り一帯、燃やすとヤバいあの植物が生い茂ってます」

夾竹桃キョウチクトウか。雷土が死にかけたやつだな」

雷土が死にかけたという物騒な言葉に、信がぎょっとする。恐らくは先ほど那貴が教えてくれた、桓騎軍の国境調査中に起こった話だろう。

どうやら那貴が教えてくれたあの植物は夾竹桃というらしい。確かに竹のように長い葉と、桃のような花をつけていた。その特徴からつけた名前なのだろう。

桓騎の返事を聞いた那貴は、飛信軍が拠点としているこの地の辺りを、円を描くように指でなぞった。

「こっからこの辺りまでびっしりと育ってました」

「俺たちが国境調査をした時にはなかったはずだ。そこまで繁殖力の強ェやつじゃねえから、誰かが栽植した・・・・・・・んだろ」

桓騎の予見に、那貴はやはりそうかと頷いた。

話についていけない信は戸惑ったように二人を見つめることしか出来ない。しかし、桓騎はそんな彼女へ律儀に状況説明をすることもなく、那貴に問いかけた。

こっち飛信軍の人数は?」

「国境調査っていう名目なんで、三百ですね。向こう趙国に気づかれないように、五十ずつに分けて、拠点も分散してます」

こちらの状況を知った桓騎が僅かに口角を持ち上げた。

「なら、めでたく三日後に全滅・・・・・・だったな」

 

 

全滅という言葉を聞き、信と那貴はまさかと目を見開いた。

「は…何言ってんだよ!?」

国境調査を始めてから趙の動きは抜かりなく監視しているが、戦になる気配など微塵も感じられない。
だというのに、三日後にこちらが全滅するとは何を根拠に言っているのだろうか。冗談なら質が悪い。

「全滅っつったんだ。ま、お前は利用価値があるから、生け捕りにされてただろうが、そうなったら舌噛んで死んだだろ」

桓騎といえば、その発言を撤回するつもりはないようだった。

それどころか、まるでこの先のことを全て予見しているかのような桓騎の口ぶりに、信と那貴は唖然とする。

「ふ、ふざけんなよッ!なんで俺たちが全滅なんて!」

桓騎の言葉を受け入れられず、信は顔を真っ赤にして怒鳴った。

国境調査は抜かりなく行っていたし、趙国が軍を動かすような気配もなかった。もしも夾竹桃の毒性を知らずに薪代わりにしていたのなら納得はするが、それだって那貴が忠告してくれたおかげで回避出来た。
だというのに、三日後にこちらの軍が全滅するなんて信じられるわけがなかった。

今にも桓騎の胸倉に掴み掛かろうとしている信に、那貴が落ち着けと肩を掴む。

「お頭がここに来た本当の目的は、俺たちが全滅するのを阻止するため…ですよね?」

「は…?」

なぜか薄ら笑いを浮かべながら那貴が桓騎に問いかけたので、信は頭に疑問符を浮かべた。

「那貴?なに言ってんだよ」

意味が分からないという信に、那貴は困ったように肩を竦める。

「信…お前、これだけお頭に溺愛されてるって言うのに、お頭のことを全然分かってないんだな?」

「は…はあッ!?」

溺愛という言葉に反応するように、信の顔が湯気が出そうなほど真っ赤になる。

自分と桓騎の関係は公言しているつもりはないのだが、頻繁に彼の屋敷を出入りしていることから、すでに仲間内には周知の事実として広まっているようだった。

桓騎は那貴の言葉を否定も肯定もしなかったのだが、その口元にはいつもの笑みが浮かんでいる。

どれだけ不利な状況であっても、彼を信じていれば全て上手くいくと、不思議とこちらも勝気になってしまう、あの魅力的な笑みだった。

「…撤退を三日後にするっていうのはもう兵たちに広めちまったんだろ。なら三日後にケリをつけるだけだな」

気怠そうに桓騎が言ったので、信はもどかしい気持ちになった。

「おい、分かるように説明しろよ!」

「お頭」

こればかりは那貴も信に賛同らしく、僅かに眉根を寄せて桓騎を睨むようにして見つめた。

普段から重臣にしか策を教えることのない桓騎だが、今回ばかりは単騎で来たこともあって協力者が必要なのか、溜息交じりに話してくれたのだった。

 

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作戦会議 その二

「夾竹桃を薪として代用してたんなら、もっと早く全滅してただろうが…まあ、今回は那貴のおかげで持久戦に持ち込めたってことだ」

燃やすと強い毒性の煙が生じる夾竹桃の存在を再び口に出した桓騎に、那貴は溜息交じりに呟いた。

「じゃあ、これはやっぱり趙の仕業ってことっスね」

「は…!?」

確信を突いた那貴の言葉を聞き、信がまさかと青ざめる。

「つーことは…趙の奴らが、俺らがここに拠点を作るのを知ってて、あの植物を育ててたってことか?」

「だろうな。勝手に毒で全滅してくれるなら願ったり叶ったりだろ」

那貴が夾竹桃キョウチクトウの存在を教えてくれなかったらと思うと、信はまたもや背筋を凍らせた。

しかし、逆に言えば那貴が夾竹桃の存在を知っていたからこそ全滅の危機は避けられたのに、どうして桓騎が三日後に飛信軍が全滅すると言ったのかが分からない。

「…三日後に、何が起こるんだよ」

固唾を飲んでから信が問うと、桓騎はまるで彼女の不安を煽るように、にやりと口角をつり上げた。

「お前らは拠点を作って満足してたかもしれねえが、趙の奴らに見抜かれてるぜ」

「なんだと!?」

信が大口を開けて聞き返した。間抜け面、と桓騎が笑う。

今回の国境調査の目的は、戦の気配がないかを探ることである。
もしも趙軍が戦の準備をしており、向こうにこちらの動きを気づかれれば、確実に李牧の耳に入るはずだ。そうなれば、趙軍は速やかに策を変更することだろう。

だからこそ、こちらが国境調査をしていることを趙に悟られぬよう、昌平君からの指示で、この崖の上で拠点を作るようにと言われていた。

しかし、桓騎の予見が確かなら、初めから趙軍にこちらの動きは筒抜けになっていたということになる。

相手があの李牧だから、普段以上に警戒はしていたものの、まさかすでに手を打たれていたなんて思いもしなかった。

 

 

「…お頭、もしかして趙の動きを見てから、ここに来たんですか?」

信と違って大して動揺していない那貴は、薄く笑みを浮かべながら桓騎に問いかけた。

桓騎は考えなしに動く男ではないということは信も知っていた。
単騎でここまでやって来たのは、自分の寝込みを襲うためかと誤解していたが、ここまで趙軍の動きを読んでいるということは救援に来てくれたのだろう。

将軍という立場でありながら、単騎でここまでやって来たことを信は先ほど叱責していたのだが、戦において単騎で行動することにはしっかりとした利点がある。

戦術的な面の利点は乏しいが人数が少ない分、目立たないので、相手の目を掻い潜って懐に入り込むことが出来るのだ。

奇策を用いる桓騎は、単騎や少人数の部隊を動かす利点を上手く活用し、戦を有利に持ち込むことを得意としていた。
過去の戦では、敵兵の鎧を身に纏って、堂々と敵本陣に潜入して、軍師や大将を討ち取ったこともある。

さらには将軍である自分自身までも駒として行動するので、敵軍はとことん桓騎の思考を読むことが出来ず、その奇策に完膚なきまで蹂躙されるのだ。

「救援に来たんなら、もったいぶらずにそう言えよ…」

夜這い同然に天幕にやって来る必要はなかっただろうと桓騎を睨むと、彼はやはり笑った。那貴が来てくれたから途中で中断されたものの、先ほどの桓騎の手つきは冗談などではなく、本気で自分を襲うつもりだったに違いない。

こちらの動きが筒抜けなら、今すぐにでも趙軍が襲い掛かって来るかもしれないというのに、一体何を考えているのだろう。
早急に手を打たなくてはいけないこの状況で、相変わらずの緊張感のなさに呆れてしまう。

桓騎は虚勢を張って余裕を繕っているのではなく、本当に余裕だからこそ、そのような態度を取っていられるのだと、長い付き合いから理解しているのだが、今の状況に限っては腹立たしくて仕方がなかった。

「救援?この俺がそんな面倒臭ェことするかよ」

しかし、桓騎は予想外にも信の言葉を否定したのだった。

「はあぁッ!?じゃあてめェは一人でここに何しに来たんだよ!」

これには信の苛立ちに火が灯り、怒りとなって燃え盛る。即座に那貴が二人の間に入ったが、信の怒りはそう簡単に鎮火出来ないほど大きく燃え盛っていた。

 

作戦会議 その三

怒り心頭の信には一瞥もくれず、桓騎は地図を眺めていた。

飛信軍の三百が拠点を作っているこの場所は崖の上であり、向こうにある趙国の動きを見張ることが出来る。

少しでも趙に動きがあれば気づくことが出来るほど、見晴らしが良いこの場所に拠点として選んだのは昌平君の指示であったが、これには死角があった。

「ここに趙軍が拠点を構えてる。こっちが撤退するのと同時に背後から攻め込むつもりだろうな」

桓騎が指さしたのは、飛信軍が拠点を作っている場所の、崖下・・であった。

毒も過ぎれば情となる 図1

「は…?今…趙軍の拠点って言ったか?」

「ああ」

まるで崖下に拠点があるのを見て来たかのように桓騎が頷いたので、信と那貴は思わず顔を見合わせる。

自分たちの真下に趙軍の拠点があるということは、明日にでも迫って来るかもしれないということだ。

こちらの動きが筒抜けになっているとは聞いていたものの、まさかこんな近距離に趙軍が潜んでいるだなんて思いもしなかった。

(今すぐ撤退…いや、騒ぎ立てれば、趙軍もすぐに追撃してくる…?拠点は崖下でも、すでに森の中に敵兵が潜んでんじゃ…)

さまざまな不安が浮かび上がり、信は言葉を失ってしまう。

顔面蒼白となって嫌な汗を滲ませている信と違って、桓騎といえば、もう地図からも興味を失くしたように頬杖をついていた。

 

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こちらが指示を出せば、それを待っていたと言わんばかりに身を潜めていた趙軍が責め立ててくるかもしれない。

数はどれだけか分からないが、こちらの兵力はたったの三百。もしも、趙軍がそれ以上の兵力で、自分たちを取り囲んでいるのなら敗北は必須だろう。

それに此度は国境調査という任務で、戦いの備えが十分でない。
趙国の動きを確認する目的だったし、まさか向こうから襲撃してくるだなんて想像していなかった。

今回連れ立った三百の兵力は、飛信軍で厳しい訓練をこなして来た者たちとはいえ、突然の襲撃となれば対応が遅れてしまう。

崖を昇って来るのか、それとも遠回りをして崖上まで登って来て、夾竹桃が生い茂る森の中で息を潜めているのか。

どちらにせよ、こちらが指示を出して警戒態勢を取れば、向こうも遠慮なく襲撃を始めるはずだ。そう考えると、安易に兵たちに周囲の警戒を呼び掛けることも出来なくなる。

「ひでェ顔だな」

「っ…!」

地図を見つめながら愕然とする信に、桓騎は肩を竦めるようにして笑った。こんな状況でどうして笑っているのかと、信の中で再び怒りが再燃する。

明日にでも、いや、すぐにでも趙軍が責め立てて来るかもしれないこの危機的状況で言い合いなどする時間はないと、頭では理解しているのだが、どうしたら良いか分からないという困惑が不安を煽るばかりだった。

「信」

狼狽える信を宥めるように、那貴が肩を掴んだ。

力強い眼差しを向けられたかと思うと、那貴は口角を持ち上げた。桓騎と同じように、相手を黙らせてしまうほど、強大な余裕を見せつけるような微笑。

それ見て信は確信した。桓騎を信じろと、那貴は訴えているのだ。

 

 

「…もしかして、策があるのか?」

確認してみるものの、桓騎は何も答えない。しかし、それが答えだ。すでに桓騎は策を講じている。

過去に信は桓騎軍と何度も共に戦場を経験していたし、安心して背中を任せたこともあった。
そこで学んだことは、桓騎軍の絶対的な強さだけではない。

桓騎が講じる奇策を成すためには、たとえ仲間であっても、不必要に口外しないことが重要だということだ。

敵だけなく、味方の裏をもかく桓騎の奇策には毎度驚かされるのだが、確実に勝利をつかみ取るためには些細なことである。

重臣以外と策を共有しないことは、味方を信頼していないのだと思われがちだが、桓騎は確実に奇策を成すために、少しでも目に余る障害を退けているだけだ。

初めの頃は、味方である自分たちさえ捨て駒として扱う桓騎に殺意こそ覚えていたものの、彼を信じれば確実に勝利を掴むことが出来ることが分かった。

もちろん野盗としての性分は健在で、見逃せない悪行を働いていることも事実だが、桓騎はいつだって人を惹き付ける魅力を兼ね備えている。那貴も桓騎の魅力に憑かれたうちの一人だ。

仲間たちから絶対的な信頼を寄せられている桓騎の人柄については、信も認めていた。

桓騎の命じるまま、従っておけば、何も心配することはない。彼が仲間から慕われている理由はその絶対的な安心感によるものだった。

「桓騎」

信が静かに名前を呼ぶと、桓騎は視線だけを向ける。

「俺は何をすりゃあいい」

真剣な表情で指示を仰ぐと、桓騎はゆっくりと口を開いた。

 

自己嫌悪

桓騎は相変わらず策の全貌を明らかにせず、信に行動を指示した。

作戦決行は、三日後の明朝。崖下に身を潜めている趙軍が迫って来るのは、飛信軍の撤退時だと桓騎は確信しているようだった。

「はあ…」

一通り行動の指示を受けたあと、さまざまな思いが押し寄せて来て、信は力なく長い息を吐いた。

桓騎の読みによると、趙軍は夾竹桃の毒煙によって弱った兵たちを一掃するつもりだったという。

夾竹桃の存在を知っていた那貴のお陰で、兵たちが毒に侵されるのを阻止出来た。そのため、こちらの兵力は三百から少しも欠けていない。

さらには、桓騎が駆け付けてくれたおかげで、伏兵に対する奇襲への対策が取れた。
もしも二人の存在がなければ、夾竹桃の毒と伏兵の奇襲によって、飛信軍は壮大な被害を受けていただろう。

国境調査という名目であったとはいえ、敵の伏兵を見破れなかったことに、信は物思いに沈んだ。

しかし、いつまでも暗澹たる気分でいるわけにはいかない。

崖下にいる趙軍はこちらの動きを見張っているかもしれないが、桓騎が現れたことには気づいていないだろう。
つまり、桓騎という心強い救援によって、水面下で形勢が逆転したと言ってもいい。

「信、ちょっと良いか」

「ああ」

那貴に手招かれ、信は彼と共に天幕を出た。桓騎に聞かれてはまずい話でもあるのだろうか。

天幕を出て少し歩いたところで、那貴は振り返る。

さすがの那貴も、趙軍が崖下に拠点を構えていることに気づいておらず、桓騎から知らされた事実に驚いていたようだったが、今は冷静さを取り戻していた。

「あのお頭が単騎で動くなんて珍しい。よっぽどお前が心配だったんだな」

「………」

からかうように言われるものの、信の表情は優れない。趙軍の奇襲に備えて、味方の士気を上げなくてはと思うのだが、憂鬱さが抜けない。

 

 

「…桓騎が来なかったら、三日後に、俺たちは全滅してたかもしれない」

信は小さく声を落とした。
桓騎が救援にやって来たのはただの気まぐれかもしれないが、恐らくは、自分たちが趙軍の伏兵を見抜けなかったからだろうと信は考えた。

崖下の伏兵を見抜いて、事前に対策を取れるような冷静な判断力を持ち合わせていたのなら、わざわざ桓騎がここまで来ることはなかっただろう。

桓騎の手を煩わせてしまったという気持ちと、自分が事前に敵の策を見抜けていたのならこんなことにはならなかったという気持ちがせめぎ合う。

「俺はまだ、将として未熟で、あいつに信頼されてなかったんだな」

複雑な笑みを浮かべた信がひとりごちる。吐息のように潜めた声だったが、那貴は聞き逃さなかった。

「お前は仲間が危機に陥っていたら、そんな理由で救援に行くのか?」

諭すような那貴の言葉に、信は思わず口を噤む。

仲間の救援へ向かう時、そのようなことは考えたことは一度もなかった。仲間を助けたい一心で体を突き動かし、自分の危険など一切顧みない。きっと他の将もそうだろう。

那貴が静かに言葉を紡ぐ。

「少なくとも、俺の知ってるお頭は、信頼していないような相手のもとに、わざわざ手を貸すなんて真似はしない。どうでも良いと思っているのなら、手なんか貸すまでもなく、見捨てたはずだ」

その桓騎が自ら、しかも単騎でここまでやって来たということは、信を捨て駒などと思っていない何よりの証拠だ。

那貴に諫められ、信は気まずさのあまり、俯いてしまう。

「素直に受け取っていいんじゃないか?お頭の好意ってやつを」

その場を和ませるように、那貴が笑い含みにそう言った。

「とにかく、今考えるべきは三日後のことだ。それまで安易にお頭を煽るなよ」

「煽る?」

どういう意味だと聞き返すと、那貴は苦笑を深めるばかりで答えてくれなかった。

「…それからもう一つ、気を付けた方が良い」

「ん?なんだよ。まだ何かあるのか?」

「お頭は耳が良い・・・・ってことだ」

警告にしては随分と穏やかな表情と語調だった。

桓騎の聴力を褒めているようだが、何に気をつけろというのだろう。
どういう意味だと聞き返しても、那貴は苦笑を深めるばかりで答えを教えてくれなかった。

 

仮眠

結局、那貴の警告の意味を理解出来ないまま、信は再び天幕へと戻った。

まるで我が物顔でその場に座り込み、いつの間にか鎧を脱いで寛いでいる桓騎の姿を見て、信は呆れてしまう。これでは救援に来てくれたのか、気分転換に遠出をしに来たのか分からない。

目が合うものの、桓騎は何も話さない。その瞳と表情には穏やかな色が浮かんでいた。

色々と言いたいことや聞きたいことはあったのだが、もう少しで羌瘣と見張りを交代する約束をしていたので、信は早急に休まなくてはと考えた。

こちらが策を実行するのも、趙軍が動き出すのも三日後だ。それまでは万全な体調と体制でいなくてはならない。

「寝るから邪魔すんなよ」

そう言って、信は桓騎に背を向けて、その場に横たわった。

瞼を下ろして少しでも仮眠を取ろうと思ったのだが、恋人の突然の来訪や、趙軍の伏兵の話で目がすっかり冴えてしまっていた。
いつもならすぐに眠りに落ちるはずなのに、想定外のことが起こり過ぎていた。

こうなれば仮眠は諦めて、少し早いが見張りを交代するべきだろうか。

三日後の撤退時に、身を潜めている趙軍が奇襲をかけてくると桓騎は確信しているようだが、だからと言って見張りを怠るわけにはいかない。

それに、ここで見張りを怠るような不自然な真似をすれば、同じくこちらを警戒している趙軍が動き出すかもしれない。普段通りに活動するのは、趙軍に桓騎の策を勘付かせないためでもあった。

「…?」

背後で物音がしたのと同時に、桓騎が動いた気配を感じる。

しかし、夜間の見張りのためにはしっかりと休まなくてはいけないので、構うことなく信は目を閉じていた。

自分のすぐ後ろで桓騎も横になったのが分かった。その瞬間、後ろから急に腕を回される。

「おいっ…?」

また性懲りもなく襲うつもりかと振り返ると、桓騎は静かに目を瞑っていた。声を掛けたものの返事はなく、それどころか、静かな寝息が聞こえて来る。

(はっ…え…?まさか、寝たのか?)

どう見ても眠っているとしか思えない桓騎の姿に、信は驚きのあまり、硬直してしまう。

寝顔を見るのは初めてではないのだが、見るのは決まって体を重ねた後や、先に目を覚ました朝である。

共に褥に入る時は必ずと言って良いほど、寝つきの良い信の方が先に眠ってしまうので、桓騎が先に眠りに落ちるのは珍しいことだった。

しかも自分を抱き締めた途端、まるで糸が切れたように眠りに落ちるなんて信じられなかった。
自分を抱き締めている腕が脱力していることから、寝たふりではなく、本当に寝入っているのだろう。

もともと桓騎の眠りが浅いのは知っていたが、ここに来るまでずっと馬を走らせ続けていたせいで、疲弊していたのかもしれない。

 

 

「………」

信は桓騎を起こさないように、腕の中でゆっくりと寝返りを打ち、向かい合うように横になった。

眠りが浅い彼のことだから、僅かな物音や信が動いた気配で、目を覚ますかもしれないと思ったのだが、珍しく桓騎は眠り続けている。

外では絶えず薪を燃やしているが、寒くないだろうか。屋敷の寝室と違って寝具は簡易的なものしか用意がない。

(今だけは仕方ない…よな)

自分にそう言い聞かせて、信は桓騎の背中に腕を回した。お互いに抱き締め合い、温もりを分かち合う。

ここまで救援に来てくれた桓騎に風邪を引かないための配慮だ。下心は微塵もなかった。

「……、……」

じんわりと温もりに包まれると、すぐに瞼が重くなってくる。

趙軍の伏兵の話を聞き、眠気などやって来ないと思ったのだが、桓騎が来てくれたことで緊張の糸が解れたようだった。

彼の言う通りにしておけば、何も不安なことはないのだと、体が理解しているのだ。

「…ありがとな、桓騎」

眠りに落ちる寸前、信は感謝の言葉を呟いた。きっと眠っている桓騎の耳には届いていないだろう。

無事に帰還出来たあとで、改めて礼を言わなくてはと考えながら、信の意識は眠りに落ちたのだった。

 

中編②はこちら

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駒犬の愛で方(昌平君×信←桓騎)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • めちゃ強・昌平君の護衛役・側近になってます。
  • 年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/桓騎×信/執着攻め/シリアス/特殊設定/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話の本編はこちら

 

軍馬盗難騒動

軍馬百頭が馬陽への移送中に姿を消したという報告を受けたのは、日が沈み始めた頃であった。

秦国の右丞相であり、軍の総司令官を務めている昌平君がその報告を聞いた瞬間、目を通していた書簡をうっかり落としそうになり、深い溜息を吐いた。

ただでさえ激務な日々を送っているというのに、どうしてこうも執務が重なるのだろうか。

数頭の軍馬が逃げ出したというならばまだしも、百頭すべてが盗難被害に遭うだなんて、管理体制に不備があったとしか思えない。

一頭も例外なく盗まれたということは、軍馬を盗む手助けをした内通者がいると考えるのが自然だろう。

軍馬は家畜として売り捌くより、はるかに価値がある。もともと体格に優れている馬を選抜し、そこから軍馬としての訓練を行うので家畜よりも従順なのだ。美味いかどうかは別として、戦時中は非常食としても利用できる。

それゆえ、戦に欠かせない軍馬の売買をした者は重罪として裁かれ、そして戦時中に軍馬を売買をした者は有無を言わさず死罪と定められていた。

今はまだ戦時中ではないものの、重罪であることを理解した上で決行したとなれば、もしかしたら国境を越えて他国へ密売するつもりかもしれない。他国に逃げ込めば追跡は出来ず、よって内通者を捕らえることも、裁くことも不可能となる。

すでに調教済みの軍馬百頭は本来、馬陽へ移送し、そこでも訓練を続ける予定であった。馬陽の位置から考えると、密売相手は趙国である可能性が高い。

「………」

重い溜息を吐いた昌平君が、こめかみに手を当てて何から対処すべきか、指示を決めかねていると隣から視線を感じた。

顔を上げると、護衛役である信が心配そうに眉根を寄せてこちらをじっと見据えていた。まだ今日は発言の許可・・・・・を与えられていないので、口を開くことは許されないのである。

しかし、その視線から「早く休め」と言われていることを察し、昌平君は手にしていた書簡を信へ手渡した。

「対応の指示を出したら今日はもう休む」

「………」

日が昇り始める前からずっと執務に没頭していたので、昌平君が自ら休むと告げたことに、信は僅かに頬を緩めた。

普段から執務が多いのは国の行政に関与する右丞相と、軍政に関与する総司令、さらには軍師学校の指導者という三つの役職を抱えているため、仕方ないことだとは思うのだが、それにしても執務をこなしてもこなしても一向に終わりがない。

常に国政や軍政というものは常に変化し続けるものであり、それに伴って新たな執務もなだれ込んでくるのである。

しかし、今回のような軍馬盗難といった問題が生じると、早急な指示と対応を求められるため、こなしていた執務を一旦を中断しなくてはならない。問題さえ生じなければ円滑に執務が遂行出来るのにと、大人げなく苛立ってしまう。

軍馬盗難の報告を持って来た伝令に、馬陽と馬陽の周辺にいる将たちに軍馬の行方を追うよう指示を出した。
宣言した通り、残りの執務は明日に回そうと昌平君は立ち上がったのだが、

「軍馬百頭が盗難された現場近くで、桓騎将軍を目撃したという兵たちの情報がありました」

「………」

新たな伝令によって昌平君は硬直する。
まさかあの男の名前を聞くことになるとは思わず、無意識のうちに吐いた溜息はとても深かった。

 

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他の将ならともかく、桓騎が絶対にそんなことはしないと断言出来ないのには理由があった。

それは彼が元野盗であり、その性分を持った上で、秦将の座に就いているからである。

白老の配下になるまで、何事にも縛られることなく仲間たちと自由に生きていた桓騎が、素直に規則に従うとは思えなかった。

白老が没してからはさらに素行の悪さに磨きがかかったような気がする。むしろ彼を従えていた白老という縛りが消え去ったことで、本来の野党の性分を露わにして来たと言っても良いかもしれない。

多少のこと・・・・・なら目を瞑らざるを得ないのは、彼が秦国に欠かせないほどの実力を持ち主であるからだ。
だが、軍馬百頭を盗んだとなれば、いくら桓騎であっても処罰の対象となる。

さらに趙軍にそれを密売したとなれば、裏切りと同等の行為だ。軍馬だけでなく、軍の機密情報も渡した可能性だってある。

仮定とはいえ、もしもそれが事実なら桓騎が秦を見放した証拠でもあるし、明日にでも趙軍が攻め込んで来るかもしれない。

桓騎が持つ奇策は前例のないものばかりだ。相手の裏をかくことを何よりも得意としている桓騎の策は、彼以外には見破れない。

ゆえに早急な対策が取れず、もしも桓騎が秦を裏切って趙と共に攻め込んで来るとなれば、膨大な被害を受けることになるだろう。

「………」

こちらの表情を見て、信が考えを察したのか、何も書かれていない竹簡を差し出した。すぐに受け取った昌平君は再び筆を取り、簡潔に用件を書き記す。

「桓騎に伝令を。至急、宮廷に来るように伝えよ」

もしも桓騎がこの時機に屋敷を留守にしていたのなら、こちらの命令に従わないのなら、趙軍と密通しているとみて間違いないだろう。

そうならないことを祈りながら、昌平君は書き終えたばかりの書簡に封をして、伝令役に手渡したのだった。

あの男が呼び出しに応じるかは分からないが、もしも素直にやって来るとすれば、宮廷に馳せ参じるまで一日はかかるだろう。彼の屋敷から宮廷まで馬を走らせれば、それくらいの日数がかかる。

伝令が桓騎の屋敷に向かうことと、桓騎が宮廷へやって来ることを考えれば、合わせて最低でも二日はかかると予想出来た。

一通りの執務を片づけてから屋敷へ戻るつもりでいたが、宮廷に宿泊せざるを得ない状況になってしまった。

昌平君の吐いた溜息がいつもよりも数が多く、それでいて大きなものだったのは、軍馬盗難の騒動により、久しぶりの休暇を邪魔されたからである。

 

 

駒犬と過ごす夜

軍馬騒動のことがなければ、屋敷へ戻って久しぶりの休暇を満喫するつもりだったのだが、すっかり予定が崩れ去ってしまった。

急な報告が入ることによって、執務が重なることは決して珍しくはない。

しかし、宮廷で自分の護衛をする信が常に気を張り詰めていることは分かっていたので、住み慣れた屋敷で気兼ねなく休ませてやりたかった。

信は常日頃から昌平君の護衛役として傍につき、剣術の腕前は昌平君にも豹司牙にも劣らない。戦場に出せば間違いなく武功を挙げるだろう。

主のためなら駒同然に命を投げ捨てる従順なる犬。それを称して「昌平君の駒犬こまいぬ」と呼ばれている信だったが、昌平君が彼を戦場に出さないことには理由があった。

信は幼少期に昌平君のもとへ引き取られてから、主である昌平君以外の人間の顔を見分けられなくなってしまったのである。

昌平君以外の人物を見ても、信の目には顔に靄が掛かったように映っており、顔の判別が出来ないのだそうだ。医者に見せても前例のない病だと言われており、治療法は見つかっていない。

普段から頻繁に顔を合わせる昌平君の家臣たちは声や匂い、体つきや着物などの特徴から区別しているようだが、多くの高官や将が出入りしている宮廷では、信は敵味方の判別が出来ずに常に気を張っているのだ。

宮廷を出入りするくらいなのだから、それなりに役職に就いている者たちばかりである。しかし、自分の欲のために容易に味方や国を裏切るのは大して珍しくない。

金や権力に目を眩んで、味方を蹴落とし、最後は裏切り者として首を刎ねられて来た者たちの末路など、昌平君はもう数え切れないほどこの目で見て来た。常日頃から昌平君の傍にいる信もそれをよく知っている。

信は簡単な雑務は手伝ってくれるものの、行政や軍政に関しては携わっていないため、上層部の勢力争いについては無知に等しい。

だからこそ、主に近づく者たちは全員が敵だと疑って、信は常に護衛を行っているのである。

もちろん昌平君が褥に入ってからも気を抜くことはない。扉の外には見張りの兵がついているものの、信は昌平君と、彼が信頼している者以外は基本的に信用していないのである。

 

 

もらい湯を済ませてから信と共に部屋に戻った昌平君は、寝台に腰を下ろすと、静かに自分の太腿を二回叩いた。

いつでも敵の襲撃に備えられるよう、同じ部屋にいながら、扉の前に待機していた信が音に気づいて振り返る。

呼ばれていることに気づいた彼は昌平君の前にやってくると、すぐにその場で膝をついた。

「今夜はもう休め」

「…、……」

首を横に振って拒絶の意を示す信に、昌平君は僅かに眉根を寄せる。

主の命令には素直に従うはずの駒犬が反抗的な態度を見せるようになったのは、ここ最近のことだった。

反抗的というと主に噛みつくような態度に捉えられるが、信の場合はそうではない。主を守りたいからこそ、休むわけにはいかないと考えているらしい。

どうしてそうなってしまったのかといえば、以前、昌平君の教え子である蒙恬に唆されてから、信は余計に相手を警戒するようになってしまったのである。

あれは言葉巧みに蒙恬が信を誘導したからなのだが、どうやら信は今でもその件を深く反省しているらしい。

警戒を怠らないことは確かに重要だが、万全の体調でいるためには休息も必要だ。

宮廷で過ごす日々が長くなっていくにつれ、信の目の下の隈が日に日にひどくなっていることに昌平君も気づいていた。このままだと疲労が原因で倒れてしまうだろう。

秦国総司令と右丞相という重役であることから、過去に刺客から命を狙われた経験はある。信もそれを警戒しているのだろう。しかし、昌平君自身も、そう簡単に首を差し出すつもりはなかった。

「もう休め。これは命令だ」

低い声で命じても、信は聞き入れる様子も、背中に携えた剣を下ろす気配もなかった。それどころか立ち上がって再び扉の前に向かおうとする。

「信」

咄嗟に昌平君はその手を掴んでいた。

おすわり・・・・

「っ…」

睨みつけると、僅かに信の表情に脅えが浮かぶ。

これ以上は言わせるなと目で訴えると、ようやく信は背中に携えている剣を下ろして、再び昌平君の前に座り込んだ。しかし、まだ抵抗の意志があるのか、剣を手放すことはしない。

いよいよじれったくなった昌平君は信の両手から強引に剣を奪った。

発言の許可をしていないので、文句を言われることはなかったが、あからさまに不満気な目線を向けられてしまう。

こんなやりとりで時間を無駄にするより、少しでも信に休息を取らせたかった。夕食に薬でも混ぜておけばよかっただろうかと昌平君が後悔したのはその時だった。

 

 

「大人しく寝ないのなら、こちらにも考えがある」

多少強引だという自覚はあるものの、信を寝かしつける方法など幾らでもある。

先ほど奪い取った剣の柄頭に視線を下ろすと、主の意を察したのか、信がはっとした表情にいなって、みるみるうちに青ざめていくのが分かった。

暴力で押さえつけるような躾はしたくないのだが、このまま信が疲弊して倒れてしまうくらいならやむを得ない。昌平君が剣の柄を握り直した途端、信が勢いよく立ち上がった。

「……」

ようやく諦めたらしく、信は大人しく寝台に横たわる。昌平君は満足げに頷くと、枕と飾り板の間に剣を置いてから、彼の隣に横たわった。

「……、……」

風邪を引かぬよう、しっかりと肩まで寝具を掛けてやると、信が甘えるように胸に凭れ掛かって来た。

横になっただけだというのに、瞼を重そうにしていることから、やはり疲労が溜まっていたようだ。

眠気に抗わずそのまま休めばいいものを、まだ主が眠っていないことを気にしているのか、何とか起きようと目を擦っている。

身を繋げた時には気絶同然で寝入っているのだが、そうでない時は昌平君が眠ったのを見届けてから眠るようにしている忠実な駒犬だった。

そんな姿を見れば、ますます寝かしつけてやりたくなる。背中をゆっくりと擦ってやると、信が上目遣いで見上げて来た。

「早く休みなさい」

そんな目をしても聞き入れるつもりはないと、昌平君は構わずに背中を撫で続ける。

やがて、信が瞼を落とし、静かな寝息が聞こえて来たのは、それからすぐのことだった。

 

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宝石姫

 

来訪

二日後。桓騎は昌平君の呼び出し通りに、宮廷へやって来た。

軍馬盗難の件は書簡に記さなかったものの、呼び出しに応じたということは、少なくともこの数日は敵国との接触はしていなかったことが分かる。

もしも桓騎が趙国と密通していたとしたら、軍馬盗難の報告を聞いた昌平君から呼び出されるのも想定内だと考えているかもしれない。

だとすれば、軍馬盗難の現場近くで桓騎を見たという報告も、もしかしたら桓騎が作り上げた脚本なのではないだろうか。

知将としての才は認めているが、昌平君は桓騎という男を信頼していなかった。そもそも桓騎はこの国に忠誠を誓って、軍を勝利に導いているわけではない。

彼は地位や名誉に、何の興味も抱いていないのだ。戦に勝利することで得られる褒美の方だけが目当てなのは昔から知っていた。

褒美目当てでいてくれた方が腹の内を探ることなく、こちらも動かしやすいのだが、桓騎に限ってはそうではない。

もしも趙国が桓騎に対して今よりも良い褒美を渡すことを条件に取引したとなれば、桓騎は容易く反旗を翻すことも考えられる。

彼を従えていた白老も山陽の戦いの後で没したことから、桓騎が自分の意志でこの国に留まる理由は何一つないのだ。
逆に言えば、彼をこの国に繋げておく首輪は褒美だけということになる。

相手が桓騎でなかったのなら、ここまで苦悩することはなかっただろう。昌平君は頭痛に襲われ、ついこめかみに手をやった。

軍馬百頭が盗難された件については、秦王嬴政の耳にも報告されていた。しかし、桓騎の目撃情報については、この件に彼が関与しているかどうか、真実を明らかにしてから伝えるとして、今は箝口令を敷いている。

もしも桓騎が関わっていたとなれば速やかに上奏する必要があるが、ただの杞憂で済むのなら、秦王に報告する必要はない。

秦国が中華統一を果たすには、桓騎の存在は必要であることを嬴政も理解している。
軍馬盗難の全貌から、趙軍との密通が明らかになったのなら、厳重な処罰は免れないだろうが、死罪だけは命じられないはずだ。

そして桓騎自身もそれを理解しているに違いなかった。

目を瞑らなくてはならないことが多過ぎるあまり、昌平君の中で桓騎という存在はとても厄介なものとなっていたのである。

 

 

桓騎の来訪の報告を受け、昌平君は速やかに人払いをするよう兵たちに命じた。

趙軍との密通がこちらの杞憂であったのなら良し。しかし、桓騎がそれを認めたのならば早急に手を打たなくてはならない。

どちらにせよ、真実が明らかになるまでは不要な混乱を広めないよう、この件は昌平君だけが抱えるつもりであった。

「………」

人払いを命じた際に、信は戸惑ったように視線を向けて来た。自分も出て行った方が良いのかと確認しているようだ。

昌平君が命じない限り、信は絶対に口を開かない。いつも主からの命令に従う忠実な駒犬だが、その代償として、信は自分で物事を判断することを苦手としていた。

「私が命じるまでは動かなくていい」

「………」

その命令に信は少し驚いた表情を浮かべた。

昌平君は桓騎を斬り捨てるつもりはなかった。軍馬盗難に関わっているのか、趙と密通しているのか、真実を明らかにすることが今日の目的である。

ゆえに、これから始まるのは、桓騎の口から真実を引き出すのを目的とした化かし合いだ。

もしもこの件に桓騎が関与していたとして、素直に答えてくれるとは思えないが、必ず真実を明らかにしなくてはならない。

桓騎は微塵も相手に動揺を悟らせない男だ。彼が嘘を吐いていたとしても見抜くことは難しいだろう。
しかし、尋問を続けていけば、必ずどこかで墓穴という綻びが生じるはずだ。

「……、……」

いつになく昌平君の表情が強張っているのを見て、信も何かを察したようだった。

信は桓騎と面識はないのだが、元野盗でありながら今や中華全土で名を知られている知将であること、女や子供や老人にも残虐な行いを強いる男であることは昌平君の口から聞かされていた。

「………」

普段通りに昌平君の背後に立った信も、いよいよ桓騎が来るのだと思うと、緊張した様子を見せている。

「通せ」

外にいる兵に声を掛けると、すぐに扉が開かれる。
気だるげな雰囲気を携えた桓騎がゆっくりとした足取りで歩み寄って来た。

 

 

桓騎への尋問

昌平君と信の前に立った桓騎は腕を組み、面倒臭そうに顔をしかめた。

「何の用だ?」

開口一番、無礼極まりない言葉を昌平君に向けたことに、信が背後で殺気立ったのがわかった。
命じるまで動くなと告げておいて正解だった。事前にその命令をしていなかったのなら、今頃信は剣を構えて桓騎の前に立ちはだかっていただろう。

「馬陽へ向かっている道中、軍馬百頭が盗まれた」

昌平君はさっそく本題に入った。

「へェ?…それが?」

僅かに小首を傾げながら、桓騎が聞き返す。

「軍馬百頭が盗まれたという現場近くで、お前の姿を見たという兵が何名かいる」

昌平君は桓騎の目を真っ直ぐに見据え、少しでも不審な動きがないかを確かめていた。しかし、瞳が揺れることもなければ、不自然に目を逸らすこともしない。

「総司令サマは、俺が軍馬を盗んだと疑ってるってワケか」

「軍馬が盗まれたという現場近くでお前を見たという報告があっただけだ」

「ふうん?その証言は確かなものか?」

「目撃したという情報に関しては事実だ。お前は軍馬盗難に関わっていたかどうかの事実を言えばいい。報復で目撃者の命を奪うことは許さぬ」

「へェ、中立な立場って面倒だな?」

「話を逸らすな。事実だけ答えろ」

自分の推測は告げず、あくまで事実だけを突き付けていく。その間も桓騎は普段通りに小生意気な返答をするばかりで、特に嘘を吐いている様子は見られなかった。

嘘を吐いていると見破られないようにしているのかもしれないが、ここまでは特に不審な言動はない。

「関わってはいない。軍馬百頭の使い道なんざ、たかが知れてるだろ」

桓騎は軍馬盗難の件をきっぱりと否定したものの、昌平君の中で未だ疑惑が晴れることはない。

「お前が軍馬盗難に関わっていないか、証明できる者は?」

「結局証人がいねェと信用しないのかよ。…ま、実際に軍馬盗難の現場は見たけどな?」

軍馬盗難に関して、まさか今ここで新たな情報を入手するとは思わなかった。予想外の事実を告げられて、昌平君は眉根を寄せる。

どうやら桓騎は軍馬盗難を目撃しておきながら、主犯を捕らえることもせず、見捨てたというのだ。

桓騎の作り話という可能性も考えられたが、口調から演技じみたものは感じさせないし、淡々と語っていることから恐らくこれは事実だろう。

 

 

「なぜ止めなかった」

「なんで俺がそんな面倒臭ェことをやらなきゃいけない?」

自分の管轄ではないと切り捨てた桓騎に、昌平君が吐いた溜息は深かった。

「なんだ?まさか俺が軍馬と引き換えに趙にでも寝返ると思ってやがったか?」

「そうだ」

自分がここに呼び出された経緯と理由を、聡明な桓騎はすぐに導き出したらしい。

真実を明らかにするために、あえて趙国の存在は伏せていたのだが、桓騎の方から話し出すとは、これで手間が省けた。

まどろっこしいやり取りは時間を無駄にするだけだ。
桓騎が自ら墓穴を掘るのを待つつもりであったが、軍馬盗難の件の追求も兼ねて、昌平君はさっさとこの話し合いを終わらせようと考える。

「軍馬が盗まれる現場に立ち会っておきながら見捨てたというのなら、それなりの処罰を受けてもらう」

処罰という言葉が気に食わなかったらしく、桓騎は僅かに片眉を持ち上げた。

「処罰を受けるのが嫌だというのなら、軍馬百頭を盗んだ者を捕らえて来い」

反論しようと桓騎が口を開くよりも先に、昌平君は低い声でそう言い放った。
桓騎の反論材料などたかが知れている。自分がいなければ秦の中華統一を果たせないといった類のものだ。

残念ながらその言葉は秦王嬴政までもが認める事実であり、昌平君も十分に理解している。

だからと言って、軍の秩序を乱す理由にはならない。忠誠心があろうがなかろうが、桓騎は秦将という立場だ。

(…どう動く)

あえて桓騎の怒りを煽るような挑発めいた言葉を掛けたのは、趙との密通を明らかにするためであった。

秦国に忠誠を誓っていない桓騎がこの国を見捨てるのは簡単なことだ。だからこそ、その時期を早めてやったまでのこと。

今もなお、趙と密通しているのならば、桓騎は容易に趙へと亡命するに違いない。

趙と密通していることを明らかにするには、桓騎自身が趙へ亡命するという行動を示す以外に証明する方法がなかったのだ。

 

 

桓騎への尋問 その二

どうやらこちらの挑発を受け入れたのか、桓騎が表情を崩さないまま、昌平君に一歩近づく。

「ッ…!」

さらに桓騎が一歩前に進んだ途端、信が主を庇うように前に出た。

命じるまで動くなと伝えていたのだが、一触即発の危機を察したのだろう。桓騎も昌平君も凶器となるものは持ち合わせていないものの、その視線だけで人を殺せそうなほど、二人は殺気立っていた。

「………」

「なんだ、このガキ」

二人の間に割り込んだ信は中に携えている剣の柄を握ると、それ以上近づくなら斬るという意志を秘めた瞳で桓騎を見据える。

…とはいえ、信は飼い主昌平君以外の人間の顔を見分けられることが出来ない。昌平君以外の人間は全員、顔の辺りに靄が掛かったかのように見えるのは、桓騎も例外ではなかった。

だからこそ、信は恐れを知らない。
相手が放つ威圧感も殺意も、感じることはあっても、信の目には何一つ映らないのだ。

「ああ、こいつが総司令の駒犬ってやつか?薄汚ェ犬っころだな」

桓騎の興味が信に移ったことに、昌平君は僅かに眉根を寄せた。ちらりと昌平君に視線を向けた桓騎の口角が怪しくつり上がる。

この男に動揺を見抜かれれば、そこを突いてとことん心を見透かされることになると分かっているのに、主である自分以外の何者かが信に興味を抱くのは不快で堪らなかった。

「おい、犬っころ。お手だ」

桓騎が自分の片手を差し伸べて、信に命令をする。
しかし、信は剣の柄を握りしめたまま桓騎に鋭い視線を向けており、命令に従う気はないと態度で示していた。

愛想のない犬に、桓騎がわざとらしく溜息を吐く。

「飼い主以外には懐かねえようにしっかり躾られてんのか。せっかく軍馬を盗んだ野郎について教えてやろうと思ったんだが…残念だなァ?」

「ッ…!」

素直に従ったのなら、軍馬盗難の目撃情報を教えてやると言われ、信と昌平君は同時に顔をしかめた。

桓騎は自分に利のない取引には一切興味を示さない。分かっていたのに、まさかこの状況下で信を取引に使うとは思わなかった。

歯を食い縛った信が桓騎を睨み続けるものの、桓騎の方は少しも怯む気配がない。

 

 

「俺は愛玩動物には寛大だからな。もう一度やってやるよ」

お手、と再び桓騎が信に手を差し伸べる。

「っ…」

怒りで体を震わせながら、信は剣の柄から手を離した。
もちろんこんな男に尻尾を振るつもりはない。たとえ相手が秦王であっても、秦将であっても、信は昌平君以外の人物には従うつもりはなかった。

しかし、自分さえ大人しく従えば、桓騎が情報を教えてくれる。そしてそれは主である昌平君の執務軽減につながるのだ。その甘い誘惑に、つい桓騎の手を取ってしまいそうになる。

ただ彼の手に手を重ねるだけだ。何度も自分にそう言い聞かせるものの、主以外の者の命令に従うことが出来ず、信はためらってしまう。

「…信」

あからさまに葛藤している駒犬を、昌平君が制止しようとした時だった。

「残念。時間切れだ。俺の気はそこまで長くないんでな」

桓騎が背中を向けて、部屋を出て行こうと歩き出したのである。

(…失敗か)

昌平君は敗北を悟った。信を取引に利用されてから、形勢が逆転していたことには気づいていたのだが、先ほどの挑発が裏目に出てしまうことになるとは思いもしなかった。

こうなれば桓騎の目撃情報をさらに集めて、彼が軍馬盗難に関わっていたのか事実を探る必要がある。事件解決にはかなり遠回りになってしまうが、仕方ないだろう。

いや、それどころではない。もしも趙との密通が事実だとすれば、彼はこれから秦を出る準備を始めるかもしれない。

昌平君が眉間に深い皺を刻みながら瞼を下ろしたその時、予想外のことが起きたのだった。

「~~~ッ…!!」

信が部屋を出て行こうとする桓騎を追いかけ、両手で彼の外套を掴んだのだ。

主の命令もなしに桓騎を引き留めたことに、信自身もやってしまったと後悔しているのか、狼狽えた様子でいる。

「…おいおい、待て・・をするのは、人間サマじゃなくて犬の方だろ?」

外套を掴まれたままの桓騎が、やけに楽しそうな表情で振り返る。
その表情を見て、これは信を意図的に動かすための桓騎の策だったのだと、昌平君はすぐに理解した。

 

捜査協力?

「犯人探しに付き合ってやってもいいぜ?」

急に手の平を返した桓騎に、昌平君は何を企んでいるのか全く分からなかった。
協力や従うという言葉を使わなかったことから、単純に気が向いただけなのだろうか。

「………」

桓騎の言葉を聞いても、どうやら信用していないのか、信は外套を掴んだまま放さない。

「犬なら犯人の匂いを嗅ぎ分けられるだろ」

信を犬扱いするだけでなく、まさか軍馬盗難の犯人探しに協力させようとしているのではないかと昌平君は危機感を抱く。

「桓騎、お前がその目で犯人を見たのだろう。その子は関係ないはずだ」

「ほう?それじゃあ、俺が軍馬盗難の犯人を捜すフリして、趙へ亡命したとしても、誰も気づかないってワケだ?」

この男はこちらの疑惑をとことん理解しているらしい。昌平君は静かに歯を食い縛った。

あれだけ近い距離で桓騎に凄まれれば、誰しもが怯えるというのに、相手の顔を認識出来ず、恐れを知らない信は今にも噛みつきそうな勢いで桓騎を睨みつけている。

「それじゃあ、明日から捜索開始だ。逃げんなよ、犬っころ」

しかし、桓騎は相変わらず楽しそうな表情のまま、信にそう告げたのだった。

 

中編①はこちら

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初恋のまじない(蒙恬×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/嫉妬/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「初恋は盲目」の後日編です。

 

婚儀

蒙恬と信の婚儀は、秦王自らが参列して祝辞を述べるという盛大な式となった。

秦王であり親友の嬴政から、蒙恬は秦国に欠かせない将であると婚儀で祝辞を述べられたとき、信は自分のことのように喜んだし、その言葉には蒙一族全員が感涙していた。

蒙恬を幼少期から世話していたじィこと胡漸は、顔が上げられないほどむせび泣いていたし、それを見た蒙恬も、珍しくもらい泣きしそうになっていたことを覚えている。

嬴政が式に参列することは以前から決まっていたので、盛大な式になるのは予想していたのだが、王一族の参列はないと思っていた。

王騎と摎の養子であった信だが、馬陽で二人を失ったこともあり、今では王一族との繋がりなどないに等しいからだ。

しかし、信の予想に反して、婚儀には王翦を筆頭に王一族も参列することとなった。その中には王賁の姿もあった。

…結果として秦王や高官や将軍たち、蒙一族と王一族、それから二人を祝福する仲間や民たちが集い、国の行事にも負けないほどの賑わいを見せたのである。

秦王が参列するだけでも天下の珍事だというのに、大勢が祝福をしてくれ、一生思い出に残る婚儀となった。

婚儀を終えた夜、二人は夫婦として初めて共に夜を過ごす…いわゆる初夜を迎えた。
しかし、婚前に何度も身を交えていたので初夜とは呼べないのかもしれないが、改めて夫婦となったことに気恥ずかしさを感じる。

それでも蒙恬に抱き締められ、愛を囁かれると、これからもこの国を守っていかなくてはという気持ちが深まり、信は将としての責務を誇らしく感じた。

どうやら蒙恬も同じことを考えていたようで、武功の話で盛り上がってしまい、婚儀の後だというのに、寝台の上でこんな泥臭い話をするのは中華全土で自分たちだけだろうと二人は笑い合った。

 

元下僕の身分である信にも、蒙家の家臣たちは親切にしてくれる。

王騎と摎の養子とはいえ、元下僕の身分である信が名家に嫁ぐことは、色々と支障があるのではないかと考えていたのだが、その心配は杞憂だったらしい。

名家の嫡男である蒙恬の結婚相手として相応しくないと、中には結婚を反対していた家臣もいたと思うが、そういう連中から面と向かって何かを言われることはなく、かといって陰で何か言われている気配もなかった。

六大将軍二人の養子でありながら、信自身も大将軍の座に就き、さらには秦王の唯一無二の親友であることが味方したのか、婚前になって蒙恬の屋敷へ移り住んでからも、あからさまな嫌がらせには遭わずにいた。

幼い頃、蒙恬は軍師学校を首席で卒業して将軍になったなら、信を妻に迎えるという約束を信本人だけでなく、父の蒙武とも交わしていたという。

見事に有言実行した蒙恬は、あれこれ血筋に口を出す蒙家の人間たちどころか、信自身さえ黙らせたのだ。

蒙武も武人であり、将である立場ゆえに、約束を破るような無粋な男ではない。蒙家の当主である彼が、息子と信の婚姻を認めたことで、家臣たちも婚姻に口を出すことはしないのだろう。

自分の見ていないところで蒙恬がどのような裏工作をしていたのかは知らないが、こうなれば諦めて、素直に彼の愛情を受け入れるしかないだろうと信は思った。

晴れて正式に夫婦と認められた蒙恬と信は、その後も将として活躍をしていた。

 

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軍務

軍政のことで昌平君からの呼び出しがあり、蒙恬は咸陽宮に滞在していた。

軍師学校を首席で卒業し、あっという間に大将軍にまで上り詰めた蒙恬の知将としての実力は重宝されており、先日の侵攻戦で手に入れた領土と城の防衛設計について依頼されたのである。

それを依頼したのが軍の総司令を務める昌平君で、彼からの信頼が厚い証拠でもあるのだが、蒙恬といえば憂鬱な気分でその軍務をこなしている。

防衛設定についての話がなんとか形になった頃、蒙恬は溜息を吐きながら机に突っ伏した。

「あー…奥さん不足が極まりない…今日中にでも信に会わないと死んじゃう…いてっ!」

不吉な独り言を零した弟子の頭を軽く叩き、昌平君は城の防衛設計についてまとめられた書簡を手に取った。

今も師と称えている昌平君が書簡の内容に目を通し、小さく頷いたのを見て、蒙恬の表情に笑顔が戻る。

「もう帰っていいですか!?いいですよね!?」

「城壁の設計が甘い。この端にある侵入経路を突かれれば、簡単に開門されて乗り込まれるぞ」

帰宅許可が出るかと思いきや、やり直しだと言われてしまった。ようやく信が待つ屋敷に帰れると思ったのに、蒙恬はがっくりと肩を落とす。

もう咸陽宮に来てからそれなりの日数が経過していた。
信に限って、夫の不在中に不貞行為をするだなんて思えなかったのだが、離れている時間が長いと色々な不安が込み上げて来る。

一人で寂しがっていないだろうか、自軍の鍛錬に精を出し過ぎて無理をしていないか、きちんと食事をしているか、風邪は引いていないか、自分の見ていない場所で嫌がらせをされていないか…色々なことが気になって仕方がない。

早く帰還するためには、一刻も早く執務を終わらせれば良いだけだと頭では分かってはいるものの、少しも気力が湧かない。

「…先生、もしかして、新婚の俺たちに嫉妬してますか?だから俺と信の時間を邪魔しようと…いでっ!」

淀んだ瞳を向けながら、師である彼に棘のある言葉を投げかけると、丸めた木簡で頭を軽く叩かれた。

「将軍昇格となった自覚が足りんようだな」

(ちぇ…さっさと終わらせよう)

口を尖らせながら、蒙恬は渋々昌平君から指摘された部分の修正案を検討する。

敵からの侵入経路を完全に塞いだ設計を提示すると、ようやく帰宅許可を得ることが出来たので、蒙恬は一刻も早く妻に会うために、颯爽と馬車へ乗り込んだ。

 

再来

蒙恬が咸陽宮に行ってから、どれだけの日数が経っただろう。

まだひと月は経っていないと思うが、婚儀を終えてからしばらくはずっと一緒にいたこともあって、何だか気持ちが落ち着かない。

現況を知らせる書簡の一つも来ないのはそれだけ激務なのか、それとも昌平君の許可が出ないのか。恐らく後者だろうと考えた。

互いに将という立場で、大勢の兵や軍政を任されている立場なのだから、長い期間会えなくなるのは珍しくない。しかし、寂しい気持ちを抱いてしまうのは、それだけ蒙恬に絆されてしまった証拠だろう。

(あー、やめやめ。集中しろ!)

握っている剣に意識を戻し、信は鍛錬に集中するように自分に喝を入れる。
正式に夫婦となってからは蒙恬の住まう屋敷の母屋で過ごすようになったが、広い庭で剣を振るう習慣は以前と変わりない。

戦の気配があればすぐに駆け付けなくてはならないので、軍の指揮だけでなく、自分自身も力を備えておかなければならないのだ。

気を抜いていると、あっという間に蒙恬に先を越されてしまう。

この屋敷で暮らすようになってから、信は蒙恬に頼まれて、手合わせに付き合うことがあった。

もちろん信が勝利した回数の方が圧倒的に多いのだが、本当の戦場で相見ればどうなるか分からない。

武力より知略の才に長けている蒙恬といえど、彼は男にしては身のこなしが軽い。こちらの剣筋を確実に見極めて回避されるので、なかなか一撃があたらないのだ。

さらに反撃の一撃は重く、ただ武器を振るうのではなく、的確に急所を狙ってくる。
彼が武力よりも知略に優れていることに慢心して接近戦に臨めば、いつか泣きを見るだろう。

外見はともかく、蒙恬はあの蒙武の息子なのだから、武器を持たせればその実力は確かだと分かる。

「…はあ…」

握っていた剣を下ろし、信はまた無意識のうちに溜息を吐いていた。

自分がこれだけ寂しいと感じているのなら、蒙恬はその倍は寂しがっているに違いない。普段から家臣たちの目も気にせず愛の言葉を囁いてくるし、執務とはいえ、離れなくてはならないことにさんざん駄々を捏ねていた。

最終的には信が馬車に蒙恬を無理やり押し込んで見送ったのだが、帰って来たら犬のようにまとわりついてくるに違いない。そこまで考えて、早く会いたくて堪らない気持ちでいる自分を認めるしかなかった。

 

 

「ふう…」

額の汗を拭いながら、今日はこの辺で終わろうかと考えていると、正門の辺りが何やら騒がしいことに気が付いた。

蒙恬が帰宅したのだろうかと考えたが、騒ぎに耳を澄ませると、あまり平穏な雰囲気ではなさそうだ。

迷うことなく信は正門へ向かった。
この屋敷の留守を任されているのだから、何か問題が起きたのなら自分が対処しなくてはならない。妻としての責務を全うしなくてはと意気込んだ。

「蒙恬様はご執務で留守にされております。どうかお引き取りください」

正門に辿り着くと、幼い頃から蒙恬の世話をしていた年老いた侍女が来客の対応しているのが見えた。

何があったのだろうかと近づいていくと、侍女に声を掛けられても引き下がろうとしない若い女の姿があった。

身なりから、それなりに裕福な出であることが分かる。どこかの令嬢だろうか。

「いいえ、蒙恬様が戻られるまでずっとここで待っています!」

(げっ)

あの女性がどんな目的があってやって来たのかは分からないが、まさか蒙恬が一方的に関係を断ち切った婚約者候補ではないだろうか。そう直感した信はあからさまに顔をしかめた。

信自身は蒙恬の婚約者となった時も、婚姻を結んでからも、婚約者候補であった女性たちから妬み恨みの感情を向けられたことはなかった。

この中華全土で名を知らぬ者などいない秦の大将軍であり、王騎と摎の養子、さらには秦王嬴政の親友という唯一の無二の存在であることから、怒りを買うわけにはいかないと思われたのかもしれない。

しかし、蒙恬の方には恨みつらみが記された書簡が送られて来たと聞いたことがある。

彼女たちとの過去の関係を、蒙恬はすっかり清算した気になっているのかもしれないが、そう簡単に人の心というものは動かせるものではない。

いつかは元婚約者候補の女性が屋敷に乗り込んで来るのではないかと危惧していたことがあったのだが、見事にそれは実現されたということだ。

隠れてやり過ごそうかとも考えたが、やはり蒙恬の妻という立場で屋敷の留守を任されている以上は介入せざるを得ないだろう。

それに、一向に帰ろうとしないあの女性の対応に、侍女の方もすっかり困り果てているようだ。仕方ないと信は覚悟を決めて前に出た。

 

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謎の来客

「おい、何があった?」

「信さま」

声を掛けると、侍女が一礼をし、言葉を選びながら状況を説明し始める。

「その、来客がいらしたのですが…蒙恬様が不在だとお伝えても、お帰りにならず…」

信が視線を向けると、来客の若い女性がはっとした表情になった。
どうやら信という名前を聞きて、彼女こそが飛信軍の将、そして蒙恬の妻だと気づいたのだろう。

「突然のご訪問、失礼いたしました。お会いできて光栄ですわ、信将軍」

礼儀正しく一礼した女性が、幼い頃からしっかりと教育を受けている、つまりはそれなりに身分の良い娘であることが分かった。裕福な家庭育ちの者は身なりだけでなく、言葉遣いや態度にも表れる。

しかし、蒙恬の婚約者候補の女性であったのならそれも納得できた。高官の娘か、名のある商人の娘だろうか。

屋敷まで押しかけて来たということは、てっきり婚約者の座を奪われ、婚姻を結んだことを妬まれているのかと思ったのだが、そうではないらしい。
その礼儀正しい態度や眼差しから、こちらに対する怒りは少しも感じられなかった。

この場に蒙恬がいたのなら、彼に直接怒りをぶつけていたのかもしれないが、妻として蒙恬がそんな目に遭うのは嫌だった。ここは穏便に解決させなくてはと使命感に駆られた信は夫を真似て、人の良さそうな笑みを繕う。

「何か蒙恬に用か?」

もしかしたら蒙恬が居留守をしていると思われているのかもしれない。嘘ではなく、本当に不在であることを告げたものの、令嬢の表情が崩れることはなかった。

「実は私、蒙恬様が幼少期に家庭教師をしておりましたの。近くを通りましたので、ぜひご挨拶をと思い…」

「家庭教師…?」

蒙恬は幼い頃から家庭教師がつけられていた。王賁もそうだが、どうやら名家の嫡男というのは初陣を出る前から立ち振る舞いであったり、勉学を義務付けられているらしい。

(ん?なんか、引っ掛かるな…)

何となく胸に突っかかりがあり、その正体を探ろうと信は記憶を巡らせた。

 

 

―――初恋が失恋に終わって良かったって、そう思ったんだ。

いつかの蒙恬の言葉を思い出し、信は冷水を浴びせられたように青ざめる。まさか、この女性が蒙恬の初恋相手ということだろうか。

振り返って、侍女を見ると、彼女は困ったように眉根を寄せて小さく首を横に振った。どういう意味か分からず、思わず顔を寄せると、侍女は信の耳元で、蒙恬に家庭教師がついていたことは確かだが、この女性ではないと教えてくれた。

この侍女は胡漸と同じく、蒙恬が幼い頃から蒙家に仕えている。家庭教師の女性とも面識はあったという。ただ何年も前のことなので、顔についてはよく覚えていないそうだ。

だが、あれから何年も経過している・・・・・・・・・のに、まるであの当時から年を取っていないような外見をしている。

童顔で実年齢よりも若く見えるのとはまた違う。これは確実に別人で、蒙恬の家庭教師だと偽っているに違いないと侍女は小声で信に訴えた。

外見だけなら蒙恬や自分よりも若く見えることに、たしかに信も違和感を覚えていた。
たしかに侍女の話を聞く限り、この若い女性が家庭教師に成り済ましているとしか思えない。

相手が野蛮な男ならともかく、可憐な女性を無理に追い返すのは良心が痛む。ここは穏やかに帰ってもらおうと、信が顔に笑みを貼り付けながら口を開いた。

「悪いが、あいつは軍の総司令に呼ばれて宮廷に行ってるから、いつ帰って来るか分からないぞ」

それは嘘ではないし、侍女もずっと彼女へ告げていた事実だ。

「そうだったのですか…」

先ほどから侍女も同じことを言っていたのに、どうやらその女性は蒙恬と会わせないための口実だと思い込んでいたのか、ここに来てようやく引き下がる気配を見せた。

蒙恬がこの場にいなくて良かったと、信は顔に出さずに安堵する。

この若い女性の正体が蒙恬の初恋相手である家庭教師とは思えないのだが、ただでさえ今も胸がもやもやとしていて、笑顔を繕ったままでいるのがやっとだった。

家庭教師の女性は別の男性のもとに嫁いだという話を聞いていたのに、それでも嫉妬の感情が湧き上がってしまう。
もう蒙恬と自分は婚姻を結んだ正式な夫婦だし、毎日のように愛を囁いてくれるとはいえ、過去の恋愛をなかったことには出来ないからだ。

自分が知らないだけで、蒙恬には自分以外に愛していた女がいたのではないか、そして今もその女を愛しているのではないかという不安に襲われてしまう。

まるで蒙恬を信じていない自分に嫌気がさす。

大将軍を目指していたときの、仲間たちと武功を競い合っていた時のような嫉妬とはまた種類が違うし、自分の独占欲が絡むせいか、醜い感情だと思ってしまう。

 

蒙恬の初恋相手

「…ん?」

その時、屋敷の外から物凄い勢いでこちらへ向かってくる馬車が見えて、信は思わず首を傾げた。
屋敷の前に停まるや否や、御者が扉を開けるよりも先に馬車の扉が開けられる。

「信、ただいま!」

満面の笑みを浮かべた蒙恬だった。

(こんな時に…!)

確かに夫の帰宅をずっと待ち侘びていたがよりにもよって今帰って来るとは。動揺を悟られないように冷静でいようと思う者の、つい顔が引きつってしまう。

「やっと帰って来れた~!先生がなかなか許可をくれなくてさ…でもこれでしばらくは大丈夫だから」

再会を喜ぶように、信を抱擁しようと蒙恬が両腕を広げた時、

「蒙恬様!」

「ん?」

家庭教師を名乗る女性が目を輝かせ、彼の前で一礼する。
誰だか分からずに、蒙恬は何度か瞬きを繰り返し、それから信と侍女の方へ困ったような視線を向けて来た。

これまでの経緯を伝えようと侍女が口を開きかけて、それよりも先に女性が自己紹介を始める。

「私です!幼少期の蒙恬様の家庭教師をしておりました」

「……えっ?」

いきなりそんなことを言われた蒙恬はただ驚愕の表情を浮かべるばかりである。

それはそうだろう。蒙恬がまだ十にも満たぬ時に家庭教師をしていたというのに、外見は蒙恬とそう変わりない年齢なのだから、すぐには信じられるはずがない。

厄介なことになったとは思いながらも、信は正直安堵していた。
きっと蒙恬のことだから、こちらが言わずともすぐに目の前の状況を理解し、言葉巧みに彼女を追い返すと思っていたのだ。

「…本当に、先生…?」

信じられないと言った表情で、しかしその瞳に僅かな歓喜の色が浮かんでいる蒙恬を見て、信は嫌な予感を覚えた。

 

 

「ご立派になられましたね、蒙恬様」

家庭教師を名乗った女性は蒙恬の言葉に大きく頷いて、穏やかな笑みを浮かべた。
将軍昇格や、戦での活躍を労う言葉をつらつらと並べていくその女性に、蒙恬の表情が綻んでいく。

(おい、まさか、本当に家庭教師だって信じてんのかよ?)

信は家庭教師の女性と面識はないのだが、面識のある侍女が彼女ではないと否定したことに絶対的な自信を持っていた。

「…先生こそ、よくいらっしゃいました。久しぶりにお会いできて嬉しいです」

しかし、蒙恬はまるで再会を喜ぶかのような言葉までかけ始めたことに、信も、信の後ろに仕えている侍女も蒙恬の反応に驚いた。しかし、侍女の方は主が丁重にもてなしている手前、何も口を出せずにいるようだった。

「………」

信は静かに唇を噛み締めて、言葉を飲み込んだ。

心配しなくても、自分は正式に蒙恬の妻になったのだから、他の女性に夫を奪われるようなことはない。何度も自分にそう言い聞かせるものの、目の前で談笑する二人のせいで、胸のざわつきが一向に落ち着かない。

それが嫉妬という名の感情だと分かったのは、信にも経験があったからだ。

婚姻が決まったばかりの頃、宮廷で蒙恬が自分以外の女性と密会している現場に出くわしてしまい、破談の危機に陥った。結局のところ、あれは誤解だったのだが。

それでも、自分以外の女性と身を寄せ合っている蒙恬の姿を思い出しただけでも気分が悪くなってしまう。

たかがその程度で嫉妬するなんて、自分の心の余裕のなさに信は呆れてしまったのだが、それでも彼と夫婦になってから日に日に独占欲は増していく一方だった。

婚前から変わらず、蒙恬は自分を好きだと言葉にして伝えてくれるのだが、それでも不安になってしまうことがある。

こんなにも想い合っているのは今だけで、いずれ蒙恬は自分以外の女性を選んでしまうのではないかと。

 

 

嫉妬

「…信さま?お加減が優れないのですか?」

物思いに耽っていると、心配した侍女が声を掛けられて、信ははっと我に返る。
傍にいる二人の会話を聞きつけ、蒙恬の意識がようやくこちらに向き直った。

「信?具合悪いの?」

「え、あ…ええと…」

体調が悪い訳ではなかったのだが、これ以上ここにいたくないという想いがあったのは事実だった。

返事に戸惑っていると、蒙恬が心配して顔を覗き込んで来る。

「俺がいないからって、無茶な鍛錬してたんだろ」

「べ、別にそういうんじゃ…」

蒙恬の肩越しに、家庭教師の女性がこちらとじっと見据えていることに気づく。

幼い頃から戦に出ているせいか、信は他人から向けられる負の感情や視線には敏感なのだが、特に彼女の視線からは羨望や嫉妬などの感情を向けられている気配はなかった。

蒙恬の初恋相手だということで嫉妬をしてしまったのだが、彼女からすれば純粋に教え子の成長や再会が嬉しかったのだろう。

彼女が蒙恬を異性として見ている訳ではないのだとわかり、ほっと安堵する。同時に、自分の幼稚な部分が浮き彫りになった気がして、途端に恥ずかしくなった。

「さ、先に部屋に戻ってる」

「えっ?信?」

蒙恬から逃げるようにして、信は足早にその場を立ち去った。

部屋に戻ると行っておきながら、彼女は普段生活をしている母屋の方ではなく、婚前に暮らしていた別院の方へと向かう。とにかく今は、一人になれる場所に行きたかった。

 

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以前まで過ごしていた別院は、今も侍女たちが丁寧に清掃をしてくれているので、埃一つなく綺麗だった。

母屋では蒙恬との寝室が用意されているのだが、別院で使っていた寝室は今もそのままになっている。

婚姻を結ぶ際、蒙恬がそのままにしておくように従者たちに指示を出していたのだ。

別に母屋で生活するようになるのだから構わないのにと思ったのだが、蒙恬は首を横に振った。

―――だって、信は一人でどこか遠くに行っちゃいそうなことがあるから。もし、一人になりたい時はこの部屋を使って。約束だよ。

こちらは何も言っていないというのに、勝手に約束を取り付けられた。

あの時は蒙恬の取り越し苦労だろうと思っていたのだが、その通りになっていた。
本当は愛馬に乗って何も考えずに遠くを走りたいと思っていたのだが、無意識のうちに別院の寝室に駆け込んでいたのである。

「………」

丁寧に寝具が整えられている寝台に腰を下ろし、信は落ち着きなく自分の両手を組んだ。

「…っくしゅ!」

肌寒さを感じて、信は大きなくしゃみをしてしまった。
鍛錬の後で湯浴みをしたいと思っていたのだが、来客の対応をしていたうちに汗が引いており、体が冷えてしまったのだろう。

「………」

屋敷のどこにいても、自分がくしゃみや咳をしたら、すぐに飛んで来てあれこれ心配してくれるはずの蒙恬が今日は来てくれなかった。

それに寂しさを覚えながら、信は寝台にごろりと横たわる。

何も考えないように眠ってしまおうと瞼を下ろすものの、頭の中では蒙恬とあの女性のことばかり浮かび上がった。

蒙恬と彼の師である昌平君が話をしている時には何も感じないというのに、どうしてだか複雑な感情が波立つ。

あの女性が本当に蒙恬の家庭教師だったのかどうかは、もはや信の中ではさほど問題ではなくなっていた。

幼い頃からきちんとした教養を受けている女性を見ると、無意識のうちに自分に欠けている部分を羨望してしまう。
さらには蒙恬が自分に向けるものと同じ笑顔を振り撒いていると思うと、それだけで胸が苦しくなるのだ。

もちろん蒙恬と出会ったきっかけになったのは、信が養父である王騎のような大将軍を目指していたからなのだが、それでも考えてしまうことがある。

蒙家のような名家で生まれ育ち、淑女としての教養を受けていたのなら、こんな劣等感を抱くことはなかったのかもしれないと。

 

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夜目、遠目、恋慕のうち(王賁×信)中編①

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前編はこちら

 

 

診察

すぐに医師団の診療が始まり、信は王賁の体が毒に蝕まれていることを説明した。

秦国一と言われる医療技術を持つ医者たちは、苦しそうに呼吸を繰り返す王賁の脈を測ったり、舌の色を見たり、瞼を持ち上げて眼球の動きを確認している。

こちらからの呼び掛けには頷いて応じるものの、会話をするほどの余裕はないらしい。瞼を持ち上げるのも辛そうだ。

一人の医者が王賁の指先を刃物で小さく傷つけ、銀針の先端に血を付着させている。銀針の先端の色を見て、何かを考えているようだった。

(おいおい、もしかして、かなりまずいのか…?)

ここに連れてくればきっと何とかなると思っていた信だったが、王賁の診察をしながら医者たちが何とも言えない複雑な表情で互いに目線を合わせていたことに、なにか嫌な予感を覚える。

どうやら王賁の診察が終わったのか、嬴政と信の前に並んだ彼らは報告を始めるべく、頭を下げた。

「毒の症状がかなり進行しています」

その言葉を聞き、信は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

毒を受けた王賁本人が自覚していたことだし、今さら驚くことではないが、医師団に言われてしまうと事態は相当深刻になっていることを認めざるを得ない。

「な、なあ、治るんだろ?」

縋りつくように信は医者たちに尋ねたが、その声にも不安が滲んでしまう。
誰よりも不安で仕方がないのは王賁だと分かっているのだが、問わずにはいられなかった。

 

 

「…銀針が反応しませんでした。恐らく、これは奇毒です」

「え?」

奇毒という言葉に、信は思わず息を飲んだ。

毒の有無は、銀の色の変化によって判断することが出来る。
その知識は過去に食事に毒を盛られた経験のある嬴政から聞いたことがあったので、信も理解していた。

礜石ヒ素を含む鉱物は比較的入手しやすい毒物であり、王族の毒殺だけでなく、貴族たちの世継ぎ問題などでも利用されるのだそうだ。この毒は銀製のものに反応を示す。

そのため、食器を銀製のものにしたり、食前に銀針を浸すなどして、色の変化がないことを確かめてから食事をするらしい。王族はこの確認方法だけでなく、さらに毒見役もついている。

しかし、医師団の見立てによると王賁の血液に触れさせた銀針は、色の変化がなかった。
このことから、王賁が受けた毒は、砒霜※ヒ素のことの類ではないことが分かる。

王賁が受けた毒が砒霜でないとすれば、まずはその毒の正体を突き止めた上で解毒を行わなくてはならない。

鍵穴に適した鍵がないと扉が開かぬように、毒にも適した治療法を用いらねば解毒することが出来ないのである。

「ただ、今から毒を分析して、解毒法を探すとなれば…」

寝台に横たわる王賁に聞こえぬよう、医師団が声を潜めながら言葉を濁らせた。信と嬴政は互いに顔を見合わせ、言葉を失った。

「そ、そんな…」

もっと早く王賁を医師団へ連れて来ることが出来ればと、信は目の前が暗くなり、膝から力が抜けてしまう。

「信っ」

咄嗟に嬴政が体を支えてくれたので倒れ込むことはなかったが、まるで頭から冷水を浴びせられたように体が竦んでしまう。

 

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抗毒血清

秦国一と称される医師団でさえも王賁の毒を取り除くことが出来ないということは、あとは彼が死に至るの待つだけなのだろうか。

「他に方法はないのか」

嬴政が険しい表情を浮かべて問いかけると、一人の医者が前に出た。

「恐れながら、一つだけ方法が…」

深刻な事態であることは重々承知しているし、秦王を前に匙を投げるわけにはいかなかったのだろう。

「構わぬ。話せ」

嬴政が発言を許可すると、男の医師は恐ろしいほど厳粛で、神妙な顔つきのまま口を開く。

「人を百毒にあたらせ、体内で血清を作り、その者の血を解毒剤として飲ませる方法があります」

医学に携わったことのない者でも理解できるよう、その男は説明を始めた。

今から王賁の体を蝕む毒の正体を調査し、そこから解毒薬を調合始めるのでは間に合わない。

そのため、異例ではあるが、強力な抗毒血清を人間の体内で製薬して治療を試みるとのことだった。

王賁の体を蝕む毒よりも、さらに強力な毒を体に投与し、その者の体内で免疫を作るということだ。そしてその免疫を持つ血を解毒剤として王賁に飲ませる。

確実に助かるかどうかはやってみないと分からないが、このまま王賁を見殺しにするか、その治療法を試してみるかの二択しか残されていなかった。

 

 

「ただし、血清を作る過程で、かなりの危険を伴います。耐えられるかどうかは…」

医師の忠告に、嬴政と信が顔を見合わせる。
誰かが血清をその身で作らねばならないので、王賁が受けた毒よりもさらに強力な毒を受ける必要がある。

血清というのはその字の通り、血液で作られるものだ。
百毒に耐えられた者から血を採取し、それを薬として王賁に飲ませることで解毒を試みると医師は言った。

「………」

信は重々しく眉根を寄せた。

「じゃ、じゃあ、解毒薬を作るために、毒を飲んだやつは、死ぬのか…?」

「毒の作用に苦しむのは確実でしょう。しかし、王賁様に血清を飲ませるためには何としても生きてもらわねばなりません」

もしも血清を作る者が毒を受けて死んでしまった場合、王賁に薬を与えることは出来ない。だからこそ、毒に負けぬ体力と自信を持つ者を人選しなければ、この治療法は望めないと医師は言った。

「もちろん、王賁様の解毒が完了次第、その者の解毒も行います。こちらはすでに解毒方法は分かっているので、王賁様の解毒が終わるまで持ち堪えられる方でなければ…全力は尽くしますが…」

「………」

不自然に医師が言葉を切ったので、信は複雑な気持ちを抱いた。
つまり、王賁の解毒治療をする過程において、犠牲が出るかもしれないとうことである。

事情を知っている王賁の重臣ならば、喜んで身を差し出す者もいるだろう。しかし、迷っている時間はなかった。苦しげに呼吸を繰り返している王賁の姿を見て、信は力強く拳を握る。

「…分かった。俺が王賁の解毒薬になる」

 

 

「信…」

親友が危険な提案に名乗り出たことに、嬴政は体の一部が痛むように顔をしかめた。

もしかしたら秦の未来を担っている王賁と信を失うことになるかもしれないのだ。引き留めることはしないが、賛同出来ないのも無理はない。

事態は一刻を争うものの、信と嬴政の親友という関係性は秦国で知らぬ者はいない。医者は確認するように嬴政を見やる。引き留めるなら今しかないと、その眼は訴えていた。

しかし、信は一度決めたことを引き下げることはしないことを、嬴政は昔からよく知っていた。だからこそ、彼は反対しなかった。

「信」

「ん?」

嬴政に名前を呼ばれ、信は反射的に振り返った。

「死ぬなよ」

短いが、決して軽くないその一言には、嬴政の全ての想いが秘められていた。
まだ中華統一は出来ていない。道半ばで息絶えるのは決して許さないと、嬴政の瞳が力強く物語っている。

親友の想いをしっかりと受け止めた信は拳を持ち上げた。

「当たり前じゃねえか。ここらで王賁に恩を売っとくだけだ。それもこれも全部、中華統一を果たすためなんだからな」

二人の間に横たわっていた緊迫した空気を和ませるように、信がカカカと笑う。
嬴政はそれ以上何も言うことはなく、同じように拳を持ち上げて、信の拳とぶつけあった。

 

製薬

医者に連れられて、信は部屋を出た。
日頃から医師団が在住している建物は宮廷の敷地内にあり、そこでは患者の治療や製薬を主として行っている。王賁もそちらへ身柄を移され、常に医者の目が届くその場所で療養することとなった。

寝台の上で苦しそうに呼吸を繰り返す王賁を見て、信の胸は締め付けられるように痛む。

意識はあるのだが、倦怠感が強く、固く閉ざされた瞼を持ち上げるのも億劫のようだった。

もしも信が毒を受けて抗毒血清を作るとなれば、王賁は全力で止めるだろう。借りを作りたくないだとか、色んな言葉を並べて、解毒剤を飲むのを拒絶するかもしれない。王賁とはそういう男だ。

だから彼には信の体で抗毒血清を作る話は黙っていてもらうことにして、解毒剤の調合していることだけを伝えてもらった。

「信将軍」

医者に名前を呼ばれて、信は弾かれたように顔を上げた。神妙な顔つきで見つめられて、どうやら準備が出来たらしいことを悟る。

信は頷いて、寝台に横たわる王賁の姿をもう一度見つめた。

「…王賁、待ってろよ」

なるべく笑顔を繕って、信は王賁に言葉を掛けた。それが虚勢だというのは信自身も分かっていたが、王賁の前で怯える姿など絶対に見せたくなかった。

 

 

案内された別部屋に足を踏み入れると、その部屋は他と違ってなぜか湿気が多かった。

この部屋だけ窓がないことも気になったのだが、棚に並べられているそれら・・・を見て、信はぎょっと目を見開く。

「へ、蛇ッ…!?」

棚にはいくつもの竹で出来た長方形の籠が並べられていたのだが、その中に一匹ずつ蛇が収容されているのだ。

初めて見た訳ではないのだが、竹籠に収容されている蛇はどれも種類が違い、初めて見る蛇も多かった。一体何のためにこれだけの数を飼育しているのだろうか。

「すべて毒を持っています。不用意に触らないようにお気を付けください」

「あ、ああ…」

まさか全部が毒蛇だとは思わず、信は狼狽えた。

今回の王賁のような毒は特殊だが、戦で毒を受けることは珍しくない。ここでこんなにも毒蛇を飼育している理由には、治療に用いるからなのだろう。

「信将軍」

医者は一番奥の棚に置かれていた竹籠を手に取り、それを抱えて信の前へとやって来る。

その竹籠の中にいた蛇は、他の蛇に比べると随分と小柄な蛇だった。全長は子供の腕ほどしかない。全身は白いのに、舌と瞳だけは血のように赤く、気味が悪い。

眠っていたところを起こされて機嫌が悪いのか、その蛇は目をぎらりと光らせて、信のことを睨みつけていた。

「この中で一番強力な毒蛇です」

「え?こんな小せぇ蛇が?」

これだけの数がいるというのに、こんな小さな白い蛇が一番強力な毒を持っているということに、信はすぐには信じられなかった。

実力を見た目だけで計り知れないのは人間だけでなく、蛇も同じらしい。

「毒性を考えれば一噛みされれば十分ですが、王賁様に症状の改善が見られなければ、さらに噛まれる必要が出て来るかもしれません」

「………」

信も毒を受けたことがないわけではなかったが、自らが望んで毒を受けることになるのはこれが初めてであった。

口ごもった信を見て、医師の男は確認するように彼女の顔を覗き込む。

「…代わりの候補者を探すのなら、今ならまだ間に合います」

「だ、大丈夫だ!」

どうやらまだ迷っていると誤解されたようで、信は咄嗟に言い返す。
彼女の覚悟を受け入れたのか、医師の男は力強く頷いた。

「では…」

蛇が入っている竹籠の蓋を開け、信に差し出す。
赤い目をした白蛇は小柄な体格に似合わず、大口を開けて威嚇をしている。まるで触るなと警告しているようだ。

「う…」

信は籠の中に右手を入れようとして、すぐに左手へすり替えた。もしも毒のせいで腕を落とすことになったら、利き腕が使えなくなるのは困ると思ったからだ。

恐る恐る左手を蛇の目前に伸ばすと、

「あいたッ!」

親指の付け根をカプリと噛まれ、咄嗟に悲鳴を上げた。しかし、噛まれた痛みはさほど強くなかったのは幸いだった。

反射的に手をひっこめたのと同時に、すぐに医者が竹籠の蓋を閉じる。棚に蛇を戻すと、信が噛まれた左手をまじまじと観察する。

血は出ていなかったが、小さな二穴があり、蛇の牙がしっかりと食い込んだことが分かる。患部を見ると、左手がずきずきと痛み始めた。

 

見舞い

「これから一刻もしないうちに、ひどい悪寒が来るでしょう。熱が上がる前兆ですので、部屋でお過ごしください」

「あ、ああ。その前に、王賁に会うことは出来るか?」

「はい。ただ、今は処置中かと…」

「一目見るだけでいい」

治療の邪魔はしないというと、医者は王賁がいる部屋に案内してくれた。

彼は寝台に横たわっており、数人の医者が彼に鍼を施している最中であった。
抗毒血清を飲ませるという治療方針で決定したというのに、何をしているのかと問うと、王賁の体内にある毒を一か所集めているのだそうだ。

気血の流れを整えながら、全身に回っている毒を両目に集めています」

信はぎょっとした。

「りょ、両目って!んなことしたら、本当に目が見えなくなっちまうんじゃ…!」

「俺の意志だ。余計な口を出すな」

信の疑問に答えたのは王賁自身だった。瞼が閉じられていたので眠っているのかと思ったが、どうやら起きていたらしい。

玉座の間で倒れた時と違い、今は楽に呼吸をしていたので医師団の処置のおかげで少しは落ち着いたようだ。

「お前の意志って…なんで目なんだよ」

他に候補があったのではないかと信が聞き返すと、今度は王賁の鍼を施している医者の一人が信の疑問に答えた。

毒を一か所に集めるにあたっては、心臓と頭から離れた場所が候補となる。
王賁の希望を聞き、彼は武器を握る両手から離れたところ、戦場を駆ける両脚から離れたところにして欲しいと答えたのだそうだ。

療養中は医師団が近くにいるし、夜目が弱くなっていたのは随分と前からなので、今さら視力に影響したとしても問題はないという理由から目を選んだそうだ。

しかし、信は不安な表情を隠せなかった。

(もし、解毒剤が効かなかったら…)

言いかけて、信はその言葉をぐっと飲み込んだ。
自分が不安を口にしたところで、何も変わらない。それに一番不安なのは王賁のはずだ。

「…今、医師団たちが薬を作ってくれるからな。それまでへばるんじゃねえぞ」

自分が抗毒血清を作る材料になったとは言わず、信は力強く王賁を励ました。
王賁は何も答えなかったが、僅かに口角を持ち上げたのを見て、信もつられて微笑む。

「っ…」

そのとき、まるで冷水でも浴びせられたかのように、全身に突き刺すような寒気を感じた。先ほど医者が言っていた熱が出る前兆の症状だろう。

「…信?」

僅かに信の動揺を聞きつけたのか、目を閉じたままの王賁が怪訝そうな表情を浮かべる。

「な、なんでもねえ!それじゃあ、俺は用があるから…あ、でも宮廷にはいるから、なんかあったら呼べよな!」

王賁が両目を開いていたのなら、もしかして普段から嘘を吐けない信の顔を見て、何か隠していると勘付いたに違いない。

こればかりは王賁が目に毒を集めると選択してくれたことに感謝した。

 

 

医者に案内された部屋は、王賁が治療を受けていた部屋と同じ構造になっていた。

「うううー…さみぃ…」

何重にも重ねられた布団の中で、信は自分の体を両腕で抱き締める。寒くて堪らないのだ。

真冬に着る厚手の羽織も借り、青銅の火鉢で部屋も暖めているというのに、まるで氷の中に閉じ込められているような悪寒のせいで、体の震えが止まらない。

寒さが落ち着けばすぐに熱が上がると医者は言っていたが、幼少期から大きな病にかかることなく、ずっと健康体で生きていた信にはこの寒さは随分と堪えるものだった。

多少の風邪なら経験したことはあるが、こんな悪寒を経験するのは初めてだったので、信はつい弱音を吐いてしまいそうになる。

しかし、顎が砕けてしまいそうなほど強く奥歯を噛み締めて、声を堪えた。

(負けてたまるか!)

たかだか悪寒如きに弱音を吐くなんて情けないと自分に喝を入れる。
王賁は毒を受けてから今もなお苦しんでいるのだ。抗毒血清を作って彼を助けるためにも、こんなところで負けるわけにはいかない。

少しでも寒さを紛らわそうと、両手で体を擦った。

医者の話では、体が毒に対する免疫を作るために、これから高い熱が出るのだという。その熱が引いた頃に血を採取し、まずは一度目の抗毒血清としてそれを王賁に飲ませる。

五日間、血清を飲ませ続けて王賁の症状が改善すれば、すぐに信の解毒治療も始めるとのことだ。もしも王賁の症状が改善しなければ、信の解毒治療は後回しになるどころか、もう一度あの毒蛇に噛まれなくてはならない。

あの白蛇の解毒法は分かっているというが、あまりにも強力な毒が体内に留まっていれば王賁の症状が改善する代償に、自分の臓器や手足が壊れてしまうのではないかという不安があった。

二度と戦場に立てなくなるのは自分か王賁か、二人の命が天秤にかけられていた。

 

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一度目の投薬

一刻ほど経った頃、信はそれまでの悪寒が嘘だったのではないかと思うほど暑さに襲われ、布団を除けた。

「あ、あっちい…」

全身の毛穴からどっと汗が噴き出て来る。肌が火照っているのが分かり、吐く息も熱かった。

体内の水分が全て出ていってしまうのではないかと思うほど汗が止まらない。用意されていた水甕から杯に水を注いで一気に飲み干した。

「はあ…」

喉は潤ったが、倦怠感が凄まじく、頭がぼうっとする。
先ほどまで悪寒で震え、間を置かずに発熱したせいだろうか。まるで養父の王騎と一戦交えた時のような激しい疲労感もあった。

「う…?」

羽織を脱ごうとして腕を動かすと、左手に力が上手く入らないことに気づく。あの白蛇に噛まれた親指の付け根は青痣のように変色していた。

試しに左手で掌握をしてみたが、こわばりが強く、上手く指を曲げ伸ばしすることが出来ない。

(…利き腕はやめておいて正解だったな)

咄嗟に右手を庇って、代わりに左手を噛ませた自分を褒めてやった。

解毒すれば左手も問題なく使えるようになるだろうか。もしも使えなくなったり、左手を落とすことになったらと色々と不安はあったが、信は考えないように別のことに意識を巡らせた。

熱が出たのも、左手に症状が出たのも、今まさに体内で毒に対する免疫が作られている証拠だ。

高熱のせいでぼうっとする頭で解熱剤の処方をしてもらえないかと考えたが、部屋に案内されるときに、王賁に飲ませる解毒剤の効果の妨げになる可能性があるから、薬を飲むことは許されないと医者が話していたことを思い出す。

王賁が薬を飲み続ける五日間、自分は毒に苦しまなくてはならないということだ。

(わかっちゃいたけど…結構キツいかもなあ)

息を荒げながら、信は天井を見上げた。
しかし、自分が耐えた先に王賁が救われるのだから、なんとしてもあと五日は耐えねばならない。

 

 

高熱のあまり、意識が朦朧としていたのだが、眠ってしまっていたらしい。

小さな物音に意識を引き戻されて重い瞼を持ち上げると、男の医者が何か処置の準備をしている姿があった。

眠る前よりは体の倦怠感は幾度か楽になっていた。
暑さを感じなくなっており、どうやら熱が引いたらしい。汗を流し過ぎたせいか、肌寒さを感じるほどだった。

「………」

声を出すのも億劫だったので見つめていると、信が目を覚ましたことに気が付いたのか、医者の男が頭を下げた。

「これより、王賁様に一度目の投薬を行います」

医師の男が短剣を手に近づいてきて、そっと左手首を掴まれた。

失礼しますと、毒蛇に牙を立てられた親指の付け根に短剣の先端が突き立てられる。
僅かな痛みに顔をしかめたが、痛みは長くは続かなかった。

左手から流れる血液を数滴だけ器に流し、器の中にもともと入っていた薬湯とかき混ぜる。どうやら採取する血液は少量で十分らしい。

簡単に止血をした後、医者の男は製薬したばかりの解毒剤を王賁に飲ませるために部屋を出て行った。

王賁を苦しめる症状が少しでも改善するように、信は祈らずにはいられなかった。

「うー…?」

先ほど短剣で傷をつけられた左手に再びこわばりが現れる。肘から先の感覚が鈍くなっていて、力が入りづらい。

眠る前よりも青痣の範囲が広まっているような気がして、信は思わず目を背けてしまった。

王賁の解毒が終わるまでは何としても耐えねばならない。
まさか毒を受けた初日からこんなにも苦しい想いをするとは思わなかったが、弱音を吐く訳にはいかなかった。

 

二度目の投薬

目を覚ました信は窓から差し込む日差しを見て、すでに昼を回っていることに気づく。

起き上がろうとしたのだが、倦怠感がひどく、上体を起こすのもやっとだった。

寝台に手をついた時、蛇に噛まれた左手の青痣が広まっていないことに安堵する。昨夜よりは手のこわばりも軽くなっていた。

「うう…」

時間をかけてなんとか体を起こしてみたものの、立ち上がる気力が湧かない。ずっと横になっていたいという欲求が凄まじいほど、鉛を流し込まれたかのように体が重かった。

昨夜、蒙恬の屋敷を出てから何も口にしていないので、胃は空っぽになっていたのだが、食欲は全くなかった。

寝台の傍にある台に食事が用意されていたのだが、手をつけることなく、信は再び寝台に横たわる。

熱が上がる前にたくさん汗をかいたので、体がべたべたとして気持ちが悪い。湯浴みをしたかったが、支えなしではとても一人で動けそうになかった。

(王賁は…)

昨夜、医者が王賁に薬を飲ませてくれたはずだが、どうなったのだろうか。
あと四日間は薬を飲ませ続けなくてはならないので、初日に飲ませただけではまだ改善していないかもしれないが、少しでも楽になっていてほしい。

「…王賁…」

這ってでも王賁の様子を見に行きたかったのだが、信は再び起き上がるほどの体力も気力もなく、気づいたらそのまま意識を失うようにして寝入ってしまった。

 

 

「…様、王賁様」

何度か名前を呼ばれ、王賁ははっと目を開いた。

「っ…」

しかし、目を開いているはずなのに視界は真っ暗で、王賁は思わず息を詰まらせる。

それから今は医師団の管理下で治療を受けていることを思い出す。
一時的に毒を両目に集めており、外部から入る光さえも刺激として与えぬよう、今は両目を包帯で覆われているのだった。

暗闇の世界では今が昼なのか、それとも夜なのか、王賁には分からなかった。

「お薬をお持ちしました」

昨日薬を飲ませてくれた男の医者の声がする。支えられながらゆっくりと体を起こすと、左手に薬の入った器を、右手に匙を握らされた。

何も映ってはいないのだが、両手の感覚はしっかりとしている。王賁は匙で中に入っている薬をすくい上げた。

色々な薬草を磨り潰して製薬したのか、水気の多い薬であることは昨日口にして分かった。何色をしているのかは分からないが、とにかく苦みが強い。鉄さびのような味も混じっている気がする。

しかし、昨日よりも体が楽になっている感覚は確かにあった。視界が利かないのは仕方ないことだが、手のこわばりもないし、息苦しさやだるさもない。

昨日は器と匙を渡されたものの、手のこわばりが強かったため、医者が薬を飲ませてくれたのだが、まさかこんなすぐに効果があるとは思いもしなかった。

匙を使って薬を口に含む王賁の姿を見て、医者がほっとしたように息を吐いたのが聞こえた。

苦みを堪えながら、何度かに分けて薬を飲み切ると、医者が王賁の手首に触れ、脈を測った。

「…脈も落ち着いております。昨日よりも顔色が良くなりましたな。この調子なら薬を飲み切ることが出来れば、解毒が叶うやもしれません」

「一晩で随分と楽になった。感謝する。貴重な薬草を使ったのか?」

医師団の技術は鍼治療に特化していると聞いたが、こんなにも体が楽になったのは毒を一か所に集めることと、調合してくれた薬のお陰だろう。

「ええ、まあ…」

薬の原料について問うと、医者は僅かに言葉を濁らせる。しかし、そのことを王賁は大して気に留めなかった。

「快方に向かった際は、どうぞ信将軍に今のお言葉をお伝えください」

「…そうだな」

王賁は素直に頷いた。

彼女がここに連れて来てくれなかったのなら、治療を受けることは出来なかった。
きっと毒に蝕まれて、視力や手足を失い、将としての立場も、生きる希望も失っていたことだろう。

解毒の治療が終わり、視力が元に戻ったのなら、真っ直ぐに彼女の目を見て感謝を伝えようと王賁は考える。

…薬湯の後味は、未だ口の中で尾を引いており、王賁は思わずその苦みに溜息を零した。

 

中編②はこちら

The post 夜目、遠目、恋慕のうち(王賁×信)中編① first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/ギャグ寄り/野営/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「毒酒で乾杯を」の番外編4作品目です。

 

安眠

桓騎は昔から眠りが浅い体質で、寝酒が欠かせなかった。

しかし、信と男女の関係を持ち、彼女と共に褥に入るようになってからは寝酒の量は驚くほど減っている。

今までは寝酒を飲んでも、娼婦を抱いても、眠気とは無縁であったというのに、不思議なものだ。

まるで何の不安も経験したことのない無邪気な寝顔を曝け出す信を見ていたら、自然と眠気に誘われるのである。人肌の温もりも重なって、気が付いた時には夢の世界に落ちているのだ。

眠りは長く持続しないので、信より先に目を覚ますのだが、それでも眠ったという実感は強くある。

桓騎がもともと眠りが浅い男だというのを信は知らない。自分の睡眠事情など、信が尋ねることもなかったし、桓騎もわざわざ言うことはしなかった。

以前は一刻でも眠れば眠った方だったのだが、信と共に褥に入る時は朝方まで目を覚ますことがない。睡眠で身体の疲労を取るという感覚を初めて知ったような気がした。

信といえば激しい情事でくたくたに疲れ切って、翌朝になっても足腰が使い物にならなくなることが多いが、桓騎はそうではない。

信を抱いたあとの桓騎は心身ともに調子が良くなるのだ。
そういう時は決まって、仲間たちに何か良いことでもあったのかと問われる。

どうやら信と一夜を共にした時は、いつもより口角がつり上がっており、普段以上に気分良く過ごしているように見えるらしい。

それは桓騎には一切の自覚がなく、仲間たちに指摘されてから初めて気が付いたことだった。

 

 

その日もくたくたになるまで体を重ね、程よい疲労感が瞼に眠気として圧し掛かっていた。
腕の中の信の温もりも合わさって、眠気がどんどん増していく。

眠りに落ちる瞬間がこれほどまでに心地良いものだと知ったのは、信と男女の関係になってからのことだった。

瞼を落とし切り、意識の糸を手放しかけた瞬間。

「…そうだ。俺、しばらく来れねえから」

「あ?」

思い出したように信からそんな話を持ち出され、一瞬で頭から水を被せられたように眠気が飛んでいった。

眉間にしわを寄せてしまったのとドスが効いた声を洩らしたのは、眠りを邪魔されたことと、しばらく信と会えなくなると分かったからである。

「趙に動きがあるらしい。国境の偵察に行けって昌平君に言われたんだよ」

すっかり忘れていたと、軽い用事を思い出したような口調で語る信に、桓騎はどうしようもなく苛立ちを覚えた。

「なんで今になって言うんだよ」

せめて屋敷に来てから話してくれたのならと思ったものの、桓騎の気持ちを知る由もなく、信は小さく首を傾げた。

「んなこと言われても…話そうとしたのに、お前が遮ったんじゃねえか」

反論され、桓騎は思わず片眉を持ち上げた。
そういえば信が屋敷に来てから、すぐに寝室に連れ込んだことを思い出す。

最後に会ったのは、とある闇商人と婚姻させられそうになった彼女を助けた後だった。
その商人から譲り受けた一級品の嫁衣を着用した信と、それはもう初夜の雰囲気を楽しんでいたのだが、飽きずに繰り返したことで、いい加減にしろと信の機嫌を損ねてしまったのだ。

それから桓騎は信に避けられる日々が続いていた。しかし、それは長くは続かず、彼女の長所であり短所である単純さによって、時間が解決したのである。

信の好物でもある鴆酒を手に入れたと書を出せば、信はすぐに屋敷にやって来た。自分に会いに来たのではなく、鴆酒を目当てであることはあまり気分が良くないが、久しぶりの再会は嬉しい。

さっそく鴆酒を飲もうとしていた信を抱き上げて寝台に運ぶと、それはもうさんざん文句を言われた。

しかし、結局は桓騎に触れられれば、彼女の体は反応してしまい、……今に至るというワケだ。

話を聞こうとしなかったお前が悪いと咎められるも、桓騎が不機嫌な表情を崩さないので、信は呆れたように肩を竦めた。

 

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安眠妨害

「あーあ、せっかくの鴆酒も飲み損ねちまった…」

せっかく楽しみにしていた美酒がお預けとなり、信は口を尖らせる。

今から飲めば良いものを、どうやら国境の偵察に行くために、もう明日には屋敷を出なくてはならないのだそうだ。

酒瓶を持っていって偵察の合間に飲めば良いと伝えたが、信はそれを断った。
桓騎軍と違って規律を守る飛信軍の将という立場であることが一番の理由だが、鴆酒は一般的に暗殺道具として用いられる毒酒であり、間違って仲間が口を付けたら大事になるという心配があるようだ。

仲間のために嗜好品を我慢するなんて、彼女らしいと思った。

「帰って来たら好きなだけ飲ませてやるよ」

「当たり前だろ。独り占めするんじゃねえぞ」

国境の偵察から戻るまでに、桓騎が鴆酒を全て飲み干してしまうのではないかと信は危惧しているらしい。

貴重な毒酒を仕入れた時は、必ずと言っていいほど信を誘っているというのに、どうやら信頼されていないようだ。

桓騎が信を酒の席に呼ぶようになったのは、彼女が自分と同じで毒に耐性を持っていることを知ってからだ。

今では男女の関係になったこともあり、彼女と毒酒を飲み交わす時間は、桓騎にとって今まで以上に心安らげる時間になっているのである。

当然ながら毒酒の相手をしてくれるのは、自分と同じように毒の耐性を持っている信だけであり、こればかりは重臣たちにも務まらない。

一人で飲んでも味気ないので、最近は信がいない時に毒酒を飲むことを控えるようになっていた。

昌平君が国境の偵察に向かうよう信に指示を出したのは、恐らく戦の気配が濃く表れているからだろう。

指揮を執っているのはあの李牧だ。どのような手段で侵攻してくるか分からない。
もしも趙の侵攻が始まったとすれば、飛信軍ほどの実力がないと容易に抑えることは難しいという総司令の判断に違いなかった。

趙の宰相である李牧には、たとえ戦場であったとしても決して信と会わせたくなかったのだが、こればかりは桓騎の独断ではどうすることも出来ない。

 

 

過去に成立した秦趙同盟の際、信が鴆酒を飲んで毒の副作用――まるで媚薬を飲まされた時のように性欲の増強と感度が上昇する――を起こした際に、李牧は彼女を抱いたのだ。

副作用が落ち着いた朝、信は何度も桓騎に謝罪した。李牧とそういうことになった過程を、嘘偽ることなく一部始終吐かせたのだが、桓騎はその一夜の過ちを決して許さなかった。

もちろん信から誘ったわけではないのは本人の口から聞かずとも分かっていたが、それでも好いている女が自分以外の男に汚されるのは気分が良いものではない。むしろ最悪だ。

趙の宰相の名前を聞く度に反吐が出そうになる。もしも戦場で相見えることがあったのなら、あの男だけは必ず自分の手で殺してやると桓騎は誓っていた。

「ふわあ…」

信が大きな欠伸をする。眠気が来たのだろう。

桓騎と違って、彼女は眠い時にはすぐ眠れるし、体を休ませなくてはならない時はすぐに眠ることが出来るらしい。一人の時は寝酒の力を借りても少しも眠れない桓騎とは正反対だった。

もう寝る、と信が瞼を下ろす。こうなれば身の危険を察知するか、朝になるまで目を覚まさないだろう。

桓騎の予想通り、すぐに信は寝息を立て始めた。
薄口を開けて気持ちよさそうに眠るを見つめながら、静かな寝息に耳を澄ましていると、桓騎の瞼も自然と重くなっていく。

彼女の肩をしっかりと抱き、触れ合う温もりに意識を向けていると、瞼を持ち上げていられなくなり、桓騎は意識の糸を手放していた。

 

しばしの別れ

肌寒さを感じて桓騎が目を覚ました時、窓から白い光が差し込んでいた。冬が近づいて来ていることもあり、朝もよく冷え込むようになった。

腕の中の温もりがなくなっていることに気づいた瞬間、桓騎の意識が覚醒する。すでに信の姿はなくなっていた。

寝具の中にも温もりは残っておらず、どうやら自分が眠っている間に出発してしまったのだと気づく。

(寝過ごしたな)

しばらく会えなくなるのだから、見送りくらいはしてやりたかった。
信が起きる気配を感じたなら、すぐに目を覚ますと思っていたのだが、自分の眠りの浅さを過信し過ぎたようだ。

きっと信も、眠っている自分を起こすまいと気を遣って声を掛けなかったのだろう。
風邪を引かぬようにという配慮なのか、肩までしっかり寝具が掛けられていたのを見て、何だか虚しさを覚える。

自分も先に目を覚ました時には、彼女が風邪を引かぬようにと同じことをしているのだが、もしかしたら信も同じ感情を抱いているかもしれない。次からは信が目を覚ますまで寝台から離れるのをやめて、彼女の寝顔を堪能していようと思った。

「…ちっ」

残り香を感じて、思わず不機嫌に舌打ってしまう。
いつまで会えないのかは分からないが、趙の動きを見張るとのことだから、それなりに長い期間となりそうだ。

次に会うのはいつになるのか。考えるだけでも気が重くなってしまう。

そんなことを信本人に伝えたとしても、首を傾げられるだけなのは目に見えているのだが。

以前、お前がいないと退屈だと、酒の席で正直に伝えたことがあった。すると、彼女は何度か瞬きを繰り返して、

―――暇なら、他の奴らと一緒にいりゃあ良いじゃねえか?

こちらの気持ちなど少しも理解していない返答をされ、思わず吐いた溜息が深かったことを覚えている。

今回と似たような状況で信が不在の間に、娼婦を呼びつけようと考えていたことがあった。結局そのときは気が乗らず、呼ばなかったのだが。

自分以外の女を抱くことを嫉妬するのではないかという期待を胸に、桓騎は信の不在の間は娼婦に相手をさせようと考えていると言ったことがある。たしかその時も、

―――は?なんでそんなこと俺に確認すんだよ。俺の許可なんて要らねえだろ。

拗ねているのだとしたら、表情と口調で見分けることが出来るのだが、その時の信も明らかに頭に疑問符を浮かべていた。嫉妬とは無縁の態度で、思わず口籠ってしまったことを思い出す。

 

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それだけじゃない。以前、闇商人から信を救出したときだって、面倒な男に絡まれなくなる方法――自分との婚姻――について親切に教えてやろうとしたのに、信は少しも理解していなかった。

こちらは以前からどのようにして求婚しようか試行錯誤していたのに、彼女は簡単にその想いを退けた。

相手が何を考えているのかを予見し、裏をかくのは桓騎が普段から得意とするところであった。

女との駆け引きもそうだ。
相手の要求は言わずとも分かっているが、あえてそれをしないことや、先回りした言葉を掛ければ、女たちは頬を赤らめて、喜んで尻尾を振る。女とはそういう生き物だと思っていた。

しかし、信に限ってはそうではない。女との付き合いはそれなりに数をこなしていた桓騎でも、過去に経験がないほど予想外の返答が来るのだ。

これほどまでに自分の思うように動かない女を相手にしたのは初めてのことで、桓騎も表情には出さずとも、いささか戸惑っているのである。

こちらは情けないほどに信に対して独占欲を剥き出しになってしまうというのに、彼女は自分が他の女を傍に置いていても嫉妬の素振りすら見せない。それが桓騎には許せなかった。

いつの間にか自分だけが彼女を追い掛けているような、尻尾を振って飼い主が構ってくれるのを待っている飼い犬のようで、滑稽で仕方がない。

決して見返りを求めている訳ではないのだが、自分が信に向けているのと同じ分だけ、信も自分に愛情を向けているのだろうかと考えることがある。

もちろんそんなことを本人に尋ねれば「何言ってんだ?」もしくは「頭でも打ったのか?」と気味悪がられるのは分かっているので、いつも結論は出ないままなのだが。

目に見えないものほど信じられないものはないし、色々と厄介なのものだ。

(…仕方ねえな)

憂鬱な気分のままで迎えた朝は、妙に肌寒さがあった。寝具はかけているものの、人肌が足りないのだ。

もう一眠りしようかと考えるも、信が腕の中にいた時にあったはずの睡魔はどこかへ消えてしまっており、二度寝をする気にもなれなかった。

仕方ないので着物を身にまとい、桓騎は寝室を出た。

 

憂鬱な日々

飛信軍が趙国の動きを探るために国境調査に行ってからというものの、特に上からの指令はなく、桓騎は仲間たちと気楽に過ごす日々が続いていた。

趙に動きがあったのならば、戦の準備を行うよう伝達が来るだろうと思っていたのだが、今のところはまだその心配はないらしい。

つまり、飛信軍が監視している今は、特に趙で目立った動きがないということだろう。

だが、趙軍を動かしているのはあの李牧だ。合従軍を結成して秦を追い込んだあの男のことだから、何もないと油断をさせたところで一気に畳みかけるということも考えられる。総司令がそれを警戒していることは分かっていた。

戦になるのならさっさと事を起こしてもらいたい。このままではいつまで経っても信が帰還出来ないではないか。

いっそこちらから出向いて戦を仕掛けてやろうか。いや、そうなれば信と二人きりで過ごす時間がさらに遠のいてしまう。

もう少しで冬になろうとしている。夜風が肌に痛むようになって来たこの季節に、信が野営をしていると思うと、早く連れ帰りたい気持ちになる。

彼女が風邪を引いた姿は見たことがないが、寒冷地で過ごすのは誰であっても負担となるだろう。
戦と違って物資の供給は滞りなく行われるはずだが、火を灯すのに必要な薪は足りているだろうか。桓騎の頭に色々と心配事が浮かんでいた。

 

 

「お頭~!」

その夜、屋敷で仲間たちと酒を飲んでいると、桓騎の肩揉みをしていたオギコが急に手を止めた。

「なんだ、オギコ」

「さっきから溜息ばっかり吐いてる!幸せが逃げちゃうよ!」

オギコに指摘され、そういえば何度目になるか分からない溜息を吐いていたことを自覚する。

どうやらオギコは溜息を吐くと幸せが逃げるという迷信を信じているらしい。
もしもその迷信が真実ならば、信が国境調査へ行ってから自分はどれだけの幸せを逃がしてやったのだろうか。

逃がした幸せを自分の意志のままに使えるのなら、飛信軍の国境調査が早々に終了となることを願ってしまう。

「まあ、今は仕方ねえよな。…にしても、本当にひでえ面だぜ?」

雷土に顔色の悪さを指摘され、桓騎は片眉を持ち上げる。付き合いの長い仲間たちは、桓騎がもともと眠りが浅いことを知っていた。

飛信軍が国境調査にいく話は秦軍の中で広まっていたし、桓騎が不眠を再発させた事情もそこにあるのだと仲間たちは気づいたようだ。

実は信と男女の関係となったことを彼らに一度たりとも公言した覚えはないのだが、勘の良い仲間たちはすぐに感付いてくれたらしい。

信がとある闇商人の策略に陥って婚姻をさせられそうになった時も、桓騎が提案した婚姻破棄計画を、彼らは二つ返事で協力してくれた。本当に気の良い連中だ。

「雷土みてェに毒煙吸ってゲエゲエ吐くより、溜息吐いてた方が良いだろ」

「あ”ぁ”!?いつの話してやがる!」

雷土が憤怒の表情で立ち上がり、桓騎を凄むが、桓騎は微塵も表情を崩さない。

「煙だけに、過ぎたことを再燃・・させるとは…さすがお頭と雷土さん。お上手ですね」

雷土の怒りを煽るように摩論が機転を利かせた言葉を告げると、雷土とオギコ以外がぶっと噴き出した。

こんなにも険悪な外見をしている元野盗たちの中でも、特に雷土が一番からかいやすく、何より反応が面白い。

あまり雷土と相性の良くない信にこの場面――桓騎と重臣たちの日常――を見せたら、どんな感想を抱くのだろうと桓騎は頭の隅で考えた。

「ねえねえ、信はいつになったら帰って来るの?信がいるときはお頭が溜息吐くことも眠れないこともないのに~」

オギコが子どものようにきらきらと目を輝かせながら、その場にいる全員に問いかけた瞬間、それまで賑やかだった部屋に、急に重い沈黙が流れた。

「あー、えー、…おほんっ!」

摩論がわざとらしい咳払いをしたあと、酒のお代わりを取りに行くと席に外した。こういう時に摩論はよく席を外す男だった。

 

 

それから十日ほど経過したが、この頃には桓騎の目の下から隈が取れなくなっており、寝酒の量が以前よりも増えていた。

相変わらず床に入って目を閉じても眠れない。まるで睡魔の方が首切り桓騎を恐れて避けているかのようだった。

眠れないだけで決して機嫌が悪いわけではないのだが、オギコが泣いてしまいそうなほど顔を歪めて怯えるものだから、恐らくは他の仲間たちも怯えているに違いない。

摩論が医者に眠り薬を煎じさせようかと提案してくれたが、そういう類の薬も寝酒と同じであまり効果を実感したことがないので断った。

これだけの期間、信と離れるのは初めてではない。互いに将という立場である以上、今回のような国境調査に限らず、戦が始まれば数か月会えなくなることだってある。

王騎と摎の養子であり、幼少期から戦を経験していた彼女は、死地と呼ばれるのに相応しい前線に駆り出されることが多い。

次の出征で彼女が命を散らすのではないかと危惧したことは一度や二度ではなかった。

信自身は親友である秦王と中華統一を果たすまで絶対に死なないと宣言しているものの、そんな意志一つで死を回避出来るとは思えなかった。(指摘すれば憤怒されるのは目に見えているので本人に伝えたことはないのだが)

もちろん信の実力を認めている桓騎も、彼女が簡単に首を取られるとは思っていないのだが、絶対はない。

褥で肌を重ねた時に、彼女の武器を持つ腕が驚くほどに細いことを知り、致命傷となった過去の傷痕見る度に、桓騎は複雑な感情を抱いてしまう。

戦場に立たせなければ、信はただの女なのだ。

いっそ彼女を孕ませ、無理やりにでも自分と婚姻を結ばせることで、戦場と無縁な暮らしを強要させる方法も考えたことがある。

だが、自分たちの唯一の共通点とも言える毒への耐性を獲得した代償なのか、信は子を孕めぬ体になったのだという。

確かにこれだけ体を重ねていても、信が未だに孕まないでいるのは体に原因があるからだろう。もしかしたら信が子を孕めぬように、桓騎も同じように女を孕ませられぬ体になっているのかもしれなかった。

もしも自分たちが婚姻を結んだとして、信はきっとこれまでと変わらずに戦場に立ち続けるだろう。秦王との約束さえなければ違ったのかもしれないが、桓騎にしてみれば、好きな女を死の淵に立たせることはしたくなかったのである。

「はあ…」

無意識のうちにまた溜息が零れてしまう。

「お頭~!」

オギコの甲高い声が耳に響く。どこからか自分の溜息を聞きつけて、また指摘しに来たのだろうか。

ばたばたと賑やかな足音と共に現れたオギコは両手に木簡を抱えていた。

「これ!お頭宛てだって!」

木簡を渡され、桓騎は送り主が誰からか尋ねるよりも先に紐を解いて木簡の内容に目を通した。それが信からでないことは分かっていたが、もしかしたら趙との戦の気配を警戒した総司令からだろうか。

いや、もしも総司令からなら簡単に開けられる紐ではなく、機密情報のやりとりをするため、名宛人以外には見らぬように、しっかりと封がされているはずだ。ただ紐で縛っているだけの、誰にでも開けられる木簡ということは総司令からではない。

だとしたら、この書簡の送り主は一体誰だろうか。

「…へェ?」

木簡に記されていた内容と、最後に記された名前に、桓騎は思わず口角をつり上げた。

 

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吉報

昌平君から撤退の指示が届いたのは、陽が沈み始めた後だった。

国境付近の監視を続けていたが、初日から今日に至るまで趙国にそれらしい動きはない。こちらの隙を突いて違う場所から侵攻してくる可能性も考えられたのだが、昌平君からの書簡によると、他の場所でも趙国に関する報告は聞かれていないらしい。

届いた書簡には、あと数日して趙国に動きがなければ一度咸陽に戻って来るようにと記されていた。そこで信は三日後の明朝に撤退することに決めた。

今回は国境調査が目的のため、負傷している兵を引き連れている訳ではないのだが、夜の移動は視界が悪く、冷え込みで体力を奪われる。出立するのなら朝が適切だろう。

「あと数日したら、ここを発つぞ」

兵たちに昌平君からの撤退の指示が出たことを告げ、三日後の明朝に出立準備を行うように告げた。

趙国がいつ侵攻してくるのかと緊張の抜けない時間ではあったが、ようやく帰れるとなって、兵たちも安堵した表情を見せていた。

相手があの李牧ということもあって、こちらが油断した隙を突いて、どこかから秦に侵攻してくるのではないかという不安はあったが、昌平君も相当警戒をしたうえでの撤退命令に違いない。

だが、正直のところ、信は撤退命令が出たことに安堵していた。

冬が迫ってきており、日に日に冷え込みが激しくなって来ていることから、野営生活を続けるのは兵たちへ負担になっていたからだ。

夜間も交代で見張りを行っているが、風邪を引いてしまった兵も出始めている。定期的に供給される物資の中でも特に薪の消耗が激しい。

供給があるとはいえ、無駄遣いをするわけにもいかなかったので、薪が底を尽きそうになったのならその辺の植物を使うしかない。ただ、あまり火を起こしたり、派手に薪収集を行うことで、趙国に監視していることを気づかれてしまうのではないかという危険もあった。

しかし、あと三日で帰還するのなら、次の供給を待たずに、帰還中に間に合う分だけの薪を確保しておけば良さそうだ。近くに生い茂っている木々や落ち葉を薪代わりにするように後で指示を出そう。

(あー、ようやく帰れるな)

一度自分の天幕に戻った信は両腕をぐーっと上に伸ばして、思わず長い息を吐いた。
最初に頭に浮かんだのは、ようやく帰還出来る安堵。それから次に浮かんだのが恋人の顔である。

(桓騎のやつ、ちゃんと俺の分の鴆酒残してるだろうな…)

もちろん寂しいという感情はあるのだが、それよりも好物の毒酒を独り占めされていないかの心配をしてしまう。

咸陽に帰還するとなると、移動に三日はかかる。咸陽で昌平君に此度の国境調査の報告も含めるとなると、桓騎に会うのはまだ当分先になりそうだ。

現況を知らせる書簡の一つでも送ろうかとも考えたのだが、桓騎のことだから昌平君が飛信軍に撤退の命令を出したことをすでに知っていそうな気がした。

こちらが伝えなくても、桓騎は大抵のことをすでに把握している。敵の動きもそうだ。すべてが桓騎の頭の中で動いているのかと思うほど、彼の読みは当たる。

そういった慢心からいつか隙を突かれてしまうのではないかという不安もあるのだが、桓騎が傲慢なだけでないのは確かだし、悔しいが、桓騎に従っておけば全部上手くいってしまうのだ。

 

 

「信ー、飯の支度手伝えよー」

軍師の河了貂に声を掛けられて、信ははっとして周りを見渡した。もう兵たちが夕食の準備を始めており、あちこちで火を焚き始めている。

もう少しでようやく帰還出来ると分かり、兵たちが嬉しそうな顔をしていた。しかし、細い両腕に大量の薪を抱えた河了貂だけは不満気な顔をしている。

「おいおい、なに怖い顔してんだよ、テン」

「本当に李牧がこのまま何もしないと思うか?」

その疑問はもっともだ。信も気持ちが分からない訳ではなかった。

「仕方ねえだろ。昌平君から撤退命令が出たんだから、いつまでもここにいる訳にはいかねェ。俺達がここで待ち構えてんのがバレて、李牧も策を練り直してるのかもしれねえし」

「…うん」

返事をするものの、まだ納得できない表情を浮かべながら、河了貂は薪を抱えたまま歩き始めた。

思い出したように、信が夕食の準備をしている兵たちに声を掛ける。

「三日後に帰還するから、帰還中の野営で使う分の薪は残しとけよ?その辺に生えてるやつで代用してくれ」

国境調査は戦と違い、兵糧や物資の供給は絶えることがないので、飢えや渇きに苦しむことはないのだが、冷え込みに対してはとにかく火を絶やさずに灯しておくしかない。

それに、いつ戦になるか分からない緊張を抱えながらの野営での長期間生活は、体に侵襲を与えるものだ。

軍の総司令である昌平君とは、報告もかねて定期的に書簡のやり取りを行っていた。

もしも書簡の返事が届かなかったり、不自然に兵糧や物資の供給が途絶えるようなことがあれば、途中で敵の襲撃に遭ったとみて間違いないのだが、今のところはそのような事態もなかった。

ただ、薪が足りなくなりそうなのは季節柄、仕方のないことだ。風邪を引いた兵たちもいるので、彼らの体調を悪化させないためにも、予想していた以上の薪を消耗してしまっていた。

野営をしているこの場所のすぐ近くに雑木林があり、薪の代わりになりそうな材料が十分にあったのは救いだった。

(このまま何も起きずに帰れりゃ良いんだがな…)

こちらが国境で動きを監視しているのを気づいた李牧があえて何もしなかったのか、そもそも戦の気配自体が誤認だったのか。

後者だったなら、ただの心配損で済む話なのだが、河了貂も言っていたように、相手はあの李牧ということもあって警戒が解けなかった。

とはいえ、いつまでも国境に潜伏するわけにもいかない。

こうしている間にも、もしかしたら趙国以外の敵国が秦の領土に侵攻して来るかもしれないし、水面下で趙国が別の策を企てているかもしれないからだ。今後に備えるためにも一度撤退し、兵たちを休ませる必要があるだろう。

夕食を終えたあとも交代で趙国の動きを監視するのだが、最後まで気を抜くなと呼び掛け、信は先に天幕へと戻ろうとした。

 

違和感

「ちょっといいか」

背後から声を掛けられて振り返ると、那貴が険しい表情をしてこちらを見つめていた。

「どうした、那貴」

「この辺りの植物は薪にしない方が良い」

信はきょとんと目を丸めた。薪の消耗が激しいことを気にして、雑木林から代用するように指示したのは確かだが、那貴はそれを良く思っていないらしい。

「なんでだよ」

特に冷え込みの激しい夜間は多くの薪を消耗する。帰還中の野営のことも考えると、かなり切り詰めて使わなくてはならないのだが、この近くに生えている草木ならば十分に薪代わりになるはずだった。

派手に火を起こすことで、国境付近にいることを趙国に知られる可能性を忠告しに来てくれたのだろうか。

しかし、那貴が口に出したのは予想外の言葉だった。

「この辺り一帯に生えてる草木は毒を持っているからな。触らない方が安全だ」

「なんだとっ!?」

これにはさすがの信も驚き、すぐに兵たちに警告を呼びかけようとした。

しかし、那貴はいつもの余裕そうな表情で、それはすでに初日から兵たちに伝えており、先ほども用心するように呼び掛けて来たのだという。

兵たちの間で毒が蔓延するのを防げたと安堵したものの、信は目尻を吊り上げて那貴を睨みつける。

「知ってたんなら早く教えろよな!」

「伝えるのが遅くて悪かった。俺がまだお頭のとこにいる時、ここの国境調査に当たったことがあったんでな」

まさかここで桓騎の名前を聞くことになるとは思わず、信は驚いた。

 

 

「それじゃあ、もしかして…この辺りの木々が毒を持ってるって、桓騎から聞いたのか?」

ああ、と那貴が頷いた。

「お頭がその辺に生えてた枝を串代わりにした肉料理を美味そうに食ってたのに、その隣で雷土がゲエゲエ吐いてたのを思い出したんだよ」

「………」

毒で苦しむ雷土を見て、桓騎が大らかに笑っている姿が目に浮かんだ。
串代わりにした枝に毒があるのを知っていたなら、雷土が料理を食べる前に警告してやれよとも思ったが、何も言うまい。桓騎とはそういう男だと信はよく知っていたからだ。

そして雷土も、毒を受けたというのに問題なく生還したあたり、やはり桓騎の右腕に相応しい男である。

「特に枝が危険だ。燃やすと毒性の強い煙が出るらしい」

「枝?」

てっきり桓騎が雷土をからかうために、枝に毒があることを黙っていて同じ料理を食わせたのかと思っていたが、そうではないらしい。

雷土が毒を受けたのは、燃やした枝の煙を吸い込んだからだという。

「煙に毒が含まれてるなんて、マジで危なかったな…」

もしも知らずに薪代わりにしていたらと思うと、信は嫌な汗を滲ませた。
那貴が仲間たちに知らせてくれなかったら、すでに今頃あの枝を薪代わりにして、大勢の兵が毒を受けていたことになっていただろう。そうなれば国境調査どころではない。

「………」

雑木林の方を振り返った那貴は、細長い枝と、竹のように長い葉と、桃色の花が特徴的な植物を見て、僅かに眉間にしわを寄せた。
よくよく見てみると、その毒性を持った植物は雑木林の大半を占めていた。

「…前に国境調査に来たときは、ここまで増殖していなかった。こんな雑木林はなかったはずだ」

「え?」

気になる言葉を聞き、信は那貴が睨みつけている視線を追いかけて、毒を持つ草木が大半を占めている雑木林を見つめた。

 

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束の間の休息

兵たちに雑木林の植物は一切手を出さぬように警告を呼びかけて、天幕に戻り、信はすぐに敷布の上で横になった。

夜間に一度、副長の羌瘣と見張りの交代をするので、早めに休んでおかなくてはいかない。
下僕時代の経験があるおかげか、信は夜露をしのげる場所ならば基本、どこでもすぐに眠ることが出来る。

桓騎も幼少期は恵まれない環境下で育ったと話していたが、彼は信と違って眠り下手・・・・だ。毎晩の寝酒が欠かせないのだと教えられた時、信はとても驚いた。

てっきり眠っている姿を誰かに見せたくないだとか、寝込みを襲われた過去があるのだとか、そういう経験から眠ることへの警戒心があるのかと思っていたのだが、そうではないらしい。

戦の最中で気が抜けず、くたくたに疲れ切っていても、眠りに落ちるまで随分と時間がかかるし、眠ったとしても一刻もしないうちにすぐ目を覚ましてしまうのだそうだ。

自分がそんなにも睡眠不足な生活を送ったならば、三日も持たずに倒れてしまうに違いないと信は思った。

しかし、桓騎と男女の関係になってからは、よく彼の寝顔を見るようになった。といっても、信の方が後に目を覚ますことが多いのだが、時々先に目を覚ますこともある。今回の国境調査へ行く日もそうだった。

桓騎の寝顔は、どんな夢を見ているのか気になってしまうくらい、穏やかな寝顔なのである。

付き合いの長い桓騎軍の側近たちも滅多に見ることがないというのだから、桓騎の寝顔を知っていることに、信は妙な優越感を抱いてしまう。

中華全土で首切り桓騎と恐れられているこの男も、こんな風に穏やかな寝顔を晒すことがあるのだと思うと、不思議な気持ちになる。

基本的に重臣以外は信頼していない桓騎が寝顔を見せてくれるのは、自分に心を開いているのか、重臣と同じくらい信頼してくれているからなのだと思っていた。

(はあ…早く、会いてぇな)

国境調査が長くかかり過ぎたせいか、今は好物の鴆酒を独り占めされないかの心配よりも、早く桓騎に会いたいという気持ちに、信は胸を切なく疼かせていた。

 

 

考え事をしていても、普段通りすぐに眠りに落ちてしまったのだが、あれからどれだけ眠っていたのだろう。

「ん、…」

ぞわぞわとした怖気とも痒みとも言い難い感触が体の上を這い回っており、信は鼻に抜けた声を出した。

(なんだ…?)

何かが胸と足の間を這いずり回っているような、妙な感触に今まさに襲われており、信はゆっくりと目を開いた。

眠る前は仰向けだったのだが、目を覚ますと横を向いていた。

桓騎と褥を共にするようになってから、彼に背中から抱き締められたり、向かい合ってお互いを抱き締め合いながら眠ることに慣れてしまったせいか、最近は仰向けよりも横向きで眠るのが習慣になっていた。

変な夢でも見ていたのだろうかと寝起きの思考で考えた瞬間、何かが胸と足の間を這いずり回るあの感触が、再び信の意識に小石を投げつける。

「…えッ!?」

すぐに自分の下半身に視線を下ろすと、明らかに自分のものではない骨ばった男の手が伸びているではないか。

反射的に後ろを振り返ると、そこにはいるはずのない恋人の姿があった。
桓騎は後ろから信を抱き締めるようにして、彼女の胸と脚の間に手を忍ばせていたのである。

目が合うと、やっと起きたかと言わんばかりに呆れの籠った色を向けられる。

どうして桓騎がここにいるのか。どうやって来たのか。なぜ自分の寝込みを襲っているのか。今何をしようとしているのか。

聞きたいことは山ほどあったのだが、それよりも信は驚愕のあまり、悲鳴を上げるために反射的に息を深く吸い込んだ。

「~~~ッ!?」

しかし、悲鳴を押し込むように片手で口に蓋をされてしまう。
指の隙間からくぐもった声を洩らすと、桓騎がにやりと口角をつり上げて不敵な笑みを浮かべた。

 

このお話の前日譚(5100文字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

中編①はこちら

The post 毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

夜目、遠目、恋慕のうち(王賁×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/シリアス/甘々/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

宴の夜

その日は蒙恬の屋敷に招かれて、信は蒙恬と王賁と三人で小さな宴を行っていた。

楽しく酒を飲みながら先日の戦での武功を讃え合っていた時、小気味いい音を立てて王賁の手から杯が滑り落ちたので、信と蒙恬は反射的にそちらへ視線を向けたのだった。

「おい、大丈夫かよ」

幸いにも杯の中身は空だったので、着物を汚すことはなかったが、王賁が急に立ち上がったので、信は不思議そうに小首を傾げた。

「そろそろ失礼する」

「へっ?おい、もう帰んのかよ?」

驚いた信が王賁の背中を呼び止めるものの、彼は振り返ることもしない。

三人で同じだけの量を飲んでいたはずなのに、王賁は顔色一つ変えず、少しも酔いを感じさせないしっかりとした足取りだった。

立ち上がった蒙恬が廊下で待機している従者に声を掛けようとしたが、

「見送りはいらん」

「そう?」

きっぱりとそう言い放って客間を出て行ったので、蒙恬は興味を失くしたかのように、すぐに椅子へ腰を下ろした。

彼がもともと人付き合いが得意でない性格だと知っている信と蒙恬はそれ以上引き留めることはしなかったが、宴は盛り上がって来た最中だったこともあり、まだ物足りなさを感じてしまう。

「…残念だけど、俺たちだけで飲もうか」

蒙恬がそう言って杯を掲げたので、信は頷いて乾杯する。

「ん?」

杯を口につけようとした時、王賁が座っていた席に、きらりと光る何かが落ちていることに気が付いた。

それは鉱物の類で、透き通った青緑をしている美しい石だった。

手の平に収まるくらいの大きさで、赤い紐が括られている。石には小さく光が灯っていて、足元くらいなら照らすことが出来そうだった。

思わず手に取って眺めていると、蒙恬があっと声を上げる。

「蛍石だ。綺麗だね。賁の忘れ物?」

「ほたるいし?」

蒙恬曰く、どうやらこの光沢のある鉱物は蛍石というものらしい。

王賁は装飾品など一切興味のなさそうな男だが、これを持ち歩いているのだろうか。紐が括られていたが、着物にぶら下げていた訳ではなかったらしい。

別に忘れたところで、代わりならいくらでもあるだろう。しかし、彼は戦場を共にする相棒とも呼べる槍が刃毀れしても必ず修繕して使っているし、その点から考えると王賁はこだわりの強い男なのかもしれない。

さらには頑固な性格で、それ考えると蒙家に忘れ物をしたと言い出せずに諦めてしまうかもしれない。そして蒙恬が忘れ物をしたことをネタにして、後日に王賁をからかうかもしれない。

そうなれば自分も確実に巻き添えを食らうし、面倒なことになるのは目に見えていた。

「これ、あいつに届けて来る」

美しい蛍石を手に取り、信は今ならまだ王賁に追いつくはずだと席を立ち上がる。

頬杖をつきながら蒙恬が「信は律儀でいい子だねえ」と笑っていたが、信は構わずに部屋を後にしたのだった。

 

王賁の隠し事

もうすでに陽が沈んでいるので、柱に取り付けられている灯火器の明かりだけが廊下を僅かに照らしている。

正門へと繋がっている廊下を走っていると、向こうに王賁の姿が見えた。

「おい、王賁…っ!?」

背後から王賁に声を掛けようとした途端、鈍い音を立てて、王賁が柱に顔面から激突したのを見て、信は言葉を失った。

額を押さえながらよろめく王賁を見て、相当な激痛に悶えていることが分かる。
普段から生真面目で、滅多に表情を崩すことのない王賁の珍しい姿に、信は思わず噴き出しそうになった。

もしもこの場を見られたと知ったら、王賁は確実に逆上するだろう。痴態を見られたと自己嫌悪に陥るかもしれない。このことを蒙恬に告げ口をしたらますます怒りを煽ることになるのも分かっていた。

「っ…」

信は咄嗟に口元を押さえて柱に身を潜める。

客間を出る時もしっかりとした足取りだったので、少しも酒に酔っていないと思っていたのだが、もしかしたら相当酔っているのだろうか。

柱からそっと覗き込むが、どうやら王賁は信には気づいていないようだった。いつも気配には敏感な彼が珍しい。

「…?」

額の痛みが落ち着いた後、彼は柱に手を触れながら、ゆっくりと前に歩き出した。

客間を出る時とは違い、歩幅が随分と狭い。柱に触れることで道を確かめているような、どこか不自然な歩き方に信は違和感を覚える。

それはまるで何かを警戒しているような、気を抜けないでいるような歩き方で、普段から見ている王賁の堂々とした歩き方とは大いに違っていた。

「王賁っ!」

疑問を抱きながら、信は身を隠していた柱の陰から飛び出し、彼に声を掛けた。

信に気づいて王賁がこちらを振り返ったが、なぜか視線が合わない・・・・・・・

王賁が意図的に信から目を逸らしているのではなく、こちらは彼の視界に立っているというのに、彼は信の姿を探しているように顔を動かしていたのだ。

昼間はそんな様子はなかったので、さすがにこれはおかしいと思い、信は小走りで彼に駆け寄った。酔いのせいか、それとも額を強く打ち付けたせいかは分からないが、馬車に乗るまで付き添った方が良さそうだ。

「おい、大丈夫か?」

肩を掴んで声をかけると、まるで弾かれたように王賁が顔を上げて、ようやく目が合った。彼の瞳に僅かな濁りが見えて、信ははっとする。

「お前、もしかして、目が…」

言葉を遮るように、王賁が信の口を手で塞いだ。その勢いのまま、柱に体を押し付けられて身動きが取れなくなってしまう。

 

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「…誰かに話したか」

彼女の手に握られている蛍石を奪い取りながら、王賁が低い声を放つ。

口を塞がれたまま、咄嗟に首を横に振って否定したものの、王賁は疑いの眼差しを向けられたままだった。

「っ…!」

その時、首筋にひやりと冷たいものが押し当てられて、視線を向けると、短剣の刃が宛がわれていた。護身用にいつも持ち歩いているものだろう。

嘘を吐いたら容赦なく斬り捨てるという意志が伝わって来る。蒙恬と違って冗談を言う男でないことを信はよく知っていたし、味方であっても容赦なく斬り捨てることが出来る冷酷さは紛れもなく王翦の血を引き継いでいる証だ。

「……、……」

酒の酔いでほんのりと赤く染めていた信の顔が青ざめていく様子を、王賁は瞬き一つ逃さすことなく見据えていた。

しかし、嘘を吐いている様子はないと感じたのか、すぐに短剣が下ろされる。解放されたことに信は安堵の息を吐いた。

王賁に刃の切っ先を向けられることは初めてではないのだが、何度されても慣れることはないし、心臓に悪い。

「このことは誰にも話すな」

短剣の刃を鞘に納めながら、王賁は低い声で言い放った。もはやそれは命令で、信の意見など許さないという意志が込められていた。

「な、なあ、いつからだ?」

王賁の夜目が弱くなった・・・・・・・・ことを知った信は、眉根を寄せながら尋ねた。
口の堅い彼のことだから答えてくれないと思っていたのだが、王賁は静かに瞼を下すと、

「…先の韓軍との戦で毒を受けた。その影響らしい」

「えっ?」

毒という言葉に、信が思わず驚愕する。王賁や彼が率いる玉鳳隊が毒で負傷したという報告は聞いていなかったはずだ。

戸惑っている信を見て、王賁が静かに言葉を紡いでいく。

…先の韓軍との戦は秦軍の勝利で幕を閉じたのだが、撤退する韓軍の追撃を王賁率いる玉鳳隊が行っていた。

韓軍の殿しんがりが玉鳳隊の追撃から免れようと、目を眩ますために黒煙を放ったのである。

玉鳳隊を先導し、殿と戦っていた王賁はその黒煙に目を負傷し、撤退を余儀なくされた。
すでに秦軍の勝利は確定したこともあり、殿からの反撃で撤退したことには特段問題はなかったのだが、どうやらその黒煙に毒の成分が含まれていたらしい。

咸陽に帰還してから、王賁と同じように黒煙を浴びた玉鳳隊の兵たちは毒で肺を蝕まれ、血痰を吐いた。遅延性の毒であったことから、時間が経過してから体に症状が現れたのである。

幸いにも優秀な医師たちが、毒の分析と解毒剤の調合を早急に行ったことで、犠牲は出なかった。毒を受けた者は今も療養を続けているが、快調へと向かっているらしい。

しかし、黒煙を目に受けた王賁の視力だけはどうにもならず、陽が沈むと、途端に視界が暗闇に包まれてしまい、明かりなしでは行動が出来なくなったのだという。

(だから…)

蛍石と呼ばれる鉱物を持ち歩いているのはそのためだったのかと信は納得した。

普段から蛍石を持ち歩いていたのは、太陽の光を当てるためだったのだろう。蓄光し、暗闇で発光させることで足元を照らし、毒にやられた目を補助していたに違いない。

今もなお、毒は王賁の目を蝕んでおり、日に日に視力が低下して来ているのだという。
自分の話であるというのに、まるで他人事のように淡々と語る王賁を、信は呆然と見つめていた。

「じゃあ…このまま、見えなくなっちまうのか…?」

「その可能性は高い。この距離でも、お前の顔がよく見えん」

手を伸ばせばすぐに触れられる距離にいるというのに、王賁の瞳には信の姿がおぼろげにしか映っていなかった。

柱に取り付けられている灯火器の明かりがあっても、昼間と違ってよく目が見えないのだと言われ、信は思わず唇を噛み締めた。

 

王賁の隠し事 その二

「…調合された毒は、韓の成恢せいかいが発案したものだそうだ」

韓の将軍・成恢は、自らを実験台として毒の調合を行うほど、毒を扱うことで有名な男であった。

合従軍戦で桓騎の策に陥れられ、秦の老将・張唐ちょうとうが討ち取ったのだが、どうやら彼が残していた毒の調合に関しての書記は今も韓で利用されているらしい。まさかこんな形で成恢の報復を受けることになるとは思わなかった。

「遅延性とはいえ、強力な毒だ。今さらあがいても意味はない」

「意味はないって…じゃあ、ど、どうすんだよ」

狼狽えた信が王賁に問いかけると、彼は至って冷静に首を横に振った。

「治療法がない以上、諦めるしかないだろうな」

「んな簡単にッ」

言いかけて、信は胸倉を掴まれた。
おぼろげにしか見えていないというのに、迷いなく手を伸ばしたのは、王賁の感情が波立ったからだろう。

「治る見込みもないというのに、何が出来る?」

その言葉は、信の胸に抉るような痛みを与えた。
治療法がない事実も、このまま視力を失うかもしれないという恐れに苦しんでいるのは他でもない王賁だ。

信が掛けた言葉は安易な同情ではないし、同じ将として幾度も戦場に立った王賁もそれは分かっていた。

しかし、治療法がない以上、どうしようもないのだ。

言葉にせずとも、王賁がそう訴えていることに、さすがの信も理解した。
だが、本当にこのまま彼が視力を失えば、将の座を降りることに直結してしまう。

「…?」

その時、胸倉を掴んでいる王賁の手が小刻みに震えていることに気が付いた。

感情の高ぶりによる震えではないと信が見抜いたのは、着物を掴んでいたその手が脱力するように滑り落ちたからだ。

反対の手も同じように震えており、握っていた蛍石が床に落ちてしまう。

(まさか…)

信は咄嗟に王賁の手を掴んだ。未だにその手は小刻みに震えており、しかし不自然な強張りを感じさせる。

指の曲げ伸ばしにも制限が掛かりそうな強張りに、信は先ほど王賁が杯を落とした時のことを思い出した。

落とした杯を拾おうともしなかったのは、すぐに帰るつもりだったからだと思っていたが、まさか手指にまで毒の影響が出ているというのか。

思わず言葉を失い、王賁の手を見つめる。彼は信の手を振り払う素振りも見せず、ただ口を閉ざしていた。

(そんな…)

黒煙に交じっていた毒は王賁の全身を蝕んでおり、視力だけでなく、握力にまで影響が出ている。もう王賁の体を蝕む毒は、容易には取り除けないほど深く根付いてしまっていたのだ。

このままでは将の座を確実に降りることになるだけでなく、命にも危険が及んでしまう。

どうやら王賁もそれを分かっているようだった。

 

 

何か方法はないのかと信は必死に思考を巡らせる。

「そ、そうだ!医師団に治療してもらおうぜ。俺が政に頼んでみる!」

「バカか、貴様」

考えた提案をまさか一蹴されるとは思わず、信は目を丸めた。

「治療法がないと言われたのに、今さら医師団を頼って何になる」

こんな状況でも普段通りの言葉を浴びせるのは、この後のことを受け入れているからなのか、それとも虚勢なのか、信には分からなかった。

「じゃあ、このまま何もしないでいるつもりなのかよッ」

つい声を荒げてしまい、信は慌てて口を閉じた。ここは蒙恬の屋敷で、誰が聞いているか分からない。

こちらの問いに何も答えようとしない王賁を見て、信は思わず唇を噛み締めた。

いつものように小難しいことを考えている表情ではあるものの、その瞳には哀愁の色が浮かんでいる。それが諦めだと察した信は、弾かれるように王賁の腕を掴んでいた。

「お前が何を言おうと、医師団に診せる。治療法がなくても、毒の進行を遅らせるくらいは出来んじゃねえのか!この国で最高の医者どもなんだぞ!?」

信の言葉を聞き、王賁は呆れたように肩を竦めた。
もう彼の中では微塵も希望など残っていないのだと分かったが、ここで素直に引き下がることは出来ない。

「今から咸陽宮に行くぞッ!政に頼んで医師団に診てもらう!」

信は王賁の腕を強引に掴んだ。
すぐにその手を振り解こうとするものの、毒のせいで上手く力が入らないのだろう、王賁は険しい表情を浮かべることしか出来ないようだった。

屋敷を出たところで待機してあった馬車に彼を押し込むと、信は御者に王賁の屋敷ではなく、宮廷に向かうよう指示をした。

まさかこんな時刻から宮廷へ行けと命じられるとは思わず、御者は驚いていたが、信が睨みを利かせるとすぐに馬を走らせる。

(…あ、蒙恬に何も言わないで行っちまったな)

せっかくもてなしてくれた蒙恬に何も言わずに出て来てしまったが、今度酒を奢って許してもらおうと考えた。

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宮廷へ

馬車の中では会話らしい会話をすることはなかった。

隣り合わせで座っていたが、特に王賁から文句を言われることもない。医師団の診察に希望を持っているようにも見えなかったが、何を言っても信が引く気配がなかったので仕方なく付き合ってやっているという気持ちが伝わって来た。

自分が出来ることといえば、親友である嬴政に事情を話して、医師団の治療を依頼することくらいだ。

医学に携わっていない自分に治療の手伝いは出来ないし、もしも医師団が匙を投げたとしたら本当にお手上げとなってしまう。

それでも、このまま何もせずに、王賁が将の座を降りるの黙って見過ごすわけにはいかなかった。

共に戦場に立ち、幾度も競い合い、今では安心して背中を任せられるようになった友を、決して捨て置けない。

毒を受けて視力が弱まっていることを他言するなと言った王賁は、恐らく重臣たちにしかこの件を伝えていないのだろう。

彼の父である王翦にも伝えていないのだろうかと考えたが、王賁の重臣がそのような事態を王翦に黙っている訳がない。いくら王賁が王一族の嫡男とはいえ、現当主の座に就いているのは王翦だ。

名家のしきたりだとかそういうことは少しも分からない信だったが、きっと親としての情くらいはあるだろう。王翦も医師を手配したり、何か気遣いを見せたのだろうか。

「なあ」

「父なら何も興味を示さなかった」

まるで信の疑問をあらかじめ想定していたかのように、王賁は冷たく言い放った。

王賁の言葉に、多少は予想していたものの、信は重い溜息を吐く。
父親がどういうものか、顔も名前も知らない戦争孤児の信だったが、王翦の無情さにはつくづく呆れてしまう。

将の座を降りなくてはならないどころか、命にも危険が及んでいるというのに、息子を心配する素振りも見せないなんて。

今度会ったら問答無用で一発殴ってやろうと考える信だが、その考えすらも見抜いたのか、王賁は呆れたように肩を竦めた。

「今の俺では、父の手駒にすらならん」

「おいっ」

まるで自分の命を軽視するかのような発言に、信はつい声に怒気を滲ませた。

あまり感情を表に出さない王賁だが、彼がそんなことを言うのは初めてで、まるで自暴自棄になっているようにも感じた。

睨みつけたものの、今の王賁にはきっと見えていないだろう。もし見えていたとしても、彼が睨み一つで怯むとは思えないが。

腕を組んでむくれ顔をしていたが、不意に瞼が重くなって来た。酒を飲んでいたので酔いが回り始めたのだろう。

宮廷に到着するまで、特に馬車の中でやることはないとはいえ、王賁の秘密を共有したというのに、このまま安易に寝入っていいものだろうか。

重い瞼を擦って何とか眠気を遠ざけようとするのだが、体は正直で欠伸がこみ上げて来る。なんとか噛み堪えるものの、その姿が見えているのかいないのか、王賁が顔を上げた。

「まだ宮廷には着かん。眠っていろ」

どうやら信が睡魔と戦っていることを勘付かれてしまったらしい。
自分から医師団に治療を受けさせると引っ張ったくせに、緊張感がないと思われただろうか。

気まずい視線を向けると、王賁は腕を組んで静かに瞼を下ろしていた。

もしかしたら彼も酒を飲んだせいで眠気を感じていたのかもしれない。王賁が眠るのならと、信も瞼を下す。信の意識はすぐに眠りへと溶け込んだ。

 

 

隣から静かな寝息が聞こえて来て、王賁は瞼を持ち上げる。

視界は相変わらず薄暗闇でぼやけているものの、信が眠っているのは寝息と気配で分かった。

まさか信に目のことを気づかれ、宮廷に行くことになるとは思わなかった。医師団の治療を受けさせるというが、もう治療法など残されていないだろう。試すだけ無駄だ。

だが、信の性格を考えると、医師団から治療法がないと言われない限り、きっと諦めないだろう。信がそういう女だと知っていたからこそ、王賁は彼女を諦めさせるために、今回の提案を飲んだに過ぎなかった。

「………」

左肩に重みが圧し掛かって来て、反射的に視線を向けると、眠った信が寄りかかっていた。
こんなにも密着しているというのに、王賁の瞳に彼女の寝顔が映ることはない。

しかし、気持ちよさそうに眠っているのだろうということは静かな寝息から想像出来た。これまでも彼女の寝顔を見たことは何度かあったが、まるで腹を満たした赤ん坊のような、何の不安も抱いていない寝顔であることを覚えている。

王賁は羽織を脱いで、眠っている信の体を包み込んだ。馬車の中とはいえ、夜は冷える。

毒に蝕まれた自分が風邪をひいたところで寿命を縮めるだけだし、それならまだ秦の未来を担う彼女のことを優先したい。

羽織を掛けてやった時に、また手の痺れが強くなっていることに気づき、王賁は溜息を飲み込んだ。

医者の話ではこのまま視力を失い、手も足も動かなくなり、やがては呼吸器官も麻痺していくだろうとのことだった。

遅延性の毒ということもあって、長く苦しみながら死に至るだろうというのは予想していたのだが、それならば早々に命を捨ててしまった方が楽になれるのではないかと考えた。

この苦しみを耐えた抜いたところで、待っているのが死という末路なら、今死んでも後で死んでも変わらないのではないだろうか。

そんなことを安易に口に出せば、きっとバカなことを言うなと信に殴られるだろう。
簡単に彼女の行動を予見出来るようになっている自分に気づき、王賁は思わず苦笑を浮かべた。

 

 

信が目を覚ました時には、すでに夜が更けていて、窓から朝日が差し込んでいた。瞼に突き刺さる白い光によって、意識に小石が投げつけられ、信はゆっくりと目を開く。

寝具を使わずに、どんな場所でも眠ることが出来るのは下僕時代に培ったものだ。しかし、体は痛む。

(ん?)

自分の体に青い羽織が掛けられていることに気づいた。それが王賁の羽織だと分かって、信は驚いて顔を上げた。体が冷えぬように気を遣ってくれたのだろう。

「………」

普段から口数が少ない彼の気遣いに、信はもどかしい気持ちを抱く。まだ眠っている王賁の顔をまじまじと見つめ、信は切なげに眉根を寄せた。

医学に携わっていないこともあって、何も根拠はないのだが、王賁が毒如きに負けるとは思えなかった。

(王賁…)

未だ眠っている王賁に羽織を掛け直してやり、彼の肩に頭を寄せる。
胸の底から湧き上がる不安が抑えられず、信は彼の手に自分の手を絡ませた。常日頃から鍛錬を欠かさないタコだらけの骨ばった手だと分かる。

「…大丈夫だ。絶対、助けてやるから」

思わず口を衝いたそれは王賁に向けた言葉でもあったし、彼を心配する自分自身を安心させるためでもあった。

「あ…」

握っていた手に力が込められ、思わず顔を上げると、王賁と目が合った。起こしてしまったのだろうか。

「お、わっ?」

慌てて離れようとしたが、急に肩を引き寄せられた。王賁の胸に顔を埋める形になり、突然のことに、信の心臓が早鐘を打つ。

てっきり問答無用で押しのけられると思っていたのに、抱き寄せられたことに信は頭に疑問符を浮かべていた。

しかし、自分を抱き締めている彼の両腕が震えていることに気づくと、信は堪らず彼の体を抱き締め返す。

その震えが毒によるものなのか、それとも死が迫りつつあることに対する恐怖なのか、はたまた両方なのかは信には分からなかった。

 

頼みごと

咸陽宮に到着すると、信は大急ぎで親友の姿を探した。官吏たちから嬴政が玉座の間にいると聞き、信は王賁を引っ張って廊下を駆け出す。

「放せ。ここは宮廷だぞ。無暗に走るな」

明るいうちは視力に問題はないと言っていたが、王賁が手を振り払わないところを見ると、手の痺れは不規則に起こっているらしい。

「ごちゃごちゃうるせえな!急がねえと」

信は王賁の手を離さないまま、玉座の間へと向かった。

見張りをしている兵たちも血相を変えた信の姿を見て驚いたものの、拝謁の届け出を出していなかったため、阻まれてしまう。

いくら親友とはいえ、秦王と対面するならば幾つもの手順を踏まなくてはならない。それがしきたりというものだ。

「頼む!通してくれ!政に話があるんだよッ!」

しかし、信はそんなもの知ったことかと言わんばかりに、大声で兵たちに懇願した。後ろにいる王賁も信の無礼としか言いようのない対応に呆れている。

 

 

「やかましい!大王様の御前で何事だ!」

兵たちが対応に困っていると、扉の向こうから昌文君の怒鳴り声が響いた。

「オッサン!俺だ!政がそこにいるんだろッ?頼むから話をさせてくれ!」

「その声、信か?」

内側から扉が開けられる。険しい表情を浮かべた昌文君が現れると、見張りをしていた兵たちが頭を下げた。

目が合うと、呆れた表情を浮かべた昌文君が通してくれた。
部屋に足を踏み入れると、玉座に腰かけて木簡に目を通していた嬴政が親友を見て、口角を持ち上げる。

「信、王賁、よく来てくれた」

前触れもなく押しかけたのは信の方だというのに、嬴政は彼女の無礼など少しも気にしていない様子で玉座から立ち上がった。

「突然の拝謁、申し訳ありません」

信に引っ張られた王賁が、即座にその場に膝をつき、拱手と共に謝罪を述べる。嬴政はすぐに顔を上げるように声を掛けた。

「気にするな。どうせ信に引っ張られて来たんだろう」

親友の無礼は今に始まったことではないと嬴政は笑った。信一人ならまだしも、王賁をこの場に連れて来たことに嬴政は急ぎの何か用があるのかと問いかける。

「医師団の力を借りてえんだ」

王賁が口を開くより先に、信が答えた。

「なにがあった?」

秦国一の医療技術を持つ医師団の存在を口に出したことに、聡明な嬴政は重病か重症の者がいるのかと感付いた。

「前の韓軍との戦で、」

これまでの経緯を信が説明しようとした時だった。
立ち上がろうとした王賁が苦悶の表情を浮かべ、その場に倒れ込んでしまったのである。

「王賁ッ!」

驚いた信が駆け寄って声を掛けるが、王賁は額に脂汗を浮かべながら歯を食い縛るばかりで返事も出来ないでいるようだった。

「しっかりしろ、おい、王賁ッ!」

肩を揺すって呼びかけ続ける。王賁が苦しむ姿を見て、嬴政も昌文君も驚いた様子で医師団を呼び寄せた。

 

中編①はこちら

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初恋は盲目(蒙恬×信)番外編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/嫉妬/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話の本編はこちら

 

馬車の中にて

さんざん悩んだ挙句、信は口ですると妥協案を提示した。

本当なら今すぐに身を繋げたいところだったが、御者の存在があることから、それは許しを得られなかった。
彼女の中の羞恥心は手ごわく、きっと口淫を提案したのは、誰か来ても誤魔化せるよう、着物の脱衣を最小限に留めたかったのだろう。

蒙恬の足元に座り込み、緊張した表情で足の間に顔を寄せる。
 ※ズボンを下げられると、男はすでに硬く上向いており、苦しいまでに張りつめていた。

「う…」

紅が塗られていなくても、瑞々しい唇が男根の先端を包み込む。

それはもう幾度となく見慣れている光景のはずなのに、顔を真っ赤にさせている信を見て、思わず笑みが零れそうになる。

いつまでも羞恥心が抜けないところや、自分を気持ちよくしてくれようと健気に男根を頬張る姿は、何度見たって愛おしかった。

血管が浮かび上がっている陰茎を唾液で滴る唇が滑る度に、蒙恬は息を切らしてしまう。

「ぁ…は、っ…」

亀頭と陰茎のくびれの部分をきゅっと吸い付かれると、喉が引きつってしまった。

以前、特に自分の感じやすい部分を教えたら、信は従順にその教えを学んで口淫に励んでくれるようになったのだ。

まだ婚儀が終わっておらず、正式に夫婦と認められていない立場で自分の子を孕むことは、信も後ろめたさがあるのだろう。

もちろん身を繋げる時もあるが、最近は口でしてくれる頻度の方が多かった。

「んんッ…」

音を立てながら強く吸い付かれると、それだけで呆気なく果ててしまいそうになる。口でされるのも堪らなく気持ちが良いのだが、やはり信と一つになったという実感が欲しかった。

尖らせた舌先で裏筋をなぞられて、蒙恬はつい歯を食い縛った。切なげに眉根を寄せながら、吐精の衝動を堪える。

「信…ねえ、今日は挿れたい…」

縋るような言葉を掛けると、信が男根を咥えたまま見上げて来た。
狼狽えて視線を左右に泳がせたのは、やはり外にいる御者のことが気になるからだろう。

「っ…ん、…む…」

どうやらお願い事は聞き入れられなかったらしく、信は深く男根を咥え込んで、敏感になっている陰茎を唇で扱く。頭を前後に動かしながらも、舌を動かすのはやめない。

このまま口で終わらせようとしている彼女の意志が伝わってくる。自分を求める気持ちよりも、羞恥心が勝っているということだ。

「信っ…お願い、だから、…」

このまま続けられると、口の中で果ててしまいそうだ。縋るように訴えるものの、信は口淫をやめる気配を見せない。こちらの訴えを無視するように、視線さえ合わせてくれなかった。

体を繋げるのを許してくれないのだと分かると、蒙恬はまるで信に拒絶をされてしまったかのようで、泣きそうになってしまう。

ようやく目が合うと、信が驚いて目を見開いた。

「どっ、どうした…?」

慌てて男根から口を離し、唇の端を伝う唾液と先走りの液を拭うこともせず、信は蒙恬が泣きそうになっている理由を問う。

切なげに眉根を寄せ、蒙恬は鼻を啜った。

「…挿れたい」

子どもがワガママを言うような口調で、蒙恬が信をじっと見つめた。

 

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信が扉の方をしきりに視線を向けるので、御者が外にいるこの状況では嫌だと訴えているのが分かった。

屋敷に到着するまでにはまだかなりの時間がかかる。我慢するだなんて到底無理だ。
彼女の口の中で吐精するだけでは満足できないことも分かっていた。

「信」

「あっ、わっ」

自分の足元に屈み込んでいる彼女の脇の下に手を入れて体を抱き起こし、向かい合うようにして自分の膝の上に座らせる。

「う…」

脚の間に蒙恬の固くそそり立った男根が着物越しに当たると、信が顔を真っ赤にして目を逸らす。

「信」

切なげに名前を呼んで、唇を重ねると、信の体が分かりやすく強張った。
しかし、何度も唇を重ねて口づけを深めていくにつれて、信の方も僅かに息を乱し始める。

「やっ、動くなってッ…!」

脚の間に押し当てている男根を擦り付けるように腰を揺らすと、信が叱りつけるように蒙恬を睨んだ。

「だって、こんなに密着してたら…」

言い訳がましく弱々しい口調で反論を試みるものの、腰を動かすのはやめない。早く中に入りたいのだと代弁するように、男根を強く擦り付ける。

「うっ…、ッ…」

何とか蒙恬の上から降りようとしたが、しっかりと両腕で抱き込まれてしまう。肩を押して突き放そうとするものの、着物越しに淫華を刺激されると背筋に甘い痺れが走る。

信の体を抱き締めて、彼女の首筋に顔を埋める。

こんなにも密着して、彼女の香りを嗅いでしまったのならば、もう勃ち上がったそれを抑え込むのは困難だ。

「蒙恬っ…!」

首筋に唇を押し付けると、その柔らかい感触に戸惑ったように信が身を捩る。

破瓜を破ったのも、敏感に反応するように彼女の体を躾けたのも、全ては蒙恬だ。もう少し押せば信が諦めて受け入れてくれることなど、蒙恬は当然予見していたのである。

幼い頃から名家の嫡男として、容姿にも将の才能にも恵まれた蒙恬はいわゆる甘え上手であり、こちらが何をすれば相手が望み通りに動いてくれるのを理解していた。

ただし、信は幼い頃から武術に精進して来たせいか、蒙恬の男らしい色気には引っかからない。

だが、年下にしか出せない甘え・・で存分に押せば、彼女が揺らぐのだと知ったのは恋仲になってからだった。

「信、お願い」

耳元に顔を近づけて熱い吐息をかけると、信がその甘い刺激に身を固くした。
今度は舌を伸ばして、耳の中をくすぐってみる。

「ッ、ふ…」

唾液を絡ませた舌先が、直接耳の粘膜を弄る刺激に、信が自分の口に手で蓋をする。

もう彼女の弱い部分など分かり切っているが、それでもまだまだ知りたいし、どれだけ身を重ねても物足りなかった。

 

馬車の中にて その二

着物の衿合わせに手を伸ばすと、信が狼狽えた視線を向けて来た。しかし、自分の口に蓋をしているせいで、抑えられることはない。

「んッ…」

今日は胸にさらしが巻かれていた。背中にあるきつい結び目を難なく解いて、胸の谷間に指を挟むようにさらしを引っ張る。

形の良い胸が露わになると、たまらずに蒙恬はその豊満な胸を掌で包み込んだ。ゆっくりと指を沈ませていき、その柔らかさに堪らず目を細めた。

体を重ねる度に揉み込んでいるせいか、恋仲になった時よりも豊満さが増したように思える。いずれこの乳房を自分たちの子が独占するのかと思うと、なんだか複雑な気持ちを抱いた。

そっと指を這わせ、素肌に溶け込んでいる桃色の乳輪をなぞるように円を描いた。鋭敏である胸の芽だけは触れず、外側だけを何度も愛撫する。

「は…う…」

口に蓋をしている指の隙間から、信が僅かに吐息を零した。彼女が僅かに腰を動かしたのを見て、微弱な刺激にもどかしくなって来ていることが分かる。

何か言いたげに視線を送られるものの、蒙恬は気づかないふりを決め込み、ただひたすらに桃色の乳輪をなぞる。

まだ中心には一度も触れていないというのに、その微弱な刺激に芽が立つ。
頭を屈めて、ふうと息を吹きかけると、信の体がぴくりと跳ねた。

「っ、うう…」

鋭敏である芽に触れればもっと善がらせることが出来ると蒙恬は分かっていたが、あえてそれをしないのは焦らす目的があった。

無理強いをして嫌われるのは目に見えているし、あまり好みではない。信の方から「欲しい」と自分を求めるように仕向ければ、正式に合意を得た上での性交となる。

初夜の時と同様に、羞恥心の消えない信のことだから、お前が焦らしたからだと後で話を蒸し返すことはしないことも分かっていた。

「ん…」

胸に微弱な刺激を与えながらも、腰を動かして男根を擦り付けるのも休まない。僅かに信の間から熱気と湿り気を感じる。

彼女も感じてくれているのだと分かり、蒙恬の口角が自然とつり上がる。

「ね、信もつらいでしょ」

「ぅう、う…!」

耳元で囁き、そっと舌を差し込むと、信が鳥肌を立てたのが分かった。

舌先で狭いそこをくすぐるように動かしながら、蒙恬はようやく胸の芽に触れる。ただし、指の腹で一度触れるだけだ。

「は、あっ…」

たったそれだけの刺激だというのに、信が涙目で睨んで来る。

このまま我慢比べがまだ続くだろうかと思っていると、信は蒙恬の首筋に顔を埋めて、体を預けるように凭れ掛かって来た。それがいつもの合図だと分かり、蒙恬は心の中で勝利を噛み締めた。

 

交渉成立

信の足の間はすでに熱く濡れていて、蒙恬の着物にまで染みを作っていた。
着物越しとはいえ、何度も硬くそそり立った男根を押し付けて感じたのだろう。

彼女の体をあまり敏感に仕上げてしまうと、他の男に触れられた時に意図せず反応してしまうのではないかと不安になってしまうが、男としては好きな女を狂ってしまうほどに善がらせてやりたくなる。

「…いいよね?」

耳元で静かに問うと、信が首筋に顔を埋めながら小さく頷いた。

許可を得たことだし、蒙恬は遠慮なく信の帯に手を掛けた。すでに衿合わせは大きく開いていて、帯の意味もなくなっていたが、果物の皮を剝くように着物を脱がせていくこの時間も好きだった。

「あ…ま、待て、って…」

帯を解かれて着物を全て脱がせられそうになった信が、なんとか手で着物を落とさないように押さえている。

許可を出したくせに、外の御者がもし見られたらという不安が消えないのだろう。

その気持ちを考慮してやり、蒙恬は着物を全て脱がすのを諦める。袖を通しているので、どれだけ乱れていても脱げてしまうことはないだろう。

しかし、体を繋げるためには ※ズボンは脱がせなくてはならない。紐を解き、足首の辺りまで引き下げると、すでに淫華は蜜で濡れそぼっていた。

一度指を口に含んで、唾液を纏わせてから、蒙恬は足の間に手を差し込んだ。

湿り気と熱気を帯びた淫華の口の付近を何度か指で往復する。
花芯には触れないように指を動かしていると、信が着物を掴む手に力を込めたのが分かった。もどかしい刺激に、まるで早く触ってくれとねだるようなその態度が愛らしい。

「んあッ」

僅かに花芯を擦ると、信が堪えていたはずの声を呆気なく洩らす。ここが女の急所であることは蒙恬もよく分かっていた。

だからこそ簡単に触れないように弄るのが女を狂わせる術でもある。

何度も淫華の入り口ばかりを指の腹で擦り、奥を刺激することも、花芯に触れることもしない。信からすでに許可は得ていたはずなのに、とことん焦らしたくなるのは、彼女の口から自分を求めてほしかったからだ。

いつだって男は女と駆け引きをして、結果的には勝利の酔いを味わいたい単純な生き物なのである。

 

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「は、早く、しろって…屋敷に、着いちまう、だろ…!」

催促の理由が屋敷に到着してしまうからだなんて、味気ない理由だったことに、蒙恬は納得出来なかった。

本当は欲しくて堪らないくせに、素直にそう言わないのはやはり手ごわい羞恥心のせいだろうう。

それならば、もっと意地悪をしてやろうという気持ちが膨れ上がる。

「…そうだね。それなら、続きは屋敷に戻ってからにしようか?」

まさかといった顔で信が顔を上げる。

「だって、信は見られたら恥ずかしいんでしょ?」

これは決して意地悪ではなく、気遣いだと主張すれば、信が目を吊り上げて蒙恬を睨みつけた。

つい笑ってしまいそうになるのを堪えながら、蒙恬は馬車の中から御者に呼びかけた。

「ねえ、あとどれくらいで着く?」

一刻※二時間もかからないかと」

「わかったよ」

すぐに返って来た御者の言葉を聞き、蒙恬は確認するように信の顔を覗き込んだ。

「だって。…どうする?」

「っ…」

続行するかどうかを信に問いかけると、真っ赤な顔をした信が首筋に嚙みついて来た。
僅かに痕が残ってしまうくらいの甘噛みだったが、信の意志を確認するには十分過ぎるほどだった。

「っんん…!」

蜜で濡れそぼった指を淫華の中に挿れると、信の体が震えた。

何度も蒙恬の男根を受け入れた其処はすんなりと指を飲み込んだが、相変わらず締まりが良い。

「ふ…ッ…」

根元まで飲み込ませた指を中でゆっくりと折り曲げると、信は蒙恬の肩に噛みついて声を堪えていた。鉤状に折り曲げると、信の内腿が震え始める。

折り曲げた指を伸ばして奥を軽く突くと、柔らかい肉壁に辿り着いた。

「んん、ッ…う…」

「すごい、どんどん溢れてる」

常に短く綺麗に整えている爪先で軽く叩くと、どんどん蜜が溢れて来て、蒙恬の手首近くまで濡れてしまった。

それだけ彼女が自分で感じてくれていることも、自分を求めてくれていることも嬉しくて、蒙恬の口角は下がることがない。

ここが寝台の上だったなら、周りも時間も気にせずに可愛がってやれるというのに、残念ながら今は時間を費やす訳にはいかなかった。

蒙恬は自分の ※ズボンを下げ、信の蜜で濡れた手で男根を扱く。すでに勃起しきっているそれは、早く中に入りたいと先走りの液が溢れていた。

信も物欲しげな瞳で男根を見下ろしており、唾液を零してしまいそうなほど口を開けている。

「…今日は信が挿れてくれる?」

いつもなら蒙恬の方から挿れるのだが、今日は信に主導権を渡した。

馬車の中だから仕方ないとはいえ、せっかく騎乗位の姿勢に持ち込んだのだ。信がどのように乱れるのか誰よりも近くで見てみたかった。

 

背徳感

少し信は戸惑った表情を浮かべたが、もうこれ以上焦らされるのは嫌だったのだろう、蒙恬の男根をそっと掴むと、腰を持ち上げる。

「ッ、ん…!」

硬い先端を淫華に押し当てて、歯を食い縛ると、ゆっくりと腰を下げて来た。

ゆっくりと男根が飲み込まれていき、熱くてとろとろと絡みつくような感覚に包まれて、思わず眩暈を起こしそうになった。

「あ、…っ…」

思わず蒙恬も熱い吐息と共に声を零してしまう。

「ううっ…う…」

なんとか止まることなく腰を下ろし切った信が切なげに眉根を寄せ、肩で息をしていた。

御者に気づかれていないか不安そうに扉の方へ視線を向けたものの、男根を腹に飲み込んだ彼女の顔は蕩け切っていた。

蒙恬は細腰を両手で抱き寄せ、信の胸に唇を押し付ける。胸の谷間を伝う汗に舌を伸ばし、胸の芽に吸い付いた。

信の両腕が蒙恬の頭を抱き込む。

「んっ…」

胸の芽を舌で転がり、甘く歯を立てると、信が泣きそうに顔を歪めた。僅かに浮かべんでいる汗で前髪が額に張り付いており、指で梳いてやる。

それから彼女の頭を抱き寄せると、蒙恬は穏やかに笑んだ。

「…信の中、あったかくて、とろとろしてて、俺のこと欲しいって、ぎゅうって締め付けて来て、気持ちいい」

彼女の臍の下に指を這わせ、蒙恬はそこを何度か優しく叩いた。

「ここ、この部屋の中も、きっと気持ちいいんだろうなあ」

たった今、男根が口づけているその小さな部屋子宮に、赤子が眠るのだと思うと、とても不思議な感覚だった。

「は、う…」

下腹に指を軽く沈ませていくと、信が甘い吐息を零した。外側の刺激に連動するように、淫華が男根に強く吸い付いてくる。

「やっ…」

信が幼子のように首を横に振った。
繋がっている最中に外から下腹を責め立てられると、刺激が強過ぎて、どうしようもなくなってしまうらしい。

(まずい)

子種を搾り取られるように淫華が強く締め付けて来たので、蒙恬はようやく下腹を突くのをやめる。

馬車の中で身を繋げるのは信も蒙恬も初めてのことで、御者に気づかれるのではないかという危機感や、隠れながらいけないことをしている背徳感に、いつもより興奮している自分に気が付いた。

 

 

信の体を抱え直して、蒙恬は上目遣いで彼女を見上げた。

「動くよ」

彼女の返事を聞く余裕もなく、蒙恬は下から腰を突き上げる。

「んッ、うんんッ」

手の甲で必死に唇に蓋をして声を抑えるものの、肉と肉を打ち付け合う音は隠し切れない。

汗ばんでいる肌と肌を密着させて、体の内側だけでなく外側まで繋がろうと、唇を重ね合った。

丸々とした尻の双丘を両手で掴み、より深く男根を飲み込ませる。
最奥にある子宮を突いているというのに、まださらに奥へ行けそうなほど、凄まじい結合感だった。

信と体を重ねる度に、どんどん一つになろうとしている。
最初から自分たちは一つの生命体で、元の姿に戻ろうとしているのではないかと錯覚してしまうほど、愛おしさも結合感も増していく。

「信ッ…」

腰を突き上げる度に卑猥な水音に合わせて、熱い吐息が交じり合った。

「も、蒙恬ッ」

悩ましげに眉根を寄せながら、信が切迫した声で名前を呼ぶ。蒙恬が腰を突き上げる動きに合わせて、信も腰を揺らして男根を受け止めていた。

絶頂に近づくにつれて、信が蒙恬の背中を掻き毟る。爪を立てるのは快楽に吞まれないよう、無意識のうちにやっているらしい。
以前も行為を終えた後、蒙恬の肩や背中に血が流れていることに気づいた信が青ざめて謝罪して来たことは記憶に新しい。

しかし、爪を立てられる甘美な痛みよりも、好いている女と一つになっているという結合間の方が何倍も勝っているし、何より信につけられた傷痕だと思うと、それだけで愛おしかった。

喜悦と込み上げる射精欲を噛み締めながら、蒙恬は信の首筋に舌を伸ばす。

「気持ちいい…信の中、気持ちいいっ…!」

まるで子どものような口調になってしまう。
男として、ましてや夫になるのだから、自分が彼女を導くべきだと頭では理解しているのだが、時々こうして子どもの部分が出て来てしまう。まだ彼女に甘えていたいという現れなのだろうか。

無駄な肉付きが一切ないくびれのある細腰を引き寄せ、目の前で揺れる豊満な胸に唇を押し付けた。

硬くそそり立っている芽にちゅうと吸いつき、上下の歯で挟んでやると、信が体をくねらせてしがみついて来る。

「ふあ、っ、あッ、んぁっ、ぅう」

声を堪えなくてはという意志は僅かに見えるのだが、口を閉じる余裕もなくなっているくらい、もうどうしようもなくなってしまっているらしい。

淫華がまた男根に強く吸い付いて来て、蒙恬の目の奥で火花が散った。

「あ…し、信っ…あ、俺、もうっ…」

もう二人には余裕などほとんど残っておらず、ただお互いを求め合う獣と化している。
絶頂を迎える寸前、蒙恬は信の顔を引き寄せて強引に唇を重ねた。

「んッ、んんーッ!」

急に呼吸を妨げられ、信がくぐもった声を上げた。

「ッ…!」

下腹部で痙攣が起こるのと同時に、全身が燃え盛るように熱くなり、快楽が脳天まで突き抜けた。

意識までも持っていかれそうな強い快感に、蒙恬は縋りつくものを探して、信の体を力強く抱き締める。

背中に回されていた信の腕にも、ぎゅうと力が込められた。

彼女の体も、火傷でもしたかのように大きく跳ね上がり、淫華がこれ以上ないほど男根を締め上げて来る。

普段なら、すぐに男根を引き抜いてから射精をするのだが、今日は違う。
愛おしさのあまり、最後まで信と繋がっていたかった。淫華も痙攣しながら男根を包み込んでいて、一緒に絶頂を迎えたことが分かった。

「はあッ…あ…」

愛しい女の一番奥深くに自分の子種を植え付ける感覚は、今まで感じたことのないくらい気持ち良くて、恍惚とした感情に胸が満たされていく。

「ぁ、は…ぁう…」

腹の奥に熱い子種が吐き出される感覚を、信もしっかりと感じ取っているようで、うっとりと目を細めていた。

蕩けたような、とろんとした顔がかわいらしくて、蒙恬は堪らず唇を重ねてしまう。長い絶頂が終わっても、二人はずっと口づけを続けていた。

「んぅ、むッ…ぅんん…!」

息が苦しいと信が蒙恬の胸をばしばしと叩く。

はっと我に返って唇を離すと、信が大口を開けて呼吸を再開する。
互いに熱い吐息を掛け合いながら、また貪るように唇を重ね、汗ばんだ体を強く抱き締め合った。

絶頂の余韻に浸りながら、蒙恬は幸福感に胸がいっぱいになる。

「…な、中…」

「うん?」

「良かった、のか…?」

以前、まだもう少しだけ二人きりの時間が欲しいと話していたのに、堪らず中で射精をしてしまったので、子を孕んでしまうかもしれないと言いたいのだろう。

責め立てる様子は一切ないものの、確認するように問われて、蒙恬は恥ずかしがりながらも、笑顔で頷いた。

「…本当は、婚儀の後でって思ってたんだけど…我慢出来なかった」

上目遣いで甘えるように信を見つめてから、再び唇を重ね合う。
まだ足りないという蒙恬の気持ちに応えるように信が舌を絡ませて来たので、燃え盛っていた情欲の炎はますます煽られるばかりだった。

未だ信の淫華に飲み込まれたままの男根が再び芯を取り戻していく。信もそれに気づいたようで、物欲しげな視線を向けて来た。

しかしその時、馬の嘶きと共に、馬車の揺れが止まる。

「―――お屋敷に到着しました」

 

 

外から御者に声を掛けられ、二人は弾かれたように顔を上げる。気まずそうに信が目を逸らし、慌てて腕の中から抜け出そうと身を捩った。

しかし、未だ蒙恬の男根を受け入れている淫華は、まだ離れたくないと包み込んで来る。芯を取り戻して来た男根もまだ離れたくないと主張していた。

「う、っ…」

信が眉根を寄せて、なんとか男根を引き抜こうとする。
腰を上げようとするものの、絶頂の余韻から覚めやらぬ体が震えていた。上手く力が入らないらしい。

「…蒙恬様?いかがなさいましたか?」

「あ、ああ、えっと…」

返事のないことを不審に思った御者が再び声をかけて来たので、蒙恬はとっさに普段通りを装い、外から開けられぬように慌てて声をかける。

「信が少し揺れに酔ったみたいだから、このまま少し休ませる」

御者の返事を聞いてから、そういえば目的地に到着したのなら、普段はすぐに扉を開けられるのに今日は違うと気が付いた。

もしかしたら信の心配通りに御者にすべて聞かれていたのかもしれないが、こちらの状況を察した上で扉を開けないでいたのなら、その気遣いはとてもありがたい。

腕の中にいる信に顔を寄せた蒙恬は、額と額をこすり合った。

「…部屋まで我慢できる?」

「……、……」

声を潜めて確認され、信は涙目で小さく頷いた。
行為を始める前は、蒙恬の方が我慢できないと駄々を捏ねていたはずなのに、今ではまるで立場が入れ替わったようである。

「じゃあ、名残惜しいけど、一回抜くね」

「ん、んうっ…!」

蒙恬が信の細腰を掴んでその体を持ち上げると、一度男根を引き抜いた。引き抜かれる瞬間も甘い刺激に、信の体が大きく震えた。

蜜と精液が混ざり合った白濁が未だ二人の陰部を繋いでいる。
蒙恬は手早く着物の乱れを直すと、腕の中ですっかり脱力してしまっている信の着物も整えてやった。

「…やっぱり部屋で休ませることにするよ。出るから開けてくれる?」

外で待機している御者に声をかけ、馬車の扉を開けさせる。蒙恬は信の背中を膝裏に手を回してその体を抱き上げると、すぐに馬車を降りた。

密室の中に立ち込める男女が交わっていた淫靡な匂いと空気は誤魔化せないし、恐らくは扉をすぐに開けなかったことから御者も中で何が行われていたのか気づいているだろう。

しかし彼も蒙家の家臣であり、二人が夫婦になることを喜んでいる一人だ。子孫繁栄を喜ぶとしても、よからぬことは考えないに違いない。

門をくぐって屋敷の敷居に足を踏み入れるなり、家臣たちが帰宅した主を出迎えてくれた。挨拶もほどほどに、蒙恬は信を抱えたまま足早に別院へと向かう。

僅かに乱れている着物のまま、赤い顔で荒く息を吐きながら別院へと急ぐ二人を見て、賢い家臣たちも何かを察したようだった。

別院に踏み入れると、蒙恬は一直線に寝室へ向かう。

「しばらく誰も部屋に近づかないで」

主に頭を下げている従者たちに視線を向ける余裕もなく言い放った。
従者によって、背後で扉が閉じられたことにも気づかず、蒙恬は信の体を寝台へ下ろすと、すぐにその体を組み敷いた。

「んうっ」

唇を重ね、舌を絡ませながら、二人はお互いに着物を脱がせ合う。

馬車の中で簡単に着物の乱れを整えていたとはいえ、帯もほとんど外れており、着物を脱がせるまでにそう時間はかからなかった。

 

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続行

すぐに脚を開かせると、つい先ほどまで蒙恬の男根を咥えていた信の其処から、粘り気のある白い精が零れていた。

「あっ…」

すぐに指ですくい上げて中に押し込むと、信の体が小さく跳ねる。先ほど絶頂を迎えたばかりの体は僅かな刺激でも敏感に反応するようだった。

「も、蒙恬…」

手を伸ばして、信が蒙恬の男根に触れる。
指で輪っかを作り、何度か扱かれるとそれだけで蒙恬は息を荒げた。先ほど射精したばかりだというのに、信に触れられるだけで何度でも絶頂を迎えてしまいそうだった。

「ふうっ、ぅ…ん」

唇を重ね合いながら、舌を絡めながら、お互いの性器を愛撫し合う。

馬車の中で一度果てたはずなのに、すでに蒙恬の男根は芯を取り戻していたし、信の淫華もまた蜜を溢れさせている。

溢れ出る蜜で子種が流されてしまわないように、蒙恬は淫華に子種を擦り付けた。最奥にある子宮には特に念入りに擦り付ける。

「あっ、はあ…」

信の腰が震え始め、淫華が指に強く吸い付いて来た。
奥までよく濡れている肉癖を擦り上げると、信が何か言いたげに、切なく眉根を寄せて見つめて来る。もちろん彼女が何を求めているかなど、手に取るように分かる。

「ね、また挿れてもいい…?」

「う…」

信が小さく頷いたのを見て、蒙恬は指を引き抜くと、彼女の膝裏に手を回した。大きく足を広げさせ、視線を視線を絡ませ合う。

「く、ぅ…」

それを合図に、蒙恬はゆっくりと腰を前に押し出した。今も熱く滾ったそこは蕩けていて、男根が溶かされてしまいそうになる。

この中に男根を突き挿れるだけで、自分は男として生まれて来て良かったという喜びにただ浸ることが出来た。

「はあっ…あっ、あ、ん…」

最奥まで男根を突き挿れると、哀切の声を上げて、信が両腕を背中に回して来た。縋るものを探して、背中を掴む指に力が入ったのを感じ、蒙恬は絶頂に向けて再び腰を突き上げ始めるのだった。

盲目なまでに、幸福感で胸を満たしながら、二人は互いを求め合った。

 

このシリーズの番外編②はこちら

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絶対的主従契約(昌平君×信)後日編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話の本編はこちら

 

約束

いつものように昌平君が茶を一口啜った後、茶器を置いた。

また文句を言われるのかと反射的に信が身構えると、

「…約束はいつ果たすつもりだ」

「え?」

茶の感想以外の言葉を掛けられたので、信はつい聞き返してしまった。

「私が気に入る茶を毎日淹れるのではなかったのか」

「いや、だから毎日とは言ってねえって!」

あの勝負のことを言っているのだとすぐに分かったが、自分が負けた時の約束として、主の気に入る茶を淹れるという約束をしただけで、毎日とは言っていない。

一応約束を果たすつもりで良い茶葉を購入しに行ったものの、あのような事件が起きたこともあり、信は療養という名目でしばらく外出を禁じられていた。

茶葉屋の店主と庖宰の男がその後どうなったのかは分からないし、昌平君も豹司牙も答えることはなかったが、二度と会うことはないだろう。

「俺がどう淹れたって結局文句言うじゃねえか。最初から茶を淹れるのが得意なやつに淹れてもらえば…」

幾度となく提案した言葉を再び告げると、昌平君がじろりと信を見た。睨んだと言って良いだろう。

昌平君が信を傍に置いているのは、信の父との約束のこともあるが、表向きは機密事項の取り扱いをしているからだ。

字の読み書きが出来ない下僕という立場を利用し、膨大な機密情報を取り扱っているこの執務室の出入りを許可している。もちろんそれは情報漏洩を防ぐための配慮だ。

「あーあ、美味い茶葉さえ手に入ればなー」

信がわざとらしい独り言を洩らす。
いかに茶葉の質が良くても、淹れ方によって茶葉の旨味を掻き消すことも出来ると証明したのは信自身であった。

昌平君は静かに筆を置くと、腕を組んだ。

確かに屋敷の中で茶を淹れることを得意とする者はいる。その者に淹れ方を習わせるべきだろうか。信は物覚えが悪い方ではないのだが、熱意に欠ける面がある。

自尊心が高いようにも思えないが、誰かに命令されるのを好ましく思わないのだろう。特に自分の苦手分野であればなおさらだ。

昌平君も自ら頭を下げてまで信に茶を淹れてほしいとは思わない。しかし、国の行政と軍政を担当している昌平君の執務量は膨大で、合間に美味い茶を飲むくらいの休憩はしたいのである。

…あの日の勝負は、予想外の出来事による昌平君の不戦勝だったのだが、死にかけたところを侍医に診せたことに、信は少なからず恩を感じているらしい。

かといって普段の態度を改める気配はない。自分の素性を教えられて、もともと昌平君と面識があったと知ってから、その生意気な態度にさらなる拍車がかったように思う。
豹司牙にげんこつを落とされる回数が倍増していることから間違いないだろう。

 

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相変わらず主からのしつこい要求に信は溜息を零しそうになる。

(…ん?待てよ…)

信はふと考えた。約束を果たすのは今回限りであって、毎日ではない。

どうしてそこまで昌平君が美味い茶を飲みたがっているのかは分からないが、この屋敷にも茶を淹れる者を得意とする者はいる。

その者に美味い茶を淹れてもらい、自分が淹れたと主張すれば・・・・・・・・・・・・約束を果たすことが出来るのではないだろうか。

どうしてこんな簡単なことを今まで実行しなかったのかというと、それは昌平君のこだわりが強く、淹れたての熱い茶が飲みたいという要求されるからである。

しかし、本当に美味い茶ならば、多少冷めたところで味に変わりはないはずだ。だとすればさっそく他者に協力を要請しよう。

ずる賢い考えではあるが、良い手を思いついたことに信の口角が持ち上がる。

昌平君の背中に目があったのなら、今の表情だけで何を考えているのか見抜かれただろう。しかし、昌平君の死角に立っている信の考えは誰にも読まれることはなかった。

ゆえに信は、ずる賢い方法だと自覚しながら、その方法を実行することに決めたのである。

「よっし、それじゃあ美味い茶を飲ませてやる!今回だけだからな!?」

一度美味い茶を淹れる技術を身に着けたのなら何故それを継続しないのかと昌平君は不思議に思ったが、信のずる賢い考えをさすがの彼も見抜くことは出来なかった。

 

共謀

信は鼻歌交じりで厨房へと向かっていた。昼食も終えたばかりなので、庖宰 ※料理人たちは片づけを行っているものの、今はそれほど多忙ではない。

以前、報酬欲しさに密偵として屋敷に潜入し、信を手に掛けようとしたあの庖宰の男がどうなったのかは、昌平君も豹司牙も教えてくれなかった。

庖宰の男が以前、自分と同い年の息子がいると話してくれたことを思い出し、胸がきゅっと締め付けられるように痛む。

使用人たちの間では、母の危篤のため急な暇を出したという話で通っていたが、昌平君の情報操作だろう。本当は生きているのかさえ分からない。

あれから屋敷に出るのを禁じられているため、茶葉屋の店主もどうなったのかは信も分からないのだが、尋ねたところで昌平君が教えてくれないことは分かっていた。

(…っと、美味い茶を淹れてもらわねえとな)

思考を振り払うように、信は頭を軽く振った。

厨房の裏手に回ると、火を起こすのに使う薪が積んである。その傍に背凭れもついていない簡易な椅子と卓子が設置されていた。

ここは庖宰たちが休憩所として利用している場所であり、今は数人の庖宰が昼食を摂っていた。厨房で片づけをこなす者たちと交互に休憩を取っているらしい。

粥を啜っている若い女と目が合うと、彼女は笑顔を浮かべた。

「信じゃない」

「よっス」

手を上げて、信は彼女の隣に座る。ちょうど粥を食べ終えたところだったらしい。

彼女は信よりもいくつか年上で、下僕という立場ではあるものの、味付けや茶の淹れ方が丁寧なところを評価されて、今は庖宰見習いとしてこの屋敷に雇われていた。

年が近いということもあり、信が姉のように慕っている仕事仲間である。

「お昼を食べ損ねたの?」

粥の残りを持ってこようかと提案してくれた少女に信は首を横に振った。

「美味い茶を淹れてほしいんだ」

単刀直入に目的を告げると、少女があははと口を大きく開けて笑った。
幼い頃から礼儀を教え込まれる令嬢であれば絶対にしない豪快な笑い方だ。相手の笑い方や立ち振る舞いをみれば、下僕仲間であるかどうかがすぐにわかる。

「わかったわ。どうせまた怒られたんでしょう?」

信が昌平君に茶を淹れることも、毎回文句を言われることも、信自身が愚痴として下僕仲間に広めているので、今では笑い話の一つとなっていた。

「あいつのこだわりが強いんだよっ」

思わず反論すると、少女が慌てて自分の口元に人差し指を押し付ける。こんなところで主の悪口を言うんじゃないという仕草だ。

「ええっと、だから見本で美味い茶を淹れてほしいんだよ」

信が両手を合わせて少女に頼むと、彼女は困ったように肩を竦めた。

少女が淹れたお茶を自分が淹れたことにして昌平君に飲ませるという話をしなかったのは、絶対に断られるという確信があったからだ。

もしも作戦を打ち明けたとして、後で昌平君に知られてしまい、共謀した罰として仕事を失うのは恐ろしいと断られるに決まっている。

見本として淹れてもらった茶を昌平君に飲ませれば、きっと約束は果たせるだろう。そして信の狙いはもう一つあった。

自分ではなく、少女が淹れた美味い茶に文句を言うようだったなら、昌平君はただの味音痴・・・だ。茶の味など分からず、文句を言いたいだけではないかと反論する材料が出来る。

…もちろん少女のことを思えばこそ、共謀したことは内密にしたいのだが…。

とはいえ、聡明な昌平君でさえ見抜くことが出来なかった信のずる賢さを、同じ下僕である少女が見抜けるはずもなかった。

「いいわ。ついて来て。まだ茶葉が残っていたはずだから、それで淹れてあげるわよ」

空になった皿を片手に、少女は信を厨房へと呼びつける。

(よし!これで昌平君に一泡吹かせてやる!)

美味い茶を淹れるという約束から、主の味音痴を見極めるという目的にすり替わっていることに、信は気づいていなかった。

 

 

厨房にある戸棚を覗き込み、少女はいくつかの茶葉を取り出した。

信がいつも昌平君の茶を淹れているのはあの執務室で、茶葉もそちらで保管しているのだが、他の家臣たちに淹れる用に厨房でも茶葉は保管されていた。

騒動の後、茶葉屋の店主がどうなったのかは教えられていないのだが、街で茶葉を売っているのはあの店だけだ。今は特に何も言われていないが、もしかしたら今後は購入先を変えるのかもしれない。

取り出した茶葉は色んな種類があったのだが、その中には見たことのない茶葉もいくつかあった。少女が手に取ったのは黄色い茶葉だった。

「これにしましょう。私もちょうどお茶が飲みたかったの」

「なんだ、その茶葉?なんで黄色いんだよ」

茶葉と言えば緑が一般的だと思っていた信が黄色の茶葉を見るのは初めてだった。茶葉屋にも、その茶葉は売られていなかったように思う。
もしも見かけていたら物珍しさで覚えていただろうし、どんな茶なのか気になって尋ねていたはずだ。

少女は黄色の茶葉に顔を近づけて匂いを嗅ぐと、うっとりと目を細めた。

「菊の花のお茶よ。花のお茶はあまり男性に好まれないけど、美味しいの」

「花も茶になるのか!」

昌平君にそれなりの回数の茶を淹れて来た信だったが、花の茶があることは初耳だった。

話を聞くと、その少女は時々そういう花茶を淹れて、下僕仲間の少女たちに振る舞うことがあるそうだ。

「どこで手に入れたんだよ。店にそんなの売ってなかったと思うぜ」

仕入れ先を尋ねると、少女が首を横に振った。

「これは私が作った茶葉だもの。花を摘んで、乾かしたり、煎ったり、色々やり方があるんだけど…上の方にはとてもお出しできないわ」

茶葉の原料を摘むところから行っているという少女に、信は大口を開けた。そんな工程も経験しているからこそ、少女は茶の淹れ方が上手いのだろう。これはますます主に飲ませたくなってきた。

「…でも、信は男の子なんだし、飲むのは少しにしておきなさいね」

少女はそう言って湯を沸かし、菊の花の茶を淹れる準備を始めた。

さまざまな工程を通して乾燥させた菊の花から、爽やかな香りが漂ってくる。茶に詳しくない信でも、これは美味い茶になると確信があった。

丁寧に茶葉を蒸らしたり、茶器に注いでいく少女の手つきを眺めるものの、信は自分が普段やっている茶の淹れ方と何が違うのか少しも分からなかった。

「さ、できた」

菊の茶を淹れた少女が杯に茶を淹れようとしたのだが、他の庖宰から休憩の交代を告げられる。

もう仕事に戻らなくてはならないと、少女は申し訳なさそうに信を見る。しかし、信にとっては都合が良かった。

菊花の茶がどんな味がするのか気になったのは確かだが、この機を逃すわけにはいかない。

「あとは俺がやっとくから気にすんな!またな!」

少女を見送ってから、信は茶器を盆に載せた。自分も飲んで絶賛したという説得力を持たせるために、杯は二つ用意しておく。

せっかく淹れてもらった茶を零さぬよう、細心の注意を払いながら、足早に執務室へと向かう。普段は何とも思わない距離がとても長距離に感じられた。

なんとか茶を零さぬように執務室に到着すると、両手が塞がっているので、辺りに誰もいないことを確認してから足で扉を開ける。

以前これを豹司牙に見つかり、こっぴどく叱られてしまったことがあった。

昌平君は両手が塞がっていても扉を開けてくれる者がいるし、なんだったら荷を持ってくれる者だっている。偉い立場の者は両手が塞がって困るようなことはないのに、どうしてこうも立場が違うだけで不利益しかないのだろうと信は腹立たしくなった。

部屋に入るものの、そこに昌平君の姿はなかった。

「あれ?どこ行った?」

今日は宮廷へ行く予定はないと話していたし、屋敷にいる時の大半はこの執務室で過ごしているはずなのに、どこへ行ってしまったのだろうか。

菊花の茶が入っている茶器を盆ごと卓上に置き、信は辺りを見渡す。執務室の奥を覗き込んでも昌平君の姿はなかった。厠だろうか。

冷めても茶の美味さは変わりないはずだが、湯気が立っていないと見ただけで「冷めている」と文句を言われてしまうと思い、信は早く戻って来るよう促しに部屋を出て、主を探すことにした。

 

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旧友の来客

意気揚々と執務室を出て行った信が何か企んでいることは予想していたが、それが何かまではわからなかった。

以前のようにその辺に生えている草を積んで茶葉代わりしようとするのなら、恐らく豹司牙か家臣たちが制裁を与えるだろう。

「………」

信が部屋を出て行ってから昌平君は執務をこなしていたものの、なんだか落ち着かずに室内を見渡してしまう。

先日の密偵に誘拐された件もあって、自分の目の届かない場所でまた何者かに攫われていないだろうかという気持ちが沸き起こっていた。

二人の密偵を捕らえたことを黒幕に勘付かれぬよう偽装工作を行っているが、それもいつまで続くか分からない。

こうなれば自分が近くにいない時に何かあっても対抗できるよう、護身術の類でも学ばせた方が良いのだろうか。だが、それをきっかけに李一族の才能が開花するのは困る。

悶々と思考を巡らせるものの、結論は出なかった。

その時、扉越しに家臣に呼びかけられた。

「蒙武将軍がいらっしゃいました」

「蒙武が?」

旧友の来客の報せに昌平君はすぐに立ち上がった。
もともと約束をしていた訳ではないのだが、事前の報せも寄越さずに、蒙武が屋敷にやって来るということは何か急ぎの用があるのだろう。

「出迎える」

立ち上がると、昌平君はすぐに執務室を後にした。恐らくは軍政に関してのことだろう。誰が聞いているか分からない客間ではなく、人の出入りを制限している執務室の方が気兼ねなく話しやすい。

廊下を出て屋敷の門へと向かっていると、反対の廊下で信が盆を持って足早に移動している姿が見えた。盆の上には茶器が乗っていて、茶を零さぬよう手元に集中しながら進んでいる。

もしかしたら美味い茶を淹れて、冷めぬように急いで運んでいる途中なのかもしれない。

しかし、旧友を待たせるわけにいかなかったので、昌平君は信に声をかけることなく門へと向かった。

 

 

来客の対応をしているという話を聞き、信は思わず舌打ちそうになった。

主が執務室にいなかったのは、恐らくは客と共に客間にいたからだろう。
せっかく昌平君との約束を果たして、早々にあの勝負の再戦を仕掛けようと思っていたのに、台無しではないか。

あーあと肩を竦めながら、信はふらふらと廊下を歩いていた。

菊花の茶は盆ごと卓上に置いて来たものの、あのままでは確実に冷めてしまう。昌平君が飲まないのなら自分があの茶を飲めば良かったと考えた。

(…そういや、再戦したところで、何を賭ければいいんだ?)

あの時は奴隷解放証をもらうことを約束していたのだが、自分の素性を教えられてからはもう奴隷解放証に興味を失ってしまっていた。

李一族の生き残りであることを悟られぬようには、下僕でいる方が都合が良いらしい。自分がこの屋敷に置かれている理由が分かってから、信は以前のように外の世界への憧れを持たなくなっていた。

かといってこのまま一生この屋敷で過ごすことになるのだろうか。李一族の話を聞かせてくれた時、昌平君は特に語らなかったが、許してくれそうな気がした。

庖宰の男と茶葉屋の店主を動かしていた者に存在を気づかれまいと外出禁止令を出したのだろうが、そのほとぼりが冷めれば、この屋敷を出て一人で生きていくのも許してくれるような気もしていた。

「うーん…どうすっかなあ…」

つい独り言ちる。来客が帰るまで、下僕仲間たちの仕事の手伝いでもしようと考えた時、

「あ、信!」

裏庭で井戸の水を汲んでいた少女が信に声をかけて来た。菊の茶を淹れてくれたあの少女だと気づき、信が手を振る。

「あのお茶、どうだった?」

自分が作った茶葉の感想が聞きたいのだろう、少女が目を輝かせている。

実は一口も飲んでおらず、主に飲ませようとしていたのだと気づかれぬように、信は無理やり笑顔を取り繕った。

「あ、あー、えーと、俺、あんまり茶には詳しくねえんだけどよ、なんか、あー、そうだ、変わった味だったな!」

嘘だと気づかれないように、当たり障りない感想を言ってみるものの、どうやら少女はその感想が嬉しかったらしい。

「やっぱり花のお茶は、男の人の口には合わないかもしれないわね」

「そ、そうか?そんなことないと思うぜ。俺も今度花の茶葉見つけたら淹れてみっかな」

信の提案に少女は「それはいけないわ」と首を横に振った。

 

花茶の作用

「花茶の中には、陽の気・・・を消し去ってしまう作用もあるから、もしも花の茶葉を買う時には注意するのよ」

「陽の気…?なんだそれ?」

聞き慣れない言葉に、信はつい小首を傾げてしまう。
下女は辺りを見渡して近くに誰もいないことを確認すると、小声で囁いた。

「…ご子息に関わるものよ。もしも陽の気を失えば、お世継ぎが生まれなくなっちゃうの」

「えっ」

あまり意味が理解出来ていない信に、言葉の意味を知らしめようと、少女が手の甲でぽんと信の股間を叩く。教えられた言葉と仕草で、教養のない信も理解した。

陽の気を失うということは、男にとって宝同然である象徴を失うのだと。

(ん?そういや、あの茶葉って…)

記憶を巡らせて、信は先ほど淹れてもらった茶が、菊の花を乾燥させたものだと思い出した。

「なあ、さ、さっきの菊の花の茶は…その、陽の気?ってやつを奪うのか?」

「そうね。だからあまり男の人は多く飲まない方が良いと言われているわ。そういう理由があって、男の人に花のお茶は好まれないのかも」

「えッ」

全身の毛穴からどっと汗が噴き出た。

先ほどの茶は執務室に置きっぱなしにしているのだが、もしも昌平君が来客の対応を終えて一足先に戻っていたら、あの茶を飲んでしまうのではないだろうか。

「…まあ、色々言われているけれど、心配なら最初から飲まないのが一番安全ね…って、どうしたのっ!?」

会話の途中であるにも関わらず、信は全速力でその場から駆け出し、証拠隠滅のために慌てて昌平君の執務室へと向かうのだった。

 

 

蒙武を執務室に案内すると、てっきり信がいると思ったのだが、彼の姿はどこにもなかった。

先ほど茶器を抱えて廊下を歩いていたのを見ていたが、どこへ行ったのだろう。

卓上に置かれているのは信が抱えていた茶器だ。中には茶が入っているが、湯気はもう上がっていない。しかしまだ茶器自体は温かく、茶は冷め切っていないようだった。

「…?」

茶壷※急須のことの蓋を外すと、緑ではなく黄色の茶葉が現れる。花弁が混じっていることから、何かの花の茶だということはすぐに分かった。

少しだけ茶葉を掴み匂いを嗅ぐと、爽やかな香りがする。
念のため、茶葉を少量だけ口に含んでみるものの、舌に痺れも感じないし、毒の類は入っていないようだ。

過去に信が毒を盛ったことはないのだが、行政や軍政を担っている立場である昌平君は幾度も命を狙われたことがある。普段から口に入れる物を警戒するのは習慣になっていた。

(ちょうどいい)

来客も来ているのだから、茶を頼もうとしていたところだった。蒙武は食べ物や飲み物に少しもこだわりがないので、よほど不味い茶でなければ文句を言われることはない。

茶壷を傾けると、茶葉と同じように黄色みがかった茶が注がれた。普段飲んでいる茶と色も香りも異なるが、こんな茶葉をいつの間に用意していたのだろうか。

蒙武に茶を差し出すと、普段見かけない色の茶に何か言いたげではあったものの、昌平君が黙って茶を啜ったのを見て、後に続いた。

(悪くない味だ)

花の茶を飲んだことはなかったが、香りや味が普段と異なり、味わい深いものであった。どうやら蒙武も悪い気はしなかったようで、静かに茶を飲んでいる。

もしもこの茶を本当に信が淹れたのなら・・・・・・・・・・・、律儀に約束を果たしたことになるが、きっと次に淹れた茶の味で判断出来るだろう。

「………」

「………」

てっきり蒙武の方から用件を話し出すとばかり思っていたのだが、彼は口を噤んだままでいる。

何か用があって訪ねて来たことは昌平君も理解していたので、蒙武が話し始めるまで、昌平君も口を開かなかった。

気づけば無言で茶を啜る時間だけが経っており、茶壷も空になっていた。

武に一筋である蒙武がただ茶を飲みに屋敷までやって来たとは思えなかったのだが、ここまで本題を話さないことには何か理由があるのだろうか。

「…密偵が潜んでいたそうだな」

いよいよ茶が無くなって本題を切り出すしかなくなったのか、蒙武が静かにそう問いかけた。

昌平君は僅かに眉根を持ち上げたものの、彼が言わんとしていることが先日の騒動であると勘付き、小さく頷いた。

蒙武も昌平君と同じように李瑤りよう ※信の父を師として称えていた一人である。

李一族が先帝の勅令で処刑されることになったあの日、蒙武は遠方の領土視察を行っていた。

急報を聞き、李一族の救援に駆け付けた時にはすべてが終わっていた。昌平君と同じく、李瑤を慕っていた蒙武は、重臣を切り捨てた先帝に不信感を抱くようになったという。

今の秦王である嬴政にはどういう想いを抱いているのかは分からないが、少なくとも先帝の時のような不信感は持っていないだろう。
それは彼の嬴政に向ける眼差しを見れば明らかだった。

武に一途である旧友は、昔から権力争いに一切の興味を示さない。しかし、蒙武が今の地位を築いているのは紛うことなく、己の強さを証明出来たからだろう。

そういう真っ直ぐな性根が幼い頃から少しも変わっていない彼と言葉を交わす度に、昌平君は救われる気持ちになる。お前もそのままで良いのだと、認められたような気がするのだ。

しかし、蒙武が密偵の情報をわざわざ尋ねるとは何事だろうか。

蒙武は李瑤の息子である信の存在は知っていたが、一族が滅んだ後の信の行方については知らない。

昌平君も情報が漏洩がしないように徹底的に箝口を敷いていたので、旧友である蒙武にさえも、信をこの屋敷で匿っている事実を告げなかった。

もしかしたら密偵が潜入したという情報から、信の足取りを掴んだのではないだろうか。

いつまでも隠しておくのは不可能だと分かっていたが、こうなれば蒙武にも隠蔽の協力を要請しておくべきか。

昌平君が眉根を寄せながら考えていると、いきなり執務室の扉が開けられた。

 

 

信が扉を壊す勢いで思い切り開けると、中には昌平君と来客の姿があった。

「騒々しい。何事だ」

重要な話をしている訳ではなかったようで、咎められることはなかったが、信の形相に昌平君が小首を傾げている。

来客の男は座っているにも関わらず、信が首を上に向けなければ目を合わせられないほど、長身の男だ。背丈が高いだけでなく、腕の太さも足の太さも信の何倍もある。

体格だけで威圧感を覚えるが、鋭い眼光を向けられるだけで失神してしまう者もいそうだった。どうしてこうも主の周りには威圧感の強い連中が揃うのだろうか。

しかし、信は今、別の意味で失神しそうになっていた。

つい先ほど信が茶を注いだ茶器が二人の前にあって、どちらもすでに空になっていたのを見つけたからだ。

「の、の、の、飲んだのか…」

真っ青な顔で信が茶器を指さす。その指も震えていた。

「毒の類は入っていなかっただろう?普段口にしない味わいだったな」

信は二人の間に飛び込んで、茶壺を持ち上げた。

「ぜ、ぜ、ぜぜんぶ…全部…飲んだのか…?」

こちらも同じく中身が空だと知ると、信は水を失った魚のように口をぱくぱくと開閉させる。

驚愕のあまり、喉が塞がって言葉も出なくなっている信を見て、昌平君は何があったのかと問いかける。しかし、信は主の言葉さえ耳に入らないのか、その場で愕然と立ち尽くすだけだった。

「今は来客中だ。出ていきなさい」

主に促され、放心状態の信はふらふらとしたおぼつかない足取りで部屋を出て行った。

 

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回想

「なんだあいつは」

武が濃い眉を僅かに寄せる。少し迷ったが、昌平君は観念して打ち明けることにした。

密偵の潜入の件も感付かれているのなら、そのうち信の所在も掴むことになるだろう。
ならば、少しでも協力者は多い方が良い。蒙武が私欲のために自分を裏切るような男ではないことを昌平君は知っていた。

「…今のが、李一族の生き残りだ」

「まさか、李瑤りようの息子の信か?」

信が出て行った扉の方を見て、僅かに驚愕した表情を浮かべる。
あの勇ましい当主とは少しも似つかないことや、消息が不明になっていたということから、すぐには信じられなかったのだろう。

信が生きているということと、この屋敷にいるという事実から、蒙武はすぐに昌平君のこれまでの行動を察したらしい。

「…このまま匿う気か。お前の身も危ういぞ」

「李瑤との約束だ。容易には捨て置けん」

昌平君は静かに瞼を伏せた。

「…本当に骨折り損・・・・だな」

独り言ちる蒙武に、随分と上手いことを言うと昌平君は口角を持ち上げた。

先帝の勅令で李一族が襲撃されたあの日、昌平君は信を助けるために、姿を隠して兵たち戦っていた。もしも正体を知られれば先帝への謀反とみなされ、一族もろとも処刑となる。

李一族が根絶やしにされていく中で、昌平君は信の姿を見失ってしまったのだが、未だに遺体が見つかっていないことから、突如現れた協力者が嫡男である信を逃したという報告が王朝内で飛び交った。

未だ見つかっていない李瑤の息子が、それまで昌平君の屋敷にその身柄を預けていたという情報が漏れてしまい、昌平君は先帝に呼び出されたのである。

信を逃がす際に、素性を知られないよう細心の注意を払っていたものの、信が屋敷で療養していた事実は偽装出来ない。

至急、宮廷に来るよう呼び出されたのは、先帝がその事実を突き止めようとしているのだとすぐに分かった。李一族の嫡男を逃したとなれば一族の処刑は免れない。

昌平君は覚悟を決めたのだが、その危機を救ったのが蒙武であった。

処刑を言い渡されるのを覚悟しながら宮廷へ出立する前、屋敷に駆け付けた蒙武は言葉を掛けることもなく、そして容赦なく昌平君の利き腕を折った。

信を匿ったことや逃亡を協力したことを責めているのではなく、偽装工作に協力してくれるのだと、激痛に息を詰まらせながら昌平君は察したのである。

蒙武と共に拝謁した昌平君は、本題に入る前に、折れている利き腕について尋ねられた。
その問いに蒙武は、先日の自分との手合わせで負った怪我であると答える。

信が昌平君の屋敷に療養していた事実は確かだが、こんな腕で李一族を助けられるはずがないという蒙武の証言により、先帝を欺き、処刑を免れた。

それまで一族の命運がかかっていたこともあり、気を張り詰めていた昌平君であったが、先帝に向けられていた疑惑が晴れた安堵と右腕の激痛によって、謁見の間を出た途端に意識を失ったことは覚えている。

昔から武一筋である蒙武がまさか偽装工作に協力してくれるとは思わなかったし、容赦なく自分の利き腕を折ったことには彼らしいと思った。

処刑を免れるためとはいえ、先帝を欺いた罪は許されることではない。先帝が病で崩御してからも、互いにその話をすることはなかったのだが、今日初めて蒙武がそれを打ち明けたのである。

腕を折ってまで一族を守ったというのに、またもや災いの種となる信を保護したとなれば、蒙武と昌平君にとって、本当の意味で骨折り損であった。

しかし、昌平君は再び信と再会したことも、彼を保護していることにも、後悔はしていなかった。

 

手段

「…まだ見ての通り子どもだ。李の家を再び繁栄させようとは考えていない。復讐など考えず、静かに生きる道もあるだろう」

当時の記憶を失っており、信を狙う者たちを欺くために今は下僕として仕えさせているのだと告げると、蒙武は強大な筋肉を纏った太い腕を組んだ。

「あくまでお前の保護下に置くのは、徴兵に掛けられるを免れるためか」

鋭い友の考察を聞こえなかったふりをして、昌平君は空になった茶器を見つめた。
しかし、蒙武はそれを肯定と見て、静かに言葉を紡ぐ。

「李一族は、女も子供も、例外なく武の才に長けている。一度開花させれば、あの小僧もすぐに戦で活躍するようになるだろう」

「…何が言いたい?」

昌平君が瞼を持ち上げると、蒙武は肌を切りつけられるような感覚を覚えた。

それが昌平君から奮い立つ殺気だとは分かっているものの、少しも怯む気配を見せず、蒙武は言葉を続ける。

「信を蒙一族の養子として引き取ってやっても良い。生き残る術は一つでも多い方が良かろう」

今は下僕の身分である信を蒙家の保護下に置き、生まれつき芽吹いている信の才を開花させてやると蒙武は言った。

幼い頃の信は、李瑤に命じられて昌平君と蒙武に稽古をつけてもらったことがあった。

しかし、蒙武は当時から加減という言葉を知らず、あっさりと信の腕を折ってしまうので、李瑤は蒙武に稽古をつけさせるのはもう少し成長してからにしようと考えたらしい。それゆえ、当時の信の稽古担当は昌平君になったというわけだ。

今の信が武の才能を一度開花すれば、たちまち戦で活躍し、その名を広めることになるだろう。それに、蒙の姓を名乗っていれば、李一族の生き残りだと気づかれる可能性も低くなる。

何より、蒙武のもとで鍛錬を積めば、李一族の壊滅を企んでいる暗殺者たちから狙われたとしても自分で身を守ることが出来る。名家である蒙の姓を得たのならば、将軍昇格において支障もなくなる。

しかし、蒙武が己の一族の繁栄のために、信を欲している訳ではないのはすぐに分かった。

昔から武に一筋の男で、自分こそが中華一だと誇っているその実力も本物だが、優秀な二人の息子以外にも、自分の強さを受け継ぐ器が欲しいのだろう。

「ならん」

しかし、昌平君は蒙武からの提案を断った。

旧友がそう答えるのを分かっていたように、蒙武は反論も不機嫌な顔色も浮かべることはしない。

「この時代、戦は避けて通れんぞ」

「それでもならん。俺は信を戦に関わらせるつもりはない」

今は執務中でないというのに、珍しく早口で捲くし立てる昌平君の姿に、蒙武は本気で彼が信を守ろうとしているのだと察した。

蒙武、と昌平君が低い声で呼ぶ。

「…お前も理解しているだろう。李一族は強大な力のせいで、政治の道具として利用され、最後にはその力を恐れられ、切り捨てられた」

昌平君の顔に憂いの影が落ちる。

「…あの子が戦場に出れば、また同じことを繰り返すのは目に見えている。ここで終わらせるべきだ」

李瑤りようの遺言が何たるかは知らんが、李一族を最後に滅ぼしたのはお前ということになるぞ」

その言葉に、昌平君の胸は抉られるように痛んだ。

旧友の指摘通り、昌平君が信を守る方法は李一族を血を絶やす方法である。この中華全土で、一族の繁栄を望まぬ家などない。

いずれ信が妻を娶り、子を儲けたとしても、戦から遠ざけられた信では李一族の繁栄は望めない。
あの強さを引き継ぐのは李一族の血筋だけではなく、幼少期からの血の滲むような鍛錬も備わっているからだ。

「………」

当時の記憶が蘇って来て、師と仰いでいた男の死に際が瞼の裏に浮かび上がった。

強く拳を握り、目を逸らすことなく、真っ直ぐに蒙武を見据える。

「李瑤から受けたのは、何かあれば息子を頼むとの遺言だ。李一族のことは何も話していなかった」

すぐに蒙武が口を開きかけたが、言葉を遮るように、昌平君は続けた。

「もしもあの子が武の才を開花させたのなら、戦場に立てぬよう足を落とす。なおも武器を持とうとするなら腕を落とす。それが俺の、信を守る唯一の方法だ」

権力のための道具として二度と利用されぬよう、信を守る。そのためには武の才能を開花させぬよう傍で監視しておく必要があった。

蒙武は何も言わなかったが、納得したような表情を浮かべることもない。

「…お前は本当に、昔から不器用な男だ」

「………」

「お前の手に負えなくなったのなら、あの小僧は俺が引き取ろう」

そう言うと、彼は立ち上がって振り返ることもなく部屋を出て行ったのだった。

 

今後の課題と困難

蒙武が部屋を出て行った後、入れ違いで再び信が入ってくる。どうやらずっと部屋の外で待っていたらしい。

「しょ、昌平君…俺…」

ぐすぐすと鼻を鳴らして涙を堪えようとしている信を見て、昌平君はぎょっとした。

「何があった」

執務室は閉め切っていたので盗み聞きはされなかったはずだが、様子がおかしい。
まさか李一族を失った時の記憶を取り戻したのだろうかと不安に思ったものの、

「さ、さっきの…あ、あの、オッサンって…ガキはいるのか?」

少しも予見していなかった質問をされて、呆気に取られてしまう。

「蒙武のことか?息子が二人がいる」

その言葉を聞いて、信が安堵したように長い息を吐いた。
しかし、昌平君と目が合うと、再び鼻をぐすぐすと鳴らし始める。

「お、お前は、まだ、結婚してないけど、ほんとに、隠し子の一人や二人も、まだいねえのか…?」

どうしてそのようなことを問われなくてはならないのか。質問の意図がまるで分からない。

腕を組みながら、そんなものはいないと答えると、信はその場に膝から崩れ落ちてしまった。

未だ伴侶がいないことも、世継ぎがいないことも、以前から家臣に心配されているのは知っていたが、まさか信までもがそのような心配を、しかも泣きながらされるとは思いもしなかった。

右丞相と軍の総司令官として激務を極めている昌平君には、いちいち縁談話を聞くことも縁談相手を見極める暇などないのである。

「お、俺…自分がバカなのはわかってる…!そのせいで、お前に、とんでもねえものを、飲ませちまった…」

「は?」

大粒の涙を手の甲で拭った後、信はあろうことかその場で跪いて頭を下げ出した。

今まで生意気な態度を咎めても、これほどまでに頭を下げることのなかった信がどういうの風の吹き回しだろうか。

「信?」

呆然としている昌平君の視線を受けながら、信が涙の理由を語り始める。

「さ、さっきの茶…陽の気ってのを消し去っちまう茶で…だ、だから、昌平君は、もう…世継ぎを産めなくなるんだ…!!」

己の罪を自白した信が大声を上げて泣き喚く。
ようやく彼が謝罪した理由を理解した昌平君は腕を組んで、わざとらしい溜息を吐いた。

隠し子という言葉は知っているくせに、肝心な部分を間違えているのは、今までまともな性教育を受けなかったからなのだろうか。

「私が産む側なのは根本的に間違えているが、茶にそのような作用がある訳ないだろう」

ずっと思い悩んでいたそれを否定すると、信の瞳から涙がぴたりと止まる。
顔を上げた信が、泣き腫らした真っ赤な目で昌平君のことを見上げた。主の言葉の意味をその頭が理解するまでには、やや時間がかかった。

「え…?で、でも、陽の気を消し去っちまったら…」

「茶がそこまで強い作用を起こすはずがない。本当だとしても、あの量だけなら問題ないだろう。お前の勘違いだ」

不安を一蹴され、信は唾液を零してしまいそうなほと、ぽかんと口を開けていた。

 

 

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しかし、まだ納得出来ないようで、彼を包み込んでいる哀愁は消えていない。

「わ、わかってる…お前はいつも上手いこと言って、俺を守るために、俺を騙してんだ…!」

騙しているつもりはないのだが、否定はせずに昌平君は口を閉ざす。真実を告げないことで混乱を防いでいるだけだ。

「ほ、ほんとは、もう、ガキが産めなくなっちまったんだろ…!」

「だからどうして私が産む側になる」

何を言っても今の信には伝わらないと理解した昌平君は、ひとまず信が落ち着いてから諭すことにした。

しかし、黙り込んでしまった昌平君に、信がさらなる不安を覚えてしまったらしい。

「俺のせいで、お前が世継ぎを産めなくなったってんなら、せき、責任取って、俺が、お前の世継ぎを産むから…!」

呆れて言葉が出ないとはこのことだ。

誤解を招きかねないこのやりとりを他の者に聞かれていないことを願いながら、昌平君は来客のために中断した執務を再開しようとした。

「昌平君ッ」

椅子に腰を下ろした途端、それまで跪いていた信が四つん這いになって足元ににじり寄って来た。

「何をしている。仕事に戻れ」

「隠すなよッ!もう俺は騙されねえぞッ!」

主の足の間に体を寄せた信が、あろうことか下から着物を捲り上げようとした。

両手で力いっぱい着物を掴んで来るものだから、昌平君も咄嗟に彼の両手首を抑えて抵抗を試みた。

こちらは大の大人だというのに、信の力は思ったよりも強く、引き離すことが出来ない。

「信、放しなさい」

「お前はいつも俺に大事なこと隠してるだろッ!」

確かに、こんな昼間から大事なものを披露するのは道徳に反する行為である。

「信、放せ。二度は言わんぞ」

「俺だってこんなことしたくねえよ!でもお前が隠すんだから確かめねえと!」

互いに声を荒げながら攻防戦を繰り広げる。
いつも簡単に振り払えるはずなのだが、信の細い両腕には大の大人も敵わぬほどの力が備わっていた。

昌平君は歯を食い縛って両手首を抑える手に力を籠める。血管が浮き立つくらい力を込めているのだが、少しも怯む気配がない。

まさかこれをきっかけに李一族の武の才を開花させたらと思うと恐ろしくなった。

「何事ですか」

廊下から二人の大声を聞きつけたのだろう、豹司牙が腰元にいつも携えている剣に手を掛けながら部屋に飛び込んで来た。

昌平君の足の間で膝立ちになって、着物を下から捲り上げようとしている信と、それを抑え込んでいる昌平君の姿を見て、さすがの豹司牙も状況が分からずに呆然と立ち尽くしている。

重臣の登場によって一瞬だけ気を抜いた昌平君だったが、その油断が勝敗を分けたのだった。

えいやと信が勢いよく昌平君の着物を下から捲り上げ、無遠慮に中を覗き込む。

…嫌な沈黙が部屋の空気を鉛のように重くした。

「ん?あれ?…なくなってない…?良かった~!!」

しかし、信だけはその重い空気を感じていないのか、陽の気が消えていない物理的証拠を見つけ、大声で歓喜した。

すぐさま昌平君と豹司牙の両方からげんこつを落とされ、あまりの激痛に意識を手放した信はぐったりと床に倒れ込む。

立派なたんこぶを二つも同時に得た信を見下ろしながら、昌平君は乱れた呼吸と着物を整える。

まさか信がここまで性に関して無知だとは思わず、礼儀作法といった教育や、今後の身の振り方を考える前に、正しい性教育・・・・・・を施さねばならないかと考えるのであった。

隣に立つ優秀な配下に目を向け、昌平君はわざとらしく咳払いをした。

「…豹司牙。一つ、頼みたいことが」

「今回はお断りいたします」

「………」

気絶したままでいる信を見下ろし、二人は同時に重い溜息を吐き出した。

 

後日編②「宮廷道中記」は現在執筆中です。更新をお待ちください。

昌平君×信のバッドエンド話はこちら

The post 絶対的主従契約(昌平君×信)後日編① first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

絶対的主従契約(昌平君×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/シリアス/ノーマルエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編②はこちら

 

逃走劇

庖宰ほうさい ※料理人の男から逃れようとひたすらに走り続け、後ろから聞こえていた怒鳴り声が遠くなった頃、信は近くの茂みに飛び込んだ。

なるべく音を出さないように必死に呼吸を整える。あのまま走り続けていれば、いずれ体力の限界に達していただろう。

子どものすばしっこさが幸いし、かなり距離は開けたものの、庖宰の男は未だに信のことを探している。怒鳴り声と茂みを掻き分ける足音がまだ後ろから聞こえており、信の恐怖をより煽った。

遠くに見えた建物の明かりは少しずつ近くなって来ているが、子どもの足ではまだかかるだろう。どうにか庖宰の男を撒いて逃げ切らなくては。

「ッ…!」

すぐ近くの方で茂みを掻き分ける足音が聞こえ、信は咄嗟に、未だ一括りに拘束されたままである両手で自分の口に蓋をする。

「どこに隠れやがった」

「…、……」

男は夜目が利くのか、信が茂みに隠れるところを見たらしい。この近くにいるのだと気づかれており、信は息を殺して身を屈めていた。

庖宰の男が過ぎ去るのを待つ時間は、まるで生きた心地がしなかった。

庖丁※包丁で首を切り裂かれるのだろうか、腹を突かれるのだろうか。未知なる痛みと死の恐怖に体の震えが止まらなくなる。

先ほどからあの男が話している李一族とかいう存在に、ふざけんなと怒鳴りたかった。何を勘違いされているのかは知らないが、自分はそんな一族とは無縁の存在だ。

もしも自分が殺されてしまい、あの世で李一族と対面したのなら、絶対に罵声を浴びせてやると誓う。優雅に初対面の挨拶など絶対にしてやるものか。開口一番、呪いの言葉を吐いてやろうと思った。

(くそ…どうしたら…!)

庖宰の男の気配が過ぎ去るどころか、こちらに戻って来たのを感じ、信は声を上げて泣き出しそうになる。

前方から馬の足音が近づいて来たのは、ちょうどその時だった。

「―――信ッ!どこにいる!」

馬の嘶きが響いた後、聞き慣れた声がして、信は思わず顔を上げた。

(豹司牙だ!)

反射的に返事をしそうになったが、まだ庖宰の男が近くにいる今、安易に動き出すのは危険だ。豹司牙の声がした方に視線を向けるものの、助けを求めることが出来ない。

「信!返事をしろッ」

豹司牙は馬に乗ったまま、手に持っている松明で辺りを照らす。しきりに周りを見渡すものの、茂みに隠れている信に気づくことはない。

庖宰の男も主の近衛兵の登場に驚いたのか、どこかの茂みに身を潜めているようだった。

しかし、このまま身を潜めていれば、豹司牙は気づかずに行ってしまう。何か合図を送らなくてはと思うのだが、庖宰の男の方が近くにいると思うと、安易には動き出せなかった。
信は物音を出さぬように何か合図を出せる物がないかを探った。

(あ…)

懐に昌平君から渡されていた銀子が入っていることに気づく。

色んな方面に注意を払いながら、銀子を幾つか手に取ると、信は庖宰の男がこちらに気づかないことを祈りつつ、豹司牙の声がした方にそれを投げつけた。

銀子が地面に転がる僅かな音を聞きつけ、豹司牙が信の方を向く。

 

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豹司牙が松明を掲げ、明かりに反射した銀子を見つけたようだった。

「そこにいるのか?」

馬から降りた豹司牙が、松明を掲げながらこちらへゆっくりと歩み寄って来る。

「…、……、……」

すぐにでも駆け寄りたかったのだが、足腰に力が入らず、強張ったままの喉では上手く声も出せない。信は豹司牙が気づいてくれるのを待った。

少し離れたところに、松明の明かりに照らされたいつもの仏頂面が見えて、信は大声で泣き出したいほど安堵した。

助かったのだ。そう思った瞬間、

「信、ここにいたのか!探したぞ!」

「ッ!?」

後ろから腕を掴まれて立ち上がらせられ、信は心臓が止まりそうになった。

庖宰の男が人の良さそうな笑みを浮かべて、足腰に力の入らない信の体を支えている。

恐らく自分が信を連れ去った犯人だと悟られぬように、庖宰の男が荒々しい手つきで両手を拘束している縄を外していく。その間、信は恐怖で全身を硬直させていた。

二人に気づいた豹司牙が反射的に松明を投げ捨てて剣を構えたものの、信の姿を見て僅かに警戒を解く。

しかし、その時には両手の拘束はすでに解かれており、気づかれぬように縄は茂みへと投げ捨てられていた。

「無事だったか」

「……、……」

対面した豹司牙に声を掛けられるが、信は頷くことも返事をすることも出来ない。

両手は自由になったものの、背中にひやりとした鋭いものが押し当てられており、それが庖丁だと気づくのに時間はかからなかった。

豹司牙の死角で、庖宰の男は信の背中に庖丁の切っ先を押し当てていた。

「そこで何をしていた」

仏頂面が微塵も変わることなく、豹司牙が二人に問い掛ける。
下手に答えれば容赦なく背中を一突きされるだろう。今の状況を打ち明けても命を奪われることには変わりない。

「…っ、……」

信は血の気を失った唇を震わせることしか出来なかった。

いつまでも話し出さない信に豹司牙が眉根を寄せたのを見て、庖宰の男が代わりに話し始める。

「茶を淹れるのに必要な軟水を買おうと思って、二人で水売りの家を訪ねたんですが、辺鄙な場所にあるもんだから、途中ではぐれちまって…いやあ、無事に見つかって良かった」

背中に宛がわれている庖丁の切っ先に軽く力を込められて、信は何度も頷く。言葉に出されずとも、怪しまれぬように話を合わせろと指示されているのはすぐに分かった。

もしも信の命を奪おうとしていた状況を豹司牙に気づかれれば、すぐに切り捨てられることを庖宰の男も理解しているに違いない。

昌平君の近衛兵団長が動くのは、主の命令があった時だけだ。
それはすなわち、今この場に彼がいるということは、信の捜索は昌平君からの命令であると察したのである。

「………」

豹司牙といえば、庖宰の話を聞いても、眉間に刃で刻まれたような皺を崩さない。確実に怪しまれていることに気づいた庖宰が、何とかその場をやり過ごそうと大らかに笑う。

背中に庖丁の刃を軽く押し当てられて、ちくりとした痛みと同時に血が流れたのを感じた。

(たすけ、て)

すぐ目の前に豹司牙がいるというのに、いつ庖宰の男が庖丁で体を貫いてくるか分からない恐怖に耐え切れず、信は涙を流した。

「おいおい、なに泣いてんだよ!そんなに怖かったのか?」

庖宰の男が笑いながら信をからかうものの、豹司牙は真っ直ぐに信のことを見据えたまま動かない。

「信」

低い声で名前を呼ばれて、信は涙を流しながら豹司牙を見た。

何を言われるのだろうと思っていると、

「そこから動くな」

豹司牙が下したその命令を信が理解するよりも早く、隣にいた庖宰の男はその場に崩れ落ちていた。

 

救出

背中に宛がわれていた庖丁が地面に落ちる小気味良い音がして、信の硬直が解けた。
すぐに駆け寄った豹司牙が、倒れている庖宰の男の首筋に、剣の切っ先を突き付ける。

「えっ…!?」

驚愕のあまり、上ずった声が零れる。
うつ伏せに倒れ込んだ庖宰の肩に、深々と矢が刺さっていることに気づき、反射的に振り返る。

(昌平君…?)

目を凝らすと、弓を構えている紫紺の着物の男の姿が見えて、信は再び足腰から力が抜けてしまい、その場に座り込んでしまった。

昌平君がこちらに駆け寄って来る足音が聞こえたが、信は無事であることを告げることも出来ず、ただただ呼吸を整えていた。

昌平君が放った矢は肩を貫通しており、鏃が突き出ていた。戦場と異なり、鎧で遮られることもなかったせいだろう。

「ぐ…くそッ…!あと少しで…」

矢が射抜いたのは、庖丁を持っていなかった方の肩だったことから、こんな暗闇の中だというのに、昌平君が正確に狙いをつけていたのが分かった。

「ひっ…」

倒れている庖宰から血走った眼を向けられ、信は思わず身を竦める。

昨日まで共に働いていた仲間がどうして自分に殺意を向けて来たのか、信には何も分からなった。

(あ…)

急に視界が紫紺の着物に覆われ、男の姿が見えなくなる。

恐ろしい眼差しを遮るように、昌平君が信の体を包み込んでいた。着物が汚れるのも構わず、その場に膝をついた主に後ろから抱き寄せられる。

恐怖と夜風で冷え切っていた心と体が、昌平君の温もりを感じて、信はようやく助かったのだと理解した。

それまで休むことなく、張り詰めていた緊張の糸が切れ、信は昌平君の腕の中に倒れ込んだ。

 

 

気を失った信の体を抱きとめ、昌平君は長い息を吐いた。安堵したのは信だけでなく、昌平君と豹司牙もだった。

しかし、信の方はもっと不安だったはずだ。今の今まで、殺されそうになっていたのだから無理はない。

命を奪われる恐ろしさは、戦場に立つ者ですら恐ろしいと感じるのに、信のような子どもには大層堪えたことだろう。

「総司令!団長!」

すぐに周囲を捜索していた黒騎兵たちもやって来て、庖宰の男を連行していく。弓矢が肩を貫通したものの、致命傷には至らなかった。

「…豹司牙」

「はっ」

「他に密書のやりとりや協力者がいないかを調査させろ。密偵であった二人が同時に消えたのなら、この屋敷に李一族の生き残りがいると、黒幕に気づかせることになる」

指示を出すと、豹司牙がすぐさま承知の意味を込めて拱手を行い、連行されていった男の後を追った。

まだ聞かなくてはならないことがあったので、茶葉屋の店主と合わせて捕らえた二人はまだ殺すなと指示をしたが、あとは彼が上手くやってくれるだろう。

密偵の二人が落ち合う場所である小屋に昌平君が辿り着いた時には、すでにそこに信の姿はなかった。
血痕がなかったことから上手く逃げ出せたのだろう。しかし、子どもの足では逃げ切れないことは目に見えていた。

暗号を読んでいた豹司牙も、どうやら軟水の記載には違和感を抱いていたようで、あの小屋に目星をつけて周辺を捜索してくれていたことは幸いだった。

意図せず、信の素性を知っている二人の挟み撃ちという形で庖宰を捕らえることが出来たのである。

豹司牙の死角となる背後で、庖宰の男が庖丁を信に押し当てている姿を見て、血の気を引くという感覚を随分と久しぶりに味わった。

「………」

見たところ、外傷は背中と首の傷、そして両手首に巻かれていた縄のかすり傷くらいで、深いものではなさそうだ。

背後で弓矢を構えた主に豹司牙がいち早く気づき、信に動くなと指示を出してくれたことで、昌平君も安心して標的を射抜くことが出来た。

昌平君も信を抱きかかえながら馬に乗ると、昌平君は屋敷への帰路を急いだのだった。

 

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目覚め

ゆっくりと目を開くと、見慣れない部屋の天井が映り込んだ。
温かい何かに包まれていることに気づき、顔を動かすと、すぐ隣に昌平君の寝顔があった。

(わっ)

驚いて声を上げそうになった寸前、咄嗟に口に蓋をして、声を飲み込んだ。

「…?」

寝具の中で、背中に腕を回されていることに気づき、まさかずっとこの状態で眠っていたのだろうかと考える。だとすれば、ここは昌平君の寝室だろうか。

いつの間に戻って来たのだろう。着物も清潔なものに替えられていた。

「………」

昌平君と一緒の褥で眠るだなんて、随分と久しぶりのことだった。

確かあれは、この屋敷に引き取られたばかりの頃だっただろうか。冬の寒い時期で、信は高い熱を出したことがあった。

あの時も侍医に診察の手配を頼んでくれたし、寒さに震えている自分が寝付くまでずっと抱き締めていてくれた。今となっては随分と昔・・・・のことのように思う。

束の間、昔の思い出に浸っていたものの、そういえば今まで自分は何をしていたのだろうと記憶の糸を手繰り寄せた。

(…今までの、全部、夢…だったのか…?)

もしかしたら今の今まで悪い夢を見ていたのだろうか。部屋を照らしている灯火器の火が消えかかっていることに気が付いた。

執務をしている訳でもないのに、貴重な獣脂を使い切るなんて勿体ない。灯盞の火を吹き消そうと体を起こしかけて、首筋と背中に走った小さな痛みに、信ははっとした。

ちくちくとした痒みにも似た痛みではあるが、庖宰の男に庖丁を突き付けられていた場所だ。

(夢じゃない)

悪夢であったならと思ったが、あれは現実であったのだと思い出し、信は全身が凍り付くような感覚に襲われた。

「っ…」

昌平君と豹司牙のお陰で助かったのだと頭では理解しているが、体の震えが止まらなくなる。

背中に回されている昌平君の腕に、僅かに力が込められたことに気づき、信は顔を上げた。

目を覚ましたのか、昌平君が信のことを見下ろしている。信は気まずくなって、目を逸らしてしまった。

思い返せば、豹司牙の言いつけを破った自分が悪いのだ。言いつけ通りに、あの書簡をすぐ昌平君に見せていればこんなことにはならなかったと直感する。

しかし、たかが下僕一人自分のために、昌平君も豹司牙もあんな場所まで駆け付けてくれたのかと思うと、いたたまれない気持ちになる。

「…あ、あの…」

謝罪しようと口を開くと、昌平君が片手を持ち上げたので、てっきりげんこつが落ちて来るのかと思い、信は咄嗟に目を瞑った。

しかし、頭に落ちて来たのは激痛ではなく、優しい温もりで、頭を撫でられているのだと気づいた信は恐る恐る目を開いた。

昌平君の瞳には、決して嫌悪も怒りも浮かんでおらず、むしろ自分を慈しむような、穏やかな色が浮かんでいた。

 

 

ゆっくりと昌平君が体を起こし、床に足をついたので、信も一緒に起き上がった。

「…街で何があった?」

静かに問われるが、その声にも怒気は含まれておらず、単純にこれまでの経緯が知りたいようだった。

「えっと…」

信は記憶の糸を手繰り寄せながら、豹司牙と街へ行った時のことを話し始める。

もちろん昌平君は豹司牙から報告は受けていたし、暗号が記された書簡に関しても目を通していた。しかし、情報漏洩に繋がった経緯は分かっていない。

密偵が屋敷に潜入していたのは予想外であったが、機密情報の管理は徹底していたというのに、どこで情報漏洩があったのか昌平君も分からなかった。

豹司牙の話によると、馬を厩舎へ預けていた時と、茶葉屋の店主と会話をしていた時は信と行動を別にしていたという。

信の本当の素性について目を付けられたのなら、恐らくはその単独行動の時だろう。

茶葉屋の店主と話した内容について、昌平君は詳しく尋ねた。

あの庖宰の男と茶葉屋の店主が協力関係にあったことに、信は驚愕していたが、眉根を寄せながら、茶葉屋の店主との会話を話し始める。

豪雨の影響で茶葉が不作となってしまい、売ることが出来ないと言われたこと。代わりに茶葉の風味を上げる煎り方を教えてもらったこと。

その話を聞く限り、信の素性が気づかれるきっかけがあるようには思えなかった。

「他には何もなかったのか」

「ええと…」

催促すると、信が少し目線を泳がせる。
何かまだ報告し終わっていないことがあることが分かり、昌平君がじっと見据えると、諦めたように信は話し始めた。

「…今朝のことで、医者を手配してもらったから…ちゃんとお前との約束通りに、美味い茶を淹れねえとって、話してて…」

信の素性が気づかれるきっかけになったのは、恐らくそれ・・だろうと昌平君は溜息を吐いた。

 

信の素性

「盲点だった」

「え?」

溜息と共に吐き出されたその言葉に、信が目を丸めた。

「恐らくは、私が侍医を手配してまでお前を助けたことで勘付いたのだろう」

「は?だって、医者は怪我人や病人を診るもんだろ?」

そうだ、と昌平君は頷く。

「…だが、下僕を診ることもある町医者ならまだしも、宮廷や高官に仕える侍医は貴族の出である者がほとんどだ。下僕を毛嫌いしており、下僕の診ることは辱め同然だと思い込んでいる者が多い」

「な、なにが言いたいんだよ」

「私が侍医に辱めを受けさせてまで、…そこまでしてお前を助けなくてはならない・・・・・・・・・・理由があったことから、お前の素性を疑われたのだろう」

そんな会話の糸口から目を点けられてしまっていたとは、昌平君も豹司牙も盲点であった。

茶葉屋の店主とは、屋敷で起きたことを世間話として話すくらいだったというが、それほどの洞察力があったのなら、わずかな会話の糸口からこれまでも情報を盗んでいたと考えて良いだろう。

店主と庖宰の身柄は黒騎兵が預かっている。拷問で口を開かせると、二人とも報酬を目当てに、ある男から李一族の生き残りを探るよう依頼されていたそうだ。

二人に話を持ち掛けた者は黒衣に身を包んでおり、男だということしか分からなかったようだが、立ち振る舞いから高貴な立場にあることは分かったという。

恐らくは過去に李一族の殲滅を指示した先帝側の人間だろう。昌平君が宮廷で顔を合わせている者だとすれば、数人の候補が挙がった。

それにしても、ここまで執拗に李一族の壊滅を目論むのは、よほど報復を恐れているのだろうか。子ども一人をそこまでして探し出していたことに、執念のようなものを感じさせる。

茶葉屋の店主も庖宰も、普段は信のことをよく気にかけている男たちだと思っていたのに、金に目が眩み、子どもであってもその命を奪おうとするなんて無情な世の中だ。

「な、なあ、そもそも俺の素性って…李一族って何なんだよ…」

きっと庖宰の男から何かしら話を聞いていたのだろう。信が李一族の口に出したことに、昌平君ははっとした。

不安そうにこちらを見つめる信に、昌平君は隠しておくのもここまでかと観念した。

「…李信。それがお前の姓と名だ」

 

 

李一族とは、先帝の代に仕えていた将軍の一族である。

他国への侵攻戦には必ずしも出陣を命じられるほど、強大な力を持っており、女子供も戦力として加えられるほど戦に優れていた。

徴兵に掛けられる年齢よりはるかに幼くても、李一族の者たちは初陣を経験するのが習わしであった。幼少期から徹底的に武の才を仕込まれるのである。

その強大な戦力で秦国を守り、幾度も戦を勝利に導いて来た一族の当主・李瑤りようの息子こそ、李信だ。

李一族が現在も存命であったのなら、間違いなく信も戦に出て武功を立てていただろうし、秦の中華統一も限りなく前進していた違いない。

それだけ強大な戦力で先帝に仕えていたにも関わらず、一族が壊滅に追いやられたのには理由がある。

その強さゆえに、李一族の権力増長を恐れた官吏たちが、彼らがいずれこの国を揺るがす恐ろしい存在になると皇帝に奏上したのである。

当時の皇帝は官吏たちの言葉を受け入れ、李一族に謀反の疑いを抱くようになった。

ただ、正面から襲撃したところで敗北は必須。そこで官吏たちは当時の将軍たちの知恵と力を借り、李一族の殲滅を図ったのである。

その方法こそがまさに卑怯としか言いようのないものだった。

日頃からの皇帝からの褒美だと語り、官吏たちは豪華な着物や布を贈ったのだ。外見こそ美しいものであったが、それらはすべて伝染病患者に着用させたものであった。

普段の功績を皇帝から讃えられることは、一族にしてみればこの上ない褒美だ。一族の者たちは疑うことなく、伝染病の元凶に接触してしまったのである。

いくら戦で敗北を知らぬ李一族とはいえ、所詮は人間。たちまち一族の間でその伝染病は広まり、大勢が亡くなった。

治療法が確立していない病に困り果てた彼らが宮廷の医師団に救援要請を送ったことをきっかけに、官吏たちは李一族のみで広まったその伝染病の根源を、他国との密通によるものだと偽装したのである。

伝染病を広めないことと、他国との密通による謀反の恐れを理由に、皇帝は李一族全員の処刑を言い渡した。

それまで皇帝と秦国に尽くして来た強大な一族は、王朝を取り巻く権力争いの渦によって呆気なく消滅させられたのである。

逆に言えば、そこまで姑息な手段を使わなければ真っ当に相手が務まらないほど、当時の李一族は最強だったと言ってもいい。

表向きは他国への密通の疑いから、皇帝への謀反を理由とした処刑であったものの、真相を知る者は極僅かだ。情報操作が行われたことから、真相を外部に洩らす者がいれば例外なく処刑されていた。

当時の皇帝が病で崩御してからもその情報操作は今もなお続いており、李一族壊滅の真相は完全に闇へ葬られたのである。
昌平君自身もこの件を言葉に出して伝えるのは、信が初めてのことであった。

今回の一件で分かったことがある。
それはまだ李一族が完全には滅んでいないと勘付いている者がいて、その人物が今もなお信の命を狙っているということだ。

 

信の素性 その二

「李…一族…」

どれだけ記憶の糸を手繰り寄せても、信には当時の記憶がなかった。

気づいたら奴隷商人によって辺鄙な里に売られ、ひどい目に遭いながら、奴隷として毎日を生きていたのが、信の中で最古の記憶である。

親の顔など覚えておらず、他の奴隷たちと同じように自分も戦争孤児だと信じ切っていた。

「何も覚えてねえ…俺は、なんで生き延びたんだ?病が蔓延しちまったって、みんな処刑されたっていうんなら、俺も死んでたかもしれねえってことだろ」

信は困惑した表情で昌平君を睨みつけた。

相変わらず昌平君は表情を崩すことはなかったが、しばし目を伏せていた。信は彼が話し始めるまで、その場からじっと動かずにいた。

「…先帝から李一族へ、病の根源である品が下賜されたあの日、お前は私の屋敷にいた」

「えっ?」

どんな答えが来ても驚くまいと身構えていた信であったが、まさか昌平君が関わっていたことは予想しておらず、思わず聞き返してしまう。

「は?え…俺、お前に会ったことがあったのか?」

静かに昌平君が頷いたのを見て、信は何度も記憶を巡らせてみたが、やはり思い出すことは出来なかった。

「…あの当時、李一族の当主であり、お前の父である李瑤りようは、私が師と称えていた男だ」

「………」

初めて・・・父の名を聞いた信は、戸惑ったように眉根を曇らせて、何度も瞬きを繰り返した。

名前を聞いても父の顔は朧気にも思い出せないのだが、胸元の辺りがざわざわと落ち着かなくなる。こんな気持ちになるのは初めてのことだった。

「じゃあ、お前…俺のこと知ってて、下僕になった俺を引き取ったのか?」

小さな集落にいた下僕の自分が昌平君に引き取られたのは、彼が領土視察のためにたまたま訪れたからだと疑わなかった。

字の読み書きが出来ないことを知って、常日頃から機密情報の取り扱いをしている自分に仕えさせるのに都合が良かったのだろうと思っていた。

しかし、過去に面識があったというのなら、それは決して偶然の出会いではない。昌平君は国中を探し回り、あんな辺鄙な地までやって来たのということになる。

昌平君は何も答えなかったが、恐らくそうなのだろうと信は納得した。

どうして自分が昌平君の屋敷にいたのか、そしてあんな辺鄙な集落に移り住んだのか、信が尋ねようとすると、昌平君が先に答えた。

「…お前が伝染病を免れた理由だが、李瑤がお前を連れて私の屋敷に来た時、幼いお前は風邪を拗らせ、そのまま私の屋敷で療養していた」

「風邪…?」

それは伝染病よりも断然軽いものではあったようだが、どうして昌平君の屋敷で風邪を引いてしまったのだろうか。

信が疑問を浮かべているのを読んだのか、昌平君が言葉を続ける。

「お前が後ろから飛び掛かって来たのを私が避けたせいで、お前はそのまま池に落ちた。真冬の池で体が凍えたのだろう」

「ええ…?」

記憶はないとはいえ、なんだか安易にその光景が想像出来てしまい、信は顔を強張らせる。

「李一族に生まれた者は、一般的に徴兵を掛けられるより前の年齢で初陣を経験させる。しかし、お前はその単純さゆえに、李瑤から初陣に出るのを禁じられていた」

「………」

どうやら当時のことを昌平君は鮮明に記憶しているようで、すらすらと続きを話してくれた。

「もしも私に、一撃でも与えることが出来たのなら初陣に出るのを許すと、李瑤はお前と約束をしていたらしい」

しかし一撃を与えることが出来なかったどころか、真冬の池に落下して風邪を引いたのだと、昌平君はどこか呆れた様子で語る。

どうして父が初陣の許可に昌平君を巻き込んだのか分からなかったが、恐らくその当時から、昌平君には一度も勝てなかったのだろうということは何となくわかった。

 

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壊滅の真相と再会

「…真冬に病を広めたのも、李一族の壊滅を狙う者たちの策だったのだろう」

当然ながら病人に寒さは堪えるものだ。真冬の季節に伝染病を広めたことから、官吏たちがきっと以前から厳密に策を企てていたということが分かる。

「………」

思い出すだけでも腸が煮えくり返りそうになり、昌平君は無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。

信が昌平君の屋敷で療養していた時に、李一族の伝染病は広まった。

もしも信が風邪を拗らせていなければ、李瑤と共に屋敷へ帰還して、伝染病に倒れていたか、処刑されていたに違いない。

昌平君のもとに李瑤からの書簡が届いのは、李瑤自身も伝染病にかかってからだった。

その書簡には、一族の中で流行り病が広まっていることを理由に、息子の風邪を悪化させないよう、もうしばらくそちらで預かっていて欲しいという旨が記されていた。

恐らく李瑤は、一族の中で不自然に広まった病に違和感を抱いていたに違いない。暗号や予見こそ記されていなかったが、何かあれば信を頼むと記されていたのである。

李瑤の勘はよく当たった。師と称えていた彼と共に出征した時も、軍略囲碁で腕を競い合った時もそうだった。それは本能型の将が持つ独特な感性で、危険を予知する特殊な能力なのだろう。

そして、杞憂では済まず、その勘は当たってしまった。

李一族の中で伝染病が広まったのは他国との密通によるものであることも、謀反の疑いがあることも、たちまち秦国中で話が広まり、昌平君の耳にも届いたのである。

まだ幼い子どもであった信の耳にその話が入らぬように屋敷内で箝口かんこうを敷いたものの、国中で広まったその噂を全て防ぎ切ることは不可能であった。

どこからか噂を聞きつけた信は、昌平君の制止を振り切って、生家へと駆け付けたのである。

あの当時の信は、今より幼いながらも一人で馬を走らせることが出来た。李一族に生まれた者は幼い頃から武器と馬の扱い方を教えられるからだ。

昌平君もすぐに追いかけたものの、そのときすでに先帝の指示で、李一族の屋敷には火が放たれており、勅令を受けた兵たちが一族の虐殺を行っていた。

女子供も例外なく処刑の対象であり、病で苦しみながらも反撃する李一族の者たちを誰一人として逃すことなく、勅令を受けた兵たちは切り捨てていったのである。

どうしてそこまで残虐な行いをしたかというと、李一族の殲滅は勅令であり、兵たちにとっても失敗は許されぬことだったのだ。

燃え盛る生家の中、無残に殺されていく仲間たちの姿に泣き叫ぶ信の姿は、今でも昌平君の瞼に焼き付いている。

無謀だと分かりながら、怒りを抑え切れなかった信は武器を持って奮闘した。子どもであっても、最強と称えられた一族の嫡男である信の姿は、戦場に立つ李瑤の生き写しのようであった。

しかしこの時、李一族に味方する者は誰一人としていなかった。

李一族と共に戦場に立った秦将も、昌平君のように李瑤を師として慕う一族も多くあったというのに、勅令には逆らえなかったのである。

殲滅を阻止しようとする者は、李一族の味方であり、つまりは秦国への謀反であるとみなされるからだ。だからこそ、助けようとする者はいなかった。

昌平君も自分の一族を守る保身のために、李一族を見殺しにした一人で、その罪を一生背負うつもりでいた。

供をしてくれた豹司牙も、燃え盛る屋敷と戦友ともいえる李一族が虐殺されていく光景に、血が滴り落ちるほど拳を握っていたことは覚えている。

…程なくして、信も体力の限界を迎えることとなる。
次々と送られてくる増援も尽きることがなく、誰もが李一族はもう終わりだと悲観していた。

それでも、昌平君は李瑤との約束だけは守ると決め、何としても信だけは守らねばならんと覚悟を決めたのである。

 

 

「私と豹司牙は兵に紛れ、お前をその場から連れ出した。正体を知られぬよう追手と戦っていたが…途中でお前を見失い、先にあった崖に、お前の靴が片方だけ落ちていた」

「………」

苦虫を噛み潰したような表情で、昌平君が言葉を続ける。

「どこかに亡骸があると思い、崖の下にあった川や付近の森まで捜索を続けさせたが、遺体は見つからなかった」

淡々と語られる事実を、信はじっと聞いていた。

「…じゃあ、俺がまだ生きてると思って、探し続けたのか?あんな集落まで…」

昌平君はまたもや肯定こそしなかったが、首を横に振ることもしなかった。

「…あの集落で再会した時、お前は全てを忘れていた。李一族の存在や私のことだけではない。馬の乗り方も、武器の扱い方も、字の読み書きすらも出来ない下僕となっていた」

昌平君に身柄を引き取られることが決まった時、信は昌平君と初対面だと思い込んでいた。

彼から名前を呼ばれたのは、里長から自分の名前を事前に聞いたのだとばかり思っていたのだが、そうではなかったのだ。信だけが全ての記憶を忘れていたのである。

頭を打ち付けたのか、それとも辛辣な現実に耐え切れず、心が記憶を手放したのかは分からない。

しかし、腑に落ちたように、信は大きく頷いた。

「…それじゃあ、お前と豹司牙は、俺に記憶を思い出させようとして、毎日俺の頭をひっぱたいてたのか」

「それは違う」

「えっ?」

即座に否定すると、信が間抜けな声を上げた。げんこつを落とされるほどの無礼を働いたことに信は一切の自覚がなかった。

 

絶対的主従契約

昌平君が鋭い眼差しを向ける。

「今のお前は、ただの下僕だ。だが、当時の記憶を取り戻したのならば、李一族の生き残りとなる」

未だ信は当時の記憶を取り戻していない。それでも李一族の生き残りを探している者がいたことから、今でも李一族の報復を恐れている者や、先帝を唆した悪事を暴かれるのを恐れている者がいることが分かった。

庖宰の男と茶葉屋の店主を動かしていた者が黒幕だと目は付けていたが、その者だけとも限らない。今後も情報漏洩がないように徹底的に管理していく必要がある。

しかし、信自身が此度の件で、自分の素性を知ってしまったように、いつまでも信の存在を隠し通すのは難しいだろう。

一族を処刑された恨みは消えることはないし、信に復讐をする権利はある。だが、それはあまりに無謀なことだ。

「…お前が李一族を滅ぼされたことを復讐するのなら、お前を助けた立場として、私はそれを止めねばならん。…お前を傍に置いていたのはそれだけだ」

信の父である李瑤との約束については語らなかった。

それを伝えれば、昌平君がずっと信を探していたのも、保護したのも、亡き父からの遺言によるものだと教えることになる。

今さらそれを話したところで信を戸惑わせることになるのは目に見えていたし、復讐への意志を固めることにもなりかねない。

しかし、信は薄く笑みながら首を横に振った。

「分かってる。お前が話さないってことは、きっと他にもなにか理由があるんだろ」

「………」

意外にも信にそれを見抜かれ、昌平君はやや呆気に取られた。

茶葉屋の店主と庖宰の男が繋がっていたという証拠を押さえた豹司牙から、街へ向かう途中で、奴隷解放証に名前が必要になることを伝えたのだと、謝罪と報告を受けていた。

信があまりにも無礼な態度を続けるものだから、いい加減見ていられず真相を伝えてしまったのだという。

盗んだ原本と印章と信の名前が揃えば、その奴隷解放証は確かに効力を持つことになる。

しかし、昌平君が最初から案じていたのは、偽造や不正入手で裁かれること以前に、何の力も持たない子どもがたった一人で生きていけるはずがないという心配からだった。

未だ七か国での領土争いは絶えることはなく、力のない者が生きていくには過酷な世界だ。李瑤との約束を守り続ける立場として、何としても信を犬死させるわけにはいかなかった。

たとえ信が李一族の生き残りだとしても、今の彼に当時のような武の才はない。
李瑤が危惧していた感情的になりやすい面を除けば、当時の年齢であっても、信はそこらの将よりも確実な力があった。

下僕の身分に落ちた彼と再会してから、昌平君は文字の読み書きはもちろん、馬の扱い方も武器の持ち方も一切教えなかった。
そんなことを教えれば、信は再び武の才能を開花させてしまうかもしれない。

当時の記憶を取り戻すような兆しは今までも見られなかったが、何をきっかけに信が復讐鬼と化すか分からなかった。

今までずっと下僕として自分の傍に仕えさせ、偽りの主従関係を築いていたのは、信が記憶を取り戻していないか、常時の監視を兼ねていたのである。

全ては師である李瑤との約束を守るためだった。

 

 

「私の話を聞いて、何か思い出したか?」

「んー…いや?」

李一族の話をすることで、信が記憶を取り戻すのではないかという不安もあったのだが、杞憂で済んだらしい。

しかし、自分の正体を知ったことで、信の心に変化が現れるのではないだろうか。それをきっかけに当時の悲惨な記憶を取り戻したら、間違いなく信は一族を滅ぼした王族への復讐を誓うはずだ。

武の才能が完全に開花すれば、彼の父がそうであったように、たとえ信一人でも大勢の命を奪うことは容易いだろう。

先帝はすでに病で崩御しているが、当時の官吏たちの何人かはまだ健在で、強い権力を持って現秦王である嬴政に仕えている。

信は怒りの矛先を嬴政に向けるかもしれないし、保身のために自分の一族を見殺しにした昌平君や他の者たちにも向けるかもしれない。一族を滅ぼされた恨みが収まらず、王朝を滅ぼすかもしれない。

…だが、それは無謀だと言ってもいい。いくら信であっても、一人では敵わないのは目に見えていた。

「…一族を陥れ、滅ぼした者たちが憎いか」

問いかけたのは、もしも信が李一族への復讐を決意するのなら、李瑤との約束を果たすため、昌平君にも考えがあったからだ。

「………」

信は俯いてしばらく考える素振りを見せていたが、ゆっくりと顔を上げる。
黒曜の瞳に力強い意志が浮かんでおり、昌平君は僅かに身構えた。

「わかんねえや」

眩しいほどの笑顔で判断出来ないと言われたものだから、昌平君は驚いた。
珍しく感情を顔に出した主の反応を見て、信は困ったように頭を掻く。

「だってよ…何も覚えてねえのに、復讐も何もねえだろ。そこまで俺も命知らずじゃねえし」

「記憶を取り戻したら?」

すかさず昌平君が聞き返したので、信は腕を組んでうーむと小首を傾げる。

「その時になってみねえとわかんねえよ」

あまりにも単純過ぎる答えだが、確かに理に適っている。

心の何処かでは、信が一族の復讐を誓い、その命を無残に散らしてしまうことになるのではないかという心配が絶えなかった。

しかし、信の答えを聞く限り、今のところはまだその心配はしなくて良さそうだ。

だが、何をきっかけに記憶を取り戻すかは今後も分からない。積極的に記憶を取り戻そうとするつもりはないようだが、これからも傍で監視を続けなくてはならないようだ。

「…なあ」

まるで昌平君の顔色を窺うように、信が上目遣いで見上げて来る。

「もし、俺が全部思い出して…お前や、一族を滅ぼした奴ら全員に復讐してやるってなったら、さっさと斬り捨ててくれよ」

「………」

「今回みたいなことが起きたんだから、これ以上お前に迷惑かける訳にはいかねえだろ」

祈るように眉根を寄せて信がそう言ったものだから、昌平君はしばし返答に困った。
表情を変えずとも、昌平君が返事に悩んでいることを察したのか、

「お前って、意外と義理堅い男だもんな」

昌平君は何も答えなかった。
束の間の沈黙の後、信があははと笑う。

「それじゃあ、もしも俺が記憶を取り戻した時…俺に従うって言うんなら、命だけは助けてやってもいいぜ?」

随分と上から目線の挑発的な態度に、昌平君の眉間が曇ったのが分かった。

信が本当に記憶を取り戻したのなら話は別だが、今でも主と下僕の主従関係は続いているというのに、相変わらずな態度だ。

「…その時になってみないと分からんな」

わざとらしく溜息を吐いて、昌平君は誤魔化すように信の言葉をそのまま返した。そりゃそうだと信は大らかに笑う。

「…もう今日は休め。あとのことは私が引き受ける」

信は頷いて、もう一度柔らかい寝具に寝転がった。
本来ならいつも休んでいる部屋に戻るべきなのだろうが、寝台に横たわっても文句を言われなかったので、今日は特別なのだろう。

驚くことに、昌平君も寝台に横たわった。目を覚ますまでは共に眠っていたが、まさか今夜は一緒にここで休まなくてはいけないのか。

少し気恥ずかしさもあるものの、思い出したように体の疲労が圧し掛かって来る。
柔らかい上質な寝具と、隣にいる昌平君の温もりに包まれて、信の意識はすぐに眠りに落ちていった。

 

絶対的主従契約~簒奪~

…昌平君が師と慕っていた男は、もう一人いる。

それは信の祖父にあたる李崇りすうという男で、彼は知将の才を持ち、優れた軍略を用いて自軍を勝利に導く男だった。

息子・李瑤りようのように、味方の士気を高める奮起の言葉を熱く語るものの、それらは全て、自軍の勝利へ導くための演技であることを、昌平君は早いうちから見抜いていた。

李瑤は情と忠義に厚い男であったが、李崇は勝利のためならば味方も駒として使い捨てる冷酷さがあった。それが彼の本当の顔である。

表向きは情に厚い将、しかし、確実な勝利のために冷酷に駒を操る裏の顔を持つ二面性を兼ね備えていることから、息子である李瑤とは似ても似つかない性格であった。

李崇の交渉に長けている口の巧さは、知将としての才によるものだったのだろう。

彼が瞬き一つせず・・・・・・にじっと相手の目を見据えて交渉を開始すると、まるで術にでも掛けられたかのように、相手の方はその話に乗ってしまうという不思議なものだった。

昌平君も幾度もその瞳に見据えられたが、心を見透かされているかのような嫌な感覚に襲われた。
しかし、大半の者はその嫌悪感すら感じることなく、李崇の望むままに動いてしまうのだった。

李崇が敵軍と交渉する時は、決まって自軍が優位になるように導いていた。捕らえた敵兵に、機密情報を軽々と吐かせていたのもそのおかげだろう。

…今思えば、あれは李崇だけが使える一種の洗脳のようなものだったのかもしれない。

しかし、昌平君は李崇のその術にはかからなかった。彼が自分の心を覗き見ようとする度に、さりげなく視線を逸らして、術を回避していたのである。

どうやら自分の思い通りに動かないことを気に入られたらしく、昌平君は李崇から軍略について教えられるようになった。

そういった経緯があり、昌平君は二人の師からそれぞれ武と知を学んだのである。特に李崇からは駒の扱い方をとことん教え込まれた。

信は武の才に優れていた父・李瑤りようの血を濃く受け継いでいたので、もしも李一族が滅んでいなかったのなら、今では戦の前線で大いに活躍する将になっただろう。

しかし、少なからず李崇りすうの血も受け継いでいるはずだ。相手の裏をかくことを何よりも得意とし、いかなる状況においても機転を利かせる知将の才能を。

昌平君は、一度も李崇との軍略囲碁に勝利したことがない。いかに優位に進めていても、必ず綻びを突かれ、徹底的に打ち負かされるのである。

しかし、数えきれない敗北から軍略と駒の動かし方を学んだおかげで、昌平君は今の地位を築いたと言っても良い。

李崇りすうは味方も敵も、そして自分をも駒として扱い、確実に勝利に導く存在であった。官吏たちが李一族の権力増長を恐れたのは、李崇の存在があったからなのかもしれない。

…もしも信が父と祖父の両方の血を受け継いだとすれば、本能型の将と知略型の将の両方の才を持つ将として、秦国に欠かせない存在になっていただろう。

そして当時と同じように、この国を揺るがす存在だと恐れられ、理不尽に命を狙われることは目に見えていた。

これからも記憶が戻らないように願いながら、昌平君は隣で眠る信を見つめる。

「んー…」

小さな寝言を零しながら、信が寝返りを打って、昌平君の胸元に顔を埋めて来た。
まるで腹を満たした赤ん坊のような、何も不安など感じていない安らかな寝顔と静かな寝息に、昌平君も眠りに誘われる。

きっとこのまま何も思い出さない方が、信にとっては幸福に違いない。

信が戦や復讐と無縁な生活を送り、人生を全うしたのなら、その時初めて昌平君は李瑤りようとの約束を果たせると信じて止まなかった。

(…だが、信の提案も悪くないかもしれない)

もとより、自分は李一族を見殺しにした罪を背負っているのだから、復讐に協力することで、自分の罪の償いになるとも考えられた。

何より、師や信を苦しめた者が、今も同じ国に存在している事実は覆せない。
多くの犠牲を対価に、この国の政治を我が物顔で牛耳る官吏たちを思い浮かべるだけで、反吐が出そうになる。

今でも李一族が滅んだことや、保身のために師と一族見捨てたことは、重い楔となって昌平君を縛り続けていた。
一族が滅んだ事実が変わらないように、その楔がこれから先も外れることはない。

それでも、自分が信に従い、彼の駒として動くという新たな主従契約を結んだのなら、少しはその楔が軽くなるのかもしれない。

先帝は崩御したが、今も生き残っている李一族の殲滅を指示した官吏たちに、信と共に復讐するのも悪くないかもしれない。

しかし、それはあまりに無謀で短慮で、愚かであるという自覚はあった。

「………」

いよいよ重くなって来た瞼を抑えられなくなる。

思えば、豹司牙からの報告を受けてから休むことなく信を探し続けていたのだ。体に疲労が残っていてもおかしくなかった。

風邪を引かぬよう、しっかりと信の肩に寝具をかけてやり、その体を抱き寄せる。腕の中の温もりを感じながら、昌平君の意識は眠りへと落ちていった。

 

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昌平君の静かな寝息を聞きながら、信はゆっくりと目を開いた。

無防備に眠る昌平君の姿を見るのは珍しいことではなかったのだが、今はとても懐かしい感覚があった。

隙だらけであった昌平君の背中に一撃を与えようとしたものの、呆気なく回避されてしまい、冬の池に落ちてしまったあの日のことを思い出す・・・・

青銅製の火鉢で部屋は暖められていたが、高熱にうなされ、なおも寒さを訴える自分を抱き締めて温めてくれたのは他でもない昌平君だった。

「………」

つい先ほどまで自分の主だった男の寝顔を、信は瞬き一つせず・・・・・・に見つめる。

手を伸ばして、彼の頬をそっと撫でると、

「…なあ、最後まで、俺に利用されてくれよ?お前は俺の駒なんだから」

信が、にやりと笑った。

 

後日編①はこちら

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初恋は盲目(蒙恬×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/嫉妬/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「初恋の行方」の後日編です。

中編はこちら

 

不貞の罰

呆れ顔の昌平君が腕を組み、何かを考える素振りを見せる。

「…状況は読めぬが、私は執務のために、これから蒙恬に会いに行かねばならん。信、お前も来い」

「いやだ」

顔を合わせることはおろか、もはや蒙恬の名前を聞くのも嫌だと、信はそっぽを向いた。

「もしも不貞が事実だとすれば、処罰を下すことになる。婚約者であるお前の証言が必要だ」

処罰という言葉を聞き、信はぎくりとする。
まだ婚姻を結んだ訳ではないので、不貞の罪が認められたとしても、そこまで厳しい処罰は下されないだろうと自負していた。

しかし、昌平君の冷静な物言いに、まさか丞相権力でも使って厳しい処罰を下すのではないかと不安を覚えた。

(ま、まずいことになったんじゃ…)

蒙恬が自分以外の女性と関係を持っていたことを知った衝撃のあまり、昌平君に愚痴を零してしまったことを信は後悔した。

それに、此度の件で婚姻が白紙となったことを親友である嬴政が不審に思い、蒙恬の不貞を耳にしたとしたら、きっと処罰が下されるのは確実だ。

もしも蒙恬が嬴政から不貞の件を責められて、厳しい処罰を命じられたらと思うと、顔から血の気が引いていく。

確かに不貞の件は許されることではないが、そこまで重い処罰は望んでいない。
狼狽える信を見て、昌平君は彼女の考えていることを読み取ったように肩を竦めた。

「…蒙恬がお前以外の女と関係を持っていたのは事実だが、大将軍に昇格した頃には、すべて清算したと誇らしげに話していた」

「え…?」

信と正式の婚姻を結ぶ前、大将軍に昇格するまでの蒙恬は、数々の女性と褥を共にしていた。

誰彼構わずではなく、れっきとした婚約者候補の女性たちであるが、蒙恬は信との初夜のために技を磨いていたと話していた。それが事実なのか建前なのかはよくわからない。

彼の年頃なら女性と遊びたい盛りだと言っても過言ではないし、しかし、蒙恬が自分に向けてくれる愛情は本物だと疑わなかった。

「…見極めるのはお前だ、信」

昌平君の言葉には重みがあった。

蒙恬から向けられていた、ひたむきな愛情を受け入れるのも、一切彼を信じないことも、自分で決めろと言われてしまい、信は唇を噛み締める。

強く拳を握って瞼を下すものの、浮かび上がるのは自分でない女性を相手にしている蒙恬の姿だった。

「俺だって…あいつのこと、信じたかった…」

でも、と言葉を紡ごうとした途端、頭頂部に物凄い衝撃が落ちて来る。

「いってえ!?何すんだよッ」

雷の如くげんこつを落とされ、痛みのあまり、涙目で昌平君を睨みつける。

「今この場で見極めろと言った覚えはない。自分が納得するまで、蒙恬の不貞の確証を得るまで行動しろ」

「…んなこと、言われたって…」

「此度の件、大王様の耳に入れば、まだ婚姻を結んでいないとはいえ、確実に罰せられるだろう。お前と大王様が親友でなければ回避出来たやもしれぬが」

ひゅっ、と信は息を飲んだ。

 

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妻や妾以外の女性と関係を持つことは重罪とされている。蒙恬が大将軍となった途端、これまでの女性たちとの関係を清算したのも、そのためだろう。

蒙恬との婚姻が決まった報告をすると、嬴政はとても喜んでくれていた。

二人の婚儀には必ず顔を出すことも約束してくれたし、親友である信の花嫁姿も楽しみにしていると、まるで身内のような温かい言葉を掛けてくれたことも覚えている。

しかし、親友の夫となる男が不貞を働いたなどと知れば、怒った嬴政が処罰を命じるのは確実だと昌平君は予見した。

「え、えっと…不貞の罰って、なんだ…?」

宮刑※男は去勢だ。婚姻を結んでいないとはいえ、大王様が命じれば避けられぬ」

もしも勅令により、蒙恬が去勢されて、蒙家に子孫を残せなくなったとしたらと思うと、信は全身が凍り付いてしまうほど恐ろしくなった。

まさか不貞の罪で罰せられれば、嫡男の立場どころか、大将軍としての地位も失うだろう。

弟の蒙毅がいるとはいえ、彼は武官の道を歩んでいないし、不貞の罪で裁かれた息子をあの父親蒙武が許すとも思えない。
勘当されるどころか、父によって斬首されるのではないだろうか。

嬴政と蒙武の逆鱗に触れて、蒙恬が全てを失ってしまうのではないかと思うと、いたたまれない気持ちに包まれる。

「慈悲を頂けたとしても、お前という親友をたぶらかした罪で、一族の地位剥奪もあり得る」

「………」

開いた口が塞がらない。

蒙驁がここまで築き上げてきた蒙一族が、蒙恬の不貞行為によって壊滅の危機に陥っている。
処刑を免れたとしても、幼い頃から恵まれた環境で育って来た蒙恬が、低い身分で慎ましく生きていけるとは到底思えなかった。

昌平君も旧友である蒙武と、彼の息子である自分が師として軍略を教えて来た弟子二人のことを想えばこそ、見過ごせないのだろう。

「そ、…そうだな…ほんとなのか…確かめねえと…」

つい先ほどまで蒙恬に裏切られたと涙を流していた信であったが、今は蒙恬と蒙一族の未来が心配でならなかった。

 

確証

無言で廊下を歩いていく昌平君の背中に続き、待ち合わせをしていたという執務室に向かう。

扉を開けると、蒙恬はまだそこにいた。てっきりもう居なくなっているのではないかと思っていたが、彼がそこに残っているのは昌平君の予見通りだったようだ。だからこそ信を連れて来たのだろう。

「………」

部屋の隅で膝を抱えている姿はまるで、こっぴどく母親に叱られた子供のようで、信は呆れ顔になってしまう。

虚ろな瞳はすでに泣き腫れていて、頬には涙の跡がいくつかあった。ずっとそうやって泣いていたのだろうか。

少しも動かないことから、どうやら昌平君と信が来訪したことにも気づいていないようだった。

「あ…」

彼の傍には蒙恬のことを押し倒していた女性が立っており、昌平君と信に気づくと、彼女は迷うことなくその場に膝をついて頭を下げた。

「申し訳ございませんッ!!」

開口一番に謝罪をされて、信と昌平君が目を丸める。

驚いている二人の顔を見上げることもなく、令嬢は頭を下げたまま話を始めた。

「私は、来月には嫁ぐ身。誓って、蒙恬将軍との不貞の事実はございません。どうか、どうか罰せられるなら、私だけを…!」

誤解だと訴える女性に、信は戸惑った瞳で蒙恬を見た。

令嬢が頭を下げずに慈悲を訴えているというのに、蒙恬は心ここにあらずといった様子で、今もなお二人が来たことに気づいていない。

「じゃ、じゃあ、なんで蒙恬と二人で…」

なるべく令嬢を怯えさせないように、信が穏やかな口調で問う。

「…幼い頃、奴隷商人からお救いくださった方の手がかりを探していたのです」

「奴隷商人…」

はい、と頷いた令嬢が、過去の奴隷商人の事件について話し始めた。

咸陽の城下町、二人組の奴隷商人、狙われた貴族の子どもたち…心当たりがあり過ぎるその話を聞いていると、

「当時はまだ幼かった蒙恬将軍も、二人組の奴隷商人に馬車で連れ去られたのです」

その言葉が決定打となった。忘れもしない。あの事件で信は初めて蒙恬と出会ったのだから。

もう十年以上は前のことなので、おぼろげではあるが、芋づる式に当時の記憶がどんどん浮かび上がってくる。

「えっ…それじゃあ、まさか、あの時のガキの一人か!?」

令嬢が笑みを浮かべて頷いた。その双眸にはうっすらと涙が滲んでいる。

 

それからもう一度、彼女は額を床に押し付ける勢いで頭を下げた。

「信将軍だと存じ上げず、あの時にお救いくださった方をずっと探していたのです…蒙恬将軍様にお伺いを立ててしまい…勢いのあまり、誤解されるような真似を…」

あの時、自分を助けてくれた者の正体を知りたいあまり、蒙恬に強引に迫ってしまったのだと令嬢は何度も謝罪した。

「な、なんだ…そういうことだったのか…」

心の中のわだかまりが溶けていき、信は長い息を吐き出した。

背後では昌平君も納得したように話を聞き入っている。これで蒙恬の不貞の罪は晴れ、蒙一族も悲劇を免れた。

しかし蒙恬といえば、ずっと虚ろな瞳のまま、膝を抱えている。

仕方ねえな、と信は肩を竦めてから、彼の前にゆっくりと歩み寄った。

 

関係修復

「蒙恬」

名前を呼んで肩を揺すると、虚ろな瞳が鈍く動いた。ようやく目が合うと、蒙恬の瞳に僅かに光が戻る。

「信…?」

一方的に破談だと告げられて、よほど傷心したのだろう。
離れてからそれほど時間は経っていないはずだが、あまりにも憔悴し切っているものだから、一気に老け込んでしまったように見えた。

「………」

令嬢の証言によって誤解は解かれたとはいえ、一方的に破談だと告げてしまった気まずさもあって、信はなんと声をかけるべきか分からずに口を噤んでしまう。

後ろから痛いほどの視線を感じて振り返ると、何か言いたげに昌平君が腕を組んでいた。
この様子だと、昌平君は初めから蒙恬の無実を予見していたようだ。

それならさっさと教えてくれれば良かったのにと心の中で毒づくも、自分の早とちりのせいで蒙恬を傷つけてしまったことには変わりない。

「その…悪かった。さっきの話はなしだ」

すぐには信じられなかったのか、蒙恬はゆっくりと瞬きを繰り返している。

呆けた表情で見上げた蒙恬は、涎を垂らしてしまうのではと心配になるほど口をぽかんと開けていた。

「ほんと…?」

まるで子どものような聞き返しに、信がふっと頬を緩ませる。

「ああ、破談にはしねえよ」

すぐに頷くと、蒙恬の瞳がみるみるうちに歓喜の色を浮かべていく。

「信~ッ!!」

ぎゅうと体を抱き締められ、肺が圧迫される苦しみに信が呻いた。
大人になって、大将軍の地位を得たくせに、中身は変わっていないなと信は笑ってしまう。

令嬢も無事に誤解が解けたことにほっと胸を撫でおろしていたが、蒙恬に抱き締められている信を見つめる眼差しには、どこか切ない色が混じっていた。

ごほん、と昌平君がわざとらしい咳払いをする。

「あっ、先生も軍師学校から戻られたんですね?」

ようやく昌平君もこの場にいたことに気が付いたらしい。

先ほどの蒙恬の放心した姿を見るのは昌平君も初めてのことだったので、ようやく普段から見慣れている彼に戻ったことで、昌平君も安堵した表情を浮かべていた。

蒙恬の腕の中から抜け出した信は、同じく安堵した表情を浮かべている令嬢を見る。

「そっか、お前もあの時のガキだったのか…蒙恬と同じで、立派になったんだな」
令嬢が淑やかに頭を下げる。

「信将軍のおかげです。あのとき、もしも助けてくださらなかったら、どうなっていたかと思うと…」

ずっと信のことを探していたように、当時のことをまだ鮮明に覚えているのだろう。攫われた時の恐怖を思い出したのか、令嬢の顔がわずかに強張った。

咄嗟に信は彼女の肩を優しく叩いていた。

「もう大丈夫だ。これからは、お前を守ってくれる男がいるんだろ。…もしも妻の一人も満足に守れないような男だったら、俺がその根性叩きのめしてやるから、引きずっててでも飛信軍に連れて来い」

力強い言葉を聞き、強張っていた令嬢の顔がみるみるうちに笑顔に変わっていった。

「…お前たち夫婦が安心して暮らせるように、俺たちが全力でこの国を守っていく。だから、安心しろ。な?」

そう語った信の顔に、つい先ほどまで見せていた弱々しさは微塵もなかった。

「信将軍…」

令嬢はわずかに唇を震わせて何かを言いかけたが、それをやめて、笑顔で頷いた。

なんとなく、彼女が言わんとしていた言葉を予想した蒙恬はとっさに信の着物を引っ張ってしまう。

「蒙恬?」

不思議そうに眼を丸めている信に、蒙恬は何も言わずに笑みを浮かべる。上手く笑えているだろうかと不安になったが、信にはそれが作り笑いだと見抜けなかったらしい。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
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「…軍政の件だが、また日を改める。今日はもう帰っていい」

三人の傍に立っていた昌平君が本題を引き戻した。
このまま話し合いを始めても、蒙恬が信を放さないことは目に見えている。昌平君の言葉に、蒙恬は満面の笑みを浮かべて礼を言った。

「行こう、信」

「え、あ?お、おう…」

部屋を出ようとした寸前、蒙恬が思い出したようにゆっくりと後ろを振り返る。

「それじゃ、…末永くお幸せにね」

端的な挨拶をしてから、蒙恬は信の手を引いて部屋を出て行った。

今日の話し合いが保留になったとなれば、このあと蒙恬が信と一緒の時間を過ごすことは目に見えている。

もしかしたら婚儀の前に、信の懐妊の報告を聞くことになるのではないかと考えて、昌平君はやれやれと肩を竦めた。

(…息子に正式な手順を教えておくべきだったな、蒙武)

本来は婚儀を執り行い、正式に夫婦と認められてから初夜に臨むものなのだが、信を愛するあまり、蒙恬は幾つもの手順を無視している。踏み外しているのではなく、無視だ。

蒙驁も蒙武も、信が蒙家に嫁入りすることには賛成しているようだし、一族の繁栄を考えればこそ、彼女が懐妊する時期も特に定めていないのだろう。

…そこまで考えて、一般的とされる規則を破って子を儲けようとする弟子に、つい口を出してしまいそうになる自分は、頭の固い老人扱いされてしまうかもしれないと危惧したのだった。

 

帰路にて

屋敷へ帰還する馬車に揺られながら、二人は気まずい沈黙の中でじっと俯いていた。

馬車に乗り込むまでは、誤解が解けたことに上機嫌でいた蒙恬だったが、また暗い表情を浮かべている。

誤解が解けたとはいえ、信を傷つけたことは事実だし、信も破談を言い渡して蒙恬を傷つけたのは事実なので、お互いに何を話せば良いかわからなくなっていたのだ。

隣に座っている蒙恬から、時々視線を向けられるのを感じたが、信もずっと口を噤むことしか出来ない。

(あ…)

膝の上に置いている手に、そっと蒙恬が自分の手を重ねて来たので、信は反射的に顔を上げてしまった。

「信」

眉根を寄せて、まるで祈るような表情で、蒙恬がじっとこちらを見据えている。
そんな表情を見せられれば、信もこれ以上黙っているわけにはいかなかった。

「えと、あの…悪かった…ちゃんと、話も聞かないで…」

風音が吹けばすぐにでも搔き消されてしまいそうなほど小さな声で謝罪する。しかし、蒙恬の耳にはしっかりと届いたようだった。

「ううん。俺の方こそ、すぐに追いかけて説明すれば良かったのに、しなかったから…不安にさせたよね」

確認するように上目遣いで見つめられ、信は戸惑ったが、ちいさく頷いた。

「ごめん、ごめんね、信」

今にも泣きそうなほど弱々しい表情を浮かべた蒙恬に、信は胸が締め付けられる。

「…信が部屋から出て行った後、破談になるんだって諦めちゃって…追いかけられなかった」

「………」

鼻を啜ってから、蒙恬が言葉を続ける。

「信を傷つけたのは変わりないし、何を言っても、不安にさせちゃうって、わかってたから…」

ますます嫌われることになるのが嫌だったのだと打ち明ける蒙恬は、今にも泣き出してしまいそうな表情で、それは決して演技などではなく、本音だと分かる。

「…もういい。分かったから…」

手を伸ばして、慰めるように蒙恬の頭を撫でてやった。

「信…」

静かに名前を囁いた蒙恬が甘えるように上目遣いで見つめて来る。
ゆっくりと蒙恬が顔を寄せて来たので、信は応えるように目を閉じた。

「ん…」

唇を重ね合うと、昨夜まで習慣的にしていた行為のはずなのに、なぜだか今はとても懐かしい感覚に襲われた。

離れていた心の距離を埋めるように、何度も唇を重ねて、蒙恬は信の体を抱き締めたまま離さない。

「ふ…ん、ぅ…」

口づけを深めると、信は恥ずかしそうに舌を伸ばしてくれた。

堪らなくなって、蒙恬が信の着物の衿合わせの中に手を忍ばせて来る。驚いた信が蒙恬の体を押しのけて、強制的に口づけを終わらせてしまった。

「ば、バカッ!なに考えてッ…」

馬車の外に御者がいるというのに、まさかこんなところで体を求められるとは思わず、信は顔を真っ赤にさせた。

何も言わずに蒙恬が信の体に抱きついた。脚の間にある硬くて上向いているものを押し付けると、あからさまに信が狼狽えた。

屋敷に着くまで、まだ時間がかかるのは信も分かっていたが、だからと言ってこんな馬車の中で体を重ねれば、絶対に御者に気づかれるだろう。

業者は蒙家に昔から仕えている従者で、彼でなかったとしても、誰かに営みを聞かれるのは嫌だった。こればかりは羞恥心に勝てそうもない。

 

 

「だめ…我慢できない」

しかし、口づけ以上のことがしたいという自分の欲求を抑えられず、蒙恬が駄々を捏ねる。

あのまま本当に破談になってしまったらと思うと、二度と信に会えなくなるのではと恐ろしくてたまらなかったし、本当に彼女が戻って来てくれたのだという事実を体を重ねることで実感したかった。

彼女と体を一つに繋げる時の幸福感は何にも代え難い。誤解のないように言っておくが、快楽に溺れている訳ではなく、愛しい女をこの腕に抱いているという実感は、男が生まれて来た喜びでもあるのだ。

「こ、ここ、馬車ん中だぞっ?」

外の御者に聞かれぬよう、声を潜めて訴えかけられるも、蒙恬は幼子のように首を横に振る。

「誰に聞かれてもいいし、見られても恥ずかしくないよ。俺たち、正式に夫婦になるんだもん。後ろめたいことなんて何もない」

「~~~ッ…」

目を泳がせた信が返事に悩んでいる。

彼女が気にしているのは将軍としての立場だとかそういう堅苦しいものではなく、単なる羞恥心によるものだと蒙恬は分かっていた。

もしも信が誰にでも軽率に足を開くような、羞恥心と道徳が欠如した女性だったのなら、蒙恬は早々に見限っていただろう。

しかし、そうではなかった。彼女は自分と蒙家の未来を思って、自分を蔑んで、何度も婚姻から手を引こうとした。

そんな信だからこそ、愛おしくて、絶対に手放したくなかった。

「信…」

蒙恬の手は止まらず、彼女の右手をそっと掴むと、自分の足の間に導かせる。
硬く上向いたそれを確かめさせるように、着物越しに触らせると、信が目を見開く。

「…ね、だめ?」

確認するように上目遣いで見上げると、彼女は真っ赤な顔のまま、わずかに開いた唇を震わせていた。

 

妻への助言

…その後、馬車の中で濃ゆい時間を過ごした二人だが、屋敷に戻ってからも濃ゆい時間は続いた。

今では寝台の上ですっかり動けなくなってしまった信は恨めしそうに蒙恬を見据えている。

「信、ほら、水だよ」

「………」

蒙恬といえば、彼女とは反対に活き活きとした表情で信の看病を行っていた。宮廷では膝を抱えて情けない姿を見せていたというのに、顔つきも肌と髪の艶も、はたまた雰囲気まですべて別人である。

笑顔で水の入った杯を差し出してくる彼に、無性に苛立ちを覚えるものの、信は黙って杯を受け取って水を一気に飲んだ。

馬車の中では御者に気づかれぬように必死に声を堪え、屋敷に戻ってからはさんざん叫びつくした喉に水が染み渡る。

寝室に閉じこもる前に、蒙恬は従者に人払いを命じていたが、きっと何をしていたかは知られているに違いない。

「はあ…」

腹の内側に未だ蒙恬の男根があるかのような甘い疼きに、信は深い溜息を吐いた。

「…無理させてごめん」

「………」

寝台に腰かけた蒙恬が申し訳なさそうに謝罪するものの、あまりの倦怠感に信は返事をするのも億劫だった。

馬車の中は密室とはいえ、外にいる御者に聞かれたらどうするのだと何度も言ったのに、結局は子どものように駄々を捏ねる蒙恬に絆されてしまった。

屋敷に帰還してからも寝室に連れ込まれて、つい先ほどまで体を重ねていた訳だが、何度も蒙恬の男根を受け入れていた淫華が焼き付くようにひりひりと痛む。

夫となる男と体を重ねる行為自体は嫌いではないのだが、なんというか、蒙恬の若さゆえか、かなり体力を消耗することになるのだ。

飛信軍の指揮を執る将として、信自身も日頃から厳しい訓練を行っているものの、蒙恬と体を重ねると、動けなくなってしまうほど疲労するし、腹が減る。

布団の中で信の腹の虫が鳴いたのを聞きつけ、蒙恬は穏やかな表情を浮かべていた。

「夕食は部屋に持って来させるよ。俺が食べさせてあげる」

「………」

それほど動けない訳ではないが、むしろ、そこまで無理をさせた自覚があるのなら少しは加減をしろと睨みつけた。

あれだけ激しく体を重ねていたというのに、蒙恬は疲労を感じていないのだろうか。もしも本当にそうなら、身を重ねたことで自分の精気を吸い取った化け物だと信は心の中で毒づいた。

もしかしたら、蒙恬はあの美しい顔の下に、人の精気を吸い尽くす化け物を飼っているのかもしれない。

そんなことを考えてみるものの、もう二度と婚姻を破談するつもりはなかった。

 

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信の隣に横たわりながら、蒙恬が嬉しそうな視線を向けて来た。

「そうだ。俺、信にぴったりな助言を思いついたんだよ」

「?」

助言という言葉に、信は目を丸める。

彼女の隣にごろりと横たわった蒙恬は、汗で額に張り付いた信の前髪を指で梳いた。

「上品な歩き方。信はいつも着物の裾を踏んづけたり、視線があちこち向いちゃうでしょ」

普段練習している歩き方に対しての助言らしい。まさか情事の後にそんな話を持ち出されると思わなかった。

「特別なことは何もしなくて良い。戦場を見渡すみたいに、将として、堂々と胸を張って前に進んでみて」

「え?」

「そりゃあ着るのは鎧じゃないけど…でも、その方がきっと、信らしさが出るはずだから」

確かに今までは着なれない着物や靴、はたまた髪飾りで身に着け、頭の先から足のつま先まで束縛感を感じていた。

高価な着物を踏んづけないだろうか、歩幅はこれくらいで良いのだろうか、視線はどこに向け続けたら良いのだろうか、さまざまな不安と疑問を抱えながら歩く自分にぎこちなさが現れていたのは自覚していた。

それを改善するために蒙恬が練習に付き合ってくれていたのだが、戦場だと思えという助言が意外だったので、信は呆気に取られてしまった。

「戦場って…婚儀はめでたい場じゃねえのかよ」

「信の堂々とした姿は美しいもん。論功行賞の時もそう。…強さと自信に満ち溢れていて、誰もが背中を追いかけたくなる」

鼻息を荒くしながら興奮気味に語る蒙恬に、信はそれは言い過ぎだと額を小突いた。

「なんでいきなりそんな助言を思いついたんだよ」

蒙恬がにんまりと両方の口角をつり上げる。
微笑を浮かべるだけでも多くの女性たちから黄色い声が上がる蒙恬だが、そのにやけているその顔を見せるのは信だけだった。

「色々懐かしいことを思い出したんだ。あの子のおかげだよ」

あの令嬢と再会したことで、奴隷商人から救出してくれた信の勇姿を思い出したことがきっかけだという。

まさかあの時は助けてくれた少年が少女だったとは思いもしなかったのだが、あの騒動があったからこそ、蒙恬はずっと信に惚れ込んでいると言える。

「信は俺のお嫁さんで、俺の子どもの時からの英雄だから」

真顔でよくそんな恥ずかしいセリフを吐けるものだと信は頭を掻いた。

「うっ…」

体を動かした途端、腰に鈍痛が走り、信は寝台の上にぐったりと沈み込む。

「しばらく練習は休む…」

「えっ?どうして」

普段から練習を怠ることのない信が休息を優先する発言に、蒙恬が不思議そうに首を傾げた。

まさかこんな動けない状態にあるというのに、すぐにでも練習しようとでも言うと思っていたのだろうか。

ただでさえ揺れの多い馬車の中で身を重ね、その後もろくに休むことなく、この寝室で身を重ね合っていたのだ。ずっと揺すられていた腰がとにかく辛いし、彼を受け入れるために広げてていた脚も悲鳴を上げていた。

力を入れようとすれば内腿がぶるぶると震え始め、これ以上酷使しないでくれと訴えていた。

「お前のせいで足腰が立たねえんだよ。こんなんで歩ける訳ねえだろ…」

つい言葉に棘が生えてしまうが、蒙恬の自業自得だ。
棘のある言葉を聞いても、蒙恬の顔から笑みが崩れることはない。

「ごめんね、仲直り出来たのが嬉しかったから」

「ったく、仕方ねえな…」

子どものような無邪気な笑顔が憎らしくもあるが、絆されたように、結局は許してしまう。
それだけ自分は蒙恬に惚れ込んでいるのだと、認めざるを得なかった。

初恋とは、盲目になるまじないのようなもの、なのかもしれない。

 

番外編(割愛した馬車内のシーン)はこちら

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終焉への道標(李牧×信←桓騎)後編

  • ※信の設定が特殊です。
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このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

中編③はこちら

 

真実

残酷な真実が耳から脳に染み渡るまでには、やや時間がかかったらしい。

「お前、なに言ってんだよっ」

発作的に言い返されるが、李牧は信の両肩を掴んだまま放さない。

「桓騎と秦国を捨てて、俺を選んだのはお前の意志だ。その過程があって、今の俺たちがいる。思い出せ」

目を見開いた信が唇を震わせ、顔を蒼白にさせている。両腕で耳に蓋をして、何度も首を横に振った。

「い、やだ…いや、思い、出したく、な…い」

拒絶の言葉を聞き、李牧は確信した。
信は今、底に封じられていた記憶を取り戻すことに葛藤している。それを思い出すことに恐怖しているのだ。

封じられた記憶を取り戻せば、その心痛に耐えられないことを彼女は理解しているに違いない。だからこそ、今の彼女はこんなにも恐怖している。

その痛みさえ受け入れさせて、桓騎と祖国を見捨てて自分を選んだことを分からせてやりたかった。

耳に蓋をしている彼女の両腕を強引に引き剝がす。

真っ直ぐに目を見据えながら、李牧はなおも残酷な言葉を紡いだ。

「目を背けるな。お前は桓騎と秦国を、全てを捨てて俺を選んだ。お前にはそれを受け入れる義務がある」

「いやだッ」

李牧を押し退けようとしたその両腕には、少しも力が入っていなかった。その場から逃げ出そうとした彼女の細腰を抱き寄せる。

信の顎を掴んで無理やり目線を合わせると、底に封じられた記憶の蓋を抉じ開けるように、低い声で囁いた。

「思い出せ、あの男を」

涙で濡れた黒曜の瞳が揺れた。

 

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「いや、いやだぁ…」

子どもが駄々をこねるように、信は首を横に振る。

全てを捨てて自分を選んだくせに、今さら何を恐れるのかと李牧は苛立たしげに舌打った。

なおも目を背けようと抵抗する彼女の顔を掴んで、無理やり目線を合わせてみても、信は子どものように泣きじゃくるばかりだった。

まともに話を聞こうとしない彼女に苛立ちが止まないものの、声を荒げるような真似はしない。これ以上怯えさせたところで、彼女は記憶を取り戻す拒絶を強めるだけだ。

「…信」

泣きじゃくっている彼女を慰めるように、李牧は彼女の体を抱き締める。可哀想なほどにその体は震えており、今のは冗談だと、つい嘘を吐いてしまうところだった。

「ううっ…ひっ、ぅ…ぅ、う…」

すぐに胸に顔を埋めて背中に腕を回してくる彼女に、絆されてしまいそうになる。

しかし、それではだめだ。信に真実を受け入れさせなければ、いつまでも過去に引き摺られることになる。

涙が伝っている頬に唇を押し当て、李牧は残酷な真実を嘘だと撤回するとなく、薄く笑んだ。

「俺がなぜお前の両目を奪わなかったと思う?」

「え…」

泣き腫らした瞳で、信が李牧を見上げる。

「あの男の首を見せるためだ。姿が見えぬと、悲鳴を聞かせても気づかないだろう?お前は信じようとしないだろう」

刃のように冷たいその言葉に、信がますます萎縮したのが分かった。
血の気を失った唇を震わせながら、信が微かに首を横に振る。

「か、…桓、騎…」

掠れた声で呼んだ名前が自分以外の男であったことから、李牧の胸は鉛が流し込まれたかのように重くなる。

思い出せと命じたのは自分のはずなのに、彼女の心を巣食っているのはやはりあの男だと、無情にも思い知らされた。

 

崩壊

「いやだっ…!」

信は涙を流しながら、李牧の体を突き飛ばした。

よろめいた李牧が机に体をぶつけ、空になっていた茶壺※急須のことと茶器が床に落ちる。小気味良い音を立てて、茶壷と茶器が割れてしまう。

子どものように泣きじゃくりながら信が身を屈め、床に落ちている茶器の破片を左手で掴むと、すぐにそれを首に宛がった。喉を切り裂くつもりなのだと瞬時に李牧は理解した。

「やめろっ!」

焦りと怒気が声に滲む。
柔らかい皮膚に鋭い破片が食い込んだのを見て、青ざめた李牧は衝動のままに彼女の頬を打つ。

「ううっ」

頬を打たれた信が茶器を手放し、その場に崩れ落ちる。

しかし、彼女は未だ首を掻き切るのを諦めなかった。床に落ちている別の破片に左手を伸ばしたのを見て、李牧の目の裏が燃えるように熱くなる。

「信ッ!」

破片を拾おうとしていた左手を容赦なく踏み付け、李牧が怒鳴りつける。

「うっ、う、ぅううっ…」

堰を切ったように双眸から大粒の涙が溢れ、食い縛った歯の隙間から、信が泣き声を上げる。

左手を踏みつけていた足を退かし、李牧は肩で息をしていることに気が付いた。

寸前のところで阻止したものの、あのまま彼女が喉を切り裂いていたらと思うと、全身の血液が逆流するようなおぞましい感覚に襲われた。

今までだって、やろうと思えば出来たはずだった。

この部屋の中で帯を使って首を括ろうが、食器を割って首を切り裂くことだって、幾つもの死地を乗り越えて来た彼女が自害する方法を知らぬはずがない。

記憶を取り戻し、祖国と仲間たちを裏切った罪悪感に蝕まれた心が自らを死に至らしめようとしている。

李牧は信に、秦国と桓騎を裏切って自分を選んだことを思い出させたかっただけで、決して彼女が死ぬことは望んでいない。

望んでいるのはその逆で、信と共に生きることだった。

 

 

これ以上言えば、信が舌を噛み切る恐れだってあることは分かっていた。それでも、李牧は堰を切ったかのように、胸に押し込めていた言葉を吐き出していく。

「お前は、桓騎と祖国を裏切って俺を選んだ。だからこそ、お前は今ここ趙国にいる」

「あっ…ああ、ぁ…あ…」

虚ろな瞳で涙を流しながら、信は李牧の言葉を拒絶することも出来ず、ただ聞いていた。
彼女の頬をそっと手で包み、無理やり目線を合わせる。

「いずれ、桓騎の首を見せてやる。そう遠くはないだろう。お前を助けるために、あの男は自ら命を差し出しに来るはずだからな」

当然のようにそう言ったのは、李牧に確信があったからだ。

秦国へ送り付けた彼女の右手と剣を見れば、誰もが彼女の死を認めざるを得ない。しかし、あの男だけはきっと信の死を信じることはない。生きていると確信をしたのなら、何としてでも救出に来るに違いないと李牧は読んでいた。

その時こそ、桓騎の命が散る瞬間を信に見せつけ、この腕の中だけがお前の居場所であると彼女に知らしめる時だ。

たとえ真実を受け入れられずに、信の心が砕けてしまったとしても、もう彼女が自分以外の男に抱かれることはない。その事実さえあればそれで良かった。

思考を巡らせていたせいか、信の左手が再び茶器の破片を掴んだことに、李牧は気づくのが遅れてしまった。

「ッ!」

茶器の破片を握る左手が視界の隅に映り込んだ瞬間、すぐにそれを抑え込もうとしたのだが、信の行動の方が僅かに早かった。

返り血が顔に跳ね、一瞬遅れてから、李牧は目の前の状況を理解する。

「ぁああ”あ”ッ」

茶器の破片で両目を切り裂いた信が悲鳴を上げている。小気味良い音を立てて、血に染まった茶器が床に転がった。

「信ッ!」

両目から血の涙を流しながら、信がその場に蹲る。

「いた、痛いぃッ、いたい、いたいッ」

自ら両目を引き裂いた激痛に堪え切れず、幼子のように泣き喚く。李牧はすぐに従者に声をかけ、侍医の手配を急がせた。

「馬鹿なことをッ」

自ら目を切り裂いたのは、桓騎の死に顔を見たくないという彼女なりの意思表示だったのだろう。

手巾で上から強く圧迫してみても出血は止まらず、それだけ深く傷をつけたことが分かる。油断していたとはいえ、李牧は止められなかったことを後悔した。

信にとって、桓騎という存在がそれほどまで強く心に根を張っていたことを今になって思い知らされたのだった。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
宝石姫

 

傷が深かった分、かなりの出血ではあったものの、命に別状はないようだった。

人間は目の前に何かが迫ると、反射的に瞼を閉じる習性があるというが、瞼ごと眼球が切り裂かれていた。

恐らくは二度と光を見ること出来ないだろうと侍医は冷酷に告げた。

包帯で両目を覆われた信は、今は寝台の上で寝息を立てている。

もしもあの時、両目ではなく、首を掻き切っていたのなら、きっと絶命していたに違いない。視力を失ったとしても、信の命が繋ぎ止められたことに、李牧はただ安堵していた。

桓騎の屍を見たくないという拒絶の意志から、衝動的に、自ら命を絶つことよりも両目を切り裂いたのだろう。

視力の回復の見込みがないことは、侍医に言われなくても李牧も察していた。これで彼女に桓騎の亡骸を見せることは叶わなくなってしまった。

無理やりにでもあの男の死を受け入れさせれば、信の未練は断ち切られると思っていた。今度こそ自分を選んでくれると思っていたのに、自らの手で両目を奪うほどに信の心は屈強だった。

今さらになって、彼女の心根の強さに惚れたことを思い出す。

自分が信のもとを去り、趙の宰相に上り詰めたのも、全ては彼女を滅びの運命にある秦国から救い出すためだったのに、自分の傲慢さを優先するようになっていたのはいつからだろう。

「…信」

身を屈め、彼女の額に唇を落とした。
包帯が巻かれている両目には、治癒を促す軟膏が塗布されており、薬草の独特な匂いが鼻をつく。瞼の傷が塞がるまではこの処置を続けるのだと侍医に言われた。

傷の手当てを施しながら、眠らせる薬湯も飲ませていたので、しばらくは目を覚ますことはないだろう。

右手だけでなく、両目まで失った信を見下ろす。

残っている右手で武器を持つようになるのではないかと危惧したこともあったが、視力を失ったことで、これで完全に戦場へ立てなくなった。

これで信は自分から逃げられないと安堵したことに、李牧は彼女を手に入れたいあまり、歪んだ愛情を抱いてしまったのだと自覚する。

だが、結果論だけで見れば、桓騎から信を取り戻す・・・・ことが出来た。どんな形であれ、彼女が傍にいる。

今の李牧には、それだけで十分だった。

 

 

終焉への道標

宮廷から屋敷に帰って来たのは数日ぶりのことだった。

留守を任せていた家臣たちから、留守中は特に変わりなかったとの報告を受け、李牧は屋敷の敷地内にある別院へと向かう。

家臣たちは李牧の後ろをついて歩いていたが、別院の入り口で足を止めると頭を下げ、そこからは誰一人としてついて来ない。

構わずに李牧は廊下を進み、一番奥にある寝室の前に立つ。
閂が嵌められている扉が軋む音を立てており、向こうから扉を押し開けようとしているのだとすぐに分かった。

思わず吐いた溜息は深かったが、反対に口角は軽く持ち上がっている。

「あ、ぅわっ…!?」

閂を外して扉を開けてやると、向こうから扉を押し開けようとしていた信が倒れ込んで来た。急に扉が開いたことで驚いたようで、小さな悲鳴が上がる。

「信」

反射的にその体を片手で受け止めた。

今でも包帯に包まれている両目では、何が起きているのか分からないようで、信はしきりに首を動かしていた。
そんなことをしても、その瞳にはもう一筋の光さえ届かないというのに。

「信」

静かに名前を呼ぶと、信が驚いたように体を竦ませて顔を上げる。

「あ…り、李牧…?」

左手を持ち上げて、頬に触れて来る。
視力を失った彼女は、残された左手を使って輪郭や、髪の毛、鼻の形に触れることで、相手が誰であるかを認識するようになっていた。

「か、帰って、来たのか?」

「ああ」

返事をすると、信はぎこちない笑みを浮かべる。
李牧が帰って来たことに安心した反面、どこか不安を抱いているようだった。

以前よりも随分と軽くなった彼女の体を抱きかかえると、体の至るところに新しい青痣が作られていることに気づく。

従者たちに身の回りの世話をさせているものの、この別院の奥にある寝室で一人で過ごす時間が多い。

視力を失った彼女は、少しの段差にも気づけず躓いてしまうし、家具の配置を理解出来ずに体をぶつけてしまうのだ。

怪我をしないよう、従者たちに付きっきりで世話をさせず、わざと一人の時間を長くしているのは、信の心を常に自分へ向けさせるためだった。

寝台に座らせてやると、信の左手は李牧の着物を掴んで離さない。
その手を離そうと手首を掴むと、信が首を横に振った。

「あ、ま、待ってくれ…まだ、行くな…」

不安に顔を染めている彼女を見て、李牧の口角がつり上がる。しかし、声を堪えていることから、信は李牧が恍惚な笑みを浮かべていることに気づくことはない。

「信、悪いがまだ執務が残っている」

わざと突き放すように冷たい言葉を掛けると、信が唇を噛み締めながら、名残惜しそうに着物から手を離した。

視力を失い、暗闇の世界で生きる信は、いわば孤独だった。

右手を失ったばかりの頃と違い、従者たちとも話す時間は限られており、今の自分が眠っているのか起きているのかも分からない、気の狂いそうになる時間を彼女は一人で耐えている。

だからこそ、李牧がこの部屋を訪れる度に、信は大いなる安心感を得ることが出来る。孤独を忘れることが出来る唯一の時間だからだ。そしてそれが、今の彼女の心を保っていると言ってもいい。

李牧自身、宰相としての執務があるのは嘘ではないのだが、冷たく突き放すことで、信の心を壊すことも繋ぎ止めることも出来ることを分かっていた。

そして、信自身も李牧に捨てられれば、もう自分に行き場所がないことを理解しただろう。両目を失って意識を取り戻してから、桓騎や秦国の名前を一言も発さなくなったのは、李牧の機嫌を損ねないために違いない。

これからも信が自分だけを求めるように、李牧は今の状況を最大限に利用しているのである。

 

 

「あ…も、もう少し、だけ…一緒に、…」

李牧が立ち上がると、信が小さくしゃっくりを上げて泣き始めてしまう。

一人にしないでほしいという静かな訴えに、立ち上がった李牧は思わず部屋を出るのを躊躇った。その顔は喜悦に歪んでいる。

自らの手で両目を引き裂き、視力を失っても、涙を残す機能は残されていた。包帯に染みが作られたのを見て、李牧は彼女の頬に手を伸ばす。

「…扉を開けようとしていたな」

外から閂を嵌めていることは告げず、李牧が問い掛けた。ここが母屋ではなく、別院の奥にある寝室であることは彼女に教えていない。

彼女に告げていたのは、この部屋から出てはいけないということだった。

「待っていろと約束したはずなのに、黙って部屋から出ていくつもりだったのか」

信が顔を歪めたのを見て、それが答えだと確信する。

「ち、ちがう…」

震える声で否定したが、それが嘘だというのは誰にでもわかることだった。

そして、それはまだ彼女がここから逃げ出したいという意志を捨てられずにいる証拠である。

わざとらしく大袈裟な溜息を吐くと、信が肩を竦ませる。

こんなにも彼女が臆病になり、その場をやり過ごそうとする嘘を吐くようになったのはいつからだろう。

包帯で両目を覆われていても、李牧から向けられる冷たい視線に耐え切れなくなったのか、寝台から立ち上がり、震えながら床に膝をついた。

「あ…あの、ごめ、ごめんッ、しない、…もうしない、…大人しく、待つ、から…」

包帯にいくつもの涙の染みを作りながら、謝罪を繰り返す姿は加虐性を煽らせた。

彼女が部屋を出ようとした理由など分かり切っている。孤独に耐え切れず、自分を探しに行こうとしていたのだ。

約束を破ってまで、自分を探そうとしていた彼女の健気な気持ちに、李牧の心は潤った。

「ごめん、ごめん、なさい」

信がここまで怯えているのは、李牧に見捨てられれば今度こそ行き場所を失ってしまうからだ。

右手と光を失い、二度と戦場に立てなくなった彼女は、もう記憶を取り戻している。
しかし、敵国の宰相のために国を出て、将としての価値を失った自分は、秦国へ帰っても受け入れてもらえないと思い込んでいるらしい。

だからこそ、病的なまでに彼女は李牧に捨てられることを恐れているのだ。

「り、李牧、ごめ、ん、ごめ、なさい、ご、ごめん…あの、俺…」

何も話さない李牧にますます怯えてしまい、信は泣きながら何度も謝罪を繰り返す。

記憶を取り戻してからの信はいつだって涙を流している。泣かせているのは自分だという自覚は十分にあったのだが、それでもいつかは自分を欺いて、傍にいない時に逃げ出そうとしているのではないかという疑惑が晴れない。

その疑心のせいで、信に対する愛情にさらなる歪みが生じ始めていることも、李牧は自覚していた。

しかし、生じた歪みを元に戻そうとは思わない。
それだけ彼女を愛していることも、彼女に狂わされているのも事実だからだ。

「信」

名前を呼ぶと、信の肩が大きく竦み上がった。

恐る恐るといった具合にこちらの機嫌を伺ってくる彼女に、李牧はなるべく怯えさせないように笑む。

「俺との約束を破ったのは事実だ」

すっかり痩せ細った両足に視線を落とすと、両目は見えないはずなのに、その視線に気づいたのか、泣きながら逃げようとした。

李牧の許可なしに無断で部屋を出ようとするのなら、次は足を落とすと言っていたことを思い出したのだろう。

すでに左手の親指は完治し、今では自由に使えている。右手が使えない分、左手で色々と補っているようだが、まさか閂を嵌められた扉を開けようと試みると思わなかった。

壁伝いに扉に辿り着いたことも、脱走を企てていたに違いない。

つい先ほどまで、自分に会いたがっていたはずだと優越感に浸っていた心は、いつの間にか彼女が自分から逃げ出すのではないかという焦燥感に包まれていた。

身を捩る彼女の右足を掴むと、か細い悲鳴が上がる。

「ひぃッ…!やっ、いやだ、…」

意図を察したのか、涙声で信が李牧の手を振り払おうと身を捩る。しかし、李牧は細い足首から手を放すことはしなかった。

「次に約束を破ったら、脚を落とすと言ったのに、約束を破ったお前が悪いんだろう」

諭すように穏やかな声色をかける。声色に一切の怒気は籠めていないというのに、信は震えながら首を横に振った。

もう信はこの部屋から出ることがないというのに、なぜそんなにも足を失うことを恐れているのだろうか。

「も、もうしない、ほんと、ほんとだから、頼む、おねが、お願いします」

包帯の隙間から流れ落ちた涙が頬伝うのを見て、今彼女を泣かせているのは他でもない自分だと直感した。

やるせない気持ちに襲われて、右足を掴んでいた手から力が抜ける。
足を放された信は、なりふり構わず、すぐさま李牧の前に跪いた。

「何をしている」

額を床に押し当てて、これ以上ないほどに頭を下げる信の行動を李牧はすぐに理解出来なかった。

彼女が約束を破ったのは事実だし、謝罪一つで許してもらえると思ったのなら、それは自惚れでしかない。李牧は彼女を許すつもりで右足を離した訳ではなかった。

「信」

名前を呼んでも、信は体を震わせるばかりで顔を上げようとしなかった。

手を伸ばして、李牧は彼女の顎を掴むと、無理やり顔を上げさせる。李牧はそっと彼女の唇に指を這わせながら口を開いた。

「足を落とされるのは嫌か」

泣きながら信が何度も首を縦に振る。

「俺に捨てられるのは?」

「い、やだ…」

「では、簡単な問いだ。なぜ約束を守れなかった?」

刃のように冷え切った声で詰問すると、瞼の隙間から大粒の涙が込み上げた。

「り、李牧が、帰って来ないから、あの、俺、探そうと、思って…だ、誰も、李牧がいつ、帰って来るか、どこに行ったか、教えて、くれないから」

しゃっくり交じりの涙声で必死に言葉を紡ぎ、扉を開けようとした理由を打ち明ける。

それが本心なのか、こちらの機嫌を損ねないように吐いた嘘なのかは分からない。

しかし、前者であると信じたいのは、信を愛しているからこそだ。
沈黙している李牧を見て、さらに機嫌を損ねたのではないかと、信が再び怯えたように謝罪を始めた。

額に床をついて何度もごめんなさいと繰り返す信に、李牧の乾き切った心に再び水が差す。

自分に捨てられたくないと全身で訴えており、必死に李牧の機嫌を取ろうとするその態度を見て、心の底から優越感が込み上げて来た。

もう彼女が自らの意志で自分から離れることは出来ないのだと、安堵に近い感情が李牧の口角を持ち上げていく。

李牧が声を堪えて笑っていることに、両目を失った信が気づくはずもなかった。

 

終焉への道標 その二

「お前はいつだって俺に怯え、俺の機嫌を伺う女になってしまったな」

「……、……」

責められるように冷たい声を向けられ、つい俯いてしまう。そんな信の態度を見て、李牧は小さく溜息を零した。

「俺と共にいるのが恐ろしいのだろう?傍にいない方が心休まるはずだ」

李牧のその言葉が、自分への拒絶だと理解した途端、信の顔がたちまち絶望に染まっていく。

「…以前から縁談が届いている。今までは不要だと思い断っていたが、こうなれば愛人を何人か作らなくてはならないな」

妾と聞いて、信の心臓が早鐘を打ち始める。このままでは李牧に捨てられてしまうと直感で察した。

「あ…や、いやっ、やだっ」

自分以外の妻を迎えることと、彼女たちに子を産ませようと考えている李牧に、信は悲鳴に近い声を上げた。

信の左手が李牧の着物を力強く掴んだ。許しを請うように、信は李牧に頭を摺り寄せる。

正式に婚姻を結んだものの、もしも李牧が妾を迎えて、その妾が子を孕んだとなれば、李牧は必ず自分から興味を失うだろう。考えるだけで、信の心は砕けてしまいそうなほどひどい痛みを覚えた。

約束を守らず、夫に尽くすことも出来ない自分を咎めているのだと分かったが、李牧に捨てられれば、もう自分には帰る場所がない。

将として生きることも、この敵地で女一人で生き抜くことも、何の術も持たぬ今の信には、李牧だけが拠り所だった。

野たれ死ぬのが嫌な訳ではない。敵国の将であることを理由に、死よりも辛い辱めを受けるのが怖い訳でもない。

全てを捨てて李牧を選んだ愚かな自分が、その李牧自身に捨てられるという結末を迎えるのがただ恐ろしくて堪らなかった。

「いやだ…!」

お願いだから捨てないでほしいと全身で訴える信に、李牧の口角がつり上がっていることに、彼女が気づくことはなかった。

 

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夫婦という対等であったはずの関係が、主従関係にすり替わっていることに、以前から李牧は気づいていた。

だが、婚姻関係などという弱い鎖で縛り付けておくよりも、この方がずっと良かった。

自分から逃げても、その先には何もないのだと信が理解している。それは何よりも強い足枷と鎖になって、彼女を繋ぎ止めておいてくれる。そう考えるだけで、李牧の心は満たされた。

「信」

手を伸ばして、泣きじゃくっている彼女の頭を撫でてやる。

こちらの機嫌を窺うように信がゆっくり顔を上げたので、李牧は何も言わずに彼女の唇を指でなぞった。

「………」

主の意を察したのか、信は鼻を啜ると膝立ちになり、手探りで李牧の下衣に左手を伸ばす。

目が見えないことから、手探りで男根を探そうとする彼女のたどたどしい仕草が、今となってはとても愛おしかった。

「う…」

左手だけでは ※ズボンを脱がすことが出来ず、信は鼻息を荒げながら歯を使って紐を外そうと試みる。

口での奉仕のやり方は過去に幾度となく教え込んでいたが、着物の脱がし方を教えたことはない。右手が使えないので、残された左手と口を使って懸命に男根に辿り着こうとする姿が犬のように思えて滑稽だった。

その姿が見たいために、着物に手をかける時はあえて助言をしないようにしている。

「はあっ…」

なんとか手と口の両方を使って紐を解き、褲を歯で噛んで下げると、信がすぐに男根に舌を這わせ、口に含む。まるで飢えた犬のようだった。

先ほどまでずっと泣きじゃくっており、緊張のせいか、信の口内はひどく乾いていた。ざらついた舌が男根を擦り上げて来る。

「ふ、う…ん、ふぅッ…」

必死に舌を動かし、左手が男根の根元を扱く。

異物を咥えているせいか、少しずつ唾液が分泌されて来て、信が頭を動かすたびに淫靡な水音が立ち上がって来た。

口の中で少しずつ硬くなっていく男根を感じて、信の瞳に安堵の色が浮かんだ。上手く口淫をすることが出来れば、これ以上こちらの機嫌を損ねないのだと健気に学習していたらしい。

自分を喜ばせるためだけに口淫を施す彼女の姿を、あの男にも見せてやりたいと思った。

お前ではなく信は自分を選んだのだと笑いながら、信の体を犯し尽くす姿を見せつけてやれば、あの男は自ら舌を嚙み切るだろうか。

信に桓騎の亡骸を見せてやれないことだけは心残りではあったが、今となってはもうどうでもいいことだった。

「う、ぶッ」

興奮のあまり、信の頭を抑え込み、根元まで男根を咥えさせる。陰毛に鼻を埋め、男根が隙間なく喉が塞ぐと、呼吸が出来ずに信の体が硬直した。

くぐもった声を鼻から洩らすものの、歯を立てるようなことはしない。左手が李牧の太腿を弱々しく掴むだけだった。

「っ…う、…ッぐ、ぅ、ぶ…」

永遠に閉ざされた瞳から涙が止まらず、体の痙攣が始まったのを機に、李牧は男根を引き抜いた。

激しくむせこんで、信が必死に呼吸を再開する。息が整うよりも前に、再び手探りで李牧の男根を見つけ、すぐに舌を這わせて来た。

褒めるように優しく頭を撫でてやると、惚けた表情で信が男根を口に含む。
李牧が腰を引くと、戸惑ったように信が顔を上げた。

身を屈めて彼女の体を抱き起こし、寝台に横たえると、信が緊張で固唾を飲んだのが分かった。

もう幾度となく身を繋げているというのに、未だに彼女はその腹に李牧の精を受け入れることを苦手としているらしい。

ここ最近になって月事※月経が再び途絶えてしまったのは懐妊が原因なのか、それとも両目の怪我が原因なのか、未だ侍医には判別がつかないという。もしも懐妊しているのなら、近々症状が出るに違いない。

「無理はしなくていい。俺の子を孕むのが嫌なんだろう?」

もうその腹に自分との子を孕んでいるかもしれないというのに、信が拒絶出来ないことをわかった上で、李牧は彼女に選択を委ねた。

「嫌、じゃ、ない…欲しい」

はっきりと信がそう言ったので、李牧は思わず頬を緩ませる。

自分を受け入れてくれることを信が言葉にしてくれるだけで、救われたような気持ちになる。たとえ自分の機嫌を損ねないように吐いた偽りの言葉であったとしても、彼女が桓騎ではなく自分を選んだことに意味があった。

「李牧…」

甘えるように信が名前を呼ぶ。その期待に応えるように、李牧は彼女に口づけていた。

 

二人で進んでいるこの道が、たとえ救いのない終焉へ続いているとしても、決して引き返すことも、後悔することもない。

元より、もう自分たちには戻る道など、残されていないのだから。

 

ボツエンディング・さらなる桓信IFルート・あとがき(5600字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

 

李牧×信のハッピーエンド話はこちら

The post 終焉への道標(李牧×信←桓騎)後編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

絶対的主従契約(昌平君×信)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編①はこちら

 

茶葉屋へ

街に着くと、豹司牙が厩舎へ馬を預けに行った。

屋敷と違って多くの民衆が入り乱れている相変わらず賑やかな街並みを眺めながら、信は豹司牙が戻って来るのを待つ。

屋敷から一番近いこの街にはいつも屋敷で仕入れている茶葉を売っている店がある。昌平君や家臣たちが毎日のように愛飲することもあって、信はその店でいつも茶葉を大量に購入していたので、今ではすっかりお得意様になっている。

しかし、茶葉をよく購入するものの、自分では滅多に茶を飲まないのだと話すと、店の主は下僕の信に同情の眼差しを向けて、こっそり茶菓子をくれることがあった。

「行くぞ」

後ろから低い声を掛けられて、信は反射的に振り返る。豹司牙が馬を預けて戻って来たようだった。
今日は豹司牙が傍にいるので茶菓子はもらえないかもしれない。

「茶葉を購入したらすぐに戻る。店へ案内しろ」

「えーっ!ちょっとくらい寄り道したって…」

歩き出した豹司牙にそんなことを言われたものだから、信は駄々を捏ねた。
しかし、すぐに鋭い眼光を向けられてしまい、勝手に口が塞がってしまう。

街へ降りるのは珍しいことではないのだが、その頻度は決して多くない。屋敷の中にいるだけでは知らない売り物があったり、食べたことのない料理が店に並んでいたり、子どもの好奇心を掻き立てる要素がいくつもあるのだ。

いつも昌平君の傍についている息抜きとして、街へ降りた時にはそれくらいの贅沢は許してほしいと訴えた。

街へ降りる時には銀子を渡されるのだが、大量の茶葉を購入しても多少のおつりがくる。
それは好きに使えと主から言われていたので、ヤギ乳を飲んだり、タイ ※水あめを買ったりして、それなりに楽しんでいたのだ。

あまり長居はしないようにと言われていたので、短い時間ではあるものの、信はその時間が好きだった。

豹司牙の眼光がますます鋭くなったので、信は肩を落とす。今日は諦めるしかなさそうだ。

「…茶葉屋はこっちだ」

がっかりしながら、信はいつも茶葉を購入している店へと案内する。
前方に店が見えて来たが、いつもと店の様子が違い、信は思わず目を凝らした。

「あれ?今日は休みか?珍しいな」

いつも開いているはずの入り口が今日は閉じられている。
小走りで店に近寄ってみるものの、見間違いではなく、どうやら今日は茶葉は売られていないようだった。

街へ降りる日は決まっていないのだが、今まで店が閉まっていたことは一度もなかったので、信は驚いた。今日は店じまいしなくてはならない用事があったのだろうか。

豹司牙も閉じられている店の入り口を見て、今日は店をやっていないのだとすぐに察したらしい。

「他の店は?」

「茶葉を売ってんのはこの店だけだ」

「ならば、これ以上長居する必要はない。戻るぞ」

他に候補がないのだと言うと、豹司牙はすぐに屋敷に戻ると言い放った。
主からの指示とはいえ、下僕の信と一緒に居たくないのだろう。

「あ、おいっ!声かけりゃ、特別に売ってくれるかも…!」

足早にその場を去ろうとする豹司牙の背中に声をかけるものの、彼は振り返ることもしない。

 

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「なんだよ、あいつ…!」

いくら昌平君が信頼を寄せている近衛兵でも、背中に目がないことを良いことに、信はべーっと舌を出した。

しかし、せっかくここまで来たのだから、無駄足になるのは避けたい。

「おい、オッサン!今日は居ねえのか?」

閉まっている扉を乱暴に叩きながら声をかける。

こちらはいつも大量に茶葉を購入しているお得意様なのだから、休みであっても茶葉を売ってくれるのではないかと、信は扉を叩くのをやめなかった。

しばらくすると、扉が開けられて、隙間から見慣れた顔が現れる。茶葉屋の店主だ。
この街で唯一の茶葉売りをしていることもあり、それなりに需要がある店で、儲けは悪くない。

信のような(正確には昌平君だが)お得意様も多くついているので、その店構えや、でっぷりとした腹を見れば、裕福な暮らしをしていることが分かる。

信に茶菓子をこっそりくれるのもこの男で、気前の良い性格が民たちから親しまれていた。

「なんだ、信か。今日も買いに来たのか」

「ああ、休みなのに悪いな。茶葉売ってくれねえか?」

店主が表情を曇らせたので、信は思わず目を丸める。

「実はなあ、いつも茶葉を採ってる畑がこの間の豪雨でやられちまってなあ…」

申し訳なさそうに店主が頭を掻いた。

店主の言葉通り、先月この地方一帯を豪雨が襲った。この季節で豪雨が来るのは珍しく、数日間ずっと続いていたこともあり、農作物にかなりの影響が出てしまったのだという。茶葉の収穫にも影響が出てしまったようだ。

「じゃあ、しばらく茶葉は採れねえのか?」

「保存分はまだ残ってるんだけどなあ…悪いが、一日に売れる量は制限させてもらおうかと考えててなあ」

新しい茶葉が入るまでどうするか検討するために、今日は店じまいをしていたらしい。
確かにこちらがお得意様とはいえ、この店で売られている茶葉を欲している客が多くいることを信は知っていた。

「そっか…それじゃあ、仕方ねえな」

昌平君の気に入る茶を淹れようと考えていた信は肩を落とす。

まだ屋敷には購入した茶葉が残っていたが、主との約束があったので、今日は店主にとびきり美味い茶葉を譲ってもらおうと考えていたのだ。

落ち込む信を見て、店主が豪快に笑う。

「わかったぞ。お前また不味いって怒られたんだろ?いい加減に学習しろよ」

「どう淹れたって、熱いだの渋いだの色々言われるんだよ!あれはぜってー嫌がらせだ!」

昌平君によく茶の文句を言われていることを、店主の男は知っていた。信が茶葉を購入しに来る度に愚痴を聞いていたのである。

気を利かせた店主が美味い淹れ方について過去に伝授していたのだが、湯の温度や茶の蒸らし方など、子どもの信が理解出来るはずがなかった。

 

 

伝授

「でも、今回は…ちゃんとしねえとな」

普段は主の文句を言うか、他愛のない話をして笑うか、茶菓子をもらって喜ぶ信が、いつになく真顔でそう呟いた。

「なにかあったのか?」

店主の男が不思議そうに問うと、信は僅かに口角を持ち上げる。

「…あいつのお陰で、長生き出来てたのが、わかったっていうか…」

自分の半分も生きていない子どもが長生きという言葉を使ったことに、店主が豪快に笑い声を上げた。

「そうだそうだ。下僕の中でもお前はマシな方なんだぞ!」

太い指が乱暴に髪の毛を撫でるものだから、信はやめろよと後ろに仰け反った。

「医者も手配してもらったから、ちょっとくらいはな」

乱れた髪を直しながら、昌平君に感謝の意を示さなくてはと独り言ちる。

「医者…?お前、怪我でもしたのか?」

見るからに元気の塊である少年が、病や怪我を連想させる医者を口に出したことに、店主が再び首を傾げた。

「ああ、いや、まあ…」

まさか大量の布団の中に押し込められていたなど言えず、信は言葉を濁らせた。

「話せば長くなるから言わねえけど、死に掛けたところを侍医に診てもらったんだよ」

「へえ、そりゃまた…右丞相様に仕えてる侍医に診てもらうなんざ、お前さんは随分と大切にされてるんだなあ」

店主がまじまじと信を見る。それから何かを思いついたように、店主はぽんと掌を叩いた。

「そうだ。茶は売ってやれねえが、今残ってる茶葉をより美味くする方法を教えてやるよ」

「え?そんな方法があるのか!」

ああ、と店主が頷いた。

「どうせここで説明しても、屋敷に戻ったら忘れちまうだろ?やり方を書いてやるから、誰かに読んでもらって教えてもらえ」

下僕の信が字を読めないことも店主は知っており、それはまた随分と親切な提案だった。

「時間が経った茶葉でもな、煎れば風味が段違いなんだ。きっとこれなら喜ばれるぞ」

「へへ、ありがとな!」

茶葉の煎り方が記された木簡を受け取り、信は笑顔を見せる。

「煎る時間も火加減も事細かに書いてあるから、字が読める庖宰ほうさい ※料理人に読んでもらって、一緒にやってもらうんだぞ。お前一人でやったら屋敷が火事になりかねん」

「いつも一言多いんだよ!」

軽口を叩き合いながら二人は笑う。銀子を渡そうとしたのだが、今日は特別だと断られた。

「お前みたいなガキでも、れっきとしたお得意様だからな。ほら、暗くなる前にとっとと帰れ」

茶葉は購入出来なかったが、普段からのお得意様としての行いが実を結び、良い情報を得ることが出来た。

店を出ると、信は豹司牙の姿を探した。

預けていた馬を連れて、先に帰ってしまったのではないだろうかと不安に思ったが、店を出てすぐのところで彼は信のことを待ってくれていた。

店を出て来た信の手に茶葉がないのを見つけ、豹司牙の視線が鋭くなる。無駄話をしていたのだと誤解されたのかもしれない。

「ちゃ、茶葉は不作で今売れねえみたいだから、代わりに残ってる茶葉を美味く煎る方法を教えてもらったんだよ」

木簡を差し出しながら言い訳をすると、豹司牙は何も言わずに歩き出した。どうやら怒ってはいないらしい。

すぐ外で待っていたことから、店主との会話が筒抜けになっていたかもしれないが、幸いにも昌平君の悪口は聞かれなかったようだ。もし聞かれていたらまたげんこつが落とされていただろう。

預けていた馬を取りに行き、豹司牙が先に馬に跨る。続けて信の腕をぐいと引っぱり、来た時と同じように前に乗せた。

馬に乗せられると、視界が高くなって、いつもと世界が変わる。

昌平君と共に馬車に乗る時も、馬車の窓から見える景色を眺めるのは好きだが、馬に跨って高くなった世界を見渡すのも信は好きだった。

自分の視界が高くなっただけなのに、見渡す世界が広がって、それだけで活力が湧き上がってくる不思議な感覚に、手足の爪先まで満たされるのである。

 

疑惑

屋敷が見えて来たところで、信は興味本位で木簡を開いた。

何が書いてあるのか、自分で解読出来ないのは分かっていたが、そのうちの一つだけ見覚えのある漢字を見つけて「あっ」と声を上げる。

すももだ!これだけは読めるぞ」

果物を意味する文字を見つけ、信は誇らしげにそう語った。

当然後ろにいる豹司牙から反応がないのは分かっていたが、別に彼に読み聞かせるために木簡を開いたわけではない。ただの興味本位である。

「…ん?茶葉の煎り方に李ってどういうことだ?李を使うのか?」

自分の知らない茶葉の煎り方が書いてあるのは分かったが、李は果物だというのに、茶葉を美味くする方法とどういう繋がりがあるのだろうか。

「おわっ?」

豹司牙が急に手綱を引いて馬を止めたので、信は反射的に振り返った。
まさかまたお説教が始まるのかと身構えると、豹司牙が信の手から木簡を奪い取った。

「あっ、何すんだよ」

「………」

豹司牙は答えず、じっと木簡の内容を確認している。

残っている茶葉を煎って風味を上げる方法が記されているそれ見て、彼の眉毛に剣先で刻まれたような深い皺が寄った。

まさか豹司牙も茶葉の煎り方に興味があるのだろうか。この仏頂面が自ら茶を淹れている姿など微塵も想像できず、信は怪訝な顔をする。

「茶葉の煎り方なんて、お前が読んだってわかんねえだろ。庖宰ほうさい ※料理人に見せろって言われてんだよ」

「…降りろ」

豹司牙が低い声で囁いた。

発言が気に障ったに違いないと直感で悟った。もう前方に屋敷が見えているとはいえ、ここから徒歩で帰れと言われたら、信の足でもそれなりに時間がかかる。

「な、なんでだよ!これくらいで怒んなよ。ちゃんと屋敷まで乗せてくれって…」

てっきり豹司牙の機嫌を損ねたことで歩いて帰れと言われているのだと信は疑わなかった。

しかし、豹司牙は木簡を手早く畳んで紐で縛る。信の手にその木簡をしっかり握らせると、いつもとは違った眼差しを向けて来た。

あの鋭い威圧感ではなく、頼みごとをするような、何かを訴える眼差しだった。

「至急、これを総司令へお届けしろ。必ずだ。他の誰にも見せてはならん」

「えっ?」

「豹司牙がそう申していたと告げろ。二度は言わん」

そう言うと、豹司牙は強引に信の体を突き飛ばした。

「おわあッ!?」

咄嗟に受け身を取ったので怪我はしなかったが、何をしやがると文句を言おうと顔を上げた時にはすでに豹司牙は馬を走らせて行ってしまった。

なぜか街の方へ戻っていく彼の姿を見て、信は頭に疑問符を浮かべる。

「なんなんだよ、あいつ…」

手に握ったままである木簡に気づいて、信は改めて内容を見返した。しかし、すもも以外の字は何が書いてあるのかさっぱりである。

茶葉の煎り方がそんなにも珍しかったのだろうか。それにしても急いで昌平君に見せろと言う豹司牙の意図が分からない。主と同じで、肝心なことだけは教えてくれない男だ。

(…急ぐか)

昌平君なら何か分かるのだろうと考えながら、信は遠くに見えている屋敷へと走った。

 

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疑惑 その二

全速力で走り続けたせいか、屋敷に到着した時には、信はすっかり息を切らしていた。

止まらない汗を拭いながら、昌平君に木簡を渡すよりも先に水が飲みたい気持ちが膨れ上がる。

喉を潤してから昌平君に木簡を渡そうと考えた。こんなカラカラの喉では、豹司牙からの伝言など伝えられそうにない。

井戸がある裏庭に向かうと、屋敷の中で従者たちはすでに夕食の準備に向けて働いていた。今朝の信の捜索によって、仕事を中断していた時間帯があり、普段よりも忙しそうだ。心の中で詫びながら、井戸のある裏庭へと降りる。

「…ふはあ、生き返った」

柄杓で水を飲むと、乾いていた喉が一気に潤った。

「おう、信じゃねえか。今朝は大変だったみたいだなあ」

後ろから声を掛けられて振り返ると、厨房を担当している庖宰ほうさい ※料理人 の男がいた。彼は下僕ではないのだが、信に優しく接してくれる。

屋敷で雇われたのは半年前のことだが、どうやら息子が信と同じ年齢であることから、信のことをよく気にかけてくれる男だった。昌平君に命じられて、救出された信に豪勢な料理を作ってくれたのも彼だ。

「朝からひっでー目に遭ったんだよ」

「ははは!布団しまう場所で寝てて、そのまま気づかれなかったんだって?それはお前が悪いだろ!」

自業自得だと笑われて、信はいたたまれない気持ちになる。不貞腐れた表情をしていると、庖宰の男が信の手に握られている木簡に気づいた。

「ん?お前、何持ってんだ?サボってねえでさっさと仕事しろよ」

信の勤務態度が不真面目であることは屋敷中で誰もが知っていた。しかし、信は「サボってねえよ」と反論する。

(…あ、そうだ。オッサンならコレのやり方わかるんじゃねえのか?)

茶葉屋の店主から、火加減や煎り方には細かいやり方があるので、この書簡は庖宰に見せろと言われたことを思い出す。

その木簡を誰にも見せるなと豹司牙に言われていたことを忘れ、信は茶葉の煎り方について庖宰の男に聞こうと考えた。

「なあ、茶葉を煎るのにすももって使うのか?」

「はあ?李だと?」

なにを言っているのだと言わんばかりの表情で聞き返され、信が頭を掻く。

「いや、だってよ…茶葉屋のオッサンがこれに李って書いてたから…」

「どれどれ?」

庖宰の男が信の手から木簡を奪う。彼は下僕ではないし、字の読み書きをしっかりと習っているので、その木簡も問題なく読めるようだった。

 

 

紐を解いて中を見ると、庖宰が険しい表情を浮かべる。

「ははあ、なるほどな…これの通りにすりゃあ、茶葉が美味くなるってのか」

豪雨の影響で新しい茶葉を購入出来ず、代わりにこの方法を教えてくれたのだと伝えると、庖宰の男がふむふむと頷いた。

「…そりゃあお前、そもそもここの水は硬水なんだから、茶葉がどうこう考える前に、まずは水から仕入れなきゃダメだろ」

「はあ?水から変えろってのか?意味わかんねえよ」

子どもの信には水に種類が存在することなど分かるはずもなかった。
庖宰の男が辺りを見渡して、信に手招きをする。

「仕方ねえ。夕食の仕込みはもう終わってるからよ、今から急いで茶を淹れるのに適した水を買いに行くぞ。急げばまだ水売りに会えるはずだ」

まるで秘密ごとを共有するかのように、小声でそう言われたので、信は目を丸めた。

仕込みを終えているとはいえ、厨房が一番忙しくしている時間帯だ。そんな時に、自分のために仕事を抜けて良いのだろうかと心配になった。

それに、茶葉を煎るのに軟水が必要なのだろうか。
茶葉屋の店主は火加減について話してくれたが、水の話は一切していなかった。何か矛盾を感じ、信は思わず身構える。

「別にそこまで急ぐことじゃ…」

「この屋敷の近くに水売りの家があるんだ。そこなら軟水も売ってくれてるはずだ。ほら、行くぞ」

手首を掴まれて、信は狼狽えた。

裏庭には小さな門があって、そこから屋敷の外へ出入りすることが可能だった。裏門へ連れて行こうとする庖宰の強引な手つきに、何か嫌な予感を覚える。

「また屋敷を出るなら、昌平君に言わねえと…」

反射的に主の名前を出すと、庖宰の男の目つきが変わった。目つきだけでなく、人格まで変わったように凄まれる。

「な、なんだよっ」

機嫌を損ねるような言動をした覚えはなかったので、さすがに信もおかしいと強い違和感を覚える。

「とっとと来いッ!」

「おい、放せッ」

なんとかその手を振り解こうとするが、子どもの力では全然振り解くことが出来ない。

それでも両足に力を入れて、なんとかその場から連れていかれまいと踏ん張っていると、庖宰の男が乱暴に舌打った。

木簡を手放し、空いた手が信の腹部を殴りつける。

「うぐッ」

くぐもった声を上げ、信の意識はずるずると闇の中へと引きずり落されてしまうのだった。

 

豹司牙と共に茶葉を買いに行ったはずの信が戻って来ないことに気づいたのは、夕食の報せを受けた時だった。

馬を走らせればそこまで時間はかからないはずだし、あの豹司牙が寄り道をするはずがない。信が茶葉以外の買い物をしたいと駄々を捏ねたとしても、彼が許すとは思えなかった。

何かあったのだろうかと昌平君が席を立って部屋を出ると、ちょうど豹司牙が廊下の向こうから足早にこちらへ向かっているのが見えた。傍に信の姿はなかった。

「信はどうした」

問いかけるものの、また何か面倒事を起こしたに違いないと昌平君は考えていた。反省させるために物置にでも閉じ込められられたのだろうか。

昌平君の前で拱手した豹司牙が、怪訝そうな顔で昌平君の背後を見た。

「…お会いになっていないと?」

豹司牙からの問いと、彼の鎧に小さな返り血が付着しているのを見つけ、昌平君は思わず眉根を寄せる。

「何があった」

さっと辺りを見渡し、誰もいないことを確認してから豹司牙が答える。

「屋敷に密偵が潜んでいるようです。連絡を取っていた外部の者はすでに捕縛しております」

豹司牙の言葉に、昌平君は鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

「…信の正体が気づかれたか」

恐らくは、と豹司牙が低い声で返す。

「外部の者が密偵へ渡す予定だった書簡を確認しました。字の読めぬ信にその書簡の運搬を委ねたようで…まだその書簡をご覧になっていないということは、すでに信は密偵の手の内に落ちたかと」

豹司牙が簡潔に要点だけを伝えていく。

茶葉屋の店主が、茶葉の煎り方を記した書簡を信に渡したこと、字の読めぬ信に、それを庖宰ほうさい ※料理人に見せて読んでもらうよう指示を出したこと。その書簡に、暗号が記されていたこと。

暗号を解読すると、この屋敷に李一族の生き残りがいる・・・・・・・・・・・旨が記されており、恐らく信がその生き残りだという推測が記されていたのである。

「………」

昌平君は目を伏せて、思考を巡らせていた。嫌な汗が背中に滲む。

重臣である豹司牙が情報漏洩をするはずはない。もしも彼が情報漏洩をするような口の軽い男だったのなら、すでに信の命はなかったはずだ。

どこで情報漏洩があったのだろうか。屋敷内でも厳重に情報管理を行っていたし、信の本当の素性・・・・・は昌平君と豹司牙しか知らぬ事実だ。

そして、その事実は信自身も知らない・・・・・・・・し、証明することは出来ない。

「茶葉屋の店主を捕らえるために、一度街へ戻ったのですが、信には必ず書簡を届けるよう。単独行動を委ねました。…この責は信の救出後、どうか俺の首で」

すぐさまその場に跪き、豹司牙が頭を下げる。昌平君は首を横に振った。

「良い。お前の判断に不足はなかった。私に会う前に、先に密偵が信と接触して書簡を読んだのだろう。…密偵の詳細は?」

豹司牙の鎧についている返り血から、恐らくは茶葉屋の店主を拷問にかけて、情報を吐かせたのだろうとすぐに察した。

返り血の量がそう多くないことから、茶葉屋の店主はすぐに情報を吐いたに違いない。だとすれば密偵としての経験はそう長くないか、報酬を目当てに雇われたとも考えられる。

「半年前に屋敷で雇われた庖宰の男一名のみ。書簡を渡す先を指名していたことから間違いないでしょう。これまでも何度か書簡に暗号を記して報告をし合っていたそうです」

「…至急、黒騎兵を徴収させて信の救助を。人目を避けるために、まだそう遠くへは行っていないはずだ。屋敷の周辺をくまなく探せ。密偵は殺さずに捕らえよ」

「はっ」

二人はすぐに行動を開始した。

 

危機

「うう…」

腹部の鈍痛によって、意識に小石が投げつけられた。

ゆっくりと瞼を持ち上げると、草と夜露の匂いが鼻をつく。じっとりと湿り気のある嫌な空気が漂っていた。

藁の上に寝かせられていたのだが、その藁も湿気を吸っており、寝心地がかなり悪い。藁の上で眠るだなんて随分と久しぶりのことだった。

ここはどこだろうと考える前に、信は記憶を失う前のことを思い出した。

「う…ッ…?」

何かで口を塞がれていることに気づき、それを外そうと腕を動かそうとしてそれが叶わないことを知る。体の前で両手は縄で一括りに拘束されており、信は狼狽える。

(な、なんなんだよ…!?)

状況が分からず、混乱しながら信は辺りを見渡した。

あばら屋の中にいるようで、縄枢じょうすう  ※扉代わりに下げている縄が目につく。

甕製のゆう  ※丸い窓から見える空はもう真っ暗だった。月も覆われてしまっているほど雲が濃い。

どうしてこんなところにいるのだろうかと信が記憶を失う前のことを思い出していると、砥石で刃物を研ぐ嫌な音に気が付いた。
反射的に振り返ると、簡素な台で庖宰ほうさい ※料理人 の男が静かに庖丁※包丁を研いでいる姿がそこにあった。

月明りもなく、簡素な竈の火だけが室内を照らしている。竈から上がる煙と湿気がじっとりと肌を包み、汗を滲ませる。

鋭く研がれた刃に男の顔がぎらりと映ったのを見て、信は背筋を凍らせた。

(まさか…こいつ、俺を殺す気か?)

床に転がったまま、信は男が庖丁を研ぐのを見つめることしか出来ない。
体を拘束してあるのはきっと逃げられないようにしているためで、口を塞いでいるのは助けを呼べないようにしているからだろう。

もしも信の予見通りならば、体の下に敷かれている藁は布団代わりなどではなく、血を吸う役割を担うことになる。もちろん殺した後の処理がしやすいための配慮だ。
竈に火をつけているのは、殺した証拠を燃やすためなのだろうか。

「っ…」

そこまで考えて、心臓を鷲掴みにされるような恐怖が信を襲い、思わず体が震え上がった。
庖宰の男がどうして自分の命を奪おうとするのか、何も理由が思いつかない。

息子と同い年である自分を何かと気にかけてくれていて、いつも昌平君や家臣たちに叱られている自分を慰めてくれたのも彼だった。食べ盛りの年齢である自分に、余った材料で夜食を作ってくれたことだってよく覚えている。

自分に父親がいたら、きっとこんな風に優しく接してくれるだろうと何度も思った。そんな彼が一体どうしてこんなことを。

「―――」

目が合うと、庖宰の男の手が止まる。

心臓が早鐘を打つものの、拘束されている信には逃げ出す術を持っておらず、硬直することしか出来ない。

もしも口が塞がれていなかったのなら、どうしてこんなことをするのかとすぐに問い詰めていただろう。

 

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「まさかお前が、あの李一族の生き残りだったとはなあ」

(…は?)

聞き慣れない言葉に、信は眉根を寄せる。

何の話だと瞬きを繰り返していると、庖宰の男は庖丁を研ぐのを手を止めて、刃をじっと見つめていた。竈の火に照らされたその刃に信の恐怖している顔が映る。

研ぎ終えた庖丁を握り締め、庖宰の男がゆっくりと信の方に歩み寄って来る。

「っ、…っ…!」

来るなと叫びたくても、口は塞がれており、恐怖で喉が塞がってしまう。身を捩って何とか逃げようとしても、あっという間に距離を詰められてしまった。

すぐ目の前までやって来た庖宰の男は、まるで信の反応を楽しむように、庖丁の切っ先を顔の前でゆらゆらと動かした。

「あの男はやけに下僕のガキを優遇していると思ったが、李一族の生き残りだってんならそれも納得出来る」

独り言ちる男に、信が思わず怪訝な表情を浮かべる。李一族とは何なのだろうか。

信の表情を見て、庖宰の男は不思議そうに首を傾げた。
庖丁の切っ先を向けられたまま、口に噛ませていた布を外されて信は息を整える。

「な、なんだよ…!李一族って、何の話だよ…!」

緊張と不安で声が震えてしまう。
信が嘘を吐けない性格なのは屋敷の家臣たちもよく知っている事実だったので、庖宰の男は信の言葉を聞いて、僅かに顔をしかめた。

「…お前、引き取られる前は辺鄙な集落にいたって言ってたよな?その前はどこにいた?」

「どこって言われても…そんな昔のこと覚えてねえよ。親の顔だって覚えてねえし…」

「だが、お前はの字を読めた。それはなぜだ?」

茶葉屋の店主から渡された書簡に記されていた内容を見て、信は李の字だけはなぜか読めた。果物を意味する字でもあるのだが、字の読み書きが一切出来ない彼がなぜその字だけを知っていたのか、庖宰の男は疑問を抱いているらしい。

しかし、信にもそれはわからない。
誰かに教わったのかと問われても記憶はない。機密事項の取り扱いのことがあるので、昌平君には一切字の読み書きは習っていないし、他の下僕仲間たちから習った覚えもない。

では、どうして自分は李の字を読めたのだろうか。

信もその答えが分からずにいると、庖宰の男が庖丁を下げて、静かに話し始めた。

「…李一族が滅んだのは、今から何年も前の話だ。女も子供も一人残らず根絶やしにされたが、将軍の息子だけは未だ遺体が見つかっていない」

「………」

なんの話をしているのだと庖宰の男を見据える。

男の機嫌を損ねれば簡単に首を掻き切られてしまうのだと察して、口を挟むことはしなかった。

将軍という言葉が出て来たことから、恐らくは力のある一族だったのだろう。この国に仕えていたのだろうか。

「もしもお前が、あの時に逃げ延びた李一族の嫡男だったなら、この国を大いに揺るがすことになる。…だから、分かってくれよ」

縋るような眼差しで、自分の命を奪うことに許しを請う言葉を掛けられて、信は固唾を飲んだ。

「…ったく、あの野郎、いつになったら来るんだよ。まあいい。先にやっちまうか」

庖宰の男が独り言ちて再び庖丁を構えたので、信は恐ろしさのあまり、動けなくなってしまう。拘束されていなかったとしても、きっと逃げられなかっただろう。

「ち、ちが、う…李一族なんて、俺は、知らない」

強張った喉を震わせながら、何とか必死に言葉を紡ぐ。
信の命を奪おうとしているはずの庖宰の男の瞳に悲しみが浮かぶものの、庖丁を下げる様子はない。

涙を浮かべながら必死に首を横に振る。極限まで追い詰められた信には、もうそれくらいしか意志表示の手段が残されていなかった。

庖宰の男が庖丁を振り上げたのを見て、信は死に直結する激痛と恐怖を見越して、強く目を瞑った。

 

捜索

裏門の近くに落ちていた木簡は、豹司牙が話していた暗号が記された書簡だった。

普通に読めば、茶葉の煎り方を記した内容である。しかし、書き出しの文字だけを読み込むと、確かに豹司牙が話していたように、李一族の生き残りが信である可能性が高いという内容が記されていた。

庖宰の男がこの屋敷に潜んでいた密偵であり、茶葉屋の店主が情報の受け渡し役として仲介し、そこからさらに繋がっていた第三者がいることも明らかになった。恐らくはその人物が黒幕だろう。

茶葉屋の男が報酬目当てに動いていたことは豹司牙の拷問で明らかになったし、黒幕からしてみれば使い捨ての駒だったに違いない。

昌平君が定期的に茶葉を購入する常客であったことから、屋敷との繋がりを見つけ、店主は目をつけられたのだろう。
店主が庖宰の男と協力をしていたのは先月頃からで、豪雨被害による茶葉不作の経営難があり、報酬に目が眩んだのだそうだ。

ただし、黒幕が何者であるのかは茶葉屋の店主も分からないのだという。
現れる時は必ず黒衣で顔を隠し、名前も名乗らなかったようで、男であるということしか分からなかったそうだ。

その行動から、誰にも正体を知られないよう、足がつかないよう、細心の注意を払っていることが分かる。

庖宰の単独行動だったならまだしも、二人を動かしていた黒幕がいることに、昌平君は溜息を隠せなかった。

その正体を推察するのは簡単で、李一族を根絶やしにしようと企んでいる者が未だ存在しているということだからだ。

「………」

昌平君は胸に湧き上がる不安に、思わず眉根を寄せた。

黒幕の目的を考えれば、信の命を奪うことは確実だ。わざわざ生き長らえさせておく必要はないし、もしかしたら信の首と引き換えで密偵に報酬を用意しているのかもしれない。

先に信と接触した密偵が彼の命を奪おうとするのなら、きっと屋敷以外での殺害を試みるに違いない。
誰かに信の殺害を目撃されれば、昌平君に報告がいき、すぐに自分の首が飛ぶことになると分かっている証拠だともいえる。

信も無抵抗のまま殺されることはないはずだし、そうなれば確実に周囲に助けを求めることが出来ない場所で殺害を実行すると読めた。問題はその場所である。

「………」

執務室で昌平君は屋敷周辺の地図を睨むように見つめていた。
豹司牙率いる黒騎兵たちには周囲を探らせているが、万が一間に合わなかったらと思うと、それだけで心臓の芯まで凍り付きそうになる。

(…茶葉屋の店主は、信を殺すのも協力するつもりだったのか?)

大の大人が子ども一人を殺すのはそう難しいことではない。しかし、信に限ってはそうではない。

彼は昌平君が傍に置いている下僕であり、今朝の騒動のように、姿が見えなくなれば配下たちに捜索をさせることも想像出来たはずだ。

だとすれば、信の殺害を気づかせぬように、見張り役を立てていた可能性が考えられる。
書簡のやり取りと豹司牙からの証言を考えると、密偵と茶葉屋の店主が二人で実行に移そうと企んだに違いない。そうなれば、落ち合う場所が必要だ。

密偵は茶葉屋の店主が捕縛されたことには恐らく気づいていないし、合流を待ってから信の殺害を実行する予定なら、僅かながらではあるが、まだ猶予は残されている。

(どこで落ち合うつもりだった?)

この木簡は裏庭に落ちていたのだが、密偵がわざわざ証拠を残すような失態をするとは思えなかった。

信が抵抗したにせよ、あえて証拠を残したまま、その場を去った密偵の行動には、何か意味があるような気がしてならない。

証拠となる木簡を残していった行動に、密通者同士にしか解けぬ暗号・・・・・・・・・・・・・が記されていることを示唆しているのではないかと考えた。

何か見落としがないか、昌平君は再び木簡に目を通す。
第三者が読んでも解読出来ない暗号が潜んでいるのならば、たとえ証拠を残しておいても何ら問題はないということだ。

「…?」

信の素性を示す暗号が記されていた木簡には、暗号を隠すために茶葉の煎り方が事細かく記されていたが、読んでいて一つ違和感を覚えた。

茶葉の煎り方について特記しているはずなのに、軟水を汲むよう指示が書かれているのだ。

(この周辺で取れるのは硬水だ。なぜ軟水を汲む・・・・・と書いてある?)

軟水は水売りから購入しないと手に入らない。だというのに、その木簡には井戸で軟水を汲むよう指示していた。茶葉を煎る過程で使用するのかと思いきや、汲んだ軟水の使い道に関しては一切記されていない。

弾かれたように昌平君は屋敷周辺の地図に視線を向けた。

裏門から出て真っ直ぐ進んだ先に、今は使われていない小屋がある。もともとそこは水売りが住んでいた家だった。

現在は使われていないことを記すために、墨で斜線が引かれている。しかし、小屋の隣には確かに井戸の記述があった。

その井戸からはこの周辺で唯一軟水が取れたことが記されている。珍しいことであったので、昌平君も水源を調査させたことを記憶していた。

この周辺では滅多に取れない軟水をその井戸から汲み、水売りの男はそれで生計を立てていた。

ところが先月の豪雨被害により、井戸の水は泥交じりのものになってしまったのである。
そのため、水売りの男はその井戸水を使えなくなってしまい、別の地方へ旅立って行ったという記録が残っていた。

(…小屋で殺害を行い、使われていない井戸ならば、亡骸を隠す・・・・・には都合が良い)

茶葉屋の店主が密偵と協力して信の殺害と、証拠隠滅を図ろうとしているのなら、その小屋と井戸を候補に挙げた可能性が高い。

昌平君はすぐに馬の手配をさせ、裏門から真っ直ぐ進んだところにある小屋を目指した。

 

開花の兆し

殺気を剥き出しに、そのままの勢いで庖宰ほうさい ※料理人が庖丁が振り下ろした瞬間、全ての時間が止まってしまったかのような錯覚に襲われた。

その瞬間、恐怖でいっぱいだったはずの信の胸が急に軽くなる。

「なあ、こんな簡単に殺しちまって良いのか?」

庖丁の切っ先が首元に触れる寸前で止まった。

それまで死の恐怖で怯え切っていた子どもが、まるで人が変わったかのように冷静な言葉を掛けたものだから、庖宰の男もあからさまに戸惑っている。

首筋に鋭い切っ先が宛がわれているというのに、信は前に身を乗り出すようにして、庖宰の男を真っ直ぐに見据えた。刃物の切っ先が僅かに皮膚を傷つけたものの、怯む様子はない。

「お前が言うように、もしも俺が李一族とかいう生き残りだったんなら、使い道は山ほどあるだろ。ここでただ殺すだけなんて、本当に良いのか?」

意外にもそれは、命乞いでもなければ、恨み言でもなかった。

しかし、れっきとした意志を持って、信が庖宰の男の目を見つめながら語り掛ける。
瞬き一つしないでいる信の瞳に、恐怖の色は微塵も浮かんでいなかった。

つい先ほどまで怯え切っていた子どもがまるで別人のように変化したことに、庖宰の男はためらい、庖丁を持つ手を震わせる。

「おい、決めるなら急いだほうが良いぞ?」

命を奪われそうになっているというのに、信は挑発するように笑った。

「俺をここに連れて来てすぐに殺せば良かったのに、お前がもたもたしてっから、豹司牙と昌平君はもう黒騎団を動かしてるはずだ。今頃ここに向かってるさ」

「な…」

男が愕然としたのを見て、信がにやりと笑う。

「昌平君を甘く見るなよ。あいつはいつだって俺の首輪の引き紐を握ってんだ。飼い犬の居場所を探るくらい訳ないさ」

その言葉には確かに信憑性があった。

今朝の騒動の時も、信の捜索を命じたのは主である昌平君自身で、たかが下僕一人のために家臣たち全員を動かしたのである。信の不在を不審に思い、黒騎団を動かしたとしても何らおかしなことではない。

「お前、茶葉屋の店主とここで落ち合うつもりだったな?」

確信を得たような信の言葉に、庖宰の男は思わず息を詰まらせる。

まさか文字の読み書きが出来ないはずの信が、あの書簡の暗号を解いたというのか。
いや、それはあり得ない。恐らくは木簡を書いたのがあの茶葉屋の店主ということで、自分たちに繋がりがあると気づいただけだろう。

「なあ、なんであいつはここに来ないと思う?」

瞬き一つせずに、庖宰の男を真っ直ぐに見据える信の瞳は、闇一色の虚ろだった。

その虚ろな瞳に映る自分の怯え切った顔を見て、庖宰の男はすっかり動揺してしまい、無意識のうちに体が後退してしまう。

「な、なんなんだお前は…!あいつが、あの暗号を解いたとでも言うのか?」

たかが子ども一人に怯える彼に、信はますます口角を吊り上げた。

「軍の総司令と右丞相はただの肩書きだと思ってんのか?」

先ほどまで恐怖で歪んでいたはずの信の顔は、今では余裕の色しか浮かんでいなかった。しかし、その瞳は今でも闇一色の虚ろであるという違和感に、庖宰の男は鳥肌を立てる。

追跡を免れるために、書簡に暗号を紛れさせたのだ。そう簡単に解読されるはずはないと庖宰の男は自分に言い聞かせたものの、昌平君を甘く見るなという信の言葉に動揺が止まない。

きっと救援が来るまで、信は言葉巧みに時間を稼ごうとしているに違いない。
騙されないぞと言い返そうとして、それよりも早く信が口を開いた。

「…ああ、もうそこまで来てるぞ?ほら」

背後にある、縄枢じょうすう  ※扉代わりに下げている縄を顎で示すと、弾かれたように庖宰の男が振り返った。

まさかもう昌平君たちがここまでやって来たのかと焦燥の表情を浮かべるものの、そこにいは誰もおらず、小屋の外に誰かがいる気配すらない。

庖宰の男が縄枢を振り返った瞬間に信は立ち上がっていた。そして間髪入れずに、大きく体を捻らせ、強力な回し蹴りを隙だらけの背中にぶち込んだのだった。

「ぐわあッ!」

両手は拘束されたままだというのに、子どもの威力とは思えない蹴りによって、庖宰の男が小屋の壁に叩き付けられる。その隙を逃さず、信は縄枢から勢いよく小屋の外に飛び出した。

弓矢のように一直線に駆け出していると、

(…あれ…俺、今まで何してた…?)

全速力で駆け出していることに気づいた信は、今の今まで何をしていたのかよく思い出せなかった。

「待ちやがれッ!」

「!?」

後ろから怒鳴り声が響き、庖宰の男に命を狙われていることを思い出す。

(早く逃げねえと)

もうとっくに日は沈んでおり、月にも雲が掛かっている。どこに連れて来られたのかは分からないが、近くに民居はなく、見渡す限り好き放題に伸び切っている草木ばかりだった。

遠くにぼんやりと明かりが見える。あの建物まで逃げ切れば助かるかもしれない。

夜の闇の中で信はひたすら走り、庖宰の男から逃げ続けた。

 

後編はこちら

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初恋は盲目(蒙恬×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/嫉妬/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「初恋の行方」の後日編です。

前編はこちら

 

宮廷での執務

宮廷に到着し、蒙恬は昌平君が執務に使っている一室へと案内された。

しかし、昌平君の姿はそこになく、どうやら軍師学校での執務を終えて今向かっている途中なのだそうだ。

昌平君が来るまでは軍政の話も進まないので、蒙恬は椅子に腰を下ろして、師である彼を待つことにした。

(信は一人で練習してないかな…無茶してないと良いけど…)

気品高い歩き方というものは、良い家柄に生まれた者が幼い頃からその身に叩き込まれる習慣である。

しかし、下僕は重い荷を背負ったり、農作業や家事など、常に下を向いて重労働を行う。もちろん主や家の者が現れると、作業を中断して頭を下げなくてはならない。

歩幅や着物の乱れをいちいち気にしていては仕事が進まないし、仕事が滞れば主から厳しい罰を与えられる。
それが日常である下僕は、背筋を正して歩幅や着物を気にしながら歩く習慣とは無縁だった。

貴族の娘の侍女として仕えるのなら多少の教育は受けるようだが、信は違う。幼い頃はその外見のせいで、男同然に重労働や家事を強いられていたようだし、王騎の養子となってからも、淑女としての教育は一切受けなかった。

王騎は信の将の才を見込んで、身寄りのない彼女を迎え入れた。養子だとしても命の危機に晒されるほどの厳しい鍛錬を強いられて、信曰く下僕時代よりも地獄の日々を送ったのだという。

王騎は信を嫁がせるつもりなどなく、秦軍の戦力の一つとして彼女を育てていたのだろう。それほどまでに信の将の才は凄まじいものだったのだと分かる。

鍛錬といえど、常に命の危険と隣り合わせだった信には、淑女としての教育を受ける時間などなかったのだ。

信自身も必要ないと感じていたのだろうに、他でもない自分のために練習をしてくれていると思うと、愛おしさが込み上げて来る。

信と自分が出会ったのは、他でもない彼女が天下の大将軍を目指していたからこそで、彼女が下僕のままだったのなら一生出会うことはなかったに違いない。

奴隷商人から自分と大勢を救い出してくれた信の勇姿は今でも覚えているし、今思えば、あの一件を通して自分は彼女に心を奪われたのだ。

(あーあ、早く会いたいなあ)

頬杖をついて蒙恬は信に想いを馳せる。離れていても信のことばかり考えてしまう。

信が傍にいる時はもちろん、そうでない時であっても機嫌が良いことを従者たちによく指摘されるのは、彼女と婚姻出来る幸福と、その先にある夫婦としての生活に胸が満たされているからだ。

 

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「蒙恬将軍」

扉の外で待機していた兵に声を掛けられ、蒙恬はようやく昌平君が来たのかと立ち上がる。

しかし、声を掛けてくれた兵は何やら焦った様子で扉を開けると、困ったように蒙恬に視線を向けて来た。

「どうした?」

「来客がいらっしゃったのですが…その…」

言葉尻を濁した兵は、何か言いたげに蒙恬と扉の外にいるらしい来客へ交互に視線を向けている。

通して良いのか判断を蒙恬に委ねようとしているようだが、あまりにも困惑した表情でいるため、蒙恬は小首を傾げた。

(…もしかして、信?)

嬴政のもとに顔を出したいと話していた彼女が、こっそりついて来たのだろうか。

思い立ったら考えるよりもすぐ行動へ移す彼女ならやりかねないと、蒙恬は肩を竦めた。
自分の嫉妬で秦王には会わないでほしいと訴えたものの、やはり二人の親友という関係性は手強い。

宮廷に来てしまったのなら追い返す訳にもいかないし、信も言われていたのに宮廷に来てしまったことに罪悪感を覚えて顔を出しに来たのだろう。

「いいよ、通して。あ、しばらく人払いもしておいてくれる?」

「よ、よろしいのですか?」

蒙恬が指示を出すと、兵が再確認をして来た。どうしたのだろうと思いながらも、蒙恬は頷いて信を待つ。

兵が来客を通すために一旦下がると、蒙恬はやれやれと苦笑を浮かべた。

屋敷で待つように話していたのに、わざわざ自分に会いに来た信の気持ちを考えると無下には出来ないし、愛おしくて堪らなかった。

「信ってば、屋敷で待っててって言ったのに……えっ?」

入って来たのが自分の妻になる女性ではなく、全く面識のない女性であったことに、蒙恬は大口を開けた。

 

上品な着物を身に纏い、髪も丁寧に結い上げられている彼女を見れば、どこかの令嬢であることが分かる。

気品高く歩き、蒙恬の前にやって来たその彼女は意志の強い瞳を持っていた。

ぴんと張られた一本の弦のように立ち姿も美しい。見目からして、恐らくは蒙恬と同い年くらいだろう。

(えーっと…?)

蒙恬が言葉に悩んだのは当然だった。
自分を尋ねて来たということから、彼女の方には蒙恬に面識があるのだろうが、蒙恬にその女性に関しての全く記憶がないのだ。

記憶の糸を手繰り寄せて見るものの、名前の一つも出て来ない。

これだけ美しい令嬢であるのなら、忘れるはずがないと思うのだが、記憶からは何も手がかりが出て来なかった。

とはいえ、自分を尋ねてくれた女性に恥を欠かせる訳にはいかない。
当たり障りない対応で何とかこの場をやり過ごし、令嬢には早々にお帰り頂くことに決めたのだった。

「どうも、ご機嫌麗しゅう」

酒の酔いで褥を共にした女性でないことを祈りながら、蒙恬はいつものように人の良い笑みを繕う。

信と褥を共にする日のために、蒙恬はそれなりに夜の場数を踏んで来た。一々名前など覚えていないのだが、もしかしたらその女性のうちの一人かもしれない。

蒙恬の言葉に女性は笑顔を浮かべると、これまた美しい一礼で返した。

「…あなた様が蒙恬将軍ですね?突然のご訪問、申し訳ございません」

(ん?初対面で間違いないのか?)

確認するように名前を復唱されたことから、向こうにも自分の面識がないのではないかと考えた。

こちらに面識があるのならば、名前を確認するような質問はしないだろう。
だとすれば、思い出せないとしても納得がいく。そもそも彼女とは出会ったことがないのだから、思い出せないのは当然のことだ。

「それで、本日はどのような用件で?」

心の中でこっそり安堵しながら、彼女の来訪の目的を問う。

「実は、十年以上前のことなのですが…蒙恬様に助けていただいたことがあるのです。将軍昇格をされたと伺い、ささやかではございますが、お祝いの言葉を」

「ああ…」

なるほどと蒙恬は頷いた。
一応、初対面ではないようだが、彼女の言葉を聞く限り、こちらが思い出せないとしても不思議ではない。

それに、宮廷を出入り出来るということは、恐らく父親が宮廷を職場にしている高官なのだろう。

今日は宮廷に自分がいると知り、ついでに顔を出したというところだろうか。
そうと分かれば、不安に思うことは何もないと、蒙恬は笑みを深める。

「信将軍とのご婚約もおめでとうございます。心から祝福致しますわ」

「ありがとうございます」

蒙恬が信と婚姻する話は、すでに秦国で広く知れ渡っている事実だ。

過去に褥を共にした女性たちからは恨みつらみが綴られた書簡が送られることもあったのだが、彼女の言葉には一切の棘を感じないので、蒙恬との婚姻を狙っていたわけではなさそうだ。腹の内を探る必要もないだろう。

「それで、あの…是非とも蒙恬様にお伺いしたいことがございまして」

どうやら本題はそちららしい。将軍昇格と婚約の祝辞は建前といったところか。

「答えられる範囲であるならば、何なりと」

機密事項は洩らすことは出来ないことを前提に返すと、令嬢の目の色が変わったので、蒙恬は思わず身構えた。

あの時・・・、蒙恬様とご一緒に、奴隷商人を成敗してくださった方を探しているのです」

「………」

蒙恬はしばらく沈黙した。

彼女が自分に助けられた十年以上前の話をしているのだというのは理解したのだが、その言葉だけではあまりにも情報が欠けている。

過去に奴隷商人を成敗したことなんて、あっただろうか。

「ええと、奴隷商人から…?」

「はい」

蒙恬が聞き返すと、令嬢は大きく頷いた。

先ほどまでお淑やかにしていた彼女が前のめりで詰め寄って来るあたり、どうやら相当その情報が欲しいらしい。

敵地の領土を手に入れた時の制圧手続きで、親を失った子どもたちが奴隷商人たちに引き取られていくのを見たことはあったが、直接働きかけた覚えはなかった。

必死に蒙恬が記憶の糸を手繰り寄せていると、

「覚えておられませんか?私もあなたも、奴隷商人の馬車に乗せられ、何処ぞへ売られそうになったのです」

「…ああ!」

彼女の言葉を助言に、信と初めて出会った日のことを思い出した蒙恬はつい大声を出した。

 

回想~英雄との出会い~

「もしかして、城下町で…?」

蒙恬の言葉を聞いた、令嬢が満面の笑みを浮かべて何度も頷く。

「そうです!あの時、私も家臣たちと離れたところを狙われてしまい、蒙恬様と同じように馬車の檻に囚われていたのです」

それはもう今から十年以上も前の話だ。

蒙恬はまだ幼い子どもだったにも関わらず、家庭教師の女性に恋をしていた。
もちろんその初恋は実ることなく、子どもながらに失恋の辛辣さを経験した息子を気遣い、父が咸陽に連れていってくれたのだ。

父の蒙武が宮廷での執務をこなしている間に、蒙恬はじィの胡漸と城下町を回っていた。
普段目にしない露店や並んでいる品々に蒙恬ははしゃぎ、大勢の民衆が行き来する城下町の中で胡漸とはぐれてしまったのだ。

その時に、一緒に胡漸を探すのを手伝ってくれようとした親切な男がいて、後に正体を知ることになるのだが、彼は違法の奴隷商人であった。

やり方は実に姑息で、戦争孤児でもない家柄の良い子どもたちに親切に近づいては、馬車の檻に閉じ込めて、そのまま商品として売りに出していた。

蒙恬も胡漸とはぐれて一人でいるところを、その違法の奴隷商人に目を付けられてしまったのである。

馬車の檻に閉じ込められて、このまま見知らぬ土地へ売られてしまうのかと心が絶望に沈んでいたところを助けてくれた者がいる。その救世主こそ、信だった。

彼女は咸陽で起こる人攫いの事件を独自に調査しており、蒙恬が連れて行かれるのを見つけ、尾行していたのである。

違法の奴隷商人は二人組だった。
一人は蒙恬に声を掛けたように、商品となる子供を連れて来る役割を担い、もう一人は馬車の檻に閉じ込めた子どもたちを見張る役である。

信が連れ去られる蒙恬を尾行したことによって現場を突き止めたのだが、子どもたちの見張りをしていた男は、何としても逃れようと馬車を走らせた。

馬車の檻に囚われている子どもたちごと逃がしてしまうと信が必死に追いかけたものの、人と馬ではあまりにも足の速さは違う。

そこで蒙恬は他の子どもたちと共に檻から脱出を試みた。
その甲斐あって、全員が多少のかすり傷は負ったものの、捕らえられていた子どもたちは無事に脱出したのだった。

さらには、これ以上の被害者を出さぬように、蒙恬は機転を利かせて信と協力し、馬車を転倒させて、二人の奴隷商人を逃すことなく捕らえたのである。

「檻から脱出する時は、とても怖かったですが、蒙恬様の力強いお言葉が背中を押してくれたんです」

「…まさか、あの時…一緒に檻の中に!?」

蒙恬が驚愕の表情のまま問うと、令嬢は何度も頷いた。

あの時はとにかく脱出することと、奴隷商人を捕らえることに必死だったので、一緒に捕らえられていた子どもたちの顔など朧げにも覚えていなかった。

しかし、あの場にいた者しか知らない状況を話していることから、嘘偽りではなく、彼女もあの時の被害者だったのだと直感する。

彼女が蒙恬のことを知っていたのは、蒙恬が馬車に乗せられそうになった時に、奴隷商人たちが蒙家の嫡男だと話をしていたことを覚えていたからだったという。

「お互い、無事で良かった」

思わぬ共通点の発覚に、蒙恬は素の笑顔を浮かべた。すっかり敬語も砕けてしまう。

あの時に信が助けてくれなかったら、自分たちは見知らぬ地に売り飛ばされていたかもしれない。

もしそうなっていたら、自分たちがここで再会することもなかっただろう。低い身分に落とされて労働を強いられていたかもしれないし、妓楼や物好きな男のもとで奴隷同然の生活を送っていたかもしれない。

蒙恬が信に恋心を抱いたのはこの後で、男だと思っていた英雄の正体が、実は自分と少ししか歳の違わない少女であったと知ってからだった。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
宝石姫

 

英雄の正体

「それで、ええと、何だったっけ」

すっかり懐かしい思い出話に花を咲かせてしまい、蒙恬は令嬢の目的を忘れてしまっていた。

嫌な顔一つすることなく、彼女は先ほどと同じ言葉を繰り返す。

「あの時、蒙恬様とご一緒に、奴隷商人を成敗してくださった方を探しているのです」

その言葉を聞いて、彼女が探し求めているのは信だと確信した。すぐに伝えようと思ったのだが、

「あの青い着物の御方にも、ぜひお礼を申し上げたくて…」

「………」

白粉おしろいで白く見せているはずの肌が、赤く火照ったのを見て、蒙恬は答えるのを躊躇ってしまった。

頬を赤く染めて、悩ましげに眉根を寄せているその表情を見れば、彼女が自分たちを助けてくれた英雄に、どういう想いを抱いているのかが分かる。

「…蒙恬様?」

声を掛けられて、蒙恬は何とか笑顔を繕った。

「もしかして…君は、その人のことが…?」

「………」

彼女は返事をしなかった。
しかし、より頬を赤らめて俯いたところを見る限り、肯定していると言っても過言ではないだろう。

十年以上前になるとはいえ、今でもずっとその英雄に…つまりは信のことを想い続けているようだ。

蒙恬はあの後で信が女だと知る機会があったものの、どこからどう見ても同じ男だと思っていたのに、少女だと知った時はとても驚いた。

(うーん…どうしたら…)

あの時自分たちを助けてくれた英雄の正体が女だったと知ったら、彼女は恥をかいたと思うのではないだろうか。

今では中華全土でその名を知らぬ者はいない信将軍だと告げれば、納得してくれるかもしれないが、長年ずっと女に恋をしていたという事実を知り、行き場のない怒りの矛先を信本人に向けるのではないかという不安を覚えた。

正体を告げれば、彼女を傷つけることになり、それだけではなく信にも何かしらの被害があるのではないかと思うと、蒙恬はなかなか切り出せなかった。

「えっと…」

少し考えてから、蒙恬はゆっくりと口を開く。

「俺も、その人にお礼を言おうと思ってて、ずっと探していたんだけど、手がかりが全然なくて…」

言葉を濁らせると、令嬢は残念そうに笑った。
どうやら蒙恬が英雄の正体を知らないと答えることは、彼女の中では想定内だったらしい。

「そうですか…あの後、奴隷商人たちを役人へ引き渡すのに、すぐに行ってしまいましたものね」

「うん、残念だけど…」

このまま英雄の正体を明かさない方が彼女のためだと、蒙恬は考えた。
それが勝手な考えだとしても、傷つくことを分かっていながら辛辣な真実を告げるのは、必ずしも正しいとは思えない。

蒙恬は英雄の正体を隠し通すことを決めたのだった。

 

 

「…それにしても、もう十年も前の話なのに、今もよく探していたね」

感心しながらそう言うと、令嬢は恥ずかしそうにはにかんだ。

奴隷商人たちを役人に引き渡した後、信は蒙恬のもとへ戻って来てくれた。一緒に城下町を歩いているときに蒙恬とはぐれてしまったのだと胡漸が泣きながら信に助けを求めたらしい。

もしも胡漸が信に助けを求めていなかったら、きっと信は奴隷商人たちを引き渡したあとに、蒙恬に声をかけることなく王騎と共に帰還していたに違いない。

蒙恬と同じように攫われた子供たちは、目の前の彼女を含めてすぐに保護された。

あの奴隷商人たちを捕らえた者に、子供たちの親は是非ともお礼をしたいと探していたらしい。

しかし、信は善意と正義感から子供たちを助けたとはいえ、褒美目当てに行ったわけではない。そのため、騒動が落ち着いてからもずっと名乗らずにいたらしい。

「役人の御方たちにも聞いて回ったのですが、さすがに当時のことを覚えている方は一人もいらっしゃらなくて…」

「…それは、仕方ないね」

信から奴隷商人の身柄を預かった役人たちまでもが彼女の名前を出さなかったのは、王騎が裏で情報操作を行っていたのかもしれない。

話を聞く限り、どうやらこの令嬢は名前も名乗らずに去っていった英雄の手がかりをあちこちで探していたらしい。

十年以上も前のことだというのに、諦めずに今でも手がかりを探しているということから、相当な執念を感じさせる。

それだけ信へ強い想いを寄せているのだと思うと、ますます正体を明かせなくなった。

「お礼も伝えていませんし、ましてやお礼の品も受け取られていないのではないかと思うと…」

信は褒美目当てに事を起こすような女ではない。
もしも信が褒美目当てに事を起こるような将だったのなら、幼心に蒙恬も感付いただろう。

信がひたむきに天下の大将軍を志していたからこそ、蒙恬はいつまでも変わらないその真っ直ぐな心と強さに惹かれたのだ。

「私…」

令嬢が寂しそうに微笑んだので、蒙恬は思わず小首を傾げた。

「…私も、もう来月には嫁ぐ身。どうか、あの方にお礼を告げて、思い残すことがないようにと思っているのです」

令嬢の言葉を聞く限り、そしてその表情を見れば、彼女が信を男性だと思い込み、恋をしているのは明らかである。

婚約者がいる立場でありながら、まだ彼女の心にはわだかまりが残っているらしい。まさかそこまで信のことを想っているとは思わなかった。

「あれだけ大いなるご活躍をされたというのに、讃えられることもなく、褒美さえ受け取られていないのではないかと思うと、なんだか心苦しくて…」

「ああ、うん。信は・・褒美なんて欲しがる性格じゃないからね」

「え?」

「あっ」

つい洩らしてしまった蒙恬の独り言を聞きつけ、令嬢が目を見開いた。

「今…もしかしてあの御方のお名前をおっしゃいました!?」

「いや!今のは…」

しまったと思った時には時すでに遅し。令嬢の勢いに火を点けてしまったようだ。

「やっぱり何か知っていらっしゃるのですね!」

珍しく口を滑らせてしまったと後悔するものの、反省するのは後だ。
とにかく今は何とかこの場をやり過ごさなくてはと、蒙恬は頭を切り替える。

「今のは本当に、本当に、ただの独り言で、助けてくれた人とは関係ないよ」

笑顔を繕って何とかその場をやり過ごそうとするのだが、令嬢の勢いは止まらない。蒙恬の両肩を掴むと、まるで餌を前にした飢えた獣のように目をぎらつかせる。

「いいえ!確かにお名前をおっしゃいました!何かご存じでしたら、どうか教えてください!」

うろたえている蒙恬を逃がすまいと令嬢が両肩を掴む手に力を入れて来る。

「うわッ!?」

後ろに逃げようとした途端、足がもつれてしまい、その場に倒れこんでしまった。蒙恬の両肩を掴んでいた令嬢も、その勢いのまま一緒に倒れ込んでしまう。

「きゃっ」

自分が下敷きになったせいで令嬢が怪我を負うことはなかったものの、背中を打ち付けた蒙恬は痛みに歯を食い縛った。

「大丈夫ですかっ?」

我に返った令嬢が心配そうに顔を覗き込んできたので、蒙恬は何とか笑顔を浮かべて頷く。

さっさと退いてくれるのかと思いきや、どうやら令嬢はまだ信のことを聞き出すのを諦めていなかったらしい。

「どうかもう一度あの方のお名前を教えてください!」

まさかこの状況でも話を続けられるとは思わず、蒙恬は顔を引きつらせた。

礼儀作法がしっかりしている令嬢だと思っていたのに、自分の想い人のことになるとそれしか考えられない性格らしい。まさに恋は盲目というやつだ。

蒙恬は信に出会う前に、家庭教師の女性に初恋を抱いていたが、当時の年齢で考えると、この令嬢の初恋相手は信なのかもしれない。

ずっと信に片思いをしていた蒙恬も、その気持ちが分からないわけではなかった。
それでもここは引けない。令嬢の気持ちを傷つけないため、そして何より信のためを想ってのことだった。

「さ、さっきのは本当に違うんだって!」

「何が違うというのですか!あの方のお名前でしょう!?」

想い人でも婚約者でもない男を押し倒しているところを誰かに見られたら確実に大変なことになると、今の彼女の頭にはないらしい。

長年の片思いが実り、やっと信と婚約が決まったというのに、悪い噂が流れれば確実に信を傷つけてしまう。

信と婚姻を結ぶことを夢見て、大勢の女性たちを過去に相手して来たが、今ではその関係をきっぱりと絶っている。だというのに、この場を誰かに目撃されてしまえば、すべてが水の泡だ。

「だ、だからっ、俺の話を聞いてって!」

令嬢の両手首を掴んで、多少強引に彼女の体を押しのけようとする。

「いいえ、もう我慢なりません!」

しかし、制止すればするほど、探し求めている人物の情報を持っていると確信されてしまったようで、少しも引く気配を見せない。

参ったなと蒙恬が何とか言い訳を考えていると、背後で扉が開けられた音がした。

反射的に振り返ると、屋敷にいるはずの信が呆然とした表情でこちらを見つめている。

目が合って、蒙恬はまるで頭から水をかけられたような、全身から血の気が引いていく感覚を覚えた。

「えッ!な、なんでここに!?」

今日は屋敷にいると話していたはずの彼女がどうして宮廷にいるのだろうか。やはり親友に会いに来たのかと考えるものの、蒙恬はそれよりも今の状況を思い出して、さらなる冷や汗を浮かべた。

令嬢に押し倒され、蒙恬は彼女の両手首を掴んで抵抗を試みているのだが、何も知らぬ者が見たら男女の仲だと思われてもおかしくはない。

たとえ蒙恬が信と婚姻を結ぶことが決まっていたとしても、不貞をしていると誤解されてもおかしくない状況だった。

「―――破談だ」

低い声できっぱりとそう言い放った信が足早に行ってしまう。

破談という言葉が耳から入って脳に伝わった瞬間、蒙恬はひゅっ、と笛を吹き間違ったような音を口から零した。

「し、信っ!待って!誤解だからーっ!」

必死に呼びかけるものの、信が戻ってくることはなかった。

 

破談の危機

(…終わった…)

蒙恬は魂が抜け落ちてしまったのではないかと思うほど、ぽかんと口を開けたまま、虚ろな表情を浮かべていた。

ようやく退いてくれた令嬢が、信が出て行った扉と蒙恬を交互に見る。

「い、今の御方は…まさか、信将軍ですか?」

「……うん」

この世の終わりだという顔で蒙恬が頷いた。
令嬢もやっと冷静になってくれたようだが、もう全て手遅れである。

今にも自害してしまうんではないかというほど暗い表情のまま、蒙恬は膝を抱えた。

長年の片思いがようやく実り、そして信も自分を同じ想いであったのだと知って有頂天になっていた罰が下ったのだ。

こんな大きな幸福に対して、いつか恐ろしい代償が来るのではないかと不安に思っていたが、まさに今がその時である。

すぐに追いかけて誤解を解くべきだと考えたものの、こうと決めたら絶対に意志を曲げない信が大人しく話を聞いてくれるとは思えなかった。

さすがに令嬢も自分の行動で破談に直結してしまったことを反省しているのか、申し訳なさそうに眉根を寄せている。

「あ、あの…先ほど、信将軍と同じ名前を…?」

膝を抱えながら、蒙恬は小さく頷いた。

「そ、それじゃあ…あの時、私たちを助けてくださったのは…」

「うん、そう…信だったんだよ」

先ほどまでは令嬢の気持ちや信への被害を考慮していたのだが、今となってはもうどうでも良かった。

ずっと探し続けていた英雄の正体が、中華全土で名を広げている女将軍であったと知り、令嬢は愕然としている。

わなわなと唇を震わせて青ざめている様子を見れば、ずっと想いを寄せていた英雄の正体が女だったという事実を受け入れられないでいるようだった。

「…ごめん」

本当は正体を隠しておこうと考えていたのだが、思わぬ形で勘付かれてしまい、蒙恬は謝罪した。

「本当は、君の話を聞いて、すぐに信だって分かったんだ。でも…君がそれを知って傷つくのは、目に見えていた」

令嬢の顔が悲痛に歪んだのを見ても、蒙恬はもう何も感じなかった。

「正体を知らなかったとはいえ…君が真実を知って、辱めを受けたことを理由に、信に何かをするんじゃないかって思うと、嫌だったんだ。…悪いけど、こっちが本音」

あの英雄の正体が実は女だったと知って、彼女を傷つけたくなかったという気持ちがあったのも本当だ。

しかし、蒙恬の中では、最愛の信を傷つけられることが一番許せない。夫になるのだから、守り抜くと誓えばいいものを、自分の見ていない場所で信を傷つけられるのではないかという不安は拭えなかった。

自分はなんて弱い男なんだと蒙恬は自己嫌悪に走る。

すぐに追いかけて誤解を解こうとしなかったのも、本当は彼女に罵詈雑言を向けられるのが怖かったからだ。

長年の片思いが実り、さらには信が自分と同じ気持ちだったと知ってから、彼女を失うことをますます恐れるようになっていた。

ずっと恐れていた現実が急に目の前に現れて、蒙恬は弱々しい表情で膝を抱えることしか出来ない。

この場に令嬢がいなければ、幼子のように大声を上げて泣き喚いていたに違いなかった。もしそんなことになれば、屋敷の留守を任せている胡漸が泣き声を聞きつけて何事かと飛んで来るに違いなかった。

「軽率なことをしてしまい、…本当に、申し訳ありません…」

泣きそうになっていたのは令嬢もだった。その謝罪を聞いても蒙恬の胸の痛みが引くことはない。

しかし、逆上されなかったことから、英雄の正体が信であるという事実を受け入れてくれたようだ。

膝を抱えながら、蒙恬は乾いた笑みを浮かべることしか出来ない。

彼女が信の正体を今さら知ったところで、自分たちの婚姻が破談となったことは変わりないのだから。

 

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破談の危機 その二

普段よりも早足に廊下を進みながら、信はこみ上げる怒りを何処にぶつければ良いのか悩んでいた。

(ふざけやがって…!あいつ、本当は女に会うために宮廷に来たのかよ!)

昌平君と軍政の執務があると話していたのに、いざ蓋を開けてみれば見知らぬ女性と密会をしていただなんて思いもしなかった。

普段なら扉の前に見張りの兵が立っているはずなのに、それもなかったことから、恐らく事前に人払いをしていたのだと気づく。

執務だと嘘を吐いてまで、こんな昼間から不貞行為をしようとしていた婚約者に、信は殺意に近い怒りを抱いていた。

自分を欺いた男と婚姻を結ぶなんて考えたくもない。婚姻を結ぶ前に蒙恬の不貞を知ることが出来て良かったとさえ思う。

これが婚姻を結んだ後に発覚したのなら、確実に蒙恬は処罰を受けていただろうし、信も減刑を嘆願することはなかったに違いない。

幼い頃からの付き合いもあり、不貞の罪で処罰を下される代わりに、婚約を白紙に戻すことで解決に合意してやろうと考えた。

自分と恋仲になる前から、女に不自由していなかったのだから、今後の婚姻に関しては何ら問題ないはずだ。

それこそ信がずっと蒙恬に言い聞かせていた蒙家の未来を想えばこその、相応しい女性が妻になることだろう。

もう二度と顔も見たくないと、信は荒い息を吐きながら、ひたすらに廊下を進む。

「わぶッ!?」

曲がり角のところで、信は誰かと思い切りぶつかってしまい、派手な音を立てて尻もちをついた。

「ってーな!どこ見て歩いてんだよ!」

怒気を籠めながら、ぶつかった人物の方を睨みつける。
自分の不注意だとは百も承知だが、相手のことを気遣う余裕など、今の彼女には微塵もなかった。

「よそ見をしていたのはお前の方だろう」

尻もちをついている信に手を差し伸ばしたのは昌平君だった。

反射的に信がその手を掴むと、軽々と体を起こされる。普段は頭ばっかり使っているくせに、いったいどこにそんな腕力を隠し持っているのか、信には不思議でたまらなかった。

「はあ…」

痛む尻をさすりながら重い溜息を吐くと、昌平君の眉根が不機嫌の色を浮かべた。

「人の顔を見て溜息を吐くな」

もっともらしい指摘を受けるが、信は何も言い返す気になれなかった。
ここに昌平君がいるということは、蒙恬が昌平君に宮廷に呼び出されたというのも嘘だったのだろう。

親友である嬴政に見初められたら嫌だという理由で、宮廷には来ないでほしいと言われたが、それさえも不貞の現場を目撃されないように吐いた嘘だったのだ。

あれだけひたむきに愛情を向けられていたと思ったのに、結局は独りよがりだった。

「……う…」

みるみるうちにその瞳に涙を浮かべて鼻をすすった信に、昌平君が珍しくぎょっとした表情を浮かべる。

堪えようと思えば思うほど、目に涙が押し寄せてきて、いよいよそれを堰き止められなくなると、滝のように涙が溢れ出た。

「うううー」

顔をくしゃくしゃに歪ませて涙を流している信に、昌平君が唖然としている。傍から見れば昌平君が泣かせたと誤解されかねない状況だ。すれ違う侍女や兵たちが不思議そうな顔をして二人に視線を送ってくる。

しかし、信は彼らの視線や、わずかに狼狽える昌平君のことなど構いもせずに胸の奥から押し寄せて来る言葉を吐き出した。

「お、俺が、浮かれてたんだ…やっぱり、蒙恬が、俺なんかを選ぶはずがなかったんだ…」

しゃっくりを上げながら、信が言葉を紡ぐ。
まるで状況がわからないとはいえ、彼女が蒙恬の名前を出したことに、昌平君は溜息を吐いた。

「…痴話喧嘩なら屋敷でやれ」

文句を言われるものの、堰を切ったように溢れる涙と同様に愚痴が止まらない。

「あ、あいつ、お前に呼ばれたって嘘吐いて、俺に隠れて、浮気してたんだよッ!!」

頬を伝う涙を手の甲で拭いながら事実を訴えると、昌平君は片眉を持ち上げた。

「…不貞行為は知らぬが、私が軍政のことで蒙恬を呼び出したのは事実だ」

「え…」

「軍師学校の執務が予定より長引いたので、これから蒙恬と合流するところだ」

昌平君の言葉を理解するまでに、やや時間がかかった。

「え…じゃ、じゃあ、お前に宮廷に呼び出されたのは、嘘じゃないのか…?」

ああ、と昌平君が頷く。
驚きのあまり、ようやく涙が止まってくれたが、それでも胸を締め付ける不安を拭うことは出来なかった。

聡明な蒙恬のことだから、昌平君の不在を良いことに、女性を呼び出したとも考えられる。
誤解が一つ解けたところで、蒙恬が不貞を働いたのは覆せない事実だ。

複雑な表情を浮かべたまま俯いてしまった信を見て、昌平君は深い溜息を吐いた。

 

後編はこちら

The post 初恋は盲目(蒙恬×信)中編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編③

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

中編②はこちら

 

従順な彼女

目を覚ますと、隣に信の姿がなかった。

「…信?」

辺りを見渡すが、室内のどこにも彼女の姿は見つからない。
腕の中にも寝具の中にも彼女の温もりは残っておらず、李牧が目を覚ますよりも前に褥を抜け出していたのだと分かる。

(まさか…)

目を覚ました時に、信が失われていた記憶を取り戻しており、自分から逃げ出したではないかという不安に襲われた。

従者たちには常時見張りを頼んでいたし、両手が使えない信が扉を開けて逃げ出すようことはないと思っていたのだが、彼女を捕らえたという報告は聞かれていない。

主が眠っていたとしても、従者たちがそういった報告を怠るとは考えられなかった。
しかし、従者たちの目を盗んで逃げ出したということも考えられる。

もしも脱走していたとすれば、すでに褥に温もりが残っていないことから、恐らくはもう屋敷を抜け出したに違いない。

とはいえ、秦へ戻るにしても、あの両腕では馬の手綱を引くこともままならないだろう。一度は安心したものの、幾度も死地を生き抜いた経験がある信なら、決して不可能ではないと思うと、李牧の胸は不安に駆り立たれた。

(一体どこに…)

すぐさま着物を身に纏い、部屋を飛び出す。
まずは従者たちに信を見ていないか話を聞こうとしたのだが、

「あ、李牧」

李牧の予想に反し、廊下に出たところで、あっさりと信と再会を果たした。

「信?」

二人の侍女に支えられながら、この部屋に戻って来る途中だったらしい。
しかし、逃亡を企てたような様子はなく、付き添っている侍女たちの表情も穏やかなものだった。

信の髪が濡れており、頬が赤く上気しているのを見て、湯浴みをしていたことが分かる。情事の後で身体を清めたかったのだろう。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
宝石姫

 

「李牧?」

自分を見据える信の眼差しには怒りや恐怖の色はない。
まだ記憶を取り戻していないのだと分かり、李牧はほっと胸を撫で下ろした。心配は杞憂で済んだらしい。

「えっ、うわっ、な、なんだよっ?」

目の前の体を抱き締めていたのは、ほとんど無意識だった。

いきなり抱き締められたことで信は戸惑い、すぐ後ろにいる侍女たちの目線も気にして、李牧の体を突き放そうとする。

侍女たちも気を遣ったのだろう、笑顔で一礼し、何事もなかったかのように下がっていった。

しばらく腕の中で暴れていた信だったが、李牧が少しも放してくれる気配がないことが分かり、諦めたように両腕を下ろした。

「李牧…?」

声を掛けても放してくれない李牧に、信が不思議そうに首を傾げる。
彼女の体をしっかりと抱き締めながら、李牧は切なげに眉根を寄せていた。

「…お前が、居なくなってしまったかと思った」

素直にそう答えると、信が驚いたように顔を上げた。

「少しは思い知ったかよ」

僅かに怒気を込めながら彼女がそう言ったので、李牧は言葉を喉に詰まらせてしまう。体の一部が痛むかのように顔が強張った。

あの雨の日に行先も告げずに去っていった自分のことを、信はまだ恨んでいるのだとすぐに察した。

信の肩を掴み、真っ直ぐに彼女の瞳を見据える。

「…あの時は、すまなかった」

突然目の前から居なくなったことを、今更ながらに謝罪した。もしも彼女が許してくれなくても、それは当然のことだろう。信のためとはいえ、彼女を裏切ったことには変わりないのだから。

「…もういい。仕方ないから、許してやる」

返って来た声色は随分と明るかった。
目が合うと、信が歯を見せて笑ったので、李牧もつられて笑った。

「う…」

その直後、李牧の胸に凭れ掛かるように、信が膝から力を抜いてしまったので、反射的にその体を抱き止めた。

「信?」

「わ、悪い…なんだか、目の前が…揺れて…」

眩暈が起きているらしい。その言葉を聞くや否や、李牧はすぐに彼女の体を横抱きにした。風呂に入って赤く上気していたはずの顔が、今は少し青ざめている。

すぐに部屋へ戻って、寝台にその身を横たえてやると、信が力なく笑った。

「心配、すんな…風呂でも…同じだったんだ…」

それで侍女たちに支えられていたらしい。

「…昨夜は無理をさせた。すまない」

三日ぶりに目を覚まし、未だ傷も治り切っていない彼女に、昨夜は無理を強いてしまった。浅ましい情欲を抑え切れなかったことを今さらながら恥じる。

信はちいさく首を横に振ると、左手を伸ばして、そっと李牧の頬に触れた。

「…嬉しかった」

「え?」

まさかそのような言葉を言われるとは思わず、つい聞き返してしまう。

 

 

信は恥ずかしそうに目を逸らすと、泣き笑いのような顔で言葉を紡いだ。

「俺のことが、嫌になって、居なくなったって…ずっと、そう思ってたから…」

「あり得ない」

すぐに否定した李牧は身を屈めると、お互いの吐息がかかる距離まで顔を寄せた。

「お前を忘れたことなんて、一度もなかった」

その言葉を聞いた信の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。

今の彼女・・・・は、李牧が趙の宰相になったことを知らない。自分のもとを離れた理由も知らないのだと思い出し、李牧は言葉を続けた。

「…目的も告げずにお前のもとを去ったことは謝る。だが、お前を想う気持ちは何も変わっていない」

秦趙同盟の時も、李牧は決別の言葉と一緒に、今までもこれからもずっと愛し続けていることを伝えた。

もちろんそれは嘘ではなく、離れている間も、李牧が信を愛する気持ちは微塵も揺らぎはしなかった。

「じゃあ、なんで」

どうして自分のもとを去ったのだと信が問うのは必然だった。
しかし、彼女は途中で口を閉ざすと、静かに首を横に振る。問い掛けるのをやめたことに、李牧は瞠目した。

「…信?」

涙を堪えるように、信は幾度か視線を彷徨わせながら、呼吸を整えて、再び李牧を見た。

「俺のため…だったのか?」

語尾に疑問符がついている辺り、確信を突いたとは言い難いが、信がこちらの目的を察したことは間違いなさそうだ。

「何故そう思った?」

すぐには頷かず、穏やかな声色で理由を尋ねる。
少しだけ口を噤んでから、信はゆっくりと話し出す。視線は合わなかったが、彼女が自分のことを考えてくれていることは手に取るように分かった。

「…お前がすることは、いつだって、俺のためだったから…って、そんなの、自惚れだよな」

恥ずかしそうに答えた信に、鼓動が早鐘を打つ。

「自惚れじゃない」

李牧は込み上げる愛おしさに突き動かされるまま、信に口付けていた。
昨夜無理をさせたことを先ほど反省したばかりだというのに、溢れ出る想いは止められなかった。

手首から先のない右手を動かし、李牧の想いに応えるように、信はの背中に腕を回してくれた。

 

従順な彼女 その二

…その後の信は、李牧のよく知る従順な彼女に戻っていった。

馬陽から一切の記憶がない、つまりは李牧を趙の宰相だと知らないのが大きな理由だろう。
屋敷の中で療養していることもあって、ここが敵地である趙国だとも気づいていないようだった。

政務や軍務で屋敷を空けることも珍しくない李牧は、従者たちに信の世話を任せている。

自分の留守を任せている間の信の様子を報告を聞くものの、記憶を取り戻した様子もなければ、脱走する様子も見られない。

しかし、傷が癒えるにつれて、そろそろ王騎のもとへ帰りたいと愚痴を零しているらしい。

馬陽での敗走により、深手を負った養父のことが心配なのだろう。

もしも信が屋敷の外に出て、ここが趙国だと気づかれれば、彼女はなんとしても自分を敵国に連れて来た理由を探るはずだ。

今は祭祀儀礼に携わると身分を偽っているが、李牧が趙の宰相であり、王騎はもう討たれた後だと知られるのは時間の問題である。

しかし、そんな不安を覆いつくすようにして、李牧の胸を埋め尽くしていたのは幸福感だった。

今まで離れていた時間を埋めるように、夢中になって信と身を繋げ、その腹に子種を植え付けることで、彼女が記憶を取り戻すかもしれないという不安など塵のように消し飛んでしまう。

幸福感の正体は、自分の子種が信の腹で芽吹けば、どのような未来になっても彼女は自分から離れられないという安心感だった。

いずれ芽吹くそれが頑丈な鎖となって、いつまでも信を自分の傍に繋ぎとめておいてくれると、李牧は信じていたのである。

 

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「李牧、帰ったのか」

数日ぶりに屋敷に戻ると、侍女から報告を受けたすぐに信が出迎えてくれた。

「ああ、留守を任せてすまなかったな」

屋敷に帰って来ただけだというのに、信は満面の笑みを浮かべた。
不思議なことに、その笑顔を見るだけで執務の疲労や重責なんて消え去ってしまう。

「退屈していただろう」

「んー…まあ、ちょっとはな」

敷地内の庭園に出るくらいの外出は許可しているが、屋敷から出るのは、傷が完全に癒えてからだという約束をしている。王騎たちのもとへ顔を出すのもその時にしようと話していた。

従順な彼女が約束を破ることはないと分かっていたが、記憶を取り戻したのならばきっと脱走を試みるに違いない。

ようやく彼女を手に入れたはずなのに、李牧はいつも不安に襲われていた。

「傷の具合はどうだ」

自分の意識を不安から逸らすように問いかけると、信があははと笑った。

「薬湯をもらってからは調子が良い。まあ、すっげえ苦ぇけど…」

失った右手が痛むことがあると、信が訴えたのは先月からだった。
右腕を落とした時に処置をしてくれた侍医に依頼し、薬湯を調合してもらっているのだが、それを飲むまでは寝台から起き上がれないほどの強い痛みがあったという。

切断面の傷口は順調に塞がっていたのだが、失ったはずのその先が痛むのだと、幼子のように泣きながら訴えて来た信の姿は今でも覚えている。

侍医に相談すると、一時的な幻肢痛だろうと言われ、痛み止めと称して気分が落ち着く薬湯を調合してくれた。万が一を考えて、妊婦が服用しても問題ないものだ。

薬湯を飲むと痛みが和らいだと言うので、痛みがひどい時には同じ薬湯を飲ませるように従者たちに指示をしている。

実際には痛み止めの作用が含まれていないというのに、効果があったということは彼女の精神的なものが関与しているのかもしれないと侍医は言った。

それはきっと、二度と戦場に立てぬという信の中の葛藤が引き起こしているのかもしれない。

将としての未練がまだ根強く残っているのは分かっていたが、いずれ自分の妻として生きることを受け入れれば、幻肢痛もなくなるだろうと李牧は考えていた。

薬湯を飲んでも痛みが引かぬ時には、眠りの作用がある香を焚いて、彼女の意識を無理やり痛みから引き離していた。

何をきっかけに記憶を取り戻すか分からない彼女を逃がさないためであったが、それらの処置が全て李牧の気遣いによるものであると信は疑うことなく信じているらしい。

「…ありがとな」

照れくさそうに信に感謝される。
そのはにかんだ笑顔を目の当たりにすると、心が掻き立てられるように、李牧は無意識のうちに両腕を伸ばしていた。

「わっ、何だよ?」

つい彼女の体を抱き締めると、驚いた信が腕の中で身じろぐ。周りにいる侍女たちの目を気にしているだけなのはすぐに分かった。

食事の支度があるからと、自分たちを気遣った侍女たちが下がっていき、誰も居なくなってから、信は背中に腕を回して来た。

自分の胸に顔を埋めて、幸せそうに笑みを浮かべている信の姿を見て、二度と放したくないという想いはますます膨れ上がるばかりだった。

 

「…なあ、俺、そろそろ」

信が何を言わんとしているのかは手に取るように分かった。

「まだ傷は完全に癒えていないだろう」

屋敷へ帰るという彼女の言葉を掻き消すように、李牧は言葉を発すると、信は少し不満そうに眉根を寄せた。

傷が癒えてから外に出る約束を交わしていたが、王騎たちのもとへ顔を出すのもその時だという約束を交わしていた。ただし、彼女は右手が使えないので一人で乗馬は出来ない。

執務が落ち着いたら、馬車を手配するから二人で会いに行こうと何度も伝えているのに、信は李牧の執務を気遣ってか、一人で帰ると聞かないのだ。

「左手があるんだから手綱も握れる。一人で戻れるって」

「もしも馬に振り落とされたら?以前のように動けると思うな」

「でも…」

まだ食い下がろうとする信に、李牧がわざとらしく溜息を吐く。

「あ…」

僅かに怯えの色を浮かべた信を見下ろし、李牧は口を閉ざした。
言葉にせずともその態度を見れば、李牧に見捨てられれば行き場を失ってしまうことを信は理解しているようだった。

「わ、悪い…俺…」

元より、武の才能を見出されて王騎に引き取られた彼女は、右腕を失ったことで将としての未来が潰えた。すなわちそれは、将として王騎の期待に応えることが出来なくなったということだ。

常日頃から王騎と嬴政のもとへ顔を出したいと話している彼女が、武器を持てなくなったことを何と伝えようか悩んでいることも知っている。

それまで将としての地位を築いていたというのに、もう秦の戦力にはなれないのだと知った仲間たちに落胆されるのが恐ろしいと感じていることも、李牧は分かっていた。

幻肢痛にうなされながら、朦朧とする意識の中で、彼女は何度も仲間たちに謝罪していたからだ。

李牧の腕の中が、これから自分の唯一の居場所になるのだと信は分かっている。
だからこそ、李牧の機嫌を損ねて、自らその居場所を失うような真似はしたくないのだろう。

「り、李牧の執務が落ち着いてから…一緒に、…」

一人ではなく、二人で一緒に帰ると話した信に、李牧の機嫌はようやく戻った。

「ああ、王騎には書簡を出しておく。心配するな」

心配をかけぬようにと、李牧は定期的に王騎へ書簡を送っていると伝えていた。もちろん送り主はすでにこの世にいないので、そんな書簡のやり取りなど行っていないのだが、信は李牧の言葉を健気に信じ込んでいる。

「と、父さ…王騎将軍から、返事は?」

その問いには答えず、李牧は食事の支度が出来たと知らせに来た侍女の方へ向き直った。

王騎からの返事がないことに、信の心が不安に蝕まれていることは分かっていた。どうやら、右手を失ったことで養父から見捨てられたと思い始めているらしい。

こうして信の周りにいた者たちの存在を蹴落としていけば、ますます彼女の心の拠り所は自分という存在だけになっていく。

隣から不安そうに顔を歪める信の視線を感じていたが、李牧は気づかないふりをして背中を向け、薄く笑んだ。

 

違和感

あれから数か月が経ったが、未だ信の記憶が戻ることはなかった。

傷が癒えてから屋敷の外に出るという約束を交わしていたのだが、外出中に右手が痛んだらと思うと、信も外出が億劫になってしまったらしい。

無理はしなくていいと伝えたが、李牧にとってはとても都合が良いことだった。

恐らくは李牧の機嫌を損ねないように、外出を控えることを選んだのだろう。王騎たちのもとに顔を出したいと言わなくなったのも、李牧の執務が落ち着いてからと共に行くのだと、健気に信じているようだった。

 

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「あ、ま、待ってくれ…」

その日の夜も、寝台に信の体を横たえると、戸惑ったように彼女は左手で李牧の肩を押し返した。

珍しく抵抗の色を見せたことに、李牧は瞬きを繰り返す。

「…最近…その」

何か言いづらいことがあるのだろうか、信が言葉を選ぶように目を泳がせている。

下腹に手を当てていたので、もしや懐妊したのではないかと李牧は期待に胸を膨らませた。
この屋敷で信の世話を任せている医師や侍女たちからは、その類の報告を受けていなかったが、もしかしたらと考える。

「どうした。体調が優れないのか?」

それを表情に出すことはなく、李牧は冷静に話を聞き出すことに務めた。

彼女を趙に連れて来てから、自分たちは未だ婚姻を結んでいない。夫婦になる前だというのに、子を孕んでしまうことを信は気にしているのかもしれない。

しかし、今の記憶が混雑している信は、馬陽の戦いの後、李牧の屋敷で療養していると信じ切っている。ここが趙国であることも、そして李牧が趙の宰相であることも信は知らないのだ。

本来なら、趙の宰相と秦の将軍という敵対している者同士での婚姻は許されるはずがないのだが、もちろんそんなことは李牧も分かっている。

だからこそ、李牧は彼女の死を偽装したのである。

切り落とした右手を、信が秦王から賜った剣と共に送ってやったし、趙や他国でも飛信軍の信の訃報は広まっている。首を晒すことはせずとも、そのような話が広まったのは李牧による情報操作によるものだった。

信の死が中華全土に広まってから、李牧は何者でもなくなった彼女と婚姻を結ぶ手立てを講じていた。

信が趙に来てから、密偵に秦の動きを追跡させていたが、大々的に彼女の葬儀を執り行った以外で特に動きはないらしい。

…もっとも、秦国で彼女の死を認めぬ者・・・・・・・・・が、邪魔立てをしないとは限らない。

だが、彼女一人のために戦を起こすことや、単騎で取り戻しに来るような愚か者はいないだろう。それが例え、桓騎だとしてもだ。

聡明な頭脳を持つからこそ、桓騎が単騎で取り戻しに来るとは考えられなかった。かといって、信の死をその目で確かめるためだけに、独断で軍を動かすとも思えない。

慢心してしまう状況にあるのは当然だ。この状況下で信を取り戻されることは絶対にないと断言出来るからである。

信が生きる道は、もう自分の腕の中にしかない。

国と共にその身を滅ぼすような愚かな真似はせず、自分の妻としての役目を果たせば良い。そのために、李牧は一度は彼女を裏切ったのだから。

従者たちから、妻の扱いを受けていることには未だに慣れないようだが、李牧が不在の間も逃げ出す素振りはないという。

そしてこの屋敷で過ごす間に、信に月事月経が戻って来たのも、侍女から報告を受けていた。

長年ずっと戦に出ていた侵襲からか、月事が途絶えることは彼女にとって珍しいことではなかったという。桓騎の子を孕まなかったのもそれが幸いしたのだろう。

将として生きる道が途絶えたことで、愛する男との子を産むという女の幸せを手に入れようとしているのだと、彼女の腹が自分の子種を求めているのだと、李牧は決して疑わなかった。

 

 

「え、と…」

言葉を待っていると、信は顔色を窺うように、上目遣いで見上げて来た。

「その、最近、なんで…中で…出すんだ…?」

「…は?」

どうして中で射精するのかという問いに、その胎に子種を植え付ける以外の回答があるのかと李牧は瞠目した。

瞠目している李牧を見ると、信は恥ずかしそうに俯いて、それから両手を自分の胸の前で挙げた。

右手は手首から先がなく、止血のために焼かれた断面は痛々しい。火傷自体の治療は終わったものの、今も包帯を巻いているのは傷跡を直に見ないようにするための配慮だ。

左手の親指は、正しい位置に骨を戻されて完治していたが、時折引き攣るような痛みがあって、上手く動かせない時があるらしい。未だ包帯で固定しているのはそのせいだった。

どちらも馬陽での戦で受けた傷であると、信は李牧の言葉を疑うことなく信じている。

落馬によって左手の指を骨折したこと、右腕は傷口が化膿したせいで落とすより他に方法がなかったと言えば、記憶のない彼女も受け入れるしかなかったらしい。

もしも、二度と武器を持たせぬために落としたのだと言えば、信は憤怒するだろうか。

「お、俺…今、手がこんなだから…うまく、中の、あの…掻き出せなくて…」

予想もしていなかった言葉を掛けられて、李牧はしばらく言葉を失った。
そういえばここ最近の情事の後、目を覚ますと信が居なくなっており、湯浴みをしていたのだと話していたことを思い出す。

着替えを手伝っていた侍女たちの証言もあったので、そこまでは気に留めていなかったのだが、それは失態だった。

記憶が戻ったことを内密にしており、水面下で逃亡を企てているのではないかという心配は絶えず、今も従者たちには動きを見張らせている。

しかし、まさか情事を終える度に、自分が腹に植え付けた子種を掻き出していたとは思わなった。

彼女の両手が不自由であることから、侍女に身の回りの世話は任せていたが、湯浴みの手伝いは不要だといつも断られていると報告があったことを思い出す。

それは常日頃から手を借りている侍女たちに対して、ただの遠慮だと思っていたのだが、その時に気付くべきだった。

未だに褥で肌を重ね合うのも恥じらうくらいなのだから、浴室で精液を掻き出す姿を誰にも見せたくなかったのだろう。

確実な避妊方法とは言い難いが、まさか自分の目を盗んでそんなことをしていたとは思わず、李牧は眉根に不機嫌の色を浮かべる。

右手を落として五日ぶりに目覚めた信と体を重ねた翌朝も、彼女は傷だらけの体を引きずって湯浴みをしていた。

それもすべて腹に植えつけた子種を掻き出すためだったのかと思うと、李牧はひどく裏切られた気分に陥った。

 

 

「あ…李牧…?」

急に黙り込んだ李牧に、信が顔色を窺うように見上げて来る。

人の顔色を気にするような女ではなかったのに、この屋敷で過ごすうちに、信は随分と臆病な性格に変わっていた。

「…いつも俺が見ていないところで、子種を掻き出していたんだな?」

まるで責めるような口調で詰め寄られ、信は怯えたように肩を竦ませた。

「だ…だ、って、もし、孕んだら…」

「孕めばいい。何も問題はないはずだ」

どうやらその答えは信にとっては予想外だったのか、あからさまに狼狽えていた。

手首から先のない彼女の右腕を掴むと、

「…この腕では、どのみち将に戻ることは出来まい。俺の妻として生きればいいと、何度も言っているだろう」

婚姻を結ぶのは簡単だが、未だ信の傷が完全に癒えていないこともあり、彼女の体調が落ち着いてから行う予定だった。

しかし、信にその話は幾度となくしていたが、彼女は後ろめたさがあるのか、いつも返事を濁らせるばかりだった。

きっと将としての未練が心に深く残っているのだろう。

右手を失い、馬にも乗らず、武器を持たぬことで衰えていく筋力を見れば、信も将として再び戦場に立つことは叶わないのだと分かっているはずだ。

「で、でも、…まだ…」

しかし、まだ子を孕むことには抵抗があるような素振りに、李牧の苛立ちは増すばかりだった。

「父さ…王騎将軍にも、仲間たちにも、何も、伝えてないし、それに、政にだって…」

将としての未練があるとは直接言わず、養父と秦王から将の座を降りることを告げていないと言った。義理堅い彼女が考えそうなことだ。

「そんなこと、もう戦に出られないお前が気にすることではない」

今の信は王騎の死を知らない。そして間もなく秦国が滅びゆく未来も知ることはない。
しかし、李牧にとってそれは些細なことだった。

隠蔽を決めたのは、事実を告げることで信が記憶を取り戻すことになり兼ねないという配慮からである。

信を戦から遠ざけることさえ出来れば、李牧はそれで良かったのだ。

「何が不満だ?もう将への未練はないはずだろう」

どうして普段のように自分の言うことを聞かないのかと、声色に苛立ちを滲ませると、信が弱々しい瞳で見上げて来た。

「な、なんか…お前、最近、怖いぞ?」

引き攣った笑みを口元に浮かべ、信が恐る恐るといった様子で、しかし李牧を怒らせたくないのか、どこか茶化すような雰囲気を滲ませながら問う。

 

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「怖い?」

聞き返すと、信が小さく頷いた。
目を合わせようとしないのは、こちらの機嫌を損ねたくないからなのだろうか。

「前まで、そんなこと…妻になれなんて、言わなかった、のに…」

そういえば共にあの屋敷で過ごしていた日々では、彼女を身体を重ねることも、想いを告げることはあっても、面と向かって求婚をしたことはなかった。

その当時の記憶のままでいる信は、急に李牧から妻のような扱いを受けることに戸惑っているらしい。

「信」

言葉を遮ると、信が泣きそうなほど顔を弱々しく歪めて、口を噤んだ。

今のお前の務め・・・・・・・は、なんだ?」

小癪にもまだ将への未練を残している信に、低い声で問い掛ける。

「……、……」

何度か唇を戦慄かせるものの、信はそれ・・を言葉にする前に、諦めたように口を噤んでしまう。

答えを強要することは簡単だ。だからこそ、彼女の意志で言わせなければ意味がない。

右手を失ったことはもう受け入れているのだから、きっと以前のように従順になると思ったのだが、そうではなかった。

秦将として祖国を守ることは彼女の生きる道でもあったのだから、そう簡単に取り除くことは出来なさそうだ。

時間さえ経過すれば、そのうち忠義も風化していくとばかり思っていたのだが、戦から遠ざけようとすればするほど信は将への未練に執着してしまう。

いっそ、馬陽で王騎を討ち取ったことも、秦が間もなく滅びることも告げてやろうかと考え、その度に言葉を飲み込んでいた。

馬陽の後から記憶を失っている彼女にその残酷な事実を告げれば、それをきっかけに記憶を取り戻すことになるかもしれない。

もしもそんなことになったら、彼女は自ら命を絶つに違いなかった。

過程はどうであれ、信が自らの意志でこの腕の中に戻って来てくれたのだ。二度と失いたくはない。

「信、今のお前の務めは何だ?」

自分でも驚くほど低い声で、もう一度同じことを問いかける。

 

綻び

しばらく沈黙を貫いていた信だったが、口元に力なく笑みを繕うと、

「…李牧と、一緒にいる」

乾いた声でそう答えたのだった。

答えとしては上々。あとはその胎に自分の子を宿してくれたのなら、もう将としての未練も断ち切り、李牧の妻として生きる道を歩んでくれることだろう。李牧はずっとそう思っていた。

「けど…」

か弱い声で言葉を紡いだので、李牧はまだ未練があるのかと眉根を寄せた。

「政や、父さんにも、伝えねえと…」

義理堅い信は、将の座を退くにあたって、他にもやり残したことがあると訴える。

「それに、芙蓉閣にも、顔出さねえと…あれからずっと、顔出してねえから、桓騎が…色々文句言って来そうだし…」

秦王や王騎の名前はともかく、今の信から桓騎の名前が出て来るとは思わず、李牧は驚いて息を詰まらせてしまう。

気づけば信の両肩を掴んでいて、李牧は血走った目を向けていた。

「痛ぇってッ…李牧っ…!」

急に力強く肩を掴まれたことで、信も驚いている。

「桓騎のことを思い出したのか」

「は…?」

低い声で囁いた李牧に、信は訳が分からないといった表情を浮かべた。

「お、思い出すも、何も…桓騎は、咸陽で保護したガキだ…ずっと面倒見てたんだから、忘れるわけがないだろ」

以前、間者を送り込んで徹底的に桓騎の素性について調べさせたが、特に情報は得られなかった。

親もおらず、戦争孤児となって咸陽で行き倒れていたところを信が保護し、彼女が立ち上げた女子供の保護施設である芙蓉閣で育てられたのだという。

初陣を果たしてからみるみるうちに知将の才を芽吹かせた桓騎は、初陣でも功績を上げてみるみる昇格していった。馬陽の時はまだ将軍ではなかったものの、その後はすぐに将軍昇格を果たしていたし、今では秦国欠かせない強大な戦力である。

そして桓騎は信を恩人として慕うのではなく、女として見ていた。そして、信も桓騎を愛していた。

李牧がそれを知ったのは、秦趙同盟を結んだ後のことである。

彼女の体調が優れないことを指摘したのは李牧自身だったし、自分と再会したことを気に病んで、きちんと休めているのかが心配だった。

信が療養している部屋に向かうと、扉の隙間から聞こえた嬌声に、思わず立ち入るのをやめてしまったのだが、桓騎とまぐわっている姿がそこにあった。

甘い声で鳴く信の姿に、自分と離れている間にあの男と恋仲になったのかと、李牧はやるせない想いに駆られたことを思い出す。

理由も告げずに彼女のもとから去っていった自分への罰だと思った。

―――…李、牧…

しかし、信は桓騎の愛撫に甘い声を上げながら、あの時、確かに自分の名前を呼んだのだ。
その瞬間、桓騎は驚愕し、そして信も我に返ったかのように桓騎と身体を繋げていることに青ざめていた。

―――…なら、お前が誘ったのは俺じゃなくて、李牧だったってことで良いんだな?

それまで自分を求めていた女とは思えないほどの豹変ぶりに、桓騎は冷酷に尋ねていた。
その問いに、信は分かりやすく狼狽え、そしてそれが肯定だと分かったのは桓騎だけでなく、李牧もだった。

今でも信は、自分のことを愛しているのだ。

途端に愛しさが込み上げて来て、叫び出しそうなほど、李牧は喜悦した。
しかし、後日になって快調した信のもとを訪れ、趙に来るように告げた時、彼女はそれを拒絶した。

あのとき既に、信は過去を断ち切り、自分と別の道を歩み始めていたのである。

 

綻び その二

未だ秦王たちに会いに行くのを諦め切れないでいる信が、縋るように李牧を見た。

「あいつらに顔を見せて、安心させてやらねえと…」

「お前の近況を記した書簡なら出したと言っただろう」

一向に書簡の返事が来ないことを彼女が気にしていることも分かっていた。もちろん書簡のやり取りなど行っていないのだから、返事など来るはずがない。

屋敷を出る許しが得られないのだと分かり、信が泣きそうな表情を浮かべる。しかし、そんな表情一つで李牧の心が揺れ動くことはなかった。

「…全部終わったら、ちゃんと、ちゃんとするから…頼む…」

ここで引いておけば良かったものを、信は諦めずに説得を試みることにしたらしい。

ちゃんとする・・・・・・というのは、自分との婚姻を受け入れることだと分かったが、李牧は彼女の言葉を受け入れようとはしない。

縋るように、信が涙目で見上げて来た。

「飛信軍のことだって…桓騎軍・・・のことも、信頼出来る奴らに任せねえと」

馬陽の戦いで記憶が途切れている信が、桓騎軍と言ったことに、李牧は違和感を覚えた。

「今、桓騎軍と言ったな?」

聞き返すと、信は不思議そうに頷く。

「あ、ああ、言った…え、あれ…?軍…?」

今の信の中では、桓騎はまだ将軍へ昇格していないはずだ。だというのに、なぜ桓騎軍の存在が出て来るのか。

それを疑問に感じたのは李牧だけでなかった。

「え…な、なんで、俺、桓騎が将軍みたいなこと…まだあいつ、そこまで…」

どうして桓騎軍と口に出したのか、信自身も疑問を隠せないでいるらしい。
記憶が混在しているのだと李牧は冷静に考えたが、もしかしたら少しずつ失われた記憶を取り戻そうとしているのかもしれない。

「信」

早鐘を打つ心臓を押さえながら、李牧は信の両肩を掴む。

「な、なんだよ」

怯えたように信が声を震わせる。

「…信」

今の彼女があるのは、秦国を裏切る選択をしたからこそだ。
全てを捨てて自分を選んだのは信自身なのだから、その事実を受容させなくてはならない。

信が本当に愛しているのは桓騎ではなく、この自分だと、李牧は何としてでも彼女に理解させようと考えた。

「思い出せ。王騎は馬陽で死に、お前は桓騎と秦国を裏切って俺を選んだ」

真っ直ぐに信のことを見据えた李牧は、静かに呪いの言葉を言い放つ。

封じられた記憶の扉を開ける鍵の役割を担っているその言葉を、信は愕然とした表情で聞いていた。

 

後編はこちら

The post 終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編③ first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

絶対的主従契約(昌平君×信)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

勝負前夜~昌平君~

茶器を片しに部屋を出て行った信を見送った後、昌平君は再び寝室へと向かった。

執務を終えた後に一度寝室に戻るフリをしたものの、ふと思い立って引き返してみれば、信はやはり悪さをしていた。本人は気づいていないようだが、奴隷解放証の存在を知ってからの行動は目に余る。

主が傍にいなくなると、こそこそと奴隷解放証を探しているのだ。あからさまに媚びを売ってくるのではなく、何としても自分の力で見つけ出そうとしているところが彼らしい。

以前からずっと信が下僕の身分を脱したいことは知っていたが、だからと言って奴隷解放証は簡単に渡せるもの代物ではない。

あれは正式な機関に提出する書簡で、偽造や不正取引で入手したことを知られれば、当然厳しい処罰が与えられる。

膨大な機密情報や、書簡やり取りを日常的に取り扱っているのを傍で見ていることから、恐らくは信も理解しているだろう。だからこそ彼は本物の奴隷解放証を見つけ出そうとしているのだ。

昌平君が記した奴隷解放証に印章さえ押してしまえば、偽造も入手経緯も疑われることはないと考えているようだが、詰めが甘かった。

そう簡単に渡せないものだからこそ、彼の手の届く場所には置いていない。執務室を探すだけ無駄という訳だ。

どうにか手を打って、早急に諦めさせなくてはと昌平君は溜息を吐いた。

彼に勝負を持ち掛けたのも早急に奴隷解放証を諦めさせる手段の一つにしか過ぎない。屋敷に来てから剣を握ったことさえない彼が、自分に指一本触れられるとは思えなかったし、勝敗はすでに目に見えていた。

信の方はなぜか勝利を確信していたが、昌平君も手を抜くつもりはなかったし、なにより奴隷解放証を諦めさせるきっかけをずっと探していたのである。

 

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「…豹司牙か」

廊下を歩いていると背後に誰かが立ったのを感じ、昌平君は振り返るよりも先に、信頼のおける配下の名前を口に出した。

ゆっくりと振り返ると、近衛兵団の団長である豹司牙が片膝をついて供手礼をしていた。
目が合うと、豹司牙は何度か瞬きを繰り返した。

頼んでいた件の報告だろうと考えていたのに、報告を始めないどころか、不思議そうに主の顔を見つめる豹司牙に昌平君は疑問を抱く。

主と同じで無駄な時間を好まない豹司牙がそのように時間を費やすのは珍しいことだった。

「…私の顔に何かついているか?」

「いえ。…先に何か、良い報告でもございましたか」

その問いに思い当たることはなく、昌平君は首を横に振った。

指摘されたということは、どうやら顔が緩んでいたらしい。長年傍で仕えている豹司牙だからこそ、主の些細な変化に気づいたのだろう。

昌平君の脳裏に信の姿が浮かび上がった。

「餌を目当てに寄って来た野良猫がようやく懐いて来たところだ」

「懐いて…?」

野良猫が信のことを比喩していることは彼も分かっている。
しかし、納得出来なかったのか、豹司牙が僅かに顔を強張らせる。あれで懐いていると言えるのだろうかと疑問を抱いている顔だ。

「報告を聞こう」

昌平君が声をかけると、豹司牙がすぐに報告を始めた。

 

勝負前夜~信~

茶器を片づけた後、信は下僕たちが寝室として利用している広間へ向かった。

その広間では全員が布団を敷いて川の字になって寝るため、かなり窮屈である。まだ下僕の中では子どもに分類される信は、隅の方で休んでいるのだが、手足を伸ばして眠った記憶は一度もなかった。

屋根があって夜露が凌げて、布団まで与えられているのだから、それ以上の贅沢は望めないと分かっているが、いつかゆっくりと手足を伸ばして眠ってみたいと思う。

同じ下僕でも、男女で部屋は分けられている。
雑魚寝をする男部屋と違って、女性の下僕部屋には寝台があるのだから、羨ましいとも思う。

しかし、人数の少ない女性の部屋でも窮屈なのは変わらないと、仲の良い下僕仲間の女性から教えられたことがあった。

寝台があっても、全員で並んで窮屈に眠るのは男部屋と同じだし、朝の支度には化粧道具や着物を広げるので、男の部屋と窮屈さはそう変わらないのだという。

もしも自分が昌平君との勝負に勝つことが出来たのなら、奴隷解放証をもらうついでに、下僕たちの寝室を一つずつ増やしてもらうことを交渉しようと信は考えた。

自分がこの屋敷を出ていけば一人分は広くなるが、すぐに新しい下僕が雇われて、窮屈になるのは目に見えている。

そっと広間を覗くと、すでに下僕仲間たちは眠っていた。大きないびきをかいて眠っている彼らの見慣れた顔をざっと眺め、もう会えなくなるのだと思うと、胸がきゅっと締め付けられるように痛む。

昌平君の屋敷に連れて来られてから、仕事を教えてくれたり、色々と面倒を見てくれたのだ。そう長い付き合いではないとはいえ、家族同然とも言える。

女性の下僕仲間たちも、弟や息子のように接してくれたし、寂しい気持ちが湧き上がるのは当然だった。

 

 

「ふわあ…」

大きな欠伸が零れる。早く休んで明日の勝負に備えなくてはと、眠っている下僕仲間たちを起こさぬよう、足音を忍ばせながら自分の寝床へと向かった。

「………」

先に眠っている仲間の誰かが自分の分の布団を敷いていてくれたことに気づき、信は思わず唇を噛み締める。

(…どうせ、明日からはもう屋敷にいないんだ。俺も自由にさせてもらうから、今夜から少しでも広く使ってくれよ)

大勢が眠っている窮屈な寝室で、少しでも広く使えるよう、信は敷かれていた布団を両手に抱きかかえる。

またもや足音を忍ばせながら、信はさらに寝室の奥へと向かう。そこにはただ布団を収納するためだけに作られた小間があった。

ここなら大人でも手足を伸ばして広々と眠ることが出来るのだが、もちろん良い寝床となれば奪い合いになる。

奴隷たちの朝は早いし、そんな口論で貴重な睡眠時間を削る訳にはいかず、不公平にならないように誰も使わないという、奴隷たちの中の暗黙の規則があった。

しかし、明朝から昌平君との勝負に備えなくてはならない信は、この屋敷に来て初めてその規則を破ったのである。

明日は奴隷たちの誰よりも先に起きて寝室を出るつもりだったし、昌平君との勝負にはもちろん勝つと信じて止まなかったので、この寝室で眠るのも今夜限りの付き合いだと考えていた。

(ああ、手足を伸ばして眠れるって良いな…)

布団を被ると、上下左右の誰にもぶつかることを気にせず手を伸ばせ、それだけで気分が良い。

もしも奴隷解放証を手に入れて、下僕の身分を脱したのなら何をして生きていこうかと心が沸き起こる。

仲間たちとの別れに惜しんで寝付けないのではないかと思っていたのだが、疲労している体は無情にも睡眠を優先した。

すぐに瞼が重くなっていき、信はすぐに眠りへ落ちたのだった。

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明朝

日が昇り始めた頃、窓から差し込む薄白い光が瞼にさしかかり、昌平君はゆっくりと目を開けた。

再び瞼を下すことはせず、寝台から起き上がると身支度を始める。

他の高官たちは侍女を呼び寄せて着物を着たり、髪を結わせ、身支度一つにも従者に依存している者もいるのだが昌平君はそうではない。

右丞相と軍の総司令官としての執務は膨大な量であり、たかが身支度一つに時間をかける訳にはいかないのだ。

着物の袖にはもちろん自分で腕を通すし、帯も自分で締める。僅かに寝ぐせの残る髪を櫛で乱雑に梳き、邪魔にならないように簪で留める。

日が昇る前から侍女が用意しておいてくれた桶の水で顔を洗ってから、今日の執務の予定を確かめるために、寝室を出る。朝食を摂るのは執務室に寄った後だ。

執務室に向かいながら、信と奴隷解放証をかけた勝負があることをすぐに思い出した。

明朝というだけで他のことは決めていなかったが、いつものように執務室にいるだろう。

廊下を歩いていると、執務室の前に黒衣に身を包んだ従者が立っていることに気が付いた。昌平君に気づいた従者は、すぐに供手礼を行う。

「報告を聞こう」

毎日のように届けられるのは、他国に潜入している密偵の報告だ。

少しでも戦の気配を感じたのならば、領土を奪われぬようにすぐに対策を打つ必要がある。軍の総司令官を担っている昌平君は、日々届く膨大な情報量から、軍政を操作しなくてはならなかった。

今日の報告では特に動きはなさそうだったが、水面下で侵攻を企てている可能性も考えられるため、決して油断は出来ない。

軍政を担うということは、民や兵たちの命だけではなく、国そのものの命運を司る重責がある。

過去に信から、仏頂面で何を考えているのか分からなくて怖いと指摘されたことがあったが(偶然その場にいた豹司牙にぶたれていた)、気が休まる暇がないのだから仕方がない。

「…?」

執務室に入るものの、まだ信の姿はなかった。

下僕としての生活が長いせいか、あれだけ憎まれ口を叩く小生意気な性格をしているものの、実は信が過去に遅刻をしたことは一度もないのだ。

奴隷解放証を喉から手が出るほど欲しがっていたし、信の性格を考えると自ら勝負事から手を引くとは思えない。

これから来るだろうと思い、昌平君は先に今日の執務予定を確認することにした。

 

 

(……遅い)

予定を確認した後、今日の執務に必要になりそうな書簡に目を通していたのだが、いつまで経っても信が来る気配がなかった。

いつもならすでに来ている時刻のはずなのだが、一向に姿を現さない。それどころか、朝食の報せまで来てしまった。

過去に一度も遅刻をしなかった信が今日に限って来ないことに、昌平君は思わず表情を曇らせる。

(まさか)

昌平君はすぐに席を立つと、少し遅れてから朝食を摂ることを従者に告げて足早に寝室へと戻った。

印章を置いてあるのは執務室だが、奴隷解放証の原本を置いてあるのは寝室だ。信が悪さをするのを防ぐために、原本を盗まれぬよう、保管場所を移していたのである。

正式な機関に提出する書簡であるため、奴隷解放証には定型文がある。奴隷解放証を作成するには、その原本を書き写し、最後に印章を押すのが習わしであった。

寝室に入ると、侍女が寝床を整えており、部屋の清掃を始めているところだった。主の訪室に気づいた侍女がすぐに頭を下げる。

「この部屋に入る前に、先に誰か来ていたか?」

「いいえ、どなたも見かけておりません」

彼女が部屋の清掃を始める前に、何者かが寝室に来ていたか問うものの、寝室を訪れた者や主を尋ねにやって来た者はいなかったという。

頭が締め付けられるように痛み、昌平君は思わず額に手をやった。

(…だとすれば、私が部屋を出た直後か)

昌平君はこれが信の策であると考えていた。
昨夜だけじゃない。昨日まで、ずっと奴隷解放証を探して見つからずにいたのだから、執務室に置いていないことに信も気づいたのだろう。

だとすれば、次に信が目をつけるのは、この屋敷の中で昌平君が次に過ごす時間が長い寝室になる。しかし、夜間は見張りがついているので侵入することはまず不可能だ。

それに昌平君が物音と気配に敏感であることにも信は知っているだろうし、もしも侵入が叶ったとして、眠っている昌平君の傍を捜索して気づかれる危険性も分かっていただろう。

主だけではなく、見張りや侍女が確実にいない隙を狙うのなら、身支度を終えた昌平君が執務室に向かうあのわずかな時間だ。

寝室の清掃が始まるのは朝食を摂っている間で、それまでは誰も部屋に訪れない。下僕仲間たちからその情報を事前に得ていたとすれば不可能ではない。

確実に昌平君のいない隙を狙って、信はこの部屋で奴隷解放証を探したとみて間違いないだろう。

すでに原本を持ち去ったとしたら、あとは印章を押す機会を狙っているはず。

先ほど執務室に寄ったときには印章はまだあったので、盗んだとは考えににくい。この屋敷の敷地内のどこかで、今度は執務室に誰もいなくなるのを待っているのかもしれない。

そこまで考えて、昌平君は軽率に寝室へ戻って来たことを後悔した。

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脱走?

(やられたな)

無意識のうちに重い溜息を吐いてしまった。

もしも予想通りならば、明朝に昌平君が身支度を終えて寝室を出た直後、入れ違いで信が寝室に潜入し、奴隷解放証を手に入れたことになる。

その後、昌平君がその事態に気づいて、奴隷解放証を確認するために執務室を出て寝室へと戻った。

対して信は、またもや昌平君と入れ違う形で執務室に潜入する。誰もいない執務室で印章を押せば、奴隷解放証が完成するという訳だ。

今頃は、主からお使いを頼まれたとでも言って、怪しまれることなく屋敷を抜け出していったかもしれない。

下僕たちには、以前から信に字の読み書きを教えたり、余計な知識を与えるなと口酸っぱく教育していたので、協力者はいないだろう。

それに奴隷解放証は一枚につき、一人しか使えない。
信一人を助けるために、処罰を覚悟で脱走計画を協力するような下僕がいるとは思えなかった。

不思議そうな顔をしている侍女に、部屋を出るように指示する。背後で扉が閉められてから、昌平君は隠していた奴隷解放証の原本を確認した。

奴隷解放証の原本は、容易に見つけられぬよう、机の裏に忍ばせていたのである。

身を低くして机の下に潜り込まなければ見当たらない仕掛けにしていたが、小柄な信ならば、簡単に見つけたのかもしれない。

「…?」

しかし、ここで予想外の出来事が起こった。
机の裏には以前より移しておいた奴隷解放証がそのまま残っていたのである。

手に取ってまじまじと確認するものの、本物の原本だ。差し替えられた様子はない。

時間稼ぎという目的があったとしても、字の読み書きが出来ぬ信が事前に偽物を用意しておくことは出来ないだろう。

では、なぜここに原本が残されているのか。

「………」

昌平君はそれまで考えていた仮説を一度すべて否定した。見方を考えなくては、いつまでも疑問に縛られてしまうからだ。

部屋を出るなり、昌平君は廊下で待機していた侍女に目を向けると、

「信はどこにいる?」

自分でも驚くような低い声で尋ねたので、侍女は青ざめ、信を探すために廊下を駆け出して行った。

 

 

早朝からの主命令のせいで、屋敷内は不穏な空気に包まれていた。

家臣も下僕も全員が一丸となり、敷地内で一人の下僕を探す光景はまさに異様だった。主命令ということもあって、全員が普段の業務を放ってまで信を捜索しているのだ。

たかが下僕一人にここまで労力をかけなくてもと家臣に文句を言われたが、気持ちは分からなくもない。下僕の脱走は珍しいことではないし、ここまで騒ぎにする必要は確かにないからだ。

ましてや、奴隷解放証の原本はそのままだったし、執務室にある書簡が盗まれた形跡もないのだから、機密事項の漏洩を心配する必要もない。

しかし、昌平君は家臣たちの言葉を一蹴して、信の捜索を続けるよう命じた。

まだ屋敷の敷地内にいるとすれば、これだけの騒ぎになっているというのに、出て来ないはずがない。もしくは処罰を恐れて隠れているのだろうか。

昌平君が想像している最悪の結果・・・・・でないことを祈りながら、彼自身も屋敷の部屋を一つずつ探していく。

男の下僕たちが寝床として使っている広間に入り、中を見渡した。

すでに布団は収納されているようで、見渡す限りは何もない。ここにはいないかと考えて部屋を出ようとした時だった。

「~~~!~~~…!」

奥の方からくぐもった声が聞こえて、ぴたりと足を止める。

その声に引っ張られるように、昌平君は広間の奥へと進んだ。
そこには布団を収納するためだけに作られた小間があり、今はぎっしりと下僕たちが使った布団が押し込められている。

くぐもった声がするのは、その隙間からだった。

「………」

布団が収納されている小間の前に片膝をついて、その声によく耳を澄ませる。

かなり下の方から聞こえて来て、よく観察すれば、積み重なった布団が僅かに動いているではないか。

まさかと思い、昌平君は声が聞こえるあたりの布団を両手で掴み上げた。

見覚えのある自分よりも小さな手が隙間から現れたので、昌平君は思わず目を見開く。
布団の隙間から覗くその小さな手が、縋るように昌平君の手を掴んで来る。

「だ、だずげ、で、くれぇ…」

布団を動かしたせいか、先ほどよりも声がはっきり聞こえた。

両手で布団を押しのけて、中を覗き込むと、そこには顔を真っ赤にして悶え苦しんでいる信の姿があった。

 

救出

本当に脱走してしまったのではないかという予想が外れた安心感と、呆れの感情が一気に襲い掛かって来た。

「…何をしている」

顔に動揺が出ないように取り繕うものの、昌平君の胸は早鐘を打っていた。

大量の布団に挟まれた信は、昌平君の姿を見つけると、今にも泣き出してしまいそうなほど顔を歪める。

「と、とりあえず、まずはここから出してくれ…動けねえ…」

布団に挟まれているせいで身動きが取れないのだという信に、それは見ればわかると昌平君は溜息を吐いた。

どうしてこうなってしまったのか状況を聞くには、まずは彼を布団の中から救出しなくてはならない。

「つかまっていろ」

昌平君は信の両手をしっかりと握り、力任せに彼の体を引っ張った。

「ぷはあッ」

まるで水から上がったかのように信が大口を開けて呼吸する。ずっと大量の布団に挟まれていたその体は汗だくだった。

力任せに引っ張り上げた勢いで、布団の隙間から飛び出した信の体が、昌平君の体の上に覆い被さってくる。

尻もちをついて、信の体をなんとか受け止めた昌平君であったが、不意に落ちて来た影に気づいて顔を上げる。

そして次の瞬間、昌平君はまたもや己の軽率な行動に後悔した。

信の体を挟んで安定を保っていたはずの大量の布団が、まるで雪崩のように覆い被さって来たのだ。

「~~~ッ!!」

「ぎゃーッ!またかよッ!!」

派手な音を立てて、布団に飲み込まれてしまう。たかが布団とはいえ、重なればかなりの重さだ。男の下僕たちの人数分あるのだから相当な量だろう。

さらには自分の胸の上にいる信の重みも合わさって、肺が押し潰されそうになる。

どうして自分までこんな目に遭うのかと、ひたすらに行き場のない怒りがこみ上げた。
冷静になって、布団を少しずつ退かしていくべきだったと後悔するものの、もう遅い。

物音を聞きつけた従者たちがすぐに救出に来るはずだと頭では理解しているものの、大量の布団の下で待機するのはこの上なく不快だった。布団の重さだけでなく、布団に染み込んでいる匂いも混ざり合って、それもまた不快である。

「おい!なにしてんだよッ、俺を助けに来たんじゃなかったのかよ!」

布団に覆われた暗闇の中、昌平君の胸の上で信が咎めるように声を荒げたので、昌平君も怒気を込めて反論した。

「お前が約束の明朝に現れていればこんなことにはならなかったッ」

約束の明朝という言葉に反応したのか、信が愕然とする。

「は!?まさかもう過ぎちまったのか!?」

「私の不戦勝だ。約束は守ってもらうぞ」

「仕切り直しだ!俺だってこんなことにならなきゃ間に合ってた!」

何重にも重なった布団の下で言い争う度に息が苦しくなる。

喋れば喋るほど苦しくなるだけだと察した二人は、従者たちに救出されるまで、お互いの吐息がかかる距離で睨み合いながら堅く口を閉ざしていた。

 

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…結局のところ、信の言い分を要約するとこうだ。

明朝の勝負に備えて、昨夜は誰も使用していない小間で就寝していた。頭まで布団を被って眠っていたこともあり、明朝に起きた下僕仲間は気づかずに、小間で眠る信の上に布団を重ねる。

窓から日の光が差し込んでいたとはいえ、奥の小間は薄暗いままで、信がそこに眠っていることに誰も気づかなかったのだ。

もちろんその時点で気づかれなかったせいで、他の下僕たちも気づかずに、次々と布団を積み重ねていき…。

重みと苦しみのあまり信が目を覚ました時には、すでに布団から抜け出せなくなっていて、明朝から仕事をこなす下僕たちは誰一人として気づくことなく寝室を出て行った。

明朝の勝負のためになんとしても布団から抜け出そうとした信だが、子ども一人の力であの大量の布団から抜け出せるはずがなかった。

大人である昌平君も、従者たちに救出されるまで身動きが取れなかったのだから、確かに納得は出来る。

しかし、そんな経緯があったにも関わらず、昌平君は無情にも、今回の勝負は信の遅刻により、自分の不戦勝であると告げたのだった。

もしかしたら圧死していたかもしれないのだから、今回の勝負は無効にして日を改めろと信は騒いでいたが、昌平君が不戦勝を撤回をすることはしなかった。

その後、昌平君は信の捜索のために、仕事を後回しにして協力してくれた従者たちへ感謝の言葉を贈った。

命令なのだから逆らえなかったとは誰も言わなかったが、昌平君の感謝の言葉を聞くと、従者たちも恐れ多いと頭を下げ始める。

最後まで信だけは納得がいかない顔を浮かべていたが、昌平君がゆっくりと拳を振り上げる仕草を見るや否や、すぐに頭を下げて迷惑をかけたことを全員に詫びたのだった。

 

不戦勝

予想外のこととはいえ、執務の遅れが生じたのは変わりない事実だ。

信は未だに不戦勝に納得出来ておらず、ずっと文句を言っているのだが、確かにあのまま昌平君が気づかなければ夜になってから遺体で発見されたに違いない。

だが、振り返ってみれば小間で眠っていた信の自業自得である。

救出してから楽に呼吸が出来るようになり、顔色の悪さは随分と改善していたものの、念のため侍医に診せた。

命に別状はないらしいが、かなりの汗をかいたことが原因で衰弱しているのは確かだ。汗で失った分を補うために、塩気のあるものと水を存分に摂るように勧められた。

下僕なのだから塩水を舐めさせておけばいいと家臣に言われたものの、昌平君はそれを許さず、食事の用意をするように命じる。

普段なら下僕の身分のことを言われると、相手が主であろうが誰であろうが関係なく反論する信だが、さすがに今は何も言い返す気力もないようで、ぐったりと座り込んでいた。

「信、来なさい」

低い声で命じると、抵抗する気力もない信は返事もせず、のろのろと立ち上がる。

今日の執務は休むように命じたものの、昌平君が普段通りに信を執務室に連れて来たのは、きちんと食事を摂らせるためであった。

 

 

「はあ…」

むくれ顔のまま、信は執務室の隅に座り込んで溜息を吐いている。
今、信の目の前には、下僕が普段口に出来ない食材がうんと使われた食事が並んでいたが、手を付ける気配がまるでない。

保存用に塩漬けにしていた豚肉を食事に用意させたものの、まるで興味がないようだった。ずっと布団に挟まれていた疲労のせいで、食欲がないのだという。

執務をこなしながら、昌平君は時々横目でその様子を観察していた。
食欲がないとはいえ、食べなくて良いとは命じない。その食事を完食するよう、事前に命じていたのである。

水は多く飲んだようだが、溜息を吐くばかりで、食事はまだ一口も進んでいない。

信の年頃ならば、食事に肉が出れば大いに喜ぶものだが、今はそうではないらしい。よほど疲れ切っているのだろう。しかし、それは昌平君とて同じだった。

かといって、昌平君は安易に執務を投げ出すことは出来ない。その重責ゆえ、代役がいないので一日でも執務を怠れば、翌日に負担がかかるのは自分自身なのである。

「…食べないのなら下げさせるぞ」

一向に食事に手をつけないことに見兼ねて声をかけると、普段は滅多にお目にかかれない馳走を取り上げられると分かり、信は慌てて箸を取った。

下僕の立場では、肉はただでさえ貴重な代物なのだ。それも贅沢に塩漬けにした豚肉だなど、次に食べられるのはいつになるかわからない。

「んっ…!」

塩漬けにされていた豚肉にかぶりついた途端、それまで虚ろだった信の瞳が輝き出す。
一口食べただけでも、あまりの美味さに活力が湧き上がったようだった。

塩気と旨味が染み込んだ豚肉の味が口内に強く残っているうちに粟飯を豪快に掻き込んで、再び豚肉に噛り付いている。

次に骨付きの鶏と薬味を長時間煮込み、味を整えた鶏湯ズイタンを啜った。
この周辺の水は硬水であり、重い口当たりや独特な苦みを消すために、わざと濃い味付けにされている。

昌平君はあまりその汁物を得意としなかったが、常日頃から汗水流して働く下僕たちには評判が良いらしい。信も美味そうに啜っていた。

それから、細切れにして煮びたしにした野菜を口に運ぶ。豚肉や鶏湯と違って、さっぱりとした味付けになっており、それがまた塩気の強い料理の旨味を強めるのである。

(食欲は戻ったようだな)

全身で「美味しい」を訴えている信のその食いっぷりを見ているだけでも腹が満たされてしまう。

そういえば、信が食事をしている姿を見たのは、随分と久しぶりであることを思い出した。

「………」

気づけば昌平君は筆を動かす手を止めたまま、信の前にある膳が全て空になるまでずっと見つめていたのである。

食事に夢中になっていたせいで、信は自分に向けられている主からの視線も、その瞳が今まで見たことがないほど穏やかな色を浮かべていたことに気づくことはなかった。

 

勝敗の約束

「あー、食った食った!」

あっという間に食事を平らげた信は、ようやく普段通りに大らかに笑った。塩気の強い食事を摂ったことで、すっかり元気を取り戻したらしい。

空になった膳を片づけようと立ち上がった彼に、昌平君が静かに筆を置く。

「美味い茶を淹れるのは明日で良い。今日はもう休め」

美味い茶という言葉に反応したのか、信がぎくりと動きを止めた。
言葉を選んでいるのか、何か言いたげに視線だけを向けて来たので、昌平君はわざとらしく小首を傾げる。

「お前が負ければ、毎日・・私の気に入る茶を淹れるという約束だった」

「いや、毎日とは言ってねえよッ!?」

すかさず反論されるものの、此度の不戦勝が撤回されることはない。

「文句言わねえでお前の気に入る茶を淹れてやるって言ったんだよ!」

記憶力に乏しいくせに、自分の発言はよく覚えているらしい。
昌平君が普段のように鋭い眼差しを向けると、信が頭を掻いた。

「ったく…なら、今から街に降りて良い茶葉を買って来てやるよ。…助けてくれた礼もあるしな」

問題は茶葉ではなく、普段の茶の淹れ方にあるのだが、昌平君は寸でのところで言葉を飲み込んだ。

こちらが命じていないというのに、信が自主的に茶を淹れてやると言ったのは初めてだった。信が勝負に負けた時の約束であるとはいえ、その気持ちはありがたく受け取ろうと考える。

「…街へ行くなら豹司牙と行け」

茶葉を買いに行くだけとはいえ、一人で行かせるわけにはいかず、昌平君は自分の近衛兵の名前を口に出した。

「ええっ、なんでだよ!逃げたりしねえよ

あからさまに信の表情が曇る。
普段、信が街へ行くときは昌平君の供であったり、他の従者たちと買い出しを目的に行くことがほとんどで、豹司牙と二人だけで行くことは滅多にない。

逃げ出さないように厳しい監視をつけられるとでも思っているのだろうか。そのように誤解しているのなら都合が良いと考えた。

「豹司牙がいると、なにか困ることでもあるのか」

豹司牙は有能な配下だ。無駄口を叩くことはないし、何より主の命令がなくとも、主の意志を読んで行動に移すことが出来る忠義に厚い男である。

「だって、あのオッサン、お前と一緒で仏頂面だし、何考えてるかわかんなくて怖えんだよ」

この場にいない豹司牙と目の前にいる主に向かって堂々と無礼なことを言う下僕は、恐らく信だけだろう。
他のところで雇われていたら、即座に笞刑ちけい ※笞で打たれることにされるか、斬られていたに違いない。

前の主のもとでも、よく無事に生き延びていたものだと昌平君は感心してしまった。
扉の向こうにある気配を感じ、昌平君はそちらへ向き直る。

「…だそうだ、豹司牙」

「へっ?」

この場にいないはずの人物の名前を口に出され、信の顔が凍り付く。

すぐさま扉が開けられると、豹司牙が立っていた。
信が話していた言葉通り、仏頂面で何を考えているのか分からない彼だが、今だけは誰が見ても怒っていることが分かった。

 

主の心遣い

げんこつを落とされて痛む頭頂部を擦りながら、信は半泣きのまま馬に揺られていた。

背後には、子どもで小柄な信を抱きかかえるように手綱を握り、馬を走らせている豹司牙の姿がある。

「まだ痛え…おい、オッサン!頭割れてたらどうするんだよっ!ちっとは加減しろよッ」

背後にいる豹司牙を睨みつけるものの、彼は前方を睨みつけるように馬を走らせているばかりで信と目を合わせようともしない。

主である昌平君からの命令で信の買い出しに付き合っているだけで、相変わらず必要最低限のことしか話さない寡黙な男だ。

(おお、怖え…)

こちらの言葉など一切耳に入っていないという態度に、信は縮こまる。

奴隷解放証を賭けた勝負の件や、布団の中に閉じ込められて屋敷で大騒動になっていたことも聞いたのか、普段よりも豹司牙の威圧感が倍増していた。

豹司牙は背丈も主と近いし、昌平君に似ている部分がいくつかあった。

全身から漂う威圧感も相当酷似しているが、あの鋭い目つきは特に昌平君と近いものを感じさせる。

近衛兵の団長を務めている彼は忠義に厚く、昌平君は深い信頼を寄せている。宮廷や屋敷でも二人でいる姿もよく見るが、少しも会話が盛り上がってるのを見たことがない。

必要最低限のことしか話さない、無駄話を一切好まない似た者同士であることから、それがお互いに落ち着くのかもしれないと信は勝手に推察していた。

「…お前は」

「えっ?」

いきなり声を掛けられたので、信は驚いて振り返った。
豹司牙の方から話しかけて来たのはこれが初めてだったかもしれない。

「自分の名を書けるようになったのか」

初めて話しかけられたかと思いきや、いきなりそんなことを問われたので、信は目を丸めていた。

「いや、書けねえよ?習ってねえもん」

下僕が字の読み書きを習得していないのは特段珍しいことではない。

それに、昌平君が自分を傍に置くのは、機密情報の漏洩や盗難を防止する目的として、字の読み書きが出来ないことを買われたからだ。

そんなことは豹司牙も分かっているだろうに、どうしてそのような質問をして来たのだろう。

自分の名を書くことが出来ないと答えた信に、豹司牙が向けて来たのは、バカにしてるような目つきではなく、呆れた顔だった。

昌平君と同じで仏頂面だと思っていたが、そんな人間らしい表情も出来ることに信は驚いた。

小さく溜息を吐いた豹司牙が手綱を引き、馬の足を止めた。

「な、なんだよ?」

「次は主の目を盗んで、奴隷解放証を盗む気か」

信はひくりと頬を引きつらせたものの、否定はしなかった。

それを勘付かれてしまったから此度の勝負(不戦勝で終わってしまったが)を持ち掛けられたのだ。しかし、奴隷解放証を手に入れることを諦めた訳ではない。

屋敷のどこかにある奴隷解放証に印章を押せば、確実に下僕の身分を脱することが出来る。信の中で、下僕の身分を脱する熱意はますます高まる一方だった。

「…あの御方がお前を嘲笑うために、奴隷解放証を隠していると思っているのか?」

なんだか棘を感じさせる言葉に、信が眉根を寄せる。

「そりゃあ価値のあるもんだから、簡単に盗まれちゃ困るんだろ」

昌平君から教わった通りの言葉を返すと、豹司牙は首を横に振った。

「お前が奴隷解放証を見つけ出したとしても、それは効力を持たない」

「昌平君が持ってる印章を押せばいいんだろ!それくらい知って…」

「そうではない」

今までずっと信じていた言葉をあっさりと否定され、信は言葉を失った。

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「もしもお前のやり方で関門を潜ろうとすれば、即座に首を刎ねられるぞ」

まるで氷のように冷え切った豹司牙の言葉に、信は思わず固唾を飲み込んだ。

「だ、だって…印章も押してんのに…」

確かに下僕の身分である自分が奴隷解放証を盗んで印章を押せば、盗みや偽装の罪に問われることは間違いない。しかしそれは、その場を目撃された場合だろう。

右丞相である昌平君の印章が押してあるのだから、正式な書簡として通るはずだと信は反論した。

「お前は何も分かっていない」

豹司牙にぎろりと睨まれて、信はその威圧感に言葉を発することが出来なくなってしまった。

「…奴隷解放証には、対象となる下僕の名を記さなくてはならない」

「え?」

豹司牙が淡々と説明を始めた。

奴隷解放証は定文で、対象となる奴隷の名前を記している。
もしも信が計画通りに奴隷解放証を盗み出し、昌平君の印章を押したところで、字の読み書きを習得出来ていない彼は自分の名前を記すことは出来ないし、そもそも、名前の記載が必要になることも知らなかった。

…よって、名前の記されていない奴隷解放証の効力は無効となる。

印章を押した奴隷解放証を入手して、昌平君のもとから逃げ出したとしても、効力の持たない奴隷解放証を見せれば、不正入手だと即座に取り押さえられてしまう。

だからこそ、昌平君は奴隷解放証を隠しているのだと教えられ、ずっと知らなかった真実に、信は開いた口が塞がらずにいた。

「…じゃ、じゃあ…俺が奴隷解放証を見つけて、印章を押したところで、名前が書いてないそれを届けたら、すぐに殺されるって、…昌平君は、それで隠してたのか…?」

「あの方の心遣いに感謝せよ」

豹司牙は頷くことも肯定もしなかったが、主のおかげで信が犬死をしなかった事実を伝えた。

手綱を握り直した豹司牙が馬の横腹を蹴りつける。

すぐに走り出した馬に揺られながら、信は口の中に苦いものが広がっていくのを、どこか他人事のように感じていた。

 

中編②はこちら

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初恋は盲目(蒙恬×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/嫉妬/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「初恋の行方」の後日編です。

 

予行練習

その日は、昨夜の暗雲が嘘だったかのように、空は青く澄み渡っていた。

咸陽宮の城下町には多くの坐買露店が立ち並んでおり、大勢の民で賑わっている。

人混みの中で、唯一道が開けている場所があり、その道を歩んでいる男女がいた。秦将の蒙恬と信である。

秦国には欠かせない将の二人が歩いていることに気付くと、民たちはすぐに道を開けていく。

民たちは、二人に対して畏まるような態度を取るよりも先に、微笑ましい視線を向けていた。

彼らの視線に気づく余裕もなく、桃色の上質な布で織り上げて金色の刺繍が施された着物に身を包んだ信は、地面を睨みつけるようにして歩いていた。

それは大勢の民から向けられている視線に嫌悪したのではない。

「大丈夫?信」

ずっと傍で見守っていたが、いよいよ耐え切れずに蒙恬が信に声を掛けると、自分の腕を握っている信の手に、ぎゅっと力が込められたのが分かった。

「は、話しかけんな、今すげえ集中してるんだよッ」

ふんだんに桃色の布を使った女性用の着物に身を包んだ信は、髪にも高価な宝石が埋め込まれた髪飾りをつけており、美しい刺繍が施されている靴を履いていた。

頭のてっぺんから足の先まで美しく装飾された信が何に集中しているのかといえば、気品高い歩き方・・・・・・・である。

何故そんなことをしているのかというと、それは他でもない蒙恬との婚儀のための練習だった。

先に控えた婚姻の儀と祝宴の際、夫に恥を欠かせぬようにと、信は生まれて初めて女性らしい立ち振る舞いについてを学んでいるのである。

普段のように、着物の乱れを気にせずに大股で歩くのは禁忌だ。歩幅は控えめに、背筋をしっかりと伸ばし、視線は地面ではなく、ちゃんと前を見据える。

名家に生まれ育った者たちならば、そういった教育も幼い頃から受けるようだが、下僕出身である信には覚えがなかった。

王騎と摎の養子として名家に引き取られたものの、武の才を見初められて引き取られたことで、そういった教育はされなかったのである。

養子として引き取られた時には、歩き方や言葉遣いなどは子供ながらに確立してしまっており、今さら正そうとしても時間がかかると思われたのかもしれない。

信自身もまさかこの年齢になって嫁に貰われることになるとは思ってもおらず、今になって猛特訓を行っているという訳だ。

しかし、戦の才を見出されて王騎の養子となったので、そういった教養も不要だと判断されたのだろう。机上で何かを学ぶ行為を苦手とする信が、淑女教育を強要されていたら、三日と持たず逃げ出していたかもしれない。

 

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「…そんなに力むから、返って変な姿勢になる。足下じゃなくて、真っ直ぐ前を向いて」

さり気なく歩き方の助言を行う蒙恬は、喜んで信の練習に付き合うと自ら立候補した。

一人で練習させて怪我をさせるのは忍びなかったし、何より他の男に練習相手を務めさせるのが単純に嫌だった。
話を聞けば、飛信軍の副官や兵たちが何名か練習相手として名乗り出たんだとか。

めでたく信との婚約は決まったが、それでも自分以外の男と並んで歩く彼女の姿なんて絶対に見たくない。

ますます独占欲が深まっていく自分に呆れてしまうが、きっとそれは他の誰よりも信のことを愛しているからだ。

「お、おわッ!」

「信っ」

着物の裾を踏んづけて、前のめりに転倒しそうになる信を咄嗟に抱き止める。

柔らかい肢体をしっかり支えてやり、やはりこれは夫になる自分だけの大役だと蒙恬は確信した。

着物の乱れを整えてやってから、蒙恬はにこりと微笑む。

こちらに視線を向けている女性たちの多くがその笑顔に頬を赤らめていることに、蒙恬は気づいていなかった。

以前なら、気軽に手を振って黄色い声を上げさせていたのだが、信が傍にいる時の蒙恬は、これから妻になる彼女のことしか視界に入らないのである。

「もう一度やろうか。しっかり前を向いて」

蒙恬の助言を受けた信は足下ではなく前を向き、まずは一歩踏み出した。先ほどと違って背筋も真っ直ぐに伸びているし、不格好な歩き方が改善されている。

…しかし、また時間が経つと、裾を踏んでしまわぬか心配なのか、信は少しずつ視線を足元へ下ろしてしまう。

「…信?また下向いてる」

「あっ、お、おう!」

指摘された信はすぐに顔を持ち上げるものの、やはり時間が経つと同じように俯いてしまう。

とはいえ、以前は三歩歩けば裾を踏んづけていたし、その過程からみると、随分と成長したように思う。歩幅が狭まったことで女性らしい歩き方に少しずつ近づいて来たのだろう。

婚儀と祝宴さえ終われば、このような畏まった格好もする機会はないだろう。猛特訓と称した信の努力は今しか見ることが出来ない。

さらに婚姻の儀では今以上に華やかな嫁衣かいを身に纏うことになる。採寸は既に終えており、一流の職人が美しい絹で仕立てている最中だ。

値打ちを聞いた信が目を剥いて、一度しか着ないのだからそんな大金を掛けるなと説教じみたことを言ってくれたが、生涯で一度しか着ないからこそ特別なものに仕立ててもらいたかった。

戦場で鎧に身を包む信の姿も嫌いではなかったが、この世で一つしかない婚礼衣装に身を包んだ信の姿を、蒙恬は今からとても楽しみにしていたのである。婚儀を終えた夜に、その特別な婚礼衣装を脱がす楽しみも、もちろん忘れていない。

嫁衣を用意するのは本来、花嫁の実家であるが、今の信には後ろ盾がないのだ。

さらに、信は普段から着る物に無頓着であり、贔屓にしているような仕立屋がないらしい。
彼女自身は大将軍として多大なる給金を得ているものの、嫁衣を準備するにあたっては、夫となる蒙恬が用意すると名乗り出たのである。

蒙恬が信の嫁衣を依頼したのは、蒙家が昔から贔屓にしている仕立屋で、職人の腕は確かだ。

世界で一つだけの嫁衣に身を包んだ信の姿を想像するだけで、蒙恬は胸がいっぱいになってしまう。

「…信?」

信の眉間から深い皺が消えなくなって来た頃、蒙恬は一度足を止めた。

「そろそろ休もうか?」

「いいっ!しっかり支えてろ!」

ムキになって言い返す姿に苦笑を浮かべてしまう。彼女には随分と頑固な面がある。
しかし、夫となる自分の顔に泥を塗らぬよう猛特訓に励む姿が、堪らなく愛おしかった。

 

 

いくら体力のある信とはいえ、慣れていないことを続けるには集中力も体力も消耗しやすい。

彼女の顔に疲労の色が濃く浮かんでおり、裾を踏む回数も少し増えて来たので、今日はここまでにしようと練習を打ち切ることにした。

婚儀までは、まだ十分に月日がある。そう急ぐこともないだろう。

屋敷に戻るまでは普段の動きやすい着物に着替えることが出来ないので、蒙恬は待たせていた御者に指示を出し、馬車の手配を頼んだ。

馬車の扉が開き、先に階段を上がる。振り返って信に手を差し出す。

「足元に気をつけて」

「散々気をつけただろ…」

不服そうな表情で、信が蒙恬の手を取る。裾を踏まぬよう気をつけながら、数段しかない階段を上がると、二人して馬車に乗り込んだ。

「はあ、やっぱり慣れねえな…」

従者によって扉が外から閉められると、信が盛大な溜息を吐いた。

「最初の頃よりは大分進歩したと思うけど」

「んー」

どうやら、信にとって今日の出来栄えはあまり良くないものだったらしい。

「…そういや、前から思ってたんだけどよ。なんでわざわざ城下町で練習する必要があるんだ?歩くだけなら屋敷でも出来るだろ。どうせ婚儀は室内で執り行うんだし…」

「え?あー…」

蒙恬はさり気なく項を掻いた。

「ほら、婚儀には蒙一族が集まるし、王一族も飛信軍もみんな来るだろうから、普段とは違う大衆の視線や雰囲気に慣れておくのも悪くないかなって」

「ああ、それもそうだな」

納得したように信が頷いたので、蒙恬は内心安堵した。

歩く練習だけならば屋敷の敷地内でも出来るのに、わざわざ大勢の民衆が出入りしている城下町を練習場として選んだのは蒙恬だった。

建前として練習の一環であると答えたが、実際は違う。

信に悪い虫がつかぬよう、そして彼女は自分の妻になるのだということを大いに知らしめる目的があったのだ。

そんな子どもじみた独占欲を民衆に振りまいていると知られれば、確実にげんこつを食らうと予想出来たので、これは蒙恬だけの秘密である。

優秀な従者たちはもしかしたら気づいているかもしれないが、何も言わずにいてくれるのはありがたい。

「…自分で馬を走らせてえな」

窓から見える景色を眺めながら、信がぼそりと呟いた。
戦場でも普段の移動でも、自ら馬に跨ることの多い信は、馬車に乗るのは未だ慣れないようだ。

名家の生まれである蒙恬は幼い頃から乗り慣れている移動手段だが、下僕出身である彼女にしてみれば、お偉いさんの乗り物という認識をしている。

将軍の座にまで昇格した信も十分にお偉いさんの部類に入ると思うのだが、いつまでも高い地位に就いたことを鼻に掛けないところが彼女らしい。

戦場で手綱と武器を握って馬を走らせる信の姿は、後光が差しているように見えるし、まさにその姿は天下の大将軍であり、兵たちの士気を高め、軍を勝利へ導く戦の女神のようにも見えた。

蒙恬のもとに嫁ぐことが決まってから、信は多くの民と兵たちに祝福をされている。

下僕出身の身でありながら、天下の大将軍と称された王騎の養子となったことも、名家の嫡男に嫁ぐということも、下賤の者たちからは羨望の声が上がっているという。

(さすが、俺のお嫁さん)

 

思わず頬を緩ませながら向かいの席に座っている信を眺めていると、視線に気づいた信が不思議そうに首を傾げる。

「…何にやにやしてんだよ」

「ううん?好きだなあって」

さらりとそんな言葉が出てしまうのは、世辞ではなく本音だからだ。

突然の告白に信はぎょっと目を見開いていたが、すぐに視線を逸らして窓の方を向いた。顔が僅かに赤いのは決して気のせいではない。

恥ずかしがることもなければ、蒙恬は惜しみなく、信へ好意を告げるようにしている。

それは昔からの癖で、伴侶として迎える彼女を不安にさせないための愛情表現でもあった。

幼い頃にある事件をきっかけに出会ってから、本当は信もずっと同じ想いでいてくれていたはずなのに、元下僕と名家の嫡男という身分差を気にして、わざと自分から遠ざけるような態度を取っていたことがあった。

信は嘘を吐くのが苦手なくせに、本心を隠す悪い癖がある。

だから、彼女に本心を隠さなくて良いのだと知らしめるためにも、蒙恬はこれからも素直な気持ちを伝え続けるつもりだった。

男性経験に乏しい信は未だに蒙恬からの愛情表現に戸惑うことも多いが、それはそのうちゆっくり慣れていけばいい。

―――ねえ、俺が信より大きくなったら、信のことをお嫁さんにしても良い?

あの時の約束をようやく果たすことが出来る。
当時の信は子どもの約束を本気にしておらず、どうせそのうち忘れるだろうと思っていたようだ。

しかし、実際に軍師学校を首席で卒業し、初陣を済ませてからたちまち武功を挙げて昇格していった蒙恬に、あの時の求婚は本気であったことを理解したらしい。

だが、名家の生まれである蒙恬と、下僕出身である自分が共に生きることは出来ないと信は婚姻を拒絶した。

蒙恬の幸せを願うからこそ、信は自分との身分差を気にして、彼の想いを受け入れられずにいたのである。

その気遣いを知ってもなお、蒙恬は諦めることはなく、信に求婚を続け、ようやく承諾を得られたのだった。

蓋を開けてみれば、相思相愛であったのは蒙恬にとって嬉しい誤算であった。

こんな幸せなことがあって良いのだろうかと、蒙恬は毎日のように考えてしまう。

今までは信を妻に迎えたいという一心でがむしゃらに頑張っていたが、いざその願いが叶ってからは、今度は失わないたくないという気持ちが全面に押し寄せていた。

もちろん信と共に過ごす時間は幸せなのだが、その一方で臆病になってしまったように思える。

この幸せが、何かの拍子に泡のように消え去ってしまわぬことを蒙恬は毎日心の中で願っていた。

 

 

帰還

蒙恬の屋敷に帰還すると、信は侍女と共に離れにある別院へと向かう。

普段着慣れていない着物からようやく解放されると、信は疲労と安堵をその顔に滲ませていた。

戦で多くの武功を挙げている信も、褒美として屋敷は与えられているのだが、婚姻を終えるまでは蒙恬の屋敷で過ごしていた。予行練習のこともあるので、その方が都合が良いのである。

婚姻を結んだ後もこの屋敷に住まう予定だったので、今から慣れてもらった方が良いだろうと蒙恬も思っていたし、信も賛同してくれていた。

彼女が屋敷に来たのはここ数日前のことである。

信は従者を誰一人として連れて来ず、愛馬と共に訪れた。
持って来たのが幾つかの着物と、秦王から授かった剣だけだったという必要最低限の荷だけだったのは、思い出しただけでも笑ってしまう。

化粧品や簪の一つも持っていないと言われた時には蒙恬だけでなく、その話を聞いた侍女たちも大口を開けて驚いていた。

仮にも嫁入りに来たというのに、櫛の一つも持たずにやって来た信に、蒙恬は彼女らしいと腹を抱えて笑ったものだ。

信は下僕出身の出ではあるが、もともと物欲のない女性である。
親友である秦王嬴政の中華統一の夢を叶えるために、鍛錬に励むことを日常としており、論功行賞で授かった褒美のほとんどは手を付けていないのだそうだ。

野営の天幕の中であっても、信は横になればすぐに眠ることが出来る。外で休むことに不慣れな者だと、ただ体を痛めるだけで少しも休息など出来ないのだが、信はそうではなかった。

劣悪な環境下で眠ることが出来るのは下僕時代の時に慣れてしまったからで、風と夜露を凌げる場所なら、基本何処であっても眠ることが出来るのだと話してくれたことがある。

下僕時代の苦労が伺えて、その話を聞いた蒙恬はいたたまれなくなり、二度とそんな苦労はさせないと、つい彼女を抱き締めてしまった。

あれは確か、論功行賞を終えた後の祝宴の最中だっただろうか。もちろんその時は恋人同士でもなかったため、すぐに引き剥がされて人前で何をするんだとこっぴどく叱られたが、それも良い思い出である。

 

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食事と湯浴みを終えてから、蒙恬は信が住まう別院へと向かった。

別院は母屋から離れているのだが、屋敷の敷地内に建てられているので、護衛も連れずに歩いて行ける距離にある。

別院には信と彼女の身の回りの世話を任せている侍女たちが住んでいた。

「信、入るよ」

声を掛けてから、彼女の寝室に足を踏み入れる。信は寝台にうつ伏せで横たわり、静かに寝息を立てていた。

蒙恬が来たことにも気づかずに爆睡しているところを見ると、よほど疲れたのだろうか。布団も掛けずに眠っていることから、横になった途端にすぐ眠ってしまったらしい。

戦であらゆる感覚を研ぎ澄まされた彼女は、どれだけ深い眠りに落ちていても、人の気配を感じると反射的に目を覚ますらしいのだが、今は目を覚ます気配はなかった。

これだけ安心し切って眠っている姿を見ると、ここには危険が少しもないのだと思ってくれているようで嬉しくなる。

(…また髪乾かさないで寝てる)

信の髪が濡れていることに気づいた。湯浴みの後にそのまますぐ寝入ってしまったらしい。

侍女たちに世話は任せているものの、信はあまりあれこれ手を焼かれることは得意でないらしく、侍女たちには構わないでいいと言っているらしい。

下僕時代も王騎の養子として引き取られてからも、身の回りのことは自分でやっていたという。王騎も信を将の道に進ませるために養子にしたというのだから、名家の養子になってからも侍女たちの世話になることは少なかったらしい。

一度部屋を出ると、蒙恬は待機していた侍女に、絹布と櫛を持って来るよう指示した。

「信、風邪引いちゃうよ」

信が眠っている寝台に腰を下ろし、そっと肩を掴んで声を掛ける。

「…んー…」

寝言で返事をされて、蒙恬は苦笑を深めた。
疲れているというのに起こすのも可哀相だと思い、そのまま寝かせてやろうと思った。

未だ濡れている彼女の髪に、侍女が持って来てくれた絹布を押し当てる。

彼女の髪をこうして拭いてやるのは初めてのことではなかったのだが、蒙恬は喜びを噛み締めながら、丁重に彼女の髪に触れる。

しっかりと絹布で髪を拭いた後、櫛でゆっくりと髪を梳かしていく。

「…気持ち良いな…」

信が小さく呟く。顎の辺りで両腕を交差させてうつ伏せの状態でいるので、起きているのか、今も夢を見ているのか表情は見えないのだが、どちらにしても嬉しい感想だった。

髪の手入れをする習慣などないと彼女が過去に話していたことには驚いたが、信の初めてなら何だって欲しいと思うのは、惚れた弱みというものなのだろうか。

絹布と櫛を隅によけて、蒙恬は彼女の隣に横たわる。

「ね、今夜はここで寝てもいい?」

返事が来ないと分かっていながら、そして断られても聞こえないふりをするつもりで、蒙恬は自分たちの体に布団を掛けながら問いかける。

「いつまでも甘えただな」

仰向けに寝返った信が呆れながらそう言った。どうやら起きていたらしい。
布団の中で信の身体を抱き締めながら、蒙恬は頬を緩ませる。

「そりゃあ生まれた時から嫡男なんて立場やってると、人に甘える機会って全然ないんだよ」

だから今甘えてるのだと言うと、信が溜息を吐いて呆れた表情になった。

「嘘吐け。ガキの頃から副官のじいさんに甘えまくりだったじゃねーか」

「それは子どもの時の話」

蒙驁と蒙武から直々に蒙恬の世話を任されたじィこと胡漸は、幼少期の蒙恬のワガママぶりには随分と苦労していたらしい。

蒙恬の将軍昇格が決まった時も、信との婚姻が決まった時も、家臣の中で一番喜んでいたのは胡漸であった。

「変わったのは見た目だけかよ」

「良い男に成長したでしょ?」

小首を傾げながら問うと、信の溜息がますます深まった。しかし、その表情は慈愛に満ちている。

「悔しいが、そこは認めてる」

嬉しい言葉に、蒙恬は堪らず唇を重ねた。

人前で接吻を交わすとげんこつが落ちるのだが、こうして二人きりでいる時は許される。

婚姻が決まったのだから、人目など気にしなくて良いのに、まだ羞恥心が抜けないところも可愛いと思う。

思わず体を組み敷いてしまいそうになったが、婚儀の予行練習で疲れている信に無理はさせたくなかった。

 

 

何度か唇を重ねた後、蒙恬は信の髪の毛を指で梳きながら、思い出したように口を開く。

「そうだ。先日も言ったけど、明日から数日の間、咸陽宮で先生に会って来るから、ゆっくりしてて」

「ああ」

分かったと信は素直に頷いてくれた。
将軍として担っている仕事は軍の指揮以外にも多くあり、信自身もその忙しさはよく知っていた。

知将としての才を持つ蒙恬は、軍事政策の提言や、手に入れた領土の防衛における設計についての指揮を頼まれている。

軍師学校を首席で卒業したその実力は、恩師でもある総司令・昌平君も認めており、将軍昇格となってから、一気に執務の量が増えたのである。

そんな中でも婚儀の予行練習に手を抜く訳にはいかなかったし、自分以外の男が彼女の隣に並ぶことは許せなかったので、代役に任せることもしなかった。

しかし、自分に厳しい信のことだから、蒙恬が居ない間も一人で練習をこなすに違いない。裾を踏んづけて転ばないか心配である。

自分が怪我の心配をしたところで、信は気にしないだろう。
練習を始めたばかりの頃、派手に尻餅をついて転んでしまい、痣が出来たとしても、どうせ着物で隠れるから何も問題ないと大らかに笑っていたことを思い出した。

そうやって普段から無茶をするのが習慣になっているからこそ、心配が耐えないのである。

練習をする時は必ず侍女を呼ぶように伝え、そして一人で練習をさせることのないよう、彼女の身の回りの世話を任せている侍女たちには口酸っぱく伝えたので、留守中に何も問題が起きないことを祈っていた。

「…信?」

腕の中にいる信から、静かな寝息が聞こえて来た。
気持ち良さそうに眠っている彼女の顔を見て、蒙恬はそろそろ休もうと思い、彼女の体を抱きながらゆっくりと瞼を下ろしたのだった。

 

宮廷への出立前

目を覚ますと、まだ陽が昇り始めたばかりであったが、隣に信の姿はなかった。

未だ眠い目を擦りながら、蒙恬は寝台から抜け出す。

窓の向こうから風を切るような音が聞こえて、その音に導かれるように窓辺へと向かう。
寝屋を出ると庭院があり、その中でいつものように信が剣を振るっていた。

その身に似合わぬ強靭な剣を振るう姿を、蒙恬は幼い頃から何度も見て来た。やはり信には女性らしい家財道具よりも武器が似合う。

彼女は天下の大将軍と名高い王騎と摎の養子だが、信が今の地位を築いたのは彼らの縁故ではなく、彼女自身の努力の賜物である。

戦場で多くの敵兵を薙ぎ払い、そして同じだけの命を救おうとしている。全ては秦王の中華統一の夢のためだ。

幼い頃から大将軍を目指していた彼女は、夢を叶えた今になっても、慢心することなく武を極めようとしている。

「おはよう、信」

「ああ」

手の甲で額の汗を拭う姿は、太陽よりも眩しくて思わず目を細めてしまう。

「もう宮廷へ行くのか?」

「そうだね。支度したらすぐに出ようかな。先生を待たせる訳にはいかないし」

そっか、と信が頷いた。朝の鍛錬はこれで終いにするのか、慣れた手つきで剣を鞘へ戻す。

「俺も政のとこに顔出して来るかな。全然会ってねえし」

この国で絶対権力を持つ王の名を呼び捨てるのは、きっと信だけだろう。

嬴政自身も信とは昔からの付き合いがあるので、彼女の無礼は少しも気にしていないのだが、嬴政の傍にいる官吏たちはいつも信の青ざめている。

たかが無礼な態度くらいで、嬴政が容易に命を奪うことは絶対にないと分かっているとしても、信の態度は目に余るらしい。

目的は異なるが、共に宮廷へ行こうとする信に、蒙恬は眉間に不安を浮かべた。

「それはだめ」

本当に剣を握っているのか疑わしくなるほど細い手首を掴み、蒙恬が上目遣いで信を睨む。

「は?なんでだよ」

まさか宮廷への同行を拒否されるとは思わず、信がぽかんと口を開けた。

「…間違い・・・が起こったら大変だから」

「間違い?」

言葉の意味を少しも理解出来ずにいるらしい信はその円らな瞳をさらに真ん丸にする。まるで自分の発言を恥じるように目を逸らしながら、蒙恬が重い口を開いた。

「…婚儀の前に、信が大王様に見初められたら嫌だから」

「はあ~?」

そんなことを言われるとは予想もしていなかったらしく、信が大袈裟に聞き返す。

過去に似たようなやり取りをしたことがあることを蒙恬は思い出した。

将軍昇格が決まった論功行賞の夜、蒙恬は秦王嬴政に跪いて頭を下げ、信を後宮に入れないでほしいと懇願したのである。

秦王の権力は、この国で一番強大だ。もしも嬴政が信を妻にすると命じたのならば、いくら信であってもそれを断ることは出来ないし、後宮に連れて行かれれば、そこから出ることは叶わない。

側室であろうが正室であろうが、秦王の妻となったならば、他の男と関係を持つことは生涯許されない。

まだ嬴政は多くの妻を抱えておらず、それもあって、いつか親友の信を見初めるのではないかという不安を蒙恬は拭えずにいた。

信と婚姻を結ぶにあたり、きっかけを作ってくれた恩人でもあるのだが、もしも嬴政が手のひらを返したとしたら、大人しく従わざるを得ない。

それもあって、自分と信が夫婦だと世間から認められるまで、つまりは婚儀を終えるまで、なるべく嬴政に接触してほしくなかったのである。

 

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不安がる蒙恬の姿を見て、信が呆れたように肩を竦めた。

「政が俺を見初めるなんて、あるワケねーだろ!あいつは後宮で選び放題だってのに、なんでそんな心配してんだよ?」

「だって…」

あの時と同じように信本人が否定するものの、沸き上がった不安を拭うことは出来ない。

嬴政が秦王という絶対権力を持つ立場に就いている間、そして二人が親友関係で結ばれている限り、きっとこの不安を消し去ることは出来ないだろう。

「お前って、よく分かんねえことで悩むよな。政がそんなことするはずねーだろ」

「………」

信と違って安易に秦王のことを口に出せる立場ではないので、蒙恬はむっとした表情を浮かべて信に訴える。

「信だって、もしも秦王様に求婚されたら靡くだろ…」

「そんなのこっちから願い下げだッ!どう考えても国母って柄じゃねえだろ!?」

どうやら、信は国母の座に就く自分の姿が想像出来ないらしい。

後宮に入っていないにも関わらず、秦王に見初められることを夢見ている女性もいるというのに、秦王に見初められることがどれだけ幸せなことか、信には分からないようだ。

彼女に限って、浮気なんてものはあり得ないと断言出来るのだが、人の心というものは目に見えるものではない。

いずれ自分に嫌気がさして秦王を選ぶかもしれないと思うと、いたたまれない気持ちになってしまう。

信が嬴政に寵愛を求めれば、きっと嬴政は親友の気持ちを無下に出来ず、それを受け入れるに違いないからだ。

ずっと恋い焦がれて止まなかった信と両想いになったはずなのに、この幸せが崩れるのが怖いと臆病になってしまう。

そしてこの臆病な自分を曝け出すことで、信に嫌われてしまうのではないかという新たな不安が募る。これでは悪循環だ。

浮かない表情をしている蒙恬から話を逸らそうと、信は彼の肩をぽんと叩いた。

「ほら、早く支度して来いよ。昌平君との約束があるんだろ?」

催促されて、蒙恬は力なく口元に笑みを繕い、出立の準備を始めた。

 

出立

蒙恬の出立を見送った後、信は屋敷で暇を持て余していた。

女性らしい立ち振る舞いの勉強をしようかとも思ったが、朝は何かと侍女たちも忙しそうにしている。

着物の裾を踏んづけて転倒することを蒙恬から心配されていたのは知っていたので、蒙恬が自分のいない間に、一人で練習をしようとしているのなら必ず誰かが付き添うようにと指示を出していたことを信は知っていた。

しかし、婚儀の下準備にも何かと人手がが必要らしい。名家の嫡男の婚儀ともなれば、一族で盛大に祝うのだろう。

信も王一族の養子であることから、婚儀には王一族が参列することになっている。

まさか王一族が婚儀に参列するとは思わず、その話を知って驚いた信は、当主である王翦のもとを訪ねた。

王騎と摎が馬陽で討たれた後、王一族の一員から抜けるべきだとも考えていたのだが、王翦は婚儀の参列を取りやめることはしなかった。

蒙恬との婚姻をもって王一族から信を除名すると、穏やかな声色を掛けられ、普段は仮面の向こうで何を考えているのか全く分からない王翦のことがますます分からなくなったものだ。

下僕出身である信は王騎と摎の養子となってから、机上で何かを学ぶ経験は相変わらず乏しかった。

最低限の字の読み書きは教わったものの、ひたすらに鍛錬を重ね、死地に送り込まれるという地獄のような日々を送ったものだ。

それもあって、名家の養子といっても教養の類を一切教えられなかったのである。王騎も摎も、戦の才能を伸ばすために教養を不要としていたのだろう。

そんな礼儀知らずの娘がまさか名家に嫁へいくと知って、二人はあの世で驚いているに違いない。

未だに婚儀の重要性を少しも理解出来ないでいる信だが、夫となる蒙恬だけでなく、王騎と摎の顔に泥を塗ることだけは何としても避けたかった。

それに、一流の職人が繕っている嫁衣を着るのにも大きな緊張感と責任感が伴う。

信は上質な着物を普段から着慣れていない。上質な着物を着用するのは、宴の場や畏まった行事ごとに参列する時くらいだった。

王騎の養子となってからも、厳しい鍛錬で鎧と着物を汚すのは日常茶飯事であったので、後ろめたさのないように裏地のついていない麻の着物を着用することが多かったのである。

予行練習の際には、婚儀の時のような着物の方が良いと蒙恬が言うので、いつも上質な着物を着せられる。頭につける髪飾りや簪の類も毎度違うのは、きっと蒙恬の趣味だろう。
言葉にはされないが、自分を着飾らせるのが好きらしい。

予行練習で裾を踏んづける度に、信は着物を汚してしまう罪悪感に駆られた。

蒙恬も侍女も汚れたのなら洗えば良いと言ってくれるが、上質な着物を着慣れていないと結婚後の生活も苦労しそうだ。

(…政に秘訣でも聞いてみるか)

ふと親友の顔が頭に浮かんだ。
名家の嫡男たち以上に、普段から上質な着物を着用し、大衆の前に立つ彼ならば、何かしらの助言をくれるのではないだろうか。

蒙恬は婚儀が終わるまで嬴政には会ってほしくないと言っていたが、そんなのは杞憂に過ぎない。

親友はこの国を担う王であり、自分は彼の剣だ。間違っても恋仲になることはない。

宮廷で蒙恬は軍政の執務をこなしているのだから、会うことはないだろう。気づかれなければ、咎められることはないはずだ。

信は自分の身の回りの世話をしてくれる侍女たちに、これから宮廷へ向かうと声を掛ける。
無断で屋敷を外出してしまうと、侍女たちに心配をかけるだけでなく、不手際があったと彼女たちがお叱りを受けることになるらしい。

蒙恬が女性に声を荒げている姿は一度も見たことがなかったが、自分が不在の間、侍女たちに信のことを任せていることは知っていた。

宮廷へ向かうと聞いた侍女たちは、すぐに支度の準備や護衛の手配をしようとしてくれたが、信はそれを断って、厩舎で寛いでいる愛馬の駿のもとへと向かった。

毎日のようにその背に跨り、広い高原を走らせていたのだが、蒙家に来てから飛信軍の鍛錬は副官たちに任せているせいで、最近は駿をあまり外に出せないでいた。

もちろん蒙家に仕えている家臣たちが欠かさずに世話をしてくれるものの、普段から走り慣れている駿は随分と退屈そうにしているようだ。

「退屈させて悪いなあ、駿」

鬣を撫でつけながら謝罪すると、納得してくれたのかそうでないのか、ぶるると鼻息を鳴らされた。

背中に秦王から授かった剣を背負って愛馬に背に跨ると、信はそれ以外の荷を持たず、まるで初めて蒙家に来た時と同じ姿で宮廷へと向かうのだった。

 

発覚

宮廷に到着すると、信はさっそく親友である嬴政の姿を探しに回った。

彼も秦王としての政務があるので、決して暇ではない。しかし、少し顔を見るくらいなら許されるだろう。

蒙恬との婚儀には、嬴政ももちろん参列すると言ってくれた。
親友の門出を祝うのは当然だと言ってくれたのだが、蒙家の者たちからすれば、秦王が婚儀に参列するというのはこれまでになかったことで、婚儀の準備は抜かりないように手配しているらしい。

信にとっては親友でも、他の者からしてみれば天上の御方であり、滅多にお目にかかることはない存在だ。

見張りの兵からに嬴政の居場所を聞くと、いつもの玉座の間にいるらしい。愛馬の駿を厩舎に預け、信は我が物顔で宮廷を歩き出す。

玉座の間へと向かっている途中、ある一室から大きな物音が聞こえた。

「?」

茶器でも落としてしまったような小気味いい音と、男女の声だった。

「だ、だからっ、俺の話を聞いてって!」

「いいえ、もう我慢なりません!」

立ち聞きをするつもりはなかったのだが、扉越しに男女の声が響く。揉め事だろうか。

男の方が焦燥しており、女の方が怒気が籠っている声だった。もしかしたら浮気でも責められているのかもしれない。

修羅場になりそうだなと考えながら、信はさっさとその場から立ち去ることを決めた。盗み聞きをする趣味はないし、この手の揉め事に関わると面倒事しか待っていない。赤の他人である自分は一切関与しないのが一番安全だ。

そう思い、さっさと玉座の間へ向かおうとしたのだが、

(…なんか、聞いたことがあるような…?)

男の声の方に随分と聞き覚えがあるような気がして、信は思わず足を止めていた。

(き、気になる…!)

一つ気になることがあると、自分が納得するまでとことん調べ尽くそうとするのは、蒙恬の癖がうつったのかもしれない。

男女の揉めごとに関わるべきではないと頭では理解しているものの、信は正体を確認したいという好奇心が抑えられなくなってしまった。

少し覗くだけだからと自分の良心に言い聞かせ、信はそっと扉の隙間から中を覗き込む。

「……へ?」

 

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室内にいたのは、蒙恬と見知らぬ女性だった。

宮廷で昌平君と会うと話していたはずの婚約者がこんなところで何をしているのだろうか。気になるのは他にもたくさんある。

蒙恬と一緒にいる女性に、信は少しも面識がなかったのだが、その美しい見目麗しい外見から、どこぞの令嬢であることは分かった。

先ほど扉越しに聞こえた会話から、どうやら二人には面識があるらしい。

だが、信が一番驚いたのは、令嬢の方が侍女も護衛も連れておらず、この密室で蒙恬と二人きりでいたことと、女性の方が蒙恬の体に跨って、今まさに床に押し倒したばかりの体勢でいることだった。

令嬢の細い両手首をしっかりと掴んでいる蒙恬を見れば、なんとか抵抗を試みていることが分かったが…。
先ほど聞こえたやり取りを除けば、見方によっては蒙恬の方が令嬢を誘ったようにも見受けられた。

頭の中が真っ白になった信は、覗き見のつもりが勢いよく扉を開けてしまった。二人の視線が同時に信へ向けられる。

「えッ!な、なんでここに!?」

愕然としたのは信だけでなかった。蒙恬から予想通りの反応と言葉が返って来る。

一方、女性の方は蒙恬に両手首を掴まれたまま、不思議そうな顔で信のことを見据えている。

(この女…もしかして…)

もしかしたら彼女は、もともと蒙恬の婚約者候補だったのではないだろうか。蒙恬は信との婚姻のために、届いていた数多くの縁談を断っていたので、その可能性も考えられる。

それとも、信と婚約をする前に褥を共にしていた女性かもしれない。

結局のところ、信にはこの女性が何者なのか分からなかったが、二人が男女の関係であることは瞬時に察したのだった。

「し、信?」

黙り込んでいる信に、蒙恬が泣き笑いのような顔で名前を呼ぶ。

口角をひきつらせながら信は、

「―――破談だ」

それだけ言うと、廊下を駆け出していった。

 

中編はこちら

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終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

中編①はこちら

懺悔

激痛で焼き切れそうになる意識を繋ぎ止めたのは、幾度も死地を駆け抜けた強靭な精神力のおかげだったのかもしれない。

しかし、今となってはもう、武器を振るうことも出来ない弱い女が、ただ痛みに耐えているだけだった。

「信、気をしっかり持ちなさい」

止血のために切断面に布を被せ、強く圧迫しているのは、右手首を落とした李牧自身だった。

「ひぐ、ッぅ…ふ、ぅく…」

床に落ちている手と、止血をされている腕を交互に見て、右手が身体から切り離されたことを頭が理解するまで、しばらく時間が掛かった。

呼吸がしやすいように、咥えさせられていた布を外されると、がちがちと歯が打ち鳴った。

止血のために断面部を強く押さえられているものの、布はたちまち血で真っ赤に染まっていく。

右手を失うことくらい致命傷ではないと頭では理解しているものの、心臓が脈打つ度に血が溢れて、布だけでなく、床まで真っ赤に染まっている。

床を汚しているおびただしい血の量を見て、それが全て自分の血だと思うと、このまま死んでしまうのではないかという気持ちになった。

しかし、まだ死ぬわけにはいかない。信は歯を食い縛りながら、李牧を睨むように見据えた。

「こ、これ、で…桓騎は、見逃して、くれるんだな…?」

歯を打ち鳴らしながら何とか紡いだ信の言葉を聞いた李牧は、不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げた。

「…何の話ですか?」

返された言葉に、信の中で一瞬だけ時間が止まった。

 

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呆然としている信を見据えながら、

「もう二度とあなたには武器を握ってもらいたくないとは言いましたが、桓騎に手を出さないと誓った覚えはありませんよ」

圧迫止血をする手を休ませることなく、李牧は残酷な言葉を吐き捨てた。

目の奥が燃えるように熱くなり、信はその一瞬、右手を切断された痛みを忘れるほど、怒りに頭が支配された。

「李牧、てめえッ」

残っている左手を振り上げる。
武器を持つことも考えられず、ただ拳を作っただけの攻撃に、李牧は驚くこともしなかった。

まるで信の反撃を予想していたと言わんばかりに、軽々と左手首を掴まれる。
これが決して埋められぬ力の差であると、認めざるを得なかった。

しかし、頭に血が上り切った信は、諦めを知らない。

両手が使えないならと李牧の腕に噛みつこうとした途端、耳を塞ぎたくなるような、嫌な音が響き渡った。

「あああッ」

左手の親指が不自然な方向を向いていることに気付くのと、新たな激痛に信が悲鳴を上げたのはほぼ同時だった。

「あ…ぁ…」

血を流し過ぎたせいだろうか、信の意識は白く霞んでいく。

着物が血で汚れることも厭わず、目線を合わせるように信の前で膝をついた李牧は、彼女の青白くなっていく顔を見つめる。頬に手を伸ばすと、しっとりと汗をかいているものの、まるで氷のように冷たくなっていた。

もう抵抗する気力も体力も底をついたのだろう、李牧に触れられても、信はその手を振り払うことも顔を背けることもしなかった。

「…自らの意志で敵地に乗り込んで来たことは称賛します。しかし、考えが甘かった。あなたの敗因は、卑怯者である私を信じたことでしょうね」

少しずつ瞳から光を失っていく信が、その言葉に反応するかのように唇を戦慄かせた。今の彼女が懺悔と後悔に支配されているのは、言うまでもない。

「か、桓、騎…」

頬を伝う涙は、血の気を失った青白い肌と違って温かった。

その涙を指で拭ってやりながら、李牧は小さく溜息を吐く。

「…あの夜は、桓騎に抱かれながら私の名を呼んでいたというのに、…今となっては、ではなく、あの男の名を呼ぶのだな」

悲しげな瞳をしていたが、その声は、刃と同じくらいに冷ややかだった。

 

 

右手の止血に集中しなくてはと思っていたのだが、最後まで信が抵抗を続けたせいで、速やかな処置が出来なかった。余計な出血をさせてしまったのはそのせいだろう。

青白い顔で床に倒れ込んでいる信は、か細い呼吸を繰り返していた。

僅かに目は開いているものの、その瞳に光はなく虚ろで、体も脱力している。もうほとんど意識を手放していると言っても良いだろう。

ちょうどその時、あらかじめ呼んでおいた医師が来訪した。

未だ出血している右腕の状態を見て、このまま止血を続けるより、切断面を焼いた方が早いだろうと言われる。

部屋の隅に設置していた青銅製の火鉢には、一本の剣が刺さっている。念のためにと用意していたものだったが、やはり使うことになったかと李牧は落胆を隠し切れなかった。

柄を掴んで剣を引き抜く。火鉢の中で熱を帯びていた刃がぬらぬらと熱を帯びて赤く光っていた。

医師が信の右腕を持ち上げて、未だに血を流し続ける断面を李牧へ向けた。

迷うことなく李牧は真っ赤な刃を断面に押し当てる。意識を失っていても体が激痛を感じているのか、信の体が大きく跳ね上がった。

皮膚が焼ける音がして、鼻につく匂いが煙と共に部屋に充満する。待機していた兵たちはその匂いに顔をしかめていたが、李牧だけはうっすらと笑みを浮かべていたのだった。

一瞬で焼け爛れた腕の断面に軟膏を塗布し、医師が丁寧に包帯を巻いていく。

左手の親指も骨の位置を正しく戻してから、きつく包帯で固定する。これでしばらく両手は使えないだろう。もっとも、右手は二度と使えないのだが。

「………」

李牧は床に落ちていた信の右手を拾い上げた。
切り離されたその手は少しずつ冷たくなっていて、すでに拘縮が始まっており、文字通り血の気が失われている。幾度も武器を振るって肥厚した将の手だった。

悲しみを堪えるために、拳を握って血が流れるほど爪を食い込ませた痕が残っている。他の誰でもない信の手だ。

腕を切り落とすのに借りた剣は、信が秦王嬴政から賜った剣であることを李牧は知っていた。彼女自身の血に塗れた刃をあえて拭うことはせず、李牧は兵に声をかける。

「これを秦国に、必ず送り届けて下さい」

礼儀正しく一礼した兵が李牧の手から、切り落とされた信の右手と血塗れの剣を受け取る。

信は多くの兵や民から慕われている秦将だ。秦王嬴政だけでなく、他の将とも交流があるし、配下たちからは厚い信頼を得ている。今頃、彼女の不在を不審がる者たちが現れているに違いない。

そんな時に趙からの贈り物・・・・・・・が秦に届けば、混乱は必須。しかし、彼女が趙でその命を散らせたと誰もが信じ込むはずである。

そして合従軍から秦王と秦国を守り抜いた英雄として、信の存在は長く語り継がれることだろう。

なぜ彼女が戦でもないのに、趙国でその命を散らすことになったのか。それを深く追求し、答えに辿り着く者がいるとすれば、それは李牧の懸念材料である桓騎だけだろう。

(…きっと、あの男だけは信じないでしょうが)

自分の処刑を記した木簡を彼が読んだかは分からないが、信が必死に桓騎を守ろうとしていたあの姿を見れば、彼が救援に来ることを想定していたのだろう。

あの男の聡明な頭脳と知将としての才、そして信に向けている気持ちは李牧もよく知っている。

信が敵国へ、しかも秦を滅ぼさんとした趙の宰相の救援へ向かったと裏付ける証拠になり得るあの木簡を、桓騎は誰の目にもつかぬ場所で処分するはずだと睨んでいた。

命を懸けて秦国と秦王を守り抜いた彼女が趙と密通していたという疑いが掛けられれば、英雄から一転、裏切り者として中華全土にその汚名が広まることになる。

桓騎としては、信の名がそのように汚されることは断じて許さないはずだ。

もっとも、李牧にとっては信の訃報さえ広まれば、彼女が英雄扱いされようが、裏切り者扱いされようが、どちらでも良かった。

…そして、もしも桓騎が信を救出しに来るのならば、それは桓騎自身も命を捨てる覚悟を決めた時だろう。

彼が信と共倒れをするような、短慮な策を考える男ではないことを李牧も分かっていた。自らの命を犠牲にしてでも、何としても信を救い出そうとするに違いない。

そして李牧も、その機を逃すことなく、桓騎の首を取るつもりだった。

趙国の宰相である自分の屋敷に敵国の将がいるとなれば、下手に密通を勘繰る者もいるだろうし、飛信軍に恨みを抱く者たちが報復のために信の身柄を奪いに来るかもしれない。信の身に危険が及ぶことだけは避けたかった。

それに、どのみち秦国に贈り物・・・が届いたのならば、生死は問わず、信の所在は趙にあると広まるだろう。彼女の死を信じない者たちから、信を奪われることだけは何としても避けたかった。

だが、もしも信を逃がすことになったとしても、桓騎の首を取った後で、もう一度取り戻せば良いだけだ。

彼女が自分のために身一つで趙へ駆けつけてくれたのは、長い間共に過ごしていた単なる情に過ぎない。それは桓騎への愛よりも下回る感情なのだと思うと、それだけで腸が煮えくり返りそうになる。

だが、もう二度と他の男の手垢に汚されることはない。

李牧は信を手に入れる未来のために、一度は彼女を手放したのだから。

 

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初めての嘘

命に別状はないとはいえ、右腕の出血がそれなりに多かったせいか、回復まで時間を要するだろうと医師は話していた。

今、彼女の身柄は李牧の屋敷にあり、信頼出来る従者たちにその世話を任せている。

その日、執務を終えて屋敷に戻るなり、従者から信がようやく目を覚ましたという報告を受けた李牧は、足早に彼女がいる部屋へと向かった。彼女が趙に来てから、三日目のことだった。

部屋に入ると、信は寝台で身を起こしていた。
李牧が部屋に入って来たことにも気づかず、ぼうっとした様子で格子窓の向こうにある月夜を眺めていた。

三日も眠っていたのだから、自分の身に何が起きたのか、彼女自身も混乱しているのかもしれない。

「信」

名を呼ぶと、信はゆっくりとこちらを振り返った。

「…李牧…?」

彼女の双眸に光は戻っていたが、李牧を見るなり、顔に僅かな緊張が浮かぶ。

趙国に信を誘い込んだだけでなく、その右腕を落としたのだから、怯えるのも無理はない。憎悪を向けられるのは当然だと思った。

しかし、信の瞳は戸惑うばかりで、こちらに罵声を浴びせることもしない。

人質という立場として利用している訳でもないので、信自身もどうして生かされているのか、きっと分からずに戸惑っているのだろう。

何と声を掛けようか、李牧が思考を巡らせていると、

「お前…今まで、ずっと、どこで何してたんだよッ!?」

まるで自分のことを案ずるような言葉を掛けられ、これにはさすがの李牧も動揺を隠し切れなかった。

何を言っているのだと聞き返そうとした途端、信の瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。
それが決して演技などではなく、本気で自分との再会に安堵しているのだと分かると、李牧は沸き上がる違和感に思わず眉根を寄せるのだった。

あの雨の日・・・・・、お前が急に居なくなって…俺、…」

嗚咽で濁ってしまった言葉に、李牧はまさかと目を見開く。
たった今、信の口から出たあの雨の日というのが、自分が彼女のもとを去ったあの日であると、すぐに結びついた。

李牧が内心動揺していることに気づかず、信は思い出したように言葉を続ける。

「あ、そ、そうだ!父さ、王騎将軍はっ?馬陽で趙軍の策に嵌められたんだ。俺、父さんを助けようと思って…それで…」

信の養父である王騎が没した馬陽の戦の話を持ち出され、李牧のこめかみは締め付けられるように痛んだ。しかし、それを表情に出すことはしない。

訴えから察するに、恐らく信は、馬陽の戦いから先の記憶が無くなっているようだ。

(まさか、そんなことがあり得るのか)

予想外の出来事に、李牧は言葉を失ったまま、信のことを見つめていた。

 

人は耐え切れぬ心痛に襲われると、防衛のため、無意識のうちに記憶を排除することがあるのだという。
医学に関してはそこまで知識のない李牧だが、その話は人づてに聞いたことがあった。

ただし、実例を見たことは一度もない。よって、記憶が元に戻る方法は、聡明な李牧であっても分からない話だった。

「…李牧?」

いつまでも黙り込んでいる李牧に、信が不思議そうに問いかける。
はっと我に返った李牧は、寝台に腰掛けている彼女のもとに近づくと、強くその体を抱き締めた。

信は抵抗する素振りを見せず、むしろ再会した自分・・・・・・との抱擁を喜ぶように、身体を預けて来た。

両腕を背中に回して自分の体を抱き寄せる信が堪らなく愛おしくて、李牧は喜悦に奥歯を噛み締めた。

信を滅びの運命にある国から救い出すために、李牧は彼女の元を去ったのだが、その間に彼女は心変わりをしてしまい、秦趙同盟で再会した時には既に自分との決別の意志を固めていた。

しかし、今の信は、何よりも誰よりも、恋人である自分を優先していた当時の彼女だ。

もう二度と会えないと思っていた彼女が戻って来てくれたのだ。それが他でもない自分のためであると、李牧は疑わなかった。

(もう二度と手放すものか)

心に固く誓いながら、李牧は信の体を強く抱き締める。

「…王騎は、生きている」

初めて、彼女に嘘を吐いた。

信を完全に我が物にするために、卑怯者に成り下がったことを、李牧は決して後悔することはなかった。

 

 

養父が生きていると聞かされた信は安堵の笑みを浮かべた。

「…良かった…」

自分の言葉を微塵も疑うことなく聞き入れるその姿が懐かしくて、李牧もつい笑みを深めてしまう。

この幸せを守っていくためなら、嘘を吐いてでも、卑怯者になろう。
それは信と自分の未来のために必要な好意であると、李牧は自分に言い聞かせた。

彼女を滅びの運命にある国から救い出すために、養父を奪い、合従軍で秦を責め立てた李牧には、もう痛む良心などなかった。

「お前は殿しんがりを務めているうちに倒れたんだ。覚えているか?」

信が自分に違和感を抱かぬよう、無意識のうちに、口調が昔のものに戻っていた。

そして当然のように事実と嘘を並べる。嘘を吐くことを、彼女を騙すことに対し、罪悪感など微塵も感じなかった。
全ては自分たちの幸福のためなのだから。

「……、……」

何があったのか思い出そうとしているのか、信が眉根を寄せる。しかし、そう簡単に記憶は戻らないようで、小さく首を横に振った。

馬陽は総大将の王騎の撤退により、秦の敗北で終わった。

撤退の途中で王騎は力尽き、その最期の瞬間に信は立ち会ったと聞いていた。実際にあの戦で殿を務めたのは別の将だが、李牧は都合よくそれを彼女に置き換えたのだった。

「…俺が殿を務めたってことは、…秦は、負けたんだな」

あの戦で秦が敗北したのは事実だ。李牧は沈黙で返事する。

殿しんがりは敵軍の侵攻阻止の役割を担う。後方に配置されることが主であり、いつも前線で敵を薙ぎ払っていた飛信軍が担当することは滅多にない役割だった。

自分が殿を務めたということから、信は敗北を察したのだろう。

しかし、彼女の言葉を聞く限り、王騎の死を覚えていない。どうやら、馬陽の戦の最中から記憶が途切れているらしい。

「…?」

未だ李牧の背中に回したままでいる右手に違和感を覚えたのだろう、信は小首を傾げながら、自分の右手に視線を向ける。

手首から先が失われ、包帯に包まれている右腕を見て、信がひゅ、と笛を吹き間違えたような声を上げた。

 

その視線の先を追い掛けた李牧は、信が自分に腕を落とされたことも覚えていないのだと確信した。

「あ…ぁ…」

信の顔がみるみるうちに青ざめていく。

腕を失うということは、武器を振るえないことに直結する。それはすなわち将としての命運が尽きたという残酷な宣告でもあった。

将以外の生きる道を知らぬ信にしてみれば、それは死刑宣告とも等しいことだろう。青ざめた顔が絶望に染まっていく。

咄嗟に李牧は、彼女を抱き締める腕に力を込めた。

「…お前が殿を務めたことで、王騎は死を免れた。お前のおかげで、王騎だけではなく、兵たちの犠牲も最小限に抑えられたんだ」

痛まし気な表情を浮かべ、彼女の心を傷つけぬように選び抜いた言葉を告げた。

「っ…、ぅ…」

李牧の胸に顔を埋めている信が、小さく嗚咽を零し始める。

「最後まで敵軍に抗ったことは、将として誇るべきことだ。お前を責める者は誰もいない」

その言葉は本心だった。

信が将として戦場に出ることで、どれだけ秦国に貢献しただろう。
蕞から合従軍が撤退することになったのは、信が命を懸けて秦王を守り抜き、そして圧倒的な兵力差にも怯むことなく士気を高め、最後まで戦い抜いたからだ。彼女の存在が秦の命運までも左右したと言っても過言ではない。

山の民からの救援が来なければ、蕞を落とせたのは言うまでもないのだが、仲間を信じていた秦軍の勝利であったことは覆せない事実だ。

「………」

泣き崩れる彼女を抱き締めてやりながら、李牧は昔のことを思い出す。

いつも悲しみを堪える彼女をこうして抱き締めながら、落ち着くまで泣かせていたものだ。そうしないと、彼女は拳を作り、血が流れるまで爪を食い込ませる。恐らく下僕時代からの癖だったのだろう。肥厚した皮膚がそれを物語っていて、李牧が信と出会った時にはその癖は習慣化されていた。

自分が彼女のもとを離れてから、その悪い癖は再発してしまったようだが、右手を失った今ではただの過去でしかない。

「…信?」

「……、……」

声を上げて泣き続けていた信だが、しばらくすると疲れてしまったのか、李牧の胸に凭れ掛かったまま、瞼を下ろし掛けている。

その頭を優しく撫でてやっているうちに、静かな寝息が聞こえ始めた。

寝台に横たえてやり、風邪を引かぬよう肩までしっかり寝具を掛けると、李牧は部屋を出ようと立ち上がった。

馬陽から先の記憶が失われているのは分かったが、もしかしたら一時的に記憶が混在しているだけかもしれない。

傷が癒えたところで、もう彼女が武器を振るうことは叶わない。左手も親指を折っているので、扉を開けることにさえ時間を要するだろう。とはいえ、今の信は休息が必要だ。

三日も眠り続けていたとはいえ、右腕を失ったせいでかなり出血もあったし、体が本調子に戻るまではしばらく時間がかかるに違いない。

従者たちには彼女を外に出さないようにと、常時見張りを頼んでいる。
両手が不自由でも、両脚に枷をしている訳ではないので、万が一のことも考えられたからだ。

二度と武器を持たせぬように右手を落とした時、逃げ出さぬようにと足を落とさなかったのは、やはり情があるのかもしれない。

がむしゃらに彼女を傷つけたい訳ではなかった。
信がここに来たのは自分を救出するためであり、それはまだ彼女の心に自分という存在が強く刻み込まれている証拠なのだから。

幸いにも、今の彼女には桓騎と相思相愛であった記憶はない。
過去に桓騎の素性を調査したが、どうやら彼には身寄りがなく、咸陽で行き倒れているところを信が保護したのだという。

今の信にとって、きっと桓騎はただの子どもでしかないだろう。このまま記憶が戻らなければ、彼女の心は自分が支配出来たままでいられる。

…問題なのは、今の信が、李牧を趙の宰相だと知らぬ・・・ことだ。

王騎を討ち取った軍略を企てたのも李牧であり、養父の仇同然であると知れば、きっと信は大いに混乱するはずだ。

彼女の心の平穏を保つためには、そして記憶を取り戻すようなきっかけを遠ざけるためには、王騎の死も、自分の趙宰相である立場も告げぬ方が良いだろう。

次に目を覚まして、信の記憶がもとに戻っていたのなら、ただの杞憂で済む話だが、そう上手く事が運べるとも思っていなかった。

 

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懐古

「…?」

寝台から離れようとした時、腰元に何かが触れたので反射的に振り返った。

信は手首から先のない右腕を、懸命に自分の方に伸ばし、小刻みに動かしていた。きっと手が残っていれば着物を掴んでいたに違いない。

「信?」

まだ起きているのかと声を掛けると、閉ざされていた瞼が僅かに持ち上がり、泣き濡れている瞳と目が合った。

「…行くな、行か、ないで、くれ」

その言葉には聞き覚えがあった。
彼女のもとを去ったあの雨の日、信は泣きながらそう言って自分を引き留めようとした。

もう離れることはないというのに、目を離した隙にどこかへ行ってしまうのではないかという不安に打ち震える信を見て、李牧は胸が締め付けられるように痛んだ。

「ああ、もうどこにも行かない」

寝台の傍に膝をつき、眠っている彼女の体を抱き締める。

将としての未来も潰えてしまい、再び自分を失えば、今度こそ心が壊れてしまうと、信は無意識のうちに恐れているのだろう。

もう自分にしか縋るものがない信の心境を考えると、李牧は卑怯だと分かりながらも、ようやく彼女を手に入れることが出来たのだと思えた。

「李牧…」

弱々しく背中に腕を回して来て、安堵を顔に滲ませる信が堪らなく愛おしくて、浅ましいほどに情欲が膨れ上がる。

抑えなくてはと思うのだが、すでに李牧の手は彼女の両肩に伸びていた。

「…すまない、信。今すぐお前が欲しい」

情欲に染まった瞳を向けると、信は少し戸惑ったように視線を泳がせて、それから小さく頷いた。恥ずかしがりながらも、承諾してくれたことに懐かしさを覚える。

 

彼女の身体を組み敷くと、二人分の重みに寝台がぎしりと音を立てた。

「う…」

顔を寄せ合うと、信は緊張したように目を閉じた。
ゆっくりと唇を合わせる。秦趙同盟の後に唇を交わしたことを思い出し、李牧はうっとりと目を細めた。

あの時は別れを惜しむ口づけだったが、今はその反対で、再会の喜びを分かち合う口づけだ。

「ん…ふ、ぅ…」

舌を差し込むと、仄かに薬湯の苦味を感じた。
信が眠り続けている間も、気休め程度にしかならないだろうが、痛みを和らげる薬湯を飲ませるよう医師に指示していた。

「う…ぁ…」

舌を絡ませて口づけを深めようとすると、信の体が強張って顔を背けてしまう。

「信?」

口づけを嫌がるような素振りに、李牧はまさか記憶を思い出したのではないかと考えた。

「あ…えっと…」

狼狽える姿を見れば、記憶を取り戻した様子はない。
口づけを拒絶というよりは、恥ずかしさのあまり、どうしたらいいか分からないという反応だった。

「ひ、久しぶりだから、…その、う、上手く、できない、かも…」

信が顔を真っ赤にしたまま目を泳がせる。

緊張で身体を強張らせながら、上手く自分の相手が務まるか分からないと打ち明ける信の初々しい態度に、思わず頬を緩めてしまった。

きっと秦国では桓騎とも体を重ねたのだろうが、今の信には自分以外の男に抱かれた記憶がない。
それでいいと思った。自分以外の男に、その体を抱かれた記憶など、信には必要ない。彼女の破瓜を破ったのも、男に抱かれる喜びを教えたのも、この自分なのだから。

「傷に響くかもしれない。無理はするな」

欲しいと言ったのは自分の方だったのに、李牧は信を気遣う言葉を掛けた。

切り落とした右手は止血のために断面を焼き、今もまだ手当てを続けている。

左手の親指も骨は正しい位置に戻していたが、まだ完全に腫れは引き切っておらず、包帯できつく固定されたままだ。傷の処置は今も続けており、薬湯を飲ませているとはいえ、痛むこともあるだろう。

しかし、信は小さく首を横に振ると、まるで甘えるように李牧の首に両腕を回す。

「いいからっ…」

切羽詰まった声で催促されると、彼女も同じ想いで、自分を欲してくれているのだと分かり、李牧の心臓が激しく脈打った。

「んんっ…」

唇を重ねていたのはほとんど無意識だった。
二度と手放すものかと、李牧は独占欲に掻き立てられるままに、体を動かしていた。

 

 

「う…ぅん、ぁ…」

夢中になって舌を絡ませながら、李牧は信の着物を脱がせに掛かっていた。

同じように信も李牧の帯に手を伸ばしているが、右手が使えないせいで、残された左手もたどたどしい動きだった。親指にはまだきつく包帯が巻かれているので、残された四本の指しか使えないのである。

この手では、扉や窓を開けることは容易に出来ないだろう。
…もっとも、信が記憶を取り戻した時や、左手の親指が完治した時にはどうなるかは分からないが。

「はあ…ぁ、…」

まだ口づけしかしていないというのに、信の瞳が恍惚の色を滲ませている。

彼女の破瓜を破ったのも、男に抱かれる悦びをその身に刻み込んだのも全て自分だ。他の男に抱かれたとしても、信の体は自分に触れられる悦びを忘れてなどいなかった。

信の着物を脱がせると、最後に見た時よりも傷の増えた肌が現れる。

致命傷になり得た深い傷からそうでないものまで、自が信のもとを去った後も、彼女は何度も死地へ赴いていた。

この部屋に連れて来た時、胸元に残っていた赤い痕はもう消えかけていた。

それが戦で受けた傷痕ではなく、情事の時につけられたものであると、すぐに分かった。自分もこのような痕を残した記憶があったからだ。

きっと信がここに来るのを引き留めようとした桓騎の仕業だろう。彼女が眠っている間に、初めてその痕を見た時は嫉妬の感情が膨れ上がり、そのまま信の首を締めて、本当に自分のものにしてしまおうかと思ったほどだ。

しかし時間が経てばこの痕がいずれ消えてしまうように、きっと信の記憶からも自分以外の存在は全て消えてしまうに違いない。

 

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「ひゃ、ぅ…」

胸の柔らかさを手の平で味わっていると、信が甘い声を上げた。
最後にその体を抱いた時よりも幾分か成長していたらしく、豊満さを感じる。先端の芽を指で弾くと、信の体がぴくりと震えた。こちらは相変わらず鋭敏のようだ。

「ぁ…は、ぅ…」

二本の指で胸の芽を挟んだり、軽く摘まんだりしているうちに、信がもどかしげに膝を擦り合わせていた。

硬くそそり立ち、摘まみやすくなった芽をさらに可愛がってやりながら、身を屈め、李牧は信の耳元に熱い吐息を吹き掛ける。舌を差し込むと信の肌がぶわりと鳥肌を立てたのが分かった。

「あ、ぁぅッ…」

擦り合わせている膝を開かせ、脚の間に手を差し込むと、そこは熱と湿り気を帯びていた。

「やあっ…」

少女じみた反応に、変わっていないなと思わず笑みを深めてしまう。
自分を欲しがるくせに、恥じらいを切り離せないでいるのは、記憶の中の彼女のままで、目の前の信はその生き写しだった。

「う…、っ…」

両腕を動かし、男根を愛撫しようとしているようだが、両手が自由に使えないことで、信がもどかしげな表情を浮かべる。

「は…ぁ…」

それでも何とかして男根に触れようと、信は一度身を起こして、李牧の脚の間に頬を摺り寄せて来た。

まるで犬が飼い主に自分の身体を擦り付けるような甘える仕草に、李牧は思わず笑んでしまう。

もちろん愛しい女を奴隷や飼い犬のように扱うつもりは毛頭ないのだが、積極的に甘えて来る信の姿が純粋に嬉しかった。

「ん、んぅ」

自由に使えない両手では着物を脱がせられないと分かった信は、諦めたように着物越しに男根を愛撫することに決めたらしい。

「は、ふ…」

上下の唇で男根を甘く挟み込まれる。着物越しであっても、熱くて湿った吐息を感じ、李牧は思わず息を乱してしまう。褒めるように、脚の間に顔を埋めている信の頭を撫でた。

信の恍惚とした表情を見れば、彼女も同じ想いでいることが分かる。日焼けで傷んだ髪を指で梳きながら、李牧の胸は幸福感でいっぱいになっていた。

 

 

救済と幸福

着物越しの愛撫でも男根が屹立してしまったのは、相手が信だからだろう。

どれだけ技量の優れた妓女であったとしても、信でなければ、この身が欲情することはない。それは李牧が信のことを愛している証であった。

彼女のもとを去ってから、李牧は信のことを一日たりとも忘れたことはなかった。

初めから李牧は秦国のことを見限っており、信を滅びの運命から救い出すために、今の地位を築き上げたのだ。一度は彼女を手放すことになったが、その先にある未来のためにもやむを得ないことだった。

秦趙同盟で再会を果たしたとき、どれだけ説得を試みても、信が李牧を選ぶことはなかった。

信は決して自分の信念を曲げない心根の強い女だ。だからこそ、彼女が祖国を見捨てることは出来ないことは分かっていたし、共に滅びの道を選ぶことも分かっていた。

そんな運命から救い出さなくてはならない。過去に王騎を討ち取ったのも、秦国を滅ぼそうとしているのも、すべては信の救済のためだった。

二度と信の笑顔を見られなくなったとしても、それは彼女を滅びの運命から救い出す代償だ。

すでに自分が趙についたことと、王騎を討ち取った軍略によって、信頼は失っているし、今さら彼女から嫌われることを恐れるはずがない。

だから、一時的とはいえ、信が記憶を失ってしまったことに、再び自分を愛していたあの頃の彼女に戻ってくれたことに、李牧はただ幸福を感じていた。

 

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両脚を割り広げ、今度は李牧が彼女の脚の間に顔を埋めた。

驚きと羞恥で閉じそうになる脚をしっかりと押さえ込み、慎ましい淫華に唇を寄せる。
蜜が滲んでいるせいで、縦筋は艶めかしい光沢を帯びていた。縦筋をなぞるように尖らせた舌先を這わせると、信の体が大きく震えた。

「んんっ、ふ、くっ…はあっ…」

李牧の舌が卑猥な水音を立てながら花弁を捲り上げる度に、信の腰がびくびくと震える。

いつもなら敷布を強く握り締めるのだが、不自由な両手では物を掴むこともままならない。呼吸を切迫させながら、信は敷布の上で両腕を泳がせていた。

「あ、はぁ…」

唾液と蜜で濡れそぼった淫華は、男を誘うように珊瑚色をさらに艶やかに見せている。

固く閉じていた花弁がふやけて左右に開く頃には、信の瞳はとろんしており、もっと欲しいと言わんばかりに李牧に熱い眼差しを向けていた。

「ぁ、うっ…んんっ…!」

もっと善がらせてやろうと舌を差し込むと、信が力なく首を振って身を捩った。中の肉壁は奥の方までよく濡れていた。

一度口を離し、淫華の中に指を押し込んだ。
上壁のざらついた箇所を指の腹で擦る。目当てのものをすぐに見つけ、李牧は腹の内側を指で突き上げた。

「あ、やっ、ぁあっ」

隠れた性感帯を刺激され、信が目を剥いた。信が善がり狂う箇所は全て覚えていた。
自分の手技で善がり狂う信を見ると、彼女の全てを支配出来たような心地になった。

「っ、あ、待っ、ぇ…!」

指を動かしながら、李牧が再び脚の間に顔を寄せると、信が涙を流しながら制止を求めて来る。

花芯を舌で舐ると、彼女の声が甲高くなった。
外側と内側の急所を同時に責め立てられ、信が泣きながら善がる。両手が敷布を掴めないせいで、快楽から意識を逸らす術がなく、どうしようもなくなっているらしい。

久しぶりに身を重ねたのもあるが、感度が高いのはそのせいだろう。

「あっ、ぁ、はあッ、ああぁッ」

やがて、身体が大きく痙攣をしたかと思うと、信の体は力が抜けたように寝台の上に沈み込んだ。

 

二度目の初夜

寝台の上で荒い呼吸を繰り返す信は、長い睫毛を小刻みに震わせていた。

「信」

汗ばんだ頬を優しく撫でてやると、気持ち良さそうに目を細める。
もっと撫でて欲しいと言わんばかりに、手の平に頬を擦り付ける姿が愛らしくて、李牧は思わず唇を重ねていた。

「ん…」

今度は信の方から舌を絡めて来たので、どうやら絶頂を迎えたことで大いに緊張が解れたことが分かる。

李牧の襟合わせを開こうと、信が不自由な両手をたどたどしく動かす。

口づけを深めながら、李牧は自ら着物の帯を解いて着物を脱ぎ捨てた。
着物を脱いで素肌を寄せ合っても、皮膚で肌を隔てられていることがもどかしい。早く一つになりたいと焦る気持ちを押さえ込みながら、李牧は真っ直ぐに信を見据えた。

「信…本当に良いのか?」

正常位の体勢で結合に備えると、信は何度も頷いて、両手を李牧の背中に回して来る。

初めて彼女の破瓜を破った時も、こうやって何度も確認をした。その身を自分に委ねてくれることの了承の意味もあったし、本当に自分で良いのかという確認でもあった。

「…挿れ、て…くれ…」

泣き笑いのような顔で求められ、李牧は胸の奥から燃え盛るような感覚を覚えた。自分だけを求めているその態度が堪らなく愛おしくて、二度と彼女を手放したくないと思った。

男根の先端を淫華に宛がうと、信が切なげに眉根を寄せた。

胸に赤い痣が残っていたことから、桓騎とは頻繁に身体を重ねていたのかもしれないが、今の彼女にはその記憶はない。

男に身を委ねるのは随分久しぶりのことだと思っているに違いないし、先ほども彼女自身がそう言っていた。

だから、李牧は初夜の時のように、無理をさせず、ゆっくりと腰を前に送り出したのだった。

 

「は、っぁ、ああっ…!」

太い異物が中を掻き分けていくにつれて、信の背中が弓なりに仰け反った。

無意識のうちに逃れようとする信の体を両腕で強く抱き押さえ、花弁を巻き込むように、李牧は時間をかけて男根を押し込んでいく。

「っ…!」

彼女と身を繋げるのは随分と久しぶりのことだったので、尖端の一番太い部分が入ると、李牧はそこで腰を止めた。

初めて信の破瓜を破ったあの日も、かなり時間を掛けたことを思い出す。
自分と彼女の体格差は大きく、破瓜を破るにはただでさえ激しい痛みを伴うというのに、自分の男根を全て受け入れるのは苦痛でしかない。

破瓜を破るまでにも、李牧はかなりの時間をかけ、この行為は決して痛いだけではないのだとその体に教え込んだのである。懐かしいあの日々が瞼の裏に浮かび上がった。

「信…大丈夫か?」

「う、うぅっ…」

切なげに眉根を寄せながら、しかし信は何度も頷いた。
苦痛に呑まれていないと分かったが、少しでも痛がる様子があればすぐに止めようと、李牧は彼女の顔から視線を外さずに腰を引いてく。

「や、やあっ…」

浅瀬をゆっくり穿つつもりで腰を引いたのだが、男根が抜かれてしまうと誤解したのか、信は嫌がるように首を横に振った。

「ぜ、全部…挿れ、て…」

李牧の肩に腕を回し、強請るようにそんなことを言われると、つい応えたくなってしまう。

「だめだ」

しかし、李牧は首を横に振った。目を覚ましたばかりの体に負担はかけられない。

「力を抜いていろ」

言ってから、初夜の時も同じ指示をしたことを思い出す。

きっと今、自分たちは、二度目の初夜を過ごしているのだと思った。もう一度、彼女と身体と心を結ぶ幸福が訪れているというのに、負担を掛けることはしたくない。

しかし、信は涙を浮かべながら、駄々を捏ねる幼子のように首を横に振った。

「ふ、うぅっ…ん…」

両腕を李牧の背中に回しながら、信はその細腰を淫らに揺らして、男根を深く飲み込もうと淫華を押し付けて来た。

その顔は恍惚としており、苦悶の色は少しも見られない。心から自分を欲してくれているのだと思うと、めちゃくちゃに犯してしまいたくなる。

「どこでそんな強請り方を覚えた?俺はそんなものを教えた覚えはないぞ」

「うう、んぅっ」

叱りつけるように、李牧は呼吸を奪う勢いで、何度もその唇と舌を貪った。

「ふ、はッ…はあッ、あ…」

激しい口づけを終えて、呼吸を整えている信の顔中に何度も唇を落としながら、李牧はさらに腰を前に送り出した。

「っ、んんんッ!」

欲しがっていた信の望みを叶えると、彼女は苦しそうな吐息を洩らしたものの、うっとりと目を細めて李牧のことを見据えていた。

隙間なく密着した下腹部を見下ろし、李牧は自分の男根を全て飲み込んだ信の薄い腹を撫でる。

ゆっくりと指に力を込めて、外側から腹を圧迫すると、連動するように淫華が男根をさらに締め付けた。

「んんっ…!ぁ、そこ、押した、ら…」

内側を男根で犯され、外側からも刺激をされて、信はしたたかに身を捩る。
咄嗟に李牧は彼女の左手を掴み、男根を受け入れている腹に触れさせた。

「こんなに深くまで俺のが入っている。分かるか?」

自分の腹を犯している李牧の男根を感じたらしく、信が薄目を開けながらちいさく頷いた。

「ぁ、…李牧、の、…奥、まで、入って、る…」

身体だけでなく、意識でも一つになったことを実感させると、信の淫華が再び強く男根に吸い付いて来た。

男の子種を求めているその動きに、李牧は思わず生唾を飲み込む。

共に過ごしていた日々では、幾度も信とその身を重ねていたが、中で射精したことは一度もなかった。

当時の信はまだ将軍の座に就いておらず、養父の背中を追い掛けて将軍になろうと日々武功を重ねていた。将軍昇格への夢を、自分の浅ましい欲望で阻む真似はしたくなかった。

今思えば、彼女を手っ取り早く戦から遠ざけるためには、早々に孕ませてしまえば良かったのだ。

もちろんその卑怯な方法を考えなかった訳ではないが、当時の李牧には信を裏切る度胸がなかったのである。

出来ることなら傷つけたくなかったが、彼女を滅びの運命から救うためには、そんな生易しい気持ちではいられなかった。

しかし、今は違う。右手を失った信を妻にすることは容易いことだ。

秦国の女将軍と趙の宰相の婚姻となれば、周りからの反対されることは目に見えているが、李牧にとってそれは些細なことであった。

誰にも自分と信の邪魔はさせない。李牧が趙国についたのは信を滅びの運命から救うためであって、利用している他ならない。

もしも自分と信の婚姻を許さず、彼女を奪おうとする者が現れるのならば、力で捻じ伏せるまでだ。

 

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顔を寄せ合って熱い吐息を掛け合い、李牧は愛しい女との結合の実感を噛み締めていた。

無理はさせないと誓ったというのに、胸の内側に膨らんでいく独占欲と情欲が腰を動かし始める。

「あ…り、李牧…」

敏感になっている淫華の肉壁を硬い男根が擦り上げる度に、信が切ない吐息を洩らした。

手首から先を失った右手と、親指が折れた左手で顔を挟まれる。
唇が触れ合う寸前まで顔を引き寄せられて、潤んだ瞳に見据えられると、それだけで李牧は絶頂を迎えてしまいそうだった。

「もう…どこにも、行くな…」

縋るような哀願の言葉を掛けられて、李牧の胸は苦しいほどに締め付けられる。

腹の底から込み上げて来る衝動に突き動かされるようにして、李牧は信の身体を強く抱き締める。

「ふあッ…!?」

奥を突くと男根の切先に柔らかい肉壁があたり、それが信の子宮であることはすぐに分かった。

男根を咥えている淫華も、開通するまでにはかなり時間を掛けたものだが、そのさらに奥にあるこんな狭い場所で赤子が育まれ、そして産み落とされるのだと思うと、生命の神秘というものを感じた。

「信っ…!」

「んぁっ、ああっ」

力強く突き上げる度、信の瞳から止めどなく涙が伝っていく。
その涙さえ自分の物だと言わんばかりに、李牧は唇を押し付けて啜り取った。

「り、李牧っ、んぅうっ、ぁ、はあッ」

信が切迫した呼吸の合間に甲高い声で喘ぐ。

ひっきりなしに口から零れる声は喜悦に染まっており、少しも苦痛の色がないことが分かると、李牧は腕の中に収まっている信の体が浮き上がってしまうくらい激しい連打を送った。

顎が砕けるくらい奥歯を噛み締め、首筋に幾つもの線を浮かび上がらせながら、ひたすら信の体を貪る。

会えなかった時間を埋めるように、自分のものである証を刻み付けるように、李牧は夢中で腰を突き動かした。

「あぁっ、ぁッ、もっ、もう…ッ!」

信の体が大きく痙攣したかと思うと、これ以上ないほど淫華が男根を締め付け、李牧の腕の中で身体を仰け反らせていた。

信が絶頂に達した瞬間、李牧自身も目の眩むような快楽と恍惚に包まれて、意識が真っ白に塗り潰されてしまう。

「ッ…!」

息を止めて、彼女の身体を抱き締めながら、最奥で射精する。

幾度も彼女と身体を重ねたことはあったが、中で射精するのはこれが初めてだった。

信が将としての務めに全うするため、李牧の子を孕まぬように、その腹に子種を植え付けないでいたのは、二人の中で暗黙の了解としていたのである。

「あッ、ぇ、な、中…!」

中で射精されていることに気づいたのだろう、戸惑ったように信が眉根を寄せている。

「っ…、くっ…」

全ての精を出し終えるまで、李牧は彼女の体を抱き締めたまま、決して放さなかった。

愛しい女の苗床に、自分という子種を植え付けている感覚は、これ以上ないほど優越感で胸が満たされた。

絶頂の余韻に浸りながら荒い息を吐いていると、信の身体が腕の中でくたりと脱力する。
どうやら気をやったようで、腕の中で規則的な寝息を立てていた。しかし、その表情に苦悶の色は少しもない。

息が整ってからも、李牧は彼女の中から男根を引き抜こうとしなかった。

こうして信と身を繋げたのは随分と久しぶりのことだったが、まだ彼女の体は自分を覚えていたし、心から自分を求めてくれた。

その事実を知って、李牧はますます信のことが愛おしくて堪らなくなる。

(もう二度と手放すものか)

李牧は眠っている信に、静かに口づけた。

 

中編③はこちら

The post 終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編② first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

絶対的主従契約(昌平君×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

主と下僕

この中華全土には、奴隷と呼ばれる下僕の者たちが一定数存在している。

戦で親を失った孤児、貧困を理由に実親に売られた子ども、罪を犯して身分を剥奪された者やその家族、戦争捕虜、奴隷間の子供。

どういった経緯で奴隷という身分に落とされるのかはそれぞれだが、奴隷は労力としての需要が高い存在だ。
安い給金で重労働を行わせることが出来るため、農業や荷役、戦での戦力としても活用される。

女の奴隷も、侍女として家事や雑用を行わせたり、妓楼や後宮に売られることもあり、使い道は数多だ。

信という名の戦争孤児も、奴隷という低い身分なのだが、彼は奴隷の中でも恵まれた環境下で飼われている下僕だった。

 

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宝石姫

 

主が茶を一口啜った直後、茶杯を置いた音を聞き取り、信は次に文句が来ることを予想していた。

「熱過ぎる」

やはり文句が来た。
一口啜った直後に茶杯を置くのは、主が気に食わなかった時の決まりごとだ。文句がない時はすぐに二口目を啜るのだが、今日の茶は気に食わなかったらしい。そしてこれは、本日二回目の淹れ直しだ。

「さっきはぬるいって言ってたくせに」

苛立たしい様子で信が大きな独り言を洩らすと、主である昌平君が鋭い眼差しを向けて来た。しかし、信は少しも目を合わせようとしない。

次にまた目を合わせれば、淹れ直せという命令が来ることが分かっていたからだ。
茶を淹れ直せと言われるのはそう珍しいことではない。普段は二、三回言われるのが当たり前だった。

過去の最高記録は六回だが、あの時はさすがの信も学習し、「そんなに美味い茶が飲みたいのならお前が見本を淹れてみせろ」と主の前に茶器と茶葉を並べた。

さすがに無視出来なかったのか、昌平君の家臣から、下僕にあるまじき無礼な態度だとむち
で打たれたことは今でも覚えている。あの時の痣は五日は消えなかった。

それでも苛立ちは消えず、信は翌日にその辺の草を茶葉代わりにしてやろう考えた。

しかし、不敵な笑みを浮かべて庭の草を摘んでいたところを運悪く昌平君に見つかってしまい、草むしりをしていたと咄嗟に吐いた嘘も「そんな仕事は命じていない」と一蹴されて、頭にげんこつを落とされてしまった。

…思えば、あの日からさらに茶の評価が厳しくなった気がする。

一切の手加減をされなかった拳に、信は激痛に悶えて涙を浮かべたことを覚えている。あの一撃は誇張なしに、笞で打たれる何倍も強烈だった。

普段から筆や木簡、それから頭くらいしか使っていないように見えるが、どこにそんな腕力を隠しているのだろうか。

いちいち文句を言って茶を淹れ直すよう指示されるたびに、信は苛立ちを隠せない。美味い茶が飲みたいのなら、茶を淹れるのが得意な者に任せればいいものを、なぜか昌平君はそうしなかった。

「熱いんなら冷ましてから飲めば良いだろ」

信は目を合わさずに素っ気なく返した。

「熱過ぎるせいで渋みが強い」

「茶には変わりねえだろうが」

もしもまた淹れ直せと言われても、もう湯を沸かすのも、茶葉を蒸らすのも面倒だった。

ぬるいと言われたから、熱い茶を淹れ直したというのに、今度は渋いと言われる始末。
文字の読み書きも満足に出来ない下僕が、茶の淹れ方など生涯習うことはないと言っても過言ではない。

それならば、熱い湯で茶を淹れれば渋くなるという知識を事前に教えておくべきだろうと信は心の中で反論していた。

それに、この秦国の右丞相と軍の総司令を務めている主、いわゆるお偉いさんの茶の好みなど、知る訳がないのである。

きっと昌平君は自分に嫌がらせをしたいだけなのだと信は疑わなかった。

身分差

この中華全土に住まう人間たちの地位を分けるとすれば、下僕の信は最下級という位置づけで間違いないだろう。

そして秦王の傍に仕えている昌平君は上級階級だ。上級階級の者たちは、茶を淹れる面倒さなど知るはずもない。

茶を淹れるための水を汲んで来ることも、茶器を扱うことも、湯を沸かすことも、その手で茶葉に触れることだってない。そのくせ、温度や濃さの文句ばかりを言って来る。

上に立つ者は、自ずと下にいる者を見下ろす習慣が出来ることを信は知っていた。虐げられるのはいつも下にいる自分たちだということも。

上に立つ者の中には、下にいる者を虐げることを息抜きにしたり、趣味にしている者だっている。

昌平君もその類の人間だと信は疑わなかった。

茶を淹れることはあっても、茶の美味しさなど分からない信には温度も濃さもどうでも良かった。どうせ淹れた茶を飲むのは自分ではないからだ。

一日に一度は必ず茶を淹れるように指示を出されるのだが、信にとってこの作業は苦痛でしかない。

まだ屋敷の掃除をしている方が気が楽で良い。とにかく、近くに主の存在を感じる仕事は苦手だった。

この屋敷には大勢の従者がいるというのに、なぜか昌平君は信を傍に置きたがる。
昌平君に引き取られたのは、もう数年前のことだが、それまでの生活は今よりも最悪なものだった。

 

 

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信を引き取った男は、小さな集落の里長で、下僕たちに何かと仕事の不手際に文句をつけては暴力を振るう男だった。

これは罰だと自分を正当化しながら、下僕たちを日常的に苦しめているくせに、屋敷の外では里の者たちに親しまれている二つの顔を持っていた。内と外で顔を変える男だったのだろう。

当時、信と共に屋敷で働いていた下僕仲間たちの何人かは、その里親によって悪戯に命を奪われた。

簡単に命を奪った里長が許せずに、仲間たちの報復をしようと企んだ信だったが、他の仲間たちに止められてしまう。彼らは、里長からさらなる報復を受けることを恐れていたのである。

信の報復によって、全員が酷い目に遭うと懇願されてしまえば、信も怒りを飲み込むことしか出来なかった。

身分の低さに比例した無力さを噛み締めながら、手を土だらけにして仲間を弔っているところに現れたのが、今の主である昌平君だったのだ。

右丞相である彼がわざわざ辺鄙な地にある集落までやって来たことに驚いたが、領土視察や税制のことで自ら赴いたのだという。

その後のことはよく分からないのだが、後日になってから里親の姿が急に見えなくなり、信は昌平君に引き取られることが決まった。

何もしていないというのに、共に過ごしていた下僕仲間たちから感謝された理由も、信はよく分かっていない。

昌平君の屋敷は、秦国の首府である咸陽にあった。宮廷や軍師学校に頻繁に出入りをしていることもあり、また右丞相と軍の総司令という立場であることから、立派な屋敷である。構造を覚えるまでは、屋敷内で迷子になることも珍しくなかった。

前の里長のもとで働いている時と、仕事の内容も待遇も大きく変わった。
信の年齢ならば、そろそろ徴兵に掛けられてもおかしくはないし、荷役や農業といった重労働をさせられている下僕も少なくない。

しかし、昌平君は信にそういった労働はさせなかった。
以前は幼かったこともあって、家事をすることがほとんどであったが、昌平君に引き取られてからは彼の身の回りの世話を任されるようになったのである。

と言っても、昌平君はどこかの令嬢という訳ではないので、着物を着せたり髪を結ってやるようなことはしない。

この屋敷での信の仕事は、昌平君に茶を淹れることや執務室の清掃、それから他の下僕たちと同じ雑用を行うことが主だった。昌平君の命令があれば軍師学校や宮廷へ供をすることもある。

衣食住を保証してくれるだけありがたいと思うべきなのだろうが、素直に感謝をすることが出来ないのは、昌平君の性格の悪さだろう。

もともと表情を変えることのない男だとは思っていたが、何を考えているかさっぱりわからないし、茶に関しての要求は特にしつこい。

かといって、気に入らない茶を淹れても笞刑ちけい  ※笞で打たれることをされることはない。

信の態度を見兼ねた家臣に笞で打たれることはあるが、昌平君が笞刑を命じることや、自ら笞を持つことは一度もなかった。

あるのは、棘のある言葉を吐かれたり、鋭い眼差しを向けられることくらいだ。
まれにげんこつを落とされることもあるが、それは信がはっきりとした敵意を持って、主へ悪巧みを目論んでいる時だけである。

 

 

「………」

近くにあった椅子に腰を下ろしても、主である昌平君からの視線はずっと感じていた。
沈黙は我慢出来たが、さすがに視線がうっとおしくなり、信は睨み返す。

「良い歳した男がフーフーして茶を冷ましてほしいってのか?あぁ?」

またそのような態度を取れば、生意気だと家臣から笞打ちの刑にされると分かっていたが、信は構わずに言い返した。

我が身可愛さで、言いたいことを飲み込む方が身体に悪いという性分なのである。この曲げられない性格のせいで、前の住処ではどれだけ傷を負わされたことか。

昌平君は信の態度を咎めることはなかったが、代わりに大きな溜息を一つ吐いた。
どう考えてもわざととしか思えない大きさの溜息に、信のこめかみに鋭いものが走る。

「なんだよ!どうせ淹れ直せっていうくせに!」

つい椅子から立ち上がって文句を言うが、昌平君はすでに執務を再開していた。
相変わらず訳の分からない内容が記されている木簡に目を通して、その返事をしたためている。

墨が乾いてから、昌平君は丁寧にその木簡を畳んだ。

「今日はもう休む。片付けておきなさい」

木簡を片手に、昌平君は立ち上がった。

「はいはい」

返事をしたというのに、昌平君はその返事の仕方が気に食わなかったのか、再び鋭い目線を向けて来た。

美味い茶の淹れ方も教わっていないように、主に対して忠実な態度も、敬語の使い方さえも、信は今まで習う機会がなかったのである。

しかし、習っていたとしても、昌平君にはきっと今まで通りの態度で接するだろうと断言出来た。

 

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信の探し物

昌平君が部屋を出て行った後、信は部屋の片づけを始めた。

片付けと言っても茶器を片すくらいで、他には大してやることはない。
もともと昌平君は几帳面な性格で、部屋を散らかすようなことはしないのだ。

執務に必要な物も、自分で置き場所を把握しておかないと気が済まない性格で、信に机上の物を触らせることはしなかった。

もう日が沈んでいて、辺りは真っ暗だ。
茶器を片付けてさっさと自分も休もうと考えたが、信は振り返って扉の隙間から廊下を覗き込んだ。

「………」

昌平君の後ろ姿が遠くに見えたが、こちらに戻って来る様子はない。もう空は真っ暗で、廊下には蝋燭が灯されていた。

すでに他の家臣たちは休んでいるようで、辺りには誰もいなかった。
昌平君の屋敷は宮廷と違って、見張りの兵はさほど多くない。彼の直属の近衛兵団である黒騎兵団が何人か交代で見張りをしているだけだ。

黒騎兵団とは昌平君の傍で仕事をしている信にとって、顔なじみの存在だが、立ち話をするような仲でもない。

彼らは見た目通り厳重で寡黙な性格で忠誠心が厚い。礼儀知らずな信とは特に相性が悪かった。

その辺の草を摘んで茶葉代わりにしようとしているのを昌平君ではなく、黒騎兵団に見つかっていたら、有無を言わさずに嬲り殺されていたかもしれない。

しかし、この執務室には近衛兵である彼らや家臣たちでさえも、昌平君の許可がない限りは立ち入りが出来ない。

その理由は単純なもので、豊富な機密情報を取り扱っているからだ。

右丞相として国の行政と、総司令として軍政を任されている昌平君が扱う機密事項の量は膨大である。いくら信頼している近衛兵や家臣たちとはいえ、安易に見せられるものではない。

では、なぜ信がこの部屋の出入りを許されているのかといえば、それも単純な理由である。

―――字が読めぬ者に、機密情報の判別が出来るのか?

文字の読み書きもろくに出来ない下僕では、機密情報を知ることも、外部に漏らす心配がないからである。

昌平君が信を引き取ったのも、そういった理由だったらしい。

下僕の中では、字の読み書きが出来る者が採用されることが多いのだが、中には信のように字の読み書きが出来ぬ者を重宝する場合もある。

機密情報を知られないことや、外部に持ち出すにも、それが機密情報であるかを自身で判別出来ないからだ。

機密情報を持ち出したところで、それを外部に売却するような知識も持たぬ子どもだからこそ昌平君は信を買ったのだろう。

他の者ではなく、信に茶を淹れさせるのも、執務室に出入り出来る者が限られているからだ。
別室で別の者に美味い茶を淹れてもらい、それを執務室に運ぶのはどうかと提案したこともあるのだが、それでは冷めて風味が落ちるらしい。

そんなに淹れたての茶が飲みたいなら、執務室を出てすぐの廊下で淹れてもらえと言うと、げんこつを落とされた。

懸命に下僕たちが屋敷の清掃をしているのだから廊下だって汚くはないし、多少の埃が茶に混入したところで死ぬわけでもない。
これから潔癖症の上級階級の人間は嫌なんだと信はつくづく思ったものだ。

この屋敷に仕えている下僕は、もちろん信以外にもいる。他の上級階級の人間たちと比べると、昌平君は屋敷で雇っている下僕の数は多くないそうだ。

しかし、右丞相と軍の総司令という高い地位に就いている彼の身の回りの世話をするということもあってか、信以外の下僕は全員が字の読み書きが出来る。

過去に信は、昌平君に気づかれぬように、下僕仲間から字の読み書きを教わろうとしたが、彼らからこっぴどく咎められてしまった。

事前に主から通達があったようで、機密情報が置かれている執務室に出入りする信には、決して字の読み書きを教えてはならないと言われているらしい。もしもその命令に背けば処刑とまで言われたと聞く。

屋敷で働く下僕たちとは、苦悩を共にして来た仲間意識があるおかげでそれなりに仲が良いのだが、文字の読み書きを教えてもらおうとすると、処刑を恐れて全員が口を閉ざしてしまうのである。

 

 

信の中で下僕の身分を脱したいという気持ちは変わらない。

物心がついた時には既に親はおらず、奴隷という立場に落ちていた。
奴隷商人や、買われた先でも、人間としての尊厳など与えられていなかったし、それを仕方ないと諦めるようなことはしたくない。

もちろん昌平君に引き取られてからは、衣食住を保証されて人間らしい生活を送れているものの、奴隷という立場は変わっていないのだ。

(よし、誰も来ねえな)

何度も扉の方を振り返る。誰も来ないことを確認してから、信はさっそく今日も探し物を始めた。

(今日こそ絶対に見つけてやる…!)

信は昌平君がいつも執務を行っている机の辺りを重点的に探し始めた。
先月から信はあるものをずっと捜索している。

それは、奴隷解放証だ。

下僕という身分を脱するためには何をしたら良いのか下僕仲間たちに問うと、奴隷解放証という書が必要になるのだと教えてくれた。

げんこつを落とされるのを覚悟で、主である昌平君にも確認すると、彼もそうだと肯定したのである。

重責を担っている昌平君は嘘や冗談を言う男ではない。まさか素直にそのようなことを教えてくれるとは思わなかったのだが、奴隷解放証が必要になるという情報は、下僕の身分を抜け出したい信にとって、大きな前進だった。

どういった方法で奴隷解放証を入手出来るのかまでは、昌平君は教えてくれなかったが、下僕仲間たちによると、下僕を引き取った主が用意するのだという。

ただし、里長のような弱い権力者は奴隷解放証の作成は出来ない。
その地域ごとに下僕たちを管轄している県令※県知事以上の役職に就いている者の書と印章が必要になるのだそうだ。

つまり、右丞相である昌平君ならば、県令を通さずに奴隷解放証を作成することが出来るということである。

主を脅迫して奴隷解放証を書かせるという手段もあったのだが、字の読み書きの出来ない信では、たとえ奴隷解放証と関係のない文言を書かれたとしても気づくことは出来ない。

だからこそ確実に奴隷解放証を手に入れる方法が必要だった。

下僕仲間たちから奴隷解放証の話を聞いた後日、いつものように茶を淹れ直していると、昌平君が何かの書に印章を押しているのを見たことがある。

何気なしにその作業を見ていると、信の視線に気づいた昌平君が無表情のまま奴隷解放証だと教えてくれたのだ。

後日に、下僕仲間のうちの一人が奴隷解放証を渡されて、何度も昌平君に頭を下げながら屋敷を出て行った。

彼女は昔からこの屋敷に務めている下僕の侍女で、真面目な勤務態度が家臣たちから高い評価を受けていた。

貧困を理由に親に売られたことで下僕となった彼女だったが、村の幼馴染と結婚することを夢見ており、定期的に里帰りも許可されるほど、この屋敷の中では優遇されていた下僕だったのだ。

晴れて、下僕の身分を脱した彼女は里に戻って、幼馴染と結婚の約束を果たすらしく、全員から祝福をされて屋敷を出て行ったのである。

奴隷解放証と普段よりも多い給金は、昌平君からの結婚祝いだと言っても過言ではない。

彼女が屋敷を出ていく時、信も他の下僕たちと同じようにお祝いの言葉を贈り、奴隷解放証を見せてもらった。

さすがに記憶のそれを模写することは不可能だが、信はこの時に、昌平君が奴隷解放証を幾つか保管していると気付いたのである。

あの時、昌平君は筆を取らずに、印章を押していただけだった。つまり、印章の押されていない奴隷解放証が幾つか部屋にあるはずだと信は睨んでいた。

奴隷解放証を見つけて、自分で印章さえ押してしまえば、昌平君が作成した書であると誰も疑わないだろう。

印章の場所は見つけていたが、奴隷解放証だけが見つからず、信はこうして主がいない間に探しているのである。

すべては下僕という身分を脱して、自由をつかみ取るためだった。

 

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信の探し物 その二

(うーん、見つからねえな…見逃してるだけか?)

昌平君がいつも作業を行っている机の周辺や棚を探すのだが、奴隷解放証は見当たらない。

手がかりといえば、あの日に見せてもらった奴隷解放証の記憶だけで、どんな内容が記されているのかは分からない。とにかく信は記憶にある奴隷解放証と一致する書を探していた。

探し物の作業で注意点は、昌平君に探し物をしていたことを気づかれぬように、原状回復しなくてはならないことだ。

几帳面な性格である主のことだから、昨夜と物の配置が大きく変わっていたらすぐに気づくだろうし、その犯人は執務室の出入りを許されている信しかありえない。

また、探している最中に大きな物音を立てれば、見張りの兵たちがすぐにやって来るだろう。

なるべく物音を立てないよう、独り言も漏らさぬよう、信は奴隷解放証を探し続けた。

蝋燭の明かりを持って、机上の書簡や引き出しなど、あらゆる場所を探すのだが、それらしいものは見当たらない。

昌平君のことだから、重要な書類はこの周辺にまとめていると思っていたのだが、まさか場所を移したのだろうか。

信が奴隷解放証を探していることを気づいているのだとしたら、やはり見つけられぬように場所を移されたのかもしれない。

執務室以外で考えられる場所と言えば、まさか昌平君の寝室だろうか。

色々と思考を巡らせながら探すものの、結局今夜も奴隷解放証らしきものは見つけられなかった。

「はあ…」

つい溜息を吐いてしまう。
奴隷解放証さえ手に入れば、このような屋敷にいつまでも留まっておく必要はない。とはいえ、盗んだことが気づかれれば確実に処刑されることになる。

信の中では、奴隷解放証を手に入れたあとは普段通りに仕事をこなし、昌平君と屋敷を出ることがあれば、何処かで隙を見てそのまま脱走するという計画を企てていた。

屋敷から大胆に脱走する方法もあったが、それはかなりの危険が伴う。見張りの兵はよく鍛錬されているし、黒騎兵団ならば捕らえられるのと同時に首を刎ねられることになるだろう。

だからこそ、見張りの兵や近衛兵が多くない時期を狙う必要があった。

(今日は諦めるか…)

あまり長居していても、見張りの兵から怪しまれるかもしれないと思い、今日のところは切り上げることにした。

さっさと茶器を片付けて、部屋の蝋燭を消そうとする。

「ん?」

その時、背後から視線を感じて、信は反射的に振り返った。

「ひッ!?」

思わず上擦った声が出た。
扉の隙間から、呆れ顔の昌平君がこちらを見つめていたのだ。

 

悪巧み阻止

一体いつから覗き見ていたのだろうか。信はだらだらと冷や汗を流しながら硬直し、頭の中で言い訳を考えていた。

一応手には茶器を握っていたので、片付けが長引いたと言えば信じてもらえるかもしれない。

扉を開けて入って来た昌平君が腕を組み、信のことを見下ろしている。

もとから大きな身長差があったので、図らずとも見下ろされる形になるのだが、普段より強い威圧感を感じた。

「え、っと…あ、あの、か、片付け…してた…」

「まだ何も訊いていないが」

普段よりも声の低さに拍車掛かっている。表情こそ変わっていないが、怒っているのだと察した信は反射的に縮こまった。

げんこつが落ちて来ると身構えていたのだが、昌平君は信を見つめるばかりで何も話さない。

いつから見られていたのかは定かではないが、触るなと言われていた机上やその周辺を捜索していたところは見られていたかもしれない。

言いつけを守らなかったことで罰を与えられるのではないかと信が怯えていると、昌平君がわざとらしい溜息を吐いた。

その溜息にさえ怒気が籠められていて、信は硬直したまま動けずにいる。

ゆっくりと歩み寄ってきた主が目の前にやって来ても、信は驚愕と怯えのあまり、そこから逃げ出すことも出来なかった。

「何を探していた」

「………」

その言葉から、確実に探し物をしていたことは気づかれている。
下手に答えれば、げんこつではなく刃が振り下ろされると思うと、緊張で喉が強張ってしまい、全く声が出なかった。

真っ青になっている信を見下ろす昌平君の瞳は氷のように冷たかった。

このまま沈黙を続けたところで許されることはないと、頭では理解しているものの、何と答えれば見逃してもらえるかも分からない。

とはいえ、謝罪すれば自分の非を認めたことになる。そうなれば確実に処罰を受けることになるだろう。

信はどうしたらいいのか分からず、口を噤むことしか出来なかった。

「………」

「………」

重い沈黙が二人の間に横たわる。
いっそ都合よく気絶でも出来ないか信が考えていると、痺れを切らしたのか、昌平君の方から先に口を開いた。

「お前が探している奴隷解放証はここにはない」

「えッ!?」

思わず声が裏返ってしまう。それと同時に信は後悔した。

もしも昌平君が鎌をかけたのだとしたら、奴隷解放証を探していたことを気づかれてしまう。つまり、言い訳をしたところで、完全に自分の負けだ。

慌てて口を塞いだものの、聡明な主は全てお見通しだと言わんばかりの表情を浮かべていた。

その表情を見た途端、信は脱力し、その場にずるずると座り込んでしまう。

きっと処刑を言い渡されるに違いない。

下僕の身分を脱することなく、このまま犬死するのかと、信は泣きそうになった。来世ではもっとマシな人生を歩めるように祈っていると、

「解放証が欲しいのか」

笞刑でも斬首でもない、予想外の言葉を掛けられて、信は驚いて顔を持ち上げた。

 

主との取引

「下僕という身分を脱するにあたり、見合った働きをしている訳でもない。かといって、私を敬うこともない。お前を切り捨てたところで文句を言われる筋合いはない」

拳を握って、信が昌平君を睨みつけた。
その態度が無礼であるというのは百も承知だったし、それで切り捨てられるとしても、今まで散々咎められて来たのだから、今さら驚きもしない。

奴隷解放証を探していたのは事実だし、自分の命を生かすも殺すも主の気分次第だということは分かっていた。

「俺だって、親がいないってだけで下僕扱いされるなんて、もううんざりなんだよ!」

物心がついた時から下僕という身分に落ちていたのは、戦争孤児という理由だけで決められたことだった。しかし、そんなのはおかしいと信は訴える。

同じ人間であるはずなのに、生まれながらに階級を分けられるなんて不公平だ。他の下僕仲間たちだって同じように思っているはずなのに、報復や処罰を恐れて誰もが口を閉ざして、その想いを隠している。

下僕は自由に発言することも許されぬ不自由な身だ。どうして生まれが違うだけで自由を制限され、見下され、機嫌を伺わなくてはならないのか、信には理解が出来なかった。

そんな信の気持ちを知らずに、昌平君は相変わらず顔色一つ変えずに口を開く。

「解放証は無償で渡せるほど価値の低いものではない」

「…下僕らしく従えって言いたいのかよ。そんなのこっちから願い下げだ!」

今さら生に執着するために頭を下げるのも嫌だった。
身分の違いでこうも容易く命の価値が決められるなんて、こんな世の中、こっちから願い下げである。

殴られることを覚悟で吐き捨てたが、昌平君が逆上することはなかった。

しばらく嫌な沈黙が続いた後、昌平君は小さな溜息を吐いた。

「…私に一度でも、傷をつけることが出来たのなら、奴隷解放証を与えよう」

「…はっ?」

何を言われたのか理解出来ず、信は間抜けな声で聞き返した。反対に昌平君は微塵も表情を変えていない。

「それが解放証を渡す条件だ。出来なければ、お前は永遠に私の下僕だということを忘れるな」

「ちょ、ちょっと待てよ!」

勝手に話を進められて、信は頭の中を整理させろと制止を訴えた。
煩わしそうに顔をしかめられるものの、信はゆっくりと先ほどの昌平君の言葉を繰り返す。

「お、お前に…一撃でもぶち込めたなら、ほんとに、解放証をくれるんだなっ?」

「私を殺す気か。致命傷である必要はない」

それはそうだ。間違って昌平君を殺めてしまったら、奴隷解放証をもらうどころの騒ぎではなく、主殺しの罪で処刑されてしまう。

一撃でも与えればいいという条件に、信の口角はみるみるうちに持ち上がっていった。これは奴隷解放証を手に入れるだけでなく、今までのうっ憤を晴らす機会でもある。

「…やってやろうじゃねえか!ぜってー奴隷解放証を渡せよ!」

「では、私に一撃も入れられなかった場合は?」

「えっ?」

まさか逆に聞き返されることになるとは思わず、信はきょとんと目を丸めた。

「不公平にならぬように、お前も条件を設けるべきだ」

言われてみれば、このままでは自分に利があり過ぎる。

下僕の身分である信と上級階級である昌平君の立場には最初から優遇の差がありすぎるので、それくらいの不公平は甘く見てほしいものだが、指摘すればこの取引がなかったことにされてしまう危険があった。

「じゃ、じゃあ…文句言わねえで、お前が気に入る茶を淹れる」

主に向って堂々と「お前」と言えるのはきっと信だけだろう。
しかし、信が提示したその条件に満足したのか、昌平君は迷うことなく頷いた。

「なら、明朝に勝負だ。正々堂々とな」

「おう!」

先ほどまで意気消沈していた男児と同一人物とは思えぬほど、信は潔く返事をした。

「…茶器を片付けて今日は早く休め。言っておくが手加減はせぬぞ」

「ふん!お前こそ、手ェ抜いたら泣きつくことになるぞ!泣いても許してやんねーからな!」

抱えた茶器を片すために、信は足早に執務室を出ていく。
残された昌平君は僅かに口角をつり上げて、遠ざかっていく下僕の後ろ姿を見つめていた。

 

中編①はこちら

The post 絶対的主従契約(昌平君×信)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

フォビア(蒙恬×信←桓騎)番外編②後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/桓騎×信/ヤンデレ/執着攻め/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

企み(桓騎×信)

馬に揺られながら、信はこれからどこへ連れて行かれるのかを考えていた。

堕胎薬さえ手に入ればもう桓騎に用はない。着物の左袖に懐に薬包紙をしまったのは見ていたし、自分を抱き込むように手綱を握っている今なら奪えるのではないかと考える。

しかし、桓騎は勘の鋭い男だ。自分がここに来た理由も目的も事前に知っていたのならば、今自分が何を考えているのかも見越しているかもしれない。

(そういえば…)

信の懐妊を知っているのは彼女自身と、懐妊を告げた老医と蒙恬。それから家臣たちだけだ。家臣たちには老医か蒙恬が告げたかもしれないが、桓騎はどこでその話を知り得たのだろう。

屋敷に忍び込んで盗み聞きをしていたとは思えないし、桓騎の配下が監視していたとは思えない。そこまで彼は蒙恬や自分に興味を抱いていないはずだ。

ましてや、蒙恬が桓騎に告げたとは考えられなかった。桓騎が忠誠を誓っていたのは蒙驁で、将の位だと桓騎は蒙恬よりも上である。
蒙驁の孫とはいえ、自分より下の立場にある蒙恬に関わるとは思えなかった。

信が桓騎と会うのは随分と久しぶりのことで、最後に会ったのは恐らく桓騎軍の兵と娼婦たちを殺めた時だ。信自身、その当時のことは記憶に靄が掛かっていて覚えていないのだが、あれから桓騎とは一度も会わなかった。

蒙恬との婚姻が決まり、飛信隊の将の座を降りる時も、祝いの言葉を掛けられることはなかったし、もう二度と会わないとばかり思っていた。

(何でこいつ、今になって・・・・・現れた?)

桓騎に従うことは取引だと頭では理解しつつも、嫌な予感が拭えない。

自分の知らないうちに、彼の策通りに進んでいるのではないかという不安を覚え、信は僅かに怯えた瞳で振り返った。

目が合うと、桓騎は何も言わずに口角を吊り上げる。自分の嫌な予感が当たったと確信するには十分過ぎるほど、おぞましい笑みだった。

「ッ!」

咄嗟に馬から降りようとするものの、もともと桓騎に背後から抱き込まれるように手綱を握られていたので、簡単に阻止されてしまう。

「おい、危ねえだろ」

馬から降りたところで、この左足では走ることは不可能だ。それでも馬の入れない小道や建物の中にでも入り込めば、もしかしたら逃げ切れるかもしれない。

「放せッ」

腕の中で暴れる信に、桓騎が舌打つ。
それから彼は迷うことなく手綱を信の細い首に引っかけた。

「っ、ぐ…!」

巻き付けた手綱で容赦なく首を締め上げると、呼吸を遮られた信が手綱を外そうと首に手を伸ばす。

「このまま白老の孫んとこに帰るか?」

手綱で信の首を締めながら、桓騎が耳元で問い掛けた。

「っ、ぁ…、…」

必死に首を横に振る。
蒙恬のところには戻りたくないが、いっそこのまま殺される方が良いのかもしれないと考えていると、手綱が解かれた。

 

「げほッ…」

激しくむせ込んだ信が必死に呼吸を再開する様子を見て、桓騎はまた笑った。

「今さら逃げ出して、どこへ行く気だ?」

桓騎の冷たい声が降って来る。当てもないくせに、と残酷な言葉が続くような気がした。

(そうだ…俺、逃げても…どこに行けば…)

将軍への道は絶たれてしまった。蒙家に嫁いだ立場で今さら将へ戻ることなど許されない。
それは強要されたことではなく、飛信隊の兵たちの命を守るために、自ら選んだ道である。

きっとこれは、桓騎軍の兵と娼婦を殺した罰なのだ。

大人しくその罰を受け入れれば良いだけの話なのに、養父の背中を追い掛けて目指していた将軍への道を絶たれたことが信の心に未だ深い傷を残している。

養父を失ったあの時、早々に首を括れば良かったのだ。
そうすれば後ろ盾を失った自分の立場の弱さも、王賁の子を身籠り、その命を失う悲しみも知らずに済んだだろうし、ずっと友人だと思っていた蒙恬から凌辱を受けることもなかったに違いない。

いっそ何も分からなくなるくらい、蒙恬に酷い凌辱を受ければまた違っただろう。

しかし、蒙恬は残酷なまでに信を愛し、信の腹に宿る尊い命と、飛信隊を人質に取った。

その愛情と優しさが恐ろしくて、彼から逃げ出せばきっと楽になれるはずだと疑わずにいるのである。

欲しいもの・・・・・があるんじぇねえのか?」

大人しくなった信を見下ろして、桓騎が薄ら笑いを浮かべながら耳元で囁いた。
蜂蜜のように甘く、どろどろと意識を絡め取られ、信は生唾を飲み込んだ。

「………」

先ほど見せられた薬包紙を思い出し、信は静かに唇を噛み締める。

そうだ。堕胎薬を手に入れるために桓騎の手を取ったことを忘れてはいけない。

桓騎が何かしらの策を企てていたとしても、堕胎薬さえ手に入れられれば、信の策は成り立つ。
今は何としても耐えなくてはと、信は奥歯を噛み締める。

その瞬間、急に視界が何かに覆われて真っ暗になり、信は驚いて悲鳴を上げそうになった。

「なっ、何…!」

布で目元を覆われているのだと気づき、信は布を両目に押し当てている桓騎の手を剥がそうとした。

「黙ってろ」

布の両端を頭の後ろできつく結ばれる。
目を覆われたことと、桓騎が目的地も教えないことに繋がりがあるような気がしてならなかった。

場所を知られては面倒になると思われているのだとしたら、桓騎の屋敷へ向かっているのかもしれない。

大将軍として豊富な給金だけでなく論功行賞での褒美もあり、金には一切不自由をしていなさそうな男だが、大将軍の中でも彼の屋敷の場所の所在だけは誰も知らなかった。

屋敷の場所が知られていない、つまりは桓騎が誰にも教えていないということは、彼が自分の配下たち以外を信頼していないからなのか、別の理由があるからなのか、信には分からなかった。

敵味方関係なく残虐に命を奪う男だ。恨みを買っている自覚があって、報復されないように屋敷の場所を内密にしているのかもしれない。

桓騎のことだから何か別の理由も考えられたが、どちらにせよ、桓騎を尋ねて屋敷に赴く用事など一度もなかったし、もしも屋敷の場所を知ったところで興味などなかった。屋敷の場所を他者に告げ口をされるとでも思われているのだろうか。

「………」

真っ暗闇の視界の中で馬に揺られ、背後には桓騎がいる。もしかしたら連れて行かれた先で首を切られるのではないだろうかという形のない不安に胸が支配され、信は僅かに息を速めた。

未だ薄い腹に手をやり、中で眠る小さな命のことを考える。

自分のせいで一度ならず、二度までも、この命を散らせなくてはならないのかと胸が締め付けられるように痛んだ。

 

企み その二

しばらく馬に揺られていたが、目的地に着いたのか、ぴたりと動きが止まった。

先に桓騎が馬から降りた。未だ目隠しは外されていないが、自分も降りるべきなのだろうかと考えていると、ぐいと手首を引っ張られた。

「う、うわっ…!?」

馬上から引き摺り下ろされる。浮遊感と落下の痛みに構え、目隠しの下で咄嗟に目を瞑る。
しかし、背中と膝裏に手を回された感覚があって、どうやら桓騎に横抱きにされているようだった。

「じ、自分で歩けるッ」

まさかこの男に抱えられるとは思わず、信は目隠しをされた状態で身を捩った。

「こっちの方が早い。暴れたら落とすぞ」

「っ…」

脅迫めいた言葉を告げられ、信は大人しく腕の中で縮こまる。

ここが桓騎の屋敷だとしたら、彼の側近たちもいるのだろうか。下手に騒ぎを起こせば、信が仲間討ちしたことを未だに値に持っている者から報復を受けるかもしれない。

桓騎軍の残虐性は十分に知っている。女でも子供や老人であっても構わずにその身を細かく刻み、家畜の餌にしたという話も聞いていた。

じっとしていると、重厚感のある扉が開かれる重い音が鳴り響いた。桓騎の屋敷だろうか。

桓騎は信の体を両腕で抱いているので、誰かが扉を開けてくれたらしい。ここが桓騎の屋敷だとして、しかし一言も声を掛けられないのは、主の腕の中に部外者がいるからなのだろうか。屋敷の場所を洩らさぬよう、徹底しているのかもしれない。

幾度か扉を潜り、廊下を進んである部屋に到着する。

「うっ…!」

ようやく目的地に着いたのか、信は乱暴に身体を放り投げられた。
柔らかい寝具が背中に当たったことから、寝台の上に落とされたのだと気づくと同時に、信は目隠しの布を取った。

「とっとと目的を言え!」

こちらは時間がないのだと切迫した表情で怒鳴りつけると、桓騎はまるで怒りを煽るように、口角をつり上げた。

きっと今頃、蒙恬か侍女が信がいないことに気づき、屋敷では捜索が始まっているに違いない。

逃走を企てたことによって、蒙恬が飛信隊を消し去る計画を実行に移しているのではないかと思うと、気が気でなかった。

蒙恬が話していたのは戦場でしか成し遂げられない策ではあったが、聡明な頭脳を持つあの男が、隊を一つ潰すなど簡単に違いない。

一刻も早く堕胎薬を手に入れて処罰を受けなくては、自分のせいで仲間たちが殺されてしまう。

「ほらよ」

桓騎は先ほど着物の懐にしまった堕胎薬を取り出すと、信へ手渡した。
ここまで連れて来ておきながら、随分とあっさり渡してくれたことに信は嫌な予感を覚える。

桓騎の手から薬を奪い取ると、信はすぐに薬包紙を開き、中身を口に含もうとした。

「えっ…?」

薬包紙の中がだと気づいたのは、その時だった。

 

信のこめかみに熱くて鋭いものが走る。

「騙したなッ」

怒りのあまり、桓騎の胸倉を掴みかかろうとするが、呆気なくその腕を掴まれてしまう。

「騙した?お前が欲しいもんじゃなかっただけだろ?これがお前の望んでいる物だなんて、俺は言った覚えはないぜ」

掴まれた腕を振り解くことも出来ず、それどころか力を込められると、痛みに藻掻くことしか出来ない。

呆気なく体を組み敷かれてしまい、無様なまでに弱くなった自分を認めざるを得なかった。

「いや、いやだッ、放せ、放せよッ」

自分の下で力なく暴れる信に、桓騎は一切の情けを掛けることなく、高らかに笑った。
耳障りな笑い声に信はますます怯えてしまい、幼子のように泣き喚いている。

「お、俺のことが、憎いなら、さっさと殺せば良いだろッ」

「憎い?」

不思議そうに桓騎が聞き返したので、信は怯えながらも言葉を紡いだ。

「俺が、お前の仲間を、殺したから…!」

それは記憶にはないものだったが、変えられない事実である。
過去に信は桓騎軍の兵と娼婦を殺めた。信の記憶にはないのだが、合わせて十三人の命を奪い、本来なら仲間討ちの罪に問われて、死罪になっているはずだった。

蒙恬の情報操作によって、その事実は今でも隠蔽されているが、桓騎と桓騎軍の兵たちはそのことを今でも覚えているに違いなかった。

だからきっと、これは桓騎の復讐なのだと信は疑わなかったのである。

「憎いなら、一思いに、殺せよっ…」

叫ぶように訴えると、桓騎は呆気にとられた表情になり、静かに肩を震わせる。

彼が込み上げる笑いを堪えているのだと信が気づくまでに、そう時間は掛からなかった。
やがて、ギャハハと大らかに笑った桓騎に、信は気圧されたように縮こまる。

「まさかお前、楽に死なせてもらえるとでも思ってんのか?」

残酷な言葉が降って来る。
桓騎が配下を殺されたことを憎んでいるのかは分からなかったが、自分を甚振ろうとしているところを見る限り、少なくとも何とも思っていない訳ではなさそうだ。

骨ばった手に腹を撫でられて、信は反射的にその手を弾く。腹を庇うように、両手で腹を覆った。

「や、やめろッ…」

そう言うと、桓騎が一瞬目を見開き、それからまた肩を震わせて大笑いを始める。

「へえ?本当に孕んでたんだな。てことは堕胎薬だと思ったのか?」

「ッ…!」

腹を庇った彼女の行動に、今ここで初めて信の妊娠を知った言葉を洩らす。驚きのあまり、信は息を詰まらせた。

そうだ。今まで桓騎は、薬包紙の中身が堕胎薬だと一言も口にしていなかった。自分が堕胎薬を求めるあまり、勝手に桓騎が堕胎薬を持っていると信じ込んだのだ。

狼狽える信を見て、桓騎の口角がますますつり上がっていく。

「殺せって言うわりには、まだ死にたくないって顔だな」

堕胎薬を手に入れようとしているくせに、腹の子を守ろうとしている矛盾じみた信の行動に、桓騎が肩を竦めるように笑った。

 

 

着物の襟合わせを開かれて、信は青ざめた。目の前にある桓騎の下衆な笑みに鳥肌が止まらない。

「な、何ッ…!」

桓騎の骨ばった手が再び信の下腹部を撫でたので、反射的に体が強張った。

「堕ろしたいっていうんなら、ここ子宮の入口抉じ開けて、俺ので、中のガキを掻き出してやるよ」

その言葉が耳から入って脳に染み渡るまで、しばらく時間がかかった。

「放せッ!このくそ野郎ッ!」

桓騎の下から逃げ出そうと身を捩るが、強い力で抑え込まれてしまう。
まだ大きく膨らんでいない下腹部に視線を向けながら、桓騎が小首を傾げた。

「父親は白老の孫と王翦のガキのどっちだ?」

その問いに、胸に鉛が流し込まれたかのように、息が苦しくなった。

信が妊娠していたことは今知ったようだが、父親が蒙恬ではなく、王賁の可能性があることまで知っていたことに、信は驚きを隠せなかった。

もちろん蒙恬は、信が王賁の子を身籠っている可能性も知った上で彼女を娶った。

王一族の集まりがあったあの日に、友人だと信じていた二人に凌辱された時のことは今でも悪夢として思い出す。

今でもその悪夢に魘されることは珍しくないし、自分を追い詰めた蒙恬の腕の中での目覚めといえば、最悪という言葉に尽きる。

今でもまだ悪夢の中にいて、目覚めていないだけではないかと思うことがある。
全てが悪夢なのだとしたら、きっと今のこの状況も、この光景も、桓騎との会話も全てが夢に違いない。

(早く、目を覚ませ、覚ましてくれ)

早く悪夢から目覚めるように、信は何度も自分に訴えかける。

「う…うぅ…」

しかし、夢から覚める予兆はなく、桓騎の手が肌を撫ぜる嫌な感触をはっきりと感じた。
青ざめたまま、歯を打ち鳴らしている信を見下ろして、桓騎はやはり笑うのだった。

 

 

信の胸元に幾つも散らばっている赤い花弁や、手首に残る指の痕を見れば、彼女が異常なまでに男から愛されていることが分かる。
きっと左足の捻挫も、転倒して出来たものではないだろう。

女の愛し方をとやかく言うつもりはないが、白老の孫がこれほどまでにこの女に執着しているとは意外だった。

着物を脱がしても、抵抗する素振りを見せない。むしろ大人しくしていた方が早く終わるとでも言いたげな、全てを諦めたような態度だった。

それなのに、蒙恬のもとから逃げ出した理由は何なのだろうか。

もうその身に子を孕んでしまったのだから、全てを投げ出して、その身を委ねてしまえば良いのに、まだ信の中で諦め切れていないものがあるのかもしれない。

堕胎薬を手に入れようとしていた彼女の行動からは、生きたいという意志がまるで伝わって来なかった。

腹の子の父親が誰であろうと、今の信が蒙恬の妻という立場である以上、子の父親は蒙恬だと認識されている。
堕胎薬を内服しようとしたことが知られれば、名家の嫡男である夫の子を殺そうとした罪で、罰せられるに違いない。

そんなことは信も分かり切っているだろうに、どうしてわざわざ自らの首を締めるような真似をするのか。

そこまで考えて、それこそが信の狙いであると桓騎は気づいた。

今頃はどうやって蒙恬から逃れようか、一刻も早く楽になれる方法を考えているのかもしれない。

もしかしたら自分と身を重ねたことを打ち明けて、不貞の罪で首を跳ねられようと考えているのかもしれなかった。

そんなまどろっこしいことを考えるくらいなら、自ら首を掻き切れば良いものを、それをしないのは腹の下で眠る子のためなのだろうか。そうだとしたら、そんなものは偽善でしかない。

自ら命を絶とうが、他者に罰せられようが、腹の子の命共々失うだけだ。そんな簡単なことも考えられないほど、信の心は弱り切っているらしい。

自分の下で震えながら、何かを堪えようと拳を握る彼女を見ても、同情するつもりはなかった。

 

フォビア(蒙恬×信)

つい先ほどまでひっきりなしに悲鳴が聞こえていた部屋の扉を開けると、噎せ返るような独特な臭いが立ち込めていた。

それが男と女がまぐわっていた情事の香りだと分かったのは、蒙恬自身がこの香りをよく知っているからである。

「………」

もう日が沈みかけているのだが、部屋の中には明かりが点いていない。
薄暗い部屋の中に信はいた。だらりと四肢を投げ出して床に倒れている信の姿を見つけて、蒙恬はゆっくりとした足取りで歩み寄る。

乱れた着物と彼女の脚の間から白濁が溢れているのを見えたが、血は混じっていなかった。

捻挫をした左足首はまだ赤く腫れ上がっていたが、骨が折れている訳でもないし、今さら急いで処置をする必要もないだろう。

信の瞼は閉じておらず、虚ろな瞳のまま宙を見上げている。頬には涙の痕が幾つも伝っていて、未だに虚ろな瞳は大粒の涙で濡れていた。

「…信」

声を掛けても、彼女の意識は朦朧としているようで、蒙恬が迎えに来たことにも気づいていないらしい。

傍では桓騎が椅子に腰掛けて酒を煽っていたが、蒙恬の方を一瞥しただけで、何も話そうとしない。信にも蒙恬にも、もはや興味がないのだろう。

「信、信、起きて」

体を屈めて優しい声色で名前を呼ぶと、信の体が火傷でもしたかのように跳ねた。
虚ろな瞳の焦点が合い、顔を覗き込んでいる蒙恬の姿を捉える。

「ぁ、ぁあ…ぁ…!」

何か言いたげに唇を動かすが、上手く言葉を紡げず、無意味な音を発していた。抵抗しようとして押さえつけられたのだろう、手首に指の痕が残っていた。

「帰ろう?信」

そっと頭を撫でてやり、優しい笑みを浮かべる。しかし、信は震えるばかりで返事もしようとしない。

「…それとも、ここに残る?」

「や、…ぃ、や…!」

わざとそう問い掛けると、泣きながら信は首を振って、蒙恬の胸に飛び込んだ。
啜り泣きながら、胸に埋めたまま体を震わせ続ける信に、よほど恐ろしい目に遭ったのだと分かる。

左足の捻挫もあり、もはや自力で立ち上がることも出来ないほど怯え切っているようだった。

蒙恬は彼女の背中を膝裏に腕を回すとその体を軽々と抱き上げた。赤子が眠る腹を持つその体は、驚くほどに軽かった。

「…どーも」

部屋を出る間際、蒙恬は視線を向けることなく桓騎に礼を述べた。当然、返事はなかった。

 

 

待たせていた馬車に乗り込んでも、信は蒙恬から離れようとしなかった。

未だに身体の震えは止まず、散々泣き叫んでいただろうに、涙が止まる気配もない。それはまだ彼女の心が壊れていない証拠だった。

その態度からようやく反省したのだと分かると、蒙恬の乾いていた心にも少しだけ潤いが戻って来る。きっと乾いた心に降り注いだのは、信の涙だろう。

脱走を試みた信の左脚を捻った時に改心してくれることを願っていたのだが、それでも逃げ出したのは、信自身が招いた結果であり、自分の躾が足りなかった証拠だ。

躾を多少やり過ぎた・・・・・・・・・という自覚はあったが、徹底的に教え込まなければ、彼女はまだ自分から逃げ出すに違いない。
躾という名目で、あの男に妻を預けたことを、蒙恬は微塵も後悔していなかった。

「…信?」

名前を呼ぶと、信の肩がびくりと跳ねた。
怒っていないと教えるように、優しい手付きで蒙恬は彼女の震える背中を擦ってやる。

「俺もね、色々考えたんだ。どうやったら信が学んでくれる・・・・・・のかなって」

「…、……」

考えたのは安易な計画だった。
一度でも痛い想いをすれば、動物というものは学習するもので、人間もそれは同じだ。

諦めて全てを投げ捨てて、妻としての役割を全うすれば良いものの、彼女が今の状況に耐え切れず、自分のもとから逃げ出すことは予想していた。

しかし、どれだけ追い詰められても彼女が自ら命を絶つことが出来ないのは、他でもない腹の子のためである。

王賁の子種か、それとも蒙恬の子種で実った命かは分からないが、信にとってはかけがえのない存在なのだから、彼女が簡単に見捨てることが出来るとは思わなかった。

以前、王賁との子を身ごもった時、その尊い命が散ってしまったことを彼女は今でも悔いている。

だからこそ、彼女が再び自責を感じないように、他者によって命を切り捨てられることを選ぶと、蒙恬は分かっていた。

そして信は、蒙恬が自分の命を切り捨てることは絶対にしないと自覚していたからこそ、夫以外の蒙家の者たちに、子殺しの罪で裁かれるつもりでいたのだ。

堕胎薬を手に入れるために、屋敷から逃亡を企てて、わざと事を大きくしようとしたのもその計画のせいだろう。

蒙恬がその計画を事前に阻止したのなら、人質である飛信隊の命はきっと次の戦で失われてしまう。

飛信隊の大勢の副官や兵たちの命を守るためにも、信は何としても蒙恬に気づかれず、堕胎薬を手に入れようと焦っていたに違いない。

だからこそ、懐妊を知った信がこの数日の間で堕胎薬を探しに、無計画な逃亡を企てることも、蒙恬の中では想定内だったのだ。

この辺りの土地勘のない彼女が街医者を頼って、屋敷から一番近くにある街に逃げ込むことまで、全ては蒙恬の想定内だったのである。

あの街には酒場が多く、桓騎の配下が常日頃から出入りしている。そこまで治安が良いとは言い難いため、それなりに身なりの良い女がやってくれば必ず誰かの目に留まる。

…もしも自分の指示がなければ、桓騎は信の望み通りに命を奪っていたのか、それは定かではないが、恐らく死以上に辛辣な目に遭っていただろう。

蒙恬が事前に桓騎へ手を回していたことを、当然ながら信は知らない。
何とか逃げる機会を見計らって、人目を忍んで部屋の窓枠を外そうとしていた時から、蒙恬は既に手を打っていたのである。

自ら命を絶つことを選べない彼女に、その残酷な事実を告げれば、逃げ場などないのだと諦めてくれるだろう。二度と改修出来ないまでに、その心が壊れてしまうかもしれなかった。

しかし、それでは意味がない。信の意志がなければ、何も意味などないのだ。

その体だけが欲しいのならば、寝台に縛り付けておいたり、誰も近寄らぬ離れに幽閉しておけばいい。
それをしないのは、蒙恬が信という存在の隅々まで愛している証拠であり、彼女の心を欲しているからこそだった。

たとえ恐怖を利用することによる姑息な方法であったとしても、彼女が自分の名を呼び、自分の愛に応えてくれれば、蒙恬の心はそれだけで満たされるのだ。

 

「……怖かったね、信」

同情するように穏やかな声色を務め、腕の中にいる信の頭を撫でてやる。ずっと蒙恬の腕の中で震えている信が、その言葉を聞くと、再び声を上げて泣き出した。

まるで母が夜泣きをしている子供を慰めるように、その丸い背中を擦り、蒙恬は彼女の耳元に唇を寄せる。

「もうどこにも行っちゃだめだよ?また・・信のせいで、お腹の子が死んだら…大切な人たちが死んだら、辛いのは信なんだから」

火傷をしたかのように体を跳ねさせた信が、真っ赤に泣き腫らした瞳で見上げて来る。
涙で濡れた彼女の黒曜の瞳には、蒙恬しか映らない。

優しい笑みを偽りながら、蒙恬はいくつもの涙の痕がついている頬を撫でてやった。

「……、……」

虚ろな瞳で涙を流しながら、信が唇を戦慄かせている。
小さく声を発しているので耳を傾けてみると、ごめんなさいと、誰かに対しての謝罪が聞き取れた。

ごめんなさい。ごめんなさい。蒙恬様、ごめんなさい。逃げようとしてごめんなさい。もう二度と逃げません。言うことを聞きます。ごめんなさい。二度と逆らいません。だから許してください。どうか誰も殺さないでください。お願いします。どうかお許しください。

その謝罪が自分に向けられているものだと理解し、蒙恬はうっとりと目を細めた。

「分かってくれたらそれでいいんだよ」

涙の痕が途切れない頬に唇を寄せ、目尻に舌を伸ばす。
嫌がることもなくじっとしている信を見ると、口角がつり上がっていく。

涙の塩辛い味を味わいながら、蒙恬は彼女の震えが落ち着くまで、ずっと抱き締めたまま放さなかった。

「…さあ、帰って薬湯を飲んだら、ゆっくり休もう?」

もう二度と信が自分から逃げ出さないことに確信を得た蒙恬は、蜜のようにどろどろと身体に絡み付くような、甘く優しい声色で囁いた。

 

さらなる後日編(2200字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

このお話の本編(王賁×信←蒙恬)はこちら

番外編①(王賁×信)はこちら

The post フォビア(蒙恬×信←桓騎)番外編②後編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信)番外編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話の本編はこちら

 

帰還後の一人酒

※このお話は本編で割愛した屋敷帰還後のシーンです。

 

あとのことは配下たちに任せ、桓騎は信を連れて先に屋敷へと戻った。

罗鸿ラコウが用意した催眠の香は強力だったようで、強靭な精神力を持つ信でも、未だ目を覚ます気配がない。

一級品の嫁衣に身を包んだままである信を寝台に寝かせてやり、桓騎は小さく息を吐いた。

こちらの策略通りに進んだとはいえ、信が人質に取られるのは気分が悪いものだ。

罗鸿が出世のために、利用はしても信を傷つけることは絶対にないと確信していたため、今回の行動に踏み込めたが、もしも命の危険に晒されていたらと思うとそれだけで反吐が出そうになる。

しかし、信の命の危険など、心配するだけ無駄だと思った。彼女も自分と同じ将軍という立場である以上、次の戦で死ぬかもしれないのだから。

彼女を戦から遠ざける方法なら幾らでも知っているが、それは信の意志と反することだと分かっていた。

もしも彼女から戦を奪えば、きっと自分を愛してくれなくなることも桓騎は理解していた。
信が毒耐性と引き換えに子を孕めなくなったことは知っている。もしそうでなければ、早々に子を孕ませて戦場から遠ざけていたに違いない。

だが、自分たちの仲が深まったのは、毒耐性という奇妙な体質が共通していたからだ。

毒酒の味を分かち合うことがなければ、仲が深まることはなかっただろう。皮肉なものだ。作戦通りに終わったというのに、桓騎の気分は晴れずにいた。

(…後で飲み直すか)

湯浴みのあとに毒酒を飲み直そうと考えながら、桓騎は一度部屋を後にした。

 

 

湯浴みを終えてから部屋に戻っても、信はまだ寝息を立てていた。

気持ち良さそうに眠っている姿を見ると、どうしても起こす気にはなれない。
桓騎はもともと眠りが浅い方で、普段から信よりも先に目を覚ますことが多いのだが、彼女の寝顔は何度見ても飽きないものだ。

ご馳走を前にしている夢なのか、にやけている時もあれば、仲間たちと楽しく過ごしている夢なのか、穏やかに微笑んでいる時もある。

同じように戦場で多くの命を奪い、多くの別れを経験しているというのに、そういえば悪夢でうなされている姿を一度も見たことがなかった。

腹を満たした赤ん坊のような無邪気な寝顔を見せられると、寝込みを襲う気にはなれない。一級品の嫁衣で美しく着飾っていたとしてもだ。

…しかし、目の前の女を好きに扱ってしまいたいという欲求が湧き出るのは、今まさに理性と性欲が争っている証なのかもしれない。

彼女が目を覚ました時には、貸しを倍にして返してもらわなくてはと考えた。

気を紛らわすために、桓騎は戸棚から鴆酒の酒瓶と杯を手に取って席に着く。普段なら信と互いに酌をし合うのだが、今日は手酌で鴆酒を味わうことにする。

罗鸿の屋敷で蛇毒の酒を飲んだが、豪勢にもてなされるよりも、信と二人きりで他愛もない話に花を咲かせながら、静かに毒酒を味わう方が桓騎は好きだった。

もちろん仲間たちと飲む賑やかな酒も好きだ。しかし、信と毒酒を飲み合って過ごしている時間は、不思議と心が休まる。

常人からしてみれば、毒を飲んで安らぐだなんておかしな話だろうが。

 

副作用

ぐっすりと寝入っている信を見れば、きっと翌朝まで目を覚ますことはないだろう。
鴆酒を一瓶飲み干した頃、桓騎は自分もそろそろ休もうと椅子から立ち上がった。

「ッ…?」

くらりと眩暈を覚える。足元がふらついたことから、酒の酔いが回ってしまったのだと推察する。

しかし、体の内側が燃え盛るような灼熱感には覚えがあった。毒の副作用である。

(飲み過ぎたな)

再び椅子に座り込み、桓騎は長い息を吐いた。
桓騎の方が毒の副作用を起こすのは随分と久しぶりのことで、思い返してみれば、最後に副作用を起こしたのは、信が毒耐性を持っていると知るよりも前だったかもしれない。

罗鸿の屋敷で蛇毒の酒を一瓶空け、鴆酒までも飲んだのだ。普段より毒を多く摂取したせいだろう。

「ちっ…」

こうなれば副作用が収まるまで耐えるしかない。時間が経てば酔いが覚めるように、副作用もいつまでも続くわけではない。

もちろん性欲の暴走に対して、ひたすら女を相手にする方法もあるが、信は今眠っている。
眠っている彼女の身体を使って自慰に浸る方法も考えたが、信の体に触れてしまえば、きっと身を繋げずにはいられないだろう。

「はあ…」

自然と息が荒くなっていく。暑さを紛らわせようと襟合わせを開き、窓を開けて風を浴びてみるが、灼熱感が引く気配はない。

無意識に信へ視線を向けてしまうのは、身体が本能的に彼女を求めているからなのかもしれない。

薬で眠っている女を抱くことに抵抗はないのだが、信に限っては別だ。

副作用が治まるまでには、それなりに時間がかかる。情欲に駆られるまま信と体を重ねれば、早く副作用は落ち着くのは分かっていたが、倍増する性欲を発散すれば、彼女の体に負担を掛けてしまうことになる。

彼女が毒の副作用を起こした時には喜んで付き合うのだが、今日に限っては別だ。

「ちっ…」

井戸の冷水を頭から被れば多少は気が紛れるだろうと思い、桓騎は部屋を出ることにした。

立ち上がった拍子に、再び足元がふらついてしまう。咄嗟に机に手をついた途端、派手な音を立てて、空の酒瓶が床に転がってしまった。

「…ん…桓、騎…?」

その音を聞いて、どうやら信が眠りから目を覚ましてしまったようだ。
未だ眠そうな瞳を擦りながら、ゆっくりと寝台から身を起こした信を見て、こんな時に起きるなよと桓騎は内心毒づいた。

 

 

目を覚ましたばかりの信は、桓騎が苦しそうに息を荒げていることに小首を傾げていた。いつの間にか屋敷に戻って来ていることには少しも気づいていないらしい。寝起きでまだ頭が働いていないのだろう。

「どうした…?」

珍しく桓騎が苦しそうにしている姿を見て、心配そうに眉を寄せている。
隠すようなことでもないと顔に苦笑を浮かべながら、桓騎は椅子に腰を下ろした。

「…久しぶりに、毒が回った」

すぐには理解出来なかったようで、信が何度か瞬きを繰り返す。

「体…つらい、のか…?」

呼吸を乱しながら、桓騎は頷いた。
胸が締め付けられるように痛み、体の内側が燃えるように熱くなる。

「…ああ、辛い。どうにかなっちまいそうだ」

素直に答えると、信がはっとした表情になる。ゆっくりと寝台から降りて、近づいて来た彼女は心配そうに顔を覗き込んで来た。

それから導かれるように視線が下がっていく。

「あっ…?」

狼狽えるような声を上げてから、信は再び桓騎の顔を見た。
副作用を起こしてから、既に桓騎の男根は苦しいほどに張り詰めていて、早く触れてほしいと訴えているのだ。着物越しでも当然それは分かった。

「ま、待ってろ、今…」

そう言って、信は一級品の嫁衣が皺になるのも構わずにその場に膝をついた。迷うことなく桓騎の脚の間に顔を寄せると、着物越しに男根に触れる。

「っ…」

着物越しに信の手の平を感じて、桓騎は生唾を飲み込む。

屹立を確かめるように、信は手の平で何度か桓騎の男根を愛撫し、それから下衣に手を伸ばして来た。

「ん…」

下衣を引き下げて、現れた男根に、信は迷うことなく赤い舌を伸ばす。唾液を纏った舌が敏感になっている切先に触れると、沁みるような刺激が走って、思わず腰が震えそうになった。

 

赤い舌が先端をくすぐるように突いて、ざらついた舌の表面が陰茎を這う。根元に指を絡ませながら、何度も舌が陰茎を往復していく。

裏筋を刺激するように、尖らせた舌先が這うと、喉が引き攣るほど気持ちが良かった。

時折上目遣いでこちらの反応を確かめて来るのも堪らない。
挑発的な視線も好みだが、自信なさげにしている生娘を思わせるその視線も、全てが今の桓騎には刺激的だった。

「ん、ぅ…」

紅で瑞々しく象られた唇を開き、男根を咥え込む。
淫華とは違った肉襞が吸い付いてきて、桓騎は思わず歯を食い縛る。そうしないと呆気なく彼女の口の中で果ててしまいそうだった。

惚れた女が自分の脚の間に顔を埋めている官能的な光景に、顔が燃えるように熱くなる。

信が頭を動かす度に、口の中から滲み出る唾液が淫靡な水音を立てた。桓騎の荒い呼吸と、淫靡な水音が室内に響き渡る。

「んんぅ…ん…」

鼻で必死に息をしながら、信は奥まで男根を深く飲み込んだ。
喉を突かれれば苦しくなるのは分かっているだろうに、信は涙目になってさらに奥まで咥えようとする。

男根が喉奥できゅっと締め付けられると、甘い快楽が体の芯を走り抜ける。

「ッ…!」

情けない声が洩れそうになり、桓騎は力強く歯を食い縛って、首筋に幾つも筋を浮かべた。

堪えることなく、彼女の口の中で精を放って楽になりたいという欲望と、いつまでもこのまま快楽に浸っていたいという気持ちが鬩ぎ合う。

「ん、ん、んむっ、ぅ…」

頭を前後に動かして、信は桓騎の男根を唇で扱く。時折、頭を動かすのをやめて強く吸い付いて来るものの、舌は休むことなく動き回っていた。

桓騎を副作用の苦しみから救うため、懸命に口で奉仕をする信の姿を見るだけで、もう堪らなかった。

吐精欲の衝迫に目の奥が燃えるように熱くなる。

「はあ、…ぅ、く、ッ…!」

腹の奥から、四肢がばらばらになってしまいそうな衝動にも似た喜悦が駆け上がっていくのが分かった。

膝と腰が震え出し、桓騎は咄嗟に信の頭を抱き込んでいた。

「う、んんッ」

頭を抱き込まれた信が男根を深くまで飲み込む。彼女の喉奥で精を吐き出しながら、桓騎は獣のように息を荒げていた。

「う”……、ぅう、ん…」

果てたばかりの男根を咥えたまま、切なげに信が眉根を寄せて、桓騎を見上げた。

その加虐心を煽られる視線を向けられるだけで、男根が再び硬くなっていく。
例え毒の副作用を起こしていなかったとしても、その表情だけで情欲に駆られてしまう。信のこんな表情を前にすれば、男なら全員そうなるだろう。

絶対に彼女を誰にも渡すまいと桓騎は心の中で誓った。

「ふ、は…」

ゆっくりと信が男根から口を離すが、口の中には吐き出したばかりの精液が溜まっていた。

「んっ…」

少しも躊躇うことなくそれを嚥下した信に、桓騎は褒めるように頭を撫でる。

男が吐き出した子種など味わうものではないと嫌悪して吐き出す者も多いというのに、信は違った。

まるで馳走や甘味でも口にしているかのように、嬉々として精を飲み込む彼女に、気になって理由を尋ねたことがある。

決して他の男の精を飲んで比較した訳でないことを前提に、信が恥ずかしそうに話してくれたのだが、どうやら彼女にとって、桓騎の精は毒酒に近い味らしい。

普段から毒物を嗜好品として摂取している影響で味に変化があるのだろうか。美味そうに飲み込む信を見ても、さすがに自分の精の味など知りたくはなかった。

「んん…」

まだ足りないと言わんばかりに、信は尿道に残っている精まで吸い尽くし、芯を取り戻したばかりの男根に舌を這わせていく。

「もういい」

このまま副作用が落ち着くまで、彼女の口淫がもたらす快楽に浸る方法もあったが、桓騎は一刻も早く身を繋げたくて堪らなくなっていた。

もう彼の表情には、余裕など微塵も残されていない。

この情けない顔を見せたのは、恐らく後にも先にも信だけだろうと桓騎は思った。

模擬初夜

寝台に彼女を運ぶ余裕さえも残されておらず、桓騎は発情した雄の瞳で信を見下ろした。

「乗れ」

椅子に腰を掛け直した桓騎が指示を出すと、それまで脚の間に顔を埋めていた信がゆっくりと立ち上がる。

赤い嫁衣には眠りの作用がある香が焚かれていたようだが、今は茉莉花の甘い繊細な香りだけが感じられた。いつまでも催眠の作用は持続しないらしい。

その香りを嗅ぐだけでも、桓騎の情欲は酷く煽られた。信が自分の体を跨ぐのを待ち切れずに、その細腰を引き寄せる。

「ちょ、ちょ、っと、待てっ」

信は両腕を突っ張って桓騎を制する。まさかここでお預けを食らうとは思わず、桓騎は眉間に不機嫌の色を露にした。

もちろん自分は犬ではないので待てなど出来ないし、命じられたとしても従う義理はなかった。

「お、お前の、デカいから、ちゃんと…しとかないと、その…苦しいんだよ」

顔を赤らめた信が視線を逸らしながらそう言ったので、桓騎は呆気に取られる。

中を指で解して広げておかないと、桓騎の男根を咥え込むのが苦しいのだそうだ。痛いではなく苦しいと言った彼女に、もはや破瓜を破った時の面影は残されていなかった。

破瓜を破った時は、信が毒の副作用を起こしていたため、それほど強い痛みを感じていないようだったが、初めて男を受け入れて女になった信の変貌ぶりは今でも思い出せる。

「っ、おい…!」

嫁衣の中に手を忍ばせ、脚の間に指を這わせると、信の体がぴくりと跳ねる。熱気と湿り気のある其処は既に蜜が溢れているのが分かった。

なんとか口角を持ち上げて、桓騎はなけなしの余裕を繕った。

「こっちはもう準備出来てるじゃねえか」

「ま、まだ、だって…」

信は桓騎と体を重ねることを嫌悪しているわけではない。
しかし、何をしてほしいか具体的に言葉に出さないあたり、羞恥心が抜け切れていないことが分かる。あどけなさを残しているところも愛おしかった。

「んッ、うぅ…」

淫華の入口をそっと指の腹で擦ってやると、信が切ない声を洩らした。これだけ濡れていれば唾液を利用する必要もなさそうだ。

桓騎がいつだって爪を短く整えているのは、いつ何時であっても信と身体を重ねても問題ないようにしているためで、彼女の内側を傷つけないようにする配慮だった。

もちろん信自ら淫華を指で解す姿も、桓騎にとっては目で味わうご馳走なのだが、今はその姿を観賞している余裕などない。

「あっ…」

入り口を見つけ、そこを指で突く。抵抗なく指を飲み込んでいくが、いつも桓騎の男根を飲み込み、とっくにその形を覚えているはずの其処は確かにまだ狭そうだった。

しかし、滑りが良いせいか、根元まで桓騎の指を飲み込んだ淫華は、さらに指を奥へ引き込もうとするかのように締め付けて来る。

こんな小さな口にいつも男根が食われているかと思うと不思議で堪らなかった。

「あっ、や…」

中で指を動かす度に、信の腰がくねる。
逃がさぬように細腰を抱き込んで中を弄っていると、両方の膝が笑い出し、立っているのが辛くなって来たようだった。

「う…」

前のめりになって椅子に腰かけている桓騎の肩にしがみついて来る。
縋るものを探して抱きついて来る信が愛おしくて、早く彼女の淫華に食われてしまいたいという気持ちが切迫した。

 

「はあ、あっ、ぅッ…」

余裕のなさが指に伝わって彼女の中を傷つけないよう気をつけながら、桓騎は中を広げるようにゆっくりと指を動かした。

指を動かす度に蜜がどんどん溢れて来て、淫華はすっかり奥まで濡れていた。
卑猥な水音に鼓膜を犯され、腰をくねらせる信を見れば、それだけで達してしまいそうになる。

信の反応を見ながら指を増やしていき、三本目をその腹に受け入れる頃には信の顔も蕩けていた。口の端から飲み込めない唾液が滴り落ちていて、唇を艶やかに輝かせている。

淫らなその表情を目の当たりにした桓騎は生唾を見込み、信の頭を抱き寄せて、貪るように唇を重ねた。

「んんっ、う…んッ、ぅう」

舌や唾液に吸い付き、舌先で歯列をなぞってやると、信も激しい口づけに応えるように舌を伸ばして来た。

口づけを交わしながら指を引き抜くと、彼女の細腰を掴んで引き寄せる。熱い吐息を掛け合いながら、向かい合うように信を膝の上に跨らせた。

「は、はあっ…」

立ち膝でいる彼女の脚の間にある、先ほどまで指で解していた入り口に、男根の切先を押し当てた。

そのまま腰を下ろせば一つになれるというのに、抵抗しているつもりなのか、信は恥ずかしそうに顔を背けて腰を下ろそうとしない。

「おい、とっとと腰下げろ」

いつものように乱暴な口調で指示をすると、信は切なげに眉根を寄せながら首を横に振った。

嫌がっているような素振りは見られないが、まさか焦らしているつもりなのだろうか。

「あっ、よ、汚れる…!」

嫁衣が汚れてしまうと、今さら心配し始める信に、桓騎は笑いそうになった。
もうとっくに汗を吸い、皺だらけになっているというのに、今さら汚すのがなんだというのか。

「今さらだろ。心配なら口で咥えとけ」

手を使えと言わなかったのは、どうせこの後に両手を首に回して来るだろうと思っていたからだ。

「う…」

言われた通りにお互いの下半身を覆い隠している嫁衣を持ち上げて、信は口に咥える。

汚れるのを心配しているくせに、唾液で汚すのは構わないのだろうか。もう信もあまり頭が働いていないらしい。

「これなら良いだろ」

彼女の心配事は一応取り除いてやったことだし、これ以上のお預けを食らうのはごめんだった。

「ふ、ぅうッ…」

ぶるぶると内腿を震わせながら、信が腰を下ろしていく。ゆっくりと花弁を押し開いて男根を飲み込んでいく光景はいつ見ても官能的だった。
まるで結合部を見せつけているようにも感じて、桓騎の情欲が一層煽られる。

「んんんーッ」

自重によって根元まで男根を飲み込むと、嫁衣を咥えたままでいる信が鼻息を荒くしていた。背中に回されている信の腕に、ぎゅうと力が入る。

「はあ…」

すぐにでも腰を動かしたくて堪らなかったが、男根が彼女の中で馴染むまでは決して動かない。

それは信の破瓜を破った時から、決まりごとに縛られるのを何よりも嫌う桓騎が一度も反したことのない暗黙の規則だった。

 

模擬初夜 その二

着衣のまま体を繋げるのは初めてではなかったが、嫁衣を着た信を観るのは初めてのことで、桓騎はその姿を目に焼き付ける。

宴や畏まった席に出る時の着飾った信も魅力的だが、婚儀の時にしか着ることの出来ない赤い嫁衣は特別だった。

他の女を抱く時にはお目にかかれない割れた腹筋も、筋肉で引き締まった内腿も、桓騎の情欲を煽る要素でしかなかった。

「んッ、く…ん、ふッ…」

桓騎と繋がっている部分に嫁衣が落ちないようにと、歯を食い縛ったのが分かった。

中で男根が馴染んだのを確認してから、桓騎は信の細腰を抱え直す。

「ふうっ…」

腹に深く埋まっていた男根の位置が変わり、信が思わず熱い吐息を洩らした。

口に嫁衣を咥えたまま、信は桓騎の肩を掴んでいた手を首に回し、強く抱きついて来る。
まるで胸を押し付けられているようにも思えて、桓騎は堪らず、目の前の柔らかくて豊満な胸に吸い付いた。

「んんっ、ふ、ぅうー」

すでに芽はそそり立っており、上下の唇で挟んで、舌で押し潰すように口の中で転がしてやると、信の腰が小さく跳ねた。

連動するように男根を食らっている淫華が口を窄める。

何か言いたげに、信が桓騎を見つめて来る。普段から口が自由に使えるのだが、今日は違う。熱い息と共に吐き出されるくぐもった声は桓騎の鼓膜を心地よく震わせてくれた。

堪らなくなって、つい胸の芽に軽く歯を立ててしまう。

「ふうッ、んーっ」

女の体とは面白いもので、身を繋げたまま、新たな刺激を与えれば、男にさらなる極上の夢を見せてくれる仕組みになっている。

もともと余裕がなくなっていた桓騎は、目の前にある信の豊満な胸に吸い付きながら、腰を突き上げた。

二人の身体が揺れるのに合わせて椅子が軋む。
抱き締めている信の体は赤い嫁衣に包まれていたが、布越しでも彼女の体が熱く火照っているのが分かった。

「信ッ…」

すでに一つになっているというのに、まだ繋がりたくて、桓騎は信の体を強く抱き締める。

淫華に男根が食われているように、他の部分も彼女の皮膚の内側にいきたい。身も心も、何もかもを彼女に全て捧げたかった。

 

 

夢中で腰を突き上げる度に、二人の息はどんどん荒くなっていく。
絶頂に駆け上っていくこの感覚は、他の何にも代えがたいものであって、特別な時間だった。

「んんっ、あッ、か、桓騎っ…!」

いよいよ嫁衣を咥えていられなくなったらしい信が口を開けて、肩で息をしている。もう嫁衣の汚れなど気にしていられないらしい。

信の体を突き上げる度に、男根の先端に柔らかい肉壁がぶつかる。

それが毒耐性を手に入れる代償でもう機能を果たしていない子宮だと分かると、桓騎はさらに奥へ進もうと信の体を抱き込んだ。

「うああッ、あっ、んうッ、ま、待っ、ぇ…!」

機能を果たしていないと言っても、子を孕むことが出来ないだけだ。
指や硬い男根の切先で其処を突かれると、それだけで信はどうしようもなくなってしまうので、ここは女の共通した弱点だと言っても良い。

そして弱点といえば、もう一つある。桓騎は嫁衣の中に手を忍ばせると、鋭敏になっている花芯を指の腹で擦ってやった。

「やああッ」

「ッ…!」

悲鳴に近い声が上がるのと同時に、信の体が大きく跳ね上がる。食い千切られるように淫華が男根を締め付けて来たので、桓騎も思わず歯を食い縛って、快楽の波に意識が攫われないように何とか堪えた。

信は男根で奥を突き上げながらここを弄られるのが弱いのだ。

破瓜を破った時もこうして責め立て、初めて絶頂を迎えた時の信の姿はよく覚えている。

「はあっ、ぁっ、うう、か、桓騎っ…桓騎…!」

涙を流しながら、信が縋りつくように体を預けて来る。お互いにもう限界が近いことは察していた。

花芯を擦りながら、より一層激しく腰を突き上げる。

「あっ、は、あぁ、ああーッ」

髪を振り乱して喜悦の声を上げた信が、桓騎の背中に爪を立てて来る。全身を貫く快楽に、下腹部まで痙攣を起こしていた。

「ッ…!」

淫華が子種を求めてきつく男根に吸い付いて来る。体の内側で何かが大きく弾けた感覚があった。

続けて燃え盛るような欲望と、目も眩むような強い快感が腹の底から沸き上がる。
さざ波のように、快楽が体の芯を突き抜けて遠ざかっていくまで、桓騎は信の体を抱き締めたまま動かなかった。

 

恋人の毒

互いの呼吸が落ち着いてからも、二人はまだ身を繋げたままでいた。

顔に疲労を滲ませた信が桓騎の膝から降りようとするが、桓騎は細腰を両腕でしっかりと抱き寄せて放さない。

まだ情事を続けようとしていることに気づいたのか、信が顔を赤らめて上目遣いで睨んで来た。

「も、もう良いだろっ…」

「まだ治まんねえな」

それは嘘ではなかった。未だ信の淫華に飲まれている男根は再びを芯を取り戻し始めている。

「うう…」

腹の内側で桓騎の男根が硬くなったことを感じ、信が狼狽えた視線を向けた。

副作用が起きたばかりの時の苦しみは多少和らいだが、まだ物足りなさを感じる。桓騎は信の後頭部を掴んで、強引に唇を重ねた。

 

「んんっ…う…」

言葉に出さずとも、まだ足りないという桓騎の想いを信は察したようだった。口内に差し込んだ舌に、信がおずおずと舌を絡ませて来る。

彼女が毒の副作用を起こした時は症状が落ち着くまで何度も付き合ってやっているというのに、立場が反対になると、信は羞恥心が消えないせいなのか、たかだか数回で終わらせようとする。

しかし、そのうち信の方から桓騎を求めて泣きながら腰を振るようになるのは、桓騎の体を通して間接的に毒を摂取しているからなのだろうか。

精液が毒酒の味に近いというのなら、唾液や汗だけでなく、吐息にさえも毒の成分が含まれているのかもしれない。

もしそうなら、信が副作用を起こした時に、症状を落ち着かせるために身を重ねた桓騎自身も興奮が止まないのも頷ける。

…つまりは、信の方も今まさに桓騎という毒を摂取しているというワケだ。

「はあっ…」

長い口づけを終えると、信が惚けた表情で桓騎のことを見つめて来た。
物足りなさを訴えていたのは桓騎の方だったのに、信の双眸からもっとして欲しいという意志が伝わって来る。

もう嫁衣の汚れも乱れも気にする余裕がなくなっているようで、信は桓騎の首に再び腕を回して抱き着いて来た。

「ふ、…ぅ、んんっ…」

肩に顔を埋め、信が腰を前後に揺すり始める。
これはもう桓騎という毒に呑まれたと言っても良いだろう。

恋という感情を少しずつ膨らませていくよりも、流し込んだ毒で支配してしまう方が手っ取り早く、それでいて強力だ。恋という感情を実らせるのならば、先に相手を毒で支配をしてからでも遅くはない。

そんな関係を、他者から狂っていると言われたのならば、その通りだと嘲笑うだろう。
自分たちの頭と体はいつだって、互いの毒で犯されているのだから。

「信」

「んっ…」

耳元で熱い吐息を吹き掛けながら名前を囁くと、それだけで信の体がぴくりと震えた。

赤い嫁衣を身に纏っている信を見れば、まるで婚儀の後の初夜を連想させる。
もちろん信の破瓜を破ったのはとっくの昔だが、いつもよりも新鮮な気持ちで彼女を抱くことが出来るのは嫁衣のおかげだろう。

こればかりは罗鸿ラコウに感謝しなくてはと頭の隅で考えたものの、淫らな表情を浮かべている信の熱っぽい瞳と目が合った途端、そんなことはすぐに忘れてしまうのだった。

 

後日編「~奪い得た財産の使い道~」(2900文字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

番外編①(李牧×信)はこちら

番外編②(桓騎×信←王翦)はこちら

番外編④(桓騎×信)はこちら

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終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

前編はこちら

 

処刑場

趙国ある雷環広場に到着するまで、当然ながら国境を越えることもあって、それなりの日数がかかったが、李牧が処刑される日には間に合った。

処刑をされた後は、見せしめのために数日は首を晒されることになる。
雷環広場に李牧の首が晒されていなかったことが、まだ処刑が行われていない何よりの証拠である。

馬を走らせている間、もしも処刑場に駆け付けて、すでに李牧の首が晒されていたらと思うと恐ろしくて堪らなかった。

(間に合った…)

まだ李牧を救出した訳ではないものの、僅かに安堵してしまう。

雷環広場は趙の首府である邯鄲の一角にあり、城下町ということもあってか、大勢の民たちが生活を行っていた。

秦国でもそうだが、このように民が多く出入りしている市場で処刑が行われることは珍しくない。見せしめのために、あえて人の出入りが激しい場所が選ばれるのである。

よって、賑やかな日常の一場面に、罪人の断末魔が響いたとしても、疑問や恐怖を抱く者はいない。

「………」

信は素性を気づかれないように仮面で顔を覆い、背中に背負っている剣を隠すように外套を羽織っていた。

旅人の装いに見えることから、信を怪しむ者はいない。

邯鄲は首府であり、趙の中で一番広い領土だ。外から人が出入りすることは決して珍しくないのだ。

もしもここで自分の素性が気づかれれば、それは李牧の処刑から気を逸らす大きな騒動となり、彼の処刑が延期されるかもしれない。しかし、それが李牧の救出に直結する訳ではない。

一番望ましいのは、二人とも無事に趙国を脱出することだ。

李牧が処刑されることは、まだ秦国で広まっていない。
趙の宰相であった男を、秦国を滅ぼそうと企てた男を秦国へ連れ帰れば、もちろん裏切りだと罵られるだろう。

黙って趙へ行ったことだって謀反の疑いがあると責め立てられ、それ相応の処罰を受けることになるはずだと信は覚悟はしていた。

死罪は免れたとしても、将軍の地位を下ろされるかもしれないし、投獄されることになるかもしれない。

それでも李牧の命が助かるのなら、そんな処罰など喜んで受け入れようと思った。

(桓騎には…ぶん殴られても、手足の一本折られたとしても、文句は言えねえな)

絶対に行くなと引き止めてくれた桓騎のことを考え、信は唇に苦笑を滲ませた。

もしも秦国に李牧を連れ帰ったならば、桓騎から遠慮なく嫌味を言われるだろう。

彼が眠っている隙をついて黙って出て行ったのだから、何を言われても、何をされても許してもらえないかもしれない。

心の中では何度も謝罪をしていたが、彼に伝わることはないだろう。信も許されるとは思わなかったし、恨まれるのを覚悟で李牧の救援のために国を出たのだ。

(お説教や処罰のことを気にするのは後だな…)

信は軽く頭を振って、今は目の前のことに集中しようと考えた。

休まずに馬を走らせ続けていたせいで、体はくたくたに疲れ切っていたが、頭は冴えている。李牧の処刑が目前に迫っているせいだろう。

戦でも似たような経験はあった。体はもう動けないほど疲弊しているものの、気力だけでどうにか剣を振るっているあの感覚だ。

 

(どうやって助けたら…)

ここに来て、信は勢いだけで趙へやって来たことを悔やんだ。頼れる味方がいるのならまだしも、単騎で乗り込んだところで、やれることには限界がある。

李牧が広場に連行されたところで彼を連れ出せたとして、そこから逃走を企てるなら、大勢の市民たちの中に飛び込んで、追っ手を撒く必要がある。

市民たちを脱出の騒動に巻き込んで、傷つけてしまうのは本意ではないのだが、それも覚悟しておいた方が良さそうだ。

救出方法を考えながら、信が邯鄲を歩いていると、ある違和感を覚えた。

(…おかしい)

民たちの賑やかな会話に耳を傾けているものの、李牧の話が聞かれないのである。

趙の宰相であったあの男が、民たちから大いに支持を得ていたことは噂で知っていた。それなのに、彼の処刑どころか、投獄されている話すら聞かれないのは一体何故なのだろうか。

反乱の気を起こさぬよう、民たちには処刑を知らされていないのかもしれない。だが、それが事実だとすれば、李牧が処刑されるために広場に連行されて来た途端、民たちは大いに混乱するのではないだろうか。

その混乱に乗じて李牧を救出する方法も考えたが、もしその機会を失えば、信は目の前で李牧を永遠に失うこととなる。

せめて投獄されている場所が分かればと思ったが、邯鄲城内の牢獄だろうか。

(待てよ…カイネたちはどうした?)

そこで信は一つの疑問を抱いた。李牧に付き従っている側近たちについてだ。

(まさか、あいつらも一緒に処刑されるのか?)

処刑されるのは李牧だけではなく、彼の配下たちもなのだろうか。合従軍の敗北を李牧一党の命で償わせるつもりなのだとしたら、あまりにも惨い。

きっと李牧のことだから、配下たちの命は庇ったはずだ。どれだけ残虐な策を用いる男であっても、仲間の命を見捨てられるような薄情な男ではない。

しかし、悼襄王がその哀願を聞き入れるとは思えなかった。

側近たちの死罪を免れたとしても、処刑の邪魔を刺せないように配下たちも共に投獄されているのかもしれない。

(なんで李牧は…)

付き従っていた配下の命を容易く斬り捨てられる血も涙もない残虐な王に、どうしてあの李牧が忠誠を誓ったのか、信には何も分からなかった。秦趙同盟で再会した時に聞いておくべきだったかもしれない。

しかし、桓騎と同じで、李牧が考えなしに行動をする男ではなかった。

だからこそ、悼襄王に仕えることで、李牧が成し遂げようとしていた何かがあるに違いない。その目的が何なのかを聞いておくべきだった。

―――秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ。

秦趙同盟で再会した時、李牧は信に祖国を捨てて、自分と共に来いと言った。

もちろん秦王も祖国も裏切ることはせず、李牧とは決別を決めたというのに、結局はその誓いを自らで背いてしまった。

「…ん?」

それまで賑わっていた市場が、一変して民たちの動揺による騒がしさに包まれた。

 

(なんだ?)

大きな通りに何頭もの馬が走って来るのが見えた。
馬に乗っているのが血相を変えた役人たちだと分かり、咄嗟に近くにあった露台の裏に身を隠す。

秦将であると素性を気づかれてしまい、捕縛しに来たのだろうかと身構える。

しかし、李牧の処刑のことで民たちの話に耳を澄ませている間、民たちが自分を怪しんでいる様子はなかったはずだ。信以外にも外套で身を包んだ旅人は大勢いたし、目立つようなことはしていない。

身を潜めながら様子を伺っていると、役人たちが大声で民たちに何かを伝えているのが分かった。

「悼襄王が崩御された!」

―――それが悼襄王が亡くなった報せだと知った信は、驚愕のあまり言葉を失った。

 

 

趙王の崩御

役人から国王崩御の報せを聞き、驚いた民たちだったが、すぐに服喪期の準備が始まっていく。

役人たちによって弔意を表す漆黒の弔旗があちこちに掲げられていき、賑やかだった市場にいた民たちも慌てて家に戻っていく。

普段ならば人の出入りが特に激しいであろう食堂や酒場もたちまち静けさを取り戻していった。

国王が崩御したとなれば、その死を悼むために、民たちは働くことも好きに出歩くことが許されないし、服喪期が終わるまでは、役所もその他も、さまざまな場所が公休となる。王位継承の儀が終わるまで、つまりは次の王が即位するまで服喪期は続く。

早急に次の王が即位しなければ、民たちは働けず、つまりは大勢が食い扶持を失うと言っても良い。

趙王には二人の子息がいると聞いていたから、そのどちらかが即位することになるだろう。もしも王位継承が煩雑化しているのなら、服喪期は長引きそうだ。

親友である嬴政と、弟の成蟜の王位継承争いを経験していた信は、その複雑さを知っていた。

 

国王崩御の報せを届け、弔旗を掲げ終えた役人たちがいなくなると、市場に静寂が訪れた。それまで賑わっていた市場が葬儀一色になり、民たちの姿もまばらである。

露台の裏に身を潜めたまま、信はまさかの事態に戸惑うばかりだった。

病で亡くなったようだと噂が飛び交っていたが、重要なのは死因ではなく、その後のことだ。

(趙王が崩御したんなら、李牧の処刑はどうなるんだ…?)

きっと今の宮廷は次に即位する王を決める話で持ち切りだろう。そんな状況下で李牧の処刑を実行するはずがない。

彼の死罪を命じたのが悼襄王なら、彼の崩御によって、李牧の処刑が無くなることも考えられる。次に即位するであろう悼襄王の子息が、父の意志を継ぐ残虐な男でなければの話だが。

もしも死罪が免れなかったとしても、処刑執行は延期となるはずだ。

そのことに安堵した信は、趙国が国王崩御の喪に服している間に李牧を救出する方法を考えた。

王位継承のことで見張りの兵たちも手薄になっているに違いない。
子息たちの王位継承争いが煩雑化しているのなら、そちらに兵を割くだろうし、その隙に李牧を救出することが出来る。

まずは投獄されているであろう李牧が何処にいるかを捜し出さなくてはと信が前に踏み出した時だった。

 

 

「信」

聞き覚えのある声がして、信は反射的に顔を上げる。

「な…」

声の主を見て、信は驚きのあまり、喉が塞がってしまう。

李牧だった。
傍に控えている配下はいない。拘束されている様子もなく、それどころか死刑囚を取り締まる兵たちの姿もない。これから処刑をされる様子など微塵もなかった。

怪我一つしておらず、疲弊している様子もないことから、とても投獄されていたとは思えない。

(なんで李牧が)

どうしてここにいるのか問い掛けようとしたが、声が出て来なかった。

仮面の下にある彼女の顔が凍り付いたのを見て、李牧は穏やかな笑みを浮かべる。

信は素性を気づかれぬよう、仮面と外套で変装していたというのに、李牧はすぐに彼女だと見抜いたらしい。

「あなたなら来てくれると思っていましたよ」

まるで信がここに来ることを予想していた言葉。
ここで再会出来たことを喜ぶべきなのか分からず、信は呆然とその場に立ち尽くすことしか出来ない。

ゆったりと足取りで李牧が近づいて、手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まった。

「私を助けに来てくれたんですね?」

「………」

素直に頷くことが出来ないのは、信の胸の中に不安が渦巻き始めていたからだった。

李牧を処刑から救い出すために、全てを捨てる覚悟で趙国へやって来た。しかし、信が邯鄲に到着してから・・・・・・・・・すぐに悼襄王の崩御の報せが広まる。

国王の死を悼むために服喪期が始まったことは当然のことであるが、なぜか違和感が拭えない。

目の前の男は、自分の養父である王騎の命を奪う軍略を企て、秦国を亡ぼす一歩手前まで追い詰めた男である。

その聡明な頭脳で、軍どころか、国を動かすことも容易いはずだ。

しかし、いくら宰相という立場でありながら、本当にそのようなことが可能なのかと信は固唾を飲んだ。

処刑は偽装に違いないだと桓騎は推察していたが、李牧は昔から嘘を吐く男ではない。

―――俺は卑怯者だが、嘘は言わない。今でもお前のことを愛しているし、これからもそのつもりだ。

決別を決めた時も、彼はそう言っていた。

共に過ごしていた時も、冗談を言うことはあったが、決して嘘を言うことはなかった。

だから、書簡で知らせてくれた処刑のことも、信は真実だと疑わなかった。心のどこかで李牧のことを信じていたからだ。

だからこそ、ある疑惑が浮かんだ。

 

「此度の崩御によって、釈放されることが決まったんです」

処刑を命じられたのが事実で、しかし、悼襄王の突然の崩御によって彼が無罪放免となり、釈放されたというのなら、李牧は決して嘘を吐いていない・・・・・・・・ことになる。

「まさか…お前…」

信の背筋に冷たいものが走った。

「処刑を免れるために、趙王を」

途中で言葉が途切れたのは、李牧に頬を撫でられたからだった。

「あなたならきっと、私のために来てくれると信じていましたよ」

その言葉の意味を理解するよりも先に、弾かれたように後ろへ飛び退く。背中に携えている剣の柄を握ったのはほぼ無意識だった。

見たところ、李牧は武器らしいものを所持していない。着物の下に暗器など忍ばせているような男ではなかった。

しかし、彼が素手であっても、信は彼に一度も膝をつかせたことはなかった。

こちらの剣筋を見抜き、あっという間に間合いを詰められて剣を奪われることもあったし、呆気なく膝をつかされることだってあった。

彼とは、これまで通って来た死地の数が違うのだ。着物の下に、それを示す傷痕が多く刻まれていることを信はよく知っている。
彼と肌を重ねる時に、何度もその傷痕を見て来た。最後に肌を重ねた時より、傷跡は増えているに違いなかった。

「今は服喪期ですよ。ここで騒ぎを起こすのは賢明ではありません」

宥めるように声を掛けられて、信は剣の柄から手を放す。

「…お前の処刑がなくなったんなら、もうここにいる意味はねえな」

李牧が生きているのは、自分自身のこの目で確かめた。

どういった経緯で李牧が処刑を免れた・・・・・・のかは、自分の知るところではない。
結果として、彼の救出はもう必要ないのだと分かり、趙国から早急に撤退することを考えた。

辺りを見渡すと、民たちはほとんど市場からいなくなっていた。趙の首府である邯鄲が静寂に包まれている奇妙な光景に、信は気味悪さを感じる。

市場にある厩舎に預けていた馬のもとへ向おうと考えたが、李牧が阻むように道を塞いで来たので、信は仮面越しに睨みつけた。

「信、話をしましょうか」

まるで旧友に邂逅したかのような軽い口調で声を掛けられる。

もう決別は決めたというのに、今さら何を話そうというのか。秦趙同盟の時のように、趙へ来いとでも言われるのかもしれない。

ここに来たのは、李牧を処刑から助けるために来たのであって、決して趙に寝返るためではない。

「もう話すことなんて何もねえだろ」

秦趙同盟で彼と決別を決めた信は、冷たく言い放った。
しかし、まるで彼女がそう言うのを予測していたかのように、李牧は口角をつり上げる。

「その性格、昔から変わりないですね。安心しました」

共に過ごしていた頃を懐かしんでいるのか、李牧が目を細めた。

 

 

信は李牧と目を合わさないようにしていた。

長く彼の瞳を見ていると、昔の思い出が蘇って来て、李牧と離れることを躊躇ってしまいそうになる。

それは情に過ぎないことだと信自身も理解していた。しかし、戦場ではたった一つの情でさえ隙を生み出し、命を失うことにもなり兼ねない。

だが、李牧と決別を決めたのは自分自身なのに、彼が処刑されると聞いて、見捨てられなかった。

次に李牧に会う時には、秦の将と趙の宰相という敵対関係であると決めていたのに、それも出来なかった。

ここに来たのは、まだ李牧の存在が心に根付いている証拠だ。桓騎にも指摘された弱みでもある。だからもうこれ以上、李牧と一緒にいてはいけない。

彼が生きていたことが分かり、信の心にあった不安の塊は呆気なく溶け去ってき、ここに来てようやく、不安の支配から解き放たれたような気がした。

今や彼とは敵同士であるというのに、相手の命の心配をするだなんて、自分は本当に情に弱い。きっと秦に戻ったら仲間たちに罵声を浴びせられるに違いない。桓騎には容赦なく殴られるだろうと思っていた。

「…じゃあな」

目を合わせないまま、信は李牧に声を掛け、彼の脇をすり抜けようとした。

きっと今度こそ、これが最後の別れだと考えながら、李牧に背中を見せた途端、

「きっと今頃、桓騎はあなたを追い掛けて、趙国こちらへ向かっているでしょうね」

まさかここで桓騎の名前が出るとは思わず、信は驚いて振り返る。

その瞬間、李牧が武器を所持していないことと、殺気を向けられていなかったことに対して慢心していた自分を後悔した。

瞬きをした時はすぐ目の前に李牧が迫って来ていて、片手で首を強く締め上げられていた。

「ぐッ、う…!?」

自分の注意を引くために、李牧はわざと桓騎の名前を出したのだ。信は苦悶の表情を浮かべながら、策に陥ってしまった自分を悔いた。

首を締め上げる李牧の手首に爪を立て、腕を振り解こうと試みる。しかし、その手が外れる気配がない。
未だ合従軍との戦で負傷した体は療養を必要としており、とても李牧の腕力には敵いそうにあかった。

男と女の力量差を知らしめるように、彼は薄く笑んでいた。

内側から目玉が押し出される痛みに呻きながら、信は必死に抵抗を続ける。

「ッ、ぅ、う、…」

呼吸を遮断されているせいで、指先までもが痺れていく。
背中に背負っている剣を引き抜こうと腕を持ち上げる余裕もなく、視界に靄がかかっていった。

このままではまずいと、李牧の鳩尾を蹴りつけようしたが、李牧の手が首を締め上げる力を込める方が早かった。

「ッ……」

視界が暗くなったのと同時に、信はそのまま意識の糸を手放した。

 

人質

次に目を覚ました時、一番初めに喉の違和感を感じて、何度かむせ込んだ。
意識を失う前の記憶が雪崩れ込んで来て、信は李牧の姿を探す。

(ここは?)

机と椅子があるだけの簡素な部屋だった。明らかに客人をもてなすための部屋ではないが、かといって頑丈な格子があるような黴臭い牢獄でもなかった。

締め切られた窓を見て、ここが地下でないことが分かる。蝋燭の明かりだけが部屋を薄く照らしていた。

外の光を遮断しているせいで、今が昼か夜かは定かではないが、きっと李牧がここへ連れて来たのだろう。

「くそ…」

椅子に身体が縄で縛り付けられている。両手は後ろ手に一括りにされていて、自分でこの縄を解くことは困難だと嫌でも理解した。

足だけは縛られていなかったが、縄を解かない限りは立ち上がることもままならない。

当然ながら剣は奪われており、顔と素性を隠すために使っていた仮面と外套も無くなっている。

口に布を噛ませられなかったのは、信が自害する気がないと見込んでのことなのか、それとも舌を噛み切る自由を与えてくれているのか分からなかった。

(なんで俺を殺さない?)

あの場で殺さなかったことは、趙王の崩御が関わっているのかもしれないが、わざわざ敵の将を生かしておく理由が分からない。

李牧のことだから、きっと何か考えがあってのことだろう。人質として利用されるのだろうか。

自分という存在が趙国に渡ったとなれば、親友の嬴政や仲間たちは大いに動揺するだろう。

今回の李牧の救出は完全なる信の独断であったが、かえって仲間たちに迷惑をかけることになり、信は今になって自分の行動を悔いた。桓騎も呆れているに違いない。

「気が付きましたか」

その時、李牧が数人の兵と共に部屋に入って来た。相変わらず李牧は武器を持っていないが、背後にいる兵たちは腰に剣を構えている。

「手荒な真似をしてしまってすみません」

「……、……」

何も答えようとしない信を見ても、李牧が表情を崩すことはない。この状況で優勢なのはもちろん李牧の方で、彼の機嫌次第で容易く命を奪われると分かっていた。

 

「…お前が欲しがるような情報なんざ、俺は持ってねえよ」

あの場ですぐに殺さなかったことから、何か情報を聞き出そうとしているのだろうか。

もしも拷問にかけられたとしても、絶対に口を割るものかと信は歯を食い縛る。

李牧のことだから、自分を活かした理由があるのだとしたら、それは秦国の弱みとなる情報を手に入れようとしているのかと考えた。

しかし、信は内政について一切関与していない。それはきっと李牧も知っているはずだ。だとすれば軍事に関与した情報を欲しているのだろうか。

合従軍の侵攻によって、秦国の領土は多大なる被害を受けたし、今でもその復旧作業や事後処理に追われている。

服喪期に入った趙国がすぐに動き出すとは思わないが、また時期を見て秦国に攻め入ろうとしているのだろうか。

しかし、信の言葉を聞いた李牧は不思議そうに小首を傾げた。

「…私が秦国の情報欲しさにあなたを生かしたと、そう思っているのですか?」

穏やか過ぎる声が信の耳朶を打つ。

「そんなものは密偵に任せておけばいい。私が欲しいのは情報ではありません」

密偵という言葉を聞いた信が切迫した表情で李牧を見た。

「…ああ、武器も持っていないのに拘束しておくだなんて、無粋な真似をしてしまってすみません」

李牧が前に出て、椅子ごと拘束されている信の縄を外し始めた。この状況で抵抗など出来まいと思われているらしい。

(ナメやがって)

李牧と、彼の後ろには、扉を塞ぐように三人の兵たちが立っている。

武器を持ってしても李牧に勝てなかった自分が、素手でやり合って勝てるとは思わなかったし、この人数差では呆気なく取り押さえられてしまうだろう。

窓も外から塞がれているようだし、この部屋から逃げ出すには兵たちの向こうにある扉を通らなくてはいけない。

きっと扉の向こうにも見張りの兵が待機しているに違いない。李牧が警戒を怠るような男ではないことを信は昔からよく知っていた。

「…少々きつく締め過ぎましたね。すみません」

縄を解かれると、李牧は手首に残っている縄の痕を慈しむように撫でた。その優しい眼差しと声色に、信は懐かしさと同時に嫌悪感を覚える。

「触るなッ」

弾かれたように李牧の手を振り払い、信は咄嗟に距離を取った。

拘束は解かれたが、武器を所持していないことからロクな抵抗も出来ないと思われているのだろう、後ろの兵たちが動く気配はなかった。

振り払われた自分の手を見下ろし、李牧はその双眸に寂しそうな色を浮かべる。
しかし、信が瞬きをした途端、見間違いだったのか、李牧の表情はもとに戻っていた。

 

「目的はなんだ。まさか俺が趙国へ寝返るとでも思ってんのかよ」

この状況下でそのようなことを言ったとしても、虚勢を張っているとしか思われないだろう。しかし、信にとってそれは本心だった。

どのような目に遭わされたとしても、自分の忠義が揺らぐことはない。

李牧が処刑されると聞かされた時は私情を優先してしまったのだが、処刑を免れたのならば、もうここにいる必要はない。
帰還すれば、無断で趙国へ行ったことを、趙の宰相を助けようとした罪を、秦将として償うつもりだった。

「あなたのことは昔からよく知っていますよ。そんな安易に国を捨てられるはずがないことも十分に理解しています」

当然のように返した李牧に、信は汗の滲んだ手を握り締めた。

「………」

李牧の瞳が動き、静かに拳を作った手に視線が向けられたことを信は気づいていたが、それを指摘されることはなかった。

「じゃあ、なんで俺を…」

何か考えがあって、李牧は自分を生かしておいたはずだ。

敵国の将軍には、大いに人質としての利用価値がある。
交渉の末、城や領土と引き換えにその命を保証されることもあり、過去にはそれで命を救われた仲間もいた。

しかし、首を晒される辱めを受けるよりも、仲間たちがいる祖国に迷惑をかけることの方が信は耐えられなかった。

李牧が口許に穏やかな笑顔を浮かべたが、その双眸は刃のように冷え切っていて、決して笑っていなかった。

「…あなたが趙国ここにいれば、桓騎は必ずやって来ますから」

その言葉の意味を理解した瞬間、信は目を見開いた。全身から血の気が引いていく。

「お前、最初から・・・・…桓騎を狙ってたのか…?」

思わず口を衝いた問いは、情けないほどに震えていた。

それが正解かどうかを李牧は答えようとしなかったが、少なくとも間違えではなかったのだろう、彼の口許の笑みが深まる。

しかし、その沈黙が答えであると察した信は青ざめることしか出来なかった。

自分が趙国へ行けば、李牧の策が成ってしまうと桓騎は危惧していた。

桓騎が虚偽だと訴えていた処刑は、実際には事実であったとはいえ、悼襄王の急な崩御により、結果として李牧は処刑は免れることとなる。

それを知らず、信は桓騎の忠告を無視して趙国へ赴いたのだが、李牧の目的は、信を呼び寄せることではなかった。

李牧の本当の目的は、桓騎の命だ。

捕らえられた信を救出するために、桓騎は絶対に趙国ここへやって来る。李牧は桓騎の首を取るために、信を利用したのだ。

ここに来てようやく李牧の本当の目的を知った信は、激しい後悔に襲われる。
しかし、ここで懺悔をしている時間はない。

何としても李牧から桓騎を守らなくてはと、信は迷うことなく、その場に膝と両手をついた。

「…何の真似です?」

その行動の真意を尋ねる李牧に、信は俯いて頭を下げながら口を開く。

「どうしたら、何を…したら、桓騎を、見逃してくれるんだよ…?とっとと答えろよ…!」

跪いて桓騎の命だけは見逃してほしいと許しを乞う信に、李牧は苦笑を隠せなかった。

「あなたが頼む立場だというのに、言動が釣り合っていない随分と傲慢な態度ですね。それも桓騎の影響でしょうか?」

「答えろッ!」

両手をついたまま、信が顔を上げて睨みつける。

とても許しを乞うているとは思えないほど無礼な態度だと自覚はあったが、信の頭の中は、自分はどうなってもいいから桓騎を助けることしかなかった。

 

取引

「…それでは、右手の親指を頂けますか?」

李牧が口にした取引の条件に、信は思わず息を詰まらせた。

「親指…?」

自分の命を奪うつもりはないのだろうが、大勢の兵たちが見ている手前、無傷で返す訳にもいかないのだろう。右手の親指だけというのは李牧なりの慈悲かもしれない。

「っ…」

しかし、右手は信の利き手であって、武器を持つことに大いに支障が出る。きっと李牧はそれをわかっていて、指定したのだろう。

信が躊躇っていると、追い打ちを掛けるかのように李牧が淡々と言葉を紡いだ。

「もし布を巻きつけてでも武器を持つようでしたら、残りの指を全て頂きましょう」

その言葉を聞いて、李牧は自分に二度と武器を持たせぬつもりだと確信した。

抵抗する手段を奪うというより、彼のことだから戦に出さないようにする目的があったのかもしれない。

信の存在は、強大な戦力である飛信軍にも、秦国にも欠かせない。
特に飛信軍は優秀な副官や軍師が揃っていても、信の存在がなければ士気に大きく影響が出る。それはきっと李牧も分かっていたのだろう。

しかし、指の一本なら命よりも安い。ましてや、桓騎の命を救えるのならと、信は迷うことなく彼の要求を呑んだ。

「…わかった。剣を貸せ」

もちろん承諾したのは建前であって、信はまだこの場からの脱出を諦めていなかった。

これ以上、李牧の策通りに動いてたまるかという憤りと、桓騎の言葉を信じなかった自分への怒りで支配されていた。

彼女の潔い返事に、李牧も迷うことなく、後ろで待機していた兵が持っていた剣を受け取る。そしてそれを信へ差し出した。

「どうぞ」

それは信から押収していた剣だった。秦王から授かった、信と幾度も死地を共にした剣である。

ここに来て都合よく自分の剣を渡されたことに、信は思わず固唾を飲み込んだ。

(まさか、この取引まで李牧の策通りなのか?)

 

自分が趙国に来ることも、桓騎が追い掛けて来ることも、桓騎の命を見逃してもらう代わりに信に指を落とせと命じたことも。一体いつから李牧の策に嵌められていたのだろうか。

しかし、信は李牧の命令通りに、指を切り落とすために息を整えた。

左手で渡された剣を握り、信は机に右手を置く。何度か柄を握り直し、決して狙いを逸らさぬように構える。

すぐ目の前にいる李牧から鋭い眼差しを向けられていることにも気づいていたし、周りの兵たちも緊迫した空気の中で佇んでいた。

(…李牧と、扉の前に兵が三人、きっと外にも見張りの兵がいる。李牧は武器を持っていない。李牧を人質に、逃走用の馬を奪うか用意させるしかない)

信は指を落とすことに緊張をしている演技を続け、頭の中でこの場からの脱出の図を描いていた。

もとより人数差があり過ぎる。無茶を承知で乗り込んで来た代償が今になって全て降りかかって来たのだ。

救援など一切期待が出来ない状況で逃げ出すとなれば、やはり李牧を人質に取るしか手段はないだろう。

本当に処刑を免れたならば、李牧の宰相としての地位はそのままであるに違いない。

つまり、合従軍との敗戦の事後処理に追われている今の状況下で、これ以上の混乱を招かぬために、趙国はなんとしても李牧を失う訳にはいかないはずである。人質の価値は十分にあった。

「…怖気づきましたか?」

もう迷っている時間はない。からかうように声を掛けて来た李牧を一瞥し、信は低い声を放つ。

「黙ってろよ」

信はもう一度呼吸を整えてから、剣の柄を握り直した。

(失敗は許されない。桓騎のためにも、秦のためにも)

ここで脱出の機会を失えば、李牧の策通りになってしまう。
もしかしたら、自分と桓騎という多大なる戦力を失った秦国に、再び攻め入ることまで企てているかもしれない。

何としても失敗する訳にはいかなかった。

右手の親指を切り落とすために、剣を握っている左手を思い切り振り上げ、信はすぐに行動に出た。

その場にいる全員が信の行動に注視していたが、全員がそのまま命令通りに右手の親指を落とすと疑わなかっただろう。

「はあッ!」

誰もが縦に振り落とされると思っていた剣筋が、目の前の李牧に向けられる。

急所である喉元を突くつもりではあったが、趙国から脱出するまでの人質としての価値があるので、信は李牧を殺すつもりはなかった。

しかし、その生半可の殺意が、皮肉にも勝敗を分けたのである。

 

 

剣を振るった瞬間、李牧は驚く様子もなく、後ろに引いて斬撃を回避する。

信が剣を振り切った直後、李牧はすぐに間合いに入り込むと、追撃を許すことなく彼女の体を押さえ込んだのだった。

その動きは、幾度も死地を駆け抜けた直感というより、初めから信がこうすると分かっていた反撃だった。

「―――ぐッ!?」

気づけば信は思い切り顎を床に打ち付けており、李牧から凄まじい力で頭と身体をうつ伏せに押さえ込まれていた

「…ああ、残念です。あなたは私と違って、卑怯者ではなかったはずなのに」

少しも残念そうに思っていない李牧の声が頭上から降って来たかと思うと、左手首を捻り上げられる。

彼女の反撃を予想していたものの、本当に反撃を行ったことをまるで惜しむような口ぶりだった。

「うぁあッ!」

骨を折られる寸前まで容赦なく力を込められて、口から勝手に悲鳴が上がった。失敗の二文字が脳裏を過ぎる。

痛みに剣を手放してしまい、床に転がった剣が鈍い音を立てた。それを合図に待機していた兵たちが、李牧と入れ替わりで信の身体を取り押さえる。

彼らの表情は驚愕と焦燥に歪んでおり、恐らく信の反撃を見抜けなかったに違いない。

「くそッ、放せ!」

さすがに二人の男に抑えられてしまえば、信も抵抗が出来なくなる。

両腕を背中で押さえられ、肩も押さえ込まれると、顔を上げるくらいしか叶わない。脂汗を浮かべて、信は自分から離れた李牧のことを睨みつけた。

このまま首を落とされるかもしれない。もとより自分の命を捨てて趙に乗り込んだのだから、死への恐怖心は微塵もなかった。

ただ、無様に首を晒されるようなことだけは、秦のためにも避けねばならない。

いっそ自ら喉を掻き切ってしまおうと信は覚悟を決めた。無傷で帰還出来るとは考えていなかったし、失敗すれば死しかないことだって頭では理解していた。

どうにか拘束を振り解いて剣を手にしなければ、抵抗も自決もままならない。

「大人しくしろ!」

「うぐッ…」

信が暴れれば暴れるほど、兵たちも押さえつけようと力を込めて来る。

剣を奪い返すよりも、舌を噛み切った方が早そうだ。信は深く息を吸い込んでから口を閉ざした。

尚も無言の抵抗を続ける信を冷たい眼差しで見下ろし、李牧が静かに口を開いた。

「…あなたが全てを捨てる覚悟でここに来てくれることは分かっていました。いえ、そう信じたかっただけかもしれませんが」

信を見下ろすその瞳は刃のように冷え切っていたが、掛ける言葉は穏やかで優しいものを感じさせる。

李牧の言葉を聞き入れるものかと、信は舌を噛み切るために歯を立てる。

「きっと桓騎も、あなたが説得を聞かずに私のもとへ来ることを分かっているでしょう。今頃は馬を走らせてこちらへ向かっているはず」

「…っ」

まるで桓騎の行動を予見するような発言に、信は心臓の芯まで凍り付いてしまいそうなおぞましい感覚を覚える。

舌を噛み切ろうとしていた信は、李牧の口から再び桓騎の名前が出たことに、思わず息を詰まらせてしまう。

顔を上げると、李牧が薄く笑みを浮かべていて、それは彼が企てた策通りに事が進んでいることを直感させた。

「秦趙同盟の時、あなたを動かせば桓騎も動くのだと分かりました」

淡々とした口調で李牧が語っていく。

「いくら奇策の使い手とはいえ、彼も人間ですからね。弱点というのは安易に見せてはならないものですよ」

自分が死ぬだけならまだしも、桓騎が殺されてしまうと直感的に悟った信は、喘ぐような呼吸を繰り返して、李牧に縋りつくような眼差しを向けた。

自分という存在が、桓騎の弱点であることを、どうしてここまで軽視していたのだろう。

「や、やめ…やめてくれ、頼む…!桓騎、桓騎だけは…!頼む…」

弱々しく首を振って、信は必死に懇願する。
一度は跪いて懇願したのだから、もうなりふり構っていられなかった。

「俺の命はどうなってもいい!だから、頼む…おねが、お願い、します…」

兵に押さえつけられながら、信は床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。
自尊心など微塵も残っておらず、何としても桓騎の命だけは見逃してもらおうと許しを乞う。

「…妬けるな」

溜息交じりに李牧が低く呟いたので、機嫌を損ねてしまっただろうかと不安に身体が竦んでしまう。
しかし、信は顔を上げることなく、額を床に押し付けたまま必死に哀願を続けた。

「とても、妬けますよ、信」

信の前に片膝をついた李牧が手を伸ばして、彼女の顎に指を掛けて、目線を合わせて来た。

 

その瞳には慈しみを感じさせるような優しい色が浮かんでいたが、なぜか信の目には恐ろしく映り、背筋は凍り付いた。

「私があなたのもとを離れる時は、そこまで止めてくれなかったのに」

あの雨の日のことを懐かしむようにそう言うと、信が口角を引き攣らせた。

「…どうせ、あの時…俺が止めたって、お前は、聞かなかっただろ…」

「それもそうですね」

あっさりと頷いた李牧は信から手を放して、自分の顎を撫でつけた。

「共に過ごした時間が長ければ長いほど、あなたは慈愛によって執着をするようになる」

執着という言葉に反応したのか、信が眉根を寄せた。

愛と執着は似て非なるものではなく、同じものだ。愛おしいからこそ追求したくなる。手に入れたいという欲求は、愛するからこそ湧き起こる人間の本能だと言ってもいい。

「…だからこそ、お前は桓騎を選んだ」

信がよく知っている・・・・・・・・・口調で、李牧は低い声を発した。

 

交渉決裂

「…は、ははッ」

引き攣った笑いを顔に貼り付けながら、信は最後まで抵抗の意志を示す。

どれだけ自分が懇願しても李牧が聞いてくれる気配はなかった。桓騎の命を奪おうとするのなら、何としてもここで李牧を殺すしかない。

「一人で逝くのが寂しいって言うんなら、お前が死んだのを見届けてから、すぐに後を追ってやるよ…!」

自ら命を絶つのは、李牧を手に掛けた後でも遅くはない。

もとより桓騎の反対を押し切って秦国を出て来たのだから、無傷で戻れるとは思っていなかったし、犬死する覚悟も出来ていた。

全ては秦趙同盟での李牧との決別を受け入れられなかった自分の甘さゆえに招いた結果である。桓騎と秦国を守るためには、ここで刺し違えてでも李牧を討たねばならないと直感的に悟った。

「それは是非ともお願いしたいですね。約束ですよ?」

形だけの笑みを浮かべた李牧が床に片膝をついたかと思うと、信の前髪を強引に掴み上げた。逸らすことなどしないというのに、無理やり目線を合わせて来る。

「私が死んだら、必ず追い掛けて来てください。あなたが先に死んだら、私も必ず追い掛けますから」

「ッ…!」

自分を見据える双眸はどんな刃よりも透き通った冷たい鋭さを秘めており、しかし、溶岩のように触れられないほど熱くてどろどろとしたものも彷彿とさせた。

初めて李牧のそんな恐ろしい顔を見た信は思わず息を詰まらせてしまう。その反応に満足したのか、李牧は信から手を放した。

「…随分と喋り過ぎましたね」

反省したかのように独り言ち、李牧はずっと信のことを押さえつけている兵たちに目を向けた。

「しっかり押さえていてください。医者の手配も済んでいますね?」

「はっ。隣の部屋に待機しております」

冷静な様子で話を進めていく李牧と兵たちの下で信は狼狽えた。一体李牧はこれから何をしようとしているのだろうか。

「ま、待て…!李牧、はな、話はまだ…」

必死に訴えても、李牧はもう何も答えようとしなかった。兵から布を受け取ると、それを信の口元へと宛がう。

「んんッ!」

布を咥えさせられたのは、舌を噛まないようにする配慮なのか、それとも騒がしい口を塞いだだけなのか信には分からなかったが、李牧のことだから両方かもしれないと思った。後頭部できつく布を結んでから、李牧はゆっくりと立ち上がった。

「っ!んんッ、うぅ!」

右腕を伸ばされた状態で固定される。それから、李牧が床に落ちていた信の剣を手にしたのを見て、冷や汗が止まらなくなった。

(まさか、こいつ…!)

剣を手にした李牧の行動に、一切の躊躇いがなかったことから、本気で自分の右腕を落とそうとしているのだと気づいた。

 

彼は自らを卑怯者と名乗る男だった。しかし、冗談は言うことはあっても、嘘を吐かない誠実さがある。

自分が大人しく右手の親指を落としていれば、きっと許すつもりだったのだろう。しかし、今となっては全てが手遅れだと、信は認めるしかなかった。

(まずい!)

くぐもった声を上げながら、信は必死に身を捩って抵抗を試みる。

「ん、んんーッ!」

塞がれた口で懸命に制止を訴えるものの、李牧はもうこちらを見向きもしなかった。

「暴れるな!」

兵たちも暴れる彼女を取り押さえるために、さらに力を込めて来た。

このまま右腕を失えば、武器を振るえなくなる。それはすなわち、李牧への勝算がなくなるということだ。

武と知恵、そのどちらで対抗したとしても、信は一度だって李牧に勝てたことがない。隻腕で武器を振るったところで、敗北は目に見えている。

相手が李牧でないとしても、慣れない隻腕で剣を振るったところで、何の抵抗にもならないだろう。今のように、易々と兵たちに押さえ込まれるに違いない。

足を奪われないとしても、利き腕を奪われることは、脱出の手段を失うのと同じであると言っても過言ではなかった。

手首の辺りに刃が振り落とされるよう、一人の兵が信の手を、もう一人が背中から覆い被さるようにして肩と肘を押さえ込む。

床と兵に上下に挟まれて完全に動けなくなってしまった信は、声を上げることしか抵抗する術がなくなってしまう。

「ふッ、ぅう、うーッ、んんーッ!」

必死に呼び掛けるものの、李牧は冷たい眼差しを向けて、柄を握り締めている。

右手の甲をゆっくりと足裏で踏みつけ、手首の辺りで剣の切先をゆらゆらと動かしている。切り落とす位置を見定めているようだった。

「信」

穏やかな声色で名前を呼ばれ、信は冷や汗を流しながらも、過去に愛していた李牧のことを思い返した。

見逃してくれるのかと僅かに希望を抱きながら顔を上げると、彼は静かに笑んでいた。

「これは、あなたが招いた結果ですよ」

冷ややかに李牧がそう言い放った、次の瞬間。

無慈悲にも刃が振り落とされて、自分の右手首の肉と骨が断たれる瞬間を、信ははっきりと見たのだった。

 

更新をお待ちください。

李牧×信のハッピーエンド話はこちら

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終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

前編はこちら

 

処刑場

趙国にある雷環広場に到着するまで、当然ながら国境を越えることもあって、それなりの日数がかかったが、李牧が処刑される日には間に合った。

処刑をされた後は、見せしめのために数日は首を晒されることになる。
雷環広場に李牧の首が晒されていなかったことが、まだ処刑が行われていない何よりの証拠である。

馬を走らせている間、もしも処刑場に駆け付けて、すでに李牧の首が晒されていたらと思うと恐ろしくて堪らなかった。

(間に合った…)

まだ李牧を救出した訳ではないものの、僅かに安堵してしまう。

雷環広場は趙の首府である邯鄲の一角にあり、城下町ということもあってか、大勢の民たちが生活を行っていた。

秦国でもそうだが、このように民が多く出入りしている市場で処刑が行われることは珍しくない。見せしめのために、あえて人の出入りが激しい場所が選ばれるのである。

よって、賑やかな日常の一場面に、罪人の断末魔が響いたとしても、疑問や恐怖を抱く者はいない。

「………」

信は素性を気づかれないように仮面で顔を覆い、背中に背負っている剣を隠すように外套を羽織っていた。

旅人の装いに見えることから、信を怪しむ者はいない。

邯鄲は首府であり、趙の中で一番広い領土だ。外から人が出入りすることは決して珍しくないのだ。

もしもここで自分の素性が気づかれれば、それは李牧の処刑から気を逸らす大きな騒動となり、彼の処刑が延期されるかもしれない。しかし、それが李牧の救出に直結する訳ではない。

一番望ましいのは、二人とも無事に趙国を脱出することだ。

李牧が処刑されることは、まだ秦国で広まっていない。
趙の宰相であった男を、秦国を滅ぼそうと企てた男を秦国へ連れ帰れば、もちろん裏切りだと罵られるだろう。

黙って趙へ行ったことだって謀反の疑いがあると責め立てられ、それ相応の処罰を受けることになるはずだと信は覚悟はしていた。

死罪は免れたとしても、将軍の地位を下ろされるかもしれないし、投獄されることになるかもしれない。

それでも李牧の命が助かるのなら、そんな処罰など喜んで受け入れようと思った。

(桓騎には…ぶん殴られても、手足の一本折られたとしても、文句は言えねえな)

絶対に行くなと引き止めてくれた桓騎のことを考え、信は唇に苦笑を滲ませた。

もしも秦国に李牧を連れ帰ったならば、桓騎から遠慮なく嫌味を言われるだろう。

彼が眠っている隙をついて黙って出て行ったのだから、何を言われても、何をされても許してもらえないかもしれない。

心の中では何度も謝罪をしていたが、彼に伝わることはないだろう。信も許されるとは思わなかったし、恨まれるのを覚悟で李牧の救援のために国を出たのだから。

(お説教や処罰のことを気にするのは後だな…)

信は軽く頭を振って、今は目の前のことに集中しようと考えた。

休まずに馬を走らせ続けていたせいで、体はくたくたに疲れ切っていたが、頭は冴えている。李牧の処刑が目前に迫っているせいだろう。

戦でも似たような経験はあった。体はもう動けないほど疲弊しているものの、気力だけでどうにか剣を振るっているあの感覚だ。

 

(どうやって助けたら…)

ここに来て、信は勢いだけで趙へやって来たことを悔やんだ。頼れる味方がいるのならまだしも、単騎で乗り込んだところで、やれることには限界がある。

李牧が広場に連行されたところで彼を連れ出せたとして、そこから逃走を企てるなら、大勢の市民たちの中に飛び込んで、追っ手を撒く必要がある。

市民たちを脱出の騒動に巻き込んで、傷つけてしまうのは本意ではないのだが、それも覚悟しておいた方が良さそうだ。

救出方法を考えながら、信が邯鄲を歩いていると、ある違和感を覚えた。

(…おかしい)

民たちの賑やかな会話に耳を傾けているものの、李牧の話が聞かれないのである。

趙の宰相であったあの男が、民たちから大いに支持を得ていたことは噂で知っていた。それなのに、彼の処刑どころか、投獄されている話すら聞かれないのは一体何故なのだろうか。

反乱の気を起こさぬよう、民たちには処刑を知らされていないのかもしれない。だが、それが事実だとすれば、李牧が処刑されるために広場に連行されて来た途端、民たちは大いに混乱するのではないだろうか。

その混乱に乗じて李牧を救出する方法も考えたが、もしその機会を失えば、信は目の前で李牧を永遠に失うこととなる。

せめて投獄されている場所が分かればと思ったが、邯鄲城内の牢獄だろうか。

(待てよ…カイネたちはどうした?)

そこで信は一つの疑問を抱いた。李牧に付き従っている側近たちについてだ。

(まさか、あいつらも一緒に処刑されるのか?)

処刑されるのは李牧だけではなく、彼の配下たちもなのだろうか。合従軍の敗北を李牧一党の命で償わせるつもりなのだとしたら、あまりにも惨い。

きっと李牧のことだから、配下たちの命は庇ったはずだ。どれだけ残虐な策を用いる男であっても、仲間の命を見捨てられるような薄情な男ではない。

しかし、悼襄王がその哀願を聞き入れるとは思えなかった。

側近たちの死罪を免れたとしても、処刑の邪魔を刺せないように配下たちも共に投獄されているのかもしれない。

(なんで李牧は…)

付き従っていた配下の命を容易く斬り捨てられる血も涙もない残虐な王に、どうしてあの李牧が忠誠を誓ったのか、信には何も分からなかった。秦趙同盟で再会した時に聞いておくべきだったかもしれない。

しかし、桓騎と同じで、李牧が考えなしに行動をする男ではなかった。

だからこそ、悼襄王に仕えることで、李牧が成し遂げようとしていた何かがあるに違いない。その目的が何なのかを聞いておくべきだった。

―――秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ。

秦趙同盟で再会した時、李牧は信に祖国を捨てて、自分と共に来いと言った。

もちろん秦王も祖国も裏切ることはせず、李牧とは決別を決めたというのに、結局はその誓いを自らで背いてしまった。

「…ん?」

それまで賑わっていた市場が、一変して民たちの動揺による騒がしさに包まれた。

 

(なんだ?)

大きな通りに何頭もの馬が走って来るのが見えた。
馬に乗っているのが血相を変えた役人たちだと分かり、咄嗟に近くにあった露台の裏に身を隠す。

秦将であると素性を気づかれてしまい、捕縛しに来たのだろうかと身構える。

しかし、李牧の処刑のことで情報を得ようと民たちの話に耳を澄ませている間、民たちが自分を怪しんでいる様子はなかったはずだ。信以外にも外套で身を包んだ旅人は大勢いたし、目立つようなことはしていない。

身を潜めながら様子を伺っていると、役人たちが大声で民たちに何かを伝えているのが分かった。

「悼襄王が崩御された!」

―――それが悼襄王が亡くなった報せだと知った信は、驚愕のあまり言葉を失った。

 

 

趙王の崩御

役人から国王崩御の報せを聞き、驚いた民たちだったが、すぐに服喪期の準備が始まっていく。

役人たちによって弔意を表す漆黒の弔旗があちこちに掲げられていき、賑やかだった市場にいた民たちも慌てて家に戻っていく。

普段ならば人の出入りが特に激しいであろう食堂や酒場も、たちまち静けさを取り戻していった。

国王が崩御したとなれば、その死を悼むために、民たちは働くことも好きに出歩くことが許されないし、服喪期が終わるまでは、役所もその他も、さまざまな場所が公休となる。王位継承の儀が終わるまで、つまりは次の王が即位するまで服喪期は続く。

早急に次の王が即位しなければ、民たちは働けず、つまりは大勢が食い扶持を失うと言っても過言ではない。

趙王には二人の子息がいると聞いていたから、そのどちらかが即位することになるだろう。もしも王位継承が煩雑化しているのなら、服喪期は長引きそうだ。

親友である嬴政と、弟の成蟜の王位継承争いを経験していた信は王位継承の複雑さをよく知っていた。

 

国王崩御の報せを届け、弔旗を掲げ終えた役人たちがいなくなると、市場に静寂が訪れた。それまで賑わっていた市場が葬儀一色になり、民たちの姿もまばらである。

露台の裏に身を潜めたまま、信はまさかの事態に戸惑うばかりだった。

病で亡くなったようだと噂が飛び交っていたが、重要なのは死因ではなく、その後のことだ。

(趙王が崩御したんなら、李牧の処刑はどうなるんだ…?)

きっと今の宮廷は次に即位する王を決める話で持ち切りだろう。そんな状況下で李牧の処刑を実行するはずがない。

彼の死罪を命じたのが悼襄王なら、彼の崩御によって、李牧の処刑が無くなることも考えられる。次に即位するであろう悼襄王の子息が、父の意志を継ぐ残虐な男でなければの話だが。

もしも死罪が免れなかったとしても、処刑執行は延期となるはずだ。

そのことに安堵した信は、趙国が国王崩御の喪に服している間に李牧を救出する方法を考えた。

王位継承のことで見張りの兵たちも手薄になっているに違いない。
子息たちの王位継承争いが煩雑化しているのなら、そちらに兵を割くだろうし、その隙に李牧を救出することが出来る。

まずは投獄されているであろう李牧が何処にいるかを捜し出さなくてはと信が前に踏み出した時だった。

 

 

「信」

聞き覚えのある声がして、信は反射的に顔を上げる。

「な…」

声の主を見て、信は驚きのあまり、喉が塞がってしまう。

李牧だった。
傍に控えている配下はいない。拘束されている様子もなく、それどころか死刑囚を取り締まる兵たちの姿もない。これから処刑をされる様子など微塵もなかった。

怪我一つしておらず、疲弊している様子もないことから、とても投獄されていたようには思えない。

(なんで李牧が)

どうしてここにいるのか問い掛けようとしたが、声が出て来なかった。

仮面の下にある彼女の顔が凍り付いたのを見て、李牧は穏やかな笑みを浮かべる。

信は素性を気づかれぬよう、仮面と外套で変装していたというのに、李牧はすぐに彼女だと見抜いたらしい。

「あなたなら来てくれると思っていましたよ」

まるで信がここに来ることを予想していた言葉。
ここで再会出来たことを喜ぶべきなのか分からず、信は呆然とその場に立ち尽くすことしか出来ない。

ゆったりと足取りで李牧が近づいて、手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まった。

「私を助けに来てくれたんですね?」

「………」

素直に頷くことが出来ないのは、信の胸の中に不安が渦巻き始めていたからだった。

李牧を処刑から救い出すために、全てを捨てる覚悟で趙国へやって来た。しかし、信が邯鄲に到着してから・・・・・・・・・すぐに悼襄王の崩御の報せが広まる。

国王の死を悼むために服喪期が始まったことは当然のことであるが、なぜか違和感が拭えない。

目の前の男は、自分の養父である王騎の命を奪う軍略を企て、秦国を亡ぼす一歩手前まで追い詰めた男である。

その聡明な頭脳で、軍どころか、国を動かすことも容易いはずだ。

しかし、いくら宰相という立場でありながら、本当にそのようなことが可能なのかと信は固唾を飲んだ。

処刑は偽装に違いないだと桓騎は推察していたが、李牧は昔から嘘を吐く男ではない。

―――俺は卑怯者だが、嘘は言わない。今でもお前のことを愛しているし、これからもそのつもりだ。

決別を決めた時も、彼はそう言っていた。

共に過ごしていた時も、冗談を言うことはあったが、決して嘘を言うことはなかった。

だから、書簡で知らせてくれた処刑のことも、信は真実だと疑わなかった。心のどこかで李牧のことを信じていたからだ。

だからこそ、ある疑惑が浮かんだ。

 

「此度の崩御によって、釈放されることが決まったんです」

処刑を命じられたのが事実で、しかし、悼襄王の突然の崩御によって彼が無罪放免となり、釈放されたというのなら、李牧は決して嘘を吐いていない・・・・・・・・ことになる。

「まさか…お前…」

信の背筋に冷たいものが走った。

「処刑を免れるために、趙王を」

途中で言葉が途切れたのは、李牧に頬を撫でられたからだった。

「あなたならきっと、私のために来てくれると信じていましたよ」

その言葉の意味を理解するよりも先に、弾かれたように後ろへ飛び退く。背中に携えている剣の柄を握ったのはほぼ無意識だった。

見たところ、李牧は武器らしいものを所持していない。着物の下に暗器など忍ばせているような男ではない。

しかし、彼が素手であっても、信は彼に一度も膝をつかせたことはなかった。

こちらの剣筋を見抜き、あっという間に間合いを詰められて剣を奪われることもあったし、呆気なく膝をつかされることだってあった。

彼とは、これまで通って来た死地の数が違うのだ。着物の下に、それを示す傷痕が多く刻まれていることを信はよく知っている。
彼と肌を重ねる時に、何度もその傷痕を見て来た。最後に肌を重ねた時より、傷跡は増えているに違いなかった。

「今は服喪期ですよ。ここで騒ぎを起こすのは賢明ではありません」

宥めるように声を掛けられて、信は剣の柄から手を放す。

「…お前の処刑がなくなったんなら、もうここにいる意味はねえな」

李牧が生きているのは、自分自身のこの目で確かめた。

どういった経緯で李牧が処刑を免れた・・・・・・のかは、自分の知るところではない。
結果として、彼の救出はもう必要ないのだと分かり、趙国から早急に撤退することを考えた。

辺りを見渡すと、民たちはほとんど市場からいなくなっていた。趙の首府である邯鄲が静寂に包まれている奇妙な光景に、信は気味悪さを感じる。

市場にある厩舎に預けていた馬のもとへ向おうと考えたが、李牧が阻むように道を塞いで来たので、信は仮面越しに睨みつけた。

「信、話をしましょうか」

まるで旧友に邂逅したかのような軽い口調で声を掛けられる。

もう決別は決めたというのに、今さら何を話そうというのか。秦趙同盟の時のように、趙へ来いとでも言われるのかもしれない。

ここに来たのは、李牧を処刑から助けるために来たのであって、決して趙に寝返るためではなかった。

「もう話すことなんて何もねえだろ」

秦趙同盟で彼と決別を決めた信は、冷たく言い放った。
しかし、まるで彼女がそう言うのを予測していたかのように、李牧は口角をつり上げる。

「その性格、昔から変わりないですね。安心しました」

共に過ごしていた頃を懐かしんでいるのか、李牧が目を細めた。

 

 

信は李牧と目を合わさないようにしていた。

長く彼の瞳を見ていると、昔の思い出が蘇って来て、李牧と離れることを躊躇ってしまいそうになる。

それは情に過ぎないことだと信自身も理解していた。しかし、戦場ではたった一つの情でさえ隙を生み出し、命を失うことにもなり兼ねない。

だが、李牧と決別を決めたのは自分自身なのに、彼が処刑されると聞いて、見捨てられなかった。

次に李牧に会う時には、秦の将と趙の宰相という敵対関係であると決めていたのに、それも出来なかった。

ここに来たのは、まだ李牧の存在が心に根付いている証拠だ。桓騎に指摘された弱みでもある。だからもうこれ以上、李牧と一緒にいてはいけない。

彼が生きていたことが分かり、信の心にあった不安の塊は呆気なく溶け去ってき、ここに来てようやく、不安の支配から解き放たれたような気がした。

今や彼とは敵同士であるというのに、相手の命の心配をするだなんて、自分は本当に情に弱い。きっと秦に戻ったら仲間たちに罵声を浴びせられるに違いない。桓騎には容赦なく殴られるだろうと思っていた。

「…じゃあな」

目を合わせないまま、信は李牧に声を掛け、彼の脇をすり抜けようとした。

きっと今度こそ、これが最後の別れだと考えながら、李牧に背中を見せた途端、

「きっと今頃、桓騎はあなたを追い掛けて、趙国こちらへ向かっているでしょうね」

まさかここで桓騎の名前が出るとは思わず、信は驚いて振り返る。

その瞬間、李牧が武器を所持していないことと、殺気を向けられていなかったことに対して慢心していた自分を後悔した。

瞬きをした時はすぐ目の前に李牧が迫って来ていて、片手で首を強く締め上げられていた。

「ぐッ、う…!?」

自分の注意を引くために、李牧はわざと桓騎の名前を出したのだ。信は苦悶の表情を浮かべながら、策に陥ってしまった自分を悔いた。

首を締め上げる李牧の手首に爪を立て、腕を振り解こうと試みる。しかし、その手が外れる気配がない。
未だ合従軍との戦で負傷した体は療養を必要としており、とても李牧の腕力には敵いそうになかった。

男と女の力量差を知らしめるように、彼は薄く笑んでいた。

内側から目玉が押し出される痛みに呻きながら、信は必死に抵抗を続ける。

「ッ、ぅ、う、…」

呼吸を遮断されているせいで、指先までもが痺れていく。
背中に背負っている剣を引き抜こうと腕を持ち上げる余裕もなく、視界に靄がかかっていった。

このままではまずいと、李牧の鳩尾を蹴りつけようしたが、李牧の手が首を締め上げる力を込める方が早かった。

「ッ……」

視界が暗くなったのと同時に、信はそのまま意識の糸を手放した。

 

人質

次に目を覚ました時、一番初めに喉の違和感を感じて、何度かむせ込んだ。
意識を失う前の記憶が雪崩れ込んで来て、信は李牧の姿を探す。

(ここは?)

机と椅子があるだけの簡素な部屋だった。明らかに客人をもてなすための部屋ではないが、かといって頑丈な格子があるような黴臭い牢獄でもなかった。

締め切られた窓を見て、ここが地下でないことが分かる。蝋燭の明かりだけが部屋を薄く照らしていた。

外の光を遮断しているせいで、今が昼か夜かは定かではないが、きっと李牧がここへ連れて来たのだろう。

「くそ…」

椅子に身体が縄で縛り付けられている。両手は後ろ手に一括りにされていて、自分でこの縄を解くことは困難だと嫌でも理解した。

足だけは縛られていなかったが、縄を解かない限りは立ち上がることもままならない。

当然ながら剣は奪われており、顔と素性を隠すために使っていた仮面と外套も無くなっている。

口に布を噛ませられなかったのは、信が自害する気がないと見込んでのことなのか、それとも舌を噛み切る自由を与えてくれているのか分からなかった。

(なんで俺を殺さない?)

あの場で殺さなかったことは、趙王の崩御が関わっているのかもしれないが、わざわざ敵の将を生かしておく理由が分からない。

李牧のことだから、きっと何か考えがあってのことだろう。人質として利用されるのだろうか。

自分という存在が趙国に渡ったとなれば、親友の嬴政や仲間たちは大いに動揺するだろう。

今回の李牧の救出は完全なる信の独断であったが、かえって仲間たちに迷惑をかけることになり、信は今になって自分の行動を悔いた。桓騎も呆れているに違いない。

「気が付きましたか」

その時、李牧が数人の兵と共に部屋に入って来た。相変わらず李牧は武器を持っていないが、背後にいる兵たちは腰に剣を構えている。

「手荒な真似をしてしまってすみません」

「……、……」

何も答えようとしない信を見ても、李牧が表情を崩すことはない。この状況で優勢なのはもちろん李牧の方で、彼の機嫌次第で容易く命を奪われると分かっていた。

 

「…お前が欲しがるような情報なんざ、俺は持ってねえよ」

あの場ですぐに殺さなかったことから、何か情報を聞き出そうとしているのだろうか。

もしも拷問にかけられたとしても、絶対に口を割るものかと信は歯を食い縛る。

李牧のことだから、自分を活かした理由があるのだとしたら、それは秦国の弱みとなる情報を手に入れようとしているのかと考えた。

しかし、信は内政について一切関与していない。それはきっと李牧も知っているはずだ。だとすれば軍事に関与した情報を欲しているのだろうか。

合従軍の侵攻によって、秦国の領土は多大なる被害を受けたし、今でもその復旧作業や事後処理に追われている。

服喪期に入った趙国がすぐに動き出すとは思わないが、また時期を見て秦国に攻め入ろうとしているのだろうか。

しかし、信の言葉を聞いた李牧は不思議そうに小首を傾げた。

「…私が秦国の情報欲しさにあなたを生かしたと、そう思っているのですか?」

穏やか過ぎる声が信の耳朶を打つ。

「そんなものは密偵に任せておけばいい。私が欲しいのは情報ではありません」

密偵という言葉を聞いた信が切迫した表情で李牧を見た。

「…ああ、武器も持っていないのに拘束しておくだなんて、無粋な真似をしてしまってすみません」

李牧が前に出て、椅子ごと拘束されている信の縄を外し始めた。この状況で抵抗など出来まいと思われているらしい。

(ナメやがって)

李牧と、彼の後ろには、扉を塞ぐように三人の兵たちが立っている。

武器を持ってしても李牧に勝てなかった自分が、素手でやり合って勝てるとは思わなかったし、この人数差では呆気なく取り押さえられてしまうだろう。

窓も外から塞がれているようだし、この部屋から逃げ出すには兵たちの向こうにある扉を通らなくてはいけない。

きっと扉の向こうにも見張りの兵が待機しているに違いない。李牧が警戒を怠るような男ではないことを信は昔からよく知っていた。

「…少々きつく締め過ぎましたね。すみません」

縄を解かれると、李牧は手首に残っている縄の痕を慈しむように撫でた。その優しい眼差しと声色に、信は懐かしさと同時に嫌悪感を覚える。

「触るなッ」

弾かれたように李牧の手を振り払い、信は咄嗟に距離を取った。

拘束は解かれたが、武器を所持していないことからロクな抵抗も出来ないと思われているのだろう、後ろの兵たちが動く気配はなかった。

振り払われた自分の手を見下ろし、李牧はその双眸に寂しそうな色を浮かべる。
しかし、信が瞬きをした途端、見間違いだったのか、李牧の表情はもとに戻っていた。

 

「目的はなんだ。まさか俺が趙国へ寝返るとでも思ってんのかよ」

この状況下でそのようなことを言ったとしても、虚勢を張っているとしか思われないだろう。しかし、信にとってそれは本心だった。

どのような目に遭わされたとしても、自分の忠義が揺らぐことはない。

李牧が処刑されると聞かされた時は私情を優先してしまったのだが、処刑を免れたのならば、もうここにいる必要はない。
帰還すれば、無断で趙国へ行ったことを、趙の宰相を助けようとした罪を、秦将として償うつもりだった。

「あなたのことは昔からよく知っていますよ。そんな安易に国を捨てられるはずがないことも十分に理解しています」

当然のように返した李牧に、信は汗の滲んだ手を握り締めた。

「………」

李牧の瞳が動き、静かに拳を作った手に視線が向けられたことを信は気づいていたが、それを指摘されることはなかった。

「じゃあ、なんで俺を…」

何か考えがあって、李牧は自分を生かしておいたはずだ。

敵国の将軍には、大いに人質としての利用価値がある。
交渉の末、城や領土と引き換えにその命を保証されることもあり、過去にはそれで命を救われた仲間もいた。

しかし、首を晒される辱めを受けるよりも、仲間たちがいる祖国に迷惑をかけることの方が信は耐えられなかった。

李牧が口許に穏やかな笑顔を浮かべたが、その双眸は刃のように冷え切っていて、決して笑っていなかった。

「…あなたが趙国ここにいれば、桓騎は必ずやって来ますから」

その言葉の意味を理解した瞬間、信は目を見開いた。全身から血の気が引いていく。

「お前、最初から・・・・…桓騎を狙ってたのか…?」

思わず口を衝いた問いは、情けないほどに震えていた。

それが正解かどうかを李牧は答えようとしなかったが、少なくとも間違えではなかったのだろう、彼の口許の笑みが深まる。

しかし、その沈黙が答えであると察した信は青ざめることしか出来なかった。

自分が趙国へ行けば、李牧の策が成ってしまうと桓騎は危惧していた。

桓騎が虚偽だと訴えていた処刑は、実際には事実であったとはいえ、悼襄王の急な崩御により、結果として李牧は処刑は免れることとなる。

それを知らず、信は桓騎の忠告を無視して趙国へ赴いたのだが、李牧の目的は、信を呼び寄せることではなかった。

李牧の本当の目的は、桓騎の命だ。

捕らえられた信を救出するために、桓騎は絶対に趙国ここへやって来る。李牧は桓騎の首を取るために、信を利用したのだ。

ここに来てようやく李牧の本当の目的を知った信は、激しい後悔に襲われる。
しかし、ここで懺悔をしている時間はない。

何としても李牧から桓騎を守らなくてはと、信は迷うことなく、その場に膝と両手をついた。

「…何の真似です?」

その行動の真意を尋ねる李牧に、信は俯いて頭を下げながら口を開く。

「どうしたら、何を…したら、桓騎を、見逃してくれるんだよ…?とっとと答えろよ…!」

跪いて桓騎の命だけは見逃してほしいと許しを乞う信に、李牧は苦笑を隠せなかった。

「あなたが頼む立場だというのに、言動が釣り合っていない随分と傲慢な態度ですね。それも桓騎の影響でしょうか?」

「答えろッ!」

両手をついたまま、信が顔を上げて睨みつける。

とても許しを乞うているとは思えないほど無礼な態度だと自覚はあったが、信の頭の中は、自分はどうなってもいいから桓騎を助けることしかなかった。

 

取引

「…それでは、右手の親指を頂けますか?」

李牧が口にした取引の条件に、信は思わず息を詰まらせた。

「親指…?」

自分の命を奪うつもりはないのだろうが、大勢の兵たちが見ている手前、無傷で返す訳にもいかないのだろう。右手の親指だけというのは李牧なりの慈悲かもしれない。

「っ…」

しかし、右手は信の利き手であって、武器を持つことに大いに支障が出る。きっと李牧はそれをわかっていて、指定したのだろう。

信が躊躇っていると、追い打ちを掛けるかのように李牧が淡々と言葉を紡いだ。

「もし布を巻きつけてでも武器を持つようでしたら、残りの指を全て頂きましょう」

その言葉を聞いて、李牧は自分に二度と武器を持たせぬつもりだと確信した。

抵抗する手段を奪うというより、彼のことだから戦に出さないようにする目的があったのかもしれない。

信の存在は、強大な戦力である飛信軍にも、秦国にも欠かせない。
特に飛信軍は優秀な副官や軍師が揃っていても、信の存在がなければ士気に大きく影響が出る。それはきっと李牧も分かっていたのだろう。

しかし、指の一本なら命よりも安い。ましてや、桓騎の命を救えるのならと、信は迷うことなく彼の要求を呑んだ。

「…わかった。剣を貸せ」

もちろん承諾したのは建前であって、信はまだこの場からの脱出を諦めていなかった。

これ以上、李牧の策通りに動いてたまるかという憤りと、桓騎の言葉を信じなかった自分への怒りで支配されていた。

彼女の潔い返事に、李牧も迷うことなく、後ろで待機していた兵が持っていた剣を受け取る。そしてそれを信へ差し出した。

「どうぞ」

それは信から押収していた剣だった。秦王から授かった、信と幾度も死地を共にした剣である。

ここに来て都合よく自分の剣を渡されたことに、信は思わず固唾を飲み込んだ。

(まさか、この取引まで李牧の策通りなのか?)

 

自分が趙国に来ることも、桓騎が追い掛けて来ることも、桓騎の命を見逃してもらう代わりに信に指を落とせと命じたことも。一体いつから李牧の策に嵌められていたのだろうか。

しかし、信は李牧の命令通りに、指を切り落とすために息を整えた。

左手で渡された剣を握り、信は机に右手を置く。何度か柄を握り直し、決して狙いを逸らさぬように構える。

すぐ目の前にいる李牧から鋭い眼差しを向けられていることにも気づいていたし、周りの兵たちも緊迫した空気の中で佇んでいた。

(…李牧と、扉の前に兵が三人、きっと外にも見張りの兵がいる。李牧は武器を持っていない。李牧を人質に、逃走用の馬を奪うか用意させるしかない)

信は指を落とすことに緊張をしている演技を続け、頭の中でこの場からの脱出の図を描いていた。

もとより人数差があり過ぎる。無茶を承知で乗り込んで来た代償が今になって全て降りかかって来たのだ。

救援など一切期待が出来ない状況で逃げ出すとなれば、やはり李牧を人質に取るしか手段はないだろう。

本当に処刑を免れたならば、李牧の宰相としての地位はそのままであるに違いない。

つまり、合従軍との敗戦の事後処理に追われている今の状況下で、これ以上の混乱を招かぬために、趙国はなんとしても李牧を失う訳にはいかないはずである。人質の価値は十分にあった。

「…怖気づきましたか?」

もう迷っている時間はない。からかうように声を掛けて来た李牧を一瞥し、信は低い声を放つ。

「黙ってろよ」

信はもう一度呼吸を整えてから、剣の柄を握り直した。

(失敗は許されない。桓騎のためにも、秦のためにも)

ここで脱出の機会を失えば、李牧の策通りになってしまう。
もしかしたら、自分と桓騎という多大なる戦力を失った秦国に、再び攻め入ることまで企てているかもしれない。

何としても失敗する訳にはいかなかった。

右手の親指を切り落とすために、剣を握っている左手を思い切り振り上げ、信はすぐに行動に出た。

その場にいる全員が信の行動に注視していたが、全員がそのまま命令通りに右手の親指を落とすと疑わなかっただろう。

「はあッ!」

誰もが縦に振り落とされると思っていた剣筋が、目の前の李牧に向けられる。

急所である喉元を突くつもりではあったが、趙国から脱出するまでの人質としての価値があるので、信は李牧を殺すつもりはなかった。

しかし、その生半可の殺意が、皮肉にも勝敗を分けたのである。

 

 

剣を振るった瞬間、李牧は驚く様子もなく、後ろに引いて斬撃を回避する。

信が剣を振り切った直後、李牧はすぐに間合いに入り込むと、追撃を許すことなく彼女の体を押さえ込んだのだった。

その動きは、幾度も死地を駆け抜けた直感というより、初めから信がこうすると分かっていた反撃だった。

「―――ぐッ!?」

気づけば信は思い切り顎を床に打ち付けており、李牧から凄まじい力で頭と身体をうつ伏せに押さえ込まれていた

「…ああ、残念です。あなたは私と違って、卑怯者ではなかったはずなのに」

少しも残念そうに思っていない李牧の声が頭上から降って来たかと思うと、左手首を捻り上げられる。

彼女の反撃を予想していたものの、本当に反撃を行ったことをまるで惜しむような口ぶりだった。

「うぁあッ!」

骨を折られる寸前まで容赦なく力を込められて、口から勝手に悲鳴が上がった。失敗の二文字が脳裏を過ぎる。

痛みに剣を手放してしまい、床に転がった剣が鈍い音を立てた。それを合図に待機していた兵たちが、李牧と入れ替わりで信の身体を取り押さえる。

彼らの表情は驚愕と焦燥に歪んでおり、恐らく信の反撃を見抜けなかったに違いない。

「くそッ、放せ!」

さすがに二人の男に抑えられてしまえば、信も抵抗が出来なくなる。

両腕を背中で押さえられ、肩も押さえ込まれると、顔を上げるくらいしか叶わない。脂汗を浮かべて、信は自分から離れた李牧のことを睨みつけた。

このまま首を落とされるかもしれない。もとより自分の命を捨てて趙に乗り込んだのだから、死への恐怖心は微塵もなかった。

ただ、無様に首を晒されるようなことだけは、秦のためにも避けねばならない。

いっそ自ら喉を掻き切ってしまおうと信は覚悟を決めた。無傷で帰還出来るとは考えていなかったし、失敗すれば死しかないことだって頭では理解していた。

どうにか拘束を振り解いて剣を手にしなければ、抵抗も自決もままならない。

「大人しくしろ!」

「うぐッ…」

信が暴れれば暴れるほど、兵たちも押さえつけようと力を込めて来る。

剣を奪い返すよりも、舌を噛み切った方が早そうだ。信は深く息を吸い込んでから口を閉ざした。

尚も無言の抵抗を続ける信を冷たい眼差しで見下ろし、李牧が静かに口を開いた。

「…あなたが全てを捨てる覚悟でここに来てくれることは分かっていました。いえ、そう信じたかっただけかもしれませんが」

信を見下ろすその瞳は刃のように冷え切っていたが、掛ける言葉は穏やかで優しいものを感じさせる。

李牧の言葉を聞き入れるものかと、信は舌を噛み切るために歯を立てる。

「きっと桓騎も、あなたが説得を聞かずに私のもとへ来ることを分かっているでしょう。今頃は馬を走らせてこちらへ向かっているはず」

「…っ」

まるで桓騎の行動を予見するような発言に、信は心臓の芯まで凍り付いてしまいそうなおぞましい感覚を覚える。

舌を噛み切ろうとしていた信は、李牧の口から再び桓騎の名前が出たことに、思わず息を詰まらせてしまう。

顔を上げると、李牧が薄く笑みを浮かべていて、それは彼が企てた策通りに事が進んでいることを直感させた。

「秦趙同盟の時、あなたを動かせば桓騎も動くのだと分かりました」

淡々とした口調で李牧が語っていく。

「いくら奇策の使い手とはいえ、彼も人間ですからね。弱点というのは安易に見せてはならないものですよ」

自分が死ぬだけならまだしも、桓騎が殺されてしまうと直感的に悟った信は、喘ぐような呼吸を繰り返して、李牧に縋りつくような眼差しを向けた。

自分という存在が、桓騎の弱点であることを、どうしてここまで軽視していたのだろう。

「や、やめ…やめてくれ、頼む…!桓騎、桓騎だけは…!頼む…」

弱々しく首を振って、信は必死に懇願する。
一度は跪いて懇願したのだから、もうなりふり構っていられなかった。

「俺の命はどうなってもいい!だから、頼む…おねが、お願い、します…」

兵に押さえつけられながら、信は床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。
自尊心など微塵も残っておらず、何としても桓騎の命だけは見逃してもらおうと許しを乞う。

「…妬けるな」

溜息交じりに李牧が低く呟いたので、機嫌を損ねてしまっただろうかと不安に身体が竦んでしまう。
しかし、信は顔を上げることなく、額を床に押し付けたまま必死に哀願を続けた。

「とても、妬けますよ、信」

信の前に片膝をついた李牧が手を伸ばして、彼女の顎に指を掛けて、目線を合わせて来た。

 

その瞳には慈しみを感じさせるような優しい色が浮かんでいたが、なぜか信の目には恐ろしく映り、背筋は凍り付いた。

「私があなたのもとを離れる時は、そこまで止めてくれなかったのに」

あの雨の日のことを懐かしむようにそう言うと、信が口角を引き攣らせた。

「…どうせ、あの時…俺が止めたって、お前は、聞かなかっただろ…」

「それもそうですね」

あっさりと頷いた李牧は信から手を放して、自分の顎を撫でつけた。

「共に過ごした時間が長ければ長いほど、あなたは慈愛によって執着をするようになる」

執着という言葉に反応したのか、信が眉根を寄せた。

愛と執着は似て非なるものではなく、同じものだ。愛おしいからこそ追求したくなる。手に入れたいという欲求は、愛するからこそ湧き起こる人間の本能だと言ってもいい。

「…だからこそ、お前は桓騎を選んだ」

信がよく知っている・・・・・・・・・口調で、李牧は低い声を発した。

 

交渉決裂

「…は、ははッ」

引き攣った笑いを顔に貼り付けながら、信は最後まで抵抗の意志を示す。

どれだけ自分が懇願しても李牧が聞いてくれる気配はなかった。桓騎の命を奪おうとするのなら、何としてもここで李牧を殺すしかない。

「一人で逝くのが寂しいって言うんなら、お前が死んだのを見届けてから、すぐに後を追ってやるよ…!」

自ら命を絶つのは、李牧を手に掛けた後でも遅くはない。

もとより桓騎の反対を押し切って秦国を出て来たのだから、無傷で戻れるとは思っていなかったし、犬死する覚悟も出来ていた。

全ては秦趙同盟での李牧との決別を受け入れられなかった自分の甘さゆえに招いた結果である。桓騎と秦国を守るためには、ここで刺し違えてでも李牧を討たねばならないと直感的に悟った。

「それは是非ともお願いしたいですね。約束ですよ?」

形だけの笑みを浮かべた李牧が床に片膝をついたかと思うと、信の前髪を強引に掴み上げた。逸らすことなどしないというのに、無理やり目線を合わせて来る。

「私が死んだら、必ず追い掛けて来てください。あなたが先に死んだら、私も必ず追い掛けますから」

「ッ…!」

自分を見据える双眸はどんな刃よりも透き通った冷たい鋭さを秘めており、しかし、溶岩のように触れられないほど熱くてどろどろとしたものも彷彿とさせた。

初めて李牧のそんな恐ろしい顔を見た信は思わず息を詰まらせてしまう。その反応に満足したのか、李牧は信から手を放した。

「…随分と喋り過ぎましたね」

反省したかのように独り言ち、李牧はずっと信のことを押さえつけている兵たちに目を向けた。

「しっかり押さえていてください。医者の手配も済んでいますね?」

「はっ。隣の部屋に待機しております」

冷静な様子で話を進めていく李牧と兵たちの下で信は狼狽えた。一体李牧はこれから何をしようとしているのだろうか。

「ま、待て…!李牧、はな、話はまだ…」

必死に訴えても、李牧はもう何も答えようとしなかった。兵から布を受け取ると、それを信の口元へと宛がう。

「んんッ!」

布を咥えさせられたのは、舌を噛まないようにする配慮なのか、それとも騒がしい口を塞いだだけなのか信には分からなかったが、李牧のことだから両方かもしれないと思った。後頭部できつく布を結んでから、李牧はゆっくりと立ち上がった。

「っ!んんッ、うぅ!」

右腕を伸ばされた状態で固定される。それから、李牧が床に落ちていた信の剣を手にしたのを見て、冷や汗が止まらなくなった。

(まさか、こいつ…!)

剣を手にした李牧の行動に、一切の躊躇いがなかったことから、本気で自分の右腕を落とそうとしているのだと気づいた。

 

彼は自らを卑怯者と名乗る男だった。しかし、冗談は言うことはあっても、嘘を吐かない誠実さがある。

自分が大人しく右手の親指を落としていれば、きっと許すつもりだったのだろう。しかし、今となっては全てが手遅れだと、信は認めるしかなかった。

(まずい!)

くぐもった声を上げながら、信は必死に身を捩って抵抗を試みる。

「ん、んんーッ!」

塞がれた口で懸命に制止を訴えるものの、李牧はもうこちらを見向きもしなかった。

「暴れるな!」

兵たちも暴れる彼女を取り押さえるために、さらに力を込めて来た。

このまま右腕を失えば、武器を振るえなくなる。それはすなわち、李牧への勝算がなくなるということだ。

武と知恵、そのどちらで対抗したとしても、信は一度だって李牧に勝てたことがない。隻腕で武器を振るったところで、敗北は目に見えている。

相手が李牧でないとしても、慣れない隻腕で剣を振るったところで、何の抵抗にもならないだろう。今のように、易々と兵たちに押さえ込まれるに違いない。

足を奪われないとしても、利き腕を奪われることは、脱出の手段を失うのと同じであると言っても過言ではなかった。

手首の辺りに刃が振り落とされるよう、一人の兵が信の手を、もう一人が背中から覆い被さるようにして肩と肘を押さえ込む。

床と兵に上下に挟まれて完全に動けなくなってしまった信は、声を上げることしか抵抗する術がなくなってしまう。

「ふッ、ぅう、うーッ、んんーッ!」

必死に呼び掛けるものの、李牧は冷たい眼差しを向けて、柄を握り締めている。

右手の甲をゆっくりと足裏で踏みつけ、手首の辺りで剣の切先をゆらゆらと動かしている。切り落とす位置を見定めているようだった。

「信」

穏やかな声色で名前を呼ばれ、信は冷や汗を流しながらも、過去に愛していた李牧のことを思い返した。

見逃してくれるのかと僅かに希望を抱きながら顔を上げると、彼は静かに笑んでいた。

「これは、あなたが招いた結果ですよ」

冷ややかに李牧がそう言い放った、次の瞬間。

無慈悲にも刃が振り落とされて、自分の右手首の肉と骨が断たれる瞬間を、信ははっきりと見たのだった。

 

中編②はこちら

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終焉への道標(李牧×信←桓騎)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

 

防衛戦の成功

お前が好きだと口に出したのは、酒の酔いのせいだっただろうか。それとも口を滑らせたからだったか、よく覚えていない。

その時はまだ、李牧が自分のもとを去るだなんて思いもしなかった。
だからあの時、ずっと胸の奥に秘めていた想いを告げてしまったことを、信は少しも後悔していない。

胸に秘めたままにしていたら、きっと後悔していたに違いないと、今ならそう思う。互いに違う道を歩むことになると分かっていたとしてもだ。

ただ、時々思うことがある。

もしもあの雨の日に、全てを捨てて李牧を追い掛けていたのなら、彼と共に笑い合う未来が待っていたのだろうか、と。

 

 

合従軍による秦国への侵攻は、失敗で終わった。

被害は膨大であったが、此度の防衛戦成功は、秦王嬴政の中華統一の夢を中華全土に知らしめたと言っても過言ではないだろう。

嬴政自らが蕞を訪れ、兵に偽装した民たちを奮い立たせることがなければ、戦が始まる前の士気の差から、秦の敗北は決まったようなものだった。

救援に駆け付けてくれた山の民たちに感謝の言葉を贈った後、手当てを受けながら、信は物思いに耽っていた。

(李牧…)

撤退を始める合従軍の中で、信は無意識のうちに李牧の姿を探していた。

彼が本気で彼が秦を滅ぼそうとしているのだと知り、同時に彼の軍略の恐ろしさを痛感した。

まさか水面下でこのような計画を企てていたとは思わなかったが、秦趙同盟の時に再会したあの時にはすでに李牧の中では決まっていたことだったのだ。

―――秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ。

今思えば、あの時の彼の言葉は、すでに秦を滅ぼす計画を企てていたものだったに違いない。

だからこそ、彼は自分を趙へ来るように説得したのだろう。
それが李牧からの情だと気づいてはいたのだが、秦将である立場をそう簡単に手放すことは出来ず、信は彼との決別を決めた。

きっと李牧からしてみれば、秦を滅ぼすうえで、自分という存在が唯一の心残りだったに違いない。

信がそれを拒絶したからこそ、彼は合従軍の同盟を成してまで、本気で秦を滅ぼしにやって来たのだ。

「………」

信は途端にやるせない気持ちに襲われた。

防衛戦の成功に涙を流して喜ぶ兵たちや、歓喜の声を上げる蕞の民たち。そして勝利の喜びを分かち合うことも出来ぬ多くの犠牲。

もし、秦趙同盟のあの時に李牧の計画を見抜いて、彼を止めることが出来たのなら、こんなにも大勢が血を流すことはなかったのだろうか。

意志の固い彼に、自分が何を言っても聞き入れてくれることはなかっただろうが、それでも何かは出来たはずだ。

後悔と罪悪感に襲われ、信は唇を噛み締めて、拳を握りしめた。

信と李牧の関係を知る者は、今は亡き養父である王騎と、それから桓騎だけ。

最後まで秦を守り抜いた忠義の厚さから、まさか趙との密通の疑いなど掛けられることはないだろうが、趙の宰相である李牧と信に接点が合ったことを知れば、良からぬことを考える輩はきっと出て来る。

桓騎もそれを見越して、周りに二人の過去を告げ口することはしないでいてくれたのだろう。

「はあ…」

大きな息を吐いて、信はその場に座り込んでしまった。

限界まで酷使した体がもう休みたいと悲鳴を上げており、気を許せばすぐにでも意識の糸を手放してしまいそうだ。

合従軍が撤退したとはいえ、もしもまた時期を置いてから、水面下で合従軍に攻め込まれるようなことがあれば、次こそ覚悟しなければならない。

李牧はただでは転ばぬ男である。きっとこの秦国の中で、それを知っているのは自分だけだろうと信は考えた。

しかし、合従軍を結成したのも、秦を滅ぼすための侵攻も、全ては李牧が企てたことであり、此度の責任を取らされるのではないかという不安が募る。

撤退をしていく合従軍とそれを追撃する秦軍を見つめながら、信は李牧の無事を祈っていた。

まだ自分の心には李牧という存在が根強く残っている。そのことを、信は理解していたものの、取り除く術を知らずにいた。

 

李牧の処刑

蕞の防衛に成功した後、兵たちは被害を受けた領土の復旧作業を中心に行っていた。深手を負った信は、屋敷で療養する日々が続いている。

その日々の中で、李牧の処刑が決まったという書簡を信へ送ったのは、他ならぬ李牧自身であった。

(まさか、そんな…)

木簡の内容を目にした信は、たちまち青ざめる。此度の戦での責任を取らされるのだとすぐに察した。

丞相という地位の剥奪だけで済むことを祈っていたのだが、やはり合従軍を率いてまで持ち掛けておきながら敗北した代償は大きかったようだ。

此度の戦は、初めから秦国に勝ち目のない戦だと誰もが思っており、だからこそ他国も協力したに違いない。

趙の宰相と軍の総司令を務めた李牧の首で、此度の敗北の埋め合わせをするつもりなのだろうか。

彼が仕えている悼襄王が一切の情けを掛けない男であることは噂で聞いていた。

皮肉ではあるが、信の養父である王騎を討つ軍略を授け、趙国に多くの貢献をもたらしたというのに、まさかこんなにも容易く李牧の命まで斬り捨てるとは思わなかった。

(処刑の日は…)

木簡には処刑の日が記されており、場所は雷環広場であるとも記されていた。もう指で数えるほどしか日数は残されていない。

「李牧…!」

心臓の芯までもが凍り付くような感覚に、信は思わず木簡を落としてしまい、その場に膝をついてしまう。

戦で疲弊した傷だらけの体より、心が痛かった。

共に過ごしたあの日々が、目の裏に走馬灯のように目まぐるしく駆け巡る。
激しく脈を打つ胸を押さえながら、まだ自分の中では李牧に対する情が少しも消えていないことを自覚する。彼と決別するには、まだ長い時間が必要だった。

このままでは言葉を交わすことも出来ずに、今生の別れとなってしまうのか。

李牧に対する未練の感情が、信の胸を強く締め上げた。

 

 

見舞いのために、桓騎は信の屋敷を訪れた。

顔見知りの従者たちは信と桓騎の関係を知っている。門の見張りをする兵に止められることもなかったし、我が物顔で屋敷を歩いていても従者たちは何も言わない。

桓騎は幼い頃、咸陽で行き倒れていたところを信に保護され、彼女が立ち上げた芙蓉閣という女子供の保護施設で育った。その後、蒙驁のもとで知将の才を芽吹かせた桓騎は、今では秦国に欠かせない将軍にまで成長した。

長年の片思いが実り、信とめでたく結ばれることが出来たのは、今や秦国では民たちにまで広まっている有名な話である。

当然のように、桓騎が信の部屋に入ると、床に座り込んでいる恋人の姿があった。

「…信?」

戦で受けた傷が痛むのかと思ったが、どこか虚ろな表情をしている彼女の異変に気づく。

何があったと問うよりも前に、信の前に落ちている木簡に目がいった。
彼女が落としたらしいその木簡を拾い上げて、内容に目を通すと、みるみるうちに桓騎の顔が強張っていく。

最後に李牧の名前が記されていることに気づき、桓騎もその顔から僅かな動揺を隠し切れずにいた。

(李牧が送って来たのか?)

まさかここで李牧の名前を見ることになるとは思わなかった。

信も彼から書簡が送られて来るとは、ましてやそれが処刑の知らせだったとは予想もしていなかったことだろう。

「あ…桓騎…?」

ようやく桓騎が訪れたことに気付いたのだろう、信が青ざめた顔を持ち上げた。

切なげに寄せられた眉と、弱々しい色をした瞳に涙が浮かんでいるのを見て、桓騎は思わず奥歯を噛み締める。李牧のことが心配で堪らないといった顔だった。

「李牧が…」

未だ体のあちこちを包帯で覆われている信がゆっくりと立ち上がる。

青ざめた顔で、体をふらつかせているところを見れば、まだ療養が必要であることが分かる。

函谷関の防衛を命じられていた桓騎も、蕞と秦王嬴政を守り抜いた信の活躍は聞いていた。

李牧も自ら蕞に赴き、その場で将と兵たちに指示を出していたという。
もちろん兵力から分かるように、合従軍が優勢であり、その勢いのまま落とされると思われていた蕞は、駆けつけた山の民の救援によって守り抜くことが出来た。

しかし、もしも蕞が落ちていたら、李牧は信を殺していたのだろうか。それとも趙へ連れて行ったのだろうか。
そもそも李牧が秦を滅ぼそうとした目的が、彼女と関係していることだとしたら…考えたくもない話だ。

戦以外で二度とあの男の名前を、ましてや、信の口から聞きたくもなかった。

こんな書簡を信に送り付ける李牧が何を考えているのか、考えただけでも反吐が出る。

「ちッ」

木簡を握る手に力を込め、勢いに任せて左右に押し開く。

紐が千切れ、繋がっていた木簡がばらばらに広がってしまい、小気味良い音を立てて床に散らばった。

「桓騎っ?」

何をするのだと驚いた信が床に散らばった木簡と桓騎を交互に見上げる。

「まさか、あいつを助けに行くつもりか」

息を整えながら、桓騎は冷静に問いかけた。すると信は、何度か視線を彷徨わせた挙句、口籠ってしまう。

この国を滅ぼそうとした張本人である男を救出する意志を固めつつある信に、桓騎は罵声を浴びせそうになった。

 

疑惑

「行くな」

信の腕を掴んだ桓騎は、指の痕が残るくらい強く握り、決して彼女のことを放そうとしなかった。

「で、でも…!」

痛みを堪えながら、見過ごすわけにはいかないと訴えると、桓騎はまるで体の一部が痛んだかのように、切なげに眉根を寄せる。

「…俺がガキの頃、芙蓉閣で騒ぎを起こしてた理由を知ってるか?」

いきなりそんなことを言われ、信は瞠目した。

「はあ?今そんなこと話してる場合じゃ…」

幼い頃の桓騎が芙蓉閣で起こした騒動など数え切れないほどある。
名家の子どもたちを売り物にしようとした奴隷商人を叩きのめして財産を奪ったことや、芙蓉閣で保護されている女性の身内が暴れたのを取り押さえたりしていた。

大人に任せておけばいいものを、桓騎は子どもながらに、それらの騒動を制圧したのだ。

どうして今になってそんな話を持ち出すのかと、信が困惑していると、

「騒ぎを起こせばお前が来ると分かってたからだ。あいつも分かっててそんな報せを寄越した・・・・・・・んだろ」

思いもしなかった言葉を告げられ、信は驚愕した。

「寄越したって…何言ってんだよ!それじゃあ、まるで…」

信を呼び出すために幼い桓騎が芙蓉閣で騒動を起こしていたのと、李牧がこの木簡を送って来た真意は同じだと桓騎は言う。

「李牧が…わざと、俺を、趙へ来させようとしてるっていうのか…?」

いくら桓騎の言葉とは言え、とても信じられなかった。

まさか李牧が自分に趙に来させるためにこのような木簡を送って来たというのか。なんのためにそんなことをするのか。信には李牧の考えも、桓騎が言わんとしていることも分からなかった。

しかし、桓騎は李牧の行動の真意を裏付けるように、言葉を紡いでいく。

「なんでわざわざ敵国の、それも、お前だけに・・・・・そんな報せを寄越したと思う?それに、処刑される本人に、執行日なんて普通は前もって知らせねえだろ」

その問いに、信は思わず息を詰まらせる。

此度の戦の敗北の責任を取るために趙の宰相が処刑されることになったとしたら、秦だけでなく、趙と同盟を組んだ他の国にもその報せが行き届くだろう。

しかし、信も桓騎もそんな報せは知らず、初めてこの木簡で処刑を知らされた。そしてそれを知らせたのが李牧自身だということにも矛盾を感じる。それに、処刑される本人に執行日は直前まで知らせないものだ。

執行日を意図的に伝えぬことは、処刑される側の心情を配慮しているのかもしれないが、迫り来る命の期限への恐怖を味わわせているという見方も出来る。

しかし、李牧は事前に処刑の執行日を知り、身内でもなければ敵国の将である信に、執行日を記した書簡を送ることまで許された。趙の宰相という立場にあったとはいえ、本来ならあり得ぬ優遇だ。

だからこそ、これは意図的な情報操作だと桓騎は信に訴える。

「…自分が処刑されるって言えば、お前が趙に来る・・・・・・・のを分かってるからこんな書簡を送って来たんだろ。バカでも少し考えりゃ分かるだろうが」

言葉はやや乱暴だが、冷静になれと諭される。
ようやく桓騎の言葉の意味を理解した信は、心臓の芯まで凍り付きそうな感覚を覚え、呼吸を乱すことしか出来なかった。

 

 

「う…」

眩暈がして、足元がふらついてしまう。再び床に座り込んでしまいそうになる体を桓騎の両腕が抱き止めた。

「り、李牧が、そんな、こと…」

血の気が引いた顔で、信が尚も否定しようとする。

桓騎の言葉が真実である確証はない。
だからこそ、李牧のことを信じたかったのに、これが彼の策であることを否定する言葉は喉に張り付いて上手く出て来てくれなかった。

王騎を討ち取った策を企てたあの男ならやりかねないと、もう一人の自分が囁いている。李牧が持っている戦での才も、明晰な頭脳も、信はよく知っているはずだった。

だが、一体何のためにそんなことをするというのか。李牧の行動の真意だけがどうしても分からない。

「…あいつの処刑が事実かどうか、確かめる方法は一つだけだ。趙に行かなきゃいい」

どうしたらいいか分からないといった顔をしている信に、桓騎は穏やかな口調で答えた。

これが李牧の策だとしたら、彼が処刑されると言うのは真っ赤な嘘だ。だから趙に行かずに様子を見ていればいいと、桓騎は冷静に諭す。

趙国に李牧という存在は欠かせない。宰相という立場だけでなく、軍の指揮を執る総司令を担っている彼をそう簡単に排除出来るはずがない。

「けど…」

未だ不安を拭えず、信は弱々しい声を発した。

「もし、…もしも」

―――処刑が本当だったら?

確信を得られずにいるのは、李牧に対する情が深く残っているからだろう。
李牧に対しての情がなかったのならば、この報せを聞いても動揺することはなかったはずだ。

だが、もしも本当に李牧が処刑されることになっていたら、これが最後のやり取りになってしまう。彼は最期のその瞬間まで、自分を待っているかもしれない。

彼が趙の宰相となって自分の前に現れた時に、決別は済ませたはずだった。しかし、それは秦将としての建前だと言っても良い。敵対関係にあるからこそ、儀式的に行ったもので、信の中でそれは本当の決別ではなかった。

説得にも応じず、狼狽えるばかりの信を見て、桓騎はわざとらしく溜息を吐いた。

「…お前、まだあいつのことを忘れられねえんだな」

桓騎に指摘されなくても、李牧との決別を未だ受け入れられず、彼の存在が自分の心を巣食っていることは十分に自覚していた。

「っ…」

喉元に熱いものが込み上げて来て、目頭が沁みるように痛む。涙が溢れそうになって、信は咄嗟に前髪で顔を隠した。

もしも李牧が処刑されてしまったら、もう二度と彼に会えなくなる。考えるだけで脚が竦みそうになるほど恐ろしくて、不安と後悔で胸が押し潰されそうになる。

まさかこんな急に別れが来ることになるだなんて思わなかった。

あの雨の日に、突然自分のもとを去っていった時と同じ悲しみに胸が支配され、頭の中は李牧との思い出一色に染まってしまう。

突然自分のもとを離れていったとはいえ、しかしあの時は何処かできっと生きているはずだと信じていた。

だが、処刑の話が本当ならば、どれだけ無事を願ったところで、二度と彼には会えない。

こんなことになるなら、秦趙同盟の後に再会したあの日にもっと話をしておくべきだった。そうすればきっと、何か今と違った未来が待っていたかもしれないという後悔が信の心を縛り上げる。

たとえ桓騎が何を言っても、信の頭と心はもう、李牧のことしか考えられなくなっていた。

 

 

嗚咽が零れそうになって奥歯を食い縛っていると、いきなり桓騎に腕を掴まれたので、驚いて顔を上げてしまった。

「趙には行かせねえぞ」

声色は憤怒に染まっていたが、桓騎はなぜか切なげな表情を浮かべている。

「行くな。行けばお前は、趙から一生出られなくなる」

殺されるという言葉ではなく、まるで幽閉されるような言葉を使ったことに、信は訝しんだ。

返答に迷っていると、桓騎の両腕が信の身体を強く抱き締めた。

「か、桓騎?」

「…行くな」

何処か怯えているような、懇願するような桓騎の言葉を聞き、本気で彼が自分のことを想っていてくれているのだと分かった。

広い背中に腕を回して、安心させようとするものの、逆に自分の不安が伝わってしまったのか、桓騎は決して信のことを放そうとしない。

「えっ?」

背中と膝裏に手を回したかと思うと、いきなりその体を横抱きにして歩き始めたので、信は驚いて声を上げた。

「な、なにすんだよっ?」

どこに連れていくつもりだと聞いても桓騎は何も答えない。目的地はすぐに到着したようで、寝台に身体を落とされた。

体を組み敷かれたかと思うと、着物の帯を解かれたので、信はまさかと青ざめる。

「お前っ、こんな時に何考えてんだよッ!」

こんな時にふざけるなと信は怒鳴り、桓騎の体を押し退けようと腕を突っ張った。未だ治り切っていない傷がずきりと痛む。

しかし、桓騎は少しも表情を崩さないし、退く気配を見せない。言葉を発さずとも、趙には行かせないと双眸が強い意志を宿していた。

秦趙同盟で李牧と決別をしてから、桓騎と恋人となり、幾度も体を重ね合った。この国を滅ぼそうとした敵将ではなく、恋人である桓騎を優先すべきだと、彼の言葉に従うべきだと頭では理解しているのに、信は狼狽えてしまう。

「ま、待てって!本当に、今はこんなことをしている場合じゃ!」

何とか説得を試みようと言葉を紡いだ途端、乾いた音がして、信の視界が大きく傾いた。遅れて左の頬がじんと痺れるように痛み、熱を帯びていくのを感じる。

「っ、え…?」

思考と視界が真っ白に染まり、少しずつ色を取り戻していく。桓騎に頬を打たれたのだと気づくには、しばらく時間が掛かった。

躊躇うこともなく頬を打ったことから、容赦なく力を込めていたのだろう、口の中にじわりと血の味が広がった。

「冷静になれ。お前が趙に行って、李牧の策が成ったら、秦は今度こそ滅びるぞ」

血の味を噛み締めながら、信は桓騎が脅しではなく、本気で訴えているのだと察した。

 

 

「お前がいなくなったこの国に、俺は興味なんてない」

函谷関では得意の奇策を用い、膨大な被害を受けながらも防衛に成功した桓騎ではあるが、信がいない秦国など守る義理も価値もないと言い切った。

容赦なく秦国を見捨てるつもりでいる桓騎を、信は呆然と見上げている。

信も桓騎もいない状況で、再び合従軍のような強大な戦力から侵攻を受ければ、今度こそ秦は滅びることになるだろう。

国を守るのか、一人の男の命を選ぶのか。残酷な選択肢を天秤に掛けられ、信の胸は鉛を流し込まれたかのように重く痛んだ。

こんなにも悩むのは、李牧の処刑が彼自身が企てた策なのか確信が持てないせいだ。

もしも処刑が本当なら、信は何としてでも李牧を救出して、その身柄を保護するつもりだった。

だが、もしかしたら、それさえも策なのではないかという疑惑が信の中に滲み出て来た。

李牧が秦国を滅ぼすためにあらゆる手段を用いる男だというのは、今回の合従軍の侵攻から誰もが理解したことだろう。

それでも、李牧のことを救いたいと思うのは、未だに彼を愛している何よりの証拠だ。

もちろんそれが自分の弱さであることも信は理解していたのだが、だからと言って簡単に李牧を見捨てるような真似も出来なかった。

そんな簡単に、彼への想いを切り捨てられていたのなら、こんなに悩むことはなかったはずだ。
李牧が合従軍を引き連れて秦を攻めて来た時に、迷うことなく彼の首を狙っていたに違いなかった。

 

慰留

苦悶の表情を浮かべている信に構わず、桓騎は彼女の着物の襟合わせを開く。首筋に舌が這う感触に、信ははっと我に返った。

「やッ、やめろ、桓騎ッ…!」

抵抗する両手で桓騎の体を押し退けようとするものの、頭上で一纏めに押さえ込まれる。

こんな強引に組み敷かれるのは、秦趙同盟の時に桓騎が李牧と信の関係を知って、今までずっと李牧の身代わりにしていたのかと逆上された時以来だ。

「放せって…!」

どれだけ力を込めても、桓騎は放してくれなかった。

桓騎は片手で両手首を押さえているだけだというのに、未だ治り切っていない傷を抱えた体では抵抗もままならない。男女の力量差を見せつけられたような気さえした。

「単純な二択だ。李牧を選ぶか、それとも秦を選ぶか」

「っ…」

李牧の命と国の命運を問われ、信は狼狽えた。

ここで天秤に掛けたのが桓騎自身ではなく、祖国にしたのは、信の心を大いに揺さぶるためであった。秦国には自分だけではなく、彼女の大切な仲間たちの命も全て含まれているのだから。

もちろん時間稼ぎの目的もある。
こうして迷っているうちにも、李牧の処刑がどんどん迫っていく。もしも李牧の処刑が策ではなく事実だとしても、李牧が死ぬだけだ。桓騎にとってはそれだけの話だった。

秦将の立場であるならば迷うことなく祖国を取ると答えるのに、それが出来ないのは過去に愛していた、いや、今も愛して止まない男を助けたいという情があるからだ。

秦将である前に、信も一人の女である。それこそが、彼女に正常な判断を出来なくさせているのだ。

桓騎の中で憎らしい気持ちが込み上げる。それが妬みという感情だというのは桓騎も分かっていた。

「桓騎…俺は…」

縋るような視線を向けられ、桓騎は舌打った。

「お前にとっては二択だ」

だがな、と桓騎は言葉を紡いだ。

「お前をこの国に留める方法なんざ、俺は幾らでも知ってる」

「か、桓騎…?」

信が怯えたように瞳を揺らす。

何も言わずに桓騎は信の両手を押さえている手を放し、代わりに彼女の右足を掴んだ。

左手でしっかりと足首を握り締め、右手は指の付け根の辺りをしっかりと掴む。両手に力が入りやすいよう、足裏を胸に押し当てた。

「…足が壊れちまえば・・・・・・・・、趙に行きたくても行けねえよなあ?」

すぐにその行動の意図を察した信が途端に青ざめた。

彼女を李牧のもとへ行かせないのなら、足を砕けばいい。手綱を握れぬよう手を落とせばいい。
手足を落とすことまでしないにしても、何処にも行かせぬよう、閉じ込めてしまっても良かった。

それが信の心を壊すことになろうとも、彼女から拒絶されることになろうとも、確実な方法である。

「ま、待てッ!やめろッ、桓騎!」

冷や汗を流しながら、自分の右足を掴んでいる桓騎の手を振り解こうとする。

しかし、無情にも桓騎は、彼女の右足を捻り上げるために両手に力を込めた。
きっと捻り上げるだけじゃない。そのまま骨を折る気だと直感で察した信は無意識のうちに口を開け、叫ぶように誓っていた。

「行かないッ!」

束の間、沈黙が二人を包み込む。右足を掴んでいる桓騎の手から、僅かに力を抜けたのが分かった。

しかし、まだ足から手を放そうとしないところを見る限り、確信を得るまでは解放するつもりはないらしい。

「い…行かない…趙へは、行かねえよ…」

声を震わせながら、もう一度同じことを言うと、桓騎は何かを考えるように口を噤んだままでいた。

右足を掴む両手から力が抜けたが、まだ安心は出来ない。

少しでも彼の疑心を煽る行動をすれば、間違いなく足を折られるだろう。心臓が激しく脈を打つのを感じながら、信は黙って桓騎を見つめていた。

「…なら、今すぐ足開けよ」

ようやく右足を放してくれたかと思うと、桓騎は残酷な言葉を発した。

 

 

「なんで…」

狼狽えた視線を向けられて、桓騎は舌打った。

彼女が過去に愛した男の処刑が迫っているというのに、そんな状況で抱かせろと言っているのだから困惑するのは当然だ。

趙へ行かないことを強要させたのは、足を折る脅迫まがいなことをしたせいであって、信の本心ではない。

まだ彼女の中では、李牧に対する情が強く根強いている。

きっと自分が少しでも目を離した隙に、きっと彼女は趙へ行くだろう。他でもないあの男を助けるために。

処刑が事実だとしても、趙へ行けば確実に信は殺される。いかに彼女が強さを秘めていたとしても、一人で敵地へ飛び込めば命はない。李牧もろともその首を晒すことになるだろう。

そして、この処刑は李牧の策であると桓騎は疑わなかった。彼の手中に陥れば、信は二度とこの国に戻って来れなくなる。

それこそが李牧の狙いであることを、どうして気づかないのかと苛立たしくもあった。

合従軍を使ってこの国を滅ぼそうとしたことも、そしてその敗北さえも全てを利用して信を手に入れようとしている。その執着心は恐ろしいほどに根強い。

きっと信の中では、李牧はそんなことを企てる男でないと未だに思っているのだろう。

彼女と李牧が共に過ごしている時間、どれだけ彼女は甘い夢を見せられていたのだろうか。そして、今でもその幻影に狂わされているのだと、どうして理解しようとしないのか。

「聞こえなかったか。足開けって言ったんだよ」

もしも少しも信が迷うことなく、自分と秦国を選んでくれたのなら、きっとこんな手段に出ることはなかった。

 

慰留 その二

狼狽えてばかりで一向に言うことを聞こうとしない信に、桓騎は舌打ちながらその体を組み敷く。

こうなれば、無理やりにでも彼女をこの場に繋ぎ止めるしかない。

それが信の意志を無視することになると分かっていながら、桓騎はやめようとしなかった。

目を離した隙に、信が李牧のもとへ行ってしまうのなら、たとえ彼女を傷つけることになったとしても阻止しなくてはならない。

「あっ、や、やめろッ」

膝を掴んで足を開かせようとした途端、抵抗の悲鳴が上がる。

どこまで自分を拒絶するつもりだと腹立たしくなり、桓騎は再び右足首を掴んだ。
足を折るなど容易いことだ。道具など必要ないし、その気になればいつだって出来る。

「桓騎ッ」

それだけで桓騎の行動の意図を察した信は顔を歪める。許しを乞うような、今すぐ泣き出してしまいそうな弱々しい子どものような顔だった。

いっそ自分を殴りつけて、本気で抵抗してくれたのならば、こちらも心置きなく凌辱を強いることが出来るのに、信は小癪にも理性に訴えかけて来る。

理性に訴え掛ければ、こちらが躊躇うことを無意識のうちに知り得ているからこそ、信は本気で抵抗をしない。普段は鈍いくせに、こういうところが厄介だった。

「やめろ…今は、頼む…」

哀願する信の言葉に右足を掴んでいた手を放してしまい、自分にもまだ良心というものが残っていたことに驚いた。それはきっと、相手が信だからだと断言出来た。

それでも、ここで自分が引けば信は間違いなく李牧のもとへ向かうだろう。だからこそ、桓騎はやめるわけにはいかなかった。

彼女の体を両腕で抱き込むと、桓騎は無理やり唇を重ねる。

「んんッ…!」

信が嫌がって首を振る。強引に彼女の顎を掴み、桓騎は口の中に舌を差し込んだ。

逃げ惑う彼女の舌を追い掛け、絡め合う。

「ぅ…ふ、ぁ…」

唾液と舌を絡ませているうちに、信の息が乱れ始めていく。

信の瞳に浮かぶ哀願が情欲の色にすり替わったのを見て、桓騎の口角がつり上がった。

絶対にあの男には渡さない。この女は自分だけのものだ。

独占欲に胸を掻き立てられながら、桓騎は信の着物に手を掛けたのだった。

 

裏切り

桓騎の腕の中で目を覚ました時、窓の外が薄闇になっていることに気が付いた。

「………」

瞼が重いのは疲労による眠気と、泣き過ぎたのが原因だろう。

散々彼に抱かれたせいで声を上げた喉もひりひりと痛む。水を飲んだらもう一眠りしたいと身体が訴えていた。桓騎自身も疲れてしまったのか、目を覚ます気配がない。

「……、……」

目を覚まさないことを祈りながら、信はゆっくりと桓騎の腕の中から抜け出し、床に足をつけた。

「っ…」

立ち上がろうと体に力を入れた時、脚の間からどろりと粘り気のある白濁が零れる嫌な感触が伝い、信は青ざめた。

嫌だと叫んだのに、桓騎はあの時と同じように、この腹に子種を植え付けたのだ。

秦趙同盟で李牧と再会したあの日の夜、桓騎に犯された時は孕まずに済んだ。
幾度も戦場で命の危機に晒される体は激しい侵襲を受け、月経が途絶えることも不思議ではなかった。孕みにくい体質だったことが幸いしたのである。

しかし、二度目は分からない。万が一にも備えて堕胎薬の調合を医師に依頼しようかとも考えたのだが、今の信はそれよりも優先すべきことがあった。

着物を身に纏うと、信は寝息を立てている桓騎を振り返る。

(…悪い、桓騎)

心の中で謝罪したものの、きっと彼は自分を許さないだろう。そのために自分の脚を折ろうとまで考え、この身を暴いたのだから。

それでも信の心は、李牧を忘れることが出来なかった。

声を掛けることをしなかったのは、桓騎を起こさないための気遣いと、秦国を裏切ろうとしている自分が、言葉を掛ける資格などないと思ったからだ。

趙に寝返るつもりなど微塵もない。
それでも、趙の宰相を助けようとする行為は、裏切りと同等の行為である。

李牧の命を救うことだけが、今の信を動かしていた。

処刑は彼の偽装工作だと桓騎は言ったが、もしも本当だったのなら見過ごすわけにはいかない。

それにもし処刑が本当なら、信がしようとしている行動は、趙宰相の地位を剥奪された一人の男の命を救うこと。

李牧の命を救うことを正当化する戯言だと、信にも自覚はあった。それだけ彼の存在が深く心に根強いているのだと、認めざるを得なかった。

信は部屋を出る時も、屋敷を出てからも、一度も後ろを振り返らなかった。

 

中編①はこちら

※前編の桓騎×信のヤンデレバッドエンドルート(4700字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

The post 終焉への道標(李牧×信←桓騎)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「毒酒で乾杯を」の番外編です。

中編②はちら

 

取引

「だ…誰か!誰かおらんのか!」

罗鸿ラコウは桓騎の言葉を信じようとせず、母屋の方に向かって声を掛けた。

すぐに桓騎の亡骸を処理できるよう、家臣たちには近くで待機しておくように指示を出していたというのに、まるで誰も居ないかのように屋敷は静まり返っている。

護衛も連れずに桓騎が信と二人きりでやって来たことに、罗鸿は事を進めやすいと気を良くしていたのだが、それもきっと桓騎がこちらを油断させるための策だったに違いない。

自分が二人をもてなしている間に、母屋の方ではまさか桓騎の仲間たちが侵入していたというのか。

「…そういやお前、俺たちが来る前に井戸の水を飲んだな?」

まるで罗鸿の行動を全て知っているかのような口調で、桓騎が問いかける。

確かに喉の渇きをいやすために水を飲んだ。しかし、それは人間なら誰でも行うことで、別に訝しむことではない。

桓騎の話術に呑まれてなるものかと、罗鸿は両足に力を入れる。

一杯だけなら・・・・・・、そうだな…せいぜい残りは一刻ってところか?」

桓騎の言葉が何を意味しているのか分からず、罗鸿は眉根を寄せる。

知将と名高い彼の前で動揺を見せてはいけないと分かっているのだが、桓騎という存在を前にすると、言いようのない不安に襲われてしまう。

「依頼の品を用意してくれた礼に、遅延性の毒にしておいてやったんだよ」

井戸に毒を投げておいたのだと打ち明けた桓騎に、罗鸿は全身の血液が逆流するようなおぞましい感覚を覚えた。

喉元に手をやり、乱れる呼吸を整えようとするのだが、冷や汗が止まらない。

家臣たちが来ないのも、その毒にやられたからだと直感で察した。

桓騎と信がこの屋敷に来る前に、井戸に毒を投げ込まれていただなんて、誰が予見出来ただろうか。

 

本来ならば信を別室で眠らせている間に桓騎を毒殺し、家臣たちがその亡骸を処理するという計画であったのに、誰一人として様子を見に来る気配もない。

母屋で待機している家臣たち全員が井戸の毒水を飲んで絶命している姿が浮かび、罗鸿は青ざめることしか出来なかった。

飲んで即効性のあるものであったなら、屋敷内は大きな騒ぎになっていたはずだ。毒を飲まなかった者が医者を呼びに走ったり、異変に気付いて毒の出所を探ったに違いない。

しかし、桓騎が言ったように遅延性の毒ならば、全身を蝕まれてから毒を飲まされたことに気づくことになる。しかし、それでは手遅れだ。

これ・・と同じ毒酒を使った。効果はお前も十分知ってんだろ?」

桓騎が薄く笑みを浮かべながら、罗鸿の動揺を煽るように言葉を紡いでいく。

「…そりゃあ当然か。この毒酒をお前に売ったのは・・・・・・・・俺だからな・・・・・

「…な…なに…?」

冷や汗が止まらず、慌てて記憶の糸を手繰り寄せる。
動揺することしか出来ない罗鸿に、桓騎は思い出し笑いを噛み堪えながら話を続けた。

「神経毒っては、少しずつ体を蝕んでく。…そろそろ呼吸に支障が出始める頃だな」

聞き覚えのある説明に、罗鸿は固唾を飲み込んだ。

蛇毒の酒を手に入れる時、闇商人としての繋がりがある者から情報を仕入れ、毒酒の製造を行っている男と引き合わせてもらった。

その毒酒を製造した男は顔のほとんどを隠していたのだが、罗鸿は不審がることはなかった。保身のために、顔を知られないようにしている仲間は多い。

毒酒の売買さえ終われば、もうこの男とも会うことはないだろうと思っていたし、罗鸿は深く追求しなかった。

しかし、それは間違いだったのだ。
桓騎は初めから、こちらの策に気づいており、その上でこちらを好きに動かしていた。

毒酒を売買するところから桓騎の策通りだったのだとすれば、一体いつから自分は彼の手の平で踊らされていたのだろうか。

「あ…」

唇を戦慄かせて、なんとか呼吸を繰り返す罗鸿は自分の喉元に手をやった。

毒を飲まされたことを桓騎に指摘されてから、呼吸の苦しさは自覚していた。間違いない。これはきっと毒の症状だ。

どれだけ息を吸っても楽にならず、罗鸿は死が近づいて来ているのだと認めざるを得なかった。

桓騎の楽しそうな表情からは殺意というものをまるで感じられなかったのだが、残酷なまでの愉悦が浮かんでいる。

きっと自分が毒でもがき苦しむ姿をせせら笑うつもりでいるのだ。

全ては信に手を出した自分の愚かさが招いたことだと、罗鸿は今になって後悔した。

「ど、どうか、どうかお許しください!」

自分が膝を折ることで、桓騎をさらに楽しませることになると分かりつつ、罗鸿はその場に再び手と膝をついて、地面に額を擦りつけつ勢いで頭を下げた。

この中華度全土で、桓騎軍の残虐性を知らない者はいない。女や子供、老人に至るまで容赦なく死に至らしめる桓騎が、謝罪一つで許してくれるとは当然思えなかった。

今から医者のもとへ駆け込む方法もあったが、解毒剤の調合には時間がかかる。

飲まされた毒の種類によっては解毒剤の種類は異なるし、解毒の方法が解明されていないものだってある。

こうしている間にも、無情にも毒は体内を侵食していく。

何とか命だけは助けてほしいと訴えると、桓騎が長い足を組み直して何かを考える素振りを見せた。

「…なら、また取引でもするか?交渉はお前の得意分野だろ」

微かに希望を感じさせる言葉に、罗鸿は縋る思いで何度も頷いた。

 

 

桓騎は懐から小瓶を取り出し、それを見せつけるように、罗鸿の眼前に翳す。中には薄い桃色の液体が入っていた。

「解毒剤だ。俺はよく毒を飲む機会があってな、常にこれを持ち歩いてる」

毒を飲む機会があるというのは物騒なものだが、多くの者たちから恨みを買っている桓騎のことだから、食事や飲み物に毒を盛られることがあるのだろう。

解毒剤を持ち歩いていると知り、ここで罗鸿はようやく桓騎が死ななかった理由を納得したのだった。

小瓶の中身が解毒剤だと知るや否や、罗鸿は助かったと言わんばかりにその小瓶に手を伸ばす。

「まだ取引の途中だろ?」

罗鸿の手が小瓶を掴む前に、桓騎は彼の手から小瓶を遠ざける。

「俺はこれをお前に譲る。…その代わり、お前は俺に何をしてくれる?」

「う、うう…」

もしもこれまで築いて来た地位も財産も失うとしても、命には代えられない。

これまで闇商人として生きて来た罗鸿だが、命を狙われる危険がなかったわけではない。しかし、高い金を払って護衛を雇ったり、事前に手を打つことでその危険を幾つも回避して来たのだ。

だからこそ、罗鸿は怠慢していた。

相手が秦の大将軍だとしても、これまで上手く生き抜いて来た自分の悪運を過信し過ぎていたのである。

しかし、桓騎という強敵を前に、罗鸿は自分の悪運がとうに尽きていたとようやく思い知った。

「しょ、将軍が、ご所望のものを、何でも、何でもご用意いたします!信将軍にも、金輪際近づかないとお約束します!」

解毒剤を手に入れるために、罗鸿は必死に訴えた。
自分の命の灯が消え去ろうとしている今の状況で自分に出来ることといえば、無様に許しを乞うことだけである。

「何でも、お望みのものを必ずご用意しますッ、どうか、どうか」

「…交渉成立だな」

満足そうな桓騎の言葉を聞き、取引が成立したのだと察した罗鸿の双眸に希望が灯る。

解毒剤を手に入れて、命さえ助かればこちらのものだ。

今回のところは仕切り直すとして、再び桓騎が所望したものを提供する際に、再度暗殺計画を試みよう。

表面だけの態度だとしても、完璧な服従を装えば、ほとんどの相手は騙される。
いくら桓騎であっても、此度の交渉を通して罗鸿のことを多少は支配下に置けたと誤解するはず。

命の危機に晒されているというのに、未だ信との婚姻も、その先にある高い地位の確立も諦めずにいる罗鸿は心の中でほくそ笑んだ。

 

交渉成立

「…ほらよ。お望みの品だ」

桓騎は跪いている罗鸿ラコウの前に、再び解毒剤が入った小瓶を突き付けた。

すぐさま掴み取ろうとする罗鸿だが、先ほどと同じように、桓騎は小瓶を遠ざける。

「おっと、手が滑っちまった」

それだけでなく、桓騎は手首の捻りを利かせて、小瓶を遠くへと投げつけたのだった。誰が見聞きしてもわざとだと分かる白々しい態度である。

四阿しあ ※東屋のことを取り囲んでいる池に、小瓶が小気味良い音を立てて落ちてしまい、驚いた鯉たちが水飛沫を上げて跳ねた。

「ああ、そんなッ!」

命綱でもある解毒剤を手に入れようと、罗鸿はまるで犬のように追い掛ける。上質な着物が濡れることも構わず、池に飛び込んで、手探りで小瓶を探し始めた。

「おいおい、早く見つけねえと毒がどんどん回っちまうぞ」

投げ捨てたのは自分だというのに、桓騎は手伝う素振りを見せず、空になっていた杯に残っている毒酒を注ぎながら大らかに笑っていた。

「うう、くそっ、くそっ…!」

息苦しさが増して来る中、罗鸿は必死に池底にある小瓶を探す。

夜のせいで辺りは暗く、小瓶らしきものは水面からは全然見つからない。
池の深さは膝くらいまでだが、罗鸿は四つん這いになって、顔を池に時々沈めながら必死に小瓶を探した。

解毒剤を飲んで命を繋ぎ止めたのならば、いつか必ず桓騎に報復してやると罗鸿は心に誓う。

「あっ…!?」

何かが指先に触れ、藁にも縋る気持ちでそれを手繰り寄せる。水面から上げると、それは桓騎が投げ捨てた解毒剤の小瓶だった。

しっかりと蓋がされていたので、中の薬は無事だったらしい。

「よか、良かった…!」

安堵のあまり手が震えてしまうが、罗鸿は何とか蓋を取り外すと、一気に中身を飲み干した。

 

舌の上に広がる仄かな甘みに、思わず眉根を寄せてしまう。この味には覚えがあった。

「…ん?ああ、そりゃあ解毒剤じゃなくて、お前からもらったお近づきの証・・・・・・だな」

頭上から影と声が降って来て、罗鸿は声の主を見上げる。

桓騎は四阿で腕を組みながら罗鸿を見下ろしており、口元には楽しそうな笑みを繕っていたものの、その双眸は決して笑っていなかった。

獲物を狩る獣のような、貪欲と殺意に満ちたその鋭い瞳に見据えられると、それだけで体が動かなくなってしまう。

「悪いが、もっと良い代物・・・・・・・を知っている。要らねえからそれは返すぜ」

飲んだのが解毒剤ではなく、初めて会った時に桓騎に渡した強力な媚薬であったことを知り、罗鸿の心は絶望の真っ只中に落とされた。息苦しさが増していく。

まるで笛を吹いているような音を立てて、か細い呼吸を繰り返す罗鸿を、桓騎はただ見下ろしていた。

この男は、最初から自分を助けるつもりなどなかったのだ。

刃のように研ぎ澄まされた瞳を見て、それを直感した罗鸿はいよいよ死が迫っていることを自覚した。

 

桓騎の策~仕上げ~

昏々と眠り続けている信の身体を、まるで荷のように桓騎は肩に抱えた。

乱暴に抱きかかえたというのに、信は未だに寝息を立てており、目を覚ます気配がない。よほど強力な催眠作用のある香を嗅がされたのだろう。

百歩、いや、千歩譲って罗鸿の策通りに事が進んだとしたら、もしかしたら今頃は、意識のないまま信はあの男に身体を暴かれていたかもしれない。

石橋を歩いていると、池の中で金色の鱗を持つ鯉たちが気ままに泳いでいる姿が見えた。
あとであの鯉たちも質屋に出してしまおうと考えながら、桓騎は母屋と向かう。

「終わったか」

母屋の廊下を渡り、一番奥にある広間の扉を開けると、豪勢な屋敷には不釣り合いな格好をした仲間たちがこちらを見る。

「おう、お頭。遅かったな」

「屋敷にいたのはこれで全員か・・・・・・?」

その問いに、屋敷の制圧を任せていた雷土が頷いた。
信の着付けも行っていた侍女たちも含め、家臣たちは全員この場に集められていた。後ろ手に拘束され、轡を噛まされている。

元野盗である気性の荒い仲間たちに拘束された家臣たちは、全員が身の危険を察して青ざめた顔のまま震えていた。

予定通り、桓騎と信が屋敷に招かれてから、仲間たちは早々に屋敷の制圧をこなしてくれたようだ。

「へへ、かなり良い代物ばっかりだったぜ」

拘束されている家臣たちと少し離れた場所に、家財道具や金品がごっそりと並べられていた。

摩論が自慢の髭を指でいじりながら、回収した財宝を眺め、その価値を吟味している。にやけを隠し切れていないことから、相当な値打ちであることはすぐに分かった。

 

 

罗鸿が自分たちをもてなしている間、側近たちは桓騎の指示通りに行動を起こしていた。

もちろんこの計画は、罗鸿の誘いを受けてから企てたものではない。
信から罗鸿に悩まされていると打ち明けられたあの日から、桓騎は既に仲間たちの手を借りて下準備を進めていたのである。

手始めに、日頃から付き合いのある情報屋に罗鸿の正体を探らせた。

彼の正体は、表向きは宮廷御用達を目指している豪商。しかし、裏の世界ではそれなりに名が知れ渡っている闇商人であった。

金になることなら何でもするという罗鸿の信条には共感出来るものがあったが、人の所有物を奪おうと企んだことには、何としても制裁を与えなくてはならない。

そこで桓騎は、罗鸿から奪えるものを根こそぎ奪ってしまおうと、元野盗の性分を発揮してしまったのである。

彼の屋敷の構造から侵入経路まで完璧に把握し、仲間たちと共に今日という日に備えていた。

信と桓騎の関係を知って焦った罗鸿が、手っ取り早く桓騎を殺せる道具を探し始めることも想定内であったし、祝いにかこつけて酒に細工をすると考えるのは難しいことではなかった。

それを利用して、桓騎は素性を隠しながら、罗鸿に蛇毒の酒を高額で売りつけたのである。

罗鸿にとって、桓騎の暗殺は気づかれる訳にはいなかった。信との婚姻が破談になるどころか、大将軍の殺害を企てたとして死罪に直結することになるからだ。

そのため、信が見ている手前、罗鸿が直接手を出すことはしないと桓騎は睨んでいた。

だからこそ、毒殺の現場とその後の死体の処理を信に見られないよう、彼女を眠らせるか、何かと理由を付けて別室に隔離されるかのどちらかだとは思っていたが、まさかこうも予想通りに動いてくれるとは思わなかった。

 

 

もしも罗鸿が潔く信のことを諦めてくれたのならば、闇商人であることを延尉ていい ※刑罰・司法を管轄する官名に告げないでおくつもりだった。

もちろんタダではなく、口止め料と引き換えにだが、罗鸿も自分の地位を守るために納得のいく額を用意してくれるに違いないと睨んでいた。

信の話を聞いた時から、桓騎にとって罗鸿は良い金づる・・・・・だったのである。

しかし、残念なことに罗鸿は信のことを諦めなかった。だからこそ桓騎は、人の女を奪おうとした罗鸿へ制裁も兼ねて、根こそぎ奪うことを決めたのである。

罗鸿の策通り、信が眠らされてしまったのも、桓騎にとっては都合が良かった。

彼女は桓騎軍の素行の悪さを個性として受け入れているものの、他者のものを奪うことを良しとしない。

大将軍として他国の領土や大勢の命を奪っているくせに何を言うのだと笑うと、逆上されてしまったことがあった。

…思えば、摩論が茉莉花まつりか ※ジャスミンの一種の茶を淹れてくれたのはあの時だったかもしれない。

もしも信と毒耐性という共通点がなければ、きっと性格の不一致から今のような関係を築くことはなかっただろう。

今も寝息を立てている信の姿を横目で見やり、出会いとはよく分からないものだと苦笑してしまう。

「お頭。用が済んだんなら、とっととずらかろうぜ」

雷土に声を掛けられて桓騎は頷いた。
しかし、お宝を持ち帰る前にまだやらなくてはならないことがある。

未だ拘束されている家臣たちの前に立った桓騎は、にやりと笑みを浮かべた。

 

目覚め

…目を覚ますと、見慣れた部屋の天井が視界に入り込み、信はしばらく寝台の上から動けずにいた。

窓から差し込む温かい光に、すでに昼を迎えていることに気づく。

「はっ?な、なんで…?」

罗鸿の屋敷でもてなされていたはずだったのに、どうして桓騎の屋敷にいるのだろうか。

記憶の糸が途中で途切れており、その後のことを一切覚えていないのだ。
酒に酔った記憶もなかったのだが、こんな風に記憶が途切れているのはあまりにも不自然だ。

確か母屋の一室で侍女たちに嫁衣の着付けをしてもらい、化粧が終わってから桓騎と罗鸿がいる四阿へ戻ったはずだった。

未だに赤い嫁衣を身に纏っていることから、罗鸿の屋敷から帰って来たのだと分かったが、四阿に戻ってからの記憶が一切ないのは何故なのだろうか。

いつの間にか桓騎の屋敷に帰って来ていたことから、確実に桓騎が何かを知っているに違いない。
信は桓騎から事情を聞こうと、寝台から起き上がり、床に足をつけて立ち上がった。

「あっ、え…!?」

立ち上がるのに腹に力を入れた途端、脚の間から粘り気のある何かが伝っていく嫌な感触に瞠目する。

さらには、下腹部に違和感があった。何度も覚えがあるそれは、身体を重ねた翌朝に感じる甘い疼きで、まさかと思い、嫁衣の中に手を忍ばせて恐る恐る確認する。

「~~~ッ…!」

寝起きだというのに顔が燃え盛るように熱くなる。

一級品の嫁衣が見事なまでに皺だらけになっていたことも合わさって、記憶はないのだが、昨夜に桓騎と身を交えたことを信は嫌でも察したのだった。

「か、桓騎ぃーッ!!」

堪らず信は悲鳴とも怒鳴り声とも取れる大声を上げた。屋敷中にその声が響き渡る。

記憶がなくなっている間、彼は自分に何をしたのだろう。以前、王翦の前で辱めを受けた記憶が蘇り、まさか罗鸿の前でも同じことをしたのではないかと恐ろしくなった。

 

「うるせえな。やっと起きたか」

声を聞きつけたのだろう、呆れ顔の桓騎が部屋に入って来るなり、信は一級品の嫁衣がさらに乱れるのも構わずに大股で近づいた。

「お、お前、俺が寝てる間に、な、な、何しやがった!」

両腕を伸ばして桓騎の胸倉を掴んだ信は、嫁衣と同じくらい真っ赤な顔のままで昨夜のことを問い詰めた。

物凄い剣幕で迫る信に、桓騎は少しも動揺することなく、肩を竦めるようにして笑う。

「言っとくが、誘って来たのはお前の方だぞ?」

「嘘吐け!じゃ、じゃあ、なんで記憶がないんだよッ!?」

「ああ、昨夜は毒酒も飲んでねえな。俺の技量が良過ぎて、トんじまったんじゃねえのか」

澄まし顔でさらりと言って退ける桓騎に、信は悔しそうに奥歯を噛み締める。恥ずかしげもなくそんな言葉を口に出せるところもそうだが、顔も良いところが余計に腹立たしかった。

この男に口で勝てるはずがないし、そういえば一度も勝てたことがない。それは嫌というほど分かっていた。

「そ、そういや、罗鸿ラコウはどうしたんだよ」

思い出したように信が罗鸿の名を口に出すと、桓騎がとぼけるように小首を傾げた。

「ああ、お前はもてなされてる最中に寝ちまったからな」

不自然に記憶がないこともそうだが、全てを知っているような口ぶりで話す桓騎に嫌な予感を覚えて、信は不安そうに眉根を寄せた。

「お前…何したんだよ?」

まるでこちらが何か事を起こしたを前提として問いかける信に、桓騎は苦笑を深める。

「とりあえず湯浴みして来い。総司令からお前宛てに呼び出しがあったぞ」

信の問いには答えず、桓騎は寝ぐせの目立つ頭を優しく撫でてやった。

上手くはぐらかされたことに信は納得がいかないと顔を曇らせたが、総司令である昌平君からの伝令を無視することは出来なかったらしい。

「…ん?なんで昌平君が俺がここにいるって知ってんだ?」

「お前が俺の屋敷に入り浸ってるって知ってるからだろ」

罗鸿の件があって、信は十日ほど桓騎の屋敷に滞在をしていた。それ以外でも桓騎の屋敷には頻繁に訪れているのだが、まさか昌平君にそれを知られているとは思わなかった。

昨夜のことがどうしても気になったが、軍の総司令からの呼び出しとなれば何か重要な話があるのではと思い、信は湯浴みと支度を済ませてから、すぐに宮廷へと出立した。

 

 

宮廷に到着するなり、信は待機していた兵に、昌平君が執務を行っている部屋へと案内された。

「おい、昌平君。用って何だよ…ん?」

「来たか、信」

部屋に入ると、そこにいたのは昌平君だけではなかった。

二人の男は信を見るなり、礼儀正しく供手礼を行う。
しっかりとした身なりを見れば、それなりに地位のある者たちだと分かる。しかし、見慣れない顔であることから昌平君の配下でも宮廷の高官でもなさそうだった。

「えっと…?」

昌平君の話によると、二人は咸陽の官署に務めている延尉ていい  ※刑罰・司法を管轄する官名と捕吏だという。

地方行政に携わっている役人たちが、国の行政を取り纏めている右丞相である昌平君と話をしているのは何ら不思議なことではない。

しかし、三人がまるで自分のことを待っていたような態度に、信は此度の呼び出しと何か関係があるような気がしてならなかった。

てっきり軍事の指示だろうと思っていたのだが、別件らしい。

「咸陽で名を広めていた闇商人を捕縛したそうだな。その時の状況について詳しく尋ねたいそうだ」

読む気も失せてしまうような、文字がびっしりと綴られている木簡に目を通しながら昌平君が本題を切り出した。

「は?闇商人…?」

信が頭に疑問符を浮かべていると、延尉と捕吏が顔の前で手を合わせながら信に深々と頭を下げた。

「ずっと足取りを追っていたのですが、なかなか捕らえるに至らず…信将軍には感謝しております」

感謝の言葉を贈られるも、信は小首を傾げることしか出来ない。

「お、おい、何か勘違いしてねえか?俺は闇商人なんか捕らえた覚えは…そもそも、何の話だよ」

身に覚えがないのだと言えば、延尉と捕吏だけでなく、普段は冷静沈着である昌平君も珍しく目を丸めていた。

闇商人の罗鸿・・・・・・だ。お前に縁談を申し入れていただろう」

「は…?罗鸿が闇商人だとッ!?」

まさに今初めて知ったという反応に、三人が瞠目する。

昌平君は延尉と顔を見合わせると、手に持っていた書簡を信に差し出した。

反射的に受け取った書簡を見やると、それは帳簿のようで商売の取引や資金の動きに関する内容が記されていた。

金勘定に疎い信であっても、そこに記されている膨大な資金を見ればただの商売ではないことが分かる。

「…な、なんだ、これ…?」

「それが罗鸿が闇商人であることを示す動かぬ証だ」

狼狽している信に、昌平君が普段通り冷静な口調で答えると、捕吏が丁寧に説明を足してくれた。

「罗鸿がこれまで過去に行っていた裏商売です。この帳簿と一緒に、捕縛された罗鸿が官署の前に置かれていた・・・・・・のです」

少しも状況が理解出来ず、信はぽかんと口を開けている。その様子を見て、昌平君は何かを察したように頷いた。

「…罗鸿の正体を突き止めるのに、婚約者を名乗っていた訳ではないようだな」

咸陽で信と罗鸿の婚姻の噂が広まっていた時、宮廷にもその噂が舞い込み、昌平君はそれが本当なのかを信本人に確認したことがあった。

もちろんそんなはずがないと全面否定していたし、そして今もなお驚いている信の反応を見て、昌平君は彼女がこの事件を解決したのではないことを理解する。

それどころか、信に事件を気づかせぬよう、念入りに裏で手を回していた人物がいるのだと気づき、そして昌平君はそれが誰であるかをすぐに察したのだった。

「ではもう一度、調査の報告を頼む」

右丞相の命令により、延尉と捕吏は再び闇商人罗鸿に関しての調査報告を始めるのだった。

 

桓騎の策~裏工作~

宮廷へ行ったはずの信が血相を変えて屋敷に戻って来ることは、桓騎の想定内であった。

昨夜のことで少々寝不足気味だった桓騎は欠伸を堪えながら、彼女を出迎える。

「か、桓騎ッ!お前、昌平君たちから全部聞いたぞッ!」

右丞相と軍の総司令を担う男の名前を再び聞き、これから面倒なお説教が始まりそうだと肩を竦める。

昌平君たちと複数形で語ったことから、恐らく延尉と捕吏からも話を聞いたのだろう。

罗鸿ラコウが闇商人だって、お前、最初から知ってたのか!?」

胸倉を掴む勢いで詰め寄って来た信に、ここでと知らないフリをしても彼女の怒りを煽るだけかと考える。

「…お前が眠っている間、偶然・・あいつの商売帳簿を見つけたんでな。調べてみりゃ、とんでもねえ利子や賄賂が絡んでるって分かったんだよ」

何か言いたげな顔で信が唇を戦慄かせている。きっと知りたいことが山ほどあり過ぎて、何から聞き出すべきか悩んでいるのだろう。

「あ、あいつを官署の前に置いてたのもお前の仕業か…!?」

「さあ?よく覚えてねえな」

当然ながら、眠らされていた信は昨夜のことを一切覚えていない。だからこそ何とでも言い訳を思いついた。

…本当はあの男の亡骸をバラして家畜の餌にでもすれば、証拠隠滅が図れると思っていたのだが、信との婚姻騒ぎもあって、名前と存在を広めている商人が急に失踪したとなれば大勢が怪しむだろう。

突然の失踪によって、信に何かしらの疑惑が掛けられることは目に見えていたし、それは桓騎としても気分が良いものではない。

もしそうなっても、罗鸿が闇商人であることを後付けで広めてしまえば、失踪した理由など勝手に納得されると思っていた。

しかし、今回は信が絡んでいることもあって、桓騎は死人を出さず・・・・・・、なるべく穏やかに解決することを最優先としたのだった。

結果としては穏便に解決してやったのだから、むしろ感謝してほしいものだ。

しかし、全てを打ち明ければ、それはそれで信が騒ぎ出すのは目に見えていたので、桓騎は都合の良い部分だけを答えることにしたのである。

 

上手い具合にとぼけようとしている桓騎に、信の目つきが鋭くなる。

「…側近たちも動かしたんだろ」

「ん?」

桓騎が信頼している側近たちも今回の件に協力していたことは事実だ。

眠らされていた信がそこまで予見するとは思えなかったが、もしかしたら桓騎が関わっていたと知った昌平君が何かしら予見を伝えたのかもしれない。

「罗鸿の身柄を取り押さえてから、あいつの屋敷を調査した捕吏が、屋敷はもぬけの殻だった・・・・・・・・って言ってたぞ。お前らが全部持ってったんだろ」

信が勘付いた理由は単純なもので、屋敷にあった金目の物が全てなくなっていたことから側近たちが協力したのだと気づいたらしい。

官署の前に縄でぐるぐる巻きにされていた罗鸿(拘束されているというのになぜか悶々としていたらしい)と、彼の傍に置かれていた帳簿から、闇商人の疑いで身柄を確保した延尉と捕吏は、すぐに罗鸿の屋敷の調査を行った。

しかし、調査のために屋敷に乗り込んだ途端、役人たちは驚愕した。

あの豪勢な屋敷に相応しい家具や調度品だけではなく、初めからそうであったかのように家臣や使用人たちも一人残らず消え去っていたのだという。

その話を聞いた桓騎は椅子に腰を下ろすと、頬杖をついて目を細めた。

「昨夜は美味い酒でもてなされたからな。酔ってて覚えてねえよ」

しかし、信の疑惑はますます深まるばかりだった。

「…都合よく忘れたフリしても無駄だぞ。じゃあ、なんで今日はオギコたちがいねえんだよ」

いつも付き従っているはずのオギコや他の側近たちが揃いも揃って屋敷を空けていることに、信はいち早く気づいたらしい。

「屋敷から持ち出した物を質に出してんじゃねえのか?秦国中にある質屋を回れば証言が取れるはずだ」

「ちっ…」

時々鋭い感が働くのは少々厄介だ。これ以上隠し通すのは無理かもしれない。

信の機嫌を損ねても面倒なことにしかならないので、桓騎は小さく溜息を吐いてから素直に打ち明けることにした。

 

 

「…罗鸿から財産を一式譲り受けた・・・・・だけだ。家臣たちにも十分な取り分を渡してやったし、奪ったワケじゃねえ」

奪ったのではなく、譲り受けたと主張するものの、信は当然ながら納得出来ないでいるようだ。桓騎のことだから、穏便に譲り受けたとはどうにも考えづらい。

しかし、主が役人に捕らえられてしまい、働き口を失った家臣たちや使用人にも十分な取り分を与えたことに信は驚いた。

てっきりお宝を独り占めしているとばかり思っていたので、桓騎が家臣たちのその後の生活を気遣うとは思いもしなかったのである。

しかし、そのお宝を譲ってもらうために、罗鸿に何をしたのだろうか。

「桓騎、お前…まさか罗鸿を脅したんじゃねえだろうな?」

脅したという言葉が気に食わなかったらしく、桓騎が片眉を持ち上げる。

「人聞きが悪いな?命だけは助けてくれって懇願して来たのは向こうの方だぞ」

「やっぱり脅したんじゃねえかッ!」

残念ながら予想が当たってしまい、信はやるせない気持ちに襲われた。

 

桓騎への貸し

桓騎と信が罗鸿の屋敷に招かれた直後から、作戦通り、雷土を筆頭に屋敷の制圧が始まった。

まずは家臣たちを取り押さえること、その次に闇商人である証拠となるものの確保、あとは金目になりそうなものの徴収。

優秀な仲間たちはこの三つの目的を、罗鸿が桓騎と信をもてなしている間に早々に行ってくれていたのである。

桓騎が毒酒を飲んだ後、その死体を片付ける役目を担っていた家臣たちが一人も現れないことから、罗鸿は家臣たちが全員、桓騎が話していたように、井戸の毒によってやられてしまったのだと信じ込んでいた。

もちろん家臣たちの亡骸を見たわけではなく、単なる桓騎の言葉のあや・・・・・だったのだが、追い詰められた罗鸿は家臣たちが全滅させられたのだと疑わなかった。

人間は精神的に余裕がなくなれば、言葉の術に陥りやすくなる。
言葉巧みに相手を陥れるそれは、桓騎がもっとも得意とするところであった。

井戸に毒を流したというのも虚言でしかないのだが、味方を失ったと思い込んだ罗鸿は、その虚言にまんまと陥れられた。
毒を飲んだと信じ込み、勝手に一人で苦しがる姿は滑稽だった。

結局のところ、一人として犠牲は出ておらず、罗鸿は桓騎に返された強力な媚薬を飲み干して一人で悶々と苦しんだというワケだ。

それからもう一つ・・・・、今回の騒動を幕引きするために行っていたことがあったのだが、それは言うに及ばないだろう。

「…で?礼は?」

「へ?」

話を切り替えるために、桓騎は今回の貸しをどう返却するのかと切り出した。

「今回の件は一つ貸しっつったろ。俺とお前の仲に免じて、百でいいぜ?」

「百ぅっ!?なんで一の貸しが百にまで膨れ上がってんだよ!?」

「金勘定には疎いくせに、計算できるんだな」

感心しながら返すと、信は狼狽えながらも今回の貸しをチャラにする方法を考えている素振りを見せた。

「まあ、金で払うなら、別に…」

大将軍という立場である信は、十分過ぎる給金も戦での褒美も得ており、大金を用意することなど容易いことだ。

桓騎軍と違って、飛信軍は派手に金を使うことはない。
そこらの娘なら目を輝かせそうな着物や装飾品にさえ信は興味を持たないので、貯め込む一方なのだろう。

それにしても、今回協力した目的が金のためだと思われているのかと桓騎は苦笑した。

「まさか、お前…俺が金目当てに動いたと思ってんのか?」

心外だと、わざとらしく肩を竦める。

「は?じゃあ、なんだよ」

何だか既視感のあるやり取りだと考えながら、桓騎は苦笑を深めた。

「返すどころか、さらに貸しの上乗せをしてやろうか」

「はあ?」

何を言っているのだと信が聞き返す。

戸惑いながらも視線を逸らすことなく、桓騎を見つめ返している円らな黒曜の瞳は、これまで手に入れたどのような宝石よりも美しい。

小さく咳払いをしてから、桓騎は目の前の女をじっと見据えた。

 

 

「…これから先、面倒な男に絡まれない方法・・・・・・・・・・・・を教えてやるって言ってるんだよ」

僅かな緊張が声に滲んでしまったことに、ダセェなと内心狼狽しながらも、桓騎は腕を組んで信の返事を待った。

「………」

何度も瞬きを繰り返している彼女が、返事を迷っているというより、こちらの言葉の意味を少しも理解出来ていないことを桓騎は直感的に悟った。

「…すでにお前が面倒な男だけどな?」

斜め上の返答に、桓騎は思わず噴き出してしまう。自分との付き合いが長くなって来たせいか、随分と面白い返しをするようになって来たものだ。

もちろん桓騎を笑わせるためではなく、素で答えているというところが憎めない。

「言うようになったじゃねえか。…で、どうする?知りたいか?」

少し俯いてから、信は悩ましげに眉根を寄せて桓騎を上目遣いで見上げた。

もしも信が知りたいと答えたのなら、次に言う言葉は、ずっと前から決まっていた。

「それ聞いたら、また貸しか?勘弁してくれ」

「………」

しかし、こちらの意図を少しも理解していない上に断られてしまい、桓騎の口角が思わず引きつる。
やはりこの鈍い女にはもう少し噛み砕くか、直球で伝えるべきだったらしい。

「ん?なんだよ?」

表情に出すことはないが、哀愁が漂っていたのか、信が小さく小首を傾げている。本当に何も理解していないようだ。鈍感女めと心の中で毒づく。

「…つーか、今回は俺が助けたんだから、それでチャラだろ!」

今度は桓騎が小首を傾げる番だった。

「助けた?何の話だ」

聞き返すと、信の顔がみるみるうちに赤くなっていく。過去に幾度となく見たことのある反応だ。

「そ、その、…毒酒のせいで、お前が苦しいって言うから…」

何とか言葉を紡いでいくものの、羞恥によってその声は掻き消されていた。
しかし、桓騎の口角は自然とつり上がってしまう。

目覚めた時には何も覚えていないと言っていたが、どうやら昨夜、屋敷に帰って来てからのことを思い出したようだ。

真っ赤にした顔を上げられなくなってしまった信は、再び昨夜のことを思い返しているのだろう。

昨夜は普段以上に毒を摂取し過ぎたせいで、随分と久しぶりなことに、桓騎の方が毒の副作用――まるで媚薬を飲まされた時のように性欲の増強と感度が上昇する――を起こしてしまったのだ。

信よりも桓騎の方が毒の許容量は多い体質なのだが、罗鸿に売りつけた蛇の毒酒はかなり強いものだった。

それに加え、屋敷に帰ってから毒酒を飲み直したことが良くなかったらしい。

…とはいえ、副作用で苦しむ自分を懸命に慰めてくれた信の淫らな姿はしっかりと目に焼き付いている。

一級品の嫁衣を身に纏い、ひたすらに自分の名前を呼んで身を委ねる信との淫らで甘い時間は、まるで婚儀の後の初夜を想像させた。

きっと毒の副作用を起こさなければ、あそこまで信が自分を介抱してくれることはなかっただろう。

いつだって自分たちが身を寄せ合う時には、必ず傍に毒酒がある。

二人で毒酒を飲み交わすのは、桓騎が信に恋心を抱くよりも前から続けていた習慣でもあって、今となっては随分と厄介な存在だ。

恋心を打ち明けようと葛藤するより、毒酒を飲んだ方が、いつだって素直な想いを打ち明けられる。

しかし、いつまでもそれを言い訳に本心を隠しておくことはしたくなかった。

今回の件で、信がいかに戦場以外ではいかに弱い存在であるかを思い知らされた。それは桓騎の信に対する独占欲をさらに大きく掻き立てることになったと言っても過言ではない。

「…桓騎?」

「仕方ねえから、昨夜のことでチャラにしてやる」

渋々と言った様子で貸し借りを相殺すると、信は安堵したように笑った。

 

…その後、信は咸陽を歩く度に、罗鸿との婚姻を祝福していた民たちから、今度は別の言葉を掛けられるようになっていた。

罗鸿の闇商人としての悪事が公になったことから、民たちはいずれは自分も被害に遭っていたかもしれないと恐怖を抱いた。

しかし、それを未然に防いだのは民を救うために、信が婚約者のフリをして彼に近づき、結果として闇商人である証拠を見つけ出し、罗鸿を捕らえたおかげである。

民への被害を未然に防ぐことが出来たのは信将軍の活躍があってこそ。
罗鸿が捕らえられてから、これまでの婚姻話を塗り替えるように、すぐさまその噂は咸陽に広まっていった。

不自然なほど・・・・・・急に広まったその噂は、信の活躍を讃えるものであったが、桓騎軍の存在を感じさせるものは何一つとして含まれていなかった。

信は民たちから感謝の言葉を掛けられる度に、脳裏に恋人の姿が浮かび、複雑な想いを隠し切れず、ぎこちない笑顔を浮かべていたという。

そして時々、罗鸿から譲ってもらったあの一級品の嫁衣を着るよう強要して来る恋人に、付き合い切れないと信はとことん呆れてしまったのだが、…それはまた別のお話。

 

本編で割愛した屋敷帰還後の番外編はこちら

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恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「毒酒で乾杯を」の番外編です。

中編①はこちら

 

もてなし

後日、他の民たちの目を避けるためにという名目で、二人は罗鸿ラコウの指示通りに、夜になってから彼の屋敷に訪れた。

罗鸿は二人が護衛も連れずにやって来たことに驚いていたものの、すぐにあの胡散臭い笑顔で出迎えてくれた。

大きな門を潜ると、すぐに広大な庭院が現れた。石橋が掛かっている池の中央には四阿しあ ※東屋がある。

池の水には淀みや苔一つないことから、頻繁に手入れが施されているようだ。金色の鱗を持つ立派な鯉が幾匹も泳いでいる。

これほどまでに大きな屋敷を築き上げることや、その手入れを任せるのに人を雇う財力はそこらの商人では得られない。

屋敷の外装もそうだが、この広大な庭院を見れば、罗鸿が商人として大いに成功していることを物語っていた。

「どうぞこちらへ」

罗鸿が石橋を渡り、池の中央にある四阿へと案内される。すでに四阿には二人の侍女が待機していた。

設置されている椅子に腰を下ろす。机には酒瓶と杯、それから両手に抱えられるくらいの大きさの桐箱が用意されていた。

二人が椅子に腰かけたのを見届けてから、罗鸿が二人に深々と頭を下げた。

「ささやかですが、私からお祝いをさせていただきます。まずはご依頼いただいた品の一つをご覧ください」

用意されていた桐箱の蓋を開けると、そこには赤い嫁衣・・が収納されていた。
絹糸で繕ったその嫁衣は光沢があり、美しい花の刺繍が施されている。着物の価値が分からぬ者でも高級品であると見ただけで理解出来る代物だ。

「一級品の嫁衣をご用意いたしました。婚儀の際にはぜひこちらをお召しください」

「へえ…」

吐息を零しながら信も美しい嫁衣に見惚れている。手に入れたいというよりは、芸術品でも鑑賞しているような顔だった。

金目のものに一切の興味を示さないはずの信がそんな反応を見せるのは珍しいことで、こればかりは罗鸿に依頼しておいて良かったかもしれないと考える。

 

「信将軍。せっかくですからご試着をしてみてはいかがでしょう」

信の反応に気を良くした罗鸿が両手の手の平を擦り付けながら、胡散臭い笑みを浮かべる。

「え?でも…」

桓騎との婚姻は、罗鸿を諦めさせるための偽装工作だ。かなりの値打ちものであるこの嫁衣を実際に着る機会がないことを、信は心のどこかで申し訳なく思っているのだろう。

「良いじゃねえか。試しに着てみろ。修整も必要になるかもしれねえだろ」

それらしい言葉を使って試着を勧める桓騎に、信は少し戸惑いながらも頷いた。

待機していた侍女の一人が嫁衣の入った桐箱を箱抱え、もう一人が信を連れて行く。着付けのために母屋の一室へ案内するらしい。

罗鸿が試着を勧めたのは、きっと信をこの場から遠ざけるためだろう。
恐らく信はこれが罗鸿の策だと気づいていないに違いないが、桓騎はそれを見抜いており、あえてその策に乗ってやろうと、信に試着をするよう命じたのだ。

「信」

三人が四阿を出て、石橋を踏み込んだところで、桓騎は信の背中に声を掛けた。

面紗めんしゃ ※ベールのことはつけるな。それは婚儀の時で良い」

「あ、ああ、分かった」

魔除けの意味が込められており、花嫁の顔を覆うためのうすぎぬを外すのは、婚儀の時に夫となる男の役目である。

単なる試着だとしても、面紗をつけるのは正式な婚儀の場であるべきだ。
規律に縛られることを何よりも嫌っているこの自分が、婚儀の習わしに従おうとしている矛盾に桓騎は苦笑した。

もちろん婚儀を挙げるのは作り話なのだが、彼女が嫁衣を身に纏う姿は是非とも見ておきたい。

(…さァて)

侍女たちに案内され、回廊を通っていく信の姿が見えなくなると、桓騎はいつものように、両足を机へどんと乗せた。

招かれている立場だとしても無礼極まりない態度であることは十分に自覚していたが、罗鸿の感情を煽る目的もあった。

冷静さを取り繕ってはいるものの、余裕を失くした罗鸿が行動に出るならそろそろだろう。

彼自身が行動に移すのはこれからで、しかし、もうすでに水面下では事が進んでいることを、桓騎は書簡を受け取る前から予見していたのである。

「桓騎将軍。信将軍がお戻りになるまで、こちらの美酒をご堪能ください。ささやかですが祝杯でございます」

胡散臭い笑みを深めながら、罗鸿が用意してあった酒瓶を手に取った。

祝い酒として杯に注がれていくそれを見て、桓騎は僅かに目を細める。

「…酌をするやつが、野郎なのは気に入らねえな」

桓騎は注がれた酒をすぐに飲むことはせず、退屈そうに背もたれに身体を預ける。

「どうぞご勘弁を」

そんな理由で酒を飲まれないとは思っていなかったようで、罗鸿が困ったように頭を下げた。

先ほどの侍女たちは信の着付けを行っているようで、戻って来る気配はない。かといって他の侍女が来ることはなく、この場にいるのは桓騎と罗鸿だけだった。

「私はしがない商人で、そう多くは侍女の手配も出来ませんので…」

もっともらしい理由で罗鸿が答える。しかし、桓騎は注がれた酒を飲むことはしなかった。

「随分と謙遜するじゃねぇか?信にはあれだけ自信満々で迫ってた野郎が、どういう風の吹き回しだ?」

遠慮なく棘のある言葉を投げかけると、罗鸿の笑顔が引き攣ったのが分かった。
何を思ったのか、彼はその場に躊躇いなく膝をつく。

「まさか桓騎将軍と信将軍が婚姻を結ばれるとは存じ上げず…どうかご容赦を…」

恐れをなしたというよりは、単に桓騎の機嫌を損ねないようにしているのだろう。少しも誠意のこもっていない謝罪に、桓騎は肩を竦める。

目的を叶えるためなら、容易く膝をついて頭を下げることも厭わない自尊心の低さにはむしろ感心してしまう。

男の膝には大いなる価値があるというのに、商人というものは相手の機嫌を伺わなくてはならない面倒な商売だ。

「隠してたからな。信が縁談を断り続けてたのもこれで納得しただろ」

「返す言葉もございません」

詫びを入れるその顔は、やはり申し訳なさを繕っただけの表情であった。

それから桓騎はこれまで信に貢いで来た贈り物は何なのか、どこで仕入れた品なのかを罗鸿に問うた。

別に興味がある訳ではなく、罗鸿の出方を見るための時間稼ぎである。

他愛のない話を続けていると、どうやら痺れを切らしたのか、罗鸿がわざとらしく咳払いをする。

「桓騎将軍、まだ信将軍はお戻りになりません。先に美酒を堪能してはいかがでしょうか?」

先ほど注いだまま放置していた酒を飲ませようとすることから、やはり酒に何かしらの細工をしているのだと桓騎はすぐに見抜いた。

他の家臣や侍女たちが来ない二人きりの状況で酒を勧めるだなんて、どうぞ疑ってくださいと言っているようなものである。

細工の正体はきっと眠り薬か毒の単純な二択だろう。しかし、早急に桓騎の処理を考えている今の罗鸿が選ぶなら、当然後者になる。

さっさと桓騎を消してしまいたいという焦りが全面的に表れていることに、罗鸿本人は気づいていないようだ。

「…お前も飲めよ。一級品の嫁入り道具を用意してくれた礼だ」

台の上に置かれていた酒瓶を手に取ると、恐らくは信が飲むために用意されていた杯に酒を注いでやる。

「………」

酒を注ぎながら、桓騎は罗鸿の表情に変化がないか横目で確認する。

もしもここで酒を勧められたことに動揺するならば、この酒瓶の中身が毒酒であると見て間違いないだろう。

「いえ、この酒はお二人の祝いのために取り寄せた貴重な代物です。私が頂くには値しません」

表情に動揺は見られなかったが、桓騎の誘いを上手い具合に回避したことから、中味が毒酒であることを確信する。

胡散臭い笑顔で罗鸿は仮面をした気になっているのだろうが、その瞳からはひしひしと殺意が沸き上がっていた。はっきりと殺意を感じるようになったのは、信がこの場からいなくなってからだ。

幼い頃から過酷な環境で育ち、今でも将として戦場に出れば死と隣り合わせである桓騎の前では、殺意は隠しても意味がない。

そして奇策を用いて相手を攻め立てる桓騎には、ずる賢い策略など、たとえここが戦場でなくとも無意味なのである。

きっと罗鸿からしてみれば、桓騎さえいなければ、あともう一押しで信を手に入れることが出来たと歯痒い想いをしていることだろう。

だが、そもそも人の女を盗ろうとした方が悪いのだ。

最後は自分が勝利を噛み締めて高らかに笑っている姿を想像しながら、桓騎は罗鸿の策に乗ってやろうと、自分に注がれた酒杯に手を伸ばした。

 

もてなし その二

罗鸿ラコウ様」

ちょうどその時、先ほど信を母屋へ連れて行った侍女の一人が現れた。嫁衣の着付けが終わったのか、侍女が罗鸿に何かを耳打ちする。

桓騎が違和感に覚えたのはその時だった。
侍女の鼻から顎まで厚手の布で覆われており、顔の半分が隠されていたのである。

仕入れた嫁衣は桓騎の注文通り、一級品の代物なのだから、着付けの際、侍女の化粧や香油がつかないように配慮したのかもしれない。

未だ桓騎が酒を飲まずにいることには気がかりのようだが、侍女の話を聞いた罗鸿は桓騎の方に向き直り、あの胡散臭い笑顔を浮かべた。

「信将軍の御支度が整ったようです。それでは、さっそくこの場にお連れしなさい」

「え…よろしいのですか?」

侍女が聞き返すと、罗鸿はきっと彼女を睨みつけた。
その視線に怯えた侍女は足早に四阿を後にする。支度を終えた信を連れて来るらしい。

良い金づるである桓騎と信の前では、いつだって笑みを絶やさずにいたのに、侍女に見せた鋭い目つきに、桓騎はそちらが罗鸿の本性かと考えた。

そんな表情を呆気なく披露してしまうくらい、もう彼には余裕が残されていないのだろう。

「いやはや、信将軍の花嫁姿が拝めるとは、なんたる幸福でしょう」

罗鸿の鼻息は僅かに荒かった。
信の嫁衣姿を心待ちにしていたのか、それともこれから邪魔者を消して自分の策略通りにいくことを想像し、出世の喜びを噛み締めているのか。

…どちらにせよ、それは今しか味わえない幸福だと桓騎は心の中でほくそ笑んだ。

 

「お連れしました」

二人の侍女に連れられて、赤い嫁衣に身を包んだ信が回廊から現れる。

「ほう」

その姿を見て、自然と口角が上がってしまう。

桓騎に言われた通りに面紗はしていなかったが、顔には化粧が施されている。
信の顔に刻まれている小さな傷痕が隠れているのは白粉を使ったからだろう。唇には紅が引かれており、上品さが際立っている。

いつもは後ろで一括りに結んでいるだけの髪も丁寧に結われていた。美しく着飾った信の姿に、桓騎はつい感嘆の溜息を零す。

いつも背中に携えている秦王から授かった剣は預けて来たらしい。確かに嫁衣を着て、剣を背負う女など聞いたことがない。

頭のてっぺんから足の先まで着飾った彼女は滅多に見られないので、こうして目に焼けつけるようにしている。今の信の姿を生き写しておく道具がないことが悔やまれる。

絵で描く程度ではだめだ。筆と紙に乗せたところで信の美しさが再現出来るはずがない。

罗鸿ならば今の信の姿を、まるで時を止めたかのように、生き写すことが出来る類の珍しい品を持っているのではないだろうかと考えた。

「…?」

ふと、二度目の違和感を覚える。

ここに来てから信はまだ一滴だって酒を飲んでいないはずなのに、まるで酔ったかのように足元がふらついているのである。

それに加え、とても眠そうな瞳をしており、瞼が落ちかけている。侍女たちの支えがなければすぐにでも倒れ込んでしまいそうだった。

「信?」

「……、……」

声を掛けても、信から返事や反応はない。すでに意識の半分を手放しているようだった。

布で鼻と口元を覆っている二人の侍女に支えられながら何とか四阿へと戻って来た信だが、椅子に座るや否や、化粧や着物の乱れも気にせず、机に突っ伏してしまう。

「おい、信」

「……、……」

不自然なほど・・・・・・、すぐに寝息を立て始めた信に声を掛けるが、深い眠りについてしまったのか返事はない。

本当に眠っているのかと彼女に顔を近づけたその時、茉莉花まつりか ※ジャスミンの一種の香りが鼻についた。嫁衣に焚いてあった香だろうか。

茉莉花自体に鎮静作用があり、気分を落ち着かせる効果があるのだという知識は桓騎も知っていた。

以前、信が屋敷に来た時に、些細なことで言い争いになってしまい、その時に摩論が茉莉花の茶を淹れてくれたのである。

二人が屋敷で喧嘩をすると自分たちが胃を痛めるのだと、さり気なく嫌味を言われながら、茉莉花の効能についても話してくれたのだ。

(眠らされたか)

あれだけ不安定な足取りであったにも関わらず、連れて来た侍女たちは心配するような素振りも見せず、早々に席を外していった。

つまりは信があのような状態になるのを初めから知っていたに違いない。

摩論が茶を淹れてくれた時に嗅いだものと、着物に焚く香では僅かに匂いが違った。恐らくは茉莉花以外に催眠作用のある薬も一緒に焚かれていたのだろう。あるいは、着付けを行う部屋の香炉に薬を仕組んでいたのかもしれない。

そして信の着付けを行った侍女たちが鼻と口元を布で覆っていたのは、着付けの際にその強力な香の影響を受けないようにしていたに違いない。

顔の半分を隠す理由を信に問われれば、貴重な嫁衣に化粧がつかぬようにと答えただろうし、その返答で信も納得して着付けを任せただろう。

それら全てを罗鸿が指示を出したのだと思うと、彼はなかなかの策士であることが分かる。よほど信との婚姻を諦められずにいるらしい。

 

桓騎の推察

桓騎のその読みは当たっていた。

罗鸿の狙いは信であり、彼女を傷つけることは絶対に出来ない。それはここに来る前から断言出来た。

婚姻を結ぶにあたっては、信自身にも良い結婚相手という印象を抱かせておかないと、彼女と親しい者たちから反対されるのは目に見えているし、そうなれば付き合いの短い罗鸿よりも仲間たちの言葉を信用するはずだ。

そして、桓騎自分という邪魔者を消そうとしていることを信に勘付かれれば、間違いなく彼女に阻止されるどころか、瞬時に信頼を失うこととなる。

そうなれば罗鸿がいかに上手い言葉で弁解しようとも、信頼を失ったことで結婚への可能性も絶たれてしまう。むしろ桓騎の殺害を企てた罪で処罰を受けることになり兼ねない。

(そういうことか)

桓騎の中で、罗鸿が考えたであろう筋書きが浮かび上がった。

罗鸿が描く成功への道筋は、信に気づかれぬように桓騎を始末することである。

酒と嫁衣に仕掛けをしていたことを考えると、恐らくは信に席を外させて香で眠らせ、その間に桓騎の毒殺を試みるつもりだったに違いない。

毒酒で倒れた桓騎を人目のつかぬよう遺体の処理を行い、信は嫁衣を着せられたことで強引に婚姻の儀を執り行うつもりだったのだろう。

香のせいで抵抗の出来ない信を無理やり手籠めにするつもりだったのか、彼女に後ろ盾がないことから、婚儀の手順を大いに無視して婚姻を結ぶつもりだったのかは定かではないが、どちらにせよ卑劣なやり方だ。

秦の大将軍である桓騎を手に掛けたとなれば、罗鸿の死罪は確実となる。その罪から逃れるために、事故にでも見せかけて処理をするつもりだったのだろう。

罗鸿の筋書き通りにいかなかったことといえば、桓騎が酒を飲まずに時間稼ぎをしていたことだろう。

もしも罗鸿の筋書き通りに事が進んでいたのなら、桓騎が信とこの場で合流することはなかった。

支度を終えたことを報告しに来た侍女が、この場に信を連れて来て良いのかと罗鸿に聞き返していたことから、それは間違いないだろう。

 

報復開始

「やや、眠られてしまいましたね。随分とお疲れのご様子でしたから、致し方ありませんな」

静かに寝息を立てている信を見て、罗鸿が心配そうに独りごちる。眠り香を用意したのは他でもない彼自身のくせに、白々しい演技だ。

屋敷を訪れた時、信は疲労など微塵も感じさせなかったというのに、相変わらず罗鸿の言葉には演技じみたものを感じる。

罗鸿の冷静ぶりから、桓騎が警戒していることは初めから分かっていたようにも思える。もしかしたら、桓騎が酒を飲まなかった時の策も用意していたのかもしれない。

「風邪を引かれては大変です」

罗鸿が着ている羽織を脱いだのを見て、桓騎は僅かに頬を引き攣らせた。

机に突っ伏して眠っている信の身体が冷えぬように、嫁衣の上から自分の羽織を掛けようとする罗鸿に、反吐が出そうになる。すでに信の夫になったつもりなのだろうか。

「おい」

自分でも驚くような低い声で言い放つと、罗鸿は驚いたように身を竦ませた。

「腕が惜しければそいつに触るな」

今日は腰元に剣は携えていなかったが、いつでも腕を切り落としてやるという桓騎の態度に、罗鸿はみるみるうちに顔を青ざめさせていく。

「………」

何事もなかったかのように罗鸿は羽織に袖を通し、桓騎の威圧感に対抗すべく、まずは咳払いを一つした。

桓騎と彼の軍の残虐性については秦国でも有名だったので、罗鸿も聞いたことがあったに違いない。

躊躇なく子供も老人も例外なく殺す野盗の恐ろしさを前に、逃げ出さないのは度胸がある証拠か、それとも命知らずのどちらかだろう。

 

(ん?)

瞬きをした途端、罗鸿の顔つきと雰囲気が別人のように変わる。いよいよ本性を出して来たかと桓騎は心の中でほくそ笑んだ。

もしもここで完全に信から手を退くのなら見逃してやっても良かったのだが、交渉を始めようとする彼の態度から、信との婚姻をまだ諦めていないのだと察した。

救いようのないやつだと不敵な笑みを浮かべ、桓騎は相変わらずの余裕を見せつける。

「で?そいつに聞かれちゃ不味い話があるんだろ」

御託を並べられるのは面倒だと、桓騎の方から本題に切り込んだ。
しかし、小癪にも罗鸿の方はとぼけるつもりでいるのか、小首を傾げている。

「はて、何のことでしょう?仰る意味が分かり兼ねます」

仕方ないと肩を竦めた桓騎は、今日のために仕入れておいた・・・・・・・とっておきの情報を告げることにした。

もう信も眠っていることだし、今はお互いに本性を曝け出す絶好の機会だ。腹の内がより黒いのはどちらか証明してやろう。

「…贈賄なんざ、手慣れてるじゃねえか。さすが闇商人・・・だなァ?」

贈賄という言葉に反応したのか、もしくは闇商人か、はたまたどちらもか。罗鸿の顔があからさまに引き攣ったのを桓騎は見逃さなかった。

「か、桓騎将軍、どうかそのような悪い御冗談はおやめください」

口元を袖で隠しながら女のように笑うのは、商人として動揺を見抜かれまいと顔を隠そうとしているだろうか。

だが、嘘や隠し事の類は、相手に勘付かれては何も意味がない。

相手が信のように嘘や隠し事が一切出来ない真っ直ぐな性格であったらなら、まだ許容出来たかもしれないが、残念ながら罗鸿に関してはそうはいかない。

元野盗として、人の所有物を盗むことには手練れている桓騎だったが、自分の所有物を狙おうとしている輩には、一切の容赦なく制裁を与えるほど無慈悲で独占欲が凄まじいのである。執着と言ってもいい。

自分以外の誰かに、所有物を横取りされることは絶対に許せなかった。

「随分と物騒な商売してるんだってな?金になるんなら人間を売ることも・・・・・・・・厭わねえらしいじゃねえか」

罗鸿がぐっと歯を食い縛ったのが分かり、桓騎はさらに挑発するようにせせら笑った。

情報というものは金でやり取りできるものである。極秘事項であればあるほど金額も上乗せになるのだが、それだけの価値があると言ってもいい。

 

信に貸しを作ると言った日から、桓騎はさっそく動き出していた。

表向きには出回らない情報も、そちらの方面に知人の多い桓騎ならば、入手することは容易なのである。

もちろん彼らには随分と良くしてもらっているため、謝礼を払う必要もなく、情報を頂けたというワケだ。

…信に勘付かれたら色々と面倒になりそうなので、彼女には今後もその交友関係については内密にする予定である。

「知ってるだろうが、俺の気はそう長くない」

低い声を放った。
見逃してやる条件もまだ提示していないというのに、どうやら罗鸿はまだ挽回する機会あると哀れにも信じているようで、その顔に胡散臭い笑みを貼り付けていた。

「将軍。積もる話は、ぜひともこちらの美酒を味わってからにしましょう」

酒が注がれている杯を差し出しながら、罗鸿が微笑んだ。どうやらまだ毒殺を諦めていなかったらしい。

本来なら早々に桓騎を毒殺し、その死体の処理を行う気でいたのだろう。

桓騎を含め、桓騎軍を憎んでいる者は大勢いる。それを理由に死体の処理はどうとでもなると考えていたに違いない。

もしもそんなことになれば、気性の荒い仲間たちがどのように罗鸿へ報復をするのかも楽しみだが、生憎まだ死んでやるつもりはなかった。

「そんなに美味い酒なのか」

「ええ、ええ!それはとっても!酒蔵から仕入れるのにも、あまりにも人気で買い手が多く、苦労した代物でして」

理由付けて酒を飲ませようとする罗鸿に、もう一芝居打ってやるか・・・・・・・・・・・と、桓騎は注がれた酒を迷うことなく口に運んだ。

「………」

喉を伝う強い痺れに、やはり毒酒の類だと察する。
何度か飲んだことのある味だ。つい最近も飲んだ蛇毒の酒である。毒酒の中でもそう珍しいものではないが、毒に耐性のない者が飲めば即死する代物であることには変わりない。

胃が燃えるように熱くなり、常人なら卒倒してしまいそうな強さの酒だった。

この手の毒は神経に作用するもので、体の痺れを引き起こす。
手足の麻痺から始まり、神経と筋肉の両方に麻痺が起こることで、呼吸器官にも影響するし、そうなれば死に直結する。

もちろん常人ならば抵抗も出来ずに絶命してしまうだろう。しかし、桓騎に限っては・・・・・・・そうでなかった。

「…ほう。確かに美味い酒だな?何処の酒蔵で仕入れた物だ?」

あっと言う間に杯を空にした桓騎が、感想を言いながら酒瓶を手に取って自らお代わりを注いだことに、罗鸿の顔があからさまに引きつっている。

狼狽える視線の先を追い掛けると、台の上にある杯と酒瓶がある。自分に飲ませる酒を間違えたのではないかと考えているのかもしれない。

きっと彼の中では、毒酒を飲んで倒れた桓騎の死体の処理を早々に行うつもりでいたのだろう。

「え、ええと、北方…いえ、蕞の方で贔屓にしている酒蔵、でしたかな?ははは、どうも物覚えが悪くて、申し訳ございません…」

予定を崩されたどころか、毒が効かぬ人間などいるのかと、罗鸿の思考は混乱の渦に陥ってしまったらしい。

「へえ」

二杯目の毒酒も軽々と飲み干した桓騎に、罗鸿の顔色はどんどん悪くなっていく。

「…信も寝ちまった。酌をしてくれる奴が居ねえのが残念だな」

残念そうに言うと、

「あ、ぜ、ぜひとも私が…」

罗鸿が三杯目の毒酒を杯に注いでくれた。その手は僅かに震えており、動揺を隠し切れていない。

なぜ死なないのかとその顔に深々と書かれているのがまた滑稽だった。
種明かしをするつもりはないのだが、その反応はなかなかに楽しませてくれる。

「こんなに美味い酒を俺が独り占めしちまうのは勿体ねえな。叩き起こして信にも飲ませてやるか」

その提案を聞いた罗鸿が驚いて声を裏返した。

「いえ!随分と御休みになっているご様子ですから…!また後日、信将軍には同じものをお贈り致します」

桓騎は得意気に口角を吊り上げたまま罗鸿を見やった。

「なら、お前が付き合えよ」

遠慮する必要はないと、桓騎は近くにあった杯を罗鸿に突き出した。先ほど自分が注いでやったものだ。

この自分が酒を注いでやるのは、信を含めて数える程度の人数しかいないのだが、罗鸿をその数に加えるつもりはない。

もうじき、この男とは永遠の別れになるのだから、加える必要などないのだ。

笑えるくらいに顔を青ざめた罗鸿が杯を受け取らずにいるので、桓騎はわざとらしく小首を傾げた。

「俺からの杯は受け取れねえか」

「あ、い、いえ、あの、貴重な酒ですから、どうぞ桓騎将軍がご賞味いただければと…!」

苦し紛れの言い訳も、そろそろ浮かばなくなって来た頃だろう。罗鸿が企てた計画は、桓騎の毒耐性によって全て狂わされたらしい。

毒酒を注いだ杯を一向に受け取ろうとしないので、桓騎は仕方なく自分で飲むことにした。
酔いが回り始めたことを自覚し、桓騎は頬杖をついて、罗鸿を見つめる。

そろそろ種明かしをしても良い頃合いだろうか。

「…で?家臣たちが誰一人助けに来ない・・・・・・・・・のは、何でだろうなァ?」

愉悦を浮かべた目を細めながら罗鸿に簡単な問題を提示すると、彼は血の気の引いた唇を戦慄かせる。

「ま、まさか…」

すぐに正解を教えてやるのはつまらない。桓騎は口角をつり上げながら言葉を紡いだ。

「桓騎軍の噂は知ってるか?」

「………」

黙り込んでいるのはその噂を知っているからか、そうでないからか、桓騎にとってはどちらでも良かった。

「留守中に忍び込むのも得意だが、俺たちは夜に動く・・・・方がもっと得意なんだよ」

元野盗である自分たちは夜目がよく利くのだと教えてやると、面白いくらいに罗鸿の体が震え始めた。

自分の手の平で転がしている相手が、思い通りに動く姿を見下ろすのは優越感を抱くものだ。
桓騎は歯を剥き出して笑い声を上げた。

 

 

回想

秦の大将軍である桓騎を手に掛けることは、死罪に値するものだ。

その重罪の代償を背負いながらも、しかし罗鸿ラコウは信との婚姻を諦められずにいた。

彼女を手中に収めておけば、彼女の周りの者たちを商売相手にすることが出来る。中でも秦王嬴政との繋がりは喉から手が出るほど欲しい。

信は下僕出身でありながらも、武の才を見抜かれたことで名家である王家の養子となり、そこから他の名家や高官たちとの繋がりを広く持っている。

そんな彼女を妻に娶れば、たちまち商売も広がり、天下の豪商と称えられる日も近くなるだろう。

信との婚姻を狙っている男は数え切れないほどいることは分かっていたし、彼らを出し抜いて、ここまで婚姻の話を手繰り寄せたのは自分の他にいなかった。

だが、確実に自分が信と婚姻するためには、まず桓騎と信の婚姻を何としても阻止しなくてはならない。

桓騎を毒殺したとしても、彼の亡骸が見つかれば捜査が始まる。

あの男が自ら毒を仰ぐはずがない。自死ではなく、何者かの仕業だと必ず勘付く者が現れるだろう。

もちろん検死が入れば、確実に毒を盛ったことを見抜かれ、犯人探しが始まるに違いない。屋敷に招いた自分に疑いの目が向けられるのは当然のことだった。そうなれば信と婚姻するどころではない。

信が桓騎と共にこの屋敷に招かれたことを証言できる以上、二人を屋敷に招いた罗鸿は確実に桓騎を毒殺した罪に問われる。

だからこそ、信の意識がない間に桓騎を毒殺し、その亡骸を隠蔽する必要があった。

桓騎軍は桓騎を含めて元野盗の集まりだ。彼が他の将と違って、秦王に忠誠を誓わずにいる素行の態度は民にまで知れ渡っていたし、急に失踪したとしても何らおかしなことではない。

中華全土に知れ渡っている桓騎軍の残虐性から、彼に恨みを持っている者も多くいる。報復をされたと考えるのがきっと自然だろう。

それを利用して、罗鸿は桓騎を水面下で処理するつもりだった。

金になるならどんな代物でも扱う闇商人である自分だが、力で敵うことはない。
ならば、商人らしく頭を使った策を用いるべきだろう。桓騎が酒好きだという話は聞いたので、それを利用するまでだと考えた。

闇商人の繋がりから、暗殺道具である毒酒を製造している酒蔵を捜し出し、そこで罗鸿は蛇毒で作った毒酒を見つけたのである。

売ってくれた男は気前が良く、毒酒の効果を見せるために、野ネズミにその毒酒を注いだ。

野鼠がすぐに絶命したことから、それが本物の毒酒であると信用した罗鸿は、すぐに購入したのである。なかなかに良い値であったが、桓騎を処分するためには致し方ない出費だった。

騙されたのではないかと疑ったが、野ネズミが絶命したあの姿を見れば、毒酒は本物であると認めざるを得ない。

毒酒を売ってくれた男の話によれば、人間なら一杯飲めば確実に死に至るだろうとのことだった。

 

 

では、どうして桓騎はその毒酒を飲んで生きていられるのか。

自分が注ぐ酒を間違ったのではないかとも思えたが、さすがに直接飲んで確かめるのは代償が大き過ぎる。

本来ならば、信が嫁衣の着付けを行うために席を外している間に、桓騎を毒殺する予定だった。

信のために用意した嫁衣には、催眠作用のある香を焚きつけている。これで彼女を眠らせているうちに、桓騎の亡骸を隠蔽しておけば策は成る。

信が朝に目を覚ましたのなら、桓騎は急用で先に帰宅したとでも言えば良かった。彼女を言い包めることは容易いものだ。

そして嫁衣を着ている彼女を民たちに見せつければ、確実に罗鸿と婚姻を結ぶのだと誤解し、また噂が広まるだろう。そこまで念入りに情報操作が行われれば、もう桓騎は助けに来ないし、信も自分と婚姻をするしかない。

桓騎の亡骸を隠蔽するだけでなく、家臣たちとは口裏を合わせ、もしも桓騎の行方を追う調査が入ったとしても、屋敷を出て行く姿を見たと証言させるつもりでいた。

だから、何としてでもここで桓騎を仕留めておく必要があった。

…だというのに、桓騎は三杯目になる毒酒を飲んでも、少しも苦しむ様子を見せない。

罗鸿は、目の前で歯を剥き出して笑っている男を、呆然と見つめることしか出来なかった。

 

更新をお待ちください。

番外編①(李牧×信)はこちら

番外編②(桓騎×信←王翦)はこちら

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恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「毒酒で乾杯を」の番外編です。

中編①はこちら

 

もてなし

後日、他の民たちの目を避けるためにという名目で、二人は罗鸿ラコウの指示通りに、夜になってから彼の屋敷に訪れた。

罗鸿は二人が護衛も連れずにやって来たことに驚いていたものの、すぐにあの胡散臭い笑顔で出迎えてくれた。

大きな門を潜ると、すぐに広大な庭院が現れた。石橋が掛かっている池の中央には四阿しあ ※東屋がある。

池の水には淀みや苔一つないことから、頻繁に手入れが施されているようだ。金色の鱗を持つ立派な鯉が幾匹も泳いでいる。

これほどまでに大きな屋敷を築き上げることや、その手入れを任せるのに人を雇う財力はそこらの商人では得られない。

屋敷の外装もそうだが、この広大な庭院を見れば、罗鸿が商人として大いに成功していることを物語っていた。

「どうぞこちらへ」

罗鸿が石橋を渡り、池の中央にある四阿へと案内される。すでに四阿には二人の侍女が待機していた。

設置されている椅子に腰を下ろす。机には酒瓶と杯、それから両手に抱えられるくらいの大きさの桐箱が用意されていた。

二人が椅子に腰かけたのを見届けてから、罗鸿が二人に深々と頭を下げた。

「ささやかですが、私からお祝いをさせていただきます。まずはご依頼いただいた品の一つをご覧ください」

用意されていた桐箱の蓋を開けると、そこには赤い嫁衣・・が収納されていた。
絹糸で繕ったその嫁衣は光沢があり、美しい花の刺繍が施されている。着物の価値が分からぬ者でも高級品であると見ただけで理解出来る代物だ。

「一級品の嫁衣をご用意いたしました。婚儀の際にはぜひこちらをお召しください」

「へえ…」

吐息を零しながら信も美しい嫁衣に見惚れている。手に入れたいというよりは、芸術品でも鑑賞しているような顔だった。

金目のものに一切の興味を示さないはずの信がそんな反応を見せるのは珍しいことで、こればかりは罗鸿に依頼しておいて良かったかもしれないと考える。

 

「信将軍。せっかくですからご試着をしてみてはいかがでしょう」

信の反応に気を良くした罗鸿が両手の手の平を擦り付けながら、胡散臭い笑みを浮かべる。

「え?でも…」

桓騎との婚姻は、罗鸿を諦めさせるための偽装工作だ。かなりの値打ちものであるこの嫁衣を実際に着る機会がないことを、信は心のどこかで申し訳なく思っているのだろう。

「良いじゃねえか。試しに着てみろ。修整も必要になるかもしれねえだろ」

それらしい言葉を使って試着を勧める桓騎に、信は少し戸惑いながらも頷いた。

待機していた侍女の一人が嫁衣の入った桐箱を箱抱え、もう一人が信を連れて行く。着付けのために母屋の一室へ案内するらしい。

罗鸿が試着を勧めたのは、きっと信をこの場から遠ざけるためだろう。
恐らく信はこれが罗鸿の策だと気づいていないに違いないが、桓騎はそれを見抜いており、あえてその策に乗ってやろうと、信に試着をするよう命じたのだ。

「信」

三人が四阿を出て、石橋を踏み込んだところで、桓騎は信の背中に声を掛けた。

面紗めんしゃ ※ベールのことはつけるな。それは婚儀の時で良い」

「あ、ああ、分かった」

魔除けの意味が込められており、花嫁の顔を覆うためのうすぎぬを外すのは、婚儀の時に夫となる男の役目である。

単なる試着だとしても、面紗をつけるのは正式な婚儀の場であるべきだ。
規律に縛られることを何よりも嫌っているこの自分が、婚儀の習わしに従おうとしている矛盾に桓騎は苦笑した。

もちろん婚儀を挙げるのは作り話なのだが、彼女が嫁衣を身に纏う姿は是非とも見ておきたい。

(…さァて)

侍女たちに案内され、回廊を通っていく信の姿が見えなくなると、桓騎はいつものように、両足を机へどんと乗せた。

招かれている立場だとしても無礼極まりない態度であることは十分に自覚していたが、罗鸿の感情を煽る目的もあった。

冷静さを取り繕ってはいるものの、余裕を失くした罗鸿が行動に出るならそろそろだろう。

彼自身が行動に移すのはこれからで、しかし、もうすでに水面下では事が進んでいることを、桓騎は書簡を受け取る前から予見していたのである。

「桓騎将軍。信将軍がお戻りになるまで、こちらの美酒をご堪能ください。ささやかですが祝杯でございます」

胡散臭い笑みを深めながら、罗鸿が用意してあった酒瓶を手に取った。

祝い酒として杯に注がれていくそれを見て、桓騎は僅かに目を細める。

「…酌をするやつが、野郎なのは気に入らねえな」

桓騎は注がれた酒をすぐに飲むことはせず、退屈そうに背もたれに身体を預ける。

「どうぞご勘弁を」

そんな理由で酒を飲まれないとは思っていなかったようで、罗鸿が困ったように頭を下げた。

先ほどの侍女たちは信の着付けを行っているようで、戻って来る気配はない。かといって他の侍女が来ることはなく、この場にいるのは桓騎と罗鸿だけだった。

「私はしがない商人で、そう多くは侍女の手配も出来ませんので…」

もっともらしい理由で罗鸿が答える。しかし、桓騎は注がれた酒を飲むことはしなかった。

「随分と謙遜するじゃねぇか?信にはあれだけ自信満々で迫ってた野郎が、どういう風の吹き回しだ?」

遠慮なく棘のある言葉を投げかけると、罗鸿の笑顔が引き攣ったのが分かった。
何を思ったのか、彼はその場に躊躇いなく膝をつく。

「まさか桓騎将軍と信将軍が婚姻を結ばれるとは存じ上げず…どうかご容赦を…」

恐れをなしたというよりは、単に桓騎の機嫌を損ねないようにしているのだろう。少しも誠意のこもっていない謝罪に、桓騎は肩を竦める。

目的を叶えるためなら、容易く膝をついて頭を下げることも厭わない自尊心の低さにはむしろ感心してしまう。

男の膝には大いなる価値があるというのに、商人というものは相手の機嫌を伺わなくてはならない面倒な商売だ。

「隠してたからな。信が縁談を断り続けてたのもこれで納得しただろ」

「返す言葉もございません」

詫びを入れるその顔は、やはり申し訳なさを繕っただけの表情であった。

それから桓騎はこれまで信に貢いで来た贈り物は何なのか、どこで仕入れた品なのかを罗鸿に問うた。

別に興味がある訳ではなく、罗鸿の出方を見るための時間稼ぎである。

他愛のない話を続けていると、どうやら痺れを切らしたのか、罗鸿がわざとらしく咳払いをする。

「桓騎将軍、まだ信将軍はお戻りになりません。先に美酒を堪能してはいかがでしょうか?」

先ほど注いだまま放置していた酒を飲ませようとすることから、やはり酒に何かしらの細工をしているのだと桓騎はすぐに見抜いた。

他の家臣や侍女たちが来ない二人きりの状況で酒を勧めるだなんて、どうぞ疑ってくださいと言っているようなものである。

細工の正体はきっと眠り薬か毒の単純な二択だろう。しかし、早急に桓騎の処理を考えている今の罗鸿が選ぶなら、当然後者になる。

さっさと桓騎を消してしまいたいという焦りが全面的に表れていることに、罗鸿本人は気づいていないようだ。

「…お前も飲めよ。一級品の嫁入り道具を用意してくれた礼だ」

台の上に置かれていた酒瓶を手に取ると、恐らくは信が飲むために用意されていた杯に酒を注いでやる。

「………」

酒を注ぎながら、桓騎は罗鸿の表情に変化がないか横目で確認する。

もしもここで酒を勧められたことに動揺するならば、この酒瓶の中身が毒酒であると見て間違いないだろう。

「いえ、この酒はお二人の祝いのために取り寄せた貴重な代物です。私が頂くには値しません」

表情に動揺は見られなかったが、桓騎の誘いを上手い具合に回避したことから、中味が毒酒であることを確信する。

胡散臭い笑顔で罗鸿は仮面をした気になっているのだろうが、その瞳からはひしひしと殺意が沸き上がっていた。はっきりと殺意を感じるようになったのは、信がこの場からいなくなってからだ。

幼い頃から過酷な環境で育ち、今でも将として戦場に出れば死と隣り合わせである桓騎の前では、殺意は隠しても意味がない。

そして奇策を用いて相手を攻め立てる桓騎には、ずる賢い策略など、たとえここが戦場でなくとも無意味なのである。

きっと罗鸿からしてみれば、桓騎さえいなければ、あともう一押しで信を手に入れることが出来たと歯痒い想いをしていることだろう。

だが、そもそも人の女を盗ろうとした方が悪いのだ。

最後は自分が勝利を噛み締めて高らかに笑っている姿を想像しながら、桓騎は罗鸿の策に乗ってやろうと、自分に注がれた酒杯に手を伸ばした。

 

もてなし その二

罗鸿ラコウ様」

ちょうどその時、先ほど信を母屋へ連れて行った侍女の一人が現れた。嫁衣の着付けが終わったのか、侍女が罗鸿に何かを耳打ちする。

桓騎が違和感に覚えたのはその時だった。
侍女の鼻から顎まで厚手の布で覆われており、顔の半分が隠されていたのである。

仕入れた嫁衣は桓騎の注文通り、一級品の代物なのだから、着付けの際、侍女の化粧や香油がつかないように配慮したのかもしれない。

未だ桓騎が酒を飲まずにいることには気がかりのようだが、侍女の話を聞いた罗鸿は桓騎の方に向き直り、あの胡散臭い笑顔を浮かべた。

「信将軍の御支度が整ったようです。それでは、さっそくこの場にお連れしなさい」

「え…よろしいのですか?」

侍女が聞き返すと、罗鸿はきっと彼女を睨みつけた。
その視線に怯えた侍女は足早に四阿を後にする。支度を終えた信を連れて来るらしい。

良い金づるである桓騎と信の前では、いつだって笑みを絶やさずにいたのに、侍女に見せた鋭い目つきに、桓騎はそちらが罗鸿の本性かと考えた。

そんな表情を呆気なく披露してしまうくらい、もう彼には余裕が残されていないのだろう。

「いやはや、信将軍の花嫁姿が拝めるとは、なんたる幸福でしょう」

罗鸿の鼻息は僅かに荒かった。
信の嫁衣姿を心待ちにしていたのか、それともこれから邪魔者を消して自分の策略通りにいくことを想像し、出世の喜びを噛み締めているのか。

…どちらにせよ、それは今しか味わえない幸福だと桓騎は心の中でほくそ笑んだ。

 

「お連れしました」

二人の侍女に連れられて、赤い嫁衣に身を包んだ信が回廊から現れる。

「ほう」

その姿を見て、自然と口角が上がってしまう。

桓騎に言われた通りに面紗はしていなかったが、顔には化粧が施されている。
信の顔に刻まれている小さな傷痕が隠れているのは白粉を使ったからだろう。唇には紅が引かれており、上品さが際立っている。

いつもは後ろで一括りに結んでいるだけの髪も丁寧に結われていた。美しく着飾った信の姿に、桓騎はつい感嘆の溜息を零す。

いつも背中に携えている秦王から授かった剣は預けて来たらしい。確かに嫁衣を着て、剣を背負う女など聞いたことがない。

頭のてっぺんから足の先まで着飾った彼女は滅多に見られないので、こうして目に焼けつけるようにしている。今の信の姿を生き写しておく道具がないことが悔やまれる。

絵で描く程度ではだめだ。筆と紙に乗せたところで信の美しさが再現出来るはずがない。

罗鸿ならば今の信の姿を、まるで時を止めたかのように、生き写すことが出来る類の珍しい品を持っているのではないだろうかと考えた。

「…?」

ふと、二度目の違和感を覚える。

ここに来てから信はまだ一滴だって酒を飲んでいないはずなのに、まるで酔ったかのように足元がふらついているのである。

それに加え、とても眠そうな瞳をしており、瞼が落ちかけている。侍女たちの支えがなければすぐにでも倒れ込んでしまいそうだった。

「信?」

「……、……」

声を掛けても、信から返事や反応はない。すでに意識の半分を手放しているようだった。

布で鼻と口元を覆っている二人の侍女に支えられながら何とか四阿へと戻って来た信だが、椅子に座るや否や、化粧や着物の乱れも気にせず、机に突っ伏してしまう。

「おい、信」

「……、……」

不自然なほど・・・・・・、すぐに寝息を立て始めた信に声を掛けるが、深い眠りについてしまったのか返事はない。

本当に眠っているのかと彼女に顔を近づけたその時、茉莉花まつりか ※ジャスミンの一種の香りが鼻についた。嫁衣に焚いてあった香だろうか。

茉莉花自体に鎮静作用があり、気分を落ち着かせる効果があるのだという知識は桓騎も知っていた。

以前、信が屋敷に来た時に、些細なことで言い争いになってしまい、その時に摩論が茉莉花の茶を淹れてくれたのである。

二人が屋敷で喧嘩をすると自分たちが胃を痛めるのだと、さり気なく嫌味を言われながら、茉莉花の効能についても話してくれたのだ。

(眠らされたか)

あれだけ不安定な足取りであったにも関わらず、連れて来た侍女たちは心配するような素振りも見せず、早々に席を外していった。

つまりは信があのような状態になるのを初めから知っていたに違いない。

摩論が茶を淹れてくれた時に嗅いだものと、着物に焚かれている香では僅かに匂いが違った。恐らくは茉莉花以外に催眠作用のある薬も一緒に焚かれていたのだろう。あるいは、着付けを行う部屋の香炉に薬を仕組んでいたのかもしれない。

そして信の着付けを行った侍女たちが鼻と口元を布で覆っていたのは、着付けの際にその強力な香の影響を受けないようにしていたに違いない。

顔の半分を隠す理由を信に問われれば、貴重な嫁衣に化粧がつかぬようにと答えただろうし、その返答で信も納得して着付けを任せただろう。

それら全てを罗鸿が指示を出したのだと思うと、彼はなかなかの策士であることが分かる。よほど信との婚姻を諦められずにいるらしい。

 

桓騎の推察

桓騎のその読みは当たっていた。

罗鸿の狙いは信であり、彼女を傷つけることは絶対に出来ない。それはここに来る前から断言出来た。

婚姻を結ぶにあたっては、信自身にも良い結婚相手という印象を抱かせておかないと、彼女と親しい者たちから反対されるのは目に見えているし、そうなれば付き合いの短い罗鸿よりも仲間たちの言葉を信用するはずだ。

そして、桓騎自分という邪魔者を消そうとしていることを信に勘付かれれば、間違いなく彼女に阻止されるどころか、瞬時に信頼を失うこととなる。

そうなれば罗鸿がいかに上手い言葉で弁解しようとも、信頼を失ったことで結婚への可能性も絶たれてしまう。むしろ桓騎の殺害を企てた罪で処罰を受けることになり兼ねない。

(そういうことか)

桓騎の中で、罗鸿が考えたであろう筋書きが浮かび上がった。

罗鸿が描く成功への道筋は、信に気づかれぬように桓騎を始末することである。

酒と嫁衣に仕掛けをしていたことを考えると、恐らくは信に席を外させて香で眠らせ、その間に桓騎の毒殺を試みるつもりだったに違いない。

毒酒で倒れた桓騎を人目のつかぬよう遺体の処理を行い、信は嫁衣を着せられたことで強引に婚姻の儀を執り行うつもりだったのだろう。

香のせいで抵抗の出来ない信を無理やり手籠めにするつもりだったのか、彼女に後ろ盾がないことから、婚儀の手順を大いに無視して婚姻を結ぶつもりだったのかは定かではないが、どちらにせよ卑劣なやり方だ。

秦の大将軍である桓騎を手に掛けたとなれば、罗鸿の死罪は確実となる。その罪から逃れるために、事故にでも見せかけて処理をするつもりだったのだろう。

罗鸿の筋書き通りにいかなかったことといえば、桓騎が酒を飲まずに時間稼ぎをしていたことだろう。

もしも罗鸿の筋書き通りに事が進んでいたのなら、桓騎が信とこの場で合流することはなかった。

支度を終えたことを報告しに来た侍女が、この場に信を連れて来て良いのかと罗鸿に聞き返していたことから、それは間違いないだろう。

 

報復開始

「やや、眠られてしまいましたね。随分とお疲れのご様子でしたから、致し方ありませんな」

静かに寝息を立てている信を見て、罗鸿が心配そうに独りごちる。眠り香を用意したのは他でもない彼自身のくせに、白々しい演技だ。

屋敷を訪れた時、信は疲労など微塵も感じさせなかったというのに、相変わらず罗鸿の言葉には演技じみたものを感じる。

罗鸿の冷静ぶりから、桓騎が警戒していることは初めから分かっていたようにも思える。もしかしたら、桓騎が酒を飲まなかった時の策も用意していたのかもしれない。

「風邪を引かれては大変です」

罗鸿が着ている羽織を脱いだのを見て、桓騎は僅かに頬を引き攣らせた。

机に突っ伏して眠っている信の身体が冷えぬように、嫁衣の上から自分の羽織を掛けようとする罗鸿に、反吐が出そうになる。すでに信の夫になったつもりなのだろうか。

「おい」

自分でも驚くような低い声で言い放つと、罗鸿は驚いたように身を竦ませた。

「腕が惜しければそいつに触るな」

今日は腰元に剣は携えていなかったが、いつでも腕を切り落としてやるという桓騎の態度に、罗鸿はみるみるうちに顔を青ざめさせていく。

「………」

何事もなかったかのように罗鸿は羽織に袖を通し、桓騎の威圧感に対抗すべく、まずは咳払いを一つした。

桓騎と彼の軍の残虐性については秦国でも有名だったので、罗鸿も聞いたことがあったに違いない。

躊躇なく子供も老人も例外なく殺す野盗の恐ろしさを前に、逃げ出さないのは度胸がある証拠か、それとも命知らずのどちらかだろう。

 

(ん?)

瞬きをした途端、罗鸿の顔つきと雰囲気が別人のように変わる。いよいよ本性を出して来たかと桓騎は心の中でほくそ笑んだ。

もしもここで完全に信から手を退くのなら見逃してやっても良かったのだが、交渉を始めようとする彼の態度から、信との婚姻をまだ諦めていないのだと察した。

救いようのないやつだと不敵な笑みを浮かべ、桓騎は相変わらずの余裕を見せつける。

「で?そいつに聞かれちゃ不味い話があるんだろ」

御託を並べられるのは面倒だと、桓騎の方から本題に切り込んだ。
しかし、小癪にも罗鸿の方はとぼけるつもりでいるのか、小首を傾げている。

「はて、何のことでしょう?仰る意味が分かり兼ねます」

仕方ないと肩を竦めた桓騎は、今日のために仕入れておいた・・・・・・・とっておきの情報を告げることにした。

もう信も眠っていることだし、今はお互いに本性を曝け出す絶好の機会だ。腹の内がより黒いのはどちらか証明してやろう。

「…贈賄なんざ、手慣れてるじゃねえか。さすが闇商人・・・だなァ?」

贈賄という言葉に反応したのか、もしくは闇商人か、はたまたどちらもか。罗鸿の顔があからさまに引き攣ったのを桓騎は見逃さなかった。

「か、桓騎将軍、どうかそのような悪い御冗談はおやめください」

口元を袖で隠しながら女のように笑うのは、商人として動揺を見抜かれまいと顔を隠そうとしているだろうか。

だが、嘘や隠し事の類は、相手に勘付かれては何も意味がない。

相手が信のように嘘や隠し事が一切出来ない真っ直ぐな性格であったらなら、まだ許容出来たかもしれないが、残念ながら罗鸿に関してはそうはいかない。

元野盗として、人の所有物を盗むことには手練れている桓騎だったが、自分の所有物を狙おうとしている輩には、一切の容赦なく制裁を与えるほど無慈悲で独占欲が凄まじいのである。執着と言ってもいい。

自分以外の誰かに、所有物を横取りされることは絶対に許せなかった。

「随分と物騒な商売してるんだってな?金になるんなら人間を売ることも・・・・・・・・厭わねえらしいじゃねえか」

罗鸿がぐっと歯を食い縛ったのが分かり、桓騎はさらに挑発するようにせせら笑った。

情報というものは金でやり取りできるものである。極秘事項であればあるほど金額も上乗せになるのだが、それだけの価値があると言ってもいい。

 

信に貸しを作ると言った日から、桓騎はさっそく動き出していた。

表向きには出回らない情報も、そちらの方面に知人の多い桓騎ならば、入手することは容易なのである。

もちろん彼らには随分と良くしてもらっているため、謝礼を払う必要もなく、情報を頂けたというワケだ。

…信に勘付かれたら色々と面倒になりそうなので、彼女には今後もその交友関係については内密にする予定である。

「知ってるだろうが、俺の気はそう長くない」

低い声を放った。
見逃してやる条件もまだ提示していないというのに、どうやら罗鸿はまだ挽回する機会あると哀れにも信じているようで、その顔に胡散臭い笑みを貼り付けていた。

「将軍。積もる話は、ぜひともこちらの美酒を味わってからにしましょう」

酒が注がれている杯を差し出しながら、罗鸿が微笑んだ。どうやらまだ毒殺を諦めていなかったらしい。

本来なら早々に桓騎を毒殺し、その死体の処理を行う気でいたのだろう。

桓騎を含め、桓騎軍を憎んでいる者は大勢いる。それを理由に死体の処理はどうとでもなると考えていたに違いない。

もしもそんなことになれば、気性の荒い仲間たちがどのように罗鸿へ報復をするのかも楽しみだが、生憎まだ死んでやるつもりはなかった。

「そんなに美味い酒なのか」

「ええ、ええ!それはとっても!酒蔵から仕入れるのにも、あまりにも人気で買い手が多く、苦労した代物でして」

理由付けて酒を飲ませようとする罗鸿に、もう一芝居打ってやるか・・・・・・・・・・・と、桓騎は注がれた酒を迷うことなく口に運んだ。

「………」

喉を伝う強い痺れに、やはり毒酒の類だと察する。
何度か飲んだことのある味だ。つい最近も飲んだ蛇毒の酒である。毒酒の中でもそう珍しいものではないが、毒に耐性のない者が飲めば即死する代物であることには変わりない。

胃が燃えるように熱くなり、常人なら卒倒してしまいそうな強さの酒だった。

この手の毒は神経に作用するもので、体の痺れを引き起こす。
手足の麻痺から始まり、神経と筋肉の両方に麻痺が起こることで、呼吸器官にも影響するし、そうなれば死に直結する。

もちろん常人ならば抵抗も出来ずに絶命してしまうだろう。しかし、桓騎に限っては・・・・・・・そうでなかった。

「…ほう。確かに美味い酒だな?何処の酒蔵で仕入れた物だ?」

あっと言う間に杯を空にした桓騎が、感想を言いながら酒瓶を手に取って自らお代わりを注いだことに、罗鸿の顔があからさまに引きつっている。

狼狽える視線の先を追い掛けると、台の上にある杯と酒瓶がある。自分に飲ませる酒を間違えたのではないかと考えているのかもしれない。

きっと彼の中では、毒酒を飲んで倒れた桓騎の死体の処理を早々に行うつもりでいたのだろう。

「え、ええと、北方…いえ、蕞の方で贔屓にしている酒蔵、でしたかな?ははは、どうも物覚えが悪くて、申し訳ございません…」

予定を崩されたどころか、毒が効かぬ人間などいるのかと、罗鸿の思考は混乱の渦に陥ってしまったらしい。

「へえ」

二杯目の毒酒も軽々と飲み干した桓騎に、罗鸿の顔色はどんどん悪くなっていく。

「…信も寝ちまった。酌をしてくれる奴が居ねえのが残念だな」

残念そうに言うと、

「あ、ぜ、ぜひとも私が…」

罗鸿が三杯目の毒酒を杯に注いでくれた。その手は僅かに震えており、動揺を隠し切れていない。

なぜ死なないのかとその顔に深々と書かれているのがまた滑稽だった。
種明かしをするつもりはないのだが、その反応はなかなかに楽しませてくれる。

「こんなに美味い酒を俺が独り占めしちまうのは勿体ねえな。叩き起こして信にも飲ませてやるか」

その提案を聞いた罗鸿が驚いて声を裏返した。

「いえ!随分と御休みになっているご様子ですから…!また後日、信将軍には同じものをお贈り致します」

桓騎は得意気に口角を吊り上げたまま罗鸿を見やった。

「なら、お前が付き合えよ」

遠慮する必要はないと、桓騎は近くにあった杯を罗鸿に突き出した。先ほど自分が注いでやったものだ。

この自分が酒を注いでやるのは、信を含めて数える程度の人数しかいないのだが、罗鸿をその数に加えるつもりはない。

もうじき、この男とは永遠の別れになるのだから、加える必要などないのだ。

笑えるくらいに顔を青ざめた罗鸿が杯を受け取らずにいるので、桓騎はわざとらしく小首を傾げた。

「俺からの杯は受け取れねえか」

「あ、い、いえ、あの、貴重な酒ですから、どうぞ桓騎将軍がご賞味いただければと…!」

苦し紛れの言い訳も、そろそろ浮かばなくなって来た頃だろう。罗鸿が企てた計画は、桓騎の毒耐性によって全て狂わされたらしい。

毒酒を注いだ杯を一向に受け取ろうとしないので、桓騎は仕方なく自分で飲むことにした。
酔いが回り始めたことを自覚し、桓騎は頬杖をついて、罗鸿を見つめる。

そろそろ種明かしをしても良い頃合いだろうか。

「…で?家臣たちが誰一人助けに来ない・・・・・・・・・のは、何でだろうなァ?」

愉悦を浮かべた目を細めながら罗鸿に簡単な問題を提示すると、彼は血の気の引いた唇を戦慄かせる。

「ま、まさか…」

すぐに正解を教えてやるのはつまらない。桓騎は口角をつり上げながら言葉を紡いだ。

「桓騎軍の噂は知ってるか?」

「………」

黙り込んでいるのはその噂を知っているからか、そうでないからか、桓騎にとってはどちらでも良かった。

「留守中に忍び込むのも得意だが、俺たちは夜に動く・・・・方がもっと得意なんだよ」

元野盗である自分たちは夜目がよく利くのだと教えてやると、面白いくらいに罗鸿の体が震え始めた。

自分の手の平で転がしている相手が、思い通りに動く姿を見下ろすのは優越感を抱くものだ。
桓騎は歯を剥き出して笑い声を上げた。

 

 

回想

秦の大将軍である桓騎を手に掛けることは、死罪に値するものだ。

その重罪の代償を背負いながらも、しかし罗鸿ラコウは信との婚姻を諦められずにいた。

彼女を手中に収めておけば、彼女の周りの者たちを商売相手にすることが出来る。中でも秦王嬴政との繋がりは喉から手が出るほど欲しい。

信は下僕出身でありながらも、武の才を見抜かれたことで名家である王家の養子となり、そこから他の名家や高官たちとの繋がりを広く持っている。

そんな彼女を妻に娶れば、たちまち商売も広がり、天下の豪商と称えられる日も近くなるだろう。

信との婚姻を狙っている男は数え切れないほどいることは分かっていたし、彼らを出し抜いて、ここまで婚姻の話を手繰り寄せたのは自分の他にいなかった。

だが、確実に自分が信と婚姻するためには、まず桓騎と信の婚姻を何としても阻止しなくてはならない。

桓騎を毒殺したとしても、彼の亡骸が見つかれば捜査が始まる。

あの男が自ら毒を仰ぐはずがない。自死ではなく、何者かの仕業だと必ず勘付く者が現れるだろう。

もちろん検死が入れば、確実に毒を盛ったことを見抜かれ、犯人探しが始まるに違いない。屋敷に招いた自分に疑いの目が向けられるのは当然のことだった。そうなれば信と婚姻するどころではない。

信が桓騎と共にこの屋敷に招かれたことを証言できる以上、二人を屋敷に招いた罗鸿は確実に桓騎を毒殺した罪に問われる。

だからこそ、信の意識がない間に桓騎を毒殺し、その亡骸を隠蔽する必要があった。

桓騎軍は桓騎を含めて元野盗の集まりだ。彼が他の将と違って、秦王に忠誠を誓わずにいる素行の態度は民にまで知れ渡っていたし、急に失踪したとしても何らおかしなことではない。

中華全土に知れ渡っている桓騎軍の残虐性から、彼に恨みを持っている者も多くいる。報復をされたと考えるのがきっと自然だろう。

それを利用して、罗鸿は桓騎を水面下で処理するつもりだった。

金になるならどんな代物でも扱う闇商人である自分だが、力で敵うことはない。
ならば、商人らしく頭を使った策を用いるべきだろう。桓騎が酒好きだという話は聞いたので、それを利用するまでだと考えた。

闇商人の繋がりから、暗殺道具である毒酒を製造している酒蔵を捜し出し、そこで罗鸿は蛇毒で作った毒酒を見つけたのである。

売ってくれた男は気前が良く、毒酒の効果を見せるために、野ネズミにその毒酒を注いだ。

野鼠がすぐに絶命したことから、それが本物の毒酒であると信用した罗鸿は、すぐに購入したのである。なかなかに良い値であったが、桓騎を処分するためには致し方ない出費だった。

騙されたのではないかと疑ったが、野ネズミが絶命したあの姿を見れば、毒酒は本物であると認めざるを得ない。

毒酒を売ってくれた男の話によれば、人間なら一杯飲めば確実に死に至るだろうとのことだった。

 

 

では、どうして桓騎はその毒酒を飲んで生きていられるのか。

自分が注ぐ酒を間違ったのではないかとも思えたが、さすがに直接飲んで確かめるのは代償が大き過ぎる。

本来ならば、信が嫁衣の着付けを行うために席を外している間に、桓騎を毒殺する予定だった。

信のために用意した嫁衣には、催眠作用のある香を焚きつけている。これで彼女を眠らせているうちに、桓騎の亡骸を隠蔽しておけば策は成る。

信が朝に目を覚ましたのなら、桓騎は急用で先に帰宅したとでも言えば良かった。彼女を言い包めることは容易いものだ。

そして嫁衣を着ている彼女を民たちに見せつければ、確実に罗鸿と婚姻を結ぶのだと誤解し、また噂が広まるだろう。そこまで念入りに情報操作が行われれば、もう桓騎は助けに来ないし、信も自分と婚姻をするしかない。

桓騎の亡骸を隠蔽するだけでなく、家臣たちとは口裏を合わせ、もしも桓騎の行方を追う調査が入ったとしても、屋敷を出て行く姿を見たと証言させるつもりでいた。

だから、何としてでもここで桓騎を仕留めておく必要があった。

…だというのに、桓騎は三杯目になる毒酒を飲んでも、少しも苦しむ様子を見せない。

罗鸿は、目の前で歯を剥き出して笑っている男を、呆然と見つめることしか出来なかった。

 

後編はこちら

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平行線の交差、その先に(桓騎×信←蒙恬)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/蒙恬×信/年齢操作あり/年下攻め/ギャグ寄り/甘々/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編②はこちら

 

相愛

縁談を受けようとしている桓騎に、信は何度か視線を彷徨わせてから口を開く。

「…そんなの、お前の好きにすれば良いだろ」

何とも思っていなさそうな表情を装って、そう返した信が虚勢を張っているのはすぐに分かった。てっきり逆上されるとばかり思っていたので、桓騎の中で信のその反応は予想外だった。

「お前だって、もうガキじゃねえんだし、誰もが認める立派な将だ。妻の一人や二人いても別におかしい話じゃねえだろ」

静かに右手が拳を作ったのを、桓騎は見逃さなかった。
その仕草が何かを堪える時の信の癖・・・・・・・・・・・だと知ったのは、秦趙同盟で李牧がそれを指摘してからだった。

「へえ」

こうなればとことん本音を引き出すまで意地悪をしたくなる。幼稚な考えだと頭では分かっているのだがやめられない。

こういった駆け引きは最後までどうなるか分からないから楽しめるのだ。

「なら、この間届いた縁談の話でも聞きに行ってみるか。県令※県の長官の娘らしい。若くて美人だってな」

「……、……」

信が何か言いたげに唇を戦慄かせたが、すぐに口を閉ざしてしまう。

本当は嫌だと思っているくせに、自尊心だったり、こちらの気持ちを考慮して本心を言えないのだろう。

どう言い返して来るかとにやけを堪えていると、信は体の一部が痛むかのような切なげな表情を浮かべ、桓騎から目線を逸らした。

「勝手にしろよ…俺に、止める権利なんてない…」

うっすらと涙を浮かべいる痛ましいその表情を見て、そんな顔をさせたくてからかったつもりではなかったのにと、良心がずきりと痛む。

「信」

先に白旗を上げたのは桓騎の方だった。

「冗談だ。悪かった」

信の身体をしっかりと抱き締める。いきなり抱き締められたことに驚きはしたものの、信はその腕を振り解くことはしなかった。

桓騎の胸に顔を預け、涙を堪えるように、ぎゅっと拳を握っている。

いつもの癖で爪が食い込んで血を流さぬよう、桓騎は右手を掴んで、拳を無理やり開かせた。

「痛ッ…」

昔からずっと爪の痕が残っている其処に軽く噛みついてから、桓騎は彼女を真っ直ぐな眼差しで見つめた。

「もう縁談なんて届いてねえよ」

「えっ!?」

信が弾かれたように顔を上げる。

 

「な、なんでだよっ?そんなワケねえだろッ」

知将として名を広めている桓騎に縁談が届いていないなど、そんなはずがないと信が驚いている。

これだけの武功を挙げておきながら、未だ伴侶がいない将軍なんて、女が放っておくはずがない。

訳が分からないといった顔をしている信に、桓騎は苦笑を深めた。

「本当だ。俺がお前にしか興味ないことを、秦国で知らないバカはいないからな」

そう言ってから、秦国で桓騎が信にしか興味がないという話を知らなかった人物が一人だけいたことを思い出した。目の前の愚鈍な女だ。

彼女を安心させるために嘘を吐いたのではなく、以前から桓騎のもとに縁談が来なくなったのは紛れもない事実である。

桓騎が信に想いを寄せているということは、秦国では民にまで広まっている。それは桓騎が芙蓉閣にいる時から、信を手に入れるために外堀を埋めて続けた成果でもあった。

そのせいか、どれだけ高い地位と美貌を持つ女性であっても、信一筋である桓騎には縁談を断られるという噂も同じくらい広まっていたのである。

将軍昇格をしてから、桓騎に直接届いていた縁談も、日を追うごとに少なくなっていた。

秦趙同盟の後に二人が結ばれたという噂が広まってからは、誇張なしに桓騎のもとに縁談話が来ることはなくなっていたのである。

桓騎がずっと信に想いを寄せていたという話が秦国に広まっていたことを、民衆の噂に関心を示さない彼女はずっと知らずにいた。

もちろん桓騎軍や飛信軍の兵たちも桓騎と信の関係にはとっくに気づいているのに、未だに信は隠せている気になっているらしい。

蒙恬の想いに気づいていなかったこともそうだが、彼女は自分自身のことになると、とことん鈍いのだ。

「もうあのクソガキにちょっかい出されないように、さっさと俺と婚姻しろよ」

「な、ななな、な…!」

何度目になるか分からない桓騎からの熱烈な告白に顔を真っ赤にした信は、陸から上がった魚のように口をぱくぱくと開閉させたものの、言葉が出ないでいるらしい。

幼い頃から何度もお前が好きだと伝えているはずなのに、まるで初めて聞いたかのようなその反応が堪らなく愛おしかった。

 

 

「は、放せ、放せってばッ!」

やがて羞恥心が限界に達したのか、信は桓騎の腕の中から抜け出そうと、膝の上でじたばたと暴れ出す。

その動きをみれば、薬が抜け始めているようだ。しかし、完全には抜け切っていないようで、桓騎が彼女の体を抑え込むのは簡単だった。

幼い頃は彼女から容赦なく平手打ちもげんこつを食らっていたが、成長した今ではこんなにも信の体が小さく感じてしまう。

もしも薬が完全に抜け切っていたら、容赦なく一発殴られていただろうが、惚れている女の弱っている姿を見ることが出来るのは、自分だけの特権だ。

「悪かったって言ってるだろ」

「うるさいッ!さっさと放せって!」

素直に謝っているというのに、信は話を聞こうとしない。

お前の顔なんて見たくないと言わんばかりに、顔ごと視線を逸らされたので、桓騎は僅かに苛立ちを覚えて、強引に唇を重ねた。

「んんッ」

信が嫌がって首を振ろうとするが、桓騎は彼女の体を抱き締めたまま、放さなかった。

遠慮なく舌を差し込むと、甘く噛みついて来る。どうやらそれで抵抗しているつもりらしい。その気になれば噛み切ることも容易いだろうに、そうしないのは無意識に男を煽っているからなのだろうか。

大量に水を飲ませたことで薬は抜け始めているのだから、もうそれは言い訳に使えないはずだ。

こうなれば本当に舌を噛み切られたとしても、彼女の本音を引き摺り出してやろうと思い、桓騎は目を細めて唾液を啜った。

「ん、ぅ、むっ…むぐぐっ」

苦しそうな声を上げているものの、逆に桓騎に舌を絡め取られて甘く噛みつかれ、ぶわりと鳥肌が立てたのが分かった。意識的に起こせる反応ではない。

こうなればこちらの勝ちだと桓騎は確信する。

「ふ、ぁ…は、ぁ…」

口づけを交わしていくうちに、信の瞳がとろんと情欲に色づいていく。

未遂であったとはいえ、この顔を蒙恬に見られたかもしれないと思うと、桓騎の胸に激しい嫉妬の感情が渦巻いた。

こんなにも独占欲を募らせていることに、信は呆れてしまわぬだろうかと時々不安を覚えることがある。

信が過去に関係を持っていた李牧とは、信自身が決別を決めたというのに、今回の蒙恬のことがあったせいか、目を離せば自分以外の男に奪われてしまうのではないかという心配事が絶えない。

それだけ信のことが愛おしくて、誰にも奪われたくなかったし、決して失いたくなかった。

「ぁ…ぅ、はぁ…」

長い口づけを終えると、信が肩で息をしていた。

呼吸が整うと、甘い視線を向けられて、桓騎の口角が自然とつり上がる。信の情欲に火が点いたことをすぐに察した。

 

相愛 その二

言葉を交わすことなく、邪魔になった鎧を乱雑に外しながら、桓騎は信の身体を寝台に横たえる。

「っ…」

すぐに身体を組み敷くと、恥ずかしそうに信が目を逸らした。しかし、嫌だとは言わないし、抵抗する素振りは見せない。

それだけで、彼女が自分を受け入れてくれているのだとすぐに分かった。

今さら生娘のように震えないのは、もう幾度となく体を重ねたからである。
しかし、彼女の破瓜を奪ったのは李牧で、信の体に女としての男に抱かれる喜びを教え込んだのも彼だろう。

信がこの行為を嫌悪しないどころか、好意的なのは李牧の仕業だと分かっていた。誰にでも軽率に足を開く女にならなくて良かったと心の底から思う反面、本当なら自分が信の破瓜を破りたかったとも思う。

「っ…」

言葉に出さずとも自分が欲しいとせがんでいるくせに、恥じらいが消えない初心なその態度に、思わず笑みが零れてしまう。

「あ、明日…」

「分かってる」

明日の早朝にここを出立をすることは知っていた。しかし、それを理由にやめろとは言われない。

最愛の彼女に求められれば何でも応えてやりたかったし、自分の意志一つで簡単に鎮火できるほど、桓騎が信を欲する気持ちは弱くなかった。

「う…」

身を屈めて、桓騎が首筋に唇を押し当てると、信の身体が緊張で強張ったのが分かった。
同時に嗅ぎ慣れない香の匂いが鼻につき、桓騎は思わず眉根を寄せる。

(あいつの香か)

恐らく蒙恬が着物に焚いている香の匂いだろう。
未遂であったとはいえ、信はこの寝台に寝かされていた。酒に混ぜた薬で眠らされたのなら、抱き上げられてこの寝台まで運ばれたに違いない。

この女の体に、自分以外の男が触れた証など何一つ残したくなかった。もしもその身が蒙恬によって暴かれていたのなら、二度と信を外に出すことなく、自分の屋敷に閉じ込めていたかもしれない。

嫉妬の感情に襲われ、容赦なく首筋を上下の歯で挟み込むと、信が痛みに顔をしかめる。

「痛ぇ、って…!」

血が滲むほど強く歯を立てて赤い歯形が残ると、ようやく蒙恬に襲われた危機から、自分という存在を上書き出来たような気がした。

「お前、なんでいつも噛むんだよ…」

痛みを和らげるように刻まれたばかりの歯形を擦りながら、信が文句を言う。指摘されてから、そういえば情事になるとよく彼女の肌に痕を残している自分に気が付いた。

「さあな」

それが独占欲の表れであることはもちろん桓騎も自覚したのだが、言葉に出すことはしない。

信が自分よりも大人であることは事実だし、また彼女から子ども扱いされるのは嫌だった。

着物の襟合わせを広げると、見慣れた傷だらけの肌が現れた。信が幾つもの死地を生き抜いた証でもある傷痕は何度見ても崇高を感じてしまう。先ほど新たに刻んだ歯形にも指を這わせると、くすぐったそうに信が身を捩った。

「ぁ、…」

程良く膨らんでいる胸に指を食い込ませると、心地よい弾力があって、肌は吸い付くように滑らかだ。

「っ、ん…ぅ」

胸の芽を指で弾くと、信が切なげに眉根を寄せて声を押し殺そうとする。羞恥心があるからなのか、信は情事の最中にあまり声を上げようとしない。

確かに今ここで声を上げれば、桓騎軍の仲間たちにその声を聞かれることになるだろう。しかし、仲間たちはすでに二人の関係を知っていたし、信へ長年片思いをしていたことや、桓騎の信に対する独占欲も分かっている。

自分も混ぜてくれなど無粋な真似をするような輩は仲間の中に誰一人としていない。

もちろん桓騎軍のそのような事情を知らない信は、誰かに自分の喘ぎ声を聞かれることを恥ずかしいと思っているらしい。

胸の芽を指で摘まんだり、押し潰したりしていると、敏感なそこがもっと愛でてほしいと頭を持ち上げた。これで弄りやすくなったと桓騎が笑みを深めて愛撫を続けていると、みるみるうちに信の呼吸が激しくなっていくのが分かった。

まるで感じているのを誤魔化すように、信の両手が動いて、桓騎の着物に手を掛ける。

「う、んんッ…」

仕返しでもするつもりなのか、僅かに頭を持ち上げた信が首筋に歯を立てて来る。それくらいの痛みで怯むはずがないのだが、気を遣っているのか、甘く噛んで来るところがまた愛おしい。

ますます情欲の炎が激しくなり、桓騎は信の脚の間に手を伸ばした。

 

「だ、だめだ、って…!」

僅かに湿り気と熱気を感じる其処をさっそく愛撫し始めようとした途端、信が随分と慌てた様子で手首を押さえ込む。

「はあ?」

なぜ制止されたのか分からず、桓騎は怪訝に眉間を曇らせた。

「あ、明日の早朝に、ここを発つんだぞっ…!」

言葉に出さずとも欲しいと求めて来たのは信の方なのに、彼女は将としての役目を全うしようと生真面目なことを言い出した。

もちろんそんなことは知っていると、桓騎は邪魔をして来る信の手を脚の間から遠ざける。
不安と羞恥が入り混じった複雑な顔で見据えられると、桓騎の鼓動が速まった。

「…いつも一度で終わらねえだろ、お前…」

自分で言っておいて恥ずかしくなったのか、たちまち顔を赤らめていく信を見下ろして、桓騎は肩を竦めるようにして笑った。

「お前こそ、一度で満足出来るのか?」

「ッ…!」

まさか聞き返されるとは思わなかったのだろう、湯気が出そうなほど、信がますます顔を赤らめた。

毎度、回数など数えていないのだが、一度だけで済んだ覚えがないのは確かだ。そして信もそれを自覚しているのか、俯いたまま顔を上げられなくなってしまったらしい。

「せいぜい一度で終わるように気張れよ。明日の出立に遅れるわけにはいかねえだろ?」

嘲笑を浮かべながら、煽るようにそう言うと、信がきっと目尻をつり上げてこちらを上目遣いで睨みつける。

「桓騎っ…」

「とっとと終わらせりゃ、明日の出立には何も影響ないだろ?なら、早く終わらせてみろよ」

もちろんそんな挑発をすれば信が機嫌を損ねてしまうことを桓騎は理解していたし、同時に彼女の勝負心に火を点けることになるのも分かっていた。それを見越した上で桓騎はその言葉を投げつけたのだ。

二人は身体の相性は良くても、戦略の面では抜群に相性が悪い。これが桓騎の策であることも知らずに、まんまと信は彼の策に陥ってしまったのだった。

「ああ、くそ…!お前ってやつは…!」

小声で文句を言う生意気な態度さえも愛らしい。

情事をやめるという選択肢が信の中にないことは分かっていたし、こうなれば意地でも引かなくなるだろう。絶対に自分から勝負を降りることはしない。信とはそういう女だ。

身を起こした信は躊躇う様子もなく、着物越しに男根に触れて来る。すでに男根は信を求めて硬くそそり立っていた。

吸い寄せられるように、男根に指を絡ませて、ゆっくりと扱き始める。

「ん…」

桓騎の脚の間に顔を埋めると、唇を割り広げて、赤く艶めかしい舌を覗かせる。

舌が男根の切先に触れた途端、沁みるような刺激が腰にまで響き、桓騎は思わず生唾を飲み込んだ。

好いている女が自分の脚の間に顔を埋めている光景は、何度見ても夢かと思うし、躊躇いもなく口淫をする姿を見ると、ますます興奮が煽られる。そんな官能的な姿を見て、男が一度でやめられるはずがなかった。

 

勃起して鋭敏になっている切先を舌で優しく突かれながら、上目遣いで見上げられると、それだけで達してしまいそうになる。

「ふ、ぅん、ん…」

男根を美味そうに咥え込む姿を見て、桓騎は余裕のない笑みを浮かべた。

「っ…んん、ぅう、ふ…」

男根に吸い付きながら、信の手が自らの脚の間に伸びた。
すでに彼女の淫華は濡れそぼっていて、自分の指をすんなりと受け入れている。

男根を咥えながら、自らの淫華に指を突き挿れて自慰に耽る信を見るのは初めてではなかった。

信が頭を動かす度に彼女の唇から水音が響き、信が指を動かす度に、淫華から卑猥な水音が立つ。何度見ても刺激的な光景だ。卑猥な水音に鼓膜までも犯されているようである。

「信…」

軽く息を乱しながら、信の黒髪を撫でつける。手入れを一切行っていないその髪は日焼けをしているせいか、随分と傷んでいて指通りが悪かった。

外見や仕草には女らしさの欠片もないというのに、信は情事が始まると、途端に雌を感じさせる。

そうなるように李牧が育てたのだろうが、自分を求めてくれていると思うと、身体の芯が燃えるように熱くなった。

「はあ…」

熱烈な口淫によって完全に男根が勃起すると、信がようやく男根を口から離した。

その目は完全に雌の色を浮かべており、もう彼女は男根を淫華に咥え込むことしか考えられずにいるようだった。

「ん…」

桓騎の肩を両手で掴みながら信が唇を重ねて来る。先ほどまで激しい口淫をしていたとは思えないほど軽い口づけを何度も交わしながら、桓騎は彼女にされるままでいた。

肩を掴んだ手に力を込められると、呆気なく押し倒されてしまう。

息を乱しながら信は桓騎の体に跨り、再び唇を重ねて来た。今度は自ら舌を絡ませて来る。
その口づけに応えながら、桓騎は先ほどまで弄ってやっていた彼女の柔らかい二つの膨らみに手を伸ばした。

「ふう、ぅっ…」

口づけを交わしながら胸の芽を摘まんでやると、切なげな吐息を洩らしながら鼻奥で悶えている。

指の腹で引っ掻いたり、押し潰したりして遊んでいると、信が嫌がるように身を捩った。

「も、早く…終わらせる…」

こんな状態になっても、どうやらまだ理性の類は消え去っていなかったらしい。

瞳を潤ませながら、信は両方の膝を屈曲させ、大きく足を開いた形でしゃがみ込んだ。硬くそそり立つ男根の掴んで、切先を淫華に当たるように固定させる。

先ほどまで信が自分で弄っていた其処は蜜で濡れそぼっていた。

「あ…はあっ…ぁ、あ…!」

腰を落としていくにつれて、淫華がゆっくりと桓騎の男根を飲み込んでいく。淫華は奥までよく濡れていた。

「ううっ…ぁ…」

まず一番太い切先を飲み込むと、信の口元から甘い吐息が洩れる。彼女の中はいつだって温かくて、男根を貪ろうと吸い付いて来た。

「ふっ…ぅうう、ん…」

時間をかけて男根を全て飲み込むと、逞しく割れた桓騎の腹筋に手をついて、荒い息を繰り返していた。

中途半端に脱がせていた着物が信の肩に引っ掛かっていて、肌が隠されている部分があるが、返ってそれが欲をそそられる。

絶対に一度で終わるはずがないだろうと桓騎は心の中で考えた。

 

 

「ん、っふ、ぅ…」

手の甲で口元を押さえ、声を堪えようとする彼女のいじらしい姿を下から見上げ、桓騎は胸の内が燃えるように熱くなった。

無駄な肉など一切ついておらず、引き締まった腹筋と、女性らしい美しいくびれ。

水を飲ませ過ぎたせいで僅かに腹は膨らんでいたが、まるで自分の子を孕んでいるかのように見えて、それもまた官能的である。

信が腰を前後に動かす度に揺れる豊満な二つの膨らみも堪らない。

見ているだけで、女に耐性のない男なら達してしまいそうなほど、信の裸体は女の色気が込められていた。

肌に刻まれている戦場の傷は、そこらの男でも持っていないものだが、だからこそ堪らなく愛しいとも感じるし、尊さすら覚える。

誰にこの姿を見せたくないし、誰にも渡したくない思う。

「ん、んんっ」

信も気持ち良いのか、腰を揺らしながら甘い声を洩らしている。

後ろに手をつき、仰け反った体勢で腰を揺らす姿は、どう見ても騎乗位に経験があるとしか思えなかった。誰に教え込まれたのかはもう分かり切っていることだが、信が今その腹に咥えているのは紛うことなく自分だ。

「ふ、はあッ、あっ、ぁあっ」

反り返った男根が腹の内側にある自分の良い所に当たるのだろう。
飲み込めない唾液を口の端から垂らして快楽を貪る信を見れば、まるで自分の男根を彼女の自慰の道具として使われているような気もするが、それはそれで堪らなかった。

信の騎乗位に翻弄され、桓騎も息を切らし始める。
彼女が腰を動かせば動かすほど、中で男根が淫華と馴染んでいき、結合観がより増していった。

切なげに眉根を寄せながら腰を動かす信の姿も堪らないが、繋がっている部位を見やると、自分の男根が彼女の淫華に食われている光景がよく見える。

引き締まった信の内腿に手を這わせ、女の泣き所でもある花芯を指の腹で擦り付けると、信の体が大きく震えた。

「い、今、そこ、ぁ、さわ、ん、なァッ…!」

動かしていた腰を止めて悶えてしまうほど、敏感な花芯への刺激は強過ぎたらしい。

「なら、悪さしねェように掴んどけよ」

言いながら信の腕を掴んで、その手に自分の指を絡ませる。
手を握り合うと、信は恥ずかしそうにするものの、快楽を求める体は腰の動きは自制出来ないようだった。再び腰を動かし始めた。

「はッ、ぁあっ、はぁ、ん」

前後に揺らしていた動きから、今度は上下に跳ねる動きに変わる

これも随分と慣れているような動きで、やはりあの男李牧との情事で経験したのだろうか。

他の女と違って、信は特に下肢の筋力が特に鍛えられているせいか、淫華が男根を搾り取るように吸い付いて来るのが堪らない。今まで抱いた女では感じられないほどの気持ち良さだった。

「あッ…ん、ぁあッ、ぁ」

信が持ち上げた腰を下ろす度に、男根の先端が子宮に口づける。

彼女の中は温かくて包み込んで来るような気持ち良さがあるのに、あの男のことを考えるだけで苛立ちが込み上げて来た。

もちろん信は自分とあの男と重ねて見ていることはしていないと分かっている。それでも、信の破瓜を破り、彼女の多くの初めて・・・を我が物にしたあの男に嫉妬の念が止まなかった。

「ぁあっ、や、っ、あぁッ…」

気持ち良さに戸惑いながらも、信は腰の動きを止めることが出来ずに、泣きそうな声を上げた。

「ッ、はぁ…ぁあッ、も、もうッ…」

絶頂が近いのだろう、信が泣き出しそうな弱々しい表情を見せる。
桓騎は信と絡ませている手を放し、彼女の細腰をしっかりと掴むと、下から激しく腰を突き上げた。

「ふ、ぁあ…ッ!」

不意を突くような激しい刺激によって、信が仰け反って目を剥いた。
さらに追い打ちを掛けるかのように、桓騎は触るなと叱られたばかりの花芯を再び指の腹で擦る。

「ひいっ、あ、待っ、ぁ、ああーッ」

彼女の引き締まった内腿が痙攣したかと思うと、中がうねるようにして、男根を強く締め付けられた。桓騎も切なげに眉根を寄せながら、彼女の最奥で熱を放った。

男根と繋がっている部分のすぐ真上から小さな水飛沫が上がり、花芯を弄っていた桓騎の指を濡らす。

「あ…ぅ…」

しばらく体を硬直させていた信だったが、身体の芯から力が抜けたように前屈みに倒れ込んで来た。

咄嗟に起き上がり、彼女の体を抱き止めた桓騎は、生温かい感触が腹を伝っているのを感じていた。

「ぁっ、ぁあ…」

下腹部に手を当てて、なんとか止めようとしているらしいが、一度堰を切ったそれは止められず、繋がっている部分を温かく濡らしていく。

「ふ、うぇ…ふぐ、…うぇ…」

ぐすぐすと信が鼻を鳴らしながら、しゃっくりまで上げ始めたので、桓騎はぎょっと目を見開いた。

「信?」

俯いている顔を覗き込む。信は真っ赤な顔で涙を浮かべており、その身を震わせていた。

「さ、触んなって、言った、のにぃ…」

弱々しい声に責め立てられ、桓騎の良心がちくりと痛んだ。

情事の最中に、信が蜜とも尿とも異なる飛沫を上げて絶頂を迎えるのは、これもまた初めてのことではなかった。

どうやら信は粗相をしたかのような感覚が苦手で、普段以上に羞恥心が掻き立てられてしまうらしい。

そのせいで身を繋げている時に、さらなる刺激を加えられることを嫌がるのだが、人の嫌がることをするのが大好きな性格である桓騎がもちろん聞くはずもなかった。

「…何も恥ずかしいことじゃねえだろ」

慰めるように、信の頭を撫でながら囁くが、信は首を横に振った。

「は、恥ずかしい、に、決まってる、だろ…!ぅう…お、お前が、たらふく、水、飲ませた、からぁ…」

途切れ途切れに言葉を紡いだ信は、大量の水を飲まされて膨らんだ腹に手をやりながら訴えた。どうやら本当に粗相をしたと勘違いしているらしい。まだ薬が抜けきっていないせいで、あまり頭が働いていないのだろうか。

信の身体に、男に抱かれる悦びを教え込んだのは李牧だ。
しかし、彼女のこの反応を見る限り、確証はないのだが、李牧は彼女がこのような絶頂を迎える姿をあまり見ていないのではないかと思った。

優越感に胸を満たしながら、腹を濡らした飛沫を指で掬い取ると、桓騎は見せつけるようにしてそれを舐め取った。

「ば、バカッ…!」

信じられないと言わんばかりの表情で、信が目を見開く。
構わず桓騎は彼女の顎を掴むと、強引に唇を重ねた。

「んっ…」

熱い吐息を交えながら、何度も唇を重ね合う。
半開きの唇からは飲み込めない唾液が滴っていて、信の唇を艶めかしく色づけていた。

 

平行線の交差、その先の真実

「信」

「う…?」

口づけの合間に声を掛けると、信が恍惚の表情を浮かべながら、小さく小首を傾げる。

「俺を飛信軍に入れなかったのも、俺の縁談を断ってたのと同じ理由だったのか?」

その言葉の意味を信が理解するまで、やや時間がかかった。

「ち、ちがう…!」

か細い声で否定されるものの、あまりの説得力のなさに苦笑してしまう。

信が桓騎の縁談を断っていた理由は、桓騎を他の誰にも渡したくない独占欲からだった。もちろんそれを言葉には出さないが、先ほどの態度から一目瞭然である。

そんな独占欲を持っていたというのに、彼女が桓騎を自分の軍に入れなかった理由は、愛情の裏返しだったのかもしれない。

「あれは…体力試練も受けないで軍に入るのは、贔屓だとか色々言われるから…!」

小癪にも、本音を隠そうとする信に、桓騎は苦笑を深めた。

「それなら体力試練を受けるって言っただろ。それなのに、お前は返事を濁らせて白老のとこに預けたよな?」

「うぐぐっ…」

体力試練も受けないで飛信軍に入ることは問題だと言われていたのだが、それならば桓騎はもちろん体力試練を受けるつもりでいたし、自分の実力を見せつける良い機会だとも考えていた。

だが、体力試練を受ける前に、蒙驁のもとに身柄を送られることが決まり、飛信軍に入る機会を全て信自身に奪われたことを桓騎は未だに根に持っていた。

縁談を断ったのが独占欲の類なら、傍で監視しておける飛信軍に入れておくべきだったはずだ。だが、信がそれをしなかった理由が必ずある。

それはきっと、先ほど彼女が明日の出立準備に遅刻するのではないかと気にしていたように、将としての役目を全うするためだ。

わざと俺を遠ざけた・・・・・・・・・んだろ」

私情を挟まぬように、信は桓騎を自分のもとから遠ざけたのだ。それは一人の女としての幸せではなく、将としての役目を優先した証拠でもある。

だが、自分を遠ざけた上で、信は桓騎の縁談を断り続けていた。

少々矛盾を感じる行動の裏に、信が女として桓騎を想ってくれていたことが分かる。
言葉に示さずとも、嘘を吐けない彼女の顔を見れば、それは決して自惚れではなかった。

「不器用な女だな。俺が欲しいならそう言えば良かっただろ。俺ならガキの頃でも満足させてやったのに」

「ち、違う!俺に稚児趣味はない!」

「…なら、俺がますますイイ男に育ってから惚れたのか?」

からかうように、謙虚さを一切持たない言葉を掛けると、

「お前を好きになったって分かんなかったんだよッ!」

信が泣きそうなほど顔を歪めて怒鳴ったので、桓騎は呆気に取られた。

痛いほどの沈黙が二人の間に横たわる。
信を見れば、彼女は顔を真っ赤にしたまま唇を戦慄かせていた。本音を打ち明けたことで後悔しているのかもしれない。

「…じゃあ、俺を遠ざけたのは、それをはっきりさせるためだったのか?」

「………」

目を逸らしながら、信が僅かに首を縦に振った瞬間、桓騎の中で何かがふつりと音を立てた。それは理性の糸だったのかもしれない。

「うあッ!?」

向かい合うように繋がったまま、桓騎はその体を強く抱き締めていた。この女は何度自分のことを惚れさせるつもりなのだろうか。

「あっ、えっ、ま、また…!?」

先ほど信が達してから、しばらく淫華の中で大人しくしていた男根が再び頭を持ち上げる。それを腹の内側で感じたのだろう、信が狼狽えた視線を向けて来た。

「…一度で終わりそうにねえな」

「え?」

不吉な独り言を聞きつけた信が何だと聞き返そうとした時には、身を繋げたまま桓騎にその体を押し倒されていた。

 

後日編~蒙恬の協力者~

案の定、激しい情事によって、信は起き上がることが出来なくなってしまい、翌朝の出立に影響してしまった。

もちろん信は激怒し、秦国へ帰還してから数日後が立った今でも、彼女の機嫌は戻ることはない。

しばらく信から屋敷への出入りを禁じられた桓騎は、不機嫌を丸出しで過ごしており、そんな主を見た配下たちはまたいつものケンカかと呆れ顔である。

信の機嫌が戻るまでにはそれなりに時間がかかるだろうが、その前にやらなくてはならないことがあった。

「摩論を呼べ」

軍の参謀を務めている摩論を呼び寄せた。
机にどんと両脚を乗せて待っていると、すぐに摩論が「何かありましたか?」と部屋に入って来る。

「…お前、あのクソガキにいくら渡された?」

「えッ?」

桓騎から鋭い目つきを向けられ、開口一番そんなことを言われた摩論は分かりやすく声を裏返した。

その反応だけ見れば、既に答えを得たようなものだが、桓騎は確信を得るために、ゆっくりと言葉を続ける。

「オギコから全部聞いたぞ。お前があいつから金を受け取ってるところを見たってな」

どこか落ち着きなく、いつも整えている自慢の鼻髭を弄りながら、摩論が笑みを繕う。

「はは…何のことでしょう?まさか私が蒙家の嫡男殿に、賄賂をもらったと疑っているのですか?」

「俺はクソガキとしか言ってねえぞ。何で蒙家の名前が出て来る?」

「あッ」

信頼をしていた配下がこうもあっさりと墓穴を踏むような男だったことに、桓騎は落胆を隠せない。

しかしそれを上回るのは、摩論が自分を裏切って蒙恬に協力をしたことに対する怒りだった。

「お前の上手い手料理が食えなくなるのは残念だが…」

両脚を床に降ろし、椅子に座り直すと、摩論が顔面蒼白になってその場に跪いた。

「すみませんッ!金子を三つほどもらいましたぁ!」

床に額を擦り付ける勢いで、摩論が蒙恬に協力したことを白状する。

予想はしていたが、蒙恬から提示された報酬に目が眩んだのかと桓騎は肩を竦める。
元野盗の仲間たちは金が入るとなれば容易に動いてしまう短所があった。もちろん単純な動機なので扱いやすい面もあるが、よりにもよって蒙恬がそこに目を付けるとは思いもしなかった。

「その報酬と引き換えに、何を指示された?」

冷たい目で見下ろしながら問いかける。命が惜しいのか、摩論は素直に答えていく。

「や、やましいことは何も…ただ、彼に言われたように、信将軍に酒を勧めただけです…」

「…その酒ってのは?」

「城の地下倉庫にあったものです。お頭が飲んでいたのと同じものをお出ししました…」

「ほう」

制圧を終えた後、城の地下倉庫にあったという地酒を飲んだことを思い出す。

あの部屋に杯は二つあったし、酒瓶の中身も大分減っていた。蒙恬と信が酒を飲み交わしていたことは間違いない。

酒自体に薬を盛っていたとすれば、蒙恬にも影響があっただろうし、彼が薬の効かぬ体質であることは聞いたことがない。

このことから、酒自体に細工をしていなかったのは間違いないだろう。消去法で考えると、細工をされていたのは、信が口を付けた杯の方だ。あの場に駆け付けた時も同じ推測をしたが、それは当たっていた。

杯に仕込んでおいた薬を飲ませるために、蒙恬は信に酒を飲ませる口実を作るよう、摩論を利用したということである。

(あのクソガキ…よくもやりやがったな)

摩論が信へ酒を勧め、そしてお人好しの信は蒙恬を誘った。蒙恬はそれを分かっていて、杯に薬を仕込んでおき、信だけを眠らせたということだろう。

そして信のことだから、何の疑いもなく口をつけて、まんまと眠らされたに違いない。

自分以外の男に組み敷かれている信の姿を思い出すだけでも心臓に悪いというのに、もしも駆けつけるのがあと少しでも遅かったらと思うと、それだけで心臓が凍り付いてしまいそうだ。

本当に最悪の事態に陥っていたのなら、いくら蒙驁の孫とはいえ、跡形もなく彼の存在を消して、信の記憶からも処理をしていたに違いない。

…オギコの活躍、それから王翦軍と偶然の合流によって、なんとか未遂で救出することが出来たし、その後は美味しい想いをすることが出来たので、結果だけ見れば未遂で済んだのだが。

「はあー…」

長い息を吐いた桓騎の眼光の鋭さに押され、摩論は相変わらず顔色が優れない。

「…摩論」

「はひっ」

低い声で呼びかけると、もはや半泣き状態になっている摩論が慈悲を乞うような顔で返事をする。

「今まで美味い飯を作ってくれたことに免じて、指三本で許してやるよ。手ェ出せ」

腰元に携えていた短剣を取り出した桓騎が鞘を引き抜く。ぎらりと刃が怪しく光り、摩論は背筋に氷の塊を押し当てられたような感覚に陥った。

 

金子三つと信の操に対して、指三本に留めたのは、桓騎なりの慈悲だった。

本当ならば手足三本落としたいところだったが、指三本だけにしたのは、今まで参謀として自分に付き従ってくれた、せめてもの礼だ。

蒙恬の策略に利用された摩論も被害者といえばそうなのだが、信が自分にとって大切な存在であることを知っていたくせに、蒙恬の企み止めようともしなかったことが許せなかったのだ。

無様に泣き喚く摩論の右手首を掴み、反対の手で短剣を構える。もちろん脅しなどではなく、本気で指を落とすつもりだったし、摩論もそれを分かっていたのだろう。

「ひいいい!お頭っ、どうか、どうか、許してください!」

耳障りな悲鳴を聞きながら、どの指から落とそうか考えていると、慌てた様子でオギコが部屋に飛び込んで来た。

「お頭~!」

オギコの登場により、部屋に束の間の沈黙が訪れる。

桓騎が短剣を構えて摩論の指を落とそうとしている光景を見て、オギコが小首を傾げている。どうしてそんなことになっているのか状況が分からないでいるのだろう。

「…二人とも、何してるの?」

「ああ、オギコさん!よか、良かった!助けて~ッ!」

一方、摩論といえば、オギコが来てくれたことによって、助かったとでも思っているのか、歓喜の涙を流していた。

しかし、桓騎は手首から手を放すことなく、オギコに用件を尋ねる。

「手短に話せ、オギコ。俺は忙しいんだ」

「信から伝言ッ!」

「…なに?」

これには桓騎も驚いて、オギコの方を向いた。
桓騎に屋敷の出入りを禁じたことから、しばらくは口を利かないという意志を示したのだろうが、伝言とは何だろうか。

「えーとね、”蒙恬と、蒙恬に関わってた人を罰したらダメだぞ”、だって!」

「………」

伝言の意味を理解した途端、思わず舌打ちをしてしまった。

今回のことに関わっていたのが蒙恬だけじゃないことに勘付いたのだろう。普段は鈍いくせに、時々こういった勘が働くことがあるのは困りものだ。本能型の将としての才能なのだろうか。

最愛の女からの命令に逆らうことは出来ず、桓騎は大人しく摩論を解放した。

僅かに身を屈め、桓騎は摩論の耳元に唇を寄せる。

「…次にまた信を売るような真似をしたら、今度は指三本じゃ済まされねえぞ」

ドスの利いた声で摩論を睨みつけると、彼は何度も頷いて、逃げるように部屋を出て行った。

状況の読めないオギコは円らな瞳で何度も瞬きを繰り返す。

「…お頭、摩論さんと何して遊んでたの?」

短剣を向けていたというのに、二人が遊んでいたと疑わないオギコに、桓騎は口角をつり上げる。

口元に人差し指を押し当てながら、

「内緒話だ。信からの伝言はちゃんと守ったぞ」

その言葉を聞いて、安心したオギコは無邪気な笑みを浮かべたのだった。

 

おまけ小話②「出立前のひととき(2000文字程度)」はぷらいべったーにて公開中です。

このお話の本編はこちら 

蒙恬×信←桓騎のバッドエンド話はこちら

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平行線の交差、その先に(桓騎×信←蒙恬)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/蒙恬×信/年齢操作あり/年下攻め/ギャグ寄り/甘々/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編①はこちら

 

独占欲の暴走

帯を外し、着物を脱がせていくが、信が目を覚ます気配は少しもなかった。

本当は僅かに意識がある状態で、体の自由が利かない程度のものを想定していたのだが、こればかりは仕方がない。

酒の酔いと合わさって、薬が強く効いているのだろう。量は調整したものの、ここまで効くとは正直予想していなかった。

本当ならば、信の意識がある中でこの身体を暴き、桓騎を裏切ったことと、その身を自分に差し出したことを彼女に教えてやりたかった。

着物を全て脱がせると、傷だらけの肢体が現れる。しかし、蒙恬はその傷だらけの体を少しも醜いとは思わなかった。

「信…」

名前を囁いて、蒙恬は彼女の肌に指を這わせた。
傷がある部分は凹凸を感じ、それ以外の場所はしっとりと吸い付いて来る。

「…ん…」

肌の上で指を滑らせ、胸の膨らみを撫でると、信の体がぴくりと跳ねた。

意識は眠りに落ちているというのに、体が反応しているのだと分かると、蒙恬の口角がにやりとつり上がる。

「信…好きだよ」

耳元で甘い言葉を囁くと、吐息がくすぐったいのか、信の顔がその刺激を避けるように傾いた。

「は、ぁ…」

もしかして耳が弱いのだろうかと思い、舌を差し込むと、僅かに身を捩って切なげに眉根を寄せている。

顔の横に力なく落ちている彼女の手に指を絡ませて、その体を組み敷き、恋人同士のように向かい合う。

もしも信が起きていたのなら、間違いなく蒙恬は殴り飛ばされていただろう。三日は寝込んでしまうくらいぼこぼこにされただろうし、罵声を浴びせられたに違いない。

それだけのことをされても仕方がないと言える凌辱を、蒙恬は今まさに彼女に行おうとしているのだ。

信を傷つけることがないように薬を盛ったのだが、結果的には心に酷い傷を負わせることになる。

決して傷つけたくないのに、結果としては傷つけてしまうというその矛盾に、蒙恬は自分の余裕のなさと醜いまでの独占欲を自覚するしかなかった。

どうせ桓騎の邪魔は入らないし、時間はある。

結果として傷つけてしまうことになるのなら、せめてその体を隅々まで味わって愛してやろうと思い、蒙恬は身を屈めて彼女と唇を重ねようとした。

 

 

「信ッ!ねえ、信ってばあッ!」

二人の唇が触れ合う寸前、激しく扉が殴打され、耳障りな甲高いが飛び込んで来る。

桓騎の配下であるオギコだ。再び邪魔が入り、蒙恬が乱暴に舌打った。

元野盗の集団で形成されている桓騎軍の千人将であるオギコは、特に桓騎に従順だった。
…とはいえ、有能とは言い難く、右腕というような立ち位置ではない。

その大柄な体格とは反対に、世間の立ち回り方の知らなさから仕方なく野盗として生きていたのか、はたまた世間知らずな面を良いように利用されて野盗になったところを桓騎に拾われたのか、とにかく桓騎のことを大いに慕っている男である。

桓騎が自分を敵視していることから、オギコにも警戒されていることは知っていたが、まさかここでも邪魔をされるとは思わなかった。

しかし、閂を嵌めた扉を通ることは出来ない。今のオギコに出来るのは、扉越しに眠っている信に呼びかけることだけだ。

「信!ねえ、摩論さんから聞いたけど、あの蒙恬って人とまだ一緒にいるの!?大丈夫ッ!?変なことされてない!?」

この機を逃せば信を手に入れることは出来ない。外野はやかましいが、このまま続けてしまおうと蒙恬が手を動かした時だった。

「信ってばー!返事してよッ!」

「…う、ん…?」

薬で深い眠りに落ちているはずの信の瞼が鈍く動いたのである。

酒の酔いもあって、声を掛けられたくらいでそう簡単には目覚めないと思っていたのだが、やはり幾度も死地を乗り越えている彼女はただの女ではない。

だが、もしも信が目を覚ましたところで、薬の効果が消えるわけではない。本来、蒙恬が狙っていた策通りに、意識がある中で自分にその身を犯されることになるだけだ。

むしろ目を覚ましてくれた方が都合が良いと心の中でほくそ笑みながら、蒙恬は再び身を屈めて唇を重ねようとした。

 

救出

「―――信ッ!どこにいるッ」

今度はオギコじゃない声が響き、蒙恬は反射的に顔を上げた。

間違いない。この声は桓騎だ。

ずっと想いを寄せていた女を手に入れられる興奮によって速まっていた鼓動が、今度は激しい動揺で、より一層速まった。

(もう戻って来た?一体どうして…!)

数日かかるあの距離をもう往復して来たのかと、蒙恬は眉間にしわを寄せた。

桓騎がこちらの企みに気づくとすれば、蒙驁の屋敷に到着してからとしか思えない。
祖父には信の補佐に行くと伝えていたから、話題の一つとして桓騎に告げのただろう。

そして鋭い桓騎のことだから、その話からすぐにこちらの目的を導き出し、大急ぎで引き返して来たのかもしれない。
しかし、彼が引き返して来たとしても、決して間に合わぬように蒙恬はこの状況を作り上げたのだ。

蒙驁の屋敷に向かっている桓騎と途中ですれ違わぬよう、細心の注意を払いながら、念入りに計画した策だったというのに、まさかもう戻って来るとは思いもしなかった。

(待てよ…)

どうして桓騎が予想よりも早く駆けつけることが出来たのか。蒙恬は口元に手をやって思考を巡らせる。口元に手をやるのは蒙恬が考える時の癖だった。

急いで引き返すとすれば、途中で馬を替える必要がある。だが、蒙恬の企みに気づいた桓騎は引き返すのに精一杯だったに違いない。

替えの馬を事前に手配しておくことなど、そんな状況では出来なかったはずである。ならばその替えの馬はどこで手に入れたのか。

桓騎が途中で替えの馬を手に入れる方法があるとすれば…。

(――王翦軍と会ったのか!)

蒙恬は再び舌打った。

城の制圧を終えて、秦国へ向けて帰還している王翦軍と道中すれ違ったのだ。
王翦軍は秦への帰還、そして桓騎は再び魏へ戻る。目的は違えど、通る道は同じだ。

まだ疲れ切っていない馬を王翦軍から拝借し(桓騎のことだから強引に奪ったに違いない)、彼は止まることなく、この魏の汲まで駆けつけたのだろう。

そういえば信は、危篤状態である蒙驁の見舞いには王翦と共に行くように、桓騎へ指示を出していたらしい。

―――桓騎の野郎…わざと声掛けなかったな…!

面倒臭がった桓騎が彼に声を掛けることなく、単独で蒙驁の見舞いに行ったことが、結果的に実を結んだということだ。

偶然に偶然が重なっただけではあるが、まるで天が桓騎の味方をしたかのような結果に、蒙恬はいたたまれない気持ちを抱いた。

「お頭!こっち!この部屋だよッ!」

オギコが桓騎を呼ぶ声がする。こちらへ向かって来る足音が聞こえ、蒙恬は深い溜息を吐いた。どうやら作戦は失敗に終わったらしい。

「おい、聞いてるかクソガキ」

扉をぶち壊す勢いで乱暴に殴打され、ドスの効いた声で脅迫される。もちろん恐ろしくはないが、このまま続けていれば本当に扉を壊されてしまうだろう。

「俺を出し抜いたことは褒めてやっても良いが、それ以上・・・・しやがったら、白老の孫でも容赦しねえからな」

それ以上というのは、きっと信をこの手で汚すことだろう。

残念ながら接吻の一つも出来なかったことを心の中で毒づきながら、諦めて信の上から身を退いた。

「おい、聞いてんのかッ!」

「…ん…ぁ…桓、騎…?」

聞き覚えのある声が微睡んでいた意識に小石を投げつけたようで、信がゆっくりと瞼を持ち上げていく。

薬で溶かしたはずの意識が蘇ったのも、やはり天が桓騎の味方をしているのだろうか。
未だぼんやりとしている信と目が合う。

「蒙、恬…?」

「おはよう、信。…ごめんね?」

乱れた着物を整えながら、蒙恬は目覚めの挨拶の後に謝罪する。

しかし、その言葉の意味が理解出来ないようで、信は寝ぼけ眼のまま、不思議そうに小首を傾げていた。

閂を外して部屋を出ると、殺気で目をぎらぎらとさせた桓騎と、そんな彼に狼狽えているオギコが立っていた。

「あーあ、せっかく信と良い気持ちで寝てたのに、台無しにされちゃった」

両手を頭の後ろで組みながら、蒙恬がちゃらけるように言う。

未遂であったものの、寝てた・・・という言葉に反応したのか、桓騎のこめかみにふつふつと青筋が浮かび上がった。

普段は冷静冷酷な桓騎がここまで感情を顔に出すのは珍しい。それだけ信のことが心配だったことも、彼女のことを大切に想っていることも分かった。

その余裕のない顔を見れただけでも良しとするかと、自分を無理やり納得させながら、蒙恬は部屋を後にした。

 

 

意外にもあっさりと部屋を出て行った蒙恬を横目で睨みつけてから、桓騎はすぐに部屋の中に飛び込んだ。

「信!」

信は寝台の上に横たわっており、薄目を開けていた。

着物に乱れはなかったが、桓騎がここに駆けつけるまでに、もしかしたら全てが終わってしまったのではないかと不安を覚える。

帯を外して強引に襟合わせを開き、念のため脚の間も覗き込んだが、どうやら本当に未遂だったようだ。

「おい…何してんだよ」

眠そうな顔で、しかし、寝起きの頭でも着物を脱がせられたことを察して、信の顔に怒りの色が宿る。すぐ傍ではオギコが桓騎の行動の意図が分からず、円らな瞳をさらに真ん丸にしていた。

「おい、放せ…」

未遂だったことに安堵しながら、着物を整えてやっていると、桓騎の手首を掴もうと持ち上げた信の手が途中でぱたりと落ちてしまう。まるで力が入らないかのようだ。

寝起きにしてはおかしいと感じた桓騎はまさかと目を見開いた。

「…オギコ、ありったけの飲み水持ってこい」

「う、うん、わかった!」

弾かれたようにオギコが部屋を出て行く。二人きりになると、桓騎は険しく目尻をつり上げた。

「あのクソガキに何された」

「え…?な、何って…?」

「何か飲まされたか?」

まだ頭が働いていないのか、それともそうなるよう仕組まれていたのか、信はぼんやりとしながら言葉を返す。

「ええと、あ…そうだ、寝る前に、酒…飲んだ…」

酒と聞いて、やはり薬を盛られたかと桓騎は舌打つ。

辺りを見渡すと、台の上には酒瓶が一つと、杯が二つ置かれている。二つの杯はどちらも空だったが僅かに濡れており、信も蒙恬も同じ酒を飲んだことが分かる。

信の酒の強さは、彼女と共に過ごす時間の長い自分がよく知っている。いつも余裕で酒瓶を数本空けるというのに、たかだか数杯飲んだところで眠りに落ちるはずがないのだ。薬を盛られたとみて間違いないだろう。

「あいつが持って来た酒を飲んだのか?」

「いや…ここの地酒だって、城に置いてあったのを、摩論がくれた…」

参謀の名前が出てきて、桓騎の溜息がますます深まる。
そういえば、この城を制圧した時に、摩論が地下倉庫にあったという地酒を見つけて持って来てくれたことを思い出した。

もしも酒自体に細工をしたのなら、蒙恬も薬を飲むことになる。信と二人きりになる状況を作り上げた張本人が、まさかそんな失敗を犯すとは思えなかったし、先ほどの様子を見る限り、彼が薬を飲んでいないのは明らかだ。

もしも蒙恬が薬が効かないという特殊体質なら、酒を飲んだとしても不思議ではないが、そんな話は聞いたことはない。

…だとしたら細工をしたのは信が口をつける杯の方・・・・・・・・・・だろうと、桓騎はすぐに答えを導き出した。

信が見ていない隙をついて杯に薬を盛ったのか、それとも杯を準備する段階から薬を仕組んでいたのか。

自分を出し抜くために策を企てた用意周到な蒙恬のことだから、後者の気がしてならない。そしてその場合、仲間の中に、杯を準備した協力者・・・がいることも考えられる。

元野盗の集団である配下たちのことを桓騎はよく知っていた。きっとその者に蒙恬が金目の物をちらつかせ、それを報酬として手渡すのを条件に協力を呼び掛けたに違いない。

その協力者には、後日厳しい制裁を与えるとして、今は信の身体から薬を抜かせることを考える。

酒と同じように、こればかりは大量に水を飲んで体外に流し出すしかないだろう。

「お頭っ、持って来たよ!」

飲み水の入った大きな水甕を両手で抱えたオギコが戻って来た。
もしもオギコがいなければ、信と蒙恬のいる部屋を隅々まで探し回っていただろうし、その隙に信が汚されてしまったかもしれない。

王翦軍から新たな馬を借りて走らせている間も、すでに信が蒙恬にその身を犯されているのではないかと思うと、気が気でなかった。

「…オギコ、よくやったな。偉いぞ」

「えっ?お頭に褒められたー!やったあー!」

水甕を台に置いたオギコが嬉しそうに目を細めた。

彼もこう見えて元野盗の一人なのだが、金目の物にはあまり興味を示さない男だ。素直で扱いやすく、愛着がある。

さすがに配下全員がオギコのような性格だと、それはそれで苦労しそうだが、桓騎は腹の内に黒いものなど何一つ抱えていない彼のことを気に入っていた。

オギコが部屋を出て行ってから、桓騎は寝台の上で信の体を抱き起こし、さっそく水を飲ませ始めた。

 

救出 その二

寝台の上で、信は桓騎に横抱きにされた状態で大量の水を飲ませられていた。

大きな水甕の中身がようやく半分になった頃、信が力なく首を振る。

「ん、んぅ…も、もう、飲めねぇ、よ…」

哀願されるが、桓騎は無慈悲にも水を汲んだ杯を彼女の口元に宛がう。

「飲め。薬を流すにはそれしかない」

きっと酒の酔いも合わさって、薬の効果は強く出ていることだろう。二日酔いの時のように、大量の水を飲んで排泄を促すことしか方法はないと桓騎は考えていた。

「も、ほんと、腹、いっぱい、だって…」

飲み終えたのは水甕の半分とはいえ、それでもかなりの量である。誰であっても全て飲むのは至難の業だろう。彼女の腹の膨らみを見れば、苦しがっているのも無理はなかった。

しかし、桓騎は新たに水を注いだ杯を容赦なく口元に宛がう。

「知らねえよ。とにかく飲め」

八つ当たりに等しい行為だと自覚はあった。

たとえ幼い頃から知っている蒙恬だったとしても、彼も立派な男だ。
これほどまでに手の込んだ策を企てるほど、信を手に入れようとしていたというのに、信は味方を疑うという警戒心が足りない。

もしもオギコが居なかったら、帰還中の王翦軍とすれ違わなかったら、確実に信は蒙恬に食われていただろう。想像するだけでも腸が煮えくり返りそうになる。

「ううーっ」

水を飲むのを拒絶しようと、信が目と唇をきゅっと閉じた。まるで苦い薬を嫌がる子どものようだ。

「ったく…」

飲まれなかった水が滴り落ち、顎から胸元まで濡らしてしまったので、桓騎は諦めて杯を離す。

やっと解放されたと言わんばかりに信が安堵の表情を浮かべている間に、桓騎は残りの水を口に含んだ。

今度は杯ではなく、桓騎の唇が押し当てられ、驚いた信は目を見開いて唇を薄く開いてしまう。

「ん、ふぅぅんッ!?」

何とか桓騎の体を押し退けようとするが、桓騎の唇が蓋の役割を担っているせいで、流れ込んで来た水を吐き出すことは許されず、信は泣きそうな顔で水を飲み込んだ。

「げほっ…桓騎、お前ッ…!」

涙目で睨みつけられるが、桓騎は肩を竦めるようにして笑った。

「まあ、これだけ飲んだなら大丈夫だろ」

自分を押し退けようとした両手には少しずつ力が戻って来ているし、一気に大量の水を飲んだこともあり、薬の効果はもう持続していないのだろう。これなら、明日動く分には差し支えなさそうだ。

明朝から撤退を始めることはオギコから聞いていた。どうせあとは撤退するだけなのだから、馬車の荷台に寝かせておいて良かったのだが、今回の蒙恬のこともあったし、できれば自分の目の届く場所にいてほしかった。

 

 

ようやく解放されたことに、信は長い息を吐いて、身体の芯から力が抜けてしまったかのように脱力した。

一度に大量の水を飲まされたことで、顔に濃い疲労を浮かべ、信がそういえばと桓騎を見やる。

「なあ、桓騎」

「ん?」

「…蒙恬は、なんで俺に、薬なんて盛ったんだ?」

桓騎の手から空の杯が滑り落ち、小気味良い音を立てて床を転がる。

「な、なんだよ…?」

まるで信じられないとでも言わんばかりの顔で視線を向けられて、信は狼狽えた。

「信…お前、それ本気で言ってんのか?」

冗談を言えるような女ではないと頭では理解しているものの、蒙恬の行動の意図が分からないと言った信に、桓騎は呆れを通り越して、呆然とするしかなかった。

信は、蒙恬から向けられている好意に、少しも気づいていなかったのである。

「………」

桓騎は自分の顎を撫でつけた。
ここで蒙恬が薬を飲ませて何をしようとしていたのかを告げるのは簡単だ。しかし、それは同時に信がこれまで気づかなかった蒙恬の好意を自覚させることになる。

異性として意識されていたのだと知れば、きっと信もこれからは蒙恬への態度を見直すことだろう。

しかし、信のことだから、自分に好意を持っている人間を無下には出来ないし、冷酷に遠ざけることなど出来るはずがない。

むしろ拒絶出来ないのを良いことに、蒙恬がまた信に襲い掛かるのではないかと危機感を抱いた。

あの男がそう簡単に信を諦めるとは思えない。信に好意を気づかれようが気づかれまいが、必ず手中に収めようとするはずだ。

「…お前に聞かれちゃまずい話をしてただけだ」

「ふうん…?わざわざ薬なんて飲ませなくても…」

苦しい言い訳ではあったが、半分は事実だ。それに、信自身はそれほど気にしていないようだったので、桓騎はそれ以上何も言わなかった。

(面倒だな)

こうなれば、一刻も早く信と婚姻を結ぶしか方法がない。

きっと蒙恬が此度の計画を企てたのは、信がまだ桓騎と婚姻を結んでいなかったからで、なおかつ邪魔者である桓騎が来ない絶好の機会を狙ってのことだったに違いない。

祖父の腹黒さを受け継いだあの男のことだから、信と桓騎が婚姻を結んだとしても諦めるとは思えない。

もしかしたら自分を亡き者にして彼女を手に入れようとするかもしれないし、可愛い孫の頼みとあらば、白老・蒙驁も容易に副官である桓騎を見放して、信が蒙家に嫁ぐように、あれこれ手回しをするかもしれない。

それはその時に考えるとして、今は彼女の無事を噛み締めようと、桓騎は信の体を強く抱き締めた。

 

思い出

桓騎がずっと抱き締めたまま放してくれないので、信は慰めるように彼の背中をそっと擦ってやった。

その手には先ほどよりも力が入っていて、目を覚ましたことと、大量に水を飲ませたことで薬が抜け始めていることが分かる。

「…寝てる間、ずっと、懐かしい夢見てたんだ」

抱き締められたまま、信は薄く笑みを浮かべていた。

「お前と出会った日、芙蓉閣に連れて行って、医者に診せたんだよ」

懐かしい思い出を夢で見ていたのだと、信が呟く。

「…生憎、そんな昔のことまで覚えてねえよ」

その言葉は半分本当であり、半分嘘だった。

どうやら信に拾われた時の話らしいが、その時の記憶にはところどころ靄が掛かっていて、覚えている部分とそうでない部分があるのだ。

朦朧としていた自分を、信が抱き上げてくれたことはかろうじて覚えているものの、その後の記憶は途切れてしまっている。

あの時は飢えと疲労で酷く衰弱していたし、雨に打たれ続け、指先まで凍えていた。
もしもあのまま信が助けてくれなかったら死んでいたに違いない。医者じゃない者でも分かるほど、当時は死ぬ寸前だったのだ。

次に覚えているのは、温かい布団の中で目を覚ました時だった。芙蓉閣へ保護されてから、五日も経っていたらしい。

自分の世話を任されていた芙蓉閣の者たちから、飛信軍の信将軍に保護されたという話を聞き、余計なことをしてくれたものだと立腹したのは覚えている。

あの雨の中で死んでしまった方が楽になれたに違いないと、桓騎は信じて止まなかったのだ。

その後、自分の様子を確かめるために、芙蓉閣を訪れた信に文句を言おうとして、言葉を失った。

―――桓騎、目が覚めたんだな。良かった。

世辞でもなく、本当に自分の回復を喜んでいるといった彼女の笑顔に、桓騎は文句を言おうとしていたことをすっかり忘れてしまったのだ。

そんな眩しい笑顔を見せられれば、余計なことをしやがってなんて、口が裂けても言えなかった。

思い返してみれば、桓騎はその時から、信のことを異性として意識していた。

それは命を助けられた恩ではなくて、単純にこの女を自分のものにしたいという、男の本能のようなものだったのだと思う。

当時のことを覚えていないという桓騎に、信が少し寂しそうに笑った。

「薬を飲ませてやったり、一緒に褥に入って身体を温めてやったのになあ」

「……はっ?」

桓騎がその言葉を理解するまでには、随分と時間が掛かった。

 

(薬の口移し?添い寝?)

慌てて記憶の糸を手繰り寄せるも、やはり思い出せない。どうやら意識がない時に、随分と信から手厚い看病を受けていたようだ。

信と初めて口づけを交わしたのは、彼女が風邪を悪化させた秦趙同盟の夜だとばかり思っていた。

まさか意識を失っている時に、彼女に薬の口移しをされていたなんて知らなかった。
さらには信自らが、素肌で冷え切った身体を素肌で温めてくれていたとは。

そんな貴重なことを断片ですら覚えていないだなんて、何て勿体ないことをしたのだと桓騎は自責した。

「なんで、たかがガキ一人にそこまで…」

つい愚痴のような口調で零してしまう。わざわざ問わなくても、桓騎はその答えを理解していた。

素性も分からぬ死にかけの子供を保護したのは、信に目の前の人々を救いたいという信条があるからだ。

あの雨の日に倒れていたのが自分でなかったとしても、きっと彼女は迷うことなく助けていただろう。

将軍という立場である信が手厚い看病までする必要はないのに、自らの手で目の前の人々を助けようとする。そんな彼女だから、多くの兵や民に慕われ、秦王からも厚い信頼を得ているに違いない。

そして、自分もそんな彼女だから、心を奪われたのだ。

「………」

桓騎に理由を問われた信は困ったように笑うばかりで、答えようとしない。

その反応を見て、桓騎は嫌な想像をしてしまった。愛おしさ余って独占欲が掻き立てられる分、心配が激しくなる。

「まさか、お前…俺の他にも保護したガキや女たちとも寝てたのか?」

「はっ?」

何を言っているのだと信が硬直する。

驚きのあまり言葉を失っている信を見て、桓騎の眉間に深い皺が寄った。

「…おい、お前は仕事として割り切ってるかもしれねえけどな、薬を口移しで飲ませて、人肌分け与えるなんて、そんな簡単に操売るような真似をしてんじゃねえよ」

「は、はあッ!?勘違いするなッ!」

低い声で説教じみたことを話すと、信がたちまち顔を真っ赤にさせて声を荒げた。薬を飲まされていたはずなのに、桓騎の言葉に怒りが込み上げたのだろう。

「他の奴らにはしてないし、それにッ、お、俺は口移しで飲ませたなんて言ってない!ちゃんと着物も着てたぞ!」

必死になって否定した信に、そういえば口移しをしたとも、素肌で温めたとも言っていなかったことに気づいた。それはただの桓騎の願望であった。

 

思い出 その二

(そういや…)

桓騎が知らなかったことと言えばもう一つある。
ふと、蒙驁から聞いた話を思い出した。

―――…ああ、そうじゃ。桓騎よ。縁談と言えば…。

それは桓騎がずっと知らなかった話で、しかし、信がずっと隠蔽していたらしい秘密である。

「…俺に届いてた縁談を、全部お前が断ってた・・・・・・・・・って、本当か?」

「えッ!?」

ぎょっとした表情を浮かべた信のその反応から、蒙驁から聞いた話が事実であると瞬時に理解する。

信の手配によって桓騎が蒙驁のもとへ身を寄せていた頃、初陣を終えてからみるみる知将の才を開花させていった桓騎のもとに、ひっきりなしに縁談が届いていた。

本来、縁談というのは両家の親同士で決めるものであるが、戦争孤児として身寄りのない桓騎には、縁談相手を自らで選ぶ権利があった。

知将として多くの武功を挙げていく桓騎が、今後も秦国で活躍をすることを見込んでいた家系が多いのだろう。届いた縁談はそれはものすごい数だったという。

桓騎に届いた縁談は、彼が付き従っていた蒙驁を経由して届いていた。

しかし、身内というわけではなく、副官として桓騎を傍に置いている蒙驁は判断に迷い、桓騎の縁談については保護者同然である信に任せたのだという。

きっと信のことだから、届いた縁談話に目を通すことなく「お前が決めろ」と全て丸投げするに違いないと、蒙驁の話を聞いた時、桓騎は考えた。

しかし、桓騎のもとに届いた縁談話が返って来ることはなかった。

つまり、信が桓騎の縁談を全て断ったということで、そしてそれが事実なら、信が桓騎を結婚させたくなかった・・・・・・・・・・・・・・・意志があったということになる

長年付き従っている白老は、冗談は言っても嘘は言わぬ男であった。

しかし、昔からずっと自分からの好意を適当にあしらっていたはずの信がそんなことをするはずがないと、蒙驁の話を聞いても、桓騎は半信半疑だったのである。

だが、どうやらそれは蒙驁の言う通り、事実だったことを確信し、桓騎の頬はみるみるうちに緩んでいく。

「あっ、いや、あれは、その…違うッ」

桓騎にからかわれまいと、信があたふたと言葉を紡いだ。

嘘が吐けないのは、この世の中を生き抜く上で損な性格だと思うが、信に限っては愛おしさしか感じられない。

顔を赤らめていくのがまた愛らしくて、桓騎は彼女の体を思い切り抱き締めてしまう。

「ど、どうせ断っただろ?なら、お前が断ろうが、俺が断ろうが、変わりないだろっ」

桓騎の腕の中で開き直ったかのように事情を始めるが、言い訳をすればするほど墓穴を掘っていることに信は気づいていないらしい。

「ふうん?」

ますます口角がつり上がってしまい、桓騎は懸命に笑いを噛み堪えていた。

 

「…聞いてもいねえのに、なんで俺が縁談を断るって分かってたんだ?一人や二人くらい、気に入る女がいたかもしれねえだろ」

届いていた縁談のほとんどは貴族の娘や、秦王の傍に仕えている高官の娘だったという。

知将の才を発揮した戦での活躍、それに加えて、街を歩けば女性からたちまち黄色い声を上げられる端正な顔立ちをしている桓騎に、下賤の出であることは目を瞑る娘たちは多かったらしい。

蒙驁の話を聞く限り、どれだけの縁談が来ていたのかは知らないが、とても指で数えられるほどではなかったのは明らかだ。

もしかしたら気に入る縁談があったかもしれないのに、桓騎が縁談を全て断ると確信していた信の気持ちを追求すると、彼女は困ったように顔を赤らめて眉根を寄せた。

「そ、それ、は…」

その反応に、信もその頃から自分と同じ気持ちでいてくれたのだろうと自惚れてしまう。

きっと桓騎は、縁談を全て断り、最終的には自分を選ぶ。
傲慢にも思えるが、信がそう思ってくれていたのかと、考えるだけで堪らなく愛おしさが込み上げた。

愛情には底がないということを、信と関わる中で初めて知った。…憎しみにも底がないということは、李牧と関わって知ったのだが。

「あ、あの時は、まだ、お前も将として未熟だったし、将軍昇格に向けて、武功を挙げている時だったから…その、邪魔にならないようにって…」

さっさと認めれば良いものを、小癪にも私情は挟んでいないと訴える信に、桓騎は素直じゃないなと苦笑を深めた。

そういう素直じゃないところも彼女らしいと思うのだが、たまには信の素直な気持ちが聞きたいと思い、桓騎は意地悪な質問をすることにした。

「…なら、今届いてる縁談には、お前は一切口を出さねえってことだな?」

「えっ」

信が呆気にとられたような表情になる。
桓騎のもとに届いていた縁談を信が断っていたのは、将軍に昇格する前だ。蒙驁の副官ではあったものの、一応、桓騎の立場は信の管轄下にあった。

その後、桓騎が将軍昇格をした途端、それまでのことが嘘だったかのように、縁談話が雪崩れ込んで来て、今まで一つも来なかった縁談が大量に届いたことで、大層戸惑ったことを覚えている。

恐らくは、桓騎が将軍に昇格したことで地位が確立し、蒙驁や信を経由しないで縁談が届くようになったのだろう。

しかし、自分の元へ直に縁談が届くようになったとしても、桓騎はそれをずっと断り続けていた。

信以外の女と結婚なんて、考えられるはずがなかったからだ。

 

後編はこちら

おまけ小話①過去編「宴の夜」(3600文字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

The post 平行線の交差、その先に(桓騎×信←蒙恬)中編② first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「毒酒で乾杯を」の番外編です。

前編はこちら

 

作戦開始

十日ぶりに帰還した屋敷は、一見何の変わりもないように見えた。
信は辺りを見渡して、罗鸿ラコウの姿がそこにないことを確認する。

「あれ?今日は来てねえのか…?」

いつもなら、贈り物が積まれている牛車が何台も並んでいるのだが、今日はそれも見当たらない。

罗鸿が咸陽で名を広めているのは、異国の品だとか他では手に入らない希少価値が高いものだとか、そういった品々を扱っているからだという。

その価値を知る物ならば驚愕してしまいそうだが、信にしてみればぎらぎらと光る目が痛いものばかりで、使い方も分からないし、何より置き場所に困る。

もちろんそんなものは要らないと毎度押し返すのだが、入手するまでの苦労や、二度と手に入らない希少なものだと商品の価値について長々と語り始めるので、これがまた面倒だった。

桓騎なら遠慮なくその貢ぎ物を受け取り、配下たちに分け与えたり、さっさと質に出してしまうか、元値の倍で他者に売りつけそうだと考え、信は小さく笑ってしまう。

「なんだ?」

いきなり笑った信に、桓騎が気味の悪そうな視線を向けて来る。何でもねえよと返した。

「…罗鸿のやつ、今日は来ねえのかも。俺がしばらく留守にしてたからか?」

今日は心強い味方がいるせいか、それともまだ罗鸿が現れていないせいか、信は随分と自分の心に余裕があるように感じた。

すぐに主を出迎えた従者に馬を預け、留守中に変わったことはなかったかを尋ねる。

「それが…」

どうやら信が不在の間も、罗鸿は頻繁にやって来たらしい。

信が屋敷に戻って来る日や行先についてを執拗に尋ねられたが、従者たちが一切答えなかったせいか、ここ数日は姿を現わしていないという。

自分の行方を調べるために、罗鸿が副官たちのもとへ行っていないか心配だったが、飛信軍の鍛錬を邪魔するようなことはなかった。

以前から罗鸿には迷惑していることを仲間たちに愚痴を零しており、副官たちや昔からの仲間たちも、その話を聞いて自分のことのように怒ってくれた。忠義に厚い自慢の将と兵たちである。

そんな大切な仲間たちに何か迷惑が掛かることがあれば、信もさすがにこれ以上の横暴は許さないと考えていたのだが、その心配は無用だったらしい。

罗鸿の目的は信との婚姻で、きっと飛信軍の副官たちに迷惑を掛ければ、すぐに斬り捨てられることを彼も分かっているのだろう。

だというのに、どうしてさっさと諦めてくれないのか。信には罗鸿の考えが少しも分からなかった。

 

 

「せっかく来てもらったのに、悪いな」

桓騎を客室に案内しながら、信は申し訳なさそうに眉根を下げた。

罗鸿が待ち構えていたのなら、桓騎も何かしら行動に出るつもりだったに違いない。

今までの罗鸿の行動から、きっと今日も待ち構えているとばかり思っていたのだが、今日は違った。

彼も商人としての仕事があるため、そう長い時間は構ってられないのかもしれない。そのまま商売に徹していてくれれば良いのだが、信が帰還したとなれば、きっとまた来るに違いない。

桓騎が屋敷に滞在してくれている間に来てくれることを願いながら、信は従者が淹れてくれた茶を啜る。

…罗鸿に会ったら、桓騎は何をするつもりなのだろうか。

向かいの席にどっかりと腰を下ろしている桓騎は、相変わらず余裕そうな表情を浮かべている。

目が合うと、彼はにやりと口角を持ち上げた。悪巧みを思いついた時のいつもの笑い方だった。

「門番として、雷土でも貸してやろうか?」

「いや、それは遠慮しとく…」

屋敷の門番をしている兵たちも、飛信軍で大いに訓練をこなしている者たちなのだが、罗鸿はそんな彼らに凄まれても引くことはなかった。

しかし、元野盗であり、桓騎の側近である雷土を立たせておけば、その辺の輩は怯えて近づくことはなくなるだろうと桓騎は笑った。

雷土も素直に引き受けるとは思えないが、お頭と慕っている桓騎からの指示で、なおかつ報酬を握らせておけば、本当に門番を引き受けてくれるかもしれない。

しかし、そんなことをすれば罗鸿だけでなく、屋敷の従者たちまで怯えてしまうだろう。

門番として雷土を採用する提案をしながらも、きっと桓騎はもう罗鸿への対抗策を考えているに違いないと信は思っていた。

彼は考えなしに動く男でない。桓騎自身は動かずとも・・・・・・・・・・、彼の頭の中には、いつだって勝利への道筋が描かれていることを信は知っていた。

いつだって余裕の表情を崩さない桓騎であるが、過去に何度か余裕のない表情を見せてくれたことがある。

それは情事の最中で、絶頂が目前に迫っている時の切なげに眉根を寄せている顔だ。きっとそれを知っている者は限られているだろう。

むしろそれ以外で、桓騎が余裕を崩した表情は見たことがないかもしれない。

一度だけ見たことがある珍しい表情といえば、過去に王翦の屋敷に赴き、三人で酒を飲んだ時のことだ。

あの酒の席で注がれたのが毒酒で、信は毒酒の副作用――媚薬を盛られたような状態――を起こしてしまい、王翦が前にいるというのにも関わらず、副作用を落ち着かせる名目で桓騎に淫らな悪戯をされてしまった。

…結局のところ、あれは信へ近づくなと王翦へ釘を刺すために、最初から最後まで桓騎が仕組んだ策であったのだが。

子供じみた独占欲もそうだが、王翦の前であのような辱めを受けたことに信は激怒した。

そして、その制裁として試みた策により、信は初めて桓騎を唆すことに成功したのである。
あの時に見た桓騎の愕然とした表情は、きっと信しか知らない秘密だろう。

 

「信」

「ん?なんだよ」

名前を呼ばれたかと思うと、桓騎に手招かれて信は立ち上がった。

「わっ…!?」

近づくと腰に手を回されて抱き寄せられて、椅子に腰かけている桓騎の膝の上に座る体勢になる。

密着したことで、信の脳裏に昨夜のことが浮かび上がった。

今日は早朝から屋敷に戻る日だったので、嫌だと言ったのに、桓騎の厭らしい手付きのせいで情欲に火が点いてしまい、結局いつものように身体を重ねてしまったのである。

酒も飲んでいなかったのに、あんな風に甘い声を上げて桓騎を求めた自分の浅ましい姿を思い出し、信は顔を真っ赤にした。

「お、おいッ…昨日も…!」

昨夜も散々体を重ねたというのに、まさかまだ足りないというのか。

今日は流される訳にはいかないと、信が桓騎の悪さをしようとしている手を掴む。

昨日も・・・?なんだ?」

わざと言葉の続きを促す桓騎に、わざと羞恥心を煽っているとしか思えず、信は悔しそうに奥歯を噛み締める。

その反応を見て、桓騎の口角がますます持ち上がった。

「…続きは?ほら、言えよ」

耳元に唇を寄せて低い声で囁かれる。

たったそれだけのことなのに、信の体が下腹部に甘い疼きが走り、全身が桓騎を求めているのだと分かった。幾度も男の味を覚えさせられ、桓騎の甘い言葉や手付きに一々反応するようになってしまったのである。

厄介な体になってしまったとは思いながらも、それに危機感を抱いていないあたり、彼に心を差し出してしまったことを認めざるを得ない。

「あ…」

耳元に熱い吐息を掛けられて、身体の芯から力が抜けてしまいそうになる。体が崩れ落ちそうになるのを何とか堪え、信は桓騎の胸に凭れ掛かった。

まるで甘えるような態度に桓騎の口角はつり上がる一方だ。

桓騎の膝の上に乗せられながら、彼の脚の間にあるそれが僅かに硬くなっていることが分かると、信は羞恥によって顔が上げられなくなる。

桓騎の骨ばった手が、いよいよ信の着物の帯に伸びた時だった。

 

「信将軍」

「うわあああッ!?」「うぐッ」

屋敷のことを任せている従者に扉を叩かれ、信は思い切り桓騎のことを突き飛ばしていた。

派手な音を立てて椅子ごと後ろに転げ落ちた桓騎は、思い切り背中を床に打ち付け、くぐもった声を上げる。

首切り桓騎と恐れられているはず彼のそんな無様な悲鳴を聞いたことがあるのは間違いなく信だけだろう。

「信将軍っ?」

「ななな何でもない!どうしたッ?」

扉越しに物音を聞きつけた従者が、何事だと焦って声を掛けて来たが、信は乱れた着物を慌てて整えながら部屋を出る。

「…ったく」

痛む背中を気遣いながら、桓騎はゆっくりと身を起こした。何事もなかったかのように取り繕った信が、咳払いを一つしてから扉を開ける。

取り繕ったとはいえ、未だに顔を真っ赤にした信が肩で息をしている信を見て、従者が不思議そうに小首を傾げていた。しかし、思い出したようにすぐに報告を始める。

「あの商人の男です。信将軍のご帰還をどこから聞きつけたのか、またやって来ました。いつものように屋敷の外で待っています」

罗鸿ラコウか…」

従者の男が困ったように眉根を寄せる。

「まだご帰還していないと伝えましょうか?」

信は頭を掻きながら首を横に振った。

「いや、何を言ってもあの男なら待つだろ。今日は桓騎将軍と出迎える」

すっかり不機嫌になっている恋人の姿をちらりと横目で振り返り、信は従者に罗鸿を招き入れるように伝えた。

「おい、さっさと行くぞ」

「ちっ…」

信が先に部屋を出ていくと、未だ背中を痛そうにしながらも、桓騎は大人しく彼女の後を追い掛けた。

 

商人罗鸿

「信将軍!」

屋敷を出ると、数台の牛車が目に留まった。先頭の牛車のすぐ傍に立っていた男が、真の姿を見るなり駆け寄って来る。彼が罗鸿ラコウだろう。

年齢は桓騎よりも少し上に見えた。信とはそれなりに歳の差があるようだ。

身を包んでいる上質な着物や、丁寧に整えてある髪と髭、それから恰幅の良さを見れば、それなりに裕福な暮らしをしていると分かる。
咸陽では有名な商人と言っていたから、身なりから裕福さを感じさせるのも頷けた。

「お久しぶりでございます。お会い出来るのを楽しみにしておりました」

人の良さそうな笑みを浮かべ、罗鸿は深々と頭を下げる。
商売人としていつも笑顔を繕っているのだろう、笑い皺が目立つ顔だった。どこか胡散臭さが抜けないのは、笑顔さえも商売の武器として利用しているからなのかもしれない。

「私用でしばらく留守にしてた」

屋敷を空けていた事情を簡潔に伝えた信が横目で視線を送って来る。どうやらこの男が罗鸿だと教えているのだろう。

「…で?今日は何の用だ。言っとくが、貢ぎ物や土産は受け取らねえからな」

腕を組みながら、信が罗鸿の後ろにある幾つもの牛車に視線を向ける。

荷台には布で覆われているが、毎度持って来る贈り物の数々が詰まれているのだろう。
罗鸿はまだ何も話していないというのに、うんざりしながら断る信を見れば、本当に迷惑をしていることが分かる。

「そうおっしゃらず!他でもない信将軍のために、此度も珍しい異国の品を集めて参りました」

罗鸿と言えば、信にそのような態度を取られても、人の良さそうな笑みを微塵も崩すことはない。それはまるで余裕の表れのようにも見えた。

商人というものは交渉術に長けていないと利益を得ることが出来ない職だ。武や知略を用いて戦う将と違い、商人は自分の口が何よりの武器となる。

ある意味においては、相手の出方を探る知将に近い才を持っていると言っても良い。確かに信とは相性が悪そうだ。

信の隣に立つ桓騎と目が合うと、罗鸿は不思議そうに目を丸めた。

ずっと信の隣にいたというのに、桓騎の存在に今気づいたということは、よほど信と再会出来たことが嬉しかったのだろう。

それから罗鸿は思い出したように、はっとした表情になる。

「桓騎将軍ではございませんか!お噂はかねがね伺っております。まさかお目にかかれるとは、光栄にございます」

先ほどと同じように深々と頭を下げて自己紹介を始める罗鸿だったが、商人としての顔が輝いたのを桓騎は見逃さなかった。良い金づるに出会えたとでも思われたのかもしれない。

罗鸿が狙っているのは、信を中心とした商売相手の繋がりだ。

桓騎と違って、信は秦将や高官たちと仲が良い。人の心に土足で上がり込んで来るような彼女の性格を好む者は多く、名家の嫡男たちとも仲が良かった。

きっと罗鸿は信と婚姻を結ぶことで、商人としての地位を強固なものに確立し、秦王嬴政だけでなく、秦国の中でも上に立つ者たちを商売相手にするつもりでいるのだろう。

しかし、好いている女をまるで道具のように利用されるのは、決して気分が良いものではない。

「………」

腕を組んで桓騎が静かに罗鸿ラコウを見据える。
外道だと罵られるほど残虐な行いをすることで有名な桓騎に沈黙の視線を向けられると、大抵の者はそれだけで怯えて逃げ出すことが多いのだが、彼は違った。

自分の着物の懐に手を差し込むと、

「桓騎将軍、どうぞこちらを」

罗鸿は薄ら笑いを浮かべながら、取り出したそれ・・を桓騎に差し出した。

 

渡されたそれは小瓶だった。中に薄い桃色の液体が入っている。香料の類だろうか。

「………」

すぐには受け取らず、これが何なのか目で問うと、罗鸿は信に背中を向けてから着物の袖で口元を隠し、声を潜めて話し始めた。

「…夜の宴・・・に相応しいかと。飲み物に混ぜても味は変わりませんし、数滴だけでもすぐに効果が現れますよ」

その言葉から、これが媚薬の類であると桓騎はすぐに合点がいった。

すぐ傍にいる信に聞こえぬように話す辺り、桓騎と信の男女の関係には気づいていないようだ。

もしも罗鸿が自分たちの関係を知っていたのなら、このような無礼極まりない待ち伏せや貢ぎ物の押し付けなどはしなかっただろう。

自分たちの関係は大々的に知られている訳ではない。むしろ知っているのはお互いの従者たちと、親しい者くらいだろう。秦王嬴政とその妻である后も含まれている。

「桓騎将軍。こちらですが、とても希少な商品でございまして…」

桓騎が黙って話を聞いていると、罗鸿は次にその商品の製造工程について語り始めた。

この媚薬は一部の地域でしか育たないという貴重な植物から作ったものだという。
花蕾や果実を乾燥させてから、さらに樹脂や根茎と長時間煮込み、何度もろ過を繰り返す過程を経て、採取出来るのはこの小瓶に入っている僅かな量だけらしい。

工程はともかく、とにかく希少価値の高いものであることは分かった。

随分と鼻息を荒くしながら罗鸿が話し始めたものだから、隣で信が何の話をしているのだと気味悪そうに顔を歪めている。

(気に入らねえな)

こんな男に信を奪われようとしている状況の悪さを改めて理解し、桓騎は小さな溜息を吐いた。表情に出さないまま、嫌悪感を抱く。

先ほど、罗鸿はこの媚薬を着物の袖から取り出していた。
牛車の荷に積んでいなかったのは、価値の高いそれが移動中に破損しないようにという気遣いだったのかもしれないが、懐に忍ばせていたことから、常備していた・・・・・・と言っても良い。

もしも、自分がこの場に居なかったら、信は知らずにその媚薬を飲まされていたかもしれない。

飲み物に混ぜても味が変わらないと言ったのは罗鸿本人だ。信がそのような仕掛けに気づけるはずはないし、飲ませるのは容易なことだろう。

もしかしたら信から罗鸿のことを打ち明けられる前に、そんな危機的状況に陥ることがあったかもしれなかったのだ。

どれだけの効力を持つ媚薬かは不明だが、日頃から自分に抱かれ慣れている信のことだから淫らな獣に豹変してしまうに違いなかった。

それを口実に、罗鸿は信から肉体関係を迫られただとか、新たな噂を流すつもりだったのかもしれない。

もし信が媚薬を飲まされたとして、毒の副作用が現れた時と同様に男を求めるようになったら、罗鸿の策通りに事が進んでしまう。

冷静な判断が出来ず、本能のままに快楽に溺れるあの姿を桓騎は良く知っていたし、絶対に他者に知られてはならないと思っていた。

副作用のことを考慮して、自分以外の前で毒酒を飲むなと口酸っぱく伝えていたのはそのためである。

信のあのような淫らな姿を前にして、正気でいられる男はきっといないだろう。
自分でさえ冷静でいられる自信はないし、趙の宰相だってそうだった。そこらの男が我慢出来るとは思えない。

婚姻の口実を作るためにあれこれ手を回している罗鸿も骨抜きになり、自分の地位の確立のためだけでなく、異性として信のことを手に入れようとするに違いなかった。

「どうぞ、お気に入りの女子おなごにでもお使いくださいませ」

「………」

怒りを煽るように追い打ちを掛けられて、桓騎のこめかみに熱くて鋭いものが走った。

自分の知らない場所で信がこの男から卑猥な言葉を掛けられることも、肌を隅々まで見られ、ましてや触れられることなんて、絶対に許す訳にはいかないと思った。

趙の宰相に抱かれたと知った時は腸が煮えくり返りそうになったし、裏で手を回し、呂不韋と趙の宰相の暗殺まで計画していたのは桓騎だけの秘密である。

いつまでも桓騎が受け取らずに沈黙を貫いていると、痺れを切らしたのか、罗鸿が強引に小瓶を握らせて来た。

「どうぞ遠慮なさらずお受け取り下さい。これはお近づきの証です」

遠慮などしていないというのに、有無を言わさずに押し付けて来るこの強引さに、信も困り果てているのだろう。

話を聞くだけで理解していたつもりだが、これは確かに面倒な男だと思った。
この汚らわしい手が、指一本でも信の体に触れる前に、腕ごと落としてやろうかと考える。

「桓騎?」

名前を呼ばれて、反射的に振り返る。隣で信が心配そうに桓騎を見つめていた。

いつまでも黙り込んでいる桓騎の口元が僅かに引き攣っている異変には気づいたようだが、渡されたこの小瓶の正体が媚薬の類だということには気づいていないようだった

 

反撃開始

日に日に信への独占欲が深まっていることは自覚していたし、信もそれには気付いているようだったが、普段の自分を知っている彼女に、感情を剥き出しにする無様な姿は見せたくなかった。

静かに息を吐いて、僅かに波立った心を落ち着かせてから、桓騎は罗鸿ラコウの方に向き直る。

「…もっと他に珍しい品はあるか?」

桓騎は小瓶を手の中で弄びながら問いかけると、罗鸿の瞳が輝いた。仕入れた品々に桓騎が興味を示したのだと思ったのだろう。

「ええ、ええ!もちろん用意してございますとも!桓騎将軍がお望みならば、何だって取り寄せましょうぞ!」

またもや鼻息を荒くしながら、罗鸿が何度も頷く。

「なら、日を改めて用意して来い。気に入ったものがあったら良い値で買ってやるよ」

「おお…!ありがとうございます!」

信と同じく大将軍の地位に就いている桓騎となれば、戦での褒美や普段からの給金など、その辺の者とは比べ物にならないほど得ている。

思わぬ商売の機会が飛び込んで来たことに、罗鸿は満面の笑みを浮かべて頭を下げた。

「何かお好みはございますか?桓騎将軍のお気に召す品を揃えて参ります」

胸の前で両手の手の平を擦り付けながら、罗鸿が問う。顎を撫でつけた桓騎は少し考えるふりをした。

「…なら、良い嫁入り道具・・・・・を揃えておけ」

「は…?嫁入り道具…ですか?」

「そうだ」

意外だったのだろう、罗鸿が目を丸めている。隣にいる信も何の話だと小首を傾げていた。

一般的に嫁入り道具とは、女性が婚儀で着用する嫁衣かいや、嫁ぎ先で使用する家財道具のことを指す。家具や調度品、着物や装飾品など、それらは花嫁の実家の地位や財力を示すものでもあった。

本来なら女性の実家が用意すべきものということもあって、罗鸿は桓騎が何のために嫁入り道具を欲しているのか、理解出来ずにいるようだった。

それでも結婚を連想させる物であることから、桓騎自身か、彼の身内の祝い事が関わっているのだろうと良いように解釈したらしい。

「ええ、ええ、もちろん一級品をご用意させていただきます!」

気前の良い返事に、得意げに口角を持ち上げた桓騎は信の肩に腕を回し、その体を強引に抱き寄せた。

もう罗鸿には興味を失ったように、信だけを視界に入れ、桓騎は優しい眼差しを向ける。

「俺のところに輿入れするのに必要だろ?なあ、信?」

その言葉に驚愕したのは罗鸿だけでなく、声を掛けられた信自身もだった。

何を言い出すんだと信が口を開きかけた途端、桓騎は肩に回していた手で彼女の二の腕を思い切り摘まむ。

「ぅんッ!?」

突如走った痛みに、信が身体を跳び上がらせながら不器用な返事をした。

思わず笑いを噛み堪えていると、

「え、ええと?お、お二人は、これから、ご結婚される…ということで、ございましょうか?」

驚愕の表情のまま、罗鸿が尋ねて来た。

「ああ、そうだ。こいつの育て親はもういないからな。嫁入り道具は自分で用意しなきゃならねえだろ?」

信の育て親である王騎と摎が馬陽の戦いで没しているのは、秦国で広く知れ渡っている事実だ。

しかし、桓騎と信の男女の関係を知らなかった罗鸿は、二人の結婚話など微塵も予想していなかったのだろう、あからさまに狼狽え始める。

桓騎が他者を手の平で弄ぶのが堪らなく面白いと感じるのは、この動揺っぷりを目の当たりにした瞬間だった。

「………」

信が何か言いたげに視線を送って来たが、桓騎はいつでも二の腕を摘まめるように肌の上に指を這わせる。

どうやらそれで桓騎の意図を察したらしく、信は大人しく口を噤んで縮こまっていた。

罗鸿の目には、信がまるで桓騎に甘えるかのように、その身を委ねているように見えたらしく、苦笑が引き攣り笑いになっている。

お前の入る余地はないのだと言わんばかりに、見せつけるように桓騎は信の体を抱き締めたままでいた。

「そ、それはそれは…!おめでたいですな…!いやはや、日頃から噂話には耳を傾けているものの、そのような吉報は初耳でした…」

何とか冷静さを取り繕うとしている罗鸿の姿が滑稽で、桓騎はさらなる動揺を煽るように言葉を紡ぐ。

「秦王を驚かせてやろうと思ってずっと内密にしていた。…あいつの面白え顔を拝むために、このことはくれぐれも外部に洩らすなよ」

もっともらしい理由で信がこれまで縁談を断っていた理由を代弁し、釘を刺すようにドスの効いた声で低く囁くと、罗鸿は青ざめながらも頷いた。

信といえば、この国で絶対的権力を持つ親友をあいつ呼ばわりした桓騎に呆れた視線を向けている。

「で、では、あの、一級品をご用意させていただき、また日を改めて、お伺いいたします…」

「ああ、頼んだぜ」

先ほどまでの商人としての勢いが鎮火されたようになり、罗鸿は縮こまって頭を下げた。

いくら罗鸿が信の夫の座を狙っていたとしても、桓騎には敵わない。それは商人という立場が将軍よりも下だという自覚がある証拠だった。

信がずっと縁談を断り続けていた理由をようやく理解した罗鸿は、狼狽えることしか出来ずにいるらしい。先ほどまでは威勢よく商売をしていたくせに、あたふたと言葉を選んでいる姿に、桓騎は笑いを噛み堪えるのが大変だった。

ふと、放置されたままの牛車に気が付いた。

積んである荷は布で覆われているため、何が詰まれているのかは分からない。しかし、信が興味を抱かないものということは、恐らく金や銀で作ったような高級な物なのだろう。

どうせこれらは全て信への貢ぎ物で、信本人は不要だと言うのだから、自分が代わりにもらってやろうと考えた。配下たちへの手土産にちょうどいい。

この高級な品々を、全て信へのご機嫌取りのために押し付けるということは、それを仕入れるにあたって相当な金を貯め込んでいることも分かる。

良い金づるを見つけた・・・・・・・・・・と考えたのは罗鸿だけでなく、桓騎もであった。

「今日の貢ぎ物はもらっておいてやるよ。こいつの夫になる俺の物でもあるだろ?」

「そ、そうですね…」

信との婚姻どころか、彼女のご機嫌取りのために用意した貢ぎ物までもが桓騎に奪われることとなり、罗鸿はその顔に苦笑が隠せずにいた。

しかし、桓騎が何か文句があるのかと言わんばかりに鋭い一瞥をくれてやると、彼は逃げ出すようにその場を後にしたのだった。

 

穏便解決?

罗鸿ラコウの姿が見えなくなった後、信は桓騎の腕の中から抜け出した。

険しい表情を浮かべているのを見て、てっきり笑顔で感謝されるとばかり思っていた桓騎は小さく小首を傾げる。

呆れたように信が肩を竦めた。

「お前…いくら何でも、あんなこと言って騙すなんて…」

「騙す?」

心外だと桓騎は肩を竦めた。

「悪い虫を追い払ってやったのに、礼もなしか?」

口を尖らせて不機嫌を顔に出すと、信は少し考えてから、罗鸿が置いていった牛車を指さした。

「じゃあ、あれ全部やるから、これで貸し借りはナシな?」

「………」

ひくりと口元が引き攣る。
それなりに価値があると見て、罗鸿から上手い具合に奪い取った品々だが、まさかそれを今回の礼として宛がわれるとは思わなかった。

「ま、あの様子ならもう来ないだろうし、本当に助かったぜ。ありがとな」

花が咲いたような笑顔を向けられる。罗鸿と違って胡散臭さは微塵も感じられず、本当に安堵しているといった表情だった。

どうやらこれで清算した気になっているらしいが、礼を言われても桓騎の胸は釈然としない。

何故なら、この件はまだ終わりではないからだ。

「…あいつ、まだ諦めてねえぞ」

「えっ?」

罗鸿に渡された小瓶を手で弄びつつ、桓騎が独り言ちると、信が驚いたように聞き返す。

「な、なんで…?」

あれだけしつこく縁談を迫って来た男がこのまま素直に引き下がると本当に思っているのかと、桓騎は唇に苦笑を浮かべた。

「少しは頭を使えよ。…動き出すのは、向こうの準備が整ってからだろうがな」

まるで罗鸿の行動を先読みしているかのような言葉に、笑顔を取り戻したはずの信の表情が曇る。

「わっ?」

切なげに皺が寄せられた彼女の眉間を指で弾き、桓騎はにやりと笑う。

「心配すんな。全部上手くいく」

その言葉を聞いた信の頬が自然と緩んだ。

 

罗鸿からの誘い

その後も桓騎は信の屋敷に滞在していた。

予想では十日ほど経ってから罗鸿ラコウが再び現れると睨んでいたのだが、彼が一級品の嫁入り道具を手配したと屋敷に書簡を寄越したのは、五日が経ってからのことだった。

早急に動き出したところから、桓騎と信の関係を知って、よほど余裕がなくしていることが分かる。

実際に罗鸿と会って分かったことだが、彼が私欲のために信を利用しようとしていたのは間違いないだろう。彼の目は信を異性として好いているものではなく、高い地位を得るために踏み台にしか見ていない。

そしてそれは、桓騎が罗鸿を排除するのに十分過ぎる理由であった。

(さァて…どう出るか)

書簡を読み終えた後、桓騎は頬杖をついて、気だるげに目を伏せる。

罗鸿から送られて来た書簡には、桓騎が依頼した一級品の嫁入り道具を用意したと記されていた。

嫁入り道具の受け渡しに当たっては、ある条件が記されていた。
桓騎が信との婚姻を内密にしていることを伝えたからだろう、罗鸿は他の民たちからの目を気にしてか、夜になってから受け渡したいと申し出たのである。

二人が婚姻を未だ公には出来ない事情から、罗鸿の屋敷でささやかながら祝いの席を設けたいことや、嫁入り道具だけでなく、祝いの品も贈りたいという言葉が綴られていた。

このことから予想出来るのは二点。

一つは罗鸿が今後も良い商売相手として、自分たちと繋がりを持っておきたいと考えていることである。

そしてもう一つは、罗鸿が信との婚姻を諦め切れていなかった場合の話だ。桓騎はきっと後者に違いないと睨んでいた。

 

「…なあ、本当に行くのか?」

不安げに瞳を揺らしながら、同じく書簡を読んだ信が問いかけて来た。罗鸿の誘いに乗ってやろうと言ったのは桓騎の方である。

「せっかくの誘いだからな」

余裕たっぷりの笑みを見て、信は不安そうに眉根を寄せる。

桓騎が信頼している配下にさえ策を共有しない男であることは知っていた。それは桓騎の中で勝利への道筋が浮かんでいるからだと、理解していたのだが、それでも信は不安の色を隠せない。

桓騎が浮かべている勝利への道筋を疑っている訳ではなく、いつもの極悪非道な首切り桓騎が何をしようとしているのかという不安であった。

捕虜や女子供には一切手出しをしないことを信条としている信は、桓騎がこれまで行って来た血も涙もない命の奪い方を良いものだとは思えなかった。
たとえそれが、桓騎の信条であったとしてもだ。

「………」

切なげに眉根を寄せた信に、桓騎は薄ら笑いを浮かべるばかりで何も語ろうとしない。

桓騎が自分にさえ策を告げようとしないのは、全く異なる信条を貫く信から口を出されるのが面倒だと思っているからだろうか。

「信」

いつまでも顔から不安の色を消せずにいる彼女に、桓騎は優しい声色で名前を呼んだ。

「安心しろ。お前が不安がるようなことはしない」

「本当か?」

間髪入れずに信が聞き返すと、

「……あいつ罗鸿の出方次第だがな」

意味深な沈黙の後に桓騎がそう言ったので、信はひと悶着起こることを予想して、深い溜息を吐いた。

 

中編②はこちら

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恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「毒酒で乾杯を」の番外編です。

 

信の縁談

「…なあ、桓騎」

屋敷で酒を飲み交わしていると、信は酔いで顔を仄かに赤らめながら、桓騎を見つめて来る。

それが情事の誘いではないことは、悩ましく眉を寄せた表情からすぐに察した。

「しばらく、泊まっても良いか?」

機嫌を伺うように、上目遣いでそう問われて断る男はいないだろう。好きなだけ泊まっていけばいいと返す前に、桓騎は理由が気になった。

「珍しいな。なんかあったか」

前触れもなくふらりと桓騎の屋敷にやって来た信と酒を飲み交わし、一夜を共に過ごすことは珍しくはないのだが、彼女は翌日になるとすぐに帰ってしまう。

いつも飛信軍の鍛錬の指揮を欠かさず行い、信自身も副官の羌瘣と手合わせをしたり、日々腕を磨いているのだ。

面倒見の良い彼女が自身の鍛錬や、軍の指揮を怠るとは想像出来ず、桓騎は理由を尋ねた。

「…罗鸿ラコウって商人を知ってるか?咸陽じゃ有名なやつらしいんだけどよ」

「いや、知らねえな」

聞き覚えのない名に、桓騎は首を振った。

下賤の出でありながら、褒美に一切興味を示さない彼女の口から商人の話が出るとは珍しい。
その男と屋敷に滞在したがっている理由がどう繋がっているのかと、桓騎は耳を傾けた。

「実は…そいつから、ずっと縁談を申し込まれてるんだけどよ…」

空になった杯に鴆酒ちんしゅのお代わりを注ぎながら、信が眉根を寄せていた。

ほう、と桓騎が興味深そうに片眉を持ち上げた。

信に縁談の話が届くというのは珍しいことではなかった。
大将軍である彼女の夫となり、その立場を利用して伸し上がろうと計画する男など山ほどいる。少しでも彼女に近づくために、飛信軍に入ろうと体力試練に挑む男も後を絶たないくらいだ。

縁談を申し込んでいる男たちもそれなりに秦国で名を広めている地位の者たちばかりで、そして信も、かなりの数の縁談を断っているというのも噂で聞いていた。

きっと信が大将軍という立場に留まっているだけなら、そこまで縁談の数も多くはなかったに違いない。

しかし、信は秦王である嬴政の親友という、唯一無二の立場に立っている。
今の地位に満足せず、伸し上がりたい男たちからしてみれば、秦王と繋がりのある信は良い踏み台なのだ。

縁談を申し込んで来た男たちと一人ずつ会っていたら時間がいくらあっても足りないと、溜息混じり話していたことはまだ記憶に新しい。

異性から好意を寄せられていることに対する自慢ではない。
信自身も縁談を申し込む彼らが自分の地位を狙っているのだという自覚があるからこそ、相手が誰かと聞く前から縁談をひっきりなしに断っているのだという。

嬴政が信を親友として大いに信頼を寄せているのは、彼女のそういった態度も含めてのことだろう。

彼女が大将軍の座に就き続ける限り、そして嬴政が王として即位し続けている間はきっと縁談の話が絶えることはないだろう。

しかし、信が顔も名も知らぬ男たちに靡くような女でないと確信していたこともあって、桓騎は過去に彼女の縁談話を聞いても不安を覚えることは一度もなかった。

 

「…で、その商人が何だっつーんだよ?」

鴆酒を口に運びながら、桓騎が話の続きを促した。

いつもは縁談を申し込まれてもさっさと断るくせに、珍しく信が縁談を申し込んで来た男の話を掘り下げたことに、桓騎は何があったのか気になった。

屋敷に帰りたくないと彼女が言ったのは、これが初めてのことである。
しかし、前向きに縁談を受け入れるか悩んでいるというワケではなさそうだ。彼女の表情を見て、その商人に惚れていることは絶対にないと断言出来た。

だとすれば、よほどその罗鸿ラコウとか言う商人に、決して無視できない事情・・・・・・・・・を抱えていると見て良いだろう。

「……あー、えーと…」

言葉を選ぶかのように信が俯いて表情を隠したので、桓騎は僅かに眉根を寄せた。何か普段とは違うことが起きているのだと、ある程度の予想は出来た。

「厄介事に首を突っ込んだか」

杯を口元に運びながら冗談交じりにそう言うと、信が大袈裟なまでに肩を竦めたので、桓騎は呆れ顔になってしまう。

お人好しの彼女が人助けをすることは珍しくないし、恋愛感情を抱くようになる男がいるのも珍しい話ではなかった。

しかし、信がこれほどまでに困り果てているということは相当厄介な問題を抱えているのかもしれない。

色々と訊き出したい気持ちを押さえるために、鴆酒を流し込んだものの、毒の程良い痺れが喉を襲うばかりで、一切味を感じなかった。

…まさか信は、その縁談話を受け入れざるを得ない状況に陥っているのではないだろうか。

「…まさか、本気でその商人の野郎と婚姻を結ぶつもりかよ」

こんなにも良い男が目の前にいるというのに、信は意外と男を見る目がないようだ。

怯えさせぬように穏やかな声色で問うものの、不自然に頬が引き攣ってしまう。付き合いの長い側近たちにこんな顔を見られたら大いに笑われるだろう。

知将として中華全土にその名を広めている冷静沈着な桓騎であっても、信のことになると途端に感情が露わになってしまうのは、やはり惚れた弱みなのだろうか。

「いや、そんなワケないだろ!」

すぐに否定されたので、表情には出さず安堵したものの、信の顔色は優れない。

「ただ、その…少し、…本当に少しだけ、面倒なことになってるだけだ」

「面倒なこと?」

聞き返すと、信が重い口を開いた。

「…そいつが、俺と結婚するって噂を勝手に民たちに流してるみたいで…」

「ああ?」

これには桓騎も思わずドスの利いた声を返した。少し・・という緩衝用語を使っていても、十分過ぎるほど面倒な事態になっていることは安易に予想がついた。

どうやら信も迷惑しているのだろう、重い溜息を吐き出した。

「お前は断ったんだろ?なんでそんな噂を広めてんだ?そいつだって、下手したら虚言を理由に首が飛ぶだろ」

「…一度、屋敷に泊めたせいで、それを言いふらしてるんだよ。それが何でだか結婚の噂にすり替わってて…」

桓騎のこめかみに鋭いものが走った。

まさか自分という存在がありながら、その商人を屋敷に泊めてやったというのか。顔に暗い影を差している桓騎を見て、信がぎょっとした表情を浮かべる。

「こればっかりは俺の首を掛けてもいい!誓ってやましいことはしてない!」

わざわざ宣言されなくても、嘘を吐けない信が隠し事など出来るはずがないのだ。

もしも自分以外の男と寝たのが事実だとしたら、たらふく毒酒を飲ませ、わざと副作用を起こさせてから、三日三晩は信の方から泣きながら自分を求めるように仕向けたに違いなかった。

以前、秦趙同盟が結ばれた際、信は呂不韋の企みによって毒殺されかけた趙の宰相を救い、その流れで彼と褥を共にしていたことがあった。

何度許しを乞われても弁明をされても、桓騎はそれを全て無視し、抱き殺す勢いで彼女を三日三晩は文字通りめちゃくちゃに犯したのである。

毒耐性を持っていることはともかく、副作用のことを考慮して人前で毒酒は絶対に飲むなと口酸っぱく伝えていたのに、自分の忠告を無視して裏切った信が悪い。

「………」

日を追うごとに情けないほど信に対する独占欲が増している自分を自覚し、桓騎は小さく溜息を吐いた。

 

僅かに鼓動が速まっている心臓を落ち着かせるために、桓騎は黙って鴆酒を口に運ぶ。

信は嘘を吐けない欠点を持っているが、決して弱い女ではない。簡単に寝込みを襲われたり、自分以外の男に組み敷かれるとは微塵も思わなかった。

しかし、どういった経緯があって男を屋敷に泊めたのか、桓騎の聡明な頭脳を以てしても、今回の経緯ばかりは分からなかった。

「…その罗鸿ってやつ、直接俺の屋敷に赴いて、縁談を申し込み来たんだ」

呆れた表情を浮かべたまま、信が罗鸿との経緯についてを話し始める。

正式に縁談を依頼する場合、直接会うまでにはそれなりの作法というものがある。まずは書簡のやり取りを行い、自分の身分を示す必要がある。そこで相手に気に入られてから、会う権利を獲得できる。

第一に重視されるのは顔でも体でもなく、身分だ。
相手の親からも信頼されるような地位に立っていなければ、その時点で話は無かったことになる。

縁談を申し込まれる女は、届いた縁談話を自らが吟味することはない。親が決めた相手と結婚をさせられることがほとんどだろう。一族の繁栄のために、娘であっても利用できるものは利用する。それがこの国の習わしだ。

しかし、信の場合は違う。養父である王騎が存命だったならまた違っただろうが、相手を見定めて結婚相手を決める権利は彼女自身にあった。

悪く言えば、断る手段も信本人にしかないということである。だからこそ、罗鸿という商人はそこを付け入ったのだろう。

信さえ頷かせることが出来れば結婚が認められるのだから、交渉に長けている商人ならば、どんな手段でも厭わないのかもしれない。

やましいことはしていないというが、一体どのような経緯があって屋敷に泊めてやったのだろう。

信だって女だ。男が彼女の屋敷に泊まったと言えば、その話だけを聞いた者たちが良からぬ想像をしてしまうのも分かる。

聡明な頭脳を持つ桓騎でさえも、その商人と信の関係を疑ったのだから、民たちは信がその商人と結婚するという噂を鵜呑みにしているに違いない。

もしもこれがその商人の策略だとしたら、それなりに厄介な相手だと桓騎は舌打った。

信がその策略に陥り、万が一でもその商人と結婚することになったら、正気でいられる自信がない。

幸運だったのは、完全にその策略から抜け出せなくなる前に、信が打ち明けてくれたことだった。

いくら信のことを愛しているとはいえ、彼女に関する噂話まで全て把握している訳ではない。
万が一、信が誰にも打ち明けずに、その策略に陥り、めでたく罗鸿との婚姻を結んでから助けを求められなくて本当に安堵した。

もしもそうなったとしても、速やかに罗鸿の存在を闇に葬り去って結婚自体をなかったことにするまでだが、信のためを想うならば穏便に済ませるのが一番の得策だろう。

戦では正攻法で攻め入る信と、奇策で攻め入る桓騎のやり方は、平行線のように交わうことはなく、理解し合えるはずもないのである。

「……面倒な奴に好かれるな、お前は」

つい愚痴のように零してしまうが、信の耳には届かなかったようだ。もちろん、面倒な奴というのには桓騎自身も含まれている。

秦趙同盟の時に信が趙の宰相と褥を共にした時は、桓騎は全力で手回しをして国中に噂が広まぬよう情報操作を行った。

あの時もしも自分が情報操作を行わなければ、秦趙の仲をより強固にするためだとか訳の分からない理由で、信は政治の道具として趙の宰相に嫁がされていたかもしれなかった。

報告によれば、趙の宰相が信と褥を共にしたことには丞相の呂不韋が絡んでいたという。厄介な輩共に絡まれたものだと毒づいたことを思い出す。

いくら戦場で多大なる強さを誇っていたとしても、本当に信はこの手の策には弱い。

だからこそ、桓騎は彼女から目を離せられなかったし、ますます他の男に手放したくなかった。

 

 

信の縁談 その二

詳しく話を聞けば聞くほど、罗鸿ラコウという商人に対して、嫌悪を抱くばかりだった。

書簡のやり取りを省いて、直接屋敷に赴いて縁談を申し込んで来たというのは、いくつも前例があったので、ここまではまだ珍しい話ではなかった。

事前の訪問を申し合わせすることもなかったので、もちろん見張りの兵から門前払いを食らったそうだが、信に会うまでは帰らないと、罗鸿はずっと門の前で粘り続けていたのだという。

大抵の者ならば、ガタイの良い兵に睨まれると逃げ帰るのだが、罗鸿はそうではなかった。

門番の兵たちも、鍛錬の指揮に出ていた信に報告はせず、そのうち帰るだろうと放っておいたようだが、彼の粘り強さは今まで縁談を申し込んで来た男たちとは比べ物にならないほどだった。

やがて雨が降り始めても、彼は寒さに凍えながら、ひたすら信のことを待ち続けたのだという。

陽が沈み始めた頃に帰還した信を見るなり、罗鸿はずぶ濡れの姿で自己紹介を始め、大胆にも縁談を申し込んだ。

状況が分からずに混乱する信に、門番が縁談を申し込むためにずっとここで待っていたのだと説明をされたらしい。

その時に信は罗鸿に面と向かって縁談を断ったし、門番もその時のことはちゃんと覚えているのだと力強く桓騎に訴えた。

言葉を濁らせることはせず、縁談には応じられないと何度も告げたのに、それでも罗鸿は引かなかったのだという。諦めの悪い男だと言うのはその話から十分に理解出来た。

「…それで?」

頬杖をつきながら桓騎が話の続きを促す。
どれだけ断りの返事を入れても引かない罗鸿が、冷え切った身体を震わせているのを見て、信は今夜だけ屋敷に泊まって明日帰るように伝えたのだという。

そのまま風邪でも引かれるのも夢見が悪いし、縁談を断られた勢いで血迷ったことをされては困ると思ったのだろう。

それは縁談を承認したものではなく、誰が聞いても信の善意による行為だと分かる。この話を聞けば誰もがそう思うだろう。

しかし、一晩屋敷に泊まって帰宅した罗鸿は、縁談の話を持っていった後に信の屋敷に泊まったのだと民たちに嬉々として語り、それがなぜか回り回って信が縁談を承認したという噂にすり替わり、咸陽で大いに広まってしまったのだという。

 

「はあ…」

一通りの経緯を語り終えた信は疲れ切った顔で机に突っ伏した。
どうやら一月近くその噂話に振り回されているようで、精神的にも参ってしまっているらしい。

「噂なんて放っておきゃ、そのうち消える」

信の口から話を聞いた桓騎も罗鸿の図々しさに静かに腹を立てながら、しかし、今は彼女を慰めるように穏やかな口調でそう伝えた。

もう少し早くその話を知っていたのなら、早々に情報操作を行い、信に気付かれぬように罗鸿ごと処理・・をしていただろう。

「それが…」

言いにくそうに言葉を濁らせたので、まさかまだ何かあるのかと桓騎がひくりと口角を引き攣らせた。

あまりにも咸陽でその噂が広まり過ぎて、丞相である昌平君や昌文君たちの耳にも届いたのだという。つまり、宮廷にもその噂が広まっているということだ。

用があって宮廷に訪れた際、昌平君から事実確認をされた信は驚愕した。

怒りのあまり罗鸿の屋敷に乗り込んで、一体何のつもりなのだと本人に問い詰めたのだという。

「………」

眉間に寄った皺を解すために目を閉じ、桓騎は無言で眉間に指を押し当てた。

そんなことをすれば、ますます罗鸿の思うつぼだと、きっと彼女は分からなかったのだろう。そういう鈍いところがあるから、趙の宰相にも呂不韋にも政治の道具として扱われたに違いない。

案の定、それは罗鸿の策略だったようで、屋敷に訪れた信はあれよあれよという間に彼の一族の者たちに厚遇されたのだという。

信が自ら罗鸿の屋敷を訪れたのを目撃した民たちは、罗鸿の結婚の噂は本物だと誤解することになる。そして今では、咸陽を歩けば民たちから祝福の言葉を掛けられるようになったのだとか。

その日を境に、屋敷に帰れば罗鸿が信のご機嫌取りのためか、異国から仕入れたという珍しい品物や着物を揃えて、彼女のことを待ち構えているのだそうだ。

民たちの間で広まった誤解にも、罗鸿の行動にも信はうんざりしており、今では自分の屋敷に帰るのも億劫になっているのだという。

「はあ…何でこんなことに…」

後悔しているとしか思えない独り言に、桓騎はやれやれと肩を竦めた。
善意で罗鸿を屋敷に泊めたことがまさかこんな大事になるとは思わなかったと、信は激しい後悔の念に駆られていた。

「………」

最初から自分を頼れば良かったものをという言葉を寸でのところで飲み込む。今さら彼女を責めたって何も変わりないし、それに信が罗鸿を屋敷に泊めたのは善意でしかない。その善意を利用した罗鸿に全て非があるのだ。

きっと罗鸿からしてみれば、このまま信の判断能力と反発力を奪っていけば、確実に自分のものに出来ると見ているだろう。

そして信が屋敷に乗り込んで来ることや、それを逆手に婚姻の噂を広めるのも策だったのならば、それだけ信との縁談に執着していることが分かる。

信が縁談を断ったのは確かだし、そして罗鸿も、信から縁談を承諾されたとは一言も言っていない・・・・・・

屋敷に泊まったことや、信が屋敷にやって来たという事実だけを広め、それが結婚の事実とすり替わるように情報操作を行ったのだから、相当頭がキレる商人なのだろう。

繁栄を意味する名であることから、商人としての才を芽吹かせたのも頷けるが、信を娶るのではなく、普通に商売をしていれば良かったものをと桓騎は小さく舌打った。

彼に唯一の誤算があったとすれば、それは紛れもなく信と深い繋がりを持っている桓騎自分の存在である。

他国だけでなく、秦国の中でも恐れられている残虐性と奇策の持ち主である自分を敵に回したのが罗鸿の誤算であり、敗因だ。

こちらの勝利を前提に桓騎がそう考えているのは、それが確定次項であり、当然の結果だからである。

「信」

「ん…?」

顔を上げた信の瞳はうっすらと潤んでいる。酔っているせいだろうが、男の情欲を揺るがせるその表情を他の誰かに見られるだなんて、絶対に許せなかった。

「一つ、貸しだぞ」

何度か瞬きを繰り返している信が、桓騎から協力を得られるのだと理解するまで少し時間がかかった。

「へへ、やっぱり頼りになるなあ、お前…」

安堵したのか、ふにゃりと顔を緩ませた笑みが堪らなく愛おしかった。

 

桓騎と信の関係性

そのうち信が机に突っ伏して眠ってしまったので、桓騎は彼女の体を抱えて寝台へと運んだ。

罗鸿という商人の話を始めた時から、顔に不安の色を宿していたが、今は親の腕に抱かれて眠る子どものように安心しきった顔を見せている。

普段なら共に就寝するのだが、桓騎は寝台に腰掛けたまま信の寝顔を見つめていた。

「………」

顔に掛かっている前髪を指で梳いてやってから、桓騎はもう少しだけ飲もうと立ち上がり、棚に収納してある酒瓶を眺めた。

一人で飲むのなら、信があまり好まない鰭酒にしようと思い、自分で浸けた酒を手に取る。
杯に注いだ酒から独特な生臭さが立ち上った。今回もよく毒魚の鰭を炙ったが、匂いは取れなかったようだ。

信はこの生臭さが苦手だというが、舌の上に広がり、喉に流れていくこの強い痺れには堪らない旨味がある。

(…婚姻か)

自分たちはこうして酒を飲み合っては体を重ねる男女の仲ではあるものの、婚姻を結んでいる訳でもないし、かといって許嫁のような堅苦しい関係でもない。

お互いに下賤の出であることから、そういった形式に縛られることないし、言ってしまえば気ままで楽な関係だ。

今後もその関係は平行線のように続いていくのだと桓騎は信じて疑わず、そしてそれは信も同じだと思っているに違いない。

お互いに将という立場にある以上、次の戦で死ぬかもしれない。桓騎は将軍というものに未練も誇りもないのだが、信はそうではない。

秦王に対する忠義が厚い女将軍。それ以上、信のことを知らずにいれば、桓騎は今も一人で毒酒を嗜んでいたに違いない。

そんな自分たちを引き結んだのは、毒に対する耐性があることだった。
その共通点がなければ、きっと信と毒酒を飲み交わすことなく、今の関係に至ることもなかっただろう。

信は秦将であることに誇りを持っており、国を守ることに命を懸けられる女だ。
この国を守ることが本望であり、役目であり、それ以上は何も望まないと言っていたことを桓騎は覚えていた。

裏を返せば、それは、女としての幸せを諦めているということである。

戦から離れ、自分と婚姻をして家庭を築くだなんて、夢にも思っていないだろうし、桓騎もそんな未来を想像したことなど一度もなかった。

「………」

ゆっくりと振り返り、桓騎は信の寝顔を見つめた。
ここに至るまでに、戦以外で彼女が幸せに生きる道は幾つもあったはずだ。下賤の出であっても、男と結婚して子を産み、女としての幸せを得ていたのかもしれない。

(…全然思い浮かばねえな)

頬杖をつきながら、信のもう一つの未来を考えてみたが、やはり少しも思い浮かばない。

着物の隙間から僅かに覗く傷だらけの体を見て、信が将という立場であるからこそ、自分は彼女に惹かれたのだと断言出来たし、将でない彼女など彼女ではないと断言できた。

だからといって、自分以外の男が彼女を狙っているという話を見過ごすわけにはいかなかった。

自分以外の男と幸せそうに微笑み合う信の姿など、考えたくもない。

それは紛れもなく独占欲の類だと自覚していたのだが、信はそのことに気付いていないだろう。本当に鈍い女だ。

苦笑を浮かべながら、桓騎はこれからも彼女の隣に居続けることを望んでいる自分に気が付いた。

 

 

「んー…」

寝台の上で眠っているはずの信が声を上げたので、起こしてしまっただろうかと桓騎は振り返る。

酔いと眠気のせいで潤んだ瞳と目が合った。

「……、……」

どこか気恥ずかしそうに、しかし、熱っぽい視線を送って来る信に、桓騎は杯に残っている鰭酒を一気に飲み干す。彼女が何を訴えているのか、すぐに分かった。

毒酒を一定量以上飲み、体に副作用が現れた時は媚薬を飲んだ時のように性欲と感度が増強するのだが、今日は違う。
息を荒げている様子もなければ、苦しさを訴えることもない。

副作用は関係なしに、自分のことを求めている瞳だ。それが酔いのせいだとしても、桓騎はとても気分が良かった。

自分に好意を向けている女が抱いてくれとせがんでいるのだ。断る気にはなれない。
空になった杯を台に置くと、桓騎は寝台へと向かう。

横たわったまま信が腕を伸ばして来たので、桓騎はその腕を抱き込みながら、褥に倒れ込んだ。

すぐに信の体を組み敷くと、言葉を交わすことなく、唇を重ね合う。

「ん、んぅ」

舌を絡めながら、信が性急な手付きで背中に腕を回して来る。

「んぁ…」

早く欲しいと訴えているような健気な態度に、口づけを交わしながら笑みが零れてしまう。
舌を絡ませながら、彼女の帯を解いて着物の襟合わせを開く。

現れた傷だらけの肌はもう隅々まで見慣れていたが、何度見ても飽きることはなかったし、この情欲が冷めることなど考えられそうもなかった。

 

信が目を覚ました時、桓騎は隣にいなかった。

隣にはまだ温もりが残っており、恐らく、先ほどまではここにいたのだろう。情事の途中で意識を失うように眠ってしまったようで、信は着物を着ていなかったのだが、風邪を引かぬように気遣ってくれたのか、肩までしっかり寝具が掛けられていた。

(なんだよ…)

桓騎は口は悪いが、こういう気遣いが出来る男だ。普段の態度を知っているからか、こういう気遣いの格差を知ると、いつもむず痒い気持ちに襲われる。

(あー、さすがに寝過ごしたな…)

窓から差し込む温かい日差しを浴び、すでに昼を回っていることを知る。

ここ最近は罗鸿ラコウのことで悩まされており、寝付けないほどではなかったが、こんなにも安心して眠ったのは随分と久しぶりのことだった。

情事の甘い疲労と、少しだけ疼くような痛みがあるが、随分と気分が良かった。

「ふあぁ」

大きな欠伸をして、信は瞼を下ろす。すっきりとした目覚めではあるが、もうひと眠り出来そうだった。

しばらくはこの屋敷に滞在する許可を得たことだし、ゆっくりと過ごさせてもらおうと信は二度寝することを決める。

「………」

眠ることだけに集中すればよかったものの、昨夜、桓騎に話したことを思い出してしまう。

罗鸿の狙いは、自分との婚姻の先にある秦王嬴政との繋がりであると、信も分かっていた。
たかが一商人ならば、秦王と謁見することはおろか、一生のうちに一度も姿を見ないでその生涯を終えてしまうかもしれない。

だが、親友の夫という立場にあれば、祝辞を贈られることは間違いないだろうし、どのような男であるか確かめられるのは必然だ。

秦将と秦王の後ろ盾を持つことで、商人はこの上ないものに昇格する。商売の一種だと考えているに違いないが、もともと将として生を全うする気でいる信には、男との婚姻など考えられるはずがなかった。

(…眠い)

再び瞼に睡魔が圧し掛かって来る。
桓騎の屋敷に行くことは、屋敷を任せている従者たちに告げてあるし、軍のことも信頼できる副官たちに任せてあるので何ら問題はないだろう。信は再び目を閉じた。

(きっと、大丈夫だ)

桓騎が力を貸してくれるというのだから、きっと全部上手くいくだろう。

…すでにこの時、桓騎が一連の作戦を練り終えて、動き始めていることなど、信は知る由もなかった。

 

 

桓騎の屋敷で十日ほど過ごした信は、そろそろ屋敷に帰ろうと考えていた。

軍の指揮や鍛錬は副官たちに任せているとはいえ、さすがにこれ以上屋敷を留守にすれば心配をかけることになる。

それを桓騎に告げると、引き止められることはなかったのだが、

「俺も行く」

「えっ?お前も?」

まさかそんな提案をされるとは思わなったため、信は驚いて聞き返した。

「罗鸿の野郎が屋敷で待ち構えてんだろ?」

「まあ、それは…多分な…」

しつこいほど屋敷で信の待ち伏せをしていたあの男が、数日留守にしたところで諦めるとは思えなかった。

過去に罗鸿のしつこさを見兼ねた副官の楚水が穏やかに説得を試みたが、少しも効果がなかった。かといって強引に事を起こせば、女子供や投降兵には手出しをしないと飛信軍の評判に泥を塗ることになる。

血気盛んな飛信軍の中でも冷静さがあり、なおかつ礼儀もしっかりと得ている楚水ですらも罗鸿を黙らせることは出来なかったのである。

しかし、桓騎が傍にいてくれれば、多少の抑止力になるかもしれない。

元野盗である桓騎と桓騎軍の素行の悪さは秦国でも有名だ。他国でも怯えられるほど残虐性を持っている彼と信が親しいのだと分かれば、もしかしたら罗鸿も我が身可愛さから手を引いてくれるかもしれない。

 

「…じゃあ、頼む」

同行を許可すると、桓騎は得意気に口角をつり上げた。

どうせ断ってもついて来るだろうと思ったが、水面下で物事を進められるよりは傍で監視しておいた方が良いだろう。

知将と名高い桓騎は、味方にも策を告げることのない男だ。
もしかしたら既に自分の知らないところで物事を進められているのではないかという不安もあったが、一緒にいる間はそんな様子は見られなかった。

「とっとと諦めてくれりゃあ良いんだがな…」

二人で馬を走らせながら、信が溜息交じりに呟いた。

桓騎の存在を知って、罗鸿が潔く婚姻を諦めてくれれば話は早い。しかし、秦王と親友である自分を踏み台にして商人として成功することを諦められないのかもしれない。

自分の夫になったところで、嬴政が商いの手助けなどするはずがないのに、やはり秦王と接点を持つということは、民にとってはこの上ない権力のようなものなのだろう。

屋敷へ向かいながら、信の溜息はますます深くなっていった。

 

中編①はこちら

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平行線の交差、その先に(桓騎×信←蒙恬)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/蒙恬×信/年齢操作あり/年下攻め/ギャグ寄り/甘々/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

桓騎の嘘と心配事

「信、その人に騙されちゃだめえーッ!」

部屋の外で待っていたはずのオギコが飛び込んで来た。

「オギコッ?ど、どうしたんだよ」

本当に野盗だったのかと疑うほど、オギコの円らな瞳に涙が浮かんでいたので、信は驚いた。隣で小さな舌打ちが聞こえたが、きっと気のせいだろう。

オギコに両肩を掴まれて、信は体をがくがくと揺すられる。

「信!浮気したらお頭が悲しむよ!お頭が泣いちゃうよ!?」

「う、浮気ぃッ?」

まさかオギコの口からそんな物騒な言葉が出て来るとは思わず、信は眉根を寄せた。

どこから話を聞いていたのかは知らないが、妙な誤解をされては堪らない。

確かに蒙恬の妻になる話をしていたが、それはあくまで蒙驁を安心させるための単なる偽装工作だ。本当に婚姻を結ぶわけではない。

しかし、オギコはこちらの話を聞く素振りを見せず、蒙恬を指さした。

「その人っ、ずっと前からお頭が嫌いって言ってた!信のこと狙ってるって!」

「え、俺?」

まさかオギコからそんなことを言われると思わなかったのだろう、蒙恬が呆気にとられた顔を浮かべる。

同じく呆気に取られている信の腕をぐいぐいと引っ張り、オギコはまるで蒙恬から守るように自分の背中に隠そうとした。

「信は強くても騙されやすいから心配だって、お頭いつも言ってたよ!特にその人は危ないって!」

「え?え?」

まさかここに来て、桓騎が自分の心配を、それも蒙恬から騙されるのではないかということを話していたと知り、信は困惑した。

いつも戦況を手の平で転がしているあの桓騎でも、心配事を口に出すことがあったのかと驚いていると、蒙恬が困ったように苦笑を深めた。

「心外だなあ。俺が信将軍を騙すと思われてるだなんて」

やれやれと肩を竦めながら蒙恬が笑うものだから、信も同じようにオギコに呆れた笑みを浮かべた。

「そうだぞ、オギコ。蒙恬が俺を騙すなんて、そんなことするワケねーだろ。今は、その…作戦会議してたんだ。悪いが、話は後でな」

さすがに最初から説明するのは面倒だったし、オギコが全てを理解するとは思わなかったので、信は適当に話を終わらせることにした。

しかし、オギコは信の腕を掴んだまま離さない。

「オギコ?」

なおも引き下がろうとしない態度に、信は珍しいなと目を丸めた。

「信!騙されちゃダメ!信は、お頭のお嫁さんになるんだからッ!」

真面目な顔でオギコがそう言い放つものだから、信は頭がくらくらとした。

(桓騎のやつ、オギコになんつー話をしてんだよッ…!)

昔から桓騎が自分に想いを寄せているのは知っていたが、まさかそれを仲間たちにも話しているとは思わなかった。

円らな瞳に涙を浮かべているオギコに真っ直ぐ見つめられると、信の良心がぐらぐらと揺れてしまう。

オギコが蒙恬を敵視したまま引き下がらないので、信は仕方ないと頷いた。
きっと自分と蒙恬が二人でいる限り、オギコは心配してここから立ち去らないだろう。

「あー…それじゃあ、蒙恬は王翦軍の補佐を頼む」

こちらの制圧手続きは摩論が取り仕切っているので、二人でいたところで特にやることはないのだ。撤退の準備も城の制圧手続きが終わらない限りは始められない。

王翦軍の方は、王翦を慕う優秀な配下たちによって制圧手続きをしているだろうが、主が不在である分、なにかと指揮を必要としているかもしれない。

蒙恬は王翦よりも立場は下だが、優秀な知将であると秦国で評価されている。信からの命令だと言えば、王翦の配下たちも嫌な顔をすることなく指揮を任せてくれるだろう。

しかし、蒙恬は不思議そうな顔で小首を傾げていた。

「え?王翦将軍なら、制圧手続きを終えて、すでに撤退をしているようでしたけど…」

「…はっ?」

 

王翦がすでに撤退を終えていると聞き、今度は信が小首を傾げる番だった。

「間違いないのか?」

「ええ。俺が到着する前には・・・・・・・・・、すでに撤退を終えているようでした。道中すれ違ったので、間違いないかと」

鈍器で頭を殴られたような衝撃に、信は思わず座り込んでしまいそうになった。

「桓騎の野郎…わざと声掛けなかったな…!」

副官の二人で蒙驁の見舞いに行くように伝えた時、桓騎は王翦には自分から声を掛けると言った。しかし、蒙恬の証言によると、王翦自身が制圧と撤退の指揮を取っていたという。

どうやら桓騎は彼に声を掛けずに蒙驁のもとへ行ったらしい。きっと桓騎のことだから面倒臭がったに違いない。

危篤の報告は王翦にも送られていたようだし、帰還後に見舞いに行ってくれるならと思ったが、今はそれよりも桓騎が自分に嘘を吐いたことが許せなかった。

しかし、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない。
桓騎へのお説教は帰還後にするとして、今は目の前のことに集中しなければ。

信は溜息を吐いてから蒙恬に向き直った。

「こっちは今、摩論が仕切ってんだ。せっかく来てもらったのに、悪いが…」

今は特にやることがないのだと申し訳なさそうに信が告げると、蒙恬はにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべた。

「いえ、信将軍と一緒にいられれば、それで」

端正な顔立ちである蒙恬に笑顔でそんな甘い言葉を囁かれれば、女なら確実に心を奪われるだろう。

しかし、信の心は微塵も揺らぎはしなかった。
信の鈍さはある意味、長所であるが、それは裏を返せば短所にもなり得る。桓騎が危惧していたのはそこだった。

甘い言葉を囁けばすぐに女を落とせる蒙恬が、唯一信だけは落とせない。それは蒙恬の勝負心に火を点けてしまう。

いずれ蒙恬が強硬手段に出ると睨んでいた桓騎は、蒙恬と信を二人きりにさせる訳にはいかなかったのである。

謙虚さとは異なるかもしれないが、とにかく、信は自分のこととなると自覚が足りない。それが危ないのだと桓騎が愚痴を零していたのをオギコがよく覚えていたことが幸いしたのだった。

桓騎以外の仲間たちにもバカだと罵られるオギコではあるが、こう見えて物覚えは良い方なのである。

「ねえ、信!やっぱりこの人危ないよ!お頭がこの人と信を二人きりにさせたらダメって言ってたの、オギコ、聞いてたもん!」

「あのなあ、オギコ…」

困ったように信が頭を掻く。
決してオギコを信頼していない訳ではないのだが、いきなりそんなことを言われても困ってしまう。

「信将軍、お待たせしました」

ちょうどその時、制圧手続きを終えた摩論が部屋にやって来た。
蒙恬の姿を見て、なぜ彼がここにいるのかと驚いていたものの、彼はまず報告を始める。

「提出する書簡の準備も終わりましたので、明日の早朝に出立しましょう」

「はあッ!?明日の朝だとッ?」

数日待たされた上に、まさか今夜もここで一夜を明かすことになるとは思わず、信はつい声を荒げた。

しかし、摩論は冷静に相槌を打つ。

「ええ。もう日が沈み始めていますし、今から出立準備を行えば、夜になってしまいます。明日の朝から出立準備を始めるのが適切かと」

窓を見れば、確かにもう日が沈み始めている。そういえば蒙恬がここに到着した時にはすでに日が傾き始めていた。

夜に野営をするには様々な危険が伴うものだ。
当然だが、陽が沈むと視界が悪くなる。あとは秦へ帰還するだけとはいえ、移動には不向きな時間帯となる。

魏軍からの奇襲の心配はないとしても、夜間の冷え込みを軽視するわけにはいかない。負傷した兵たちに酷な環境で休養を取らせることになってしまう。

諦めて朝まで待てという摩論の言葉に、信は歯がゆい気持ちに襲われた。

蒙驁のことが心配だし、桓騎がちゃんと彼の見舞いに行けたのかも気になるが、自分がいかに焦ったところで、確かに今から撤退を始めるのは現実的ではない。

「…分かった。明朝にここを発つぞ。全員に伝えろ」

「畏まりました」

信は諦めて、今夜もこの城に留まることを決めた。

明日ここを発つとして、秦に帰還するまでにはまた数日掛かる。
帰還したら蒙驁のところに顔を出したいが、桓騎にも説教をしなくてはならないなと考えた。

 

焦燥と苛立ちに険しい表情を浮かべていた信だったが、摩論の美味い手料理で腹を満たすと、すぐに機嫌は良くなった。

腹が満たされれば機嫌が良くなるだなんて、我ながら単純だと思ってしまう。

報告を受けた後から、摩論がやけに気前良く接して来たので、信はてっきり制圧手続きが遅くなったことを許してもらおうとしているのだと疑わなかった。きっと城の中に、金目の物をたくさん見つけたのも、彼の機嫌が良い理由だろう。

本来ならば手に入れた物資は、価値に関係なく上に報告しなくてはならないのだが、信は仕方なく目を瞑ることにした。

いくら桓騎の管轄下にあったとしても、元野盗の連中で形成されている軍だ。時には卑怯な手を使って金品を奪うこともあることを信は知っていた。

もしもこれが制圧した城ではなく、魏の民たちが住まう村から強引に押収していたとなれば、信も黙ってはいなかっただろう。

「信将軍。食後にこちらをどうぞ」

酒瓶を差し出され、信はまさかここで酒が飲めることになるとは思わず、目を見張る。

「地下倉庫に保管されていました。どうやら地酒のようでして、お頭も大層気に入っておりました。どうぞこの機にご賞味あれ」

「おう」

酒瓶を渡されて、信はすぐに受け取った。
大した働きはしていないが、制圧手続きが終わるまで大人しく待ってやったのだから、これくらいの気遣いは受け取ってやろうと、信は上機嫌になる。

「あ、いいなあ」

蒙恬がもの欲しそうに酒瓶に視線を向けている。
目が合うと、蒙恬は慌てて口を閉ざし、何事もなかったかのように咳払いをして取り繕っていた。

「お前も飲むか?」

酒瓶を手に取りながら気さくに誘いを掛けるが、蒙恬は困ったように眉根を寄せている。

桓騎と違って、自分の立場をよく心得ている蒙恬は、安易に信からの誘いを承諾出来ないのだろう。

次の戦で武功を挙げれば蒙恬も五千人将だが、それでも将軍である信よりも下の立場だ。
しかし、幼い頃は無邪気に自分に絡み付いて来た少年の頃に比べると、蒙恬も立派に成長している。

軍師学校を首席で卒業したという話を聞いた時は、自分のことのように喜んだものだ。懐かしい思い出につい頬が緩んでしまう。
いずれは自分と肩を並べて戦に出る日も近いだろう。

「どうせもう、あとは帰還するだけなんだ。そう畏まるなよ」

信がそう言うと、蒙恬は少し悩む素振りを見せてから、甘えるように上目遣いになった。

「…じゃあ、お言葉に甘えて」

にやっと蒙恬が口角をつり上げる。

「信と一緒に飲むなんて、久しぶりだね?前の祝宴以来だっけ」

「ああ、そうだな。あの時は介抱させちまって悪かったな」

祝宴で酒の失敗をしたことを思い出し、信は照れ臭そうに笑う。

「ううん。あの時の信、面白かったよ」

将軍という呼称をつけず、敬語もなしに会話をするのは随分と久しぶりだった。

李牧率いる合従軍との激しい防衛戦の後は、被害を受けた城や領土の修繕と療養に専念していたため、祝宴は行われなかった。

深手を負った信もずっと屋敷で療養していたため、酒を飲むのも久しぶりで、つい上機嫌になってしまう。

 

 

二人分の杯を摩論に用意してもらってから、蒙恬は笑顔で信に酒を注いだ。

ちょうど喉が渇いていたのもあって、蒙恬が自分の杯に酒を注ぐのを待たずに信は杯を呷った。

「…おっ、美味い酒だな」

倉庫で見つけたという地酒は、清涼感を感じられるすっきりとした味わいのものだった。後味に独特な苦味を覚えたが、口当たりが軽いせいか、飲みやすい印象がある。

しかし、酒を流し込んだ喉がじんわりと熱くなったので、それなりに強い酒なのだろう。飲み過ぎないように気をつけた方が良さそうだ。

「うん、これは味わい深いね」

向かいの席に座っている蒙恬も、美味そうに杯を呷る。
あっと言う間に空になってしまった杯におかわりを注ぎながら、信は夕食の感想でも語るような、さり気ない口調で蒙恬に問い掛けた。

「で?本当は何しに来たんだよ」

 

 

驚いたように蒙恬が顔を上げる。

「…何のこと?」

わざとらしく聞き返されたので、信は肩を竦めるように笑った。

「別に話したくないなら良い」

こちらも興味がある訳ではないと素っ気なく返し、信は酒を口に運んだ。

蒙驁が危篤状態を脱したとはいえ、蒙恬にとって大切な祖父であることには変わりない。
いつ何が起きても看取りが出来るよう、傍についてやれば良いのに、蒙恬が自分の補佐をするためだけに、わざわざやって来たとはとても思えなかったのだ。

屋敷に来るような距離ではなく、魏の敵地まで来るのだから、何か相当な理由があるに違いないと信は睨んでいた。

そしてそれが蒙驁を安心させるために、蒙恬の妻のフリをするという頼み事でないことも分かっている。

あれはきっと自分をからかっただけだろう。オギコが止めに来てくれなかったら、蒙恬の口から種明かしをされると信じて疑わなかった。

「………」

何かしら自分の協力を必要としているのかもしれないと思っていたが、蒙恬は困ったような笑みを浮かべるばかりで、何も答えようとしない。

気のせいならそれでいいし、いずれ本当に手が必要になったのなら、その時はきっと蒙恬の方から話し始めるだろう。あまり深く考えないことにした。

「…桓騎と結婚するの?」

まさかここで桓騎の話を、しかも婚姻の話題を投げ掛けられて、信は大きくむせ込んだ。酒が引っかかった喉が焼けるように熱くなる。

「いきなり、何の話…!」

どうにか呼吸を整えながら蒙恬を睨みつける。
しかし、いつものような薄い笑みはそこになく、まるで体の一部が痛むかのような顔で、じっと信のことを見つめていた。

そんな痛ましい表情をしている蒙恬を見るのは初めてのことで、信は呆気にとられた。

「蒙恬?」

空になった杯を机に置くと、蒙恬は静かに手を動かして、信の手を上から包み込むように握って来た。答えるまで逃がさないとでも言っているかのようだ。

「…分かんねえよ」

抵抗のつもりで、信は視線を逸らす。しかし、答えをはぐらかした訳ではない。本当に分からないのだ。

今の関係になるより、もっと以前から桓騎から求婚はされていたのだが、適当にその話を流して、返事をずっと先延ばしにしていた。

信の生きる道が将という道しかないことも桓騎は受け入れており、自分の妻になったとしても、将の座を降りる必要はないと言われた。

子を成すこともないのなら、婚姻を結ぶ意味などないと思っていたのだが、桓騎としては自分たちの関係に正式な名前が欲しいらしい。

李牧とのことがあってから、求婚される数と頻度が増えたのはきっときのせいではない。
嫉妬深い彼のことだから、自分の妻という名目をつけることで、虫除けをするつもりなのだろう。

しかし、信が彼の求婚を承諾しないことには理由があった。

戦以外何も知らぬ自分は、これからも幾度となく命の危機に晒される。そんな女を妻に迎えても、良いことなど一つもない。

親友の嬴政が中華統一の夢を果たすまで、簡単にやられるつもりはないのだが、李牧と再会してから弱気になってしまうことがあった。

王騎を討ち取るほどの軍略を企てた李牧に、勝てるのだろうかと不安が耐えないのだ。

李牧率いる合従軍が秦を滅ぼそうと侵攻して来たのは、そう遠い昔の話ではない。

秦趙同盟で再会をした時に、李牧が趙へ来いと言ったのは、秦がいずれ滅びる未来を予言してのことだった。李牧と決別をしても、絶対にこの国を守り抜くと心に誓っていたが、合従軍の侵攻の伝令が聞いた時は愕然とするしかなかった。

防衛は成功に終わったが、もしも山の民の救援がなかったのなら、蕞は敵の手に落ち、あの戦いで嬴政の首も奪われていただろう。

あの戦いで、信は李牧の揺るぎない意志を目の当たりにした。次に同じようなことが起きれば、果たして自分は国を守り切れるだろうか。

合従軍の侵攻があってから、信は心の中で不安を抱えており、桓騎からの求婚の返事を考えられずにいたのだ。

 

仕組まれた罠

「信?」

声を掛けられて、信ははっと我に返った。

急に押し黙ってしまったこと彼女に、蒙恬が不思議そうに小首を傾げている。
何でもないと返し、信は蒙恬に握られていた手をさっと離した。

「桓騎のこと、考えてた?」

こちらの反応を少しも見逃さないと言わんばかりの眼光を向けられる。

「いや…」

敵の宰相、それも合従軍を率いて秦に攻め込んで来たあの男と過去に繋がりを持っていたことは、そうやすやすと打ち明けられるものではない。下手をしたら密通の疑いを掛けられてしまう。

もちろん自分を全面的に信頼してくれている仲間たちが、簡単に謀反の疑いを向けて来るとは思えないが、王騎を討ち取った軍略を企てた男と関係を持っていた事実を快く思わない者たちだっているだろう。

「ふうん?」

追求されることはなく、蒙恬は大人しく引き下がってくれた。
そのことに安堵していると、急に瞼が重くなって来て、信は反射的に目を擦った。

「ふあ…」

堪えようと思ったのに、大きな欠伸が出てしまう。程良く酒が回って来たのだろう。

「信将軍、もうお休みになった方がよろしいのでは?」

眠そうにしている信を見て、蒙恬が気遣うように声を掛けてくれた。
先ほどまでは砕けた口調で会話をしていたというのに、急に蒙恬が礼儀正しい口調に切り替わったことに苦笑を深める。

桓騎も蒙恬のように、こういった立場の使い分け・・・・・・・を上手く出来るようになってもらいたいものだが、あの性格はきっと生まれ持ってのもので一生変わることはないだろう。

「…そうだな。明日は早いし、そろそろ休むか。お前も休めよ」

「はーい」

間延びした返事を聞いてから立ち上がった途端、

「ッ…!」

目の前がくらりと揺れて、信は咄嗟に机に手をついた。

「大丈夫?」

こちらに駆け寄って来た蒙恬が、心配そうに顔を覗き込んで来る。
口にした時から強い酒だと分かっていたので、飲み過ぎないように気をつけてはいたのだが、一気に酔いが回ってしまったのかもしれない。

「…、…ぁ、…っ…?」

心配させないよう、何ともないと言おうとして、信は舌のもつれを自覚した。
口が上手く回らず、舌に僅かな痺れを感じる。

(何か、おかしい…)

身体に上手く力が入らず、信はずるずると椅子に座り込んでしまう。自分の意志と反して脱力してしまう身体に、信は違和感を覚えた。

(なんだ?何が起きてる?)

舌の痺れだけでなく、身体の芯から力が抜けたように、信は机に突っ伏してしまう。

瞼は変わらず重い。酔いが回ったせいで眠気が来たのかとも思ったが、舌の痺れや脱力感から察するに、酔いが原因ではないことは明らかだった。

「…信。動けないなら、運んであげる」

動けずにいる信を見下ろしている蒙恬は、やけに楽しそうな・・・・・・・・声色だった。

こちらはまだ何も答えていないというのに、動けないことを知っているかのような言葉に、信は警戒する。

しかし、背中と膝裏に手を回されたかと思うと、簡単に身体を横抱きにされてしまう。

「ほら、ゆっくり休んで?」

部屋の奥にある寝台に身体を寝かせられると、もう休んで良いのだと体が訴え始め、信の睡魔はますます重くなって来た。

「…蒙、恬…ッ…?」

気を抜けば目を閉じてしまいそうなのを何とか気力で堪えながら、信はどうにか蒙恬を睨みつける。

もつれた舌で名前を呼ぶと、彼は驚いた顔をしていた。

「まだ起きていられるんだ?すごいね」

彼の独り言を聞きつけ、それが何を意味しているのかを考えるが、頭も働かなくなって来た。

こうなれば自ら痛みを与えて、強制的に睡魔を遠ざけようと、信は腕を動かす。太腿に爪を立てようとしたのだが、蒙恬は軽々とその手を押さえ込んだ。

「眠っていいよ、信。その方が俺も心が痛まないし。押さえつけて無理やり犯す趣味はないから」

「っ…」

言葉の半分も理解出来ないまま、信は瞼を下ろしてしまう。視界が真っ暗になった途端、たちまち睡魔によって、意識が塗り潰されていく。

「…そうだ。本当は何しに来たか、教えてあげるね」

蒙恬の指がそっと信の前髪を梳いた。

「夜這いってところかな?」

その声はもう、信の意識には届いていないようだった。

 

 

「…信?」

名前を呼んでみたが、もう彼女の意識には届いていないようで、返事はない。代わりに静かな寝息だけが聞こえた。

確実に眠っていることを確認してから、蒙恬は一度寝台から離れると、扉の方へ向かう。

途中で邪魔が入らないように、扉にかんぬきを嵌め、準備が整ったと言わんばかりに目を細める。

再び眠っている信のもとへ近づいた蒙恬は、手を伸ばして、彼女の頬に触れた。

「あーあ、もう泣き落としは効かなくなっちゃったか。昔はこれで楽勝だったのになあ」

幼い頃だったならば、信はきっと騙されてくれただろう。
泣き落としも演技だと気づかれているのなら、多少強引な手段で落とすしかない。

(まさか桓騎に先を越されるとはね…)

名前を口に出すのも腹立たしいくらいだが、信が桓騎と恋仲になったのは事実だ。

素性も分からぬ下賤の出であるあの男は、保護してくれた信のことを随分と慕っていた。生意気にも彼女を娶ろうとしており、蒙恬はずっと昔から阻止しなくてはと考えていた。

桓騎が信に惚れ込んでいるように、蒙恬だって桓騎が信と出会うよりも、もっと前から信に想いを寄せていたのである。

自分の方が桓騎よりも長く一緒にいたのに、蒙恬はどうして信があの男を選んだのかが今でも分からなかった。

素性が分からないとしても、信が目の前で困っている人々を放っておけないたちであり、桓騎も彼女に助けられた多くの人々の中のたった一人に過ぎない。

信も桓騎のしつこさには困っているように見えたし、彼からの好意を軽くあしらっている姿を見ていたので、二人が結ばれることはないと過信していた。

しかし、秦趙同盟の後に二人はめでたく結ばれ、その噂が大いに秦国で広まった時、蒙恬はあまりの衝撃に眩暈を起こしてしまった。

こんなことになら、早々に行動をして関係の発展を阻止しておくべきだったと後悔している。

それでもまだ、蒙恬には一つだけ勝算が残されていた。

 

蒙恬の勝算

これが卑怯な方法であることは、蒙恬はもちろん理解していた。

一生信に嫌われることになり兼ねないこと分かっていたし、それでも蒙恬がこの卑怯な方法を実行に移したのは、他でもない信を手に入れるためである。

「ごめんね、信」

薬で眠っている彼女に謝罪するものの、その口角は僅かにつり上がっている。
罪悪感で良心が痛まない訳ではなかったし、信に嫌われることは極力避けたい。しかし、それよりも彼女を手に入れる報酬の方が大いに価値があった。

(俺の方が、桓騎よりずっと長く一緒にいたのに)

つい愚痴のように零してしまう。共に過ごした時間で言うならば、明らかに桓騎より自分の方が長い。

幼い頃、ようやく自分の足で立てるようになった頃から、信とは面識があった。

王騎の養子として引き取られた信は、時々蒙家の屋敷に訪れていたのである。

父の蒙武と、信の養父である王騎はあまり仲が良くなかった。
冗談を言って相手をからかうことが大好きな王騎の性格と、いつだって武に一途である蒙武の性格と単純に馬が合わないらしい。

それゆえ、王騎から蒙武に何か言伝がある時は、よく信が駆り出されていたのである。王騎自身も蒙武をからかい過ぎてしまうという自覚があってのことだったのだろう。

伝令に任せれば良いものを、王騎が信に言伝を頼んでいた理由は、蒙恬も聞いたことがないのでよく分かっていない。

父である蒙武が本能型の将であることから、彼と関わる機会を少しでも作ることで、王騎は娘の信に何かを学ばせようとしていたのかもしれない。

信のことは蒙武も嫌悪している様子はなかったし、言伝も素直に聞いているようだった。それから考えると、やはり信に使いをさせたのは、王騎に考えがあってのことだったのだろう。

王騎が討たれた今となってはそれが何か知る由もないし、以前酒の席でそれとなく信に尋ねた時も、彼女は知らないと言っていた。

理由が何であれ、王騎のおかげで、信は蒙家の屋敷に顔を出してくれて、蒙恬は彼女に想いを寄せるようになっていたのである。

 

…それが気づけば、桓騎という男に信の心が盗まれてしまっていた。

芙蓉閣という信が立ち上げた保護施設があり、そこは行き場のない女子供の避難所である。桓騎は信に保護された戦争孤児だという。

信が身寄りのない子供を保護するのは別に珍しいことでもないし、桓騎が特別な存在になるとは予想もしていなかった。

調査によると、桓騎は保護された幼少期からずっと信に好意を寄せていたという。

将軍としての執務もあり、頻繁に芙蓉閣に訪れることが出来ない信を呼び出すために、あれこれと問題を起こしていたらしい。

とっとと追い出せば良いものを、信は桓騎に説教をするために、将軍としての執務を投げ出してまで芙蓉閣に赴いていた。それを分かった上で、桓騎は騒動を起こしていたのだ。

聞けば聞くほど、桓騎は幼少期から聡明な頭脳を持っており、信との時間を作るために様々な策を仕掛けていたようだ。

蒙恬が桓騎の存在を知ったのは、祖父の蒙驁の副官として彼が採用されてからである。

それまでは桓騎の存在どころか、彼が信に好意を寄せていて、熱心に彼女の心を掴もうとしていることなんて微塵も知らずにいた。

思えば、その時に邪魔をしていれば、信の心は桓騎のもとに渡らなかったかもしれない。

当時の自分は桓騎よりも幼かったとはいえ、名家の嫡男である立場を鼻にかけていて、信のことも手に入れられるという根拠のない自信を持っていたのである。

それがいざ、蒙恬が初陣を済ませた頃には、彼女は桓騎のことを男として意識をし始めていた。

二人が正式に交際を始めたというのはつい最近の話であるが、桓騎がずっと信のことを愛していたように、信も少しずつ桓騎に心を傾けていたことを蒙恬は気づいていたのである。

信自身は自覚がなかったようだが、物思いに耽るように、遠目で桓騎のことを見つめている姿を何度も見たことがあった。

桓騎を通して別の誰か・・・・を思い浮かべているのか、それとも純粋に桓騎のことを異性として意識しているのか分からなかったのだが、二人が結ばれた今となっては後者であったことが分かる。

仮に前者だったとしても、桓騎を通して信が思い浮かべていた誰か・・は、きっと自分ではない。

それは普段、信が自分に接してくれる態度から、嫌でも認めざるを得なかった。

 

それでも、蒙恬はどんな手を使ってでも信のことを手に入れたかった。

卑怯だと罵られようが、信に嫌われることになろうが、最終的に彼女がこの腕の中にいれば良い。

桓騎は自分に引けを取らぬほど独占欲が強い男だ。
オギコの話を聞く限り、きっと自分が信を手中に収めようとしていることには勘付いている。だからこそ、桓騎という邪魔がいない間にことを進める必要があった。

信を手に入れるためならば、何だって利用する。祖父の蒙驁でさえもだ。
偉大なる父を持つ自分の腹の黒さは、一種の才能かもしれないし、祖父から受け継いだものかもしれなかった。

信は元下僕出身だが、これまで多くの人々と関わって来た情があるのか、家族の話を持ち出されることに弱い面がある。そこを突けば彼女の心は簡単に揺らぐのだと蒙恬は予想していた。

下賤の出であるものの、将軍にまで這い上がった実力を持つ信が蒙家に嫁ぐことになれば、蒙驁だけでなく家臣たちも喜ぶことだろう。

信の養父である王騎が生存だったなら話はまた違ったが、彼女に後ろ盾がない今だからこそ成し遂げられる策だった。

―――だからこそ、信を自分の妻にする前に、先に母親・・にしてしまえばいい。

たかが一人の女を手に入れるために、これだけの策を練ることになった自分の余裕のなさには苦笑するしかない。

今まで相手にして来た女性たちと信は、何もかもが違うのだ。手に入れる方法が異なるとしても、それは仕方のないことだろう。

蒙恬は自分にそう言い聞かせて、眠っている信の額に唇を落とした。

 

中編②はこちら

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平行線の交差、その先に(桓騎×信←蒙恬)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/蒙恬×信/年齢操作あり/年下攻め/ギャグ寄り/甘々/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の桓騎×信の後日編です。

 

 

恩人

このお話の本編はこちら

 

芙蓉閣にいた時、飛信軍の副官になれば、信を守ることが出来ると桓騎は疑わなかった。

しかし、残念ながらそれは、彼女自身に阻止されることとなる。

体力試練も受けずに飛信軍に入るのは、贔屓だの縁故採用だと言われてしまうからと話していたが、本当にそれだけだったのだろうか。

自分に告げた理由の他に、何か別の理由があったのではないかと、桓騎は彼女と結ばれた今になってから考えるようになっていた。

 

 

白老・蒙驁の容体が優れないという。

山陽の戦いで廉頗と派手にやり合って左腕を失い、合従軍との防衛戦にも力を尽くした。年齢もそうだし、無事でいる方が不思議なくらいだ。

いよいよ死期が近づいているのかと、桓騎は腹を括ることにした。

蒙驁の容体が優れないという報告は魏の慶都に入ってから聞いていたのだが、引き返して見舞いにいくようなことはしなかった。

今さら自分が顔を出したところで、人の死期というものは変えられない。この汲の城を落とすことで、白老への手向けにしてやろうと考えたのである。

副官として彼に貢献はして来たが、会いたがっている訳でもないだろうし、きっと王翦も自分と同じで見舞いなど行かないだろう。

白老と親しまれた彼のことだから、身内や多くの家臣たちに見送られるに違いなかった。最期に立ち会うのは、彼と共に過ごした時間が長い者たちが相応しい。

汲の城を落とした後、制圧の事後処理を側近たちに任せ、手に入れたばかりの城の一室で、桓騎が優雅に酒を煽っている時だった。

「お、お頭!大変!大変だよ!」

いつも落ち着きのないオギコが普段以上に慌てながら、血相を変えて本陣に駆け込んで来たのだ。

「どうした、オギコ」

桓騎は視線だけをそちらに向けた。

城の制圧は終えているし、敵兵も大方片付けている。他に何か問題になるようなことがあるとすれば、敵の増援だろうか。

王翦の方も城を落としたという報告は聞いていたし、今さら二つの城を取り戻すために魏軍が兵を割くとは思えなかった。

「何でか分からないんだけど、信が来たの!もうそこまで来てる!」

「信が?」

突然の訪問者に戸惑っているのはオギコだけではなく、他の兵たちもだった。

そしてまさかここで信の名前を聞くとは思わず、桓騎自身も呆気にとられてしまう。

此度の侵攻戦に出陣したのは桓騎軍と王翦軍だ。飛信軍は出陣を命じられていない。
それに、李牧率いる合従軍との防衛戦に勝利してから、信はずっと自分の屋敷で療養しているはずだった。

山の民たちが救援に駆け付けるまでの七日間、彼女は死力を尽くして秦王と蕞を守り抜いたという。

さらにはそんなぼろぼろの状態であるにも関わらず、王騎の仇である龐煖とも死闘を繰り広げたというのだから、桓騎は彼女の死すらも覚悟していた。

合従軍との戦いで任された桓騎軍と飛信軍の持ち場は異なり、彼女の死を見届けるという約束も叶わぬのかと途方に暮れたものだ。

しかし、結果的には生きていたのだから、信の生命力には感服してしまう。それは秦国と秦王を守り抜くという彼女の意志強さが証明したものだろう。

まだ完治していないというのに、どうしてこの地に彼女自らやって来たのだろうか。

城を落とすにあたって苦戦することなど何一つなかったし、救援を頼んだ覚えなどなかった。信自らやって来るとは、何か用があってのことだろう。

逆に言えば、何か用がなければ信は自分のところへ来ない。芙蓉閣にいる時もそうだった。だからこそ、幼少期の桓騎は色々と面倒事を起こし、お説教という用件を作っていつも彼女を呼び寄せていたのである。

そんな彼女と今では恋人同士になったというのに、未だに用がないと会いに来てくれないだなんて随分と寂しいものだ。

戦にまで赴いたのだから、総司令から伝令でも頼まれたのかもしれない。
信を出迎えるために桓騎が立ち上がった時、彼女はすぐそこまでやって来ていた。

「桓騎!」

城の制圧は成したとはいえ、ここは未だ魏の領土である。だというのに、信は数人の護衛しか連れていなかった。

随分と不用心だと思ったが、それだけ火急の用なのだろうか。

「お前、こんなところで何してんだよ!」

「…は?」

汲の城を落とすという大役を終えたばかりだというのに、労いの言葉を掛けられるどころか、まさか開口一番そんなことを問われるとは思わなかった。

「見りゃ分かんだろ。立派にお役目を果たしたところだ」

事実を告げたまでだというのに、その言葉が癪に障ったのか、信が大股でずんずんと近づいて来る。まだ体のあちこちに包帯が巻かれており、傷が治りきっていないのは明らかだった。

すぐ目の前まで迫って来た顔は幼い頃から見慣れているはずだが、何度見ても可愛らしげのない顔だと思う。
それでも自分が惚れた女であることには変わりなかった。

「蒙驁将軍の報せを聞かなかったのかよ!後のことは俺が引き受けるから、早く行ってやれ!」

 

「……は?」

まさか今から蒙驁のところに向かえと言うのか。
知将と名高い桓騎であっても、これほど先の読めない言動をするのは後にも先にも信だけだと断言出来た。

頬杖をつきながら、桓騎は足を組み直し、長い息を吐く。信の口から蒙驁の話が出るとは思わなかった。

「…わざわざそのために来たのか」

「それ以外に何があるんだよ?王翦将軍もいるんだし、城を落とすのに救援なんかいらねえだろ」

当然のように答えた信に、桓騎は謎の頭痛に襲われ、思わずこめかみに手をやった。

労いの言葉の一つもないのは、逆に言えば信が桓騎の実力を認めているからだと言えるだろう。

しかし、もしも信がここに来た理由が、自分に会いに来たという愛らしいものであったのなら、今すぐにでもこの制圧した城の一室でその体を隅々まで愛していたに違いない。
残念ながらその期待は大いに裏切られてしまった。

「王翦将軍の方も俺たちが引き受ける。早く行ってやれ」

…とことんおせっかいな女だ。道端で死に掛けていた素性の知らない子供自分を保護しただけのことはある。

城の制圧に関しては側近たちに任せていたし、確かに今から馬を走らせれば間に合うかもしれない。

「急げよ。きっと蒙驁将軍もお前のことを待ってる」

すぐに動き出す気配のない桓騎に、信が苛立ったように声を荒げた。

蒙驁に恩がないといえば嘘になる。
もともとは信が彼のもとに身柄を引き渡したことで出来た縁ではあるが、規律に縛られるのを好まない自分の性格をよく理解し、その上で自由にさせてくれた。きっと信もそれを見越して、蒙驁将軍に頼んだのだろう。

飛信軍に入れずに拗ねていた時期もあったが、信と同じ将軍の座に就いている今なら、それが当時の彼女なり心遣いであったことが分かる。将軍という立場は色んな責任を問われる面倒なものだ。

しかし、それでも桓騎は腰を上げる気にはなれなかった。

「…手向けならここでもできる」

蒙驁へ行くつもりはないという桓騎の言葉を聞き、信のこめかみに青筋が浮かび上がった。

「桓騎ッ」

感情的になりやすい彼女に凄まれるものの、桓騎が怯むことはない。

幼い頃から彼女に幾度も叱責を受け、げんこつも平手打ちも一切の加減されることなく受けて来たのだ。今さら凄まれたところで何とも思わない。

眉一つ動かすことのない桓騎に、先に折れたのは信の方だった。こうなれば意地でも従わない頑固者だということを思い出したようだ。

「…じゃあ、王翦将軍にお前の分も頼んで来るからいい」

踵を返した信の腕を掴んだのは、ほとんど無意識だった。

 

 

敵対心

それまで話に興味を示さなかった桓騎から急に引き止められたことに、信は驚いて振り返った。

「なんだよ、放せよ」

睨まれるものの、桓騎は黙って信の腕を掴んでいた。
信がここに来たのは総司令に命じられた訳でもなく、ただの善意だ。恩人である白老に礼を言う機会を授けてくれようとしているのだろう。

日頃から白老には、武功を挙げることで恩を返していたつもりだ。それは言葉で伝えるものよりも、分かりやすい感謝であると桓騎は思っていた。王翦も同じことを考えているだろう。

それぞれの軍でそれぞれの規則やり方があるように、自分と白老の関係性も他と一括りには出来ないのである。

しかし、信は昔から忠義に厚い将だ。
世話になった者には、武功を挙げて自分の活躍を知らしめるだけでなく、言葉で感謝を伝えるという礼儀正しい一面も持っている。それはきっと、養父である王騎からの言いつけなのだろう。

(王翦のとこに行かせる訳には行かねえな)

自分はともかく、王翦にも白老のもとへ行くよう伝えにいくのは見逃せなかった。

信は将の中でも王翦と同等の立場だが、いつも仮面を被っていて何を考えているのか分からないあの仏頂面男が得意でないらしい。

しかし反対に、戦の才を持つ者なら何だって手に入れたい王翦から、信は一目置かれている存在である。今も目を付けられているのは変わりない。

確かあれは、桓騎が五千人将に昇格したばかりの頃だ。

五千人将へ昇格したことに祝杯を挙げてくれた信が、以前王翦から誘いを受け、二人きりで酒を飲み交わしている時に、ずっと自分の軍に来るよう口説かれていたと話したのである。

その時の信は、王翦が独自で軍を作ろうとしているなんて迷惑な話で、いつ秦王へ反旗を翻すか分からないと愚痴を零していた。

その話を聞いて、桓騎は激怒した。
幼い頃、信に保護されてから、桓騎がずっと彼女に想いを寄せていることを王翦も知っていたはずなのに、その上で彼女を手中に収めようとしていたのだ。

怒りを抑えられず、王翦の屋敷に怒鳴り込みに行き、軽くあしらわれたのも、信が慌てて追い掛けて来たのも、今となっては懐かしい思い出である。

 

しかし、未だ王翦は信のことを諦めた気配を見せていない。

さらには趙の宰相である李牧にまで目をつけており、信と李牧を手中に収めようとまで企んでいるらしい。信も李牧も承諾するとは思えなかったが、絶対にそんなことはさせまいと桓騎はいつも王翦を目の敵にしていた。

王翦も厄介だが、李牧と信の二人を会わせたくなかった。もしもそんなことになれば、比喩ではなく、本当に嫉妬のせいで腸が煮え切ってしまいそうだった。

「…王翦には俺から伝えておく。それなら良いだろ」

渋々ではあるものの、妥協案を口にすると、信が目を真ん丸にした。

「えっ?あ、ああ…」

二人で白老の見舞いに行けと言いに来たのだから、桓騎の妥協案を断る理由はなかったのだろう。呆気に取られた顔で信が頷く。

オギコに馬を用意するよう伝えてから立ち上がった桓騎は、まるで一つの動作のように、自然な手付きで信の体を抱き締めた。

「か、桓騎っ!?」

いきなり抱擁されるとは思わなかったようで、信が腕の中で硬直している。

他の兵たちの目もあるというのに迷うことなく彼女を抱き締めた桓騎は、離れていた時間を埋めるように、信の温もりに浸っていた。

桓騎が幼い頃から信に想いを寄せていたことも、秦趙同盟の後にめでたく結ばれたということも秦では誰もが知る周知の事実であるので、他の兵たちは少しも気にしていない。

長年の想い人と結ばれた時、仲間たちが三日三晩かけて盛大な祝いをしてくれたのは良い思い出である。あの時は誇張なしに全員が吐くまで飲んだ。

「お頭~!準備出来たよ~!早く信を放してあげて!」

ばたばたとやって来たオギコに言われ、桓騎はようやく信のことを解放した。

この場を見られたことに信は顔を赤らめていたが、オギコ自身は少しも気にしていない。今となっては周りの目を気にしているのは信だけである。

「王翦には俺から伝える。城の制圧に関しては摩論に任せてあるから、お前はここにいろ。王翦のとこには行くなよ」

「あ、ああ…分かった…」

大人しく頷いてくれた彼女を褒めるように、桓騎は穏やかに笑んだ。

自覚がなかったのだが、どうやら仲間たち曰く、「こんなお頭、見たことがない」と驚愕するほど優しい笑顔らしい。普段からどんな面をしていると思われているのだろうか。

「オギコ、摩論たちにも伝えておけ」

「わかった!いってらっしゃい!」

城を出る時に背後から信の視線は感じていたが、振り返ると一緒に連れて行ってしまいそうだった。用意されていた馬に跨ると、手綱を握る手に力を込めて自分を制する。すぐに横腹を蹴りつけて馬を走らせた。

そしてもちろん、王翦がいる城には寄らずに、桓騎は早々に白老の屋敷を目指したのだった。

 

見舞い

屋敷に到着すると、従者はすぐに白老の部屋へと案内してくれた。

喪を想像させる黒い布は屋敷のどこを見ても掛けられていない。従者たちの落ち着き払っている様子を見る限り、どうやら間に合ったらしい。

来訪を伝えてから部屋に入ると、寝台で上体を起こしている白老がゆっくりとこちらを振り返った。

「フォ?お主が来るとは珍しいのう。王翦と共に魏の城を落としに行ったのではなかったか」

「………」

てっきり意識もないのだとばかり思っていたのだが、呑気に茶を啜っている白老を見て、桓騎は呆気にとられた。

おいクソジジイと言い掛けて、寸でのところで言葉を飲み込む。

彼の副官という立場になってから、規律に縛ることなく好き勝手にやらせてくれた恩を感じている手前、乱暴な言葉遣いは慎むようにしているのだ。

「……危篤と聞いていたんだが?」

顔を引き攣らせながら問いかけると、もともと細い目をさらに細め、蒙驁がフォフォフォと高らかに笑う。

「危篤だった・・・のは嘘ではない。しかし、今は見ての通りじゃ」

「………」

こめかみが締め付けられるように痛み、桓騎はつい皺が寄ってしまった眉間をほぐすために指を押し当てた。

信が蒙驁の危篤の報せを知って、桓騎のもとに駆け付けるまで数日。そして、入れ替わりで桓騎が蒙驁のもとへ駆けつけるまで数日。どうやらその間に、蒙驁は危篤状態を脱し、随分と持ち直したらしい。

本当に危篤だったのかと疑いたくなるほど元気そうな彼を目の当たりにして、桓騎は肩透かしを食らった気分になった。

確かに最後に会った時と比べるとやつれた印象はあるが、呑気に茶を啜っている姿を見る限り、元気だと言って良いだろう。

「わざわざ足労掛けてすまんのう。まだ臥せっている時にお主が来てくれたなら、泣き顔を見せてくれただろうに。残念じゃのう」

誰がてめえのために泣くかよと心の中で毒づきながら、桓騎は腕を組んで蒙驁をぎろりと睨んだ。

「…そんだけ口達者なら、しばらくあの世からの迎えは来なさそうだな」

溜息交じりに呟き、近くにあった椅子に腰を下ろした。
わざわざ駆けつけてやったというのに、まさかここまで回復しているのなら、制圧の手続きを終えてからでも良かったではないか。

信のお節介を迷惑だとは思わないが、こんなことなら王翦にも声を掛けて、いっそ道ずれにするべきだったと後悔すら覚える。

「フォフォ、せっかく来てやったのに損したという顔じゃな」

帰還するまで会えないと思っていた信と会えたのは、蒙驁の危篤のおかげだと頭では理解しているものの、なぜか心は釈然としなかった。相変わらずこちらの調子を狂わせる男だ。

多くの家臣や兵たちから白老と慕われる人柄は、桓騎は嫌いではなかったのだが、自分でも気づかぬ間に彼の手の平の上で転がされているような感覚がどうも好きになれなかった。

奇策を用いて敵味方を自分の思い通りに動かす桓騎には、相手の思惑通りに動かされるのは不慣れなのである。

 

 

「そんだけ無駄口叩けるなら。改まって話すこともねえな。もう行くぜ」

無駄足だったとは言わないが、これだけ体調が回復したのなら、また話す機会は多くあるだろう。

立ち上がって部屋から出ようとした時、蒙驁が思い出したように顔を上げた。

「そういえば、恬が魏の汲へ向かったようじゃが…お主、会わなかったか?」

恬というのは、蒙驁の孫にあたる蒙恬のことである。
軍師学校を首席で卒業するほど聡明な頭脳を持っており、たちまち武功を挙げて昇格していく功績は、名家の嫡男として誇らしいもので、蒙驁にとっても自慢の孫だ。

あの美貌に惹かれる女は大勢いるようで、縁談話が絶えないのだと何故か蒙驁が自慢げに語っていたことを思い出す。

蒙武と顔つきも体格も少しも似ていないことから、初めは養子かと疑ったのだが、本当に血の繋がった息子だという。母親の顔が見てみたいものだと思ったのは桓騎だけではないだろう。

次の戦で武功を上げれば、蒙恬は五千人将へ昇格だという話は聞いていたのだが、彼が魏に行くよう命じられた話は初耳だった。

自分と王翦の二つの軍だけで城の制圧も成し遂げたし、救援など頼んだ覚えもない。
信のように独断で事を起こすような、感情に左右される男ではないと思っていたし、だとすれば蒙恬が魏に行く理由とは何だろうか。

「何で白老の孫が…総司令から指示でもあったのか?」

茶を啜った後に、白い顎髭を撫でつけ、蒙驁がゆっくりと口を開いた。

「信の補佐に行くと話しておったから、恐らく独断じゃろうな」

「なッ…!?」

これはさすがの桓騎も予想外だった。
まさかここで再び信の名前が出て来るとは思わなかったし、この機に蒙恬が信と接触を図ろうとしていただなんて想像もしていなかった。

 

(あのクソガキ…!)

思わず奥歯を噛み締める。
蒙驁の孫とはいえ、さして付き合いもなかったので、桓騎と蒙恬はお互いの存在を認知し合う程度だった。

過去の戦で楽華隊を動かしていたことはあったが、蒙驁の孫である手前、捨て駒として扱う訳にはいかず、蒙恬自身もその聡明な頭脳で敵を出し抜き、それなりに武功も挙げていた。

自分と数えるくらいしか歳の差は離れていないのだが、桓騎は蒙恬のことを毛嫌いしている。
その理由は無論、蒙恬が信のことを、異性として意識しているからだ。

数え切れないほどの縁談話が来て、女に不自由することのないはずの蒙恬は、どうやら信に気があるようだった。

直接それを本人に問い質したことはない。しかし、蒙恬が信を見つめるあの目は、一人の男として女を見る目だと断言出来た。

きっと蒙恬が今まで相手にして来た女には、信のような女は一人もいなかったに違いない。だからこそ彼女に惹かれたのだろう。

男に媚を売ることも知らぬ、自分の目指すべき道をひたすらに歩む信に惹かれる気持ちはよく分かる。

しかし、相手が蒙恬であっても、李牧であっても、桓騎は信を誰にも渡すつもりはなかった。

「やれ、恬のあの女好きは一体誰に似たのか…まさか信に惚れるとは思わなんだ」

どうやら蒙驁も、蒙恬が信に想いを寄せていることを知っているらしい。

そういえば、婚約者というような堅苦しい肩書きではないものの、信と自分が男女の仲になったことを蒙驁に伝えていなかった。

正式に婚姻が決まったならば、報告すべきだと考えていたのだが、まだ信から求婚の承諾を得られていないのである。

秦趙同盟の後、信への片想いがようやく実ったことが秦国ではいつの間にか広まっており、城下町を歩けば民たちから祝福の言葉を掛けられることも珍しくなかった。

流行り物に詳しい蒙恬が、自分たちのその噂を知らぬはずがない。その上で信に接触を図るということは、自分への挑発も兼ねているのだろうか。

蒙驁の容体が回復したことと、蒙恬が信へ接触を図ろうとしていることが、何か関係があるような気がして、桓騎は嫌な予感を覚えた。

特に気になるのは、大切な祖父の容体が持ち直したばかりの状況で、蒙恬がなぜ信の補佐を優先した・・・・・・・・・・・のか。

「…信は見舞いに来たのか?」

気になっていたことを尋ねると、蒙驁は大きく頷いた。

「覚えてはおらんが、儂がまだ眠っている時に来てくれたようじゃ。それですぐに魏にいるお主のもとへ向かったと聞いておる。恬が魏へ行ったのは、儂が目を覚ましてからじゃ」

なるほどと桓騎は顎を撫でつける。

信が桓騎のもとへ向かうのを蒙恬は知っていた。そして蒙驁の容体の回復を見届けてから、蒙恬が信の補佐へ向かったのだとしたら、やはりこれは自分を出し抜くための策だと言える。

確実に自分という邪魔者が居ない間に、信と二人きりになる機会を見計らっていたに違いない。

蒙恬が信を見るあの目が、一人の男として女を見る目だと気づいた時から、桓騎は蒙恬の存在を危険視していたのだが、それは正解だったようだ。

 

新たな恋敵

名家の嫡男であり、初陣を済ませてからたちまち武功を挙げていく蒙恬が、大勢の娘から縁談を申し込まれているのは噂で聞いていた。

しかし、蒙恬は結婚適齢期であるにも関わらず、妻になる女性を見極めたいだとか適当な理由をつけて縁談を受けることはせず、好みの女をとっかえひっかえに褥を共にしているのも有名な噂話だ。

きっと結婚相手を見定めたり、世継ぎを作る素振りを見せることで、家臣たちを安心させていたのだろう。

しかし、確実に蒙恬の狙いは信だ。彼女を手に入れるために、自分を出し抜く機会を虎視眈々と狙っていたに違いない。そしてそれがまさに今というワケだ。

(よくもこの俺を出し抜きやがったな)

さすがに蒙驁の前で、彼の大切な孫に暴言を吐く訳にはいかなかったので、桓騎は強く歯を食い縛って暴言を飲み込んだ。

きっと蒙恬は桓騎と信の男女の関係には気付いているだろうが、まだ婚姻を結んでいないこの機を狙って、信にちょっかいを掛けようとしているに違いない。

信は腕っぷしの強い女だ。男に迫られても、簡単にその身を委ねるようなことはしないと断言出来た。

しかし、残念ながらそれは相手による。いくら信が強いとはいえ、蒙恬のような男に策を講じられれば、簡単にその体を組み敷かれることになるだろう。

そして鈍い信のことだから、彼に上手く丸め込まれ、全てが終わってから、ようやく騙されたと気づくことになるかもしれない。それでは手遅れなのだ。

あの男は自分の端正な顔立ちと、甘え上手な性格をこの上ない武器として攻め立てるに違いない。

相手の懐に入り込むのを何よりも得意とする蒙恬が、いつ信に襲い掛かるかと思うと、それはもう気が気ではなかった。

彼女と李牧の過去を知っているのは今のところ桓騎だけだが、何かの拍子に信がそんな古傷を抱えていることを蒙恬に知られれば、奴は間違いなくそこを狙って信の心を盗み取るだろう。

李牧との過去を知らなかった時でさえも、桓騎は蒙恬と信が接触しないよう、今まで手を回していた。
蒙恬率いる楽華隊が飛信軍の下につくことが決まった時も、上手く根回しをして桓騎軍の下につくようにしていたのは、他でもない信を守るためである。

蒙驁は桓騎の裏工作に関して何も言わなかったが、きっと見て見ぬフリをしていたのだろう。

…くれぐれも誤解のないよう言っておくが、自分が蒙恬と李牧に敵わないというワケではない。信が彼らの卑怯な策略に陥る可能性が高いだけである。

いくら信の心に自分という存在が刻まれていようとも、彼女の鈍い性格だけは変えられないし、信が女である以上、男に敵わない部分が出て来るのも変えられない事実だ。

愛人も込みで、さっさと結婚させとけ。こっちは迷惑してんだ」

苛立ちを隠し切れずに、桓騎は蒙驁を睨みつけた。

「フォフォ。信が嫁に来てくれたら、それはそれで蒙家は安泰なんじゃがのう」

自分が信にずっと想いを寄せていることは蒙驁も昔から知っているくせにと、桓騎は顎が砕けそうなほど歯を食い縛った。

人の良さそうな顔をしておいて、腹の内に隠し切れない黒さを抱えているのは確かに蒙家の血筋だと思われる。このクソジジイにしてあのクソガキありというわけだ。

むしろ腹の内の黒さを一切感じられない蒙武こそが、本当に蒙家の血筋なのか疑わしくなる。

(信が食われるかもしれねェ)

蒙恬がいつまでも縁談を受けずにいる理由が、信との婚姻を狙っているのだとしたら、彼が考えていることは一つだ。

それは信と婚姻に至るための既成事実を作り上げることである。
もしも信が蒙恬との子を孕めば、いや、孕まずとも一夜を共にしたとすれば、蒙恬の思惑通りに婚姻へ運ぶことが出来る。

単純なことだ。蒙恬は信の善意を利用しようとしているのである。

凌辱であろうが、言葉巧みによる誘いであろうが、どちらにせよ彼に抱かれれば、恋人である桓騎を裏切ってしまったと信はひどく落ち込むだろう。

その傷ついた心を埋める役割も蒙恬が担い、心身ともに自分のものにするつもりに違いない。

名家の権力を自由に扱い、情報操作も得意とする男だ。外堀を埋めるためにせっかく秦国に広めていた自分たちの恋物語の噂も簡単に塗り替えられてしまうかもしれない。

信を手に入れるための努力が踏み躙られるどころか、水の泡になってしまうと思い、桓騎はすぐにでも信のもとへ駆けつけようとした。

「…ああ、そうじゃ。桓騎よ。縁談と言えば…」

普段は見せることのない桓騎の慌てた表情を見据えながら、蒙驁が楽しそうに目を細めた。

 

予期せぬ来客

魏の慶都にある汲の城の制圧は、桓騎軍の参謀である摩論が中心となって取り仕切っている。

この城の一室で待っているよう摩論に言われてから、どれだけの時間が経っただろうか。

桓騎も摩論に後のことは一任していると話していたし、信は口を出すつもりもなかったのだが、未だ制圧手続きが完了しないことに、苛立ちが増していくばかりだった。

(遅い…!)

立ち上がって、部屋の窓から城下を見下ろす。投降した兵たちや、汲に住まう民たちを取りまとめている秦兵たちの姿があった。

捕虜たちは戦力の補充として宛がわれる。捕虜の中にも怪我人がいたが、差別なく救護班が手当てを行っていた。

手に入れた領土は、税制や支配機構を設定した上で管理をしなくてはならない。今後、汲の城も戦略のために改修する必要がある。

帰還後には城内の構造や、手に入れた物資、はたまた投降兵たちの記録の提出と報告をしなくてはならないため、制圧をしてからもやることはそれなりにあるのだが、それにしても時間がかかり過ぎている。

信がこの地に到着した時にはすでに城は落としていたし、すでに制圧手続きは始まっていた。

桓騎がここを出立してからすでに数日が経ったというのに、未だに制圧手続きが終わっていない。一体何にそんな時間をかけることがあるのだろうか。急がなければ夜になってしまうではないか。

一刻も早く帰還したいのに、未だ城の制圧を終えたという報告が入らず、信は苛立ちを隠し切れずに大声を上げた。

「おいっ、まだ終わんねえのかよ!いつまでかかってんだッ!?」

信の文句を聞きつけ、部屋の外にいたオギコが驚いて飛び込んで来た。

「信、怒らないで~!摩論さんたちも頑張ってるんだから!オギコが肩揉んであげる!ほら座って座って!」

オギコに宥められ、信はやれやれと椅子に腰を下ろす。
摩論が何かと理由をつけて城の制圧手続きを長引かせているのは、きっとめぼしいものを見つけたに違いない。

桓騎軍の者たちは元野盗の集団だ。金目の物には特に目がなく、桓騎も好きにしろと自由にさせているらしい。きっとそういう規律に一切興味がないところが彼らには好印象だったに違いない。

元野盗の集団を仲間にしたと聞いた時は寝首を掻かれるのではないかと危惧していたが、それは無用な心配だった。

縛られることを何よりも嫌う桓騎と元野盗たちは随分と性格が合うようで、たちまち「お頭」と慕われるようになって、今や大勢の元野盗団が桓騎軍に集結していた。

彼らを配下に従える時は、何度か器を試されるようなことはあったようだが、何の問題もなく従えているところを見る限り、桓騎は仲間たちからその器を大いに認められたのだろう。

人を惹き付ける魅力を備えているのだと思うと誇らしかったのだが、まさか気性の荒い野盗集団たちまで手懐けてしまうとは思いもしなかった。

「………」

桓騎と王翦を蒙驁の見舞いへ行かせることが出来て良かったと思うものの、今際に間に合っただろうか。

蒙驁の危篤の報せを聞き、桓騎のもとへ駆けつける前に、信も馬を走らせて見舞いに行った。言葉を交わすのは最後になるかもしれないと思ったからだ。

かろうじて返事はしてくれたものの、蒙驁が目を開けることはなかった。きっともう長くはないだろう。戦場で多くの死と対面して来た信に、直感のようなものが走った。

すぐに桓騎に知らせなくてはと思い立ったのもその時で、此度の将軍交代は完全なる信の独断である。きっと総司令である昌平君は目を瞑っていてくれるだろう。

その後、蒙驁の容体に関しての報告は来ていない。
ここから帰還した後で、実はもう亡くなっていたという報せを聞くことになるのではないかと信は不安を抱いていた。

「いでででッ!オギコ、力入れすぎだ!」

溜息を吐いた拍子に、両肩に激痛が走り、信は飛び上がった。

「あれれっ、ごめんね?お頭は強めが良いって言うから、つい…もっと弱くするね!」

「ジジイかよ、あいつは…」

オギコに肩を揉まれながら、信は溜息を吐いた。

桓騎のことを任せられたのは、蒙驁のあの人柄を信頼してのことだ。
それは決して間違いではなく、自由にさせていたことで桓騎の才を芽吹かせてくれたのも彼のおかげだと信は思っている。

桓騎自身も言葉にはしていないが、蒙驁には恩を感じているようだし、伝えたいこともあるだろう。

見舞いに行った時に、桓騎の面倒を見てくれたことには大いに感謝を告げたのだが、信も長年世話になった立場として、出来ることなら蒙驁の最期の瞬間を看取ってやりたいと考えていた。

もしも蒙驁が亡くなれば、悲しむ家臣たちは大勢いるに違いない。

(そういや…)

ふと、信は蒙驁の孫にあたる蒙恬のことを考えた。

彼は桓騎よりも幾つか年下だが、さすが蒙驁の孫であり、蒙武の息子と言ったところか、初陣を済ませてからあっと言う間に昇格していった。

次の戦で武功を挙げれば、蒙恬はいよいよ五千人将に昇格となり、将軍への昇格もあと少しとなる。

蒙驁の見舞いに行った時、彼は大切な祖父の危篤に悲しげな表情を浮かべて、ずっと蒙驁の手を握り続けていた。

最愛の祖父に将軍になる姿を見せてやれないと悔やんでいる蒙恬と、自慢の孫の成長を見届けることが叶わない蒙驁のことを思うと、信は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

 

「ん?」

馬の嘶きが窓から聞こえて、信は反射的に顔を上げた。
それからこちらに近づいて来る足音が聞こえたので、ようやく制圧き手続を終えたという摩論からの報告だと信は疑わなかった。

待ちくたびれたと長い息を吐いていると、

「信将軍!」

「…は!?」

しかし、扉を開けて入って来たのは摩論でも他の側近でもなく、蒙恬だった。

白老が危篤だというのに、ここに蒙恬がいることをすぐには信じられず、信はもしかしたら白昼夢でも見ているのかと思った。

「えっ、ええーっ!?信、なんで!?何でこの人ここにいるの!?」

肩揉みをしていたオギコも同様に驚いていることから、夢ではないことを知る。

蒙恬はにこにこと笑顔で近づいて来ると、礼儀正しく供手礼をする。

「祖父の見舞いに来て下さったこと、感謝します。お陰で峠は超えました。まだ全快とは言い難い状態ですが…」

「え?そ、そうなのか?」

蒙恬自らが蒙驁の容体について知らせてくれたことに、信は呆気に取られてしまう。危篤は脱したらしいが、まだ心配な状態らしい。

しかし、そこでふと気づく。

大切な祖父が危篤を脱したとはいえ、今はまだ彼の傍についているべきではないのだろうか。伝令を寄越してくれればよかったのに、どうして蒙恬自ら伝えに来たのだろうか。

「…蒙恬…わざわざそれを伝えに来たわけじゃねえよな?」

「ええ、目的は他にもあります。制圧と撤退の補佐をしに馳せ参じました」

そんなことを言われるとは思わず、信は溜息を吐いた。
制圧の手続きは摩論に任せているし、撤退の指揮に補佐など不要だ。どうせ帰還するだけなのは兵たちも分かっているだろう。

「俺一人でも十分だ。お前は蒙驁将軍の傍についていてやれ。峠を越えたからって、いつ何があってもおかしくないんだろ」

せっかくここまでやって来た蒙恬の気遣いを無下にしないよう、信は言葉を選びながら返した。

「……そうしたいところなんですが…」

「?」

素直に従わない蒙恬を見て、信は他に何か別の目的があるのかと考える。

「実は、祖父との約束があるんです」

「約束…?」

はい、と蒙恬が切なげに眉根を寄せた。

あの蒙武の息子とは思えないほど端正な顔立ちである蒙恬が、そんな悩ましい表情を見せれば、女も男も性別は関係なく理性が揺らぐだろう。

しかし、信は桓騎と同様で、幼い頃から蒙恬のことを知っていることもあって、少しも心が揺れ動かされることはなかった。

蒙恬が蒙驁との大切な話を持ち出したことから、信は後ろにいる兵たちに目線を送って下がるように指示を出す。
心配そうにオギコがこちらを見ていたが、彼も兵たちと共に部屋を出ていった。

扉が閉められて、二人きりになったことを確認してから、蒙恬はゆっくりと口を開く。

「俺…祖父に、お嫁さんを見せてあげるって、約束していたんです」

「ああ、結婚の話か。そういやお前、許嫁も居なかったよな?」

あっさりと聞き返したのは、その約束の内容が自分と少しも関係性がないことを確信したからだった。

しかし、蒙恬が縋るような眼差しを向けて来たので、信は嫌な予感を覚えた。

「お願いします。フリだけで良いんで、俺のお嫁さんになってください」

「…はっ?」

蒙恬に深々と頭を下げられて、信はようやく彼から「自分の妻になってくれ」と頼まれていることを察したのだった。

「いや無理だろ!何言ってんだお前!?」

即座に断ったものの、蒙恬が縋りつくように上目遣いで見上げて来る。

「お願いします。こんなこと、信将軍にしか頼めなくて…」

こういう時に端正な顔立ちを使って甘えて来るのは、自分の顔が良いことを自覚している何よりの証拠だ。信は後退りながら何度も首を横に振った。

「頼む相手を間違えてるだろッ!」

名家の嫡男であり、この美貌と、将としての武功がある蒙恬ならば、縁談話は山ほどあるに違いない。

わざわざ自分じゃなくたって、その中から好みの女を選べばいいはずだ。
しかし蒙恬は「いいえ」ときっぱり首を横に振る。

「信将軍が嫁に来てくれるなら蒙家も安泰だって、祖父を安心させてやりたいんです」

もっともらしいことを言われるが、さすがに蒙驁を騙すなんて良心が痛むことに協力する訳にはいかなかった。

「悪いが、お断りだ」

「そんなっ…」

即座に拒絶すると、蒙恬が泣きそうな表情になる。

「じゃあ、俺…じいちゃんとの約束、守れないんだ…最後まで、じいちゃんを心配させてばっかりで…」

「お、おいっ?」

両手で顔を覆い、めそめそと女のように泣き始める蒙恬に信は狼狽えた。
もしも蒙恬にこんな顔をさせたことを、彼の配下に知られでもしたら確実に面倒なことになる。

名家の嫡男として、それはもう大切に育てられた男である。家臣や従者たちが今も蒙恬を大切に想っているのは変わりなかった。

彼が引き連れて来た護衛達は部屋の外で待機しているが、蒙恬の声を聞いて、よくも主を泣かせたなと襲い掛かって来るのではないかと不安になる。

 

「俺じゃなくても、本当に嫁になってくれる女なんて大勢いるだろ!」

蒙驁を安心させてやりたいという蒙恬の気持ちに応えてやりたいとは思うものの、桓騎という恋人がいる以上、安易には承諾出来なかった。

妻のフリをする候補どころか、本当に妻になってくれる女性など、縁談の数だけいるはずだと伝えてみるが、蒙恬は首を横に振る。

「俺のことを慕ってくれる女性たちに、祖父を安心させたいからという理由で結婚するなんて…そんな道具みたいに扱うこと、俺には出来ません…!」

「俺は良いのかよッ!?」

結婚適齢期であるにも関わらず、蒙恬は多くの美女と褥を共にしているという噂を聞いており、信は蒙恬が結婚相手の女性を見定めているのだとばかり思っていた。

名家の嫡男であり、秦の未来の担う将である。下心を持つような女を妻にする訳にはいかないのだろう。

妻となる女性がどんな人物か見定めるのも大変だなと信は思っていたのだが、桓騎から「遊んでるだけだろ」と教えられたことがある。

女性を食い物にしているといえば語弊があるかもしれないが、色んな女性と褥を共にして、人生を謳歌しているらしい。

まさか蒙恬がそんなことをする男だとは思わず、信は桓騎の話を聞いて驚いた。

それでも蒙驁との約束を守りたいという姿は、祖父想いの優しい孫にしか見えない。

「お願いします…祖父を安心させてあげたいんです…!」

幼い頃から蒙恬を知っている信は、その優しさを踏み躙ることが出来ず、狼狽えてしまう。

初陣に出る前の蒙恬は「信!」と親を追う雛鳥のように自分の周りを付き纏って来て、家臣たちが目の保養にするのも頷けるくらい愛らしい子だった。

いつも生意気なことを言ったり、自分を呼び寄せるために何かと芙蓉閣で騒動を起こしていた桓騎と違って無邪気で愛らしかった蒙恬が、どうしてこんな桓騎にも引けを劣らぬ面倒な性格に育ってしまったのだろう。

自分の端正な顔立ちと甘え上手な部分を武器に出来るのだと気づいてから、蒙恬は途端に可愛げがなくなったように思える。もちろん本人には口が裂けても言えないが。

狼狽えている信を見て、蒙恬はあと一押しだと悟ったのか、さらに泣き落としを始めた。

「…祖父はずっと、俺のお嫁さんになる女性に会うのを楽しみにしていたんです…最後まで、その約束を果たせられないのかと思うと…」

「うううっ…」

このままでは渋々承諾してしまうと信も薄々勘付いていた。

これは蒙恬のためではなく、蒙驁のためだと自分の良心を説得してしまいそうになるが、信の瞼の裏に桓騎の姿が浮かび上がる。

扉が勢いよく開けられたのは、その時だった。

 

中編①はこちら

The post 平行線の交差、その先に(桓騎×信←蒙恬)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

昌平君の駒犬(昌平君×信)後日編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • めちゃ強・昌平君の護衛役・側近になってます。
  • 年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/蒙恬×信/執着攻め/特殊設定/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は本編の後日編です。

 

外交

外交に行くため、今宵の留守を任せるということは、前もって信に伝えていた。

信は昌平君の護衛役を担っているとはいえ、外交の場には連れて行かないようにしている。

それは信に機密情報を知らないようにするというものや、護衛役を同席させることで外交相手を怯えさせないといった配慮ではなく、単純に外交の場に信を連れて行きたくない・・・・・・・・・からだ。

本来、外交は蔡沢が担う分野で、昌平君が担当する外交とは、少し特殊なものである。

呂不韋を筆頭として、秦国に多大なる貢賦を行っている地に赴き慰労する、いわゆる接待というもので、それは飼い犬である信がもっとも機嫌を損ねる執務だった。

もともと華やかな席を得意としない昌平君も、宴や慰労会に出るのは気が重いものだ。しかし、呂氏四柱の一人である立場上、呂不韋から同行するように命じられれば断ることは出来ない。

それに呂不韋は癖のある男で、一度誘いを断ると、次はさらに面倒な席に誘って来るのだ。

以前、彼からの誘いを断った後日、行先も告げられずに連れて行かれた先が娼館だったことがある。

次に断れば嫌でも女の一夜を買うことになると無言の脅しを受けたことは、今でもしっかりと昌平君の記憶に不快な思い出として刻まれていた。

あの時は呂不韋が美しい女性たちを侍らせながら、酒を飲み交わしただけで解放されたが、三日ほど眉間から皺が消えなかったことを信から指摘された。

どうして呂不韋が昌平君をそういった場に連れ出すのか、理由は単純なもので、そういう付き合いを覚えた方が何かと便利だから・・・・・・・・だそうだ。

女との付き合いや酒を飲み交わす場を外交だと偽る呂不韋は、昌平君が女遊びに少しも興味がなく、縁談を断り続けていることを気にしているらしい。

もとは踊り子であった女を自分の地位のために利用して、太后の座に就かせた男だ。女の利用価値について知っておくべきだと行動で助言をしているのだろう。

しかし、心配という便利な言葉と、上司という立場を使って、女性のいる場に連れ回す呂不韋は、自分が良い思いをしたいがために配下自分を利用しているとしか思えなかった。

…こういう時、妻子がいることを理由に、呂不韋から外交の誘いを受けない蒙武を羨ましいと思うことがある。

とはいえ、偽りの外交を断る理由を作るためだけに、さして興味もない縁談話を受ける気にはなれなかった。

それに、自分の地位のための踏み台として誰かを犠牲にするほど、心腐れてはいなかった。

 

 

「………」

窓枠に腰掛けている信がむくれ顔をして外を眺めている。今日の夕刻に呂不韋と外交に行くのだと告げてからずっとこうだ。

普段なら主が執務を行っている最中は、必要な木簡を書庫から持って来てくれたり、伝令を承ったり、さまざまな雑務をこなすことがほとんどなのだが、今日の信はずっと窓辺から動こうとしない。

そしてその表情と態度から苛立ちが伝わって来る。
ただの外交ではなく、呂不韋が同伴するこということから、賢い駒犬はそれが外交を装った接待であることをすぐに察したらしい。

「………」

昌平君は声を掛けることなく、出発の時間まで黙々と執務に取り組んでいた。

領土視察の報告書に目を通しながら、時々信の方に視線を向けるものの、彼はこちらを見ようともしていない。

気配に敏感な信のことだから、こちらの視線には気付いているはずだが、振り返りもしないことから無視を決め込んでいるらしい。

子どものような拗ね方ではあるが、昌平君が発言の許可を出していないせいで、反発の意志を示すには、信は一切の無視を決め込むしかないのだ。

呂不韋との外交に行くと告げた時は、いつもこうだ。一体何に拗ねているのか、昌平君にはその理由が分からない。

やれやれと肩を竦め、昌平君は駒犬に飼い主としての指示を出すことにした。

「信、書庫から持って来てもらいたい木簡がある」

命じれば、さすがに無視できなかったようで、信は渋々といった様子で立ち上がった。乗り気でないのは表情から察していたが、これも執務だと割り切っているのだろう。

机に置かれている木簡の一つを手に取り、昌平君は裏面を指さした。

「この印が刻まれている木簡を頼む。幾つか選別して来てほしい。関連した内容が知りたい」

書庫に収納されている木簡は、内政事情や過去の外交記録など、膨大な種と数が存在する。
それらを区別するために、木簡には色々な印や題が施されていた。

棚にも同じ印が刻まれているので、すぐに見つけられ、片付ける時も同じ印が刻まれている棚に戻すだけの仕組みを取っている。

信が幼い頃に文字の読み書きを一通り教えたこともあり、刻まれている印と題を伝えれば、違えることなく頼んだ通りの木簡を持って来てくれるのである。

主が指している木簡の印を信が覗き込んだ瞬間、昌平君は素早く彼の体を腕の中に閉じ込めた。

「っ…!」

頼みごとが嘘だったのだと気づいた信はすぐに逃げ出そうとするが、昌平君は抱き締める腕に力を込めてその体を放さない。

机の上に置いてあった木簡の幾つかが小気味いい音を立てて床に転がった。

きっと信が本気を出せば、主の腕を振り解いで逃げ出すことは可能だろう。それをしないのは、主を傷つけたくないという気持ちの表れである。
信が本気で自分を拒絶が出来ないことを昌平君は昔から知っていた。

「~~~ッ…!」

しばらく抵抗を続けていたものの、解放してくれる気配がないと察したのか、やがて大人しくなる。

向かい合うように膝の上に座らせると、腕の中で諦めたように縮こまる。

苛立たしげに眉根を寄せている信を見下ろして、昌平君は小さく溜息を吐いた。態度はともかく、ようやく大人しくなったようだ。

「………」

まだ発言の許可を得ていないので、信は文句を言いたげな顔をするものの、目尻をつり上げて睨みつけるだけだった。

飼い主にそのような反抗的な態度を向ける飼い犬には、きつい仕置きをしなくてはならないと思いながら、しかし、昌平君の両腕は彼を苦しめるために動くことはしない。

「………」

顔を覗き込むと、信がむくれ顔のまま目を逸らした。

「信」

わざと低い声で名前を呼んでも、こちらに視線を返さないどころか、顔ごと逸らし、全身で主のことを拒絶をしていた。

膝の上から退かないのは、駒犬として最低限の務めをしているつもりなのだろうか。

仕方ないと肩を竦め、昌平君は信の両頬を片手で圧迫するように掴んで、無理やり目線を合わせた。

両頬を圧迫されたことで必然的にすぼまった唇から、むぐっ、と情けない声が上がる。

「何が不満だ。答えろ」

発言を許可したところで素直に答えるとは思わなかったが、問わずにはいられなかった。

「………」

逃げられないと分かっていても、尚も目を背けて答えようとしない信に、きつい灸を据えてやろうかと考える。
甘やかしていた自覚はあるが、躾も飼い主としての義務だ。

黙り込んだ昌平君に、ようやく静かな怒りが伝わったのか、信が僅かに狼狽えた表情を浮かべた。

ここで潔く自分の態度を謝罪し、抱えている不満を話してくれたのなら、昌平君は信を許していただろう。

しかし、ここまで拗ねておいて今さら引けないのか、信は顔ごと目を逸らす。

「…信」

せっかく謝罪する機会を与えてやったというのに、それを無下にした信が悪いのだ。

 

折檻と反発

後頭部を押さえて唇を重ねると、驚いた信が目を見開いて、ますます狼狽えた様子を見せていた。

「っう、…ん…」

やがて口づけの感覚に腰が痺れ始めたのか、うっとりと目を細めていく。
それが悩ましい表情に切り替わって、もっと欲しいと強請るように両腕が背中に回される。

「…ふ…ぅ、ん、…」

唾液に濡れた艶めかしい舌が入り込んで来る。

教えた通りに舌を伸ばして来たことは褒めてやりたいが、残念ながら今日は躾をしなくてはならない。

「ん、ッ…!?」

舌を絡めると見せかけて、昌平君は信の舌に噛みついた。僅かな痛みに信が顔をしかめ、驚いた視線を向けて来る。

「はあっ…」

唇を離してから、未だに互いの唇を紡いでいる唾液の糸を舐め取った後、昌平君は再び信の後頭部を押さえ込んで、今度は唇に噛みついた。

「ぅう…」

意図して痛みを与えられたことで、身体を強張らせているところを見れば、これから何をされるのかを理解したようだった。

向かい合って膝の上に座らせているせいで、信の脚の間のそれが硬くそそり立っているのを着物越しに感じる。

怯えの色が瞳に滲んでいるものの、どこか期待を込めた眼差しを向けられてしまい、これでは躾にならないと昌平君は思わず溜息を零した。

飼い主の溜息を聞きつけたのか、信はすぐに膝から降りた。どこへ行くわけでもなく、その場に膝をつくと、脚の間に顔を寄せて、確認するように上目遣いで見上げて来る。

こちらの許可を得ようとしている態度は従順そのものだが、上気した頬を見る限り、これが躾だと理解していないようだ。

暴力を振るい、苦痛を与えることは躾ではない。それはただの虐待だ。

失態を犯した罰として、鞭を振るい、痛みと恐怖を記憶に植え付けることで、同じ失態を避けさせようとするのは動物にすることであって、躾とは異なる。

躾とは、作法を学ばせる教育の一種である。
痛みや恐怖で駒犬を操ることは出来ない。なぜなら駒犬は優秀であり、いつだって飼い主の器を見計らっている賢い存在だからである。

少しでも自分の飼い主に相応しくないと判断すれば、簡単に見放されるだろう。
無論、こちらは永遠に手放すつもりなどないのだが。

 

 

着物越しに、信が男根に触れて来る。体を重ねるようになった初めの内は、恐る恐る触れていたというのに、今では恥じらう面影すらなかった。

手の平で形を確かめるようにやんわりと撫でて来て、頬を摺り寄せて来る。

「……、……」

それに加え、上目遣いで甘えるように見上げて来るものだから、信にはこれが躾である自覚が少しもないようだった。

まだ許可も出していないというのに、信が性急な手付きで着物に手を掛けて来る。

勝手をする両手を縛り付けてしまおうかと考えているうちに、信はもう我慢が効かなくなってしまったようで、息を荒げていた。

もちろんこんな淫らな体に育ててしまったのは、飼い主である自分の責任だが、許可を得ていないのに勝手をしないよう、我慢を覚えさせなくてはならない。

以前、教え子である蒙恬に唆されて厳しい躾けを施したように、髪紐を使って男根を戒めようか。それとも絶頂を迎える寸前まで追い込み、ひたすらに焦らしてやろうか。

どちらにしようか考えているうちに、信は昌平君の許可を得る前に男根をその口に咥えていた。

「ふ…ぅ、んん…」

外交に行くと告げてから不機嫌でいたはずの信が、今では淫らな表情を浮かべて自分の男根を頬張っている。

何が不満だったのか、未だに回答は得られていないのだが、これほどまでに我を出して自分を求める信の姿は久しぶりだった。

陰茎の根元を輪を作った指で扱き、頭を動かして唇で先端を優しく包み込む。反対の手を自分の足の間に伸ばす駒犬の姿に、昌平君は呆れたように肩を竦めて薄く笑んだ。

「っ、ん、んん…」

自分の男根を着物越しに撫でつけながら、飼い主の男根を咥え込む駒犬の姿は官能的としか表現のしようがなく、思わず生唾を飲み込んでしまう。

飼い主として、駒犬に我慢を覚えさせなくてはいけないと思うものの、自分自身も信が欲しくて堪らない。

「は…」

唾液の泡立つ音が鼓膜を揺する度に、気持ちが昂っていく。

夕刻には、外交のために発たなければいけない。もう日が沈みかけているので、そろそろ支度をしなくてはとも考えていたのだが、今さらやめられるはずがなかった。

「右丞相様」

報告に訪れた兵によって、執務室の扉が叩かれたのは、その時だった。

 

折檻と反発 その二

一気に意識が現実に引き戻され、昌平君は扉の方へ目線を向けた。

「先日の施設交渉の件について、領主からの報告に参りました」

扉一枚隔てた先で、報告にやって来た兵が声を掛ける。扉に手を掛けた音を聞きつけ、昌平君は咄嗟にを声を上げた。

「入るなッ!」

余裕のなさが目立つ大声だった。

右丞相である昌平君は、政治の主導を行うことから、行政全般の執務を担っている。地方行政へ指示を出す立場にあるため、執務の最中に多くの報告が訪れるのだ。

いつものように伝令から報告の要約を聞き、詳細が記された書簡を受け取るだけなのは理解していたが、今この状況で部屋に入られるのはまずい。

「右丞相様?」

怒気と焦燥が滲んでいるその声色に、何事かと兵が驚いていた。

冷静沈着で、普段から声を荒げるようなことがない昌平君の異変を察知したらしい。

扉越しに兵が不審がっている様子を聞きつけ、昌平君は嫌な汗を浮かべながら、冷静さを取り繕う。

昌平君がこれほどまでに取り乱しているのは他でもない駒犬のせいなのだが、弁明する訳にもいかない。しかし、信はまるでこの状況を楽しんでいるかのように目を細めて口淫を続けていく。

「っ…」

少しでも気を抜くと、思考が混濁してしまい、情けない声を上げてしまいそうだった。
何度か息を整えてから、昌平君は口を開く。

「…機密情報の取り扱いをしている。報告ならこのまま聞こう」

「承知しました」

咄嗟に繕った言葉とはいえ、我ながら上手い嘘だと賞賛してしまう。いや、今はそのようなことを考えている場合ではない。

机の下に身を屈めて陰茎に舌を這わせていた信が、口を開けて亀頭に吸い付いて来た。
頭を動かして口の中で男根を扱き始めたのを見て、いよいよ本気で執務の妨害を始めているのだと察し、昌平君は息を詰まらせる。

信に口淫を教えたのは他でもない自分自身なのだが、まさか回り回って困らされる日が来ることになるとは微塵も想像していなかった。

 

「此度の税制について、領主が……あることから、……と申しており……右丞相様?」

報告を続けていく合間に、少しも相槌が聞こえないことから、兵が確認するように尋ねて来る。

「何でもない。続けろ」

その返答は扉越しの兵に向けたものなのだが、その言葉を聞いた信が妖艶に目を光らせたので、昌平君は嫌な予感を覚えた。

信への指示ではないというのに、まるでこちらを挑発するかのように、男根に強く吸い付いて来る。

「っ…」

すぐにでもやめさせなくてはと思うのだが、舌先を尖らせて敏感な鈴口を突かれると、腰が浮き上がってしまいそうなほど気持ちが良く、思わず喉が引き攣った。

一度口を離したものの、敏感な鈴口を舌先で拭いながら、指で亀頭と陰茎のくびれを指の腹でひっかくように刺激される。

「…っ、……」

咄嗟に自分の手で口に蓋をして、声と荒い息を堪える。

兵が扉越しに報告を続けていくが、内容は少しも頭に入らなかった。

もしも声を聞かれれば、異変を察した兵が部屋に乗り込んで来るかもしれない。
信が机の下に身を隠しているので、扉を開けたくらいでは淫らな光景が目に付くことはないだろうが、気づかれないとは限らない。

容易に部屋への立ち入りが出来ないように、扉に閂を嵌めておくべきだったと昌平君は後悔した。

上目遣いで信が昌平君の余裕のない顔を見上げて、妖艶な笑みを深めている。

口の中で唾液と先走りの液が泡立つ音が、扉越しに聞かれるのではないかという不安を覚え、こうなれば無理やりにでもやめさせようと、昌平君は強引に信の髪を掴んだ。

しかし、信は中断を嫌がるように、陰茎を喉奥深くまで咥え込む。
それが信の抵抗だと分かると、そう簡単に終わらせるつもりはないのだと嫌でも察してしまう。

「う、ッ…!」

口淫によって敏感になっている先端を強く吸い付かれ、昌平君の頭の中で火花が散り、思考が真っ白に塗り潰された。

それは一瞬のことであったが、全身を駆け抜けた快楽の余韻に、腰の震えが止まらない。

灼熱が尿道を駆け巡っていく感覚も、それさえも逃がすまいと吸い付く信の口内の温かい感触も、昌平君は指の間から荒い息を吐きながら他人事のように感じていた。

「ん…んぅ…」

恍惚の表情を浮かべて、自分の男根を咥えたまま喉を鳴らし、美味そうに精を飲み込んでいく駒犬の姿は淫らとしか言いようがなかったのだが、今の昌平君にはそれが無性に腹立たしかった。

「―――報告は以上になります」

扉の向こうで兵がそう言ったので、昌平君ははっと我に返った。

自分が躾けたとはいえ、信の口淫があまりにも気持ち良く、話など少しも覚えていない。

「…その件については、追って返答する。下がって良い」

「はっ、失礼いたします」

なんとか言葉を詰まらせることなく兵に命じると、怪しまれることなく兵が去っていった。誰も居なくなった気配に、ようやく安堵の息を吐く。

後で木簡に一から目を通して、改めて指示を検討しなくてはならない。
しかし、今はそれよりも優先すべき事項がある。

昌平君は未だに口淫を続けている駒犬を冷たい瞳で見下ろした。

 

「…さすがに悪戯が過ぎるな」

氷のような冷ややかな声が降って来たので、信は思わず身体を強張らせる。

本気で昌平君が怒っていることを察し、頭から水を浴びせられたような心地になった。

ようやく我に返ったのだが、昌平君の怒りが簡単には収まりのつかないところまで膨れ上がっているようで、信は怯えた視線で見上げることしか出来ない。

「信」

「っ…」

しかし、飼い主に名前を呼ばれると、背筋がぞくりと痺れるような甘い感覚に襲われてしまう。

昌平君の低い声は、いつだって心地が良い。耳から入って来て鼓膜が振動し、脳に染み渡る過程がまるで遅延性の毒のように身体の芯を麻痺させるのだ。

信の瞳に、再び期待の色が浮かび上がったのを見て、昌平君は呆れたように溜息を吐いた。

 

 

折檻と反発 その三

床に座り込んだ信が、ようやく男根から口を離した。

しかし、惚けたように薄口を開けて、物欲しげな瞳でこちらを見上げている。まるで飼い主に餌を求めているかのような態度だ。しかし、今回は悪戯が過ぎる。

もう二度と悪さをしないように、口輪を取り付けてやろうかとも考えた。

命令に背くことは滅多にないのに、時々こんな悪さをするから調教が欠かせないのである。
今の信に一番堪える仕置きと言えば、望むものを与えないことだ。

欲しいものを欲しいままに与えれば、それが当たり前となってしまうので、我慢を覚えさせる必要があった。

仕置きという名目であっても、その体を抱けば、駒犬は喜んで尻尾を振る。そんな風に淫らな体に育ててしまったことを内省しつつ、だからこそ躾をしなくてはならないと考えていた。

「………」

痛いほど信から物欲しげな瞳を向けられていたが、昌平君は何も言葉を掛けずに着物の乱れを整える。

もう終わり・・・・・としか思えない主の行動を見た信が切なげに眉根を寄せた。

しかし、昌平君は先ほどの伝令の内容を確認するために、木簡を受け取りに行こうと扉の方へと歩いていく。

背中を向けた途端に、背後から紫紺の着物をぐいと引っ張られ、昌平君は反射的に足を止めた。

「……信、放しなさい」

振り返ることはせず、自分の着物を掴んで離さない駒犬に冷たい声を放った。

しかし、今日は普段よりもワガママが過ぎるようで、信は命令に従うことなく着物から手を放さない。

きっとここで振り返れば、言葉はなくとも、物欲しげな視線を向けて強請って来るだろうと安易に予想がついた。

そして駒犬に甘い自分のことだから、彼が望むままに欲しいものを与えてしまうことも分かっていた。だからこそ、昌平君は振り返る訳にいかなかったのである。

 

構わず部屋を出ようとすると、不意に着物を掴んでいる手が離れた。

そして信は足早に扉の前に先回りし、外側から扉を開けられぬように閂を嵌め込んだのである。

「何をしている」

扉に鍵を掛けた行為であることは理解したものの、どうして密室を作り出したのかと昌平君が問う。

しかし、信は振り返ることなく、じっと俯いていた。もしも信に尻尾がついていたら、うなだれている本人と同じように、しゅんと下を向いていそうだ。

叱られるのを怯えているような態度ではない。
むしろ、自分から邪魔が入らない密室を作り出したことから、これも先ほどの延長だろう。まだ信は欲しいものを手に入れていない。

昌平君はわざとらしく大きな溜息を吐いた。それを聞きつけた信が小さく肩を竦ませ、こちらの顔色を窺うように振り返る。

「扉に手をつきなさい」

命じると、信の表情に期待の色が再び返り咲く。すぐさま指示に従い、信が扉に手をついた。

後ろから抱き着くような体勢で、昌平君の手が襟合わせの中に潜り込む。

しっとりと吸い付いて来るような肌を手の平で味わう。まだ触れてもいないのに胸の芽はそそり立ち、愛でてもらいたいと主張していた。

「は、ぅ…」

あまり胸の芽ばかりを責め立てると、着物に擦れただけでも鋭敏になり過ぎる。そうならないよう気遣って、なるべくそこばかりを責めぬよう自制しているのだが、信の反応があまりにも愛らしいので、つい同じ場所を刺激し続けてしまう。

肩越しに信の身体を見下ろせば、触れてほしいと主張するものが脚の間にもう一つあった。

「ッ、ん」

着物越しにそこを撫でると、信の体が小さく跳ね上がった。

先ほどまでは口淫をしながら自分で弄っていたというのに、飼い主の手で触れられるのとは反応が異なっている。

「信」

背後から耳元に唇を寄せ、熱い吐息を吹き掛けながら、甘く歯を立てる。撫でつけている肌がぶわりと鳥肌を立てたのが分かった。

いつもなら「いい子」だと褒めてしまうところだが、残念ながら今だけはその言葉を使うわけにいかなかった。

その言葉を囁けば、容易に快楽を導いてしまう。それに、今は仕置きをしている最中だ。
これ以上この子を甘やかせば、今度は執務を妨害されるだけでは済まされないだろう。それだけは何としても避けなくては。

「はあ、あ、ぁ…」

扉に手をついたまま、口に蓋の出来ない信が切なげな吐息を繰り返す。

ずっと触って欲しいと上向いている男根を、今度は着物の中に手を入れて直接触れた。
手の平でやんわりと包み込み、それから先端を指の腹でくすぐる。其処はすでに先走りの液で濡れていた。

指で輪を作り陰茎を扱くと、信の呼吸がどんどん荒くなっていく。

男根を愛撫し、反対の手は胸の芽を弄り、唇で耳元に熱い吐息を掛けた。
もうそれだけで信は腰が抜けてしまいそうになっているらしく、扉に手を突いた体勢でいるのまま、内腿がぶるぶると震えているのが分かった。

飼い犬が自分の手で喘ぐ姿を特等席で眺めているうちに、先ほど精を吐き出したはずの昌平君の男根もまた頭を持ち上げ始めている。

「っう…」

背後から硬くそそり立った男根を着物越しに擦り付けると、信が口の端から飲み込めない唾液垂らしながら、期待を込めた眼差しで振り返った。

もちろん簡単に与えるつもりはない。それを口に出すことなく、昌平君は無言で、信を絶頂に導くために手を動かしていた。

「あっ……――ッ!」

大きく信の体が跳ねたかと思うと、熱い精液が手の平を汚した。全ての精を出し切らせるために、絶頂を迎えてからも、しつこいくらいに男根を愛撫する。

「は…はあッ…ぁ…」

何度かに分けて射精を終えると、信が扉に身体を預けるようにして、荒い息を整え始める。

「ぅ…」

しかし、まだ欲しいものを手に入れておらず、信は涙目でこちらを見つめて来る。

慈悲ではなく、相変わらず期待の色が浮かんでいることに気づき、昌平君は呆れた表情で肩を竦めた。

 

「終いだ。着替えなさい」

これから先のことを期待していた駒犬に、無慈悲にも終わりを告げた。

欲しいものを欲しがるままに与えては駄犬になってしまう。
そしてその責を問われるのは、躾を施した飼い主だ。これは回り回って、信のためでもある。

浅ましくも二度目の欲情を覚えているのは隠し切れない事実だが、あとは執務に集中しようと、昌平君は意識を切り替える。

「っ…」

てっきり拗ねた表情で睨んで来るとばかり思っていたのに、振り返った信は半泣きで弱々しい表情を浮かべており、昌平君は呆気にとられた。

絶頂の後で足腰に力が上手く力が入らないようで、その場にずるずると座り込んでしまったのだが、信の手は昌平君の腕を掴んで放さない。

乱れた前髪の隙間から覗く黒曜の双眸がこちらをじっと見据える。まるでこちらを試すかのような視線だった。

そんな瞳で見つけられると、男なら誰でも理性が揺れてしまう。

しかし、信は賢い駒犬だ。こうすれば主が欲しいものを与えてくれることを理解しているし、昌平君もそれを理解している。

だからこそ、ここで押し切られる訳にはいかなかったのに、気づけば昌平君は膝をついて、唇を重ねていたのであった。

 

膝立ちの状態で再び信に後ろを向かせ、扉に手をつかせる。

「ッ、ん…」

先ほど信が果てた時の精液を指に絡め、口を窄めている其処を解そうと指の腹を押し当てた。

入り口を軽く慣らせばそれで良かった。飼い主の味を覚えている其処は早く欲しいと言わんばかりに、指を飲み込んでいく。

「ぁ…は、ぅ」

切なげな吐息が零れた。その甘い音は、昌平君の耳から脳に染み渡り、まるで媚薬のように内側から体に甘い疼きを引き起こす。信の腰が僅かに震えていた。

挿入の瞬間の苦痛は堪えるようだが、男根を受け入れた後に必ず与えられる快楽を欲しており、信は振り返って物欲しげな視線を送って来る。

唾液で唇を艶めかしく濡らしながら荒い息を吐くその姿は幾度となく見慣れているはずなのに、昌平君は生唾を飲み込んだ。

「ッ…!」

膝立ちの状態で、後ろの窄みに男根を押し当て、ゆっくりと中へ押し込んでいく。

指で解した狭い其処が押し開かれていく感覚も、中に男根が入り込んでいく感覚も、全てが気持ち良いのだろう、信はまた鳥肌を立てていた。

押し込む衝撃が強かったのか、扉についている手に力が入ったのが分かった。閂を嵌め込んだ扉がぎしりと音を立てる。

閂を嵌めているので何者も侵入出来ないとはいえ、あまり大きな音を立てれば、廊下を通る者たちが勘付くかもしれない。

「は…ぁ…」

しかし、信の一番深いところまで男根が入り込むと、もうそんな心配など、些細なことでしかなかった。

「信…」

体重を掛けないよう気遣いながら、信の背中にぴったりを体を密着させ、その体を抱き寄せる。

喜悦の表情を浮かべている信と目が合い、お互いを求め合うように唇を重ね合い、舌を絡め合った。

扉についていた信の手が、腰を掴んでいる昌平君の手を握り込む。僅かに力を込められて、動いて欲しいと強請られていることを察した。

ゆっくりと腰を引いていき、加減をしながら抜き差しを始める。
重ねている肌と肌が少しずつ汗ばんで来て、情欲に完全に火が灯ってしまう。

「ぁっ…昌平、君っ…」

発言の許可は出していないが、情事の最中に名前を呼ばれるのは、自分を求められているようでとても気分が良い。

肌を密着させて小刻みに奥を深く抉るような動きの後、腰を引いて、勢いづけて貫いた。

「んあぁッ」

ある一点を擦られると、火傷でもしたかのように全身に熱が迸り、信は無意識のうちに身を捩ってしまう。そこが良い場所だと知っている昌平君はしっかりと彼の腰を両手で固定し、激しく突き上げた。

「信ッ、信…!」

信の内壁を精で汚すまで、獣にでもなってしまったかのように夢中で腰を動かし続ける。
浅ましいほどに、自分は信に飼い慣らされていると認めるしかなかった。

急な執務・・・・を理由に、外交に行けなくなったと呂不韋へ断りを入れたのは、言うまでもない。

 

総司令の失態

それから数日後。昌平君はいつものように軍師学校で、生徒たちに軍略の指導を行っていた。

蔡沢が先日欠席した呂不韋の外交について、色々と問い掛けて来たが、昌平君は急な執務が入ったこと以外は一切答えなかった。

あの後、普段以上に激しい躾を行ったのだが、その中で信が機嫌を損ねていた理由を白状したことは、今でも鮮明に記憶している。

その理由とは単純なもので、嫉妬だった。

以前、蒙恬に唆されて、立ち入りを禁じられているはずの軍師学校に侵入したのも、自分の知らない主の姿を知りたかったからだったという。

呂不韋が同伴する外交を装った接待で、自分の主が多くの女性たちに囲まれるのが嫌だったのだと泣きながら白状した時、昌平君は優越感と喜悦を堪えられなかった。

まさかそんな嬉しい理由で拗ねていたとは思わず、結果として、翌日は信が起き上がれないほど激しい情事を交わしてしまった。しかし、信もその嫉妬は杞憂であったと思い知っただろう。

こんなにも信だけを愛しているというのに、他の者に気を逸らす暇などない。言わずとも、自分の首輪を握っている飼い主には理解してもらいたかった。

昌平君の着物の下にも、信がつけた赤い痣が多く残っている。特に背中の掻き傷は、湯浴みの時に染みるほど深く、数も多かった。

触れていない時でさえ、疼くような痕は、まさに飼い主からの刻印だとも思えた。

熱い茶を啜った後、蔡沢が顎髭を撫でつけながら、

「…して、お主が先日保留にした・・・・・・・という施設交渉の件についてはどうなったのじゃ?税制に関してのこともあったので、早急な指示を要していたというが?」

「―――あっ!」

珍しく焦った表情で大声を上げた昌平君に、教室が静まり返る。

全員の視線を浴びながら、真っ青な顔になった昌平君が足早に軍師学校を後にしたことに、蔡沢が「ヒョッ?」と小首を傾げた。

 

 

宮廷の廊下を歩いていると、冗談かと思うような大量の木簡を抱えてふらふらと歩いている男の後ろ姿が目に留まった。

普段ならご苦労様と心の中で労いを入れて追い越すのだが、それが見覚えのある男だったため、蒙恬はつい声を掛けてしまう。

「信、久しぶりだね」

「………」

名前を呼ばれた信は、大量の木簡を抱えながら不思議そうな顔で振り返ると、蒙恬の顔を見て何度か瞬きを繰り返していた。

まだ飼い主である昌平君から発言の許可を得ていないらしい。

「あれ、俺のこと忘れた?」

「………」

信が困ったように眉根を寄せている。
声を掛けて来た蒙恬が何者であるか、信が思い出そうと思考を巡らせているのは明らかだった。

蒙恬が信と会ったのは、城下町と軍師学校でちょっかいを掛けた時が最初で最後だ。

もう一月は前の話になるのだが、蒙恬のことを思い出せずにいるようだ。

元より、飼い主である昌平君以外の人物の顔を見分けられないのだから、あまり接点のない立場の者が声を掛けたところで、きっと信は相手が何者か判別出来ないのだろう。

蒙恬が信に接触したのは、昌平君の側近である駒犬の腹の内を探れという父からの命だった。

ひたすら武に一途な男だと思われているが、実は身内や家臣、仲間に対しての情が厚い一面がある。

友人である昌平君が、ある領土視察の途中で、戦争孤児として引き取った信のことを信頼していなかったらしい。

常に昌平君が信を傍に置いていることから、いつかあの駒犬に寝首を掻かれるのではないかという心配があったのだろう。

素性が分からぬことから怪しむ気持ちも分からなくはないが、信の忠実な態度に何か裏があるのではないかと疑心を抱いたようだ。

他にも優秀な配下がいるにも関わらず、わざわざ息子である蒙恬を使ったのは、信と年齢が近いことを考慮し、彼の心に入り込んで本心を探れという意図もあったのだろう。

人の使い方が上手いと父のことを称賛し、せっかく頼られたのだからその期待に応えねばと信と接触したものの、知り得たのは面白い事実ばかりであった。

主以外の人間を見分けられないことを、信は別に隠しているわけではない。昌平君の態度を見る限り、彼もその事実を隠しているわけではなさそうだった。

ただ、信の場合、飼い主からの許可がないと発言することが許されない。そして彼の飼い主である昌平君も元々口数が少なく、どれだけ飼い犬のことを溺愛していようが、容易にべらべらと話す男ではない。

よって、周りに知られることなく、信が飼い主にしか懐かない仕組みが出来上がっていたというわけである。

それによって、信が飼い主に殺意を抱くことはないと確信した。
もしも昌平君を失えば、飼い主を失った駒犬は、本当の意味で天涯孤独になってしまうからだ。

信が飼い主にしか懐かない理由を父に報告すると、腑に落ちたように「そうか」とだけ返した。
それから父は、信に関しての話を一切しなくなった。信が友人の寝首を掻くことはないと理解したのだろう。

―――…蒙武に、初めから首輪をつけられていたのは、私の方だと伝えておけ。

昌平君から頼まれたように、その言葉も伝えたのだが、父はそれを聞いても特に何も答えなかった。

蒙恬は未だにその言葉の意味を理解し兼ねているのだが、父は何かを察したのかもしれない。

その言葉が何を意味しているのかは分からずとも、あの二人がお互いの存在を常に必要とし合っている関係であることは、蒙恬も勘付いていた。

 

 

教え子の気遣い

「…ていうか、それ、どうしたの?」

名乗るよりも先に、蒙恬は信の両腕に抱えられている大量の木簡を指さした。

恐らく昌平君からの指示なのだろうが、これだけ大量の木簡を持って来るよう指示を出したということは、相当執務をため込んでいるのだろうか。

真面目な昌平君が仕事を怠る・・・・・など、天と地がひっくり返ってもないはずだが。右丞相と総司令という二つの役割を担っているのだから、他の高官よりも執務量は多いのは確かである。

執務をこなすのに必要な資料なのだろうが、こんな量を運ぶとなれば、信も一苦労だろう。

「大変そうだから、半分持ってあげる」

「……、……」

信が戸惑ったように首を横に振る。
構うなという意志は伝わって来るが、蒙恬は気づかないフリをして、信の腕から木簡を半分ほど奪い取った。

「あはは、結構重い」

こういった雑用は普段から配下がやってくれるということもあって、蒙恬は両腕に掛かる重みを新鮮に感じていた。

「――ッ!」

信の顔が途端に強張った。

恐らく木簡を受け取るために蒙恬が近づいて来たことで、嗅いだことのある匂いを嗅ぎつけ、今になって目の前の男が蒙恬だと気づいたに違いない。

「あ、思い出した?」

「………」

途端に信の顔が嫌悪に染まり、蒙恬のことを睨みつける。

目が合っているように見えるが、実際には見えてないのだろう。人の顔を見分けられない信は、相手と話す時に額と鼻の中心辺りに視線を向けるよう、昌平君から指示されているらしい。

(そういえば…)

蒙恬が信にちょっかいを掛けて、本来は立ち入りを禁じられているはずの軍師学校へ連れて行き、そこで飼い主から命令に背いたことを咎められていた。

扉越しにその様子は聞いていたが、昌平君がどういう目的で信を傍に置いているのか、初めは困惑したものだ。

別にそういうこと・・・・・・に対する偏見はないのだが、あそこまで一人の人間に夢中になっている昌平君を知ったのは初めてだった。

「先生の所に持って行けばいいんでしょ?ほら、急ごう」

こちらを睨みつける信に構わず、蒙恬は木簡を抱えて歩き始める。

ちらりと後ろを振り返ると、渋々と言った様子で信がついて来ているのが見えた。

 

 

「失礼しまーす。……うわッ」

声を掛けて昌平君の執務室に入ると、想像以上に疲労を顔に滲ませた昌平君の姿がそこにあった。

目の下の隈も酷く、あまりの豹変ぶりに蒙恬は化け物でも見たかのように、悲鳴に近い声を上げた。

こちらを見ただけだというのに、睨まれたと誤解してしまうほど目つきも悪い。恐らく昨夜は眠っていないに違いない。

もしかしたら、もう三日くらいは眠っていないのかもしれなかった。

どうして蒙恬がここにいるのかという顔をしたものの、そんな些細な時間も惜しいのか、昌平君は何も言わずに木簡に筆を走らせている。

彼が向かっている机には既に大量の木簡が積み重なっており、書き損じた木簡が辺りに散らばっている。

信は相変わらず何も言うことはないが、二人で運んで来た木簡を昌平君の手に届く位置に置くと、書き損じて不要になった木簡を拾い上げていた。

「先生、大丈夫ですか?」

「………」

返事がないということは、どうやら相当執務に追い込まれているらしい。

父の友人であり、軍師学校では世話になった師であるため、蒙恬は何か手伝えることはないだろうかと考える。

ここで恩を売っておけば、あとで駒犬を借りる口実が作れるかもしれないと考えたのは蒙恬だけの秘密だ。

父は理解していたようだが、昌平君から頼まれた言伝の意味を、蒙恬はずっと気に掛けていた。
生まれながらに欲しいものは何でも与えられていたせいか、自分の知らないことがあるのは少々気に食わないたちなのである。

「信、ちょっとそれ貸して」

書き損じた木簡を借り、目を通す。
どうやら税制に関しての内容のようで、将である自分には手伝えるものではないと判断し、蒙恬は潔く諦めた。

昌平君が大量の執務に追われているのはそう珍しいことではないが、本人がこんなに状態になるまで追い込まれているのはあまり見かけない。

まさかとは思いながらも、蒙恬は意地悪な笑みを浮かべる。

「先生、飼い犬と遊ぶのはほどほどにしないと。公私混同は良くない・・・・・・・・・って、前にも言ったじゃないですか」

気落ちしている昌平君をからかうために、わざと蒙恬は信のことを話題に出した。

「………」

「………」

「……え?」

きっとすぐに睨まれるとばかり思っていたのだが、昌平君と信は事前に打ち合わせでもしていたのかというほど、同時に俯いて黙り込んでしまう。

それどころか、呼応するように信の顔がみるみるうちに真っ赤になり、湯気が上がりそうだ。

どうして昌平君が業務に追われることになったのか、信のその反応から全てを察した優秀な教え子は、苦笑を深めることしか出来なかった。

二人が作り出す重い沈黙に耐え切れず、自業自得ではないかと心の中で毒づきながら、蒙恬はさっさと部屋を後にしたのだった。

 

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後日編②はこちら

このシリーズの番外編(昌平君×信←桓騎)はこちら

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フォビア(蒙恬×信←桓騎)番外編②前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/桓騎×信/ヤンデレ/執着攻め/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

本編はこちら

 

望まぬ婚姻(蒙恬×信)

このお話は本編の後日編です。

 

蒙恬のもとに嫁ぐことが決まり、信は飛信隊の将の座を降りることとなった。同時に、信が男だと偽って戦に出ていたことも公表されることになる。

もともと信が女であることを知っていたのは、王一族と飛信隊の一部の者たちだけだった。

信が女だったと知って、驚く者がほとんどではあったが、誰もが祝福の言葉を掛けてくれた。

元下僕である彼女が名家の嫡男のもとへ嫁ぐという吉報は、瞬く間に秦国に広まることとなる。

下賤の出である信が王騎の養子となったことも今までに前例がないもので、下僕たちからは羨望の眼差しを向けられていた。

名家の養子となっただけでなく、名家に嫁ぐという、女としてはこの上ない幸せを手に入れたことから、ますます信の名は秦国中に広まったのだった。

誰もが祝福の言葉を贈る中、信だけは自身のことであるにも関わらず、此度の婚姻を喜べずにいた。

自分の名が中華全土に轟くのなら、養父のような大将軍になった時だと信じていたのに、そうではなかった。

天下の大将軍と称えられた養父の背中を追い掛け、自らも大将軍の座に就くことを目指していたというのに、その夢を奪われた。

蒙恬は信を嫁がせるために、自ら王一族に赴いて許可を得たのだという。下賤の出である信が王騎の養子となり、一族に加わることも大いに反対をしていた王家はそれを喜んで受け入れた。

彼女が蒙家の人間となれば、円満に王家から追放することが出来るとして、二つ返事で了承を得たのだと聞かされたのは、王賁と蒙恬の二人から凌辱を受けている時だっただろうか。

事情が何であれ、下賤の出である自分が、正式に名家の伴侶として認められるとは思わなかった。

下賤の出である自分が気に食わない者によって、婚姻の儀を終える前にきっと事故と見せかけて殺されるに違いない。

馬車の事故を装うのか、それとも食事に少量の毒を盛られ続けて病死に見立てられるかもしれない。信はそうなることを疑わなかったし、早く楽になれるのならとそれを待ち望んでいた。

しかし、蒙恬が嫡男の立場で家臣たちを説き伏せたのか、嫁ぎ先で肩身の狭い想いをするどころか、命の危機に晒されることは一つもなかった。

自分の身の周りを世話する侍女たちから嫌がらせを受けることもなかったし、蒙恬の妻として、家臣たちは信に礼儀正しく接してくれた。

王一族にいる間、冷たい視線を向けられたり、嫌がらせを受けることは日常茶飯事だったので、きっとそうなるだろうと予想していたのだが、拍子抜けである。

むしろ冷遇を受けたことを理由にして、自ら首を括っても良かったと思っていたので、信は戸惑った。

きっと蒙恬が自分を妻として扱えと、家臣たちを説き伏せたのだろうが、そこまでして蒙恬が自分に執着しているのだというのも初めて知った。

蒙恬の自分に対する態度は以前に比べて、極端な変化はない。ただし、関係は友人から夫婦へと大きく変化した。

養父という後ろ盾を失って、王賁の名を呼び捨てるのを許されなくなったように、蒙恬の名を呼び捨てることが許されなくなった。

嫁いだ身なのだから、夫を敬うのは当然のことで、屋敷で夫の帰りを待つことが妻の務めである。それは蒙恬自身に言われたことで、戦から自分を引き離す口実だとすぐに分かった。

名前を呼ぶにも敬称をつけなくてはならず、信は嫌でも蒙恬と婚姻関係で結ばれたことを認めるしかない。

そして、彼の妻として生きるしかないと認めるしかなくなる。

友人だった男と、褥の上で何度も肌を交えるあの時間ほど、苦痛なものはなかった。

 

兆し

体調が優れないという信に、医師の診察を依頼したのは蒙恬だった。

ここのところ、倦怠感が強く、食欲もない。大将軍になる夢を断たれ、養父の仇を自らが討つことも叶わなくなったせいで、気落ちしていることが原因であると信は疑わなかった。

違う理由だとしたら一つだけ心当たりがあったが、なるべく考えないようにするしかなかった。

診察は不要だと何度も蒙恬に断っていたのだが、寝台に横たわっている信のもとに、蒙恬が老医を連れてやって来た。

彼は昔から蒙家に仕えている医師だそうで、蒙恬も幼少期から世話になっているのだという。

いつから症状があるのか、食事は摂れているのか、簡単な問診が続いた。

険しい表情を浮かべ、老医が信の手首の脈を調べる。しばらく無言で触脈をしていた老医が納得したように頷いたので、信は何かの病なのだろうかと考えた。

このまま病魔に蝕まれて、何も分からないまま死んでしまえば良いのにと思っていると、老医は床に座り直し、蒙恬に深々と頭を下げたのだった。

「誠におめでとうございます」

懐妊しているという老医の診断を聞いて、信の目の前はその一瞬だけ、確かに真っ白になった。

「…え?今、何て…」

信の懐妊をすぐに信じられなかったのは、蒙恬も同じだった。
懐妊の話を裏付けるように、老医が妊婦の特徴である滑脈かつみゃくが現れていると話す。

他にも、先ほどの問診で聞いた最近の信の症状は、初期の妊娠によく見られる症状だと言われた。

話を聞いた蒙恬が、みるみるうちに喜悦の表情へとすり替わっていく。

「そっか…そっかぁ」

顔を綻ばせた蒙恬が寝台に横たわったままでいる信に駆け寄り、愛しげにその頬を撫でた。

老医はもう一度頭を下げて、そっと部屋を出ていく。信の身の回りの世話をする侍女たちへ、体調を気遣うことや、食事内容についての説明を行っているのが微かに遠くで聞こえた。

歓喜の声が遠くで聞こえる一方で、信だけは呆然と顔から表情を失っている。

(そんな…)

孕んでしまった事実を第三者から告げられたことで、信の瞳に涙が滲んでいく。

もう婚姻を結ばれてしまった時点で、蒙恬から逃げることは出来ないのだと思っていたが、孕んでしまったというその事実は、信の足にさらなる重い足枷となって巻き付いた。

彼に抱かれ、腹に子種を植え付けられる度に感じていた不安と恐れが現実となってしまった。

「信」

目尻を伝う涙を指で拭ってやり、それから蒙恬は信のまだ膨らんでいない腹を撫でると、うっとりと目を細めた。

「…俺と王賁のどっちの子・・・・・だろうね?」

耳元で囁かれた言葉に、信は思わず息を飲んだ。

この腹に実ったのは、王賁と蒙恬のどちらの子種なのか、そんなことは分からない。

王賁の子であったとしても、蒙恬は信と自分の子として育てるのだと話していたのは、二人から凌辱を受けたあの日だっただろうか。

もう思い出したくもなかった。もう何も考えたくなかった。

 

 

信が蒙家に嫁いでから懐妊したという吉報は、まるで流行り病のように短期間で秦国に広まった。

家臣たちから祝福の言葉を掛けられても、信の表情は暗く、上手く笑みを繕うことも出来ない。

以前よりも身の回りの世話をする侍女たちが傍にいる時間が増えていき、必然的に一人でいる時間も少なくなっていた。

信が暗い表情を浮かべているのは、まだ妊娠初期で体調が優れないのだと都合の良いように解釈され、きっとこの屋敷にいる限り、自分が何を訴えても、蒙恬の手中からは逃れられないのだと信は諦めていた。

体を拘束されているわけではないのだが、屋敷の中で過ごす日々も、腹に眠る新しい命が重い足枷となって信の心を苦しめている。

(もう全部忘れて楽になりたい)

苦痛から解放されたいという気持ちから、信は蒙恬から見放される方法についてを考えるようになっていた。

自分はどこで道を違えてしまったのだろう。馬陽で王騎を救うことが出来なかったことか、それとも後ろ盾を失くしてから王賁に玩具のように扱われたことか。

桓騎軍の兵たちを殺め、罪を蒙恬に隠蔽してもらうよう取引に応じたことか。
今さらそんなことを悔いても過去には戻れないし、この苦痛から解放される訳でもないと頭では理解していた。

そしてこのまま後悔と猛省を続けたところで、救われることもないし、腹の子の成長も止められない。

(…今なら、まだ…)

まだ腹が目立たぬ今の時期なら、堕胎薬を服用することも可能なはずだ。

このまま子が成長していき、産み落とすしかなくなれば、きっと心が壊れてしまう。そうなる前に、事を起こさねばならない。

堕胎薬を望んだところで持って来てくれるような者はいない。だからこそ信は自ら堕胎薬を探しに行くことを決意した。

蒙家の身内であることは内密にして、十分過ぎるほどの大金を渡せば、その辺の街医者なら喜んで作ってくれるだろう。

素性を気づかれれば、門前払いをされるのは目に見えている。名家である蒙家の世継ぎを殺す手助けをしたと報復を恐れるのは当然のことだ。

堕胎薬を服用しようとした自分だけが処罰を受けるならと思ったが、蒙恬は決してそんなことはさせないだろう。

高狼城の時のことも考えると、彼は情報操作に長けている。きっと堕胎薬を製薬した医者にだけ罪を擦り付けて、余計なことを言う前に口を封じるに違いない。

そして自分が堕胎しようとしていることを蒙恬に気づかれれば、間違いなく軟禁されると断言出来た。

もしかしたら何処にも行けぬように、寝台に縛り付けられて幽閉されてしまうかもしれない。

それだけ蒙恬が自分に執着していることを信は自覚していた。このまま子を産めば、より執着されてしまうことも予想出来た。

だからこそ、今のうちに事を起こさねばならない。

蒙家の子孫であり、我が子を殺した罪で処刑される。
それこそが、自分が楽になれる方法であると、彼女は信じて疑わなかったのである。

心が壊れてしまう前に、何としてでもその策を成し遂げようと信は決意した。

 

禁忌

堕胎薬を入手しようとしていることを、誰にも気付かれる訳にはいかなかった。

製薬が出来ないのは医学に関しての知識がないためだ。だからこそ、堕胎薬を製薬をする者と接触する必要があった。

信の懐妊を報告した老医は、古くから蒙家に仕えている男である。信が堕胎を企てていることを知れば、すぐに蒙恬に告げるだろう。だとすれば、やはり街医者を頼るしかない。

堕胎薬の製薬を断られたとしても、せめて妊婦が避けなくてはならない食物や茶など、堕胎の可能性があるものを知ることが出来ればと考えていた。

王騎に引き取られてからは鍛錬続きだったし、戦に出る日々が続いていた。幼い頃から妊婦と関わる機会が一切なかった信には、医学の知識どころか、妊婦なら当たり前に知っていることも、何も知らないのである。

将として生きるつもりだった自分には必要ないと思っていた類の知識ではあるが、自分の無知をこれほど憎んだことはなかった。

出産経験のある侍女たちから妊娠中に控えていたものを聞く方法も考えたが、この屋敷に来てからというもの、侍女と会話内容すらも蒙恬は把握していた。信が覚えていないような何気ない会話でさえもだ。恐らく逐一報告しているのだろう。

会話の糸口から堕胎を企てていると勘付かれれば、蒙恬はすぐに行動を起こすに違いない。

堕胎を未然に塞がれてしまえば、信は子殺しの罪で命を絶たれることが出来なくなってしまう。

もしかしたら既に信が堕胎を企てていることを予見しているのかもしれなかった。

それを裏付けるように、信一人だけで屋敷を出ることは叶わない。敷地内ならともかく、屋敷を出るためには蒙恬の許可が必要である。

表向きはもちろん身重の体に負荷を掛けないためだとしていたが、自分が傍にいない間も配下たちに監視させているとしか思えない。

すでに悪阻も始まっていて、信は部屋で休む時に限って一人の時間を確保出来た。

妊娠が分かってからは蒙恬と身体を重ねることはなくなり、今まで以上に身体を気遣われるようになった。

廊下にはすぐに呼び出しに応じられるよう侍女が常に待機していたので、物音を立てぬように行動をしなくてはならなかった。

「………」

何度も背後を振り返りながら、信はそっと窓辺に近づいた。

これまでも侍女たちの目を盗んで、腕の筋力が衰えぬ前に窓枠を外していたので、あとは窓から屋敷を出て、町へ向かうだけだった。

部屋の窓枠を外したことを知っているのは他にいないし、まさか窓から逃げ出すとは侍女たちも考えていないだろう。

悪阻で体調が優れないのは事実だが、ずっと部屋で休んでいると錯覚されている今こそが絶好の機会だ。

とはいえ、信が部屋に居ないと気づいた侍女たちが大騒ぎをするのは目に見えている。

少しでも時間を稼ぐために、寝具の中に着物を敷き詰めて、一見、寝台の上で眠っているように見立てた。一度くらいは錯覚してくれるだろうが、いつまでもそれで誤魔化せるとは思わない。

屋敷が騒ぎになれば、すぐに蒙恬に報告されるだろう。猶予はない。

街医者でなくても、蒙家とは一切関わりのない出産経験のある女性でも構わない。なにか堕胎の助言を得られればそれで良かった。

「っ…」

背後の扉を気にしながら、静かに窓枠を外すと、信は外に出るために足を掛けた。
体を半分ほど窓から乗り出した時、

「窓から外出するなんて、危ないなあ」

すぐ隣から聞きたくもない声がして、信の心臓はその一瞬、確かに止まった。

 

 

窓から片足を出した状態で、信は動けなくなってしまう。

地面はすぐそこにあるはずなのに、足裏をつけずに、信は怯えた瞳を動かす。

壁に背中を預けた蒙恬が木簡に目を通している姿がそこにあった。宮廷に行くから数日は帰って来ないと話していたはずなのに。

どうしてここにいるのだと問うよりも先に、信は震え上がって言葉が出なくなってしまった。

読んでいた木簡を畳んだ蒙恬は、窓に片足をかけた状態で動けずにいる信に冷たい眼差しを向ける。

「夫婦らしくさ、二人で話をしようか」

顔から血の気を引かせている信に、蒙恬はこれ以上ないほど優しい口調で話しかけた。

人の良さそうな笑みを刻んでいるその顔とは裏腹に、瞳の奥には逃亡に対する怒りが浮かび上がっている。

「……、……」

嫌な汗が滲み、信は思わず固唾を飲み込んだ。
蒙恬は信の返事を聞かずに木簡を抱えると、彼女の前に立ちはだかるように正面に立った。

「っ…」

弾かれたように信は窓から足を引っ込ませて、室内で後退る。情けないくらいに膝が笑っていた。

「よ、っと」

軽々と窓から飛び込んで来た蒙恬は優雅な足取りで室内を歩き、それから椅子に腰を下ろす。

「おいで、信。話をしよう?」

向かいの席を指さされ、信は震えながらその命令に従った。従うしかなかった。

腰を下ろしてからも蒙恬からの視線は痛いほどに感じていたが、目を合わせることが出来ず、俯いてしまう。

心臓が激しく脈打つ度に、こめかみをきつく締め上げられる痛みで喘ぐような呼吸を繰り返す。

先ほどまで目を通していた木簡を机の上に広げ、蒙恬はある一文を指さした。

「信にはまだ伝えてなかったんだけど、飛信隊は今後、楽華軍の管轄下に置かれることになったんだ」

「…え?」

予想もしていなかったその言葉に、信は思わず聞き返した。
広げている木簡の内容に目を通すと、右丞相であり、軍の総司令を務めている昌平君の名が記されていることに気がついた。

飛信隊が楽華軍の下につく旨が記されている。それは信が婚姻のために、隊長の座を降りたことが原因のようだった。

なぜ他にも軍がある中で、楽華軍の下につくことになったのか。信は青ざめながら木簡に目を通すことしか出来ない。

「この意味、分かる?」

にこりと微笑んだ蒙恬に、信は嫌な予感を覚えた。恐らく蒙恬が手回しをして飛信隊を楽華軍の下につけたのだろう。

同士討ちの件の隠蔽から、相変わらず飛信隊が人質に取られている状況は変わりないのだと思い知らされる。

元は妻が率いていた隊なのだから、普段の様子を伝えるためにも楽華軍の管轄におきたいと昌平君に伝えたのかもしれない。

軍の総司令であり、右丞相という中立な立場にある昌平君とはいえ、教え子からの頼みに反論する理由はなかったのだろう。

ましてや、信と蒙恬の婚姻は、相思相愛によるものだと秦国中の誰もが疑っていないのだから。

 

人質

「…っ、ぁ……」

何か言いたそうにしている彼女を見下ろしながら、蒙恬の口元からは笑みが絶えなかった。

彼女が何を話そうとしているのかを聞くつもりはないらしい。わざわざ言わせなくても、もう分かっているからだ。

「飛信隊は強いから、戦を動かす上では利用価値がある。とても助かるよ。…だから、多少の無理・・・・・をしてもらっても良いかなって思ってるんだ」

「無理って…何を…」

「うーん、そうだなあ」

顎に手をやり、蒙恬はわざとらしく何か考える素振りを見せる。

「たとえば、伏兵の奇襲が起きそうな場所に、積極的に進んでもらうのも助かるかも。…もちろん信が育てた飛信隊なんだから、伏兵があることはすぐに見抜けるはずだし、俺からの助言は不要・・だろ?」

背筋を冷や汗が伝うのが分かった。

戦を利用して飛信隊の全滅を図ろうとしている蒙恬の意図に気付き、信の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出た。

婚姻を結んだことで、同士討ちの件の脅迫が使えなくなったからだろうか。過去の同士討ちの件が明るみに出れば、飛信軍の兵たちだけでなく、信までもが処罰の対象になってしまう。しかし、妻の処罰は蒙恬も望んでいないのだろう。

だからといって、秘密裏で飛信軍だけを壊滅させるようなその手段は、あまりにも残酷だった。

「や、やめ…ろ」

「信が育てた自慢の隊だろ?そんな簡単に全滅するはずがない。俺は信じてるよ」

飛信隊の強さを信頼していると蒙恬は言う。心にもないことを言っていると、信はすぐに分かった。
部屋の外で誰が聞いていても怪しまれぬように、心優しい嫡男を演じているのかもしれない。

伏兵に襲われたとして、切り抜けられないような弱い隊ではないが、それでも被害は免れないだろう。

有力な軍師や副官たちだって、伏兵を事前に見抜くことは出来るに違いないが、それでも全てに対応できるかと言われればそうではない。

蒙恬が助言をしないと言ったことに、誰にも疑われない・・・・・・・・飛信軍の壊滅方法が既に彼の頭の中で成されているのだと気づいた。

「ふ、っ…ぅう、…ぇ…」

何の感情かもわからない涙が溢れ、嗚咽が零れる。
懸命に首を横に振ってやめてくれと訴えるが、蒙恬の冷たい瞳が色を変えることはない。

「ねえ、信」

ゆっくりと蒙恬が立ち上がって、信の前にやって来る。
彼の指が信の喉をそっと撫でたので、もしかしたらこのまま首を締められるのだろうかと体を硬直させた。

いっそこのまま何もかも見捨てて、彼に殺されれば、楽になれるかもしれない。それは諦めにも似た感情だった。

静かに目を閉じて、首を締められる苦しみに身構えていると、蒙恬は額に唇を押し当てて来た。それはこれ以上ないほど優しい口づけだったが、まだ許しはもらえていない。

蒙恬が身を屈めて来て、再びその端正な顔が近付いて来る。彼の艶のある茶髪が落ちて来て、頬をくすぐった。

「まだ将としての未練があるの?」

浮かべているその笑顔とは裏腹に、恐ろしいほど冷え切った声でそう囁かれ、信はひゅ、と息を詰まらせた。

ゆっくりと彼の右手が信の左腕を掴んだかと思うと、じわじわと力を込めていく。まさか腕を腕を折るつもりか。

戦で骨折の経験は何度かあった。落馬した時に肋骨にひびが入る程度のものから、関節が一つ増えたものまで。どちらにせよ、痛みは酷いものだった。

きっと骨折自体は事故に見せかけるだろうが、それを理由に、今まで以上に従者たちに世話という名目で監視をさせるだろう。

堕胎薬を手に入れるどころか、部屋から出ることも叶わなくなってしまう。

「ま、待て、待ってくれ…!」

情けなく声を震わせながら説得を試みる。信の左腕を掴んだまま、蒙恬は肩を竦めるようにして笑んだ。

「話ならもう済んだでしょ?他に何か話すことなんてある?」

もうこちらの意志など一切関係ないのだと突き放されたようで、信の唇から掠れた空気が洩れる。

「も、蒙恬、さ、まっ…!」

敬称を付けて、祈るように名前を叫んでも、左腕を握る手に力が緩まることはなかった。このまま腕を折る気に違いない。
嫌な汗を浮かべながら、強く目を閉じて激痛に構えていると、

「…なーんて、びっくりした?」

急に手を放されて、あまりにも無邪気な笑みを向けられたので、信は呆気にとられた。どうしてこんな状況でも笑っていられるのだろう。

しかし、腕を折られなかったことに安堵していると、途端に蒙恬の顔から表情が消える。

「っ…」

嫌な予感がして、信は狼狽えた。
何も言わずに、蒙恬は椅子に座ったままでいる信の前に片膝をつくと、今後は左の足首をそっと撫ぜる。

「心配しないでいいよ。こっちにするから」

 

 

耳を塞ぎたくなるような嫌な音がするのと同時に左足に走った痛みに、信は束の間呼吸をすることを忘れていた。

「うう…ぅ、ぐ…!」

痛みのせいでどっと汗が毛穴から吹き出し、思い出したように肩で息をする。

蒙恬が掴んだ左足は変な方向を向いてはいなかったが、足首の関節が腫れ上がっていくのがすぐに分かった。

しかし、目を剥くほどの激痛ではなかったことから、折れてはいないらしい。
それでも痛みは酷いもので、みるみるうちに足首が腫れ上がっていく。骨を折るまでに至らず、捻挫で留めたのは蒙恬の慈悲なのかもしれない。

「あーあ、痛そうだね」

自分でやったくせに、蒙恬は他人事のように共感を呟いた。

履いていた靴を脱がされ、腫れ上がった左足をまじまじと見つめている。太くなった足首に、足枷でも巻いたつもりでいるのだろうか。

そっと頬を撫でられて、信は怯えた瞳で蒙恬を見上げる。

「ひ…」

蜘蛛の糸のように、ねっとりと視線を絡められ、恐ろしさに総毛が立った。

「信はいい子だから、もう俺に、これ以上はさせないよね?」

確認するように小首を傾げられて、信は黙って頷くしかなかった。こんなふうに脅迫まがいの約束をさせられることは初めてではなかったが、何度されても気分は良くない。

「良かった。今手当てをさせるから、そこで待ってて」

望み通りの返事に満足したのか、蒙恬が顔を綻ばせる。
安堵の表情で蒙恬が部屋を出て行った後、信は嫌な汗を滲ませたまま、ゆっくりと立ち上がった。

「う…」

自分の体重が掛かると、左足が軋むように痛む。
しかし、先ほど捻られた時に感じた一番強い痛みは過ぎ去っていた。むしろ痛みが麻痺し始めたのか、どんどん感覚が鈍くなってきているようだった。

先ほど蒙恬によって脱がされた靴を手に取った。腫れ上がった関節のせいで靴に足を収めることは叶わず、踵を踏む。

着せられている着物もそうだが、金色の糸で美しい刺繍が施された青色の靴はとても価値の高いものだ。もしかしたら二度と将には戻らせないことを比喩して、自分にいつも高価なものを着飾らせていたのかもしれない。

「………」

中途半端に靴を履いた左足を引き摺るようにしながら、信はしきりに背後を気にしながら窓辺に近づいた。

外した窓枠はまだそのままになっており、信は今しかないと再び窓枠に足を掛ける。

「っ…」

瞼の裏に、仲間たちの姿が浮かんだ。

もしも自分がこのまま屋敷から逃げ出せば、蒙恬は飛信隊を壊滅させる策を実行に移すかもしれない。

しかし、蒙恬が考えているそれは、戦でしか出来ない策・・・・・・・・・である。

まだ戦が始まっていない今なら、堕胎の罪で自分だけが首を落とされるはずだ。
蒙恬が執着しているのは自分だけであって、この命が失われれば、飛信隊に人質の価値はなくなる。

今はもう隊長の座に就いていないものの、彼らを救い出すためにはこの方法しかなかった。

(…今しかない)

信は自分を奮い立たせ、窓から屋敷を抜け出した。

 

裏切り

屋敷に常駐している老医に、妻が不注意で転倒して足を捻らせた事情を伝えると、処置に必要なものを用意したらすぐに向かうと言ってくれた。

先に信のいる部屋に戻ると、蒙恬は思わず目を見開いた。

「…信?」

そこに信の姿はなく、蒙恬はまさかと室内を見渡す。
先ほど脱がせたはずの靴が無くなっていることに気付くまで、そう時間は掛からなかった。

外された窓枠もそのままになっている。職人を呼んで修繕をするまで、信の身柄は別の部屋に移すつもりだったが、まさかまだ逃亡を諦めていなかったのか。

つい先ほど約束を交わしたばかりだというのに、まさかこんな短時間で裏切られるとは思いもしなかった。

わざとらしく重い溜息を吐くと、追い掛ける素振りは見せず、椅子に腰を下ろす。

「…やっぱり一回くらい、痛い目を見ておかないと、動物って覚えないんだよね」

頬杖をつきながら、蒙恬が小さく呟いた。

妻の脱走に蒙恬が慌てる素振りを見せないのは、彼女がこの屋敷に戻って来るのは必然・・だと分かっているからだ。

「蒙恬様。奥様は…」

薬箱を背に抱えて部屋にやって来た老医に、蒙恬は人の良さそうな笑みを浮かべた。

「足の手当ては後でいいや。…それよりさ、お腹の子には影響しない、気持ちが落ち着くような薬湯を用意しておいてくれる?きっと必要になるから」

信の脱走に関しては一言も告げなかったが、長年蒙家に仕えている老医はすぐに頭を下げて、指示通りの薬湯の準備に取り掛かった。

 

 

蒙恬によって捻られた左足が、鈍く痛み始めた。熱を伴っている足首の腫れを見れば、安静にすべきだと医学の知識のない信でさえ分かる。

それでも酷使して進み続けるのは、れっきとした目的があるからだ。

「………」

屋敷の敷地を出るまでに、見張りの兵や世話係の侍女たちに捕まるのではないかと不安があり、何度も背後を確認した。

部屋に戻って来た蒙恬は、自分が窓から逃亡したことにすぐ気付くだろう。

窓から出たところはちょうど屋敷の裏庭に面している。信は身を屈めながら、庭に植えられている木々で身を隠し、手探りで敷地を抜け出した。

窓枠を外そうと試みる度に、裏庭から敷地を抜け出す経路についても確認を行っていたのである。

ただし、屋敷の敷地を抜けてからその先のことは何も知らないので、賭けだと言ってもいい。

もしかしたら、すぐにでも蒙恬の指示で、従者たちが追い掛けて来るのではないかと言う不安もあり、信の心臓は常に激しく脈を打っていた。

堕胎薬を入手出来なければ、決して誰の邪魔の入らない場所で、帯を使って首を括ることも考えていた。

屋敷で首を括ったところで様子を見に来た侍女がすぐに制止するだろうし、常駐している老医が適切な処置を行うだろう。だからこそ、誰の目のつかぬ場所で行う必要があった。

(もう、戻れない…)

敷地を抜けてしばらく歩き続けているうちに、息が上がっていた。

しかし道を進むにつれて、建物や人々の姿が見えて、街が近づいて来ていることが分かる。

談笑が聞こえ、街の日常がすぐそこにあるのだと思うと、それだけで信はほっと胸を撫でおろした。

大勢の人がいる中に紛れ込めば、蒙恬も容易くは追って来れないだろう。しかし、堕胎薬を手に入れることが出来るまでは決して油断は出来ない。

婚姻を結んだ後に屋敷へ連れて行かれたが、馬車の中から横目で見ていたくらいで、街に降りて来たのは初めてのことだった。

「う…」

疲労のせいか、歩幅が次第に小さくなっていく。左足の痛みがさらに増してきて、信はその場に座り込んでしまいそうになった。

蒙恬と婚姻を結んでから、屋敷の室内で過ごす日々が続いていたせいで、筋力も体力も衰えていたのだ。

しかし、ここで立ち止まる訳にはいかなかった。
気力だけで体を奮い立たせ、信は必死に前へと進んでいく。少しずつ陽が傾いて来ていることに気付き、急がねばならないと体に鞭打った。

陽が沈めば人々も家に戻るし、医者を探すことは困難になるだろう。

街医者が住まう屋敷は、他の屋敷とはさほど区別がつかない。
しかし、医師という存在は重宝されていることから、街では誰もが知っている。話を聞けばすぐに教えてくれるだろうと信は思っていた。

もしかしたら薬草を摘みに行ったり、患者のもとに往診をして留守にしているかもしれないが、何としてでも今日中には、いや、今すぐにでも医師と会わなくてはと思っていた。

左脚を引き摺るようにしながら歩き続けていくと、人々から好奇の視線を向けられていることに気付いた。

上質な着物を着ている割には、まるで作法など知らぬといった歩き方、左脚を引き摺っていることから、怪我をしているのは誰が見ても分かることだろうが、血走った瞳でいる信を怪しむ者が多いのは当然のことである。

屋敷から一番近いこの街は、きっと蒙家の息が掛かっているに違いない。

役人に報知されぬことを祈りながら、信は街医者の屋敷の場所を問おうと彼らに近づいた。

「ッ…!」

何処からか馬の蹄の音が近づいて来るのが聞こえて、信はぎくりと体を強張らせる。反射的に辺りを見渡して音の位置を探った。

まさかもう蒙恬が追い掛けて来たのだろうかと背筋が凍り付く。

身を隠さねばと思った途端、すれ違っていた人々がまるで自分を遠ざけるように走り出したので、信は焦燥感を覚える。

「…、……」

頭から影に覆われ、もうすぐ後ろにいることを悟る。足元に馬上の人物の影の輪郭が浮かび上がった。

固唾を飲み込み、蒙恬でないことを祈りながら振り返る。

紫紺の着物に身を包み、耳に幾つもの装身具をつけた骨格の良い男が馬上からこちらを見下ろしていた。

目が合うと、信は戸惑って眉根を寄せる。その反応を楽しむかのように、馬上の男は高らかに笑った。

「元下僕じゃねえか。蒙家に嫁入りしたって聞いてたが…良いご身分だなァ?」

蒙恬ではなかったが、かといって安心出来る存在でもないし、可能なら会いたくなかった男である。

「桓騎…将軍…」

信は顔を引きつらせた。

 

取引

どうして桓騎がこんなところにいるのだろう。

武装をしていないことから、私用で街に訪れたのは安易に想像がつくが、まさかこんなところで再会することになるとは思いもしなかった。

彼が仕えていた蒙驁は山陽の戦いの後に没している。秦王にも国にも忠誠など誓わずに好き放題している野盗の性分が抜け切っていない男が、こんな街に来ることがあるのか。

「………」

捻挫した左足を引き摺るようにして、信は後退った。
桓騎と蒙恬が繋がっているとは思えないのだが、彼がここに来たのが偶然とは思えず、信は警戒する。

自分が蒙恬と関係を深めるきっかけとなった桓騎軍の兵と娼婦を虐殺したことを、桓騎は今も興味を持っていないようだったし、これだけの月日を置いてから今になって報復しに来たとも思えない。

桓騎と信は下賤の出であるという共通点がある。
そのせいか、何度か桓騎軍の下についていたこともあり、その度にちょっかいを掛けられたのだが、好きになれない男だった。

捨て駒同然に兵を扱い、奇策を成すその知略の才は、他に替えのないものではある。

しかし、味方にも策を告げることをしない彼の態度は、まるで誰も信用していないのだと言っているようで、信は桓騎の考えが読めず、掴みどころのない男だと思っていた。

そんな彼を副官として携えていたのは蒙恬の祖父である蒙驁だ。
秦国にも秦王にも忠誠を誓わない彼を唯一従えていたのは、後にも先にも蒙驁だけであり、かといって蒙一族を敬うことはしない。

だから蒙恬との繋がりはないと思っていたのだが、今に限ってはこの状況のせいか、嫌な予感がする。

「!」

馬から降りた桓騎が大股で近づいて来たので、信はやはり自分と接触するためにここへやって来たのだと確信した。

「ぐッ…!」

無様だとは分かりつつも、背中を向けて逃げようとした瞬間、後ろから腕で抱き込まれるようにして喉を締められた。

初めて桓騎に会った時も、こうして後ろから腕を回されたことを思い出す。あの時は全身の総毛が立ち、咄嗟に剣を向けてしまった。それだけ強い拒絶反応が起きたのは、今まで出会って来た中でもこの男が初めてだった。

がっしりとした腕のはずなのに、まるで蜘蛛の糸が何重にも絡まって首を少しず圧迫されていくような、あのおぞましい感覚は慣れることはない。

その拒絶ぶりが気に障ることなく、むしろ彼の好奇心を刺激したのか、会う度にこうして抱き寄せるように腕を回されていた。

「久しぶりに会ったっていうのに、随分と他人行儀じゃねえか」

逃げようとした自分を咎めるようにして、桓騎が目を細める。

その瞳に浮かんでいるのは怒りでもなく、ただの愉悦だ。こちらは視界にも入れたくないというのに、とことん桓騎は相手に嫌がらせをすることが好む性格らしい。

「ぐッ」

腫れ上がった左足を思い切り踏みつけられてしまい、飛び上がるような激痛に目を剥く。

関節が腫れていたせいで、靴を中途半端に履いていたおり、馬上からでも足の異変に気付かれたのだろう。

声を掛けられたのは背後からだったし、左足を引き摺っているのも観察されていたのかもしれない。少しも興味のない態度を取るものの、桓騎の観察力はいつだって鋭い。

「ッ……」

痛みのせいで冷や汗を浮かべながら、信は大人しく縮こまった。

未だ左足は踏みつけられたままである。少しでも逃げる素振りを見せれば、容赦なく体重を掛けられるだろう。

「…何の用だよ」

怯えていることは悟られないように、冷静を装って信は生意気に問いかけた。

口角をつり上げた桓騎は、まるで信がそれを問うのを分かっていたかのように、懐から何かを取り出す。薬包紙だった。

中に入っている薬が何なのかは教えられなかったが、全て知っていると言わんばかりの鋭い眼差しを向けられ、固唾を飲み込む。

それが堕胎薬だと、信は瞬時に察したのだった。

 

 

「ッ…!」

薬包紙を掴もうとした途端、それを手の届かない頭上に持ち上げられる。

思わず睨みつけると、桓騎が楽しそうに目を細めていた。取引を持ち掛けるようとしているらしい。

(どうする…)

自分が蒙恬から逃げて堕胎薬を求めていることも、きっと彼は知っているのだろう。
ここで取引を断れば、桓騎は蒙恬のもとへ信がしようとしていることを告げにいくかもしれない。

屋敷を抜け出したことは恐らくもう蒙恬には気付かれているし、彼が従者に指示を出しているのだとしたら、ここで時間を食う訳にはいかなかった。

追手が迫っているかもしれないし、このまま堕胎薬を手に入れられずに屋敷へ連れ戻されたら、二度と陽の目を浴びることが出来ないかもしれない。

逃げようとした自分を咎めるように、蒙恬は躊躇なく左足を捻り上げた。今度は二度と外に出ないようにと足を切り落とされるかもしれない。悪さをしたと責められ、腕を折られるかもしれない。

家臣たちをいつものように上手く言い包め、世話という名目で見張りを強化するだろう。蒙恬は明晰な頭脳を持つ分、口が達者で相手を動かすことに長けている。それは信もよく知っていた。

何としてでも堕胎薬を口にして、世継ぎを殺そうとした罪を成さなくてはと、桓騎を睨みつける。

「…何をすれば良い」

きっと桓騎は、信がそう選択することさえも読んでいたのだろう。

楽しそうな表情を崩すことなく着物の懐に薬包紙をしまうと、待たせていた馬に跨った。

手を差し伸べられ、信が狼狽えたように目を泳がせる。しかし、もう悩んでいる時間はなかった。

桓騎の手を掴んだ途端、ぐいと馬上に身体を持ち上げられ、桓騎の前に座らされる。

「ど、どこに連れてくつもりだ」

背後から自分を抱き締めるように手綱を握った桓騎が怪しげに笑う。

「さあな?」

嫌な予感がするのは先ほどからそうだが、本当にこんな時でさえ何も教えてくれないのかと、信は不安に胸が締め付けられた。

「おい、本当に…」

「黙らねえなら、このまま白老の孫のとこに連れてくぞ」

反射的に声が喉に詰まってしまう。怯えた視線を向けると、桓騎が満足そうに目を細めた。

こちらは何も言っていないというのに、やはり彼は自分が蒙恬から逃げ出したことも分かっているようだ。

「……、……」

蒙恬を裏切ったことも、彼の子を堕ろすことも覚悟の上だったし、今さら恐ろしいと感じるものがあるなんておかしな話だ。

しかし、もしも桓騎が自分を騙していたら、蒙恬から逃げられることが出来なくなる。彼を信頼していないのは元からそうだが、向こうから取引を持ち掛けて来た手前、応じるしかなかった。

どんな条件であったとしても、堕胎薬さえ口に出来れば、自分の目的は達成出来るのだから。

 

後編はこちら

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平行線の終焉(桓騎×信←李牧)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編③はこちら

 

決意

李牧が部屋を出て行ってから、信はずっと泣き崩れていた。

ずっと一緒にいてくれると思っていた李牧が、自分のもとを去って行ったあの雨の日も、今みたいに声を上げて泣いていた。

昔から声を堪えて泣く癖があったのに、あの時ばかりは嗚咽を押さえられなかったことを思い出す。
情けない声を上げないよう、信は感情的になると拳を握るのが癖になっていた。酷い時には爪が食い込んで血を流してしまう。

それを李牧は「無意味」だと比喩していた。

自分の手をそっと包んでくれて、こんな傷を作ってまで悲しみを堪える必要はないのだと、彼はそう言ってくれたのだ。

―――泣きたい時は声を上げて、気が済むまで泣けば良い。

李牧はいつも泣いている自分を抱き締めては、その胸を貸してくれた。

そんな優しい態度をとられるものだから、李牧からいつまでも子ども扱いされていることも、甘やかされていることも、信は自覚していた。

声を堪えて泣いていると、必ずといっていいほど李牧が現れて、泣き止むまで抱き締めてくれた。その思い出は、信の心に今でも深い杭となって残っている。

だから、我慢せずに泣いていれば、李牧はすぐに自分のもとに戻って来てくれるのではないかとずる賢いことも考えたこともあった。

しかし、あの雨の日から、自分のもとを去った李牧が戻って来ることはなかった。

長い月日を経て、ようやく李牧のことを思い出さない時間が長くなっていたというのに、此度の秦趙同盟で趙の宰相として現れた李牧に、信は喜悦と不安を抱いたのである。

生死も安否も分からなかったのに、再会できることはおろか、まさか敵対することになるだなんて誰が想像出来ただろう。

王騎を失っただけでなく、まさか今度は李牧と敵対しなくてはならないのだという悲しみに、信は無意識のうちに拳を握る。

心に深く突き刺さった杭を、いよいよ引き抜かなくてはならない時が来たのだ。

過去と決別し、自分の歩むべき道を進まなくてはならない。このままいつまでも、平行線の関係を続ける訳にはいかなかった。

守るべき国の未来のため、そして自分自身のためにも。

ようやく涙が止まってから、信は杯に注いだ水を一気に飲んだ。失っていた水分を一気に取り戻し、長い息を吐く。

泣き過ぎて目元がひりひりと痛むし、頭も鈍く痛む。

このまま眠ってしまおうかと思ったが、横になればまた李牧のことを考えてしまいそうだった。

いつまでもこの部屋に閉じ込められていては気が狂いそうだ。もう今は熱もないのだから、見張りの兵に言って、少しの間だけ外出させてもらおう。

真っ赤に泣き腫らした瞳をした飛信軍の女将軍が宮廷を歩いていたら、あらゆる噂が立ち回りそうだが、このまま部屋に閉じ込められている方が具合が悪い。

恐らく扉越しで李牧との会話は聞こえなかったに違いないが、彼が部屋を出て行ってから大きな声を上げて泣いていたのは、見張りの兵に聞かれていたのだろう。気分転換をしたいという信の意志を尊重して、兵は外出を認めてくれた。

一刻だけと約束をして、信は一時的に部屋から釈放・・される。

李牧が王騎の仇であることは、この秦国では誰もが知る周知の事実だ。もしかしたら亡き養父のことを想って泣いていたのかと誤解してくれたかもしれない。

「…?」

城下町でも眺めに行こうかと廊下を歩いていると、天井まで伸びている太い柱の根元に誰かが座り込んでいるのを見つけ、信は思わず眉根を寄せた。

秦王がいるこの咸陽宮には多くの兵が常駐しており、そういった不届き者はすぐに追い出されるはずだが、廊下を通る女官も兵たちも横目でその者の姿を見やるばかりで、誰も声を掛けようとしない。

座り込んでいるということは、具合が悪くて動けないのだろうか。しかし、誰も声を掛けようとしないことに信は疑問を抱いた。

近づいていくうちに、座り込んでいる男に見覚えがあることに気付き、信はまさかと息を飲む。

(桓騎…?)

座り込んで自分の膝に顔を埋めているせいで、顔は見えない。

しかし、幼い頃から彼を知っていたこともあり、その男が桓騎だと信はすぐに分かった。
あの夜のことが脳裏を過ぎり、心臓を鷲掴みにされたように、胸が苦しくなる。

(こんなところで何してんだ)

しかし、桓騎がここで何をしているのかという疑問の方が前面に出てしまい、信は立ち止まることなく彼に近づいていた。

すぐ傍まで近寄っても、桓騎は気づいていないのか、顔を上げようとしない。

僅かに身体を震わせている桓騎から、鼻を啜る音が聞こえて、まさか泣いているのだろうかと信は驚いた。

彼が泣く姿なんて、未だかつて見たことがあっただろうか。自分に凌辱を強いた男だというのに、やはり無下には出来ない。

それが自分の弱みだとか甘さという類であり、仲間たちからこっぴどく叱られてしまう悪いクセだ。しかし、信は桓騎を見捨てることなど出来なかった。

「…桓騎、お前…泣いてんのか?」

声を掛けると、桓騎が弾かれたように顔を上げた。頬に涙の痕が幾つも残っていた。

「…見りゃ分かるだろ、バカ女」

あの夜があったというのに、開口一番それかと信は苦笑した。

 

決断

その場に座り込んだまま桓騎が動こうとしないので、信は彼の前に片膝をついて目線を合わせた。

桓騎が泣いている姿を思い返してみたが、やはりこれが初めてだった。

珍しいものを見る目つきで、信が桓騎のことを見据えていると、その視線が癪に障ったのか、桓騎がぎろりと睨み返して来る。

「………」

何か言いたげに唇を戦慄かせたものの、信も自分と同じで真っ赤に泣き腫らした瞳をしていることに気づいたのようで、桓騎は視線を泳がせた。

桓騎の泣き顔を見るのは初めてだったが、信が彼に泣き顔を見せたのはこれが初めてではない。

子どもの頃から桓騎を知っている信は、あまり情けない姿を見せたくなくて、さり気なく目元を擦ると、照れ臭そうに笑う。

無理やり犯された時は、確かに辛かった。

しかし、それはずっと成長を見守って来た彼に裏切られたことや、屈辱だとか、そういった痛みじゃない。

李牧の身代わりだと誤解されたことが辛かった。その誤解を解けずにいることが、今でも信の心を苦しめている。

そして、桓騎も同じように苦しんでいることを、彼の涙を見て悟った。

「…桓騎、聞いてくれ」

縋るような眼差しを向けるものの、桓騎は目を合わせようとしない。しかし、黙って自分の言葉に耳を傾けてくれているのは分かった。

自分が李牧に利用されていたと分かった時の胸の痛みは、今でも続いている。
自分の物差しで桓騎の苦痛を測るつもりはないが、どうか、この苦しみから桓騎が解放されて欲しい。それだけを願いながら、信は言葉を紡いだ。

「俺は、お前を李牧の代わりだと思ったことは、一度もない」

その言葉は紛れもなく本心だったのだが、果たして桓騎の胸に届いただろうか。

あの夜はどれだけ訴えても信じてもらえなかった。そう都合よく聞き入れてくれるはずがないと信も分かっていたのだが、伝えずにはいられなかった。

凌辱を及んだのは、親鳥を追いかけ回す雛鳥のように、いつも自分の傍にいたがった桓騎の本気の反抗だったのだろう。

それほどまでに、李牧の身代わりとして育てられたという誤解は、桓騎の心を傷つけたのだ。だからこそ、このままではいけない。

自分も李牧も振り返らずに前へ歩み出すことを決めたのだ。もう後ろを振り返ることはしたくないし、桓騎もそうであってほしかった。

「………」

桓騎は相変わらず何も言葉を発さないが、話を遮ることはしない。
ただ、何かを考えるように瞼を下ろして、じっと俯いていた。

その表情が、初めて彼と出会ったあの雨の日に、凍えて死にかけている時と全く同じに見えて、信は弾かれたように腕を伸ばしていた。

「桓騎っ…」

彼の体を強く抱き締めて、腕の中の温もりを確かめる。

もちろん桓騎はしっかりと呼吸もしていたし、その体も冷え切ってはいなかったのだが、目を離せば自分の知らない場所へ行ってしまうのではないだろうかという不安が込み上げて来た。

李牧と同じように、このまま桓騎が自分を置いていくのではないかという考えが過ぎる。
その考えを振り払うように信は首を振ったのだが、そこで彼女はようやく気付いたのだった。

(ああ、そっか…)

どれだけ自分が否定しようとも、無意識のうちに桓騎のことを、李牧と重ねていたのかもしれない。

いつか自分の手の届かない場所へ行ってしまうのではないかという不安と、あの時と同じ苦しみを味わいたくないという気持ちに支配されていた。
それこそが桓騎を戦に出したくない理由の根本だったのかもしれない。

桓騎を苦しみから救いたいと思ったのも、ただの独りよがりだ。

決めるのは他でもない桓騎自身なのだから、自分がどれだけ言葉を掛けたところで彼の胸に響かないのは当然である。

あの雨の日に桓騎を助けたのだって、桓騎が自分に助けを求めたからではなく、信の意志だ。
彼の身柄を蒙驁のもとに預ける時でさえ、将軍になる意志があるのか、桓騎に確かめようともしなかった。

(全部、全部…桓騎の意志を確かめないで、俺の意志で決めてた・・・・・・・・・から、桓騎のことを苦しめてたんだな)

きっと桓騎が苦しがっているのは、李牧の身代わりでいることではなく、いつまでも自分の傍から離れられないことだ。

桓騎は今までずっと、自分の意志で決めた道を歩むことが出来たはずなのに、死を選ぶ自由さえ、信が奪ってしまっていた。

それが桓騎を心を縛り上げているのだと気づき、信は胸が張り裂けそうな痛みを覚えた。

「…悪い」

抱き締めた腕を放すと、信は無理やり笑みを繕った。

「もう、好きに生きろ。秦将をやめるなら、俺が何としても政を説得する」

信の言葉を聞き、桓騎が不思議そうに目を丸めている。何を言っているのか、理解出来ないのだろう。

今までずっと桓騎の意志と選択権を奪っていた自分が許せなくなり、信は涙を堪えるために強く歯を食い縛った。

自分が泣いて詫びたところで、どれだけ悔いても、桓騎の意志を奪い続けていた長い年月は戻って来ない。

しかし、今からでも桓騎は自らの意志で・・・・・・道を進んでいくことが出来る。

もしも桓騎が自分を見限るとしても、自分にそれを止める権利はないし、いい加減に彼を解放するべきだろう。

自分が桓騎を手放すことこそが、彼を苦しみから解放できる手段だったのだ。
どうして今まで気づかなかったのだろうと、信は自虐的に笑んだ。

 

「………」

桓騎はずっと押し黙ったままだった。しかし、信から目を逸らすことはしない。そして、その瞳に浮かんでいるのは嫌悪でも軽蔑でもなかった。

いつの間にか涙は止まっていたが、信の方は少しでも気が緩めば涙を流してしまいそうになる。

彼女が歯を食い縛って静かに涙を堪えていることに気付いたのか、桓騎は小さく溜息を吐く。

「…あいつに何を言われた?」

何を言われるのかと身構えていると、第三者の存在が出て来たことに、信は驚いて涙が引っ込んでしまった。

「えっ、あいつ…?」

「李牧だ」

桓騎の目が鋭い光を宿したので、李牧が部屋を出入りしたところを見ていたのかと気づいた。

「何も…ただ、話をしてただけだ」

彼と決別を決めたことに、後ろめたさはないのだが、つい目を泳がせてしまう。
その反応に確信を得たのか、桓騎がわざとらしく溜息を吐く。

「さっさと趙に来いって?」

「え?な、なんでっ」

扉の前には見張りの兵がいたはずだし、盗み聞きなど出来るはずがない。それなのに、李牧が自分に伝えた用件を口に出したことに、信は心臓を跳ねさせた。

「やっぱりな」

低い声で吐き捨てた桓騎がようやく立ち上がったので、信も慌てて立ち上がった。

「俺は、趙に行くつもりなんてない!」

良からぬ疑いを掛けられぬ前に、すぐにそう伝えると、

「んなこと分かってる」

わざわざ聞かずとも、そう答えると知っていたと桓騎が返した。
眉根を寄せている信の顔を眺めながら、何か気に食わないことでもあるのか、桓騎が不機嫌に舌打つ。

「…あの野郎、ただのフラれた負け惜しみじゃねえか」

「え?」

独り言のように呟いたその言葉を聞き、まさか李牧と何か話したのかと信は瞠目する。

それが桓騎が幼子のように泣きじゃくっていたことと関係があるような気がして、再び信の胸に不安が募った。

「桓騎…」

一体李牧に何を言われたのだと問おうとしたのだが、桓騎が信の顎に指を掛ける方が早かった。

 

平行線の終焉

「あ…」

桓騎の顔が近づいて来て、信は思わず目を見開いた。

唇を柔らかい感触が包み込み、胸に蕩けるような甘い疼きが走る。
互いの唇が触れ合っていたのはほんの一瞬だったのだが、信には随分と長い時間に感じられた。

しかし、桓騎からはっきりと意志が浮かんだ強い眼差しを向けられると、途端に緊張が走った。

「…お前が言ったように、俺が行く道は、俺の意志で決める」

桓騎のことを解放すると決めたのは自分自身のはずなのに、信は思わず固唾を飲み込んだ。

無意識のうちに拳を握って、張り詰める緊張を耐えようとしていると、桓騎が右手を掴んで来た。

食い込んだ爪の痕が残っているその手を開かせ、そこに唇を寄せる。

「桓騎…!?」

その仕草には見覚えがあった。李牧と同じことをしようとしているのだ。

まさか桓騎は李牧の身代わりになることを決意したのではないかと、信は不安と焦燥感に体を強張らせる。

手を振り払おうとしたが、それを遮るように鋭い痛みが走った。

「痛ッ…!」

人差し指と親指の付け根の辺りに桓騎が思い切り歯を立てていた。
容赦なく上下の歯で噛みつかれ、歯形に沿って血が溢れる。それを丁寧に舐め取り、唇を強く押し付けている。

李牧の口づけとは、少しも似ていなかった。

「俺は、他の誰でもない俺の意志で・・・・・、お前に惚れたんだよ」

信から視線を逸らすことなく、桓騎は想いを打ち明けた。

「今でもそうだったし、これからも同じだ。そこにお前の意志なんて関係ねえよ」

今までもずっと、自分の意志で信のことを愛していたという桓騎の熱烈な告白に、全身の血液が顔に集まってしまったのではないかと思うほど、信の顔が熱く上気していく。

「えっ…あ、…ぇ…」

まさかそのような告白をされるとは思わず、信は言葉を喉に詰まらせてしまう。

幾度も桓騎は信に想いを告げていたが、初恋に思いを馳せる少女のように恥じらった表情を見るのは初めてのことだった。

「か、桓騎…あ、あの…俺…」

上擦った声で名前を呼んだ信に、桓騎は思わず頬が緩んでしまう。

いつもは適当にあしらうはずの信が、目を逸らしてもなお顔を紅潮させたままでいる。

あまりにも愛らしい態度に、再び口づけをしそうになったのだが、ふと周りから向けられる視線に気づいた。

「…?」

そういえばここは宮廷の廊下だ。多くの女官や高官、兵たちが出入りしている場所である。

二人から少し離れたところで、誰もが立ち止まってこちらに視線を向けていることに気付いたのは、桓騎だけでなく信もだった。

今の今までやりとりをずっと野次馬たちに見られていたらしい。接吻も見られていたに違いない。興味に満ちた視線を感じた。

中華全土にその名を轟かせている女将軍の信と、彼女に保護されて立派に成長した知将の桓騎との男女の関係に、野次馬たちからの視線は熱かった。

桓騎が信のことを好いているのは、秦国では民衆にまで広まっている周知の事実だったし、もちろん桓騎もそれを知っていた。その上で噂を好きなように広めていたのだ。
事実である話を止める理由など何一つないのだから。

その甲斐あってか、誰もが満面の笑みを浮かべている。

まだ信は返事をしていないというのに、全方位から、自分たちの関係を祝福しているような温かな眼差しを向けられていた。

「~~~ッ…!」

桓騎の告白の時とはまた違った羞恥心に、信が顔を上げられなくなっている。
湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしているので、このまま失神してしまうのではないかと桓騎は危惧した。

「ここじゃ目立つな。場所を変えるぞ」

信の腕を掴むと、桓騎は彼女を引き摺るようにして歩き始めた。

療養に使っている部屋に戻り、見張りの兵には人払いをしておくよう告げる。彼も遠目で桓騎と信のやり取りを見ていたようで、礼儀正しく一礼で答えてくれた。

気づけば雨は止んでおり、抜けるように澄み切った青空が広がっていた。

 

扉を閉めて二人きりになると、信が両手で顔を覆ってその場にずるずると座り込んでしまった。

「どうした」

具合が悪いのかと問えば、信は大きく首を横に振る。指の間から泣きそうな顔を覗かせると、

「う、うう…これから、どんな顔して秦国を歩けば良いんだよ…!」

「はあ?」

野次馬たちの視線から逃げ切ったものの、今後の立ち振る舞いについて考えているらしい。

桓騎が信のことを好いている話を好きなだけ民衆に広めさせ、外堀を埋めておいたのは、信を落とす策の一つだった。

まさか今日という日に、この策が成されるとは思わなかったが、結果としては狙い通りに信の気持ちに揺さぶりをかけることが出来た。
もちろんその策は胸に秘めたままで、墓場まで持っていくつもりである。

「信」

先ほど噛みついた右手がまだ出血していることに気付き、桓騎はその場に膝をつくと、彼女の腕を掴んだ。

再び手の平に唇を寄せて、血の滲む歯形に沿って舌を這わせ、ちゅうと吸い付く。

「っ…」

傷口が痛むのか、切なげに眉を寄せて、信が桓騎のことを見つめていた。

「…返事を聞くつもりはねえぞ」

「え?」

間の抜けた声を上げて、信が桓騎を見やる。

どうやら大勢の野次馬たちに見られていたことに、よほど精神的な打撃を受けたようで、何のことか分からないと顔に書いていた。

もう一度、手の平に舌を這わせて、唇を落としていく。そして今度は血が滲まない程度に甘く歯を立て、桓騎は上目遣いで信を見た。

「たとえお前が嫌だっつっても、放すつもりは一生ねえからな」

先ほどの言葉の続きを告げると、信はあんぐりと口を開けて目を丸めていた。

「お、お、おま…」

誰が見ても動揺していると分かる信の狼狽ぶりに、桓騎はにやりと笑った。

彼女が再び顔を赤らめたことと、普段のように告白を無視されなかったことから、どうやら今まで以上に揺さぶりを掛けられたことが分かる。

それは間違いなく、信が自分を男として意識している証拠だ。

彼女が李牧の誘いを断って秦に残ることを決めたのは、すなわち李牧と共に生きる未来を拒絶し、共に過ごした過去との決別を意味する。
未だ自分が選ばれた訳ではないのだが、もうあの男が信の心を巣食うことはない。

信の泣き濡れた瞳を見る限り、彼女の心が李牧との決別を受け入れるまで時間が掛かるかもしれないが、その穴は自分が埋めるつもりだった。

これからも信を愛していく。
それは自分自身の意志で決めたことであって、決して李牧の身代わりではない。

他の誰にも代わりが出来ない唯一無二の存在として、これからも彼女のことを愛していくと桓騎は決意した。

それはもう、彼女と出会ったずっと昔から決めていたことだった。

 

平行線の終焉~桓騎と信~

「桓騎…」

何か言いたげにしている信に見据えられると、堪らなく愛おしさが込み上げて来て、桓騎は彼女の顎を捉えて顔を寄せる。

「っ…」

信が僅かに身体を強張らせたのが分かったが、桓騎を押し退けることはしない。
咄嗟に目をつむって、長い睫毛を震わせているのを見ると、まるで口づけを待っているかのようだった。

緊張しているその顔が可愛らしくて、いつまでも唇を重ねずに眺めていると、薄く目を開けた信がまさかといった表情を浮かべた。

「かッ、からかったな!」

「おっと」

平手打ちが飛んで来たが、桓騎は軽々とその手首を受け止める。

幼い頃は頭頂部にげんこつを落とされることもあったが、桓騎が成長するにつれて身長差が広まっていき、もう同じ技を繰り出せなくなったらしい。

本当にこれで戦に出ているのかと疑わしく思うほど細い手首を掴んだまま、桓騎は反対の腕で信の体を抱き寄せた。

体を密着させると、てっきり暴れると思っていたのだが、信は腕の中でじっとしている。

「信…?」

それどころか、抱擁を受け入れるように顔を埋めて来たので、桓騎は呆気にとられた。

「……、……」

名前を呼んでも信は顔を上げなかったが、しばらくの沈黙の後、彼女は意を決したように顔を上げた。

「…言っとくけどな」

急に信が低い声を出したので、桓騎は反射的に眉根を寄せた。

彼女がそうやって話を切り出す時は、いつも決まって無駄に長ったらしいお説教が始まるからだ。

ここに来て何の説教を聞かされるのだろうと桓騎が黙っていると、

「俺は、お前より年は上だし、これからも戦の前線で戦う。お前より早く死ぬ自信がある」

「そんな自信、誇らしげに持ってんじゃねえよ」

何を言い出すかと思えば、まさかそんな物騒なことを言われるとは思わず、桓騎は彼女の言葉を遮るように言い放った。

愛する女が死ぬ姿など見たくない。それは男なら誰でも同じだ。

きっと李牧が趙に来いと言ったのも、自分の知らないところで信を死なせたくなかったからに違いない。
それはつまり、李牧がまだ信のことを想っている証拠でもある。

もしも信の心が、李牧と共に生きることを望んでいたならば、確実に彼女は李牧の手を取っていただろう。

先ほどまで宮廷の廊下で無様に泣いていた桓騎に目もくれず、今頃は李牧と共に趙へ出立する準備を整えていたかもしれない。

忠義に厚い信が安易に国を見捨てるとは思えなかったが、それでも彼女が今でも李牧を愛していたのなら、その可能性もあっただろう。

だから今、腕の中にある温もりをしっかりを感じて、桓騎は安心感に浸っていた。

「お前…本当に良いのかよ」

確かめるように信が訊いたので、何がだと桓騎が返した。

「いつどこで死ぬか分かんねえ女より、いつでも帰りを待っててくれる女の方が、お前の心配を解消してくれるだろ」

それはつまり、自分のような女はやめておけと別言しているのだろうか。

「口の減らねえ女だな」

桓騎は両腕で信の体を力強く抱き締めた。このまま自分の胸で鼻と口を塞いで窒息させてしまおうかとも考えるくらい、両腕に力を籠める。

もぞもぞと肩口から顔を覗かせた信が「ぷはっ」とまるで小動物のような愛らしい声を上げた。

真っ直ぐに信のことを見つめると、桓騎は口元に笑みを繕った。

「お前が死ぬんなら、息絶える最後のその瞬間まで、俺が見届けてやるよ」

甘くて穏やかなその声に、腕の中にいる信が息を詰まらせたのが分かった。

「桓騎…」

「全部、俺の意志で決めたことだ。お前が何を言っても、俺はやめるつもりはねえよ」

しばらく信は戸惑ったように視線を彷徨わせててから、俯いてしまった。

ゆっくりと信の両腕が背中に伸ばされ、自分の言葉が彼女の胸に響いたことが分かる。
前髪で表情を隠していた信の頬に、一筋の涙が伝っていくのが見えた。

「だから信、お前も、お前の意志で決めろ」

返事の代わりに、背中に回された信の手が桓騎の着物をそっと掴んだ。泣き顔を隠したまま、信が桓騎の体に凭れ掛かる。

その瞬間、桓騎は自分と信の平行線にあった関係が、ようやく交差した終わったことに気付いたのだった。

 

平行線の終焉~李牧~

―――…俺は…お前とは、行けない。

あの時、信が自分の誘いを拒絶することは、李牧も誘いを口にする前から薄々勘付いていた。

それでも、もしかしたら信が祖国を捨てて共に生きてくれるかもしれないという想いが絶えなかったのは、紛れもなく自惚れだったのだ。

信と久しぶりに再会を果たして、もう一つ確信したことがある。

彼女は養父である王騎を討ち取ったことを責めはしたものの、一方的に別れを告げて自分の前から忽然と姿を消したことを責めはしなかった。

抱き締めた時も、唇を重ねた時も、彼女は親の仇だと頭では理解していても、拒絶をしなかった。

その事実こそ、未だ彼女の心に自分という存在が巣食っている証である。

秦将という立場を奪えば、守るべき国や民を彼女から全て奪い取れば、信はただの女に成り下がる。

自分と共に生きることが、何よりも平穏な人生を歩めることになるのだと信は未だに気付いていない。

国と共に滅ぶ運命から、彼女を救い出さなくてはならない。それは自分に課せられた使命のようなものでもあった。

帰る場所を奪えば、信が自分のもとに戻って来ると、李牧は信じて止まなかった。

「李牧様。準備が整いました」

楚の宰相との会談準備が出来たという報告を受け、李牧は馬を降りた。

密林の中に天幕を用意させたのは、万が一にも秦国に気付かれるのを避けるためだった。

この会談で成し遂げる同盟、そしてその先にある未来は、秦国の滅亡だ。

側近のカイネに目配せをして、李牧は一人で天幕の中へと足を踏み入れる。
先に中で待っていた楚の宰相・春申君がその鋭い眼差しを李牧に向けた。

「…では、始めましょうか」

穏やかな声色で、しかし、揺るぎない意志を込めて、李牧は会談を始めた。

全ては秦国の滅亡のため。
そして、その先にある自分と信の平行線の関係に終わりを告げるために。

 

おまけ小話の李牧×信の過去話・桓騎×信の後日編(8000文字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

桓信ハッピーエンド後日編はこちら

牧信バッドエンド番外編はこちら

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初恋の行方(蒙恬×信)後日編・後編

  • ※信の設定が特殊です。
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二度目の情事

「っ…ん、…」

首筋に舌を這わせている時は、僅かに体を震わせるばかりだったが、舌先が胸元を辿った時、信が唇を噛み締めたのが分かった。

胸の芽を二本の指で優しく挟むと、信が手の甲で自分の口を塞いだので、蒙恬は舌先を尖らせて其処を突いた。

「ふ、…」

柔らかい胸の感触を手の平で味わいながら、反対の胸は口で愛撫する。

胸の芽を唇で挟んだり、舌先で転がすように刺激すると、信の体がびくびくと震えていた。
その反応から胸の先端が感じるのだと察した蒙恬は。粘着的に刺激を続けていく。

「っ…ん、っふ…」

あの夜と違って、まだ陽が沈んでいないため、信の恥ずかしがる様子がよく見える。

目が合うと、全身の血液が顔に集まったのではないかと思うほど、信が顔を真っ赤にしている。

羞恥からか、咄嗟に目を逸らした信を叱りつけるように、蒙恬は咥えている胸の芽に軽く歯を立てた。

「んあッ」

蓋をしていた口から、愛らしい声が上がる。慌てて信が両手で口に蓋をしたのを見て、蒙恬は意地悪な笑みを浮かべた。

歯を立てた部位にねっとりと舌を這わせ、今度は強く吸い上げる。

「ぁッ、ん…」

怯えと困惑が入り混じった瞳を向けられて、蒙恬は怖いことは何もないと安心させるために目を細めて微笑んだ。

その笑みがどれだけ妖艶に象られて女を狂わせるか、きっと蒙恬自身は気づいていないだろう。信の背筋がぞくりと甘く痺れた。

「んんうッ」

軽く歯を立てるだけでなく、反対の胸の芽を強く摘ままれ、腰が抜けるような快楽が突き抜ける。

手の平いっぱいに伝わる柔らかい胸は、男を夢中にさせる魔力を持っている。幼い頃から幾度となく触れた経験はあるのだが、やはり相手が信だと特別な感情が込み上げる。

「ふう、うぅんッ…」

そそり立っている胸の芽も忘れずに摘まんで可愛がってやると、信が鼻奥で悶えるような声を上げた。

初夜の時も先ほどもそうだったが、胸の芽を責めると、信の声色が変わることに蒙恬は気づいていた。

「…ここ、好きなの?」

部屋には自分たちしかいないというのに、秘密事を共有するかのように、小声で問い掛ける。

花芯を責めた時とは違って、閉じた瞼と長い睫毛を震わせながら小さく頷いたのを、蒙恬は見逃さなかった。

両手で優しく包み込み、胸の曲線をなぞるように指を滑らせる。時折、指の腹を擦り付けるように胸の芽を転がすと、もどかしい刺激に信が淫靡な顔で喘いだ。

「ぁっ…はあ、…ぁ…」

舌先で弾いたり、上下の唇で優しく包み込んでやってからようやく胸から口を離した。今後は彼女の足の間に手を伸ばす。

「あ、ま、待って…」

信が蒙恬の手を押さえるよりも早く、彼の手は熱気と湿り気のある其処に到達してしまう。すでに淫華は蜜で濡れそぼっていて、指に絡み付いて来る。

「う…」

蜜が溢れていることに気づかれて恥ずかしいのか、信は顔を背けて敷布に押し付けた。

普段から体と同じくらい素直になってくれればいいのにと、蒙恬は堪らず頬を緩めた。

 

 

すぐに指を挿れる真似はせず、蒙恬は焦らすように花弁の合わせ目を指で何度もなぞった。指を動かす度に淫靡な水音がする。信にも聞こえているだろう。

「ふっ、ぅん…ッ…!」

何度も腰を跳ねさせて、信は幼子のように首を横に振っていた。口から手を離せばすぐにでも声が上がってしまうのだと本人も分かっているのだろう。

この場には自分たちしかいないというのに、ここまで意固地に声を堪えるのは、羞恥心と自尊心によるものなのかもしれない。

しかし、蒙恬は懇願されてもやめるつもりはなかった。彼女の意志を無視して強引に迫るのとは違うが、自分にだけは本音を隠さなくて良いのだと、その体に教え込みたかったのだ。

花弁の合わせ目を指でくすぐっていると、蜜の滑りで指が奥へ吸い込まれてしまう。
浅瀬で指を動かしていると、焦らすような刺激に花芯が顔を覗かせていた。

「ッんう…!」

指の腹を擦り付けるように花芯をくすぐると、信の体が大きく跳ね上がる。特に感じる女の共通点だ。

体を下にずらしていき、蒙恬は彼女の膝裏を掴んで大きく脚を広げさせ、その間に身体を割り入れた。

身を屈めて、彼女の脚の間に顔を埋める形になると、信がぎょっと顔を強張らせる。

「あっ、それやだ…!」

子供のような口調で信が身を捩る。

「これ?」

拒絶の言葉だと分かりながらも、蒙恬は唾液を纏った舌を伸ばした。

「っふぅうッ」

先ほど指で触れていた花芯を覆うように舌でくすぐると、信の体が大きく仰け反った。

「信の好きなとこ、ちゃんと声に出して教えて?」

脚の間に顔を埋めながらそう言うと、涙で濡れた瞳が狼狽えている。

慈悲を乞うような縋るような眼差しを向けられても、蒙恬は彼女の言葉で聞くまでやめるつもりはなかった。

「ぁあッ!」

細腰を引き戻し、蒙恬は唇と舌を使って重点的に花芯を舐る。

「教えてくれないならこのままだよ」

「あっ、ぁあッ、待っ、てぇ…だめだ、って…!」

初めて体を繋げた時も重点的に責めた箇所だ。
舌と指を使った愛撫は、あまりに刺激が強くて、信は苦手のようだったが、素直に声を上げさせるにはこの急所を責めるのが一番手っ取り早いだろう。

「ぅううッ」

「ほら、早く教えてくれないと、このまま続けちゃうよ?」

確信を得るまで性感帯への刺激を続けようと、蒙恬は意地悪な笑みを浮かべた。

もちろん中の刺激も忘れない。指をもう一本増やして、鉤状に曲げたり、信の良いところを執拗に探る。

蜜でぬるぬると滑る中は温かくて、気を許せばすぐにでも男根を挿れてしまいそうだった。
触れてもいないというのに、蒙恬の男根は早く彼女の中に入りたいと痛いくらいに訴えている。

今まで相手をして来た貴族の娘たちと共に褥に入った時でさえ、こんなすぐに上向くことはなかったのに、やはり信を前にすると余裕がなくなってしまう。

初夜の時は、信と早く一つになりたいという気持ちに急いていたので、今みたいにじっくりと彼女の身体を味わうことが出来なかった。

しかし、これからゆっくりと知っていけばいいと、蒙恬は自分に言い聞かせ、性急にならないように刺激を続けた。

「やあッ、やだって、やめろッ…」

信の両手が蒙恬の髪を掴んだ。頭を引き離そうとするものの、その手には少しも力が入っていない。

花芯を舌で突いたり、唇で挟んだりするうちに、淫華からどんどん蜜が溢れていく。

中にも刺激が欲しいと訴えているように、淫華がひくついているのを見て、蒙恬は堪らず指を突き挿れた。蜜に濡れた其処はすでに破瓜が破られているせいか、すんなりと蒙恬の指を受け入れた。

「っうう…!」

内側と外側を同時に責め立てられ、信が泣きそうな声を上げる。閉じそうになった両脚を押さえつけながら、蒙恬は舌と指を動かして淫華を責め立てた。

「あっ、あぁ、ぅ…あ、んッ」

もはや口に蓋をすることも忘れ、信は蒙恬の髪を力なく掴んだままでいる。

まるでもっとして欲しいと淫華に頭を押し付けられているようだ。彼女の望むままにと強く花芯を吸い上げ、その裏側を突き上げるように指を持ち上げた。

「ッ、ぁああッ…!」

喜悦の悲鳴と共に、信の腰が浮き上がったかと思うと、中に差し込んでいる指がぎゅうと締め付けられた。

「そ、そこ、すき、好き、ぁ、からッ…!」

ついに観念したのか、もつれた舌で信がたどたどしい言葉を紡いだ。やっと教えてくれたと蒙恬が目を細める。

「好き?ここが好きなの?」

「う、んッ、んん」

唇を離しても、花芯を親指の腹で擦りながらわざとらしく問い掛けると、信が何度も首を縦に振る。嘘ではないと体が訴えているのか、内腿がぶるぶると震えていた。

信からしてみれば、素直に性感帯を自白すればすぐにやめてくれると思っていたのだろう。しかし、蒙恬はもちろんやめるつもりはなかった。それどころか、もっと善がり狂わせたいとさえ思ってしまう。

やめる素振りを見せないことに、裏切られたと言わんばかりに信が目を見開いた。しかし、蒙恬は構わずに、甘い声で話し続ける。

「ここを、どんなふうにされるのが良いの?」

わざわざ言葉にせずとも信の反応を見れば分かることだが、蒙恬はあえて問い掛けた。言葉にさせることで、行為に不慣れな彼女を、さらに快楽を導いてやりたかった。

「ぜ、ぜ、んぶ、良いっ…!」

もうなりふり構っていられないのだろう。信の内腿が不自然に震え始める。

もっと素直に指と舌で責められるのが好きだと聞きたかったのだが、これから二人で過ごす時間はたっぷりあるのだし、蒙恬はそれ以上追及することはなく、花芯に吸い付いて、裏側を指で強く突き上げた。

「や、ぁああッ」

甲高い悲鳴と共に、信の腰が浮き上がる。

女性の達し方は男の射精とは異なるが、総身を硬直させて子種を搾り取ろうと、これ以上ないほど激しく中がうねるのでとても分かりやすい。

「ぁ…はあっ…ぁ…」

硬直を解いた体が寝台の上にくたりと倒れ込み、激しく胸を上下させていた。

 

二度目の情事 その二

荒々しい呼吸の中で、鼻を啜る音がして、蒙恬は顔を上げて信を見た。

涙に濡れた弱々しい双眸と目が合い、ぎょっとする。

「し、信ッ、ごめ…そんな、つもりじゃ…」

ぐすぐすと鼻を啜りながら涙を流している信が目を逸らした。その瞳に軽蔑の色が見て取れ、蒙恬の胸に重い不安が圧し掛かる。

初めて体を重ねた時、信は処女だった。こういった情事に慣れていないのは当然である。

しかし、彼女の本音を知りたい気持ちや、善がり狂う姿が見たいという意志が前面に出てしまい、無理強いをさせてしまった。

せっかく仲直りが出来たのにまた嫌われてしまったと思うと、蒙恬はそれだけで泣きそうになった。

狼狽えながらも慌てて体を起こして謝罪する蒙恬に、信がむくれ顔になっている。
それから彼女がゆっくりと身を起こし、蒙恬の足の間に顔を埋めて来た。

「へっ?」

殴られるか罵倒されるに違いないと思っていたため、予想外の行動に呆気に取られているうちに、男根の先端に生暖かい感触が染みる。

信が躊躇いもなく、自分の男根を咥えている光景の既視感に、蒙恬はしばらく言葉を忘れていた。

「あっ、えッ、ちょっ、信ッ?」

陰茎に舌が絡み付き、つるつるとした口蓋に先端が擦られる。

驚いて彼女の頭を放そうとすると、陰茎と亀頭のくびれの部分を強く吸い付かれて、あまりの気持ち良さに蒙恬は喉を引き攣らせた。

その反応を上目遣いで見た信が妖艶な笑みを浮かべたので、蒙恬はまさかと顔を引きつらせる。

この光景に既視感があるのは当然だ。信と初めて身を繋げた時も、こうして彼女が自分の男根を咥えてくれた。

口と指の刺激で絶頂に導かれたことに、信が仕返しと言わんばかりに慣れない口淫をしてくれたのだ。まさかあの時と同じ目に遭うとは思わなかった。

あの時はすぐに降参したため、信は途中でやめてくれたのだが、今はそんな素振りを少しも見せていない。

「し、信、ちょ、っと、待って…!ッあ…」

制止を求めるものの、信は構わずに舌を動かす。唾液に塗れた口の中に陰茎を擦り付けるだけでなく、敏感な鈴口を舌で這われたり、尖らせてた舌先で鈴口を突かれると、それだけで目が眩むような快楽が全身を貫いた。

信も嫌だと言っていたのに無理強いをしたので、その仕返しをされているのだと気づき、蒙恬は焦燥感に頬を引き攣らせた。

ただでさえ恋い焦がれた女が、自分の男根をその口に咥えているという悩殺的な光景を目にしているのだ。

今まで褥を共にして来た女性たちから同じ行為をされているはずなのに、この光景を目の当たりにしているだけで、達してしまいそうになるのは信だけだ。

「ん、んむっ…」

輪を作った指で根元を扱かれて、頭を上下に動かされる。

口いっぱいに自分の男根を咥え込るだけでなく蒙恬の反応を確かめるために上目遣いで見上げて来る信の姿に、蒙恬はぐらりと眩暈を覚えた。

鼻奥で悶えるような声でさえ淫らで、男の欲を煽る。もしも自分以外の男が今の彼女を見れば、その魅力に骨抜きになって、すぐに信の体を組み敷いてしまうだろう。こんな彼女の姿を、絶対に誰にも見せたくないと思った。

多くの女性を虜にして来た蒙恬でさえこの有り様なのだから、自信を持って断言出来る。

「はッ、ぁ…信ッ…」

息を切らしながら、蒙恬が信の黒髪を優しく掴む。

さりげなく彼女の頭を引き離そうとするものの、信は構わずに蒙恬の男根を口で刺激し続けた。意固地になって口淫を続けることから、執念のようなものを感じられる。やはり先ほどの仕返しなのだろう。

情事の経験が少ない彼女に指南するのは自分の役割だと思っているのだが、信は蒙恬の色々と試して蒙恬の反応を見ているのか、的確に良い場所を突いて来る。

本当に前まで処女だったのかと訝ってしまうほどだ。

「うぅッ…」

裏筋も忘れることなく、尖らせた舌先でなぞられると、蒙恬は思わず呻き声を上げてしまった。

自分でも聞いたことのない情けない声を聞かれてしまった羞恥心と、弱点を知られてしまった焦燥感に、心臓が爆発してしまいそうになる。

先ほどと立場が逆転したことを悟った信は、淫靡な笑みを浮かべながら、蒙恬に絶頂を迎えさせようと舌と指を動かす。

 

 

「っ、は、ぁっ、信、待って、ダメだって、ごめ、謝るからッ…」

下腹部から脳天へ突き上げるような快楽が込み上げて来る。

射精感に焦りを覚えながら、何とか信の頭を放そうとするのだが、信は太腿を掴んで来て、絶対に男根を咥えたまま離さない。

「…っん、んく…」

苦しくなるのは分かっているだろうに、喉奥まで男根を咥え込み、口の中に溜まった唾液が陰茎を濡らす。

鼻で荒々しく息をしながら頭を上下に動かす彼女に、男根が文字通り飲み込まれているのだと思うと、それだけで蒙恬は絶頂を迎えそうになった。

「ふ…ぅんッ」

男根を深く咥え込むと、下生えが鼻に当たってくすぐったいのか、切なげに眉を寄せながら瞬きを繰り返す。

止めなくてはと思うのだが、自分を絶頂へ導こうと、懸命に口淫している姿につい見惚れていると、くぐもった声と同時に男根を強く吸い上げられ、油断していた蒙恬は目を剥いた。

「あッ…信…待って…!」

大きく腰が跳ね上がると、頭の中が真っ白になるような快楽に包み込まれる。

下腹部が痙攣を起こすのと同時に、精液が尿道を駆け巡っていく感覚を、蒙恬は他人事のように感じていた。

どくどくと男根が脈打つ度に、喞筒ポンプのように精液を吐き出していく。

「……、……」

信は目を閉じたまま、口の中で蒙恬が射精し終えるのを待っていた。

「ん…ぅ」

尿道に残っている精液をちゅうと吸ってから、信はようやく男根を離してくれた。

信との情事は二度目だが、女性の口の中で射精してしまったのは生まれて初めてのことだったので、蒙恬はあからさまに狼狽える。

口淫をされるのは初めてではない。それに、恋い焦がれていた女性に口淫をされるのは、男なら誰でも一度は夢見る光景だろう。

それが初夜だけではなく、二度目も現実で行われたため、興奮のあまり、蒙恬は普段よりも早く達してしまったのである。

自分の方が信よりも圧倒的に情事の経験が多いというのに、彼女に良い想いをさせるどころか、仕返しに絶頂を迎えさせられてしまった。男として情けないと蒙恬は鼻を啜る。

しかし、男根から口を離した信がずっと口を閉ざしたままでいるのを見て、蒙恬はまさかと目を見開いた。

「あっ、し、信、だめッ!吐き出してっ」

絶頂の余韻に浸ることもなく、蒙恬は口を閉ざしたままでいる信に指示を出した。

しかし、信は吐き出す素振りは見せず、それどころか目を閉じたまま、小さく喉を動かし始める。

飲み込もうとしたに違いないが、粘り気のある精液が喉に絡まったのか、こほこほと小さくむせ込んだ。

しかし、吐き出すことはせず、何度かに分けて嚥下を行う。
少しも嫌悪することなく自分の精液を飲み込んだ信に、蒙恬の中で喜悦と羞恥が入り混じる。

視線が合うと、信が照れ臭そうに笑った。

こちらの気持ちを知った上でそのような表情を浮かべた信に、蒙恬は堪らなくなり、思わず抱き締めてしまう。

「んっ…」

唇を重ねたのもほぼ無意識だった。角度を変えて何度も唇を味わっていると、信が催促するように背中に腕を回して来た。

応えるように、彼女の身体を抱き締める腕に力を込めて口づけを深めていくと、仄かな苦味を感じる。

自分の吐き出した精液の味など一生知ることはないと思っていたのだが、思わず眉根を寄せてしまいそうになる独特な苦味だった。

信が飲み込む前はもっと濃厚だったに違いない。それを嫌悪することなく、飲み込んでくれたのだから、蒙恬の中で入り混じっていた喜悦と羞恥はますます大きくなっていった。

しかし、確かに言えることは、信が自分を愛してくれていることと、自分も信を愛していることである。

 

 

二度目の情事 その三

舌を絡めて精液の味を分かち合いながら、蒙恬は信の体を押し倒した。

彼女の口の中で達したばかりだというのに、口づけを深めていく中で、また情欲に火が灯ってしまう。

「ん…」

向かい合って密着している内腿に、再び上向いて来た男根を擦り付けると、信の身体が小さく震えた。

着物を脱ぐ前と同じように、信の手が男根を包み込み、ゆるゆると上下に扱き始める。

再び硬くそそり立たせようとするその手付きが、自分を求めてくれているのだと思うと、蒙恬はそれだけで興奮が止まらなかった。

浅ましいほどに、今の自分は目の前の女に欲情している。

初夜の時も、褥の中で優しく彼女を導こうとしたのに、頭で描いていた通りにはいかなかった。

信を嫁に迎えるという約束を交わした時と違い、立派な大人になったのだから余裕ある態度で彼女を抱きたかった。

しかし、信を前にすると、どれだけ黙考の独り稽古をしていても、余裕が消え去ってしまうのだ。

これほどまでに自分の心を搔き乱されるのは、きっと相手が信だからだろう。

「信…可愛い」

敷布の上で指を絡め合う。口づけだけでは物足りず、額や鼻、頬、それから耳に唇を落としていく。

可愛いという言葉を言われ慣れていないのか、彼女は照れ臭そうに顔ごと目をを逸らす。羞恥のせいで赤く透き通っている耳にも、唇を落とした。

「ひ、ぅ…」

耳に舌を差し込むと、信がぶわりと鳥肌を立てたのが分かった。
また彼女の好きな場所を見つけてしまったと得意気になった蒙恬は、耳の中をくすぐるように舌を動かす。

「ふ、あっ、ぁあっ、やッ…」

舌先から与えられる甘い刺激に、信が縋るものを探して、蒙恬と絡ませている手にぎゅっと力を込める。

愛らしくて、もっと自分のことだけで頭がいっぱいになってほしいと願う。

「…もう、いい?」

再び硬くそそり立った男根を下腹に擦り付けながら、蒙恬が耳元で囁いた。

何をとは告げなかったが、それが結合の許可だとすぐに察した信は恥ずかしそうに小さく頷いた。

「信…」

体を起こした蒙恬が信の膝裏を掴み上げ、大きく足を広げさせた。

初めて身を繋げる時、信は羞恥で真っ赤に染まった顔を両腕で隠していたのだが、今は違う。両手は敷布を掴んでいたが、顔を真っ赤にしながらも男根を受け入れる瞬間を見届けようと視線を向けていた。

男根の根元を掴んで、尖端を淫華に押し当てる。入口に押し当てているだけだというのに、中が蠢いているのが分かった。

早く欲しいと訴えているようで、蒙恬は堪らず生唾を飲む。

「んっ…」

蜜で濡れた花弁を巻き込みながら、奥へ進もうと腰を前に突き出した。

「ぁああッ」

初夜のような苦痛の声は聞かれなかったが、それでも狭いそこを男根が貫通するのは大きな衝撃なのだろう。

「はあッ…」

信も同じ快楽を得ていることを渇望しつつ、蒙恬は一度腰を止めた。

挿れている蒙恬だって、ただ体を繋げただけだというのに、腰が蕩けてしまいそうになる。
少しでも気を許せば、好きに腰を動かしてしまいそうだった。

しかし、まだ二度目の情事で、信の淫華は未だ男を受け入れることに慣れていない。破瓜は破ってあるとはいえ、無茶をさせたくなかった。

「…大丈夫?」

切なげに眉を寄せているものの、蒙恬の問いに、信は嘆息まじりに頷いた。

破瓜を破った時とは違い、その顔に苦痛の色は少しも滲んでいなかった。そのことにほっと胸を撫で下ろしながら、蒙恬は身を屈めて額に唇を落とした。

「ぁ…」

唇の感触が気持ち良かったのか、浅い部分を擦られて気持ち良いのか、信がうっとりと目を細めている。

蕩けた表情がもっと快楽に歪むのが見たくて、蒙恬はつい腰を動かしそうになった。

「蒙恬…?」

歯を食い縛っていると、信が不思議そうに首を傾げている。

絶対に無茶はさせまいと拳を握りながら、蒙恬は親に叱られる子供のような眼差しを向けた。

「信…あの、…ごめん、まだ半分なんだ」

「…え?」

何を言われているのか理解出来ないといった顔で、信がぽかんと口を開けた。

真っ赤になっていた顔が自分たちの下腹に視線を下げていき、まだ蒙恬の男根が根元まで収まり切っていないことを知ると、信がひゅっ、と笛を吹き間違ったような声を出す。

「なっ、えッ?だ、だって、もうこんなに…ッ…」

何を言わんとしているかは蒙恬にも分かったが、信の方も途中までそれを口走ったことに再び顔を赤らめている。

動揺で身体が緊張したからなのか、まだ半分までしか入っていない男根に肉壁が強く吸い付いて来た。

痛みは少しもないのだが、あまりの気持ち良さに理性が溶かされてしまいそうになる。

「あッ…そんなに、締め付けないで…」

切羽詰まった声を上げると、信が泣きそうな顔で狼狽えた。

「わ、悪い…!で、でも、ど、どうしたら…」

他の男と一切経験がないのだから、その反応は蒙恬にとって嬉しいものだった。

信は日頃から馬に乗っていることや、鍛錬をしているせいか、今まで相手にして来た女性と違って、特に強く男根を締め付けて来る。

他の女性たちよりも下半身の筋力が発達していることが大いに影響しているだろうのだろうが、いつまでの中に挿れていたくなるほど具合が良い。

ただ、それを名器という卑劣な言葉で表現するのは違う。きっと、これ以上ないほどお互いに体の相性が良いのだろう。

 

 

「…ゆっくり、息吐いてて。止めないで」

信の体を抱き締めながら指示を囁く。

縋るものを探すように、蒙恬の背中に腕を回しながら、信は、ふう、ふう、と必死に呼吸を繰り返していた。

半分まで入れ込んでいた男根を離すまいと締め付けていた淫華が僅かに緩む。その隙を見逃さず、蒙恬は一気に腰を前に突き出した。

「ッ、ぅあ、あぁッ…!」

無意識のうちに逃げようとする体を強く押さえ込み、最奥を突き上げると、信の身体が大きく仰け反った。

「は、…はぁ…ぁ…」

言われた通りに呼吸は止めず、蒙恬の男根を全て受け入れた信は、背中に回した腕にぎゅっと力を入れる。

すぐに動くことはせず、二人はしばらく抱き締め合ったままでいた。

隙間なく密着した互いの性器を見下ろして、蒙恬の胸は幸福感でいっぱいになった。
初めて身を結んだ時もこんなに幸せなことがあって良いのだろうかと思っていたが、愛しい女と一つになれるということは、男に生まれて来た喜びでもある。

初恋の失恋の痛みを乗り越えたからこその出会いだったのだ。

「信、辛くない?」

「…ぅ…」

閉ざした瞼と長い睫毛を震わせて、信は首を縦に振った。次なる許可を求めて、蒙恬が甘い声で尋ねる。

「動いても、いい?」

「っ…」

肩口に顔を埋めながら、信が確かに頷いた。許可を得た蒙恬は、ゆっくりと腰を引いていき、半分ほど男根を引き抜いてから再び淫華に押し込んだ。

「ん、んんッ…」

男根の先端に柔らかいものが触れると、信が切なげに眉根を寄せる。唇をきゅっと引き結んで、鼻に抜けるような声を洩らした。

ゆっくりと律動を繰り返し、最奥を突いていくと、繋がっている部分から粘り気のある卑猥な水音が響いた。

腰を引く度に、淫華が男根を放したくないと強く吸い付いて来るものだから、それだけで喉が引き攣ってしまいそうなほど、気持ちが良かった。

「ん、ぁうッ、はあッ…ぁ…」

自分と同じように荒い呼吸を繰り返している信が、背中に回した腕に力を込めた。

男根の芯が燃えるように疼いていく。彼女の中に挿れる前から、これ以上ないほど男根は硬く張り詰めていたのだが、もっと彼女と繋がりたいという欲が増していく。

腰を動かせば動かすほど密着感が増していき、眩暈がしそうなほど大きな快楽に包み込まれた。

「ぁ…信ッ…、気持ちいい…」

奥まで性器を繋げても、まだその先に行けそうで、今以上に一つになれるのではないかという感覚に襲われて、蒙恬は急き立てられるように腰を動かした。

自分の下で喘ぐ信の顔を見つめながら、絶頂に向けて上り詰めていく。

これ以上ないくらい繋がっているというのに、律動をすればするほど密着感が増していく。
このまま快楽で溶け合って、本当に一つになってしまいそうだ。

「信ッ…信ッ…!」

熱い脈動を続ける男根で信の貪っていく。
自分の腕の中で愛する女が喘でいる姿はこれ以上ないほど煽情的で、堪らず生唾を飲み込んでしまう。

唇を重ねて腰を動かせば、信も求めるように舌を絡ませて来る。

「ふ、んんッ、ぅう、んッ」

初夜の時もそうだったが、もっと余裕のある態度で彼女を抱きたいと思うのに、いざ体を繋げてしまうと、そんなことは考えられなくなってしまう。

幼い頃からずっと信に恋い焦がれていた子供の頃の自分が格好つけたがっているのだと思う。

情欲に勝てないのは浅ましいと思うけれど、信は初めて体を重ねた時の余裕のない自分を受け入れてくれたし、きっとこれからも自分を受け入れてくれるに違いない。

そんな優しい彼女だから、きっと自分の想いは変わることなく、信へ向けられたままでいるのだろう。

信以外の女性をこの腕に抱いている時でも、いつだって彼女の姿が頭の隅にあった。

ずっと自分と両想いだったと分かった時は、明日死ぬのではないかと不安を覚えるほど歓喜したし、同時に身分差を気にして自分を遠ざけようとしていた信の気持ちも愛情の裏返しだったのだと理解して、一生愛していくと決めた。

「ん、ぁあっ、も、蒙、恬ッ、…!」

口づけの合間に、切羽詰まった声で名前を呼ばれ、信自身ももう余裕が残されていないのだと瞬時に悟った。

息を止めて、最奥に向けて激しく腰を打ち付けていく。

「そ、そんな、に、したらッ…!」

背中に爪を立てて来たのは無意識だろう。蒙恬自身も余裕はなかったが、何とか笑みを繕う。

「大丈夫。何も怖くないから」

「うッ…んッ、あぁあっ」

泣きそうな返事の後、甲高い悲鳴と共に信の腰が跳ね上がった。

男根を咥えている中がうねるようにして、強く締め付けて来る感覚があって、先に信が達したのだとわかった。

「うッ…!」

激しく震える体を強く抱き締めて押さえつけると、視界が真っ白に塗り潰されそうになるほどの快感に襲われる。

「…ぁ…な、か…出す、のか?」

微かに色が残っている視界の中で、信に恍惚とした瞳で見据えられると、それだけで理性の糸が焼き切れてしまいそうになる。

もしも自分がそうだと返答しても、信は拒絶しないと分かっていた。

「ッ…出したい、けどッ…!」

しかし、蒙恬は顎が砕けるほど歯を食い縛って下腹部に力を入れた。理性が飛び掛ける寸前で、蒙恬は男根を淫華から引き抜く。

「はあッ…ぁ…」

荒い息を吐きながら男根を手で痛いくらいに扱きながら、蒙恬は信の腹の上で射精した。粘り気のある白濁が迸り、信の腹を汚す。

達したばかりの信は、どこか呆然とした表情でそれを見つめていた。

「もう少し、信と、二人きりの時間が欲しいから…」

その後は呼吸が整うまで、蒙恬は何も話さなかった。
信も顔に疲労を滲ませて、薄目を開けている。素肌で触れ合っている温もりが気持ち良いのか、微睡んでいるようだった。

 

初恋の行方

行為を終えた後、二人は身を寄せ合って、絶頂の後の心地よい疲労感に身を委ねていた。

過去にも色んな女性と褥を共にしていたが、行為を終えた後に身を寄せ合っていても、こんな風に心地よく眠気が誘われるのは信以外他に居なかった。

もし、初恋の家庭教師の女性と褥を共にしていたとしても、こんな時間はなかったかもしれない。

「…なんだよ」

薄く笑った気配を察して、信が不思議そうに顔を上げる。
肩までしっかり寝具をかけてやりながら、蒙恬は照れ臭そうに話し始めた。

「初恋が失恋に終わって良かったって、そう思ったんだ」

頭に疑問符を浮かべている信に、補足をするように言葉を続ける。

初恋は実らない・・・・・・・って、どこかの国の迷信があるんだって。その通りだったけど、…でも、そのおかげで信と出会えたから、今は初恋が実らなくて良かったって思うんだ」

したり顔でそう言うと、信がふうんと頷いた。

信に初恋の家庭教師の話をしたのは一度きりだ。
幼い頃、違法な奴隷商人に身売りをされそうになったのも、家庭教師の女性に会わせてくれると唆されたからである。

奴隷商人たちを捕らえた後で、信が自分の胸を触らせてくれたのは、家庭教師の女性に会えると思って騙された蒙恬を慰める手段だったという。
あれも初恋が失恋に終わったからこその褒美だと言えるだろう。

「…初恋は実らない、か…」

先ほど教えた迷信を独りごちるように繰り返した信が、意味深な素振りを見せたので、蒙恬はどうしたのだろうと目を丸める。

「…そうとも限らない・・・・・・・・けどな…」

「えっ?」

蒙恬が聞き返すと、信はしまったと言わんばかりに口を閉ざして目を泳がせた。

みるみるうちに耳まで顔を真っ赤にさせて、頭まで寝具に潜り込んだ彼女を見て、蒙恬の中の悪戯心が膨らんでいく。

初恋が実らないという迷信を否定したということは、つまりは初恋が実ったのだということだ。
迷信を否定した独り言と、その反応だけ見れば、信の初恋が他でもない自分だったのだと確信する。

興奮のあまり、心臓が潰えてしまいそうなほど、激しく胸が張り詰めた。

「ねえ、いつからっ?それって、いつからっ!?」

「~~~ッ!」

顔を隠していた寝具を奪い取り、肩を揺すって答えを聞き出そうとする蒙恬に、信は顔を真っ赤にしたまま何も答えない。

信と約束を交わした時はまだ幼かったし、男として意識されていなかったことは分かっていた。

だが、その後の軍師学校での功績や、初陣、昇格を通していくうちに、信も自分を一人の男として意識してくれるようになっていたのだ。

一体いつから自分に恋心を抱いていたのか、蒙恬はその答えが知りたくて、しかし、何としても信の口で言わせたかった。

いよいよ羞恥に耐え切れなくなったのか、信が真っ赤な顔で睨んで来る。

「う、うるせえなッ!頭良いくせに何で分からねえんだよッ!」

逆上されても、蒙恬は喜悦を浮かべた表情を一切崩さなかった。
彼女の柔らかい胸に顔を埋め、蒙恬はだらしなく頬を緩ませながら、さらに信の体を抱き締める。

「俺、信より年下だから、そういうの分かんないもん」

「嘘つけっ」

こういう時に年齢差を出すなんて卑怯だと信が反発する。

「嘘じゃない」

急に真顔に切り替わったことで、信は驚いて目を見開いた。

「だって、信が俺との初夜を思い出して恥ずかしがってたのも、本当は俺のこと好きなのにずっと気持ちを隠してたのも、教えてくれないと分からなかった」

「………」

思い当たる節が多いのか、反省したように信が腕の中で縮こまった。

額に唇を押し当て、蒙恬は得意気に微笑む。

「…だから、これからもっと教えてね?信のこと」

上目遣いで見上げると、信が戸惑ったように視線を泳がせる。

自分のことなら何でも知りたいという蒙恬の追求心に少しだけ恐怖心を抱きながらも、信はわざとらしく溜息を吐き、それから諦めたように笑った。

 

続編(後日編)はこちら

The post 初恋の行方(蒙恬×信)後日編・後編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

平行線の終焉(桓騎×信←李牧)中編③

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編②はこちら

 

療養

桓騎に犯されたことで、ただでさえ弱っていた体に無理が祟ったのか、さらに高い熱が出た。

侍女が部屋に訪れたのは朝方のことで、夜明けまで信のことを犯し続けていた桓騎も疲れ切り、彼女を抱き締めて寝入っていた。

隠しようのない情事の痕跡が体や室内に多く残っていることから、二人が何をしていたのかは言葉にせずとも分かったのだろう。

桓騎はすぐに部屋から追い出されたが、信は朦朧とする意識の中で、侍女にこのことは誰にも告げないように懇願した。

合意のない行為であったことが嬴政の耳に入れば、間違いなく彼は桓騎に処罰を与える。

熱が出ている自分の看病に当たるよう侍女に命じたのも嬴政だ。信の体調が悪いというのに、桓騎が寝込みを襲ったと誤解されるに違いない。

それに、桓騎のことだから、凌辱の罪を問われても弁明することなく、喜んで斬首を受けるような気がしてならなかった。

そこまで桓騎のことを心配してしまうのは、長年共に過ごして来た情なのかもしれない。

苦い薬湯の味も分からないほど熱が出たのは初めてのことだった。しかし、朦朧とする意識の中で考えていたのは、やはり桓騎のことだった。

 

 

三日も経つと熱は引いて、普段通りに体を動かせるようになっていた。

まだ少しだけ喉の痛みと咳が続いていたが、すぐに快調するだろうから、もう薬湯は飲まなくても良いと医師から言われていた。

看病をしてくれていた女官も役目を終えたのだが、桓騎とのことは内密にしておくことを誓ってくれた。

ずっと横になっていたので、体力の衰えを取り戻さなくてはと信はすぐ鍛錬に励もうとした。しかし、完治するまでは武器を持つことを親友である嬴政は決して許さなかった。

見張りの兵がついたのは外部からの侵入を防ぐためではなく、信の逃亡阻止と、行動を監視をするためだったのだろう。

脱走を阻止するためにわざわざ兵を手配した親友の相変わらずな心配性に、信は肩を竦めた。

桓騎とのことは知られずにいるようだが、一晩で体調が悪化した報告は聞いていたのか、無理をさせまいとしているのだろう。

もしかして見張りの兵をつけたのは、自分が無理をしたことが原因で体調が悪化したのだと思っているのだろうか。桓騎とのことを知られずに済むのなら誤解されたままにしておこうと考えた。

完治するまで部屋で大人しくしてれば、速やかに釈放されるに違いない。

「………」

腹を擦り、信は目を伏せた。
桓騎はこの身に子を宿らせるために、凌辱を強いたのだろうか。

―――…俺は、あいつの代わりだったんだな?

あの時、すぐに違うと否定していたのなら、桓騎は自分の言葉を信じてくれたのだろうか。

まさか李牧とこんな形で再会するとは思わなかったし、昔から自分のことなら何でも把握したがる桓騎が、李牧のことを気にならないはずがなかった。

趙の宰相である李牧と過去に関係を持っていたことは、秦将の立場であることから、後ろめたさを感じていた。

この国と嬴政に忠誠を誓っている立場でありながら、趙の宰相と過去に関係があったことを知られれば、あらぬ噂を流されて謀反の疑いを掛けられる要因にもなり得る。

当時の李牧は何者でもなかった。だからこそ、彼が自分のもとを去ってから、敵国に仕え、宰相の立場に上り詰めるだなんて想像もしていなかった。

同盟が成立したとはいえ、秦国の敵として李牧が自分の前に現れたことに、何を話すべきか分からなくなってしまった。

自分の養父だと知りながら、馬陽で王騎を討ち取ったのは、自分との決別を意味していたのだろう。

あの日に自分のもとを去っただけでなく、今度は自分から大切なものを奪っていくのかと信は絶望した。

李牧の存在が秦国とっての脅威となることを信は頭では理解していたのだが、共に過ごしていたあの日々がそれを認めたくないと拒絶している。

「はあ…」

気になるのは李牧のことだけではない。
寝台に横たわりながら、次に桓騎に会った時、何を伝えるべきなのかを考えていた。

もしかしたら桓騎は自分に嫌悪して、二度と顔も見たくないと思っているかもしれない。この腹に子種を植え付けたのは、きっと凌辱の延長に過ぎないのだろう。

―――ば、バカッ、抜けよ!何してんだッ!

目を覚ました時、なぜか桓騎と身を繋げていて、心臓が止まるかと思うほど驚愕した。

昔から足音と気配を忍ばせて、布団に潜り込んで来ることは多々あったが、まさか幼い頃から面倒を見て来た彼に抱かれることになるとは夢にも思わなかった。

―――今さら言われても抜けねえだろ。お前が早く欲しいって言ったくせによ。

桓騎の言葉を思い出すと、まるで自分が桓騎を誘ったような状況だったらしいが、信は少しも覚えていない。熱のせいだろうか。

「はあー…」

考えることが山積みで、しかしどれもが自分で結論を導き出すことの出来ない悩みで、信は頭痛を催した。

もともと考え込むのは性に合わない。かといって、直接話を聞き出すような度胸も、今の信にはなかった。

 

来客

扉が叩かれたので、信は反射的に起き上がった。

見張りの兵が扉を叩く時は食事の時か、来客のどちらかだ。
数刻前に食事は終えていたし、となれば消去法で誰かが面会に来たのだろう。療養している自分に、囚人と同等の扱いを指示をした嬴政かもしれない。

「信将軍。趙の宰相がお見えになりました」

「えっ!?」

扉越しに聞かれされた来客に、信は驚いて声を上げた。

(しまった…)

呼び掛けに反応せず、眠っていたことにしていれば良かったと後悔する。慌てて口を塞いだが、もう遅かった。

「お通しします」

「あ、お、おいッ!?勝手に…」

扉越しに信の声を聞いた兵が、こちらの承諾も得ずに扉を開けた。
面会を断るか問われなかったのは、同盟が成立したばかりの今、秦趙の間で波風を立てるのを防ぐためだろう。

「………」

部屋に入って来た李牧の姿を見て、寝台に腰掛けたまま、信は思わず眉根を寄せた。

どうして自分が宮廷に療養していることを知っているのだろう。

「あ…」

頭を下げた兵が早急に部屋を出ていく。
李牧と二人きりにならないよう、室内で待っているよう兵に命じておくべきだったと、信はまたもや後悔した。

「………」

信に睨みつけられた李牧は少しも臆することなく彼女の前までやって来ると、僅かに身を屈めて手を伸ばして来た。

あの回廊で会った時のように、信の頬に優しく触れると、穏やかな笑みを浮かべる。

「…熱は下がったようですね」

その手を振り払うことは簡単に出来たはずなのに、信はそれをしなかった。
まだ心のどこかに、李牧の温もりに触れていたいと、彼と共にいたいと望んでいる自分がいるのだ。

それを未練がましいと思いながらも、信は上目遣いで李牧を見上げる。

「…なんで」

「先日、医師が慌てた様子で部屋に入っていくのを見かけたので、心配していました」

どうして会いに来たのかと問おうとした信の言葉を、李牧は遮った。

宮廷のこの部屋で療養をしていることを、彼は何処かから知り得たのだろう。

自分の看病に当たってくれていた侍女から、まだ趙の一行が帰還していないことは聞いていたが、まさか李牧自らここにやって来るとは思わなかった。

彼は自分のことをずっと気に掛けて、何処からか見ていたのかもしれない。

それが趙の宰相として敵将を警戒してのことなのか、それとも本当に自分を心配してのことなのか、信には分からなかった。

 

 

「突然すみません。もう明日には発たないといけないので」

少し寝ぐせが残っている黒髪を撫でられて、信は咄嗟に俯いた。

隣に腰を下ろした李牧が穏やかな眼差しを向けていたことには気付いていたが、信は決して目を合わせようとしない。

少しでも目を合わせれば、何故だと問い詰めてしまいそうだった。

「…驚きましたか?趙の宰相として現れたこと」

信の考えを察したのか、李牧が苦笑しながら問い掛けた。

「………」

その問いを肯定し、怒鳴ったところで李牧の立場は変わらない。膝の上で静かに拳を作った途端、李牧の手がそれを押さえつけた。

「また傷を作るつもりですか」

「っ…」

先日まで包帯が巻かれていた右手を開かせる。
もう傷はほとんど塞がっていたが、まだ痕が残っているそこに、あの時と同じように唇を落とされた。

「あ…」

唇の柔らかい感触に、信の背筋が甘く痺れた。
目を合わせるまいと俯いていたのに、反射的に顔を上げてしまい、李牧の双眸と視線が絡み合う。

すぐに顔ごと視線を逸らそうとしたのだが、顎を捉えられて、視線を逸らすのを阻まれた。
何を言う訳でもなく、李牧は信のことを見つめている。

「ッ、やめろ…!」

まるで蜘蛛の糸のように粘っこく視線を絡められ、耐え切れなくなった信は両腕を突っ撥ねて李牧の体を突き飛ばした。

全身の血液が顔に集まったのではないかと思うほど顔が赤くなっていることを自覚していたが、からかわれたくなかったので、態度だけは冷静を装う。

「ハッ、立ち振る舞いや言葉遣いのせいで、別人みたいになっちまったな。久しぶりに会ったのに、誰か分からなかったぜ」

皮肉っぽく言ってみるものの、李牧は眉一つ寄せることをしない。
この男に挑発の類は無意味だと知っているものの、わざとらしく信は溜息を吐いた。

「…見舞いじゃなくて、別の用があって来たんだろ。さっさと言えよ」

意外そうに李牧が目を丸めた。

「見舞いという理由で会いに来てはいけませんでしたか?」

趙の宰相ともあろう立場の男が護衛もつけず、家臣たちも連れずにわざわざ一人で会いに来たのだ。誰にも聞かれたくない用件があるのだろう。

「御託はいいから、さっさと言えよ」

睨みつけながら催促すると、穏やかに笑んでいた李牧の顔から表情が消える。

「信、俺と共に趙へ来い・・・・・・・・

一人称も口調も、目つきも雰囲気も別人のように変わり、信は目を見開いた。

今目の前にいるのは、趙の宰相ではなく、信がよく知っている李牧そのものだった。

 

選択

「……、……」

動揺のあまり、声を喉に詰まらせてしまう。心臓が激しく脈を打ち始めた。

趙の宰相と軍師になってからは、趙王だけでなく、多くの高官や将達と関わる機会が増えたのだろう。兵や民からの支持にも影響するため、親しみやすい雰囲気を繕ったのだと思っていた。

もしかしたら、過去の自分を全て壊して、今の人格を作り上げたのかもしれないとも考えていたのが、そうではなかった。

信が愛していた李牧は今でも存在している。いや、何も変わっていなかった・・・・・・・・・・・

自分のもとを去った後、趙の宰相という立場にまで上り詰めたのは、何か考えがあってのことなのだと、信はすぐに理解した。

だが、秦将である自分が趙に行くということは、つまり、この国を裏切るということだ。

「俺…は…」

俯いてしまいそうになるのを、顎を掴まれて再び阻まれた。

「秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ」

秦国が滅ぶ未来を断言したことに、信は思わず寝台から立ち上がった。炎のような激しい怒りが腹の内を突き上げる。

「まさか、お前…馬陽で父さんを討ったのも…」

怒りで声が震え、全身を戦慄かせた。
睨みつけても、李牧は少しも臆することなく平然と答える。

「王騎の死は始まりに過ぎない」

全身の血が逆流するようなおぞましい感覚に、怒りで燃えていた信は水を被せられたように押し黙った。

「秦国を滅ぼすのは他でもない、この俺だ」

追い打ちを掛けるように告げられた言葉に、視界がぐるぐると回りだし、自分が立っているのか座り込んでしまったのかさえ分からなくなる。

「馬陽では、王騎の死が目的だった。初めから全て・・・・・・俺の策通りに進んでいたというのに、そのことに気づいた者は、秦国には誰一人として居なかっただろう」

座ったままでいる李牧の手が伸びて来て、信の手首をそっと掴んだ。

その手は以前と変わらず温かいはずなのに、触れられた場所から凍り付いていくような錯覚を覚える。

「もし、あの戦にお前がいなければ・・・・・・・・、秦軍の全てを壊滅させる手筈も整えていた」

予想もしていなかった事実を知らされて、信は束の間、呼吸することを忘れていた。

李牧が持つ戦の才は、嫌というほど知っている。戦況を手の平で弄ぶような発言が、決して冗談ではないことも信は理解していた。

だからこそ、背筋が凍り付くほど恐ろしくて堪らない。

李牧が本気でこの国を滅ぼす手立てを練っていて、もしかしたら馬陽で王騎を討ち取った後から今も、彼の策通りに進んでいるのではないかと不安に駆られた。

此度の同盟も彼の策だとしたら。そう考えるだけで肺が凍り付いてしまいそうだった。

「は…はぁッ、ぁッ…はあ、ッ」

胸が締め付けられるように苦しくなって喘ぐように呼吸を再開すると、まるで慈しむかのように、李牧は優しく笑んだ。

 

 

寝台に座り込んでしまった信の頬を両手で包み、無理やり目線を合わせると、李牧がゆっくりと口を開く。

「俺は本気だぞ」

「っ…」

李牧の双眸に、凍り付いた自分の顔が映り込んでいた。

共に過ごしていた日々では、時々冗談を言って自分を笑わせてくれたこともあったし、彼の聡明な思考にはいつも何かを学ぶことが多かった。

しかし、今の李牧は一切嘘を吐いていない。双眸に宿る強い意志を見て、すぐに分かった。
脅迫とも取れるその言葉を聞き、李牧が本気で秦国を滅ぼす意志を固めたのだと悟る。

「信、俺と趙に来るんだ」

無理だ。この国を裏切ることは出来ない。

この国には自分の大切な仲間たちが生きている。たくさんの思い出が詰まっている。それを斬り捨てるような真似なんて出来ない。

これからも自分が秦将であり続けることは、最後まで秦国に忠誠を誓っていた養父に対しての誓いだとも思っていた。

もしも相手が李牧でなかったのなら、刃の切先を向けて罵倒していたに違いない。同盟さえ成立していなければ、その首を掻き切って王騎の墓前に供えていただろう。

「………」

唇を噛み締めて、信は力なく首を横に振った。秦国を裏切ることは出来ないという精一杯の意志表示だった。

「…信」

信が誘いを拒絶することを李牧は知っていたようで、その表情が崩れることは少しもなかった。

「あ…」

李牧の両腕が信の背中に回される。
青い着物に顔を埋める形になると、抱き締められる温もりと懐かしさを感じて、目頭に熱いものが込み上げた。

「ッ…」

無意識のうちに、李牧の背中に腕を回しそうになった自分の手を制し、信は李牧の体を突き放そうとした。

しかしそれよりも早く、李牧の腕が信の体を抱き押さえる。

「お前の将としての誇りも、王騎の意志も、俺が全て受け継ぐ。だから、お前はもう戦に出るな」

「……、……」

その言葉の意味を問い質すことは出来ず、信は唇を戦慄かせることしか出来ない。
腕の中から李牧を見上げると、信がよく知っている李牧の顔がそこにあった。

「趙で俺に嫁ぎ、子を育めばいい。母国を裏切ったと後ろ指をさすような連中など、俺が全て黙らせてやる」

「っ…」

返事を聞くつもりはないのか、李牧は信の体を抱き締めたまま放そうとしない。
それはまるでお前に拒否権はないと言われているようだった。

記憶にある李牧はこんなにも強引なことはしなかったのに、彼が自分のもとを去ってから、一体何があったのだろう。外見は李牧であるはずなのに、中味だけが別人になってしまったかのようだった。

いや、もしかしたらこれが李牧の本性なのかもしれない。自分が知らなかっただけで、ずっと李牧は自分を騙していたのだ。

その真実に、信の胸は引き裂かれるように痛んだ。

 

選択 その二

「…一つ、答えろ」

李牧の着物を弱々しく掴んだ。

「趙に行く前から…俺と、出会った時から、ずっと…俺を、利用してたのか?」

彼の胸に顔を埋めたまま、信は問い掛けた。

この着物の下の肌にはたくさんの傷が刻まれていることも、自分がつけた傷痕があることも、信は鮮明に覚えている。背中に残した掻き傷は、もう消え去っているだろう。

李牧と肌を重ねる度に、彼の肌に刻まれたたくさんの傷痕を指でなぞるのが好きだった。

あの森で倒れていた李牧を助けてから、療養という名目で共に生活し、彼が自分のもとを去るまで、それなりの月日があった。

今でも鮮明に覚えているあの日々は、信にとってはかけがえのないものだというのに、その情さえも李牧は利用していたのだろうか。

答えを知りたいと思う自分がいる一方で、聞きたくないと叫んでいる自分がいるのも事実だった。

「信」

名前を呼ばれても、信は顔を上げられずにいた。
心の何処かでは、李牧が出会った時からずっと自分を利用していたのだと諦めに似た答えを導き出してしまっている。

「信」

もう一度名前を呼ばれ、顎に指を掛けられて顔を持ち上げられると、信は怯えた瞳で李牧を見上げた。

「知っているだろう?俺が卑怯者・・・だと」

「ッ…!」

問いに対する答えになっていないが、やはり自分は利用されていたのだと悟り、信の胸は引き裂かれるように痛んだ。

(桓騎も、同じだったのか…?)

あの時の桓騎も、きっと同じ痛みを感じていたに違いない。

李牧の身代わりとして利用していたつもりは微塵もないのだが、このまま誤解が解けなければ、桓騎はいつまでもこの胸の痛みに耐えなくてはならないのだ。

李牧の手が信の薄い腹を撫でたので、何をするのだと信は瞠目した。

「お前は趙に来て、桓騎の子を産めばいい・・・・・・・・・・

先日の夜、桓騎に犯された時のことが脳裏に蘇り、信はひゅっ、と息を飲む。

「…な、んで…それを…」

掠れた言葉を紡いで問い掛けると、李牧は刃のような凍てついた瞳を向けて来た。

「俺以外の男の子種で実った命だとしても、お前の子であることには変わりない」

青ざめながら、信はその言葉を他人事のように聞いていた。

「…なんで、桓騎だって…」

上擦った声で、どうして桓騎の名前を出したのか問うと、李牧が目を細める。幾度も自分を狂わせたあの妖艶な笑みだった。

網膜に焼き付いているその笑顔に背筋が甘く痺れ出し、信ははっとして拳を強く握って意識を取り戻した。

あの夜・・・、せっかく見舞いに行ったのに、先に来客がいただろう」

瞬きをすることも忘れて、信は李牧を見つめていた。

あの夜、李牧は見ていたのだ。自分以外の男に犯されている信の姿を。
それを知った上で、李牧は今も信を手放したくないと言っているのだ。

 

 

心臓を鷲掴みにされたかのように、信は喘ぐように苦しげな呼吸を繰り返していた。

こんなにも胸が痛むのは、李牧にあの場を見られていたことに対する羞恥心ではない。
李牧が王騎の次に、桓騎を標的にするのではないかという耐え難い不安だった。

「……、……」

この腹に桓騎の子種が実っているかは分からないが、信は自分の腹を守るように両手を当て、怯えた目で李牧を見上げる。

どうやらその反応が気に障ったのか、ここに来て李牧が初めて眉根を寄せた。

「何を迷うことがある。お前はあの男を俺の身代わりとして利用していたんだろう?」

「違うッ!」

李牧の言葉を遮るように、信は叫んだ。否定したのは、ほとんど無意識だった。

どうしてあの時、桓騎にも同じようにすぐ否定してあげられなかったのだろうという後悔が信の胸を締め上げた。

急に大声を出したせいか、こめかみがずきずきと熱く脈動し、顔が赤く上気していく。

「俺は、桓騎を…お前の身代わりだと思ったことなんて、一度もない」

声を振り絞ると、李牧は黙って信の言葉に耳を傾けていた。

「お前が…俺のもとを去っていったあの日に、桓騎と出会った」

あの雨の日のこと・・・・・・・・は、いつでも瞼の裏に浮かび上がる。

悲しそうに微笑む李牧から理由も伝えられず、一方的に別れを告げられて、信は引き留めることも追い掛けることも出来ず、ただ立ち尽くしていた。

彼が濡れないようにと、持っていったトウ ※傘も使うことはなかったし、いっそ雨に打たれて、ひどい風邪を引いてそのまま死んでしまえたらなんて安易なことまで考えていた。

「…でも」

桓騎を保護したのは、その帰り道だった。

「あの雨の日じゃなくても、倒れていたのが桓騎じゃなかったとしても、俺は…きっと同じことをしていたし、お前の面影と重ねるなんて、絶対にしない」

もし、桓騎と出会ったのがあの日でなかったとしても、倒れていたのが桓騎でなかったとしても、信は目の前で倒れている人がいたのなら、保護していたに違いなかった。

目の前の人々を救うことは、自分の信念であったし、そこに李牧の存在は関係ない。

李牧と男女の関係を築いていたのは確かな事実だが、だからと言って桓騎を李牧の代わりとして見ていたことは一度もなかった。

ただ、彼を戦に出したくなかったのは、本当だ。自分に懐いてくれている桓騎が戦で殺されると思うと、胸が痛む。

しかし、それは桓騎でなくても同じだ。誰かが死ぬのは、自分の前から居なくなるのは悲しいもので、それでも哀悼に優先順位はつけられない。

人の命というものは、平等なのだから。

 

選択 その三

「…っ」

頬に熱いものが伝い、信は自分が涙を流していることに気が付いた。
泣き顔を見られまいとして、咄嗟に俯いて前髪で顔を隠す。

「信…」

静かに鼻を啜っている信の体を抱き寄せると、李牧はその耳元に唇を寄せた。

「きっと、今以上に辛い想いをさせることになる。これからも秦将として戦場に立ち続けるなら尚更だ」

「………」

奥歯を噛み締めて、信は無意識のうちに拳を作った。爪が手の平に食い込む前に、李牧がそっとその手を包み込む。

「もう無意味な傷を作るな・・・・・・・・・

李牧の胸に顔を埋めたまま、信は唇を噛み締めた。

しかし、彼について行くとは決して答えない。言葉にせずとも、李牧は信の意志をすでに察しているようだった。

それでも共に来るよう説得を続けるのは、彼女を失いたくないからだ。

信の背中に回している両腕に、自然と力が籠もる。だが、信は両腕を伸ばして彼の体を押し退けた。

今も涙を流し続ける信の黒曜の瞳に、李牧が生唾を飲み込む。

その濡れた瞳に浮かんでいる強い意志が、自分との決別を確立したものだと察し、李牧の胸は針で突かれたように痛んだ。

「…俺は…お前とは、行けない」

信が発した言葉は、情けないほどに震えており、とても聞けたものではなかった。しかし、瞳と同じで揺るがない強い意志が宿っている。

それは将として、一人の女として、信という存在そのものが選んだ道だった。信は最後の瞬間まで、滅亡の運命にも抗うつもりなのだ。

「信、考え直せ。まだ間に合う」

力強く両肩を掴んで、説得を試みる。しかし、何度訊いても信の答えは変わらなかった。

彼女の頑固な性格も、忠義の厚さも、李牧は理解していた。だからこそ、ここで引く訳にはいかなかった。

愛する女が死ぬ姿なんて見たくない。
趙国の宰相に上り詰めたのも、滅びの運命にある国から信を救うためだったのに、彼女を秦から連れ出せないのなら何の意味もない。

もちろん彼女を趙へ連れていく手段など幾らでもある。だが、それでは意味がない。

彼女の意志でこの国を見限らせなければ、趙へ連れて行ったとしても、すぐに秦へと逃げ帰るだろう。そうなれば、今以上に秦国を守ると固執してしまう。

李牧が予想外だったのは、彼女の中で、自分の存在と秦国に対する忠義が逆転していたことだった。

共に過ごしていた時のように、愛する自分に従順であった彼女はもう何処にもいない。

しかし、李牧は今でも信が秦国よりも自分を優先してくれるはずだと自負していた。未だ彼女の心の中に自分という存在が根付いていることと、理由はもう一つあった。

それは信が保護し、今では知将としてその名を広めている桓騎の存在だ。
信は彼を自分の身代わりとして育て、傍に置くことで、自分がいなくなった後の寂しさを埋めているのだと思っていた。

だからこそ、再び彼女と再会したのならば、あの時のように、素直に自分の言うことを聞いてくれると、李牧は疑わなかったのだ。

だが、それは自惚れに過ぎなかったのだと、ここに来てようやく理解した。

彼女はもう、自分の背中を追い掛けるのをやめて、自分が決めた道を歩み出しているのだ。誰かに命じられた訳ではなく、自分自身の意志で。

 

 

もう何を言っても信の決意が揺るがないと分かった李牧は、諦めたように力なく笑った。

「…そうだな。お前はそういう女だった」

頬を伝う涙を拭ってやり、李牧が呟いた。

「ご、め…」

幼い子供のように泣きじゃくる彼女が、趙には行けないことを謝罪をしようとしたので、李牧はその言葉を唇で塞いだ。

「ん、…ぅ、っん…」

抵抗する素振りはなく、むしろ受け入れるようにして、目を閉じたまま李牧の口づけに応えている。これが最後の口付けになるのだと、信は悟ったようだった。

お互いの体を強く抱き締め合い、何度も唇を交えてから、李牧はまだ頬を伝う涙に舌を這わせる。塩辛い味がして、喉の奥がきゅっと締め付けられるように痛んだ。

「お前が謝罪することは何もない。謝るのは俺の方だ」

「…っ、……」

しゃっくりを上げながら、信が李牧を見つめている。

少しも泣き止む気配のない信に、幼い頃から相変わらず泣き虫な女だと思いながら、李牧は穏やかな瞳を向けた。

どれだけその双眸を涙で濡らしていても、その奥にある意志は決して揺るがない。その意志の強さに惹かれたことを、李牧は思い出した。

同時に、彼女を泣き止ませるのは、もう自分の役目ではないのだと思い知らされる。

信が自分に背を向けて歩み出しているのならば、自分も前に進まなくてはならない。
深く息を吸ってから、李牧は意を決したように信を見つめた。

「俺たちが次に会う時は戦場で、俺は趙の宰相、そしてお前は秦の将だ」

まさかまた彼女に決別の言葉を告げることになるとは思わなかった。

信は涙を流しているものの、引き止めるような言葉は言わない。しばらく沈黙した後、彼女の手が、ずっと掴んでいた李牧の着物をようやく放した。

自分と離れる覚悟が出来たのだと察し、それを合図に、李牧は躊躇うことなく立ち上がる。

「李牧…」

弱々しい声に名前を呼ばれて、李牧は振り返った。

何を言う訳でもなく、信は眉根を寄せて祈るような表情で李牧のことを見つめている。

本当は行かないでほしいと、自分を引き止めようとするのを必死に堪えているのが分かり、同時に愛おしさが込み上げた。

彼女から別れの言葉を聞かずとも、その顔さえ見られれば、それで十分だった。

「俺は卑怯者だが、嘘は言わない。今でもお前のことを愛しているし、これからもそのつもりだ」

その言葉を聞いた信が両手で顔を覆い、声を上げて再び泣き始めた。

瞼の裏に、いつも自分の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いていた彼女の姿が浮かんだ。しかし、もうその肩を抱いてやることも、慰める言葉を掛けることは出来ない。

信の泣き声を聞きながら、李牧は振り返ることなく、部屋を出ていく。

部屋を出てからも、李牧は、一度も後ろを振り返らなかった。

 

後編はこちら

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フォビア(王賁×信)番外編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/ヤンデレ/執着攻め/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

本編はこちら

 

身分差

本編で割愛したシーンです。

 

馬陽で討たれた王騎の弔いの儀を終えた後、信は屋敷の一室に引き籠る日々が続いていた。

養父を救えなかった自分の弱さと、母の仇を討てなかった憎しみが、信の中に深い杭となって残っている。

王騎の私室には、生前に記したのであろう、自分が戦で命を失った後の信に処遇についてが記されていた。後ろ盾を失った信が、王一族を追放されることになると王騎は分かっていたのだ。

木簡には、信を正式な跡取りして決めてあることが遺言として記されていた。

この遺言の効力により、信が王一族から追放されることは免れたのだが、信には、王一族に対して何の未練もなかった。

ただがむしゃらに天下の大将軍として中華全土に名を轟かせていた養父の背中を追い掛けていただけで、名家に取り入るなんてことに、興味などなかった。

そんな立ち回りが出来るようだったら、王騎に養子として迎えられる前に、マシな買い手を見つけて取り入っていたかもしれない。

もしも王騎が遺言を残していなかったとしても、信は一族追放の命を受けたのならば大人しく従うつもりだった。

王騎のいない一族に、自分が留まる理由など何もなかった。それに、名家のしがらみに縛られるのは性に合わない。

しかし、王一族に留まるというのが王騎からの遺言ならば、信は大人しく従うしかなかった。

 

 

王賁が屋敷に赴いたのは、未だ信が王騎の悲しみから立ち直れずにいる時だった。

弔いの儀でも、彼は信に声を掛けることはなかったのだが、家臣たちからの目もあった手前、掛ける言葉に悩んでいたのかもしれない。

もとより他人を気遣った言葉を並べられるような男ではないと信も分かっていたし、王騎が討たれた事実は覆らない。

わざわざ彼が屋敷まで来た理由が分からない。腑抜けた自分を笑いに来たのだろうか。

しかし、気分が乗らないという理由だけで、王家嫡男である彼を追い出す訳にもいかない。信は王賁を客間に通すよう侍女たちへ指示を出した。

それまでは寝台の上で丸まっていた信だったが、最低限の身だしなみを整えてから部屋を出た。

客間の扉を開けると、相変わらず王賁は視線だけをこちらに向けて来た。

上質な着物に身を包んでいるが、戦場にいる時のような鋭い眼差しはいつだって健在だ。背中に武器を構えていないというのに、何か機嫌を損ねる発言をすればすぐに叩き斬られてしまいそうな威圧感も備わっていた。

王賁とはそういう男だ。いつだって隙を見せることがない。

「…なんか用か」

向かいの席に腰を下ろしながら、信が素っ気なく問い掛ける。思えば王賁の方から屋敷を尋ねて来るのは、これが初めてだった。

伝えたいことがあるのなら伝令を使えば良いし、事前の訪問も知らせずに突然やって来たことに、なにか用があったのだとしか考えられなかった。

蒙恬のように自分の気分で時間を消費するような男でないことも信は分かっていたし、だとすれば尚更、屋敷にやって来た理由が気になった。

「…王騎将軍の遺言、貴様が見つけたのか」

腕を組んでこちらを見据えている王賁の眼差しは相変わらず鋭かった。睨みつけているといった方が正しい。

「俺じゃない」

臆することなく、淡々と答えた。
王賁に睨まれるのは初めてではなかったし、下賤の出である自分が名家の一員に加わるのを非難されていることにも慣れていた。

「遺言を王家に提示したのは、騰だ。俺も遺言の存在を知らなかったし、たぶん、騰は父さんから言われてたんだろうな」

弔いの儀の終えた後、王騎軍の副官である騰は、本家当主である王翦のもとを訪れて王騎の遺言が記された木簡を渡したのだという。

遺言があると知らされたのは、騰が王一族に木簡を渡した後のことで、きっとそれも王騎からの命令だったのだろうと思った。

「…俺が先に見つけたなら、とっとと燃やしてた」

その言葉通り、信は先に養父の遺言を見つけていたのなら、それをなかったことにするつもりだった。

そして、それを王騎は分かっていたからこそ、信には何も告げずにいたに違いない。

追放を命じられるよりも先に、自ら王一族を去ろうと決意する娘の企みを、王騎は見事なまでに阻止したのである。

 

身分差 その二

「………」

言葉を選んでいるのか、王賁は急に押し黙った。

養子として引き取られた頃から信は名家という家柄に一切の興味を示さなかったし、それは今も変わらない。王一族に対して、何の未練もないのだろう。

王騎からの遺言を燃やそうと考えていたという言葉が何よりの証拠だ。

「王騎将軍が討たれたのに、俺が一族に残ってることを気に食わないのは分かってる」

王賁は自分の考えを言葉に出す性格ではなかった。
言葉数が少ないのと、その眼光のせいでいつも怒っているように感じてしまうが、腐れ縁とも言える長い付き合いである信は、彼の表情を見ればそれとなく気持ちを察することが出来るようになっていた。

もちろん気持ちを代弁すれば「下僕出身の分際で生意気だ」と罵られるので、言葉にすることはしなかった。しかし、養父の死が絡んでいる今だけは許されるだろう。

「俺が目障りなのは分かってる。俺だって、遺言がなけりゃ、喜んで王一族から抜けてた」

自虐的な笑みを浮かべながら信が言う。心中穏やかでないのは王賁だけではなく、彼女もだった。

「…戦以外何も知らぬ貴様が、王一族を抜けたとして、どう生きるつもりだ」

まさかそのような問いを投げ掛けられるとは思わず、信は瞠目した。
声色から察するに、心配しているつもりは微塵もないようだ。だとすれば、ただの興味だろう。

信が女であることを知っているのは、王一族の中でも、当主の王翦と、嫡男の王賁くらいだ。王一族でも大半の者が信を男だと信じて疑わない。

初陣に出された時、王騎から性別は偽っておいた方が良いと言われ、それからずっと信は男だと性別を偽って生きていた。

幼い頃から王家の出入りをしていた信は、年齢が近い王賁と頻繁に手合わせをしては、好敵手として切磋琢磨し合っていた。

女が戦に出るのかと王賁に罵られたこともある。
きっと王騎が性別を偽るように指示をしたのは、そういった心無い言葉を投げられるのを避けるためだったのかもしれない。

何度も手合わせを続けていき、互いに将として戦に出るようになってからは、女が戦に出ることに関して王賁は何も言わなくなっていた。

口止めをしたことはないが、王賁が信の性別を周りに告げたことはない。

当主である王翦には事前に王騎が口止めをしていたのか、それとも王翦自身の判断なのか分からないが、彼も信の性別を広めるようなことはしなかった。恐らく、興味がないのだろう。

「んー…」

信は背もたれにどっかりと身体を預け、天井を見上げながら考えた。

「…俺を邪魔だと思ってる奴はお前以外にもたくさんいるだろ」

自虐的に笑んだ後、

「王翦将軍に相談したら、適当に嫁ぎ先でも見つけてくれるんじゃねえか?」

将以外の生きる道を知らない信が、絶対に選ばないだろう方法を冗談めいて言うと、王賁から向けられている眼差しがより鋭くなる。

勢いよく立ち上がった王賁が大股で近づいて来たかと思うと、乾いた音が鼓膜を激しく揺さぶり、頬に焼けるような痛みが走った。

 

 

「え…?」

いつの間にか視界が傾いており、床に倒れ込んでいた。王賁に頬を打たれたのだと気づくまでには、しばらく時間がかかった。

頬を打たれた衝撃のあまり、まだ鼓膜が震えている。

痺れるような痛みと耳鳴りに混乱していると、王賁から今まで見たこともない冷え切った眼差しを向けられた。

憎悪が込められたその視線に、信は狼狽えてしまう。

「な、なに、すんだよ…いきなり…」

王賁に向けられている瞳がいつもより鋭いのは先ほどからずっと感じていたのだが、彼の機嫌を損ねるような言動をした覚えなどなく、信は頭に疑問符を浮かべることしか出来ない。

頬を打たれた拍子に口の中を切ってしまい、苦い鉄錆の味が舌の上に広がった。熱を帯び始めた頬は未だ痺れており、耳鳴りも止まない。

「いい加減に立場を弁えろ」

身を乗り出した王賁が低い声でそう囁き、床に倒れ込んだままの信の胸倉を掴んだ。

「は…ぁ…?」

こんな風に王賁から凄まれたのは、幼い頃から一度もなかったので、信は困惑する。

「王騎将軍亡き今、お前は王一族の中で邪魔な存在でしかない」

思わず身震いしそうなほど、怒気が籠もった低い声だった。しかし、信は怯むことなく王賁を真っ直ぐ見据える。

少しでも目を逸らせば、彼の怒気に押されて負けてしまう気がした。
胸倉をつかんでいる王賁の腕を振り払いながら立ち上がり、両足にぐっと力を入れる。

「…俺が、王一族の中で邪魔な存在だなんて、王騎将軍が亡くなる前からそうだったろ。んなこと言われなくても分かってる」

「分かっていない」

何が言いたいのだと彼を睨みつける。
王賁の目つきは少しも変わらない。自分を殺したいほど嫌悪しているのは明らかだった。

「お前は下僕出身の分際で、王家に取り入ろうとしている卑しい存在でしかない」

その言葉を聞いた信のこめかみに鋭いものが走った。相手が王賁でなければ、最後まで言葉を聞かずに殴り飛ばしていたかもしれない。

生まれも立場も自分より低い信が、同じ舞台に立っていることが気に食わないらしい。
怒りを統制するために作った拳を震わせながら、信は長い息を吐いた。

いつまでも王賁に言われっぱなしでいるのは癪に障る。挑発するように引き攣った笑みを浮かべた。

「そんなに俺のことが気に食わねえくせに、嫡男様のご権限では俺一人を追放することも出来ねえんだな」

立派なお立場で。

嘲笑いながら、血の混じった唾を吐きかけてやるつもりだった。しかし、信が最後まで言葉を紡ぎ切る前に、記念すべき二発目の殴打が飛んで来た。

 

身分差 その三

視界が真っ白に染まり、再びその場に倒れ込んでしまう。

「う”…」

先ほどよりも強力な殴打だったことで、立ち上がろうとしても体に上手く力が入らなかった。一切の加減をされず、本気で殴られたのだと分かった。

鼻血が伝う感触があったが、それを拭うために腕を持ち上げることもままならない。

「………」

信は目だけを動かして、王賁を見上げる。
自分よりも立場の低い女に罵られた王賁が、どのような表情を浮かべているのか、興味があった。

表情は崩れていなかったものの、こちらに向けている瞳は相変わらず冷たいままだ。

「はッ…つまんねえの」

余裕のない表情をしているのだとばかり思っていたので、残念だとわざとらしく肩を落とした。

謝罪をされることはないと分かっていたが、王賁が一向にその場から去る気配も見せないので、まだ何か話すことがあるのかと信は陰鬱になった。

「おいっ?」

未だ床に倒れ込んだままの体に王賁が馬乗りになって来たので、信は三発目の殴打が来るのかと身構えた。

しかし、拳が飛んで来ることはなく、王賁が何か言おうと唇を戦慄かせたのが見えた。しかし、言葉が紡がれることはなかった。

まるで何かを諦めたかのように口を閉ざした王賁を見て、信は小首を傾げた。

「…王賁?」

訝しげに眉根を寄せて声を掛けると、再び視界が揺れた。

「うッ…!」

力強く肩を掴まれたかと思うと、今度は頬ではなくて背中に鈍い痛みが走る。自分を見下ろしている王賁と目が合い、彼に押し倒されたのだと頭が理解した。

「…なんだよ、退けよ」

自分に馬乗りになっている王賁を押し退けようとするものの、彼は普段以上に目を吊り上げたまま何も話さないし、動こうとしない。

何か言いたいことがあるのならば、普段のように罵れば良いものを、王賁は固く唇を引き結んでいた。

王賁は口数が多い方ではない。昔からずっとそうだ。

必要ないと思ったことは一切口を挟まないし、それでも罵倒をして来るということは、腹を立てている時だけである。

名家の嫡男として生まれたことに誇りを抱いており、下賤の出である信には、初対面の時からずっと厳しい態度を貫いていた。

武の才を見込まれて拾われた信は、名家に取り入ろうなどと思ったことは一度もない。

それを告げても、自分を気に入らない王賁の態度が変わる訳でもなかったし、きっと自分が王一族にいる限り、彼から疎まれることになるとも分かっていた。

そして目指す先が同じ天下の大将軍であることも、疎まれる要因の一つだろう。

「……もういい」

何かを諦めたかのように、王賁がそう言い放った。
不機嫌に目をつり上げていた彼の瞳が、哀愁を漂わせる色を浮かべたのを見て、信は薄口を開ける。

彼が何を諦めたのか、その前に何を言おうとしていたのか、信には分からなかった。

 

教示

王賁の両手が動いたので、信は反射的に身構えた。また殴打が飛んで来るのだと思った。

しかし王賁の手は、両腕を交差させて顔を庇っている信の両腕をすり抜けて、彼女の青い着物を掴む。

「何すんだよッ!?」

襟合わせを強引に開かれて、信は瞠目した。
その反応から、これから何をされるのか微塵も予想が出来ずにいる彼女を見て、王賁は舌打った。

名も顔も知らぬ男のもとに嫁ぐ道を示しておきながら、純情を装っているその態度に、ますます憤怒が燃え盛る。

確信はなかったが、信が男の味を知らぬことを、王賁は何となく予想していた。

色情に一切の興味を示さない信が男に抱かれている姿を想像したくなかっただけなのかもしれない。

それが独占欲だと気づく前に、王賁は彼女の帯に手を掛けていた。

「はッ?」

間抜けな声を上げた信が薄く口を開けて、解かれていく帯を見つめている。
解かれた帯を結び直される前に、王賁は彼女の手の届かない場所へ帯を放り投げる。

少し遅れてから、意図を察したのか信の顔がみるみるうちに真っ赤になっていった。

「は、はあッ!?何してんだよ!」

開いた襟合わせを強引に押さえ込みながら、信は王賁に怒鳴りつけた。
凄まれても怯むことのない王賁の手が再び伸びて来る。信がその手を押さえつけるよりも、王賁が彼女の首を締め上げる方が早かった。

「ぐッ…!」

急に気道を圧迫され、呼吸を阻まれたことに、信は目を白黒させている。
その手を外そうともがく信を見下ろす王賁の瞳は、暗く淀んでいた。

「がっ…ぁ…」

目の前が白く霞んでいき、このままではまずいと手首を引っ掻いて抵抗を試みる。
しかし、首を締める手の力が少しも緩まることはない。王賁が本気であることを察して、信は背筋を凍らせた。

意識の糸を手放す寸前で、ようやく手を放されて、強制的に呼吸を再開させられた信は激しくむせ込んだ。

まだ呼吸が整っていないうちに、容赦なく前髪を毟られて、王賁が顔を近づけて来る。

「これ以上無駄口を叩かぬよう、立場を弁えさせてやる」

「っ…」

怒気の込められた低い声に、信の体は竦み上がった。怯えた瞳で見上げられると、王賁の中にある加虐心に火が点いた。

中途半端に脱がされていた着物を強引に広げられて、信はまさかという表情を浮かべていた。

自分の体に跨って、腹の辺りに硬い何かが当たる。
王賁の足の間にある男の象徴が、情欲を誇張していることに気付き、信は顔から血の気を引かせた。

「ううッ」

悪罵を叫ぼうとした途端、再び頬を打たれてしまい、口の中に血の味が広がる。先ほどから何度も殴られ打たれた頬が赤く腫れ上がっているのは分かっていたが、もはや痛覚は麻痺していた。

「うッ…!」

怯んで抵抗が出来なくなった隙に、王賁が身を屈めて首筋に噛みついて来たので、そういえばこいつは、蒙恬のように冗談を言う男じゃなかったと思い出した。

まさか王賁にこのような行為を強いられるとは夢にも思わなかったし、彼から女として扱われたのは、これが初めてだった。

 

 

王一族の嫡男とあろう男が、女に困っているはずがない。だからと言って、何のために自分にこのような行為を強いるのか、信には少しも理解が出来なかった。

彼のために喜んで足を開く娘などごまんといるだろうし、金に不自由している訳でもないのだから娼館に行くことだって出来るだろう。欲望の捌け口などいくらでもあるはずだ。

それなのに、王賁がよりにもよって自分を選んだのは、本当に立場を弁えさせるためなのだろうか。

王一族の誇りを受け継ぎ、信の知る限り、王賁は誰よりも自尊心の高い男だ。

自分の減らず口を黙らせるためにこのような行為を強いるということは、余程頭に来ているのだろう。

下賤の出でありながら王騎の養子として引き取られた手前、確かに嫡男である王賁には頭を下げるべきなのかもしれない。

しかし、名家のしきたりなど、養子として引き取られた時から興味がなかった。ひたすらに武功を挙げて上り詰めて、父のような大将軍になることだけが信の全てだった。

「こ、のッ…!」

このまま好きにされてたまるかと、信は歯列を剥き出し、王賁に憎悪の視線を向けた。

凄まれても王賁は表情を変えず、少しもやめる気配を見せない。彼の手が胸を覆っていたさらしを外しにかかったところで、いよいよ信の中で何かがふつりを切れた。

「おい、王賁」

低い声で呼びかけて視線が合うと、すかさず血の混じった唾を王賁の顔に向かって吐きかけた。

「ッ…!」

吐きかけた唾は王賁の右目に当たり、王賁が顔をしかめる。僅かに腕の力が緩んだ。

「放せッ!」

怯んだ隙をついて、信は王賁の腹を蹴り上げた。咄嗟の抵抗だったので、勢いはつけられなかったものの、油断したところに入ったそれは大分堪えたらしい。

彼の下から抜け出すことに成功すると、鳩尾を押さえている王賁を横目に、信は立ち上がった。

着物の乱れなど気にする余裕もなく部屋を出ようと駆け出す。部屋さえ出てしまえば、家臣たちの目もあることから、きっと執拗に追っては来ないはずだ。

「うッ!?」

しかし、一歩目を踏み出した時、左足首を思い切り掴まれて、信は顔面から派手に転倒してしまう。一体今日だけで何度顔面を負傷したことだろう。

思い切り鼻を打ち付けたせいで悶絶していると、上から影が落ちて来て、信はぎくりと体を強張らせた。

うつ伏せの状態で視界が遮られているにも関わらず、王賁がこれ以上ないほどの殺意を向けていることが分かった。

先ほどの蹴りの仕返しだと言わんばかりに、王賁の踵が背中に振り下ろされる。

「がッ…」

あまりの衝撃に、呼吸が抑制され、信は目を白黒させた。

 

最終警告

体を反転させられた後、王賁が胸の辺りに跨って来た。このまま一方的に殴られるのだろうかと信がむせ込みながら、痛みに構える。

しかし、王賁の手は拳を作ることなく、先ほど奪い損なったさらしを外しに掛かっていた。
口の中で血の味を感じながら、信が鼻で笑う。

「はっ…女一人抱くのに、ここまでしなきゃならねえなんて、お前ってほんと、不器用だよな」

皮肉を込めてそう言うと、王賁が鋭い眼差しを向けて来る。

「黙れ。誰が貴様を女だと認めた」

「話逸らすっつーことは図星か?蒙恬から指南でも受けろよ、この欲求不満野郎」

腫れ上がった頬を緩ませ、引き攣った笑みを浮かべながら信が返す。

「ぐ…」

王賁からの反論はなかったが、さらしを外されて露わになった胸をもぎ取られるように力強く掴まれて、思わず呻き声を上げてしまった。

信の苦悶の声に満足したのか、今度は量感のある胸の柔らかさを確かめるように、五本の指が食い込んで来る。

痛みを与えてから、何度か指を動かしてから、胸の芽を強く摘ままれて、信は脇腹をくすぐられるような、むずかゆい感覚に襲われた。

「ッ、ん…」

思わず洩れた小さな声は、痛みを堪えるためのものではない。王賁が鼻で笑った。

「貴様を女だと認めるなら、誰にでも軽々と足を開く売女娼婦としてだな」

侮辱以外何でもないその言葉を投げられ、信の瞳に憤激が宿る。

反発のつもりで自分の胸を揉みしだいている王賁の手首を掴み、骨が軋むほど強く力を込めた。手首に走った痛みに、王賁の眉間に皺を寄ったのを見上げ、信が低い声を発する。

「俺にだってな、抱かれる男を選ぶ権利・・・・・・・・・・くらい、あるんだよ」

王一族の嫡男として生まれた王賁が、昔から自尊心が高い男であるのは知っていた。そこを突いて、さらなる侮辱の言葉を与えてやろうとした瞬間、思い切り下顎を掴まれる。

「いつまでも減らぬ口だ」

「…、…ッ…」

強制的に黙らされると、王賁がまるで口づけでもするのかと思う程に顔を寄せて凄んで来た。

「信」

王賁から名前を呼ばれたのは随分と久しいことだった。

幼い頃に王騎の養子として、王一族に引き取られてから、随分と長い付き合いになるが、王賁から名前を呼ばれたのは今日まできっと数えるくらいだったと思う。

「これが最後の警告だ。立場を弁えろ」

下顎を強く掴んだまま、鋭い目つきで自分を見下ろしている王賁は、首を縦に振る以外の返事を認めないつもりだろう。そのことに、信は無性に反発を覚えた。

一応返事を待ってくれているらしい王賁に、信は迷うことなく再び唾を吐きかける。今度は頬に命中した。

反撃に殴られることは予想していたので、信はすぐに身構えたのだが、王賁は閉眼するばかりで、何かを考える素振りを見せていた。

「…貴様のような下僕風情に、警告などという無意味なことを続けた俺がバカだった」

彼の声色から、落胆の声色を感じ取り、信は眉根を寄せる。

その一瞬の油断によって王賁が振り被った拳への反応が遅れてしまい、一切加減されることなく頬を殴打された激痛に、信の意識は焼き切れた。

 

 

次に目を覚ました時、信は目覚めたことを瞬時に後悔した。

「……ぅ…ん…」

太い何かが何かが唇を押し開いて、口の中を出入りしている。

「ふ、ッく…っ、んん…!?」

口の中を出入りしている太いそれが時折喉を塞ぐので、口での呼吸が出来ず、必死に鼻で呼吸を繰り返す。

状況を理解するよりも先に、その苦しみから逃れようと首を動かすが、頭を押さえられて阻止される。

「んんッ…!」

王賁が自分の顔に跨っていて、その男根を咥えさせているのだと気づくと、信の中で驚愕よりおぞましさが上回った。

何をしているのだと問おうとしても、口は塞がれており、くぐもった声を上げることしか出来ない。

かといって突き放そうとしても、意識を失っている間に両腕は後ろで一纏めに拘束されており、使い物にならない。

信が目を覚ましたことに気が付いたのか、王賁が腰を動かすのをやめて、信の前髪を掴み上げる。

「んんッ、んぐッ、ん、むぅっ」

男根によって塞がれた口が蠢くものの、言葉を紡ぐことは出来ない。

頭を前後に揺さぶられて、喉奥を突かれる度に生理的な吐き気が込み上げた。
唾液に塗れた男根がぬらぬらと怪しく艶を持ち、口の中が出入りを続ける。粘り気のある液体が弾ける音に、信は耳を塞ぎたくなった。

自分の口を使って自慰に浸っているような王賁に、信は目を白黒とさせている。

絶頂に向けて上気した顔も、切なげに眉を寄せてながら荒い息を吐いているその姿を見るのも初めてだった。

信は未だ男に抱かれた経験はないのだが、男の象徴ともいえるそれを無理やり咥えさせられている今の状況は、凌辱を強いられているのと同等な行為だと断言出来る。

どこまで自分を侮辱する気だと、怒りを込めて睨みつける。
しかし、王賁はその視線を受け流すと、より深く信の口に男根を飲み込ませた。

「ふ、ぅぐッ…ぐ、ぅんんッ」

喉奥まで男根を咥えさせられるだけでなく、下生えに鼻を塞がれると、息が出来なくなる。

呼吸が出来ない苦しみに、このまま殺されるのだろうかと恐怖が這い上がって来た。

将としての名誉ある死ではなく、女として凌辱の末に殺される憫然たる末路を想像する。咄嗟に歯を立てて抵抗をしたのは、ほとんど無意識だった。

「ううッ…」

呼吸が出来るようになったのと同時に、思い切り頬を打たれる。

薄く開いた瞳に王賁の憤激した顔が映ったが、ざまあみろと信は引き攣った笑みを浮かべることでとことん反発の意を示すのだった。

 

最終警告 その二

まさかまだ抵抗されるとは、王賁も予想外だったに違いない。

諦めてさっさと解放すれば良いものを、どうやら信の抵抗は王賁の加虐心に火を点けてしまったようだった。

大きく足を開かされたと思うと、王賁がその間に腰を割り入れる。
意識を失っている間に両手を拘束されるだけでなく、着物まで脱がせられていたことに気付いた。

「放せッ…」

何度も顔を殴られて、腫れ上がった顔を惨めに歪ませながら、信が王賁に訴える。しかし、彼はもう耳を傾けることもしなかった。

「あっ、やだ…やめ、ろ…!」

先ほど噛みついて抵抗したというのに、今もなお、硬さと大きさを変えずにいる男根の先端が淫華に押し付けられた。

両手を背中で拘束されたまま、信は必死に身を捩って逃げようとした。
その腰を掴んで引き戻し、王賁は唾液で濡れそぼった男根で花弁の合わせ目を何度かなぞる。

男に抱かれた経験のない信であっても、王賁が何をしようとしているのか、それが分からぬほど愚鈍ではなかった。

破瓜を破られる痛みは未知なるものだが、それが激痛を伴うというのは噂で聞いたことがあった。

将として生き抜くことを誓っていた自分には縁のない話だとばかり思っていたのだが、まさか王賁によってその痛みを味わわせられることになるだなんて、想像もしていなかった。

「っ…ん…」

自分でも滅多に触れない場所を、何度も切先で擦られて、信の中で嫌悪以外の感情が芽生え始めた。

それが性的な喜悦であることは信にも自覚があり、同時にこんな状況で浅ましいと思ってしまう。よりにもよって王賁にこんな声を聞かれたくなかったし、情けない顔も見られたくなかった。

「う、…く…」

歯を食い縛って身を固くしていると、王賁が身を屈めて首筋に吸い付いて来る。むず痒い刺激に、鼻から抜ける声な声が洩れた。

「な、なにッ…?」

男根の切先を淫華に擦り付けながら、王賁の手が今度は胸に伸びて来た。さらしを外した時は容赦なく掴み上げて来たくせに、まるで別人のように優しい手付きをしている。

「…ふ、ぅ…」

胸の芽を立たせるように指で摘ままれて、下腹部が切ない疼きを覚える。
必死に声を堪えているものの、先ほどのように小言も言わずに黙り込んだ信を見て、王賁も体の変化に察したようだった。

「ぁ…はあ…」

胸への刺激を続けられ、先ほどから切先を擦り付けられている淫華から、次第に水音が大きくなっていく。

強く目を閉じても、互いの荒い呼吸と、粘り気のある卑猥な水音が鼓膜を震わせ、嫌でも男女の性を意識してしまう。

「っ、ふ…んんッ、ぅ…!」

日頃から武器を握って鍛錬に勤しんでいる王賁の指が、狭い其処を掻き分けて奥へ入り込んで来たのが分かり、信は息を詰まらせた。

挿れられたのは一本だけだったが、蜜で潤んだ中の粘膜を確かめるように、中で指を動かされる。

「あ、やっ、やめっ…」

中で指が動かされる度に、信の意志とは関係なく淫華が蜜を分泌させていく。
まるで自分の体が自分のものではなくなってしまったかのように、体がびくびくと跳ね上がった。

胸を弄られている時と同じで、異物感とは違う嫌悪以外の感情が溢れて来る。

王賁は微塵も表情を変えていなかったが、彼の瞳には軽蔑の色が見て取れた。喜悦に身体を震わせる目の前のおんなを浅ましいと思っているのだろう。

しかし、動かしている指を止めることはせず、むしろ信に声を上げさせようと指の動きを大きくしていく。

蜜でどろどろに塗れた指をようやく引き抜かれた時、信はぐったりと床に倒れ込んでいた。

 

 

指が抜かれてから間を置かず、指とは比べ物にならない太いものを押し当てられて、信はひゅっと息を飲む。

下肢を見やると、恐ろしいまでに屹立したそれが奥へ進んで来ようとしているところだった。

「ぁ、やだッ、いやだッ!王賁、やめろッ」

信は懸命に身を捩って、最後の最後まで抵抗を試みた。

「警告を聞かなかったのは貴様だ」

一切の感情を感じさせない声に、信が怯えたように瞳を揺らす。

このまま王賁が腰を押し出せば、もう元には戻れない。
王一族の繋がりはあるとはいえ、好敵手だと思っていた王賁を、二度と友だと呼べなくなってしまう。

嫡男である王賁が、王一族に突然やってきた下僕出身である自分のことを毛嫌いしていることは昔から知っていた。

それでも戦で武功を重ねる度に、王賁が言葉にせずとも自分の奮闘を認めてくれていることをわかっていたので、身分差など気にせず、王賁と付き合ってこれたのだ。

好敵手として、友としてこれからもその関係を深めていくのだと思っていたのに、王騎の死がきっかけとなって全てが崩壊してしまった。

「うッ…うう…」

泣きたくもないのに、泣いてもどうしようもないのに、堰を切ったかのように涙が止まらなくなる。

信は嗚咽を堪えながら、王賁に泣き顔を見せまいと顔を背けた。

「…己の立場を理解したか」

王賁のその言葉は、穏やかな声色が伴っていた。機嫌が良い時の王賁の声だ。
もしかしたらやめてくれるのだろうかと微かな希望が胸に宿る。

鼻を啜りながら目線だけを王賁へ向けると、彼は相変わらず鋭い眼差しを向けていた。

「王一族に取り入った下僕風情が、誰を敬うべきか言葉に出してみろ」

「っ……」

信は声を喉に詰まらせる。答えないのなら、このまま凌辱を続けるつもりだろう。

王賁と身を繋げて今までの関係が全て壊れてしまうくらいならと、信は奥歯を噛み締めて、声を振り絞った。

「お、王賁、…」

言葉にするのは簡単だったが、声に出してから、信は拒絶反応でも起こしたかのように体を震わせた。

初めて信が「王賁様」と呼んだことに、王賁自身も何か感じることがあったのだろう。束の間、沈黙が二人の間に横たわった。

(これで、終わる…)

言うことには従ったのだから、信はこれで解放されると安堵していた。
脅しのつもりで挿入を試みようとした王賁には、どれだけ罵声を浴びせても足りない。しかし、それだけ彼が憤激していたことを理解した。

今後も王賁とは必要以上の付き合いはしないと心で誓ったところで、彼が退く気配を見せないことに、信は嫌な予感を覚えるのだった。

「お、おい…?早く、退けよ…」

催促すると、爬虫類を思わせるような冷たい瞳を向けられたので、信は背筋を凍らせた。

「勘違いするな。これは仕置きだ。俺は一度たりともやめるとは言っていない・・・・・・・・・・・

「え?」

指の痕が残るほど強く腰を掴まれて、王賁が腰を前に突き出す。

「ぁ”あ”ああ―――ッ」

狭い場所を無理やり抉じ開けられる痛みに、信の口から無意識に悲鳴が溢れた。

 

恐怖症

いくら蜜で潤んでいるとはいえ、男を受け入れたことのないその道は狭く、入り込んで来た屹立に拒絶反応を示していた。

真っ赤に焼いた鉄棒を捻じ込まれるような激痛に悲鳴が止まらない。無意識のうちに身体が激痛から逃れようと仰け反った。

苦悶に顔を歪めて悲鳴を上げる信は非力そのものだった。女に生まれて来なければ良かったという後悔さえ覚える。

しかし、王賁は迸る悲鳴を聞いても一切顔色を変えることも、やめる素振りも見せない。

より一層奥へ進もうと王賁が腰を前に突き出すと、なにかがぶつりと弾けたような感覚がして、信の意識が錯乱した。

このまま意識を手放してしまえばどれだけ良かっただろう。目の前の現実から逃れたい一心で、信は大粒の涙を流し続ける。

「っ…」

細腰を抱え直し、王賁がしきりに呻き声を上げていた。信にとっては激痛でも、男根は蕩けるような快楽に包み込まれていた。

互いの性器が繋がっている部分に赤い雫が滲んでいる。それが破瓜の血であり、紛れもなく信が初めて男を受け入れた証拠だと分かると、王賁の胸に愉悦が浮かんだ。

「いたい、いたいぃっ、やだ、やあッ」

泣きじゃくりながら、幼子のような口調で信が哀訴する。

普段は強気で弱みを一切見せないはずの彼女の豹変ぶりと血の匂いに、王賁の中の加虐心は歯止めが利かなくなってしまう。

背中で拘束してある両手ががりがりと爪を掻いていることには気付いていたが、拘束を外す気にはなれなかった。

自分の立場を思い知れば良いと心の中で毒づきながら、王賁は容赦なく腰を律動させた。

「ッ、…ぁ…!」

下から突き上げられる怒張の勢いに息が紡げず、信が目を白黒とさせる。

ひっきりなしに悲鳴を上げていたはずの彼女が急に押し黙ったので、気をやったのかと王賁が一度腰を止める。

不自然に唇を閉じ、強く瞼を閉ざしている信を見て、王賁は考えるよりも先にその首を締め上げた。

「がッ…あ…」

現れた舌に、歯形に沿って血の滲んでいる。凌辱に耐え切れぬあまり、舌を噛み切ろうとしたのだと分かった。

死に逃げようとするほど、自分からの凌辱が彼女の心を追い詰めたのだと思うと優越感に浸ることが出来たが、同時にそれはとても不快でもあった。

「はッ…はあ、ッぁ…」

僅かな気道を残す程度に首を締める力を加減をしていると、信が陸に上がった魚のように口を開閉させている。

酸素を取り入れようと開く上の口とは違って、王賁の男根を受け入れている下の口はぎゅうと締まった。

「んんッ…!」

首を締められながら唇を重ねられ、信は霞みゆく視界いっぱいに王賁の顔が映っているのが見えた。

王賁と唇を重ねるのはこれが初めてだったが、ただの凌辱の延長でしかない。
口づけの感想を考える間もなく、完全に呼吸が出来なくなり、信が意識の糸を手放し掛けたのを見計らって、王賁はようやく唇と首を締める手を離してくれた。

小さくむせ込みながら何とか呼吸を再開する。未だ破瓜を破られた痛みが後を引いているというのに、王賁は容赦なく腰を動かした。

「ぁあッ、あぐッ、ぁあ、はッ、ぁあ」

内側を抉じ開けられるだけじゃなく、引き裂かれるような痛みが伴い、串刺しにでもされたかのような感覚を覚える。

背中で拘束されたままの両腕は使い物にならず、ろくな抵抗も出来ないまま甚振られる今の状況に、信の心は揺るぎ始めていた。

 

 

「う…ぅうッ…」

破瓜の痛みに声を上げていた信が、鼻を啜っている。

痛みに苦悶の表情を浮かべていたのは気づいていたが、双眸から涙が流れ始めている。泣き顔を隠すように背けていたが、その瞳には確かに恐怖の色が浮かんでいた。

自分に屈したとしか言いようのない彼女の表情に鳥肌が立ち、王賁の心が激しく波立つ。

「許しを乞え。低俗な下僕らしくな」

信の前髪を掴み上げ、低い声を放つ。
下僕という言葉に反応したのか、信が奥歯をさらに強く食い縛ったのが分かった。目を逸らしたのは抵抗の意志を示すためだろう。

しかし、その瞳から恐怖の色が薄れることはない。
抵抗も拒絶も許さないと王賁が睨みつけていると、泣き濡れた瞳が王賁を捉え、唇を戦慄かせた。

「…王賁、様…」

先ほどのように、嫌々言わされている声色ではなかった。

「お、許し、くだ、さ、い」

情けないまでに震える声が紡がれた。
その言葉が、自分の命じた通りに許しを請うものだと分かると、胸に優越感が沁みていく。

「ぁあッ!?んッ、っぅう、ッ…!」

腰を律動すると、信が咄嗟に食い縛った歯の隙間から情けない悲鳴が漏れ出した。
当惑を見せた信に、王賁は僅かに口の端をつり上げる。

「この俺が下僕の言うことを聞くと思っているのか」

「ッ、は、嵌めやが、ったなッ」

二度も様付けを強要されただけでなく、無様に許しを請う言葉まで強要されたことで、信が悔しそうな表情を浮かべる。

「うッ」

またもや生意気な口を利いたことに、王賁は容赦なく頬を打つ。真っ赤に腫れ上がった顔で睨みつけられても、無様な姿が強調されるだけだ。

なぜいつまでもこの女は学習しないのかと疑問を抱いたが、答えは考えるまでもない。信に学ぶ気がないからである。

(ならば、骨の髄まで分からせてやれば良い)

王賁は組み敷いている信の体を抱え直すと、容赦なく腰を前に突き出した。

「ふぐ、ぅ、あうぅッ」

苦悶に染まった信の声を聞くと、それだけで心が潤う。もっと泣き叫んで、無様に許しを請えば良いと思った。

そして彼女のこんな情けない姿を見るのは、生涯自分だけで良い。

自分が認めた男ならまだしも、名も顔も知らぬ男の手垢に汚されて、信が信でなくなってしまうのなら、このまま手折ってしまおう。

それが紛れもなく、信に対する独占欲だという感情だということに、王賁自身が気づくことはない。

ただ、胸に沈んでいるどろどろとしたものを拭い去るように、王賁はひたすらに凌辱を強いた。

 

恐怖症 その二

「ッ…」

破瓜を破ったばかりの開通した道はかなり狭く、首を締めなくとも痛いまでに締め上げてくるのだが、子種を搾り取られるかのようなうねりに思わず息を吐いてしまう。

膝裏を抱え直して、より深い結合を求める。絶え間なく与えられる刺激と、絶頂に向けて荒い息を吐いている王賁に、信が怯え切った眼差しを向けた。

「いやッ、やだ、やめろッ…!」

男根が肉壁を押し開いていく度に、信がひっきりなしに泣きそうな声を上げる。

「…やめろ・・・?」

聞き捨てならない言葉遣いに低い声で聞き返すと、信が失言をしたことを自覚したらしい。

「や、やめて、くださ、い」

しゃっくりをあげながら紡いだ言葉は、正しく慈悲を請う言葉だった。

昂りが信の体を支配し、その心をも征服出来たのだと王賁は悟る。こんなにも簡単に、心根の強い彼女が屈するとは思わなかった。

「自分の立場を覚えておけ。俺に逆らうことは、決して許されない」

一切の拒絶を許さない、信の意志も返事も必要ない冷酷な言葉に、信の瞳から止めどなく涙が流れ続けている。

喉が潰れるまで泣き喚いて、自分の過ちを悔いろと王賁は嘲笑った。

下賤の出である立場を弁えていたのなら、もっと真っ当に信を愛することが出来たに違いない。

なぜ卑しい身分でありながら、将を続けるのか、自分と同じ場所に立とうとするのか、王賁にはそれが理解出来なかった。

将になる夢など諦め、健気に自分の帰りを待っていれば良い。自分に嫁ぎ、子を孕み、産み、女としての幸福を掴んで、その生を全うすればいい。

今まで何度その言葉を飲み込んだことだろう。王賁は数えることも諦めていた。

「んぁあッ」

乱暴な突き上げに、信が身体を反り返らせる。
律動を繰り返すつれて、もともとが一つであったのかと思うほど、互いの性器が馴染んでいくのが分かった。

「はあッ…」

射精への衝迫に、顔が燃えるように上気していく。

「やっ、やあッ」

まだ諦めていないのか、信が幼子のように首を振って泣き喚きながら、懸命に身を捩る。

体重をかけてその体を押さえ込みながら、王賁が最後の楔を打ち込む。腹の底から昂りにかけて熱いものが迸り、快楽が全身を貫いた。

「ぁ、いや、だぁッ…!」

女にしか分からない、子宮に精液を注がれる耐え難い不快感に、信が内腿を震わせながら掠れた声を上げる。

しかし、慈悲を掛けることはない。最後の一滴まで零すことなく、子宮に子種を植え付けてから、王賁が長い息を吐いた。

ゆっくりと男根を引き抜くと、破瓜の血と混ざり合った精液が一緒に溢れてしまう。

「…ぅ…う…」

自分と身を繋げたことや、中に射精されたことが余程堪えたのか、信は静かに啜り泣いている。

冷酷な瞳で見下ろすと、王賁はようやく身を起こして、彼女の口元に未だ濡れている男根を押し付けた。

破瓜の血と白濁で汚れている切先で唇をなぞってやると、小癪にも男根から顔を背けようとする。

「う、ぅんんッ」

髪を掴んで男根を清めさせるために、無理やり口腔に突き挿れると、苦し気な声が上がった。

自分の破瓜を破り、何度も肉壁を押し分けていたものが口に入れられることには生理的な嫌悪感があったのだろう。

「…ん、んぅ…」

やがて、苦悶の表情を浮かべたまま、切先に舌を這わせ始めた。
涙を流し続けているその瞳から、反発の色も恐怖の色も失われていき、絶望に染まる瞬間を、王賁は確かに見たのだった。

 

番外編②(蒙恬×信←桓騎)はこちら

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平行線の終焉(桓騎×信←李牧)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編①はこちら

 

身代わり

まるで痛みを堪えるような信の表情を見て、桓騎の中にあった嫉妬の感情がより大きく膨らんでいった。

あの男がまだ信の心を巣食っているのは明らかだ。しかし、一方では信に対して怒りの矛先が向けられている。

彼女が李牧と関係を持っていたことを知らなかったのは、きっと自分だけではない。

秦将である立場にあるにも関わらず、趙の宰相と姦通していたとなれば、過去のものだとしても重罪として扱われる可能性がある。信もそれを理解していたからこそ、今まで誰にも告げなかったのだろう。

ただ、どうして自分にさえ打ち明けてくれなかったのかという、行き場のない怒りが桓騎の嫉妬の炎をより燃え盛らせた。

彼女が李牧との関係を素直に打ち明けてくれたところで、何が変わる訳でもないし、信の心から李牧が消え去ることはないことも分かっている。

それなのに、彼女のことなら全て把握しておきたいという気持ちが絶えることはない。
幼い頃から信のことを想っていた桓騎は、自分だけが信の特別な存在になりたい願っていた。

彼女の秘密を共有すれば、信にとって自分は特別な存在になれたのかもしれない。

たとえそれが、李牧とは違う意味での特別・・・・・・・・だとしても、桓騎は彼女の心に自分という存在を刻みたかったのだ。

それほどまでに、桓騎は信のことを愛していた。

「信…」

未だ傷が癒えていない彼女の右手を掴んで、桓騎はその手の平に口づける。今彼女と唇を重ねれば、間違いなく舌を噛み千切られると思ったからだ。

いつも剣や槍を握っている彼女の手の皮はマメだらけで肥厚している。爪を立てて血が流れたということは、相当な力を入れていたのだろう。

回廊で李牧に会った時、養父を討たれた憎しみ以外にも、色んな感情が蘇ったに違いない。

「か、桓騎…」

震える声で名前を呼ばれて、桓騎は手の平に唇を押し付けながら、信を見た。
発熱しているせいか顔が赤い。それが恥じらいによるものであれば、どれだけ救われたことだろう。

「…俺は、あいつの代わり・・・・・・・だったんだな?」

「―――」

静かに問い掛けると、信が目を見開いて、言葉を喉に詰まらせる。

それが信に対しても、自分に対しても、残酷な問いであることは十分に自覚していた。

否定されなかったことから、それが答え・・だと確信した桓騎は、口の中に苦いものが広がっていくのをまるで他人事のように感じていた。

次いで、胸が引き裂かれるように痛み、いつものように小言を返す余裕もなくなってしまう。

顔から表情を消した桓騎を見上げて、信が力なく首を横に振った。

「…違う」

すぐにでも消えてしまいそうな、弱々しい声。それは紛れもなく桓騎の問いを否定する言葉ではあったものの、桓騎の胸に響くことはなかった。

「桓騎、俺は…」

「もういい」

弁明の言葉を遮ると、信が怯えた表情を浮かべる。

桓騎は幼い頃から聡明な頭脳を持っていた。相手に見抜けぬ奇策を用いることで次々と敵軍を一掃して来たし、相手の思考を見抜くことを得意とし、何より物事の理解が早かった。

だから、信と李牧の関係を確信してから、自分が信にとってどういう存在であったのかも、すぐに理解してしまったのだ。

ある意味では、それは桓騎の望む特別だった。だが、李牧以上の特別になることはない。

「お前が俺を戦に出したくなかったのも、あいつの代わりだったからなんだろ」

「ちが…」

小癪にもまだ弁明をしようとするその口を塞ぐために、桓騎は唇を押し当てた。薄く開いた口の中に舌を差し込んで、彼女の舌を捉える。

「んんッ…!」

自分の口の中に信の舌を導くと、容赦なく噛みついた。

血が滲むほど強く噛んでやり、このまま黙らせるために舌を噛み切ってやろうかと考える。
鉄錆の苦い味が口の中に広がると、今まで夢見ていた信との甘い口づけとは、程遠い現実だったことを自覚した。

 

 

血の味の口づけを交わしながら、彼女の手を頭上で一纏めに押さえ込む。

「ふう、ッ、んん…!」

くぐもった声を上げた信が、まるで許しを請うように、涙で潤んだ瞳を向けて来た。

もしも初めから、李牧の身代わりとして自分を拾ったのだと教えてくれたのなら、自分は喜んでその役目を全うしただろう。

たとえ身代わりだとしても、きっと今以上に愛してもらえたに違いない。

しかし、身代わりであることは一切告げず、桓騎の自我を崩さぬように扱って来たのは他でもない信だ。憎らしいほど、彼女は他人を欺く才に恵まれなかった。

身代わりであることを確かめたのは、他でもない桓騎自身だ。もしも李牧と信の関係に気づかなければ、一生この事実を知らないままでいられたかもしれない。

信が自分の中に李牧の姿を見ていたとしても、それを知ることなく、偽りの愛情で満足して死ぬという道もあっただろう。今となっては全て手遅れだが。

それでも、自分が李牧の身代わりだったと分かってもなお、桓騎の信を愛する気持ちが揺らぐことはなかった。

自分こそが救いようのないバカだと、桓騎は引き攣った笑みを浮かべる。

彼女にとって自分が李牧の身代わりなのだとしたら、その役目を全うするべきだ。それは信のためではない。信に愛されるためであって、他でもない自分のためである。

「李牧にされたこと、俺が全部やってやるよ。俺はあいつの身代わりだから・・・・・・・・・・・・・な」

「…!」

その言葉が、信の胸に重く圧し掛かったのは、彼女の表情を見ればわかった。

ざまあみろと歯を剥き出して笑ってやれたのならと思うのだが、切なさで胸が満ちているせいか、上手く笑みを繕えない。

「桓騎ッ、やめろ…!」

再び律動が始まったことに、信が焦燥の表情を浮かべる。

身代わりになることを選んだというのに、一切喜ぶ様子のない信に、桓騎はやるせなさを覚える。
しかし、その気持ちとは裏腹に、腰は軽快に動いた。

「やああッ」

喜悦に染まった声が上がった。それは紛れもなく、女の声だった。

最奥を突き上げた時に、こつりと何かが亀頭に触れる。それが女にしかない尊い臓器だと分かると、桓騎は夢中でそこを突いた。

「ぁあっ、や、めッ、ぁああ」

上体を覆い被さるようにして、まだ逃げようと抵抗を続ける信の体を強く抱き押さえる。

黒髪を振り乱して体を痙攣させるところを見れば、急所を突いているのだと分かった。

濡れた瞳と視線が絡み合う。耐え難い苦悶に眉根を寄せながら泣いている表情が愛おしくて、もっと壊してやりたいという想いに駆られた。

初めから李牧の身代わりであることを潔く受け入れていたのなら、信は抵抗することなく、その身を委ねてくれたのだろうか。今となってはもう分からない。

「ぁぐッ…!」

両手首を押さえていた手で、男根を咥え込んでいる腹を圧迫してやると、外側と内側から圧迫される刺激によって、信の体が大きく仰け反った。

「ぐる、しぃ…」

許しを乞うように、信が涙で濡れた瞳で見上げて来る。

絶対に許さない。自分が味わった苦しみを、信も同じ分だけ味わえば良いと思った。それが自分が李牧の身代わりとなる条件だ。

もっと苦しめと心の中で呟きながら、桓騎は力強く彼女の体を抱き込む。
すでに彼女の最奥まで貫いているはずなのに、さらに奥へと進みたくて腰を突き出した。

「はッ…はあッ、ぁあっ、ああぅ」

苦悶を浮かべていた信の顔が徐々に蕩けていく変化を、桓騎は見逃さなかった。

腹の底から込み上げて来る快楽に、桓騎も絶頂へ上り詰めることしか考えられなくなっていく。

激しい律動を繰り返していると、信が縋るものを探して桓騎の背中に腕を回して来た。情事中の彼女の癖なのだろうか。

今だけは、自分を求めてくれている。

その事実さえあれば、桓騎はこのまま死んでも良かった。もちろん信も道連れにして。

 

身代わり その二

「ぁ、ま、待て、ほんとに、も、やめろ…!」

荒い呼吸の合間に、信が上擦った声で言葉を紡いだ。

背中に回していた手で、覆い被さっている桓騎の体を押し返そうと肩を掴んだものの、その手にはほとんど力が入っていなかった。

「抜けっ、もう抜けってば!」

犯されている体は今も喜悦の反応を見せているが、彼女の中にある強固な意志は決してそれを許さないようだ。信らしいと桓騎は笑った。

「放せって…!」

自分の体を力強く抱き締めて放さない桓騎の腕に、信が何度も同じことを訴える。それが無意味なことだと何故気づけないのだろう。

信はどんな負け戦でも最後まで諦めない不屈の精神を持つ女だが、状況と相手が悪かった。
どうにかして深い結合を解こうと腰を捩る姿に、さらに嗜虐心が煽られる。

ずっと恋い焦がれて止まなかった女を、この腕に抱いているのだ。途中でやめられるはずがない。

「李牧には、自分から足開いてたんだろ」

信の瞳に怯えが走った。
自ら男根を手で愛撫して、口淫まで行った信を見れば嫌でも分かる。あれは男を喜ばせる術であり、李牧に行っていたのだろう。

それを彼女に教えたのが李牧なのか、他の男なのかは分からない。もしかしたら誰に教わった訳でもなく、信が男を誘う才を芽吹かせただけなのかもしれないが、もうそんなことはどうでも良かった。

「いや、いやだッ」

さらに力強く信の体を抱き込むと、桓騎は容赦なく腰を突き出した。

子供のように泣きじゃくりながら信が腕の中で力なく暴れ出すが、結合が解ける気配はなく、桓騎の体を押し退けられないと分かると、小癪にもまだ抵抗を続けるつもりなのか、腕や背中に爪を立てて来た。

「や、ッ…桓騎、頼むから、話を…」

「今さら話すことなんて何もねえだろ」

弁解も哀訴も聞きたくないと、桓騎は彼女の口を己の唇で塞いだ。

「んんッ…!」

くぐもった声を上げた信が、まだ何か言おうとしているのだと分かると、桓騎は口内に舌を差し込んで今度こそ言葉を奪った。

もう何も聞きたくないと、桓騎は彼女の赤い舌に容赦なく歯を立てる。

「ん、ふ…」

再び口の中に血の味が広がって、自分たちに相応しい口づけの味だと桓騎は嘲笑を浮かべた。

血の味で嗜虐心がさらに煽られると、桓騎はいよいよ彼女の中に子種を植え付けるために腰を打ち付ける。

張り詰めた男根が、何度も淫華の奥にある子宮の入り口を何度も穿った。

桓騎が今行っているのは、紛うことなき凌辱だった。

 

 

「んっ…!んんッ、ん…ぅ」

信の悲鳴の中にも、僅かに被虐の喜悦の色が浮かんでいることを桓騎は感じ取っていた。

想いが通じ合わないとしても、彼女が自分を男として受け入れている。

それは桓騎が幼い頃から望んでいたことで、まさかこんな凌辱の中で夢が叶うとは思っていなかった。

「はあッ…はあ…」

息が苦しくなって口を離すと、信が大口を開けて呼吸をしていた。涙を流し続けるその顔は、憎らしいほど淫蕩が増していた。

「あっ、あぁっ、やだ、やめろっ、はなせ、だめだって、頼むから」

射精に向けた昂進に、信が哀願を振り絞る。
疲労のせいで抵抗もままならないのだろう。声を上げるのが精一杯といった様子だった。
言葉とは裏腹に、男根を咥え込んでいる信の淫華が、子種を求めてきゅうきゅうと締め付けて来る。

「中で出すからな」

腹の底から駆け上がる吐精の衝迫に、堪らず呟くと、信が青ざめたのが分かった。

李牧の身代わりとして、信が彼にされたことを全てやるつもりだったが、こればかりは嫌がらせだった。

彼女に今も子がいないことから、腹に子種を植え付けられたことはないのだろう。それは桓騎にとってとても都合が良かった。

どれだけ李牧のことを想っていたとしても、信が身籠るのは他でもない自分の子である。

嫌でも自分という存在を意識して生きなくてはならない。これは自分の好意を利用した信の贖罪だ。一生をかけて償えと桓騎は心の中で吐き捨てた。

「やだ!やめろッ、やだあぁッ」

悲鳴を上げながら、必死に逃げようとする信の細腰をしっかりと両手で捉える。一番奥深くまで性器を密着させた状態で、尚も先に進もうと腰を揺すり続けた。

「あッ…やぁああーッ」

信の体が弓なりに反り返ると、子種を全て吸い尽くすかのように、男根を痛いくらいに締め上げた。

「ッ…!」

眩暈がするほど凄まじい快楽が全身を貫いたのと同時に、桓騎の下腹部が痙攣を起こした。痙攣に合わせて、精液が何度かに分けて吐き出されていく。

快楽の波に意識が飛ばぬよう、縋りつくものを探して、彼女の身体を腕の中に閉じ込める。
吐精が終わるまで、桓騎は彼女の身体を強く抱き締めたまま動かずにいた。

「…ぁ、あ…う、嘘…」

子宮に子種を植え付けられる、女にしか分からない感覚に、信の顔が絶望に染まっていく。
絶頂の余韻と、家族のように想っていた男から犯された事実に、瞳から止めどなく涙を流している。

きっと李牧には、その表情を見せたことはなかったに違いない。

そう思うと、李牧の身代わりだと知ってから切なさでいっぱいだった桓騎の胸は、不思議と優越感で慰められた。

 

夜明け

一度目の絶頂を迎えた頃はまだ真夜中だったが、今では灰青色の夜明けの光が室内に入り込んで来ていた。

もう何度絶頂を迎えたのか、信も桓騎も覚えていない。繰り返し抽挿する男根も淫華も擦れて赤くなり、どちらの性器も焼けつくような痛みがあるだけでなく、敏感になっていた。

信の中に植え付けた子種も、桓騎が腰を揺する度に逆流して、二人が繋がっている僅かな隙間から零れている。

後背位や騎乗位など様々な体位で繋がっては、何度も信の中で吐精して、信も甲高い声を上げて絶頂を迎えた。

いつまでも繋がったままでいたいと思うし、しかし、体を繋げていれば、腰を動かさずにはいられない。

「も、無理ッ…だって、ぇッ…!」

止めどなく涙を流しながら、信が力なく桓騎の体を押し退けようとする。

覆い被さるように彼女に抱き締めながら、桓騎はうるさい口を黙らせようと、唇で蓋をした。

「んんッ、んッ…!」

信が嫌がって首を振る。舌を差し込んだが、もう噛みつく気力すら残っていないらしい。

ずっと水分も摂らず、性の獣に成り果ててしまったかのように交わりあっているせいで、濃い唾液を絡め合った。

もうやめてくれと信が許しを請う度に、より一層苦しめてやりたくなる。

自分が味わった苦しみを信に思い知らせれば、少しは気が晴れると思ったが、余計に虚しさが駆り立てられるばかりだった。

「あ…ぅ…」

激しい凌辱によって、ついに気を失ったのか、信がぐったりと動かなくなる。閉ざされた瞼が鈍く動いていたが、目を覚ますことはなかった。

「っ…」

ゆっくりと腰を引くと、中で吐き出した精液が逆流して溢れ出て来た。
尻や内腿を伝っていく精液を指で抄うと、桓騎は迷うことなく、潤んで充血している中へと押し込んだ。

確実に子種を実らせようと、指を使って自分の精液を中に塗り付ける。何度も男根を突き上げてやった子宮口には念入りに擦り付けた。

どれだけ自分を拒絶をしたとしても、内側から芽吹いた種は、その身に根を張っていくのだ。容易には取り除けないほどに。

自分の子を身籠った信は、一体どんな顔を見せてくれるのだろう。我が子ですら、李牧の身代わりとして扱うのだろうか。

「クソ…!」

きっと信は、李牧の代わりになるのなら、自分じゃなくても良かったに違いない。今まで信へ向けていた純粋な好意を、利用という形で踏み躙られた。

彼女が腹の内に黒いものを抱えていることに気付けなかったのは自分の失態だが、どこまでも自分を苦しめる残酷な女だと思った。

意識を失ってからも涙を流し続けている信の寝顔を見下ろして、やるせなさが込み上げて来た。

李牧の身代わりとして自分を利用していた信のことが憎いはずなのに、それを上回る愛情が、桓騎の心を惑わせる。

憎しみに靄が掛かってしまうのは、これだけ残酷な仕打ちをされても、信を愛しているからだ。

「…信…」

彼女の身体を強く抱き締め、桓騎は彼女の首筋に顔を埋める。

幼い頃はこうやって甘えれば、穏やかに笑んだ信が抱き締め返してくれて、眠りに就くまでずっと背中を擦ってくれた。

あの頃から、信は自分を李牧の身代わりとして見ていたのだろうか。李牧の身代わりにするために雨の中で倒れていた自分を保護したのだろうか。

目頭がじんと沁みるように熱くなり、桓騎は強く目を閉じた。

 

 

朝陽が昇り、二人きりの時間は強制的に終止符を打たれた。

信の看病を命じられた女官が部屋を訪れたことで、信を抱き締めながら眠っていた桓騎は部屋から追い出されたのである。

その後、桓騎が信の部屋に侵入したことがきっかけになったのか、療養のために宛がわれたあの一室には見張りの兵がつくようになった。

熱が出ていた身体に無理を強いたことが原因で、どうやら信の体調が悪化してしまったらしい。医師が慌ただしく部屋を出入りしている姿を幾度か見かけた。

ろくに水分も摂らずに激しい情事を続けていたのだから当然だ。冷静になった頭で、桓騎は今さらながらに後悔と罪悪感を抱いた。

合意の上だったのかと問われれば、素直に首を縦に振ることは出来ない。

しかし、熱と疲労で朦朧としながらも、信は桓騎と共に寝台に横たわっていたのを目撃した女官を説得してくれたようで、桓騎に処分が下されることはなかった。

合意もない上に、熱を出して弱っている彼女の寝込みを襲ったとなれば、秦王嬴政からすぐにでも斬首を命じられたかもしれない。嬴政がそれほど親友の存在を大切に想っていることは桓騎も昔から知っていた。

此度の件が嬴政の耳に入るのを信が事前に阻止したのか、その後も特にお咎めはなかった。

自分のことが嫌になったのなら、さっさと嬴政に事実を告げて斬首にすれば良いのに、どうして信はそうしなかったのだろう。

女として男に犯された事実を他の者に告げたくなかったのか、それとも将として、桓騎という軍力を失いたくなかったのか。もしくはまた別の理由があるのかもしれない。

真意を確かめたかったが、ただでさえ秦王がいる宮廷内には見張りの兵が多いので、窓からの侵入は困難だろう。

見張りの兵を上手く唆して無理に押し通っても良かったが、そんなことをしたら、さすがに信も怒り狂うことになるだろう。次は嬴政に報告して斬首の運びに持っていくかもしれない。

(上手くいかねえな…)

こうなれば、ほとぼりが冷めるまでは時間と距離を置くしかない。

熱が出ていた体に無理強いをしたことを謝罪するつもりはあったが、彼女と身を繋げたことに関しては少しも後悔していないし、自分を李牧の身代わりとして利用していたことを許すつもりはなかった。

 

敵対心

三日ほど経ってから、桓騎は再び宮廷へと訪れた。

回廊を進んで信が療養している部屋に向かっていると、扉の前で兵が見張りを行っている。
まだ信があの部屋で療養していることが分かると、桓騎の中で複雑な想いが浮かんだ。

軽快したという報せは聞いていなかったし、むしろあの夜のことがきっかけになって今もまだ寝込んでいるのではないかと心配だった。

彼女の顔を一目見られればそれで良かった。きっと信にしてみれば、自分とは二度と会いたくないと思っているかもしれない。
もしかしたら、自分の顔を見たら即座に斬りかかって来るかもしれない。

彼女に殺されるなら、信がその人生を全うする最期の瞬間まで、自分を忘れさせぬよう、呪いの言葉を吐いて死んでやろうと思った。

(さて、どうするか…)

柱の陰に身を潜めて、扉の前にいる見張りの兵をどのようにして追い払うか考えていると、部屋から何者かが出て来た。

見張りの兵が礼儀正しく一礼したその人物に、桓騎は思わず目を見開く。

(は…?)

なぜか信の部屋から、趙の宰相である李牧が出て来たのである。桓騎は思わず睨みつけるようにして目を吊り上げた。

(なんであいつが…)

趙の一行は未だこの宮廷に留まっている。秦趙同盟を結んだ暁に、丞相の呂不韋から咸陽の観光を勧められて、予定以上の滞在になっているという話は噂で聞いていた。

宮廷にいることは不思議ではないのだが、なぜ信が療養している部屋からあの男が出て来たのだろう。

「…!」

柱の陰に身を潜めていたのだが、李牧の存在に驚いて身を乗り出していたことで、向こうもこちらの気配に気付いたらしい。

目が合ってしまい、桓騎は咄嗟に顔ごと視線を逸らした。その場から立ち去ることも出来たのに、なぜか桓騎の足は杭に打たれたかのように動かない。

護衛も連れず、李牧は一人で信に会いに来たようだった。彼が信と会っていたことは安易に予想出来たが、一体何を話していたのだろう。

優雅な足取りでこちらに近づいて来る。
先日のように、そこにいない者として素通りされるのかとばかり思っていたが、今日は違った。

「あなたが桓騎ですね」

桓騎のすぐ前までやって来た李牧が、まるで天気の話題でも出すかのように、明るい声色で問い掛けた。

先日、信に声を掛けて来た時にも感じたが、彼は一見ただの優男に見えて、中には触れてはいけない何かを抱えている。

それはきっと、鋭い刃の切先のような、安易に触れようとした者の手をたちまち傷をつけてる棘のようなものに違いない。

「………」

返事の代わりに睨みを送ってやると、まるで挑発するかのように、李牧が人の良さそうな笑みを深めた。

「信の体調が悪いと聞いたので、見舞いに来たのですよ」

こちらは何も聞いていないというのに、李牧は信に会った目的を話し始めた。

信に熱があることを指摘したのは確かに李牧だ。宴の夜から体調が悪化したことを何処からか聞いたのだろう。
秦王の勅令もあって侍女が看病に就いていたくらいなのだから、噂が広まっていたのかもしれない。

李牧がその場を去ろうとしないことから、まだ何か用があるのかと桓騎は眉根を潜めた。
僅かに身を屈めて、桓騎の耳元に口を寄せて来た李牧が、

「せっかく恋い焦がれて止まなかった彼女を抱いたというのに、随分と辛そうな顔をしていますね?」

「ッ…」

声を潜めてそう言ったので、桓騎は弾かれたように顔を上げる。まるでその反応を予想していたかのように、李牧が目を細めた。

初めに思ったのは、信が李牧にあの夜のことを告げたのかという疑問だった。
動揺のあまり、聞き返すことも出来ずに桓騎が李牧をじっと見据えていると、彼は信が療養している部屋の方に視線を向けた。

「信が求めていたのは、貴方ではなかったということですね」

その反応を見れば分かりますと、勝ち誇ったような笑みを向けられて、目の奥が燃えるように熱くなる。

桓騎の怒りを煽るかのように、李牧は静かに言葉を紡いだ。

「…彼女に破瓜の痛みを、男を喜ばせる術を教えたのは私ですよ。そして、今でも・・・彼女は私のことを求めている」

顎が砕けるのではないかと思うほど、桓騎は無意識のうちに歯を食い縛っていた。

もしも今、剣を手にしていたのなら、間違いなく目の前の男の首を斬り落としていただろう。両手が拳を作っていなかったら、その首を締め上げていたに違いない。

怒りに打ち震えたまま沈黙する桓騎に、今度はまるで同情するかのような、慈しむ視線を向けて来た。

「信にとって、あなたは、私の代わりでしかない」

その残酷な事実は、信と李牧の関係を知ったことで桓騎自らが掴み取った結論でもある。まさか、よりにもよって李牧から聞かされることになるとは思わなかった。

怒りが胸に渦を巻いており、ぐらりと眩暈がした。
しっかりと両足で立っているはずなのに、視界だけが揺れていて、吐き気が込み上げて来る。

「………」

回廊から空を見上げ、まるで墨絵のような雲が空を閉ざし始めていくのを李牧は黙って見つめていた。

やがて、雨が地を打ち始める。
今朝までは晴れていたというのに、陰鬱な天気になったことに、桓騎は空が自分の代わりに泣いてくれているのかと思った。

「…そういえば、私が彼女のもとを去ったあの日・・・も、雨が降っていました」

独り言のようにそう囁くと、李牧は桓騎から興味を失ったかのように歩き始めた。

その場に残された桓騎は雨の音を聞きながら、泣いている空を見上げる。堰を切ったかのように、雨はどんどん強まっていった。

「………」

そういえば、自分が信と出会った日もこんな雨だったと、桓騎はぼんやりと考えた。

 

雨の日

信が自分を見つけて保護してくれたあの日、彼女はトウ ※傘を二本持っていた。

一つは自分たちが濡れないように差していたが、もう一つは足下に転がっていた。

あの場に居たのは信と自分だけで、あの簦の持ち主は誰だったのか、桓騎はずっと答えを知らずにいた。

―――…そういえば、私が彼女のもとを去ったあの日・・・も、雨が降っていました。

先ほどの李牧の言葉を照らし合わせ、桓騎はいよいよ立っていられずに、その場に座り込んでしまう。

簦を差して雨を凌いでいたはずの信の頬が何故か濡れていたことも、全てが繋がった。

桓騎が信と出会ったあの日、李牧が信のもとを去っていたとしたら?

優しい性格の彼女のことだから、雨で濡れないよう、李牧に簦を届けようとしたのだろうか。それとも李牧を引き止めるために追い掛けていたのだろうか。

「…く、くくっ…」

柱に背中を預けながら、桓騎は引き攣った笑みを浮かべていた。
回廊には丈夫な屋根があり、雨は降り注いでいないはずなのに、幾つもの雫が頬を伝っていく。

「くく、はは…ははッ…は…」

乾いた笑いが止まらない。頬を伝う雫もいつまでも止まらなかった。

信にとって、自分が李牧の身代わりであることを、心のどこかでは拒絶していたのだ。

しかし、あの雨の日に李牧が信のもとを去り、それがきっかけとなって自分が保護されたのだとしたら、その残酷な事実を認めるしかない。

秦軍の知将と名高い桓騎が回廊に座り込んで泣き笑いをしている奇妙な光景に、通りすがりの女官や兵たちが好奇の目を向けている。しかし、誰も声を掛けようとしない。

(結局、何も変わらねえ)

地位や名誉を手に入れたところで、結局は自分の力で立たないといけないのだ。

信と出会うよりも、その残酷な事実をずっと前から知っていたはずなのに、心の中ではいつも縋るものを探していた。

信は素性も分からぬ自分を怪しむことなく、一人の人間として扱ってくれて、この身が汚れていようとも、構わずに抱き締めてくれた。

そんな彼女だったから、身も心も、命すらも差し出せたのに。

いっそ李牧の身代わりとして彼女の傍で生き続けると開き直れたらと思ったが、信は凌辱を強いた自分を見限ったに違いない。しかし、秦王に告げ口をしなかったのは、彼女なりの慈悲なのだろう。

(信…)

もう二度と彼女から口を利いてもらえず、目も合わせてもらえないのなら、このまま生きていても意味などない気がした。桓騎にとって、信の存在だけが生きる理由だった。

潔く、秦王に信を凌辱したことを告げて、斬首にしてもらった方が手っ取り早く楽になれるかもしれない。

俯いたままの桓騎が静かに鼻を啜っていると、

「…桓騎、お前…泣いてんのか?」

上から聞き覚えのある声が降って来て、真っ赤に泣き腫らした瞳で桓騎は声の主を見上げる。

相変わらずこちらの気持ちも考えず、無神経に顔を覗き込んで来る女の顔を見て、桓騎は無性に苛立った。

同時に、それを上回る愛おしさが込み上げた。

 

中編③(李牧×信)はこちら

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初恋の行方(蒙恬×信)後日編・前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

本編はこちら

 

目覚め

このお話は本編の後日編です。

 

温かい日差しが瞼に刺さり、ゆっくりと目を開けると、最愛の女の寝顔がそこにあった。

「………」

自分の腕の中で、その身を委ねている彼女を見て、蒙恬は昨夜の出来事が夢でなかったことを確信する。

初めて身を交えた後、信本人にも夢じゃないか確認して思いきり頬を抓られたが、その痛みさえも幻なのではないかと蒙恬は思っていた。

しかし、今腕の中にある温もりは紛れもなく本物である。蒙恬は夢だと疑うことをやめた。もしも今さら夢だと言われても、絶対に認めるつもりはなかった。

(よかった)

腕の中で寝息を立てている信の表情が安らいでいることから、昨夜の情事が彼女に重い負担を掛けなかったことを察する。

破瓜を破った時はさすがの彼女もその痛みに涙を流していたが、その痛みを長引かせるような無粋な真似はしなかった。

いつか恋い焦がれて止まない彼女と身を繋げることを夢見て、数々の女性と夜の経験を積んで来たのだから、その成果が発揮されたのだと言ってもいい。

長年の片想いが実った優越感に胸を膨らむのと同時に、たった一度だけで彼女を解放できた自分の性欲統制に驕傲きょうごうした。

しかし、疲労が残っているのか、信はまだ目を覚ます気配がない。

(…可愛い)

眠っている彼女の前髪を指で撫でながら、蒙恬はその寝顔につい見惚れてしまう。

戦場の天幕で眠っていた時の彼女は気を張り詰めているせいか、こんな穏やかな寝顔ではなかったのだが、今は安心し切っているのだろう。

自分よりも年上である彼女は、眠るとより幼く見える。
初めて出会った時の信は、誰が見ても少年の風貌をしていて、男だと疑わなかった。しかし、その後は体が成長するにつれて、信はどんどん女性らしくなっていった。

口調や振る舞いは凛々しいままで変わらないのだが、今の彼女を見て男だと間違える者はいないだろう。

信が奴隷商人から助けてくれたあの日、軍師学校を首席で卒業して立派な将軍になったら信を娶るという約束を交わした。

彼女に相応しい男になるために奮励したことで、幼い頃は少女だと誤解され、奴隷商人に目をつけられたことのある蒙恬も、今では男らしく成長した。

将軍昇格となったのは此度の論功行賞であり、未だ彼女を超えるような活躍はまだしていない。

しかし、彼女は自分と同じ想いだったのだから、あの日の約束はめでたく叶ったと言っても良いだろう。

婚姻の衣装は何色で仕立ててもらおうか、蒙恬が幸福な未来に思いを馳せていると、腕の中の信が僅かに身じろいだ。

その瞼が持ち上がると、寝起きのとろんとした瞳が現れた。

「おはよ、信」

穏やかに声を掛けると、頷くのと同時に、信の瞼が再び閉ざされてしまう。まだ眠いのだろう。

「ん…」

まるで一つの動作のように、自分の胸に顔を埋め直し、すぐに寝息を立て始めた彼女に、蒙恬は堪らなく愛おしさが込み上げた。

信の前髪を掻き上げて、蒙恬はその額に唇を落とす。

こんな愛情表現は、今まで夜を共に過ごした女性たちには一度もしなかったのだが、信を前にすると体が自然と動いてしまう。全身が無意識に彼女を求めているのかもしれない。

宮廷では引き続き、今日も祝宴が開かれるだろう。信も自分もしばらく将軍としての執務は入らないに違いない。

二人でゆっくりと過ごせる貴重な時間をどう活用しようか、幸福な悩みに思考を巡らせながら、蒙恬も瞼を下ろした。

 

異変

次に目を覚ました時には、とっくに昼を回っていた。

昨夜の酒のせいか、それとも寝過ぎたせいか、重い頭を抱えながら身を起こす。腕の中で眠っていた信がいなくなっていると気づいたのはその時だった。

「…信?」

辺りを見渡すが、部屋の中にも彼女はいない。どうやら先に起きて部屋を出て行ってしまったようだ。

今は宴に出ているのだろうか。もしかしたら宮廷でもらい湯をしているのかもしれない。
手早く身支度を整えると、信を探すために部屋を後にした。

蒙恬は此度の戦で将軍昇格となったこともあり、今日も宴に顔を出さなくてはならないだろう。

宴の席に戻れば、楽華隊や他の者たちから祝杯を挙げられる。昨夜もそれなりに飲まされたというのに、しばらくは酒と縁が切れない日々が続きそうだ。

(信、どこに行ったんだろ)

家臣たちに捕まる前に、信の姿を一目見たかった。
褥の中では寝顔を堪能していたが、昨夜のことがあったので、今日はゆっくり休むようにと言葉を掛けたかった。

もしかしたら信は秦王嬴政に会いに行ったのかもしれない。

信と蒙恬が互いを想う気持ちは同じだったはずなのに、信は下賤の出である素性を気にしており、前向きな返事が出来ずにいた。

その誤解が解けなければ、二人とも伍長に降格だという勅令を昨夜、嬴政から受けていたので、信としてはなんとしてもそれを阻止したかったのだろう。

秦王と謁見をする場合、本来ならそれなりの手順を踏まなくてはならないが、信の場合は別だ。

二人が親友という関係で結ばれていることから、そういった手順を省略して、嬴政の都合も構わずに会うことが出来る。秦国でそんな大それたことが出来るのは信だけだろう。

彼女が嬴政に見初められなくて本当に良かったと、蒙恬は何度も胸を撫で下ろしていると、ちょうど回廊の向こうから信が歩いて来るのが見えた。

「あ、信!」

声を掛けて駆け寄ると、信があからさまに顔を強張らせ、その場に立ち止まる。

穏やかに笑んだ蒙恬が体調は変わりないか気遣おうとした瞬間、信は不自然に背を向けて、そのまま走り去ってしまう。

「…えっ?」

自分から逃げたとしか思えない信の行動に、思考が混乱する。
驚愕のあまり、蒙恬は追い掛けることを忘れて足を止め、しばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。

 

 

信の行動は気がかりだったが、何か急用を思い出したのだろうと無理やり自分を納得させ、蒙恬は宴の間へと向かう。

昨日から続いている宴は今日も賑わいを見せていた。蒙恬も楽華隊や家臣たちにすぐに取り囲まれ、浴びるほど酒を飲ませられたのだが、祝宴の最後まで信が姿を現わすことはなかった。

宴が終わってから、秦王から伍長に降格するといった勅令は来なかったし、やはり信自ら嬴政に誤解を解いたことを告げに行ったのかもしれない。

だが、あからさまに彼女が自分を避けたあの行動だけは不可解だった。

宴に参加していた飛信軍の副官たちから話によると、まだ宴が終わらないうちに、信は先に屋敷へ戻ったのだという。

酒を飲み交わしながら、仲間と談笑をするのが好きな彼女が宴を途中で抜け出すだなんて珍しいと、飛信軍の者たちも驚いていた。自分との関係はまだ仲間たちに打ち明けていないようだった。

(信…どうしたんだろう)

やはりあの夜のことが関わっているとしか思えない。

宮廷の回廊で会った時、体調が悪いようには見えなかったが、やはり無理をさせてしまったのだろうか。

彼女は周りに心配を掛けまいと無茶をする癖がある。戦で深手を負っているというのに、自分よりも重症な者の手当てを優先するよう救護班に指示を出すくらいだ。

戦以外でもその無茶をする癖があることを、彼女を傍で見ていた蒙恬は知っていた。

厄介なのは嘘を吐くのが苦手なくせに、本音を隠すことを得意としていることだ。
本当は自分と同じ気持ちだったのに、身分差を気にして、幾度も蒙恬を遠ざけようとしたいたのが何よりの証拠である。

もしかしたら、まだ何か本音を隠しているのだろうか。心配の気持ちが膨らんでいき、蒙恬の心が波立つ。

あの夜、信は自分に破瓜を捧げてくれた。下賤の出である自分の立場を蔑むために、ずっと処女だったことを隠していたのだ。

顔も名も知らぬ男たちの使い古しだと信が嘘を吐いたのは、自分との婚姻を諦めさせるためだったらしい。

それまでも執拗に信が自分を諦めさせようとしていたのは、名家の嫡男である蒙恬に対し、下賤の出である身分差を気にしてのことだった。

しかし、信に向けている気持ちが、たかがその程度で揺らぐことはない。

その程度で諦め切れるのなら、最初から約束なんてしなかった。幼い頃に交わしたあの約束が、蒙恬にとっては全てだったのだ。

 

相違

その後も信と会うことが出来ず、あっという間に一月が経過してしまった。

せめて体調を気遣いたかったのだが、さすがにこれだけの月日を重ねれば、信も普段通りに戻っているだろう。

しかし、飛信軍の鍛錬を指揮している場にも、屋敷にも信はおらず、何度会いに行っても不在だと言われてしまう。

さすがに一度も会えないことに、違和感を抱き始めていた。

(まさか俺、避けられてるんじゃ…?)

将軍という立場上、信がいつも暇を持て余している訳ではないのは理解しているのだが、それにしてもここまで会えないのは不自然過ぎる。

現在は領土視察の任務もないと聞いたし、だとすれば私用を建前にして、自分から逃げているのではないだろうか。

彼女から避けられるようなことをしたかと問われれば、あの夜のことしか思いつかない。

やはり自分が思っている以上に、無理をさせてしまったのだろうか。

信は男に抱かれた経験があるように振る舞っていたのだが、実は処女だった。
下賤の出である自分を卑下するために信は男と経験があるように演技をしていただけで、蒙恬はすっかりそれを鵜呑みにして、身を結ぶまで処女だと気づけなかったのである。

褥ではお互いに同じ想いであったことを確かめたのだが、信が処女であることを隠していたように、もしかしたら好きだと言ってくれたのも嘘だったのだろうか。

それは信本人にしか確かめようがないことだ。頭では分かっているというのに、耐え難い不安に襲われる。

屋敷を訪れたところで、いつものように不在だと門前払いを受けるのは目に見えていた。
だとすれば、彼女の行動を先読みして接触する他ない。

「………」

蒙恬は口元に手を当てながら、信に確実に会える方法を探り出した。

将軍昇格となってから初めて練る軍略が、まさか愛する女と会うためのものだとは、さすがの蒙恬も予想していなかった。

 

焦燥感

飛信軍の鍛錬を終えた信は屋敷に戻ると、汚れた体を清めるために風呂に入った。

汗と土埃を落とせればそれで良かったのだが、王騎の養子として引き取られた時から世話をしてくれている侍女が今日も浴槽に花を浮かべてくれていた。

浴槽に浮かんでいる赤い花は、生前王騎も好んでおり、屋敷の庭に咲いているものであったので、信も見慣れている花だった。

体の汚れを落としてから湯に浸かると、口から勝手に長い息が零れた。

「………」

広い浴槽の中で信は膝を抱えて、誰に見られる訳でもないというのに、俯いて表情を隠した。

脳裏に浮かぶのは蒙恬のことだった。

彼の将軍昇格が決まったあの日、初めて彼と身を繋げた。
幼い頃に交わした自分との約束を果たすために、蒙恬がずっと努力をしていたことを信は知っていたし、同時にそこまで自分を想ってくれているのかと驚いた。

蒙家の嫡男である彼と、下賤の出である自分。こんな身分違いな婚姻は前代未聞だろう。しかも、※愛人でないというのだから、尚更だ。

下賤の出である自分が蒙家に嫁ぐなど、名家の顔に泥を塗る行為だと蒙一族から大反対されるに違いないとばかり思っていた。

信が王騎の養子として引き取られた時も、王一族からの風当たりはかなり強かった。今でも信の存在を快く思っていない者もいる。

同じ一族の者たちから、王騎が酷い言葉を掛けられていたことも信は知っていたし、自分のせいで蒙恬も同じように心無い言葉を言われてしまうのではないかという不安があった。

しかし、蒙恬は自分と交わした約束を父の蒙武から承諾を得るという事前の手回しをしており、その延長で家臣たちも説得していたらしい。

将軍昇格の決め手となった知将の才は、そういった面でも発揮されたという訳だ。

「っ…」

信は浴槽の熱い湯で顔を洗った。
あの日を終えてから、一方的に距離を置いていることを、賢い蒙恬はすぐに気づいたに違いない。

朝を迎えてから、一度も会話らしい会話を交わしていないのだ。
褥の中で一度、声を掛けられたような気がしたが、眠気に勝てずに返事をしたかどうかも覚えていない。

自分との約束を果たすために努力を怠らずにいた蒙恬が、自分を避けていることを不審に思っているに違いない。

―――信が下僕出身だから、俺が蒙家の嫡男だから、そんなのはもう聞き飽きた!信が本当に思ってることを知りたい!教えろよ!言ってくれなきゃわからないだろ!

あの時の蒙恬の言葉が蘇る。
本音を言わないまま、ずっと蒙恬の想いに応えずにいたのは自分でも卑怯だと思った。

蒙恬のため、蒙家の未来を想えばこそ、本気で拒絶することだって出来たはずなのに、それが出来なかったのは自分も蒙恬のことを愛しているからだ。

成長してもなお、蒙恬が自分を好きでいてくれることに、心の底では喜悦を覚えていた。

本当は、蒙恬が自分のことを嫌いになるはずがないと愉悦を抱きながら、自分たちの身分差を理由に偉そうな建前を述べていたのである。

いずれ蒙恬が自分以外の女性と婚姻を決めたのなら、その時は心から祝福するつもりだったし、誰もいないところで失恋の傷が癒えるまで大声で泣くつもりだった。

蒙恬が自分を選んでくれたことに、信は今でもあの夜のことが夢だったのではないかと思ってしまう。

あの日から彼を避ける理由は他に・・あるのだが、いつまでもこのままではいけないという気持ちが焦燥感となって信を包み込んでいた。

「ん…」

温かい湯に包まれながら、信は抱えた膝を擦り合わせた。

あの夜を経てから、下腹部が切なく疼くことがある。それは決まって一人の時、そして蒙恬と肌を重ね合わせた時のことを思い出す時である。

蒙恬が囁いてくれた言葉、重ねた唇の柔らかい感触、蒙恬が触れた場所、破瓜の痛みや、男根を受け入れている感触、腹の内側を抉られる甘い感覚。

まるで昨日のことのように思い出せるし、蒙恬の顔を見る度に、瞼の裏にその光景が蘇ってしまうのである。

 

確保

(のぼせた…)

長湯をしてしまい、信は真っ赤な顔でふらふらと部屋に戻った。

水を飲んでから、奥にある寝台に倒れ込む。そういえば以前、髪を乾かさずにいたら蒙恬に叱られたことがあった。

蒙恬が千人将に昇格したばかりの頃だっただろうか。
飛信軍の下について活躍した蒙恬を労いに、酒を手土産にして蒙家の屋敷に訪れたことがあった。

道中、急な大雨に見舞われたせいで、ずぶ濡れになった信に驚き、彼は従者にすぐ風呂の手配をさせた。

女性が体を冷やすなと叱られて、用意された風呂に入った後に寛いでいると、きちんと髪を乾かさないと風邪を引くだろうと説教混じりにまた叱られてしまった。

その後で布で髪を乾かしてくれて、さらには櫛で髪を梳かしてくれたのである。

本来ならそのようなことは従者がやるべきだろうに、蒙恬は嬉々として譲らず、自らの手でやりたいと引かなかった。

侍女たちから羨望の眼差しを受けていたことは今でもよく覚えている。思えば、蒙恬は自分を嫁に迎えるという約束を交わした時から、自分を女として見ていたのだろう。

「…蒙恬…」

敷布に顔を埋めた信が目を閉じて、溜息を共に彼の名前を零した時だった。

「…あれ、気づいてたの?」

「あ?」

聞き覚えのある声が降って来た。

体を起こして辺りを見渡すと、部屋の隅にある衝立の裏から蒙恬が顔を出しており、信は心臓が止まりそうになった。

「う、うおおぉッ!?な、なんでここに!?」

幻かと思ったが、蒙恬の姿は消えることなく、信の前にやって来る。

本人だと気づいた信はすぐに寝台から起き上がって逃げようとしたのだが、それよりも先に蒙恬の両手が彼女の身体を押さえつけた。

「もう逃げるのはなし」

言いながら蒙恬が覆い被さって来たので、信は嫌でも逃げ道がないことを悟った。
まさかそれを計算して、蒙恬はここで待ち伏せていたのかもしれない。

「ぁ…う…」

気まずい空気を紛らわすために信が言葉を探していると、蒙恬が寂しそうな表情を浮かべていた。

 

 

「今度は何を隠してるの?」

ここまで追い詰めたというのに、信は小癪にも視線を泳がせていた。

やはりまた本音を隠しているのだと確信した蒙恬は、彼女の顔を両手でしっかりと押さえつけ、その視界に入り込む。

「信」

叱りつけるように低い声で名前を呼び、口づけをするくらい顔を寄せると、きゅっと眉根を寄せて、まるで祈るような表情で信が目を閉じてしまった。閉じた瞼が僅かに震えている。

怯えさせてしまっただろうかと蒙恬が顔を離すと、信が恐る恐るといった様子で目を開いていく。

蒙恬は苦笑を滲ませながら、捲し立てないように、ゆっくりと口を開いた。

「…俺のこと、嫌いになった?」

この質問をするのは、初めてではない。
将軍昇格が決まったあの夜は、嫌いになったなんて言っていないと即答してくれたというのに、信は言葉を選ぶかのように唇を戦慄かせ、結局は何も答えずに唇を噛み締めていた。

何も話そうとしない態度に、蒙恬はますます苛立つ。

「…言ってくれなきゃわかんないって、あの時も言っただろ」

もう信の前で幼稚な振る舞いはしたくなかったのだが、つい声を荒げてしまう。

「俺が嫌いになったのなら、ちゃんと言ってほしい」

諭すように、蒙恬はその言葉を投げ掛けた。

その言葉が沁みたのかは分からないが、信はようやく蒙恬と目を合わせてくれた。

「何も分かんないまま、信から避けられるの、…つらい」

堪えていた想いが次から次へと溢れて来る。

「落ち度があったなら、謝るし、二度としないって誓う。でも、それが何か教えてもくれないまま避けられたら、何を詫びたら良いか分からない」

「………」

「何も知らないで、ただ許してもらいたいからって理由で謝っても、そんなんじゃ許してくれないだろ」

信の眉根がきゅっと切なげに寄せられた。
彼女は誰にだって優しい女だ。だからこそ、自分を傷つけないようにと、本音を言わないことで、蒙恬を避ける行動を正当化しているのかもしれない。

だが、それではお互いに本当の気持ちは分からないままだ。

信が執拗に蒙恬からの気持ちに応えられないと話していた時だって、本音を隠していただけだった。今も本音を隠しているかもしれない。

信が嘘を吐けない素直な性格なのは昔から知っていたが、本音を言わないことを得意としていることも知っていた。

あの夜は信と想いが同じだったと分かり、夢中で彼女を愛していた。痛みを乗り越えてまで、自分に破瓜を捧げてくれたのだ。自分が気づかないところで彼女を傷つけてしまったかもしれない。

信が処女であることを隠していたため、もう少し前戯に時間を掛けるべきだったと後悔している。もしかしたら、そのことを信も引き摺っているのではないだろうか。

それとも、まだ下賤の出である立場を気にしているのだろうか。以前までの信が、ずっと蒙恬に約束の婚姻を諦めるよう説得を続けて来たのは、その身分差を気にしてのことだった。

父の蒙武は、信との約束に了承を得ていたし、他の家臣たちが反対したとしても蒙恬は構わなかった。

しかし、そこに信の気持ちも伴わなければ、また彼女を苦しめることになってしまう。

このまま避けられては、いつまでも信の気持ちは分からないままだ。だからこそ、蒙恬は彼女から本音を聞き出そうと必死になった。

 

本音

「………」

瞬き一つ見逃すまいと、蒙恬は信を見据えていた。

理由を話してくれるまで待つつもりではあったが、決して逃がす真似はしない。両手はずっと信の肩を掴んだまま放さなかった。

「…お…」

俯いたままでいる信がようやく口を開いたが、不自然に言葉が途切れてしまう。

「…?…え、なに?」

なるべく穏やかな口調を務めて聞き返す。

すると、前髪で隠れているはずの信の顔が、みるみるうちに顔を真っ赤にさせていくのが分かった。

意を決したように拳を握り、勢いよく顔を上げた信が、今にも泣きそうな表情で大きく口を開いた。

「お前を見ると、色々、思い出しちまって、…は、恥ずかしいんだよッ!」

信の叫びが室内に響き渡った。天井まで広くその声が反射する。

こだましていた声も聞こえなくなると、信の顔がますます赤くなり、もう耐え切れないと言わんばかりに再び俯いてしまう。

湯気が出そうなほど赤い顔をしている信と、彼女の言葉を理解するまで、蒙恬は呆気にとられた顔をしていた。

てっきり自分を避けだしたのは、こちらが気づかない間に彼女を傷つけてしまった何かが理由なのだとばかり思っていたのだが、まさか羞恥による理由だったことに蒙恬は驚いた。

蒙恬の聡明な頭脳でも、愛する女の考えだけは導き出すことが出来ない難問だったという訳だ。

さまざまな女性と褥を共にした経験はあるのだが、体を交えた途端に心を開いて、まるでたった一夜で夫婦にでもなったかのように彼女たちは甘えて来たというのに、信は違った。

自分との初夜を思い出しては恥じらい、つまりは自分のことをずっと意識してくれていたのだ。

心臓が激しく脈を打ち始め、顔が燃えるように上気していくのが分かった。

「ああ、もう…!いくら何でも、それは卑怯だって…!」

予想もしていなかった愛らし過ぎる本音に堪らず、蒙恬は信のことを抱き締める。彼女は一体何度、自分を惚れさせれば気が済むのだろうか。

ようやく本音を打ち明けたことでますます羞恥が込み上げたのか、信は腕の中でさらに縮こまってしまう。

信は羞恥で、蒙恬は歓喜で、顔を真っ赤に染めている。

耳まで真っ赤に染まっている互いの顔を見て、視線が絡み合うと、二人はぷっと噴き出し、それから声を上げて笑い始めた。

 

仲直り

誤解が解けたことで、蒙恬の胸に募っていた不安は跡形もなく消え去った。

「信」

蒙恬が信の体を抱き締める腕に力を籠める。信は少し驚いて体を強張らせたものの、すぐに背中に腕を回してくれた。

会えなかった時間を温もりで埋めるように、しばらく無言で抱き締め合ってから、蒙恬は肩口に埋めていた顔を上げた。

「信ってば、また髪濡れたままにしてる。ちゃんと乾かさないとダメだって言ったのに」

まだ濡れている髪を指で梳きながら指摘すると、信がむっとした表情になる。

「別にいいだろ。こんなんで風邪なんて引かねえよ」

「相変わらずだなあ…」

彼女が鍛錬の後に入浴をしていたことは分かっていた。
もちろんその機を狙って、蒙恬は堂々と彼女の屋敷にやって来たのである。今までの傾向から、自分が来たと知れば、信は兵たちに門前払いを命じるに違いない。

だからこそ、彼女が兵たちにそれを命じる前に、蒙恬は前もって屋敷へ侵入していたという訳である。

もう一度、信の体を抱き締めた蒙恬は、彼女の首筋に顔を埋めた。

「…ん、良い香り」

いつも浴槽に浮かべているという花の香りがその身に染みついており、まるで信自身が花であるかのように、香りを漂わせている。

香を着物に焚き染めた香りより、肌からじんわりと滲み出るこの香りの方が蒙恬は好みだった。

「か、嗅ぐなッ…!恥ずかしいだろッ」

羞恥のあまり、信は蒙恬の体を突き放そうとしたが、その両腕にはあまり力が入っておらず、本気で嫌がっていないことを悟らせる。

重ね合っている肌の下で、信の心臓が激しく脈打っているのが分かった。
敷布の上で信と指を絡め合い、蒙恬はそっと唇を重ねる。

「んっ…」

柔らかい唇の感触を味わったのは随分と久しぶりのことで、このまま離れるのが名残惜しく、蒙恬は何度も角度を変えて口づけを続ける。

少しでも気を許せば、すぐに舌を絡めそうになる自分を制して、蒙恬は唇の感触を味わう。

「…ぅ、…ふ…ぁ…」

唇を重ね合っているうちに、少しずつ信の体から力が抜けていく。

長い口づけを終えて顔を離すと、先ほどまでの緊張で強張った顔はどこにもなく、淫靡に蕩けた顔がそこにあった。

「ッ…!」

その顔を見ただけで、体の内側がかっと燃えるように熱くなる。抑え込んでいた情欲に火が点いてしてしまったことを自覚した。

「信」

今後は貪るように唇を重ね、今度は舌を差し込む。

「ん、ふ、…ぅんっ…」

鼻奥で悶えるような声を上げながらも、舌を絡めて来る。繋いでいた手を放し、信の着物を脱がせに掛かっていたのは、ほとんど無意識だった。

自由になった両手で、信が蒙恬の背中に腕を回して来る。

信も自分と同じ想いなのだと察し、蒙恬は脚の間で固く勃ち上がって来た男根を信の体に擦り付けた。

信の体が怯えたように竦み上がったが、背中に回されていた手がゆっくりと伸びて来て、着物越しに優しく男根を包み込んだ。

ぎこちない手つきは相変わらずで安堵した。初夜を迎えた後、誰とも体を重ねていなかったのだろう。

信が性に溺れるような浅はかな女でないことは分かっていたが、もしも自分を避けている間に、他の男に抱かれていたら気が触れていたかもしれない。

「ん、ぁッ…」

布一枚で互いの体が隔てられているのがもどかしくて、蒙恬は口づけを交わしながら、自分の帯も解き、性急に着物を脱いだ。

隔てるものがなくなると、淫靡に蕩けた顔のまま、信が蒙恬の男根を直接手で包み込み、先端を親指の腹でくすぐっている。

気持ち良さに喉が引き攣りそうになったが、蒙恬は無理やり笑みを繕った。

「ね、もっと教えて?信のこと」

彼女の頬に手を添えながら、蒙恬が甘い声で囁いた。

「信が気持ちいいって感じる場所も、俺にしてほしいことも、全部知りたい」

甘えるようにそう囁くと、信は躊躇うように目を泳がせた。
未だ羞恥心の抜けない彼女が、素直に言葉に出して教えてくれるとは思わなかったが、蒙恬は穏やかな声色で続ける。

「信が好きな場所、好きな触られ方、全部、全部教えて?」

返事は聞かず、蒙恬は信の首筋に唇を寄せた。襟合わせを開いて、現れた肌にも唇を落としていく。

「ん…」

反応を見逃すまいと、蒙恬は上目遣いで彼女の顔を見ながら舌を這わせていった。

手の平に収まるほど大きさも形も良い胸に、五本の指を食い込ませると、弾力が跳ね返って来る。

指に吸いつくような瑞々しい肌に、幼い頃の自分を泣き止ませる苦肉の策として、この胸を触らせてもらった時のことが脳裏を過ぎった。

もしも初恋を散らしたあの時の自分に会えるのなら、失恋という苦難を乗り越えた先に、大好きな人と結ばれる明るい未来が待っていることを伝えたいと思った。

 

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平行線の終焉(桓騎×信←李牧)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

眠れぬ夜

宮廷に常駐している医師から手当てを受けた信は、喉の腫れと微熱があることを指摘された。

数日は安静にしているようにと薬を処方されたのだが、手当てを受けている間、信はずっと上の空だった。

(…李牧って言ったな、あの男)

あの男のことを考えているのだと、桓騎はすぐに分かった。

陽が沈み始める頃には、信の咳も目立つようになっていて、今日は宮廷の一室に泊まることを決めたらしい。

風邪をうつす訳にはいかないから帰るように言われたが、桓騎はそれを断った。どうせ趙の一行が帰るまで宴は行われるのだ。信の付き添いをしても、嫌な顔をされることはないだろう。

しかし、すでに信の看病を行う侍女が配置されていたので、桓騎は部屋を出ていくしかなかった。

どうやら診察と手当てをした医師が、秦王である嬴政に報告をしたようで、信の看病を行うようにと勅令があったらしい。

信は嬴政と年の離れた親友である。どういった繋がりで元下僕の彼女が秦王と親友という関係に上り詰めたのかは聞いたことがなかったが、地位や名誉に一切の興味を示さない彼女だからこそ信頼されているのだろう。

(しばらくは入れねえな…)

看病が必要になるほど重病ではなさそうだったが、勅令を受けた侍女を無下にする訳にもいかず、信も大人しく看病を受けているのだろう。

戦で重傷を負っても、救護班たちに他の兵たちの手当てを優先するよう指示を出す女だ。さすがに夜通しの看病は信も断るだろう。

看病役の侍女に構わず、無理やり部屋に入り込んでも良かったのだが、そのことを上に報告をされたら厄介なことになる。

自分の身勝手な行動一つで、嬴政が安易に処罰を命じることはない。自分の知将としての才が秦軍にとってどれだけの貢献をもたらしているか、嬴政も知っているからだ。

しかし、もしも嬴政に告げ口をされれば、きっと快調した信から普段以上のお説教を受けることになるのは目に見えていた。

もちろん彼女と二人で過ごせる口実にはなるものの、お説教を受けることこそ、子供扱いが延長される要因だ。
酒を飲み交わすほど大人になったというのに、いつまでも子供扱いされるのは癪に障る。

何としても大人になった自分を認めさせたい気持ちは、桓騎の中で日に日に強く根付いていった。

そして自分たちの前に現れた李牧の存在は、その気持ちに焦燥と不安を抱かせたのである。

 

 

陽が沈んでも宴はまだ続いており、広間からは楽しそうな声が響き渡っていた。

あの男、李牧も宴の間にいるだろう。信とどういった関係であるのか、宴の席であの男に直接尋ねても良かったのだが、信に気付かれては面倒だったので、桓騎も宴の席には出なかった。

気に食わず刺し殺してしまう可能性も否定できないし、返答によっては酒に毒を盛ってしまうかもしれない。そうなれば間違いなく秦趙同盟は決裂となるだろう。桓騎もそこまで頭の回らない短慮な男ではない。

互いに同盟関係にある間は、どれだけあの男が気に食わないとしても、自分の都合一つで殺めることは許されないのである。それは自分だけでなく、信も同じだ。

「………」

信の看病に当たっていた侍女が部屋を出て行ったのを柱の陰から見届けた後、桓騎は物音を立てぬよう、部屋の扉を開けて中を覗き込んだ。

(よし、寝てるな)

奥にある天蓋付きの寝台で、信は仰向けで目を瞑っていた。

信は眠りに落ちるまでが早い。幾度も戦に出ているうちに、僅かな時間でも意識を眠りに落とすことが出来るようになったのだそうだ。体を強制的に休ませる手段なのだろう。

しかし、ちょっとした物音や気配には敏感で、すぐに目を覚ましてしまう。それも命が懸かっている戦場で培った才だろう。

まだ桓騎が芙蓉閣で保護されていた頃、足音を忍ばせて、彼女が眠っている布団の中に潜り込んだ時、信は大層驚いていた。

眠っていたとはいえ、こんな傍に来られるまで気づかなかったのは桓騎が初めてだったらしい。

起こさないように気遣ってやったのだから当然だと返すと、信は大笑いしていた。

当時の桓騎はまだ子供だったこともあり、信も無下には出来なかったのだろう、抱き締めながら寝かしつけてくれた。

蒙驁に身柄を引き渡されてからは今まで以上に信に会えなかったし、二人きりで過ごす時間もめっきりなくなってしまった。

「………」

少しだけ、彼女の寝顔を見て安心できればそれで良かった。
大人になったことだし、彼女の寝込みを襲っても構わなかったのだが、今の彼女の気持ちを考えると当然だがそんな気持ちにはなれなかった。

扉の隙間から身体を滑らせて室内に入る。

「…桓騎か?」

目を開いてもいないし、こちらを向いてもいないというのに、信が尋ねて来た。

物音を立てぬように細心の注意を払ったのだが、気配を感じ取られてしまったらしい。すぐに気配を察知したということは、まだ起きていたのだろう。

「ああ」

諦めて返事をすると、ゆっくりと布団の中で寝返りを打って、信はようやくこちらを見た。

「帰れって言ったのに…どうした?なんかあったか」

「別に」

素っ気なく言葉を返すものの、後ろ手に締めた扉に背を預け、部屋から出ようとしない。
その姿を見て、信は小さな咳をした後、困ったように笑んだ。

「…風邪うつっても知らねえぞ」

「バカでも風邪引くんだな」

「じゃあ、お前に移ることはなさそうだな」

生意気な口を叩く桓騎に信が苦笑を深める。普段ならムキになって怒って来るくせに、今日はそんな余裕もないらしい。

出て行けとは言われなかったので、桓騎は寝台に横たわる彼女に近づいた。

蝋燭の明かりは灯っておらず、窓から差し込む月明りだけが部屋を照らしている。そんな薄暗い部屋でも、信の顔が熱で赤く火照っているのが分かった。

診察の最中、僅かに寒気も感じていたことから、医師からこれから熱が上がるかもしれないと言っていた。その見立ては間違っていなかったようだ。

寝台の側にある台には、空になった器と水瓶が置いてあった。就寝前の薬湯は飲んだらしい。

静かに休ませてやるべきだと頭では理解していたのだが、ずっと感じていた疑問が口を衝いた。

「…あの李牧って野郎、お前の何だ?」

寝台の端に腰掛けながら問うと、李牧の名前に反応したのか、信が僅かに顔を強張らせたのが分かった。

嘘を吐けない彼女が無理に嘘を吐こうとする時は、すぐに態度や表情に出る。桓騎はそれを見逃すまいとして、信の顔から視線を逸らさずに返答を待つ。

しばらく押し黙っていた信だったが、桓騎が本気で李牧との関係を知りたがっているのだと察し、諦めたように口を開いた。

「…知り合いだ。昔のな」

静かにそう言った信の視線は、包帯が巻かれている自分の右手に向けられている。

「知り合いっていうような間柄には見えなかった」

間髪入れずに桓騎がそう言って振り返ると、信があからさまに目を泳がせた。

きっと彼女は生まれた時から、人を騙すという才に恵まれなかったのだろう。

確信は得ていないが、信にとって李牧は、ただの知人ではない気がした。
趙の宰相であり軍師を務める李牧は、秦将の信に対して、敵対しているような意識を微塵も見せなかった。

体調を気にしていたことやあの眼差しから、むしろ彼女を慈しむような、大切に想っているような、そんな気持ちさえ感じられたからだ。

「…抱かれたのか?」

「はあッ?」

いきなり大声を出して喉を酷使したからか、信がごほごほと咳き込んだ。

「なにバカなこと言ってんだよ…」

呆れた表情を浮かべながらも、信が言葉を探している。

否定しないどころかその反応を見れば、問いを肯定されたようなものだが、それを指摘することはしない。

二人が恋仲だと一番認めたくなかったのは他でもない桓騎自身だった。

「…昔、助けてやったんだよ。俺がまだ初陣にも出てないガキの頃にな」

しばしの沈黙の後、信が諦めたように白状した。答えない限り、桓騎はずっと引かないと察したのだろう。

自分たちよりも長い付き合いだったのだと知り、桓騎の胸に苛立ちのようなものが込み上げた。

「そうかよ」

素っ気なく返事をすると、桓騎が怒っていることに気が付いたのか、信が不思議そうに目を丸めている。

「なんだよ、怒ってんのか?李牧に何か言われたワケでもないだろ」

「怒ってねえよ」

そう返した声にも怒気が含まれていることに気付いた信は、熱を持つ自分の額に手をやりながら、困ったように桓騎を見た。

桓騎は信に目を合わせることないが、その場から動こうとしない。

「…ほら」

寝台の奥に身を寄せ、信は桓騎が横になれる幅を確保すると、ぽんと敷布を叩いた。

ちらりと目線を向けた桓騎は何も言わずに、すぐに布団の中に潜り込む。二人分の重みに、寝台がぎしりと音を立てて軋んだ。

 

 

眠れぬ夜 その二

桓騎が部屋に来た時から予想はしていたが、添い寝をしたかったのだろう。

(いつも素直なら可愛いのにな)

そんなことを言えば怒って部屋を出ていくかもしれないので、信は口を噤んで静かに微笑んだ。

最後に桓騎と添い寝をしたのは、彼がまだ芙蓉閣にいた時だった。

まだ彼が子供だった頃は、よく布団に忍び込んで来るその小さな体を抱き締めながら眠ったものだ。

宮廷の客室に置かれている寝台は、大の大人が二人で寝転んでも窮屈には感じない広さがあったが、信は寝返りを打つふりをして桓騎の傍に身を寄せる。

瞼を閉じていても、隣から桓騎の視線は感じていた。他にもまだ自分に何か聞きたいことがあったのだろう。

「………」

桓騎がどこから来たのか、信は知らない。

咸陽で行き倒れているところを保護したのは信だったが、それまでどこで何をして生きていたのか、今も知らないままだった。

気にならないといえば嘘になる。しかし、桓騎が一向に語ろうとしないことから、話したくないという意志は十分に伝わって来たので、信も尋ねたことはなかった。

成長すればもともと住んでいた地に帰るかもしれないと思っていたのだが、それもしないことから、もしかしたら住んでいた場所が失われたのか、別の理由があって帰れないのかもしれないとも推察していた。

蒙驁将軍のもとに桓騎を預けてから、彼は知将としての才をみるみるうちに芽吹かせていった。

飛信軍に入りたいと熱望していた桓騎だが、将になることを望んでいたのか、それは信にも分からない。

強要する訳にもいかなかったので、桓騎が将の務めを嫌悪しているようならそれとなく退かせてやってほしいと蒙驁将軍に伝えていた。しかし、今でも桓騎は蒙驁将軍の副官を活躍を続けており、知将としての存在も中華全土に広まっていた。

それこそが桓騎の答えだと蒙驁将軍に聞かされた時、信は安堵した。

芙蓉閣で騒動を起こしたり、やたらと自分の傍に居たいという桓騎の意志は昔から伝わっていたが、それは自分を保護者代わりに想っているからなのだと信は疑わなかった。

自分を子供扱いするなと何度も叱られたこともあるのだが、背伸びして大人になろうとしているのも保護者代わりである自分を安心させようとしている桓騎の気持ちの表れなのかもしれない。

未だ夫と子を持たぬ信には、そう考えるのが精一杯だった。

今では話をする時、信が首を上に向けなければならないほど背も伸びたし、元野盗の仲間たちから「お頭」と慕われるほど、桓騎は立派な将になっていた。

自分の腕の中で静かに寝息を立てていたあの頃の姿を思い出し、信は桓騎の成長を認めざるを得なかった。
桓騎はこれからも、秦国を支える立派な知将として中華全土に名を轟かせていくだろう。

(ほんと、大きくなったんだなあ、お前…)

隣にいる桓騎の温もりのせいだろうか、少しずつ意識が微睡んでいく。

(…李牧…)

眠りの世界に溶けかけた意識の中で、不意に李牧の姿が浮かび上がった。

いずれは自分も桓騎も、養父のように李牧の軍略によって討たれてしまうのだろうかという不安が込み上げて来る。

共に過ごしたあの日々が走馬燈のように目まぐるしく瞼の裏を駆け巡ったが、もうあの時の李牧は帰って来ないのだ。

頭では理解しているはずなのに、心はまだその事実を受け入れられなかった。

しかし、微睡んだ意識の中ではその不安を対処することは叶わず、そのまま信の意識は夢の世界へと溶け込んでいった。

 

 

隣から信の寝息が聞こえて来たが、桓騎の瞼は少しも重くならないでいた。共に床に就くのは何年ぶりのことだろう。

昔は子供という立場を利用して彼女の腕の中で眠っていたのだが、こうも体格差が開けてしまうと、もうそれも叶わない。

自分も成長したのだと信に知らしめる良い機会だったに違いない。彼女の体調さえ悪くなければ、確実にその体を組み敷いていただろう。

蒙驁のもとで知将としての才を芽吹かせ、着実に武功を挙げていったというにも関わらず、信は少しも態度を変えてくれなかった。

芙蓉閣で共に育った者たちからは黄色い声援を上げられるほど良い男になったというのに、信だけは少しも男として意識をしてくれない。

ずっと昔から口説いているというのに、彼女の中では今も自分は幼い子供のままなのだろうか。

天蓋を見つめながら、桓騎は悶々と考えていた。

「…?」

すぐ隣から荒い息遣いがして、横目で見やると、信が苦しそうに呼吸を繰り返している。

僅かに汗を浮かべている額に手を当てると、明らかに熱が上がっているのが分かった。苦しそうに喘ぐ姿を見て、桓騎は宮廷に常駐している医師を呼ぼうと体を起こす。

「っ…?」

後ろから袖を引っ張られ、驚いて振り返る。熱にうなされながら、信が身を起こして桓騎の着物の袖を掴んでいたのだ。

いつもなら彼女に引き留められたなら喜んで応えるというのに、今は状況が悪かった。

「おい、放せ。医者を呼んで来る」

聞いているのかいないのか、信は桓騎の袖を掴んだまま放さない。その手から体の震えが伝わって来る。熱のせいか、瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。

「行、くな…頼む、から…」

そんな表情で引き留められて話を聞かない男はいない。
医師を呼びに行くのを諦めた桓騎を見て、僅かに手の力が緩まる。しかし、着物を放すことはしなかった。

風邪を引くと心細くなるというのは、何となく桓騎にも覚えがあった。

芙蓉閣に保護された時の桓騎は熱を出していた。長い間、雨に当たっていて体が冷え切ったのが原因らしい。

街医師に診察を依頼してくれた信は、その後も頻繁に見舞いに来てくれた。

何をする訳でもない、どこから来たのかを尋ねることもない、ただ傍にいてくれた。熱にうなされていた朧げな記憶だが、信が傍にいてくれたことだけははっきりと覚えていた。

あの雨の中で自分の死を受け入れていたというのに、それを邪魔した信に怒りは感じなかった。

彼女が傍にいてくれた、それだけで桓騎の冷え切った心は溶かされていったのである。

「行くな…」

袖を掴んだまま放そうとせず、信は涙を浮かべた瞳を向けている。今の彼女は、普段の気丈な振る舞いからは想像できないほど弱っているらしい。

そんな信の弱々しい表情を見るのは初めてのことだったので、桓騎は思わず息を飲んだ。

「何処にも行かねえよ」

気づけば、桓騎は両腕を伸ばして彼女の体を抱き締めていた。

熱を持った呼吸を繰り返しながら、信は目を閉じて桓騎の背中に腕を回して、凭れるように身を預けて来る。

ようやく安堵したように、信の表情が解れたのを見て、いつも心の奥底に隠している弱さを、初めて見せてくれたような気がした。

彼女が心を開いてくれたという訳ではない。ずっと心を閉ざしているのかといえばそうでもない。

信は、誰にも弱さを見せないようとしないだけだ。だから、他者が心に踏み込んで来るのを拒むことはしない。

彼女がそういう女だというのは、桓騎も昔からよく知っていた。

「信…」

これほどまでに弱々しい姿を曝け出すのは、熱にうなされているせいと、李牧が現れたせいだろうか。

養父の仇だと分かりながらも、彼を殺せないでいる信を見ると、彼女は李牧に対して特別な感情を向けているのかもしれない。

桓騎の胸は締め付けられるように、切なく痛んだ。

 

 

誘惑

「ん…」

胸に顔を埋めていた信が悩ましい声を上げたので、桓騎は彼女の身体を横たえようと肩を掴む。

熱で苦しげな呼吸を繰り返している信は大人しく寝台の上に倒れ込んだ。

未だ信の手が着物を掴んだまま放そうとしないことに、よほど心細さを感じているのだろうかと考える。

共に寝台に横たわり、桓騎は再び信の体を抱き締める。

風邪を引いている者の近くにいると風邪が移るというのは医学に携わらない者でも知っていることだが、約束したように彼女から離れるつもりはなかった。

むしろ彼女が治癒するのなら、自分が苦しい想いをすることになっても構わないと思うほど、桓騎は信のことを愛おしく思っていた。

「はあ…ぁ…」

腕の中で苦しげな呼吸を続けている信を見て、本当に医者を呼ばなくても良いのだろうかと不安に駆られる。

(…人肌で熱を吸ったら、多少は楽になるか?)

桓騎は迷うことなく彼女の着物の帯を解いた。眠っているせいで着物を脱がされていることに信は気づいていないようだが、その方が都合が良かった。

小さなものから致命傷となった深い傷まで、多くの傷が刻まれている肌が露わになり、桓騎は思わず目を見張った。

戦場ではいつも鎧に覆われている肌は、陽に当たらないせいか、静脈と傷痕が浮き上がって見えるほど白かった。

幾度も秦軍を勝利に導いた彼女は、それだけの数の死地を乗り超えて来たと言っても過言ではない。

生死の狭間を彷徨うほどの重傷を負っていたことは桓騎も知っていたし、その度に信が二度と目を覚まさなかったらと不安に襲われたものだ。

初めて目にした信の裸体を見て、桓騎が初めに感じたのは、崇高だった。
確かに桓騎は信を一人の女として意識していたのだが、その傷だらけの肌を目の当たりにして、情欲よりも先に、信の気高さと生き様を感じ取ったのである。

「………」

いつまでも彼女の肌に見惚れている訳にもいかず、桓騎も自らの着物の帯を解いた。
素肌を重ね合うと、信の火照った身体がじんわりと染み渡る。

「ん…」

自分よりも体温の低い肌が心地良いのだろう、眠ったまま信が頭を摺り寄せて来た。

(これは結構、…堪えるな)

下心があってこんな行動を起こした訳ではないのだが、恋い焦がれていた女と布一枚の隔てもなく触れ合っている状況に、桓騎は思わず生唾を飲み込んだ。

子供の頃は彼女が抱き締めてくれる温もりが心地よくて、すぐに眠りに落ちていたのだが今は違う。

生まれたままの彼女の姿を初めて見たのは初めてだし、やはり自分も男だと自覚せざるを得ない。この状況下で理性と戦い続けるのはなかなか堪える。

さっさと眠ってしまえともう一人の自分が呆れ顔で言うのだが、目を閉じても信の温もりを直に感じてしまい、下半身が熱く疼いてしまう。

それどころか彼女の匂いにまで反応してしまうなんて、浅ましい男だと桓騎は自分を罵った。

信はいつもその身に花の香りを纏っている。養父である王騎の趣味らしいが、湯に浸かる時は花を浮かべているのだという。

嗅げばいつも安らいだ気分になるはずその香りが、今だけは禁忌の香りに感じた。

 

 

「ぅ…ん…」

桓騎が静かに歯を食い縛りながら、腹の底から沸き上がる情欲に堪えていると、信が小さく呻き声を上げた。

「信?」

名前を呼ぶと、信はゆっくりと瞼を持ち上げて、潤んだ瞳を向けて来た。

眠っている彼女によからぬことを考えていたことを見抜かれた気がして、ばつが悪そうに桓騎は目を逸らしてしまう。

冷静な態度を取り繕ったとしても、下半身は素直だ。この煩悩を吹き飛ばすには、怒鳴られるだけでなく、容赦なく殴られた方が良かったかもしれない。

「ッ…!?」

信の火照った手がそこ・・に伸びたのと同時に、桓騎は驚愕のあまり、目を見開いた。

「………、……」

潤んだ瞳が半目であることから、未だ夢から覚めたばかりで意識が朦朧としているらしい。

ゆっくりと身を起こした信は、着物を脱がせられたことにも気づいていないのか、少しも戸惑う様子を見せない。

それどころか、布団を跳ね除けて四つん這いになると、桓騎の足の間に体を割り込ませたのである。

何をするのかと目を向けていると、彼女のその手が迷うことなく上向いた男根をゆるゆると包み込んで来たので、桓騎は思わず喉を引き攣らせた。
火照った指先が伝うその感触に鳥肌が立つ。

「信ッ…!?」

五本の指で輪を作り、上下に扱き出すその動きは間違いなく男を喜ばせる術だった。

「お、おいッ?」

動揺のあまり裏返った声を掛けたのとほぼ同時に、信は唇から赤い舌を覗かせた。

「ッ…!」

唇で亀頭を挟まれ、滑った感触が染み渡ると、桓騎の背筋が伸び上がる。
恋い焦がれた女が自分の足の間に顔を埋めている光景を、すぐには信じられなかった。

ざらついた舌の表面で亀頭部や裏筋を撫でられる。それだけではなくて、唇で陰茎と亀頭のくびれの部分ときゅっと締められると、勝手に腰が震えてしまうほど気持ちが良い。

与えられる刺激に息を乱すと、その反応を上目遣いで見た信が淫靡な笑みをその顔に刻んだ。

「ッ…」

それは長年、信と共にいた桓騎であっても、初めて見た表情だった。

先ほどのように、自分に行かないでくれと訴えた弱々しい表情も初めて見たのだが、この淫靡な笑みは男を狂わせる。

今まで自分が知らなかっただけで、彼女は自分以外の男と身を重ね合っていたのだろう。そう考えるだけで、桓騎は嫉妬で腸が煮えくり返りそうになった。

「ふ、は…」

敏感な先端に舌を這わせながら、信が右手に巻かれている包帯を邪魔くさそうに解き始める。爪が食い込んだ痕は出血こそしていなかったが、まだ癒えていない。

包帯を解いた右手を使って陰茎を再び扱き始めた。痛みよりも情欲に呑まれてしまったのだろうか。

彼女だって一人の女だ。将軍なんて地位に就いていなければ早々に嫁ぎ、たくさんの子を産んでいたに違いない。

信がすでに自分以外の男の手垢に汚されていることを、本当は気づいていたのに、今までずっと見て見ぬフリをしていたのだ。

他でもない自分が彼女の破瓜を破った男だと、信の記憶に刻まれたかった。
もっと早く彼女と出会っていたのなら、それは叶ったかもしれない。桓騎の中でその想いが絶えることはなかった。

「…クソが」

こちらの気持ちも露知らず、どこの男に仕組まれたかもわからぬ口淫を続ける信に、これ以上ないほどの憤りと切なさを感じてしまう。

「ふ、んん、ぅッ…?」

強引に信の前髪を掴んで、桓騎は咥えていた男根から口を離させた。

「あ…」

肩を押してその身を寝台の上に横たえると、信が薄口を開けて桓騎を見つめていた。

まだ彼女が夢から覚め切っていないことは分かっていたが、誘って来たのは信の方だ。目覚めてしまった雄は、理性一つで押さえ込めるほど安易なものではない。

「っん、…」

敷布の上で指を絡ませ、身を屈めると、桓騎は信と唇を重ね合う。

幾度も頭の中で描いていた彼女との口づけに、桓騎は目を閉じる。信の唇は、想像していた以上に柔らかかった。

 

交わり

何度か角度を変えて、柔らかい唇の感触を味わっていると、ぬるりとしたものが口内に入り込んできて、桓騎は驚駭した。

薄目を開けたまま、信が舌を伸ばしているのだ。舌を絡めて来た信は先ほどから淫靡な表情を続けており、まるで彼女であって彼女ではない女を相手にしているかのようだった。

眠る前に飲んだ薬湯だろうか、口づけの中には仄かな苦味があった。しかし、互いに舌と唾液を絡めていくうちに、その味さえも甘美なものに感じて来る。

敷布の上で互いに強く結んでいる指に力が込められた。もっとしてほしいと強請っているのだと分かり、桓騎は夢中になって彼女と舌を絡ませていた。

「ん、んふぁ、ぁ、んぅっ…」

口づけを深めていくと、息が苦しくなったのか、鼻奥で唸るような声が上がった。

唇を離すと、信がはあはあと肩で息をし始める。互いの唇を唾液の糸が紡いでいた。激しい口づけのせいか、先ほどよりも潤んで熱の籠もった瞳で見つめられると、もうそれだけで堪らなかった。

「信」

思わず名前を囁いて、再び唇を重ね合う。今度は桓騎の方から舌を伸ばして、彼女の口の中を貪った。

口づけを交わしながら、桓騎は性感帯を探るように、彼女の体に手を這わせた。

胸の膨らみをそっと包み込むと、予想していた以上に豊満だった。
豊満なだけでなく、心地よい柔らかさと弾力を手の平いっぱいに感じて、桓騎も興奮のあまり息を乱してしまう。

「ん、あぁっ…」

首筋に甘く噛みつきながら、胸に指を食い込ませると、信が切なげな声を上げた。

素肌に溶け込んでしまいそうな淡い桃色の芽は、未だ男の味を知らぬ少女の胸にも見える。
口づけを交わしながら、二本の指で胸の芽を挟んだり、指の腹でくすぐったり刺激を続けていくと、信の息がさらに乱れていった。

もどかしげに膝を擦り合わせているの彼女を見て、導かれるように足の間に手を差し込むと、熱気と湿り気を感じた。女が発情している証だった。

「ッあ…!」

蜜で潤んでいる花弁の合わせ目に触れると、信の体が大きく跳ね上がった。

見たことのない信の表情と反応に興奮が止まず、桓騎は上目遣いで彼女の顔を見つめながら、中に指を差し込んでいく。

「ふ、んん…ッ、く…」

痛がる素振りもなく、すんなりと二本の指を飲み込んだ淫華を見て、彼女の破瓜が既に自分以外の男に破られたことを確信した。自分以外にも、彼女の今の顔を見た男がいるのだ。

出来れば認めたくなかった事実に、胸が締め付けられるように痛む。
誰にその純血を捧げたのかと問い質しくなったが、知りたい気持ちとこのまま知らずにいたい気持ちが桓騎の中でせめぎ合っていた。

「はあッ、ぁ…ん、んッ」

中に入れた指に、高い熱を持った粘膜と蜜が絡み付いて来た。少しでも指を動かすと、敏感な場所が擦れて気持ち良いのか、悩ましげな声が上がる。

もっとその声が聞きたくて、未だ見たことがない彼女の一面が見たくて、桓騎は堪らず指を抜き差ししたり、鉤状に折り曲げて、中に刺激を与え始めた。

中央にある花芯がつんとそそり立ち、触って欲しそうにその顔を覗かせている。

「ひ、ぅうッ」

反対の手を使って花芯をそっと撫でてやると、信が泣きそうな声を上げた。紛れもなく、女の反応だ。

それは今まで知り得なかった信の一面で、桓騎がずっと頭に描いていた彼女の姿の生き写しでもあった。

 

 

花芯と淫華への刺激を続けていくと、信の口からひっきりなしに切なげな声が上がる。飲み込めない唾液が、彼女の唇を妖艶に色付けていた。

「…ぁ、は、早く」

甘い声で促されて、桓騎は苦笑を滲ませる。
余裕がないのはこちらの方だというのに、男の心を搔き乱す言動をするのは無意識なのだろうか。

紛れもなく女の顔で脚を開き、男を受け入れる体勢をとった信に、やはり桓騎は複雑な気持ちを抱いた。

自分以外の誰かがこの淫らな姿を先に目にしたのだと思うと、それだけで顔も名も知らぬ男を殺したくなってしまう。

しかし、その嫉妬を上回るほど、情欲は限界まで膨れ上がっており、もう押さえることは出来なかった。

膝裏を抱えてさらに脚を広げさせ、痛いくらいに硬く張り詰めた男根の先端を宛がう。

「ッ…ん、…」

敷布を掴んで、信が唇を噛み締めたのが分かった。

「信」

名前を呼ぶと、潤んだ瞳がこちらを見上げる。切なげに寄せられた眉が、男根を腹に迎え入れる期待と、不安の色を浮かべていた。

「んんッ…ぅ…」

花弁を捲るように、合わせ目を男根の先端でなぞってやると、それだけで信はうっとりと目が細まる。

まだ先端が淫華に口付けているだけだというのに、蜜に塗れた粘膜が中に導こうと厭らしく蠢いていた。

「んッ…ぁ、ぁああっ」

ゆっくりと腰を前に押し出すと、すぐに温かい粘膜が吸い付いて来る。

男の急所であり象徴でもある敏感な部分が温かく包み込まれる感触は何にも耐えがたいもので、そしてこれが信の体だと思うと、幸福感に鳥肌が立った。

自分を奥へ引き摺り込もうと吸い付いて来る淫華に、今まさにこの身が食われている、と桓騎は優越感を感じた。

このまま骨の髄まで食われてしまいたい。それが地獄の苦しみだとしても、相手が信なら甘受するに違いないと桓騎は思った。

「あああッ」

自らこの身を差し出すように、桓騎が彼女の細腰を掴んで最奥を貫くと、悲鳴に近い声が上がった。

信が背中を弓なりに反らせ、敷布の上で身を捩っていたが、桓騎は腰を掴む手に力を入れて放さない。

「は…ぁ…」

根元まで男根が彼女に食われてしまうと、桓騎は喜悦の息を吐いた。
信が潤んだ瞳で見上げて来る。性器だけじゃなく、唇も重ねようと身を屈めた時だった。

「…李、牧…」

自分じゃない名前を呼ばれ、束の間、桓騎は呼吸を止めていた。

 

信の想い人

狼狽を顔に滲ませると、信が不思議そうに瞬きを繰り返している。

李牧。回廊で会った趙の軍師の名前だ。聞き間違いであったのならと願ったが、都合よくそんなことは起きなかった。

まさか自分をあの男だと勘違いしているのか。桓騎は束の間、動けなくなってしまった。
呆然としたまま動かないでいる桓騎に、信が不思議そうに首を傾げていた。

「…えっ…?」

それまで潤んだ瞳で男の情欲を煽り続けていた彼女だったが、少しずつその瞳に光を取り戻していく。

「はッ?…えっ、な、なに…?」

誰が見ても動揺しているのが分かるほど顔を強張らせた彼女と目が合った。

「桓騎ッ!?お前、何して…」

ああ、起きたのかと桓騎はぼんやりと考えた。

彼女の布団に入り込むのは初めてではなかったし、信もそれには慣れていたのだが、桓騎が成長してから布団に入り込んで来るのは初めてだったので、あからさまに驚いていた。

お互いに何も身に纏っていないのだから、それにも驚いたに違いない。

「う…」

腹に圧迫感を感じたのだろう、信が桓騎の顔から視線を下げていき、自分たちの性器が繋がっているのを見つける。

途端に青ざめた彼女は、ひゅっ、と息を詰まらせた。

「ば、バカッ、抜けよ!何してんだッ!」

急に大声を出したせいか、むせ込みながらも、敷布を掴んでいた両手が桓騎を押しのけようと突っ張る。

しかし、桓騎は彼女の細腰を掴んでさらにその体を引き寄せた。

「っんうぅッ…!」

敏感になっている中を擦られて、信が強く目を瞑る。

「今さら言われても抜けねえだろ。お前が早く欲しいって言ったくせによ」

自分が襲ったと思われているのなら心外だと桓騎は笑った。

「んなこと、言ってねえよッ…!」

腰を掴む桓騎の手に爪を立てながら、信は身を捩ってなんとか男根を抜こうとしている。

先ほどまで自分が欲しいと強請っていた態度が一変したことに、桓騎は眉根を寄せた。そして、同時に認めたくない仮説が立った。

「…なら、お前が誘ったのはじゃなくて、李牧・・だったってことで良いんだな?」

「ッ…!」

李牧の名前を出すと、信が分かりやすく狼狽えた。

返事をせずとも、それが肯定を意味する態度だと分かると、桓騎の口の中に苦いものが広がっていく。

李牧に抱かれたのかと問うた時、信は否定も肯定もしなかったが、きっとその身を委ねたのだ。

信が李牧に剣を向けなかった理由はきっとそれ・・だろう。桓騎は確信した。

一番答えを知りたくなかったのは自分自身であったはずなのに、自ら答えに辿り着いてしまったことを桓騎は後悔してしまう。

「んなこと、どうでも良いだろ…とっとと抜けって…!」

目を逸らしながら信が訴える。

桓騎の両手が彼女の腰を掴んでいなければ、信は身を捩って男根を引き抜いていただろう。しかし、彼女の言葉とは裏腹に、淫華は抜かないでくれと強く吸い付いて来る。

「桓騎ッ」

早くしろと睨みつけられるが、桓騎は彼女の腰を掴んだまま動かなかった。

いくら信といえども、武器もない今の状況では男の腕を振り解くことは叶わない。

李牧と身を繋げたのが事実だとして、それが信の合意を得られていないものだったなら良かった。だが、きっとそうではないだろう。

慈しむように潤んだ瞳で見上げて、甘い声で李牧の名を呼んだのだ。

今まで桓騎が見たことのなかった女の顔を見せたことが、信が李牧を愛していた・・・・・・・・・・何よりの証拠である。

 

 

「………」

それまでは信を抱くつもりで昂っていた頭が、急に水を被せられたかのように冷えて来た。

しかし、彼女と繋がっている部分だけは未だに熱が続いている。淫華が吸い付いてくるように、男根もまだ離れたくないと訴えていた。

「早く、抜けって」

睨まれながら促されると、桓騎はゆっくりと腰を引いていく。

素直に従ってくれたことに、信は安堵した表情を見せる。男根が引き抜かれていくにつれ、信の眉根がどんどん切なげに寄せられていった。

「んっ…」

一番太い楔の部分が引っ掛かっているだけになり、信の唇から切なげな吐息が零れる。引き抜かれる刺激に備えて、彼女が腹筋のついた腹にきゅっと力を込めたのが分かった。

「…ッぁああッ!?」

男根を引き抜くと見せかけて、桓騎は思い切り腰を打ち付けた。

まさか裏切られるとは思わなかったのだろう、その顔には驚愕と動揺が浮かんでいた。
しかし、桓騎は構わずに彼女の体を乱暴に突き上げ始める。

「な、なんでっ、バカッ、やめろッ」

切迫した声を掛けられても、桓騎は何も答えなかった。

制止を求める態度とは裏腹に、男根を抽挿すればするほど、淫華の吸い付きが激しくなっていく。

このまま絶頂まで抽挿を続ければ、彼女に全てを飲まれてしまい、ただ性器を交えるだけではなくて、本当の意味で一つになれるのではないかと思った。

「やめろッ、桓騎ッ!放せってッ」

自分はこんなにも、信に骨の髄までこの身を捧げたいと思っているのに、信は大きく首を振って逃れようと身を捩っている。

覆い被さるようにその体を抱き締め、桓騎は寝台から信の体が浮き上がってしまうほど激しく腰を打ち続けた。

初めて会った時は信が自分を抱き上げていたというのに、今自分の腕の中にいる彼女の身体がこんなにも華奢だったなんて知らなかった。ますます愛おしさが込み上げる。

少しも言うことを聞いてくれない桓騎に、信は制止を求める発言を諦めたのか、大口を開けたかと思うと、目の前にある肩に思い切り噛みついた。

「ッ…!」

血が滲むほど強く噛みつかれ、燃え盛っていた桓騎の情欲に歯止めがかかる。

ようやく抽挿を止めてくれた桓騎に、唇を赤い血で染めた信が、切なげに眉を寄せて、まるで祈るような顔を見せた。

 

 

心の傷

「なんで、お前が…李牧の名前を出すんだよ…」

秦趙同盟が結ばれた後、あの回廊で桓騎が李牧の姿を見たことは信も知っていた。

しかし、桓騎と李牧の繋がりはたったそれだけであり、彼の口から李牧の名前が出たことに驚きを隠せなかったのである。

「お前に近づく男が、どんな野郎か気になるのは当然だろ」

昔からずっと飛信軍に入りたいと言っていた桓騎が、自分に付き従う者たちのことを知りたがるのは別に珍しいことではない。

だが、李牧との出会いや関係は、信は今まで一度も彼に打ち明けたことがなかった。

趙国の宰相、つまり自分たちにとっては敵対関係にある男だ。秦国に忠義を捧げている信にとって、容易に打ち明けられるものではなかった。

自分と李牧の本当の関係を知っている者と言えば、養父の王騎くらいだったかもしれない。ただし、王騎に直接告げたことは一度もなかった。

養父として、秦の将として、彼は何も言わず自分と李牧の関係を察してくれているようだった。

口を出されなかったのは黙認していたのか、それとも興味がなかったのか、自分たちの関係をそもそも気づいていなかったのか、今となっては確かめようがない。

此度の一件で、まさか李牧自ら咸陽まで赴くとは思わなかったが、事情がどうであれ、桓騎にも黙っておくべきだったのかもしれない。

再会の理由が何であれ、信は李牧のことを忘れていたかった。

可能ならば記憶から抹消してしまいたいほど、李牧の存在は信にとっては禁忌とも呼べるものであった。
李牧こそが、心の傷そのものだと言っても過言ではない。

たとえ桓騎であっても、この傷には触れてほしくなかった。

 

中編②はこちら(桓騎×信)

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昌平君の駒犬(昌平君×信←蒙恬)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • めちゃ強・昌平君の護衛役・側近になってます。
  • 年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/蒙恬×信/嫉妬/特殊設定/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

主従関係の代償

気をやった信の体を抱えて救護室を出ると、先に出て行ったはずの蒙恬が廊下に立っていた。

壁に背を当てながら、欠伸をする姿を見れば、恐らくずっとそこにいたのだろう。

昌平君の腕の中で寝息を立てている信を横目で見た蒙恬は、特に何かを言うこともなく背中を向けて歩き出した。

情事を見聞きしていたこと、自分と信の関係を他者に洩らすような脅迫をする訳でもない。かと言って、口止めに何か取引を持ち掛けるようなこともされなかった。

蒙家の嫡男である彼は、欲しいものは一通り手にしている。他者を陥れるような脅迫をしたところで、今さら欲しいものなどないのだろう。

興味本位で近づいたとして、信にだけちょっかいをかけるのなら、飼い主である昌平君が傍にいない機会を狙う方が手っ取り早い。

だというのに彼は、昌平君がこの救護室に来ることを知っていて、信を軍師学校に招き入れた。

…このことから、蒙恬がずっと廊下で待ち伏せをしていた理由は一つに絞られる。救護室に他の生徒が寄り付かないよう、見張りの役目を担っていたのだろう。

普段は滅多に利用されることのない救護室とはいえ、信が心配していたようにいつ誰が来るか分からない。

自分たちの関係を知られないよう、細心の注意を払ったのだろうが、蒙恬にそのような気遣いをされる覚えはなかった。

「…蒙武からの命か?」

その場を去ろうとしている蒙恬の背中に問い掛けると、彼はぴたりと足を止めて、人懐っこい笑みを浮かべて振り返った。

「先生なら気づくと思いました」

蒙恬の父である蒙武が関わっているとは、さすがの昌平君も予想外だった。可能性として浮上した理由を問い掛けたまでだが、正解だったらしい。

長きにわたる友が息子に何を命じたというのだろう。表情に出さず思考を廻らせるが、信が関わっていることは明らかだった。

「父上も、ああ見えて心配性な面があるので」

その言葉から、蒙武が自分の息子に、信がどのような人物であるかを調査するよう命じたのだと察した。

配下を使わず、わざわざ息子の蒙恬頼むということは、それだけ蒙武が信のことを気にしている証拠だろう。

もしくは、過去に信を尾行させていたが、撒かれた経験があって聡明な息子に頼んだという説もあり得る。

「…今日、信と話して、色々分かりました」

蒙恬が未だ眠り続けている信の顔を見やる。

信の人柄を知るだけならば軍師学校に来る必要はないのだろうが、きっと自分を前にした時の態度についても知りたかったのだろう。だからこそ蒙恬は、ここに信を招き入れたに違いない。

未だ目を覚まさずにいる信を見つめながら、

「信は、先生のことが大好きないい子だってこと、からかったら怒りやすいこと…それから」

口元に薄く笑みを象りながら、蒙恬が言葉を紡いだ。

「信って、先生以外を嗅ぎ分けられない・・・・・・・・んですよね?だから戦にも出せないし、先生以外の人に仕えさせられない」

こちらの動揺を、瞬き一つ見逃すまいとして蒙恬が視線を向けている。
あくまで信を犬に見立てた言葉であったが、彼が言わんとしていることは理解していた。

「よく気づいたな」

保護した時からずっと、信は主以外の人間を見分けられない・・・・・・・のである。

二人で話していたのがどれだけの時間かは分からないが、未だ他の者には気付かれていないというのに、そこまで見抜いた教え子に称賛の言葉を贈った。

「信と、一度も目が合わなかったから」

自分の額と鼻の辺りを指さし、

「相手のこの辺りに視線を向ければ目が合うと教えたのも、先生ですか?」

「そうだ」

主従契約を結んだあの日から、信は主以外の人間の顔の違いを見分けられなくなったのだという。

相手の輪郭や髪型、体格や声、その者が纏っている香りなどの情報は分かるらしいが、顔だけは影が掛かったかのように何も映らない・・・・・・のだという。

医者に診せても、その主訴は過去に前例がなく、果たしてそれが病なのかどうかも判別がつかないと言われた。

相手の顔を判別できないことこそ、昌平君が信を戦に出さない一番の理由であり、常に彼を傍に置いている理由でもあった。

信がいかに武に優れていようとも、敵味方の区別がつかない者を戦には出せない。

昌平君以外の相手の顔が分からないことを信自身も告げていないだろうに、彼の言動一つでそこまで見抜いた蒙恬はやはり優秀な教え子である。

信は、その者を判断する決め手である声を聞かないと、最終的な判別が出来ない。
唯一顔を見分けられる昌平君であっても、顔を隠せば誰だか分からないのだという。

もしもこれが自分と主従関係を結んだゆえの代償なのだとしたら、そう想うと、昌平君は優越感を覚えてしまう。

自分という主を失えば、信は二度と顔を認識出来なくなる。
主以外の人間を見分けられないからこそ、信は自分に捨てられたくないと依存しているのだ。これを愛らしいと言わずして何と言えよう。

「…先生が信の引き紐をしっかり握っていると伝えれば、父上も安心するかと。いつか信に寝首を掻かれるのではないかと心配していましたから」

「………」

まさか蒙武がそのような心配をしていたとは思わなかった。

ある日、領地視察で出会って連れ帰って来た下僕の少年を、彼は信用していなかったらしい。素性の分からぬ信の企みを危惧していたようだ。

「それじゃ、俺はこれで」

「蒙恬」

今度こそ帰ろうと歩き始めた蒙恬を呼び止めると、彼は不思議そうに振り返った。

「…蒙武に、初めから首輪をつけられていたのは、私の方・・・だと伝えておけ」

「え?」

その意味がすぐに理解出来なかったらしく、蒙恬が眉根を寄せた。

聡明な頭脳を持つ彼が、その答えを導き出す前に、昌平君は信の体を抱えたまま軍師学校を後にする。

背中に蒙恬の視線を感じていたが、振り返ることはなかった。

 

過去

勝利した戦で手に入れた領地の視察に赴いた時だった。

戦に巻き込まれた村が一つあったことは聞いていたのだが、余程大きな被害を受けたらしい。辺りには屍が幾つも転がっていた。

槍で貫かれた老人だけでなく、逃げようとして背中に矢を受けた女子供の亡骸があった。野盗の襲撃を受けるよりも酷い有り様である。

戦の悲惨さを知らぬわけではないが、改めてそれを感じながら、昌平君は視察を続けていた。

もう村としての再建は不可能だろう。避難した者も多少はいるようだが、転がっている屍の数を見る限り、圧倒的に被害者の方が多い。

屍を弔った後は、残っている物を全て取り壊すつもりだった。これだけの被害を受けたのなら、全てを更地にした方が領土としての使い道がある。

この村で生まれ育った者たちの故郷を取り壊すことに心が痛むが、どれだけ願ったところで村人たちが生き返る訳でもない。いつまでもこの地をこのまま残しておく訳にもいかなかった。

「…?」

不意に背後から視線を感じ、昌平君は視線の主を探すために振り返った。

視線の先に、馬車があった。馬が引いているのは車輪のついている木製ではあるが堅牢な檻。その中には何人もの子供たちが座り込んでいた。

どの子供たちも目が虚ろで、これから自分の処遇にも興味がないように見える。

彼らが奴隷商人の商売道具だということは、すぐに気付いた。荷のように馬車へ積まれたのだろう。

(…戦争孤児か)

奴隷商人が先に来ているということは配下からの報せで聞いていた。

集められているのは村の子供たちだろう。親を亡くしたり、住んでいた地を失って行き場のない子供たちはこうして奴隷商人によって集められる。

子供であっても、僅かながら労働力になるし、需要は耐えることがない。

「………」

檻の隙間からこちらをじっと見つめる少年がいた。視線の主だろう。眼光の鋭い子供だと思ったことは今でもよく覚えている。

手を伸ばせば噛みつかれてしまいそうなほど、しかし、その瞳の奥には怯えが浮かんでいる。野犬よりも、野良猫のような印象があった。

他の子供たちと違って、その少年だけはまだ目に光が残っている。だからだろうか、昌平君は妙にその少年のことが気になった。

「………」

目が合っても、その少年は言葉を発さない。助けを求める訳でもなく、ただ昌平君のことをじっと見つめていた。

 

 

領土視察を終えてからも、何かに駆り立てられるように、昌平君は幾つもの村を渡り歩いた。他でもないあの少年を探すのが目的だった。

奴隷商人によって売られた子供たちの使い道・・・は決まっている。

まだ小さい体ではそれほど労力もないので、家事手伝いが主であり、村の長であったり、それなりに裕福な屋敷で使われるのだ。

見目に優れている者ならば幼い頃から娼館に禿かむろ ※見習いとして売られることもある。しかし、それは大半が女児だ。

中には物好きな男に買われる見目麗しい男児もいるが、それはほんの一握りに過ぎないし、あの目つきの鋭い少年にその説はなさそうだ。

奴隷商人もあれだけの人数の子供たち商売道具を引き連れているのなら、それなりに食い扶持がかかる。手っ取り早く銭に替えるのならば、移動に何日もかかる遠方の地や、他国にまで赴くことはないだろう。

戦に巻き込まれたあの村からそう離れた場所にはいないはずだ。

名も知らぬあの少年の眼差しを忘れることが出来ず、あの少年と再会して、何をしたいのかさえ明確な目的も考えずに、昌平君は捜索を続けていたのである。

助けを求められたわけでもない。ただ、目が合っただけ・・・・・・・だ。

あの少年との関わりはたったそれだけだというのに、昌平君がこれほどまで夢中となって何かに駆り立てられるのは、思えばこれが初めてのことだった。

 

主従契約~真相~ その一

少年と再会を果たすまで、そう長い月日は掛からなかった。せいぜい数か月といったところだろう。

訪れた村の長を務めている者の屋敷に、その少年はいた。何か粗相をしたのだろうか、屋敷の裏庭で罰として鞭で体を打たれていた。

鞭が皮膚を打つ音は、大人であっても顔をしかめてしまうほど、痛々しいものだった。

大人が渾身の力で振るう鞭のせいで、子どもの柔らかい皮膚はところどころ裂け、血が滲んでいる。少年は痛みに歯を食い縛っているようだったが、決して声を上げることはしなかった。

痛みに泣き喚くことも、許しを請うこともしない少年は心根が強いのか、それとも口が利けぬのだろうか。

たとえ子供だろうが、下僕がこのような仕打ちを受けることは大して珍しいことではない。

しかし、少年の体を見る限り、鞭で打たれた痕の他にも、さまざまな痣が目立っていた。

頬には殴られたような痣もあったし、唇も切れている。腕には太い指が食い込んでうっ血している箇所もあったし、硬い靴底で踏みつけられたことを思わせる痕もあった。

ろくに食事も与えられぬまま仕事をさせているのか、暴力によって乱れた着物の隙間から肋骨が浮き出ているのも見えた。

そして痣の色を見る限り、治りかけの傷から、つい最近の傷、そしてたった今つけられた傷までたくさんのものがある。

仕置きの範囲を越えているのは誰が見ても明らかで、これはただの虐待だ。

鞭を振るいながら、男は歯茎が見えるほどの不敵な笑みを浮かべている。恐らくこうやって過去にも奴隷の少年少女たちを甚振って来たのだろう。

彼の家族も加担していたに違いない。直接手を出さなかったとしても、少年の衰弱具合から、誰も助けようとしなかったのは事実だ。

昌平君の後ろに控えている近衛兵たちが睨みを利かせたところで、村長はようやく来客の存在に気付いたらしい。

前触れもなく右丞相が訪れたことに、随分と慌てていた。

事前の訪問を伝令しなかった旨を形だけ謝罪し、昌平君は地面に倒れたまま動かない少年に目を向けた。

行き過ぎた暴力であったことは村長も自覚があったようで、ばつの悪そうな顔をしている。

こちらは何も訊いていないというのに、下僕の少年がした粗相をべらべらと話し出し、見苦しいまでに自分の行動を正当化しようとしていた。

「…?」

不意に視線を感じ、昌平君は倒れている少年に目を向けた。彼は地面に倒れたまま、瞳だけをこちらに向けている。

か細い呼吸を繰り返し、意識の糸を手放し掛けているものの、何かを訴えるようにこちらを見据える。

「………」

昌平君が近衛兵たちを一瞥すると、優秀な彼らは主の意を察してその場を後にした。

右丞相と二人きりにさせられたことで、村長は何事かと驚いている。

しかし、秦国への貢賦こうふを欠かさずに行っていることを労いに来たのだと言えば、村長の男は安堵したように笑んだ。

先ほどまでの不敵な笑みで、あの子供を鞭打っていた男と同一人物とは思えないほどの豹変ぶりに、つい反吐が出そうになる。

右丞相からの称讃に、村長の男は屋敷にいる一族の者たちを呼び出した。
すぐにもてなしの準備を始めるよう指示を出す村長は、下僕の少年から興味を失ったらしい。

準備が整うまで客間へ過ごすよう勧められたが、昌平君はそれを断った。

「………」

昌平君は倒れている少年の前までやって来ると、着物が汚れることも構わずにその場に膝をつく。

噛みつかれるのも覚悟で、腫れ上がっている頬に手を伸ばすと、少年は黙って昌平君のことを見据えていた。

奴隷商人の馬車に乗せられた時、僅かに怯えを浮かべていた瞳が、今は憎悪で満ちていた。

そしてその憎悪から発せられる殺意は、間違いなく村長の男に向けられている。

少年が切れた唇を震わせているのを見て、昌平君はその場に跪いたまま、その言葉に耳を傾けた。

「…あいつら、ころして?」

それは昌平君に与えられた、初めての命令・・・・・・だった。

 

主従契約~真相~ その二

瞬きをした後、それまで平穏だった村の日常の一部が崩壊してしまったことに気が付いた。

村長とその一族の者たちが足下に転がっていて、誰もが声も上げず、動き出さぬことから、もう二度と生き返ることはないのだと分かった。

護身用に携えていた剣が刃毀れをしており、血が滴り落ちている。

柄を握り締めている手に、肉を断つ感触がはっきりと残っていた。無様な悲鳴や許しを請う声も、余韻のように鼓膜を震わせている。

(…静かだな)

突如訪れた右丞相をもてなそうと騒がしかった屋敷一帯が、今では沈黙に包まれている。

下がらせた近衛兵たちは、恐らく屋敷内の騒ぎを聞きつけているはずだった。
しかし、非常事態だとして駆けつけなかったのは、主である昌平君の行動を理解しているからだろう。

「………」

少年は、返り血に塗れた体をゆっくりと起こし、その口元に引き攣った笑みを浮かべていた。

この場を目撃したのは自分と少年の二人だけ。屋外でありながらも、完全なる密室。

共犯関係となった少年の前に、昌平君は再び跪く。血で真っ赤に染まった紫紺の着物がこれ以上汚れようとも構わなかった。

土埃と血で汚れた、少年の成長し切っていない小さな手が、褒めるように昌平君の頭を撫でる。

「…いい子」

少年は穏やかな笑みを浮かべながら、まるで飼い主が自分の命令に従った飼い犬を褒めるように、昌平君の頭を撫で続ける。

「いい子、いい子」

単調ではあるが称賛の言葉と、頭を撫でる手の温もりを心地よく感じたことに、昌平君は既に自分とこの少年の間で主従関係が固く結ばれていたことを悟った。

思えば、奴隷商人の馬車に乗せられた少年と目が合ったあの瞬間から、主従関係が結ばれていたのかもしれない。

言葉を交わさずとも、互いに存在を認識し合ったあの瞬間に、主従関係は成立していたのだ。

引かれ合うべくして引かれ合ったとでも言うのだろうか。

あの時すでに、自分の首にはこの少年の飼い犬としての首輪・・・・・・・・・・・・・・が巻かれていたのだ。

そして首輪を巻かれた自分は、首輪から伝う引き紐を辿り、自分を従える飼い主を見つけたのである。

 

 

一頻り飼い犬を褒め称えた後、飼い主である少年は、不思議そうな表情で辺りを見渡していた。

下僕である自分を甚振っていた者たちが事切れているのを確かめているのか、それとももう興味を失ってしまったのだろうか。

村長からの暴力を受けてたせいで顔に疲労の色を濃く滲ませながら、少年が昌平君を見つめる。

もうその瞳に憎悪の色はなく、代わりに慈愛に満ちた温かいものが秘められていた。

「…飼って、くれる?」

掠れたその言葉を聞き、聡明な飼い犬・・・・・・である昌平君はすぐに主の意図を察した。

即座に立ち上がると、先ほどまで主と慕っていた少年を冷たい瞳で見下ろす。

「―――これは私とお前の主従契約だ」

すでに主従関係は成立しているものの、昌平君は主からの二度目の命令・・・・・・に忠実に従った。

「私の言うことには全て従え。歯向かうことは決して許さぬ」

その言葉とは反対に、すでに結ばれている主従関係の立ち位置は、少年が飼い主であり、昌平君は飼い犬だった。

しかし、主からの命令を断わるはずがない。聡明な飼い犬というものは、主の意図を聞かずとも察し、大人しく従うものである。

主が自分を飼えと言ったのならば、その命令に従うのみ。

駒同然に動き、犬のように従順に従う。主のためなら駒同然に命を投げ捨てる従順なる犬。駒犬こそが、主の側に付き従うべき形なのだ。

「…この手を取るのなら、その命、私が生涯責任を持って飼おう」

手を伸ばすと、すぐに少年はその手を取ってくれた。

村長一家を全て消し去った共犯関係にあるはずなのに、傷だらけの少年の手は、人殺しの手とは思えぬほど、温かかった。

自分の首輪から伸びている引き紐を握っている少年の手が、今以上に血に塗れようとも、昌平君は飼い主に一生従うことを決めたのである。

 

信の駒犬 その一

懐かしい夢を見ていたせいだろうか、眠りから目を覚めても、まだ頭がぼんやりとしていた。

「…?」

見覚えのある天蓋が視界に入り、信は主の部屋の寝台で眠っていたのだと気づく。
窓から月明かりが差し込んでいて、もうとっくに陽が沈んでいるようだった。

喉の渇きを覚えて、寝台の近くにある水差しを取ろうと、ゆっくりと身体を起こしたいつの間に眠っていたのだろう。

水を飲み終えると、傍に昌平君の姿がないことに気付いた。

「…?」

重い瞼を擦り、信は辺りを見渡した。夜更けでも、蝋燭に明かりを灯して木簡を読んでいることは時々あったが、室内に主の姿が見当たらない。

目を擦りながら、眠る前に何をしていたのか記憶の糸を手繰り寄せると、蒙恬と共に軍師学校に侵入したことを思い出した。

彼に唆されたのだと分かったのは、主が救護室に来た時だった。誰が来るか分からない救護室で主と身体を重ね合い、途中で意識を失ったらしい。

「……、……」

ここまで昌平君が運んでくれたのだろうか。きちんと着物が整えられていた。

こんな夜更けだというのに、どうして主が部屋に居ないのだろう。命令違反をした自分に嫌悪したのだろうか。

不安で心が支配されてしまい、針で胸を突かれたような痛みを覚えた。

昌平君から何処へでも行ってしまえと言われるくらいなら、いっそ斬り捨ててほしかった。

「っ…!」

鼻を啜っていると、扉が開けられる音がして、信は弾かれたように顔を上げた。

逆光のせいで顔はよく見えないが、嗅ぎ慣れた香りと影の輪郭から、すぐに昌平君だと気づく。

「昌平君ッ…!」

寝台から転がり落ちるようにして、信は彼の元へ駆け寄り、その体に抱き着いた。

迷子が母親を見つけたかのように、不安と安堵が入り混じった表情でいる信を見下ろし、昌平君は慰めるようにその頭を撫でてやる。

発言の許可を出していないにも関わらず、自分の名前を呼んだことと、力強くしがみついて離れない信の姿に、彼は何かを察したようだった。

「…信」

昌平君は迷うことなくその場に片膝をつくと、今にも泣きそうな弱々しい表情でいる信を見上げた。

彼にしか見せない穏やかな笑みを浮かべ、昌平君は信の胸に頭を摺り寄せる。それは駒犬が主に甘える仕草でもあった。

しばらく押し黙っていた信だったが、ゆっくりと右手を持ち上げて、昌平君の頭を優しく撫で始める。

「…いい子」

久しぶりに・・・・・囁かれた言葉に、昌平君は思わず目を細めた。

いつもは自分が掛けている言葉なのに、信に言われると、それだけで胸が高鳴ってしまう。もしも自分に尻尾があったのなら、大きく振っていたことだろう。

もっとしてほしいと、甘えるように彼の胸に頭を摺り寄せると、困ったように信が笑った。

「…今日は・・・、俺が主か?」

その問いに、昌平君は苦笑を浮かべた。

「何を言っている。最初から・・・・お前が私の主だろう」

納得のいく答えだったのだろう。信の目がうっとりと細まる。

慈愛に満ちた黒曜の瞳を見るだけで、昌平君の瞼の裏に、初めて主従契約を交わした時のことが浮かび上がった。

あの日から、自分は信の駒であり、犬となったのだ。

 

 

口づけを交わしながら、信がしきりに着物を引っ張るので、昌平君は苦笑を浮かべながら彼に身を寄せた。

信が久しぶりに飼い主・・・に戻る時は、いつも我を通そうとするせいか、未だ子供っぽさが抜けていない。

それを指摘すれば、たちまち機嫌を損ねてしまうことを昌平君は理解していたので、何も言わずに従っていた。

二人して寝台に倒れ込むと、今日は信の方から体を組み敷いて来た。

一言命じさえすれば、自ら着物を脱ぐことだって、主の着物を脱がすことだって喜んで行うというのに、信は主として命じることをあまりしない。

時々は今のように、正しい主従関係に戻るものの、信は懸命に自らを使って行為に及ぶ。

「ッ…昌平君…」

名前を呼びながら首筋に舌を這わせて来る信が、忙しない手付きで着物の帯を解き、襟合わせを開いていく。

積極的に奉仕してくれる姿が、いつも演じている駒犬と大して変わりないことを本人は自覚しているのだろうか。

「…信」

「ぅ、ん?」

名を呼ぶと、上目遣いで見上げて来て、どうしたのだと甘い声で囁いて来る。

普段の偽りの主従関係を結んでいるうちは、信は積極的に発言が出来ないので、名を呼んでくれたり、素直に感情を口に出す今は貴重な時間でもあった。

だからこそ、昌平君はこの時間は普段よりもかけがえのないものと感じている。

「ん、んっ…」

いつも自分がしているように、肌に舌を這わせながら、信が胸に唇を押し付けていく。

自分の着物も煩わしいと帯を解いていく姿を見ると、信がいかに自分を求めているのかが著明に態度として現れており、愛おしさが込み上げた。

まだ触れてさえもいないというのに、信の足の間にある男根が上向いている。
早く触れてほしいと全身で訴えているのが分かったが、昌平君はまだ何も命じられていないことを理由に、あえて言葉も掛けず、動かずにいた。

一糸纏わぬ姿となると、仰向けになったままの駒犬の体に覆い被さるようにして、信が抱きついて来る。

「ふぁ…あ…」

昌平君の体に抱きつきながら、信が腰を前後に揺すり始めた。互いの性器を擦り合っているだけだが、既に涎じみた先走りの液が出ていた。

救護室では紐を使って男根を戒めていたこともあり、押さえ込んでいた情欲を吐き出したくて堪らないらしい。今の信にはどんな刺激にも堪らなく快感に変換されるのだろう。

「ん、ぅ」

愛らしいその姿に、堪らず昌平君は口付けていた。信もそれに応えるように昌平君の頭を抱きながら舌を伸ばして来る。

舌を絡ませながらも、信が腰を動かして男根を擦りつけて来るので、まるで駒犬の体自分を使って自慰をしているように見えた。

傍から見れば滑稽な姿かもしれないが、昌平君の双眸には淫靡な姿にしか映らない。

同じように先走りの液を滲ませながら、昌平君の男根も確かに猛々しく硬くなっていく。お互いを求め合っている何よりの証拠だ。

 

信の駒犬 その二

長い口づけを終えると、一刻も早く自分を飲み込みたいのか、身を起こした信が仰向けになったままの昌平君の体に跨った。

無駄な肉など微塵もない腹筋のついた美しい腹を突き出し、信が腰を持ち上げた。

「んっ…」

男根の先端を後孔に押し付けて来る。普段は固く口を閉ざしているのだが、救護室での情事もあってか、今では女の淫華のように柔らかく解れていた。

まるで其処が別の生き物のように、先端を咥え込もうと卑猥に蠢いている。

「は、ぁ…」

男根の根元をやんわりと握って固定すると、艶めかしい吐息を零しながら、信が腰を下ろしていく。

ゆっくりと彼の中に男根が入り込んでいき、温かい粘膜に包まれる感触に、昌平君も無意識のうちに長い息を吐いていた。

「ん、んんっ…」

根元まで呑み込んだ後、信は切なげに眉を寄せたまま、肩で息を繰り返す。

僅かに膨らんだ腹を擦りながら、唾液で濡れた唇で妖艶な笑みを浮かべたのを見て、昌平君は思わず生唾を飲み込んだ。

「ッ…」

温かくて滑った粘膜が男根に吸い付いて来る。

態度だけじゃなく、体が自分を求めて離さないのだと思うと、それだけで男の情欲が激しく駆り立てられる。顔が燃え盛るように上気したのが分かった。

すぐにでも律動を始めようと、主の腰に手を回した昌平君の思考を読んだのか、

待て・・

「!」

僅かに汗ばんだ額に張り付いた自分の黒髪を手で掻き上げ、信が昌平君を見下ろしながら意地悪な笑みを浮かべた。

命令通りに動きを止めた飼い犬を褒めるように、信が優しい手つきで頭を撫でる。

「…いい子」

あの日と同じだ。命令に従えば、主は従順な態度を褒めてくれる。

しかし、信と繋がっている部位は違う。一刻も早く抽挿を始めたくて、下腹部が熱く疼いて仕方がない。

主の許可がないのに、自らの欲望を優先して腰を動かせば、たちまち信から冷たい瞳を向けられるだろう。

それに、蒙恬との一件で、昌平君は信に耐え難い躾を施した。絶頂に達することを禁じたあの仕返しをされるかもしれない。

いや、もしかしたら信は既にその仕返しを始めようとしているのではないだろうか。昌平君の背筋に冷や汗が伝った。

「んッ…んぅ…ふ、ぅ…」

昌平君の肩に手を置きながら、信がゆっくりと腰を持ち上げた。自分の上に跨っているせいか、繋がっている部分がよく見える。より結合の実感が湧いた。

悩ましい声を歯の隙間から洩らしながら、信は腰を小刻みに上下させている。激しく腰を動かさないのは、自分の男根を存分に味わっているからだ。

今まさに主によってこの身が喰われているのだと思うと、昌平君は歓喜のあまり、身震いしそうになった。

「はあ、ふ、はぁ…」

体と視線を絡め合い、信は喜悦の吐息を零しながら、徐々に腰の動きを速めていく。

自分の肩を掴んでいる手が軽く爪を立てたのを合図に、昌平君はようやく主の腰に手を回すことを許された。しかし、腰を動かす許可はまだ出されていない。

繋がっている部分から、性器と性器が擦れ合う卑猥な音が響く。鼓膜までもが信との結合を意識してしまい、情欲がますます膨れ上がってしまう。

信が腰を動かす度に、熱くて滑った粘膜が男根を擦り上げるだけではなく、決して放すまいと強く締め付けられた。

「ッ…、…」

これ以上ないほど身を繋げているというのに、信と口づけがしたくても、まだ許可を得られていない。

主からの命令を待つ立場は、ひたすらにもどかしかった。

 

 

「ッ…、…くッ…ぅ…」

切なげに眉根を寄せている昌平君が息を切らしているのを見て、もうそろそろ限界が近いのだと察した信が妖艶な笑みを浮かべた。

それまでは昌平君の体に跨ってその体を跳ねさせていた信が、覆い被さるようにして抱きついて来た。

すぐに背中に両腕を回して来る昌平君の耳元に、信がそっと唇を寄せる。

「待て」

先ほどと同じ指示が出たことに、昌平君が目を見開く。

「ッ…!」

命令に応えるために、昌平君が奥歯を強く噛み締めて下腹に力を入れたのが分かると、信はうっとりと目を細めた。

追い打ちを掛けるかのように、信が赤い舌を耳に差し込んで来る。

「う…」

ぬめった舌が耳の粘膜を直にくすぐるその感触によって、昌平君が鳥肌を立てた。

耳に舌を差し込まれた状態で、今信が腰を前後に動かし始めたので、昌平君は歯を食い縛って快楽の波に呑まれぬよう、懸命に意識を繋ぎ止めていた。

少しでも気を抜けば、快楽の波に呑まれて意識が溶かされてしまうのは明らかだった。信もそれを分かっているのだろう。口元に妖艶な笑みが象られたままだった。

「はあ、ぁ…」

主導権を握りながらも、信自身も快楽の波に呑まれかけており、蕩けた表情を見せている。

ここまで信の体を育て、躾けたのは他の誰でもない自分だというのに、昌平君は過去の自分を憎らしく思っていた。

積極的な信の姿が見れるのは嬉しいことだが、ここまでやんちゃが過ぎると、次に信が駒犬を演じる時にはとことん仕返しをしてやりたくなる。

そこまで考えて、やはりこれは軍師学校の仕返しなのかもしれないと思った。

(…後で覚えておけ)

奥歯を食い縛りながら、息を荒げている昌平君が睨みつけるように信を見上げる。
もう二度と、信が飼い主に戻りたいと思わなくなるほど、躾けてやりたくなる。

「…ははッ」

駒犬からの視線に気づいた信が、彼の思考を読み取ったのか、まるでやってみろと言わんばかりに挑発的な笑みを浮かべる。

さらに挑発するように、主が艶めかしい赤い舌を覗かせた瞬間、昌平君の中で何かがふつりと切れた。

 

駒犬と飼い主

「うおっ…!?」

声を上げた時には、既に信の視界は反転しており、寝台に背中が押し付けられていた。

恐ろしいまでに情欲でぎらついている瞳に見下ろされていることから、自分の下にいたはずの昌平君に押し倒されたのだと分かり、信は不機嫌に眉根を寄せる。

「まだ、待てだって…」

「聞けんな」

従順だとばかり思っていた飼い犬から、まさか反論されるとは思わず、信は瞠目した。

「あっ、ぁあっ…!?」

動揺が止まぬうちに、腰を抱え直されて律動が始まったので、つい声を洩らしてしまう。

律動だけではなく、上向いている信の男根を扱かれて、指の腹で敏感な先端を擦られた。先走りの液がぬるぬると滑りを良くして、より快楽を増幅させる。

「待て!待て、だって、言ってるだろ…ッ!」

目が眩みそうな快楽に、意識が呑まれてしまいそうだった。

制止を求めて昌平君の体を押し退けようとするのだが、敷布の上にその手を押さえられてしまえば、抵抗する術はなくなってしまった。

全ての主導権はこちらにあったはずなのに、すっかり逆転されてしまった。

「はあッ…」

覆い被さるように主の体を抱き締め、耳元で荒い息を吐きながら、昌平君が腰を打ち付ける。

つい先ほどまでの騎乗位で散々焦らされ、高められた欲を吐き出すかのように、主の命令に背いて好きに腰を動かしていた。

「ッぅうう!」

これ以上ないほど最奥を貫くと、信が背中を弓なりに反り返らせる。男の精を求め、痛いくらいに締め付けて来た。

自分という存在が、奥深くまで信を支配していると錯覚した。いや、事実に違いない。

「信、いい子だ」

そう囁いてから、今は・・自分が駒犬の立場であることを思い出した。

本当の主は信だというのに、彼の命令によって主を演じていた時間が長いあまり、未だ信を駒犬として扱ってしまうことがある。

「んんッ…ぅぐッ…!」

しかし、いつもの褒め言葉に反応したのか、痛烈に男根を締め付けて、今にも絶頂を迎えてしまいそうなほど、顔を歪めている。

もう信の体は駒犬の立場に染まっており、既に昌平君を主だと認めている。そして彼の心も、自分の存在を主だと認めようとしていた。

「いい子だ、信」

「~~~ッ!」

腕の中で反り返ったその体をきつく抱き締めると、信も縋りつくように背中に腕を回して来た。

体がばらばらに砕かれてしまいそうな衝動が脳天を貫いた瞬間、腰の奥から燃え盛る快楽が迸った。最奥で精を吐き出す感覚は何度経験しても幸福感で胸が満たされる。

「昌平、君ッ…」

腹に熱いものが降り注いだのを感じ、信の男根からも精液が迸っているのが分かった。

「信…」

絶頂の衝動と余韻が過ぎ去るまで、二人は荒い息を吐きながら、お互いの体を抱き締め合っていた。

 

昌平君が首輪を巻かれたあの日、信にも同じように首輪と引き紐が繋がれていた。

互いの首には、互い飼い主の名を記した首輪が嵌められていて、互いの手には、首輪から伸びている引き紐が握られている。

その首輪と引き紐を、他者が触れることは決して許されない。

たとえ二人であっても、飼い主と駒犬の関係を、断ち切ることは許されないのである。

 

書き直し前の小説(8200字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

後日編①はこちら

後日編②はこちら

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平行線の終焉(桓騎×信←李牧)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

迷子

激しい雨が身体を叩いている。冷たい地面に横たわりながら、体温を雨と地面に吸い取られていくような気がした。

瞼が重くなっていき、目を開けていられない。体はこれ以上ないほど冷え切っていて、歯を打ち鳴らすことかおろか、指先一つ動かせなくなっていた。

「………」

このまま眠ってしまえば、もう二度と目覚めなくて済むのだろうか。

(こんなクソみたいな世の中、死んじまったほうが楽だろうな)

少年は意識の糸を手放す寸前まで、この世を憎んでいた。

怒りの矛先をこの世に向けていたところで、力のない自分があがいても何も変わらないのだと、頭では理解していた。

それでも少年がこの世を憎み続けるのは、それが少年にできる唯一の抵抗だったからである。

このまま死んでしまえば、明日の今頃にはカラスか野犬の餌にでもなっているのだろうか。
自分の亡骸がどうなってしまうのかさえ、少年は興味を失っていた。

「…?」

意識の糸を手放しかけた瞬間、痛いくらいに身体に叩きつけられていた雨が急に途切れた。
しかし、雨音は変わらない。何かが雨を遮っているのだ。

「…死んでるのか?」

雨音に重なるように、誰かの声が響いた。

(誰だ?)

目を開けて声の主を探そうとしても、衰弱し切った身体は瞼を持ち上げることさえ叶わず、鈍く動かすことが精一杯だった。

「お、まだ生きてるな」

温かい手が唇に触れたのを感じた。息をしているか確認したのだろう。

声は確かに女だったが、その手は傷があるのか、随分と爛れている。言葉遣いもそうだが、水仕事を一切しない貴族の娘でないことは明らかだ。

「………」

普段ならば、自分に近づく者は例外なく振り払っていたのに、少年はもう指一本動かせる体力も残っていなかった。

背中と膝裏に手を差し込まれた後、ぐんと身体を持ち上げられる浮遊感に少年は手放し掛けていた意識の糸を掴んでしまった。

(余計なことしやがって)

自分を助けようとしているのか、それとも商売道具として利用するつもりなのかは分からないが、少しでも慈悲を与えてくれるのならば、このまま見殺しにしてほしかった。

放っておけと言えば望みを叶えてくれるだろうか。少年は僅かに残っている力を振り絞って重い瞼を持ち上げると、自分を抱きかかえているその人物を睨みつけた。

「起きたか」

自分の体を抱き上げていたのは、意外にも女だった。生きているか確認するために自分の唇に触れた女だと、少年はその声で気づいた。

自分よりも一回りは上だろう。しかし、掛けられる口調から淑やかな女であるとは言い難い。淑やかな女だとしたら、こんな風にどこの生まれかも分からないみすぼらしい子供を抱きかかえる真似などしないはずだ。

先ほど唇に触れられた時に感じた爛れていた手にも、何か事情があるような気がした。

「………」

ゆっくりと目だけを動かして周りを見てみるが、女の他には誰もいない。

従者にでも自分の身体を担がせたのかと思っていた少年は、まさか女に抱きかかえられるとはと驚いた。

彼女は器用に首と肩の間にトウ ※傘の持ち手を挟みながら、自分たちの体が濡れないようにしている。

「……?」

ずっと簦を差していたようで、自分と違って彼女の身体は少しも濡れていなかったのだが、なぜかその頬には水滴が滴っていた。

「なあ、お前…名前は?」

美しい黒曜の瞳に見据えられると、不思議とこの女になら殺されても良いという気になれた。

女の問いに、少年はずっと閉ざしていた唇を動かした。

「…桓騎」

ふうん、と女が楽しそうに目を細める。

「父さんと同じ名だな」

(お前の父親なんざ知らねえよ)

生意気に言い返そうとした桓騎だったが、彼女の腕に包まれる温もりがあまりにも心地よくて、すぐに意識が溶け落ちていく。

瞼を下ろす寸前、自分たちの足元に、もう一本のトウ ※傘が落ちているのが見えた。彼女が差しているものとは別のものだ。

あの簦の持ち主が誰だったのか、桓騎は今もその答えを知らない。

 

芙蓉閣

芙蓉閣ふようかくは咸陽にある信が立ち上げた避難所であり、行き場を失った女性や、戦争孤児など、女子供を多く保護している。

信は六大将軍と称えられた王騎と摎の二人の養女である。二人から将の才を見抜かれ、彼女の才は着実にその才の芽を伸ばしていった。

飛信軍を率いる女将軍。今や秦国のみならず、中華全土に信の名を知らぬ者はいない。

王騎と摎に劣らぬ強さは、まさしく秦国を勝利に導くために与えられた才だったのだろう。

信自身が戦争孤児の下僕出身という弱い立場であり、彼女は自分のように恵まれなかった者たち・・・・・・・・・・の末路を多く目にしていた。

少しでもそういった者たちを減らす目的で、信は将軍昇格と同時に、芙蓉閣を立ち上げたのである。

駆け込んで来るのは、奉公や嫁ぎ先に恵まれなかった女性たちや、奴隷商人の商売道具として取引される親を失った戦争孤児たちが主である。

こういった保護施設を展開している場所は他になく、信の名前が広まるのと同等に、芙蓉閣の存在は中華全土に広まっていた。

信が独自に行っていた慈善活動だが、今では彼女の親友でもある嬴政や、名家の出である友人たちからの支持と協力を得ている。

捕虜や女子供には手を出さないとして有名な飛信軍と、芙蓉閣の存在は、たちまち中華全土で高い評判を得るようになっていた。

桓騎という名の美しい顔立ちの少年も、戦争孤児として、数年前にこの芙蓉閣に保護された一人である。

 

 

おおよそ一月ぶりに芙蓉閣へ視察に訪れた信は、回廊を大股でずんずんと歩いており、誰が見ても苛立っているのが分かった。

今や中華全土にその名を轟かせている女将軍の機嫌が悪いことに、芙蓉閣の者たちは何があったのだろうと怯えている。

回廊の途中にある一室の扉を声も掛けずに勢いよく開けると、信は中にいた桓騎をぎろりと睨みつけた。

後ろをついて回る侍女たちは憤怒している信に怯え切っているというのに、桓騎だけは違った。

大将軍を前にしても頭を下げる様子は一切なく、椅子に腰掛けたまま堂々と寛いでおり、それだけではなく、信の怒りを煽るかのように、大きな欠伸をかましていたのである。

「桓騎」

低い声で名を呼ばれても、桓騎は退屈で気だるげな表情を崩さない。この芙蓉閣で信にそんな態度を取れる者といえば彼だけだった。

他の者たちは信に助けられたという恩を感じているため、彼女に感謝こそすれ、怒らせるような真似は絶対にしないのである。

だというのに、ここ数年の間、信は芙蓉閣で怒鳴り散らすことが増えた。その原因は、全て戦争孤児として保護された桓騎にある。

「なに怒ってんだよ、信」

憤怒の表情を浮かべている信に、桓騎がにやりと笑みを浮かべる。

「んな怒ってたら嫁の貰い手がなくなるぞ?ま、俺がもらってやるから丁度良いけどな」

「そんな話をしに来たんじゃねえッ!」

いつも武器を握っており、女らしさの欠片もない傷とマメだらけの手で拳を作ると、桓騎の頭に振り落とす。鈍い音がして、桓騎は脳天に走った激痛に目を剥いた。

室内に響き渡った音と桓騎の表情を見れば、その一撃がどれほどの威力を持っていたが分かる。

もしも彼女が秦王から賜りし剣を振るっていたのなら、桓騎の首と身体は繋がっていなかっただろう。

「ってーな!何しやがる!」

げんこつを喰らった頭頂部を擦りながら、涙目で睨みつける。しかし、信の怒りは未だ収まることはないらしい。

また・・奴隷商人を懲らしめたんだとッ!?手ェ出すなって何度言ったら分かんだよ!」

心当たりのある話を持ち出され、桓騎はつまらなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。

「どこぞの名家のガキを攫おうとしてたから、とっ捕まえて、見逃してやる代わりに有り金全部くすねてやっただけだ。何か悪いことしたか?」

そのまま役人の元へ連れ出しても良かったのだが、戦争孤児でもない子を商品として売買しようとした罪は重く、間違いなく処刑になるだろう。

役人に突き出さなくても、子供の親のもとへ連れていけば、それはそれで無残に殺されたに違いない。

何としてでも自分の首を守るために、奴隷商人の男は桓騎に必死に命乞いをしたのだという。まだ子供である桓騎に頭を下げてまで。

有り金をあるだけ渡すのを条件に、桓騎はその奴隷商人を見逃してやったらしい。

芙蓉閣は信が立ち上げた保護施設であるが、彼女自身は将軍として戦場に赴くことや兵たちの鍛錬を主としているため、数か月に一度、視察に訪れるくらいだった。

視察に行けない間も、芙蓉閣の管理をしている代人から近況について記された木簡が送られる。

今回送られて来た木簡には、桓騎が奴隷商人から金を巻き上げたことと、それがとんでもない額であったこと、そして全額をこの芙蓉閣に寄付したのだと記されていたのである。

寄付された額を見て、信は目を剥いた。下僕出身であり、あまり金勘定に詳しくない信でさえも大金だとすぐに分かるほどの金額だったのだ。恐らく子どもでも大金だと分かる額だろう。

桓騎が奴隷商人から巻き上げた金は、論功行賞の時に秦王から褒美として授かる額と、ほぼ同等だったのである。

木簡を読んだ信は全ての執務を放棄し、こうして馬を走らせて芙蓉閣までやって来たというワケだ。

女子供を売り物にする奴隷商人がそれほどの金額を稼いでいたという事実は見逃せないが、何よりまだ子供でありながら、そこらの野盗よりも大金を巻き上げたことに驚かされた。

表面的には憤怒しているが、もちろん心配の感情の方が強い。桓騎もそろそろ徴兵に掛けられる年齢とはいえ、まだ子供であることには変わりない。

「一人で危ないことすんじゃねーッ!何度言ったら分かんだよ!」

二度目のげんこつが振り落とされたが、桓騎は後ろに一歩下がることで軽々と避けた。一度目は受けてやっても、同じ手は食らわないことを信条にしているらしい。

「いちいちうるせえなあ。資金繰りに協力してやってんだから感謝しろよ」

わざとらしく溜息を吐きながらそう言うと、信の怒りがますます燃え上がった。

「資金繰りなんてガキが口出す話じゃねーだろ!」

顔を真っ赤にして額に血管が浮き上がっている信を見て、これ以上刺激すると本当に面倒なことになりそうだと桓騎は話題を変えることにした。

 

芙蓉閣が登場する話(昌平君×信)はこちら

 

 

子ども扱い

「なら、とっとと俺を飛信軍に入れろよ。そうすりゃ監視下に置けるだろ」

腕を組みながら言うと、怒り一色だった信の表情が一瞬だけ曇った。

「…いや、頼む側のお前が何でそんな偉そうな態度なんだよッ!」

もっともな言葉に、桓騎は肩を竦めるようにして笑う。

「そろそろ恩を返してやる・・・・・・・って言ってんだよ」

相変わらず傲慢な態度を続ける桓騎に、先に折れたのは信の方だった。

「はあ…お前ってやつは、どうしていつもそう、太々しいんだか…」

長い溜息を吐いた後、彼女は後ろで苦笑を浮かべている侍女たちに視線を向ける。

彼女の意志を察した侍女たちは礼儀正しく一礼し、その場を離れていく。どうやら桓騎と二人きりで話をしたいようだ。

「飛信軍に入りてえなら、ちゃんと試練に合格してからだ」

試練という言葉を聞き、桓騎の表情がおもむろに曇った。ついでに舌打ちまでしている。

今や中華全土にその名を轟かせている飛信軍に入るには、体力試練というものに合格しなくてはならないのだという。

信を筆頭に、副官を務める羌瘣、そして軍師の河了貂の三人の女性を目当てにやって来る男共も少なくない。

まだ飛信軍が隊の時からその体力試練は行っていたらしいが、彼女たちに近づきたいという安易な理由で体力試練を受けた男たちは必ずと言って良いほど泣かされることになるらしい。

その噂は桓騎の耳にも届いていた。しかし、彼女に命を救われた桓騎は、信さえ言い包めてしまえば自分も飛信軍に入れるものだと思い込んでいたのである。

情に厚い信なら、恩を返したいといえばきっと応えてくれると思ったのだが、どうやらそれで一度痛い目を見たことがあるらしく、総司令や飛信軍の仲間たちからこっぴどく叱られたらしい。

そもそも嘘を吐けない素直な性格の信が、裏での行い縁故採用など一切出来ないことは何となく察していた。

彼女らしいと言えば正しくその通りなのだが、桓騎自身も早く飛信軍に入りたいという焦燥感があった。

桓騎には、将軍や軍師として戦場に立ちたいといった想いは一切ない。

彼が飛信軍に入りたいと考える理由は何とも単純なもので、信がいるからであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

芙蓉閣に彼女が訪れるのは視察の時だけで、戦が始まれば長い期間会えなくなる。いくら大将軍の座に就いているとはいえ、いつ敵将に討たれるかも分からない。もしかしたら次に会うことはないかもしれないのだ。

飛信軍に入れば、いつだって彼女に会えるし、傍で彼女を守ることが出来ると桓騎は信じて疑わなかった。

 

 

「…そりゃあ、飛信軍が良いって言ってくれるのは嬉しいけどよ…」

不機嫌に顔色を曇らせた桓騎を見て、信が慰めるように言う。彼女の言葉から察するに、どうやら自分が信を目当てに飛信軍に入りたいと思っていることには一切気づいていないようだった。

もしかしたら、今日こそは諦めて飛信軍に入れてくれるのだろうかと桓騎が期待に目を輝かせていると、

「んー…でも、お前が飛信軍に入ると、何だかややこしいことになりそうだって言われてるんだよなあ…」

「あぁ?誰にだよ」

不機嫌に眉を寄せて聞き返すと、信が目を泳がせながらすぐに白状する。

「父さ…王騎将軍だよ」

王騎は天下の大将軍として中華全土に名を轟かせ、そして下僕であった信を養子として引き取った男だ。

さすがに養父の言葉を無視するわけにはいかず、信も悩んでいるようだった。

(余計なこと吹き込みやがって…)

王騎と直接の面識がある訳ではないのだが、信が芙蓉閣での様子や、桓騎のことをよく話しているのだという。

信がどのように自分のことを伝えているのかは分からないが、今回のような奴隷商人から金を巻き上げたことは過去に何度もある。その話だけ聞いた者たちから、自分が相当な問題児とみなされているのは分かっていた。

飛信軍に入るためには信の返事一つあれば良いのだとばかり思っていたが、他の者たちからの許可も必要になるのだとしたら相当面倒だ。

そういった者たちの弱みを事前に握っておけば、飛信軍に入ることを推薦してくれたかもしれない。今回の奴隷商人から巻き上げた資金を賄賂として渡しておけば、全面的に信の説得を強力してくれたのではないだろうか。

そんなことを考えていると、信が思考を読んだのかあからさまに顔色を曇らせた。

「その悪知恵は一体どこで身に着けて来たんだか…」

溜息交じりで信がそう言ったので、桓騎は得意気に笑ってみせた。

「将来困らせることはねえぞ。むしろ傍に置いてて良かったって思うはずだ」

はいはい、と信が呆れた表情で聞き流されて、桓騎は舌打った。
こうなればいくら信でも、まともに取り合ってくれないだろう。

「…そんなに戦に出たいのか?」

束の間、室内が沈黙で満たされた後、信が静かに問い掛けて来た。目を合わせることなく、じっと俯いている。

その問いの真意から、桓騎はまだ自分が子供扱いをされていることを嫌でも理解した。

「俺が犬死にすると思ってんのか」

もしそう思われているのなら、自分は随分と甘く見られているらしい。

信にとってまだ自分は幼い子供で、戦とは無縁の存在だと思われていることは随分と前から分かっていた。

戦で武功を挙げれば相応の褒美がもらえるし、地位や名声を手に入れることだって出来る。しかし、桓騎はそういったものには一切の興味を示さなかった。

飛信軍に入れば、戦場に立つことが出来たのならば、信の傍にいられる。彼女を守ることが出来る。

しかし、桓騎がそれを言葉にしないのは、信から「そんな理由で」と罵られることを分かっていたからだ。

徴兵を掛けられれば、大人しく従わなくてはならない年齢であることは信も分かっている。わざわざ信に懇願しなくても軍に入れられるだろうが、それが飛信軍であるとは限らない。

信がいない軍に入っても、無意味だと桓騎は考えていた。傍で彼女を守れなければ、何の意味などないのだ。

少しでも目を離せば、二度と彼女に会えなくなるかもしれない。そう思えば思うほど、桓騎の中で飛信軍に入りたい気持ちが膨らんでいくのだ。

 

子ども扱い その二

芙蓉閣を立ち上げたのは信だが、他にもこの保護施設を支援をしている者は大勢いるという。

差配状況が悪くはないことは知っていたが、何かしら騒ぎを起こさないと信は今日のように駆けつけて来ない。

桓騎が初めて芙蓉閣で騒ぎを起こしたのは、この保護施設に逃げ込んで来た自分の妻を追い掛けて来た夫を凝らしめた時だった。

見張りの兵たちを目を潜り抜け、芙蓉閣の敷地内に侵入して来たその男は血走った目で声を荒げながら、自分の妻を探していたのだが、桓騎は怯むことなくその男に立ち向かったのである。

刃物を持っていた男によって多少の怪我は負わされたものの、子供の身軽さを最大限に利用し、結果的には桓騎の圧勝で男を懲らしめた。

その騒動はすぐに信の耳にも入り、怪我の手当てを受けている桓騎のもとにやって来た。

てっきり褒められるのかと思ったが、そうではなかった。自分の顔を見るなり、信に思い切り頬を打たれたことと、その痛みは今でもよく覚えている。誇張なしに鼓膜が破けたかと思った。

他の者たちの被害がなかったことを考えれば、男を捕まえた自分の活躍を褒め称えるべきだろうと逆上すると、

―――ガキのくせに一人で危ないことするなッ!

逆上した桓騎も思わず縮こまるほど、信が憤怒したのだ。思えば、信が桓騎に怒ったのはあの時が初めてだったかもしれない。

怒りと不安と悲しみが織り交ぜられた、何とも言葉にし難い表情を浮かべた彼女に抱き締められ、桓騎は初めて誰かから心配という行為をされたのだと気づいた。

芙蓉閣には桓騎以外にも大勢の女子供がいる。信だって大将軍として多くの執務があるというのに、彼女はそれらを全て投げ打ってまで、駆けつけてくれたのだ。他の誰でもない自分のために。

信に心配を掛けないよう、大人しくしていれば良かったのだが、桓騎はここで騒動を起こせば・・・・・・・・信が駆けつけてくれると学習してしまったのである。

一度味を占めた桓騎は信に迷惑を掛けないように、こちらに一切の非がない状況を前提として、騒動を起こすようになった。信の顔に泥を塗る迷惑な行為は一切しないが、顔を見ないと安堵できないような心配させるようになった。

芙蓉閣への不法侵入者や奴隷商人といった相手を選び、桓騎がそういった者たちを嬉々として懲らしめるようになったのはその頃からだった。

桓騎が信に好意を寄せているのは誰が見ても明らかだったのだが、なぜか信は未だに気付いていない。

「じゃあな」

どうやらお説教と言う名の用件はこれで終いらしい。まだ陽が沈んでいないことから、今日はこのまま屋敷に帰るらしい。

桓騎は咄嗟に信の腕を掴んでいた。

「ん?」

なんだよ、と信が振り返る。

「………」

あからさまに視線は逸らしているものの、桓騎の手は彼女の腕を放そうとしない。

執務を途中で放棄してやって来たので、そろそろ戻らねばならないのだが、引き留められると、お人好しの信はつい立ち止まってしまう。

それこそが桓騎の足止めであると、彼女は未だに気づいていない。もちろん桓騎の方も気づかせるつもりはなかった。

陽が沈み始めるまでここで粘れば、彼女は諦めて芙蓉閣で一夜を過ごすしかなくなることを桓騎は知っていた。飛信軍の話をしたのも、そのための足止めである。

「………」

「桓騎…お前…」

ばつが悪そうな表情をしている桓騎を見て、信が此度の件を反省しているのだろうと思った。

もちろん表面的な態度だけである。簡単に騙されてくれる信に、桓騎は内心ほくそ笑んでいた。

「………」

信は腕を組んで何かを考えるように目を伏せた。

「…じゃあ、ちゃんと考えといてやるから、もう今回みたいな無茶は二度とするなよ」

「!」

確定ではないが、それでも希望が持てる返事が来たことに、桓騎はすぐに頷いた。

心の中で舞い上がっていると、「じゃあな」と軽快な挨拶と共に、桓騎の腕を振り解いた信はさっさと部屋を出て行ってしまう。

あっ、と桓騎が走って追い掛けた時には、既に彼女は正門に待たせていた愛馬に跨っているところだった。

「信!」

「悪いな。また来るから、いい子にしてろよ」

馬上から腕を伸ばして来たかと思うと、頭をぐしゃぐしゃと乱雑に撫でられた。相変わらず女の上品さなど一欠片も持たない手付きだ。

「あっ…おい!」

手綱を振るうと、すぐに愛馬が駆け出した。子供の足では追えないほど、遠くに行ってしまい、桓騎は重い溜息を吐く。

もう少し足止めをしておけば、久しぶりに一夜を共に過ごすことが出来たのにと桓騎は舌打った。

彼女が眠る布団に忍び込むのも、呆れた彼女に抱き締められながら共に夜を過ごしたのは一体いつが最後だっただろう。

次にそんな機会が来れば、もう簡単に彼女の身体を組み敷くことが出来るほど、この体は男として成長しているかもしれない。

成長した自分を見て、顔を赤らめる信の姿を想像し、桓騎はその日が来るのを楽しみに待っていた。

そして飛信軍に入ることが出来れば、いつだって彼女の褥に潜ることが出来るのだと、幼い頃から桓騎は疑わなかったのである。

 

成長

大人になれば、さぞや黄色い声を上げられるだろうと芙蓉閣に住まう者たちから期待されていた桓騎は、その想像通りに、端正な顔立ちに加えて大人の魅力を増幅させた。

さまざまな女性から黄色い声を上げられ、多くの視線を向けられるようになったというのに、予想外にも、信だけは桓騎に対する態度を微塵も変えることはなかった。

こんなにも良い男に成長したというのに、いつまでも彼女にとっての桓騎は子どものままらしい。

それでも進展があったといえば、彼女が戦に出ることを認めてくれたことだろうか。

徴兵が掛けられれば従わなくてはならない年齢だった時も、彼女は言葉にせずとも、桓騎を戦に出したくないと思っているようだった。

その理由は恐らく子どもだからだろう。いつまでも彼女が自分を子ども扱いすることが腹立たしかった。

桓騎が信に向けている好意は紛れもなく愛情である。
大将軍に対する尊敬だとか、家族に向けるような恩愛ではなく、桓騎にとって信は唯一無二の存在だった。

しかし、信が桓騎に向ける感情は男女のものではない。きっと幼い頃から自分を保護している慈愛なのだろう。

 

 

それから数年の月日が経ち、桓騎は蒙驁将軍の副官として、秦軍を勝利に導いている。

知将として名を広めている彼のもとに、信が訪れた。
論功行賞でも桓騎の活躍は大いに称賛され、褒美として与えられた屋敷は信が住まう屋敷に劣らず立派なものである。

「久しぶりだなあ、桓騎。元気だったか?」

相変わらず護衛を率いることなく愛馬と共にやって来た信は、屋敷の門で出迎えてくれた桓騎を見て、にやっと笑った。

此度の戦に参戦しなかった彼女が、祝杯を手土産に桓騎を労いに来たのだ。

領土視察の任務のために、此度の戦は出陣せず、祝宴にも論功行賞にも顔を出せなかったようで、信が桓騎に会うのは随分と久しかった。

屋敷の一室に案内された信は、持って来た酒瓶をさっそく開け始める。

「今回の戦でも随分活躍したらしいな。やっぱり蒙驁将軍に頼んで正解だったぜ」

二人分の杯に酒を注ぎながら、信が大らかに笑った。

「………」

祝杯だというのに、桓騎の顔に喜色は浮かんでいない。出迎えてくれた時から一度も笑みを見せてくれないことに、信は不思議そうに首を傾げた。

その顔は普段通りの表情ではあるものの、機嫌の悪い空気を発している。

幼い頃から桓騎の成長を見守っていた信は、彼が不機嫌であることに気づいていたのだが、その理由だけが分からずにいた。

「どうした?」

「…白老は、人が良い御仁だ」

他人を蹴落とすことが大好きな桓騎が、ここに来てようやく他人を褒めたことに桓騎の成長を感じながら、信は小首を傾げた。

「…だがな」

桓騎が喉を鳴らして、一気に酒を飲み干す。酒好きな麃公に勧められた酒だろうか。喉が焼けるように熱かった。

「なんで飛信軍じゃなかったんだよ」

手に持っていた酒杯を、わざと音を立てて机に置いた桓騎に、信はきょとんと目を丸めた。雰囲気だけではなく、態度や仕草も完全に怒っている。

そこまで怒りを剥き出しにする桓騎を見るのは随分と久しぶりのことだった。
他の者であれば、その鋭い眼差しに凄まれれば術を掛けられたかのように動けなくなるだろうが、信は違った。

「は?そりゃあ、俺の軍に入れたら贔屓だろ」

酒を注いだ自分の杯を手繰り寄せながら、信が冷静に答える。

少しも躊躇うことなく、あっさりと返答されたことに、桓騎の眉間にますます深い皺が寄った。どうやらまだ納得出来ないでいるらしい。

「良いじゃねえか。俺の下につかなくても、このまま蒙驁将軍の役に立ってれば、すぐにまた昇格するだろ」

笑いながら向かいの席に着いている桓騎の肩を叩くと、ますます切れ長の目がつり上がった。

 

昇格

今から数年前、信は白老と称される蒙驁将軍に、桓騎の身柄を引き渡したのである。

あの生意気な性格とまともに付き合えるのは、心が広い蒙驁将軍だけだろうという判断だった。
徴兵が掛けられる前に、桓騎の身柄を蒙驁へ引き渡したのには理由があった。

この男が配属された軍で大人しく上からの指示に従うとは思えなかったし、気の合わない仲間がいれば容赦なく手を出すだろうと思ったからだ。

それにもしも、養父である王騎の軍に入れば、その態度を問題視されて即座に首を撥ねられることは明らかだった。

桓騎と王騎に面識はないが、芙蓉閣で桓騎が起こした幾つもの騒動は、信の口から王騎の耳にも入っている。昔から桓騎が飛信軍に入りたいと話していることも、信を通して聞いていたのだが、あまり良い顔をされないのは今も同じだった。

恐らく王騎軍以外の軍に入らせても、良い顔はされなかっただろう。

もとより、桓騎は縛られるの嫌がる性格だ。
ある程度の自由を約束されないと独断で何をしでかすか分からないし、それが騒動になれば連帯責任として、桓騎を受け入れた将が罰せられる。

その点、蒙驁は桓騎のような自由人を好きに泳がせる傾向にあった。それでいて桓騎の才を見抜き、それを芽吹かせたのだから、彼には感謝しかない。

桓騎の目を盗んで、信は幾度も蒙驁と連絡を取り合い、彼の口から直接桓騎の様子を聞くこともあった。

その聡明な頭脳を用いることで、初陣を済ませてから桓騎はすぐに昇格していき、今では蒙驁の右腕として活躍している。

蒙驁自身も随分と助けられていると言い、逆に彼から桓騎を軍に入れてくれたことを感謝された時、信は自分の判断が間違っていなかったのだと胸を撫で下ろした。

今や知将としての才をどんどん芽吹かせている桓騎の活躍を知った王騎が「やはりそうでしたか」と意味深に呟いていたことも、信は気になっていた。

まさかここまで桓騎が知将の才を芽吹かせるとは信も予想外だったが、結果としてはこの道に進ませて良かったのだろうと思えた。

…だというのに、桓騎自身は未だ飛信軍に未練があるらしい。

「別に飛信軍に入らなくたって良いだろ。桓騎軍だって、今じゃ秦国には欠かせない存在だ」

望むだけの褒美も大方手に入ったと思うのだが、どうして未だ飛信軍に未練があるのか分からない。

「…お前、俺が将軍昇格だとか、褒美目当てでここまでやって来たと思ってんのか?」

予想もしていなかった言葉を返されて、信の顔から表情が消えた。

「えっ?じゃあ、なんだよ」

本当に分からないといった表情で聞き返されて、桓騎は謎の頭痛に襲われた。

(この鈍感女め)

あからさまに好意を告げても、信は冗談だとしか思っていないらしい。どれだけ真面目に訴えても結果は同じだった。

それはまだ彼女の中で、桓騎という存在が大人の男に昇格出来ていない何よりの証拠である。

信は情に厚い女だ。たかが行き倒れの男児一人くらい見殺しにすれば良かったものを、彼女は目に留まる人々を見捨てられない性格なのである。信自身が下僕出身で、王騎に拾われた過去が影響しているのかもしれない。

飛信軍が捕虜や女子供を殺さないという話が中華全土に広まっているのも頷ける。それは決して噂ではなく、事実だった。

芙蓉閣に住まう女子供や飛信軍の兵たち、民の笑顔を見れば、大勢の人々が信を慕っていることが分かる。

信にとって、自分もそのうちの一人に過ぎないのだろうか。桓騎は時々訳もなく不安を覚えることがあった。

 

秦趙同盟の成立

咸陽宮に趙の一行が来ているという報せは、桓騎の耳にも届いていた。

呼び出しを受けた訳ではないのだが、信が赴いているという噂を聞きつけ、久しぶりに彼女の顔を見ようという安易な理由で、桓騎は宮廷へと訪れた。

趙の一行が何用で秦の首府に訪れたのかは分からない。聞いたような気がするが、興味のないことを桓騎は一切記憶しないのだ。

宮廷の廊下を慌ただしく従者たちが行き来している。酒や料理の準備をしている姿を見て、宴の準備が始まるのだと察しがついた。

趙の一行をもてなすのだと分かったが、彼らが来ると分かっていながら、事前に宴の準備をしていなかったのは何故だろうか。

廊下の隅で官僚たちが何やら声を潜めて話をしている姿を見て、桓騎はそちらの方向に用があることを思わせるような、自然な足取りで歩いた。

すれ違い様に彼らの話に耳を傾けると、どうやら秦趙同盟が結ばれたのだという。

(随分と急だな)

馬陽の戦いから一年の月日しか経っていない。それに、秦と趙の現在の情勢からして、同盟を結ぶような必要などないようにも思う。

総大将を務めた王騎の死により、馬陽の戦いでは秦軍が敗北となった。相手は趙軍で、出陣しなかった桓騎の耳にも、王騎の死と敗北の報せは届いた。

こちらが勝利しようが敗北しようが興味はなかったのだが、飛信軍が相当な被害を受けた話だけは聞き逃さなかった。

さらに、信の養父である王騎の死は、信の心に相当深い傷をつけたらしい。

王騎の弔いの儀の後、見舞いと言う名目で信の屋敷を訪れたが、そこに信はいなかった。侍女たちに話を聞くと、どうやら彼女は幼少期を過ごしていた王騎の屋敷に引き籠っているのだという。

今でこそ、ようやく普段通りに話をすることが出来るようになったのだが、あの時の信はまるで抜け殻のようだった。

桓騎の前では気丈に振る舞い、涙こそ流していなかったが、ふとした拍子に今にも泣き出してしまいそうな子供のような表情を浮かべていたことはよく覚えている。

(信は宮廷に呼び出されたのか?それとも自ら赴いたのか?)

王騎を討ち取ったとされる敵国との同盟を、信が素直に認めたのかが気になる。もちろん同盟成立において、将軍である彼女の意志が尊重されることはない。

この場に彼女が来たのは高官から呼び出されたのか、それとも自らの意志なのだろうか。

何となく後者な気がしていると、回廊を歩く信の後ろ姿を見つけた。地面を睨みつけながら歩いているが、随分と重い足取りだった。

「信」

背後から声を掛けると、一度立ち止まった彼女は、表情を繕ったのか、少し間を置いてからこちらを振り返った。

「よお、桓騎。お前も来てたのか」

口元だけに笑みを携えている、下手な作り笑いだ。嘘を吐けない彼女が無理をしている時、いつもぎこちない笑みを浮かべる。

何と言葉を掛けるべきか一瞬悩んだが、同盟のことには触れない方が良いだろう。その延長で王騎の話題にでもなったら、間違いなく信は悲しむ。

今でも養父の死を悼んでいることから、彼女の心の傷がまだ癒えていないのは明らかだったし、彼女のことが大切だからこそ、自分の不用意な発言でその傷口を抉るような真似をしたくなかった。

適当な話題でもしようと桓騎が口を開いた時だった。

「久しぶりです、信」

 

 

自分の知らない間に、背後に誰かが立つというのは嫌悪に直結するものだ。反射的に桓騎は振り返った。

声を掛けて来たのは金髪の男だった。青い着物に身を包んでいて、すらりと背が高く、桓騎も僅かに視線を上向けなければならないほどだった。

着物から覗く首筋や手首のがっしりとした骨付きを見ると、筋骨の逞しい体をしていることが分かる。

しかし、その体格とは真逆で、威圧的な雰囲気は微塵もなかった。
むしろ誰とでもすぐに打ち解けられそうなほど、人の良さそうな笑みを浮かべている。

(こいつ…)

しかし、彼の瞳は鋭利な刃物のように鋭く、決して触れてはいけない何か・・・・・・・・・・を持っていることを危惧させる。

腹の内にどんな黒いものを隠しているのかが分からず、桓騎は思わず眉根を寄せた。

「李牧…」

驚いた信が男の名を呼んだので、知り合いなのだろうかと桓騎は二人を交互に見た。

喜悦と困惑が入り混じった表情で身じろいだのを見ると、信がこの李牧という男にどういった感情を抱いているのかが分からなかった。

信と共に過ごす時間はそれなりに長かったはずだが、李牧という名は一度も聞いたことがない。

震えるほど強く拳を握った信が李牧を睨みつける。彼女が首を真上に向けなければならないほど、李牧と信はかなりの身長差があった。

信に睨みつけられているというのに、李牧は少しも臆する様子はない。それどころか、慈しむような眼差しを向けていた。

「馬陽での戦…お前の軍略だったんだろ」

低い声を震わせ、信が唸るように言った。その声には、凄まじい怒りで込められている。

信の言葉から察するに、この男は趙の軍師らしい。王騎を討つ軍略を企てたのがこの男だと、信は分かっているようだった。

「ええ、そうです。戦では姿を伏せていましたが、あなたなら気づくと思いました」

あっさりと頷いた李牧に、信が力強く奥歯を噛み締めたのが分かった。

「…対抗策を投じる時間も与えたつもりだったのですが、残念ながら結果は変わりませんでしたね」

その言葉が火種となったのか、信は弾かれたように駆け出し、彼の胸倉を掴んだ。

「なんでッ…!なんで、父さんを…!」

その言葉を聞いた桓騎は二人の関係に仮説を立てた。元々面識があったのだろうが、王騎の死をきっかけに、二人の間に大きな亀裂が入ったのだろう。

好敵手という関係で結ばれているのかとも思ったが、李牧の微塵も揺らぐことのない余裕ぶりを見る限り、そういった関係ではないことは明らかである。

もともと二人の間に亀裂が入っていたのかは定かではないが、王騎のことをきっかけに、元には戻れぬほど深い溝が広まってしまったようだ。

父の仇ならばさっさと斬り捨てれば良いものを、それをしないのは、秦趙同盟が成立してしまったことも関わっているのだろう。

しかし、それだけではなく、王騎を死に至らしめた理由を問うていることから、信はこの男を殺せないのは、何か別の感情・・・・が邪魔をしているからなのだと桓騎は思った。

「………」

信に凄まれても、李牧は眉一つ動かすことはしない。

(こいつ…)

余裕しか持ち合わせていない態度に、二人を見ている桓騎もやや苛立ちを覚えた。

胸倉を掴んでいる信の手を覆うように、そっと大きな手で包み込んだ李牧は穏やかに笑んだ。

「こちらの目的を果たしただけです」

「目的…?」

信が眉根を寄せて聞き返す。

「王騎の死。それが馬陽での目的でした」

ひゅ、と信が息を飲んだのが聞こえた。それまで憤怒していた彼女の表情に、怯えとも不安とも似つかない色が浮かび上がった。

みるみる青ざめていく彼女を慰めるように、慈しむように、李牧は反対の手で彼女の頬を撫でる。

まるで触れられた場所から凍り付いていくかのように、信は身動き一つ出来ずにいた。唇を戦慄かせてはいるものの、声を象ることはない。

「馬陽には、あなたも出陣していたのですよね?…無事で良かった」

信の無事に安堵するその言葉には、やや矛盾を感じさせるものがあった。

この男が趙の軍師だということは確定したが、王騎を敵視していながら、なぜ信の無事を喜ぶのだろう。二人の間に、桓騎の知り得ない事情があるのは明らかだった。

信の頬を撫でていた李牧が心配するように、信の顔を覗き込んだ。

「…少し熱がありますね。悪化する前に、きちんと休まなくてはいけませんよ。宴の席は出ない方が良い」

「触んなッ!」

弾かれたかのように、信は李牧の腕を振り払う。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

肩で息をしているところを見れば、王騎を殺した張本人を前にして憤怒していることが分かる。しかし、相変わらず背中に携えている剣を抜こうとはしない。

感情的になりやすい彼女が、自らを制するように拳を握り締めているのを見て、桓騎は違和感を覚える。

その拳から赤い雫が滴っていることに気付き、桓騎はすぐに声を掛けた。

「おい、信ッ…!」

「信、無意味なこと・・・・・・はやめなさい」

李牧は穏やかな声色を崩すことなく、彼女を諭すようにして、血を流している右手をそっと両手で包み込んだ。

「ッ…!」

深く爪が食い込んだ手の平を開かせると、李牧は迷うことなく、そこに唇を寄せた。

信が目を見開いていたが、驚いて声を喉に詰まらせるばかりで、先ほどのように振り払うことはしない。

懐から手巾を取り出した李牧が、傷ついた手の平をそっと包み込む。
きつく手巾を結んでやり、簡易的に止血の処置を行うと、彼はにこりと微笑んで彼女の手を放した。

「では、また」

さりげなく再会の約束を取り付け、李牧は背を向けて歩き出す。宴が行われる間に向かったようだ。

桓騎の存在はずっと視界に入っていたはずだが、まるでそこにいないものとして扱っているように、李牧は一瞥もくれずに去っていった。

(あいつ…)

その無言の態度が、まるで敵視する価値もないと言い表しているようで、桓騎は腸が煮えくり返りそうになる。

残された信は遠ざかっていく李牧の背中を見つめながら、何か言いたげに唇を戦慄かせていたが、言葉に出すことはせず俯いてしまう。

「おい、信」

声を掛けると、彼女は弾かれたように顔を上げた。

すぐにでも李牧とどういった関係なのか問い詰めたかったが、桓騎は手巾で包まれた信の手を掴んだ。

「手当てに行くぞ」

「…ほっとけよ。こんなの、すぐ治る」

先ほど李牧が唇を寄せていたことを思い出し、桓騎は反吐が出そうになった。

本当に戦場で武器を振るっているのかと疑わしくなる細い手首を掴み、桓騎は彼女を引き摺るように歩き出す。

自分以外の男に、特にあの男のせいで信の傷が癒えるなんて、考えたくもなかった。

 

中編①はこちら

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昌平君の駒犬(昌平君×信←蒙恬)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • めちゃ強・昌平君の護衛役・側近になってます。
  • 年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/蒙恬×信/嫉妬/特殊設定/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

初めての友人

信がようやく自分に興味を抱いたことを察し、蒙恬は目を細めている。

「名前教えてよ。駒犬が名前ではないでしょ?」

簡素な自己紹介の後、蒙恬が名前を尋ねて来た。

「………」

昌平君からの許しを得ていない信は、蒙恬に見せつけるように、自分の手の平に名前を書く。

「…信?信って名前なの?」

指で書いた名を読み、蒙恬が小首傾げる。そうだと肯定するために、信は大きく頷いた。

「良い響きだね」

この名は顔も知らぬ親につけられたものだ。戦で命を失ったとされる両親がどんな思いを込めてつけたのかは信には分からない。

しかし、字の読み書きも出来なかった信が、昌平君から名前の書き方と意味を教わった時、不思議と温かい気持ちで胸を満たされた。

生まれてから、信が親からもらったのはこの名だけである。信にとってこの名は特別なものだった。

主以外の人間から名を褒められたことが今まで一度もなかったので、どういった反応をするべきか分からずに信は戸惑った。

「…信は、口が利けないの?」

困惑している信に、蒙恬が心配そうに声を掛けて来た。今度は否定するために首を横に振る。

声を出せない訳でもないのに、なぜ言葉を話そうとしないのか、蒙恬は不思議で堪らないらしい。

「………」

身振り手振りで理由を告げようかとも考えたが、信は諦めて蒙恬に向かって背中を向けた。

先ほどの騒ぎを広めず、円満に解決をしてくれたことに恩は感じていたが、これ以上つるむつもりはなかった。

感謝の言葉を伝えられない代わりに、蒙恬の疑問を一つ解消させてやったのだから十分だろう。

たとえ蒙家の嫡男だとしても、自分と関わりのある立場ではないし、ここで会えたのは単なる偶然で、もう会うことはないはずだ。

屋敷に戻るために歩き始めると、

「信、待って」

後ろから蒙恬が腕を掴んで来たので、信はうっとおしそうに視線を返した。

話さないくせに、感情は随分と豊かなのだと分かった蒙恬が意地悪な笑みを深める。

「ねえ、俺と友人になってよ」

 

 

(はっ?)

そんなことを言われるとは思わず、信は思わず声を出して聞き返しそうになった。

驚いて振り返ると、蒙恬はにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべている。

「別に友人になるだけなんだから、先生の護衛役には支障ないでしょ?」

彼の問いに、信がたじろぐ。その反応を見て、蒙恬が目をきょとんと丸めた。

「え?もしかして、それも先生の許可がいるの?」

頷くことも首を横に振ることも出来ない信は、困ったように目を泳がせていた。

信に友人と呼べる存在は一人もいない。常に昌平君の護衛役として付き添っていることで、同年代の者たちと関わる機会が一度もなかったのだ。

そもそも友人という関係性について学んで来なかった信には、昌平君からの許可が必要になるのかさえ、自分で判断が出来ずにいる。

しかし、友人という存在を望んだことはない。

駒犬としての役目を果たすことが信の全てであり、友人と関わる機会など今後もないだろうと思っていた。

どうやら信の考えを見抜いたのか、蒙恬が意味深な笑みを浮かべる。

「俺が初めての友人?」

「………」

友人という関係性は、お互いが認識して成立するものなのだろうか。

信が返事に躊躇っていると、

「…それじゃあ、もしも先生に叱られるようなことがあったら、俺が先生を説得してあげる。どう?」

その言葉を聞いても、信の表情は優れない。この場に昌平君がいたのなら、主に選択を委ねることが出来たのにとすら思った。

いつも昌平君からの命に従っているせいで、自分で判断する能力・・・・・・・・・が著しく衰えているのだ。しかし、そのことに何ら支障はない。

駒犬には不要なものであると昌平君からも言われていたし、その分、主に忠実で従順であることを示すことが出来る。今後も変わる必要はないと教わっていた。

意を決した信が、再び蒙恬に背を向けた時だった。

「信の知らない先生のこと、教えてあげようと思ったんだけどなあ」

その言葉は、見えない杭となって、信の両足を地面に打ち込んだ。

信の知らない昌平君の姿。それは信が出入りを許されない軍師学校と謁見の間で執務こなす主のことを指す。

長い月日を共にしていても、未だかつて、信は一度もその姿を見たことがない。

誰よりも昌平君の傍についているのは他でもない自分だというのに、その自分が知らない主の姿を軍師学校の生徒たちは知っている。それを考えるだけで信の腸は煮えくり返りそうだった。

その感情の名を嫉妬だということを、信はまだ主から教えられていない・・・・・・・・

「どう?悪い話じゃないでしょ」

ようやく信が話に興味を持ったのだと気づき、蒙恬は後ろから信の肩に腕を回し、顔を覗き込んで来る。

楽華隊の隊長である蒙恬は、あの蒙武将軍の息子だと聞いていたが、この華奢な体つきを見ると、本当に親子なのかと疑ってしまう。

「…交渉成立ってことで良いのかな?」

どうやら友人というのは、交渉の末に獲得する関係性らしい。

昌平君も自分の教え子なのだから、こんなことに口を出してくるようなことはしないはずだ。

「………」

信は諦めて頷いた。その返事に気を良くしたのか、蒙恬の口元に笑みが深まる。

「それじゃあ、ゆっくり話せる場所に行こう!」

「ッ…!」

ぐいと腕を掴まれて、信は引っ張られていく。

逃げないように首輪でもつけたつもりなのだろうかとも考えたが、友人という関係はこれが普通なのかもしれないと無理やり自分を納得させた。

 

初めての友人 その二

(え…?)

ゆっくり話せる場所として蒙恬が選んだのは、なんと軍師学校だった。

門を潜る手前までは、信も昌平君に同行しているのだが、この先に行ったことは一度もない。

軍師学校は厳しい警備がされている宮廷のすぐ傍にあるせいか、門番は初めからいない。盗まれて困るような機密事項は学校に置いていないので、警備する必要がないのだそうだ。

しかし、立ち入りが出来るのは関係者と、厳しい試験を潜り抜けて来た優秀な生徒たちだけである。

不意に立ち止まり、ぽかんと口を開けながら軍師学校を見上げている信に、蒙恬が不思議そうに振り返った。

「どうしたの?」

「……、……」

首を横に振って、自分は入ることが出来ないと訴える。

掴んでいる腕を引っ張られても、信は両足に力を込めてその場から絶対に動こうとしなかった。

「…ここ・・は許可がないと入れないんだ?」

頑なに進もうとしない信に、蒙恬が納得したように頷いた。

「それじゃあ、信って…先生が軍師学校にいる時の様子は何も知らないんだね」

その言葉を聞き、信のこめかみに鋭いものが走った。

護衛役として他の者たちよりも、昌平君と長い時間共に過ごしている自分が唯一知らない姿だ。小馬鹿にされたような気がして、信は唇を強く唇を噛み締める。

蒙恬にはそのようなつもりはないのだと分かっているのだが、信は主の姿を全て把握出来ていないことに劣等感さえ覚えていた。

「なら、俺の付き人ってことにして入ろう」

それなら何も問題はないと明るい声で提案されるが、それでも行けないと信は首を横に振った。軍師学校の敷居を跨ぐ許可を得ていない。

主が傍に居ない時であっても、主の命に逆らうことは許されない。今までそうして生き続けて来たのだ。安易な事情で、駒犬の規定を破る訳にはいかなかった。

信が頑なに規定を守り続けるのには、もしも昌平君の命に背いたことを本人に気付かれれば、躊躇うことなく斬り捨てられるかもしれないという不安があった。

斬り捨てられるのならまだ良い。斬り捨てる価値もないと見放されたら、そう思うだけで、信は恐ろしくて震え上がってしまう。

昌平君に捨てられれば、もう自分は一人では生きていけないのだと、信は骨の髄まで理解していた。

「ッ…!」

急に項を指でするりと撫でられて、信は小さく跳ね上がる。くすぐったくて、思わず声を上げそうになったが、寸でのところで飲み込んだ。

何をするんだと蒙恬を睨みつけると、彼はこちらを挑発するかのようにあははと笑った。

「そんなに怯えなくても大丈夫。もし、信が先生に捨てられちゃったら俺が飼ってあげるから」

慰めるように声を掛けられると、ふつふつと怒りが込み上げて来る。

自分が主だと認めたのは昌平君だけであり、誰であっても彼以外の人間を主として認めるつもりなどない。

むっとした表情を浮かべている信に蒙恬が軽快な笑い声を上げる。よく笑う男だと思った。
先に門を潜った蒙恬が振り返り、おいで、と手招かれた。

「…………」

不安げに瞳を揺らしている信を見て、蒙恬は昌平君の命令を背くことになるのを怯えているのだろうと考えた。

「…あ、それじゃあさ、これはどう?」

戻って来た蒙恬が、坐買露店で男に絡まれて助けてくれた時ように、信の肩に腕を回す。

何をするんだとすぐに険しい表情へ変わった信の顔を見て、蒙恬が声を潜める。

「俺が軍師学校の前で倒れてたのを、信が助けて救護室に運んでくれた。…これなら先生だって叱らないでしょ?」

これが名も知らぬ者であるならともかく、蒙家の嫡男を助けたとなれば、さすがに昌平君も文句は言わないだろう。

信はしばらく躊躇っていたが、意を決したように顔を上げて頷いた。

「…良かった」

満足そうに蒙恬が口角をつり上げる。

 

 

「じゃあ、行こうか。場所は俺が案内するから」

具合が悪そうな演技をするために、蒙恬は信の肩に腕を回したまま俯いた。その手を掴み、信は初めて軍師学校の門を潜ったのだった。

「…、……」

「入り口はこの奥」

門を潜った後、簡素な装飾が施されている軍師学校の入口を通り、長い廊下を歩いた。

今は生徒たちが一つの教室に集まって軍略について学んでいる時間帯であるからか、廊下には信と蒙恬以外誰もおらず、静けさが満ちていた。

蒙恬の話だと、生徒同士で軍略囲碁を打ち合ったり、過去の戦の記録を読み返すこともあるのだそうだ。

「…突き当たりを右に進んで」

案内に従いながら、信は救護室を目指した。
昌平君が救護室にいないことは分かっていたが、もしも遭遇してしまったらどうしようと身構えてしまう。

倒れていた蒙恬を助けたことを責められはしないと思うのだが、勘が鋭い主がこの偽装工作を気づいたらと思うと、背筋が凍り付いた。

自分の意志で命令に背いたのだと気づかれて、どこにでも行ってしまえと捨てられかもしれないと、信は思わず唇を噛み締めた。

「………」

引き返すなら今しかない。もう一人の自分が叫ぶが、進み出した足は止まらなかった。

今まで一度も見たことがない主の姿を、信はどうしても知りたかったのだ。主に捨てられる代償を伴うとしても。

「…大丈夫だよ、信。俺がついてるから」

罪悪感のあまり、顔色を悪くしている信を見て、蒙恬が優しい声色で囁いた。

彼は本当に戦に出ているのか疑わしいほど華奢な体つきをしており、着物に花のような甘い香を焚いている。声を聞かなければ、信は蒙恬を女だと思い込んでいただろう。

 

秘め事

救護室を覗き込むが、中には誰もいなかった。

設置されている寝台も机も綺麗に整っており、誰かが使った形跡どころか、誰かがいた形跡も見当たらない。

もしかしたら常に無人なのだろうか。これでは急病や怪我人の対応が出来ないのではないかと信が不振がっていると、

「たまに軍略囲碁で頭を使い過ぎて倒れる生徒がいるくらいだからね。そんな頻繁には使われていないんだ」

軍師学校に常駐している医師はおらず、宮廷に常駐している医師団が時折見回りにやって来るのだと蒙恬が教えてくれた。

救護室に足を踏み入れるなり、蒙恬はいくつか並べられている簡素な寝台の一つにごろりと横たわる。

もしも昌平君がやって来たとしても、すぐに演技が出来るようにしているのだろう。

「信、こっち来て」

手招きをされて、信は彼が横たわる寝台の隅に腰を下ろした。

「何が訊きたい?信が知らない先生のこと、なんでも教えてあげるよ」

「っ、…」

軍師学校で仕事をする主のことなら何でも知りたかった。すぐに質問をしようとして、寸でのところで声を飲み込む。

出入りを禁じられている軍師学校に入ったのだから、せめて普段の言いつけは厳守しなくては。

それに、もしも主がここに現れたとして、蒙恬と口を利いている姿を見られたらと思うと、安易には話せなかった。

開きかけた口を慌てて噤んだ信が、訊きたいことを声に出す以外で伝えようと狼狽える。辺りを見渡すが書き物に使う道具も見当たらない。

名前を教えた時のように、手のひらに指で文字を書こうとした信を見て、蒙恬はにやりと笑った。

「信が喋らないなら・・・・・・教えてあげない」

「…、…っ…」

なんだと、と信が歯を食い縛る。その反応を見て、蒙恬がまた軽快に笑った。

「せっかく二人きりなんだから声くらい聞かせてよ」

「………」

許可を得ていないのだから、自らの意志で発言は出来ない。信は腕を組んで、蒙恬から顔を背けた。

こちらは昌平君に捨てられる代償を背負っているというのに、蒙恬の機嫌一つで安易に命令違反をする訳にはいかなかった。

ただでさえ立ち入りを禁じられている軍師学校に入ってしまったのだから、これ以上の違反行為は出来ない。

 

 

だんまりを決め込んだ信を見て、蒙恬は諦めたように肩を竦めた。

「…先生はね?全然表情変わらないんだよね。褒めてくれる時も、お説教する時も、ずーっとあの顔なの」

昌平君の真似をしているのか、蒙恬が自分の目尻を指でつり上げる。それが主に似ているのか信にはよく分からない。

しかし、彼の話を聞いて、今まで知らなかった軍師学校での指導員としての主の一面を初めて知ることが出来た。

「…あ、やっと笑った」

指摘されて、信は慌てて口元を押さえた。つい頬が緩んでいたようだ。俯いて前髪で顔を隠すが、蒙恬にはしっかり見られてしまったらしい。

「もっと聞きたいでしょ?先生のこと」

「っ…」

甘い誘惑に信は分かりやすく狼狽えた。
その反応を見て、蒙恬が追い打ちを掛けるように言葉を続けた。

「それじゃあ、喋らないで良いから、もっとこっち来て?」

寝台に横たわったまま、蒙恬が自分の太腿を二回叩いた。

「っ…?」

いつも主が自分を呼び寄せる時と同じ仕草だったこともあり、信は驚いて目を見開く。
反射的に立ち上がりかけた体を制し、信は蒙恬を睨みつけた。

「…先生のこと、もっと知りたいでしょ?ほら、こっちおいでよ」

穏やかな声色で、太腿を二回叩いて再び信を呼び寄せた。

自分を呼び寄せる仕草が昌平君と同じだったのは偶然だと頭では理解しているのだが、信はあからさまに動揺を見せていた。

「ふうん?俺には懐いてくれないんだね」

つまらなさそうな口調で呟かれたので、信は機嫌を損ねてしまっただろうかと顔色を窺った。

「あーあ、せっかく良い友人になれると思ったんだけどなあ」

(…まさか、こいつ…)

信はここに来てようやく、この男の機嫌によっては、今の秘め事を主に告げ口するつもりなのではないかと危惧した。

軍師学校を入学するには難易度の高い試練を合格しなくてはならないし、卒業となればまたそれに相応しい努力をしなくてはならない。それを蒙恬は首席を卒業したと聞いていた。

そんな優秀な男の機嫌を損ねれば、腹いせに明晰な頭脳を使って信の立場を引き摺り下ろすかもしれない。

自分が軍師学校に手引きしたことは気づかれぬように、昌平君に告げ口をするだろう。

共に軍師学校に足を踏み入れた時から、蒙恬にとって有利な状況が完成されていたのだ。信の立場で見れば、蒙恬に従わなければ主に捨てられることに直結してしまう。

もっと警戒するべきだったと信は今になって後悔した。昌平君の教え子ということと、甘い条件に誘惑されたことで、油断してしまった。

ここで信が逃げ出せば、間違いなく残された蒙恬は昌平君のもとへ向かうだろう。

代償を覚悟でここまで来たのだから、何としてでも主に気付かれる訳にはいかない。お互いにとって良い条件を満たし、不満なく終わることさえ出来れば、取引は成立するのだ。

 

秘め事 その二

「……、……」

きゅっと唇を噛み締めた信は一度立ち上がって、横たわる蒙恬の身体に跨った。

「あは、やっと懐いてくれたんだ?」

腹筋を使って起き上がった蒙恬は、嬉しそうに信の腰元に腕を回して来た。

簡単には離れられないようにしっかりと抱き締められてしまい、信はしきりに扉の方へ目を向ける。

誰かが救護室の前を通る気配は相変わらずないのだが、もしも昌平君が来たらどうしようという不安はなくならない。

「そんなに心配しなくても、滅多に使われない場所だから大丈夫だよ」

信の視線を追い掛け、蒙恬は安心させるように声を掛けた。

「友人らしいことしようか」

「?」

そんなことを言われても、それが何であるか信には想像がつかなかった。
あからさまに狼狽えている信に、いきなり蒙恬が顔を近付けてくる。

「ッ!」

不意に首筋に唇を寄せられて、信は反射的に逃げようとした。しかし、それよりも早く蒙恬の手が項に回された。

後ろから首を押さえられて、逃げ道を奪われると、首筋に小さな痛みが走る。

「ッ、ぅ…?」

少ししてから蒙恬が顔を離すと、赤い痣が浮かび上がっていた。じんと疼くような痛みが首筋に残っていた。

昌平君と身を交える時も、時々される行為だったので、どうしてそんなことをしたのだろうと険しい表情を浮かべる。

自分の唇をぺろりと舐め回すと、蒙恬は得意気に笑みを深めた。

「だって、先生も信にしてるでしょ?こういうこと」

「っ…」

不意に項を撫でられて、信はくすぐったさに肩を竦める。そういえば昨夜の情事で、昌平君に項を噛みつかれた。蒙恬に背を向けた時に気付かれてしまったのだろう。

「…信は知らないだろうけど、これは友人同士なら普通・・・・・・・・なんだよ?先生は教えてくれなかったでしょ?」

信の項を撫でつけながら、蒙恬がそう教えてくれた。

(これが、普通?)

自分と昌平君は主従関係で結ばれているというのに、なぜ友人にすることを自分に行っていたのだろう。

今の蒙恬と自分のように身を寄せ合う行為が友人なのだとしたら、昌平君は自分以外の誰かとも同じことをしているのだろうか。

昌平君の着物から他の者の匂いを嗅ぎ取ったことはなかったが、蒙恬の言うことが本当だとしたら、自分が傍にいない間に誰かと会っているのだろうか。

初めて外の世界・・・・を教えられた信は大いに戸惑い、その胸に不安を募らせた。

「…あ、そうだ。言い忘れてた」

「?」

何かを思い出した蒙恬がその口元に意地悪な笑みを深めたので、信は嫌な予感を覚えた。

この時、救護室に近づいて来る足音に気付いていれば、蒙恬の腕の中から抜け出すことが出来たのかもしれない。

しかし、信は蒙恬の言葉の続きが気になり、行動が遅れてしまったのだ。

「…ここの救護室なんだけど、先生がよく息抜きに来る・・・・・・・・・・・んだよね」

「えッ!?」

予想もしていなかった返答に驚愕し、信が間抜けな声を上げた途端、無情にも背後で扉が開かれた。

 

現行犯

反射的に振り返ると、今だけは一番会いたくなかった主の姿がそこにあった。

いつも見ている切れ長の瞳と目が合うと、信の顔から血の気が引いていく。

「………」

重い沈黙が救護室を包み込んだ。苦しいほどに息が詰まってしまう。
昌平君は普段のように表情こそ変えなかったものの、その瞳は研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。

軍師学校での執務を終えるまで待っていろと命じたはずの駒犬が、教え子である蒙恬の膝に跨っているのだから驚かないはずがない。

立ち入りを禁じているはずの軍師学校にいることと、なぜ蒙恬と共にいるのか。二人きりの空間で何をしていたのか。さまざまな情報が視界に飛び込んできて、脳が処理をするまで時間がかかっているようだった。

「何をしている」

当然の疑問を向けられ、硬直していた信の身体が弾かれたように竦み上がった。

「あ、あの、これ、は」

発言の許可も得ていないというのに、信の唇に言葉が押し寄せて来る。

すぐに弁明をしようと、信は蒙恬の身体から退こうとしたのだが、二本の腕がそれを許さなかった。

「せっかく二人きりの時間を満喫してたのに、もう行っちゃうんだ?」

残念だなあと、少しも残念がっていない声色で、蒙恬が信の身体を抱き締める。

「はっ、放せ!騙したんだなッ!」

ここには誰も来ないと言ったではないかと、信が怒りのあまり、発言の許可を得ていないことも忘れて怒鳴りつける、蒙恬はとぼけるように小首を傾げた。

「え?先生がここに来ないなんて、一言も言ってない・・・・・・・・けど?」

「~~~ッ!」

昌平君に気付かれてしまったことに対する焦燥と、蒙恬に対する怒りによる混乱で、信は瞳に涙を浮かべていた。

「信」

いつもの低い声で名前を呼ばれ、信は怯えたように顔を歪ませた。

突き刺さるような視線はずっと背中に感じていたのだが、その視線とその声色から昌平君が怒っていることは顔を見なくても理解していた。

(へえ…)

顔から血の気を引かせたまま動けずにいる信と、不自然なまでに表情を崩さないでいる昌平君を見て、蒙恬は二人の関係を改めて理解した。飼い主と犬の上下関係が根強く刻まれているらしい。

「よしよし。先生怒ったら怖いよね」

腕の中で縮こまっている信を慰めるようと、蒙恬は穏やかな笑みを浮かべた。

まるで昌平君に見せつけるように、蒙恬は優しい手付きで信の頭を撫でる。

昌平君の怒りを察したからか、先ほどと違って信は蒙恬の膝の上から動けず、大人しく頭を撫でられていた。動けないでいるという方が正しいだろう。

それに気を良くした蒙恬はそっと信の耳元に唇を寄せる。

「…あーあ。信、捨てられちゃうね?」

捨てられるという言葉に反応したのか、信がひゅ、と息を飲んだ。

「もし、先生に捨てられちゃったら、俺のとこにおいで?俺が飼ってあげるから」

昌平君に聞こえる声量でそう言った蒙恬は、未だ震える信の身体を優しく退かしてから立ち上がった。

何事もなかったかのように、蒙恬は救護室を出て行こうとする。
扉に手を掛けた途端、そうだ、と彼は思い出したように振り返った。

「公私混同は良くないですよ、先生?」

咎めるように、からかうように明るい声色を掛けられ、昌平君は僅かに眉根を寄せる。

(…知っているのか)

その後は振り返ることなく救護室を出て行った蒙恬がどのような表情を浮かべているのかは見えなかったが、あの声色から、恐らく笑っていたに違いない。

 

 

蒙恬が出て行った後、室内には相変わらず息苦しいほどの重い空気が満ちていた。

言い訳を考えているのか、信が落ち着きなく目を泳がせている。謝罪よりも言い訳を述べようとしているその態度に、昌平君はますます苛立ちを覚えた。

発言の許可を得ていないものの、その罰を恐れることなく、すぐに謝罪をしてくれたのならば多少は気が紛れたかもしれない。

「っ…」

睨みつけると、寝台に腰掛けていた信が分かりやすく硬直した。

一人で行動する際も発言の許可を出していなかったことから、恐らくは蒙恬が無理やり連れて来たのだろうと仮定する。

―――はっ、放せ!騙したんだなッ!

―――え?先生がここに来ないなんて、一言も言ってないけど?

二人の会話のやりとりを思い返せば、口の上手い蒙恬に信が唆されたことは明らかだ。
しかし、こうも簡単に信が唆されたのには、もう一つの理由があった。

信は心に踏み入って来た人物を疑う・・ということを知らないのである。

常日頃から相手を疑うよう躾をしなかったのには、そもそも信の心に踏み入れる人物は、主である自分だけだと自負していた。

まさか、よりにもよって蒙恬に付け入れられたのは予想外であったが。

信と蒙恬には何の接点もない。それゆえ、蒙恬が信に興味を持つはずがないと油断していた。

軍師学校に足を踏み入れたことはもちろんだが、何よりも主以外の男に身を寄せ、口を利いた。

これは命令違反いけないことであると、信にも自覚があったに違いない。

もしも自分がこの場に訪れなければ、信はこの事実を隠し通そうとしていたかもしれない。
主に隠し事をする悪知恵はどこで覚えたのだろうか。

もしかしたら自分が信と離れている間、蒙恬と何度も密会をしていたのではないかと不審に眉根を寄せてしまう。

 

命令違反と罰

「……、……」

無言の眼差しを向けられ続けた信がいよいよ恐れをなしたのか、寝台から立ち上がった。

昌平君の前に膝をつき、立ち膝の状態になる。しかし、目を合わせるのも恐ろしいのか、青ざめた顔のまま俯いていた。

「っ…!」

昌平君が僅かに右手を動かすと、怯えたように信が目を強く瞑った。

暴力による恐怖で押さえつけるような躾をした覚えはないのだが、きっと殴られても仕方がないと感じているのだろう。此度の命令違反の罪が重いことを自覚している証拠とも言える。

「……、……」

昌平君の手は、信の頬を打つことなく、するりと撫でた。

しばらく目を伏せていた信だが、ゆっくりと瞼を持ち上げると、怯えた瞳で見上げて来た。

「す、捨てな、ぃ、で」

発言の許可を得ていないのは分かっているだろうに、信は双眸にうっすらと涙を浮かべながら必死に訴えた。

紫紺の着物を掴んで来て、文字通り自分に縋りつく姿を見下ろし、思わず笑みが零れそうになる。

主従関係を結んだあの日から、捨てるつもりなどないというのに、信は粗相をすれば見放されると思い込んでいるようだ。

それはそれで都合が良いことで、昌平君は彼の思い込みを修正することをしなかった。

本当の犬のように頭を擦り付ける姿に、つい絆されてしまいそうになる。

捨てるつもりはないとはいえ、躾は大切だ。二度と自分以外の者に唆されることのないよう、その身に教え込まなくてはならない。

蒙恬が信に近づくとは予想外であったが、発言をしない命令を忠実に守っていたのだとしても、主以外の人間に尻尾を振ったことは許されない。

「………」

頬を撫でていた手を動かし、今後は顎を掴んで持ち上げた。指でその唇を何度かなぞってやると、意を察したのか、信がこくりと喉を鳴らす。

いつまでも言葉を掛けないのは、機嫌を損ねていると錯覚させるためだ。

全ての決定権は主である自分にあり、信の態度一つで慈悲を掛けてやることも、容赦なく捨てることも出来るのだという態度の表れでもあった。

信もそれを察しているからこそ、こんなに怯えているのだろう。ともすれば簡単に口角がつり上がってしまいそうになり、昌平君は笑いを堪えるのに、歯を食い縛らなくてはならなかった。

 

 

信が涙目で昌平君を見上げる。許しを乞う視線を向けられるが、昌平君は何も言わずに彼の後頭部に手をやった。

「っ…」

狼狽えている信が扉の方に視線を向けていたことには気づいていたが、構わなかった。

催促するように後頭部に添えた手に力を込めると、信が震える手で、着物の帯を解いた。

飼い犬の戸惑う表情を見ていただけだというのに、男根は僅かに上向いている。それをゆっくりと手の平で包んだ信が顔を赤らめた。

「は、…」

口を開けた信が艶めかしい赤い舌を覗かせた。先端を咥え込み、柔らかい頬の内側を擦り付けられる。鈴口を掃くように舌が動いた。

しかし、信の視線と意識は未だ扉の方に向けられており、誰か来る前に早々に終わらせようとする意志がおのずと伝わって来た。

いつもなら口淫だけで、その先のことを期待して上向いている信の男根も、今は何の反応を見せていない。

自分に捨てられたらという不安と、誰かにこの場を見られたらという不安のあまり、口淫に集中出来ていないのは明らかだった。

根元を手で扱き、敏感な先端を口と舌を使って愛撫される。

「ん、…ん、ぅ……」

信の口の中の唾液が泡立つ卑猥な水音が響いたが、その音さえも誰かに聞かれたらと不安なのだろう。切なげに寄せられている眉がそれを語っていた。

「もういい」

「ッ…」

低い声で信の髪を掴み、口淫を中断させると、信の瞳が恐慌したように顔を歪める。
乱れた着物を整えていく主の姿を見て、信は今にも泣きそうな弱々しい瞳を向けて来た。

「ちゃ、ちゃんと、する」

紫紺の着物を掴んで、先ほどのように縋るような眼差しを向けられる。

もはや発言の許可を得ていないことは、信の頭から抜け落ちているらしい。

普段から忠実に命令に従っている駒犬がこれほど取り乱す姿を見るのは珍しいことで、つい意地悪をしたくなってしまう。

「何をだ」

主語のないその言葉がどういう意味かと聞き返すと、信は羞恥に顔を赤らめてはいるものの、立ち上がって自ら着物に手をかけて肌を見せ始めた。

体の線に沿って着物が床に落ちていき、一糸纏わぬ姿となった信に思わず口角がつり上がりそうになったが、あえて表情を崩さずに、冷たい視線を向け続けた。

「ッ、あ、の…俺…」

戸惑ったように瞳を揺らし、再び扉の方に視線を向けていたが、拒絶することは許されないと信自身も頭では理解しているらしい。あとは余計な理性だけを消し去ってしまえば良い。

一歩前に詰め寄ると、同じ分だけ信が後ろに下がる。何度かそれを続けると、膝裏に寝台がぶつかって、呆気なく座り込んでしまった。

先ほどと同じように主を見上げる体勢となり、信が生唾を飲み込んだのが分かった。

「っ……」

まだ何も命じていないというのに、信は全身の血液が顔に集まったのかと思うほど顔を赤くして、膝を折り曲げ、その足を開き始めた。

 

命令違反と罰 その二

「何をしている」

主に向かって両足を開く行動の意図は一つしかないし、その意図が何たるかは手に取るように理解していたのだが、あえて昌平君は問い掛けた。

主に意図を探らせようとするのは、駄犬のすることである。

少しでも気を許せば、堰を切ったように涙を流してしまいそうな信に、昌平君は変わらず冷たい眼差しを向けていた。

躾に手を抜くつもりはないし、甘やかして調子に乗るような駄犬など不要である。もちろんそんな風に成長してしまったのなら、それはそれで調教のやりがいがあるというものだが。

「つ、使って、く、ださい…」

緊張と羞恥のせいで、途切れ途切れに、今にもかき消されてしまいそうなほど小さな言葉が紡がれる。

しかし、視線だけは決して主から逸らすことはなかった。

必死に捨てられまいとするその態度に愛おしさが込み上げて来て、昌平君は堪らずその体を抱き締める。

「信…」

震えているのは分かっていたが、腕の中で縮こまる駒犬の姿に、このまま喉笛を食い千切ってやりたいとさえ思った。

(捨てるわけがないだろう)

それを言葉にすれば、安堵して泣き喚くのは目に見えていた。

蒙恬との会話の内容から察するに、信の方にも言い分があったに違いない。

もしも信一人だけが軍師学校に立ち入ったのならば、自分に会いたかったのだろうと錯覚し、そんな可愛らしい理由ならばもちろん許していた。

しかし、蒙恬と共に過ごしていたことだけは、見逃すわけにはいかなかった。

飼い主にしか懐かない忠実な犬であったとしても、他人を疑うことを知らぬ無知な子供だ。

今までは主である自分以外の人間と関わらせないようにしていたが、今後は言葉巧みに近付いて来た者に心を許せば、恐ろしい目に遭うのだと骨の髄まで分からせてやる必要がある。

躾を建前として、蒙恬に対して嫉妬の感情を抱いていることを、醜いまでに歪んだ独占欲を抱いている自覚はあった。

発言に許可を必要とするようになったのも、自分以外の者と口を利かぬ意図があったのに、信は初めてそれを裏切ったのである。

自分だけの駒犬であるはずの信が、何を餌につられたのかは知らないが、こうも容易く主を裏切るとは思わなかった。

それでいて粗相をしたことを咎めれば、捨てないでくれと泣きついて来る信に、傲慢さを覚えてしまう。しかし、自分以外の人間に尻尾を振ることはないだろうと慢心していた自分にも反吐が出そうになった。

「つ、つか、使って、くだ、さ」

哀れみを誘うほど弱々しい声で懇願する信に、昌平君は結び直した帯を再び解いた。

「っ…」

僅かに安堵した表情を浮かべた信が腕を伸ばし、先ほどまで口で咥え込んでいた主の男根を手で愛撫する。

手の平で扱き、尖端の鈴口を指の腹で擦り、完全に勃起させてから、信はその先端を自分の後孔に擦り付ける。

根元を掴んだまま、まるで自慰をするかのように男根を扱われ、どこでそんな術を覚えたのかと瞠目した。やはり蒙恬と今日だけでなく、逢瀬を重ねていたのだろうか。

こめかみに熱いものが駆け抜け、昌平君は信の腰を掴むと、容赦なくその体を貫いた。

「ぁああぁッ」

何度も受け入れているとはいえ、指で解すこともせず、強引に入り口を押し開かれて、悲鳴に近い声が上がった。

「ぁ、がっ…かは」

寝台の上に腰掛けていたその体に圧し掛かり、最奥まで男根を打ち付けると、信がはくはくと口を開閉させている。

最奥まで男根が入り込んだ衝撃に目を白黒とさせていたが、決して抵抗はしない。目尻から涙が伝ったのが見えたが、信は健気に足を開き続け、体から力を抜こうと懸命に呼吸を繰り返していた。

 

 

中で男根が馴染んだのを確認してから、腰を引いていくと、信が縋るような眼差しを向けて来た。

震える手が昌平君の背中に伸ばされる。抜かないでと訴えているのか、その行動が愛らしく、つい口角がつり上がってしまう。

「ぐううぅ、んんッ」

亀頭と陰茎のくびれの辺りまで引き抜き、勢いよく奥を突くと、信が口からくぐもった悲鳴のような声が迸る。これが処女だったのならば、痛みに泣き喚いていたに違いない。

しかし、信の男根は触れてもいないのに、確かに上向いていた。

「信」

名を呼ぶと、涙で濡れた瞳で見上げて来る。

「ぅ…?」

昌平君は彼の髪を後ろで結んでいる紐を解き、あろうことかその紐を使って、陰茎をきつく括りつけた。

何をしているのかと不思議そうな顔で、自分の男根と昌平君を交互に視線を向けている。

背中を掴んでいた信の両手を寝台の上に押さえつけ、指を絡ませ合う。いつものように手を握り合ったせいか、強張っていた表情が僅かに和らいだのが分かった。

唇を重ね、舌を差し込むと、すぐに舌を差し出して来る。

「ッ、んん、ふ、ぅ」

口づけを交わしながら腰を前後に動かすと、信がもっとしてほしいと強請るように両脚を腰に巻き付けて来る。

唇で舌を挟んで、しゃぶり、嫌われまいとする健気な態度に自分の躾は間違っていなかったのだと安堵した。

「んッ、ん、ぅッ…んんッ…?」

口づけと後ろの刺激だけを続けていくと、信の眉がどんどん切なげに寄せられていく。

視線を下ろすと、髪紐できつく結んだ男根が苦しそうに張り詰めているのがわかった。勃起と射精を禁じるように髪紐が食い込んでいるのだ。もちろんその目的で縛り上げたのだが、信は初めての経験に狼狽えている。

「ひ、た、ぃぃ」

口づけの合間に訴えられるものの、昌平君は聞こえないフリをして腰を律動させる。

腹の内側を突き上げる度に、快楽の波が押し寄せているのか、信が荒い息を吐きながら目を剥いていた。

「やっ、やら、ぁ、外し、て」

髪紐を外して欲しいと訴え、何とか男根の紐を外そうと試みるが、寝台の上で押さえつけられた手は使い物にならない。

「信、まだだ」

寝台の上で押さえつけていた手を放すと、昌平君自身も息を切らしながら、信の腰を掴んで強くその体を引き寄せた。

「~~~ッ!」

これ以上ないほど奥を突かれ、信の身体が大きく仰け反る。

待て・・だ」

待てを強制され、信は口の端からみっともなく唾液を垂らしながら、命令に従っていた。

「ぅぅうう…」

がちがちと打ち鳴っているだけで、少しも噛み合わない上下の歯の隙間から苦しそうな声が洩れている。

内腿が痙攣しているのを見る限り、もう限界に近いらしい。絶頂に駆け上ろうとして、しかし、男根を戒めた紐が邪魔をしているのだ。

止めどなく涙を流しながら、男根をきつく縛り付けている紐を解こうと、震える手を伸ばす。

まだ許可を出していないというのに、無断で動いた悪い両手を捕らえると、頭上に一纏めにして押さえつけた。

「はぁあッ、ぁあぅ、う、ぅぅ」

上ずった声を上げる信は、もはや満足に言葉も紡げず、目の焦点も合っていない。

首を横に振って、許しを乞うように、もう限界だと訴えている。

自分を受け入れていることをさらに意識させるために、男根が出し入れされている薄い腹を手の平で圧迫してやる。

「んんぅ、ぁぐッ」

信がくぐもった声を上げながら、力なく首を振った。

もう誰かが来るのではないかという不安に意識は向けられておらず、ただひたすら快楽の波に呑まれ、絶頂に上り詰めることしか考えられなくなっているらしい。

性の獣に成り果ててしまったその姿が、自分のことしか考えられずにいる今の信が堪らなく愛おしくて、昌平君は喉奥で低く笑った。

 

後編はこちら

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フォビア(王賁×信←蒙恬)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/ヤンデレ/執着攻め/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

歪な関係

蒙恬と関係を持ってから、信は今まで以上に口数が少なくなっていた。

仲間たちの前では何ともないと気丈に振る舞って見せていたが、いつも目元を腫らしている彼女を不審に思わない仲間はいなかった。

何かあったのかと尋ねても彼女は何でもないと無理に笑うばかりで、決して答えようとしない。

蒙恬に自分たちの関係を口止めされたことはなかったし、脅された訳でもなかった。それは王賁も同じである。

他者に告げたところで、この状況に終わりはないことを信は分かっていた。二人もそれを知っていたからこそ、口止めなど不要なことをしなかったのだろう。

きっと蒙恬も王賁も、信が誰にも打ち明けないことを察していたに違いない。

信は蒙恬の言うことを何でも聞く、そして蒙恬は桓騎に同士討ちの件を黙らせておくという取引は今でも続いていた。

特に蒙恬には、飛信隊という人質があり、改めて言葉にすることはないが、その沈黙の脅迫は着実に信の心を蝕んでいた。

仲間たちの命を守るためには自分が耐えるしかない。
自分が桓騎軍の兵と娼婦を斬り捨てたことが糸口となったことであり、これは他の誰でもない自分の責任である。

同士討ちの件を、蒙恬を通して桓騎に黙らせておくのは、決して保身のためではなかった。もしも自分の首だけで済む話ならば、信は潔く命を差し出しただろう。

しかし、五千人将の地位に就いている信の同士討ちの罪は重い。
もしもこの事実が明るみに出て軍法会議に掛けられれば、間違いなく連帯責任として全員が処刑されてしまうだろう。それだけは何としても避けたかった。

信が決して声を上げず、歯を食い縛って蒙恬との取引を続けるのは、仲間たちのことを思ってのことだった。

終わりのない取引に、信の精神は着実に蝕まれていく。

(これは、罰なんだろうな)

背後から蒙恬に身体を揺さぶられながら、信は考えていた。

彼の男根が突き上げている、その先に眠っていたはずの尊い命。抱き上げることはおろか、顔も見ることも叶わなかった小さな命を想い、信は涙を流した。

「っ、ぅ…ふ、…」

情けない嗚咽を零しそうになった口に手で蓋をする。昔からずっと、声を上げて泣くことが苦手だった。

まだ王騎と出会う前、下僕である自分が泣くことで、自分を買い取った男からうるさいと怒鳴られ、鞭で叩かれた苦痛の記憶が刻まれているからだ。

容赦なく肌を打つ鞭の痛みに、自分には帰る場所などないのだと思い知らされた。

親の顔も知らない自分の生き場所はここしかないのだと、そのやり場のない虚しさを紛らわすために、ひたすら木剣を振るっていた。
手の平のマメが潰れ、血で真っ赤に染まっても、痛みというものを一切感じなかったのだ。

その後、剣の腕を見込まれ、信を養子として引き取りたいと王騎が申し出た時、男は人が変わったように自分を差し出した。

今までさんざん自分を甚振っていたはずの男の豹変ぶりを見て、信は悟った。

自分にも、力と名声があれば、もう酷い目に遭うことはないのだと。

 

「っ、ぅ、んんッ…!」

行為から気を逸らすのは許さないとばかりに、項に噛みつかれ、信の身体がびくりと震えた。

肉を穿つ打擲音と蒙恬の荒い吐息を聞き、まるで終わりなき地獄にいるようだと錯覚する。敷布を力強く掴みながら、信はなんとか意識を繋ぎ止めていた。

「…王賁がつけた痕、すっかり消えちゃったね」

たった今つけたばかりの噛み痕に舌を這わせた後、蒙恬が囁いた。

自分で見ることは叶わなかったのだが、蒙恬の屋敷で療養をしていた頃、信の体には王賁につけられた情事の痕があったのだという。

情事の際、体に痕をつけられたことは、これまでも何度かあった。

もちろん愛の言葉を囁かれるなんてことは一度もなかったが、王賁と身を交えた証が確かにこの身に刻まれたような気がして、信はいつもその痣を眺めては溜息を吐いていた。

がむらしゃらに快楽に身を委ね、女として生まれた喜びを得られていたのなら、少しは苦痛も紛れたのかもしれない。

何も考えずに快楽を追い求めれば、もっと楽になれただろう。

しかし、それを許さないのは、他ならぬ信の理性だった。仲間たちの命が天秤に掛けられている限り、永遠に楽にはなれないだろう。

「はあッ…あ…イく…ッ」

「ッ…!」

耳元に蒙恬の熱い吐息を掛けられ、信は身を強張らせた。

それまで腹の内側を抉っていた男根が引き抜かれ、内腿に白い子種が迸る。
中に射精されなくて良かったと胸を撫で下ろすのは、これで何度目だろうか。

「……、……」

絶頂の余韻に息を整えている蒙恬が後ろから体を抱き締めて来たので、信はようやく終わったのかと長い息を吐いた。

「んぅ」

顔を覗き込まれたかと思うと、そっと唇を重ねられ、信は戸惑った。

王賁と身を繋げた時もそうだが、妻でも恋人でもない女と口づけをするのは、体に痕をつけるのと同じで、行為の延長なのだろうか。

「ふ、ぅ…」

ぬるりとした舌が入り込んできて、信は蒙恬に教えられたように舌を絡ませた。

唇と舌を交えながら蒙恬が笑った気配を感じ、機嫌を損ねていないことに安堵する。

名家の嫡男だというのに、蒙恬も王賁もなぜ自分にこのような行為を強いるのか、信には理由が分からなかった。

彼らの立場を考えれば、喜んで足を開く女はごまんといるだろうに、どうして自分でなければならないのだろう。

貴族の娘を相手にするのと自分を相手にするのとでは随分と事情が違う。
きっと何にも気遣わず、好きに扱える都合の良い道具性欲処理として見ているのだろう。

早く飽きて見放してくれれば良いのにと思う。
だが、もしもそうなれば、同士討ちの件を黙ってくれている蒙恬が次に何の欲求をして来るのかが分からず、信はそれが恐ろしかった。

 

歪な関係 その二

「もう帰るんだ?」

着物の袖に腕を通している信に、寝台に横たわったままでいる蒙恬がつまらなさそうに声を掛けた。

帯を締めながら、信は振り返ることなく頷く。

あの日から頻繁に呼び出されては体を交えるようになっており、先ほどまで蒙恬の男根が埋まっていた其処に、疼くような、擦れるような言葉にし難い痛みが続いていた。帰路で馬に跨るのが憂鬱だった。

ゆっくりと起き上がった蒙恬が、口元に手を当てて何かを考えている。

「じゃあ、次はさ」

「…王家の集まりがある」

次に会う日取りを告げようとした蒙恬の言葉を、信は低い声で遮った。

今日まで呼び出しを断ることがなかった信が初めて断ったので、蒙恬は驚いたように目を丸めていた。

ふうん、と返事はするものの、それ以上は何も言われない。蒙恬も嫡男として、そういった集まりの重要さは理解しているのだろう。

私用であったのなら蒙恬の呼び出しを優先していたのだが、王家の集まりとなれば、自分の都合ではどうにもならない。
少しでも蒙恬と離れられる時間があることに、信は表情に出さず安堵していた。

「王賁に会うんだ?」

蒙恬の口からその名を聞くのは珍しいことではなかった。

気が合うようには見えないが、名家の嫡男同士の付き合いがあるのだろう、蒙恬は昔から王賁のことを知っていた。信が王騎の養子として王一族の一員となり、王賁が出会うよりも前から二人は面識があったのだろう。

養父である王騎は、王一族の中では分家の人間にあたる。天下の大将軍として中華全土に名を轟かせていた養父ではあるが、本家当主の座とは離れていた。

そのせいか、信が蒙恬と初めて出会ったのは、お互いに三百人将の地位に立っていた頃だった。

軍師学校を首席で卒業しただけでなく、戦での功績は噂で聞いており、初めて会った時、まさかこんな優男が蒙武将軍の息子なのかと大層驚いたものだ。

(…あの頃は、今よりマシだったな)

父の背中をひたすら追い求めていたあの頃は、今のように雁字搦めな状況ではなく、いくらでも羽ばたけた。

まだ王騎が生きていた頃、王賁から嫌味は言われるものの、少なくとも今よりはまともな扱いを受けていた。三人で戦での功績を競い合っていたあの日々も、今となっては懐かしい思い出だ。

信が女であることを王賁は出会った時から知っていたし、初陣から性別を偽るようになっていたことにも彼は何も言わなかった。
そもそも興味がなかったのだろうが、その無言の気遣いが当時の信には嬉しかった。

「信」

束の間、昔の王賁に思いを馳せていると、蒙恬から名前を呼ばれ、信は弾かれたように顔を上げる。

振り返ると、蒙恬がじっとこちらを見つめていた。暗く淀んだ瞳と目が合うと、信はそれだけで動けなくなってしまう。

何を言われるのかと固唾を飲んでいると、蒙恬がゆっくりと口角をつり上げた。

「…信はさ、俺のものになったんだよね?」

その問いには、一体どんな意味が込められていたのだろう。

考えるよりも先に、信は頷いて、蒙恬の言葉を肯定していた。彼の機嫌を損ねないために。

安堵したように、蒙恬は優しく笑んだ。

「うん、分かってるならいいよ。気をつけて帰ってね」

「………」

穏やかな声色を掛けられ、信は無意識のうちに安堵の息を吐いていた。今日も仲間たちの命を守ることが出来たようだ。

 

再会

王一族の集まりというのは、いわば論功行賞のようなものである。
褒美こそ出ないが、名家と称される自分たち一族に、相応しい貢献出来ているかを評価されるのだ。

本家の屋敷で行われるこの集まりは昔から続いており、養父である王騎はよく名を呼ばれてその功労を称えられていた。

分家の出であるものの、誰よりも中華に名を轟かせていた養父が誇らしくもあったし、その広い背中はいつまでも信の目に焼き付いている。

信も飛信隊の将としての活躍を称えられることはあったものの、下賤の出である彼女の功労を称えるのは形ばかりで、一族の者たちから冷たい視線を向けられていることには昔から勘付いていた。

養子として引き取られることが決まった時も、王一族の間では随分な騒ぎになったらしい。しかし、王騎の多大なる功績が認められていたからこそ、下賤の出である信は、異例として彼の養子となることが認められた。

名家の一員に下賤の出である彼女が加わることを快く思っていない者は未だ多くいる。

だからこそ、養父である王騎が馬陽で討たれた時、信はそれを理由に王一族を追放されるのだとばかり思っていた。

しかし、王騎の遺言が記されている木簡が屋敷で見つかったことで、追放は免れた。王騎はいつか自分が戦場で命を失い、自分と言う後ろ盾がなくなった娘のことをずっと案じていたのである。

王騎が亡くなったことで、すぐに追放されるはずだった信が、今でも王一族にいられるのはその遺言による効力のおかげだ。

しかし、隠蔽されている同士討ちの件が広まれば、すぐに信は王一族から追放となるだろう。

最期まで自分を案じてくれていた養父には申し訳ないが、彼が龐煖に討たれた時、いっそ王一族から追放された方が良かったかもしれないと思うことがあった。

そうなれば、幼馴染であり、良き好敵手でもあった王賁との上下関係を意識することもなかっただろう。

王騎が生きていた頃は、下賤の出であることに対して嫌味は多かったものの、今よりも人として接してくれていた。

あの時の優しい王賁を、信はいつまでも心待ちにしている。

この苦痛さえ耐え凌げば、いつかはあの時の優しい王賁に戻ってくれると、疑うことなく信じていた。

 

夕刻に祝宴が始まった。王一族の者たちがこうして一つの場に集まることは滅多になく、それを理由に毎度宴が開かれるのだ。

信の席も相変わらず端の方に用意されていたが、とても宴に出る気にはなれなかった。
ここ最近は蒙恬から呼び出される度に身体を暴かれているので、その顔には濃い疲労の色が滲んでいた。

(集まりには顔を出したんだら、もう十分だろ)

何も言わずに、愛馬を預けている厩舎へ向かおうと踵を返す。

宴に出ないで帰ることに断りを入れずとも、誰も信のことを気にしていないようだった。

王騎が生きていた頃は、王賁と酒を飲み交わして互いの功績を讃え合い、朝までどちらが先に天下の大将軍の座につくか酒を飲み交わしながら語り合っていたのだが、もうそんなことはなくなってしまった。

先に将軍の座に就いたのは王賁と蒙恬であって、信は今でも五千人将の座に就いたままである。大きく開いてしまったこの差は、もう永遠に埋められぬような気がしてならなかった。

「………」

廊下では、一族の者たちをもてなすために従者たちが慌ただしく動き回っている。
突然の来客があった話をしており、その対応に追われ、ますます忙しさが増しているようだった。

宴の間から聞こえる談笑に後ろ髪を引かれることもなく、信は屋敷を出ようと入り口を目指していた。

「っ…?」

不意に後ろから腕を掴まれ、驚いて振り返る。王賁だった。

蒙恬に逆らえない関係が始まってから、そういえば王賁とは一度も会っていなかった。

最後に会ったのは、楚の防衛戦に成功した帰路だ。桓騎軍の兵と娼婦を斬り捨てる前、呼び出された天幕で彼と身を繋げていたことは、朧げではあるが覚えていた。

「お…」

名前を呼ぼうとして、信は慌てて口を噤む。
以前ならば気さくに名を呼んでいたが、今ではもう許されない。

用があって引き留めたのだろうが、声を掛けることはおろか、目を合わせたら生意気だと頬を打たれるのではないかと怯えてしまい、信は俯いたまま顔を上げられずにいた。

青ざめたまま動かない信に、王賁は一向に表情を変えることはないが、いつものように向けられる鋭い眼差しは、どこか怒っているようにも感じる。

王家の嫡男であり、此度も名前を呼ばれて功績を讃えられていたというのに、宴に出なくても良いのだろうか。

捕まれた腕を放される気配がなく、信は戸惑ったように狼狽えた。

「あっ…」

何も言わずに王賁に腕を引っ張られたので、信は大人しく彼の後ろをついていく。自らの意志でその腕を振り解くことは出来なかった。

廊下を進むにつれて、この先に王賁の私室があるのだと思い出し、心臓が激しく脈打ち始める。

もう嫌だと心が悲鳴を上げるものの、それを言葉にすることは許されない。

「うっ…」

部屋に入るなり、信は寝台にその身を投げ出される。上質な寝具で統一されている高価な寝台がぎしりと軋んだ。

驚いて起き上がろうとするが、それよりも早く王賁が信の身体を組み敷いた。

「なにして…」

顔色を見れば、王賁が酒に酔っていないことは明らかだった。宴の間では一族が集まっているというのに、何を考えているのだと驚いた。

「お、王賁、さまっ…!」

帯を解こうと伸ばされた手を掴み、信が教え込まれた呼び方で制止を求める。

王騎が討たれてから、王賁は信にこれまで通りの態度を許さなくなった。

以前は名前を呼び捨てていたのに、立場を弁えなければ容赦なく頬を打たれるようになって、信は王賁より下の立場であることをその身にとことん教え込まれたのである。

 

 

腕を跳ね除けられ、呆気なく帯を解かれる。

強引に襟合わせを開かれると、先日の情事で蒙恬につけられた赤い痣の残る肌が露わになった。

それが自分がつけたものではないとすぐに気づいた王賁が右手を振り上げる。信は両手で顔を守るよりも先に、反射的に目を瞑っていた。

「うッ…!」

乾いた音が鼓膜を揺すり、左頬に激しい痛みが走る。

「ち、ちが、う…」

まだ何も問われていないというのに、信は否定する。熱を帯びて、痺れるような痛みがする左頬に手をやりながら、信は何度も違うと首を横に振った。

自分が望んだことではないのだと、王賁には分かって欲しかった。

しかし、仲間たちのためにも、同士討ちの件を告げることも、蒙恬が関わっていることを告げることも許されない。

真実を隠し通さねばならないという気持ちと、王賁にだけは誤解されたくないという想いがせめぎ合う。

「違う、ちが、う…」

彼の子を身籠ったと分かった時も、これで何かが変わるかもしれないと、また以前のように自分と接してくれるかもしれないと信じていた。

生まれる前の尊い命は戦の侵襲と負担が原因で失われてしまったのだが、それでも信が今でも王賁のことを信じているのは、彼と共に過ごしたあの日々の思い出が、鮮明に心に刻まれているからであった。

初めて体を暴かれた時の破瓜の痛みも、道具として利用される悲しみも、全ていつか救われると信じていた。

自分さえ耐え凌げば、いつかまたあの時のように優しい王賁に戻ってくれると思っていたのだ。

「い、だッ…!」

首筋に歯を立てられ、血管を食い千切られるかもしれないという恐怖に身を震わせる。

いつかはまたあの温かい日々が戻って来ると信じていた彼女を嘲笑うかのように、痛みによって意識が現実へと引き戻された。

 

恐怖症

体を震わせるばかりで抵抗しなくなった信のさらしを強引に外しながら、王賁が不機嫌に眉間を寄せた。

「誰の許可を得て、その身を許した」

低い声で問われると、それだけで信の体は強張ってしまう。

「あ、あの、俺…」

王賁以外の男にこの身を差し出したことは既に気づかれている。

それが蒙恬だと素直に打ち明けることで、同士討ちの罪に気付かれないだろうか、今の王賁に同士討ちの件を知られて、上に報告されるのではないかと不安がよぎった。

取引通りに蒙恬は桓騎を口止めしてくれているが、横槍を入れるように、王賁が同士討ちの件を上に報告したのならば、間違いなく軍法会議が行われるだろう。

「ぁうッ」

狼狽えていると、今後は右の頬に痛みが走った。容赦なく頬を打たれ、痺れるような痛みの余韻に涙が滲む。

「答えろ」

鋭い瞳に見下ろされ、信は息を詰まらせた。

「……っ…」

唇を戦慄かせ、自分を抱いた男の名を口に出し掛けた寸前、信の瞼の裏に仲間たちの姿が浮かぶ。

(だめだ)

自分の保身のためじゃない。大切な仲間たちの命を守るために、信は沈黙を貫いた。

いつものように奥歯を強く噛み締め、溢れ出そうになる涙と声を堪える。せめてもの意志表示に、瞼を下ろし、強く拳を握り締めた。

「貴様…」

王賁の視線がますます鋭くなる。
歯を食い縛りながら、次なる痛みに堪えていたが、着物を脱がされていく感触があった。

「あっ…!?」

あっと言う間に下袴を奪われ、剥き出しになった下肢がひやりとした空気に触れる。

驚いて閉じていた目を見開くと、今まで見たことのない王賁の表情がそこにあった。

憤怒だけではなく、まるで親とはぐれた迷子のような不安の色と、耐え難い痛みを堪えているような、複雑な色が混ざり合った表情。

その表情を見て、王賁が何を自分に思ったのか、信には何も分からなかった。

「ん、っ…!」

いきなり唇を重ねられ、信は瞠目する。
体を重ねている最中に口づけられることは何度かあったが、まだ挿れてもいないのに口づけられたのは初めてのことだった。

「ふ…ぅ、ッん」

唇を交えながら、王賁の手が信の内腿をするりと撫で上げる。

足の間に辿り着き、まだ乾いたままである淫華に触れられたかと思うと、花弁の合わせ目を指がなぞられ、信は思わず体を跳ねさせた。

「は、ぁ…」

破瓜を捧げた男に愛撫されているのだと思うと、それだけで熱い吐息が零れた。
いけないと頭では分かっているのだが、繊細な箇所を擦られる甘い刺激につい膝を擦り合わせてしまう。

「っ…あう、ぅ…」

王賁の唇が首筋を伝った感触に、信は小さな声を上げた。

淫華から卑猥な水音が立つ。僅かな刺激だけだというのに、蜜が滲み始めて来たことに、信は浅ましい自分の体に嫌悪感を抱いた。

「あ、ッ…はぁ…」

滑りを利用して、中に指が入り込んで来る。

初めて王賁の男根を咥え込んだ時は、あまりの激痛に泣き喚いていたというのに、今では男の味を覚えてしまった。

女として生まれた喜びを知った浅ましい体が、快楽に全てを委ね、何もかも忘れてしまえと甘い言葉を囁いて来る。

何の感情かもわからない涙で視界がぼやけてしまう。このまま何も分からなくなってしまえたらと、どれだけ願ったことだろう。

「…、……」

体の力を抜いて、信はゆっくりと目を閉じた。
いつも通り、王賁の機嫌を損ねないように声を堪えれば良い。蒙恬はやたらと声を上げさせたがるのだが、王賁は違う。泣き声がうるさいと、何度も頬を打たれたことを信は覚えていた。

「…っ…ふ、ぅ…」

瞼を閉じたことによって広がった暗闇の世界で、王賁の吐息だけが聞こえていた。
膝裏を大きく持ち上げられ、指が差し込まれていた場所に、熱くて硬い男根の先端が押し当てられる。

「んんんうッ」

狭い其処を押し広げるように男根が入り込んで来て、信がくぐもった声を上げた。一番深いところまで入り込んで来て、圧迫感に息が苦しくなる。

互いの性器が馴染んでから、王賁が腰を動かし始めたので、敷布を強く握り締め、信は歯を食い縛った。

腹の内を抉られて、揺すられて、満足するまでそれを続けられるだけだ。すぐに終わる。今までだって耐えて来れたのだから今回だってきっと耐えられる。だから大丈夫だと、信は何度も言い聞かせた。

瞬間。部屋の扉が開かれた音がして、

「…信、俺との約束破ったの?」

聞き覚えのある声に、信が思わず閉ざしていた瞼を持ち上げた。

 

 

視線の先に蒙恬が立っていて、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。どうしてここに彼がいるのだろう。

息を詰まらせて体を強張らせていると、束の間、王賁が止めていた腰を動かし始める。

「あぁっ…!?」

腹の内側を抉られる感触に、思わず声を上げてしまう。

慌てて口に手で蓋をするものの、すでに蒙恬の表情には苛立ちの色が宿っていた。

後ろ手に扉を閉めた蒙恬が口元だけ笑みを携えながら、寝台に近付いて来る。
王賁といえば、蒙恬がなぜここにいるのか興味さえないのか、構わずに腰を揺すり続けていた。

「あっ、ま、まって、ぇ」

制止を求めて王賁の腕を掴もうとするのだが、体に上手く力が入らない。

まさか蒙恬がここに現れるとは思ってもみなかったし、今まさに王賁と身を交えている今の状況で、彼が機嫌を損ねないはずがなかった。

この状況でも情事を続けている二人に、蒙恬の頬がひくりと引き攣った。

「ねえ、信」

低い声で蒙恬に名を呼ばれると、信の背筋に冷たいものが走った。

「ッ…」

暗く淀んだ彼の瞳と目が合ってしまい、まるで術にでも掛けられたかのように動けなくなってしまう。

「取引の内容、忘れた?」

ひゅ、と笛を吹き間違った音が唇から洩れた。

彼が取引の話を持ち出す時は、決まって機嫌が悪い時である。仲間たちの命をちらつかせているのも、単なる脅迫ではなく、本気だということを信は理解していた。

「うッ、んんッ」

怯えた瞳を蒙恬に向けていると、王賁に腰を掴まれて深く男根を叩きつけられる。あまりの激しさに体を仰け反らせた。

そんな信を見て、蒙恬の表情がますます濁っていく。口元に浮かべていた形だけの笑みも崩れていた。

王賁はまるで蒙恬のことなどそこに居ないかのように扱っている。しかし、信を抱いた男が蒙恬であると気づいたようだった。

自分の上でどんどん息が荒くなっている彼と、こちらを睨みつけている蒙恬に視線を交互に向けながら、信は狼狽えることしか出来ない。

王賁が腰を動かす度に、繋がっている部分から卑猥な水音が立つ。熱くて硬い男根が何度も中を突き上げていく感覚に、信の内腿が震え始めた。

これ以上、蒙恬の機嫌を損ねるわけにはいかないと頭では理解しているのに、信は抗う術を持たない弱者だった。

力と名声があれば、もう酷い目に遭うことはないのだと、王騎の養子となったあの日に悟ったというのに、信は弱いままだった。

荒い息を吐きながら、王賁が身体を抱き締めて来たので、信は顔から血の気を引かせる。

彼が絶頂に上り詰める時は、まるで快楽に意識を持っていかれぬよう、縋るものを探すかのように身体を抱き締めて来るのだ。

まさかと思い、力の入らない腕を突っぱねるが、それはろくな抵抗にならない。

「や、…いやッ…!」

瞼の裏に、生まれる前に消え去ってしまった幼い命に懺悔する自分の姿が浮かび上がる。

王賁の子を孕んでも、その命が消え去っても、彼は何も変わらなかった。

本当は気づいていたのだ。王賁にとって自分は道具であり、自分がどうなろうと、何も変わらない。

昔の王賁はもうどこにもいないのだと、自分は彼にとって単なる道具にしか過ぎず、それはこれからも永遠に変わらないことを。

「あッ、やだッ、やだあぁッ」

幼子のように泣き喚き、信は首を振った。腹の奥に熱いものが迸る感覚に、涙が止まらなくなる。

自分がこれからも地獄の中で生き続けることを認めたくなくて、信は声を上げて泣いた。

「え、うそ、中に出したの?最悪」

歯を食い縛って腰を震わせ、信の最奥で射精をしている王賁の姿に、蒙恬が頬を引き攣らせた。

 

恐怖症 その二

泣きながら顔をぐちゃぐちゃに歪めている信の前髪を掴み、蒙恬がその顔を覗き込んだ。

「あーあ、可哀相。信、泣いちゃってるじゃん」

わざわざ近距離で顔を覗かなくても分かることを、蒙恬はあえて言葉に出した。

「ぃ、たい…」

前髪を掴んでいる手には容赦なく力が込められていて、頭皮が引き攣る痛みに信は顔をしかめる。

「こんな風に泣かされないように、俺を選んでくれたんだと思ってたのに。また嘘吐かれちゃった」

肩を竦めながらそう話す蒙恬だったが、なぜかその口元には笑みが戻って来ている。

涙で歪む視界の中でも、信はそれを察して嫌な予感を覚えた。

「も、蒙恬…ご、ごめ…」

要求されなくても、百回でも千回でも、喉が裂けても、蒙恬の気の済むまで謝罪するつもりだった。

取引に応じなかったことで、隠蔽されている同士討ちの件が明るみに出て、仲間たちの首が飛ぶことだけはなんとしても避けねばならない。

「なに?今さら謝罪も言い訳も聞きたくないんだけど」

しかし、蒙恬の怒りは完全に鎮火出来ないほど広がってしまっているらしい。声色だけでそれが分かった。

「賁、いつまで挿れてるのさ。さっさと退いてよ。俺、信にお仕置きしなきゃならなくなったんだから」

信の言葉を聞こうとせず、蒙恬が王賁に目を向けた。ふん、とつまらなさそうに王賁が鼻を鳴らす。

「ぅうう」

深く埋まっていた楔が引き抜かれる感触に、信は思わず呻き声を上げた。

抜かれた男根の後を追うように、白濁が溢れ出て来るのを感じる。臀部を伝う嫌な感触がして、信は息を飲んだ。

「あ”っ、ぅ…」

早く中に出された精液を掻き出さなくてはと手を動かすのだが、今度は蒙恬から体を組み敷いて来たので、信は顔から血の気を引かせた。まさかという瞳で蒙恬を見上げる。

「久しぶりに王賁と会うっていうから、何となく予想してたけど、本当にその通りだったね」

必要な場所だけ脱ぎ、自分の上で男根を扱く蒙恬の姿に、信が喉を引き攣らせる。

手の中でみるみるうちに硬く上向いていく男根を見るのは初めてではなかったのだが、こんな状況で蒙恬が自分を抱こうとするだなんて信じられなかった。

「ぁッ、いや、だ…!」

泣きながら、信は蒙恬から逃れようと寝台の上で身を捩った。床に足をつけようとした途端、乱暴な手つきで腰を引っ張られる。

「ぅぐッ」

体をうつ伏せにさせられて、蒙恬が情事の際によく取らせる姿勢になると、無遠慮に淫華へ指が差し込まれた。

「あーあ、どろっどろじゃん。随分溜まってたんだね?」

先ほどの王賁の精液を掻き出そうとしているのか、それとも中で馴染ませようとしているのか、鉤状に折り曲げた指を抜き差ししながら蒙恬が苦笑を深めた。

「ひッ…い、いやだ…」

指が引き抜かれて、男根の先端を押し当てられたのが分かると、信は背後にいる蒙恬を突き放そうと腕を突っ撥ねる。
しかし、それを遮るかのように、王賁の手が前髪をぐいと引っ張った。

「んぐっ」

薄く開けていた口元に男根が押し込まれ、目を白黒とさせる。
先ほどまで自分の中に埋まっていたそれを、喫するように命じているのだ。

「ぐ、…ん、うぅ…」

気道を押し上げられ、息苦しさのあまり顔をしかめるが歯を立てることは許されない。身体がそれを覚えていた。

「ふ、ふ…ん、ぅ」

鼻で必死に息を続けながら、頬張った男根に舌を這わせていると、背後で蒙恬が笑った気配がした。

「なにそれ、妬けるんだけど。俺の時は言わないとしてくれないのに」

「お前の使い方が悪いんだろう」

自分を挟みながら頭上で交わされる二人の会話に、まるで自分が二人とって単なる都合の良い道具であることを認めるしかなかった。

双眸から涙を流していると、花弁を押し開いて蒙恬の男根が勢いよく入り込んで来る。

「んんんッ!」

全身を貫いた衝撃に思わず歯を立てそうになり、信は思い切り拳を握った。爪に皮膚が深く食い込み、血が伝う。

ここで抵抗をすれば蒙恬の機嫌を損ねて同士討ちの件が明るみに出てしまうのではないかという恐怖が心を信の縛り上げていた。

同士討ちの件をここで王賁に気付かれる訳にもいかない。二人が満足するまで、自分は道具としての役目を全うしなくてはならないのだと頭では理解しているものの、心は引き裂かれるように痛みを覚える。

(俺、何で…こんなこと、してんだろ)

友人だと思っていた二人に身体を暴かれている状況で、信はどうしてこんなことになってしまったのかと考える。

 

 

「ふ、ふぅ、ん、うッ、ぐ…!」

苦しそうな声を上げて口いっぱいに王賁の男根を頬張りながらも、時折後ろにいる蒙恬を振り返り、まるで許しを乞うような瞳を向けて来た。征服感と残虐心を満たしてくれる弱々しい瞳だった。

「んう”ッ」

指の痕が残るほど腰を強く引き寄せると、これ以上ないほど奥を突かれ、くぐもった声を上げた信の身体が仰け反る。

信の腰がこんなにも細いだなんて、信が女だと気づくまでは、今まで考えもしなかった。

男らしい体格を偽装するために、さらしを撒いて胸の膨らみを押さえたり、腰のくびれを隠していたのだから気づかないとしても仕方がなかっただろう。

信が女だと知っている者はほんの一握りだけだ。しかし、よりにもよって王賁が含まれていることに蒙恬は苛立ちを隠せなかった。

ましてや、一度は王賁の子を身籠ったことがあるなんて、許す訳にはいかない。

「う、ぁっ、も、蒙恬っ、やめ、て、くれ」

涙で濡れた瞳で制止を求めるが、蒙恬は無視をして腰を揺すった。
王賁の手が伸びて、信の顎を強引に掴んだかと思いきや、その口を開かせる。

「んぅぅッ」

無理やり男根を咥えさせられて口に蓋をされると、信は振り返って懇願することも制止を呼び掛けることも出来なくなってしまう。

喉奥まで突かれて息が苦しいのだろう、顔を真っ赤にして信が王賁の太腿を軽く叩いた。
しかし、どれだけ苦しくても歯を立てることは絶対にしない。

その仕置きと称して破瓜を破られ、腹に子種を植え付けられた恐怖は今でも根強く信の記憶に残っていた。

「信、叩いたらだめだよ」

子供を注意するような穏やかな口調で、蒙恬は腰を掴んでいた手で信の両腕を後ろから引き寄せて、後ろから激しい律動を始めた。

「~~~ッ!」

咥えた男根を吐き出さないように、王賁の手が強く後頭部を押さえつけられており、信が目を白黒させている。

蒙恬の男根を咥え込んでいる淫華がぎゅうと口を窄ませる。まるで子種を絞り出そうとするその締め付けに、思わず切ない吐息を零した。

「ねえ、信」

呼び掛けながら信の黒髪を後ろから掴んで顔を持ち上げる。

「んうっ、ん、はっ、はあっ、はあ」

それまで王賁の男根で口に蓋をされていた信が苦しげに肩を上下させている。
頭皮が引き攣るような痛みと、後ろから突き上げられる快楽に彼女は顔を歪ませていた。

「俺、すごい傷ついたんだよ?俺のものになるって約束したのに、信が王賁と関係を続けてたこと」

あんな約束を交わしたところで、信が王一族の中では弱い立場のままであり、次期当主である王賁の命令に逆らえないことなど分かっていた。

しかし、抵抗する素振りもなく、王賁に抱かれていたという事実が蒙恬には許せなかった。無様に泣き顔を晒してでも、助けてくれと自分に縋れさえすれば、それで良かったのだ。

それもせず、それどころか、今まで通りに王賁との関係を隠し通そうとするなんて、欲張りな女だと蒙恬は叱責する。

取引の関係が始まってから王賁に抱かれるのは今日が初めてだったのだが、蒙恬がそれを知る由もなかった。

「ごっ…ごめ…ぁぅうッ」

冷え切った刃のような瞳を向けられて、信が怯えたように謝罪を口にしようとしたが、言い切る前に王賁が容赦なく彼女の前髪を掴み上げる。

「所詮は道具だ。こんな物・・・・のために、必死になるお前がバカなんだろう」

「なにその言い方。悪いけど、信は俺のお嫁さんになるから、次に手ェ出したら王賁であっても容赦しないよ」

二人に挟まれながら、信は瞠目した。何を言われているのか分からないと言った表情でいるのを見て、王賁が小さく笑う。

「下僕の分際で名家に拾われ、嫁ぎ先も名家とは、見上げた図々しさだな」

信が怯えた瞳で振り返る。目が合うと、蒙恬は軽快に笑った。

「これからは戦に出なくていいし、飛信隊のことも気にしなくて良いから」

その言葉を聞き、信が目を見開いた。

「んんッ、んんぅ、うーっ!」

突き上げられながら、敏感な花芯を指で擦り付けられて、信の目の奥で火花が散った。

 

 

恐怖症 その三

内腿をがくがくと震わせながら、目も眩むような快楽に戸惑った信がやめてくれと目で訴えている。その瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出していた。

蒙恬は顔に垂れ落ちた自分の髪を手で掻き上げると、信の肩を掴んで、うつ伏せの体を仰向けに倒れさせた。

「けほっ…」

敷布の上に倒れ込んだ信が小さくむせ込みながら、逃げようと身を捩っている。
しかし、蒙恬は容赦なく細腰を掴んで、その体を引き戻した。

「あぅううッ」

正常位の姿勢となり、抜け掛けていた男根を再び奥まで突き挿れた。

「やっぱり、こっちの方が好みだなあ。信の泣き顔もいやらしい所もよく見える」

柔らかい胸を揉みしだきながら、蒙恬があははと笑う。

「ま、って、と、嫁ぐ、なん、て、き、聞いて、ない」

途切れ途切れの言葉を紡いで訴える信に蒙恬は小さく小首を傾げた。

「うん?だって言ってないもん。言ったら逃げただろ?」

口元には相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべているものの、瞳は一切笑っておらず、信は蒙恬の冷たい瞳に背筋を凍らせた。

「もう王家には話を通してあるから心配しないで?さっき・・・、二つ返事で了承されたから」

「ッ…!?」

なぜ今日に限って蒙恬が王家の屋敷に来たのか、初めからそのつもりだったのだ・・・・・・・・・・・・・・と分かり、信の瞳が恐怖で大きく揺らいだ。

表情はいつもの蒙恬だが、中味はまるで別人だった。信頼していた友人の姿に似せた別人である。

怯え切っている信の額に口づけた後、蒙恬は自分の男根を咥え込んでいる彼女の薄い腹を擦りながら、

「…次に産まれるのは、俺と王賁のどっちの子・・・・・だろうね?ま、どのみち俺の子として扱われるんだけどさ」

口元に笑みを携えながら、問い掛けた。
恐怖に凍り付いている信を安心させるように、蒙恬は穏やかな笑みを浮かべた。

「だから、安心して孕んでいいよ」

身を屈めた蒙恬に耳元でそう囁かれ、信の頭の中が一瞬真っ白に染まる。

これまで築き上げて来た将の地位が全て奪われる。父と母の後を追って将軍になる夢も、何もかも全て奪われてしまう。自分以外の人間に、自分の生き場所と死に場所を決められてしまう。

「ま、待って!たの、頼むから…!」

怯えながらも懇願し、信は歯を打ち鳴らしていた。

「黙れ。誰が貴様の発言を許可した」

「お、王賁、さまッ、あ、た、たすけ、んぅっ」

仰向けになった信の傍に身体を滑り込ませ、再び彼女の口に男根を突き挿れる。
くぐもった声を上げながら、信が蒙恬を押し退けようと両手を突っ撥ねた。

「ほら、俺たちこれから夫婦になるんだから、手繋ごうね?」

伸ばされた両手首を引き寄せて指を絡ませると、両手を敷布の上に押さえつけた。優しい声色を掛けながらも、蒙恬は容赦なく腰を前に押し出す。

「ッん、ぅううーッ」

男根の先端に柔らかい肉壁が触れる。子種を求めて子宮が降りてきているのだと分かった。

それほどまでに子種を欲しているのか、まるで搾り取るかのように男根が締め付けられて、蒙恬は堪らず腰を動かし続ける。

「~~~ッ!」

王賁に前髪を引っ張られながら、口淫に集中するよう促されるが、信は二人から逃れようとじたばたと両脚を動かしている。

敷布の上で押さえつけている手に力が込められ、男二人を相手に逃げ出すことも叶わない。

なんとか蒙恬の男根を引き抜こうと身を捩るのだが、信の両足は無意味に宙を蹴るばかりだった。それほどまでに信は無力であった。

「んーッ、んんぅ、ふう、んぁ」

口も手も押さえ込まれた信は大粒の涙を流しながら、唯一自由に動かせる瞳で王賁と蒙恬を交互に見上げている。

助けを求める彼女の無言の行為を二人は嘲笑うばかりで、やめる素振りを少しも見せなかった。

「あ、…もう…イくッ…」

余裕のない表情で息を荒げている蒙恬の言葉を聞きつけて、信が恐怖で目を見開いた。

「やっ、やだッ、や、やあああぁ――ッ!!」

絶叫しながらがむしゃらに暴れて逃れようとする信の体を両腕で抱き押さえ、蒙恬は彼女の最奥へ向けて吐精した。

結合している部分から全身にかけて、快楽が突き抜ける。

「ッ…飲み込め」

「やあぁッ、ん、んんーッ」

王賁も限界だったのか切なげに眉根を寄せると、悲鳴を上げるのに大口を開けていた信の口の中に精を吐き出した。

 

 

「…あれ、信?」

それまで静かに啜り泣いていた信の声が途絶えたので、蒙恬は顔を上げて彼女を見た。

汗で張りついた前髪を指で梳いてやると、信は虚ろな瞳で薄口を開けて規則的な呼吸を繰り返していた。

意識を失ったのだと分かり、蒙恬はつまらなさそうに顔を歪めた。

躊躇うことなく蒙恬は右手を振りかぶり、信の頬を打つ。乾いた音がして、信の顔が傾いた。

「う…ん…?」

二発目を浴びせようとした途端、王賁の精液に塗れた信の唇から小さな声が上がる。
まだ体を交えていることを、今の状況を思い出したように信が目を見開いた。

「も、蒙、恬…」

涙を流しながら、許しを乞うように、信が震える手を伸ばして来る。恐怖で色を失ったその手に頬ずりをして、蒙恬は口元だけで微笑んだ。

「信」

低い声で名前を呼ぶと、信が怯え切った瞳を向けて来る。

「俺たち、もう友人じゃなくて、夫婦・・になるんだから」

その言葉を聞いた信が呆然としている。王賁の白濁で汚れた唇が戦慄いた。

ヒビの入った心を完全に打ち砕くように、蒙恬は言葉を続ける。

「蒙恬、だろ?」

暗く淀んだ蒙恬の瞳に映る信の表情が、恐怖で凍り付いた。

 

 

番外編①(王賁×信)はこちら

番外編②(蒙恬×信←桓騎)はこちら

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毒を喰らわば骨の髄まで(桓騎×信←王翦)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/王翦×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は毒酒で乾杯をの番外編です。

中編はこちら

 

毒の副作用

肩で息をする信を見て、王翦が仮面の下で僅かに顔をしかめた。

耐性を持っているにも関わらず、苦しがる信の姿に何が起きているのか分からないのだろう。

毒を摂取し過ぎると、媚薬を飲まされたかのように性欲と感度が高まるのは信も知っていたが、それを知らない王翦からしてみれば、苦しんでいる姿にしか映らないだろう。

「ッ…」

息を切らしながら、信は自分にしっかりしろと喝を入れる。時間さえ経てば落ち着くのだが、まだ当分先だろう。

あの場では毒を盛った庖宰ほうさい ※料理人 の男を庇うために飲まざるを得なかった。

もしも桓騎と王翦が鰭酒だと気づかなければ、信は飲んだふりをしてやり過ごしていただろう。そして本来、毒を盛られるべき相手が桓騎だったことは気づかなかったに違いない。

庖宰の男を庇ったことに後悔していないのだが、何としてでも毒の副作用で理性を失うことだけは避けなくては。
今の状況をどう切り抜けるか、信は靄が掛かり始めた思考で必死に考える。

とにかく、まずはこの場から離れなくてはと思い、一人になれる場所を探すために、信は立ち上がろうとした。

「っあ…!」

後ろからぐいと腕を引かれて、信は椅子に腰掛けている桓騎の膝の上に座り込んでしまった。

振り返ると、桓騎は悪い笑みを浮かべており、思わず背筋が凍り付く。何かを企んでいる時の顔だった。

毒の副作用で苦しんでいる時に桓騎がしてくれること・・・・・・・・・・といえば、一つしかない。

初めて鴆酒の毒が回って倒れた時も、嬴政の命を狙った刺客から毒の刃を受けた時も、彼は足腰が立たなくなるまで自分を抱いて、その副作用を落ち着かせた。

あの時は幸いにも嬴政がすぐに部屋を出て行ってくれたのだが、もしも親友の前で桓騎とまぐわっていたとしたら、二度と嬴政の前に顔を出せなかっただろう。

「ば、ばかッ、放せッ…!」

しかし、今は王翦が目の前にいるにも関わらず、桓騎が自分を抱こうとしているのだと察した信は必死に彼の腕を振り解こうとする。

どうやら桓騎の方も信が自分の企みに気づいたのだと分かったようで、ますます笑みを深めていた。首筋の赤い痣を隠していた襟巻きを解かれてしまう。

「桓騎ッ?」

戸惑っている信の体を両腕で抱き押えながら、

「悪いがこいつは俺のだ。潔く諦めろ」

まるで宣戦布告のように、桓騎は王翦へ言葉を投げかけた。

腕の中で顔を真っ赤にしている信へ視線を向け、それから勝ち誇ったような笑みを向ける。

驚いている信が腕の中から逃げ出すより前に、桓騎は堂々と彼女の着物の襟合わせに手を潜らせ、反対の手で帯を解いた。

普段よりも緩く巻かれているさらしの中に忍ばせた手で柔らかい胸を揉みしだく。

「お、お前、何してッ」

意図して弄ったのだとしか思えない手付きに、信は桓騎が本気であることを察した。

身体を重ねるようになってから、彼の手によって優しく育てられて来た二つの膨らみはすっかり感度が高まってしまい、特に先端の芽は敏感になっていた。

桓騎以外の誰かの目があるとしても、感度の上がったそこを刺激されれば、全身い甘い痺れが走るのだ。

当然それは桓騎も分かっている。王翦がいる前だというのに、わざとやったとしか思えない。

敏感な胸の芽を指で弾かれると、思わず声が上がりそうになる。

「触んなっ…!」

慌てて桓騎の手首を掴むが、決してやめることはなかった。

「擦れるだけで感じるようになっちまったもんな?」

普段は着物の下でさらしを巻いているらしいが、さらしがなければ着物に擦れてくすぐったいだと、恥じらいながら話していたことを桓騎は思い出した。

耳に熱い吐息を吹き掛けながら、からかうように囁けば、顔を真っ赤にした信が悔しそうな顔で睨んで来る。

「誰のせい、で…!」

「ん?もしかして俺か?」

「あっ…」

親指と人差し指を使って胸の芽を強く挟むと、信の身体が小さく跳ねた。

「立派に育てちまって悪かったな。十分俺好みだ」

少しも悪いと思っていない口ぶりで、桓騎は胸の芽を指の腹で擦り付けた。

 

 

「ふ、ぅうっ…」

鰭酒の毒は強力であり、酔いが回るのは早い。
それを一気飲みしたのだから、いつもの副作用が出るのも、そして副作用の強さも普段の比ではなかった。

身体が火照り、普段よりも感度が上昇している。桓騎もそれを分かった上で、胸の芽を重点的に攻めているのだろう。

「~~~ッ…!」

羞恥で顔を真っ赤に染めながら、信は桓騎の指先から与えられる快楽に歯を食い縛った。

しかし、桓騎が指を動かす度に全身に甘い痺れが全身を貫き、腰が砕けそうになる。

「ふッ、うんん…」

淫らな声を堪えようとして、歯を食い縛っているというのに、鼻奥で悶える情けない声が上がってしまう。

その反応を楽しむかのように、桓騎が喉奥でくくっと笑った。

「おい、王翦が見てる前でなんて声上げてる」

「っうぅ…」

そんなことは分かっている。信は強く瞼を閉じたまま、背後からは桓騎の、そして前から王翦の視線をしっかりと感じていた。

羞恥のあまり、目を開くことも叶わない。毒のせいで頭がぐらぐらとして、理性を繋ぎ止めておくのがやっとだった。

仮面で顔を隠している王翦は、浅ましい声を上げる自分をどんな目で見ているのだろう。想像するだけで恥ずかしくて死んでしまいそうだった。

いっそ、意識までも毒に飲み込まれてしまえばと思ったが、強靭な理性がそれを許さない。
王一族の当主の前で、痴態を晒すのだけは絶対に嫌だった。

「やめ、ろ、って…!頼む、から…」

力が抜けそうになりながらも、信は抵抗を試みた。
何とか桓騎の手を胸から引き離そうとするのだが、耳に舌を差し込まれると力が抜けてしまう。

「ふ、ぅッ…」

背筋に戦慄が走る。未だ触れられてもいない下腹部がずくずくと疼いて、信は口の端から呑み込めない涎を流した。

淫らな姿を見せる信に苦笑を深めながら、桓騎は右手で胸を弄り、左手で彼女の下腹部に触れる。

足の間に、はしたない染みが広がっているのは分かっていたのだが、まだ触れずにいるのは楽しみを後に残しておくためだった。

「う、っん、ぅく…」

臍の下の、下生えよりも少し上の辺りを着物越しに指で押してやると、信の体がびくりと震える。

毒の耐性を得るのと引き換えに生殖機能を失った其処が、男の子種を求めて疼いているのだ。

「っ、…ぃ、やだ、って…!」

膝を擦り合わせながら、信が小さく首を横に振っている。

まさかまだ抵抗する気力が残っているのかと内心驚きながら、桓騎はその理性を完膚なきまでに砕いてやりたいと思った。

ここが二人きりの褥の中だったのならば、信は淫らに声を上げて、早く欲しいと訴えていただろう。それをしないのは王翦がこの場にいるからだ。

そんな分かり切ったことを考えながらも、桓騎は行為をやめるつもりはなかった。王翦へ信に手出しをさせぬよう、釘を刺しておく・・・・・・・必要があった。

しかし、腕の中で淫らな声を上げて身を捩る信を見れば、王翦のことなどどうでもよくなって、情欲に身を任せてしまいたくなる。

(堪んねえな)

とことん泣かせたくなる加虐心が駆り立てられるのは、信の魅力なのかもしれない。

もちろんここまで淫らに育てたのは他の誰でもない自分であり、そのことに桓騎は優越感さえ覚えていた。

 

毒の副作用 その二

まだ胸と下腹にしか触れていないというのに、信は嫌悪と陶酔を織り交ぜた複雑な表情を浮かべていた。

「っん、うぅ…」

下袴の中に手を差し込み、確かめるように桓騎は足の間に指を這わせた。ぬるぬると粘り気のある蜜が指に纏わりつき、思わず口角がつり上がってしまう。

はしたない染みが出来ていた時から気づいていたが、嫌がる口とは正反対に、淫華は蜜を溢れさせ、早く触れてほしいと誘っているのだ。

「こんなにしてりゃあ、辛いだろうなあ」

「やッ…」

腰を軽く浮かせた隙に下袴を脱がす。膝辺りまで中途半端に脱がせたせいで、かえって身動きが取れなくなってしまったらしい。

羞恥によって、全身の血液が顔に全て集まってしまったのではないかと思うほど、信は真っ赤にしている。

信の眼前で淫華の蜜を纏った二本の指を広げてみせると、いやらしく糸を引いていた。

彼女を辱めるような言葉を投げかけておきながら、桓騎の視線は王翦へと向けられている。

目の前で桓騎が信に淫らなちょっかいを掛けているというのに、彼は少しも動揺することなく、黙って酒を口に運んでいる。視線は少しも合わなかった。

興味がないのか、それとも戯れに付き合ってやっているのかは定かではなかったが、確実に見聞きはしているだろう。そしていつまでも席を外そうとしないところを見る限り、留まる意志があるのは確かだ。

動揺を誘う訳ではないのだが、この女は自分のものであることを桓騎は目の前の男に知らしめたかった。

元より、王翦に釘を刺すつもりで・・・・・・・・今日の誘いに乗ってやり、信を連れて来たのだ。目的は果たさねばなるまい。

膝の辺りで引っ掛かっている下袴を脱がそうとする桓騎の手を、信は必死になって押さえ込んでいた。

毒が回っていないとしても、普段から力量差があるというのに、まだ諦めていないようだ。残っている僅かな理性を打ち砕かねばならない。

背後から耳に舌を差し込むと、信が身体を強張らせた。

「ひッ、ぃ…」

ただでさえ敏感な其処が滑った舌の感触に支配され、信が鳥肌を立てたのが分かった。

力が抜けた一瞬の隙をついて、下袴を奪い取ると肩越しに涙目で睨みつけられる。その潤んだ瞳に見据えられれば、それだけで情欲を煽られるものなのだと信はいつまでも学習しない。

 

 

「こんな、の、いや、だ…!」

羞恥心などさっさと手放してしまえばいいのに、辱めを受けている気分でいるのか、いよいよ信が啜り泣き始めた。

それまで強気に腕を掴んでいたというのに、くしゃくしゃに顔を歪めて、幼子のように声を上げる信を見ると、桓騎の中の残虐心が駆られてしまう。

頬を伝う涙を見ると、同時に罪悪感も浮かび上がって来た。

(悪いな)

心の中で謝罪しながらも、桓騎は手を止めることはしない。

こんなことをすれば信に嫌われるのは百も承知だったが、それを上回る独占欲に支配されていることも桓騎には自覚があった。

身じろぐ信の身体を二本の腕で強く抱き締めてやり、桓騎は項に唇を寄せる。

「ふ、あ…ッ」

僅かな刺激であっても、信は火傷をしたかのように身体を反応させた。足の間からは相変わらず蜜が溢れ出ている。

堰を切ったように涙を流している信を見て、先に折れたのは桓騎の方だった。

「信」

脇下に手を忍ばせて、彼女の身体を反転させる。向かい合うように膝上に座らせると、信の視界から王翦は消える。

「ぁ、う…」

身体の向きを変えただけで、この場から王翦が居なくなったワケではないのだが、極限状態まで追い詰められていた信は僅かに安堵したようだった。

縋るものを探しているのか、首元にぎゅうとしがみ付いて来る彼女に、つい頬が緩んでしまう。

「ッ…ぅ…?」

狼狽えながらも、信の視線が下げられたことを桓騎は見逃さなかった。着物越しに硬く勃起している男根を感じたのだろう。

蜜を流している其処を擦るように腰を動かせば、信が身体を震わせた。すぐにでも欲しいと蠢いている下の口を焦らすように、着物越しのむず痒い刺激を続けた。

いつもなら焦らすなと睨まれるところだが、背中に感じる王翦の視線が気になるのか、信は唇を強く噛み締めて身体を震わせている。

「う、んんッ…」

入り口を擦っているだけだというのに、身体が普段よりも敏感になっているせいで、もはや唾液を飲み込む余裕もないのか、信が肩に顔を埋めて来た。
こうなれば毒の副作用に支配されて堕ちるまであと僅かだろう。

にやりと意地悪に笑んだ桓騎が手を伸ばし、急所とも言える花芯に触れた。

「ぁううッ」

指が擦れただけだというのに、胸の芽を弄った時と同じで、信は甘い声を上げる。

「っ…ふぅ、…ん、く…」

腕に爪を立てて、なおも堪えようとする信を見下すと、我慢比べをしているような心地になった。桓騎は鰭酒を一滴も飲んでもいないのだから、勝敗の予想などする必要はないのだが。

しつこいくらいに花芯を指の腹で擦りつけていくと、信の身体が小刻みに震え始める。

「あッ…!」

二本の指できつく花芯を摘まんでやると、腕の中で信の身体が大きく仰け反った。

「信」

その体を強く抱き締めながら、耳元に唇を寄せて、低い声で名前を囁く。
彼女の白い内腿が痙攣し、着物越しに触れている入り口がぎゅうときつく口を閉じたのが分かった。

「う…っ…」

身体を硬直させた後、抜け殻になってしまったかのように信の身体がくにゃりと脱力する。

肩口に顔を埋めたまま動かなくなった信を見下ろし、桓騎は何度か瞬きを繰り返した。

(…マジかよ)

お楽しみはこれからのはずだった。
しかし、桓騎の燃え滾った情欲など知るかと言わんばかりに、信は意識の糸を手放してしまったらしい。

「……、……」

「………」

まさか信の不戦勝で終わるとは、流石の桓騎も予想しておらず、室内には信の寝息と王翦が酒を飲んでいる音だけが響き渡った。

 

桓騎の策

信に口づけをしなかったことで、幸いにも鰭酒を一滴も口にしなかった桓騎だが、ここまで大きく膨らんだ情欲の捌け口を失くしてしまい、お預けを喰らった気分になった。

(こうなりゃ、仕方ねえな)

羞恥と快楽に狭間で意識を失ってしまった信を見つめながら、桓騎が穏やかに笑む。

無理強いをするのは昔から好きだが、信に限ってはそうではない。眠っている間にその体を抱くのは容易いことだったが、桓騎はそうしなかった。

「………」

二人のまぐわいを見せつけられた王翦は、静かに酒杯を口に運んでいるばかりで微塵も表情を変えていない。

王翦が信を気に入っていることは知っていたので、自分も混ぜろと立ち上がるのだとばかり思っていたが、意外にもそれはなかった。

いつも何を考えているか分からない男であっても、あれだけ信の淫らな姿を見せられれば、少しは反応を示すと思っていた。信のあの姿にも反応を示さないとは、本当に男なのだろうか。

「…貴様の趣味は、とことん理解出来ぬ」

呆れたような口調に、桓騎がにやりと笑った。

「他人に理解されるような趣味も愛し方も知らねえだけだ」

「だから毒だと知りつつ飲ませた・・・・・・・・・・・のか?犯人を引き摺り出す目的だけでなく、私の前で王騎の娘を抱くために」

まるで意図的に毒を飲ませたとでも言いたげな王翦の口調に、桓騎はさらに口角をつり上げた。

何を言っているのだと、桓騎はとぼけようとしたが、

杯をすり替えた・・・・・・・理由が他にあると思えんな」

王翦に言葉に遮られてしまった。まさか見ていたのかと桓騎は舌打つ。

この部屋にもてなされ、鰭酒を注がれていたのは、初めから・・・・桓騎だった。

毒耐性を持っているのは信だけでなく、桓騎もであり、黙って飲み干しても良かったのだが、彼はわざと信の杯とすり替えたのである。

―――…あいつら…

―――どうした?

―――いや、何でもない。

二人の気を逸らすために、わざと大きな独り言を洩らしたのだが、どうやら王翦には杯をすり替えた瞬間を見抜かれてしまったようだ。

しかし、桓騎が考えなしに動く男でないことを王翦は知っている。二人はそれだけ長い付き合いだった。

彼の意図を探るために、王翦は桓騎が杯をすり替えたことを、あえて指摘しなかった。

騒動になるのを避けるためか、信は注がれた酒が鰭酒であることを隠そうとしていたというのに、反対に桓騎といえば、王翦の話を聞いて毒殺されるのは自分だったのだと推測まで打ち明けていた。

(…解せんな)

その理由が王翦には分からなかったのだ。
初めから鰭酒だと気づいていたのなら、なぜ杯をすり替えてまで信に飲ませる必要があったのか。

毒見役として飲ませたのかもしれないが、ならばなぜ信に黙って・・・・・杯をすり替えたのか、その理由だけが分からない。

未だに信を抱き締めて放さずにいる桓騎から、こちらを挑発する笑みが消えないのを見て、王翦は小さく肩を竦める。

(…なるほど)

きっと、これは牽制・・だ。

信は意識を失う最後までずっと抵抗をしていた。鰭酒を飲んだことで抵抗出来ない状態でなければ、きっと桓騎のことを殴りつけてでもやめさせただろう。

彼女が抵抗出来ないように鰭酒を飲ませ、まるで王翦に見せつけるように声を上げさせながら抱き、この女は自分のものだと王翦に牽制したのだ。

注がれた酒が毒だと気づいた瞬間から、僅かな間で桓騎がここまでの策を立てたことに王翦はいっそ感心してしまった。

(実に厄介な男だ)

同時にとんでもない独占欲を胸に秘めている男だとも思った。
桓騎がいる限り、飛信軍を率いる有能な将を副官にすることは愚か、不用意に近づけば彼の恨みを買うことになる。

今は腕の中で寝息を立てている信を見て、厄介な男に好かれたものだと同情してしまう。

しかし、今まで見たことのないほど穏やかな表情を浮かべている桓騎を見れば、彼自身は信が傍にいるだけで幸福なのだろう。

…逆に言えば、今の桓騎にとって信の存在は、これ以上ないほどの弱点ということにもなる。

彼女を利用することで、今見せている穏やかな顔がどのように歪むのか、焦燥感に駆られた人間らしい桓騎の一面も垣間見えるに違いない。それに興味がないといえば嘘になる。

「…せいぜい呆れられぬように気をつけろ」

「あぁ?」

忠告も兼ねてそう言うと、桓騎の瞳に一瞬怒りの色が宿った。しかし、王翦は顔色一つ変えない。

女の機嫌というものがどれだけ変わりやすいのか、桓騎は知っているのだろうか。

きっと目を覚ました信から、今日のことを散々責め立てられるのは明白だろうに、それでも彼は王翦の目の前で彼女を抱いたのだ。未遂ではあったが。

奇策を用いて、いつも戦況を思い通りに動かしているというのに、信に対しては随分と不器用な男だ。

彼女の怒りを簡単に包み込んでしまうほどの余裕を持ち合わせているようだが、それがいつまで続くものか見物である。

そして、信がいつまでも桓騎の言いなりになっているとも思えない。

彼女の心が揺らいでいるところに甘い言葉でも掛ければ、すぐにこの身へ凭れ掛かって来るだろう。

(…毒の味か)

王翦は酒で喉を潤しながら、毒酒というものはどのような味がするのかと考える。それを口実に、改めて信を酒の席に誘おうか。もちろん桓騎は呼ばず、二人きりで。

王一族当主からの誘いとなれば、信は断ることは出来ないだろう。

「…こいつに手ェ出してみろ。お前であっても容赦しねえぞ」

王翦の考えを読んだのか、桓騎が声を低めて言う。
殺気しか込めていない瞳に睨まれると、王翦は苦笑を浮かべるしか出来なかった。

「…かん、き…?」

物騒な会話で目を覚ましたのか、腕の中で信が身じろいだ。
着ていた羽織りをその身に掛けてやりながら、桓騎は穏やかな笑みを向けたまま彼女の頬を撫でる。

そして、王翦に再び見せつけるようにして唇を落とした。

「ん、ぅ…」

寝ぼけ眼でいる信も、桓騎から与えられる優しい口づけに応えるように薄く口を開けている。

意識を失っていたせいか、王翦がいることをすっかり忘れているようだ。

口ではああ言っていたが、どうやら信は心からこの男に夢中になっているらしい。そしてそれは桓騎も同じである。

鰭酒はたった数滴であっても死に至らしめる強力な毒だ。信の口内に残っている分であっても、殺せるほどの効力を持っている。

口付けても苦しむ様子がないことから、恐らく桓騎にも毒の耐性があるのだと、王翦はその時点で見抜いたのだった。

彼らは互いに毒として、骨の髄まで蝕んでいるのだろう。

その毒が、どれほど甘美なものなのか、知将と称えられる王翦でさえも、それを知る術だけは持たなかった。

 

後日編・桓騎の策~全貌~

翌朝、客室の寝台で目を覚ました信は、昨夜のことを思い出し、当然ながら憤怒した。

羞恥と怒りで顔を真っ赤にしながら、自分を抱き締めたまま眠っている桓騎をそのままに、愛馬の駿と共に帰ってしまったらしい。

信が屋敷を出てしばらくしてから目を覚ました桓騎は、腕の中に信がいないことに気付き、珍しく慌てた様子だった。

いつも信よりも先に目を覚ましていたので、慢心してしまったらしい。

桓騎という知将が一人の女に取り乱す姿を見るのは初めてだったので、王翦は昨夜の詫びだと受け取ることにしたのだった。

来客が帰宅したことで、屋敷はいつもの穏やかさを取り戻していた。

「…昨夜の庖宰ほうさい ※料理人 はどうした」

王翦が家臣たちに声を掛けると、彼らは戸惑ったように目を合わせる。

恐らくは逃げるようにして暇をもらったのだろう。
まだ彼がいるのなら、客人へ毒を盛ったことにどんな理由があるのかを尋ねようと思っていた。恐らくは私怨だろうと王翦は考えていた。

桓騎軍の素行の悪さは当然ながら王翦も知っている。彼らが手に入れた領地の民たちを虐殺することだって珍しくなかった。

もしかしたら、庖宰ほうさい ※料理人 の男は、その生き残りかもしれない。

王翦のもとに仕えながら、桓騎を暗殺する機会を伺っていたのだろうか。

しかし、毒を盛ったと気付かれて処刑される代償も承知の上だとしたら、なぜ桓騎のもとに仕えなかったのかが些か疑問である。

自分に恨みを持っている者を桓騎がいちいち覚えているはずがない。
顔を知られていないのなら、桓騎軍に入って本人に近づくのも一つの手だったはずだ。王翦の屋敷に仕えるなんて、桓騎との接点が無さ過ぎる。

…もしかしたら、あの庖宰の男に、桓騎に毒を盛るよう指示した真犯人がいる・・・・・・・・・・のかもしれない。

昨夜、庖宰の男に尋問しても、毒を盛ったことはおろか、理由を語ろうとしなかった。

言えない理由は処罰を恐れているのだとばかり考えていたが、真実を口外することによって、別の問題があったのかもしれない。

桓騎に毒を盛るよう指示した者がいる線が合っているのなら、庖宰の男は家族を人質にでも取られたのだろうか。

「あの、それが…」

家臣たちが気まずそうに口を開く。

続けて聞かされた言葉に、桓騎の策はまだ全貌が明らかになっていなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・のだと、王翦はようやく悟ったのだった。

「………」

蓋を開けてみれば、さまざまな厄介事が絡んでいることに気付いた。

冷静に考えれば、昨夜の時点で分かったかもしれないが、酒と面白い見世物のせいで王翦の思考は普段よりも鈍っていたのである。

 

 

王翦の屋敷を飛び出した桓騎は、自分の屋敷ではなく、信が住まう屋敷へと馬を走らせていた。

たかが女一人のために馬を走らせる余裕のない今の自分に、桓騎は苦笑を深めてしまう。それだけ信の存在に心を搔き乱されていることを自覚せざるを得なかった。

信の屋敷に到着すると、門番を務めている兵が険しい表情を浮かべた。

その表情だけで、信が自分を屋敷に入れるなと指示したことが分かる。しかし、桓騎は構わなかった。

もう侵入経路は頭に入っている。堂々と正門を通って入る必要はないのだが、最短距離はこの正門を通る道順だ。

馬から降りるのと同時に、腰元に携えていた護身用の剣を引き抜き、兵が身構えるよりも先にこめかみを打つ。

倒れ込んだ兵の胸がちゃんと上下に動いているのを確認してから、桓騎はさっさと正門を通った。

幸いにも内側から閂はされていなかったようで、あっさりと門が開いた。飛び越えることはしなくて済んだようだが、桓騎は違和感を覚えて、つい足を止めた。

(…妙だな)

信が激怒して屋敷に引き籠ることはこれまでも何度かあった。

その時は正門の入口に多くの兵たちが並び、頑丈に警備され、決して外側から開けられぬよう内側には必ずと言っていいほど閂を嵌められていた。正門以外の侵入経路を桓騎が把握していたのはそのためである。

桓騎の姿を見た時の兵の表情から察するに、恐らく信は「桓騎が来ても絶対に通すな」と命じたに違いない。しかし、何故か今日は警備の数が少な過ぎる。
閂が嵌められていなかったことにも、何か意図があるような気がしてならない。

「………」

桓騎は口元に手をやって思考を巡らせるものの、止めていた足を動かして信の私室へと向かった。

元下僕である信には家臣はおらず、屋敷を出入りする者は限られている。それでも屋敷を巡回している兵が数名いるのだが、やはり今日は普段よりも人数が少ない気がしてならない。

妙な静けさに、やはり違和感を覚えながらも、桓騎は身を隠しながら信の私室へと辿り着いたのだった。

扉を開けた途端、串刺しにされては堪らないので、扉越しに中の様子を伺う。剣を身構えているような気配は感じられなかった。

物音を立てぬように扉を開き、中を覗き込むと、奥の寝台に大きな膨らみがあった。
恐らく、王翦の前であのような痴態をさらしたことを悔いて、布団に潜っているのだろう。

「…信」

名前を呼んで寝台に近づく。恐らく聞こえているだろうが、信は布団に潜ったまま微塵も動かず、顔を出そうともしない。

「おい、とっとと機嫌直せ」

信は自分の女だと王翦に知らしめるためには、ああするしかなかったのだ。彼女に手を出すなと釘を刺したので、きっと副官の誘いもこれでしなくなるだろう。

今回、王翦との酒の席に信を同席させた目的は果たされたのだが、その代償として信の機嫌を大いに損ねてしまった。

自分と身を繋げることは嫌いではないくせに、他人に見られる羞恥心は抜けないことも桓騎は知っていた。

だからこそ、王翦の従者を利用して・・・・・・・・・・鰭酒を飲ませた・・・・・・・というのに、信はなかなか理性を手放さなかった。

王翦に釘を刺すのを目的としているのに、彼に毒を飲ませるわけにはいかなかった。
自分の女を奪うものを消すという意味では飲ませても良かったのだが、王翦の命が亡くなれば面倒な騒動になる。

だからこそ、間違えて配膳だけはせぬよう、印のつけた酒瓶――鰭酒――を自分の杯に注がせ、その後は信が黙って鰭酒を飲み干してくれれば良かったのだが、あの様子では全てを飲み干すことはなかっただろう。

なるべく生臭さがつかないように、毒魚の鰭をよく炙って酒に浸け込んでおいたのだが、やはり今回の鰭酒も信の口には合わなかったらしい。

毒酒の事前準備は出来たとして、酒の席で信に鰭酒を飲ませるためには、王翦の従者を利用するしかなかったのだ。

あの庖宰ほうさい ※料理人 の技量には前々から目をつけていたこともあり、今回の騒動に利用するのをきっかけに、自分の従者に引き抜いたのである。

十分な金を握らせただけでなく、王翦のもとを辞めざるを得ない状況を作ってやった。
今頃は暇をとって王翦の屋敷から抜け出し、桓騎の屋敷でさっそく料理の下準備でもしているだろう。

…そろそろ王翦は策の全貌に気づいただろうか。

彼はともかく、信の方は一生この策に気付くことはないだろう。あの庖宰の男が何らかの私怨で、恋人を毒殺しようとしたと思い込んでいるに違いない。

―――酒が苦手なんだよな?美味そうだから俺にくれよ。

あの時、信は毒の副作用が起きるのも構わずに、自らの意志で鰭酒を全て飲み干した。

庖宰の男に処罰が下されぬように、毒を盛った証拠を隠滅させたのだ。…もちろんそれは桓騎の読み通りである。

誰かのために、いつだって必死になる彼女の純粋さが、時折憎らしいほどに愛おしく思うことがあった。

 

後日編・信の策~失敗~

布団越しに彼女の身体を撫でながら、桓騎は重い口を開いた。

「…悪かった。機嫌直せ」

今回の件は、独占欲の強さゆえに企てたことだった。十分に自覚はあったし、それで信がどのような想いをするのかも分からなかったわけではない。

だが、信に嫌われたとしても、桓騎は彼女を手放すつもりなど微塵もなかった。

しかし、そのせいで信の笑顔が見れなくなるのが嫌だと叫んでいる自分がいるのも事実だ。

信のことを考えるだけで、他の男に奪われぬようにと考えるだけで、余裕がなくなり、心が搔き乱されてしまう。

「信」

返事もないことから、もう自分と口も利きたくないのだろうかと桓騎の胸が針で突かれたように痛む。

無視を続ける態度から、ちゃんと顔を見て謝罪をしろと言われているような気がして、桓騎は布団を掴んで引き剥がした。

「………は?」

布団を捲った中にあった物を見て、間抜けな声が上がってしまう。

てっきり、布団の中に信がいるとばかり思っていたのだが、そこに信の姿はなく、代わりにたくさんの布が積み重なっているだけだったのだ。

まさかと目を見開いた桓騎は、顔から血の気が引いていく感覚を初めて知った。

開いた木簡がそこに置いてあり、

―――俺がいつまでも引き籠ってると思ったら大間違いだからな。バカ桓騎。

感情のままに書き殴ったのだろう、見るに堪えない信の字がそこにあった。

「あの女ッ…!」

血の気が引いた感覚の後、一気に全身の血液が頭に戻って来る。

まさかこの自分がよりにもよって、信の策に嵌められる・・・・・・・・・ことになるとは思いもしなかった。

正門の警備が普段よりも緩かったのも、閂がされていなかったことに違和感はあったが、全て信の策だったのだ。

王翦の屋敷を出た後、この屋敷に直行する桓騎の行動を信は事前に見抜いていたに違いない。

まんまと信の策に嵌められた桓騎は、ずっと誰も居ない寝台に向かって・・・・・・・・・・・・、謝罪を繰り返していたということになる。

もしもこんな姿を誰かに見られていたら、大笑いされていただろう。

(くそッ!)

ここまで心を搔き乱して来る女はきっと生涯、信だけだろう。桓騎は舌打ってすぐに部屋を飛び出した。

この屋敷にいないとすれば、今はどこにいるのだろうか。

頭も心も信のことでいっぱいになっている今の桓騎には、普段から知将として見せている冷静な面影など微塵もなかった。

 

 

荒々しく桓騎が部屋を飛び出していった物音が響いた後、室内に再び沈黙が戻って来た。

「………」

誰もいないことを確認してから、信はゆっくりと寝台の下から・・・・・・這い出て来る。

口元を手の平で押さえながら大笑いしそうになる自分を制し、しかし、目元には隠し切れない笑みが滲んでいた。

すぐに自分のもとに謝罪へ訪れたことから、桓騎の誠意は認めてやろうと思いながら、信はゆっくりと窓辺に近づいた。

誰が見ても慌てた様子で馬に跨った桓騎の姿が見えて、信は噛み締めた歯の隙間から笑い声が漏れてしまう。

きっとこれから自分を散々探し回り、結局見つけられず、くたくたに疲れ切った桓騎の姿を夕刻には拝めることだろう。

あの木簡の内容から、まさか最初から屋敷にいる・・・・・・・・・とは思うまい。
しかも、寝台の下にずっと身を潜めていただなんて、さすがの桓騎でさえも予想出来なかったようだ。

知将と名高い桓騎を策に嵌めてやったのだと思うと、もしかしたら自分にも知略型の将の才があるのではないかと自負と優越感に浸ってしまう。

軍略はからきしである信だが、桓騎と共に過ごして来たことで、良い刺激を受けたのかもしれない。

相手の裏をかく・・・・・・・というのがこんなにも気分が良いものだと知った信は、不敵な笑みを浮かべていた。

今日は桓騎のことを気にせずにゆっくりと寛ごうと欠伸をした途端、

「…ッ!?」

外にある厩舎から、愛馬の遠吠えかと思うほど大きな嘶きが響き渡った。

まるで桓騎を呼び止めているかのような嘶きに、信がまずいと青ざめる。すぐに窓を開けて身を乗り出し、厩舎にいる駿を睨みつけた。

「駿、静かにしろって!桓騎にバレるだろッ!」

慌てて愛馬に声を掛けたのだが、先に身を潜めるべきだった。

「あ…」

顔を上げた先で、こちらを振り返った桓騎と目が合ってしまった。

恐ろしいほど憤怒した表情に切り替わった桓騎がこちらに戻って来るのを見て、信は此度の策が失敗に終わったことを察した。

―――ああ、言っとくが、お前の愛馬も俺の味方だからな。

先日、桓騎が話していた言葉を思い出し、信は顔を引きつらせる。まさか最後の最後で愛馬に裏をかかれるとは予想外だった。

しかし、今まで見たことがない恋人の新たな一面を知れて嬉しいと思ってしまう。

きっと自分は救いようのないほど、骨の髄までこの男を愛しているのだと、認めざるを得なかった。

 

おまけ後日編「桓騎の策~失敗~」(2000文字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

このお話の本編(桓騎×信)はこちら

このお話の番外編③はこちら

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フォビア(王賁×信←蒙恬)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/ヤンデレ/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

帰還

咸陽に戻ってからも、桓騎は兵と娼婦を殺した信の行動を告げ口することはなかった。

桓騎軍の兵たちが信の処罰を求めるような声を上げずにいるのは、桓騎が口止めをしているのだろうか。

だからと言って、桓騎がこちらに何かを要求して来るようなこともない。つくづく何を考えているのか分からない男だが、恐らくこの一件に興味がないのだろう。

しかし、信の身柄を受け取りに桓騎軍の野営地へ行った時の桓騎の言葉を、蒙恬は未だに忘れることが出来なかった。

―――王翦のガキと面白ェことをしてるな。今度俺にも貸せよ。

防衛戦勝利における論功行賞で、信の武功は高く評価されていた。
しかし、将軍昇格には至らず、次回の戦での武功が期待されることになったらしい。そのことに、蒙恬は安堵した。

信は療養の名目で宴にも論功行賞にも不参加だったが、彼の身柄は今、蒙恬の屋敷で保護されている。

信に仕える兵たちは多くいるが、下僕出身である彼に家臣はおらず、身の回りの世話をさせるような従者たちもいない。

秦王嬴政の親友ということもあり、宮廷での療養も提案されたのだが、蒙恬はそれを断った。

桓騎軍の兵を殺したという同士討ちの件を信が自白すれば、いくら親友であるとはいえ、嬴政も処罰せざるを得ないだろう。

同士討ちの件は何としても隠し通しておくべきだと判断し、此度は楽華軍の下についていたことを理由に、蒙恬は彼の身柄を保護することを嬴政に名乗り出た。

信のことを心配する飛信隊の兵たちには、戦で受けた傷が咸陽への帰還中に開いてしまったのだと伝えたが、信が桓騎軍の兵を斬り捨てた同士討ちのことは告げていない。

飛信隊を信頼していない訳ではないのだが、万が一でも同士討ちの噂が広まって、信の処罰が確実なものになるのは避けたかった。

蒙恬が住まう屋敷に信は保護されていた。今は薬湯を飲ませて眠らせており、療養に専念させている。

幸いにも致命傷になり得るような傷はなかったため、蒙恬は医師に傷口を診せることはしなかった。

包帯の交換や、薬湯や水を飲ませることなど、本来なら従者たちが行うような療養の世話も蒙恬が自ら行っている。

いくら信が蒙恬の友人とはいえ、主にそんなことをさせるわけにはいかないと何度も従者たちが説得を試みるも、蒙恬は決して譲らなかった。

それだけではなく、信がいる部屋の出入りを許さないとまで指示を出したのだ。

どうして執拗に、信を隠そうとするのか・・・・・・・・・・蒙恬がその理由を家臣たちに伝えることはなかった。

 

目覚め

扉が開く音がして、信はゆっくりと目を開いた。

「…あ、今日は起きてるね」

顔を覗き込んで来た男が安心したように微笑んだ。
それが自分の友人であることに気付いた信は、名前を呼ぼうと唇を戦慄かせる。

「――、――」

久しぶりの発声だったせいか、笛を吹き間違ったような音が上がった。

背中に手を添えられて、体を起こすのを手伝った後、蒙恬は水甕から水を汲んでそれを信に差し出した。

「ゆっくり飲んで」

「ん…」

何度かに分けて水を飲み込むと、乾き切った口内と喉が潤っていく。

長い息を吐いた信は、咸陽への帰路にいたはずなのに、どこかの屋敷の一室にいることに気が付いた。

「…咸陽に、帰って来たのか?」

「帰還したのはだいぶ前。…えーと、どこから話そうかな…」

蒙恬は口元に手を当てて目を伏せた。

女が羨むほど端正な顔立ちである蒙恬がどこか体の一部が痛むかのような、辛そうな表情を浮かべていることに気付き、信は頭に疑問符を浮かべた。

「…どこまで覚えてる?」

そう問われ、信は躊躇った。何を問われているのか、蒙恬が何が訊きたいのかまるで分からない。

しかし、聡明な知能を持ち、幾度も秦軍を勝利に導いて来た蒙恬には、信のその反応を見ただけで察したようだった。

「包み隠さずに、全て言うよ」

低い声で蒙恬がそう言ったので、信は思わず固唾を飲み込む。

咸陽への帰路を辿っている途中で、信の記憶は不自然に途切れていた。撤退したはずの敵の襲撃にでも遭ったのだろうか。身体に目立つ傷はないのだが、一体何が起きたのだろう。

信は真剣な表情で蒙恬の言葉を待った。

「信が、桓騎軍の兵たちを斬った」

その言葉が耳に入って脳に届き、理解するまでには随分と時間がかかった。

「え…?」

何を言っているんだと顔を強張らせながら聞き返すが、蒙恬が笑顔を見せることはない。

もしもからかっているのなら、驚愕している自分の反応を見て、肩を震わせて笑い始めるだろう。それがいかに質の悪い冗談であったとしてもだ。

しかし、蒙恬の真っ直ぐな瞳が信から逸らされることもなければ、いつまでも冗談だと切り返す様子はなかった。

「兵と娼婦、合わせて十三人。全員死んだ」

心臓が早鐘を打っていき、こめかみが締め付けられるように痛み、背中に嫌な汗が伝ったのが分かった。

まだ自分の立場が今よりも低かった頃、死罪になるのを覚悟で千人将を斬り捨てたことを、信は今でも覚えていた。

同士討ちの罪の重さは分かっている。
非道な行いをする千人将を斬り捨てたことには微塵も後悔していないが、大切な仲間たちまでもが処罰を受けるかもしれなかったのだ。

感情を優先とした自分の安易な行動を恥じたし、二度とそのような軽率な行動は控えるべきだと自分に誓ったというのに。

「なんで、俺が…」

喘ぐような浅い呼吸を繰り返しながら、信は身体を震わせる。蒙恬が話すことが事実なのだとしても、信にはその記憶が一切なかった。

愕然としている信を見て、蒙恬は言葉を選ぶように、一度目を逸らして口を噤んでいた。

 

取引

「同士討ちの罪を知っているのは、俺と信…それから、桓騎と桓騎軍の兵たちだけ」

同士討ちをした事実を受け入れられないでいる信に、蒙恬が囁く。この部屋には自分たちしかいないというのに、それでも誰にも聞かれまいと細心の注意を払っていた。

恐らく桓騎軍の中では情報操作が行われているだろうという予見も伝える。

信は誰が見ても分かるほど動揺しており、その黒曜の瞳にうっすらと涙を浮かべていた。

すぐに処罰される訳ではないことは理解しているようだが、自分が同士討ちをした現実を受け入れられないでいるようだった。

「…桓騎は、今回のことを上に告げるつもりはないらしい」

蒙恬がそう言うと、弾かれたように顔を上げた。

「なんで…」

それは自分にも分からないと蒙恬が小さく首を振る。
口止めのために何かを要求して来る訳でもないのだと言えば、信の眉間にますます皺が寄った。

「…殺された仲間にも、殺した信にも、興味がないんだろう。恨んでるなら自分で手を下すか、すぐに上に告げて処罰してもらってたに違いない」

あくまで予測だが、桓騎が信の同士討ちの罪を口外しなかった理由を述べると、信は安堵したような、納得いかないような、複雑な表情を浮かべていた。

「…でも、あくまで予見だ。もしかしたら、桓騎は面白半分でこっちの様子を伺っているだけかもしれない」

あいつならやりかねないと言葉を付け足せば、信が固唾を飲み込んだのが分かった。

桓騎の非道な行いは秦軍の中でも有名だ。今はこちらの様子を楽しんで見ているだけなのかもしれない。

桓騎の機嫌一つで同士討ちをした罪が暴かれることになるのだと言えば、信は青ざめて体を震わせることしか出来ないようだった。

自分の処罰よりも、無関係の仲間たちを巻き込むことを恐れているのだろう。高狼城の時も、彼はそうだった。

怯え切っている信を安心させるように、蒙恬が優しい笑みを浮かべる。

「…俺が動けば、桓騎の口を封じることが出来る」

その言葉に嘘偽りはなかった。祖父に恩を感じている桓騎を黙らせる手段など、いくらでも持っているのは事実だった。

「信だけじゃなくて、飛信隊そのものを助けることできるってことだよ」

「………」

諭すように告げても、信はわずかに眉根を寄せるばかりだった。こちらの言葉を疑っているのだろう。

しかし、自分の命はともかく、大切な仲間たちを助ける術を持たない彼は、諦めて蒙恬を頼るしかないのだと分かっているはずだ。

その背中を押してやるために、信自らの意志で決断させるために、蒙恬は本題を切り出した。

「俺と取引しない?」

心地よく響いた声が、信の鼓膜を震わせる。女ならば・・・・腰が抜けてしまいそうになるほど甘い声だった。

「…なんのだよ」

顔を強張らせてはいるが、取引内容に興味を示したことに、蒙恬が口角をつり上げる。

「信は今から俺の言うことを聞く。俺は桓騎に今回のことを黙らせておく。信と飛信隊を守る最善の方法だと思うけど?」

「………」

その言葉を信用して良いのかと、信は蒙恬ではなく、自分自身に問い掛けているように見えた。

安心させるように蒙恬は双眸を細める。

「万が一のことがあっても、高狼城の時・・・・・みたいに一晩の投獄くらいで済むようには交渉するよ。桓騎軍の素行の悪さは誰もが知っているんだから、信が剣を抜いたとしても誰も怪しむはずがない」

過去のことを連想したのか、信がはっと息を飲む。

「…まさか、俺が軽罰になったのって…」

何年も前になる高狼城陥落の後、降伏した民たちに残虐非道な行いをした乱銅千人将を斬り捨てた時のことを思い出したのだろう。

返事の代わりに、蒙恬は穏やかな眼差しを向けた。

あの時、なぜ軽罰になったのか信は疑問を抱いていたが、まさか蒙恬が裏で手を回していたとは思わなかったようだ。

祖父と父の威光を受け継ぐ蒙恬の立場ともなれば、情報操作など容易いのだと信はようやく理解したらしい。

「……、……」

しかし、その瞳はまだ揺らいでおり、蒙恬との取引に応じるべきか悩んでいることが分かる。

 

 

この様子では、返事は当分先だろう。多少、強引な手段を取ってでも決断させなくてはと、蒙恬はわざとらしく溜息を吐いた。

「…俺さあ、待たされるの嫌いなんだよね」

わざと低い声で呟くと、信の瞳に動揺が浮かぶ。

「それじゃあ残念だけど、桓騎が上に同士討ちの件を告げても、関わらないでおくよ」

胸の内ではほくそ笑みながら、蒙恬はその場を去ろうと立ち上がった。

「待てっ…待って、…」

背を向けると、すぐに信が蒙恬の腕を掴む。

「なに?」

笑いを堪えながら冷たい視線を向けると、信は縋るような眼差しを向けている。
信は狼狽えながらも、意を決したように頭を下げた。

「…飛信隊を…助けて、ください」

絞り出した声は情けないほど震えていて、その声を聞くだけで信が今にも泣き出してしまいそうなのが分かった。蒙恬の腕を掴んでいる手も小刻みに震えている。

「取引に応じるってこと?」

思わず緩んでしまいそうになる口元を制し、蒙恬が問い掛ける。信は青ざめたまま頷いた。

「じゃあ、俺の言うこと、聞いてくれるんだね?」

信はもう一度頷いたが、確信が欲しくなった蒙恬は嘲りを含んだ笑みを向ける。

「返事は?」

自分の意志で選択したことを知らしめるために、蒙恬は返事を確認した。

「は、い…」

弱々しいが、それは確かに了承の返事だった。すっかり気分を良くした蒙恬は、穏やかな眼差しを向ける。

「…じゃあ、今すぐ脱いで?」

命じると、信が大きく目を見開いたので、蒙恬は小首を傾げた。

「脱いでって言ったんだけど、聞こえなかった?」

「…なんで…そんなこと…」

「俺の言うこと聞くんでしょ?」

「…理由を、聞かせろ」

まさか理由を問われるとは思わなかったが、蒙恬はすぐに答えた。

「信が女かどうか確かめるため・・・・・・・・・・・

ひゅ、と信の口から笛を吹き間違ったような音が上がった。

 

隠し事

同士討ちの事実を告げた時よりも驚愕している信に、蒙恬があははと笑った。

「まあ、その反応見ちゃったら、もう答えを聞いたようなものだし、そもそも寝てる間に全部見させてもらった・・・・・・・・・・んだけどさ」

「っ…」

咄嗟に信が着物の襟合わせを押さえる。いつもさらしで押さえ込んでいた胸の膨らみが、今は何にも覆われていなかった。

「なんで隠してたの?」

小首を傾げた蒙恬が怯えさせないように、穏やかな口調で問う。しかし、その双眸からは怒りの色が見て取れた。

俯いて視線を逸らした信は冷や汗を浮かべていた。

「別に…隠してた、ワケじゃ…」

途切れ途切れに言葉を紡ぐと、蒙恬がわざとらしい溜息を吐く。

「隠してただろ?」

怒りを隠し切れていない低い声でそう言うと、蒙恬は信の胸倉を掴み、ぐっとその体を引き寄せる。

着物の下にある、女にしか作れない柔らかい胸の谷間に視線を下ろし、それから近い距離で信を睨みつけた。

怯えたように信の瞳が揺れたのが分かり、蒙恬は追い打ちを掛けるように言葉を紡いでいく。

「さらしで胸を潰して、口調や仕草まで男を真似てさ。…すっかり騙された」

騙されたという言葉を聞いた信は、体の一部が痛んだように、きゅっと眉根を寄せた。

「王賁には抱かれてたくせに、俺にはぜーんぶ秘密だったんだ?」

「―――」

どうして、と信の唇が戦慄く。声が喉に張り付いており、その唇からは掠れた吐息が掻い潜るばかりだった。

胸倉を掴んでいた蒙恬の手が、信の薄い腹をそっと擦った。

「…もしかしたら今頃、王賁の子を抱いてたかもしれないんでしょ?」

目を見開いた信が、血の気のない顔で呆然としている。

「可哀相だね。信も、赤子も、救われなくて・・・・・・

同情するように、しかし、無邪気な笑みを浮かべながら、蒙恬は信の耳に囁き入れる。

「ッ…!」

瞬間、腹を撫でている手を振り払われた。
奥歯を噛み締めた信が蒙恬を睨みつけるが、弱々しい瞳から、それが虚勢であることは分かり切っていた。

「ほんと、可哀相」

言葉では同情するものの、乾いた笑いが込み上げて来る。

「っ…、……」

食い縛った歯の隙間から、嗚咽が零れている。これ以上ないくらい強張った顔をしている信を見て、蒙恬はゆっくりと目を細めた。

彼女の腹の中に眠っていた尊い命が、もうそこにはない・・・・・・・・・ことを、蒙恬は知っていたのだ。

 

 

「なんで…」

絞り出すような声を聞き、蒙恬は肩を竦めるようにして笑う。

みるみるうちに彼女の双眸から涙が溢れ出したのを見て、思わず手を伸ばして、その涙を拭っていた。指に付着した涙を舌で舐め取り、塩辛い味に苦笑を深める。

「俺、隠し事されるの嫌いだから」

伝令を受けて、桓騎のもとから放心状態でいる信を連れ戻した後、蒙恬は血塗れの着物を脱がせようとして、信がが女であることを知った。

同士討ちの件を内密にするために、天幕に他の者を出入りさせなかったことは幸いだったと言える。

咸陽へ帰還した後、蒙恬はすぐに信の屋敷を出入りしているという医者を訪ねた。

信の秘密を知っている・・・・・・・・と告げると、医者は信が身籠っていたこと、しかし、その命が芽吹かなかったことを教えてくれた。此度の戦ではなく、前の戦を終えた後、それが発覚したらしい。

それが誰との子であるかは教えられなかったが、その話を聞いた時、蒙恬はすぐに王賁との子であることに気付いた。

王賁が信を呼びつけていたことや、虚ろな瞳で彼女が天幕から出て来た姿を幾度も見ていたことから、答えは必然的に導くことが出来たのだった。

今までずっと知らずにいた信の秘密を、蒙恬は彼女が眠っている間に全てを知り得た。

しかし、王賁にその体を暴かれることを、彼の子を身籠ったことを、その命が失われたことを信はどう思っているのだろう。それだけは分からない。

医者によると、信が自ら堕胎薬の類を口にしただとか意図的なことはなく、戦場に立つ侵襲が原因だったのだという。それ以上は何も教えてくれなかった。

馬に乗ることや怪我よる出血、戦でかかる侵襲は、弱い命には負担でしかない。当然だろうと蒙恬は考えた。

 

成立

それまで強く奥歯を噛み締めて黙り込んでいた信は、憤怒の色を宿した瞳で蒙恬を睨みつけた。

「…本当に、飛信隊を助けてくれるんだな?」

「うん。信が取引に応じるなら」

凄まれても怯むことなく、蒙恬はあっさりと頷いた。
信は一度俯いて、すんと鼻を啜ってから、ゆっくりと寝台から立ち上がると、着物の帯に手を掛けた。

もう正体を知られているとはいえ、取引はまだ続いている。健気にも信は仲間たちを処罰から守るために、蒙恬の命令通りに着物を脱いだのだった。

帯と着物が床に落ちて、眠っている間に幾度となく見た女の身体が露わになる。しかし、信が自らの意志で着物を脱いだことに大きな意味があった。

程良い胸の膨らみや、典麗な身体の曲線、すらりとした四肢。いつもは着物や鎧で覆われていた、隠されていた本当の姿だ。

数多くの戦場を駆け抜けて来た身体には多くの傷がついていたが、無駄な肉は微塵もなく、どこも引き締まっている。

彼女自身が、この戦乱の世の生の象徴のように見えて、今まで見て来たどの女性よりも美しいと思った。

王賁の子を孕んでいた時は、その薄い腹も少しは膨らんでいたのだろうか。

その身が既に王賁によって汚されていることは知っていたが、それでも生唾を飲み込んでしまうほど美しさは衰えていない。

なぜこんなにも女性としての魅力が詰まった彼女を傍で見て来たのに、その正体に気づかなかったのだろう。

信の体を見つめながら、蒙恬はつい溜息を吐いていた。

「…満足かよ」

何も話し出さない蒙恬に痺れを切らしたかのように、信が低い声で問い掛ける。

「これでおしまいだと思ってる?」

弾かれたように信が顔を上げた。

今から俺の言うことを聞く・・・・・・・・・・・・っていう条件だったはずだけど」

先ほど提示した条件を再び口にすると、信の顔があからさまに引き攣った。まさか着物を脱ぐことだけが条件だと思っていたのだろうか。

「それじゃあ、次は何してもらおうかな」

苦笑を深めながら、次の指示を考えていると、信がみるみるうちに青ざめていった。

 

 

「おいで、信」

寝台に腰掛けたまま、蒙恬は信を手招く。
彼女はしばらくその場から動けずにいたが、もう一度「おいで」と声を掛けると、ゆっくりとこちらへ歩み寄って来た。

手を差し出すと、信は少し躊躇ってから、その手を取った。

緊張のせいか、冷え切っているその手を握ってやってから、蒙恬は寝台に腰掛けたまま信の体を抱き締めた。

柔らかい女の肌の感触を手の平いっぱいに感じ、目の前にある彼女の腹に頬を押し当てた。

「…ここに、王賁との子がいたんだ」

上目遣いで見上げると、信の強張った顔が見えた。

「王賁は全部知ってたの?」

きゅっと信が唇を引き結ぶ。

「…教えて・・・?あいつは全部知ってたの?」

これは取引の範囲の内だと信を見上げながら、蒙恬は臍の辺りに頬をすり寄せた。
少し間を置いてから小さく頷いたのを見て、へえ、と蒙恬の頬が緩んでしまう。

「それでいてあんな態度を続けられるなんて、さすが王賁だね」

信を妻にするつもりもなければ、身籠った子を抱くことが出来なかったことにも何の興味も抱いていないのだろう。

自分の知らないところで王賁が信に優しい言葉を掛けている姿など想像も出来ないのだが、そんなことをしていたのなら、信ももう少しは安らいだ表情をしていたに違いない。

後ろ盾を失くし、弱い立場になった彼女に凌辱を強いる友人を今さら蔑むことはしないが、もう少し違った方法で愛してやれなかったのだろうかと思った。

いや、王賁はそもそも信を愛する対象には捉えていないだろう。信は王賁にとって、ただ都合の良い道具だったのだ。

背中に回していた手をゆっくり下げて、女性らしい丸みのある尻に触れると、信の体がぎくりと硬直した。

「俺ならそんな酷いことしないのに…」

囁きながら薄い下腹に唇を寄せる。

「ひッ、…」

女性らしい曲線が作られている尻から内腿を指を滑らせ、足の間にある淫華を撫でると、信が息を詰まらせたのが分かった。

其処は少しも濡れていなかったが、蒙恬は構わずに指を前後に動かした。

「ッ、ん…」

女の官能を司る部位なのだから、其処を刺激されて感じない女などいない。信であっても例外はない。

逃げようとする腰を反対の手で抱き押さえ、蒙恬は花びらの合わせ目を指でなぞりながら信を見上げた。

「俺のものになってよ、信」

その言葉を聞いた信は、怯えたように瞳を揺らがせる。
少しずつ蜜を溢れさせて来た淫華の割れ目を押し開いて入口をくすぶると、信が息を飲んだのが分かった。

「ッ…ふ、…ぅ…」

手で口を押さえ、溢れそうになる声を堪える彼女の姿を見て、王賁にどれだけ酷い目に遭わされても、こんな風に声を堪えて涙を流していたのだろうかと考えた。

「俺が信のことを守ってあげる。だから、…ね?」

子供に言い聞かせるような優しい声色を向けながら、小首を傾げる。

今まで相手にして来た女性ならば、たちまち顔を真っ赤にして自分の手を取っていたというのに、信は違った。

口に蓋をしたまま、首を横に振って蒙恬の誘いを拒絶したのだ。

 

成立 その二

まさか拒絶されるとは思わず、蒙恬は呆気にとられた。

「ひッ…!」

蜜でぬるぬると滑る淫華に、指を根元まで突き挿れると、信の体が大きく跳ねた。

「飛信隊を助けて下さいって言ってなかったっけ?」

拒否権など最初からないのだと思い知らせるために、蒙恬は飛信隊の存在をちらつかせた。
思い出したように、信が悲痛の表情を浮かべる。

「ぅう…ふ、ぅッ…」

中で指を動かし続けていると、信の内腿が震え始めた。俯いて体を折り曲げようとするのと見る限り、そろそろ立っているのが辛くなっているらしい。

「ねえ、取引の内容なんだっけ?」

最奥にある女にしかない臓器を優しく撫でながら、蒙恬が穏やかな口調で尋ねた。

「ん、んんっ、ふ…ッぅ…」

小刻みに身体を跳ねさせている信が、指の間から苦しそうな声を上げる。
返事をもらえないことから、聞こえていないのだろうかと苛立ち、蒙恬はわざとらしく溜息を吐いた。

淫華から指を引き抜くと、蒙恬は信の腕を掴んで引き寄せた。

「あっ…」

立っているのもやっとだった信は呆気なく膝の力が抜け、蒙恬の膝の上に座り込んでしまう。

急に両腕で抱き締められ、信は戸惑ったように瞳を泳がせた。蒙恬は信の耳元に唇をそっと寄せる。

「…飛信隊を助けたいんだろ?」

その言葉に、信は身体を震わせながら、何度も頷いた。

「じゃあ、俺の言うこと、聞けるよね?」

確認するように問い掛けると、信が涙を浮かべた瞳で見上げて来る。情欲を煽るその弱々しい瞳に屈することなく、蒙恬は返事を待った。

「は、い…」

信の返事を聞き、蒙恬は満足げな笑みを浮かべる。

膝に座らせている彼女の身体を強く抱き締め、蒙恬は首筋に顔を埋めた。

他の女性を抱く時にはこんな甘えるような仕草はしないのだが、信にはどんな自分を受け入れてもらいたかったし、どんな彼女でも受け入れる自信が蒙恬にはあった。

 

 

「信」

顎に指をかけて顔を寄せると、信が緊張したように身を強張らせたのが分かった。

構わずに唇を重ねると、信の手が蒙恬の着物を遠慮がちに掴む。やめてくれと制止しているのだろうが、甘えているようにも思え、蒙恬は唇を交えながら苦笑した。

何度も顔の向きを変えて、彼女の柔らかい唇の感触を味わいながら、今でも信が男だと思い込んでいたのなら、こんな風に卑怯な取引を持ち掛けることはなかっただろうと考える。

「うっ、んん…」

口づけながら、彼女の柔らかい胸を揉み込む。

もしも王賁の子が無事に生まれていたのなら、赤子に吸わせていたに違いない。そんな姿は見たくないと、独占欲に満たされた心が拒絶をしていた。

信の身体を抱き締め、蒙恬は膝の上に座らせていた彼女の身体を寝台へと押し倒した。

「あ…」

どこか怯えた表情をしている彼女を安心させるように、蒙恬は静かに笑んだ。

ぼろぼろに傷つき、凍てついた彼女の心を慰めるには、優しさで溶かすしかないだろう。
頬をそっと撫でてやり、蒙恬は再び彼女の耳元に唇を寄せる。

「愛してるよ、信」

今まで抱いて来た女には一度も言わなかった愛の言葉を囁く。

無意識で囁いた愛の言葉に驚愕したのは、信だけではなく、蒙恬自身もであった。

 

後編はこちら

蒙恬×信のボツシーン(900字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

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毒を喰らわば骨の髄まで(桓騎×信←王翦)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/王翦×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は毒酒で乾杯をの番外編です。

前編はこちら

訪問

屋敷に到着すると、すぐに家臣の者たちが出迎えてくれた。

通された客間で、既に王翦が酒を飲み始めている。桓騎の後ろにいる信の姿を見ても、彼が表情を変えることはなかった。

さすがに重厚な兜は脱いでいるが、目元だけは黒い仮面で覆われていた。彼の素顔を知っている者は、果たしてこの中華にいるのだろうか。信はふとそんなことを考えてしまう。

桓騎に以前尋ねたことがあったが、彼も王翦の素顔は見たことがないのだという。

二人が席に着くと、

「…王騎の娘も来たか」

静かに酒を口に運びながら、王翦が独り言のように呟いた。その言葉に信は緊張し、体を縮こませる。

「本当は二人で話すつもりだったんだろ?悪いな」

桓騎によって無理やり連れて来られたようなものだというのに、信はそれを告げず、謙虚に謝罪した。

隣の席に座っている信を横目で見つめながら、桓騎はこれが王一族の中での彼女の立場なのかと考える。王騎という後ろ盾を失ったことで、当主である王翦に頭を下げなくてはならなくなったのだろう。

「桓騎に連れて来られたのだろう」

謝罪を聞いても、王翦は大して気にしていない様子だった。それどころか、こちらが何も言っていないというのに、信がここに来ることになった過程まで見抜いたらしい。

得意げに笑った桓騎が隣にいる信の肩に腕を回す。

「宝は隠しておくより、持ち歩いた方が守りやすいからな」

「お、おいっ?」

首回りを隠している襟巻きを奪われないように、信が慌てて桓騎の腕を押さえ込む。

ちょうどその時に侍女たちが部屋に入って来て、客人である桓騎と信へ料理と酒を運びにやって来た。

丁寧な手付きで杯に酒を注いでくれたが、桓騎はあとは手酌でやるので酒瓶は置いていくよう指示をする。

王翦のような名家の主ともなれば、手酌をする機会などないのだろうが、信と桓騎は違う。しかし、桓騎の指示に王翦は何も言わなかった。

恐らく王翦も桓騎と酒を飲み交わす時は、従者の出入りを断っているのだろう。侍女たちは素直に従っていた。

「…あいつら…」

何か気になるのか、桓騎が侍女たちの後ろ姿を見つめている。

「どうした?」

彼の視線を追い掛ける・・・・・・・・・・が、すでに侍女たちは部屋を出て行った後だった。

「いや、何でもない」

話を逸らすように、桓騎は酒が注がれた杯を手繰り寄せた。
乾杯はしなかったが、向かいの席に座っている王翦に杯を掲げると、桓騎はすぐに酒を口にした。

王翦は盃を掲げることはしないが、視線を向けながら静かに酒を飲んでいる。

蒙驁の副官として付き合いの長い二人には、これくらいの距離感がちょうど良いのだろう。

大いに談笑をしながら賑やかな宴をする飛信軍と違い、何だか大人の貫録というものを感じられた。

信も二人に続いて、注がれた酒を口に運んだ。

 

毒酒の罠

(うッ…!)

一口飲んだ途端、信の顔が大きく強張った。

口に含み、喉を通るまでに強い痺れを感じたのである。そして、独特な生臭さが鼻腔を抜けて、思わず泣きそうなほど顔を歪めてしまった。

もてなされた立場ということもあって、無礼をする訳にもいかず、信は咄嗟に俯いて前髪で表情を隠す。

桓騎と王翦にちらりと視線を向けたが、二人は話をするのに夢中のようで、信の変化には気付いていないようだった。

(これ、鰭酒ひれしゅか…?)

口に含んだ瞬間に強い痺れと、独特な生臭さを感じたことから、毒魚の鰭を使ったのは明らかである。

(まさか毒酒でもてなされるとはな…)

自分の杯に注がれたのが鰭酒なら、桓騎が飲んでいるのも同じものだろう。
さすがに王翦は自分たちと違って、毒の耐性がないので普通の酒を飲んでいるに違いなかった。

そこまで考えて、そういえば王翦に過去に一度でも毒の話をしたことがあっただろうかと考える。

「信?」

隣に座っている恋人が暗い表情を浮かべていると、いち早く気づいた桓騎が振り返る。

「どうした。もう酔ったか」

「あ、いや…」

慌てて首を振った。

もしかしたら、桓騎が自分たちの特殊な体質なことを告げたのかもしれない。
王翦がせっかくこの酒を用意してくれたのだから、その気遣いを無下にする訳にはいかないと信は再び鰭酒に口づける。

やはり独特な生臭さが鼻につき、信は顔を引き攣らせた。

「…王翦将軍。この酒はどこから取り寄せたんだ?」

口元に笑みを繕いながら信が尋ねた。

 

 

毒酒を作れる者は限られている。毒酒を作ることを生業としている者はとても少ないのだ。

桓騎が贔屓にしている鴆者鴆酒を作る者は酒蔵で、普通の酒の製造も行っていると聞いた。普段は鴆者であることは隠しているらしい。

確かに暗殺道具を作る者が勤めていると広まれば、売り上げにも大いに悪い影響が出るだろう。

「北方の酒蔵からだ」

王翦の返答に、桓騎が納得したように頷いた。

「寒い地方なら強いワケだ。そういや、北の酒は初めて飲む・・・・・な」

肩を竦めるようにして桓騎が笑う。彼の言葉を聞き、信は目を見開いた。

(初めて…?それじゃあ、桓騎の酒は…鰭酒じゃないのか?)

酒を注いでくれたのは侍女たちだったが、将軍同士の話があると言って、今この部屋にいるのは信と桓騎と王翦の三人だけである。

それぞれの食膳には酒瓶が添えられている。全員が同じ酒瓶だったので、同じ種類の酒だと思っていたのだが、どうして自分にだけ鰭酒が与えられたのだろう。

「桓騎…」

一度、王翦が部屋から出たのを見計らって、信は机の下から遠慮がちに彼の着物を引っ張った。

「ん?」

何か言いたげに視線を送って来る恋人を、桓騎が不思議そうに見やる。

信が毒に耐性を持っていることを知っているのは飛信軍の一部の兵たちと、彼女の側近に当たる者たちだけだ。一方の桓騎も公言はしておらず、桓騎軍の側近たちだけらしい。

以前、後宮で嬴政の正室である向の食事に毒が盛られたことがあり、彼女の護衛につくよう指示された時は、嬴政や彼の一部の側近たちに特殊な体質を知られてしまった。

後宮の騒動はそれなりに大きく広まっていたようだし、もしかしたら、どこからか情報が洩れて王翦が聞きつけたのだろうか。それならば鰭酒を事前に用意していたことも納得がいく。

だが、桓騎も同じ体質であることは知られていないのだろうか。自分にだけ鰭酒が注がれたことに、信は違和感を覚えた。

「王翦将軍って…毒のことを知ってるのか?」

小声で問い掛けると、桓騎は首を横に振ったので、信は思わず言葉を詰まらせた。

「………」

王翦が毒耐性のことを知らないのに、なぜ自分に鰭酒が振る舞われたのだろう。

そして、桓騎も自分たちの毒耐性の話題を出されたことに、何か勘付いたようだった。

「あっ」

信が制止するよりも先に、桓騎が鰭酒の入っている杯を手に取る。ちょうどその時、一度席を離れた王翦が部屋に戻って来た。

「…ほう?」

杯を顔に近づけただけで、桓騎は独特な匂いからこれが鰭酒だと気づいたようだった。
何者かが意図的に信を毒を盛ったのだという事実に、桓騎の額に青筋が浮かび上がったのが見えた。

「面白ェことするやつがいたもんだな」

いきなり低い声でそう囁いた桓騎に、王翦が何事かと見つめている。

(やめろって!)

冷や汗を浮かべながら信が桓騎の着物をぐいと引っ張る。

桓騎はともかく、自分は王家の中で後ろ盾のない弱い立場だ。養父である王騎の死によって、後ろ盾がなくなったのが一番の理由である。

今さら王家を追い出されることには何も未練もないが、当主である王翦のもとで騒ぎを起こしたとなれば、亡き養父の顔に泥を塗ったのも同然の行為だ。それだけは絶対に避けたかった。

「…何事だ」

桓騎の目の色が変わったことに気づいた王翦が静かに問い掛けた。毒を盛られたことを桓騎が告げるよりも前に信はあたふたと話し始める。

「いや、な、何でもねぇんだ!美味い酒だな!」

咄嗟に桓騎の手から杯を奪い取り、信はまだ残っている鰭酒を一気に飲み込んだ。苦手な生臭さが鼻腔を突き抜け、鳥肌が立った。目頭に思わず涙が滲んだが、何とか笑顔を繕う。

「誰かがこいつの杯に毒を盛った」

こちらの気持ちなど少しも考えず、桓騎があっさりと白状したので、信は目を剥いた。

 

 

毒酒の罠 その二

王翦が目を大きく開いたことから、彼も珍しく動揺していることが分かる。

「毒だと?」

「ああ、間違いない。魚の毒だ」

平然と答える桓騎に、信が諦めたように溜息を吐く。王翦と目が合い、信は狼狽えたように視線を彷徨わせた。

「…そなた、毒が効かぬのか」

頷きながら、さすがだと敬服した。
毒酒を飲んだというと、大抵の人間は驚くか、すぐに医師の手配をしようと慌てる者の二択である。

しかし、王翦は毒酒を飲んで平然としていられる信を見て、すぐに毒の耐性があることを察したらしい。

「お前が知らなかったってことは、もてなしで振る舞ったワケじゃねえのは確実だな」

信が毒への耐性を持っていることを知った上で鰭酒を振る舞ったというならば分かるが、そのような珍しい耐性を持っていることを王翦は知らなかった。

つまり、意図的に信の杯に毒酒を盛り、彼女を毒殺しようとした者がいるということである。

それが王翦ではないのは明らかだ。彼は姑息な手段を使って相手を死に至らしめるようなことはしない。それは信も桓騎も断言出来た。

信に毒を盛った犯人はこの屋敷に仕えている者だろう。きっと杯に鰭酒を盛った犯人は、信が毒耐性を持っていることを知らなかったに違いない。

もしも毒酒を注ぐ杯を間違えれば、主を殺すことになる危険すらあったというのに、それだけの危険を冒してでも信を殺そうとした意志が伺える。

「…誰が盛った?」

桓騎の声が普段よりも低くなり、信が狼狽えた。

部屋には桓騎と信と王翦の三人しかいないのだが、酒に毒を盛れる人物は限られている。
酒を注いでくれた侍女か、酒を用意した者か、もしくは彼らの目を盗んで盛った者の誰かだろう。

そして唯一分かっていることといえば、毒殺を企てるほど信を憎んでいる者だろう。

「桓騎、やめろ…」

特殊な体質でなければ、今頃のたうち回りながら息絶えたかもしれないのに、彼女の表情からは事を大きくしたくないという意志が伺える。

まるで自分さえ我慢していれば丸く収まるのだという態度に、桓騎は不機嫌に舌打った。

「お前が本家に来たくないって言ってのは、このことだったのか?」

「おいッ…!」

王翦の前で堂々と問われ、信が桓騎の着物をぐいと引っ張った。

「………」

三人の間に沈黙が横たわる。
まるで顔色を伺うように、冷や汗を浮かべながら信が王翦に視線を向けた。

こんな風に、相手の機嫌を伺う素振りを見せる彼女を見るのは初めてだった。それほど王家の中で、信の立場は弱いものなのだろう。王騎がまだ生きていた頃は違ったのかもしれない。

「お前は何にビビってんだよ」

からかうように信の肩を小突くと、信がきっと目尻をつり上げた。まるで黙れと言わんばかりの態度だ。

王翦を苦手だと言う話は聞いたことがないが、確かに戦と自分の野望以外何を考えているか分からない男であることは桓騎も同意していた。

息子の王賁ほど、王翦は名家という立場にこだわりはないようだが、信にとっては敬うべき立場だ。

秦王には普段から無礼な態度で接しているくせにと心の中で毒づきながら、縮こまる信を見て、桓騎は苦笑を浮かべた。

 

 

「………」

王翦は相変わらず表情を変えないでままでいる。

恋人である桓騎以上に何を考えているのか分からない男で、信は緊張のあまり、固唾を飲み込んだ。

「なぜ王騎の娘が狙われた」

王翦の言葉に、桓騎の片眉が持ち上がる。

「はあ?どっからどう考えても、こいつを殺そうとしてのことだろ」

本来、毒酒は暗殺道具として使われるものだ。

信と桓騎は毒が効かぬ特殊な体質を持つ者であり、毒酒を嗜好品として愛飲しているが、もしも毒の耐性がなければ、信は絶命していただろう。

信の王家の中での立場の弱さはこれで証明されたが、王翦はどうして信が狙われたのかを理解出来ずにいるらしい。

毒を仕込んだのが王翦でないとしても、桓騎は彼の態度が無性に腹立たしくなった。

王一族の本家当主にあたる王翦さえ、家臣たちを説き伏せていたら、王騎という後ろ盾を失った信の立場を気に掛けてくれていたのならという想いが溢れて止まなくなる。

しかし、王翦は桓騎の気持ちなど露知らず、鋭い眼差しを向けて来た。

「…貴様はともかく、王騎の娘が屋敷に来ることを、家臣たちは誰一人として知らなかったはず・・・・・・・・だ」

その言葉を聞いた信がはっとした表情になる。

桓騎から今日の誘いを受けたのは昨夜のことで、本来、王翦の屋敷に訪れるのは彼だけだった。

信も同行することを事前に連絡していないし、信が桓騎と共に屋敷に訪れることを知らなかったのは王翦だけでなく、彼の家臣たちもだ。

鰭酒を作る過程は複雑ではないのだが、浸けておく時間が必要であり、最低でも一晩は要する。取り寄せるとなればまた違った過程と日数が発生する。

前もって彼女が屋敷に来ることを知っていたのならまだしも、その情報もないのに彼女が鰭酒を盛られた理由は何なのだろうか。

誰かが意図して毒酒を盛ったのは事実だが、本当に信を殺すつもりだったのだろうかと王翦は疑問を抱いた。

もしも信が今日の酒の席に来なかったとしたら、毒酒は注がれていたのだろうか。それとも、毒酒を飲ませる相手は最初から信ではなかったのかもしれない。

王翦の推測を聞き、信が目を丸めている。

「…じゃあ、本当に鰭酒を飲まそうとした相手・・・・・・・・・・・・って…」

「俺か?」

桓騎がにやりと笑った。

 

毒酒の罠 その三

頬杖をついた桓騎に、王翦は普段通り冷たい眼差しを向けている。

「王騎の娘のおかげで、命拾いしたようだな」

まるで挑発とも取れる王翦の言葉に、桓騎が苦笑を深めた。桓騎自身も信と同じく毒への耐性があるのだが、彼が王翦にそれを告げることはなかった。

毒耐性があることを王翦に打ち明けないことには何か理由があるのだろうと考え、信は二人の間に口を挟まなかった。

「…毒酒を盛る直前になって殺す標的を変えたか、それとも間違えたか。どっちにしろバカの犯行だな」

毒殺されかけたのは自分だというのに、桓騎は少しも動揺する素振りはない。

こんなことで動揺するような男ではないのだと信も分かっていたのだが、あまりにも重々しい空気に包まれて、つい黙り込んでしまう。

(やっぱり、来るんじゃなかった…)

俯いて着物をきゅっと握り締めた信は、重い空気の中でひたすら後悔していた。

桓騎を殺そうとした者がいるのなら、それは確かに許せないが、どちらにせよ王翦に迷惑をかける形になってしまった。

亡き養父への罪悪感に苛まれ、俯いたまま顔を上げられなくなってしまう。

隣で暗い表情を浮かべている恋人に気付いた桓騎が、王翦の死角となる机の下でそっと手を握ってくれた。

思わず桓騎の方を見ると、彼は表情を微塵も変えていなかった。
しかし、心配するなと言ってくれているような優しい目をしていて、信の胸がきゅっと締め付けられる。

「ただ酒を飲み交わすだけじゃつまらねェ。犯人探しに付き合えよ」

大胆に足を組み直した桓騎が、背もたれに身体を預けながらそう言った。王翦は静かに杯を置き、じっと桓騎の目を見据えている。

「良いだろう」

「…えッ!?」

まさか王翦が承諾するとは思わず、信は立ち上がっていた。

 

 

「味方に毒を盛る者など信用出来ぬ。最初から排除しておくに限る」

仮面越しに真っ直ぐな視線を向けられて、信は思わず口籠る。

「ましてや、私の副官になる将に毒を盛る者など、弁明の余地はない」

「え?…それって、俺か?」

そうだ、と王翦が頷いた。

過去に断ったはずなのに、なぜ王翦の副官になることを前提としているだろうと信は思ったが、隣にいる桓騎からつまらなさそうな視線を向けられているのは分かった。

「ど、どうやって犯人を捜すんだよ?」

王翦と桓騎からの視線に耐え切れず、信は話題を切り替えた。

秦軍の知将として名高い二人が揃っているのだから、無策で犯人を捜し出すことはしないだろう。

桓騎は台の上に両足をどんと乗せ、挑発するように王翦を見やった。

「鰭酒は鴆酒と違って、そう難しいモンじゃないからな。作ろうと思えば誰でも出来るだろ」

毒酒の準備が誰にでも出来るものならば、入手経路から犯人を追うのは困難かもしれない。

恐らく桓騎もそれを分かっていて、王翦に犯人を見つけ出す方法があるのか問うているのだ。まるで王翦の頭脳を試すかのような態度である。

「………」

顎に手をやりながら王翦が口を噤んだ。犯人を捜し出す方法を考えているのだろう。

隣で桓騎がにやりと笑んだので、信は嫌な予感を覚える。

「…連帯責任なら、全員殺すのが一番手っ取り早いだろ」

「おいッ!」

あまりにも物騒な策に、信は思わず桓騎の肩を叩いてしまう。

自分が敵とみなした相手にはとことん容赦がない桓騎の性格は知っているが、さすがにそんな提案を許す訳にはいかなかった。

確実にこちらを殺すつもりで毒を盛ったのだとしても、ここは戦場ではないのだ。

憤怒で顔を真っ赤にしている信に、桓騎は肩を竦めるようにして笑った。

今の発言を冗談だと撤回することはなく、桓騎は鰭酒の入っている酒瓶を見やる。王翦もじっと机の上に並べられている酒瓶を見つめていた。

見たところ、三つの酒瓶は全て同じだった。中に鰭酒が入っていることを見分ける目印がないことに気づいたのは、王翦と桓騎のどちらが早かったのだろう。

「…王翦将軍?」

ゆっくりと王翦が立ち上がったので、何をするのだろうと信は小首を傾げた。彼は三つの酒瓶を台の中央に集め、まだ中身が存分に残っていることを確認していた。

部屋を出た王翦が、酒と料理の料理の用意をしてくれた厨房の者たち、部屋を出入りした侍女たちを呼び出した。そして人数分の杯を持ってくるように指示を出している。

主から突然呼び出されたことに、従者たちは戸惑いを隠せないでいるようだった。合わせて十人の従者が部屋に集まり、机の上に従者たちの杯が用意された。

何をするのだろうと信が黙って見ていると、王翦は従者たちに背を向けながら、持って来させた杯に酒瓶の酒を注ぎ始める。

(あ…)

しかし、王翦は鰭酒が入っている酒瓶にだけは手をつけていない。鰭酒の入っていない二つの酒瓶を使って、杯に酒を注いでいる。

しかし、主の後ろ姿しか見えない従者たちには、三つの酒瓶から酒を注いでいるように見えるだろう。

「…桓騎将軍からのもてなしだ。飲むが良い」

全ての杯に酒を注ぎ終えた王翦は高らかにそう言った。

まさか自分に酒をもてなしてくれるとはと従者たちが驚いている。しかし、王翦も桓騎も従者たちの中に、不審な動きをしている者がいないか目を光らせているのが分かった。

(…もしかして…)

これが彼の策なのだと信は気づいた。

どうやら杯を持って来るよう命じていた時点で、桓騎は既に気づいていたようだが、彼は決して王翦の策に口を挟む真似はしなかった。

 

王翦の策

いきなり酒を振る舞われたことに、従者たちはあからさまに躊躇っている。

それは毒酒を盛ったことを気づかれたのではないかという動揺ではなく、客人がいる手前、立場の低い自分たちに酒を振る舞う主の行動を理解し兼ねてのことだった。

しかし、これこそが王翦の策なのだろう。

鰭酒を用意した者がこの場にいるのなら・・・・・・・・・、渡された杯に鰭酒が混じっているのではないかと警戒するはずだ。そのためにわざわざ背を向けて酒を注いで見せたのだ。

「遠慮は無用だ。飲むが良い」

主に酒を勧められ、もちろん断る従者はいなかった。王翦に声を掛けらた従者たちは各々、静かに杯に口をつけていく。

「………」

信は注意深く従者たちの行動を見つめていた。

もしも、酒を口にしない者がいるとすれば、それは酒瓶の一つが鰭酒であることを知っている犯人だけ。

口に含めば即死するほど強力な毒だと知っていれば、主の命令であったとしても安易に口づけることは出来ないはずだ。

(もしかして、あいつか?)

庖宰ほうさい ※料理人の男が一向に酒を飲もうとしないことに気が付いた。杯を持つ手が震えており、顔も青ざめている。

桓騎も気づいたようで、横目でその男に鋭い眼差しを向けていた。

「ッ…?」

信が立ち上がろうとした瞬間、机の下で桓騎に手を押さえられる。桓騎は信と目を合わせず、口を噤んだまま、その手を放そうとしなかった。今はまだ動くなと言いたいのだろう。

「…飲めぬのか」

庖宰の男に問い掛けた王翦は腕を組み、冷たい眼差しを向けていた。

普段から仮面の下の表情を変えない男だが、今はその瞳にはっきりと敵意が浮かんでいるのが分かる。

重々しい空気が室内を満たしていく。他の従者たちも主の威圧感に怯えていた。

王翦からあんな目つきで睨まれたら、自分でさえも足が竦んでしまうだろうと信は思った。

しかし、桓騎は何を思っているのか、台から足を下ろすと、つまらなさそうに頬杖をついていた。

もしもこの場を仕切るのが王翦ではなく、桓騎だったのなら、あの男に惨たらしい罰を与えていたに違いない。

信の前ではそのような発言は控えるようになったのだが、それでも桓騎軍の素行の悪さは未だ健在している。

 

信の策

「…答えよ。なぜその酒を飲まぬ」

単刀直入に王翦が男に問うた。

庖宰ほうさい ※料理人の男は、今にも失神してしまいそうなほど顔から血の気を引かせている。

飲まぬ・・・のではなく、飲めぬ・・・のか」

「………」

室内に広がる重々しい空気と沈黙に、信はまるで自分が責められているような錯覚を覚えた。

このまま男が答えても、答えなくても王翦は彼を罰するつもりだろう。

「っ…」

あの男が桓騎を殺そうという明白な目的を持って毒酒を盛ったのなら、許す訳にはいかない。

どのような私情があるのかは分からないが、秦軍に欠かせない知将の一人である桓騎を毒殺しようとした罪は重い。

毒殺は叶わなかったとはいえ、重罪として扱われ、処罰は免れないだろう。

それに、毒酒を盛る相手を間違えていたとすれば、王翦が死んでいたかもしれないのだ。

奇跡的に信と桓騎が毒への耐性を持っていたことが幸いし、犠牲は出なかったものの、毒酒を盛ったことを認めれば、男は間違いなく斬首となるだろう。

(でも…)

信はきゅっと唇を噛み締めた。胸が締め付けられるように痛む。

まるで「余計なことはするな」と言わんばかりに、桓騎が信に鋭い眼差しを向け、机の下で掴んでいる手に力を込めて来た。

しかし、信はその手を振り解いて立ち上がると、王翦から男を庇うように間に立った。

「…何の真似だ」

王翦の低い声に、信は思わず息を飲む。仮面越しに睨まれると、それだけで膝が笑い出してしまいそうになった。

彼の息子であり、友人の王賁がこの威圧感を受け継がなかったことを幸いに思いつつ、己に喝を入れ、信は庖宰の男を振り返る。

「酒が苦手なんだよな?美味そうだから俺にくれよ」

有無を言わさず、信は男の手に握られたままの杯を奪い、一気に飲み干した。庖宰の男が何か言いたげに口を大きく開いたが、言葉にはならなかった。

「…うん、美味い」

本当は自分に注がれるはずだった酒が喉に染み渡り、信は長い息を吐いた。

「飲まねえなら俺が全部飲んじまうぞ!」

王翦と桓騎から呆れた視線を向けられているのは分かったが、信はあえて自然に振る舞った。

机の上に置いてあった鰭酒の酒瓶を手に取り、信は迷うことなく口づける。

「~~~ッ!」

苦手な生臭さが鼻腔を突き抜けて、思わず身震いしたが、嚥下するのはやめない。針を刺すかのように、毒酒の独特な痺れが喉を伝う。

「ぷはっ」

あっと言う間に酒瓶を空にした信は手の甲を口を拭い、空笑いをしながら涙目で王翦を見た。

「あー、悪い悪い。全部飲んじまった!いや~、本当に美味い酒だな~!」

すっかり空になった酒瓶と杯を勢いよく台に置き、信はこれで証拠は無くなったと言わんばかりに王翦に挑発的な視線を向ける。

わざとらしい演技をする信に、桓騎があからさまに溜息を吐いたのが見えた。

「…下がって良い」

王翦は何の感情も読み取れないいつもの瞳で、従者たちを下がらせる。

毒酒を盛ったと思われる庖宰の男もそそくさと逃げていった。

 

弁明

客間から従者たちが出ていき、三人だけになると、緊張が解けたかのように信はずるずるとその場に座り込んでしまった。

「なぜ証拠を消すような真似をした」

腕を組んだ王翦が冷たい眼差しで信を見下ろしている。

あのまま毒を盛ったとされる庖宰ほうさい ※料理人の男を処罰すれば済む話だったのに、彼を庇うような行動をした信の真意が分からないのだろう。

そのまま視線を合わせていると、王翦の威圧感に呑まれて何も言えなくなってしまいそうだったので、信は俯いて視線を逸らした。

「そういう、つもりは…ただ、俺が鰭酒を飲みたかった、だけ…で…」

視線を逸らしていても、身が竦んでしまいそうなほど伝わって来る王翦からの威圧感に、語尾が掠れてしまう。

「…あの様子じゃ、自分からいとまを取りに来るだろ。それか、今から逃げ出す準備してるだろうな」

それまでだんまりを決め込んでいた桓騎が、助け舟を出すような言葉を掛けた。

いつものように、目を抉り出して手足を切り落とせとでも言うのかと思っていた信は、桓騎がまさかそのような発言をするとはと驚いた。

「…かもしれぬ」

信が鰭酒を飲み干してしまったことで、王翦はあの男を処罰する気を失せたのか、何も言わずに椅子へ腰掛けた。

先ほどと似たような重々しい空気が室内に広まり、信は唇を噛み締める。

「あ、の…」

掠れた声で王翦に声を掛けるが、返事どころか、視線さえも向けてくれなかった。

恋人に毒を盛ったあの男を庇ったことに、信は微塵も後悔していない。

一歩間違えれば主を殺してしまう危険もあった上で、毒殺を目論むくらいなのだから、余程の事情があったに違いないと思ったのだ。同時にそれは自分の甘さであることも自覚していた。

「王翦、将軍…」

だが、王一族の中で、後ろ盾もない弱い立場の自分が勝手をしたことを謝罪しようと、信が頭を下げようとした時だった。

「私の副官になれ、王騎の娘」

まさかそのような言葉をかけられるとは思わず、信がぽかんと口を開ける。王翦は仮面越しにじっと信のことを見据えている。

自分を副官にすることをまだ諦めてなかったのかと、眉間に困惑の色を浮かべた。

「俺は…」

何度誘いを受けても答えは同じだ。
王翦が野心家でなく、秦国と嬴政に忠義を尽くしてくれたのならば、副官になっても良いとは思っていたが、その気持ちは今でも変わりない。

しかし、王翦の方も野心家であることは変わっていない。お互いの気持ちは平行線のままだ。
何度誘われても答えは同じだと、信は誘いを断ろうとした。

「う”…」

突然心臓が何かに掴まれたかのように、胸が重く痛み、信は呻き声を上げる。

息が乱れていき、今度は燃えるように胸が熱くなっていく。

(ま、まずい…!)

似たような症状を過去にも体験していた信は、毒の副作用が始まったのだとすぐに勘付いた。

急に蹲って苦しげに喘ぐ信を見て、王翦が何事かと見つめている。

そして、背後では桓騎が不敵な笑みを浮かべていたのだが、信がそれに気付くことはなかった。

 

後編はこちら

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昌平君の駒犬(昌平君×信←蒙恬)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • めちゃ強・昌平君の護衛役・側近になってます。
  • 年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/蒙恬×信/執着攻め/特殊設定/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

主従契約

「―――これは私とお前の主従契約だ」

男は汚いものを見るかのような目つきでそう言った。

今自分が声を出せば、迷うことなく喉元を切り裂かれてしまうような、躊躇いのない刃のように、その瞳は冷たかった。

あの瞳の冷たさを、少年は今でも忘れることはない。

「私の言うことには全て従え。歯向かうことは決して許さぬ」

自分を主として認めろと男は言った。
それは同じ人間という種族の中での上下関係ですらなかった。

飼い主と犬。もはや自分は人としての扱いもされなくなるのかと、少年は他人事のように考えた。

男の上質な着物にも返り血が染みついていた。瞳はあんなにも鋭いのに、彼が握っている剣の刃は、刃毀はこぼれをしており、切れ味が悪そうだ。

今あの刃で斬られたらきっと痛いだろうなと、他人事のように考える。

男は剣を持っていない方の手を差し出した。
その手も血で真っ赤に染まっていたが、少年は決して汚いとも恐ろしいとも思わなかった。

「…この手を取るのなら、その命、私が生涯責任を持って飼おう・・・

少年は躊躇う素振りもなく、男の手を取った。

大きな骨ばった手は、刃のような冷たい瞳と違って温かく、少年はついその手を握ってしまう。

男がその手をすぐに握り返すと、少年は思い出したように辺りを見渡した。

自分たちの足下に、無数の屍が転がっている。
見慣れた顔のはずだった・・・・・・・・・・・のに、今の少年の瞳には、どれも同じ見覚えのない顔に映っている。

体つきから、それが女か男、子供や大人かくらいの違いは分かるのだが、それが誰であるのか・・・・・・・・・を少年はもう思い出すことが出来なかった。

 

 

あれから数年の月日が経ち、信という名の少年は下僕の立場から、秦の総司令を務める右丞相・昌平君の護衛を担う側近へと昇格を果たした。

素性も分からぬ下賤の少年を護衛役に任命したのは、彼を保護した昌平君自身だが、家臣たちから大いに反対をされたことは言うまでもない。

しかし、彼らを説き伏せたのは、意外にも主ではなく、信自身だった。

屋敷に連れて来られた時から、信は言葉でなく、態度で昌平君に対する忠義を示していた。

初めは一向に喋ろうとしないことから、口が利けぬのかと誤解されていたようだが、そうではない。

主である昌平君から許し・・が出るまで、信は一言も口を利かぬよう、健気に命令を守っていたのだ。
傍に昌平君がいない時でさえも、信は従順に言いつけを守っている。

返事の一つさえ、決して声を出さないようにしている少年を、初めの内は家臣たちも薄気味悪い目で見ていた。

なぜ信を拾ったのか、どこから連れて来たのか、家臣たちは誰一人知らない。それを知っているのは昌平君だけである。

後に信は護衛としての役目を全うするために、剣の扱いを学び始めた。
昌平君と、彼の近衛兵である豹司牙から手ほどきを受けたせいか、着実に剣の腕は上達を見せていた。

男にしては身のこなしが軽い信は、剣術の型に縛られることなく自由に戦い方を学び、たった数年の間で、昌平君にも豹司牙にも劣らないほど剣の腕を磨き上げたのだった。

今や、昌平君の護衛役を担うことに反対する者は誰もいない。信はまさに自分の努力で、家臣たちを説き伏せたのだ。

まさか昌平君自らが武を授けることに家臣たちも驚いていたが、信の上達具合から、彼の武の才を見抜いて連れて来たのだろうと噂が広まった。

初めは素性の分からぬ少年を受け入れられないでいた家臣たちだったが、長年共に過ごせば情も湧くもので、今や信は昌平君の側にいるのが当たり前の存在になっている。

信の年齢で初陣を済ませている将は多くいる。将として育てるつもりだったのだろうと誰もが考えていたが、昌平君は信を戦に出すことはしなかった。

護衛としての役目を全うさせようとしているのだろうか。真意は誰にも分らない。

ただ、信が昌平君にとって使える駒であり、犬のように従順な存在であることだけは誰もが分かっていた。

そのせいか、いつからか信には、「昌平君の駒犬」という呼び名がついて回るようになっていた。

主のためなら駒同然に命を投げ捨てる従順なる犬。

命の価値を軽視した皮肉も込められた呼び名ではあるが、信はこの呼び名を密かに気に入ってた。

 

 

駒犬の生きる術

それまで真剣な表情で木簡に筆を走らせていた昌平君が小さく息を吐いたので、今日の分の政務が終わったのだと信は察した。

もうとっくに陽は沈んでおり、蝋燭の明かりだけが室内を照らしている。

昌平君の顔に疲労が滲んでいるのが見える。今宵は月が雲隠れしており、いつもよりも薄暗かった。眉間に刻まれた皺がいつもより深いところを見れば、随分と目を酷使したのだろう。

机の端に重ねられている大量の木簡は、全て内政のことが記されているものばかりだ。しかし、机の端に寄せられているということは、それがもう用済みである証拠である。

しかし、筆を置いたまま背もたれに身体を預けている姿を見る限り、今日の政務はもう切り上げるのだと分かった。

積み重ねられている木簡を書庫へ片付けてこようと信が立ち上がる。

「…信、来なさい」

椅子に腰掛けたまま、昌平君が信を呼んだ。命じられれば必ず従うことを骨の髄まで調教されている信は、すぐに昌平君の前に向かう。

返事を声に出さないのは、まだ話す許可を得ていない・・・・・・・・からだ。

「………」

昌平君が自分の太腿を軽く二度叩いたのを見て、信は椅子に腰を下ろしている主の身体に跨り、その膝の上に腰を下ろした。

連れて来られたばかりの頃は、信に字の読み書きを教えようと、膝に座らせて木簡を読んでくれたり、筆の使い方を丁寧に教えてくれた。

下賤の出である自分に字の読み書きを教えてくれたのは、自分の仕事を手伝わせるつもりだったのだろう。

そう言った経緯があり、信は昌平君と身体を寄せ合うのは嫌いではなかった。むしろ、幼い頃からずっとそうして来たので、好きだと言ってもいい。

ただ、体が成長しても、幼い頃と同じように扱われるのは少々気恥ずかしさがある。

もちろん人前ではしないのだが、二人きりになると昌平君は、ここに連れて来た時と同じように信を愛でるのだ。

「っ…」

顎に指を掛けられると、信の体が自然と緊張した。
端正な顔が近付いて来るのを見て、思わず目を閉じるが、その瞼も震えてしまう。

目を閉じるのに許可は要らなかった。もしも目を開けているように強制されていたら、もちろん指示に従ったし、主の端麗な顔を見続けて心臓が止まっていたかもしれないと信は思った。

「…、……」

もう何度となくされているはずなのに、未だに緊張してしまう。昌平君が小さく笑った気配を察した途端、唇に柔らかいものが触れる。

口を合わせることも、肌を重ねることも、幾度となく教え込まれた行為だが、身体が成長していくにつれて、少しずつ背徳感を覚えるようになっていた。

元は下僕の身分である自分を拾ってくれたことには感謝しているが、右丞相という役職に就いている昌平君には未だ妻がいない。

秦王からも厚い信頼を得ている高官の彼に、絶えず縁談の話が来ているのも信は知っていた。

まさか自分の存在が足枷になっているのではないか、自分を引き取ったせいで、昌平君が家庭を作れないのではないかと不安を覚えることもあった。

しかし、主の許可がなければ発言を許されない信は、その不安をいつまでも胸の内に秘めている。

素直にその不安を打ち明けたことにより、昌平君が自分を捨てて伴侶を選んだらという不安の方が大きかった。

彼に捨てられたくない。
昌平君の駒犬として役割を果たすことだけが、信の生きる道であり、生きる術であった。

「ぁ…」

主の柔らかい唇の感触を味わっていると、腹の内側を優しく抉られるあの甘い刺激を思い出してしまい、下腹部が甘く疼いた。

 

 

唇が離れると、信は軽く息を乱しながら、恍惚とした瞳を向けた。
次の命令を急かすような瞳に、昌平君は骨ばった手で信の頬をそっと撫でる。

「…おすわり・・・・

命じられると、信は昌平君の身体から降り、すぐに床へ膝をついた。次の指示を聞くために、主の顔を見上げている。

すぐに命令に従ったことを褒めるように、黒髪をくしゃりと撫でてやると、気持ち良さそうに信が目を細める。

頭を撫でられるのが好きなのは、昌平君も知っていた。もしも信に尻尾があったのならば、きっと大きく振っていたことだろう。

想像するだけで愛らしいと思い、昌平君は口角をつり上げた。

「……、……」

静かに微笑んだ主の顔に見惚れ、信は薄口を開けて頬を赤く染めている。

頭を撫でていた手を滑らせて頬を撫でてやると、意を察したのか、信が椅子に腰掛けている昌平君の足の間に身体を割り入れて、そこに手を伸ばした。

「っ…」

室内を照らしている蝋燭の明かりだけでも、信の顔が赤く染まっていることが分かった。

僅かに震えている手で、着物を持ち上げている男根にそっと触れる。確認するように見上げられ、昌平君が小さく頷いた。

遠慮がちに動く信の手が帯を解いていく。
緊張のせいか、その手が僅かに震えているのが分かると、昌平君は褒めるように信の頭を撫でてやった。

着物を捲り、僅かに上向いている男根に信がゆっくりと顔を寄せる。

「ん…」

切なげに眉を寄せながら、信が喉奥まで男根を咥え込む。

気道が狭まって呼吸が苦しくなるが、鼻で呼吸を続けながら、陰茎に舌を這わせた。

頭を前後に動かしながら口の中で男根を扱き、舌を這わせ続けていく。頭上で昌平君が息を乱しているのが分かった。

その吐息を聞くだけで、信の下腹部がずんと重くなる。自分の口で感じてくれているのだと思うとそれだけで胸が熱くなった。

「っ…ぅ、ん…ぐ…」

唾液と先走りの液が溜まっていき、まるで猫が喉を鳴らすかのように、信の喉奥でごろごろと音が響いた。

 

苦しくなったのか、信が男根から口を離して喘ぐように息を整えている。唾液の糸を引いている男根を頬に擦り付け、信が何か訴えるように見上げて来た。

うっすらと瞳を浮かべているその瞳に見据えられると、背筋に戦慄が走り、加虐心が煽られてしまう。

「っ、ん……」

信の息が整ったのを見計らい、再び後頭部を押さえ込んで再び男根を咥えさせる。

ざらついた上顎の感触、つるつるとした舌の表面、生暖かい口内の感触、喉に繋がる狭い肉壁の感触。生々しい感触に包み込まれるだけで、つい息を零してしまう。

見下ろすと、信の足の間にある男根も同じように上向いているのが分かった。着物を持ち上げているそれが涎じみた液を洩らし、着物にはしたなく染みを作っている。

まだ触れてもいないのに、口淫をしているだけで感じていたのか。

男根を口から引き抜き、身を屈めて信の男根を着物越しにやんわりと掴むと、先走りの液で着物の染みが濃くなった。

「はっ、…はあ…ぁ…」

息を整えるのに必死で閉じられない唇が切ない吐息を洩らす。

着物越しに形を現わしている敏感な先端を指の腹で円を描くようにくすぐってやると、ますます涎じみた液が溢れ出す。

先端の割れ目を何度もなぞってやると、信の腰と内腿が震え出したのが分かった。しかし、まだ射精の許可を出すつもりはない。

このまま調教を続けていけば、いずれ男根に触れずとも、口淫をしているだけで絶頂を迎えてしまうのではないかと苦笑した。

もしもそんな淫らな体になったのなら、もう二度と外を自由に歩かせる訳にはいかないだろう。

(女の味など一生教えてやるものか)

異性だけではない。もしも自分以外の人間に興味を抱くことがあれば、すぐに去勢してやると考えながら、昌平君は愛撫を続ける。

自分が女だったならばともかく、信の子種を実らせるつもりなど微塵もなかった。

「ん、ぐっ…ぅんん」

再び両手で彼の頭を押さえ込みながら、喉奥を抉るように一番深いところまで咥えさせる。

過去に無理やり口を犯し続けたことで、喉をひどく腫らしてしまい、翌日は水を飲むことも出来なくなったことを思い出した。

確かあの時は、まだ口淫に慣れておらず、歯を立てられたことに腹を立てて仕置きをしたのだ。

竹製の口輪を噛ませ、口が閉じられぬように、歯を立てられぬようにした上で口淫とは何かを教え込んだ。

その成果は着実に表れており、今では口輪など使わずとも、立派に口を使いこなすようになっている。

主に歯を立てるなんてもってのほかだと、賢い犬は学習したようだ。

「ふ、…っぅ、んぅ…」

苦しがるのは分かっているので、喉を突かぬように加減しなくてはと思うのだが、健気に男根を頬張る姿を目の当たりにすると、どうしても我慢が出来なくなってしまう。

むしろこのような愛らしい姿を前にして我慢出来る男など、この世に存在するのだろうか。

 

 

躾 その二

「んんっ…ぅ…」

口の中で男根が完全に勃起すると、信がますます苦しそうに眉根を寄せていた。

しかし、歯を立てぬように精一杯口を開けて、尚も舌を這わせて来る。躾の出来た良い子だ。

骨の髄まで自分に従順になるよう躾けたのは、他の誰でもない昌平君自身であるが、健気に男根を頬張る姿には愛おしさが込み上げて来る。

「っ、はあ…は、あ…」

男根を口から引き抜くと、信が肩で呼吸を繰り返していた。
褒めるように頬を撫でてやると、それが次なる指示だと気づいた信はゆっくりと立ち上がる。

躊躇うことなく自分の帯を解いた信は、切なげな表情を浮かべていた。帯が解かれたことで襟合わせが開き、隠れていた肌が露わになる。

普段から剣や槍を握っていることもあり、手の平はマメだらけであるが、着物の下には目立つ傷は一つもない。

あるのは先日の情事の際につけた痣だけだ。強く唇で吸い付いたものと、歯形が幾つも刻まれている。

普段は着物で隠れているが、信の素肌を見れば、常日頃から独占欲の強い男と身を重ねていることがよく分かる。

「ん、ぅ…」

貪るように唇を重ね合い、昌平君は帯が解かれて肩に引っ掛かっているだけの青い着物を脱がせた。

白い下袴の紐を解くと足の曲線に沿って下袴が落ちる。それを合図に、信が机に手をついて昌平君に背中を向けた。

背中から身体を抱き締めて、肌を重ね合う。

「っ…う…」

肩越しに期待を込めた眼差しを向けられ、昌平君は思わず息を飲んだ。

発言の許可は与えていないので、信は健気に命令を守り続けているのだが、その瞳は「早く欲しい」と訴えている。

飲み込めない唾液のせいで、艶めかしく濡れた唇が男を誘っていた。

「ふ、く…」

口の中に指を突き入れると、躊躇うことなく信は舌に絡ませて来た。

唾液で存分に潤いを纏わせて、普段は固く閉じている孔にくすぐるように指を這わせる。
入り口に指を這わせているだけというのに、信の其処が反応するように打ち震えたの感じた。

主の男根しか知らぬ其処は内壁への刺激を求めているのだ。女の淫華よりも煽情的に思えた。

「…ッは、ぅ…」

唾液の滑りだけで、二本の指がすんなりと入っていく。
初めて体を繋げた時は、長い時間を掛けて解きほぐしていた其処は今ではすっかり男の形を覚えてしまったらしい。

今や痛みを感じることなく、切なげに眉根を寄せる表情も堪らなく愛おしい。

 

 

肩で息をしながら、こちらを振り返る信は顔を真っ赤にさせている。発言の許可をすれば、早く欲しいと訴えるに違いなかった。

しかし、昌平君はわざと視線に気付かないフリをして、後孔を弄っている反対の手で上向いている男根を包み込む。苦しいまでに硬く張り詰めていた。

指で輪っかを作り、硬く張り詰めている男根を上下に扱いてやると、信が喉を突き出して体を仰け反らせる。

「―――ッ…ふ…、んぅ…!」

後孔を弄る指を、中を掻き混ぜるように動かすと、信が両手で口を塞いでしまう。発言の許可を得ていないことから、必死に声を堪えようとしているのだろう。

こんな時でも健気に命令を守る姿に、昌平君は思わず口角をつり上げた。

しかし、そんなことをされれば何としても鳴かせたくなるのは男の性というものだろう。
中でぐるりと回した指を鉤状に折り曲げる。

「んぐッ」

腹の内側にあるしこりを指で突くと、信が手の下で悲鳴を押し殺した。全身を硬直させた後、内腿の痙攣が始まる。

粘膜に埋もれた急所である其処を突かれると、頭が真っ白に塗り潰されるような感覚と全身に戦慄が走り、自分の意志ではどうしようもなくなってしまうらしい。

そこを重点的に弄られるのを信が苦手としていることを、本人は言葉にはしないが、昌平君は彼の反応と態度から分かっていた。

「ッ……、ふ…ぅ」

怯えた瞳を向けられるが、相変わらず目を合わせることはしない。
許しを請うような、涙を浮かべている弱々しいその瞳に見据えられれば、良心が痛み、やめてしまいそうになる。

しかし、それでは躾にならない。主従契約を結んだ以上、躾は重要だ。

 

 

躾 その三

傷つけないように中を広げる目的のはずが、いつの間にか信の声を上げさせる目的にすり替わってしまった。

昌平君が発言を許可すれば、たちまち淫らな鳴き声を上げるのは分かっていたのだが、健気に命令に従う姿はやはり愛おしい。

信といえば、命令に背いた時の厳しい罰に怯えているようだ。

誤解のないように告げておくが、信が従順であるのは忠義心が厚いためであり、決して罰に対する恐怖心によるものではない。

そんなもので心が折れるような弱い駒犬でないことを、昌平君は誰よりも分かっていたし、信の心根の強さを何よりも気に入っていた。

「ッぐ…」

くぐもった声が聞こえて、昌平君はようやく信の顔に視線を向けた。

声を堪えようとするあまり、自分の腕を噛んでいることに気付き、昌平君は指を引き抜く。

このまま放っておけば、血が滲んでもなお歯を立てて声を堪えようとするので、そろそろ潮時のようだ。

「信」

名前を呼ぶと、信ははっとした表情で腕から口を放す。その腕にはくっきりと歯形が残っていた。

涙で濡れた黒曜の瞳と目が合い、昌平君は生唾を飲み込む。下腹部が鈍く疼いた。

お互いにもう余裕がないことを察し、それが合図となったのか、昌平君は背後から信の体を抱き締める。

背後から回された腕にぎゅっとしがみつき、信は息を整えていた。

「っ…ぁ…」

先ほどまで指で入れていた其処に、昂りを押し当てると、信が息を飲んだのが分かった。腕にしがみ付いている手に力が込められる。

「ッ…ん、んんッ…!」

唾液と先走りの液を馴染ませるように何度か擦り付け、腰を押し進めた。狭い入り口を掻き分けていき、柔らかい肉壁の中をずんと突き上げる。

「はあっ、あ、ぁぅ…」

激しい圧迫感に信が耐え切れず、声を洩らした。無意識なのか、身を捩って逃げようとする素振りを見せる。

腰を掴んで強く引き寄せて、男根を根元まで押し込むと、昌平君は吐息を零した。

もう何度となくしている行為だが、信の中は温かく、それでいて強く締め付けて離さない。
どんな女よりも具合が良いのは、自分だけを受け入れるように身体に躾けて来た成果なのかもしれない。

最奥まで挿入した後、しばらく動かずにいたのだが、信の息が整ったのを感じてから昌平君はゆっくりと腰を引いた。

陰茎と亀頭のくびれの部分まで引き抜き、容赦なく叩き込む。

「ッぁぅうう」

これ以上ないほど奥深くまで繋がると、信がようやく声を上げた。思い出したように腕を掴んでいた両手で口に蓋をしようとする。

しかし、昌平君は背後からその両手を掴んで、机に押し付ける。

「っあっ、な、んで…」

発言を許可していないにも関わらず、声を上げさせようとする主の行動が理解出来ないのだろう。
信が眉根を寄せて振り返るが、何も答えることはなく、昌平君は激しい抽挿を送った。

硬い男根が奥深くを抉る度に、信の目の奥で火花が散る。

何とか声を堪えようと歯を食い縛るものの、もう声を堪える余裕など残されていないようだった。

 

 

信の腰を抱え直して後ろから揺すぶっていると、机に響く激しい揺れのせいで、積み重ねていた木簡が落ちてしまった。

「あっ…」

派手な音を立てて床に散らばった木簡を拾い上げようと手を伸ばした信に、そんなものより自分だけを見ろと腕を押さえ込んで、項に強く歯を立てる。

普段は着物で隠れる箇所ばかりに痕を残すのだが、最近は歯止めが利かなくなってしまうことがある。

押さえつけながら腰を振る滑稽な姿に、これではまるで獣の交尾だと自虐的な笑みを浮かべた。

うつ伏せにさせていた体を反転させ、向かい合うように抱き締める。

「ひいッ…!」

耳の中に滑った舌を差し込むと、腕の中にいる信がぶわりと鳥肌を立てたのが分かった。

激しく腰を突き上げながら、硬く張り詰めて上向いている男根を扱いてやると、ぼろぼろと涙を流しながら信が頭を振っている。

やめてくれと訴えているのは分かったが、中断するつもりなど毛頭ない。鳴き続けている信を宥めるように、その体を強く抱き締めた。

昌平君は耳から舌を引き抜くと、そこに唇を寄せたまま、

「信、いい子だ」

低い声でいつものように褒め言葉を囁くと、信が目を剥いた。

「~~~ッ!」

内腿ががくがくと震え、昌平君の男根を咥え込んでいる肉壁がぎゅうときつく締まる。手の中と下腹部に生暖かい感触が伝った。

見下ろすと、同時に信の男根の先端から白濁が溢れていて、互いの腹と、昌平君の手の平を濡らしていた。

射精の許可はまだしていなかったはずだが、習慣にもなっているその言葉を耳元で囁くと、安易に絶頂を迎えてしまう癖がついてしまったのかもしれない。

主よりも先に達してしまうなんて悪い子だ。耐え性のない犬に苦笑を深めてしまう。

浅い呼吸を繰り返している信の膝を抱え直すと、信が怯えたように顔を上げた。

荒い息を吐きながら、信が小さく首を横に振る。まだ達したばかりで敏感になっている体には、強過ぎる快楽が恐ろしいのだろう。

「――ッ、ぁ、っぅううッ」

構わずに抽挿を再開すると、甲高い声が上がった。

これは主よりも先に達した罰だ。余裕のない笑みを浮かべながら、昌平君は信の腰を抱え直して激しく最奥を突き上げる。

「ひぐッ」

加減をせずに突き上げたからだろうか、信が奥歯を打ち鳴らしているのが分かった。

縋るものを探して、それまで拳を握っていた信の手が、昌平君の背中にしがみつく。護衛役の側近として、普段は主を傷つけまいとする彼が、理性を失ったように夢中で背中に爪を立てて来るのが愛おしかった。

翌日にその痛々しい傷痕に気付いた信が、情事を思い出して羞恥と申し訳なさに委縮する姿を見るのも、楽しみの一つであった。

「やあ、ぁ、ぐっ…」

ここに自分という存在が刻まれているのだと教え込むように、自分の男根を受け入れている薄い腹を手で圧迫してやると、信が幼子のように嫌々と首を振った。

「~~~ッ」

信が喉を突き出して、大きく身体を仰け反らせたかと思うと、再び内腿を痙攣させていた。

「くッ…」

子種を求めた女の淫華のように、ぎゅうと男根が絞られる。あまりにも強い締め付けに、背筋に戦慄が走った。

勢いづいて精液が尿道を駆け下りていく瞬間、全身に快楽が突き抜ける。

低い唸り声を上げながら、最奥で吐精したのだが、信の男根からはまるで涙のように精液がぽつりと流れるだけだった。女のような絶頂を迎えたのだろう。

「はあ、はあ…」

まだ体が繋がったままの状態で息を整えていると、信が瞳を揺らしていた。

熱に浮かされていた意識が少しずつ冷静になって来て、主より先に達したことや、発言の許可を得ずに声を出したことを咎められるのではないかと不安を抱いているらしい。

「ッ、…ぅ…」

ゆっくりと男根を引き抜くと、机に寝かされていた信が身体を起こした。絶頂の余韻に浸ることもなく、疲労感に苛まれている体に鞭打って、主の足の間に屈んで顔を寄せて来る。

「ん、む…」

今の今まで自分の中を抉っていた主の男根を、信は迷うことなく口に含んだ。

まだ何も指示を出していないというのに、何度となく同じ行為を繰り返して来たから覚えていたのだろう。

賢い犬を褒めるように、昌平君は優しく頭を撫でてやる。撫でられるのが好きな彼は、惚けた顔で男根を口と舌を使って清めていた。

残りの精液を掻き出そうとしているのか、尖らせた舌先で敏感な先端を突かれ、ちゅうと吸い付かれる。

尿道に残っている精を啜られると、思わず腰が震えてしまう。

男根を咥えたまま何かを確認するように昌平君を見上げる。もう一度頭を撫でてやると、信は小さく喉を上下させた。

「…ん、…」

ゆっくりと口を開けて、舌を伸ばす。

「信」

白濁を飲み込んだことを示すような態度を褒めるために、昌平君は身を屈めると、信の額に唇を落とした。

身体を重ねるのは何度もして来たが、信に向けている感情が愛情なのかと問われれば、頷くことはないだろう。

だからと言って性欲を処理させる道具として見ている訳ではない。

飼い主と犬の関係であり、それ以上でもそれ以下でもない。そしてこの関係はこれからも永遠に続いていくのだと思っていた。

 

忠誠

昌平君の護衛役として、常に彼の傍についている信だったが、軍師学校と謁見の間の立ち入りは禁じられていた。

理由としては単純なもので、信は軍師学校と謁見の間を出入り出来る立場ではないからだ。

逆に言えば、昌平君が軍師学校と謁見の間に行く時は、常に彼と行動を共にしている信が一人になれる貴重な時間ということである。

今日は政務はなく、一日を軍師学校で過ごすらしい。陽が沈む頃に終わると話していたので、その時刻まで信は一人で過ごさねばならなかった。

「……、……」

昌平君と離れている間も発言する許可は出されていない。

きっと信の声を聞いたことがあるのは、昌平君と稽古をつけてくれた豹司牙と、幼い頃から信を知っている昌平君の家臣たちくらいだろう。

護衛役として昌平君が信を連れ歩くようになってから、発言の許可を得られる回数はめっきり減ってしまった。

昌平君に引き取られたばかりの頃の、文字の読み書きを教わっていた頃も許可は必要だったものの、今よりも自由に口が利けた。

幼い頃から昌平君の護衛役として育てられて来た信には、同年代の者たちと関わることもなく過ごして来たせいで、友人と呼べるような存在もいない。

自分のことは後回しに、昌平君の駒として、犬として動くことを最優先にして来たからだ。

そのせいで、急に一人の時間を渡されると、どうしようもなく時間の使い方に悩んでしまう。

主が生徒たちに指導する軍略について興味はあったのだが、戦に出ることもない自分が軍略について学んだところで何の役にも立たないのは分かっているし、昌平君はこの先も信を戦に出すつもりはないのだと断言していた。

木簡の整理などの雑用も、指示がないとして良いか判断がつかない。

いつも主の指示を待つ従順で厚い忠誠心のせいで、信は自ら行動を起こすことに不慣れなのである。

さすがに食事や睡眠まで許可を得ることはないが、それも指示されるようになれば、迷わず従うだろう。

陽が沈むまでには戻って来ようと考え、信はどこかで時間を潰すことにした。

建物の中に入らずとも、いつまでも軍師学校の近くをうろついていれば、生徒たちが集中出来ないかもしれないし、そうなれば昌平君の執務を増やすことになる。

久しぶりに豹司牙に稽古をつけてもらおうかと思ったのだが、近衛兵団の指揮を執るのに多忙だと聞いていた。

諦めて信は咸陽の城下町を歩いて時間を潰すことに決めた。

(街でも歩くか…)

軍師学校の方を振り返る。

窓から昌平君の姿を見ることは叶わなかったが、主が生徒たちに軍略を指導する姿を一度も見たことがない信は、無性に苛立ちのようなものが胸に込み上げて来るのを感じていた。

他の誰よりも自分が昌平君の傍にいるというのに、未だに彼の知らない一面があることを信は許せなかったのだ。

 

 

城下町での出会い

秦の首府である咸陽ともなれば、その辺の町よりも坐買露店の数は比べ物にならない。着物や食材はもちろん、珍しい品も取り揃えているようで、城下町は多くの人で賑わっていた。

ざっと坐買露店を見渡してみたが、興味を引かれる物はない。
必要なものは買い与えられていたし、だからと言って趣味で収集しているような物もなかった。

(あ…)

並べられている商品の中に簪や櫛を見つけ、信はつい足を止めてしまう。

派手な宝石がついた女物が目立つ隅で、烏木黒檀や欅などの高級樹で作られた男物の簪も並んでいた。

髪の長い主は、常日頃から紐で括ったり、簪で纏めている。当然ながら、女のように見目を気にすることはなく、邪魔にならなければそれで良いのだろう。

「………」

大勢の客越しに、信は品物として並べられている男物の簪を見つめていた。

自分を引き取ってくれた恩を昌平君に返そうと考えるのは初めてのことではない。
しかし、発言の許可を得られなければ感謝の言葉を告げることも出来ないし、だからと言って贈り物をしても感謝の気持ちは伝え切れない。

駒犬として主の身を守り続けることが、信に出来る感謝の方法だった。

(…戻るか)

他の坐買露店を一通り見て回ったが、興味を引かれる物は一つもなかった。

陽が沈むまではまだ時間がある。昌平君が執務に利用している宮廷の一室に行こうと信が踵を返した時だった。

「!」

すれ違い様に大柄な男と肩をぶつけてしまい、その勢いのまま信は尻餅をついてしまった。

「おい、何だァ?このガキ」

上から不機嫌な色に染まった野太い声が降って来る。信は自分とぶつかった男だろうとぼんやり考えながら立ち上がった。

ぶつかったのは、信よりも背丈があり、がっしりとした筋骨の男だった。

「………」

軽く砂埃を払い、さっさとその場を去ろうとするのだが、後ろから肩を掴まれてしまう。

「おい、ガキ。ぶつかったんなら謝れよ」

芋虫のような太い指が肩に食い込む。痛みを覚えて、信が眉根を寄せてその手を振り払った。

ぶつかったのはわざとではないし、大柄な体に弾かれて転んだのはこちらの方だ。

「何黙ってんだッ!とっとと謝れ!」

いつまでも口を噤んでいる信に、男がますます苛立ちを見せていた。男の怒鳴り声を聞き、辺りに重い緊張が走る。

何事だと人々からの視線が集まるのを感じ、信は思わず溜息を飲み込んだ。

(やっぱり来なきゃ良かった)

こういう男と遭遇したことは、過去にも何度かあった。

騒ぎをこれ以上広めないためにも、自分が勝手を起こして主の顔に泥を塗らないためにも、さっさと要求を呑ませるのが早いことも学習していたのだが、主からの発言の許可を得ていないので、信は謝罪の言葉を述べることが出来ない。

しかし、信は自分の身がどうなろうとも、昌平君からの命を守ることを優先する。
主が傍にいない場所でも命に従う信の忠義心は、何よりも厚かった。

信は冷静に男の背後を見渡した。この男の体格なら、そう素早い動きは出来ないだろう。隙を見て人混みの中に逃げ込めば追って来ることもないはずだ。

「このガキッ…!」

いつまでもだんまりを決め込んでいる信に痺れを切らしたのか、男が胸倉を掴もうと腕を伸ばして来た。

 

 

伸びて来た男の手を、寸でのところで信が後ろへ跳んで回避したその時、

「―――あれ?久しぶり。こんなところで何してるの?」

重々しい空気を打ち破るような軽快な声がして、信は背後から両肩を掴まれた。

反射的に振り返ると、桃色の着物に身を包んだ、長い茶髪の人物が視界に飛び込んで来る。

(男…?)

華奢な体つきをしているが、声は間違いなく若い男だ。

体格からして自分と近い年齢であることは分かっていたが、上質な着物を見る限りはどこぞの名家の出だと分かる。

邂逅の挨拶をして来たが、知人にこのような人物がいただろうかと信が呆気に取られていると、桃色の着物に身を包んだその男は信を庇うように前に出た。

こちらを注目している野次馬たちから、話し声が聞こえ、信はつい小首を傾げた。

こんな不穏な空気の最中で、女性たちが黄色い声を上げているのも聞こえる。野次馬たちの会話から蒙恬という名が聞こえ、この青年の名前だろうかと信は彼の後ろ姿を見つめていた。

(蒙、恬…?どこかで聞いたことがある…)

それまで信に謝罪するよう凄んでいた男が、蒙恬という青年を前にすると、途端に慌て出したのが分かった。

「ねえ、知り合い?」

振り返った蒙恬が、男に目配せをする。信は大きく首を横に振った。

「へえ?」

二人が知人でないことを知った蒙恬は楽しそうに声色を明るめた。

「この子、もう連れてって良い?せっかく久しぶりに会えたんだから、早く話したくてさ。…邪魔するなら、こっちも考えがあるけど」

信の肩に腕を回し、親しい関係であることを知らしめるように蒙恬が顔を寄せて来た。

返事をすることもなく、それまで謝罪を要求していた男がまるで別人のように、その場から逃げ出していく。

「………」

何度か瞬きをしてから、ようやく騒ぎが終息したのだと理解した信はほっと安堵した。

平和的解決に導いたことを評価しているのか、野次馬をしていた者たちがなぜか拍手を贈ってきた。女性たちの黄色い声援もますます増えている。

未だ自分の肩に腕を回したままの蒙恬という名の男がくすくすと笑い始めた。

「大丈夫だった?」

心配するように声を掛けられるものの、信は頷くことしか出来ない。

先ほどから記憶の糸を手繰り寄せてみるが、やはりこの男と出会ったことは一度もなかった。名前には聞き覚えがあるのだが、どこで聞いたのかを思い出せない。

「………」

多くの人目が気になり、信はこの場を去ることに決めた。腕の中からすり抜けた信は、早急に屋敷に戻ろうと歩き始める。

「ねえ、もしかして、先生・・の駒犬?」

先生という呼び方に、信は思わず足を止めた。昌平君を先生呼ばわりする者には軍師学校の生徒か卒業生という共通点がある。

昌平君が指導をしている時間帯だというのに、軍師学校ではなくこんな場所にいることから恐らくは卒業生だろう。

彼が自分と年齢が近いことは察していたが、初陣を済ませていてもおかしくはない年齢ということは、将か軍師として活躍しているのかもしれない。

そして、こちらに駒犬かと問うてくることから、先ほどの男を追い払うために彼はわざと自分の友人を装ったのだと気づいた。

騒ぎを広めることなく早急に解決させたことから、頭の回転が早い男なのだろうと考える。

「………」

信は一度止めた足を動かして歩き始めた。
秦国に昌平君を師と慕う者は少なくない。その中に、護衛役として付き添う信の存在を認めようとしない者がいるのも分かっていた。

彼も名家の出の者だろうし、もしかしたら下賤の出である自分という存在を嫌っているのかもしれない。

自分は何を言われても構わないが、その延長で主のことを悪く言われるのは耐えられそうにないし、手を出してしまうかもしれなかった。

だから、蒙恬という男から離れようとしたのは、自分が勝手を起こして昌平君の顔に泥を塗らないための行動である。

「ねえ、返事は?ワンって鳴かないんだ?」

さっさと離れようとするこちらの意志が伝わったのかそうでないのか、蒙恬は信の隣を歩いている。

顔を覗き込んで来る辺り、しつこく付き纏うつもりらしい。足を速めても彼は諦めることなくついて来た。

無言を貫き、眉間に皺を寄せている信の表情に気付いたのか、蒙恬があははと笑う。

「ごめんごめん、自己紹介がまだだったね。俺は蒙恬。…楽華隊の蒙恬って言えば分かる?」

簡素な自己紹介ではあったが、聞き覚えのある言葉が幾つか並んでおり、信は思わず足を止めた。

(…楽華隊の、蒙恬…?…って、こいつ、まさか蒙家の嫡男か?)

ぎょっとした表情を浮かべて振り返った信に、蒙恬が機嫌が良さそうに口角をつり上げた。

信は蒙家との関わりはないのだが、主の友人である蒙武将軍の存在は信の中でも大きく根付いている。

そういえば、蒙武将軍の息子は軍師学校を首席で卒業し、今は楽華隊隊長として活躍しているのだと以前教えられたことがあった。

戦に出ない自分と関わることはないだろうと考えていたが、まさかこんなところで彼と出会うことになるとは思わず、信は険しい表情を浮かべた。

 

中編はこちら

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フォビア(王賁×信←蒙恬)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/高狼城陥落/ヤンデレ/執着攻め/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

信の罪

高狼城の陥落後、城下町で降伏した民たちを虐殺する千人将乱銅とその兵の姿があった。

当時の信はまだ三百人将と弱い立場だったのだが、同士討ちの罪で斬首されることを厭わずにその千人将を斬り捨てた。

信が持つ将としての信念の強さを知った蒙恬は、蒙驁と蒙武の力を利用して、彼の処刑を揉み消したどころか、その千人将と隊の悪行を軍法会議に掛けるまで、裏で密かに事を起こしたのだった。

幸いにも乱銅が命を取り留めたこともあり、信は一晩の投獄だけの処罰となる。しかし、それも蒙恬の活躍あってのことだった。

逆に言えば、蒙恬が信を見放せば、彼の命はなかったということである。

 

 

城下町の一角、罪人が放り込まれる牢獄がある。

壁に開けられた大きな穴に鉄格子を差し込んだだけの簡素な檻だが、人通りの多いこの場所に牢獄を作ったのは見せしめのためだろう。

高狼城が陥落した今では投降した民たちは一か所に集められ、乗り込んだ秦軍は制圧の後処理に追われている。

そのせいで、この簡素な檻の周囲には誰も寄り付かなかった。制圧の後処理に兵を割いているせいか、見張りもついていない。

だからこそ、蒙恬は邪魔が入らない今のうちに信のもとへやって来たのだ。

(いたいた)

その牢獄の中に信はいた。当然ながら敷物はなく、冷たい土の上に胡坐をかいているだけである。

しかし、誰が見ても落ち込んでいると分かるほど、顔に暗い影を差していた。

「や、元気?」

蒙恬はなるべく普段通りを装って、鉄格子の向こうにいる彼に明るい声を掛けた。

「蒙恬…!」

顔を上げた信が、どうしてここにいるのかと言わんばかりに目を丸めている。

「こんな場所で反省してるんだ?」

「ああ…よく分からねえけど、一晩の投獄っていう軽罰で済んだらしい」

一晩の投獄だけで処罰が済むように情報操作を行ったことは告げず、蒙恬は驚いている顔を繕った。

檻の向こうにいる信は、投降した民たちに凌辱を虐げた千人将乱銅を斬り捨てた人物とは思えないほど弱々しく見えた。

彼が乱銅を斬り捨てた時の刃には一切の迷いがなかった。
卑劣な行いをした将を斬り捨てたことには一切の後悔はしていないようだが、同士討ちの罪で自分だけでなく、仲間の命までもを天秤に掛けた行為を悔いているのだろう。

だが、幸いにも乱銅の方が先に剣を抜いていたのを大勢が目撃していたことから、信は一晩の投獄だけの処罰で済んだのだ。

もしも乱銅が剣を抜いていなかったとしても、蒙恬は信を同じだけの処罰にする情報操作を強引に行うつもりだった。

それが可能なのは、祖父と父の威光が秦軍において欠かせないものである何よりの証拠だ。

「飛信隊の兵たちも嘆願してくれたし、何より先に剣を抜いてたのはあの千人将だ。上は正しい判断をしたと思う」

「………」

嘘偽りなく、蒙恬が自分の目で見た事実を告げたのだが、信は腑に落ちない顔をしていた。

「…蒙恬」

「ん?」

信が何か言いたげに唇を戦慄かせ、しかし、言葉にするのを躊躇うように俯いた。

飛信隊には処罰は下りなかったことは信にも伝わっているはずだが、他になにか気になることがあるのだろうか。

「どうしたの」

穏やかな声色で促すと、信は俯きがちに口を開いた。

「…王賁、は…?」

二人きりでなければ聞き逃してしまいそうなほど、小さな声だった。

まるでこちらの顔色を窺うように見上げて来る信を見て、蒙恬は小さく肩を竦める。
信は王賁を恐れているのだ。それは普段の態度から見て分かっていた。

 

 

六大将軍である王騎と摎の養子として引き取られた下僕出身の彼だが、馬陽の戦いで二人を失ってからは、王家の中でも肩身の狭い想いをしているらしい。

もはや後ろ盾もないことから、王家の中では目の敵にされているのだというのを噂で聞いていた。

王賁が下僕出身である信を気に食わないでいるのは今に始まったことではないのだが、それでもまだ王騎が生きていた頃は、少なくとも今よりは仲が良く見えた。

それまでは呼び捨てていたというのに、信が「王賁様」と呼ぶようになったのもその頃からだった。

お前のような下賤の者が呼び捨て良い名ではないと、王賁の側近から厳しい言葉を突き付けられていたことはこれまでも何度かあった。

主に似て頭の固い側近たちの小言を聞き流していた信だったのに、後ろ盾を失くしたことで従わざるを得なくなったのだろう。

しかし、王騎と摎の養子として迎えられた手前、信も自分の意志一つで王家の名を捨てられないのだろう。

それを裏付けるように、王騎が討たれてから、信は目に見えて元気を失い、以前のように笑うことがなくなったように思う。

だが、大将軍になることこそ、亡き両親の意志を継ぐことだと信じている彼は、その執着ともいえる強い信念だけで生き抜いている。

信の揺るがない信念を、もともと蒙恬は気に入っていたし、今回の一件でますます好きになっていた。

もしも信が王家の人間ではなかったのなら、自分の傍に置いておきたいと思うほどに。

「…別に気にしてないみたいだったよ」

「そ、そっか」

此度の信の振る舞いを王賁は気に留めていないと聞き、信は安堵したような、不安を拭い切れていないような複雑な笑顔を浮かべた。

今回の飛信隊の一件は、秦軍の中でも大いに広まった。自分の軽率な行動が、王家の顔に泥を塗ったのではないかという不安があったに違いない。

信が軽罰で済んだことに違和感を覚え、王賁はすぐに蒙恬の仕業だと見抜いた。

王賁は蒙恬と信の行動を咎めることはしなかったが、彼の側近たちは信が斬首されることを期待しているようだった。

信が王家に相応しくない人間だと思っているのは王賁だけではないらしい。
しかし、此度の件に関して何も言わないのは、王賁も信をまだ心のどこかで気に掛けている証なのかもしれない。

もしも王賁が信のことを本当に邪魔だと思っているのなら、蒙恬と同じように父の威光を使って、確実に死刑にしていただろう。

 

憂い

「…っくしゅん!」

信がくしゃみをしたので、蒙恬ははっと我に返った。

「大丈夫?」

心配するように鉄格子の間から手を伸ばした。触れようとしたのは無意識の動作で、純粋に友人を心配してのことだった。

「ッ!」

肩に触れた途端、まるで触るなと言わんばかりに振り払われる。乾いた音が二人の間を突き抜け、その後で沈黙が横たわった。

自分の手を振り払った時の信が、まるで化け物でも見るかのような恐怖と怯えの色が混じった瞳をしていたのを、蒙恬は見逃さなかった。

「あ…」

青ざめた信が言葉を探している。王賁の話をしていたから、怯えさせてしまったのだろうか。

ぼんやりとそんなことを考えながら、蒙恬は気にしていないことを教えてやるために優しく笑んだ。

「今夜はそこで過ごすんだろ?風邪引くなよ」

夜は冷えるからと、蒙恬は着ていた羽織を脱いで、鉄格子の間から差し出した。

「………」

差し出された赤い羽織りと蒙恬を交互に見るものの、信が受け取る気配を見せなかったので、蒙恬は反対の手を鉄格子の間に差し込んだ。

「信、こっち来て」

声を掛けると、信は強張らせたまま蒙恬に近づく。手を振り払ったことに罪悪感を覚えているのか、抵抗する素振りは見せなかった。

その場に膝をつき、鉄格子と信の体を抱き込むようにして、広げた羽織を信の肩に掛けてやる。

城を陥落したといっても、まだ高狼の全てが落ちたわけではない。明日からもやることは山積みなのだ。

飛信隊の副官たちも信に劣らぬ実力を持っていることは噂で聞いていたが、信自身も楽華隊と玉鳳隊に並ぶくらいの武功を挙げなくてはと焦燥感を覚えていることだろう。

羽織を掛けてやった時にも、信の身体が震えていることには気づいていたが、蒙恬は指摘しなかった。

それが寒さによる震えでなかったことも分かっていたし、先ほど自分の手を振り払った信の瞳を思い出せば、理由を訊くのは野暮なことだと分かる。

「じゃあ、おやすみ」

蒙恬は信の返事を待たずに背を向けて、その場を後にした。

 

 

憂い その二

翌日も高狼を落とすため、秦軍は陥落させた高狼城を拠点とし、早朝から行動を起こした。

楽華隊の兵たちを動かす前に、蒙恬は信の様子を見るためにあの牢獄へと向かったのだが、そこに信の姿はなかった。

(もう出されたのか?)

見張りの兵は相変わらずついておらず、いつ彼が出されたのかを知る者はいなかった。

今は飛信隊のもとにいるのだろうかと思い、蒙恬は動き始めた大勢の軍や隊を掻き分けて、信がいるであろう飛信隊を探すことにした。

しかし、飛信隊のもとにも信はいらず、兵たちから話を聞けば、まだ戻って来ていないのだという。

(一体どこに…)

馬を走らせながら、蒙恬は辺りを見渡す。
ちょうど出立の準備を整えていた玉鳳隊の姿を見つけ、先頭にいる王賁に声を掛けようと思った時、彼のすぐ傍に信の姿を見つけた。

「王賁、信」

大きく手を振りながら二人に声を掛けると、何やら重い空気が辺りに漂っていることを蒙恬はいち早く察した。

蒙恬に気付いた王賁は顔を上げ、煩わしそうな視線を向けて来る。一方で、信は俯いたままでいた。

昨夜、牢獄にいる時と同じ暗い表情を浮かべているあたり、もしかしたら王賁から千人将を斬った行動を咎められていたのかもしれない。

昨夜は口を出すことも、興味を示すこともなかったのに、今さら何のつもりだろうか。

それまで二人で何か話していたようだが、王賁は何も言わずに手綱を握り直し、馬を走らせて行ってしまう。玉鳳隊もその後に続いた。

「………」

残された信は王賁率いる玉鳳隊の姿が見えなくなった後でも、俯いたまま顔を上げようとしなかった。

「…信?」

馬から降りて蒙恬が声を掛ける。今になって蒙恬が来たことに気付いたように、信は驚いて顔を上げた。

「あ、蒙恬…」

ぎこちなく笑みを浮かべた信の頬が腫れ上がっていることに気付き、蒙恬は思わず眉根を寄せた。

頬が腫れているだけではなく、唇も切れている。昨夜会った時にはそんな傷はなかったはずだ。殴られたことによって出来た傷だと、蒙恬はすぐに見抜いた。

「…王賁にいじめられたの?それとも玉鳳隊の誰か?」

なるべく怯えさせないよう、穏やかな声色で問うと、信は静かに首を横に振った。

「違ぇよ。牢から出されたのが嬉しくて、転んだんだよ」

誰が見てもすぐに作りものだと見抜かれるような下手くそな笑顔を浮かべる。

もしかしたら信が斬り捨てた乱銅千人将の兵の報復を受けたのだと思ったが、自分の不注意のせいにしたことから、恐らく王賁か玉鳳隊にやられたのだと蒙恬はすぐに察した。

同時に、これが信の立場なのだと理解した。

「そうだ。これ…悪いな。汚しちまった…」

脇に抱えていたのは、昨夜、蒙恬が風邪を引かぬようにと貸した赤い羽織りだった。
土埃が付いているが、蒙恬は少しも気にしていないと首を振る。

羽織を受け取りながら、昨夜のように身体が震えていることに気が付いた。もう王賁も、彼が率いる玉鳳隊の姿はないというのに、まだ怯えているらしい。

昨夜も同じように怯えていた信のことを思い出すと、どうしても放っておくことができない。

信のような下僕の出である者など数え切れないほどいるというのに、どうしてこんなにもこの男のことが気になるのだろう。

蒙恬は、この感情を単なる友への心配だと思っていた。
しかし、気づくと信のことを目で追っている自分がいることも自覚はしていた。

 

 

違和感

それから数年の月日が流れ、王賁と蒙恬は五千人将から将軍へと昇格となった。

信も五千人将の座に就いてはいるものの、此度の戦では武功が挙げられず、将軍昇格をあと一歩のところで逃してしまったのだった。

しかし、信や飛信隊の実力は高く評価をされているし、次の戦で武功を挙げれば自分たちと同じように将軍昇格となるだろう。そう思っているのは蒙恬だけではないはずだ。

信が早く将軍の座に就くことを、蒙恬は心の中で常に願っていた。

友人であり、好敵手として、同じ舞台に立ちたいというのもあるが、王賁の下に配属されるのが不憫でならないという想いが特に強かった。

信が将軍になれば、王家から真っ当な処遇を受けられるのではないだろうか。

王賁が信に接する態度は相変わらずだったが、元下僕出身の立場から五千人将にまで上り詰めた信の実力は、今や中華全土に轟いている。

名家の威光を捨て切れない頭の固い連中にも、信の努力は少しずつ認められているように思えた。

信自身は王賁や彼の側近たちに恨みを抱いているような様子を見せておらず、しかし、彼らを前にして怯えを見せるのも変わらなかった。

もしも信が将軍の座に就き、王賁と対等の立場になったのならば、名家のしがらみから解放されるかもしれない。

いつからか、蒙恬はその手助けをしたいと思うようになっていた。

この時はまだ、信が大切な友人だからこそ、何か力になってやりたいという親切心からだろうとしか思わなかった。

 

次に行われた戦は楚国の侵攻を阻止する防衛戦だった。

飛信隊は蒙恬率いる楽華軍に配属されることが決まり、その報せを聞いた蒙恬は人知れず安堵した。

王賁が傍にいない時の信は、どこか安らいでいるような顔をしている。王家のしがらみを意識しなくて良いからだろう。

楚から領地を守り切り、防衛の成功の報せを届けるために、秦軍が咸陽へと戻る道中で、蒙恬はある事実・・・・を知ることになる。

 

 

咸陽へ帰還中の野営で、蒙恬は此度の戦で武功を挙げた王賁に声を掛けようと思い、玉鳳軍の野営地に訪れた。

無事に勝利を収めたこともあり、どの野営地からも安堵と喜びの声が上がっている。
此度の武功を挙げたのは王賁だけではない。

武功の数だけで言うならば、信の方が上だ。此度の戦でも、彼は数多くの敵将を討ち取った。

蒙恬が軍略を授けたことも、信が武功を挙げるのに大きく影響したと言っても過言ではない。

しかし、信の将軍昇格を望んでいる蒙恬は、その軍略のことは告げず、全て信の手柄として与えようと考えていた。

王賁がいる天幕を見つけ、蒙恬は馬を預けると、鼻歌交じりに向かった。

あの仏頂面が崩れることはないと蒙恬は昔から知っていたが、いつか崩してやりたいと思うと、悪戯心でちょっかいを出したくなるのだ。

寛いでいるところに、自分が急に現れたら驚くだろう。口元を緩めながら天幕に辿り着いた時だった。

ちょうど天幕から誰かが出て来る。副官だろうか。

「……信?」

王賁の天幕から出て来たのは信だった。

飛信隊の持ち場は離れているはずなのに、どうして彼がここにいるのだろう。

疑問を抱いたが、そういえば今までもこのようなことは幾度かあった。持ち場が違っても、王賁が呼びつけているのだろう。

(嫌ってるなら放っておけばいいのに)

下僕出身であり、今は後ろ盾のない信を毛嫌いしているはずの王賁が執拗に彼を傍に置く理由が蒙恬には未だに理解出来なかった。

飛信隊の実力は楽華隊と玉鳳隊に並ぶほど、着実に堅実なものとなって来ている。そのことが気に食わないのだろうか。

信の体にある痣や傷は、此度の戦で受けたものではないとすぐに分かった。

戦を終えた後、信と勝利の喜びを分かち合った時にはあのような痣や傷はなかったはずだ。
誰かからの暴力によって受けたものだとすぐに分かる。

しかし、王家の嫡男という自尊心の高い彼が、一人の男を暴力で押さえるだなんて安い行動をしているとは思えなかった。

いつも信が王賁に怯えているのが、本当に暴力によるものなのかも蒙恬は分からなかった。

あくまで暴行を受けているというのは蒙恬の推察であり、実際にその現場を目にした訳ではないからだ。

天幕から出て来た信はふらふらとおぼつかない足取りで歩いている。
玉鳳隊の兵たちはそんな彼には一瞥もくれず、まるで信の存在がそこにないものとして扱っていた。

信自身も周りのことを一切気にしておらず、ただその場から離れようとしているだけで、心ここにあらずといった様子だった。

こんな彼は今まで一度も見たことがない。

「信」

蒙恬は反射的に信の腕を掴んでいた。

 

 

違和感 その二

掴んだ腕は、高狼城を陥落させたあの夜のように振り払われることはなかったが、一向に視線が合うこともなかった。

「信…信ってばっ!」

何度も呼び掛けるが、信は蒙恬に気付いていないようだった。

虚ろな瞳で薄く口を開けている彼は、まるで抜け殻のようにも見える。

「信ッ!」

耐え兼ねた蒙恬は視界に自分の姿が映り込むように彼の正面に立つと、両肩を掴んで、無理やり目線を合わせた。

焦点の合っていない信の瞳に、強張った表情を浮かべている蒙恬の姿が映り込むが、彼はそれが蒙恬だと認識はしていないようだった。

「喧しい。何事だ」

信に続いて天幕から出て来たのは王賁だ。蒙恬の声を聞きつけてやって来たのだろう。

王賁の声に反応するように、信の肩が大きく竦み上がったのを蒙恬は見逃さなかった。

「も、蒙恬…?」

ここに来てようやく蒙恬の存在に気付いたように、信が怯えた目で見上げて来る。蒙恬は安心させるように黙って口角をつり上げた。

それから信を自分の背後に隠すようにして、蒙恬は王賁の前に立つ。

「信に何をした?」

「お前には関係ないことだ」

教えるつもりはないと王賁は相変わらず鋭い目つきを向けて来る。負けじと蒙恬も睨み返した。

「飛信隊は今回、俺の下に配属されてる。関係ないのはそっちだろ」

苛立った口調は喧嘩腰であるものの、告げたのは事実だ。
だが、それを気にする様子もなく、王賁は何も言わずにその場を去ろうと前に出た。

「良い身分に昇格したものだな」

すれ違いざまに、彼は信に低い声で皮肉としか受け取れない言葉を囁いた。

「………」

その場に残された信は、俯いたまま顔を上げない。

「…信」

蒙恬が呼び掛けると、信は弾かれたように顔を上げた。まだその顔は青ざめており、身体は小刻みに震えている。

王賁に対する怯えた態度が以前よりも増しているような気がして、蒙恬の心に不安が重く圧し掛かった。

このままではいずれ、王賁に心を壊されてしまうのではないだろうか。憂慮に堪えない。

これから先も王家から脱することは叶わなくとも、王賁と離れさせなくてはならないと蒙恬は思った。

此度の武功で信が将軍昇格となれば、少なくと玉鳳軍の下につくことはなくなるだろう。

意図的に信の昇格を邪魔するような動きがなければ良いが、過去にそういった情報操作は一度もなかった。

信の昇格が気に食わないなら、彼が五千人将になるまで何もしないはずがない。

一度も昇格の邪魔をせずにいるのは信の実力を認めているからなのか、それとも情報操作をする行為自体が王家という名家に相応しくない行為だからなのか。

(…きっと後者だろうな)

名家の嫡男という共通点はあっても、王賁は蒙恬と正反対の性格であり、王賁自身が王家嫡男であることに強い誇りを持っている。

自尊心も高い彼が、情報操作など汚い真似をして相手を蹴落とす真似が出来ないのは安易に予想が出来た。

だからこそ、こうして信を呼びつけては、信自身が将の座を退くように何か事を起こしているに違いない。

過程がどうであれ、信が自ら将の座を退けば、名家の嫡男が手を下したとは誰も思わないからだ。

きっと信が昇格をする度に、王賁の加虐が強まっていたに違いない。
そうでなければ、心根の強い信がこんなにも怯えることはなかっただろう。

「…戻ろうか」

自分たちの野営地への帰還を促すと、信は小さく頷いた。
未だ震えている彼の肩を抱くと、信がひゅ、と笛を吹き間違ったような音を唇から洩らす。

「信ッ!?」

その場に崩れ落ちるようにして膝をつき、信は胃液を吐き出した。

吐いても吐いても、吐くものがなくなっても、信は嘔吐えずき続けている。

口元を唾液と胃液で汚しながら、瞳からはとめどなく涙を流していることに気付き、蒙恬はその痛ましい姿にしばし言葉を失った。

もう彼の心は壊れる一歩手前まで追いつめられているのだと、すぐに理解出来た。

「…一人で、戻る…」

王賁の天幕から出て来た時と同様に、立ち上がった信はおぼつかない足取りで行ってしまう。

すぐに追い掛けて彼の腕を掴むことは出来たはずなのに、蒙恬はその場から動けずにいた。

 

 

伝令

先に野営地に戻って信のことを待っていたが、彼は一向に姿を現さない。

何かあったのだろうかと不安が募る中、此度の戦に出陣していた桓騎軍から、蒙恬のもとに伝令が来た。

「蒙恬はいるか?」

馬上の男は軍で支給される鎧は見に纏っておらず、目の周りに刺青が刻まれていた。その外見から、元野盗である桓騎軍の兵だと分かった。

「お頭からの伝令だ」

(なんで桓騎から伝令が…?)

あとは帰還するだけだというのに、伝令を寄越すとは何かあったとしか思えない。

しかも此度の戦では持ち場が異なる桓騎からということで、伝令の内容を聞く前から嫌な予感がしていた。

他言無用だと指示があり、二人は他の兵たちの目をはばかるように場所を移動した。
天幕に通し、生唾を一つ飲み込んでから伝令を聞く。

桓騎からの伝令を聞き、蒙恬の頭の中は真っ白に塗り潰された。

「信、が…?」

もしかしたら野営地に戻って来ない彼が関係しているのではないかという予感は的中してしまった。

同士討ちは禁忌とされているにも関わらず、信は桓騎軍の兵たちを殺したのだという。

「そんな…なんで…」

どうして先ほど、無理やりにでも彼を引き留めなかったのだろうと後悔の念に駆られた。

玉鳳軍の野営地を出た信は、恐らく目的もなく歩いていたのだろう。ただひたすら、王賁を意識させる場所から離れたかったのかもしれない。

桓騎軍の野営地の辿り着いた信は、そこで娼婦を手籠めにしている兵たちの姿を目撃する。

元野盗の集団で、素行の悪さは噂で聞いていたが、戦にも娼婦を連れ込んでいたらしい。
凌辱の場を見たことが起因となったのか、信はいきなり剣を振るい始め、その場にいた兵と娼婦もろとも皆殺しにしたというのだ。

信の行いはすぐに軍法会議に掛けられることだろう。

同士討ちの罪は重く、さらには戦と関係のない者を殺したということで、今回の武功を挙げたことによる将軍昇格が取り消しになるどころか、その地位の剥奪、最悪の場合は斬首を言い渡されるかもしれない。

「信…!」

伝令からの報告を受けた蒙恬はすぐに野営地を飛び出して、信の身柄を捕縛している桓騎軍の野営地へと向かった。

副官や護衛に声を掛けず、単独で馬を走らせたのは、これ以上事態を大きくさせないためだ。

本来ならば勝利の喜びを噛み締めながら帰路を辿っている中で、まさかこんなことになるとは思わなかった。

これまでも残虐な行いをして来た桓騎軍ならば、軍法会議に掛けられるのを待たずに信の首を撥ねるはずだ。

しかし、それをしなかったのは、蒙驁に恩のある桓騎の判断に違いない。

自分が蒙驁の孫でなければ、此度の戦で飛信隊が楽華軍の下についていなければ、こちらに伝令を出すこともなく、信をとことん甚振ってから殺していただろう。

だが、命を保証されたとして五体満足である可能性は低い。

もしかしたら信が軍法会議に掛けられて、厳しい処罰を受けることを前提とした上で、手か足の一本は既に落とされているかもしれない。

(無事でいてくれ…)

手綱を握る手が動揺のあまり、震えていた。

 

 

捕虜

桓騎軍の野営地に来ると、兵たちから鋭い視線を向けられた。

きっと初めて彼らと遭遇した者たちならば、竦み上がりそうになるほどの威圧感を秘めている。

「信を迎えに来た」

しかし、蒙恬はそんな彼らを前にしても怯える素振りは微塵も見せなかった。

信が無事なのかという不安でいっぱいになっている心では、彼らを恐ろしいと思う感じるの余裕もない。

ただ、信の安否を心配していることを表情に出すこともしない。

桓騎は信と同じで下賤の出でありながら、頭の切れる男だ。
蒙驁の副官として支えてくれたことには感謝しているが、普段の素行は褒められるものではない。そんな男に、動揺を見抜かれるのは癪だった。

信がいる場所の案内をする兵は一人もおらず、蒙恬は一人で桓騎軍の野営地を回って信の姿を探していた。檻の中にでも閉じ込められているのだろうか。

「…!」

紫の鎧に身を包んでいる桓騎の姿があり、そして彼の近くで座り込んでいる信を見つける。

青い着物が真っ赤に染まっているのが遠目でも分かり、蒙恬は全身から血の気を引かせた。まさかすでに手か足を落とされたのだろうか。

「信ッ!」

駆け寄ると、気怠そうに桓騎がこちらを見た。彼は椅子に腰を下ろしており、信は地べたに座り込んでいる。

信の体は確かに血塗れではあったが、縄で拘束されているだけで、欠けている部分はない。全て返り血なのだと分かり、蒙恬は安堵した。

「…信?」

呼び掛けるが、蒙恬が迎えに来たことにも気づいていないようだった。王賁の天幕から出て来た時と同じだ。虚ろな瞳で俯いている。

信の縄を解こうとしても、桓騎は何も話さなかった。

機嫌が悪いようにも見えないし、仲間を殺された怒りを信に向ける様子もない。きっと信にも蒙恬にも、殺された仲間たちにさえ興味がないのだろう。

「…信を殺さないでいてくれたこと、感謝する」

供手礼をしながら礼を告げても、桓騎は静かに酒杯を口を運ぶばかりだった。

さっさと失せろとでも言いたげな空気を察し、蒙恬は信の肩を抱きながらその体を立ち上がらせる。

「…そいつ」

「え?」

桓騎が口を開いたので、蒙恬は驚いて聞き返した。ようやく目が合い、存在を認知されたような気がする。

「王翦のガキと面白ェことをしてるな。今度俺にも貸せよ」

まるで物のように扱う言葉だった。蒙恬のこめかみに鋭いものが走り、桓騎を睨みつける。
しかし、桓騎はその睨みにも挑発的な笑みを返し、蒙恬の怒りを煽った。

これ以上、彼の挑発に乗れば殴りかかってしまいそうだ。蒙恬は自分を制すると、何も答えずにその場を後にする。

桓騎軍の兵たちには手を出さないように指示を出していたのか、兵たちは悔しそうな視線を向けて来るものの、蒙恬と信の前に立ちはだかる者は一人もいなかった。

 

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隠蔽

血塗れの信を抱えて戻って来た蒙恬に、楽華軍の兵たちは何事かとどよめいた。

桓騎が寄越した伝令の内容を知っているのは蒙恬一人だけである。信が同士討ちをした話を広めようとしないのは、桓騎の計らいだろう。

もしかしたら軍には黙っておいてやるという意図があるのかもしれない。あとは蒙恬が伝令の内容を広めずに情報操作を行えば、信は処罰を免れる。

人目をはばかるように自分の天幕に連れて行くと、蒙恬は湯の準備を頼んだ。
着物は着替えればなんとでもなるが、肌に付着した血は洗い流さねばならない。

「………」

信は薄く目を開けているものの、起きているのか眠っているのか分からなかった。もしかしたら、ずっとこのままなのではないだろうかという不安を覚える。

「信…」

名前を呼びながら、蒙恬は湯で絞った布で顔の血を拭ってやる。

もちろん他の者に頼むことは出来たのだが、同士討ちの話を広めないためにも、蒙恬自ら返り血を拭ってやっていた。

殺された兵と娼婦は何人いたのだろう。一人や二人ではないことは、この返り血の量を見れば明らかだった。

捕虜や女子供を殺さず、弱い命を守ることを信念として掲げていた信が、どうしてそんな真似をしたのだろう。

娼婦を手籠めにしていたという桓騎軍の兵ならともかく、その娼婦まで斬り捨てたことを、蒙恬はどうしても信じられなかったのだ。

だが、桓騎に嘘を吐いている様子はなかった。
自分の利になることには目ざとい男なのは蒙恬も知っていたが、信の同士討ちの事実を偽ったところで桓騎の利になることなど何もないはずだ。

それどころか、一人の将が同士討ちの罪で斬首になろうが、興味など示さないと思っていた。

信の同士討ちの罪を隠蔽しようとする桓騎の意図が蒙恬には分からなかった。

後で口止めに協力したことから何か強請られるのかもしれないなと苦笑を浮かべながら、蒙恬は信の返り血を拭い続ける。

心の中で詫びを入れ、蒙恬は帯を解いた。真っ赤に汚れた着物を脱がせるために襟合わせを押し開くと、包帯に包まれた胸が覗く。

此度の戦で致命傷となる傷は負っていなかったと思うのだが、これだけ頑丈に巻かれているということは深い傷を負ったに違いない。

着物と同様に、その包帯も真っ赤に染まっていた。着物の裏地にまで沁み込むほど、大量の返り血を浴びたことが分かる。

結び目がやや緩んでいるが、これだけ汚れているのなら着物だけではなく、胸の包帯も替えた方が良さそうだ。

「…え?」

結び目を解き、包帯を外した時に、蒙恬はある違和感・・・に気が付いた。

 

中編はこちら

The post フォビア(王賁×信←蒙恬)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

毒を喰らわば骨の髄まで(桓騎×信←王翦)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/王翦×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は毒酒で乾杯をの番外編です。

 

恋人との晩酌

その日、信は久しぶりに桓騎の屋敷で鴆酒ちんしゅを堪能していた。

桓騎が贔屓にしている酒蔵には鴆者鴆酒を作る者がいる。毒鳥である鴆の羽根を浸して作る毒酒は、本来なら暗殺道具として使用される物だ。

しかし、桓騎と信がその毒酒を堪能できるのは、二人とも毒が効かぬ特殊な体質だからである。

「…信」

三杯目の鴆酒を飲み終えた桓騎は杯を机に置くと、真剣な眼差しを向けて来た。

「明日はお前も来い」

「ん?どこに?」

恋人からの誘いに、信が小首を傾げる。

「王翦のところだ」

桓騎と同じ蒙驁の副官を務めていた将軍の名前が出たことに、信は瞠目した。

王一族の中でも本家に分類されている彼は、信と僅かに繋がりがある。

信は、王騎の養子だ。王騎は分家の生まれであるが、天下の大将軍としてその名を中華全土に轟かせていた。
王騎が討たれた後、信の立場は王家の中でかなり弱いものとなっていた。

もとより、下僕出身である信を養子として引き取ると決めた時も大いに反対を受けたのだと聞く。

もちろん王騎と摎の口からではないのだが、王家の集まりがある時に信は冷たい視線を向けられていることを幼心に察していた。

下僕出身である信が王家の一員となったことで、名家に泥を塗ったと陰口をたたかれていたことも知っていた。

それを面と向かって信に言って来る男といえば、王翦の息子である王賁だ。

しかし、信がひたむきに将軍となる努力をしていたことや、自分より先に将軍昇格をした実績からか、彼は下僕出身であることに関しては一切口を出さなくなった。

それでも未だ信が下賤の出であることを疎ましく思っている家臣たちは大勢いる。

(王翦か…)

王翦は野心家で、戦の才さえあれば、誰であろうと手元に置こうとする男であった。

そのせいか、特に家の生まれや身分は気にしないようで、王家の中でも、彼だけは信の生まれについて口を出したことがなかった。

そもそも興味がないのだろうと思っていた。

「あいつ、お前のことを気に入ってるだろ」

頬杖をついた桓騎が低い声で呟いた。

初陣を済ませてから多くの武功を重ね、信が着実に将軍昇格へと近づいていた頃に、王翦から突然「自分の副官になれ」と声を掛けられたことを思い出した。

「…そういや、副官になれって言われたことはある。断ったけどな」

普段から仮面で顔を覆い、滅多に表情を変えないので、王翦は何を考えているのかよく分からない男だと思う。

しかし、自分の軍に迎え入れるのは戦の才がある者ばかりだという噂は知っており、副官の誘いを受けた時、信は彼に実力を認められたような気がして嬉しくなった。

副官の誘いを断った理由としては、野心家である彼がいつか嬴政の玉座を狙い、刃を向けるのではないかと危惧したからだ。

だからといって、信は王翦のことを嫌いにはなれなかった。むしろ純粋に尊敬していると言ってもいい。

もしも王翦が野心家でなく、嬴政と秦国に忠義を尽くす将だったならば、迷うことなく彼の副官になっていたかもしれない。

 

恋人との晩酌 その二

わざとらしく桓騎が溜息を吐き出したので、なぜ不機嫌になるのだろうと小首を傾げる。

「…俺が見てない所で、お前に手ぇ出すつもりだろうからな。先に釘を刺しておく・・・・・・・・・

「え?だから、副官の話は断ったって…」

桓騎の目つきが鋭くなったので、信は慌てて口を閉ざす。どうして不機嫌になるのか、信には理由が分からなかった。

ぐいと杯を煽り、鴆酒を飲み干した桓騎が酒瓶が空になっていることに気付く。

普段は二人で一本を空けるのだが、どうやら桓騎はまだ飲み足りないようだった。立ち上がると、彼は奥に並べている戸棚から違う酒を物色していた。

「たしか鰭酒ひれしゅがあったな」

「鰭酒ぅ?」

信があからさまに顔をしかめた。

鰭酒とはその名の通り、魚の鰭を酒に浸して旨味を染み込ませた酒のことを指す。
桓騎が取り寄せてくれる幾つもの毒酒を嗜んでいた信だが、毒魚で作った鰭酒は好きになれなかった。

常人には確かめようがないことだが、実は毒酒にも美味いと不味いが存在するのである。
そして鰭酒は信の中で後者に分類されていた。

鰭酒の作り方は複雑ではない。干した鰭に軽く焦げ目をつけ、酒に漬けて数日寝かせれば完成する。

しかし、魚の種類によっては鰭が薄く、しっかりと焦げ目をつけることが出来ないものもあるらしい。

その下処理が上手くいかないと、魚独特の生臭さが残ってしまい、それが酒の味にも影響する。

基本的に好き嫌いのない信だが、初めて飲んだ鰭酒に生臭さが残っていたこともあって、その匂いが嫌な記憶として刻まれてしまった。

しっかりと下処理がされた鰭酒を飲んだこともある。そちらは生臭さはなく、確かに美味いと思ったのだが、初めて飲んだ時の嫌な記憶が根深く残っているせいか、今でも好きになることが出来ない。

魚の毒は強力であり、火を通しても、長時間酒に浸けておいても、毒の成分が少しも薄れることがない。そのため、他の毒酒よりも強いのだそうだ。

それを裏付けるように、鰭酒は鴆酒と違って、そんなに量を飲まなくても、毒の副作用――まるで媚薬を飲まされた時のように性欲の増強と感度が上昇する――が出るのも早い。

常人が飲めば、口に含んだだけで即死する代物であるのはすぐに分かった。

(うーん…臭いさえなければなあ…)

下処理がしっかりされていない鰭酒でも、独特な生臭さ慣れてしまえば、喉を伝う強い痺れにも旨味を感じることが出来るのかもしれない。

鰭酒が入っている酒瓶を手に戻って来た桓騎が杯になみなみと中身を注ぐ。彼は信と違い、毒酒の中でも特に鰭酒を好んで飲んでいた。

彼は信よりも鼻が利く・・・・のに、生臭さは気にも留めていない。
それどころか、鰭酒を気に入るあまり、桓騎は自ら鰭酒を浸けているらしい。

「うー…」

桓騎の杯から生臭さを感じないよう、信は指で自らの鼻を摘まんだ。

「まだ苦手か」

「う…」

鼻を摘まんだまま頷くと、桓騎が笑った。一度苦手意識が芽生えてしまうと、なかなか改善することが出来ないものである。

信の反応を楽しみながら、桓騎は鰭酒を飲み始めた。

桓騎が自分と同じように毒への耐性を持っていると知るまでは、信は宴の時くらいしか酒を飲まなかった。一般的に出回らない毒酒など、飲んだことすらなかったのだ。

それが今では彼の晩酌に付き合わされることが日常となっており、彼が取り寄せた珍しい毒物も頻繁に口にしている。

酒好きであり、その中でも毒酒に目がない桓騎が豪快に杯を仰ぐ姿を見ると、つられて信も飲み過ぎてしまう。

その延長で、毒を摂取し過ぎると、まるで媚薬を飲まされたかのように性欲と感度が増幅する副作用が現れることも分かったのだが…。

桓騎との出会いがなければ、毒酒の味も、男と肌を重ねる温もりも、何もかもが分からずじまいだっただろう。

「っ…」

そこまで考えて、信は先日の情事を思い出し、つい俯いてしまった。顔が燃えるように熱くなる。

 

 

この前の情事も、翌日に足腰が立たなくなってしまうほど激しいものだった。

桓騎と初めて身を繋げた時に感じた破瓜の痛みなど、もう思い出せそうにない。
まだ桓騎と今のような関係を築いていなかった頃、嬴政から極秘任務として桓騎軍の素行調査を頼まれたことがあった。

その時はお互いに将としての面識しかなかったのだが、素行調査をするにあたって、彼は酒と女が好きであるという噂を聞いていた。

戦場にも娼婦を連れ込むくらい、女とそういうこと・・・・・・をするのが好きなのだというのを聞いて、嫌悪感を抱いたことはよく覚えている。

それが、信と今の関係になってからは、まるで今までのことが嘘だったかのように娼婦を連れ込まなくなったらしい。

桓騎軍の副官である雷土が意味ありげな笑みを浮かべながら、そのことを教えてくれた時、信はどういう反応をすれば良いか分からなかった。

信は未だ桓騎に尋ねたことはない。彼のことだから「必要ないからだ」とだけ簡潔に答えるのが目に見えていたからである。

どうして娼婦を相手にしなくなったのか、その理由を考えた時に、桓騎に気に入られている自覚があった。

以前、嬴政の妻であり、后の向が後宮で毒殺されかけた時、信は勅令で彼女の毒見役として護衛についたことがある。

その時、桓騎は宦官に扮して、ずっと信のことを傍で見守ってくれていたのだ。
本来なら王族か宦官か侍女しか入れない後宮に出入りすることは本来は許されないことである。恐らく嬴政も気づいてはいるものの、見なかったふりをしているらしい。

桓騎が宦官に扮して後宮に潜入していたことは、公にはなっていないが、それを知っている彼の側近たちは大層驚いていた。

一人の女のために、自らが動き出す桓騎の姿など一度も見たことがないのだという。

信には他の女と違うところがあり、桓騎はきっとそれを好んでいるのだと彼女は考えていた。

他の女ならば、男の子種を植えられれば芽が出るものだ。しかし、信は違う。
どれだけその胎に子種を植えられようとも、毒に侵された土では、芽を生やすことなどない。

毒の耐性を持つと引き換えに、女としての生殖機能を失った自分の体が、桓騎にとって都合が良い・・・・・のだろうと信は思っていた。

しかし、あの後宮での騒動で、そうではないのだと桓騎自身に教え込まれた。…だが、信は彼の想いを今でも素直に受け入れることが出来ずにいる。

もちろん今のように酒を飲み交わしたり、今まで通り体を重ねることだってあるのだが、信は本当に自分で良いのだろうかと、訳もなく不安に駆られるようになっていた。

自分を養子として引き取ってくれた王騎と摎のような大将軍を目指し始めた頃から、女としての幸せは手放したつもりだった。

子を孕むことも出来ない、将として生きる道しか知らない女が、これからも桓騎の隣にいても良いのだろうか。

もちろんそれを桓騎に問い掛けたことはない。そんな不安を零したところで、彼を困らせるだけなのは目に見えていた。

「………、………」

だから信はずっとその不安を胸に秘めておくことに決めたのだが、それでも時折口を衝いてしまいそうになる。お前は本当に自分で良いのかと。

「…信?」

急に口を閉ざして俯いた信に、桓騎が不思議そうに首を傾げる。

「嫌だったか」

鰭酒の生臭さに反応したのかと勘違いしたようだ。
何でもないと慌てて笑みを繕い、信はそろそろ屋敷に戻ろうと立ち上がった。

「おい、どこ行く」

腕を掴まれ、桓騎が眉根を寄せて見つめて来る。
酒が入っている彼に「帰る」と言って、素直に帰してもらった記憶がない信は、咄嗟に厠だと嘘を吐いた。

 

協力者

疑われることなく手を離され、信は部屋を後にした。

もう桓騎の屋敷の構造は分かっていたので、迷うことなく外へと向かう。従者たちは寝入っている時間だろう。幸いにも、廊下には誰も居なかった。

夜通し見張りをしている門番たちはいるだろうが、桓騎の命がなければ彼らに捕まることもない。

背後を気にしながら、屋敷の裏に建てられている厩舎へと向かうと、愛馬の駿が待ちくたびれたと言わんばかりに大きく嘶いた。

「しぃーっ」

信は慌てて自分の唇に人差し指を当てて、静かにするように言った。
繋いでいる駿の手綱を解こうとしていると、駿が再び嘶きを上げる。まるで狼の遠吠えを思わせるような、大きい嘶きだった。

「駿ッ、静かにしろって…!」

「もう遅ぇよ」

背後から足音と共に低い声がして、信がぎくりと身を強張らせる。

冷や汗を浮かべながらゆっくり振り返ると、部屋にいるはずの桓騎がそこにいた。

真上から降り注ぐ月明りのせいだろうか、普段よりも彼の人相の悪い顔がさらに悪く見える。

「あ、ええっと、これは、その…」

解こうとしていた手綱を咄嗟に手放し、信はあたふたと言葉を探している。

桓騎が一歩距離を詰めて来たので、信は親に叱られる子供のように縮こまった。

「帰るならちゃんとそう言え」

意外にも、桓騎は優しく信の頭を撫でるだけで、詰問するような厳しい言葉は掛けなかった。

「黙って消えられたら、夢見が悪いだろ」

穏やかな声色でそう言われると、信の胸に罪悪感が浮かぶ。

「わ、悪い…」

素直に謝罪すると、桓騎の口の端がにやりとつり上がったので、信は嫌な予感を覚えた。
逃げなくてはと動き出すよりも前に、信の体は桓騎に軽々と抱き上げられてしまう。

「うおおッ!?」

まるで荷物のように肩に担がれ、急な浮遊感と反転した視界に戸惑った信が女性らしさの欠片もない悲鳴を上げた。

「んな簡単に逃がすワケねえだろ」

まるで勝ち誇ったかのように桓騎が笑われる。降ろせと喚きながら、信がじたばたと手足を動かすが、桓騎が放す素振りはなかった。

「ああ、言っとくが、お前の愛馬も俺の味方だからな」

信を担いでいる反対の手で、桓騎が駿の首筋を撫でる。気持ち良さそうに撫でられている愛馬の姿を見て、ぎょっとした。

まさか主の逃亡を阻止するために、桓騎に居場所を知らせようと嘶いたのではないかと信は青ざめる。

「駿!お前、いつの間に桓騎に懐いてたんだよッ!?」

泣きそうな顔で信が問うが、駿は耳を軽く動かすだけで返事をしない。

主人に似て・・・・・愛馬も扱いやすかったな」

「な、にィッ…!?」

まるで諦めろとでも言いたげな態度に、信は愛馬に裏切られたことをようやく理解する。

桓騎はくくっと喉で笑いながら、信の体を担いだまま再び屋敷へと戻っていったのだった。

 

目覚め

…結局その夜は散々だった。

黙って逃げ帰ろうとしたことを理由に、桓騎に攻め立てられ、激しく抱かれてしまった。

目を覚ました時には昼を回っていて、信は怠さの残る体を起こしながら、部屋に入って来た桓騎を睨みつけた。

「そろそろ支度しとけ。もう少ししたら出るぞ」

王翦の屋敷に行く話をしていたことを思い出したが、まさかまだ付き合わせるつもりかと信は大きく顔を背けた。

「行かない」

「あ?」

頭まで寝具を被りながら、信が不機嫌を露にする。

首筋や鎖骨の辺りにはいつものように赤い痕をつけられているし、どう考えても着物では隠せないだろう。

黙って帰ろうとしたことは自分に非があるが、それにしてもこんなになるまで抱くことはないだろうと思った。

「一人で行けよ。もともと王翦将軍に呼ばれたのはお前だけだろ」

怒気を込めた声でそう言うと、桓騎が小さく溜息を吐いた。

「とっとと機嫌直せ」

寝具越しに優しい手付きで撫でられるが、そんな簡単に機嫌が直るわけがない。信はむくれ顔のまま、布団の中で無視を決め込んだ。

桓騎とこのようなやり取りをするのは珍しいことではない。

そのうち、腹を空かせた信が諦めて寝台から出て来ると、まるでそれまでのことを忘れたかのように、普段通りに戻るのだ。

目を覚ましたのも恐らく空腹だったからだろうが、正直にそうとは言わないところから、信が相当機嫌を損ねていることが分かった。

こうなればしばらくは口を利かないだろう。子どものような拗ね方だが、どうにかして恋人の機嫌を直さなくてはと考えている桓騎を見る限り、効果は覿面である。

「今度来る時までに鴆酒を多く取り寄せておいてやる」

「………」

「…この前、摩論に作らせた鴆の飯はどうだ?お前、美味いって食ってたろ」

「………う」

河豚フグの卵巣の塩漬けは?」

「………うう」

百足ムカデの串焼きは?」

「………ううう…!」

寝起きで空腹である彼女に、これまで反応の良かった毒料理を伝えていくと、布団の中から呻き声が上がった。

美味い物で誘惑することに慣れている桓騎の口角がますますつり上げる。

「とっとと機嫌直せ」

穏やかな声色でそう言うと、ようやく信が布団から顔を覗かせた。

まだ桓騎を許すまいという怒りと、空腹には逆らえないという諦めが混ざり合い、複雑な表情を浮かべている。

完全に諦めた訳ではないのだろうが、こうなればもう桓騎の勝利は確実である。

つまり、あとは信が布団から出てくれば、それだけで良かったのだ。

「……あんまり、本家に行きたくねえんだよ」

「あ?」

桓騎に対する文句とは別の言葉が出て来たので、思わず聞き返してしまった。

「俺のこと、良く思わねえやつが多くいるから…」

目を逸らしながら、信が言葉を続ける。

下僕出身でありながら、摎と王騎の養子として引き取られ、王一族という名家の一員に加わった信の話は秦国で有名である。

地位の低いの者たちからは羨望の眼差しを向けられ、英雄扱いをされている信だが、もちろんそれをよく思わない者たちも存在しているのも事実だ。

特に王一族の本家の者たち、信と好敵手でもある王賁からはその風当たりが強かった。

王騎は王一族の中では分家の人間である。そんな彼から、将の才を見出されなければ、信は今も下僕として生きていただろう。

もともと後ろ盾のなかった立場の弱い彼女を養子にすると決めた時も、王一族の中では随分と揉めたらしいと桓騎は信から聞いていた。

馬陽の戦いで摎と王騎の二人を失ったことで、信は完全に後ろ盾を失くしている。

そんな自分が、今でも王家の人間であることを気に食わない者が大勢いるのだと、信は苦虫を噛み潰すような表情で打ち明けた。

 

味方

これまでも、王家の人間から冷たい目を向けられているという話は信の口から幾度も聞いていた。

今や将軍の座に就き、王騎と摎に劣らぬ武功を挙げている彼女が、まさかそんなことを気にしているとは思わず、桓騎は些か驚いた。

「…本家の人間は、王翦のガキみたいな野郎どもの集まりか」

桓騎は、王翦の息子である王賁の存在を口に出した。彼は信と幼馴染にあたる存在らしい。

偉大なる父の背中を見て育って来たせいか、王賁は王家嫡男の立場に強い誇りを持ち、そして下賤の出の者を嫌っている。

王賁のように、自尊心の高い男の厄介さは桓騎もよく知っていた。
しかし、信は意外にも首を横に振る。

「いや…王賁は、普段はああ言ってるけど、ちゃんと俺のこと認めてくれてるっていうか…」

未だ布団に身体の半分以上を隠しながら、もごもごと口を動かしている。

王賁は信が下賤の出であることを気に食わずに、事あるごとに立場を弁えろと毒づいて来る。

しかし、信が戦で着実に武功を挙げていき、将軍になった実力を認めたのか、以前ほど生まれのことは言わなくなった。

それは信のことをいつも目で追っていた桓騎も気づいていた。

顔を合わせればいつも口論になっていた二人は、いつの間にか信頼関係を築いており、今では互いの背中を任せ合うほどに成長している。

王賁が率いている玉鳳隊の兵たちも、下僕出身である信をいつも嘲笑っていたというのに、今ではそんなこともなくなった。

恐らく王賁の信に対する態度や接し方から、主が信の実力を認めたことを理解したのだろう。

それでもまだ信の存在をよく思わない者が王家にはいるらしい。

しかし、それは桓騎も同じだ。
蒙驁にその将の才を買われたことは、信が王騎と摎の養子となったことと同じくらい、桓騎の人生を大きく変えた。

山陽の戦いの後に蒙驁が亡くなってから、桓騎は信と同じように後ろ盾のない立場で、秦軍を勝利へと導いていた。

信が下賤の出であることを批判するよりも、元野盗である桓騎の悪行を指摘する批判の方が圧倒的だろう。

だが、桓騎はそういった者たちの声を聞きはするものの、まともに相手をしたことはなかった。興味がないというのが一番の理由である。

蒙驁も自分の素性をわかった上で、将の才を買ったのだ。どれだけ悪行に手を染めてようが、秦軍を幾度も勝利に導いた桓騎の奇策は替えが効かない。

それは信だってそうだ。
王騎と摎に劣らぬ武功を中華全土に広めているというのに、後ろ盾がないからという理由で何に怯えているのだろう。

「…本家に行って、そんな話を聞いたら、そいつらの四肢を捥いで、口と目を縫い付けて、頭から油をかけて焼き殺して…豚の餌にでもしちまうかもしれねえな」

まるで天気の話題でも口にしているかのように、あっさりとした口調で桓騎が呟いた。

「おいッ!勝手なことすんなよッ」

あまりにも物騒な言葉に、信が青ざめながら布団から起き上がった。

しかし、一晩中激しく抱かれた体には負担だったのか、腰を押さえて沈み込んでしまう。
優しい手付きで彼女の頭を撫でてやるものの、桓騎は今の発言を撤回することはない。

冗談だと笑うこともなく口を閉ざした恋人に、信の顔はますます青ざめていった。

「…わかった。俺も行く」

未だ怠さを残す体を気遣いながら、信はゆっくりと床に足を下ろした。

「本家には行きたくねえんだろ?」

ここで寝てりゃいいと桓騎は穏やかな声色で告げるが、信は大きく首を横に振った。

王翦が住まう屋敷…王一族の本家で、桓騎がそのような虐殺を行ったらと不安で堪らないのだろう。

「………」

顔も名も知らぬ者たちを庇うような信の行動に、桓騎の胸に苛立ちが募る。

もちろん信が傍にいたとしても、桓騎は彼女のことを悪く言う者たちに容赦なく鉄槌を下すつもりでいた。

 

 

「…桓騎?」

昨夜から床に散らばったままだった着物に袖を通しながら、信が不思議そうに小首を傾げた。

「何怒ってんだよ」

どうやら不機嫌が眉間の皺として出ていたらしく、信が苦笑を浮かべる。

先ほどまで怒っていたのは信だったというのに、今ではすっかり立場が逆転していた。

野心家である王翦は家柄や生まれなど気にせず、才ある者だけを求めており、信が下僕出身であることを気にする素振りを一度も見せたことがない。
桓騎が元野盗出身であることにも、彼は興味を示したことがなかった。

息子の王賁も、今は信の生まれについて触れることはないのだから、もしかしたら王翦の家臣たち、戦に出ていない王家の人間が信を毛嫌いしているのかもしれない。

秦王の側にいる高官たちのように、口だけが取り柄な者たちだろう。

そういった人間を、自分と信と同じように後ろ盾のない地位へと引き摺り下ろしてやり、痛めつけて無様な泣き顔を見ることが出来れば、どれだけ愉悦だろう。

後ろ指を差されるのは自分だけでいい。自分以外の人間が彼女を傷つけることを、桓騎は許せなかった。

「…桓騎?」

もう一度名前を呼ばれて、桓騎ははっと我に返る。

女という存在とは、褥だけの付き合いだと思っていた。それが今ではこんなにも思考がいっぱいになってしまうほど、信に夢中になっている。

彼女を傷つける者は絶対に許さないと、子供じみた癇癪を起こしそうになった自分に、桓騎は嘲笑した。

以前の後宮での騒動もそうだったが、どうやら自分は信のことになると随分と余裕を失くしてしまうらしい。もちろん、そんな無様な姿を気づかれぬように取り繕っていたが。

「どうした?」

「いや、何でもない」

これまでは考えられなかった自分の新たな一面に驚きながらも、信の顔を見ると、当然だとも思ってしまう。

彼女と出会う前の自分が今の自分を見たら、きっと鼻で笑うだろう。

しかし、桓騎は目の前の女を愛していることに微塵も後悔をしていなかった。

 

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王家

支度を済ませてから二人は屋敷を出た。今からなら夕刻には到着するだろう。

赤い痣を隠すために、信は厚手の布を襟巻きとして首元に巻いていた。
ちょうど夏が過ぎ、日が沈むにつれて冷え込むようになって来たので、怪しまれることはないだろう。

「信?」

馬を走らせていると、後ろで愛馬を走らせている信の口数が少しずつ減っていくのが分かった。

時折振り返るものの、彼女は桓騎の視線に気づいておらず、暗い表情を浮かべて俯いている。

手綱はしっかりと握っているとはいえ、振り落とされてしまうかもしれない。

「おい」

手綱を引いて、桓騎は馬の足を止めた。

信は手綱を握っているだけで指示を出していないというのに、愛馬の駿は桓騎の動きを見て、同じように足を止める。賢い馬だ。

急に馬が止まったというのに、信は驚くこともなく、ただ俯いていた。

「信」

「…えっ?」

名前を呼ぶと、信が弾かれたように顔を上げる。ようやく桓騎と駿が止まったことに気付いたようだった。

「引き返すか?」

連れ出したのは自分だというのに、桓騎はつい問い掛けていた。

屋敷に向かう約束はしていたが、行かなかったところで、王翦も桓騎の性格を理解している。

王翦とは同等な立場であり、行かなかったからと言って無礼だと罵られることもないだろう。

言葉巧みに、半ば強引に連れ出した自覚はあるのだが、ここまで信が嫌悪を示すのは初めてのことだったので、桓騎は内心驚いていた。

「いや、行く」

素直に頷けば良いものを、信は首を横に振った。

「一人で行かせたら、お前は本当に容赦なく殺しちまいそうだからな」

あははと笑った信を見て、桓騎は無理をしていることが分かったのだが、心では下賤の出あることを悪く言う者たちに複雑な思いを抱いているに違いない。

しかし、こうなってしまえば、信はもう引き返さないだろう。妙なところで頑固になる性格は呆れてしまう。

しかし、信が気にしているような者たちとは関わることはないだろう。

王翦はあまり賑やかな席を得意としない。客人を招いても、その者とだけ静かに酒を飲み交わす方が好きらしい。それゆえ、家臣の出入りも最低限である。

信が気にしているような事態が起きなければ良いのだがと内心考えつつ、もしもそんな輩がいたら、桓騎は言葉にしたように殺すつもりだった。

たとえ王翦に憎まれることになろうとも、それだけ桓騎の中で信を守りたいという想いは大きく膨らんでいた。

 

中編はこちら

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蝸牛角上の争い(蒙恬×信・王賁×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/ギャグ寄り/ほのぼの/咸陽宮/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

蒙恬と王賁の協力

その後も、信は王賁と蒙恬を避ける日々が続いていた。

王賁はともかく、どうして自分まで避けられることになったのか分からない。
困惑した蒙恬が、彼女の屋敷にまで赴いて話を聞こうと思ったのだが、門前払いを受けただけで何も進展はなかった。

(なんでだ?王賁を避けるように言ったのがまずかった?)

王賁への恋心に信は自覚がなかったはずだが、まさかそれに気づいて、王賁から遠ざけようとした意図に気付かれてしまったのだろうか。

しかし、もしそうだとしたら、王賁まで避け続ける理由が分からない。

自分だけを除け者にするのではなく、王賁と蒙恬の二人を避け続ける信は何を考えているのだろうか。

(ああ、もう無理…!)

信に避けられるようになり、一月近く経過した頃、蒙恬はいよいよ我慢の限界を迎えようとしていた。

想いを寄せている女性に避けられるという状況がこれほどまでに辛いものだとは思わなかった。

普段、女性に甘い言葉かければ、すぐに自分のもとへ寄って来ること慣れていたこともあり、こんなにも靡かない信に、蒙恬は混乱していた。

もしもこれが、こちらの心を搔き乱す作戦だったとしたら、信はとんでもない悪女であり、とんでもない数の男との場数を踏んで来たことになる。

まさか信に限ってそんなことはないと信じたいのだが、それを確かめる術さえも蒙恬は持っていなかった。

軍師学校を首席で卒業し、その聡明な頭脳で秦軍を勝利に導いた実績を持つ蒙恬であっても、女心だけは分からないのである。

寝不足が続き、肌と髪の調子も、機嫌もすこぶる悪い。

普段の蒙恬を知っている家臣たちからも病気ではないかと心配されてしまうほど、蒙恬はこの短期間でやつれてしまっていた。

一刻も早く信と話をしたいのだが、彼女の方からこちらを避けているのが問題だ。

「…王賁、信のことで作戦会議しよう」

屋敷を訪ねて来た蒙恬の顔色の悪さに王賁は驚いていたが、どうやら彼も信の態度にはこれ以上我慢ならないようで、作戦会議に応じてくれた。

作戦と言っても、それは子供でも思いつきそうなほど単純なものだった。

話し合いをする前に、まずは何といっても信を捕まえなくてはならない。そこで、蒙恬と王賁は二人がかりで彼女を取り押さえることにした。

将軍になってからも、今まで通り護衛をつけずに行動している信を二人で囲むのは容易いはずだ。

これまでの信の行動を振り返ると、自分たちの姿を見た途端に逃げ出していた。

だとすれば、あらかじめ退路を断っておき、袋小路に彼女を追い詰めさえすれば逃走は出来ず、話し合いに応じてくれるに違いない。

密偵から信が咸陽宮へ訪れる日は報告を受けている。後はこの単純かつ確実な作戦を遂行するだけだった。

 

 

二人の作戦決行

信が咸陽宮に訪れたのは、親友である嬴政に会うためだった。

論功行賞で将軍昇格を伝えたのは嬴政であるが、その後に行われた宴では二人きりで話すことはできず、日を改めて彼から祝いの言葉を掛けられることになったらしい。

五千人将から将軍昇格になると、率いる兵の数も圧倒的に増えるだけでなく、多くの隊を指揮することになる。

信は嬴政と会話を終えた後、総司令官である昌平君から、軍の動かし方を伝授されていた。

今まで以上に多くの命を預かる重責に、信は身を固くしながらも、将軍の座に就いたことで、今は養父と養母に一歩近づくことが出来たのだと実感する。

一通りの話を聞き終えた信は、まるで機嫌を伺うように昌平君へ目を向けた。

「なんだ」

「…王賁と蒙恬も、もう少しで将軍昇格か?」

まさか二人の名前がここで出るとは思わなかったのだろう、昌平君が瞬きを繰り返した。

「次の戦での武功によっては、昇格も検討している」

その言葉を聞き、信はほっと安堵したように笑った。

「じゃあ、油断してると、すぐに抜かれちまうな」

「その通りだ」

あっさりと頷いた昌平君に、本当に物事を客観的に見ていると信は感心してしまう。

「…先に昇格したせいで、彼らと喧嘩をしたのか?」

部屋を出て、二人で宮廷の廊下を歩いていると昌平君が前を向きながら疑問を口にした。
何のことか分からず、信はきょとんと目を丸めた。

横目でその反応を見た昌平君は補足するように言葉を紡ぐ。

「確か、王賁に殴られていただろう」

「ああ!」

あの日のことを思い出したように、信が大きく頷いた。
頭を掻きながら照れ笑いし、信が言い訳をするように話し始める。

「王賁のやつ、俺が将軍になったこと、よっぽど気に食わねえんだろうな!」

高らかに笑う信の顔が引きつっていることに、昌平君はいち早く気づいた。

二人が幼馴染であるということは昌平君の耳にも届いていた。

下僕出身である信が、名家の一員になったことを認めていない王賁が彼女を毛嫌いしていることも、そして信もそんな彼に喧嘩を売られればすぐに買ってしまうということで、二人の仲の悪さは秦国では有名だった。

そんな二人の緩衝材の役割を務めているのが蒙恬であり、喧嘩を止めるのも彼の役割だった。

信が王賁に殴られて失神したあの日、偶然三人の姿を傍で目撃していたことから、昌平君は一応気に掛けていたのだ。

その後の三人の関係は、明らかに変化していた。

蒙恬と王賁の、どちらか片方の姿を見れば、まるで逃げ出すように去っていく信の姿を、昌平君も実際に何度か目撃している。

一方的に信が二人を避けるようになったことを、昌平君は不思議に思っていた。

先ほどの二人の将軍昇格を気にする発言から、二人を嫌悪しているようには思えないのだが、あそこまであからさまに避けるようになった理由が分からない。

今までは蒙恬を間に挟むことで、何とか均衡を保っている関係に見えたが、今回の信の将軍昇格によって、その均衡が崩れたのではないかと予見していた。

性格上の不釣り合いというものは誰にでもあるが、戦でそれが綻びとならないようにしてもらいたい。

二人と無理に仲良くする必要はないが、最低限の連携はしてもらいたいと助言をしようとした時だった。

「信ッ!」

「うぇッ!蒙恬!?」

どこから現れたのか、前方で蒙恬が仁王立ちをしている。
目の下に隈を作り、髪の艶も失っている蒙恬の姿に驚いたのは、信だけではなく昌平君もだった。

友人のげっそりとやつれた姿に驚きはするものの、やはり逃げようと信は背中を向ける。

「げえっ、王賁ッ!?」

しかし、振り返った先には王賁が同じように仁王立ちをしていた。いつの間に現れたのだろう。

 

 

確保

「あっ、わっ!うわっ!?なんで王賁までここにッ!?」

途切れ途切れの悲鳴を口から零しながら、信はあたふたと退路を探していた。

しかし、前後にしか道がないこの廊下で、前方を蒙恬、背後を王賁に塞がれていることに気付くと、彼女は隣を歩いていた昌平君の後ろに身を潜める。

長身の昌平君の背中にぴったりとくっつき、冷や汗を浮かべながら二人の様子を伺っていた。

こんな状況下で逃げられないのは目に見えているというのに、まだ逃げようと隙を伺っている彼女に、蒙恬が重い溜息を吐いている。

「………」

まさか壁のように扱われるとは思わなかったのだろう、昌平君が何か言いたげな表情で信を見下ろしていた。

しかし、信は昌平君の後ろにぴったりとくっついたまま離れようとしない。
退路がないと理解つつも、未だ諦めず抵抗する彼女に、蒙恬がひくりと顔を引きつらせた。

「往生際が悪いってこのことだね」

低い声でそう洩らすと、信がびくりと肩を竦ませた。

「…信、今すぐこの手を放せ」

「いっ、いやだ!」

蒙恬と王賁から只ならぬ気配を察したらしく、昌平君はその場を去りたいようだったが、信が行くなと言わんばかりに着物を掴んで離さないので動けないようだった。

まさかここに来て巻き込まれることになるとは、聡明な昌平君でさえも思わなかった。

こほん、と蒙恬は咳払いを一つしてから、

「ねえ、信?提案があるんだけど…まずは俺と王賁と三人で話さない?」

怯えさせないよう、穏やかな口調で笑顔を繕った蒙恬が信に声を掛けた。しかし、額に青筋が浮かんでいるのを見つけたのか、信は大きく首を横に振る。

「こ、ここで話せばいいだろッ」

小癪にも、信が昌平君の着物を掴んだまま叫ぶようにして言った。昌平君から離れた途端、取って食われるとでも思っているのだろうか。

このままでは埒が明かないと察した王賁と蒙恬はじわじわと距離を詰め、昌平君の背後にいる信を取り囲むように近づいた。

腕を組み、鋭い眼差しを向けて来る二人に信が青ざめている。

「なんだかよくわからないことになっているから、まずはどうしてこうなったのかちゃんと話し合おう?俺、子供みたいなケンカはしないから、絶対に手は出さないよ」

彼女の前にいる昌平君をいないものとして扱い、蒙恬は説得を試みた。

手は出さないと断言しているものの、彼の黒い笑みからは、暴力以上の威圧感があった。むしろ威圧感しかない。

昌平君の紫紺の着物を掴んだまま、すっかり怯えた信がようやく首を縦に振ったので、蒙恬の黒い笑みが安堵の笑みに変わった。

「…王賁はともかく、なんで俺のことも避けるの?」

一番気になっていたことを低い声で尋ねると、信は恐る恐るといった様子で顔を上げた。

「だ、だって…」

本当に言っても良いのだろうかという不安を込めた瞳で見上げられる。
王賁と蒙恬は黙って彼女の言葉の続きを待った。

「……お前ら、付き合ってるんだろ?」

彼女の言葉を聞き、蒙恬と王賁が石のように硬直した。
口を挟まずにいた昌平君も、まさかと言った表情で二人に視線を送っている。

「は…?なに、なに言ってるの…?」

乾いた声で聞き返した蒙恬と、あんぐりと口を開けている王賁に追い打ちをかけるかのように、信が言葉を続けていく。

「だ、だから、俺を王賁から引き離そうとしたんじゃねえのかよ。近づくなって、そういう意味じゃなかったのか?」

「はああッ!?」「…どういう意味だ」

蒙恬は驚愕し、王賁は鋭い眼差しで信を睨みつけている。
三人の間に挟まれている昌平君は眉間にますます皺を寄せて沈黙を貫いていた。

 

弁解

謎の頭痛に襲われながら、蒙恬は信の話を整理しようと何度か深呼吸を繰り返した。

「…俺が王賁と付き合ってるから、その恋路を邪魔するまいとして避けてたってこと?」

あっさりと首を縦に振った信を見て、蒙恬はいよいよその場に膝をついてしまう。王賁も珍しくぽかんと口を開けて愕然としている。

…確かに信に王賁を避けるよう話したのは事実だが、それがどうして王賁と恋仲だからだと結びついたのか、信の考えが少しも理解出来なかった。

信への想いが微塵も通じていなかったどころか、まさかこんな風に誤解されるなんてと蒙恬は脱力してしまい、もはや自力で立ち上がることが困難だった。

「このバカ女ッ!」

普段以上に目つきを鋭くさせた王賁が信の頭に鉄拳を落とす。
突如襲った激痛に涙を浮かべながらも、信は負けじと王賁を睨みつけた。

「いってーなッ!お前らこそ隠してねえで、とっとと言えば良かっただろうが!男同士だからって、別に隠すようなことでもねーだろッ!?」

まさかここまで話しておいて、未だに信は蒙恬と王賁が恋仲であることを信じているらしい。

「…俺は王賁とそんな仲じゃないって…!なんで俺が男なんかと…!しかも、よりにもよって王賁なんだよ…!?」

蒙恬が今にも泣きそうな顔で信を睨む。その言葉を聞き、信の目が真ん丸になる。

「…へっ?じゃあ、お前ら…ほんとにそういう仲・・・・・じゃないのか?」

当たり前だと蒙恬と王賁が頷いた。なぜか昌平君までもが頷いている。
三人の無言の返答に、それまで驚愕していた信の顔が、険しい表情に切り替わった。

「…それじゃあ、なんで王賁に近づくなって言ったんだよ?」

てっきり自分たちの恋仲を邪魔するなという理由で、王賁を避けるように言われたのだと思っていた信は頭に疑問符を浮かべた。

蒙恬は未だその場に膝をついたまま、信を見上げる。すぐ傍から王賁の視線を受け、ばつが悪そうに蒙恬は目を逸らした。

「…信が、不憫だから」

「え?」

不憫という言葉を聞き、その場にいた全員が蒙恬を見た。

「だって…信は努力して将軍昇格したのに、王賁は相変わらず態度変わんないし…」

「…蒙恬」

恋心をあることを隠しながら蒙恬が打ち明けると、信は感動したように目を輝かせ、鼻を啜った。

そこまで自分のことを想ってくれていたのかと言わんばかりの瞳を向けられたので、蒙恬は心の中で信の気持ちが自分に向けられたことを察した。

しかし、その喜びを顔に出すことはしない。この場ではあくまで純粋に友人想いな男を演じるのには理由があった。

いずれ、信と二人きりになってから、男としての自分を意識させるためである。

昔から蒙恬のことを知っている昌平君は、信を見つめる蒙恬の視線から真意を察したようで、呆れた表情を浮かべている。しかし、口を出さないところを見れば、面倒事には関わりたくないようだ。

誤解が解けたことに安堵したものの、王賁は何か言いたげに信を見つめている。
しかし、頑固者である王賁が、改めて信に将軍昇格を祝う言葉を掛けることはなかった。

「…そろそろ素直にならないと、俺に取られちゃうよ?」

「ッ!」

王賁にしか聞こえないほど声を潜めて蒙恬がそう言うと、彼の瞳に怒りの色が浮かび上がった。

言葉数が少ない分、王賁も分かりやすい部分がある。

信は気づいていないようだが、蒙恬は王賁が信を気に掛けていることを知っていたし、信が王賁に想いを寄せていることにも気づいていた。

何かきっかけがあれば平行線である二人の想いが交差するかもしれないが、同じく信に想いを寄せている立場としては、なんとしてもそれを阻止しなくてはならない。

これからも目を光らせ続けなくてはいけないかと思う反面、蒙恬は三人で過ごす時間が好きだということを改めて思い出した。

王賁に隠れて、信を遠ざけようとしてみたものの、やはり姑息なやり方は性に合わない。

戦ならともかく、愛しい女を手に入れるのならば正々堂々と戦い、そして自分の力で勝利を掴み取りたい。

姑息な手は使わず、恋敵である王賁と真っ直ぐに戦おうと蒙恬は心に誓ったのだった。

 

 

弁解 その二

「…さて、これで誤解は解けたワケだけど…」

新たな決意を胸に秘めた蒙恬だったが、一つだけ心残りがあった。

腕を組み、蒙恬は改めて信を見やる。
先ほどまで縮こまって昌平君の後ろに隠れていた彼女は、ようやく安堵したのか、二人の前に姿を現した。

「い、いやあ、悪かったな!てっきり二人がそういう仲だと思っててよォ」

蒙恬と王賁が恋仲ではなかったのだと知り、すっかりいつもの調子に戻ったようで、明るい笑顔を見せてくれた。

「あーあ…さすがに信から一月近くも避けられて、本当に傷ついたな…」

わざとらしく溜息を吐くと、信がきっと目をつり上げる。

「だからぁ、悪かったって!仕方ねえだろッ!お前らがややこしいことするから!」

「これでお前が正真正銘のバカだと証明されたな」

同じく腕を組み、鋭い目つきを向けて来る王賁を、負けじと信が睨み返す。

「いつもバカ、バカって…ほんと、お前は昔から変わらねえよなッ!」

「事実を言っているだけだ」

なんだとっ、と信が今にも掴みかからんばかりに、王賁の前に出る。
誤解が解けて安堵したのも束の間、いつもの不穏な空気が漂って来た。

「ああ、また始まった…!」

頭を抱えながら、二人の間に割り込む蒙恬は、二人の喧嘩を止められるのは、この中華全土で自分しかいないのかもしれないと考えた。

しかし、その考えとは裏腹に、彼の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

「放せ、蒙恬!やっぱり、一発殴らねえと気が済まねえ…!」

「立場を弁えろ」

「信、落ち着け。王賁も煽らない!」

顔を真っ赤にして憤怒した信が王賁に殴り掛からないよう、蒙恬が彼女の肩を押さえていた。

「……ふ」

何はともあれ、どうやらいつもの三人に戻ったようだ。保護者のような優しい眼差しで昌平君が三人を見つめている。

力強く蒙恬に身体を抑え込まれている信は、顎が痛むほど歯を食い縛っていた。

しかし、火の吐いた怒りを鎮火することは叶わなかったようで、信が大きく口を開く。

「…ああ、もうっ、てめえら、女を抱いたこともないくせに・・・・・・・・・・・・・、イキがってるんじゃねえぞ!」

「はっ?」「なんだと?」

…その一言で、やっと訪れたはずの平穏が崩れ去った。王賁も蒙恬の顔から表情が消えている。まさに一瞬の出来事であった。

まさかこの流れで異性と身体を繋げていない、いわゆる童貞扱いされるとは思わなかったのだろう。

二人の喧嘩を止めようとした蒙恬にまでその怒りが飛び火したことで、辺りには息苦しいほど重い空気が広まっていく。

「……えっ?」

急に無表情になった二人が沈黙したことに、信は眉根を寄せて身構えていた。

しかし、もう容易く鎮火出来ぬほど、見えない炎は燃え盛ってしまったらしい。

 

 

身から出た錆

「…やっぱり、込み入った話になりそうだから、場所を変えようか」

不自然なまでに引き攣った笑みを浮かべている蒙恬がそう言ったので、信は冷や汗を浮かべた。

「あ、いや、俺はそろそろ帰らなきゃ…」

二人の背後から滲み出ている異様な空気に恐れをなしたのか、信が後退る。しかし、二人からがっしりと腕を掴まれ、逃亡は簡単に阻止された。

いっそ怒鳴ったり殴ってくれたのならと思うのだが、蒙恬も王賁もそうはしなかった。
まるで口づけでもするかのように、信に顔を寄せた蒙恬の瞳は暗く淀んでいる。

「…誰が童貞だって?」

本当に蒙恬かと疑ってしまうほど、恐ろしいほどに低い声で問われる。

「どっ…童貞、とは言ってない…」

動揺と緊張のあまり、声を裏返しながら、信は首を横に振った。

確かにその単語を口に出していないが、それに類似した言葉は口に出していた。

今まで数多くの女性を虜にして来た蒙恬には、そちらの経験がない・・・・・・・・・と誤解されることが何よりの屈辱だったのだろう。

蒙恬ほど表立って、女性を侍らせている訳ではないが、王賁も名家の嫡男として、そういったことに経験がない訳ではない。

なぜ二人がこれほどまでに怒りを募らせているのかといえば、信の軽率な発言によって、名家嫡男の自尊心に傷がついたからである。

ただし、性格も信念も正反対である王賁と蒙恬だが、共通点はあった。

二人の共通点は、やられた分はきっちり報復を行うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・である。

「それじゃあ、信に手ほどきをしてもらおうかな?俺にそんな言い方するんだから、信は相当な場数を踏んでるってことだよね?」

口元には優しい笑みを携えているが、瞳は一切笑っていない蒙恬に問われ、信が顔を強張らせた。

王賁も笑みは浮かべていないのだが、普段の鋭い目つきにより磨きがかかっており、見る者の背筋を凍らせるほどの威力を秘めていた。

「おっ、おい?なんか、お前ら…顔怖いぞ…?さっきのは冗談で…」

「下僕の分際で冗談を言うとは良い度胸だな。口で言っても分からぬのなら、行動で教えてやる」

二人にそう囁かれ、青ざめた信はぱくぱくと口を開閉させていた。

「…あ、先生、ご協力ありがとうございました!」

普段のような人懐っこい笑顔を浮かべた蒙恬が、思い出したように昌平君に頭を下げた。
それまできっと、昌平君がここにいたことを王賁も蒙恬も忘れていただろう。

「しょ、昌平君、た、たた、助けてっ…」

信が涙目で昌平君に手を伸ばすが、その手はすぐに二人によって取り押さえられてしまった。

右腕を蒙恬、左腕を王賁を掴まれながら、信が引き摺られていく。

「いーやーだー!はーなーせー!」

まるで処刑台にでも引き摺られていくような悲鳴を上げる信の姿を横目で見ながら、その場に残された昌平君が何も言うまいと口を噤む。

もうこれ以上、三人の面倒事に関わるのはごめんだった。

 

その後、宮廷のある一室から、信の断末魔の悲鳴が咸陽中に響き渡ったという…。

 

 

王賁×信←蒙恬のヤンデレバッドエンド話はこちら

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卑怯者たちの末路(桓騎×信)番外編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/シリアス/回想/All rights reserved.

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このお話の本編(李牧×信)はこちら

 

信の正体

本編の過去です。

 

その日、桓騎の屋敷に珍しい来客があった。最近になって五千人将から昇格した女将軍だ。名を信という。

下僕出身でありながら名家の養子となった彼女の話は、秦国で有名である。

せっかく養子として引き取られたのならば、その出世を活かして貴族の家にでも嫁げばいいと思ったのだが、彼女は将の才を魅入られて養子に迎えられたらしい。

信が将軍昇格する前、桓騎は彼女が率いている飛信隊と共に戦に出陣したことがあった。

桓騎軍と飛信隊の兵たちは折り合いが悪く、顔を合わせればすぐに口論になっていたことを思い出す。

しかし、信だけは他の兵たちと態度が違った。
桓騎の軍略に耳を傾け、どのように奇策が成されるのか、楽しそうに話を聞いていたのだ。

指示した通りに兵を動かした先に、どのように敵を攻め立てるのか、桓騎が成そうとしている奇策を根本から理解しようとしていたのだ。

信頼のおける参謀たちにしか奇策の全貌を告げない桓騎だが、これまで二度、信に奇策の全貌を見抜かれた。

自分と同じで下賤の出であり、軍師学校で学ぶような机上の軍略など一切を知らぬ信だからこそだろう。

だからと言って彼女を信頼するのとはまた話が違うため、その後も桓騎が奇策を教えてやることはなかった。

しかし、彼女が他の将とは違う何か・・を持っていて、そしてその何かとは自分に近しいものなのだと気づいてから、桓騎は信のことを気に掛けるようになっていた。

自ら声を掛けたり、贈り物をするといった機嫌の取り方ではない。ただ、彼女のことを目で追う回数が増えたのは、自覚せざるを得ないほど明らかだった。

信は良い意味でも悪い意味でも礼儀を知らない。
どういった繋がりがあるのかは知らないが、秦王である嬴政にも頭を下げることなく気さくに接している。秦王の側近に咎められても、彼女は態度を変えようとしなかった。

そしてそれは桓騎に対しても同様である。桓騎軍の素行の悪さは秦国どころか中華全土に広まっているが、信は少しも怯えることはなかった。

大勢の民を虐殺し、敵軍に見せしめとして贈り物・・・にしてやった時も、信は相手の動揺させる手段として学んでいたのだ。

飛信隊と言えば捕虜を殺さないことで有名であり、まさか信が無関係の民たちを殺める手段に学びを得るとは桓騎も予想外だった。

一度、戦の勝利を祝う宴で、彼女と酒を酌み交わしたことがある。

その時に、桓騎は彼女に問い掛けたのだ。敵の捕虜や民たちを虐殺するような手段を学んだところで、お前に実践できるのかと。

質問の答えが知りたいと思うのと同時に、善人ぶっているこの女が、自分たちのように虐殺することなど出来るはずがないだろうという挑発でもあった。

すると信は、桓騎の耳元に唇を寄せて、

―――…飛信隊は、そんなこと絶対にやらねえと思われてるだろ?だから・・・だよ。

静かにそう囁いたのだ。

妖艶な笑みを向けられ、桓騎は着物の下でぶわりと鳥肌を立てた。恐怖によるものではない。大いに好奇心が揺さぶられたのだ。

この女は表向きは善人として兵たちを導いているが、中にとんでもない化け物を隠し持っている。

この時に見せた妖艶な笑みこそが、彼女の本当の姿なのだと分かり、桓騎はますます信のことを気に入ったのだった。

 

 

突然の訪問

信は護衛を連れておらず、馬を走らせていた。

後ろに率いているのは荷台である。荷は布で覆われているため、何が詰まれているのか分からない。
騎手の男は積まれている荷が破損しないように気遣いながら二頭の馬を走らせていた。

屋敷から姿を表した桓騎の姿を見ると、信は笑みを浮かべて馬上で手を振った。まるで友人に会いに来たような態度だ。

桓騎は腕を組みながら、彼女がすぐ目の前にやって来るまで、ここに来た目的が何かを考えていた。

「久しぶりだな」

信は馬上から桓騎を見下ろした。
今日は珍しく、動きやすさを優先する男の下袴は履いておらず、貴族の娘のように質の良い紫の着物に身を包んでいた。

これから宴の席にでも向かうのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

「何の用だ」

信が屋敷を訪れた理由は分からず、桓騎は面と向かって彼女に問い掛けた。

どうやらその問いが来るのを分かっていたかのように、信はにやりと笑う。彼女は馬から降りると、荷台を覆っている布を勢いよく引き剥がした。

荷台には、大量の酒樽が頑丈に縄で括られていた。

「貢ぎ物だ」

迷うことなくそう発した信に、桓騎の眉根が寄る。

「俺に奇策を教えてくれ」

とても人に物を頼む態度とは思えない。桓騎が何も答えずにいると、信が瞬きを繰り返している。

貢ぎ物も持って来たというのに、少しも顔色を変えないどころか、呆れた表情を浮かべた桓騎に、信は戸惑っていた。

「奇策ならもうやっただろ」

過去に二度見抜かれた奇策はもう使わないつもりだった。だからこそ、信が使っても構わなかったのだ。

奇策といえど、他の軍略と同じで何度も同じ手法を使えば、同じ手を食らわないように相手も対策を練るだろう。それでは奇策を成すことは叶わない。

だが、信が奇策を用いるとなれば、少なくとも桓騎軍を相手にする時と違って相手は大きく動揺するに違いない。

普段はその強さゆえに前線を任されることの多い飛信軍が、桓騎と同じ奇策を用いることなど、相手は予想すら出来ないに決まっている。

ましてや、捕虜や女子供を殺さないことで有名な飛信軍が、これまでになかった残虐な行為を行えば、敵の混乱は必須だ。

それを分かっているからなのか、信は新たな奇策を授けて欲しいのだと懇願した。とても物を頼む態度ではなかったが、彼女自ら桓騎のもとへ訪れたのが何よりの証拠だろう。

飛信軍にいる軍師の指示に従えばいいものを、どうしてそこまで奇策にこだわるのか、桓騎には信の考えが分からなかった。

 

 

取引

「そんな貢ぎ物で、この俺が教えると思ってんのか」

奇策を授けることに抵抗がある訳ではない。
この女なら確実に自分の奇策を使いこなすだろうと思っていたし、奇策を欲する目的が分からないとしても、安易に授けようと思う代物でもなかった。

大量の酒樽を見ても少しも態度を変えない桓騎に、信がつまらなさそうに溜息を吐いた。

「じゃあいい。王翦将軍に当たる」

まさか粘りもせずに他を当たるとは。桓騎は表情には出さず、信の諦めの早さに呆然とした。

「おい」

荷台の騎手に声を掛けようとする信の腕を、桓騎は思わず掴んでいた。もう用はないと言わんばかりに、煩わしそうな視線を向けられる。

(生意気な女だ)

下賤の出であることや、何事においても自分の利になることしか求めていないことには親近感を覚えるが、自分が利用される立場になると、こうも腹立たしいものなのか。

「教えてやっても良いぜ」

怪訝そうに眉根を寄せる信に、桓騎は肩を竦めるようにして笑う。

「他の貢ぎ物次第だな」

信の顎に指をかけて顔を持ち上げ、無理やり視線を合わせる。
すると、信が背伸びをして、桓騎の首元に両腕を伸ばし、抱き着くような素振りを見せた。それから挑発的な視線を向けて来る。

一晩の極上の夢・・・・・・・なんて、どうだ?」

紅で瑞々しく彩られた唇が妖艶な笑みを象ったのを見て、桓騎の背筋に戦慄が走った。

「乗った」

その返事を聞き、満足そうに信が目を細めて頷いた。

「そうこなくちゃな。せっかく・・・・こんな格好してやったんだから、脱がせなきゃ損だろ?」

その言葉に、桓騎は瞠目した。

まさかこの女は、抱かれるのを条件に奇策を教えてやると言われるのを分かっていて、そのような格好をして来たというのか。

宴でもないのに、やけに女らしさに磨きをかけていると思ったが、自分の奇策を手に入れるためならば操さえ捧げることに、奇策に対する執着のようなものを感じられた。

そして恐らく桓騎が酒の貢ぎ物だけで靡くことはないと分かった上で、一度は諦める素振りを見せて、呼び止めさせたのだろう。

着物の色も桓騎の好みに合わせて選んだのかもしれない。

とことん賢い女だ。こんな女が奇策を我が物にしたのなら、信の思い描いた通りに戦況が動くことだろう。

奇策を手に入れるために自ら操を差し出すというのだから、その取引に乗ってやろうと桓騎は笑った。

たとえ、これが信の描いた奇策だとしても、その先に何があるのか、桓騎は自分の目で確かめたくなったのだ。

 

 

取引 その二

部屋に入るなり、桓騎は信の背中を扉に押し付け、貪るように唇を重ねた。

「んッ…!」

まさかいきなり口付けられるとは思わなかったのだろう、信の瞳に困惑の色が浮かんでいる。

薄く開いた唇に舌を差し込むと、それまで余裕たっぷりの表情が崩れたことに、桓騎は得意気に笑った。

舌を絡めると、信の体が強張った。

ここまで自分を挑発していた彼女のことだから、自ら舌を絡めて来るとばかり思っていたのだが、どこかぎこちない姿と、されるがままの口づけに違和感を覚えた。

「はあっ…」

唇を離すと、信が顔を真っ赤にして肩で息をする。

うっすらとその双眸に涙を浮かべていた。上目遣いで見上げられ、思わず生唾を飲み込んでしまう。

「あっ、ま、待て…」

再び口づけようと顔を寄せると、信が両手で桓騎の胸を押し退けた。

程良く嫌がる素振りを見せられれば、攻め立てて泣かせたくなるものだ。娼婦でさえもこんなにそそるやり方はしない。

男の欲を煽る要素しかない信の抵抗する姿に、まさかこれも計算だとしたら、とんでもない女だと苦笑を浮かべた。

「…まだ、誰にも抱かれたことがない」

「あ?」

目を逸らしながら信が呟くように言ったので、桓騎は驚いて聞き返してしまった。

まさか男を誘う術を熟知しているように見せかけて、生娘処女だったとは思わなかった。

信の年頃ならば男の味を楽しんでいるはずだろうに、一度も経験がなかったのには何か理由があるのだろうか。

まるでこちらの考えを読んだかのように、信が再び上目遣いで見上げて来た。

「お前から奇策を得るのに十分な対価・・・・・だろ」

つい先ほど、恥じらうように処女だと打ち明けた女と同一人物だとは思えないほど、妖艶な笑みだった。

破瓜というものは、女にとっては特別なものだ。
添い遂げる男へ捧げるため破瓜を守り抜く女だっているというのに、信にとっては違う利用価値があるらしい。

自らの純血を捨ててまで、自分の奇策を得ようとしているこの女に、桓騎はますます興味を引かれた。

「…もしも俺が奇策を教えなかったら、王翦に抱かれてやったのか?」

顎に指を掛け、恥じらうように目を逸らした信に、桓騎は問い掛けた。

信は少しも考える素振りも見せず、

「それ、嫉妬か?」

質問には答えず、懲りずにこちらを挑発するような笑みを向けて来た。

奇策を授けてやる代わりに、彼女の純血という十分過ぎる対価は受け取ってやるつもりだが、これはきつい灸を据えてやらねばと考えた。

自分のような男を取り入れようとした信が悪いのだ。

「んっ、う」

再び強引に唇を塞ぎ、桓騎は再び舌を差し込む。

舌を絡めながら、この女に男を喜ばせる技を覚えさせたら面白いことになりそうだと桓騎は考えていた。

 

 

手ほどき

歯列をなぞったり、舌に吸い付いたり、口づけを深めていくと、信の呼吸がどんどん激しくなって来た。

「は、ぁ…」

唇を離すと、まるで酒が回ったかのように、とろんとした恍惚の視線を向けられる。

扉を背に押し付けていたが、脚がおぼつかないでいる。

まさか口づけだけでそんな風に反応を示すとは思わず、桓騎の口角がにやりとつり上がった。

「来い」

奥の寝台へと彼女の腕を引いて連れていく。
寝台の上に押し倒されても、信は緊張する素振りを見せなかった。

生娘ならば、破瓜の痛みを想像したり、緊張で体を強張らせるものだが、信は違う。

まるでこの時を待っていたと言わんばかりの恍惚な笑みを浮かべながら桓騎を見上げていた。

(こいつに娼婦の才まで出ちまったら、国が滅びるな)

それは決して冗談ではなかった。
もしも信が男の味を占めて、奇策を扱うように男の扱いを覚えてしまったら、国を動かしかねない。

もしかしたら、彼女が嬴政と親友関係にあるのも、秦王を利用しようとしているのではないかとさえ思った。

二人は、嬴政が弟である成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いだとは噂で聞いていたが、まさか嬴政が秦王の座に就いて国を動かしていくことになるのだと想定した上での行動だったのかもしれない。

どこまでが彼女の描いた策通りに中華が動いていくのか、桓騎は新たな楽しみを見つけたように目を細めた。

華やかな装飾が施された帯を解き、着物を脱がせていく。

普段なら着物を脱がせれば、二つの膨らみにすぐ目がいくのだが、信は違った。

娼婦よりも男の欲を煽る彼女であったが、その肌は傷だらけで、見る者によっては性欲を萎えさせるような惨い傷が刻まれていた。

しかし、若さゆえの艶は十分過ぎるほど備わっている。加えて、鍛錬で培った引き締まった身体は無駄な肉などついておらず、しかし、女らしさを一番に語る胸は程良く膨らんでいる。

傷さえなければ、どんな男でもこの体に骨抜きになっていただろう。

しかし、同じ将として幾度も死地を生き抜いて来た桓騎は、その傷に愛おしさとも同情とも言える感情を抱いていた。

恐らく、他の将がこの傷を見ても同じ感情を抱くだろう。
この傷跡さえも、信にとっては男を惑わせる武器になるのかもしれない。

「んっ…」

胸の中央に真っ直ぐ刻まれている傷痕に舌を這わせると、滑った舌の感触がくすぐったいのか、信の身体がぴくりと震えた。

決して嫌悪は含まれていないその反応に、気を良くしながら桓騎は傷痕を舌でなぞり続けた。

 

「ぅ…」

信の手が桓騎の肩を掴む。制止を求めているのではなく、縋りつく先が分からずに掴んだのだろう。弱々しく震えている手がようやく生娘らしく見えて、桓騎は苦笑を浮かべた。

手の平で胸の膨らみを包み込むと、柔らかさだけでなく、しっとりとした肌の感触が伝わって来る。

いつもはさらしで覆っているようだが、こんな良いものを隠していたのか。
手の平で優しく揉みしだいていると、信が戸惑ったように眉根を寄せていた。

「あっ」

胸の芽を指先で弾いてやると、小さな声が洩れる。鼻奥で悶えるような吐息が聞こえた。緊張で身体を強張らせているものの、どうやら感度は良いようだ。

肩を掴む手に力が入ったのを見て、桓騎は胸の芽を指で摘まんだり、擦ったり、微弱な刺激を与え続けた。

やがて反応を示したかのように、胸の芽が立ち上がる。これで可愛がりやすくなった。

それまで桓騎の肩を掴んでいた手を口元へ持っていき、信が声を堪えようとしている。純血を捧げると言った割には羞恥心が切れないのだろう。

それとも浅ましい声を上げる自分を恥じてのことなのか、桓騎にはどちらでも良かった。

身を屈めて、桓騎が立ち上がったばかりの胸の芽に唇を寄せると、信の身体が小さく震えた。

上下の唇で胸の芽を食み、舌でくすぶる。

生暖かい舌の感触が沁みたのか、手の甲で押さえている口から呻き声が上がった。

戸惑いも混じっている声に気分を良くして、桓騎は口唇と舌を使って、胸の芽を愛撫する。反対の方は指で可愛がっていると、信の息がどんどん荒くなって来たのが分かった。

「っあ、うぅ」

軽く歯を立ててやると、悩ましい声が上がる。
もしも信が生娘だと話していなければ、きっと男と経験があるのだと誤解していたに違いない。

上目遣いで信の反応を楽しみながら、桓騎は胸を弄っていた手を彼女の内腿に滑らせた。

ひ、と信が息を飲んだのが分かった。生娘とはいえ、男と交わるために其処を使うことは知っているだろう。

まだ蜜を零す気配のない乾いた淫華に指を這わせると、信が火傷をしたかのように身体を跳ねさせた。

身を固くしている信の耳に舌を伸ばすと、鳥肌が立ったのが分かった。反応が演技ではないことが分かると、思わず口角がつり上がる。

「ぁっ、うあっ、やだッ、やめろ」

粘膜を直接犯される初めての感触に、顔を真っ赤にした信が桓騎を押し退けようと腕を突っぱねた。

構わずに耳の中を舌で犯しながら、二枚の花弁の合わせ目をなぞる。まだそこは固く閉ざされていたが、刺激を続けていくと、じわりと蜜が滲み出て来たのが分かった。

 

 

手ほどき その二

「はあっ…」

耳から舌を離すと、信は身体から力が抜けたように凭れ掛かって来た。

まだ前戯の最中でそのように脱力していては、男根を受け入れた時にどうなってしまうのか。

はあはあと息を荒げている信の体を抱き寄せながら、桓騎は淫華を指で弄り続ける。

「んんッ…」

胸を弄っていた時と同じく、切なげに眉根を寄せている。

「自分で弄ることくらいあるだろ」

指を動かしながら問いかけると、彼女は大きく首を横に振った。自分で性欲の処理をすることはないらしい。

自分の指で淫華を弄り、達している姿も見てみたいものだが、それはいずれの楽しみにしておこう。

彼女が今後も奇策を欲するのは目に見えている。
その瞳の先に何を見ているのかは分からないが、一つだけでは足りないはずだ。

今後も操と引き換えに奇策を教えてほしいと頼まれれば、桓騎はその条件を飲んでやるつもりでいた。

奇策だけではなく、男を喜ばせる術をこの体に仕込めば、間違いなく未来は面白い方向に進むと、桓騎は睨んでいた。

この女が内に隠している本性が知りたい。まだ身を繋げてもいないというのに、桓騎は信という女に夢中になっていた。

「あッ…!」

二枚の花弁を開くと、蜜のぬめりを利用して淫華に指を一本突き挿れる。
まだ体の緊張が抜けていないせいか、指一本入るのがやっとだった。しかし、蜜で潤み始めたそこは温かくて気持ちが良い。

自分でも滅多に触れない場所だからだろう、信の身体がより強張ったのが分かる。自分の男根を咥えさせるまでには時間がかかりそうだ。

その体を押さえつけて強引に男根を捻じ込むことも考えたが、この行為で恐怖を植え付けることが目的ではない。

むしろこの行為を気持ち良いものだと覚えさせた方が、後々、信にとっても動きやすくなるだろう。

「力抜け」

恨めしそうに信が見上げて来たので、桓騎は溜息を吐いた後、唇を重ねた。

「んッ、んむッ…ぅ…!」

まさかいきなり口付けられるとは思わなかったようで、信が目を見開いている。

舌を差し込んで唾液を流し込みながら、絡ませる。

淫華に入り込んでいる指を中で動かしながら、口づけを深めていくと、信が苦しそうに喘いでいる。

口づけと淫華への刺激に意識が分散しているようで、訳が分からなくなっているらしい。

狭い下の口を広げるように指を大きく動かしていくと、信が鼻奥で悶えるような吐息を洩らした。

 

 

指を動かす度に、蜜がどんどん溢れて来るのが分かる。

ぬるぬると指が滑るが、柔らかい肉壁は指を離さないように、きゅうと締め付けて来た。これは極上の夢を見させてくれそうだ。

「んううっ」

滑りを利用して指を二本に増やすと、口づけの合間にくぐもった声が上がった。肩口に顔を埋めながら、必死に声を押し殺そうとしているらしい。

「ふ、うッ…」

鉤状に指を折り曲げると、信の身体が大きく跳ねる。蜜の潤いがあっても、中はまだ狭い。

破瓜の痛みを少しでも和らげるために、桓騎は鉤状に折り曲げた指で、中を解し始めた。

中で二本の指を動かす度に、小さな水音が上がる。室内に響くその音にさえ羞恥心があるのか、信は桓騎の肩口に埋めた顔を上げられずにいるようだった。

「は、う…っ、んん…」

吐息の合間に洩れる甘い声が鼓膜を揺する度に、桓騎の下半身が重くなる。触れてもいない男根が硬く上向いているのが分かった。

今日は信の記念すべき初夜になる。
男を喜ばせる方法はまた次の機会に教えてやろうと考えながら、桓騎も軽く息を乱しながら指を動かし続けていた。

 

 

極上の夢

しつこいほど中を指で動かし続けた甲斐あって、信の其処は慣れを見せ始めていた。まだ男根を咥えるには少し狭いが、もうこれだけ解せたのなら良いだろう。

「っあ、はあ…」

指を引き抜くと、信の内腿が僅かに震えた。

「跨れ」

胡坐をかいた状態で信の腕を掴みながら指示すると、言われるままに、立ち膝の状態で桓騎の上に跨った。しかし、これからどうしたらいいのか分からないと言った視線を向けられる。

桓騎は自分の男根を掴むと、信の足の間にある淫華の中心に先端を押し当てた。

「あ、ッ…?」

先ほど存分に指で解した場所は、蜜でぬるぬるとしている。

「自分で腰下げろ」

まさかそんなことを言われるとは思わず、信が瞠目する。

「痛けりゃ自分で止めればいい。この姿勢なら出来るだろ」

「……、……」

正常位で貫く手もあったが、桓騎はあえてその手段を選ばなかった。
言葉だけ聞けば、情を掛けたように思えるが、決してそうではない。自らの意志で自分に純血を渡したのだと、思い知らせたかったのだ。

「ほら、俺の首に腕回せ」

「う…」

言われるままに、信は桓騎の首に腕を回す。その表情には緊張だけではなく、僅かに不安の色も浮かんでいた。

「ふ、…うぅ…」

淫華に太い亀頭が当たると、信は桓騎の身体にしがみ付いた。先ほどまで指で広げていた其処がみちみちと押し開かれていく。

「いッ、たぃ…」

まだ入り口を押し広げているだけだというのに、ここで音を上げるのは早過ぎる。

細腰を掴んで一気に貫いてやろうかと思ったのだが、信は額に脂汗を浮かべながら、腰を下ろすのをやめなかった。

「う、ぅうっ…」

しかし、一番太い亀頭部を飲み込んだ辺りで、信はいよいよ腰を下ろすのをやめてしまう。決して演技などではなく、本気で痛がっているようだ。

戦場で受けるような傷とは違い、身体の内側を抉られる痛みというのは未知の痛みだったのだろう。

破瓜の痛みは男が想像出来ない苦痛だというが、幾度も致命傷となり得る重傷を負った信ですらこの有り様ならば、酷い痛みに違いない。中途半端に下ろしている腰が震えていた。

まだ処女膜を破るほど咥え込んではいないようだが、このままでは埒が明かない。

自ら咥え込むまで待ってやるつもりではあったものの、桓騎にはあまり余裕が残っていなかった。

破瓜の痛みはどちらにしても避けられないのだから、早く済ませてやった方が苦痛が長引かなくて良いかもしれない。

「息、止めんなよ」

信の細腰を両手で掴むと、桓騎は容赦なく彼女の身体を下に引き摺り下ろすために力を込めた。

「えっ、あ、待てっ、や、ぁあーッ!」

耳元で甲高い悲鳴が上がり、背中に爪が立てられた。

痛みに悶える体を押さえ込むようにして、桓騎は男根を深く咥えさせる。
悲鳴を上げた信が桓騎に肩に額を押し付けて、苦しげに呼吸を繰り返す。痛みのせいか、内腿ががくがくと震えていた。

「しばらくは動かないでおいてやる」

「っ…、……、…」

すすり泣く声が聞こえて、桓騎は慰めるように彼女の頭を撫でてやった。

奇策と引き換えに自らの破瓜を差し出した度胸は認めるが、今の弱々しい信の姿に将の面影はない。

女としての幸せを掴んで生きる手段もあっただろうに、信が将にこだわる理由とは何なのだろうか。

 

 

「桓、騎…」

涙を流しながら信に見上げられ、桓騎の喉が音を立てて上下した。

まだ彼女の表情から苦痛の色は消えていなかったのだが、身を繋げたまま寝台に押し倒す。

「う、ぐっ…」

体勢が変わったことで、より深く桓騎の男根が奥へ入り込み、苦しそうな声が上がった。色を失った彼女の指先が、敷布を掴んでいるのが見えた。

視線を下ろすと、二人が繋がっている部分に血の涙が伝っていた。紛うことなき、信が桓騎に破瓜を捧げた証である。

途端に愛おしさが込み上げて来て、桓騎は自分でも無意識のうちに、彼女に口付けていた。

「んん…ん、ぅ…」

涙を流しながら、信は健気に自分の口づけを受け入れている。痛みのせいで抵抗する気力もないのだろう。

「っ…んん、う…」

口づけながら、桓騎は信の下腹部を撫でた。
自分の男根を受け入れている彼女の腹は僅かに膨らんでおり、まるで自分の子を孕んだかのようだった。

身体を繋げただけだというのに、まるでこの女が自分のものになったかのような錯覚を覚え、陶然としてしまう。

お互いの性器が馴染むまでは、先ほど言ったように動くつもりはなかった。

抱き締めた腕の中で、信がぐすぐすと鼻を啜っている。涙に濡れた頬に、優しく唇を押し当ててやった。

「…桓騎」

それまで俯いていた信が、ようやく顔を上げる。
破瓜の痛みに打ち震えていた彼女は、思わず鳥肌を立ててしまうほど、妖艶な笑みを浮かべていた。

涙で濡れた瞳が、男の欲を激しく煽る。

二人が繋がっている部分に手を伸ばし、信はそっと指を這わせた。

「…貢ぎ物の味はどうだ?」

妖艶な笑みを崩すことなく、信は破瓜の血で赤く染まった指で桓騎の唇をなぞり、彼の口の中にその指を突き入れた。

舌の上に破瓜の血を纏った指を押し付けられ、鉄の味と、普段から嗅ぎ慣れている血の匂いが広がる。

他の誰でもない自分の男根を咥え、女になった信を目の前に、桓騎は思わず身震いした。

「気に入った」

唇に塗りたくられた破瓜の血を舐め取ると、恍惚な笑みを浮かべ、桓騎は信の細腰を抱え直した。

奇策どころか、自分の全てを与えてやってもいい。

全てを捧げたいと思うほど、桓騎は目の前の女に夢中になっていることを嫌でも自覚するのだった。

 

 

極上の夢 その二

信の足の間に伝っていた破瓜の血は、淫華の蜜と白濁で流れてしまったようだ。

濃い疲労の色を顔に浮かべながらも、信は桓騎の話に耳を傾けている。

この女ならわざわざ自分に聞かなくても、自分で閃きそうなものだがと思いながら、桓騎は約束通りに奇策を授けたのだった。

「…秦王に咎められそうだな」

信の首筋を指でなぞりながら、からかうように桓騎が笑った。

彼女の白い首筋には、行為の最中に桓騎が吸い付いた赤い痣が幾つも残っていた。この女を欲した自分の欲の表れである。

「政が?なんでだよ」

「あれはお前のことを気に入ってるだろ。見りゃ分かる」

信が不思議そうに小首を傾げていたが、肩を竦めるようにして笑う。

「…まさか、俺が国母の座を狙ってると思ってんのか?」

「お前みたいな女が后になったら三日で国が滅ぶな」

冗談混じりにそう言うと、信があははと笑った。

「何のために奇策を知りたがる?」

桓騎が問い掛けると、それまで笑っていた信の顔から表情が消えた。
奇策を扱う理由は、秦軍を勝利に導くためとは思えなかった。奇策を用いなくても、飛信軍の強さは十分にあるはずだ。

しかし、敵の捕虜や民に非道な行いをする桓騎から奇策を授かるのは、秦王への忠義に反しているのではないだろうか。

過去に行って来た虐殺を嬴政から咎められ、桓騎が幾度も処罰を免れていたのは、奇策を用いて勝利に導くことが一番の理由である。

そんな男から奇策を授かるために純血を捧げたとなれば、嬴政も黙ってはいないだろう。

信が嬴政にこのことを話すかは分からないが、言わないのではないかと桓騎は思った。

「…慌てふためく姿が見たい」

「あ?」

予想もしていなかった言葉を返され、桓騎はつい聞き返していた。

寝台に横たわりながら、信が隣に横たわっている桓騎に身を寄せた。

「…澄まし顔して余裕こいてるやつが、慌てふためいて、悔しそうな顔をして俺から逃げ出す姿が見たい」

静かにそう答えた信に、今度は桓騎が笑う番だった。

彼女が奇策を求める理由はあまりにも単純かつ、明白なものだった。要するに、自分が気に入らない相手に、とことん嫌がらせをしてやりたいのだ。

秦軍を勝利に導くためだとか、嬴政への忠誠のためだとか、そんなつまらない理由でないことは分かっていたが、あまりにも答えが意外過ぎて、笑いが止まらなくなる。

「いいな、お前」

本当に気に入ったと言うと、信の口元に刻まれた笑みがますます深まった。

しかし桓騎は、屋敷に訪れた時と同様にそのように答えれば・・・・・・・・・自分に気に入られるだろうと信が予見していることに気づいていた。

とことん内に秘めた本性を見せようとしない信だからこそ、惹かれたのだろう。

自分と同じ卑怯者の匂いを、桓騎は信と初めて出会った時から感じていたのである。

 

桓騎×信のバッドエンド話はこちら

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蝸牛角上の争い(蒙恬×信・王賁×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/ギャグ寄り/ほのぼの/咸陽宮/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

信の将軍昇格

名家と謳われる王家の本家嫡男である王賁、そして天下の大将軍と称えられた王騎と摎の養子である信。二人の仲の悪さは、秦国内で有名だった。

顔を合わせれば、お互いに嫌悪を剥き出し、敵対関係にあると言っても過言ではない。

守るべき国は同じのはずなのに、二人は根本的に馬が合わないのだろう。

しかし、蓋を開けてみれば一方的に嫌っているのは王賁の方である。
信は彼から突きつけられる言葉に憤り、最終的には言い合いから喧嘩へと発展するのが習慣化していた。

なぜそこまで王賁が信を毛嫌いしているのかというと、元下僕の出身という後ろ盾のない信が、名家の一員に加わることが許せなかったのだ。

馬陽で龐煖に討たれた王騎は、同じく馬陽でその命を散らせた妻・摎との間に子がいなかった。

子に恵まれなかったわけではないのだが、下僕出身の信に将としての才を見出し、二人は彼女を養子にすることに決めたという。

信は王騎と摎のもとで武術の腕を磨き、今や彼女が率いる飛信隊の名は中華全土に広まっている。

軍略はからきしであった彼女も、両親の死を乗り越え、今では本能型の将としての才能開花させたのである。

そして、此度の戦で武功を挙げた信は、いよいよ五千人将から将軍へと昇格になった。

元下僕の出身である彼女が将軍になったという話は、秦国中だけでなく、たちまち中華全土に広まることとなる。

 

論功行賞の後に行われた宴は三日三晩続き、翌朝になって、信はようやく屋敷へ帰ることを許された。

浴びるように酒を飲み続けたせいで足下がおぼつかない。二日酔いでひどく気分が悪かった。気を許せばすぐに倒れ込んでしまいそうだ。

親友であり、この秦国の王である嬴政からは「あと数日くらい休んでいけ」と言われたのだが、両親から受け継いだ屋敷をいつまでも空けておく訳にはいかない。

ふらふらとした足取りで、愛馬を預けている厩舎に向かっていると背後からぽんと肩を叩かれた。

「信将軍。まさか護衛もつけずに、一人で帰るつもり?」

声を掛けて来たのは蒙恬だった。
彼も楽華隊隊長として此度の戦では大いに武功を挙げたが、将軍昇格には至らなかった。

酔いの名残のせいか、頬を紅潮させている信は、眠そうな目を擦りながら声を掛けて来たのが蒙恬だと分からずにいるようだった。

蒙恬とは祝宴の場でも酒を飲み交わし、互いの武功を大いに讃え合った。先に帰ったのかと思っていたが、彼も三日三晩の宴を最後まで堪能していたらしい。

信以上に酒を飲んでいた彼は少しも酔っている姿を見せなかったし、今も普段と変わりない。父親譲りのザルなのだろう。

「んあ…?蒙恬…?お前、帰ったんじゃなかったのかよ」

「信と二人きりで話せる機会を伺ってた」

端正な顔立ちである蒙家の嫡男に、笑顔でそんなことを言われれば、多くの女性は黄色い声を上げて胸をときめかせるだろう。しかし、相手が悪かった。

「はあ~?宴でもさんざん喋ったじゃねえか。もう帰って寝るんだから邪魔するなよ」

将という立場で、お互いに切磋琢磨し合う関係である信には、蒙恬の甘い言葉は少しも効き目がないらしい。

もちろん長い付き合いで、そんなことは自覚している蒙恬が引くことはなかった。

「王賁から祝いの言葉は掛けられたの?」

良い気分でいるというのに、その名前は聞きたくなかったのだろう。あからさまに顔つきが変わった信に、蒙恬は返事を聞かずとも質問の答えを理解した。

「相変わらずだなあ…素直におめでとうって言ってあげればいいのに」

呆れるように肩を竦めて呟くと、信が、ふんっと鼻を鳴らした。

「いいんだよっ、あんなやつ!」

「信も信なら、賁も賁だよ。…ほんと、似た者同士なのに仲悪すぎ」

やれやれと蒙恬が笑った。二人の不仲を一番間近で見て来たのは蒙恬だ。

王翦将軍は王賁の父であり、蒙恬の祖父にあたる蒙驁将軍の副官である。その繋がりがあるせいか、王賁は蒙恬と幼い頃から付き合いがあった。

しかし、王賁は信との付き合いの方が長い。本家と分家の違いはあるものの、王家の繋がりがあるのだ。二人がずっと不仲なのを、蒙恬は昔から傍で見ていた。

いつも王賁と信の間に割り込んで、二人の喧嘩を制止するのが蒙恬の役割になっていた。

 

不仲な二人

「…と、噂をすれば。おーい、賁くん」

蒙恬がそう言って大きく手を振ったので、信があからさまに顔を強張らせた。

振り返ると、いつものようにしっかりと整えた身なりの王賁がこちらへ歩いて来ているところだった。

てっきり先に帰っていると思ったのだが、彼もこれから帰るところだったのだろうか。

こちらに気づいた王賁だけでなく、信までもがあからさまに目を背け、お互いを視界に入れないようにしている。

ここまで同じ行動をすることができるのに、どうしていつまでも不仲でいるのか、蒙恬には分からなかった。

蒙恬に声を掛けられたからというよりは、こちらの方向に用があっただけなのだろう。一度も二人に視線を向けることなく、王賁が近づいて来る。

顔つきはいつものように不愛想だったが、その瞳には怒りの色が宿っていた。恐らく信の将軍昇格が気に入らないのだろう。

「…素直にお祝いしてあげればいいのに…」

二人の横を過ぎ去ろうとした時に、飽きれたように蒙恬が呟く。

「王賁なんかに祝われても嬉しくねーよ」

自分たちの前を通り過ぎた王賁の背中に、明らかな敵意を持った信の言葉が投げられる。
これにはさすがの蒙恬も、笑顔を引きつらせた。

きっと彼女が発したのは無意識なのだろうが、だとしたら余計にたちが悪い。

どうやら信の挑発とも取れる言葉に足を掴まれたらしい。こめかみに青筋を浮かべた王賁が振り返って、信の胸倉を掴みかかった。

「貴様ッ…何度も言っているが、下僕出身の分際で、王家の名を汚すなッ!」

近距離で王賁に凄まれ、大抵の者ならこれだけで怯んで言葉を失ってしまうだろう。
しかし、信は負けじと挑発的な視線を返した。口元には余裕を思わせる笑みさえ浮かべている。

胸倉を掴んでいる腕を振り払うのではなく、同じように信も王賁の胸倉を掴み返した。

「その下僕出身の女は、お前よりも上の立場になったんだよ!」

下僕という低い身分を嫌っている王賁が信に唯一敗北したことといえば、先に将軍昇格をされてしまったことだ。

将だけでなく、相性が悪いのは飛信隊と玉鳳隊の兵たちも同じである。

此度の信の将軍昇格を誰よりも喜んでいたのは飛信隊だった。
それまで自分たちをバカにしていた玉鳳隊へ大きく差をつけたことと、身分は関係なく、信と飛信隊の強さが証明されたことを飛信隊の兵たちは大いに喜んでいた。

戦の勝利を祝う宴だというのに、玉鳳隊だけが苦虫を噛み潰したような顔をしていたことに気付いたのは蒙恬だけではないだろう。

いつも下に見ていた女が将軍昇格となり、自分より高い立場に立った事実を、王賁は未だ受け入れられないのだろう。

「ふざけるな…!俺は認めぬぞッ」

「てめえに認められなくたって、俺は将軍になったんだよッ!」

「貴様ッ」

いよいよ王賁の怒りが頂点に向かっているのを察した蒙恬は、まずいと二人の間に割り込んだ。

 

 

「はい、そこまでッ!」

大きく両手を広げて、蒙恬は二人に物理的な距離を取らせる。
怒りのあまり、肩で息をしている二人が蒙恬を挟んで睨み合いを続けている。まるで縄張り争いをしている獣のようだ。

もしもこの場に蒙恬がいなければ、すぐにでも殴り合いが始まっていたに違いない。信が女であっても、王賁は決して容赦はしないのだから。

それこそ信を将として認めている証拠だと本人は気づいていないようだが、手を抜けば信から大いに反撃を許すことにもなるからでもあった。

未だ睨み合いを続けている二人に、蒙恬が冷静に声を掛ける。

「二人とも、いい加減にしろよ。それ、戦でもやるつもり?」

むしろ、戦場にいる時の方が同じ目的を持っていることもあって、多少は仲が改善しているように思えた。

しかし、もしも今の壊滅的な不仲が戦で現れれば大きな損失をもたらすことになる。

「味方同士だって言うのに、そんなんじゃ士気に影響するだろ」

同じ持ち場についた時に足を引っ張りかねないと蒙恬は指摘したが、二人は腕を組んで、顔ごと視線を逸らしている。

「文句があるなら、俺と同じ将軍になってから言えってんだ」

「貴様ッ…!」

「なんだよ、間違ってねえだろッ!?立場を弁えてる・・・・・・・からこそ教えてやってんだよ!」

「あー、もう、またそうやって煽る…!」

一向に喧嘩の気配が過ぎ去らない。
割り込んだものの、王賁と信の瞳から闘争心の消えないことに呆れ果てた蒙恬は肩を落とした。

せっかく喧嘩を止めようとしてくれた蒙恬の心遣いも無駄に終わったようだ。

「下がってろ、蒙恬!やっぱり泣かせてやらねえと気が済まねえ」

間にいる蒙恬を押し退けた信は拳を握り、バキバキと骨を鳴らした。女だということを忘れてしまいそうなほど信の顔が恐ろしい形相に歪んでいる。

「泣かせるだと?下僕の分際で、よくそんな口が叩けるものだな」

対する王賁は少しも怯むことなく、一歩前に出て信と睨み合っている。
殺意が込められた視線がぶつかり合い、周囲にはとんでもなく重い空気が広まっていた。

「もう、二人とも…」

すぐにでも殴り合いでも始まりそうだと、蒙恬が再び間に割り込もうとした時だった。

「そんなところで何をしている」

背後から掛けられた声が引き金となった。

「えっ?」「あ」「ふがッ!」

蒙恬は驚いて振り返り、王賁は素早く拳を振りかぶり、信は声の主を探そうとして気を抜いたところを王賁に殴られた。

鼻血を噴き出しながら仰向けに倒れ込んだ信は目を剥いていて、体を僅かに痙攣させている。

王賁の重い拳が信の左頬に見事に決まったらしい。

「信ーッ!」

倒れ込んだ信に、蒙恬が真っ青な顔をして駆け寄る。肩を揺すって何度も声を掛けるが反応がない。

左頬がみるみるうちに真っ赤に腫れ上がっていく。意識を失っているところを見ると、少しも加減せずに王賁が殴りつけたのだと分かった。

「はあ…手を出す喧嘩は子どもの時だけにしてよ…」

命に別状がないことは分かったものの、蒙恬は重い溜息を吐く。

王賁と言えば、いつものように信が拳を回避するか受け止めるだろうと思っていたらしく、気絶している彼女を見下ろしてあからさまに狼狽えていた。

「……何をしている」

三人に声を掛けたのは軍の総司令官を務める右丞相の昌平君だった。普段よりも眉間の皺が三割増しである。

彼の視線が気を失っている信に向けられており、蒙恬がしまったと顔を引きつらせる。

「いえ、ちょっとしたじゃれ合い・・・・・を…」

そんな言葉で片づけられないのは誰もが分かっていた。

 

 

昌平君の仲裁

重い瞼を持ち上げると、ここ数日のうちにすっかり見慣れた部屋にいることに気がついた。

夜通し行われていた祝宴の間、信が寝泊まりをしていた咸陽宮の一室だった。寝台に寝かされていたらしい。

「う…いでで…」

熱く痺れるような鈍い痛みが走り、反射的に左頬に手を添えると、冷たい水で絞った布が当てられていたことに気付いた。

「あ、起きた?」

寝台の傍で座っていた男が振り返る。蒙恬だった。
信は状況が分からず、なぜ自分たちがここにいるのか問おうとした。

「っ…」

その瞬間、唇がひりひりと痛み、口の中いっぱいに血の味がした。どうやら唇も切っていたらしい。

「ほら」

蒙恬に水差しと空の器を渡され、信は軽く口を漱ぐ。切れた唇に水が沁みた。

「王賁はさっさと帰っちゃうし、代わりに俺が先生から怒られるし、信は気絶したままだし…はあ、本当に最悪だったよ」

重い溜息を吐きながら、蒙恬が肩を竦めるようにして笑う。

「くっそぉ…油断した…!」

王賁に殴られて気を失ったのだと思い出した信は、憤怒に顔を歪めた。殴られたことが悔しくて堪らないのだろう。

しかし、憤怒しているのは蒙恬も同じだ。二人の喧嘩を止めようとしたはずの自分が昌平君に説教をされたことが納得出来ず、彼も苛立ちを見せている。

「…無理に仲良くしろとは言わないけど、二人の仲の悪さはいつか戦で命取りになる。最低限の連携はしろよ」

真剣な表情で諭すように言うと、信がむすっとした表情で振り返った。

「言っとくが、あいつの方が俺を毛嫌いしてんだよ!王賁が素直に従うんなら俺だって…!」

王賁は名家の生まれのせいか自尊心が高く、下僕出身の信が同じ王家という立場にいることがずっと許せないらしい。

信の方は下僕出身であることを気にしている訳ではないようだが、王賁の酷い物言いに耐え切れず、言い返してしまうのだ。まさに売り言葉に買い言葉である。

「王賁は自尊心の塊だからなあ…」

下僕出身である信が同じ名家の立場にいることも許せないのに、そんな彼女が此度の昇格によって、自分よりも高い地位についたことが尚更許せないのだろう。

祝うどころか、その地位から引き摺り下ろしてやろうとするほどの遺恨を感じる。

「二人って、昔からそんなに仲悪かったの?」

さり気なく尋ねると、信はきょとんと眼を丸めた。

「…ガキの頃は、今よりかはマシだったな」

天井を見つめながら、信が昔を懐かしむように言う。

王家同士の付き合いもあり、幼い頃から面識はあった。王賁は槍を、信は剣を振るい、共に稽古をするも珍しくはなかった。

槍を使ってみたいと言った信に槍の構え方を教えてくれたのも王賁だった。

お互いに秦だけでなく、この中華全土に名を轟かせる天下の大将軍になるという夢を抱き、切磋琢磨し合っていた。

ある日、王賁は手のひらを返したように態度を変えたのだ。

それまで兄のように慕っていた王賁の態度が変わり、あからさまに避けられるようになってから、当時の信は戸惑った。

―――立場を弁えろ。

まるで汚らわしいものを見るような目で王賁にその言葉を言われた時、信は涙こそ流さなかったものの、激しく動揺した。

今でも鮮明にその時のことを思い出せるのは、それだけ心に深い傷を負ったからだろう。
信は大きな溜息を吐いた。

「…ガキの頃の俺は、なんで避けられてるのか分かんなくて、王賁より強くなりゃあ、また優しくしてもらえるかもって思ったんだよな」

当時の信は、王賁が名家の嫡男であることは知っていても、彼が低い身分の者を疎ましく思っていることなど知らなかった。

王賁が自分を嫌うようになったのは、自分が彼より弱いからだと当時の信は疑わなかった。

もちろん養父である王騎のもとで修業を積んだことも大きく影響しているが、信が必死に強さを求めたのは、王賁に以前のように接してもらいたかったからだった。

 

蒙恬の策略

「それが、あいつより上の立場になったところで、なーんにも変わらなかったな」

「信…」

同情するように、蒙恬が切なげに眉を寄せて話を聞き入っている。

王賁に殴られた頬が鈍く痛む。
何の感情か分からない涙が出そうになって、信は寝返りを打つふりをして蒙恬から顔を背けた。

彼女の背中をそっと擦ってやり、蒙恬は唇を固く引き結ぶ。

それから意を決したように、信に声を掛けた。

「…もう、王賁のことは放っておきなよ」

「………」

聞こえているだろうに、信は返事をしなかった。

「王賁を振り向かせたいって理由で将軍になった訳じゃないだろ」

背中を向けたままの信が小さく頷くと、蒙恬の口角が僅かにつり上がった。

「信は信のままで良いんだよ。王賁の態度が変わらないっていうのは今回の将軍昇格で分かったんだし、もう放っておけよ」

優しい言葉で慰めながら、蒙恬は信の心に寄り添った。それこそが、王賁という恋敵を遠ざける蒙恬の策略である。

王賁と信の仲が悪いのは昔からではあったが、二人は幼い頃から闘争心を向け合っている。

そしてそれが恋にすり替わった途端、それまでの仲の悪さなど瞬時に忘れ去ってしまうだろうと危惧していた。

昔から信にずっと想いを寄せていた蒙恬は、二人の関係を仲の悪い幼馴染から恋人同士に発展するのを何としても阻止しようと、いつも傍で見張っていたのだ。

王賁の態度が冷たいことに、信がいつも傷ついているのは明らかだった。

当の本人は自覚がないようだが、もしもそれが王賁に好意を寄せているからだと気づけば厄介なことになる。

そして王賁自身も、信にあのような態度を取ってはいるものの、いつも信の姿を目で追っている。

信と王賁がお互いに両想いであることは、第三者の目からすれば明らかだったのだ。

しかし、その恋を成就させてやるほど、蒙恬もお人好しではない。
むしろ二人の表面的な不仲を理由に、信を自分の妻に迎え入れようという計画を長年ずっと企てていたのである。

「…王賁は信の将軍昇格が気に入らないみたいだけど、俺は、信がずっと努力してたのを傍で見てたから知ってるし、素直に嬉しいよ」

そう言うと、信はゆっくりと振り返って、寝台に横たわったまま蒙恬を見つめた。

彼女に見つめられると、心臓が早鐘を打ち始める。しかし、蒙恬は表情を崩さずに言葉を続けた。

まだ赤く熱を持っている左頬を撫でてやり、にこりと笑みを深める。

甘い声で囁き、頬や髪に触れながら、優しい笑みを向ける。…これで落ちなかった女は今のところ一人もいない。

その自信を胸に携えながら、蒙恬は次の信の言葉を待った。

 

 

「…ん、ありがとな」

恥ずかしそうに信が小さな声で礼を言ったので、信の心は揺らいだに違いないと蒙恬は心の中で高らかに叫んだ。

しかし、ここで焦ってはいけない。自分からではなく、むしろ相手が自分を誘うまで、とことん焦らすのが女性の心を搔き乱す方法だと、数多くの女性を相手にして来た蒙恬には分かっていた。

「今日はゆっくり休んで」

優しく頭を撫でてやり、寝台から立ち上がる。

ここで背を向けた時に「行かないで」と着物を掴まれたなら、確実に信の心を掴み取ったことになる。

(…おかしい)

しかし、信は蒙恬の着物を掴むことも、言葉を掛けることもしない。

寝台から立ち上がってから自分に背中を向けたまま、一向に動き出さずにいる蒙恬に、信が不思議そうに小首を傾げていた。

「何してんだ?行かねえのか?」

「…いや…えっと…」

ここまで距離を詰めたというのに、自分を引き留める素振りすら見せないということは、まさか信の心は少しも揺らいでいないのだろうか。

「信、あのさ…」

「ん?」

振り返ると、信は寝台に横たわったまま、今度は寛いだ表情を見せていた。

恥じらいの表情ですらなかったことに、やはりまだ心は自分の方にさえ向いていないのだと蒙恬は奥歯を噛み締める。

「蒙恬?」

「…王賁ともう関わるなよ」

静かにそう言うと、信が何度か瞬きをしていた。しかし、蒙恬はそれ以上何も言わずに部屋を出ていく。

後ろ手に扉を閉めながら、他の女ならば容易く自分に落ちるのに、どうして信は自分を見てくれないのだと溜息を吐いた。

 

蒙恬の困惑と信の謎

異変が起きたのはその後からだった。

信が王賁を避け始めたのだ。蒙恬が自分の目で見たのだから間違いない。

普段は王賁の姿を見かけるなり、肩を叩いて気軽に声を掛けていた信が、あからさまに彼がいる進路とは反対の道に方向転換をしていた。

自然な素振りは一切なく、王賁の姿を見つけた途端におろおろと動揺するものだから、彼女の異変に気付いたのは蒙恬だけではなく、王賁もあからさまに自分を避け始めた信に気付いたようだった。

嘘を吐けない性格である彼女が、自然な振る舞いが出来ないことに苦笑を浮かべながらも、蒙恬の心中は穏やかだった。

これで王賁との接点が少なくなり、二人にますます距離が出来るだろう。そこを自分が詰め寄るという作戦だ。

王賁を避けることで、信の心は寂しさを覚えるかもしれない。
そこで王賁に恋をしていると自覚する前に、その寂しさを自分の温もりで埋めてしまえば信を自分のものにできると蒙恬は考えていた。

蒙恬の中では完璧なまでの作戦だったのだが…。

 

後日、王賁と蒙恬の姿を見つけるなり、信はあからさまに二人を避けようと踵を返した。

自分が言った通り、王賁を避けようとしているのだろう。
そのことに気を良くしながら、蒙恬は小走りで信の背中を追い掛けて、彼女の肩を掴んだ。

「信。あれから調子は、ど、う…?」

肩を掴んだ途端、その手を振り払われて蒙恬は愕然する。行き場を失った手が宙を切り、遠ざかっていく信の小さな背中を蒙恬は呆然と見つめていた。

(…まさか、俺まで避けられてる…!?)

完璧と思える作戦だったはずなのだが、信はなぜか王賁だけでなく、蒙恬まで避けるようになっていたのだ。

…それからも蒙恬と王賁は、あからさまに信から避けられる日が続いた。

嘘を吐けない信の態度はとても分かりやすい。蒙恬と王賁の姿を見れば、途端にあたふたと左右を見渡して退路を探すのだ。

王賁はそんな信を見ても何も言わなかったが、蒙恬の心中は穏やかではなかった。

逃げられる前にと蒙恬の方から声を掛けたこともあったのだが、信はすぐに踵を返して蒙恬に背を向けて逃げ出してしまう。

その時は隣に王賁が居たからだろうと思っていたのだが、信は蒙恬が一人の時でも同じように逃げ出していったのだ。

いったいどうして自分まで避けられるようになってしまったのか、蒙恬は少しも理由が分からず、

「賁はともかく、なんで俺まで避けられてるんだッ…!?」

髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き毟りながら、蒙恬は心中の疑問を吐き出した。

隣を歩く王賁は相変わらず他者を寄せ付けない厳しい表情のまま「知るか」と呟いた。

しかし、あからさまに避けられるようになってから、王賁の態度にも変化が見られるようになった。

信のことを目で追っているはずの彼が、信がいない時も彼女の姿を探すようになっていたのだ。

そのことに蒙恬はいち早く気づき、このままでは痺れを切らした王賁が信を捕まえて、彼女に思いの丈を打ち明けるのではないかという不安を抱いた。

 

後編はこちら

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卑怯者たちの末路(李牧×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/シリアス/合従軍/IF話/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

同盟

合従軍で秦を完全包囲し、侵攻するという同盟の話は、皮肉なまでに円滑に進んでいた。

密林の中に用意した天幕で、楚の宰相である春申君との会談を終えた李牧は、着実に秦を滅ぼす準備が整って来たことを実感する。

「…?」

天幕を出ようとすると、外が何やら騒がしいことに気が付いた。

この天幕がある密林の中に連れて来たのは、必要最低限の護衛と側近のみ。他の兵たちは密林の外で待機している。

会談を互いの国で行わなかったのは秦の者たちに、この同盟を勘付かれないための警戒である。

人目を忍び、何より情報漏洩を防ぐために警戒を行い、この密林で会談を行うよう指示を出したのは李牧本人であった。

味方ならまだしも、もしも秦の何者かに楚と趙の宰相が二人一緒にいるところを見られれば、確実に何か企みがあるに違いないと気づくはずだ。騒ぎの正体が何か分からない以上、警戒も怠ってはならない。

楚の丞相である春申君には状況が分かるまでここに残っているように伝え、李牧は一人で天蓋を出た。

「何事ですか?」

外で待機している側近のカイネに声を掛けるが、彼女の姿が見えない。春申君の護衛を担っている兵の姿もなかった。

「…?」

こちら側にいる人間の合図があるまでは、密林の外に待機させている将や兵たちは動き出さない。

しかし、騒ぎの音がする方向を追えば、兵たちが待機している方ではなく、この密林の中だ。一体何が起きているのか。

李牧は護身用の剣を携えると、護衛たちが通ったと思われる痕を追い掛けて、音のする方へと向かった。

 

「!」

草木を掻き分けて道を進んでいくと、何かに足を取られた。咄嗟に後ろに退き、転倒は免れる。

黒い鎧を纏っている兵の亡骸だった。楚の宰相の護衛として天蓋の外に待機していた男だ。

首に弓矢が貫通しており、鼻と口から泡の混じった血を流していた。正面から毒矢を受けたのだろう。

太い血管の通っている首を射抜かれた上に、毒が全身を蝕み、苦痛の中で死んでいったに違いない。苦悶の表情がそれを物語っていた。

毒矢を放った者がいるようだ。李牧は周囲の警戒を怠ることなく、兵の亡骸を観察した。
確かこの男は春申君の護衛をするにあたり、毒矢を装備していた。

「………」

兵が倒れている傍に、矢籠と他の毒矢が落ちている。首を射抜いている者と同じ矢だった。

この兵が毒矢で射抜かれたのは間違いないが、相手はこの兵の矢を奪って首を刺したのかもしれないと考えた。

接近戦に持ち込んだということは、まだ相手が近くにいる可能性が高い。

李牧は気配を探りながら、まだ先に続いている足音を辿った。
奇襲だとしたら、すぐに合図があったはずだ。それに、側近であるカイネが自分への報告もなしに追い掛けていったのも気がかりである。

楚の宰相の護衛を務める兵は相当な手練れだった。幾度も死地を駆け抜けて来た李牧が見ただけでそれを察したのだから、間違いない。

そんな彼が毒矢で正面から首を射抜かれていたのだ。背後からではなく、正面から射抜かれていたのを見る限り、相手も相当な手練れに違いない。

ここまで警戒を行った上で始めた楚趙同盟の会談を阻止しようとした者の犯行に間違いない。

(気づかれた?誰に?)

今回の同盟の目的は秦国を滅ぼすことだ。他の五国はほとんど会談を終えており、秦国を滅ぼすことに同意している。

この同盟に利益があるのは五国であり、大きな損失を受けるといえば秦国だけだ。

(秦の者が勘付いた?まさか、ここまで隠し通していたのに)

引き続き周囲を警戒をしながら、思考を巡らせた。

楚の宰相からも既に同盟の返事はもらっている。あとは秦国を攻め立てる戦の準備に移る手筈を整えるだけだというのに。

まさかここに来て秦の者に勘付かれるとは、李牧も予想していなかった。

姿は見えていないが、相手が意図的にこの同盟を阻害しようという意志を持っていたのなら、秦の者に間違いないはずだ。

そこまで考えて、李牧はさらに眉根を寄せた。

(…同盟の邪魔をするなら、なぜ護衛だけを?)

天蓋の側にいた楚の護衛兵だけがやられていることに、李牧は納得出来なかった。
何か異常があればすぐに知らせてくれる側近のカイネの姿が見えないのも気がかりのままである。

声を出す間もなく殺されたのだとしたらと考え、唇を噛み締めた。

「李牧様ッ?」

奥の方から聞き覚えのある声がして、李牧は弾かれたように顔を上げた。カイネだった。

 

合流

怪我一つしていないのことを確認すると、李牧はようやく安堵の息を吐く。

「心配しましたよ。報告もなしに、どこに居たのですか」

申し訳ありませんとカイネが頭を下げる。

「道に迷ったという妓女がいまして」

「妓女?こんな場所にですか?」

すぐには信じられなかった。
辺り一面木々ばかりで、獣道しかない密林だというのに、どうしてこのような場所に妓女がいるのだろう。

カイネの話を聞けば、その妓女は各地を旅して回っている歌踊団の長らしい。

彼女は仲間たちが野営をしている場所から離れたところにある泉で、一人だけで水浴びをしていたのだという。

しかし、水浴びを終えたところで着物が無くなっていることに気付き、仲間のもとへ戻れずに困惑していたところを、カイネが気配を察知して駆けつけたという経緯だった。

「本来ならば報告すべきだったのですが、申し訳ありません…」

本当に申し訳なさそうにカイネが頭を下げたので、李牧は首を横に振った。

確かに事情が事情だ。もしも報告されたところで、男である自分がしゃしゃり出る訳にはいかず、どちらにせよカイネに対応を頼んでいたに違いない。

「辺りを探したら、木の枝に引っ掛かっている彼女の着物を見つけたのです。風で飛ばされてしまったのでしょう」

「見つかったなら良かったです」

もしも着物が盗まれていたならば、この密林に自分たち以外の第三者が他にも存在するということになる。

野盗の類だとしても、趙と楚の宰相が二人きりで話をしていたとなれば、噂を流される可能性がある。

秦の耳に入らぬよう、慎重にこの会談を進めていたというのに、噂を流されれば勘付かれる原因になるかもしれない。

しかし、他の五か国との同盟はすでに済んでいる。もしも秦国が今から策を練ったとしても、今さら滅ぶ未来は変えられないだろう。

ふと、李牧の瞼の裏に信の姿が浮かび上がった。

馬陽の戦いで、大胆にも敵本陣に奇襲を仕掛けて来た彼女によってつけられた右手の傷痕はまだ残っている。

時折、この傷跡が疼くように痛むことがあり、その度に李牧は秦趙同盟の宴の夜に、彼女と身体を重ねたことを思い出した。

真っ直ぐな瞳で、殺してやると言った彼女のことを、李牧は忘れたことがなかった。

信の存在は記憶に深く刻まれているというのに、もう二度と現世では彼女に会えないのだと思うと、やるせなさが込み上げて来る。李牧が秦を滅ぼそうと決めた理由もそこにあった。

「李牧様?」

束の間、懐かしい思い出に耽っていた李牧はカイネに名を呼ばれ、すぐに思考を切り替えた。今は警戒を怠ってはいけない。

「楚の護衛が、天幕の外で討たれていました」

「えっ…!?」

天幕の外で共に待機をしていた護衛の死に、カイネが焦った表情を浮かべた。すぐに腰元に携えていた剣を鞘から抜き、周囲を見渡している。

「…会談の最中、物音や悲鳴は一切聞こえなかったので、相当な手練れが潜んでいるのかもしれません」

周囲の気配を探りつつ、李牧はカイネと背中合わせの状態で奇襲に備えた。

この密林の中だ。隠れる場所はいくらでもある。もしかしたら近くの木の裏に身を潜め、こちらの首を狙っているかもしれない。

「まさか、秦の刺客ですか…?」

「持っていた毒矢で喉を一突きされていたようですから、我々に気づかれないように殺したのだとしたら、秦の刺客である可能性は高いでしょうね」

信じられないといった表情を浮かべたカイネが、いち早く物音がした方に剣を向けた。

「何者だッ!」

すぐ近くに聳え立つ大木の裏に人影が見えた。
カイネの気迫に押されたからか、それとも諦めなのか、その人物はゆっくりと姿を現した。

 

再会と罠

現れた女性の姿を見て、李牧は束の間、呼吸をするのを忘れていた。

「…生きて、いたのですか」

ようやく出た声は、動揺のあまり、情けないほど震えていた。隣にいるカイネも愕然として言葉を失っている。

見間違えることはない。目の前にいる女性は、信だった。
最後に会った時よりも随分と髪が伸びていたが、瞳の輝きはあの時と少しも変わっていない。

「いいや?一度死んださ。だから今の俺・・・は秦将じゃねえし、秦趙同盟も関係ない」

李牧の問いに、肩を竦めるように笑う。まるでこちらを挑発するような笑い方に、懐かしささえ感じた。

ほとんど消えかかっていたはずの右手の傷が、彼女の存在を思い出したように疼き始める。

(ここに彼女がいるということは…)

なぜここに信が現れたのか、どうして今なのか、李牧の頭の中でその仮説が次々と導き出されていく。

中華全土に広まった飛信軍の女将軍の訃報を聞き、李牧は彼女の死を信じ込んでいた。

同盟を結んでいる期間とはいえ、敵対関係にあることは変わりない。亡骸をこの目で見るまで、決して彼女の死を信じてはならなかったのだ。

彼女が簡単に死ぬわけがない。
それは馬陽の戦いでも思わぬところで本陣奇襲を掛けられた李牧自身が理解していたはずだったのに、またもや辛酸を嘗めさせられることになってしまった。

「死んだフリをしてたなんて、何が目的だ、貴様ッ!」

カイネに剣の切先を突き付けられると、信が肩を竦めるようにして笑った。

恐らく、信は宰相である自分の首を取るつもりなのだ。李牧の側に、味方が少しもいないこの状況を狙っていたのだろう。

時間稼ぎ・・・・だ」

しかし、信が発した言葉は、李牧の命を狙っていることを想定させるものではなかった。

時間稼ぎ。その言葉の意味を李牧が考えるよりも先に、信は空を見上げた。

「こんな密林の中にまで通るなんて、良い風だな」

最後に会った時よりも伸びた黒髪を手で払う。

こんな状況だというのに、まるでこちらへ余裕を見せつけるかのような態度に、カイネが奥歯を噛み締めていた。挑発に乗ってはいけないと自身を制御しているのだろう。

「…!」

風に乗って来た何かの匂い・・・・・を感じた李牧は、はっとして背後を振り返った。

遠くで煙が上がっているのが見えて、騒がしい声までもが風に乗ってこちらへ漂って来た。

「まさか…」

 

密林を出た向こう――兵たちを待機させている場所からの方だ。道の途中には、李牧が会談をしていた天幕もあって、まだ中には楚の丞相がいる。

「な、何が起きて…」

李牧の視線を追い掛けたカイネも目を見開いて、向こうで起きている状況が分からずに困惑していた。

「…やってくれましたね」

睨み付けると、信の口角がつり上がった。

焦げ臭い匂いと煙、そして遠くから聞こえる兵たちのざわめきや悲鳴に、李牧は待機している軍に向けて火が放たされたのだと理解する。

今頃、楚と趙の兵たちは大いに混乱しているだろう。密林に火が燃え移り、ますます火の手が大きく上がっていくのが遠目に見えた。

近くに川もない場所だ。消火作業は困難だということをあらかじめ想定した上で火責めを起こしたのだろう。

単独での行動ではなく、協力者がいたのだ。そうでなければあれほどの騒ぎになるほどの火災にはならないはずだ。

「…カイネ、急いで春申君殿の救援を」

「李牧様はっ?」

「すぐに追い掛けます。撤退の指揮も頼みました」

信と二人きりになることにカイネは納得出来ない様子でいたが、李牧が指示を取り消す気配がないことが分かると、頷いて駆け出して行った。

恐らくその気になれば李牧を出し抜いて、カイネの背後を斬ることも出来ただろうに、信は動き出す気配を見せない。

一騎打ちの申し出はなかったが、李牧を討ち取る状況を作り上げたことは間違いないだろう。彼女の背中には、秦国の印が刻まれているあの剣があった。

「…秦国でも、あなたが生きていると知っている者は限られていたはず。協力者は誰ですか?」

あれだけの騒ぎを起こすとなれば、協力したのは一人や二人の話ではないだろう。恐らく軍を動かしたはずだと李牧は睨んだ。

「元野盗で、性格は悪いが、それなりに気が合うやつらが居るんだよ」

「…桓騎軍ですか」

元野盗で秦将の座に就いたといえば、厄介な奇策を使う桓騎だ。下賤の出である者同士、気が合ったのかもしれない。

「…ここで私を討ち取れば、私の悪巧み自体を阻止できるはずだと?」

「山陽の戦いでの桓騎の奇策は聞いたことあるか?」

李牧の問いには答えず、信が質問を返した。

山陽の戦い。それは趙の三大天であったが、その後、魏将となったの廉頗と秦の蒙驁との戦いだ。

桓騎は敵本陣にいる軍師の玄峰を奇策を用いて討ち取ったという。
大胆にも敵兵に扮して、本陣へ潜入し、玄峰たちが油断したところを討ち取ったのだという話を聞いた。

馬陽の戦いで奇襲を掛けて来た信が用いた奇策と同じであることに、もしかしたらあの時の奇策も桓騎から授かったものだったのだろうかと李牧は考える。

ここで桓騎の話を持ち出すということは、恐らく今回もそうなのだろう。李牧は信と桓騎の狙いを理解した。

馬陽と山陽での戦のように、敵兵に扮して接近するという奇策を行ったとすれば、考えられる状況は一つ。

「同盟を組んだはずの合同軍が、秦じゃなくて趙を滅ぼすってなったら…面白いことになるだろうな」

意外にも、信の方から先に正解を教えてくれた。

「…趙を陥れるつもりですか」

何も言わずに、信が薄く笑んだ。

趙兵に扮した桓騎軍が待機している楚兵を殺し、火を放ったのだろう。

楚軍の反撃が起これば、もちろん状況の分からない趙軍も抵抗を行い、たちまち戦が始まる。小さな火種ががたちまち燃え広がったという訳だ。

丞相同士が会談をしている最中にそのような事態が起これば、ましてや楚の丞相である春申君がこの騒動で命を失ったとなれば、これは趙の陰謀だと楚国が誤解するのは必須。

さらには、既に会談を終えている国に、趙が楚を陥れたという報せが届けば、此度の秦を滅ぼす六国の合同軍に歪みが生じることとなる。

自分たちも趙に裏をかかれると警戒し、既に同盟を成している国からは追及の声が上がるだろう。もちろん此度の同盟を進めた丞相の李牧がその責に問われる。

それどころか、秦を滅ぼすために結成した合同軍が、趙に刃を向けることになるかもしれない。

自国に不利益を与えたどころか、滅ぼされる危機に晒したとして、今回の計画を企てた丞相・李牧の処罰が確定するという訳だ。

信の狙いが自分の首を持ち帰ることだとばかり思っていたが、完璧に裏をかかれた。

彼女が仲間たちから自分を遠ざけ、一騎打ちに持ち込もうと信じ切っていた失態だと李牧は悟る。

ここで殺さないのは、此度の騒動の責を李牧に押し付けるために違いない。

自分が手を下さなくても・・・・・・・・・・・、趙を危険に晒した罪でその首を差し出さなくてはならないと睨んでいるのだろう。

春申君の身に何かあったとすれば、趙での処罰を待たずとも、楚軍が李牧の首を狙いに来るに違いない。

―――どちらに転んでも、李牧が殺されるという筋書きに繋がるという訳である。

彼女が死んだという誤報が李牧のもとに届いてから、全ては信が描いた筋書き通りに事が進んでいたのだ。

 

再会と罠 その二

「…お見事です、信」

素直に李牧は彼女に称賛の言葉を贈った。
少しも嬉しくないと言わんばかりに信が鼻で笑う。

「この計画はいつから?」

「お前が悪だくみを企んだ時からだよ」

この会談の場を設けるにあたっては最大限の警戒をしていたが、信の口ぶりと周到な準備から、事前に気づかれていたらしい。

秦将である彼女が討たれたという話は、意図的な情報操作だったのだ。

恐らく、彼女はその身を偽って趙に潜入していたに違いない。

戦では仮面で顔を隠していたことで、信の素顔は敵国に知られていない。趙で素顔を知っている人物は、秦趙同盟に訪れた李牧とその一行のみである。

それに、死んだとされる人間が敵国にいるなど、誰も信じないだろう。むしろ信は趙に潜入して、今日という機をずっと伺っていたに違いない。

大将軍の地位と品位を捨てて卑怯者に成り果ててまで、李牧と趙を滅ぼそうとしているのだ。

カイネに目的を問われて「時間稼ぎ」だと言ったのは、混乱の火種が消火出来ないほど大きくなるのを待っていたのだろう。

馬陽の戦いの時に、自分が使った言葉をそのまま返されたというわけだ。

「まさか亡霊になって、桓騎と組むとは思いませんでした」

信がにやりと笑う。

「ああ、一夜の極上の夢・・・・・・・と引き換えにな」

予想外の言葉を聞いた李牧は目を丸めた。顎に手をやりながら、咎めるように信を睨む。

「それは感心しませんね。あの夜のように、伽を装って近づいた方が、簡単に私の寝首を掻くことが出来たかもしれませんよ」

李牧の言葉に、信がきっと目尻をつり上げた。

「ですが、あの時の伽で、油断させて私の首を掻き切ることも出来たでしょう?」

李牧が尋ねると、

「…何の話だ?」

口元から余裕の笑みを絶やさず、信はわざとらしく聞き返す。

秦将の信は死んだ。今目の前に立っている女は、同じ見目をしていても信ではない。あの日のことを知っているのは、この世でもう李牧だけである。

彼女の薄い腹に視線を向け、李牧は残念そうに肩を竦めた。

あの時、彼女の中に確実に子種を植え付けておけば、今頃は子を産んでいたのだろうか、自分の妻として今も隣にいたのだろうか。そんなことを考えたが、李牧は首を振った。

「…いいえ、こちらの話です。一度、あなたと見目がそっくりな女性を抱いたことがあるものですから。てっきりあなたが差し向けた刺客かと」

「知らねえな」

信は素っ気なく返した。
向こうで騒ぎがどんどん大きくなっている。火の手も広がって来ており、焦げ臭い香りがどんどん濃くなって来ていた。

カイネは無事に撤退の指揮を執れただろうか。李牧は自分の置かれている状況を十分に理解していたのだが、次なる行動を見出せずにいた。

その場から動き出さないでいる李牧に、信が小さく首を傾げる。

「どうする?秦趙同盟はまだ続いてんだろ?秦に泣きついて、二か国の合同軍で抵抗でもするか?」

「それも面白そうですね」

どうやら予想外の返答だったのだろう、信が目を見張った。彼女の裏をかくことが出来たようだと李牧が口角をつり上げる。

これから起こる出来事は、全て頭の中で描かれている。
ここまで信の策通りに進んでしまったのなら、どのみち李牧の命が狙われるのは明らかだった。

しかし、李牧は慌てる様子を見せず、むしろ冷静な態度を貫いている。

馬陽の戦いで飛信軍に本陣奇襲を掛けられた時も、彼は冷静さを欠かすことなく、龐煖と王騎の一騎討ちが終わるまで時間を稼ぐという選択をした。

「…どうして私が平然としていられるか、不思議ですか?」

「………」

信は何も答えない。しかし、彼女も馬陽の戦いのことを思い出したのだろう、李牧が冷静でいられる理由があるのだと気づいたようだった。

あなたと同じで・・・・・・・私が卑怯者だから・・・・・・・・ですよ、信」

先ほどの彼女のように、先に正解を教えてやる。

「ッ!」

自分を覆う影に気付き、信は考えるよりも先に後ろに跳んだ。

信が立っていた間に、大きな槍の斬撃が降って来る。李牧ですら数歩後ろに下がるほどの風圧が起きた。

地面が大きく抉れている。その場に信が留まっていたのなら、彼女の身体は無残なまでに切り裂かれていただろう。

顔に大きな切り傷を持つ、赤い外套に身を包んだ武神が、ゆっくりと立ち上がった。

 

再会と罠 その三

「龐煖ッ…!?」

武神の名を呼んだ信の顔に大きな動揺が浮かんでいる。王騎の仇が現れたことが信じられないといった表情だった。

「なんでここにッ…!」

背中の剣を鞘から抜きつつも、信が狼狽えているのは明らかだった。

李牧を孤立させることや、火を放つことで軍を混乱に陥れるのが目的ではあったものの、強大な戦力で対抗されるとは予想していなかったのだろう。

死んだはずの彼女が襲来するとは李牧も予想していなかったのだが、秦の襲来に備えて龐煖を待機させていたことで信の裏をかくことが出来たようだ。

今からこの状況を覆せるとは思わないが、彼女のその表情を見れただけでも李牧は満足だった。

「ちっ…」

さすがに龐煖と李牧の二人を同時に相手する訳にはいかないと、信が悔しそうにこちらを睨んでいる。

見たところ、信の方には救援が来る様子はなかった。

彼女の中では既に策は成したのだから、あとは逃亡するだけだったのだろう。
しかし、結果的に、龐煖が来るまで李牧が時間稼ぎをした・・・・・・・・・・ことで、彼女は逃亡せざるを得ないようだ。

「王騎の娘…!」

信を睨み付ける龐煖の目の色が変わる。王騎を討ち取ったはずなのに、彼は未だ王騎の幻影に苦しめられていた。

彼の養子である彼女とは初対面のはずだが、王騎の存在を連想させたのだろう、龐煖の顔が強張っていた。

二人がそれぞれ武器を構えて腰を低く降ろし、お互いを睨み合う。

「待って下さい」

意外にも、二人に水を差したのは龐煖の存在を用意していた李牧だった。

「ここは私が引き受けます。あなたは軍の救援を」

まさかそのような指示を出すとは思わず、信も龐煖も怪訝そうな顔をした。

ここで信を討ち取るのなら、龐煖と二人がかりで相手にした方が早い。それはこの場にいる誰もが分かっていることだったが、李牧はあえてそれをしなかった。

「………」

李牧の考えが読めないでいる龐煖が無言で視線を送っている。しかし、李牧は表情を変えることもせず、龐煖に救援に向かうよう促した。

やがて、龐煖が背中を見せて、密林の外へ向かって行ったのを見て、信は僅かに息を吐いた。

いつの間にか浮かんでいた額の汗を拭い、それから李牧を睨み付ける。

「あいつを下がらせるなんて何の真似だ」

窮地に陥っていたとしても、龐煖の武力があれば、ここで自分を討ち取るのは容易いことだっただろう。

それなのに、龐煖を仲間たちの救援へ向かわせた李牧の意図が全く分からない。

「…彼の力を借りるまでもなく、私一人で問題ないということです」

信がぎりりと奥歯を噛み締めた。
挑発するような言葉をかけるだけでなく、いつでも斬れと言わんばかりに李牧は信に背中を見せる。どうやら密林の外の様子を伺っているようだった。

「…ああ、どうやら撤退を始めたようですね」

楚軍と趙軍が無事に撤退したのか、騒ぎが遠ざかっているのが分かった。しかし、未だ密林に燃え広がっている火の手は止まらない。

 

卑怯者たちの未来

そろそろ退却しなくては、自分たちも火の手に飲み込まれてしまう。

しかし、李牧の心はまるで水の中にいるかのように、静かに落ち着いていた。

「…信」

李牧が振り返り、ゆっくりと歩み寄る。
信はその手に剣を構えてはいたものの、李牧を斬ることはしない。そして、それは李牧も分かっていた。

「あ…」

李牧の両手が信の身体を抱き締める。いきなり抱き締められたことで、信は驚き、硬直していた。

束の間、李牧は目を閉じる。

瞼の裏に、初めて彼女と出会った日のことや、身体を重ねたあの伽のことが浮かび上がった。

目を開くと、腕の中で信はあからさまに狼狽え、強張った表情を浮かべている。
しかし、腕を振り解こうとする素振りは少しも見せなかった。

「…、……」

戸惑いながらも、信の手がそっと李牧の背中に回され、着物を弱々しく握る。

彼女が自分と同じ想いでいるのだと知るには、その小さな仕草だけで十分だった。

「…李牧」

瞳にうっすらと涙を浮かべながら、信が名前を呼ぶ。

「趙の、宰相なんか…」

不自然に言葉が途切れたが、彼女が言わんとしている言葉の続きを、李牧は理解していた。

此度の信の策は、李牧の立場を奪おうとしてのことだ。信が一度死んで秦将ではなくなったと言い放ったように、宰相としての李牧も殺すつもりだったのだろう。

彼女が、趙国の宰相でない自分を求めてくれていたことを知り、李牧の胸が焼けるように熱くなる。

このまま彼女の手を引いて逃げてしまおうか。信が望んだ、趙国の宰相でない本当の自分を差し出そうか。

本音を胸の奥深くに閉じ込め、李牧は無理やり笑みを繕った。

「あなたが生きていて、本当に嬉しかったです」

信が何か言いたげに唇を戦慄かせていたが、それは言葉にはならなかった。

そっと彼女の頬に手を添えて身を屈めると、彼女の唇に己の唇を重ねた。柔らかい唇の感触を味わったのは、ほんの一瞬だけである。

「…これは趙の宰相ではなく、何者でもない・・・・・・、ただの独り言だと思ってください」

彼女の耳元に唇を寄せて、李牧が独り言・・・を囁いた。

その言葉を聞いた信が弾かれたように顔を上げ、安堵したように笑う。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

木々が激しく燃える音を聞きながら、卑怯者たちはもう一度、唇を重ね合った。

 

このお話の番外編・回想(桓騎×信)はこちら

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ユーフォリア(昌平君×信)番外編|キングダム夢小説

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ヤンデレ/無理やり/メリーバッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

本編はこちら

 

眠りの狭間

本編で割愛したシーンです。

 

薬と香が効いて来たのだろう、ようやく眠った信は唇を戦慄かせており、何か言葉を紡いでいた。

寝言なのは分かっていたが、もしかしたら先ほど縫合をした左足の痛みを訴えているのかもしれない。昌平君は着物の袖で鼻と口元を抑えながら、彼女の口元に耳を寄せた。

「――、―――」

朦朧としている意識で信が唇を戦慄かせている。僅かに空気を震わせたその言葉を聞き、昌平君は目を見開いた。

李牧。それは趙の宰相の名だった。

此度の敗因は、彼の軍略によるものである。どうして彼の名前を信が口にしたのか。

考えられるのは、李牧が信にとっては父親の仇同然の男であることが関係している。飛信軍が兵の大半を失うという膨大な被害も李牧の軍略によるものだった。

亡くなった兵たちのことを想うあまり、信は医師団の忠告も聞かず、傷だらけの体に鞭打って鍛錬をこなしていた。李牧に対する恨みが募っている証拠でもある。

そうだと分かりながら、昌平君の心中は穏やかではなかった。

好意を寄せている女性が自分以外の男の名前を、それも意識がない中で敵の宰相の名前を口にするというのは、どうにも許せないものである。

 

 

「…信」

呼び掛けるが、信は完全に寝息を立てており、薬と香によって意識の糸を手放していることが分かった。

医師団が処方した薬と香はかなり強い薬効を持つものだ。恐らく数日は目覚めないだろう。

「ん…」

昌平君は眠っている信の頬を手で包むと、導かれるように唇を重ねていた。

先ほども薬を飲ませるという目的で唇を重ねたが、少しも抵抗がないと、まるで想いが通じ合っている恋人同士のようだと錯覚してしまう。

唇を押し開き、舌を差し込み、彼女の赤い舌に絡ませた。

「ん…」

ざらざらとした舌の表面や、唾液で滑った唇の柔らかい感触が堪らなくて、夢中で舌を絡め合う。

信は静かに寝息を立てるばかりで、自ら舌を絡ませて来ることはなかったが、それで良かった。

「…信」

口づけを終えてから、耳元で名前を囁くが、信が起きる気配はなかった。

「はあ、…は、…」

薬を飲んだ訳ではないのだが、部屋で焚いている特殊な香には、体の緊張を解く作用がある。

その香を吸い続けている昌平君も、今では脱力感とも陶酔感ともいえる、不思議な感覚に身を委ねていた。

「……、……」

眠り続けている信の頬に手を添える。
瞼を閉じていても、今彼女の目の前にいるのは自分だけで、今この瞬間だけは確かに彼女は自分だけのものだった。

信の寝顔を見つめながら、優越感と独占欲が昌平君の胸に広がっていく。

薬と香のせいだと分かっていても、穏やかな寝顔を見ていると、まるで自分のことを受け入れてくれているのだと錯覚してしまう。

「ッ…」

昌平君は着物の袖で鼻と口元を覆った。

今さら香を嗅がずにいたところで手遅れかもしれないが、これ以上、傍にいれば信をどうにかしてしまいそうだった。口づけ以上のことを求めてしまうに違いない。

「!」

部屋の扉が叩かれ、昌平君は驚いて振り返った。

「信、医師団から聞いたぞ。また足の傷が開いたそうだな」

扉を開けて入って来たのは嬴政だった。苛立った口調をしている。

信の親友である彼が自ら見舞いに来たのかと内心驚きつつ、昌平君はすぐにその場に膝をつく。

香を嗅がないように鼻と口元を布で覆っている嬴政が、なぜここに昌平君がいるのかと目を丸めていた。

「…ああ、医師団に頼まれたんだったな」

思い出したように嬴政が頷く。
どうやら嬴政は医師団から先ほどの経緯について報告を受けていたらしい。昌平君に薬を飲ませて香を焚くよう頼んだことも聞いていたのだろう。

「全く…医師団や昌平君の苦労も知らずに…」

寝台で寝息を立てている信を見下ろし、嬴政は呆れたように溜息を吐いた。
しかし、その眼差しには慈しみの色が宿っており、嬴政は優しい手付きで彼女の髪を撫でている。

「――――」

その姿を見て、昌平君は思わず焦燥感に駆られた。

まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚になり、昌平君は思わず歯を食い縛る。

「…大王様。後で、ご報告したいことが」

誰にも聞かせたくない話であることを告げると、嬴政の眉間に皺が寄った。

 

偽り

嬴政が信の見舞いを終えた後、玉座の間に移り、昌平君は嬴政と二人きりとなった。

事前に人払いをしていたこともあり、玉座の間には重い沈黙が広がっている。

「報告を聞こう」

昌平君は嬴政の前で跪いたまま、口を開いた。
報告を進めていくにつれ、嬴政の顔から血の気が引いていくのが分かる。

それは当然だろう。親友である信が趙の密通者である可能性が高いなど、信じられるはずがない。

「…確かなのか?」

「可能性ですが、その説が考えられます」

「………」

信が趙の宰相である李牧と密通している証拠は何もないのだと知り、嬴政は複雑な表情を浮かべる。

此度の飛信軍が壊滅状態に追いやられたことは、嬴政も知っていた。

しかし、仲間想いである信が、まさか自分の軍を壊滅に追い込むことに、結果として秦軍が敗北するように、趙に手を貸したとは信じたくなかったのだろう。

彼女を信じたいという気持ちで嬴政が、口を開きかけたが、昌平君はそれを遮るように言葉を続けた。

「飛信軍は、事前に五十人もの兵で山中の調査を行い、そこに伏兵は居なかったと報告を出していました。しかし、実際には伏兵が待機していた」

「………」

「山中の調査には、信将軍自ら名乗り出たと報告を聞いています。…伏兵を見逃した・・・・可能性があるやもしれませぬ」

嬴政はあからさまに目を泳がせ、何かを探っているようだった。
信がそのようなことをするはずがないと言い返したいのだろうが、反論材料に欠けているのだろう。

恐らくは李牧が山中で見つからぬ場所を事前に指示し、兵を潜ませていたに違いない。

しかし、親友の裏切りの可能性を示唆された嬴政は、そこまで冷静に思考が働いていないようだった。

「…大王様」

静かに昌平君が声を掛ける。嬴政は苦しそうに眉根を寄せながら、昌平君を見据えた。

「此度の件、今は内密に願います。彼女の傷が癒えてから、真実を明らかにするべきかと」

深々と頭を下げながら昌平君がそう言うと、嬴政は沈黙の後に頷いた。

「もしも密通の疑いが事実ならば、この咸陽に、彼女と接触を図ろうとする趙の使者が現れるやもしれません。信の身柄を、療養という目的で預かっても?」

「…ああ、頼む」

許可を得たことで、昌平君はもう一度頭を下げた。

その口元が怪しい笑みを浮かべていることに気づく者は、誰もいなかった。

 

李牧×信のバッドエンドはこちら

 

 

偽り その二

信の身柄を屋敷に移したが、彼女は未だ目を覚まさない。その方が昌平君としても都合が良かった。

家臣たちに事情を説明し、見張り役を立てることとなった。

もし見張りの目がない時に部屋から脱走をしても分かるよう、部屋の扉にも鈴を取り付けた。

薬と香の効能によって、そう安易に目を覚ますことはないだろうが、念には念を入れておかなくてはならない。

あとはもう少し外堀を埋めなくてはいけない。嬴政からの許可は得たが、他にも密通の疑いを伝えるべき人物といえば、まずは河了貂だろう。

飛信軍の軍師であり、自分を師と慕う彼女が密通の疑いを知れば動揺するに違いない。

もちろん信は密通などしていない。だが、密通だと疑われる行為をしたのは事実だ。

山中の伏兵調査に乗り出したのは信自身だったというのを、昌平君は河了貂から報告を受けていた。

それからもう一つ。秦趙同盟が結ばれた後、趙の一行をもてなすための宴が開かれた。

宴の席を抜け出し、趙の宰相と何かを話していた姿を、昌平君はこの目で見ていた。

あの場に出くわしたのはただの偶然だったのだが、見方によっては信の密通を疑わざるを得ない光景である。

物陰から二人の会話に耳を澄ませていたが、密通など感じさせるものは一つもなかった。

しかし、人目を忍ぶように趙の宰相と二人で会っていたという、その事実を利用さえすれば、それで良かったのだ。

秦国に欠かせない強大な戦力である信の立場が崩れていく図が、昌平君の中に浮かんでいった。

 

 

「…………」

寝台の上で信は未だ寝息を立てていた。

身の回りの世話を任せている侍女の話だと、朦朧としながらも、信が目を覚ますことが幾度かあったそうだ。

その時に水や食事を摂らせながら、調合した薬を飲ませ、また眠らせている。その甲斐あってか、左脚の傷はすっかり塞がりかけていた。

「…信」

眠っている彼女に呼びかけるが、目を覚ます気配はない。

頬に触れても前髪を指で梳いてやっても身じろぎ一つしないことから、未だ深い眠りに落ちていることが分かった。

「………」

身を屈め、昌平君は彼女に口づける。眠っている彼女に口づけるのはこれが初めてではなかった。

角度を変えて何度も唇を重ねる。柔らかい感触に夢中になった。

「ん…」

薄く開いている口に舌を差し込み、歯列や歯茎をなぞり、赤い舌を絡ませる。

決して信の方から口づけに応えてくれることはなかったが、幸福感で胸がいっぱいになっていた。

彼女に触れ合れている今この瞬間だけは、この女は自分のものであるという実感が湧いた。

目を覚ます気配のない信の体を組み敷くと、二人分の重みで寝台がぎしりと軋む。

眠っている彼女に口づけながら、昌平君の手が彼女の帯を解いた。襟合わせを広げると、信の傷だらけの肌が現れた。

屋敷に連れて来てから、幾度も見て来た身体だというのに、何度見ても欲情してしまう。昌平君は生唾を飲み込んだ。

身を屈め、貪るように彼女の肌に吸い付く。

着物で隠れていた彼女の肌には、幾つもの赤い痕が残っている。新しいものから消え掛けているものまであり、それは全て昌平君がつけたものだった。

彼女の艶のある肌に顔を埋め、また新しい痕を刻み、優越感に胸を浸らせる。

「信…」

まるで恋人同士のように、敷布の上で指を交差させ、名前を囁く。

当然ながら信が返事をすることはなかったが、いずれは同じ想いであると応えてくれるはずだと昌平君は信じて止まなかった。

控えめだが手の平に収まるほど形の良い胸を揉みしだく。隆起の先端は、素肌に溶け込んでしまいそうなほど薄い桃色で、まだ芽を立てていなかった。

指で摘まんでやり、優しく愛撫を続けていくと、硬く芽を立てていく。

「は、…」

僅かに吐息が聞こえ、昌平君が上目遣いで信を見上げる。

まだその目は閉じられたままだったが、胸への刺激に反応を示したのは確かだ。

硬く立ち始めた芽を舌で転がし、唇で優しく食む。僅かに身体が震えたのが分かった。
眠っていても刺激を感じているのなら、目を覚ました時にはどのような反応を見せてくれるのだろうか。

…その答えを知る日はそう遠くないだろう。

甘く歯を立てながら、昌平君は彼女の足の間に手を伸ばした。

 

 

秘め事

当然ながら、そこは濡れていなかった。眠っているのだから、反応が鈍いのも当然だろう。

体を起こした昌平君は彼女の膝を立て、足の間に身体を割り込ませた。

自分の指を咥えて十分に唾液を纏わせると、その指で二枚の花弁の合わせ目をなぞる。

唾液の潤いが移ったのを確認してから、二枚の花びらを指で押し広げた。艶めかしい紅色の淫華が現れ、思わず生唾を飲み込んでしまう。

蜜を流し始めれば、この紅色がますます美しく輝くことを昌平君は知っていた。

淫華に顔を寄せると、入り口の部分を狭める襞が見える。
処女膜がまだ健在していることが、信がまだ男の味を知らない何よりの証拠だった。

迷うことなく昌平君はそこに舌を伸ばす。

破瓜の痛みは男が想像出来ないほどの苦痛を伴うという。薬と香で眠らされている信も、破瓜の痛みを感じれば目を覚ますだろうか。

もしも破瓜の痛みで信が目を覚まし、自分と身を繋げているのだと分かれば、彼女は一体どのような表情を見せてくれるのだろう。

そんなことを考えながら、昌平君は未だ破られていない処女膜に舌を伸ばし、淫華に唾液を注ぎ込んだ。

唇と舌を使って花芯も可愛がっていると、中の肉壁が、唾液ではないもので潤い始めたのを察した。

繊細な淫華を傷つけないよう、ゆっくりと人差しを差し込んでいく。

指を出し抜きする度に卑猥な水音が立ち始め、眠っているはずの信が軽く息を切らしているのが見えた。

「はっ…ぁ、ぅ、うぅん…」

意識は眠りに落ちていても、体は刺激に反応しているのだ。

そのことに気を良くしながら、昌平君は中に入れた指を鉤状に曲げて肉壁を擦り上げる。

「ッあ、ぁ…」

ある一点を指が擦った時、眠っているはずの信の身体が仰け反った。

「信?」

名前を呼ぶが、信の意識は未だ眠りに落ちたままである。

蜜を垂れ流している淫華に指をもう一本突き挿れ、再び抜き差しを始めた。

もっとして欲しいと訴えるかのように、肉壁が打ち震えているのを感じ、昌平君の口角は自然とつり上がっていった。

まだ一度も触れてもいないのに、眠っている信の体を弄っているだけで男根が上向いている。

「はっ…」

乱暴に着物を脱ぎ、昌平君は余裕のない手付きで男根を扱く。

根元の辺りを手で扱きながら、反対の手で花弁を押し開き、先端を淫華の入り口に擦り付けた。

信が眠っている間に、こうして自慰に浸るのは初めてではない。眠り続けている彼女の口唇を使ったこともある。

破瓜を破っていないものの、信の体を汚しているという自覚は十分にあった。

もとより、信を手に入れるために密通の疑いをかけ、この屋敷に連れて来たのだ。

本当ならば見つめ合いながら、手を繋ぎ合って、性器だけじゃなく心も繋げたい。

しかし、それが叶わないことを昌平君は分かっていた。信が秦将であり続ける限り、彼女の瞳には戦しか映らない。

「信…っ」

息を荒げながら、昌平君は切なげに眉根を寄せて男根を扱いていた。

「っ、あ…!」

全身に痺れが走り、頭の中が真っ白になる。
尿道から精液が勢いづいて吐き出され、艶めかしい紅色をした淫華と内腿を白く汚した。

息を整えながら、白濁が淫華の中に流れ込んでいくのを見つめる。

(将をやめさせるのなら、私の妻にして、孕ませてしまえば良い)

ふと、思考を過ぎったその考えは、恐ろしいほど呆気なく昌平君の中に染み渡っていった。

 

 

秘め事 その二

今までは信の体を使って虚しく自慰に浸っていたが、今となってはこの行為にも十分に意味を見出せた。

信から戦を奪うには、将をやめさせれば良いのだ。密通の疑いを利用して、将としての信頼を喪失させて、居場所を失くせば良い。

趙への密通だけでなく、李牧との姦通した事実を広めれば、信は秦将の立場どころか、その首を失うことになるだろう。

しかし、嬴政が親友である彼女を断罪できるとは思わない。恐らくは秦将の立場から降ろす慈悲に留めるはずだ。

信を将の座から降ろすその計画は、聡明な昌平君の中では、手足を切り落とすよりも簡単なことだった。

「信…」

昌平君は体を起こし、未だ寝息を立てている彼女に再び口づけた。

何度も唇を重ねていると、それだけでまた男根が上向いて来る。先ほど吐精したばかりなのに、体が目の前の女を求めて欲情しているのだ。

醜いまでに浅ましい欲望だと思う。

それだけ自分は信のことを欲していて、自分の欲望を叶えるために、彼女の将としての人生を壊そうとしている。

すまないと心の中で謝罪をしながらも、昌平君はやめるつもりはなかった。

もう自分の意志一つでは安易に止められぬほど、信を手に入れる欲望は広く深まっていたのだ。

 

 

「……、……」

信の両膝を広げ、淫華に再び男根の先端を宛がう。
今までのように性器を擦り付け合うのではなく、いよいよ挿入を試みた。

「っ…」

蜜と白濁が混ざり合って、淫華の入口がぬるぬると滑った。

しっかりと入り口に先端を押し当て、ゆっくりと腰を進めていくと、入り口を狭めている処女膜が、まるで男根の侵入を拒むように押し返して来る。

「くっ」

昌平君は信の体を抱き締めながら、力強く腰を前に押し出した。

ぶつん、と処女膜が裂けた感触がした途端、押し返される感覚がなくなり、一気に奥まで男根が突き刺さる。

「あ”ッ…」

掠れた声がして、弾かれたように顔を上げると、信が喉を突き出して口を開けていた。しかし、まだその瞼は閉ざされたままである。

無駄な肉など少しもついていない引き締まった太腿が僅かに震えている。眠っている意識でも、破瓜の痛みを感じているのだろうか。

自分の男根を根元まで咥え込み、血の涙を流している淫華を見下ろし、ようやく信と一つになったのだと実感した。

男根を包み込んでいる肉壁の感触に、快楽が押し寄せて来る。今までは性器を擦り合うだけだったが、彼女の中は想像以上に温かくて気持ちが良かった。

「…あ、…は、ぁ…」

信が唇を戦慄かせている。
眠っているはずの彼女の瞼から涙が伝ったのを見て、昌平君は身を屈め、その涙を舌で掬い上げた。

「ん、…ぅん、…っ」

唇を重ねながら、昌平君はゆっくりと腰を引いていく。開通したばかりの道はまだ狭く、男根を締め付けたまま放そうとしない。

信に意識はないはずなのに、まるで男根を強請られているかのようだった。

「ッ…!」

浅く抜いた男根をもう一度深く叩き込むと、信の体が力なく仰け反った。

敷布の上に力なく落ちている信の手に指を絡ませ、口づけを続けながら、昌平君は堪らず腰を律動させていた。

破瓜の血と蜜と精液が合わさって、卑猥な水音を立てている。

「は、はあっ、ぁっ、ぁ…」

体を揺すられながら、信の唇からも吐息が洩れていた。

眠りながらも自分を感じてくれているのだと思うと、昌平君の胸は火が灯ったかのように熱くなる。

寝台が激しく軋む音が行為の激しさを物語っていた。

「ぐっ、…ぅ…!」

絶え間なく息を弾ませ、時々歯をきつく食い縛って、くぐもった声を洩らす。

信が男を咥えるのが初めてなら、無理はさせるべきではない。頭では分かっているのだが、欲望が先走るあまり、加減が出来なかった。

口づけの合間に、愛していると囁き、昌平君は絶頂に駆け上るために、激しく腰を揺すった。

「ッ…!」

やがて、全身を戦慄にも似た激しい痺れが再び貫いた。
目の前が真っ白に染まる。体の奥底で生成された熱が爆発を起こしたようだった。

「はあッ…、はあ、はっ…」

下腹部を震わせながら、信の細腰を掴んで引き寄せ、最奥で吐精する。

子宮の入口に男根の先端を押し付けたまま、吐精を終えた後も、しばらく動かずにいた。
このまま子種を植え付けて、孕ませてしまえば、信はどのみち将の座を降りることになる。

少しずつ冷静になって来た思考で、昌平君はやはり彼女を手に入れるために、信の全てを奪おうと決意するのだった。

「…何も、心配することはない」

静かに囁き、昌平君は信の額に口づけを落とす。

まだ何も知らずにいる彼女は、目を覚ましたら、どんな表情を浮かべるのだろうか。

 

 

後日編

本編の後日編です。

 

腕の中で眠っている妻が僅かに身じろいだので、起きたのだろうかと昌平君も瞼を持ち上げた。

窓から白い日差しが差し込んでいることから、まだ陽が昇り始めたばかりだと気づく。

彼女の色素の抜けてしまった髪がきらきらと輝いていた。美しい宝石のような髪を指で梳いていると、信の瞼がゆっくりと持ち上がる。

「…昌、平君…?」

寝ぼけ眼でこちらを見上げる信に、つい口元が緩んでしまう。

「眠っていろ」

肩まで寝具をしっかりと掛けてやり、その体を抱き締め直すと、信の身体があからさまに強張っていた。

いつもなら、甘えるように胸に凭れ掛かって来て、すぐに寝息を立て始めるのに今日は違う。

「信?」

悪い夢でも見たのだろうかと顔を覗き込むと、彼女の顔から血の気が引いていた。

「な、なに…して…」

驚愕のあまり、体を強張らせているのだと気づいた。

冷たい指先で昌平君の胸を押し退け、信が勢いよく寝台から起き上がる。

見知らぬ部屋・・・・・・にいると気づいた信が戸惑った表情で昌平君を見つめている。なぜ自分はここにいるのだと答えを知りたがっているのだろう。

「…あまり無茶をするな。体に障る」

「やめろっ」

ゆっくりと身を起こし、信の手首を掴むと、その手を振り払われた。

宙を切って行き場を失った手に虚しさを覚えながら、しかし同時に懐かしさ・・・・を覚える。

「なんなんだよっ…」

怒りと不安が混ざり合った表情で、信は寝台から立ち上がろうと床に足をつけた。

 

 

「身重の身体でどこへ行く」

腕を掴みながらそう言うと、身重という言葉に反応したのか、信の身体が硬直する。

ゆっくりとこちらを振り返った信の顔は笑えるほど白くなっていて、見開かれた瞳がゆっくりと下に向けられる。

掴まれた手を振り払うこともせず、彼女は呆然と薄口を開けていた。

「え…、な、なんで…?」

なだらかに突起した臨月を示す腹に、自分の腹に赤子が眠っていることが信じられないようだった。

「お、俺…いつ、こんな…」

動揺のあまり、身体の震えは止まらず、立っているのも辛いようだった。その身体を支えながら寝台へと連れ戻すと、信は俯いたまま顔を上げないでいた。

視線の先にある膨らんだ腹を見て、言葉を失っているのだと気づき、昌平君はおもむろに彼女の腹を撫でてやる。最近になって、胎動がより目立つようになっていた。

「私とお前の子だ」

「は…?」

聞き返した声は、情けないほど震えていた。

腹を撫でている昌平君の優しい手付きにすら怯えているのか、信の身体が泣きそうなほど顔を歪めている。

どうやら、あの香の効力が解けたようだ。

使用を続けることで、記憶を失うという恐ろしい副作用があるのだと医師から聞いていたが、時々記憶が元に戻るらしい。

昌平君の妻になったことや、子を孕んでいることを忘れ、将だった頃・・・・・の彼女の意識が戻って来る時があるのだ。

将だった頃の全てを忘れ、自分の妻の役目を全うしていた信ももちろん愛おしいが、昌平君が惚れたのは将だった頃の彼女だ。

もちろん記憶が抜け落ちていたとしても、信であることには変わりない。

どちらも愛おしい存在であり、昌平君にはかけがえのない存在である。

「い、いやだ…なんで、こんな…」

青ざめて涙を流し始める信は、昌平君の子を孕んでいる事実を受け入れられないでいるらしい。妻になったことも覚えていないのだから当然だろう。

浅い呼吸を繰り返している信を慰めるように、昌平君は優しい手付きで頭を撫でてやる。

またあの香を焚けば、自分に従順な妻が戻って来るのは分かっていたが、昌平君はそうしなかった。

「…お前の将としての役目は終わった」

何を言っているのか理解出来ないといった顔で、信が涙目で昌平君を見つめている。

「お前が生きる場所は、ここだけだ」

昌平君はその涙を舌で舐め取ると、何度目になるか分からない愛の言葉を囁いて、信の体をゆっくりと寝台に押し倒したのだった。

 

昌平君×信のハッピーエンド話はこちら

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ユーフォリア(昌平君×信)番外編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ヤンデレ/無理やり/メリーバッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

本編はこちら

 

眠りの狭間

本編で割愛したシーンです。

 

薬と香が効いて来たのだろう、ようやく眠った信は唇を戦慄かせており、何か言葉を紡いでいた。

寝言なのは分かっていたが、もしかしたら先ほど縫合をした左足の痛みを訴えているのかもしれない。昌平君は着物の袖で鼻と口元を抑えながら、彼女の口元に耳を寄せた。

「――、―――」

朦朧としている意識で信が唇を戦慄かせている。僅かに空気を震わせたその言葉を聞き、昌平君は目を見開いた。

李牧。それは趙の宰相の名だった。

此度の敗因は、彼の軍略によるものである。どうして彼の名前を信が口にしたのか。

考えられるのは、李牧が信にとっては父親の仇同然の男であることが関係している。飛信軍が兵の大半を失うという膨大な被害も李牧の軍略によるものだった。

亡くなった兵たちのことを想うあまり、信は医師団の忠告も聞かず、傷だらけの体に鞭打って鍛錬をこなしていた。李牧に対する恨みが募っている証拠でもある。

そうだと分かりながら、昌平君の心中は穏やかではなかった。

好意を寄せている女性が自分以外の男の名前を、それも意識がない中で敵の宰相の名前を口にするというのは、どうにも許せないものである。

 

 

「…信」

呼び掛けるが、信は完全に寝息を立てており、薬と香によって意識の糸を手放していることが分かった。

医師団が処方した薬と香はかなり強い薬効を持つものだ。恐らく数日は目覚めないだろう。

「ん…」

昌平君は眠っている信の頬を手で包むと、導かれるように唇を重ねていた。

先ほども薬を飲ませるという目的で唇を重ねたが、少しも抵抗がないと、まるで想いが通じ合っている恋人同士のようだと錯覚してしまう。

唇を押し開き、舌を差し込み、彼女の赤い舌に絡ませた。

「ん…」

ざらざらとした舌の表面や、唾液で滑った唇の柔らかい感触が堪らなくて、夢中で舌を絡め合う。

信は静かに寝息を立てるばかりで、自ら舌を絡ませて来ることはなかったが、それで良かった。

「…信」

口づけを終えてから、耳元で名前を囁くが、信が起きる気配はなかった。

「はあ、…は、…」

薬を飲んだ訳ではないのだが、部屋で焚いている特殊な香には、体の緊張を解く作用がある。

その香を吸い続けている昌平君も、今では脱力感とも陶酔感ともいえる、不思議な感覚に身を委ねていた。

「……、……」

眠り続けている信の頬に手を添える。
瞼を閉じていても、今彼女の目の前にいるのは自分だけで、今この瞬間だけは確かに彼女は自分だけのものだった。

信の寝顔を見つめながら、優越感と独占欲が昌平君の胸に広がっていく。

薬と香のせいだと分かっていても、穏やかな寝顔を見ていると、まるで自分のことを受け入れてくれているのだと錯覚してしまう。

「ッ…」

昌平君は着物の袖で鼻と口元を覆った。

今さら香を嗅がずにいたところで手遅れかもしれないが、これ以上、傍にいれば信をどうにかしてしまいそうだった。口づけ以上のことを求めてしまうに違いない。

「!」

部屋の扉が叩かれ、昌平君は驚いて振り返った。

「信、医師団から聞いたぞ。また足の傷が開いたそうだな」

扉を開けて入って来たのは嬴政だった。苛立った口調をしている。

信の親友である彼が自ら見舞いに来たのかと内心驚きつつ、昌平君はすぐにその場に膝をつく。

香を嗅がないように鼻と口元を布で覆っている嬴政が、なぜここに昌平君がいるのかと目を丸めていた。

「…ああ、医師団に頼まれたんだったな」

思い出したように嬴政が頷く。
どうやら嬴政は医師団から先ほどの経緯について報告を受けていたらしい。昌平君に薬を飲ませて香を焚くよう頼んだことも聞いていたのだろう。

「全く…医師団や昌平君の苦労も知らずに…」

寝台で寝息を立てている信を見下ろし、嬴政は呆れたように溜息を吐いた。
しかし、その眼差しには慈しみの色が宿っており、嬴政は優しい手付きで彼女の髪を撫でている。

「――――」

その姿を見て、昌平君は思わず焦燥感に駆られた。

まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚になり、昌平君は思わず歯を食い縛る。

「…大王様。後で、ご報告したいことが」

誰にも聞かせたくない話であることを告げると、嬴政の眉間に皺が寄った。

 

偽り

嬴政が信の見舞いを終えた後、玉座の間に移り、昌平君は嬴政と二人きりとなった。

事前に人払いをしていたこともあり、玉座の間には重い沈黙が広がっている。

「報告を聞こう」

昌平君は嬴政の前で跪いたまま、口を開いた。
報告を進めていくにつれ、嬴政の顔から血の気が引いていくのが分かる。

それは当然だろう。親友である信が趙の密通者である可能性が高いなど、信じられるはずがない。

「…確かなのか?」

「可能性ですが、その説が考えられます」

「………」

信が趙の宰相である李牧と密通している証拠は何もないのだと知り、嬴政は複雑な表情を浮かべる。

此度の飛信軍が壊滅状態に追いやられたことは、嬴政も知っていた。

しかし、仲間想いである信が、まさか自分の軍を壊滅に追い込むことに、結果として秦軍が敗北するように、趙に手を貸したとは信じたくなかったのだろう。

彼女を信じたいという気持ちで嬴政が、口を開きかけたが、昌平君はそれを遮るように言葉を続けた。

「飛信軍は、事前に五十人もの兵で山中の調査を行い、そこに伏兵は居なかったと報告を出していました。しかし、実際には伏兵が待機していた」

「………」

「山中の調査には、信将軍自ら名乗り出たと報告を聞いています。…伏兵を見逃した・・・・可能性があるやもしれませぬ」

嬴政はあからさまに目を泳がせ、何かを探っているようだった。
信がそのようなことをするはずがないと言い返したいのだろうが、反論材料に欠けているのだろう。

恐らくは李牧が山中で見つからぬ場所を事前に指示し、兵を潜ませていたに違いない。

しかし、親友の裏切りの可能性を示唆された嬴政は、そこまで冷静に思考が働いていないようだった。

「…大王様」

静かに昌平君が声を掛ける。嬴政は苦しそうに眉根を寄せながら、昌平君を見据えた。

「此度の件、今は内密に願います。彼女の傷が癒えてから、真実を明らかにするべきかと」

深々と頭を下げながら昌平君がそう言うと、嬴政は沈黙の後に頷いた。

「もしも密通の疑いが事実ならば、この咸陽に、彼女と接触を図ろうとする趙の使者が現れるやもしれません。信の身柄を、療養という目的で預かっても?」

「…ああ、頼む」

許可を得たことで、昌平君はもう一度頭を下げた。

その口元が怪しい笑みを浮かべていることに気づく者は、誰もいなかった。

 

李牧×信のバッドエンドはこちら

 

 

偽り その二

信の身柄を屋敷に移したが、彼女は未だ目を覚まさない。その方が昌平君としても都合が良かった。

家臣たちに事情を説明し、見張り役を立てることとなった。

もし見張りの目がない時に部屋から脱走をしても分かるよう、部屋の扉にも鈴を取り付けた。

薬と香の効能によって、そう安易に目を覚ますことはないだろうが、念には念を入れておかなくてはならない。

あとはもう少し外堀を埋めなくてはいけない。嬴政からの許可は得たが、他にも密通の疑いを伝えるべき人物といえば、まずは河了貂だろう。

飛信軍の軍師であり、自分を師と慕う彼女が密通の疑いを知れば動揺するに違いない。

もちろん信は密通などしていない。だが、密通だと疑われる行為をしたのは事実だ。

山中の伏兵調査に乗り出したのは信自身だったというのを、昌平君は河了貂から報告を受けていた。

それからもう一つ。秦趙同盟が結ばれた後、趙の一行をもてなすための宴が開かれた。

宴の席を抜け出し、趙の宰相と何かを話していた姿を、昌平君はこの目で見ていた。

あの場に出くわしたのはただの偶然だったのだが、見方によっては信の密通を疑わざるを得ない光景である。

物陰から二人の会話に耳を澄ませていたが、密通など感じさせるものは一つもなかった。

しかし、人目を忍ぶように趙の宰相と二人で会っていたという、その事実を利用さえすれば、それで良かったのだ。

秦国に欠かせない強大な戦力である信の立場が崩れていく図が、昌平君の中に浮かんでいった。

 

 

「…………」

寝台の上で信は未だ寝息を立てていた。

身の回りの世話を任せている侍女の話だと、朦朧としながらも、信が目を覚ますことが幾度かあったそうだ。

その時に水や食事を摂らせながら、調合した薬を飲ませ、また眠らせている。その甲斐あってか、左脚の傷はすっかり塞がりかけていた。

「…信」

眠っている彼女に呼びかけるが、目を覚ます気配はない。

頬に触れても前髪を指で梳いてやっても身じろぎ一つしないことから、未だ深い眠りに落ちていることが分かった。

「………」

身を屈め、昌平君は彼女に口づける。眠っている彼女に口づけるのはこれが初めてではなかった。

角度を変えて何度も唇を重ねる。柔らかい感触に夢中になった。

「ん…」

薄く開いている口に舌を差し込み、歯列や歯茎をなぞり、赤い舌を絡ませる。

決して信の方から口づけに応えてくれることはなかったが、幸福感で胸がいっぱいになっていた。

彼女に触れている今この瞬間だけは、この女は自分のものであるという実感が湧いた。

目を覚ます気配のない信の体を組み敷くと、二人分の重みで寝台がぎしりと軋む。

眠っている彼女に口づけながら、昌平君の手が彼女の帯を解いた。襟合わせを広げると、信の傷だらけの肌が現れた。

屋敷に連れて来てから、幾度も見て来た身体だというのに、何度見ても欲情してしまう。昌平君は生唾を飲み込んだ。

身を屈め、貪るように彼女の肌に吸い付く。

着物で隠れていた彼女の肌には、幾つもの赤い痕が残っている。新しいものから消え掛けているものまであり、それは全て昌平君がつけたものだった。

彼女の艶のある肌に顔を埋め、また新しい痕を刻み、優越感に胸を浸らせる。

「信…」

まるで恋人同士のように、敷布の上で指を交差させ、名前を囁く。

当然ながら信が返事をすることはなかったが、いずれは同じ想いであると応えてくれるはずだと昌平君は信じて止まなかった。

控えめだが手の平に収まるほど形の良い胸を揉みしだく。隆起の先端は、素肌に溶け込んでしまいそうなほど薄い桃色で、まだ芽を立てていなかった。

指で摘まんでやり、優しく愛撫を続けていくと、硬く芽を立てていく。

「は、…」

僅かに吐息が聞こえ、昌平君が上目遣いで信を見上げる。

まだその目は閉じられたままだったが、胸への刺激に反応を示したのは確かだ。

硬く立ち始めた芽を舌で転がし、唇で優しく食む。僅かに身体が震えたのが分かった。
眠っていても刺激を感じているのなら、目を覚ました時にはどのような反応を見せてくれるのだろうか。

…その答えを知る日はそう遠くないだろう。

甘く歯を立てながら、昌平君は彼女の足の間に手を伸ばした。

 

 

秘め事

当然ながら、そこは濡れていなかった。眠っているのだから、反応が鈍いのも当然だろう。

体を起こした昌平君は彼女の膝を立て、足の間に身体を割り込ませた。

自分の指を咥えて十分に唾液を纏わせると、その指で二枚の花弁の合わせ目をなぞる。

唾液の潤いが移ったのを確認してから、二枚の花びらを指で押し広げた。艶めかしい紅色の淫華が現れ、思わず生唾を飲み込んでしまう。

蜜を流し始めれば、この紅色がますます美しく輝くことを昌平君は知っていた。

淫華に顔を寄せると、入り口の部分を狭める襞が見える。
処女膜がまだ健在していることが、信がまだ男の味を知らない何よりの証拠だった。

迷うことなく昌平君はそこに舌を伸ばす。

破瓜の痛みは男が想像出来ないほどの苦痛を伴うという。薬と香で眠らされている信も、破瓜の痛みを感じれば目を覚ますだろうか。

もしも破瓜の痛みで信が目を覚まし、自分と身を繋げているのだと分かれば、彼女は一体どのような表情を見せてくれるのだろう。

そんなことを考えながら、昌平君は未だ破られていない処女膜に舌を伸ばし、淫華に唾液を注ぎ込んだ。

唇と舌を使って花芯も可愛がっていると、中の肉壁が、唾液ではないもので潤い始めたのを察した。

繊細な淫華を傷つけないよう、ゆっくりと人差しを差し込んでいく。

指を出し抜きする度に卑猥な水音が立ち始め、眠っているはずの信が軽く息を切らしているのが見えた。

「はっ…ぁ、ぅ、うぅん…」

意識は眠りに落ちていても、体は刺激に反応しているのだ。

そのことに気を良くしながら、昌平君は中に入れた指を鉤状に曲げて肉壁を擦り上げる。

「ッあ、ぁ…」

ある一点を指が擦った時、眠っているはずの信の身体が仰け反った。

「信?」

名前を呼ぶが、信の意識は未だ眠りに落ちたままである。

蜜を垂れ流している淫華に指をもう一本突き挿れ、再び抜き差しを始めた。

もっとして欲しいと訴えるかのように、肉壁が打ち震えているのを感じ、昌平君の口角は自然とつり上がっていった。

まだ一度も触れてもいないのに、眠っている信の体を弄っているだけで男根が上向いている。

「はっ…」

乱暴に着物を脱ぎ、昌平君は余裕のない手付きで男根を扱く。

根元の辺りを手で扱きながら、反対の手で花弁を押し開き、先端を淫華の入り口に擦り付けた。

信が眠っている間に、こうして自慰に浸るのは初めてではない。眠り続けている彼女の口唇を使ったこともある。

破瓜を破っていないものの、信の体を汚しているという自覚は十分にあった。

もとより、信を手に入れるために密通の疑いをかけ、この屋敷に連れて来たのだ。

本当ならば見つめ合いながら、手を繋ぎ合って、性器だけじゃなく心も繋げたい。

しかし、それが叶わないことを昌平君は分かっていた。信が秦将であり続ける限り、彼女の瞳には戦しか映らない。

「信…っ」

息を荒げながら、昌平君は切なげに眉根を寄せて男根を扱いていた。

「っ、あ…!」

全身に痺れが走り、頭の中が真っ白になる。
尿道から精液が勢いづいて吐き出され、艶めかしい紅色をした淫華と内腿を白く汚した。

息を整えながら、白濁が淫華の中に流れ込んでいくのを見つめる。

(将をやめさせるのなら、私の妻にして、孕ませてしまえば良い)

ふと、思考を過ぎったその考えは、恐ろしいほど呆気なく昌平君の中に染み渡っていった。

 

 

秘め事 その二

今までは信の体を使って虚しく自慰に浸っていたが、今となってはこの行為にも十分に意味を見出せた。

信から戦を奪うには、将をやめさせれば良いのだ。密通の疑いを利用して、将としての信頼を喪失させて、居場所を失くせば良い。

趙への密通だけでなく、李牧との姦通した事実を広めれば、信は秦将の立場どころか、その首を失うことになるだろう。

しかし、嬴政が親友である彼女を断罪できるとは思わない。恐らくは秦将の立場から降ろす慈悲に留めるはずだ。

信を将の座から降ろすその計画は、聡明な昌平君の中では、手足を切り落とすよりも簡単なことだった。

「信…」

昌平君は体を起こし、未だ寝息を立てている彼女に再び口づけた。

何度も唇を重ねていると、それだけでまた男根が上向いて来る。先ほど吐精したばかりなのに、体が目の前の女を求めて欲情しているのだ。

醜いまでに浅ましい欲望だと思う。

それだけ自分は信のことを欲していて、自分の欲望を叶えるために、彼女の将としての人生を壊そうとしている。

すまないと心の中で謝罪をしながらも、昌平君はやめるつもりはなかった。

もう自分の意志一つでは安易に止められぬほど、信を手に入れる欲望は広く深まっていたのだ。

 

 

「……、……」

信の両膝を広げ、淫華に再び男根の先端を宛がう。
今までのように性器を擦り付け合うのではなく、いよいよ挿入を試みた。

「っ…」

蜜と白濁が混ざり合って、淫華の入口がぬるぬると滑った。

しっかりと入り口に先端を押し当て、ゆっくりと腰を進めていくと、入り口を狭めている処女膜が、まるで男根の侵入を拒むように押し返して来る。

「くっ」

昌平君は信の体を抱き締めながら、力強く腰を前に押し出した。

ぶつん、と処女膜が裂けた感触がした途端、押し返される感覚がなくなり、一気に奥まで男根が突き刺さる。

「あ”ッ…」

掠れた声がして、弾かれたように顔を上げると、信が喉を突き出して口を開けていた。しかし、まだその瞼は閉ざされたままである。

無駄な肉など少しもついていない引き締まった太腿が僅かに震えている。眠っている意識でも、破瓜の痛みを感じているのだろうか。

自分の男根を根元まで咥え込み、血の涙を流している淫華を見下ろし、ようやく信と一つになったのだと実感した。

男根を包み込んでいる肉壁の感触に、快楽が押し寄せて来る。今までは性器を擦り合うだけだったが、彼女の中は想像以上に温かくて気持ちが良かった。

「…あ、…は、ぁ…」

信が唇を戦慄かせている。
眠っているはずの彼女の瞼から涙が伝ったのを見て、昌平君は身を屈め、その涙を舌で掬い上げた。

「ん、…ぅん、…っ」

唇を重ねながら、昌平君はゆっくりと腰を引いていく。開通したばかりの道はまだ狭く、男根を締め付けたまま放そうとしない。

信に意識はないはずなのに、まるで男根を強請られているかのようだった。

「ッ…!」

浅く抜いた男根をもう一度深く叩き込むと、信の体が力なく仰け反った。

敷布の上に力なく落ちている信の手に指を絡ませ、口づけを続けながら、昌平君は堪らず腰を律動させていた。

破瓜の血と蜜と精液が合わさって、卑猥な水音を立てている。

「は、はあっ、ぁっ、ぁ…」

体を揺すられながら、信の唇からも吐息が洩れていた。

眠りながらも自分を感じてくれているのだと思うと、昌平君の胸は火が灯ったかのように熱くなる。

寝台が激しく軋む音が行為の激しさを物語っていた。

「ぐっ、…ぅ…!」

絶え間なく息を弾ませ、時々歯をきつく食い縛って、くぐもった声を洩らす。

信が男を咥えるのが初めてなら、無理はさせるべきではない。頭では分かっているのだが、欲望が先走るあまり、加減が出来なかった。

口づけの合間に、愛していると囁き、昌平君は絶頂に駆け上るために、激しく腰を揺すった。

「ッ…!」

やがて、全身を戦慄にも似た激しい痺れが再び貫いた。
目の前が真っ白に染まる。体の奥底で生成された熱が爆発を起こしたようだった。

「はあッ…、はあ、はっ…」

下腹部を震わせながら、信の細腰を掴んで引き寄せ、最奥で吐精する。

子宮の入口に男根の先端を押し付けたまま、吐精を終えた後も、しばらく動かずにいた。
このまま子種を植え付けて、孕ませてしまえば、信はどのみち将の座を降りることになる。

少しずつ冷静になって来た思考で、昌平君はやはり彼女を手に入れるために、信の全てを奪おうと決意するのだった。

「…何も、心配することはない」

静かに囁き、昌平君は信の額に口づけを落とす。

まだ何も知らずにいる彼女は、目を覚ましたら、どんな表情を浮かべるのだろうか。

 

 

後日編

本編の後日編です。

 

腕の中で眠っている妻が僅かに身じろいだので、起きたのだろうかと昌平君も瞼を持ち上げた。

窓から白い日差しが差し込んでいることから、まだ陽が昇り始めたばかりだと気づく。

彼女の色素の抜けてしまった髪がきらきらと輝いていた。美しい宝石のような髪を指で梳いていると、信の瞼がゆっくりと持ち上がる。

「…昌、平君…?」

寝ぼけ眼でこちらを見上げる信に、つい口元が緩んでしまう。

「眠っていろ」

肩まで寝具をしっかりと掛けてやり、その体を抱き締め直すと、信の身体があからさまに強張っていた。

いつもなら、甘えるように胸に凭れ掛かって来て、すぐに寝息を立て始めるのに今日は違う。

「信?」

悪い夢でも見たのだろうかと顔を覗き込むと、彼女の顔から血の気が引いていた。

「な、なに…して…」

驚愕のあまり、体を強張らせているのだと気づいた。

冷たい指先で昌平君の胸を押し退け、信が勢いよく寝台から起き上がる。

見知らぬ部屋・・・・・・にいると気づいた信が戸惑った表情で昌平君を見つめている。なぜ自分はここにいるのだと答えを知りたがっているのだろう。

「…あまり無茶をするな。体に障る」

「やめろっ」

ゆっくりと身を起こし、信の手首を掴むと、その手を振り払われた。

宙を切って行き場を失った手に虚しさを覚えながら、しかし同時に懐かしさ・・・・を覚える。

「なんなんだよっ…」

怒りと不安が混ざり合った表情で、信は寝台から立ち上がろうと床に足をつけた。

 

 

「身重の身体でどこへ行く」

腕を掴みながらそう言うと、身重という言葉に反応したのか、信の身体が硬直する。

ゆっくりとこちらを振り返った信の顔は笑えるほど白くなっていて、見開かれた瞳がゆっくりと下に向けられる。

掴まれた手を振り払うこともせず、彼女は呆然と薄口を開けていた。

「え…、な、なんで…?」

なだらかに突起した臨月を示す腹に、自分の腹に赤子が眠っていることが信じられないようだった。

「お、俺…いつ、こんな…」

動揺のあまり、身体の震えは止まらず、立っているのも辛いようだった。その身体を支えながら寝台へと連れ戻すと、信は俯いたまま顔を上げないでいた。

視線の先にある膨らんだ腹を見て、言葉を失っているのだと気づき、昌平君はおもむろに彼女の腹を撫でてやる。最近になって、胎動がより目立つようになっていた。

「私とお前の子だ」

「は…?」

聞き返した声は、情けないほど震えていた。

腹を撫でている昌平君の優しい手付きにすら怯えているのか、信の身体が泣きそうなほど顔を歪めている。

どうやら、あの香の効力が解けたようだ。

使用を続けることで、記憶を失うという恐ろしい副作用があるのだと医師から聞いていたが、時々記憶が元に戻るらしい。

昌平君の妻になったことや、子を孕んでいることを忘れ、将だった頃・・・・・の彼女の意識が戻って来る時があるのだ。

将だった頃の全てを忘れ、自分の妻の役目を全うしていた信ももちろん愛おしいが、昌平君が惚れたのは将だった頃の彼女だ。

もちろん記憶が抜け落ちていたとしても、信であることには変わりない。

どちらも愛おしい存在であり、昌平君にはかけがえのない存在である。

「い、いやだ…なんで、こんな…」

青ざめて涙を流し始める信は、昌平君の子を孕んでいる事実を受け入れられないでいるらしい。妻になったことも覚えていないのだから当然だろう。

浅い呼吸を繰り返している信を慰めるように、昌平君は優しい手付きで頭を撫でてやる。

またあの香を焚けば、自分に従順な妻が戻って来るのは分かっていたが、昌平君はそうしなかった。

「…お前の将としての役目は終わった」

何を言っているのか理解出来ないといった顔で、信が涙目で昌平君を見つめている。

「お前が生きる場所は、ここだけだ」

昌平君はその涙を舌で舐め取ると、何度目になるか分からない愛の言葉を囁いて、信の体をゆっくりと寝台に押し倒したのだった。

 

昌平君×信のハッピーエンド話はこちら

信が昌平君の護衛役を務める話はこちら

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卑怯者たちの末路(李牧×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/シリアス/馬陽の戦い/秦趙同盟/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

交わり

李牧が信の身体を組み敷いた後、思い出したように彼女は目を開いた。

「言っとくが、生娘初めてじゃないからな。変な気遣いはするな」

「そうでしょうね」

即答した李牧に、信が眉根を寄せる。

「…いくら逆らえない命令だからと言って、こんなにあっさりと身体を差し出す女性が生娘だと思う方が難しいでしょう」

よほど肝が据わっている生娘だったとしても、初めて男に肌を曝け出す態度には見えなかった。

理由を聞いた信が、納得したように薄く笑んだ。

「…本当なら、私ではなくて、大切な人に捧げたいのではないですか?」

そう問いながらも、李牧は信の首筋に舌を這わせる。くすぐったそうに顔をしかめて、信が首を横に振った。

「そんなの、必要ない」

恋人と呼べる男も、身を捧げたいと思う男も信は不要だと告げた。女としての幸せに興味がないという彼女に、李牧は目を細める。

ならば誰にその純血を捧げたのかと尋ねるのは野暮というものだろう。

彼女の将としての才能を、李牧も認めていた。馬陽の戦いの奇襲は予想を超えるものだったし、まさか信自らが趙兵に扮して本陣に潜入していたことに、李牧が素直に称賛を贈ったほどだった。

彼女を手元に置くことが出来れば、今後の戦況は大きく揺らぐだろう。この中華の未来に影響すると言っても過言ではない。それほど秦国に信の戦力は欠かせないのだから。

「…もしも、私の子を孕んだら、有無を言わさずに趙へ嫁がされるのですよ?」

扉の向こうにいるであろう聞き役に届かぬよう、李牧は小声で問いかけた。

真剣な眼差しを向けられても、信は表情を変えない。それどころか、彼女はまるで甘えるように両腕を伸ばし、李牧を包み込んだ。

そっと頭を抱き寄せると、信は李牧の耳元に唇を寄せ、

「…孕んだら、少しくらいはお前のことを好きになってやれるかもな」

妖艶な笑みを口元に携えながら、そう囁いた。
紅で瑞々しく染まった唇が李牧の耳に押し当てられると、くらりと眩暈がした。

 

李牧の伽をしろという呂不韋の指示に従ったのは、仲間を守るためだ。しかし、今の信は嫌々従っている素振りは少しもない。

むしろ挑発的な視線を向けられ、李牧は思わず生唾を飲み込んだ。

李牧の骨ばった手が信の形の良い胸を包み込む。

「っあ…」

柔らかい感触を手の平いっぱいに味わいながら、傷だらけの肌に吸い付くと、信が僅かに声を上げた。

目も当てられぬような惨い傷痕もあるというのに、信の肌を美しいと思った。

若さゆえの艶があるのはもちろんだが、傷だらけの肌は彼女の生きた証そのもので、李牧の胸を震わせた。

「男って…傷、舐めるの好きだよな」

目を逸らしながら呟いた信の言葉に、李牧は思わず動きを止める。

信が生娘じゃないことは彼女自身が話していたし、武器を所持していないことを示すために、恥じらいもなく堂々と着物を脱いだ態度からそれは李牧も分かっていた。

しかし、自分と同じようにこの傷痕に舌を這わせた男がいるのだと思うと、嫉妬の感情が沸き上がって来る。

一人なのか、それとも複数の相手と寝たことがあるのか、他の男の前ではどのような表情をして喘ぐのだろう。自分は信のことを何も知らないのだと、改めて思い知らされた。

もちろんそれは敵対する立場としては当然のことなのだが、今はこんなにも傍にいるというのに、なぜ信のことを何も知らずにいたのだろうと李牧は自分自身に苛立ちを覚える。

馬陽の戦いで出会ったあの時、逃がさなければ良かったという後悔さえ覚えた。

「っ…」

右手に刻まれたあの日の傷痕が、疼くように痛んだ。

 

軍師の正体

「…李牧?」

李牧の顔つきが変わったことに、信は眉根を寄せた。なぜ彼が苛立ちを見せているのかが分からないらしい。

それは当然だろう。敵の宰相が自分を抱いた男に嫉妬の感情を抱いているなど、一体誰が想像出来るだろうか。

束の間、前髪で表情を隠した李牧が唇を固く引き結ぶ。

「…伽を命じられたのなら、その責務を果たしてください」

顔を上げた李牧の声は、まるで刃のように冷え切っていた。信は狼狽えて身体を強張らせる。

李牧は自らの帯を解くと、乱暴に着物を剥いだ。

「え…?」

現れた李牧の肌に信は瞠目した。室内を照らしている蝋燭の明かりだけでも、李牧の肌は自分と同じように傷だらけであることが分かった。

着物で隠れていた彼の身体は、筋肉で固く引き締まっている。その強靭な肉体を見れば、軍師ではなく将軍として戦に出ていると言っても誰もが納得するほどだった。

信が李牧の身体を凝視していると、彼は肩を竦めるように笑った。

「あなたの養父を討った軍師に、ようやく興味が湧きましたか?」

「………」

挑発するような視線を向けられるが、信は言葉を喉に詰まらせていた。驚愕のあまり、声が喉に張り付いて出て来なかったのだ。

机上だけで軍略を学んで来た男とは思えない。この傷と筋肉は、実際に戦場に出て、そして多くの血を流し、作り上がった身体だ。

幾度も死地を駆け抜けている信はすぐに分かった。この男は恐らく、自分の比じゃないほどの死地を生き抜いて来たのだろう。

まさか李牧がこんな強靭な肉体の持ち主だとは思わなかった。

着物で隠れていただけとはいえ、隠し切れていない只ならぬ才の持ち主である理由もここにあるような気がした。

そして、自分は今からこの強靭な肉体を相手にしなくてはならないのかと信は僅かに冷や汗を浮かべる。

「信」

名前を呼ばれて、はっと我に返った。
それまで信の身体を組み敷いていた李牧が身体を起こす。

「えっ…ぁ…」

寝台に横たわっていた体を起こされ、信は李牧の腕の中に閉じ込められていた。

致命傷になり得たであろう深い傷の刻まれている胸に顔を埋める形になり、信は思わず息を詰まらせる。

優しくしろと言ったのは確かに信の方だが、急に抱き締められたことで驚いてしまったのだ。

「放せッ…」

両腕を突っ張って抵抗を試みるが、李牧の両腕はしっかりと背中に回されていて、離れる気配がなかった。

「逃げても構いませんが、仲間の首が掛かっているのでしょう?」

「………」

からかうように囁かれ、信はぐっと奥歯をきつく噛み締める。

逃げ道がないことは分かっていたし、仲間たちを助けるために身体を差し出すことを決めたのも自分自身だ。

信は瞼を下ろすと、覚悟を決めろと自分に言い聞かせ、長い息を吐いた。

 

情事 その一

腕の中にいる信が観念したように息を吐いたので、李牧は思わず苦笑を浮かべてしまった。

今の信の表情には先ほどのような余裕の笑みが一切ない。自ら着物を脱いで迫って来る勇敢さは、やはりただの強がりだったのだろう。

生娘でないとしても、浅ましく性に狂っている女ではないし、何より相手が敵の宰相、そして養父の仇なのだから嫌悪感を抱くのは当然だ。

それでも彼女が自分の本音を押し殺してまで李牧に身を委ねるのは、他の誰でもない仲間たちの命を救うためであり、それ以上でもそれ以下でもない。

「さっさと終わらせるぞ」

何ともないように冷静な顔を繕っているものの、その声は僅かに震えていた。

一度寝台から降りると、信は李牧の足の間に身体を割り入れる。迷うことなく彼女の手は李牧の男根に伸ばされた。緊張しているのか、指先が冷えている。

信は頭を屈めると、僅かに上向いている男根に赤い舌を伸ばした。

指先と違った生暖かい感触が敏感な亀頭部に染みて、李牧は僅かに眉根を寄せる。

亀頭部だけでなく、陰茎や裏筋にも舌を這わせられると、背筋に戦慄が走った。

「ん…」

上下の唇で先端を大きく咥えられる。
ねっとりとした温かさに包まれ、あまりの気持ち良さに李牧は喉を引き攣らせた。

輪っかを作った指で根元を、頭を動かして唇で陰茎を扱かれる。緊張しているのは分かったが、躊躇う様子がないことから、こういった行為には慣れているのだろう。

男を喜ばせる術を知り得ていることに、きっと彼女を抱いた男が教え込んだに違いないと思った。

顔も名も知らぬ男を、あるいは複数の者たちに憎しみを覚える。それが嫉妬であることに、李牧はまだ気づいていなかった。

「ん、っん…」

信が男根を咥えたまま、頭を動かし始める。

口内のねっとりと包み込まれる感触が堪らない。完全に勃起した男根を口いっぱいに頬張っている信が苦しそうに眉を寄せていた。

口の中だけでもこんなに快楽が押し寄せて来るというのに、彼女の淫華で男根を抽挿すれば、どれだけの極上の夢を見せてくれるのだろう。

涎じみた先走りの液をちゅうと吸った後、信は一度男根から口を離し、軽く息を整えていた。

「むぅ、ぐ…」

苦痛が増すのを知りながら、信は李牧の勃起し切った大きな男根を深く咥え込んだ。狭い喉奥がきつく男根を締め付けて来る。

「ッ……」

喉を使って愛撫されるのは初めてだったのだが、あまりにも強い刺激に、李牧は歯を食い縛った。

「はあ、はあ…」

物理的に呼吸が遮られて苦しくなったのだろう、顔を真っ赤にした信が呼吸をするために口を離す。

粘り気のある唾液の糸が彼女の唇と男根を紡いでいた。うっすらと涙を浮かべた瞳に見上げられ、李牧は思わず息を飲む。

そうだ。この瞳だ。

馬陽の戦いで、王騎の死を知らされた時に信が見せた瞳。男の征服感を煽る彼女の瞳に、李牧は魅入られていたのだ。

「んぅ…く…」

息が整うと、彼女は再び男根を喉奥まで咥え込んだ。

えずかないよう、ぎりぎりのところを見極めて、それでも深く喉奥まで男根を呑み込む。

唇や舌だけではなく、喉までも男を喜ばせる道具として調教されたのだろうか。

彼女にこんな淫らな技を仕込んだ男が、自分に伽をするよう命じた呂不韋でないことを祈りながら、李牧は彼女の髪をそっと撫でた。

「ッ、んん…!」

男根を強く吸い上げながら、信が頭を前後に動かす。根元を握っている指も動かし、隙間なく男根を愛撫される。

亀頭と陰茎のくびれの部分を上下の唇で優しく食まれ、李牧は思わず息を洩らした。

口の中での射精を促そうと、眉根を寄せながら信が口淫を続ける。彼女が頭を動かす度に卑猥な水音が部屋に響き渡る。

あまりの気持ち良さに膝が笑い出した。寝台に腰を下ろしていなければ、力が抜けていただろう。

「ッん、んうぅ…!」

信の後頭部に手を添えて、深く喉奥に男根を咥えさせると、苦しそうな声が上がった。気道を塞がれれば誰だって苦しいものだ。

しかし、女の喉がこんなにも柔らかくて気持ちが良いものなのだと知って、夢中にならない男はいないだろう。

足の間に顔を埋めている信が顔を真っ赤にさせている。

生理的な涙を浮かべてこちらを見上げて来る信と目が合った。
まるで許しを乞うような弱々しい表情に、李牧の心がぐらりと揺れた。欲情したというのが正しいだろう。

目を開けているのに、視界が一瞬白く染まる。

全身に戦慄が走り、李牧は腰を震わせた。子種が勢いをつけて尿道を駆け巡っていく。

「……、……」

彼女は目を閉じて、口の中に放出される子種を舌の上で受け止めていた。

絶頂の余韻に浸りながらも、李牧は褒めるように信の頭を撫でてやった。

 

情事 その二

射精を終えた後も、信は男根を咥えたままでいた。

まだ喉を動かしていないことから、口の中に子種を溜めているのが分かった。

「ぅ、ぅん…っ」

薄く目を開いた彼女が、尿道に残っている子種をちゅうと吸い上げる姿に、李牧は瞠目する。

「…信、吐き出してください」

息を整えながら李牧が囁くと、信がゆっくりと男根から口を離した。

軽くむせ込みながら、口の端から李牧の精液を滴らせる彼女の姿は、淫靡としか言いようがない。

「信」

未だ自分の足の間に座り込んでいる信の手を引いて抱き上げる。

二人で寝台に倒れ込むと、甘えるように信も李牧の背中に腕を回してくれた。

「ふ、ぁ…」

李牧は彼女の唇から滴る己の精液を指で拭ってやった。口の中にも指を入れ、唾液に絡んでいる精液を掻き出す。

先ほどまで自分の男根を咥え込んでいた唇に、李牧は迷うことなく唇を重ねた。

「っ、んん、ぅうっ…」

舌を差し込むと、信が切なげに眉根を寄せて舌を絡めて来る。

それが他の男に仕込まれた術なのか、それとも純粋に自分を求めてのことなのか、李牧には分からなかった。

口づけを交わしながら、信の足の間に指を忍ばせると、そこは既に蜜を垂れ流していた。まさか男根を咥えながら感じていたのだろうか。

「っあ…!」

先ほど精液を拭った指で入り口を擦ると、信の身体がぴくりと跳ねる。花びらを掻き分け、蜜の滑りで難なく指が入り込んでしまった。

「っんん、ぁ、はぁ…」

信が口で受け止めた精液を塗り付けるように、李牧は柔らかい肉壁に指を擦り付ける。

(本当に孕ませてしまおうか)

卑怯だという自覚は十分にあった。彼女を戦場から遠ざけるには、趙へ連れていくには彼女を妻にするのが手っ取り早い。

信に後ろ盾がないことは分かっているが、秦王嬴政との強い信頼関係で結ばれているのは少々厄介だ。

だからこそ、彼女と婚姻を結ぶのならば、裏で大きな根を張っている呂不韋の今の権力が失墜する前に行う必要がある。

 

「ぁあっ、ん」

一番奥にある子宮の入口を指の腹で引っ掻くと、信の身体が大きく跳ねたので、何度もその個所を愛撫してやった。

僅かな凹凸を感じ、こんな狭い場所から赤子が頭を掻き分けて生まれて来る思うと不思議でならなかった。

指を引き抜いてから起き上がり、李牧は彼女の両膝を大きく開かせた。両脚の間に身体を割り入れる。

他の男によって使い込まれているだろう淫華にはくすみがなかった。口を閉じている花びらの隙間から蜜が伝っている。

二本の指で花びらを左右に広げると、艶めかしい薄紅色の粘膜が現れた。男を惑わせる魅惑の淫華の一番美しい部分である。

「っ、う…ぅん…」

男に抱かれるのは初めてでないくせに、見られるのが恥ずかしいのだろうか、信は敷布に真っ赤な顔を押し付けている。

顔を寄せた李牧が、二枚の花びらの間にある艶めかしい淫華に舌を差し込むと、信が短い悲鳴を上げた。

「な、なにしてっ…」

驚愕と羞恥が入り混じった表情と、まるで経験のないような言葉を向けられて、李牧は思わず口を離した。

「あなたが私にしたのと同じことですよ」

言葉に出して言うと、信は真っ赤になっている顔をさらに赤くさせて、唇を戦慄かせながら首を横に振った。

逃げようとする細腰を両手で捕まえて引き寄せると、李牧は再び淫華に口づける。

「っんうう!」

下唇を強く噛み締めて、信が身体を仰け反らせる。
先ほどの言葉と、この恥じらいの反応を見る限り、もしかしたら男からこの愛撫をされたことがないのかもしれない。

何の躊躇いもなく着物を脱いだ彼女がようやく見せた動揺に、李牧は優越感を抱く。

破瓜を捧げた男は別にいるのだろうが、それとは別の信の初めてをもらえたような気になった。

「ぃやッ…」

花びらの合わせ目に、尖らせた舌を這わせようとすると、信が頭を突き放そうと両手を伸ばして来る。

その両手首を押さえ込むと、李牧は思わず目を見張った。

天下の大将軍の娘と称えられている彼女だが、その手首は驚くほどに細かった。こんなにも華奢な腕で大勢の兵を薙ぎ払い、強将たちを討ち取って来たのかと思う。

「いやだっ、て…!」

李牧は彼女の言葉を無視して、再び淫華に顔を寄せる。

女の官能を司る花芯が顔を覗かせており、まるで男を煽るかのようにぷっくりと膨らんでその存在を主張していた。

「ひいッ…」

美味そうだと花芯を唇で食むと、信の身体が硬直する。
構わずに尖らせた舌先で突いてやったり、強く啜ると、信の引き締まった内腿がびくびくと打ち震えていた。

逃れようと身を捩っているが、まるでもっとして欲しいと願っているような仕草で、舌の動きを速めてしまう。

「~~~ァ…!」

喉を突き出して信が声ならぬ声を上げているのを見ると、もっと善がり狂わせてやりたいと思った。

「ひ、ぁぐっ」

花芯を口と舌で可愛がってやりつつ、今も蜜を垂れ流している淫華に再び指を突き挿れた。

すんなりと呑み込まれた二本の指を柔らかく滑った肉壁がきゅうと締め付けて来る。

互いの指を絡ませていた両手が自由になり、信は李牧を突き放そうと髪を掴んだ。しかし、上手く手に力が入らないようで、弱々しく髪を掴むのが精一杯らしい。

「ひ、やッ、あァ」

花芯の裏側に当たる部分を淫華の中から指で突き上げると、悲鳴に近い声が上がる。
敏感な花芯を表と裏から責められて、信の身体の震えが止まらなくなる。

「ま、待って、も、もうッ…」

瞳に涙を浮かべながらやめてくれと懇願される。しかし、李牧は構わずに花芯への刺激を続けた。

「あっ、あぁーッ」

やがて、信の身体が一際大きく震え、泣きそうな声が上がる。

硬直した身体がくたりと脱力したのを見て、絶頂を迎えたのだと悟った。

 

情事 その三

「は、ぅ…」

微かに下腹部を痙攣させている信が涙を流している。

それまで彼女の足の間に顔を埋めていた李牧はようやく身を起こし、手首にまで伝っている蜜を、まるで彼女に見せつけるように舌を這わせた。

羞恥と怒りが混ざり合い、複雑な表情でこちらを睨み付ける信に、李牧はすっかり余裕じみた笑みを浮かべていた。

「これでお相子でしょう?」

お互いに同じ方法で絶頂を迎えたのだから、何も悪いことはないだろうと問えば、信があからさまに目を逸らした。

先ほど絶頂を迎えたはずなのに、男根が再び勃起している。彼女の愛らしい反応を見て、男としての本能が完全に覚醒していた。

彼女の蜜で濡れた手で何度か男根を扱き、信の両足を大きく広げさせる。

「っ…」

緊張と不安が混ざったような眼差しを向けられる。

「ん、く…」

焦らすように男根の先端で花びらの合わせ目をなぞる。何度か繰り返していると、信が切なげに唇を噛み締めたのが分かった。

戸惑いの表情の中に、早く挿れてほしいという期待が込められていることに気付いていたが、気づかないふりをして執拗に入り口を弄る。

すぐに腰を前に押し出したかったが、李牧は欲望を押さえつけながら、我慢比べを続ける。

「んん、…あぅ、…」

信は気持ち良さに恍惚の表情を浮かべていた。

互いの性器を擦り合っているだけでこんなにもはしたない顔を晒すのだから、男根を中に挿れれば、一体どんな淫らな表情を見せてくれるのだろう。

「ぁ……はや、く…」

信が腕を伸ばして李牧の男根をそっと掴んだ。我慢比べは呆気なく李牧の勝利で終わったようだ。李牧の方にも、もう余裕は残っていない。

ひくひくと震えている淫華の中心に先端をぐっと押し付け、迷うことなく腰を前に押し出した。

 

「ぁああッ」

喜悦に染まった悲鳴が上がる。

喉を突き出して、信が身体を仰け反らせたので、離れないように李牧はその体を強く抱き締め、男根で最奥を貫いた。

淫華の艶めかしい感触に、目まぐるしい快楽が押し寄せる。互いの下腹部が隙間なく密着し、信と一つになったのだと実感した。

「う、…っあ、ぁあ…」

強く身体を抱き締め合い、性器が馴染むまで、二人は動かなかった。

強く閉ざした瞼から止めどなく涙が流れているのが見えて、李牧は目尻に唇を寄せた。

それが引き金になったかのように、二人は唇を重ね合った。信の方から舌を伸ばして、自ら李牧の舌を絡め取って来る。

李牧も彼女の舌に吸い付き、唇と舌の感触を味わった。

「ふっ…、んんっ…」

鼻奥で悶えるような声を聞き、李牧は唇を離す。敷布の上で再び指を交差させ合うと、ゆっくりと腰を引いた。

「んんっ…」

ゆっくりと腰を前後に動かし始めると、信が強く目を瞑りながら、李牧の背中に回した腕に力を込めたのが分かった。

まるで恋人同士のようだ。
体を重ねているだけだというのに、今だけはお互いの敵対関係にある立場を忘れられた。

「あぅッ、あっ、ああっ、やぁ」

耳に舌を差し込むと、抱き締めている信の身体にぶわりと鳥肌が浮き立ったのがわかった。

舌を抜き差ししながら腰を前後に連打すると、信の口からひっきりなしに喘ぎ声が洩れる。

彼女の甘い声に、自分の男根で善がり狂う姿に、李牧は夢中になっていた。

淫華からは止めどなく蜜が流れ続け、腰を穿つ度に性器の擦れ合う音がより卑猥になっていく。

敷布の上で絡め合っている指に、ますます力が込められる。

「あっ、ま、待っ、てぇッ」

絶頂に駆け上がろうと腰の動きを速めると、信が髪を振り乱して制止を求めた。

あまりの激しさに寝台の軋む音が大きくなっていた。扉の向こうにいる聞き役も、夢中になって情事の音を聞いていることだろう。

制止されても李牧は構わず腰を揺すり続ける。

欲望に頭が支配され、余裕のない惨めな顔を晒していることに自覚はあった。

 

情事 その四

女と性器を交えることは初めてではなかったのだが、こんなにも行為が心地良く感じられたのは初めてのことだった。

身体の相性が良いのかもしれない。そして、信も同じように思っているだろう。

まるで期待するような眼差しを向けられ、思わず口角をつり上げた。

「っぅんんん!」

細腰を両手でぐいと引き寄せると、これ以上ないほど深いところを貫かれて、信が奥歯を強く噛み締める。

唇の隙間から洩れた声が喜悦に染まったままで、李牧は優越感を抱いた。

言葉には出さずとも、彼女の紅潮した顔が、喘ぎ声が、身体が気持ち良いと訴えていた。

「はあぁっ、ぁあ、ああぅっ」

もはや目を開ける余裕もなくなっているのか、信は瞼を下ろしていた。止めどなく頬を伝う涙に吸い付きながら、李牧も息を切らしている。

お互いに絶頂へ駆け上ることしか考えられなくなっていた。

「んぁ、李、牧…」

喘ぎ声の合間に名前を呼ばれ、李牧は導かれるように彼女と唇を重ねる。信の身体を再び強く抱き締め、腰を強く打ち付けた。

「あっ、も、もう…」

限界が近いのだろう、切なげに眉を寄せて、信が李牧を見上げる。
彼女の身体を抱き締めたまま、李牧は耳元に唇を寄せて低い声で囁いた。

「…私の子を孕んだら、趙に来てくれますか」

信が目を見開いて、息を飲んだのが分かった。

同じように息を切らしている李牧の考えていることが分かったのか、腕の中から逃れようと身を捩らせる。

「あっ、…や、いやだッ、待って、中は…!」

嫌がっていても、体は今さら後戻りが出来ないらしく、すぐ絶頂が目の前まで迫っていた。

どうにか逃げようとする身体を抱き押えながら、激しく突き上げ続けると、やがて、甲高い悲鳴が部屋に響き渡る。

信の身体が大きく痙攣し、子種を求めた淫華が男根をさらに強く締め付けた。

「ッ…!」

息を止めて、限界まで腰を穿つと、李牧は男根を引き抜いて彼女の腹部で射精した。

精液が勢いづいて尿道を駆け巡る瞬間は、全身が雷に打たれたかのように激しく痺れる。

「はあ…はあ…」

肩で息をしながら、李牧は徐々に理性を取り戻していた。
信も同じように息を整えながら、下腹部に掛けられた精液を見下ろして瞠目していた。

「…なんで…」

ひっきりなしに叫び続けた彼女の声は掠れていた。中で射精をされると思ったのに、そうしなかった李牧の行動に驚いているらしい。

答えの代わりに、李牧は扉の方にちらりと視線を向ける。聞き役がいることを思い出したように、信がはっとした表情になった。

扉は開けられていなかったが、もし隙間から覗かれていたとしても、寝台の上で身を重ね合っている二人の会話を聞き、その姿を見れば、彼女の中で射精したようにしか見えないだろう。

「これで子を孕んだら、私の妻になるのですよ」

聞き役を欺くための言葉だと分かった信は、何と言い返すべきか分からずにいるようで、あからさまに目を泳がせていた。

李牧はもう一度彼女の身体を抱き締める。

「…私は本気ですけどね」

耳元でそう囁くと信がぎょっとした表情を浮かべたので、李牧はつい口元を押さえて笑い声を上げそうになる自分を必死に制した。

聞き役が呂不韋に報告をすれば、彼女の仲間たちはきっと無事に解放されるだろう。

交渉の話術に長ける男だが、自分に利をもたらす結果が確定したのなら、約束を破ることはしないはずだ。

笑いを堪えている李牧に苛立ったのか、信の目がきっとつり上がる。

「どけよっ…」

李牧の身体を押し退けた信が寝台から立ち上がった。

「ぅ、おっ」

先ほどの激しい情事で足腰に力が入らなかったらしく、信の身体がぐらりと傾く。

咄嗟に李牧は彼女の腕を掴んで、背後から抱き寄せた。

膝の上に乗る形になり、信が恥ずかしそうに目を泳がせている。男女で行きつく先まで共に上り詰めたというのに、今さら何を恥じることがあるのか。

戯れに胸の芽を指先で弾いてやると、信が振り返って李牧を睨み付けた。

「ばかッ、やめろ、放せっ」

情事の後の余韻に浸ることもしない信に、李牧はますます愛らしさを感じていた。

彼女を見つめているだけで胸が高鳴ったことも、傷痕の残る右の手の平が甘く疼くように痺れたのは、決して気のせいではなかった。

 

女将軍の訃報

それから一年後、秦の女将軍が討たれたという話は、瞬く間に中華全土に広まった。

その報せは当然、趙の宰相である李牧の耳にもすぐに届くことになる。

「信が…討たれた…?」

飛信軍の信が討たれたのだという事実は、俄かには信じがたいものであった。

李牧は彼女の養父である王騎の仇である。馬陽の戦いだけでなく、秦趙同盟を結んだ際に、面と向かってお前を討つと言っていた彼女が、まさか自分以外の誰かに討たれるなど思いもしなかった。

当然ながら、彼女の最期を知る者は、この趙国にはいなかった。しかし、飛信軍の女将軍を失ったことは、秦にとって深手であることだけは分かる。

いつも前線を切り開く強大な力を誇っていた彼女が亡き者になったという事実を、李牧は受け入れるまで時間が掛かっていた。

信を失ったとはいえ、すぐに体勢を立て直すだろう。いつまでも空いた穴をそのままにしておけば、容易に攻め込まれてしまう。

しかし、いかに穴を塞いだとしてもその綻びは決して埋まるものではない。

彼女という楔を失った秦を落とすのはもはや容易いことだ。李牧の頭には、既に秦の滅ぶ未来が描かれていた。

(信…)

殺意を包み隠すことも出来ない瞳が、素直で愚かな彼女に、李牧は恋い焦がれて止まなかった。

彼女の澄んだ美しい黒曜の瞳が好きだった。二つの眼球を抉り出して、手元に置いていつまでも眺めていたいと思うほどに。

あの宴の夜に肌を重ね合ってから、李牧は彼女のことをより一層手に入れたいと思うようになっていた。

やはり、妻として傍に置いておくべきだったのだと後悔した。
卑怯者だと罵られようが、それが彼女を守る方法だったのだとなぜ気づけなかったのだろう。

首は取られたのだろうか。それとも、秦で手厚く葬られたのだろうか。せめて一目だけでも、亡骸を目にしたかったが、それも叶わない。

(…あなたがいない秦に、もはやこの同盟にも、価値はありませんね)

七つの国が描かれている地図を眺めながら、李牧はやるせなさのあまり、溜息を吐き出した。

瞼の裏に、彼女と初めて出会った時の光景が浮かび上がり、傷痕の残る右の手の平が疼くように、痛みを覚えた。

 

後編はこちら

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芙蓉閣の密室(昌平君×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ミステリー/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は軍師学校の空き教室の後日編(恋人設定)です。

芙蓉閣ふようかく:咸陽にある信が立ち上げた保護施設。戦争孤児や行く当てのない女子供を保護している。元は王騎と摎が住まう予定の民居だった。名前は王騎が生前好んでいた花から信が名付けた。

 

チョウ:芙蓉閣に保護された女性。現在は芙蓉閣に住まう女性たちに織り子の仕事を教えながら、まとめ役を担っており、信からの信頼も厚い。商人の夫がいる。

 

シン:芙蓉閣で失踪した男児。芙蓉閣に保護された戦争孤児で、信を姉のように慕っており、飛信軍に入ることに憧れていた。

 

ハン:芙蓉閣で生まれた少女。宸の妹のような存在で、失踪した彼の行方を案じている。手先が器用で織り子の仕事を手伝っている。

 

肖杰ショウヒャク:太后が後宮権力を思うままに操っていた時代に、後宮に務めていた宦官の医者。後宮を追放され、現在は咸陽で街医者として働いている。民たちから慕われており、芙蓉閣の出入りも許されている。

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生還

目を覚ますと、最初に覚えたのは喉の渇きだった。

「う…」

寝台の近くにある水差しを取ろうとして、上体を起こすと手首に引き攣るような痛みが走る。右の太腿にも鈍い痛みがあった。

手首に包帯が巻かれているのを見て、信の頭に目を覚ます前の記憶が一気に雪崩れ込んで来た。

部屋は薄暗く、寝台の近くに蝋燭の明かりが灯っていた。

「目が覚めたか」

寝台の傍にある椅子に座っていた昌平君が、木簡に目を通しながら声を掛ける。

「…俺…」

薬を嗅がされたことで喉を腫らされて、声が出せないようにされていたのだが、あれから時間が経ったからなのか、ようやく声が出るようになっていた。

木簡を手にしたまま立ち上がった昌平君が寝台に近づき、信に水差しを手渡す。受け取って水を飲むと、乾き切っていた喉がつんと沁みた。

喉の腫れは引いたようだが、まだ少しだけ違和感が残っている。きっとこの違和感も時間が経てば消えるだろう。

肖杰ショウヒャクは…?」

「然るべき場所へと送った。あの屋敷の庭から、子供たちの亡骸も見つかっている。あとはお前の証言が揃えば、すぐに罰せられるだろう」

端的に答える辺り、肖杰へ慈悲を掛けることは一切しないようだ。

「そっか…」

寝台に倒れ込み、信はぼうっと天井を見上げる。見覚えのない部屋だと気づき、信は目だけ動かして昌平君を見た。

「そういや、ここは?」

芙蓉閣ふようかくの一室だ」

昌平君がここまで運んでくれたのだろうか。

意識を失った自分の手当てもしなくてはならず、かといって肖杰の診療所に留まる訳にもいかなかったのだろう。

診療所からそう遠くない距離にある芙蓉閣ならば、二人とも顔が利く。信の救援に駆け付けたのは昌平君と彼の近衛兵たちだけでなく、救護班も同行していたのだという。

救護班による手当てを受け、今は芙蓉閣の一室で眠っていたという訳だ。

「手当ても終わって寝てるだけなんだから、わざわざ付き添わなくても良かっただろ」

「………」

指摘すると、昌平君は聞こえないフリをしているのか、黙って木簡に目を通している。二人きりしかいない密室で聞こえないはずがないのにと信は苦笑した。

右丞相や司令官、軍師学校の指導者など多くの執務を抱えている昌平君は、屋敷に帰るよりも宮廷で寝泊まりをすることが多かった。

本来ならこの騒動は、右丞相として優先するようなものではない。捕史たちに犯人探しを命じるだけで、昌平君自らが出る必要などなかったのだ。

「………」

しかし、信の瞼の裏に、肖杰に殺されそうになった寸前で駆け付けてくれた昌平君の姿が浮かぶ。

他の誰でもない自分のために、彼は駆けつけてくれたのだ。

「…ありがとな」

先ほどよりも声を潜めたというのに、礼の言葉はしっかりと耳に届いたらしい。昌平君は顔を上げると、持っていた木簡を信に手渡した。

彼の手を借りながら、信はゆっくりと上体を起こす。蝋燭の明かりに目を凝らし、木簡の内容に目を通した。

「これは…」

信の瞳が驚愕のあまり、見開く。

渡された木簡には、肖杰が犯した罪について記されていた。

「後宮にいたんじゃなかったのか?」

彼は医者という職に就いているものの、後宮には務めていなかった。宦官になるために去勢をされたのではなく、宮刑によって去勢・・・・・・・・されたのだ。

宮刑とは、男は去勢、女は監房への幽閉のことを指す。子孫を残せないという意味では、死刑に次ぐ重罰とも言われている。

さらに驚いたのは彼の罪状だ。それは他ならぬ母親を自らの手で殺めたというものだった。
動機についてまでは記されていなかったが、身内を殺した罪により、宮刑に処されたらしい。

信は顔を上げると、狼狽えた表情で昌平君を見た。

「で、でも、あいつ、年老いた母親がいるって……」

「………」

何も言わずに昌平君が首を横に振った。言葉のないその返答に、信は全てを悟る。母親を自らの手に掛けたことを、肖杰は覚えていないのだろう。

「すまなかった」

昌平君の謝罪の理由が分からず、信が目を丸める。

「お前には奴隷商人に目をつけていると告げたが、私は初めから・・・・この男に目をつけていた」

「はっ?な、なんで…」

予想もしていなかった言葉に、信はただ驚愕することしか出来なかった。

「芙蓉閣と関わりを持つ者の中で、前科がある者に限定すると、この男が一番に浮上したからだ」

「………」

「宮刑まで受けた者が、素直に心を入れ替えて生き長らえているとはどうしても思えず、色々と探らせていた」

信の手から木簡を受け取り、昌平君が言葉を紡いでいく。

「…当時のことを知る者から報告を聞くと、肖杰には妻子がいた。しかし、流行り病で二人は亡くなり、それからは年老いた母親と二人で暮らしていたそうだ。あとは記されている通り」

「…そうか」

肖杰は妻子を失ってから、すでに狂っていたのだ。だからこそ、母親も手に掛けてしまったのだろう。

「あの迷信についても、執念深く調べているという報告を受けていた。だが、調べているという情報だけで、容易に屋敷へ踏み入ることも出来ず、様子を伺っていた。…無理やりにでも押し通っていれば、子供たちの犠牲も防げたかもしれない」

本人も狂っているという自覚がなかったのだから、本性を見抜けないとしても無理はない。

信が無理やりにでも彼の屋敷に侵入しなければ、子供たちが殺された証拠は見つけられなかっただろう。

彼が後宮に務めていたのも嘘だと分かったが、男としての生殖機能がないのは宦官として働いていたからだと伝えれば、誰も宮刑を受けた罪人だとは思うまい。

表向きは多くの民から慕われる医者として、しかし、罪を犯したことで彼は苦しんでいた。

妻子を失ったことから気が狂い、自分が殺したはずの母親も死んでいないと思い込み、子孫を残すためにと、あの迷信を信じて子供たちを殺し、その臓器を喰らった。

境遇には同情するものの、これだけの罪を犯した彼の死刑はもう免れないだろう。

 

お守りの絹紐

「すまなかった」

もう一度謝罪すると、昌平君は静かに目を伏せた。今回の件で彼に謝罪をされるのは何度目だろうと信は複雑な表情を浮かべる。

初めから肖杰を警戒しておくよう忠告していれば、信があのような危険な目に遭うことはなかったのだと、昌平君は悔恨の念に駆られているらしい。

「…いいって。もうこれ以上の被害が出ることはないだろ。お前のお陰で助かった」

信が笑顔でそう言うと、少しは救われたのか、昌平君もどこかほっとした表情を浮かべる。

「でもよ、本当によく来てくれたよな」

信が肖杰の屋敷に行くことは昌平君も知っていた。しかし、まさか近衛兵である黒騎団を率いてまで救援に来てくれるとは予想外だった。

「…もともと、私も黒騎兵と共に、肖杰の屋敷に踏み入る準備をしていた」

「え?そうなのか」

芙蓉閣で信と別れた後、昌平君はいよいよ肖杰の調査に本腰を入れるつもりだったらしい。

それまでは様子を見ているばかりだったが、涵から他の子供たち肖杰の屋敷を出入りしているという情報を聞き、昌平君もいよいよ肖杰の屋敷へ踏み入れることを決めたのだという。

肖杰に前科があることから犯人だと疑っていることを信に伝えれば、彼女は証言欲しさに肖杰を刺激してしまうかもしれない。

人攫いの可能性として、奴隷商人の調査をしていたことは本当だが、昌平君は意図的に彼に前科があることを信には告げなかったのだ。

万が一にも彼を刺激しないようにという気遣いが裏目に出てしまった訳だが、結果としては肖杰を捕らえることが出来たし、子供たちを弔うことが出来た。

黒騎兵たちと共に屋敷に乗り込むのがあと少しでも遅れていれば、確実に信は殺されていただろう。

それを思うだけで昌平君は背筋が凍り付きそうになった。しかし、その不安を信に告げることはしない。

「…これが正門の前に落ちていた」

着物の袖に手を入れて、昌平君が青い絹紐を差し出した。

草木染という手法で美しく青色に染まった絹紐は、ハンが作ってくれたのと同じ物である。

 

「え?あれ…落としてたか?」

青い絹紐を受け取り、信がきょとんと眼を丸めた。

「俺のは、駿の手綱に結んでおいたはずだ。…それに、俺は裏門から入ったぜ?」

「なに?」

怪訝そうな顔で、昌平君が信の手の中にある絹紐に視線を落とした。

信が最初に肖杰の屋敷を訪れた時は、確かに正門から入った。

しかし、再度侵入を試みたのは裏門で、絹紐は駿の手綱に結び付けていたし、正門にこの絹紐を落とすはずがなかった。
それに、絹紐とはいえ、鮮やかな青色が目を引く代物だ。落ちていたとすれば絶対に気づくだろう。

「これは…」

昌平君が拾った絹紐をよく見ると、赤黒い染みがついており、それが血だとすぐに分かった。

正門前に落ちていたこの絹紐を見るなり、昌平君は信が危険に晒されているのだと察知して屋敷に飛び込んだのだという。

自分の手の中にある青い絹紐を、信はもう一度よく見返した。

―――シンのお兄ちゃんにも、お守りで同じのあげたの。だからあげる。

この絹紐を受け取った時の涵の言葉を思い出す。

まさかと信は目を見開いた。

「これ、宸の…絹紐か?」

肖杰に殺された子供の名前が出たことに、昌平君が眉根を寄せた。

「…なぜあの場に落ちていた?」

宸が失踪したのは一週間ほど前のことだ。今になって彼の持ち物が出て来たことに、二人は疑問を隠せなかった。

―――先生!お願いです!どうか診て下さい!
―――先生ッ、お願い!開けて!

肖杰に殺されかけた時、屋敷の門を叩いて急患の診療を頼む子供たちの声を思い出した。姿は見えなかったが、あの声はどちらも少年のものだった。

ちょうど屋敷に来た昌平君たちと、その少年たちが入れ違いになったかもしれない。信は何となく、その少年のことが気になった。

「そういや、屋敷の敷地内か周辺にガキはいなかったか?ちょうど昌平君たちが来る前に、肖杰が追い返すか診療をしてたはずだ」

少し考える素振りを見せてから、昌平君は首を横に振った。

「…いや、そのような者は見ていない。屋敷に出入りする者も、敷地内にも誰も居なかったはずだ」

「………」

その言葉を聞いて、信は手の平にある絹紐に視線を落とした。

肖杰の屋敷に一度訪れ、手がかりがないことに肩を落としながら帰ろうとした時、門の向こうに子供たちの姿を見た。

あの時は見間違いだろうと思っていたが、まさか宸たちは、命を失ってからもあの屋敷でずっと自分のことを待っていたのだろうか。

「っ…!」

もしかしたら、自分を助けるために門を叩いて肖杰の気を引いたり、昌平君にこの絹紐を渡して居場所を知らせてくれたのかと思うと、信の瞳にみるみるうちに涙が溢れて来た。

都合の良い解釈かもしれないが、自分に懐いていたあの子たちならやりかねないと思えた。

赤黒い染みを見つめ、宸や他の子供たちが一体どれだけ苦しんで殺されたのだろうと考える。

助けてやれなかった自分を恨むどころか、肖杰から自分を助けようとしてくれた子供たちの気持ちを想うと、胸が引き裂かれそうになる。

「……バカなこと言ってるって自覚はあるんだけどよ…」

鼻を啜りながら、信が青い絹紐に視線を下ろしたまま言葉を紡いだ。

「俺、あの屋敷で、ガキどもを見た気がするんだ」

「………」

何も言わずに昌平君はじっと話を聞いていた。

「殺されそうになった時、門を叩いて、肖杰を呼ぶガキ共の声がして…俺を、助けようとして、くれたのかも…」

青い絹紐を握りながら涙を流している信を見て、昌平君がそっと体を抱き締めてくれる。

「う…ぅうッ…!」

彼の胸に顔を埋め、信は堰を切ったように溢れ出る涙を流し続けた。

 

添い寝

ようやく涙が落ち着いた頃には、昌平君の着物が涙で湿ってしまっていた。

「あ、あの、悪い…」

真っ赤に充血した目で見上げるが、昌平君は何も気にしていないようだった。

「落ち着いたか」

穏やかな声色を掛けながら、昌平君が信の目元を指でそっと擦ってくれる。

泣き続けて腫れ上がった目元には、彼の指はひんやりと冷たくて気持ち良かった。
気の利いた言葉を掛けられなくても、ずっと傍にいてくれる彼の優しさが、信には嬉しかった。

「今夜はもう休め」

そう言って昌平君が寝台の上から立ち上がったので、信は戸惑った視線を向けた。

「宮廷に戻るのか?」

「いや、朝になったらここを発つ。今回の件の事後処理が残っているからな」

昌平君は信が目覚めるまで座っていた椅子に再び腰を下ろした。

肖杰の罪が記されている木簡を再び開きながら昌平君がそう答えたので、まさか彼は朝までそこで過ごすのだろうかと驚いた。

「他に客間があったはずだ。寝るならそこで…」

「案内人から聞いている」

燈のことだろう。客間で休むよう言われていただろうに、昌平君は信が寝つくまで傍にいてくれるらしい。

言葉に出さないが、先ほどのようにずっと抱き締めてくれていたように、彼の優しさが心に染み渡った。

「ん…」

傷に響かないようにゆっくりと寝台に横たわった信は、身体を端に寄せる。これでもう一人分の寝床が確保できた。

「昌平君」

もうとっくに覚えたであろう内容が記されている木簡に目を通していた昌平君が顔を上げる。

「ん」

ぽんぽんと寝具を叩いて呼び寄せると、昌平君は無言のまま何度か瞬きを繰り返した。

「…大人しく寝ていろ」

わざとらしく溜息を吐いていたが、木簡を折り畳んだのを見ると、信の誘いに応じてくれるようだ。

ゆっくりと昌平君が寝台に横たわると、彼の胸に頭を摺り寄せ、信は目を細めるようにして笑った。

「へへ、あったけえな」

「………」

昌平君がそっと頭を撫でてくれる。彼の方が年上なのはもちろん分かっているが、こうしていると、恋人ではなくて、まるで子供扱いされているような感覚になる。

無性に恥ずかしくなって、信は彼の手首を掴もうとした。

 

「ッ…!」

包帯で包まれている手首が引きつるように痛み、信は顔をしかめた。

縄を切ろうとした時に誤って傷つけてしまった箇所だ。止血はしているが、まだ傷は塞がっていないため、まだ無理に動かすことは出来ない。

「痛むか?」

「少し…でも、平気だ」

昌平君の骨ばった大きな手が、信の手首をそっと包み込む。

包帯に血が滲んでいないことを確かめると、彼はその手首に唇を寄せて来た。

柔らかい唇の感触を包帯越しに感じて、信は視線を泳がせる。唇が触れただけだというのに、不思議と痛みが和らいだ。

「あの男、ここまでお前を追い詰めるとは…」

声に怒気が込められていた。この傷は肖杰によってつけられたものだと昌平君は勘違いしているらしい。

そういえば、薬で喉が腫れていたせいで、細かに状況の詳細を伝えていなかった。

絶体絶命だったあの状況にいた信を見れば、この手足の傷は肖杰にやられたのだと誰もが誤解するだろう。

「いや、これは俺が自分でやったんだ」

薬で喉を腫らされたこと、拘束していた縄を切ろうとしたこと、朦朧とする意識を取り戻すために自ら足を斬りつけたことを伝えると、昌平君の顔つきがますます険しいものになっていく。
不安と心配と怒りが混ざったような複雑な表情だった。

子供たちの犠牲を防げなかっただけでなく、大切な恋人の命までもが奪われそうになった事実を知り、自責の念に駆られているようだ。

きっと今の関係を築いていなければ、昌平君がそのように考えていることを信は気づけなかっただろう。

「…その、俺は昌平君が来てくれたお陰で助かったんだし、あんまり自分を責めるなよ」

信の言葉を聞き、昌平君は何も言わずに、彼女の体をそっと抱き締める。

自分は生きているのだと安心させるために、信は彼の広い背中をそっと擦ってやった。

しばらく昌平君は信の体を抱き締めたまま、口を閉ざしていた。

「…昌平君」

肩に顔を埋めている恋人を呼び掛けるが、顔を上げようとしない。こうなれば、しばらくは喋らないだろう。

いつもなら昌平君が甘やかしてくれるのに、今日は逆の立場に立てたようで、どこか新鮮な気分になる。

「…はあ…」

少ししてから、信の体を抱き締めていた昌平君が小さく溜息を吐いたので、信はようやく顔を上げた。

途端に唇を重ねられ、驚きのあまり口を開いてしまう。すぐに舌が入り込んで来た。

 

「っん、ぅ…」

戸惑った信が昌平君の胸を突き放そうとするが、強く抱き締められて、情熱的な口づけが深まっていく。

舌を絡め取られて、歯列をなぞられると、信の背筋が甘く痺れた。

視界いっぱいに映っている恋人の端正な顔も、唇の柔らかい感触も、ざらついた舌の表面も、口づけの合間に洩れる吐息も、何もかもが愛おしい。

彼の胸を突き放そうとした信の手が、もっと口づけを強請るように、弱々しく紫紺の着物を握り締めた。

「…は、ぁ…」

ようやく唇が離れると、信は肩で息をしていた。

「う…」

手首と右足から多く血を流したせいだろうか、軽く眩暈を覚えて、信は昌平君の胸に凭れ掛かる。

「大丈夫か?」

心配そうに尋ねて来る昌平君に、信は無理やり笑みを繕った。

ただでさえ今日は心配ばかり掛けたのだから、今くらいは安心させてやりたかった。

「…もう休め」

先に仕掛けて来たのはお前の方だと、信が煽るように昌平君を上目遣いで見た。

潤んだ瞳を向ければ、酒を飲んでいなくても昌平君の理性が揺らぐことを信はもう理解している。

もちろん昌平君自身もその自覚があるようで、僅かに顔を強張らせていた。

「…傷に障る」

「お前の技量次第だろ」

煽るようにそう言えば、昌平君の瞳が大きく揺らいだ。

 

添い寝 その二

起き上がった彼が身体を組み敷いて来たので、どうやら挑発に成功したようだと信はにやりと笑った。小癪な女だと昌平君が内心毒づく。

しかし、信がここまで厄介な性格をしていなければ、昌平君も彼女に興味を引かれることはなかったかもしれないと冷静に考えていた。

信の着物を脱がす手に、迷いは微塵もなかった。

襟合わせを開くと、傷だらけの肌が露わになる。小さな傷から、致命傷になりえたものまで、彼女が死地を生き抜いて来た証拠がそこにあった。

この傷跡だらけの肌が、堪らなく尊いと思う。しかし、自分がつけた傷痕でないと思うと、憎らしくもあった。

「っ…」

胸元にある傷痕に沿って舌を這わせると、信がくすぐったそうに顔をしかめる。

この傷を上書きすることは叶わない。それどころか、信が将であり続ける限り、新しい傷は今後も増え続ける。

ならばせめて、傷痕ごと彼女を愛そうと、肌を重ねる度に昌平君は思う。

傷痕に沿って指と舌を這わせていると、信の息が少しずつ乱れていった。頬が紅潮している彼女の顔が見える。

まだ傷痕にしか触れていないというのに、まるで焦らすような愛撫に信が甘い吐息を零していた。

身体を重ねる度に、昌平君が愛撫するものだから、初めの頃より感度が高まっているらしい。

破瓜を破った時は痛みに打ち震え、昌平君の腕の中で啜り泣いていたというのに、今ではもうその面影もない。

初めて信の体を拓いたことと、彼女の身体をここまで変えたのは他でもない自分だという優越感があった。

それを指摘すれば、きっと信から頭突きされるだろうと分かっていたので、昌平君はその事実を自分の内に秘めている。

「ふ、…うっ…」

手の平でそっと胸を揉みしだくと、信の鼻奥でくぐもった声が上がる。胸の中央にある芽を指の腹で擦ると、すぐに固く尖ってきた。

「ぁあっ」

上向いたその芽を二本の指で挟むと、泣きそうな声が上がる。その声に、嫌悪の色が混じっていないことに、昌平君の口元はつい緩んでしまう。

柔らかい肌に顔を寄せて胸のふくらみを揉みしだき、時折、上向いた芽を指で愛撫する。
どこか期待を込めた眼差しを頭上から感じ、昌平君はその欲望を叶えてやることにした。

 

「っひ、あ」

胸の芽を唇で咥え、舌を這わせる。ざらついた舌の表面と唾液の滑った感触が気持ち良いのだろう。信の表情に恍惚としていた。

口と舌で愛撫される気持ち良さは理解出来る。不慣れながらも信が男根を口と舌で愛撫してくれる時には、昌平君も声を堪えるのに必死になる。

ましてや、愛しい者が自分ためにしてくれてるのだと思うと、それだけで快楽が全身を貫くものだ。

「んっ…うぅ…」

反対の胸を手で攻められると、信が強く目を瞑って、唇を固く引き結んでいた。

誘ったのは信の方だというのに、声を堪えようとする姿が健気に思え、欲を煽られる。何としても鳴かせてみたくなった。

一度、身体を起こして、昌平君は彼女の耳元に唇を寄せた。

「信」

静かに耳元で名前を囁けば、まるで火傷でも負ったように信の身体が大きく跳ねる。

「しゃ、喋んなッ…」

組み敷いている体に鳥肌が立ったのが分かった。彼女の敏感な部分は幾度も知り得ている。信は耳元で囁かれるのも、吐息を吹き掛けられるのも弱いのだ。

肩を竦めるように力み、敏感な耳への耐えようと敷布を強く握り締める。

まだ手首の傷も癒えていないというのに、そんなことをすれば傷口が開いてしまうと、昌平君は耳から顔を離した。

「信、力を抜け」

「うぅ…」

できないと首を横に振って意志表示をする姿がしおらしく、昌平君の口元が意地悪な笑みを浮かぶ。

笑い声を聞きつけ、信が切なげに眉を寄せた。

「こんな時に、笑うなっ…」

笑っている顔はたまに見るくらいで良いと言ったのは信のはずなのに、どうやら気に障ったらしい。

彼女が指摘するまで、昌平君は口角がつり上がっていたことに気づかなかった。

恋人の愛らしい姿を見て表情を変えない男など、果たしてこの世に存在するのだろうか。そんなことを考えながら、昌平君は敷布を握り締めている彼女の手に指を絡ませた。

指と指を交差しているだけだというのに、繋がっている気持ちが形としてそこに現れたかのように、胸が熱くなる。

右丞相と大将軍という立場ゆえに付き従う者も多く、今思えば、信とこのように身体を密着させられるのは、人目のつかない場所だけだった。

軍師学校の空き教室、お互いの私室、そしてこの芙蓉閣の密室。

本当ならばもっと彼女と身を寄せ合っていたいし、この女は自分のものなのだと周囲に言い示してやりたい。それが私情であり、醜い独占欲だということを、昌平君も十分に理解していた。

信のことを想うからこそ、独占欲で勝手を起こす訳にはいかない。

そのせいか、信と二人きりになると、今まで抑制していたものが簡単に溢れてしまうのだ。彼女に煽られて、すぐに身体を組み敷いたのもそのせいである。

年齢も立場も自分の方が上なのに、信と二人きりになると、余裕など微塵もなくなる。
余裕のなさを理由に、彼女に無理強いをしていないか不安になることだってあった。

 

独占欲

「信」

懲りずに昌平君はもう一度、彼女の耳元で囁く。愛の言葉よりも、彼女の名前を呼ぶ回数の方がはるかに多かった。

下唇を噛み締める信を見て、昌平君がその唇に舌を伸ばす。

「はぁっ…」

薄く開いた唇から信の赤い舌が覗く。舌を絡ませ合いながら、昌平君は右手を彼女の下腹部に伸ばした。

「っ、う、んん…」

引き締まった腹筋からさらに下に手を這わせる。足の間に辿り着くと、そこは淫華はもうぐずぐずに蕩けていた。

こちらはまだ触れてすらいなかったのに、こんなにも自分を求めていたのかと思うと、優越感に胸が満たされた。

「あ…」

蜜を絡ませて指を進めていくと、信の身体がぴくりと跳ねる。根元まで押し進めると、まるで待ち侘びていたかのように、柔らかい肉壁が指を締め付けて来た。

「ひっ、ぅ」

中で指を鉤状に折り曲げて、腹の内側を優しく掻き毟られると、信が切なげに眉を寄せる。

こうして腹の内側を刺激されると、尿意にも似た何かが迫り来る感覚があるらしい。その感覚が苦手らしく、信が力なく首を振ってやめてくれと訴えた。

しかし、前戯もろくにせず男根を押し込むのが気が引けた。

何度も身を重ねているとはいえ、女にしかない繊細な部位を手荒く扱うつもりはない。ましてや大切な恋人を、自慰の道具のように、自分の欲望の捌け口になどしたくなかった。

 

「んんッ…」

しつこいほどに中で指を動かしていると、固く引き結んでいる唇からくぐもった声が洩れていた。

今度は首を振るのではなく、何かを訴えるように見据えて来る。

彼女の昂りから、指ではなくて別のものが欲しいと訴えているのは分かったが、昌平君は指の数を増やすだけで望みを叶えようとはしなかった。

焦らしているつもりはない。これは信のためだと自分に言い聞かせながら、昌平君も己の昂りを自覚していた。彼女の喘ぐ姿を目の当たりにして、痛いくらいに男根がそそり立っている。

どうやら信もそれを察したようで、腕を伸ばし、着物の上から男根を愛撫して来る。

行為の最中に信は男根を手や口を使って愛撫してくれることもあるが、肖杰の屋敷で負った傷のことを考えると、今日はそのような真似をさせる訳にいかなかった。

淫華から指を引き抜く。前を寛げて男根を取り出すと、信がとろんとした瞳を向けて来る。

「ん…」

男根の先端を淫華に押し当てると、信が身体を強張らせたのが分かった。挿入の瞬間はいつも初夜のように身を固くするのだが、その恍惚の表情を浮かべている。

褥でしか見せない、この世で自分しか知らない信の顔だと思うと、昌平君はそれだけで堪らない気持ちになった。

「ぁああっ」

短い悲鳴が上がったが、構わずに昌平君は最奥を突いた。

全身を貫いた快楽に信が昌平君の背中に腕を回し、強くしがみ付いて来る。隙間なく下腹部が密着した後、お互いの性器がなじむまで動かずにいた。

しかし、待ち切れなかったのか、信が腰を押し付けるように前後に揺らし始める。まさかそんな淫らな技を得ていたことに昌平君は驚いた。

寝具に踵をつけて腰を動かしているのを見て、右の太腿の傷に障るのではないかと心配になる。

「信」

うっすらと包帯に赤い染みが滲んで来たのを見て、昌平君は彼女の名を呼んだ。

「う…?」

痛みよりも快楽に支配されているらしく、信は傷口が開きかけていることに気付いていないようだった。

「足の傷に障る」

細腰を両手で押さえつけて動きを止めると、昌平君は彼女を気遣いながらその体を抱き起こした。

「で、でも…ぅわッ?」

向かい合う体制で座らされ、驚いた信が慌てて昌平君の背中に両腕を回した。何度か行ったことのある体位だが、今日は不安そうに瞳を揺らしている。

「あ、ま、待って…怖い…」

目の前の体にしがみつきながら、信が声を震わせる。

「大丈夫だ。つかまっていろ」

「そ、じゃなくて…」

弱々しく信が首を振ったので、昌平君は小首を傾げた。

「これ、深く、入ってくる、から…良過ぎて…こわい」

「………」

その言葉がどれだけ男の性を煽っているのか、信には自覚がないらしい。

「ひ、ああーッ」

下から突き上げられ、信は甲高い声を上げる。たった一突きされただけだというのに、目の奥で火花が散った。

この体勢のせいで、自重によって子宮が下りて来ており、いつもより深く男根が突き刺さる。

ぎゅうとしがみつきながら、信はどうにかして目まぐるしく襲う快楽から意識を背けようと、昌平君の背中に爪を立てる。

この客間は、芙蓉閣に住まう女子供たちとは遠い部屋にあるのだが、それでも誰が聞いているか分からない。

彼の肩に顔を押し付けながら、何とか声を押さえようと必死になっている信を見て、寝台の上では見られなかった彼女の新しい表情に、昌平君はさらなる興奮を覚えた。

「んんッ、んーッ」

首を横の振って、必死に制止を求めている。
顔を真っ赤にして、やめてくれと言葉に出す余裕もないのだと思うと、ますます攻め立てて鳴かせてやりたいと思うのが男の性だった。

右足の傷や両手首の傷の負担にならないようにと思ったはずが、今ではすっかり性の虜になってしまっている。

もう一人の自分が、昌平君の余裕のなさを指摘するが、もう止められそうになかった。

これ以上ないほど男根は深く入り込んで、信の中を支配しているというのに、さらに奥へ進もうとする。

「んううッ、んぅーッ」

声を堪えようと、信が埋めている肩に歯を立てて来る。制止を聞いてくれない昌平君に抵抗しているようにも見えた。

血が滲むほど歯形を刻まれて、その痛みさえ愛おしいと、昌平君は口元に笑みを浮かべていた。

 

後日編

肖杰の屋敷から戻った後、信は芙蓉閣の一室で療養していた。昌平君の手配により、医師団も派遣されていた。

処置をしたはずの傷痕がなぜか・・・開いてしまったことで、療養の期間は一時的に延長となったのだが、今ではもうすっかり傷も癒えている。

療養のせいで厩舎に預けっぱなしだった愛馬の駿の迎えが遅くなり、ようやく迎えに行った時には駿は信に苛立ちを見せて、その背中に乗せてくれなくなってしまった。

人の言葉が分かっている賢い馬であり、信が何度も謝罪をして今回の事件について語ると、渋々と言った様子で背中に乗せてくれ、ようやく屋敷へ帰ることが出来たのだった。

ハンからもらった青い絹紐も、駿はちゃんと預かってくれていた。

信が療養をしている期間に、肖杰の屋敷の庭から見つかった子供たちの亡骸は、然るべき場所へ弔われた。

月日が経っていたせいか、ほとんどが白骨化していたのだという。まだ白骨化していない亡骸を検死すると、女児は子宮を、男児は心臓を抉り出されて殺されていたらしい。

信の予想通り、肖杰の庭から見つけ出された亡骸は芙蓉閣の十人だけではなかった。

城下町に来ていた子供が何人か行方不明になっていたようで、他の亡骸は恐らくその子供たちだろう。

此度の騒動で肖杰は死刑が決まり、現在は独房に幽閉されているのだと昌平君が教えてくれた。

 

(久しぶりだな…)

子供たちの失踪事件がようやく終息した後で、信は久しぶりに芙蓉閣へと訪れた。

ここのところは戦の気配もなく、穏やかな日々が続いている。そのせいか、咸陽の城下町は普段よりも賑わっているように見えた。

「あ、信さま!」

回廊を歩いている信の姿を見つけ、涵が笑顔で駆け寄って来る。いつもは二つ結びにしている髪が、今日は一つ結びになっていた。

信は彼女がくれた絹紐のおかげで命拾いしたことを思い出し、唇に苦笑を浮かべた。

「よお、涵。元気だったか?」

頭を撫でてやると、彼女は後ろで一つに括られている自分の髪を指さした。

「お姉さんみたいでしょ?」

「そうだな。いきなりどうしたんだ?」

いつもは髪を二つ結びにするのがお気に入りだと話していた彼女が珍しいと信は目を丸めた。

「私、もうちょっとしたらお姉さんになるの!」

その言葉に信は疑問符を浮かべた。涵が嬉しそうに、奥の部屋で女性たちに織り機の使い方を指導している燈の方を見やったので、納得したように頷く。

「そうか…」

燈はあと数か月後に出産を備えている。
この芙蓉閣では一番若い年齢だと言っても良い涵に、いよいよ妹分か弟分が出来るのだ。きっと嬉しくて堪らないのだろう。

信は懐から絹紐を取り出した。

昌平君が涵から買い取った絹紐は、今は信の髪に結ばれている。今、信が手にしているのは、シンにお守りとして渡した方だ。

もしも宸がこの絹紐を、昌平君に信の居場所を知らせるために使ったのだとしたら、間違いなくこれはお守りとしての効力を発揮したに違いない。

宸や他の子供たちの命を救ってやることは叶わなかったが、子供たちに助けられたこの命を大切にしていかなくてはと信は改めて思うのだった。

「…ほら、後ろ向け」

侍女に頼んで血を洗い流してもらった青い絹紐を、信は涵の髪紐の上から結んでやった。

「涵」

名前を呼ぶと、涵は不思議そうに円らな瞳をさらに丸くする。
身を屈めて、信は彼女を真っ直ぐに見つめた。

「宸は…」

「お兄ちゃん?戻って来るの?」

満面の笑みを向けられて、信は言葉を詰まらせた。

このままでは嘘を見破られてしまうと思い、彼女は空を見上げる。雲一つない、どこまでも青い空だった。

「…今な、飛信軍の下っ端としてこき使ってやってるんだ。だから、もうここには戻って来ない」

「えーっ」

納得いかないのだろう、涵が頬を膨らませた。彼女の小さな頭を撫でてやりながら、信は笑みを繕った。

「宸が一人前になるまで、俺が厳しく育ててやるから、心配しなくていい。な?」

目を覗き込みながら言うと、涵はしぶしぶ納得したように頷いた。

「この紐も、お前が持ってて欲しいんだとよ」

髪に結んでやった青紐を指で撫でつけながら信が言うと、涵は再び頬を膨らました。

「お守りで作ったのに!」

「ああ、そうだよな…でも、お前に持っててもらいたいんだとよ」

信の言葉を聞き、涵はようやく笑顔を見せてくれた。

「…会えなくても心配すんなって、言ってたぞ」

そう言うと、涵はぱちぱちと瞬きを繰り返した。それから涵は、信に抱き着いた。
目を閉じて、信の薄い腹に耳を押し当てている。

子供というのは案外鋭いものだ。まさか宸が殺されたことを察したのだろうかと信は不安を抱いた。

しかし、顔を上げた涵は笑顔で口を開く。

「お兄ちゃんなら、ちゃんとここにいる・・・・・よ?」

「え?」

「大丈夫!私、みんなのお姉さんになるから!」

彼女が話す言葉の意味は分からなかったが、悲しんでいる様子がないことに、信はほっとする。

 

…その後、信の懐妊が分かり、昌平君が誰にも見せたことがない驚愕と喜悦の表情を見せたというのは、また別のお話。

 

昌平君×信のBL話はこちら

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卑怯者たちの末路(李牧×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/シリアス/馬陽の戦い/秦趙同盟/IF話/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

優勢

馬陽の戦いにて、龐煖の登場により戦況は大きく覆った。

伝令からの報告によると、王騎は趙兵によって包囲されており、龐煖との一騎討ちが始まろうとしているのだという。

王騎の私怨と龐煖の武力については李牧も把握していた。もとより王騎の死を目的とした戦である。

ここで討ち取ることは叶わずとも、龐煖は確実に致命傷となる傷を刻むだろう。

龐煖の方も無傷で済むとは思っていないが、王騎が彼に私怨を抱いているように、彼にも負けられぬ理由がある。

これは長丁場になりそうだと、李牧が馬上で引き続き伝令を待っていると、すぐに新たな伝令が届いた。

決着がついたにしては早過ぎる。戦況の報告だろう。

「伝令!どうやら飛信軍が戦場から離脱を図る模様!」

馬から降りた兵が李牧たちの前で膝をつき、供手礼をして報告を告げる。

「飛信軍…」

聞き覚えのある言葉に、李牧は思わず呟いた。
王騎の養子が将を務めている軍だ。信という名であり、常に仮面で顔を隠して戦場に出ているため、女とも男とも言われている。

(なぜこの機に離脱を…)

あとは王騎の死という目的を果たすのみであったが、戦況としては趙軍の勝利に傾いていた。

王騎と同様に、厚い忠義を持っている将だと聞いていたこともあり、秦軍を見捨てたとは考えにくい。

「飛信軍の数は?」

「およそ一万かと」

一万の兵力では今の戦況は覆すことは不可能だ。戦の経験が乏しい者が考えても分かることである。

此度の総大将である王騎が信に戦場を離脱するよう命じたのならば、王騎はこの戦況を覆せないことを理解しているということになる。

一騎討ちに手出しをしないと分かっていたが、親子の情が動いたのだろうか。

養子とはいえ自分の子なのだから、情を掛けたとしてもなんらおかしいことではないし、むしろ父親として我が子を想う何よりの証言だろう。

李牧はまだ信の姿を目の当たりにしたことはないが、飛信軍の武功は既に中華全土に轟いている。

このまま放っておけば、王騎軍に引けを劣らぬ力を蓄え、確実に趙の強敵となるだろう。

「後軍が飛信軍を追撃中です」

離脱を許さずに追撃しているという伝令の報告に、李牧は思考を巡らせるために一度目を伏せた。

既に王騎軍は包囲されている。飛信軍の追撃に兵を割いたところで、龐煖と王騎の一騎討ちには何の影響も出ないはずだ。

追撃をしている後軍によって信を討ち取ることが出来ればと思うのだが、恐らく一筋縄ではいかないだろう。

養子とはいえ、王騎のもとで厳しく育てられた経験が実を結び、若い年齢ながら将軍の座に就いたことが信の強さを示している。

この戦で王騎が死ぬことになれば、飛信軍と王騎軍の残党は確実に趙への憎しみを糧に今以上の強さを得ることになる。

それは趙国を滅ぼす刃となると李牧も分かっていた。

「…いえ、無理に追撃をしなくて良いでしょう。離脱を許して構いません」

 

飛信軍の戦場離脱を許す言葉に、周りの兵たちが驚いていた。

今後の戦でも、李牧には揺るぎない勝算があった。どれだけの強さを得ることになったとしても、それを抑え込む数多くの軍略が李牧の頭脳に詰め込まれている。

伝令が再び馬を走らせたのを見送りながら、李牧は小さく息を吐いた。

もしも王騎に命じられて戦場を離脱しているのならば、飛信軍の信は今、他の誰でもない父の死を受け入れざるを得ないことと迫り来る敗北に、身も裂かれるような痛みを抱えていることだろう。

守るべき者が違うだけで、多くの命と領土を奪い合わなくてはならない。それが戦というものだ。

「?」

趙軍本陣で引き続き伝令を待っていると、僅かな地鳴りを感じ取り、李牧は弾かれたように顔を上げた。乗っている馬も何か気配を察知したのか、しきり辺りを見渡している。

動物は人間よりも嗅覚や聴覚に優れているものであり、まるで何か危険を訴えているようだった。

他の兵たちの馬も同様に嘶きを上げ、どこか落ち着かない様子を見せ始める。

(これは…)

多くの兵たちがこの場で待機しているというのに、この地鳴りは一体なんなのだろうか。
戦場に立っている時に感じる地鳴りには覚えがあった。それは大軍の移動によるものである。

伝令が一騎討ちの勝敗を告げに走って来ているとしても、たかだか馬一頭でこのような地鳴りは起こらないだろう。

「全軍!周囲を警戒せよ!」

側近のカイネも少し遅れて何かを察したようで、辺りの兵たちに大声で指示を出す。

李牧の頭には、先ほどの飛信軍が戦場離脱した報告があった。まさか一万の兵でこの本陣に迫って来るとはとても思えない。

前線に出ていた軍が戻って来たのかとも考えたが、一騎討ちが始まった伝令を受けたのはつい先ほどのことだ。まだ決着はついていないうちに撤退するとは考えにくい。

(だとすれば、一体…?)

地鳴りの正体を引き続き警戒していると、李牧は全身を何かが射抜くような、恐ろしい感覚が走った。

「!」

戦場で幾度も感じて来たその感覚の正体。それが殺意だとはっきりと思い出した時、李牧は東の崖を見上げていた。

大勢の兵の姿が見えて、李牧はすぐに敵襲だと声を上げかけたのだが、「趙」の旗が掲げられていることに気付き、言葉を飲み込んだ。

他の兵たちも崖の上にいる趙軍の姿を見つけ、戸惑ったように顔を見合わせている。
ここからの距離ではどの将が率いている軍か見分けられない。

しかし、前線から撤退して来たにせよ、なぜあの東の崖を辿って来たのかと李牧は考えた。
あの東の崖は森を抜けて来ないと辿り着かないはずだ。

なぜ我が軍が優位である今の戦況下で、まるで人目を忍ぶように・・・・・・・・森を通って来たのか。

(まさか…!)

李牧ははっとして目を見開く。

しかし、その時にはすでに東の崖から趙兵たちが迫って来るところだった。
崖を降りる勢いを崩さず、この本陣へ向かって来る趙兵たちに、何事かと本陣待機の兵たちが戸惑っていた。

先頭で馬を走らせている趙の鎧を身に纏った将が、仮面を被っていることに李牧はいち早く気付いた。

「飛信軍か!」

戦場を離脱したはずの飛信軍の本陣奇襲が始まった事実に、李牧は冷や汗を浮かべた。

 

奇襲

「敵襲!あの者たちは趙軍ではない!迎撃せよ!」

怒気と焦りが籠もった李牧の指示に、辺りの兵たちは動揺のあまり動けずにいた。

指示を出した李牧自身の動揺が伝染していくのが見て取れる。
なぜならば、こちらへ迫っている兵たちは趙の旗を掲げ、趙軍と同じ鎧を身に纏っているのだ。

戦場に転がっている屍から鎧と旗を奪い取ったのだろうか。奇襲だけでなく、趙兵に扮してやって来るとはさすがの李牧も予想外だった。

「ぎゃああッ」

後ろの方で兵の悲鳴が聞こえ、一斉に場がざわめく。何事かと李牧が顔を向けると、趙兵同士で斬り合いが始まっていた。

「お、お前、何をしてる!?」

「違う!俺じゃない!」

いきなり仲間を背後から斬りつけた兵に、周りの兵たちが混乱している。

迫り来る飛信軍の焦燥に追い打ちを掛けるように、その混乱は趙兵の中でたちまち広まっていった。

この混乱に乗じて、すでに趙兵に扮した敵が侵入して来ていたのだと気づき、李牧は奥歯を噛み締めた。

「落ち着け!飛信軍の迎撃に備えよ!」

混乱に陥っている趙兵たちにカイネが怒号を飛ばすが、敵がどこに紛れているのか分からない以上、兵たちの混乱は解けそうになかった。

(まずい!)

こちらの混乱に乗じて、飛信軍がすぐそこまで迫って来ている。

迫っている兵の数はおよそ一万。兵力差で言うならば、この本陣で待機している五万の兵で十分に対抗できるはずだった・・・・・・・・・・。対抗ではなく圧勝と言っても良かっただろう。

しかし、李牧が危機感を抱いているのは兵力差ではなく、この状況だ。

すでに趙兵たちが疑心暗鬼に陥っている状況で、さらに飛信軍が趙兵に扮して襲撃をおこなおうとしている。敵味方の区別がつかず、わずかな時間で士気は大幅に減滅していた。

いくら数で勝っているとはいえ、この士気と戦況では十分な抵抗すらできない。

(このままでは…)

一刻も早く迫り来る飛信軍を止めなければ、ますます味方同士で混乱が広がり、被害は拡大していく一方だろう。

 

李牧の予想は命中し、布陣も整えずに真っ直ぐに突っ込んで来ただけの飛信軍の一万の兵と趙の五万の兵が入り乱れることとなった。

何が起きているのか事前に把握していたはずの李牧でさえ、敵味方の見分けがつかないでいる。

(後軍の追撃は?壊滅させられたのか?)

戦場を離脱する飛信軍を追撃していた後軍の姿が見えない。

追撃は不要だと伝令を頼んだが、それはつい先ほどのことで、伝令と後軍の合流はまだ出来ていないはずだ。

一万もの飛信軍兵が鎧を奪うとすれば、戦場に転がっている屍だけで足りなかったのだろうか。もしかしたら、追撃をしていた後軍の鎧を奪ったとも考えられる。

堂々と敵兵の鎧に着替える姿を見られぬよう、あの森の中に誘い込んだとも考えられるが、どちらにせよ、この有り様では飛信軍が後軍を壊滅したことは間違いなさそうだ。

「李牧様!」

思考を巡らせていたところを、カイネの声で意識を引き戻された。

同じ鎧を着た趙兵たちが混乱している中、仮面で顔を隠した一人の兵が迷うことなく李牧のもとへと馬を走らせて向かって来ていた。

カイネがすぐに李牧を庇うように前に出て、二本の剣を構える。

(この者が、飛信軍の信…!)

仮面で顔を覆っているが、鎧で覆われた体つきは確実にだ。

性別が明らかになっていないのは、その圧倒的な強さを前に、正体を見抜いた者たちが全員生きて帰れなかった証拠である。

養子とはいえ、王騎の息子だ。天下の大将軍とまで称される彼の下で育てられた将を討ち取るのは至難の業である。

「カイネ、他の兵たちの救援を。このままでは混乱が広がる一方です」

李牧は腰元に携えていた剣を抜き、冷静に指示を出した。
この本陣を落とされるのが先か、それとも龐煖が王騎に致命傷を負わせて撤退させるのが先か。

「龐煖と王騎の一騎討ちを終えるまで、ひとまずここは耐えねばなりません」

「…わかりました。ご武運を!」

持久戦に持ち込む気なのだと主の考えを察したカイネは、混乱している兵たちの救援へと馬を走らせていく。

その姿を横目で見送り、李牧はいよいよ目前まで迫って来た信と対峙する。

「…飛信軍がこのような奇策を使うとは、初めて知りましたよ」

本陣に奇襲をかけて趙軍を混乱に陥れたことに、李牧は素直に称賛の言葉を贈った。しかし、ここで大人しく首を渡す訳にはいかない。

仮面で顔を覆われているせいで、信の表情は見えないが、はっきりとした敵意が感じられる。

しかし彼から向けられるそれは、先ほど感じた全身を射抜くような、あの凄まじい殺意ではなかった。

飛信軍が崖から降りて来る時に感じたあのはっきりとした殺気は、兵たちを先導する信から向けられていたものだと李牧は疑わなかった。

(なんだ?何か、違和感が…)

自分にあの殺意を向けていたのが本当にこの男なのだろうか・・・・・・・・・・・・と怪しんだ瞬間、全身を射抜くようなあのおぞましい感覚が李牧を包み込んだ。

 

「ぐッ!」

背後を振り向くよりも先に、李牧は馬から飛び降りていた。

地面に着地した途端、それまで自分が居た場所に剣が横一文字に振るわれたのが見え、間一髪のところで避けられたことを悟る。

馬から飛び降りたのは無意識だったとはいえ、一瞬でも遅れていたら李牧の首は繋がっていなかっただろう。

頭上から舌打ちが聞こえた。

「避けやがったか」

李牧を背後から斬りつけようと剣を振るった兵が、馬上で呟いた。趙の鎧を身に纏っているが、飛信軍の兵だろう。

信将軍に従う副官だろうか。気配を察知するのが遅れたとはいえ、かなりの腕であることが分かる。

「…!」

副官だと思われる兵が、秦の紋章が刻まれた剣を握っていることに気付き、李牧の表情が険しくなる。

仕えている国の紋章が刻まれている剣といえば、戦の褒美として授かるほど価値の高いものだ。今この場にやって来た一万もいる兵の中で、なぜこの者だけがその剣を握っているのだろう。

副官としての実績が認められた証拠なのかもしれないが、それほどの実力がある者が副官で留まっているはずがない。

「お前が裏で手を引いていた軍師だよな?李牧って言ったか?」

馬上から、その兵が剣の切先を李牧に突きつける。その兵の声には聞き覚えがあった。

「…なぜ伝令役など危険な真似を?気づかれれば、命はなかったはずですよ」

その兵は、李牧に飛信軍の戦場離脱を伝えた伝令役・・・だった。まさかすでにこの本陣に侵入されていたとは思わなかった。

剣を下ろしたその兵は、肩を竦めるようにして笑った。

「ああ。気づかれなかったから、お陰で無事だったぜ?」

こちらを挑発するように笑ったその兵が女だ・・と気づいたのもその時で、李牧は表情に出さずに動揺する。

恐らく、迫り来る飛信軍の迎撃から気を逸らすために、趙兵を斬り捨て、この本陣を混乱に陥れたのも彼女だろう。伝令役を演じておきながら、ずっとこの機を傍で見計らっていたに違いない。

(これは奇襲以上に予想外でした)

李牧は唇をきつく引き結ぶ。こちらが優勢だったことに対する油断を突かれたのだと認めざるを得なかった。

「あんまりもたもたしてっと父さんに叱られるから、とっとと終わらせるぞ」

女兵が顎で何かを合図すると、李牧の背後に立っていた信将軍が仮面を投げ捨て、すぐに馬を走らせていった。

無言の指示に従ったことから、立場は彼女の方が上であることは明らかである。この女兵は副官ではなかったのだ。

秦の紋章が刻まれた剣を彼女が所持していることが、彼女が副官でない理由・・・・・・・だと気づき、李牧の心臓がますます早鐘を打つ。

「…あなたが、信将軍だったのですね」

「そうだ。死ぬ前に気づけて良かったな?」

初対面にしてはこれ以上ない険悪な雰囲気で、お互いに名乗り合うつもりはなかった。

先ほどの背後からの一撃を回避出来なければ、信の正体を知ることもないまま息絶えていたに違いない。

まさか将軍自らが、敵兵に扮して本陣に潜入するという大胆な奇策。そして見事それを成し遂げたことに、信は相当、頭が切れる女であることが分かった。

「………」

殺気は向けられていたが、今すぐに襲い掛かる様子は見られない。素顔と正体を知られ、今さら仮面で顔を隠すこともしないようだ。

李牧は手綱を手繰り寄せ、再び馬に跨る。馬上で睨み合いながら、静かに口を開いた。

「王騎に命じられて来たのですか?ここ敵本陣にいる軍師を討てと」

「いや?」

意外にも信は首を横に振ったので、李牧は瞠目した。

「別の軍師がいるっていうのは、目星をつけてたみたいだけどな?ちょうど手持ち無沙汰だったんで、俺が代わりに確認しに来てやったんだよ」

王騎と龐煖の一騎討ちを邪魔しない代わりに、思いつきでやって来たのだと彼女は言った。随分と余裕な態度だ。

こちらは突然の奇襲と、女だったという正体に大いに驚かされたというのに、そんな笑顔を見せつけられると、こちらまでつられて笑ってしまう。

 

奇襲 その二

「………」

信に意識を向けつつ、辺りの様子を伺った。

同じ鎧を着ている者同士が戦っており、仲間討ちのような戦況になっている。

趙軍の兵たちも迎撃しなくてはという意志があるのだが、果たして目の前にいるのは本当に自分たちの仲間ではないのかと躊躇いがあるようで、飛信軍の兵たちに次々と倒されていく。

五万もいる趙兵たちが、たった一万の兵たちに次々と打ち倒されていった。飛信軍のその強さは今まさに李牧の目の前で証明されていた。

もしも飛信軍が秦兵の鎧のままだったのならば、数で圧倒しているこちらが優位のままだっただろう。

しかし、このような奇策を用いて本陣を襲撃するとは、ましてや普段は前線で活躍している飛信軍が敵兵に扮するとは、さすがの李牧も予想出来なかったのである。

「王騎将軍が龐煖を討つのが先か、俺がお前を討つのが先か、どっちだろうな」

剣を握り直しながら、信がからかうように笑った。

趙軍の優勢に傾いていた戦況を、諸刃の剣で逆転させようというのか。
いや、彼女の言葉を聞く限り、負けるつもりはないのだと言っているのだろう。

「…残念ながら、そうやすやすと討たれる訳にはいきません。私を討ち取るのは至難の業ですよ」

「本陣への潜入は余裕だったけどな?」

それは伝令に扮していたからこそだろう。小生意気なことを言うと李牧は苦笑を深めた。

しかし、もう李牧は動揺することはない。

受けた奇襲と、信が女であったことを知り、既に激しく動揺していたのだ。これ以上の動揺があるとすれば、龐煖が王騎に討たれることくらいだろう。

しかし、それは絶対にあり得ないことだと、李牧は確信していた。

「…余裕そうだな?」

「ええ、無駄口を叩けるくらいには余裕かもしれません」

穏やかな声色で返すと、信が僅かに目を細めた。どうやら癪に障ったらしい。頭が切れる割には、簡単に感情を表に出す女だ。

こちらはすでに冷静さを取り戻している。本来の目的を忘れてはならないと李牧は自分に言い聞かせた。

この戦の目的は王騎の死であって、自分の首を差し出すことではなかった。目的を成すためには、この奇襲に耐えねばならない。

戦が始まる前に念入りに描いた軍略通りに進んでいるのならば、もう少しでその目的は果たせる。

自然と李牧の唇には笑みが浮かんでいた。それがますます気に食わないのか信の顔に怒気が浮かんでいく。

先ほどの挑発を返すように、李牧が口を開いた。

「…あえて言うならば、これは余裕でも無駄口でもなく…時間稼ぎ・・・・というやつでしょうか」

「なに?」

信がその言葉の意味を理解するよりも早く、伝令役の兵が馬を走らせて来た。

「伝令ーッ!龐煖様が、秦の王騎を討ち取ったとのこと!」

大混乱の中、その伝令の声は李牧と信の耳にはっきりと届いた。弾かれたように信が伝令役の方を見る。

 

「父さんッ…!?」

それまで浮かべていた怒気が消え去り、信じられないといった驚愕の表情にすり替わっている。

彼女の顔を見て、李牧の胸に何か言葉に言い表せぬ感覚が走った。

気づけば李牧は馬上から腕を伸ばし、彼女の手を掴んでいた。驚愕の表情が濃くなり、何をするんだと視線を向けられる。

李牧は近くで信の顔をまじまじと見つめ、二度とその顔を忘れまいと網膜に焼き付けた。

「放せッ!」

信が反対の手に握っている剣を振り上げたのを見て、李牧はすぐに手を放す。

咄嗟に身を引いたが、鋭い切っ先が、李牧の手の平を傷つけた。きっと信は腕を切り落とすつもりで剣を振るったに違いない。

「絶対に殺してやる…!」

刃のように冷たい瞳を向けられて、李牧は目を細める。先ほどまで余裕ぶっていた彼女が素の表情を出したのだと思うと、胸に喜悦が走った。

感情を表に出しやすい女だとは思ったが、冷静な判断は出来るようで、信は李牧に斬り掛かることはしなかった。

「全軍撤退だッ!急いで戻るぞッ!」

手綱を引いて馬の横腹を蹴りつけ、信は馬を走らせていった。彼女の指示に従い、趙兵に扮していた飛信軍が撤退を開始する。

隙だらけの背中を李牧に見せていたが、李牧はその背中を斬りつけるような真似はしなかった。

「…また会いましょう、信」

遠ざかっていく彼女の姿を見つめながら、李牧は血を流している手の平の痛みを、疼きのようにも感じていた。

 

秦趙同盟が結ばれた後に開かれた宴の席で、李牧は大いにもてなしを受けていた。

振る舞われた酒と食事を口に運ぶが、どうにも味を感じない。

六大将軍であった王騎を討つ軍略を企てた軍師として、一部の者たちからは殺意交じりの視線を向けられているせいだろう。無意識のうちに身体が警戒していた。

しかし、同盟を成した後では誰も李牧の首を取ることは叶わない。

主の仇と取ろうと意固地になる兵もいるだろうが、とりあえず人目のある宴の場では安全は保証されそうだ。

顔にはいつものように笑みを繕っていたが、このように少しも楽しめない宴の席は初めてだった。

元々賑やかな席を得意としない李牧であったが、二国を結ぶ同盟の宴ともなれば宰相である自分が参加しない訳にもいかない。

悼襄王の寵愛を受ける春平君と趙からの使者である自分たちの首を守る代わりに、韓皋の城を失うことになった。

築城中であったものの、防衛に優れた城を失うことは痛手ではあったが、命には代えられない。

向かいの席に座る呂不韋といえば、この不穏な空気を他人事のように振る舞っている。妓女たちを両脇に侍らせて酒を煽っている彼の姿に苦笑を浮かべつつ、李牧はさり気なく宴の席を見渡した。

(あれは…)

奥の席に秦王の姿を見つけた。呂不韋との交渉の場では玉座に腰掛けたまま口を出さなかった嬴政という名の秦王は、意志の強い目をしている青年だった。

従者たちと何かを話している。
この距離からでは何を話しているのかは聞き取れないが、どうやら宴の席からそろそろ退こうとしているようだ。

 

「…?」

秦王の傍らに、赤色の着物を着た女性が座っており、仲睦まじく話をしている。正室だろうか。

まさかこのような宴の場に王女が参加するとは思わず、李牧は興味本位でその女性の姿を目で追っていた。

「おや?宰相殿、気になるお相手でも見つけましたかな?」

酒で酔っているのだろう、ほんのりと顔を赤くさせている呂不韋が李牧の視線に気づいたようだった。

「ああ、いえ…」

李牧の視線を追い掛けた呂不韋が、嬴政と共にいる赤い着物の女性に気付き、納得するように大きく頷いていた。

「これは宰相殿もお目が高い」

まるで良い品物に目をつけたとでも言うような口ぶりで、呂不韋が顎髭を撫でつけた。

「まさか王女までもがこの宴に来て下さるとは、大いに歓迎をしてくださるようで何よりです」

李牧がそう言うと、呂不韋は顔の半分が口になってしまうほど大口を開けて笑い出した。

おかしなことを言っただろうかと李牧が小首を傾げていると、ようやく笑いが落ち着いたらしい呂不韋が息を吐く。

「あの者は王女などではない」

「え?」

「元下僕ながら今や将軍の座に就いている、今は着飾ってマシな見目をしているものの、普段は色気の欠片もない女ですぞ」

元下僕から将軍にまで上り詰めた女といえば、秦国には一人しかいない。

「…彼女が、信将軍ですか?」

馬陽の戦いで、網膜に焼き付けた彼女の姿を思い返し、李牧の心臓が早鐘を打ち始めた。右の手の平がじんと疼く。

あの時、彼女によってつけられた傷はもう癒えているものの、痕を残している。それはまるで李牧が信への興味が尽きていない証のようにも思えた。

「ええ、そうです」

李牧が信の名を口に出すとは思わなかったのだろう、呂不韋は少し驚いたように目を丸めてから頷く。

あの時に見た顔は忘れないと心に決めたはずだったのだが、今は鎧ではなく、美しい身なりを整えているせいで、彼女が信だとすぐに気づけなかった。

呂不韋が嬴政と楽しそうに話を続けている彼女に視線を向けてから、静かに李牧を見据え、今度は薄く笑んだ。

何か含みのある笑いに、李牧の胸に嫌なものが広がる。
その顔は先ほどの交渉の場で見せた、呂不韋の元商人としての顔だと気づいた。

もう韓皋の城も渡すと決めたのだから、これ以上は何も渡すことは出来ないと釘を刺そうとしたのだが、呂不韋が言葉に出したのは予想もしていなかった言葉だった。

「あの者は養父のこともあって、随分と宰相殿のことを恨んでおるようだが…此度の秦趙同盟をより強固にするために、趙に嫁がせてはいかがかな?宰相殿がお相手ならば、誰も文句は言うまいて」

仮にも敵地であるこの場所で、信を嫁にもらってくれと言われると思わず、李牧は瞠目した。隣でカイネが何を言っているんだと目を剥いて呂不韋を睨み付けている。

「御冗談を」

軽くあしらい、李牧は酒を口に運ぶ。

秦趙同盟を結ぶ際の、呂不韋の交渉術を身を持って知った李牧は、彼の進度に合わせれば、全てを持っていかれるのだと学習していた。

しかし、呂不韋の厄介なところは、提示した条件を確実に呑ませるために、相手を自分の進度に巻き込もうとするところだ。

自分が優位に立ち、最大の利益を得るために、彼は使えるものはなんだって使う強欲さに満ちていた。

命を奪われるのは免れたとはいえ、今回の交渉の場は、もともと呂不韋が用意したものである。

春平君を人質に取ることで悼襄王と宰相を動かせると読んだ呂不韋が、軍師としての才能を開花しなくて良かったと李牧は人知れず安堵する。

「冗談なものか。あの娘が宰相殿のお眼鏡にかなったとあらば、この機を逃すのは勿体ない」

それはつまり、長い目で見た時に、呂不韋に利をもたらすということだろう。

元下僕という立場である信が、王家という名家に入ることが出来たのは、養父である王騎がいたからこそである。

しかし、王騎がいない今、信には後ろ盾がないはずだ。

名家というものは、やたらと血筋を重視する存在であると李牧も分かっていた。

王家の者たちからしてみれば、信の存在は煙たがられているに違いない。それが秦国に欠かせない強大な将軍であったとしてもだ。

元下僕の立場で由緒ある名家の養子となった話が大いに広まったのも、前例がない異例中の異例の出来事だからである。

信が将としての才を開花させたからこそ、誰も口を出せずにいるのだろう。
ゆえに、彼女を王家から追放できるのならば、理由は何だって良いのかもしれない。仇同然の男に嫁ぐことになったとしてもだ。

王家との繋がりがない呂不韋が、李牧に信との婚姻を提案して来たということは、味方であろうと使えるものは何だって利用しようと考えている証拠である。

後ろ盾もない彼女が王家から守られることはないだろうし、将軍とはいえ、信は丞相の命令に逆らえる立場ではない。

つまり、呂不韋が命じれば、あとは李牧の承諾次第で、彼女は趙に嫁ぐしかなくなるのだ。

 

「………」

李牧は口元に笑みを繕うばかりで、答えるようとはしなかった。

あえて何も答えずにいるというのに、それを承諾の返事と勘違いしたのか呂不韋が、満面の笑みを浮かべて立ち上がる。

「何も難しいことはない。ここはお任せあれ」

「え?」

まさか本当に婚姻の話を進めるつもりなのかと、李牧の瞳に動揺の色が浮かぶ。

引き留めるよりも先に、呂不韋が席から離れていってしまったので、残された李牧は呆気に取られていた。

信のところに向かったのかと、秦王がいた方に目を向けたが、嬴政と信の姿はもうそこにはなかった。

「全く、無礼な…!」

隣でずっと呂不韋と李牧の話を聞いていたカイネが顔を真っ赤にして目をつり上げていた。

彼女が自分の代わりに怒りを露わにしてくれることで、李牧は何だか救われた気持ちになる。

「お酒が入って気分が良くなっているのでしょう。そう気にすることはありません」

もしも信との婚姻の話を進められたとしても、自分さえ断れば丸く済むと李牧は考えていた。

自分に嫁がせれば、秦の強大な戦力である信を戦から遠ざけることが出来る。
今後、秦と戦をすることがあれば優位に事を運ぶことが出来る利点があるのは李牧も十分に分かっていた。

しかし、それは姑息で卑怯な方法だ。

手に入れるのならば、呂不韋の手を借りるのではなく、自らの手で掴み取りたいと李牧は考えた。

右の手の平が引きつるような、疼くような痛みを覚え、李牧は視線を向ける。

この傷跡を見る度に、李牧はあの日の光景を、まるで昨日のことのように思い出せた。

殺意の眼差し、怒気を含んだ声、悔しそうな表情。あの瞬間、間違いなく彼女の全ては自分だけに向けられていると感じた。

その事実に、李牧は陶酔感のようなものを覚えていた。それが恋心だと知るのは、もっと先の未来である。

 

宴の夜

その後、李牧は侍女によって客間へと通された。

宮廷の一室とはいえ、幾つもの間を通ったところにその部屋は用意されているらしい。他の家臣たちとは違う待遇に、油断は出来ないと思った。

別部屋に案内された家臣たちの耳に、自分の声が届かない部屋に案内されるということは、夜間の奇襲の可能性を示しているからだ。

武器の所持は許されていたが、複数で押し掛けられれば、いくら李牧とはいえ無傷で生還することは出来ないだろう。

「こちらのお部屋をお使いください」

侍女が深々と頭を下げ、今来た道を戻っていく。

彼女の姿が見えなくなってから、李牧は持っていた剣を鞘から抜いた。扉を開けた途端に、待ち構えている伏兵たちによって襲われる可能性を考えてのことだった。

宴の席で酒に毒でも盛られていたのなら、安易にこの命は奪われていたに違いない。

呂不韋はとことん信用出来ない男だ。此度の交渉でそれがよく分かった。
宴の席で油断させておいて、気を抜けたところを討ち取るように指示を出しているかもしれない。

自分はともかく、カイネたちは無事だろうかと心配になる。

この部屋の向こうにいる兵たちを一掃し、首謀者と企みを吐かせなくてはと、意を決した李牧は躊躇うことなく扉を開けた。

剣を構えて室内を見渡したが、中に自分を待ち構えている兵たちはいなかった。

代わりに、天蓋つきの寝台の上で一人の女が寝そべっており、李牧の存在に気付くと気怠そうに身を起こした。

「やっと来たのか。寝るとこだった」

その女が信だと気づいた李牧は、予想外の展開にしばらく言葉を失っていた。

 

剣を構えている李牧の姿を見ても、彼女は動揺する素振りを見せない。李牧がこの部屋を訪れることを分かっていたからだろう。

「…なぜ、あなたがここに?」

剣の切先を信に向けたまま尋ねた。

周囲への警戒も怠らなかった。何故なら彼女に意識を向けているうちに、背中を斬られてしまうかもしれないからだ。

馬陽の戦いでは彼女が背中を斬りつける役ではあったが、今度は飛信軍の副官や兵がその役目を担っているかもしれない。

李牧があからさまに警戒している姿を見て、信は肩を竦めるようにして笑った。

「安心しろ。伏兵もいないし、武器も持ってねえよ」

寝台に腰掛けたまま両手を上げたが、李牧は信用しなかった。

美しい装飾が施された帯の中や、赤い着物の袖の中に短剣の一本くらいは隠してそうだ。
李牧が怪しんでいることに気付いたのか、信は気怠げに立ち上がる。

迷うことなく彼女は自ら帯を外し、表着を脱いで床に落とす。スカートの紐も解くと、彼女の身体の線に沿って布が落ちていった。

赤い着物が信の足下に落ち、まるで床に赤い血溜まりが出来たように見えた。
恥じらいも躊躇いもなく、一糸纏わぬ姿になった信が静かに李牧を見据える。

「何の真似ですか」

自ら武器の類を持っていないことを証明した行動に、李牧は何の目的があるのか分からず、眉根を寄せた。

「呂不韋の野郎に、お前と寝ろって言われた」

「は?」

まさかここで呂不韋の名前を聞くことになるとは思わず、李牧は瞠目する。

先ほどの宴の席で、信との婚姻についての話を進めておくと言っていたが、まさか彼女にその話を通したのだろうか。

だとすれば、李牧は信の行動がますます理解出来なかった。

敵軍の軍師、ましてや養父の仇に等しい男に嫁ぐなど、彼女が絶対に受け入れることはないと思っていた。

易々と身を差し出すような行動に、寝首を掻きに来たのかという結論に辿り着く。

武器がないことを自ら証明していたが、隠そうと思えば着物の中だけではなく、寝具や家具の隙間にだって隠せるだろう。

あくまで自分を油断させる策なのだと考え、李牧は警戒を解かずに信を見据えていた。

傷だらけではあるが、若さを主張する艶のある肌と、無駄な肉などない引き締まった身体、しかし女性にしかない胸の膨らみは申し分がない大きさだ。

男ならば、この体を前にして生唾を飲み込むだろう。しかし、今の李牧は違った。

決して信に女としての魅力を感じない訳でも、李牧が一人の男として、彼女の身体を好きにしてしまいたいという欲求を感じない訳でもない。

信の意志ではなく、これが呂不韋の命令だということが気がかりだった。
彼女の誘いに応じることは、彼の策略通りに事が進み、自分の命を差し出すのと同等の行為である。

「………」

李牧が一向に手を出そうとしないので、信は床に落ちていた表着だけを身体に羽織った。

それから彼女は李牧の脇をすり抜ける。部屋を出ていくのかと思ったが、彼女は内側から扉に閂を嵌め込んで、外部からの侵入を防ぐために鍵を掛けている。これで密室が出来上がった。

自分と信以外の誰かがいる気配は感じられない。この密室で自分を殺そうとする者がいるのなら、それは間違いなく信だけである。

どこに武器を隠しているのか、どのような手法で自分を殺そうとしているのかと李牧が考えていると、信は再び寝台に戻って腰を下ろしていた。

「…奇襲はされない。けど、外に聞き役がいる」

扉越しに李牧の死を確認する者がいるというのか。彼女の言い草から、聞き役というのは、恐らく呂不韋が差し向けた者だろうと考えた。

呂不韋の命令にせよ、信が自分を殺そうとしているに違いないと眉根を寄せると、彼女は腕を組んで溜息を吐いた。

念のため、李牧は彼女の問い掛けた。

「私を殺すつもりは?」

「同盟が続く限り、ない」

即答した信に、李牧はようやく剣を鞘にしまった。

 

「それどころか…お前と寝ないと、俺のとこの軍師と副官たちの首が飛ぶ」

渋々と言った様子で話し始める彼女の瞳に憤怒の色が浮かんでいたのを、李牧は見逃さなかった。

「…すべて、呂不韋からの命令なのですね」

「ああ」

苛立ちに声を低くしている信の顔に、暗い影が差していた。

ここに来たのは信の意志ではなく、呂不韋の命令だったのだ。人質まで取られたことから、信も従わざるを得なかったのだろう。

「お前があいつと何を話したのかは知らねえけど、あいつは俺を政から遠ざけようとしてんだよ」

「政…秦王のことですか」

そうだ、と信が頷く。

宴で仲睦まじい姿を見せていたことから、きっと秦王と信は親しい関係なのだろう。

交渉の場で感じた呂不韋の強欲さから、彼が丞相という座だけに収まっているとは思えなかった。

まさかあの男の強欲さは秦王の座にまで向けられているのだろうか。

飛信軍の軍師と副官を人質にとるくらいなのだから、秦王と親しい信を趙へ嫁がせようとするのは、呂不韋が秦王の座を狙っていることと関係しているのかもしれない。

 

夜伽

「…お互い、あの男にしてやられたというわけですね」

「そうなるな。同情するぜ」

まさかこんなところで信との共通点を見出すとは思わなかった。

李牧は鞘にしまった剣を机に置くと、寝台へと向かう。隣に腰を下ろすと、信はちらりと視線を送って来たが、それ以上は何も言わなかった。

人質に取られている軍師と副官の命を助け出すためには、李牧に抱かれるしかない。かと言って、強引に行為を迫ることもしなかった。

きっと彼女の中では、王騎の仇である男に抱かれなくてはいけないという葛藤があるはずだ。

「どうしますか?」

李牧はあえて信に問い掛けた。

呂不韋の企みに乗ってやるのは正直気が引けるし、飛信軍の軍師と副官の命など、李牧が心配する立場はない。

冷静に物事を見返すと、天秤に掛けられているのは信の仲間の命だけであって、こちらの損失は何もないのだ。

呂不韋が自分と信の存在を邪魔に思っているのは間違いないだろう。しかし、ここで夜襲をかけないということは、韓皋の城を明け渡すと決めた以上、少なくとも自分の命は保証されるはずだ。

 

李牧は静かに口を開いた。

「人質の件は同情します。しかし、相手が敵国の宰相である以上、あなたにも断る権利があるはずだ」

「………」

下唇をきゅっと噛み締めたのを見る限り、信は未だ選択を決め兼ねているように思える。

大切な仲間たちの命が掛かっているとはいえ、相手が悪かった。養父の仇である男に抱かれるなど、この上ない屈辱のはずだ。

この女を抱くかどうかなど、李牧にとってはどちらでも良かった。

女に不便をしている訳でもないし、自分に損失のない以上、気分で選択をしても構わない。

どうしてもと信に懇願されるのならば抱いても良いと思えたのだが、無理強いを迫るほど余裕のない男だと思われるのも、その様子を呂不韋に報告されるのも癪だった。

「…はあー…」

やがて、信が長い溜息を吐いた。

ようやく決断したのだろうかと彼女の顔を見ると、目が合った。

「…俺が殺すのを躊躇うくらい、善がらせてみせろよ」

その瞳の色に浮かんでいるのが諦めだと分かり、李牧は唇に苦笑を滲ませる。

隣に座っている信の身体を押し倒すと、寝台が軋む音が響いた。

「ええ、善処しますよ」

李牧の言葉に、信がゆっくりと目を伏せた。

 

中編はこちら

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芙蓉閣の密室(昌平君×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ミステリー/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は軍師学校の空き教室の後日編(恋人設定)です。

芙蓉閣ふようかく:咸陽にある信が立ち上げた保護施設。戦争孤児や行く当てのない女子供を保護している。元は王騎と摎が住まう予定の民居だった。名前は王騎が生前好んでいた花から信が名付けた。

 

チョウ:芙蓉閣に保護された女性。現在は芙蓉閣に住まう女性たちに織り子の仕事を教えながら、まとめ役を担っており、信からの信頼も厚い。商人の夫がいる。

 

シン:芙蓉閣で失踪した男児。芙蓉閣に保護された戦争孤児で、信を姉のように慕っており、飛信軍に入ることに憧れていた。

 

ハン:芙蓉閣で生まれた少女。宸の妹のような存在で、失踪した彼の行方を案じている。手先が器用で織り子の仕事を手伝っている。

 

肖杰ショウヒャク:太后が後宮権力を思うままに操っていた時代に、後宮に務めていた宦官の医者。後宮を追放され、現在は咸陽で街医者として働いている。民たちから慕われており、芙蓉閣の出入りも許されている。

前編はこちら

後宮を追放された街医者

昌平君と別れ、信は咸陽の城下町にある診療所へと向かった。

元は後宮に務めていた宦官の医者である肖杰ショウヒャクの診療所に到着した信は、思わず小首を傾げてしまった。

家格を象徴する屋敷の大門にはほとんど装飾がされておらず、門の前には階段もない。

それどころか、彩色のされていない灰色の瓦で作られた屋根を見れば、医者という立場でありながら、他の民たちと何ら変わりない大きさの民居である。

「肖杰はいるか?」

扉に取り付けられている銅製の取っ手を台座に叩きつけると、鈍い音が響いた。呼び鈴の役割も担っているその音を聞きつけ、少ししてから門が開かれる。

「はい。どちら様で?」

現れたのは初老の男だった。屋敷の外装と同じで派手ではないものの、小綺麗な格好をしている。ほっそりとした体格で、気の弱そうな顔をしていた。

「飛信軍の信だ。街医者の肖杰ってやつに聞きたいことがある」

秦国の大将軍の名前を聞き、その気の弱そうな男はぎょっと目を見開く。それから急に膝をついて頭を下げたので、信も驚いた。

「信将軍自らおいでくださるとは…このような街医者に何用でございましょう」

その言葉に、信はこの初老の男が肖杰なのだと理解した。

「そういう堅苦しいのはいい。患者が来てないなら、少し話をしても良いか?」

肖杰はもちろんですと頷いた。

「もう少ししたら病人の家へ往診へ行く予定でしたので、それまでの間でしたら…」

「悪いな」

「いいえ。夕刻まで戻らぬところでしたので、入れ違いにならなくて良かった」

すぐに肖杰は信を客間へと案内してくれた。

 

街の診療所だと聞いていたが、この民居の一室を診療所として提供しているだけで、入院させるような部屋は用意していないらしい。

(こいつ、左足が…)

客間へと案内するために回廊を歩いている肖杰が、左足を引きずっていることに気付いた。

太后が後宮権力を意のままに操っていた時代に、彼は何か失態を犯して後宮を追放になったと聞いていたが、その際に罰を受けたのだろう。

今は着物で隠れているが、腱を切られたか、骨を砕かれたかどちらかに違いない。

追放になったとはいえ、医者という職業はどこでも重宝される。足が不自由でも、食べていくには困らないのだろう。

(色んな部屋があるな…)

芙蓉閣ほどではないが、そこらの民が住まう屋敷より広かった。

しかし、自ら来客を案内しているところによると、助手の一人もいないようだ。敷地の中には他の者の気配もなく、どうやら妻子もいないらしい。外出中なのだろうか。

その足では随分と不便に違いない。食うに困らない職をしているのならば、使用人の一人でも雇えば良いのにと信は考えたが、彼にも都合があるのだろう。

(…なんか、嫌な臭いだな…)

屋敷の敷地内には独特な匂いが漂っていた。どこかに薬草を植えているのかもしれない。
身体が丈夫で病とは縁がない信に、薬草の匂いは耐性がなかった。

客間に通されると、肖杰が茶の準備をしようとしたので、不要だとすぐに断った。

木製の椅子に腰を下ろし、信はまじまじと肖杰を見る。

「…そういや、あんたと顔を合わせるのは初めてだったな」

「戦でご活躍をされている信将軍ですから、私のような街医者とはご縁が無くて当然です」

穏やかな声色で肖杰が答える。

「芙蓉閣の女子供も診てくれてるんだろ。あそこは俺が立ち上げた施設だからな、いつか礼を言おうと思ってたんだ」

とんでもございませんと肖杰が頭を下げる。随分と腰が低い男だ。

「将軍たちが戦で命を張って国を守ってくださるように、私も医者としての責務を果たしているだけです」

髭も薄く、声も僅かに高くて中性的だ。そして、彼がこんなにも物腰柔らかなのは、宦官として男の生殖機能を失った影響なのだろうか。

「それで、本題だ」

声を低くした信に、真剣な眼差しを向けられたことで、肖杰がごくりと生唾を飲み込んだ。

 

「ここ最近、芙蓉閣でガキが十人行方不明になってる。お前のとこに、菓子をもらいに来たりしなかったか?」

その問いに、肖杰はすぐ首を横に振った。

「いえ…常備薬を渡す以外で、最近は…私の方も少々忙しくて、診療所ではなく、病人の家へ往診をすることが多く、留守にしていたものですから…」

「そうか…」

ここにも手がかりがないことが分かると、信は重い溜息を吐いた。

「いきなり押しかけて悪いな」

「いいえ、こちらこそお役に立てず…」

椅子から立ち上がると、肖杰は左足を庇いながらゆっくりと立ち上がった。

客間を後にした信は肖杰に見送られながら屋敷を出た。入って来た門を潜り、そういえばと振り返る。

「お前…ここにはずっと一人なのか?色んな患者を診てんなら、助手の一人くらい雇えばいいだろ」

人を雇わないのは彼にも都合があることなのだろうが、左足の不自由を考えると、信はやはり心配になった。

必要なら支援の手配をしようかとも考えたのだが、肖杰は薄い笑みを顔に貼り付けて首を横に振った。

「後宮を追放となった罪人が一人でいるのは、相応しい処遇でしょう」

「………」

そう言われてしまえば、信は言葉を返せなくなる。

一人と言い切ったことから、恐らく妻子とも離れ離れになってしまったのだろう。

後宮を追放されてから一人で仕事をこなすのは、彼にとって罰を受けているのと同等らしい。

然るべき罰はもう受けただろうに、肖杰自身は未だ自分を許そうとしていないのだと察した。

どのような罪を犯したのか、さすがに本人に聞くのは野暮だろう。

「…そうか」

それ以上、信は彼に質問をしなかった。

「邪魔したな。これからも芙蓉閣のことを頼むぜ」

「ええ、もちろんです。それでは…」

肖杰が門を閉める時、信ははっと目を見開いた。

彼の背後に見覚えのある子供たちの姿が見えたからだ。

「待っ…!」

手を伸ばすが、肖杰は気づかずに門を閉めてしまった。

(見間違い…だったか?)

思わず目を擦る。将として戦場に出ているせいか、いつだって人の気配に敏感な信だが、敷地内に子供たちがいた気配は少しも察せなかった。

「………」

やはり、気のせいだったのだろうか。
信は後ろ髪を引かれる思いを断ち切るようにして、馬に跨り、診療所を後にした。

 

侵入捜査

一度芙蓉閣に引き返した信だが、先ほどの肖杰の屋敷で見たあの光景を忘れることが出来なかった。

回廊の柱に寄りかかりながら、信はずっと考えていた。

「………」

案内されたのは客間だけだったが、回廊を歩いている時には幾つもの部屋があった。

追放をされなければ、本来は後宮での任期を終えた後、あの屋敷に家族水入らずで暮らすつもりだったのだろう。

使われていなさそうな部屋もあったが、処置に必要な道具や医学書だったり、たくさんの物を置いているのかもしれない。

(…まさか)

信が訪れていない他の部屋に、子供たちがいるのかもしれない。

あの時に見た子供たちの姿が幻の類だったとしても、手がかりなら何だって欲しいし、納得するまで調べないと自分を納得させることは難しそうだった。

―――…気をつけて行け。何か手がかりを掴んでも、一度引き返せ。独断での行動は控えろ。

昌平君の言葉を思い出すが、今の時点では、まだ何も手がかりを掴んでいない。

もう一度、彼の屋敷に行って部屋を見せてもらうことは出来ないだろうか。

こちらが疑っていると分かれば肖杰も良い気分はしないだろう。しかし、子供たちがどこかの部屋に閉じ込められているのならば、それを隠される前に見つけ出す必要がある。

肖杰が不在の時間を狙って屋敷に侵入することは叶わないだろうか。もちろん家主の留守中に忍び込むのは道徳に反した行為であると自覚はある。

常備薬を受け取りに来たとでも言って、用事があるフリをして侵入するべきか。だが、肖杰の目があるうちは他の部屋の侵入は難しいだろう。

 

「信さま」

悶々と侵入経路について考えていると、チョウの声がした。盆に茶の入った器が載っている。茶を淹れて来てくれたようだ。

「悪いな」

いいえと燈が穏やかに微笑む。

「肖杰の屋敷に行って来たんだが、あいつも特に知らねえみたいだった」

「そうですか…」

切なげに眉根を寄せて、燈が頷く。

「最近は先生も往診でお忙しいようですね。他の者から聞きました」

「往診…ああ、そういや俺と会った後も往診に出掛けるって言ってたな」

「この芙蓉閣にも頻繁に来て下さって、子供たちが怪我をしたら、甲斐甲斐しく面倒を見てくれていたんですよ」

ふうん、と信が頷く。

気の弱そうな男ではあったが、やはり医者として人助けをしたいという信念は強くあるのだろう。芙蓉閣にいる女子供からも大いに慕われているらしい。

シンが城下町で貴族の子供たちと大喧嘩した時も手当てをしてくだったんです」

「ああ、噛みついて泣かせてやったって言ってたな」

思い出し笑いをしながら信が言うと、燈も静かに口角をつり上げた。

燈までもが信頼を寄せている医者だが、信の中にはずっと引っ掛かるものがあった。それはやはり先ほどの、屋敷を出る時に見た子供たちの姿である。

信が複雑な表情を浮かべていることに気付かず、燈が言葉を続けた。

「先生もあまりお体が強くないのに、重い葛籠を背負って、芙蓉閣まで往診にいらしてくれるんですよ」

「あの足でそんなことしてるのか?」

後宮追放の処罰を受けた左足を引き摺りながら、まさかそんな重労働を続けていたのかと信は驚いた。

「え?足ですか?」

不思議そうに燈が聞き返したので、信は頷いた。

「あいつ、左足を引き摺ってるだろ」

信が屋敷に訪れた時に、左足を庇うようにして歩いていた肖杰の姿を思い浮かべながら言い返すと、燈が何か考えるように小首を傾げていた。

「いえ…そんなことはなかったと思うのですが、どこかでお怪我をされたのでしょうか?」

「………」

自分よりも肖杰と面識のある燈が、彼の左足のことを知らないはずがない。もしかしたら普段は左足の痛みをさほど感じていないのだろうか。

「…悪い。やっぱり、もう一回肖杰の屋敷に行って来る!」

何か違和感を覚え、信はすぐに肖杰の屋敷へと引き返すことを決めた。

 

今は患者の家に往診へ行き、不在にしているはずだ。

わざわざ芙蓉閣に引き返さなくても、肖杰が外出するのを分かっていたのなら、屋敷の近くで待機していれば良かった。しかし、彼が戻って来るという夕刻まではまだ時間がある。

愛馬の駿を走らせればすぐに到着する距離なのだが、もしも彼が戻って来た時に厩舎に見知らぬ馬がいることを怪しまれてはまずいと思い、駿は同行させなかった。

厩舎にいる駿から、まるで自分を置いていくのかとでも言わんばかりの悲しい視線を向けられて、信はばつが悪そうな顔をした。

「すぐ迎えに来てやるから、ここで待っててくれよ」

宥めるように駿に声を掛けると、駿が不満げに嘶いた。いつも一緒にいてくれる相棒に嫌われるのは信としても気分が良いものではない。

「…そんじゃあ、これを人質・・として置いてく」

信は髪を結んでいた青い絹紐を解くと、駿の手綱にきつく結びつけた。ハンからの贈り物だが、大切な品であることには変わりない。

「必ず迎えに来る約束の証だ。これでいいだろ?」

駿のたてがみを撫でつけながら言うと、渋々納得してくれたように耳を動かしていた。

(急ぐか)

信はすぐに芙蓉閣を出て、肖杰の屋敷を目指した。

 

人通りの多い城下町だが、診療所でもある屋敷は端の方にある。人目を気にしながら、あまり人通りの少ない裏路地を通って、信は肖杰の屋敷の裏に回った。

先ほど肖杰を訪ねた時に通った正門よりも狭い門を見つける。正門と同じで、装飾が一切ない簡素な門だった。

試しに手で押してみるが、門が開く気配はない。

(さすがに開いてねえか…)

予想はしていたが、内側から鍵が掛けられているようだ。

この裏門はあまり手入れが行き届いていないようだ。門も壁も随分とくたびれていて、欠けている部分もある。

「………」

壁の欠けている部位をまじまじと観察した信は、良い足場になりそうだと考える。

(飛び越えるか)

辺りを見渡して、誰もこの場にいないことを確認すると、門から距離を取った。

「―――ふッ!」

助走をつけて、欠けている壁の一部に足を掛けた信は、大きく飛び上がった。瓦の屋根を掴み、腕力だけで自分の体を持ち上げる。

「よっ、と…」

敷地内に足をつくと、信は長い息を吐いた。薬の独特な匂いが再び鼻を突いた。

内側から鍵の役割をこなしている閂を外そうと考えたが、屋敷を出た後に裏門の鍵が開いていることを、肖杰が不審がらないように触れないでおいた。

(まだ戻って来てねえな)

気配を探るが、肖杰は往診に出たようで敷地内に気配はない。

シン、いるか?」

声を掛けながら、信が回廊を進んでいく。
客間以外の部屋の扉を次々と開けて中を覗き込む。部屋を見て回ったが、子供たちの姿はどこにもなかった。

(やっぱりここにはいないか…)

やはり、肖杰の屋敷を出た時に見た彼らの姿は見間違いだったのだろうか。諦めて信は往診に出ている肖杰が戻って来る前に、屋敷を出ようとした。

「え?」

その時、後ろから誰かに着物を引っ張られたような気がして、信は反射的に振り返る。

(なんだ?風か…?)

最後に覗いた部屋から風が吹き抜けた。導かれるように信はもう一度その部屋の中を覗き込むと、窓が開けっぱなしになっていた。

たくさんの木簡が棚に敷き詰められていて、机には筆や木簡が置かれている。どうやらここは書斎として使っているようだった。

「ん?」

読みかけだったのだろうか、机に広げられている木簡が目に留まった。随分とくたびれていて、墨も掠れていることから、かなり年季の入った古書だと分かる。

びっしりと字が書き込まれており、恐らく医学に関することが記されているのだろうと思った。

医学に関しては全く知識がないこともあって、まるで読む気にはなれない。しかし、信は妙にその古書が気になった。

養子として引き取られてから字の読み書きは一通り教わったが、専門知識に関しての用語はさっぱりだ。

読み取れる文字だけを目で追っているうちに、信の顔色はみるみるうちに曇っていった。

「…なんだ、これ…」

古書に記されていたのは、信が一度も聞いたことのない話だった。しかし、これが医学に関する知識でないことは明らかである。

思わず生唾を飲み込んだ。

子供たちの失踪がこの木簡に関する内容と関わりがあるかもしれない。信は冷や汗を浮かべた。

こんなの・・・・を知って、肖杰の野郎は…)

手に取ったその木簡を読み続けていると、扉の方から物音が聞こえ、信は弾かれたように顔を上げた。

そこには、夕刻に戻ると話していたはずの肖杰が立っていた。

迷信

「あ…」

まずった、と信は顔を強張らせる。
夕刻まで戻らないと聞いていたので、まさかこんなに早く戻って来るとは思わなかった。

古書を読むのに夢中になっていて、近づいて来る気配に気づけなかったのだ。信の失態である。

驚愕のあまり、手から古書を滑り落としてしまい、乾いた音が室内に響き渡った。

心臓が激しく高鳴る。不法侵入が気づかれたことに関する焦りではない。

この古書に記されている内容を彼が行おうとしている、あるいは既に実践したことを気づいてしまったからである。

「忘れ物を取りに来たのですが…信将軍、ここで何を?」

背中に大きな葛籠を背負っている肖杰は、落とした古書に視線を向けながら、信へ静かに問い掛ける。

無断で屋敷に立ち入ったことを咎めることもせず、まるで世間話でもするような、穏やかな表情を浮かべていた。

「ッ…!」

質問には答えず、背中に携えている剣を掴みながら、信は肖杰を睨み付けた。睨まれた肖杰は少しも怯む様子を見せない。

「お前…これはなんだ?」

鞘から刃を引き抜いた信は、肖杰に鋭い切先を突きつけながら、床に落ちている古書に視線を向けた。

―――男児の心臓を食えば失われた器官が再生する。女児の子宮を食えば寿命が伸びる。

古書にはそのように記されていた。

こんな内容、迷信にしたって一度も聞いたことのない話だ。どこから出回った情報なのだろう。

刃を向けられているにも関わらず、肖杰は少しも取り乱す様子がない。床に落ちているその木簡を拾おうと、彼はゆっくりと身を屈めた。

 

「うぅ…」

後宮で処罰を受けた左足が痛むのか、膝を擦っている。

「…?」

着物越しに擦った箇所に赤い染みが出来ている。床に小さな血溜まりが作られているのを見て、肖杰の左足から出血していることが分かった。

彼が後宮を追い出されたのは、少なくともここ最近の話ではない。太后がまだ後宮権力を好きに振るっていた時代に追い出された聞いていたから、左足の傷はもう塞がっていてもおかしくない。

しかし、屋敷に戻ってチョウから話を聞いたが、彼女は肖杰の左足のことを知らなかった。
新しく怪我でもしたのだろうか。それにしても床に血溜まりを作るほどの傷ならば、相当な深手だろう。

「ああ、すみませんがね、少し手当てをさせてください」

「………」

信に刃を向けられたまま、肖杰は不自然なほど笑顔を浮かべながら、背負っていた葛籠を床に降ろすと、近くにあった椅子に腰を下ろした。

「一週間ほど前の傷なんですが、なかなか治りが悪くて…」

葛籠を開けて、中を漁っている。葛籠の中には漆塗りの薬箱や処置に必要な道具が入っていた。

左足の着物を大きく捲ると、脛の辺りに包帯が巻かれており、赤い染みが出来ているのが見えた。後宮で受けた古傷が開いたのではなく、新しい傷だとすぐに分かった。

「!」

慣れた手つきで包帯を外していくと、そこには咬み傷があった。

獣に噛まれたものではなく、人間の歯形だと分かり、信は全身の血液が逆流するような感覚に襲われる。

肌に深く刻まれた上下の歯型に沿って血と膿が溢れている。傷口が化膿しているのか、周辺も赤く腫れ上がっており、見るだけで痛々しかった。

信が驚いたのはそれだけではない。てっきり足を引き摺っていたから、後宮で処罰を受けたのだとばかり思っていたのだが、捲った着物の下にあるのは咬み傷だけ・・・・・だったのだ。

「おいッ!どういうことだッ!」

大股で近づいた信は、剣を持っていない反対の手で肖杰の着物をさらに捲り上げる。膝を見るが、やはりそこにも傷はない。

彼が足を引き摺っていたのは、この咬み傷のせいだったのだ。

肖杰の処罰は後宮追放だけであったと分かると、信は痛々しい咬み傷を睨み付ける。
傷の小ささから、大の大人ではなく、子供が噛んだものだとすぐに分かった。

―――貴族の奴らがうるさいから、噛みついてやったら、泣き喚いて逃げてったんだ!

城下町で貴族の貴族の子供たちから心無い言葉を向けられたことで大喧嘩し、仕返しに噛みついてやったのだと誇らしげに話していた宸の姿を思い出す。

一週間前・・・・…?」

肖杰が先ほど話した言葉が引っかかり、信は嫌な汗を浮かべた。

確か、最後に失踪した子供…宸がいなくなったのも一週間ほど前だ。これは偶然なんかじゃないと信の心が叫ぶ。

 

怪奇

肖杰の左足についている咬み傷が、宸が抵抗の際につけたものだとすれば、そう考えるだけで信の背筋はたちまち凍り付いた。

「…まさか、お前…食った・・・のか?」

自分でも驚くほど、その声は冷え切っていた。剣を持つ手が震え、肖杰に向けている切先までもが揺れ始める。

椅子に座りながら懐紙で傷口を止血している肖杰がゆっくりと顔を上げる。

「宸や、他のガキどもを、殺して…食ったのか?」

信の言葉を聞き、それまで穏やかな表情を浮かべていた肖杰が、急に血走らせた双眸を向けて来た。

「ああ、食ってやったさ!」

まるで人が変わったように肖杰が声を荒げたので、信は思わず肩を竦ませる。こちらの問いに肖杰が肯定したことを、すぐには信じられなかった。

殺しただけではなく、まさかあの古書に書いてあることを鵜呑みにしたというのか。

男児の心臓を食えば失われた器官が再生する、女児の子宮を食えば寿命が伸びる。

まさかそんな馬鹿な迷信を信じて、十人もの子供たちの命を奪ったのか。いや、もしかしたら信が知らないだけで、芙蓉閣以外の子供たちの命までも奪ったのかもしれない。

「――――」

驚愕のあまり、信の喉は塞がってしまい、言葉を失っていた。

凍り付いたかのように動けなくなった信に、肖杰が笑い出す。男としての生殖機能を失ったせいなのか、耳につく甲高い笑い声だった。

「あのガキどもッ!私の、私の前で、薪を割る・・とはしゃいで、指を切って・・・、斧の刃が欠けている・・・・・と言って、私を、私を侮辱したんだッ」

笑いながら怒鳴り散らす肖杰は、本当に狂っているのかもしれない。

割る、切る、欠ける。これらは宦官であること、つまり生殖機能を失ったことを恥じる男に対して禁句とされている。男性器を失った時のことを連想させるからだろう。

涵の話では、薪割りや他の仕事を手伝えば肖杰がおやつをくれると言っていた。この広い屋敷で仕事をこなしながら生活するにあたり、相手が子供でも、やはり人手は欲しかったのだろう。

しかし、子供たちがわざとそんな言葉を並べたはずがない。

全員まだ年端もいかぬ子供たちで、宦官とは何かさえ分かっていない者だっていたはずだ。肖杰が宦官であることを恥じている理由など、子供たちが知る由もない。

そんなことも冷静に考えられず、自分を侮辱していると思い込んだ肖杰はよほど宦官であることを恥じているのだろう。

この古書を所持していると知った時点で、本性に気づくべきだったのだ。

今まで肖杰の悪事に気付かなかったのは、彼の前で禁句を言わない限り、親切な街医者でしかなかったからだろう。

殺された子供たちの共通点は、母親がいないことだと思っていたが、それは本当に偶然だったらしい。

肖杰に殺された子供たちの本当の共通点は、その禁忌を口にしてしまったことだったのだ。

 

「そんな理由でッ…!」

信は悔恨のあまり、奥歯を噛み締めた。
彼女の言葉が気に障ったのか、肖杰が鬼のような形相を浮かべる。

「そんな理由だとッ!?」

「うッ!」

床に落ちていた古書を顔面に投げつけられ、信は視界を遮られてしまう。まさか反撃をされるとは思わず、油断してしまっていた。

その弾みに剣を手放してしまい、信はすぐに拾い上げようとした。

憤怒のあまり左足の痛みを忘れているのか、肖杰に思い切り体当たりをされ、信は床に倒れ込んでしまう。

強く背中を打ち付け、信はむせ込みながら立ち上がろうとする。

しかし、それよりも早く肖杰が乗り上がって来て思い切り頬を殴られ、頭が真っ白に塗り潰された。

 

怪奇 その二

視界に色が戻って来た時には、信は両腕を背中で拘束されていることに気が付いた。先ほど殴られた頬が引き攣るように痛み、口の中は血の味が広がっている。

「うぅ…」

この屋敷に来た時から鼻についていた嫌な臭いを強く感じて、信は思わず顔をしかめた。

どれだけ気を失っていたのかは分からないが、殺されはしなかったらしい。

水の入っていない青銅製の浴槽に寝かせられていることに気付き、浴室に移動させられたのだと気づく。

壁のくぼみに置かれている灯心に火が灯されていた。どうやらもう陽が沈みかけているらしい。

「…?」

すぐ傍で何かを研ぐ音が聞こえて、浴槽からそっと顔を覗かせると、肖杰が砥石を使っている姿が見えた。研いでいるのは信の剣だった。

「秦王から賜ったという剣…とても切れ味は良いでしょうが、念には念を入れておこうと思いまして」

信が目を覚ましたことに気付いたのか、肖杰は剣を研ぎながら、穏やかな視線を向ける。

(くそ…)

両腕は縄によってがっちりと拘束されている。
拘束さえされていなければ、すぐにでも剣を奪還し、この男を叩き斬っていただろう。

「!」

縄を解こうと腕に力を込めていると、寝かせられている青銅製の浴槽に赤い染みがこびりついているのが見えた。

それが血の痕だと気づいた信は、後処理をしやすいように、この浴室で子供たちが殺されたのだと瞬時に悟る。浴室ならば、診療に訪れた患者の目に触れることもない。

この独特な薬草の臭いは、このむせ返るような強い血の匂いを誤魔化していたのだろう。

剣の刃を研ぎ終えたのか、肖杰は切先を向けて来た。
ぎらりと光る刃に、自分の強張った顔が映っており、信は思わず生唾を飲んだ。

 

「…大将軍が急に姿を消せば、当然怪しまれる。あのガキどもとは比べ物にならない捜索が行われるでしょう」

まるで信の反応を楽しむかのように、剣の刃を彼女の首筋に宛がいながら肖杰が言葉を続けた。

「この咸陽にも荒くれ者は多くいる。民たちを守るために、その者たちと刺し違えたとでもすれば、大将軍の名誉でしょう」

「…!」

やはり自分も殺すつもりなのだと信は目を見開いた。ご丁寧にも、大将軍としての名誉ある死を偽ろうとしているらしい。

剣の柄を握り直しながら、肖杰が口の端をにたりと吊り上げる。血走った瞳と目が合うと、背筋に氷の塊を押し当てられたような感覚に襲われた。

「古書には女児の子宮とあったが、あなたのような女性を食らえば寿命も多く伸びるでしょう」

その言葉を聞いて、信の顔が引きつった。殺されるだけじゃ済まないのだと分かり、冷や汗が止まらない。

戦場で戦っている時とはまた違う命の危険を感じ、全身がこの男に対する拒絶を剥き出しにしていた。

「お前…どこまで、あのバカな迷信を信じて…」

両腕が拘束されているのだから、逆上すればろくな抵抗も出来ずに殺されることは信も分かっていた。

しかし、そう言わずにはいられなかった。

殺されるかもしれないという恐怖より、彼が迷信を信じて子供たちの命を奪った非道さに憤怒していた。

バカな迷信という言葉に反応したのか、肖杰が胸倉を掴んで来た。視界いっぱいに彼の凄んだ顔が映り込む。

「…この世で最大の親不孝がなにか分かるか?」

今の彼に余計な口を出せば、すぐに首を掻き切られて臓器を食われるだろう。信は下手なことを言えず、沈黙を貫いた。

「…跡継ぎがないことだ。子孫が絶えれば、死後の祀りをしてもらえなくなる」

その言葉を聞くのは、初めてではなかった。この中華で跡継ぎを作ることは一族を繁栄させるのに必須な行為で、そしてそれは親孝行だとも認識されている。

「私に兄弟はいない。父も幼い頃、病で亡くなり、年老いた母だけ。貧しいながらも勉学に励み、後宮に務める医者になったが、今の私では子孫を作れない…」

それまで憤怒の表情を浮かべていた肖杰の瞳に、悲しみの色が浮かんだのを見て、信は息を飲んだ。

「だから…あの古書を…?」

「そうだ!男児の心臓を食らえば、私は子孫を成すことが出来る!それまでは死ねない…死ぬことは許されないッ!寿命を寄越せッ!」

もうこの男は後戻りが出来ないほど、狂気の道を進んでしまったのだと信は察した。

後宮に務めるに当たって男の生殖機能を失い、子孫繁栄を成せぬ罪の意識に苛まれたことで狂ってしまったのだろう。

「寄越せッ!私に寿命を寄越せえッ!」

肖杰が叫んだ途端、信の中で抑え込んでいた怒りが爆発した。

両手を後ろ手に拘束されており、相手が凶器を持っている状況でも、信は怯えるだけの弱い女ではなかった。

 

「このッ…バカ野郎ッ!」

信が勢いよく体を起こし、肖杰の額に自分の額を打ち付ける。

鈍い音と共に、肖杰が悲鳴を上げて仰け反り、物をなぎ倒しながら床に倒れ込んだ。彼の手から滑り落ちた剣が鈍い音を立てて床に転がっていく。

額にじんと痺れるような痛みを堪えながら、信は寝かせられていた浴槽から転がり落ち、拘束されている両手を解放しようとした。

「くそッ…」

しかし、両手首を一括りにしている縄は頑丈で、一人では解けそうにない。両手が使えないせいで、立ち上がって逃げることも叶わなかった。

「この女ッ…よくも…!」

「!」

倒れで込んだ肖杰は怒りで頭に血が昇っていたのか、意識を失わずにいた。立ち上がった彼は血走った瞳で信を睨み付けている。

せっかく子供たちを殺した犯人を見つけたというのに、こんなところで殺されてしまうのか。

冷や汗を流しながら、信が肖杰を見上げていると、門の方から大きな声が響いた。

「先生!お願いです!どうか診て下さい!」
「お願い!開けて!」

がんがんと銅製の取っ手を台座に叩きつける音が聞こえる。この部屋まで響いた声は高く、複数の子供の声だとすぐに分かった。

急な患者の訪問に、肖杰も信も驚いた。

「ちぃっ…」

多くの民たちに慕われている街医者の立場では、急患を断ることは出来ないのだろう。

「そこから動くなよ」

「………」

肖杰がそう言ったので、信は彼が急患の対応に行くのだと察した。その隙を突いて逃げ出せるかもしれない。

彼は懐から何か瓶を取り出すと、手巾に瓶の中身を染み込ませている。薬独特の匂いを感じて、信は思わず顔をしかめた。

「何すんだッ、放せッ」

謎の薬を染み込ませた手巾を近づけられ、信は咄嗟に顔を背ける。

しかし、後ろ手に拘束された体ではその手を突き放すことも出来ず、信は手巾で口と鼻を覆われた。

「―――ッ!」

吸ってはいけないのだと頭では理解しているのだが、当然ながら呼吸を止めるのは長く続かない。

「んぅッ」

手巾に染み込んだ謎の薬を吸い込んでしまう。つんと沁みるような匂いが鼻腔を突き抜けた途端、信の喉に焼けつくような痛みが走りった。

それだけではなく、目の前がぐらぐらと揺れ始める。

(なんだッ…これ…)

信が薬を吸い込んだのを確認した肖杰はようやく手巾を離す。

 

「…ここから逃げ出そうとしたら、生きたまま子宮を抉り出して、お前の目の前で食ってやる」

低い声で囁き、肖杰は足早に浴室を出て行った。幸いなことに剣は床に投げ捨てられたままだった。

「―――ぁ、……ッ!」

焼けつくような痛みが喉から引かず、声を出そうとしたが、掠れた空気が洩れるばかりだった。

(くそ…!)

薬で喉を腫らされたのだと理解し、助けを呼ぶことが叶わないことを悟る。

眩暈も止まらず、信は気持ち悪さのあまり吐き気が込み上げて来た。

しかし、ここでじっとしている訳にはいかない。急患の対応を終えて肖杰が戻ってくれば、その時こそ彼は自分を殺すに違いない。

「…!」

床に転がったままの剣を見つけ、信は身を捩った。鞘から剥き出しになった刀身で縄を切ろうと、背中で縛られた両手首を近づけ、縄を切ろうとする。

少しでも縄が緩まればあとは自力で解くことが出来る。

(痛ッ…)

腕を動かすと縄で縛られている手首の近くに鋭い痛みが走った。背後で腕を縛られていることもあり、上手く縄を切ることが出来ず、刃が違う部位を傷つけたのだ。

剣の切れ味の鋭さは持ち主である自分が一番よく知っている。さらに肖杰によって研がれた刃は持ち主にも牙を剥いた。

しかし、痛みによって意識に小石が投げつけられ、眩暈が少しだけ和らぐ。

腕にいくつもの傷を作りながら、どうにか縄を切り、信は両腕が自由になったことを実感した。

床に血溜まりが出来ていたが、気にしている時間はない。

早くここから逃げないと肖杰が戻って来てしまう。先ほどよりも和らいだとはいえ、未だ続く眩暈のせいで、まともに剣を振るう自信はなかった。

(ち、くしょ…)

ふらつきながら立ち上がると、和らいだはずの眩暈が再び大きくなる。思わず剣を手放してしまいそうになり、信は両足に力を込めた。気力だけで意識を繋ぎ止めているようなものだった。

浴室の床に葛籠が置いてあるのが見えた。

肖杰が往診に行く時に背負っていたもので、中に漆塗りの薬箱だったり、処置に必要な道具が入っていたはずだが、今は空っぽだった。

子供一人なら余裕で入れそうな大きなをしている。大人であっても、体を部品を切り刻んで詰め込めば余裕で入るだろう。

浴槽と同じように内側に赤い染みを見つけ、まさかと信は息を飲んだ。

(芙蓉閣へ往診に来る時も、この葛籠を背負ってたんなら…)

血の痕があることから、既に事切れた状態で葛籠に詰め込まれて、あるいは今の信のように薬で声を出せなくして、子供たちは人目につかないように運ばれたのかもしれない。

もしかしたら、おやつをもらいにこの屋敷にやって来て襲われたのかもしれないが、芙蓉閣で失踪した子供たちの目撃情報がなかったことは、この葛籠で運んだことが関係していそうだった。

(あの野郎ッ…!)

信の胸が殺意でいっぱいになる。薬を使われていなければ、すぐにでも彼のことを叩き斬っていただろう。

しかし、今は堪えて逃げねばならない。自分が殺されてしまえば、失踪した子供たちの死の真相は闇に葬られてしまうのだから。

眩暈が止まらず、吐き気が込み上げて来た。痛みで眩暈が和らいだことを思い出し、信は意を決したように大きく息を吸い込む。

 

(ぐうッ…!)

迷うことなく、彼女は自ら右の太腿を傷つけた。

激しい痛みに信は座り込んでしまいそうになったが、歯を強く食い縛って耐える。痛みに意識が向けられ、眩暈が大きく和らいだ。

(今は、ここから逃げねえと…)

この屋敷は人通りの多い城下町に位置している。屋敷さえ脱出できれば、肖杰もさすがに追っては来ないだろう。

壁に手をつきながら浴室の扉を開けようとした。しかし、肖杰が通った道をいけば、戻って来た彼と遭遇してしまうかもしれない。

(どうする…)

傷つけた右足の出血が止まらず、右足の感覚が少しずつ麻痺して来た。力が抜けてしまいそうになり、立っていることも困難になっていた。急がねばならない。

「…!」

目に付いた窓から部屋を出ることにした。屋敷の構造は分からないが、窓を通れば敷地内のどこかに出る。

この足では、侵入した時のように高い壁を登ることは出来ない。どこかで身を潜めておき、閂を外して正門か裏門を抜ける方法しかないと信は考えた。

しかし、窓を通るには窓枠を壊さねばならないし、血の痕を辿って肖杰がすぐに追いつくかもしれない。だが、今さら他の脱走手段を考える時間は残されていなかった。

「ッ…」

窓に嵌め込まれている枠を壊そうと、信は剣の柄を振り上げた。右足の出血のせいか、それとも嗅がされた薬の影響か、両手に上手く力が入らない。

「…!」

そのせいで剣の柄は呆気なく弾かれてしまい、それどころか剣を落としてしまう。その音は耳を塞ぎたくなるほど、浴室に大きく反響した。

(まずい…!)

物音を聞きつけて、急患を相手にしていた肖杰が戻って来るのではないかと振り返る。
そして、その嫌な予感は見事に命中してしまうのだった。

(くそっ…!戻って来やがった…!)

ばたばたと荒々しい足音が近づいて来るのが分かり、信は思わず後退った。

血相を変えた肖杰が扉を破る勢いで部屋に入って来る。怒りのあまり、左足の怪我など少しも気にしていないようだった。

拘束が解かれて立ち上がっている信を見て、肖杰の顔が再び憤怒に染まる。

「大人しくしていろと言っただろうッ!」

背後を気にせずに怒鳴りつけるということは、急患は適当にあしらったのだろうか。

信は反射的に床に落としたままの剣に手を伸ばすが、薬を嗅がされたのと怪我のせいで、身体が言うことを聞いてくれない。肖杰の手が信の頬を殴りつける方が早かった。

「ッ…!」

一切の加減をされず殴られた信は、腫れ上がった喉のせいで悲鳴を上げることも叶わない。浴槽にぶち当り、派手な音を立てて身体が崩れ落ちた。

右足の傷も肖杰に味方したのか、いよいよ立ち上がることも叶わない。目の前がぐらぐらと揺れる。

(さすがに、もう…これ以上は…)

信は何度目になるか分からない死を覚悟した。ここは戦場でもないというのに、敵将でもない男に殺されることになるとは予想もしていなかった。

自分が殺されれば、子供たちの死の真相が闇に葬られてしまう。自分は殺されても良いが、せめて、この男に罰を与えたかった。

尊い命を奪ったこの男に重い罰を与えねば、殺された子供たちも報われない。

「先ほど言ったように、生きたまま子宮を抉り出して、お前の目の前で食ってやる」

床に落ちていた信の剣を掴んだ肖杰が不敵な笑みを浮かべる。

「…!」

彼が剣を振り上げたのを見て、信は激痛に身構えるために、強く目を瞑った。

 

救出

「ぎゃあッ!」

激痛の代わりに肖杰の悲鳴が降って来た。いつまでも痛みがやって来ないことに、信は恐る恐る目を開く。

自分を殺そうとしていた肖杰がうつ伏せに倒れており、そして、見覚えのある紫紺の着物の男がこちらを見据えていた。

「信ッ!」

紫紺の着物の男が駆け寄って来る。それまで信は術を掛けられたかのように硬直していたが、聞き覚えのある声によって、その硬直が解けた。

右手に剣を持つ昌平君の姿がそこにあった。珍しく取り乱していたのか、汗を浮かべて髪が乱れている。

「…、……」

恋人の名前を呼ぼうとした信の口からは、掠れた音しか出ない。

唇は動かしているのだが、声を出せずにいる信に気付いたようで、昌平君はすぐに膝をついて彼女と目線を合わせた。

「無事…ではないな」

声を出せないでいるところや、殴られて腫れ上がった頬と切れた唇、血で真っ赤に染まっている右足と手首の傷を見て、昌平君が眉根を寄せる。

「遅れてすまなかった」

懐から手巾を取り出すと、昌平君は未だ出血が続いている右足をきつく縛った。

 

(なんで、ここに…?)

色々と聞きたいことはあったのだが、信の胸は安堵でいっぱいで、ただ昌平君を見つめることしか出来ない。

そうしているうちに騒がしい足音や気配が増えていき、信たちがいる浴室には黒騎兵たちが集まって来た。

昌平君の近衛兵でもある彼らがいるということは、まさか救援に駆けつけてくれたのだろうか。

「きさ、貴様らッ!」

背後から斬られた肖杰は死んでいなかった。
昌平君ほどの武力の持ち主ならば、いともたやすく絶命させることも出来たはずだが、わざと致命傷には至らないように加減したのだろう。

自分の屋敷に右丞相と彼の近衛兵が駆け込んで来た状況を、肖杰が理解出来ずにいるらしい。それはもちろん信も同じだった。

「こんなことをして、ただで済むと思っているのかっ!」

血走った眼で侵入者たちを睨み付ける。しかし、兵たちに囲まれると、さすがの彼も狼狽えていた。

「私は、多くの民たちの命を救った医者だぞッ!貴様ら如きが、この私を罰するつもりかッ!」

無様に怒鳴り散らす肖杰の姿に、信は憤りを通り越して哀れみを視線を向けた。

表面上は多くの民に慕われる医者でありながら、この男は狂っていた。しかし、今この場で彼が行っていた残虐非道な行いを知っているのは信だけだ。

「っ…、……」

すぐにでも昌平君に伝えたかったが、喉の腫れが引かなければ声を出すこともままならない。

必死に何かを訴えようとしている信に気付いた昌平君は静かに立ち上がり、ゆっくりと肖杰の方を振り返った。

「…豹司牙」

「はっ」

名前を呼ばれた豹司牙が前に出る。昌平君直属の近衛兵とはいえ、まさか黒騎兵団の団長である彼まで来ていたことに信は驚いた。

「私が今斬った男は何者・・だ?」

その声は、刃のように冷え切っていた。普段から聞き慣れているはずの声なのに、信は思わず恐ろしくて身震いしてしまう。

主の問いに、豹司牙は顔色一つ変えることなく、口を開く。

「…司令官様が斬ったのは、この咸陽を騒がせている罪人・・にございます。信将軍を殺そうとしたのも、ここにいる全員が証人になるかと」

傷だらけの信の姿と、血に染まっている浴室を見渡しながら豹司牙が答えた。納得したように昌平君が頷く。

 

「ならば、これで何ら問題ない行為・・・・・・・・だと証明できたな。捕らえろ」

昌平君が指示を出すと、兵たちがすぐに肖杰の身柄を取り押さえた。

致命傷には至らない傷とはいえ、背中に大きな傷がある肖杰が兵たちの手から逃れようと暴れる。

「放せえッ!私は、私は子孫を成さない限り、死ねないッ」

「連れて行け」

騒ぎ立てる肖杰が兵たちに連行されていくのを呆然と見つめ、信はようやく安堵の息を吐いた。

(たす、かった…)

駆けつけてくれた昌平君に礼を言おうとしたのだが、それまで張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れる。

ここに来てようやく意識を手放すことを許された信が床に崩れ落ちる寸前、昌平君の両腕がしっかりと彼女の身体を抱き止めた。

 

後編はこちら

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初恋の行方(蒙恬×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

誘い

帯を解き、襟合わせを開いて素肌を晒させても、信は抵抗しなかった。

顔を背けて目を閉じている。目を合わせないようにしているのを見て、蒙恬のことを受け入れるより、諦めたような態度だった。

「…信」

声を掛けると、信の瞼が鈍く動いた。

「俺、信の体で自慰をするつもりはないよ」

「…え?」

意味が理解出来ないと、信が目を開いてようやく蒙恬を見た。

「信のことを抱きたいってずっと思ってたけど、体だけ手に入れるなんてしない」

自分の体を組み敷いている蒙恬のそれ・・を見て、信が思わず吹き出した。

「カッコつけてんじゃねえよ。いくらなんでもそりゃあ無理だろ」

足の間で痛いくらいにそそり立っている男根を見れば、確かに説得力は皆無である。しかし、蒙恬は理性と気合いだけで情欲を押さえ込むことに決めた。

「ごめん、何とかするから…」

信の体から退くと、蒙恬は寝台の傍に用意されていた水甕に手を伸ばす。

頭から水でも被ればきっと何とかなると思ったのだが、信が制止するようにその手を掴んだ。

「信?」

起き上がった信が蒙恬の体に凭れ掛かる。

「ッ…!」

寝台の上で身を寄せながら、彼女は着物の上から蒙恬の勃起を手で愛撫し始めた。

まさか信の方からがこんなことをするとは思わなかったので、蒙恬は驚いて目を見開く。

「ちょ、っと、信ッ…!?」

咄嗟に彼女の手首を掴んで制止を求める蒙恬だったが、勃起し切って敏感になっている男根には、着物越しであっても、彼女の柔らかくて温かい手の平の感触が堪らなかった。

(まずい…)

これ以上刺激されれば、気合いや理性だけで情欲を抑制するのが困難になってしまう。

彼の胸に顔を埋めていた信は、反応を確かめるように上目遣いで見つめて来た。

「ッ…!!」

初めて会った時と変わらない冴え冴えとした瞳と目が合い、蒙恬の中で何かが弾けた音がする。

気づけば蒙恬は彼女の体を寝台の上に押し倒し、先ほどと同じ体勢に持ち込んでいていた。

まさか信の方から誘うような真似をするなんて、蒙恬は信じられなかったのだが、完全に燃え盛った情欲はもう消えそうになかった。

今思えば、信の煽りとも言える行動は、躊躇っている蒙恬の背中を押すためだったのかもしれない。

押し付けるように唇を合わせる。柔らかい感触を味わいながら、舌を差し込んだ。

「ふ、ぅう、…ん…」

舌を絡ませている間に聞こえる小さな呻き声に、耳まで甘く痺れてしまう。

情事の最中の飾りではない甘い口づけに、陶然と酔いしれる。

「ん…」

既に乱れていた着物を脱がせ、いよいよ蒙恬は彼女の白い肌に唇を寄せた。

幾度も戦場を駆け抜けて来た証である傷があちこちに刻まれていたが、少しも醜いとは思わなかった。

「っ、ふ、ぁ…」

首筋から鎖骨にかけて舌を這わせると、くすぐったそうに信が肩を竦ませる。

初めて会った時に触らせてもらった胸は、あの時よりは大きく膨らんでいたが、同じように柔らかいままだった。

「ん…」

谷間に唇を落としながら、両手で胸を愛撫する。心地いい質量と柔らかさを手の平いっぱいに感じて、蒙恬はそれだけで息を荒くしていた。

指をきゅっと食い込ませると、程良い弾力が跳ね返って来る。

飢えた獣が目の前に現れた餌に食いつくようだと、もう一人の自分が鼻で笑う。余裕のない男だと思われているだろうか。

しかし、ここまで膨れ上がった情欲は、今さら自分の意志一つで止められそうになかった。

「ぁ…蒙恬…」

信の両腕が蒙恬の頭をそっと抱き込む。甘い肌の匂いにくらりと眩暈がした。

言葉には出さないけれど、自分を受け入れてくれるのだと思い、蒙恬は歓喜に胸を弾けさせた。

素肌に溶け込んでしまいそうな桃色の芽を指でくすぐると、信が切なげに眉根を寄せる。

「ん、ぁっ…」

反対の胸の芽に舌を伸ばすと、唾液でぬめった感触が染みたのか、信の唇から声が洩れる。

決して嫌悪の色はなく、むしろ心地良さそうにしているのを見ると、もっと声を上げさせたくなる。

「ッ、ふ、うぅ…ん…」

上下の唇で強く吸い付くと、切ない吐息が零れた。

ずっと恋い焦がれて止まなかった女性が自分の下で喘いでいる。今まで見たことのない表情を見せてくれる。

たったそれだけで蒙恬の情欲はこれ以上ないほど膨れ上がった。

戦の度に増えていく傷痕は胸や腹にも刻まれている。しかし、どれも醜いとは思わない。彼女が死地を生き抜いた証だからだ。

傷痕に沿って脇腹に唇を落とすと、信が小さく身を捩った。

「くすぐったい、だろ…」

大将軍として戦に出る彼女に弱点などないと思っていた。しかし、こういうところが意外と弱いのだと知り得た蒙恬は得意気になって、敏感な脇腹に吸い付く。

白い肌に赤い痕をつけると、ようやくこの体を自分のものに出来たような気がした。

 

独占欲

はあはあと息を切らしながら、信が膝を擦り合わせている。蒙恬は彼女の臍の下に手を押し当てた。

こんな薄い腹に子を宿せるのかと思うと、とても不思議な気持ちになる。

「ッ、ぅ、…ん…」

敷布を握りながら、信が何かを堪えるような声を上げた。

「信…触っていい?」

あえて場所は口に出さなかったが、確かめるように問い掛けると、信は強く目を閉じたまま頷いた。

彼女の膝を立て、中に腰を割り挿れる。足の間に手を伸ばすと、淫華から熱気と湿り気を感じた。

信の体が女として自分を求めてくれているのだと思うと、それだけで興奮が止まらなくなる。

彼女は自分のことを、色んな男の使い古しだと卑下していたが、蒙恬にとってそんなのは些細なことだった。

足の間にある淫華は羞恥のせいか、僅かに震えているように見える。

使い古しだなんて思えないほど艶があって血色が良く、しかし、淫靡さは増して見えた。

閉じている花襞の割れ目をなぞるように指を上下に擦りつけると、信の腰がぴくりと跳ねる。

色話を聞かない信も、人目のつかない場所では自分で弄ることはあるのだろうか。そんな妄想をするだけで、蒙恬は後ろめたさを覚えてしまう。

自分が名前も顔も覚えていない女を抱きながら、信のことを想い続けていたように、信も誰かのことを想って自慰に浸っていたのだろうか。

彼女が自分じゃない男のことを想いながら、自分を慰めていたのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。

「ッ!蒙恬…ッ?」

膝を抱えて、身を屈めた蒙恬に信が驚いて声を掛ける。自分の足の間に顔を埋めている彼にぎょっとした表情を浮かべていた。

「ひゃッ…」

未だ閉じている花襞を抉じ開けるように、今度は舌を押し付けた。

「いや、やめっ…」

まさかそんなところを舐められるとは思わなかったらしく、信が首を振って嫌がる。蒙恬の茶髪を掴んで引き離そうとするが、力が上手く入らないらしい。

「あぅうッ」

唾液で滑った舌が花襞を掻き分けて、中に入り込むと、信が白い喉を突き出した。

中で舌を動かす度に、もっとして欲しいと言わんばかりに蜜が溢れて来る。

じゅる、とわざと音を立てて蜜に吸い付くと、信がいよいよ涙目になっていた。

「やあっ、蒙恬ッ…それ、嫌だぁっ…」

過去に信の体を使った男たちには、こんな仕打ちをされたことはないのだろう。むしろそのことに蒙恬は心地良さを覚えながら、逃げようとする信の細腰を捕まえて舌を動かし続けた。

「ひぃッ」

充血して美味そうにぷっくりと膨らんだ花芯に、尖らせた舌先を伸ばせば、信の体が大きく跳ねた。

官能を司る女の急所だ。ここを責められて泣かない女はいない。信でさえこの様子なのだから、それは女の共通点だと確信出来た。

「やめっ、ろぉ…挿れんなら、さっさと、しろってばぁ…!」

「やだ」

急かすようにそう言われて、蒙恬はあっさりと首を横に振った。

この体を過去に好き勝手した男たちと自分は違うのだと、自分という存在を彼女の体に刻み込みたかった。

先ほど伝えたように、信の体を使って自慰をする訳じゃない。信にも同じだけ気持ち良くなってもらいたい。

「ふう、ぅん、くっ…」

刺激に耐えようと、信が敷布に身体を押し付けている。

信の素肌がしっとりと汗ばんで来ているのが分かった。懸命に声を堪えようとする姿がまた男を煽っている。

「あっ、だめ、だ…!」

敏感になっている花芯を指の腹で押し潰すようにして、淫華の入口を舌で解していると、信の筋肉で引き締まった内腿が不自然なほど痙攣を始めた。

見上げると、余裕のない表情で信が首を横に振っている。

「やああッ」

それまで指で弄っていた花芯を今度は唇で強く吸い付いた。舌で解していた入り口に二本の指を押し進めると、信が悲鳴に近い声を上げる。

蜜でぬるつく中はとても温かくて、柔らかい肉壁が指の侵入を喜んでいるかのように打ち震えていた。

 

独占欲 その二

柔らかい肉壁の感触を味わうように、中に入れた二本の指を動かすと、信がひっきりなしに声を上げていた。

最後に彼女が男に身体を差し出したのは一体いつなのだろう。

色話も聞かないし、いつだって鍛錬に打ち込んでいたり、仲間たちと賑やかに過ごしている話を聞く限りは大分昔のことなのではないかと思った。

ひっきりなしに訪れる縁談を断っているのだから、こういうことは久しいのではないだろうか。

肩で息をしている信を見て、そろそろ限界が近いのだと察する。

「信っ…」

「んッ、んぅ」

中に指を入れ込んだまま、体を起こして、蒙恬は彼女に口づけた。

限界が迫って来ているからだろう、口づけの合間に苦しげな声が洩れる。鼻にかかる吐息もまた愛おしく感じて、蒙恬は堪らず舌を絡ませていた。

中で肉壁を擦り上げるように、指を鉤状に折り曲げると、信がくぐもった声を上げる。

蒙恬の体を押し退けようと、彼女の二本の手が肩を掴むが、蒙恬は構わずに指を動かし続けた。

「ひッ…んッ、んんーッ!」

最奥にある行き止まりを突くと、信の体が大きく跳ねた。

内腿の痙攣がより激しくなり、指を咥えている中がびくびくと震えている。達したのだと分かると、蒙恬は名残惜しいが口づけを終えた。

「はあ、はあッ…」

激しく胸を上下させながら息を整えている信は、顔を真っ赤にして、涙を流していた。

目尻を伝う涙に唇を落として、蒙恬は指を引き抜いた。

粘り気のある蜜に塗れた自分の指を見せつけるように舐めると、信が顔を真っ赤にしたまま、悔しそうに奥歯を噛み締めている。

「どう?俺、大人になったでしょ?」

彼女の中で蒙恬という存在は、いつまでも小さい子供のままだったのかもしれない。
しかし、他でもない自分が彼女を絶頂に導いたことは、信も受け入れざるを得ない事実だ。

「蒙恬っ…」

悔しそうな表情のまま、信が蒙恬を睨んでいた。まだ彼女の体は絶頂の余韻に体が浸っていて、上手く力が入らないでいるらしい。

しかし、ゆっくりと身体を起こした信が前屈みになって、蒙恬の足の間に身体を割り入れて来たので、蒙恬は目を丸めた。

「えっ、信?なにして…」

質問には答えず、根元に指を添えながら、信が上向いたままの男根を口に含んだ。

「ちょッ…信…!?」

先ほどはあんな余裕の笑みを彼女に見せつけておいて、蒙恬の男根はずっと勃起していた。

ずっと恋い焦がれていた女と肌を重ね合うことに、余裕でいられるはずがない。
余裕の笑みを繕っているのは表面上だけで、本当は微塵も余裕がないことを、信は見抜いていたのかもしれない。

まさか彼女が自ら男根を咥えてくれるとは思わなかったが、仕返しのつもりなのだろうか。

「ん、む…」

ぎこちない動きではあったが、敏感な鈴口を掃くように、熱い舌先が動いていく。上顎のざらついた感覚もたまらない。
口腔に溜まった唾液と合わさって、信の口の中で卑猥な水音が響いた。

(まずい…)

あまりの気持ち良さに、腰が引けそうだった。

口を使っているため鼻息を立てながら、信が男根に強く吸い付いて来た。口の中に溜まっている唾液のせいで、卑猥な水音が立ち、二人の鼓膜を震わせる。

「し、信っ…」

敏感な先端を唇と舌で愛撫され、根元は指で扱かれる。反対の手で陰嚢も優しく揉みしだかれると、頭に花が咲きそうなほどの快楽に襲われた。

このまま続けられては、呆気なく果ててしまいそうだ。

「待って、信、ほんと、降参…」

情けないほど声を震わせて白旗を上げると、信が満足そうな顔をして男根を解放してくれた。

素直に離してくれたことに安堵しながら、蒙恬は再び信と唇を重ねる。信も嫌がることなく、口づけを受け入れてくれた。

せっかく彼女に受け入れてもらえたのだから、果てるのならば彼女の中が良い。早く一つになりたかった。

「…挿れていい?」

上目遣いで尋ねると、信は躊躇うように視線を左右に泳がせた後、小さく頷いた。

 

本音

信の体を寝台の上に横たえて、蒙恬は膝裏を持ち上げた。

大きく足を開かせると、先ほどまで愛撫していた淫華が剥き出しになる。

いよいよ信と身を繋げるのだと思うと、蒙恬の心臓は、はち切れてしまいそうなほど、激しく脈打っていた。

信も羞恥で顔を真っ赤にしており、見られるのが恥ずかしいのか、両腕を交差させて顔を隠していた。

淫華の中心に男根の先端を押し付ける。

「んっ…」

入り口を覆っている花襞を男根で押し開くと、信の体がぴくりと跳ねた。

「挿れるよ」

小声で囁くと、顔を隠したままではあるが、信が小さく頷く。蒙恬は躊躇うことなく、腰を前に押し出した。

蜜で濡れそぼった淫華に男根の先端を潜り込ませると、押し返されてしまいそうな弾力があった。

負けじと腰を前に進め、男根を淫華の中に進めていく。

「っぅうう…!」

苦しそうな声がして、蒙恬は反射的に腰を止めた。まだ半分までしか挿れていないのだが、苦痛に顔を歪めている。

信が男と体を重ねるのは、随分と久しいのだと察していたのだが、無理をさせてしまっただろうか。

「え…?」

視線を下ろすと、信の淫華に突き刺さっている男根に赤い筋が伝っているのが見えた。

それが血であることと、自分の男根が淫華を串刺しにして傷をつけたのだと分かり、蒙恬は驚愕する。

両腕で顔を隠している信と、繋がっている部分を交互に見て、蒙恬は思わず瞬きを繰り返した。

「え…えっ…!?信…?」

「…う、ぅぐ…」

驚きのあまり、ろくな言葉を掛けることが出来ずにいると、腕で顔を隠しながら、信が苦しそうに呻いているのが分かった。隠している顔は耳まで真っ赤になっている。

信が処女だった・・・・・のだと頭が理解するまでに、やや時間が掛かった。

思わず蒙恬は彼女に問い掛けていた。

「な、なんで嘘吐いたんだよ…?初めてなら、もっと時間を掛けて…」

体を重ねる前にも、露台でも、信は自分の過去について話していた。下僕時代に男たちに手酷い扱いを受けたことを比喩するのに、自らを男たちの使い古し・・・・・・・・だと卑下していた。

てっきり男を受け入れた経験があるのだとばかり思っていた蒙恬は、早く彼女と一つになりたいあまり、前戯に時間を掛けなかったことを激しく後悔する。

男根を深く咥え込みながら、信はぐすぐすと鼻を啜っていた。両腕で顔を隠したまま、彼女が嘘を吐いた理由を白状する。

「…ああ言えば、俺のこと軽蔑して、とっとと諦めるだろうって、思ってたのに…ああ、くそっ…なんで、お前は…」

独り言のような言葉を聞きながら、この体を始めて拓いたのは他の誰でもない自分なのだと分かり、蒙恬は胸が喜びに満ちていくのを感じていた。

口淫もどこかぎこちなく行っていたのは、緊張のせいではなく、経験がなかったからだったのだ。

破瓜の痛みに打ち震えている信に申し訳ないと思いながらも、歓喜のあまり、口元がだらしなく緩んでしまう。

諦めさせるどころか、自分のことを煽った信の行動の矛盾に、本当は信も自分と同じ気持ちでいたのだと理解する。

「…何度も言ってるでしょ。信が下僕出身なんて、俺にはどうでも良いことなんだよ」

男根が馴染むまで腰を動かさずにいることを決め、蒙恬は顔を隠す信の両手掴んで、敷布の上に横たえた。指と指を絡ませながら、彼女の額に唇を落とす。

ぐすっと大きく鼻を啜ってから、信は泣き笑いのような表情を浮かべていた。

「…俺みたいな女を、嫁になんて…蒙武将軍が許さねえだろ」

うっすらと涙を浮かべながら、信がそう言ったので、蒙恬は満面の笑みを浮かべる。

「それは大丈夫。父上とも、信と同じ約束してたから」

「…は?」

言葉の意味を理解出来なかったのか、信がつぶらな瞳をさらに目を丸める。破瓜の痛みを一瞬忘れてしまうほど、驚いているようだった。

「軍師学校を首席で卒業して、将軍になったら信と結婚する。信と同じ約束を、父上ともしてたんだよ」

「な、なんだと…!?」

真っ赤になっていた顔が、今度はみるみるうちに青ざめていく。追い打ちを掛けるように蒙恬は言葉を続けた。

「きっと信はさあ、出来ないと思って俺にそんな条件を言い渡したと思うけど、残念だったね?俺、優秀だから」

「~~~ッ…」

狼狽えて言葉を出せずにいる信に、蒙恬は再び唇を重ねた。

「ん、ぅ」

遠慮なく舌を絡ませ、深い口づけを交わしてから、蒙恬は顔を離す。互いの唇を繋ぐ唾液の糸をぺろりと舌で舐め取った。

「これでもう不安材料は消えた?俺のお嫁さんになってくれるでしょ?」

尋ねておきながら、答えは一つしか聞き入れる気はなかった。

 

本音 その二

「…もっと奥、挿れていい?」

確認するように信の耳元で囁くと、彼女は蒙恬から目を背けながら、小さく頷いた。

今の会話で少しは体の力が抜けたのか、彼女の強張っていた表情が先ほどより和らいでいる。

敷布の上で指を絡ませたまま、蒙恬はゆっくりと腰を前に押し出した。

「んッ、ん、く…」

切なげに寄せられた眉根に唇を落とす。彼女の反応を確かめながら少しずつ腰を進めていき、蒙恬は男根が全て信の中に飲み込まれたことを実感した。

「信…」

隙間なく密着している結合部を見下ろし、やっと一つになれたのだと、蒙恬は長い息を吐いた。

熱くて蜜に塗れたそこに包まれているだけで、脳天にまで快楽が走り抜ける。すぐにでも腰を動かしたい欲望を必死に押さえつけて、蒙恬は再びお互いの性器が馴染むまで待っていた。

「信、辛くない?」

生娘を相手にしたことがあるのは初めてではない。破瓜の痛みは男の想像には及ばないほどのものだというが、過去に相手をした女性や、今の信を見れば確かにその通りなのだろう。

切なげに眉根を寄せているが、先ほどよりは顔に余裕がある。

「う、…ぅんん」

唇を重ねながら、蒙恬がゆっくりと腰を引いた。

「んんぅッ」

一度引いた腰を前に押し出すと、信の眉間に刻まれている皺が深くなる。挿れた時ほどではないが、まだ奥は辛いようだ。

「ふ、あぁ…」

もう一度腰を引くと、わざと浅瀬を穿った。

亀頭と陰茎の間にあるくびれを使って、花襞を捲り上げるように擦り付ける。浅瀬の刺激を続けていると、信の声色に次第に変化が訪れて来た。

「あ、ん…ぁあ…」

苦痛に塗れた声ではない。微かに快楽も混じっている吐息のような、甘い声だった。

「ひゃッ…!」

男根を咥えている少し上にある花芯に触れると、信の体がびくりと跳ねた。先ほど唇と舌で弄った時も特に善がっていた場所である。女の急所なのだから、感じないはずがない。

中を浅く穿ちながら、花芯を指で擦ると、信は顔をくしゃくしゃに歪めた。

「蒙恬ッ…」

涙で濡れた瞳が蒙恬を見つめている。
その瞳に射抜かれて、蒙恬は心からこの女を愛していると感じた。

「信ッ…好き、好きだよ、大好き」

子どものような口調だったが、勝手に口から愛の言葉が溢れて止まない。

大人になったのだから、もっと格好つけて彼女に愛の言葉を囁きながら、導いてあげたかった。

「信…!」

名前を呼ぶと、信が微笑むように目を細めた。堰を切ったかのように溢れ出た想いはもう抑え切れそうになかった。

喜悦に染まった声が聞きたくて、再び男根を奥へと潜らせる。

「ぁああっ」

先ほどまで浅瀬での刺激を続けていたからか、彼女の声に苦痛の色はもうなかった。

「くッ…!」

柔らかい肉壁に包まれている男根から目も眩むような快楽が押し寄せてきて、蒙恬は思わず食い縛った歯の隙間から息を吐く。

このまま快楽に身を委ねれば、きっと信を抱き殺してしまうだろう。

理性を繋ぎ止めながら、蒙恬はゆっくりと腰を動かし続けた。自分を生殺しにしている自覚はあったが、信の方が大事だ。

「っあ、んッ、ぅあ」

少しずつ男根の存在に慣れて来たのだろう。初めて男を受け入れた其処は未だきつく締め上げて来るものの、一度貫通したお陰で道が拓いていた。

「ひぐっ」

女にしかない尊い臓器を突き上げると、信がくぐもった声を上げる。交錯させた彼女の指に力が入ったのが分かった。

まるでもっとして欲しいと男根に吸い付いて来る肉壁の生々しい感覚が堪らなくて、蒙恬は息を荒げながら夢中で腰を動かしていた。

寝台が激しく軋む音と、肉の打擲音に合わさって信の喘ぎ声が重なる。鼓膜まで至福な音に揺らされて、眩暈がしそうだった。

最奥にある子宮を突き上げる度、体の芯まで揺さぶられるように、信の声が一際大きくなった。

「信っ、好き、ずっと好きだよ」

「う、ぅんッ…!」

ぼろぼろと涙を流しながら、信が頷いたのを見て、蒙恬の胸を大きな喜悦が貫いた。

言葉にはされなかったものの、やはり彼女も自分と同じ想いだったのだ。

「んんッ」

唇を重ね、舌を絡め合いながら、蒙恬は信の体を強く抱き締めた。彼女の細身が寝台から浮き上がるほど、激しい腰使いで最奥を突く。

口づけの合間に上手く呼吸が出来ず、信が目を白黒させている。しかし、蒙恬はやめようとしなかった。もう今さらやめられるはずがなかった。

目も眩むような快楽が全身を貫いた途端、蒙恬は彼女の蜜華から男根を引き抜いた。

「はあッ…あッ…」

自分の手で男根の根元を扱きながら、彼女の臍の辺りに熱い白濁を降り注ぐ。

下腹部の痙攣が落ち着いた頃に、長い射精が終わり、二人は静かに息を整えていた。

 

初夜

ようやく息が整った頃、蒙恬は信の隣に倒れ込んだ。

「…ねえ、夢じゃないよね?」

天井を見上げながら問い掛けると、隣から信が手を伸ばして来て、蒙恬の頬を思い切り抓った。

「痛いっ」

容赦なく頬を抓られて、蒙恬は悲鳴に近い声を上げる。信の手首を掴んで頬から引き剥がすと、小さな笑い声が聞こえた。

顔だけ動かして信の方を見ると、彼女の頬には涙の痕がいくつも残っていた。目も真っ赤に充血している。

破瓜の痛みを耐えてまで、自分を受け入れてくれたのだと思うと、蒙恬の胸に愛おしさが込み上げた。

「信…」

寝台に横たわったまま彼女を抱き寄せると、信が腕の中で力なく暴れる。

「おい、もうしねえよッ?」

「うん、しない」

柔らかい彼女の体を抱き締める。素肌の温もりを感じながら、蒙恬はうっとりと目を閉じた。

「…嫡男のくせに、いつまでも甘えただな」

信の指が蒙恬の髪を梳く。こんな風に頭を撫でてくれたのは、幼い頃以来だった。

こんなにも大人になったはずなのに、彼女の瞳には、蒙恬という存在は未だ背伸びした子どもに見えているのかもしれない。

「信は、その甘えたな嫡男に愛されてるんだよ」

皮肉っぽく言い返すと、信は諦めたようにわざとらしく溜息を吐き、それから頬を緩ませた。

「…まだ信から聞いてないんだけど」

「え?」

上目遣いで、蒙恬が信を見据えた。

何をとは言わなかったが、どうやら信も自覚があるらしく、目を泳がせている。

「そ、そういうのは…その、安易に口に出すもんじゃねえだろ」

意外な言葉が返って来た。

「え?将軍昇格のお祝いの言葉はくれたのに?」

「それとこれとは話が違う」

どうあっても、自分の口から愛の言葉を囁く気はないらしい。そうだとしても、一言も聞かせてくれないのはずるいと蒙恬が頬を膨らませる。

「あーあ…俺、せっかく将軍昇格したのに、このままじゃ飛信軍に殺されるかも…いや、大王様から処刑を言い渡されるかもしれない」

「は?なんでだよ」

訳が分からないと信が眉根を寄せる。涙を拭う演技をしながら、蒙恬は言葉を続けた。

「だって、誤解されたら、言い逃れ出来ないし…」

信の意志がそこにないのに、無理やり蒙恬が事に及んだのだと思われれば、きっと信の周りの者たちは黙っていないだろう。

嬴政は二人でよく話し合えと場を設けてくれたが、親友である信が無理やり犯されたとなれば伍長に戻すどころの処罰など生温いと思うはずだ。

「はあ…せっかくここまで頑張って来たのに、短い命だったなあ…」

泣く演技を続けていると、信が大きく溜息を吐いた。二人の間に束の間の沈黙が横たわる。

「…好きだ」

信の唇から零れた言葉を、蒙恬は聞き逃さなかった。勢いよく体を起こし、横たわっている彼女の体に再び跨る。

「俺も、大好き」

唇を重ねると、信の方から口を開けてくれた。

どちらともなく舌を絡ませているうちに、再び下半身が重くなっていく。

信の体を抱き締めながら、彼女の体にそそり立って来た男根を擦り付けると、信の顔がみるみるうちに真っ赤になっていくのが分かった。

「もうしねえよッ!」

蒙恬の体を両腕で押し退けながら、信が怒鳴った。

「うん、今夜我慢する。時間はたっぷりあるからね」

「ほんと、お前ってやつは…」

男根は苦しそうなほど勃起してしまったが、焦ることはないと蒙恬は自分に言い聞かせた。
これから彼女と一緒に過ごす時間は、たくさんあるのだから。

 

…初恋は実らないという迷信は確かに存在したのかもしれない。

しかし、今もなお燃え続けているこの愛情が本物の恋ならば、初恋が実らなかったからこそ、出会えた運命だったのだろう。

 

後日編はこちら

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バーサーク(輪虎×信・蒙恬×信)番外編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 輪虎×信/蒙恬×信/嫉妬/無理やり/ヤンデレ/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

本編はこちら

 

見舞い(輪虎×信)

このお話はバーサーク(蒙恬×信)の過去編です。

 

天下の大将軍と称えられていた王騎が討たれたという報せは、瞬く間に中華全土に轟いた。

もちろん輪虎が仕えている廉頗の耳にもその報せは届き、彼は三日三晩、酒に浸ることとなる。

ほどほどにするようにいつも声を掛けるのだが、泣き上戸である廉頗が酒を飲むと家臣も誰もが手をつけられなくなってしまう。

廉頗と王騎は互いを戦友と認め、共に酒を飲み交わす仲でもあった。敵将であっても、王騎と同じく秦の六大将軍の一人である摎が討たれた時も、情に厚い廉頗は涙を流していた。

王騎の弔いの儀を終えてから、数か月が経っていた。

空になった大量の酒瓶を抱えて出ていく従者と、新しい酒瓶を運ぶ従者たちが慌ただしく屋敷の廊下を走り回っている。

客人もいないのに、これだけの量を一人で飲む廉頗を見るのは随分と久しぶりだった。
王騎の訃報を聞き、未だ心を痛めているのだろうと輪虎は考えた。

そのうち酔い潰れて眠ってくれるのならば良いのだが、廉頗の酒の強さは家臣たちもよく分かっている。恐らく今日も朝まで飲み続けるつもりだろう。

昼間から飲み始めて、もうとっくに日が沈んでいる。従者たちが慌てて酒を運んでいる姿を見る限り、酒を飲む速度は飲み始めた頃と少しも変わっていないらしい。

(そろそろやめさせないと…)

輪虎が廉頗のいる間へと向かうと、彼は酒を杯に注ぐこともせず、酒瓶に直接口をつけていた。

「廉頗様、その辺にしておいてください」

主である廉頗に意見できるのは随分と限られているが、輪虎はその一握りの従者だった。

戦で親を失い、廉頗の下で育てられた輪虎は将としての才能を開花させ、今や廉頗四天王にまで上り詰めた。

涙で目を真っ赤に腫らした廉頗は輪虎の姿を一目したが、構わずに酒を飲んだ。味わっているのではなく、喉に流し込んでいるようにしか見えなかった。

廉頗が王騎を討たれた悲しみに浸っているのは分かっていたが、このままでは体に障る。いかに強靭な肉体を持っているとしても、酒の飲み過ぎは体を内側から壊してしまうだろう。

戦友であった王騎の死を悼んでいるのは分かっていたが、自分を拾ってくれた命の恩人であり、親代わりである廉頗には体に気遣って欲しかった。

廉頗はこれまでも多くの将たちの死をその目で見て来た。それが味方であれ敵であれ、戦友である彼らのために涙を流して別れを惜しむ。そんな廉頗の心優しいところが輪虎は誇らしくあったし、とても好きだった。

口付けていた酒瓶が空になると、廉頗は涙を拭いながら、ようやく輪虎の方を向いた。

「…輪虎、王騎の屋敷に行け」

「え?弔いの儀はもう終わったはずですが…」

廉頗は力なく首を横に振る。

「儂より腑抜けている娘がおるじゃろう」

「…信ですか」

娘と言われ、輪虎はすぐに信の名前を出した。王騎は摎の間に子は成さなかったが、養子がいた。名を信という。

彼女も輪虎と同じように戦で親を亡くした孤児で、将の才能を見出されて王騎と摎に拾われたのである。

王騎がこの屋敷に時々、信を連れて来ることがあり、輪虎もそこで彼女と初めて出会った。

互いの境遇が酷似していたせいか、信はすぐに輪虎に懐き、輪虎も信を妹のように可愛がっていた。母である摎に倣って剣を振るうようになった彼女と幾度も手合わせをしたことだってある。

手を抜くといつも叱られてしまうので、(怪我をさせない程度に)輪虎は相手をしてやっていた。それでも彼女が輪虎に勝ったのは片手で数えられるくらいである。

王騎と廉頗が酒を飲み交わしながら、自分たちの手合せを見守ってくれていた時のことを想い出し、輪虎は胸が切なく締め付けられた。

(信か…)

あれから何年も経ち、輪虎も信も将軍の座に就いていた。

手合せで輪虎に勝った時、信は大喜びして養父である王騎に報告していた。しかし、輪虎が両手剣の使い手であることと、手合せで全ての力を出し切っていないことを王騎は見抜いていた。

王騎がそれを信に告げると、隣で廉頗は大笑いしていたし、信は顔を真っ赤にして輪虎を怒鳴りつけた。あの頃はまだ二人とも将軍の座には就いておらず、平和だった。

戦乱の世でありながら、確かにあの時の時間は輪虎の中で幸福の記憶として刻まれていたのだ。

自分が廉頗の将であり、信が秦将ならば、いずれは本気で殺し合わなくてはならない。そんな当たり前のことを、子どもの輪虎でも分かっていたが、信はあまり考えていないようだった。

ただ、がむしゃらに強さを求めて、自分に勝つことで頭がいっぱいだったのかもしれない。

初陣を済ませてから、何度か信に会ったが、子どもの頃のお転婆な性格は少しだけ落ち着いたように見えた。だが、実力差は少しも埋まっていない。

もしも戦で相見えることがあったのなら、確実に信は自分に殺されるだろうと輪虎は思っていた。

最愛の父を失って腑抜けている今の彼女を殺すことなど、赤子の手を捻るよりも容易いことだ。

もしかしたら廉頗もそれを分かっていて声を掛けたのだろうか。

彼女が王騎の死から立ち直れず、戦で再会するようなことになれば、信は自ら輪虎に首を差し出すかもしれない。

そんなことは王騎も望まないだろう。もちろん廉頗も、輪虎だってそんなことはしたくなかった。

「…では、数日の間、休暇を頂きます」

廉頗が頷いたのを見て、輪虎はすぐに出立の準備を始めた。目的地は王騎の屋敷だ。

 

見舞い その二

王騎の屋敷に到着すると、家臣たちがすぐに輪虎を出迎える。

生前から王騎が廉頗と付き合いがあり、互いの屋敷を出入りしていたことは何度もあったので、輪虎も客人としてもてなされていた。

守るべき国が違えども、王騎の家臣たちは輪虎を追い返すような真似はせず、むしろ喜んで招き入れてくてた。

信の見舞いに来たことを告げると、従者たちは困ったように目を見合わせる。

「…そんなにまずいのかい?」

問い掛けると、従者たちは暗い表情で視線を落とした。

王騎の弔いの儀を終えてから数か月は経った。信のことだから、怪我や疲労など構わずに鍛錬に打ち込んでいるのではないかとも思っていたのだが、廉頗の見立て通りに腑抜けてしまったらしい。

信がいる部屋に案内され、従者が扉越しに声を掛けたが、信から返事はなかった。

困ったように従者が視線を送って来たので、輪虎は頷いた。ここまで休むことなく馬を走らせて来たのだから、会わないで帰る訳にいかなかった。

「信?」

部屋に入ると、信が寝台の上に横たわっているのが見えた。

目を開けているのだが、虚ろな瞳で光がない。胸を上下させて呼吸するだけで、魂の入っていない抜け殻のように見えた。

「…信」

もう一度名前を呼んで、寝台に横たわる彼女の前に立つが、信は反応を見せなかった。

目は合っているはずなのに、虚ろな瞳に輪虎の姿が映っているだけだった。何も見えていないし、何も聞こえていないのかもしれない。

最後に会った時よりも随分と痩せており、顔色が悪かった。今は涙が流れていなかったが、瞼が腫れている。

ずっと泣いていたのだろう。泣き疲れて眠ってくれていたのならと思うが、それも出来ぬほど信の悲しみは深いものだと分かる。

王騎が討たれたという知らせを聞いた時、輪虎はまさかと思った。廉頗もすぐには信じられず、一体何があったのだと瞠目していたことを覚えている。

「………」

手を伸ばして、輪虎は信の頬に触れた。眼球を動かすこともせず、信は輪虎がいることに気づかない。

どうしたものかと輪虎は思考を巡らせた。

きっと家臣たちも信のためにあれこれ手を尽くしたに違いないが、このまま食べも眠りもせずにいれば、衰弱し続け、死んでしまうだろう。

王騎を追い掛けて自害をしなかっただけ褒めてやるべきかもしれないが、こんな死に方をして王騎が喜ぶはずがない。

輪虎は何度か名前を呼び続けたが、やはり反応は同じだった。

最愛の父を失った今、彼女は全てを拒絶しているのだろう。悲しみに心が捕らえられてしまったのだ。

「信…」

呼び掛けても、触れても反応がない。一体どうしたら彼女の意識を戻すことが出来るのだろう。

輪虎は信が横たわる寝台の端に腰を下ろし、彼女を目覚めさせる方法を模索した。

「…ん?」

寝台のすぐ近くに置かれている机に、水差しと花瓶が置かれている。しばらく花を飾っていないのだろう、花瓶には何も入っていない。

王騎は男にしては珍しく花を愛でる男だった。屋敷の至るところに花が飾られており、浴槽にも花を浮かべるのだと信から聞いたことがあった。王騎から花の香りがするのはそのせいだったらしい。

どうやら信は花を愛でる趣味は受け継がなかったようだが、もしかしたら彼女の意識を呼び戻すことが出来るかもしれないと輪虎は立ち上がった。

 

花と目覚め

屋敷の中にある庭には、色とりどりの花が植えられていた。

家臣に声をかけ、咲いている花を摘ませてもらった輪虎はすぐに信の部屋に戻る。

話を聞くと、屋敷に飾っている花は、街で買うこともあれば、この庭の花を使うことがあるのだそうだ。

「信…」

机に置かれている花瓶に摘んで来た白い花を飾る。部屋に花が飾るだけで、それまで暗い雰囲気だった部屋が、急に色を取り戻したかのように見えた。

摘んで来たばかりの瑞々しい白い花のおかげで、生命力が漲って来たような、そんな印象があった。

王騎が生きていた頃は、彼女の部屋にもこうして花が飾られていたのだろうか。

「……、……」

それまでずっと虚ろな瞳を浮かべていた信の瞳が鈍く動いたので、輪虎ははっとした。

「信?信、わかるかい?」

肩を揺すって名前を呼ぶと、信は静かに鼻を啜った。

「…父さん…?」

花が飾られている方に視線を向け、信が掠れた声でそう言ったので、輪虎はまだ彼女の意識が完全に戻って来ていないのだと察した。

恐らく花の香りで王騎が傍にいるのだと勘違いしているのだろう。輪虎は静かに唇を噛み締める。

完全に意識を取り戻した彼女を待つのは、王騎の死という残酷な現実だ。

再び心を閉ざしてしまうのではないかという不安もあったが、輪虎は彼女の名前を呼ばずにはいられなかった。

「信、戻っておいで」

幼い頃から剣を握っていたことで、マメと傷だらけの、皮膚が肥厚している彼女の手を強く握り締める。

輪虎の声に導かれるように、信の瞳が光を取り戻す。ようやく目が合った。

「……輪虎?」

「やあ、おはよう」

寝ぼけ眼とは言い難い、腫れぼったい瞳を何度か瞬かせて、信は輪虎のことを見つめていた。

どうして彼がここにいるのだろうといった表情を浮かべ、それから信は思い出したかのように、瞳から涙を溢れさせた。

「父さん、父さんが…」

震えている肩を擦ってやりながら、輪虎は静かに彼女に寄り添っていた。傍にいることくらいしか、輪虎にはやってやれることがなかった。

両手で顔を覆い、声を上げて泣き始める。頬を伝う涙の痕や、腫れぼったい瞳を見る限り、意識のない間もずっと泣き続けていたのだろうが、彼女の涙は枯れることはない。

きっと信にしてみれば、あのまま死ねた方が良かったと思っていることだろう。

そんなことを王騎が望むはずがないと信も分かっているはずだ。それでも無意識に死を望むほど、彼女の心は悲しみに囚われていたのだろう。

悲しみだけでなく、父を助けられなかった悔恨や自分への怒りに、心がはち切れてしまいそうになっているに違いない。

分かっていて輪虎は残酷な言葉を信に投げかけた。

「…これを機に、剣を捨てるかい?」

弾かれたように信が顔を上げる。それまで悲しみの色を浮かべていた瞳が、たちまち憤怒の色に染まっていく。

「そんなこと、する訳ないだろッ」

喉から声を振り絞るようにして信が怒鳴ったので、輪虎は肩を竦めるようにして笑った。
なんの躊躇いもなく答えたということは、本心で間違いない。

「じゃあ、いつまで泣いてるつもりだい?悪いけど、僕は君がめそめそしている間にも、先を行くよ」

挑発するように輪虎が言うと、信がさらに目尻をつり上げる。

過去に手合せをして、輪虎に勝ったことが数えられるくらいしかないことに、信が危機感を抱いているのは知っていた。

いつもの調子を取り戻したことに、輪虎の口の端がつり上がる。悲しみに囚われていただけで、心は死んでいなかったのだ。

「少し、思い出話をしようか」

輪虎が静かにそう囁いたので、信は不思議そうに目を丸めた。

 

義父と婿

「…信は知らないだろうけれど、君を初めて抱いた日に、僕は王騎将軍に矛を向けられたんだよ」

「え?」

信が驚いて見開いた目を丸めた。

輪虎と信が初めて体を重ねたのは、呉慶将軍率いる魏軍と秦軍の戦いの後だ。

戦を見に行くぞと王騎に引っ張られるように連れ出された。その後、戦に勝った麃公と祝杯を挙げ、さらにその後に廉頗の屋敷で酒を飲み交わした。

連日連夜、将軍たちに酒を飲まされて体調を悪くしていた信はついに廉頗の屋敷でぶっ倒れたのである。その時に看病をしてくれたのが輪虎だった。

従者たちは王騎や大酒飲みの廉頗をもてなすために忙しくしており、信の看病をする者がいなかった。そこで輪虎は酒を飲まない理由になると思い、自ら信の看病を名乗り出たのである。

その時に身体を重ねてしまったことは、信にとっては酒の失敗、輪虎にとっては魔が差しただけ。

翌朝になって同じ褥で目を覚まし、お互いに忘れようと誓い合ったはずなのだが、都合よく記憶から消えることはなかった。

触れ合った素肌の感触も、絡ませた手の温もりも、破瓜の痛みも、囁かれた言葉も、信の中には今でも深く根を張って残っている。

輪虎も同じように、あの夜のことを忘れていなかった。

二度寝を始めた信を残して部屋を出て、そこで王騎と遭遇してしまったことも、はっきりと覚えている。

「…随分と娘を可愛がってくれましたねェって。冗談抜きで殺されるかと思った」

自分の首元に手の側面を押し当てながら、輪虎はそう言った。矛を向けられたのだろうと分かり、信が瞠目する。

「な、なんで?父さんがそんなこと…」

父が理由もなく相手に武器を向けるような男じゃないことを信は知っていた。

理由が分からないでいる信に、輪虎は不思議そうに首を傾げる。

「それは君が大切な娘だからでしょ。僕がどこの馬の骨か分からない男だったなら、弁明する間もなく、綺麗に真っ二つにされていたと思うよ」

男女が一つの部屋にいて、何事もなく朝を迎えたと信じる方がおかしい。王騎は輪虎と信が身体を交えたことを察したのかもしれないし、情事の最中のあれこれを聞いてしまったのかもしれない。

「そ、それで、どうなったんだよ…」

話の続きが気になっている信に、輪虎はくすくすと笑った。

「合意の上か聞かれたよ。信の方から誘ったって言ったら、どうなるか反応を見てみたかったけど…」

ふはっ、と輪虎が元々細い瞳をさらに細めて笑う。もしもこの場に王騎がいたら、体を真っ二つに引き裂かれていたかもしれない。

実際に誘ったのはどちらでもない。どちらともなく気づけば唇を、肌を重ね合っていた。酒の恐ろしいところだ。

「お前は父さんになんて言ったんだよっ?」

「…知りたい?」

ああ、と信はすぐに頷いた。だが、輪虎は自分の薄い唇に人差し指を当てる。

「内緒」

「教えろよッ!減るもんじゃないだろ!」

「うーん、こればっかりはねえ…」

困ったように肩を竦める輪虎だったが、話す気がないことが分かると、信はすぐに諦めたように「ちぇ」と言った。

「あれ?気にならないのかい?」

「気になるに決まってんだろっ!…でも、父さんが気に入る返事だったってのは分かったから」

信にそう言われ、輪虎は意外そうに目を丸めた。

自分があの時、王騎に殺されなかったのは、彼の気まぐれではなかったのだ。信が言った通り、王騎が気に入る返事をしたのだろう。

「…そっか」

随分と腑に落ちたように、輪虎が呟く。

「どうしたんだよ」

信が小首を傾げたので、輪虎は「なんでもないよ」と首を振って笑った。

 

義父と婿 その二

―――先に部屋を出た輪虎は、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。空には薄白い明るさが広がっている。

「………」

瞼を閉じれば、信の破瓜の痛みに打ち震える姿、切ない声で何度も自分の名前を呼ぶ姿が浮かび上がって来る。これは当分忘れることは出来なさそうだ。

しかし、罪悪感ではなく、優越感のようなものが胸を満たしていることに気が付いた。

廊下を曲がると、廉頗と遅くまで飲んでいたのだろう王騎が立ちはだかるように立っていた。その手には彼の体格に見合う大きさの矛が握られている。

「王騎将軍」

挨拶をしようとして、輪虎が笑みを繕った途端、全身の毛穴を針で突かれるような嫌な感覚に襲われる。

その正体が、自分を見下ろしている王騎の瞳から発せられる殺気だと分かると、輪虎は昨夜の信とのことを気づかれたのだと瞬時に理解した。

愛娘を襲ったと誤解されているのかもしれないが、輪虎は弁明をするつもりはなかった。自分が信を抱いたのは事実だ。

何も話そうとしないどころか怯む気配もない輪虎に、王騎の分厚い唇がゆっくりと三日月の形へ歪んでいく。

「まず、合意の上だったのか答えなさい」

自分の頬に指を押し当てながら、輪虎が小首を傾げる。

「…殴られたような痕が見えますか?」

嫌がる彼女を押さえつけて無理やり行為に及んだ痕跡がないことを、輪虎は挑発的に王騎へ知らしめた。

合意の上であったことが分かると、王騎が残念そうに肩を竦める。

「…では、あなたは、本気であの子を愛しているのですか?あなたも信も、次に会う時は敵同士かもしれないんですよォ?」

王騎こそ敵将の屋敷を訪れているではないかと心の中で悪態をつきながら、輪虎は胸を張って、真っ直ぐに彼を見据えた。

「…これは、王騎将軍が望んでいるような答えではないと思いますが…」

前もってそう言うと、王騎の瞳から放たされる殺意がますます重く、濃くなった。しかし、輪虎は怯むことなく、言葉を続ける。

「彼女が将をやめるのなら、その時は、僕の妻に迎えようと思います」

「………」

予想していた言葉ではなかったらしく、王騎の片眉がぴくりと動いた。

「信が将であり続けるのなら、僕はその道を阻むことはしません。敵として相見えた時は、容赦もしません」

左手の甲を右の頬に押し当てながら、王騎がココココと独特に笑った。

「傲慢!なんたる傲慢!娘の父に結婚を申し込む言葉ではありませんねェ」

先ほどのように鋭い殺気は消えている。輪虎が告げた言葉が、一句でも彼の気に触れたとしたら、今頃は首と体が離れていたかもしれない。

一頻り笑った後、王騎が今度は穏やかな眼差しで輪虎を見下ろした。

「…あなたは、あの子が将をやめるはずがないと、分かっているのですね?」

「ええ」

輪虎はすぐに頷いた。

「それじゃあ、どうして抱いたんです?信を女にさせたのは、妻に欲しかったからではなかったんですか?」

「それは、先ほど将軍がおっしゃった通りですよ。次に会う時は敵同士かもしれない」

王騎の分厚い唇がまた三日月の形に歪んだ。

「随分と無粋な思い出作りですねェ?」

「僕も信も孤児で拾われた身ですから、そういう礼儀だとか作法は一切教養がないんです。将軍こそ、男に尽くす方法を彼女に教えなかったでしょう?」

拾われた時から信が男勝りだったのかは知らないが、将としてでなく、どこかの名家に嫁がせるために淑女としての教育を受けさせることだって出来たはずだ。だが、摎も王騎も信にそれをしなかった。

「ココココ。随分と生意気なことを…大将軍という立場は色々と忙しいんですよ。廉頗将軍の傍に居るあなたなら分かるでしょう?」

「…本当は、信を誰にも渡したくなかったら、そういった教養をしなかっ」

首筋にひやりと冷たいものが押し当てられて、輪虎は無言で両手を挙げた。絶対に続きを言わないことを態度で誓うと、王騎は大人しく矛を下ろす。

いつの間にあの重い矛を振り上げたのか、輪虎の目には映らなかった。

王騎は縁側から空を見上げる。朝焼けが広がり始めていた。

「この戦乱の世で生きていくには、強さがないといけません。生きる術だと言っても良いでしょう。信はそれを幼い頃から知っていた」

「………」

「もしも、あの子が武器を手放す・・・・・・ようなことになれば…その時は楽しみました」

空を見上げたまま、王騎がそう言った。

その言葉が耳を通って脳に染み渡り、理解するまでにはかなりの時間が掛かった。

「…それは…」

輪虎の言葉を、王騎が「勘違いしないでください」と早口で遮る。

「どこの馬の骨かも分からぬ男より、昔からあの子のことを知っている男の方が、私としても都合が良いだけですよ。今の秦には、まだそのような男が育っていないだけのこと」

王騎から思いがけない言葉が出て来たことで、輪虎の心臓は早鐘を打っていた。

「…素直に、僕なら娘を任せられるって言…」

再び首筋に冷たい刃が押し当てられたので、輪虎は再び両手を挙げて口を閉ざすしか出来なかった。

ゆっくりと王騎が矛を下ろしたので、許しを得たのだと察した輪虎は、再び王騎を真っ直ぐ見据えた。

「…もしも、次に戦で相見えた時、僕は、あなたでも信でも容赦はしません。廉頗様のために」

揺るぎない忠義をぶつけるつもりでそう言うと、王騎は楽しそうに目を細める。

「ンフフフ。義父と嫁に刃を向けるだなんて、婿としては失格ですねえ。まだ蒙武さんや王翦さんの息子たちの方が礼儀正しいですよォ」

そう言うと、王騎は輪虎に背を向けて歩き始める。

彼の姿が見えなくなっても、輪虎はその場からしばらく動けずにいた。

廉頗の剣となって幾度も強敵と戦って来たし、死地も駆け巡って来た輪虎であっても、やはり踏んでいる場数が違う。

彼の花の香りの裏には、一体どれだけの血の香りが染みついているのか輪虎には分からなかったが、それでも信のことを想って自分に矛を向けた彼は大将軍ではなく、父親としての威厳があった。

 

 

後日編(蒙恬×信)

このお話はバーサーク(蒙恬×信)本編の後日編です。

 

ゆっくりと瞼を持ち上げると、薄暗い部屋にいることに気が付いた。

もう陽が沈み始めているらしく、部屋に小さな明かりが灯されている。いつの間に眠っていたのだろう。

寝台の上で、信は見慣れない天井を眺めながら小さく息を吐いた。

「っ…」

下腹部に疼くような鈍い痛みを覚えて、信は思わず歯を食い縛る。

怠さの残っている体を起こし、寝具が掛けられているだけで何も着ていないことに気付くと、眠る前の記憶が一気に雪崩れ込んで来た。

「あ…あ…」

どろりとした粘り気のある何かが内腿を伝ったことに気づき、信は顔から血の気を引かせる。

呼吸が速まって、体ががたがたと震え始める。

震えを抑えようと自分の両手で肩を抱くが、手首に指の痕を見つけて、余計に身体の震えが激しくなった。

早くここから逃げなくてはと思うのだが、体は少しも言うことを聞いてくれない。

「っ…」

扉が開かれる音がして、信は弾かれたように顔を上げた。一番会いたくない男がそこにいた。僅かな明かりだけでも、すぐに分かった。

「おはよ、って言っても夜だけど」

湯浴みをしていたのか、蒙恬の茶髪が濡れていた。

「…、……」

体を覆っていた寝具を引き寄せる。まるで見えない縄で喉を締められているかのようで、息苦しい。

誰が見ても怯えていると分かる彼女に、蒙恬は優しい笑みを浮かべながら歩み寄った。

いつもと何ら変わりない穏やかな笑顔が、今は恐ろしくて堪らなかった。

「体は辛くない?」

まるで気遣うように優しい声で問われる。

自分に凌辱を強いておきながら、よくもそんなことが言えるものだと腹立たしくなったが、体の震えは止まらないままだった。

「う…」

蒙恬が身を屈めて唇を重ねて来たので、信は強く目を瞑って体を固くさせていた。

彼を突き飛ばすことも出来ず、入り込んで来た舌が口内を蹂躙するのも耐えることしか出来ない。かといって、舌を絡ませることも出来ず、信はただただ身を固くしていた。

「はあっ…」

ようやく唇が離れると、信は肩で息をしていた。蒙恬も弾む呼吸を整えながら、ぺろりと己の唇を舐めている。

はっきりとした目鼻立ちで、異性にも負けぬほど端正に整った蒙恬の顔に、虜になる女も多いことだろう。そういう女と身を結ぶべきだと、なぜ彼は分かってくれないのだろう。

しかし、信にとって蒙恬は友人であり、それ以上でもなければそれ以下でもなかった。

この関係を破ろうと思ったことなど一度もなかったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうと涙を浮かべながら考える。

「信」

「ッ…」

二本の腕で体を抱き締められ、信の心臓が早鐘を打つ。

怯えている彼女を落ち着かせるように、蒙恬が背中を撫でた。無理やり体を暴いた男と同一人物だとは思えないほど、その手付きは怖いほど優しかった。

「ねえ、明日は婚礼の衣装を仕立ててもらおう?いつもの着物みたいな青も良いけど、信には赤が映えると思うんだ」

「…え…?」

掠れた声で信は聞き返した。

彼女の反応を楽しむかのように、蒙恬は口元に笑みを浮かべている。

「みんなの驚く顔を見るのが楽しみだね」

「ッ…!」

寝台に身体を押し倒されて、信は悲鳴を喉に詰まらせた。

力ない入らない腕で、信は蒙恬の身体を押し退けようとする。無駄な抵抗をする彼女を見下ろして、蒙恬があははと笑った。

「祝宴を挙げたくないなら、別に俺は構わないよ?信がおめでただって分かるまで、ずっと寝台に縛り付けておいてもいいって思ってるから」

「う…」

骨が軋むほど力強く右腕を掴まれて、信は思わず顔をしかめた。過去に輪虎によって傷をつけられた場所である。

情事の際にも、蒙恬は執拗にそこを掴んだり、歯を立てて来た。新しい傷痕をつけることで、消し去ろうとしているのだろうか。

「ねえ、信はどっちがいい?」

下唇をきゅっと噛み締めて、信は弱々しい瞳で蒙恬を睨み付ける。卑怯だと怒鳴りつけてやりたかったが、喉はずっと強張ったままで声が出なかった。

自分に選択肢を与えておいて、結局は一つの道しかない。蒙恬の妻になることも、彼の子を孕むことも、蒙恬の中では既に決定事項なのだ。

窓の向こうでは、夜の気配が濃くなって来ており、空は闇に覆われていた。

幾つもの傷痕が残っている右腕が、ずきんと疼いた。

 

蒙恬×信のハッピーエンドはこちら

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芙蓉閣の密室(昌平君×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ミステリー/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は軍師学校の空き教室の後日編(恋人設定)です。

 

事件の噂

軍師学校の一番奥にある空き教室。そこはいつの間にか恋人と月見酒をする場所になっていた。

信が五千人将だった頃、戦で率いていた隊を壊滅させるという失態を犯したことがあった。

養父である王騎から軍略について学んで来いと、この軍師学校に投げ込まれたのだ。あの半年間の強化合宿があったからこそ、信は大将軍の座に就いたと言っても過言ではない。

あの日々を共に過ごすうちに、軍の総司令官である昌平君と恋仲になった信は、今日もこの空き教室で月見酒をしていた。

互いにやるべきことを多く抱えているため、頻繁に会うことはないのだが、逢瀬の時はこうして共に酒を飲み、褥を共にするようになっていた。

時々、軍略囲碁を打つこともある。未だ勝てたことはないのだが、お陰で軍略についての学びが深まり、以前よりも戦での立ち回りが上手くなったと自負していた。

今や、信が率いる飛信軍の存在が秦国に欠かせない強大な戦力となっていることから、それは明らかだった。

 

その夜、軍師学校の空き教室で、二人で静かに酒を飲んでいた。

昌平君は時間を無駄にするのを好まない性格であり、何かしら思考を巡らせたり、執務に関連する木簡を読み漁っているのだが、今日は珍しく木簡を持ち込むこともなく、静かに酒を飲んでいた。

「信、聞きたいことがある」

「ん?」

月を眺めていた信が振り返り、どうしたのだろうと目を丸めた。

僅かに眉根を寄せている昌平君にじっと見据えられ、信は思わず顔をしかめる。

(待てよ、まさか…筆のことが気づかれたんじゃ…)

先日、昌平君の寝室で共に夜を明かした信は、朝になって寝台から降りた時に転んでしまったのだ。

久しぶりの再会ということもあり、会えなかった時間を埋めるように互いを求め合い、ここ最近の中で一番激しい情事だった。そのせいで足腰が立たなかったのだ。

転んだ拍子に、偶然床に落ちていた筆を額で折ってしまったのである。昌平君が愛用しているものだと知っていた信は絶望した。

泣きそうなくらい額も痛かったが、恋人の大切なものを壊してしまった罪悪感の方が上回った。自分の石頭を呪っても、筆は元に戻らない。

執務があるため、昌平君は先に出ていたので、部屋には信一人だけだった。

これ幸いと折れた筆を隠し持って、信は早々に証拠隠滅を図ろうと企んだのである。

城下町でなるべく似た色合いの新しい筆を購入し、黙ってそれを置いていったのだが、愛用していた筆が急に新品になっていたのなら誰だって気づくだろう。

謝罪もせずにいたのだから、きっとそのことを咎められるに違いないと信は青ざめた。

「い、いや…あの、あれは違うんだ!転んだ先に、偶然あの筆があっただけで、わざとじゃなくてっ…」

両手を挙げながらしどろもどろに答えると、昌平君が何度か瞬きを繰り返した。

「…何の話だ」

どうやらその話ではなかったらしい。信は「何でもない」と首を振った。

「戦で親を失った孤児はどこに集められる」

「は?なんでそんなこと…」

昌平君の口から戦争孤児の話が出て来るとは思わなかった。冗談を言う男ではないし、表情を見る限り、とても真剣であることが分かる。

その質問を信にしたのは、彼女が下僕出身だからだろう。

「どこって言われても…ふらふらしてるところを奴隷商人に捕まって、馬車に乗せられて、どっかに売られるんじゃねえのか?運が良ければ保護されることもあるだろうけどよ…」

「…そうか」

反応を見る限り、あまり欲しい答えではなかったらしい。

昌平君は寡黙な男で、感情の変化が分かりにくい。総司令官を務めている上、安易に思考を読まれぬように無意識に身体がそうさせているのかもしれないが、信は彼の僅かな表情の変化や返答の間など、些細なことから昌平君の感情が何となく分かるようになっていた。

どうして戦争孤児の話題を出したのかは分からないが、信が下僕出身であるからこそ、自分の知らない情報を持っていないか確かめたのだろう。

「ガキの頃のことなんて、あんまり覚えてねえよ。奴隷商人に目ぇつけられるよりも、野垂れ死んでいるガキの方が多いかもしれねえぜ。まあ、咸陽は大分マシになっただろうけどよ…」

「………」

口元に手を当てて、何かを考えている。彼の感情の変化には気付くようになったものの、秦軍の総司令官であり、右丞相を務めている彼の考えていることなど、信の理解には及ばなかった。

彼と今の関係を築いてから、もっと聡明な女を隣に置くべきではないかと時々思うことがある。

右丞相という地位に立つのだから、彼の妻になりたい女など山ほどいるに違いない。

蒙恬と違って少しも色話を聞かないのは、右丞相と総司令、それから軍師学校の指導者という激務のせいだろう。

こうして軍師学校の空き教室で酒を飲み交わす時や、共に褥で過ごす以外は一体いつになったら休んでいるのだろうと思うことがある。

「…これは機密事項だが、お前には言わなくてはならない。決して口外はするな」

「え?」

いきなり話を切り出されたので、信は驚いて目を丸めた。

一部の者しか知らない機密事項を自分に教えるということは初めてのことだった。昌平君の真剣な眼差しを受けて、信は思わず生唾を飲み込む。

「…ここ最近、芙蓉閣ふようかくで子供が攫われているらしい」

「なんだとっ?」

信は思わず立ち上がった。

 

事件の噂 その二

芙蓉閣ふようかくというのは咸陽にある女子供の避難所のことだ。秦王である嬴政が弟の成蟜から政権を取り戻し、その後に信が立ち上げた施設でもあった。

戦争孤児だけでなく、世継ぎを産めずに夫に捨てられた女性や、夫から逃げて来た女性、奉公先で辱めを受け、生家にも帰れない女性を主に保護している。

身籠った者もいれば、幼い子を連れて必死に生き場所を探している者もいた。

支援を提供しているのは信だけではない。信がこのような活動をしていると知った蒙恬と王賁はすぐに支援の協力に名乗り出てくれた。

后である向も、国母としての立場で協力をしてくれており、芙蓉閣は支援施設としてその知名度を上げていた。

極秘事項だというのに、昌平君が自分に話してくれたのは、信が芙蓉閣の立ち上げに大きく関わった人物だからだろう。

「なんで極秘事項なんだよ」

そのような事件が起こればたちまち噂になるはずだが、極秘事項にしている理由が分からなかった。

昌平君は机の上に手を組んで、彼女の問いに答えた。

「目撃証言が少な過ぎる。いつの間にか居なくなっていた・・・・・・・・・・・・・・という話ばかりで、そもそも人攫いなのかも未だ判別がついておらぬ」

「え…」

信が眉根を顰めると、昌平君は小さく溜息を吐いた。

「手がかりが少な過ぎて、役人も動くに動けんということだ」

芙蓉閣には、逃げ込んだ妻を追い掛けて来る夫や、自分の悪事が明るみに出るのを恐れて連れ戻そうとする男もいて、容易に外部の者が立ち入りが出来ぬよう護衛をつけている。

護衛の者たちは交代で夜通し見張りをしているのだが、不審な人物の出入りはそもそも許さないし、姿が消えたという子供が出て行く姿は見ていないのだという。

目撃情報も、芙蓉閣を出入りした不審な人物もいないことを理由に役人たちも子供たちを探す手がかりすら掴めていないのだという。

「じゃあ、消えたガキどもは一体どこに…?」

「それが分からないから私にまで話が回って来たのだろう」

昌平君がゆっくりと目を伏せた。

表向き・・・は、外出中に子供が失踪したことになっている」

「はあっ?なんで芙蓉閣内で失踪したことを隠してるんだよ」

納得出来ず、信はどういうことだと詰め寄った。

「…そのような事実が明るみに出れば、保護施設としての品性や評判に影響しかねる。それゆえ、芙蓉閣内で子供が失踪したことは、一部の者だけが知っている極秘事項だ」

「今はそんな評判なんかどうでもいいだろ!」

芙蓉閣内で子供が失踪したことを知っているのほんの一握りの女性たちと、それから昌平君の周辺の一部のみだという。

目撃情報を持つ者がいるかもしれないのに、そのような不吉な噂が出回ることで芙蓉閣の評判が落ちるより、今は失踪した子供たちの行方を掴むほうが先決だと信は反論した。失踪した子供の母親が不安で堪らないはずだ。

しかし、昌平君は眉根を寄せて静かに首を振る。

「この情報操作は独断ではない。彼女たちからの頼み・・・・・・・・・だ」

「!」

昌平君の独断ではなく、芙蓉閣の評判を落とさぬように、芙蓉閣にいる女性たちの頼みだと聞かされ、信は言葉を失った。

失踪した子供たちの生死や安否が気になるのは当然だが、それを知るためには少しでも手がかりを探さなくてはならない。

「…誰に何を言われようが、俺は捜しに行くぞ」

酔いが回っているというのに、信が空き教室を出て行こうとしたので、昌平君は彼女の手を掴んだ。

「んだよ、放せって」

「此度の件、私は奴隷商人に目をつけている」

奴隷商人という言葉を聞き、信がはっと目を見開いた。

何か思い当たる節があるのか、視線を左右に泳がせた信はゆっくりと椅子に腰を下ろす。

「……商売が干上がってる奴隷商人どもから、恨みを買ってる自覚はある」

重い口を開き、信は呟くようにそう言った。

芙蓉閣の存在が、行き場を失った女子供から重宝されているのは確かだ。しかし、同時に反対の感情を抱く者もいる。

逃げた妻や侍女を連れ戻そうとする男たちもそうだが、その次は奴隷商人だ。彼らにとって、行き場のない女子供というのは商品同然の存在である。

下僕の使い道は様々だ。農耕、荷役、徴兵、織布、家事という重労働を安い金銭で行わせることが出来るので、下僕自体の身分は低いものだとしても、需要と供給は大きく成り立っている。

女なら見目が優れていれば、娼館で買われることもある。もしも人気の妓女になれば、その売り上げの一部が手に入るので、奴隷商人にしてみれば、いつまでも金が手元に流れて来る仕組みが出来上がるというわけだ。

奴隷商人は当然ながら芙蓉閣に立ち入ることができないため、商売道具がそこにいると分かっていても、指を咥えることしか出来ない。

秦国の大将軍である信に直接文句を言いに来るような奴隷商人はいないのだが、彼らから商売道具を横取りされたと恨まれていることは分かっていた。

彼らも下僕商品を売り捌くことで生計を立てているのだから、このまま商売が干上がれば、明日をどう生きるかを考えなくてはならない。

どうやら、そのことで昌平君も奴隷商人に目をつけたのだという。

「明日には報告が入るはずだ。今は待て」

既に咸陽周辺の奴隷商人について調査を指示していたらしい。さすが仕事が早い。

「…ただでさえ忙しいのに、悪いな」

本来なら芙蓉閣を立ち上げた自分が受け持つべき話だったかもしれないと信は謝罪した。
しかし、大将軍である信には軍事力以外に人脈がない。

反対に右丞相ともなれば、県尉や県令との関わりがあり、何より顔が利くのだろう。捕吏たちに失踪した子供たちの手がかりを探させるよう指示を出してくれたことに、信は感謝した。

話し過ぎて乾いた喉を酒で潤すと、昌平君は鋭い眼差しを向けた。

「先日、私の部屋で誰かが筆を折った・・・・・・・・のも仕事に支障をきたしている。いつの間にか新しい筆が置かれていたが、使い慣れるまで時間が掛かりそうだ」

まさかここで筆の話が出て来るとは思わず、信が顔を引き攣らせる。ずきりと額が痛んだ。

「へ、へえー?新しく替える時機だったんだろ、きっと、は、ははは…」

「………」

無言の眼差しに、信は冷や汗を浮かべた。

聡明な昌平君が気づかないはずがないと分かっていたが、いざ咎められると、罪悪感で胸が締め付けられる。

「あー、もう!悪かったって!わざとじゃねえんだから怒んなよ!新しいやつ置いといたんだから良いだろッ」

白旗を上げながら逆上した信に、昌平君は静かに目を伏せる。

「…お前から初めての贈り物だな」

てっきり叱られるとばかり思っていた信は、予想外の言葉を掛けられたことに目を丸くした。

「…嫌だったか?」

「そんな訳ないだろう」

顔は相変わらず不愛想だが、声色は優しい。どうやら本当に喜んでくれているようだ。

慣れ親しんだ筆と急に別れることになったとはいえ、恋人が初めてくれた贈り物ということもあって、大切に扱ってくれているらしい。

「顔は全然嬉しそうに見えねえけどなあ」

昌平君の前にずいと身を乗り出し、信は彼の口元に手を伸ばした。両手の人差し指で口角を無理やり引き上げて、笑顔を作らせてみる。

「………」

「………」

形だけの笑顔を作らせてみたものの、信は眉根を寄せて何か言葉を探しているようだった。感想に困っているのだろう。

あからさまに狼狽えている信の両手をそっと引き剥がし、昌平君が目を反らす。納得したように信が大きく頷いた。

「やっぱり、お前が笑った顔は、たまに見るくらいがちょうど良いな」

「…褒めているのか?」

ああ、と信が頷く。

「無理に笑ってなくても、綺麗な顔してるから、いつ見ても俺は眼福だぜ?」

まさかそのような言葉を掛けられるとは思わず、今度は昌平君が目を丸める番だった。耳からその言葉が脳に染み渡るまで時間がかかった。

言葉の意味を理解した途端に、昌平君はさり気なく口元に手をやって、溢れそうになる笑みを堪えていた。

「お前という女は…」

「ん?なんか変なこと言ったか?」

信は、良い意味でも悪い意味でも、相手の心に土足で踏み込んで来る。

時々そういうところが他の男の心を刺激しないか心配になるのだが、きっと信は気づいていないだろう。本人も心に踏み込んでいることに自覚がないのだ。

「結果が出たら、すぐに報せを出す」

話を逸らすように、昌平君がそう言うと、信は大きく頷いた。

「そっちは任せた。俺は明日、芙蓉閣の視察に行って、手がかりを探ってみる。…つっても、話を聞くことしか出来ねえだろうけど」

行方不明になった子供たちの母親に会いに行くのだろう。芙蓉閣にいる女性たちや信の気持ちを考えると、引き留める理由などなかった。

 

芙蓉閣

まだ陽が昇り始める前だというのに、目を覚ました時には、隣で眠っていた昌平君の姿はもうなくなっていた。

風邪を引かぬように、しっかりと寝具を掛けてくれた形跡だけが残っていたのだが、二度寝をする訳にはいかず、日が昇り始めた頃に信は咸陽宮を発った。

しばらく馬を走らせて、芙蓉閣に到着する。見張りの兵たちは信の姿を見ると、すぐに門を通してくれた。

門を潜り、回廊を進んでいくと中央にある中庭に辿り着いた。

子供たちが楽しそうな笑い声を上げながら、中庭で走り回っている。女性たちも朝から食事の支度や洗濯など忙しそうにしている。

「信様!」

「将軍っ!」

信が来た途端、芙蓉閣にいる女性たちがざわめいた。

頭を下げようとする彼女たちに「構うな」と顔を上げさせると、信は中庭にいる子供たちに目をやった。

最後に信が視察に来たのは先の戦を終えてからであり、すでに三か月は経過している。昌平君の話だと子供たちが失踪したのはここ一月の出来事らしい。

「信様、よくおいでくださいました…」

声を掛けて来たのはチョウという女性だった。芙蓉閣を立ち上げてから、一番初めにやって来た女性でもある。

彼女は嫁ぎ先に恵まれず、夫や使用人たちからの暴力に耐え兼ね、身一つで逃げ出したのである。ろくに食事も与えられなかったらしく、咸陽で行き倒れていたところを信が保護したのだ。

今はこの芙蓉閣に住まう者たちのまとめ役を担ってくれており、幼い頃から続けている織り子の仕事もこなしていた。

絹織物の需要はどの国でも高く、織り機を使えれば仕事にありつける。
そのため燈は芙蓉閣にいる女たちに織り機の使い方を教え、絹産業の仕事に就けるよう手助けをしているのだ。

細かいところまで気が付く燈を慕う者たちは多く、信も芙蓉閣のほとんどのことを彼女に一任していた。

昨年、咸陽で名の知れた商人と婚姻をしたこともあり、この芙蓉閣を寝泊まりすることはなくなったが、夫と共に住まう屋敷はこの近くにあるのだという。

燈が何か言いたげにしていることに気付き、信は彼女と共に中庭を出て回廊を進んだ。

回廊の一番奥にある部屋に入ると、燈は暗い表情のまま、重い口を開く。

「信様がここにいらっしゃったということは…」

「ああ、昌平君…右丞相から聞いた」

右丞相に反応したのか、燈ははっとした表情になり、その場に膝をついて頭を下げようとする。

「おい、やめろ!お前、身重だろっ?」

慌てて燈の腕を掴んで立ち上がらせると、彼女の円らな瞳には涙が浮かんでいた。

今は新しい夫との命をその胎に宿しているというのに、彼女は芙蓉閣を任されている責任を強く感じているのだろう。

「居なくなったガキは?」

「…十人です。男児が六人、女児が四人。最後に消えたのは、シン。一週間前の昼のうちから姿が見えなくなりました」

「宸もか?」

子供が失踪していることは事前に昌平君から知らされていたので驚かなかったが、まさか十人もいたとは。そして宸もそのうちの一人だったことに、信は驚愕した。

宸は戦で親を失った孤児だ。橋の下で物乞いをしているところを、通りがかった昌平君直属の近衛兵である黒騎兵が保護してくれたのだ。

やんちゃな男児で、まだ十になったばかりだというのに、芙蓉閣にいる子供たちの面倒を見てくれて、兄のように慕われている子である。

何かと気が短く、喧嘩早いのは難点であったが、素直でいい子だ。それゆえ、女たちも宸を我が子のように可愛がっていた。

―――貴族の奴らがうるさいから、噛みついてやったら、泣き喚いて逃げてったんだ!

城下町で戦争孤児だとバカにして来た貴族の子供と大喧嘩をして、思い切り噛みついて泣かせてやったのだと誇らしげに勝利報告をしていた彼を、大笑いしながら褒めてやったことはよく覚えている。心根の強い男児だった。

時折この芙蓉閣に訪れる信の姿に影響されたのか、大きくなったら飛信軍に入るのだと夢を語っていた彼の姿は鮮明に信の記憶に残っている。

名前の音が同じであるせいか、妙に親しみがあって、信も年の離れた弟のように可愛がっていた。

「外部から誰かが出入りしてたワケでもないんだろ?なんで消えちまったんだ?」

信が問い掛けると、燈が神妙な面持ちで口を開いた。

「…昼間、他の子供たちと遊んでいるのは見ていたのですが、気づいたらそれっきり…」

「まさか、全員が・・・そうなのか?」

燈が頷いた。
他にも失踪した子供たちが中庭で遊んでいた姿を目撃した者は多くいる。

しかし、気づいた時には姿を消していて、芙蓉閣の中にいるとばかり思っていたのだが、夕食の時間になっても戻って来なかった。

一緒に遊んでいた子供たちも、どこへ行ってしまったのか見ていないのだという。失踪した子供たちに関する情報が少ないと言っていたのは、このことだったのか。

肖杰ショウヒャク先生のところに行ったのかと思って、お訪ねしたのですが、先生も姿を見ていないと…」

「ああ、あの街医者か」

肖杰というのは咸陽の城下町に診療所を構える街医者である。元は後宮に務めていた宦官だ。

今は雍城へ幽閉されている太后が後宮権力を意のままに操っていた頃、彼は失態を犯したらしく、それが原因で後宮を追放になったという。

自分の利になることには目ざとく、山の天気のように機嫌が変わる太后の気に触れてしまったのだろう。さすがに同情するしかなかった。

どんな失態を犯したかは知らないが、肖杰の医者としての腕は確かだ。多くの民が頼りにするほど優秀な男だと聞く。

貧しい民がいても金銭を要求することなく無償で診察や治療を行っており、大勢から慕われているらしい。

彼の優しい心根や宦官であることを理由に、信は女たちからの頼みもあって、肖杰の芙蓉閣への立ち入りを特別に許可をしていた。

許可を出しながらも、信は肖杰に会ったことは一度もない。戦で傷を受けた時は救護班か医師団の治療を受けるので、将軍である彼女は街医者とは縁がないのだ。

「時々、子供たちに先生の診療所へ常備薬を受け取るお使いを頼んでいたんです。でも、その日は先生のところにお使いを頼んだ者もいなくて…」

「そうか…母親たちも心配してるだろ」

燈が「それが」と言葉を濁らせたので、信は続きを促した。

「消えた十人は、母が居ない子たちなんです」

言われてみれば、宸も他の失踪した子供も、戦争孤児として行き場を失っていたところを保護された子たちだ。

全員が共通して、この芙蓉閣に母親がいない。

攫われたのだとしたら、その共通点は意図的なものなのか、ただの偶然なのだろうか。
今、

この芙蓉閣にいる女子供は合わせて五十人程度だ。子供はそのうちの半分にも満たなかったのだが、それだけの人数がいる芙蓉閣で目撃証言がないのは、やはり気になる。

「昌平君…右丞相も、この件については気にかけてくれてる」

大王の傍に仕えている高官が関わっていると知り、燈は驚愕の表情を浮かべた。安心させるように信が微笑むが、彼女の表情は暗いままだった。

失踪した子供たちの足取りさえ分かっていないことから、今後も手がかりが見つかるか不安なのだろう。

昌平君が奴隷商人の調査をしていることを伝えようかとも考えたのだが、あれは極秘事項だ。安易に洩らす訳にはいかなかった。

「信将軍」

扉の外から見張りの兵に声を掛けられて、信は振り返った。

「どうした」

返事をすると、すぐに扉が開けられる。
兵の後ろに見覚えのあり過ぎる顔の男が立っていて、信はぎょっと目を見開いた。昌平君だった。

「な、なんで昌平君が、ここに?」

「調査の報告だ」

報告と言われ、信は昨夜の奴隷商人の件だとすぐに気づいた。
目配せをすると、昌平君を案内してくれた兵も燈も速やかに退室していく。

後ろで扉が閉められたのを確認してから、昌平君が僅かに眉根を寄せた。その表情を見て、どうやらあまり好ましい結果は得られなかったのだと気づいた。

「…逃げられたのか?」

いや、と昌平君が否定する。

「他国の奴隷商人の仕業かもしれぬ。可能性としては、咸陽に近い楚か韓だ」

秦と国境を隔てて隣接している二国の名前が出たことに、信は胸に鉛が流し込まれたような感覚に襲われた。

言葉には出さないが、追跡は困難かもしれないと、昌平君は伝えたかったのだろう。

「…すまぬ」

昌平君の謝罪に、信は弾かれたように顔を上げた。

「な、なんでお前が謝るんだよっ!本来なら、ここを立ち上げた俺がやらなきゃいけねえことなのに…」

「………」

何か言いたげに昌平君が唇を戦慄かせたが、信は遮るようにして彼の肩を掴んだ。

「その、大丈夫だ。俺の方でも探ってみる。十人も居なくなってんだ。きっと何人かは消えた奴らを見てたはずだろ」

「ああ。捕吏たちには、引き続き手がかりを探すよう指示を出している」

どうやら昌平君は信がそう答えるのを分かっていたかのように、既に手を回していたらしい。

「ありがとな」

「………」

昌平君の眉間に寄った皺は消える気配がなかった。

「お前…笑わなくても良いけどよ、そんな顔続けてたら、皺が消えなくなるぞ?」

彼の眉間に、信が人差し指を押し当てる。ぐりぐりと皺を引き延ばすように指の腹で揉んでやると、昌平君がやめろと信の手首を掴んだ。

 

芙蓉閣 その二

部屋を出て回廊を歩いていると、昌平君が興味深そうに中庭や建物を見渡している。そういえば彼が芙蓉閣に訪れるのは、今日が初めてだと信は気づいた。

「…立派な民居だな」

褒めるように声を掛けられ、信は口元に薄く笑みを浮かべながら振り返る。

「元々は王騎将軍と摎将軍がこっちに移り住む予定だったんだ。…まあ、その予定は無くなっちまったんだけどよ」

今は亡き将軍たちの名前が出たことに、昌平君は些か呆気にとられる。

王騎と摎といえば六大将軍であり、下僕である信を養子として引き取った夫婦だ。趙の龐煖によって討たれてしまったのだが、それがなければ、ここは保護施設ではなく二人が住む民居になっていたらしい。

「…そのあと、王翦将軍が買い手になってくれようとしてたんだが、俺がワガママ言って譲ってもらったんだよ」

「……」

本来は養子である信に受け渡るものだと思ったが、王一族の本家である王翦の方が立場としては強いのだろう。それでも信の想いを考慮して、王翦は彼女に民居を譲ったのだ。

回廊を通って中庭に下りると、至る所に花が植えられていることに気が付いた。ここに住まう女たちが熱心に世話をしているのか、綺麗に咲いている。

「…それで芙蓉閣・・・か」

白や桃色の花を眺めながら昌平君が腑に落ちたように呟いた。

芙蓉とは、この中庭に咲いている花の名だ。

馬陽の戦いで没した王騎は、男にしては珍しく花を愛でる趣味があった。

王騎がまだ生きていた頃、信に軍略を学ばせてやってほしいと頼まれたことがある。その時、昌平君は王騎と信が住まう屋敷に訪れたのだが、その屋敷にもこの花が咲いていた。王騎が好んでいた花の名前を名付けたのだろう。

「父さんは、いつも風呂に花を浮かべてたからなあ」

「………」

昔を懐かしむように笑った信に、昌平君は瞬きを繰り返した。

花を愛でる趣味は知っていたが、まさか風呂でも花を愛でていたというのか。

咲いている花を眺めながら、信が花の風呂について色々と教えてくれた。王騎軍の兵たちも厳しい鍛錬を乗り越えて良い体格をしているが、彼らもその風呂に入るのだという何とも信じられない光景があったようだ。

確かに王騎からは花の香りがするとは思っていたが、まさかそんな方法で花の香りを纏っていたとは初耳だった。

「…!」

隣にいる信から、時々花の良い香りが漂って来ることを思い出し、昌平君ははっとなる。

「?なんだよ」

「いや、何でもない」

平静を装いながら返答したが、昌平君の頭は激しく動揺していた。彼女も王騎と同じように、花を浮かべた浴槽に浸かっているのだと分かったからだ。

そういえば今までも花の香りがするとは思っていたが、女物の香を焚いているのだとばかり思っていた。

互いに肌を重ねたことは何度かあったが、彼女が入浴する姿はまだ見たことがない。

愛しい者の姿、ましてや一糸纏わぬ姿なら、何度見たって飽きないし、むしろ芸術品のように隅々まで眺めたいものである。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

昌平君は煩悩を振り払うために自らの太腿を思い切り殴りつけた。鈍い音がして、信が驚いて振り返る。

「な、何してんだ?」

「気にするな。虫を追い払っただけだ」

「?」

追い払うというより確実に殺しにいった動きに、信は頭に疑問符を浮かべる。
しかし、門の向こうで馬の嘶きが聞こえたことで、彼女の意識がそちらに向けられた。

 

手がかり

「執務を抜け出して来たんだろ?悪かったな」

「これも執務の一環だ。また何か情報が入り次第、伝える」

「わざわざお前が直接言いに来なくなって、使いを出せばいいいだろ」

「………」

執務を理由に会いに来たのだと、素直に言えなかった。

この反応を見る限り、信は自分が会いに来たことを喜んでいるようには見えない。

今の彼女の頭は、失踪した子供たちに対しての心配でいっぱいになっている。それは昌平君も分かっていた。

しかし、彼女が一人で今回の件を気負い過ぎていないか、無茶な行動をしないか、心配でならなかった。余計な気遣いだと笑われるかもしれないことも十分に理解している。

(そろそろ戻らねば)

あまり馬車の騎手を待たせる訳にはいかない。他の執務も溜まっているし、そろそろ咸陽宮に戻らなくてはならないかと昌平君が考えていると、背後から何者かがこちらに駆け寄って来る音が聞こえた。

「信さまッ!」

「うおぉッ!?」

振り返ると、髪を二つ結びにしている少女が信の背中に抱き着いていた。信の腰元に頭が来るくらいの幼い少女だった。

ハンか。元気だったか?」

振り返った信が少女の頭を撫でてやりながら、信が笑顔で声を掛ける。少女の名前は涵というらしい。

後で信から聞いた話だが、奉公先の主人によって性暴力を受けた女性がこの芙蓉閣に逃げ込み、出生したのがこの少女なのだそうだ。

涵はその円らな瞳にうっすらと涙を浮かべながら、俯いた。

「宸のお兄ちゃんがね…迷子かもしれないの」

信は慰めるように、涵の頭を撫でてやった。

「お前は、妹みたいに可愛がられてたもんな」

最後に失踪したと言われている宸自身もまだ子供だったが、この芙蓉閣で過ごす子供たちからは兄のように慕われていた。

失踪した子供たちのことは、この芙蓉閣の中でも一部の者しか知らない。しかし、子供は好奇心旺盛のせいか、変化に気づきやすい生き物だ。

きっとここで過ごす子供たちには伝わっていないだろうが、それでも毎日顔を合わせていた兄妹のような存在たちが居なくなったことには気付いているだろう。

芙蓉閣で生まれた涵からしてみれば、この芙蓉閣に住まう者たちは家族同然の存在である。心配で堪らないのだろう。

「…宸も他の奴らも、きっと帰って来るから、お前はちゃんといい子で待ってろ」

信の言葉に、涵は不安げな瞳のまま頷いた。

「お兄ちゃん…先生のところに、おやつをもらいに行ったのかなあ?」

先生とは街医者の肖杰ショウヒャクのことだろう。

「おやつ?」

信が小首を傾げると、涵が「そう」とぎこちない笑みを浮かべた。

「先生、お薬だけじゃなくて、おやつも作れるの。薪割りのお仕事とか色んな手伝ったら、内緒で・・・おやつくれるの。お兄ちゃん、時々みんなのおやつをもらいに行ってたから」

その情報は知らなかった。燈の口からも聞かなかったし、もしかしたら子供たちだけの秘密事なのかもしれない。

(肖杰のとこに行ってみるか…)

おつかい以外で、子供たちが診療所に行っていたのなら、肖杰が失踪した子供たちの情報について何か手がかりを持っているかもしれない。

「そうだ!」

思い出したように涵が顔を上げた。

「あのね?これ、信さまに作ったの。今度会えたら渡そうと思って」

着物の袖から何かを取り出すと、それを信に差し出した。正絹で出来た青い紐だった。

「もしかして、涵が作ったのか?すげえな!」

受け取った絹紐をまじまじと見つめて、信が目を輝かせる。涵が嬉しそうに笑っていた。

信の方が確実に年上だというのに、その反応だけ見ればどちらが子どもか分からない。彼女が子供たちに懐かれる理由もそこにあるのだろう。

いつまでも変わらない信の無邪気さに、昌平君は思わず口元を緩ませていた。

「こんなのを作れるようになるなんて、涵もでっかくなったんだなあ」

赤ん坊の頃から涵の成長を見て来た信はしみじみと呟いた。

正絹を紐にするには手先が器用じゃないと難しい。しかし、涵が作ったというそれは品物として売っていても何ら不思議でないほど、上質に編み込まれていた。

織り子として女たちに仕事を教えている燈から作り方を教わったのだという。

「この青色も綺麗だな~」

絹紐を上に持ち上げて、陽射しに透かしながら信がうっとりと目を細める。

「…草木染か」

「草木染?」

深みのある青色を見て、昌平君が呟いた。聞き馴染みのない言葉に信が小首を傾げる。

「植物の茎や樹皮を染料として利用する方法だ」

へえ、と信が興味深そうに頷く。涵の話によれば、その方法も燈から教わったのだという。

「こんな綺麗な紐、本当に俺がもらっていいのか?売り物にした方が良い値がつくだろ。それで美味いモン食った方が良いんじゃねえか?」

少女からの贈り物だというのに、何とも思いやりのない言葉だと昌平君は苦笑した。

世辞も嘘も言えない素直さが信の魅力だと分かっていながらも、本当に鈍い性格である。

「いいの、あげる!」

信が美しい絹紐を返そうとするが、涵は決して受け取ろうとしない。どちらの言い分も分かる。

「宸のお兄ちゃんにも、お守りで同じのあげたの。だからあげる」

「でもよぉ…」

このままでは埒が明かないと判断した昌平君は、信の手から青い絹紐を奪い取り、少女を見下ろした。

「ならば私が買おう」

「えっ?」

二人が同時に昌平君を見上げる。

その場に膝をついて少女と目線を合わせた昌平君は、懐からあるだけの所持金を取り出して、小さな両手に握らせた。

見たことのない大金を、文字通り手にした涵が瞬きを繰り返している。

「で、でも…信さまにあげようと思って…」

おろおろと戸惑う涵に、昌平君は信に視線を向けてから、穏やかな顔を向けた。

「ちょうどこの者に贈り物を考えていたところだった。素敵な品を作ってくれたこと、礼を言う」

信の手元に絹紐が渡ると分かっても、こんな大金を受け取って良いのかと、涵は困惑した眼差しを昌平君と信へ交互に向ける。

「買ってもらえって!大将軍だけじゃなくて、右丞相様も気に入ってくれたんだって、どこに行っても自慢出来るぞ!」

まるで自分のことのように、信が満面の笑みを浮かべて涵の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
信に背中を押してもらったことによって、涵も嬉しそうに笑顔を浮かべた。

「ありがとう!おじさん・・・・!」

感謝の言葉と共に投げられた「おじさん」という言葉に、信が盛大に噴き出した。

 

贈り物

受け取った大金をしっかりと両手に抱えて、涵は母親の元へと戻っていった。

「ふはっ、くく…おじさん…!おじさんだとよッ…!」

彼女の後ろ姿を見送りながら、信は腹を抱えて大笑いをしている。

笑い過ぎだと鋭い眼差しを向けると、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら「悪い悪い」と少しも心の籠っていない謝罪をされた。

年端もいかぬ少女からしてみれば、昌平君の年齢の男はみんな「おじさん」に分類されるものである。

もちろん昌平君自身もそれは自覚していたのだが、信が大笑いしていることには納得がいかなかった。

「昌文君のオッサンなら分かるけどよ、…ぷッ、くく…そっか、お前も涵からしてみたら、オッサンかあ」

「…後ろを向け」

わざとらしく溜息を吐いた昌平君がそろそろ本気で怒りそうだと気づき、信は大人しく従うことにした。

後ろで一つに結んでいた髪紐が急に解かれる。

「ん?何してんだよ」

「そのまま動くな」

素直に従い、信は昌平君に背中を向けたままでいた。

解かれたと思っていた髪が、再び一つに括られていくのが分かった。

「…思わぬところで筆の礼を返せたな」

先ほど涵から買い取った青い絹紐で、信の髪を結び終えた昌平君が満足そうに呟いた。

いつもは適当な紐で括っていただけだった黒髪が青い紐で結ばれただけだというのに、上品な印象に見える。

「あ、ありがとな…」

まさか髪紐として利用するつもりだったとは信も想像していなかったらしく、彼女は恥ずかしそうに目を泳がせた。

「これからどうするつもりだ」

昌平君にいきなり今後のことを尋ねられ、信は切り替えた。

「…街医者の肖杰ショウヒャクのとこに話を聞こうと思う」

「そこに子供たちが行ったのか?」

「燈の話だと、肖杰のとこに常備薬を取りに行くよう頼むことがあったらしい。ガキ共が消えた日には頼んでなかったみたいだが…あの街医者はよくガキどもに菓子を渡してたらしいからな。大人が知らない間に、ガキどもがそれ目当てに診療所に行っていたかもしれねえ」

「………」

昌平君は口元に手を当てて何かを考えていた。

「もしかしたら、その行き帰りで奴隷商人に目をつけられたかもしれねえし…とにかく、何でもいいから手がかりが欲しい」

彼女の言葉に、昌平君は何か言いたげに唇を戦慄かせた。しかし、言葉にはせず、昌平君は真っ直ぐに信の目を見つめる。

「…気をつけて行け。何か手がかりを掴んでも、一度引き返せ。独断での行動は控えろ」

端的に用件を伝えると、信は肩を竦めるようにして笑った。

信は感情的になりやすく、怒りに自分を制御することが出来なくなることがある。もちろんそれは将としての弱点だと、彼女自身も理解していた。

今回の件も子供たちの手掛かりを掴めば、周りに相談する前に自分で解決しようと突っ走るかもしれない。

彼女一人だけで解決できる問題ならば良いが、今回の件に関しては情報が少なく、相手が複数犯なのかさえ分からない。

子供たちの安否が気になるのはもちろんだし、本当に奴隷商人の仕業ならば、彼女が簡単にやられるとは思わない。

しかし、恋人として、昌平君は彼女を危険な目には遭わせたくなかった。彼女が幾度も死地を乗り超えた強さを持っていたとしてもだ。

 

中編はこちら

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初恋の行方(蒙恬×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

助言

蒙恬から逃げるように露台から離れた信は、苦虫を噛み潰したような表情で宴が行われている間へと戻った。

中身の入っている酒瓶は握ったままだったが、飲み直す気にはなれない。

今でも蒙恬があの約束を守っている理由が、信には分からなかった。

蒙恬とあの約束を交わしたのはまだ彼が子どもの頃で、自然に消滅してしまう口約束だと言っても良い。

あの場を切り抜けるために、蒙恬に合わせて約束を交わしただけであり、信は少しも本気にしていなかった。

それが、約束通りに軍師学校を首席で卒業し、ご丁寧にその報せも送って来て、あっという間に将軍の座に上り詰めた。その実力は本物で、蒙恬の将軍としての才は誰もが認めるものである。

約束がなかったとしても、きっと蒙恬は聡明な秦将として中華全土に名を轟かせていたに違いない。

「………」

先ほどの蒙恬とのやり取りを思い出し、信は唇を噛み締める。

どうして未だに自分に執着するのだろうか。蒙家という名家に生まれただけで、嫁にする女など選び放題だというのに、未だに約束に縛られていることが不思議でならない。

酒を飲み交わしている者たちが心から宴を楽しんでいる姿を見て、暗い表情を浮かべているのは自分だけだと気づき、このまま抜けてしまおうかと考える。

此度の戦には飛信軍は参加しなかったので、副官や兵たちは宴には来ていない。

再び廊下に出たところで、総司令官である昌平君の姿を見つけ、信は駆け出した。

「昌平君!」

早々に宴を抜けようとしていたのだろう。彼があまり賑やかな席を得意としないことは信も知っていた。

名前を呼ばれた昌平君が静かに振り返る。

「呼び止めて悪いな」

「何か用か」

宴の席であっても少しも楽しそうじゃない昌平君に、信は苦笑する。

一度くらい酒に酔わせて、普段の彼からは想像も出来ない姿を見てみたいと思うのだが、今はそんなことはどうでもいい。

首席で軍師学校にいた蒙恬の指導者として傍で見ていた昌平君ならば、蒙恬が自分以外の女性に興味を抱いていたかを知っているかもしれない。

蒙家の嫡男である彼には大いに交友関係がある。その中から多くの嫁候補だってあったはずだ。

自分との約束に縛られている蒙恬だが、一人や二人くらいは気に入っている女性に出会っているに違いないと信は考えた。

「えっと…蒙恬のことなんだけどよ」

「?」

戦での武功が認められ、将軍昇格となった蒙恬の話題が出たことに、昌平君は瞬きを繰り返していた。

「…軍師学校にいる時のあいつって、どんな様子だった?」

目を泳がせながら、信が問い掛ける。

「漠然とした問いだな。何が知りたいのか言ってみろ」

遠回しに尋ねようとする意図を見抜かれたらしい。昌平君に真意を探られて、信は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。

「…女との付き合い、とか…」

「………」

これでもまだ遠回しに答えた方だっだ。しかし、信の表情から昌平君は真意を察したらしい。

「多くの縁談があり、色んな女を相手にしていたらしい」

「そ、そうか!そうだよな!」

その話を聞いて、信の暗い表情に光が差し込んだ。

「じゃあ、その中で一人くらい結婚相手が…」

蒙恬が縁談を断っているのは、彼の教育係であり、楽華隊の老将の胡漸から聞いていた。

しかし、胡漸が知らないだけで、もしかしたら蒙恬には一人か二人くらいは気に入った女性がいるかもしれない。希望の光を追い求め、信は昌平君の言葉に耳を傾ける。

「…お前との約束を守るために、最終的には全て断っていたようだ」

約束。またその言葉が出て来て、信は頭痛を覚えた。

昌平君まで知っているということは、蒙恬は幼い頃のその約束をあちこちで言いふらしているのかもしれない。完全に外堀を埋められた気持ちになり、信は愕然とした。

こめかみに手をやりながら柱に凭れ掛かった信に、昌平君が眉根を寄せる。

「なんで、あいつ…いつまでもそんなことを…」

少しも蒙恬の考えが解せないと信が唸り声を上げたので、昌平君は彼女の考えを何となく察したのだった。

蒙恬が信に好意を寄せているのを知っているのは、信の予想通り、当事者の二人だけでない。

彼が軍師学校にいる間、信との約束のために主席を目指しているのだと話していたこともあって昌平君は、蒙恬が信に好意を寄せていることを知っていた。

楽華隊の隊長として戦に出るようになってから、蒙恬は信と共に行動している飛信軍の男にあからさまな敵意を向けていた。

河了貂と蒙毅の話だと、飛信軍が楽華隊と共に同じ持ち場を任された時は、蒙恬の嫉妬が凄かったらしい。

もちろん立場は弁えていたというが、その嫉妬の眼差しだけで人を殺してしまいそうなほど、恐ろしい双眸だったと噂で聞いていた。

そのせいか、秦軍の大半は、蒙恬が信に好意を寄せていることを知っている。

昌平君としては、ここまであからさまに好意を向けられているのに、彼に心を開かない信の方が不思議だった。

しかし、一歩引いてみれば元下僕と名家の嫡男。信は王騎と摎の養子として、名家である王家の分家へ迎え入れられたが、戦で両親を失った今の信には、下僕時代と同様に後ろ盾がない。

恐らく、信が気にしているのはそこ・・だろうと昌平君は考えていた。

「…蒙恬の将軍昇格のことは聞いたのか?」

「え?あ、ああ」

その反応に何かを察したのか、昌平君が腕を組み、呆れ顔になる。

「祝いの言葉の一つもかけなかったのか」

「う…」

信の顔色が曇る。どうやら図星のようだ。
わざとらしく溜息を吐いてから、昌平君は言葉を続けた。

「約束を抜きにしても、蒙恬の努力は認めてやっても良いのではないか。戦で飛信軍が立ち回りやすいよう、軍略を企てたのも蒙恬だろう」

「………」

諭すように言われ、信は確かにその通りだと口を噤んだ。

楽華隊が飛信軍の下についた時は、蒙恬は楽華隊隊長として飛信軍の強さを発揮できるように軍略を授けてくれた。

軍師学校を首席で卒業するほど聡明な彼の軍略には確かに幾度も助けられた。
敵の伏兵がありそうな場所を事前に通達してくれて、飛信軍が敵軍に壊滅させられる危機を回避したのだって蒙恬のおかげだ。

いつも優れた軍略で戦況を傾けてくれたことに感謝はしていたが、昇格の度に信は蒙恬へ祝いの言葉を掛けなくなっていた。

あっと言う間に千人将になった時には、あの幼かった蒙恬がこんなにも活躍するとはと、自分のことのように喜んでいたのに。

昇格する度に蒙恬に約束の話を振られるものだから、信は危機感を抱いていたのだ。
それは自分のためでなく、蒙恬に関してだ。

自分が名家の嫡男につり合う立場でないことは信も分かっている。そんな女を名家に迎えることになれば、確実に家臣たちから不満を抱かれるだろう。

蒙家の安泰のためには相応しい女を迎えた方が良いと何度も蒙恬に言っているのに、蒙恬は少しも信の話を聞こうとしないのだ。

元下僕である自分が王騎と摎の養子として選ばれた時も、家臣たちから大いに反対されたのは知っている。

生まれた時から恵まれている者とは待遇が違うのは、この中華では当然のことだ。

信が蒙恬からの求婚を拒絶しているのは、他の誰でもない蒙恬のためでもあった。

(でも…おめでとうの一言くらいは、確かに言ってやらねえとな)

昌平君に諭されたように、蒙恬の将軍昇格は約束を抜きにしても彼の努力が成した成果だ。ちゃんと祝ってやらなくては。

「蒙恬のとこ、行って来る」

昌平君が静かに頷いたのを見て、まだ蒙恬がいることを願いながら、信は先ほどの露台へと戻るのだった。

 

秦王への頼み事

足早に信が去った後、蒙恬は露台で城下町を見下ろしながら長い溜息を吐いた。

酔いが回っている体に夜風が心地よい。しかし、酒で火照った体とは正反対に心は冷え切っていた。

「将軍昇格だというのに、浮かない顔をしているな」

信の言葉を思い返し、溜息を吐いていると、背後から聞き覚えのある声を掛けられた。

「大王様っ!」

秦王である嬴政だ。蒙恬はすぐにその場に膝をついたが、嬴政はそれを止めて顔を上げるように言う。

宮廷の中とはいえ、嬴政は護衛もつけずに歩いていた。

嬴政が守られるばかりの弱い存在でないことを蒙恬は知っているが、いつ何人が狙っているかも分からないのだから警戒は怠らない方が良い。

「ここは見晴らしが良いだろう」

「ええ、そうですね…」

蒙恬の心配をよそに、嬴政は風を浴びて気持ち良さそうに城下町を見下ろしていた。

「…成蟜から政権を取り戻した時も、信とここで過ごしていた。…もう、随分と昔のことだがな」

昔を懐かしむように、嬴政が思い出話を始めた。

二人が成蟜から政権を取り戻す時からの長い付き合いであるのは、秦国では有名な話である。

まさかこの露台で二人きりで過ごしていた思い出があったとは知らなかった。蒙恬の胸に嫉妬と不安の感情が浮かび上がる。

秦王という立場である嬴政は、子孫を繁栄のために後宮にごまんを女性を抱えている。

真面目な性格ゆえ、いたずらに女性たちをたぶらかすことはしないが、だからこそ嬴政に選ばれる女性は羨望の眼差しを向けられていた。

向という女性を正室に迎えた話は聞いていたが、正室の他にも選ばれる女性はいる。

そして、蒙恬はそれが信になるのではないかという不安に苛まれていた。

大将軍の座が簡単に空くことはないと分かっていたが、もしも信が嬴政の子を孕むことがあればすぐにその席は空くことになるだろう。

いや、もしかしたら子を孕む前に後宮に入れられて側室になることを命じられるかもしれない。

(もし、信を後宮に連れて行かれたら…二度と会えない…)

後宮にいる女性は誰もが嬴政の寵愛を受ける権利を持っている。

選ばれるのはほんの一握りであるが、後宮にいる限りは他の男との接触を禁じられる。
秦王以外の男と間違いを起こさぬよう、身籠った子が秦王の子だと僭称する者が現れないよう、男性としての生殖機能を持たない宦官だけが出入りを許されているのはそのためだ。

いかなる理由であっても、宦官と皇族以外の男が後宮に立ち入ることは叶わないし、女性の方も理由がなければ後宮を出ることも叶わない。

このことから後宮制度というものは、秦王から寵愛を受けた女性を逃がさないための檻とも言える。

嬴政が信を一人の女として見ているとしても何らおかしいことではない。それだけ二人が共に過ごした時間は長く、深い信頼関係で結ばれているのだ。

後宮にいる女性たちは嬴政の寵愛を受けようと、いつも敵対心を燃やしているという。そんな彼女たちであっても、信が嬴政の寵愛を受けるとなれば納得せざるを得ないだろう。

嬴政に求婚をされたらと思うと、蒙恬は耐え難い不安に襲われた。
他の誰でもない秦王の命令だ。さすがの信でも断ることは出来ないだろう。

「あの…大王様」

恐る恐る蒙恬は声を掛けた。顔色の優れない彼を見て、嬴政がぎょっと目を見開く。

「どうした。何かあったのか」

意を決したように蒙恬は嬴政の瞳を真っ直ぐに見据えた。睨み付けたと言っても良い。

「今後も秦国のため、大王様のために尽力致します。それで、一つだけお願いしたいことが…」

「なんだ?言ってみろ」

嬴政は続きの発言を許可した。すぐに蒙恬はその場に跪き、深々と嬴政に頭を下げ出す。

まさか玉座の間でもないのに、こんなところでそのような態度を取られるとは思わず、嬴政は瞠目した。

論功行賞の場で褒美は伝えたはずだが、名家の生まれである彼は金も土地も興味がないのだろう。だとすれば、別に欲しい褒美があるのだろうか。

三百人将からあっと言う間に将軍の座に上り詰めた蒙恬の活躍は凄まじい。
その聡明な知能で、これからも秦のために尽力してくれるという期待をしていたこともあり、可能な褒美なら何でも取らせようと嬴政は考えた。

しかし、蒙恬が欲する褒美は、嬴政の予想を上回るものだった。

「―――信を、どうか信を、後宮に入れないでください!」

「…は?」

予想もしていなかったことを懇願され、嬴政の頭は一瞬だけ真っ白に塗り潰された。瞬きを繰り返しながら、嬴政は今の蒙恬の発言を何とか理解しようと思考を巡らせる。

「どうか、お聞き届け願いたく…!」

額を擦り付ける勢いで蒙恬が懇願するものだから、嬴政は狼狽えた。

すぐに返事をされないことから、蒙恬はやはり嬴政が信を後宮へ連れて行こうとしているに違いないと錯覚する。

「蒙恬ッ!!」

急に怒鳴り声が響いたかと思うと、その場にいなかったはずの信が顔を真っ赤にして駆け出して来た。

どうして先ほど去っていったはずの彼女が戻って来たのだと内心驚いたが、蒙恬は顔を上げず、嬴政に頭を下げたままでいる。

「とっとと立てっ!なに政に訳わかんねえこと言ってんだよ!」

信は蒙恬の腕を掴むと、その体を無理やり立ち上がらせた。どうやら今の話を聞いていたらしい。

しかし、蒙恬は信の方を見向きもせずに、再び跪こうとしている。信がそれを阻止しながら何をしているのだと再び怒鳴りつけていた。

「…悪いが、少しも話が見えない。蒙恬は何を言っているのだ?」

もっともな疑問を嬴政が口にすると、蒙恬は俯きながら口を開いた。

「信が、後宮に行ったら、俺は彼女と二度と会えなくなります…」

今の発言は処刑に値するものだと、蒙恬も自覚していた。

もしも嬴政が信を後宮へ連れていくのが本当だったとすれば、自分は秦王の女を奪おうとしている不届き者となる。蒙恬は処刑を覚悟の上で懇願したのだ。

しかし、自分が知らない場所で二人が本当に想いを寄せ合っていたのなら、そんな姿は見たくない。

愛しい女が他の男に抱かれ喜ぶ姿など耐えられないし、心から祝福なんて出来るはずがなかった。

腕を組んだ嬴政が呆れたように肩を竦めて溜息を吐いたので、次に口から発せられる言葉に、蒙恬の心臓は激しく脈を打っていた。

「……なぜ信を後宮に連れていく必要がある?」

「へっ?」

間の抜けた声を上げ、今度は蒙恬が瞬きを繰り返す番だった。

先ほどから蒙恬の腕を掴んでいる信が顔を真っ赤にして、ぶるぶると震えているのを見て、嬴政が納得したように頷いた。

「安心しろ。お前が心配しているようなことは絶対にない。秦王の名の下、ここに断言しよう」

「え…」

穏やかな笑みを口元に携えながら嬴政がそう言ったので、蒙恬は呆気にとられた。

急に目つきが切り替わり、鬼のような形相を浮かべた嬴政が信の耳を思い切り引っ張る。

「いでででッ!政!何しやがる!」

「逃げてばかりでここまで拗らせたお前が悪いんだろう」

耳から手を放した嬴政がそう言ったので、信はばつが悪そうに目を反らした。

「ちゃんと二人で納得するまで話し合え。もしも次に会った時に改善されていないのならば、二人とも伍長に降格させるぞ」

「はあッ!?お前卑怯だぞッ!」

自分が仕えている王に卑怯という言葉を投げかけるのは信だけだろう。しかし、彼女のそのような無礼は昔からであり、嬴政は少しも気にしていないようだった。

颯爽と行ってしまった嬴政の背中を見つめながら、信は何か言いたげに唇を戦慄かせていたが、それは声にはならなかった。

 

本音と偽善

「………」

気まずい沈黙が二人を包み込む。先にその沈黙を破ったのは信の方だった。

「…お前、政に何変なこと言ってんだよ。俺は大将軍だぞ?後宮なんて場所、無縁に決まってるだろ」

呆れ顔で信が声を掛けると、蒙恬は下唇を噛み締めた。

「本当に、大王様と本当に何もないのか?一度くらい、伽に呼ばれたり、とか…」

「する訳ねえだろッ」

顔を真っ赤にした信が怒鳴るように否定をしたので、どうやら本当のようだと蒙恬は安堵した。むしろ拍子抜けしてしまった。

自分が知らないだけで、嬴政と信がそういう仲・・・・・であったらどうしようという心配は杞憂で終わったらしい。

「…信、俺のこと、もっと嫌いになった?」

嬴政に後宮に連れて行かないでくれと懇願したのは確かに早とちりだったかもしれないが、ますます信に悪い印象を与えてしまった気がして、蒙恬は叱られた子どものように縮こまった。

「嫌いになったなんて、今まで一度も言ってねえだろ」

目を反らしながらではあるが、信が即答する。呆気にとられた蒙恬は何度か瞬きを繰り返した。

「じゃあ、俺のために戻って来てくれたの?」

信は何も答えずに、露台から城下町を見下ろしている。

「…昔、城下町で奴隷商人に攫われただろ」

「え?信が助けてくれた、あの時のこと…?」

ああ、と信が頷く。彼女の視線は明かりの灯る城下町に向けられていた。

祝宴で賑わっているのは宮中だけでなく、城下町もだ。民たちが楽しそうに話している声が聞こえる。

「…あの時、捕らえたのは違法の奴隷商人だった。育ちも顔も良い貴族の娘や息子たちを攫って、娼館や後宮に売り払ったり、悪趣味な成金男に売り捌いてたんだよ」

あの時の二人組は信と蒙恬の活躍によって捕らえられ、後に処刑されたと聞いていた。

しかし、今になって、どうしてそのような話をするのだろう。蒙恬は黙って彼女の話に耳を傾けていた。

「お前、自分がいくらで売られそうになったか知ってるか?」

ようやく蒙恬の方を振り返った信は、口元には笑みを浮かべていたが、瞳には悲しい色が宿っていた。

「さあ…奴隷商人が処刑されたのはじィが教えてくれたけど、そこまでは知らないな」

素直にそう答えると、信は「だろうな」と口元の笑みを深めた。

「…俺は他の奴隷と同じように馬数頭分の値で売られたが、お前が売られてたら金五斤はくだらねえ額だったろうな」

ようやく振り返った信は真っ直ぐな瞳で蒙恬を見据えた。

「…分かるか?生まれた時から今も、これからも、俺とお前じゃ価値が違う・・・・・んだよ」

彼女が何を言おうとしているのか、蒙恬には手に取るように分かった。約束をしておきながら、信が数多くの縁談を断り続けている理由もそこにあったことも同時に理解した。

信は下僕出身である自分の価値を低いもの・・・・・・・・・・だと決めつけているのだ。

彼女が幼少期に戦で両親を失い、奴隷商人に売られたのは知っていた。そして、下僕として売られた奉公先で仕事をこなしながら、六大将軍である王騎と摎に引き取られたという話は秦国では有名な話である。

しかし、大将軍の座に就いておきながらも、下僕出身である事実は変わらない。そのことを理由に、自分は誰とも釣り合わない、隣に並んではいけないと考えているのだろう。

「…信」

蒙恬が名前を呼ぶと、信は声を掛けられるのも拒絶するように俯いた。それでも蒙恬は言葉を続ける。

「俺が信に感謝してるのは、本当。それに、信のことが好きなのも本当。それはこれからも変わらない」

「…だからっ!」

どうして分かってくれないのだと言わんばかりに、信が蒙恬を睨み付ける。

「蒙家の安泰がどうとか言うんでしょ」

言葉を遮ると、信が一瞬戸惑ったように目を見開いた。

「分かってんなら、なんで…」

「信こそ、飛信軍が戦に参加していない時でも、論功行賞や宴に来てただろ。それって楽華隊の、俺のためだって自惚れてたんだけど、本当はどうなの?」

「それは…」

まさかそんな質問返しをされるとは思わなかったようで、信があからさまに狼狽える。

戦に参加していない時でも、信は論功行賞の場に必ず現れた。祝いの言葉を掛けることはなくても、論功行賞で蒙恬の名前が呼ばれる度に、論功行賞が行われている間の後ろの方で静かに微笑んでいた。

恐らく信は隠れていたつもりだったのだろうが、いつも蒙恬はそんな信の姿を遠目に気付いていたのである。

「…お前が三百将の時からずっと見てたから…弟みたいな感覚っていうか…」

しどろもどろに言葉を紡いだ信に、蒙恬はこめかみに鋭いものが走ったのを感じた。

「…嬉しくない。弟みたいに思われてたなんて、そんなの知りたくなかった!」

つい口調が荒くなり、声も大きくなってしまう。普段ならこんな些細なことで怒りを露わにしないはずなのに、酒のせいだろうか。

「なんでっ?ずっと信のこと好きだって言ってるのに、なんで逃げるの?」

信が何か言いたげに唇を戦慄かせていたが、蒙恬が彼女の言葉に耳を傾けることは出来なかった。一度堰を切ってしまった想いは止まらず、次から次へと溢れ出て来る。

「信が下僕出身だから、俺が蒙家の嫡男だから、そんなのはもう聞き飽きた!信が本当に思ってること・・・・・・・・・を知りたい!教えろよ!言ってくれなきゃわからないだろ!」

畳み掛けるように言葉を投げつけ、蒙恬は肩で息をしていた。

「お前…なんで…そこまで」

今にも消え入りそうなほど、小さな声だったが、蒙恬の耳にはしっかりと届いた。

「信が好きだからだよ。ただ、それだけ」

その言葉を聞いた信はしばらく俯いたまま黙り込んでいたが、やがて、ゆっくりと顔を上げる。

「俺は、…下僕出身で、顔も名前も知らねえ男どもの使い古し・・・・だぞ」

この身は既に汚れているのだと、自虐的な笑みを浮かべながら信がそう言ったので、蒙恬は肩を竦めるようにして笑った。

「…だから、何?」

驚きも失望もせず、蒙恬が聞き返したので、信は驚いたように目を見張った。信の両肩をしっかりを掴み、蒙恬は彼女の瞳を覗き込みながら言葉を続ける。

「俺が信を好きな気持ちは変わらない」

信が顔ごと目を逸らそうとしたので、蒙恬は彼女の頬をそっと両手で包んだ。

顔を背けられなくなっても、小癪にも視線を逸らそうとする信を叱りつけるように、蒙恬は顔を寄せる。

「う、んッ…ぅ…!?」

唇を重ねると、信が驚いたように目を見張った。
ようやく自分を見てくれたことに蒙恬は安堵しながらも、唇を重ねたまま彼女の体を抱き締める。

腕の中で信がじたばたともがいていたが、逃がしはしないと蒙恬は腕に力を込めた。

「ふ、はっ…」

ようやく唇を離した時、信は肩で息をしていた。
彼女の柔らかい唇の感触の余韻に浸るように、蒙恬はぺろりと自分の唇を舐める。

借りて来た猫のように腕の中で縮こまった信は、湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしていた。

「顔、真っ赤」

過去に相手をした生娘よりも初々しい反応に、蒙恬は愛おしさを噛み締める。

俯いたまま顔を上げられずにいる信は、諦めたように小さく息を吐いた。

「…そんなに娶りたいっていうんなら、せめて何番目かの愛人にしとけよ。それならいつでも捨てられるだろ」

「絶対やだ」

妥協案に蒙恬が即答したので、信は上目遣いで睨み付けた。

「何度も言ってるだろ?お前が考えるのは、俺のことでも、お前の幸せでもない。蒙家の安泰だ」

「それもやだ。俺、一途だもん」

はあ?と信が顔を強張らせる。

「たくさんの女侍らせておいて、一体何言って…」

「あれ、知ってるんだ?俺に興味ないフリしてただけ?」

ぎくりと信の顔が強張る。
自分以外に蒙恬が興味を持っている女がいないか調べるために胡漸や昌平君から話を聞いたことが裏目に出てしまった。

「あれは予行練習・・・・。いつも目を瞑って、信だと思って抱いてた。自慰みたいなもんでしょ」

当然のように返した蒙恬に、信が青ざめている。

「…最低だな、お前」

「今さら気づいた?悪いけど、諦めるつもりなんてないから、覚悟しといてよ」

腕の中に閉じ込めたままでいる信にそう囁くと、彼女は大袈裟な溜息を吐いた。

「ったく、お前ってやつは…ああ、そうだ」

蒙恬の執念とも言える付き纏いに白旗を上げることになり、いつもの調子を取り戻した信が、にやっと白い歯を見せて笑った。

蒙恬将軍・・・・、よくここまで頑張ったな」

「…っ!」

自分にだけ向けてくれた満面の笑みに、蒙恬の心臓が痛いくらいに締め付けられる。

「信、大好きだよ」

気が付けば、蒙恬は再び信の体を強く抱き締めていて、そう口走っていた。

信は返事をしてくれなかったが、背中にそっと腕を回してくれる。

その手は、奴隷商人から幼い自分を自分を助けてくれた時と同じ、温かさと優しさが詰まっていた。

 

仲直りと仕切り直し

此度の勝利で秦国の領土を広げることになった。この様子だと、あと二日は祝宴が続くだろう。

将軍昇格の武功を挙げた楽華隊の活躍は大いに称賛を浴びている。
楽華隊隊長である蒙恬が祝宴の主役に立っても良いというのに、信に「二人きりで飲み直そう」と提案したのは蒙恬本人だった。

信は賑やかな席の方が好きなのだが、蒙恬のお願いを断る理由もなく受け入れた。

咸陽宮の一室では、宴の賑やかな音が遠くに聞こえる。宴のような賑やかさはここにはないが、静かに飲む酒は美味かった。

「あーあ…これからは信と同じ持ち場につくことが少なくなるだろうし、ちょっと寂しいかも」

「なんでだよ」

はは、と信が笑う。

「………」

空になった杯に酒を注ぐことはせず、蒙恬が台に杯を置いた。

「信」

真剣な眼差しを向けられ、信は思わず固唾を飲んだ。

「信のこと、抱きたい」

「は…?」

遠回しでも何でもなく、直球に告げられて、信は目を見張る。

言葉を失っている信を見ても、蒙恬は退かなかった。

「な、何言ってんだよ」

「今までもそういう目で・・・・・・信のこと見てた。でも、無理やりはしたくない」

…先ほど無理やり唇を重ねて来たことは数に加えていないらしい。

重い沈黙が二人の前に横たわる。蒙恬は信の瞬き一つ見逃すまいと、じっと彼女を見つめていた。

「…俺は」

「知らない男たちの使い回しって卑下するんでしょ?」

言葉を遮って、信が言わんとすることを代弁した蒙恬は悲しそうに眉を下げる。どうして蒙恬がそんな表情をするのか分からず、信は怪訝な表情を浮かべた。

蒙恬が椅子から立ち上がり、信の前にやって来る。

その場に膝をついた蒙恬は、座ったままでいる信の膝に頭を摺り寄せた。まるで子が母に甘えるような仕草だ。

俺の大切な人・・・・・・に、そんな酷いこと言わないでよ」

はっとした表情を浮かべ、信は下唇をきゅっと噛み締めた。

「…俺さ、信に口づけたの、さっきのが初めてじゃないんだよ」

埋めていた膝から顔を上げて、上目遣いで蒙恬が信を見上げる。酔いのせいだろうか、悪戯っぽく笑った。

「楽華隊が飛信軍の下についた時、戦が始まって二日目の夜だったかな?眠ってる信に口づけちゃったんだ」

まだ蒙恬が千人将だった時、飛信軍と同じ持ち場を任された戦があった。

信や他の将たちと軍略について話し合う機会があったのだが、飛信軍はその強さ故に激戦地となる前線を任されることが多い。

多くの敵兵を薙ぎ払った彼女は天幕で気絶するように寝入っていた。
ちょうどその時に、翌日の楽華隊と飛信軍の動きについて軍略を告げようと、蒙恬が信の天幕に訪れたのである。

その時の蒙恬は苛立ちと不安に襲われていた。

戦で飛信軍の活躍を間近に見るようになってから、信がいかに多くの者たちから慕われているかを知らされたのだ。同じ軍の副官や兵だけでない、他の軍や隊の将や兵たちだってそうだ。みんな信を慕っている。

幼い頃から信の隣に並び立つために、その背中を追い掛けていたけれど、既に信の隣に並び立つものは多くいるのだと思い知らされた。

焦燥感と嫉妬に駆られた蒙恬は、気づけば眠っている彼女に口付けていたのである。

約束である軍師学校は首席で卒業したものの、まだ大将軍の座には程遠い千人将という立場ながら、早まったことをしてしまったという自覚はあった。

もちろんすぐに我に返り、慌てて天幕を飛び出したのでそれ以上は襲わずに済んだ。

あの時の信は眠っていたので、もちろん彼女は知らないだろうが、このまま胸に秘めておく訳にもいかず、蒙恬は素直に打ち明けたのである。

「………」

「信?」

信が狼狽えたように視線を泳がせたので、てっきり怒鳴られると思っていた蒙恬が小首を傾げる。

「ねえ、もしかして、知ってたの?」

「ッ…」

酔いとは別に顔を真っ赤にさせている。その態度こそ肯定だと分かり、さすがの蒙恬も驚く。

その恥じらいの表情に蒙恬は堪らず生唾を飲み込み、立ち上がって彼女の背中と膝裏に腕を回していた。

「うわッ!?なにしてんだよッ!降ろせッ」

抱き上げられて、急な浮遊感に襲われた信が目を見開いている。

しかし、蒙恬は何も答えずに部屋の奥に用意されている寝台へと向かった。抱きかかえた体を寝台の上に横たえ、蒙恬は彼女の体を組み敷く。

「蒙恬ッ…?」

驚愕と怯えが混じった顔で信が蒙恬を見上げる。

男と身を繋げるのが初めてではないとはいえ、きっと乱暴に扱われたことで、信は身を繋げる行為を苦手としているのかもしれない。

性欲の捌け口として、信を乱暴に扱った奴らの行方はもう掴めない。
それが私情だと蒙恬には十分に自覚はあったが、もしも彼らの行方を掴めたら、信を汚した代償を何としてでも払わせたかった。

しかし、今は憎しみよりも、目の前の女を好きにしてしまいたいという欲情の方が大きい。

「信…」

自分でも興奮で息が荒くなっているのが分かり、蒙恬は自分の余裕のなさを自覚した。

こういうこと・・・・・・は、約束通りに婚姻を結んでから行うべきだと頭では理解しているのに、そこまで待つことは出来なさそうだった。

他の女性を褥へ導く時には余裕を見せつけていたのに、愛する女の前ではこうも心が搔き乱されてしまう。格好つけたかったのに、下半身は痛いくらいに重くなっていた。

「っ…」

体を組み敷かれた信は戸惑った表情を浮かべているが、逃げ出す素振りを見せない。

「…逃げるなら今のうちだけど?」

あえて問い掛けたのは、信に逃げる意志があるのかを確かめるためだった。

酔いが回ってるとはいえ、力が入っていない訳ではないし、逃げ出そうと思えば出来るはずだ。

無理強いはしたくないことも伝えたし、だとすれば信が逃げない理由は何なのだろう。
もしかして期待しても良いのだろうかと蒙恬が生唾を飲み込む。

「信」

視線を泳がせている彼女が何か言いたげに唇を戦慄かせる。蒙恬はすぐにでも彼女の体を好きにしたい欲を必死に押さえつけながら、信の言葉を待った。

「…もう、とっくの昔に諦めてた」

その言葉に、一瞬呆けた顔をして、蒙恬はぷっと吹き出した。

「じゃあ、もう遠慮しないで良いってことだね」

「遠慮してたようには見えねえけどな」

呆れ顔で言われてしまい、蒙恬は確かにそうかもしれないと頷いた。

「信、大好きだよ」

「………」

愛の言葉を囁いても、信は困ったように笑みを浮かべるばかりで、返事をしない。

しかし、蒙恬はいずれ同じ言葉を返してくれるはずだと信じて疑わなかった。

 

後編はこちら

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リプロデュース(五条悟×虎杖悠仁)後編

  • ※悠仁の設定が特殊です。
  • 女体化(一人称や口調は変わらず)・呪力や呪術関して捏造設定あり
  • 五条悟×虎杖悠仁/ストーカー/ヤンデレ/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら 

 

廃校舎の鬼ごっこ

教室を飛び出したのは、ほぼ無意識だった。身体が勝手に動き出したと言っても過言ではない。

これ以上、悟と一緒にいると、今まで二人で築き上げて来た思い出が全て崩れていってしまいそうだった。

まさか大切にしていた思い出が、悟自身の手によって崩されるだなんて思いもしなかった。

何の感情かも分からない涙を流しながら、悠仁は長い廊下を走り続ける。

「悠仁?どこ行くの?」

背後で悟に声を掛けられたが、悠仁は一度も振り返らなかった。

走っているうちに、生徒用の正面玄関が目について、悠仁は学校を出ようとする。

「――痛ッ!」

夢中で大きな扉の取っ手を掴んだ時、鋭い痛みが走り、悠仁は弾かれたように手を遠ざけた。

少し遅れて、右の手の平にじくじくと火傷のような痛みが伝わって来る。

「え…?」

視線を向けると、右手が真っ赤に染まっている。取っ手を掴んだ手の平がズダズダに切り裂かれていた。

何があったのだろうと取っ手をみると、有刺鉄線のように赤黒い何かが取っ手に巻き付けられていた。触れた者は容易に切り裂かれてしまう。

(ヤバいッ)

それが物理的なものではなく、悟が呪力で塞いだのだと判断した悠仁は、即座に玄関からの脱出を諦めて、再び駆け出した。

まさか逃げ出さないように事前に細工を施していたのだろうか。

扉にあのような細工をされているのなら、きっと窓もアウトだ。廊下を走りながら、悠仁は幾つも並んでいる窓に視線を向けた。

注視すると、鍵の辺りだけでなく、窓全体を覆うように呪力で塞がれている。出入り出来る場所が塞がれているとすれば、どこから脱出すれば良いのだろう。

「悠仁?ねえ、怪我したの?」

右手から垂れる血の痕を見たのだろう、距離は開けているが、後ろの方から心配そうな悟の声が聞こえた。他に誰も居ない廃校舎だからだろう、彼の声はよく響いた。

階段を駆け上がり、悠仁は一番近くにあった教室の中に転がり込んだ。

(隠れなきゃ)

悠仁は咄嗟に身を屈める。学校の扉は全てガラス窓がついているので、廊下から教室の中を覗かれる可能性があった。

横長の黒机が並んでおり、教室の隅に薬品棚と人体模型が置いてある。独特な薬品の匂いも伴って、ここが理科室であることはすぐに分かった。

「…!」

扉越しにゆっくりと階段を上がって来る靴音が聞こえて、悠仁は身を屈めながら床を移動する。

横長の黒机の下に身を隠し、なるべき物音を立てないように悠仁はパーカーを脱ぎ、出血している右手を包み込む。血の痕を残す訳にはいかなかった。

階段を上り切った足音を聞こえる。
悟がこの教室に来ないことを願いながらも、悠仁は逃げ道を考えていた。

(玄関も、窓もダメだ…じゃあ、どこから…)

恐らく扉や窓は全て呪力で塞がれているだろう。いくら宿儺の呪力を持っているとはいえ、悟の強大な呪力を破ることは出来ない。

それに、呪力を使うことは悟にこちらの居場所を自ら示すようなものだ。

彼に気付かれずに、脱出するにはどの通路を選べば良いのだろう。

帳を解いて助けを呼んだところで、この廃校舎にはもともと誰も近づかないし、救援など当然ながら期待出来なかった。

それに、今の悟の前で助けを呼べば、仮に誰かが駆けつけたとしてもその者も殺されてしまうに決まっている。彼は自分のために同じ家の人間を簡単に殺したのだ。他人など躊躇なく殺すに決まっている。

(…屋上は…?)

正面玄関は塞がれていたが、咄嗟にこの理科室に逃げ込んだ時には、扉は呪力で塞がれていなかった。

もしも塞がれている扉が外に通ずる玄関だけだけなら、屋上へ続く扉は封鎖されていないはずだ。

屋上から降りて校舎から逃げ出せば何とかなるかもしれない。

「ッ」

乱暴に扉が開かれた音がして、悠仁は反射的に手で口に蓋をした。悟が入って来たのだ。
机の下に身を潜めたまま、悠仁は必死に息を殺し、気配を消していた。

 

理科室のかくれんぼ

「…悠仁、何してるの?もう呪霊も祓ったんだし、帰ろうよ」

悟の声を聞き、悠仁は固唾を飲み込んだ。

理科室に逃げ込んだ姿は見られていないはずだが、悟は悠仁がここにいると既に気付いている。

位置情報を発信している機械が埋め込まれていたピアスはもう外したはずだが、もしかしたら右手の血が廊下に残っていたのだろうか。

悠仁は左手で口に蓋をしたまま、机の下で縮こまっていた。

ここで捕まれば、悟はきっと優しく抱き締めてくれるだろう。一緒に帰ろうと蜂蜜のように甘ったるい言葉をかけてくれるに違いない。

だが、それでは駄目だ。悟の幸せを想っているからこそ、彼と一緒になってはいけない。

どれだけ悟が自分に執着していたとしても、逃がさないとしていても、五条悟が五条悟である限り、彼と一緒にはなれない。

いっそ彼の前を去る時に、酷い言葉をかけて、自分という存在を幻滅させれば良かったのかもしれないと悠仁は考えた。

何も言わずに去るのではなく、悟が自分を見放すように仕向けるべきだったかもしれないと今になって後悔した。

「理科室ってさ、色んな臭いがして面白いよね」

まるでそこにいる悠仁に話しかけるように、悟が声を掛ける。

悠仁が隠れている机の近くを、悟はぐるぐると回っていた。彼の長い脚が見えて、悠仁は必死に声を堪えている。

僅かな呼吸さえも指の隙間から洩れて、彼に聞かれているのではないだろうか。悠仁は懸命に息を殺し、気配を消そうと必死になった。

「………」

しばらく歩き続けて、悟は隠れている机から離れて行ったが、まだ理科室からは出て行かない。

「…へえ、こんなのも残ってるんだね」

教室の隅にある棚の前で立ち止まり、中に入っている物を眺めているようだった。

廃校舎とはいえ、教室には机や椅子が残ったままで、棚の中にも残っている物が多くあるらしい。

鍵は掛かっていなかったのだろうか、棚の引き戸を開ける音が聞こえた。

「あはっ、こんなのもあるんだ」

独り言が聞こえる。このまま自分から興味を失ってくれたら良いのだが、悟は棚の中に残されている物を物色しているようだった。

「悠仁っ!これ、劇薬だって!漫画みたい!」

新しい玩具を買い与えられたかのように、明るい声で悟が笑った。

机の下に身を潜めているのは気づかれているのかもしれないが、こんな風に話しかけてくるのは、こちらの動揺を誘うための演技かもしれない。

もしも後者ならば、悟が理科室から出た後に屋上へ向かおうと悠仁は作戦を練っていた。

「…そういえばさ、悠仁は薬品を被ったんだよね?」

思い出したように悟に声を掛けられる。もちろん返事をする訳にはいかなかったので、悠仁は沈黙を貫いていた。

だが、そこに悠仁の気配を感じているのか、悟は返事が無くても嬉しそうに微笑んでいる。

「悠仁がどんなに苦しんだか、知りたい・・・・なあ」

「!」

瓶の蓋を外した音と、蓋が床に落ちる小気味良い音が理科室に鳴り響く。嫌な予感を覚えた悠仁は弾かれたように机の下から飛び出した。

「先生ッ、待って!」

手を伸ばした時には、すでに悟は瓶の中身を、自分の頭から降り注いでいた。

液体が掛かった箇所からたちまち煙が上がり、嫌な匂いが鼻をつく。

「―――ぁああああッ」

その場に蹲った悟が喉も避けるような絶叫を上げる。

「あづいッ、あづい、痛いッ、いだぃぃ」

一度も聞いたことがなかった悟の苦痛の声に、悠仁は愕然とすることしか出来ない。

空になった瓶が床に転がっている。瓶に貼られていたシールの絵を見て、中身が人に有害な劇薬だと分かると、悠仁は掻き立てられるように悟の前に駆け出した。

「先生ッ!先生ッ」

「ぅうううッ」

悠仁の声も耳に届いていないのか、悟は痛いと泣き喚いている。

まるであの日の自分を見ているようで、悠仁はつい目を背けたくなった。

「しっかりして、先生ッ」

動揺のあまり、悠仁の双眸から涙が溢れ出る。

皮膚の焼ける嫌な匂いに気分が悪くなっていたが、それよりも目の前で起きた現実が信じられず、悠仁は必死に悟の名前を呼び続けた。

「痛いよ、悠仁…痛い、痛い」

悟が怪我をしている姿など一度も見たことがなかった。今のように痛いと泣き喚く姿を見るのも初めてだった。

「悠仁ぃ、痛い、痛い…」

痛みのせいで体が小刻みに震えている。

一番多く薬液が掛かった顔を押さえているが、その腕にも薬品がかかったらしく、服が溶けており、その下の肌は真っ赤に焼け爛れていた。

腕にかかったのが少量だとしたら、顔は一体どれだけ焼け爛れてしまったのだろうか。

「…う、ううぅっ…痛い、熱いよ、悠仁…苦し、い…」

幼子のように啜り泣いている悟を見て、悠仁の瞼の裏にあの日の自分の姿が浮かび上がった。

薬品を浴びた日、悠仁も同じように苦痛の中で悟の名前を呼びながら啜り泣いていた。

「先生…!」

まるで導かれるように、悠仁は悟の体を強く抱き締める。

こんなことで痛みが和らぐとは思えないが、あの時の自分のことを思うと、抱き締めずにはいられなかった。

苦痛の中で悟の名前を呼びながら、悠仁は悟に抱き締めてもらいたいと強く願っていたからだ。

まだお互いに想いが同じならば、悟が望んでいるのは、自分が抱き締めてやることだ。

それは傲慢ではないかともう一人の自分が囁くが、悠仁は強く悟の体を抱き締めることしか出来なかった。

「―――捕まえた」

それまで幼子のように泣いていたはずの悟が、急に穏やかな声色で呟いたので、悠仁は弾かれたように顔を上げた。

「え…」

驚いて彼から離れようとしたが、それよりも早く悟の両腕が悠仁の体を抱き締める。まるで鎖のように二本の両腕が強く悠仁の体に巻き付いた。

「悠仁の方から戻って来てくれたね。根競べ・・・は僕の勝ちってこと?」

「ひぃッ…」

近距離で視線が合う。

悟の肌はあの時の自分と同じように真っ赤に焼け爛れていて、ぐずぐずに溶けている部分もあった。

瞼も溶け落ちてしまったのか、青いガラス玉のような美しい眼球がほとんど剥き出しになっている。

目の前にいるのが、五条悟という男だと分かるまで、悠仁はしばらく時間がかかった。

「…きッ…きゃぁああああああああッ」

恐怖のあまり、喉も裂けるような悲鳴を上げた後、悠仁は意識の糸をふつりと手放した。

 

目覚め

目を覚ますと、見知らぬ和室にいた。

布団に寝かされていて、服は浴衣のような寝間着に着替えさせられていた。

ずきずきと頭が痛む。額に手を当てながら上体を起こすと、焼け爛れていたはずの肌が元に戻っていることに気付く。いや、思い出した。

「あっ…」

記憶の糸が一気に巻き戻り、悠仁は青ざめた。

呼吸を乱していると、障子が開けられた音がして、悠仁は震えながら顔を上げた。

「大丈夫?悠仁」

悟だった。あの理科室で薬品を破ったはずなのに、彼の顔には傷一つ残っていなかった。

自分の顔にも、悟の顔にもあの赤く焼け爛れた醜い傷跡はない。まるで初めからそんなものなどなかったかのように、消え去っている。

まさか夢だったのかと疑ったが、もしそうだとしたら、自分はどれだけ長い夢を見ていたのだろう。

呪術高専を自主退学したところから、本当に、全て夢だったのだろうか?

「先生…」

戸惑いながら悠仁が声を掛けると、悟が安心させるように優しい笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。

「もう僕から離れないでね」

「…せ、先生…」

「全部、夢だったんだよ。悠仁は夢を見てただけ」

まるで思考を読み取られたのように、悟は肯定の言葉を掛けた。

もちろん悠仁だって今までのことは全て夢だと信じたいが、夢だと納得するのは別の話である。

薬品を浴びた痛みも、赤く焼け爛れた肌の感触も、同じように薬品を浴びた悟の叫び声も、薬品で醜く溶けてしまった悟の顔も、悠仁は全て鮮明に覚えている。

記憶に深く刻まれたそれらを夢という一言で片づけるのは、さすがに困難だった。

しかし、悟は悠仁の言葉を聞くつもりがないのか、彼女の体をそっと布団に横たえる。すぐに悟が覆い被さって来て、悠仁は戸惑ったように目を見張った。

「せんせ…?」

「…良かった…」

耳元で囁かれた声は安堵で震えていた。

自分を抱き締めてくれる彼の体も小刻みに震えているのが分かり、悠仁は本気で悟が自分を心配してくれていたのだと気づいた。

彼の広い背中に腕を回し、悠仁はゆっくりと目を閉じる。

悟から離れようと決意するまでは、いつもこんな風にこうして抱き締められては幸福感に浸っていた。

(ダメだ…)

懐かしい幸福感に目を閉じそうになり、悠仁は自分に喝を入れた。

今までのことが夢だったとしても、状況は変わらない。

自分は悟の隣に立ってはいけないのだと自分に言い聞かせ、悠仁は悟の胸を突き放す。

「悠仁?」

拒絶されたことに、悟は小首を傾げている。

「ごめん、先生…」

彼の体を押し退けながら立ち上がった悠仁が小さな声で謝罪する。布団に座り込みながら、悟は呆然と悠仁を見上げていた。

「やっぱり、俺…先生とは、一緒になれない…」

改めて声に出すと、これまで二人で築き上げて来た思い出が走馬燈のように瞼の裏を駆け巡り、喉がきゅっと痛んだ。

しかし、他の誰でもない、悟のための決断だ。今さら覆す訳にはいかない。

たとえ本当に先ほどまでのことが夢だったとしても、悠仁の決意は変わらなかった。

「………」

しばらく悟は黙り込んでいたが、悠仁の体を放そうとはしなかった。

再び体を強く抱き込まれ、悠仁は思わず息を詰まらせる。

もうこれ以上、悟の温もりに触れてはいけない。心が絆されてしまう。悟の優しさに甘えて、現実から目を背けてしまいそうになる。そんなことは絶対に許されないと、悠仁に言い聞かせた。

「それならさ、ねえ、もう一度、初夜をやり直そうよ」

予想もしていなかった言葉を投げ掛けられて、悠仁は弾かれたように顔を上げる。

自分を見下ろしている悟のガラス玉のような青い瞳が、恐ろしいほど冷え切っていて、悠仁は思わず息を飲んだ。

見つめているだけで、指先から心臓まで凍り付いてしまいそうなほど、恐ろしい瞳をしている。

「僕、すごい反省してるんだ」

無意識に悠仁が怯えていることにも悟は気づかず、彼は口元に笑みを浮かべて言葉を紡いだ。

「もしかして、知らないところで悠仁を傷つけたのかなって…だから、もう一度・・・・初夜をやり直そうよ。また一緒に思い出を作れば、悠仁は傍にいてくれるでしょ」

今までのことをなかったことにするかのように、そんな提案をして来た悟に、悠仁の顔が引きつった。

「せ、んせ…俺の、俺の話、聞いてよ…」

縋るように悠仁が悟の腕を掴む。しかし、悟は悠仁と目を合わせているはずなのに、自分のことなど見えていないように言葉を続けた。

「高専や呪術界には戻らなくていいよ。家の奴らには一切手出しさせないし、悠仁は正式に僕の奥さんとして五条家に迎え入れるから。だから、何も心配することはないんだよ」

震える声で懇願するが、悟の耳には届いていないようだった。

彼の青い瞳は自分にしか向けられていないはずなのに、なぜか目が合っていないように思える。

こんなにも傍にいるのに、悟は自分じゃない何かを見ているようで、悠仁は恐ろしくなった。

 

真相

「悠仁、僕ね、悠仁が薬を浴びて、泣きながら僕の名前呼んでるの知ってた」

「…え…?」

その言葉が耳に入って来て、脳が理解するまで時間がかかった。

先ほど、今までのことは夢だと言った悟が、自分の言葉でそれを否定した。悠仁が自ら薬品をかけたことは紛れもなく事実で、先ほどまでのことは夢なんかじゃない。

呆然としている悠仁に、悟はスマホの画面を見せた。

「ほら、これ」

画面には録画した動画が映し出されていた。扉の隙間から撮影したものなのか、両端に扉と壁が映っている。

再生ボタンを押すと、画面の中央で顔を押さえながら悲鳴を上げている自分の姿が映っていた。

『痛い!痛いッ、あづぃ、痛いぃッ…!』

それは紛れもなく、自ら薬品を浴びた自分の姿だった。

焼け爛れた皮膚から煙が上がっていて、動画の中の悠仁は悲鳴を上げながら、痛みに悶え苦しんでいる。先ほどの悟と鏡合わせのようである。

自分の声だというのに、耳を塞ぎたくなるほど悲痛な叫びだった。

やがて、動画の中の悠仁が啜り泣き始める。

『ぅっ…うう、いたい…せんせ…痛いよ…せんせえ…』

まるで迷子のように、弱々しく悟を求め続けている。

「本当に嬉しかったよ。悠仁が泣きながら僕の名前を呼んでくれて、興奮したなあ」

恍惚の表情を浮かべ、悟がスマホの画面の向こうにいる悠仁を覗き込んでいる。

「…見て、たの?」

誰にも見られていないと思ったのに、この動画が何よりの証拠だ。誰にも見られていないと思ったのに、悟は扉の隙間から覗き見ていたのだ。撮影までして。

愕然としている悠仁に、悟はにこりと微笑んだ。

「言ったでしょ?悠仁がいなくなった日から・・・・・・・・・・・・ずっとだよ・・・・・って」

一方的に悠仁が連絡を絶ち、高専から出て行ったことも、出ていく前に自ら薬品を浴びたのも、悟は全て知っていた。その目で見ていたのだ。

ピアスに位置情報の発信機をつけられていただけじゃなかった。言葉の通り、悟はずっと自分を見ていたのだ。もしかしたらこの動画のように、撮影もしていたのかもしれない。

「………」

動画の再生が終わり、二人の間に沈黙が横たわる。

「…悠仁。僕たち、両想いだよね?」

「っ…!」

ゆっくりと立ち上がった悟に確認するように問われ、悠仁は息を詰まらせた。

怒りでも悲しみでもない感情が悠仁の中で波を打つように広まっていく。それが恐怖だと理解した時、悠仁はその場に座り込んでしまった。

(にげ、なきゃ)

逃げろと命令しているのに、足腰に力が入らない。

「ぁ……あ…」

悟を見上げながら、悠仁は畳に爪を立てた。

心配するように悟が膝をつき、悠仁の頬を撫でる。

触れられた場所から、たちまち全身が凍り付いてしまう感覚に襲われて、悠仁はか細い呼吸を繰り返していた。

青ざめている悠仁を見て、悟が不思議そうに小首を傾げる。

「…どうしたの?僕が怖い?」

「……、……」

素直に頷くのは躊躇われた。そんなことで悟が逆上するような男だとは思っていないが、今目の前にいる男は自分の知っている悟ではない。

喘ぐような呼吸を繰り返し、悠仁は涙を浮かべながら畳の上を後退った。

ゆっくりと悟が追い掛け来て、畳の上に膝をつく。悠仁と目線を合わせた悟はにこりと微笑んだ。

「もうどこにも行かないでね、悠仁」

そう言って重ねられた悟の唇から、甘いココアの味がした。

初めて悟と唇を重ねた時と同じ、胸やけがしそうなほど、甘い味だった。

悟の骨ばった大きな手が、悠仁の寝巻着の中に入り込んできて、内腿をするりと撫でる。

「ひ…」

足の間を触られて、悠仁は鳥肌を立てた。

初めて彼に破瓜を捧げた時の痛みと、男の味を覚えて淫らに悟を求めた記憶が一気に悠仁の脳へ雪崩れ込んで来る。

「うっ…」

閉じた淫華を抉じ開けるように悟の指が入り込んで来る。

潤いもないのに指を突き挿れられ、しかし、一切の痛みを感じなかったことに悠仁は違和感を覚えた。

悟以外の男と体を交えたことはないし、高専を出てからそういう経験は一切なかった。

それどころか、自分は女としての幸せを掴むこともなければ、肌を重ね合うあの温もりを感じることは二度ないだろうと思っていた。

「ふ、ぅ…」

淫華に潜り込んだ悟の指がゆっくりと動き出し、悠仁は咄嗟に手の甲で自分の唇を塞いだ。

(なんで…)

悟が指を動かす度にくちゅくちゅと淫靡な水音が立つ。悠仁は羞恥のあまり顔に全身の血液が集まっていくのを感じた。

こんな状況でも、体は悟を求めていたのだろうか。

「っあ、せんせ、やめて…」

反応を楽しむかのように、中を擦る指の動きが単調なものから、確実に悠仁の感じる場所を探るような動きに変わっていく。

悟の手首を掴んで制止を求めるが、彼は口元の笑みを深めるばかりでやめようとしない。

「…さっきまで・・・・・、ここに僕のが入ってたんだよ。ほら」

中を擦っていた悟が指を引き抜いて、悠仁の眼前に突きつけた。粘り気のある白い液体が糸を引いて絡み付いている。

それが淫華の蜜ではなく、男の精液だと分かると悠仁は頭を鈍器で殴りつけられたかのような感覚に襲われた。

眠っている間に、この身は悟によって暴かれていたのだ。

 

二度目の初夜

羞恥で真っ赤になっていた顔が、今度は水を被せられたかのように青ざめていくのを、悠仁はまるで他人事のように感じていた。

自分が意識を失っている間にどれだけ犯されていたのだろう。

「な、んで…」

避妊をしてくれなかったのだと分かり、悠仁は震えながら悟に問い掛けた。

怯えている悠仁を見ても、悟は不思議そうに小首を傾げるばかりだった。

「僕の結婚相手に相応しくないって劣等感があったんでしょ?家のやつらを黙らせても、悠仁は帰って来てくれる気配がなかったし…僕の子供を身籠れば誰も口出せないかなって」

あっさりと答えた悟に、悠仁は息を詰まらせた。

五条悟の子を、つまり、五条家の跡継ぎをこの身に孕ませることで、五条家の人間を黙らせようとしているのだ。

青ざめながら震え始める彼女の姿を見て、悟が愛おしげに目を細める。

「んんッ」

精液がついた指を口の中に捻じ込まれた。味合わせようとしているのか、舌の上を執拗に指が動く。独特な苦みを感じ、吐き気が込み上げた。

想いが通じ合っていたあの頃は、悟に喜んでもらおうと自ら進んで口淫をしていた。

どうやれば男が喜ぶのか、分からないことばかりだったけれど、悟が自分の唇や舌で感じてくれると思うとそれだけで嬉しかったし、悟の射精を口の中で感じて、精液を飲み込むのだって何の抵抗もなかった。

悟もきっと同じように、自分のことを愛してくれていて、それは今も何も変わっていない。

自分が悟の元を離れてからも、彼は変わらず悠仁の傍にいてくれた。静かな凶器すら感じる、以前通りの悟のままだった。

「傷痕を綺麗に戻したように、悠仁の処女膜も戻してあげる。だから、これからはさ、何度でも初夜を繰り返そう?悠仁が満足するまで、僕はずっと付き合うから」

傷痕が初めからなかったかのように、怪我をした記憶ごと消されてしまったように、不都合な記憶は全て悟の中では消去されてしまったのだろうか。

自分の都合よく未来が進むように、彼は何度だって繰り返すつもりなのだ。

狂気に染まった道を、きっと悟は何度も往復して、自分の望む未来を歩もうとしている。

初めて破瓜を捧げた時に味わったあの痛みを、これから自分は一体どれだけ味わうことになるのだろう。

痛みに慣れる日は来るのだろうか。破瓜の痛みさえも不都合な記憶として忘れさせられてしまうのだろうか。

悟との幸せな思い出だけが詰まった自分が、彼と共に未来を歩むことになるのだろう。

「処女のまま子供を身籠るなんて、神秘的だね」

畳の上に押し倒されて、二度目の破瓜の痛みに堪えようと、悠仁は涙を流しながら静かに息を吐いた。

 

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毒杯を交わそう(李牧×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は毒酒で乾杯を(桓騎×信)の番外編です。

前編はこちら

 

悪戯

濡れてしまった着物を掴みながら、李牧は信の耳元に唇を寄せた。

「信、そのままでは風邪を引いてしまいますよ」

「~~~ッ!」

わざと吐息を吹き掛けるように低い声で囁くと、信の身体が震え始める。ぎゅうっと体を縮めた彼女を見て、李牧の笑みは止まらない。

体調を気遣う名目から、目的が悪戯にすり替わっていた。

先ほどのように自分を睨みつけたり、手を振り払ったりする様子もないことから、信にはもう微塵も余裕がないことが分かる。

全身が性感帯になったとでもいうのか、どこに触れても、弱い刺激だけでも、彼女は体をいちいち反応させていた。

こんなに愛らしい反応を見せつけられれば、何もしない方がおかしいだろう。

執拗に李牧から離れようとしていたのは、きっとこのせいだったのだ。二人きりでいるところを疑われたくないのではなく、自分の体質を分かってのことだったに違いない。

「触んなっ…」

帯を解こうとする李牧の手を掴み、信は真っ赤な顔で睨んで来る。

そのような目線を向けられれば、もっとしてやりたくなるという男の汚い欲を、どうやら彼女は知らないらしい。

信の身体を組み敷くと、怯えた視線を向けられた。しかし、瞳には情欲の色がはっきりと浮かんでいる。

必死に抗っているとはいえ、一度火が付いた情欲はそう簡単には鎮火出来ないものだ。毒の副作用とでもいうのなら、なおさらのことである。

「は、ぅ…」

身を屈めて、李牧が信の白い喉に唇を寄せると、彼女は甘い吐息を零した。

まだ抵抗する意志が残っているのか、両手で李牧の身体を突き放そうとして来たが、少しも力が入っていない。見方によっては男を誘っているようにも見える。

「せっかく同盟を結んだのですから、何かおめでたい話題の一つでも持ち帰りたいものですね」

「…っ…?」

肩で息をしている信には、李牧の言葉の意味が伝わっていないようだった。もう冷静に思考を巡らせることも出来ないらしい。

「やっ…」

美しい装飾を施されている帯を解くと、信が焦った表情を浮かべる。

力の入らない手で襟合わせを掴んで、肌を隠そうとするが、その手を振り払うのは簡単だった。

まるで果実の皮を剥くようにして着物を脱がせていくと、彼女の肌が露わになる。

普段は着物と鎧で覆われている肌は白く、多くの戦を生き抜いて来た証でもある傷がたくさん刻まれている肌ではあったが、若さゆえに艶もある。

「信…」

紅に彩れた瑞々しい唇を貪り付きたかったが、彼女への口づけは毒を食らうことになる。

毒の味に興味があるのは事実だし、接吻で死ねるというのもなかなか耽美な夢を見せてくれそうではあるのだが、まだ死ぬわけにはいかなかった。

代わりに、李牧は彼女の額や頬に唇を落とした。

「ん、やっ、あ…」

唇の感触だけでも堪らないといったように、信が切なげに眉根を寄せていた。

その反応を楽しみながら、李牧は身を屈めて今度は首筋に口づけを落としていく。

「ふ、ぁあっ…」

ちゅうと音を立てて白い肌に吸い付けば、信が喉を突き出しながら、甘い声を洩らした。

艶のある肌と比例するように、美しい形と量感のある胸を手で包み込む。柔らかさを手の平いっぱいに味わっていると、信が膝を擦り合わせていた。

父の仇同然である男にこのようなことをされて、恥じらってはいるものの、その顔からは欲情を隠し切れていない。言葉にしないだけで、もっとして欲しいと全身が訴えていた。

「ん、やぁっ…」

胸の突起を軽く摘まむと、切ない声が上がった。

甘い声を聞いている内に、興奮で指に力が入ってしまう。突起を指の腹で押し潰したり、強く引っ張ると、信は幼子のように首を振って泣きそうな声を上げていた。

信と違って、李牧は少しも酒を飲んでいないというのに、まるで全身に酔いが回っているかのように心臓が早鐘を打っている。

きっと目の前にある毒酒に充てられたのだと李牧は思った。

左手で胸を揉みしだき、右の胸に唇を寄せる。上向いた突起を口に含むと、信の体が仰け反った。

「んあぁっ」

感度が上がっているせいだろう、いちいち反応が愛らしくて、もっと泣かせてやりたくなる。

痛いくらいに男根が勃起しており、李牧は目の前の少女に興奮を覚えている自分に気づいた。

 

悪意

足の間に指を差し込むと、彼女の其処は既に蜜で塗れていた。湿り気のある熱気も共に指先から伝わって来る。

「ひっ、ぃ」

触れるだけで信の身体が大きく跳ね上がった。

「やっ、ぁあ」

蜜の滑りを利用して、指を押し進めていくと、簡単に根元まで呑み込んだ。最奥にある柔らかい肉壁を突くと、信の体が小刻みに震え出す。

中で指を折り曲げたり、悪戯に最奥を突くと、蜜がどんどん溢れ出して来て、あっという間に李牧の手を濡らしていった。

「ぁあっ、やめ、ろっ、抜けってば、ぁ…!」

まさかまだ理性があるのかと李牧は驚いたが、体は既に性の快楽に堕ちている。ここに男が欲しくて堪らないのだろう。

ぐずぐずに蜜で濡れたそこが差し込んでいる指を締め付けて来たので、李牧は笑ってしまった。

「本当に抜いて欲しいのですか?離してくれないのはあなたの方ですよ」

「ぅう…」

信は泣きそうな声を上げて理性と欲望と戦っているようで、首を横に振るばかりだ。本当は欲しくて堪らないくせに、言葉にはしない。

このまま弱い刺激だけを与えていき、限界まで追いつめて信の口から強請るような言葉を言わせるのも一興ではあったが、今の李牧にはそこまでの余裕は持ち合わせていなかった。

「んんぅッ」

強引に指を引き抜くと、その刺激だけでも感じるのか、信の体が大きく跳ねる。

同じ空間で肌を合わせているだけだというのに、こんな淫らな姿を見せられて平常心でいられる男などいない。

前を寛いで勃起し切っている男根が露わにすると、信が瞠目した。

「やッ、やめ…」

力の入らない両手で李牧の体を押し退けようとするが、そんな僅かな抵抗も今となっては男をそそる材料でしかない。

膝裏に手を回して両脚を大きく開かせると、信が身を捩って逃げようとする。

細腰を掴んでその体を引き戻し、花襞を掻き分けて、今も蜜を零している淫華に男根の先端を擦り付ける。蜜と先走りの液が混ざりあって、卑猥な水音が立った。

今からこれが入るのだと教え込むように、男根の先端を入り口に擦り付けると、信の内腿がびくびくと震えた。

態度では嫌がっているように見せても、昂っている体は早く欲しいと男を求めている。

まるで奥へ誘い込むかのように、入り口が打ち震えているのを感じて李牧は苦笑を浮かべた。

「挿れますよ」

「あっ、やだッ、やぁああッ」

前に腰を推し進めると、信が悲鳴に近い声を上げた。

中は狭いが奥までよく濡れており、男根をすんなりと受け入れた。指で慣らしもせずに挿れたというのに、まるで待ち望んでいたかのように李牧のことを迎え入れていた。

互いの性器を馴染ませるように、李牧は奥まで腰を進めた後は動かずに信の体を強く抱き締める。

挿入したばかりだというのに、信の淫華は男根をきつく締め付けて離さない。

彼女の反応や年齢からして、男との経験があったのは分かっていたが、まるで生娘処女のような締め付けの良さだった。

「ッ…!」

あまりの気持ち良さに思わず喉が引き攣る。

もちろん李牧とて女との経験はあったが、男根を挿入しただけでこんなにも具合が良いと感じる淫華には過去に一度も出会ったことがなかった。

「ぅううっ…抜けよッ…!」

敷布を掴んで、信は泣きながら逃げようとする。この期に及んでまだ逃げられると思っているらしい。

潤んだ瞳で見つめられると、それだけで男の情欲が掻き立てられる。この女が快楽に悶え、蕩けていく様を見てみたい。

口の端がつり上げた李牧は信の腰を抱え直すと、その体を突き上げ始めた。

李牧が腰を動かす度に、性器と性器が擦れ合ってぐちゅりと粘り気のある音が響く。

「~~~ッ!」

鼓膜を揺する音にさえ感じているのか、信は幼子が駄々を捏ねるように首を振っている。

突き上げる度に、ますます蜜が溢れていき、彼女の中はまるで意志を持った生き物のように李牧の男根をきつく締め上げた。

眩暈がしそうになるほどの快楽に襲われ、李牧は息を切らしながら夢中で腰を揺する。

「はあッ…信ッ…」

初めて女を抱いた時のような、未知の快感を知った興奮に近かった。それだけ信の中は具合が良い。

「ぃやあッ、ぁああッ」

互いの汗ばんでいる肌を擦り合わせるようにして、信の中を穿つ。

恍惚な表情を浮かべている信に唇を重ねようとして、それが叶わないことを思い出す。

しかし、このまま深く身を結んだまま、彼女から毒を受けて死んでも良いとさえ思えた。

「信ッ…」

快楽に飲み込まれそうになる理性を必死に繋ぎ止めた。

大きく開かせていた彼女の足を掴み、体を横向きにさせる。李牧も寝台の上に寝そべり、彼女の体を後ろから抱き込んだ。

背後から信の体を抱き込みながら、李牧はゆっくりと腰を突き上げ始める。

「ぁああッ」

先ほどの正常位より密着感が増したせいか、信の声が高くなる。

(これは…)

信の背中には赤い痣が幾つも刻まれていた。それが男の唇によって刻まれた痕だというのはすぐに分かった。

薄くなっているものから、最近つけられたと思われる濃いものまである。この女は自分のものだという印を刻み付けた独占欲の表れに見える。複数の男ではなく、一人の男のによってつけられたものに違いない。

「あっ…やあッ…」

痣を指でなぞると、くすぐったいのか、信が身を捩る。

これだけの数を刻み、そして消え去らないように幾度も重ねて痕をつけていることから、信を抱いた男は独占欲がよほど強いのだろう。

首筋ではなく、肌が隠れる着物の下につけているのは、人目につかない場所にしてくれと信に懇願されたからなのだろうか。

腰の辺りにも指の痕がある。信の細腰を掴んで揺さぶった何よりの証拠だ。

今この体を好きに扱っているのは自分だというのに、他の男の痕を見せつけられたかのようで、李牧の胸に嫉妬の感情が渦巻く。

「ひゃあぅ」

引き締まった太腿を持ち上げながら律動を送ってやると、信が高い声を上げて身を捩った。

背中を向けていて、表情は少しも見えないのに、その悩ましい声だけで信がいかに淫らな顔をしているのかが分かった。

「ッ…!」

息を止めて、深く、力強く、男根を抽挿した。

肌がぶつかり合う激しい打擲音が、信の喘ぎ声と共に部屋に響き渡る。

「信ッ…信…!」

口づけが出来ない代わりに、李牧は彼女の項に思い切り噛みついた。

「あっ、ぅあ…」

血が滲むほど強く噛みついたというのに、その痛みさえ快楽に変換されてしまっているのか、信は甘い声を上げていた。

背後から手を伸ばし、淫華に触れる。自分の男根を口いっぱいに咥え込んでいる縁を指でなぞると、彼女と一つになっているのだという実感が湧いた。

「やあッ」

繋がっている部分から指を滑らせて、ぷっくりと充血している花芯に触れると、信の体が仰け反った。官能をつかさどるそこは、情事中は女の急所となる。

「や、やめ、ろッ、やだあッ」

喜悦に声を震わせている彼女に苦笑を浮かべながら、李牧は腰を動かしながら、指で花芯を弄った。後ろと前を同時に刺激責められて、信は泣きそうな声を上げる。

ただでさえ男根を強く締め付けているというのに、より男根を締め付けられ、李牧は生唾を飲んだ。

少しでも気を抜けば簡単に吐精してしまいそうになる。それだけ信の中は男を夢中にさせるものだった。

「ぅああっ」

信の項に何度も歯を立てたり、赤い痣をつけながら、李牧は律動を送る。

この腕の中にある体を、初めて女にしたのは誰なのだろう。信の背中に刻まれている赤い痣を眺めながら、李牧は嫉妬の感情をますます膨らませていった。

 

最悪の目覚め(桓騎×信)

窓から差し込む朝陽に目を覚ますと、李牧は隣にいなかった。

もしかしたら昨夜の情事は夢だったのだろうかと眠たい目を擦りながら、信はゆっくりと上体を起こす。気分は最悪だった。

「はあ…」

酒と毒はすっかり抜けたようだが、頭がずきずきと痛むのは間違いなく二日酔いのせいだろう。

傍にある水差しで水を飲み、信はふらつきながら、立ち上がろうとした。

「う…」

床に足をつけた途端、粘り気のあるどろりとした何かが足の間から溢れるのを感じて、信は顔をしかめた。

足を伝っていく白いそれが男の子種であることを思い出す。信は李牧との一夜が、夢でなかったことを嫌でも理解した。

一人で鴆酒一瓶空けるのはさすがに飲み過ぎだった。いつも恋人と二人で一瓶を空にしているから、昨夜は倍量飲んだことになる。

(…最悪だ…)

毒を摂取し過ぎることによる自分の特殊な体質については理解していたのだが、よりにもよって、父の仇同然である男に身体を許してしまった。失態に反吐が出そうになる。

まさか宴の場で、恋人がいつも酒蔵から仕入れている鴆酒が出て来るとは思わず、咄嗟に奪ってしまったのだが、その行為自体に信は後悔していない。

呂不韋の身勝手な行動でこれ以上、秦国が卑怯者の集まりだと思われることが許せなかった。呂不韋が指示をしたとしても、最終的には秦王である嬴政の品格を問われることになるからだ。

「はあ…」

もらい湯をしたら、すぐに屋敷へ帰ろう。恋人にこんなことを知られる訳にはいかなかった。

ただでさえは嫉妬深いのだから、もし昨夜のことに気付かれたらどんなことをされるか分からない。

も昨夜は宴に参加していたと思うのだが、趙の一行がいたせいか声を掛けてくれなかった。

まだ宮中にいるかもしれないと思ったが、つまらないと感じたならば早々に屋敷に帰る男だ。もしかしたら昨夜のうちに帰宅して、屋敷で飲み直しているのかもしれない。

恋人の存在がありながら、李牧とまぐわってしまったこともあり、とても合わせる顔がなかった。

壁に手をつきながら、ふらふらと歩く。

情けないほど下半身が言うことを聞いてくれないのは、昨夜の情事がいかに激しかったかを知らしめているようだ。

「…?」

扉を開けると、朝のはずなのに暗い影が信を包み込む。

窓から差し込む朝陽は眩しかったはずだが、急に天気が悪くなって来たのだろうかと思い、信は顔を上げた。

「よォ、お目覚めか」

「へ…?」

毒酒を飲み交わす唯一の仲間であり、恋人である桓騎が腕を組んで、信のことを見下ろしていた。

ここは宮廷だというのに、まるで戦場で感じるような殺気交じりの鋭い眼差しを向けられていて、信は逃げ出すことも忘れて硬直してしまう。

「な、なんで…?」

喉から絞り出した信の掠れた声に、桓騎がふっと口元を緩めた。

彼のこんなに穏やかな笑みは信にしか見せない表情の一つなのだが、今の信にとっては恐ろしい予感しかしない。

「人前で毒酒は飲むなって、あれほど言ったよなァ?」

「い、いや、あの…これは…」

一歩桓騎が前に出ると、信は反射的に後ろに下がる。

昨夜中、ずっと李牧と共に過ごしていた室内は、誤魔化しようのない情事の痕跡が残っていた。男と女の発情の芳香は隠し切れていないし、何より、信自身の体にも情事の痕が残っている。

着物で隠せない首筋にも赤い痕がいくつも刻まれていることに、信本人は気づいていなかった。

「毒酒を飲み過ぎると、自分がどうなるか分かってて飲んだってことで良いんだよな?」

鴆酒に限らず、毒物を多量に摂取すると、毒に耐性のある信の体は一時的に媚薬を飲まされたかのように性欲と感度が増強する。

それを信自身も分かっていながら、自分以外の男にその姿を曝したことが桓騎には許せなかった。

どんな過程があり、上手い言い訳をされたとしても、信が自分以外の男と身を重ねたのは紛れもない事実だ。これはきつい仕置きをしただけで済む話ではない。

「ひっ…」

唯一の出口である扉を後ろ手で乱暴に閉められて、信は顔から血の気を引かせる。これから昨夜のことを咎められるのだと嫌でも察したのだった。

既に足腰は使い物にならなくなっているというのに、こんな状態で襲われれば一体どうなってしまうのだろう。

桓騎が嫉妬深い男であることを、信はよく知っていた。だからこそ彼に気付かれてはいけないと分かっていたのに。

「あ、あの、ご、ごめ…」

涙目で信が謝罪を言いかけた時には既に、彼女の体は桓騎によって寝台に押し倒されていた。

「許さねえぞ」

顔を見なくても、耳元で囁かれたその声だけで、桓騎が憤怒していることは明らかだった。

 

桓騎×信の本編はこちら

 

政略結婚

趙へと戻るために、李牧は出立の準備を整えていた。

早く帰りたいと願っていたはずなのに、いざ帰還するとなると、これからのことで頭が痛くなる。

秦趙同盟の報告や、韓皋の城を明け渡す準備、不在にしていた時の他国の動き、さまざまなことが李牧の脳裏を過ぎった。

「宰相殿」

馬車へ乗り込もうとした時、できれば聞きたくなかった声に呼ばれ、李牧は咄嗟に笑みを繕って振り返る。

「これは丞相殿。お見送りに来てくださったのですか」

供手礼をすると、呂不韋は昨夜の宴のせいか、顔にやや疲労を浮かべていたが、笑みを返した。春平君一人を人質に取ったことで韓皋の城を手に入れたことがさぞ嬉しいのだろう。昨夜は遅くまで宴を楽しんでいたに違いない。

「お帰りの前に、一つだけ頼み事をしてもよろしいかな?」

おまけ・・・はもうお付けできませんよ」

韓皋の城を明け渡すことになったことを皮肉交じりにそう言えば、呂不韋は豪快に笑いながら首を横に振った。

「飛信軍の信という娘だ。いやあ、昨夜はあの娘が随分と無礼を致した」

口元に下衆な笑みを浮かべたことに、李牧は肩を竦めるようにして笑った。

鴆酒を飲ませようとしたのは呂不韋の企みだったはずだが、李牧を庇った信にその罪を擦り付けようとするかのような言葉に、さすがに気分が悪くなる。

「その後、あの娘からもてなしを受けたようで?」

彼の口ぶりから察するに、呂不韋は李牧が信と夜を共に過ごしたことを知ったのだろう。

李牧が返事をせずに微笑んでいると、

「…王騎の娘であり、数多くの武功を挙げているのだが、あの娘はどうも嫁に行くつもりがないようでのう。昨夜のように着飾れば、見目は悪くないと思うのだが、あのように男に靡かぬ性格が何とも…」

長い髭を片手で整えながら、呂不韋は天気の話題でもするかのようにそう言った。

自分でない男に信のことを話されると妙な苛立ちが沸き起こる。昨夜、体を交えたせいで独占欲を抱いてしまったのかもしれない。

だが、ここで不自然に話を切り上げる訳にもいかなかった。逃げたと思われるのは癪だ。

「そういえば、宰相殿も未だ妻子が居らぬのだとか?」

「ええ、まあ」

李牧は言葉を濁らせた。何を言わんとしているのかが手に取るように分かり、苦笑が滲んでしまう。

「それでは」

ぽん、と手を打った呂不韋が満面の笑みを浮かべた。しかし、それは商人としての顔であることを李牧はいち早く見抜いたのだった。

「秦趙同盟を結んだ暁に、あの娘を嫁にもらってやってはくれんか?亡き両親も可愛い娘がいつまでも独り身では気がかりであろう」

「それは嬉しいご提案ですね」

口元に浮かべた笑みは作り上げたものだったが、発した言葉は本心だった。

あの娘を気に入ったのは事実だし、縛り上げてでも連れ帰りたいと李牧が昨夜考えていたのも事実だ。

明るい返答を聞き、呂不韋はますます楽しそうに目を細めた。

「趙の宰相殿がお相手なのだ。こちらも咎める者など居ないだろうて」

信は六大将軍である王騎と摎の養子だが、王騎も摎ももういない。王家の一員ではあるものの、二人という後ろ盾がないことを呂不韋は良いように利用したのだ。

「…昨夜もそのように手配をして・・・・・・・・・・・・・くださったようですから、ありがたくお受けいたします」

どうやらこちらが何を言わんとしているのか、呂不韋も察したようで、彼の商人としての顔がますます深まる。

あの後、宴の間に自分と信が戻って来なかったことは呂不韋も気づいていたに違いない。

二人で同じ客間にいたことから、自分と信がそういう仲であると誤解してくれたらしい。だからこそこの話を持ち掛けたのだ。

「………」

こちらの言葉を聞いた呂不韋が何も言わずに微笑んだので、恐らく信の毒が効かない体質を知っていたのだろう。鴆酒を飲み過ぎるとああなることも・・・・・・・、事前に情報を得ていたのかもしれない。

李牧が鴆酒を飲んだとしても、信がそれを庇ってくれたとしても、きっと呂不韋にとってはどちらでも良かったのだ。

鴆酒を飲んだ時に信と交わしていた言葉も、今となってはわざとらしい演技であったということである。

しかし、呂不韋は新たな交渉に目を光らせていた。

「いやあ、これはめでたい。お二人という存在が秦趙を繋ぐ架け橋になるだろう」

此度の同盟が解消されたとしても、結んだ婚姻が解消されることはない。

信の存在は秦には欠かせない戦力だというのに、なぜ趙に売るような真似をするのだろうか。

強い意志が秘められた呂不韋の双眸を見据えながら、恐らくこの男にとって信は邪魔な存在なのだと李牧は思った。

事実、信も呂不韋のことを毛嫌いしていたし、丞相である呂不韋を少しも信頼していないのはあの態度を見て明らかだった。

信が厚い忠義を向けているのは嬴政だけであり、そして呂不韋が秦王の座を狙って目を光らせていることも、李牧には分かっていた。

恐らく、嬴政にとって強靭な剣である信の存在を遠ざければ、秦王の座を奪い取れると見て趙の宰相である李牧との婚姻を提案したのだろう。

嬴政に厚い忠義を持つ信がそれを拒絶するのは目に見えているが、将軍の立場では丞相の命令には背けない。

そして今の秦王には呂不韋の命令を退けるような力がないことを、李牧はあの交渉の場で察していた。

「…秦の丞相殿が仲人を担ってくれるだなんて、ありがたいですね。そのお話、喜んでお受けいたします」

「お任せあれ。おまけをつけてくれたせめてもの礼じゃ」

上手いことを言うものだ。しかし、李牧は純粋に信との婚姻を喜ばしく感じていた。

そこに信の意志も心もないのだと分かっていながら、彼女を傍におくことが出来るのならば、これほど嬉しいことはない。

趙の宰相である李牧と婚姻を結べば、信は秦将として二度と戦に立つことは出来なくなる。同盟をより強固にさせるために離縁は決して許されないし、早々に子を孕ませてしまえばいい。

李牧は呂不韋の企みをもう一つ見抜いていた。

ここで自分に恩を売っておけば、李牧がいる趙に逃げ道を作ることができると呂不韋は考えたのだろう。

秦王の座を狙いつつも、国が危うくなれば容易に見捨てることも厭わない忠義のなさに、李牧は本当に食えない男だと思った。

(まあ、今はいいでしょう)

呂不韋は気に食わないが、信との婚姻を進めてくれるのならば利用するまでである。こちらとて、いつまでも黙って利用されてやるつもりはないのだから。

「では、祝宴は両国を挙げて盛大に行いましょうぞ」

「ええ、今から楽しみで仕方がありません」

趙の宰相と、秦の丞相が穏やかな笑みを浮かべていたが、辺りにはたちまち重い空気が纏わりついていた。まるで肺に鉛のような毒を流されたかのような気分だ。

昨夜、信を抱いたことで、自分も彼女という毒に侵された。もしかしたら自分にも毒の耐性が出来たかもしれない。

本当にそうだとすれば、今度こそ唇を重ね、いずれは夫婦で毒酒の味を分かち合いたいものだと、李牧は笑みを浮かべるのだった。

 

李牧×信の秦趙同盟IF話はこちら

この毒耐性シリーズの桓騎×信←王翦はこちら

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初恋の行方(蒙恬×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/ギャグ寄り/年齢差/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

初恋

初恋は実らないという迷信は確かに存在したのかもしれない。

しかし、蒙家の嫡男として生まれた蒙恬は、自分だけはその迷信に当てはまらないと、何の根拠もなく信じていた。

初恋の相手と問われて蒙恬が想像するのは、家庭教師の女性である。

蒙家の嫡男として甘やかされて育った蒙恬は常日頃から勉強を怠けており、そんな彼を何とかやる気にさせようと、教育係の胡漸が連れて来たのだ。

蒙恬は彼女の色気に当てられて、それまでの遅れを取り戻すように勉学に励んだ。

優秀な成績を修めれば、何でも一つ願いを叶えてくれる・・・・・・・・・・・・・・という約束を彼女と交わしたためである。

当時の蒙恬はまだ十もいかない年齢だったというのに、豊潤な若い女体を好きにして良いのだというご褒美のために、必死になった。男という生き物は幼少期から単純なのである。

与えられた課題を全てこなし、いよいよ約束を叶えてもらうと言った日。家庭教師の女性から南方へ嫁ぐことが決まったと告げられた。

笑顔で手を振りながら馬車へ乗り込む彼女の姿を、あの時に飲み込んだ涙の味を、蒙恬は一生忘れることはないだろう。

 

城下町

父の蒙武に連れられて、秦の首府である咸陽へ行った時のことだった。

呂氏四柱としての公務のために蒙武は宮廷へと赴いたのだが、珍しく息子の蒙恬を同行させたのだ。

祖父の蒙驁と同じく、日頃から戦や公務ばかりで息子に構ってやれないことを気にかけていたのかもしれない。

常に武を追い求める不愛想な父であったが、家族のことをちゃんと想ってくれていることは幼い蒙恬にも何となくわかっていた。

宮廷への同行は許されなかったが、戻るまでは胡漸と共に城下町で好きに過ごすようにと言われた。

弟の蒙毅は蒙恬よりもまだ幼く、今日は屋敷で乳母が見ている。弟のためにお土産の一つでも買ってあげようと、蒙恬は教育係のじィこと胡漸を連れ回した。

咸陽の城下町には見慣れない物がたくさん並んでいて、幼い蒙恬の好奇心は燃え盛っていた。

色んな暖簾や幟も立ち並んでおり、区画ごとに店も業種も異なる。店を構えない坐買露店も多く並んでいて、どれも蒙恬が見たことのない品物ばかりだ。

「ねえ、じィ!これはなに?ねえ、あっちのは?」

胡漸の袖を引っ張りながら、蒙恬が見慣れない売り物に目を輝かせている。

傍から見れば祖父と孫にしか見えない二人だ。店主たちは愛らしい蒙恬の姿を見て、自然と笑みを綻ばせている。

蒙恬は男だというのに、女子のような美しい顔立ちをしており、この人混みの中でも特に人目を引いていた。

お気に入りの家庭教師が嫁に行ったことで、しばらく屋敷に引き籠っていた蒙恬だったが、今はそんなことを忘れてしまったかのように楽しそうだ。

事情を知ったのかそうでないかは分からないが、蒙武が落ち込んでいる息子を咸陽へ連れて来たのは、もしかしたら慰めの意味もあったのかもしれない。

「も、蒙恬様、どうかお待ちを…!」

楽しんでいる蒙恬と反対に、胡漸はあちこち走らされてはその先で質問攻めに遭い、普段以上に苦悶の表情を浮かべている。

しかし、愛らしい笑顔で「じィ、大好きだよ」と言われると、それまでの苦悩も疲労も吹っ飛んでしまうので、子どもとは凄まじい存在だと胡漸は日々痛感させられていた。

弟へのお土産を吟味しながら、じィとの追いかけっこを楽しんでいると、ちょうど曲がり角で誰かとぶつかってしまった。

「わッ!」

「っと…危ねえな」

尻餅をつく前に腕を引っ張られて、蒙恬は軽い体を起こされる。

「気をつけろよ、ガキ」

蒙恬よりも背の高い、青い着物を着た少年だった。

目つきは鋭いが、冴え冴えとした瞳をしている。声色からして、怒っていないことはすぐに分かった。

「ごめんなさい」

蒙恬は素直に謝った。名家の嫡男として生まれ育った蒙恬だが、礼儀は弁えていた。

じィこと胡漸に対しては甘やかされていると自覚があるので、いつもからかってしまうのだが、顔も名も知らぬ者にはきちんと立場を弁えた言動を取ることが出来る。

この端正な顔立ちで、きちんと礼儀を弁えているということもあって、蒙恬は家臣たちから可愛がられ、そして将来を期待されていた。

幼い頃から自分の利になることに目ざとく反応出来たのは、蒙家の嫡男として甘やかされて育ったからかもしれない。

「じゃあな」

青い着物の少年は、素直に謝った蒙恬に穏やかな笑みを浮かべて去っていった。背中に大きな剣を携えているのを見て、あの年齢でもう戦に出たのだろうかと考える。

年齢も身長も自分より少し上なのは分かっていたが、蒙恬のことをガキ呼ばわりするほど大人には見えなかった。

自分もいずれは父のように戦で活躍出来るのだろうかと蒙恬が考えていると、胡漸の声が聞こえないことに気が付いた。

「あれ?じィ?」

振り返っても、胡漸の姿はなく、多くの客と商売人で溢れ返っている。

それまで当たり前のように後ろについていた胡漸の姿が見えなくなってしまったことに、蒙恬の胸が不安できゅっと締め上げられた。

じィのことだから、絶対に自分を探しているはずだ。彼が自分の傍を離れるはずがない。
蒙恬は今来た道を引き返そうと踵を返した。

(じィ、いない…どこ行ったんだろう?)

人混みを掻き分けながら、蒙恬は不安に眉根を寄せていた。

胡漸の姿がどこにもないのだ。いつものように「蒙恬様」と泣きながら呼んでいる声も聞こえない。客と商売人たちの談笑のせいでかき消されているのかもしれない。

いつも自分の傍にいてくれるはずの胡漸がいないことで、蒙恬の不安がどんどん広がっていく。

「じィ…どこ?」

子どもの小さな背丈では遠くまで見渡すことが出来ず、胡漸の姿を探すのも難しい。このまま一生会えなかったらと思うと、蒙恬の円らな瞳がみるみるうちに涙が潤んでいく。

「うう…じィ…」

人混みの中で狼狽えていると、背後から見知らぬ男に肩を叩かれた。

「…お嬢ちゃん、お付きの人を探してるのかい?」

「え?」

いきなり声を掛けられて、蒙恬は驚いたように目を見開いた。

でっぷりとした腹が目立つ、歳は中年くらいの男だった。質の良い着物に身を包んでおり、それなりの地位を持っていることが分かる。

迷子になっている蒙恬を見て、心配そうに眉を下げている。親切で声を掛けてくれたのだろう。

蒙恬は顔に不安の色を浮かべたまま、頷いた。

「そうか、なら一緒に探してやろう。ほら、離れないように手を繋いで」

「ありがとうございます」

男の親切な提案に、蒙恬の表情に光が差し込む。

幼い蒙恬は人を疑うということも知らなければ、目の前の男が商売道具を探している違法な奴隷商人であることなど知る由もなかった。

 

暗雲

小太りの男が蒙恬の手を引きながら、人混みを歩き出す。

探している者の名が胡漸であることも、自分が蒙家の人間であることも伝えると、男は驚いていたが、すぐに人の良さそうな笑みを浮かべた。

「そういや、さっきお前の名前を叫んでる女の人が居たなあ。もしかしたら、その人がお嬢ちゃんのお付きの人かもしれない」

「え?女の人?」

蒙恬は円らな瞳をさらに真ん丸にした。

自分が探している胡漸は紛れもなく男で、教育係を任された蒙家に長年仕えている老兵なのだが、自分を探している女性とは誰なのだろうか。

この時点でもまだ奴隷商人の男は蒙恬のことを女児だと勘違いしており、共に城下町にやって来たお付きの人とは女性だと思い込んでいたのだった。

しかし、そんな事情は露知らず、蒙恬は瞼の裏に初恋の女性の姿を思い浮かべる。

「あ、もしかして、先生っ?」

「先生?お、おお、きっとそうだな」

適当に相槌を打った男が蒙恬と話を合わせようとしているのは誰が見ても明らかだった。しかし、既に蒙恬の頭は初恋の家庭教師のことでいっぱいになっていた。

「先生、会いに来てくれたんだ…!」

つい先ほどまで胡漸とはぐれて泣きそうになっていた顔が一変し、目が輝いている。

(まだあの約束は有効のはず…!)

急に大人の顔に切り替わった蒙恬に小首を傾げつつ、男は構わずに蒙恬の手を引いて歩き続けた。

城下町を出るために門に向っている途中で、蒙恬は違和感を覚えた。買い物客や商売人で賑わっている市場を路地裏から抜けると、たちまち人気が無くなる。

人々の出入りに使われている大きな門ではなく、人通りが少ない裏門に向かっているせいだろう。

城下町を取り取り囲む壁がずっと続いているばかりで、賑やかな市場の面影が何もない。

「………」

急に静けさが訪れたことで、初恋の家庭教師に会えると興奮していた蒙恬の頭が急に冷静になった。

(じィ、心配してるだろうな)

きっと胡漸はまだ市場で自分を探し回っているだろう。先生に会えるのは嬉しいが、胡漸を放置しておくのは可哀相だ。

ただでさえ自分の教育係を担ってから老いが急速化しているのだから、時々は安心させてやらないとならないし、自分が迷子になったことを蒙武と蒙驁に知られれば処罰されるかもしれない。

胡漸が自分の教育係を外されたらどうしようと蒙恬は不安を覚えた。それに、こんな人気のない場所に家庭教師の女性がいるようには見えない。

彼女だって外出する時には侍女を連れ歩いていた。一人でこのような場所へ立ち入ることは出来ないはずだ。

「ねえ、先生はどこにいるの?」

「………」

未だ自分の手を引いている男に声を掛けるが、彼は何も答えない。顔を見ると、先ほどまで人の良さそうな笑みを浮かべていた表情が消え去っていた。

ここに来て蒙恬はようやく嫌な予感を覚え、男の手を振り解こうとした。

「放してッ」

どれだけ力を込めても、所詮は子どもの腕力だ。大人の力には敵わない。

泣きそうな表情で蒙恬が叫ぶが、煩わしいと言わんばかりに男が睨み付ける。

「黙れ!」

「ひっ…」

大声で凄まれ、怯んでしまう。どこへ連れていかれるのだろうと蒙恬が不安で顔を強張らせていると、裏門の手前まで連れていかれる。大きな荷台を後ろに引いている馬車があった。

男の仲間だろうか、騎手をしている同じく小太り男が蒙恬を見て下衆な笑みを浮かべた。

「お前、かなりの上玉を連れて来たなあ」

「へへっ、あの蒙家の娘だぞ。さっさと行って売り払っちまおうぜ」

物騒な会話を聞き、蒙恬は頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。

(売り払う…?まさか、俺を?)

ここに来て、この男たちが奴隷商人だということに蒙恬はようやく気が付いたのである。

馬車の荷台は大きな布で覆われており、中は見えないが、子どもたちのすすり泣く声が聞こえた。

驚愕のあまり、蒙恬が動けずにいると男たちが下衆な笑みを浮かべて会話を続ける。

「蒙家?そりゃあ、やべえだろ。あの蒙武将軍のガキだろ?」

「大丈夫だ。近くに将軍の姿もお供の姿もなかった。さっさと売り払っちまえばこっちのもんだ」

蒙恬をここまで連れて来た男が荷台に掛けられている布を取る。

(あ…!)

そこには木製の車輪がついた檻があって、中には自分と同い年くらいの男女が数人詰め込まれていた。

全員恐怖に顔を歪ませて、これからどうなるのだろと先の不安に涙を流している。

自分と同じように無理やり連れて来られた子どもたちだろう。身なりがきちんと整えられているのをみると、きちんと地位のある家の生まれであることが分かる。

売り物として誘拐する少年少女たちの姿を布で隠していたのは、ただの奴隷商人だと錯覚させるためだったに違いない。

一人ならともかく、全員が整った身なりをしているのだから、戦で親を亡くしたような素性だとは思わないだろう。

戦で親を失った戦争孤児でもないのに、これからこの檻に入れられて、どこかへ連れて行かれるのだと分かると、蒙恬は逃げ出すことも叶わず、恐怖で脚が竦んでしまった。

「ほら、お前もさっさと乗るんだ!」

痛いくらいに腕を掴まれて、蒙恬は泣きながら強く目を瞑った。

(誰か…助けてッ!)

体は恐怖という鎖に締め付けられ、助けを呼ぶことも出来ない。蒙恬は心の中で叫ぶことしか出来なかった。

 

暗雲に差し込んだ光

蒙恬の小さな体が、強引に檻の中へ体を押し込まれたその時、

「てめえらッ!違法の奴隷商人だなッ!」

背後から怒気を含んだ声が辺りに響き渡り、その場にいた全員が声の主を見た。

(あ…!)

先ほど城下町でぶつかってしまった青い着物を着た少年だった。

背中に携えた剣を抜きながら、鬼人の如く、凄まじい勢いで商人たちの前に走って来る。

「噂で聞いてたが、まさかこんな大胆に城下町からガキ共を攫ってたなんてな」

蒙恬を檻へ押し込んだ男の首筋に剣の切先を宛がいながら、その少年が低い声を発した。

「お、お前…何者だ?お前みたいなガキが役人気取りのつもりか?」

男は素直に両手を挙げる。

少年であるとはいえ、剣は本物だし、向けられている殺気も迷いがないことを察して観念したのだろう。

「天下の大将軍だ。未来の・・・なッ」

青い着物の少年は鋭い眼差しを向けたまま、高らかにそう叫んだ。それから慣れた手つきでくるりと剣を回し、柄で男の額を思い切り打ち付ける。

「ぐわあッ」

鈍い音がしたのと同時に、男が無様な悲鳴を上げてその場に崩れ落ちる。どうやら意識を失ったのか、体をびくびくと痙攣させながら目を剥いていた。残った騎手の男が怯えた顔で信を見ている。

少年とはいえ、剣の扱いに長けているのは今ので明らかだった。

着物の袖から覗く腕は古い傷がたくさん刻まれており、蒙恬は自分と少ししか年齢が変わらないその少年は一体何者なのだろうと驚いていた。

「う、うわああッ」

騎手の男が一歩ずつ近づいて来る少年に悲鳴を上げ、手綱を引っ張る。二頭の馬が大きな嘶きを上げて走り出した。

「あッ!てめえ!逃げんな!」

まだ檻には、蒙恬も含めて少年と少女たちが乗っている。このまま逃げ切られれば、全員が奴隷として買収されてしまう。

いきなり走り出した馬車に、青い着物の少年は焦った表情で全速力で駆け出した。しかし、馬と人の足では速度に差があり過ぎる。

(だめだ…!どうしたら…)

このまま引き離されてしまうに違いないと思い、蒙恬は不安の表情で彼のことを見つめることしか出来なかった。

同じように檻の中に入れられている少年少女たちも、せっかく助かったと思ったのに連れていかれてしまうと再び声を上げて泣き始めている。

「あっ」

蒙恬は檻の鍵が掛けられてないままになっていることに気が付いた。自分を檻へ押し込んだ時に、あの少年が現れたため、男が鍵を掛けるのを忘れていたのだろう。

「みんな、逃げるぞッ!」

檻の扉を押し開けた蒙恬が、泣いている子どもたちに声を掛ける。

二頭の馬は走り出したまま止まらない。こんな状態で檻から飛び出せば、間違いなく怪我をする。

それでもこの檻から逃げ出さねば、もっと悲惨な目に遭うぞと蒙恬は彼らに怒鳴りつけた。

擦り傷や捻挫を負うくらいで普段の日常に戻れるのなら、絶対に誰もがそちらを選ぶ。

扉に近い位置にいた子どもが意を決して檻から飛び降りた。転がりながら、何とか受け身を取って外に出ると、それまで不安に押し潰されそうな顔に希望の光が差し込んでいる。

「みんな、早く!早くここから出るんだ!」

蒙恬が声を掛けると、次々と子どもたちが檻から飛び出して行った。

全員が大きな怪我をすることなく地面に足をつけたのを見て、蒙恬はほっと安堵する。

「おい、お前も早く出ろッ!」

未だ馬車を追い掛けている少年が全速力で走り続けている。

蒙恬は夢中で馬を走らせている騎手に視線を向けた。子どもたちが逃げたことも知らずに、騎手の男はずっと馬を走らせている。

違法な奴隷商人の処罰は言わなくても分かっていたし、少年少女たちの家の者たちからも怒りは向けられ、安易に殺されることも叶わない。だからこそ、騎手はここで捕まる訳にはいかないと必死に馬を走らせて逃げているのだ。

「おい!急いで降りろッ!」

青い着物の少年が渾身の力で叫び声を上げた。

しかし、蒙恬は飛び降りる素振りを見せない。怯えている訳でもない蒙恬に、少年が何をしているのだと憤怒する。

もう一度だけ騎手の方を振り返ってから、蒙恬は、

「―――捕まって!」

檻にしがみ付きながら、少年に向かって手を差し出したのだ。

降りろと言っているのに、こちらへ来いとはどういう意味だろう。飛び降りるのが怖いという訳ではないのは理解出来たが、少年は呆気に取られていた。

「俺を信じてッ!」

説明している時間はないと、蒙恬が叫ぶ。

意を決したように、地面を大きく蹴りつけた青い着物の少年が飛び上がった。

まるで見えない羽根でも生えているのかと驚くほど、高く飛び上がった少年は蒙恬の手を掴む。

「わああッ」

少年の手が蒙恬の手を掴んだ瞬間、勢いのまま蒙恬の体が引っ張られて、檻から引き摺り下ろされた。

青い着物の少年が咄嗟に蒙恬の体を抱き込んで、二人して地面に転がる。

後ろで引いている檻に大きな衝撃が加わったことで、走っている二頭の馬が大きな嘶きを上げて体を大きく反り返らせた。

「う、うわあッ!」

急に言うことを聞かなくなった馬に、騎手の男が地面に振り落とされる。

「やった!上手くいった!」

少年の腕の中で、砂埃に塗れた蒙恬が目を輝かせる。

地面に強く体を叩きつけられた騎手の男が起き上がるよりも先に、青い着物の少年は彼のもとへ駆け出して行った。

「大人しくしやがれ!」

男を切り捨てることはせず、その少年は剣の刃を首筋に宛がう。

「ひ、ひいっ!どうか命だけは…!」

これ以上続けるなら命はないという脅しに、騎手の男は青ざめて命乞いをしながら悲鳴を上げる。

…ようやく短い逃走劇に終止符が打たれたのだ。

蒙恬は荒い呼吸を繰り返しながら、その場に横たわっていた。それまで不安と恐怖で強張っていた体がようやく力を抜くことを許された瞬間だった。

 

少年の正体

違法な奴隷商人たちの身柄を役人に引き渡した後、誘拐されていた少年少女たちは無事に家臣たちと再会出来た。

号泣して家臣の胸に顔を埋めている彼らの姿を見ると、ずっと恐怖と不安で心細かったに違いない。

家臣たちもいきなり姿を消したことでずっと城下町を探し回っていたらしい。

多くの人々が出入りする城下町で迷子になっている貴族の子を、親切を装って近づき誘拐し、その身柄を売りつけるという違法な奴隷商人の噂は、ここ最近の咸陽で広まっていたのだという。

主犯である二人を捕らえたのだから、既に手を回されてしまった子どもたちの後を追うことも出来るだろう。あの二人の処罰はそれらの問題が解決してからになりそうだ。

ようやく解放されたのだと安堵した蒙恬も市場に戻って胡漸の姿を探すのだが、自分を探し回っているはずの胡漸の姿はまだ見つからない。

つい先ほどの騒動と違法な奴隷商人の捕縛がさっそく噂となって広まっており、城下町にはまた大勢の人々がごった返していた。

「おい、もしかして…お前が蒙恬か?」

奴隷商人たちから助けてくれた青い着物の少年に背後から声を掛けられ、蒙恬は振り返った。

「あ、あの、先ほどは本当にありがとうございました」

供手礼をすると、少年は得意気に微笑む。

「お前のおかげで、あの二人の奴隷商人をひっ捕らえることが出来た。ありがとな」

乱暴に頭を撫でられ、蒙恬はくすぐったいと笑う。

「けどよ、ガキの癖にあんな無茶は二度とするな」

荷台に衝撃を与えれば、走っている馬が怯むと蒙恬は考え、彼の協力を求めた。

一歩間違えれば大怪我をしていたかもしれないが、あの時の蒙恬は奴隷商人を捕まえることに夢中で、自分のことなど後回しにしていた。

家庭教師に会えるという餌で、この自分を釣った罰を何としてでも受けさせたかったのだ。

しかし、青い着物の少年は蒙恬の私情など知る由もなく、正義感から行ったのだと勘違いしているようだった。

「生まれも育ちも恵まれてるやつは人を疑うことを知らねえからな。これからは気をつけろよ、蒙恬」

「あの、なんで、名前を…」

「蒙武将軍のとこの老将に頼まれたんだよ。赤い着物に、長い髪で、右目に泣きぼくろがあって、普段はずる賢いとか、黙っていても愛らしくて…だとか、本当はやればできる子…だとか…なんかよく分かんねえことまで色々言ってたな」

父、蒙武の老将といえば間違いなく胡漸だろう。やはり自分を心配して捜していたのだ。

早くじィに会いたくて堪らなくなった。女性と違って薄い胸に飛び込み、しわがれた手で頭を撫でてもらいたい。心配かけてごめんなさいと謝りたい。

「にしても、おっかしーな…」

少年が小首を傾げながら、蒙恬のことを頭の先から足のつま先まで見やる。

「あのジジイ、蒙家の嫡男・・っつってたけど…どう見ても女だろ」

先ほどの奴隷商人と違って、彼に見つめられる視線に嫌悪は感じなかった。彼は命の恩人なのだから当然だろう。

「あの、男です」

「はっ?」

女だと間違えられるのは今に始まったことじゃない。端正な顔立ちゆえに、女だと誤解されるのはよくあることだったので、蒙恬は自分を指さしながら性別を打ち明けた。

少年といえば目を見開いて、しばらく口を開けたままでいる。

束の間の沈黙の後、少年は豪快に笑い声を上げた。

「んな訳ねえだろ!嫡男っつたら、あの蒙武将軍の息子だぞッ!?お前みてえな華奢でヒョロいやつが息子な訳あるか!」

「でも、本当に…」

あははと笑いながら、少年は少しも蒙恬の話を信じようとしない。

蒙武といえば武の頂点を目指す強大な将軍だ。筋肉の鎧で固められた体格と、凄まじい威圧感を備えている顔を知っている者が、小柄な蒙恬を見て驚くのも無理はない。

「強がんなって。むしろ娘なら、そんな綺麗な顔で良かったじゃねえか。どれどれ」

少年は大らかに笑いながら、蒙恬の着物の下から手を突っ込んだ。

「~~~ッ!!」

男の急所であり象徴・・・・・・・・・をむんずと掴まれて、蒙恬に衝撃が走る。

こんな激しい衝撃を受けたのは、お気に入りの家庭教師が嫁に行くことを知らされた日以来、いや、それ以上だ。

「あらっ?」

男の象徴を、何度か確かめるように握ってから、少年はようやく着物の下から手を引っこ抜いた。

「んだよ、本当に男だったのか」

「………、………」

命の恩人であるものの、お気に入りの家庭教師でもなく、美人な許嫁でもなく、男によって大切なところを弄られ、蒙恬の中で何かが音を立てて崩れ落ちていく。

石のように硬直して動かない蒙恬を見下ろし、少年は不思議そうに小首を傾げていた。

「おい、大丈夫か?」

蒙恬が衝撃を受けていることなど微塵も気づかず、少年が馴れ馴れしく声を掛けて来る。
堰を切ったように、蒙恬の円らな双眸から涙が流れ出す。

「な、なんで泣くんだよ!?」

ぎょっとした表情になり、少年は狼狽えていた。

ぼろぼろと涙を流している蒙恬は束の間、嫁に行ってしまった家庭教師のことを考えていた。

蒙恬の初恋の女性で、苦手だった勉学に励み、課題をこなしたのは他の誰でもない彼女のためだった。

課題をこなせば、何でも一つお願いを叶えて・・・・・・・・・・・・くれるはずだったのに。

あの豊潤でしなやかな肢体と、何より大きくて柔らかい胸に直で触れてみたかったという願望が蒙恬の中に再び巻き起こる。

着物越しに顔を埋めたり、偶然を装って触れることは何度もして来たが、蒙恬は未だ直の柔らかさと温もりを知らなかった。

それを知ることが出来たなら、彼女との関係が一歩進み、さらにそこから未知の扉を開くことが出来るに違いないと蒙恬は思っていたのである。

そして、自分の男の象徴もどうにかされてしまうのでは、どうにかして欲しいという妄想を抱いては、それを活力として勉学に励んでいた。

―――それがまさか同性によって手籠めにされようとは夢にも思わなかった。

自分を違法な奴隷商人から守ってくれた命の恩人だとはいえ、男に触られた事実は変えられない。

蒙恬は魂が抜けたように真っ白になり、その場に座り込んでしまった。

先ほどのような、安堵で膝の力が抜けたのではなく、悲しみのあまり立っていられなくなってしまったのだ。

「大丈夫かっ?」

心配そうに少年に声を掛けられるが、蒙恬の涙は止まらない。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、蒙恬は両手で溢れ出る涙を擦っていた。

「ううう…今頃は、先生のオッパイ触ってるはずだったのに…!先生に会わせてくれるって言うからついて行ったのに…!」

いきなり泣き出して座り込んだかと思いきや、そんなことを言い出した蒙恬に、少年が大口を開けている。

それから彼は我に返ったように、顔を真っ赤にして憤怒した。

「馬鹿かお前!あいつらに騙されたって分かってんのか!?」

頭頂部に容赦ない鉄拳が振り落とされて、蒙恬はますます声を上げて泣いた。

祖父の蒙驁にも、父の蒙武にも、教育係の胡漸にも殴られたことがない。甘やかされて育った蒙恬に、その鉄拳の痛みは未知なるもので、ますます涙が止まらなくなる。

「うえええ~ん!」

大声を上げて泣き喚く蒙恬に、周りの視線が集まっていく。事情の知らない者からしてみれば、兄弟のようにも見える二人だが、誰が見ても青い着物の少年が泣かせたのは明らかだった。

「泣くな!面倒くせえな!」

少年に怒鳴られるとますます涙が止まらない。堪えるつもりもなく、蒙恬は泣き続けた。

どんどん人々の視線が集まっていくことが耐えられなくなったのか、少年は蒙恬の手首を掴んで無理やり立ち上がらせる。

人々の視線から逃げるように、信は路地裏へと走った。人気がなくなり、陽の光が入らない路地裏に辿り着くと、少年は辺りを見渡して誰もいないことを確かめる。

それから蒙恬の方を振り向くと、

「そんなに胸が触りてえんなら俺ので我慢しとけ!美人じゃねえのは分かってるから文句言うなよ!」

あろうことか、少年は自分の襟合わせの中に蒙恬の右手を引き込んだ。

男の薄っぺらい胸で満足出来る訳がないだろうと全力で抗議しようとした、その時だった。

「……えッ?」

手の平いっぱいに柔らかい感触が伝わる。着物越しではなく、しっとりとした艶のある肌の滑らかな感触と温もりがそこにあった。

(こ、この感触・・・・は…!)

それまで流し続けていた涙が驚愕のあまり、ぴたりと止んだ。

全神経を手の平に集中させる。この膨らみと気持ち良い重さは間違いない。夢にまで見た、ずっと求めていた素肌の乳房だ。

「―――」

蒙恬が言葉を失ったのは、ずっと望んでいたものを手に入れたことと、少年だとばかり思っていた目の前の命の恩人が実は少女だったという衝撃的な事実が同時に襲ったからである。

「おらっ、とっとと帰るぞ!蒙武将軍も老兵も心配してる」

少女は蒙恬の手を胸から離すと、乱れた着物の襟合わせを整えた。

自分の胸を触らせたことに恥ずかしがっている素振りは一切なかったが、一応、人目を気にしてここに連れて来たのだろう。

たった数秒のことだったのだが、蒙恬には永遠にも思える時間だった。

 

少年の正体 その二

未だ呆然としている蒙恬を連れ出して、少女は路地裏を出た。

せめてもう少しだけで良いから余韻に浸らせて欲しいと思うのだが、右手に残っている胸の感触を上書きするように、少女は強くその手を握り締めていた。

城下町を抜けて、宮廷の方へ向かっているようだった。

門のところにいる衛兵は少女の顔を見ると、詰問をすることなく、黙って通してくれる。

そのことに蒙恬は些か疑問を抱いた。高貴な身なりだとしても、王族が住まう宮廷に入るには厳しい取り締まりを受けるのが普通だ。関門を通る時のように、許可証を見せなくてはいけない時だってある。

それが少女には不要だった。もしかしたら父親が高い地位に就いているのだろうか。

門を潜って少し先に進んだところに、見覚えのある男たちが立っていた。

「父上!じィ!」

少女が手を放したのと同時に、蒙恬は蒙武と胡漸のもとへ駆け出す。

「蒙恬様ああッ」

涙腺がどうにかしてしまったのかと思うほど胡漸の双眸から涙が止まらない。蒙恬の体を抱き締め、「よくぞ御無事で」と嗚咽を上げながら泣き続けている。

微かに擦り傷がついているものの、息子の姿を見下ろし、蒙武も表情には出さないものの、どこか安堵したように息を吐いていた。

「ンフフゥ。お見事でしたねェ、信」

蒙武と並ぶ体格の男がもう一人。それが中華全土に名を轟かせている六大将軍の一人、王騎だということは当時の蒙恬は知らなかった。

名前は知っていたのだが、咸陽宮に足を踏み入れたのも初めてだったし、父と祖父以外の将軍の姿を見るのはこの時が初めてだったのだ。

信というのは少女の名前らしい。王騎に褒められた彼女は得意気に笑っている。

「王騎の娘よ、なぜ奴隷商人の行方が分かった?」

息子に声を掛けるよりも先に、蒙武は信に奴隷商人のことを問うた。信は供手礼をしてから蒙武の姿を見上げる。

「…ガキの頃、奴隷商人には世話になった覚えがある。そのせいか、あの男の品定めをしてる目つきや素振りが何となく気になって、追っかけたんだ」

信の言葉を聞いて、蒙武は納得したように頷いた。

未だ胡漸の腕の中にいる蒙恬はその言葉に、弾かれたように顔を上げる。

目が合うと、信はばつが悪そうに視線を泳がせた。それから蒙恬の前に来ると、体を屈めて蒙恬と目線を合わせる。

「…すぐに助けなくて悪かった。お前と同じように、売り物にされそうなガキたちの居場所を突き止めるためだったんだ」

申し訳なさそうにそう語る彼女に、蒙恬は首を横に振った。

「信のおかげで、俺もみんなも助かったんだから、平気だよ」

心細かっただろうに、すぐに助けられなかったことを逆上することもなく、蒙恬は花が咲いたような笑顔を浮かべる。

安堵したように信も微笑み返し、それから蒙恬の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「ンフフフ。信、そろそろ行きますよ」

独特に笑いながら王騎に声を掛けられ、信は頷いた。

「信、待って!」

蒙恬が胡漸の腕の中から走り出し、奴隷商人を捕まえる策を成すために、掴んでくれた彼女の手を蒙恬はしっかりと握り締めた。

「ねえ、俺が信より大きくなったら、信のことをお嫁さんにしても良い?」

その場にいた全員が大口を開けて硬直した。

一体何を言われているのか理解するまでに時間が掛かっているらしく、信は瞬きを繰り返している。

今の今までで、蒙恬に求婚されるような過程があったとは思えなかった。

奴隷商人から助けたことに恩を感じているのかもしれないが、それにしても求婚は段階を飛ばし過ぎている。

よく分からない理由で泣き喚く蒙恬を泣き止ませるために、胸を触らせたことが悪かったのだろうか。

もちろんこの場で、胸を触らせてやったことは口が裂けても言えないが…。

「ココココ。蒙武さんの息子さんは面白いですねェ」

背後で王騎が右手の甲を左の頬に押し当てて独特に笑っていた。普段は不愛想な蒙武も珍しく動揺したように目を泳がせている。胡漸といえば大口を開けたまま動かなかった。

「…だめ、なの…?」

全員の反応から、あまり良い返事はもらえないことを蒙恬は幼心ながらに理解してしまう。

信の口からまだ返事は聞いていないというのに、つぶらな瞳がみるみるうちに涙で潤まっていく。

「あ、え、えーっと…」

先ほどと状況が違って、王騎と蒙武がいる手前、下手なことは言えないと信はあからさまに狼狽えていた。

蒙恬を泣き止ませるために路地裏に引っ張っていき、胸を触らせたという事実を口外されれば、大事な嫡男をたぶらかしたとして蒙武から首を斬られてしまうかもしれない。

なんとしても信は上手くこの場を切り抜けなくてはと必死に思考を回した。

「そ、そんじゃあ、軍師学校を首席で卒業して、蒙武将軍みたいな立派な将軍になったらな?俺は天下の大将軍になるんだ。俺より大きくなるってことは、そういうことだぞ?」

これ以上泣かせないように、そして何より胸を触らせたことを告げ口されないように、信はそう答えるのが精一杯だった。

難しい条件を突き付けられただけでなく、返事を保留にされたことには気づかず、蒙恬の瞳が輝きを取り戻す。

「わかった!約束だよ!」

「は、はは…」

蒙恬が小指を差し出して来たので、信は苦笑を浮かべながら自分の小指を絡ませた。

―――それから数年の月日が流れ、蒙恬が軍師学校を首席で卒業したという報せが信のもとに届いた時、彼女は愕然とするしかなかった。

 

思い出話と約束

此度の戦でも大いに武功を挙げた蒙恬は、論功行賞でも名前を呼ばれていた。ついに将軍昇格となったことに、楽華隊も蒙家の家臣たちも大いに喜んでいる。

戦の勝利を祝う宴の席を抜け出し、城下町が見下ろせる露台で信は酒を飲んでいた。杯をつかわずに酒瓶に直接口をつけて流し込んでいるのだが、少しも味を感じていない。

「信!」

聞き覚えのあり過ぎる声がして、信の顔がぎくりと強張った。先ほど論功行賞で名前を呼ばれた蒙恬が満面の笑みで駆け出す。

「宴の席にいないから探したよ」

「あ、ああ…ちょっとな…はは…」

信は今、秦軍に欠かせない大将軍の一人だ。飛信軍の女将軍の活躍は中華全土に名を轟かせている。

馬陽の戦いで没した王騎にも劣らぬ強さを持つ飛信軍を追い掛けるように、蒙恬率いる楽華隊も着実にその名を広めている。

此度の戦に飛信軍は参加しなかったものの、信は祝宴の場に訪れていた。

「俺、今回の戦で将軍に昇格になったんだ」

興奮に息を荒げながら報告する蒙恬に、信は苦笑しながら頷いた。

「ああ、知ってるぜ…い、いやあ、早いもんだ」

酒を飲みながら信はさり気なく蒙恬から一歩距離を取る。しかし、開いた距離を埋めるように、蒙恬も一歩詰めた。

「………」

いつの間にか壁際に追い詰められた信は、気まずさを隠すように酒瓶に口づける。

「約束」

その言葉に、信が瞠目する。

「まさか忘れてないよね?」

追い打ちを掛けるように笑顔で詰め寄られ、信は堪らず目を泳がせた。忘れてて欲しかったのはこちらの方だと言葉を飲み込む。

「え、っと…」

背中に壁が当たっており、蒙恬が両手を顔の横について来たので、いよいよ逃げ場がなくなる。

初めて出会った頃は信が見下ろしていたのに、いつの間にか身長も追い抜かれ、今では信が蒙恬に見下ろされる身長差に逆転していた。

もちろん信も大将軍として幾つもの死地を駆け抜けている存在であり、簡単に男に組み敷かれることはない。

六大将軍の王騎と摎の養子であることや、分家とはいえ名家の娘であり、大将軍の座についている彼女を欲する男は大勢いる。

しかし、彼女に結婚の意志がないのは、縁談話をずっと断っていることから明らかだ。

そしてそれは幼い頃からの自分と約束を守ってくれているからに違いないと蒙恬は信じ込んでいる。

―――ねえ、信より大きくなったら、信をお嫁さんにしても良い?

―――そ、そんじゃあ、軍師学校を首席で卒業して、蒙武将軍みたいな立派な将軍になったらな?俺は天下の大将軍になるんだ。俺より大きくなるってことは、そういうことだぞ?

今の彼女の年齢なら、既に何人も子を産んでいる者もいる。しかし、信は自分と結婚するために、どこにも嫁ぐことなく、独り身を貫いているのだと蒙恬は少しも疑わなかった。

「…蒙恬。お前のとこに色々縁談が来てるって聞いたぞ?副官のあの老兵が言ってたなあ?」

「じィが?」

そう、と信が頷いた。

背後は壁で、蒙恬の両腕によって逃げ場を失った彼女は一向に目を合わせようとせず、言葉を続ける。

「どっかの貴族の娘とか、蒙家の嫁に相応しい女ばかりなんだろ?良かったじゃねえか」

ぎこちない笑みを浮かべながら、信が蒙恬の肩をぽんぽんと叩く。
まるで自分と知らない女の結婚を祝福するかのような言葉に、蒙恬が目を見開く。

「…何言ってるのさ?」

それまで笑顔を浮かべていた蒙恬の顔から表情が消えたことに信も気づいていた。彼の腕の中から抜け出すと、信は小さく溜息を吐く。

「いい加減、自分に相応しい相手を探せよ」

背中を向けていたので、彼女がどんな表情を浮かべているのか蒙恬には分からなかったが、その声色は恐ろしいほどに冷え切っていた。

「…え?」

束の間、蒙恬は呼吸も瞬きも忘れていた。

「俺との約束は?」

蒙恬が手を伸ばして信の肩を掴む。しかし、信はこちらに目を向けず、その手を振り払った。

「そんなもん、無効に決まってんだろ。ガキの頃の話だぞ?なに本気にしてんだよ」

信は振り返らないまま、今度はわざとらしく溜息を吐く。まるで刃のように、その言葉は蒙恬の胸の内を傷つけた。

「信…本気で言ってるのか?」

当たり前だろ、と信が振り返った。

声には怒気が含まれているのに、その表情は切なげに眉根を寄せていて、弱々しい。

「…お前が考えるのは、俺のことじゃなくて、蒙家の安泰・・・・・だ」

吐き捨てるようにそう言った信は、一度も振り返ることなく早足で行ってしまう。

いつもならすぐに雛鳥のように追い掛けるのだが、蒙恬は彼女の言葉を聞き、足に杭を打たれたかのように動けなくなってしまった。

 

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軍師学校の空き教室(昌平君×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ギャグ寄り/IF話/軍師学校/ハッピーエンド/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

王騎との勝負

「では、あなたからどうぞ」

王騎はせめてもの情けのつもりなのか、先行を信に譲った。

総大将を含め、軍に見立てた駒は六ずつ。そのうち、一つは総大将の駒だ。今回設定した地形には山や川などの障害物がないため、伏兵などの作戦は通用しない。

中央で陣形を組合い、攻防戦となるだろう。先日、河了貂と信が軍略囲碁をしていた時と同じ条件の試合だった。

「………」

信は総大将以外の五つの軍に見立てた駒を横一列に並ばせて前進させた。陣形を取る様子はない。ただの前進であり、王騎の出方を見ようとしているのだろう。

どちらも真剣に囲碁台を見つめており、声を発さない。戦場にいるかのような重々しい空気が二人の間に横たわっていた。

次に王騎が駒を動かす。彼は、信とは違って五つの軍を別々に動かし始める。四つの軍を二列ずつに並べ、陣形の準備を始めていることが分かる。

横一列に並んでいる信の駒を崩そうと、四つの軍を斜めに配置させている。これは斜陣がけだと昌平君も信もすぐに気づいた。

横一列に並べた信の兵の群れに綻びを作ろうとしているのだ。

あっと言う間に横一列に並べていた信の兵たちの動きが乱れ始め、信は眉根を寄せた。このまま斜陣かけの陣形が成功されてしまえば、安易に本陣への道が開かれてしまう。

斜陣かけの陣形を成しているのは四つの軍であり、残りの軍を背後に待機させているのは、恐らく綻びが出来た途端に、本陣へ突入する役目を担う部隊の軍だ。
陣形①
「く…」

様子見のため、初歩を横一列に並べた信は悔しそうに下唇を噛み締めている。

王騎が少しも手を抜くことはないのだと信自身も分かっていただろうに、油断したという顔だ。

本陣への守りを固めるために、信は両端の軍をすぐに後ろへ下がらせる。綻びが出来たところに突撃して来る背後の軍に備えたのだ。

しかし、恐らく王騎はそれも見越していたのだろう。すぐに背後に待機させていた軍の兵力を二つに分散させた。

意図的に・・・・中央に集められた信の軍を嘲笑うかのように、王騎は分散させた兵を左右に動かす。

それまでは横一列に並んで塞がれていたのだが、中央に戦力が集まったことで、道が開けたのだ。

陣形②左右から迫り来る王騎軍の対応に兵を割かねば敗北は確実だ。

しかし、中央に集めた戦力を分散させれば、斜陣がけによって中央に大きな綻びが出来てしまい、そこからさらに本陣を攻め立てられるだろう。

囲碁台を眺めながら、昌平君は初手で信がしくじったことを察した。

王騎が信に先行を譲ったのは、親心でも良心でもなく、信と同じように相手の出方を見るため・・・・・・・・・・だったのだ。

既に勝負は駒を並べる前に始まっていたということである。

王騎が優勢な状況にあるのは誰が見ても明らかだ。斜陣がけによって、防衛の姿勢を取らされた信はこの状況をどう脱するべきかを考えている。

昌平君も二人の間で囲碁台に視線を向けながら、打開策を巡らせていた。無論、これは信と王騎の真剣勝負だ。助言をするつもりはない。

「………」

信は瞬き一つせずに、囲碁台を見据えている。それまで苦悶の表情を浮かべていた信だったが、急に顔から表情が消えた。

何か打開策を閃いたのだろうか。信のこの表情を見るのは、昌平君は初めてではなかった。

今の彼女には、王騎と昌平君には見えない、勝利への道が確かに見えているのだろう。

学校で行っていた軍略囲碁でも、彼女がその表情を浮かべて駒を動かした時には、彼女の相手を務めていた河了貂と蒙毅も予想をしていなかった道を突き進んでいた。

それが、信の本能型の将としての才能であることを昌平君は気づいていた。王騎が信を軍師学校へ預けたのも、この才能を芽生えさせるためだったに違いない。

基礎を叩き込んだ三か月の後、ひたすら軍略囲碁を打たせていたのは昌平君の提案だったが、その中で信はみるみるうちに本能型の将としての才能を発揮していた。

木簡で王騎と昌平君は信のやり取りを行っていた。彼女にしか見えない道が見え始めたことを王騎に告げると、彼は約束の半年で娘の実力を確かめるために赴いたのだろう。

この勝負に信が勝てば、いずれは彼女が天下の大将軍である王騎を超える存在になるかもしれない。そしてそれは、秦の未来には欠かせないとなる。

「降参ですか?死地に立った時、優雅に悩む時間などないのですよォ」

「………」

挑発するように王騎が笑い掛けたが、信の耳にはその声が届いていないようだった。

視線は揺らぐことなく、戦場に見立てた囲碁台を見つめている。

信は迷うことなく、中央にある軍――ではなく、総大将の軍・・・・・を動かした。

「!」

本陣の守りをしていた総大将を動かしたことに、王騎と昌平君が目を見開いた。

このまま防戦一方の持久戦では確実に敗北すると分かった上で総大将を動かしたのだろう。

しかし、中央に兵力が集中しており、味方本陣の守りをしていた総大将を動かすということは、信は味方本陣を捨てたということになる。

「ンフフフ。さて、ここからどうしますか?」

王騎は分散させた兵を信の本陣へ向かわせている。このまま本陣を落とし、総大将を討ち取れば王騎の完全勝利、そして信の大敗だ。

しかし、信の表情に迷いはなかった。きっと彼女には勝利への道筋が見えているのだ。

河了貂と蒙毅との軍略囲碁のように、あとは王騎が先に信の本陣を落とすのが先か、それとも信が勝利の道筋を辿るのが先か、どちらかである。

信の駒を動かす手は止まらない。中央で戦っている兵力を斜めに配置し始める。

「これは…」

昌平君は思わず呟いていた。

ここで信が用いた陣形は、王騎と同じ斜陣がけだったのである。

陣形③中央の戦況が鏡合わせのように・・・・・・・・なり、斜めに伝播していた力が、同じく反対側に力が伝播していく。斜陣がけの効力が消えたことは一目瞭然だった。

信が中央を突破されぬように、まさか同じ陣形を用いるとは思わなかった。

「………」

王騎の口元に浮かんでいた笑みが消える。先ほどまでは余裕を携えていた彼から、信と同じように表情が消えた。

斜陣がけの効力はなくなったが、王騎は陣形を解かない。新たな陣形を組むこともせず、中央に集まった戦力で戦わせている。

中央に集中している兵たちを引きつけたまま、信の本陣へと向かわせている左右の兵をそのまま前進をさせ、手早く本陣を取ることに決めたのだろう。

左右の軍で本陣を落とした後、背後から中央に集まっている信の軍を一掃しようと企んでいるようだ。昌平君には手に取るように王騎の軍略が分かった。

「………」

次は信の番だった。本陣を捨てるように動かした総大将の駒をどう動かすのか王騎と昌平君が注視していると、彼女は驚くことに総大将の軍を大きく右に迂回させて、王騎の本陣へと向かわせた。

「おや、無謀ではありませんか?」

先ほどまで表情を消していた王騎の口元に笑みが戻って来る。

王騎は一つの軍を左右に分散させて本陣を狙っている。しかし、信は兵力を分散させることもせず、がむしゃらに前進させているようだった。

だが、彼女の顔に、焦りや不安の色は少しもない。それどころか、自信に満ち溢れた力強い意志をその瞳に宿していた。

「やってみねえと分からねえだろ」

先ほどの王騎のように挑発するような笑みを浮かべ、信は中央で戦っている後ろの三軍を動かす。四つの敵軍に対して、中央残した軍はたった二つだけだ。

このままでは安易に押し切られてしまうのは誰が見ても明らかである。しかし、激戦地であるそこの兵力を激減させたのは、きっと何か意図があるのだろう。

信は自分の五千人将という地位も、飛信隊も失う代償と覚悟を背負いながら軍を前に進めていく。

先ほど味方本陣から離した総大将の駒も動かし、信は合わせて四つの軍を、敵の総大将のいる本陣へと向かわせたのだ。

あろうことか、信は大胆にも動かしている四つの軍のうちの、二つの軍を中央の激戦地の間にある道・・・・・・・・・・・・を進ませ、敵本陣と総大将のもとへ向かわせた。

中央から軍を大きく迂回させれば、その隙に味方本陣が先に取られてしまうため、最短距離で敵本陣へと到達する道を選んだのだろう。

効力を失ったとはいえ、斜陣がけの陣形はまだ解かれていないというのに、渦の中心に飛び込むような動きに、さすがの王騎も先の動きを見兼ねているようだった。

中央に集中させていた軍と、左右に分散させて信の本陣を落とそうとしていた王騎の瞳に、僅かに迷いの色が浮かぶ。

本陣へ向わせている分散させた兵力では、信の本陣を落とすまでに時間がかかる。

一度、本陣を落とすのを諦め、背後から中央にある信の二軍を囲むべきか、それとも時間が掛かるのを承知の上で本陣を落とすべきか、王騎は決めかねているようだった。

その間も信が向かわせた四つの軍は、王騎の本陣と総大将のもとへ向かっている。

中央で戦っている軍は圧倒的に王騎軍が優勢だが、本陣へ走らせている軍の兵力差は信の方が上だ。

(…見える)

囲碁台を見つめている信の瞳には、勝利への道筋が浮かんでいた。

普段なら敵本陣に辿り着くよりも先に、自分の本陣を落とされてしまっていたのだが、今は総大将を動かしていることもあって、本陣を見捨てでも敵の喉元に攻め立てる勢いが続いていた。

(ここと、ここだ)

中央の激戦地を抜け切った二つの軍で敵大将の左と背後を取り囲む。

さらに迂回させていた軍で、敵の大将の右を塞ぐ。そして手前にある総大将の軍を前進させて前方を塞げば、敵大将の軍は四方を塞がれてしまう。

王騎の本陣と総大将が完全に逃げ道を失ったことで、王騎と昌平君は目を見開いた。

「―――包雷の陣の完成だッ!」

 

王騎との勝負 その二

陣形④高らかに信がそう叫び、敵大将に見立てた駒を掴み取る。

「………」

昌平君も王騎も固唾を飲みながら、のめり込むように囲碁台を注視していた。

「…ンフゥ。お見事でした」

束の間の沈黙の後、潔く王騎が白旗を挙げた。負けたというのに、王騎は少しも残念そうな顔をしておらず、むしろ自分が勝利をしたような陶酔感が浮かんでいた。

最も早く本陣と総大将のもとへと向かうために、中央を抜けた二軍止めていれば、恐らくは左右に分散させていた王騎軍が先に信の本陣を落としていたに違いない。

しかし、今回の勝負では中央を突っ切り、本陣と総大将のもとへ向かわせた信の行動が早かったのだ。

「か、勝った…のか…?」

今になって我に返ったように、信は肩で息をしながら、自分の勝利を噛み締めていた。

「やっ、た…ぁ…!」

拳を作った両手を持ち上げた信が立ち上がる。勝利の喜びを噛み締めるのかと思いきや、大きな音を立てて、信の体は椅子ごと後ろ向きに倒れ込んだ。

「信ッ!?」

昌平君が駆け寄り、肩を揺すって声を掛けた。信は譫言を繰り返しながら目を瞑っており、意識を朦朧とさせている。

顔が真っ赤になっており、肌に触れるととても熱い。熱があると判断した昌平君はすぐに彼女の体を抱き上げた。

慌てている昌平君に対して、王騎といえば囲碁台を見つめて、駒の動きを再確認しているようだった。

「王騎…」

養父とはいえ、ここまで娘に容赦ない態度を取れるものなのかと昌平君が眉根をひそめていると、その視線を察したのか、王騎が口を開く。

知恵熱・・・でしょう。少し休めばすぐに落ち着きますよ」

「…知恵熱?」

あまり聞き馴染みのない言葉であったが、知恵熱とは幼子が出す発熱のことだ。腕の中でぐったりとしている信を見下ろし、昌平君は瞬きを繰り返した。

「その子、昔から考え過ぎたらそうなるんです。軍師学校にいる間に、それもなくなったかと思っていたのですがねェ…少し休ませてやってください」

囲碁台の上の駒を眺めながら王騎がそう言ったので、そういえば、河了貂たちとの軍略囲碁の後に信が決まって頭痛を訴えていたことを思い出した。あれは発熱の前兆だったのかもしれない。

王騎はじっと囲碁台の駒を見つめたままで、動き出す様子はない。

とことん厳しい男だと昌平君は思った。軍略を学ばせるために、屋敷から信を追い出した厳しい父親が今さら甘やかす行動に出るはずがないのだ。

甘やかす役割は摎が担っていたのだと王騎自身も言っており、今さら自分がその役割を引き受けることもしたくないのだろう。だから、こんな時でさえも彼は厳しいのだ。

昌平君は諦めて、信の体を抱きかかえて部屋から運び出した。

 

近くの部屋に移動し、寝台に信を横たえると、彼女はゆっくりと目を開いた。

見慣れない部屋にいることに驚き、目をきょろきょろと動かしている。昌平君と目が合うと、彼女は安堵したように息を吐いた。

「俺…父さんに、勝ったのか…?」

「ああ」

「…じゃあ、俺、帰れるのか…?」

昌平君が頷いたのを見て、信は「そっか」と嬉しそうに笑みを浮かべた。帰宅許可を得たことを心から喜んでいるらしい。

勝負の途中で窮地に追い込まれ、このままずっと帰れないと思っていたらしく、彼女の表情には安堵の色が浮かんでいる。五千人将の座から降ろされることも、飛信隊が解散にもならず、無事に帰宅出来ることが本当に嬉しいようだ。

「色々ありがとな」

寝台に横たわったまま、信が昌平君に礼を告げた。

「…って言っても、お前から直接なんか学んだことはねえけどよ」

「礼を言った後に言う言葉ではないな」

「だって事実だろ」

信がカカカと笑う。

「でも、いつも俺のこと見てただろ?」

「………」

彼女の言葉に昌平君は意外そうな表情を浮かべた。河了貂と蒙毅と軍略囲碁の勝負を繰り返し、あらゆる戦を経験していたのだが、信はどこからか昌平君の視線を感じていたのだ。

口を出すことはないが、いつだって自分を気にかけてくれているのを信は知っていた。昌平君はしばらく信のことを見つめた後、ゆっくりと口を開いた。

「…お前は本能型の将としての才がある。王騎に勝てたのも、お前の才が芽生え始めた証拠だ」

将軍には本能型と知略型に二種類に分かれる。信が前者だといち早く気づいていたのは王騎だ。強化合宿の話を持ち掛けられた時、王騎は昌平君にそのことを告げていた。

―――あの子の直感は、時々戦況を面白い方向に傾けるんですよ。あれは典型的に本能型の動きですねェ。ただ、追い込まれないと、その道筋が見えないというのは難点です。

五千人将まで上り詰めた信の強さは、言葉にせずとも王騎は認めていた。

無謀と勇敢の違いをようやく理解して来た彼女に、軍略を学ばせようとしたのは、本能型の将としての才能を引き出すためだったのだろう。

模擬戦とはいえ、あらゆる戦い方を想定することで、信は勝利への道筋を見分けられるようになっていた。

強引に戦いから身を引かせ、軍略を集中的に叩き込んだことが実を結んだのだろう。

王騎が五千人将の座を解くといったり、飛信隊の解散をちらつかせたのも、わざと信の心を追い詰めることで、本能型の将としての才能を引き出すためだったに違いない。

きっと信と飛信隊はこの国に欠かせない強大な戦力となっていく。王騎に劣らぬ力で中華全土にその名を轟かせていくだろうと昌平君は考えた。

「よくやったな」

昌平君が手を伸ばし、信の頭を優しく撫でる。まさか彼から褒められるとは思わなったようで、信は瞠目し、それから照れ臭そうに笑みを浮かべた。

「…へへ。お前の笑った顔、初めて見た」

指摘されて、昌平君は自分の口元が優しく緩んでいることに気がついた。

瞬時に唇を固く引き結び、いつもの表情に戻ると、信がつまらなさそうな顔になる。

 

信の才能と悪知恵

王騎が話していたように、本当に知恵熱だったのか、少し休むだけで信の熱はたちまち引いていった。

「あーあ…安心したら気ぃ抜けたぜ。帰ったら祝い酒だな」

祝い酒という言葉を聞き、昌平君は思い出したように顔を上げた。

「昨夜も飲んでいただろう」

「ははっ、酒ならいつ飲んだって良いじゃねえか。麃公将軍にもらった昨日の酒も美味かったなあ」

昌平君は寝台に横たわる信を見下ろし、腕を組んだ。

「…昨夜は部屋に戻ってから、ずっと寝ていた・・・・・・・のか?」

「?ああ」

「私たちが扉を開けるまで一度も起きなかった・・・・・・・・・のか?」

どうしてそんなことを尋ねるのだろうと、不思議そうに信は頷いた。返事を聞いた昌平君がきゅっと眉根を寄せた。

「…ならば何故、扉が本棚で塞がれていた・・・・・・・・・・・と知っていた?」

問い掛けると信がさっと青ざめたので、その反応だけで合点がいった。

追い打ちを掛けるように、信の動揺を煽るように、昌平君は言葉を続ける。

「ずっと眠っていたのなら、そもそも扉が外から塞がれていることも、そしてそれが本棚であると確かめる術はないはずだ」

「………」

沈黙している信があからさまに目を泳がせた。

「それなのに、一度も起きなかったはずのお前は、扉が塞がれていたことも、そして本棚が使われていたことも知っていた」

昌平君の耳奥で、あの時の信の言葉が蘇る。

―――あ、先生。これってズル休みじゃねーよな?そんな重い本棚が塞いでたんだから・・・・・・・・・・・・・・・・、俺にはどうしようも出来なかったし。

信が昌平君にそう尋ねた時、まだ彼女は室内にいた。

河了貂たちが部屋に入って来るまで眠っていたという彼女が、一体なぜ扉を塞がれていたことを、そして見てもいないはずなのに、それが本棚であることを知っていたのだろう。

信の身体能力を考えれば、違う部屋の窓を伝って自分の部屋に戻ることも不可能ではないだろう。

しかし、あの重量感のある本棚は、王賁と蒙恬の力があってやっと動かせたのだ。いくら信であっても一人では動かすことは出来ない。

軍師学校の中で信の協力者といえば河了貂と蒙毅の二人が考えられるが、二人の反応から協力したとは思えない。

状況からして自作自演でないのは明らかだったが、答えは簡単だ。

彼女は、本棚を使って部屋の扉が塞がれることを、事前に知っていた・・・・・・・・のである。

あの場では他の者たちもいたので尋ねなかったが、今は都合よく二人きりであるため、昌平君は真意を問い質した。

「………」

唇を固く引き結んでいるところを見る限り、話したくないのだろう。

しかし、ここまで来れば何としてでも真意を知りたい。昌平君はさらに追い打ちを掛けることを決めた。

「…麃公の話だと、あの酒は半年ほど寝かせた方が特に美味いそうだな。入門祝いに渡されたあの酒は、今頃ちょうど半年か?」

麃公と酒の話に反応したのか、信が顔を引き攣らせている。

「なんで、知って…」

「麃公に話を聞いた。会えたのは偶然だがな」

「………」

「あの酒は、お前が軍師学校に来てからすぐに渡したと言っていた」

天井を見上げながら、信が「あーあ」と諦めたように声を上げた。

今朝の騒動の後、昌平君が執務をこなすために一度宮中に戻った時のことだった。偶然にも麃公が咸陽宮に来ており、彼の手には大きな酒瓶が握られていた。

彼が大酒飲みであることは知っていたのだが、まさか宮中に来た時まで持ち歩くとは何事だと思い、昌平君が声を掛けたのだ。

―――王騎のところの童に持って来てやったんじゃ。この酒は、前に渡したものと違って、寝かせなくても美味いからのう。

それが二度目の差し入れ・・・・・・・・だと分かった昌平君は、前回渡した酒についての話を聞いた。

前回渡した酒は半年ほど日の当たらない場所で寝かせておけば、より味に深みが出るのだという。

恐らく長い期間、軍師学校にいることになるだろうと見込んだ麃公が、その酒を渡したらしい。

酒の楽しみが先にあると思えば、少しは息抜きになるだろうという彼なりの気遣いだったのだろう。

―――へへ…この前・・・、麃公将軍から差し入れてもらったんだ。

酒臭いと蒙恬に言われた時、信はそう言っていた。

差し入れの酒をもらってすぐに開封せず、麃公に言われた通り、寝かせておいたのだろう。
今はちょうど信が軍師学校に来てから、半年が経過した頃だ。酒を飲むなら絶好の機会である。

そこで昌平君は今朝の騒動と、昨夜の酒についての繋がりを見抜いた。

偶然だと言われてしまえばそれまでだが、信は酒を飲むのをあえて昨夜・・・・・にしたことには何か理由があるような気がしてならなかった。

それはきっと今朝の騒動である扉を塞がれていたことが関わっているに違いない。

「…黄芳たちが、部屋の扉を塞ぐのを知っていたのか」

信は悪戯が見つかった子どものような、ばつの悪そうな表情を浮かべた。

「翌日にあのようなことが起きて、咎められずに遅くまで眠れると分かっていたから、昨夜に飲んだのではないのか?」

しばらく沈黙していたが、諦めたように彼女は溜息を吐く。

「だってよ…あいつらが教室の隅でこそこそ話してるのが聞こえたから…」

いよいよ白状した。今度は昌平君が溜息を吐く番だった。

つまり、信は翌朝に寝坊しても咎められないことを分かった上で、昨夜に月見酒をしたのだ。

軍師学校の中での生活態度も王騎は厳しく評価することを分かっていたのだろう。だからこそ酒を飲む機会をずっと考えていたに違いない。

そこで黄芳たちが扉を塞ぐ作戦を話し合っているのを知り、これ幸いと夜のうちに麃公が差し入れてくれた酒を一人で飲み干すつもりだったのだ。

月見酒をしている場に昌平君が来たのは偶然だったが、こんなことを彼が王騎に告げ口をしないと信は分かっていたのかもしれない。

翌朝になって、扉が塞がれていれば学校に行けないことになっても、誰も彼女を怪しむ者はいない。被害者の立場を上手く利用して月見酒を堪能したのだろう。

意外と単純そうに見えて、頭を使っている。軍略を学んでいる中で、そのような悪知恵も身につけてしまったのだろうか。もしそうなら王騎に悪いことをした。

今回のことで、信に唯一の誤算があるとすれば、昌平君が月見酒に同席したことと、麃公に話を聞いたこと、そして信の思考を読んだことだ。

河了貂たちと扉を開けたあの時に、余計なことを言わなければ流石の昌平君も気づかなかったに違いない。口は災いの元・・・・・・なのだ。

知恵熱がすっかり引いた信が上体を起こし、昌平君に両手を合わせる。

「なあ、頼むから、父さんにはこのことを黙って…」

上目遣いで懇願して来る信に、昌平君は腕を組みながら悩む演技をした。月見酒に関しては黙っていても良かったが、意図的に寝坊としたとなれば話は別だ。

「さて、どうしたものか。私では判断し兼ねるな」

「うう…」

信の眉が下がる。捨てられた子犬のような哀愁を漂わせる彼女に、昌平君は笑いそうになってしまい、下唇を強く噛み締めて堪えた。

もちろん王騎に言うつもりはなかったし、言ったところで王騎が強化合宿を延期するとは思えない。

次の戦では飛信隊を活躍させたいと話していたし、屋敷に帰還したらすぐに信の鍛錬もつけるつもりなのだろう。

自ら足を運び、その目で娘の成長を見届けにここまでやって来たのだから、態度も言葉も素っ気ないが、見方によっては王騎も娘には甘いのだろう。

それに、王騎の命令で嫌々ながらも軍師学校に来てから、信は真面目に勉学をこなしていた。もちろん河了貂と蒙毅の協力も大きいが、ここに来た時に比べると半年の間で確実に将として成長したことが分かる。

「…麃公は、王騎に酒を渡していったぞ」

「え?」

「屋敷に戻り、王騎と卒業祝いでもするが良い」

本当は麃公が二度目の差し入れを信へ渡すつもりだったのだが、軍師学校に行くために宮廷へ来ていた王騎が預かっていったのだ。その姿を昌平君も見ていた。

今日の勝負で、王騎も麃公も信が本能型の将としての才能を発揮すると分かっていたのかもしれない。

もしも才能が芽生えていなかったすれば、本気で五千人将の座を解いただろう。ここでも王騎の甘言と脅しの使い分けの上手さが発揮されたのかもしれない。

「へへ…ありがとな」

満面の笑みを浮かべた信に、昌平君はやや呆気にとられる。笑顔を見ただけだというのに、昌平君の胸は早鐘を打っていた。

 

天罰

教室に戻る頃にはすっかり陽が沈み始めていた。

信の姿を見て、河了貂と蒙毅がすぐに駆け寄って来る。可愛らしいつぶらな瞳をつり上げて、河了貂が信を睨み付けた。

「信!遅いぞ!何してたんだよッ」

もらい湯と昼食を終えてから戻ると話していたというのに、ずっと姿を現さなかったことに心配してくれていたらしい。

悪い悪いと宥めながら、信は二人に向き直った。

「俺、今日で強化合宿終わりなんだ」

「えっ?」

河了貂と蒙毅が瞠目する。

声を潜めて、信は二人に先ほどの王騎との軍略囲碁試合について話し出す。王騎との勝負に勝ったのだと知った二人はまるで自分のことのように喜んでくれた。

「やったな、信!おめでとう!」

「おめでとうございます」

「へへ、ありがとな。二人のおかげだ」

二人に礼を言ってから、信は思い出したように教室を見渡した。黄芳と目が合う。驚いた顔をした後に顔ごと目を逸らされたが、信は構わなかった。

木簡を塗り潰したり、部屋の扉を塞いだのが彼の仕業だというのは信は気づいていた。

幼い頃から戦場に出ていたせいか、信は常人よりも目と耳が利くのだ。だからこそ昌平君からの視線にも気づいていた。

黄芳が取り巻きたちとそのような企みをしていることを事前に知っていたのは、教室の隅で彼らが作戦会議をしているのを聞いていたからである。

そしてそれを聞いていたのは信だけではなく、他の生徒もだ。

今日まで黄芳が信に行っていたことは、軍師学校の生徒のほとんどが知っていた。とはいえ、現場を見られていないことから、黄芳だけは知られていないというつもりで嫌がらせを続けていたらしい。

「おい、黄芳」

信が声を掛けると、彼は分かりやすく肩を竦ませた。取り巻きの連中も信が声を掛けて来たことに驚いた表情を浮かべている。

今日まで彼女が言い返すことは一度もなかったので、声を掛けられたことに何事かと身構えていた。

彼らが怯えた表情で振り返るところを見ると、どうやら自分がいない間に河了貂と蒙毅にこっぴどく責められていたのだろう。

構わず、信は腕を組んで黄芳のことを睨み付けた。

「…お前、テンのことが好きなんだろ?」

そう言った瞬間、教室が水を打ったような静けさに包まれた。

自分の名前が出て来たことに河了貂が背後できょとんとしていた。

「なッ!ななッ、なんだと!?」

真っ赤な顔を引き攣らせて黄芳が怒鳴るが、河了貂へ想いを寄せていることを否定はしない。

わざとらしく溜息を吐き、信は彼に人差し指を向けた。

「だからって俺に八つ当たりすんなよな。テンは俺にとって妹みたいな存在だ。お前の恋敵になるつもりはねえよ」

いきなり軍師学校に現れた下僕出身の信が、河了貂と仲睦まじく軍略囲碁を打っている姿が黄芳は気に入らなかったのだろう。

河了貂と常に一緒に行動している自分に嫉妬しているのだと信は以前から気づいており、嫌がらせもその延長だと分かっていた。

「………」

思わぬ形で河了貂への想いを暴露されてしまった黄芳はこの世の終わりだという顔をして信を見つめていた。

しかし、そんな彼の気持ちなど知るものかと言わんばかりに、信は言葉を続ける。

「悪いがテンはこれから俺の軍師になるんだ。まだお前のとこに嫁がせる訳にはいかねえな」

俺の軍師・・・・という言葉に、黄芳が衝撃を受ける。信の中では飛信隊の軍師という意味だったのだが、彼女の正体を知らない黄芳からしてみれば、俺の女と言われているのも同然の言葉に聞こえたようだ。

信が女だと気づいていないのも些か問題に思えるが、黄芳からしてみれば河了貂に近づく者は誰であっても許せなかったのだろう。

「へえ」

傍で話を聞いていた蒙毅の顔に影が差し込んでいる。

「…河了貂は僕の大切な妹弟子だからね。彼女に何か話をするなら、まずは僕に勝ってからだよ。さあ、さっそく勝負しようじゃないか。と言っても、君が僕に勝てるとはとても思えないけどね」

ひいいと青ざめる黄芳を引き摺って、軍略囲碁の勝負を始める蒙毅の姿を横目に、信は長居は無用だと言わんばかりにさっさと教室を出た。

「信!」

後ろから河了貂が追い掛けて来たので、信は小首を傾げながら振り返った。

「俺、絶対に飛信隊の軍師になるから!軍師の席、空けて待ってろよ!」

河了貂の力強い言葉に、信は思わず笑みを浮かべる。

「ああ、もちろんだ。待ってるぜ、テン」

乱暴に頭を撫でてやると、河了貂は嬉しそうに目を細める。飛信隊の軍師の席はずっと前から彼女のために空けていた。共に戦場で戦えることを楽しみにしながら、信は咸陽宮を後にする。

厩舎で借りた馬に跨ると、また父のもとで厳しい鍛錬が始まる日常に、信は懐かしさと期待に胸を膨らませていた。

 

反旗と月見酒

その後、信が大将軍の座に就くことも、河了貂が飛信軍の軍師となるのも、そう時間はかからなかった。

時が進むにつれ、王騎、蒙驁、麃公…名のある秦の将軍たちが次々と没していく。

彼らの死に追い打ちをかけるように、それから数年後、嬴政の加冠の儀を利用して反乱軍による咸陽への侵攻が起こった。

一時は騒然となった秦国であったが、秦将たちは反乱軍に屈しない強さと忠義を見せつけたのである。

中でも飛信軍の女将軍である信の強さは凄まじく、彼女が幼い王女を守り抜いた活躍は秦国中で大いに広まることになった。

咸陽の防衛に成功し、毐国が壊滅に追い込まれた後、呂不韋は丞相の地位を剥奪となる。

裏で玉座を狙っていた呂不韋の活躍に終止符を打ったのは、呂不四柱の一人であった昌平君が反旗を翻したことがきっかけでもあった。

此度の勝利は、秦国の天下統一を大きく前進させるものとなる。秦王であり親友である嬴政の夢がまた一歩前進したことに、信は大いに喜んだ。

 

―――その日の夜は、此度の勝利を天が祝うかのように満月だった。

反乱軍との戦いの事後処理をこなしながら、昌平君の足は自然と夜の軍師学校へと向かっていた。

長年世話になった呂不韋との決別は、笑えるほど短い会話のやりとりだった。しかし、少しも後悔はしておらず、不思議と胸はすっきりとしていた。

無性に一人になりたい訳でも、集中して何かを考えたい訳でもないのに、夜の軍師学校へ足を運んでいる矛盾に、昌平君は自分が何を求めているのかを考えた。

「…?」

結局答えが出ないまま廊下を進んでいると、奥の空き教室に明かりが洩れていることに気が付いた。

「………」

心臓が早鐘を打ち始めたことを自覚して、昌平君は空き教室に向かう。自然と早足になっていたことには気付けなかった。

扉を開けると、あの日と同じように窓枠に腰掛けて月見酒をしている信の姿があって、昌平君は思わず息を飲んだ。どうして彼女がここにいるのだろう。

「…もう生徒でないお前の立ち入りは禁じているはずだが」

動揺していることを悟られないように、素っ気なく声を掛けると、

「授業が終われば学校じゃなくて、もぬけの殻だろ」

信はあの日と同じように振り返りもせず、素っ気なく同じ言葉を返した。

此度の防衛戦で、彼女は後宮を走り回って樊琉期の軍を相手にしていただけでなく、戎翟公の軍とも戦っていた。

寝込んでいてもおかしくないほど疲弊しているだろうに、彼女は酒を煽っていた。着物の隙間から覗く肌は包帯が巻かれていて、此度の防衛戦がどれだけ激しかったかを物語っている。

「お前も飲むか?」

まだ半分以上中身の入っている酒瓶を掲げながら、信がようやく振り返る。

「…杯は」

「一つしかねえけど?」

夜の空き教室で一つの杯で酒を飲み交わすなど、これではあの日と同じではないかと昌平君は苦笑を滲ませた。

「さすがに祝宴やらねえみたいだからな」

「当然だ」

戦の勝利の後は祝宴が開かれるものだが、反乱軍が首府である咸陽に侵攻して来た被害は大きく、将や兵は休息を取り、他の者たちは宮廷や後宮の修復作業や戦後の後処理に当たっている。

敗走後に逃げ出した反乱軍は、函谷関を抜けたところで桓騎軍によって取り押さえられているという。

桓騎軍に首謀者を生きたまま捕らえるよう指示を出したのは昌平君だ。太后と共に此度の反乱を企てたとされる首謀者の嫪毐は確実に処罰されるだろう。

水面下で広がっていた後宮権力の再調や、毐国の領土である河西太原の制圧など、やることは山ほどある。

明日から昌平君もその戦後処理に追われるのは目に見えていた。早めに休まなくてはと頭では分かっているのだが、なぜか休む気になれずここまで足を運んでしまった。

戎翟公を討つために、武装をして槍を振るったのは随分と久しぶりのことで、未だ昂りから冷めやらぬのかもしれない。

「…祝宴より、これくらい静かな方が良い」

元々賑やかな場を得意としない昌平君は、祝宴など開かなくても、静かに勝利を噛み締めていればそれで良いと考えていた。

窓枠に腰掛けて月見酒をしている信の傍に椅子を寄せ、昌平君も彼女の向こうにある満月を眺めることにした。

共に月見酒をしているはずなのに、昌平君の視線は満月ではなく、手前にある信の美しい横顔にしか向かない。

青白い月の光を浴びているせいか、あの日と同じように信の存在がどこか儚げに感じてしまう。

手を伸ばしても掴むことが出来ず、かき消してしまいそうな気がして昌平君は妙に恐ろしくなった。

「ほらよ」

一つしかない杯に酒を注ぎ、信が差し出す。

受け取った杯を口元に寄せると、芳醇な香りが漂った。ゆっくりと口に含むと、酸味と苦味が広がる。すっきりとした後味には覚えがあった。

「…この酒は」

信がにやっと歯を見せて笑った。

「懐かしいだろ?麃公将軍が贔屓にしてた酒蔵から取り寄せたんだ」

今は自分がその酒蔵から頻繁に酒を取り寄せているのだと信は笑った。

「………」

束の間、信が強化合宿と称して軍師学校で過ごしていた日々が瞼の裏に浮かび上がる。

無事に軍師学校を卒業できた後に行われた戦で、信は大いに武功を挙げ、五千人将から将軍へと昇格したのだった。

その後は本能型の将としての才能を発揮し、軍師に河了貂を迎えたこともあり、飛信軍の力は今や王騎軍に引けを取らぬ強大なものとなっている。

今回の防衛戦も飛信軍の活躍がなければ、この咸陽は毐国の手に落ちていただろう。

「今になって、分かったことがある」

酒を飲む昌平君を横目に、信が静かに口を開いた。

「…父さんは、あんたがいつか呂不韋を裏切って、政についてくれるって分かってたんだろうな」

馬陽の戦いで命を落とした王騎のことを思い返しているのか、寂し気な瞳で月を眺めながら信がそう言った。

数年前になる信の強化合宿の時や、それ以外のことでも王騎と幾度か言葉を交わしたことは幾度もあった。

しかし、自分が呂不韋を裏切ることは王騎に一度も話していないというのに、彼はそれを見抜いていたのかもしれないと信は言った。

もしそうだとすれば、大王側についている彼が、敵対関係にある呂氏四柱の一人である自分に信を任せたのは偶然ではなかったということになる。

自分を信頼した上で、王騎は娘を任せたのだ。

「…王騎は」

養父の名を出たことに、信は弾かれたように顔を上げた。

「お前を甘やかす役割は、母親が担っていたと言っていた」

「………」

「だが、言葉や態度にせずとも、いつもお前のことを気にかけていた。お前を一人の将として、娘として、大切に想っていた」

その言葉を聞いた信は目を見開き、それから戸惑ったように視線を彷徨わせる。

養父である王騎が馬陽の戦いで命を落としてから、数年の月日を経てから知った事実に戸惑いを隠せないようだった。

天下の大将軍として中華全土に名を轟かせた厳しい父親が、自分の知らないところで大切に想ってくれていたのだと分かり、信の瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていった。

「…そういうのはよ…人伝いじゃなくて、俺に言わなきゃ、意味ねえだろ」

泣き顔を見られたくないのか、信は月を見上げる素振りで昌平君から顔を背ける。

拳を白くなるほど握り締めた信は、奥歯を強く噛み締めて涙を堪えているようだった。昌平君は彼女に視線を向けないようにしながら、杯に酒を注ぐ。

「いッ、でで…」

「信?」

涙を堪えている信が、苦悶の表情を浮かべて右の脇腹を押さえたのを見て、昌平君が立ち上がる。

どうしたと声を掛けると、彼女は涙で瞳を潤ませたまま昌平君のことを見上げた。

「なんでも、ねえ…」

涙を堪えようと力んだのが原因で、戦で受けた傷が痛んだのだろうか。

信の苦悶の表情が少しも和らがないのを見て、昌平君はまさか傷口が開いたのではないかと心配になる。

脇腹を押さえている信の手に自分の手を重ね、昌平君は彼女の顔を覗き込んだ。

「傷を見せろ」

「いいって…手当てならしてもらった」

それならばなおさら傷口が開いた可能性が考えられる。頑なに傷を見せないでいる彼女に、昌平君は低い声で囁いた。

「見せなさい」

「っ…」

その声色に怒気は含まれていなかったのだが、信は叱られた子どものように怯えた表情を浮かべる。

諦めたように右の脇腹を押さえていた手を放したので、昌平君は迷うことなく彼女の着物の帯と紐を解いた。

襟合わせを開くと、信が言った通りに腹部は包帯に包まれていた。痛みがあった右の脇腹の包帯に赤黒い染みが出来ているのを見つけ、やはり傷が開いたのだと分かる。

「…ちゃんと見せたから、もういいだろ」

なぜか信が顔を赤らめて襟合わせを元に戻した。素肌を見られたのが恥ずかしいのだろうか。

普段から男のような口調と態度をしているが、信は女だ。異性に肌を見せるというのは慣れていないのかもしれない。しかし、やましい目的があって脱がせた訳ではない。

「手当てをしに行くぞ」

昌平君が彼女の手首を掴むと、信はその手を振り払った。

「俺はいい。他にも重症な奴らの面倒見てるだろ…」

自分のことよりも他の兵の心配をする信に、昌平君はもどかしい気持ちを抱く。

今回の防衛戦でも、自分の身を粉にして咸陽と王女を守り抜いたのだ。

嬴政の金剛の剣だと自ら名乗る信だが、盾の役割も担っている。自分の命を顧みずに国を守ろうとする姿は正しく将の鑑だ。

だが、勇猛と蛮勇は違う。

王騎の養子として、幼い頃から戦に出ていた彼女がその意味を履き違えることはないだろうが、命を無駄にすることだけはして欲しくない。

「なら、今夜はもう休め。酒は預かっておく」

包帯の染みが広がっていないことに安堵したが、何をきっかけに傷口が開くことになるか分からない。

大人しく横になっていれば傷口もこれ以上広がることはないだろうと思い、昌平君がそう言ったのだが、信は首を横に振った。

「嫌だね。まだ全然飲んでねえ」

相変わらず聞き分けのない子だ。昌平君はわざとらしく溜息を吐いた。

「…いてて…」

わざと傷口を圧迫させるように信は帯をきつく締め直していた。

帯を締め終わると、傷の具合を確認するために着物を脱がせたからか、信が夜風で冷えた体を温めようと腕を擦る。

それを見た昌平君は迷うことなく羽織りを脱ぎ、あの日と同じように彼女の肩に掛けてやったのだった。

 

月見酒の約束

「………」

しかし、あの日と違うのは昌平君が酒瓶と杯を持って教室を出て行かないことだ。

まるで信の代わりに飲もうとでもしているのか、昌平君は杯に注いだ酒をひっきりなしに口に運んでいる。

ただでさえ強い酒なのに、そんなに早く飲んで大丈夫なのだろうかと信は心配そうに目を向けた。

「おい、俺が酒蔵から取り寄せた酒なんだぞ。ちゃんと残しとけよ」

信はようやく立ち上がって、昌平君の横に椅子を持って来て腰を下ろした。強引に昌平君の手から杯を奪い、喉に流し込むように一気に飲み干す。

「…変わらない飲み振りだな」

褒めているのだろうか、それとも皮肉を言っているのだろうか。昌平君は普段からあまり表情が豊かな方ではないため、信には分からなかった。

「お前は本当に変わらねえよな」

足を組み、信は肩を竦めるようにして笑った。

「こう…何て言うか、いつまでも大人の余裕を崩さねえ感じがあるっていうか…ちょっとくらい緊張することとかないのかよ」

「している」

からかうように信が言葉を続けると、昌平君は窓の向こうにある満月を見上げながらそう答えた。

「え?」

思わず聞き返すと、昌平君が信の杯を持っていない方の手を掴み、その手のひらを自分の胸に押し当てた。

何をしているのだと問おうとするよりも先に、手のひらから昌平君の早い鼓動が伝わって来る。

「お前と二人でいる時は、余裕など、微塵もない」

「え……えっ?」

昌平君が発した言葉が耳を伝って脳に染み渡るまで、しばらく時間がかかった。

ようやく言葉の意味を理解した途端、信は全身の血液が顔に全て集まったのではないかというほど顔を真っ赤にさせる。

「う…」

戦で受けた傷は右の脇腹だけではなく、他にもあるのだ。戦いの最中で幾度も血を流したせいだろうか、くらくらと眩暈がする。貧血だろう。

「信」

椅子から崩れ落ちそうになった体を昌平君の両腕が優しく抱き止める。

「っ……」

彼の胸に顔を埋める形になった信は眩暈と羞恥のせいで、顔を上げることが出来ない。

抵抗しない彼女に気を良くしたのか、昌平君が背中に腕を回して信の体を抱き締めた。より密着することになり、今度は耳から彼の早い鼓動が聞こえて来る。

「…そんなの、酒のせいだろ」

昌平君の着物を弱々しく掴みながら信がそう言うと、昌平君の手が伸びて来て、頬を包まれた。

「ッ…!」

無理やり目線を合わせられると、視界いっぱいに端正な彼の顔が映り込み、また顔が赤くなった。

こんなにも近い距離で昌平君と見つめ合うのは初めてのことで、心臓が激しく脈を打つ。顔を動かせぬよう顔を掴まれて固定されていたが、視線は背けることは出来る。

目を逸らした途端に、昌平君の顔がさらに近づいて来たので、驚いて信は視線を戻した。

「んッ…ぅ…?」

これ以上ないほど視界いっぱいに昌平君の端正な顔が映っていて、唇を柔らかいものが覆っている。

やがて呼吸ができるようになると、信は陸から上がった魚のようにぱくぱくと口を開閉させたが、驚愕のあまり喉が塞がってしまう。

「おまっ、ここ、学校…!」

ようやく振り絞った声は、かつてないほど震えていた。笑えるほどに情けない声だった。

授業が終われば・・・・・・・学校ではなくもぬけの殻だ・・・・・・・・・・・・

「~~~ッ…!」

聞き覚えのある台詞を返されて、信は言葉を失う。

「殴らないのも、逃げ出さないのも、期待して良いということか」

「へ…?」

未だ昌平君の腕の中にいることに気が付いた信は、まるで術でもかけられたかのように動けずにいた。

しかし、彼が言うように殴るつもりも逃げ出すつもりもない自分に信は驚く。

怒りの感情を通り越して、ただ驚愕しているだけなのかもしれないが、それでも彼の腕の中は居心地がいいと感じているのも事実だった。

「お、お前、酔ってんだろっ…!からかうなよ」

これはきっと酒のせいだと信は自分に言い聞かせる。先ほどまで唇を覆っていた柔らかい感触を名残惜しく思うのも、昌平君に抱き締められて心地よく感じるのも、全て酒のせいに違いない。

背中に腕を回そうとして、信は慌てて自分の手を引っ込めた時だった。

「信、お前が好きだ」

その声は蜂蜜のように蕩けるほど優しくて、信は思わず息を飲む。

再び近い距離で見つめられると、とっくに酔いは回っているはずなのに、まるで顔に火が灯ったように熱くなる。

昌平君はようやく夜の軍師学校に足を運んだ理由に気が付いた。

ここに来れば、信に会える気がしていた。きっと、自分は無意識のうちに彼女の姿を探していたのだ。

「…昌平君、あの、…俺…」

顔を真っ赤にしながら信が言葉を紡いだが、昌平君は彼女の唇に指を押し当てて、

「返事は今じゃなくて良い」

そう言って、静かに杯へ酒を注いだ。

彼女の傷が癒えた後に、返事を聞こうと思った。

きっとまた、彼女は美味い酒と一つの杯を持って、この空き教室にやって来るはずだから。

 

このシリーズの続編(恋人設定)はこちら

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軍師学校の空き教室(昌平君×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ギャグ寄り/IF話/軍師学校/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

進展と妨害

軍略の基礎中の基礎を、信は三か月かけて、どうにか頭に詰め込んだ。

基礎を覚えたら次のことを教えると昌平君は伝言をしていたが、特に彼が指導をすることはなく、信はひたすら河了貂と蒙毅を相手に軍略囲碁を打っていた。

覚えたばかりの陣形を実際に動かすと、どのような時に利点と欠点があるのか理解出来るようになる。

もしかしたら昌平君はそれを見越して、軍略囲碁を打たせているのかもしれないと信は思った。

軍略囲碁はあらゆる地形、戦い方を想定して行うため、同じ条件で勝負をすることはほとんどない。それだけ軍略の形には数が多く、戦い方もその倍は存在している。

河了貂も蒙毅もこの軍略学校で軍師としての才能を開花させており、信は二人を相手に何敗もしていた。

しかし、数を重ねていけばいくほど、あらゆる動きの想定が出来るようになっていき、勝利に至ることはなくとも、敵本陣に攻め込む一歩手前まで駒を進められるようになっていた。

(…あ、ここに道がある)

軍略囲碁をこなしていくうちに不思議なことが起きた。それは軍略囲碁をしている最中に、道筋が見えるようになったことだ。

蒙毅と河了貂には見えていないようだが、まるで光が浮かび上がるかのように、一つの道が見えるのだ。

浮かび上がった光の道の先には敵大将のいる敵本陣があって、導かれるようにそこに駒を進めると、蒙毅と河了貂は驚いたように、その道の妨害をしようと別の駒を進める。

敵の駒が動くと、そちらの対処もしなくてはならないので、光の道が消えてしまう。しかし、そうしているうちにまた別の道が浮かび上がり、信はまたそこに駒を進めていく。

初めのうちは余裕の表情を浮かべて信に圧勝していた蒙毅と河了貂だが、日を追うごとに苦戦を強いられるようになっていた。

二人を相手に幾度も勝負を重ね、軍略囲碁を打った数はとうに三桁を越えようとしていた。

優等生である河了貂と蒙毅が苦戦を強いられている姿を見て、周りの生徒たちも信の軍略囲碁を注目するようになり、勝負の度に生徒たちが囲碁台を取り囲むようになっていた。

「あー、くそーっ、また負けた…!」

河了貂が駒を進め、信の本陣を奪ったことで軍略囲碁は終了。此度も河了貂の勝利だった。

追い詰めはするものの、あと一歩というところで敵本陣への道を妨害されてしまう。

光の道筋が消えてしまうと、敵の駒を対処することに集中するのだが、次の道筋が浮かび上がる前にこちらの本陣を落とされてしまうのがいつもの敗因だった。

「いや、あのまま進められてたら俺は負けてたよ」

勝負を終えた河了貂は安堵したように、長い息を吐き出す。

「うん。今回も危なかったね」

口元に手を当てながら、蒙毅は険しい表情を浮かべている。信が動かした駒の動きをじっと見詰め、何かを考えているようだった。

過程がどうであれ、負けは負けだと信は椅子の背もたれに身体を預ける。

「ああー…考え過ぎて、頭いてえ…」

気づけば夕方になっていて、朝から軍略囲碁を打ち続けていた体は疲労を抱えていた。頭がずきずきと痛む。凝り固まった肩を回しながら、信は溜息を吐く。

頬杖をつきながら、信は疲労感に身を委ねていた。鍛錬ではなく、頭を使ってへとへとになるのは軍師学校に来てから毎日のことだった。

王騎からは相変わらず音沙汰はない。きっと今頃は厳しい鍛錬を終えて、花の浮かべた風呂に浸かっているのだろうなと信は考えた。

…一体いつになったら屋敷に帰れるのだろうと、信は目を伏せながら考えた。ずっと剣を振るわず、机上での学びを続ける日々で、すっかり筋力が落ちてしまった。

戦の気配はまだないようだが、軍師学校ではひたすら軍略について学ぶ場であるため、そういった情報が入って来るのは遅い。

将軍昇格への道が遠ざからぬよう、次の戦までには強化合宿を終えたいのだが、昌平君から合宿の終了条件に関しては未だ告げられていない。

しかし、河了貂と蒙毅を軍略囲碁で倒せるくらいにならないと許しを得られないような気がしていた。

王騎が言っていたように、五年や十年かかったらどうしようと信は不安と焦りを覚えた。

「…うおッ!?」

目を開くと、昌平君の横顔が目の前にあって、驚いた信は椅子から飛び上がった。

いつもなら河了貂と蒙毅に任せっきりである昌平君が、今は真剣な眼差しで囲碁台を眺めている。

河了貂の勝利で終わったことは見れば明らかなのだが、その過程についてを確かめているようだった。

「…なぜ、ここの軍を迂回させなかった?」

昌平君が軍に見立てた駒の一つを指さす。

「あ?」

今回設定した地形は特に山や川などの障害物のない平坦なものだった。

伏兵を隠せるような場所もなく、中央で激戦が行われる。それはこの地形を設定されてから信も河了貂も、もちろん他の生徒たちも分かっていた。

中央に集められた軍が陣形や兵法を用いて戦いを行う中で、信は軍を幾つかに分け、中央に集まっている敵軍を無視して前進を図ったのだ。

だが、兵力を分散させれば簡単に討ち取られてしまう。陣形を組んだ敵兵力の前なら尚更だ。しかし、信は陣形を作って対応することをせず、軍が壊滅する危険を犯してまで前進を続けたのだ。

無謀だとは思うが、がむしゃらに敵本陣を狙っているようには思えず、昌平君は彼女にその意図を尋ねた。

これには蒙毅も河了貂だけでなく、他の生徒も驚いていた。

なぜなら昌平君が一人の生徒に対して、そのような問いかけをするのは初めてのことだったからである。

わざわざ本人に尋ねなくとも、残っている結果を見れば、どちらがどのような動きをしたのか簡単に予想するほど、総司令官という役割を担う彼は聡明だからだ。

しかし、そんな彼が信に真意を問い掛けた。昌平君でさえ、信がこのように軍を動かした意図を計りかねているということである。

もちろんそんなことを知らない信は、囲碁台を眺めながら「んーと…」と間延びした声を上げ、考えていたことを思い出そうとする。

「全部の軍から百ずつ兵を分散させたから、合わせて五百をここで合流させて…」

信は激戦地を指さした。

五百の兵に見立てた駒を手に取り、信は敵本陣へ繋がる一本の道へと運ぶ。それは河了貂と軍略囲碁の最中に見えた光の道筋だ。

ここの道・・・・を通れば、敵本陣に行けると思ったんだ」

大胆にも敵と味方が入り組んでいる場所の真横をすり抜けて、信は敵本陣を目指そうと睨んでいたのだ。

河了貂と蒙毅は、信が駒をその道に進ませた時に驚いていた。信が駒を進ませた場所が道になっていることに、二人は気づけなかったのだ。

二人も他の生徒たちも、真横を通ろうとは考えもしなかった。敵本陣へ向かうならば、敵味方が入り組んでいるその場を大きく迂回するはずと考えていたのだ。

結局は五百の兵を向かわせている最中に、分散してしまった味方兵力を押し抜いた複数の敵軍によって、味方本陣を先に取られてしまったことが此度の敗因である。

「…そうか」

昌平君はそれだけ言うと、背を向けて行ってしまった。

(なんだったんだ?)

軍師学校に来てからというものの、彼からは何も教えられていないなと思いながら、信は両腕を頭の後ろに組む。

 

進展と妨害 その二

使用した駒を片付けようとしない信に、河了貂は腕を組んで彼女を睨み付けた。

「おい、信ッ!片づけは負けた方がやる約束だろ!」

「んな怒るなよ。今やるとこだったって」

やれやれと椅子から立ち上がり。信は囲碁台の上に並べてある駒を手に取っていく。

「じゃあ、俺から宿題だ。軍略基礎の木簡の第一巻を読み直すこと!平坦な戦での兵法や陣形が載ってるから、もっかい読んでおけ」

久しぶりに木簡の話題が出て来て、信はどきりとした。

「あー…えーと、だな…」

あからさまに表情を曇らせて目を泳がせる信に、河了貂は円らな目をさらに真ん丸にさせる。信が嘘を吐けない性格なのは、昔から付き合いがあるからこそ分かっていた。

軍略学校からの付き合いである蒙毅でさえも、信のあからさまな動揺に疑問を感じているようだった。

「どうしたんだよ?なんかあったのか?」

「いや、その…部屋に、ある…んだけどよ…」

「?」

河了貂と蒙毅が二人して目を丸める。部屋に置いてある木簡がどうかしたのだろうか。

まさか失くしたとは思えない。あんな質素な部屋ならば、木簡を失くすような要因など何一つないだろう。

だとすれば一体何があったのか、二人の聡明な頭脳を持っていたとしても、想像が出来なかった。

教室にも同じことが記されている木簡はあるのだが、今は他の生徒が目を通しているようだったので、河了貂は仕方がないと溜息を吐く。

「じゃあ、俺が信の部屋から持って来てやるよ」

「えッ!?いや、部屋戻ったらちゃんと読むから大丈夫だッ」

「なんか怪しい!そこで蒙毅と待ってろ!」

信の制止も聞かず、河了貂が宿舎へ向かおうとする。彼女を止めようと信は腕を伸ばしたが、河了貂はその手をすり抜けてさっさと行ってしまった。

あからさまに動揺している信を横目で見て、蒙毅はどうしたのだろうと小首を傾げていた。

 

「―――信ッ!!」

しばらくして信の部屋から木簡を持って来た河了貂は憤怒の表情を浮かべていた。

彼女が持って来たのは一つだけではなく、両手に抱え切れるだけの木簡だ。

第一巻を読み直すように信に言っていたはずなのに、どうしてそんなに持って来たのだろう。

だが、信は理由が分かっているようで顔を強張らせて、泣き笑いのような表情を浮かべている。

「どうしたんだよ、これッ!」

「テンッ、声がでけえよ!」

あたふたと信が河了貂の口を塞ごうとするのだが、河了貂の怒りは止まらない。教室中に彼女のよく通る高い声が教室に響き渡ったことで、生徒たちから好奇の視線が向けられていた。

昌平君だけは相変わらず手元にある木簡に目を通していて興味を示していないようだが、河了貂の声は彼の耳にも届いているだろう。

「一体誰にやられたんだよッ!こんなの、自分でやるはずないだろ!」

顔を真っ赤にして声を荒げながら、河了貂が信の部屋から持って来た木簡を広げる。軍略の基礎について記されているはずの木簡には、全ての文字を覆うように墨が塗られていた。

不注意で墨を零したような染みではなく、わざと文字が読めなくなるような塗り方をされていた。

「これは…」

蒙毅が瞠目する。

他の木簡を広げると「出ていけ」「帰れ」「下僕出身」「奴隷の分際で」などと言った文字が乱雑に記されており、記されている文字などとても読めそうにない。

どれも墨は乾き切っており、随分と前からそのような状態になっていたことは蒙毅も河了貂も簡単に予想がついた。

木簡について信が狼狽えたのは、きっとこのことを知っていたからだろう。

「お、落ち着けって…」

目をつり上げて自分のことのように憤怒している河了貂を宥めようと、信が声を掛ける。しかし、河了貂の怒り少しも収まらない。

彼女はぐるりと教室を見渡して、初日に信へちょっかいを出して来た黄芳のもとへと大股で近づいた。

「黄芳ッ!お前がやったのか!」

河了貂に怒鳴られて、黄芳はあからさまに顔を引き攣らせた。教室に張り詰めた空気が広がる。

「い、いきなり何だッ!そんな言いがかりをつけて…!俺がやったっていう証拠でもあるのかッ!」

「いつも信にちょっかい出してたのお前だろッ!お前以外に誰がやったって言うんだよッ」

ちょっかいという範囲で収まるかどうかは話が別だが、黄芳が一番の容疑者だというのは誰もが予想していた。

軍師学校に入門してから、信が軍略基礎を頭に詰め込み終えるまで、黄芳は頻繁に口を出しに来た。

初日に投げつけたような軽い嫌味ばかりで、信は大して気にしていなかったのだが、河了貂と蒙毅はその度に彼に言い返してくれたのである。

しかし黄芳はしつこく、軍略のことを何も分かっていない信にやたらとちょっかいをかけ続けた。

ここでは素性を明かさないという王騎との約束を守るために、信が「自分は下僕出身で運よく入門できただけだ」と黄芳に告げてからは、彼の言動は激化したように見える。

下僕出身だと言えば素性も隠せるし、相手にされなくなるだろうと思っていたことが、裏目に出てしまったようだ。

どこかの貴族の出なのだろうか、取り巻きの連中も何人かいるし、もしかしたら木簡のことも彼らに命令してやらせたのかもしれない。

今までのことを考えると、黄芳しかありえないというのが河了貂の見解だった。

「信に謝れよ!」

「な、なんで俺が!俺がやったっていう証拠もないくせにッ!」

このままではどちらかが手を出して暴力沙汰になると思い、信は蒙毅と共に河了貂のもとへと急いだ。

二人の間に割って入り、信は河了貂の丸い肩を掴む。

「テン、やめろ。お前ももうガキじゃねえんだから」

「なんで信も黙ってたんだよッ!」

墨だらけの木簡を指さして河了貂が信に迫る。

「それは…」

言えば今のような騒動になると分かっていたし、大事にしたくなかったのもあるのだが、何より、このような幼稚な真似をする者の相手にするのが面倒臭かったというのが一番の本音である。

下僕出身なのは事実だし、当時に受けた待遇に比べたら黄芳の行いなど大したことではないと思っていた。

そんなことを、頭に血が昇っている彼女に本音を打ち明ければ確実に殴られてしまうと思い、信は口を噤んだ。

「―――今日はこれで終いだ。皆、帰りなさい」

教室に漂っている張り詰めた空気を打ち破ったのは、立ち上がった昌平君の一言だった。

黄芳は逃げるように教室を飛び出していき、他の生徒たちも嫌な空気から逃れるように足早に教室を出て行った。

教室に残ったのは昌平君と信、それから河了貂と蒙毅の四人である。

「さ、さーて、俺も戻ろーっと」

何事もなかったかのように信も教室を出ようとするのだが、残念ながらそんな上手く逃げられる訳がなかった。

「信!話はまだ終わってないぞッ!なんで黙ってたんだよッ!」

河了貂に背中から腕を掴まれて、信は肩を竦めるようにして笑った。

「んなこと言ったってよ…今さらどうしようないだろ、これ」

真っ黒に塗り潰された木簡に視線を向けて信がそう言うと、河了貂が悔しそうに奥歯を噛み締めた。

木簡がこのようになっていると気づいた時、信も河了貂と同じくらい驚いた。しかし、驚愕の後にやって来たのは、怒りではなく諦めだった。

自分が騒いだところで犯人が名乗り出るとは限らない。河了貂は黄芳の仕業だと信じているようだが、彼を罰したところで木簡が元に戻る訳でもない。

恐らくそれは昌平君も思っていることだろう。何も言わずに信の姿を見つめているが、その瞳からは怒りも感じないし、咎めようとする様子は微塵もなかった。

 

軍師学校の夜

授業が終わり、生徒たちが宿舎に戻ると、軍師学校はもぬけの殻になる。

宮廷のあちこちには常に見張り役の衛兵たちが出入りしているため、昌平君は一人になりたい時や、集中して何かを考えたい時は、夜の軍師学校に来る習慣があった。

今日中に目を通しておこうと考えていた木簡を片手に、反対の手には明かりを持ち、昌平君は廊下を歩く。

誰も居ないのだから使う教室はどこでも良かったのだが、突き当りにある空き教室を使うことが多かった。空き教室の窓から月がよく見えるからだ。

月見をするのではなく、月明かりが差し込むので、文字が読みやすいという味気ない理由である。今宵は満月で、月の光がより多く差し込んでいた。

「…?」

突き当りの空き教室から明かりが洩れているのが見えて、昌平君は僅かに身構えた。

生徒たちは既に宿舎に帰っている時間だし、この時刻なら既に寝入っているはずだ。自分以外にここを利用する者がいたのかと驚いたのが正直なところだ。

心当たりがあるとすれば、同じ呂氏四柱の一人である蔡沢くらいである。しかし、彼は外交に出ているため、今は不在にしているはずだ。

野盗という可能性もあるが、ここは学校で金目の物などは置いていないし、そう言った目的なら宮中に行くはずだ。宮廷内にあるこの学校も易々と忍び込めるような建物ではない。

生徒が軍略が記された木簡を読み耽っているのかとも考えたが、わざわざ空き教室を利用せずとも、宿舎の部屋で読めばいいはずだ。

昌平君が明かりが灯っている空き教室を覗き込むと、そこにいたのは信だった。

椅子を使わず、窓枠に腰を下ろして月を眺めている…だけなら良かったのだが、傍らに酒瓶と杯があるのを見て、昌平君は思わず眉根を寄せた。

「ここは学校だぞ」

「授業が終われば学校じゃなくて、もぬけの殻だろ」

昌平君に声を掛けられても信は驚きもしないどころか、振り向かずにそう答えた。足音と気配で自分だと気づいていたのだろう。

空になっていた杯に酒を注ぎ、信は豪快に飲み干す。女にしては良い飲みっぷりだった。

「どこから持ち込んだ」

近くにあった椅子に腰を下ろし、持って来た木簡を広げながら昌平君が尋ねる。

「麃公将軍からの差し入れだ。お前も飲むか?」

ようやく振り返った信の顔は紅潮していた。ここで飲み始めてからどれくらい時間が経ったのかは分からないが、既に酔っているようだった。

軍師学校に信がいることを麃公は一体どこから知ったのだろうか。もしかしたら宮廷で遭遇したのかもしれない。

強化合宿と称しているが、授業以外の時間は拘束していない。王騎との約束があるため、屋敷に戻らず、宮廷で暇を潰していたのかもしれないと昌平君は考えた。

麃公も咸陽宮を出入りすることがある将軍だ。大酒飲みで知られている彼は、王騎とも交流があり、彼の養子である信のことも気にかけているようだ。

持って来た木簡にざっと目を通してから、昌平君は彼女の近くに椅子を寄せた。酒の誘いに乗ったのだ。

「ああ、悪いな。杯は一つしかねえんだ」

信が手に持っていた杯を掲げながら言う。構わずに昌平君は彼女の手から杯を奪い、酒を注いだ。

口に含んだ途端、ぬるいせいか、酸味と苦味がはっきりと舌に広がる。しかし、雑味が含まれていない分、後味はすっきりとしていた。芳醇な香りもまた良い。飲み込むと、胃に火が灯ったかのような感覚を覚える。

思わず長い息を吐いた昌平君を横目で見た信は、楽しそうに目を細めていた。

強い酒だというのは、大酒飲みである麃公からの差し入れだと聞いた時から察していたが、酒に弱い者が飲んだら卒倒してしまうだろう。

酒瓶の中身はまだ半分も減っていなかったが、こんなにも強い酒を一人で飲み干そうとしていたのだから、彼女は随分と酒に耐性があるらしい。

 

月見酒と特別授業

一つの杯で酒を飲み交わしていると、信がどこか寂しそうな表情で月を見つめていた。

酒瓶の中身が大分減って来た頃、昌平君の頬にも赤く染まっており、酔いが回り始めたことを自覚する。

「…なぜあの者たちに言い返さず、黙っている」

気づけば昌平君は信にそう尋ねていた。尋ねる気など微塵もなかったのに、口を衝いて言葉が出てしまったのだ。きっと酔いのせいだろう。

彼女が軍師学校に来た初日から、黄芳や彼の取り巻きの生徒たちから、軍師の才がないことを馬鹿にされていることを、昌平君は知っていた。

彼女が何も言い返さない分、代わりに蒙毅と河了貂が彼らを軍略囲碁で打ち負かしているのも、視界の隅でいつも見ていた。だが、信が黄芳に言い返したり、怒っている姿は一度も見たことがなかった。

「下僕出身なのは事実だろ」

「…庇うのか?」

昌平君が聞き返すと、信が不思議そうに首を傾げた。

「は?何も間違ったことを言ってねえあいつらから、何を庇うって言うんだよ」

まさかそんな答えが返って来るとは思わず、昌平君は表情を変えずに驚いた。

感情的になりやすいことは信の弱点だと思っていたのだが、黄芳や取り巻きたちに掛けられる言葉に、信は微塵も興味を抱いていないらしい。

気にしないようにしているのか、それとも本当に鈍いのかは分からないが、河了貂が怒るのも頷けた。

「下僕出身の俺が気に入らないんだろ。そんなのは王賁から言われ慣れてる」

王一族の中心である宗家には、信の幼馴染である王賁がいる。玉鳳隊の隊長である彼は、下僕出身である信が王家の一族に加わることが気に食わないのだという。

しかし、信は剣に覚えがあり、初陣から武功を挙げ続け、あっという間に五千人将にまで上り詰めた。王騎と摎が見抜いた力を発揮したのだ。

王賁から下僕出身のことをあれこれ言われなくなったのは最近だというから、恐らく彼も信の実力を認めようとしているらしい。

空になった杯を昌平君の手から奪い取りながら、信は酒を注いだ。青白い月明りを浴びた彼女の横顔が何だか儚げに映って見えた。

「…平等って、何なんだろうなあ」

信の口からその言葉が出て来るのは初めてのことだったが、彼女が疑問に思うのも当然だろうと昌平君は思った。

注いだ酒を一気に喉に流し込むと、信がにやりと歯を見せて笑った。

「下僕にも、当たりとはずれがあるんだぜ。知ってるか?」

「………」

何を言わんとしているのか、昌平君には手に取るように分かった。

この戦乱の世では親を失って、下僕として売り捌かれる子どもは珍しくない。信のように才能を見初められて、下僕の立場を脱する者はほんの一握りしかいないのだ。

信と時機を同じくして奴隷商人に売られた者たちは、今も下僕としての生活を続けている者が大半に違いない。

自分は当たり・・・であると信にも自覚があるらしい。もちろんそんなことは本人だけでなく、誰に聞いても答えられる質問だ。

「そんじゃあ、下僕の当たりはずれには、どんな種類があるかを知ってるか?」

一歩踏み込んだ質問が投げかけられる。信のように名家に引き取られるのが当たりなら、他にはどのような道があるのか。

安易に想像はつくのだが、下僕の出だからこそ知っている話もあるのだろうと、昌平君は彼女の言葉に耳を傾けていた。

何も答えない彼が話を聞く態度でいるのを見て、信が得意気に笑う。

「特別に今日は俺が先生になって授業してやるよ。机上じゃ絶対に知らない知識ばかりだ。良い勉強になるぜ?」

立ち上がった彼女は、酔いのせいでふらふらとした足取りだったが、まるで教鞭を執るように空き教室の中心に立った。

「下僕ってのは、運が良けりゃあ、奉公先で金持ちの旦那に飼われることもある。女だろうが男だろうが関係ない。物好きはたくさんいるからな。慰み者になって死んでく奴もいる」

「………」

酒で顔を赤く染めながら、誇示するように信は饒舌を振るう。

「姓がなくたって、力があればそれだけで価値がある。下僕の中でも、男ってだけで優遇されるんだよ」

男の下僕ならば農耕や荷役などの重労働をさせるために、その労働力を買われることも、徴兵されて軍事力にもなると言いたいのだろう。

酔いが回っているせいで、立っているのが辛くなったのか、信は昌平君の向かいにある椅子に腰を下ろした。

「…織布や家事とか、そりゃあ女にも色んな仕事はあるけどよ。女はそれなりに顔が良けりゃあ、娼館や後宮に売られたり、どこかの男の愛人になることもある。妓女として才能があるんなら、出世だってできるんだ」

女の下僕は、男とは大いに生き方が異なるのだと信は言った。

「女としての価値が買われるんなら、飢えも寒さも凌げる。…それじゃあ、ここで先生に質問だ」

信が口元に笑みを繕った。口元とは正反対で、その瞳は少しも笑っていない。

「見てくれも悪けりゃ、愛想も物覚えも悪い。何の取り柄も価値もねえ女はどうなると思う?」

「……」

昌平君はすぐには答えなかった。口を噤んでいる彼を見て、信が不思議そうに小首を傾げる。

「そんなに難しいかよ?前に王賁や蒙恬にも聞いたけど、あいつらも答えられなかったんだよな。簡単だろ」

つまらないという表情で信が椅子の背もたれに身体を預けた。

「それは違う」

昌平君が低い声で否定すると、信は彼に視線だけを向ける。

「二人が答えなかったのは、お前を気遣ったからだろう」

その言葉に、信の口の端が引き攣った。一瞬、彼女の目から殺意にも憤怒にも似た、底知れぬ感情が浮かび上がったのを昌平君は見逃さなかった。

「…それじゃあ、お優しい名家の嫡男様たちのように、お前も俺に気を遣って答えないってことか?」

挑発的な瞳を向けられ、昌平君は静かに口を開いた。

「…世を儚み自ら死を選んだか、悪戯にその命を奪われたか、どちらかだろうな」

どうやら正解だったらしく、信があははと笑いながら拍手を送った。

「見たことあるか?これから戦に出るどこぞの嫡男様に、逃げ惑ってるところを弓矢の的にされたり、武器の切れ味を確かめるのに使われる・・・・こともあるんだぜ?埋葬もされないまま、野ざらしで捨てられて、カラスや獣の餌になったやつだっている」

次々と信の口から告げられていく残酷な事実に、昌平君は口の中に苦いものが広がっていく。

奉公先でいじめに耐え切れず自ら命を絶つ者や、飢えや寒さに耐え切れ得ず亡くなっていく者がいるのだろうと想像していた。

しかし、信の口から聞かされたのは、あまりにも粗末な扱われ方だった。

同じ命だというのに、生まれが違うだけで、こんなにも生き方が異なる。だからこそ信は平等について疑問を感じていたのだろう。

信は将軍の才を王騎と摎によって見抜かれたことで、そのような死を回避出来た。だが、もしも二人が信を見つけてくれなかったのなら、その辺に転がっている小石と何ら変わりない価値のまま、玩具のように弄ばれて殺されていたかもしれない。

「…生まれた時から恵まれている者たちが憎いか?」

どうしても問わずにはいられなかった。普段から言葉にしないだけで、信は内側に下僕の命を粗末に扱う者たちに怒りを秘めているのかもしれないと思ったからだ。

しかし、昌平君が問うと、信はすぐに首を横に振った。

「別に、そんなの考えたことねえよ。…腹が減った時に飯が食えて、屋根がある場所で眠れる。それで良いじゃねえか」

頬杖をついて、信はゆっくりと瞼を下ろす。酔いが回って眠くなって来たのだろうか。

「そんなことが当たり前だと思ってる坊ちゃんたちは、それ以上に何が欲しいんだろうな。俺には分かんねえよ」

微睡みながら、信が呟く。

完全に瞼を下ろし切ってしまった信がこのまま寝てしまうのではないかと思い、昌平君が声を掛けた。

「寝るなら部屋で寝ろ。風邪を引く」

「寝てねえよ。もうちょっとだけ…酒飲み終わったら、戻る」

すぐに動き出さないところを見れば、本当に寝入ってしまうのではないかと疑わしくなる。酒の中身は二人で飲んだおかげで大方減っているが、まだあと数杯分は残っていた。

あんな話をした後で、機嫌良く過ごせるはずがない。表面的には笑顔を浮かべていたが、心の中で、信はどう思っているのだろうか。

「っくしゅん!」

静寂を打ち消すように、信が盛大にくしゃみをかました。

わざとらしく溜息を吐いた昌平君は紫紺の羽織を脱ぐと、その羽織を信の体に掛けてやる。

「酒が回って暑くなった。お前が預かっておけ」

「え?」

「馳走になったな」

肩に掛けられた羽織に信が戸惑っている間に、昌平君は酒瓶と杯を持って空き教室を出て行った。学校に酒瓶があったとなれば騒ぎになるのは目に見えている。不始末にならないように持って行ったのだろう。

まだ中身が残っていたのにお預けを食らったような気分になり、信は口を尖らせる。

「………」

一人教室に残された信は複雑な気持ちを抱いていた。

いくら麃公が差し入れてくれた強い酒を飲んでいたとはいえ、陽が沈み、夜風が吹いている今は誰であっても「暑い」とは思わないだろう。

風邪を引かないよう配慮したことを言わず、恩着せがましくないやり方で自分に羽織を着せていった昌平君に、信は妙な苛立ちを覚えた。

「何なんだよ…」

大人の余裕を見せつけられた気分だ。

いつかその余裕ぶった態度を揺すってやりたいと思いながら、信は窓の向こうに浮かんでいる月を眺めていた。

 

事件勃発

翌朝の軍師学校に、信の姿がなかった。

屋敷にいる時は他の兵たちと同様に早朝から夜遅くまで厳しい鍛錬をこなしていた信だったが、ここでの生活に慣れてからは、朝は随分とゆっくりと起きるようになったらしい。

眠っているところを副官である騰に首根っこを掴まれて、無理やり部屋から連れ出されることもないと笑っていた。

だから河了貂も、信が教室に来るのが遅いことに何も疑問を抱かなかった。

しかし、その日は違った。生徒全員が学校に集合して、蒙毅と河了貂がいつものように軍略囲碁を打ったり、勉学に勤しんでいたのだが、いつまでも信は現れない。

軍略囲碁が四回戦を終えた頃、もう時刻は昼になろうとしていた。

信はまだ教室に姿を現さない。さすがに遅すぎると河了貂は信を宿舎へ迎えにいった。

しばらくすると血相を変えた河了貂が教室に飛び込んで来て、円らな瞳を限界まで広げて蒙毅の腕を掴んだ。

「も、蒙毅ッ!来てくれ!」

「どうしたんだい?」

普段から冷静である蒙毅も、妹弟子の動揺に何かあったのだろうかと考える。

しかし、状況を説明するよりも見てもらった方が早いと言わんばかりに河了貂は蒙毅の腕を掴んで教室を飛び出して行った。

階段を駆け上がり、一番奥にある信の部屋に向かっていると、既に異変が起きていた。

「これは…」

信の部屋の前に、巨大な本棚が置かれていたのである。

「こんなもの、一体いつ…」

蒙毅の疑問に河了貂は首を横に振る。

「俺が朝、部屋を出た時にはこんなのなかった!」

「うん。僕も部屋を出た時に、こんなのを見た記憶はないよ」

蒙毅と河了貂は信よりも早い時刻に隣接している軍師学校へと着いていた。

昨夜こんな本棚は廊下にも置かれていなかったし、二人が部屋を出た時にだってこんな物が置かれていた記憶はない。

それに扉の前に置いてある本棚を見る限り、まるで信を部屋から出さないように、扉を塞いだとしか思えない。

一体どこからこんな大きな本棚が運ばれたのだろうか。誰がやったのか考えてみるが、一人での犯行はまず不可能だろう。そして当然ながら、室内にいる信の自作自演の線はなしである。

二階にこんな本棚が置いてあるのは見たことがない。どこかから持って来るにせよ、ここまで本棚を運ぶということは、あの階段を上って来なければならない。

複数犯しか有り得ないと分かると、河了貂と蒙毅は顔を見合わせた。黄芳とその取り巻きに違いないと二人は同じことを考える。

しかし、今は信のことが気がかりだ。

「信!おい!信ってばッ!」

本棚と扉越しに、中にいるであろう彼女に呼びかける。しかし、返事は一向に返って来なかった。

木簡を墨で汚された時も黙っていたのだから、今回の犯行に関しても、信は怒らずに大人しくしているのかもしれない。

しかし、河了貂は妙な不安を覚えた。さすがにこんな時間なのだから、信も起きているに違いないのに、どうして返事がないのだろう。

「河了貂。とりあえず、この本棚をどうにかしよう!」

「あ、ああ!」

蒙毅と共に本棚を扉の前から押しのけようとするのだが、少しも動かない。

かなりの重量があるのは目視しただけでも分かっていたが、まさかこれを抱えて階段に上がって運んで来たなんて。軍師よりも戦場で敵を薙ぎ払う方が向いているのではないだろうかと二人は考えた。

「んん~ッ!ダメだ!びくともしない!」

二人で力を込めても、本棚は少しも動かない。他の生徒たちの力を借りるべきかと考えた時だった。

「あー、いたいた。探したよ」

「兄上!」

蒙毅の兄である蒙恬がひらひらと手を振りながら、廊下を歩いて来たのだ。蒙恬の後ろを不機嫌そうな顔で王賁が歩いている。

王賁が不機嫌なのは、蒙恬に引っ張られて来たからに違いない。王賁の父である王翦は蒙驁の副官である。呂不韋側についている蒙家との接点があるため、軍師学校への出入りは蒙恬同様に警戒されない立場であった。

軍師学校を首席で卒業をしている蒙恬は、弟の蒙毅の顔を見るのを理由に時々ふらりとやって来る。

本当は軍師学校に可愛い女子生徒が入門していないか確認しているのだと知っているのは弟の蒙毅くらいだ。

「どうして兄上がここに…」

「信が来てるんでしょ?こっちに用があったら、顔出していこうと思ってさ」

素性を隠して軍師学校に強化合宿をしていることをどこから聞きつけたのか、蒙恬の情報網は早い。しかし、悪意は微塵もなく、純粋に友人を労いに来たのだろう。

「それが…」

蒙毅が言葉を濁らせて、顔色まで曇らせたので、蒙恬と王賁は何かを察したようだった。

部屋の前にある本棚を指さし、河了貂が目尻をつり上げる。

「黄芳の奴ら…信を部屋から出られないようにしやがったんだ!」

「は?」

蒙恬と王賁が瞠目する。こんな姑息なことをするのは黄芳に違いないと、憤怒した河了貂が言葉を続ける。

「俺と蒙毅が、信より先に軍師学校に行くのを知ってて、その隙にやったに違いない!絶対にあいつらの仕業に決まってる!」

「…ちょっと待ってよ。その言い方、もしかして他にも前例があるってこと?」

急に険しい目つきになった蒙恬が聞き返す。

強化合宿と称して信が軍師学校に来てから、蒙恬と王賁が来るのは初めてのことだったが、河了貂の言葉を聞いた二人は、彼女が穏やかな学校生活を送れていないのだとすぐに気づいた。

蒙毅は信が軍師学校に来てから、黄芳に言われた言葉や嫌がらせについてを二人に全て打ち明けた。
話を聞いていくうちに、蒙恬と王賁の顔がどんどん険しくなっていく。

「下僕出身だとしても、王家だと名乗れば、そのようなことはされなかったはずだろう。養子とはいえ、王騎将軍の娘だぞ」

腕を組んだ王賁が低い声で二人に聞き返した。ここに来てようやく口を開いたということは、王賁も憤りを感じているに違いない。

苦虫を嚙み潰したような顔で、河了貂が首を横に振る。

「…王騎将軍が、自分たちは大王側の人間だから学校では素性を隠せって言ってたらしくて…信は、ずっと何も言わなかったんだ…何されても、へらへらしてて…」

「あのバカ女…」

呆れたように王賁が肩を竦めている。信のことだからそうではないかと予想はしていたが、蒙恬は納得出来ないと声を荒げる。

「ちょっと、信だって女の子なんだよッ?そんなことされて、傷つかない訳ないだろ!」

顔を真っ赤にして自分のことのように怒る兄を蒙毅が宥める。弟の説得を受け、冷静さを取り戻した蒙恬がぎらりと目を光らせた。

「…よし、決めた。そいつら全員、卒業したら宦官にしちゃおう。男じゃなくなれば多少は反省するんじゃない?」

「兄上、落ち着いてください」

男の象徴である大事な物を捥いでしまえという蒙恬に、弟の蒙毅が静かに首を横に振った。

「女性にこのような振る舞いを行う低俗な者を宦官にするのは反対です。改心させるためにはもっと痛い想いをさせなくては」

笑顔で恐ろしいことを言い放つ兄弟子に、河了貂が青ざめていた。

「と、とにかく、まずはこれを退かそうぜ!」

話題を変えようと河了貂が本棚を指さした。四人がかりならばきっと本棚も動かせるだろう。

全員で本棚を動かそうとした時、廊下の向こうから昌平君がやって来た。

「…何をしている」

「先生!」

教室に信を含めた三人の姿がなかったことを気にかけていたのだろう。

なぜか宿舎に蒙恬と王賁がいることに昌平君は表情を変えないでいるが、何か異変があったことを察したようだった。

もう昼になるとはいえ、いつまでも信が学校に来ないことから、河了貂と蒙毅が迎えにいったことは分かっていた。

昨夜のこともあり、寝坊をしているのか、体調が優れないのか確認するために、昌平君も腰を上げたという訳である。

「………」

蒙毅から一通りの事情を聴いた後、部屋の前を塞いでいる大きな本棚を見て、昌平君の切れ長の瞳が鋭くなる。信が軍師学校に来ない理由は、寝坊でも体調不良でもないことは明らかだった。

黄芳のことは、信自身が気にしていないようだったので、こちらも口を出すことはしなかったが、このようなことが続くのならばそろそろ熱い灸を据えなくてはならないかと昌平君は考えた。

「信ッ!」

部屋の前から重い本棚を動かし、河了貂が扉を開けた。

「んんー、なんだよ…うるせえなぁ…」

返事がないことを怪しんでいたが、扉を開けた先で、信は寝台に横たわっていた。

まだ眠いと言わんばかりに、頭まで布団を被ったのを見て、信以外の全員が顔を強張らせたのだった。

 

惰眠

「信、なに寝てんだよッ!?」

こちらの心配や苦労など知らず、ぐっすりと寝入っていたらしい信に、河了貂が怒鳴りつける。

布団越しに信の体を揺すり、河了貂は行き場を失った怒りをぶつけている。

河了貂に続いて、信のもとに駆け寄った蒙恬が苦笑を浮かべる。すん、と鼻を鳴らして、蒙恬が苦笑を浮かべる。

「…信、お酒臭いよ。まさか酒飲んだのか?さすがに俺だって軍師学校にいる時は我慢してたのに」

「へへ…この前、麃公の将軍から差し入れてもらったんだ」

布団から顔を覗かせ、何の悪気もなく笑顔を浮かべて答えた信に、王賁がずかずかと大股で近づき、拳を振り上げる。ごつんと鈍い音を立てて、王賁の拳が信の額に振り落とされた。

「いでえぇッ!?王賁てめえ、何しやがるッ!」

一切加減のないげんこつに、信が涙目で王賁を睨み付ける。

「これだから己の立場も弁えぬバカはッ…」

本気で苛立っている王賁に、信は聞き飽きたと言わんばかりに肩を竦める。

自分が下僕出身だと打ち明けてから、黄芳たちからも似たような言葉を掛けられていたのだが、王賁に言われた言葉の数に比べると、ほんの一つまみにしかならない。それが信に強い耐性をつけていたのだろう。

「あー、もう昼か。飯食って、いや、その前に宮廷でもらい湯して来るかなあー」

ようやく寝台から体を起こした信が呑気にそんなことを言うものだから、全員は溜息を吐いた。

まだ眠たい目を擦りながら、信が思い出したように昌平君を見る。

「あ、先生。これってズル休みじゃねーよな?そんな重い本棚が塞いでたんだから、俺にはどうしようも出来なかったし」

どこか得意気に笑いながら尋ねる信に、昌平君は僅かに眉根を顰める。

部屋の前に本棚で塞がれていたのは不可抗力だ。軍師学校に来れなかったのは、信が原因ではない。

「…そうだな」

昌平君が頷くと、信は満足そうに笑った。

「これ、ありがとな」

身に纏っていた紫紺の羽織りを脱ぐと、信は畳むこともせず昌平君の胸に押し付けた。

昨夜彼女に貸した羽織りだった。ずっと着ていたということは、部屋に戻ってからすぐに寝てしまったのだろう。本当に今の今まで眠り続けていたらしい。

「先に宮廷でもらい湯して来るわ。じゃあな」

ひらひらと手を振りながら、信が部屋を出ていく。

「………」

彼女がいなくなってから、その場にいる全員から視線が向けられたのを感じ、昌平君はわざとらしく咳払いをした。

にやりと嫌な笑みを浮かべた蒙恬が、先ほど信から返された昌平君の羽織に視線を向けている。

「先生、信と晩酌したんですか?二人きりで?」

その言葉を聞いた王賁が瞠目していたが、昌平君は何事もなかったかのように羽織に袖を通して全員に背を向ける。

どうして信が彼の羽織を着ていたのか、全員が気になっているようだが、余計なことは何も言うまいと昌平君は口を閉ざしていた。

愕然としている三人と違い、なぜか蒙恬だけはにやにやとした笑みを浮かべていた。

空き教室で酒を飲み交わしていたことを、とても話す気にはなれなかった。口は災いの元・・・・・・なのである。

 

再会と再戦

もらい湯を済ませ、遅い昼食を終えてから、信はようやく学校へと向かった。

まだ二日酔いが続いていたが、昼までぐっすりと休めたこともあって、気分はすっきりしている。

また河了貂から説教を食らいそうだなと考えながら教室に向かっていると、廊下の向こうから昌平君がこちらへ歩いているのが見えた。

「信」

すれ違いざまに呼び止められて、信は振り返る。

「お前に客人が来ている。ついて来なさい」

「俺に?」

そうだ、と昌平君が頷く。客人が誰なのかを告げずに歩き出したので、信は彼の背中を追い掛けた。

軍師学校を出てからしばらく長い廊下を歩き、宮中の一室に辿り着いた。客人というのは誰だろうと小首を傾げながら、信は昌平君と共に部屋に入る。

見覚えのあり過ぎる大柄な男が、椅子に腰掛けたままこちらを振り返った。

艶のある分厚い唇を意味ありげにつり上げた男に、信がぎょっと目を見開く。

「父さ…王騎将軍ッ!?」

「ンフフフ。元気そうですねェ?」

大らかに笑う養父は相変わらずのようだ。久しぶりの再会ということもあって、信の口元が自然と緩んでしまう。しかし、どうして彼がここにいるのか分からない。

「なんでここに?」

咸陽宮に何かしら用があって、立ち寄ったついでに自分の様子を見に来たのだろうか。それとも、昌平君から強化合宿の進行具合について聞きに来たのかもしれないし、両方かもしれなかった。

「…さて、軍略を学んだ成果を見せてもらいましょうか」

得意気に王騎が微笑んだので、戸惑ったように信は視線を泳がせた。

「んなこと言っても…騰が俺の剣、持っていっちまっただろ」

屋敷を追い出されたあの日、軍師学校に武器は不要だからと剣は没収されていた。真剣な表情でそんなことを言う娘に、王騎がココココと独特に笑う。

「何を言っているんです?軍師学校で勝負といえば、これでしょう?」

養父の視線を追い掛けると、軍師学校にも置かれている囲碁台がある。

まさか軍略囲碁で勝負しろというのか。信の心臓がどきりと跳ね上がった。

「座りなさい」

「………」

信はぎこちない表情のまま、囲碁台を挟んで向かいの席に腰を下ろした。

「それでは、今回の勝負は平坦な地にしましょう」

特に障害物も挟まず、隠れることも出来ない平坦な地を戦場と見立てることとした。

軍に見立てた駒を用意していく王騎を、信は緊張した面持ちで見つめている。昌平君は二人の間にある囲碁台をじっと見つめていた。二人の勝負を見守るつもりなのだろう。部屋から出る気配を見せない。

自分と信にそれぞれ駒を分けた王騎は、真剣な眼差しで口を開いた。

「もしも私に勝てれば、屋敷に帰る許可をあげましょう」

養父の言葉に信が弾かれたように顔を上げた。顔に喜色が浮かんでいたが、すぐに消え去ってしまう。

「…負けたら?」

聞き返した信の声が僅かに震えている。負けた時の罰はきっとひどいものだと、彼女は既に予想しているようだった。

「そうですねェ」

口元に手をやり、王騎が考える素振りを見せる。

「即座に五千人将の座を解き、あなたの地位を伍長に戻します。強化合宿も年単位で延長としましょう」

「ッ…」

これには信だけでなく、さすがに昌平君も驚いた。そのような話は初耳だった。

いくら大将軍である王騎とはいえ、信の五千人将の座を解く権限は持っていない。本来、その権限を持つ立場の総司令官が傍にいる状況を、王騎は味方につけたのだ。

「………」

王騎と昌平君が、事前にそのように話をつけていたと信は見事に勘違いし、固唾を飲んでいる。

青ざめている娘を見据え、王騎が挑発するように笑い掛ける。

「怖いのなら、勝負をしないという手もありますよ?その場合、将が不在ということで飛信隊は解散となりますが」

あまりにも容赦ない王騎の言葉に、勝負を見守る立場の昌平君までもが固唾を飲んだ。

王騎に勝利をしなければ飛信隊は解散。勝負から逃げても同様だ。

選択肢を与えるようにみせかけて、一つの道しか与えない王騎の厳しさに、信は嫌な汗を滲ませながら呼吸を繰り返していた。

将軍を目指す以上は、敵を前にして逃亡も敗北も許されない。きっと幼い頃から信はそう教えられていたのだろう。

「…やるしかねえだろ」

信は自分に言い聞かせるように、返事をすると、椅子に座り直した。

 

後編はこちら

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毒杯を交わそう(李牧×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/毒耐性/シリアス/IF話/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は毒酒で乾杯を(桓騎×信)の番外編です。

 

毒の盃

秦趙同盟が結ばれた宴の席で、李牧は息をするのも重苦しい不穏な空気を察していた。

天下の大将軍と中華全土に名を轟かせていた王騎の仇でもある自分が歓迎されていないのは当然理解している。

首を守ることは叶ったが、代わりに城を一つ失った。よりにもよって韓皋の城であり、宴を楽しむ気になどなれるはずがなかった。

しかし、目の前にいる呂不韋という男は、この不穏な空気を微塵も察していないのか、両脇に美しい妓女を侍らせて笑顔を見せている。

酒を飲んで気分が良くなっているのだろう。自分の命を奪おうとしていた男と同一人物とは思えなかった。

李牧の隣にいる側近のカイネが何か言いたげに呂不韋を睨んでいたが、李牧は視線を送って彼女を宥めた。

韓皋の城を失う代わりに犬死は免れたのだ。ここで事を荒立てる訳にはいかなかった。

悔しいが呂不韋の交渉の話術には、趙の宰相である李牧でさえも白旗を上げるしかなかったのである。

自分たちが殺された後、人質である春平君も殺され、趙に侵攻するつもりだったのかもしれない。そうなれば秦国の思うつぼだ。

韓皋の城を明け渡すことになったとしても、これ以上、趙の領土を奪われる訳にはいかなかった。

妓女たちと楽しく過ごしていた呂不韋が思い出したように李牧の方を見る。

「めでたい宴ということで、特別な酒を用意したのだが、いかがかな?」

何がめでたい宴だと、隣でカイネが奥歯を噛み締めていたが分かった。李牧は困ったように笑う。自分が素直に感情を露わにしない分、側近たちが怒ってくれるのだと思うと、それだけで心が温かくなった。

「…お気持ちは嬉しいのですが、私はあまり酒が得意ではないのです」

どうぞご勘弁をと丁重に断ったのだが、酒に酔った呂不韋は引く気配を見せない。頬を紅潮させて大らかに笑うところを見ると、相当酔っていることが分かる。

此度の交渉に勝ったことが相当嬉しいのかもしれない。

傍に控えていた侍女に何か告げると、一度席を外した侍女が酒瓶を抱えて戻って来た。

「一杯だけでも御飲みになると良い。宴はまだ続くのだから」

呂不韋が杯に酒を注ぐと、有無を言わさず李牧に突きつけて来た。

先ほど酒が苦手だと言ったばかりなのに、酔ったこの男には耳がついていないのだろうか。

心の中で毒づきながらも、李牧はその杯を受け取らざるを得なかった。

「それでは、一杯だけ」

李牧が酒が苦手なのは本当だったが、こうなっては仕方がない。一杯だけなら良いかと、彼は杯を傾けた。

「え…?」

杯に唇が触れる寸前、横から伸びて来た手によって杯が奪われる。酒が苦手なことを知っている側近の仕業だろうか。

反射的に振り返ると、そこにいたのは、見知らぬ女だった。

妓女でも侍女でもない、赤色の生地と金の刺繍で彩られた華やかな着物に身を包んでいる黒髪の女が、豪快に喉を鳴らして李牧が飲むはずだった酒を飲んでいる。酒豪にも劣らぬ豪快な飲みっぷりだった。

杯を奪われた李牧だけでなく、その場にいる者たち全員が瞠目していると、その女は化粧で彩られた双眸をにたりと細めた。

彼女も既に酒に酔っているのか、頬が紅潮している。自分の唇についた酒をべろりと舌で舐め取り、女は妖艶な笑みを深めた。

「こりゃあ美味い鴆酒・・だな?どこの鴆者鴆酒を作る者に作らせた?」

女から鴆酒という言葉を聞き、李牧たちははっとした表情になる。

鴆酒というものは一般的に出回らない貴重な酒だ。

なぜ一般的に出回らないのかといえば、鴆酒は酒ではなく、として扱われているからである。嗜好品ではなく、暗殺の道具として用いられるものだ。

宴の間に入る時、武器の類は全て預けていた。それは趙の自分たちだけではなく、秦の者たちも同じである。

まさか刃を使わずに、毒を用いて殺そうとするとは、呂不韋はとことん隙のない男だ。

韓皋の城を明け渡したことで、命は見逃してもらえたと思ったのだが、まさか宴の場で暗殺されようとは思いもしなかった。

やはり敵国の地で油断するべきではなかったと李牧は内心舌打つ。

李牧一同が呂不韋に鋭い眼差しを向けると、呂不韋は大して表情を変えずに、顎髭を弄っていた。先ほどまで気分良く笑っていたくせに、今は神妙な顔つきになっている。

「貴様ッ!李牧様を殺そうとしたのかッ!」

カイネの怒鳴り声にも動じず、呂不韋は小さく笑った。

「これは物騒なことを言う。鴆酒というのは、飲んだ相手を即座に殺す毒酒であろう?」

「ああ、そうだ」

李牧から杯を奪った女が頷くと、呂不韋の目が鋭く光った。

「…ならば、なぜそなたは生きていられる?飛信軍の信」

その名前を聞き、李牧は目を見開いた。呂不韋に憤怒の表情を向けていたカイネも、その名前に反応したのか、彼女の方を凝視している。

(飛信軍の、信将軍…?)

飛信軍の信といえば、天下の大将軍である王騎の娘だ。魏の輪虎をも討ち取った彼女の強さには、過去に趙国も辛酸を嘗めさせられている。

秦国だけでなく、中華全土にその名を轟かせている女将軍が目の前にいることに、さすがの李牧も驚いていた。

戦では仮面で顔を覆っているせいで、強さ以外は謎に包まれた女将軍であったが、化粧と派手な着物で彩られているせいか、どこぞの貴族の娘だと言われても頷ける。

しかし、天下に名を轟かす大将軍としての威厳を兼ね備えており、その立ち振る舞いは堂々としていた。

男のような口調と振る舞い方だが、黙っていればその端正な顔立ちに見惚れてしまう男が現れるに違いない。

彼女と道ですれ違ったのなら、きっと振り返っていただろう。李牧はそう思った。

「………」

呂不韋の問いに答えず、信は開けたばかりの酒瓶を手繰り寄せ、まだ飲み足りないと言わんばかりに直接口をつけていた。

女性がそのような振る舞いをするなんてと李牧は驚く。王家といえば名家の一つだが、教養というものを身につけていないのだろうか。

鴆酒は即効性の毒で、解毒の方法が未だ解明されていないものである。一口でも飲めば、たちまち毒が体内に回り、死に至らしめるというものだ。

しかし、呂不韋の言葉通り、信は少しも苦しがる様子を見せていない。

「言いがかりは良してもらおう」

信を睨みつけながら、呂不韋が腕を組んだ。

「もしもそれが鴆酒なら、既にそなたは死んでいるはずであろう?そなたが生きていることが、その酒が毒ではない何よりの証拠ではないか」

「………」

呂不韋の言葉は確かに頷ける。

もしも本当に鴆酒だったとすれば、それを飲んだ彼女は毒に苦しめられて死に追いやられているはずだ。

それがないということは、彼女が李牧から奪った酒が鴆酒でないということになる。

しかし、李牧には一つの疑問があった。

(なぜ彼女は私を助ける真似を…?)

もしも渡された酒が本当に毒だとすれば、信が李牧からそれを奪う理由は何なのか。

彼女の父親である天下の大将軍である王騎は、李牧が軍略で討ち取った。李牧は彼女にとって父親の仇だと言っても過言ではない存在である。

自分を父の仇だと憎んでいるのならば、黙って飲ませていれば良かったはずだ。毒に藻掻き苦しむ自分を見下ろして、せせら笑うことだって出来ただろうに。

からかっている様子は微塵も感じられないし、脅している様子も見られない。この酒が本物であれ偽物であれ、どうして信は鴆酒だと告げたのだろうか。

李牧が怪訝していると、まだ半分ほど残っている酒瓶を呂不韋に突き出し、信がにやりと笑った。

「…確かに俺は・・死ななかった。…だが、これが鴆酒じゃないって言うんなら、お前もこの酒を飲めるはずだよな?呂不韋」

呂不韋の表情は少しも揺らがなかったが、僅かに彼の瞳が泳いだのを李牧は見逃さなかった。

「………」

信に突き出された酒瓶を受け取ろうとしない呂不韋に、その場にいる者たち全員が視線を向ける。賑やかな宴の席が、重い空気と沈黙に満たされた。

舞台で舞を披露していた妓女たちも、楽器を演奏していた芸者たちも、不安そうな顔でこちらを見つめている。

「…どうなんだ?こんなにも美味い酒なんだ、俺としてはぜひ口移しで飲ませてやっても良いくらいなんだがな」

挑発をするように信が言葉を投げかけ、瑞々しく紅が塗られた唇が歪む。思わず生唾を飲んでしまうほど、妖艶な笑みだった。

「………」

返す言葉がなくなったのか、呂不韋が悔しそうに奥歯を噛み締めたのを見て、やはり本物の鴆酒だったのかと李牧は察した。

「貴様ッ!やはり李牧様を!」

主を毒殺しようと企てていた呂不韋に、カイネが再び憤怒の表情を浮かべて立ち上がる。武器を回収されていなければ、すぐに鞘から剣を抜いていただろう。

「カイネ」

「しかしっ、李牧様!」

落ち着くよう声を掛けると、彼女は納得いかないといった表情で食い下がって来た。

鴆酒を飲ませようとした呂不韋が次にどのような行動に出るのか李牧が警戒していると、あろうことか、彼は肩を震わせて笑い始めた。

「いやあ、これは誠に申し訳ないことをした!贔屓にしている酒蔵から仕入れた珍酒・・だとばかり思っていたが、まさか猛毒の方の鴆酒・・だったとは…」

「………」

手のひらを返したように、べらべらと言い訳を始める呂不韋に、やはり食えない男だと李牧は苦笑を浮かべた。

今さら取り繕ったところで、呂不韋が李牧に毒酒を飲ませようとしたことは変わりない事実である。

「ふん」

潔くこの酒が毒だと認めたことに信も納得したのか、飲み掛けの酒瓶を片手に彼女は宴の間から出て行った。

何はともあれ、飛信軍の女将軍のおかげで命拾いをした訳である。

「…すみません、少し席を外します」

側近たちに呼び止められたが、李牧は構わずに宴の間を飛び出した。

廊下に出ると、重苦しい空気から解放された気がして、李牧はようやくまともな呼吸が出来るようになった。

 

長い廊下を歩いている信の後ろ姿を見つけ、李牧は足早に彼女を追い掛けた。

「飛信軍の信」

名前を呼ぶと、信が面倒臭そうな表情で振り返る。片手には先ほどの酒瓶を持ったままで、先ほどよりも中身は減っていた。まさか鴆酒だと分かりながら、また口をつけたのだろうか

毒であるはずのそれを飲みながら、なぜ平然としていられるのか。理由は一つしかない。

突然変異などで毒物に耐性を持つ者がいるということは聞いていたが、彼女はまさにその特殊体質なのだろう。毒が効かぬ体を持つ者に出会ったのは初めてだった。

「…まずは感謝を。あなたのおかげで命拾いしました」

頭を下げながら拱手礼をすると、信は何も言わずに酒瓶に口をつけた。

着物の価値が分からぬものでも高価なものだと分かる着物に身を包み、化粧で美しく象られた顔だというのに、男と何ら変わりない立ち振る舞いに、李牧は苦笑を滲ませた。

酒瓶から口を離すと、彼女は李牧と目を合わせることなく言葉を紡いだ。

「…お前を助けた訳じゃない。俺は鴆酒が飲みたかっただけだ」

おや、と李牧が片眉を上げる。

「鴆酒が飲みたかったのなら、私が死んだ後でも、飲むことは出来たはずでしょう?」

自分を見殺しにすることは出来たはずなのに、なぜそれをしなかったのか尋ねると、信は居心地が悪そうな顔を浮かべた。

信が李牧を殺す動機を持っていることは、誰が見ても明らかである。

李牧が敵国の宰相であること、天下の大将軍と称えられる秦将の王騎を討つ軍略を企てた張本人であること。そして何より、李牧は信にとって親の仇に等しい。

あの場で信が鴆酒を奪わなければ見殺しに出来たはずなのに、一体どうして彼女はそれをしなかったのか、明晰な頭脳を持つ李牧も分からなかったのだ。

沈黙が二人を包み込む。先ほどの宴の間で感じていた嫌な沈黙と違い、李牧には妙に居心地よく感じるものだった。

やがて諦めたのか、信がわざとらしい溜息を吐き出す。

「…これ以上、呂不韋のせいで秦国俺たちが卑怯な連中だと思われるのは癪だからな」

「え?」

予想していなかった言葉に、李牧はつい聞き返した。

二度は言わないという意志表示なのか、信は李牧に背を向けて歩き出す。李牧は無意識のうちに、彼女の腕を掴んでいた。

腕を掴まれた信が眉根を寄せて、鬱陶しそうに李牧を見上げる。

「なんだよ」

「…卑怯なのは私の方です。お相子ですから、どうぞお気になさらず」

腕を掴んだ理由にはなっていないのだが、李牧の言葉を聞いた信の瞳がきっとつり上がった。

卑怯だと言ったのは、李牧が王騎を陥れた軍略を企てたからだと気づいたのだろう。

「放せッ」

乱暴に腕を振り払うと、信は歩きながら自分の怒りを宥めるように酒瓶に口づけた。

「毒が効かないとは、不思議な体質ですね」

「………」

背中を追い掛けながら声を掛けるが、信は振り返る素振りを見せない。

ついて来るなという意志表示なのだろうが、李牧は構わなかった。逃げられたら追い掛けたくなるのは男の性分なのかもしれない。

「私は酒があまり得意ではないのですが、鴆酒とはどのような味なのですか?」

「………」

「やはり猛毒ですから、何か特別な味がするのでしょうか?」

「………」

「鴆酒が飲めるのなら、他の毒酒や毒物を口にしても問題はないのですか?」

「………」

信は何も答えずに歩き続ける。そして、李牧も彼女と一定の距離を保ちながら、声を掛け続けていた。

…やがて、李牧の問い掛けの数が十を超えたあたりで、廊下の突き当りに到着してしまい、逃げ場所がなくなった信は憤怒の表情を浮かべながら振り返った。

 

信の弱点

「お前、しつこいぞッ!さっさと失せろ!」

真っ赤な顔で怒鳴られるが、李牧は少しも怯まない。

純粋な興味があって質問をしているだけだというのに、何一つ答えようとしない信がようやく振り返ってくれたことに、李牧は歓喜の表情を浮かべていた。

「一応、私は客人として招かれている立場なのですが…」

怒鳴られたのに笑顔を浮かべている李牧に、信が気味の悪いといった視線を向けた。李牧がゆっくりと口を開く。

「あなたは私の命の恩人ですから、何かお礼をさせてください」

「要らねえよ。お前にとっては命の恩人でも、俺にとっては違う」

決して馴れ合うつもりはないと言われ、李牧は寂しそうに顔を歪ませた。

厳しい言葉を掛けたはずなのに、李牧が去る気配を見せないので、信は諦めたように酒瓶に口をつける。

手に持っている酒瓶には中身がまだ残っている。さっさと李牧と分かれて、残りを飲み干したかったのかもしれない。

(面白い子だ)

李牧の思考は、あっと言う間に目の前の少女のことでいっぱいになっていた。

飛信軍の秦といえば、秦の六大将軍である王騎と摎の娘であり、仮面で顔を隠して戦う女将軍という情報しか知られていない。

しかし、実際に話してみると、信は一人称も口調も素振りも完全に男を真似ている。王家は名家として知られている存在だというのに、一切の教養を感じられないのだ。

毒に耐性があることももちろんだが、李牧はそのことにも興味を抱いた。

女が将軍の座に就くことはそう珍しいことではない。しかし、名家の生まれでありながら、男に嫁がなかったのは、両親が大将軍だったからなのだろうか。

まだ若い年齢でありながら、中華全土にその名を轟かせるほどの強さを持つ彼女は、秦に欠かせない強大な戦力だ。

是非とも趙に欲しい人材ではあるのだが、李牧が王騎の仇である以上、信が秦を離れることはないだろう。

「…さっさと宴に戻れよ。側近たちが心配してるんじゃねーのか」

廊下の突き当たりにある扉に背を預けながら、信が素っ気なく言う。

呂不韋の企みを阻止して李牧の命を救っただけでなく、まさか宴の間に残して来た側近たちを心配しているとは思わず、李牧は苦笑した。

「随分とお人好しなんですね」

「はあ?」

お人好しという言葉が気に食わなかったらしく、信が鋭い眼差しを向ける。しかし、彼女の睨みに怯むことなく、李牧は言葉を続けた。

「忠義に厚い将なら数多く見て来ましたが、敵の宰相を気遣うなんて、あなたのような将は珍しい。さすが、天下の大将軍の娘だ」

王騎と摎の存在を出すと、信の瞳が再び憤怒の色に染まる。

(やはりそうか)

この数刻の間で、李牧は既に信の情報を幾つか掴んでいた。毒に耐性があるということと、もう一つは弱点についてである。

本能型の将軍に分類される彼女の弱点は、感情的になりやすい・・・・・・・・・ということだ。

それが分かっただけでも、優位に策を立てることが出来る。

戦の最中、秦兵の亡骸を見せしめに使えば、罠を疑うこともなく、怒りに我を忘れて簡単に姿を現すに違いない。いかに冷静な副官や兵たちが引き止めたとしても、彼女の行動は抑えられないはずだ。

こちらは韓皋の城を明け渡したのだから、引き換えに秦国の強大な戦力である将軍の弱点を知るくらい安いものだろう。

飛信軍の女将軍の弱点をこうも簡単に入手できるとは思っていなかった。

常に自分たちが優位に立つ情報を探っている李牧の腹の内を、信はきっと見抜くことは出来ないだろう。優秀な軍師がいるのならば話は別だが。

…酒に陶酔すると、人間というものは簡単に口を開くようになる。

李牧が酒を苦手としているのは体質的に酔いやすいというのもあったが、安易に口を開くようになることを嫌悪しているからでもあった。

 

嫌がらせ

「さっさと戻れよっ」

壁に背中を預けながら、信は去ろうとしない李牧を睨み付けていた。

少しでも手を伸ばせば引っ掻いて来そうな、野良猫のような彼女に、李牧はつい笑みを深めてしまう。

「すみません。夢中であなたを追い掛けて来てしまったので、宴の間がどこだったか忘れてしまいました。案内してくれませんか?」

まさかまだ一緒にいなくてはならないのかと信の顔が強張る。

「私が一人で宮中をうろついていたら、何をしているのかと色々と疑われてしまうでしょう?」

もっともらしい理由をつけて道案内を頼もうとすると、信は腕を組み、顔ごと李牧から視線を逸らす。もう関わりたくないという意志の表れだった。

嫌われているのは分かっていたが、ここまであからさまな態度を取られると、何としてでも捻じ伏せたくなってしまう。

彼女を自分に跪かせたいという征服感が浮かぶのは、李牧が趙の宰相である前に、男という生き物だからである。

「…では」

野良猫のような彼女に引っ掻かれるのを覚悟で、李牧は信のすぐ後ろにある壁に両手をつき、体で完全に逃げ場を塞いでしまう。

二人で何をしていた・・・・・・・・・のだと、一緒に疑われますか?」

ゆっくりと顔を近づけて、甘い声で囁いた。

普通の女性だったのならば、趙の宰相という地位に上り詰めた男に迫られて顔を赤らめるだろう。

しかし、信は違った。それは敵同士である立場というのもあったが、普通の女性とは大いに違う生き方をしていたせいかもしれない。

唇が触れ合う寸前で、信が片手で自分の口に蓋をする。咄嗟に口づけを防いだ信は、李牧の双眸をじっと見据えた。

「…お前、死にたいのか?」

口を押えていない方の、酒瓶を持っている手が李牧の体を押しのける。

(ああ、そうでした)

一歩後ろに下がってから、李牧は思い出した。

毒に耐性がある彼女はその口で鴆酒を飲んでいた。口づけをしたら、たちまちその毒をもらい受け、絶命していただろう。

少しからかってやるつもりが、いつの間にか彼女に夢中になっていた自分に驚いた。

僅かに戸惑った李牧の表情を見て、信の口元が妖艶につり上がる。

「俺は構わないぜ?これは卑怯でも何でもなく、お前の意志・・・・・だからな」

「………」

李牧は困ったように肩を竦めた。

咄嗟に信が口づけを防いでくれなかったら、今頃は毒が身体を巡り、苦しみにのたうち回っていただろう。毒から守ってくれたのは、これで二回目だ。

まさかこの短時間で二度も死を回避することになるとは思わなかった。信の弱点を知り、随分と良い気になってしまっていたのかもしれない。

これからやるべきことは山ほどあるというのに、こんなところで自ら死を選ぶところだった。

信が再び酒瓶に口をつけた。

宴の間で、李牧から杯を奪った時はあんなにも美味そうに飲んでいたというのに、今は李牧と二人きりでいる気まずさを紛らわすように、仕方なく飲んでいるように見える。

「あーあ…」

あれだけ量が入っていた酒瓶がすっかり空になると、信は楽しみを失ってしまったかのように、残念そうに溜息を吐いた。

 

過剰摂取

こんな小柄な女が酒瓶を一つ丸々空にするなんて、中身が毒酒だとしても、信は随分と酒に慣れているらしい。

大の男でも簡単に酔ってしまいそうな量だというのに、まだ飲み足りないと言わんばかりに信はつまらなさそうな表情を浮かべていた。

「…お前もさっさと仲間のとこに戻れよ」

「残念ながら、迷子になってしまったので、道案内をしてもらわないと戻れません」

「………」

ここまでしつこくされると、信も諦めた方が賢明だと察したらしい。

今来た道を戻り出した信の後ろ姿を追い掛けながら、李牧は楽しそうに目を細める。

こちらのしつこい要求に諦めただけなのだろうが、律儀に案内してくれている彼女に、李牧はますます興味が湧いた。

無言で歩き続けていると、遠くから聞こえる楽器や談笑が聞こえた。随分と宴の間から離れてしまったらしい。

「…信?」

自分の前を歩いている信が息を荒くしていることに気付き、李牧は彼女を呼び掛けた。

猛毒である鴆酒を酒と何ら変わりなく飲む彼女だが、酔ったのだろうか。それにしても様子がおかしい。

「大丈夫ですか?」

どうしたのだろうと思い、彼女の肩を掴んで振り向かせようとすると、その手は叩き落とされてしまう。

「う…」

「信ッ?」

手を振り払った後、信は壁に手をついてその場にずるずると座り込んでしまう。李牧は焦った表情を浮かべた。

回り込んで彼女の前に膝をつき、様子を観察するが、まるで高い熱でも出しているかのように顔を真っ赤にして、苦しげに肩で息を繰り返している。

力なく手放した酒瓶を見て、まさか鴆酒の影響だろうかと考えた。毒に耐性があるようだが、こんな大きな酒瓶を一人で空けたのだ。それだけ大量の毒を摂取したということである。

いかに毒の耐性を持っているにせよ、身体が苦しんでいるのかもしれない。

「しっかりしてください。すぐに医師を頼んで来ますから」

ここは宮廷なのだから、皇族専用の優れた医師が常駐しているに違いない。李牧が助けを呼ぼうとした時、後ろから着物を掴まれた。

「放っておけ…死ぬ訳じゃ、ない…」

苦悶の表情でそんなことを言われても説得力がない。しかし、と李牧が言葉を紡ぐと、信はうっすらと涙を浮かべた瞳で李牧を睨み付けた。

「いいんだッ」

「………」

凄まれると、李牧は口を閉ざすしかなかった。

床に座り込んだままでいる信に、せめてどこか横になれる場所に連れて行こうと、李牧は彼女の背中を膝裏に手を回す。

予想以上に彼女の体が軽いことに李牧は驚いた。

「なっ、おいっ…!」

急に体を抱き起された浮遊感に信の瞳に怯えが走る。

「せめて安静になれる場所に連れて行くくらいは許してください」

「………」

腕の中で、信はぷいっと顔を背けた。もう抵抗する気力が残っていないのか、好きにしろとでもいうような態度だった。

彼女の体を抱えながら宴の間があった方まで歩いていくと、料理や酒を運ぶ従者たちが忙しなく廊下を歩いている。

そのうちの一人に声を掛け、用件を伝えると、すぐに空いている客室へ案内してくれた。

案内された部屋は咸陽宮へやって来た李牧たち一同のために用意していた部屋だったのだろう、とても綺麗に整えられていた。

信の体を寝台に横たえると、彼女は不満そうな表情で李牧を睨み付ける。

「…お前、道覚えてないって言ってたよな…」

「宴の華やかな音が導いてくれたんです。運が良かっただけですよ」

返事をするのも億劫だと言わんばかりに、信が顔ごと目を逸らす。

横になってもまだ苦しそうに呼吸をしている彼女を見下ろして、このまま離れて良いものかと李牧は躊躇った。

恐らく、信としては早く一人にしてほしかったに違いない。しかし、李牧は寝台の端に腰を下ろしたのだった。

背中を向けていても李牧が部屋から出て行こうとしないことを察したのだろう、信がわざとらしく溜息を吐いた。

「…早く戻れよ。本当に疑われるぞ」

「いいえ。そちらの丞相殿にちょっとした嫌がらせですよ」

呂不韋の行動を咎める者もいれば、李牧が死なずに残念がる者もいるだろう。

此度の訪問は、悼襄王から寵愛を受ける春平君を救い出すために、宰相の李牧が駆り出されたと言っても過言ではない。

春平君を取り戻すために必ずこちらが動き出すのを想定した上で、呂不韋は彼を利用したのだろう。

商人の出であるあの男にしてやられたという訳だ。損得勘定や交渉術に関しては中華一かもしれない。

韓皋の城を明け渡す代わりに、こちらも命を保証されたとはいえ、こんな気分で宴など楽しめるはずがなかった。

ましてや、向かいの席には辛酸を嘗めさせられた男が座っているのだから、なおさらのことである。

付き添ってくれた側近たちには申し訳ないが、宴に出たくないと子どものようなことを考えてしまった。

 

嫌がらせ再び

お互いに背中を向けており、表情は見えない。しかし、李牧はもう信が自分に嫌悪感を向けていないことを察していた。

どちらも口を閉ざしてしまったので、部屋に沈黙が広がる。しかし、この沈黙は決して重いものではなく、むしろ李牧の心を穏やかにさせるものだった。

「ん…はぁ…」

信の悩ましい吐息が聞こえるが、呂不韋の笑い声より何倍も良い。

寝台のすぐ傍にある台に水差しと杯が置いてあり、李牧は信に水を渡そうと考えた。酒の酔いを解くのに水は必要不可欠だ。

信が飲んだのは猛毒である鴆酒だとしても、彼女にとっては酒であることに変わりないのだから、水を飲ませれば少しは落ち着くかもしれない。

「信」

杯に水を汲み、李牧は彼女の肩に触れる。まるで火傷でもしたかのように、信の肩が竦み上がったので李牧は驚いて杯を寝台に落としてしまった。

「あっ」

寝台の上に横たわっている信に水をぶちまけてしまい、李牧は焦った表情を浮かべた。上質の着物を濡らしてしまったことと、酔っ払いに水を浴びせてしまった罪悪感に襲われる。

慌てて懐から手巾を取り出して、濡れた箇所を拭こうとするが、信がその手を押さえつける。

「さ、わるな…頼む、から」

「信?」

前髪で表情を隠した信が声を絞り出すように訴えたので、李牧は瞠目した。

手首を掴んでいる信の手が震えていることに気付く。

毒で苦しんでいる様子は少しもないが、この反応は一体何なのだろうか。他者に触られると、困ることでもあるのか。

本当に医師を呼ぶべきなのではないかと思い、李牧は信の顔を覗き込んだ。

両腕で自分の身体を抱き締めながら悩ましい息を吐き、頬を紅潮させて耳まで真っ赤になっていた。寝ぼけ眼のようなとろんとした瞳からは、女の色気が籠っている。

膝を擦り合わせているのが見えて、李牧はまさかと息を飲んだ。

決して悪戯をしたいという気持ちはなく、李牧は彼女の項にそっと指と這わせた。

「は、ぅッ…」

悩ましい声を上げ、信の身体がぴくりと跳ねる。

その反応を見て、彼女の身に何が起こっているのか、李牧は確信したのだった。

酒を飲むと饒舌になったり、陶酔感に浸ったり、様々な変化がある。中には内に秘めていた性的欲求に従う者もいる。

恐らく、信はその類・・・なのだろう。毒に耐性のある彼女には媚薬のようなものなのかもしれないと李牧は考えた。

先ほどから頻繁に早く一人にして欲しいと訴えていたのは、一時的に増した性欲のせいに違いない。

感情的になりやすいという弱点だけでなく、こんな情報まで手に入れてしまった。

毒に耐性があることを知っていたとしても、今のような状態になることを知っている人物は秦にも少ないかもしれない。

まるで新しいおもちゃを買い与えられた子どものように、李牧の目は好奇心で輝き、口元には笑みが浮かんでいた。

 

後編はこちら

The post 毒杯を交わそう(李牧×信)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

リプロデュース(五条悟×虎杖悠仁)中編

  • ※悠仁の設定が特殊です。
  • 女体化(一人称や口調は変わらず)・呪力や呪術関して捏造設定あり
  • 五条悟×虎杖悠仁/ストーカー/ヤンデレ/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら 

 

再会

息をするのも忘れて、悠仁はその場に立ち尽くしていた。まるで金縛りにでもあったかのように、指先一つ動かすことが出来ない。

(なんで…)

悠仁は今の状況を信じられずにいた。

唯一自由に動かせる思考を巡らせるが、一体はいつ自分を見つけたのだろう。

術者は、自分が張った帳に誰かが侵入したのならばすぐにその気配を察知出来る。しかし、帳に誰かが侵入した気配はなかった。

空はまだ絵具を塗ったかのように暗く、帳を破られた気配はない。一体なぜ彼はここにいるのだろう。

「悠仁、会いたかった」

最後に聞いた時と何も変わりない優しい声色に名前を囁かれ、後ろから抱き締められる。

肺が砕けそうなくらい力を込められて、悠仁の唇から、ひゅ、と笛を吹き間違ったかのような音が出る。

顔を見なくても、この腕の力だけでが憤怒しているのは分かった。

「ぅ…」

抱き締めている腕がゆっくりと悠仁の首に伸びたので、このまま殺されるのだろうと悠仁は覚悟した。

恨まれても仕方がないことをしたのは分かっている。謝罪もせずに姿を消したのだから、当然だ。

「……、……」

浅い呼吸を繰り返しながら、悠仁は身体の力を抜こうとした。抵抗はしないという気持ちの表れであり、これが悟への謝罪になると信じて止まなかった。

首に掛けられた手がゆっくりと離れると、顎に指が掛けられて、ゆっくりと目線を合わせられる。

もう二度と見ることもないと思っていた青い硝子玉のような美しい瞳がそこにあり、悠仁の瞳から何の感情かも分からない涙が溢れ出た。

薬品で焼け爛れた顔と体を見ても、悟は驚く様子を見せない。醜いと罵って、さっさと自分を忘れてくれたのならどれだけ良かっただろう。

しばらく無言で見つめ合い、悟の唇がゆっくりと笑みを浮かべた。その笑顔が自分との再会を喜んでいるものではないことを察する。

「ねえ、それ、誰がやったの?」

赤く爛れた肌を指さしながら、悟が刃のように冷たい声で悠仁に問い掛けた。

悟に抱き締められたまま、悠仁は口籠る。本当のことを言えば、悟は潔く見放してくれるだろうか。

「…自分でやったの?」

静かにそう問われても、悠仁は震えることしか出来ない。

長い沈黙を肯定と受け止めた悟がわざとらしく溜息を吐いた。

悟の指が頬をするりと撫でる。

その途端、空気に触れているだけでぴりぴりと痛みを感じていた肌が急に痛みを感じなくなった。

 

再生

「えっ…?」

金縛りが解けたかのように、悠仁は反射的に自分の顔に触れた。赤く焼け爛れていた肌の感覚がない。

顔に触れた手も元の肌に戻っており、悠仁は瞠目した。

「…ああ、ちょっと待ってね。僕、女の子じゃないから手鏡なんて持ってないんだ。スマホで良い?」

懐から取り出したスマホを操作して、内カメラを作動させた悟は笑顔でスマホの画面を向けた。

「―――な…」

顔が、元に戻っていた。

まるで初めから傷などなかったかのように、あの赤く焼け爛れた肌がなくなっている。

久しぶりに元の自分の顔を見た悠仁は驚愕することしかできない。

「綺麗に戻したよ。少しでも残るようだったら美容整形のことも考えたんだけどさ、僕の力で治せて良かった。顔にメスを入れるなんて可哀相だから」

慈しむように悟が言う。手付きも声と同様に優しかったが、悠仁には氷のような冷たさに感じた。

彼は呪術界における回復術の一種である反転術式を使ったのだ。

「な、んで…?」

喉から声を絞り出すと、悟がにっこりと目を細める。

「恋人がひどい傷を負ったなら、何とかしてあげたいって思うのは普通じゃない?」

悟がひどい傷と言うほど、悠仁の全身は醜いまでに赤く焼け爛れていた。しかし、それは悠仁が自らの意志で行ったことであり、微塵も後悔などしていない。

一生会えないことを覚悟して悠仁が自らつけた傷を、悟は何の躊躇いもなく消し去ってしまった。

「ぅぐッ」

悟の手が容赦なく悠仁の顎を掴む。骨が軋むくらい力を込められて、悠仁は苦悶の表情を浮かべた。

「…ねえ、誰の許可を得てその顔に傷をつけたの?悠仁であっても僕は絶対に許さないよ?」

無理やり目を合わせられ、地を這うような低い声を掛けられる。口元は笑みを携えているが、瞳も声も先ほどとは別人のようだ。

「っ…」

悠仁の身体がかたかたと震え始める。

呪力の差だとか悟の強さだとか、そういったものは以前から分かっていた。しかし、今は違う。

根本的にこの男には敵わないという絶対的な恐怖が悠仁を包み込んでいるのだ。

自分の顎を掴む悟の手を、悠仁は反射的に弾いてしまった。ぱしん、と乾いた音が二人の間を駆ける。

「………」

弾かれて行き場を失った手を見つめ、悟は肩を竦めるようにして、なぜか笑っていた。

「…悠仁はさ、顔を変えれば、僕が興味を失うとでも思ってたの?」

一頻り笑った後に、悟は悠仁に問い掛けた。

「僕は悠仁のことを好きだって何度も言ったけど、もしかして、その顔と体が好きだと思ってた?」

「………」

悠仁は何も答えない。喉が強張って何も話せないのだ。

沈黙を肯定と受け止めた悟がわざとらしく大きな溜息を吐く。

「僕ってそんなサイテーな男だと思われてたんだ」

違う、と信は声を振り絞ろうとするが、空気を僅かに振るわせるばかりで、それは音にさえならなかった。

代わりに涙が溢れて来た。頬を伝う涙が、肌に沁みて痛むことはなかった。

悠仁が悟のことを愛していたのは本当だ。

それは嘘偽りないと誓えるし、彼と過ごした日々は悠仁の中で今もなお色褪せない思い出として残っていた。

離れている時間が長ければそのうち風化していくだろうと思っていたのに、少しも忘れることが出来なかったのは、今でも悟を愛しているからだ。

悟が五条家の嫡男でなかったのなら、もしかしたら違ったのかもしれない。何度そう思ったことだろう。

何も話さず、静かに涙を流し続けている悠仁を見て、悟が不思議そうに首を傾げている。

「…悠仁はさ、僕のことが嫌いになって逃げたの?」

そんなはずはないと悠仁は黙って首を横に振った。

否定してから、どうして素直に答えてしまったのだろうと後悔する。悟の優しさに甘えて縋ろうとする自分に嫌悪し、悠仁は俯いて唇を噛み締めた。

素直に打ち明けたところで、悟が五条家の嫡男である事実は変えられないし、自分が彼につり合う立場にはなれない。

「じゃあ、なんで逃げたの?」

今度は穏やかな声を掛けられる。悟が怒りを押さえていることはすぐに分かった。

青いガラス玉のような美しい瞳は、背筋が凍り付いてしまいそうなほど冷たい瞳をしていたからだ。刃のような鋭い眼差しを向けられているだけで、悠仁の身体は情けないほど震え始めた。

「連絡も取らないように、居場所を掴まれないように、随分と徹底したみたいだけど、そんなことで僕が諦めると思った?」

もちろん思わない。

いずれ諦めてくれることを信じて、悠仁はそのように行動をしていたのだ。

一年月日の近くが経っていたが、悠仁が少しも悟のことを忘れられなかったように、悟も同じだった。

しかし、気持ちが同じだったとしても、自分と悟の立場が変わる訳ではない。

悟に五条家の嫡男という立場を捨ててもらいたいなんてことは一度も思ったことはないし、自分さえ身を引けば解決するのだとばかり思っていた。

だから、このまま時間が経って、悟が自分のことを忘れてくれればそれで良かったのだ。

悟に気持ちも伝えず、身勝手な行動をしたことは傲慢だという自覚は十分にある。

恨まれても仕方のないことをしたと分かっているのに、悠仁はどうして自分の気持ちをわかってくれないのだと逆上してしまいそうだった。

全ては悟を想ってのことだった。

「…そうそう。何で僕がここに居たのか分かる?」

一向に悠仁が話そうとしないので、悟が急に明るい口調で話題を切り替えた。

こちらを見据えている瞳からは憤怒の色が消えていない。笑顔を浮かべているのは表面だけで、その仮面を外せばすぐにでも殺されてしまいそうだった。

「僕ね」

悟は窓に顔を向ける。帳によって真っ黒に塗り潰された空を見上げながら、悟は言葉を続けた。

「ここで悠仁のことを待ってたんだ。悠仁が帳を張る前から・・・・・・・

「ッ…!」

その言葉に、悠仁は目を見開いた。

帳に何者かが侵入した気配も、破られた形跡もないのに、なぜ悟が入って来れたのかと悠仁は疑問でならなかった。

しかし、悟は悠仁が帳を張る前からこの学校で待っていたのだという。

気配を察知出来なくて当然だった。帳を破って侵入したのではなく、初めから彼は帳の中に居た・・・・・・のだから。

呪霊の気配が消え去ったのは、帳の中にいる悟が祓ったからなのだろう。怪しむことをせず、すぐに逃げ出すべきだったのだ。

(…いや…)

悟は、悠仁が呪霊の気配を消えたことを不思議に思い、校舎内を探索すると分かっていたのだろうか。

まさか帳の中に悟がいるとは思わなかったとはいえ、なぜ誘き寄せられていることに気づかなかったのだろう。

そもそも悟はどうして自分がこの学校に来ることを知っていたのか、悠仁には分からなかった。

机に置いたままのココア缶を手に取り、悟が付着している砂を手で払った。

飲み口に砂が付いていないことを確認すると、彼はプルタブを開ける。小気味良い音が教室に響き渡った。

「…ん、甘い」

ココアを一口だけ口に含むと、味わうようにゆっくりと嚥下する。

早くここから逃げ出すべきだと分かっているのに、悠仁の脚は棒のように動かなかった。

悟が手に持っているココア缶が、今朝、公園のベンチに置かれていたものと同じ種類なのは、単なる偶然なのだろうか。

嫌な予感がして、心臓が早鐘を打つ。

―――もしも、悟が手に持っているココアがあの公園で買ったものだったなら?

悠仁は血の気のない唇を戦慄かせた。

「…いつ、から…」

「ん?」

「いつから、俺のこと…気づいて…」

ココアをもう一口啜りながら、悟が不思議そうに小首を傾げる。

唇をぺろりと舐めた悟は、楽しそうに双眸を細めた。

「悠仁がいなくなった日から、ずっとだよ」

 

再起

悟の言葉を、悠仁はすぐには信じられなかった。

「どうして…」

掠れた声を振り絞る。

まさか悟は、悠仁が居なくなった日から、ずっと自分のことを追い掛けていたというのか。

東京の呪術高専を自主退学してから、もう一年近くが経っている。スマホだって変えたし、位置情報を特定されるような類のものは全て手放した。連絡を全て絶ち、足が付かないように注意を払って呪術師としての仕事の依頼を受けていた。

逃げることが出来ていると思っていたのは自分だけで、悟は傍でずっと自分を嘲笑っていたのかもしれない。

今までずっと自分の居場所を知っておきながら、どうしてすぐに姿を現さなかったのだろう。

悠仁が瞠目していると、悟は静かにココアに口をつけていた。空になった缶を机に置き、彼は気だるげな表情を浮かべる。

「気の迷いかと思ってさ。ちょっと時間置いたらすぐに帰って来てくれるって思ってたんだよね」

「………」

「僕、何か悠仁に嫌われるようなことしたかなあって反省してたんだけど、全然思い浮かばないの」

青い瞳が悠仁の姿を捉える。

「ねえ、なんで逃げたの?僕のことが本当に嫌いになったなら、そう言ってくれれば良かったのに、悠仁ってば何も言ってくれないんだもん」

「…、……」

唇を戦慄かせたが、声は喉に張り付いて出て来ない。僅かに空気を震わせるばかりで、悠仁は涙を浮かべながら俯いてしまった。

嫌いになって逃げ出した訳ではないのだと悟に言えば、彼はなおさら逃げた理由を詰問して来るだろう。

悟さえ自分のことを忘れてくれればそれで良かったのにと、悠仁は奥歯を噛み締めた。

「他の誰かと浮気する訳でもない、真面目に呪霊を祓って呪術師を続けて…ねえ、僕、悠仁が何したいのか全然分かんない」

子どもが初めて目にしたものを「あれは何」と問うように、目を輝かせながら悟が問う。
しかし、彼を納得させる答えなど悠仁は持ち合わせていなかった。

家柄や立場など、悟にはどうでも良いことなのだから、どうしてそんな理由で逃げたのか理解出来ないと言うに決まっている。悠仁にはどうしようも出来ない問題だというのに、悟にしてみればその程度の認識なのだ。

「僕のことが嫌いになった訳じゃないのなら、他の誰かを好きになったんじゃないなら、なんで?なんで、逃げたの?」

骨ばった大きな手が悠仁の肩を掴む。目を背けることさえ許されず、悠仁は思わず固唾を飲み込んだ。

今さら逃げ出すことは叶わない。そもそも逃げ出せてもいなかったのだから、もう諦めるしかないのかもしれない。

「………」

瞬き一つ見逃すまいとして、悟が悠仁の顔を見つめている。青いガラス玉のような美しい瞳が、氷の刃のような冷たさを秘めていて、とても恐ろしく感じられた。

「…先生と、一緒に、なれない」

情けないほど弱々しい声を喉から振り絞ると、肩を掴む悟の手に力が込められた。

目の前にある悟の表情は微塵も変わっていないのに、爪が食い込み、痛みに悠仁の顔が歪む。

「俺のこと、忘れて、幸せになってほしかった、から…」

ぎりぎりと肩から伝わる痛みを堪えながら、悠仁は必死に言葉を紡いだ。

身勝手極まりない傲慢な行動だという自覚はある。しかし、いっそのこと、軽蔑してくれればとさえ思っていた。

悟が幸せになるためには、自分という存在が、彼の世界から消えるべきなのだ。

「…だから、僕に嫌われたくて、そんなことしたの?」

肩を掴んでいた手が離れ、悠仁の頬を擦る。今は元に戻っているが、悟が触れているのは赤く焼け爛れていた箇所だ。

頷くこともせずに悠仁は沈黙する。それを肯定と受け止めた悟は、体のどこかが痛んだような顔をして、悠仁のことを強く抱き締めた。

「…何が悠仁をそうさせた・・・・・の?」

低い声で囁かれ、悠仁は心臓を直接握られたかのような感覚に襲われた。

悠仁を強く抱き締めたまま、悟は彼女の耳元で言葉を続ける。

「僕の家の奴らになんか言われたんでしょ?それとも他の奴ら?」

「あ、あの…」

腕の中で悠仁は喘ぐような呼吸を繰り返す。

独断で行ったのだと言おうとした途端、物凄い勢いで悟に顎を掴まれる。骨が軋むくらい強く掴まれて、悠仁は痛みと恐怖で体を硬直させた。

「悠仁が居なくなってから、家の奴らが急に縁談の話振って来るようになったから、おかしいと思ったんだよね」

「……、……」

「悠仁は優しいから庇うかもしれないけどさ。…いい子だから、本当のことを教えて?」

優しい声色で尋ねられ、かちかちと歯が鳴る。

悟の青い瞳に、恐怖で凍り付いた表情を浮かべている情けない自分の顔が映っていた。

 

真実

何も話そうとしない悠仁に、追い打ちをかけるように悟が問い掛ける。

「僕の家の奴らに脅されたんでしょ?」

「………」

首を縦にも横にも振らず、口を噤んだままでいる悠仁を見て、悟は確信した。

悠仁の唇に指をそっとなぞったかと思うと、彼は静かに微笑む。

「誓約でも交わした?僕に話さないことを条件に、ってところかな」

「………」

悠仁は何も答えられない・・・・・・・・

それを肯定と認めた悟は悠仁に真っ直ぐな視線を向け、決して逸らそうとしなかった。まるで悠仁の瞬き一つ見逃すまいと注視しているようだ。

何も話していないというのに、青いガラス玉のような瞳に全てを見透かされているような心地になる。

「その誓約はもう無効だから、悠仁はなんにも気にしないでいいんだよ」

沈痛な面持ちで唇を固く引き結んでいる悠仁に、悟は明るい声色で言う。

「え…?」

悟が何を言っているのか理解出来ず、悠仁は呆然とすることしか出来ない。

「気になるなら確かめてみたら?誓約に背くことをすれば、すぐに分かるよ」

利害による縛りである誓約。それを破ることは罰を受けること、即ち、死を意味する。呪術界では常識のことだ。

まさか自分の居場所だけでなく、誓約のことまで知っていたというのか。悠仁は直接心臓を鷲掴みにされたような感覚に息を詰まらせた。

「悠仁」

いつまでも口を閉ざしたままでいる悠仁に、悟が穏やかな声を掛ける。

「本当のこと、教えて?誰と、どんな誓約を交わしたの?」

頬に手を添えられて、そう問われると、悠仁は術にでも掛けられたかのように唇を動かした。

「…五条家の人に、先生に近づくなって、言われた」

それは誓約に反する行為・・・・・・・・であると、悠仁は分かっていた。体が飛散してしまう罰を覚悟することも出来ないまま、勝手に口が動いていたのだ。

しかし、いつまでも苦痛はやって来ない。体に異変も起きないことから、悠仁は瞠目する。
悠仁本人からその言葉を聞けた悟は満足そうな笑みを浮かべている。

「ほら?なんともないでしょ?」

「………」

「だって、悠仁が誓約を交わした相手はもういないんだから、誓約自体、成り立たない・・・・・・んだよ」

全身の血液が逆流する感覚に、悠仁は眩暈を覚える。

悠仁が誓約を交わした相手を、同じ家の人間を、彼は殺したのだ。言葉を噛み砕かなくても、悠仁には分かった。

誓約が第三者によって打ち破られるということは、誓約を交わした、どちらかの人間の死しか有り得ない。

悠仁が五条家の人間と誓約を交わしたことを、なぜ悟は知っていたのだろう。

悟の想いに応えてはいけないのだと自分を戒めるようになったのは、彼の家臣だと名乗る人物が現れてからだ。

彼は五条家の嫡男である悟がいかに尊い存在であるか、そしてそんな彼の妻に相応しい人物とはどんな女性かを悠仁に言い聞かせた。

その後にはっきりと、お前は五条家の人間には相応しくないと、そう言われた。他人に言われなくとも、悠仁にはその自覚は元々あった。

身寄りもなく、名家の出でもない悠仁が誇れるのは、両面宿儺の強大な呪力だけ。

五条悟という男に相応しい女の条件を何一つ満たしていない自分は、悟に近づいてはいけないのだ。

家臣を名乗る男は、悟に今の話を言わないことを誓約にして、悠仁を悟から遠ざけた。その制約は、決して男の保身ではない。

自らの命を天秤にかけて、その男は悠仁が悟に近づかないことを確かめようとしていたのだ。もしも悠仁が誓約に反したことで男が死ねば、他の家臣が気づく。

そうなれば、再び悠仁に悟に近づかぬよう説得しに別の家臣が来るかもしれないし、強行手段に出るかもしれなかった。

だからこそ、悠仁は何も言わずに悟の前から姿を消したのだ。誓約に反さないよう、悟にこれ以上の迷惑を掛けないために。

それがまさか悟自ら、家臣を消し去っただなんて思いもしなかった。第三者によって誓約が破られた気配も感じなかった。

「…まだ、つけていてくれたんだね」

頬に添えられていた悟の手が、するりと肌の上を通って耳に触れる。右の耳朶に埋め込まれている小ぶりな銀色のピアスを指先で軽く突かれた。

悟と交際を始めた頃に、初めて彼から贈られたプレゼントだった。

呪術高専は他の高校と違って校則が緩い。アクセサリーに関しても同様で、任務に支障をきたさなければ特に咎められることはなかった。

―――指輪はちゃんとした時に、ちゃんとしたものを贈りたいから。

照れ臭そうに悟がはにかんだのを、悠仁は今でも覚えていた。

いつも大人の余裕を見せつけている彼が、そんな風に余裕のない顔を自分だけに見せてくれることが、恋人としてこの上ない優越感に浸ることが出来た。

ピアッサーを使ってピアス穴を開けてくれたことも、あの時のじんと痺れるような熱い痛みも、ちょっとだけ大人になったと誇らしげに思えた日のことも、悠仁はちゃんと覚えている。

ピアスをつけているのは右耳だけで、もう一つのピアスは悟の左耳にある。左右のピアスを悟と悠仁でそれぞれつけていた。

悟とのことは全て忘れなくてはと思うのに、いつまでも色褪せない思い出として、心に根付いている。

悟の左耳にも同じデザインのピアスがついているのを見て、離れている間も同じようにピアスをつけてくれていたのだと分かった。

「悠仁」

身を屈めた悟が耳元に唇を寄せて来たので、悠仁は反射的に目を閉じた。

「…うん、電池切れてなくて良かった」

安堵したように囁かれた言葉に、悠仁は目を見開いた。

唇の柔らかい感触を耳元に感じたかと思うと、再び悟に抱き締められる。

「そのうちこうなるんじゃないかなって思ってたんだ」

まるで今日までのことを事前に察していたかのような口ぶりだった。

「まさか誓約を交わさせてまで、僕から悠仁を遠ざけるとは思わなかったけど、もう大丈夫だよ。悠仁に近づかないように、ちゃあーんと五条家当主としてお説教しておいたから」

「………」

「でも、悠仁が自分を傷つけるくらい苦しい想いをしていたんだから、もっと…もっと、苦しめてから殺すべきだったね」

声色は穏やかだったが、青いガラス玉のような瞳からは憤怒を感じる。毛穴という毛穴に針が突き刺さるような、嫌な感覚に全身が包まれる。

やはり彼があの男を殺したのだ。

「せ、んせ…」

「ん?なあに」

「…さっきの、電池って…なに…」

先ほど悟が独り言のように囁いた言葉は、悠仁の中でわだかまりとして残っていた。

呪術高専を自主退学した後にスマホはすぐに新しい物に取り換えたし、何処にも足がつかないように徹底していた。

悟が先ほど言った言葉が、自分の居場所を知っていたと繋がりがあるような気がしてならない。

悠仁の問いに、悟は肩を竦めるようにして笑った。

優しい手付きで右耳のピアスを撫でつけられた瞬間、悠仁は火傷でもしたかのように、悟の腕を振り解いて後ろに下がった。

「………」

二人きりの教室に、悠仁の荒い呼吸だけが響き渡る。

帳を下ろしたせいで、自分たちだけがこの世界に取り残されてしまったかのような錯覚を覚えた。

目の前に立っている悟から静かな狂気すら感じる。外見は五条悟その人のはずなのに、なぜか中身だけが全くの別人のように思えた。青い瞳を直視出来ず、悠仁は後退る。

「逃げてもいいよ?すぐに見つけちゃうけどね」

悟がスマホを操作する。見せつけるように悠仁に画面を翳すと、そこには地図が表示されていた。

地図が示しているのはこの学校であり、その中心で赤い丸が点滅している。赤い色に目がちかちかとした。

「ッ…!」

震える手で悠仁は右耳のピアスを乱暴に外し、床に投げ捨てた。今日まで身体の一部だったピアスを急に外したことで、耳朶がしくしくと切なく疼いた。

小気味良い音を立てて転がったピアスを見下ろし、悟が憂いの表情を浮かべる。

「初めて僕が悠仁に贈ったプレゼントなのに…」

残念そうに言いながら、ピアスを拾い上げた悟はまるで悠仁に見せつけるように、そのピアスに舌を伸ばした。

大切な恋人からの初めての贈り物であるお揃いのピアスに心を躍らせていた自分を、悠仁は思い切り殴りたくなった。

まさかあのピアスに位置情報を知らせる機能がついていたなんて誰が想像出来ただろう。きっと悟も知られまいとして何も告げずに贈ったに違いない。

渡されたあの日からずっと悟は自分のことを監視していたというのか。

瞼の裏に、幸せだった日々の記憶が過ぎる。

悟も自分と同じ想いでいてくれたのは知っていた。だけど、今目の前にいる悟のことを悠仁は何も知らない。

自分に愛を囁いてくれた悟が、自分をずっと監視していた事実に、悠仁の中で何かが音を立てて崩れ落ちていった。

 

後編はこちら

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軍師学校の空き教室(昌平君×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ギャグ寄り/IF話/軍師学校/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

養父からの命令

戦を終えて屋敷に帰還した信は、誰が見ても分かるほど落ち込んでいた。此度の戦は秦軍の勝利で終えたのだが、少しも勝利を喜んでいない。

今頃、秦の首府である咸陽では大いに祝宴を挙げているだろうに、信はまるでこれから葬儀にでも参列するのかと思うほど暗い雰囲気を携えていた。

いや、実際に葬儀は執り行った。作法に基づいたものではないが、戦地で大勢の兵たちの死を悼んだのだ。

大勢の屍の前で打ちひしがれている信に肥を掛けたのは、養父である王騎だった。

恐らく此度の戦も参戦せずに遠くから眺めていたのだろう、「帰ったら話があります」と呼び出されたのである。

咸陽宮で行われた論功行賞の後、勝利を祝う宴には参加せず、信はすぐに馬を走らせて屋敷へと帰還した。

馬で帰路を走っている最中も、信の気持ちは少しも晴れない。呼び出された時から説教を受けることになるのは分かっていた。

包帯だらけの身体を引き摺って、信は王騎の部屋へと向かった。

戦の後、王騎に呼び出された時は必ずと言って良いほど、説教を受けるのだ。

少しくらい娘が無事に生還したことを喜んだり、戦での活躍を労ってもらいたいものだが、王騎は厳しいのだ。かといって、自分を棚に上げることはしない。

兵たちと共に命がけの鍛錬を行い、常に自分の力に磨きをかけている父だからこそ慕う者も多く、天下の大将軍と称えられているに違いない。

だから信はお説教を受けることは憂鬱ではあるが、それほど苦ではなかった。

咎められたことを次の戦で活かせれば、素直に褒めてくれるし、これまでの経験で得た知識を授けてくれる。王騎は甘言と脅しの使い分けが上手いのだ。

しかし、今回のお説教は長引きそうだというのは信も察しがついていた。

何故なら信が率いる飛信隊は、此度の戦で兵の大半を失ったのである。壊滅状態と言っていい。将としての責を厳しく追及されるだろう。

此度の戦で戦果を挙げれば、将軍昇格になることは信も嬴政から聞いていたのだが、この被害を受けて見直すことになったらしい。

父に一歩近づけたと思ったのに、仕切り直しになってしまった。

次回の戦で大いに武功を挙げれば、将軍昇格を再び検討してもらえるらしいが、此度のような軽率な行動を行えば、仕切り直しどころか、将軍昇格は白紙になってしまうかもしれない。

きっと王騎もそのことを自分に厳しく伝えるつもりなのだろう。信はあらかじめ覚悟をしていた。

「入る…入り、ます」

普段のように敬語を使わず声を掛けそうになったが、信は寸でのところで言葉遣いを直した。下手すれば入室の時点から叱られてしまう。

秦王の前に出るため礼儀作法を習っていたこともあったのだが、少しも身についていないのは、王騎も摎も信の物覚えの悪さに諦めてしまったからだろう。苦手なものは何をしても苦手なのだから仕方ない。

扉を開けると、王騎が呆れた表情を浮かべて信を見た。

「ンフゥ。来ましたね、戦況も見えないお馬鹿さん」

さっそく王騎から此度の戦の失態を比喩したような声を掛けられる。副官である騰も一緒だった。返す言葉もないと信が苦笑を浮かべると、部屋にいたのは王騎と騰だけでなかった。

紫色の着物を身に纏った男が振り返る。彼こそ秦軍の総司令官を務める右丞相の昌平君である。

「え?なんで昌平君が…?」

戦後の事務処理で一番忙しくしていそうな男が一体なぜこの屋敷にいるのだろう。

疑問を抱くのと同時に、王騎の呼び出しと昌平君の存在に繋がりがあるような気がして、信は嫌な予感を覚えた。

しかし、王騎はすぐに昌平君がここにいる理由を打ち明けることはせず、信をじっと見つめる。

「ッ…」

戦場でないというのに、毛穴にびりびりと食い込むような嫌な感覚に、信が後退りをしそうになった。しかし、腹に力を込めて王騎と真っ直ぐに見つめ合う。

気迫だけで人を圧倒させることが出来るのは、天下の大将軍と称えられるほどの実力を兼ね備えている父だからこそ出来る技だろう。

しばらく無言で見つめ合い、重い沈黙が部屋を包み込む。先に口を開いたのは、王騎の方だった。

「信、あなたを勘当します」

「え…」

勘当という言葉が親子の縁を切るものだと知っている信は頭の中が真っ白になった。

「というのは冗談です。驚きました?ココココ」

「………」

冗談だと笑われても、信の全身から浮かんだ嫌な汗は少しも引いてくれなかった。愕然としたままでいる娘に、王騎は肩を竦めるようにして笑う。

王騎が人をからかうのが大好きなのは分かっていたが、信には少しも笑えない冗談だった。

「さて、本題ですが…此度の飛信隊の動きは、とても残念でした」

「………」

信は唇をきゅっと噛み締める。やはり予想していた通りの説教が始まるようだ。

「まるで発情期の獣が、ようやく雌を見つけて、なりふり構わず襲おうとしているような…あんなにも単純かつお馬鹿さんな隊は初めて見ましたよ」

信にはよく分からない比喩だったが、王騎はやたらよく分からないものに比喩するのが好きだ。

要約すると、布陣を構えた敵陣に突っ込んでいったのは無謀だったのだと言いたいのだろう。

王騎と昌平君の二人の間には軍略囲碁台が置かれている。時々、この部屋で王騎が副官の騰や録嗚未たちと軍略囲碁をするのは知っていた。

信は剣の扱いや兵たちの鍛錬の指揮を得意でも、軍略に関してはからきしだったので、一度も父と軍略囲碁を打ったことはない。

下僕出身ということもあり、文字の読み書きなど出来ない自分には剣しかないと思っていた。

養子となってからは、鍛錬の合間に字の読み書きの練習をさせられて何とか習得したのだが、ずっと勉学とは無縁だったせいか、机に向き合う時間は今も好きに慣れない。

恐らく信が来るまでに二人で打っていたのであろう軍略囲碁も、一体どちらが勝利したのか、どんな勝負だったのか、今並んでいる駒を見ても信には少しも分からなかった。

「私も反省すべきところでした。多くの戦を見て学ばせたつもりでしたが、ここまでお馬鹿さんだったとは思いませんでしたよ。今までの武功は全て運が良かっただけでしょうねェ」

「なっ…!」

今までの戦で命を落としそうになったことだって一度や二度じゃない。

何度も死地を乗り超え、多くの兵たちの犠牲の上で得た勝利を、「運が良かった」という一言で片づけられるのはとても腹立たしかった。

何か言い返そうと信が口を開いたが、王騎がその言葉を遮った。

「軍略について学んで来なさい。強化合宿というやつです」

「…へっ?」

怒りを飛び越して、信が呆けた顔になった。

 

強化合宿

「軍略の…強化合宿…?」

言葉を繰り返すと、王騎がゆっくりと頷いた。

「期限は特に定めていません。判断は総司令官に委ねます」

「な、なんで…」

狼狽える信を見つめながら、王騎は艶のある分厚い唇を歪めて笑う。

「愚問ですねェ。あなたに軍略を学ばせようという父の優しい想いですよ?」

どう考えても命令にしか聞こえない。こんな風に王騎が自らを父と名乗って何かを話す時ほど、恐ろしい目に遭った。

幼い頃に「残党を最低十人は殺してその証を持ち帰って来なさい」と言われ、崖から突き落とされたことを思い出し、信はぶるぶると全身を震わせる。

いつも王騎はこうやって無理難題を押し付けて来る。そして達成出来ないと絶対に屋敷に入れてくれないのだ。

戦で死地を乗り超えて来たが、幼少期の鍛錬に比べればマシかもしれないと思えるほど、信には過酷な思い出として頭に刻まれている。

そして今回も自分には拒否権はないのだろう。信は顔を引き攣らせることしか出来なかった。

「合宿って…ど、どれくらいかかるんだよ…」

声を震わせながら信が二人に問うと、自分の髭を指で丁寧に整えながら、王騎は口の端をつり上げた。

「さあ?総司令官のお許しが出なければ、五年でも十年でもいるかもしれませんよォ?もちろん、その間は戦に出ることは許しません」

「―――」

信の顔からみるみる血の気が引いていく。ただでさえ今回の件で将軍昇格への道が取り消しになろうとしているのに、戦で武功を挙げなければ、将軍昇格がどんどん遠ざかってしまう。

「そ、んなぁ…」

軽い眩暈を覚えて、信はその場にしゃがみ込んでしまった。

…勘当は冗談だと言っていたが、もしかしたら王騎は本当は自分を屋敷から追い出す名目で強化合宿の話を考えたのだろうか。

愕然としている信に、王騎がくすくすと笑い、昌平君と騰は先ほどからずっと表情を変えていない。

「が、合宿って…どこで…」

泣きそうな声で尋ねると、王騎が目を細める。

「もちろん軍略学校ですよ。そのために総司令官においでいただいたのですから」

昌平君は軍の総司令官であり、右丞相を務める男だが、もう一つの顔があった。それは軍師学校の指導者である。

昌平君の軍師学校といえば、秦の軍師育成機関の中でも国内最高峰とも言われている。全国に多くの入門希望者がいるが、百人に一人が通ることの出来る超難関だという。

信の友人である河了貂もその軍師学校に通っており、日々勉学に勤しんでいる。

軍師の才がある者を集め、育成している場所で、大将軍を目指している信には無縁の場所だと思っていた。

強化合宿という一時的なものではあるが、六大将軍・王騎の力による、いわゆる裏口入門というやつである。

河了貂に会えるのは嬉しいが、軍師でもない自分が軍師学校に通わなくてはならないということに、信はいたたまれない気持ちになった。

どうやら娘の考えを読んだ王騎が呆れたように肩を竦める。

「軍略を練るのは軍師だけではありません。将も頭を使った戦をしなくてはなりませんからねェ」

「………」

「いかに強さがあっても、それを使いこなす頭が無ければ、意味はありませんよ。飛信隊の強さをどうしたら活かせるか、軍師学校で学んでらっしゃい。その間、飛信隊は私が預かります」

信が返事をせずに狼狽えた視線を向けたので、王騎は溜息を吐いた。

「騰」

「はッ」

騰が信の背中に携えていた剣を奪い取る。何をするんだと信が剣を取り返そうとするのだが、騰は信の襟を掴んでその体を猫のように軽々と持ち上げた。

「騰ッ!放せッ!せめて剣は返してくれよッ!」

「軍師学校に剣は不要だと、殿と総司令官殿が」

どれだけ手を伸ばしても剣を返してくれる気配はなかった。王騎軍の副官である騰にとって、王騎の命令は絶対なのである。

 

ぎゃーぎゃーと喚く信が騰と共に部屋を出ていった後、王騎は困ったように笑みを深めていた。

「…ああ言ってしまいましたが、長くても半年と言ったところでしょうか。次の戦の気配があれば、飛信隊にも出番をあげたいですからねェ」

信が居なくなってからようやく本音を打ち明けた王騎に、昌平君は表情を変えぬまま瞬きを繰り返す。

「素直にそう言えば良かったのではないのか。養子とはいえ、娘だろう」

幼い頃から信に厳しい鍛錬を強いていたのは噂で聞いていたが、今のやり取りを見る限り、本当に容赦ない鍛錬を強いて来たのだと分かる。

王騎軍が日々こなしている厳しい鍛錬については知っていたが、まさか娘にまでそのような鍛錬を強いていたとは思わなかった。

しかし、今の王騎の言葉を聞く限り、彼もがむしゃらに信を躾けている訳ではなさそうだ。単純に愛情表現が不器用なのだろうか。

昌平君には未だ妻子はいないのだが、他の同僚たちの家庭を見ていると、父という存在は娘に甘いものだという認識があった。天下の大将軍といえど、その認識はこの中華では共通らしい。

「甘やかす役割は、母親が担っていましたからねェ。ココココ」

右手の甲を左頬に押し当てながら、王騎が大らかに笑った。母親というのは、今は亡き六大将軍の一人である摎のことだ。

彼女が趙の龐煖に討たれてから、信もがむしゃらに強さを求めて武功を挙げるようになっていた。その焦りが、今回の飛信隊壊滅に繋がったのかもしれない。

「では、娘のことを頼みましたよ。あなたが動かしやすい駒になるよう、しっかりと学ばせてやってください」

あえて駒という言葉を使ったのは、決して嫌味ではない。軍師にとって将や兵は駒であるのは事実だし、戦に出ない分、大勢の命を背負っている役割がある。

此度の戦で兵の大半を死なせてしまった信にもその役割を学ばせて欲しいという王騎の気持ちの表れだった。

「字の読み書きは一通り出来るはずですが、机上で何かを学ぶ経験が乏しいので、上手くやってください」

要するに信はかなりの飽き性なのだと告げられ、昌平君は返答に困った。

王騎からの頼みである以上、何も成果を出さずに彼女を帰す訳にはいかない。半年という期限を設けられたが、その間に一体どれだけの軍略を詰め込めるだろうか。

 

信の幼少期の鍛錬についてはこちら(李牧×信)

 

出発

「開門ッ!開門しろーッ!」

追い出されるように、身体を放り投げられ、信はすぐに立ち上がった。

門が閉じられてしまう前に全速力で駆け出すが、寸でのところで門が閉められてしまう。こうなれば何をしても開かないことは信も分かっていた。

「くっそー!騰の馬鹿野郎ッ!」

怒鳴りつけるが、もう騰は門の向こうにもいないだろう。

今日の浴槽に浮かべる花は何だろうと思っているような顔で、信を放り投げていたし、本当に薄情な男だ。

信は門に背中を預けてその場にずるずると座り込んでしまった。

(…軍略を学んだって…)

自分が五千人将にまで昇格したのは、飛信隊の強さだと自負していた。

過去の戦では楽華隊の蒙恬や、玉鳳隊の王賁にも無謀だと言われたことは何度もあったが、それでも飛信隊の強さがあれば敵の布陣を崩すことだって容易に可能だった。

信頼している兵たちの力があるからこそ、ここまでやって来れたし、きっと将軍になってからもそうなるだろう。信はそう疑わなかった。

だが、今回の飛信隊の被害の原因は他の誰でもない自分だと王騎に指摘をされてしまい、自分には将として才能がないのかと信は落胆してしまう。

軍略を学んだところで、自分は戦に活かせるのだろうか。それよりも鍛錬を積んで兵たちの強化に充てた方が良いのではないだろうか。色んな考えが脳裏を過ぎる。

「…ん?」

馬の嘶きが聞こえて、信は顔を上げた。屋敷の前に馬車が一台停まる。

来客だろうかと信が立ち上がった途端、背後で門が開く音がした。反射的に信は開いた門に全速力で飛び込んでいた。

「どこへ行く」

「ぐえッ」

先ほど騰にされたように、目にも止まらぬ速さで昌平君に襟元を掴まれて、信は喉を詰まらせた。彼が屋敷から出て来たということは、王騎と話を終えたようだ。

襟首を掴まれたまま、信はじたばたと手足を動かした。

「放せよッ!門が閉まっちまう!」

「そろそろ戻らねば日が暮れる」

「勝手に決めつけたくせに見送りもしねえッ!父さんに文句言いに行ってやる!」

信がぎゃーぎゃーと騒いでいる間に、再び門が閉められてしまった。

なおも暴れる娘の首根っこを掴んだまま、昌平君は無言で馬車へと引き摺っていった。

有無を言わさず、まるで荷物のように馬車に身体を押し込まれ、昌平君も乗り込むと、すぐに騎手が馬を走らせた。

「………」

がたごとと揺れる馬車の中で、信は拗ねた子どものように膝を抱えて、窓から遠ざかっていく屋敷を眺めている。

むくれ顔なのは、王騎に強化合宿を勝手に決められたことと、剣すら持たせてもらえなかったことや、見送りもされなかったことなど様々な要因だろう。

戦場に立つと彼女は別人のように顔つきが変わるという。軍師として後方に立ち、戦場に赴くことがない昌平君は、子どものような表情しか知らなかった。

態度を見る限り、どうやらもう逃げ出すつもりはないらしい。戻ったところで屋敷に入れないことは信も分かっているのだろう。

「………」

昌平君は先ほど王騎から渡された書簡に目を通しながら、果たして信はいつ屋敷に帰せるだろうかと考えた。

此度の飛信軍の動きだけではなく、今までの戦での兵の動かし方を見る限り、彼女は兵の強さを過信する傾向にあるようだ。

確かに飛信隊の騎馬兵や歩兵たちの強さは、王騎軍にも引けを取らぬものがある。

だが、いかに兵力があっても使い方によっては簡単に弾かれてしまう。今回の飛信隊の壊滅は良い例だ。

彼女が五千人将にまで上り詰めた実力を疑う訳ではないが、将軍に昇格するとなれば、兵力も増員する。

それだけ多くの命を預かるのだから、今以上に将としての責任も重くなる。王騎はその自覚を促そうとしたのかもしれない。

今後の戦で今回と同じように無茶な戦い方をして、兵が壊滅する被害がないとは限らない。

敵軍がどのような策を使って来るかは分からないが、軍略を学ぶことで、対応策を立てることだって出来るはずだ。

信が将軍の座に就いたのなら、今後の秦軍の兵力は強大なものになる。恐らく王騎もそれを見込んで、軍略を学ばせようとしたのだろう。

話によると、王気は幼い頃から信を連れて数多くの戦を見せていたらしいが、将軍同士の戦いに夢中になるばかりで軍略に関してはちっとも興味を示さなかったそうだ。

将軍たちが何を考え、あのような動きをしているのかについても助言をしていたようだが、信はそれを聞き流していたという。

天下の大将軍である王騎から助言を聞ける機会など、将を目指す者たちからすれば喉から手が出るほど貴重なことだというのに勿体ないことをする。

「別に軍略なんて学ばなくても、飛信隊なら…」

小さく信が呟いたので、昌平君は視線を動かして彼女を見た。声色から察するに、信は軍略ん冠して微塵も興味がないことが分かる。だが、興味がないからというのは軍略を学ばない理由にはならない。

これから信は今以上の兵の命を預かることになるのだから、そのような考えは捨て去るべきだ。此度の失敗を次の戦に活かさねば亡くなった兵たちのためにもならない。

「…そのような感情論は捨てろ。戦ではその過信が命取りになる」

昌平君の言葉に、体のどこかが痛んだかのように、信がきゅっと眉を寄せた。

「………」

抱えた膝に顔を埋めた信がそれきり何も話さなくなったので、昌平君も何も言わなかった。
軍師学校がある宮廷に到着するまで、馬車の中は重い沈黙で満たされていた。

 

宿舎

宮廷に到着した時には、既に陽が沈みかけていた。

馬車から降りた後も、信の表情は暗いままである。ここまで来たのなら軍略を学ぶしかないと諦めたという様子でもない。

憂いの表情を浮かべているのは、亡くなった兵たちのことを考えているからなのだろうか。

「信、来なさい」

構わず昌平君は彼女に声を掛け、軍師学校へと向かった。宮廷にある軍師学校には、生徒たちが寝泊まりできる宿舎も備えられている。二階には空き部屋があったはずだ。

「………」

地面を睨み付けるように前屈みになって、信は昌平君の後ろを歩いていた。

しばらく長い廊下を歩き続け、突き当りに軍師学校へと続く新たな廊下があった。軍師学校と宿舎は隣接している構造となっている。

一階の全てと、二階の階段手前の部屋は男子生徒が使っており、二階の奥の方は女子生徒が使用している。軍師学校に通う女子生徒は、今は信の他に一人しかいないので、奥の方はほとんどが空き部屋になっていた。

一番奥の空き部屋に入り、昌平君は手に持っていた木簡を信に押し付けるように渡した。

「これは?」

「王騎からだ」

まさか養父の名前が出るとは思わなかったのだろう、信は驚いたように目を丸める。

受け取った書簡の内容に目を通すと、信の表情はみるみるうちに強張っていった。

「…はあ…」

最後の一文まで目を通した彼女は書簡を乱暴に折り畳み、大袈裟な溜息を吐く。

書簡は昌平君に宛てたものであったが、信にも見せるよう伝えられていた。

―――内容を要約すると、軍師学校では己の素性を隠すこと、昌平君の指示に従うこと、無断で帰って来ても屋敷には入れないことが記されていた。

素性を隠すよう指示したのは、昌平君が呂氏四柱の一人であることを気遣ってのことだろう。昌平君が仕切っているこの軍師学校は、呂氏陣営の一つだと言っても過言ではない。

しかし、王騎軍と飛信隊は大王側に身を置いている。敵対関係にある将を軍師学校に入門させるとなると、あらぬ疑いを掛けられてしまうに違いない。

それは信と王騎だけでなく、王騎の頼みを受け入れた昌平君もである。

昌平君が軍師学校で軍略を教えることは、呂氏陣営や政治とは一切関係のない公務とはいえ、どこで誰が聞いているか分からない。恐らく王騎はそれを警戒しているのだろう。

長くとも半年だと期限を設けたのは、信を次の戦に出すためだと言っていたが、いつまでも敵地に娘を置いておきたくないという親心なのかもしれない。

「どうせ父さんのことだから、そうだろうと思ったぜ…」

屋敷で話していたことと内容は大して変わりないのだが、書簡にして残すほど王騎が本気なのだと分かった信は、ここに来てようやく腹を括るしかないといった表情を浮かべていた。

唇を噛み締めた信が何か言いたげに昌平君を見上げたが、それは言葉にはならなかった。

「河了貂もいる。分からないことがあれば彼女に聞きなさい」

二人が成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いだと知っている昌平君がそう言うと、信は小さく頷いた。

 

旧友との再会

昌平君が宿舎を出て行った後、信は与えられた部屋に入って重い溜息を吐いた。

まるで修道院を思わせるかのような簡素な部屋で、机と椅子と寝台くらいしかなかった。

軍師学校に通う生徒は、色々と必要なものを持ち込んでいるのかもしれないが、追い出されるように連れて来られた信は何も持って来ていない。あるのは先ほど昌平君から渡された書簡くらいだ。

剣も没収されてしまったのは、軍略に集中しろという王騎の伝言なのかもしれない。

「………」

寝台の上に横たわり、信は天井を見上げた。

一体いつになったら屋敷に戻れるのだろうか。昌平君の許しが出るまでとのことだが、軍略について今から改めて学ぶなんて、どれだけ時間がかかるのだろう。

幼い頃、両親に幾度も戦に連れ出されたのは、自分の目で見て軍略を学べということだったのかもしれない。

将軍同士の白熱した戦いにばかり目を奪われていた幼い自分を、今になって悔いた。しかし、今さら悔いたところでもう遅い。

天井を見上げながらひたすら溜息ばかり吐いていると、扉が開かれる音が聞こえて、信は反射的に起き上がった。

扉の隙間からこちらを覗いている少女を見て、信は、あっと声を上げた。

「テン!?」

「聞いたことのある声がすると思ったら、やっぱり信だったか!」

河了貂という名の少女が駆け寄って来て、満面の笑みを浮かべる。

信にとっては妹のような存在である河了貂は嬴政が弟である成蟜から政権を取り戻す時に出会った。最後に会った時よりも、彼女の姿は随分と大人びて見えた。

「その年で五千人将になんてすごいぞ!五千人将から昇格したら、次は将軍なんだろ!?」

「あ、ああ…」

久しぶりの再会を喜んだのも束の間、信はみるみるうちに暗い表情になる。河了貂もその表情の変化に何かを察したようだった。

「信…軍師学校に来たってことは…」

信が五千人将として活躍している話を知っているのなら、此度の飛信隊のことも知っているはずだ。河了貂は言葉を探すように目を泳がせている。

軍師学校に集うのは、軍略を学ぶ生徒たちだ。信が五千人将だからと言って例外はない。

「…今回の戦と、また同じことを繰り返したら、飛信隊が解散になるかもしれねえ。そうなったら、将軍昇格どころじゃねえ…」

「ええッ!?」

河了貂が驚いて大声を上げた。

寝台の上で縮こまりながら、信は戦から帰還して先ほどまでの経緯を河了貂に包み隠さず伝えた。

もしもここで河了貂に会わなかったら、愚痴の一つも零せず、溜息ばかり吐いていたに違いない。

信から一通り話を聞いた河了貂は、掛ける言葉を選ぶように「あー…」と顔を強張らせていた。

「…でも、やるしかないだろ」

顔を上げて信が苦笑を浮かべながらそう言ったので、河了貂は大きく頷いた。

「あ、ここじゃあ、素性を隠すよう言われてんだ。やりにくいだろうけど頼むぜ」

長く軍師学校にいる河了貂はなるほどと頷いた。

詳細を告げなくても、呂不四柱の昌平君と、大王側につく王騎の立場を考えてすぐに納得してくれたようだ。

ここに来るまでは色んな思いがあって複雑な気分を抱いていた信だったが、旧友との再会に気分はすっかり良くなった。我ながら単純だなと思うほどに。

「…?」

扉の向こうからまた別の気配を察知し、信は顔を上げる。

「誰だ?」

声を掛けると、扉の向こうにいる人物がゆっくりと部屋に入って来た。

「蒙毅!」

河了貂の顔に明るいものが差し込む。知り合いだろうか。

くっきりとした目鼻立ちの端正な顔立ちにはどこか見覚えがあった。蒙毅という名の少年は部屋に入るなり、信に向かって供手礼をした。

「兄上…蒙恬がお世話になっております。僕は弟の蒙毅と申します。信五千人将」

「えッ」

予想もしていない言葉を立て続けに言われ、信の声が裏返った。

そういえば友人である蒙恬には弟がいて、軍師学校にいるのだと過去に聞いていた気がする。見覚えのある顔立ちをしていたのは、彼が蒙恬の弟だからだったのか。

こちらはまだ何も名乗っていないというのに、正体を見抜いたことに、信は青ざめた。

「お、お前っ…」

「先ほど先生から話を伺いました。ご安心下さい」

どうやら蒙毅自身が信の正体に気付いたのではなく、昌平君から話を聞かされていたらしい。

つまり、この軍師学校で信の正体を知っているのは昌平君、河了貂、蒙毅の三人だけということになる。

信が複雑な表情を浮かべていると、河了貂がちょんと体を肘で突いて来た。

「蒙毅は俺の兄弟子みたいなもんだ。心配しなくて良い」

安心させるように河了貂が微笑んだので、信は頷くことしか出来なかった。

信が蒙恬と河了貂と友人であることから、芋づる式に蒙毅に正体が気づかれてしまう前に昌平君が打ち明けたのだろう。

彼の父である蒙武も呂不四柱の一人だ。父親が呂不四柱の一人ならば、息子の蒙恬や蒙毅だって呂不韋側の人間ということになる。

大王側についている信に、あらぬ疑いを掛けられる前に手を打ったに違いない。本当に頭の切れる男だ。

しかし、裏口入門にここまで付き合ってくれるのはどうしてなのだろうか。

六大将軍の一人である王騎の存在がそれほど偉大なものなのは分かっているが、そうだとしても同じ国内の敵対勢力に準ずる自分を、ここまで優遇してくれるのには、何か別の理由があるような気がした。

「それでは、まずは基礎中の基礎から始めましょう」

「は?」

いきなり話題を切り出され、信は小首を傾げた。

蒙毅が廊下を出たかと思うと、両手に大量の木簡を抱えて部屋に戻って来る。かと思えばまた廊下に出て大量の木簡を部屋に運ぶ。それを五回ほど繰り返した頃には、机に木簡の山が出来ていた。

「は?え?な、なんだ、これ?」

「なにって、軍略の基礎が記されている木簡です。まずはこれを頭に詰め込んでください」

大量の木簡を運び終え、まるでいい汗をかいたと言わんばかりに蒙毅が手の甲で額の汗を拭った。

河了貂は木簡の一つを手に取って目を細めている。

「わあ、懐かしいなあ。これ、俺も最初は覚えるの苦労したよ」

「ふふ。でも河了貂は来たばかりだったのに、あっと言う間に覚えたじゃないか」

二人が思い出話に花を咲かせている中で、信も木簡の一つを手に取って、目を通した。

文字ばかりのそれが軍略の基礎について記されているのは分かったが、一つの木簡を解読する頃には信は謎の頭痛に襲われていた。

「え…これ、全部か…?俺、さっき来たばっかりなんだぞ…?」

まずはこれを覚えたら・・・・・・・・・・次のことを教えると、先生からの言伝です」

口元に笑みを浮かべた蒙毅が頷いたので、信の手から木簡が滑り落ちる。

前言撤回だ。昌平君は頭の切れる男ではなく、ただの鬼である。

 

軍師学校

夜通し、軍略の基礎について記された木簡を読み、信はいよいよ力尽きた。

容赦なく朝がやって来て、目の下に濃い隈を刻んだ信は、河了貂に引っ張られながら宿舎で朝食を済ませ、軍師学校へと向かった。

軍師学校と宿舎は隣接している構造になっているので、すぐに教室に辿り着く。百人に一人しか入れないという難関の軍師学校の教室には、既に生徒たちで賑わっていた。

様々な地形や戦い方を想定した軍略囲碁を打っている者が大半である。教室を見渡しても、昌平君の姿は見えなかった。この時間は呂不四柱としての政務をしているらしい。

恐らく昌平君は自分が不在の間のことも考えて、信の正体を知る河了貂と蒙毅という協力者を作ったのだ。同時に勉学を怠っていないか監視させる役割も担わせたのだろう。

(こんな生活がいつまで続くんだよ…)

既に信は屋敷に帰りたかったのだが、許されるはずがない。

教室の中には蒙毅の姿もあったが、別の生徒と軍略囲碁を打っていた。こんな朝から頭を使わなくてはならないなんて本当に憂鬱になる。何も考えずに剣を振るう鍛錬の時間が恋しくて仕方がなかった。

この教室にいる生徒の年齢はまばらであり、信や河了貂と近い年齢の者もいれば、立派な髭を生やしている者もいる。軍師学校にいる女子生徒は信と河了貂だけのようだ。

とはいえ、信の口調や化粧っ気のない外見から見れば男だと間違えられても仕方がないが…。

その点、河了貂は最後に会った時よりも随分と大人びて、女性らしくなったように思える。この差は何なのだろう。

「…さてと、まず、信は昨日の続きだな」

河了貂に引っ張られながら教室の奥へと移動する。

見慣れない姿に好奇の視線を浴びるが、新しい生徒だろうと大して気にも留められなかった。

生徒たちはみんな軍略を学ぶことに忙しく、新しい仲間が入って来ても大して気にならないのだろう。

河了貂の話だと、せっかく難関の軍師学校に入っても思うように実力がつかず、泣く泣く辞めていく生徒も少なくないのだそうだ。

全国から応募が来ると言っていた割には宿舎に幾つも空き部屋があるのはそのせいなのかもしれない。生徒の入れ替わりが激しいのだろう。

教室の奥には、昨夜、部屋に運ばれたと同じ内容が記されている木簡が積み重なっていた。

椅子に腰を下ろし、渋々木簡を手に取った信が思い出したように顔を上げる。

「テンは俺に付き合ってて良いのかよ?」

眉根を寄せて、信が河了貂に尋ねた。

自分に軍略の基礎を教える役割を担っているのなら、その間、河了貂は自分に付きっきりになってしまう。

しかし、河了貂は肩を竦めるようにして笑った。

「ここにいる奴らで、俺の相手が務まるのは蒙毅くらいだからな」

「えッ!?」

信が目を見開く。数年離れていた間、河了貂も立派な軍師の卵になっていたのだ。

これだけ数多くの生徒がいるというのに、蒙毅と二人で教室の頂点に立っているのだという。

成長したのは体だけではなかったのだと分かり、信は驚愕する。

「そっ、それなら別に俺が軍略学ばなくなたって、テンが飛信隊の軍師に―――」

「さっさと昨日の続きやるぞ!」

慌てて河了貂の両手が信の口に蓋をする。

もがもがと手の下で口を動かしている信を、河了貂が睨み付けた。可愛らしい顔でも凄まれれば、鬼人のような恐ろしさになる。

(素性を隠すんだろッ)

小声でそう言われ、そうだったと思い出した信は小さく頷いた。

「おはよう、河了貂。それに、信殿」

軍略囲碁を終えたらしい蒙毅がやって来る。

悔しそうな顔をして項垂れている対戦相手の反応を見る限り、どうやら蒙毅の圧勝だったらしい。

「……?」

自分に向けられている視線の数が多くなって来たことに気付く。

先ほどまでは見慣れない顔だと、生徒たちから好奇な視線を幾つか感じていたが、すぐに興味を失ったように軍略を学ぶことに没頭していた。

だが、今は確実に視線の数が増えている。ただの新人だったなら、ここまで興味を示されなかっただろう。

恐らくは、優等生である河了貂と蒙毅の二人から親切にされているということで、自分もただならぬ軍師の才能を持っている新人なのではないかと勘違いされているらしい。

「………」

いたたまれなくなり、信は木簡で顔を隠した。

「信?寝るなよ」

「寝てねえよッ」

河了貂の小言に信が声を荒げて、彼女の額を指で弾いた。

「いでっ!相変わらずの馬鹿力だなッ!」

仰け反った河了貂が額を擦りながら信を睨み返す。こんなやりとりをするのも久しぶりだなと思いながら、信は頬杖をついた。

彼女とは成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いで、最後に会ったのも随分と前だったのだが、性格が変わってなくて良かったと心の中で安堵してしまう。

もしも昌平君のもとで軍略を学んだ影響で、彼のような鬼になっていたら泣いていたかもしれないと信は思った。

一方、可愛い妹弟子である河了貂の額を指で弾いた信に、蒙毅はただならぬ雰囲気を携えていた。それが殺気に近いものだと察し、信は反射的に身構えてしまう。

「…な、なんだよ、蒙毅」

「信殿。ここは軍師学校です。頭を使った勝負をしましょう。その方が覚えるのも早いかもしれません」

積み重なっている木簡の一つを手に取った蒙毅が、うっすらと口元に笑みを浮かべた。

その姿は、信の友人であり、蒙毅の兄である蒙恬が怒った時とそっくりな威圧感で、信は思わず冷や汗を浮かべたのだった。

もしかしたら蒙兄弟から時々感じる恐ろしい威圧感は、師である昌平君の影響なのかもしれない。

 

軍師学校 その二

陣形や兵法、城の攻略策や防衛策…軍略の基礎と一言で言っても、覚えることは膨大である。

昨夜読み進めた部分の復習だと蒙毅に幾度も質問をされたが、信は一つも答えられなかった。

大量の知識を詰め込まれ、そして忘れぬようにと質問を繰り返されて、いい加減に眩暈を起こしそうになる。

信は元々下僕出身の身で、王騎と摎に引き取られるまで字の読み書きも出来なかった。机上で何かを学んだという経験はその時くらいで、その後はすぐに鍛錬や戦場に連れ出されていた。

初陣を終えてから、あっと言う間に五千人将にまで上り詰めた信の強さは、幼い頃から天下の大将軍である王騎と摎に鍛えられた経験よるものだった。軍略がどうとかは知る由もない。

昨夜渡された木簡に載っている陣形や兵法は確かに戦場で見かけたものではあったが、それがどういった効力を持つものなのかを考えたことはなかった。

厳しい鍛錬をこなす飛信隊ならば、完璧なまでに整えられた陣形であっても容易に崩すことが出来たからだ。

しかし、此度の戦ではそうはいかなかった。王騎が言った通り、今までは運が良かっただけなのかもしれないと信はここに来てようやく思い知るのだった。

「はあ…分からねえ…」

「こればかりは繰り返し覚えるしかありません」

「うう…」

自分の物覚えの悪さに嫌気がさす。

もしも自分が下僕出身ではなくて、本当に王家に生まれていたのなら、王賁や蒙恬のように軍略というものを意識しながら戦をこなしていたのだろうか。

もしそうだとしたら、今頃は五千人将ではなくて、父と並んで大将軍として戦に出ていたかもしれない。

「…そんな簡単なことも分かんないなんて、なんで入門出来たんだ?」

机に突っ伏して頭痛を堪えていると、蒙毅でも河了貂でもない男の声が降って来た。

ただでさえ頭痛がするのだから余計な刺激をしないでもらいたいと思いながら、信が顔を上げると、河了貂と蒙毅が目をつり上げているのが見えた。

まるで全身の毛穴に針を刺されているかのような嫌な感覚に、思わず信は顔を強張らせる。

二人が睨み付けている先には、信と同い年くらいの男子生徒が立っていて、彼は腕を組んでこちらを小馬鹿にするような顔をしていた。

ふんぞり返っているその姿が、嬴政の腹違いの弟である成蟜のように見えて、信は思わず苦笑してしまう。ああいう性格の男というのは政権絡みでなくても、どこにでもいるらしい。

「それくらいの基礎知識はこの軍師学校に入門する前に覚えているのが常識だろ。なんだってそんなやつがここにいるんだか」

あからさまに敵意を向けられている。しかし、信は頬杖をつきながら聞き流していた。

父から素性を隠すように言われていたし、正体が気づかれれば混乱どころじゃすまない。

嬴政側の自分たちが何かしようと忍び込んでいたのだとあらぬ疑いをかけるかもしれないし、そうなれば天下の大将軍と称えられている養父の顔に泥を塗ることになる。

「…黄芳、学び方は人それぞれ違います。そのような言い方は改めた方が良い」

黄芳という名の少年に、諭すように蒙毅が言った。穏やかな口調を努めているが、目つきは怒りに染まっている。河了貂も同じだった。

しかし、黄芳は蒙毅の言葉も気に食わないのか、ふんっと鼻を鳴らす。

自分を庇うように怒ってくれる二人に信は感謝しながらも、「気にすんなよ」と小声で声を掛ける。

大事にするべきではないと二人も分かってはいるのだろうが、怒りが抑えられないのだろう。

蒙毅の言葉を聞いても態度を改めようとしないところを見ると、どうやら黄芳は優等生である彼のことも気に食わないのだろう。

もしかしたら自分ではなくて、蒙毅と河了貂に言いがかりをつけたいのだろうか。

しかし、下僕時代に受けて来た待遇に比べたら、鞭を突き付けて脅すようなこともしない分、黄芳の言葉など可愛いものだと信は思った。

「そんな基礎も分からないなんて、此度の飛信隊の五千人将みたいな失敗をするぞッ」

まさか黄芳の口から飛信隊の名前と自分の存在が出ると思わず、信は硬直した。蒙毅と河了貂も目を見張る。

「何の策も講じずに突っ込んで壊滅だなんて、馬鹿の一つ覚えじゃないか!あんなのがよく五千人将になったもんだ!」

気づかれたのだろうかと冷や汗をかいたが、どうやら違うらしい。

恐らく黄芳は信の正体に気付かず、知識がないことをバカにするためだけに飛信隊壊滅の話を突き付けたのだろう。此度の戦での飛信隊の動きはまさか軍師学校にも伝わっていたのか。

「基礎も知らないなんて、お前も飛信隊と同じことになるぞ!」

指をさされて、罵倒された信はこめかみに青筋を浮かべた。

その失敗を活かすために軍師学校に放り込まれたという事情を黄芳が知るはずもないのだが、信は拳を震わせた。

ここで手を出す訳にはいかない。問題を起こせば王騎の顔に泥を塗ることになると自分に言い聞かせ、信は黄芳の言葉に耐えていた。

しかし、怒りに打ち震えているのは信だけではなかった。

「…さっきから黙って聞いてりゃ、黄芳ッ!好き勝手に言い過ぎだろ!」

先に堪忍袋の尾が切れたのは河了貂の方だった。

まさか河了貂が怒鳴るとは思わなかったのだろう、黄芳が驚いたように顔を強張らせる。

「飛信隊は俺たちと違って、実際に戦場で命を懸けて戦ってんだぞ!一生懸命戦ってくれた兵たちによくもそんなことが言えるなッ!」

河了貂のよく通る声は教室中に響き、波を打ったかのような静寂をもたらした。

「…テン」

いたたまれなくなり、信は河了貂の着物を引った。怒りに染まっていた河了貂の真っ赤な顔がはっと我に返る。

素性を隠さねばならない自分が言い返せないのを分かった上で怒ってくれた河了貂と、黄芳を諭すように声を掛けてくれた蒙毅に、信は純粋に感謝した。

しかし、ここで素直に礼を言うと正体に気付かれてしまうかもしれないので、信は穏やかな笑みを二人に向ける。

「ふ、ふんッ!これだから女は嫌なんだ!」

どうやら河了貂の威圧に負けたらしい、黄芳は最後まで憎まれ口を叩きつつ去っていく。

静寂だった教室が元の賑やかさを取り戻したので、信はにやっと歯を見せて河了貂と蒙毅を見た。

「ありがとな、二人とも」

周りに聞こえないように、信は二人に感謝の言葉を伝えた。二人も黄芳がいなくなったからか、穏やかな笑みを返してくれる。

「!」

再び木簡に目を通そうとした時、視界の隅に昌平君の姿を見つけた信は心臓を跳ね上がらせる。

一体いつから居たのだろう。河了貂と共にこの教室に来た時には彼はいなかったはずだ。

座って木簡に目を通している姿を見る限り、もしかしたら先ほどの黄芳とのやり取りを聞かれていたのかもしれない。

信が焦燥感を抱いているのは黄芳とのやり取りではなく、自分がまだ基礎を覚えていないことを咎められるのではないかという不安によるものだった。

真面目にやっているつもりだが、全然基礎の一つも覚えていないと知られれば、有無を言わさず強化合宿を延長させられることになるかもしれない。それだけは嫌だった。

(やべッ!)

うっかり目が合ってしまい、信は木簡で顔を隠し、存在感を消そうと縮こまる。

あからさまに挙動不審となった彼女に、蒙毅と河了貂は小首を傾げていた。

恐る恐る木簡を盾にしながら昌平君の方を覗き見てみたが、彼は既に手元の木簡に視線を向けていた。

安堵しながら、信は蒙毅と河了貂から再び軍略の基礎についてを教わるのだった。

 

中編はこちら

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バーサーク(蒙恬×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/輪虎×信/嫉妬/無理やり/ヤンデレ/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

抵抗

押さえ込んだ信の両手首が、思っていたよりも細いことに蒙恬は驚いた。こんなにも細い腕で剣を振るい、多くの敵兵を退けているだなんて冗談のようだ。

押し倒された信は、戸惑ったように蒙恬を見上げた。

「…蒙恬、何してんだよ」

重いから退けと言われ、蒙恬は憂いの表情を浮かべる。今から自分に何をされるか、信はまるで想像が出来ていないらしい。

今まで相手にして来た女性だったのなら、顔を真っ赤に染めていたというのに、信のこの反応は少しも自分を異性だと認識していない何よりの証拠だ。

それがどうしようもなく腹立たしくて、蒙恬は奥歯を食い縛る。

信とは幼い頃から交流があった。養子でも、王家という名家の娘だ。父の蒙武は王騎を毛嫌いしているようだったが、子どもの自分たちにはそんなことは関係ない。共に遊んだことだってあった。

両親の背中を追い掛け、幼い頃から将軍を目指していた信は厳しい修行をこなしていた。

以前、信が酒に酔った時に「残党を十人を殺して来い」と王騎に崖から突き落とされたことがあり、それが初めての修行だったと言われた時にはその場にいた誰もが驚いた。

蒙武だってそのような酷な修行を、それも年端もいかぬ我が子に強いたことはない。下手したら修行で命を落とすことだってあっただろう。

幼い頃から王騎の下で厳しい修行を積んで来た信が今、将軍の座に就いているのは、成るべくしてなっていることなのかもしれない。

それでも彼女が女であることには変わりない。現に、今だって自分という男に身体を組み敷かれているのだ。

どれだけの死地を乗り超えて来た強さがあったとしても、彼女が女で、いずれは自分じゃない男にこんな風に手籠めにされてしまう日がくるかもしれない。

(いや…)

蒙恬は、深い傷跡が残っている信の右腕に視線を向けた。

自分が知らないだけで、彼女はもう手籠めにされたのかもしれない。彼女の体に深い傷をつけたあの男によって、女にさせられたのかもしれない。

熱っぽい瞳で語っていたのだから、もしかしたら信は自ら足を開いて輪虎を誘ったのだろうか。

「…蒙恬…?」

黙り込んでしまった蒙恬を、不思議そうに目を丸めて信が見つめている。

その瞳には警戒心など微塵もなかった。男が女を組み敷いている状況だというのに、信にとっては友人の戯れにしか思えないのだろう。

腹の底から燃え盛るような怒りが込み上げて来る。それが嫉妬という感情であることに蒙恬は気づいていたが、どうすることも出来なかった。

「ん、んんッ――!」

気づけば、蒙恬は信の唇に自分の唇を押し付けていた。

過去に褥を共にした女性たちなら喜んで口を開いて舌を絡めてくるのに、信は頑なに口を開けようとしない。ここまであからさまに拒絶をされたのは初めてのことだった。

大きく顔を背けて、なんとか唇を離した信が顔を真っ赤にさせている。

「なっ、にしてっ…」

驚愕のあまり、声が裏返っていた。

ようやく自分を異性として意識してくれたのだろうかと思い、蒙恬の口元に笑みが戻る。

「あはっ、顔真っ赤」

唇を指でなぞると、信があからさまに目を泳がせた。

 

抵抗 その二

信が動揺していることに気分を良くした蒙恬は、すっかり自分の調子が戻って来たことを察した。

褥の中ではいつも女を導いているように、やはりこちらが優位に立っていないと調子が狂う。

彼女だって所詮は女なのだ。甘い言葉を囁いて効果がないのなら、行動で示してやれば良い。

「…信」

腕から手を放した蒙恬は信の肩を抱いて、名前を囁いた。腕も細かったが、肩も丸くて華奢だった。

「や、めろっ…」

信の両手が蒙恬の胸を突き放そうとするが、少しも力が入っていない。まるで、本当はもっとして欲しいと誘っているようだった。

「やめない」

身を屈めて耳元で低く囁くと、信の体が強張った。ひ、と息を詰まらせたのを見て、蒙恬の口の端が得意気につり上がる。

「耳、弱いの?」

「ばかッ、喋んな」

「やーだ」

吐息が当たってくすぐったいのか、信が大きく身を捩る。

やめろと言われればもっとしたくなるのは男の性だと教えてやらねばならない。蒙恬は信の反応を楽しみながら耳元に息を吹き掛けた。

信の体が強張って、本当に耳が弱いのだと分かると、蒙恬は滑った舌を耳に差し込んだ。

「やぁッ」

抱いている肩にまで、信が鳥肌を立てたのが分かった。

蒙家の嫡男である自分に気に入られようと、一つ一つの愛撫に大袈裟なまでに声を上げて身を捩り、演技をする女も過去にはいたが、鳥肌を立てるのは自分の意志で出来るものではない。

息を弾ませている信に気を良くし、彼女の着物の裾に手をかけた。左右に割開くと男物の下袴が現れる。

他の女ならば着物の裾を開けば、白い脚を曝け出してくれるというのに、信に限っては本当に焦らしてくれる。

「やめろッ!」

下袴を引き下げようと手を掛けると、憤怒した信が咄嗟に手を振りかぶった。

「うッ」

乾いた音が鼓膜を揺さぶった直後、蒙恬の左頬に鈍い痛みが走った。

「あ…」

信がばつの悪い顔をして何か言葉を探しているのが分かった。

打たれた頬に手をやると、僅かに熱が籠っている。拳で殴られなかっただけ良かったと思いながら、蒙恬の口元には笑みが浮かんでいた。

過去に相手にしていた生娘でさえも甘い言葉を囁けば、自分から足を開いたというのに、ここまで警戒心が固いと、力で捻じ伏せてみたくなる。

普段経験している甘い情事の時に味わえるものとは違った興奮に、下腹部がずんと重くなった。

目の前にいる餌を逃がすまいとする獣のような、こんなにも凶暴な一面が自分にもあったのかと蒙恬は驚いた。

 

抵抗 その三

「ど、どけよっ…!もう帰る…!」

狼狽えながらも、信は蒙恬の下から逃げ出そうと身を捩った。

蒙恬は無言で立ち上がって、信を解放する。素直に解放されたことに戸惑いながらも、信は何とか立ち上がって扉の方へ向かう。その背中を蒙恬は追い掛けた。

「おい、放せってッ!」

背後から抱き込まれるようにして、扉と蒙恬に身体を挟まれた信は体を強張らせた。向き合う体勢よりも、この方がこちらも都合が良い。

信の表情が見れないのは残念だと思いながら、手を伸ばして信の胸を揉みしだく。いつも着物に包まれている膨らみは、男の手の平におさまる良い大きさだった。布越しでも、ふっくらと弾力のある胸だと分かる。

「蒙恬、やめろッ」

悪戯をする手を押さえ込みながら、肩越しに信が蒙恬を睨み付ける。蒙恬は楽しそうに目を細めると、声を荒げる彼女の耳元に唇を寄せた。

「…良いの?そんなに叫んだら誰か来ちゃうよ?」

わざと小声で、吐息を吹き掛けるように話すと、信がぐっと奥歯を噛み締めたのが分かった。

「俺はやめるつもりないけどね。信がその気なら、みんなに見られながら続けようか?」

「~~~ッ!」

少しも冗談に聞こえない蒙恬の声色に、信の顔から血の気が引く。よく周りをからかいはするが、冗談を言わない男なのは信もよく知っていた。

「みんな大喜びだと思うよ。だって信はあの六大将軍二人の娘なんだもの。うちに嫁いでくれるなら蒙家は安泰だって、みんな泣いて喜ぶんじゃないかな?きっとじいちゃんもあの世で喜んでくれると思うな」

「何、言って…」

怯えた瞳を向けられると、蒙恬の背筋がぞくりと痺れる。

彼女のこんな顔を見るのは初めてのことだったし、他の誰でもない自分が彼女を怯えさせているのだと思うと、それだけで男の征服感が満たされていく。

襟合わせの中に手を差し込んで、さらしをずらし、直接胸に触れる。

「ッぅ…」

手の平いっぱいに弾力のある肌を味わいながら、中心にある突起を指で弾くと、信がきゅっと唇を固く引き結んだ。

二本の指で摘まんだり、擦り合わせていると、突起が上向く。
蒙恬は背後から信の耳に熱い吐息を吹き掛けながら、弄りやすくなった突起を指で攻め続けた。

「ッ…、う…」

扉に押し当てていた両手で、信が自らの口に蓋をする。逃げ出したい気持ちはあるようだが、将軍という座に就いている自分のはしたない姿を家臣たちに見られたくないらしい。

大人しくなったことに気を良くして、蒙恬は彼女の項に唇を寄せる。軽く歯を立てながら、胸を弄っていた片方の手を今度は帯に伸ばした。

「う…」

片手で口に蓋をしながらも、信は帯を解こうとする蒙恬の手首を掴んだ。二本の指で胸の突起を強く挟むと、信の手から途端に力が抜ける。その隙をついて帯を解くと襟合わせが大きく開いた。

下袴の中に手を差し込んで、下腹部を伝って指を這わせていくと、信が鼻の奥でくぐもった声を上げた。

「や、め…」

局部に指が辿り着いた途端、信が泣きそうな声を上げた。肩越しにこちらを見つめる黒曜の瞳にもうっすらと涙が浮かんでいる。

大声を出せば従者たちが部屋にやって来るかもしれないという不安のせいで、先ほどのように大声を出せないらしい。

蒙恬が割れ目に沿って指を這わすと、まるで火傷でもしたかのように信の体が大きく跳ねた。

「信、こっち向いて」

胸を弄っていた手で彼女の顎を掴むと、蒙恬は身を屈めて彼女に口づけた。

「んんっ、う…ふぅ…」

薄く開いた口の中に舌を差し込み、信の舌を絡め取る。花襞を掻き分けて、割れ目を擦るように指を動かせば、信が口づけの合間に苦しそうな声を上げた。

「ふっ、…んぅ、くっ…」

しつこいくらいに指を動かしていると、淫華が蜜を零し始める。

粘り気のあるそれが指に纏わりついた感覚に、蒙恬の口の端がつり上がった。やはり信は女なのだと思えた。

 

求婚

「ふ、ぅう…ぅん…」

口づけをやめた隙に、再び手の甲で蓋をしていた口から熱い吐息が洩れている。背中に覆い被さりながら、蒙恬は猛々しく着物を下から持ち上げている男根を信の身体に押し付けた。

硬くなっている男根の存在を知らしめるように何度か腰を押し付けると、信の体が小刻みに震え始める。

「ね、信もその気になって来た?」

「んんッ…!」

声を出せない代わりに、信は大きく首を横に振る。顔を見なくても彼女が青ざめているのは明らかで、蒙恬は苦笑してしまう。

蜜がどんどん溢れて来て、中で指を動かす度に淫靡な水音が立てる。どれだけ嫌がっていたとしても体は素直だ。

「―――ッ」

指を二本に増やして敏感な中を攻め立てると、信が白い喉を突き出した。

今まで抱いて来た女よりも、蒙恬の指を強く締め付けて来る。

日頃から厳しい鍛錬に励み、馬に跨っているおかげで、下肢の筋力はそこらの女よりあるのだ。男根を咥えさせた時の締め付けは極上の夢を見せてくれるに違いない。

「ぅうッ…!」

信の両足ががくがくと震えている。女の官能をつかさどる箇所を弄っているのだから当然の反応である。ここは女の急所だと言っても良い。

苦しそうに息を弾ませている彼女に、蒙恬はようやく指を引き抜いた。蜜に塗れた指で下袴を掴む。

「…随分濡れちゃったね。気持ち悪いだろうから脱いじゃおうか」

「や、ぁッ」

信の手が蒙恬の手首を押さえるより先に、下袴を下ろした。着物だけが信の上体に引っ掛かっているだけの状態になる。

先ほど帯を解いたため、襟合わせが大きく開いていて、白い肌が覗いている。今からこの体を貪ることが出来るのだと思うと、それだけで男としての性が喜んだ。

「っ…」

震える両足では体を支え切れなかったのか、信はその場にずるずると崩れ落ちてしまう。

「信、大丈夫?」

心配するように声を掛け、蒙恬は彼女の肩に手をやった。

「や…!」

力の入っていない手で振り払われる。

触るなという意志表示だというのは蒙恬も分かっていたが、構わずに彼女の背中と膝裏に手を回した。

「蒙恬ッ…?」

急に体を抱き上げられた浮遊感に信が驚き、黒曜の双眸が不安の色で染まる。

落とされないよう、信の両手が蒙恬の着物を弱々しく掴んだ。先ほどは触るなと手を振り払って来たというのに、まるで甘えるようなその態度に愛おしさが込み上げる。

応接間に敷かれている獣の毛皮を剥いで作られた柔らかい敷布の上に寝かせ、彼女の体を組み敷いた。

先ほどまで苦しそうに喘いでいた顔は今は青ざめていた。何か言おうと唇を戦慄かせていたが、蒙恬は構わずに自分の着物の帯を解く。

お互いに肌を曝け出すと、素肌で触れ合える喜びが増した。

幾度も死地を駆け抜けて来た信の体は傷だらけだったが、彼女の生きた証でもある。

小さな傷から致命傷になった深い傷まで、たくさんの傷痕が刻まれた肌を眺めた後、蒙恬はにこりと微笑んだ。

「…信、好きだよ」

真っ直ぐに彼女の目を見据えながら想いを告げると、不安の色に染まっていた信の瞳が瞠目する。

「もう戦なんか出ないでいい。俺のお嫁さんになってよ」

「っ……」

信は力なく首を横に振っていたが、先ほどのようにもう抵抗する気力がなくなっているらしい。

返事が否であっても、彼女の心がここになくても、事実さえあれば良いと蒙恬は淀んだ心で考えた。

「信は優しいからさ、弱い人たちには手を出さないでしょ。…自分の子ども・・・・・・なら尚更だよね」

「―――ッ」

蒙恬が何を企んでいるのかを理解した信が声を喉に詰まらせて、目を見開いた。

身を捩って逃げようとする彼女の身体を押さえ込み、蒙恬があははと笑う。

秦王への強い志を持っている彼女が、弱い命を無下にすることが出来ないのは蒙恬も分かっていた。それを逆手に取れば良いだけの話だ。

「ねえ、俺の子を孕んでよ。そうしたら信もお嫁さんになってくれるでしょ?まさか優しい信が堕胎なんて出来る訳ないよね」

その言葉は蒙恬にとって求婚、そして信にとっては、将としての死刑宣告に等しいものだった。

 

求婚 その二

いよいよ瞳から涙を流した信が悲鳴に近い声を上げる。

「いやだッ、俺はっ…」

情けないほどに震えている声で信は蒙恬の下から逃げようとした。早く諦めてしまえばいいのにと思うのだが、どんな状況でも決して屈さないのが彼女の長所であることを蒙恬は思い出した。

もしも、両想いだったなら、今頃はお互いに唇を重ね合って、嬉し涙でも流していたかもしれない。

「輪虎を、裏切りたくない」

しかし、信の口から洩れたのは拒絶の言葉どころか、蒙恬ではない男の名前だった。

今にも消え入りそうな弱々しい声だったが、蒙恬の胸を悪くさせるには十分過ぎるほどだった。

「―――…輪虎は死んだんだよッ!お前がその手で殺したんだろッ!」

頭に血が昇り、蒙恬が声を荒げる。信が目を見開いた。

「あんなやつじゃなくて、俺を見ろよ!」

叫ぶように言った途端、蒙恬の左頬に焼けるような痛みが走った。

視界が大きく揺れ、何が起こったのか分からずにいると、鼻から何かが伝う。反射的に手の甲で拭うとそれは血だった。

信に殴られたのだと理解するまでに、やや時間が掛かった。

見下ろすと、信が涙を流しながら、歯を食い縛って蒙恬のことを睨み付けていた。青ざめていた顔は真っ赤になっており、憤怒の表情で、肩で息をしている。

未だ彼女の心の中に、輪虎の存在が深く根付いていることを理解した。信が輪虎を好いているのは分かっていたが、やはり異性として輪虎を意識していたのだ。

「なんで…?」

蒙恬は口の中に広がる鉄の味を噛み締めながら、静かに信に問い掛けた。

信は涙を流しながら蒙恬を見据えるばかりで、何も言わない。蒙恬を思い切り殴りつけた右手の甲が赤く腫れている。

「輪虎より、俺の方が、ずっと一緒にいただろ…」

幼い頃の思い出が、走馬燈のように蒙恬の脳裏に流れていた。

養子として王家に迎え入れられた信と初めて出会ったのは、咸陽宮だ。その頃の信は既に大将軍というものが何たるかを知っていて、王騎と摎のように強くなるのだと語っていた。

初めは男だと思っていたのに、信が女だと知ったのは初陣を済ませた頃だったと思う。

初陣で大いに活躍した信を誇らしげに思っていたのだが、名前よりも先に王騎の娘・・・・という呼称を聞いた蒙恬は愕然としたものだった。

しかし、信はこれまで通り蒙恬と接してくれたし、蒙恬も変に性別を意識することなく、共に将軍の座を目指す戦友として切磋琢磨し合う関係になっていた。

一つ一つの戦で大いに武功を挙げた信は、若い年齢ながらに将軍へと昇格したのだが、そのことを鼻にかけることなく、蒙恬とはこれまで通りに接してくれた。

将軍の座に就くため、ずっと信の背中を追い掛けていたが、彼女がこちらを振り返ることはなかった。

自分は信の背中をいつも追っていたけれど、信は違うものに視線を向けていたのだ。輪虎と肩を並べていたことにも、彼に女としての顔を見せたのも、蒙恬は何も知らなかった。

「俺…俺の方が、ずっと信のことを想ってる…」

輪虎はもういないけれど、今も信の心を捕らえて離さないのだ。悔恨の気持ちが胸に広がっていき、蒙恬は奥歯を噛み締める。

 

名家の繁栄

降り始めた雨のように、蒙恬の涙が顔に落ちる。

「蒙恬…?」

輪虎のことで憤怒していた信が、ようやく落ち着きを取り戻したように見えた。

俯いて顔に掛かった前髪で表情を隠し、蒙恬は溜息を吐く。前髪を掻き上げた蒙恬の瞳は、涙を流したせいで赤くなっていたけれど、少しも感情が浮かんでなかった。

「…もう、いいよ」

全てを諦めたかのような、気怠げな表情を浮かべた蒙恬は信の右腕を持ち上げると、深い傷痕が残っているそこに思い切り歯を突き立てた。

「ううっ!」

痛みに信が顔を引き攣らせる。噛まれた右腕から血が滲んだのが分かった。このまま噛み千切るつもりなのだろうかと信は恐ろしくなる。

「…俺のこと好きになるのは、お嫁さんになった後で良いから」

「はっ?…え…?」

その言葉を聞いた信が呆けたような表情になる。

なぜ結婚することを前提・・・・・・・・・とした言葉なのか、信が蒙恬の言葉の意味を理解するまで、そう時間はかからなかった。逃げようとした彼女の体を蒙恬は無理やり押さえつける。

先ほど解いた自分の腰帯を使って彼女の両手首を拘束すると、信がやめろと叫んだ。

悲鳴を聞きつけて家臣たちが来るかもしれないが、蒙恬は構わなかった。

王騎の娘である彼女が蒙家の嫡男の子を孕むのを、誰が嫌悪するというのか。忠誠心の厚い家臣たちが蒙家の繁栄を願わない訳がない。

結婚相手を見極めているという名目で、色んな女と遊んでいる嫡男様がようやく身を固めてくれたのだと歓喜するだろう。

凌辱を強いる行為だとしても、蒙家の繁栄のためならば誰も文句は言うまい。

「や、やだっ、やめ、て、くれっ」

先ほど指で解し、蜜を溢れさせていた淫華に男根の切先を押し当てると、信が青ざめながら懇願した。

褥の中で、こんな風に女が涙を流すのは随分と征服感が満たされて心地良いものである。どうして今まで知らなかったのだろう。蒙恬は自分の唇をべろりと舐めた。

「ぃやだあぁっ」

腰を押し進めていくと、信が喉を反らしながら拒絶の声を上げた。しかし、下の口は喜んで男根を咥えている。

「あー…気持ち良い」

指を入れた時から狭いのは分かっていたが、まるで食い千切られるように締め付けて来て、全身が総毛立った。

気を抜けば身体の力が抜けてしまいそうなほど、蕩けるような快感が男根から伝わって来る。今まで抱いて来たどんな女よりも具合が良い。

挿入しただけでこんなにも男に生まれて来た喜びを実感出来るなんて、もしかしたらお互いに身体の相性が良いのかもしれない。

「やだあっ、抜けよッ」

帯で一括りに拘束された両腕で蒙恬の胸を突き放そうとする。

拒絶の声を上げているが、痛がっている様子はない。身体の相性が良いと信も感じているのなら、これから淫らな声を上げてくれることだろう。

生娘と違って痛みに打ち震える様子がないことから、信は既に破瓜を輪虎に捧げたのだと分かった。

そのことに蒙恬は無性に怒りを覚えたが、信はこれから自分の妻として蒙家に迎えられるのだ。輪虎が彼女の破瓜を奪ったとしても、彼女の傍にいることは出来ない。

淫華に自分の男根が突き刺さっているのを見下ろして、今の自分が信を串刺しにしているのだと思った。

膝裏を抱えながら男根を小刻み抜き差しすると、信が泣きながら首を横に振った。

「いや、だッ、やめろッ、蒙恬っ」

「あはっ、可愛いよ、信」

涙で濡れた瞳と視線を絡め合いながら、蒙恬は腰を律動を続ける。

腕の中で信の身体が大きく仰け反った。僅かに震えているのを見ると、ちゃんと女としての快感を感じていることが分かる。もちろん快感を得ているのは信だけではなく、蒙恬もだった。

「んぅううッ」

日頃の鍛錬で美しく引き締まった信の両足を肩に担ぎ、体を屈曲させて腰を前に押し出すと、信が呻き声を上げた。

「っ…!」

前傾姿勢になって根元まで入った男根がさらに締め付けられ、蒙恬は奥歯を食い縛る。深く結合し、あれほど恋い焦がれていた女とようやく一つになったのだと実感出来た。

「ぅああッ、やだあぁッ」

最奥を突くと、信が子どものように泣き声を上げて濡れ羽色の髪を振り乱した。柔らかい肉壁が先端にぶつかり、それが女にしかない臓器だと分かる。ここに自分たちの子が宿るのだと思うと、愛しさが込み上げた。

何度も突き上げていくと、信が悲鳴に近い声を上げながら、肢体をびくびくと跳ねさせる。

男根を咥えている淫華が痙攣していき、子種を求めて射精を促すような締め付けに、蒙恬が胸底でほくそ笑んだ。

「…あー、もう、出ちゃいそう」

耳元で独り言を囁くと、信が涙で濡れた瞳で蒙恬を見据える。

「蒙恬ッ、まっ、待って、たの、頼むから」

この期に及んでまだやめてもらえると思っているのだろうか。

邪魔な理性さえ奪い取れば、きっと信は喜悦の声を上げるだろう。いずれその日が来ることを心待ちにして、蒙恬はさっさと自分の妻にしてしまおうと考えた。

「そんな目でお願いされたら、もっとしてあげたくなっちゃう」

帯で拘束された両腕しっかりと掴んで、激しく腰を打ち付けた。繋がっている部位から鳴り響く肉の打擲音が行為の激しさを物語っている。

「はあっ…」

目が眩んでしまいそうなほど快感に包み込まれる。それはどうやら信も同じようで、決して嫌悪だけじゃない声をひっきりなしに上げていた。

「んぅッ、ううぅん」

開いた口に唇を重ねて舌を差し込む。舌を絡ませたり、吸い付くと、口づけの合間に信が鼻奥で呻いていた。

悲鳴さえも逃したくないと、蒙恬は信の体を強く抱き締める。両腕で細い体を抱き押さえながら律動を送ると、恋人同士のような気分になれた。

「待、て…何でも、する…から…」

だからやめてくれと泣きながら訴える彼女に、蒙恬はすっかり気を良くした。せっかく寛大な約束を取り付けてくれたのだから、利用しない手はない。

「それじゃあ」

腰を止めて、自分の口元に手を当てた蒙恬は信の細腰を抱え直した。

仰向けに寝転び、結合したまま信の身体を自分の上に座らせる。跨るような形になった信は戸惑ったように蒙恬を見下ろした。

着物が引っ掛かっているだけの姿で、ほぼ裸体同然である信の身体を見上げ、蒙恬は絶景の眺めだと笑った。

いつもなら着物と鎧で覆われている体は傷だらけではあるが、女性らしい線をしっかり描いており、腰のくびれも胸のふくらみも妖艶的だ。

「自分で動いてみせて?」

指示をすると、信が狼狽えた。羞恥心で動けないというよりは、どうしたら良いのか分からないといった顔だ。

もしかしたらこの体位で情事をしたことはないのかもしれない。破瓜を奪えなかったことは腹立たしいが、他の初めてなら何だって欲しい。

「ほら、ゆっくりでいいから」

彼女の細腰を掴んで前後に揺らすと、信が顔を歪めた。

「ぁううっ」

深く身を繋げているとはいえ、身体の均衡が崩れてしまいそうになり、前のめりになった信は咄嗟に蒙恬の顔の横に拘束された両手をつく。

「ほら、頑張って。何でもしてくれるんでしょ?」

騎乗位というのは女が主導権を握る体位である。蒙恬が腰から手を放すと、信はぎこちなく腰を前後に揺らす。

経験がないせいで緩慢な動きだったが、恋い焦がれた女が自分に跨って腰を振っているのだと思えば、それだけで興奮した。

 

名家の繁栄 その二

床に手を突きながら懸命に腰を揺らす信を見上げながら、蒙恬は快感と優越感に浸っていた。

腰を動かす度に揺れる柔らかい胸を掴むと、信の顔がさらに強張る。

両手で胸を揉みしだきながら、固くなっている突起を指の腹で擦ってやると、信は強く目を瞑ってしまう。

「う、ふぅ…」

もしかしたら胸を弄られるのが好きなのだろうかと思い、蒙恬は彼女の背中に腕を回して、前傾姿勢を取らせた。

「や、ぁッ」

眼前にやって来た胸を口で食み、敏感な突起を舌で転がる。信が驚いて目を開き、蒙恬の顔を離そうと髪を掴んだ。

その手にはあまり力が入っていなかったが、頭皮が引っ張られる痛みに苛立った蒙恬は突起を上下の歯でぎりぎりと挟む。

「ひっ、ぃ…!」

痛みに信が泣きそうな声を上げる。主導権は渡したはすなのに、信の弱々しい姿に先ほどから興奮が止まない。もっと泣かせてみたいという汚い欲さえ溢れて来た。

「ほら、信が頑張って動かないと、ずうっとこのままだよ?」

脅しのようにそう囁けば、信はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、先ほど教えられたように腰を前後に動かす。

仕方なく従ってやっているという態度があからさまで、蒙恬は苦笑した。

いずれは渡した主導権を存分に使って、性の獣に成り果てた彼女を見られる日が来るだろうか。

胸の突起を弄りながら、反対の手で蒙恬は自分の男根を咥え込んでいる其処に手を伸ばした。

花襞を大きく捲り、蜜を零す淫華を自分に男根が串刺しにしている淫靡な光景がそこにあった。

「手伝ってあげる」

蒙恬は手を伸ばすと、ぷっくりと膨れ上がっている花芯に指を這わせた。

「ひっ…!」

まるで術でも掛けられたかのように、信の身体が硬直する。女の官能をつかさどる一番の急所でもあるのだ。ここを弄られて泣かない女は存在しないだろう。

「や、やっ…ゃあッ」

首を振った信が身体から降りようとしたので、蒙恬は床に手をついて体を起こした。

「んあッ」

蒙恬に身体を抱き締められて、信は逃走に失敗したことを悟ったようだった。胡坐をかいて座った蒙恬の上に身体を落としてやると、密着度が増す。男根に中を抉られたことで信の身体が仰け反った。

「何でもしてくれるんじゃなかったの?嘘吐いたんだ?」

「そ、それ、はっ…ぁあッ」

言い訳を並べようとした信の言葉が途切れる。片手で信の背中を抱き押えながら、再び花芯を弄ると、何が起きているのか分からないと言った顔を浮かべていた。

腰の震えが止まらなくなっていて、男根がきゅうきゅうと締め付けられる。口では何を言おうが、体が喜んでいるのは一目瞭然である。

彼女の首筋に顔を埋めながら、蒙恬は律動を送った。

密着度を利用して、男根を深く埋めたまま先端で擦り付けるように最奥を攻め立てると、信が幼子のように首を振って泣き喚く。

拘束された両腕で蒙恬の胸を突き放そうとするのだが、繋がっている楔は深く、簡単には外れそうにない。これも身体の相性が良いからなのだろうと蒙恬は考えた。

息を荒くしながら、蒙恬は信の髪を掴んで無理やり唇を重ねた。

女性を乱暴に扱うことはないと自負していたのだが、信に限ってはいつも胸底に押さえつけていた狂暴な獣が暴れ回ってしまう。

逃げ惑う舌に吸い付き、絡ませると、苦しそうな吐息が洩れる。それにさえ欲情が止まなかった。

「ん、んんぅッ…!」

内側で膨らんだ大きな欲望が爆発を起こしたかのような衝撃を覚える。畳み掛けるように子種が尿道を駆けていくのが分かった。

射精の瞬間は、いつだって腰が砕けてしまいそうな甘い痺れが走る。

「~~~ッ!!」

最奥で射精されていることを感じたのか、くぐもった声の悲鳴を上げながら、腕の中で信の身体が暴れる。しかし、蒙恬は吐精を終えるまで、唇を重ねたまま彼女の身体を抱き押さえていた。

「ん…ぅ…」

吐精を終えて、ようやく唇を離すと、信が虚ろな瞳で涙を流しているのが分かった。
汗で張り付いた前髪を指で払ってやり、額に唇を落とす。

力なく落ちた信の右腕を持ち上げ、蒙恬は一番深い傷跡にゆっくりと歯を立てる。

いずれはこの傷跡と一緒に、あの邪魔な男の記憶も消し去らなくては。そのためには新しい記憶で上書きをしていくしかない。

自分という夫の存在と、可愛い子どもの存在が、彼女の中から不要な記憶を消していくだろう。

幸せな記憶で全てを埋めていけばきっと、信は自分だけを見てくれるに違いない。

「…信、これからよろしくね」

明日にでも婚礼の衣装を仕立ててもらおうと考えながら、蒙恬は妻の耳元で優しく囁いた。

 

番外編(輪信回想・恬信後日編)はこちら

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リプロデュース(五条悟×虎杖悠仁)前編

  • ※悠仁の設定が特殊です。
  • 女体化(一人称や口調は変わらず)・呪力や呪術関して捏造設定あり
  • 五条悟×虎杖悠仁/ストーカー/ヤンデレ/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

家出少女

毒々しさを感じさせるピンクや紫のネオンの明かりに照らされている深夜の町並みは、見るだけで眼球がしくしくと痛む。

少女はマスクで鼻から下を覆い、パーカーのフードで目元まで深く被って、顔のほとんどを隠していた。

酒に酔った者たちがたむろしている中、その少女の存在だけはどこか浮いていた。

顔を隠しているその少女に、好奇心を持って視線を向ける者たちもいるが、すぐに目を背けてしまう。

僅かに覗く少女の顔の肌は、醜いまでに赤く爛れており、見る者の背筋をたちまち凍らせる。マスクとパーカーのフードを外せば、化け物のような顔が現れるだろうというのは安易に想像が出来た。

パーカーのフードを引き下げている手も包帯に包まれており、顔と同じように赤く爛れていた。

(…風が沁みるなあ…)

季節は晩秋になっていた。陽が沈むのも早くなったし、風も冷たくなって来た。

冷たい風は容赦なく少女から体温を奪っていく。特に赤く爛れた肌に、冷たい風はナイフで切りつけられる様な痛みを与える。

少女は、寒さにかじかむ手を擦り合わせるよりも先に、パーカーのフードを深く被り直して、人混みの中を掻き分けるように進んでいった。

 

家出少女 その二

深夜の公園は人気がなく、街灯の青い明かりに照らされていた。

先ほどの毒々しい色をしたネオンに比べると、随分と落ち着いた色合いで、ほっとしてしまう。

ベンチに腰を下ろし、ポケットに入れていたスマホを取り出すと、冷え切った指先で画面を操作する。

今回の依頼人の電話番号を表示すると、少女はスマホで電話を掛けずに、公園内にある公衆電話を使って電話を掛けた。

コール音が五回ほど響くと、相手が着信に応じた。

「…あ、祓いましたんで。それじゃ…」

必要最低限の連絡事項を告げると、少女は相手の相槌を待たず、すぐに電話を切った。登録していた電話番号を念のため着信拒否設定し、連絡先を削除する。

もう二度と関わることがないのだから、いつまでも連絡先を入れておいても意味はないのだ。少女は、同じ依頼人から二度目以降は仕事を引き受けないことを徹底していた。

十七という年齢でありながら、少女は呪術師という職業に就いている。呪術師とは、人の負の感情から具現化される呪霊と呼ばれる存在を祓う者のことを指す。

霊能力者とは似て非なるものであるが、大半の者はこの手の知識に疎いので、そのように依頼人に説明することも珍しくなかった。

呪術師というのは誰にでもなれるものではない。大前提として呪霊という存在を目視できること、それを祓う力を持っている者ではなくてはいけないのだ。

本来ならば日本国内に東京と京都の二校しかない呪術高等専門学校で、学生として任務をこなしていく年齢なのだが、少女は三か月前に東京の呪術高専を自主退学をした。

学長が不在の間に、退学届けを置いただけの一方的な行動だったが、退学届けを受理してもらえたかは分からない。

伝えていた連絡先も全て変更してしまったので、向こうとしても少女と連絡を取る手段がないのだから、受理せざるを得ないだろう。

呪術高専を自主退学した理由は、決して呪術師という職業が嫌になったからではない。

嫌になったのならば、今も呪術師として呪霊を祓うようなことはしていなかっただろう。

国内に二校しか呪術を学ぶ学校がないように、人手不足の業界であり、学生の頃から仕事は山ほどあった。組織に所属していなくても、十分に生きていける。よって、一人の少女が明日を生きるのに必要な賃金も余るほど支払われるのだ。

金銭の指定はしないが前払いで、呪霊を祓った後は二度と連絡をしないという条件をつけても、依頼は絶えない。

それだけ呪霊という存在は国内に湧いているし、冬が近づけば、その数も増えていく。少女のように、学校を卒業してから自由に仕事をしている者も珍しくはない。

学生であることのメリットとしては、経験者のもとで強さが磨かれていくことと、強さに見合った仕事を依頼されることだろう。

呪術師はその強さによって階級分けをされている。同様に、呪霊も強さによって階級が分けられており、その強さに対応出来る呪術師が派遣される仕組みになっているのだ。

少女の階級は特級であり、呪術師の中でも数えるくらいの人数しかいない最上級の階級である。

自主退学をしたのは、自分の強さに慢心している訳ではない。ある男から・・・・・逃げるためだった。

 

自主退学

少女、虎杖悠仁には恋人がいた。

悠仁が破瓜を捧げたのもその男で、通っていた呪術高専の教員だった。名前を五条悟という。

二人は生徒と教員の関係でありながら、男女の関係になったのだ。

悠仁には身寄りがなく、教員と生徒の関係を咎めるような者は誰もいなかった。呪術界には御三家と言って、代々その名を継いでいく名家が三つある。そのうちの一つに五条家があり、悟は五条家の嫡男だった。

由緒ある家柄の生まれである彼は、それを示すかのように、呪術界の中では最強だと言われている。

悠仁は悟と同じ階級だが、彼と戦うことになれば、手も足も出せぬまま敗北することは目に見えていた。同じ特級呪術師でも、悟とは天と地ほどの実力差がある。

呪術師としての経験だとか、呪霊を祓った数だとかは関係ない。生まれた時から、ずば抜けた力の持ち主だからこそ、五条悟は呪術界最強を名乗っているのだ。

悠仁は悟のことを呪術師としても尊敬していたし、確かに愛していた。

五条家の嫡男である悟に嫁ぎたいという女性はごまんといるのだが、そのような女たちには一目もくれず、悟も悠仁のことを愛してくれていた。

―――学校卒業したらさ、僕と結婚してよ。

悟にプロポーズをされたのは、何度目かの情事の後だった。程良い疲労感と甘い余韻に浸っている時にそんな言葉を掛けられて喜ばない女はいない。

最愛の男と恋人から夫婦になれるなんて、嬉しくないはずがない。

―――…考えとくね。

しかし、悠仁は言葉を濁らせた。

悠仁は謙虚で、自分の立場を弁えているつもりだった。

今後も呪術界の中心として活躍する御三家の一つ、五条家の嫡男との結婚。嫡男の悟が望んだことだとしても、お互いの意志一つで安易に出来るものではない。

両親は蒸発し、唯一の育て親だった祖父も病で亡くなった。身寄りのない悠仁が、由緒正しい家柄に嫁ぐなど、歓迎されるはずがないのだ。

特級呪術師である実力を持っていても、悟と結婚をするための条件が足りない。

言葉にせずとも悟は悠仁の不安を察したのか、何も気にすることはないと言ってくれた。
それでも、これからの呪術界と五条家の継続、そして悟の未来を想えばこそ、悠仁は身を引くしかないと考えた。

それが、虎杖悠仁が呪術高専を自主退学した理由である。

求婚の返事を悟に告げないままだったが、自主退学をして連絡を絶ったことで、悟もきっと分かってくれると悠仁は信じていた。

悠仁が悟の求婚を断った理由はもう一つある。

それは悠仁の呪力の源だ。

千年以上も前に存在したと言われる呪いの王、両面宿儺。呪術界では禁忌とされる強大な存在である。

悠仁は生まれながらに、両面宿儺の呪力を受け継いだ特殊な体質だった。

虎杖家の先祖に両面宿儺との繋がりはなかったことから、悠仁が両面宿儺の呪力を受け継いだのは奇跡に近い偶然だという。

受け継いだのは強大な呪力だけであり、凶暴な本体は依り代である悠仁の中で眠り続けている。

両面宿儺の本体に意識を奪われず、呪力を扱えるのは、千年に一人の逸材らしい。

しかし、悠仁が扱えるのは両面宿儺の力の全貌ではなく、一部に過ぎなかった。僅かな力だとしても、倒せなかった呪霊は一体もいない。それほどまでに両面宿儺の呪力は強大なものであり、人間も呪霊も恐れるものだった。

だが、悟には勝てたことは一度もなかった。力の全貌を扱えるようになったなら、悟に傷一つくらいはつけられるかもしれないが、試す機会は永遠に来ないだろう。

 

甘いもの

「はあ…」

深夜の公園には悠仁以外誰もおらず、彼女はようやくマスクを引き下げて、パーカーのフードを脱ぐ。

ようやくまともに呼吸が出来たような気がした。

「っ…いてて…」

冷たい夜風が吹き出し、悠仁は引き攣るような顔の痛みを覚えた。冬が近づいて来ているからだろう。火傷に冷たい風は容赦なく沁みるのだ。

右の額から顎にかけて、悠仁の顔の半分は赤く爛れていた。爛れているのは顔の半分だけでなく、手足もだ。

服の下のほとんどは包帯が巻かれているが、包帯が覆われている部分は全て赤く爛れている。

呪術界関係者ならば、呪霊との戦いで負った傷だと思うかもしれない。一般人から見れば醜いそれも、呪霊と戦って負った傷ならば勲章と呼べるものだった。

しかし、この火傷は勲章ではない。悠仁が自ら・・薬品を浴びたことで負った火傷である。

皮膚が焼かれるのは、気を失うほどの激痛を伴った。薬品を浴びた時に比べたら今感じている痛みなど些細なものだ。

しかし、危険を察知して回避するために、痛みに慣れないように、体というものは厄介に作られている。

今でも鼻にこびりついている薬品の匂いや、皮膚が焼け爛れる匂いには慣れたが、あのまま痛覚も一緒に焼かれてしまえば良かったのにと悠仁は思った。

「………」

冷え切った身体を気遣い、温かい飲み物を飲もうと思った悠仁は自動販売機へと向かった。

毒々しいネオンの明かりと違って、公園の街灯や自動販売機の白い明かりは心が落ち着く。
小銭を入れて、悠仁は幾つもある飲み物のボタンの前で指をうろうろとさせた。

ホットココアのボタンを押そうとして、何かに指が弾かれたように、すぐ横のホットコーヒーのボタンを押す。鈍い音と共に、取り出し口に缶コーヒーが落ちた。

無意識のうちに甘いものを求めていた自分に驚き、悠仁はしばらく動けずにいた。

悟は極度の甘党だった。悠仁も女という性別であり、甘いものを欲する気持ちは分からなくはないのだが、悟ほどではない。

彼は一人で堂々と女性客が多いカフェにも堂々と来店して季節限定の新作ケーキを頼むこともあった。悠仁に差し入れてくれる飲み物やお菓子も、彼がお勧めする甘い物がほとんどだった。

仕事の疲れは甘いもので取るのだと女性のようなことを言う悟と付き合っているうちに、悠仁も甘いものをよく摂取するようになっていたのだ。

無意識にココアを選ぼうとしたことに、自分はまだ悟のことを忘れられないのだと思い知らされた気がした。

取り出し口から缶コーヒーを取り出し、悠仁はすぐにプルタブを引き、コーヒーを啜った。

「…にが…」

口の中に広がった苦味に、悠仁は思わず顔をしかめる。しかし、構わずにコーヒーを流し込んだ。

この苦味が喉を通っていけば、悟との思い出を全て黒く染めてくれるかもしれないとバカなことを考えていた。

口の中の苦味に意識を向けていると、悠仁は身体が疲労していることを思い出した。

今日は廃工場に住み着いていた特級呪霊二体を相手にしたのだ。両面宿儺の呪力があれば、いかに最上階級である呪霊を祓うことは容易かったが、膨大に呪力を消費してしまった。

普通の人間と異なる力を持っていたとしても、肉体は人間である。動けば腹は減るし、疲労も溜まるのだ。

「……、…」

悠仁は目を伏せると、口の中で呪文を呟いた。みるみるうちに悠仁の足下に血溜まりが広がっていき、吸い込まれるように悠仁の体が落ちていく。

次に目を開くと、悠仁は大きな血溜まりの真ん中に膝を抱えて座っていた。

生得領域の中である。家とは異なるのだが、自分の中にある空間にやって来ると、ほっとしてしまう。

あちこちに人の骨が積み重なっており、血の池地獄のような光景が広がっているが、悠仁にとっては見慣れた空間であり、ここは今の彼女にとって唯一落ち着ける空間だった。

生得領域は心の中と言っても良い空間であり、自分が許可をしなければ他の誰も入って来れない。

今も悟が自分のことを探しているのかもしれないと思うと、公共のホテルなど、自分がそこにいたという足跡を残す訳にはいかなかった。

連絡を取る手段がないのだから、悟が悠仁を探していたとすれば、手探りの方法しかない。厄介なのはこの世界で悟しか持っていない六眼の能力だ。

呪力を詳細に見分けることが出来るというその能力を使って、悠仁が呪霊を祓う時に利用する呪力を見つけるかもしれない。

悟が自分に興味を失くしたと分からない以上、警戒はしておいて良いだろう。あと数年はこの生活が続くことを覚悟していた。

深く心に根を張っている思い出が簡単に消え失せることはないけれど、考えない時間が長ければ長いほど、思い出というものは風化していくものである。悠仁はそう信じていた。

五条家の嫡男という立場や、彼の端正な顔立ちに惹かれる女性は多い。

薬品に身体が爛れた自分とは違って、名家である五条家に相応しい美しい女性と家庭を作ってくれることを悠仁はひたすら願っていた。

(あれ…?)

頬を伝う涙に気付き、悠仁は瞠目した。

もう涙なんて枯れたと思っていたはずなのに、まだ悟のことを想っている自分がいる。

赤く爛れた皮膚に涙が沁みて、悠仁は痛みに顔を強張らせた。

早く止めなくてはと思うのだが、泣くなと自分を叱りつければするほど涙が止まらなくなってしまう。

「っ…せ、んせ…」

恋人同士になってからも、悠仁が悟を呼ぶ時は「先生」のままだった。

名前で呼んでくれて良いんだよと言ってくれたこともあったけれど、気恥ずかしさがあって、結局最後まで「悟」と呼んであげることは出来なかった。破瓜を捧げた時でさえも、名前で呼んであげられなかった。

心残りがあるとすれば、期待してくれていたのに、一度も名前で呼んであげられなかったことかもしれない。

彼のことを嫌いになって別れたのならば、どれだけ良かっただろう。

 

目覚め

生得領域の中で眠ったが、頻繁に目を覚ましてしまう。

この生活を始めてから、一年近くが立つが、一度も熟睡出来たことがなかった。

生得領域には誰も入って来ないと分かっているのに、いつまでも眠っていると悟に見つかってしまいそうな気がするのだ。

目を覚ます度に、自分に何度も大丈夫だと言い聞かせて、再びうつらうつらと眠りに落ちかけた途端、また目を覚ましてしまう。

明日も呪霊を祓う依頼が入っているのだから、しっかり体を休めなくてはと思うのだが、悟が自分のことを忘れてくれるまでは、ずっと寝不足が続くかもしれない。そもそも彼が自分を忘れる手段など確かめようがないのだが。

目の下の隈はいつまでも濃く残っており、公衆トイレの鏡を見た時に自分でも驚いたものだ。

すれ違う人々は自分の赤く爛れた肌に驚いたり、同情するような視線を向けて来るが、この隈の濃さも気味悪さを強調させているのかもしれない。

この前も、呪霊を祓い終えて、深夜に公園で休憩をしていると、若い男たちに声を掛けられた。

しかし、街灯に照らされた悠仁の顔を見るなり、化け物でも見たような悲鳴を上げて一目散に逃げ出していったのだ。

悟が今の自分の姿を見たら、あんな風に自分から遠ざかるのだろうか。

もしそうなら、過去に恋人だった立場として多少はショックを受けるに違いないが、きっとその方が悟のためだろうと悠仁は自分を納得させた。

…結局いつも通り、熟睡は出来なかった。日が昇り始める頃に、悠仁は生得領域を解除する。

冬が近づいているせいだろう、朝陽が昇るのは随分と遅くなっていた。

まだ薄暗い公園で両腕を伸ばして身体の凝りを解していると、座っていたベンチに缶が置かれていることに気付く。

「…ん?」

ココアだった。誰かがゴミ箱に捨てず置いていったのだろうかと、悠仁は缶を手に取った。

(誰のだろ…)

プルタブが開けられておらず、まだ購入したばかりなのか、缶は温かい。

反射的に辺りを見渡したが、自分以外に公園にいる者は誰もいなかった。誰かの忘れ物だろうか。

「…ッ!」

昨夜、悟と交際していた時の癖でココアを購入しようとしたことを思い出し、悠仁は火傷でもしたかのようにココアを手放してしまう。

缶が乾いた音を立てて地面に落ちたが、悠仁はとても拾う気にはなれず、逃げるようにしてその場から駆け出した。

悟がこんな場所にいるはずはないと頭では分かっているのだが、少しでも可能性があるのならいち早く逃げなくては。

外部に展開しない生得領域ならば呪力の気配は察知されないと思っていたのだが、六眼という能力を持つ悟なら、微弱な呪力であっても気づくかもしれない。

もしも自分を追い掛けて来て、どうして逃げたのだと迫られても、彼を納得させられるような言葉を持ち合わせていなかった。

納得するかどうかは悟次第だし、何も言わずに彼の前から消えた自分を悟は恨んでいるかもしれない。

彼のことを想うだけで罪悪感が胸に圧し掛かる。

これは贖罪だ。悟を傷つけたのは分かっているし、自分はその罪を一生背負って生きなくてはいけないのだと悠仁は思った。

この醜い傷痕は、自分への罰なのだ。

 

廃校舎の噂

冬が近づくと、日照時間に比例して人々の負の感情が増えていく。つまり、呪霊の数もその分増えるのだ。

同じ依頼人から二度と依頼は受けないようにしている悠仁でも、仕事は山ほどあった。

一般人は呪霊が何たるものかをよく分かってないのが大半だ。

呪術師たちの後方支援を行っている補助監督を通さなくても、ある程度の金を払えばきちんと祓ってくれる悠仁の存在は便利で助かるらしい。

呪霊との戦いによっては建物の損壊もあるし、そういった手配も国へ申請してくれるのならば補助監督を通した方が絶対に良いと思うのだが、素人にはその良し悪しはよく分からないものなのだ。

とにかく起こっている問題さえ解決出来れば、つまり呪霊という恐ろしい化け物さえ退治してくれれば良いと考えている人間も少なからずいる訳である。

今日の依頼は廃校舎にいる呪霊を祓うことだった。

以前から取り壊しが決まっているのだが、呪霊が悪さをするせいで作業員や、深夜に肝試しのために忍び込んだ若者が何人も被害に遭っているのだという。

取り壊し作業が始まってからそのような被害続き、今では誰も近づきたがらず、工事が少しも進まないのだという。

素人の話だけでは呪霊が何体いるのか、どの程度の階級なのかは少しも想像できない。

後方支援をしてくれる補助監督がいたのなら、窓と呼ばれる呪霊を目視出来る協力者からいくつか情報をもらえただろう。

しかし、悠仁の呪力をもってすれば、階級の高い呪霊が何体いたところで意味はない。目の前に現れる呪霊は全て祓うのみだった。

依頼人とは基本的に対面せず、メールや公衆電話でやりとりを行っている。顔を知られたくないのと、少しでも自分という呪術師の存在を広めないためだった。

送られて来た地図を頼りに、電車を幾つも乗り継いで廃校舎に到着した頃には、既に陽が沈みかけていた。

取り壊しが決定している廃校舎の周りには住宅もなく、この廃校舎だけが浮いて見えた。

立ち入る前から呪霊の気配を感じ、悠仁は琥珀色の双眸で廃校舎をじっと見つめた。この距離から気配を感じるということは、高い階級の呪霊なのかもしれない。

万が一にも一般人に見られないために、悠仁は口の中で呪文を唱え、結界の一種である帳を下ろした。

絵具を塗ったかのように、空が闇に包まれていく。帳が下りたのを確認してから、悠仁は廃校舎の中へと足を踏み入れた。

校舎には幾つもの教室がある。一つずつ回っていくのは億劫ではあったが、祓うためには仕方がない。

(なんか懐かしいな)

通っていた母校ではないにせよ、学校という空間に悠仁の胸は懐かしさでいっぱいになる。

休み時間に教室で友人らと他愛もないことで笑い合ったり、苦手な勉強をこなしたり、当たり前のことを当たり前だと思ってこなしていた日々が瞼の裏に蘇る。

「………」

教室の窓から見える校庭を見下ろして、悠仁は溜息を吐いた。

一つ上の先輩たちにボロボロになるまで挑んだことだって、任務帰りに数少ない同級生とファーストフード店で腹を満たしたことだって、色褪せない思い出として残っている。

そして、何よりその中心にはいつだって悟がいた。

自分よりずっと年上で、生徒の成長を導く教員という立場であるというのに、悟はいつだって子どものように無邪気だった。かと思ったら急に大人と呪術界最強の一面を見せつけてくれる。

そのギャップも悠仁は好きだった。口だけではなく、確かに実力を兼ね備えている尊敬すべき人間で、たまらなく愛おしいと感じる存在だった。

「っ…」

喉がきゅっと締まり、目頭が熱くなる。

忘れようと何度も努力しているというのに、ふとしたことをきっかけに悟とのことを思い出してしまう。

今でもまだ悟の存在は心に根が張っているのだと自覚せざるを得ない。

(集中しないと)

悠仁は深呼吸をして、呪霊の捜索に頭を切り替えた。

瞬間。身体に弱い電流が流されたような感覚に、悠仁の身体が小さく跳ね上がる。

「…えっ?」

それまで校舎内にあったはずの呪霊の気配が消えたのだ。

 

廃校舎の噂 その二

まだ呪霊の存在を見つけてもいないのに、一体どうして気配が消えたのだろうか。

この帳の中にいるのは自分と呪霊だけのはずだ。第三者の侵入があればすぐに気配で気づく。

まれに複数の呪霊がいた場合、呪霊同士で呪力を奪い取ろうと共食いのような行動が見られるというのは知っていた。

しかし、目を閉じて感覚を研ぎ澄ませてみるが、呪霊の気配はどこにも感じられない。

呪霊の数がどれだけいたのかは分からないが、縄張り争いでもして、相打ちになったとでもいうのだろうか。

依頼を受けた以上は、本当に祓えたのか確かめる必要がある。依頼人に終了した連絡を入れる前に、悠仁は本当に呪霊がいなくなったのか捜索を続けることにした。

前金は既に支払われているのだが、持ち逃げするような真似はしたくなかった。

依頼人には連絡先しか知られていないので、追われるようなことはないのだが、この方法でしか生きていくことを知らない悠仁には、足を付かないようにしながらも、悪い評判を立てられる訳にいかない。

(本当に呪霊が消えたのか…?なんで…?)

疑問が拭えないまま、悠仁は一つ一つの教室を確かめていく。

一階の奥にある教室の扉を開け、中を見渡した。ここにも呪霊の気配はなかった。

呪霊のせいで取り壊し作業が少しも進まなかったと聞いていたが、その教室も机や椅子が残っており廃校舎というよりは深夜の学校という印象の方が強かった。

「…ん?」

中央にある机に何か置いてあることに気付き、悠仁は導かれるように近づいた。机の上に缶が置いてあった。

肝試しのために忍び込む若者も居たと言っていたし、ゴミをそのまま置いて帰ったのかもしれない。

しかし、プルタブを開けられていないココアの缶には見覚えがあり、悠仁は手に取って凝視する。

今朝、公園のベンチに置かれていたココア缶を落として逃げ出したことを思い出した。どこの自動販売機でも販売しているものだったので、同じ種類なのはきっと偶然だろう。

(…なんで、砂がついてんだ…?)

未開封の缶に砂が付着しているのを掌で感じて、悠仁は眉根を寄せた。

(いや、まさかな)

あの時のココアが独りでにこんなところに移動したというのか。そんな馬鹿なことがあるものかと悠仁は苦笑を滲ませた。

当然ながら持ち帰って飲む気にもなれず、悠仁は机にそのココア缶を戻す。

「―――甘いもの、好きじゃなくなったの?」

背後から囁かれた聞き覚えのあり過ぎる声に、悠仁の心臓は、その一瞬、確かに止まったのだった。

 

中編はこちら

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毒酒で乾杯を(桓騎×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/ツンデレ/毒耐性/ミステリー/秦後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話はアナーキーの後日編・完全IFルート(恋人設定)です。

はこちら

 

大王の寝室

侍女頭が后の毒殺疑いで身柄を拘束されたことを受け、向の身柄は宮廷で保護されることになった。

向に襲い掛かった侍女頭を射止めたのは何者だったのだろう。結局それは分からずじまいだった。恐らく桓騎はその正体に気付いているようだが、味方だとも敵だとも告げなかった。

宦官に扮した桓騎が侍女頭の件も報告するとのことだったが、桓騎の正体が気づかれないかも心配だ。

信も自らの目で見たことを嬴政に伝えたかったのだが、宮官長たちに此度の騒動の説明をしていると、あっという間に時間が経ってしまった。

夜になると、宦官からの呼び出しは来なかったが、信は後宮を抜け出した。秦王から伽に来るよう命じられたのは事実だ。抜け出しても何ら問題はないだろう。

後宮を出て、宮殿を通り、嬴政の寝室へ向かう。

いつもなら目隠しをされて寝室の場所が分からないように配慮されるのだが、何度か繰り返すうちに、信は嬴政の寝室を突き止めていた。それは本能型の武将としての直感だったのかもしれない。

向の身柄は宮廷へ移されたのだから、もう後宮に留まる必要もないだろう。着物は後宮で着ていたものではあるが、もう女官を演じる必要はない。久しぶりに背中に携えた剣の重みが懐かしかった。

「おい、政ッ!」

返事を待たずに扉を開ける。無礼なのは十分承知しているが、事情は事情だ。

もしかしたら今宵、本当の犯人が襲撃に来るかもしれない。向が襲われた報告と同時に、その可能性も告げられただろうが、なぜか寝室の前どころか廊下には護衛の兵が一人もいなかった。

犯人を誘き出す作戦があったとしても、大王の身に危険が迫っているのだと分かれば、さすがに護衛の兵は配置させるだろう。あまりにも無防備過ぎると、信は苛立った。

いつもなら書簡に目を通している時刻だが、今は布団を被っている嬴政に、信は目をつり上げる。

「なに呑気に寝てんだよっ!」

上質な寝具を引き剥がし、叩き起こそうと思うとしたのだが、そこに居たのは嬴政ではなかった。

「―――よお」

桓騎が頬杖をついて、信のことを見上げている。

「…はッ!?」

状況が理解出来ず、信はただ愕然としていた。

宦官に扮していた時もそうだったが、一体どうして彼がここにいるのか。

「なッ、なんで…!?」

ようやく振り絞った声に、桓騎がにやりと笑う。

「お前に会うのに理由なんて必要ねえだろ」

「いや、そうじゃなくてッ、ここ政の寝室だろッ!」

咸陽宮を出入りできる立場だとはいえ、どうして彼が大王の寝室にいるのか。

しかも我が物顔で寝台に横たわっていることに、信は驚愕することしか出来なかった。

「政はどこにいるんだ?」

まさか無断で寝室に忍び込んだ訳ではないだろうが、だとしたら嬴政はどこにいるのだろう。

向の身柄を宮廷へ移した際に、宦官に扮した桓騎が嬴政に事情を伝えたというから、もしかしたら今は向と共にいるのかもしれない。

信が嬴政の居場所を気にしていると、桓騎がわざとらしく溜息を吐いた。

「…つれねえなあ。せっかく愛しの男に会えたってのに、違う男の話を出すのかよ」

本当にそう思っているのか、感情の籠っていない声で返される。

「お前がこんな所に来れる訳ないだろっ!何考えてんだよ」

まさか周りの目を欺いて後宮に侵入しているとは予想外だったが、桓騎であったとしても、大王の寝室に入れるはずはない。

信が問い詰めると、桓騎の口の端が怪しくつり上がった。

「俺が考えなしに動く男だと思ってんのか?」

「それは…」

信は言葉を濁らせる。

それなりに長い付き合いであり、桓騎が何も考えずに動く男でないことは分かっていた。

「…なら、最後まで付き合えよ」

「………」

どうやらこれも彼の策の内らしい。しかし、いつまでも策の内を明かさないことに、信は複雑な表情で頷く。

桓騎がここにいるということは、もしかしたら嬴政と向の命を狙った犯人を誘き出そうとしているのかもしれない。

諦めて信が寝台に腰を下ろすと、桓騎の手が伸びて、寝具の中に引き摺り込まれた。

「な、おいっ!?」

あっと言う間に抱き締められて、信が困惑した表情を浮かべる。

後宮にいた期間を考えると、彼と触れ合うのはとても久しぶりのことだった。だが、今は感傷に浸っている場合ではなかった。まるで緊張感が感じられない桓騎の普段通りの態度に、信は苛立ちを覚える。

「桓騎、真面目にっ…」

「後宮にいる間、大王とは何度寝た?」

嬴政との情事を疑われ、信は瞠目する。

「はあッ?な、なに言って…!?」

予想もしていなかった言葉を投げ掛けられ、信は大口を開けた。愕然としている隙を突かれ、体を組み敷かれる。

確かに嬴政から伽に呼ばれたことは幾度もあったが、それは後宮での様子を伝える報告会である。

情報漏洩を防ぐために、嬴政と二人きりになるには伽を装うしかなかったのだ。てっきりそれも分かっていたのだと思っていたが、どうやら違ったらしい。

今宵の呼び出しは桓騎の策の内なのかと信は考えていたのだが、もしかしたら本当に嬴政からの呼び出しだったのだろうか。だとすれば、桓騎が苛立っている理由も納得出来た。

 

刺客

「…誓って、政とは何もしてねえよ。伽を装って、後宮での様子を報告してただけだ」

信がそう言うと、桓騎はまだ納得していない表情を浮かべていた。嫉妬しているのだろうか。

桓騎が自分のことを想って嫉妬しているのだと思うと、悪い気分ではない。むしろ、優越感を覚えた。

ついにやけてしまいそうになる口元を必死に押さえ込みながら、桓騎を見上げた。

何を思ったのか、桓騎の手が着物の帯を解きにかかり、信はぎょっとする。

「えっ、お、おいっ?」

両手で桓騎の手を押さえ込みながら叫ぶと、桓騎がつまらなさそうに目を細める。

「…これ以上、待ては出来ねえぞ。俺は犬じゃねえんだ」

身を屈めた桓騎が首筋に唇を寄せて来たので、信は言葉に窮した。

いかに天下の大将軍である信であっても、所詮は女であり、男の腕力には敵わない。両手首を桓騎に片手で押さえられながら、帯を解かれてしまう。

首筋にちゅうと吸い付かれ、信は顔から火が出そうになった。

「バカッ、こんな時に何考えて!」

「こんな時だからこそ盛り上がるんじゃねえか」

策を成している途中だろうに、どうしてそんなに余裕たっぷりの笑みを浮かべていられるのか。

ぬるりとした舌を鎖骨に這わせられると、信の背筋に甘い痺れが走った。

こんな時でも反応してしまう桓騎に抱かれ慣れた体が恨めしい。唇を噛み締めて、溢れそうになる声を堪えた。

「…で?誰が孕めないお前が都合良いって?」

「へっ?」

信は頭の中に疑問符を大量に浮かべる。突然冷たくなった彼の声色に、顔を見なくても桓騎が憤怒していることはすぐに分かった。

責め立てられるような言葉と目つきに、一体何の話だと信が戸惑う。しかし、後宮に行った初日に、向へ話した話したことを思い出したのだった。

―――…あいつには、孕めない俺が都合良いんだろうな。

まるで陸から上がった魚のように、口をぱくぱくと開閉させ、信は青ざめた。あの場には向しかいなかったはずなのに、どうして桓騎がその話を知っているのだろう。

(いや…待てよ…)

あの部屋にいたのは確かに向と信の二人だった。しかし、扉の前にはもう一人いたはずだ。

見張り役と護衛を担っていた宦官の姿を思い出し、信はひゅっ、と笛を吹き間違ったような声を喉に詰まらせた。

「ま、まま、まさか、お前っ、俺が後宮に行った日から・・・・・・・・・・・…!?」

「今さらかよ」

その言葉と苦笑は肯定だった。まさか後宮へ行った初日から、桓騎が宦官に扮していたのだと分かり、信の頭に鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。

「俺がそんな理由で、お前を抱いてると思われてたとはな」

「え…あ、あの…違う、のか?」

泣き笑いのようなぎこちない表情で言葉を返すと、桓騎が不機嫌に舌打つ。

「心外だな」

「う…」

戸惑った信が目を泳がせていると、桓騎はわざとらしく溜息を吐いた。

桓騎が怒る時は、あからさまに怒鳴るようなことはしない。嫌がらせをして相手を逆上させるようなことの方が多いのだが、信に至ってはもうやめてくれと懇願させられるほど抱かれる。

まさか嬴政の寝室で襲うつもりなのだろうかと信が狼狽えていると、桓騎が扉の方にちらりを目線を送った。

「…来るぞ。構えとけ」

そう言って、桓騎は寝台の上に転がっていた信の剣を乱暴に放り投げる。

咄嗟に両手で柄を掴むと、剣の重みを感じて、一気に現実に引き戻された。そうだ。嬴政の命を狙う刺客を誘き出していたのだ。

先ほど解かれた帯を慌てて結び直していると、背後で乱暴に扉が開かれた。

 

刺客 その二

扉を開けて入って来たのは、黒衣に身を包んだ男だった。

後宮の宦官のように顔のほとんどを覆っており、素顔は見えないが、体格から男であることは分かる。手には短剣が握られていた。

「誰だ、てめえ」

帯は結び直したが、僅かに着物が乱れたまま、信は鞘から剣を引き抜く。

男の背後に他者の気配はない。どうやら一人だけのようだ。正体が誰であろうと、嬴政を狙う不届き者であることは間違いない。

向を狙っていた侍女頭を弓で撃ったのもこの男なのだろうか。

どうやら男の方はこの状況が想定外といった様子だった。僅かに見える目元に動揺が浮かんでいる。

嬴政が一人でいるところか、後宮の女とまぐわっているところを、まとめて片付けるつもりだったのかもしれない。

こんな状況だというのに、桓騎は寝台の上から微塵も動かない。

頬杖をつきながら、男と信が対峙しているのをじっと見据えていた。まるで余興でも眺めているかのような態度に、信は呆れてしまう。

「嬴政、覚悟ッ!」

剣を構えている信の方には見向きもせず、男は桓騎に短剣の刃を突き出すと、勢いよく駆け出した。

どうやら桓騎のことを嬴政と勘違いしているらしい。

嬴政の姿も見たことがなければ、恐らく信と桓騎の姿も見たことがないのだろう。中華全土に名を轟かせている将が、それも二人も秦王の寝室にいるだなんて普通は考えない。

「このッ!」

咄嗟に信は男の前に出て、桓騎にその刃が届くのを防ごうとする。持っていた剣で短剣を弾いたつもりが、男の動きは早く、あと一歩のところで届かない。

「ちぃッ」

咄嗟に信は剣を持っていない方の腕を伸ばした。短剣の刃が彼女の左腕を傷つける。切り裂かれた痛みが脳に届くよりも早く、信は思い切り男の腹部を蹴りつけた。

「うぐっ」

苦しそうに呻いた男が短剣をその場に落として、床に転がる。

「大人しくしろッ!」

その隙を見逃さず、信はうつ伏せになった男の背中に跨って、暴れる体を押さえ込む。
男女の力量差はあっても、この体勢に持ち込めたのなら、信の勝ちはほぼ確定だった。

「殺すなよ」

寝台の上から優雅に指示を出す桓騎を、信が恨めしそうに睨み付ける。

「お前は本当に高みの見物ばっかりだなッ!」

未だ暴れている男を大人しくさせるために、信は剣の柄で男の首筋を鈍く打ち付けた。

「ぐ…うう…」

男の体がずるずると沈み込み、動かなくなる。死んでないことを確認すると、信は長い息を吐いた。

今になって切り裂かれた左腕が痛み始めた。心臓の早鐘と共に、血が溢れ出る。

懐に入れてあった手巾を取り出し、左腕の出血を押さえる。ようやく寝台から降りて来た桓騎が、その手巾を奪って、傷口をきつく結んでくれた。

部屋に訪れた沈黙に、信がようやく終わったのかと考えていると、

「…何が起きている?」

自分の寝室にやって来た嬴政が愕然とした表情を浮かべていた。

 

桓騎の策

腕の傷を押さえながら、信がふらふらと立ち上がった。

「…よお、政。とりあえず終わったぞ」

嬴政に声を掛けるが、彼は自分の寝室に広がっている光景に呆然としている。

倒れている男の手元に短剣が転がっているのを見て、彼は理解したように頷いた。

「刺客が来たのか。ここまで侵入を許すとは…」

「護衛を外させたのは俺だがな」

桓騎が腕を組みながら、挑発するように嬴政に声を掛ける。

そういえば信が嬴政の寝室に来る時も、護衛の兵がいなかった。まさかそれも桓騎が手配していたというのか。

秦王の護衛を外させ、もしも暗殺をされていたとすれば、桓騎も処刑されていたに違いない。桓騎は自分の命を天秤にかけてまで、刺客を誘き寄せたということである。

(…ん?)

そこまで考えて、信はふと疑問を浮かべた。

向の身柄を後宮から宮廷へ移したのは宦官に扮した桓騎であり、侍女頭の件も嬴政に話しておくと言っていたはずだ。

桓騎が嬴政の寝室にいたのも、犯人を誘き寄せる策だったとして、嬴政も協力していたのではないのだろうか。

まるで何も知らないといった嬴政の反応に、信は嫌な予感を覚えた。

「……桓騎から、後宮のことも、今のことも、全部聞いてたんじゃねえのか?」

「何の話だ?」

嬴政の返答に、嫌な予感が当たってしまい、信は目頭を押さえながらその場にしゃがみ込んでしまった。

「おい、終わったぞ」

桓騎が声を掛けると、嬴政が入って来た扉から、彼の配下である砂鬼一家が数名現れた。気配もなく現れたが、恐らく近くで待機していたのだろう。

刺客が来る前の桓騎とのやり取りは、全て筒抜けだったに違いない。桓騎軍のほとんどは自分たちの関係を知っているらしいが、信はますます溜息が止まらなかった。

桓騎の配下であったとしても、男女のやり取りを聞かされて、決して良い気分にはならないだろう。刺客の登場によって未遂ではあったものの、砂鬼一家が近くにいるのに、抱かれていたと思うと信はぞっとした。

しかし、桓騎は少しもそんなことを気にしていないようで、気を失っている男に目配せをした。

「朝までには吐かせておけ。侍女頭の方も殺すなよ」

「ああ。あの女は拷問にかける前に全部吐いたぞ」

拷問に長けている砂鬼一家とのやり取りに、信が顔をしかめる。

刺客と侍女頭に繋がりがあるのだろうか。恐らくそれを吐かせるために、桓騎は侍女頭を砂鬼一族に預けていたのだろう。

気を失っている男の体を拘束し、砂鬼一家は部屋から出て行った。恐らく、数刻後にあの男は地獄を見ることだろう。

「……桓騎」

腕を組み、信は桓騎を睨み付ける。信が怒っている理由が分からないらしく、桓騎は小さく首を傾げていた。

「あの後、侍女頭をどうしたんだよ。政にも伝えるって言ってただろ」

「んなこと言ったか?」

わざとらしく桓騎が信から目を背ける。やられた、と信は呆れた表情を浮かべた。

「最初から全部話してもらおうか」

この状況を一番理解していないのは嬴政だ。詰問するように、嬴政は二人を睨み付ける。端正な顔立ちでも、鋭い眼差しを向けられるとそれだけで凄まじい威圧感がある。

これ以上、秦王の機嫌を損ねる訳にはいかないと、桓騎は諦めて話し始めたのだった。

…向の身柄を宮廷に移した後、桓騎は後宮で起きた出来事を嬴政に告げなかった。

しかし、それはあの刺客を誘き寄せるためであって、護衛を強化することで逃げられる可能性があったからだったという。

桓騎の見立てでは、侍女頭と刺客に繋がりがあったようだが、砂鬼一家の拷問によって、その答えが分かるだろうと睨んでいた。

味方に作戦を告げないのは桓騎のいつものやり方だが、まさか秦王にすら作戦を告げないとは、その度胸に感心してしまう。

恐らく桓騎は侍女頭と刺客にある繋がりを予想していたのだろう。それで今回の作戦を企てたに違いない。

砂鬼一家の拷問によって真相は明らかとなるだろうが、信は桓騎の口からその答えを聞きたかった。

ここまで桓騎の策通りに動いたのならば、これから明らかとなる真相も、桓騎は既に読んでいるに違いないからだ。

「侍女頭とあの男に、なんの繋がりが…」

言いかけて、信はその場に膝をついた。

「信ッ!?」

それまで普通に話をしていた信が苦しそうにしている姿を見て、嬴政が目を見開いた。

 

副作用

「はあっ…ぁ…」

苦しそうに肩で呼吸をしている信を見て、桓騎が思わず舌打った。

先ほど男に切りつけられた腕を痛がる様子はないだが、それでもこの反応はおかしい。まさかと思い、床に落ちている短剣を手繰り寄せ、その刃を見た。

「毒か」

信の血で刃が汚れていたが、目を凝らすと白い粉のようなものが付着している。向の匙に塗布されていたものと同じ毒が塗られていたのだ。確実に嬴政を殺すつもりだったに違いない。

刃を受けたのが信でなければ、きっと傷口から毒に蝕まれて死に至っただろう。毒に耐性を持っている信でさえ、この有り様だ。相当な猛毒を仕込んでいたに違いない。

「ぁ…か、桓騎…くる、し、ぃ…」

涙を浮かべた瞳が縋るように桓騎を見据え、弱々しく着物を掴んだ。

「信ッ!しっかりしろ!」

何も知らない嬴政からしてみれば、毒の耐性を持っているはずの彼女が毒を受けて苦しがっているだなんて、瀕死に直結しているとしか思えないはずだ。

しかし、信が激しく息を乱しているのは、決して毒による苦痛でない・・・・・・・・・ことを、桓騎だけは見抜いていた。

「すぐに医師団を呼ぶ!死ぬな!」

「いらねえよ」

医師団を呼び出そうとする嬴政を制止し、桓騎が呆れたように肩を竦める。

「…こうなりゃ毒が抜けるまで付き合うしかねえな」

「は?何を言っている?」

―――嬴政が聞き返した時には、すでに桓騎は信と唇を重ねていた。

「ん、ぅ、…ふぁ…」

同じ空間に嬴政がいるにも関わらず、信はまるで彼の姿が見えていないかのように、桓騎の首に両腕を回して舌を絡めている。

こんな状況で一体何をしているのだと嬴政は愕然としていた。秦王の視線を受けながら、桓騎も恥じらうことなく、信の口づけに応えている。

「んぁ…」

唇を離すと、名残惜しそうに信が切なげに眉根を寄せた。

未だ互いの唇を繋いでいる唾液の糸すら逃がしたくないと、舌を伸ばして絡め取る信の姿は、娼婦にもない妖艶さを兼ね備えていた。

桓騎は彼女の腕を止血していた布を外し、毒が塗られた短剣で切り付けられた傷口に唇を寄せた。

「ひゃぅ…」

傷口にきつく吸い付くと、信の体がびくりと跳ねる。彼女が身を捩らせたのは、痛みだけではないことを桓騎は分かっていた。

「桓騎…か、んきっ…」

喘ぐような呼吸を繰り返す信の身体を軽々と抱きかかえ、桓騎は彼女の体を寝台に横たえる。

部屋の隅で固まったままでいる嬴政を振り返り、桓騎は邪魔だと言わんばかりに、しっしっと手を払った。

「…毒の副作用・・・・・だ。命に別状はないから安心しろ。責任持って俺が最後まで相手する」

その言葉を聞いた嬴政は全てを察したように、憤怒の表情を浮かべる。しかし、何も言うことはなく、足早に部屋を出て行った。命を助けられた手前、信と桓騎のことを無下に出来なかったのだろう。

思い切り扉が閉められると、ようやく邪魔者がいなくなったと桓騎は苦笑を浮かべる。

「ぁ…桓騎…」

涙で潤んでいる信の瞳には、もう桓騎の姿しか映っていなかった。そんな風に見つめられると、下半身がずしんと重くなる。

―――毒耐性を持っている信ではあるが、一定量を超えた毒を摂取すると、まるで媚薬を飲まされたのかと疑うほど性欲が増強するのだ。

初めて体を重ねた時も、普段以上に鴆酒を飲んだことで、彼女の体に今のような異変が起きた。

酒に酔ったかのような陶酔感と、感度の上昇、性欲の増強。薬には良い効果だけでなく、副作用があるように、毒にもそのようなものがあるらしい。

もしかしたら信の特殊な体質が影響しているのかもしれないが、淫らに自分を求める信の姿は滅多にお目に掛かれない。桓騎にとって、今の信はご馳走だった。

「ん、ぁ…」

顔を赤らめた信が膝をすり合わせている。

唇を重ねながら、彼女の帯を解き、性急に着物を脱がしていく。

先ほど、信の腕の傷から毒を直接吸い出したことで、桓騎自身も息を乱していた。信と同じように、桓騎も毒を一定量以上摂取することで、同じ作用が起こるのだ。

短剣の刃に塗布されていた毒がそれだけ強い効力を持っていることが分かる。刺されても致命傷になっただろうし、僅かに傷をつけられただけでも、確実に死に追いやられただろう。

信もそれを分かっていて、自分の体を盾にして庇ったのだ。

だが、心臓を一突きされていれば、毒の耐性を持つ信であっても死んでいたに違いない。自らの命を顧みず、信が自分を庇ったことに、桓騎は複雑な気持ちを抱いた。

「…俺の許可なく、勝手に死ぬんじゃねえぞ」

「え、な、なに…?」

とろんとした瞳で見据えられ、桓騎は何でもないと首を振った。

「ひゃぅ…」

足の間に手を伸ばすと、既に淫華は蜜を零していた。指の腹で擦ると、信は切ない声を上げて、白い太腿を震わせる。

 

副作用 その二

足を開かせて、間に腰を割り入れた桓騎は彼女の下半身に視線を下ろした。

親指と人差し指で花襞を押し広げると、艶めかしい薄紅色の粘膜が見える。

蜜を零しているせいで、光沢を帯びているそこは男を求める雌の匂いを漂わせていた。すぐにでも男根を飲み込ませたい衝動を押さえつけ、桓騎は身を屈める。

女の官能をつかさどる珊瑚色の小さな花芯に、ふうっと熱い吐息を吹き掛けると、信の体が大きく跳ねた。

初めて身を繋げた時も、鴆酒の毒のせいで、処女とは思えないほど淫らな声を上げていたことを思い出す。

「はあっ、ぅ、ん…」

花芯や花襞を舌で愛撫していくと、どんどん蜜が溢れて来る。導かれるように桓騎は淫華に舌を這わせた。

雄としての本能を目覚めさせる雌の匂いと味わいが、舌から体内に染み込んでいく。

「ああぁっ」

尖らせた舌先で敏感な花芯を突くと、信が悲鳴に近い声を上げる。

無駄な肉など微塵もついていない引き締まった腰がくねる姿は、それだけで男を誘惑させる魅力を放っている。

「やぁっ…」

蜜を溢れさせている淫華に指を二本押し込むと、信が頬を紅潮させて首を横に振っている。もう何度も桓騎と体を重ねたはずなのだが、その初々しい態度に桓騎は思わず苦笑した。

「は、はやく…」

切なげに声を振るわせ、信が桓騎の腕を掴む。恥じらっているのではなく、指じゃないものが欲しいと催促していたらしい。

毒が回り始めたせいで、桓騎の男根も苦しいまでに反り立っていた。

指を引き抜いて、蜜に塗れた手で自分の男根を何度か扱く。自分の手の平の刺激だけでも容易に達してしまいそうなほど、今の桓騎には余裕がなかった。

「信…」

信の肩を抱き締めて体を被せて、唇を重ね合う。舌を絡ませながら、桓騎が自分の男根を掴んで、その切っ先を淫華に宛がった。

幾度も体を重ねていたからか、入り口を探し当てるのは簡単だった。

「ん、んうぅ、んーッ…!」

唇を重ね合いながら、腰を前に押し出す。淫華に飲み込まれていく切っ先が、溶けてしまいそうなほど強い快楽に包み込まれた。

「ふっ、んんっ、んんんぅッ」

奥に進んでいく度に、唇の間から信のくぐもった声が洩れる。

互いの下腹部が隙間なく密着すると、桓騎は唇を離して、長い息を吐いた。男根が燃えてしまいそうなほど熱い。

「ぅっ…ふ、ぁ…」

敷布の上で手と手を繋ぎ合い、しばらく動かずに桓騎はじっと目を瞑っていた。
気を許せば、信の体を気遣うことなく好きなように動いてしまいそうだった。

「ぁ…桓騎…」

名前を呼ばれて、桓騎は信の目尻から伝う涙に気付き、舌を伸ばした。

桓騎が動き出すのを待てなかったのか、信が自分の腰を揺らし始める。一体どこでこんな淫らな技を覚えて来たのだろうかと桓騎は瞠目した。

嬴政とは身を繋げていないと彼女自身が話していたが、他の男の手垢に染められたのではないかという嫌な想像が脳裏を過ぎった。

「信、覚悟しろよ」

細腰を掴んだ桓騎が律動に没頭し始めると、信はひっきりなしに声を上げることになったのだった。

もしも身を繋げたまま、互いの心臓が止まっても、きっと後悔はしないだろう。

 

一件落着?

…夜が更けて毒が抜け切ってからも、情事に夢中になっていた二人が目を覚ました時には、既に昼を回っていた。

信がもらい湯をしている間に、桓騎は砂鬼一家から、侍女頭と刺客の情報を聞いていた。

概ね、桓騎が予想していた通りだったが、秦王である嬴政に報告しなくてはなるまい。
桓騎は信と共に、嬴政の下へ向かった。

「よう」

「桓騎…!?」

信の体を横抱きにしながら玉座の間に現れた桓騎に、嬴政だけでなく官吏たちも驚いていた。

なぜ信の体を抱きかかえているのかというと、朝方まで続いていた情事のせいである。

下半身をがくがくと震わせながら、まるで生まれたての小鹿のように、ぎこちなく歩く信を見兼ねて、抱えた方が早いと判断したらしい。

全員の視線を受けて、信は顔を真っ赤にさせていた。

飛信軍の兵たちと共に厳しい鍛錬をこなしている信でさえ、さすがに一晩中の情事は堪えたらしい。しばらくはまともに歩くことが出来ないだろう。

桓騎の腕の中で借りて来た猫のように縮こまっている信を見下ろすと、あれだけ自分を求めていた女と同一人物とは思えないなと桓騎は苦笑してしまう。

「…侍女頭と昨日の奴が全て吐いたぜ」

頭を下げることもせず、用件だけ伝えると、嬴政の綺麗に整った顔が僅かに強張った。

向が後宮で再び毒殺されかけた事件については情報操作を行っていたため、刺客を捕らえてから宮廷で広まったらしい。

その話をしていたのだろうか、官吏たちは桓騎が情報を知っていることに不思議そうな顔をした。

 

…玉座の間に残ったのは、嬴政と信と桓騎の三人だけである。

嬴政と長い付き合いである信ならばともかく、元野盗である桓騎までいる状況は初めてのことで、人払いをする時には官吏たちが警戒していた。

しかし、人払いをしなければ話すつもりはないという桓騎の態度を、嬴政は察したらしい。嬴政は彼らを宥めて玉座の間から退室させた。

「…それで、侍女頭と昨夜の刺客は何を企んでいたのだ?」

玉座に腰掛けた嬴政が桓騎にさっそく尋ねる。

未だ体をふらつかせてる信の腰を支えながら、桓騎はゆっくりと話し始めた。

侍女頭は、以前から向が正室となったことに、嫉妬の念を抱いていたらしい。

そこで、正室である彼女を毒殺すれば、嬴政の伽に呼ばれるよう手配をすると、刺客が侍女頭に取引を持ち掛けたのだという。

一度毒殺に失敗してしまったため、時機を見計らっていたようだが、信が毒見役として現れて、警戒心が薄れた頃に同じ手法を用いて向を毒殺しようとした。しかし、桓騎と信が見抜いたことで二度目の毒殺も失敗に終わる。

その後、桓騎が向の身柄を宮廷へ移し、侍女頭の身柄は砂鬼一家へ渡したことで、刺客の男と意図的に連絡を取らせなかった。

失敗の合図を送ることも出来ず、向の毒殺に成功したのだと勘違いした刺客は、手筈通りに秦王の寝室で暗殺計画を実行する。

あの事件の直後、桓騎が信に伝えたのは、本来ならば侍女頭に掛けられる伽の呼び出しだったのだ。

刺客の計画通りに進んでいたのなら、侍女頭が嬴政の伽を行っているところに現れ、毒の塗った刃で嬴政と侍女頭を一突きし、凶器を残して立ち去っていたという。

致命傷に至らなかったとしても、少しでも傷をつけることが出来たのなら、体に毒が回って死に至らしめることが出来る。

二人の亡骸と凶器だけが残った現場を見れば、侍女頭が秦王と無理心中を図ったと判断されるという筋書きだったらしい。

侍女頭は嬴政からの寵愛を受けたい気持ちと、向に対する嫉妬心を良いように利用されたという訳だ。

「………」

桓騎から事件の真相を聞いた嬴政は、千人以上の女官や宦官がいる後宮の中から、たった一人の真犯人を引き摺り出した桓騎の策に、驚愕と感嘆が入り混じった吐息を零した。

向の毒見と護衛を頼まれていた信も、まさか桓騎がここまで協力してくれるとは思っておらず、目を丸めている。

真相を説明する中で、もしかしたら嬴政は、桓騎が宦官に扮して後宮に潜入していたことに気付いたかもしれないが、咎めるような言葉は発しなかった。

桓騎が協力してくれなかったら、侍女頭に向の命は奪われていたかもしれない。そして、無理心中に見立てて嬴政の命も奪われていたかもしれなかったのだ。

そのことに比べたら、宦官に扮して後宮に潜入していた罪など見逃されて当然である。

向は騒動が落ち着き次第、後宮へと戻ることが決まっていたが、あの侍女頭はもう二度と後宮に足を踏み入れることはない。

后暗殺の証拠がこれだけ出揃っているのだから、厳しい処罰を下されるに違いない。秦王暗殺を企んだ刺客の末路は、言うに及ばないだろう。

侍女頭のように、向を気に入らないと思っている女官は他にもいるかもしれないが、今回の騒動をきっかけに手を出すような真似はしないはずだ。

「…さて、これで大方解決のはずだ。こいつはもう連れて帰っても構わねえんだろ?」

信を見下ろしながら桓騎が嬴政に問う。ああ、と嬴政が頷いた。

「此度の件、感謝する。二人のお陰で、向も子も無事だった」

秦王の感謝の言葉を、桓騎は鼻で笑った。

「元はと言えば、てめえの管理不足だろうが。自分の女くらい自分で守れねえのかよ」

「桓騎ッ!」

処罰を言い渡されてもおかしくない無礼な言葉に、信が慌てて制止を呼び掛ける。しかし、桓騎は構わずに言葉を続けた。

「女一人も守れねえで、よくもそんな野郎が民だの国だの守るなんて大口叩いたもんだな」

「お前、政になんつー口の利き方を…!俺以上に無礼だぞ!!」

長い付き合いであり、嬴政に敬語を使わない信でさえ青ざめる桓騎の無礼に、嬴政は憤怒することも、処罰を言い渡すような真似もしなかった。

「…いや、桓騎の言う通りだ。此度の件、後は俺に任せてくれ」

嬴政の言葉を聞き、信はほっとする。しかし、嬴政が怒っていないからと言って、桓騎の発言は許されるものではない。

「…俺だって…」

俯いて、信は落ちて来た前髪に自分の表情を隠した。

「一人で、後宮にいた時は、辛かった」

絞り出すように、切れ切れに言葉を紡ぐと、嬴政と桓騎の視線が向けられたのが分かった。

誰が向の命を狙っているか少しも分からない状況で、誰を信じるべきかも判断出来ず、後宮にいる間、信は孤独感に苛まれていた。

信じられるのは自分だけだと勝手に壁を作っていたのだが、桓騎が宦官に扮していたことに気付いた時、自分は一人ではないのだと気づき、冷え切っていた心が温かく満たされた。

信じられる仲間がいると思えば、それだけで活力になる。

「…後宮の女官や宦官たちが、全員、敵に見えて…でも、政が抱えてんのは、そんなもんとは、比にならない重みなんだよ」

秦王の座に就いているとはいえ、嬴政だって一人の人間だ。誰よりも多くの命を背負う重荷で押し潰されそうになる時だってある。

全ての責任を嬴政に押し付ける訳にはいかない。将軍である自分たちだって、その重荷を共に背負わなくてはならないと信は思った。

強く拳を握り、苦しげに眉を寄せて、信が顔を上げる。

「だから、政にばっかり責任を押し付けんなよ。俺たちみんなで、政の重みも支えてやんねーと」

ようやく顔を上げた信が真っ直ぐな瞳で桓騎を見据える。桓騎は何も言わなかったが、口元にはいつもの余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。

弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いである信の言葉は、嬴政の胸に染み渡ったらしい。

「信、お前には本当に救われる」

嬴政の言葉に、信は照れ臭そうに頭を掻いた。

「…さっさと帰るぞ」

信は再び桓騎に身体を横抱きにされて、二人は玉座の間を後にしたのだった。

 

帰還

咸陽宮を出て、桓騎の屋敷に向かう途中で、信は今日までのことを走馬灯のように思い返していた。

桓騎の背中に頬を押し付けて、馬に揺られながら信の口元に苦笑が浮かぶ。

「なんだ?」

背後で恋人の笑った気配を察したのか、桓騎が振り返った。

「いや…色々あったけど、お前が来てくれて本当に助かった。ありがとな」

首を竦めるようにして微笑むと、桓騎がにやりと笑った。

「ちょうど良い機会だったからな」

「?何のだよ」

「秦王に媚を売る機会だ」

どういう意味か分からず、信は頭に疑問符を浮かべた。あれだけ嬴政に無礼な大口を叩いておきながら、媚を売るというのは、やや矛盾がある。

しかし、結果論で見ると、桓騎のおかげで向も嬴政も命拾いした。秦の未来が救われたと言っても過言ではない。

大王と后、そして秦王の血を継ぐ子の暗殺を阻止した桓騎の活躍は、これから秦国中で広く知れ渡ることになるだろう。

「何か欲しい物でもあんのか?」

王族を守った褒美についてはまた追って伝えると嬴政は言っていたので、信は安易に尋ねた。

しかし、その線は違ったらしく、桓騎の瞳に不機嫌な色が浮かぶ。

「まさか、お前…俺が褒美目当てに動いたと思ってんのか?」

手綱を握り直しながら、桓騎が眉根を寄せた。

桓騎は考えなしに動く男ではない。それは信も分かっていた。

だからこそ、策を用いて侍女頭と刺客を引き摺り出したし、その先にある欲しい物も手に入れようとしているのだと考えたのだ。

「じゃあ、政に媚を売るって何だよ」

聞こえないふりをしているのか、桓騎は何も答えない。

こうなれば策を成す時と同様に、味方であっても、恋人であっても、とことん口を開かないだろう。

「…それにしても、よく手がかり見つけたよな。宦官に変装してても、そんな自由に歩けないだろ」

話題を変えると、桓騎が「あー?」と気だるげに聞き返した。

桓騎が宦官に扮していたのは向の護衛と、部屋の見張り役だ。常に后の傍につかなくてはいけないため、それほど自由に動ける立場ではなかったはず。その中で侍女頭と刺客の繋がりを見抜いただなんて、とても信じられなかった。

情報の受け渡し・・・・・・・なんていくらでも出来るだろうが」

受け渡しという言葉に信が目を見張る。情報の受け渡しというものは、決して一人で出来るものではない。

「は?受け渡しって…まさか…」

表情を強張らせながら、信が聞き返した。

「黒桜は面倒見が良いからな。お前の監視の兼ねて快く引き受けてくれたぜ」

「黒桜だとッ!?」

後宮に侵入していたのは桓騎だけではなかったのだ。桓騎軍幹部の一人である黒桜まで動かしていたのだという。

桓騎本人が宦官に扮していたとなれば、黒桜は女官に扮していたのだろうか。確かに千人以上の女官がいる後宮に、一人の女が混ざったとしても、気付く者はいない。

青ざめながら、信は黒桜が弓の使い手でもあることを思い出した。

それじゃあ、まさか…あの時の弓矢って、黒桜が撃ったのか!?」

「ああ、そうだ」

つい声を荒げて桓騎を問い詰めると、彼はあっさりと首を縦に振る。

向の食事に用意されていた匙に毒が塗られていると気づいた時、侍女頭の敏が隠し持っていた短剣で向に襲い掛かった。

信は彼女を取り押さえることが出来なかったが、向を救ったのは、宮殿の庭から放たれた一本の弓矢だったのだ。

てっきり侍女頭の口封じのために撃たれたのだとばかり思っていたが、弓の扱いに長けている黒桜が撃ったのならば納得がいく。

桓騎が匙に毒が塗られていることを助言してくれたことと、黒桜の弓矢のおかげで、向の命を守ることが出来た。

「はは…」

全て桓騎の策通りに動いていたのだと分かった信は乾いた笑いを浮かべながら、桓騎の背中に額を押し付ける。

屋敷が見えて来たというのに、桓騎が手綱を引いて馬の足を止めたので、信はどうしたのだろうと小首を傾げた。

「ん、ぅ…!?」

振り返った桓騎が急に顔を寄せて来て、唇を重ねて来たので、信は驚きのあまり目を見開く。

「…もう二度と、俺以外の男の褥に呼ばれんじゃねえぞ」

低い声で囁いた桓騎の瞳に憤怒の色が灯っている。

嬴政の寝室に行った時もそうだったが、どうやら嬴政の伽をしていたことが相当気に食わなかったらしい。

実際には後宮での様子を報告するだけだったのだが、眠るために褥を共にしたのは事実だ。だが、誓って男女の一線は超えていない。

あの時も伝えたはずだったのだが、桓騎の嫉妬の炎は未だ消えていなかった。

先ほどは答えを誤魔化されたが、もしかしてと信が桓騎を見上げる。

自惚れかもしれないが、信は自分が関わっているのではないかと考えた。

「…なあ、政に媚を売るって、まさか、俺との関係を…んっ、うんッ、ん」

言葉を紡ごうとした信の唇に、まるで黙れと言わんばかりに、再び桓騎の唇が覆い被さって来た。

―――嬴政が、信と桓騎の関係を知っているのは向から聞いていた。

元野盗である桓騎は、嬴政だけでなく、側近たちからもあまり良く思われていない。そのことで、信は桓騎軍の素行調査を依頼されたこともあった。

しかし、王族を助けた此度の桓騎の行いは、彼の実力を見直すきっかけになったに違いない。

どこぞの馬の骨に、親友を渡すものかと嬴政が逆上しないように、桓騎は此度の騒動を利用して、己の実力を示したのだろうか。

…考え過ぎかもしれないし、限りなく自惚れに近いが、信は何となくそう思ったのだった。

「俺以外の男に足開くのは許さねえからな」

その言葉を聞いて、信は桓騎の嫉妬を確信した。

宦官に扮して後宮にいた時も、報告のためとはいえ、嬴政の伽に呼ばれる自分を歯痒い想いで見ていたに違いない。

申し訳ない気持ちと、桓騎が嫉妬してくれたのだという嬉しい気持ちに、信はぎこちない笑みを浮かべた。

「ふぅ…ん、ぅ、んッ…」

薄く開いた口の中に舌が入り込んで来て、信の舌を絡め取る。歯列をなぞられ、舌をくすぐられているうちに、信の瞳がとろんとなっていく。

「返事が聞こえねえぞ?」

耳元で熱い吐息と共に囁かれると、信の腰にぞくぞくとした甘い痺れが走る。

毒を受けたせいとはいえ、昨夜あれだけ体を重ねたというのに、まだ自分の体は目の前の男を求めている。

「わ、わか、った、からぁっ…」

「…よく出来ました」

まるで子どもを褒めるような口調に、信が奥歯を噛み締めた。

唇をするりと指で撫でられると、お預けを食らったような気分になる。

「…続きは褥の中でだな。その前に鴆酒で乾杯だ」

桓騎が馬を走らせた。彼の背中に顔を埋めながら、信は猛毒の味を思い返す。

そして、その後に嫌というほど与えられるであろう快楽の味を想像して、うっとりと目を細めるのだった。

 

②毒杯を交わそう(李牧×信)

③毒を喰らわば骨の髄まで(桓騎×信←王翦)

④恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信←モブ商人)

⑤毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)

⑥毒も過ぎれば糧となる(李牧×信)

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エタニティ(王賁×信←王翦)番外編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/王翦×信/甘々/嫉妬深い/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

本編はこちら

 

初夜

本編で割愛した賁信の初夜話です。

 

襟合わせを開いて現れた信の白い肌に手が触れる寸前、信が王賁へ声を掛けた。

「そ、その、…俺…今まで、こういうこと、したこと、ないから…」

もごもごと口の中で言葉を揉み砕いている信に、王賁は口の端を僅かにつり上げる。

「貴様がむやみに足を開く女でないことなど知っている」

幾度も死地を駆け、その度に生き抜いて来た傷だらけの肌を見下ろし、王賁は目を細めた。

身を屈めて、首筋にちゅうと吸い付くと、くすぐったい感触に信が顔をしかめる。

「…戦以外、何も知らぬだろう」

「わ、悪かったな…!」

それまで羞恥に顔を染めていた顔に不機嫌な色が差し込んだ。信と同じ年頃の女性ならば、早い者ならもう子を産んでいるし、大抵の者は嫁いでいる。

しかし、大将軍の座に就いている彼女は、いつまでも男に嫁ぐことはせず、かといって、色話も聞かれない。

縁談の話が来ているのは知っていたが、それをことごとく断り、信は克己して秦のために戦っているのだ。

だから王賁は、信が男とそういうことをした経験がないことを、何となくだが察していたのだ。

王賁だけじゃなく、恐らく彼女を知っている者なら大半は気付いているだろう。それもあって縁談の話が途切れないのかもしれない。

そんな彼女が、他の誰のものでもなく、自分だけのものになるのだと思うと、王賁は優越感に胸を躍らせた。

信の体を寝台の上に横たえながら、王賁が耳元に唇を寄せる。

「力を抜いていろ」

優しい声色で指示を出すが、信は小さく首を横に振った。強張った身体は小刻みに震えたままである。

「ぅ……だ、って…緊張、して…」

真っ赤な顔でそう打ち明ける彼女に、王賁は愛おしさが込み上げた。口づけた時から既に危機感を覚えていたが、これ以上煽られると余裕も理性も完全に失われてしまう。

信にとっては初夜になるのだから、乱暴にして、この行為が恐ろしいものだと記憶に刻むことだけは何としても避けなくてはならないと思った。

「信」

王賁は着物を掴んでいる彼女の手をそっと掴んだ。

顔は真っ赤になっているが、緊張のせいで、彼女の手は随分と冷えていた。掴んだ手首を優しく導き、王賁は彼女の手を自分の胸に当てさせる。

「あ…」

とくとくと王賁の心臓が早鐘を打っているのが手の平から伝わり、信は些か呆気にとられたような顔になった。

「…分かるか?」

緊張しているのは自分だけじゃないのだと気付き、信が瞠目している。

「…う、ん」

優しく囁くと、信は僅かに身体から力を抜いたようだった。再び唇が重なり合うと、信は口づけを受け入れるように目を伏せる。長い睫毛が微かに震えていた。

唇を交えながら、王賁は信の体を抱き締めた。帯が解かれ、引っ掛けていただけの着物を脱がすと、傷だらけの肌が露わになる。

とても女性が持つ玉の肌とは言い難いものだったが、王賁には美しく見えた。彼女が幾度も死地を駆け抜けて来た証であり、勲章なのだから、醜いはずがない。

女性らしいくびれも胸の膨らみも悩ましく、王賁の下腹部がずんと重くなる。

幼い頃から王家としての付き合いがあり、幼馴染として付き合って来た彼女だったが、鎧の下では、こんなにも女の体に成長していたのかと驚いた。

初陣を済ませてから、あっと言う間に大将軍の座に上り詰めた信の後ろ姿ばかりを見て来たせいだろう。

いつの間にか、信のことを幼馴染の女性である前に、将軍という位置づけをしてしまっていたのだ。

鎧と着物を脱いだ今、紛れもなく信は女性だった。そして紛れもなく彼女を自分だけのものにしたいと思っている自分を、王賁は改めて自覚した。

 

初夜 その二

唇を交えながら、王賁の手が信の肌の上を這う。いつもは着物と鎧で覆われている腰のくびれは、女性特有の曲線を兼ね備えていた。

「ふ…ぁ…」

くすぐったいのか、口づけの合間に信が小さな声を上げる。先ほどよりは少し緊張が解れたような顔をしているが、まだ体は強張っていた。

「んっ…」

隆起している胸を掌で包むと、程良い重さを感じさせた。先端の突起を指の腹でくすぶってやると、信がきゅっと唇を噛んで声を堪える。初めての感覚に戸惑っているのだろう。

「信」

安心させるように名前を呼びながら、耳元に息を吹きかける。柔らかい胸を弄りながら、頬や首筋に口付けていくと、信は少しずつ甘い吐息を洩らすようになっていく。

「ひゃっ」

胸に顔を寄せて先端の突起に舌を這わせると、信が小さな声を上げる。全てが初めての経験で、こんなにも困惑している彼女の姿を見るのは新鮮だった。

「んッ…んう…」

尖らせた舌先でつついたり、舐ったりを繰り返していると、口の中で硬くなっていくのが分かった。

口と手で胸を愛撫を続けていけば、信は鼻息を弾ませ、陶然とした表情を浮かべていた。

「っ…」

その反応に気を良くした王賁が片方の手を下肢へ伸ばす。信が全身を強張らせたのが分かった。

内腿に指を這わせ、猫の毛のような柔らかい下生えを指で掻き分けていくと、淫華に辿り着いた。僅かに蜜を零している。

花びらを指で押し広げると、蜜に塗れた薄紅色の粘膜が露わになる。蜜で濡れ光っている粘膜はまだ男の味を知らない初々しさを残していた。

「あっ…」

ゆっくりと人差し指を差し込むと、信が小さな声を上げる。

破瓜の痛みは男には想像出来ないものだと聞く。苦痛は避けられないとはいえ、なるべく大事に扱ってやりたい。王賁は信と唇を重ねながら、指で中を押し広げるように動かした。

身を屈め、中を指で広げながら、再び胸に吸い付く。

目線に困ったのか、信は両腕で顔を覆っていた。

「顔を隠すな」

「っ…」

咎めるように言うと、信が泣きそうな顔で睨んで来る。言い返す余裕もないのだと分かり、王賁は彼女と唇を重ねた。

「ん、ふ…」

舌を絡め合い、弾む吐息をぶつけ合う。

時間を掛けて指を動かし、中を押し広げていくと、二本目の指も抵抗なく飲み込んだ。

根元まで押し込むと、それ以上の侵入を拒むように柔らかい肉壁にぶつかった。それが子宮だと分かると、王賁は慈しむように指の腹で女性にしかないその臓器を愛撫する。

「ふ、うぅっ…」

信が手の甲で口に蓋をして、溢れ出る悲鳴を堪えている。しかし、表情と声に苦痛の色は混じっていない。

今は指で愛撫しているここを、自分の男根で掻き回したら彼女は一体どんな表情でどんな声を上げるのだろうか。思わず固唾を飲む。

「ぁ、あ…」

内側から蜜がどんどん溢れて来る。

「俺、ばっかり、やだ…」

そろそろ指をもう一本増やそうと思った頃に、信が子どものように駄々を捏ねて王賁の腕を掴んだ。

 

初夜 その三

指を引き抜くと、信が切なげに眉根を寄せる。

「ん…」

それまで自分の淫華を弄っていた王賁の手を両手でそっと包むと、彼女は躊躇うことなく唇を寄せて来た。

興奮のあまり、勃起し切った男根を着物越しにそっと撫でられて、王賁が思わず喉を引き攣らせる。

先ほどまで王賁が彼女の反応を楽しんでいたように、信も小さく笑った。

寝台に手をついて身を起こした信が身を屈めたかと思うと、着物を捲られる。
臍につくくらい反り立った男根を目の当たりにした彼女が赤い舌を覗かせ、妖艶な笑みを浮かべた。

「下手くそでも笑うなよ…」

経験はないはずなのに、色気に満ちたその表情を見て、王賁は思わず生唾を飲み込んだ。

「っ…」

舌が亀頭に触れると、温かい感触がねっとりと沁みた。熱い吐息を洩らした王賁に、信が嬉しそうに目を細める。

慣れていないせいで舌の動きが単調だった。決して上手い口淫ではなかったが、気持ち良くなってもらいたいという健気な態度に、王賁の胸は満たされていく。

「ぅ、んん、っ…」

先走りの粘液が出て来た頃に、信は唇を割り広げて亀頭を咥える。温かくてぬめった感触に敏感な箇所が包まれて、背筋に甘い痺れが走った。

「ふ…ぅ、…」

口の中で舌を動かしながら、信が上目遣いで王賁を見上げる。

上気した頬は桃色に染まっており、潤んだ瞳に見つめられると、それだけで絶頂を迎えてしまいそうになる。腹に力を込め、王賁は迫り来る射精感に耐えていた。

信の頭を撫でて、もういいと男根を口から吐き出させる。名残惜しそうな瞳を向けられたが、王賁にはもう余裕がなかった。

再び信の体を寝台に横たえてやると、彼女の足を大きく広げさせる。先ほど指で慣らしてやったが、本来ならばもう少し時間を掛けて丁寧に扱ってやりたかった。余裕のない男だと思われるだろうか。

「は、やく…挿れろよ」

信も王賁と早く見を繋げたいという想いがあるようで、少し戸惑った表情を浮かべてはいるものの、抵抗はしない。

信の唾液と先走りの液で濡れそぼった男根の切っ先を、淫華に宛がう。

「ぅ…」

緊張に信が身を固めたのが分かる。王賁は信の額や頬に唇を落としながら、なるべく力を抜かせようとした。

「っ、んん…!」

狭い其処を男根が押し広げていくと、信の眉間に苦悶の皺が寄る。

「ぁあああッ」

信の体を抱き締めながら、男根を押し込むと甲高い悲鳴が上がった。堰を切ったかのように彼女の瞳から涙が溢れ出す。しかし、拒絶の声は上げない。

「信ッ…」

口の中よりも温かくて柔らかい粘膜に男根が痛いくらいに吸い付かれ、王賁はあまりの快楽に奥歯を強く食い縛る。

痛みに打ち震える体を抱き締め直すと、互いの肌がしっとり汗ばんでいるのが分かった。

半分ほど男根が彼女の中に埋まると、快楽に飲み込まれそうになったが、王賁は彼女の痛がる姿を見て、必死に理性をつなぎ止めていた。

「…抜くか?」

「ぃや、だ…」

素直に頷いてくれたのなら、王賁も理性に従えただろう。しかし、信は首を横に振って、王賁の首に両腕を回して抱きついて来る。虚勢を張っているのはすぐに分かった。

大丈夫だから続けてくれという信の意志表示だと分かり、王賁は彼女の体を強く抱き締めながら、男根を根元まで進めたのだった。

隙間なく下腹部が密着した頃には、信の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。

「愛している」

破瓜の痛みに打ち震える彼女の耳元でそう囁くと、信は王賁の体に回した腕に力を込めた。

「お、れも…」

泣きながら、痛みに堪えながら、ぎこちない笑みを浮かべた信に、王賁は思わず唇を重ねていた。

敷布の上で指と指を交差させ、唇を交えていると、信の表情が僅かに和らいだ。

それまで苦悶の表情を浮かべていた信だったが、ぐすぐすと鼻を啜って王賁のことを見つめている。

「…動くぞ」

信が小さく頷いたのを確認してから、王賁はゆっくりと腰を引いた。男根に吸い付いていた温かな肉壁が擦られ、信も王賁も切なげに眉を寄せている。

半分ほど引き抜くと、蜜と処女膜が破れた血で塗れた自分の男根が、まるで凶器のように淫華の割れ目に突き刺さっているのが見えた。この女の処女を奪ったのが自分だという実感で、胸がいっぱいになる。

「あううッ」

再び根元まで男根を押し込むと、信が苦しげな声を上げた。

まだ破瓜の痛みの余韻があるだろうに、心の中で謝罪をしながら、王賁は律動を始めていく。とっくに余裕など消え去っていた。
潤んでいる中が擦れて、信の艶やかな悲鳴と共に、肉が擦れる音と卑猥な水音が響いた。

「賁…王賁ッ…!」

信は痛がる様子はあっても、決して拒絶の声は上げない。代わりに、名前を呼びながら重ね合わせた手を強く握り締められる。

「くッ…信…」

この女は自分だけのものだという独占欲と共に、体の底から込み上げて来る情欲が膨らんでいく。

夢中になって腰を揺すり、唇を重ね合い、名前を呼び合い、愛を囁き合った。

「ッ…!」

最奥に男根の先端を押し当てて、射精する。どくどくと脈を打ちながら子種が迸る熱い感覚を確かに感じていた。

最後の一滴を吐精し終えても、二人は抱き締め合ったまま動かなかった。

―――やがて、互いの息が整った頃に、真っ赤に泣き腫らした瞳を擦りながら、信が小さく笑った。

「…戦で受ける傷とは、比べものにならねえな」

王賁が思わず苦笑する。まさか褥で戦の話になるとは思わなかった。

戦で幾度も致命傷受けたことがある信だが、その彼女が涙を見せるくらいなのだから、破瓜の痛みは相当辛かったに違いない。

「…無理をさせたな」

汗で額に張り付いた前髪を指で梳いてやりながら、王賁が呟いた。信が首を横に振る。大丈夫の言葉の代わりに、信が王賁の鼻頭に唇をちゅ、と寄せた。

「………」

そんな可愛らしい返事をされるとは思わず、王賁が思考が一瞬だけ停止する。しかし、未だ彼女の中に埋まっている男根は随分と素直だった。

「なっ、ぁえ、えッ?お、お前ッ…!?」

吐精の後に元の大きさになっていたはずの男根が再び硬くなったのを感じる。敏感になっていた肉壁が甘い刺激を感じ取り、信は戸惑ったように王賁を見上げた。

「…貴様が誘ったんだろうが。もう一度付き合ってもらうぞ」

「はッ!?な、なんでそうなるッ…!?」

信の抗議は王賁の唇によって遮られ、次に彼女の唇から洩れたのは、艶やかな声だった。

 

 

王翦からの申し出

本編で割愛した論功行賞時の王翦×信です。

 

王賁の将軍昇格が決まったのは、戦の勝利が確定する前のことだった。

伝令から戦況を聞いていたが、多くの武功を挙げた王賁の活躍が戦況を傾けたと言っても過言ではない。

此度の戦には出陣していなかった信は、人伝いにその話を聞き、自分のことのように王賁の将軍昇格を喜んだ。

論功行賞の後に行われる宴で盛大に祝ってやろうと思っていたのだが、彼女の住まう屋敷にある男が訪れたことで、その計画は中断せざるを得なかった。

「…王翦が?」

来客の報せを持って来た兵に、信は怪訝な表情を浮かべる。

せっかく宴に行く準備として、普段着慣れない華やかな着物を纏ったところだったのだが、追い返す訳にもいかなかった。

王賁の父である王翦は、信と同じ六大将軍の一人だ。

信は養子ではあるが、王家の人間だ。王賁と幼馴染であり、彼の屋敷にも出入りしていたことがあったため、王翦ともそれなりに付き合いが長い。

そんな彼が自ら訪ねて来たことなど、過去に一度もなかったため、一体何の用だろうと考える。

息子の将軍昇格についてではないことだけは分かる。彼は王賁の父親でありながら、一切の私情を挟まない冷酷な男だった。

その冷酷さを持っているからこそ、戦でも感情に左右されることなく、冷静な判断が出来るのかもしれない。

少しも用件が予想出来ないまま、信は王翦を出迎えた。

今日は武具を解いており、身軽い恰好をしていたが、黒い仮面だけは外していなかった。王翦の素顔を見たことは一度もない。

「…用件って何だよ」

来客用の部屋に通すと、信は椅子に腰掛けながら彼に用件を尋ねた。

「縁談の申し出だ」

「ふーん……誰のだよ」

侍女が淹れてくれた茶を啜りながら返すと、王翦は仮面の下で微塵も表情を変えずに信を見つめる。

「私から王騎の娘お前へだ」

鼓膜を揺すったその声が、脳に届いて理解するまで、しばらく時間がかかった。

口に含んだ茶を静かに嚥下してから、信は聞き間違いかと思って王翦を見る。

「…はっ?今なんつった?」

「私から王騎の娘お前へだ」

瞬きを繰り返しながら聞き返すと、王翦は微塵も表情を変えずに同じ言葉を繰り返す。

信の思考が停止し、彼女はぽかんと口を開けていた。

「……縁談の申し出?…お前が?俺に?」

「そうだ」

躊躇いもなく頷いた王翦を見て、信は謎の頭痛に襲われる。

こめかみに手を当てながら、どうしてこんな話になっているのだろうと信は唸り声を上げた。

もしかしたら自分が知らないだけで、最近になって縁談という言葉の意味がすり替わったのかもしれない。

きっとそうに違いないと思い、信は王翦を見た。

「あー、っと…俺の知る限り…縁談ってのは、結婚の申し出ってことになってるが…いつから意味が変わった?」

「何も変わっておらん」

両腕を組んだ状態で信は閉眼した。全く思考が追い付かない。

「結婚?俺とお前が?」

「そうだ」

何故だ。率直に信はそう思った。

 

王翦からの申し出 その二

王翦には妻がいた。王賁の母親に当たる女性である。出産の時に亡くなったのだと信は王賁から聞いていた。

その後、王翦が別の女性を娶らずにいた理由までは知らなかったが、大将軍である彼の立場ならば、喜んで妻になるという女性など多くいるだろう。

自分に白羽の矢が立ったことを理解出来ず、信は閉眼したまま動けずにいた。

「…………」

「…………」

やがて、息をするのも苦しいほどの重い沈黙に耐え切れず、信は勢いよく立ち上がった。

「いや!おかしいだろッ!」

「何がだ」

王翦が何を考えているのか少しも分からないように、王翦も信の言葉を理解出来ないでいるようだった。

「な、なんで俺がお前と結婚しなくちゃならねえんだよッ!?」

「強要はしていない」

とことん冷静な王翦に、信は自分の調子が狂わされていくのを感じた。謎の頭痛は悪化する一方で、こめかみを押さえる。

仮面越しにじっと目を見据えられると、信は思わず背けてしまった。どうもこの男は昔から苦手である。

何を考えているのか分からないというのもあるが、その鋭い眼差しに全てを見透かされているような気がして、見つめられると居心地が悪くて堪らない。

「…理由は?」

信は目を背けたまま、王翦に尋ねた。

「私がそなたを欲しいと思ったからだ」

とても心地よく響く低い声だった。王翦に想いを寄せる女性であったのなら、喜んで縁談の申し入れを受け入れていたに違いない。

しかし、信は違う。

「お断りだ。なんで俺が王賁の義母にならなきゃいけねーんだよ」

声に怒気を含ませながら拒絶すると、王翦が小さく首を傾げた。

「私の妻になれと言っている。母になれとは言っておらぬ」

「同じだろ」

王翦と結婚するということは、彼の息子である王賁の母になることと同じである。

幼馴染である王賁に母と呼ばれる日が来るだなんて思いもしなかったし、絶対に嫌だった。

もしも、王翦と王賁が親子関係でなかったとしても、この縁談の申し入れを信が受け入れることはない。

「とにかく、お断りだ。別に俺じゃなくても女なんて山ほどいるだろ」

このままでは宴に遅れてしまう。王賁に将軍昇格のお祝いをしたいのに、これ以上時間を取られる訳にはいかなかった。

部屋を出ようとすると、王翦に腕を掴まれて、信はなんだよと振り返る。

「倅に飽きたのなら、いつでも私の下に来るがいい」

「はあっ?」

訳が分からないと睨み返すと、仮面の下で王翦の瞳が楽しそうに細まった。

こいつも笑うことがあるのかと驚いていると、掴まれた腕ごと体を抱き寄せられたので、ぎょっと目を見張る。

「―――」

唇が触れ合う寸前まで顔が近づいたので、信は思わず息を詰まらせる。

…結局、唇が重なることはなく、王翦は満足したように信のことを解放した。

「ではな」

立ち上がった王翦は颯爽と部屋を出ていく。

顔を寄せられたのは突然のことだったとはいえ、心臓が激しく脈打っている。信は顔を真っ赤にして、王翦の背中を睨み付けていた。

(…今日は王賁に合わせる顔がねえな…)

その場にずるずると座り込み、信は重い溜息を吐き出す。

本当なら将軍昇格を祝ってやりたかったのだが、彼の父に当たる男から縁談を申し込まれたなんて、一体どんな顔で話せば良いのだろう。

「はあ…」

祝いの席で言うべき内容じゃないと分かっていても、隠しごとは出来ない性格であることは自分自身が一番よく分かっていた。

 

 

後日編

本編の後日編です。

 

褥の中で、着物の上からでも膨らみが分かる腹を撫でる夫に、信はつい笑みを零した。

「辛くはないか?」

頷いて、信は王賁の背中に腕を回す。

今は王賁の屋敷で過ごしている信だが、臨月に入る前には咸陽宮に身柄を移すことになっている。

妊娠が発覚した時に、親友である嬴政が医師団の手配を約束してくれたのだ。

出産するまで油断は出来ないとはいえ、ここのところは体調も変わりなく過ごせていた。

身の回りの世話をしてくれる者たちも優しいし、いつも気を遣ってくれる。

唯一不満があるとすれば、身重の体では馬に乗れないことと、鍛錬も許されないことである。

ここのところ剣を振るっていないせいか、信は筋力が落ちて来た自覚があった。出産を終えてから、再び大将軍の座に就けるだろうかと不安になってしまう。

「どうした?」

憂いの表情を浮かべている妻に、王賁が小首を傾げる。

「んん…」

信は自分の腹を撫でながら、言葉を濁らせた。

「このままじゃ、剣の使い方も馬の乗り方も忘れちまいそうだなって思って…」

「…大王様の許可を得た上で、寝台に縛り付けるぞ」

少しも冗談に聞こえない言葉に、信の顔が強張った。

信の華奢な肩を包み込むように抱き寄せると、王賁が切なげに眉根を寄せる。

「そんなに、俺や他の将たちは頼りないか?」

「え?」

王賁の質問の意味が分からず、信は目を丸めた。

「飛信軍を率いていたお前の強さは、確かに誰もが認めている。無論、俺もだ」

「………」

「だが、お前の目には他の将たちが頼りなく映っているのか?お前が居ない秦軍では、国を守れないと…そう思っているのか?」

信は今までも自分の力を過信しているつもりはなかった。それに、他の将たちの力は何度も同じ戦場に立っていた信もよく知っている。

どうやら王賁には、信が自分たちの力を信頼しておらず、一刻も早く戦場に戻らなくてはと焦っているように見えたらしい。

「ううん」

信は泣き笑いのような顔で首を横に振った。

「…みんなのこと、信頼してるに決まってるだろ」

どうやら信の返答を分かっていたかのように、王賁がふっと唇を緩める。

「ならば、何も気にすることはない。今のお前の役割は、無事に子を産むことだ」

優しく頭を撫でられて、信は照れ笑いを浮かべながら頷いた。

日頃から鍛錬を欠かさないマメだらけである王賁の手を掴み、信は自分の手と絡ませる。

信と夫婦となってから、些細に身を寄せ合うことが当たり前となっていた。

幼馴染という関係で結ばれていた時にはこんな日が来るなんてお互いに想像もしていなかったが、今ではお互いの存在がない日常なんて考えられないほど、二人は想いを寄せ合っている。

「…へへっ」

自分の手を握りながら、はにかむ信を見て、王賁の胸が早鐘を打つ。もう何度も愛しいと感じているはずなのに、愛という感情には底がない。

褥の中で身を寄せ合っていたのだが、信は自分の太腿に何か硬いものが押し当てられたことに気が付いた。

「ん?」

何だろうと顔を下に向けて、その正体が分かると、信の顔に火が灯ったかのように赤くなる。王賁があからさまに目を泳がせた。

「あっ、えっ!?えっと…?」

どうしたらいいのか分からないという顔で、信が着物を押し上げている男根と王賁の顔を交互に視線を送る。

王賁に破瓜を捧げるまで信は一度も男との経験がなかった。想いが通じ合ってから婚姻を結ぶまではそう長くかからなかったが、信の妊娠が分かってからは、腹の子に負担を掛けたくないという王賁の気遣いもあり、二人は体を重ねていない。

未だ情事に経験が乏しい信はこんな時、どうしたら良いのか知識がなく、狼狽えることしか出来ない。

放っておけと言わんばかりに王賁が目を伏せたので、信はますます困惑する。

初めて身を繋げた時の王賁の表情を覚えており、勃起した状態で何も出来ないのは苦痛でしかないことを、経験が少ないながらに信は知っていた。

さすがに身籠った身体では以前のように激しく情事は不可能だが、王賁が苦しんでいるのだから、何とか出来ないだろうかと模索する。

 

情交

目を閉じている王賁の足の間に腕を伸ばし、信は彼の着物越しに男根を手で擦った。

「ッ…」

びくりと体を震わせた王賁が驚いたように、目を見開く。何をしているのだという視線を向けられたのは分かったが、信は俯きながら、着物越しに男根を手で擦り続けた。

悶えるような、小さな呻き声が聞こえて、信は弾かれたように男根から手を放す。

「わ、悪い…」

顔を見ていなかったせいで、嫌悪の声だと思ったのだ。しかし、王賁は咎めるようなことはしない。何も話さず、ずっと目を伏せている王賁を見て、もしかして続けて欲しいのだろうかと考える。

言葉に出すのは恥ずかしかったので、王賁の顔を眺めながら、信は再び男根に手を伸ばした。

「っ…」

掌で優しく包み込むようにすると、王賁の瞼が僅かに震える。

僅かに吐息が聞こえて顔を上げると、切なげに眉根を寄せていた。しかし、止める気配がないことから、嫌がっていないことを確認すると、信は着物の中に手を忍ばせて、屹立の根元に指を絡ませた。

五本の指で輪っかを作り、掌でゆるゆると扱いていくと、男根の漲りが増していく。浮き上がった血管が熱い脈動を打っていた。

(これで合ってんのかな…)

情事に豊富な経験がないので、このやり方でも男が満足するのかは分からなかったが、信は上目遣いで王賁の表情を確かめながら、手の動きを速めていった。

何が正解なのかは分からないが、王賁の呼吸が早まっていき、気持ち良さそうにしているのを見ればこのままで良さそうだ。

手の刺激を続けていると、鈴口から粘り気のある透明な液体が滲んで来たので、信が目を見張る。

親指の腹で鈴口を擦って、先走りの液を掬い取る。王賁がぐっと奥歯を食い縛ったのが分かり、信は続けざまに指の腹で鈴口を刺激した。

戦場で見せることのない顔を自分にだけ見せてくれているのだと思うと、信の胸に優越感が宿る。

「王賁…」

名前を呼ぶと、眉根を寄せていた王賁の表情がさらに強張ったのが分かった。

手の中にある男根が今すぐにでも弾けてしまいそうなほど脈動を打っている。しかし、手だけの刺激では足りないのではないだろうかと思った信は腹を気遣いながらゆっくりと身を起こし、王賁の体に跨った。

「信ッ…?」

何をしているのだと王賁が問うよりも先に、信は頭を屈めて、男根をその口に咥え込んだ。

「―――ッ…!」

咥え切れない根元は指先を絡ませ、しっとりと唾液を纏った水気の多い舌で亀頭を這い回ると、王賁が息を詰まらせた。

初めて体を重ねた時に、先端を責められるのが弱いことは分かっていたので、信は得意気に口淫を続ける。

「ん、む…」

唾液ごと、亀頭をちゅうと吸い立てれば王賁が喉を引き攣らせ、内腿を震わせた。もう限界が近いのは王賁も信も分かっていた。

「信、もうよせ…」

このままでは口の中で果ててしまうと王賁が信の肩を掴む。しかし、信は聞こえないフリをして口の中での射精を促した。

頭を動かして、男根を深く口の中に咥え込む。

「ん、ッ…」

生々しい水音を立てながら、唇を滑らせていくと、下腹部を震わせながら王賁が呻き声を上げた。

「ふ…ぅ…」

やがて口の中で熱い何かが溢れ出る。唇と口内で男根が打ち震えるのを、信は目を伏せながら感じていた。

舌の上に粘り気のある苦くて熱いそれが広がっていき、信は瞼を持ち上げた。

「……んぅ、ぅ…」

男根を咥えたまま、どうしたら良いのか分からず、信は戸惑ったように王賁を見上げる。

絶頂の余韻に肩で息をしながら、王賁がばつの悪そうな顔を浮かべた。

「吐き出せ」

男根を信の口から引き抜くと、未だ彼女の口の中に残っている精液を吐かせようとする。しかし、信は首を横に振った。

「信っ」

涙目のまま喉を動かした信が、まるでいたずらを咎められた少女のような顔をして、ぎこちなく笑う。

「吐き出せと言っただろう」

彼女の唇に残っている残渣を指で拭いながら、王賁が叱りつけるように言った。しかし、言葉とは裏腹に、信へ向けている眼差しは優しい。

「よく分からねえけど…男って、我慢したら辛いんだろ?」

顔ごと目を背けた王賁に、信は苦笑を隠せなかった。

「…王賁」

両腕を伸ばして、信は王賁に抱き着いた。いきなり抱き着いて来た彼女に驚いたように、王賁が目を見張る。腹を圧迫しないように気遣いながら、彼も背中に腕を回してくれた。

表情に出さずとも、こういう分かりやすい態度はどことなく自分と似ているなと、信ははにかんだ。

 

王賁×信のバッドエンド話はこちら

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毒酒で乾杯を(桓騎×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/ツンデレ/毒耐性/ミステリー/秦後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話はアナーキーの後日編・完全IFルート(恋人設定)です。

前編はこちら

 

決意

向の身の回りの世話をする女官は、侍女頭の敏を含めて、十人程度だ。太后に仕える女官の数に比べると圧倒的に少ない。

秦王の正室であるとはいえ、田舎の出ということで後ろ盾がないのも影響しているのだろう。

向に仕えている女官たちの勤務態度は至って真面目で、向に殺意を向けているような姿は見られない。

幾度も死地を乗り越えて来た信は、人間の敵意や殺意というものには敏感になっているのだが、向の周りにいる女官たちからはそういったものは一切感じられなかった。

毒見役として任命を受けた信は、侍女頭から他の雑務はしなくて良いと命じられたのだった。次の食事の時にでも亡くなる短い命だと思われているらしい。

他の女官たちからも哀れみの目線を向けられたが、信は少しも気にならなかった。

「…信様が傍に来て下さっただけで、なんだかとても安心してしまいました」

腹を擦りながら、向が笑顔を向ける。

毒見以外の仕事がない分、信は話し相手として向の傍につくことになっていた。護衛という役目も担っているため、信にとってはその方が都合が良い。

「後宮も、違う意味で毎日が戦なんだな…」

後宮内の話はあまり聞いたことがなかったのだが、やはり秦王の寵愛を求めて女性たちの争いが絶えないのだという。

正室に選ばれたことや、嬴政の子を身籠ったことを素直に祝福してくれたのは彼女の友人である陽や、他の仲の良い同僚だけだったらしい。

後宮にはそれなりに地位のある貴族の娘も多く、後ろ盾もない田舎出身の向が正室に選ばれたことを気に食わない者も多いのだそうだ。彼女たちからしてみれば、どうして向が選ばれたのか理解出来ないのだろう。

(…動機としては十分過ぎるよなあ)

信は椅子の背もたれにどっかりと背中を預けた。

王騎と摎の養子である信だが、それまでは下僕として生きていた。何の後ろ盾もなく、それどころか地位や人権も存在しないという立場であったなら、その辺と石ころと何ら変わりない命だった。

将としての才能を見出されなければ、今でも下僕として生きていたに違いない。

しかし、後ろ盾のない低い身分であったとしても、後宮で働けるのは運が良いことだ。寝床も食事も給金も与えられるのだから、下僕と違って飢えや寒さに苦しむこともない。

後ろ盾がない弱い立場で、大王の寵愛を受けられないとしても、人として扱われて真っ当に生きていける。

(俺もいつまでいられるか分かんねえが…)

信が後宮で向の護衛と毒見役として滞在する期間は決して長くない。戦の気配があればすぐに呼び戻されるだろう。

しかし、向のやつれ具合を見る限り、まだしばらくは彼女の傍に居た方が良さそうだと信は考えた。

向の友人である陽もこの宮殿には務めておらず、頻繁に会うことが出来ないのだという。心を開ける人物が傍にいないのは辛いことだ。

実際に毒見役の死を目の当たりにしたことで、向は悲しみと疑心暗鬼に陥っていた。

子どもを守るという母親の義務も、后として安易に弱みを見せてはいけないという気持ちもあって、随分と苦しめられていたらしい。きっと嬴政もそれを感じて、信に護衛を頼んだのだろう。

親友であり、秦王である嬴政が頭を下げてまで信に妻を守ってくれと頼んだのだ。秦の未来のためにも、向と子どもの命を守らなくてはならないと信は決意した。

「…向。俺の正体もそうだけど、俺が毒を食っても平気なのは、他の奴らには絶対言うなよ」

「え?」

きょとんと向が目を丸めたので、信は呆れたように肩を竦めた。

「あんまり疑いたくねえけどよ…もし近くに犯人がいたら、俺が居なくなってから毒を盛るに決まってるだろ」

そのために飛信軍の女将軍であることも隠しているのだと告げれば、向は複雑な表情で頷くしかなかった。

毒を盛ることが可能な人間に目星をつけるとすれば、食事を作る者、器によそう者、配膳する者になるだろう。

食事が配膳されるまでの過程で何者かが毒を混入させるということも考えられるが、女官の出入りが多いことから、目撃者がいてもおかしくはない。

桓騎から聞いた毒殺方法を参考にして考えると、向の身の回りの世話をする女官が怪しいと信は睨んでいた。

―――…一度毒殺に失敗したんなら、当然だが全員が警戒する。少し時間を置かねえと動き出さねえだろうな。

褥の中で桓騎が言っていたことを思い出す。

向を毒殺しようとした犯人は、確実に彼女と子供を殺すために、再び毒を盛る機会を見計らっているに違いない。桓騎も信もそう睨んでいた。

 

毒見

昼食の時間になると、途端に宮殿の中にある重々しい空気が増した。向も女官たちも顔に緊張を浮かべている。

「じゃあ、これ…お願いね」

食膳が運ばれて来ると、侍女頭の敏が小皿に食事を少量移した。葉物を出汁に浸したものだ。

小皿を受け取った信はすぐに口に運ぶことはせず、食事を観察をする。

「………」

並べられている食器は全て銀製だ。よく観察してみるが、変色はない。毒見する分を盛った小皿も銀製だったが、こちらにも変色はみられなかった。

もしも毒が盛られていれば黒く酸化するのだが、それがないということは一見、無害のように思える。

しかし、今回の毒殺事件は特殊だった。食器に酸化がなかったというのに、毒が盛られていた。つまり、食器に変色がなかったとしても油断は出来ないということである。それを分かっているからこそ、女官たちも怯えているのだろう。

「…自分でよそっても良いか?」

「え?」

いきなり信が箸を取ったので、その場にいる女官たちが全員呆気にとられた顔をする。信は返事を待たずに、違う小皿に自分で毒見する分をよそった。

―――毒見役をすり抜けるなら、毒見させる食事をよそう奴を演じても良い。毒が入っている部分さえよけて、毒見役に食わせれば簡単に欺けるからな。

桓騎の声が耳裏に蘇る。

あの日、褥で聞いていた毒殺方法は、十は超えており、まるで物語を聞かせられているかのように、信はいつの間にか寝入ってしまった。桓騎の頭には、一体いくつの毒殺方法があるのだろうか。

様々な毒殺方法があったのは分かったが、疑うのならば、とことん疑った方が良いということだけは理解している。

身近な者たちに紛れて犯人がいるとすれば、食事を作るところから監視しておくべきなのかもしれないが、あからさまに警戒心を剥き出しにしていれば犯人も動けないだろう。

自分で食事をよそった信は迷うことなく、それを口に放り込んだ。ゆっくりと咀嚼するが、鴆酒の時のような痺れは少しも感じない。

「うん、大丈夫だな」

何ともないことが分かると、信は次の料理を自分でよそって勝手に毒見していく。

これほど毒見に怯えず、むしろつまみ食いのように食事を口に運んでいく女官を見るのは初めてだったのだろう、その場にいる者たち全員が驚愕していた。

「全部食っても良いぞ」

毒見で腹が膨れると、信が向に食事の許可を出した。

「ちょ、ちょっと、あなたっ!向様になんて口の利き方をっ」

ずっと傍で見ていた侍女頭の敏が信の頭を軽く叩く。いでっ、と信が顔をしかめると、それまで暗い表情をしていた向がくすくすと笑い始めた。

何ともないことが分かり、安心して食事を運んでいく向の姿を見て、信もほっと胸を撫で下ろす。

食事の度に怯えているなんてキリがない。腹の子のためにも、栄養は摂らなくてはならないのに、その食事に毒を盛るだなんて心無いことをする。

(早く犯人を捕まえられれば良いんだがな…)

複数犯の仕業なのか、一人の仕業なのかも分からないこの状況で、向はよく耐えていたものだと信は感心してしまった。

嬴政に依頼されたのは護衛と毒見役だけだったが、やはり自分が後宮にいる間に犯人を捕えねばと思うのだった。

 

報告会

食事に毒を盛られることはなく、一週間ほど経った頃。向と二人で茶を飲みながら、寛いでいると、宮廷と後宮を出入りする宦官から信は呼び出しを受けた。

「女官の信だな?」

「ああ。なんか用か?」

宦官たちの仕事着なのか、いつも黒衣と黒い仮面を身に纏っている。宦官だという判別しやすくするためなのか、鼻と口元以外は覆われているため、顔の認識が出来なかった。

声を聞く限り、恐らく信が後宮に来た時から、向の護衛に務めている者なのだろうが、同じ仮面と着物のせいで、全く判別が出来ない。

「大王様から、今宵、伽に来るようにと」

宦官の言葉を聞き、信の顔があからさまに引き攣った。

伽を装って後宮での様子を報告することになっているのは事前に決めていたのだが、それにしても伽という言葉以外に何かなかったのだろうか。

嬴政の妻である向がここにいるというのに、もう少し彼女の気持ちを考慮してもらいたいものである。

分かったと返事をしてから、信は強張った表情のまま、向の下へと戻った。

うんざりした表情で席に座ると、向が困ったように笑みを浮かべる。どうやら聞こえていたらしい。

「あ、あのー、私のことはどうぞお気になさらず…」

「いや、気にするだろ。つーか、なんであいつの方から来ないんだよ」

嬴政の寝室は宮廷だけではない。妻のいるこの後宮にも用意されているというのに、どうして彼の方から来ないのだろうか。

そこまで考えてから、情報漏洩を防ぐためなのかもしれないと信は気付いた。

犯人が後宮にいる可能性が高いと睨み、信を護衛と毒見役として後宮に送ったのだ。後宮で情報交換をすれば犯人の耳に届く可能性があるかもしれない。

「はあ…」

上手くいかないものだと信は頬杖をついた。

向には無事に子を産むことだけを考えてもらいたいのに、やはり秦王の子ということもあれば、王族に襲い掛かる危険とは切っても切れぬものらしい。

(結局誰か分かんねーな…)

食事を作る者、よそう者、配膳する者が怪しいと睨んでいた信だったが、未だ犯人が動き出す気配はなかった。

あの毒殺事件が起きてから、全員が食事を警戒しているのは確かだ。かと言って、今夜の食事に毒が盛られないとは限らないし、絶対に安全という保障はどこにもない。

この一週間は、何も起こらなかった。それもあって、疑うべきは女官だけで良いのだろうかという考えも起こるようになっていた。

もしかしたら複数犯の可能性だって考えられるし、女官でない可能性も十分にある。女官でないとすれば宦官か。

犯人が複数いるとすれば、毒を盛った者だけでなく、それを手引きした者がいるということだ。かなり厄介である。

信は毒を摂取しても何ともない体だが、本来はそうでないがほとんどだ。

毒を盛られるというのは、生きるか死ぬかの瀬戸際であり、恐怖に苛まれてもおかしくはない。向はよく耐えて来た方だと思う。

 

報告会 その二

夕食にも毒は入っていなかった。信が何ともないと告げると、向は今まで食事が摂れていなかった分を取り戻すように食事を食べていた。

信の存在は向にとっても、余程心強いのだろう。

この一週間で向の顔色は随分と良くなった。それまでは亡くなった毒見役のことを想って、ろくに休むことも出来なかったようだが、夜もよく眠れるようになったらしい。

就寝の時刻になると、信は宦官たちと共に宮廷へ向かった。

大王の寝室の場所を知られないようにするためなのか、後宮を出た後は目隠しをされる。廊下で体を幾度も回されて、方向感覚を失ってから歩かされ、ようやく寝室へと辿り着いた。

目隠しを外されると目の前に大きな扉がある。ここが嬴政の寝室らしい。

幾度も嬴政とは顔を合わせているが、そういえば彼の寝室に入るのはこれが初めてだった。
報告会の建前であるとはいえ、まさか伽で寝室に呼ばれる日が来るなんて夢にも思わなかった。

「入れ」

すぐ背後から宦官に指示をされ、信は扉を開けた。振り返ることも許されないのは、寝室の位置を知られないためだろう。

背後で扉が閉められてから、信はわざとらしい溜息を吐いた。

「…建前だとしても、お前の褥に呼ばれるなんて良い気分じゃねえな」

嫌味っぽく言ってみたが、寝台の上で書簡に目を通している嬴政は無反応だった。書簡を畳みながら、嬴政が顔を上げる。

「向は無事か?」

ああ、と信が頷くと、嬴政は安堵した表情を浮かべた。

部屋にあるのは大きな寝台と、机くらいだ。寝台の端に腰を下ろした信は足を組みながら、後宮であったことを報告した。

「…この一週間、水にも食事にも毒が入ってたことはねえ。身の回りの物も見させてもらったが、別にそれっぽい毒が仕組まれてる気配もなかったな。可能な範囲で宮殿にいる宦官や女官も見てたが、別に怪しい動きもなかった」

「そうか…」

相槌を打った後、嬴政が黙り込む。彼も相当悩み込んでいるようだ。

本来ならば自分の手で向を守りたいと思っているに違いない。もしも、犯人の動機が嫉妬だったとすれば、嬴政が向のために後宮を頻繁に出入りすることは、怒りを煽ることになる。

情報漏洩だけでなく、そういった理由から、嬴政は後宮への出入りを控えているのかもしれない。

後宮には嬴政の寵愛を待ち侘びる女性たちがごまんといるのだ。自分が選ばれなかったことを妬む女性が居たとしても決しておかしいことではない。

そしてそれを動機に、身籠っている后を毒殺しようとするなんて、憎悪の塊である。

(…ちょっと待てよ)

向の身に危険が迫っているのは分かったが、もしも動機が本当に嫉妬だったとしたら、今の自分はどうなるのか。

正体を隠すために、表向きは後宮へ身売りされた毒見役の下女という提で向の傍にいるが、後宮に来て、たかだか一週間の下女が大王の伽に呼ばれたなんて前代未聞だろう。

誰もが振り返る美貌を持っている訳でも、歌や舞が得意という訳でもない。一体何の理由があって伽に呼ばれたのかと不審がる者が居てもおかしくはないはずだ。

…もしかしたら今度は自分が毒殺をされる番かもしれない。

「はあー…面倒臭えな…戦の方が楽だ」

「?」

信の大きな独り言に、嬴政が小首を傾げた。

もしも向ではなく自分に毒が仕向けられるなら願ったり叶ったりではあるが、そうなると犯人はあの宮殿に務める女官たちに絞られる。

なぜなら信が今宵、嬴政の伽に呼ばれたのを知っているのは、信を呼び出した宦官と、向と彼女の身の回りの世話をする女官たちだけだからである。

あまり考えるのを得意としない信は謎の頭痛に悩まされた。

「…おい、そういや俺の寝床は?」

部屋を見渡しながら、寝台が一つしかないことに信は疑問を抱いた。

「ここにあるだろう」

二人が腰掛けている寝台に目を向けながら嬴政がそう言ったので、信は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

「なんでお前と寝なきゃいけねえんだよ。政は床で寝ろよ」

「大王である俺に床で寝ろとは聞き捨てならんな」

先日、嬴政と男女の仲でないことを向に告げたばかりだというに。信が苦虫を嚙み潰したような顔になった。

何もなかったとはいえ、同じ寝台で朝を迎えたなんて、何もなかったという方が疑わしい。向は気にしていないように振る舞っていたが、きっと心は嫌悪していたはずだ。

「はあ…俺が床で寝れば良いんだろ」

野営をすることに慣れているため、信は基本的にどこでも眠ることが出来る。戦では休息が欠かせず、すぐに体を休ませなくてはならないので、眠る環境などいちいち気にしていられないのだ。

伽を命じられている以上は部屋を抜け出して後宮へ戻る訳にもいかず、信は仕方ないと床で寝ようとした。

「風邪を引く。諦めてここで寝ろ」

嬴政に腕を引っ張られ、信は寝台に渋々横になる。上質な寝具を体に掛けると、その温かさに信の瞼がすぐに重くなった。嬴政は書簡を読み終わってから眠るらしい。

(そういや、桓騎…何してんのかな…)

後宮に行く前に様々な毒殺方法を教えてくれた恋人の顔が瞼の裏に浮かび上がったが、信の意識はすぐに眠りへと落ちていった。

 

朝帰り

日が昇った頃、信は足早に後宮へと戻った。既に他の女官たちは仕事を始めていて、信も朝食の毒見をするために宮殿に向かう。

まだ朝食は準備中のようで、信は眠たい目を擦りながら、向に嬴政とは何事もなかったことを伝えようと彼女の部屋に向かった。

いつも部屋の前で待機している護衛の宦官の姿が見当たらなかったので、信は小首を傾げながら部屋を覗き込んだ。

どうやらまだ向は朝の支度をしているのか、部屋に来ていないらしい。

「あら、戻ったのね」

寝室まで向を迎えに行こうかと考えていると、女官に声を掛けられる。彼女は信と向よりも幾つか年下だったが、この宮殿では働き者として有名だった。

昨夜、信が伽に呼ばれたことを知っていたこともあり、彼女はにやけ顔になって信に駆け寄って来る。

「ねえ、大王様とはどうだった?」

好奇心を隠し切れていない表情が迫って来る。潜めていた声も興奮でやや震えていた。伽に呼ばれたとなれば体を重ねたのだろうと考えるのは普通のことである。

漠然とした質問を投げ掛けられ、信はたじろいた。

後宮には嬴政の寵愛を求める女性が大勢いる。しかし、嬴政が弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いである信には、彼をそのような目で見たことは一度もなかった。

端正な顔立ちをしていることはともかく、一度決めたことを覆さないこと、強い志を持っていることなどは確かに王の素質として欠かせないものだろう。

だが、改めて「どうだった」と問われると、何を答えるが正解なのか分からず、信は返事を詰まらせてしまう。

「朝から立ち話はおやめなさい」

「あっ、敏様…!」

振り返ると、敏が目をつり上げていた。

さすが女官たちをまとめる侍女頭と言うべきか、仕事をしていない者には厳しいらしい。
すぐに仕事へ戻っていった女官の後ろ姿を見つめながら、信も何か仕事をするべきだろうかと考える。

毒見役以外の仕事はしなくても良いと言われていたが、向の話し相手だけというのも、正直良いものか分からない。

むしろ、女官の仕事をした方が情報は探りやすいと思い、信は思い切って侍女頭に声を掛けた。

「俺も、そろそろ毒見以外の仕事を…」

「それはいいのよ。向様のお傍にいてちょうだい。あなたが来てくれたお陰で、ようやくお元気になられたようだから」

「………」

そう言われてしまえば、大人しく引き下がるしかなくなる。

「それより…」

敏が声を潜めたので、信は小首を傾げた。

「大王様の伽へ呼ばれたんでしょう?どうだった?」

(お前もかよ)

侍女頭である彼女も好奇心は抑えられなかったらしい。寸でのところで信は言葉を飲み込んだ。

「それにしても…まだ後宮に来て間もないのに、どうやってお眼鏡に掛かったの?最近は大王様も後宮にはお見えにならないのに…」

嬴政に伽へ呼ばれるのは、やはり珍しいことなのだろう。先ほどの女官もそうだったが、羨望の眼差しを向けられて、信はなるほどと思った。

向に続いて自分も呼ばれたとなれば、美貌を持ち合わせている娘や、強い後ろ盾を持つ貴族の生まれの娘たちからしてみれば不思議で仕方がないだろう。

他者より優れた美貌や特技どころか、何の後ろ盾も持たぬ田舎娘が選ばれるだなんて、彼女たちにとっては屈辱に感じることなのかもしれない。

(…少しからかってやるか)

信はにやりとする。自分に大将軍以外の仕事を押し付けた嬴政に、ちょっとした嫌がらせをしてやろうと思ったのだ。

「…昨夜は、とても恐ろしい目に遭った…」

「え?」

信はわざと着物の袖で目元を拭う仕草をした。それから信はすぐさま袖を捲り上げて、傷だらけの腕を侍女頭に見せつける。

「―――ひッ!?」

信の右腕に刻まれている醜い傷跡を見て、敏が分かりやすく青ざめた。

幼い頃から幾度も戦に出ていた信の体は傷だらけであり、中でも、過去の魏軍との戦で、廉頗四天王の一人である輪虎によって、骨が覗くまで斬りつけられた右腕には一番深い傷痕が残っている。

他にも、目も当てられぬような傷ばかりが刻まれているが、右腕は特にひどい。

身売りされた下女がこんな傷だらけであるはずがないのだが、戦とは無縁である後宮の女官ならば、このような傷痕を見慣れていないのも当然だろう。

普段から血を見ることもない人間からすれば、信の体に刻まれている傷は恐ろしいものであった。

「きっと、大王様は、俺のようなみすぼらしい女を痛めつけるのがご趣味なんだ…」

自分の体を抱き締めながら、信は渾身の演技を見せつけた。信の傷だらけの体を見て、侍女頭は青ざめたまま、逃げるように離れていく。

(はっ、これで変な噂が広まれば、政に抱かれたいなんて夢見てる女どもはビビるだろ)

すれ違いで朝の支度を終えた向と、護衛として付き添っている宦官がやって来たので、信は何事もなかったかのように袖を戻した。

「…あの、何かあったのですか?」

血相を変えていた侍女頭を不審がり、向が小首を傾げている。にやっと笑った信は首を横に振った。

「麗しき大王様のご趣味について教えてやっただけだ」

「………」

信が嬴政のことを麗しき大王様と呼んだことに、向は何か嫌な予感を覚える。悪い噂が広まらないことを祈るばかりだった。

「あ、昨日は本当に何もしてねえからな?色々話して寝ただけだ」

身籠っている向に余計な不安を与えたくない。護衛の宦官も傍にいるので、報告会であることは内密に、信は昨夜の出来事を向に伝えた。

体を重ねたことは絶対ないと先日も伝えたのだが、向は信じてくれただろうか。

 

事件

その後も、水や食事に毒が盛られることはなかった。

念のために化粧品や香も頻繁に確認させてもらっていたが、それらしい毒は見つからない。女官や宦官たちの動きにも不審な点は見つからないし、いよいよ犯人が雲隠れしてしまったかもしれない。

何度か行っている報告会で、嬴政もそのことを危惧していた。

幸いにも隣国が攻めてくるような気配はなく、信は後宮で護衛と毒見役を継続していたが、やはり犯人を捕らえることは出来ないかもしれない。

―――三月ほど日が経つと、信が後宮に来た時よりも向の腹は大きくなっていた。

信のおかげで食事も摂れるようになり、以前のような消沈していた彼女はもうどこにもいなかった。

身重の向に負担を掛ける訳にもいかないと、嬴政も久しぶりに後宮へ姿を見せるようになった。

信の企みで、後宮には一時的に嬴政が加虐性愛だという恐ろしい噂が広まってしまい、伽に呼ばれたらどうしようと不安がる女官が多く現れた。

しかし、後宮にやって来た嬴政の端正な顔立ちと大王としての振る舞いを目の当たりにして、再び以前のように、彼の寵愛を求める者が続出してしまったのだった。

…嬴政の秦王としての素質は、噂如きで揺るぐはずがなかったということである。

後宮に嬴政が訪れた際も、信は女官たちや宦官の動きを見張っていたが、特別怪しい動きをするような者は見当たらない。

全員を疑っていた信だったが、三月も共に生活をすれば情が湧くもので、この宮殿には犯人はいないのではないかとさえ思うようになっていた。

向に仕える者たちが、いかに后へ忠誠を尽くしているかは、後宮に来てから目の当たりにして来たからだ。

「夕食のご用意が出来ました」

食事の支度が終わったと報告を聞き、信と向は頷いた。
これから運ばれて来るのだが、扉の前で見張りをしていた宦官が信に声を掛ける。

「毒見役の女官」

「ん?なんだ」

見張りをしている宦官も無口な男だったが、きちんと仕事をこなしている真面目な男だ。彼に呼ばれるのはあまりないことだったので、信は珍しいなと目を丸める。

「今夜は粥だそうだ」

「…?ああ…」

いきなりそんなことを言われたので、信は戸惑いながら相槌を打った。

「……?」

「………」

用件はそれだけだったらしく、彼は口を閉ざして見張り役に徹している。

何なのだと思いながら、信は部屋に戻って、目の前に並べられていく夕食を眺めていた。主食が宦官が言ったように粥になっている。

「昼間は脂の多い食事でしたから、夕食はお腹に優しいものを作らせました」

侍女頭の敏がそう言ったので、信はなるほどと頷いた。

食欲がない訳でもないのに、どうして急に粥を用意したのかと不思議だったが、さすが后のことを一番に考えている。

(…皿は、大丈夫だな)

銀製の食器に変色は見られない。信は普段通りに小皿に自分で毒見分をよそい、口に運ぶ。
舌にも喉にも痺れは感じない。飲み込んだ後も、症状は出ないことから、信は大きく頷いた。

「……ん、問題ない」

信がそう言ったことに、向も女官たちも安堵したように頷いた。

さっそく粥の入った器を手に取り、向が匙で粥を掬い上げる。その姿を見て、信は胸騒ぎを覚えた。

(…なんだ…?何か…引っ掛かる…)

妙な違和感を覚え、信はつい口元に手を当てて考えた。食事自体には毒がないことは確認出来たのだが、胸騒ぎがするのだ。

信は嬴政に后の護衛と毒見役を任命され、桓騎の屋敷へ泊まったあの日のことを思い出した。

 

確実な毒殺方法

―――桓騎がにやりと笑った。

「あるぜ」

「え?」

毒見役お前の目を誤魔化して、確実に后だけを毒殺する方法だ」

信は疑いの眼差しを向けた。毒見役を演じて、毒を飲ませる方法は聞いたが、さすがにすり抜けるのは無理があるのではないだろうか。

毒見役か、毒見する分の食事をよそう者になれば、怪しまれることはないと言っていたが、さすがにこれ以上の方法など存在しないだろう。

「致死量の毒を飲ませるなんて簡単じゃねえか」

そんな簡単なことだろうか。信は眉間に皺を寄せる。

「んなこと言ったって、本人が食う前に、絶対に毒見役が気付くだろ。…それに、食器だって銀製にしてるんだから、変化があればすぐに毒入りだって気づくはずだ」

向の食事を毒見した下女が毒殺されたことが大きな噂になったのは、どのように毒が用いられたのかが分からなかったからだ。

食事に毒が盛られていたのは明らかだが、銀勢の食器にも変色はなかったという。嬴政から聞いた話を思い出し、信は口籠ってしまう。

「食器の色は変わりなかったっていうのに、毒見役は即死だったんだろ?」

「………」

何も言っていないというのに、桓騎が発した言葉に、信は肯定の意味を込めて沈黙した。相変わらず少ない情報から真相を読み取るのが上手い男だ。

険しい表情を浮かべている信に手を伸ばし、桓騎は彼女の柔らかい頬を軽く引っ張った。ふわっ、と信が情けない声を上げる。

「気付かせねえで致死量を口に入れさせるなら、俺だったら、食事には盛らねえな」

頬を引っ張る桓騎の手を振り払い、信がきっと目をつり上げる。

「は?じゃあ、どうやって飲ませるんだよ」

「…少しは頭使えよ」

桓騎が自分のこめかみをとんとんと指で叩いた。

「食事をする時には必ず使う・・・・が、銀製じゃねえ物が一つか二つはあるだろ」

「…?なんだよ、勿体ぶらずに教えろよ」

信が随分と余裕のない表情で迫って来たので、桓騎は口の端をつり上げて、彼女に正解を教えてやるためにゆっくりと口を開いた。

 

「―――待てッ!」

信が怒鳴ると、口に粥を運ぼうとしていた向が驚いて動きを止めた。

「ふ、ぇ…?し、信さま…?」

いきなり信が大声を上げたので、向だけではなく、その場にいる者たち全員が彼女に注目をしている。

信は立ち上がると、向が握ったままの匙を奪い取った。

その匙を凝視していると、緊迫した空気の中で、一人の女官が足音を立てぬよう部屋を出ようとしている姿が目の端に映り込む。

「おい、そこのお前」

低い声で信が呼び掛けると、部屋を出ようとしていた女官が弾かれたかのように肩を竦ませた。全員の視線がその侍女に集まる。侍女頭の敏だった。

全員からの視線を向けられた彼女はあからさまに狼狽えている。

「…あ、あの、今日の食事を作った者が、誰か、厨房を調べて来ようと…」

こちらはまだ何も尋ねていないというのに、部屋を出ようとした理由を彼女は自ら打ち明けた。

「…部屋から一歩でも出たら后暗殺の疑いを掛ける。疑われんのが嫌なら、そこから動くんじゃねえぞ」

怒気の籠もった信の言葉に、その場にいる者たち全員が生唾を飲んだ。

すぐに叩き斬られてしまいそうな、戦場に立つ時の威圧感を剥き出している信に、侍女たちが怯えていた。

「食事を運んだのは誰だ?」

周りにいる侍女たちを見渡しながら信が声を掛けると、向のすぐ傍に控えていた女官が恐る恐るといった様子で手を挙げた。信が嬴政の伽に呼ばれた翌日に声を掛けて来た女官だった。

気の弱そうな女官だが、向のことを随分と慕っている娘である。働き者だが、少し幼さの残っている顔つきのせいか、向も妹のように彼女を可愛がっている存在だ。

「…この匙を用意したのもお前か?」

信が手に持っていた木製の匙・・・・を彼女の眼前に突き出すと、女官は困ったような表情で首を横に振った。

「い、いえ…私が用意したのは、箸です…」

彼女が匙を用意していないと否定したことに、信の中で妙に腑に落ちたことがあった。

食事と共に添えられている何の変哲もない箸を見て、やはりそうかと頷く。

「…じゃあ、誰がこれを用意したかわかるか?」

なるべく怯えさせないよう、穏やかな声色を装って信が問うと、女官は小さく頷いた。

「しょ、食事をお出しする前に…粥なら匙の方が食べやすい・・・・・・・・・・・・と…敏様が…」

侍女頭の名前が出て来たことに、信は振り返った。

「おい、てめえ」

匙を握ったまま、信はずかずかと大股で侍女頭の前へと向かった。

木製の匙の裏一面には、粥とは違った、何かを磨り潰したような、白い粉が付着している。確かめるまでもなくそれが毒であることを信は確信した。礜石ヒ素を含む鉱物から摂取した物だろうか。

もしも知らずに口付けていたら、間違いなく向は倒れていただろう。生まれる前の子の命だって危険に晒されていたに違いない。

一度でも粥を掬ってしまえば、匙に毒が付着しているなど素人では判別出来ない。

しかし、銀製の食器にも異常はなく、毒見役が実際に食事を確認して何ともなかったことから、本人は疑うことなく食事と共に匙に塗られた毒を摂取してしまう。最初からそういった筋書きだったのだろう。

 

確実な毒殺方法 その二

―――…どんな毒を使うにしろ、確実に致死量を飲ませるなら、俺ならを使う。

信の耳奥に、桓騎の声が蘇った。

後宮へ女官として潜入する前夜。褥の中で、桓騎はまるで子どもに物語を言い聞かせるような穏やかな口調で話し始めた。

それは信が考えても分からなかった、銀製の食器と毒見役の確認をすり抜けて、確実に毒を盛って相手を殺す方法である。

―――…全員の意識は食事に向けられる。銀製の食器も、毒見役も何ともないって言うんなら、そいつは安心して食うだろ。だが、銀製じゃねえ匙の裏に毒が塗られてるかなんて、誰も確かめねえからな。

匙を口に運んだ時点で、こちらの勝ちなのだと桓騎は言った。

―――警戒して少しだけ口をつけるにしても、匙で飯を掻き混ぜちまえば、すぐに毒入り料理に早変わりするって訳だ。一口目は運良く免れたとしても、二口目で確実に殺せる。…なんでこんな簡単なことを、バカ共は気づけねえんだろうなあ?

…すべて、桓騎の言う通りだった。

食事に毒が混入していれば、銀製の食器は黒く変色する。しかし、食器に変色は見られず、毒見役である信が食べても何ともないことに安堵した向は、毒が塗られている木製の匙で口に運ぼうとした。

警戒すべきは食事だけではなかったのだ。

まさか桓騎が話していたことが全て目の前で実現したことに信は驚愕したが、今はそんな悠長に過ごしている暇はない。

「…侍女頭の敏、だったな。お前が毒を盛った犯人ってことか?」

侍女頭を睨みつけながら、信が問う。背後で向たちがまさかと青ざめた顔をしていた。
敏という侍女頭も青ざめていたが、反論は出て来ない。

無実だとしたらすぐさま言い返そうとするに違いないが、目を泳がせているところを見ると、何か上手い言い訳を探しているのだろう。

息をするのも重苦しいほどの沈黙が流れる。どうやら上手い言い訳も見つからなかったようだと信は腕を組む。

「…俺は処分を言い渡すような立場じゃない。後のことは上の判断に任せる」

外に待機している宦官へ後のことは頼もうと、信が部屋を出ようとした。

敏の横をすり抜けた時、全身の毛穴が針に突かれるような嫌な感覚がして、信は反射的に振り返る。戦場でしか感じないあからさまな殺意だ。

「向…!お前さえいなければッ」

振り返った時には既に敏が帯の中から取り出した短剣を構えて、向の方へと直進している時だった。

「向!逃げろッ!」

信が叫んだが、伸ばしたその手は敏の着物を掴むことは叶わなかった。

名を呼ばれても愕然としている向はその場から動けずにいる。短剣といえど、凶器には変わりない。腹を刺されでもすれば向どころか、腹の中にいる赤子の命まで危うい。

心を掻き毟られたように慌てた信が、背後から敏を取り押さえようとした時だった。

「きゃあッ」

ひゅん、と何処からか風の切るような音がしたかと思うと、火傷をしたかのように敏の身体が跳ね上がり、その体は仰向けに崩れ落ちた。

何があったのだろう。信も向も、倒れた侍女頭も、その場にいた者たち全員が分からなかった。

「う、ぅう…く、くそッ…!」

敏の左肩に、深々と弓矢が突き刺さっているのを見て、信がはっとなる。

痛みに呻いている敏の手から短剣を奪い取ると、信は愕然としたままでいる向に顔を向ける。

「大丈夫か?」

「は、はい…!」

寸でのところであったが、毒も口にせず、怪我もなかったようだ。

騒ぎを聞きつけた宦官がやって来て、彼が侍女頭の身柄を拘束してから、信はようやく安堵の息を吐き出すことが出来たのだった。

(あの弓矢…一体どこから…?)

妃の毒殺だけでなく殺害まで図ろうとした敏が宦官に連れていかれた後、信は部屋の窓へ駆け寄った。

外を覗き込むと、美しく整備されている裏庭がある。

誰かが通った痕は見つからなかったが、敏の左肩を貫いた弓矢は正面から撃たれたものに違いない。ということは、裏庭からこの部屋に向かって弓矢を撃ち込んだとしか考えられないのだ。

窓にはいくつもの直線の枠が埋め込まれた装飾がされていたのだが、不思議なことに傷一つついていない。

まさかこの複雑な装飾をかいくぐって弓矢を放ったというのだろうか。それどころか、同じ空間にいた向や女官たちを避けて、適切に敏だけを狙ったのというならば、相当な腕前だろう。

弓矢の扱いに慣れているとしか思えない。だが、一体何のために敏を狙ったのだろうか。

向を守るためなのか、はたまた口封じとも考えられる。仕留め損なっただけかもしれない。

しかし、侍女頭だけを的確に狙った腕前があるのなら、口封じのために頭か胸を貫くだろう。わざわざ致命傷じゃない肩を狙うなんてことはしないはずだ。

(ああ、くっそ…!ますます分かんねえ…!)

味方ならば、なぜ姿を現さないのか理由が分からない。疑問が次なる疑問を呼んでいき、信の思考はたくさんの糸が絡まり合っていた。頭痛に襲われ、こめかみを押さえながら目を伏せた。

味方であるという確信がない以上、これからも油断は出来ない。向とその子どもを殺そうとしていた仲間だとすれば、今度は毒以外にも一層の用心が必要となるということだ。

「信様…」

名前を呼ばれて信はすぐに振り返る。他の侍女たちには宮官長たちへの報告を頼んだため、今この部屋にいるのは向と信だけだった。

ずっと自分に付き従っていた侍女頭が捕らえられたことに、向は瞳に涙を滲ませていた。しかし、涙を堪えながら、彼女は信に深々と頭を下げる。

「ありがとうございます。信様のおかげで私も、大王様の御子も無事でした」

きっと裏切られた気持ちで心が引き裂かれるような痛みを抱えているに違いない。しかし、涙を堪えている辺り、やはり嬴政の隣に並ぶのに相応しい女だと信は思った。

「…いや、俺は何もしてねえよ。犯人があの女だって分かった時点で、さっさと縛り上げちまえば良かったのに…」

向の身に怪我がなかったとはいえ、信は侍女頭である彼女がまさか短剣を隠し持っているとは思わず、油断してしまった。

それなりに長い間、向に尽くしていたという忠義心があった侍女頭だったからこそ、全員が油断していたのだ。

厚い忠義を装っていたのは、大王の寵愛を受ける向を妬んでいたのだろうか。

向は田舎の貧しい出であり、この後宮では後ろ盾がない。そういった身分の者がなぜ嬴政の寵愛を受けることが出来たのだと妬む者が多いというのは噂で聞いていたが、まさかこんなにも身近に潜んでいたとは思わなかった。

 

矢文と宦官

「毒見役の女官はいるか」

先ほど侍女頭を連れて行った宦官が部屋に戻って来た。いつも向の護衛をして、見張り役も行っているあの男である。何かあったのだろうか。

「ああ、俺だ」

信が手を挙げて近づくと、宦官はこちらに来るように手招いた。大人しく従って廊下に出ると、文を差し出される。

「…これは?」

「侍女頭の肩に撃たれた弓矢に括られていた。お前宛てのようだ」

「?」

信は眉間に皺を寄せながらその文を受け取った。先ほど侍女頭の左肩を撃ち抜いた弓矢に文が括られていたらしい。

毒を盛った犯人が身近な人物であったことと、向の命を守ることで必死だったため、弓矢に文が添えられていたなんて気づきもしなかった。

敵か味方かも分からぬ相手からの文を、信はやや緊張しながら開く。

―――后の次は秦王。

そこに並べられていた言葉に、信は総毛が立つ。

(まさか、政まで狙われてるっていうのか!?)

先ほど侍女頭を狙って弓矢を撃った者からの言伝に違いない。やはり向を殺そうとした侍女頭を口封じのために始末しようと企んでいたのだ。

まだこの後宮には、別の犯人がいる。その者が侍女頭を動かしていたのかもしれない。

先ほどの弓矢を見る限り、相当な腕前である。今までは食事ばかり注視していたが、これからはいつ何時、弓矢が向を襲うか注意しなくてはならない。

いや、それよりも向だけでなく嬴政の身にも危険が迫っていることを伝えねばならない。分かってはいるのだが、信の心は雁字搦めになっていた。

(どうすりゃいいんだ…)

先ほどの弓矢が今度はいつ向を狙うか分からないこの状況下で、信は彼女の傍を離れる訳にはいかなかった。

向だけでなく大王も狙われているのだという報せを知り、細心の注意を払うように嬴政に言伝を頼もうにも、手段が見つからない。

向が厚い信頼を寄せていた侍女頭が毒を盛った犯人だったのだ。今のこの後宮で信じられる者など、信には判断が出来なかった。

先ほどの侍女頭の反撃も予想出来なかった自分が、果たして向を守り切れるだろうか。ましてや嬴政にまで危険が迫っているというのに、それを知らせることも出来ない。

(一体どうしたら…)

胸に不安が大きく渦巻き、信が困惑した表情を浮かべる。

矢文を届けた宦官は彼女の表情の変化を見て、仮面の下で微かに口の端をつり上げた。

「…?」

傍で宦官が笑った気配を察し、信は仮面で覆われたその顔を見上げる。

仮面の隙間から覗く意志の強い瞳に見据えられ、信は思わず息をするのを忘れていた。

「か――」

名前を口に出そうとした唇が、宦官の人差し指によって押さえ込まれる。今は喋るな、という合図である。

すぐに口を閉ざした信に、宦官はゆっくりと頷く。

「…これから后の身柄は宮廷で保護する」

目の前にいる宦官の正体が、自分の恋人であることを察した信は安堵と嬉しさが交じり合ったぎこちない笑みを浮かべてしまう。

(そっか…俺、一人じゃねえんだ)

それまで自分一人で全てを守り切らねばという不安と重責を抱えていた心が、羽根のように軽くなっていくのを信は確かに感じていた。

誰を信用して良いか分からなくなった雁字搦めの状況で、宦官に扮した桓騎の存在は、暗闇に差し込んで来た希望の光だった。

いつから桓騎があの宦官に扮していたのかは分からないが、冷え切っていた信の心はすっかり温かくなっていた。

食事が運ばれて来る前に、粥だと告げたのも、匙に警戒しろという忠告だったに違いない。

「…后の身柄を宮廷へ引き渡した後、大王様にも侍女頭の件を報告をして来る」

信が手に持っていた文を桓騎が奪い取り、さり気ない仕草で袖の中にしまう。

犯人が書いたものだとばかり考えていたのだが、冷静になって考えると、自分宛てと言われたはずなのに、信の名前はどこにも記されていなかった。

(…じゃあ、やっぱり、あの文…)

記憶の糸を引き戻すが、やはり侍女頭の肩を貫いた弓矢に文など括られていなかったはずだ。

―――つまり、あの文は犯人が書いたものではなく、犯人の次の動きを読んだ桓騎から信への言伝である。

桓騎は既に、侍女頭の他に別の犯人がいると目星をつけているらしい。侍女頭に矢を撃った者だろうか。

もしも他の者たちにこの文の内容が広がれば、宮廷にたちまち噂が広まり、嬴政の護衛が強化されるだろう。そうなれば嬴政を狙っている犯人が身動きを取れず、隠れてしまうかもしれない。

他に犯人がいることを信以外に告げないのは、確実に犯人を誘き出す意図をあるのだろう。相変わらず味方に作戦を告げない男だと信は苦笑した。

「…それと、大王様から今宵、伽に来るようにと」

「え?」

報告会の呼び出しに、信は驚いて目を見開いた。

侍女頭が向に毒を盛ろうとした犯人であることはまだ嬴政の耳には届いていないはずだが、この適時にその呼び出しが来たのはきっと偶然だろう。

嬴政の身に危険が迫るとすれば、見張りや護衛が少なくなる夜間のはずだ。

もしも犯人の方から寝室にやって来るのなら、迎え撃てば良いだけである。桓騎もそう考えているに違いない。

「ああ、分かった」

「これから后の身柄を宮廷へ移す」

「…大丈夫なのか?」

信は不安げに尋ねた。桓騎が宦官に扮しているのは恐らく独断での行いで、正式な許可を得たものではないはずだ。

後宮に務めている宦官たちは同じ仕事着をしており、仮面で顔を隠しているため、恐らく気づかれてはいないだろう。

しかし、后と行動を共にすれば、いくら顔を隠しているとはいえ、目立つに違いない。もしも桓騎が宦官に扮して後宮に潜入していたことが気づかれれば、騒動になることは目に見えていた。

心配すんな・・・・・何も問題ない・・・・・・

周りに誰もいないことを確かめてから、桓騎が普段の口調に戻った。

「まあ、それなら、良いけどよ…」

桓騎がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。不思議な説得力を持つ彼の言葉に、信は大人しく頷いた。

仮面で覆われており、口元くらいしか分からないのだが、正体が分かるとやはり隠し切れない彼の雰囲気や仕草が浮き彫りになっていく。

「…信」

「ん?」

急に桓騎が体を屈めたかと思うと、仮面で覆われている彼の顔が、視界いっぱいに映り込んだ。

「―――」

唇に柔らかい感触が押し当てられたのはほんの一瞬のことで、信が瞬きをした時には既に桓騎は顔を離していた。

「え……えっ?」

「今夜には全て終わらせる。さっさと帰るぞ」

向がいる部屋に入ると、桓騎は再び別人のように口調を変えて、向に宮廷へ移動する旨を説明し始める。

背後でその声を聞きながら、廊下に残された信は、桓騎に口付けられたのだとようやく理解して、耳まで顔を真っ赤にさせたのだった。

 

後編はこちら

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ユーフォリア(昌平君×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ヤンデレ/無理やり/メリーバッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

身の潔白

正面から昌平君の視線を痛いほど感じる。震える手で帯を解こうとするのだが、力が上手く入らない。

この行為は自分が李牧と姦通をしていないことを示すことが目的であり、それ以上の意味はないはずだ。

しかし、信は緊張のあまり、その手を進めることが出来ずにいた。

青ざめたまま動き出せずにいる信を見て、昌平君が呆れたように溜息を吐く。

「…薬で眠らせている間、お前は李牧の名を呼んでいた」

信が目を見開く。

治療のために幾度も薬で眠らされていたのは知っていたが、意識がない間に自分があの男の名前を呼んでいたと聞かされて、信は愕然とした。

無意識とはいえ、どうして自分が仇である男の名前など口に出していたのだろう。

「…このままでは、密通の重罪は避けられぬだろうな」

容赦ない言葉を投げ掛けられて、信はもう何も考えられなかった。

「し、信じてくれ…俺は…」

今にも泣き出してしまいそうな弱々しい表情で、信は必死に昌平君に訴える。

「ならばあの男に破瓜を捧げていないことを証明してみせろ」

「………」

そんなことを言われても、信は戸惑うことしか出来ない。

いつまでも狼狽えている信に痺れを切らしたのか、昌平君は彼女の体を横抱きにして、寝台の上に投げつけた。

「な、なにっ…!?」

「大人しくしていろ」

驚愕している信の体を組み敷くと、昌平君の手が容赦なく帯を解いた。着物の襟合わせを捲られていき、傷だらけの素肌が露わになる。

昌平君に肌を見せるのは初めてのことで、信は羞恥と不安が入り混じり、すぐにでも泣き出してしまいそうな弱々しい表情を浮かべた。

しかし、拳を白くなるほど握り締め、抵抗をしないでいるのは、今この状況で唯一出来る意志表示だった。ここで昌平君に抗えば、ますます趙との密通に関する疑惑を向けられてしまう。

羞恥心に顔を染めながら、強く目を瞑り、信は奥歯を噛み締めていた。

視界を閉ざしていても、昌平君からの強い視線を感じる。

「っ…!」

やがて、彼の掌が傷だらけの素肌に触れ、信は思わず息を詰まらせた。

膝裏を掴まれたかと思うと、すぐに足を大きく開かされる。自分でも触れることのない淫華に、昌平君の視線が向けられたのがわかった。

「ぅ…うう…」

男に破瓜を捧げていないのは、自分自身が分かっている。それを言葉以外で証明する方法が浮かばないのが歯痒かった。

爪を剥がれたり、指を砕かれたり、痛みを耐えるだけの拷問ならばまだ良い。自分が敵の宰相と姦通をしていないことを証明する辱めを受けていることに、信はついに涙を零してしまった。

泣いたところで密通の疑いが晴れる訳ではないと信自身も理解しているのだが、溢れ出る涙は堰を切ったかのように止まらない。

趙の伏兵による奇襲のせいで兵の大半を失ったことも、戦況を傾けてしまったことで、此度の戦の敗因は自分にあると信は自責していた。

だが、軍の総司令官である昌平君から密通を疑われたことは、何よりも彼女の心に深い傷をつけた。

あの時、趙の伏兵に気付けていれば、奇襲にも怯まず、秦を勝利に導いていればこんなことにはならなかったのだろうかと考える。

すすり泣いている信に一目もくれず、昌平君の指が花襞を指で押し広げた。

男との経験がない信には、どういう方法で破瓜を捧げていないか見分けるのか分からない。ただ昌平君に身を委ねていれば良いのだろうが、この辱めはいつまで続くのだろうか。

「んぅ、ぅ…」

淫華を確認するように、指が入口を上下になぞる。自分でも触れない場所に他人の指が触れる刺激に、信は体を強張らせた。

反射的に閉じてしまいそうになる脚を、淫華を弄っていない方の手で押さえ込まれる。

「ぅう”う”ッ」

狭い其処に乾いた指が捻じ込まれる痛みに、噛み締めた奥歯からくぐもった悲鳴を洩らした。

「ぅ…っ…」

指を引き抜かれ、信はほっと息を吐いた。破瓜を捧げていないことを分かってもらえたのだろうかと、涙で潤んだ瞳を開ける。

しかし、昌平君が足の間に顔を寄せていて、熱い吐息が吹き掛けられたことに信は悲鳴に近い声を上げた。

「ひぃッ…!?やッ、ぁあッ―――!?」

何をしているのだと問うより先に、先ほど指を挿れられていた淫華に舌を這わせられる。

身の潔白を示すために、抵抗はしないつもりだったのだが、驚愕のあまり、信は昌平君の髪を掴んでその頭を引き剥がそうとする。

しかし、女の官能をつかさどる其処をぬめった舌で刺激されると、それだけで信の体は動けなくなってしまう。

花襞を掻き分けて、薄紅色の粘膜の中に舌が入り込んで来る。乾いた指と異なり、唾液が滴っているせいか先ほどのような引き攣る痛みはなかったのだが、それでも異物が入り込んで来る違和感に信は戸惑った。

「やぁ、放せッ」

舌を差し込むことが、破瓜を確かめる行為とは思えず、信は身を捩って逃げようとした。まだ完治していない左足の傷が引き攣るように痛む。

ようやく昌平君が其処から顔を離したかと思うと、今度は覆い被さって来る。彼の端正な顔が近づいて来て、信が言葉を発する前に、唇が重なった。

「んぅっ…」

視界いっぱいに昌平君の顔が映り込んでおり、唇を覆う柔らかい感触に、彼に口付けられているのだと少し遅れてから察した。

敷布の上に手を押さえられ、指が交差する。まるで恋人同士のような繋ぎ方に、信の頭の隅に、縫合の処置をされた時のことが浮かんだ。

先ほどまで淫華を愛撫していた舌が口の中に入り込んで来て、信は青ざめる。

「ん、んーっ、ぅうっ…!」

どうして彼に口付けられているのか理解出来ぬまま、信はくぐもった声を上げていた。

 

身の潔白 その二

昌平君の体を突き放そうとするが、上手く力が入らない。

代わりに口内に入り込んで来た舌に歯を立てて抵抗を試みるが、昌平君は口づけをやめようとしなかった。逆上して殴られた方がまだマシだった。

「んうッ、んんぅ―――ッ!」

唇を重ねながら、淫華に再び指が差し込まれる。先ほどまで昌平君が舌で愛撫していたせいか、唾液の潤いを利用して、奥深くまで二本指が入り込んで来た。

自分でも触れたことのない場所を擦られる耐え難い感覚に、信の表情に嫌悪感が浮かぶ。

「はあっ…」

ようやく唇が離れると、信は肩で息をしていた。

何をされているのか理解出来ない困惑と不安と羞恥が混ざり合った複雑な表情で、彼女は昌平君を睨み付ける。

「ふ、ふざけんなッ…!何してッ…」

「李牧に破瓜を捧げていないんだろう?」

昌平君が冷たい瞳を向けた。

当たり前だと言い返そうとした瞬間、中で指を動かされて、信は声を喉に詰まらせてしまう。

「男と経験があるように思えるが?」

指が動かしやすくなっているのは、唾液だけでなく、淫華の蜜が溢れ出て来ているからだ。粘り気のあるその蜜の分泌は、身体が本能的に男を求めている何よりの証拠である。

「ち、がうっ…!」

中で昌平君の指が動く度に蜜がどんどん滲んでいくことを、信も自覚していた。しかし、それは自分の意志一つで制御することは出来ない。

「ひぃ、んっ…」

二本の指が引き抜かれ、持て余していた親指で花芯を擦られると、信が自分でも驚くような甲高い声を上げた。

全てが初めての刺激であり、戸惑うことしか出来ない信に、昌平君が呆れたように溜息を吐く。

「これほどまでに抱かれ慣れていたのなら納得できる。性に狂い、浅はかに情報を渡したか」

李牧との関係を認める言葉に、信は首を大きく横に振った。

父の仇である男に身体を開発され、快楽を求めるあまり、見返りに情報を提供したと思われており、信は止めどなく涙を流した。

「違う、ちがうっ…!ほんとに、してないっ…!」

どれだけ訴えても、こんな辱めを受けても一向に信じてくれない昌平君に、信は幼子のように泣くことしか出来なかった。

「ど、したら…信じて、くれるんだよッ…」

自分の身が処女であることを証明する術が分からない信には、彼に選択を委ねるしかなかった。

それが昌平君の策であったとしても、信が気づくことはない。策であることさえ気づけぬように仕組んでいたのだから当然のことである。

昌平君の口元が僅かに緩んだことにも、信は気づくことはなかった。

「…指だけでは分からぬ。直接確かめよう」

「え…?」

戸惑ったように眉根を寄せる信に、昌平君は再び足を大きく開かせ、腰を割り入れる。

下衣を持ち上げている男根の存在を認識し、信がひゅ、と息を飲む。まさかという目で信が昌平君を見やる。

指だけでは届かぬ場所に男根を突き挿れて、処女膜の裂傷による出血を確かめようというのだ。

男と経験のない信であっても、行為の知識はある。自分の身の潔白を示すためとはいえ、ここで破瓜を捧げることになるとは思わず、信は狼狽えた。

大将軍の座に就いた以上、女としての幸せは手放したつもりだった。

嬴政の金剛の剣として、秦を勝利に導いていければそれで良いと思っていたのだが、そんな自分が男に身を捧げることになるだなんて微塵も思っていなかった。

唇を戦慄かせて怯えている信を、昌平君は黙って見つめている。

無理強いはしないという意志の表れだった。

しかし、それは決して信を気遣うものではなく、ここでその身が処女だと証明して、密通の疑いを晴らさねば、信の大将軍としての未来は潰えるという無言の脅迫でもあった。

「わ、わかっ…た…」

情けないほど声を震わせて、信は頷く。彼女がそう答えるのを昌平君は手に取るように分かっていたし、受け入れざるを得ないことも知っていた。

 

破瓜

破瓜は痛いものだという知識を得たのはいつだっただろう。

飛信軍の兵たちにも妻子を持つ者は多く、中には尾平のように、幼馴染だった女性と結ばれた者もいる。酒が入った中で、愛する女との初夜を語り合う無粋な兵もいたが、その話の中で破瓜の痛みに打ち震える姿に欲情してしまったという話を信は聞いていた。

女である以上は誰もが通る道なのだとその時は考えていたが、実際にその状況に追い詰められると、なかなか覚悟が出来ないものである。

しかし、信は逃げなかった。自分の身の潔白を示すためにはこうするしかないのだと、その表情に、諦めの感情さえ浮かべていた。

しゃっくり交じりの泣き声を聞きながら、昌平君は少しも表情を変えないまま、彼女の細腰を引き寄せた。

先ほど信の身体を愛撫していた時から勃起し切っていた男根の先端を、淫華に押し当てる。
目を瞑りながら、未知なる痛みに構えている信を見下ろして、昌平君は思わず唇に苦笑を浮かべていた。

「信」

「ぅ…」

名前を囁くと、それだけで信の身体がびくりと跳ねる。

昌平君は敷布の上に力なく倒れている信の手に指を絡ませた。縋るものを見つけた信は、彼の手の甲に指を痛いくらいに食い込ませる。

「…息を吐いていろ」

言いながら腰を前に押し進めていくと、信の閉じた瞼から涙が伝う。

「ぁあああッ」

男根を受け入れた其処は、相変わらず・・・・・狭くて、昌平君は息を詰まらせた。

「ぅううっ、ふ、ぅぐ…」

喉から絞り出すような悲鳴を上げた信は初めての感覚・・・・・・に戸惑うことしか出来ない。

淫華が限界まで口を開いて、男根を飲み込んだ。一番奥まで男根の切先が届くと、信は肩で息をしながら額に脂汗を滲ませていた。

「ぁ、はあ…」

想像していたような破瓜の痛みを感じなかった・・・・・・信は、安堵したような、戸惑ったような、複雑な表情を浮かべながら息を吐いている。

昌平君は信の額に唇を落とすと、

「…情報漏洩だけでなく、李牧と姦通までしていたか」

刃のような冷たい声を零した。男根を受け入れて息を吐いていた信が、その言葉を聞いて瞠目する。

「え…」

結合している部位に指を這わせ、昌平君が耳元で低く囁く。

「ここに男を咥え込むことに、随分と慣れているようだな」

「―――ッ」

処女ではないことを疑われ、信は泣き叫びたくなった。

意を決して昌平君の身を受け入れたというのに、密通の疑いが晴れないどころか、さらに疑われることになるだなんて。

「してないっ…ほんとにっ、俺は…秦を裏切る真似なんてっ…」

いよいよ耐え切れず、信は幼子のように声を上げて泣き出した。

嗚咽を交えながら、必死に身の潔白を訴える信に、昌平君は構うことなく律動を送る。

「やあぁっ、ぁあっ、やめっ…」

男根が激しく出し入れされる度に、信は背中を反らして、白い喉を突き出す。嫌悪だけじゃなく、淫らな声を上げる信に驚いていたのは、彼女自身だった。

「なっ、んでぇッ…ちが、ちがうぅっ…俺はぁッ、ほんとに…」

硬い男根に奥を突かれる度、勝手に声が上がってしまう。

破瓜はただ痛いものだと思っていた信は、こんな風に内側から爆ぜられる快楽があるだなんて知らなかった。何の感情かも分からない涙が止めどなく流れ、頬を濡らしていく。

「信っ…」

腰を動かしながらも、昌平君が身を屈めて涙で濡れた頬に唇を寄せて来た。

「んんぅッ」

唇を重ねられると、自分の涙の塩辛い味がして、信はくぐもった声を上げる。

淫らな水音と共に肉のぶつかり合う音が響き渡る。汗ばんだ素肌と、昌平君の荒い息遣いを感じ、信は怯えたような瞳を向けた。

「待っ…も、もうっ…」

これ以上はやめてくれと、言葉を途切れ途切れに紡いで訴える。

奥を突かれる度に自分が自分ではなくなってしまいそうな耐え難い恐怖もあったのだが、男女が身体を重ねる行為が本来何をするためのものかを信も分かっていた。

このままでは昌平君の子を孕んでしまうと恐れた信は必死に彼の体を突き放そうとする。

しかし、敷布の上で絡ませ合っている両手を、昌平君は離してくれなかった。両足をじたばたと動かしながら、信は首を横に振る。

「だめだッ、やめ、も、もうやめてくれッ」

悔しいが、李牧との姦通の疑いが晴れなかったことはもう分かったはずだ。これ以上、この行為に意味はない。

聡明な昌平君も分かっているはずなのに、少しも放してくれる気配がなく、信は戸惑った。信の首筋に顔を埋め、荒い呼吸を繰り返しながら、腰を揺すっている。

「な、なんでっ…!」

どうしてやめてくれないんだと信が泣きながら訴えるが、昌平君は何も答えない。

淫華の感触を男根で心ゆくまで味わうように、子宮を押し上げられて、信は悲鳴交じりの声を上げた。

「くっ…」

やがて、耳元で低い唸り声がして、信はまさかと青ざめた。

「い、いやだッ、やだ、放せッ、やだあッ」

淫華に埋め込まれた男根は、楔のように固く動かない。

敷布の上で両手を軽々と押さえ込まれると、いかに大将軍の座に就いていても、自分は女なのだと認めるしかなかった。

「―――ッ」

…やがて、中で男根の脈動を感じるのと同時に、熱い何かが弾けたのを感じて、信は限界まで目を見開いた。

 

何度目かの情事

「ぁ、……ぁ…」

唇を戦慄かせるが、驚愕のあまり声が喉に張り付いて、掠れた吐息しか出て来ない。

ようやく最後の一滴まで吐精を終えると、昌平君は信の体を抱き締めたまま動かなかった。彼の腕の中で、信はしゃっくりを上げながら泣いた。

敵国の宰相と通じていたことを否定するはずの行為だったのに、いつの間に凌辱へ目的がすり替わったのだろう。

「な、んで…」

掠れた声で紡いだ言葉が、昌平君の耳に届いたらしく、彼はゆっくりと身を起こした。しかし、未だ深く突き刺さったままの男根を抜く気配は見せない。

「ん、んぅ…」

信と体を繋げたまま、昌平君は彼女にそっと口づけた。もはや抵抗する気力もない信はされるがままに舌を吸われ、絡め取られる。

長い口づけを終えてから、昌平君が静かに口を開く。

「…李牧と姦通していないことは知っていた。元より、密通などしていないことも」

昌平君の言葉を聞き、信は驚きのあまり、言葉を失う。

「お前を薬で眠らせている間に、破瓜を奪ったのは私だからな」

「――――」

全身の血液が逆流するような、おぞましい感覚が走る。

既にこの身体は処女ではなかったのだと教えられ、未だ昌平君の男根を受け入れている部分が鈍い痛みを覚えた。

薬で深い眠りに落とされ、その間に昌平君によって破瓜を破られていたのだと分かり、信は言葉を失った。

(なんで…そんなこと…)

昌平君が破瓜を奪ったのも、李牧と姦通していないことを知りながら、密通の疑いを掛けただけでなく、処女だと示せと不要な取引を持ち掛けたのも、信には全く理由が分からなかった。

震える手で、信は自分の下腹部に手をやった。薬で強制的に寝かせられ、抵抗も出来ないまま、この体は彼にどれだけ犯されていたのだろう。

しかし、昌平君の屋敷に身柄を移された理由はそこにあるような気がした。

「な、なん、で…?」

絞り出すような声で信が問うと、昌平君の瞳が楽しそうに細まっていく。

「お前が眠っている間、既に密通の疑いがあることを大王様に告げておいた。此度の敗因を理由に、大将軍の座から降ろすこともな」

信がその言葉の意味を理解するまでに、やや時間がかかった。

密通の疑いがあると疑われ、信は自分の無実を示すために、彼にこの身を委ねたというのに、昌平君は既に嬴政に告げていたというのだ。

嬴政がそれを了承したのかは分からないが、既に大将軍の座から降ろされることが決まっており、信は愕然とするしかなかった。

「そ、んな…だって、お前、俺が密通なんてしてないって、分かってて…!」

「そうだ。その上で、お前を大将軍の座から降ろした」

当然のように返した昌平君に、信は恐怖に近いものを感じた。

今まで共に秦国のために戦って来た仲間であるはずなのに、中身だけが全くの別人のように思えてしまう。

嫌な予感がして、胸が締め付けられるように痛む。

治療のために薬で眠らされていたのは知っていたが、自分の意識がない間に、この体の破瓜を破り、嬴政に密通の疑いがあることを告げて大将軍の座から降ろしすことを決めたと昌平君は言った。

…しかし、本当にそれだけだろうか。

秦の未来を想えばこそ、密通の疑いがある者を排除するのは当然だ。ならば将軍の座から降ろすことより、凌辱を強いることより、処刑にしてしまえば良い。軍略や内政について詳しくない信でさえ分かることだ。

大将軍の座から降ろし、凌辱を強いても、それ以上の厳しい処罰を下すつもりがない矛盾に、軍の総司令官にまで上り詰めたこの怜悧な男には、別の目的があるのではないかと考えた。

「俺が、邪魔なら…こ、殺せば、良いだろッ…!」

体を震わせながら、切羽詰まった声で問うと、昌平君はすぐに答えず、彼女の左足を掴んで持ち上げた。脹脛ふくらはぎには縫合されるほど深い傷があったが、今はもう塞がりかけている。

何の躊躇いもなく足の指に舌を伸ばした昌平君を見て、信がひっ、と短い悲鳴を上げた。

「大王様が、お前の密通を素直に認めたと思うか?」

「……、……」

信は唇を噛み締めた。自分が趙と密通しているだなんて、嬴政が信じるはずがない。

もしもそんなことがあれば、真相を確かめに、自ら信に問い質すだろう。秦王自らがそのような行動に出るほど、信の忠義は厚いものだった。

信が処刑を免れて、大将軍の座を降りることだけで済んだのは、嬴政の慈悲なのだろうか。

「…今は情報操作を行っており、私と大王様、それと河了貂だけがお前の密通の疑いを知っている」

涙で濡れた目をつり上げて、信は昌平君を睨み付ける。

信の密通の疑いをでっち上げたのは昌平君本人だというのに、まるで真実のように嬴政と河了貂にその嘘を信じ込ませようとしたのだ。

どうしてそんなことをしたのか、信には昌平君の目的がますます分からない。彼こそが密通者で、秦国を陥れようとしているのではないかとさえ思った。

「今は療養のために身柄を預かると伝えているが…もしも密通の疑いが秦国中に広まれば、混乱は確実。大王様がいかに寛大なお心を以てしても、お前の処刑は免れぬだろうな」

「そ、んなっ…」

目は閉じていないはずなのに、信の目の前が真っ暗になっていく。

父の仇だけでなく、多くの兵たちの仇を討つことも叶わず、それどころか憎い男と密通の疑いを掛けられて首を落とされることになるなんて、今の状況など比べ物にならないほど耐え難い屈辱だった。

「趙との密通の疑いを秦国に広めないためには、このまま私の妻になるより、他に道はない」

「―――」

それは信が二度と戦場に立てなくなることを意味していた。

眠っている間にも腹に子種を植え付けられていたのだから、どのみち戦に出られなくなるのは信も分かっていた。

父の仇をこの手で討つことが出来なくなるのかと思うと、悔恨の想いが胸を支配していく。

しかし、昌平君は容赦なく、信に刃のような冷たい言葉を投げつけた。

「お前は何も案ずることなく、ここで私の子を孕めばいい。それとも、裏切り者として中華に汚名を広めるか?」

選択を突きつけるように見せかけ、いつだって昌平君は一つの道しか与えない。自分の妻になるよう、信にずっとその道を歩ませていたのだ。

…どうしてこんなことになってしまったのだろう。

頭の中で、何かが砕けていく小気味良い音を、信は確かに聞いたのだった。

「こんな姑息な方法でしか、お前を手に入れられなくて、すまない」

「………」

「愛している、信」

優しく抱き締められて、耳元で囁かれる昌平君の優しい声も、その小気味良い音と共に、信の頭の中に響いていた。

 

幸福な日々

妻の髪を櫛で梳きながら、そういえばすっかり髪が伸びたなと昌平君は考えた。

色素が抜けてしまった信の髪は、差し込む温かい日差しを浴びて、きらきらと輝いて見える。

濡羽色をしていた髪も好みだったが、汚れのない純白も彼女の魅力を際立たせている。どんな宝石よりも美しい髪に昌平君は指に絡ませて、つい口付けていた。

温かい日差しを浴びているうちに、うたた寝をしていた信の頭がかくんと大きく傾く。弾かれたように、はっと顔を上げた。

「眠いのなら寝ていろ」

再び信の髪に櫛を入れながら、昌平君が声を掛けた。

「だ、大丈夫だ…悪い…」

うたた寝をしてしまったことを恥じらうように信は顔を赤らめて縮こまる。櫛で丁寧に梳かし終えた後は、昌平君は彼女の髪を結っていく。

高い位置で髪を結い終えると、信がゆっくりと顔を上げた。

「…夢、見てたんだ」

「夢?」

昌平君が聞き返すと、信が小さく頷いた。

「俺、馬に乗ってた…それで、戦場にいたんだ…」

妻の夢の内容を聞き、昌平君が僅かに顔をしかめた。

「たくさんの味方の顔、敵兵の顔も、全部、全部…馬の上から見てた」

それは大将軍が見る光景だったのだろう。そうか、と相槌を打った昌平君が信の項に唇を落とした。

「敵兵が襲って来るんだけどよ、俺が剣を振るうとみんな吹っ飛んでくんだぜ。それで、敵の本陣に突っ込んでいくんだ」

あはは、と信が笑う。

それが夢ではなく、彼女が実際に見ていた景色であり、彼女自身の力で敵兵を薙ぎ払って作った道だということを、信はもう覚えていない・・・・・・・・

「飛の旗がたくさんあって…なんか、飛信軍の女将軍になった気分だった」

「…それは、おかしな夢だな」

昌平君が信の腕をそっと掴む。筋力の衰えた腕は以前にも増して細くなっており、昌平君が力を込めれば簡単に折れてしまいそうだ。

最近は昌平君が傍にいる時にしか外に出ないせいか、日に焼けず、肌の色もますます白くなっていた。肌に刻まれた傷痕も新しいものが上書きされないせいか、どんどん薄くなって来ている。

まさか彼女が中華全土に名を轟かせた飛信軍の女将軍など、誰も気づかないだろう。信自身ですら気づいていないのだから。

「お前は不運にも戦に巻き込まれただけ。このような細い腕で、武器など振るえるはずがないだろう」

「うん。だから、変な夢だなあって思ったんだ」

昌平君の言葉を微塵も疑うことなく、信は素直に認めた。

剣を握ることで出来ていたマメも、戦で受けた傷痕も、信にとっては身に覚えのないものなのだが、全て戦に巻き込まれて出来た傷痕なのだという昌平君の言葉を、彼女は疑わなかった。

背後から信の体を抱き締めた昌平君は、彼女の首筋に顔を埋めた。突然抱き締められたことに、信は小首を傾げている。

「…すまなかった」

「え?」

どうして昌平君が謝罪するのか、理由が分からず、信は小首を傾げた。

「全ては、私の責だ」

「………」

信が記憶を失うことになってしまったことを謝罪しているのだろうか。軍の総司令官という立場である以上、戦を起こしたことに感じているのかもしれない。

気にすることはないと信が告げる前に、昌平君が口を開く。

「…結果的に、お前を妻として娶れたことに喜びを感じている。…悪い夫だろう」

髪を撫でられながら、信はそんなことないと首を横に振った。

飛信軍を率いていたことも、王騎と摎の養子として育てられたことも、髪の色と同じように、信の記憶からは綺麗に抜け落ちてしまったのだ。

医師団が治療のために用いたあの香には、陶酔感をもたらす他に、もう一つ特別な作用があった。

―――総司令官様、もう一つお伝えしたいことが…

―――なんだ?

―――信将軍が治療に協力してくださらないために用いていますが、本来はこれ以上の使用を禁じております。

左足の傷口を縫った後、医師が昌平君に香の危険な作用についてを説明していた。

―――この香は眠りの作用を持続させることを目的としていますが、あまり使い過ぎると、記憶を失うことがあるのです。

それは副作用のようなものだと医師は言葉を続けた。

酒を飲んだ時のような陶酔感をもたらせる効果があると聞いていたが、過度に使用すると記憶を失うのだという。

それが一時的なものなのか、長期的なものなのかは分からない。記憶を司る脳の部分にどういった影響をもたらしているのか、今の医師団の医学を以てしても証明出来ないため、過度な使用を禁じているのだという。

あの時点で、信は何度も薬と香を使って眠らされていた。それゆえ、医師団たちも彼女が大人しく治療に協力してくれないことに苛立っていたのだという。

前例があったことから注意をしていたようだが、香を使い過ぎることで、記憶を失わせるという効力は確かに実証された訳だ。

治療にも用いられる香ではあるが、催淫効果のある香でもある。呂不韋がこの香を使って女と楽しんでいたように、乱用してしまう者もいるのかもしれない。薬も使い過ぎれば毒という訳である。

今の信には、最愛の両親のことも、飛信軍の将として幾度も死地を駆け抜けたことも、多くの民や兵に慕われていたことも、何もかも記憶から消え去っていた。

今の彼女が覚えていること・・・・・・・といえば、戦で家族を失った孤児として、昌平君の屋敷に侍女として仕えていたこと。主である昌平君と恋仲になり、妻として迎え入れられたこと。そして、不慮の事故で記憶を失ってしまったことである。

記憶を失ったにも関わらず、以前と変わらぬ愛情を注いでくれる優しい夫と、腹に宿っている子の命に、愛情を向けることで信の心は平穏でいられた。

抜け落ちた記憶を、昌平君の言葉で埋めていくと、信は従順なまでに妻としての役割を果たすようになった。

「…でも、少しだけ…残念だなって思ってることがある」

頬を赤くしながら、信が目を逸らした。

「きっと…初めての夜は、昌平君が優しく導いてくれたのに、忘れるなんて、勿体ねえことしたなって」

その言葉を聞いた昌平君がはっと目を見張る。信はさらに顔を赤くしながら、恥ずかしさのあまり俯いてしまう。

最初からそんな初夜は存在しない・・・・・というのに、夫から掛けられた愛の言葉も、重ね合った肌も、破瓜の痛みも、信にはすべてかけがえのないものだった。

昌平君の子を身籠っていることから、信はきっと最愛の夫と甘い初夜を過ごしたに違いないと信じ切っているのだ。

羞恥のあまり顔を真っ赤にして黙り込んでしまった妻に、昌平君は堪らなくなり、彼女の顔を持ち上げて口付けていた。

「ん…」

信の手が昌平君の着物を遠慮がちに掴む。接吻を受け入れるように、もっと欲しいと強請るようなその愛らしい態度に、昌平君の胸に温かいものが広がった。

あの日、目を覚ましてから全ての記憶を失っていた信は、昌平君からお前は私の妻だと言われ、さぞ混乱したに違いない。

しかし、彼女は昌平君のことを受け入れた。記憶のない彼女が頼れるのは、夫だと名乗る昌平君しかいなかったのだ。

信は記憶を失ったことに悲しむことはない。何も覚えていないのだから、悲しむ理由がないのだ。

…触れるだけの優しい接吻を終えると、風が強まって来た。

「風が出て来たな。そろそろ中へ戻るぞ」

信の腰元に手を当てて、昌平君は彼女の手を引いた。

「あ、自分で歩ける…」

大丈夫だと声を掛けるが、昌平君は彼女の体から手を放さない。

「もうお前だけの体じゃない」

「…うん」

信ははにかみながら、夫に手を引かれながら歩き始めた。なだらかに突出している腹は、臨月が近い証拠だった。

一度、香の作用が抜けてしまったのか、信が一時的に記憶を取り戻したことがある。

昌平君の子を身籠った腹を見て青ざめた彼女は、泣きながら屋敷から逃げ出そうとした。扉に取り付けていた鈴が音を鳴らさなければ、従者たちに取り押さえられることなく、逃げられてしまったかもしれない。

しかし、彼女にはもう将軍としての地位は残されていない。ここから逃げ出したとしても、昌平君の腕の中にしか、信にはもう帰る場所はないのだ。

何も案ずることはないと言い聞かせながら、あの香を焚けば、信は再び深い眠りに落ちていき、目を覚ました時には逃げ出そうとしたことも忘れていた。

「…あのさ」

歩きながら、信が思い出したように口を開く。

「昌平君は…飛信軍の、女将軍のことが、好きだったんだな」

飛信軍の女将軍。まさか信の口から再びその言葉が出ると思わず、昌平君は彼女を見た。

秦国を幾度も勝利に導いた女将軍の話を彼女にしたことはあったのだが、昌平君がその女将軍に好意を寄せていたことは、今の彼女には一度も話した覚えはなかった。

「…何故そう思う?」

まさか記憶を取り戻し掛けているのだろうかと、昌平君の瞳が僅かに揺らぐ。

しかし、信が発した言葉は予想に反したものだった。

「だって…お前がいつも、その女将軍の話をする時は、俺に話し掛けてくれる時と同じ、優しい目をしてるから」

まるで嫉妬を感じさせるような彼女の言葉に、昌平君は思わず口元を緩めた。

「私が愛しているのはお前だけだ、信」

唇を重ねると、受け入れるように信はゆっくりと目を伏せた。舌を絡ませ合い、信は優しい夫の愛に応えようとする。

たとえ、何人に偽りの愛と罵られても構わない。今の信の心はここにあるのだ。その事実さえあれば、昌平君はそれで良かった。

全てが目の前にいる男の策略通りに進んでいることなど、信はこれから先も疑うことはないだろう。

 

番外編(本編で割愛した初夜シーン・後日編)はこちら

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ユーフォリア(昌平君×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/李牧×信/ヤンデレ/無理やり/メリーバッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

目覚め

次に信が目を覚ましたのは、それから七日後のことだった。

途中で水を飲まされたり、食事を食べさせられることはあったのだが、ほとんど意識が朦朧としていたため、よく覚えていない。

恐らく水と食事にまた同じ薬を盛られて、眠らされ続けていたらしい。

目を覚ました時に、信が強く感じたのは体の怠さだった。ずっと横になっていたせいか、特に腰の辺りが痛む。

「うう…」

ぼんやりとする意識が徐々に鮮明になって来たが、信は自分はなぜここにいるのかを思い出せずにいた。

傷を癒すために付きっきりで看病していた侍女はちょうど席を外しており、部屋には信一人だけだった。

ゆっくりと上体を起こすと、くらりと目の前が揺れた。ずっと横になっていたせいで立ち眩みと同じ症状を起こしたようだ。

眩暈が落ち着いてから、信は寝台から足を降ろす。再び眩暈がして、信は立ち上がれずに座り続けていた。

(早く、遅れた分を取り戻さねえと…)

ずっと休んでいた間、筋力がすっかり衰えてしまっているのが分かった。

傷口の処置をした後は必ず熱が出る。そのせいで筋力だけでなく、体力も随分と衰えてしまったのだろう。

左足の傷はまだ包帯が巻かれていたが、大分痛みも引いており、塞がり始めているようだ。床に足裏をつけても、左足の痛みはさほど感じない。

枕元に置いてある水甕から水を汲み、信は喉を鳴らして水を飲み込んだ。

「はあ…」

乾いていた喉が潤い、信は長い息を吐く。

包帯が綺麗に巻き直されていることから、恐らく眠っている間も医師団は処置をしに部屋に訪れていたに違いない。

(みんな心配してるだろうなあ…)

…もうそろそろ自分の屋敷に戻っても良いのではないかと考えた。

次に同じ無茶をすれば傷口を焼くと脅されたことは、長い眠りについていた信の記憶からは既に抜け落ちていた。

「…あれ?」

まだ睡魔が圧し掛かっている瞼を擦ると、信は部屋に違和感を覚える。

咸陽宮の一室を与えられていたはずだが、扉の位置が異なっていたのだ。眠っている間に部屋を移されたのだろうか。

「う…」

ゆっくりと立ち上がると、体重が掛かったせいか左足が僅かに痛んだ。

しかし、記憶にあるような激しい痛みではない。確実に傷が治って来ている証拠だ。腰の辺りもずきんと痛む。

左足を気遣いながら扉を開けると、すぐ真上から涼し気な鈴の音が鳴り響いた。

「?」

何の音だと顔を上げると、扉の上方に鈴が取り付けられているのが見えた。

妓女が舞を踊る時に衣裳や小道具に取り付けているようなものだ。どうしてこんなものがあるのだろうと信が不思議に思いながら廊下に出る。

目に飛び込んで来た景色に、信は感じていた違和感が確信となった。

(…ここ、どこだ?)

咸陽宮ではない。見覚えのない廊下に信は驚いて辺りを見渡した。

廊下の向こうからぱたぱたと誰かが走る音が聞こえ、信は反射的に顔を向けた。

 

再会

見覚えのあり過ぎる少女が信の姿を見て、笑顔を浮かべる。

「信!起きたのかッ!」

「テン?」

飛信軍の軍師である河了貂だった。飛信隊を結成した当初からの仲間であり、妹同然でもある彼女とは、此度の戦を終えてから一度も会っていなかった。

久しぶりの再会に信は笑顔を浮かべる。

「久しぶりだなあ、テン」

「このバカッ!」

頭を撫でてやろうと思ったのだが、河了貂は小柄な身柄を活かし、信の手を軽々と避けて、逆に彼女の頭を思い切り叩いた。

一切の容赦がない攻撃による痛みに、信はつい涙目になる。

「いってえな!何しやがる!」

「ひどい傷だったのに、少しも大人しくしないで、みんなに散々迷惑かけてたって先生から聞いたぞ!」

可愛らしい少女の顔が鬼の形相になっており、信は思わず後退りした。

彼女が先生と呼ぶのは軍師学校の師であり、軍の総司令官を務めている昌平君のことだ。信が眠っている間に、昌平君が河了貂にも今までの話をしていたとは。

「つーか、ここ…どこだ?」

叩かれた頭を擦りながら、信は河了貂に尋ねた。

「先生の屋敷だよ」

「ああ、昌平君の…って、なんでだよッ」

医師団がいるという理由で、咸陽宮に療養をさせられていたというのに、一体どうして昌平君の屋敷に来ているのだろう。

恐らく薬で眠らされている間に連れて来られたのだろうが、移動させられた理由が分からず、信は困惑した。

信の反応を見て、河了貂が不思議そうに小首を傾げる。

「そんなの俺だって知らないよ。医師団にあんまり迷惑掛けるから追い出されたんじゃないの?」

「はあ?処置の後は一歩も歩くなとか、散々言っときながら何だよそれ」

七日も薬で眠らされていたことを信は知らなかったのだが、左足の傷は大方塞がりかけていた。無茶をしなければもう傷口が開くことはないだろう。

「でも、移動させられたっつーことは、もう屋敷に帰って良いってことだよな?みんな心配してんだろーな」

ようやく屋敷に帰れるのだと信は安堵の表情を浮かべる。

「うん、みんな…心配してた…」

河了貂が伏し目がちにそう言った。泣きそうになっている彼女に気付き、信は慰めるように頭を撫でてやる。

「心配かけて悪かったって。昌平君に礼言ったらすぐ帰るから」

「………」

少しも河了貂の悲しそうな表情が優れないので、信はどうしたのだろうと彼女の顔を覗き込む。

河了貂の瞳には信のことを心配していたというよりは、まるで二度と会えなくなってしまうような、大きな悲しみが浮かんでいた。

「…テン?どうした」

「俺…俺、信じてるから…!飛信軍のみんなも…!」

「え?」

いきなり河了貂が胸に飛び込んで来たので、信は驚きながら、その小柄な体を抱き締める。

信の胸に顔を埋めている河了貂からすすり泣く声が聞こえる。こんな風に彼女が泣き出すは初めてのことで、信は一体どうしたのだと狼狽えた。

「お、おい?どうした?俺はちゃんと生きてるだろ!」

河了貂は何も言わず、信の体を抱き締めたまま放さない。

…しばらく顔を上げずにいた彼女だったが、ようやく落ち着いたのか、真っ赤な目を擦りながら信から離れた。

「じゃあ、俺は先に戻るから」

「ああ。羌瘣たちにもすぐ戻るって伝えてくれ」

河了貂は無理やり笑みを浮かべて頷いていたが、気が緩めばまた泣いてしまいそうな弱々しい表情をしていた。まるで信にその顔を見られまいとするように、河了貂は背中を向けて行ってしまう。

(…なんだったんだ?)

あんな風に取り乱す河了貂を見るのは随分と久しいことだった。河了貂は幾度も死地を乗り越えて来た仲間であり、飛信軍には欠かせない軍師だ。

戦場に立つ自分たち寄りも重責を担っていることもあって、滅多なことでは涙を流さないはずなのに。

(当然か…)

信が今回の戦で兵を大勢失ったことを悔やんでいるように、河了貂もきっと同じなのだろう。

軍師の武器はその頭脳だ。将や兵たちの命を動かすということは、戦場においては一番の重責を持つことになる。

李牧の策に陥ったことを、大勢の兵たちを失ったことを、河了貂は気に病んでいるに違いない。そうでなければ心の強い彼女があんな風に涙を流すはずがないと信は思っていた。

「…信」

名前を呼ばれて、信は弾かれたように顔を上げた。

「昌平君」

向こうの廊下からやって来た昌平君を見て、信は左足の傷が癒えて来たことを知らしめるように、何ともない顔で駆け寄って見せた。

 

疑い

左足を引き摺る素振りもなくこちらに近づいて来る信の姿に、昌平君が僅かに眉を寄せる。

まだ傷が完全に塞がり切っていないこともあり、心配しているのだろう。しかし、ここまで傷が癒えたのなら、もう普段通りに動かせるはずだと信は疑わなかった。

「…ここ、お前の屋敷なんだろ?なんで連れて来たんだよ」

礼を言う前に、信は素直に疑問を口に出した。

咸陽宮には自分の世話係に任命されていた侍女たちもいたはずだ。信を屋敷に連れて来たところで、従者たちの仕事を増やすだけだろう。

「…他の者に聞かれたくない話がある」

「え?」

信の疑問には答えず、ついて来いと目配せをされ、信は大人しく彼の背中を追い掛けた。

眠っていた部屋に戻って来ると、すぐに扉が閉められた。涼し気な鈴の音が鳴り響いたが、急に重々しい空気を感じる。

昌平君は閉めた扉の前に立ちはだかるようにして、信のことをじっと見据えていた。

扉の前に立ったのは、廊下から気配や物音をすぐに感知するためなのだろう。自分の屋敷だと言うのに、従者たちにも聞かれないよう、細心の注意を払っているようだった。

「…なんだよ。聞かれちゃまずい話って」

昌平君が静かに腕を組む。先ほどの河了貂のように、そっと目を伏せて、昌平君は離しを切り出した。

「河了貂から話を聞いた」

「話?何の…」

尋ねると、それまで伏し目がちだった昌平君の瞳に急に怒りの色が宿った。鋭い視線を向けられて、信は狼狽えてしまう。

びりびりと肌に食い込むような痛みを感じるほど強い敵意を向けられているのだと察し、信は固唾を飲み込んだ。

河了貂の名前が出たことから、信がこれまで療養に専念しないでいたことを怒っている訳ではなさそうだ。昌平君は一体何を怒っているのだろう。

「…私が指示を出した山中の伏兵調査に行ったのは、お前だったそうだな」

「え?あ、ああ…」

此度の戦で、飛信軍が通る道を囲む山に、趙の伏兵がいないかを調査するように昌平君から指示があった。

その調査に行ったのは信と彼女の指示でついて来た五十人の兵たちだ。もしもその場に趙の伏兵がいたのなら、一層してしまおうという目的も兼ねて、信は自ら調査に乗り込んだのだ。

もちろんそれは河了貂や副将である羌瘣からも許可を得て行ったことであり、決して独断ではない。

そのことを責められるような覚えはなく、どうして昌平君がその話を持ち出したのか、信には少しも分からなかった。

信から目を逸らした昌平君が小さく溜息を吐いた。

「なぜ見逃した・・・・?」

「え…」

一体何を問われているのか、信は分からなかった。

「見逃したって…何を…」

「趙の伏兵のことだ」

低い声でそう返され、信のこめかみに鋭いものが走る。まさか伏兵調査に行った自分が、わざと趙兵たちを見逃したと思っているのだろうか。

「お前…まさか俺を疑ってんのかッ!」

弾かれたかのように信は体を動かし、昌平君の胸倉を掴んでいた。

彼女に鬼神の如く凄まれても昌平君は眉一つ動かさない。そして信を疑っていることを彼は否定しなかった。

「では、伏兵調査に協力した兵たちに尋ねよう。具体的にどの道を使い、どこを調査したのかを答えられる者がいるはずだ」

「ッ…」

第三者に趙の伏兵を見逃していないことを証明させろという言葉に、信が悔しそうな表情で奥歯を噛み締める。

山中へ伏兵調査に向かった兵たちは此度の戦で全員がその命を失った。信が趙兵を見逃していないと証明してくれる者は誰もいない。

しかし、軍の総司令官を務める昌平君ならば、此度の飛信軍の被害は分かっているはずだ。それでも、あえて言葉に出したのは、自分自身の目で信の動揺を確かめるためだった。

「お前…何が言いたいんだよ…!」

胸倉を離すと、昌平君は乱れた着物を整えながら、信に冷徹な目を向ける。

「此度の戦の敗因…お前が李牧に作戦を伝えた密通者であると、私は疑っている」

その言葉を聞き、信は目を見開いた。

「そんなことするはずないだろ!李牧は父さんの仇だぞッ」

逆上した信が顔を真っ赤にして怒鳴った。秦の大将軍の立場を語るより先に、父である王騎の仇である男に従うはずがないと言ったのは、今もなお李牧を憎んでいる証拠だろう。

「…秦趙同盟の宴」

昌平君は相変わらず表情を変えず、淡々と言葉を発した。

数年前に解消された同盟だ。どうして当時の話を持ち出すのだろうと信が顔をしかめる。

「あの夜、お前はどこで何をしていた?」

自分に向けられる昌平君の眼差しが疑いのものではなく、完全に敵を見るものになっており、信は愕然とする。

軍の総司令官である昌平君が、本気で秦の六大将軍である彼女のことを密通者として疑っているのだ。

―――俺…俺、信じてるから…!飛信軍のみんなも…!

先ほど河了貂が泣きそうな顔でそう訴えたことを思い出し、信ははっとした。

彼女がそう言ったのは、昌平君が自分に趙の密通の疑いを持っていることを弟子である彼女に告げたからなのだろうか。

自分の無実を証明するためには一体何をすれば良いのか、信は呼吸を乱しながら思考を巡らせた。

王騎の仇である李牧と繋がっているだなんてするはずがない。李牧に復讐心を持っている自分が一体どうして趙国の味方をしなくてはならないのか。

李牧が王騎の仇であり、自分が誰よりも李牧のことを恨んでいるというのに、昌平君に疑われたことが信には悔しかった。

山中の伏兵の攻撃を切り抜け、趙に勝利すればこんな疑いを掛けられることはなかったのだろうか。

全ては自分の弱さが招いたことだと分かり、信はもどかしい気持ちに拳を握った。

「途中で宴を抜けたのは俺だけじゃないだろ」

「そうだ。李牧も途中で宴を抜けていた」

完全に疑われている。どうして自分を信じてくれないのだと信は苛立った。

「…王騎の仇である男と、なぜ二人でいた?」

「え…?」

秦趙同盟の宴は終始不穏な空気に包まれていた。王騎を討った軍略を企てた李牧の存在が影響していたに違いない。

信も王騎軍の者たちも、いつ李牧を殺そうかと機会を狙っていたのだ。宴など楽しめるはずがなかった。もちろん秦趙同盟が結ばれた直後であったため、そのような勝手は許されなかったのだが。

王騎の仇である男と同じ部屋にいたくないと、信は足早に宴を抜けた。

宴の間を出て、屋敷へ戻ろうとした信をあの男が呼び止めたことは、信の記憶には確かに残っている。

そしてまさかそれを昌平君に見られていたとは思わず、信は嫌な汗を滲ませた。

 

回想~密会~(李牧×信)

「―――飛信軍の信」

振り返ると、そこには趙の宰相である李牧がいて、彼は確かに信の名前を呼んだ。

信は反射的に背中に携えている剣に手を伸ばしていたが、鞘から引き抜く寸前で己を制した。

追い掛けて来た上に、わざわざ名前を呼んで振り向かせたのだ。何か用があるのだろう。

同盟さえ結ばれなければすぐにでも彼を斬っていたのに、信は握った拳を震わせて李牧が用件を話し始めるのを待っていた。

「やっと、会えましたね」

あからさまに敵意を剥き出しにしてこちらを睨み付ける信に、李牧がなぜか薄ら笑いを浮かべている。

「せっかくの宴の席ですし、そう怖い顔をしないでください。と言っても、無理でしょうが…」

こうやって直接対峙するのは初めてのことだった。あの父を討った軍略を企てた男としてその名前は何度も聞いていたし、向こうも飛信軍の活躍から信の名前は知っていたに違いない。

しかし、母である摎がそうだったように、信も戦では仮面で顔を隠していた。今は仮面を外していたのだが、初めて素顔を見せるはずの李牧がなぜ自分だと分かったのか、信は疑問を抱いた。

「…なんで俺を知ってる」

「それは愚問ですね。王騎を知らぬ者が居ないように、あなたの存在を知らぬ者もこの中華には居ないはずですよ」

「そうじゃねえ。俺はお前に一度だって、この顔を見せた覚えはねえよ」

どうして李牧が自分の素顔を知っているのかと尋ねると、李牧は人の良さそうな笑みを浮かべた。

「さあ、どうしてでしょう」

「………」

名前を呼ばれて振り返ってしまったが、それは自分が飛信軍の女将軍だと認めたことに等しい。素知らぬ顔で歩いていれば上手く撒けたかもしれないと信は思った。

自分の気付かぬところでこの男の策に陥っていると思うと、腹が立って仕方がない。そうやって王騎もこの男の策に陥れられたのだ。

仇である彼と何も話すことはないと、信は李牧に背を向けた。

しばらく歩き続けていたが、一向に背後から李牧の気配と足音が消え去らなかったので、信の苛立ちがますます波立つ。

「てめえっ、いつまでついて来るんだよ!」

怒鳴りながら振り返ると、先ほどと全く同じ距離感を保ちながら、李牧は信を追い掛けていたらしい。

信が睨み付けても、李牧はその怒りを煽るように笑うばかりだ。人の良さそうな笑顔をしているが、父の仇であるこの男に心を許すことは絶対にしたくなかった。

あと一歩でもこちらへ近づいたら容赦なく斬り捨ててやろうと思っていたのだが、どうやら李牧の機嫌をますます良くさせるだけだったらしい。

懐かない野良猫の相手をしているような、寛大な心を見せつけているつもりなのだろうか。

「感謝します」

「は…?」

いきなり李牧が供手礼をしたので、信は呆気にとられた。

王騎の仇である男に向けていた感情など憎しみ以外なにもないというのに、感謝される理由など思いつかない。

「交渉の場で、あなたが剣を抜いていれば、私と配下たちの命はなかったでしょう」

「………」

信のこめかみに鋭いものが走る。

宴が行われる前に、巧みな交渉術で李牧と呂不韋は戦を繰り広げていた。

呂不韋が持ちかけた交渉の末、李牧たちは命の代わりに趙の城を一つ明け渡すことになったが、状況としては秦の優勢であってのは明らかだ。

信が制止しなければ、王騎軍の者たちはすぐに主の仇を取ろうと李牧に襲い掛かっていただろう。

王騎の娘である信が剣を抜かなかったこと、隠し切れない殺意を露にしていた兵たちを留めていたことで、李牧の首が守られたといっても過言ではなかった。

「あなたが剣を抜かなかったのは、気まぐれではないはず」

李牧に指摘され、信は舌打った。

面と向かって会うのは初めてだというのに、まるで自分の考えていることを見抜いたかのような口ぶりに、信は無性に苛立った。

許されるなら首を取りたかったが、武器を持たぬ無防備な相手を討ち取ることは、信の中で正義に反していた。

そんな卑怯な真似で仇をとっても、天下の大将軍と称えられた父と母に顔向けが出来ない。

戦で李牧を討ち取ることこそ、王騎への手向けになるのだと信は思っていた。だから李牧に感謝される理由など何処にもないのだ。

「…お前には関係ねえよ」

目を逸らした信が宴の間へ戻ろうとした。

これ以上宴に参加するつもりはなかったのだが、人の多い方へ向かえば李牧も話し掛けなくなるだろう。

李牧の横をすり抜けようとした時、腕を掴まれた信は、反射的に彼を振り払おうと反対の手を振りかぶった。

それは無意識の行動で、幾度も戦に出て来た体が勝手に行ったようだった。

だが、李牧の反応も早い。振り払おうとした腕も押さえ込まれてしまう。両腕を李牧に掴まれた状態になり、信は噛みつくような鋭い眼差しを向けた。

「ッ…」

両腕を押さえ込まれた状態で、信は腕を振り払おうと力を込める。

腕の血管が浮き立つくらい力を込めているのだが、信の手首を掴む李牧の手は少しも外れなかった。

「どうしました?随分と必死のようですが」

信は歯を食い縛って力を込めているというのに、李牧と言えば薄ら笑いを浮かべながら、大して力を込めていないように見える。

余裕で力の差を見せつけるような態度に、信のこめかみに青筋が浮かび上がる。

(なんだ、こいつ…)

軍師のくせに、一体どうしてこんな力があるのだと信は表情に出さず、狼狽えた。

「あまりいじめても可哀相ですね」

「ああッ!?」

からかうようにそう言われ、信がドスの効いた声で聞き返すと、李牧は笑いながら彼女の両腕を放した。

「それでは、また」

用はもうないようで、信に睨まれながら、李牧は宴の席へと戻っていったのだった。

(あいつ、絶対に殺してやる…!)

後ろ姿が見えなくなるまで、信は李牧のことを睨み続けていた。

 

牧信バッドエンドはこちら

 

誤解

「お前…見てたのか…?」

嫌な汗を滲ませながら、信は声を震わせた。昌平君は何も答えない。沈黙するということは、恐らく肯定だった。

「あれはっ、李牧の野郎が俺を追い掛けて来て…!」

信は彼の誤解を解く方法はないかと必死に思考を巡らせる。しかし、もう何を言っても自分への疑いは晴れないかもしれないという不安が胸の内を渦巻いた。

「久しぶりの逢瀬は、さぞ楽しかったことだろう」

逢瀬という言葉を聞き、信は全身の血液が逆流するような感覚に襲われた。

どこで昌平君が見ていたのかは分からないが、李牧に両腕を掴まれて、身を寄せ合っていた姿に、男女の関係だと誤解されていたのかもしれない。

「違う!俺と李牧はそんなんじゃないッ!普通に考えりゃ分かるだろ!」

顔を真っ赤にして否定するが、昌平君の表情は微塵も揺らがなかった。

このままでは李牧と密通していたことを覆すことが出来ず、処罰を受けることになるかもしれない。

信が恐れているのは決して処罰ではない。父の仇である憎い男に協力していたなんて、ましてや男女の仲だと誤解されるなんて、屈辱でしかなかった。

もしも密通の疑いで首を撥ねられることになれば、両親に合わせる顔がない。

わざとらしく昌平君は溜息を吐く。

「…疑わざるを得ないだろう」

彼の瞳に軽蔑の色が宿っているのが見えて、信は言葉を失った。もう身の潔白を晴らすことは叶わないのかもしれないとさえ思った。

李牧が秦の脅威であることは間違いない。彼の軍略に幾度も苦しめられて来たし、王騎を討った事実は、何より李牧の存在を際立たせるものである。

どこから李牧の策通りになっているのか、総司令官である昌平君も常に疑っていた。

いかに警戒していても、内通者がいるとすれば内側から楔が壊されてしまう。内通者は、秦国を陥れる存在だ。

敵国の内通者になるということは、亡くなった両親だけでなく、多くの仲間たちを裏切ることと同じである。

幼い頃から秦国に仕えていた自分がその内通者だと疑われるのは、信には心が引き裂かれるよりも辛いことだった。

「なんで…信じてくれないんだよ…」

信は声を震わせながら、俯いてしまった。李牧の策に陥って失った父や、仲間たちの姿が瞼の裏に浮かび上がった。

「俺は…裏切ってなんか、ない…」

それ以上の言葉は出なかった。自分が秦を裏切っていないことは紛れもない事実だからである。

証拠を示せと言われても、それは叶わない。忠義の厚さなど目で見て測れるものではないし、密通などしていないのだから、いくら調べようにも証拠は出て来ない。

自分を疑う昌平君の心を動かすにはどうしたら良いのか分からず、信は黙り込んでしまった。

「李牧と繋がっていないのなら、その身で示せ」

「…え?」

昌平君の言葉の意味が理解出来ず、信は顔を上げた。

やっと自分を信じてくれるのかという期待もあったが、何をすれば良いのか分からず、信は困惑して眉根を寄せる。

一切表情を変えないまま、昌平君は唇を動かした。

「男との経験はあるのか?」

処女なのかと問われ、信の頭に鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。

「は…!?そ、そんなの、どうだって良いだろッ」

まさかそんなことを問われるとは思わず、信は動揺のあまり、話を逸らそうとする。
しかし、目の前の男が、意味のない質問などしないことは信もよく分かっていた。

「大王様の伽に呼ばれたことも、他の色事も聞かぬ。もしも、李牧と関係を持っていないとすれば、破瓜を守っているはずだ。身の潔白を示すには丁度良いだろう」

信は唇を戦慄かせたが、声が喉に張り付いて出て来ない。

―――要約すると、この身が処女だと証明出来れば、李牧との密通の疑いを晴らしてやるということだ。

 

取引

その意味を理解した途端、信の思考は停止した。

男との経験がないのは紛れもない事実なのだが、その証明をしろと言われても、一体どうすれば良いのか分からない。

狼狽えている信に、昌平君が手を伸ばす。顎を掴まれて顔を持ち上げられ、無理やり目を覗き込まれた。

「…どうする?示すも逃げるも、お前の自由だ。私はどちらでも構わぬぞ」

「っ…」

信の顔が強張った。

あえて拒絶する選択肢も渡されたのは、昌平君がまだ自分のことを疑っているからに違いない。ここで拒絶するということは、李牧との姦通を認めたことになる。

選択肢を与えておきながら、初めから逃げられないように仕向けているのだと気づき、信は奥歯を噛み締めた。

逃げるつもりなど微塵もないのだが、腹立たしい気持ちになる。

しかし、このまま密通を疑われたままでいる訳にはいかないと、信は強く拳を握った。

「…どうやって、示せば良いんだよ…」

意を決して絞り出した声は情けないほど震えていた。

「着物を脱いで足を広げろ」

「ッ…!」

信の顔が、まるで火が灯ったかのように、真っ赤に染まる。

総司令官である昌平君の前に立つ時、信はいつだって将軍としての立場だった。勝利を喜び合い、酒を交わしたことだって、他愛もない話をすることもあったが、男と女としての性を意識したことは一度もなかった。

そんな彼に一糸まとわぬ姿を見せろというのか。身の潔白を示す行為だと分かってはいるものの、羞恥心が掻き立てられる。

「…出来ぬか」

「……、……」

信が躊躇っていると、昌平君の瞳に嫌悪の色が強まった。

「大王様に密通の疑いがあると伝令を出す」

氷のような冷たさを秘めた声に、信の心臓が跳ね上がる。

嬴政の耳に入るということは、信の密通の疑いはたちまち国中に広まるということだ。自分を信じて待つと言ってくれた河了貂や他の仲間たちの不安を煽ることになる。

いかに自分が違うと否定しても、軍の総司令官が疑っているのだから、親友である嬴政だって素直に信の言葉に耳を傾けてくれるとは限らない。

「ま、待ってくれっ…」

部屋を出て行こうとする昌平君の着物を掴み、縋るように制止した。

着物を掴む手を振り払われることはなかったが、まるで汚いものでも見るかのような蔑んだ眼差しを向けられる。

「李牧と姦通していないことを証明出来ぬのだろう?」

「……っ」

昌平君の着物を掴む手を放せば、きっと彼はすぐに咸陽宮にいる嬴政に伝令を出すに違いない。

破瓜を捧げていないと証明しなければ、密通の疑いを掛けられてしまう。追い詰められた信は、震える手で自分の帯に手を伸ばした。

 

後編はこちら

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カタルシス(嬴政×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 嬴政×信/漂×信/嫉妬/無理やり/ヤンデレ/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

失踪

政務をこなしていると、扉の向こうで何やら騒がしい物音がして、嬴政は目を通していた書簡を置いた。

扉の前にいる衛兵から事情を聞くと、信の看病に当たっていた侍女が訪れたようだった。信に何かあったのかと嫌な予感がして、嬴政はすぐに侍女の話を聞いた。

安静にしているよう、あれだけ口酸っぱく言っておいたはずなのだが、様子を見に部屋に訪れると彼女の姿がなかったというのだ。

まだ寝具は温かく、恐らく咸陽宮内にはいると思われるが、もしかしたら勝手に屋敷に帰ってしまったかもしれない。

看病の役割を命じられておきながら、信の姿を見失ってしまったことを侍女は処刑を覚悟で謝罪し、嬴政に床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。

「いや、こうなることは予想していた。顔を上げてくれ」

急ぎ、信が厩舎に馬を借りていないか確認するように衛兵に指示を出し、嬴政は立ち上がった。

王騎の屋敷に戻る前に、彼女は必ず寄る場所がある。咸陽宮に訪れた時には必ず立ち入るのだから、今回もそうに違いない。その心当たりを頼りに、嬴政は部屋を飛び出した。

彼女から「預かっていて欲しい」と頼まれた王騎の形見でもある宝刀。咸陽宮に来た時、それを管理している部屋に、信は必ず立ち寄るのだ。

信が大将軍になってからも自分の実力を鼻にかけることなく、鍛錬を欠かさないのは、いつかはあの宝刀を使って戦に出るためだ。

今の強さがあっても、持ち上げるのがやっとなのだと信は悲しそうに笑っていた。それだけ父である王騎の存在は、信の中で大きいものであったし、いつか超えなくてはならない存在でもあった。

毒を受けて眠っていた時期が長かったため、もしかしたら今は宝刀を持ち上げることすら出来なくなっているもかもしれない。

もしそうだとしたら、信は確実に自分の命令を無視して屋敷に帰るだろう。そして、まだ毒の残っている体でも構わず、休んでいた分の遅れを取り戻そうと鍛錬を始めるに違いない。

 

王騎の宝刀が置いてある部屋に辿り着くと、嬴政は普段の冷静さを欠いたように、力強く扉を開けた。

案の定、信はそこにいて、嬴政の姿を見て驚いている。寝台の上で横たわる姿ではなく、二本の足で立っている彼女を見るのは久しぶりのことだった。まだ熱が出ているせいで、顔が赤い。

背中に剣を携えているのを見て、やはりこの部屋を出たら屋敷に戻るつもりだったのだと嬴

政は彼女の逃亡計画を察した。

「え……?なんで、ここに…」

「―――」

嬴政の姿を見た信が、漂の名を呼んだ。まさかまだ毒のせいで、記憶が混在しているのだろうか。

 

命令

少し間を置いてから、信が青ざめる。

「あ…!まさかお前…!漂じゃなくて、政か…?」

腕を組み、嬴政はわざとらしく大きな溜息を吐いた。

「…大王である俺の命に背いたな」

処刑に値すると脅し文句を掛ければ、信は身の潔白を示すように両手を上げた。

「わ、悪い…!でも、もう大分動けるようになったから…」

「どこがだ」

嬴政は信の腕を掴む。掴んだ腕は熱く、顔も赤い。まだ体から熱が引いていないことは一目瞭然だった。

無理をして体内に残っている毒が悪さをしたらどうするのだと、嬴政は信を睨み付ける。ばつが悪そうに、信は嬴政から目を逸らしていた。

反省している様子がまるで感じられず、嬴政の胸に苛立ちが広がっていく。

「…動けるというなら、その宝刀を振るうことくらい容易いだろう」

「え?」

嬴政が信の腕から手を放す。そして、王騎の宝刀を指さした。

「その宝刀を容易く振るうことが出来るほど回復したというのなら、屋敷へ帰還する許可を出そう」

「なッ…!」

卑怯な条件を提示したことは、嬴政自身も自覚があった。

病み上がりで、それまでずっと休んでいた信がこの重い宝刀を振るうことなど出来るはずがない。

病み上がりでなかったとしても、振るうことなど出来ず、持ち上げるのがやっとだったのだ。嬴政が提示した条件は、信にとって不可能なものであった。

時折、自分の実力を過信することがある信だが、さすがに嬴政が出した条件を達成するのは不可能だと分かっているようで、宝刀を握ろうともしない。

恐らく嬴政が来る前に触れていたのだろうが、ずっと療養していたことで、筋力が衰えてしまった今の信では、持ち上げることも叶わなかったのだろう。

悔しそうに奥歯を噛み締める彼女を見て、嬴政の胸に罪悪感で針を突かれたような痛みが走る。

それでも、嬴政は発言の撤回をしなかった。これは信のためだと痛む良心を庇うように、自分に言い聞かせた。

「…あと数日の辛抱だ。体から毒が抜け切るまでは安静にしていろ」

諭すように言葉を掛けると、信は噛み締めた奥歯をそのままに首を横に振った。まるで駄々を捏ねる幼子のような態度に、嬴政は呆れてしまう。

「信、聞き分けろ」

低い声で名前を呼ぶと、信は視線すらも合わせたくないのか、俯いてしまう。

困った嬴政が肩を竦めていると、俯いていた信がぎゅっと拳を握ったのが分かった。

「…漂なら、仕方ないなって言ってくれるのに…」

今にも消え入りそうな声で信が呟いたのは、自分以外の男の名前だった。不機嫌になった信は口を尖らせて、黙りこくる。

毒のせいでまだ記憶が混在しているとはいえ、ここまで他の男の名前を、しかも自分と比較するように出されると、さすがに腹が立つ。

もしも漂が死んでいるという周知の事実を信に告げれば、彼女は泣き叫ぶだろうか。今は毒のせいで記憶が混在しているだけで、いずれは再び受け入れなくてはならない事実だ。

彼女の中で、漂という存在はまだ深く根を張っている。嬴政はそれが妬ましかった。

自分の影武者として暗殺された事実を知った時も、信は泣いて取り乱していたし、いつまでも漂の存在が信の心に刻まれたことを憎らしくも感じていた。信と漂と手合わせをしている姿や、仲睦まじく話している姿を見て苛立っていたことを思い出す。

そうだ。既にあの時から自分の心は信を求めていたのだ。そして、今でも自分は信のことを想い続けている。

―――気づけば、嬴政は再び彼女の腕を掴んでいた。

 

大王の伽

「…来い」

「えっ、な、なんだよっ?」

強引に腕を引っ張りながら、嬴政は宝刀を収められている部屋を後にした。廊下を出ると、大王自ら信の腕を引っ張って歩いている姿に従者たちが驚いている。

その視線を浴びた信は狼狽えていた。

「政っ、放せって!変な噂でも立てられたらどうするんだよッ」

「うるさい」

信の言葉を一蹴し、嬴政は彼女を引き摺るように歩き続けた。信が療養に使っていた部屋に着くと、中で掃除をしていた侍女が驚いた顔をする。

「誰もここに近づけるな」

低い声で命じると、侍女も何かを察したのか、慌ただしく部屋を出ていく。

強引に信の体を寝台の上に投げつけると、背中を強く打ち付けた信が苦しそうにむせ込む。

「なに怒ってんだよッ、意味わかんねえ」

信が嬴政を睨み付ける。嬴政は何も答えずに、信の体に馬乗りになった。組み敷かれる形になった信が、戸惑ったように視線を泳がせる。

「ど、退けよ…!」

嬴政は何も言わずに信の着物に手を掛けた。帯を外そうとしている嬴政に、信はぎょっとした表情を浮かべる。

慌てて嬴政の手を抑えながら、信は何を考えているんだと怒鳴った。嬴政は顔色一つ変えず、信の目を真っ直ぐに見据えると、静かにその口を開く。

「大王命令だ。伽を命じる」

「…は?」

何を言っているのか分からないといった顔で、信が嬴政を見つめている。しかし、嬴政はわざわざ言い直すことはせず、信の両手を払いのけて彼女の帯を解いた。

「お、おいッ!お前、俺を後宮の女と勘違いしてんのか!?」

帯に続いて着物の衿を開かれそうになり、信は両手で強く着物を押さえ込んだ。

「何を言っている。お前は大将軍で、俺の金剛の剣だ」

冷静に堪える嬴政に、信は頭痛がした。

「なんで俺がお前の伽の相手なんてしなきゃならねえんだよ!?後宮にはお前のために足を開く女がごまんといるだろうがッ!」

正論を告げたはずなのに、嬴政は少しも引く気配を見せない。それどころか信の言葉を無視して襟合わせを開こうとする。

「俺に逆らうのなら、今この場で大将軍の座を解き、伍長に戻す」

「はあぁッ!?」

信じられないといった顔で、信が悲鳴に近い声を上げた。憤慨したように、信は嬴政の体を突き放そうと腕を動かす。

「拒絶は、大王である俺に逆らうのと同じことだぞ」

突き放そうとしていた両手がまるで術でも掛けられたかのように動きを止める。うぐ…とくぐもった声が、信の食い縛った歯の隙間から洩れた。

「それでいい」

ようやく大人しくなった彼女の襟合わせを開くと、さらしで包まれた胸が現れる。

医師団の治療を受けていた時には呼吸を圧迫する理由で外されていたようだが、さらしが巻かれているということは、彼女が屋敷に帰ろうと準備をしていた何よりの証拠である。

さらしを外そうとした嬴政を、信が悔しそうな瞳で睨み付けていた。

嬴政が秦王という立場でなければ、今頃は信に気を失うまで殴られていたに違いない。

「…生意気な瞳だな」

「生まれつきだ!」

目つきが悪いのは元々なのだから仕方ないと信が訴える。

初めて出会った時も確かこんなやりとりをしたことを思い出す。

弟の成蟜に暗殺を仕向けられ、側近である昌文君が嬴政を逃がした時も、信は彼の護衛についた。秦の怪鳥である王騎の娘であると知ったのは、嬴政が成蟜から政権を取り戻した時である。

質の悪い着物と、女とは思えないみすぼらしい恰好と礼儀知らずな態度から、下賤の出てあることは分かっていたが、まさか王騎と摎の養子だとは思わなかった。

腕を見込んで引き取られたらしいが、信の協力がなければ嬴政は成蟜の配下に殺されていただろう。

嬴政の側近である昌文君を逃がし、彼を殺したのだという偽装工作をしたことも、信に嬴政の護衛をさせたのも、すべては王騎の指示である。

それは嬴政を助けるという目的ではなく、嬴政が秦王の器に相応しい男であるかを見抜くためだった。

信が嬴政の護衛についたのは父に命じられたからではなく、友である漂の仇を討つためであり、初めの内は「お前さえいなければ漂は死なずに済んだ」と罵倒されたものだった。

互いに下賤の出であることから、咸陽で出会った信と漂はすぐに気が合い、兄妹のように仲を深めていたらしい。

大将軍になることを目指していた漂は独学ながら剣に覚えがあり、王騎と摎の娘である信も両親と同じ大将軍を目指していたことも、気の合った理由だろう。

幾度となく剣をぶつけ合い、夢のためにお互いを激励し合ったあの日々は、信の中ではいつまでも色褪せぬ思い出として残っている。

嬴政が政権を取り戻してから、信もたちまちその武功を中華に広めていった。彼女が漂の意志を継ぎ、大将軍の座に就くまではそう長くはかからなかった。

彼女はこれからも漂の意志を継いで、大将軍として戦っていくのだろう。それが、嬴政を気鬱にさせた。

 

大王の伽 その二

さらしを外すと、他の肌と同じで傷だらけの胸が現れた。

致命傷になりかけた深い傷から浅い傷まで、数多くの傷が刻まれている。彼女が死地を乗り超えて来た勲章でもあるそれを、嬴政は一つ一つ指でなぞった。

小さなものから致命傷となりかけた大きな傷まで、嬴政は飽きることなく指を這わせていく。

普段は着物で隠されている傷跡だが、こんなにも多いとは思わなかった。

この胸に渦巻いているのが嫉妬の感情であることを、嬴政は確かに感じていた。

「ぅ…」

彼女の首筋に顔を寄せ、嬴政は思い切り噛みついた。武器でつけられたものではなく、他の誰がつけたものでもなく、自分だけの痕を刻みたくて堪らなかった。

歯形が残った首筋に舌を伸ばすと、ぬるりとした感触に信が、ひっ、と小さな声を上げる。

幼い頃から大将軍を目指し、幾度も死地を駆け抜けて来た彼女には男の経験などなかったのだろう。身を固くしている信に、嬴政は思わず安堵した。

「…俺は、こんな最低な男に仕えるなんて、誓った覚えはねえよ…」

泣きそうな声がして、嬴政は顔を上げた。うっすらと涙を浮かべた弱々しい瞳が、嬴政を睨んでいた。

「俺はお前の、金剛の剣だろ?…それを今さら鞘に戻そうってのか?」

今さら何を言われてもやめるはずがないと分かっているだろうに、情に訴えかけて来た信に、嬴政は思わず苦笑する。

「…お前が手に入るのなら、卑怯だと罵られても良い。俺は大王としての権限を利用させてもらう」

信は一瞬だけ体のどこかが痛んだような表情を浮かべる。しかし、嬴政から顔ごと目線を逸らし、好きにしろと言わんばかりに目を伏せたのだった。

それはまるで、もう以前の関係には戻れないのだという諦めの表情だった。嫌悪と軽蔑も含まれている態度から、嬴政の胸は針で突かれたようにちくりと痛む。

だが、今さら身を引いたところで何も変わらない。体を組み敷いた時点で、戻れぬ場所まで進んでしまったことを自覚していた。

「っ…ん…」

唇を重ねると、信の体が強張った。彼女と唇を重ねるのはこれが初めてではなかったのだが、あの日、水を飲ませたことはもう信は覚えていないだろう。

―――…漂、今日は政の格好してんだな。綺麗だ。

もしかしたらあの時の信は、水を飲ませてくれたのは嬴政ではなく、漂だと思っていたのかもしれない。

いつまでも彼女の心に巣食っている漂に、嬴政は憎しみさえ覚えた。影武者として命を奪われた彼のことを想えばこそ、そのような負の感情を向けるのは間違いだと分かっている。

それでも、嬴政は貪欲なまでにこの女を手に入れたいと思っていた。

唇を重ねながら舌を差し込むが、信の舌が応えることはない。

他の女性ならば喜んで舌を絡めて足を開くだろうに、今の信は誰が見ても心を閉ざしていることが分かる。

逃げ出さないのは相手が自分だからだろう。嬴政が秦王という立場でなければ、全力で殴られていたに決まっている。信はただ命令に従っているだけだ。

早く終わらせてくれと言わんばかりの態度に、嬴政は嫌がらせのつもりで時間をかけてやろうと考えた。

どうせもう元の関係には戻れないのだ。

 

新たな関係

「ん…」

口づけを終えてから、嬴政は首筋に再び唇を寄せた。

先ほどの歯形が残っていた箇所に強く吸い付き、赤い痣をつけていく。着物で隠れない箇所に痕を残すのも、嫌がらせの一つだ。

「ぅ…」

胸の膨らみに手を伸ばすと、信がたじろいだ。

男だったのなら筋肉に固められた厚い鎧になっていただろう、そこは程良く柔らかい。

掌で柔らかさを感じながら、中央にある突起を指で擦ると、信が唇をきゅっと噛み締めたのが分かった。

「ふ、…んぅ…」

二本の指で挟んだり、擦ったりしていると、信が自分の口元を手で押さえていた。右手の甲を唇に押し当てて、声が出ないように蓋をしている。

気持ち良さそうな表情には見えなかったが、初めての感覚に戸惑っているのだろう。

身を屈めた嬴政が指で弄っていたそこに舌を伸ばすと、目を見開いた信が蓋をした唇を戦慄かせていた。

上目遣いでその表情を眺めながら、嬴政は尖らせた舌で胸の突起を愛撫した。

「ッ…ぅう…」

上下の唇で挟んで吸い付く。信のくぐもった声に決して嫌悪の声が含まれていないことが分かると、嬴政は突起を押し潰すように舌を這わせた。蓋をした口では呼吸が出来ず、鼻息が荒くなっている。

緊張で体を強張らせている彼女の姿に、嬴政は欲情していた。

他でもないこの自分が彼女を女にさせるのだと思うと、醜い独占欲に胸がはち切れんばかり膨らんだ。

「するなら、さっさとしろよ…!」

経験はないとはいえ、何をされるかは信もさすがに分かっているのだろう。

前戯は不要だと睨み付けられるが、うっすらと涙を浮かべた瞳と羞恥に赤くなっている顔では男を煽るだけだという知識はないらしい。

「…こんな時でも、お前は無粋なことを言うのだな」

もう嬴政と視線さえ合わしたくないのか、信は顔を背ける。

彼女の膝裏に手を回し、大きく足を開かせると、信の瞳に僅かに怯えが浮かんだ。

「う…」

両足の間にある花襞を押し開き、淫華に指を這わせても、少しも濡れていない。反対に、嬴政の男根は勃起しきっていた。

男根の先端を淫華の割れ目に宛がう。ひゅっ、と信が息を飲んだのが分かった。

言葉には出さないが、怯えた瞳は「やめてくれ」と訴えている。しかし、煽ったのは信の方だ。破瓜の苦痛を覚悟して言ったに違いない。

どうあがこうが、破瓜の苦痛は避けられないのだ。

「いくぞ」

腰を進めると、狭くて固い淫華がみちみちと押し広げられていく。

「ぅッ、ううッ…!」

苦悶の表情を浮かべながら身を捩って逃げようとするので、嬴政は彼女の細腰を両手で押さえつけた。

狭い道を押し進めていくと、信が歯を食い縛ってその身を大きく仰け反らせていた。敷布を掴んでいる両手は白くなるほど力を入れているらしく、ぶるぶると震えている。

繋がっている部分から、何かがぶつりと弾けた感覚を感じた。嬴政は信の破瓜を実感する。
痛みのあまり、信の顔は青ざめていたが、構わずに奥まで貫いた。

視線を下に向けると、繋がっている部分から血が滲んでいるのが見えた。処女を奪ったのだと実感が湧き、嬴政の胸にあった独占欲はようやく優越感へと変わっていく。

きつく閉ざした瞳から涙が溢れ出ている。嬴政は身を屈めて、その涙さえ逃がすまいと舌を伸ばした。

前戯で淫華に蜜を溢れさせてから貫けば、多少は痛みが和らいだかもしれない。大人しくその身を委ねたのならば優しくしてやったものを。

「ぅう…うぐぅッ…」

根元まで男根が埋まると、食い縛った歯の隙間から、信が苦痛に塗れた声を洩らしていた。

「信」

名前を呼ぶが、返事をする余裕も目を開ける余裕もないのか、彼女はきつく歯を食い縛り続けていた。

狭い道を押し開いた後も、きつく男根を締め付けている其処は血の涙を流しているのだ。苦痛は簡単には遠のかないだろう。

すぐにでも腰を動かしたい自分を戒めるように、嬴政は彼女の体を抱き締め、唇を重ねた。敷布を掴んでいる手を掴み、指を交差させ合う。

傍から見れば、それは恋人同士のような、夫婦のような情事だった。しかし、実際には違う。これは秦王という立場を利用した凌辱だ。

もしも時間を掛けて彼女の体を丁寧に解していき、愛を囁いていたのなら、信も心を開いてくれたのだろうか。

…それはきっと無理だろう。嬴政は切なげに眉根を寄せた。

信の心の中に巣食う漂が消えない限り、きっと信は自分を男として求めることはないのだ。

いっそ自分を漂の代わりとして扱ってくれたのなら、偽りの愛だと分かっていても、信が自分だけを見てくれる幸福感に身を委ねていたのかもしれない。

だが、信に漂と名を呼ばれた時に、嬴政は憤怒した。代わりでは駄目なのだ。

秦王であり、一人の男として、嬴政という存在を受け入れてくれなければ、何の意味もない。

信の処女を奪っても、満たされたのは独占欲だけで、その先にある心の渇きはいつまでも満たされないままだった。

それが嬴政にはどうしようもなく苦しくて、その苦しみを誤魔化すために、信の体を抱き締めながら律動を送った。

「ぅああっ、い、いたぃっ、やだっ、やめろッ」

敷布の上で絡ませていた指が嬴政の手の甲に爪を立てる。挑発的な態度を取ったくせに、痛みに耐え切れなかったらしい。

泣きじゃくりながら首を振って懇願する今の信は、ただの弱い女でしかなかった。

秦王である自分のために足を開く女など数え切れないほどいるというのに、嬴政は目の前のたった一人の女に恋い焦がれていた。

自分の全てを捧げたい、彼女の全てを奪ってやりたいという醜いまでの欲望に、がむしゃらに腰を動かした。

―――お前は永遠に俺のものだ。

心の中でそう叫びながら、何度も男根で彼女の体を突き上げる。信が泣き叫んでも嬴政は決してやめなかった。

絶頂が近くなって来て、嬴政は息を切らしながら信の唇に舌を伸ばす。

「秦国一、いや、中華一、高貴な種だぞ。その身で受け取れ」

耳元で囁くと、涙で濡れた瞳が大きく見開いた。

「やっ、やめ…」

「お前の意志は聞いていない。その身で受け入れろ」

青ざめた信が身を捩ろうとするよりも先に、嬴政は彼女の体を両腕できつく抱き締める。

汗にまみれた肌を重ねながら、嬴政が食い縛った歯の隙間から呻き声を洩らすと、信が大きく喉を反らせて悲鳴を上げた。

信が必死に逃れようと腕の中で暴れるが、嬴政はそれを許さなかった。男根の切っ先から熱い精液が迸り、何度かに分けて信の腹に子種を植え付ける。長い射精だった。

終わってからも、嬴政は信の体を抱き締めたまま離さないでいた。

「ぅっ…ふ、ぅ…」

腕の中からすすり泣く声が聞こえる。

泣き顔を見られまいとしているのか、それとも、もうお前の顔など見たくないと思っているのか、両腕を顔の上に乗せて信は泣いていた。

罪悪感などとっくに忘れていたのだが、その弱々しい姿を見て、嬴政の胸がちくりと痛んだ。

「…信」

慰めるように頭を撫でてやると、その手を払われ、真っ赤に腫らした瞳で睨みつけられる。

罵声を浴びせることも殴りつけることもしないのは、まだ彼女が自分に仕えている将軍であることを忘れていないからなのだろうか。

嬴政は他人事のようにそう考えて、信と唇を重ねた。

「ッ…!」

舌を差し込むと、信が泣きながら歯を立てて来る。罵声を浴びせたり、殴りつけたりはしないのに、些細な抵抗をする気力は残っているようだ。

嬴政の口元に笑みが浮かぶ。

「―――やはり、お前を大将軍の座から降ろすことにしよう」

そう告げると、信が瞠目した。

「俺の子を身籠ったのなら、いずれは降りねばならんだろう。それに、今日から俺の后になるのだから、面倒なことは早く済ませた方が良い」

青ざめた信が唇を戦慄かせる。

自分でも卑怯なことを言っているのは、嬴政も理解していた。それでも信を誰にも渡したくないこの気持ちは決して揺るがないし、きっとこれからも変わらないだろう。

彼女が自分に二度と笑顔を見せなくなったとしても、信が漂の存在を忘れないように、嬴政も信を手放すことはない。

嬴政の意固地な性格を、信はよく知り得ている。諦めるしかないと、いずれは理解することだろう。

 

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毒酒で乾杯を(桓騎×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
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このお話はアナーキーの後日編・完全IFルート(恋人設定)です。

 

秦王からの頼み事

秦王嬴政の正妻である向が、子を身籠っていることが発覚してから早三か月。

飛信軍の女将軍・信は、嬴政より火急の報せを受け、秦の首府である咸陽へと駆けつけた。

玉座の間に向かうと、嬴政は人払いをし、信と二人きりになる。他者に聞かれてはまずい話なのは分かったが、一体何があったのだろう。

「信、お前に頼みがある」

神妙な顔つきで自分に頼みごとをする親友の姿を見るのは、これが初めてではなかった。

以前、桓騎軍の素行調査をして欲しいと頼まれた時も、嬴政は重々しい空気をその身に纏って、信に頭を下げたのだ。

今回は一体どんな用件だろうと信は身構え、彼の言葉を待つ。

「…向が、何者かに命を狙われている。後宮に行き、彼女を守ってやって欲しい」

「……はっ?」

信は間抜けな顔で聞き返した。

 

秦王からの頼み事 その二

始まりは、向の食事を毒見した女官が帰らぬ者になったことだった。

たった一口食しただけで血を吐き、その血が肺に流れ込んだことでたちまち呼吸困難に陥ったのだという。

少量だけでも死に至らしめた強力な毒を食事へ混入させた犯人は、未だに分かっていない。

毒に反応して変色する銀製の食器を使用していたのだが、食器には何も変化がなかった。だというのに、食事に毒が盛られていたことに、女官たちは騒然となったそうだ。

毒を盛った犯人は未だ分かっておらず、手がかりが少な過ぎて、目星もつけられずにいるのだという。

後宮には千人以上の女官たちがいる。後宮の出入りが許されているのは、王族、そして、後宮だけでなく宮廷での仕事も請け負っている宦官くらいだ。

疑いを掛けることが出来るものたちはある程度絞られるにしても、これだけの人数から犯人を炙り出すのは困難なことだった。

嬴政の正室として迎え入れられた向は、その身に王族の子孫を宿しているということもあって、以前よりも多数の護衛がつけられていた。

武器を持って戦う術を持たぬ者たちが集う後宮は、決して平穏ではない。大王の寵愛を狙う者、正室の立場を狙う者、様々な者たちの欲望が渦巻く場所でもあるのだ。

そして、その欲望は時に狂気を孕み、邪魔な者を消し去ろうという殺意にも変わることがある。今回の毒混入事件は、向を敵視している者がいる何よりの証拠だ。

しかし、正室である向は後宮で過ごす他ない。

身の回りの者たちが自分の命を庇って亡くなっていくのも、いつ自分と愛する我が子が狙われるかと思うと、向も精神的に疲弊しているのだという。

いつ命を狙われているかという危険が付き纏うのは堪えるものだ。幾度も死地を駆け抜けて来た信だって同じ状況に立たされれば疲弊するに決まっている。

しかし、向は秦王の子を身籠っているという責任から、何としてでも我が子を守らねばならないという母としての尊厳も保持しなくてはならなかった。

秦王の正室である以上、簡単に弱音を吐き出すことも、弱みを見せることも出来ない。

しかし、毒の混入事件があってから、色んなことが向を追い詰めているようで、嬴政は頻繁に後宮に訪れて彼女の体調を気にするようになっていた。

嬴政も大王としての政務があり、常に向の傍にいられる訳ではない。そこで親友である信に助けを求めたという訳だ。

「…俺に、女官として後宮に行って、妃を守れっつーことか?」

「お前にしか頼めない」

真剣な顔で嬴政が言う。普段なら即答するのだが、信は腕を組むと険しい表情を浮かべた。

自分の知らない組織に変装して潜入するのを頼まれるのは、今回が初めてではなかった。

以前頼まれたのは桓騎軍の素行調査だったが、今回は後宮に住まう妃の護衛という訳だ。

向の周りにいる者たちは信と違って戦う術を持たぬ者たちであり、相手が宦官であっても、信は容易に手出しはさせぬ自信はあった。だが、問題はそこではない。

「…毒を入れた犯人も分からねえのに、俺が護衛についたところで何も変わらねえだろ」

相手が一人なのか、複数いるのか、女官なのか、宦官なのか、それともまた別の誰かか。何も手がかりがないというのに、姿も分からぬ相手から向を守れというのはなかなか無茶な要求だ。

後宮にいる者が犯人であるという仮説は立てられても、千人以上もいる女官たちから犯人を探し出すのは不可能に近い。

食事に毒を用いたということは、犯人は下手に足がつかぬように工夫をしているはずだ。直接彼女に手を出して来る真似はしないに違いない。

きっと嬴政もそれを分かっているはずなのに、それでも信に妻の護衛を頼むということは、彼も相当追い詰められているのだろうか。

しかし、嬴政が発した言葉は信の予想を上回るものだった。

「信。お前には毒の耐性があるのだろう?」

「なッ…」

思わず信は顔を強張らせた。信が毒に対して耐性を持っていることはあまり知られていない情報である。親友である嬴政にもそれを告げた覚えはなかった。

信が毒に対する耐性を持っているというのは、多数の足を持つ毒虫…ギュポー嫌いなことに関連している。

幼い頃にギュポーに手を噛まれ、三日三晩その毒に寝込んだ信は、幸か不幸か、毒への耐性を持ってしまったのだ。

頭痛、発熱、悪寒、嘔吐、下痢、呼吸困難、謎の発疹…さまざまな症状に苦しめられた信は、あれほどまで苦しい経験を過去にしたことがなかった。

今思えば、三日三晩さまざまな症状が出て寝込んだのは、体が変質していた影響だったのかもしれない。

当時の辛い記憶が今も信の中に恐怖として根付いており、この年齢になっても信のギュポー嫌いは克服されていない。

天下の大将軍である王騎と摎の養子であり、今や信自身も両親と同じ六大将軍の座に就いている。そんな自分がギュポーなどという毒虫が苦手だなんて笑い話である。

飛信軍だけの機密事項として取り扱っていたのだが、嬴政の指示で行った桓騎軍の素行調査中にギュポーと遭遇したことがきっかけで、信のギュポー嫌いの噂は呆気なく広まってしまったらしい。

毒に耐性があることを告げると、芋づる式にギュポーが嫌いだということに気付かれてしまうので、信は今までずっと内密にしていたのだ。

桓騎軍の素行調査中も、毒に耐性があることは誰にも告げなかったはずなのだが、まさか嬴政が知っているとは思わなかった。

大抵の者は信がギュポーが嫌いということに、驚くか腹を抱えて笑うのに、それをしないというのはさすが親友であり、秦王の器を持つ男である。

「心苦しいことだが、後宮を出入りする者は限られている。俺も常に向を守ってやれる訳ではない…お前にしか頼めんのだ。妻を守ってやってほしい」

「つまり、俺に護衛と毒見役をしろってことか」

嬴政は辛そうな表情を浮かべて頷いた。

弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いであり、今や親友である彼女に護衛だけではなく、毒見役まで頼むのは、きっと苦肉の策だったのだろう。

しかし、他に頼める者がおらず、信に頼むことを決めるまで嬴政も苦悩したに違いない。

「頼む、信」

玉座に腰掛けている嬴政が、信に深く頭を下げた。親友であり、秦王である彼にそこまで頼まれては、信は拒絶する訳にいかなくなる。

「…犯人が見つかるかはあんまり期待するんじゃねーぞ。あくまで毒見役と護衛ってだけだからな」

「ああ、感謝する」

信が引き受けてくれたことに、彼は不安と安堵が入り混じったような複雑な表情を浮かべて頷いた。

 

逢瀬

嬴政からの頼み事を聞いた後、信は後宮に行く手筈が整うまで、数日の猶予をもらった。

秦王の勅令であり、信に初めから拒否権などなかったのだが、嬴政は無理強いはしなかった。他国の王ならば、一人の将に頭を下げて「妻を守って欲しい」だなんて言わないだろう。

大勢の妻を抱えている王だっている。一人の妻が毒殺されかけたところで、配下たちに丸投げする王もいるかもしれない。

もしも嬴政がそんな男だったならば、信は早々に彼を見限っていただろう。

秦の未来のためにも、大将軍である自分は、向とその胎に宿る子を守らねばならない。

親友の頼みだからこそ引き受けた信だったが、咸陽宮を出てから、かなりの大役を引き受けてしまったのではないだろうかと不安になった。

後宮で起こっていることは、信が経験したことのない争いだ。

命を狙われているという点では戦場なのかもしれないが、後宮の勝手がわからない信には、分からないことだらけである。

毒に耐性のある自分が毒見役を引き受けたのは良いとして、どこに敵が潜んでいるのかなど予想もつかない。戦場とは違い、武器を持たぬ者たちの争いというものに、信は経験がなかった。

後宮には千人以上もの女官と宦官がいる。毒を入れた疑いがある者は少しも目星がついていないということは、全員を疑うべきだろう。

全員を敵とみなしたとして、果たして本当に自分は向と嬴政の子を守り切れるのだろうか。

「………」

黒ずんだ不安が胸に渦巻き、信は手綱を引いて愛馬の駿の足を止めた。主を心配するように駿がぶるると鼻を鳴らしたので、信はたてがみをそっと撫でてやる。

「…駿、悪い。ちょっと寄り道だ」

自分が住まう屋敷に戻ろうと思っていたのだが、信はここ最近になって通い慣れた道の方へと駿を走らせた。

桓騎の屋敷に到着した頃には、既に陽が沈みかけていた。

従者からこちらに馬を走らせている信の報告を聞いたのか、彼は屋敷の外で待ってくれていた。

「珍しいな。呼んでねえのに、お前の方から来るなんてよ」

紫色の着物に身を包んでいる彼が、馬から降りた信に声を掛ける。

「………」

いつもならすぐに用件を話し出す信だったが、今日は違う。桓騎の小言にも反応を示さないし、何か言いたげに唇を戦慄かせているが、躊躇うように口を閉ざしてしまう。

視線も合わず、桓騎は彼女が悩みを抱えていることを察した。嘘を吐けない素直の性格している信は、すぐに表情に出すのでとても分かりやすい。

桓騎軍の素行調査として、百人隊の兵に紛れていた時も、それはもう面白いくらいに顔に動揺を出していた。

思い出し笑いを噛み殺しながら、桓騎は信が何を言おうとしているのかを考える。

今日のように、急に彼女が屋敷へ訪れる時は決まって何かを悩んでいる時だ。助言をもらいに来たというよりは、ただ不安な気持ちをどうしたら良いのか分からずに持て余してしまうのだろう。

将軍には本能型と知能型の二種類がある。信は前者で、桓騎は後者だ。

考えるよりもすぐに行動に移すことを何よりも得意とする信は、頭を使うことが苦手らしい。本能型の将軍が単純というのはまた違う。こればかりは信の元々の性格だろう。

「…どうした?」

桓騎が穏やかな声色で問うと、信は少し目を泳がせてから、ゆっくりと口を開いた。

「その…しばらく、会えなくなる」

「は?戦か?」

特にこの頃は隣国の動きに異常はなかったはずだと、桓騎が今日まで聞いた報せを思い返していると、信が首を振った。

「詳しくは言えねえんだけどよ。政の頼みで、ある女の護衛につくことになったから…」

不安な気持ちを打ち明けに来たのではなく、しばらく会えなくなることを伝えに来たらしい。少なくとも数か月は会えないのだと言われ、桓騎の眉間に皺が寄った。

「…なるほどな」

護衛を任せられた者について詳しく話そうとしない信に、桓騎は小さく頷く。

「後宮で妃の護衛か。それとも、毒見役にでも抜擢されたか?」

「そう…って、なんで知ってんだよッ!?」

ぎょっとした表情で信が問う。向の護衛を行うことは嬴政と信しか知らないはずなのに、一体いつ情報を手に入れたのかと信は驚愕していた。

しかし、桓騎からしてみれば、秦王である嬴政からの頼みであり、女ということさえ分かれば、正解を聞いたようなものだった。

後宮には王族の子孫繁栄のために千人以上の女性が集められている。しかし、嬴政が褥に呼ぶのはほんの一握りどころか、一つまみであった。

嬴政自ら信に護衛を頼む女性といえは血縁者くらいだろう。母である太后には元々十分過ぎる護衛がついている。だとすれば消去法で、嬴政の子を身籠っている后という訳だ。

さらには嬴政が信頼を置いている将は他にもいるが、信でなければいけない理由…それは他でもない性別である。

后は宮廷の奥にある後宮で生活する決まりがある。後宮には女性か、男であって男の機能を持たぬ宦官か、王族しか出入り出来ない仕組みになっているのだ。

飛信軍の女将軍である信の名前は後宮にも広まっているが、彼女は戦で顔を隠していることや後宮に出入りすることがないため、後宮に住まう者たちには顔を知られていないのだ。

大将軍の座につくほど武力をその身に備えているだけでなく、毒に耐性を持っていることも理由の一つに違いない。

…要するに、信は后の護衛に一番相応しい存在ということである。

 

特殊体質

限られた情報でそこまで答えを導き出した桓騎に、信は苦笑を深めることしか出来なかった。

駿を厩舎に預けた後、桓騎は信を屋敷へ招いた。寝室の扉を閉めた途端、いきなり腕を引かれて抱き締められ、信は目を見開く。

桓騎の両腕に抱き締められているのだと分かり、信は戸惑ったように体を強張らせた。

「…いつまでかかる」

「え?」

「後宮にいる期間だ」

腕の中で、信は借りて来た猫のようにしゅんと縮こまった。

「分かんねえよ…そんなに、長い間はいられねえと思うけど…」

信自身も大将軍としての役割がある。戦がない間の飛信軍の指揮は副官である羌瘣や、他の将に頼むことは出来るだろう。しかし、いつまでも後宮で后の護衛をすることは出来ない。

嬴政もそれを分かっているはずだが、それでも信に向の護衛を頼んだということは、よほど向の命の危機を感じているということに違いない。

毒見役の代わりなどいくらでも用意出来るだろうが、自分に仕える女官が自分のせいで命を奪われるなど、並大抵の者は耐えられるものではない。

戦場で多くの敵味方の死を経験して来た信でさえ堪えるものがあるのだから、向の心にはきっと重く圧し掛かっているはずだ。

そういった配慮も込めて、信頼している自分に依頼したのかもしれないと信は思っていた。

「そりゃあ、犯人さえ見つかれば、すぐに戻って来られるだろうけどよ…」

信が言葉を濁らせる。千人以上の女官がいる後宮で、毒を盛った犯人を捜すのは至難の業だ。

嬴政から話を聞いた時点で、信は毒殺を未然に防ぐことは出来たとしても、犯人を見つけることは不可能であると察していた。

「無理だろうな」

信の黒髪を指で梳きながら、桓騎が苦笑した。彼も同じことを考えていたらしい。

「………」

遠慮がちに信が桓騎の背中に腕を回す。性格上、普段から大胆に身を寄せて来ることがない恋人が、こうして甘えて来るのは随分と珍しいことだった。

素直に寂しいと言えない頑固な性格も愛らしい。

しばらく無言で身を寄せ合っていたが、桓騎は思い出したように顔を上げた。

「すぐ後宮へ発つのか?」

信は首を横に振った。

「羌瘣やテンたちに軍を任せなきゃならねえから、あと数日してから、後宮に行くつもりだ」

信頼している仲間たちよりも先に自分へ会いに来てくれたことに、桓騎はつい口の端をつり上げた。誰が見ても彼の機嫌が良くなったことは明らかである。

夜通し馬を走らせれば仲間たちの下へ辿り着くだろうが、それをせずにこの屋敷に立ち寄ったということは、今夜は一緒に過ごしたいという信の気持ちの表れである。

次に会えるのが一体いつになるか分からないのならば、今日は存分に楽しむしかない。

「ほらよ」

桓騎は台の上に置いてある飲み掛けの酒瓶の中身を杯に注いで、それを信へと手渡した。

酒杯を受け取った信が酒を口に含む前に匂いを嗅いでいる。どんな酒か確かめているのだろう。

鴆酒ちんしゅだ」

「えっ!」

正解を教えてやると、信が目を輝かせた。

鴆酒というのは滅多に出回らない酒であり、この酒を作ることが出来る者もかなり限られている。その理由は鴆酒がだからだ。

鴆の羽毛に含まれている猛毒から作られているこの酒は、嗜好品ではなく、暗殺の道具として使用されている。

普通の人間なら一口飲んだだけでも、たちまち毒に身体が蝕まれ、命を落とす代物だ。…だというのに、酒瓶は既に開けられて、何者かが飲んだ形跡があった。

「最近目を付けた酒蔵に鴆者鴆酒を作る者がいたんだ。それなりに良い味だぞ」

毒に対する耐性を持っているのは、桓騎もだった。

猛毒である鴆酒だと分かった信は迷うことなく杯に口をつけ、一気に喉に流し込んだ。

焼けつくような熱さと同時に、強い痺れが舌と喉を襲うが、その刺激が堪らない。信はぶるぶると歓喜に体を震わせた。

毒虫であるギュポーは大嫌いだし、毒を受けたせいで失ったものもあるのだが、毒酒の美味しさを実感出来るようになったことは唯一感謝すべきことである。

「ふはー、鴆酒なんて飲むの久しぶりだなあ」

中華全土のどこを探しても、毒酒を愛飲しているのは信と桓騎だけだろう。

酒好きで知られる麃公でさえも、毒の耐性を持っていないため、この鴆酒だけは飲めない。麃公とは幾度も酒を交わしていた仲だったので、この美味さを分かち合えないのは残念だと信は思っていた。

久しぶりに鴆酒を飲んだ信は先ほどまで暗い表情を浮かべていたが、今はすっかり笑顔になっていた。

屋敷に訪れた時は寂しそうな表情をしていた信が、太陽のような明るさを取り戻したのを見て、桓騎も思わず頬を緩めていた。

 

しばしの離別

酒瓶がすっかり空になった後、どちらが誘う訳でもなく、二人は体を重ね合った。

鴆酒は一般的に猛毒に分類されるものだが、二人にしてみればただの酒でしかない。酔いも合わさって、普段以上に激しい情事になった。

すっかり疲れたのか、褥の中で信は桓騎に抱き着いたまま、寝息を立てていた。

窓から差し込む月明りだけが部屋を薄く照らしている。

「………」

眠るとより幼さが際立つ寝顔を見つめながら、桓騎はそういえば久しく娼婦を抱いていないことを思い出した。

娼婦に興味がなくなったのは、信と今の関係になってからだ。

肌はあちこち傷だらけで、中には目も当てられぬような深い傷跡だってある。醜い傷跡が肌に残っているなど、女としては致命傷だろう。

それでも情事の最中にその傷跡に舌を這わせることは、桓騎は嫌いではなかった。むしろ自分だけの証として、醜い傷痕を増やしてやりたいとさえ思った。

これまで桓騎が抱いて来た娼婦たちのように、信は特別な美貌や玉の肌を持ち合わせていない。

論功行賞や宴の席ではそれなりに身なりを整えて来て、美しい女に化けることは分かっていたが、彼女は男の喜ばせ方を何一つ知らないのだ。桓騎にはそれが好ましかった。

一から自分好みに染められるという男の優越感もあるのかもしれない。

夜の指南に戸惑いながらも従う信は、確実に自分の好みの女へと成長しているし、ますます愛おしさが込み上げる。

優越感と同時に、独占欲まで広まってしまったようだ。もう他の女では満足出来ないかもしれないと思えるほどに。

「…ん…」

前髪を指で梳いてやると、眠っている信が小さく声を上げた。ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、ぼんやりとした瞳が桓騎を捉える。

「まだ寝てろ。朝にはすぐ発つんだろ」

頷いた信が瞼を擦ってから、桓騎の胸にすり寄った。

「…なあ」

「ん?」

信が不安そうに眉を寄せている。

「相手に、確実に毒を飲ませる方法・・・・・・・・・・・って…あると思うか?」

「あぁ?」

寝起きだと言うのに、信の目は真剣だった。嬴政に后の護衛と毒見役を頼まれてから、ずっと気になっていたことだったのかもしれない。

「そのために毒見役がいるんだろうが」

「………」

信の髪を撫でながら言うと、信はあまり納得いかない表情で口を閉ざしてしまう。

嬴政自ら后の護衛と毒見役を頼んで来たということもあって、何としても后を守らねばならないと重責を感じているようだ。

「もしも、后を毒殺しようとしているのがお前なら、絶対に毒見役の目をすり抜けるだろ」

彼女の言葉に桓騎は苦笑を浮かべた。奇策を用いて戦う自分を敵に回せば、確実に標的を殺すに違いないと思われているらしい。

「やろうと思えばいくらでもあるな」

宦官ではない桓騎が後宮に入れるかどうかは置いといて、彼の頭に毒殺の方法はいくらでもあるようだ。

「例えば?」

「井戸に毒をぶち込むのが一番手っ取り早い」

「おいっ」

「冗談だ」

冗談でも物騒なことを言うなと信が桓騎が睨んだ。井戸に毒なんて流せば、大勢の者たちが被害に遭うだろう。

見境ないやり方に桓騎らしさを感じてしまうあたり、この男の性格に随分と慣れて来た証拠なのかもしれない。

頬杖をつきながら、桓騎が口を開く。

「…確実に殺すなら、一度に致死量を飲ませる必要はない。食事や香に混ぜるだけでじわじわ効いていくだろうな。女なら、紅やおしろいに混ぜれば確実に吸うだろ」

普段の食事や、部屋に焚く香。さらには女が普段から行っている化粧品にまで毒を盛るだなんて、本当にこの男だけは敵に回したくないなと、つくづく信は思うのだった。

「后だけを確実に毒殺する方法か」

桓騎は静かに目を伏せた。

「…毒見役で気づかれるっていうんなら、毒見役になって・・・・・・・食事に毒を盛ればいい。目の前で飯を食った毒見役が何ともねえって言うんなら、疑うことなく食うだろ」

「………」

信の眉間に深い皺が寄る。毒殺を防ぐ方法として、逆に桓騎だったらどのように毒殺をするかを聞いてみたのだが、さすが奇策の持ち主だ。

毒見役を演じておきながら、何ともなく食事をする姿を見せれば、食事に毒が盛られていないと誰もが信じるだろう。

「…後宮ではお前が毒見役をやるんだろ?それをすり抜ける方法か…」

なぜか楽しそうに桓騎の口元が緩んだ。

後宮へ行くのは后の護衛であって、決して遊びに行く訳ではない。信がきっと目を吊り上げると、桓騎は頭を乱暴に撫でた。

「あるぜ」

「え?」

毒見役お前の目を誤魔化して、確実に后だけを毒殺する方法だ」

桓騎がにやりと笑った。

 

護衛任務

明朝に桓騎の屋敷を発ち、信は自分の屋敷へと帰還した。仲間たちにしばらく不在する旨を伝えてから、信はすぐに咸陽へと戻るのだった。

信が後宮にいる向の護衛につくことを知っているのは嬴政と向、それから桓騎だけである。

秦国を幾度も勝利へ導いている飛信軍の女将軍の話は後宮内でも有名だった。そんな女将軍が直々に護衛につくとなれば、毒を盛った犯人が安易に手を出せなくなることは目に見えている。

信が後宮を出るまで向に手出しはしないだろうが、それでは根本的な解決にはならない。信の目がなくなってから再び動き出すに違いなかった。

あくまで今回の目的は后である向の護衛と毒見が主なのだが、犯人を捕まえられるならば、それに越したことはない。

大将軍の座に就いている信が後宮にいられる期間はそう長くないのだ。具体的な日数は決められていないとはいえ、いつ近隣の国が攻め込んで来るかも分からない乱世である。戦の気配があればすぐに呼び戻されるだろう。

可能ならば、自分が後宮に滞在している間に、向を毒殺をしようとした犯人を捕まえたかった。

後宮へ赴く日。信は後宮に身売りされた下女という後ろ盾のない立場を装った。

犯人を刺激しないよう、飛信軍の女将軍であることは内密にしなくてはならないのだが、女官の仕事着に身を包んだ信は誰がどう見ても下女にしか見えないだろう。

後宮には幾つもの宮殿があり、一番大きいものは嬴政の母親である太后が住まう宮殿だ。その次は嬴政の正室である向が住まう宮殿である。

必要最低限の荷物を抱えてその宮殿を訪れると、働いている侍女たち全員が暗い雰囲気に包まれているのが分かった。

毒殺事件があってからまだそう日は経っていないのだ。全員がどこか怯えた表情を浮かべている。

「あら、あなたは…」

信に気付くと、廊下の掃除を行っていた女官が無理やり笑みを繕った。年は信よりも上だということがすぐに分かる。

敏と名乗った彼女は、この宮殿に務める女官たちの中では一番長く後宮に務めており、女官たち統率する侍女頭の役割を担っているのだそうだ。

「話は聞いているわ。今日からよろしくね。ええと、名前は…」

「信だ」

偽名を使うのは面倒だったので、素直に名前を名乗った。まさか名前だけで飛信軍の女将軍だとは気づかれないだろう。

敏は悲しみ込めた眼差しを信に向けてから、笑顔を繕った。

どうしてそんな目を向けられるのか信には分からなかったが、新しい毒見役として遣わされたことから、恐らく哀れんでいるのだろう。

嬴政から聞いた話だと、向の食事を確かめた毒見役の女官は即死で、最後まで苦しんでいたそうだ。恐らく信も同じ目に遭うのだという同情のような哀れみ込められているのだと気づいた。

「…それじゃあ、向様のお部屋へ案内するわね」

女官に案内されながら信は廊下を歩いた。窓を開けて換気しながら女官たちが宮殿の清掃に勤しんでいる。

「…掃除は毎日してんのか?」

「もちろん。大王様の御子を抱えた大事なお体ですもの。こまめに空気も入れ替えているのよ」

一度に致死量は飲ませず毒殺するのなら、部屋に焚く香にも毒を仕込ませると桓騎は言っていたが、その点は心配なさそうだ

「あの、あなた…向様の前でその口調は、ちょっと…」

振り返った敏が言葉を濁らせる。

「下僕から身売りされた立場なんでな。あんまりそういった教育は受けてねえんだ」

嘘は吐いていない。王騎と摎の養子になってから、淑女としての教育は受けたことはあったが、微塵も直らなかったのも事実である。

将としての才能以外はからきしだと理解した両親も諦めたようで、気付けば何も言われなくなっていた。

もしも淑女としての教育がしっかりとされていたのなら、信は将ではなく、どこかの名家に嫁いでいたかもしれないと母によく笑われたものだ。

「…向様のご不快になるようなことだけは、気をつけてちょうだいね」

本来なら口酸っぱく指導するところだろうが、毒見役を担っているため、長い付き合いにはならないかもしれない。

今日明日にでも毒殺されてしまうのかという危惧しているのか、敏はそれ以上は何も言わなかった。

下女の替えなどいくらでも利く。毒見役など所詮は捨て駒に過ぎない。侍女頭の敏の態度はまさにそれを示していた。

替えられない命といえば、嬴政からの寵愛を受ける向と子どもの命だ。彼女たちを守るためにも捨て駒の存在は欠かせないのだろう。それは秦の未来のための礎とも言える。

(向に会うのは久しぶりだな…)

秦王の后に仕える立場として無礼は許されないというのは承知していたが、向と会うのは初めてではない。

幾度も嬴政から話を聞いていたし、何度か嬴政と二人でいるところにも遭遇したことがあり、そこで会話を交わしたことがあった。

後宮には大勢の美女がいるというのに、特別美人でもない田舎娘を選んだ嬴政には大笑いしてしまったものだ。

しかし、向と関わっているうちに、何となく嬴政が彼女を選んだ理由を信も分かるようになっていた。

高貴な生まれである娘と違って、向には芯の強さがある。そして何より、后という立場に興味を持たず、嬴政のことを愛していることが分かった。

秦王の后になることを羨望する娘は多い。しかし、誰もが后という国母に憧れているばかりで、夫となる秦王には興味を抱かない者も多いのだ。

信は後宮に出入りしたことはこれまでなかったのだが、母の摎からそのような女性もいるのだと聞いた覚えがあった。だからこそ、戦とは違った争いが絶えないらしい。

 

后との再会

「向様がいるのは、あの部屋よ」

突き当りの部屋の前に、一人の宦官が立っていた。

(見張りはちゃんとついてるんだな)

あの部屋が嬴政の正室である向がいる部屋のようだが、御子を身籠っている彼女の護衛をしているのだろう。

嬴政でさえ一人になることは滅多にないくらい護衛がついているのだ。その后ともなれば、護衛がつくのは当然だろう。ましてや、王族の子を身籠っているのだから、護衛がつかないはずがないのだ。

王族以外の男の出入りが許されない後宮では、男としての生殖機能を持たない宦官でも十分に護衛の役割を担うことが出来る。

女の力で敵わないことを分かっているからこそ、毒殺に目をつける者も多いのだろう。

目に見える凶器を振り払えたとしても、隠された凶器を見抜くのは、いかに力を持つ者でも至難の業である。

侍女頭である敏の姿を見ると、宦官は何も言わずに扉の前からその身を退いた。宮殿の女官たちを統率しているということもあって、彼女は随分と信頼されているらしい。

「向様。新しい女官を連れて参りました」

「あ、はい。どうぞ…」

扉を開けると、信は久しぶりの再会に喜ぶよりも前に、驚愕の表情を浮かべた。

向の体は、かなりやつれていた。ふっくらとした腹を見ると妊婦らしい体に思えるが、目の下の隈や、顔色の悪さから、健康でないことは誰が見ても明らかだったのだ。

驚きのあまり、信は向に掛ける言葉を失い、呆然としていた。

しかし、嬴政から話を聞いていたようで、信の姿を見た向は今にも泣きそうなくらい顔を歪めている。

挨拶もせずに呆然と后の顔を見ている信に、侍女頭の敏が焦った表情を浮かべた。無礼をしないように忠告はしていたが、頭を下げることもしない信に敏が慌てて口を開く。

「も、申し訳ありません!この子は下賤の出でして、ご無礼を…!」

「いえ、良いのです。あの、二人でお話をしたいのですが…」

向の言葉を聞いた侍女頭は不思議そうに目を丸める。

二人に面識があることは誰にも口外していない。そこにはどこに潜んでいるか分からない犯人を警戒させぬためという目的があった。

しかし、名も知らぬ初対面の下女と二人きりになりたいと言った向に、侍女頭は不安そうな表情をする。向もそれを察したのだろう、咄嗟に上手い言い訳を口にした。

「ええと、毒見役として来てくれているのですから…私の口からぜひともお話をしたくて…

毒見がいかに危険な仕事であるかは誰もが分かっている。向の心遣いを察した侍女頭は深く頷いて部屋を後にした。

「信さまぁあぁ…!」

背後で扉が閉まった途端、向はずっと堪えていた涙を溢れさせたかと思うと、子どものようにその顔をぐちゃぐちゃに歪ませて泣き始めたのだった。

「お、おいっ?いきなり泣くなよ…!」

動揺した信は一体どうしたら良いのか分からず、向の背中を擦ってやる。

とりあえず座らせると、部屋に用意されていた水甕から杯に水を汲んだ。

毒殺の方法の一つとして、井戸に毒を入れると言っていた桓騎の言葉を思い出し、試しに一口飲んでみる。唇や舌に痺れは感じないし、喉にも違和感はない。毒は入っていないようだ。

一頻り泣いてからようやく落ち着いたのか、向がぐすっと鼻を啜る。

「…信様。ご迷惑をお掛けしてすみません…」

「迷惑なんて言うなよ。お前は政の妻で、子どもを身籠ってるんだ。守られて当然だろ」

信が当然のように発した言葉を聞き、向の瞳に引っ込んだはずの涙が再び現れる。

「でも、でもぉ…!私のせいでッ…あの子が…」

あの子というのは亡くなった毒見役の女官だろう。

自分と身籠った子の命よりも、亡くなった者のことを想って涙を流せるのは、きっと嬴政が彼女を選んだ何よりの理由だろう。

信は苦笑を浮かべて彼女の頭を乱暴に撫でてやった。先ほどの侍女頭がまだこの場にいれば、后の頭を撫でるなんて無礼だと激怒されたに違いない。

「向」

信は真っ直ぐな瞳で彼女を見つめた。

「…お前のせいじゃないとか、そいつを忘れろだとか、そんなことは言わねえ。だがな…政のやつも、たくさんの命を背負って進んでんだよ」

嬴政の話が出たことに、向がぐっと歯を食い縛る。

その反応を見れば、いつまでも悲しみに囚われている訳にはいかないのだと彼女自身も分かっていることは明らかだった。

「お前が今やるべきことは、いつまでも不細工な泣き顔晒すことじゃねえはずだろ。亡くなった毒見役のことを想ってんなら、尚更だ。お前は生きなきゃいけねえんだよ」

信の言葉に、向は乱暴に涙を拭い、大きく頷いた。

勢いで言葉を綴ってしまったが、后本人に不細工だという言葉を投げ掛けたのは、中華全土どこを探しても信一人だけに違いない。

向が嬴政に告げ口をしたら、厳しい処罰を言い渡されるかもしれないと信が危機感を抱いたのは、随分と後のことだった。

 

耐性の代償

今度こそ涙が落ち着いて、向はごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。

豪快な飲みっぷりに、泣いたせいで失われた水分を取り戻そうとしているのと、毒殺事件があってから、ろくに食事を摂取出来ていないことが分かる。

「…あの、大王様から信様が毒見をするから大丈夫だって聞いていたのですが…」

言いにくそうに向が口を開いたので、信はあっさりと頷く。

「ああ、俺は毒が効かねえからな」

「ええッ!?」

信じられないといった表情をされる。毒が効かない人間など本当にいるのかと疑っている顔だ。

この反応を見る限り、どうやら嬴政は信の特殊体質のことを向に話していなかったらしい。

「毒見と護衛を兼ねて俺に頼んだんだろ。まあ、そんな訳だから、お前は安心して飯を食え」

「…本当に、体には何も支障がないのですか?」

疑うのも当然だろう。信自身も、毒が効かない特殊な体質である人間は、自分と桓騎以外に出会ったことがない。

それだけ珍しいものであるのは信にも自覚はあったが、体に支障がないといえば嘘になる。

「毒の症状は何も出ないけどよ…将軍の座に就いている俺には丁度良いんだ」

信がどこか寂しげな表情を浮かべながら自分の下腹部を擦った。

どうやら真意に気付いたようで、はっとした表情になった向は相槌も打てないほど驚いていた。

毒の耐性を持った代償として、信は子を孕めなくなったのだ。

幼少期にギュポーの毒を受け、毒の耐性を持つ特殊な体質へ変化した時に、どうやら女としての生殖機能を失ってしまったらしい。

信の年齢であれば、大抵は嫁に行っているし、子を産んでいる女もいる。しかし、信には未だ初潮が来ていなかった。

医師の診察を受けても、原因は分からないと言われた。しかし、思い当たることといえば、幼少期に毒を受けたことしか思いつかない。

他に居ない毒耐性を持つ特殊体質ということもあって、医師からはこの先も初潮は来ないかもしれないとまで言われていた。女としての生殖機能がないという意味だ。

子を孕めないと分かっても、信に焦りや不安はなかった。

大将軍の座に就いている以上、安易にその座を明け渡す訳にもいかなかったし、将軍として生きる道を選んだのだから、女としての幸せは不要だと思っていたからだ。

自分が将軍にならなければ、王騎と摎の養子として、どこかの名家にでも嫁いでいたのかもしれない。もしそうなっていれば、子を孕めないことに焦りや劣等感に苛まれていたに違いないだろう。

「もし戦に出られなくなったなら、その時はお前専属の毒見役になってやるよ。大王様のお墨付きだぞ?」

カカカ、と信は陽気に笑った。しかし、向は複雑な表情を浮かべていた。

 

都合の良い関係

一頻り笑ってから、信は思い出したように顔を上げる。手招きをして、顔を寄せてくれた向に小声で囁いた。

「政から聞いてるかもしれねーけど…」

この部屋には信と向しかいないのだが、普段の声量で話せる内容ではない。

俺があいつに伽で呼ばれる時・・・・・・・・・・・・・は、後宮での状況を報告するだけだから、くれぐれも誤解するんじゃねえぞ」

「はい。大王様から伺っております」

信はほっと胸を撫で下ろした。

自分と嬴政は親友という関係で結ばれているが、男女であることから、実は親友以上の関係で結ばれているのではないかという噂がどこからか広まっていた。

もちろんそんなことは絶対にないのだが、情報が限られている後宮では男女の色事についての噂が広まるのは早い。向の耳にも、その噂が届いたに違いない。

不本意だが、噂を止める術というものは未だ見つかっておらず、ほとぼりが冷めるまで待つしかないのだ。

「もし、本当に信様が伽に呼ばれたとしても、それは大王様のご意志ですから」

「誓ってお前の夫に手を出してねえし、出されてねえ。これからも絶対にないから安心しろ」

嬴政のために剣を振るうことはあっても、彼のために足を開くことは絶対にない。信は断言出来た。

彼女の言葉を聞いた向が曇りない笑顔を浮かべる。

「信様には心に決めた殿方がいらっしゃると、大王様から伺っていました」

「…はっ?」

まさかそんなことを言われるとは思わず、信の心臓が跳ね上がった。

心に決めた殿方と言われ、瞼の裏に桓騎の姿が浮かび上がる。嬴政に桓騎との関係は一度も告げたことはないのだが、どうして彼が知っているのだろうか。

桓騎と信の関係が深まったのは、信が桓騎軍の素行調査を行ったことがきっかけだった。

桓騎軍は元野盗の集団で構成されている。訪れた村を焼き払い、村人を虐殺し、金目の物を奪うという悪事の噂を聞きつけた嬴政が親友である信に、桓騎軍の素行調査を依頼したのである。

強豪である飛信軍の兵たちで結成した百人隊に紛れ、桓騎軍を見張っていたのだが、桓騎は初めから監視されていることに気付いていたらしい。

同じ大将軍である信が内密に素行調査を行っていたことをすぐに見抜いた桓騎は、逆上することなく信に酒を酌み交わそうと声を掛けた。

その時に差し出されたのが鴆酒だった。決して桓騎は逆上している訳ではなかったのだが、猛毒の酒を飲ませて藻掻き苦しむ信の姿を楽しもうとしていたのだ。

しかし、ここで予想外のことが起きる。それは信が桓騎と同じで毒に耐性を持っていたことだった。

―――う…美味いッ!なんだ、この酒!?初めて飲んだぞ!

―――…は?これは鴆酒だぞ?

普通の人間なら、鴆酒を飲み込めば、まず助からない。

解毒の方法がまだ解明されていないこともあるが、即効性がある毒だ。喉に流し込めば、吐き出す間もなく毒が回って死ぬことになる。

―――珍酒・・?そっか、だから飲んだことねえ味してんのか!

しかし、信は目を輝かせて、初めて飲んだ鴆酒の美味さに感激していた。

苦しむどころか、満面の笑みで鴆酒を飲み続ける彼女に、桓騎は呆気に取られる。

―――鴆酒・・だ。…お前、毒が効かねえのか?

桓騎の言葉に頷きながら、信は彼の手から酒瓶を奪い取り、お代わりを注いでいた。

美味しそうにごくごくと喉を鳴らしながら鴆酒を飲んだ信は、そこでようやく鴆酒を自分に飲ませた桓騎の意図に気が付いたのだった。

―――てめえ!俺のこと殺そうとしたなッ!?

二杯目を美味しく飲み終えてから憤怒した信に、桓騎は肩を震わせ、今さらかよと大笑いしたのだった。

素行調査では噂通りの悪事を目撃することは出来なかった。しかし、桓騎と距離が縮まったのは、お互いに毒を飲んでも平気だという共通点があったからだろう。

桓騎は毒を持つ生き物の珍味や酒など珍しい物をよく取り揃えており、時々、信に美味いものが手に入ったと酒の席に誘ってくれるようになった。

この中華全土のどこを探しても、毒酒の美味さを分かち合えるのは自分たちだけだろうと信は思った。

猛毒が入っているとはいえ、二人にしてみれば美味い酒であることには変わりない。

―――体を重ねたのは、何度目かの酒の席で、酔った流れだった。

先に唇を重ねて来たのはどちらだっただろうか。酒に酔った朧げな記憶ではそれさえも覚えていないのだが、決してどちらも嫌がらなかったことだけは覚えている。

「…あいつには、孕めない俺が都合良いんだろうな」

苦笑を滲ませながら、信は呟いた。

大将軍である桓騎は端正な顔立ちで、金で夜を買われた娼婦たちも彼のために喜んで足を開いている。元野盗の性分や悪事はともかく、大将軍という高い地位についているのだ。妻になりたいという女性も多くいるのも頷ける。

だが、桓騎がいつまでも妻を娶らずにいるのは、気ままな性格に婚姻という束縛をされるのが嫌なのだろうと信は思っていた。

毒酒の味を分かち合い、子を孕めない自分は、きっと桓騎にとって都合が良い女でしかない。

それでも桓騎に求められれば、舌を絡めながらその情欲に応えたし、肌を重ね合うあの時間は嫌いではなかった。

 

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七つ目の不運(李牧×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

李牧の屋敷

屋敷に到着すると、すぐに医師がやって来た。初老の医師で、李牧とはそれなりに長い付き合いらしい。

寝台へ寝かせた李牧の傷口の状態や、脈を確認し、手慣れた手つきで処置を行っていく。

この屋敷に来るまで時間が経っていたせいか、額の傷は縫合するほどではないとのことで、軟膏を塗布した後は清潔な布を宛がい、包帯を巻いて様子を見ることになった。

頭を強く打ったことは大丈夫なのかと信が医師に尋ねると、眼球を見る限りそういった心配はないと医師に言われ、彼女はようやく安堵することが出来たのだった。

あの時は酔っ払い男に父を侮辱された怒りのあまり、手を出してしまったのだが、これで李牧の命を奪ってしまったらと思うと、とても夢見が悪かった。

こんな形で父の仇を討っても、恨みが晴れることはなかっただろう。静かに寝息を立てている李牧に、信は複雑な気持ちを抱いていた。

処置を終えた医師は屋敷で働いている李牧の従者たちと何やら話をするために部屋を出て行った。

医師の手配と馬車の用意をしていたという慶舎は部屋に来ていなかったこともあり、今は李牧と二人きりである。

「はあ…」

寝台のすぐ傍にある椅子に体を預け、李牧の寝顔を見つめながら、信は溜息を吐いた。

こんな騒ぎを起こしておいて、趙国から出るどころではない。あの場は李牧が上手く収めてくれたとはいえ、彼に謝罪も告げないで趙から去る訳にもいかなかった。

普段の態度はがさつでも、こういう律儀な性格だからこそ、信は多くの兵や民に慕われているのだ。

「う…」

小さな呻き声がするのと同時に、眠っている李牧の瞼が鈍く動いたので、信は思わず彼の名を呼んでいた。

「李牧!おい、しっかりしろ!」

ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、現れた瞳がぼうっと天井を見つめている。それから隣にいる信へと視線が動いた。

「信?ここは…」

信は扉の方に一度視線を向けて、この場に自分たちだけしかいないことを確かめてから答えた。

「お前の屋敷だよ…慶舎と俺で連れて来たんだ」

配下の名前を聞き、李牧は納得したように頷いた。

酒瓶で殴られた額が痛むのか、李牧が苦悶の表情を浮かべる。包帯を巻かれている額に触れると、彼は全てを思い出したように瞬きを繰り返した。

「…そうでした。あなたが着替えている間、慶舎に馬車の手配を頼んでいたんです」

城下町を出たらその馬車を使って関門へ向かうつもりだったのだと李牧は言った。

やり手の女主人がいる呉服店に自分を置いてどこへ行っていたのかと思ったが、やはり李牧は考えなしに動くような男でない。

途中ではぐれてしまったことは予想外だったろうが、もしあのまま李牧と一緒に城下町を出ていたら、今頃は秦への帰路を急いでいたかもしれない。

(…全部、俺のせいだな)

簪が売られている店で女性客たちからの視線を受け、正体を気づかれていると早とちりをしてしまった。

本当に気づかれていたのかは分からなかったが、自分が逃げ出さずとも、きっと李牧が何とか場を収めてくれたに違いない。

そして何より、あの酔っ払いに父を侮辱されて、怒りに我を忘れることもなかっただろう。結果的に李牧に傷を負わせてしまったことで、信は後悔の念に駆られていた。

「…!」

寝台に横たわったまま、李牧が信の頭を優しく撫でたので、信は驚いて顔を上げた。

「何するんだよっ」

まるで子どもを慰めるように頭を撫でられたことに、信がきっと目を吊り上げる。

「とても悲しそうな顔をしていたものですから、つい」

何の悪気もない笑顔を向けられると、信の胸は罪悪感でちくりと痛んだ。

「…勝手なことして、悪かった…」

今にも消え入りそうな声で信が李牧に謝罪すると、李牧は目を瞬かせている。どうして謝罪されたのか、理由が分からないでいるらしい。

信は膝の上で両手を強く握り締め、俯いてしまう。

城下町で、李牧があの男に掛けた言葉が鼓膜に蘇る。

―――王騎将軍の侮辱は、彼と同じ戦場に立っていた者として、断じて許しませんよ。

侮辱された父を庇うように、敬うようにあの男に掛けた言葉を、信は未だに信じられなかったのだ。

李牧が父である王騎の仇なのは変わりない。どうしてそんな男があのような言葉を掛けたのか、信には理解が出来なかった。

李牧が嘘を吐いている様子はなかった。しかし、それが本心なのかは分からない。

あんな風に思っているのなら、どうして殺したのかというのは愚問だろう。

今日、李牧と共に邯鄲を歩きながら、彼が多くの民や兵に慕われていることを知った。李牧にとって大切なこの領土を守るために、敵将を討ち取ったに過ぎない。

信が過去に討ち取って来た敵将たちだって、同じように家族や仲間から悲しまれただろう。もし、李牧が討たれたら、彼を慕っている民や兵たちも大いに悲しむはずだ。

(…そういえば、こいつって…)

 

李牧の許嫁

謝罪の後、信が不思議そうな表情を浮かべて、自分の顔を覗き込んで来たので、李牧は小首を傾げた。

「どうしました?」

「そういや、お前…民衆の前で、俺のこと妻って呼んだよな」

ああ、と李牧が思い出したように頷く。

「あの場では仕方ないでしょう」

「………」

自分の正体を気づかせまいとするためだったのだろうが、咄嗟の嘘にしては無茶だったのではないだろうか。

そもそも、李牧の家族について何も知らない信からしてみれば、本当の家族から恨まれるのではないだろうかと不安になった。

「お前くらいの立場なら、妻の一人や二人いてもおかしくないだろ。戦場で死ぬならまだしも、くだらねえ色事に巻き込まれて死ぬなんて、俺は嫌だからな」

信がげんなりした表情で言うと、李牧はゆっくりと上体を起こそうとしていた。

「お、おい、あんまり無理するなよ…!」

全力で殴ってしまった手前、無茶をさせる訳にはいかないと信は李牧の肩を支えて、上体を起こすのを手伝った。

信の手を借りながら何とか上体を起こした李牧は体の前で手を組み、目を伏せる。

「…私には昔、許嫁がいたんです」

なぜ過去形なのか疑問に思ったが、信は口を挟むことなく彼の話に耳を傾ける。

李牧の過去を信は何も知らない。しかし、宰相の座にまで上り詰めた彼のことだ。きっと多くの武功を挙げて来たのだろう。

だが、李牧の表情に宿っていたのは、過去の栄光を想像させるものではなく、ただの悲しみだった。

「…当時の私は、今より愚かな男でした。彼女より、戦での武功を優先していたのです」

本当に愚かな男でした、と李牧は悔しそうに拳を握っていた。

拳が白くなるほど強く握り締めているのを見て、本気で悔やんでいることが分かる。

「…久しぶりに屋敷へ戻ると、元々体の弱かった彼女は…」

暗い表情のまま、李牧は口を噤んだ。

続きを促さなくても、許嫁の女性がどうなってしまったのか、誰もが理解する。亡くなったのだろう。

許嫁がいたのだと過去形で話していた理由が繋がり、信は掛ける言葉に迷ってしまう。安易に妻の話を持ち掛けてしまった先ほどの自分を殴りたくなった。

重い沈黙が二人を包み込む。いたたまれなくなった信が李牧に謝罪をしようと思ったその時だった。

「…と言って、涙でも拭う仕草をしておけば、縁談を断る理由になるので便利なんです・・・・・・

「……はっ?」

突然李牧が笑顔を浮かべた。つい先ほどの暗い表情を浮かべていた彼とは別人のように切り替わったのである。

何が起きているのか少しも理解出来ず、聞き返した信に、李牧が目を丸めている。

「何か?」

「つ、作り話…!?」

あれだけ他人の同情を誘う演技までしておいて、まさか許嫁など初めから存在しなかったというのか。信が大口を開けて驚愕する。

「どこかの国の仏教の言葉らしいですが、嘘も方便・・・・とはよく言ったものです」

回りくどい言い方ではあるが、許嫁の存在が嘘だと認めた李牧に、信は開いた口が塞がらないままでいた。

「おや、あなたも信じましたか?」

少しも悪いと思っていないらしい李牧に問われ、信のこめかみに鋭いものが走った。酒瓶で思い切り殴りつけた非は謝罪しない方が良かったのかもしれない。

驚愕していた信がみるみるうちに憤怒の表情に変わっていくのを見て、李牧が困ったように笑う。

「こんのッ…嘘吐き野郎ッ…!」

「ですから、嘘も方便というやつです」

「んなこと言っても嘘は嘘だろッ!」

納得出来ないと信が噛みついて来る。納得出来ないのを理由に、感情論を押し通そうとする信に、李牧の苦笑はますます深まるばかりだ。

「…しかし、駆けつけて・・・・・驚きました。まさかあなたが一人の男に襲われているのかと…実際には襲っている方でしたけれど」

さり気なく李牧が話題を切り替えたことに、信は気付かず、小さく頷いた。

しかし、そこでも信は李牧の嘘に気付くことになる。

「…駆けつけた?…お前そういえば、足挫いたって言ってなかったか?」

「ああ、すっかり治ったようですね」

李牧がまた悪気のない笑顔を浮かべたので、信は腸が煮えくり返りそうになった。

「まさか、てめえッ!それも嘘だったのか!?」

着物を掴んで睨み付けると、李牧が顔をしかめる。

「…思い出したらまた痛くなって来ました。あいたたた…」

わざとらしく左足を擦る李牧に、信の堪忍袋の緒がいよいよ切れた。

「―――捻ったっつったのは右足・・だろッ!もう騙されねえぞッ!」

腕を組み、信が李牧から思い切り顔を背ける。

全て演技だと見抜かれてしまったことに李牧は諦めたように笑った。

「それでは、これから関門を抜けるための書簡を用意しますから、少し待っていて下さい」

寝台から立ち上がろうとした李牧に、それまで憤怒の表情を浮かべていた信が不安げな顔になる。

「お、おい、立ち上がって大丈夫なのかよ…」

「いつまでも寝てる訳にはいかないでしょう。それとも、付きっきりで看病してくれますか?」

「嫌だね」

即答した信に「でしょう?」と李牧が笑う。本当によく笑う男だと信は思った。

 

帰省準備

筆を取った李牧が関門を通るのに必要な書簡の準備を始めたので、信は黙って彼の背中を見つめていた。

許嫁の存在も、右足を捻ったのも嘘だと分かったが、額の傷だけは誤魔化せない。

そういえば医者からは、特に安静にしていろとも言われなかった。本当に見た目ほど傷は深くないのだろうか。

酒瓶で殴りつけたせいで失神までしたのだから、そんな浅い傷のようにも感じられない。とはいえ、医学の知識がない信には医者の言葉を信じるしかなかった。

「…そうだ。信、こちらへ来てください」

振り返った李牧が手招いたので、信は何用だと近づいた。

「え…?」

呉服店の女主人によって結われていた髪に何かを差し込まれる。

「ああ、やはり着物の色と同じ色にして正解でした」

まるで鈴の音のように美しい音が聞こえ、信がそれを手に取ると、花の形を象った青水晶がついた金色の簪だった。あの時の店で購入したのだろうか。

信が目を丸めていると、その反応を楽しむように李牧が口元を緩めている。

満足したのか、再び筆を走らせる彼を見て、信はまさかこれもくれるのかと驚愕するのだった。

青水晶だけでも高額だというのに、金まで使っている。もしかしたら着物よりも高額なのではないだろうか。着物の価値も簪の価値もよく分かっていない信でもそのくらいの知識はあった。

「お、お前、この着物もそうだけど、簪まで…なんつーもんに金掛けてんだよ!?」

「別に良いでしょう。せっかく趙へ来たのですから、土産の一つくらいないと寂しいじゃないですか」

土産という言葉で収まるほどの額ではないはずだ。

しかし、趙へ連れて来られた時の着物は後宮に身売りされた時に奪われてしまったし、後宮を抜け出す時に着ていた着物も呉服屋に置いたままだ。今さら取りに戻る訳にもいかないだろう。

李牧からの土産であるこの着物を着たまま秦に帰るしかないだろう。趙で過ごした数日を思い出させるようなものは持ち帰りたくなかったのだが、そうもいかない。

「…さて、これで良いでしょう。一番早い馬を使ってください。護身用に剣の一本もあった方が安心ですね。すぐに用意をさせます」

関門を抜けるのに必要な書簡を書き上げた李牧は紐で丁寧に包むと、立ち上がって信にその書簡を差し出す。

「ああ…えっと…」

そういえば李牧からは土産という名の着物から簪、それから関門を通るために必要な書簡や馬、はたまた護身用の剣など、もらってばかりだ。

礼を言うべきなのは分かっているのだが、先ほど騙されたと気づいて逆上したせいか、信は素直に感謝の気持ちを伝えられなかった。

「どうしました?」

だが、李牧は信よりも大人で、信が気にしていることなど大して何とも思っていないようだった。

いよいよ秦へ帰る手筈が整ったというのに、李牧への感謝の気持ちを伝えねば、いつまでも胸に残るだろう。

李牧に会えなかったら、もしかしたら今頃は後宮へ連れ戻されて悼襄王の伽の相手を強要されていたかもしれないし、正体が気付かれて首を晒されることになっていたかもしれない。

無事に趙から出られることになったのは全て李牧のおかげである。

きっと、彼と次に会うのは戦場だ。軍師である彼と戦場で相まみえるということは、戦況が大きく傾いている時に違いない。

もしかしたら次の戦場では彼を討つことになるのかもしれないと思うと、礼を言う機会を先延ばしにする訳にはいかなかった。

「李牧…」

礼を言おうと、意を決して、信が顔を上げた時だった。

「ん…ぅっ…!?」

両肩をそっと抱かれたかと思うと、視界いっぱいに李牧の顔が映っていて、唇に柔らかいものが押し当てられている。口付けられたのだと頭が理解するまでには時間を要した。

唇を交えながら、信が握っていた簪が李牧の手によって奪われ、再び彼女の結われている髪に差し込まれる。

「え…」

唇がゆっくりと離れていく。信は白昼夢でも見ていたのではないかと思った。

しかし、未だ唇に残っている柔らかい感触に嘘偽りはなく、李牧と唇を交わしたことが現実であることを知る。

「ああ、すみません。どうやら立ち眩みを起こしてしまったようで…」

わざとらしく言う李牧に、信はきっとそれも演技であることをすぐに理解した。

「な、何してんだよッ!」

唇に残っている感触を手の甲でごしごしと拭いながら顔を真っ赤にしている信に、李牧が肩を竦める。

「随分と無粋なことを聞きますね。さあ、これから秦国へ帰るのでしょう?今、必要な物の手配を行いますから、そこで待っていて下さい」

未だ動揺冷めやらぬ信の脇をすり抜け、李牧は部屋を後にした。

立ち眩みをしたと言っていた割に、しっかりとした足取りで歩いている。やはり立ち眩みも嘘だったに違いないと信は確信したのだった。

 

七つの偶然

必要な物を持った後、信は馬を走らせて祖国へと出立した。

本当ならば関門を抜ける辺りまで同行したかったのだが、生憎、宰相という立場である以上、そこまで時間を割くことは出来ない。

束の間だったとはいえ、彼女と過ごした時間を李牧は静かに思い返していた。

「ただいま戻りました」

屋敷に戻ると、手の甲に乗せた蜘蛛と戯れていた慶舎が李牧を出迎えた。

「…傷の具合は」

慶舎の視線が包帯に包まれている李牧の額に向けられる。

「少し痛むくらいで、何ともありません。心配をかけましたね」

安心させるようにそう言った李牧の言葉に、慶舎は小さく頷いた。

「てっきり、頭を殴られて気を失われたのかと」

「あれくらいで倒れる私ではないですよ」

「では、なぜあのような演技・・・・・・・を?」

演技という言葉に反応したのか、李牧が困ったように肩を竦めた。

「残念ながら演技ではありませんよ。私はどうも昔から酒が苦手・・・・でして…」

自らを下戸なのだと証言した師に、慶舎は表情を変えずに頷いた。

李牧があの場で意識を失ったのは信に酒瓶で殴りつけられたからではない。中に入っていた酒を浴びたせいである。

昔から酒の匂いでも気分が悪くなってしまうほどの下戸である李牧は、苦手な酒を頭から浴びてしまったせいで意識を失ってしまったのだ。

酔っぱらっていた男は、龐煖が討ち取った王騎に対して何か言っていたらしいが、忠告はしてやった。二度と王騎を侮辱をすることはないだろう。

あの時の李牧は酒を浴びたせいで、少々気が立っていた。しかし、信と民衆の前ということもあり、酔いを堪えながら、誰もが慕う宰相を演じ切ることが出来たのだ。

父の仇として自分を憎んでいた信も、僅かに心境の変化があったのはそのおかげだろう。

「…王騎の娘・・・・。逃がしても良かったのですか?」

手の甲から腕を這い上がる蜘蛛を眺めながら、慶舎が声色を変えずに問う。意外だという瞳で李牧は弟子を見た。

「おや、いつから気づいていました?」

信は戦で仮面で顔を覆っているため、慶舎は信の素顔を知らないはずだった。こちらは何も告げていないというのに、一体いつ王騎の娘だと気づいたのだろうか。

「李牧様ご自身が、あの娘を信と呼んでいました。そして、王騎の侮辱を許すまいと、絡んで来た男を殺そうとした…李牧様を二人で馬車へ運んだ時、腕が傷だらけで、剣に覚えがある手をしていました。病弱な許嫁でも、普通の女でもないでしょう」

「さすがは慶舎です」

そこまで注視していたなんてと李牧は素直に慶舎を褒める。

偽装工作のために、信を呉服店に預けた後、李牧は共に宮廷に来ていた慶舎に馬車と、足の速い馬の手配を頼んでいた。

護身用に持たせるための剣も馬車へ積んでおくよう声をかけていたのだが、僅かな情報だけで信の正体に気付くとは、李牧は感心してしまう。

本来の計画ならば、城下町を出た後すぐに秦へ続く関門へ向かう予定だった。

しかし、李牧が同行出来るのは途中までで、関門に必要な書簡も、本当は馬車の中で用意するつもりだったのだ。

大きく予定が狂うこととなったが、その分、贈り物も出来たし、今の李牧はとても機嫌が良かった。

「彼女のおかげで、久しぶりに楽しい時間を過ごすことが出来ました」

額の傷がある部分にそっと触れながら、李牧が微笑んだ。その言葉に嘘偽りがないことを、慶舎は彼の声色から察した。

「…せっかく趙へ誘い込んだ・・・・・・・・・・・というのに、なぜ逃がす真似をなさったのか、理解し兼ねます」

信が趙へ来たのは、いくつもの不運が重なってのことだった。しかし、慶舎は全てを見透かした瞳で師である李牧を見つめる。

李牧は意味ありげに笑みを深めると、首を横に振った。

「…たまたまですよ。信がこの国に来たのを、いくつもの不運が重なったと言うのなら、私が彼女に会えたのは、いくつもの偶然が重なった・・・・・・・・・・・・だけということです」

慶舎の疑問には一切答えず、李牧はそう答えた。

偶然という言葉で都合よく片付けようとする師に、慶舎は表情を変えないで口を開く。

「…奴隷商人を装えば、秦への関門を越えるのは容易いことでしょう」

慶舎の言葉に、李牧は噛み堪えていた笑いを抑え切れなくなっている。

「いやあ、まさかあの子は酒癖が悪いだなんて、本当に知りませんでした」

肩を震わせた後に大笑いを始めた李牧に、慶舎は相変わらず表情を変えないでいたのだが、頭の中では、全て彼の策通りに物事が動いていたのだと納得出来た。

今回のことは全て、李牧の中では単なる偶然として片づけられる出来事だったのだろう。

秦国の情報を探るため、配下に奴隷商人を装うよう指示を出したこと。

関門を抜けて秦国に潜入したところで、李牧が恋い焦がれてやまぬ女将軍が酒に酔って寝入っていたこと。

趙への移動中に彼女が目覚めぬよう薬を盛られてしまったことも。

ちょうど人手が足りないと言われていた妃が住まう宮殿に、彼女が下女として身売りされてしまったことも。

悼襄王が久しぶりに妻に会いに後宮へ赴き、そこで彼好みである少年のような風貌である下女を気に入ったことも。

後宮から彼女が脱出に使いそうな場所があそこだけだったのも、そして李牧があの場に通りかかったことも―――

李牧の中では・・・・・・、七つとも、全て偶然なのである・・・・・・・・・

 

その後~趙~

宰相である李牧に年下の美人な妻がいるという噂が広まり、密かに彼に想いを寄せていた女性たちは悲鳴に近い声を上げたという。

噂を聞きつけた李牧の側近であるカイネも、その真相を確かめるべく李牧の下を訪ねた。

彼女が李牧の屋敷に着いたのは、ちょうど信が出発した後だった。

「り、李牧様…」

難しい表情で書簡に筆を走らせている李牧に、カイネが恐る恐るといった様子で声を掛ける。

「カイネ、すみません。急いでこの書簡を送らないといけないので、このままで許してください」

先ほど屋敷に戻って来たばかりの李牧は、すぐに書簡の準備をするように家臣たちに声をかけていた。

どうやら急ぎの用らしく、李牧は筆を動かしながらカイネに用件を尋ねた。もちろんですと頷いた後、カイネは意を決したように顔を上げる。

「…あのっ、以前、李牧様にはお体の弱い許嫁がいると…」

「ええ、それが何か?」

早鐘を打つ胸を押さえながら、カイネは口を開く。緊張のあまり、口の中がからからに乾いていた。

「その、先ほど…城下町で、若い女性とご一緒されていて、その方を妻だと、李牧様がおっしゃったのだと…民の間で噂になっておりました…」

あくまで民の噂だと仄めかせ、カイネは李牧から真相を聞き出そうとした。

途中まで書いた文字に目を通しながら、無慈悲にも李牧が口を開く。

「はい、許嫁の彼女です。体調が良い日は、夫婦・・で一緒に出掛けるんですよ」

カイネの頭に鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。

誰よりもずっと長く李牧に仕えていたというのに、一度も李牧の浮いた話を聞いたことが無かったカイネには衝撃的な内容だったのである。

体の弱い許嫁がいるのだという話を聞いた時から、きっとその女性は病で亡くなり、それから李牧は恋愛不振になっているのだろうとカイネは考えていた。

それがまさか、こうもあっさりと否定され、その許嫁とめでたく結婚していただなんて。

側近という立場である自分にどうして一言もそんなおめでたい話をしてくれなかったのかとカイネはやるせなくなった。

李牧は宰相の名を語るだけでなく、軍の総司令を務めているほどの立場の男だ。

多くの民や兵たちにも慕われている彼が選んだ女性を気になる者は趙に多かった。体格も顔立ちも性格も立場も申し分ない。李牧に声を掛けられれば多くの女性が頬を染めて笑顔を浮かべることだろう。

実際に李牧に選ばれた女性が病弱という話から、可憐な花のような美女を想像する者も多かった。

カイネは実際に妻と呼ばれた女性を見ていないのだが、噂によると、誰もが振り返るほどの美しさを秘めていたんだとか。

自分のために簪を選ぶ李牧を見て、妻の女性は恥ずかしそうに俯いていたのだという。

高価な物を勧めても目を光らせない、欲の少ないその女性こそ、宰相の立場を鼻にかけずに民たちに慕われる李牧に相応しいとまで噂が広まっていた。

「し、失礼します…」

噂が本当だったのだと分かったカイネは顔から血の気を引かせてふらふらと歩き出し、おぼつかない足取りで部屋を出て行く。

再度筆を取った李牧に、部屋の隅で、未だ一匹の蜘蛛と戯れている慶舎が視線を向けた。

「…聡明な李牧様のことですから、その方が色々と都合が良かったのでしょう」

その言葉を聞き、李牧は動かしていた筆をぴたりと止めた。

一度筆を置いた李牧は墨が乾くのを待つフリをして、慶舎の方を振り返った。

「…今は訳あって・・・・・・、別の場所で暮らしていますが、全てが終わったら迎えに行くつもりですよ」

「秦国にですか?」

李牧が苦笑を深める。どうやら慶舎にはお見通しだったらしい。

「ええ。何年後になるかは分かりませんが…私の目が黒いうちに、必ず」

再び筆を取った李牧が竹簡に続きを書いていく。

「…李牧様のお望みが叶うよう、尽力致します」

供手礼をした慶舎に、李牧がにこりと微笑む。

「ありがとうございます。…それでは、その第一歩として、この書簡を至急、秦へ届けるように手配を頼みましたよ」

「はっ」

たった今書き上げたばかりの書簡を、李牧は慶舎へ手渡した。

 

その後~秦~

見慣れた景色が視界に飛び込んで来て、無事に帰還が叶ったのだと噛み締めた。

「や、やっと、帰って来れたぜ…!」

母国の土を踏み締めているだけで、目頭に熱いものが込み上げて来る。一時はどうなることかと思ったが、敵国から生還出来て本当に良かった。

みんな心配しているに違いない。

飛信軍の仲間たちはもちろんだが、父である王騎の副官として長年仕えていた騰や録嗚未たちも、信にとっては家族のような存在だ。自分に何かあれば王騎に申し訳が立たないと思っているに違いない。

幼い頃から過ごしていた王騎の屋敷に帰宅すると、家臣たちが無事に帰って来た信に大騒ぎしていた。

「御無事で何よりです」

幼い頃から信の世話をしてくれた年老いた侍女たちは涙を流している。

「悪いな…随分、心配かけちまって」

戦に出た訳でもなく、連絡もなしに失踪したことで大いに心配をかけてしまったと信は家臣や仲間たちに深々と頭を下げた。

もちろんどこで何をしていたのかまでは告げなかったのだが、秦王にはそんな訳にはいかないだろう。

趙を出てから、信はずっと此度の言い訳を考えていた。

元を辿れば、武器も持たずに外で眠っていた自分にこそ非があるのだ。酒に酔ってしまい、寝具を被って眠るのは暑いからという安易な考えから、屋敷の外で眠ったことが最大の原因である。

そういえば眠る寸前、道に迷ったという商人に道を教えてやった気がする。何度も感謝された男に名前を尋ねられ、飛信軍の信だと答えてから記憶が無くなっていた・・・・・・・・・・

…もしかしたら、あれも夢だったのだろうか。

趙へ連れていかれたのは、色んな不運が積み重なった末に起きた更なる不運だ。同情をして欲しい訳ではないが、真実を告げたところで、信用してくれないに違いない。

翌日、嬴政に告げる上手い言い訳を決めた信は、日の出と共に咸陽宮へと馬を走らせた。

普段ならば秦王の前に姿を見せる時には、きちんとした身なりをするよう言われていたのだが、今回は事情が事情だ。

自分に礼儀というものを教えてくれた両親に心の中で謝罪しながら、信は咸陽宮の門をくぐった。

衛兵に声をかけて、秦王である嬴政に謁見を申し出ると、すぐに部屋へ案内された。

どうやら宴の後から信が失踪していたことは秦国中で噂になっていたようで、衛兵たちも、すれ違う官吏や女官たちも信を見て大層驚いた顔をしていた。

「―――信!今まで一体どこで何をしていた!」

政務中だっただろうに、帰還の報せを聞いた嬴政がばたばたと走って彼女の前に現れる。

玉座に腰掛けることもなく、嬴政は今にも信に掴みかからん勢いで怒鳴りつける。

大王という立場の彼がこれほど取り乱している姿を見るのは初めてのことだった。ぐうの音も出ず、信はその場に膝をついて頭を下げている。

現れたのは嬴政だけでなく、側近たちもだ。彼らも心配してくれていたのだろう。信の姿を見てほっと安堵した表情を浮かべている。

しかし、嬴政だけは信が無事で良かったという意志は感じられず、目をつり上げて、彼女を睨み続けていた。

心配の裏返しなのだろうが、そこまで怒りを露わにされると、委縮してしまう。

「…あのー…色々あって…だな…」

そう。宴の後から今日に至るまで色々とあったのだ。言葉を濁らせて、語ろうとしない信に、嬴政の瞳がさらに怒りで染まっていく。

「大王である俺に言えぬことか?」

「う…」

卑怯な物言いをすると信は俯いたまま奥歯を噛み締めた。素直に答えなければ打ち首にするぞと脅しているようなものではないか。

しかし、真相を告げたところで信じてもらえる訳がない。

大将軍である自分が下女として奴隷商人に売り飛ばされたなどと笑い話でしかないし、出来ることなら墓まで持っていきたい秘密だった。

「えっと…」

信が用意していた言い訳を話し出そうとすると、背後で扉が開き、衛兵が膝をついて頭を下げる。その手には書簡が握られていた。

「大王様!趙の宰相から、秦国宛てに至急の書簡が」

「…李牧から?」

嬴政が目を見張る。李牧からの書簡が来たことによって、それまで信に向けていた怒りが消え去ったらしく、信はほっとした。

(ん?なんで李牧から至急の書簡なんて来るんだ?)

しかし、まるで機を見計らったかのような・・・・・・・・・・・・書簡の存在に、李牧がどのような書簡をよこして来たのだろうと信は気になった。

右丞相の昌平君が衛兵から書簡を受け取り、中身を確認している。

軍の総司令官を務めていることもあり、多少のことでは動じない昌平君であったが、書簡の内容を読み進めていくにつれて眉間に皺が深まっていった。

全員がその表情の変化に、何か悪い内容なのだろうかと考える。

(何だ…?ものすごい嫌な予感がする…)

ここからの位置では書簡に何が書かれているのかは少しも分からない。

しかし、李牧の名前を聞いた瞬間から、自分に関する内容が書かれているのではないかと信は不安に襲われた。

それは幼い頃から戦場に身を置いて来たことによる野生の勘だったのかもしれない。

「………」

「………!」

昌平君と目が合う。

彼の瞳に呆れの色が宿ったのを見て、信は顔から血の気を引かせた。

「昌平君、李牧からの書簡には何が書かれていた?」

「は…」

嬴政の問いに、昌平君が書簡の内容を読み上げようと口を開く。

 

七つ目の不運

立ち上がった信は、慌てて昌平君の手から書簡を奪い取ろうと駆け出した。

「読むなーッ!」

突進して来た信に書簡を奪われないよう、昌平君は瞬時に書簡を高く掲げた。

長身の彼が腕を上げると、信がどれだけ手を伸ばしても、跳ねてみても届かない。

後宮から脱出した時のように、助走をつければ取り戻せたかもしれないが、昌平君が相手では助走をつけたところで意味はないだろう。

信が血相を変えて慌てふためいている様子に、その場にいる者たちも小首を傾げている。

しかし、嬴政は彼女が慌てふためく理由が書簡の内容に隠されていると分かり、傍にいる昌文君に声を掛けた。

「昌文君、あの書簡をこちらに」

「はっ」

長身の二人が信の手の届かない高い位置で書簡を受け渡している。

「オッサン!だめだ、頼む!やめてくれ!」

昌文君に渡った書簡を取り戻そうと、信が兎のようにぴょんぴょんと跳ねた。

しかし、昌文君は構わずに受け取った書簡を高く掲げ、信に奪われないように嬴政の下へと向かった。

もはや半泣きになっている信に、嬴政は顔を引き攣らせる。

(趙の宰相である李牧からの書簡と、信のこの反応…まさか…)

信じたくないが、まさか信は趙と密通していたのだろうか。

ありえないと嬴政は否定したが、信の慌てぶりを見る限り、気づかれたくないという気持ちが前面的に押し出ている。密通を疑わざるを得ないだろう。

まだ秦趙同盟が解消されていないとはいえ、趙の宰相と繋がりがあるだなんて、忠義の熱い信が一体どうして。嬴政の胸に不安が広がっていく。

「政、頼む!後生だ!それを読むのはやめてくれ!」

結局、昌平君に羽交い絞めされる形で抵抗が出来なくなった信は、懸命に嬴政へ呼びかけていた。

一体何が記されているのだろう。

「………」

生唾を飲み、嬴政は昌文君から書簡を受け取った。

そこに記されていた内容に、嬴政は違う意味で・・・・・驚愕することとなる。

信の身に起きた数々の不運。

趙の宰相である李牧という男に魅入られてしまったことこそ、信の七つ目の不運だったのである。

 

七つ目の不運~真相~

信は大王嬴政の前で正座をして、ぐすぐすと鼻を啜っていた。

彼女の頭には立派過ぎるほど大きなたんこぶが出来ている。大王嬴政からの立派な賜り物である。

この中華全土どこを探しても、大王から鉄拳を受ける女など信くらいだろう。

信の涙が滲んでいるのは決して頭を殴られた痛みからではなく、羞恥心によるものだ。

大王嬴政は腕を組み、玉座にふんぞり返っている。過去に政権を握っていた弟の成蟜を思わせるような態度だ。やはり兄弟に共通点というものはあるらしい。

嬴政がそのような態度を取るのはとても珍しく、すなわち、まだまだ彼の怒りは引くことはないということでもある。

「他の者たちにも伝わるよう、大きな声で読んでみろ。一言一句違えることなく読め」

「う…うう…」

握った拳が白くなるほど信は力を込めている。どうしてこんな辱めを受けているのだろうと信は自問自答した。

彼女の前に広げられている書簡は、先ほど届いたもので、それは趙の宰相である李牧が秦国宛てに送ったものである。

「…飛信軍の信将軍が、趙国、後宮の、下女として…過ごしていた事に、ついては、…」

たった今、信が音読させられている内容を要約すると、彼女が敵国である趙へ渡った経緯が記されていたのである。

恐らく、李牧としては気遣いのつもりだったのだろう。

秦の大将軍である彼女が一人で趙へ行くはずがない。秦趙同盟の期間内とはいえ、目的も告げずに趙へ行くなんて密通を疑われてもおかしくない行為だ。

だからこそ李牧は信が密通をしていないことを証言するために、彼女から聞いた事実を書簡にして嬴政に送ったという訳である。

信にとっては墓場まで持っていくつもりだった秘密事項が事細かに記されており、このまま舌を噛み切って死んでしまいたいほどの屈辱だった。

震える声で李牧からの書簡を読み終えた信はいよいよ限界で、双眸から涙を流し始める。

話を聞いていた官吏たちは皆、今日まで信の身に起きた事実に唖然としており、一番初めに書簡を読んだ昌平君だけが表情を変えずにいた。

「はあー…」

嬴政は玉座からゆっくり立ち上がると、わざとらしく大きな溜息を吐く。

まさかこれ以上の辱めを受けさせるのかと、信は嬴政に怯えた瞳を向けた。

「大将軍とあろう者が、酒に酔って外で寝ていたところを、奴隷商人に捕らえられ…」

「う…」

「そのあげく、趙に着くまで爆睡していて、後宮に身売りされ?悼襄王の寵愛を受けるとこだった?」

「うう…」

「…お前は、秦国の大将軍だという自覚があるのかッ!!」

「うううう…!」

嬴政の怒鳴り声に、信はいよいよ顔を上げられなくなった。

周りにいる官吏たちは誰一人として嬴政の怒りを宥めようとしない。全て信が招いた結果であることは李牧の書簡の内容から一目瞭然だったからだ。

「…李牧に礼を言わねばならんな」

呆れた表情のまま、嬴政が呟く。書簡に記されていた内容から、趙国で李牧が信を助けてくれたということは誰が見ても明らかだった。

(くっそー!全部李牧のせいじゃねえか!)

腹の内をむかむかとさせながら、信は李牧になんて余計なことをしてくれたのだと怒鳴り散らしたくなった。

彼が真相を記した書簡を送って来なければ、秦王からここまでお咎めを受けることにはならなかっただろう。

信は、山の王である楊端和に美味い酒を持っていく代わりに、今回の件の口裏を合わせてもらう作戦を考えていた。山の民に会いに行っていたのだと言えば、数日の不在くらい誤魔化せたに違いない。

そして楊端和は六大将軍の一人であり、嬴政も信頼を置いている女性だ。その彼女が率いる山の民たちの下へ行っていたのなら、嬴政だって咎めることは出来ないだろう。

想定外だったのは、李牧が事実を記した書簡を送って来たことだ。

(あの野郎…!今度会ったらもう一発殴ってやる…!)

李牧の余計な気遣いのせいで、こんなことになってしまったと信は奥歯を噛み締める。

頭を下げながら、静かに李牧への怒りを募らせていく信に、嬴政はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「…経緯は見過ごせぬが、お前が無事で良かった」

本当にそう思ってくれているのだろう。とても穏やかな声色だった。

「……悪かっ…も、申し訳、ありません…」

礼儀にうるさい官吏たちの目もあったので、ぎこちない謝罪をして、信は頭を下げたままでいた。

信が無事だったことと、彼女の口から謝罪の言葉を聞けたことで、嬴政は長い息を吐く。

「…では、此度の騒動における処罰を言い渡す」

 

七つ目の不運~贈り物の意味~

その後、信は謹慎処分を受けることとなった。

謹慎処分と言ってもそれは名ばかりで、通常通りの生活は保障されている。飛信軍の鍛錬の指揮を執らなくてはならないし、大将軍としての仕事が大いにあるのだ。

しかし、面倒なのは、外出の際に必ず護衛の兵をつけなくてはならなくなったことである。

謹慎処分が始まって数日後、友人である蒙恬が噂の真相を確かめるために屋敷を訪ねて来た。

嬴政に報告しに咸陽宮へ行ったあの日、偶然にも別用で訪れていた蒙恬と出会ったのだ。

その時には長ったらしい秦王のお説教も終わり、さっそく謹慎処分として命じられた護衛の兵と共に信は廊下を歩いていた。

余程、嬴政の説教が堪えたのか、ともすれば、幼子のように泣き出してしまいそうな信を見て、蒙恬は彼女が何かやらかしたのだと察したらしい。

彼も蒙家の嫡男として忙しい身であるに違いないだろうに、こんなことに時間を割いている暇があるのだろうか。

追い返す訳にもいかず、信は蒙恬を客室へともてなした。話題はさっそく信の謹慎処分についてである。

「ねえ、信ってば一体何やらかしたの?教えてよー。俺たちの仲じゃん!」

「別に何もやらかしてねえよ。むしろ俺は被害者だ!」

ムキになって反論すると、蒙恬がにやにやと嫌な笑みを浮かべる。

「嘘だあ。だって秦国中で、信が失踪したって大騒ぎだったんだよ?どこ行くにも護衛の兵までつけられてるし、何かあったんでしょ?」

「言わねえ!墓場まで持ってくって決めたんだ!」

趙国へ連れていかれたことは、あの玉座の間にいた者たちだけの機密事項となった。

密通ではないことは李牧によって証明されたが、下手に噂が広まれば、違う場所で密通を疑う者も出て来るかもしれないため、情報操作を行っている。

「ちぇ、せっかく来たのに」

信が頑なに口を開こうとしないので、蒙恬は諦めたように肩を落とす。その時、蒙恬の視界に、台の上に置いてある青水晶と金色の簪が目に入った。

「…あれ?珍しい。新しい簪買ったの?青水晶に金って、かなり高価なものじゃん」

化粧や装身具には少しも興味を示さない信が新しい簪を購入したのかと蒙恬が小首を傾げている。

青水晶と金色の簪から連鎖的に李牧の姿が瞼に浮かび上がった。

「あ、いや、それは…も、もらい物だ!その、世話になった男から…」

嘘は言っていない。もらい物であるのも事実だ。束の間ではあったが、簪をくれた男の世話になったのも事実である。

実際の額は分からないが、安易に捨てられるような代物ではない。とはいえ、普段から簪を身につける習慣のない信にはどう扱うべきか分からずにいたのである。着物も同様だ。

名前は出していないのだが、男からの贈り物という言葉が気になったのか、蒙恬が目を見張る。

「…え?もしかして、素直に受け取ったの・・・・・・・・・?」

意味深な言葉に、信はきょとんとした。その反応を見て、蒙恬はまさかと顔を引き攣らせている。

「男が女に簪を贈る意味…分かってる?」

「は?ただのもらい物だろ。意味なんてあるのか?」

当然のようにそう答えた信に、蒙恬が呆れた表情を浮かべる。両手を頭の後ろに回し、蒙恬は椅子の背もたれにどっかりと体を預けた。

「あーあ、その人かわいそー」

「はあ?」

信に簪を贈った男――李牧になぜか同情する意味が分からず、信がどういう意味か教えろと催促する。困った笑みを浮かべながらも、蒙恬が正解を教えてくれた。

「簪の価値が高価であればあるほど、誠実さと身分を証明できるってことだよ」

「ああ、まあ…それなりに身分の高い奴ではあるな」

李牧の正体を勘付かれないように、信は当たり障りのない答え方をした。

しかし、誠実さと身分を自分に証明するというのは一体どういう意味なのだろう。

誠実さというものを証明するのなら、もしかしたら、趙から脱出することを協力すると、簪を使って自分に知らせたかったのだろうか。

「もちろんそれだけじゃないよ」

まだ他に意味があるのかと信が頭に疑問符を浮かべている。やはり理解していないのだと察した蒙恬があははと笑った。

「…要するに、男が女に簪を贈るっていうのは…好きですっていう想いを告げて、求婚してるみたいなものだよ。ま、信はこの手の話に疎いから、知らなかったのも無理はないだろうけどね」

「……え?」

「何も知らないで受け取っちゃったんなら、そのうち・・・・迎えに来る・・・・・んじゃないの?」

信の中でその瞬間、確かに時間が止まったのだった。

 

 

牧信バッドエンド話はこちら

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セメタリー(李牧×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/慶舎×信/秦敗北IF話/ヤンデレ/監禁/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

昔話

李牧が宮廷から屋敷に戻った頃には、既に陽が沈みかけていた。

従者に馬を預け、すぐに信のいる部屋へ向かうと、留守を任せていた慶舎が扉の前に立っていた。手の甲に蜘蛛を歩かせて遊んでいる。

鍵を外してしまったこともあり、扉の前で立ち塞がって鍵代わりになってくれていたらしい。本当に良く出来た律儀な弟子だ。

師である李牧が帰宅したことに気付くと、慶舎はゆっくりと顔を上げた。

「李牧様。あの娘、また脱走しました」

「おや、随分と元気なのですね。安心しました」

扉の前に立ちはだかりながら報告するということは、今回も無事に脱走は阻止されたのだろう。

今頃は部屋の中で泣いているに違いないと思ったが、すすり泣く声が聞こえなかったことから不貞寝しているのだろうと考える。

「李牧様」

手で蜘蛛と戯れながら、慶舎が李牧に声を掛けた。

「なんですか」

「…人を愛するとは、好きになるとは、どういうことなのでしょう」

まさか弟子からそのようなことを問われるのは初めてのことだったので、李牧は驚いた。

戦に関すること以外は、良い意味で損得勘定を持たぬ慶舎が人の感情について尋ねるとは珍しい。

「…なぜ、そのようなことを?傅抵にでも何か言われたのですか?」

普段から色話をするのも聞くのも好きな傅抵ならば、思い当たる節はあるのだが、慶舎が自分に尋ねるというのは、よほどの好奇心が彼を動かしているということだ。

「いえ。秦の、あの娘に」

「信が?」

扉の方を見やりながら慶舎が言ったので、李牧はまたしても目を丸めた。

「彼女が、あなたに何を?」

「…“ただ黙って脚を開くのは、好きになることではない。そんなのは、娼婦と同じだ“と」

そんな風に慶舎に話していたのか。李牧は苦笑を浮かべることしか出来なかった。

「李牧様があの娘を愛しておられるのは承知しております。しかし、なぜあの娘が李牧様を愛さないのか、理解出来ないのです。これほどまでに李牧様から寵愛を受けているのに、一体なぜ」

幼い頃、両親を目の前で殺されたという慶舎には、感情というものを理解する力が他者より乏しい。それは軍略に長ける彼の弱点とも言える。

李牧はまるで慈しむような優しい瞳で微笑んだ。

「軍略と同じで、人を愛することには色んな形があるんです。ただ、あなたは絶対に真似をしてはいけませんよ」

趙の未来を想ってこそ、自分が知り得る軍略なら惜しみなく授けよう。しかし、この愛し方だけは絶対に真似をさせる訳にはいかなかった。

ただ、この弟子には自分と近いものを感じる。それは、欲しい物を手に入れるためならばどんな手段も厭わない強欲な一面があることだ。

李牧は、愛しい女を手に入れるために自分が行って来たことを、一度も間違いだと思ったことはない。

しかし、その方法はあまりにも強欲過ぎたのだ。歴史を改変させてしまうほど、李牧の想いは揺るぎなく、そして強かった。

本当に相手のことを想うのならば、この手段はあまりにも残酷過ぎる。それでも李牧がこの道を選んだのは他でもない彼女との約束を守るためだった。

「…私も、不思議なんです」

瞳に寂しい色を浮かべながら、李牧が口を開いた。

「彼女から微塵も愛されていないと理解しているのに、彼女を手に入れたことに幸せを感じている。…彼女と会った時に、私は、狂ってしまったのかもしれませんね」

「…あの娘と会ったというのは、戦場で、ですか?」

二人の出会いを知らない慶舎の問いに、李牧はゆっくりと首を振った。

「いいえ。私と慶舎が出会う前…まだ将として戦っていた時に、実は一度だけ彼女に会っているんです。家族も仲間も、守るべきものを全て失い、あとは野垂れ死ぬのを待つだけだった私を、信は手厚く介抱してくれたんです」

あの恩は一生忘れません、と李牧が呟いた。

長い付き合いである弟子や側近たちでさえ知らない過去を知り、慶舎は何度か瞬きを繰り返した。

「……なぜ、そのことをあの娘は覚えていないのです?」

信は自分が将軍にならなければ李牧に見初められることはなかったと話していた。李牧に手厚い看病をしていたというのに、まるでそのことを知らないような口ぶりだったことに、慶舎は疑問を抱く。

しかし、李牧は当然のように答えた。

「十年以上も前のことですし、初めて会った当時の彼女はまだ子供でした。…どうやら、王騎の手厳しい修行の最中だったようです。彼女も厳しい修行をこなすのに必死だったんでしょう」

その時のことを思い出したのか、懐かしむように李牧が頬を緩めた。

「…まさか、あの時の少女が秦の大将軍にまで成長するなんて、当時は思いもしませんでした。そして私も、趙の宰相になり、敵として再会することになるなんて、想像もしていませんでした」

「………」

伏し目がちに、李牧が言葉を続ける。

「春平君が呂不韋によって拉致され、秦趙同盟を結んだあの日…宴の席で信と出会って、すぐにあの時の少女だと分かりました。でも、残念ながら、彼女は何も覚えていなかったんです。私と交わした約束のことも、何もかも…」

「………」

何も答えず、微塵も表情を変えず、慶舎はじっと李牧のことを見据えている。視線に気づいた李牧は困ったように肩を竦めた。

「ふふ、こんな話を聞かせてしまってすみません。…でも、彼女と再会したことに、私は何か縁を感じてどうしようもなかったんですよ」

「………」

「たとえ、信が二度と笑顔を見せてくれないとしても。私は、欲張りですから、誰にも彼女を渡したくなかったんです」

強欲。それが李牧が信を手に入れるために秦を潰した何よりの原動力だ。

「…きっと私は、彼女よりも先に逝くでしょう。国の命運と同じで、寿命は変えられませんからねえ」

あはは、と李牧が笑う。

「でも、私はとても意地悪なんです。寿命が来て、私が信の傍を離れることになっても、彼女を解放したくありません。だから、彼女がいつだって私を思い出せるように、子を孕ませたのですよ」

「聡明なお考えかと」

嫌味でもない、社交辞令でもない、何の感情も籠っていない慶舎の言葉に、李牧は少しだけ救われた気になった。

「そんなことを言ってくれるのは慶舎だけですね。カイネや傅抵たちに言えば、きっと軽蔑されてしまいますから」

李牧の大きな手が慶舎の頭を優しく撫でた。

それから彼は一度も振り返りもせず、信がいる部屋の扉を開けて中へ入るのだった。

 

旧時

―――袖の中に死骸の耳を詰め込んだ後、幼い信は長い時間を掛けてようやく崖を登り切った。

突き落とされるのは簡単だが、崖を登るのはかなり至難の業だ。子どもの身軽さを持ってしても、苦難の連続である。

幾度も滑り落ち、爪は剥がれ、数え切れない擦り傷が出来た。ようやく崖を登り切ったところで、信はやっと帰れるのだと思うと、安堵のあまり、大声を上げて泣き喚いてしまった。

崖に落とされた時は愕然とするばかりだったが、一度も涙は流さなかった。

どこの国かも分からない兵たちに襲われて剣を振るい、その命を奪った時も信の心は既に麻痺をしていたのだ。

握り締めた柄越しに感じた肉と血管を絶つ嫌な感触。それを今になって思い出し、信は胃液を吐いた。

思えば人を殺すのは初めてだったのだが、他に自分を助けてくれる者はいないのだと思うと、そんなことには構っていられなかったのだ。

ようやく帰れるという安心感に包まれたことで、あの森で過ごしていた数日が、いか日常を逸脱していたものかを痛感する。

あの森にいた兵たちの人数など、戦場に立つ父と母にしてみれば生温いことだろう。

鍛錬用の木刀を振るい、目に見えぬ敵をいくら切ったところで、それは何の力にもならないのだと信は改めて思い知らされた。

実践を重ねた数だけ、死地を乗り越えて来た数だけ、それは確実に力となる。それはまさに父と母の六大将軍と称される強さを裏付けるものだった。

涙と吐瀉物で顔をぐちゃぐちゃにしながら、尚も泣き続けていると、上から大きな影が現れて信の体を包み込んだ。

「ココココ。思ったより早かったですねェ」

父だった。凰という名の愛馬から降りて来ると、まじまじと信のことを見つめた。

娘の着物と背中に携えている剣は血に塗れていたが、屋敷に帰る条件として与えたものは何処にも見当たらない。

「…十人討ち取った証はどうしたのです?それがなければ屋敷には入れませんよ」

信は涙を拭うこともせず、着物の袖から十人分の耳を取り出し、地面に並べた。全て左耳であることから、十人とも別の人間であることを理解し、王騎が満足そうに「ンフゥ」と微笑んだ。

「あなたのことだから、てっきり十人分の首を担いで来ると思っていたのですがねェ」

「十人の首担いで崖なんか上がれねえだろッ」

それまで幼子のように泣きじゃくっていた信がようやく普段の自分を取り戻したかのように、目をつり上げて父を睨み付けた。

「信!」

少し離れたところから女性の声がして、信は反射的に振り返る。こちらに馬を走らせている母だった。

ずっと心配してくれていたのだろう、今にも泣きそうに顔を歪めている母の顔を見ると、信の瞳から引っ込んだはずの涙が溢れ出て来る。

馬から転がるように降りて来た摎が、自分の着物が汚れるのも構わずに娘の体を抱き締める。

「よく頑張った…本当に、よく、生きていてくれたね…」

母の腕と愛に包まれ、信はそれまで張り詰めていた糸がふつりと切れ、再び大声を上げて泣き喚いた。

本当は怖くて堪らなかったのだ。弱い自分がたった一人で生き抜くことなど出来るのかと不安で堪らなかった。

摎は信の気持ちを受け止めるかのように、ずっと娘の体を抱き締め続けていた。

…やがて、泣き疲れて摎の腕の中で眠りに落ちた信を見下ろし、王騎がようやく彼女の頭を撫でた。

「素直に抱き締めてあげたらどうです?崖から突き落としておいて、王騎様だって心配していたくせに」

細い体に見合わず、摎は娘の体を片手でひょいと担いで馬に跨った。

まるで虎の親子のように、崖から娘を蹴落とした王騎だったが、娘がいつ帰って来るのか一番気になっていたのは王騎本人だったのだ。

いつもこの場所まで馬を走らせては、崖の下を覗き込み、信が上がって来る気配を探っていた。声を掛けた訳でもなかったのだが、摎も必ず一緒だった。

「信に嫌われても知りませんよ」

愛馬の凰に跨った王騎が、妻の言葉にココココと独特な笑い声を上げる。

「摎」

「はい」

「…あの簪、良かったのですか?」

眠っている信の髪に差していたはずの簪がなくなっていることに気付いたのは、摎だけではなく、王騎もだった。

摎は少しの沈黙した後、ゆっくりと頷いた。

「…ええ。きっと、あの簪に宿る王騎様の想いが、信を守ってくれたのでしょう」

そう言って微笑んだ摎の瞳には、哀愁のようなものが浮かんでいた。

信の髪に差していたのは、摎が王騎と婚姻をする時に、王騎から授かった物だった。

男が女に簪を渡す意味を知っていた摎は、王騎と婚姻をする約束であった百個目の城を落とした時より歓喜したことを覚えている。

宝物のように扱っていたその簪を、摎は此度の修行が始まる時に、娘の髪に差してやり、無事に帰って来るよう祈っていた。

突き落とされた崖の下では、多くの者と戦ったのだろう。傷だらけの身体と血塗れの着物と剣がそれを示していた。

信とは血の繋がりはない。しかし、養子として引き取ってからは本当の親のように慕ってくれている愛しい娘である。

親である自分たちの影響なのか、いつからか剣を振るい出した信の素質を見抜き、王騎は彼女を戦場へ連れ出すようになっていた。命がけの厳しい修行も、彼女が死地を生き抜くためには欠かせないものである。

…きっと、あの簪は戦いの最中で落としてしまったのだろう。

それでも、お守りとして渡していた物だったのだから、こうして無事に帰って来てくれただけで十分だ。

愛する夫からの初めての贈り物だったこともあり、未練がないといえば嘘になる。それでも娘の命には代えられないと摎は何度も自分に言い聞かせていた。

今となっては、簪よりも、この娘の存在が二人の宝なのだから。

 

悪夢

信はゆっくりと重い瞼を持ち上げる。視界に見慣れた天井が広がっており、自分はまだ悪夢の中にいるのだと信は溜息を吐いた。

慶舎に部屋へ連れ戻され、ずっと泣き続けていたせいで頭が痛む。泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。

(夢…?)

随分と昔の夢だった。朧げな記憶ではあるが、自分が初めて人を殺した時だというのは覚えている。

こちらは何もしていないというのに自分の身なりを見て、金目の物を奪おうとしたのか、子どもであっても容赦なく武器を向けて来た兵たちがいた。生き抜くために、両親の下へ帰るために、信は彼らの命を奪ったのだ。

剣の柄を通じて感じた肉と血管を断つ、あの嫌な感触。今では何とも感じなくなっていたが、当時の幼い自分には衝撃が強過ぎた。

記憶に靄が掛かっているのは、あまりにも辛かった記憶であるため、体が思い出さないようにしているのだろう。正気を保つための術なのかもしれない。

もう一つ覚えていることがある。不安と孤独に苛まれていた時に、傷だらけでぼろぼろだった一人の男を助けたことだ。

顔はよく覚えていないが、今思えば、兵たちに追われていた彼は、敗国の将だったのだろう。

―――すまない…全て、俺の責だ…全て…俺が…

意識のない彼が誰かに謝りながら涙を流している姿を見て、この男も辛い思いをしているのだということは子どもながらに理解出来た。

大人とは泣かない生き物なのだと子どもながらに思っていたが、それは違ったらしい。
この男も自分と同じように孤独に苛まれているのだと感じ、信は着物の裾を破って、男の傷口を止血し、水を飲ませて、出来る看病を行った。

自分がここで死ねば、この男もじきに死ぬ。

両親のような大将軍になりたいと大口を叩いておきながら、目の前にある弱い命を救えずに、本当に将になるつもりなのかと信は自分に問うた。

男が何者なのかは結局わからなかったし、顔も名前も覚えていない。しかし、彼のおかげで信はあの厳しい修行を生き抜くことが出来たのだ。

「―――!」

扉が開く音がして、信は反射的にそちらに目を向ける。李牧だった。

城の建設や守備の手配で激務な日々を送っている彼と最後に会ったのは一体いつだっただろう。確か赤子が初めて腹の中で動いた時だっただろうか。

「顔色は良さそうですね」

目が合うと、彼は相変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべて、こちらへ近づいて来た。寝台の端まで身を捩り、信は李牧のことを睨み付ける。

威嚇する子猫のような態度が可愛らしく、李牧は思わず笑ってしまった。挑発するつもりは一切なかったのだが、その笑い声に、信の目がますますつり上がる。

「ぅ…」

その時、腹の内側をゆっくりと抉られるような、何とも言い難い感触がして、信は思わず呻き声を上げた。咄嗟に膨らんでいる腹に手を当てると、赤子が中で動いているのが分かる。

寝台に腰掛けた李牧がその手を伸ばして彼女の腹に触れる。胎動を感じたのか、李牧の目が嬉しそうに細まる。

「今日、趙王にも報告をしたのですよ。この子の名前を考えてくださるそうです」

「っ…!」

触るなとその手を払いたかったのだが、睨み付けることしか出来ないのは、李牧に全てを奪われたことに対する恐怖が怒りよりも上回っているからだ。

相国という立場まで上り詰めた男ならば、王族のように、妻が何人いてもおかしくはない。だというのに、李牧は信だけを妻に迎え入れ、子を孕ませた。

それは信を逃がさないための足枷を作るためだけの行為であり、恐らく赤子に対しての感情など持っていないに違いない。

だからこそ、李牧の機嫌一つでこの尊い命も簡単に奪われてしまうのではないかと思うと、信は恐ろしくて堪らなかった。

心が彼に屈し始めていることに、信は気づいていない。

「…信」

優しい声色のはずなのに、信には恐ろしい響きだった。

袖の中から何かを取り出した李牧が、信の手の平にそれ・・を握らせる。

「ようやく、あなたにこれを返すことが出来ました」

赤い宝石が埋め込まれた金で出来た簪にはひどく見覚えがあり、信は目を見開いた。

「…この、簪…」

顔から血の気を引かせて震え始める信を見て、李牧は思い出に浸るように目を伏せる。

「…昔、命の恩人から頂いたものなんです。頂いてからは、ずっと、私のお守りでした」

お守りという言葉に、信の頭がずきりと痛んだ。

―――綺麗でしょ?

確か亡くなった母もその言葉を使って、これとそっくりな簪を大切に扱っていた。

大切な物なのだと言っていた母の笑顔が瞼の裏に浮かび上がる。

その簪が王騎から初めてもらった贈り物だというのを知ったのは、信があの修行を終えてからのことだった。

何も知らずに信は剣を振るう時に邪魔だからと男に渡してしまい、ひどく後悔したことを覚えている。しかし、父も母も簪を失くしたことを責めることはなかった。

信が生きて帰って来てくれたのは、きっとあの簪のおかげなのだと母は言っていた。

簪を渡してしまったことを素直に告げるべきか信は悩んだが、両親の気持ちを考えると、どうも後ろめたさがある。そのせいで、信は修行中に一人の男を助けたことも、その男に大切な簪を渡してしまったことも言えなかった。

あの時に助けた男の顔も名前も覚えていないのだが、父が母へ贈った大切な物だと知らずにその簪を渡してしまったことだけは、未だに信の心の中にわだかまりとして残っていた。

龐煖によって両親の命が奪われ、信も戦場に出るようになってからはすっかり忘れてしまっていたのだが…。

懐かしい夢を見ただけでなく、二度と取り戻せないと思っていたその簪がまた目の前に現れたことで、信の記憶の糸が一気に引き戻された。

 

楽園の墓場

生唾を飲み込んで、信は簪と李牧を交互に見た。

まるで信の想像を肯定するように李牧が微笑んだので、その瞬間、確かに信の中で時間が停まった。

「ま、さか…」

頭が割れそうに痛み、信は両手で頭を押さえる。何の感情か分からない涙が溢れて止まらない。

青ざめている信を見つめながら、李牧は優しい声色で言葉を続けた。

「…あなたと昔出会ったのは森の中でした。すぐ近くに川があって、あなたは息も絶え絶えの私に、水を口移しで飲ませてくれた」

「……、………」

昔話でも言い聞かせるかのような穏やかな口調で話し始める李牧に、青ざめた信が首を横に振る。

―――頼む。やめてくれ。それ以上言わないでくれ。もうこれ以上自分から何も奪わないでくれ。

驚愕のあまり、喉が塞がってしまい、李牧に制止を求めることも出来ない。

頭を掻き毟りながら、認めたくないと首を横に振っている信を見ると、李牧がくすくすと笑った。

「秦趙同盟の宴で再会した時は、何も覚えていなかったのに、ようやく思い出してくれたのですね」

「……、……、……」

嘘だ、と信の唇が戦慄く。しかし、その言葉は声にならなかった。

李牧の指が信の涙を優しく拭う。どれだけ拭っても、涙は溢れて止まらなかった。

「…俺が、助けた、せい…で」

振り絞った声は情けないほど震えていた。涙に濡れている信の瞳から、意志の光が失われていく。

幼い頃の自分は、なぜこの男を助けてしまったのか。

自分がこの男を助けなければ、父が討たれることも、秦が滅ぶこともなかった。

信の言葉を聞いた李牧が、自分の口元に手をやる。それは彼が何かを考える時の癖だ。

「…結果論で言うと、そうですね。あの時、あなたが私を見捨てておけば、王騎は死なず、秦は滅ばなかったに違いありません」

「―――ッ!」

自分の過ちが認められたことに、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

嫌な汗が止まらず、がたがたと震え始める彼女を見て、李牧は慰めるように背中を擦ってやる。

衝撃のあまり、上手く呼吸が出来ずにいる信に苦笑を浮かべながら、李牧は残酷なまでに、無慈悲な言葉を続けた。

「全ては、私を生かしたあなたの責です」

もはや李牧の言葉は、信の耳に届いていないのかもしれない。

虚ろな瞳を見開き、涙を流し続けている信の肩を抱いた李牧は、彼女の耳元に唇を寄せた。

「…ですが、このことを知っているのは私とあなただけ。このまま二人の秘密にしておきましょう?」

肩を抱いていた手を滑らせ、李牧は信とお互いの小指を絡ませ合う。

「ぅ、あ…」

もう信を責める者はどこにもいないというのに、守るべき国を、仲間を、全てを失った彼女の心は罪の意識に苛まれていた。

なぜ自分だけが生きているのかという罪の意識に、信は寝台の上で泣き崩れた。

「ぁあああああああッ!」

もう彼女には抵抗する気力など微塵も残っていないようだが、自分自身が祖国を滅ぼす元凶だと知った今なら、赤子の命など構わずに命を断とうとするだろう。この場に刃物があったなら、きっと迷うことなく彼女は自らの首を斬っていたに違いない。

もしかしたら食器や備品を割って、自ら首を掻き切ろうとするかもしれない。万が一のことを考えて、今日からは両手を拘束しておこうと李牧は考えた。

「…信」

「ぅあぁっ、ぁあっ…」

名前を呼んでも信は泣きじゃくるばかりで返事もできずにいる。恐らく李牧の声は彼女の耳に届いていないのだろう。

「私はあなたに、あの日の恩・・・・・を返しに来たんですよ」

そう囁くと、李牧は腹に負担を掛けないように、優しく信の体を抱き締めた。

秦との戦に勝利した後、趙へと向かう馬車の中でも彼女の体を好きに扱ったが、今になってようやく彼女を心身共に手に入れた実感が湧いた。

「…百倍、いや、千倍ですね。約束通り、欲張りなあなたに恩を返すために、私は生き続けて来ました」

嗚咽を零す信の背中を何度も擦ってやりながら、李牧は歌うように言葉を続ける。

「将軍として死地に立ち続ければ、あなたはいずれ殺されてしまう。…だから、あなたをそこから救い出すことが何よりの恩返しだと思ったんです」

二度と死地に立てないようにすることが、信から大将軍の座を奪うことが、滅ぶ運命にあった秦から救い出すことが、彼女に命を救われた李牧の考える返礼だった。

たとえそれが信が望まないものだとしても。もう二度と、彼女が自分以外の誰かに傷つけられる日は来ないのだ。

「愛しています、信」

心からの愛の言葉を囁いて、李牧は彼女に唇を寄せる。

李牧にとってはここが楽園であり、信にとっては死に場所でしかなかった。

 

牧信ハッピーエンド話はこちら

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ユーフォリア(昌平君×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ヤンデレ/無理やり/メリーバッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

秦の敗因

趙と秦の戦い。此度は秦の敗北で幕を閉じたのだった。やはり趙の宰相である李牧の軍略は凄まじい。

前線を任せられていた飛信軍は膨大な被害を受け、兵の大半を失った。飛信軍を率いていた大将軍である信も負傷した状態で帰還するのだった。

此度の敗戦によって、秦は城を一つ失うこととなる。しかし、秦の大将軍が一人も討ち取られなかったことに比べれば大したことではない。

新たな領土を広げた趙がそこを拠点としてまた攻め込んで来るかもしれないが、あちらの被害も膨大だ。秦とは逆で、趙は城を得る代わりに多くの将を失った。

軍を立て直すためにしばらく時間を要するだろう。用意周到な李牧のことだから尚更だと昌平君は睨んでいた。

結果だけ見れば、確かに此度は秦の敗北だが、昌平君の中に焦りはなかった。

これから体勢を立て直せば、趙から城を取り返すのは容易い。既に昌平君は先のことを見据えていた。

だが、もちろん李牧もこちらの思惑には気付き、落とした城を取り返されぬよう、対策を講じるに違いない。

いかなる策を用いようとも、次回は必ず秦を勝利に導く。昌平君は強い意志を瞳に秘めていた。

飛信軍の名は今や中華に轟いている。李牧でなかったとしても、無策で彼女たちを迎え撃つはずことはしないだろう。

防衛戦であったにも関わらず、前線で多くの敵を薙ぎ払った飛信軍の活躍に、秦軍の士気は確かに高まった。

しかし、強勢戦力である飛信軍が撤退を余儀なくされれば、秦軍の士気に影響が出ることは誰が考えても明らかである。李牧はそこを狙ったのだ。

地の利を生かし、武器の届かない山の上から弓矢射撃と投石を受けた飛信軍は撤退を余儀なくされた。

撤退する飛信軍を壊滅させようと追撃を行う趙軍に、他の秦将たちは兵を割く。

しかし、それも李牧の筋書き通りであった。

勢いを増した趙軍に目を向けさせておき、その隙にあらかじめ潜ませていた複数の部隊が後方を突く。見事なまでに、秦軍は李牧の策に踊らされたのである。

恐らく李牧が山の上に伏兵を隠していたのは、戦が始まる前からで、飛信軍が前線に赴くことも予想していたのだろう。

もちろん昌平君も地の利を活かした攻撃に警戒し、戦の前に兵たちに山の上を調べさせていたのだが、その時には伏兵の姿はなかったという。

木々に身を潜めていたのか、それとも兵たちが調査を終えた後にやって来たのか。今となっては分からない。

分かるのは、結果的に李牧の策通りになってしまったことだけだ。

 

治療

飛信軍の軍師である河了貂から聞いた話だと、前線で膨大な被害を受けたこともあってか、信は此度の敗戦は自分のせいだと思い込んでいるらしい。

自分の体の傷よりも、多くの兵を失った悲しみの方が堪えたようだ。

先に逝ってしまった仲間たちに勝利を捧げられなかったことを悔恨し、誰が見ても気落ちしているという。

彼女は今、療養のために与えられている咸陽宮の一室を与えられ、医師団から手厚い処置を受けている。

その日、昌平君は執務を終わらせた後に彼女がいる部屋に訪れた。あまり自責するなと一言伝えたかったのだ。

言ったところで彼女が素直に聞き入れるとは思えないし、何の慰めにもならないだろう。

本来は信ではなく、軍師である自分に責任がある。

策を講じるために軍師たちは机上での討論を行うが、実際の戦場では数千、数万の血が流れる。

深手を負い、辛い思いをするのが戦場に赴く信たちだからこそ、業は大勢の命を動かす自分が背負うべきだと昌平君は考えていた。

信がいる部屋の前には見張り役の衛兵が立っており、昌平君の姿を見るとすぐに頭を下げた。

見舞いに来たことを告げると、衛兵から布を手渡される。

「…これは?」

渡された布に小首を傾げながら問うと、この部屋に入る者は必ず鼻と口を覆うように医師団から指示が出ているのだと衛兵が答える。

話の詳細を尋ねると、どうやら信は医師団から絶対安静の指示を出されても、剣を振るうのをやめなかったらしい。

飛信軍の鍛錬は厳しいもので、信自身も兵たちにだけでなく己に厳しい鍛錬を行っていた。

当然そんなことをすれば縫った傷口はたちまち裂け、酷使した体が休まることはない。

どれだけ危険性を伝えても、亡くなった仲間たちに後ろめたさを感じるのか、信は医師たちの指示に従わずに鍛錬に打ち込んでいたのだという。

困り果てた医師団が秦王である嬴政にそのことを告げると、嬴政は自ら彼女を説得する訳でもなく「薬で眠らせろ」と命じた。

二人は成蟜から政権を取り戻す時からの長い付き合いだ。親友と言っても良いだろう。

自分が説得したところで信が大人しく従う女ではないと嬴政も理解していたに違いない。

大王がたった一人のためにそこまで命じるのは異例のことだが、逆に言えば、それだけ信との関係性が深いことを示している。

療養に集中させるため、信に眠らせる薬を飲ませるだけでなく、その効果が持続するように、特殊な香を焚いているのだそうだ。

その香の効力を受けないために、部屋に入る者は鼻と口を覆うよう指示が出たという訳だ。

毒ではないのだが、薬と同じで、吸った相手によって相性があるらしい。効き過ぎると厄介なことになるのだそうだ。

布で鼻と口元を覆って頭の後ろできつく結ぶと、衛兵が扉を開けてくれた。

「………」

布で遮られているとはいえ、僅かに甘い香りを感じ、昌平君は眉間に皺を寄せる。

(この香は…)

焚いてあるこの香に、媚薬の成分が含まれていることを彼はすぐに見抜いた。

過去に、同じ香りのものを嗅いだことがあったからだ。

反乱の罪で位を剥奪された後、病死したと言われる呂不韋が、まだ相国として秦国の政権を握っていた頃の話である。

女好きな彼が、部屋に宮女を連れ込んだ時もこの香を焚いていた。呂不韋の着物にこの香りが染みついていたのを、昌平君は覚えていたのだ。

こちらは何も訊いてもいないのに、べらべらと香の効力を話し出した呂不韋に「色話を聞かないそなたもきっと気に入るぞ」と言われた時には苦笑を浮かべることしか出来なかった。

媚薬と言えば性欲を増幅させたり、感度を上げるといったものを想像することが多いが、この香は違う。

酒を飲んだ時のような、気分を高揚させる陶酔感を起こさせ、それによって体の緊張を解くことが出来るらしい。

生娘を相手にする時は特に良いのだと、下衆な笑いを浮かべながら呂不韋が言っていた。

まさかこんな状況であの男を思い出すことになるとは思わず、昌平君の顔に嫌悪の色が表れた。

医師団も治療の一環として使用するくらいなのだから、相当な値が張るものなのかもしれない。金が好きな呂不韋が好みそうな代物ということだ。

「……、……」

部屋の奥にある寝台の上で、信は寝息を立てていた。

薬で眠らされるだけでなく、香の効果で体も強制的に脱力させられているようだ。

薬と香のせいとはいえ、こんなにも安らかな寝顔をしている彼女は他の兵たちでも見たことがないだろう。

傷が大方癒えるまでは、嬴政の指示でこの状態が続くに違いない。

特に左足の脹脛ふくらはぎの傷は深く、十針以上縫ったと聞く。

馬上で趙将と戦っている最中に、趙兵によって背後から切りつけられたという。足の骨や腱までは達しなかったのは幸いだった。

驚いた馬が飛び上がり、落馬したことで地面に体を打ち付けたのも体に響いているという。

落下の衝撃で、肋骨にひびが入ったようで、胸には厚手の包帯が巻かれていた。

他にも矢傷や切創など、信の体にはたくさんの傷痕がある。こんなぼろぼろの状態で普通の人間なら、痛みのせいで動けないに違いない。

だというのに鍛錬をして傷口を開かせるなんて、信には痛覚というものが存在しないのだろうか。

(いや…)

大勢の兵を失った悲しみと、趙に対する怒りで、体の感覚が麻痺しているのかもしれない。

昌平君は手を伸ばすと、彼女の頬にそっと触れる。しかし、深い眠りに落ちている信は頬に触れられたことにも気づいていないようだった。

 

不合理

城下町を見下ろせる広々とした露台で、まだ傷も癒えていない体に鞭打って鍛錬をする彼女の姿を見つけ、昌平君はもどかしい気持ちを抱いた。

偶然通りかかっただけだったのだが、なぜ療養に専念するよう言われていた彼女がここにいるのか。昌平君はその場で足を止めて彼女のことをじっと見据えていた。

六大将軍である王騎と摎の娘。二人が下僕の出である彼女を養子にしたのは、武の腕を見抜いたからなのだろう。

王騎と摎の見立ては間違っておらず、大将軍の座に就いた後も、信は二人に引けを取らぬ武功を挙げている。

「うッ…」

鍛錬を続けている最中に、戦で受けた傷が痛んだのだろう、苦悶の表情を浮かべて剣を手放した信を見て、昌平君はいよいよ声を掛けた。

「ただでさえ戦で酷使した体だろう。大人しく休んでいろ」

「……、…」

信が悔しそうな顔で昌平君を見上げる。

その瞳には力強い意志が秘められていて、此度の敗北に対する怒りの色が滲んでいた。死んでいった兵たちのことを想ってのことだろう。体を休めている暇などないと、信の瞳は物語っていた。

まだ体の傷は完全に癒えていないというのに、無理強いすれば再び傷が開いてしまう。

特に深手だったという左足の包帯には既に血が滲んでいた。せっかく縫い付けたというのに、これではまた医師団に診てもらわねばならないだろう。

今の彼女には何を言っても聞く耳を持たないだろう。それほど罪の意識に苛まれているのだと昌平君は分かっていた。

「…今のお前の務めは、療養に専念することだ。傷口が悪化すれば体が元に戻るまで時間がかかる。こんなにも当たり前のことがなぜ分からない」

昌平君の冷静過ぎる言葉に、信はぐっと奥歯を噛み締める。

「っ…」

何か反論しようと口を戦慄かせるが、言葉が見つからないようで、俯いて黙り込んでしまった。

きっと信も頭では理解しているに違いない。しかし、体を動かしていないと、何かに意識を向けていないと、多くの兵を失った罪悪感で心が押し潰されそうになるのだろう。

桓騎や王翦のように、策を成すために兵たちの命を手駒にしか見ていない大将軍もいるというのに、信は違う。

きっと嬴政と同じように、兵たちの命を重んじることが出来るからこそ、信は多くの兵や民に慕われているに違いない。

開いた傷口からの出血で、信の足下には血溜まりが出来ていた。

それだけではなく、鍛錬で体を酷使したせいで、疲弊している体も悲鳴を上げているようだ。信は苦しそうに呼吸をして、体をふらつかせている。

開いた傷口はまた縫い直されるだろう。昌平君は溜息を吐くと、迷うことなく彼女の腰元に手を差し込んだ。

「おわッ!?」

急な浮遊感と高くなった視界に、信が驚いて悲鳴に近い声を上げる。

「何しやがるっ!とっとと降ろせよ!」

昌平君の肩に担がれているのだと分かった信は顔を真っ赤にして、じたばたと手足を動かした。

「大人しくしていろ」

信の体を担ぎながら、昌平君は医師団がいる医務室へと歩き始めた。

軍の総司令官を務めている彼が知略だけでなく武の才も持っていることは信ももちろん知っていた。

過去には大将軍の一人である蒙武よりも強かったという話を人づてに聞いた時は、驚きのあまり言葉を失ったものだ。

「自分で歩けるっ」

昌平君の背中を両手で叩きながらそう言うと、彼の眉間に寄っている皺がますます深まった。

しかし、信の言葉に返答することもなく、黙って歩き続ける。

すれ違う者たちが驚いた顔をして二人を振り返るが、そんなものに構っている余裕などなかった。

「はーなーせーっ!」

着物を掴まれたり、背中を叩かれたり、まるで大きな野良猫でも相手している気分だと昌平君は考えた。

視界に映り込む信の左足の包帯は既に真っ赤に染まっていた。傷口が開いたのは分かっていたが、これだけ出血があるのなら、また縫われることになるだろう。

秦王である嬴政の勅令で医師団も彼女の治療に当たっていたというのに、傷が治りかける度に治療をしなくてはならない彼らの身にもなって考えてもらいたい。

「…お前を届けた後、大王様に現状報告せねばならんな」

大王様という言葉に反応したのか、信の身体がぴたりと動きを止まる。

信と嬴政は友好関係を築いていた。弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いらしく、嬴政は信のことを誰よりも信頼している。

本来ならば処罰に値するような無礼な態度も、信だからこそ許されているのだった。

そういえば、薬で眠らさせるように指示を出したのが嬴政だということを、信は知っているのだろうか。

眠らせる作用のある薬だと医師団から聞かされれば、きっと信は拒絶したに違いない。

上手いこと言い包められて眠らされたのだろうと思うと、あの治療が勅令であることは信は知らないのではないかと思った。

「…なあ、政のやつ…怒ってたか?」

表情は見えないが、信が寂しげに尋ねる。

「私の口から答えることではない。傷を癒してから確認すれば良い」

「………」

先ほどまでは暴れる野良猫を相手にしている気分だったが、今度は借りて来た猫のように大人しくなった。

 

処置

彼女を肩に担いだ状態で医務室を訪れると、待機していた医師たちがげんなりとした表情を浮かべた。

またかとでも言いたげな顔であるが、昌平君も彼らの気持ちは分かる。

「頼む」

医務室に設置されている寝台の上に信の体を寝かせると、彼女はまだ借りて来た猫のようにしゅんと縮こまっている。

すぐに医師が左足の包帯の処置に取り掛かった。血で真っ赤に染まった包帯を外す。開いた傷口が痛々しい。

幼い頃から戦場に身を置いていた信にはこれくらいの深手も慣れているようだが、こんな傷口を抱えた状態で鍛錬を続けようとするのは彼女くらいだろう。

他の医師が傷口を縫うために必要な物品を運んで来る。後は彼らに任せればいいと判断した昌平君は何も言わずにその場を去ろうとする。

「…?」

後ろから着物を引っ張られ、昌平君は反射的に振り返った。信が俯きながら、着物を掴んでいたのだ。

まるで行くなと言われているような態度だったが、どうしてそのような態度を取るのか。

後の処置は医師団たちが行うのだから、自分がこの場に留まってやることなど、何もないはずだと昌平君は考えた。

「何をしている」

問い掛けると、信は目を泳がせながら口を開いた。

「……終わるまで、腕貸せよ」

口の利き方には気をつけろといつも言っているのだが、相変わらず気をつけるつもりはないらしい。

しかし、口調とは反対に弱々しい態度だ。心細いのだろうか。

傷口を縫う時は当然痛みが生じる。傷を縫われるよりも、この傷を受けた時の方が痛かったに違いないだろう。

しかし、戦場では常に命の危険があるため、体があまり痛みを感じさせないように、痛覚を遮断することがあるという。

どれだけの深手を負っても武器を振るい続けられる将たちを大勢見て来たことから、その話には信憑性があった。

此度の敗戦で、大勢の兵たちの命を失った信もきっとそうだったに違いない。悲しみと憤りに心が支配され、自分の受けた傷の痛みなど気にする余裕がなかったのだろう。

鍛錬で体を動かしていなければ、死なせてしまった罪悪感に心が押し潰されそうになっていたのだろう。

「………」

信が着物から手を離そうとしないので、昌平君は諦めて彼女の要求に応えることにした。

医師の一人が信に布を渡す。寝台に横たわりながらそれを受け取った信は迷うことなく、その布を口に咥えた。舌を傷つけないための考慮である。

処置をしやすいよう、信は寝台にうつ伏せになり、脹脛ふくらはぎを上に向けた。

医師たちの邪魔にならぬよう昌平君が枕元に移動すると、信が彼の腕をぐいと引っ張る。

溢れ出る血を医師が清潔な布で拭っているのを横目で見ながら、昌平君は黙って彼女に腕を貸していた。

着物越しに自分の腕を掴んでいる信の手が僅かに震えているのが分かる。

「では、傷を縫います」

「う…」

医師の言葉を聞いた信が覚悟したように小さく頷く。

「―――ッ!!」

糸を通してある針が皮膚に突き刺さった途端、信に貸している腕がぎゅうっと強く握られる。

寝台に額を押し付けながら、信が布を強く噛み締めているのが分かった。

「ぅううっ…」

噛み締めた布の下で苦悶の声が上がる。

開いた傷口を弄られるというのは、当然だが苦痛が伴う。痛みによって左足が魚のように跳ねていたが、処置に差支えないように、医師弟子の手によって強く左足を強く押さえ込まれている。

「っ…」

相当な苦痛を堪えている信を見つめながらも、昌平君は彼女に貸している腕に痛みを覚える。

多少の痛みなら動じない昌平君だったが、あまりにも信が強く腕を握って来るので、腕の血流が遮られてしまいそうだった。

掴まれていない方の手を伸ばし、昌平君は腕を貸す代わりに、信の手に自分の指を絡ませる。まるで恋人や夫婦のような握り方だが、信も腕を掴んでいるより良かったらしい。五本の指が昌平君の手の甲に食い込んで来る。

裂けている傷口を縫い付けていく嫌な音も、血の匂いも、耐性がないものなら卒倒してしまいそうなものだった。

ふ、ふ、と苦しそうに息をしているが、処置はまだ続いている。間違って舌を噛ませぬためにも、口の布を外す訳にはいかなかった。

「………」

昌平君は信に強く握られている手をそっと握り返してやり、反対の手で彼女の頭を撫でてやる。

それだけで苦痛が和らぐとはとても思えないだが、他に掛けてやる言葉も思いつかなかったのだ。

しゃっくり交じりの声を聞き、信が涙を流していることは、容易に想像がついた。

 

弱気

―――処置を終えると、信の体はぐったりとしていた。

額には脂汗が浮かんでおり、ようやく布を外されたことで、大きく口を開けて、彼女は肩で呼吸を繰り返していた。頬には痛みを耐え抜いた涙の痕がいくつも残っている。

再び新しい包帯を巻かれていくのを横目で見ながら、昌平君はそういえばまだ手を握られたままでいることを思い出す。

体は脱力しているというのに、なぜか昌平君の手だけは放そうとしないのだ。疲労のあまり、手を放すのを忘れているのだろうか。

しかし、昌平君が指を離そうとすれば、まるで行くなと言わんばかりに手に力を込めて来る。

処置が終わったことは信も分かっているはずだ。握っている手がまだ震えていることから、まだ痛みの余韻と戦っているのだろうかと考える。

傷口を縫い直す処置には、これだけの苦痛を伴うことを信は分かっているはずだ。それなのに一体なぜ無茶をして、自ら同じ苦痛を受けていたのだろうと些か疑問を抱いた。

しかし、それだけ失われた兵たちに対する想いが強かったのだろう。

「…総司令官様」

処置を行っていた老年の医師が水桶で手を洗った後、険しい表情で昌平君を見た。

「傷口を弄りましたゆえ、これから高い熱が出るでしょう。今日は、信将軍を一歩も歩かせぬようにお願いします」

「………」

信にも聞こえるよう発した大きな声は、僅かに怒気を含んでいる。

他の医師や弟子たちも、彼と似たような表情を浮かべていた。無茶をする信に医師団たちも相当堪えているらしい。

開いた傷口を縫い付けるのが一体何度目かは分からないが、彼らの反応を見る限り、恐らく一度や二度ではないのだろう。困り果てて、嬴政に報告したというのも納得が出来た。

そして、彼らの怒りの矛先は言うことを聞かない信ではなく、彼女を従える軍の総司令官である自分に向いたという訳らしい。

大王の勅令で薬と香を用いてまで治療を行ったのに、確かに傷口が開いては元も子もない。

他の傷口は順調に回復しているとはいえ、このままでは左足の傷だけ治癒が望めなさそうだ。

「…善処しよう」

当たり障りのない返答をしてみたものの、結局は信の行動次第だ。きっと医師団たちも分かっているのだろうが、ここまで無茶をして何度も傷口を悪化させられると、腹が立つのも無理はない。

老年の医師が神妙な顔つきで部屋の奥にある薬が収納されている棚へ向かった。

振り返って昌平君にこちらへ来るように手招いたのは、信に聞かれてはまずい話をするからなのだろうか。

信に怪しまれぬよう自然な足取りで追い掛けると、医師は棚の引き出しを開けて何かを取り出した。

「いつも焚かせている香です」

特殊な樹皮を乾燥させた物らしい。医学と同じように、香の知識には乏しい昌平君であったが、これが呂不韋が話していた催淫効果のある香の原料だというのは分かった。

「…この香と薬の組み合わせですが、あまりにも効き過ぎるので、量の調整をせねばなりません」

「調整?」

薬の知識にはあまり得意でない昌平君が聞き返す。

香を焚く時に使用する量について説明始める医師に、看病に当たる侍女たちならまだしも、昌平君はどうしてそれを自分に話すのかと疑問を抱いた。

「…なぜそれを私に告げる?」

医師は答えず、もう一つ引き出しを開けた。中から色んな薬草を磨り潰して乾燥させた物を一摘まみ布に包み出す。こちらは眠らせる作用のある薬だと言った。

「液体に混ざると溶ける性質を持つので、粥か飲み物にでも混ぜて下さい。香は効き過ぎるので、焚くのは信将軍が眠られてからで構いません」

「………」

布に包まれた薬と香を押し付けるように渡され、昌平君は眉間に皺を寄せた。

せっかく治り掛けていた傷口が開いたのは軍の総司令官である自分の管理不足であり、責任を持ってお前が面倒を見ろということらしい。

そんな暇などある訳がないと言うのに、有無を言わさず香と薬を押し付けて来た辺り、医師も相当参っていることが分かる。

信の看病に当たっている侍女たちに渡そうと昌平君は考えた。彼女たちなら、香や薬の扱いは心得ているはずだ。

さて、問題はもう一つ残っている。

医務室から彼女が療養に使っている部屋まで、また自分が運ばなくてはならぬのか。昌平君の顔がますます強張った。

「総司令官様、もう一つお伝えしたいことが…」

医師に呼び止められ、昌平君は振り返った。

 

強引

「はあ…」

「…溜息を吐きたいのは私の方だ」

腕の中で信が何度目になるか分からない溜息を吐いたので、昌平君は冷たい瞳で見下ろした。

「自分で歩けるって言ってんのに…あの医師ども…!」

医師に何度も叱られたことに対して、信が落ち込んでいる様子はなかったが、今日は一日歩くなと言われたことに納得がいかないらしい。

これから熱が出ることを考慮して乗馬の許しも出ず、いつまでも屋敷に帰れないことを不満に思っているらしい。

嬴政の信頼している大将軍である彼女が今後、戦に立てなくなるのは困る。嬴政が医師団に治療の指示をした以上、彼らは信の傷を完治させる義務があるのだ。

彼らがその義務を果たすためには、信に大人しく眠っていてもらわねばならないのに、肝心の彼女が少しも言うことを聞かない。

「勝手を起こすせいで何度も傷を縫い直す彼らと、お前を部屋まで送る係を押し付けられた私の身にもなってみろ」

「へーへー、それは悪うございました」

「………」

少しも反省していないどころか、こんな状況に限って普段使わない敬語を用いる信に、昌平君のこめかみに青筋が浮かんだ。

背中と膝裏に腕を回し、信の体を両腕で抱きかかえながら歩く昌平君も、今の状況には納得がいかないのである。

軍の総司令官である昌平君が、飛信軍の将である信を抱きかかえながら歩いている光景に、すれ違う者たち全員が驚いていた。妙な噂を立てられるかもしれない。

療養のために与えられた部屋に戻って来ると、昌平君は思い切り彼女の体を寝台へ投げつけたい気持ちを堪えて、足に負担がかからないように寝台へと座らせた。

「…悪かったな」

先ほどと同じ言葉を掛けられるが、しゅんとした表情と元気のない声色から、謝罪の気持ちが籠っているのが分かる。

「療養に専念しろ。次に鍛錬をしているところを見つけたら、寝台に縛り付けるぞ」

「うう…」

怒気を込めた言葉が決して冗談ではないことを察し、信は怯えたように顔を強張らせた。

寝台の傍にある台に水甕と杯を見つけ、昌平君は信の死角になるように背を向けてその場所に立ち、杯に水を汲んだ。

袖の中から先ほど医師にもらった薬を取り出すと、自然な手付きで杯の中に入れる。

液体に溶け出す性質があると言っていたが、水の中に薬が落ちた途端、医師の言葉通り、それはみるみるうちに溶けていった。

用意されていた杯が黒色なのは、恐らく薬が解けているのを色で気づかれないようにするためだろう。

「信」

「ん、ああ…」

薬を混ぜたことは告げず、昌平君は彼女に杯を差し出す。

苦痛を伴う処置でかなり汗をかき、喉が渇いていたのだろう、信は疑いもせずに杯を受け取る。その時、彼女がはっとした表情を浮かべた。

(気付かれたか?)

色んな薬草を磨り潰して乾燥させたそれは、確かに独特な匂いを発していた。色は杯で誤魔化せても、薬独特な匂いは誤魔化せないだろう。

だが、毒を盛ろうとしている訳でもないし、むしろ今の彼女には必要な薬だ。咎められる理由はなかった。

黙って薬を飲ませようとしたことから逆上されるのかと思いきや、信は杯を握りながら、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「…腕…」

「腕?」

切なげに眉を寄せた信が昌平君の腕を見つめている。

その視線を追い掛けると、袖から見える腕があり、先ほどの処置中に、強く掴まれた指の痕がくっきりと残っている。

自分がそれほどまで強い力で腕を握っていたのだと分かり、信はばつの悪そうな顔で俯いた。

追い打ちをかけるように昌平君が口を開く。

「…医師たちが、次に同じようなことがあれば、傷口を焼くと言っていた」

「ひッ…」

信が分かりやすく青ざめた。傷の縫合だけでも凄まじい苦痛だったというのに、傷口焼くだなんて想像を絶する痛みに違いない。

本当はそんなことを言っていなかったが、恐らく一つの手段として医師たちも考えているに違いない。彼らの心中を察した昌平君は、そろそろ信を抑制しておかねばと思っていた。

またいつ戦が起こるか分からない。近隣の国が趙に敗北したこの機を狙って迫って来る可能性は十分にあった。

飛信軍を率いる彼女には一刻も早く傷を癒してもらい、次の戦に備えてもらいたい。それは嬴政も昌平君も同じだった。

「………」

脅し文句が効いたのか、信は再び借りて来た猫のようにしゅんと縮こまっている。

「…飲まないのか?」

杯を握り締めたままでいる信に、昌平君はじれったくなって声を掛けた。

敗戦の事後処理に追われている最中ということもあって、正直、これ以上の時間は掛けられない。

だが、医者からあのように言われてしまった手前、薬を飲ませずに離れる訳にもいかなかった。

「だってよ…これ飲んだら・・・・・・、次いつ起きるか分かんねえだろ」

彼女の口ぶりから、薬が溶かされていることには気付いていたらしい。

「なら、大人しく寝台に横たわっていられるか?」

「………」

信は何も答えずに、頬をむくれさせている。

やはりこのままでは信は鍛錬で体を動かし続けるだろう。それほどまで、大勢の兵を失った今回の敗戦は信の心に傷をつけたようだ。

はあ、とわざとらしく溜息を吐いた昌平君が信の手から杯を奪った。

「…分かった」

「えっ?」

軍の総司令官が自分の気持ちを理解してくれたことに、それまで暗い表情を浮かべていた信の瞳に光が灯る。どうやら薬を飲まなくても良いように、見逃してくれると思ったらしい。

しかし、信が顔を上げると、昌平君はなぜか杯の水を口に含んでいた。

「は?お前、何して…」

一体何をしているのだと信が目を丸めていると、昌平君はすぐに信に顔を近づけ、自分の唇を彼女の唇に押し当てたのだった。

「んッ、んぅう――!?」

視界いっぱいに昌平君の端正な顔が映っているのと、唇に柔らかい感触が当たっていることに驚く間もなく、口の中に薬が溶かされた水が流れ込んで来る。

「むぅ―――!」

飲む訳にはいかないと思っていたそれが一気に流れ込んで来て、信はすぐに吐き出そうとした。

しかし、昌平君もそれを分かっていたようで、唇を押し当てたまま動かない。

諦めて飲み込めば良いものを、信の両手がじたばたと暴れ、昌平君の着物や髪を乱暴に掴む。

「~~~ッ!!」

必死に抵抗する信の体を両腕で抱き押さえ、その勢いを利用して、昌平君は信の体を寝台に押し倒した。

「んぐッ」

寝台に背中を打ち付けた衝撃で、信の喉がごくんと動く。

ようやく飲み込んだかと昌平君が唇を離すと、信はむせ込みながら、耳まで顔を真っ赤にしていた。

「な、な、な、何しやがるッ!」

「お前が大人しく飲まないからだ」

せっかく飲ませたというのに、指でも突っ込まれて吐き出されては困ると、昌平君は信の体を組み敷いたままでいた。

「おっ、おい、いい加減に放せよッ」

「吐き出さぬと誓えるか?首を掛けてもらうぞ」

「………」

あからさまに目を泳がせて信が沈黙する。吐き出すつもりだったらしい。

呆れた女だと昌平君は何度目になるか分からない溜息を吐いた。

傍から見れば、軍の総司令官である昌平君が、飛信軍の将である信を押し倒して、今まさにその身を味わおうとしている姿にしかみえないだろう。

「ったく、どいつもこいつも、足のケガ一つで大袈裟なんだよ…」

しかし、信の方は不貞腐れた子どものような表情を浮かべている。

これだけ密着しておいて、異性として何も意識しないのは彼女だからこそだろう。

「………」

信と同様に、自分も何も意識せずにいるべきだと頭では分かってはいるのだが、触れ合っている肌の柔らかさや、意外と細い身体、吐息、長い睫毛など、様々な情報が飛び込んで来る。

心臓が早鐘を打っていると気づかれないだろうかという不安に襲われ、昌平君はさり気なく顔を背けていた。

きっと今の自分は情けないほど赤らめていることだろう。

好いている女に薬を飲ませるという目的で口づけただけでなく、これだけ傍にいて、男が冷静でいられるはずがないのだ。生殺しも良いところである。

「なー、吐き出さねえからそろそろ放せよ。お前、重いんだよ」

「なら薬を吐き出さないことに首を掛けられるのだな」

「………」

「………」

もしも、彼女の体を抱き締めているのが薬を吐き出させないためという目的ではなく、触れたかったからだと正直に告げれば、彼女は困惑するだろうか。

いや、鈍い信のことだ。こちらも気持ちも知らずに、「触りたければ触れば良い」とでも言うに決まっている。

早く薬が効いてくれることを願いつつ、昌平君はこのままで居たいと言う複雑な想いに思考をぐるぐると巡らせていた。

「うう…にっげえー…」

信は密着していることよりも、口の中に残る苦味の方が気になっているらしい。

薬を吐き出すことも叶わず、かといって苦味の残る口を濯ぐことも許されず、信は昌平君の腕の中で芋虫のようにもぞもぞとしていた。

薬が効き始めるまでは多少の時間はかかるが、せめて吐き出せなくなるくらい体に吸収させねばならない。

口の中に苦味が残っているのは昌平君も同じである。

…信が薬を嫌がる理由は眠らされることではなく、本当はこの薬の苦味なのではないかと考えた。

 

薬効

一刻ほど経過した頃、瞼が重くなって来たらしい。うつらうつらとしている信を見て、薬が効き始めたのだろうと察し、昌平君はようやく彼女を解放した。

大人しく眠れば良いものを、身体が眠気に抵抗するように、瞼を擦っている。

(…香を焚かねば)

袖の中に入っていたもう一つの白い布を開くと、特殊な樹皮を乾燥させたものだというが、どうしてこれに催淫効果が生じるのか、昌平君には分からなかった。

部屋の隅に置かれていた灰が詰められている聞香炉に目を向ける。

この部屋に来るまでに侍女が火を点けておいてくれたのか、中の灰はまだ熱を持っていた。

香筋火箸のことを使って、医者から渡された樹皮をまだ熱い灰に埋める。

じっくりと温まっていく樹皮から、甘い香りが漂って来て、昌平君は思い出したように着物の袖で鼻と口元を覆った。

以前、部屋に訪れた際には衛兵から布を渡されていたが、そういえば今は用意がなかった。

「ぅう…ん…」

寝台の上にいる信が切なげに眉を寄せている。まだ寝入ってはいないようだが、すぐにでも意識が途切れてしまいそうだ。

信が眠ったのを見届けてから部屋を出ようと考えていた昌平君は、着物の袖で鼻と口元を覆ったまま、彼女を見つめる。

「…昌平、君…」

まさか朦朧としている意識の彼女に名前を呼ばれると思わず、昌平君は反射的に彼女に近寄っていた。

鼻と口元を覆っていない反対の手を掴まれたかと思うと、信は甘えるようにその手を頬に押し当てる。

何をしているのだと驚いた拍子に思い切り息を吸い込んでしまい、甘い香りで頭がくらりとした。

酒を飲んだ時のような、気分を高揚させる陶酔感を起こさせて、体の緊張を解く効果があるのは分かっていたが、ひっくるめて言えば催淫効果だ。

身体が熱くなっていくのを感じ、これ以上この香を吸う訳にはいかないと、昌平君の頭の中で警鈴が鳴る。

こんな即効性のある香だとは思わなかった。昌平君の脳裏に、医師の言葉が蘇る。

―――香は効き過ぎるので、焚くのは信将軍が眠られてからで構いません。

眠ってから香を炊くようにと言われていたが、まさかあの言葉は信ではなくて、香を焚く者・・・・・を気遣った言葉だったのだろうか。

もう信の瞼は落ちかけており、昌平君を掴んでいた手が寝台に力なく落ちた。

「――、―――」

朦朧としている意識で信が唇を戦慄かせている。僅かに空気を震わせたその言葉を聞き、昌平君は目を見開いた。

 

中編はこちら

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七つ目の不運(李牧×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

偽装工作完了

数刻後、約束通りに李牧は呉服店へと戻って来た。

どうやら着替えを終えたらしく、女主人が得意気な顔をしている。

彼女の後ろをついて来た女性を見て、李牧ははっと目を見張ったのだった。

「…随分と変わりましたね」

「うるせえな!お前がそうしろって言ったんだろうがッ」

憤怒して顔を真っ赤にしている信は、顔色と正反対の青い着物に身を包んでいた。

淡い青色から透明感のある水色へ階調をしている裳は、生地に特殊な染め方が施されているらしい。丁寧に蓮の花が刺繍されており、まるで生地に直接色を載せて絵を描いているようにも見える。

表着も裳と色を合わせたのだろう。しかし、表着には裳と違って金色の刺繍が施されており、信が歩く度にその刺繍がきらきらと輝いて見えた。

「………」

まるで彼女自身から光を発しているかのようで、李牧は言葉を掛けるのを忘れて、信に見惚れていたのである。

華やかなのは衣裳だけではない。無造作に後ろで纏めていただけだった黒髪も、女主人によって梳かされ、女性の美しさを引き出すように、高い位置で結われていた。

小さな傷痕が目立つ頬はおしろいを叩いたのか、見事なまでに消え去っている。

みずみずしい赤色に染まった唇は上品さを際立たせており、そこにあったのは別の女の顔だった。

「……おい、それ以上見るなら金取るぞ」

信の怒気が含まった低い声を聞き、李牧ははっと我に返る。

「すみません、あまりにも別人だったので驚いてしまいました」

「ふんッ」

信が腕を組んで大きく顔を背けた。

秦王嬴政の前に出る時や、論功行賞などの畏まった場で、信はいつもの男物の着物は着ずに、身なりを整えていた。その時も、李牧と似たような反応をされることが多い。

きちんとした身なりに整えるだけで驚かれるのは慣れているはずなのだが、李牧に限っては苛立ちしか感じなかった。

女主人も信の変貌ぶりに驚いた李牧の顔を見て、満足げな顔を浮かべている。一仕事終えたと言わんばかりの達成感を噛み締めているようだった。

かくして、偽装工作は無事に成り立ったのである。

 

城下町

信も女主人もぎょっとしてしまうほどの金銭を李牧が笑顔で支払った後、ようやく呉服店を後にした。

城下町は多くの民で賑わっていたが、呉服店に入る前にはなかった不穏な空気が広がっている。

宮廷の護衛に努めている兵たちがあちこちにいるのだ。民たちが何かあったのだろうかと不安そうにしている。

(動き出したな…)

信が見渡す限り、既に二十人近くの衛兵が城下町を歩いている。

城下町は宮廷よりも遥かに広いため、多くの人数を用いられば見つからないと思ったのだろうか。

それにしても、下女一人に対してここまで兵を割くとは何事だ。

信が眉間に皺を寄せていると、李牧は表情を変えず、信にだけ聞こえるように声を潜めた。

「…偽装工作をしたとはいえ、気づかれないとは限りません。怪しまれないよう、自然に振る舞ってください」

「お、おう」

緊張しながら相槌を打つと、李牧がぴたりと足を止めた。

「…その話し方、今だけどうにかなりませんか?」

「は?」

きょとんと目を丸めて信が聞き返す。

「いえ、宦官たちは衛兵にあなたの特徴を伝えているはずですから、そういった言葉遣いも怪しむ可能性があります」

「…んなこと言われても…」

確かに李牧の言う通りである。

後宮の中で、普段から男のような言葉遣いをする女は、信しかいなかった。外見で判断出来ないとしても、言葉遣いから怪しまれる可能性は確かにありそうだ。

とはいえ外見と違って、言葉遣いというのは簡単に変えられるものではない。

「では、寡黙な性格ということにしましょう」

「寡黙な性格?」

ええ、と李牧が笑顔を浮かべる。声を潜めながら、彼は言葉を続けた。

「どこで誰が聞いているかも分かりませんし、用心するに越したことはありません」

「まあ…それもそうだな」

承諾した信に、李牧が意味ありげな笑みを浮かべる。彼がこんな風に笑うのは何かを企んでいる時に違いない。信は嫌な予感を覚えた。

「余程の緊急事態でない限りは口を開かないように」

「な…!」

なんでだよ、と信が反論しようとするが、李牧は自分の唇に人差し指を押し当てた。

「…そういうところです。せめて城下町から出るまでは大人しくしてくださいね。これはお互いの命を保証するためです」

「………っ」

悔しそうに奥歯を噛み締める信に、李牧が穏やかな眼差しを向ける。

悼襄王が伽を命じた下女を匿ったとなれば、たとえ宰相であっても厳しい処罰は避けられないのだろう。

信も自分の正体を知られる訳にはいかなかったため、悔しいが彼の指示に従うことにした。

「門があるのはこの先です」

「………」

城下町の表通りを進んでいき、門を潜れさえすれば逃げられる。

もう少しで秦に帰れるのだと信は胸に希望を灯した。

 

城下町その二

いつもならば着物の乱れなど気にせずに大股で歩く信だったが、女性用の着物で歩く時は、歩幅を狭めないと裾を踏んづけて転倒してしまう。

過去に何度もそれで痛い思いをしていたため、信は図らずとも淑やかに歩いていた。

信が見上げるほど身長の高い李牧の方が歩幅は当然広い。しかし、今は信と離れないように、ゆっくりと歩いていた。

捻ったという右足を庇っているのかと思ったが、引き摺るような仕草はなかったので、恐らく信を気遣って速度を合わせてくれているのだろう。

「……?」

李牧と並んで歩いていると、すれ違う民たちから好奇な視線を向けられる。

脱走した下女だと気付かれたのだろうかと不安に思いながら、視線を送って来る民たちの顔を見た。

怪しんでいるというより、なぜか全員が穏やかな視線を自分たちに向けている。信は頭の中に疑問符を浮かべた。

「………」

おい、と声を掛ける訳にもいかなかったので、信は隣にいる李牧の裾をちょんと引っ張った。

「どうしました?」

すぐに足を止めた李牧が不思議そうに小首を傾げる。手招くと、李牧は体を屈めて顔を近づけてくれた。

余程の緊急事態でない限りは口を開くなと言っていたが、あれは大声で話すなという言葉のあやだったのかもしれない。

「…すげえ見られてるぞ…気づかれたんじゃねえのか?」

耳元で声を潜めながら信が不安を打ち明けると、李牧は周りにいる民たちを見渡して、それから首を横に振った。

「いえ、衛兵たちもこの辺りには来ていませんし、そんな様子はありません。ただの物珍しさ・・・・のでしょう」

物珍しさという言葉を素直に呑み込めず、信は眉間に皺を寄せた。

「…どういう意味だよ」

「そのままですよ。普段は仕事ばかりですから、私がこうして城下町を歩くのは久しぶりなんです」

へえ、と信は頷いた。

確かに宰相という立場であり、趙軍に軍略を授けている李牧ならば、与えられる仕事は後を絶たないのだろう。

将軍である信には戦以外の仕事が何たるかはよく分かっていないのだが、軍の総司令官である昌平君はいつも何が書いてあるのか分からない書簡に目を通している。

秦王である嬴政や他の文官や武官や文官にも様々な指示を出しているし、その上、軍師学校の生徒たちの教育もしなくてはならないらしい。

呉服店に入る前も視線を向けられているとは思ったが、そんな忙しい御仁が城下町を歩くのは、民たちにとっては珍しいことなのだろう。

「宰相様!」

門へ向かって表通りを歩いていると、背後から声を掛けられた。

反射的に振り返ると、宮廷の衛兵たちが数名、焦った表情を浮かべてこちらへ駆け寄って来ている。

まずいと信の心臓が早鐘を打った。

「どうしました?」

まるで信の姿を隠すように、彼女の前に立った李牧が駆け寄って来た衛兵たちに用件を尋ねる。

「それが…後宮から下女が逃げ出し、その者を探し出せという勅令が…」

勅令。つまり悼襄王の指示である。信は李牧の背後で顔を引き攣らせた。

たかが一人の下女のために、まさか悼襄王自らそんな指示を出すなんて、とても信じられなかった。

兵たちから逃げた下女の特徴を告げられ、李牧はふむと頷く。

言葉遣いも外見も男のようで、壁を飛び越える身体能力の高さがあるという特徴に信はいたたまれない気持ちになった。

まさかその張本人が李牧の背後にいる着飾った女で、正体は秦の大将軍の一人だなんて、誰も思わないだろう。

「そうでしたか…見かけたらすぐにお伝えします」

宰相の言葉に、衛兵たちは礼儀正しく供手礼をする。

「!」

李牧の身体越しに衛兵たちと目が合ってしまい、信は咄嗟に顔ごと目を逸らしてしまった。

怪しまれただろうか。俯いて李牧の背中に隠れていると、衛兵たちはなぜか頬を赤く染めて、驚いたように李牧を見たのだった。

「こ、これはお二人の貴重な時間を邪魔をしてしまい、申し訳ございません!それでは」

「え?」「は?」

李牧と信が同時に聞き返したが、衛兵たちはその場から逃げるように去っていく。

残された信と李牧はしばらく呆然としていたが、衛兵たちが遠ざかっていったことに安堵し、再び歩き始めた。

(何だったんだ?あいつら…)

衛兵の言葉を未だ理解出来ずにいる信は頭に大量の疑問符を浮かべながら、李牧の隣をついて歩く。

李牧は意味を理解したのか、それとももう興味を失くしたのか、いつものように人の良さそうな笑みを口元に繕っていた。

「…逃げ出した下女の騒動、大きくなって来たようですね」

それは他でもない信のことなのだが、李牧は辺りを見渡しながら呟いた。

勅令ということもあってか、衛兵たちが必死な形相で民たちから話を聞いていた。

後宮にいたのはたったの数日だ。後宮に務めている下女など大勢いる。宦官や女官たちも一人一人の顔や特徴など細かく覚えていないのだろう。そのおかげか捜査が随分と難航しているようだった。

(とっとと諦めて、他の女にすればいいのに…)

大王と褥を共にするのが仕事である女は後宮に大勢いるというのに、一体どうして執拗に自分を探そうとしているのだろうか。

高貴な生まれの令嬢でもあるまいし、後ろ盾もない下女の一人くらい放っておけばいいものをと信は考えた。

どうやら李牧は信の考えを表情から読み取ったらしく、少し困ったように溜息を吐く。

「ああ、すみません。少し肩を借りてもいいでしょうか?」

どうやら捻った右足が痛むのだろう。信はすぐに頷いた。

李牧の大きな手が信の左肩に寄せられる。傍から見れば、身を寄せ合いながら歩いている男女ということで夫婦か恋人にしか見えなかった。

すれ違う民たちから好奇心が含まれた視線を向けられるが、信の中では「足を捻った李牧に肩を貸しているだけ」である。

自分の正体に気付いたのではないかという不安の方が大きく、彼らが視線を向けて来る理由が好奇心であることに気付けなかった。

信の肩を借りたことで、先ほどよりも距離が近づいた李牧は、

「…稚児趣味で有名な御方です。あなたの外見から、相手をさせたがったのでしょう」

他の者たちに聞こえないように小声で囁いた。

下女になった経緯はともかく、信が見初められた理由を李牧はそのように理解している。

「うぅ…」

後宮の中で悼襄王に声を掛けられた時の、あの絡み付くような視線を思い出し、信はぶわりと鳥肌を立て、思わず両手で自分の体を抱き締めた。

幼い頃から戦場に身を置いていたことから、信は自分に怖いものなど何もないと思っていたのだが、これは新たな発見だ。

そこで、信はふと浮かんだ疑問を躊躇うことなく口に出す。

「…なんで、お前はあんな奴に仕え――もがっ」

言い切る前に李牧の大きくて骨ばった手が信の口元を塞いだ。

「ああ、あそこで綺麗な簪が売っていますね。せっかくですから見ていきましょう」

片手で口を塞がれたまま、ちょうど視界に入った簪が売っている店に引っ張られていく。

「~~~ッ!」

放せと李牧の着物を掴むと、彼は信の耳元に顔を寄せて声を潜める。

「…王の侮辱となれば、さすがに私も庇い切れませんよ」

一切の感情を読み取られない低い声に、信はぎくりと体を強張らせる。

確かにここは悼襄王が収める趙の領地であり、首府の邯鄲だ。

悼襄王に嫌悪感を抱いているとしても、彼に従っている将や兵は多くいる。李牧もそのうちの一人だ。

仕えている王の侮辱は許せないのだろう。自分だって、なぜ嬴政なんかに仕えているのかと問われれば逆上したに違いない。

「………」

反省したように縮こまった彼女を見て、ようやく手を放してくれた李牧は穏やかな笑顔を浮かべている。

他の民たちに怪しまれないようにとはいえ、簪が売っている店にやって来た信は戸惑ったように李牧を見上げた。

自分の目的はあくまで城下町から出ることであって、買い物など不要だ。

しかし、怪しまれないためだと思い、信は大人しく店の前に立った。

陳列棚に並んでいる簪は、多くの種類が並んでいる。金や銀で出来たもの、磨き抜かれた美しい黒檀でできたもの、眩い宝石が取り付けられているものなど、色とりどりだ。

女性ならば目を輝かせるものばかりで、陳列棚の周りには多くの女性客たちがいた。

当然、一般民には手の届かぬ額のものばかりのため、眺めるだけで満足しているようだった。

しかし、彼女たちの視線は今や簪ではなく、宰相である李牧の端正な顔立ちに向けられていた。

そして彼のすぐ背後にいる信に気づくと、彼女たちはぎょっとした表情を浮かべ、李牧と信の交互に視線を向けているのだった。

(やっぱり怪しまれてんじゃねえのか…)

楽しそうに簪を眺めている李牧に早く行こうと催促するように、信は背後から李牧の着物を引っ張った。

「何か欲しいものはありますか?」

振り返りざまに笑顔を向けられると、周りにいる女性たちが顔を真っ赤にしている。しかし、信は簪になど少しも興味がなく、あっさりと首を横に振った。

(早く行くぞ)

言葉遣いから、探されている下女だと見抜かれる訳にはいかなかったので、信は李牧の着物を掴む手に力を込める。

周りの女性たちが信に羨望の視線を向けていたが、それを疑いの眼差しに感じた信は嫌な汗を滲ませる。

偽装工作をしたとはいえ、李牧と二人でいるのは目立つ。

周りにいる女性たちが信の方を見ながら、何かを囁き合いながら、鋭い目つきを向けて来る。

(…やっぱり気づかれてるじゃねえか!)

睨まれているのだと分かり、信はいたたまれなくなった。

このままここにいたら、あの女性たちに逃げ出した下女だと衛兵に告げられるのかもしれない。

着物の袖で口元を隠し、なるべく顔を見られないように、信は足早にその場を離れた

 

別行動その一

その場から逃げるように去っていった信に、李牧が気づくことはなかった。

数多くある簪の中で、彼女に何が似合うだろうかと考えている内に夢中になっていたのである。

信が着ている着物と彩りが似ていることから、青水晶で花の形を象っている金色の簪を選んで店主に包んでもらっていると、先ほどから店にいた女性客に声を掛けられる。

「宰相様、あの、先ほどのお付きの方は…」

「え?」

振り返ると、そういえば信がいなくなっていることに気付く。

簪を眺めている最中に、後ろから何度か着物を引っ張られたが、大人しく待ってくれていると思っていた。

店主から簪を受け取りながら、李牧は辺りを見渡した。

遠くで彼女を探している衛兵たちの姿がちらほら見える。声を掛けられていたような気配はなかったが、衛兵たちの姿を見て怯んでしまったのだろうか。

「すみません、先ほどの女性がどちらへ行ってしまったかご存じありませんか?」

声を掛けてくれた若い女に尋ねると、彼女は門のある方を指さした。もしかしたら一人で門まで行ったのだろうか。

せっかく国を出るまで協力すると言ったのに、一人で行ってしまうなんてと李牧の瞳に寂しい色が浮かぶ。憂いの表情を見た女性客たちの顔に緊張が走った。

「あ、あの、宰相様にはお体の弱い許嫁様がいる・・・・・・・・・・・と…」

その言葉を聞き、そういえば過去にそんなことを公言したなと李牧は苦笑を浮かべた。

宰相という立場であるせいか、その地位を欲しがる者から李牧は縁談の話を持ち掛けられることが多かった。

名家の娘を中心として、他にも名のある商人の娘だったり、王宮を出入りする評判の良い妓女など、縁談として選ばれる相手は様々なのだが、李牧はそれらを全て断っていた。

しかし、いつまでも妻がいないことを不憫に思われているのか、良かれと思って縁談を持って来る者も絶えず、苦肉の策として李牧はある女性の存在を仄めかせるようになった。

それが、病弱な許嫁という架空の存在・・・・・である。

身体が弱く、滅多に屋敷から出て来られないのだと言えば、大半の者は納得して引き下がってくれる。

側近たちにもその話をしたのだが、怪しまれることもなく、事実だと受け入れてくれた。

情報が制限されると、人は良いように想像するものだ。李牧はその体の弱い許嫁と結ばれるために縁談を全て断っているのだと話がたちまち広まり、それから縁談の話はぴたりと止んだのだった。

未だに李牧が子を持たないことも、架空の許嫁のおかげなのか、勝手に納得されていた。

名前も明かしておらず、ただ病弱だということしか伝えていないのだが、絶世の美女だとか、可憐な女性なのだとか、様々な憶測が飛び交っている。

噂が一人歩きをすると、色んな枝が生えるものだ。どうやら、一緒にいた信がその病弱な許嫁だと思われたらしい。

(ちょうど良いかもしれません)

李牧は思考を巡らせた。

「ええ、彼女がその女性です。今は許嫁ではなく、妻ですが」

妻という単語を聞いて、なぜか青ざめて悲鳴を上げる女性や、歓喜の表情を浮かべる女性がいた。

李牧に声を掛けてくれた女性は後者で、思い出したように、はっとした表情を浮かべた。

「あの、御口許を押さえていましたから、もしかして、お体の具合が優れないのかもしれません…」

「それは大変です。彼女はいつ発作・・を起こすか分かりませんので、早く連れ帰らねば…では、私はこれで失礼しますね」

李牧は簪を着物の袖の中にしまうと、足早に・・・信の姿を追い掛けた。後ろから女性客たちの羨望の視線を感じたが、李牧は一度も振り返らなかった。

我ながら上手い言い訳だと李牧は表情に出さずに自画自賛する。

病弱な許嫁は架空の存在であったのだが、実際に姿を見た者がいれば、噂にさらなる信憑性が伴う。

それでいて発作という言葉を使って、病弱な印象をさらに深められた。これによって今後、李牧に未だ子がいないことも勝手に納得されるに違いない。

信が口元を抑えていたのは恐らく顔を見られないようにするためだろうが、都合よく立ち回ってくれた。

心の中で感謝しつつも、まだ彼女を逃がす訳にはいかない。

李牧は信が向かったであろう門の方向へと駆け出した・・・・・

 

別行動その二

簪を売っている店から逃げて来た信は、スカートの歩きにくさに苛立ちを覚えていた。

あの呉服店の女当主はやり手で、身包みを剥がされるように下袴を奪われてしまったのだ。

宦官の下袴だと気づかれないだろうかと信は不安だったが、女当主は商売人であり、後宮には出入りしないと言っていた。恐らく宦官との関わりがないことを知った上で、李牧もあの呉服店の女主人を頼ったのだろう。

少しでも早く趙国から脱出したい信は構わずに門を目指した。

国に入る分には色々な取り調べがあるが、出ていく分には許可は不要だろう。李牧がいなくても何とかなりそうだ。

着物の袖で口元を隠したまま、信は俯きながら前に進む。気持ちが急いているため、意識せずとも足取りが早まっていた。

裳を踏まぬように気をつけながら、ひたすら表通りを進んでいると、近くにある酒場から出て来た中年の男とぶつかってしまった。

(うおッ!)

女性らしさの欠片もない悲鳴を寸前で飲み込んだ信だったが、勢いのあまり、尻餅をついてしまう。

(いってーな!どこ見て歩いてんだよ!)

痛む尻を擦りながらぶつかって来た男を睨み付けると、彼も同じように尻餅をついていた。

大分酒に酔っているらしく、顔が真っ赤になっている。吐き散らかしている激臭を感じ、信は思わず袖で自分の鼻と口元を覆う。

麃公が日頃から愛飲している胃が燃えるような強い酒も飲むことが出来る信だったが、その激臭には耐性がなかった。

髭面の男はふらふらと立ち上がって、信を見下ろすと、にたりと嫌な笑みを浮かべた。

立ち上がると、李牧くらい背丈のある男であることが分かる。

がっしりとした体格や、体にいくつもの傷があることから、恐らく趙兵として戦に出ている者に違いない。

男は片手に持っていた酒瓶の蓋を開けて、中に入っている酒を水のように喉を鳴らして飲み始めた。

酒場にいる店員や客たちがこちらに視線を向けている。迷惑そうな視線であることから、飲み過ぎだと店から追い出されたところだったのかもしれない。

「お嬢ちゃん、良いところの娘だな?」

まるで勘定でもするかのように頭の先から足の先まで視線を向けられ、信は嫌悪感を覚えた。

「………」

こういう酔っ払いには関わらないのが一番だと、信は颯爽と立ち上がって、無言で着物についた土埃を払う。

李牧が呉服屋の女主人に支払った金銭はとんでもない額だったというのに、土埃をつけてしまった。後で着物を返せと言われないことを願うしかなかった。

そういえば嬴政からもらった着物を着ている時でも、信は構わずに地べたに座ることがあり、その度に王賁に叱られていたことを思い出した。今度からは気を付けよう。

何事もなかったかのように男の横を通り抜けようとすると、太い毛むくじゃらの腕が信の細い手首を掴んだ。

(なんだよ、この酔っ払い!)

普段の信だったらすぐに振り払っただろう。ついでに蹴りの一発でもお見舞いしていたに違いない。

しかし、今それをするのはまずい。趙国を出るためには、何としても衛兵たちの目に留まるような目立つ振る舞いをする訳にはいかなかった。

もどかしい気持ちのまま、しかし、相手を刺激しないために沈黙を貫いていると、男が激臭を吐き散らかしながら大声で笑う。

「ちょうど酌をしてくれる相手を探していたんだ!付き合ってくれよ、嬢ちゃん。別の店で飲み直そう!」

(お、おいっ!?)

強引に腕を引っ張られ、門と逆方向へ向かっていく男に、信は狼狽えた。

宮廷へ向かう方にはまだ衛兵たちがうろついている。早く門を抜けて城下町を出たい信は両足に力を込めて踏ん張り、男の手を振り解こうとした。

しかし、意外と酔っ払いの力は強い。酒が入ると力が抜けてしまいそうなものだが、この男は元々それなりの力量を持っているのかもしれない。

傍から見れば、酔っ払いの男がどこぞの高貴な娘に絡んでいる図にしか見えないのだが、面倒事には関わりたくないのか、通行人たちは見て見ぬふりを決め込んでいる。

後宮から脱走した下女を探している衛兵たちもこんな時に限って傍にいない。だが、声を上げて助けを求めれば、信の正体に気付く者がいるかもしれない。

李牧と離れたのは間違いだったかもしれない。宰相という立場があれば、それだけで虫除けになったに違いない。

(くっそ…!)

必死の抵抗を装って脛にでも蹴りを食らわせようかと信が考えた時だった。

「嬢ちゃん、俺はなあ、秦の六大将軍の王騎が討たれる瞬間をこの目で見た男なんだぞ!」

男の言葉を聞いた信の中で、一瞬、確かに時間が止まった。

抵抗していた信がその言葉を聞いて、力を抜いたので、男は得意気に言葉を続ける。

「王騎は俺たちに囲まれて身動きが取れなくなってからも抵抗を続けてたんだ!とっとと首を差し出せば良かったのによお」

どうやら、この男は馬陽の戦いで王騎軍と戦ったことがあるらしい。

天下の大将軍と名高い王騎の姿を見ただけで、自慢げに語る者は敵にも味方にも多い。それほど父の存在はこの中華では偉大なものだった。

「本当なら魏加じゃなくて、俺の弓で討ち取るはずだったんだがなあ」

腰元に剣を携えていないのは、彼が弓の使い手だったからだ。

誇らしげにあの戦のことを語る男の様子を見る限り、どうやら天下の大将軍を追い詰めたことを武勇伝のように思っているのだろう。

信の中で、男の言葉以外の雑踏が消えていく。目の奥から燃えるような熱さを感じ、信は体が小刻みに震え始めたのを他人事のように感じていた。

馬陽の戦いで行われた龐煖と王騎の一騎打ち。弓の名手である魏加という副将が、その一騎打ちに横槍を入れたのだ。

普段の王騎だったなら背後からの射撃など容易く回避していただろう。しかし、強敵である龐煖との戦いに集中していたせいで、遅れを取った。

背中に射撃を受けた僅かな隙を龐煖は見逃さなかったのだ。

「―――」

槍で貫かれる父の姿が瞼の裏に浮かび上がり、信は思わず息を詰まらせる。

信もあの戦場に、そして王騎のすぐ傍にいた。あの時、魏加が王騎の背中に弓を向けていたことに気付くことが出来たのならという後悔は今でも止まない。

「………」

瞬きもせずに体を震わせ、何の感情も持たない虚ろな瞳を浮かべている信を見て、男が不思議そうに小首を傾げている。

もしも信が背中に剣を携えていたのなら、迷うことなく男の首を撥ねていただろう。

他の誰でもない、天下の大将軍を、秦の六大将軍の一人を、最愛の父を侮辱されて、このまま黙っていられるはずがなかった。

虚ろだった信の瞳に、憤怒の色が宿る。

「おい!何するんだ!」

―――気付けば信は男から酒瓶を奪い取っていた。

頑丈なそれを、彼女は迷うことなく、男の頭部に向かって振り上げたのだった。

 

悔恨と謝罪

小気味いい音がするのと同時に、周囲からたくさんの悲鳴が聞こえた。

「え…?」

しかし、信の視界に映っていたのは、倒れ込む男の姿ではなく、額から血を流してこちらをじっと見据えている李牧だったのだ。

酒瓶が割れて、中に入っている酒を浴びたのだろう、頭も着物も酒でずぶ濡れになっている。

どうして李牧がここにいるのだろう。信は冷たい水を頭から被せられたように呆然としていた。

(な、…んで…)

驚きのあまり、信は言葉を失ってしまう。李牧が男を庇ったのだと理解するまでには時間がかかった。

額から流れる血を手で拭いながら、李牧は何も言わずに信に背を向ける。

「大丈夫ですか?」

か弱い女に殴られると思ったのか、驚いて腰を抜かしている男に、李牧は膝をついて声を掛けた。

突然現れた宰相の存在に、周りの者たちは固唾を飲んでいる。

「ああ、さ、宰相様!」

宰相に声を掛けられたことでようやく我に返った男は、驚きのあまり、酔いが一瞬で冷め切ったようだった。

李牧の後ろにいる信を指さしながら、男が喚き散らす。

「そ、そこの女が、秦の王騎の話で逆上したのです!どこの娘かは知りませんが、厳しい罰をお与え下さい!」

敵将である王騎を庇ったかのような行動を理由に、男が信を責め立てる。

騒ぎによって注目の的になってしまった信は、拳を握りながら俯いていた。

(もう、どうでもいい)

王騎を侮辱した男が許せなかった。

父が討たれたのは李牧の軍略が原因なのだが、龐煖と対峙している最中に、趙兵が弓矢を放たねば父が負けるはずはなかったのだ。

あの場で魏加が弓矢で王騎を討たんとしたのは、趙兵たちの言葉を聞く限り、どうやら彼の独断による行動だったらしい。

あの時、矢を受けなければ、天下の大将軍である父は龐煖に負けなかった。

悔やんでも悔やみ切れない想いが、信の心にはわだかまりとなっており、未だに負の色の根を張っていた。

こうなればいっそ、この場で自分は王騎の娘だと正体を告げてやろうかと信が考えた時だった。

「…すみません、彼女は私の妻でして」

ゆっくりと立ち上がった李牧の言葉の口から、妻という単語が出て来たことに、信と男だけではなく、周りにいる者たちがざわめき始める。

こんな時に何を言っているのだと、信は驚きのあまり声を出せなかった。

偽装工作は既にしたはずだが、妻を名乗れとは言われていない。恐らく、注目を集めてしまったせいで、李牧が信の正体を隠し通すために嘘を吐いたのだろう。

しかし、こちらを凝視している者たちが「体の弱い許嫁だ」と噂しているのが聞こえ、李牧は一体いつからそんな偽装工作を仕組んでいたのだろうと考える。

宰相である李牧に、病弱な許嫁がいるというのは趙では有名な噂・・・・・・・であったため、信だけが知らないだけなのだが。

「さ、ささ、宰相様の、妻…!?」

自分を殴りつけようとした無礼な女が李牧の妻だと知った男が大口を開けている。

少しも冗談を言っているとは思えない神妙な顔で、李牧は頷いた。

「妻は滅多なことでは怒りませんし、当然、相手に手を出すことはありません。それは私が保証します。だというのに、王騎将軍の話で逆上したということですが…彼女に一体何を伝えたのですか?」

「い、いえ、その…」

険しい表情で李牧が詰問すると男は言葉を濁らせた。

先ほどまでは酔いで顔を真っ赤にしていたはずの男が、今は血の気を引かせて真っ青な顔になっている。

下手したら自分が処罰を言い渡されるのではないかと恐れているのだろう。

何も語り出そうとしない男に、李牧はわざとらしく溜息を吐いた。

「…私は卑怯で姑息な策を使い、何とか王騎将軍を討つことが出来ました。しかし、逆に言えば、そのような策を使わなければ・・・・・・・・・・・・・、彼を討つことは出来なかったということです」

信は李牧の背中を見据えながら、黙ってその言葉を聞いていた。

彼女だけではない。真っ青になっている男も、こちらを注目している多くの民が李牧の言葉に耳を傾けていた。

軍略に長けていると誰からも評価されているはずの李牧自ら、用いた策を卑怯で姑息だと言ったことに驚いている者もいる。

真っ向からぶつかれば、趙軍は王騎に敵わなかったのだと、李牧は公言した。

一騎打ちに横槍を入れたのは魏加の独断によるものだったが、どちらにせよ李牧の策によって王騎軍が苦戦を強いられたことは事実である。李牧の策さえなければ、あの父が討たれることは決してなかった。

しかし、李牧は王騎を討ち取った自分の軍略を鼻にかけることはせず、むしろ自らを蔑むように語っていた。

秦趙同盟を結ぶ際も、呂不韋に似たようなことを話していたことを信は思い出しす。

「―――王騎将軍の侮辱は、彼と同じ戦場に立っていた者として、断じて許しませんよ」

信の心に、李牧のその言葉は不思議と染み渡っていった。

父を討つ軍略を企てた憎い男だとしか思っていなかったはずなのに、なぜか今だけは、李牧が一人の軍師として信の瞳に映っていたのだった。

一切の感情を感じさせない低い声で、李牧が言葉を続ける。

「たとえ、秦国の将であろうとも、天下の大将軍である彼が、今でも偉大な存在として中華全土に名を轟かせているのは変えられない事実です。その意味を、決して忘れぬよう」

氷のような冷たさを秘める李牧の瞳に見据えられ、男がその場に膝をつく。申し訳ありませんと泣きそうな声を上げながら、地面に額を擦り付けるほど頭を下げた。

「…分かっていただけたのなら良かったです。妻には日頃からそのように言い聞かせていたので、話を聞いて逆上してしまったのでしょう。どうか、妻の無礼を許して下さい」

信は謝罪する気など微塵もなかったのだが、李牧が代わりに頭を下げた。

「とんでもございません!宰相様、それに奥様、誠に申し訳ございませんでした…!」

少しも顔を上げないまま、男は李牧と信に対して何度も謝罪をする。

先ほどまで憤怒の感情に呑まれていた信だったが、今では落ち着きを取り戻していた。

思わぬ注目を集めてしまったが、民たちは李牧と彼の言葉に意識を向けていたに違いない。

敵将の武功を認めるどころか讃える発言をした宰相に、反抗するような目つきを向ける者は一人もいなかった。

むしろ、誰もが温かい眼差しを向けており、宰相である李牧を慕っている者がこれほど多いのかと信は驚かされる。

「さ、行きましょうか」

何事もなかったかのように振り返った李牧は、穏やかな瞳と、優しい笑みを信へ向けた。

冷静になった頭で、信は李牧の頭を殴ってしまったことに、ばつが悪そうな表情を浮かべている。

「あっ…!」

彼の額からまだ血が流れていることに気付き、信が慌てる。男を殴るつもりだったとはいえ、思い切り酒瓶で殴ってしまい、額の皮膚が切れてしまったのだ。

「見た目ほど傷は深くないですから、心配は要りません。こう見えて石頭なんです」

そんなことを言われても出血しているのは事実だ。信は不安そうな表情を浮かべながら、何か出血を押さえるものを探す。

だが、彼女を安心させるように、李牧は血を流しながら笑みを深めていた。傍から見れば、血を流しながら笑う怪しい男でしかない。

早くここを去りたかったが、自分が怪我をさせてしまった手前、信はどこかで手当てを受けさせなくてはと考える。

「…おや、何だか眩暈がしますね」

「李牧ッ!」

ふらついた李牧の体を信が慌てて抱き止める。

出血の量はさほどひどくないように見えたが、頭部からの出血ということもあって決して油断は出来ない。一切の加減をせずに殴りつけたため、何かあってもおかしくはないと信は不安になった。

「ああ、すみません…少し休めば、すぐに良く…」

途中で言葉が途切れた後、どうやら意識を失ってしまったらしく、李牧の体が脱力する。信は奥歯を噛み締めて踏ん張った。身長差も体格差もあるせいで、信一人だけでは完全に支え切れない。

(くそ…!宮廷に戻るしか…!)

王族が住まう宮廷になら常駐の医師がいるだろう。宰相の立場ならば、すぐに診てくれるに違いない。

宰相が意識を失ったことに、周りにいる民たちはざわめいている。

こうなれば李牧の妻を演じ切り、誰かの手を借りるしかないと信が意を決した時だった。

「…こちらでしたか」

背後から凛とした声が響き、信は李牧の体を支えながら振り返った。

 

宰相の将

そこにいたのは、李牧が従えている趙将の一人、慶舎だった。

(なんでこいつが…)

李牧の体を抱えながら、信は顔を強張らせる。

秦趙同盟が結ばれたあの日、慶舎は秦国へ来ていなかったこともあり、信の素顔を知らないはずだ。

信自身もそれを分かってはいるのだが、まるで人形のように表情を変えない慶舎に、全てを見透かされているような気持ちになってしまう。

こちらが動揺していることに気付いているのかすら、信には分からなかった。

「………」

信に支えられながら、ぐったりと動かない李牧を見て、慶舎が近づいて来る。

正面から李牧のことを支えている信を退かせると、慶舎は彼の右脇に手を差し込んで、体を支えた。

「…李牧様の指示で馬車の用意をしてあります。こちらへ」

慶舎と目が合うと、礼儀正しい言葉で声を掛けられ、信は目を丸めた。彼の態度から考える限り、恐らく信の正体には気付いていなさそうだ。

李牧が馬車を用意するよう指示を出していたようで、信は戸惑いながらも慶舎の言う通りに従う。怪我をさせた手前、このまま李牧に謝罪もせず趙を去ることはしたくなかった。

「ど、どこに…?」

傷の手当てを最優先にしたかったのだが、馬車で宮廷に戻るのだろうか。信が疑問を口にすると、慶舎は「李牧様のお屋敷です」と表情を変えないで答えた。

「医者の手配もすぐに行いますので、ご心配なさらず」

信の心を読んだかのように、慶舎が告げる。信は頷いて、慶舎とは反対の李牧の左側に立って、彼の体を支えた。

慶舎も将軍ではあるが、李牧の体格には及ばない。二人で運んだ方が早いと信は李牧の体を支える腕に力を込める。

少し進んだ先に慶舎が言っていたように馬車が停まっており、彼の力を借りながら、信は李牧の体を馬車の中へ運んだのだった。

馬車で移動している最中も、李牧は一度も目を覚まさなかった。

 

後編はこちら

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バーサーク(蒙恬×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/輪虎×信/嫉妬/無理やり/ヤンデレ/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

白老の死

その日、大勢の家臣たちに囲まれて、眠るように蒙驁は息を引き取ったのだった。

孫である蒙恬は、冷たく強張っていく祖父のしわがれた大きな手をいつまでも握り続けていた。

自分を抱き上げてくれて、頭を撫でてくれて、時にはそっと背中を押してくれた、大きくて温かいその手は、今では氷のように冷え切っていた。

「……っ…」

祖父との別れに涙を流しながら、蒙恬は奥歯を噛み締めている。

嗚咽を堪えるためではない。今際にも顔を出さなかった父へ怒りを堪えているせいだ。

「蒙恬…」

心配そうに信が名前を呼ぶ。蒙驁の危篤の報せを聞き、身内でもない彼女は馬を走らせて駆けつけてくれ、ずっと蒙恬の傍にいてくれた。

しかし、今の蒙恬には、彼女に返事をすることも、いつものように笑顔を繕って「大丈夫だよ」と返す余裕など微塵も持ち合わせていない。

それでも信は何も言わずに傍にいてくれた。何を話す訳でもない、慰めの言葉を掛ける訳でもない。

ただ、蒙恬の祖父を失った悲しみと、父に対しての怒りを受け止めるかのように、信だけはずっと傍にいてくれたのだ。

蒙恬は、それほどまで自分を心配してくれている信の気持ちを純粋に嬉しく思ったし、情けない姿を見せてしまったという後ろめたさもあった。

―――蒙驁の大きな亡骸が従者たちに運ばれていき、葬儀の準備が始まる。

「信…」

「ん?」

隣にいる信の名前を呼び、泣き腫らした瞳を向けても、信は普段通りの態度だった。

「少し、良いかな」

「おう」

蒙恬は隣にいる彼女の肩に額を寄せる。はち切れそうに膨らんでいた心が、彼女の温もりに触れると、不思議と落ち着いてしまう。

「…ごめん」

震える声で呟くと、信は何も言わずに蒙恬の頭を撫でてくれた。

惚れている女には、こんな弱々しい姿を見せたくないと思っていたのだが、今だけは信の優しさに甘えたかった。

見舞い その一

信が屋敷を訪ねて来たと侍女から報せを受け、蒙恬は彼女を出迎えた。

端正な顔立ちをしているというのに、信は今日も相変わらず男のような着物に身を包んでいる。蒙恬の姿を見つけると信が手を挙げた。

「や、久しぶり」

おう、と信が頷く。それから蒙恬の顔をまじまじと見つめ、信は心配そうに眉を下げた。

「お前、寝れてんのか?」

…痛いところを突いて来る。蒙恬が苦笑を深めた。

目の下の隈を指でほぐしながら、蒙恬は「まあね」と適当に相槌を打つ。

―――白老の弔いの儀から既に一月が経っていた。

しかし、まだ蒙恬は祖父を失った悲しみの中にいる。

蒙恬が悲しんでいるうちにも、信は大将軍としての活躍を続けていくし、王賁だって将軍の座を目指そうと日々努力しているのだ。

このまま何もせずにいると、確実に差を付けられてしまうのは分かっていたのだが、蒙恬はどうしても前に進めずにいた。

信が背中に背負っていた大きな酒瓶を「ほい」と押し付けて来る。反射的にそれを受け取った蒙恬は目を丸めた。

「…なにこれ?」

「お前が一人で落ち込んでると思って、見舞いに来た」

信の言葉に、蒙恬はきょとんと眼を丸める。

未だ蒙恬が身内を亡くした悲しみに囚われているのを、信はどこからか聞きつけたのかもしれない。

「陰気臭えなあ、きっと蒙驁将軍が心配してるぞ!」

人の心に土足で入り込んでくるような彼女に、蒙恬はぷっと笑ってしまう。

相手の顔色や気持ちを窺うことをせずに、堂々と用件を伝えるのは信の短所であり、この上ない長所だ。しかし、蒙恬には信の真っ直ぐな気持ちが心地良かった。

「良いんだよ。じいちゃんをあの世でも心配させてやるんだ」

「孫のお前を心配して、化けて出て来たらどうするんだよ!」

本気で心配している信を見て、蒙恬は声を上げて笑った。

そういえば蒙驁が亡くなってから、従者たちに心配を掛けまいと繕った笑みを浮かべていることはあったが、こんな風に他愛もないことで笑ったことなど一度もなかった。

信が相手だと、何を考えているか腹の内を探る必要などない。信の言葉はいつだって本心なのだから、そもそも探る必要などないのだ。

だからこそ、こちらも素直に気持ちを伝えることが出来る。秦王である嬴政が信のことを信頼しているのも頷けた。

信の笑顔は、太陽のようにも、一点の曇りのない青空のようにも思えた。…どちらにせよ、自分には手の届かない存在なのかもしれないと蒙恬は考える。

長年蒙驁に仕えていた兵や家臣たちが、今も蒙驁を失った悲しみを抱えているのを蒙恬は知っていた。

どうやら彼らは孫である自分の前では、悲しむ姿を見せまいとしているらしい。

そのせいか、ここ数日の間、屋敷にはずっとぎくしゃくとした空気が満ちていた。自分の屋敷でありながらも、息が詰まりそうだった。

だからだろうか、信が来てくれたおかげで、蒙恬はほっと息を吐くことが出来た。

見舞い その二

客室に案内すると、信は椅子に腰を下ろして、さっそく持参した酒瓶を開ける。従者が気を遣ってくれたのだろう。既に台の上には二人分の杯が用意されていた。

「本当は賑やかな方が良いと思って王賁も呼んだんだけどよー、あいつ鍛錬が忙しいんだと」

「王賁らしいよね。信はいいの?」

「俺は済ませてから来たから問題なし!あとは飲んだくれるだけだ」

一日くらい手抜きをするのではなく、きちんと今日の分の鍛錬をこなしてから来るだなんて、彼女らしい。蒙恬は瞼を擦った。

「…急がないと、楽華隊もどんどん抜かされてくな。ま、飛信軍にはとっくの昔から差をつけられてるんだけどさ」

「ん?何言ってんだよ、楽華隊もすげえ勢いで上り詰めてるじゃねえか」

さらっと褒め言葉が口を衝いて来るのは信の長所だ。彼女は心に表裏がない。だからこそ、素直に思ったことを何だって言える。自分にはないものだと蒙恬は思っていた。

杯に酒を注ぎ、信が「ほら」と蒙恬へ差し出す。

「楽華隊が次の戦で武功を挙げたら、蒙恬は将軍に昇格だって、昌平君が言って…あ!今のは聞かなかったことにしろ!内緒だって言われてたんだった」

笑顔から一変、あたふたと慌てる信に、蒙恬の口元に笑みが浮かんだ。

「へえ…良いこと聞いちゃった」

盃を受け取りながら、蒙恬は口元を緩ませる。まさかこんなところで軍の総司令官からの極秘情報を聞いてしまうとは、運がいい。

いつだって本心で話す彼女が隠し事など出来るはずがないのだ。しかし、それを知っているのは蒙恬だけではなく、彼女の周りにいる者たち、そして昌平君もそうだろう。

もしかしたら、信が本人に言ってしまうことを想定した上で、昌平君も将軍昇格のことを伝えたのかもしれない。

蒙驁が亡くなって落ち込んでいる自分に「休んでいる暇はないぞ」という牽制の意図があるのかもしれないが。

うっかり極秘事項を話してしまった信は昌平君に怒られると縮こまっていた。

「俺が黙ってれば大丈夫だよ。ほら、乾杯」

杯を掲げると、信は少し目を丸めてから、笑顔で杯を突き出した。小気味のいい音を聞いてから、蒙恬と信は酒を飲む。

「ぷはー、美味ぇなあ」

信が満面の笑みを浮かべた。

焼けつくような舌触りから、かなり強い酒であることが分かる。胃に火が灯ったかのような熱さが走った。

しかし、荒々しさの後に繊細な深みも感じられる。酒が得意な人間でなければ卒倒してしまいそうな強さではあるが、美味い酒だった。

「うん。これは美味いね」

同意すると、信はまるで花が咲いたように笑みを深め「だろっ?」と聞いて来る。

「これな、麃公将軍のおすすめの酒蔵から取り寄せたんだ」

麃公といえば、戦でも、戦のない時でも酒を欠かさない将軍だ。

王騎と摎の養子として迎えられた信は、幼い頃から麃公と面識がある。麃公軍の隊として戦に出たこともあると言っていた。

王騎と摎の娘ということもあり、麃公からもまるで娘のように思われているらしい。信も麃公と同じ本能型の将で、その共通点から何か引かれ合うものがあったのかもしれない。

「うッ…」

きりりと胃が痛み、蒙恬が顔を歪ませる。強い酒のせいで燃えるように熱く感じていた胃が拒絶反応を示したようだった。

「ん?どうした?」

すぐに気づいた信が心配そうに顔を覗き込んで来る。

「…すきっ腹に飲んだから、ちょっと身体がびっくりしたのかも…」

「はあ~?飯食ってないのかよ」

驚きと呆れが混ざった複雑な表情を浮かべた信が肩を竦めていた。

…蒙驁が亡くなってから、蒙恬はあまり食事を摂らずにいた。

食欲がなかったのが一番の理由であるが、口に運んでも味を感じなかったのだ。家臣たちを心配させまいと、彼らの目がある所では無理やり食べていたが、蒙驁を失った悲しみに囚われた体が食事を拒絶しているのだと思った。

しかし、今日は違う。久しぶりに味というものを感じて、胃が痛み始めている。

「やめとめやめとけ。ぶっ倒れても知らねえぞ。俺は膝なんか貸さねえからな」

信が蒙恬の手から杯を奪い取る。見舞いの品として持って来たくせに、蒙恬がもう飲めないと分かると、独り占めするつもりらしい。

「返せよ」

「あ、おいっ」

奪われた杯を取り返し、蒙恬は信の制止も聞かず、再び酒を喉に流し込んだ。

胃が痛んだのはほんの少しだけで、すぐに落ち着いたようだった。

まるで何事もなかったかのように酒を飲み干した蒙恬に、信が苦笑する。

「良い飲みっぷりだな。そういや、蒙武将軍もすげえ飲むよな」

信が酒瓶を手繰り寄せて、空になった杯におかわりを注いでやる。

「父上は酒が強いからね。俺が酒に強いのは、父上に似たからだよ」

「ははッ、弟もお前も顔まで父親似じゃなくて良かったな!お前ら兄弟が蒙武将軍みたいなでっけぇ男だったら、俺もみんなもきっとビビッて口聞いてなかったと思うぜ!」

「それ絶対に外で言ったらだめだよ?」

家臣たちが聞いたら卒倒してしまいそうな言葉だが、蒙恬も大笑いしていた。

やはり信は相手の心に土足で踏み込んで来る女だ。相手によっては無礼だと怒る者もいるだろう、しかし、蒙恬には彼女の無礼がいつも居心地良く感じられた。

まるで太陽のように、陰った心を照らしてくれる。彼女を慕う者が多いのは、きっとみんな同じ理由だろう。

戦場ではまるで嵐のように敵兵を薙ぎ払っていくのに、武器を持たぬ女子供には一切手を出さない。投降した敵兵たちにも危害を加えないという噂がたちまち広まり、飛信軍は他国からも随分と慕われているようだった。

大王嬴政も信とは親しい。きっと秦国のどこを探しても大王に無礼な口を利くことが出来るのは信しかいないだろう。だが、彼女の無礼な態度を、嬴政は何とも思っていないようだった。

話を聞けば弟の成蟜から政権を取り戻す時から既に信頼関係を築いていたそうだ。

時々、蒙恬はそのことに危機感を抱くことがある。

後宮には大王のために足を開く女性たちが大勢いるが、世継ぎを産む女性と、嬴政が心を捧げる女性は別に違いない。

そして後者の女性が信だとしても、何らおかしくはないことだろう。それほどまで嬴政と信の仲は深いのだ。

大王の剣として、秦国の大将軍の座に就いている信だが、一歩離れて見れば男と女だ。そういう関係になったとしてもおかしくはない。

二人が恋仲であるという話は聞かないが、もしそんな噂が広まったとしたら、確実に信憑性が伴ったものになるだろう。

(前途多難…ってね)

蒙恬は肩を竦めながら酒を口に運んだ。信に想いを寄せている者など、自分を含めて大勢いる。

下僕の出であるせいか、良い意味でも悪い意味でも彼女は自分の立場を気にせずに相手に意見を申すのだ。

大王である嬴政を始め、自分よりも立場の高い者でも低い者でも、構わずに声を掛ける。どうやらその姿に心を打たれる者も多いらしい。

彼女が率いている飛信軍の兵たちの半分は、彼女に憧れを抱く者、あわよくば彼女と添い遂げたいと感じている男どもの集まりだ。

しかし、信本人はそのことに微塵も気づいていないだろう。そして蒙恬が想いを寄せていることにも。

もしも蒙恬の想いに気づいていたら、二人きりで酒を飲み交わす場など設けるはずがない。

戦場に身を置くことに才能の全て費やしたと言っても過言ではないほど、信は鈍い女だった。

もし、信が将軍にならなかったとしたら、今頃は誰かに嫁いでいたのだろうか。養子であるとはいえ王騎と摎の娘だ。王家の者として、嫁ぎ先など数多に違いない。

将軍の立場であっても、彼女に縁談を申し込む男も多いと聞く。ことごとく断っている話を聞けば、信は将軍以外で生きる道を考えていないようだ。

「ふはー。美味ぇな」

「そうだね」

酒が回って来たのだろう、信の頬が紅潮している。

同じ量を飲んでいても、すきっ腹に流し込んだはずの蒙恬はちっとも酔っていなかったのだ。

しかし、酒の酔いを演じて、深入りしても叱られないだろうと考える。

せっかく二人きりで酒を飲み交わしているのだ。この時間を利用しない手はない。

過去

「…信はさ、将軍以外の道で、生きるつもりはなかったの?」

「あ?」

不思議そうに信が目を丸めている。蒙恬はにこりと微笑んだ。

「だって、好きな人の子どもを産むって、女性にしか出来ない大役じゃん。もしも今、将軍じゃなかったら何してたのかなって考えたりしないの?」

んー、と信が酒を飲みながら考える。

それから杯を台に置くと、信は「聞いて驚け!」と偉そうに腕を組んだ。

「俺はな、下僕として生きていた頃も、拾われてからも、絶望的に仕事が出来なかった!」

「えっ?」

まさか下僕時代の話をされるとは思わず、今度は蒙恬が目を丸める番だった。しかし、下僕時代の話を聞くことが今まであまりなかったので、興味はある。

皿を割った枚数の自慢から始まり、床掃除ではいつも水をぶちまけるなど…、信がよっぽど下仕事に向いていないということが分かった。幼い頃の信はとにかく不器用だったらしい。

「仕事が出来ない分、武器を振るう方が性に合ってたんだよ」

ふうん、と蒙恬が頷く。

「俺に箒を持たせたら、備品がいくらあっても足りないって、王騎将軍によく褒められてたんだぜ」

「全部壊したってことね」

幼い頃の信の姿が容易に想像が出来て、蒙恬は思わず笑ってしまった。蒙恬が笑ったことに、なぜか嬉しそうに信も笑いながら言葉を続ける。

「その点、輪虎にはバカにされたなあ」

「…輪虎?」

しばらく聞かなかった名前が出て来たことに、蒙恬の眉間に僅かに皺が寄る。蒙恬の表情が変わったことに気付くことなく、信は笑いながら話を続けた。

「そう!あいつ、廉頗将軍に拾われてからは屋敷の仕事を任されてたんだけど、その合間で兵たちの稽古や喧嘩を見て、誰に教わるでもなく、自分で学んでたんだってよ」

器用だよなあと信が呟いた。

輪虎は、先の戦で信が討ち取った、廉頗四天王の一人だ。

王騎と廉頗が戦友であったことから、信は幼い頃から王騎に連れられて廉頗の屋敷に行くことがあったのだという。

熱っぽい瞳で話す信を見て、蒙恬は奥歯を噛み締める。

廉頗と蒙驁が総大将とした戦が行われたのはもう随分の前のことだ。

蒙恬は輪虎に辛酸を嘗めさせられたことは今でも覚えている。輪虎自身も強いだけじゃなく、軍略も凄まじかった。

楽華隊が輪虎軍の兵たちを蹴散らし、その間に信が輪虎を討ち取ったのだが、彼女自身も輪虎との一騎打ちで深手を負った。

宿敵ともいえる輪虎の名前が、どうして彼女の口から出て来るのか。

一騎打ちで輪虎に勝利した後、信は彼の首を取ることなく、亡骸を廉頗に引き渡したのだ。そのことには兵たちからは大いに賛否両論あったが、信に迷いはなかった。

泣きながら輪虎の亡骸を抱きかかえていた姿も、蒙恬は覚えている。あの時、彼女の頬を伝っていたのは雨ではなく、涙だった。

過去 その二

仕える国も主も違う将同士。いずれは敵として戦場に立つ日が来るのを信も輪虎も分かっていたに違いない。

しかし、その運命から逃げることはせず、二人は死闘を繰り広げた。そして結果的に、生き残ったのは信だった。

言葉にしてしまえば他愛のないことだ。しかし、輪虎との過去が無くなった訳ではない。

いつまでも信の心に彼との思い出は残り、そして信は彼の命の重みを背負って、これからも戦場に出るだろう。

「………」

信は目を細めて、懐かしむように自分の右腕を見つめている。

そこには戦場で刻まれて来た傷跡がいくつもあったのだが、その中でも、一つだけ深い切り傷がある。

今はもう痛みもなく、剣を持つのにも支障はないと言っていたが、その深い傷をつけた者こそ、輪虎だった。

信の処置に当たった医師団の話だと、骨が覗くほど深く斬りつけられていたのだという。

副官の羌瘣が持っていたという秘薬を使用したことで大事には至らなかったと聞いた。しかし、そのまま傷が治り切らず、腕が腐り落ちたとしても何ら不思議ではなかったそうだ。

きっと輪虎は信の右腕を斬り落とすつもりで剣を振るったに違いない。

もしも、その斬撃が腕ではなくて首に向けられていたのなら、いくら信であっても絶命していただろう。

蒙恬は傷痕から意識を逸らさせるように、そっと信の右腕を掴んだ。

「ん?」

きょとんと眼を丸めた信が蒙恬を見つめる。

信の意識が傷痕に向けられたままだったなら、きっと彼女は輪虎との思い出に浸っていたに違いない。

今、彼女の傍にいるのは自分だというのに、他の男との思い出に浸られるのは、嫌悪感に苛まれた。

それが嫉妬という名の感情だとしても、蒙恬は信を今は亡き男に渡したくなかったのである。

「山陽の戦いは、色々大変だったな」

信の腕からそっと手を放し、不自然にならないよう、蒙恬はさり気なく話題を切り替えた。
思い出したように、信が「あっ」と声を上げる。

「そういや、俺、山陽の戦いの前夜に、蒙驁将軍に会ったんだぜ」

「えっ?そうなんだ」

山陽の戦いでは、蒙驁が秦の総大将を務めていた。飛信軍も前線で大いに活躍してくれていたが、その作戦会議でもしていたのだろうか。

「蒙驁将軍がよ、一般兵の格好してて、ぼーっと空を見上げてたんだよ。俺、気づかないで踏んづけちまって」

笑いながら発せられた信の話には、孫の蒙恬の全く知らない祖父の姿があった。

あれだけ目立つ体格をしていた蒙驁だったが、なぜか信は蒙驁本人であると気づけなかったらしい。

一体どうして正体を見抜けなかったのかは分からないが、それより気になるのは祖父のことだ。

蒙驁は一般兵に紛れて、何をしていたのだろう。

「…じいちゃん、空なんか見て、何してたの?」

蒙恬が話の続きを促すと、信は頬杖をついて、その時の情景を思い出していた。

「喧嘩の相談されたんだよ。でも、あれって今思えば、廉頗将軍のことだったんだな」

「え?」

祖父である蒙驁と廉頗の関係性は、蒙恬も知っている。

それほど廉頗に強い敵対心を抱いているようには見えなかったのだが、それは蒙驁が周りに沿う振る舞っていただけなのだと、信の言葉を聞いていくうちに理解できた。

一度も勝ったことのない相手に勝利することが自分の目標であり、夢なのだと、蒙驁は信に自分と廉頗の名を語らずに話したそうだ。

「…そうなんだ」

祖父のそんな一面を知ったのは初めてのことだった。蒙恬の瞳に憂いの色が浮かぶ。

生まれた時からずっと優しい祖父だと慕っていたのに、血の繋がりもない信に、そんな悩みを打ち明けたのかと思うと、複雑な気分になった。

「…俺、じいちゃんに可愛がってもらってたけど、そんな姿、一度も見せてもらったことなかったな」

皮肉っぽく言うと、信が小さく首を横に振る。

「俺だって偶然通りかかっただけだぞ。…あんまり、身内には見せたくなかった姿だったんじゃねえのか?蒙恬だってあるだろ、そういうの」

まさか信に諭されるとは思わず、蒙恬は苦笑を浮かべた。

「お前のこと、すげえ大事にしてただろ。心配かけたくなかったんじゃねえのか?」

身内だからこそ、語らなかったのだと信は言った。

確かに優しい祖父のことだ。幼い頃から可愛がってくれていた孫に、心配を掛けまいとしていたのかもしれない。

祖父の優しい顔が瞼の裏に浮かび上がると、腑に落ちたように頷いた。

祖父との約束

「そういえば…結局、じいちゃんとの約束、果たせなかったな」

空になった杯に酒を注ぎ足しながら、蒙恬が呟いた。

「約束?」

「そう」

蒙恬がわざと明るい声色を繕って言葉を続ける。

「じいちゃんが生きてる間に、お嫁さんとひ孫を見せてあげるって言ったんだ」

口元に杯を運んでいた信がぎょっとした表情になる。

まさかそんな顔をされるとは思わず、蒙恬は思わず笑ってしまった。

「ひどいな、何その反応」

「い、いや…そんなこと約束してたのか」

狼狽えている信に蒙恬は頬杖をついた。

自分たちの年齢ならば、婚姻を結ぶことも、子どもが生まれていても、別に珍しい話ではない。家の関係で、幼い頃から許嫁を決められることだってある。

「信は?いくつも縁談断ってるって噂で聞いたけど」

「ああ、でも、まだ…そういうのは…」

養子とはいえ、天下の大将軍である王騎と摎の娘だ。さらには飛信軍を率いる女将軍ということもあって、その名は今や、秦国だけでなく中華全土に広まっている。

下僕出身であることから、低い身分の者たちからも大いに支持を得ており、彼らにとって信は憧れの存在でもあった。

裏表のない性格や、武器を持たぬ女子供や投降兵たちの命を奪わないことから、彼女を慕う者は多くいるらしい。縁談の話が来ない訳がなかった。

信の歳の娘でも、早い者ならもう嫁いで子を産んでいる。だが、彼女は秦王嬴政の信頼も厚く、容易に大将軍の座を空ける訳にはいかないのだろう。

確かに縁談を断る理由として理に適っているが、そうだと言わずにやたらと言葉を濁らせる信に、蒙恬は何か別の理由があるような気がしてならなかった。

「もしかして、良い相手でも見つけた?」

「へっ?」

そんなことを問われるとは思わなかったのか、信の顔が耳まで赤くなっている。それが酔いから来ているものではないと蒙恬にはすぐに分かった。

「べ、別に、そういうんじゃ…」

「…ふーん?」

頬杖をつき、蒙恬が横目で信の様子を伺う。

裏表のない性格である彼女が嘘を吐けないのは分かっていた。相手を騙すことも出来ないなんて、随分と損な性格だ。

顔を赤くしたまま俯いている彼女の視線の先には、傷だらけの右腕があった。

輪虎との戦いで負った深い傷跡を見つめているのだと分かり、蒙恬は目を見開く。

まだ信の心には輪虎の存在が強く根付いている。それが許せず、蒙恬は強く拳を握りしめた。

叶わぬ婚姻

「……好きなの?」

弾かれたように信が顔を上げる。

「へっ?な、なにが?」

「輪虎のこと。今も好き?忘れられない?」

信が聞き返すと、蒙恬は矢継ぎ早に問いかけた。

問われた信は口元に手を当てて、うーんと小さく唸る。蒙恬が抱えている苛立ちには微塵も気づいていないようだった。

「…そりゃあ、好きか嫌いかって言ったら、好きだぞ?」

大して迷いもせず答えた信に、蒙恬の胸の中に黒いものが広がっていく。

輪虎によってつけられた傷痕に、熱っぽい眼差しを向けていたことから、その答えは予想出来ていたのだが。

しかし、蒙恬のそんな想いも知らずに、信は頬杖をつき、昔を懐かしむように、遠くを見つめている。

どうして目の前に自分がいるというのに、自分以外の何かを見ているのだろうと蒙恬はやるせない気持ちに襲われた。

「…俺は王騎将軍と摎将軍に拾われて、あいつは廉頗将軍に拾われた孤児だ。すっげえ人たちに拾われた境遇も、そこから将軍になる過程も一緒で、…まあ、兄妹みたいなもんだろ」

「………」

兄妹のような関係と聞いて、男と女の関係がないことが分かった蒙恬は僅かに安堵した。

「…あいつにはさ、本当の妹がいたんだ。だが、廉頗将軍に拾われる時には妹は死んじまってたらしい。…酔っぱらった時に俺に話してくれたんだ。もしかしたら、輪虎は俺のことを妹と重ねて見てたのかもしれねえな」

優しい目をしている信に、蒙恬は唇を噛み締める。

男女の関係に至らなかったとしても、その眼差しを見れば、彼女が輪虎へ想いを寄せていたことが分かった。

縁談を断る理由もそこにあるのだと思うと、蒙恬はいたたまれない気持ちになる。

「…信はさ…輪虎のこと、兄以上に想ってたんじゃないの?」

「は?」

意味が分からないと言った顔をした信に、蒙恬は苦笑を浮かべながら言葉を続けた。

「だって、輪虎の話をする時の信の瞳が、完全に恋する乙女だったから」

普段のように「何言ってんだよ」と切り返してくれれば、この話題はもう終わろうと思っていた。

しかし、信は熱っぽい瞳で、蒙恬ではない誰かを見つめている。

「…そうだな。…きっと、そう、だったんだと思う」

輪虎への愛情を肯定する言葉に、蒙恬の中で何かがふつりと切れる音がした。

台に載せていた酒瓶と杯が、がちゃんと派手な音を立てて転がった。

気付けば蒙恬は信の体を押し倒していた。床に背中を打ち付けた信が苦悶の表情を浮かべている。

「な、に…して…」

床に両手首を押さえつけられて、体を組み敷かれているのだと分かると、信が戸惑ったように目を瞬かせている。

「あー…ごめん。俺、女の子には酷いことしないって決めてるんだけどさ…ちょっと無理かも」

呆然としている信の顔を見下ろして、蒙恬が口元を緩ませた。

 

後編はこちら

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