セメタリー(李牧×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/慶舎×信/秦敗北IF話/ヤンデレ/監禁/バッドエンド

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

宰相の帰還

趙の首府である邯鄲に帰還すると、此度の勝利を大勢の民や兵たちが歓声を上げた。

宰相である李牧の名は民たちの間でも広く知れ渡っており、此度の軍略を指示したのが李牧であることから、歓声の中には、李牧の名前も含まれていた。

窓を閉め切っていることもあり、馬車の中からは外の様子は見えない。

賑やかな席をそれほど好まない李牧は、彼らに姿を見せることはせず、腕の中にいる愛しい女の寝顔を眺めていた。

初めて男を受け入れた痛みと疲労に、苦悶の表情を浮かべながら、信は深く寝入っている。

行為の最中に信が意識を失う度に、李牧は気つけ薬を嗅がせて、その意識を引き戻していた。

自分という存在をしつこいくらいに彼女の心に刻み付けたかった。

気つけ薬を入れていた小瓶が空になるまですっかり使い切った頃には、彼女の中で何度達したのか李牧もよく覚えていなかった。

信にとっては仇でもある男との姦通はこれ以上ないほどの凌辱。李牧にとっては確実に自分の子種を実らせるための行為だった。

「信…」

涙の痕が残っている頬を指で拭ってやり、泣き腫らした瞼に唇を押し当てると、塩辛い味がした。

秦国の女将軍が李牧と共に馬車の中にいるだなんて、誰が想像できるだろうか。

まずは大王がいる王座の間へ赴き、戦の勝利報告もしなくてはならないが、李牧は誰にも信の姿を見られたくなかった。

城下町を抜けて、門を潜ると、民たちは一行を追えなくなる。ようやく歓声が遠ざかっていった。

その機を狙ったかのように、馬車の窓が小さく叩かれる。信の寝顔を見つめていた李牧はようやく顔を上げた。

「…先に屋敷へ戻られますか」

慶舎の声だ。彼は馬車の中で李牧が何をしていたのか、誰といるのかを知っている唯一の家臣である。

信を捕虜として趙へ連れ帰るのは、李牧と慶舎しか知らない。

他の家臣たちを信頼していない訳ではないのだが、ほとぼりが冷めるまで、彼女が生きていることを気付かれる訳にはいかなかった。

信は決して降伏するはずのない秦の大将軍だ。捕虜として連れて来たと言っても、過去の戦いで、趙軍は彼女が率いる飛信軍に幾度も辛酸を嘗めさせられている。

信が李牧を仇だと憎んでいるように、彼女を仲間や家族の仇だと憎む者たちは大勢いるのだ。

自分の後ろ盾があったとしても、目を離した隙に李牧が見ていないところで彼女を汚されることだけは絶対に避けたかった。

時間が経ち、誰もが秦国の存在を過去のものだと認識した頃に、妻として打ち明ければ良い。

彼女が秦国の女将軍であることを知らせる必要はない。これから信は二度と武器を振るうこともなくなるし、守るべき国を失った彼女が、仲間もいないのに反乱など企てることはないだろう。

警戒すべきは彼女の脱走と、彼女を憎む者たちである。

これから胎に植え付けた子種が実れば、正式に信を妻だと公表したところで、彼女を憎む者たちも容易には手を出せなくなる。

何故なら秦を滅ぼし、趙国へ大いなる貢献をした宰相の妻であり、その赤子を身籠った女なのだ。それだけで信の価値は敗戦国の将から、十二分に上がる。

もしも妻に手を出そうものなら処罰に値するし、実際に李牧は長年仕えてくれている家臣であっても容赦なく斬るつもりでいた。

それほどまでに李牧は信のことを愛して止まないのだ。

「…そうですね、一度戻ってから王へ報告に馳せ参じます」

李牧の言葉を窓越しに聞いた慶舎が言葉を続けた。

「悼襄王様ではなく、嘉太子様が出迎えるとのこと」

「…そうですか。太子様が」

趙王ではなく、息子の嘉の名前が出たことに、李牧は頬を緩ませた。

「…戦が始まってから、流行り病のせいで・・・・・・・・、お加減が優れないのだとか」

あくまで噂を装い、慶舎が告げた。

流行り病の話など、趙国の中には少しも出回っていない・・・・・・・・・・ことを李牧はもちろん、慶舎も知っていた。

「それはお可哀相に…勝利の報告を、見舞いの品として伺いましょう」

悼襄王が病に伏せていることに、なぜか少しも心配していない・・・・・・・・・・・・・李牧の声を聞き、慶舎は何も答えずに窓から離れた。

馬車馬の手綱を握っている騎手へ、慶舎は李牧の屋敷へ向かうよう指示を出す。

趙へ帰還している最中も、勝利を祝う兵たちの歓声のせいで、信の悲鳴は誰の耳にも届かなかったことだろう。

馬車の中に敗国の女将軍がいるとは誰も思うまい。

誰にも見つからぬように手配したのだから、信の存在が気づかれなかったのは必然であった。

李牧たちを乗せた馬車は、勝利の歓声を上げ続ける一行から抜け出し、彼の屋敷へと向かうのだった。

 

趙王との謁見

秦を滅ぼし、急速にその領土を広げたことで、趙国の存在は他の五国からも危険視されている。全ては宰相・李牧が導いたものだった。

戦の後、悼襄王が急な病で崩御し、息子の嘉が即位することとなる。

内政やこの中華の状況などまるで興味を示さなかった悼襄王とは真逆で、嘉は優秀で民想いであり、即位する前から彼の人望は厚かった。

元より悼襄王を見限っていた李牧には、彼の子息である嘉が即位することで、ますます趙の未来が明るくなったことを胸積りした。

父親譲りの性格である弟の遷が即位することになっていたら、いくら領土を広げた趙とはいえ、未来はそう長く続かなかっただろう。

大幅に領土を広げたことで、趙の未来は安定していくと見えた。少なくとも、自分の目が黒いうちは趙が滅ぶことはないだろう。李牧は自信を持ってそう答えることが出来た。

ここらが引き際だろうと思っていた李牧だったが、大王である嘉に「もう少し手を貸して欲しい」と頭を下げられてしまい、断る訳にはいかなかったのだ。

宰相だった李牧が、此度の大功によって廷臣の最高職である相国への昇格が決まると、多くの兵と民から歓声が上がった。

代王嘉だけでなく、李牧を慕うものたちは趙に多くいる。彼らのために、李牧は最後まで己の才を活かすことを決めたのだった。

―――秦国が滅んでから、早いもので半年が経過していた。

他国に領土を奪われぬよう、城の建設や守備の手配に追われていた李牧は戦よりも忙しい日々を送っている。

この日は趙国の首府・邯鄲にて、代王嘉へ現状の報告を行った。

「此度も趙のためによく尽くしてくれた。心から感謝するぞ。そなたがいなければ、趙はここまで国を築けなかっただろう」

王宮の玉座の間で、一通り現状の報告を終えた李牧へ代王嘉は労いの言葉を掛けた。李牧は深く頭を下げる。

「勿体なきお言葉です。太子…いえ、失礼しました、大王様」

「よい。そなたにとって、私はまだまだ子どもだ。…時に李牧」

情勢についてでも相談されるのかと思い、李牧が顔を上げると、代王嘉は口元に深い笑みを浮かべていた。

「そなたの妻…秦に仕えていた女将軍だとか」

まさか代王嘉の口からそのような話が出て来るとは思わず、李牧は一瞬だけ目を見張った。

しかし、表情には微塵も動揺を出さない。それは相手に隙を与えないための、李牧の昔からの癖だった。

待機している衛兵や、官吏たちが顔を見合わせているのが視界の隅に映り込む。

李牧が結婚していたという話は、誰も知らなかったのだから驚くのも当然だろう。そして、その相手が敵国であった秦の女将軍などと、驚かない方が難しい。

これだけの地位を築いておきながら、李牧がずっと独り身であることを心配していた兵や民たちもいた。

その心配が火種となり、独り身であることに何か理由があるに違いない、実は女に興味がないのではないかなど、本人の知らぬところでさまざまな噂が広まっていると、李牧は傅抵にからかわれたことがある。

しかし、李牧には心から愛している女がいた。それが秦に仕えていた飛信軍の将、信である。

残念ながら立場は敵同士であり、李牧の一方的な片想いとなっていたのだが、秦を滅ぼした戦で、李牧は彼女の身柄を拘束し、自分の妻にしたのだった。

秦を滅ぼした功績を讃えて相国にまで上り詰めた男が、なぜ敗国の女将軍を娶ったのかと考えるのは当然である。

しかし、相国である自分の後ろ盾がなければ、見せしめとして信はすぐにでも首を晒されてしまう。女ならば斬首を免れたとしても、奴隷以下の存在に落とされるかもしれない。

信を誰にも渡さないためには、妻にするより他ないと李牧は初めから・・・・考えていたのだ。

幼い頃から秦国に仕え、秦の大王の剣として生きていた彼女にとってはこれ以上ない屈辱だろう。

李牧との結婚に、信の意志は存在しなかった。いっそ首を晒された方が救われたと思っているに違いない。

大王に嘘を吐く訳にもいかず、李牧は素直に頷いた。

「……お言葉の通りにございます」

李牧は信が生存していることだけでなく、妻としてその身柄を保護していることを認めた。

戦が終わってからしばらくの間、李牧は信の存在を隠していた。敵国の将である信を妻にしたことを良く思わない者もいるからだ。

彼女が率いていた飛信軍は投降兵や、女子供などの弱い命を奪わないことで有名な軍だった。しかし、善行と同じくらいに、飛信軍の強さは中華全土に轟いていた。そうなれば当然、誰かの仇として憎まれる。

飛信軍に恨みを持つ者から彼女を守るために、李牧は慶舎にしか信を連れ帰ることを告げていなかったのだ。

他の側近たちを信頼していない訳ではないのだが、幾度も李牧の策を打ち破った信を憎んでいる者も多い。しかし、慶舎だけは信にそのような感情を抱いていなかったため、李牧は彼にだけ信の存在を明かしたのだった。

秦が滅び、広げた領土の改築や保守に当たっている今が時期だろうと、李牧は少しずつ妻であり飛信軍の将であった信の存在を表に出すようにしていたのだ。

噂はたちまち広まり、こうして代王嘉の耳にまで届いた訳である。戦でなくとも、全ては李牧の策通りに動いているのだ。

悼襄王だったのならば、即座に信の斬首を命じていただろう。急な病で・・・・崩御してしまったため、その心配はなくなったのだが、果たして代王嘉はどう出るか。

李牧が代王嘉を見据えていると、彼はさっそく口を開いた。

「中華全土に名を轟かせた秦の女将軍…ぜひとも一度、この目で見てみたいと思ってな。李牧が妻に選ぶくらいだ。余程、肝の据わった女なのだろう」

そう来たかと、李牧は口元に笑みを繕った。正直のところ、李牧は大王の言葉に安堵した。

「…婚姻を結んだ後、夫婦で大王に御挨拶をとも考えたのですが…現在も秦国の事後処理に追われていますゆえ、どうかお許しを。それに、まだ妻の体調も優れておらず、私のわがままで申し訳ありませんが…」

李牧が謝罪すると、代王嘉は「気にするな」と首を振った。

「秦の大将軍という座だけでなく、生まれ育った国の全てを投げ売ってまで、李牧を選んだか。余程の忍耐強さと見た。…確か、飛信軍の信といったな。今後は趙の戦力として使うのか?」

自分以外の男がその名を口に出したことで、李牧のこめかみに鋭いものが走った。相手が大王でなければ、即座に首を撥ねていたかもしれない。

代王嘉は初めから李牧の妻が信だと分かった上で、李牧の口から話を聞き出そうとしていたのだ。そうでなければ誰も妻の名を答えていないのに、名前を出すはずがない。

「…いいえ」

口元に繕った笑みを微塵も崩さずに、しかし、眉を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべた。

どうやら代王嘉は自分と信が相思相愛だと思ってくれているらしい。信の名前を安易に口にしたことは許せないが、そう思ってくれているのなら好都合だ。

その勘違いを利用して、李牧は同情を誘うように寂しそうな表情を浮かべた。

「…此度の婚姻は、私のわがままです。今後、彼女が趙の将として生きることはないでしょう。秦の将としての彼女はあの戦で死に、残ったのは私の妻である、ただの女性です」

守るべき国を、仲間や家族を全て失った信には自分しかいないのだと思うと、背筋が痺れるような愉悦が込み上げて来る。

李牧は微塵も表情には出さなかったが、信を手に入れるために、秦国を滅ぼしたのだと告げれば、誰もが驚愕するだろう。無論、それはこの先も李牧しか知らない秘密になるのだが。

悲しみの色を目に宿しながら、李牧は言葉を続けた。

「…彼女から全てを奪った私が、愛される権利などありません。憎まれて当然です。…しかし、彼女はそれでも私を受け入れてくれました。ですから、私は残りの人生をかけて、誰よりも妻を幸せにしたいと考えております。それが彼女への贖罪になると、勝手ながら信じているのです」

李牧の言葉を聞いた代王嘉が慈愛に満ちた穏やかな目を向ける。衛兵たちや官吏たちも、李牧の言葉に胸を打たれたように、瞳に涙を浮かべている者もいた。

「そなたたちが末永く幸せに過ごせるよう祈ろう。李牧がそれほど妻を愛しているというのに、安易な言葉を掛けてすまなかった」

「勿体なきお言葉、痛み入ります」

李牧が深く頭を下げる。

これで代王嘉から信の興味がなくなったと思いきや、彼はまだ気になることがあるらしく、もう一度名前を呼ばれた。

「前線に出ないそなたが、なぜその女に興味を抱いたのだ?」

 

趙王との謁見 その二

前線で戦う将軍とは立場が違い、李牧は軍師として後方で指揮を執っている。

秦の飛信軍といえば、その強さゆえに前線を任されることが多い。飛の旗を見ると、それだけで前線に立つ趙兵たちが恐ろしさゆえに震え上がっていた。

信が率いる騎馬隊が道を作り、その後と歩兵が続く。飛信軍が進む場所に、いかに固めようとも道が作られてしまうのだ。事実、李牧は彼女の奮闘によって幾度も策を成せずに失敗したことがあった。

まるで彼女自身が勝利の女神として、秦を幾度も勝利に導いていた。

彼女に愛情を感じるよりも、辛酸を嘗めさせられた回数の方が多いのではないかと考えているのは代王嘉だけではないだろう。

もう一度、李牧は深々と頭を下げた。

「私が秦国と密通をしていないことを、先にお伝えしておきますが…」

言葉を濁らせた李牧に代王嘉が顔を上げるように言う。

李牧が趙の相国という座に就いていること、そして秦国を滅ぼした軍略を企てたのが他でもない李牧だということから、密通を疑うなどするはずはなかった。

「…趙に来る前、実は、彼女に会ったことがあるのです。彼女のお陰で、私は命を救われました」

趙に来る前の李牧の話は、代王嘉も噂程度でしか聞いたことがなかった。

家族も仲間も全てを失い、趙に流れて来て、軍師としての才能を芽吹かせたことは知っている。

「彼女が、…妻が居なければ、私はあそこで無様に首を晒していたでしょう。きっと、大王様のお役に立つこともありませんでした」

李牧の言葉を聞き、代王嘉は神妙な顔で深く頷いていた。

「では、趙がここまで国を築けたのは、李牧を助けたその者のおかげでもあるのだな」

ええ、と李牧は頷いた。

「しかし、未だ飛信軍に恨みを持つ民や兵も多いはずです…どうか、このことは内密にしていただけますか」

「もちろんだ。他の者も、一切他言せぬようここで誓ってくれ」

代王嘉の言葉に、官吏たちは即座に供手礼をした。

安堵したように笑みを浮かべる李牧に、代王嘉が言葉を続ける。

「今の屋敷が手狭なら、新しいものを用意させよう。相国であるそなたには、今の屋敷は不釣り合いだと言う声も多く聞く」

趙王からの提案に、李牧は慌てて首を横に振った。

「そんな恐れ多いことを…今の屋敷が気に入っているので十分です。妻のことを想い、落ち着いたら、咸陽にでも移り住もうかとも考えたのですが…」

李牧の口元が自然と緩んでいく。

「…これから子どもが産まれるので、あまり妻の体に負担を掛けたくないのです」

「ほう!それはめでたい話だ」

妻の妊娠の吉報に、代王嘉だけでなく、その場にいる衛兵や官吏たちもおめでたいと笑みを浮かべた。

「そなたは昔から色話がなかったから、心配している配下もさぞ多かったであろう」

「はは…ありがとうございます。長年の片思いがようやく実った想いです。…ぜひとも大王様から、私たちの子どもの名を頂戴したいと思っているのですよ」

「ああ、もちろんだ。今から名を考えておこう。愛妻家な上に、子煩悩になる李牧の顔を見るのが今から楽しみだな」

まるで自分のことのように喜んでくれる代王嘉に深々と頭を下げてから、李牧は玉座の間を後にした。

後のことは信頼出来る部下たちに頼んでいる。ここ最近は手に入れた領地の視察へ向かい、指示を出すことが多く、自分の屋敷に帰っていなかった。

早く信の顔が見たい。

妊娠が分かってからは、無理をしていないか心配でならなかったのだが、従者たちにも口酸っぱく言っておいたし、きっと大丈夫だろう。

悪阻があった時期は注視しなくても、信も動けなかったし、脱走はしないだろうと安堵していたのだが…今は違う。

最後に会った時は大分妊婦らしい身体になっていたが、悪阻がなくなった分、信は動けるようになっていた。

秦が滅んだことは、彼女も嫌でも理解しているようだが、まだ彼女の瞳から諦めの色は見えないのが気がかりだった。

仇を討とうと自分を殺す計画を企ててくれるのならまだ良かったのだが、信は身重の体で脱走を企てるに違いない。

その胎に李牧の子を宿しながらも、彼女は李牧から逃げることを未だ諦めていないのだ。

自ら命を絶つ方法など語らずとも信は分かっているはずだ。それをしないということは生に執着している何よりの証拠である。心だけが未だ抗っているのだ。

全てを諦めて、自分に身を委ねるしか道はないと、信は一体いつになったら理解するのだろう。それが李牧にはもどかしくもあったし、同時に愛おしくて堪らなかった。

李牧には、信を放すつもりなど、一生ないのだから。

 

不屈の心

日を追うごとに、腹の中で子が成長しているのが分かる。

信はすっかり重くなって来た腹に手を当てながら、溜息を吐いた。

「ぅう…」

内側から腹を蹴られる何とも言い難い感覚に、信は呻き声を上げる。頼むから大人しくしていてくれと、信は腹を擦った。

最後に李牧に会った時も今のような胎動があり、李牧は大層嬉しそうに信の腹を撫でていた。

あの日、馬車の中で凌辱を受けただけでなく、李牧の子を孕んでしまった信は、両足に見えない枷をつけられている心地だった。もちろん李牧もそのつもりで信を孕ませたのだろう。

拘束具の類をつけなくても、身重になった信が無理をすれば、腹の子に影響する。

たとえ憎い男の種から芽吹いた命であったとしても、この腹の下で眠っているのは紛うことなき自分の子である。

信が率いていた飛信軍は、敵の捕虜も一切傷つけないことで有名だった。

自分の前に立ちはだかる敵兵は容赦なく殺める信だったが、武器を持たぬ女子供や老人には一切手を出したことがない。きっと、李牧はそれを逆手に取ったのだ。

敵であっても弱い命を殺せぬような女が、我が子を殺せるはずがない。李牧は、信が我が子を手に掛けることはないと読んだのだ。

せめて情が湧かぬうちにと信は処置を考えたのだが、堕胎薬の類を与えられるはずもなければ、それを手に入れるなんて許されない。

李牧の子を下ろすことも叶わなかった信は、見えない枷が頑丈になってしまったことを察した。

腹の中で成長していく子が、ここ最近は頻繁に動くのが分かるようになっていた。

初めて胎動を感じた時はいよいよ堕ろすことも叶わず、李牧の策通りになってしまったと涙が止まらなかった。

同時に、憎き男との子でありながらも、自分の子である愛おしさが込み上げ、信の心は雁字搦めになっていた。きっと李牧はそれも分かっているのだろう。

そして妊婦である自分を気遣うようにと、屋敷にいる従者たちに監視をさせているのだ。

隙を見て屋敷から逃げ出そうとしても、侍女たちが「お体に障ります」と目ざとく信を見つけ、追い掛けて来る。

何故か彼女たちは、信と李牧が相思相愛だと思っているらしい。

事情を知らない彼女たちの心配を押し退けることも出来ず、信は真綿で首を絞められるような毎日を過ごしていた。

李牧は一体彼女たちにどんな話をしたのだろう。敵国の将であるはずの自分を嫌悪するどころか、李牧と結ばれたことを祝福しているような言葉を掛けられたこともあって、信は恐ろしくなった。

あの男は平気で嘘を真実に塗り替える話術を持っている。もしかしたら自分が秦に仕えていたのも、全ては李牧のためだったとでも誤解しているのではないだろうか。

あの男は、一体どれだけ自分の心を追い込めば気が済むのだろうか。

しかし、信は孕まされてからも、決して心を渡すような真似はしなかった。李牧に心を渡さないことだけが、今の信にできる唯一の反抗だからだ。

 

脱走計画

今朝、食事を運んで来た侍女に「今日は体調が悪いから部屋で休む」と告げてからは、様子を見に来る気配もない。

「………」

信は扉に耳を押し当てて、廊下に人の気配がないかを確かめていた。

鍵を掛けられていないことは何よりも救いだった。

秦が敗北し、この屋敷に連れて来られてからは扉にも頑丈に鍵が掛けられていた。その後に悪阻の症状が出て、信の妊娠が分かると、李牧は彼女の目の前で扉の鍵を取り外したのだ。

逃げたければ逃げてみろと言わんばかりの態度であったが、李牧がそんなことをしたのには、見えない足枷がいよいよ完成したからだったのだろう。

身重の体で負荷を掛ければ胎児にも影響するし、信が尊い命を奪えるはずがないと李牧は読んでいたのだ。

悪阻で思うように体を動かせず、信は扉が開いているのに逃げられない日々が続いた。

最近になってようやく落ち着いてきて動けるようになったのだが、李牧は領地の視察に出ているようで、しばらく屋敷には戻らないと侍女が言っていた。

自分が生まれ育ち、両親が秦王のために広げ、守っていた地を、趙の者たちが我が物顔で踏み躙っているのだと思うと、それだけで腸が煮えくり返りそうだった。

結局自分は父の仇を討つこともできず、無様にも生き残ってしまった。それだけではなく、憎い男の子まで孕まされている。この状況を地獄と呼ばずに、なんと示せば良い。

あの戦場で仲間たちと共に逝っていれば、どれだけ幸せだったのだろうか。

扉の向こうに人の気配がないことを確認してから、信は自分の腹をそっと擦った。

「…ごめんな」

まだ顔も知らぬ我が子に、信は罪悪感で胸をいっぱいにさせながら謝罪する。自ら命を奪うことは出来ないのは、せめてもの情だった。

無様に敵国で首を晒すことはしたくなかったが、李牧の妻として生きる道を選ぶことは、彼に心を渡すのと同等の行為である。

ならば李牧の知らない間に、李牧の知らない誰かに、この首を差し出そう。今以上の苦痛など存在するはずがないのだから、何をされてもきっと耐えられる。

自分が李牧の妻になったことは趙に知れ渡っているのかは分からないが、きっと快く思わない者が大勢いるはずだ。

信が李牧を憎んでいるように、趙の者たちだって大勢の命を奪った信を許さないに決まっている。

彼らの怒りを煽れば、簡単に斬り捨てられるだろう。秦国の将軍の命など、下僕よりも軽いものなのだから。

「………」

ゆっくりと扉を開いて、隙間から信は廊下の様子を伺う。

自分の望みを叶えるためには、李牧の屋敷から抜け出す必要があった。

彼の従者が自分に何かしらの恨みを抱いていたとしても、主の命に背くことはしないはず。つまり、この屋敷にいる限り、自分は殺されないことを信は理解していた。

扉の隙間から覗き限り、従者たちが行き交う姿はなく、足音も聞こえない。部屋を出るなら今しかない。

(よし)

信は物音を立てないように扉を開き、廊下に足を踏み入れた。

馬車の中で凌辱を受けてから、目を覚ました時にはこの屋敷の一室に閉じ込められていた。
そのせいで、信はこの屋敷の構造を知らない。

窓から見える景色を見る限り、この部屋が高い階層でないことは分かっているのだが、その他の情報は全く分からなかった。

しかし、いつまでもこの部屋にいる訳にはいかない。

自分が嘆こうが怒ろうが、腹の中にいる子は日に日に成長していく。

目に見えない足枷が、より頑丈なものにならないように、逃げ出すならば今しかないと信は考えた。

 

蜘蛛の糸

廊下へ踏み出した途端、信の背筋がぞくりと凍り付く。

それは凄まじい殺気にも似た気配で、戦場でしか感じることのないものだった。どうしてこんな屋敷の中でそれを感じるのだろう。

「うッ」

振り返るよりも先に、後ろからぐいを着物の襟首を引っ張られる。首が圧迫されて息が詰まった。

むせ込みながら振り返ると、李牧の配下である慶舎が相変わらず無表情のまま、信を見下ろしている。

何故ここにいるのかと疑問に思うよりも前に、腕を掴まれてしまい、信は逃亡に失敗したことを察する。

李牧でないとしても、彼は屋敷の従者たちだけでなく、信頼している配下たちに自分を見張らせていたのだ。

きっと従者たちだけなら撒けたに違いない。李牧も側近たちも、てっきり領地の視察にでも出ていると思ったのに、詰めが甘かった。

「諦めの悪いの女だ」

相変わらず彼の表情は微塵も揺らぎなかったが、その声には呆れが含まれていた。

慶舎は信の腕を掴む手に力を入れると、彼女を部屋に連れ戻すために歩き始める。

「くそッ、放せよッ!」

信が腕を振り解こうとするが、慶舎の腕は決して離れない。

両足に力を入れても、慶舎は構わずに信を引き摺っていく。再び部屋の中に戻って来た信は歯痒い気持ちに襲われる。

武器を持っていたのならまだ抵抗が出来ただろうが、男と女の力量差を見せつけられているようで、信は悔しくて堪らなかった。

悪阻が落ち着いて来たことは李牧も知っているだろうが、逃亡を企てたことを李牧に告げられて、また扉に鍵を掛けられたら今度こそ逃げられなくなってしまう。

なんとか力を込めて慶舎の腕を振り解こうとするのだが、筋力の衰えた腕では彼の腕を振り解くことはおろか、足を止めることも叶わない。

「…敗戦国の将が、安易に趙の地を歩けると思うな。本来なら首を晒されるのに、李牧様の庇護下にあるからこそ、お前はまだ生きていられる。李牧様に感謝するべきだ」

たった数歩しか廊下に出ていないというのに室内に戻って来ると、信の考えなど知ったことかと言わんばかりに、慶舎は冷たい声を発した。

扉に鍵を掛けないのは李牧の命令だからなのだろうか。脱走を企てた信のことを逃すまいと、慶舎は扉を閉じ、その前に立ち塞がるように立った。

淡々と語る慶舎に、信は怒りを込めて睨み付けた。

「うるせえッ、是非とも李牧以外の野郎に殺されるつもりで逃げてんだよ…!あいつの弟子のくせに、んなことも察せないのか!」

信の言葉を聞いた慶舎が、表情を変えぬまま、さも不思議そうに首を傾げている。

感情が豊かでない男なのは知っていたが、本当に人形のように微塵も顔色を変えないのは不気味に思う。昔からこうなのだろうか。

「…なぜ李牧様を愛さない?」

「は…?」

彼の問いに、信はつい聞き返した。

「李牧様は寛大な心を持つお方だ。たかがお前という女一人のために秦を落とした。そして、お前に妻と言う役割を与えた。それなのに、なぜお前は李牧様を愛さない?」

慶舎の言葉を聞いていくうちに、怒りに染まっていた信の表情が消えていく。

「……お前、人を好きになったことがないのか?」

「好き…?」

「お前が、李牧に対して抱いてるのは尊敬とか、恩だろ。お前の従順な態度を見てりゃ、すぐに分かる」

だがな、と信が言葉を紡いだ。

「…黙って脚を開くのは、…好きになるってことじゃねえんだよ。…そんなのは、娼婦と同じだ。まだ体で稼ぐって目的があるだけ、娼婦の方がマシかもしれねえな、はは…」

俯いた信の声が震えている。涙を堪えているのだと慶舎には分かったが、なにを悲しんでいるのか、慶舎には微塵も分らなかった。

「…お前は他の女と違う。男に嫁ぎ、子を孕み、産み、育てる。それをお前はせずに戦場に出ていた」

信が自虐的な笑みを浮かべる。

「それで李牧に見初められたなんて、笑い話だよな…!俺が将軍にならなきゃ、あいつとは無縁でいられたんだ…秦が滅びるとしても、最後まで…あいつの顔なんて見なくて良かったんだ…父さんと、母さんに、拾われた時から、将軍なんか目指さなきゃ、良かった…」

堰を切ったかのように、信の瞳から涙が零れ出す。

しかし、その涙が何の感情から来ているものなのか、慶舎には少しも理解出来なかった。

 

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セメタリー(李牧×信)中編

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宰相の帰還

趙の首府である邯鄲に帰還すると、此度の勝利を大勢の民や兵たちが歓声を上げた。

宰相である李牧の名は民たちの間でも広く知れ渡っており、此度の軍略を指示したのが李牧であることから、歓声の中には、李牧の名前も含まれていた。

窓を閉め切っていることもあり、馬車の中からは外の様子は見えない。

賑やかな席をそれほど好まない李牧は、彼らに姿を見せることはせず、腕の中にいる愛しい女の寝顔を眺めていた。

初めて男を受け入れた痛みと疲労に、苦悶の表情を浮かべながら、信は深く寝入っている。

行為の最中に信が意識を失う度に、李牧は気つけ薬を嗅がせて、その意識を引き戻していた。

自分という存在をしつこいくらいに彼女の心に刻み付けたかった。

気つけ薬を入れていた小瓶が空になるまですっかり使い切った頃には、彼女の中で何度達したのか李牧もよく覚えていなかった。

信にとっては仇でもある男との姦通はこれ以上ないほどの凌辱。李牧にとっては確実に自分の子種を実らせるための行為だった。

「信…」

涙の痕が残っている頬を指で拭ってやり、泣き腫らした瞼に唇を押し当てると、塩辛い味がした。

秦国の女将軍が李牧と共に馬車の中にいるだなんて、誰が想像できるだろうか。

まずは大王がいる王座の間へ赴き、戦の勝利報告もしなくてはならないが、李牧は誰にも信の姿を見られたくなかった。

城下町を抜けて、門を潜ると、民たちは一行を追えなくなる。ようやく歓声が遠ざかっていった。

その機を狙ったかのように、馬車の窓が小さく叩かれる。信の寝顔を見つめていた李牧はようやく顔を上げた。

「…先に屋敷へ戻られますか」

慶舎の声だ。彼は馬車の中で李牧が何をしていたのか、誰といるのかを知っている唯一の家臣である。

信を捕虜として趙へ連れ帰るのは、李牧と慶舎しか知らない。

他の家臣たちを信頼していない訳ではないのだが、ほとぼりが冷めるまで、彼女が生きていることを気付かれる訳にはいかなかった。

信は決して降伏するはずのない秦の大将軍だ。捕虜として連れて来たと言っても、過去の戦いで、趙軍は彼女が率いる飛信軍に幾度も辛酸を嘗めさせられている。

信が李牧を仇だと憎んでいるように、彼女を仲間や家族の仇だと憎む者たちは大勢いるのだ。

自分の後ろ盾があったとしても、目を離した隙に李牧が見ていないところで彼女を汚されることだけは絶対に避けたかった。

時間が経ち、誰もが秦国の存在を過去のものだと認識した頃に、妻として打ち明ければ良い。

彼女が秦国の女将軍であることを知らせる必要はない。これから信は二度と武器を振るうこともなくなるし、守るべき国を失った彼女が、仲間もいないのに反乱など企てることはないだろう。

警戒すべきは彼女の脱走と、彼女を憎む者たちである。

これから胎に植え付けた子種が実れば、正式に信を妻だと公表したところで、彼女を憎む者たちも容易には手を出せなくなる。

何故なら秦を滅ぼし、趙国へ大いなる貢献をした宰相の妻であり、その赤子を身籠った女なのだ。それだけで信の価値は敗戦国の将から、十二分に上がる。

もしも妻に手を出そうものなら処罰に値するし、実際に李牧は長年仕えてくれている家臣であっても容赦なく斬るつもりでいた。

それほどまでに李牧は信のことを愛して止まないのだ。

「…そうですね、一度戻ってから王へ報告に馳せ参じます」

李牧の言葉を窓越しに聞いた慶舎が言葉を続けた。

「悼襄王様ではなく、嘉太子様が出迎えるとのこと」

「…そうですか。太子様が」

趙王ではなく、息子の嘉の名前が出たことに、李牧は頬を緩ませた。

「…戦が始まってから、流行り病のせいで・・・・・・・・、お加減が優れないのだとか」

あくまで噂を装い、慶舎が告げた。

流行り病の話など、趙国の中には少しも出回っていない・・・・・・・・・・ことを李牧はもちろん、慶舎も知っていた。

「それはお可哀相に…勝利の報告を、見舞いの品として伺いましょう」

悼襄王が病に伏せていることに、なぜか少しも心配していない・・・・・・・・・・・・・李牧の声を聞き、慶舎は何も答えずに窓から離れた。

馬車馬の手綱を握っている騎手へ、慶舎は李牧の屋敷へ向かうよう指示を出す。

趙へ帰還している最中も、勝利を祝う兵たちの歓声のせいで、信の悲鳴は誰の耳にも届かなかったことだろう。

馬車の中に敗国の女将軍がいるとは誰も思うまい。

誰にも見つからぬように手配したのだから、信の存在が気づかれなかったのは必然であった。

李牧たちを乗せた馬車は、勝利の歓声を上げ続ける一行から抜け出し、彼の屋敷へと向かうのだった。

 

趙王との謁見

秦を滅ぼし、急速にその領土を広げたことで、趙国の存在は他の五国からも危険視されている。全ては宰相・李牧が導いたものだった。

戦の後、悼襄王が急な病で崩御し、息子の嘉が即位することとなる。

内政やこの中華の状況などまるで興味を示さなかった悼襄王とは真逆で、嘉は優秀で民想いであり、即位する前から彼の人望は厚かった。

元より悼襄王を見限っていた李牧には、彼の子息である嘉が即位することで、ますます趙の未来が明るくなったことを胸積りした。

父親譲りの性格である弟の遷が即位することになっていたら、いくら領土を広げた趙とはいえ、未来はそう長く続かなかっただろう。

大幅に領土を広げたことで、趙の未来は安定していくと見えた。少なくとも、自分の目が黒いうちは趙が滅ぶことはないだろう。李牧は自信を持ってそう答えることが出来た。

ここらが引き際だろうと思っていた李牧だったが、大王である嘉に「もう少し手を貸して欲しい」と頭を下げられてしまい、断る訳にはいかなかったのだ。

宰相だった李牧が、此度の大功によって廷臣の最高職である相国への昇格が決まると、多くの兵と民から歓声が上がった。

代王嘉だけでなく、李牧を慕うものたちは趙に多くいる。彼らのために、李牧は最後まで己の才を活かすことを決めたのだった。

―――秦国が滅んでから、早いもので半年が経過していた。

他国に領土を奪われぬよう、城の建設や守備の手配に追われていた李牧は戦よりも忙しい日々を送っている。

この日は趙国の首府・邯鄲にて、代王嘉へ現状の報告を行った。

「此度も趙のためによく尽くしてくれた。心から感謝するぞ。そなたがいなければ、趙はここまで国を築けなかっただろう」

王宮の玉座の間で、一通り現状の報告を終えた李牧へ代王嘉は労いの言葉を掛けた。李牧は深く頭を下げる。

「勿体なきお言葉です。太子…いえ、失礼しました、大王様」

「よい。そなたにとって、私はまだまだ子どもだ。…時に李牧」

情勢についてでも相談されるのかと思い、李牧が顔を上げると、代王嘉は口元に深い笑みを浮かべていた。

「そなたの妻…秦に仕えていた女将軍だとか」

まさか代王嘉の口からそのような話が出て来るとは思わず、李牧は一瞬だけ目を見張った。

しかし、表情には微塵も動揺を出さない。それは相手に隙を与えないための、李牧の昔からの癖だった。

待機している衛兵や、官吏たちが顔を見合わせているのが視界の隅に映り込む。

李牧が結婚していたという話は、誰も知らなかったのだから驚くのも当然だろう。そして、その相手が敵国であった秦の女将軍などと、驚かない方が難しい。

これだけの地位を築いておきながら、李牧がずっと独り身であることを心配していた兵や民たちもいた。

その心配が火種となり、独り身であることに何か理由があるに違いない、実は女に興味がないのではないかなど、本人の知らぬところでさまざまな噂が広まっていると、李牧は傅抵にからかわれたことがある。

しかし、李牧には心から愛している女がいた。それが秦に仕えていた飛信軍の将、信である。

残念ながら立場は敵同士であり、李牧の一方的な片想いとなっていたのだが、秦を滅ぼした戦で、李牧は彼女の身柄を拘束し、自分の妻にしたのだった。

秦を滅ぼした功績を讃えて相国にまで上り詰めた男が、なぜ敗国の女将軍を娶ったのかと考えるのは当然である。

しかし、相国である自分の後ろ盾がなければ、見せしめとして信はすぐにでも首を晒されてしまう。女ならば斬首を免れたとしても、奴隷以下の存在に落とされるかもしれない。

信を誰にも渡さないためには、妻にするより他ないと李牧は初めから・・・・考えていたのだ。

幼い頃から秦国に仕え、秦の大王の剣として生きていた彼女にとってはこれ以上ない屈辱だろう。

李牧との結婚に、信の意志は存在しなかった。いっそ首を晒された方が救われたと思っているに違いない。

大王に嘘を吐く訳にもいかず、李牧は素直に頷いた。

「……お言葉の通りにございます」

李牧は信が生存していることだけでなく、妻としてその身柄を保護していることを認めた。

戦が終わってからしばらくの間、李牧は信の存在を隠していた。敵国の将である信を妻にしたことを良く思わない者もいるからだ。

彼女が率いていた飛信軍は投降兵や、女子供などの弱い命を奪わないことで有名な軍だった。しかし、善行と同じくらいに、飛信軍の強さは中華全土に轟いていた。そうなれば当然、誰かの仇として憎まれる。

飛信軍に恨みを持つ者から彼女を守るために、李牧は慶舎にしか信を連れ帰ることを告げていなかったのだ。

他の側近たちを信頼していない訳ではないのだが、幾度も李牧の策を打ち破った信を憎んでいる者も多い。しかし、慶舎だけは信にそのような感情を抱いていなかったため、李牧は彼にだけ信の存在を明かしたのだった。

秦が滅び、広げた領土の改築や保守に当たっている今が時期だろうと、李牧は少しずつ妻であり飛信軍の将であった信の存在を表に出すようにしていたのだ。

噂はたちまち広まり、こうして代王嘉の耳にまで届いた訳である。戦でなくとも、全ては李牧の策通りに動いているのだ。

悼襄王だったのならば、即座に信の斬首を命じていただろう。急な病で・・・・崩御してしまったため、その心配はなくなったのだが、果たして代王嘉はどう出るか。

李牧が代王嘉を見据えていると、彼はさっそく口を開いた。

「中華全土に名を轟かせた秦の女将軍…ぜひとも一度、この目で見てみたいと思ってな。李牧が妻に選ぶくらいだ。余程、肝の据わった女なのだろう」

そう来たかと、李牧は口元に笑みを繕った。正直のところ、李牧は大王の言葉に安堵した。

「…婚姻を結んだ後、夫婦で大王に御挨拶をとも考えたのですが…現在も秦国の事後処理に追われていますゆえ、どうかお許しを。それに、まだ妻の体調も優れておらず、私のわがままで申し訳ありませんが…」

李牧が謝罪すると、代王嘉は「気にするな」と首を振った。

「秦の大将軍という座だけでなく、生まれ育った国の全てを投げ売ってまで、李牧を選んだか。余程の忍耐強さと見た。…確か、飛信軍の信といったな。今後は趙の戦力として使うのか?」

自分以外の男がその名を口に出したことで、李牧のこめかみに鋭いものが走った。相手が大王でなければ、即座に首を撥ねていたかもしれない。

代王嘉は初めから李牧の妻が信だと分かった上で、李牧の口から話を聞き出そうとしていたのだ。そうでなければ誰も妻の名を答えていないのに、名前を出すはずがない。

「…いいえ」

口元に繕った笑みを微塵も崩さずに、しかし、眉を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべた。

どうやら代王嘉は自分と信が相思相愛だと思ってくれているらしい。信の名前を安易に口にしたことは許せないが、そう思ってくれているのなら好都合だ。

その勘違いを利用して、李牧は同情を誘うように寂しそうな表情を浮かべた。

「…此度の婚姻は、私のわがままです。今後、彼女が趙の将として生きることはないでしょう。秦の将としての彼女はあの戦で死に、残ったのは私の妻である、ただの女性です」

守るべき国を、仲間や家族を全て失った信には自分しかいないのだと思うと、背筋が痺れるような愉悦が込み上げて来る。

李牧は微塵も表情には出さなかったが、信を手に入れるために、秦国を滅ぼしたのだと告げれば、誰もが驚愕するだろう。無論、それはこの先も李牧しか知らない秘密になるのだが。

悲しみの色を目に宿しながら、李牧は言葉を続けた。

「…彼女から全てを奪った私が、愛される権利などありません。憎まれて当然です。…しかし、彼女はそれでも私を受け入れてくれました。ですから、私は残りの人生をかけて、誰よりも妻を幸せにしたいと考えております。それが彼女への贖罪になると、勝手ながら信じているのです」

李牧の言葉を聞いた代王嘉が慈愛に満ちた穏やかな目を向ける。衛兵たちや官吏たちも、李牧の言葉に胸を打たれたように、瞳に涙を浮かべている者もいた。

「そなたたちが末永く幸せに過ごせるよう祈ろう。李牧がそれほど妻を愛しているというのに、安易な言葉を掛けてすまなかった」

「勿体なきお言葉、痛み入ります」

李牧が深く頭を下げる。

これで代王嘉から信の興味がなくなったと思いきや、彼はまだ気になることがあるらしく、もう一度名前を呼ばれた。

「前線に出ないそなたが、なぜその女に興味を抱いたのだ?」

 

趙王との謁見 その二

前線で戦う将軍とは立場が違い、李牧は軍師として後方で指揮を執っている。

秦の飛信軍といえば、その強さゆえに前線を任されることが多い。飛の旗を見ると、それだけで前線に立つ趙兵たちが恐ろしさゆえに震え上がっていた。

信が率いる騎馬隊が道を作り、その後と歩兵が続く。飛信軍が進む場所に、いかに固めようとも道が作られてしまうのだ。事実、李牧は彼女の奮闘によって幾度も策を成せずに失敗したことがあった。

まるで彼女自身が勝利の女神として、秦を幾度も勝利に導いていた。

彼女に愛情を感じるよりも、辛酸を嘗めさせられた回数の方が多いのではないかと考えているのは代王嘉だけではないだろう。

もう一度、李牧は深々と頭を下げた。

「私が秦国と密通をしていないことを、先にお伝えしておきますが…」

言葉を濁らせた李牧に代王嘉が顔を上げるように言う。

李牧が趙の相国という座に就いていること、そして秦国を滅ぼした軍略を企てたのが他でもない李牧だということから、密通を疑うなどするはずはなかった。

「…趙に来る前、実は、彼女に会ったことがあるのです。彼女のお陰で、私は命を救われました」

趙に来る前の李牧の話は、代王嘉も噂程度でしか聞いたことがなかった。

家族も仲間も全てを失い、趙に流れて来て、軍師としての才能を芽吹かせたことは知っている。

「彼女が、…妻が居なければ、私はあそこで無様に首を晒していたでしょう。きっと、大王様のお役に立つこともありませんでした」

李牧の言葉を聞き、代王嘉は神妙な顔で深く頷いていた。

「では、趙がここまで国を築けたのは、李牧を助けたその者のおかげでもあるのだな」

ええ、と李牧は頷いた。

「しかし、未だ飛信軍に恨みを持つ民や兵も多いはずです…どうか、このことは然るべき時が来るまで内密にしていただけますか」

「もちろんだ。他の者も、一切他言せぬようここで誓ってくれ」

代王嘉の言葉に、官吏たちは即座に供手礼をした。
安堵したように笑みを浮かべる李牧に、代王嘉が言葉を続ける。

「今の屋敷が手狭なら、新しいものを用意させよう。相国であるそなたには、今の屋敷は不釣り合いだと言う声も多く聞く」

趙王からの提案に、李牧は慌てて首を横に振った。

「そんな恐れ多いことを…今の屋敷が気に入っているので十分です。妻のことを想い、落ち着いたら、咸陽にでも移り住もうかとも考えたのですが…」

李牧の口元が自然と緩んでいく。

「…これから子どもが産まれるので、あまり妻の体に負担を掛けたくないのです」

「ほう!それはめでたい話だ」

妻の妊娠の吉報に、代王嘉だけでなく、その場にいる衛兵や官吏たちもおめでたいと笑みを浮かべた。

「そなたは昔から色話がなかったから、心配している配下もさぞ多かったであろう」

「はは…ありがとうございます。長年の片思いがようやく実った想いです。…ぜひとも大王様から、私たちの子どもの名を頂戴したいと思っているのですよ」

「ああ、もちろんだ。今から名を考えておこう。愛妻家な上に、子煩悩になる李牧の顔を見るのが今から楽しみだな」

まるで自分のことのように喜んでくれる代王嘉に深々と頭を下げてから、李牧は玉座の間を後にした。

後のことは信頼出来る部下たちに頼んでいる。ここ最近は手に入れた領地の視察へ向かい、指示を出すことが多く、自分の屋敷に帰っていなかった。

早く信の顔が見たい。

妊娠が分かってからは、無理をしていないか心配でならなかったのだが、従者たちにも口酸っぱく言っておいたし、きっと大丈夫だろう。

悪阻があった時期は注視しなくても、信も動けなかったし、脱走はしないだろうと安堵していたのだが…今は違う。

最後に会った時は大分妊婦らしい身体になっていたが、悪阻がなくなった分、信は動けるようになっていた。

秦が滅んだことは、彼女も嫌でも理解しているようだが、まだ彼女の瞳から諦めの色は見えないのが気がかりだった。

仇を討とうと自分を殺す計画を企ててくれるのならまだ良かったのだが、信は身重の体で脱走を企てるに違いない。

その胎に李牧の子を宿しながらも、彼女は李牧から逃げることを未だ諦めていないのだ。

自ら命を絶つ方法など語らずとも信は分かっているはずだ。それをしないということは生に執着している何よりの証拠である。心だけが未だ抗っているのだ。

全てを諦めて、自分に身を委ねるしか道はないと、信は一体いつになったら理解するのだろう。それが李牧にはもどかしくもあったし、同時に愛おしくて堪らなかった。

李牧には、信を放すつもりなど、一生ないのだから。

 

不屈の心

日を追うごとに、腹の中で子が成長しているのが分かる。

信はすっかり重くなって来た腹に手を当てながら、溜息を吐いた。

「ぅう…」

内側から腹を蹴られる何とも言い難い感覚に、信は呻き声を上げる。頼むから大人しくしていてくれと、信は腹を擦った。

最後に李牧に会った時も今のような胎動があり、李牧は大層嬉しそうに信の腹を撫でていた。

あの日、馬車の中で凌辱を受けただけでなく、李牧の子を孕んでしまった信は、両足に見えない枷をつけられている心地だった。もちろん李牧もそのつもりで信を孕ませたのだろう。

拘束具の類をつけなくても、身重になった信が無理をすれば、腹の子に影響する。

たとえ憎い男の種から芽吹いた命であったとしても、この腹の下で眠っているのは紛うことなき自分の子である。

信が率いていた飛信軍は、敵の捕虜も一切傷つけないことで有名だった。

自分の前に立ちはだかる敵兵は容赦なく殺める信だったが、武器を持たぬ女子供や老人には一切手を出したことがない。きっと、李牧はそれを逆手に取ったのだ。

敵であっても弱い命を殺せぬような女が、我が子を殺せるはずがない。李牧は、信が我が子を手に掛けることはないと読んだのだ。

せめて情が湧かぬうちにと信は処置を考えたのだが、堕胎薬の類を与えられるはずもなければ、それを手に入れるなんて許されない。

李牧の子を下ろすことも叶わなかった信は、見えない枷が頑丈になってしまったことを察した。

腹の中で成長していく子が、ここ最近は頻繁に動くのが分かるようになっていた。

初めて胎動を感じた時はいよいよ堕ろすことも叶わず、李牧の策通りになってしまったと涙が止まらなかった。

同時に、憎き男との子でありながらも、自分の子である愛おしさが込み上げ、信の心は雁字搦めになっていた。きっと李牧はそれも分かっているのだろう。

そして妊婦である自分を気遣うようにと、屋敷にいる従者たちに監視をさせているのだ。

隙を見て屋敷から逃げ出そうとしても、侍女たちが「お体に障ります」と目ざとく信を見つけ、追い掛けて来る。

何故か彼女たちは、信と李牧が相思相愛だと思っているらしい。

事情を知らない彼女たちの心配を押し退けることも出来ず、信は真綿で首を絞められるような毎日を過ごしていた。

李牧は一体彼女たちにどんな話をしたのだろう。敵国の将であるはずの自分を嫌悪するどころか、李牧と結ばれたことを祝福しているような言葉を掛けられたこともあって、信は恐ろしくなった。

あの男は平気で嘘を真実に塗り替える話術を持っている。もしかしたら自分が秦に仕えていたのも、全ては李牧のためだったとでも誤解しているのではないだろうか。

あの男は、一体どれだけ自分の心を追い込めば気が済むのだろうか。

しかし、信は孕まされてからも、決して心を渡すような真似はしなかった。李牧に心を渡さないことだけが、今の信にできる唯一の反抗だからだ。

 

脱走計画

今朝、食事を運んで来た侍女に「今日は体調が悪いから部屋で休む」と告げてからは、様子を見に来る気配もない。

「………」

信は扉に耳を押し当てて、廊下に人の気配がないかを確かめていた。

鍵を掛けられていないことは何よりも救いだった。

秦が敗北し、この屋敷に連れて来られてからは扉にも頑丈に鍵が掛けられていた。その後に悪阻の症状が出て、信の妊娠が分かると、李牧は彼女の目の前で扉の鍵を取り外したのだ。

逃げたければ逃げてみろと言わんばかりの態度であったが、李牧がそんなことをしたのには、見えない足枷がいよいよ完成したからだったのだろう。

身重の体で負荷を掛ければ胎児にも影響するし、信が尊い命を奪えるはずがないと李牧は読んでいたのだ。

悪阻で思うように体を動かせず、信は扉が開いているのに逃げられない日々が続いた。

最近になってようやく落ち着いてきて動けるようになったのだが、李牧は領地の視察に出ているようで、しばらく屋敷には戻らないと侍女が言っていた。

自分が生まれ育ち、両親が秦王のために広げ、守っていた地を、趙の者たちが我が物顔で踏み躙っているのだと思うと、それだけで腸が煮えくり返りそうだった。

結局自分は父の仇を討つこともできず、無様にも生き残ってしまった。それだけではなく、憎い男の子まで孕まされている。この状況を地獄と呼ばずに、なんと示せば良い。

あの戦場で仲間たちと共に逝っていれば、どれだけ幸せだったのだろうか。

扉の向こうに人の気配がないことを確認してから、信は自分の腹をそっと擦った。

「…ごめんな」

まだ顔も知らぬ我が子に、信は罪悪感で胸をいっぱいにさせながら謝罪する。自ら命を奪うことをしないのは、せめてもの情だった。

無様に敵国で首を晒すことはしたくなかったが、李牧の妻として生きる道を選ぶことは、彼に心を渡すのと同等の行為である。

ならば李牧の知らない間に、李牧の知らない誰かに、この首を差し出そう。今以上の苦痛など存在するはずがないのだから、何をされてもきっと耐えられる。

自分が李牧の妻になったことは趙に知れ渡っているのかは分からないが、きっと快く思わない者が大勢いるはずだ。

信が李牧を憎んでいるように、趙の者たちだって大勢の命を奪った信を許さないに決まっている。

彼らの怒りを煽れば、簡単に斬り捨てられるだろう。秦国の将軍の命など、下僕よりも軽いものなのだから。

「………」

ゆっくりと扉を開いて、隙間から信は廊下の様子を伺う。

自分の望みを叶えるためには、李牧の屋敷から抜け出す必要があった。

彼の従者が自分に何かしらの恨みを抱いていたとしても、主の命に背くことはしないはず。つまり、この屋敷にいる限り、自分は殺されないことを信は理解していた。

扉の隙間から覗き限り、従者たちが行き交う姿はなく、足音も聞こえない。部屋を出るなら今しかない。

(よし)

信は物音を立てないように扉を開き、廊下に足を踏み入れた。

馬車の中で凌辱を受けてから、目を覚ました時にはこの屋敷の一室に閉じ込められていた。
そのせいで、信はこの屋敷の構造を知らない。

窓から見える景色を見る限り、この部屋が高い階層でないことは分かっているのだが、その他の情報は全く分からなかった。

しかし、いつまでもこの部屋にいる訳にはいかない。

自分が嘆こうが怒ろうが、腹の中にいる子は日に日に成長していく。

目に見えない足枷が、より頑丈なものにならないように、逃げ出すならば今しかないと信は考えた。

 

蜘蛛の糸

廊下へ踏み出した途端、信の背筋がぞくりと凍り付く。

それは凄まじい殺気にも似た気配で、戦場でしか感じることのないものだった。どうしてこんな屋敷の中でそれを感じるのだろう。

「うッ」

振り返るよりも先に、後ろからぐいを着物の襟首を引っ張られる。首が圧迫されて息が詰まった。

むせ込みながら振り返ると、李牧の配下である慶舎が相変わらず無表情のまま、信を見下ろしている。

何故ここにいるのかと疑問に思うよりも前に、腕を掴まれてしまい、信は逃亡に失敗したことを察する。

李牧でないとしても、彼は屋敷の従者たちだけでなく、信頼している配下たちに自分を見張らせていたのだ。

きっと従者たちだけなら撒けたに違いない。李牧も側近たちも、てっきり領地の視察にでも出ていると思ったのに、詰めが甘かった。

「諦めの悪いの女だ」

相変わらず彼の表情は微塵も揺らぎなかったが、その声には呆れが含まれていた。

慶舎は信の腕を掴む手に力を入れると、彼女を部屋に連れ戻すために歩き始める。

「くそッ、放せよッ!」

信が腕を振り解こうとするが、慶舎の腕は決して離れない。

両足に力を入れても、慶舎は構わずに信を引き摺っていく。再び部屋の中に戻って来た信は歯痒い気持ちに襲われる。

武器を持っていたのならまだ抵抗が出来ただろうが、男と女の力量差を見せつけられているようで、信は悔しくて堪らなかった。

悪阻が落ち着いて来たことは李牧も知っているだろうが、逃亡を企てたことを李牧に告げられて、また扉に鍵を掛けられたら今度こそ逃げられなくなってしまう。

なんとか力を込めて慶舎の腕を振り解こうとするのだが、筋力の衰えた腕では彼の腕を振り解くことはおろか、足を止めることも叶わない。

「…敗戦国の将が、安易に趙の地を歩けると思うな。本来なら首を晒されるのに、李牧様の庇護下にあるからこそ、お前はまだ生きていられる。李牧様に感謝するべきだ」

たった数歩しか廊下に出ていないというのに室内に戻って来ると、信の考えなど知ったことかと言わんばかりに、慶舎は冷たい声を発した。

扉に鍵を掛けないのは李牧の命令だからなのだろうか。脱走を企てた信のことを逃すまいと、慶舎は扉を閉じ、その前に立ち塞がるように立った。

淡々と語る慶舎に、信は怒りを込めて睨み付けた。

「うるせえッ、是非とも李牧以外の野郎に殺されるつもりで逃げてんだよ…!あいつの弟子のくせに、んなことも察せないのか!」

信の言葉を聞いた慶舎が、表情を変えぬまま、さも不思議そうに首を傾げている。

感情が豊かでない男なのは知っていたが、本当に人形のように微塵も顔色を変えないのは不気味に思う。昔からこうなのだろうか。

「…なぜ李牧様を愛さない?」

「は…?」

彼の問いに、信はつい聞き返した。

「李牧様は寛大な心を持つお方だ。たかがお前という女一人のために秦を落とした。そして、お前に妻と言う役割を与えた。それなのに、なぜお前は李牧様を愛さない?」

慶舎の言葉を聞いていくうちに、怒りに染まっていた信の表情が消えていく。

「……お前、人を好きになったことがないのか?」

「好き…?」

「お前が、李牧に対して抱いてるのは尊敬とか、恩だろ。お前の従順な態度を見てりゃ、すぐに分かる」

だがな、と信が言葉を紡いだ。

「…黙って脚を開くのは、…好きになるってことじゃねえんだよ。…そんなのは、娼婦と同じだ。まだ体で稼ぐって目的があるだけ、娼婦の方がマシかもしれねえな、はは…」

俯いた信の声が震えている。涙を堪えているのだと慶舎には分かったが、なにを悲しんでいるのか、慶舎には微塵も分らなかった。

「…お前は他の女と違う。男に嫁ぎ、子を孕み、産み、育てる。それをお前はせずに戦場に出ていた」

信が自虐的な笑みを浮かべる。

「それで李牧に見初められたなんて、笑い話だよな…!俺が将軍にならなきゃ、あいつとは無縁でいられたんだ…秦が滅びるとしても、最後まで…あいつの顔なんて見なくて良かったんだ…父さんと、母さんに、拾われた時から、将軍なんか目指さなきゃ、良かった…」

堰を切ったかのように、信の瞳から涙が零れ出す。

しかし、その涙が何の感情から来ているものなのか、慶舎には少しも理解出来なかった。

 

後編はこちら

The post セメタリー(李牧×信)中編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

アナーキー(桓騎×信←那貴)後編※R18

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • R18/原作程度の暴力描写あり/桓騎×信/那貴×信/無理やり/ヤンデレ/執着攻め/

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

中編はこちら

 

判断

少し遅れてから那貴が百人隊の野営地へと戻って来た。

何か言いたげな顔をしている那貴を見て、信は小首を傾げる。

「先に戻っちまって悪かったな。…もしかして、桓騎に何か言われたのか?」

いや、と那貴が首を振る。

「お頭らしいなと思っただけだ」

「?」

強張った笑みを浮かべている那貴の顔色は随分と悪かった。

「確証はないが…お頭は、もうあんたの正体に勘付いているかもしれない」

低い声で囁かれたその言葉は、決して冗談ではなかった。信は思わず生唾を飲み込む。

「引き返すなら今だ。あの様子だと、今夜はもうこっちに来ないだろ」

今頃、桓騎は娼婦たちのもてなしを受けているに違いない。

桓騎軍の野営地を後にする時に兵たちのことを観察していたが、特に後ろをつけて来るような奴もいなかったし、側近たちも離れた場所で酒を楽しんでいるようだった。

「…わかった」

信は素直に頷いた。

てっきり拒絶すると思っていた那貴は驚いたように目を瞬かせる。

今は飛信軍の将である那貴が、元は仲間であった桓騎軍の兵たちにあれこれ言われないようにと昨日は任務続行を決めていたのに、今はやけに素直だ。

「良いのか?」

「那貴がそう言うんなら、その方が良いだろ。桓騎軍のことは俺よりお前の方が詳しいんだし」

信は、兵たちにすぐさま撤退を指示した。

兵たちも、信が桓騎軍の野営地から戻って来てから察していたのか、てきぱきと撤退の支度を始める。

自分たちの後方には、本来桓騎軍につく百人隊が控えていた。

彼らに事情を話し、桓騎軍の出立に間に合うように移動してもらえればいい。那貴と蒙虎がいなくなったことを、桓騎たちは不審がるに違いないが、今はそんなことを気にしていても仕方がないだろう。

次に桓騎に会うことがあれば、那貴は飛信軍へと戻り、蒙虎は事故か違う戦で亡くなったとでも言うしかない。

あんな形で桓騎と接触することになるとは思わなかったが、直接彼の口から桓騎軍のことについて聞けたのは大いなる収穫である。

実際に悪行をその場で目撃した訳ではないが、それでも嬴政に伝えるには十分だろう。足りないと言われたら、那貴の話も補足で追加すればいい。

本音を言えば、信も一刻も早く桓騎を連想させるものから離れたかったのだ。

幸いにも桓騎軍たちに撤退を気付かれることはなく、今回のために結成された百人隊
は予定よりも早い解散となったのだった。

 

生還

その後、楚国の侵攻を無事に阻止し、秦軍は撤退となった。

此度の戦では趙の怪しい動きもなかったことから、北で待機していた飛信軍は出陣することなく、待機のみで終了した。

此度も桓騎の奇策が活躍したようで、論功行賞には彼の名前が呼ばれるらしい。その噂を聞いた時、信は複雑な表情を浮かべた。

秦の領土を守ることが出来たのは何にも代えがたい喜びではあるが、それがあの男の手柄だと思うと、素直には喜べなかった。

此度の戦に飛信軍は参加していなかったのだが、桓騎軍の素行調査のことと、その戦の最中に趙の動きがなかったことを報告するために、信は咸陽宮を訪れたのだった。

論功行賞の準備が整うまで、あの日、作戦会議を行った城下町を見渡せる露台で信は時間を潰すことにした。

(あー、動きづれえ…)

秦王の前と論功行賞という畏まった場であるため、久しぶりに女物の華やかな着物に身を包んでいる。

着物の価値が分からないものでも、金の刺繍をされているそれを見ればとんでもなく高価なものであることは予想出来る。

彼女が今着ているその着物は、過去に嬴政から贈られたものだった。信は論功行賞や宴など畏まった場に立つ時に、この着物を着ることが多い。

高価な着物に身を包み、静かにしていれば、誰もが振り返るような淑やかな女性にしか見えないが、背中に携えた剣のせいで台無しだった。

「信!」

後ろから誰かに声をかけられ、信は反射的に振り返る。

「おー、蒙恬!王賁!なんとか帰って来たぜ」

蒙恬と王賁だった。此度の戦では彼らも違う軍の下について参戦していたという。無事に帰還した信の姿を見て、蒙恬も王賁も安堵したようだった。

「五体満足で帰って来れたみたいで良かったよ」

蒙恬の言葉を聞き、信は苦笑する。それから、さっそく桓騎軍の素行調査の話題になった。

―――信から一部始終を聞いた蒙恬は(ギュポーのせいで絶叫して計画が台無しになった辺りから)腹を抱えながら大笑いしており、隣で蒙恬は呆れたように溜息を吐いていた。

「あはははッ!その毒虫のことは予想外だったけど、やっぱりそうなるだろうとは思ってたよ!事前に作戦立てておいて正解だったでしょ?」

蒙恬の笑い声に頭痛を覚えながら、信はその場に座り込んだ。

「もう勘弁してくれ…テンと羌瘣にもさんざんバカにされたんだぞ…俺がギュポー嫌いなのも、これでお前らにもバレちまったし…」

今回の失態が笑い話として軍の中で引き継がれていくことになるのではと、信は頭を抱えた。

「貴様、さっさと立て。着物を汚すな」

落ち込ませてくれれば良いものを、王賁は信の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。同じ王家の者として、信の教養のなさは目に余るらしい。

信が着ているその着物が、秦王から贈られたものだというのは王賁も知っていた。

だからこそ、容易に土埃で汚そうとする信に、無礼だと王賁は彼女の礼儀知らずな態度が腹立たしいのだろう。

そんな彼の気持ちなど露知らず、信はわざとらしい溜息を吐き出した。

「相変わらずだなあ、王賁…労いの言葉くらいかけてくれよ。初日から本当にどうなるかと思ったんだからな…!」

「それはそれは…お疲れ様」

笑い過ぎて涙が溢れている蒙恬は目尻を指で拭うと、王賁の代わりに温かい労いの言葉を掛けてくれた。

「はあ…政の頼みとはいえ、もう二度とあいつらには関わりたくねえな…」

嬴政の夢であり、目標である中華統一には桓騎の奇策が欠かせないことは分かっている。
しかし、桓騎軍の悪事をいつまでも見逃す訳にはいかない。嬴政もそう思って信頼を置いている大将軍の信に今回の件を頼んだのだろう。

蒙恬と王賁に会う前に、信は嬴政へ今回の桓騎軍の素行調査の結果を伝えていた。

実際にその現場を目撃した訳ではなかったので、桓騎の口から直接聞いた話が主であったが、それでも嬴政には十分だったらしい。「よくやってくれた」と真っ直ぐな瞳で労われた。

散々な目に遭ったが、嬴政の労いの言葉一つで全て報われたような心地になってしまうから不思議だ。秦王の存在とは偉大なものである。

「お、そろそろ論功行賞が始まるかな?行こうか」

宮中に務める者たちが廊下を慌ただしく移動しているのを見て、蒙恬は信と王賁に声を掛けた。

 

再会

論功行賞では、噂通りに桓騎の名前が呼ばれていた。

どのような奇策を用いたのかは分からないが、楚国の侵攻を見事なまでに防衛し、それどころか乗り込んで来た敵将を手籠めにして次々と討ち取っていったという。

論功行賞が終わると、すぐに此度の戦の勝利を祝う宴が始まった。

普段なら飽きるまで宴を楽しむ信だったが、今日は気が乗らず、屋敷に帰ることに決めた。

(父さんの宝刀を見てくか)

咸陽宮に来た時には必ずと言っていいほど、信は王騎の形見である宝刀を眺めにいく。

信の腕では持ち上げるのがやっとな重さである宝刀だが、いつかはこの宝刀を戦場で振るい、王騎と摎の意志を継いで戦っていくのだと決めていた。

賑やかな談笑や楽器の音を遠くに聞きながら、信は廊下を突き進んでいく。

宝刀が祀られている部屋は宴が行われている間とは反対方向にあり、廊下を歩く者もいなかった。

重い扉を開け、信は部屋の中に入る。部屋の中央に備えられている祭壇には、王騎が生前使っていた宝刀が奉られていた。

信がこの宝刀を使えるようになるまでという条件で、咸陽宮の一室で厳重に管理をしてくれているのだ。

部屋も宝刀も欠かさず手入れをしてくれているらしく、埃一つ被っていない。
宝刀の前に立ち、信は両手を伸ばす。

「くっ…」

両手で柄を掴むが、やはり持ち上げるのがやっとだ。

両腕の血管が浮き立つほど力を込めているというのに、それでも持ち上げることしか出来ないなんて、振るうまでには一体どれだけ時間が掛かるのだろう。

もしかしたら一生振るうことも出来ないかもしれない。こんな重い宝刀を片手で軽々と振り回していた父の強さを再認識するしかなかった。

重い溜息を吐いて、宝刀を祭壇へ戻した時だった。

「よう、蒙虎」

誰も居ないと思っていたのだが、不意に背後から呼び掛けられて、信は反射的に振り向いた。

「桓騎ッ…!?」

論功行賞の後に祝宴に出ているとばかり思っていたのだが、桓騎が扉に背を預けて立っていたのだ。気怠そうに腕を組み、楽しそうに信のことを見つめている。

なぜここに彼がいるのだろうと疑問に思うよりも先に、彼はにやりと口元を緩めた。

「どうした?飛信軍の信。俺はお前の名前なんて、一言も呼んじゃいねえぞ?」

「あ…」

言われてから、信は気づいた。

あの数日で蒙虎という名前に慣れ親しんでいたのだが、あくまで蒙虎というのは桓騎を欺くための偽名だ。反応してしまったことに、信は後悔した。

下手に言い訳をすれば怪しまれると思い、信は口を噤む。しかし、蒙虎という名に反応したことで桓騎の中では既に合点がいったらしい。

「お前が蒙虎の正体だったんだろ?」

「……何の話だ。お前と俺しかここにいないんだから、話しかけられたら当然振り返るだろ」

信は冷静さを装いながら、桓騎に言い返す。しかし、桓騎は薄ら笑いを浮かべながら首を横に振った。

「那貴の野郎が全部吐いたぜ」

「!?」

彼の言葉を聞き、信は目を見開いた。

桓騎軍から撤退してから北の河了貂たちと合流し、那貴とは楚国の戦が終わるまでは一緒に行動していたが、そういえばその後は一度も那貴と会っていない。

一体何があったのだろう。まさか桓騎軍によって捕らえられてしまったのではと、信の中で不安が広がっていく。

「那貴に何をしたッ!?」

怒鳴りつけると、桓騎の笑みがますます深まる。

相手に嫌がらせをして、苦しめることが好きだというのは那貴から聞いていたが、こういった態度が確かにそれを示している。

「なかなか手間取らせてくれたぜ。那貴の野郎、よっぽどお前のことが大事だったんだなあ?」

桓騎が胸の前で握っていた拳を開く。

手の中からぱらぱらと小石のようなものが幾つか落ちたのが見えて、信は思わず顔をしかめた。

床に落ちたその何かが、血が付着している生爪と歯だと気づき、信はまさかと息を詰まらせる。同時に顔から血の気が引いていくのを感じた。

その生爪と歯こそ、那貴に何をしたという信の問いに対する答えだった。体が震え始め、信の心臓が早鐘を打つ。

床に転がっているそれらを凝視して黙り込んだ信に、桓騎は楽しそうに目を細めていた。

「那貴も可哀相になあ?さっさと話しちまえば、痛い目に遭わずに済んだのによ」

まるで那貴を小馬鹿にするように笑った桓騎に、信の頭の中で何かがふつりと音を立てて切れた。

「てめえッ!」

信は駆け出しながら、背中に携えている剣を、桓騎の体を真っ二つに叩き切る勢いで振り下ろした。

一歩後ろに引いて回避した桓騎は少しも怯むことなく、床に振り下ろした剣を踵で押さえつける。

瞬時に剣から手を放し、信は体を大きく捻らせて蹴りを放つ。剣が使えないと分かってすぐに切り替えたのは、幾度も死地を駆け抜けて来た体の無意識の判断だった。

だが、桓騎の反応も早い。

瞬時に信の足首を掴んで蹴りを受け止めると、その勢いを利用して、背後にある扉に彼女の体を押し付ける。

「ぐっ」

背中を強く打ち付けてしまい、くぐもった声が上がる。桓騎は信の足首を掴んでいるその手を滑らせて、彼女の膝裏を掴んだ。

片足立ちの姿勢で大きく足を開かされる姿勢になると、着物が乱れて信の白い脚が露わになる。導かれるように桓騎の視線が下がった。

「良い恰好だな」

「このッ…放しやがれッ!」

膝裏に回された手を振り解こうと、信が拳を振り上げる。

「うッ」

振り上げたその拳は桓騎の顔面に届くことはなかった。乱暴に身体を床へ叩きつけられ、再び背中を強く打ち付ける。

衝撃が肺に重く響いたせいで、信は激しくむせ込んだ。

目を開くと、先ほど桓騎が落とした生爪と歯が床に散らばっているのが見えた。

「え…?」

よく見ると、爪には色が塗られている。遠目で見た時には、剥がされた時に付着した血肉かと思ったのだが、これは爪紅だ。

那貴は爪に色を塗っていなかった。それに、この爪の大きさからして男のものではなく、女の爪に違いない。

信が混乱していると、上から桓騎の笑い声が降って来た。

「落ち着けよ。それが那貴のものだなんて誰も言ってねえだろ」

怒りのあまり、肩で息をしている信が桓騎の言葉を理解するまでに時間を要した。

「桓騎ッ…!」

からかったのかと信が真意を問い正そうとするより先に、桓騎は大声で笑った。

「那貴のじゃなくて安心したか?」

その問いに信は答えず、睨み付けた。確かに那貴が無事だと分かって、彼の言う通り安心したが、この生爪と歯が那貴のものでないとすれば、一体誰のものなのだろう。

爪紅を塗っていることと大きさから女のものであるのは分かったが、桓騎と接触する女といえば、桓騎軍によく出入りしているという娼婦のものかもしれない。

正体が誰であれ、桓騎がその者の歯を抜いて爪を剥いだ事実は変わらない。

一体どうしてこんな惨いことをしたのかと信は強く奥歯を噛み締めた。

 

真相

悔しそうに自分を睨み付ける彼女に、桓騎は口の端を大きくつり上げている。

「随分と戦慣れしてるくせに、知らねえようだから俺が教えてやるよ。作戦や弱点っつーのは、敵に聞かれねえようにするのが大前提だろ」

「……は?」

信が床に倒れ込んだまま、桓騎を見上げた。

何を言っているのか分からないという信の顔を見て、桓騎がくくっと喉奥で笑う。

「でっけー声で作戦会議なんてされてたら、誰だって聞き耳立てるだろうが。咸陽宮は俺だって自由に出歩ける・・・・・・・・・・・・・・・んだぜ」

「―――ッ!!」

驚愕するのと同時に、信の中で複雑に絡んでいた糸が解けた。

咸陽宮での作戦会議といえば、蒙恬と王賁と三人で考えた桓騎軍潜入の作戦だ。まさかあの場に桓騎が居たというのか。

あの時は集中して作戦を企てていたため、まさか他に聞き耳を立てている者がいるだなんて知らなかった。

もし、そうだとしたら、自分は初めから桓騎の手の平で踊らされていたということになる。

蒙驁の身内である蒙虎という存在を作り上げたことも、飛信軍から百人隊を結成したことも、伝令で飛信軍に情報を送っていたことも、そして嬴政の頼みで桓騎軍の素行調査をするという一番の目的も。

全て桓騎は知った上で、知らない演技をしながら信をからかっていたのだ。

「あのでけえ毒虫も苦手なんだろ?悲鳴一つで、俺らの兵に良い女だと思われて、良かったじゃねえか」

「――――」

開いた口が塞がらない。ギュポーが苦手であることも、桓騎は情報を仕入れていた。

飛信軍の中では周知の事実だとしても、決して口外しないように情報漏洩に努めていたはずなのに。

あからさまに信が狼狽えていると、桓騎が肩を震わせて笑った。

「…ああ、言い忘れてた。前の戦で、オギコが世話になったようだな」

どうしてここでオギコの名前が出て来るのか。信の頭に疑問符が浮かぶ。

(いや、待てよ…?)

オギコとギュポー。一見何の関係のない一人と一匹だが、信の中で何かが引っかかる。

違和感の正体を突き止めるために、信は記憶の糸を手繰り寄せる。

記憶の中にいるオギコは、敵兵の攻撃を受けて、ぼろぼろになっているのにも関わらず、自分に笑顔を向けていた。

その姿を情景を思い出した途端、信の頭に雷が落ちたような衝撃が走る。

オギコを助けたのは戦の最中だった。

桓騎軍の持ち場とは随分と離れた場所でオギコは的に囲まれていた。その外見から桓騎軍の一人であることはすぐに分かり、たまたま近くを通りかかった信が彼を救援したのだ。

周りに護衛の兵はおらず、オギコ一人しかいなかったことから、囮の役割を担っているのかと思ったが、オギコは戦場で迷子になっていただけだったという。

―――助けてくれてありがとう!

元野盗の集団である桓騎軍の噂は聞いていたのだが、オギコは唯一その噂に反する性格をしている。

飛信軍に勧誘したが、桓騎を慕っているからと理由で断られてしまったのだが…。

方向音痴なオギコに、信が桓騎軍がいる方向を教えてやると、オギコは

―――あのね、この虫食べたら美味しいんだよ!お礼にあげる!

ギュポーを干したと思われるものを、オギコは信に笑顔で差し出したのだった。非常食として馬に積んでいたらしい。

雄叫びよりも大きな悲鳴を上げた信は混乱のあまり、辺りの兵たちをあっと言う間に一掃していった。

信の中にあるオギコとギュポーの繋がりといえばそれだ。ギュポーに対する拒絶反応が強過ぎて、記憶に蓋をしてしまっていたらしい。

―――…オギコは何でも悪気なくお頭に言っちまう。今はやめとけ。

以前教えられた那貴の言葉から察するに、きっとオギコは信がギュポー嫌いなことを悪気なく、再会した桓騎に告げ口したのだろう。

蓋を開けた中から記憶が一斉に雪崩れ込んで来る。

素行調査の初日。那貴と共に木々や茂みに隠れながら桓騎軍の野営地へと近づいていく途中で、信は桶に足を引っかけた。

(待てよ…まさか…!)

不自然なところに桶があると思ったが、まさか桓騎があの中にギュポーを仕込んでいたとでもいうのだろうか。

もしそうだとすれば、那貴と信があの森を通ることも・・・・・・・・・、最初から桓騎の見立て通りだったということになる。

自分たちの作戦会議を知った上で、そしてオギコから信がギュポー嫌いなのを聞いた上での計画だったということである。

まるで見えない何かに胃を強く握られたような嫌な感覚に、信は冷や汗が止まらない。しかし、桓騎は容赦なく彼女へ追い打ちを掛けた。

「たかが毒虫一匹を怖がるようなバカな女だ。名も顔も知られてねえ兵が、一人くらい入れ替わってても・・・・・・・・・・・・・誰も気づけねえだろうな?」

「―――」

驚きのあまり、喉が強張って声が出せなくなった。

飛信軍にも凄まじい活躍をする兵たちは大勢いる。千人将である那貴だけでなく、桓騎軍の者たちに飛信軍の兵だと気づかれまいという意図が裏目に出てしまったらしい。

桓騎の言葉から、恐らく桓騎軍の兵が何食わぬ顔で百人隊の中に入り込んでいたことを察し、信は気を失いそうになった。

蒙恬の助言もあり、なるべく秦国の中でも名前と顔を知られていない兵たちを選んだのだが、一人が入れ替わっていたとしても、気づけるはずがなかったのだ。

知らぬ間に一人増えていたのか、それとも鎧を奪うために一人殺したのかは分からない。
一体いつから桓騎軍の兵が入り込んでいたのだろう。

(なんて奴だ…!)

実は信が大のギュポー嫌いだという極秘情報まで仕入れていたということは、素行調査が始まる前から、信たちは完全に桓騎の策に陥っていたということである。

過去に魏の廉頗軍を相手にした戦いで、桓騎は敵兵の鎧を身に纏って堂々と魏の本陣へ潜入するという奇策を用いていた。

今回もそのようにして信たちを欺いたのだろう。偽装していたのは自分たちだけだと思っていたが、桓騎軍も同じだったのだ。

(やられた…!)

陸から上がった魚の如く、口をぱくぱくと開閉させている信に、桓騎の笑みが止まない。

「大王の野郎が、この俺をどうにか抑制しようとしてんのかと思ったが、お前の面白い一面を見せてもらえたから良しとしてやる」

「ああッ?面白いだと!?」

いつまでも見下されるのは癪に障るので、信は勢いよく立ち上がり、桓騎を睨み付けた。

元々の身長差はあるにしても、床に膝をついたままでいるのは性に合わない。

「元下僕と元野盗同士、気が合うだろ。仲良くしようぜ」

肩に腕を回されて、掛けられたその言葉を聞くのは初めてではなかった。

 

二人の共通点

桓騎の腕を振り払おうとしたが、彼の力は凄まじく、簡単に離れてくれなかった。

まるでこれが男女の力量差を見せつけるように、桓騎はにやりと笑う。

「辛気臭い部屋だな」

部屋を見渡しながら、桓騎が呟く。

「…あれのせいか」

中央の祭壇にある王騎の宝刀を見つけると、彼は目を細めた。

「くそッ、おい、放せよッ!」

桓騎に引き摺られるようにしながら、祭壇の方へと連れていかれる。

祭壇の前に辿り着くと、桓騎はつまらなさそうな表情を浮かべた。その視線は、王騎が生前振るっていた宝刀に向けられている。

「これが葬式みてえな空気を出してやがる」

信の肩に回していない方の腕で、桓騎が宝刀の柄を掴んだ。

「―――それに触んじゃねえッ!」

大切な父の宝刀が、桓騎の手によって汚されてしまうような気がして、信は大声で怒鳴り散らした。

柄を掴んだ桓騎の手を振り払おうとするが、僅かに間に合わなかった。

「耳元でぎゃーぎゃーうるせえな」

信は持ち上げるのがやっとな宝刀を、桓騎は片手で軽々と掴み上げ、それをまるでごみを払うように祭壇から投げ落としたのだ。

鈍い音を立てて床に転がった宝刀を見て、信の中で何かがふつりと切れる。

「てめえッ!」

桓騎の腕の中で、憤怒した信は大きく拳を振り上げる。

「ぐあッ」

彼の顔面に拳が届くよりも先に、足を払われた信は祭壇の側面に身体を強く打ち付けた。

「死人にいつまでも執着してんじゃねえよ、バカが」

容赦なく髪を掴まれたせいで、頭皮が引き攣る痛みに思わず信は呻いた。

祭壇の上に転がされると、すぐに桓騎が覆い被さって来る。こんな男に身体を組み敷かれるなど、屈辱でしかない。

「放せッ、何すんだよ!」

完全に頭に血が昇っているのが分かり、桓騎は彼女の怒りをさらに煽るように、にやりと笑みを浮かべた。

「とっとと退けッ」

血走った眼で睨み付けながら怒鳴るが、桓騎は構わずに組み敷いた彼女の体を見下ろす。

胸板を突き放そうと暴れる両手が邪魔だった。彼女の両手首を掴み上げると、頭上で一纏めに押さえつける。

中華全土にその名と強さを轟かせている信だったが、娼婦の腕と大差ない細さだった。

「あんまりうるせえと、騒ぐ度に爪剥ぐぞ。爪が無くなったら、次は歯だ」

脅しのつもりは少しもなかった。桓騎にとって相手の怯える顔を見るのは愉悦であり、生かすも殺すも自分の機嫌一つで決められるものだったからだ。

信に見せつけた生爪と歯の持ち主にも同じことを告げてやったのだが、結局は泣き喚かれたので、宣告していた通りに一枚ずつ爪を剥ぎ、爪が無くなった後は歯を一本ずつ引き抜いてやった。

だが、信に同じ脅し文句は効果がなかったようで、それどころか桓騎の言葉に、彼女はますます怒りを増幅させていた。

爪と歯という言葉に反応したのか、信は床に転がっている生爪と歯に一瞬視線を向ける。

「てめえ、さっきのあれは何なんだ!誰を殺したッ!」

まさかこんな状況になっても他人の気にする余裕があるのか。いじめがいがあるというものだ。桓騎の口角がつり上がる。

「んぐッ」

片手で信の口を覆って強制的に黙らせると、桓騎は彼女に顔を近づけた。

「お前の想像通り、もう殺しちまったんだから、今さら気にしても遅えよ」

悔しそうに信の顔が歪む。飛信軍といえば、女子供や老人といった弱い命を奪わないことで有名だった。

良い女ならともかく、使えないものを生かしておいて一体何になるのか、桓騎には信の考えが少しも理解出来ない。

―――…強いて言うなら、てめえとは一生分かり合えない存在だな。

互いの思考を分かち合うつもりなど微塵もない。

信と桓騎の二人に、共通点があるとすれば、きっとそれだけだろう。

 

激情(※R18)

「―――、―――!」

手で蓋をした口が、もがもがと騒いでいる。助けを呼ぼうとしているのだろうか。

論功行賞の後の宴で、宮中に務めている者たちもそちらに出払っている。この部屋の前を通るものなどいないに等しかった。

喧しいから口に蓋をしただけなのだが、誰も助けに来ないのだと告げれば、この女はどんな表情を浮かべるのだろう。

信を大いに慕っている飛信軍の兵たちだったならば、咸陽宮であろうとも彼女を一人にさせることはなかったに違いない。

だが、飛信軍は此度の戦に参加しなかったこともあり、今日ここに来るのが信だけだというのを桓騎は事前に知っていた。

だからこそ、今日という日を心待ちにしていたと言っても過言ではない。

自分を嫌っている信が激しく抵抗をすることは、初めから分かっていた。

押し倒されたなら、諦めて素直に足を開けば多少は優しくてやるものを、信は男を煽らせるのが上手いらしい。

押さえつけている両手首に力を込めているのが分かる。桓騎がこの手を放せば確実に殴りつけて来るだろう。

彼女の口と両手首をそれぞれ押さえつけながら、桓騎は身を屈めた。白い喉に舌を這わせると、まるで電流でも流されたかのように、信の体がびくりと震える。

首筋を上下の歯で挟み、ゆっくりと力を込めていくと、信がくぐもった声を上げた。

舌の上に血の味が広がり、口を離すと、信の首筋に赤い歯形が刻まれている。血が滲む歯形に沿って再び舌を這わせる。

目を見開いてこちらを凝視している信に、まさかこういうことを男としたことがないのだろうかと桓騎は疑問を浮かべた。

手の下で再び信が何やら喚いている。生娘なのか尋ねようと、桓騎が信の口を押さえている手を放した時だった。

「ッ!」

右目に染みるような痛みが走る。信に唾を吐きかけられたのだと分かった。

「放せッ!」

怯んだ隙をついて信は拘束を振り解く。

覆い被さっていた桓騎の身体を突き飛ばして、祭壇から転がるように降りた――はずだった。

「いッ…!」

桓騎の下から抜け出せたと思った途端、後ろで括っていた髪を思い切り掴まれて、信は痛みに思わず息を詰まらせた。

「…随分と色気のねえ贈り物じゃねえか」

信の髪を掴んでいない方の手で目元を拭う。信に吐きかけられた唾を手の甲で拭い、そこにべろりと舌を這わせながら、桓騎が笑った。

口元は笑みを浮かべているが、その瞳からは憤怒の色が浮かんでいる。

「礼をしてやらねえとなあ?」

「んんッ!」

助けを呼ぼうとした口は桓騎の唇によって塞がれた。

再び祭壇に身体を押し倒されて、口の中にぬるりとした舌が入り込んで来る。生き物のように口内で舌が蠢き、気持ち悪さのあまり、信は鳥肌を立てた。

「~~~ッ!」

すぐさま舌に噛み付いて抵抗しようとするが、片手で首を圧迫され、息が出来ずに信は目を見開いた。

後頭部を押さえつけられて、顔を背けることも出来ない。

苦しさのあまり、自然と口が開いてしまい、まるで桓騎の唇を舌を求めているかのようだ。

信が桓騎の胸を突き放そうとするが、息が出来ないせいで、腕に上手く力が入らない。

「―――ッ…」

目の前が霞んでいく。視界いっぱいに桓騎の顔を映しながら意識を失うなんて、夢見が悪いに決まっている。眠っている間に首と体を切り離されてしまうかもしれない。

意識の糸を手放しかけた瞬間、桓騎は信の首から手を放した。

「げほッ、かはッ…!」

遮られていた気道が一気に開放し、酸素が流れ込んで来る。

何度かむせ込みながら、信は生理的な涙を浮かべて桓騎を睨み付けた。

こんな状況で、そんな目つきを向けられれば男を煽ることにしかならないのを、きっと信は知らないのだろう。

生娘でないとしても、男に抱かれる喜びには疎そうな女だ。

娼婦が持っているような男を喜ばせる術など何一つ知らないだろう。唯一、信が男を喜ばせることが出来るとすれば、その生意気な態度だ。

一切の抵抗が出来なくなるくらいに捻じ伏せて、涙を流しながら許しを乞う姿にしてやりたいと思うのは男の性というものだろう。

両手の拘束をするよりも大人しくさせる方法など桓騎はいくらでも知っていた。手っ取り早いのは首を絞め上げることだ。

「ぐッ…!」

再び首を圧迫され、信が苦悶の表情を浮かべる。桓騎が腰帯を解いても、信の両手がそれを押さえることはなかった。

こんな状況ならば、誰しも命綱である気道の確保を優先するのが当然である。

「ぁ…か、は…」

このまま気道を潰すのも、首の骨をへし折ることも容易だが、信を殺すのが目的ではない。

首を絞める手を程良く加減をしてやりながら、桓騎は反対の手で信の着物を解いていった。

 

拒絶(※R18)

気道が圧迫されることで僅かにしか息ができず、信は苦しさのあまり、生理的な涙を流していた。

桓騎の反対の手が着物を脱がせているのは分かっていたが、その手を押さえることが出来ない。

両手を拘束されている訳でもないのに、首を絞められると、それだけで人間は抵抗が出来なくなるものである。

「げほッ…」

ようやく桓騎が信の首から手を離してくれた時には、帯が解かれ、襟合わせも大きく開かれて、胸に巻いていたさらしも外されてしまっていた。

意図的に押さえつけられていた呼吸がようやく楽になり、信は桓騎の下から逃げ出すことも忘れて、必死に息を整える。

着物を脱がされて喘ぐように呼吸をする信が、まるで娼婦の姿と重なり、桓騎は思わず口の端をつり上げた。

「大人しくそうやって喘いどけよ」

からかわれるように桓騎に囁かれたが、首を絞められて弱り切った信は、今や彼を睨み付けることすら出来ずにいる。

「う…」

信がようやく大人しくなったことに、すっかり気を良くしながら、桓騎は解いた帯を使って彼女の両手首を一括りに縛り上げた。

まだ抵抗を続けるのなら、肩の関節を外してやっても良かったのだが、それでは色気に欠ける。

傷痕の目立つ肌に色気など感じないと思っていたのだが、若さゆえに艶と弾力のある肌を持ち合わせている。

いつもさらしで覆っているのだろう、露わになった胸は手の平に収まるほど良い形と大きさをしていた。中心にある胸の芽は、地肌に溶け込んでしまいそうな桃色をしていた。

普段から、今日のように身なりを整えていたのなら、将軍なんてものにならず、どこぞの名家の男にでも嫁いでいたに違いない。

胸に吸い付くと、息を整えていた信が目を見開いた。

反対の手で、もう片方の乳房を撫で回す。男に抱かれ慣れている娼婦なら、既に甘い吐息を零すだろう。

しかし、信といえば、体を強張らせて何をしているのだと桓騎を凝視している。

本来ならば前戯をしてとことん女の体を楽しむ桓騎だったが、扉の向こうが騒がしくなっていることに気付いた。

まだ宴は終わっていないはずだが、秦王が席を外して退席する者たちが出て来たのか、それとも料理と酒の追加を運ぶ従者たちか。

どちらにせよ、悠長に相手をしてやることは出来なさそうだ。

ようやく呼吸が整って来たらしい彼女は拘束された両腕で桓騎の体を押し退けようとしている。

喧しい声を上げるのならばまた首を絞め上げてやろうと思ったが、まだ完全には力が戻っていないようだった。

いつまでも生意気なことを言う口に、男根を突っ込めば噛み切られてしまうだろう。いつかはその悔しい顔を見下ろしながら好きに喉と口を使ってやりたいものだ。

仲間想いの信のことだ。本当に那貴を人質に取れば、歯を立てずに嫌々ながら男根を咥えるかもしれない。

くく、と喉で笑いながら、桓騎はそのうち試しても良いかと考えるのだった。

残念ながら今は歯のついていない下の口を使うしかないかと、視線を下げる。

程良く筋肉が付いて引き締まった内腿に指を這わせると、信の体がびくりと跳ねた。

「触んなッ…!」

そんな場所を他人に触れられたことがなかったのだろう。怯えにも似た色が信の瞳に浮かんだのを見て、桓騎は彼女が生娘であることを察した。

むしろ、今までよく男に抱かれなかったものだ。今日のように身なりさえ整えていれば、彼女を褥に連れ込みたいと思う男など大勢いたに違いない。

いつも信とつるんでいる蒙恬や王賁だって、女として見ていたはずなのに手を出さずにいたのかと思うと、桓騎はますます笑いが止まらなくなった。

「…那貴の野郎も、今までよく耐えてたな」

つい思ったことをそのまま口に出すと、信の眉間に皺が刻まれた。

桓騎軍の素行調査をするにあたり、事前に那貴から桓騎軍の情報を仕入れていたのは知っている。

娼婦だけでなく、滅ぼした村の美女たちに相手をさせていたのも、那貴の口から聞いていたに違いない。

那貴も元野盗であることから、信が懸念していることに手を染めていたとは考えなかったのだろうか。

信が知らない桓騎軍の悪事など、数え切れないほどある。

那貴の口から聞いたことも、実際に彼女が目の当たりにしたことも、単なる一部に過ぎないというのに、少ない情報にも憤怒している信がバカバカしくて、桓騎は笑いが止まらなかった。

自分の体を組み敷きながら笑みを浮かべている桓騎に、信が怯えた目を向ける。

しかし、彼女の視線が騒がしくなって来た廊下の方へ向けられた途端、桓騎は我に返った。

「んぐッ…!」

桓騎の手が信の口に蓋をする。性懲りもなく助けを求めようとするなど興醒めでしかない。

帯で拘束された両手が桓騎の手を外そうと爪を立てる。まるで子猫がじゃれつくような抵抗だ。

「さっさと終わらせてやるから、感謝しな」

「ぅんん、んぅッ…」

口に蓋をされながら、鼻の奥で悶えるような声を上げた信が狼狽えている。

「…やめてほしいか?」

桓騎が穏やかな口調で問うと、口を塞がれたままの信が何度も頷く。

まさかここまでしておいて安易に引き下がる男がいるのなら、それは男ではなく、きっと宦官のような、男であって男ではない存在に違いなかった。

 

拒絶その二(※R18)

―――散々好き勝手に扱い、気付けば信は人形のようになっていた。すっかり泣き腫らした瞼は赤く腫れてしまっている。

意識を失っている訳ではないが、心が抜け落ちてしまったかのように、虚ろな瞳をしていた。

ゆっくりと腰を引いて男根を抜くと、血の混じった精液が溢れ出て来た。厭らしく内腿を汚している姿は何とも淫靡で、思わず喉が鳴る。

しかし、そろそろ行かなくては誰かが見回りに来るかもしれない。

嬴政のお気に入りの将で、裏表のない性格から人脈が広い彼女が汚されたと知れば、面倒なことになるのは分かっていた。

そうと分かっていても、桓騎はこの女を手放したくないという気持ちに襲われる。この女の破瓜を破ったのは自分だという独占欲に近いものなのかもしれない。

桓騎は身を屈めると、股の間にある淫華から流れ落ちるそれを啜った。淫華の蜜と破瓜を破った血と、自分の吐き出した子種が口の中で混ざり合い、最低な味がした。

もちろん味わうつもりで啜ったのではない。先ほどの礼・・・・・をしなければと考えたのだ。

「うっ…」

信の顔に向かって、自分の唾を交えたそれを右目に吐き捨てる。

目に染みたのか、人形のように無反応だった信がようやく表情を変えた。

「…こ、ろして、やる…」

涙で濡れた信の瞳に殺意の色が宿り、桓騎を睨み付ける。

いかに信の中で桓騎に対する拒絶が膨らもうとも、桓騎には関係ないことだった。

「はっ、やれるもんならやってみな」

彼にとっては、自分こそが規律であり、そこに信の意志など必要ないのだから。

 

文字数の関係で大分省いてしまったR18シーンと後日編は執筆検討中です。

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アナーキー(桓騎×信←那貴)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/那貴×信/無理やり/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

判断

少し遅れてから那貴が百人隊の野営地へと戻って来た。何か言いたげな顔をしている那貴を見て、信は小首を傾げる。

「先に戻っちまって悪かったな。…もしかして、桓騎に何か言われたのか?」

いや、と那貴が首を振る。

「お頭らしいなと思っただけだ」

「?」

強張った笑みを浮かべている那貴の顔色は随分と悪かった。

「確証はないが…お頭は、もうあんたの正体に勘付いているかもしれない」

低い声で囁かれたその言葉は、決して冗談ではなかった。信は思わず生唾を飲み込む。

「引き返すなら今だ。あの様子だと、今夜はもうこっちに来ないだろ」

今頃、桓騎は娼婦たちのもてなしを受けているに違いない。

桓騎軍の野営地を後にする時に兵たちのことを観察していたが、特に後ろをつけて来るような奴もいなかったし、側近たちも離れた場所で酒を楽しんでいるようだった。

「…わかった」

信は素直に頷いた。
てっきり拒絶すると思っていた那貴は驚いたように目を瞬かせる。

今は飛信軍の将である那貴が、元は仲間であった桓騎軍の兵たちにあれこれ言われないようにと昨日は任務続行を決めていたのに、今はやけに素直だ。

「良いのか?」

「那貴がそう言うんなら、その方が良いだろ。桓騎軍のことは俺よりお前の方が詳しいんだし」

信は、兵たちにすぐさま撤退を指示した。
兵たちも、信が桓騎軍の野営地から戻って来てから察していたのか、てきぱきと撤退の支度を始める。

自分たちの後方には、本来桓騎軍につく百人隊が控えていた。

彼らに事情を話し、桓騎軍の出立に間に合うように移動してもらえればいい。那貴と蒙虎がいなくなったことを、桓騎たちは不審がるに違いないが、今はそんなことを気にしていても仕方がないだろう。

次に桓騎に会うことがあれば、那貴は飛信軍へと戻り、蒙虎は事故か違う戦で亡くなったとでも言うしかない。

あんな形で桓騎と接触することになるとは思わなかったが、直接彼の口から桓騎軍のことについて聞けたのは大いなる収穫である。

実際に悪行をその場で目撃した訳ではないが、それでも嬴政に伝えるには十分だろう。足りないと言われたら、那貴の話も補足で追加すればいい。

本音を言えば、信も一刻も早く桓騎を連想させるものから離れたかったのだ。

幸いにも桓騎軍たちに撤退を気付かれることはなく、今回のために結成された百人隊
は予定よりも早い解散となったのだった。

生還

その後、楚国の侵攻を無事に阻止し、秦軍は撤退となった。

此度の戦では趙の怪しい動きもなかったことから、北で待機していた飛信軍は出陣することなく、待機のみで終了した。

此度も桓騎の奇策が活躍したようで、論功行賞には彼の名前が呼ばれるらしい。その噂を聞いた時、信は複雑な表情を浮かべた。

秦の領土を守ることが出来たのは何にも代えがたい喜びではあるが、それがあの男の手柄だと思うと、素直には喜べなかった。

此度の戦に飛信軍は参加していなかったのだが、桓騎軍の素行調査のことと、その戦の最中に趙の動きがなかったことを報告するために、信は咸陽宮を訪れたのだった。

論功行賞の準備が整うまで、あの日、作戦会議を行った城下町を見渡せる露台で信は時間を潰すことにした。

(あー、動きづれえ…)

秦王の前と論功行賞という畏まった場であるため、久しぶりに女物の華やかな着物に身を包んでいる。

着物の価値が分からないものでも、金の刺繍をされているそれを見ればとんでもなく高価なものであることは予想出来る。

彼女が今着ているその着物は、過去に嬴政から贈られたものだった。信は論功行賞や宴など畏まった場に立つ時に、この着物を着ることが多い。

高価な着物に身を包み、静かにしていれば、誰もが振り返るような淑やかな女性にしか見えないが、背中に携えた剣のせいで台無しだった。

「信!」

後ろから誰かに声をかけられ、信は反射的に振り返る。

「おー、蒙恬!王賁!なんとか帰って来たぜ」

蒙恬と王賁だった。此度の戦では彼らも違う軍の下について参戦していたという。無事に帰還した信の姿を見て、蒙恬も王賁も安堵したようだった。

「五体満足で帰って来れたみたいで良かったよ」

蒙恬の言葉を聞き、信は苦笑する。それから、さっそく桓騎軍の素行調査の話題になった。

―――信から一部始終を聞いた蒙恬は(ギュポーのせいで絶叫して計画が台無しになった辺りから)腹を抱えながら大笑いしており、隣で王賁は呆れたように溜息を吐いていた。

「あはははッ!その毒虫のことは予想外だったけど、やっぱりそうなるだろうとは思ってたよ!事前に作戦立てておいて正解だったでしょ?」

蒙恬の笑い声に頭痛を覚えながら、信はその場に座り込んだ。

「もう勘弁してくれ…テンと羌瘣にもさんざんバカにされたんだぞ…俺がギュポー嫌いなのも、これでお前らにもバレちまったし…」

今回の失態が笑い話として軍の中で引き継がれていくことになるのではと、信は頭を抱えた。

「貴様、さっさと立て。着物を汚すな」

落ち込ませてくれれば良いものを、王賁は信の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。同じ王家の者として、信の教養のなさは目に余るらしい。

信が着ているその着物が、秦王から贈られたものだというのは王賁も知っていた。

だからこそ、容易に土埃で汚そうとする信に、無礼だと王賁は彼女の礼儀知らずな態度が腹立たしいのだろう。

そんな彼の気持ちなど露知らず、信はわざとらしい溜息を吐き出した。

「相変わらずだなあ、王賁…労いの言葉くらいかけてくれよ。初日から本当にどうなるかと思ったんだからな…!」

「それはそれは…お疲れ様」

笑い過ぎて涙が溢れている蒙恬は目尻を指で拭うと、王賁の代わりに温かい労いの言葉を掛けてくれた。

「はあ…政の頼みとはいえ、もう二度とあいつらには関わりたくねえな…」

嬴政の夢であり、目標である中華統一には桓騎の奇策が欠かせないことは分かっている。
しかし、桓騎軍の悪事をいつまでも見逃す訳にはいかない。嬴政もそう思って信頼を置いている大将軍の信に今回の件を頼んだのだろう。

蒙恬と王賁に会う前に、信は嬴政へ今回の桓騎軍の素行調査の結果を伝えていた。

実際にその現場を目撃した訳ではなかったので、桓騎の口から直接聞いた話が主であったが、それでも嬴政には十分だったらしい。「よくやってくれた」と真っ直ぐな瞳で労われた。

散々な目に遭ったが、嬴政の労いの言葉一つで全て報われたような心地になってしまうから不思議だ。秦王の存在とは偉大なものである。

「お、そろそろ論功行賞が始まるかな?行こうか」

宮中に務める者たちが廊下を慌ただしく移動しているのを見て、蒙恬は信と王賁に声を掛けた。

 

再会

論功行賞では、噂通りに桓騎の名前が呼ばれていた。

どのような奇策を用いたのかは分からないが、楚国の侵攻を見事なまでに防衛し、それどころか乗り込んで来た敵将を手籠めにして次々と討ち取っていったという。

論功行賞が終わると、すぐに此度の戦の勝利を祝う宴が始まった。
普段なら飽きるまで宴を楽しむ信だったが、今日は気が乗らず、屋敷に帰ることに決めた。

(父さんの宝刀を見てくか)

咸陽宮に来た時には必ずと言っていいほど、信は王騎の形見である宝刀を眺めにいく。

信の腕では持ち上げるのがやっとな重さである宝刀だが、いつかはこの宝刀を戦場で振るい、王騎と摎の意志を継いで戦っていくのだと決めていた。

賑やかな談笑や楽器の音を遠くに聞きながら、信は廊下を突き進んでいく。宝刀が祀られている部屋は宴が行われている間とは反対方向にあり、廊下を歩く者もいなかった。

重い扉を開け、信は部屋の中に入る。部屋の中央に備えられている祭壇には、王騎が生前使っていた宝刀が奉られていた。

信がこの宝刀を使えるようになるまでという条件で、咸陽宮の一室で厳重に管理をしてくれているのだ。

部屋も宝刀も欠かさず手入れをしてくれているらしく、埃一つ被っていない。宝刀の前に立ち、信は両手を伸ばす。

「くっ…」

両手で柄を掴むが、やはり持ち上げるのがやっとだ。

両腕の血管が浮き立つほど力を込めているというのに、それでも持ち上げることしか出来ないなんて、振るうまでには一体どれだけ時間が掛かるのだろう。

もしかしたら一生振るうことも出来ないかもしれない。こんな重い宝刀を片手で軽々と振り回していた父の強さを再認識するしかなかった。

重い溜息を吐いて、宝刀を祭壇へ戻した時だった。

「よう、蒙虎」

誰も居ないと思っていたのだが、不意に背後から呼び掛けられて、信は反射的に振り向いた。

「桓騎ッ…!?」

論功行賞の後に祝宴に出ているとばかり思っていたのだが、桓騎が扉に背を預けて立っていたのだ。気怠そうに腕を組み、楽しそうに信のことを見つめている。

なぜここに彼がいるのだろうと疑問に思うよりも先に、彼はにやりと口元を緩めた。

「どうした?飛信軍の信。俺はお前の名前なんて、一言も呼んじゃいねえぞ?」

「あ…」

言われてから、信は気づいた。

あの数日で蒙虎という名前に慣れ親しんでいたのだが、あくまで蒙虎というのは桓騎を欺くための偽名だ。反応してしまったことに、信は後悔した。

下手に言い訳をすれば怪しまれると思い、信は口を噤む。しかし、蒙虎という名に反応したことで桓騎の中では既に合点がいったらしい。

「お前が蒙虎の正体だったんだろ?」

「…何の話だ。お前と俺しかここにいないんだから、話しかけられたら当然振り返るだろ」

信は冷静さを装いながら、桓騎に言い返す。しかし、桓騎は薄ら笑いを浮かべながら首を横に振った。

「那貴の野郎が全部吐いたぜ」

「!?」

彼の言葉を聞き、信は目を見開いた。

桓騎軍から撤退してから北の河了貂たちと合流し、那貴とは楚国の戦が終わるまでは一緒に行動していたが、そういえばその後は一度も那貴と会っていない。

一体何があったのだろう。まさか桓騎軍によって捕らえられてしまったのではと、信の中で不安が広がっていく。

「那貴に何をしたッ!?」

怒鳴りつけると、桓騎の笑みがますます深まる。

相手に嫌がらせをして、苦しめることが好きだというのは那貴から聞いていたが、こういった態度が確かにそれを示している。

「なかなか手間取らせてくれたぜ。那貴の野郎、よっぽどお前のことが大事だったんだなあ?」

桓騎が胸の前で握っていた拳を開く。手の中からぱらぱらと小石のようなものが幾つか落ちたのが見えて、信は思わず顔をしかめた。

床に落ちたその何かが、血が付着している生爪と歯だと気づき、信はまさかと息を詰まらせる。同時に顔から血の気が引いていくのを感じた。

その生爪と歯こそ、那貴に何をしたという信の問いに対する答えだった。体が震え始め、信の心臓が早鐘を打つ。

床に転がっているそれらを凝視して黙り込んだ信に、桓騎は楽しそうに目を細めていた。

「那貴も可哀相になあ?さっさと話しちまえば、痛い目に遭わずに済んだのによ」

まるで那貴を小馬鹿にするように笑った桓騎に、信の頭の中で何かがふつりと音を立てて切れた。

「てめえッ!」

信は駆け出しながら、背中に携えている剣を、桓騎の体を真っ二つに叩き切る勢いで振り下ろした。

一歩後ろに引いて回避した桓騎は少しも怯むことなく、床に振り下ろした剣を踵で押さえつける。

瞬時に剣から手を放し、信は体を大きく捻らせて蹴りを放つ。剣が使えないと分かってすぐに切り替えたのは、幾度も死地を駆け抜けて来た体の無意識の判断だった。

だが、桓騎の反応も早い。

瞬時に信の足首を掴んで蹴りを受け止めると、その勢いを利用して、背後にある扉に彼女の体を押し付ける。

「ぐっ」

背中を強く打ち付けてしまい、くぐもった声が上がる。桓騎は信の足首を掴んでいるその手を滑らせて、彼女の膝裏を掴んだ。

片足立ちの姿勢で大きく足を開かされる姿勢になると、着物が乱れて信の白い脚が露わになる。導かれるように桓騎の視線が下がった。

「良い恰好だな」

「このッ…放しやがれッ!」

膝裏に回された手を振り解こうと、信が拳を振り上げる。

「うッ」

振り上げたその拳は桓騎の顔面に届くことはなかった。乱暴に身体を床へ叩きつけられ、再び背中を強く打ち付ける。
衝撃が肺に重く響いたせいで、信は激しくむせ込んだ。

目を開くと、先ほど桓騎が落とした生爪と歯が床に散らばっているのが見えた。

「え…?」

よく見ると、爪には色が塗られている。遠目で見た時には、剥がされた時に付着した血肉かと思ったのだが、これは爪紅だ。

那貴は爪に色を塗っていなかった。それに、この爪の大きさからして男のものではなく、女の爪に違いない。

信が混乱していると、上から桓騎の笑い声が降って来た。

「落ち着けよ。それが那貴のものだなんて誰も言ってねえだろ」

怒りのあまり、肩で息をしている信が桓騎の言葉を理解するまでに時間を要した。

「桓騎ッ…!」

からかったのかと信が真意を問い正そうとするより先に、桓騎は大声で笑った。

「那貴のじゃなくて安心したか?」

その問いに信は答えず、睨み付けた。確かに那貴が無事だと分かって、彼の言う通り安心したが、この生爪と歯が那貴のものでないとすれば、一体誰のものなのだろう。

爪紅を塗っていることと大きさから女のものであるのは分かったが、桓騎と接触する女といえば、桓騎軍によく出入りしているという娼婦のものかもしれない。

正体が誰であれ、桓騎がその者の歯を抜いて爪を剥いだ事実は変わらない。

一体どうしてこんな惨いことをしたのかと信は強く奥歯を噛み締めた。

真相

悔しそうに自分を睨み付ける彼女に、桓騎は口の端を大きくつり上げている。

「随分と戦慣れしてるくせに、知らねえようだから俺が教えてやるよ。作戦や弱点っつーのは、敵に聞かれねえようにするのが大前提だろ」

「……は?」

信が床に倒れ込んだまま、桓騎を見上げた。
何を言っているのか分からないという信の顔を見て、桓騎がくくっと喉奥で笑う。

「でっけー声で作戦会議なんてされてたら、誰だって聞き耳立てるだろうが。咸陽宮は俺だって自由に出歩ける・・・・・・・・・・・・・・・んだぜ」

「―――ッ!!」

驚愕するのと同時に、信の中で複雑に絡んでいた糸が解けた。

咸陽宮での作戦会議といえば、蒙恬と王賁と三人で考えた桓騎軍潜入の作戦だ。まさかあの場に桓騎が居たというのか。

あの時は集中して作戦を企てていたため、まさか他に聞き耳を立てている者がいるだなんて知らなかった。

もし、そうだとしたら、自分は初めから桓騎の手の平で踊らされていたということになる。

蒙驁の身内である蒙虎という存在を作り上げたことも、飛信軍から百人隊を結成したことも、伝令で飛信軍に情報を送っていたことも、そして嬴政の頼みで桓騎軍の素行調査をするという一番の目的も。

全て桓騎は知った上で、知らない演技をしながら信をからかっていたのだ。

「あのでけえ毒虫も苦手なんだろ?悲鳴一つで、俺らの兵に良い女だと思われて、良かったじゃねえか」

「――――」

開いた口が塞がらない。ギュポーが苦手であることも、桓騎は情報を仕入れていた。

飛信軍の中では周知の事実だとしても、決して口外しないように情報漏洩に努めていたはずなのに。
あからさまに信が狼狽えていると、桓騎が肩を震わせて笑った。

「…ああ、言い忘れてた。前の戦で、オギコが世話になったようだな」

どうしてここでオギコの名前が出て来るのか。信の頭に疑問符が浮かぶ。

(いや、待てよ…?)

オギコとギュポー。一見何の関係のない一人と一匹だが、信の中で何かが引っかかる。

違和感の正体を突き止めるために、信は記憶の糸を手繰り寄せる。

記憶の中にいるオギコは、敵兵の攻撃を受けて、ぼろぼろになっているのにも関わらず、自分に笑顔を向けていた。

その姿を情景を思い出した途端、信の頭に雷が落ちたような衝撃が走る。

オギコを助けたのは戦の最中だった。
桓騎軍の持ち場とは随分と離れた場所でオギコは敵軍に囲まれていた。その外見から桓騎軍の一人であることはすぐに分かり、たまたま近くを通りかかった信が彼を救援したのだ。

周りに護衛の兵はおらず、オギコ一人しかいなかったことから、囮の役割を担っているのかと思ったが、オギコは戦場で迷子になっていただけだったという。

―――助けてくれてありがとう!

元野盗の集団である桓騎軍の噂は聞いていたのだが、オギコは唯一その噂に反する性格をしている。

飛信軍に勧誘したが、桓騎を慕っているからと理由で断られてしまったのだが…。

方向音痴なオギコに、信が桓騎軍がいる方向を教えてやるとオギコは、

―――あのね、この虫食べたら美味しいんだよ!お礼にあげる!

ギュポーを干したと思われるものを、オギコは信に笑顔で差し出したのだった。非常食として馬に積んでいたらしい。

雄叫びよりも大きな悲鳴を上げた信は混乱のあまり、辺りの兵たちをあっと言う間に一掃していった。

信の中にあるオギコとギュポーの繋がりといえばそれだ。ギュポーに対する拒絶反応が強過ぎて、記憶に蓋をしてしまっていたらしい。

―――…オギコは何でも悪気なくお頭に言っちまう。今はやめとけ。

以前教えられた那貴の言葉から察するに、きっとオギコは信がギュポー嫌いなことを悪気なく、再会した桓騎に告げ口したのだろう。

蓋を開けた中から記憶が一斉に雪崩れ込んで来る。

素行調査の初日。那貴と共に木々や茂みに隠れながら桓騎軍の野営地へと近づいていく途中で、信は桶に足を引っかけた。

(待てよ…まさか…!)

不自然なところに桶があると思ったが、まさか桓騎があの中にギュポーを仕込んでいたとでもいうのだろうか。

もしそうだとすれば、那貴と信があの森を通ることも・・・・・・・・・、最初から桓騎の見立て通りだったということになる。

自分たちの作戦会議を知った上で、そしてオギコから信がギュポー嫌いなのを聞いた上での計画だったということである。

まるで見えない何かに胃を強く握られたような嫌な感覚に、信は冷や汗が止まらない。しかし、桓騎は容赦なく彼女へ追い打ちを掛けた。

「たかが毒虫一匹を怖がるようなバカな女だ。名も顔も知られてねえ兵が、一人くらい入れ替わってても・・・・・・・・・・・・・誰も気づけねえだろうな?」

「―――」

驚きのあまり、喉が強張って声が出せなくなった。

飛信軍にも凄まじい活躍をする兵たちは大勢いる。千人将である那貴だけでなく、桓騎軍の者たちに飛信軍の兵だと気づかれまいという意図が裏目に出てしまったらしい。

桓騎の言葉から、恐らく桓騎軍の兵が何食わぬ顔で百人隊の中に入り込んでいたことを察し、信は気を失いそうになった。

蒙恬の助言もあり、なるべく秦国の中でも名前と顔を知られていない兵たちを選んだのだが、一人が入れ替わっていたとしても、気づけるはずがなかったのだ。

知らぬ間に一人増えていたのか、それとも鎧を奪うために一人殺したのかは分からない。
一体いつから桓騎軍の兵が入り込んでいたのだろう。

(なんて奴だ…!)

実は信が大のギュポー嫌いだという極秘情報まで仕入れていたということは、素行調査が始まる前から、信たちは完全に桓騎の策に陥っていたということである。

過去に魏の廉頗軍を相手にした戦いで、桓騎は敵兵の鎧を身に纏って堂々と魏の本陣へ潜入するという奇策を用いていた。

今回もそのようにして信たちを欺いたのだろう。偽装していたのは自分たちだけだと思っていたが、桓騎軍も同じだったのだ。

(やられた…!)

陸から上がった魚の如く、口をぱくぱくと開閉させている信に、桓騎の笑みが止まない。

「大王の野郎が、この俺をどうにか抑制しようとしてんのかと思ったが、お前の面白い一面を見せてもらえたから良しとしてやる」

「ああッ?面白いだと!?」

いつまでも見下されるのは癪に障るので、信は勢いよく立ち上がり、桓騎を睨み付けた。

元々の身長差はあるにしても、床に膝をついたままでいるのは性に合わない。

「元下僕と元野盗同士、気が合うだろ。仲良くしようぜ」

肩に腕を回されて、掛けられたその言葉を聞くのは初めてではなかった。

 

二人の共通点

桓騎の腕を振り払おうとしたが、彼の力は凄まじく、簡単に離れてくれなかった。

まるでこれが男女の力量差を見せつけるように、桓騎はにやりと笑う。

「辛気臭い部屋だな」

部屋を見渡しながら、桓騎が呟く。

「…あれのせいか」

中央の祭壇にある王騎の宝刀を見つけると、彼は目を細めた。

「くそッ、おい、放せよッ!」

桓騎に引き摺られるようにしながら、祭壇の方へと連れていかれる。

祭壇の前に辿り着くと、桓騎はつまらなさそうな表情を浮かべた。その視線は、王騎が生前振るっていた宝刀に向けられている。

「これが葬式みてえな空気を出してやがる」

信の肩に回していない方の腕で、桓騎が宝刀の柄を掴んだ。

「―――それに触んじゃねえッ!」

大切な父の宝刀が、桓騎の手によって汚されてしまうような気がして、信は大声で怒鳴り散らした。

柄を掴んだ桓騎の手を振り払おうとするが、僅かに間に合わなかった。

「耳元でぎゃーぎゃーうるせえな」

信は持ち上げるのがやっとな宝刀を、桓騎は片手で軽々と掴み上げ、それをまるでごみを払うように祭壇から投げ落としたのだ。

鈍い音を立てて床に転がった宝刀を見て、信の中で何かがふつりと切れる。

「てめえッ!」

桓騎の腕の中で、憤怒した信は大きく拳を振り上げる。

「ぐあッ」

彼の顔面に拳が届くよりも先に、足を払われた信は祭壇の側面に身体を強く打ち付けた。

「死人にいつまでも執着してんじゃねえよ、バカが」

容赦なく髪を掴まれたせいで、頭皮が引き攣る痛みに思わず信は呻いた。

祭壇の上に転がされると、すぐに桓騎が覆い被さって来る。こんな男に身体を組み敷かれるなど、屈辱でしかない。

「放せッ、何すんだよ!」

完全に頭に血が昇っているのが分かり、桓騎は彼女の怒りをさらに煽るように、にやりと笑みを浮かべた。

「とっとと退けッ」

血走った眼で睨み付けながら怒鳴るが、桓騎は構わずに組み敷いた彼女の体を見下ろす。

胸板を突き放そうと暴れる両手が邪魔だった。彼女の両手首を掴み上げると、頭上で一纏めに押さえつける。
中華全土にその名と強さを轟かせている信だったが、娼婦の腕と大差ない細さだった。

「あんまりうるせえと、騒ぐ度に爪剥ぐぞ。爪が無くなったら、次は歯だ」

脅しのつもりは少しもなかった。桓騎にとって相手の怯える顔を見るのは愉悦であり、生かすも殺すも自分の機嫌一つで決められるものだったからだ。

信に見せつけた生爪と歯の持ち主にも同じことを告げてやったのだが、結局は泣き喚かれたので、宣告していた通りに一枚ずつ爪を剥ぎ、爪が無くなった後は歯を一本ずつ引き抜いてやった。

だが、信に同じ脅し文句は効果がなかったようで、それどころか桓騎の言葉に、彼女はますます怒りを増幅させていた。

爪と歯という言葉に反応したのか、信は床に転がっている生爪と歯に一瞬視線を向ける。

「てめえ、さっきのあれは何なんだ!誰を殺したッ!」

まさかこんな状況になっても他人の気にする余裕があるのか。いじめがいがあるというものだ。桓騎の口角がつり上がる。

「んぐッ」

片手で信の口を覆って強制的に黙らせると、桓騎は彼女に顔を近づけた。

「お前の想像通り、もう殺しちまったんだから、今さら気にしても遅えよ」

悔しそうに信の顔が歪む。飛信軍といえば、女子供や老人といった弱い命を奪わないことで有名だった。

良い女ならともかく、使えないものを生かしておいて一体何になるのか、桓騎には信の考えが少しも理解出来ない。

―――…強いて言うなら、てめえとは一生分かり合えない存在だな。

互いの思考を分かち合うつもりなど微塵もない。

信と桓騎の二人に、共通点があるとすれば、きっとそれだけだろう。

 

激情

「―――、―――!」

手で蓋をした口が、もがもがと騒いでいる。助けを呼ぼうとしているのだろうか。

論功行賞の後の宴で、宮中に務めている者たちもそちらに出払っている。この部屋の前を通るものなどいないに等しかった。

喧しいから口に蓋をしただけなのだが、誰も助けに来ないのだと告げれば、この女はどんな表情を浮かべるのだろう。

信を大いに慕っている飛信軍の兵たちだったならば、咸陽宮であろうとも彼女を一人にさせることはなかったに違いない。

だが、飛信軍は此度の戦に参加しなかったこともあり、今日ここに来るのが信だけだというのを桓騎は事前に知っていた。

だからこそ、今日という日を心待ちにしていたと言っても過言ではない。

自分を嫌っている信が激しく抵抗をすることは、初めから分かっていた。
押し倒されたなら、諦めて素直に足を開けば多少は優しくてやるものを、信は男を煽らせるのが上手いらしい。

押さえつけている両手首に力を込めているのが分かる。桓騎がこの手を放せば確実に殴りつけて来るだろう。

彼女の口と両手首をそれぞれ押さえつけながら、桓騎は身を屈めた。白い喉に舌を這わせると、まるで火傷でもしたかのように、信の体がびくりと震える。

首筋を上下の歯で挟み、ゆっくりと力を込めていくと、信がくぐもった声を上げた。

舌の上に血の味が広がり、口を離すと、信の首筋に赤い歯形が刻まれている。血が滲む歯形に沿って再び舌を這わせる。

目を見開いてこちらを凝視している信に、まさかこういうことを男としたことがないのだろうかと桓騎は疑問を浮かべた。

手の下で再び信が何やら喚いている。生娘なのか尋ねようと、桓騎が信の口を押さえている手を放した時だった。

「ッ!」

右目に染みるような痛みが走る。信に唾を吐きかけられたのだと分かった。

「放せッ!」

怯んだ隙をついて信は拘束を振り解く。覆い被さっていた桓騎の身体を突き飛ばして、祭壇から転がるように降りた――はずだった。

「いッ…!」

桓騎の下から抜け出せたと思った途端、後ろで括っていた髪を思い切り掴まれて、信は痛みに思わず息を詰まらせた。

「…随分と色気のねえ贈り物じゃねえか」

信の髪を掴んでいない方の手で目元を拭う。信に吐きかけられた唾を手の甲で拭い、そこにべろりと舌を這わせながら、桓騎が笑った。

口元は笑みを浮かべているが、その瞳からは憤怒の色が浮かんでいる。

「礼をしてやらねえとなあ?」

「んんッ!」

助けを呼ぼうとした口は桓騎の唇によって塞がれた。

再び祭壇に身体を押し倒されて、口の中にぬるりとした舌が入り込んで来る。生き物のように口内で舌が蠢き、気持ち悪さのあまり、信は鳥肌を立てた。

「~~~ッ!」

すぐさま舌に噛み付いて抵抗しようとするが、片手で首を圧迫され、息が出来ずに信は目を見開いた。

後頭部を押さえつけられて、顔を背けることも出来ない。
苦しさのあまり、自然と口が開いてしまい、まるで桓騎の唇を舌を求めているかのようだ。

信が桓騎の胸を突き放そうとするが、息が出来ないせいで、腕に上手く力が入らない。

「―――ッ…」

目の前が霞んでいく。視界いっぱいに桓騎の顔を映しながら意識を失うなんて、夢見が悪いに決まっている。眠っている間に首と体を切り離されてしまうかもしれない。

意識の糸を手放しかけた瞬間、桓騎は信の首から手を放した。

「げほッ、かはッ…!」

遮られていた気道が一気に開放し、酸素が流れ込んで来る。何度かむせ込みながら、信は生理的な涙を浮かべて桓騎を睨み付けた。

こんな状況で、そんな目つきを向けられれば男を煽ることにしかならないのを、きっと信は知らないのだろう。

生娘でないとしても、男に抱かれる喜びには疎そうな女だ。

娼婦が持っているような男を喜ばせる術など何一つ知らないだろう。唯一、信が男を喜ばせることが出来るとすれば、その生意気な態度だ。

一切の抵抗が出来なくなるくらいに捻じ伏せて、涙を流しながら許しを乞う姿にしてやりたいと思うのは男の性というものだろう。

両手の拘束をするよりも大人しくさせる方法など桓騎はいくらでも知っていた。手っ取り早いのは首を絞め上げることだ。

「ぐッ…!」

再び首を圧迫され、信が苦悶の表情を浮かべる。桓騎が腰帯を解いても、信の両手がそれを押さえることはなかった。

こんな状況ならば、誰しも命綱である気道の確保を優先するのが当然である。

「ぁ…か、は…」

このまま気道を潰すのも、首の骨をへし折ることも容易だが、信を殺すのが目的ではない。

首を絞める手を程良く加減をしてやりながら、桓騎は反対の手で信の着物を解いていった。

拒絶

気道が圧迫されることで僅かにしか息ができず、信は苦しさのあまり、生理的な涙を流していた。

桓騎の反対の手が着物を脱がせているのは分かっていたが、その手を押さえることが出来ない。

両手を拘束されている訳でもないのに、首を絞められると、それだけで人間は抵抗が出来なくなるものである。

「げほッ…」

ようやく桓騎が信の首から手を離してくれた時には、帯が解かれ、襟合わせも大きく開かれて、胸に巻いていたさらしも外されてしまっていた。

意図的に押さえつけられていた呼吸がようやく楽になり、信は桓騎の下から逃げ出すことも忘れて、必死に息を整える。

着物を脱がされて喘ぐように呼吸をする信が、まるで娼婦の姿と重なり、桓騎は思わず口の端をつり上げた。

「大人しくそうやって喘いどけよ」

からかわれるように桓騎に囁かれたが、首を絞められて弱り切った信は、今や彼を睨み付けることすら出来ずにいる。

「う…」

信がようやく大人しくなったことに、すっかり気を良くしながら、桓騎は解いた帯を使って彼女の両手首を一括りに縛り上げた。

まだ抵抗を続けるのなら、肩の関節を外してやっても良かったのだが、それでは色気に欠ける。

傷痕の目立つ肌に色気など感じないと思っていたのだが、若さゆえに艶と弾力のある肌を持ち合わせている。

いつもさらしで覆っているのだろう、露わになった胸は手の平に収まるほど良い形と大きさをしていた。中心にある胸の芽は、地肌に溶け込んでしまいそうな桃色をしていた。

普段から、今日のように身なりを整えていたのなら、将軍なんてものにならず、どこぞの名家の男にでも嫁いでいたに違いない。

胸に吸い付くと、息を整えていた信が目を見開いた。

反対の手で、もう片方の乳房を撫で回す。男に抱かれ慣れている娼婦なら、既に甘い吐息を零すだろう。
しかし、信といえば、体を強張らせて何をしているのだと桓騎を凝視している。

本来ならば前戯をしてとことん女の体を楽しむ桓騎だったが、扉の向こうが騒がしくなっていることに気付いた。

まだ宴は終わっていないはずだが、秦王が席を外して退席する者たちが出て来たのか、それとも料理と酒の追加を運ぶ従者たちか。

どちらにせよ、悠長に相手をしてやることは出来なさそうだ。

ようやく呼吸が整って来たらしい彼女は拘束された両腕で桓騎の体を押し退けようとしている。

喧しい声を上げるのならばまた首を絞め上げてやろうと思ったが、まだ完全には力が戻っていないようだった。

いつまでも生意気なことを言う口に、男根を突っ込めば噛み切られてしまうだろう。いつかはその悔しい顔を見下ろしながら好きに喉と口を使ってやりたいものだ。

仲間想いの信のことだ。本当に那貴を人質に取れば、歯を立てずに嫌々ながら男根を咥えるかもしれない。

くく、と喉で笑いながら、桓騎はそのうち試しても良いかと考えるのだった。

残念ながら今は歯のついていない下の口を使うしかないかと、視線を下げる。

程良く筋肉が付いて引き締まった内腿に指を這わせると、信の体がびくりと跳ねた。

「触んなッ…!」

そんな場所を他人に触れられたことがなかったのだろう。怯えにも似た色が信の瞳に浮かんだのを見て、桓騎は彼女が生娘であることを察した。

むしろ、今までよく男に抱かれなかったものだ。今日のように身なりさえ整えていれば、彼女を褥に連れ込みたいと思う男など大勢いたに違いない。

いつも信とつるんでいる蒙恬や王賁だって、女として見ていたはずなのに手を出さずにいたのかと思うと、桓騎はますます笑いが止まらなくなった。

「…那貴の野郎も、今までよく耐えてたな」

つい思ったことをそのまま口に出すと、信の眉間に皺が刻まれた。

桓騎軍の素行調査をするにあたり、事前に那貴から桓騎軍の情報を仕入れていたのは知っている。

娼婦だけでなく、滅ぼした村の美女たちに相手をさせていたのも、那貴の口から聞いていたに違いない。

那貴も元野盗であることから、信が懸念していることに手を染めていたとは考えなかったのだろうか。

信が知らない桓騎軍の悪事など、数え切れないほどある。

那貴の口から聞いたことも、実際に彼女が目の当たりにしたことも、単なる一部に過ぎないというのに、少ない情報にも憤怒している信がバカバカしくて、桓騎は笑いが止まらなかった。

自分の体を組み敷きながら笑みを浮かべている桓騎に、信が怯えた目を向ける。

しかし、彼女の視線が騒がしくなって来た廊下の方へ向けられた途端、桓騎は我に返った。

「んぐッ…!」

桓騎の手が信の口に蓋をする。性懲りもなく助けを求めようとするなど興醒めでしかない。

帯で拘束された両手が桓騎の手を外そうと爪を立てる。まるで子猫がじゃれつくような抵抗だ。

「さっさと終わらせてやるから、感謝しな」

「ぅんん、んぅッ…」

口に蓋をされながら、鼻の奥で悶えるような声を上げた信が狼狽えている。

「…やめてほしいか?」

桓騎が穏やかな口調で問うと、口を塞がれたままの信が何度も頷く。

まさかここまでしておいて安易に引き下がる男がいるのなら、それは男ではなく、きっと宦官のような、男であって男ではない存在に違いなかった。

拒絶その二

―――散々好き勝手に扱い、気付けば信は人形のようになっていた。すっかり泣き腫らした瞼は赤く腫れてしまっている。

意識を失っている訳ではないが、心が抜け落ちてしまったかのように、虚ろな瞳をしていた。

ゆっくりと腰を引いて男根を抜くと、血の混じった精液が溢れ出て来た。厭らしく内腿を汚している姿は何とも淫靡で、思わず喉が鳴る。

しかし、そろそろ行かなくては誰かが見回りに来るかもしれない。
嬴政のお気に入りの将で、裏表のない性格から人脈が広い彼女が汚されたと知れば、面倒なことになるのは分かっていた。

そうと分かっていても、桓騎はこの女を手放したくないという気持ちに襲われる。この女の破瓜を破ったのは自分だという独占欲に近いものなのかもしれない。

桓騎は身を屈めると、股の間にある淫華から流れ落ちるそれを啜った。淫華の蜜と破瓜を破った血と、自分の吐き出した子種が口の中で混ざり合い、最低な味がした。

もちろん味わうつもりで啜ったのではない。先ほどの礼・・・・・をしなければと考えたのだ。

「うっ…」

信の顔に向かって、自分の唾を交えたそれを右目に吐き捨てる。
目に染みたのか、人形のように無反応だった信がようやく表情を変えた。

「…こ、ろして、やる…」

涙で濡れた信の瞳に殺意の色が宿り、桓騎を睨み付ける。
いかに信の中で桓騎に対する拒絶が膨らもうとも、桓騎には関係ないことだった。

「はっ、やれるもんならやってみな」

彼にとっては、自分こそが規律であり、そこに信の意志など必要ないのだから。

 

後日編・完全IFルート(恋人設定)のハッピーエンド話はこちら

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七つ目の不運(李牧×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

六つの不運

その日、信に起きた不運といえば、その数は六つ・・にも上る。

一つは、いつも背に携えている秦王から授かりし剣を置いて宴に出てしまったこと。

そして、酒の酔いから醒められず、外で深い眠りに落ちてしまったこと。

その後、広野で大の字で眠っているところを、通りがかった奴隷商人に目をつけられてしまったこと。

泥酔して眠り続けたせいで、奴隷商人の馬車が引く檻の中に乗せられていたことに気づけなかったこと。

それらの不運が重なり、信が目を覚ました時には、敵国である趙に連れて来られていた。

信にとって最大の不運は、秦の大将軍である自分が、趙の後宮に下女として売り飛ばされたことだった。

これこそが、六大将軍である彼女が経験した、六つの不運である。

 

趙の後宮

趙の悼襄王が美少年たちを侍らせる男色家なのは信も知っていた。

秦趙同盟を結ぶ前、呂不韋が悼襄王の寵愛を受けている春平君という美少年を捕らえ、趙の宰相である李牧が秦に赴いたことは、そう遠い記憶ではない。

信が放り込まれた後宮には多くの美女の姿が多くあったが、悼襄王がこの後宮に訪れることは滅多にないという。

遷と嘉という公子がいると聞いていたが、妃たちも悼襄王の趣味は理解しているのだろう、特に不満を抱いているような様子は見られなかった。

互いに子孫を残さねばならない義務はもう果たしたつもりなのだろうか。

王のために喜んで体を差し出す美女が大勢いるとしても、寵愛を受けられるのは美少年たちばかり。

(いや、そんなことはどうでもいい)

信が今考えるべきは、この後宮からの、趙国の脱出である。

秦の大将軍である彼女の名は、今や中華全土に轟いている。

信は母の摎と同じように、仮面で顔を隠して戦に出陣していた。

そのおかげで後宮の中を歩いていても、信が秦の大将軍であると気づく者は一人もいなかった。不幸中の幸いとはまさにこのことだ。

趙国で自分の素顔を知っている者といえば、宰相の李牧とその側近くらいである。

秦趙同盟の後に行われた宴の席で、信は仮面を外した。

趙の一行に宴を盛り上げるための妓女だと思われたのは未だに納得いかないが、背中に携えていた剣に見覚えがあったのだろう、李牧はいち早く信が飛信軍の女将軍だと気づいたのだ。

…今はまだ秦趙同盟の期間であるが、父である王騎を討つ軍略を企てた男がいる地に、長居する気などなれなかった。

不可抗力とはいえ、趙国の土を踏むことになるなんて思いもしなかった。

あくまで同盟は建前として結ばれたものだが、敵であることには変わりない。

秦の大将軍が邯鄲に潜んでいるとなれば、何を企んでいるんだと疑われるに違いない。もしかしたらこれをきっかけに秦趙同盟が解消されるかもしれない。

酒に酔って外で寝ていたところを、奴隷商人に誘拐されて、下女として安い金額で売られたなんて口が裂けても言えないし、誰もそんな話を信じようともしないだろう。

何としても、正体に気付かれずに脱出しなくてはならない。

(早く帰らねえと、みんな心配してるだろうな…)

後宮は基本的に王族と女性、それから宦官しか出入りが出来ない。

下女としてこの後宮に売り飛ばされてから、与えられた仕事をこなしながら宦官たちを見て来たが、腕っぷしが強そうな者はいなかった。

元は男であったとしても、信を取り押さえられそうな力を持つ宦官はいないようだが、下手に騒動を起こせば正体を気づかれるかもしれない。

まさか下女の正体が秦の大将軍などとは誰も思うまいが、念には念を入れなくてはと信は考えた。

万が一、正体に気付かれれば騒動になるのは避けられない。

信がここに連れて来られた経緯に、奴隷商人に売り飛ばされたなどと誰が信じるものか。

女の立場を利用して、趙の後宮に忍び込み、悼襄王を暗殺しようとしたなどと疑いを掛けられるだろう。

疑いを晴らすこともできず、秦趙同盟の解消の証として自分の首が秦国へ送られるかもしれないと思うと、信の背筋はたちまち凍り付いた。

(ここを出て、李牧と側近たちに会わなきゃ何となるだろ)

宰相である李牧と、彼の側近たちには顔を知られている。

彼らが後宮を出入りすることは絶対にないが、後宮は宮廷の中にあるため、後宮の外で遭遇する可能性も考えられる。

宰相という立場に就いているのだから、首府である韓皋に李牧が出入りしていてもおかしくはない。

(あー、とっとと抜け出さねえと…)

きっと秦国では今頃、自分の失踪事件で大騒ぎだろう。

宴で気分良く酒を飲み、仲間たちの忠告も聞かずにふらふらと外を歩いたことを信は今になって後悔した。

酒に強いと自負していた自分の失態である。戻ったら嬴政たちに何と言い訳をしようと考えながら、信は大量の着物を洗濯していた。

「信、これもお願い!」

「おう。そこに置いといてくれ」

顔見知りとなった下女が籠に、化粧と香でむせ返るような匂いが染みついた洗濯物を積み重ねていく。後宮内の女官たちの着物だった。

元々下僕出身である信はこういった下仕事には経験があり、まだ後宮に連れて来られて数日ではあるが、上手く下女たちに紛れることが出来ていた。

偽名を使おうかとも考えたが、別に珍しい名前でもなかったし、まさかこんなところに秦の六大将軍の一人がいるだなどと誰も思わないだろう。

信は名を変えずに、ただの身売りされた下女として仕事をこなしていた。

水桶の中で洗濯物をごしごしと擦りながら、信は辺りを見渡す。

同じように仕事をこなしている下女たちと、宦官が数人歩いているのを確認した信はさり気ない仕草で、籠の中に入っている着物の一つを自分の着物の中に隠したのだった。
隠したのは宦官の下袴である。

信は幼い頃から男勝りで、下袴を穿いて行動していた。

女性の着物だとお転婆が過ぎることもあり、見かねた摎が男物の下袴を穿かせたのをきっかけに、その習慣は今でも続いていた。

しかし、秦王・嬴政の前や、宴の席などではきちんと身なりを整えるよう、王騎からは口酸っぱく言われていた。

もしもあの宴の日に身なりを整えず、普段通り男物の格好をしていたら後宮に売り飛ばされることはなかったに違いない。

下女たちは仕事服として同じ着物を与えられる。着物と身なりで役職が定められているのは秦も趙も同じだった。

もしも今の格好のまま脱走して誰かに見つかれば、後宮の下女が逃げ出したとして騒ぎになるだろう。

敵国である以上、何としても決して目立つ訳はいかなかった。

秦の大将軍である自分が下女として後宮に売り飛ばされたなんて、とんだお笑い種である。死んでも死に切れない。

この失態は墓まで持っていこうと信は心に誓った。きっとあの世にいる父と母は、今頃呆れているに違いない。

 

悼襄王の勅令

(はー、終わった終わった)

水をきつく絞った洗濯物を籠に載せ、信は立ち上がる。

次は日当たりの良い場所に今度は洗った洗濯物を干す作業だが、着物の中に隠した下袴を落とす訳にもいかず、厠へ行くフリをして、信は洗濯場を離れた。

人目のつかないところまでやって来た信は、隠していた男物の下袴を取り出し、スカートの下から足を通す。

腰紐をきつく結んで、裾を膝の辺りまで上げておけば、外見は下女の着物のまま、何ら変わりない。

信は何事もなかったかのように洗濯場へと戻り、先ほど洗った着物を干す作業へと移った。

(よし。あとは機を見て後宮から脱出だな…!)

下女が堂々と後宮の入り口を通る訳にもいかないので、信は後宮を取り囲んでいる壁をよじ登って外に出ると決めていた。

下女の仕事をこなしながら、信は既に後宮から外に出られそうな場所に目星をつけていたのだ。

後宮を探索している時に、自分が二人立ったくらいの高さになっている壁を見つけたので、全員が寝静まった夜中にそこを飛び越えて後宮を脱出する手筈である。

あれくらいの高さならば勢いをつけて壁を蹴れば、手が届くだろう。

壁をよじ登った先で下女の着物を脱ぎ、あとはなるべく人目につかぬように韓皋の宮廷を脱出すれば、後はどうにでもなる。

皺を伸ばしながら着物を干していると、奥の方から人々のざわめきが聞こえた。

(ん?なんだ?)

ざわめきが聞こえる方を見ると、人だかりが出来ていることに気付き、信は小首を傾げる。

「大王様よ!早く頭を下げて!」

近くにいた女官に言われ、信は反射的にその場に膝をついた。

男色として知られている悼襄王が後宮に来るのは珍しい。後宮にいる二人の妃の顔を見に来たのだろうか。

その場にいる者たちが誰もが頭を下げ、信もそれに倣いつつ、悼襄王へちらりと目を向けた。

(やべ…!)

一瞬だけ目が合ってしまい、信は反射的に瞼を下ろす。

悼襄王たち一行の進行方向とは違う位置にいる自分の前に、複数の足音が近づいて来るのが分かった。目をつけられてしまったようだ。

(まずったな)

信は額に冷や汗を浮かべた。無礼だと処罰を言い渡されるかもしれない。

大王にとって下女の命など、その辺の石ころと何ら変わりない価値なのだ。

嬴政は低い身分の者であっても、絶対に命を軽んじることはないのだが、悼襄王がどんな人物か信はよく分かっていなかった。

顔に影が落ちて来て、目の前に悼襄王が立ったのが分かった。

「…そこの下女、顔を上げよ」

やはり無礼だと処罰が下されるに違いない。

もしも処罰を言い渡されたのなら、その騒ぎを利用して後宮から逃げ出そうと考えた。

打ち首はごめんだが、百叩きの刑くらいならば問題はない。その苦痛に耐え切れなかったとして、後宮から下女が一人脱走したとしても何ら怪しまれることはないはずだ。

信は諦めて目を開き、命じられるままに顔を上げた。

男にしては病的に白い肌は、建物からあまり出ていない証拠だろう。

病的な肌に見合った筋力のなさそうな細い体には上質な布で出来た着物と、陽の光が反射して目が痛くなるような宝石で彩られていた。

まるで狐のように細い瞳から発せられる、からみつくような視線に、信は鳥肌を立てる。

もしもこの場で首を斬られようものなら、従者である宦官の剣を奪い取って、混乱に乗じて逃げるしかないかと考えた。

「………」

発言の許可を得ていないので、信は黙って悼襄王を見つめていた。

顔を上げるように命じておきながら、悼襄王も信のことをじっと見つめるばかりで何も話そうとしない。

美貌も後ろ盾も持たぬ下女に大王自らが声を掛けるのは異例の出来事であり、辺りにいる下女たちも宦官も、物珍しい視線を送っている。

「そなた、今宵、私の部屋に来い。化粧はするなよ・・・・・・・

「……はっ?」

信はぽかんと口を開け、悼襄王へ聞き返していた。

しかし、彼は同じ言葉を告げることなく、宦官たちと行ってしまう。その場に残された信はただ茫然としていた。

大王たちの姿が遠ざかると、止まっていた時間が動き出したかのように賑わいが戻って来た。

(なんだ?趙の後宮の下女って、大王の部屋の掃除とかもすんのか?でも、なんで夜?)

悼襄王の命令の意味を理解出来ないでいる信に、後宮へ連れて来られた時から仕事を教えてくれた同僚の下女が駆け寄って来る。

「信、良かったわね!大出世・・・じゃない!後宮に来て、まだたった数日なのにすごいわ!」

「は?な、なんでだよ?」

悼襄王に呼び出されたことと大出世という言葉が結びつかず、信は顔をしかめた。

本当に何も分からないでいる信を見て、同僚の下女が呆れたように肩を竦める。

「今のは夜のお誘いよ!悼襄王様はたくさん稚児を侍らせていることで有名でしょう?だからあなたを気に入ったのね!」

「………」

だからという順接に、信は顔を引き攣らせる。

つまり、その目つきの悪さと化粧もしていない少年のような風貌が悼襄王のお気に召したのだと遠回しに言われ、信の思考はしばらく停止していた。

信は思い出した。後宮とは、大王の世継ぎを産むために作られた制度・・・・・・・・・・・・・・・・・・であることを。

 

後宮からの脱走

その後、後宮と外宮を出入りしている宦官から信は呼び出された。

(ふざけやがってッ!)

夜には悼襄王の寝室へ向かうため、隅々まで体を清めるようにと言われ、本当に伽の命令だったのだと信は絶望する。

秦の大将軍である自分が、趙の世継ぎを作るための道具にさせられるという訳だ。

陽が沈んだ頃に迎えに行くと言われ、何かの間違いだと信は宦官に縋りついたが、哀れみを込めた視線で首を横に振られると、まるで「諦めろ」と言われているようだった。

どこの国でも大王権力というのは絶対なのである。

「ねえ、どの子?」

「あの子だって!」

数日前に奴隷商人から身売りされて後宮にやって来た身寄りのない下女の大出世に、後宮にたちまち噂が広まった。

男色家で有名な悼襄王が見初めた下女が一体どんな女か気になった女官や下女たちが、わざわざ仕事を抜け出して、信の姿を見にやって来る。

「へえ、あの子なんだ…」

「確かに、大王様が好みそうね…」

しかし、誰もが信の顔を見て、彼女たちは納得したように仕事へ戻っていくのだった。

自信と美貌に満ちた女性だったのならば、とことん見る影もなくなるほど嫌がらせをしてやろうと考えていたに違いない。

しかし、化粧っ色もなく、生まれつきの目つきの悪さと、幼い頃から戦場に身を置いて来た傷だらけの身体を持つ女など、同じ土台に立つ価値もないと思われたようだ。嫉妬の対象にすらならないらしい。

(なら代わってくれよ…!俺は何としても目立つ訳にはいかねえんだからよッ!)

普段のように下袴を穿いて剣を振るっていれば当然、男だと間違われるし、信も彼女たちの好奇な視線には興味がなかった。

それに伽を命じられたことで、何としても今日中に後宮を脱出しなくてはならないと危機感を抱き、それどころではなかったのだ。

六大将軍の王騎と摎の養子であり、天下の大将軍の娘とその名を轟かせた信がどんな存在なのか気になっている者はこの中華全土に多くいる。

秦国でも、戦場でもそのような者たちから好奇な視線を向けられ続けていたことで、慣皮肉にも信は慣れていたのだ。

本当ならば陽が沈み、皆が寝静まった夜中に後宮を抜け出すつもりだったのだが、信はその計画を取り止めた。

このまま夜中まで時が過ぎれば、後宮の外ではなく、悼襄王と共に褥の中にいるかもしれないと思うと恐ろしさのあまり鳥肌が立つ。

こうなれば夜まで待つことはせず、人目を避けて後宮の外に脱出しようと信は誓った。

「な、なあ、仕事終わったんだけど、他に何かないか?届け物とかあるなら行ってやるよ」

洗濯の仕事を終えたのは事実だ。信は近くにいる同僚の下女たちに声を掛けた。

悼襄王の伽を命じられて、有頂天になっている様子は微塵もなく、謙虚に事をこなす信の姿に心を打たれた下女たちが穏やかな笑みを浮かべる。

「ありがとう。それじゃあ、これを診療所へ届けてくれる?」

丁寧に畳まれた洗濯物が入った籠を渡され、信はそれを両手でしっかりと受け取った。

「ああ、任せろ!」

診療所という言葉を聞いて、信の心に光が差し込んだ。脱出の目星をつけていた壁があるのは診療所に向かう道にあるからだ。

両手にこの洗濯物を持っていれば、何食わぬ顔で診療所へ向かっていても何ら怪しまれることはない。

仕事を教えてくれた同僚の下女たちに心の中で別れを告げ、信は洗濯物を抱えて走った。

(…よし)

診療所へと向かう道の途中で小道に入り、目星をつけていた壁の前に立つ。

訳も分からぬまま後宮に身売りされてしまったので、この壁の向こうがどうなっているのかは分からない。恐らく宮廷のどこかに繋がっているのだろう。

信は物陰に身を潜めながら、下女の裳を脱いだ。

ふんだんに布が使われている裳ではなく、宦官の下袴になると、途端に動きやすさを実感する。

「…よし」

丁度、休憩の時間ということもあり、下女や宦官たちの姿はない。

頼まれていた洗濯物を人目の付きそうな場所に置いてから、信は後宮からの脱走計画を実行する。

壁から十分に距離を空け、深く息を吸ってから全速力で駆け出した。

「たあッ!」

助走をつけて、信は壁の手前で地面を力強く蹴った。勢いを落とさずに今度は壁を蹴りつける。

屋根に手が触れた途端、絶対に放すまいと、信は腕に血管が浮き立つほど強く掴んだ。

「うっ…く…!」

腕力だけで自分の体を持ち上げ、屋根に足を掛けてよじ登る。

浮いていた足裏がしっかりと屋根につくと、信は後宮からの脱出が成功したのだと思わず歓声を上げそうになった。

「―――そこで何をしているのですか?」

「!?」

下から男に声を掛けられて、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

後宮で人目に触れなかったものの、後宮から一歩外に出れば宮廷である。下女や宦官以外の者たちが居たとしてもなんら不思議ではない。

逆光のせいで男の顔はよく見えなかったが、こちらを見上げているのは分かった。

騒ぎになっては信がまずいと、声を掛けた男を何とか黙らそう考える。

無関係の者に手を出すのは気が引けるが、自分の首が掛かっているのだから、仕方がない。

意識を失う程度に加減して急所を突こうと考え、信が屋根から降りようとした時だった。

「女ッ!そこで何をしている!

「やべッ!」

後宮の方から宦官の怒鳴り声を聞きつけ、まさか宮廷と後宮から同時に脱走が見つかることになるとは思わず、信は動揺した。

捕まったら終わりだ。

悼襄王の伽を強要されるのも、敵国で無様に首を晒すことになるのもどちらも嫌だった。何としてもこの場から逃げ出さなくては。

「うおぉッ!?」

動揺のあまり、せっかく登った屋根を踏み外してしまう。

降りようと思っていた宮廷の方に身体が大きく傾き、しまったと思った時には体が浮遊感に包まれていた。

激痛を覚悟して、信は反射的に目を瞑った。

趙の宰相

悲鳴を上げることもできず、信は屋根から落下していった。

覚悟していた激痛は少しもなく、代わりに力強い何かに包まれているような感覚がある。

「?」

ゆっくりと目を開けると、そこには信が今は一番会いたくない人物の顔があった。

「…少々お転婆が過ぎるのではないでしょうか。ここはあなたの母国ではないのですよ」

「―――」

驚愕のあまり、信は顔から血の気を引かせて、悲鳴と言葉を喉に詰まらせる。

趙の宰相、李牧。彼こそが今、信の体を抱きかかえている男の名前だった。

今日まで起きた不運の連続。七つ目の不運が何かと尋ねられたなら、信は間違いなく、李牧と出会ったことだと答えただろう。

「―――下女が脱走したぞ!」

「あの女は逃がしてはまずい!何としても連れ戻せ!」

壁の向こうにある後宮から、宦官たちの少し高い声とざわめきが聞こえる。

このままだと彼らがここまで駆けつけて来るかもしれない。信は焦燥感を覚え、李牧の腕の中で暴れた。

「お、下ろせッ!」

じたばたと手足を動かすと、李牧は苦笑を浮かべながら放してくれた。

しかし、すぐに逃げ出そうとした信の腕を力強く掴む。解放してくれる様子がないことに、信は冷や汗を浮かべた。

「受け止めたことに対するお礼がないのは構いませんが、こちらとしては色々と伺いたいものですね」

李牧があえて信の名前を口に出さないのは正体を見抜いているからであることと、周りにいる者たちに聞こえれば、混乱を招くことを理解してのことだろう。

後宮に務める下女と、後宮に出入り出来ない宰相が関係を持つはずがない。

そこから下女の正体を怪しみ、飛信軍の信だと気づく者が現れないとも限らないだろう。

とはいえ幸いにも、後宮から信が脱走するところを目的してたのは、宮廷で李牧だけだったようだ。

降りた先が、元々人通りの少ない裏道だったのは幸いだったのかもしれない。だが、信にとって李牧との遭遇はこれ以上ない不運であった。

「これは一体どういう状況でしょう?」

「ふ、不運が重なったんだよッ」

その言葉でしか言い表せない。

「………」

李牧が口元に手を当てながら何かを考えている。彼は思考を巡らせる時によく口元に手を運ぶ癖があった。信が言う不運とは何かを考えているのだろう。

しかし、少しも答えが分からなかったようで、彼は残念そうに肩を落とした。

「…どのような不運が重なったら趙の後宮に来れるんです?それに、下女だと聞こえましたが…まさか働いていたんですか?あなたが?」

ぐっ、と信が奥歯を噛み締める。

聡明な李牧であっても答えを導き出せないのは当然である。信だって目を覚ました時は何が何だか分からなかったのだから。

「うるせえなッ!お前に関係ねーだろ!」

父の仇とも等しいこの男に、一から十まで詳細は語りたくなかった。

騒ぎが大きくなる前にここから早く逃げなくてはと思うのだが、李牧は信の腕を放そうとしない。

「ここに後宮から逃げ出した下女がいますよー」

信の腕を掴んだまま、李牧は人通りの多い道に向かって大きな声を上げた。

「てめえッ、静かにしろ!!」

掴まれていない方の手で信は李牧の胸倉を掴んで凄んだ。少しも怯む気配を見せないどころか、李牧は再び人通りの多い道の方に顔を向けた。

「みなさーん、急いで兵たちを呼んでくださーい」

「わかった!わかったから黙れ!このバカッ!」

必死な形相で信がそう言うと、李牧はそれを待っていたと言わんばかりに人を呼ぶのをやめて、笑みを浮かべた。

秦趙同盟の時もそうだったが、この男の笑い方が信はどうしても好きになれなかった。

まるで全てを見越しているかのような恐ろしさがあり、全てを知っていることを告げずにこちらを躍らせているような、嫌な気分になる笑いだからだ。

「それで、どうしてあなたがここにいるのですか?

李牧に名前を呼ばれて、信はたじろいだ。

先ほどまでは名前を呼ばなかったくせに、まるで、ここにはお前の味方など一人もいないのだぞと知らしめているようだった。

「だ、だからっ、色々、不運が重なったんだよ…」

天下の大将軍の娘として中華全土に名を轟かせている信が、まさか奴隷商人によって後宮に身売りされたなど、李牧が信じるとは思えなかった。

李牧だけじゃない。この話を聞いた者たち全員がありえないと言うに決まっている。

それに、今日までの経緯は墓まで持っていくと誓った秘密であり、信はそう易々と打ち明ける訳にもいかなかったのだ。

「みなさーん、後宮から逃げ出した不届き者がここにいますよー」

「てめえ、からかってるだろ!」

自分の欲しい情報が手に入らないと分かるや否や、李牧は何の躊躇いもなく信を差し出そうとする。

腹立たしい男だが、趙では宰相として多くの兵や民から慕われている男だ。

その宰相の言葉を信じるに違いない。そもそも、敵国の女将軍の言葉に耳を貸す者などいるはずがないのだ。

このままでは本当に人が集まってしまうと思い、信は意を決して、李牧にこれまでの経緯を語り始めた。

いっそ全てが夢だったら良かったのにと、趙に連れて来られてから何回も考えていたことを願うのだった。

協力者

敵国で首を晒されるよりも辱めを受けた気分になった信は、顔を真っ赤にしながら、李牧の笑い声に耐えていた。

李牧自身も笑いの最中、「すみません」と少しも申し訳なさそうに思っていない謝罪を挟んでいる。抑えようとしても笑いが溢れて止まらないらしい。

ここが趙国でなければ信は両手で彼の首を締め上げていたに違いない。

笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、李牧はようやく笑いが落ち着いたようだった。

「…連れてくなら、さっさとしろよ」

笑われただけでなく、このまま衛兵たちに身柄を差し出されるのだろうと信は覚悟したようだった。

真っ赤な顔をして俯きながら体を震わせている信を見て、李牧は同情するように目を細める。

「事情が事情ですから、そんなことはしませんよ」

「は?」

兵たちに身柄を渡すことはしないと言った李牧に、信はぽかんと口を開けて聞き返した。

「見たところ、武器は持っていませんし、将軍であるあなたが情報欲しさに潜入なんてするとは思えません。…それに、あなたに限って、大王を暗殺なんて卑怯な真似はしないでしょう?もしそうなら、喜んで伽を引き受けたに違いありません」

穏やかな眼差しを向けられ、信はまさか今の話を信じるのだろうかと疑った。

自分の口から告げたのは確かに事実だが、信じるかどうかは聞いた側の判断に委ねられる。

天下の大将軍の娘が奴隷商人に捕まって下女として身売りされるなんて誰も信じないだろうと思っていたので、信は純粋に驚いた。

「奴隷商人を管理できていなかったこちらにも責任はあります。その詫びと言ってはなんですが、趙国を出る手伝いをさせてください」

何はともあれ、一番警戒していた宰相の李牧を味方にすることが出来たらしい。

一時的なものとはいえ、趙から脱出するにはこれ以上ない戦力だ。信はほっと安堵した。

「…しかし、あなたは宦官たちに顔を見られていますから、このまま宮廷と城下町を歩くのは危険ですね」

壁の向こうにある後宮では随分な騒ぎになっているようだが、広い宮廷に報告がいくまで随分と時間が掛かっているのだろう。兵たちが宮廷を走り回っている様子はまだなかった。

冷静に考えれば、宦官が衛兵たちに下女の脱走を知らせるために宮廷へ走るのも、知らせを受けた兵たちが情報を頼りにここまで駆けつけるまでにはそれなりに時間が掛かる。

きっと李牧が先ほど、大声で衛兵に呼び寄せていたのは、それを見越してのことだったに違いない。

衛兵たちがすぐに信を追って来ないことを知った上で、信の動揺を煽り、彼女の口から情報を聞き出したのだ。

この策士の手の平で踊らされていたことに信はむかむかと腹を立てたが、今となってはもうどうしようもないことだ。

「抜け道とかねえのかよ」

信が辺りを見渡す。李牧は笑いながら首を横に振った。

「そんなものがあったとしても教えませんよ。攻め込まれたらどうするんですか」

「………」

趙からの脱出を手伝う意志を見せ、信が卑怯な真似をしないとは分かっているくせに、やはり宮廷の構造を敵に知られるのはまずいと思っているらしい。

そもそも抜け道の有無さえも言わない辺り、本当にこの男は口が堅く、そして交渉に長けている。

認めたくはないが、父が討たれたのも納得出来る頭脳の持ち主だ。

「それでは、兵たちの目を欺くために、まずは偽装工作をしましょう」

「偽装工作?」

ええ、と李牧が頷いた。

「あなたが悼襄王の伽を命じられたのなら、兵は何としてでもあなたを捕まえに、宮廷の外まで探しに来るでしょう」

だから兵たちに気付かれないようにその姿を隠すのだと李牧は言った。しかし、信は納得が出来ず、小首を傾げる。

「そんなこと言われたって…どこに隠れてりゃ良いんだよ。近くにお前の屋敷でもあんのか?」

「何も隠れるというのは身を潜めておくだけではありませんよ。さ、急ぎましょう。そろそろ報せを受けた衛兵たちが人数を集めてやって来ますよ」

李牧が歩き出したので、信は慌てて彼の背中を追い掛けた。

途端に、彼が眉間に皺を寄せて足を止めたので、何かあったのだろうかと信は目を見張る。

「どうした?」

問い掛けると、李牧はその場に屈んで右足首の辺りを擦っていた。

「…いえ、先ほど貴女を受け止めた時に、少し足を捻ってしまったようです」

軽々と受け止めてくれたように感じていたが、信は落ちた時に強く目を瞑っていたので、李牧が苦痛に顔を歪めていたのか分からなかった。

「えっ…だ、大丈夫か?」

その瞳に不安の色を宿し、信が声を掛ける。立場は敵同士であるとはいえ、自分を受け止めて怪我をしたとすれば、自分に非がある。

李牧は人の良さそうな笑みを浮かべた。

「そこまで酷いものではありませんが…そうですねえ、もしかしたら、時々手を借りるかもしれません」

「あ、ああ。分かった」

それくらいなら、と信は何の疑いもなく頷いた。

「では、行きましょう」

李牧の先導によって、信は後宮脱出の後、宮廷の脱出に成功するのだった。

偽装工作

宮廷を出る時には門番を務める衛兵たちがいるのだが、宰相である李牧の姿を見ると、すぐに通してくれた。

後ろを歩いている信は下袴を穿いており、少年のような風貌から、李牧の側近か見習いの軍師であると誤解したようで、特に詰問されることはなかった。

「ふあー…やっと外の空気が吸えたぜ」

多くの民で賑わっている城下町を歩きながら、信が長い息を吐く。ぐーっと両腕を伸ばし、いかにも解放されたという顔つきだった。

まるで牢獄から出て来た囚人のような言葉を聞き、李牧は唇に苦笑を浮かべた。

「後宮だってそう狭い場所ではないでしょう。私は入ったことはありませんが…」

「どれだけ広くたって壁で仕切られてるんだぜ?牢獄と同じ・・・・・だろ」

彼女の言葉を聞き、確かにそうだと李牧は納得したように頷く。

後宮に住まう女性たちを、籠の中の鳥だと比喩していたのは後宮に住まう女性たち自身であったが、それとも彼女たちを傍で見る宦官の言葉だっただろうか。

後宮の美女たちは王のために用意された存在だ。

だというのに、悼襄王といえば彼女たちには見向きもせずに美少年たちを侍らせている。

まさか信の風貌を見初めて伽を命じることになるとは思わなかったが、そうなると悼襄王の趣味はますますよく分からないものであった。

戦のために多くの知識を得て来た李牧だが、唯一分からないことと言えば、自分が従える悼襄王の趣味くらいだ。

歩いていると、目的の店が見えて来た。

「ああ、見えて来ました。まずはあそこに寄りましょう」

「ん?」

呉服店であることに気付いた信が目を丸めている。

彼女としてはもう宦官の下袴を穿いていることで変装したつもりになっているらしいが、顔も知られていることから、それだけでは当然気づかれてしまう。

だからこその偽装工作であった。

久しぶりに顔を出した呉服店の年老いた女主人は、宰相である李牧の来店に大層喜んでいた。

先ほどから歩いている時にも李牧に「宰相様」と喜んで声を掛ける民や、李牧を見て笑顔を浮かべる民が多くいた。

よほどこの国では慕われているのだなと思いながら、信は複雑な気持ちを胸に浮かべる。

父の仇だと憎んでいるこの男も、この国では英雄扱いをされているのだ。李牧だって趙国を守るために軍略を使って王騎を討ったに過ぎない。

守るべきものが違えば、守るべきもののために戦は避けられない。それぞれの国に住まう民たちや生活があるとしてもだ。

「すみません。今日はお願いがあって参りました」

人の良さそうな笑みを浮かべながら、李牧が信の肩に手を回す。

「彼女に、似合う着物を見立てて欲しいのです。これから私の家臣たちにも挨拶をさせるので、なるべく良いものを見立てて下さるとありがたいのですが…」

「えっ」

信は驚いて李牧を振り返った。家臣たちに挨拶という言葉が気になったのだが、恐らくそれは李牧の嘘だろう。

(なるほどな…)

逃げた下女に服を与え、匿ったとなれば店の主も処罰を受けることになるかもしれない。
上手い言い訳を考えたものだと信はいっそ感心してしまった。

年老いた女主人は信のことをじろじろと見つめ、少ししてから、李牧が言ったように「彼女」…つまり信が女であると察したようだった。

「なるほどねえ」

女主人が顔に深く刻まれている皺をより深くして、にやりと笑った。

その恐ろしい笑みに信は嫌な予感がして、つい後退る。

しかし、李牧の骨ばった大きな手が信の背中を押さえたので、逃亡はそこで終わってしまう。

「それでは、後ほど迎えに来ますので。よろしくお願いします」

「えッ!?お、おい!?」

急に一人にされることが分かって不安になった信は李牧を呼び止める。

しかし、彼は笑顔で手を振ると、呉服屋を後にしたのだった。

 

中編はこちら

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セメタリー(李牧×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/慶舎×信/秦敗北IF話/ヤンデレ/監禁/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

戦に溺れた男

今の自分は、一体何のために戦っているのだろう。

満身創痍の体で剣を振るい、追手の兵を斬り払いながら、男は考えた。

守るべき国も、父も兄弟も仲間も、何もかもを失ったというのに、生きる意味などあるのだろうか。

この剣を手放して大人しく首を差し出せば、自分も楽になれるのではないか。みんなも待っているのではないかと男は考える。

葉や枝が積み重なって出来た獣道を通り、男は木々の間に身を潜めた。

「まだ近くにいるはずだ!探せ」

「見つけて殺しちまえ!」

遠くでまだ追手の気配と声がする。自分の血の跡を辿り、すぐにでも追い掛けて来るだろう。

まるで飢えた獣が取り逃がした獲物を探すような執着ぶりだった。

彼らは一人でも多くの敵兵の首を持ち帰り、武功を挙げたいのだろう。それに応じた報酬が欲しいのだ。

人間の欲深さに、男はとことん嫌悪した。男が最も嫌悪したのは、戦に溺れた自分という存在である。

「………」

一度腰を下ろしてしまうと、まるで根を生やしてしまったかのように、立ち上がるのが億劫になってしまった。

体がもう楽になりたいと叫んでいるのだ。あとは心が従うのを待つだけだった。

目を閉じると、瞼の裏に地獄絵図が浮かぶ。敵兵に容赦なく殺されていく家族や仲間たちの姿。

敵の勢いを押し返せないと分かるや否や、撤退命令を出す将軍たち。戦場に転がっていく数多の屍。

自分もあの戦場で命を差し出せば良かったのだろうか。

戦に溺れていた自分には、死への恐怖などなかったはずなのに、それなら一体なぜ無様にも逃げ惑っているのだろうか。

どうせ敵兵によって無残に殺されるのなら、戦場で死んでいても、ここで死んでも何ら変わりないような気がした。

(もう、疲れた)

まるで操り人形の糸が切れてしまったかのように、男の全身から力が抜けていく。

戦が始まってからずっと握り締めていて、体の一部のようになっていたはずの剣も、呆気なく手から離れてしまったのだった。

「おい!こっちに血の痕があるぞ!」

どんどん足音と声が近づいて来る。自分の死が目前までやって来たことを、男は他人事のように察したのだった。

早く楽にしてくれと願った直後、意識の糸がふつりと切れる。

体はとっくに限界を超えていたのだ。

 

赤い着物の少女

眩しい朝陽が瞼を刺激する。温かい日の光に包まれて、男はようやく楽になれたのと察した。

(…随分と眠ってしまったな)

重い瞼を持ち上げた時に、男は先に逝っていた家族や仲間たちが自分を出迎えてくれるのだとばかり思っていた。

「…?」

瞼を持ち上げると、遠くに空があった。木々に囲まれた風景を見つけて、自分はまだ死んでいないことを悟る。まだあの森の中にいた。

少し遅れて、全身に鈍い痛みが走る。

休むことなく戦場で剣を振るい続けていた筋肉が悲鳴を上げており、体のあちこちが痛み出した。

戦場で受けた傷のせいか、熱が出て来たようで、身体が熱い。

疲労と怪我と発熱で男は肩で息をしていた。

体はこの上なくぼろぼろなのに、少し眠ったせいか、混濁していた意識が少しまともになっていた。

(なぜ、俺はまだ生きている…)

意識を失った後に敵兵たちに見つかり、首を斬られたのだと思っていたのだが、体と首はまだ繋がっている。

持続する体の痛みから、決して夢幻の類でないことも分かった。

「…!」

遠くから足音が聞こえる。自分を探している敵兵だろうかと男は横たわったまま、音のする方に目を向けた。

自分を探し回っているような喧しい声はしない。

足音を聞く限り、人数は一人だとわかった。しかも、かなり早い。この獣道を歩き慣れているような足取りだということが分かる。

足音から察する限り、獣の類ではなく、人間だろう。

「………」

どうでもいいかと男は再び瞼を下ろした。

きっと次に目を覚ました時こそ、家族や仲間たちが自分を出迎えてくれるはずだ。

いよいよ足音が近くにやって来た。全てを諦めた男が、再び意識の糸を手放そうとした時だった。

「―――ッ!」

急に額が痛いほどの冷たさで覆われる。

遠ざかっていた意識が強制的に引き戻されて、男がかっと目を見開いた。

ぎゃあッと短い悲鳴が聞こえ、目の前にあった何かが飛び退く。

「起きてんなら言えよッ!」

「………」

男は何度か瞬きを繰り返す。自分と同じように、驚愕の表情を浮かべている幼い少女が立っていた。

まだ十にも満たないであろう少女だった。

赤い着物に身を包み、黒髪を後ろで結われている。結われた髪には金色と赤色で彩られた簪を差していた。

腕を動かして額に触れると、水で湿らせた手巾が宛がわれており、この少女が用意してくれたものだと察する。

傷ついて血を流していた腕には、別の布が巻かれていた。少女が着ている着物と同じ布だった。

目だけを動かして男が少女を見ると、着物の裾が破れている。少女が着物を破って、手当てしてくれたのだろうか。

「お前、は…?」

唇を戦慄かせ、掠れた声で問い掛けたが、少女の耳に男の小さな声は届かなかったらしい。

「ほら」

竹筒を取り出して、少女は男の口元に宛がった。冷たい水が男の乾いた口内に流れ込む。

「こほっ…」

しかし、ずっと乾いていた体が驚いて、水を拒絶するように激しくむせ込んでしまう。

まるで体が生き長らえるための栄養を拒絶しているようだった。
もうこれ以上は生きたくないと、身体が叫んでいるのだと男は他人事のように感じていた。

「ったく、仕方ねえなあ」

見兼ねた少女が竹筒の水を自らの口に含む。

何をしているのかと男が少女を見つめていると、彼女は迷うことなく男に口付けたのだ。

「―――」

視界いっぱいに映っている端正な顔立ちと、柔らかくて温かい唇の感触に、男が驚いていると、再び水が口の中に流れ込んで来る。

乾いていた喉に潤いが満ちていき、気付けば男は涙を流していた。乾いていたのは身体だけではなく、心もだったのだ。

まだ年端も行かぬ少女の口づけから、生気を分け与えられたような、不思議な感覚に、胸の内が熱くなっていく。

水を飲ませた後、少女は男が静かに涙を流していることに気が付いたようだった。

しかし、気づかなかったふりをして、「もっかい水を汲んで来る」と足早にその場を去っていく。

少女の足音と気配が遠ざかり、再び一人になった男は、幼子のように声を上げて泣いたのだった。

 

約束

せっかく取り入れた水分も、全て使い果たしてしまうほど泣き終えた男は、妙にすっきりした気分になっていた。

年甲斐もなく声を上げて泣いてしまったが、きっと少女にも聞こえたに違いない。

一人にしてくれた少女の優しさに感謝しつつ、彼女は何者なのだろうと考えた。

近くに集落でもあるのだろうかと思ったが、男が敵兵から逃亡を続けている間は、そのようなものは見なかった思う。

「くっ…」

まだ痛みと怠さの残っている体に鞭打ち、男はふらつきながら立ち上がる。

地面にしっかりと両足がついた感覚に、自分はまだ生きなくてはいけないと思い知らされた。

(川…?)

遠くから微かに水音が聞こえる。

少女が水を汲んで来た川があるのだろう。男は重い体を引き摺りながら、水音に導かれるように歩き出した。

少女が通ったであろう痕跡を追いかけていると、男ははっと目を見開いた。

赤い血の海が広がっており、その上には自分を追いかけていた敵兵たちの死体がいくつも重なっていた。

足を止めて敵兵の死体を観察するが、全員が首を斬られたり、胸を刺されていたり、急所を突かれている。

まさか、死んだと思った仲間が自分の救援に来てくれたのだろうか。

いや、そんなはずはない。だとすれば、敵兵たちは誰にやられたのだろう。獣に襲われたような傷はなかった。

やはり死に至ったのは首や胸の傷に違いない。

草を踏み躙る音が聞こえ、男はつい身構えた。音のした方を見ると、あの少女だった。

片手に竹筒を持っている。川で水を汲み直して来たのだろう。

先ほどまで元気そうだった少女の着物に、まるで柄を入れたかのように、真っ赤な血が付着していた。

(いや、違う・・

今思えば彼女の着物は初めから・・・・赤く染まっていた。

そして彼女の背中には、一本の剣が携わっている。

鞘や柄にも血が付着しているのが見えて、男は息を飲んだ。

男が気づかなかっただけで、彼女は初めから血に塗れていたのだ。

敵兵たちの死体には虫がたかっており、皮膚は腐り始めている。殺されてから時間が経過していることが分かった。自分が眠っている間に殺されたのだろう。

(まさか…)

男が敵兵たちの死体の山と少女の姿を交互に見る。

この場にいる生存者は自分とこの少女だけだ。自分を探していた敵兵を返り討ちにした記憶はない。

「どうした?」

驚愕している男の表情を見て、少女は小首を傾げていた。

「全部…お前が殺したのか?」

男が問うと、少女は不思議そうな顔をして、それから頷いた。肯定の返事に、理解するまで時間を要した。

年端もいかぬこの少女が、本当に大の大人を、しかも、これだけの人数を殺したというのか。

一番驚いたのは、少女に嘘を吐いている様子がないことだ。

そういえばと男は改めて少女を見つめる。どうしてこんな森に少女が、それも一人でいるのだろう。

近くに集落などは見当たらなかったはずだ。まだ十にも満たない年齢であることから、親がどこかにいるに違いない。

少女が着ているのは上質な布で作られている着物だ。

もし、この森のどこかに集落があるとしても、このような高価な着物を着るだろうか。

高貴な家柄の娘なのかもしれない。だとすれば、敵兵を殺したと彼女が言ったのは、自ら手に掛けたという訳ではなく、護衛の兵に命じたということになる。

気になることは他にもあった。上質な着物を着ているというのに、言動がまるでつりあっていない。

高貴な家柄だとすれば、幼い頃からも相応な教育を受けさせるとは思うのだが、この少女からは微塵にも教養が感じられなかった。

この少女は一体何者なのだろう。

「お前、こいつらに追われてたのか?」

先に問いかけたのは少女の方だった。男は小さく頷く。

「俺の首を持ち帰れば、この上ない褒美が手に入るからな」

「ふーん」

尋ねておいて少女はまるで興味の無さそうな返事をした。しかし、男にはその返事が嬉しかった。

褒美を目当てに自分の首を取ろうと狙う敵兵と違って、自分が何者であるかに対して興味を抱かない少女の素っ気なさが、今だけは嬉しかった。

「…娘。お前は、何故このような場所にいる?お前は何者だ?」

もしかしたら、少女の姿をしているだけで森に住まう妖や神の類なのかもしれない。

本当にそうだったとしても、男は今さら驚かないだろう。

あの戦で大敗し、自分が生きていること以上の奇跡を目の当たりにしても、きっともう驚くことはない。

男が質問を返すと、少女は不機嫌そうに目をつり上げた。

「修行」

「なに?」

つい聞き返してしまった。少女はもう一度、「修行」と繰り返した。

(修行?十にも満たないこの娘が、こんな森で?一体何の修行を?)

次々と疑問が浮かび、男が目を丸めていると、少女はその場に座り込んで重い溜息を吐いた。

「父さんに戦を見に行くぞって引っ張り出されたかと思ったら、いきなりあそこの崖から突き落とされたんだぜ?ひっでえ話だろ!」

上方を指さしながら、少女が頬を膨れさせる。

もしかして、修行と言う名目で森に捨てられたのだろうか。

戦を見に行かせるだなんて、彼女の父親はどこの国かの将なのだろうか。

上質な着物や少女の肉付きの良い体を見る限り、食いぶちには困っていないように思える。

名のある将の娘なのかもしれないが、家庭には家庭の事情というものがある。男には知り得ない何かがあるに違いない。

「それは…大変だな」

男が労いの言葉を掛けると、少女は「あーあ」と着物が乱れるにも構わず、両腕を頭の後ろに当てていた。

こういう仕草を見る限り、やはり淑女としての教育は一切受けていないに違いない。

「最低でも十人は討ち取った戦利品を持ち帰って来いって、置いていきやがって…本当にひでえ父さんだよなあ!」

「…話があまり読めないが…十人殺せと、命じられたのか?」

顔を強張らせながら男が問うと、少女は大きく頷いた。

「この森にいるやつら。戦場から逃げて来たやつとか、追い掛けて来るやつがたくさんいるだろうからって」

「………」

戦を見にいくことを強要したり、この森に娘を一人取り残し、ましてや十人殺せと命じるなど、彼女の父親は一体何者なのだろう。

そこらの将軍だとしても、そこまで我が子に強いるだろうか。

普通、父親という存在は、娘には甘いはずだ。

男にはまだ妻も子もいないのだが、家庭を持つ仲間たちの話を聞く限りはその認識で間違いない。

口調や態度から少年と間違えてしまってもおかしくはない娘ではあるが、自分の子なら愛おしく思うに違いない。

だが、幼い少女が血に塗れる姿を望む親など、一体どこにいるというのか。男は眉を顰めた。

「…無理だと泣きついて帰れば良かっただろう」

男がそう言うと、少女は首を横に振った。

「だって、十人殺した戦利品を持ち帰らねえと、屋敷に入れてくれねえから…」

少女が着物についた土埃を手で払う。

「でもよお、十人の首を抱えて、あの崖登るのはぜってー無理だろ」

大の大人でも、十人の首を抱えながら崖を登るのは不可能だろう。愚痴る少女に、男は助言をすることにした。

「…首じゃなくても、耳とか指とか、軽いものにしたらどうだ?戦利品としか言われていないんだろう?」

男の助言を聞き、それまで表情を曇らせていた少女が明るい笑顔を浮かべた。

「あ、そっか!頭良いなあ、お前!」

「………」

会話の内容は物騒だが、やはり年相応の少女だ。

まるで太陽のように、周りを照らしてくれる少女の笑顔に、男は胸が温かくなっていくのを感じていた。

この少女になら殺されても良い。既に生き長らえるつもりもない命だ。少女の帰宅を許可する証として差し出しても良いと男は考えていた。

そこまで考えて、男はそういえば彼女はなぜ自分を介抱してくれたのだと考えた。

放っておけば殺さなくても、殺したという証を奪い取れたものを。わざわざ口移しで水を飲ませてまで、彼女は自分を生かそうとしてくれたのだ。

少女を見つめていると、視線に気づいた彼女が「なんだよ」と素っ気なく訊いて来る。

「俺は殺さないのか?」

「殺す理由がない」

それはあまりにも単純で、明白な理由だった。真っ直ぐな瞳で見据えられ、男は言葉を詰まらせた。

「こいつらはお前と違って、俺のこと襲って来たから」

追いかけて来た敵兵たちは褒美を目当てに男の首を欲していたが、まさかこんな年端もいかない少女にさえ刃を向けたのか。

黙り込んでしまった男を見て、少女がきょとんとした目つきになった。

「……もしかして、お前…本当は死にたかったのか?」

「え?」

「寝てる間、ずっと謝ってたから…俺、お前が誰かに会いたいのかと思って…」

少女の言葉を聞き、男ははっとした。自分が謝罪をしていたのは、戦に溺れた自分のせいで、逝ってしまった仲間たちに対してに違いない。

眠っている間も、自分は仲間たちへの罪の意識に苛まれていたのだ。

少女にしてみれば、男が謝罪をしていたのは死んだ仲間たちに対してだなんて知る由もなく、自分の帰りを待っている者たちに対してだと勘違いをしていたらしい。

「会いに行ってやれよ」

少女の言葉に、男は自虐的な笑みを浮かべた。

ここまで懸命に介抱してくれた少女の目を見れなくなってしまい、男はつい目を逸らしてしまった。

「…みんな、俺のせいで死んだ。親も、兄弟も、仲間も、みんな」

男の言葉を聞き、少女ははっとした表情を浮かべる。

戦に出ていない少女に一体何を愚痴っているのだろう。

何を言ったところで、失った家族も仲間ももう戻らないことは分かっている。

しかし、限界まで重荷を背負った心ははち切れんばかりに膨らんでいた。少しの刺激で簡単に砕けてしまうだろう。

慰めてもらいたい訳ではない。

しかし、全てを失った自分はこれから一体どうしたら良いのか、男にはこれから進む道が全く分からなかったのだ。

もう自分の前には進むべき道すら存在しないのだと思っていた。

「…でも」

少女が顔を上げた。

「お前はまだ生きてる」

掛ける言葉に悩むことなく、少女は男にそう告げた。

「………」

「お前のせいで死んだっていうなら、お前がそいつらの分まで生きる・・・・・・・・・・・のは、だめなのか?」

少女の穏やかな声色に、男は思わず言葉を詰まらせた。

自分が戦に溺れる愚か者でなければ、助かった命は数え切れないほどあるだろう。

自分一人が死ねば良かったのに、自分だけが生き残ってしまった。だというのに、少女は生きる道を示した。

「…俺が、生きることを、許してくれるのか?」

「ああ、俺は許すぜ」

罪の意識に苛まれていた男の心に、少女の言葉はまるで一筋の光のように差し込んだ。

失った命は二度と戻らないのだから、全てが許される訳ではない。

しかし、その失った命のためにも生きろと、生きるのを許すと少女は言ってくれたのだ。

「そうだ」

少女が髪に差していた金と赤の簪を手に取ると、それを男に差し出した。

「これ、やるよ」

質にでも出せと少女が簪を男に握らせる。着物と同じで、とても高価なものに違いない。

断ろうとしたが、少女は「俺には似合わねえし、剣を振るうのに邪魔だから」と首を横に振ったので、男は素直に受け取ることにした。

少女が背中に携えていた剣で、転がっている死体の耳に刃を当てる。

何の躊躇いもなく耳を削ぎ落していく少女に、男はそういえばと声を掛けた。

「お前の名は?」

少女は振り返った。

なるほど。純粋な少女にぴったりの名前だ。

少女は太陽のような眩しい笑顔を浮かべ、言葉を続けた。

「いつか俺に、今日の恩を百倍…いや、千倍にして返せよ!期待しないで待っててやるから、約束だぞ」

男はふっと口元を緩めた。

「欲張りな女だな。将来が楽しみだ」

「そういうお前は?名前知らなかったら、恩を返してもらえないだろ」

「…俺は、李牧だ」

 

敗国の女将軍

がたごとと荒っぽい音がして、信の意識に小石が投げつけられた。

ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、目を開けているはずなのに視界には何も映らない。目隠しをされているらしい。

真っ暗な視界の中で、信は両手足に軋むような痛みを感じた。

「!」

敷布の上に寝かせられていたようだが、寝台ではない。何かに乗せられて移動させられているのだ。

荷台かと思ったが、外の音が遮断されていることから、恐らく馬車の中だろうと信は考えた。

状況を把握しようと信は体を起こそうとして、それが叶わないことを知る。

自由に手足を動かせないことから、両腕を背中で拘束され、足首と膝もきつく縄で縛られているのが分かった。

「―――ッ、―――!」

声を出そうとして、布を噛ませられていることに気付く。

次々と頭に入り込んでくる今の状況に、信は言葉を失った。

そうだ。趙国と命運をかけた戦いの最中だったはず。

まさか戦の最中に居眠りなどしていた覚えないのだが、拘束されているこの状況から、自分が捕虜の立場になったことはすぐに理解できた。

覚醒した意識がどんどん記憶を巻き戻していく。

飛信軍が前線で、待ち構える趙軍へ突撃をした後に、隠れていた伏兵によって取り囲まれてしまい――そこからは記憶がない。

伏兵如きにやられる飛信軍ではないはずなのに、一体何があったのだと動揺していると、左腕に矢が貫通した痛みを感じた後に信は意識を失ったのだ。

(まさか…)

両手足は頑丈に拘束されているのに、床に布が敷かれている気遣いに違和感を覚えながらも、信は外の様子を探ろうとした。

「ッ…ん、…!」

床に顔を擦り付けて目隠しを外そうとすると、頭上で小さく笑い声が聞こえ、信はぎくりと体を強張らせた。すぐ傍に誰かがいる。

ずっと同じ空間にいながら、少しも気配を察知出来なかった。視界を覆われ、自分の状況を把握することに意識を向け過ぎていたのだ。

捕虜として捕らえられたのなら、見張りがいてもおかしくはない。

信はじっと黙り、相手の出方を待った。

大人しくしろと頭を踏みつけられるかもしれないと警戒していると、相手が動いたのが分かった。

「ぅ…」

目隠しを外され、信の視界は色を取り戻した。

目の前にいた男に、信は驚愕して目を見開く。そこにいたのは趙の宰相である李牧だった。

父、王騎を討つ軍略を企てた男であり、此度の戦でも圧倒的な軍略で秦を滅ぼした憎き仇である。

「――、――ッ!」

途端に殺意を込めた瞳で李牧を睨んだ信が喚く。

しかし、その声は口に噛ませられた布で蓋をされてしまう。

「暴れると傷に障りますよ。弱い毒とはいえ、解毒薬が完全に効くまでは安静にしていた方が身のためです」

馬車の座席に優雅に腰を下ろしている李牧に、余計なお世話だと信は鋭い視線を向けた。

李牧の言葉通り、左腕がずきりと痛む。今は丁寧に包帯が巻かれていた。

意識を失ったのは毒のせいだったらしい。
口の中に薬独特の苦みが残っている。李牧の言葉通りなら、解毒薬を飲まされたらしい。

そのまま放置しておけば死に至らしめたかもしれないのに、なぜそんなものを使ったのか理由が分からず、信は眉間に皺を寄せた。

李牧は目隠しをしていた布以外は決して外そうとしなかった。

当然だろう。捕虜である将の拘束を簡単に解くなど自殺行為に等しい。

武器はないとしても、その気になれば牙で喉笛に噛みつき、両手で首を絞めることなど容易く行える。

妙に落ち着き払っている李牧は、戦の勝利に酔い痴れているのだろうか。いや、彼はどんな状況でも冷静な男だ。

今頃、手に入れた領地をどうするかを考えているに違いない。

戦の勝利を喜ぶこともなく、既にその先を読んでいる。悔しいが、李牧の才能に抗うことは出来ても、勝利することは出来なかった。

(なんで、俺を殺さない…?)

李牧が無駄な殺生を好まないのは知っている。しかし、此度の戦においては別だ。

徹底的に秦を滅ぼすつもりで次々の名のある将を討つ軍略を企てていた。

飛信軍も完全に李牧の策に陥り、ほぼ壊滅状態に追い込まれてしまったのだ。

趙の勝利は決まった。今さら敗戦国の将である自分から聞き出すような情報など何もないはずだ。

目的が分からず、信が睨み付けていると、彼は口元に薄ら笑いを浮かべていた。

勝者の笑みに、信の腸が煮え繰り返りそうになる。

「なぜ、自分だけが生かされているのか、不思議ですか」

自分だけという言葉に、信は胸が締め付けられるように痛んだ。

李牧の軍略に大敗し、他に生き残った者はいないのかもしれない。もしくは李牧が動揺を誘うために、わざとそう告げたのか。

信は李牧を睨み続けた。

忘却

過去に行われた趙軍との戦いで、信は大勢の敵将を討ち取った。

飛信軍の強さを前に敗れた軍も数え切れないほどいるだろう。

信に恨みを持つ者は多い。その見せしめとして、趙で首を晒すつもりなのだろうか。

しかし、返って来た李牧の言葉は意外にもそれを否定するものだった。

「…先に言っておきますが、私はあなたを殺すつもりはありません。今さら欲しい情報がある訳でもないので、拷問にかけることもしませんよ」

殺すつもりはないという言葉を信はすぐに信じられなかった。

首を晒すつもりもなく、情報を入手するつもりもないとすれば、もう自分に用はないはずだ。ますます李牧の目的が分からない。

「っ…!」

座席に座ったままでいる李牧が手を伸ばしたので、信は咄嗟に身を捩ってその手から逃れようと体を仰け反らせる。

触れられるのも嫌だと、拘束された体で拒絶を示す彼女に、李牧の胸に切ないものが広がった。

しかし、逃がさないと言わんばかりに李牧の手が信の顎を掴む。

骨が軋むほど強く掴まれ、無理やり目線を合わせられると、信の瞳に僅かな怯えが浮かんだ。

「あなたを手に入れるためですよ、信」

李牧の言葉を理解するまで、信はしばらく時間が掛かった。

殺意を込めて睨み付けていた瞳が、呆然としたものに変わり、李牧が口元が緩む。

彼女の顎を掴んだまま、李牧が顔を寄せて来たので信は驚いて身を捩って逃げようとした。

「んんッ」

布を噛ませられたままの信の口に、李牧が唇を寄せる。

柔らかい感触が唇を覆ったのと同時に、李牧の端正な顔立ちが視界いっぱいに映り込み、信は動揺に目を瞬かせることしか出来ない。

唇に舌を這わせられて、ぬるりとした感触に鳥肌が立つ。

「ぅぐ…ッ!」

逃げようとしたが、李牧の腕が矢傷を受けた左腕を思い切り掴んだので、信はくぐもった悲鳴を上げて、痛みに身体を硬直させた。

大人しくなった信を褒めるように、李牧は顔の向きを変えて口づけを深めていく。

どうして李牧が自分に口付けているのか、信には少しも理解が出来なかった。

「っ…ん、…ふ…」

息が苦しくなって、小さな呻き声を上げると、ようやく李牧が顔を離してくれた。

「本当はあなたの声を聞きたいところですが、せっかく手に入れたのに、舌を噛み切られては堪りませんからね」

布を噛ませているのは決して声を抑える訳ではなく、自害を阻止するためだと李牧は言った。

なぜそこまで自分を生かそうとするのだろう。

口付けられておきながら、信は李牧の目的が少しも分からなかった。

眉間から深い皺が消えない信を見て、李牧が困ったように肩を竦める。

「…やはり、覚えていませんか」

「?」

李牧の瞳に寂寞が浮かぶ。しかし、その理由を信が知る由もなかった。

「私は、あなたとの約束を果たすために、秦を滅ぼしたというのに」

何を言っているのだろう。信は李牧の言葉を一つも理解出来なかった。

敵の軍師である李牧と、約束などした覚えはない。

しかも、自分が仕えている国を亡ぼすように頼んだとでもいうのか。ありえないと信は李牧を睨んだ。

―――やっと、会えましたね。

秦趙同盟を結んだ後の宴で、信は李牧と対峙した。

それは春平君を人質にとった呂不韋の企みによるものであったが、信は父である王騎の仇である彼がどんな男であるかを、確認しに堂々と李牧の前に立ったのだ。

初対面であるはずなのに、李牧は飛信軍の活躍と、王騎と摎の娘である信のことを知っていたようだった。

あの日のことはよく覚えているが、彼と何か約束を交わした覚えはなかった。

秦を滅ぼす約束など、亡くなった仲間たちに誓って、一度もしたことはない。

李牧は何かを言おうとしたが、すぐに口を閉ざし、首を横に振る。

「…いえ、何も急ぐ必要はありません。もうあなたは私のものなのですから」

(俺がいつお前のものになったんだよ)

布を噛ませられていなかったら、信はすぐに言い返しただろう。

どうやら言葉にせずとも信の想いが伝わったようで、李牧が苦笑を深める。

「趙へ戻ったら、やることが山積みなのです。ですから、今の二人きりの時間を有効に活用しなくてはなりませんね」

「ッ…!」

李牧の骨ばった大きな手が信の首元をするりと撫でた。

首を絞められるのかと警戒し、信が身を捩る。肌をそっと撫でるだけで、李牧の手が気道を圧迫することはなかった。

しかし、彼に押し倒されてから、なぜ馬車の中に布が敷かれているのかを、信は嫌でも察するのだった。

情欲

李牧に身体を組み敷かれ、信は顔から血の気が引いていくのを感じた。

自分を見下ろす李牧の瞳に殺意など微塵もない。

代わりに浮かんでいるのが情欲だと分かると、信の中には怯えよりも、信じられないといった感情が沸き上がって来た。

辱めを受けさせてから趙に首を晒すつもりなのだろうか。

しかし、李牧は先ほど殺すつもりはないと言っていた。

李牧は軍略に長ける男ではあるが、嘘を吐く男ではない。

だとすれば、この状況は何だというのか。敗戦国の将を生かすことに価値はないはずだ。

幾度も戦う中で、李牧の軍略を破って来た自分に辛酸を嘗めさせられた恨みを持っているのなら、それとも情を掛けるつもりならば、一思いに首を絞めて殺してほしかった。

もしかしたら安易に死ぬことも許されず、苦痛を与え続けるつもりなのだろうか。

それならば一人でも多くの趙兵を道ずれにして、死んでいった方がまだマシだと思えた。

「んんーぅッ!」

李牧の顔が近づいてきて、先ほどと同じように布越しに唇が重なり合う。

父である王騎の仇とも言える男と姦通するなど、信にとっては趙に首を晒される以上の屈辱だった。

きっと李牧も信の気持ちを知った上でこのような行いをするのだろう。

最後の最後までこの男の策通りに動くことになるなんて。

死ぬことも許されないのかと思うと、信は男の愉悦を煽るだけだと分かりながらも、信は溢れ出る涙を堪えられなかった。

布さえ噛まされていなければ、すぐにでも舌を噛み切っていたに違いない。

李牧の指が信の涙を拭う。その涙さえ逃がすまいと、李牧は指に付着した涙を舐め取る。

「私が、恐ろしいですか?」

挑発するようにそう問われ、信は布を噛み締めて、李牧を睨み付けた。

この涙は決して李牧に恐れをなした訳でも、屈した訳でもない。

父の仇を取れなかった悔恨の念と、弱い自分に対しての憤りによるものだ。

涙で濡れた瞳で李牧を睨みつけながら、背中の下敷きになっている拘束された両腕を動かした。

両手首には縄が頑丈に巻き付けられているが、関節を外せば縄から抜け出せるかもしれない。

今の李牧は武器を所持していない。馬車の中には武器らしいものは見当たらなかった。
両手さえ自由になれば、この近い距離ならば首を絞めてやることだって出来るはずだ。

拘束を解こうと必死になっていると、李牧が小さく笑った。

「…私を殺したら、その後はどうします?」

こちらが考えていることなどお見通しなのだろう。それが無性に腹立たしい。

「帰る場所もなくなったというのに」

その言葉を聞いて、信は悔しさで顔を歪ませる。

李牧を殺すのは、父の仇を取るだけではなく、秦の無念を晴らすためだ。

目の前のこの男さえ殺せば、あとは自分の首を掻き切るか、舌を噛み切れば良い。先に待っている仲間たちもよくやったと言ってくれるに違いない。

どうせこの馬車の外には趙の兵と将しかいないのだ。宰相が殺されたと気づけば、すぐに自分も殺されるだろう。

それに、秦王が崩御した以上、もう秦国の再建は成り立たない。それは信も分かっていたし、自分が帰るべき場所がなくなったことも理解していた。

「ようやく、ですね」

李牧が帯に手を掛けたのを見て、信が布を噛ませられた口でくぐもった声を上げた。

凌辱その一

無遠慮に帯を解かれ、着物の衿合わせを開かれる。

毒矢を受けた腕には厚手の包帯が巻かれており、他の傷にもきちんとした処置が施されていた。

足にも深い傷を受けていたのだが、包帯を巻くのに邪魔だったのか、そういえば下袴が脱がされていることに気づいた。

鎧を着るために胸に巻いていたさらしも外されており、着物を捲られると、形の良い胸が露わになる。

舐めるような視線を向けられて、信は羞恥心を上回る嫌悪感に顔を歪ませる。

両腕だけでなく、膝と足首まで頑丈に拘束しているのはきっと蹴りつけられないようにするためだったのだろう。

首筋にぬるりと舌を這わせられ、信は嫌悪のあまり、鳥肌を立てた。

「あなたは今後、私の妻として生きるのですよ」

李牧の言葉に、信は何を言っているんだと目を瞬かせる。

決して冗談を言っているような声色でも、からかっているような笑みを浮かべている訳でもなかった。

「これは、約束ですから」

一体この男は先ほどから何を言っているのだろう。

こんな状況で記憶の糸を冷静に手繰り寄せることも出来ず、信はこれから我が身に起こることを嫌でも想像し、逃げ出すことを優先した。

「んぅ、う」

拘束された体で身を捩り、何とか李牧の下から抜け出そうとするが、簡単に引き戻されてしまう。

李牧の下から抜け出せたとしても、両手の拘束を解かない限り、信は馬車の扉を開ける術を持たない。

「ぅぐッ…」

矢傷を受けた左腕を再び強く握られ、信は痛みに抵抗を止めてしまう。傷口が開いてしまったのか、包帯に赤い染みが滲んでいた。

口を塞がれていなければ、李牧の怒りを煽る言葉を投げかけていただろう。

逆上して、さっさと殺してくれたならどれだけ良かったことか。

「ッ…!」

李牧が体を屈めたかと思うと、露わになった胸に唇を寄せていた。

「ふ…ぅ…」

李牧の舌が肌の上を滑る度に、信の胸が切なさに締め付けられる。

むず痒いような、優しくて甘い刺激に、信はこの上ない屈辱を感じていた。

せめて刃で切り裂いてくれたのなら、槍で貫いてくれたのなら、首を絞めてくれたのなら。
痛みで頭がいっぱいになれば、こんな情けない声を上げずに済んだだろう。

信の声色から決して嫌悪だけではない色を察し、李牧が小さく笑った。彼の金髪が揺れて、肌の上をくすぐる。

反対の胸はまるで壊れ物でも扱うように優しく包まれて、そのむず痒い刺激に、信は首を横に振った。

男が己の性欲を満たすだけなら、前戯など不要だ。
こんなに時間を掛けているのも、李牧が自分を長く辱めるために違いない。

「ッ…」

上向いた若い桃色の突起を突かれ、信が息を詰まらせる。

まるで少しも反応を見逃さないように、李牧が上目遣いでこちらを見上げていることに気付き、信は顔を背けた。

背中の下にある拘束された両手を白くなるほど強く握り締める。

「ふ…、ぅ」

唇で柔らかく挟まれたり、上下の歯で甘噛みされたり、舌で舐られ、信の背筋に甘い痺れが走った。

反対の突起も指の腹で擦られたり摘ままれたりして、絶え間なく甘い刺激が与えられる。

背筋に走っていた甘い痺れが、いつの間にかすり替わったように、下腹部がずくずくと疼く。

初めての感覚に信は戸惑ったが、少しでも表情に出したり、声に上げれば李牧に気付かれると思い、必死に目を瞑ってやり過ごそうとした。

しかし、一度自覚した下腹部の疼きは早々簡単に治まることはなく、李牧から与えられる刺激に体が反応してしまう。

胸を弄るのをやめた李牧は、顔を動かして、今度は鎖骨の辺りに唇を寄せた。

きつく皮膚に吸い付かれ、ぴりりとした痛みが走る。

李牧が口を離すと、赤い痣が浮かび上がっていた。まるで雪原に赤い花びらが散ったようだった。

凌辱その二

ようやく顔を上げた李牧は手を伸ばして、膝と足首にきつく結んでいた縄を解き始めた。

「おっと」

両足が自由になった途端、すぐさま蹴りつけようとしたのだが、長い間拘束されていたせいか、勢いづいた蹴りにはならなかった。

軽々と足首を受け止めた李牧が、困ったように微笑む。

「んんッ…!」

膝を大きく開かされ、李牧が腰を割り入れると、足が閉じられなくなる。

押しのけようとしても自分に跨っているこの男を蹴りつけることも叶わなかった。

着物をはだけさせ、李牧の手が内腿をするりと撫で、それから奥まった場所を指の腹で擦り上げた。

「―――ッ!」

自分でも滅多に触れない場所を触られて、信の全身が強張る。

まだ蜜を垂らしていない淫華を指で感じ、李牧は濡れていないのも当然かと苦笑する。

今行っているのは、信にとっては、紛れもなく凌辱だ。

こんな状況だというのに淫らに蜜を流していたら、誰にどんな調教をされたのか、きっと嫉妬で狂ってしまっていただろうと李牧は考えた。

自分の指を咥えて唾液で湿らせると、もう一度、淫華に指を擦り付ける。

唾液の潤いを利用して指を一本押し進めると、表情で不快感を露わにし、信が嫌がるように首を振る。

「…あまり、こういうことには慣れていないんですね」

指一本だけでも中はかなり狭く、李牧は思わず安堵の息を吐いた。

信が秦王である嬴政と深い仲であることは知っていた。

後宮にどれだけの美女たちがいようとも、もしかしたら中華統一を果たした後は、信を妃として迎え入れるつもりだったのかもしれない。

たとえ信がそれを望まないとしても、女である以上は大王の命令に背くことは出来ないし、今までだって伽を命じられて、嫌々従っていたかもしれない。

嬴政だけではなく、多くの兵や将、官吏だって、信を女として見ていたに違いない。

幼い頃から戦に身を置いていた彼女がその立場ゆえに、男との付き合いが絶えないことは李牧も分かっていた。

秦王でないにせよ、趙でも名の知られている将と関係を持っていたに違いない。

信を女として見ていた男がいるのなら、信だって同じだろう。それを考えると、李牧はとてもやるせない気持ちに襲われた。

「ッ、ふ…ぅ…」

ここに自分の男根を咥えさせるのだと教え込むように、狭い中を広げようと李牧の指が動かすと、信がぎょっとしたように目を見張る。

その大柄な体格ゆえに、生娘を夜の相手に出来ない李牧は、信が男を受け入れるのが初めてではないとはいえ、負担を掛けたくないと思っていた。

潤んだ淫華に自分の男根を突き挿れたいと欲に従っても良かったのだが、まだ蜜の垂らしていない蕾に突き挿れるのは女にとって負担になる。

李牧は信を傷つけたい訳ではなかった。

趙に戻れば戦の事後処理に追われ、手に入れた領土の今後の使い道を決めなくてはならない。秦が滅び、その地を手に入れた趙に危機感を抱き、他の国も領土を奪いに来るだろう。

既に李牧の中はその対策を検討していたのだが、趙に戻れば休む間もなく、その対応に追われることとなる。

すぐにまた秦の地へ戻り、城の再建を指示することになるかもしれない。彼女の身柄は自分の屋敷に置くつもりだが、当分は帰ることは出来ないだろう。

だからこそ、一緒にいられるこの時間を有効に活用しなくてはと李牧は考えていた。

「ぅ、う…」

先ほどまで愛撫していたように胸に吸い付きながら、しつこいくらいに中で指を動かしていると、信の声色に嫌悪ではないものが混じって来た。

じわりと蜜が滲んで来たのが分かり、柔らかい肉壁が打ち震えている。

その潤いを使って、指を増やした李牧は、堪らず彼女の唇に舌を伸ばした。

布を噛ませていなければ、李牧も舌を噛み切られていたに違いない。何としても憎い自分に致命傷を負わせてから、信も自ら舌を噛み切っていただろう。

向けられる感情に微塵も愛が含まれていなくても、信が自分を見てくれるのなら憎まれたままでも李牧は良かった。

最愛の父と祖国の仇である自分の慰み者に陥ったことに、信は心が引き裂かれるような思いでいるだろう。

「んッ、ぅ…!」

広げる目的で、李牧が中で指を折り曲げると、信の体が小さく跳ねた。

その反応を見逃さず、内側から腹に向かって擦ると、信は戸惑ったように首を振る。

中で蜜が溢れ出したのを感じた李牧はにたりと目を細めた。

凌辱その三

ここが馬車の中ではなく、褥の上だったのならば、帰還中でなかったのなら、もっと時間を掛けて彼女の体を隅々まで愛撫していただろう。

花襞や花芯に吸い付き、溢れて止まない蜜で喉を潤し、柔らかな胸を手の平いっぱいに味わい続けたかった。

しかし、これだけ潤いがあればもう十分だろう。指で刺激したおかげで、中も柔らかく広がっていた。

趙に到着するまではまだ時間があるが、李牧は一刻でも早く信を手に入れたという実感が欲しくて堪らなかったのだ。

今や、李牧の男根は痛いくらいに膨れ上がり、下衣を押し上げている。

視線を下ろした信がそれに気づき、顔から血の気を引かせたかと思うと、身を捩って逃げようとしていた。

まさかまだ逃げられると思っているのかと李牧は苦笑を深めながら、細腰を捕まえて、引き寄せる。

もう逃げられないのだと教え込むように、硬い男根の先端を擦り付けた。蜜と先走りの液が混ざり合って、淫靡な水音が立つ。

「んッ、ふう、ぅううッ」

布で塞がれた口が何かを訴えている。言葉を発せない代わりに何度も首を横に振っていた。

どうせやめろと言っているのだろうが、李牧は聞こえないふりをして彼女に微笑む。

細い腰を抱え直した李牧は、容赦なく彼女の体を男根で貫いた。

「んんぅ―――ッ!!」

体が真っ二つに引き裂かれるような激痛が走り、布の下で悲鳴が上がる。無理やり開かされた両足が無意味に宙を蹴った。

狭い其処を無理やり抉じ開けられる苦痛に、信の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出す。

「ふ、ふぐ、ふっ、ふう、ぅ」

布を噛ませられた状態では口でまともに息が出来ず、彼女は目を白黒させながら、懸命に鼻で呼吸を繰り返していた。

「信…?」

男の味を知らなかった信の其処は、李牧の男根を咥え込みながら、血の涙を流している。

体を震わせているのを見ると、相当な苦痛に悶えていることが分かった。

初めて男を受け入れるのは、激しい苦痛が伴うという。男でも知っている。

痛みに震える彼女を気遣ってやりたかったのだが、今の李牧の瞳には愉悦が浮かんでおり、口元には笑みが浮かんでいた。

自分の男根を咥えている其処が血の涙を流していることに、李牧の胸は歓喜で満たされる。

不慣れなのは分かっていたが、まさか信が一度も男の経験がなかったとは思わなかった。

彼女の記憶と体に、他の誰でもない自分という存在を刻み込めたことで、優越感を覚える。

もしも彼女が秦国で結婚し、既に誰かの子を孕んでいたとしても、李牧は同じことをしただろう。

自分以外の男も、彼女の子でさえも、全てなかったことにしてしまえば良いと思っていた。

信から全てを奪い取り、ここから自分との関係を作り上げていけば良い。

彼の歪んだ独占欲は留まることなく広まっていき、それは信の破瓜を破ったことで、底なしの闇のように深まった。

「ぅうううッ」

やめてくれと懇願するような瞳を向けられると、李牧は慈しむような笑みを浮かべる。

優しい笑みを向けられれば多くの女性が恥ずかしそうに頬を赤く染め上げるだろうが、信の瞳には悪魔のように映っていたに違いない。

家族や仲間だけでなく、祖国まで奪ったのだ。罵られても当然だろう。

自分が気づいていないだけで、李牧は自分が外道に落ちているのかもしれないと思った。

しかし、今となっては全てがどうでも良いことだ。もう彼女は自分のものなのだから。

 

 

「…信?」

それまでひっきりなしに泣き声を上げていた彼女が急に静かになったので、李牧が小首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。

虚ろな瞳で涙を流しながら、それまで初めて体を暴かれる痛みで強張っていた体も脱力している。

何度か呼び掛けてみたが反応がなく、気を失ったのだと分かった。だが、今さら解放するつもりなどない。

もう彼女は、その体だけではなく、意識も全て自分のものなのだ。そのために、彼女の帰る場所も奪ったのだから。

意識を失うのも自分から逃げようとする抵抗の一種だ。そんなことは許さない。

李牧は懐から手巾と手の平に収まるほどの小瓶を取り出した。小瓶の中の液体を手巾に染み込ませると、それで信の鼻と口を覆う。

「―――ッ」

つんとした刺激臭に意識が無理やり引き戻され、信は目を白黒とさせる。

真っ暗だった景色が突然色づいていき、信は怯えたように目を見張った。

「まだ寝るには早過ぎるでしょう」

「ッ、――ッ…!」

李牧に声を掛けられて、信はすぐに状況を思い出したらしい。

隙間なく密着している下腹部が視界に入り、途端に内臓を押し上げられる圧迫感が彼女を襲う。

意識を失って脱力していた体が目覚めたことで、李牧の男根をきつく締め上げた。

二人が繋がっている隙間から、粘り気のある白濁の液体が溢れ出る。
それは李牧が確実に彼女の腹で子種を実らせようとしたことを物語っていた。

 

中編はこちら

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エタニティ(王賁×信←王翦)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/王翦×信/甘々/嫉妬深い/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

一ヶ月後

それから、あっという間に一月が経過した。

あの宴の日から、王賁は一度も信と会っていない。

今までは喧嘩をしても、信が一晩眠れば嫌なことをけろっと忘れてしまう性格だったこともあり、特に仲直りという儀式を設けなくても普段通りに接することが出来ていた。

しかし、今回に至ってはそういう訳にもいかないのだろう。

王翦と婚姻が無事に終わった暁には一体どんな顔をすれば良いのか、王賁はまるで分らなかった。

毎晩、休もうと横になっても、信とまぐわった光景が瞼の裏に浮かび上がる。

この寝台で彼女の体を隅々まで愛したあの夜の記憶が、王賁の中に強く根付いていた。

いつの間にか信の温もりを探していて、一睡も出来ずに朝を迎える日々が続いており、王賁は誰が見ても疲労困憊状態だった。

瞼の上に睡魔は重く圧し掛かって来るのだが、いざ瞼を下ろすと信のことを思い出して、睡魔が消え去ってしまうのだ。

ふらふらの状態でも槍の鍛錬を欠かさない主を、家臣や兵たちは大いに心配していた。

見かねた番陽が「一日で良いからお休みください」と槍を置くよう王賁を説得するのだが、今の王賁にとっては体を動かしていた方が楽だったのだ。

信のことを考えずに済む時間を設けないと、苦しくて身動きが出来なくなってしまいそうになる。

 

戦友

そんな日々が続いていたある日、蒙恬が王賁の屋敷を訪れた。

恐らく関常辺りが手配したのだろう。それでいて、休ませるように説得してくれと頼まれたに違いない。

屋敷の広い庭で、王賁は相変わらず槍を振るっていた。相変わらずだなと蒙恬が肩を竦める。

「せっかく祝い酒持って来たのに、俺一人で全部飲んじゃおうかな」

祝い酒という言葉に、王賁は槍の穂先を蒙恬に突きつけてやろうかと考えた。

ただでさえ眉間に皺が寄っていたのに、ますます皺が深まる。

「まったく…こんなにおめでたい話だっていうのに、賁くんはなんで怒ってるのかなー?」

手酌で酒を杯に注ぎ、蒙恬が苦笑を浮かべる。

「…あのバカ女の勝手が過ぎるからだろうが」

酒を口に含もうとしていた蒙恬がぴたりと動きを止めた。

「は?信が何かしたの?」

蒙恬の問いに何も答えず、王賁は奥歯を噛み締める。

何度か瞬きを繰り返してから、蒙恬が口を開く。

「…賁って、実は結構な女泣かせ?今までもそうだったの?」

王賁は槍の構えを解いた。

「何がめでたい話だ。よりにもよって、あの女…父との縁談を受け入れるなど…」

「………」

蒙恬はなぜ王賁が怒っているのか合点がいったようで、「ははあ」と頷いた。

「王翦将軍と信が、ねえ…」

「父も父だ。なぜあの女を嫁にしようと思ったのか…」

「愛に年齢は関係ないんだよ、王賁」

蒙恬が言うと、妙な説得力があるから不思議だ。

しかし、王翦と信が愛し合っている図など微塵も想像が出来ない。

今自分がこうしている間にも、信は父の寵愛を受けているのかもしれない。

息子である自分の将軍昇格の時にも一声も掛けなかったあの男が、信には愛の言葉を囁いているのだろうか。想像するだけで反吐が出そうだった。

「で、信とはいつから会ってないの?」

「…先月の祝宴からだ」

酒で喉を潤した蒙恬があははと笑った。

「じゃあ、全然会ってないんだ?大変な時期なのに、信ってば、可哀相だなあ」

「………」

女好きの蒙恬はあくまで信の味方をするらしい。

これ以上、蒙恬の話を聞いても無駄だと思い、王賁は休めていた手で再び槍を握った。

「それじゃあ、つまり、王賁は信に興味失くしたってことで良いんだよね?」

腰を低く降ろして槍を身構えた時、蒙恬の言葉に王賁のこめかみにふつりと青筋が浮かび上がる。

その問いに王賁が返事をするよりも先に、蒙恬は満面の笑みを浮かべた。

「てことは、俺が信を嫁にもらっても問題ないってことだよね?」

「貴様…」

まさかの言葉に、王賁が憤怒する。

彼の憤怒を煽るかのように、蒙恬はけらけらと笑って言葉を続けた。

「だって信から破談を言い渡された・・・・・・・・・んでしょ?それでいて、落ち込んでる信を慰める大役までもらっちゃって、夫になるなんて…こんな美味しい話ないでしょ。今の信なら、きっと一晩かければ口説き落とせるよ」

相変わらず口の減らない奴だ。しかし、破談という単語を聞いた王賁が、些か呆気にとられた表情になる。

「…待て、何を言っている?なぜ俺が、あの女から破談を言い渡された立場になっている?」

当然の疑問を口にすると、蒙恬が杯に酒を注ぎ足しながら口を開いた。

「なぜって…あちこちで噂になってるよ?王翦将軍が、自分の息子と信を結婚させるって」

「――ッ!?」

これにはさすがの王賁も狼狽し、蒙恬の言葉を頭で理解するまでに、僅かに時間が掛かった。

(俺と信を結婚、させる…?)

おかしい。王翦が信に縁談を申し込んで、彼女がそれを受け入れたのではなかったのか。

王賁は全身の毛穴から一気に嫌な汗が噴き出るのを感じていた。

まるで敵の罠に嵌められて絶体絶命の危機に陥ったような、死地にいるような感覚だった。

―――王翦があちこちで話をしている。…信と家族になれるだなんて、良かったじゃないか。

あの時の宴で、飛信軍の副官である羌瘣が確かそう言っていた。

彼女の言葉を今改めて考えると、王翦と信が結婚するとは一言も言っていない。

信と家族になるというのは、王翦と彼女が結婚することで、自分が信を母と呼ばなくてはならないことを指しているのだと誤解していたのだ。

文字通り言葉を失い、顔面蒼白になっている王賁に、酒の酔いが回って来た蒙恬が大声で笑う。

「あははははっ!賁のそんな顔、初めて見た!…でも、いいよね?信から破談を言い渡されたんだから、この話はなかったことに…」

「なっていない!!」

感情が爆発し、王賁は握っていた鍛錬用の槍を真っ二つに折った。

本気で彼が怒っていることを察して、蒙恬の表情が強張る。

「くそっ、父上もあの女も…!一体なぜ、俺抜きで話を進めるッ…!」

王賁の言い分はいくつかあった。

王翦がどうして自分と信の結婚を広めていたのか。いつの間に自分と信の関係に気付いていたのか。信の耳にも結婚の話は入っているだろう。

同意の上で体を重ねたとはいえ、結婚の話など微塵も出していなかったのに、信は納得しているのだろうか。

そこまで考えて、王賁はあの宴で信が話していたことを思い出した。

―――…喜んでくれると、思ったのに…

信は、王賁との結婚を受け入れてくれていたのだ。

だというのに、自分は父と信が結婚すると勝手に勘違いして、彼女に酷い言葉を投げつけてしまった。

王賁は眩暈がして、膝から力が抜け落ちそうになった。

愕然としている王賁を見て、それまで笑っていた蒙恬の顔から表情が消える。

「…え?まさか本当に知らなかったの?」

返事をするのも億劫で、王賁は沈黙を貫いた。

「それじゃあ、なんで信が具合悪いかも知らないってこと?」

「は?」

具合が悪いとはどういうことだ。

あの宴の席では王賁に怒鳴っていたが、まさか体調が優れないのは、自分が酷い言葉を投げつけてしまったからだろうか。

罪悪感で胸が針に突かれたように痛む。

蒙恬がぐいと酒を飲むと、呆れたように肩を竦めた。

「妻のことも大切に出来ないような頑固男が、父親・・になるなんてねえ…」

皮肉っぽく話す蒙恬の言葉に、王賁ははっとする。

彼が夫ではなく、父親と言った理由に、まさかと息を飲んだ。

宴の席で、信は普段とは別人のようにめかし込んで来る。

王騎と摎からそう言った場の嗜みについては口酸っぱく言われていたのだと過去に言っていた。

そういえば、あの宴で信は普段以上に布をふんだん使った着物を着ていた気がする。まるで体の線を覆うような着物だった。

普段はきっちり巻かれている腰帯も緩めのものが使われていた。

加えて、手巾で口元を抑えていた彼女の姿を思い出し、王賁はいよいよ膝から崩れ落ちた。

「ちょっと、賁くん?大丈夫?」

心配そうに声を掛けるものの、蒙恬は手を貸そうとはしない。さらに追い打ちをかけるように、蒙恬は王賁に口を開いた。

「だから言ったじゃん、おめでたい話だって」

―――信は、王賁の子を身籠ったのだ。

気づけば王賁は駆け出して馬に跨っていた。

ほとんど無意識で、一刻も早く信に会わなくてはという想いだけで王賁は動いていた。

蒙恬が酒を飲みながら「飛信軍と王騎軍に打ち首にされないように気をつけてね」と呑気に手を振って、遠ざかっていく王賁の背を見送る。

一体どこで二人がすれ違っていたのかは分からないが、二人とも大切な友人なのだから末永く幸せになってほしい。

蒙恬は杯に酒を注ぐと、空を見上げた。

「…きっと亡き将軍たちもお祝いしてくれてるよ、二人とも」

雲一つない、透き通るような青色を帯びた空がどこまでも広がっていた。

 

回想その一・仲間

気持ち悪い。

普段なら食事の香りを嗅ぐと空腹が刺激されて、早く食べたいという気持ちが現れるのに、ここ最近は全くそんな気になれなかった。

食べ物の匂いを嗅ぐと、気持ち悪さが吐き気となって込み上げるのだ。

屋敷で食事の支度が始まる頃になると、信は匂いから逃げるように屋敷を抜け出すようになっていた。

そんなことを朝昼晩と続け、食事もまともに喉を通らない。

どれだけ空腹でも、吐き気が勝ってしまうのだ。むしろ空腹さえも気持ち悪さを煽る原因になっていた。

鍛錬を続けようとしても、食事が摂れないせいか、武器を振るう気力もない。

こんなことは生まれて初めてだった。もしかしたら得体の知れない病に侵されているのだろうか。

まともに食事を摂れていないはずなのに、下腹部が膨らんでいる矛盾に、信は悪い病気なのではないだろうかと不安に思った。

兵たちの士気を落とさないように、何ともないふりをしていたが、さすがに連日食事が摂れないことで、信の体調の悪さに気付き始める者たちも出て来た。

一番初めに気づいたのは、信の妹同然である河了貂だった。

信が河了貂に症状を相談すると、彼女はぎょっとした表情になり、すぐに従者たちを通して医師を手配してくれた。

やはり悪い病気なのだろうかと信が肩を落としていると、河了貂が小声で信に尋ねて来る。

「あのさ、信…この前、王賁の屋敷に行ってたよな?確か、王翦将軍が尋ねて来た次の日…」

「ん?ああ、将軍昇格の祝いにな。それが?」

河了貂が言いにくそうに口をもごもごと動かしていたので、信は小首を傾げた。

「その…王賁と、恋仲になった…とか?」

恥ずかしそうに小声で尋ねる河了貂に、今度は信がぎょっとした表情を浮かべた。

「なっ、なな、なんで分かった…!?」

あの夜に王賁と幼馴染であり、戦友である関係の一線を越えてしまったことは誰にも話していない。

だというのに、河了貂は信の身に起こっている症状だけでそれを見抜いたというのか。

信が驚いていると、河了貂は顔を赤らめながら、しかし、ほっと安堵した表情を浮かべる。

「まずは医者に診てもらおう!」

「?ああ…」

河了貂がころころと表情を変えていた理由は、医師の診察で分かった。

ここ最近、信の身に現れた症状を聞いた医師が下腹部に触れ、子を身籠っていると告げたのだ。

間違いなく、王賁の子だ。

それまでは悪阻に苦しんでいた信だったが、王賁の子を身籠っているのだと知ると、その苦しみなど微塵も辛くないと思えるようになっていた。

ついこの間、幼馴染と戦友の関係を越えたばかりだったのにと信は動揺したが、それを上回ったのは喜びだった。

これから子が大きくなるにつれて、腹も膨らんでいくだろう。

早い内に王賁に言わなくてはと思うのだが、信にはある不安があった。

このことはまだ誰にも言わないで欲しいと、医師や河了貂たちに口止めをし、信はすぐに書簡を出した。

それは子の父親である王賁ではなく、彼の父親である王翦へ宛てた書簡だった。

 

回想その二・義父

王騎の屋敷に出向いた王翦は、普段通り仮面で顔を隠していた。

正直、来てくれるか分からなかったので、信は彼が屋敷を訪ねてくれたことに安堵する。

信は王翦と二人きりで話したいことがあるのだと、人払いを頼んだ。

「突然呼び出して悪かったな」

王翦と会うのは、彼の縁談の申し入れを断った以来だ。

彼には何人か妻がいる。王賁の母親に当たる女性も、そのうちの一人だ。

どうして自分を妻にしたいなどと言い出したのだろうか。信には全く心当たりがなかったし、王翦の考えていることが分からなかった。

「…縁談の返事を取り消すか。王騎の娘よ」

「あ、悪い。そうじゃないんだ」

顔の前で手を振った信は、すぐに本題に入ろうと真剣な表情になる。

彼女の表情の変化を察し、王翦は何の話だと表情を崩さぬまま身構えた。

「…俺は王騎将軍と摎将軍の養子だからよ、王家のことをよく分かってねえんだ。その…まだ本人から承諾された訳じゃねえんだけど…」

すうっと信が息を深く吸って、王翦の瞳を真っ直ぐ見据える。

「俺が、王賁の妻になるのって…問題ねえのか?」

信が自分の腹に手を当てながらそう問い掛けたことに、王翦が何度か瞬きを繰り返す。

「………そなた、倅の子を身籠ったのか」

子の話など一言も話していないというのに、王翦は鋭い。信は顔を赤らめながら、こほんと咳払いをする。

「ま、まあ、そういうことだ。王賁には、まだ伝えてねえけど…」

不安そうに信の眉が下がる。

「…もし、王家同士の婚姻に問題が生じるっていうんなら、俺はこのまま独りで王賁の子を産む。とはいえ、王賁の血を継いでるんだから、あんたの孫になるし、王家の子孫だ。然るべき場所で育ててもらうのが一番だろ」

信の不安とは、自分と王賁の立場ゆえのものだった。

王騎と摎の養子である信は、正式な後継者には当たらないのではないかいう不安を抱いていた。

しかし、自分の腹にいるのが、王賁の血を継いだ子であることは間違いない。

養子である立場ゆえに、信は名家である王家から、王賁との結婚を反対されるのではないかと考えていたのだ。

しかし、子どもに罪はない。

王家から反対されるのであれば、自分が産んだことは内密にして、王賁のいる王家で育ててもらうのが適切だろうと思っていた。

きっと王賁に子を身籠ったことを告げれば、障害があったとしても、彼は構わず信を妻にすると言うだろう。

王賁の生真面目な性格が昔から変わりないことから、信はそう読んでいた。

だからこそ、信は王賁に身籠った事実を告げる前に、王翦に相談することにしたのだ。

「………」

二人の間に重い沈黙が流れる。信は黙って王翦の返事を待っていた。

やがて王翦がゆっくりと口を開く。

「…何も問題はない。王賁と結婚せよ、王騎の娘」

「えっ」

正直、名家のいざこざに対する知識が一切なかった信にとって、それは予想外の返答だった。

「歓迎するぞ。我が血族に、そなたのような娘を正式に迎えられることをな」

「あ、ああ…」

王翦は相変わらず表情を変えないままでいるが、不思議と声色がいつもより柔らかく感じられる。

いつも厳しい目つきも、何だか穏やかに見えた。

緊張感が一気に抜けて、信は乾いた笑いを浮かべる。

「…もしも倅に飽きることがあれば、その時は私の妻として迎えてやろう」

いきなり王翦の指が信の顎を掴んで持ち上げたかと思うと、無理やり目線を合わせられた。

「無論、今からでも私は構わぬが?」

緊張感が抜けたせいか、すっかり普段通りに戻った信はカカカと笑う。さり気なく王翦の手を払いながら、信は首を横に振った。

「悪いけど、それは一生ねえよ。ま、ケンカした時は間に入ってもらうかもしれねえけどな」

王翦が穏やかな瞳のまま、信を見下ろしていた。

「………ふん」

踵を返して、部屋を出て行く王翦の後ろ姿を見て、信は再び己の腹をそっと擦った。

回想その三・幸福

悪阻はまだ続いており、信は口と鼻を覆うための手巾を手放せない日々が続いていた。

食事の匂いを感じると、反射的に気持ち悪さが込み上げる。

時間が経てば少しずつ落ち着いて来ると医師から言われていたが、悪阻にも個人差があるらしい。信は長引いている方だった。

しかし、少しずつ下腹部が膨らんで来るのが分かると、それだけで悪阻のつらさなど吹き飛んでしまう。

次に王賁に会った時こそ、身籠ったことを伝えなくてはと考えていた。

書簡で伝えることも考えたのだが、できれば自分の口から伝えたかったのだ。

口止めはしなかったので、もしかしたら王翦が先に伝えてしまうのではないかと思った。

しかし、もし王翦が伝えたとしたら、生真面目な王賁は馬を走らせて事実を確認しに来るだろう。

それがないということは、王翦も信が自ら伝えることを察しているに違いない。

不愛想ではあるが、相手の動きを考えるのを得意とする男だ。

無事に子を産んだ暁には、王翦に孫を抱かせなくてはならないなと信は考える。

いつも仮面で覆われている仏頂面が孫の顔を見て緩む姿を想像すると、思わず笑みが込み上げた。

(みんなびっくりするだろうなあ…)

自分も大将軍という座から一度身を引かなくてはならない。

まさか自分が子を産むことになるだなんて、女としての生を全うすることは諦めていた信は、今でも信じられなかった。

最愛の男と肌を重ね合い、子を授かる。それがこんなにも幸福なことだなんて初めて知った。

腹の下で眠っている我が子の顔は見えないが、奇跡にも等しい生命の誕生に、ただ感謝するばかりだ。

とはいえ、出産を終えてからもすぐに戦場に出られる訳ではない。

しばらくは軍師の河了貂、副官の羌瘣と将たちに飛信軍の指揮を頼むことになるだろう。

河了貂と羌瘣には既に王賁とのことを伝えているのだが、二人とも心から祝福してくれた。

重臣以外の飛信軍と王騎軍の兵たちはまだ身籠ったことは伝えていないし、子の父親が王賁であることも当然伝えていない。

正直、飛信軍も玉鳳軍も隊だった頃には、性格の不一致から兵士同士で争いが絶えなかった。

信と幼馴染という関係を知りつつも、王賁を嫌っている兵も多かったので、全員から祝福されることはないだろうなと信は苦笑する。

しかし、子を授かった以上、王賁の妻になるのが道理だ。

(…政たちにも伝えておかねえとな)

戦に出られなくなる旨を書簡に記し、秦王であり、親友の嬴政へ届けるのだった。

回想その四・友人

此度の論功行賞で、王賁の武功が評価されていたことに、信は自分のことように喜んだ。

将軍になってからも王賁の活躍は凄まじい。

もしかしたら自分が戦から身を引いている間に、彼が自分の大将軍の座に就くのではないだろうか。それでも良いかと信は嬉しく思っていた。

論功行賞が終わり、戦の勝利を祝う宴が始まった。

豪勢な食事の匂いが辺りに漂って来ると、信は手巾で口と鼻を覆い、匂いから逃げるように廊下を歩く。

「あっ」

廊下の向こうに、論功行賞で将たちを労っていた嬴政の姿があった。宴の席に出席するために着替えに行くのだろうか。

信は嬴政の名を呼びながら、大きく手を振った。

「おーい、政!」

信の声に気付いた嬴政がはっとした表情を浮かべる。

すぐに嬴政の下へ向かおうとすると、なぜか血相を変えて嬴政が駆け出した。いつもなら信が駆け寄るのに、今日は逆である。

慌ただしく嬴政が廊下を走る姿に、共にいた昌文君がぎょっとした表情を浮かべていた。

大王ともあろう男が廊下を走る姿に信も驚いていると、目の前にやって来た嬴政は信の両肩を掴んだ。

「身重の体で走るな!大事な時期だろう」

事前に送られていた書簡で信の妊娠を知っていた嬴政は、本気で心配しているようで、目をつり上げている。

「わ、悪い…」

「…いや、おめでとうが先だったな、信」

嬴政の祝福に、信は照れ臭そうな笑みを浮かべた。

急に走り出した嬴政を追いかけて来た昌文君が信の姿を見るや否や、なぜかその瞳に涙を滲ませている。

「なに泣いてんだよ、昌文君のオッサン!」

目頭を指で押さえながら、昌文君は嗚咽を堪えている。

感極まると涙ぐむ男であるのは知っていたが、顔を合わせただけで泣かれるのは初めてのことだった。

「ええい、嬉し泣きじゃ!王騎も摎も、きっと喜んでおるわ…!」

両親の名前に、信ははっと目を見開いた。

そうだ。身籠った子は王翦と王賁の亡き母だけではなく、二人の孫にもあたるのだ。

信が照れ臭そうに頭を掻いていると、嬴政が思い出したように口を開いた。

「婚姻の祝宴はどうするのだ?」

彼の問いに、信はばつの悪そうな顔になる。

「いやあ、それがさ、…身籠ったことを、まだ王賁に言ってなくてよ…これから言うんだ」

「なに?」

まだ王賁に妊娠を告げていないという事実に、嬴政と昌文君が目を丸めた。

「身籠っていることが分かってから、もうそれなりに経っただろう。大丈夫なのか?」

昌文君が不安そうに眉を寄せた。

そうなんだけどよ、と信が目を逸らす。

「あいつ、将軍になったばっかりで、今回の戦に備えてたし…なんていうか、重みになるんじゃねえかって…」

「………」

「あ、あと、王家同士の婚姻になるから、養子の俺にはその辺の事情がさっぱりで…王翦にも色々聞かなきゃならねえこともあって…それで…」

打ち明ける機会がどんどん先延ばしになってしまったのだと自白した信に、嬴政はやれやれと肩を竦めた。

「それなら、なおさら早く伝えてやれ。愛しい女が身籠ったと聞いて、喜ばぬ男などいないだろう」

「…うん。政、俺…」

信が申し訳なさそうに、嬴政を見上げる。

「戦のことは心配するな。他の将たちだってお前に引けを取らぬ力を持っている。お前は無事に子を産むことだけを考えていればいい」

戦から身を引かなくてはならないことに、信が不安を抱いていることを、嬴政は書簡が届いた時から察していた。

安心させるように、嬴政は彼女に微笑みかける。

「子を産むのは、戦で受ける痛みなどと比べ物にならないというぞ。医師団の手配をするから、産気づく前には咸陽宮に来い」

大王からの温かい言葉に、信は思わず笑みを浮かべて、供手礼をする。

「じゃ、王賁のやつを驚かせて来るわ!」

「気持ちは分かるが、くれぐれも走るなよ。王賁に別の意味で気苦労させるぞ」

信が笑顔で手を振り、王賁の姿を探しに宴の間へと戻っていく。

その後ろ姿を眺めながら、嬴政と昌文君は温かい気持ちで満たされていた。

回想その五・婚約者

―――身籠ったことを告げようとしていた信を待っていたのは、王賁の罵声だった。

「貴様ッ、一体何を考えている!」

まだ何も告げていないのに怒鳴られた信は、びくりと肩を竦ませる。

憤怒しているを王翦を見て、信は狼狽えた。

「な、何って…」

王賁が信の下を尋ねることはなかったが、もしかして王翦から身籠った話を聞いたのだろうか。それで婚姻の話が伝わったのかもしれない。

「…大王にも、その報告をしていたのか」

嬴政と話していたのを見ていたのだろうか。信は小さく頷く。

一体王賁は何を怒っているのだろう。

身籠ったことを告げるのが遅くなったことよりも、別なことに対して怒っているような気がする。

「誰の許可を得て婚姻するつもりだッ!このバカ女がッ!」

王賁の言葉を聞いた信は、頭の中が真っ白になり、絶句した。

彼は、自分と夫婦になることを拒絶したのだ。

力強く掴まれた肩ではなく、胸に鋭い痛みが走る。戦場で受けた傷などとは比べ物にならない痛みに、涙が溢れて来る。

「…喜んでくれると、思ったのに…」

初めて口付けを交わし、身体を重ね合ったあの夜のことが瞼の裏に浮かび上がる。

破瓜の痛みに涙する自分を抱き締めながら、愛していると何度も囁いてくれたのに、あの言葉は嘘だったのだろうか。

王翦に縁談を申し込まれたことに王賁が怒ったのは、自分を愛してくれているからこその嫉妬ではなかったのか。

色んな考えがぐるぐると頭を回り、信の中でそれが大きな音を立てて爆発した。

「お前の言う通り、俺がバカだったッ!」

裏切られた気分になり、信は涙を拭うこともせずに、王賁に怒鳴りつけた。

「もうお前なぞ知らんッ!」

王賁から返って来た言葉に、信は完全に彼が自分を見限ったのだと察する。

手が白くなるほど、信は拳を握り締めた。爪が皮膚に食い込み、血が滲んでいく。

昔のように安易に手を出すほど、信はもう子どもではなかった。

「もう、…お前となんて一緒にいられねーよッ!」

顔も見たくないと信は踵を返す。

嬴政に身重の体で走るなと釘を刺されたばかりだったが、耐え切れなかった信は走ってその場から逃げ出す。

背中に王賁の視線を感じていたが、信は一度も振り返ることはしなかったし、王賁が追い掛けて来ることもなかった。

自分は、王賁に見限られたのだ。泣きながら、信はその事実を受け入れていた。

和解

…そんな最低男が、今、信の前で頭を下げている。

床に額を押し付け、手足が汚れるのにも構わず土下座をしている王賁に、信は絶句していた。

名家である王家の家に生まれたことから、何よりも尊厳というものを誇りに持っていた王賁が、自分に頭を下げているのだ。

「え、……えっ?」

混乱するばかりで、信はなんと声を掛けるべきか分からず、頭を上げろとも指示を出せなかった。

…遡ること一刻ほど前。

部屋で王翦に送る書簡の準備をしていた信の耳に、何やら騒がしい物音が聞こえた。

血気盛んな兵たちが外で揉めているのだろうと思っていた。

鍛錬の指揮も今は信頼できる羌瘣たちに任せているため、気になりはしたが、顔を出すことはやめておいた。

悪阻でろくに食事も摂れずにいる信を心配した河了貂にも、「軍のことは俺に任せて、信は絶対に手を出すなよ」と口酸っぱく言われていたのだ。

王賁との縁談は破談になったことだし、とはいえ王賁の子を身籠ったのは事実だ。

無事に子を産むまでは、戦から身を引かなくてはならない。

兵たちにその事実をどう告げるべきか、信は宴の夜からずっと悩んでいた。

悩み過ぎのせいか頭も痛いし、王賁に酷い言葉を投げつけられてから胸の痛みが取れない。前に増して、食欲がさらに落ちてしまった。

それでも、時間が経つにつれて、腹の中で子は成長していく。

もう以前のように男のような下袴も穿かなくなった。

腹部を締め付けるものはやめた方がいいと医師や侍女に言われてしまい、ここ最近は苦手な女物の着物を毎日着ている。

いつも鍛錬がしやすいように着ていた下袴を着なくなった信に、違和感を覚えている兵たちもいるはずに違いない。

隊の頃から王賁のことを良く思っていなかった兵たちのことを考えると、今回のことをきっかけに何か暴動を起こすのではないかという不安があった。

とりあえず、王賁と破談になった旨を、王翦に伝えなくてはならない。

子を産んだ後は、王家の血筋である王賁との子を、差し出すしかないだろうと考えていた。

書簡にそのことを書いていると、制止する侍女たちを押し退けて、なんと王賁が信の部屋に飛び込んで来たのだ。

「どうかお引き取りを!」

「二度とこの敷居を跨がれぬよう!」

信が幼い頃から屋敷に仕えてくれている年老いた侍女たちが、血走った目をして王賁の腕や着物を掴んでいた。

信が王賁の子を身籠ったことと、婚約が破談になったことは重臣である彼女たちに伝えていた。

そのせいか、彼女たちは王賁をまるで目の敵にして追い返そうとしているらしい。

まさか屋敷に、しかも何の連絡もなく王賁が突然やって来たことに、信は彼の目的が分からず、ただ驚くことしか出来ない。

「放せ!俺はただ話をしに来ただけだッ」

憤怒している侍女たちに引っ張られながら、王賁が叫ぶ。

余裕のない表情を浮かべている王賁を見て、信は一体何の話をしに来たのか気になった。

「…悪いけど、通してやってくれよ」

「信様ッ!」

信の代わりに王賁に怒りをぶちまけていた侍女たちだったが、信が「頼む」と催促したので、大人しく王賁に道を開けた。

人払いを頼み、信は王賁と二人きりになる。

王賁は怒っているような、悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべていたが、信の部屋へと入った。

背後で扉が閉まると、息苦しいほど重い沈黙が流れる。

書きかけの書簡を完成させるために、信は椅子に腰かけて再び筆を取ったのだった。

最後の一文を書いていると、背後で王賁が動いた気配を感じる。

わざわざ屋敷にまでやって来たのだから、向こうから話を始めるのだろうと思っていた。しかし、いつまでも声は掛からず、痺れを切らした信が振り返る。

そこにあったのは、額を床に擦り付ける勢いで頭を下げている王賁の姿であった。

「え、……えっ?」

あからさまに信が狼狽えていると、王賁は少しも顔を上げない。

「…俺が悪かった」

王賁の謝罪を聞き、信は瞬きを繰り返す。その謝罪の意味が一体何を示しているのか、信には分からなかった。

狼狽えている信の顔を見ることもなく、王賁は言葉を続ける。

「…俺は、お前が父の縁談を受け入れたのだと誤解していた」

「へッ!?断ったって言っただろ!」

王翦に縁談を申し込まれたことも、それを断ったことも王賁に告げたはずなのに、一体どうしてそんな勘違いをしたのだろう。

相変わらず顔を上げない王賁だが、自尊心の高い王賁がたった一人の女に頭を下げていることもあって、苦虫を嚙み潰したような顔をしているのだろうなと信は思った。

(……なんだよ…)

それまで感じていた不安が溶け出していくのを感じていた。目頭がじわりと熱くなる。

「じゃあ…誤解だったってことか?」

「ああ」

王賁が自分を愛していてくれたのは、本当だったのだ。

どうして王翦の縁談を受け入れたという誤解をしたのかは分からないが、信はずっと胸に感じていた痛みがいつの間にか消え去ってしまったことに気がついた。

本当はすぐにでも王賁の胸に飛び込みたかった。

しかし、王賁がこんな風に頭を下げているのは初めてで、勝気になった信は少しからかってやろうと考える。

王翦に渡すはずの書簡はほとんど書き終えてしまった。最後に自分の名前を記せば完成である。

ほぼ完成状態である書簡を手に取り、信はふんぞり返る。

「い、今さら言われたって…!王翦将軍に、破談になったって書簡を出すところだったんだぜ」

「………」

父である王翦の名前に反応したのか、王賁がようやく顔を上げる。普段よりも眉間の皺が三倍寄っていた。

立ち上がった王賁は腕を伸ばし、信の手から書き上げたばかりの書簡を奪い取る。

「あっ、何するんだよ!」

返せと手を伸ばすが、王賁は信に背を向けてその書簡に目を通している。

文字を追っているうちに、王賁の表情がみるみる曇っていくのが分かった。

当然だろう。書簡には「王賁と自分は婚姻を結ばず、身籠った子はそちらに渡す」と記しているのだから。

王賁のこめかみに青筋が浮かび、信が制止する前に、その竹簡の紐が引き千切られた。

「あーっ!」

繋がっていた竹簡がばらばらと床に散らばり、信が何をするんだと王賁を睨み付ける。

こうなればもう書き直すより他にない。

しかし、目をつり上げた王賁に睨み返されると、あまりの迫力に思わず口を噤んでしまった。

「―――なぜ身籠ったことをすぐ俺に言わなかった!!」

王賁の当然である問いに、今度は信が謝る番だった。

「わ、悪い…戦の準備で、気張ってると思って…」

「………」

納得いかないという表情を浮かべた王賁に、信は慌てて言葉を続けた。

「だって、将軍になってからの初めての戦だろ?…気負わせたく、なかったんだ…」

俯きながら言葉を紡ぐと、信の体がぐいと引き寄せられた。王賁に抱き締められているのだと分かり、信は驚いて目を見張る。

そういえば彼に抱き締めてもらえたのは、身体を重ねた翌日の朝が最後だった。

「…許せ。もっとお前のことを知るべきだったと、猛省している」

囁かれた言葉に、信は小さく頷いた。信もゆっくりと王賁の背中に腕を回す。

「あの、…俺も、もっと早く王賁に、伝えるべきだった……悪い…」

素直に謝ると、王賁の腕に僅かに力が入った。

互いに謝罪をして、仲直りをするのは、随分と久しいことだった。

王賁が信を王家と血の繋がりのない子だと罵り、信が王賁の頭を殴ったあの幼い頃以来だ。

「信」

優しい声色で名前を呼ばれて、信は王賁の顔を見た。

真っ直ぐな瞳で信を見据えると、王賁がゆっくり口を開く。

「俺と、結婚しろ。俺たちの子を父に渡す必要などない」

王賁の言葉に、信の瞳から堰を切ったかのように涙が溢れ出る。

「…こんな時まで命令口調かよっ!言われなくてもそのつもりだったっての!」

涙を流しながら笑った信を見て、ようやく王賁の口元にも笑みが浮かぶ。

穏やかな表情で、涙を指で拭ってくれる王賁に、信はますます惚れてしまった。

「…腹に」

「ん?」

「腹に、触れても良いか?」

王賁に問われ、信はもちろんだと頷く。

許可を得てから、着物越しに王賁が下腹部に触れた。

まだ胎動が分かるほどではないが、うっすらと膨らんでいるその腹の下に、自分と信の子どもが眠っているのだと思うと、とても不思議な心地になる。

まだ顔も見ていないというのに、これから自分が父親になるのだという重みが肩に圧し掛かった。

顔を上げると、信が嬉しそうな笑顔を浮かべている。

王賁は再び彼女の体を抱き締めた。

あまり腹を圧迫しないように気遣いながら、優しく腕の中に包み込む。

王賁の胸に顔を押し付けて、信は幸せな気持ちで胸が満たされていくのを感じていた。

仲間たちからの祝福

信と王賁がお互いの身体を抱き締め合いながら、幸福な気持ちに浸っていると、扉越しに何者かの気配を感じた。

「……おい、押すなって!」

「そっちこそッ…!」

扉の向こうが何やら騒がしい。聞き覚えのある声に、信は振り返った。

それまで穏やかな笑みを浮かべていたはずの王賁の表情が、普段と同じ不愛想なものに切り替わる。

「うわああッ!」

信が声を掛ける前に、扉が開いて、外にいた者たちが雪崩れ込んで来た。

河了貂と羌瘣を先頭に、祟原、松左、尾平や渕…その他にも、飛信隊が結成された時からの見知った顔ばかりだ。楚水の姿もある。

人払いを頼んだはずなのだが、どうして彼らがここにいるのだろう。

「お、お前ら、何してんだよッ!盗み聞きかッ!?」

驚いた信が王賁の腕の中から慌てて抜け出して、全員に怒鳴りつける。

申し訳ないと最初に頭を下げたのは、さすが礼儀正しい楚水だった。

「王賁将軍が突然、信殿をお訪ねになったと聞き…その、私は止めたのですが…」

目を泳がせる楚水に、今度は河了貂が苦笑を浮かべながら前に出た。

「い、いやあ、俺と羌瘣も止めたんだぞ?でも、みんな信のこと心配してたから…」

一部の者にしか身籠ったことを伝えていなかったため、何も知らない兵たちは急に鍛錬にも姿を見せなくなった信を心配してくれていたらしい。

…もしかしたら、一部始終ずっと聞かれていたのだろうか。信は羞恥で顔を真っ赤に染めた。

(でも、さすがにもう隠し切れねえよな…)

確認するように、信が隣にいる王賁へ視線を向ける。

呆れたような顔で王賁は溜息を吐くと、彼は信の肩に手を添え、その体を抱き寄せながら口を開く。

「貴様らの将は、今日からこの王賁の妻となる。身重であるゆえ、しばらく戦には出られぬが、将が不在の間も手を抜くことなく鍛錬に励め」

必要最低限のことしか伝えない相変わらずな王賁の態度に、信は笑ってしまった。

つい先ほどまでの穏やかな表情や声色を、他の者には見せないでいてくれたことが、純粋に嬉しかった。

それが独占欲の類だと分かっていても、これからは正式に夫婦となるのだから、誰にも咎められることはない。

「信~!良かったなあ~!」

初陣の時に伍を組んだ時からの仲間である尾平が、みっともなく声を上げて泣き始める。

昌文君もそうだったが、年を食うと涙腺が脆くなるのだろうか。

祟原や松佐たちも穏やかな笑みを浮かべながら「おめでとう」と笑顔で祝福してくれた。

「他の兵たちにも言って回らねえとな…はは、今まで隠してたのがバカみてえだ」

仲間たちから温かい祝福を受け、信は憑き物が落ちたかのような、すっきりした表情で笑顔を浮かべた。

ここにいる者たちは、飛信軍がまだ隊だった時からの顔見知りだ。

もしかしたら河了貂と羌瘣が、彼らにだけ事前に伝えてしまったのかもしれない。

誤解だったとはいえ、王賁との婚姻が白紙になったことは一体どこから広まってしまったのか分からないが…結果良ければ全て良しとはこのことである。

「みんなに言って回るかあ」

他の兵たちにも伝えなくてはならないと思い、信は王賁と共に屋敷を出ようとした。

「あ、それは大丈夫」

安心させるように羌瘣がそう言ったので、信と王賁は目を丸めた。

「あーっ、二人とも、やっと仲直り出来たの?全く、世話が焼けるよねえ」

またもや聞き覚えのある声がして、もう一人の男が部屋に入って来た。蒙恬だった。

大分酒に酔っているようで、顔を真っ赤にして、上機嫌に笑っている。

片手に酒瓶を抱えているところを見ると、王賁の屋敷を訪れた時からずっと飲んでいるらしい。まだまだ飲み足りないようだ。

「王騎軍も、飛信軍も、玉鳳軍も、楽華隊も、みーんな、お祝いしてくれてるよ」

蒙恬の言葉を聞き、王賁と信は顔を見合わせる。

まさかと王賁は先に察したが、信は分からないようで、小さく首を傾げていた。

「貴様…本来は俺たちの口から話すことだろう」

「えー?だって、おめでたい話題なんだから、誰が言ったって一緒だよ~」

どうやら蒙恬が、信と王賁の結婚と妊娠の話題を既に広めていたらしい。

王翦も口々に広げていたようだったが、玉鳳軍と王騎軍と飛信軍の者たちに告げなかったのは、王賁と信が自ら伝えると考えていたからだろう。

「貴様…」

「そんな怖い顔しないでよー。俺からの祝辞だと思ってよ。ね?」

…確かに蒙恬が王賁の屋敷に尋ねて来なければ、信との誤解が解けないままだった。

もしかしたら今も王賁は一人で鍛錬を続け、信は王翦へ破談となった旨が記された書簡を届けるように使いを出していたかもしれない。

最悪の結末を回避することが出来たのは、蒙恬のおかげである。王賁は一応感謝していた。

普段なら無視するところだったが、王賁は真っ直ぐに蒙恬を見つめて、口を開いた。

「…感謝している」

「えっ!」「えっ?」

蒙恬と信がほぼ同時に聞き返した。なんだ、と王賁が二人を睨み付ける。

長い付き合いだが、蒙恬も信も王賁の口から感謝の言葉を聞いたのは初めてだったのだ。

驚いていた二人がにやにやとしているのを見て、王賁のこめかみに青筋が浮かび上がる。

「王賁が素直に礼を言ったよ!これは子どもが出来てからどんな風に変わるのか楽しみだねえ、信」

「はははッ、きっと親バカってやつになるぞ」

「…貴様らぁ…!」

目をつり上げた王賁に、信と蒙恬は大笑いしながら、子が生まれた後の王賁はきっと性格が丸くなっていくに違いないと話し合った。

その後、信と王賁は飛信軍と王騎軍の兵たちに正式に結婚と妊娠を公表し、盛大に祝福を受けた。

玉鳳軍への公表は、王賁が屋敷に戻ってから行ったのだが、玉鳳軍も二人の結婚を大いに祝福をしてくれた。

宿敵

その後、信は王賁の屋敷へ移り住むこととなった。

昔からお転婆が過ぎる彼女が、いつ人目を盗んで無理をするか分からない。

王賁は彼女を監視下に置くために、出産を終えるまで自分の屋敷に住まわせることを決めたのだ。

無茶をしないかの監視と言う名目があることを黙って、なるべく一緒に過ごしたいと告げれば、信は少し照れ臭そうに了承してくれた。

「馬車かあ…俺、馬に乗る方が好きなんだけどなあ」

「絶対に許さん。貴様の今の発言を告げれば、大王様から直々に乗馬禁止令が下りるぞ」

「政も王賁も心配性だよなあ…」

身重となった体では、以前のように馬に跨ることが出来ず、信は移動に制限が掛かったことに大層文句を言っていた。

もちろん子に何かあってからでは遅いと訴える王賁だけでなく、色んな者たちに説教をされてから、渋々納得したようだったが…。

嬴政も信が無茶をするのではないかと気にかけており、産気づく前には咸陽宮に来いと言ってくれたようだ。

医師団の用意をしておくという手厚い大王の気遣いに、王賁は信が大王に見初められなくて良かったと安堵したのだった。

信が屋敷に王賁の移り住む日が来ると、王賁は意外な来客に驚愕の表情を浮かべた。

王翦が訪ねて来たのだ。将軍昇格の時には一言も声を掛けなかった父が、どうして急に現れたのかと報せを受けた王賁は戸惑った。

一行が屋敷の門をくぐったところで、王賁はすぐに父を出迎えた。

王翦は護衛の兵たちも何人か引き連れていたが、誰一人として王翦と同じように馬から降りようとしない。

用はあるようだが、手短に済ませたいという彼の意志が現れていた。

王翦はいつもと変わらず、何を考えているか分からない瞳で王賁を見下ろしている。

「…王騎の娘と破談になると聞いた。兵たちが騒いでおったぞ」

その言葉に、王賁の眉間に僅かに皺が寄る。

「いえ、ただの噂でしょう」

色々と誤解が生じて大喧嘩したことは報告すべきではないと王賁は考えた。

これを機に、王翦がまた信に縁談を申し込むようなことがあったら厄介だ。不安の火種になるものはとことん消し去らなくてはならない。

噂だと聞いた王翦が、つまらなさそうに肩を竦める。

「そなたが要らぬというのなら、この王翦の妻にしてやろうと考えていたのだがな」

やはり王翦は信のことをまだ諦めていないらしい。王賁のこめかみに鋭いものが走る。

「要らぬと申した覚えはありません。それに、貴方には他にも妻がいるでしょう」

「その中に王騎の娘も加わるだけだ。そなたは、あの娘を母と呼ばねばなるまいがな」

少しも感情が灯っていない声のはずなのに、まるで自分の怒りを煽ろうとしているような言葉に、王賁は冷静になれと自分に言い聞かせた。

拳を強く握り、王賁は王翦を睨み付ける。

「信は俺の妻です。身籠っているのも、正真正銘、俺の子だ」

「………」

王翦がじっと王賁の目を見つめる。

普段から王賁の顔は仮面で覆われているが、彼は身内である自分にも素顔を見せたことはない。まるで身内にさえ心を許していないようだ。

そのせいか、王翦という人物がどんな人物であるかを、王賁も分からない時があった。

冷たい瞳の奥にある闇を見ると、足が竦みそうになることがある。

だが、ここで少しでも目を逸らせば、負けだと思った。

この男は戦と同じで、相手の隙を少しも見逃さない。もしも自分の心が揺らげば、そこを突いて信を奪っていくかもしれなかった。

だからこそ、決して目を逸らさず、王賁は奥歯を食い縛って、信は渡さないという意志を込めて睨み返す。

しばらく沈黙が続いていたが、先に沈黙を破ったのは王翦の方だった。

「…祝宴には、私の席を空けておくがいい」

手綱を握り直し、王翦は馬を動かす。どうやら用件は済んだらしい。

「……考えておきます」

あえて返事を保留にした王賁は、王翦の背中を見つめながら、いつの間にか額に滲んでいた嫌な汗を手の甲で拭った。

結末

夕食と湯浴みを済ませた後、寝台に腰掛けている王賁は、自分の膝の上に信を座らせ、彼女の体を後ろから抱き締めたままでいた。

既に一刻はこの状態のままである。

最近ようやく悪阻が落ち着いて来たらしく、信は以前通りに食事が摂れるようになっていた。

肉付きが戻って来た彼女の体を抱き締めたまま、王賁は彼女を放す気配を見せない。

「だーかーら、何もなかったって言ってるだろ。王賁だって見てたじゃねえか」

「………」

彼女の言葉を聞かなかったふりをして、王賁は背後から信の首筋に顔を埋めている。

意外と彼が嫉妬深く、そして甘えたがりな性格だと知ったのは身を結んでからだ。

しかし、それを嬉しく思いながら、信は王賁の胸に身体を預ける。

まるで誰にも渡すまいと言わんばかりに、王賁は信の体を、腹に負担を掛けないように抱き締めた。

―――王翦が王賁の下を訪ねた直後、信を乗せた馬車が到着した。

信が馬車から降りようとした時に、驚くことに王翦が馬から降りて、身重の彼女を随伴するように手を引いて歩いたのだ。

自分と話す時は馬上から見下ろしていたあの男が、信と話す時は馬から降りた。

それだけではなく、馬車から降りようとする信の手を引いたことも、さりげなく腰元に手を当てていたことも王賁は許せなかった。

信の手を引きながら、そして歩く速度も信に合わせながら、王賁の前までやって来ると、王翦は何も言わずに勝ち誇ったような瞳をして、今度こそ屋敷を出て行ったのである。

仮面で覆われた顔は微塵も表情を変えていなかったが、あの時の瞳は絶対に王賁を小馬鹿にしたものだった。

少しでも隙を見せれば、お前からこの女を奪い取ってやるという、宣戦布告にも近いものかもしれない。

それが王賁には憎らしくもあったし、同時に恐ろしくもあったのだ。

自分が父に適わないことを、心のどこかで分かっているからこその思いなのかもしれない。

そして先ほど、信から打ち明けられたのだが、彼女は子を身籠ったことを王賁に告げるよりも先に、王翦へ伝えていたらしい。

王家同士の婚姻となることから、王騎と摎の養子である自分が王賁の妻になることに、何か問題がないかを確認するためだったというが…。

王賁はその事実にも嫉妬し、信を抱き締めながら口を噤み…そして、今に至るという訳だ。

「んな心配しなくても大丈夫だって」

「………」

父に嫉妬したなんて一言も言っていないのだが、信は王賁が嫉妬したことに気づいたようで、なぜか嬉しそうな表情を浮かべている。

信の「大丈夫」は正直、信頼出来ない。

多くの死地を駆け抜けた彼女だが、敵の戦略に陥ってしまい、瀕死の状態で戻って来たことなど幾度もあった。

ここが戦場でないとしても、いつか王翦の策略に彼女が陥るのではないかと思うと、王賁が気が気でならない。

自分がこんなにも幼稚で、独占力の強い男だとは思わなかった。

「…王賁って、心配性なんだな」

意外な事実を発見した信が小さく笑った。

その通りだと王賁は言葉に出さずとも、彼女の体を優しく抱き寄せる。

まるで子どもを甘やかすように頭を撫でられる。普段の王賁ならば「やめろ」とその手を弾いていたのだが、今だけは信の好きにさせてやった。

それがどうやら信には新鮮だったようで、嬉しそうに王賁の頭を撫で続けている。

「不安なら何度でも言ってやるよ。…好きだぜ、王賁」

信に笑顔で告げられ、王賁の胸が高鳴った。

肩越しに目が合うと、照れ臭そうに信がはにかむ。

いつも兵たちに見せるような笑顔じゃなく、自分にだけ見せる恥じらいの表情だ。

これからもこの笑顔は自分だけのものだし、誰にも渡すつもりはない。

「一生放すつもりはないから、覚悟しておけ」

王賁はそう言うと、信の唇に己の唇を押し当てた。

正しく王賁らしい愛の言葉だなと信は笑った。

 

番外編(本編で割愛した初夜シーンなど)はこちら

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アナーキー(桓騎×信←那貴)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/那貴×信/無理やり/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

撤退不可

信は重い気分のまま、目を覚ました。体にはまだ昨日の疲労が残っている。

昨夜、桓騎とオギコがいなくなった後、兵たちに素行調査に失敗した旨を伝え、作戦続行か撤退かは今朝まで保留にし、兵たちにはしっかり休むように告げていた。

頭を悩ませていた信がようやく眠りについたのは日が昇り始めた頃だった。

那貴がいなければ桓騎の天幕に印がないという異変に気付けなかった。それに、あのまま調査を続けたとしても、ギュポーのせいで取り乱した所を捕らえられていたかもしれない。

そして桓騎とオギコがこちらの野営に現れた理由も謎のままだ。
もしかしたらこちらの動きを探っているのかもしれないと思うと、慎重にならざるを得なかった。

天幕を出ると眩しい朝陽が目に染みて、信は思わず顔をしかめた。

「…撤退だ」

出立の準備のために、天幕を片付けている兵たちに信は声を掛けた。

昨夜の失敗もあったことから、全員が納得したように頷く。他の兵たちと同じように、那貴も頷いていた。

「那貴、悪い。俺があそこで叫ばなければ…」

信は那貴の前に立つと、昨夜のことを改めて謝罪した。

ギュポーに対する拒絶反応だけはどうしようもなかったのだが、あの時に自分が叫ばなければ素行調査を続けられたに違いない。

大将軍という立場であっても、自分の非を素直に認めて謝罪する信の態度に、那貴はあははと笑う。

「今回は仕方ないさ。大王だって、あんたに危険な目に遭ってまで、成し遂げて欲しいとは思ってないはずだ」

「う…」

他でもない嬴政の頼みということもあって、しっかりと成果を持ち帰りたかったのだが、相手が悪かった。

蒙恬と王賁からも何かあればすぐに撤退するように釘を刺されていたし、信は此度の任務を諦めることにしたのだった。

「ま、あんたの頼みなら、大王様の前で桓騎軍の過去の行いを話してやってもいいぜ?」

「最初からそうすれば良かったよなあ…」

出立の準備が出来たと報告を受けた信は、兵たちに改めて撤退の指示を出す。既に桓騎軍も出立の準備を終えて動き始めているらしい。

「じゃあ、このまま戻るぞ。戻ったらすぐに北の河了貂たちと合流する」

兵たちは誰一人として嫌悪の表情を浮かべなかった。信が大いなる信頼を寄せられている証拠でもある。

楚と秦が南の平地で戦っている間を狙って、趙の李牧が北から攻めてくるかもしれない。予定の三日を待たずして合流する分には何も問題ないだろう。

昨夜の失敗を告げれば河了貂と羌瘣にバカにされそうだと、信は既に気が重かった。
三日目で自分たちの隊と入れ替わる百人隊も、後を追い掛けてこちらに向かっている。何事もなかったかのように彼らと入れ替われば、今回の作戦は終了だ。

誰一人として桓騎軍から被害を受けなかっただけ成功だと考えようと信は自分を慰めた。

桓騎軍たちが進んでいる方向とは反対の、来た道を戻ろうとすると、地響きと共に、背後から複数の馬の足音が聞こえた。

「百人隊、お前ら一体どこに行くつもりだ?」

桓騎だ。反射的に振り返りそうになり、信は寸でのところで留まった。

天幕を出てから、布で顔を隠していなかったのだ。

もう撤退をすると決めており、桓騎軍と接触せずに出立するつもりだったため、油断していた。こんな時に限って布を持っていない。

(信っ!)

彼女が布で顔を隠していないことにいち早く気づいた那貴が、さり気なく彼女の背後に立ち、自分の体で隠してくれた。

撤退を決めてからも、那貴は用心深く顔を隠していた。桓騎軍の執拗さを知っていたからこそだろう。

「まさか怖気づいて逃げようとしたんじゃねえだろうな」

振り返った信は、那貴の肩越しに桓騎の方を見た。
桓騎を中心に、側近である雷土、黒桜、摩論たちも揃っており、馬上からこちらを睨み付けている。

昨夜もいきなり現れていたが、どうして今朝になってまた来たのだろう。

「おい、隊長はどいつだ。逃げようとしたってんなら、足の一本落として本当に逃げられなくしてやるよ」

ドスの聞いた声で雷土が問うと、信たちにさらなる緊張が走った。

野盗の性分でもあるこういった脅し文句こそが、飛信軍と性格の合わない理由の一つだ。

百人隊を結成するにあたり、建前として一人の兵に隊長の役割を担わせていたが、素直にその兵を出す訳にはいかなかった。

桓騎軍に情という言葉は存在しない。
敵の領土にある集落は容赦なく焼き払い、財産と女を奪い、老人や子供であっても容赦なく虐殺する。

そこまで外道な行いをする者たちが、味方だからという理由で見逃すはずがない。本当に足を落とされることになるのではないかと信は不安を募らせた。

(さすがにもう諦めるか…)

意を決した信が正体を気づかれるのを覚悟して、桓騎たちの前に出ようとした時だった。

「あんたはここにいろ」

信を隠すように彼女の前に立っていた那貴が突然、顔を覆っていた黒い布を外したのだ。

(那貴ッ!?)

何をしているのかと信が目を見張っていると、彼は後ろ手で、外した黒い布を信に握らせる。
これで顔を隠せというのか。しかし、それでは那貴の正体が気づかれてしまう。

信が戸惑っていると、那貴が颯爽と歩き始め、桓騎たちの前に立ちはだかった。

「…俺が隊長だ」

「那貴ッ?なんで、てめえがここにいる!」

雷土を中心に、桓騎軍の者たちがざわめいた。彼らの視線が那貴に向けられている隙に、信は彼から受け取った布で顔を隠す。

「飛信軍に入っておいて、こんな百人隊の隊長とは、随分と出世したじゃないか」

皮肉交じりに黒桜が那貴に言葉を掛けた。

「あんまり一つのところに留まるのは好きじゃなくてね。で?なんだっけ?」

とぼけるように那貴が肩を竦めると、雷土が背中に背負っていた剣を手に取る。

「お前ら、まさか逃げようとしたのか?もしそうなら、てめえの足を落とす」

「相変わらず物騒だなあ、桓騎軍は。出立の準備が少し遅れただけだろ」

「さっさと足を出せ」

馬から降りた雷土が那貴に剣の切っ先を向けるのを見た途端、信は駆け出していた。

「やめろッ!」

那貴を庇うように、信は彼の前に立つ。雷土に剣の切っ先を向けられてもなお、信は怯むことなく彼らを睨み付けていた。

「なんだてめえは」

「蒙虎…この隊の副長だ」

用意していた名を名乗る。蒙という姓を聞いた雷土が眉間に皺を寄せた。

「…てめえ、まさか蒙驁将軍の身内か?」

「ああ。だが、訳ありで迷惑を掛けるから詳しいことは言えない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

蒙恬が考えておいてくれた台詞を言うだけだったのだが、信は布の下の顔を緊張で強張らせていた。

目の前にいる雷土ではなく、背後にいる桓騎からのねっとりとした視線に、信は背中に嫌な汗を滲ませた。

見つめられているだけなのだが、全てを見透かしているようなあの瞳に、体がまるで拒絶反応を出しているようだ。

那貴が目の前に現れた時も、桓騎だけは表情を変えず、微塵も動揺していなかったことに信は気づいていた。

蒙驁将軍の身内だという言葉を聞いた雷土が背後を振り返り、まるで知っているかと確認するように桓騎を見る。

しかし、桓騎はその口元を楽しそうに緩ませるだけで何も答えない。

「…さっさと行くぞ。次に遅れたら、最後尾の兵の首を落とす」

桓騎が手綱を引いて馬を進ませたので、他の側近たちは大人しく彼の後を追って行った。雷土だけは何か言いたげに那貴と信の方を睨んでいたが、黙って後を追い掛けていく。

「…こうなりゃ仕方ねえ。出立するぞ!伝令にもそう伝えろ」

信は低い声で全員に指示を出した。桓騎たちに目をつけられたこの状態でさすがに撤退は出来ない。

疑いを掛けられてしまった以上、今から撤退を始めれば確実に追撃されるだろう。内輪揉めで楚国との戦に影響が出ることだけは何としても避けたかった。

まさかここで桓騎に目をつけられることになるとは思わず、信は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「ま、こうなりゃ仕方ないな」

信を慰めるように、那貴がぽんと肩を叩く。信の正体を隠すためとはいえ、那貴の正体が気付かれてしまった。

咄嗟の機転を利かせてくれた那貴のおかげで、信の正体と此度の計画が全て勘付かれずに済んだのだのだが、感謝の気持ちよりも罪悪感の方が大きい。

「…悪い。全部、俺のせいだ」

信が項垂れながら謝罪する。

桓騎軍から飛信軍に抜ける時も、仲間たちには裏切者だと散々罵られて嫌な気分になっただろうに、危険も顧みず桓騎たちの前に出てくれた。

昨夜のこともあり、信は自分を責めた。

「気にするな。むしろ俺の場合、正体がバレた方が動きやすくて良かったかもしれない」

兵たちに出立を急ぐように声を掛け、那貴は先に歩み始める。

信は唇を噛み締めて、彼の後を追いかけた。

 

撤退不可その二

その後、何故か桓騎は軍の最後尾――信たちの百人隊の前方を馬で歩いていた。側近たちに先導を任せて、まるで信たちが逃げないかを見張っているかようだった。

時々こちらを振り返るのを見ると、完全に疑われているらしい。

(どうしてここまで俺たちを疑う…?たかが百人隊にそこまで興味を持つか?)

信は兵たちに紛れながら、桓騎の動向を探っていた。
那貴がこの隊を率いていることを知ったからか、それとも蒙驁の身内がいると知ったからか。

だが、那貴から聞いていた話だと、そのようなことに興味を示すことも、しかも自分の目で確かめるような男ではないはずだ。

様々な奇策を用いて敵軍を翻弄する桓騎だが、彼の思考が読めずに苦戦する敵が多いのも納得出来る。

味方である信でさえ、彼の考えていることが少しも分からなかった。

「那貴」

前方を歩いていた桓騎が振り返り、後ろを歩いている那貴に声を掛ける。

「なんすか、お頭」

「うちを出てから、長いこと飛信軍に居たんだろ。どうだった?」

桓騎の口から飛信軍の話が出るとは思わず、信は思わず顔をしかめた。

「漠然とした質問っすね」

苦笑を浮かべながら、那貴が言葉を続けた。

「思ったより、居心地良かったですよ」

過去のこととして伝えているのは、恐らくまだ飛信軍にいることを悟られないためだろう。

桓騎が鋭い男だというのは那貴もよく知っていた。だからこそ、些細な会話の糸口から、今回の任務を嗅ぎつけられないよう、細心の注意を払っているようだ。

「…飛信軍の女将軍はどうだった?向こうでも千人将やってたんなら、何度か会ったんだろ」

自分の話題が桓騎の口から出て来たことに、信ははっとして目を見開いた。

気づかれたかと冷や汗を浮かべたが、そんなはずはない。桓騎はただ那貴の口から飛信軍の話を聞きたいだけなのだ。

早鐘を打ち始めた自分の心臓に、落ち着け、と信は何度も言い聞かせる。

「噂通り、強い女でしたよ」

当の本人が後ろを歩いているのだが、那貴は少しも動揺を顔に出さない。

きっと桓騎ならば、会話の糸口からでなく、顔色の変化にも敏感に気づくだろうと思っていたからだ。

那貴の言葉を聞き、桓騎がつまらなさそうな表情になる。

「それだけか?もっと良い話が聞けると思ったんだがな」

んー、と那貴が考える素振りを見せる。

「お頭の好みではないことは確かです」

嫌な笑みを浮かべて那貴がそう言った。
馬上にいる桓騎が、ちらりと那貴に視線を落とす。

「論功行賞の時に傍で見たが、あれは山の女より色気に欠けるな。確かに、俺の好みじゃねえ」

(色気がなくて悪かったなッ!つーか、お前の好みなんて知らねえよッ!)

布の下でぎりぎりと歯を食い縛りながら、信が拳を握った。

兵たちが自分に落ち着けと言わんばかりに狼狽えた視線を送っていることに気付き、信は冷静さを取り戻す。

山の王である楊端和と色気を比較されると、ぐうの音も出ない。

楊端和も信と同じく大将軍の座に就いており、美しく、そして強い女性だった。嬴政が弟の成蟜から政権を取り戻す時に、楊端和とは初めて出会った。

同性であってもつい見惚れてしまったほどの気高さを兼ね備えている女性だ。そんな彼女と比べられれば、大半の男が楊端和を選ぶだろう。

負け惜しみではないが、よりにもよって桓騎に女として楊端和と比べられたことに、信の中で苛立ちが込み上げて来た。

秦の怪鳥の異名を持つ父と、同じく六大将軍の一人である母。
血の繋がりはないのだが、その二人の娘というだけで、天下の大将軍の娘とは化け物のような強さを秘めている女であるという噂が中華全土に広まっている。

噂は色んな場所にたちまち根を生やしていき、化け物のような強さから、化け物のような外見をした女だというものになっていることもあった。

戦に出る時は母である摎のように仮面で素顔を隠していることも原因なのかもしれない。

一体どんな娘なのか気になっている者はこの中華全土に多く存在している。恐らく桓騎もそのうちの一人だったのだろう。
論功行賞で隣に並んだ信を横目で見ていた時、一体彼は何を思ったのだろうか。

「好みじゃない女に、なんでいきなり興味を持ったんすか」

もっともらしい那貴の問いに、桓騎がまるで何かを思い出すかのように目を伏せた。

「―――あの目は悪くない」

ゆっくりと瞳を開きながら告げた桓騎に、那貴がはっとした表情を浮かべる。

一体何の話だと信が小首を傾げていると、いきなり桓騎が振り返ったので、信は慌てて目を逸らした。

不自然な視線の背け方に勘ぐられただろうかと不安になる。
桓騎が笑った気配を感じて、信は恐る恐る顔を上げた。

もうこちらを見てはいないようだったが、桓騎を見つめている那貴の顔が強張っている。どうしたのだろうか。

「那貴。それと副官の蒙虎だったか?今夜、俺のところに来いよ」

「は…!?」

桓騎の口から名を呼ばれ、信は思わず声を上げていた。信の驚いた声を聞いた桓騎が再び口の端をつり上げる。

元々そういう顔なのだろうが、笑うと不気味に思えてしまうのはどうしてだろうか。
自分の中の桓騎に対する拒絶反応がそういう風に見せているのかもしれない。

那貴は顔を強張らせたまま、肩を竦めた。

「作戦なら摩論から聞きますよ。お頭、そういうのはいつも摩論に任せてるでしょう。どういう風の吹き回しっすか?」

「おいおい、誰が戦の話をするなんて言った?」

「え?」

那貴の顔がさらに強張った。

「今の話の続き、聞かせろよ。特別に美味い酒を用意しておいてやるから、逃げんなよ」

そう言うと、桓騎は馬の横腹を蹴りつけ、馬を走らせた。どうやら先導していた側近たちと合流するらしい。

桓騎の姿が見えなくなってから、兵たちがようやく安堵した表情を浮かべた。
信だけは桓騎の言葉を理解するまでにしばらく時間がかかっており、眉間に皺を寄せている。

「…まずいな」

表情を曇らせて那貴がそう呟いたので、信も同意した。

「なんで俺らがあんな奴と酒飲まなきゃならねえんだよ。これから楚との戦を控えてるっていうのに、ふざけやがって…」

「そこじゃなくて…完全に目ぇつけられてるぜ、信将軍」

那貴の低い声から、冗談ではないことを察した信が小首を傾げる。

「口ではああ言ってたけど…お頭は、完全にあんたのことが気になってる」

はあ?と信が大声で聞き返した。

「なんだよ、楊端和より色気がねえとか、俺の好みじゃねえとか好き放題言ってたくせに」

苛立つ信の隣で、那貴の曇った表情は晴れることはなかった。

「問題は山積みだ。まず今夜、あんたはお頭にその顔を見られるかもしれない」

「へ?」

きょとんと目を丸めた信に、やはり分かっていなかったと那貴が肩を落とした。

「酒を用意しておくってことは、俺らに飲ませるつもりだろ。顔を隠したまま酒が飲めるか」

那貴に説明され、信は「あッ!」と大声を上げた。その通りだ。

信が黒い布で隠しているのは目から下で、酒を飲むためには口元まで覆っている布を外さなくてはならない。

顔を見せろと直接言われた訳ではないが、酒の席に誘うということは、桓騎が信の顔を見ようとしている何よりの証拠だった。

「お頭に正体を気づかれたとしても、あんたの立場的に殺されることはないと思うが…」

歯切れの悪い那貴の言葉に、信がどうしたと問う。

「…殺されないとしても、殺されない程度に何かをされる可能性は否定できないな」

沈痛な表情で那貴はそう答えた。腕を組んで、信は口を噤む。

「このまま少しずつ速度を落として、桓騎軍と距離を空けて撤退するか?お頭は先導の側近たちといるから、森にでも逃げ込んじまえば、馬の足じゃ深追いは出来ないだろ。馬に乗ってない桓騎軍の兵だけなら、この百人隊でも撒ける」

那貴の撤退の案はもっともだ。しかし、信は意外にもその案に難色を示したのだった。

「…俺らが逃げたら、那貴はまたあいつらに好き勝手言われるだろ。それはだめだ」

何度か瞬きをしてから、那貴がふっと笑う。

「あんた、自分が将軍っていう立場なの、自覚あるのか?」

「はあ?当たり前だろ」

たかが一人の兵が、仲間だった者たちから後ろ指をさされないために、撤退を拒否したのだ。

付き従う兵たちのことを誰よりも考えているという点では、確かに信の右に出る者はいないだろう。

飛信軍に移って来た時も散々桓騎軍の者たちには好き勝手言われたが、その話を人づてに聞いた信はまるで自分のことのように憤怒したのだ。

いつも自分ではなく、誰かのことを優先する彼女に、那貴は桓騎軍にはない居心地の良さを改めて感じるのだった。

両腕を頭の後ろで組んだ那貴はやれやれと困ったように目を伏せた。

「…そりゃあ、好かれて当然だな」

「?何がだよ」

「こっちの話だ。さて、今夜どうするかねぇ…下戸って言っても、あのお頭が引くはずがないだろうし…」

信が撤退の意志を見せないと分かった那貴は今夜、桓騎からの酒の誘いをどう断るべきか頭を巡らせた。

 

疑念その一

夜になり、野営の準備が始まった。
信と那貴は素知らぬ顔で天蓋の準備をしていたが、桓騎軍の兵が現れたことで思わず身構えた。

「おい、那貴と蒙虎はいるか?お頭が呼んでるぞ」

「………」

わざわざ呼び出しに来るとは、やはり桓騎は自分たちを逃がすつもりはないらしい。

信と那貴は顔を見合わせる。周りの兵たちも緊張を浮かべた顔で二人を見ていた。安心させるように信は彼らに「行って来る」と声を掛け、那貴と共に桓騎軍の野営地に向かう。

桓騎軍の兵に案内され、彼らの野営地に到着する。

昨夜はなかったはずの印が天幕が見えて、やはり昨夜は意図的に印を外していたのだろうと那貴は考えた。

「来たな」

天幕の近くで火が焚かれていた。傍にある椅子に腰掛けている桓騎が信と那貴の姿を見て、楽しそうに目を細める。

もう先に飲み始めているらしい。杯を傾けている桓騎の姿を見て、信は思わず眉を顰めた。明後日には戦を控えているというのに、こんな状況で酒を飲むなど、まるで緊張感が感じられない。この男は一体何を考えているのだろうか。

桓騎の奇策は、戦では前例がなく、先の読めぬものばかりだ。
それはまるで彼の思考と同じで、桓騎が何を考えているのかは、信だけでなく桓騎軍の兵たちも分からない。

那貴の話を聞くかぎり、桓騎が腹を割って話をするような人物は軍に一人もいないようだった。

信頼している仲間にさえ本心を見せない彼は、腹の内に一体どんな黒いものを抱えているのだろう。

(って、何考えてんだ俺…!政のための調査だろ)

今回の目的は桓騎軍の素行調査だ。

正体が勘付かれるかもしれないという危機感はあるが、嬴政のためにもその目的を果たさなくては。信は布の下できゅっと唇を噛み締めた。

「随分と機嫌が良いんすね、お頭」

桓騎の近くにある椅子に那貴が腰を下ろしたのを見て、信も空いている椅子に腰を下ろす。

側近の雷土たちはそれぞれの天幕にいるのか、この場に姿がなかった。

那貴の言葉に桓騎は何も答えず、酒瓶を掴んだ。それから台の上に用意してあった二人分の杯に酒を注いでいく。

「飲みながら飛信軍のことを聞かせろよ」

酒の入った杯を桓騎が二人の前にそれぞれ置く。杯を取ろうとしない信を見て、桓騎が気怠そうに口を開いた。

「…蒙虎、酒を飲むのにその布は邪魔だろ」

やはりそう来たかと那貴は桓騎を見据えた。

あれこれ理由をつけて蒙虎の顔を見ようとしている桓騎は、一体この兵が何者かと疑っているに違いない。

蒙驁の身内ならば命を奪われることはない。しかし、それが嘘だと気づかれれば、ましてや飛信軍の将がここにいると知れば、誰かの差し金だと疑うに決まっている。

桓騎軍と飛信軍の相性が悪いのは桓騎も知っているはずだ。
だからこそ信が単独で潜入するはずがないと考えるだろう。そうなれば自分と同じ大将軍である信に指示を出した者がいると睨むはずだ。

大将軍である彼女に指示を出せる者は限られるし、なおかつ桓騎軍の動向が気になっている者と言えば、おのずと答えに辿り着くことになる。

「…顔を知られたら蒙驁将軍に迷惑が掛かるんでな。無礼を承知で、このままでいさせてもらう」

信はここでも白老と呼ばれる蒙驁将軍の名前を出した。
いくら本心を見えない桓騎とはいえ、彼が蒙驁に恩を感じているのは事実だ。

蒙驁に迷惑が掛かるとくれば、無理強いは出来ないだろうと信と那貴は考えたのだ。その読みは当たったようで、桓騎はそれ以上何も言うことなく、杯を口に運んでいる。

この場で信の正体に気付かれることがあれば、撤退も止むを得ないと考えていた那貴はこっそりと安堵の息を吐いた。

「北の酒蔵から取り寄せた美味い酒だぞ。遠慮しないで飲め」

「………」

目の前に置かれたままの酒杯に、信が目を輝かせている。

酒好きな信は、素行調査中である緊張感と、どんな酒なのかという好奇心の狭間で心が揺れていた。

もちろん飲むためには顔を半分隠している布を外さなくてはならないので、飲む訳にはいかないのだが…。

「…で、飛信軍の話でしたっけ?」

那貴は桓騎がこちらを見ていない隙に、自分の杯と信の杯をすり替える。まるで乱れた髪を直すような、さり気ない仕草だった。

何をしているのだと信が不思議そうに見つめて来るが、那貴は構わずに桓騎の返事を待つ。

静かに酒を口に運んでいる桓騎は、那貴が信と杯を取り換えたことに気付いていないようだった。

「向こうは随分と居心地が良かったみてえじゃねえか」

足を組み直した桓騎に、那貴は曖昧に頷く。

「…今さら飛信軍の何が知りたいんすか?」

「女将軍のことだ」

まさか再び自分の話題になるとは思わず、信はぎくりとした。

本人がここにいるのだから、決して口を滑らせる訳にはいかないと、那貴は桓騎のことをじっと見据えている。

「話したいんなら、わざわざ俺に聞かなくても、お頭の方から行けば良いじゃないですか。同じ大将軍でしょう?」

「残念ながら、向こうから嫌われてるみたいでな」

少しも残念そうに思っていない桓騎と目が合い、信はさり気なく目を逸らした。
桓騎に見つめられると、信の中に存在している桓騎に対しての嫌悪感が胸をざわつかせる。

今まで信は桓騎と面と向かって話をしたことはなかったのだが、桓騎軍と飛信軍の相性が悪い話は彼も知っていたのかもしれない。

「…飛信軍の女将軍は下僕出身っていう話だ。元下僕と元野盗で気が合うと思ったんだがな」

「………」

名前に元がつくだけで、野盗とやっていることは何ら変わりない桓騎軍の悪行の話を思い出し、信は思わず眉を寄せた。

彼女の表情の変化に気づいたらしい桓騎が楽しそうに目を細める。

「なんだ?蒙虎。何か言いたそうな顔だな」

「えッ…あ、いや…」

まさか話を振られるとは思わず、信は狼狽えた。
ここで動揺していることに気付かれれば、自分が飛信軍の女将軍であると気づかれてしまうかもしれない。

「…俺も下僕出身だから、驚いただけだ」

咄嗟に信はそう口に出しており、それからすぐに後悔した。

蒙驁の身内だという架空の存在を演じていたのだが、下僕出身である自分がなぜ蒙家と繋がりがあるのだと疑われるかもしれない。信は背中に嫌な汗を滲ませた。

「ほう?下僕の分際で、蒙の姓を得るとはとんでもねえ出世じゃねえか。白老も本当に人が良い御仁だ」

どうやら蒙家の養子だと思われたのだろう。良いように誤解してくれて、信は布の下で安堵の息を吐いた。

桓騎のような元野盗と、王翦のような野心家を副官として従わせている蒙驁の懐の深さを考えれば、下僕出身の人間を養子にしたとしてもおかしいことではない。

蒙恬もそれを見越して蒙の姓を名乗れと言ったに違いない。

「…ああ。蒙驁将軍には感謝している」

信の言葉を聞き、桓騎の瞳に穏やかな色が宿った。蒙驁将軍に恩を感じているのは確かなのだろう。

他人に心を読ませない男だとは思っていたが、ちゃんと人間らしい部分もあるのだなと思い、信は思わず桓騎を見つめていた。

その視線に気づいたのか、桓騎が立ち上がる。

「蒙虎」

信の前にやって来た桓騎は、肩にその腕を回し、彼女の顔を覗き込むようにして顔を近づけて来た。

「ッ…」

鋭い双眸に見据えられ、信は思わず息を詰まらせた。彼の黒曜の瞳に、怯えた自分の姿が映っており、心臓が早鐘を打ち始める。

「元下僕と元野盗同士、気が合うだろ。仲良くしようぜ」

口をつけずにいた酒杯を掴んだ桓騎はそれを信に握らせた。

酒を飲ませるのを理由に顔を見ようとしているらしい。まだ彼は諦めていなかったのだ。

 

疑念その二

(まずい!)

那貴が弾かれたように立ち上がる。

「お頭、蒙虎は下戸だ。酒の匂いだけも気分が悪くなるから、勘弁してやってくれ」

那貴の言葉を聞き、意外にも桓騎はあっさりと信から腕を離した。

「飲めねえなら仕方ねえな」

幸いにも正体に気づいた様子はなさそうで、桓騎は自分の席へと戻っていく。信は布の下で再び安堵の息を吐いた。

桓騎に対する嫌悪感のせいだろうか、体が小刻みに震えており、心臓はまだ早鐘を打っていた。

椅子に腰を下ろした桓騎が、台の上に両足をどんと置いた。

「今日は気分が良い。俺に飛信軍の女将軍のことを教えるなら、うちの軍のことを色々と教えてやっても良いぜ」

「は…?」

桓騎の提案に、那貴は思わず聞き返した。
当然だろう、千人将として桓騎軍に属していた那貴には不要な情報だからだ。

しかし、桓騎は那貴には一目もくれず、じっと信のことを見据えている。

「蒙虎。うちの軍について、俺に聞きたいことがあるんだろ?」

はっと目を見張った。蒙虎という名を彼に告げてから、一言もそんなことを言っていないというのに、どうして桓騎はこちらが桓騎軍について知りたがっていることを察したのか。

(…教えてくれるっていうなら丁度良いか)

少し悩んでから、信は布の下でゆっくりと口を開いた。

「桓騎軍についた隊のほとんどが全滅してるって噂がある。奇策を成り立たせるのに、わざと殺してるんじゃねえだろうな?」

嬴政に頼まれた素行調査であるものの、先に口を衝いて出たその疑問は、信がずっと気になっていたことだった。

軍が隊を手駒として使うのは当然のことだが、桓騎が用いる奇策を成すために、わざと見捨てているような真似をしているのではないかと信は睨んでいた。

教えてやると言った割には答えようとせず、酒を飲んでいる桓騎に、信が鋭い眼差しを向ける。

「俺らはあんたに従う立場なんだから、気になるのは当然だろ。答えろよ」

怒気を込めて催促すると、桓騎はにやりと口の端をつり上げた。

「生きるか死ぬかはそいつら次第だろ。策を成すのに、奴らの生死は関係ない」

「………」

腹が立つ返答だが、筋は通っている。

わざと殺している訳ではないようだが、失われていく味方兵の命に、桓騎が少しも興味も抱いていないことは分かった。

「なら、次は俺の番だな」

桓騎が酒で喉を潤してから、那貴と信を見据える。質問の数だけ質問を返していく等価交換といったところか。

何を訊かれるのだろうと信が身構えていると、桓騎が発したのは予想外の言葉だった。

「飛信軍の女将軍と大王はデキてんのか?」

「はああッ!?」

思わず信は立ち上がっていた。
驚愕している信に、那貴が諦めにも似た表情を浮かべながら目頭を押さえている。

背もたれに身体を預けながら、桓騎は不思議そうに小首を傾げていた。

二人の視線を受け、信は顔から血の気を引かせていく。これだけ動揺したのなら、確実に怪しまれたに違いない。

「どうした?」

「い、いや…!元下僕出身の女が、大王となんて、立場的に、二人がそんなこと…」

「男と女である以上、そんな綺麗事が通じる訳ねえだろうが」

桓騎にそう言われると、膝から力が抜けていき、信はずるずるとその場に座り込んだ。

信は嬴政と、彼の弟である成蟜から政権を取り戻す時からの仲であり、親友である。
秦王である嬴政の金剛の剣として、大将軍である信は幾度も秦軍を勝利を導いて来た。今までもこれからも自分たちの関係は変わらない。

それに、後宮には嬴政のために喜んで足を開く美女がごまんといるのだ。決して嬴政にそんな目で見られたことなど一度もないし、誓って男女の仲になったことはない。

許されるなら、今すぐここでそれを証言したかった。

(マジかよ…)

恐らく自分と嬴政の関係をそんな風に考えているのは、桓騎だけではないだろう。
だからこそ、彼は真相を確認するために、二人のことをよく知ってそうな自分たちに尋ねたに違いない。

男と女という性別だけで、周りからそんな風に誤解されていることに、信は落胆した。

「いや、そんな話は聞いたことがない。将軍が大王の下へ行く時、軍師の河了貂も一緒だった。…故意に二人きりになりたいのなら、お供は連れて行かないだろ」

那貴の言葉を、納得したのかそうでないのか、桓騎は表情を変えずに耳を傾けていた。

今度はこちらが質問する番だ。
信はこほんと咳払いをして、冷静さを取り戻してから桓騎のことを見据える。

「…戦の最中、敵の領地にある村を焼き払うだけじゃなくて、村人たちを虐殺したり、金目の物を奪ってるっつー噂がある。…全部お前の指示か?」

二つ目の質問に、桓騎は興味が無さそうに目を逸らした。

「…答えねえなら、そうだと受け取るぞ」

信は腕を組んで桓騎を睨み付けた。ようやく目が合った時には、桓騎の口の端がつり上がっており、嫌な笑みを浮かんでいることに気付く。

「白老の身内だからって随分と強気だな」

「とっとと答えろ」

大将軍の一人である桓騎を前にしても恐れを見せず、それどころか、信はあからさまに敵意を剥き出していた。
もしも桓騎の側近が近くにいたのならすぐに斬られていたに違いない。

今の立場は、名も知られぬ百人隊の副官だと理解しているのだろうか。那貴はその不安を顔に出さず、信を横目で見ていた。

重い沈黙が三人を包み込んだが、その沈黙を破ったのは桓騎だった。

「命じた訳じゃねえが、俺らの軍はそういうのの集まりだからな。別に珍しいことじゃない」

やはり元野盗というのは名前だけで、現役らしい。信のこめかみに鋭い怒りが走った。

(やっぱりこいつは早めに抑えとかねえと、後が面倒だな)

嬴政の中華統一を成し遂げるためには桓騎の奇策が、桓騎軍の力が必要なのは分かるが、野党の性分はどうにか抑えねばならない。

彼らの悪行によって、嬴政の名が汚れてしまうのだけは許せなかった。

回答し終えた桓騎が気怠そうに頬杖をつく。酒の酔いが回って来たのだろうか。

次は桓騎がこちらに質問をする番だ。何を訊かれるのだろうと身構えてると、

「蒙虎」

低い声で名前を呼ばれ、信はどきりとした。

「―――お前は、何者・・だ?」

桓騎の双眸に宿る底なしの闇を見て、那貴と信は同時に生唾を飲み込んだ。

ただの好奇心や興味から来る質問ものではない。立派な尋問だった。
嘘を吐くことは許されないという威圧感より、嘘を吐いても意味はないといった絶望に近いものを感じさせる視線に、信は言葉を喉に詰まらせる。

下手に答えれば、見えない何かに首を斬り落とされてしまうような恐怖さえ感じた。

信は桓騎には見えない台の下で強く拳を握り、自分に喝を入れる。

こんなことで怯むなど、大将軍の名が泣いてしまうと自分に言い聞かせ、信は目を逸らすことなく桓騎を睨んだ。

「…強いて言うなら、てめえとは一生分かり合えない存在だな」

その答えは、桓騎と那貴の予想を遥かに超えるものだった。

一瞬呆けた顔をした後、桓騎は喉奥でくくっと話い声を上げる。桓騎はよく笑う男だと、信は昨夜から学んでいた。

父である王騎も、よく独特な笑い方をしていたことを思い出す。
死地に立った時でさえも、まるで敵兵に余裕を見せつけるように、王騎は口元にいつも笑みを浮かべていた。

だが、この男の笑い方は王騎が見せていたものとは違った余裕を感じさせる。見ているこちらは訳もなく腹立たしくなるような、嫌な気にさせる笑みだった。

「…じゃあな」

もうこれ以上は用はない。信は颯爽と立ち上がった。

差し出された酒を一口も飲まずに帰るのは少々気が引けたが、桓騎に顔を見られる訳にはいかなかったので、諦めることにした。

「蒙虎」

野営地を出ようと背を向けた信に、桓騎が呼び掛ける。
振り返ると、桓騎は楽しそうな瞳でこちらを見つめていた。

「…俺は気に入った女は逃がさない主義だ。足の腱を切ってでも捕まえる。覚えとけ」

何を言っているのだろう。桓騎の言葉の意味が理解出来ない信は、呆れたように肩を竦める。

「執念深い男は嫌われるぞ。覚えとけ」

まるで挑発するように返した信は振り返ることなく、桓騎軍の野営地を後にした。

「…もう嫌われてる・・・・・って言っただろうが」

残された桓騎がそう呟いたのを、那貴は聞き逃さなかった。

これ以上ここに長居する理由はない。信の後を追い掛けようと那貴が立ち上がる。

「あー、お頭と那貴だ!」

近くに側近はいないと思ったのだが、千人将であるオギコが二人の姿を見つけて駆け寄って来た。

「お頭ー!あっちの天幕で女の人がずっと待ってるよ」

「ああ、待たせておけ」

連れ込んだ娼婦のことだろう。信がいる間に知られなくて良かったと那貴は僅かに安堵した。

きちんと金で彼女たちの夜を買っているのだから、悪行と言われれば異なるだろうが、信のことだから、戦が始まる前なのに何を考えているのだと逆上するに決まっている。

「あ、お酒だ!一緒にお酒飲んでたの!?」

台の上に置かれている酒瓶と杯を見つけたオギコが円らな瞳を好奇心で輝かせる。

「こっちは口つけてねえから飲んで良いぞ」

那貴が信の前に置かれていた方の杯を差し出すと、オギコは嬉しそうにごくごくと喉を鳴らして酒を飲んだ。

―――中身は桓騎が飲んでいた酒と同じものだと分かっていたが、信の杯にだけ薬を仕組んでいることを那貴は初めから勘付いていた。

娼婦を抱く時に、桓騎が戯れに媚薬や眠剤の類を酒に混ぜて飲ませているのを知っていたからだ。

もしも本当に蒙驁の身内ならば、下手に手出しは出来ない。大人しくさせるには薬を使うのが一番だと桓騎は考えたのだろう。

だが、那貴がそれを知りつつも、その場で指摘することが出来なかったのは、他でもない信のためだ。

薬が入っていることを知った信は逆上するかもしれない。
この場で騒ぎを起こして側近や兵たちに取り囲まれる状況こそ、桓騎と二人きりになるより危険だと判断し、彼女には何も告げなかったのだ。

しかし、ここまでして蒙虎の顔を見ようとするなんて、桓騎から強い執着のようなものを感じる。

やはり言葉にしないだけで、正体に気づいているのだろうか。

「……ん、んんッ!?な、なんらか、体が、しび、へ、て、…」

「オギコ?」

目を白黒させながらオギコがずるずるとその場に崩れ落ちていく。意識はあるようだが、舌がもつれているだけでなく、上手く体を動かせないでいるようだった。

その姿を見て、那貴がまさかと冷や汗を浮かべる。

彼に渡したのは、那貴が信とすり替えておいた杯――薬が入っていない方の杯だったのに、酒を飲んだオギコにはあからさまな症状が出ていた。

オギコが地面に倒れ込んだのを見て、すり替えておいたはずの杯に・・・・・・・・・・・・・薬が入っていたのだと気づいた那貴は、顔から血の気を引かせた。

思い出したように、桓騎が那貴の方を振り返る。

「お前ら二人とも、飲まなくて良かったな?」

「!」

はっと目を見開いた那貴が、口をつけなかったもう一つの杯に視線を向ける。

桓騎の言葉から察するに、渡された両方の酒杯に薬が仕組まれていたらしい。
まさか桓騎は、那貴が杯を取り換えるのを想定していたというのか。

那貴が杯をすり替えようとも、信と自分のどちらかが口をつけた時点で・・・・・・・・・・・・・、負けが決まっていたのだ。

もしも、片方だけが眠らされていたのなら、二人とも眠らされていたら、今頃どうなっていたのだろう。

娼婦が待っているという天幕へ向かう桓騎の後ろ姿を見つめながら、那貴は背筋を凍らせた。

やはり桓騎は、恐ろしい男だ。

 

後編はこちら

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アナーキー(桓騎×信←那貴)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/那貴×信/無理やり/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

大王勅令の極秘任務

その日、信はある軍の将と兵たちの素行調査を頼まれた。

これが任務でなく依頼だったなら、そして秦国の大王であり、友人である嬴政からの直々の頼みでなかったのなら、速やかに断わっていただろう。

承諾はしたものの、信は少しも意欲的にはなれなかった。桓騎軍の悪行は、信の耳にも届いていたからだ。

―――咸陽宮の城下町を見渡せる露台で、蒙恬と王賁が驚愕の表情を浮かべた。

「ええッ!?信が桓騎軍に!?」

「バカッ!声でけえよ、蒙恬!」

誰にも聞こえないように、慌てて信は蒙恬の口を塞いだ。

もごもごと手の下で何か呻きながら、蒙恬は焦った表情を浮かべている。普段は冷静沈着な王賁も眉を顰めていた。

辺りを見渡し、誰にも聞かれなかったことを確認して信はほっと安堵する。手を外すと、蒙恬は声を潜めた。

「いくら大王の頼みだからって、それは危険だって!じいちゃ…祖父の蒙驁将軍に仕えてくれるから、あんまり言いたくないけど…良い噂は一つも聞かないぞ?」

だから・・・だろ」

飛信軍を率いる若き女将軍であり、秦国の六大将軍の王騎と摎の娘の信は何度目になるか分からない溜息を吐いた。

―――桓騎軍の兵として潜入し、彼らの素行を調査するというのが、信に与えられた任務だった。

元野盗である桓騎は、奇策を用いて、数々の戦で勝利に貢献している。
論功行賞でもその名を呼ばれることは多く、秦国でも桓騎の存在は広く知れ渡っていた。

しかし、知れ渡っているのは将の名前や武功だけでなく、素行の悪さだ。

戦に巻き込まれた村が桓騎軍によって焼き尽くされたり、そこに住んでいた者たちも殺されたという話があった。老人や子供相手であっても、決して例外はない。

兵糧だけでなく金品を奪い、女は連れ去る。元野盗の集まりだと聞いていたが、その話だけ聞けば、名前に「元」がつくだけで、野盗と何ら変わりないではないか。

さらには敵軍を動揺させるために、敵兵の亡骸を使って脅しのように、士気を下げることもあると噂で聞いている。

先に行われた山陽の戦いでは、魏兵たちの目玉をくり抜いて敵将の元へ届けたり、 まるで見世物のように屍を磔にしたとか。
そんな残虐極まりない桓騎軍に仕えるよう命を受けた隊は、確実と言って良いほど全滅している。

奇策を用いるからなのか、桓騎軍は他の軍よりも兵の被害が少ない。しかし、彼の軍に仕える隊が必ずと言って良いほど全滅しているのは信も少々気になっていた。

桓騎軍の下につくのは、未だ名の知られない数百人規模の小さな隊ばかりだ。

恐らく、蒙恬の率いる楽華隊が一度も桓騎軍についたことがないのも、祖父である蒙驁が手を回しているに違いない。
そして王賁率いる玉鳳隊も同様に、桓騎軍につかないように王翦が何かしら手を回しているのだろうか。

(奇策を成すために犠牲に使ってるのかもしれねえが…)

中華統一を目指す秦にとって、桓騎のような奇策を用いる将は必要不可欠だ。

彼の戦略が勝利を導くとはいえ、信も桓騎のことはあまり好きになれなかった。噂だけで相手を判断するのは良くないことだとしてもだ。

信は桓騎と共に戦場に立つことはあっても、受け持つ拠点が異なることもあって、直接の関わりはなかった。

過去に信が総大将を務める戦では、桓騎軍も参加していた。飛信軍の軍師である河了貂が他の軍や隊に軍略を伝える席にも、桓騎が姿を見せたことは一度もない。

桓騎軍の軍師であり、桓騎の側近でもある摩論もなかなかクセのある男だったし、桓騎軍とはそういった者の集まりのようだ。

その戦での論功行賞の時に信は嬴政から名前を呼ばれ、同じく名前を呼ばれた桓騎が隣に座っていた。

思えば、桓騎の姿をしっかり見たのは、あの時が初めてだったかもしれない。

無意識のうちに身体が彼を拒絶しているような、怖気にも寒気にも似た感覚を、信は今でも覚えている。
横目で桓騎がこちらを見ていたことには気付いていたが、信は一度も彼と目を合わさなかった。

若い女ながら、桓騎よりも先に大将軍の座に就いており、六大将軍の王騎と摎の娘である自分の存在がどのようなものかを見定めていたに違いない。そのような興味を抱く者はこの中華全土に多くいる。

あの時は桓騎から声を掛けられることもなかったが、もしも目を合わせていたら、何を言われていたのだろうか。

「ッ…」

無意識のうちに鳥肌を立てており、信は腕を擦った。蒙恬が頬杖をつきながら、苦笑を深める。

「よりにもよって信に素行調査を頼むか…随分と無茶言うなあ、うちの大王も」

「政が無茶言うのは今に始まったことじゃねえよ」

腕を組んだ王賁が眉間の皺を崩さないまま、信を見据えた。

「…今からでも桓騎に殺されない策を考えとけ。大将軍だと名乗る前に首を撥ねられるかもしれんぞ」

「ああ、それは大丈夫だ」

二人を安心させるように、信はにやりと笑った。

「桓騎軍の兵に紛れる。完璧な作戦だろ?」

「どこが?男のフリして兵に紛れるなんて、そんなの潜入するに当たって大前提だろ」

「バカの一つ覚えだな」

「ええぇ…」

信にとっては自信のある作戦だったらしい。しかし、そんなものは作戦ではないときっぱり否定した蒙恬と王賁に、彼女はあからさまに肩を落とす。

落ち込んだ信に、本当に正体を隠して潜入する気があるのかと王賁がこめかみに青筋を浮かべた。

今にも彼女に掴みかからんばかりの怒りを察し、蒙恬は「まあまあ」と信を庇うように二人の間に立つ。

「んー…作戦かあ…」

腕を組んで、信は思考を巡らせる。

将軍には本能型と知略型の二種類がある。言い換えれば力か知恵かという二択だ。信は本能型の将軍に分類される。

兵たちの士気を湧き立たせる信の強さはもちろんだが、軍略はからきしで、軍師の河了貂と、冷静に戦況を見極めることができる副官の羌瘣がいなければ、飛信軍はここまで育たなかっただろう。

「そもそも信が作戦通りに動けるとは思えないんだけどね」

「ああ?どういう意味だよ」

蒙恬の言葉に、信が眉を顰めた。

元々の性格なのだろうが、良い意味でも悪い意味でも、信には表裏がなく、嘘を吐くことが出来ない。

そんな彼女が兵に紛れて桓騎軍に潜入するなんて、本当に出来るのだろうか。王賁と蒙恬は顔を見合わせると、呆れたように溜息を吐いた。

「…それじゃあ、名を尋ねられたら、蒙の姓を名乗った方が良い。蒙驁将軍の身内だと分かれば、きっと殺されることはないだろう」

「俺が蒙の姓を語るとなると……じゃあ、蒙信か?」

「正真正銘のバカか貴様。姓を偽りながら、なぜ素直に名乗っている」

王賁の正論に、信が面倒臭そうに顔をしかめる。こんな調子で本当に大丈夫なのだろうか。蒙恬のこめかみがずきずきと痛んだ。

もしも正体を怪しまれた時に、桓騎を副官として迎え入れた白老・蒙驁の身内だと分かれば、桓騎も悪いようにはしないだろう。蒙恬はそう睨んでいた。

だが、それは桓騎に名前を尋ねられるという前提の話だ。自分の軍でもない隊の兵になど、桓騎が興味を持つはずがない。

そんな彼に名前を尋ねられる状況に陥るということは、確実に信が潜入時に何かやらかした時に違いない。

素行調査をするとはいえ、正義感の強い信が、彼らの噂に聞く悪事を目の当たりにして、果たして黙っていられるのだろうか…。

蒙恬と王賁は言葉には出さずとも、絶対に無理だろうと考えていた。
そして、悪事を働いた桓騎軍の兵たちを信が一掃するのは、今回の話を聞いた時から目に見えていた。

兵に変装するとはいえ、正体は中華全土に名を轟かす天下の大将軍の娘だ。そこらの兵が簡単に取り押さえられるはずもない。そして、騒ぎを聞きつけた側近たちが、謎の兵の話を桓騎に伝える。

騒ぎが大きくなるにつれ、興味を持った桓騎が自ら出向いて信の前に現れる…そこまでの過程は安易に予想出来た。

蒙恬と王賁が不安に思っていたのはそれだけではない。信が強いのは分かっているが、桓騎の奇策に適うかどうかは別だ。

今回は戦でないにせよ、頭の切れる彼に目を付けられて面倒なことにならないか、それが一番の不安の種だった。

しかし、信といえば兵に潜入することしか事前に考えていなかった。彼女は今回の件を、あまり深刻に考えていないらしい。

このまま無策で桓騎軍に潜入なんて、確実に失敗する未来しか見えない。下手したら、弁明する前に桓騎軍の全兵力で取り押さえられて、首を飛ばされてしまうかもしれない。

蒙恬が更なる不安を覚え、恐る恐る尋ねた。

「…信、まさかとは思うが…」

「ん?」

「桓騎軍に潜入するに当たって、知らない百人隊に、たった一人で、入り込むつもりじゃない…よな?」

蒙恬に問われた彼女はきょとんと目を丸める。

「そのつもりだったぞ?」

「このバカ女がッ!」

ついに痺れを切らした王賁の鉄拳が信の頭に振り落とされた。いでええッ、と信が泣きそうな声を上げる。

普段なら受け止めることも出来たはずなのに、王賁の凄まじい勢いに対応出来なかったようで、信は両手で頭を押さえて涙目でしゃがみ込んでしまう。

普段なら穏やかに王賁を落ち着かせる蒙恬だったが、今回ばかりは見て見ぬふりだった。痛む頭を擦りながら、信が涙目で二人を睨み付ける。

「な、なんだよッ!羌瘣だって、俺だって初陣の時は誰も知らねえ百人隊で伍組むとこからだったぞ!?」

「それは過去の話でしょ。…信が少しも作戦らしい作戦を練れていないのはよく分かった。よし、今から大至急で作戦会議だ」

桓騎軍に行く前に話してくれて良かったよと、薄ら笑う蒙恬のこめかみにも青筋が浮かび上がっているのが見えて、信は顔を引き攣らせた。

「じゃ、じゃあ、まずは名前から考えるか!何にするかなあ…」

腕を組んで、信がうーんと考える。不思議なことに、背中に携えている剣がきしりと音を立てた。その音は決して聞き間違いではなく、二人の耳にも届いていた。

山陽の戦いで信が討った魏軍の将、輪虎の剣だ。王騎と共に廉頗の屋敷に出入りしていた信にとって、輪虎は兄のような存在であった。

輪虎との手合わせで信は一度も勝ったことがなかったのだが、山陽の戦いで初めて彼に勝ったのだ。

彼の命の重みを背負うと心に決めた彼女は、彼が生前使っていた剣を廉頗から引き継いだ。

蒙虎・・!虎ってのは?」

信は笑顔で二人に提案した。

彼女が輪虎の剣を見てそう提案したことに、蒙恬と王賁は訳を訊かなくても、輪虎の名前を取ったのだと察する。

安易すぎると思ったが、飛信軍の信を連想させる要素は少しもない。

あれだけ苦戦を強いられた将軍の名から取ったという理由には正直納得したくないが、一時的な偽名だ。そこまで深くこだわる必要はないだろう。

偽名を決めてから、蒙恬を中心に、今回の桓騎軍への潜入における作戦会議が始まった。

「…よし、それじゃあ、作戦を振り返るよ?これから急いで、信頼出来る飛信軍の中から、なるべく名の知られていない兵を集めて、百人隊を結成する。常に飛信軍と連絡を取り合う伝令係も忘れずに任命する」

おう、と信が頷いた。

「返事だけは潔いな」

「なんだと?」

王賁に横槍を入れられ、信のこめかみに鋭いものが走る。瞬時に睨み合いが始まり、蒙恬は大きく手を叩いた。

小気味良い音によって二人の意識が蒙恬へと戻る。

「喧嘩は後にしろよ。もしかしたら大王様のお願いで、信が命を落とすかもしれないんだ」

低い声を発した蒙恬が二人を宥める。信は背筋を正し、蒙恬の話の続きを聞くことに集中する。

「信は大前提として、目的である素行調査に集中すること。もしも桓騎軍の悪事を目の当たりにしても、その場では絶対に堪える。いい?」

信は頷いた。先ほど王賁が言ったように返事は潔いが、きっと悪行を目の当たりにすれば、頭に血が昇ってなりふり構わず止めようとするだろう。それを見越して、蒙恬は次の言葉を紡いだ。

「もし、悪事を発見した場合は、とにかくその場から撤退だ。目の当たりにした事実を大王様に伝えればいい」

ぐっと唇を噛み締め、信は渋々頷く。蒙恬は、すっと深く息を吸ってから言葉を続けた。

「一番最悪なのは、信が桓騎軍の兵を切り捨てた場合だ」

「………」

「桓騎が出て来るとすれば、その場合だけだろう。その時は、名を尋ねられなくても、絶対に蒙の姓を名乗る。五体満足じゃないかもしれないけど、命は保証されるはずだ。あとは隙を見て逃走。…良い?」

蒙恬に真っ直ぐに目を見つめられながらそう尋ねられた信は、少しも納得していない表情で、小さく頷いた。

彼女の表情を見て、王賁の眉間に鋭い皺が寄る。口を開こうとした王賁を、蒙恬がさっと手を挙げて止めた。

「…と、まあ、そんな感じで作戦を立ててみたけれど、結局は信次第だからなあ」

「上手くやってやるから、んな心配すんなって!」

信の笑顔と説得力のない言葉に、蒙恬は苦笑を深めた。王賁も呆れた表情を浮かべている。

「…信」

蒙恬が彼女の手をそっと握った。

「戦と同じで、無駄死にだけはしないで欲しい。この国には、大王様には、信が必要なんだから」

真っ直ぐに信の目を見据え、蒙恬が告げる。

「ありがとな、二人とも!ぜってー無事に帰って来るから、その時は朝まで飲むの付き合えよ!」

花が開いたような満面の笑みを浮かべ、信は蒙恬と王賁の肩を軽く叩いた。

少しも緊張感のない彼女の態度に、二人はますます不安を募らせたが、それ以上はもう何も言うまいと顔を見合わせたのだった。

 

出立前のひととき

嬴政が信に頼んだ桓騎軍の素行調査。
軍の総司令官を務める昌平君もその話を聞いており、此度の戦に飛信軍は参戦しないことになった。

蒙恬と王賁と念入りに考えた作戦通り、飛信軍の兵から百人隊を結成し、桓騎軍の指示に従う。状況を知らせる伝令係も任命した。
桓騎軍の下についた隊がいつも全滅している話は、兵たちの間でも噂になっていたらしい。

信は大王命令による極秘任務であること伝えた上で、桓騎軍の素行調査に協力することを兵たちはすぐに承諾してくれた。

「三日だ。三日だけ耐えてくれ。あと、もしも俺が桓騎軍の兵どもに手ェ出しそうになったら、ぶん殴ってでも止めろ!頼むぜ!」

信の言葉に兵たちが苦笑する。どうやら兵たちも、信ならやり兼ねないと思っていたらしい。

三日の期限を設けたのは、軍の総司令官である昌平君からの指示だった。
此度の戦の舞台になる平原までは移動に三日かかる。その三日目で信が率いる百人隊は撤退する予定になっていた。

そして本来、桓騎軍につく予定の百人隊と入れ替わる手筈になっている。秦から見て、南にある楚国の侵攻を防衛するのが此度の戦の目的だった。

しかし、南に戦力を費やせば、その隙を狙って李牧のいる趙国が北から攻めて来るかもしれない。

桓騎軍の素行調査が大王嬴政からの命令であるとはいえ、さすがに李牧率いる趙国の侵攻には備えなくてはならない。趙の侵攻に備え、飛信軍の戦力は何としても保持しておきたかったのだ。

「懐かしいなあ」

信は久しぶりに一般兵が着る鎧を身を纏った。普段の鎧よりも防御力に欠けるが、こちらの方が大きく腕を振るえて動きやすい。

信が不在の間は軍師である河了貂と、副官の羌瘣の二人に飛信軍の指揮を任せることになっていた。
出立の準備が整ったと連絡を受け、信は河了貂と羌瘣に声を掛ける。

「そんじゃ、テン、羌瘣。悪いけど後は任せたぜ。また三日後な」

「往復するんだから六日後だろ」

河了貂の冷静な言葉に、信が「あ、そっか」と納得する。

こんな調子で大丈夫なのだろうかと河了貂が不安そうに眉を落とした。

「李牧がこの機を狙って北から攻めて来るかもしれないんだから、もしそうなったら桓騎なんかに構ってないで、さっさと戻って来いよ!」

「おう、心配すんな。すぐ戻って来る。何かあればすぐに伝令を寄越せ」

妹同然である河了貂を安心させようと、彼女の丸い肩をぽんと叩き、信は黒い布で口と鼻を覆った。

普段の戦場では、母である摎のように仮面で顔を隠しているということもあって、信は顔を隠しながら行動することに慣れていた。

「お、なんか昔の羌瘣みたいじゃね?カカカ。完璧に男だろ」

ぎろりと羌瘣に睨まれる。

信に何か言い返そうと考えた羌瘣が急にしゃがみ込んで地面に手を突っ込んだので、信たちは小首を傾げた。

「…さっさと行ってこい」

「ひッ――ぅああああああッ!お前それやめろって言ってるだろおおッ!」

羌瘣の手に握られているものを見て、珍しく信が仰け反って甲高い悲鳴を上げた。

羌瘣の手には多数の足を持つ毒虫、ギュポーが握られている。この醜怪な虫は、地面の中に巣を作る習性があるらしい。

からかった罰だと言わんばかりに、羌瘣は真顔で信にギュポーを突き付けていた。

幾つもの死地を駆け抜けている信であったが、彼女はこのギュポーと呼ばれる毒虫が苦手だった。羌瘣に背中を掴まれて、多足をもだもだと動かしている様子がまた気持ち悪い。

信は幼い頃、この虫で遊んでいたことがあった。
その際に、思い切り手を噛まれ毒を受けて三日三晩寝込んだことが恐怖となって、彼女の中に深く根付いているらしい。

天下の大将軍がこんな虫一匹に怯むだなんて笑い話だ。信の弱点を知り得た羌瘣は時折、ギュポーを使って信をからかうのだ。

信がギュポー嫌いであることは口外を禁じており、飛信軍の中だけの機密事項となっていた。

不適の笑みを浮かべている羌瘣と怯え切っている信に、河了貂が「二人とも大人げない」と呆れている。

羌瘣がギュポーを地面に戻してから、ようやく安堵した信は「行って来る」と彼女たちに大きく手を振った。

 

出立

今回のためだけに結成された百人隊に声を掛け、いよいよ出発する。馬に乗らず、歩兵として出陣するなんて、何年ぶりのことだろう。

今から移動を始め、桓騎軍と合流するのは夕刻だろう。たった三日とはいえ、正直に言うと気が重かった。
もしかしたら桓騎に近づきたくないという本能の警告なのかもしれない。

「…つーか、潜入なんてしなくても、那貴が政に知ってること話せば良いだけだよなあ」

「は?そんな恐れ多いこと出来る訳ないだろ」

「何が恐れ多いことだよ。ただ喋るだけじゃねえか」

元桓騎軍の千人将である那貴がやれやれと肩を竦めた。

「大王にあんな失礼な口聞いてるのは、中華全土どこを探してもあんただけだろうよ」

「あ?お前こそ大将軍の俺に失礼な口聞いてるだろうが」

「飛信軍なんてみんなそうだろ。態度のデカさだけで言うなら、桓騎軍より上かもな」

那貴の言葉に、むっとした表情を浮かべた後、信が肩を震わせて笑った。つられて那貴も笑い出す。

今回の任務を遂行するに当たり、百人隊を結成する時に、那貴は「俺も行く」と率先して名乗り出てくれた。

百人隊に名の知られている兵は入れないようにと蒙恬から言われていたが、桓騎軍の良し悪しを知っている彼が居れば心強いと、信は那貴の同行を許したのだ。

桓騎軍の者に気付かれないよう、那貴も信と同じように口元を黒い布で覆っていて、顔の半分を隠している。

過去に信が総大将を務めた戦で、飛信軍は桓騎軍と共に戦ったことがある。
どうやら那貴はその時に飛信軍に居心地の良さを感じたようで、桓騎軍から移って来た異例な存在だった。

飛信軍に移ると申し出て、桓騎から引き止められなかったのか問うと、那貴はあっさりと頷いた。

―――桓騎軍は軍であって、軍のような規律はない。あそこはお頭が白と言えば白、黒と言えば黒っていう集まりなんだよ。他の奴らにはボロクソ言われたけどな。

つまり、桓騎の指示一つで何でも許されるという訳だ。あの軍の中では、将である桓騎こそが規律なのかもしれない。

桓騎は元野盗。そして彼に付き従っている者たちも野盗の集団だ。
そのせいか、桓騎軍の兵たちは全員気性が荒く、飛信軍の兵たちと度々言い争いになることもあった。

同士討ちは禁忌とされているため、信はその度に兵たちを落ち着かせるのだが、桓騎はそう言った場にも一度も姿を見せない。

噂だけが一人歩きしているのかと思っていたが、恐らく本当に噂通りの男なのだろう。本当に自分の娯楽以外は何も興味がない男のようだ。

それでも付き従う兵が多いのは、桓騎が慕われている何よりの証拠に違いない。

「…なあ、那貴から見て、桓騎ってどんな男だ?」

歩きながら、信が那貴に問い掛けた。

間近で桓騎という存在を見て来た那貴ならば、噂以上の情報を知っているに違いない。

「今さら俺が話したところで、将軍の中のお頭の想像図は覆せないと思うがな」

苦笑を浮かべた那貴に、信は自分の知っている桓騎の噂を話し始めた。

「…敵兵の目ん玉くり抜いて送り付けたり、見世物みたいに死体を吊るしたり、金目の物を奪って、女も犯して。兵器ならともかく、村まで焼き払って…悪党以外の何者でもねえだろ」

今までの戦で桓騎軍が行ったことを皮肉っぽく言うと、那貴は桓騎を庇うような発言はせず、素直に頷いた。

「何せ、あの人の趣味は、何をしたら一番相手が苦しむかを考えることだからな」

あっさりと肯定した那貴に、信はますます気が重くなる。

絵に描いたような大悪党である男の下に自ら行かなくてはいかないなんて。こんなに気が重いのは、戦で敗北が決まり撤退した以来だ。

しかし、今回のことは他の誰でもない嬴政の頼みだ。断る訳にはいかなかった。

今までの桓騎軍の悪行について、嬴政は目を瞑らざるを得ないと思っていたらしい。

蒙驁が野心家である王翦と、元野盗の桓騎の二人を副官にしているのは、二人の才を認めており、何よりその才は秦の未来のためになるという判断からだった。

中華統一するにあたり、桓騎軍の悪事は民からの信頼に大きく影響が出ると睨んだのだろう。

嬴政の元には噂程度にしか入って来ない桓騎軍の悪行を、代わりに確認して欲しいというのが嬴政の頼みだった。
誰よりも信頼しているからこそ、他の誰でもない信に頼んだのだ。

(政の中華統一の足枷になるんだったら、今のうちに抑制しとかねえと後が大変だな…)

 

桓騎軍の野営地へ

一日目の夜。前方を歩いていた桓騎軍と合流し、今日は野営で休むことになった。

「蒙虎」

夕食の後、那貴にそう呼ばれて、信は少し反応が遅れた。
そうだ。もう桓騎軍の目があるのだから、信という名を隠さなくてはならない。

「どうした?」

「桓騎軍の野営地はそう遠く離れてない。調査に行くなら付き合うぜ。お頭の天幕なら印がついているから、見ればすぐに分かる」

那貴も桓騎軍に顔を知られている。

飛信軍に移ったはずの那貴がここにいると知られれば、連鎖的に信の存在も気づかれてしまう。信と同じように顔を隠しているのは、彼の心遣いだった。

「…ああ、行くか」

信は顔を隠している布が解けないように、後ろの結び目をきつくして立ち上がった。

夕刻に桓騎軍と合流した時、桓騎は軍の先頭を走っているようで、さすがに姿を見ることは叶わなかった。

桓騎軍の野営地はここから少し離れた場所にある。素行調査のためには、桓騎軍の野営がある場所に忍び込まなくてはならなかった。

さすがにこの野営地から百人隊全員で移動することは出来ない。
大人数の移動は目立ち過ぎる、もしも桓騎軍の者たちが何か伝令を伝えに来た時に、誰もいなければ怪しまれるだろう。怪しまれぬように兵のほとんどはここに残さなくてはならない。

目立たずに捜査を行うために、信は那貴と二人だけで桓騎軍の野営地に潜入することに決めた。

自分たちが戻らなければ細心の注意を払いつつ、兵の半分は桓騎軍の野営に来るように、そして残りの半分は引き返すように指示を出す。

まさか初日から桓騎軍に気付かれて全滅させられるだなんて最悪な筋書きにはならないだろうが、念には念を入れなくてはならない。

もしも桓騎軍と戦闘になり、信を含めて五十の兵が全滅した場合を想定する。
残りの五十の兵が追撃に遭ったとしても先に退避していれば全滅は避けられるはずだ。

そうなれば待機している副官の羌瘣率いる飛信軍や、軍の総司令官である昌平君に状況を伝えることが出来る。

楚国の戦を控えているため、追撃にまで兵を割くことはないとは思うが、桓騎の奇策にはどんなものがあるのか信も分からない。飛信軍と相性が悪いのは性格だけでなく、恐らく戦略もだ。

桓騎軍には敵も味方もないのだと那貴から話を聞いていた。

桓騎が敵だとみなせば秦国の軍や隊であろうが、敵である。彼こそが桓騎軍の規律なのだから、何があってもおかしくはない。

桓騎軍の野営地まで距離はそう遠くないところにあった。
馬を使えば嘶きや蹄の足音で見つかる危険が高まると考えた二人は森の中を通りながら野営地へ近づいていく。

「…今頃は飯と酒で気分良くいるだろ。そう身構えなくても平気だ」

まるで安心させるように那貴が囁く。

信が那貴と二人だけで桓騎軍の野営を視察に来たのは、とっておきの秘策があるからだ。その秘策を使えば、命は助かるという保証がある。

それこそが蒙虎という名前と存在だった。蒙恬が祖父であり、桓騎が秦国の中で唯一恩を感じている蒙驁の存在を仄めかす架空の存在。

―――蒙の姓を名乗ったなら、必ず蒙驁の身内か問われるはずだ。その時は馬鹿正直に語る必要はない。訳ありで迷惑を掛けるから詳しくは言えないとだけ言うんだ。絶対に顔も見せるなよ。

蒙恬には何度も釘を刺されたが、蒙驁の存在を後ろ盾につければ大丈夫に違いない。信はそう考えていた。

いくら元野盗とはいえ相手も人間で、夜目が利かないのは同じである。

何より顔を見られて正体に気付かれることを恐れた二人は、明かりを持たずに、空から差し込む月明りだけで森の中を進んでいた。

「見えて来たぞ。あそこだ」

草木を掻き分けて進んでいると、先方に明かりが見える。人の気配や談笑から、桓騎軍の野営地に来たことを察した。

草陰に身を潜めながら那貴が野営を見渡している。焚火の周辺で兵たちが酒を飲んで談笑している姿が見えた。

「…おかしい」

那貴が眉間に皺を寄せている。どうしたと信が小声で尋ねると、彼は野営地から目を離さず口を開いた。

「お頭の天幕が見当たらない。いつも印がついているはずなのに、今日はそれがない。…妙だ」

口元に手を当てながら怪訝な表情を浮かべる那貴に、信は目を見張った。

将軍である桓騎がこの場にいないはずがない。場所を変えて天幕を立てているにせよ、辺りを見渡す限り、野営が可能なのはここしかないだろう。

信は嫌な予感を覚えた。単純に天幕に印をつけていないとも考えられるが、それはおかしい。

いつも印がついているはずの桓騎の天幕に、なぜ今日に限って印がないのか。

まるで桓騎がこちらの素行調査のことを知っているのではないかという不安を覚え、信は生唾を飲み込んだ。

楚国の奇襲に備えているとも考えたが、まだ決戦の場である平地までは移動に時間がかかる。それに、こんな場所に奇襲をかけるような軍略を立てる者は楚国にいないはずだ。

奇襲の対策を取っているにせよ、他の兵たちに野営をさせながら、桓騎だけがいないというのもおかしい。

もし奇襲の対策を取っているにせよ、兵たちがこんなにも寛いでいるのも妙だ。楚国からの奇襲を警戒しているという説は否定されるだろう。

「…戻るぞ、那貴」

信は那貴に声をかけると、今来た道を戻ることにした。那貴も天幕の印がない違和感を拭えないようで、素直に頷く。

「ッ…!?」

戻ろうとした時に、信の足に何かがぶつかった。

木の根かと思ったが、目を凝らすとまるで桶のようなものが転がっているのが見えた。足をぶつけた拍子に転がしてしまったようだ。

(なんだ?桶…?)

どうしてこんなものがここにあるのだと信が疑問を抱いた途端、桶のあった場所に見覚えのある大きな虫が蠢いているのを見つける。

目を凝らしてみると、それは信の大嫌いな毒虫、ギュポーだった。

「―――」

全身の血液が逆流するような感覚に、信が息を詰まらせる。ぶわりと全身の鳥肌が立った。

こんな状況で声を上げればどうなるか分かっているはずなのに、心に根付いているギュポーに対する恐怖は構わずに信の中を暴れ回った。

「ぎゅッ、…きゃぁあああああ――――ッ!」

咄嗟に那貴が手を伸ばして信の口に蓋をするが、既に悲鳴は桓騎軍の兵たちの耳に響き渡った後だった。

「おい、女の悲鳴だぞ!」

「近くにいるんじゃねえのか?なんでこんなとこに?」

那貴の手の下で、もごもごと悲鳴の余韻を上げていると、桓騎軍の兵たちの声が聞こえた。彼らが動き出したのを見て、那貴は信と共に身を屈めた。

「良い女なら捕まえて輪姦マワしちまおうぜ」

その言葉を聞いて、那貴はやはりそうなるかと苦笑を浮かべた。

桓騎軍の兵たちは見境がない。相手が良い女ならば玩具のように凌辱し、弄んで、最後はごみのように捨てるのだ。

その様子を、那貴も桓騎軍にいる時は傍で見て来たはずだったのに、今は無性に許せなかった。

「撤退するぞ」

ここで信が捕らえられ、女だと気づかれれば、きっと弁明する前に彼女が汚されてしまう。

命が無事だったとしても、女としては心に一生の傷を負うことになる。何としても避けなくてはと那貴は考えた。

信が安易に男たちに屈するはずはないし、彼女の強さも分かっているのだが、那貴は桓騎軍の兵たちに彼女を触れさせたくないと感じていた。

桓騎軍の兵たちが集まって来る前に、何としても逃げ出さなくてはと、那貴が信の手を掴んで走り出す。

信の手首は想像していたよりも細くて驚いた。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

身を屈めているとはいえ、足音は隠せない。
二人分の足音を聞きつけた兵たちが「あっちだ!」と仲間に声を掛け合っている。

「わ、悪い、那貴…!俺のせいだ…」

ようやくギュポーによる動揺が落ち着いた信は、今にも泣きそうなほど顔を歪めながら謝罪した。

(意外と女らしいところもあるんだな)

飛信軍に入ってから信がそんな表情を見せたのは初めてのことだったので、那貴は走りながら、つい見惚れてしまう。
こんな時に何を考えているのだと那貴は思考を振り払った。

「とにかくここから離れるぞ。うちらの野営まで戻れば何とでもなる」

「ああ!」

後ろに目をやるが、桓騎軍の兵たちの声と気配が近づいて来ている。近い距離ではないが、まだ追い掛けて来ているらしい。

ひたすら走り続け、ようやく自分たちの野営地の明かりが見えると、二人はほっと安堵の息を吐いた。

それまでずっと握っていた信の手首を放したが、那貴の手の平には彼女の温もりが名残惜しく残っていた。

 

任務失敗

信が膝に手を当てながら、長い息を吐いていた。

「はー…まさか何も出来ずに引き返すなんてな…那貴がいてくれて助かったぜ」

信がやれやれと肩を竦める。手首を掴んでいたことを意識しているのは自分だけだったようだと那貴は苦笑した。

顔に疲労を滲ませながら、信と那貴は待機している兵たちの元へ向かう。

「悪い、待たせたな……ん?」

待機していたはずの兵たちが重々しい空気を纏っている。信と那貴が戻って来たのを見た彼らは、何か言いたげな表情を浮かべていた。

どうしたのだろう。彼らの視線を追い掛けると、紫の鎧に身を包んだ男が焚火の前にある椅子に腰を下ろしていた。

「お頭…!?」

那貴の小さな声に、信が目を見開いた。桓騎軍の野営地にいるとばかり思っていた桓騎がいたのだ。

(なんでこいつがここに!?)

信も那貴も驚いて言葉を失っている。お供としてついて来たのか、桓騎軍の千人将であるオギコが桓騎の肩を揉んでいる。

辺りを見渡す限り、どうやら桓騎軍からやって来たのはこの二人だけのようだった。一体なんのために来たのだろうか。

戦の作戦などは参謀である摩論が伝えるはずだ。桓騎自らが百人隊の野営地に出向くなど、目的がまるで分からない。

信と那貴の姿を見て、桓騎はにやりと口の端をつり上げた。
顔を隠しているとはいえ、この男に睨まれると、まるで全てを見透かされているような嫌な気持ちになる。

「…おい、なんで桓騎将軍がここにいる」

近くに立っていた兵に声を潜めながら尋ねると、「分かりません」と彼は首を横に振った。

ふらりとこの野営に桓騎が現れたかと思うと、戦の作戦を伝える訳でもなく、ただ座っているだけだという。

用件を尋ねても何も答えず、オギコも桓騎の肩を揉むのに必死で、まるで話にならないのだそうだ。

信は那貴に目を向けると、彼は小さく首を横に振った。那貴が桓騎軍に居た時も、このようなことは一度もなかった。

桓騎軍との付き合いが一番長い那貴でさえも、桓騎の目的が分からないらしい。

一体何を目的に、桓騎はやって来たのだろう。
重々しい空気の中、複数の足音が聞こえて信は顔を上げた。

「おい、百人隊!こっちに女が来なかったか!」

先ほどの桓騎軍の兵たちだった。その数は合わせて十人。まさかここまで追い掛けて来るとは思わなかった。

それまでオギコに肩を揉ませて寛いでいた桓騎がようやく顔を上げる。

「お前ら、何かあったのか」

ここに来て、ようやく桓騎が口を開いた。
桓騎軍の兵たちもどうしてここに桓騎がいるのだと驚いているようだったが、先ほどの出来事を話し始める。

「俺らの野営の近くで女の悲鳴が聞こえたんだ。この辺りに集落なんてなかったはずなのによお。良い女だったらお頭にも献上しようって思ってたんだぜ」

鼻息を荒くして話す男たちに、信は寒気を感じた。

これから戦に赴き、命の奪い合いをするというのに、まさかこんな状況で女に飢えているのか。

桓騎軍は戦であっても構わずに自分の野営地に娼婦を連れ込んでいるというのは那貴から聞いていたが、やはりそういう目的で連れ込んでいるのだ。

正体を隠していなければ、彼らをぶん殴っていたに違いない。

信は素知らぬ顔をして、とことん白を切ることにした。

「…女だと?一体何の話だ?ここに来たのは桓騎将軍とそこの千人将だけだぞ」

桓騎軍の兵から逃げた女がいるという話を聞き、恐らく信が失敗したのだろうと飛信軍の兵たちもすぐに察したようだった。

きっと後で何があったのだと責め立てられるに違いない。兵たちから呆れが含まれた視線を感じ、信は居心地が悪くなった。

「ちっ、逃げちまったか」

誰も情報を持っていないことで、桓騎軍の兵の者たちはあからさまに不機嫌な顔になる。

もう用はないと言わんばかりに桓騎軍の兵たちが野営地を出ていった。
これで完全に逃げ切れたと胸を撫で下ろした信だったが、まだ悩みの種は一つある。桓騎がまだこの場から去ろうとしないことだ。

作戦を告げるつもりもないのなら、何をしに来たのだろう。
目的は気になるが、桓騎に怪しまれる訳にはいかない。さり気なくその場を離れようとした時だった。

「ねー、お頭!ここに飛信軍がいるってほんと?」

「っ…!」

桓騎の肩を揉んでいたオギコの言葉に、信はぴたりと足を止めた。
飛信軍の兵たちの顔に、僅かな動揺が浮かぶ。那貴もまさかという表情を浮かべる。

頬杖をつきながら、桓騎は長い脚を組み直した。

「…ただの噂だ。飛信軍は今回の戦に参加しねえからな」

「オギコ、信に会いたかったなー!」

信は桓騎たちに背中を向けたまま、歯を食い縛る。

他の桓騎軍に所属している将たちはさすが元野盗ということもあって、飛信軍とはとても性格が合わない輩ばかりだ。

野盗時代の癖なのか、いちいち脅し文句を言わなければ気が済まないのも付き合いづらい。

しかし、オギコだけは違った。過去に、桓騎軍と共に戦った時、信はオギコの命を救ってやったことがある。オギコは表裏がなくて親しみやすい男だった。

素直に「助けてくれてありがとう!」と笑顔で感謝されて、嫌な気持ちになる者はいないだろう。

武器の扱いはからきしだが、オギコのその純粋な性格ゆえ、信はどうして彼が桓騎軍にいるのかが不思議でならなかった。

桓騎軍が嫌になったらいつでも飛信軍に来いと伝えたが「ありがとう!でもオギコ、お頭が好きだからごめんね!」とフラれたのは、信の中であまり納得がいかなかった。

…とはいえ、オギコは信に助けられた恩が忘れられないらしい。この場に桓騎がいなければ、信はすぐにでもオギコを飛信軍に勧誘していたに違いない。

それを見抜いた那貴が信の耳元に顔を寄せる。

「…オギコは何でも悪気なくお頭に言っちまう。今はやめとけ」

「う…」

信は渋々頷いた。那貴がいなければ、オギコを通して桓騎に正体を気付かれてしまうところだった。

先ほどのオギコと桓騎のやりとりを思い出す。

(なんで飛信軍がここにいるって噂があるんだ?)

一体どこから情報が洩れたのか、信は分からずに眉間に皺を寄せた。

出立してからは、飛信軍の兵で結成された百人隊として行動しており、合流するまで桓騎軍とは一度も接触をしなかった。

情報漏洩をした者がいるとは信じたくなかったが、桓騎の耳にまで入ったということは、それを疑わざるを得ない。

もしかして桓騎がこの野営地にやって来たのは、噂の真相を確かめるためなのではないだろうか。

(いや、でも…)

オギコの問いに、噂だと告げたのは桓騎の方だ。

此度の戦で飛信軍が参加しないことは桓騎は知っているし、真相を確かめに来たような態度とは思えない。

だとしたら一体なぜこの野営地に来たのか。ますます彼の目的が分からず、信は思考を巡らせた。

「――!」

オギコと目が合い、信は咄嗟に視線を逸らしてしまった。

あからさまに視線を逸らされたことにオギコが小首を傾げ、頭に疑問符を浮かべている。
視界の隅でオギコがこちらをじいっと見つめていることに、信は嫌な汗を浮かべた。

(気付かれたか…!?いや、オギコに限ってそんな…)

もしもここでオギコの興味が自分に向けられるようなことがあれば、厄介なことになるのは目に見えていた。

先ほど那貴が話していた通り、悪気なく何でも桓騎に話してしまうというのだから、他の兵と同じで、オギコにも正体を気づかれる訳にはいかない。

心臓が早鐘を打つ。

これだけ念入りに作戦を立てて桓騎軍の素行調査を行おうと思ったのに、まだ何も成し遂げていないことにも後ろめたさがあったし、初日から正体を気づかれるなんて失態を起こせば間違いなく蒙恬と王賁から怒号が飛び交うだろう。

しかも、よりにもよってオギコに気付かれるだなんて、笑い話でしかない。

さっさと帰れと心の中で信が叫んでいると、その想いが通じたのか、桓騎が立ち上がった。

「行くぞ、オギコ」

「はーい」

最後まで桓騎はこの野営地に訪れた目的を告げることはなかった。

二人は乗って来た馬に跨り、颯爽と自分の野営地へと戻っていく。遠ざかっていく彼らの後ろ姿を見て、信はようやく安堵の息を吐いたのだった。

 

桓騎の作戦

「…ねえねえ、お頭」

馬を走らせながら、オギコが桓騎に声を掛ける。

「噂じゃなくて本当に信が居たけど、挨拶しなくても良かったの?」

「ああ」

オギコの言葉に、桓騎は驚く様子はなく、むしろ初めから知っていたように頷いた。

「どうせ明日も会うからな。那貴の野郎にも、聞きたいことがたくさんある」

「二人とも、なんで顔隠してたんだろー?」

「たまには頭使えよ、オギコ。ちっせえ脳みそが無くなっちまうぞ」

オギコがうーんと考える。しかし、答えが分からないようで、彼はいつまでも唸り続けていた。

自分たちの野営地に戻って来た桓騎は馬から降りると、野営地を囲んでいる木々の間へ進んでいく。

「お頭ー?なにしてるの?」

オギコの言葉を無視して、桓騎は足元に視線を向けた。

目を凝らすと、仕掛けておいたはずの桶が転がっていた。桶の下に隠していたはずのギュポーと呼ばれる多足の毒虫もいなくなっている。

―――俺らの野営の近くで女の悲鳴が聞こえたんだ。この辺りに集落なんてなかったはずなのによお。良い女だったらお頭にも献上しようって思ってたんだぜ。

兵の言葉を思い出し、桓騎の口の端がつり上がった。

 

中編はこちら

The post アナーキー(桓騎×信←那貴)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

エタニティ(王賁×信←王翦)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/王翦×信/甘々/嫉妬深い/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

将軍昇格

王賁が信と最後に会ったのは、此度の戦が始まる前だった。

この戦で功を立てれば将軍になるのだと、意気込む王賁の背中を押してくれたのが信だった。

―――さっさとここまで上って来いよ、待ってるぜ。

自分よりも一つ年下でありながら、信は先に大将軍の座に就いていた。

血の繋がりはないが、六大将軍の王騎と摎の娘である彼女の強さは、今や中華全土に知れ渡っている。

元下僕である立場の女が、自分という存在を追い抜いて、高い位置から戦を見下ろしていることに王賁は納得出来なかった。

幼い頃は手合わせをすれば、ほとんど王賁が勝っていた。泣かれても、噛みつかれても、相手が女でも王賁は容赦はしなかった。

女だからという理由で手を抜けば、信を侮辱することになると幼心ながらに思ったからだ。

幼い頃とはいえ、敗戦ばかりの手合せが信の闘争心に火を点けたのだろう。彼女は誰よりも長く鍛錬に勤しみ、ひたすら王騎と摎の下で剣の腕を磨いていた。

その結果が、大将軍の座に結び付いたのである。

まさかあんな泣き虫な女が自分を差し置いて、先に大将軍の座に就くとは思わず、王賁は嫉妬の念に駆られていた。

しかし、飛信軍と共に行動をするよう指示を受けた戦で、王賁は理解したのだ。天下の大将軍の娘と呼ばれる信の実力を。

王賁が知らないだけで、彼女は確実に成長していた。

初めは弱々しい苗だったのが、今ではしっかりとした根を張っている。

多少の衝撃ではその根は揺らがない。それほどまで信は強い女になっていたのだ。

だからこそ王賁は背中を追い掛けるでも、隣に並ぶのでもなく、彼女を越えなくてはならないと思っていたし、これ以上の差をつけられないようにしなくてはならないと思っていた。

将軍の座に就くことが決まり、ようやく一歩ではあるが、信に近づくことが出来た。

初めの内は父の武功を抜くことばかりを考えていた王賁だったが、いつの間にか信を抜くことに目標がすり替わっていたのだった。

此度の戦で武功を挙げ、王賁率いる玉鳳隊はついに軍となった。王賁の将軍への昇格が決まったのである。

論功行賞で、大王嬴政から名を呼ばれ、将軍になることを命じられた王賁は、目頭に熱いものが込み上げた。

いよいよ信と父と肩を並んで戦場に出られるのだ。

深々と供手礼をすると、嬴政から此度の戦での活躍を労われる。

「王賁、今後も期待しているぞ」

「お任せください」

それから嬴政は他の誰にも聞こえないように声を潜め、王賁にそっと囁いた。

「…信のことも、よろしく頼む」

「は…?」

まさか嬴政の口から信の名前が出て来ると思わず、王賁はつい聞き返してしまった。

僅かに狼狽える王賁に、嬴政は意味ありげに口元を緩め、玉座へと戻っていく。

その姿を眺めながら、王賁はどうして信の名前が出たのかと頭に疑問符を浮かべるばかりだった。

 

祝宴

論功行賞の後に開かれた宴では、王賁を中心として、玉鳳軍が大いにもてなされた。

ここまでついて来てくれた家臣や兵たちに労いの言葉を掛け、王賁も久しぶりに宴の雰囲気に酔いしれるのだった。

「王賁、将軍昇格おめでとう」

蒙恬が笑顔で王賁の肩に腕を回して来る。既に酒に酔っているらしく、顔が赤かった。

楽華隊も此度の戦で大いに武功を挙げていたが、将軍の座になるまでには至らなかった。

しかし、次の戦で武功を上げることが出来れば、蒙恬も将軍へ昇格することになるだろう。気を抜いているとすぐに抜かされてしまう。

いつもへらへらしているように見えて、軍略を立てるのに優れている男だ。

何より王賁と信と違うのは、彼が率いている楽華隊の実力を過信することなく、戦の最中でも冷静に判断をし、的確な指示を出せるところである。

蒙恬自身も、自分と同じ時期に初陣を済ませた王賁に差を広げられたことを気に病んでいるかもしれない。

宴が始まってまだ間もないのだが、既に酒に酔っているところを見ると、恐らくそうなのだろう。

特に嫌味を言って来ることもないが、それが蒙恬の長所なのかもしれない。

蒙恬から杯に酒を注がれると、王賁は黙って飲み込んだ。

良い飲みっぷりに蒙恬があははと笑う。それから彼は辺りを見渡して小首を傾げる。

「…あれ、信は来てないんだね?真っ先に祝いに来ると思ったのに」

王賁はぴくりと眉を顰めた。

六大将軍の王騎と摎の娘、信。飛信軍と王騎軍を指揮する女将軍であり、今や秦国に欠かせない大将軍の一人だ。

彼女を示す天下の大将軍の娘という呼び名は、中華全土に轟いている。

信と王賁は昔から王家の立場上、付き合いがあった。いわば幼馴染である。

しかし、幼い頃から信とは喧嘩が絶えなかったこともあり、王賁にとっては腐れ縁でしかない。

昔からの付き合いということもあって、自分の方が立場が上の癖に、王賁が論功行賞で名を呼ばれた時はまるで自分のことのように祝うあの彼女が、そういえば今日は見ていない。

幼馴染である王賁の将軍昇格と聞けば真っ先にやって来そうなものだが、そういえば論功行賞の時にも姿を見なかった。

此度の戦には参加していなかったが、戦が始まる前に見送りに来てくれたことは覚えている。

彼女に限って風邪で寝込むようなことはないだろう。

バカは風邪を引かないという言葉は彼女自身が示しているようなものだ。

だとすれば、一体何の理由で論功行賞と宴を不在にしているのか王賁には分からなかった。

「…じゃあ、あの噂は本当なのかな」

自分の杯にも酒を注ぎながら、蒙恬が口元を緩めている。

「噂?」

王賁が尋ねると、蒙恬が頷いた。

縁談・・だって」

「は…?」

すぐに理解出来ないでいる王賁に、蒙恬がやれやれと肩を竦めながら言葉を続けた。

「あのねえ、賁。俺たちもそうだけど、信だってお年頃でしょ?賁が知らないだけで、信は物凄い数の縁談を断ってるんだよ?話を聞く前に断っちゃう縁談なんて数え切れないくらいあるって言うし…」

諭すようにそう言われ、王賁の胸にもやもやとした正体不明の何かが広がる。

「それが今回は違う。ちゃんと事前の申し入れも確認した上で、相手と顔を合わせて、どんな男かを確かめようとしてる」

「………」

そこまで噛み砕いて説明された王賁は、胸に広がっている正体不明のもやもやがますます濃くなっていくのを感じていた。

今まで信に縁談が来ていたのは王賁も知っていた。

大将軍という立場だけでなく、自分たちと同じ王家という名家の養子であることや、六大将軍の王騎と摎の娘というのも彼女の名を轟かせている理由だろう。

加えてあの容姿である。

普段はいかなる時でも剣を震えるように、男と間違えられるような格好をしているが、きちんと身なりを整え、黙ってさえいれば誰が見ても淑やかな女にしか見えない。

大王の前や宴の席に出る時にはきちんと身なりを整えているため、外見に騙される男も数多だ。

それでいてどこの家の娘だと調べれば、名家の出であると知り、縁談を申し込む男も多いのだという。

しかも、秦王である嬴政の親友というのも強い決め手である。

信自身も嬴政の剣として、大将軍の座を安易に退く訳にはいかず、縁談を断っているのだろう。

信の気を引くために、上質な着物や宝石の類の贈り物をする男もいたというが、彼女は全く興味を示さなかったのは言うまでもないだろう。

下僕の出身でありながらも、戦漬けの毎日を過ごしていたせいか、信は金目の物に興味がない女なのである。

そんな彼女がまさか今回の相手には興味を示しているというのか。

せっかく自分の将軍昇格の祝いの席だったのに、王賁の表情は暗くなっていた。隣にいる蒙恬があからさまに気になっている王賁を見て、くすくすと笑う。

「どんな相手なんだろうね?もしかしたら、信もいよいよお嫁に行くのかなあ」

「………」

王賁は構わずに酒を飲み込む。美味いと感じていたはずの酒が、なぜか急に味気なくなっていた。

自分の知らない男を夫だと慕う信の姿を想像するだけで、無性に苛立ちが込み上げて来る。

しかし、王賁は妙な自信を持っていた。

嬴政の剣として大将軍の座に就いている信が、これからも縁談を受け入れることはないはずだと信じていたのだ。

 

祝宴その二

宴は朝まで続き、夕刻になってようやく屋敷に戻ると、今度は多くの家臣たちからもてなされた。

それほど大将軍の座に就いた功績というのは大きいものである。

誇り高き王家の血筋として当然の成果であるとも王賁は思っていた。

酒はもうこりごりだと家臣たちに断っていると、側近である番陽が「賁様…」と小走りで近寄って来た。

「王騎の娘が参りました」

信が屋敷を訪ねて来たのだという。

そういえば信が論功行賞と宴を不在にしていたことを思い出す。

そして連鎖的に、彼女が縁談を申し入れるのではないかという蒙恬の話も思い出してしまった。酒の酔いのせいか、僅かな動揺が顔に出てしまう。

宴で疲労している王賁を気遣うように、番陽が「追い返しましょうか?」と問う。

「…いや、通せ」

王賁の指示を聞き、番陽が頷く。しばらくしてから、賑やかな声が向こうから聞こえて来た。

「王賁!」

小走りでやって来た信は女物の着物に身を包んでいた。

目を引く鮮やかな青色の着物には、牡丹の刺繍がされている。彼女の細い腰を強調させるように、白い帯が巻かれていた。

普段は後ろで一括りにされているだけの黒髪も、今日は高い位置で編み込みを入れて結われていた。唇には紅が引かれている。

髪型と衣装と化粧を変えただけで、女性というものはこれほどまで別人に化けるので不思議だ。

王賁の将軍の昇格を祝いに来たのだろう。

もしも普段通りに男物の下袴を穿いて、名家の名を汚すような気品さに欠ける格好だったなら、容赦なく一発殴るところだった。

「いやあ、お前もついに大将軍かぁ!大きくなったなあ」

仄かに顔を赤らめているのを見ると、既に酔っているらしい。

信の方が一つ年下のくせに、酒で気が大きくなっているのか、彼女は王賁の頭をわしわしと撫でた。家臣たちがぎょっとした表情を浮かべる。

彼女の無礼は今に始まったことではなく、昔からずっと続いているものだった。

すぐに手首を掴んで振り払うと、信は「こんなにめでたい日でもいつも通りだな~!」と大声で笑った。

さっそく我が物顔で王賁の隣の席に腰を下ろし、信が土産として持参した酒瓶を掲げる。

「これからの玉鳳軍は、きっと飛信軍の強敵になるな!」

「当然だ。飛信軍などすぐに追い抜く」

信が王賁の盃に酒を注ぐ。

昨夜の宴でさんざん酒は飲んでいたのだが、信からの祝い酒を断る訳にもいかず、王賁は注がれた酒をぐいと煽った。

しっかりとした苦味と酸味が口いっぱいに広がる。雑味が全く入っていない良い酒だった。

「色々あって宴に出れなかったから、自分の屋敷で祝い酒してたんだけどよぉ…やっぱり王賁の顔見て言いたかったから、来て良かったぜ」

信も自分の杯に酒を注ごうとするが、王賁は目にも止まらぬ速さで、彼女の手から酒瓶を奪い取った。

「貴様、飲み過ぎだ」

「まだここ座ってから一杯も飲んでねえって!」

「ここに来る前に存分に飲んだんだろうが。この酔っ払い」

王賁から酒瓶を奪い取ろうとする信の手を振り払い、王賁は侍女に水を持ってくるように声を掛けた。

「だって、王賁が将軍になったんだから、そりゃあ祝わねえと…」

仄かに赤い顔で笑顔を見せる信に、他の家臣や兵たちが鼻の下を伸ばしていることに気付いた。

普段着ない女物の着物に身を包んでいるとはいえ、中身はいつもの信と何ら変わりない。

大きく足を広げており、着物の隙間から彼女のすらりとした美しい白い脚が覗いていた。

何の躊躇いもなく無防備な姿を見せる信に、王賁はどうしようもない苛立ちを覚える。

こんなことなら、色気の欠片も名家の気品さもない普段のような格好の方が良かったかもしれない。

少し目つきは悪いが、黙っていれば申し分ない端正な顔立ちだ。笑顔を浮かべるだけで彼女に心を奪われる男も多いだろう。

王騎と摎の養子になった彼女は下僕の出で、王家の血は入っていないが、それでも王賁や蒙恬よりも早くに大将軍となった実力を持っている。

彼女の強さは王賁も認めざるを得なかった。

幼い頃の手合せでは、当然のように王賁が勝っていた。

初陣を済ませる頃には、信と手合せをすることもなくなったが、戦で挙げた武功の数を比べると、明らかに王賁は信に後れを取るようになっていた。

王賁が遅れを取り戻すよりも早く、いつの間にか信は本能型の武将としての才を芽吹かせ、あっという間に大将軍の座に上り詰めた。

此度の戦での武功が認められて、王賁もようやく将軍の座に就いたとはいえ、信との間にある武功の数は少しも埋まっていない。

王賁はそれが歯痒くもあったし、改めて信の強さを意識せざるしかなかった。

しかし、今の信には大将軍の面影は少しも見当たらない。

どうしてこんな女が自分よりも高い目線で戦場を見渡しているのだろうと王賁は時々不思議に思うことがあった。

 

信の縁談相手

「…あ、王翦将軍は?来てねえのか?」

侍女が持って来た水に口をつけながら、信が問う。

王賁は杯を握る手にぐっと力を込めた。

父である王翦から将軍昇格に関して、何も声を掛けられなかった。

論功行賞の場にはいなかったが、報せは聞いているだろう。元は王翦の側近だった関常が今回の昇格を告げたかもしれない。

しかし、音沙汰がないということは、王賁が将軍になったことに興味を抱いていない証拠だ。

何も答えず、酒に映る自分の姿を見つめている王賁に、信は察したようで、そっか、と呟く。

「あのさ、王賁…」

信が何か言いたげに王賁を見つめる。

少し困ったような視線を横から送って来ているのは気づいていたが、王賁は目を合わさなかった。

父との不仲は昔からだ。

いや、不仲と表現するのはおかしいかもしれない。少なくとも、王賁は王翦を父として、将軍として認めていた。

王翦と共に戦に出ることはあっても、父らしい声を掛けてもらった覚えは一つもない。

きっと王翦は自分が息子であることに、家族としての感情は抱いていないのだ。

決して寂しいという訳ではないのだが、時折未練がましく、幼少期に王翦が声を掛けてくれた時のことを思い出すことがあった。

王賁が父である王翦をどう思っているのか、信は分かっていた。だからこそ、掛ける言葉に悩んでいるのだろう。

慰めてもらいたい気持ちなどない。信が何を言おうと無意味だ。

自分と王翦は父と子という関係があったとしても、今の平行線の関係が続いていくのだと王賁は思っていた。

だが、信の発した言葉は、王賁も予想していないものだった。

「昨日…王翦将軍と会った」

「!」

驚いて王賁が信の方を振り返る。

酒に酔っていて、先ほどまでへらへらと笑っていた彼女の表情は別人のように、真剣なものになっていた。

「悪い。俺、隠しごととか…そういうの、出来ねえから」

申し訳なさそうに話す信に、王賁は無言で空になった自分の杯に酒を注いだ。

信が嘘や隠しごとが出来ない性分なのは昔からだ。彼女がわざわざこの屋敷に来たのは、将軍の昇格の祝いではなく。王翦と会ったことを告げに来たのだろう。

息子が将軍になった報せを聞いておきながら、一体、信にどのような用件を告げたのか。王賁は黙って彼女の話に耳を傾けていた。

王賁が無言で話の続きを促していることに信も気づいていたが、よほど言い辛い内容なのか、口を僅かに開いては、声を出す前に閉じている。

「…なんだ。勿体ぶらずに言え」

父のことだ。どうせ自分の将軍昇格に興味がないだとか、そんな分かり切った内容だろう。

さっさと話せと王賁が信を睨み付けると、彼女は意を決して、大きく息を吸った。

「王翦将軍に、縁談を申し込まれた」

「…………」

王賁は何も言わず、瞬きを繰り返していた。

聞き間違いだろうか。今、縁談という単語が出て来たような…。

信が気まずそうに口を閉ざしたのを見て、聞き間違いではないことを知る。

(父が信に縁談を申し込んだ?)

そんな馬鹿な話があるものか。王賁は顔を引き攣らせながら、信を見つめる。冗談にしては質が悪い。

宴の席で蒙恬が話していた、信に縁談を申し込んだ相手が王翦だったというのか。

だとしたら、信が宴に来なかった理由は、王翦からの縁談の申し入れを決めたから?まかさ、王翦の縁談を了承したというのか。

「………」

顔を真っ赤にして俯いた信を見て、王賁は文字通り言葉を失った。

今の話が冗談ではないことは彼女の態度を見れば分かる。

他の家臣たちは王賁の動揺に気付かず、楽しそうに騒いでいる。

賑やかな談笑が、皮肉にも王賁と信の沈黙をかき消していた。

「………」

王賁の手から杯が滑り落ちる。派手な音を立てて床に酒を零してしまい、気づいた侍女が慌てて布を持って駆け寄って来た。

立ち上がった王賁は、無意識のうちに信の手首を掴んでいた。

「お、王賁ッ!?」

「来い」

引き摺るように信の手首を引きながら、王賁は宴の間を出ていく。

「王賁ッ、痛ぇって!」

強く掴まれているせいで、信が顔を歪ませる。彼女の悲鳴に近い声に、家臣たちが何事かと驚いて視線を向けていた。

宴の間を出ようとする途中で番陽と目が合うと、

「誰も俺の部屋に入れるな。人払いをしろ」

王賁は低い声で指示を出した。

番陽は驚きながらも、王賁のあまりの威圧感に、無言で頷くことしか出来なかった。

妬み

有無を言わさず信を自室に連れて来ると、王賁は信を寝台の上へ乱暴に突き飛ばした。

「な、なんだよッ…!隠さないで言ってやったのに!」

背中を打ち付け、痛みに顔をしかめながら信が反論する。

「そんなのはどうでもいい。どういう意味だ。父から貴様に縁談だと…?」

「も、もちろん断ったぞ!?」

「当たり前だッ!」

言葉を被せるように王賁が怒鳴ったので、信は寝台の上でびくりと肩を竦ませる。

王翦からの縁談を断ったと聞いて、王賁は怒りながらも安堵していた。

「なんで、そんな怒ってんだよ…!断ったって言っただろ!」

断ったという事実を聞いておいて王賁が少しも安堵せず、それどころか、苛立ちを増している理由が分からなくて信は狼狽える。

信に問われ、ようやく王賁は自分が怒りの感情に支配されていることに気付いた。

まさか父である王翦までもが彼女に心を奪われたというのか。

とても信じられず、その疑いを晴らすというよりは、王賁は信に対して無性に怒りを覚えていた。

下僕の出であり、互いの立場を気に留めず、誰とでも話す彼女の明るい性格に救われた兵も民も大勢いるという。

実らぬ恋だと分かりながらも、信に想いを寄せている男が大勢いるのだという噂を蒙恬から聞いたのは、昨夜の宴でだっただろうか。

父からの婚姻の申し出を断ったとはいえ、今後もこのようなことが続くのかと思うと、王賁は今すぐにでも信を自分のものにしなくてはと考えていた。

幼馴染である信が自分以外の男に嫁ぐ姿など想像もしたくない。

それは決して愛情などではなく、独占欲の類だと王賁は思っていた。

今までも信の元に縁談話が届くことはあったが、信は全く興味を示さずに断っていたのだ。

王翦からの縁談も同じように断ったとはいえ、王賁は耐え難い不安に襲われる。

いつか自分以外の男が信の夫と名乗り、彼女の隣を歩くのかと思うと、腸が煮えくり返りそうだった。

しかもそれが王翦だと思うと、それだけで王賁は大声で叫び出してしまいそうなほど嫌悪した。

「も、もう帰る…」

怒りの色を示している王賁にたじろいだ信は、寝台の上から降りようとした。

しかし、王賁はすぐに彼女の体に跨って、その両手首を敷布の上に押さえつける。

何をするんだと信が抵抗を始めるより前に、王賁は彼女の唇に己の唇を押し当てていた。

「―――ッ!」

驚いて硬直していた信がはっと我に返り、王賁を突き放そうと両手に力を込める。しかし、王賁も彼女の両手首を決して放さない。

触れるだけの口づけではあったが、唇が離れた頃には、信は顔を真っ赤にして肩で息をしていた。

手首を押さえつけていた王賁の手がようやく離れる。

信の着物の帯にその手が伸びたのを見て、信は慌てて彼の手を押さえた。

これから何をされるか、バカな彼女でも察したのだろう。

「や、やめろって…!王賁…!俺たちは、恋人でも、夫婦でもないだろ…!」

「なら、なればいい・・・・・ッ!」

王賁の言葉を聞き、信は目を見開いた。

何を言っているのか、理解しているのだろうか。信は問い掛けようとして、言葉を詰まらせた。

あまりにも弱々しい王賁の顔がそこにあったからだ。

まるで親とはぐれた迷子のような、今にも泣きそうな表情だった。

そんな王賁の顔を見るのは信は初めてで、決して冗談を言っているつもりも、からかっているつもりもないのだと理解できた。

「ほ、本気、なのか…?」

信が声を掛けると、王賁がぐっと奥歯を噛み締めたのが分かった。

表情は変わらず弱々しいままだった。まるで信に拒絶されるのではないかと怯えているような態度に、信は胸がきゅっと切なく締め付けられる。

しかし、王賁は信から目を逸らすことはなかった。

決して嘘ではないとその目が訴えている。

「信…」

王賁の手が信の頬を包む。

常日頃から槍を握っているマメだらけの手の平から伝わる温もりに、信の鼓動が速まった。

顔が燃えるように熱くなり、信は王賁から目を逸らしてしまった。

「目を逸らすな。俺を見ろ」

「だ、って…」

咎めるように王賁に囁かれるが、信は目を向けることが出来ない。

王賁に見つめられているだけで顔の火照りが止まらない。言い知れぬ羞恥に駆られて、信は顔を上げられなくなってしまった。

頬に触れていた王賁の手が顎に滑り、顔を持ち上げる。

無理やり目線を合わせられて、信は困惑した。

あからさまに戸惑っている信の様子に、王賁はますます歯痒い気持ちに襲われる。

「…父などに渡すものか…」

王賁の両腕が信の体を強く抱き締める。

「お、王賁…?」

「貴様が、他の男のものになるのは、許せない」

嫉妬しているとしか思えない彼の言葉に、信は思わず声を喉に詰まらせた。

王賁は信の体を抱き締めながら言葉を続けた。

「…嫌なら、俺を殴りつけてでも逃げろ」

そう言って王賁が着物の帯に手を伸ばしたので、信は彼が本気で自分を女として見ていることを悟るのだった。

選択の時間を与えているかのように、王賁はゆっくりと帯を解いていく。しかし、信は決して逃げる素振りを見せない。

やがて帯が解かれて、襟合わせが開かれても、信は抵抗しなかった。

せっかく忠告してやったのに何をしているのだと王賁が信を睨む。しかし、信は顔を真っ赤にしながら下唇を噛み締めたまま動かない。

「…なぜ逃げんのだ」

「に、逃げてほしかったのかよ…!つーか、言わせんなよッ…!」

逃げなかった理由を察しろと信が怒鳴る。もちろん王賁は彼女が逃げない理由など手に取るように分かっていた。

しかし、本当にこんな幸せなことがあっても良いのだろうかと、王賁自身も戸惑っていたのだ。

「…嫌だと言っても、放す気はないぞ」

覚悟しろと王賁が言うと、信は小さく頷く。それから二人は顔を見合わせて、笑った。

束の間の幸福

王賁が目を覚ますと、窓から差し込む朝陽が室内を満たしていた。

腕の中で静かに寝息を立てている信の姿を見て、昨夜の情事を思い出す。

永久にも思えた昨夜のあの時間で、信と幼馴染と戦友という一線を越えてしまったのだ。

決して酔いのせいでもないし、当然ながら後悔はしていない。

本当はずっとこうしたかったのだ。

幼馴染でも戦友でもなく、一人の男として信を愛したかった。

自分の首に腕を回し、愛らしい声で何度も自分の名前を呼んだ信の姿が瞼の裏に蘇る。

散々愛し合ったというのに、その姿を思い浮かべるだけで王賁は再び下腹部に熱いものが込み上げてくるのが分かった。

ぐっと拳を握り、自分を制す。

幾つもの死地を駆け抜けた信の体は傷だらけであったが、その傷痕さえも彼女の一部だと思うと愛おしさが込み上げる。

傷跡の他に、彼女の肌には赤い痕が残っている。昨夜の情事で、王賁がつけたものだった。

「ん…」

肌寒さを感じたのか、温もりを求めて信が王賁の体にすり寄った。

無意識のうちに自分に甘える彼女に王賁は息を詰まらせる。

思わず信の額に唇を落とすと、王賁は一体何をやっているのだと自分に問いかけた。

きっと今の自分は情けなく顔を緩ませているだろう。しかし、これ以上ないほどに胸が満たされていた。

信の体を抱き寄せて、寝具を掛け直してやる。

普段ならば、もう身支度を済ませて槍の鍛錬を始める王賁だったが、今日だけは特別に自分を甘やかすことにした。

信の不在と王翦の報せ

―――後に行われた戦でも、王賁は大いに戦果を挙げた。

玉鳳軍の兵たちの士気も右肩上がりで、この勢いを続けていれば、大将軍の座に就くのもそう遠くはないだろう。

信が率いる飛信軍は此度の戦にも参加していない。

最近の飛信軍は、隣国から侵攻の気配がないかを調査したり、急な侵攻に備えて待機していることが多いようだ。

論功行賞の後に開かれた勝利を祝う宴で、王賁はあることに気が付いた。

(…いない?)

祝宴の場に、信がいないのだ。

酒が入るとすぐ上機嫌になって、すぐ王賁に絡みに来る信の姿が見えないことに、王賁は疑問を抱いた。

盃を傾けながら、王賁は信の姿を探した。

彼女自らここに来ないということは、蒙恬や自分の軍の者たちと共にいるかもしれない。

しかし、飛信軍の副官と軍師である少女たちの姿は見つけたのだが、信の姿が見つからなかった。

バカ騒ぎをするのが大好きな彼女が宴を欠席するなんて珍しい。

王賁が将軍になった時の宴にも参加していなかったが、あの時は王翦に縁談を申し込まれたと言っていたこともあり、王賁に合わせる顔がなかったのだろう。

だとすれば、今日の宴の席に信がいない理由は何だ。

(まさか、また父が…?)

宴の席にいないのは信だけでなく、王翦もだ。

元々王翦は寡黙な男であり、好んで宴に参加するような人物ではないのだが、信に縁談を申し込んだ話と、二人が宴に参加していないことに、何か繋がりがあるような気がしてならない。

嫌な予感がして、王賁は信の所在を知って良そうな飛信軍の副官と軍師の少女たちの元へと向かった。

「おい、貴様ら」

声を掛けると、河了貂と呼ばれる軍師の少女がぎくりと顔を強張らせた。

副官の羌瘣という少女は王賁には一目もくれず、その細身からは想像も出来ないほど大量の食事をかき込んでいる。

「貴様らの将はどこにいる」

王賁が問うと、河了貂が戸惑ったように目を泳がせたので、王賁の眉間にますます皺が寄った。

「あ、えっと、信のこと、だよな?」

こちらが質問をしたのに、河了貂から質問で返される。

一体何の話だと王賁が聞き返せば、大きな猪肉を頬張っている羌瘣がようやく顔を上げた。

「信は今、大王のところにいる。今後しばらくは戦も宴も出ないだろう」

「は…?」

羌瘣の言葉は、王賁が尋ねた質問の答えをきちんと返していた。

しばらく戦も宴も出ないとはどういう意味だ。

あっと言う間に猪肉を飲み込むと、羌瘣は指についた猪肉の油をを舐め取っていた。

「王翦将軍があちこちで話をしている。…信と家族になれる・・・・・・・・だなんて、良かったじゃないか」

「―――」

まるで鈍器で頭を殴りつけられたかのような衝撃に、王賁は絶句する。

王翦が信の話を広げているという事実に、全身の血液が逆流する感覚を覚えた。

(バカな…!あいつは父の縁談を断ったはずだ!)

王翦が信を嫁に迎え入れたというのか。あの寡黙な父が噂を流しているだなんて、余程の報せでないと有り得ない。

数か月前、王賁が将軍昇格が決まった時に、信は王翦からの縁談の申し入れを断ったと言っていた。

まさかまた父が縁談を申し入れたのか。それとも信が断りの返事を取り止めたのか。

王賁の目の前がぐらぐらと揺れる。

酒の酔いが回ったのだろうか。謎の頭痛まで出て来て、王賁は気分が悪くなり、外の空気を吸おうと足早に宴の間を抜け出した。

宴の間を出ると、外のひんやりとした空気に頭痛が和らいだ。

信の裏切り

手摺りに凭れながら、空を見上げる。

今日は三日月だ。戦で武功を上げ、秦を勝利に導いたはずなのに、何故こんなにも気が重いのだろう。

「あ、王賁」

背後から声を掛けられて振り返ると、信だった。

大王の嬴政と何かを話していたと言っていたが、用件は済んだのだろうか。

手巾で口元を拭っている彼女を見て、王賁は先ほどの羌瘣から聞いた言葉を思い出し、怒りが込み上げた。

「貴様ッ、一体何を考えている!」

信の肩を掴み、王賁は怒りの感情のままに怒鳴りつけた。

幸いにも宴の間から流れて来ている大きな談笑のせいで、王賁の怒鳴り声は他の者たちの耳に届くことはなかった。

しかし、目の前にいる信にはしっかりと伝わり、彼女は戸惑ったように狼狽える。

「な、何って…」

「…大王にも、その報告をしていたのか」

信が小さく頷く。

王賁の怒りは安易に消せないところまで燃え広がり、彼女の肩を掴む手に思わず力が籠もってしまう。

「誰の許可を得て婚姻するつもりだッ!このバカ女がッ!」

再び王賁に怒鳴られ、信は困惑した表情を浮かべながらも、唇をきゅっと固く引き結んだ。

「…喜んでくれると、思ったのに…」

消え入りそうな声で信がそう呟いたが、王賁の耳には届かなかった。

しかし、信の瞳にうっすらと涙が浮かんだのを見て、王賁の心が僅かに揺らぐ。

自分以外の男――まして父の王翦との婚姻など、認められるはずがない。

王賁は信を睨み付けていたが、信も目を真っ赤にして王賁を睨み付けた。

「お前の言う通り、俺がバカだったッ!」

信の瞳から涙が一筋流れる。

しかし、王賁もここまで来て引く訳にはいかなかった。

どうしてだ。あの日の夜、信が自分に言った言葉は嘘だったのだろうか。

王賁が信に告げた言葉は、全て偽りなき想いだったのに、全て裏切られた気分になる。

「もうお前なぞ知らんッ!」

もうどうでもいい。

口を衝いて出た王賁の言葉を聞き、信の瞳からとめどなく涙が流れ出す。

こんな言い合いをして、信を泣かせたのは幼い頃以来だろう。

幼い頃の王賁は王家の血を引いていない信を、立場の弁えない娘だと罵っていた。

天下の大将軍である王騎と摎の娘のくせに、王家の血を引いていない彼女が王家を出入りすることに王賁は子どもながらに憤りを感じていたのだ。

今考えてみれば、それは単なる妬みだった。

王騎と摎と血の繋がりを持たない信が、まるで本当の娘のように甘やかされていることが気に食わなかったのだ。

自分は王翦の血を継いでいるはずなのに、なぜ父は、王騎が信にするように甘やかしてくれないのか。

子どもの頃の王賁には何一つ事情が分からなかった。だからこそ信に嫉妬してしまったのだ。

―――立場を弁えろ。将軍たちと血の繋がりもない元下僕のくせに。

しかし、王賁の言葉に激怒した信が、泣きながら鍛錬用の模造剣で、

―――俺は父さんと母さんの娘だ!謝れコノヤロー!

王賁の頭を思い切り殴って来たことは今でもよく覚えている。

今の信の表情が、幼い時の彼女と重なり、王賁は思わず言葉を詰まらせていた。

「もう、…お前となんて一緒にいられねーよッ!」

信は肩を掴む王賁の手を振り払い、踵を返してその場から走り去っていった。

残された王賁も彼女を追うことはしない。

しかし、棘が刺さっているかのように、胸がちくちくと痛む。

信を愛しているはずなのに、泣かせてしまったことを、冷静な自分が後悔しているのだ。

彼女が自分以外の男を夫と呼び、隣を歩く姿を見たくないと思っていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。

このまま王翦との縁談話が進み、自分は信を母と呼ばなくてはならない日が来るなんて、悪夢でしかない。

「はあ…」

王賁は宴の席に戻ると、酒に溺れたのだった。

戦で武功を挙げた自分を褒め称えるのではなく、全てを忘れたかった。

 

後編はこちら

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カタルシス(嬴政×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 嬴政×信/漂×信/嫉妬/無理やり/ヤンデレ/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

女将軍の帰還

戦から帰還した信が、瀕死の状態にあるという報せを受け、嬴政はすぐに医師団に指示を出した。

飛信軍の力は秦国には欠かせない。

そして飛信軍を率いる将である信を、何としても失う訳にはいかなかった。

どんな手を使ってでも救命せよと大王の権限を駆使した命令を受け、医師団は信の治療に全力を注いだ。

幾度も死地を駆け抜けて来た信はいつも怪我が絶えず、多少の傷で怯むような女ではないのだが、今回は事情が違った。

敵本陣に猛攻撃を仕掛けている最中、右腕に毒矢を受けたことが原因で、その毒が全身を蝕んでいるらしい。

矢を受けた時に、毒が塗られていると気付いた信は咄嗟に矢を引き抜き、口で毒を吸い出したことによって、幸いにも致死量は免れたという。

すぐに引き返して救護班の処置を受ければ良かったものの、信は敵の総大将を追うことを優先したのだ。

そして敵の総大将を討ち取った後に、ほぼ気力だけで動いていた彼女は馬上でついに意識を失い、そのまま地面に崩れ落ちたという。

飛信軍の副官である羌瘣が、意識のない彼女をすぐに連れて救護班の元へ向かい、早急に処置を受けたことで一命は何とか取り留めたのだが…。

戦が終わって三日が経った今も、信の意識はまだ戻らない。

医師団たちも手は尽くしてくれたのだが、あとは彼女次第かもしれないと残酷な言葉が投げかけられた。

咸陽宮の一室で、医師団の指示を受けた侍女たちが付きっきりで信の看病に当たってくれている。

しかし、意識が戻ったという報告は一度も聞かれていない。

 

秦王の看病

今日の分の政務を終わらせた嬴政は、足早に信が眠っている部屋へと向かった。

部屋の前にいる衛兵が嬴政の姿を見ると、すぐにその場に膝をついて頭を下げる。

すぐに顔を上げるように声を掛け、嬴政が扉越しに声を掛ける。

「信、入るぞ」

扉を開けると、中から熱気が溢れ出し、嬴政は思わず眉を顰める。

冬でもないのに、部屋の角では青銅製の火鉢が設置されていた。

毒の成分を体外に出すために、なるべく水を飲ませて汗をかかせるようにと医師団からの指示があり、火を焚いて室温を上げているのだ。

寝衣も布団も冬仕様の厚い生地で出来ているものを使うことで、無理やり汗を流させているらしい。

彼女の看病に当たっている侍女も汗をかいていた。

部屋に足を踏み入れただけで、嬴政の全身もじっとりと汗をかき始める。

下手すれば看病に当たっている侍女も脱水で倒れてしまうかもしれない。

「手厚い看病、感謝する」

労いの言葉を掛けると、侍女はたちまち顔を真っ赤にさせて「とんでもございません!」とさらに頭を下げる。

「…少し、二人にしてくれないか」

嬴政の言葉に、すぐさま侍女が部屋を出ていく。

背後で扉が閉まると、ようやく二人きりになったことを実感した。

寝台の隣にある椅子に腰を下ろした嬴政は、まじまじと彼女の顔を見つめる。

これだけ熱い部屋にいるというのに、信の顔色は青白かった。

それでも戦から帰還した時の死人のような顔に比べれば、まだ良くなった方だ。

しかし、信は今も苦しそうに早い呼吸を繰り返している。

少量の毒でこれだけ苦しんでいるのだから、もしも致死量が回っていたとしたら、確実に彼女は亡き者になっていただろう。

寝台の傍に置かれている台には大きな水甕と、汗を拭うための布と水桶が置かれている。

嬴政は手を伸ばして、汗で張り付いた前髪を指で梳いてやる。

これだけ部屋は暑くなっているのに、信の肌はまるで氷のように冷たかった。

もしも今、彼女の呼吸が止まれば、死人そのものである。そう思うと、嬴政は情けなく震え上がりそうになった。

「……ぅ…」

眠っている彼女の瞼が鈍く動いたのを見て、嬴政ははっとする。

「信!」

声を掛けると、その声に反応するように、信はゆっくりと瞼を持ち上げた。

「……、………」

覇気のない双眸が嬴政を見つめている。

何か話そうと唇を戦慄かせていたが、声にはならなかった。

意識を取り戻したのかと嬴政は慌てて椅子から立ち上がり、扉の向こうにいる衛兵に至急、医師を呼ぶように指示を出した。

「信!しっかりしろ!」

名前を呼ぶと、信は青白い顔のまま、口元に薄く笑みを浮かべた。

「な、に、泣いてんだよ…」

掠れた声で問われ、嬴政は熱いものが頬を伝っていることに気がついた。情けない顔を見せまいとして、嬴政が信から顔を背ける。

「お前が、泣くなんて、珍しいな、……」

漂という名前に、嬴政は目を見開く。再び信の方を振り返った時には、彼女は再び目を閉ざしていた。

背後から医師団の者たちがばたばたとやって来る気配を感じたが、嬴政の思考はしばらく動かないままだった。

 

秦王の看病その二

顔色はまだ悪いが、体内から毒の成分は大分抜けたらしい。

あと数日だけ今と同じ処置を続けるようにと医師団から指示があった。

信が意識を取り戻したという伝令に、彼女を慕う飛信軍の兵たちも大いに安堵していた。

それまではずっと眠り続けていた信だが、意識を取り戻してからは少しずつ目を覚ます時間も増えていた。

完全に毒が抜け切っていないのだから、下手に身体を動かすと、残っている毒が再び体内に回ってしまう。

医師団からもそのことを説明されていたが、あの女が大人しく言うことを聞くとは思えない。

看病に当たる侍女や、部屋の前にいる衛兵にも注意して見ているように嬴政は指示を出した。

信は病み上がりでも無理をするのだが、今はまだ病み上がりにもなっていない。

その日も政務を終えてから、嬴政は信が眠っている部屋へと向かった。

衛兵と侍女に下がって良いと声を掛け、嬴政は寝台に横たわる彼女の寝顔を見る。

もしも剣を振るっていたら一発殴ってでも寝かせてやろうと思ったが、大人しく眠っていたらしい。

やはり毒の影響は重く、信といえど大分堪えたようだ。

まだ部屋の角で火を焚いていおり、寝具も寝衣も厚手のものを使っているせいで、汗を浮かべているものの、呼吸は随分と楽そうである。顔色にも随分と赤みが戻っていた。

「………」

嬴政は手を伸ばし、信の頬に触れた。

先日触れた時には氷のような冷たさだったのに、今ではちゃんと温もりを感じる。むしろ、発熱のせいで熱かったのだが、嬴政はほっと安堵してしまう。

熱が出ているのは体が毒を排出しようとしている正常な反応だと医師団が話していた。

先日までは、体が熱を出すことも出来なかったため、相当危険な状態だったという。

「ん…」

信が小さく声を上げる。

ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、信の瞳が嬴政の姿を捉える。

「…喉、乾いた…」

乾いた唇で信がそう言ったので、嬴政は呆れたように肩を竦めた。

「大王に看病させる女など、この中華全土のどこを探しても、きっとお前だけだぞ」

水甕から杯に水を汲み、嬴政は信の口元に押し当てる。

しかし、信は杯から水を飲もうとしてむせ込んだ。上体を起こして飲ませるべきだっただろうか。

だが、まだ傷が完全に癒えていない彼女に無理はさせたくない。

嬴政は杯の水を口に含むと、迷うことなく信に唇を重ねた。

「…ん…」

信が驚いたように目を開いていたが、流れ込んで来た水をゆっくりと嚥下していた。

唇が離れると、呆けたように信は薄く口を開けたまま、嬴政を見つめている。

そういえば、信と唇を合わせるのはこれが初めてだった。

唇に残っている柔らかい感触と温もりが名残惜しく、嬴政の胸が切なさで締め付けられる。

水を飲ませるという名目で口づけたが、本当は理由など探さずに、嬴政は信と唇を重ね合いたかった。

戦から生還する度に、強く抱き締めて、彼女が生きていることを実感したかった。

(好きだ)

胸に秘めていた想いが堰を切ったように溢れ出て来る。

しかし、その想いは声にならなかった。

自分と信は、秦の大王と将軍という関係である。

信の性格や強さに嬴政はいつだって助けられて来たが、彼女を娶ることはまだ許されない。

中華を統一するまで、信の将軍としての立場を、利欲のまま奪う訳にはいかなかった。

信が将軍でなければ、これほどまで苦悩することはなかっただろう。

大王としての権限を存分に利用し、彼女を妻にするだけで済んだに違いない。

(いや…)

違う、と嬴政は否定した。

信が将軍という立場であるからこそ、自分は彼女に惹かれたのだ。

戦を知らぬ信など想像出来ないし、きっとそれは嬴政の知る彼女ではない。

幼い頃から戦に身を置いて来た彼女は、逆に言えば、戦しか知らないのだ。

男に抱かれる喜びや、肌を触れ合う温もり、破瓜の痛みも、まだ信は知らない。

もしも、それを自分以外の男が教えると思うと、嬴政は考えるだけで腸が煮えくり返りそうになる。

嬴政の胸の内に秘めた信への想いは着実に膨らんでいき、それは独占欲となって姿を変え始めていた。

そんな嬴政の思いも露知らず、信は嬴政を見つめている。

思わず再び口付けてしまいそうになり、嬴政は自分を必死に制していた。

「…、今日は政の格好してんだな。綺麗だ」

信の言葉を聞き、嬴政ははっと目を見開いた。

漂というのは、嬴政の影武者として選ばれた元下僕の少年のことだ。

まるで双子かと思う程、嬴政と瓜二つの顔をしており、昌文君によって咸陽宮へと連れて来られたのである。

嬴政が、弟である成蟜から玉座を奪還する過程で彼は暗殺された。

最後まで影武者としての仕事を成し遂げ、散っていったのだ。彼の死は、いつも嬴政の心にわだかまりとなって残っている。

そして、それは信も同様だった。

名を呼んでも何も話さない嬴政を見て、信が戸惑ったように瞬きをする。

「あれ?…漂?政?…お前、どっちだ・・・・?」

漂は既に亡くなっているというのに、今の信は本気で分からないらしい。

毒は抜けかけているというが、熱が出ているせいで記憶が混在しているのかもしれない。

嬴政の胸にある信への想いが、着実に独占欲へと変わっていく。

自分以外の男の名を、よりにもよって漂の名前が出たことに、嬴政は僅かに苛立ちを覚えていた。

「…眠っていろ」

嬴政は汗で張り付いている信の前髪を梳いてやった。

「手…」

「ん?」

信がゆっくりと腕を動かして、額に触れている嬴政の右手を掴む。

「冷たくて、気持ちいいな」

火照った身体には、嬴政の手の冷たさが気持ち良いらしい。

嬴政の手を頬に押し当て、信がふにゃりと笑う。

まるで氷嚢のような扱いを受け、嬴政は苦笑を浮かべた。

再び寝息を立て始めた信を見て、嬴政は再び彼女への想いを自覚した。

(…俺だけのものだ)

誰にも渡したくはないという独占欲は、既に取り除くことも出来ないほど、嬴政の中に深い根を張ってしまっていたのだった。

 

衰弱

翌日の診察で、あとは特別な処置はせず、ただ療養に努めるだけで良いとの指示が出た。

ようやくあの蒸し風呂のような環境から解放されるのかと思うと、信は安堵した。

体の毒はまだ完全には抜け切っていないが、もう危険視するほどではないという。

まだ熱は出ているが、受け答えもしっかり出来るようになっていた。

あと数日だけ咸陽宮に留まることになった信は、右腕の不調を感じていた。

毒矢を受けた右腕に、まだ思うように力が入らないのだ。

完全に毒が抜け切れば問題なく動かせるようになるはずだと医師団から言われ、二度と右腕が使えなくなってしまったらという不安が拭われ、信は安堵した。

次の戦に備えて一日でも早く鍛錬を再開したかったのだが、嬴政に「毒が抜け切るまでは許さん」と言われてしまったので、仕方なく療養に専念することにした。

本当はあの部屋で過ごさなくてはならないのだが、眠っているだけでは体が完全に鈍るので、咸陽宮の中を散歩することにした。

城下町に下りても良かったのだが、定期的に侍女が様子を見に来るので、あまり離れた場所にいくと心配をかけてしまう。

(早く戻って、あいつらにも顔見せてやらねえとな…)

廊下を歩きながら、信は飛信軍の者たちの顔を思い浮かべていた。

副官の羌瘣は毒のせいで意識を失った自分を慌てて救護班の元へ連れて行ってくれたというし、ちゃんと礼を言わなくてはならない。

今度、咸陽宮の城下町に連れ出して、満足するまで食事をさせてやればきっと許してもらえるだろう。

自分の意識が戻ったことは、伝令で飛信軍と王騎軍には伝えてくれているという。

一日でも早く戻って、心配を掛けたことを詫びなくては。

「………」

咸陽宮の廊下を突き進み、廊下の奥にある部屋に向かった。

中には父・王騎が生前振るっていた宝刀が備えられている。

王騎が龐煖に討たれた後、この宝刀を預かってもらっていたのだ。

信はまだこの宝刀を使いこなせない。

咸陽宮に来る度にこの部屋に来て、宝刀の柄を握るのだが、持ち上げるのが精一杯で、振るうことは難しい。

王騎と摎と同じ大将軍の座に就いてから日は長いが、まだ二人を越えることは出来ない。

幼い頃から、信は二人の背中を追い続けていた。

両手で宝刀の柄を掴んで持ち上げようとするが、少し持ち上がった後に、信は宝刀から手を放してしまった。

「くそっ…」

まだ右腕に上手く力が入らないのもあるが、少し力んだだけで息が上がってしまう。

毒が抜けるまでずっと眠っていたこともあり、信は筋力の衰えを自覚せざるを得なかった。

部屋を出る時に背中に剣は携えていたが、その剣の重みさえ今の信には体に負荷がかかっていた。

力んだせいか、矢傷を受けたところがずきりと痛む。息を整えながら、信は右腕を擦った。

(このままじゃまずいな…)

すぐにでも戦に出られる体制を整えねばと信は焦燥感に駆られた。この乱世で、いつ隣国が攻め込んで来るかも分からない。

趙の李牧が、水面下で戦の準備を進めているかもしれないと思うと、休んでいる暇などなかった。

あと数日は安静にしているようにと言われていたが、その数日ですら惜しい。

信は嬴政から説教を受けるのを覚悟で、王騎の屋敷に戻ることにした。

これだけ毒が抜けているのだから、多少は体を動かしても問題ないだろう。

「はあ…」

まだ毒が残っているせいで、体の熱がまだ引かない。

そのせいかまだ体に怠さも残っていた。この状態で鍛錬をするなどと嬴政でなくても、他の者たちから制止されるだろう。

それでも眠っていた間に失われた筋力や体力を取り戻すためには一日だって時間が惜しい。

この時間なら、嬴政はまだ執務中だろう。忙しい政務から抜け出すことはないはずだ。

顔を出せば安静にしていろと言われることは目に見えていたので、信は黙って屋敷に戻ることにした。

(…漂も、どっかにいるかな)

嬴政の影武者として、下僕から大出世を遂げた漂は、信の大切な友人だった。そういえば最後に漂と会ったのはいつだっただろう。

王騎と摎の養子となってから、二人に連れられて信も咸陽宮を出入りするようになったのだが、そこで出会ったのが漂だった。

お互いに下僕出身という共通点もあり、漂はまるで信を妹のように可愛がってくれた。

一緒に剣をぶつけ合って、将軍になる夢も語り合った漂は、信の中でとても大きな存在になっていたのだ。

此度の戦の件も聞いているだろうか。毒のせいで寝込んでいる間に、見舞いに来てくれたような気がする。

治療のために暑い部屋に閉じ込められて、喉が渇いてどうしようもなく、水が欲しくて目を開けると漂がいたのだ。

漂が口移しで水を飲ましてくれたことを、信は覚えていた。

その時の唇の感触も、僅かに覚えている。

「………」

指で唇をなぞり、あの時の感触を思い出す。

既に熱を出している体が燃えるように熱くなり、信は慌てて思考を振り払った。

やはり会うのはやめておこう。

今、漂に会っても、ろくに受け答えが出来ないに違いない。

ただ水を口移しで飲ませてくれただけだというのに、自分は一体何を意識しているのだろう。

信が部屋を出ようとした途端、勢いよくが開かれた。

物音に驚いて目を見張っていると、物凄い剣幕をした漂が立っていて、信のことを睨み付けていた。

 

後編はこちら

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