アナーキー(桓騎×信←那貴)後編※R18

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • R18/原作程度の暴力描写あり/桓騎×信/那貴×信/無理やり/ヤンデレ/執着攻め/

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

中編はこちら

 

判断

少し遅れてから那貴が百人隊の野営地へと戻って来た。

何か言いたげな顔をしている那貴を見て、信は小首を傾げる。

「先に戻っちまって悪かったな。…もしかして、桓騎に何か言われたのか?」

いや、と那貴が首を振る。

「お頭らしいなと思っただけだ」

「?」

強張った笑みを浮かべている那貴の顔色は随分と悪かった。

「確証はないが…お頭は、もうあんたの正体に勘付いているかもしれない」

低い声で囁かれたその言葉は、決して冗談ではなかった。信は思わず生唾を飲み込む。

「引き返すなら今だ。あの様子だと、今夜はもうこっちに来ないだろ」

今頃、桓騎は娼婦たちのもてなしを受けているに違いない。

桓騎軍の野営地を後にする時に兵たちのことを観察していたが、特に後ろをつけて来るような奴もいなかったし、側近たちも離れた場所で酒を楽しんでいるようだった。

「…わかった」

信は素直に頷いた。

てっきり拒絶すると思っていた那貴は驚いたように目を瞬かせる。

今は飛信軍の将である那貴が、元は仲間であった桓騎軍の兵たちにあれこれ言われないようにと昨日は任務続行を決めていたのに、今はやけに素直だ。

「良いのか?」

「那貴がそう言うんなら、その方が良いだろ。桓騎軍のことは俺よりお前の方が詳しいんだし」

信は、兵たちにすぐさま撤退を指示した。

兵たちも、信が桓騎軍の野営地から戻って来てから察していたのか、てきぱきと撤退の支度を始める。

自分たちの後方には、本来桓騎軍につく百人隊が控えていた。

彼らに事情を話し、桓騎軍の出立に間に合うように移動してもらえればいい。那貴と蒙虎がいなくなったことを、桓騎たちは不審がるに違いないが、今はそんなことを気にしていても仕方がないだろう。

次に桓騎に会うことがあれば、那貴は飛信軍へと戻り、蒙虎は事故か違う戦で亡くなったとでも言うしかない。

あんな形で桓騎と接触することになるとは思わなかったが、直接彼の口から桓騎軍のことについて聞けたのは大いなる収穫である。

実際に悪行をその場で目撃した訳ではないが、それでも嬴政に伝えるには十分だろう。足りないと言われたら、那貴の話も補足で追加すればいい。

本音を言えば、信も一刻も早く桓騎を連想させるものから離れたかったのだ。

幸いにも桓騎軍たちに撤退を気付かれることはなく、今回のために結成された百人隊
は予定よりも早い解散となったのだった。

 

生還

その後、楚国の侵攻を無事に阻止し、秦軍は撤退となった。

此度の戦では趙の怪しい動きもなかったことから、北で待機していた飛信軍は出陣することなく、待機のみで終了した。

此度も桓騎の奇策が活躍したようで、論功行賞には彼の名前が呼ばれるらしい。その噂を聞いた時、信は複雑な表情を浮かべた。

秦の領土を守ることが出来たのは何にも代えがたい喜びではあるが、それがあの男の手柄だと思うと、素直には喜べなかった。

此度の戦に飛信軍は参加していなかったのだが、桓騎軍の素行調査のことと、その戦の最中に趙の動きがなかったことを報告するために、信は咸陽宮を訪れたのだった。

論功行賞の準備が整うまで、あの日、作戦会議を行った城下町を見渡せる露台で信は時間を潰すことにした。

(あー、動きづれえ…)

秦王の前と論功行賞という畏まった場であるため、久しぶりに女物の華やかな着物に身を包んでいる。

着物の価値が分からないものでも、金の刺繍をされているそれを見ればとんでもなく高価なものであることは予想出来る。

彼女が今着ているその着物は、過去に嬴政から贈られたものだった。信は論功行賞や宴など畏まった場に立つ時に、この着物を着ることが多い。

高価な着物に身を包み、静かにしていれば、誰もが振り返るような淑やかな女性にしか見えないが、背中に携えた剣のせいで台無しだった。

「信!」

後ろから誰かに声をかけられ、信は反射的に振り返る。

「おー、蒙恬!王賁!なんとか帰って来たぜ」

蒙恬と王賁だった。此度の戦では彼らも違う軍の下について参戦していたという。無事に帰還した信の姿を見て、蒙恬も王賁も安堵したようだった。

「五体満足で帰って来れたみたいで良かったよ」

蒙恬の言葉を聞き、信は苦笑する。それから、さっそく桓騎軍の素行調査の話題になった。

―――信から一部始終を聞いた蒙恬は(ギュポーのせいで絶叫して計画が台無しになった辺りから)腹を抱えながら大笑いしており、隣で蒙恬は呆れたように溜息を吐いていた。

「あはははッ!その毒虫のことは予想外だったけど、やっぱりそうなるだろうとは思ってたよ!事前に作戦立てておいて正解だったでしょ?」

蒙恬の笑い声に頭痛を覚えながら、信はその場に座り込んだ。

「もう勘弁してくれ…テンと羌瘣にもさんざんバカにされたんだぞ…俺がギュポー嫌いなのも、これでお前らにもバレちまったし…」

今回の失態が笑い話として軍の中で引き継がれていくことになるのではと、信は頭を抱えた。

「貴様、さっさと立て。着物を汚すな」

落ち込ませてくれれば良いものを、王賁は信の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。同じ王家の者として、信の教養のなさは目に余るらしい。

信が着ているその着物が、秦王から贈られたものだというのは王賁も知っていた。

だからこそ、容易に土埃で汚そうとする信に、無礼だと王賁は彼女の礼儀知らずな態度が腹立たしいのだろう。

そんな彼の気持ちなど露知らず、信はわざとらしい溜息を吐き出した。

「相変わらずだなあ、王賁…労いの言葉くらいかけてくれよ。初日から本当にどうなるかと思ったんだからな…!」

「それはそれは…お疲れ様」

笑い過ぎて涙が溢れている蒙恬は目尻を指で拭うと、王賁の代わりに温かい労いの言葉を掛けてくれた。

「はあ…政の頼みとはいえ、もう二度とあいつらには関わりたくねえな…」

嬴政の夢であり、目標である中華統一には桓騎の奇策が欠かせないことは分かっている。
しかし、桓騎軍の悪事をいつまでも見逃す訳にはいかない。嬴政もそう思って信頼を置いている大将軍の信に今回の件を頼んだのだろう。

蒙恬と王賁に会う前に、信は嬴政へ今回の桓騎軍の素行調査の結果を伝えていた。

実際にその現場を目撃した訳ではなかったので、桓騎の口から直接聞いた話が主であったが、それでも嬴政には十分だったらしい。「よくやってくれた」と真っ直ぐな瞳で労われた。

散々な目に遭ったが、嬴政の労いの言葉一つで全て報われたような心地になってしまうから不思議だ。秦王の存在とは偉大なものである。

「お、そろそろ論功行賞が始まるかな?行こうか」

宮中に務める者たちが廊下を慌ただしく移動しているのを見て、蒙恬は信と王賁に声を掛けた。

 

再会

論功行賞では、噂通りに桓騎の名前が呼ばれていた。

どのような奇策を用いたのかは分からないが、楚国の侵攻を見事なまでに防衛し、それどころか乗り込んで来た敵将を手籠めにして次々と討ち取っていったという。

論功行賞が終わると、すぐに此度の戦の勝利を祝う宴が始まった。

普段なら飽きるまで宴を楽しむ信だったが、今日は気が乗らず、屋敷に帰ることに決めた。

(父さんの宝刀を見てくか)

咸陽宮に来た時には必ずと言っていいほど、信は王騎の形見である宝刀を眺めにいく。

信の腕では持ち上げるのがやっとな重さである宝刀だが、いつかはこの宝刀を戦場で振るい、王騎と摎の意志を継いで戦っていくのだと決めていた。

賑やかな談笑や楽器の音を遠くに聞きながら、信は廊下を突き進んでいく。

宝刀が祀られている部屋は宴が行われている間とは反対方向にあり、廊下を歩く者もいなかった。

重い扉を開け、信は部屋の中に入る。部屋の中央に備えられている祭壇には、王騎が生前使っていた宝刀が奉られていた。

信がこの宝刀を使えるようになるまでという条件で、咸陽宮の一室で厳重に管理をしてくれているのだ。

部屋も宝刀も欠かさず手入れをしてくれているらしく、埃一つ被っていない。
宝刀の前に立ち、信は両手を伸ばす。

「くっ…」

両手で柄を掴むが、やはり持ち上げるのがやっとだ。

両腕の血管が浮き立つほど力を込めているというのに、それでも持ち上げることしか出来ないなんて、振るうまでには一体どれだけ時間が掛かるのだろう。

もしかしたら一生振るうことも出来ないかもしれない。こんな重い宝刀を片手で軽々と振り回していた父の強さを再認識するしかなかった。

重い溜息を吐いて、宝刀を祭壇へ戻した時だった。

「よう、蒙虎」

誰も居ないと思っていたのだが、不意に背後から呼び掛けられて、信は反射的に振り向いた。

「桓騎ッ…!?」

論功行賞の後に祝宴に出ているとばかり思っていたのだが、桓騎が扉に背を預けて立っていたのだ。気怠そうに腕を組み、楽しそうに信のことを見つめている。

なぜここに彼がいるのだろうと疑問に思うよりも先に、彼はにやりと口元を緩めた。

「どうした?飛信軍の信。俺はお前の名前なんて、一言も呼んじゃいねえぞ?」

「あ…」

言われてから、信は気づいた。

あの数日で蒙虎という名前に慣れ親しんでいたのだが、あくまで蒙虎というのは桓騎を欺くための偽名だ。反応してしまったことに、信は後悔した。

下手に言い訳をすれば怪しまれると思い、信は口を噤む。しかし、蒙虎という名に反応したことで桓騎の中では既に合点がいったらしい。

「お前が蒙虎の正体だったんだろ?」

「……何の話だ。お前と俺しかここにいないんだから、話しかけられたら当然振り返るだろ」

信は冷静さを装いながら、桓騎に言い返す。しかし、桓騎は薄ら笑いを浮かべながら首を横に振った。

「那貴の野郎が全部吐いたぜ」

「!?」

彼の言葉を聞き、信は目を見開いた。

桓騎軍から撤退してから北の河了貂たちと合流し、那貴とは楚国の戦が終わるまでは一緒に行動していたが、そういえばその後は一度も那貴と会っていない。

一体何があったのだろう。まさか桓騎軍によって捕らえられてしまったのではと、信の中で不安が広がっていく。

「那貴に何をしたッ!?」

怒鳴りつけると、桓騎の笑みがますます深まる。

相手に嫌がらせをして、苦しめることが好きだというのは那貴から聞いていたが、こういった態度が確かにそれを示している。

「なかなか手間取らせてくれたぜ。那貴の野郎、よっぽどお前のことが大事だったんだなあ?」

桓騎が胸の前で握っていた拳を開く。

手の中からぱらぱらと小石のようなものが幾つか落ちたのが見えて、信は思わず顔をしかめた。

床に落ちたその何かが、血が付着している生爪と歯だと気づき、信はまさかと息を詰まらせる。同時に顔から血の気が引いていくのを感じた。

その生爪と歯こそ、那貴に何をしたという信の問いに対する答えだった。体が震え始め、信の心臓が早鐘を打つ。

床に転がっているそれらを凝視して黙り込んだ信に、桓騎は楽しそうに目を細めていた。

「那貴も可哀相になあ?さっさと話しちまえば、痛い目に遭わずに済んだのによ」

まるで那貴を小馬鹿にするように笑った桓騎に、信の頭の中で何かがふつりと音を立てて切れた。

「てめえッ!」

信は駆け出しながら、背中に携えている剣を、桓騎の体を真っ二つに叩き切る勢いで振り下ろした。

一歩後ろに引いて回避した桓騎は少しも怯むことなく、床に振り下ろした剣を踵で押さえつける。

瞬時に剣から手を放し、信は体を大きく捻らせて蹴りを放つ。剣が使えないと分かってすぐに切り替えたのは、幾度も死地を駆け抜けて来た体の無意識の判断だった。

だが、桓騎の反応も早い。

瞬時に信の足首を掴んで蹴りを受け止めると、その勢いを利用して、背後にある扉に彼女の体を押し付ける。

「ぐっ」

背中を強く打ち付けてしまい、くぐもった声が上がる。桓騎は信の足首を掴んでいるその手を滑らせて、彼女の膝裏を掴んだ。

片足立ちの姿勢で大きく足を開かされる姿勢になると、着物が乱れて信の白い脚が露わになる。導かれるように桓騎の視線が下がった。

「良い恰好だな」

「このッ…放しやがれッ!」

膝裏に回された手を振り解こうと、信が拳を振り上げる。

「うッ」

振り上げたその拳は桓騎の顔面に届くことはなかった。乱暴に身体を床へ叩きつけられ、再び背中を強く打ち付ける。

衝撃が肺に重く響いたせいで、信は激しくむせ込んだ。

目を開くと、先ほど桓騎が落とした生爪と歯が床に散らばっているのが見えた。

「え…?」

よく見ると、爪には色が塗られている。遠目で見た時には、剥がされた時に付着した血肉かと思ったのだが、これは爪紅だ。

那貴は爪に色を塗っていなかった。それに、この爪の大きさからして男のものではなく、女の爪に違いない。

信が混乱していると、上から桓騎の笑い声が降って来た。

「落ち着けよ。それが那貴のものだなんて誰も言ってねえだろ」

怒りのあまり、肩で息をしている信が桓騎の言葉を理解するまでに時間を要した。

「桓騎ッ…!」

からかったのかと信が真意を問い正そうとするより先に、桓騎は大声で笑った。

「那貴のじゃなくて安心したか?」

その問いに信は答えず、睨み付けた。確かに那貴が無事だと分かって、彼の言う通り安心したが、この生爪と歯が那貴のものでないとすれば、一体誰のものなのだろう。

爪紅を塗っていることと大きさから女のものであるのは分かったが、桓騎と接触する女といえば、桓騎軍によく出入りしているという娼婦のものかもしれない。

正体が誰であれ、桓騎がその者の歯を抜いて爪を剥いだ事実は変わらない。

一体どうしてこんな惨いことをしたのかと信は強く奥歯を噛み締めた。

 

真相

悔しそうに自分を睨み付ける彼女に、桓騎は口の端を大きくつり上げている。

「随分と戦慣れしてるくせに、知らねえようだから俺が教えてやるよ。作戦や弱点っつーのは、敵に聞かれねえようにするのが大前提だろ」

「……は?」

信が床に倒れ込んだまま、桓騎を見上げた。

何を言っているのか分からないという信の顔を見て、桓騎がくくっと喉奥で笑う。

「でっけー声で作戦会議なんてされてたら、誰だって聞き耳立てるだろうが。咸陽宮は俺だって自由に出歩ける・・・・・・・・・・・・・・・んだぜ」

「―――ッ!!」

驚愕するのと同時に、信の中で複雑に絡んでいた糸が解けた。

咸陽宮での作戦会議といえば、蒙恬と王賁と三人で考えた桓騎軍潜入の作戦だ。まさかあの場に桓騎が居たというのか。

あの時は集中して作戦を企てていたため、まさか他に聞き耳を立てている者がいるだなんて知らなかった。

もし、そうだとしたら、自分は初めから桓騎の手の平で踊らされていたということになる。

蒙驁の身内である蒙虎という存在を作り上げたことも、飛信軍から百人隊を結成したことも、伝令で飛信軍に情報を送っていたことも、そして嬴政の頼みで桓騎軍の素行調査をするという一番の目的も。

全て桓騎は知った上で、知らない演技をしながら信をからかっていたのだ。

「あのでけえ毒虫も苦手なんだろ?悲鳴一つで、俺らの兵に良い女だと思われて、良かったじゃねえか」

「――――」

開いた口が塞がらない。ギュポーが苦手であることも、桓騎は情報を仕入れていた。

飛信軍の中では周知の事実だとしても、決して口外しないように情報漏洩に努めていたはずなのに。

あからさまに信が狼狽えていると、桓騎が肩を震わせて笑った。

「…ああ、言い忘れてた。前の戦で、オギコが世話になったようだな」

どうしてここでオギコの名前が出て来るのか。信の頭に疑問符が浮かぶ。

(いや、待てよ…?)

オギコとギュポー。一見何の関係のない一人と一匹だが、信の中で何かが引っかかる。

違和感の正体を突き止めるために、信は記憶の糸を手繰り寄せる。

記憶の中にいるオギコは、敵兵の攻撃を受けて、ぼろぼろになっているのにも関わらず、自分に笑顔を向けていた。

その姿を情景を思い出した途端、信の頭に雷が落ちたような衝撃が走る。

オギコを助けたのは戦の最中だった。

桓騎軍の持ち場とは随分と離れた場所でオギコは的に囲まれていた。その外見から桓騎軍の一人であることはすぐに分かり、たまたま近くを通りかかった信が彼を救援したのだ。

周りに護衛の兵はおらず、オギコ一人しかいなかったことから、囮の役割を担っているのかと思ったが、オギコは戦場で迷子になっていただけだったという。

―――助けてくれてありがとう!

元野盗の集団である桓騎軍の噂は聞いていたのだが、オギコは唯一その噂に反する性格をしている。

飛信軍に勧誘したが、桓騎を慕っているからと理由で断られてしまったのだが…。

方向音痴なオギコに、信が桓騎軍がいる方向を教えてやると、オギコは

―――あのね、この虫食べたら美味しいんだよ!お礼にあげる!

ギュポーを干したと思われるものを、オギコは信に笑顔で差し出したのだった。非常食として馬に積んでいたらしい。

雄叫びよりも大きな悲鳴を上げた信は混乱のあまり、辺りの兵たちをあっと言う間に一掃していった。

信の中にあるオギコとギュポーの繋がりといえばそれだ。ギュポーに対する拒絶反応が強過ぎて、記憶に蓋をしてしまっていたらしい。

―――…オギコは何でも悪気なくお頭に言っちまう。今はやめとけ。

以前教えられた那貴の言葉から察するに、きっとオギコは信がギュポー嫌いなことを悪気なく、再会した桓騎に告げ口したのだろう。

蓋を開けた中から記憶が一斉に雪崩れ込んで来る。

素行調査の初日。那貴と共に木々や茂みに隠れながら桓騎軍の野営地へと近づいていく途中で、信は桶に足を引っかけた。

(待てよ…まさか…!)

不自然なところに桶があると思ったが、まさか桓騎があの中にギュポーを仕込んでいたとでもいうのだろうか。

もしそうだとすれば、那貴と信があの森を通ることも・・・・・・・・・、最初から桓騎の見立て通りだったということになる。

自分たちの作戦会議を知った上で、そしてオギコから信がギュポー嫌いなのを聞いた上での計画だったということである。

まるで見えない何かに胃を強く握られたような嫌な感覚に、信は冷や汗が止まらない。しかし、桓騎は容赦なく彼女へ追い打ちを掛けた。

「たかが毒虫一匹を怖がるようなバカな女だ。名も顔も知られてねえ兵が、一人くらい入れ替わってても・・・・・・・・・・・・・誰も気づけねえだろうな?」

「―――」

驚きのあまり、喉が強張って声が出せなくなった。

飛信軍にも凄まじい活躍をする兵たちは大勢いる。千人将である那貴だけでなく、桓騎軍の者たちに飛信軍の兵だと気づかれまいという意図が裏目に出てしまったらしい。

桓騎の言葉から、恐らく桓騎軍の兵が何食わぬ顔で百人隊の中に入り込んでいたことを察し、信は気を失いそうになった。

蒙恬の助言もあり、なるべく秦国の中でも名前と顔を知られていない兵たちを選んだのだが、一人が入れ替わっていたとしても、気づけるはずがなかったのだ。

知らぬ間に一人増えていたのか、それとも鎧を奪うために一人殺したのかは分からない。
一体いつから桓騎軍の兵が入り込んでいたのだろう。

(なんて奴だ…!)

実は信が大のギュポー嫌いだという極秘情報まで仕入れていたということは、素行調査が始まる前から、信たちは完全に桓騎の策に陥っていたということである。

過去に魏の廉頗軍を相手にした戦いで、桓騎は敵兵の鎧を身に纏って堂々と魏の本陣へ潜入するという奇策を用いていた。

今回もそのようにして信たちを欺いたのだろう。偽装していたのは自分たちだけだと思っていたが、桓騎軍も同じだったのだ。

(やられた…!)

陸から上がった魚の如く、口をぱくぱくと開閉させている信に、桓騎の笑みが止まない。

「大王の野郎が、この俺をどうにか抑制しようとしてんのかと思ったが、お前の面白い一面を見せてもらえたから良しとしてやる」

「ああッ?面白いだと!?」

いつまでも見下されるのは癪に障るので、信は勢いよく立ち上がり、桓騎を睨み付けた。

元々の身長差はあるにしても、床に膝をついたままでいるのは性に合わない。

「元下僕と元野盗同士、気が合うだろ。仲良くしようぜ」

肩に腕を回されて、掛けられたその言葉を聞くのは初めてではなかった。

 

二人の共通点

桓騎の腕を振り払おうとしたが、彼の力は凄まじく、簡単に離れてくれなかった。

まるでこれが男女の力量差を見せつけるように、桓騎はにやりと笑う。

「辛気臭い部屋だな」

部屋を見渡しながら、桓騎が呟く。

「…あれのせいか」

中央の祭壇にある王騎の宝刀を見つけると、彼は目を細めた。

「くそッ、おい、放せよッ!」

桓騎に引き摺られるようにしながら、祭壇の方へと連れていかれる。

祭壇の前に辿り着くと、桓騎はつまらなさそうな表情を浮かべた。その視線は、王騎が生前振るっていた宝刀に向けられている。

「これが葬式みてえな空気を出してやがる」

信の肩に回していない方の腕で、桓騎が宝刀の柄を掴んだ。

「―――それに触んじゃねえッ!」

大切な父の宝刀が、桓騎の手によって汚されてしまうような気がして、信は大声で怒鳴り散らした。

柄を掴んだ桓騎の手を振り払おうとするが、僅かに間に合わなかった。

「耳元でぎゃーぎゃーうるせえな」

信は持ち上げるのがやっとな宝刀を、桓騎は片手で軽々と掴み上げ、それをまるでごみを払うように祭壇から投げ落としたのだ。

鈍い音を立てて床に転がった宝刀を見て、信の中で何かがふつりと切れる。

「てめえッ!」

桓騎の腕の中で、憤怒した信は大きく拳を振り上げる。

「ぐあッ」

彼の顔面に拳が届くよりも先に、足を払われた信は祭壇の側面に身体を強く打ち付けた。

「死人にいつまでも執着してんじゃねえよ、バカが」

容赦なく髪を掴まれたせいで、頭皮が引き攣る痛みに思わず信は呻いた。

祭壇の上に転がされると、すぐに桓騎が覆い被さって来る。こんな男に身体を組み敷かれるなど、屈辱でしかない。

「放せッ、何すんだよ!」

完全に頭に血が昇っているのが分かり、桓騎は彼女の怒りをさらに煽るように、にやりと笑みを浮かべた。

「とっとと退けッ」

血走った眼で睨み付けながら怒鳴るが、桓騎は構わずに組み敷いた彼女の体を見下ろす。

胸板を突き放そうと暴れる両手が邪魔だった。彼女の両手首を掴み上げると、頭上で一纏めに押さえつける。

中華全土にその名と強さを轟かせている信だったが、娼婦の腕と大差ない細さだった。

「あんまりうるせえと、騒ぐ度に爪剥ぐぞ。爪が無くなったら、次は歯だ」

脅しのつもりは少しもなかった。桓騎にとって相手の怯える顔を見るのは愉悦であり、生かすも殺すも自分の機嫌一つで決められるものだったからだ。

信に見せつけた生爪と歯の持ち主にも同じことを告げてやったのだが、結局は泣き喚かれたので、宣告していた通りに一枚ずつ爪を剥ぎ、爪が無くなった後は歯を一本ずつ引き抜いてやった。

だが、信に同じ脅し文句は効果がなかったようで、それどころか桓騎の言葉に、彼女はますます怒りを増幅させていた。

爪と歯という言葉に反応したのか、信は床に転がっている生爪と歯に一瞬視線を向ける。

「てめえ、さっきのあれは何なんだ!誰を殺したッ!」

まさかこんな状況になっても他人の気にする余裕があるのか。いじめがいがあるというものだ。桓騎の口角がつり上がる。

「んぐッ」

片手で信の口を覆って強制的に黙らせると、桓騎は彼女に顔を近づけた。

「お前の想像通り、もう殺しちまったんだから、今さら気にしても遅えよ」

悔しそうに信の顔が歪む。飛信軍といえば、女子供や老人といった弱い命を奪わないことで有名だった。

良い女ならともかく、使えないものを生かしておいて一体何になるのか、桓騎には信の考えが少しも理解出来ない。

―――…強いて言うなら、てめえとは一生分かり合えない存在だな。

互いの思考を分かち合うつもりなど微塵もない。

信と桓騎の二人に、共通点があるとすれば、きっとそれだけだろう。

 

激情(※R18)

「―――、―――!」

手で蓋をした口が、もがもがと騒いでいる。助けを呼ぼうとしているのだろうか。

論功行賞の後の宴で、宮中に務めている者たちもそちらに出払っている。この部屋の前を通るものなどいないに等しかった。

喧しいから口に蓋をしただけなのだが、誰も助けに来ないのだと告げれば、この女はどんな表情を浮かべるのだろう。

信を大いに慕っている飛信軍の兵たちだったならば、咸陽宮であろうとも彼女を一人にさせることはなかったに違いない。

だが、飛信軍は此度の戦に参加しなかったこともあり、今日ここに来るのが信だけだというのを桓騎は事前に知っていた。

だからこそ、今日という日を心待ちにしていたと言っても過言ではない。

自分を嫌っている信が激しく抵抗をすることは、初めから分かっていた。

押し倒されたなら、諦めて素直に足を開けば多少は優しくてやるものを、信は男を煽らせるのが上手いらしい。

押さえつけている両手首に力を込めているのが分かる。桓騎がこの手を放せば確実に殴りつけて来るだろう。

彼女の口と両手首をそれぞれ押さえつけながら、桓騎は身を屈めた。白い喉に舌を這わせると、まるで電流でも流されたかのように、信の体がびくりと震える。

首筋を上下の歯で挟み、ゆっくりと力を込めていくと、信がくぐもった声を上げた。

舌の上に血の味が広がり、口を離すと、信の首筋に赤い歯形が刻まれている。血が滲む歯形に沿って再び舌を這わせる。

目を見開いてこちらを凝視している信に、まさかこういうことを男としたことがないのだろうかと桓騎は疑問を浮かべた。

手の下で再び信が何やら喚いている。生娘なのか尋ねようと、桓騎が信の口を押さえている手を放した時だった。

「ッ!」

右目に染みるような痛みが走る。信に唾を吐きかけられたのだと分かった。

「放せッ!」

怯んだ隙をついて信は拘束を振り解く。

覆い被さっていた桓騎の身体を突き飛ばして、祭壇から転がるように降りた――はずだった。

「いッ…!」

桓騎の下から抜け出せたと思った途端、後ろで括っていた髪を思い切り掴まれて、信は痛みに思わず息を詰まらせた。

「…随分と色気のねえ贈り物じゃねえか」

信の髪を掴んでいない方の手で目元を拭う。信に吐きかけられた唾を手の甲で拭い、そこにべろりと舌を這わせながら、桓騎が笑った。

口元は笑みを浮かべているが、その瞳からは憤怒の色が浮かんでいる。

「礼をしてやらねえとなあ?」

「んんッ!」

助けを呼ぼうとした口は桓騎の唇によって塞がれた。

再び祭壇に身体を押し倒されて、口の中にぬるりとした舌が入り込んで来る。生き物のように口内で舌が蠢き、気持ち悪さのあまり、信は鳥肌を立てた。

「~~~ッ!」

すぐさま舌に噛み付いて抵抗しようとするが、片手で首を圧迫され、息が出来ずに信は目を見開いた。

後頭部を押さえつけられて、顔を背けることも出来ない。

苦しさのあまり、自然と口が開いてしまい、まるで桓騎の唇を舌を求めているかのようだ。

信が桓騎の胸を突き放そうとするが、息が出来ないせいで、腕に上手く力が入らない。

「―――ッ…」

目の前が霞んでいく。視界いっぱいに桓騎の顔を映しながら意識を失うなんて、夢見が悪いに決まっている。眠っている間に首と体を切り離されてしまうかもしれない。

意識の糸を手放しかけた瞬間、桓騎は信の首から手を放した。

「げほッ、かはッ…!」

遮られていた気道が一気に開放し、酸素が流れ込んで来る。

何度かむせ込みながら、信は生理的な涙を浮かべて桓騎を睨み付けた。

こんな状況で、そんな目つきを向けられれば男を煽ることにしかならないのを、きっと信は知らないのだろう。

生娘でないとしても、男に抱かれる喜びには疎そうな女だ。

娼婦が持っているような男を喜ばせる術など何一つ知らないだろう。唯一、信が男を喜ばせることが出来るとすれば、その生意気な態度だ。

一切の抵抗が出来なくなるくらいに捻じ伏せて、涙を流しながら許しを乞う姿にしてやりたいと思うのは男の性というものだろう。

両手の拘束をするよりも大人しくさせる方法など桓騎はいくらでも知っていた。手っ取り早いのは首を絞め上げることだ。

「ぐッ…!」

再び首を圧迫され、信が苦悶の表情を浮かべる。桓騎が腰帯を解いても、信の両手がそれを押さえることはなかった。

こんな状況ならば、誰しも命綱である気道の確保を優先するのが当然である。

「ぁ…か、は…」

このまま気道を潰すのも、首の骨をへし折ることも容易だが、信を殺すのが目的ではない。

首を絞める手を程良く加減をしてやりながら、桓騎は反対の手で信の着物を解いていった。

 

拒絶(※R18)

気道が圧迫されることで僅かにしか息ができず、信は苦しさのあまり、生理的な涙を流していた。

桓騎の反対の手が着物を脱がせているのは分かっていたが、その手を押さえることが出来ない。

両手を拘束されている訳でもないのに、首を絞められると、それだけで人間は抵抗が出来なくなるものである。

「げほッ…」

ようやく桓騎が信の首から手を離してくれた時には、帯が解かれ、襟合わせも大きく開かれて、胸に巻いていたさらしも外されてしまっていた。

意図的に押さえつけられていた呼吸がようやく楽になり、信は桓騎の下から逃げ出すことも忘れて、必死に息を整える。

着物を脱がされて喘ぐように呼吸をする信が、まるで娼婦の姿と重なり、桓騎は思わず口の端をつり上げた。

「大人しくそうやって喘いどけよ」

からかわれるように桓騎に囁かれたが、首を絞められて弱り切った信は、今や彼を睨み付けることすら出来ずにいる。

「う…」

信がようやく大人しくなったことに、すっかり気を良くしながら、桓騎は解いた帯を使って彼女の両手首を一括りに縛り上げた。

まだ抵抗を続けるのなら、肩の関節を外してやっても良かったのだが、それでは色気に欠ける。

傷痕の目立つ肌に色気など感じないと思っていたのだが、若さゆえに艶と弾力のある肌を持ち合わせている。

いつもさらしで覆っているのだろう、露わになった胸は手の平に収まるほど良い形と大きさをしていた。中心にある胸の芽は、地肌に溶け込んでしまいそうな桃色をしていた。

普段から、今日のように身なりを整えていたのなら、将軍なんてものにならず、どこぞの名家の男にでも嫁いでいたに違いない。

胸に吸い付くと、息を整えていた信が目を見開いた。

反対の手で、もう片方の乳房を撫で回す。男に抱かれ慣れている娼婦なら、既に甘い吐息を零すだろう。

しかし、信といえば、体を強張らせて何をしているのだと桓騎を凝視している。

本来ならば前戯をしてとことん女の体を楽しむ桓騎だったが、扉の向こうが騒がしくなっていることに気付いた。

まだ宴は終わっていないはずだが、秦王が席を外して退席する者たちが出て来たのか、それとも料理と酒の追加を運ぶ従者たちか。

どちらにせよ、悠長に相手をしてやることは出来なさそうだ。

ようやく呼吸が整って来たらしい彼女は拘束された両腕で桓騎の体を押し退けようとしている。

喧しい声を上げるのならばまた首を絞め上げてやろうと思ったが、まだ完全には力が戻っていないようだった。

いつまでも生意気なことを言う口に、男根を突っ込めば噛み切られてしまうだろう。いつかはその悔しい顔を見下ろしながら好きに喉と口を使ってやりたいものだ。

仲間想いの信のことだ。本当に那貴を人質に取れば、歯を立てずに嫌々ながら男根を咥えるかもしれない。

くく、と喉で笑いながら、桓騎はそのうち試しても良いかと考えるのだった。

残念ながら今は歯のついていない下の口を使うしかないかと、視線を下げる。

程良く筋肉が付いて引き締まった内腿に指を這わせると、信の体がびくりと跳ねた。

「触んなッ…!」

そんな場所を他人に触れられたことがなかったのだろう。怯えにも似た色が信の瞳に浮かんだのを見て、桓騎は彼女が生娘であることを察した。

むしろ、今までよく男に抱かれなかったものだ。今日のように身なりさえ整えていれば、彼女を褥に連れ込みたいと思う男など大勢いたに違いない。

いつも信とつるんでいる蒙恬や王賁だって、女として見ていたはずなのに手を出さずにいたのかと思うと、桓騎はますます笑いが止まらなくなった。

「…那貴の野郎も、今までよく耐えてたな」

つい思ったことをそのまま口に出すと、信の眉間に皺が刻まれた。

桓騎軍の素行調査をするにあたり、事前に那貴から桓騎軍の情報を仕入れていたのは知っている。

娼婦だけでなく、滅ぼした村の美女たちに相手をさせていたのも、那貴の口から聞いていたに違いない。

那貴も元野盗であることから、信が懸念していることに手を染めていたとは考えなかったのだろうか。

信が知らない桓騎軍の悪事など、数え切れないほどある。

那貴の口から聞いたことも、実際に彼女が目の当たりにしたことも、単なる一部に過ぎないというのに、少ない情報にも憤怒している信がバカバカしくて、桓騎は笑いが止まらなかった。

自分の体を組み敷きながら笑みを浮かべている桓騎に、信が怯えた目を向ける。

しかし、彼女の視線が騒がしくなって来た廊下の方へ向けられた途端、桓騎は我に返った。

「んぐッ…!」

桓騎の手が信の口に蓋をする。性懲りもなく助けを求めようとするなど興醒めでしかない。

帯で拘束された両手が桓騎の手を外そうと爪を立てる。まるで子猫がじゃれつくような抵抗だ。

「さっさと終わらせてやるから、感謝しな」

「ぅんん、んぅッ…」

口に蓋をされながら、鼻の奥で悶えるような声を上げた信が狼狽えている。

「…やめてほしいか?」

桓騎が穏やかな口調で問うと、口を塞がれたままの信が何度も頷く。

まさかここまでしておいて安易に引き下がる男がいるのなら、それは男ではなく、きっと宦官のような、男であって男ではない存在に違いなかった。

 

拒絶その二(※R18)

―――散々好き勝手に扱い、気付けば信は人形のようになっていた。すっかり泣き腫らした瞼は赤く腫れてしまっている。

意識を失っている訳ではないが、心が抜け落ちてしまったかのように、虚ろな瞳をしていた。

ゆっくりと腰を引いて男根を抜くと、血の混じった精液が溢れ出て来た。厭らしく内腿を汚している姿は何とも淫靡で、思わず喉が鳴る。

しかし、そろそろ行かなくては誰かが見回りに来るかもしれない。

嬴政のお気に入りの将で、裏表のない性格から人脈が広い彼女が汚されたと知れば、面倒なことになるのは分かっていた。

そうと分かっていても、桓騎はこの女を手放したくないという気持ちに襲われる。この女の破瓜を破ったのは自分だという独占欲に近いものなのかもしれない。

桓騎は身を屈めると、股の間にある淫華から流れ落ちるそれを啜った。淫華の蜜と破瓜を破った血と、自分の吐き出した子種が口の中で混ざり合い、最低な味がした。

もちろん味わうつもりで啜ったのではない。先ほどの礼・・・・・をしなければと考えたのだ。

「うっ…」

信の顔に向かって、自分の唾を交えたそれを右目に吐き捨てる。

目に染みたのか、人形のように無反応だった信がようやく表情を変えた。

「…こ、ろして、やる…」

涙で濡れた信の瞳に殺意の色が宿り、桓騎を睨み付ける。

いかに信の中で桓騎に対する拒絶が膨らもうとも、桓騎には関係ないことだった。

「はっ、やれるもんならやってみな」

彼にとっては、自分こそが規律であり、そこに信の意志など必要ないのだから。

 

文字数の関係で大分省いてしまったR18シーンと後日編は執筆検討中です。

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アナーキー(桓騎×信←那貴)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/那貴×信/無理やり/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

判断

少し遅れてから那貴が百人隊の野営地へと戻って来た。何か言いたげな顔をしている那貴を見て、信は小首を傾げる。

「先に戻っちまって悪かったな。…もしかして、桓騎に何か言われたのか?」

いや、と那貴が首を振る。

「お頭らしいなと思っただけだ」

「?」

強張った笑みを浮かべている那貴の顔色は随分と悪かった。

「確証はないが…お頭は、もうあんたの正体に勘付いているかもしれない」

低い声で囁かれたその言葉は、決して冗談ではなかった。信は思わず生唾を飲み込む。

「引き返すなら今だ。あの様子だと、今夜はもうこっちに来ないだろ」

今頃、桓騎は娼婦たちのもてなしを受けているに違いない。

桓騎軍の野営地を後にする時に兵たちのことを観察していたが、特に後ろをつけて来るような奴もいなかったし、側近たちも離れた場所で酒を楽しんでいるようだった。

「…わかった」

信は素直に頷いた。
てっきり拒絶すると思っていた那貴は驚いたように目を瞬かせる。

今は飛信軍の将である那貴が、元は仲間であった桓騎軍の兵たちにあれこれ言われないようにと昨日は任務続行を決めていたのに、今はやけに素直だ。

「良いのか?」

「那貴がそう言うんなら、その方が良いだろ。桓騎軍のことは俺よりお前の方が詳しいんだし」

信は、兵たちにすぐさま撤退を指示した。
兵たちも、信が桓騎軍の野営地から戻って来てから察していたのか、てきぱきと撤退の支度を始める。

自分たちの後方には、本来桓騎軍につく百人隊が控えていた。

彼らに事情を話し、桓騎軍の出立に間に合うように移動してもらえればいい。那貴と蒙虎がいなくなったことを、桓騎たちは不審がるに違いないが、今はそんなことを気にしていても仕方がないだろう。

次に桓騎に会うことがあれば、那貴は飛信軍へと戻り、蒙虎は事故か違う戦で亡くなったとでも言うしかない。

あんな形で桓騎と接触することになるとは思わなかったが、直接彼の口から桓騎軍のことについて聞けたのは大いなる収穫である。

実際に悪行をその場で目撃した訳ではないが、それでも嬴政に伝えるには十分だろう。足りないと言われたら、那貴の話も補足で追加すればいい。

本音を言えば、信も一刻も早く桓騎を連想させるものから離れたかったのだ。

幸いにも桓騎軍たちに撤退を気付かれることはなく、今回のために結成された百人隊
は予定よりも早い解散となったのだった。

生還

その後、楚国の侵攻を無事に阻止し、秦軍は撤退となった。

此度の戦では趙の怪しい動きもなかったことから、北で待機していた飛信軍は出陣することなく、待機のみで終了した。

此度も桓騎の奇策が活躍したようで、論功行賞には彼の名前が呼ばれるらしい。その噂を聞いた時、信は複雑な表情を浮かべた。

秦の領土を守ることが出来たのは何にも代えがたい喜びではあるが、それがあの男の手柄だと思うと、素直には喜べなかった。

此度の戦に飛信軍は参加していなかったのだが、桓騎軍の素行調査のことと、その戦の最中に趙の動きがなかったことを報告するために、信は咸陽宮を訪れたのだった。

論功行賞の準備が整うまで、あの日、作戦会議を行った城下町を見渡せる露台で信は時間を潰すことにした。

(あー、動きづれえ…)

秦王の前と論功行賞という畏まった場であるため、久しぶりに女物の華やかな着物に身を包んでいる。

着物の価値が分からないものでも、金の刺繍をされているそれを見ればとんでもなく高価なものであることは予想出来る。

彼女が今着ているその着物は、過去に嬴政から贈られたものだった。信は論功行賞や宴など畏まった場に立つ時に、この着物を着ることが多い。

高価な着物に身を包み、静かにしていれば、誰もが振り返るような淑やかな女性にしか見えないが、背中に携えた剣のせいで台無しだった。

「信!」

後ろから誰かに声をかけられ、信は反射的に振り返る。

「おー、蒙恬!王賁!なんとか帰って来たぜ」

蒙恬と王賁だった。此度の戦では彼らも違う軍の下について参戦していたという。無事に帰還した信の姿を見て、蒙恬も王賁も安堵したようだった。

「五体満足で帰って来れたみたいで良かったよ」

蒙恬の言葉を聞き、信は苦笑する。それから、さっそく桓騎軍の素行調査の話題になった。

―――信から一部始終を聞いた蒙恬は(ギュポーのせいで絶叫して計画が台無しになった辺りから)腹を抱えながら大笑いしており、隣で王賁は呆れたように溜息を吐いていた。

「あはははッ!その毒虫のことは予想外だったけど、やっぱりそうなるだろうとは思ってたよ!事前に作戦立てておいて正解だったでしょ?」

蒙恬の笑い声に頭痛を覚えながら、信はその場に座り込んだ。

「もう勘弁してくれ…テンと羌瘣にもさんざんバカにされたんだぞ…俺がギュポー嫌いなのも、これでお前らにもバレちまったし…」

今回の失態が笑い話として軍の中で引き継がれていくことになるのではと、信は頭を抱えた。

「貴様、さっさと立て。着物を汚すな」

落ち込ませてくれれば良いものを、王賁は信の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。同じ王家の者として、信の教養のなさは目に余るらしい。

信が着ているその着物が、秦王から贈られたものだというのは王賁も知っていた。

だからこそ、容易に土埃で汚そうとする信に、無礼だと王賁は彼女の礼儀知らずな態度が腹立たしいのだろう。

そんな彼の気持ちなど露知らず、信はわざとらしい溜息を吐き出した。

「相変わらずだなあ、王賁…労いの言葉くらいかけてくれよ。初日から本当にどうなるかと思ったんだからな…!」

「それはそれは…お疲れ様」

笑い過ぎて涙が溢れている蒙恬は目尻を指で拭うと、王賁の代わりに温かい労いの言葉を掛けてくれた。

「はあ…政の頼みとはいえ、もう二度とあいつらには関わりたくねえな…」

嬴政の夢であり、目標である中華統一には桓騎の奇策が欠かせないことは分かっている。
しかし、桓騎軍の悪事をいつまでも見逃す訳にはいかない。嬴政もそう思って信頼を置いている大将軍の信に今回の件を頼んだのだろう。

蒙恬と王賁に会う前に、信は嬴政へ今回の桓騎軍の素行調査の結果を伝えていた。

実際にその現場を目撃した訳ではなかったので、桓騎の口から直接聞いた話が主であったが、それでも嬴政には十分だったらしい。「よくやってくれた」と真っ直ぐな瞳で労われた。

散々な目に遭ったが、嬴政の労いの言葉一つで全て報われたような心地になってしまうから不思議だ。秦王の存在とは偉大なものである。

「お、そろそろ論功行賞が始まるかな?行こうか」

宮中に務める者たちが廊下を慌ただしく移動しているのを見て、蒙恬は信と王賁に声を掛けた。

 

再会

論功行賞では、噂通りに桓騎の名前が呼ばれていた。

どのような奇策を用いたのかは分からないが、楚国の侵攻を見事なまでに防衛し、それどころか乗り込んで来た敵将を手籠めにして次々と討ち取っていったという。

論功行賞が終わると、すぐに此度の戦の勝利を祝う宴が始まった。
普段なら飽きるまで宴を楽しむ信だったが、今日は気が乗らず、屋敷に帰ることに決めた。

(父さんの宝刀を見てくか)

咸陽宮に来た時には必ずと言っていいほど、信は王騎の形見である宝刀を眺めにいく。

信の腕では持ち上げるのがやっとな重さである宝刀だが、いつかはこの宝刀を戦場で振るい、王騎と摎の意志を継いで戦っていくのだと決めていた。

賑やかな談笑や楽器の音を遠くに聞きながら、信は廊下を突き進んでいく。宝刀が祀られている部屋は宴が行われている間とは反対方向にあり、廊下を歩く者もいなかった。

重い扉を開け、信は部屋の中に入る。部屋の中央に備えられている祭壇には、王騎が生前使っていた宝刀が奉られていた。

信がこの宝刀を使えるようになるまでという条件で、咸陽宮の一室で厳重に管理をしてくれているのだ。

部屋も宝刀も欠かさず手入れをしてくれているらしく、埃一つ被っていない。宝刀の前に立ち、信は両手を伸ばす。

「くっ…」

両手で柄を掴むが、やはり持ち上げるのがやっとだ。

両腕の血管が浮き立つほど力を込めているというのに、それでも持ち上げることしか出来ないなんて、振るうまでには一体どれだけ時間が掛かるのだろう。

もしかしたら一生振るうことも出来ないかもしれない。こんな重い宝刀を片手で軽々と振り回していた父の強さを再認識するしかなかった。

重い溜息を吐いて、宝刀を祭壇へ戻した時だった。

「よう、蒙虎」

誰も居ないと思っていたのだが、不意に背後から呼び掛けられて、信は反射的に振り向いた。

「桓騎ッ…!?」

論功行賞の後に祝宴に出ているとばかり思っていたのだが、桓騎が扉に背を預けて立っていたのだ。気怠そうに腕を組み、楽しそうに信のことを見つめている。

なぜここに彼がいるのだろうと疑問に思うよりも先に、彼はにやりと口元を緩めた。

「どうした?飛信軍の信。俺はお前の名前なんて、一言も呼んじゃいねえぞ?」

「あ…」

言われてから、信は気づいた。

あの数日で蒙虎という名前に慣れ親しんでいたのだが、あくまで蒙虎というのは桓騎を欺くための偽名だ。反応してしまったことに、信は後悔した。

下手に言い訳をすれば怪しまれると思い、信は口を噤む。しかし、蒙虎という名に反応したことで桓騎の中では既に合点がいったらしい。

「お前が蒙虎の正体だったんだろ?」

「…何の話だ。お前と俺しかここにいないんだから、話しかけられたら当然振り返るだろ」

信は冷静さを装いながら、桓騎に言い返す。しかし、桓騎は薄ら笑いを浮かべながら首を横に振った。

「那貴の野郎が全部吐いたぜ」

「!?」

彼の言葉を聞き、信は目を見開いた。

桓騎軍から撤退してから北の河了貂たちと合流し、那貴とは楚国の戦が終わるまでは一緒に行動していたが、そういえばその後は一度も那貴と会っていない。

一体何があったのだろう。まさか桓騎軍によって捕らえられてしまったのではと、信の中で不安が広がっていく。

「那貴に何をしたッ!?」

怒鳴りつけると、桓騎の笑みがますます深まる。

相手に嫌がらせをして、苦しめることが好きだというのは那貴から聞いていたが、こういった態度が確かにそれを示している。

「なかなか手間取らせてくれたぜ。那貴の野郎、よっぽどお前のことが大事だったんだなあ?」

桓騎が胸の前で握っていた拳を開く。手の中からぱらぱらと小石のようなものが幾つか落ちたのが見えて、信は思わず顔をしかめた。

床に落ちたその何かが、血が付着している生爪と歯だと気づき、信はまさかと息を詰まらせる。同時に顔から血の気が引いていくのを感じた。

その生爪と歯こそ、那貴に何をしたという信の問いに対する答えだった。体が震え始め、信の心臓が早鐘を打つ。

床に転がっているそれらを凝視して黙り込んだ信に、桓騎は楽しそうに目を細めていた。

「那貴も可哀相になあ?さっさと話しちまえば、痛い目に遭わずに済んだのによ」

まるで那貴を小馬鹿にするように笑った桓騎に、信の頭の中で何かがふつりと音を立てて切れた。

「てめえッ!」

信は駆け出しながら、背中に携えている剣を、桓騎の体を真っ二つに叩き切る勢いで振り下ろした。

一歩後ろに引いて回避した桓騎は少しも怯むことなく、床に振り下ろした剣を踵で押さえつける。

瞬時に剣から手を放し、信は体を大きく捻らせて蹴りを放つ。剣が使えないと分かってすぐに切り替えたのは、幾度も死地を駆け抜けて来た体の無意識の判断だった。

だが、桓騎の反応も早い。

瞬時に信の足首を掴んで蹴りを受け止めると、その勢いを利用して、背後にある扉に彼女の体を押し付ける。

「ぐっ」

背中を強く打ち付けてしまい、くぐもった声が上がる。桓騎は信の足首を掴んでいるその手を滑らせて、彼女の膝裏を掴んだ。

片足立ちの姿勢で大きく足を開かされる姿勢になると、着物が乱れて信の白い脚が露わになる。導かれるように桓騎の視線が下がった。

「良い恰好だな」

「このッ…放しやがれッ!」

膝裏に回された手を振り解こうと、信が拳を振り上げる。

「うッ」

振り上げたその拳は桓騎の顔面に届くことはなかった。乱暴に身体を床へ叩きつけられ、再び背中を強く打ち付ける。
衝撃が肺に重く響いたせいで、信は激しくむせ込んだ。

目を開くと、先ほど桓騎が落とした生爪と歯が床に散らばっているのが見えた。

「え…?」

よく見ると、爪には色が塗られている。遠目で見た時には、剥がされた時に付着した血肉かと思ったのだが、これは爪紅だ。

那貴は爪に色を塗っていなかった。それに、この爪の大きさからして男のものではなく、女の爪に違いない。

信が混乱していると、上から桓騎の笑い声が降って来た。

「落ち着けよ。それが那貴のものだなんて誰も言ってねえだろ」

怒りのあまり、肩で息をしている信が桓騎の言葉を理解するまでに時間を要した。

「桓騎ッ…!」

からかったのかと信が真意を問い正そうとするより先に、桓騎は大声で笑った。

「那貴のじゃなくて安心したか?」

その問いに信は答えず、睨み付けた。確かに那貴が無事だと分かって、彼の言う通り安心したが、この生爪と歯が那貴のものでないとすれば、一体誰のものなのだろう。

爪紅を塗っていることと大きさから女のものであるのは分かったが、桓騎と接触する女といえば、桓騎軍によく出入りしているという娼婦のものかもしれない。

正体が誰であれ、桓騎がその者の歯を抜いて爪を剥いだ事実は変わらない。

一体どうしてこんな惨いことをしたのかと信は強く奥歯を噛み締めた。

真相

悔しそうに自分を睨み付ける彼女に、桓騎は口の端を大きくつり上げている。

「随分と戦慣れしてるくせに、知らねえようだから俺が教えてやるよ。作戦や弱点っつーのは、敵に聞かれねえようにするのが大前提だろ」

「……は?」

信が床に倒れ込んだまま、桓騎を見上げた。
何を言っているのか分からないという信の顔を見て、桓騎がくくっと喉奥で笑う。

「でっけー声で作戦会議なんてされてたら、誰だって聞き耳立てるだろうが。咸陽宮は俺だって自由に出歩ける・・・・・・・・・・・・・・・んだぜ」

「―――ッ!!」

驚愕するのと同時に、信の中で複雑に絡んでいた糸が解けた。

咸陽宮での作戦会議といえば、蒙恬と王賁と三人で考えた桓騎軍潜入の作戦だ。まさかあの場に桓騎が居たというのか。

あの時は集中して作戦を企てていたため、まさか他に聞き耳を立てている者がいるだなんて知らなかった。

もし、そうだとしたら、自分は初めから桓騎の手の平で踊らされていたということになる。

蒙驁の身内である蒙虎という存在を作り上げたことも、飛信軍から百人隊を結成したことも、伝令で飛信軍に情報を送っていたことも、そして嬴政の頼みで桓騎軍の素行調査をするという一番の目的も。

全て桓騎は知った上で、知らない演技をしながら信をからかっていたのだ。

「あのでけえ毒虫も苦手なんだろ?悲鳴一つで、俺らの兵に良い女だと思われて、良かったじゃねえか」

「――――」

開いた口が塞がらない。ギュポーが苦手であることも、桓騎は情報を仕入れていた。

飛信軍の中では周知の事実だとしても、決して口外しないように情報漏洩に努めていたはずなのに。
あからさまに信が狼狽えていると、桓騎が肩を震わせて笑った。

「…ああ、言い忘れてた。前の戦で、オギコが世話になったようだな」

どうしてここでオギコの名前が出て来るのか。信の頭に疑問符が浮かぶ。

(いや、待てよ…?)

オギコとギュポー。一見何の関係のない一人と一匹だが、信の中で何かが引っかかる。

違和感の正体を突き止めるために、信は記憶の糸を手繰り寄せる。

記憶の中にいるオギコは、敵兵の攻撃を受けて、ぼろぼろになっているのにも関わらず、自分に笑顔を向けていた。

その姿を情景を思い出した途端、信の頭に雷が落ちたような衝撃が走る。

オギコを助けたのは戦の最中だった。
桓騎軍の持ち場とは随分と離れた場所でオギコは敵軍に囲まれていた。その外見から桓騎軍の一人であることはすぐに分かり、たまたま近くを通りかかった信が彼を救援したのだ。

周りに護衛の兵はおらず、オギコ一人しかいなかったことから、囮の役割を担っているのかと思ったが、オギコは戦場で迷子になっていただけだったという。

―――助けてくれてありがとう!

元野盗の集団である桓騎軍の噂は聞いていたのだが、オギコは唯一その噂に反する性格をしている。

飛信軍に勧誘したが、桓騎を慕っているからと理由で断られてしまったのだが…。

方向音痴なオギコに、信が桓騎軍がいる方向を教えてやるとオギコは、

―――あのね、この虫食べたら美味しいんだよ!お礼にあげる!

ギュポーを干したと思われるものを、オギコは信に笑顔で差し出したのだった。非常食として馬に積んでいたらしい。

雄叫びよりも大きな悲鳴を上げた信は混乱のあまり、辺りの兵たちをあっと言う間に一掃していった。

信の中にあるオギコとギュポーの繋がりといえばそれだ。ギュポーに対する拒絶反応が強過ぎて、記憶に蓋をしてしまっていたらしい。

―――…オギコは何でも悪気なくお頭に言っちまう。今はやめとけ。

以前教えられた那貴の言葉から察するに、きっとオギコは信がギュポー嫌いなことを悪気なく、再会した桓騎に告げ口したのだろう。

蓋を開けた中から記憶が一斉に雪崩れ込んで来る。

素行調査の初日。那貴と共に木々や茂みに隠れながら桓騎軍の野営地へと近づいていく途中で、信は桶に足を引っかけた。

(待てよ…まさか…!)

不自然なところに桶があると思ったが、まさか桓騎があの中にギュポーを仕込んでいたとでもいうのだろうか。

もしそうだとすれば、那貴と信があの森を通ることも・・・・・・・・・、最初から桓騎の見立て通りだったということになる。

自分たちの作戦会議を知った上で、そしてオギコから信がギュポー嫌いなのを聞いた上での計画だったということである。

まるで見えない何かに胃を強く握られたような嫌な感覚に、信は冷や汗が止まらない。しかし、桓騎は容赦なく彼女へ追い打ちを掛けた。

「たかが毒虫一匹を怖がるようなバカな女だ。名も顔も知られてねえ兵が、一人くらい入れ替わってても・・・・・・・・・・・・・誰も気づけねえだろうな?」

「―――」

驚きのあまり、喉が強張って声が出せなくなった。

飛信軍にも凄まじい活躍をする兵たちは大勢いる。千人将である那貴だけでなく、桓騎軍の者たちに飛信軍の兵だと気づかれまいという意図が裏目に出てしまったらしい。

桓騎の言葉から、恐らく桓騎軍の兵が何食わぬ顔で百人隊の中に入り込んでいたことを察し、信は気を失いそうになった。

蒙恬の助言もあり、なるべく秦国の中でも名前と顔を知られていない兵たちを選んだのだが、一人が入れ替わっていたとしても、気づけるはずがなかったのだ。

知らぬ間に一人増えていたのか、それとも鎧を奪うために一人殺したのかは分からない。
一体いつから桓騎軍の兵が入り込んでいたのだろう。

(なんて奴だ…!)

実は信が大のギュポー嫌いだという極秘情報まで仕入れていたということは、素行調査が始まる前から、信たちは完全に桓騎の策に陥っていたということである。

過去に魏の廉頗軍を相手にした戦いで、桓騎は敵兵の鎧を身に纏って堂々と魏の本陣へ潜入するという奇策を用いていた。

今回もそのようにして信たちを欺いたのだろう。偽装していたのは自分たちだけだと思っていたが、桓騎軍も同じだったのだ。

(やられた…!)

陸から上がった魚の如く、口をぱくぱくと開閉させている信に、桓騎の笑みが止まない。

「大王の野郎が、この俺をどうにか抑制しようとしてんのかと思ったが、お前の面白い一面を見せてもらえたから良しとしてやる」

「ああッ?面白いだと!?」

いつまでも見下されるのは癪に障るので、信は勢いよく立ち上がり、桓騎を睨み付けた。

元々の身長差はあるにしても、床に膝をついたままでいるのは性に合わない。

「元下僕と元野盗同士、気が合うだろ。仲良くしようぜ」

肩に腕を回されて、掛けられたその言葉を聞くのは初めてではなかった。

 

二人の共通点

桓騎の腕を振り払おうとしたが、彼の力は凄まじく、簡単に離れてくれなかった。

まるでこれが男女の力量差を見せつけるように、桓騎はにやりと笑う。

「辛気臭い部屋だな」

部屋を見渡しながら、桓騎が呟く。

「…あれのせいか」

中央の祭壇にある王騎の宝刀を見つけると、彼は目を細めた。

「くそッ、おい、放せよッ!」

桓騎に引き摺られるようにしながら、祭壇の方へと連れていかれる。

祭壇の前に辿り着くと、桓騎はつまらなさそうな表情を浮かべた。その視線は、王騎が生前振るっていた宝刀に向けられている。

「これが葬式みてえな空気を出してやがる」

信の肩に回していない方の腕で、桓騎が宝刀の柄を掴んだ。

「―――それに触んじゃねえッ!」

大切な父の宝刀が、桓騎の手によって汚されてしまうような気がして、信は大声で怒鳴り散らした。

柄を掴んだ桓騎の手を振り払おうとするが、僅かに間に合わなかった。

「耳元でぎゃーぎゃーうるせえな」

信は持ち上げるのがやっとな宝刀を、桓騎は片手で軽々と掴み上げ、それをまるでごみを払うように祭壇から投げ落としたのだ。

鈍い音を立てて床に転がった宝刀を見て、信の中で何かがふつりと切れる。

「てめえッ!」

桓騎の腕の中で、憤怒した信は大きく拳を振り上げる。

「ぐあッ」

彼の顔面に拳が届くよりも先に、足を払われた信は祭壇の側面に身体を強く打ち付けた。

「死人にいつまでも執着してんじゃねえよ、バカが」

容赦なく髪を掴まれたせいで、頭皮が引き攣る痛みに思わず信は呻いた。

祭壇の上に転がされると、すぐに桓騎が覆い被さって来る。こんな男に身体を組み敷かれるなど、屈辱でしかない。

「放せッ、何すんだよ!」

完全に頭に血が昇っているのが分かり、桓騎は彼女の怒りをさらに煽るように、にやりと笑みを浮かべた。

「とっとと退けッ」

血走った眼で睨み付けながら怒鳴るが、桓騎は構わずに組み敷いた彼女の体を見下ろす。

胸板を突き放そうと暴れる両手が邪魔だった。彼女の両手首を掴み上げると、頭上で一纏めに押さえつける。
中華全土にその名と強さを轟かせている信だったが、娼婦の腕と大差ない細さだった。

「あんまりうるせえと、騒ぐ度に爪剥ぐぞ。爪が無くなったら、次は歯だ」

脅しのつもりは少しもなかった。桓騎にとって相手の怯える顔を見るのは愉悦であり、生かすも殺すも自分の機嫌一つで決められるものだったからだ。

信に見せつけた生爪と歯の持ち主にも同じことを告げてやったのだが、結局は泣き喚かれたので、宣告していた通りに一枚ずつ爪を剥ぎ、爪が無くなった後は歯を一本ずつ引き抜いてやった。

だが、信に同じ脅し文句は効果がなかったようで、それどころか桓騎の言葉に、彼女はますます怒りを増幅させていた。

爪と歯という言葉に反応したのか、信は床に転がっている生爪と歯に一瞬視線を向ける。

「てめえ、さっきのあれは何なんだ!誰を殺したッ!」

まさかこんな状況になっても他人の気にする余裕があるのか。いじめがいがあるというものだ。桓騎の口角がつり上がる。

「んぐッ」

片手で信の口を覆って強制的に黙らせると、桓騎は彼女に顔を近づけた。

「お前の想像通り、もう殺しちまったんだから、今さら気にしても遅えよ」

悔しそうに信の顔が歪む。飛信軍といえば、女子供や老人といった弱い命を奪わないことで有名だった。

良い女ならともかく、使えないものを生かしておいて一体何になるのか、桓騎には信の考えが少しも理解出来ない。

―――…強いて言うなら、てめえとは一生分かり合えない存在だな。

互いの思考を分かち合うつもりなど微塵もない。

信と桓騎の二人に、共通点があるとすれば、きっとそれだけだろう。

 

激情

「―――、―――!」

手で蓋をした口が、もがもがと騒いでいる。助けを呼ぼうとしているのだろうか。

論功行賞の後の宴で、宮中に務めている者たちもそちらに出払っている。この部屋の前を通るものなどいないに等しかった。

喧しいから口に蓋をしただけなのだが、誰も助けに来ないのだと告げれば、この女はどんな表情を浮かべるのだろう。

信を大いに慕っている飛信軍の兵たちだったならば、咸陽宮であろうとも彼女を一人にさせることはなかったに違いない。

だが、飛信軍は此度の戦に参加しなかったこともあり、今日ここに来るのが信だけだというのを桓騎は事前に知っていた。

だからこそ、今日という日を心待ちにしていたと言っても過言ではない。

自分を嫌っている信が激しく抵抗をすることは、初めから分かっていた。
押し倒されたなら、諦めて素直に足を開けば多少は優しくてやるものを、信は男を煽らせるのが上手いらしい。

押さえつけている両手首に力を込めているのが分かる。桓騎がこの手を放せば確実に殴りつけて来るだろう。

彼女の口と両手首をそれぞれ押さえつけながら、桓騎は身を屈めた。白い喉に舌を這わせると、まるで火傷でもしたかのように、信の体がびくりと震える。

首筋を上下の歯で挟み、ゆっくりと力を込めていくと、信がくぐもった声を上げた。

舌の上に血の味が広がり、口を離すと、信の首筋に赤い歯形が刻まれている。血が滲む歯形に沿って再び舌を這わせる。

目を見開いてこちらを凝視している信に、まさかこういうことを男としたことがないのだろうかと桓騎は疑問を浮かべた。

手の下で再び信が何やら喚いている。生娘なのか尋ねようと、桓騎が信の口を押さえている手を放した時だった。

「ッ!」

右目に染みるような痛みが走る。信に唾を吐きかけられたのだと分かった。

「放せッ!」

怯んだ隙をついて信は拘束を振り解く。覆い被さっていた桓騎の身体を突き飛ばして、祭壇から転がるように降りた――はずだった。

「いッ…!」

桓騎の下から抜け出せたと思った途端、後ろで括っていた髪を思い切り掴まれて、信は痛みに思わず息を詰まらせた。

「…随分と色気のねえ贈り物じゃねえか」

信の髪を掴んでいない方の手で目元を拭う。信に吐きかけられた唾を手の甲で拭い、そこにべろりと舌を這わせながら、桓騎が笑った。

口元は笑みを浮かべているが、その瞳からは憤怒の色が浮かんでいる。

「礼をしてやらねえとなあ?」

「んんッ!」

助けを呼ぼうとした口は桓騎の唇によって塞がれた。

再び祭壇に身体を押し倒されて、口の中にぬるりとした舌が入り込んで来る。生き物のように口内で舌が蠢き、気持ち悪さのあまり、信は鳥肌を立てた。

「~~~ッ!」

すぐさま舌に噛み付いて抵抗しようとするが、片手で首を圧迫され、息が出来ずに信は目を見開いた。

後頭部を押さえつけられて、顔を背けることも出来ない。
苦しさのあまり、自然と口が開いてしまい、まるで桓騎の唇を舌を求めているかのようだ。

信が桓騎の胸を突き放そうとするが、息が出来ないせいで、腕に上手く力が入らない。

「―――ッ…」

目の前が霞んでいく。視界いっぱいに桓騎の顔を映しながら意識を失うなんて、夢見が悪いに決まっている。眠っている間に首と体を切り離されてしまうかもしれない。

意識の糸を手放しかけた瞬間、桓騎は信の首から手を放した。

「げほッ、かはッ…!」

遮られていた気道が一気に開放し、酸素が流れ込んで来る。何度かむせ込みながら、信は生理的な涙を浮かべて桓騎を睨み付けた。

こんな状況で、そんな目つきを向けられれば男を煽ることにしかならないのを、きっと信は知らないのだろう。

生娘でないとしても、男に抱かれる喜びには疎そうな女だ。

娼婦が持っているような男を喜ばせる術など何一つ知らないだろう。唯一、信が男を喜ばせることが出来るとすれば、その生意気な態度だ。

一切の抵抗が出来なくなるくらいに捻じ伏せて、涙を流しながら許しを乞う姿にしてやりたいと思うのは男の性というものだろう。

両手の拘束をするよりも大人しくさせる方法など桓騎はいくらでも知っていた。手っ取り早いのは首を絞め上げることだ。

「ぐッ…!」

再び首を圧迫され、信が苦悶の表情を浮かべる。桓騎が腰帯を解いても、信の両手がそれを押さえることはなかった。

こんな状況ならば、誰しも命綱である気道の確保を優先するのが当然である。

「ぁ…か、は…」

このまま気道を潰すのも、首の骨をへし折ることも容易だが、信を殺すのが目的ではない。

首を絞める手を程良く加減をしてやりながら、桓騎は反対の手で信の着物を解いていった。

拒絶

気道が圧迫されることで僅かにしか息ができず、信は苦しさのあまり、生理的な涙を流していた。

桓騎の反対の手が着物を脱がせているのは分かっていたが、その手を押さえることが出来ない。

両手を拘束されている訳でもないのに、首を絞められると、それだけで人間は抵抗が出来なくなるものである。

「げほッ…」

ようやく桓騎が信の首から手を離してくれた時には、帯が解かれ、襟合わせも大きく開かれて、胸に巻いていたさらしも外されてしまっていた。

意図的に押さえつけられていた呼吸がようやく楽になり、信は桓騎の下から逃げ出すことも忘れて、必死に息を整える。

着物を脱がされて喘ぐように呼吸をする信が、まるで娼婦の姿と重なり、桓騎は思わず口の端をつり上げた。

「大人しくそうやって喘いどけよ」

からかわれるように桓騎に囁かれたが、首を絞められて弱り切った信は、今や彼を睨み付けることすら出来ずにいる。

「う…」

信がようやく大人しくなったことに、すっかり気を良くしながら、桓騎は解いた帯を使って彼女の両手首を一括りに縛り上げた。

まだ抵抗を続けるのなら、肩の関節を外してやっても良かったのだが、それでは色気に欠ける。

傷痕の目立つ肌に色気など感じないと思っていたのだが、若さゆえに艶と弾力のある肌を持ち合わせている。

いつもさらしで覆っているのだろう、露わになった胸は手の平に収まるほど良い形と大きさをしていた。中心にある胸の芽は、地肌に溶け込んでしまいそうな桃色をしていた。

普段から、今日のように身なりを整えていたのなら、将軍なんてものにならず、どこぞの名家の男にでも嫁いでいたに違いない。

胸に吸い付くと、息を整えていた信が目を見開いた。

反対の手で、もう片方の乳房を撫で回す。男に抱かれ慣れている娼婦なら、既に甘い吐息を零すだろう。
しかし、信といえば、体を強張らせて何をしているのだと桓騎を凝視している。

本来ならば前戯をしてとことん女の体を楽しむ桓騎だったが、扉の向こうが騒がしくなっていることに気付いた。

まだ宴は終わっていないはずだが、秦王が席を外して退席する者たちが出て来たのか、それとも料理と酒の追加を運ぶ従者たちか。

どちらにせよ、悠長に相手をしてやることは出来なさそうだ。

ようやく呼吸が整って来たらしい彼女は拘束された両腕で桓騎の体を押し退けようとしている。

喧しい声を上げるのならばまた首を絞め上げてやろうと思ったが、まだ完全には力が戻っていないようだった。

いつまでも生意気なことを言う口に、男根を突っ込めば噛み切られてしまうだろう。いつかはその悔しい顔を見下ろしながら好きに喉と口を使ってやりたいものだ。

仲間想いの信のことだ。本当に那貴を人質に取れば、歯を立てずに嫌々ながら男根を咥えるかもしれない。

くく、と喉で笑いながら、桓騎はそのうち試しても良いかと考えるのだった。

残念ながら今は歯のついていない下の口を使うしかないかと、視線を下げる。

程良く筋肉が付いて引き締まった内腿に指を這わせると、信の体がびくりと跳ねた。

「触んなッ…!」

そんな場所を他人に触れられたことがなかったのだろう。怯えにも似た色が信の瞳に浮かんだのを見て、桓騎は彼女が生娘であることを察した。

むしろ、今までよく男に抱かれなかったものだ。今日のように身なりさえ整えていれば、彼女を褥に連れ込みたいと思う男など大勢いたに違いない。

いつも信とつるんでいる蒙恬や王賁だって、女として見ていたはずなのに手を出さずにいたのかと思うと、桓騎はますます笑いが止まらなくなった。

「…那貴の野郎も、今までよく耐えてたな」

つい思ったことをそのまま口に出すと、信の眉間に皺が刻まれた。

桓騎軍の素行調査をするにあたり、事前に那貴から桓騎軍の情報を仕入れていたのは知っている。

娼婦だけでなく、滅ぼした村の美女たちに相手をさせていたのも、那貴の口から聞いていたに違いない。

那貴も元野盗であることから、信が懸念していることに手を染めていたとは考えなかったのだろうか。

信が知らない桓騎軍の悪事など、数え切れないほどある。

那貴の口から聞いたことも、実際に彼女が目の当たりにしたことも、単なる一部に過ぎないというのに、少ない情報にも憤怒している信がバカバカしくて、桓騎は笑いが止まらなかった。

自分の体を組み敷きながら笑みを浮かべている桓騎に、信が怯えた目を向ける。

しかし、彼女の視線が騒がしくなって来た廊下の方へ向けられた途端、桓騎は我に返った。

「んぐッ…!」

桓騎の手が信の口に蓋をする。性懲りもなく助けを求めようとするなど興醒めでしかない。

帯で拘束された両手が桓騎の手を外そうと爪を立てる。まるで子猫がじゃれつくような抵抗だ。

「さっさと終わらせてやるから、感謝しな」

「ぅんん、んぅッ…」

口に蓋をされながら、鼻の奥で悶えるような声を上げた信が狼狽えている。

「…やめてほしいか?」

桓騎が穏やかな口調で問うと、口を塞がれたままの信が何度も頷く。

まさかここまでしておいて安易に引き下がる男がいるのなら、それは男ではなく、きっと宦官のような、男であって男ではない存在に違いなかった。

拒絶その二

―――散々好き勝手に扱い、気付けば信は人形のようになっていた。すっかり泣き腫らした瞼は赤く腫れてしまっている。

意識を失っている訳ではないが、心が抜け落ちてしまったかのように、虚ろな瞳をしていた。

ゆっくりと腰を引いて男根を抜くと、血の混じった精液が溢れ出て来た。厭らしく内腿を汚している姿は何とも淫靡で、思わず喉が鳴る。

しかし、そろそろ行かなくては誰かが見回りに来るかもしれない。
嬴政のお気に入りの将で、裏表のない性格から人脈が広い彼女が汚されたと知れば、面倒なことになるのは分かっていた。

そうと分かっていても、桓騎はこの女を手放したくないという気持ちに襲われる。この女の破瓜を破ったのは自分だという独占欲に近いものなのかもしれない。

桓騎は身を屈めると、股の間にある淫華から流れ落ちるそれを啜った。淫華の蜜と破瓜を破った血と、自分の吐き出した子種が口の中で混ざり合い、最低な味がした。

もちろん味わうつもりで啜ったのではない。先ほどの礼・・・・・をしなければと考えたのだ。

「うっ…」

信の顔に向かって、自分の唾を交えたそれを右目に吐き捨てる。
目に染みたのか、人形のように無反応だった信がようやく表情を変えた。

「…こ、ろして、やる…」

涙で濡れた信の瞳に殺意の色が宿り、桓騎を睨み付ける。
いかに信の中で桓騎に対する拒絶が膨らもうとも、桓騎には関係ないことだった。

「はっ、やれるもんならやってみな」

彼にとっては、自分こそが規律であり、そこに信の意志など必要ないのだから。

 

後日編・完全IFルート(恋人設定)のハッピーエンド話はこちら

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アナーキー(桓騎×信←那貴)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/那貴×信/無理やり/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

撤退不可

信は重い気分のまま、目を覚ました。体にはまだ昨日の疲労が残っている。

昨夜、桓騎とオギコがいなくなった後、兵たちに素行調査に失敗した旨を伝え、作戦続行か撤退かは今朝まで保留にし、兵たちにはしっかり休むように告げていた。

頭を悩ませていた信がようやく眠りについたのは日が昇り始めた頃だった。

那貴がいなければ桓騎の天幕に印がないという異変に気付けなかった。それに、あのまま調査を続けたとしても、ギュポーのせいで取り乱した所を捕らえられていたかもしれない。

そして桓騎とオギコがこちらの野営に現れた理由も謎のままだ。
もしかしたらこちらの動きを探っているのかもしれないと思うと、慎重にならざるを得なかった。

天幕を出ると眩しい朝陽が目に染みて、信は思わず顔をしかめた。

「…撤退だ」

出立の準備のために、天幕を片付けている兵たちに信は声を掛けた。

昨夜の失敗もあったことから、全員が納得したように頷く。他の兵たちと同じように、那貴も頷いていた。

「那貴、悪い。俺があそこで叫ばなければ…」

信は那貴の前に立つと、昨夜のことを改めて謝罪した。

ギュポーに対する拒絶反応だけはどうしようもなかったのだが、あの時に自分が叫ばなければ素行調査を続けられたに違いない。

大将軍という立場であっても、自分の非を素直に認めて謝罪する信の態度に、那貴はあははと笑う。

「今回は仕方ないさ。大王だって、あんたに危険な目に遭ってまで、成し遂げて欲しいとは思ってないはずだ」

「う…」

他でもない嬴政の頼みということもあって、しっかりと成果を持ち帰りたかったのだが、相手が悪かった。

蒙恬と王賁からも何かあればすぐに撤退するように釘を刺されていたし、信は此度の任務を諦めることにしたのだった。

「ま、あんたの頼みなら、大王様の前で桓騎軍の過去の行いを話してやってもいいぜ?」

「最初からそうすれば良かったよなあ…」

出立の準備が出来たと報告を受けた信は、兵たちに改めて撤退の指示を出す。既に桓騎軍も出立の準備を終えて動き始めているらしい。

「じゃあ、このまま戻るぞ。戻ったらすぐに北の河了貂たちと合流する」

兵たちは誰一人として嫌悪の表情を浮かべなかった。信が大いなる信頼を寄せられている証拠でもある。

楚と秦が南の平地で戦っている間を狙って、趙の李牧が北から攻めてくるかもしれない。予定の三日を待たずして合流する分には何も問題ないだろう。

昨夜の失敗を告げれば河了貂と羌瘣にバカにされそうだと、信は既に気が重かった。
三日目で自分たちの隊と入れ替わる百人隊も、後を追い掛けてこちらに向かっている。何事もなかったかのように彼らと入れ替われば、今回の作戦は終了だ。

誰一人として桓騎軍から被害を受けなかっただけ成功だと考えようと信は自分を慰めた。

桓騎軍たちが進んでいる方向とは反対の、来た道を戻ろうとすると、地響きと共に、背後から複数の馬の足音が聞こえた。

「百人隊、お前ら一体どこに行くつもりだ?」

桓騎だ。反射的に振り返りそうになり、信は寸でのところで留まった。

天幕を出てから、布で顔を隠していなかったのだ。

もう撤退をすると決めており、桓騎軍と接触せずに出立するつもりだったため、油断していた。こんな時に限って布を持っていない。

(信っ!)

彼女が布で顔を隠していないことにいち早く気づいた那貴が、さり気なく彼女の背後に立ち、自分の体で隠してくれた。

撤退を決めてからも、那貴は用心深く顔を隠していた。桓騎軍の執拗さを知っていたからこそだろう。

「まさか怖気づいて逃げようとしたんじゃねえだろうな」

振り返った信は、那貴の肩越しに桓騎の方を見た。
桓騎を中心に、側近である雷土、黒桜、摩論たちも揃っており、馬上からこちらを睨み付けている。

昨夜もいきなり現れていたが、どうして今朝になってまた来たのだろう。

「おい、隊長はどいつだ。逃げようとしたってんなら、足の一本落として本当に逃げられなくしてやるよ」

ドスの聞いた声で雷土が問うと、信たちにさらなる緊張が走った。

野盗の性分でもあるこういった脅し文句こそが、飛信軍と性格の合わない理由の一つだ。

百人隊を結成するにあたり、建前として一人の兵に隊長の役割を担わせていたが、素直にその兵を出す訳にはいかなかった。

桓騎軍に情という言葉は存在しない。
敵の領土にある集落は容赦なく焼き払い、財産と女を奪い、老人や子供であっても容赦なく虐殺する。

そこまで外道な行いをする者たちが、味方だからという理由で見逃すはずがない。本当に足を落とされることになるのではないかと信は不安を募らせた。

(さすがにもう諦めるか…)

意を決した信が正体を気づかれるのを覚悟して、桓騎たちの前に出ようとした時だった。

「あんたはここにいろ」

信を隠すように彼女の前に立っていた那貴が突然、顔を覆っていた黒い布を外したのだ。

(那貴ッ!?)

何をしているのかと信が目を見張っていると、彼は後ろ手で、外した黒い布を信に握らせる。
これで顔を隠せというのか。しかし、それでは那貴の正体が気づかれてしまう。

信が戸惑っていると、那貴が颯爽と歩き始め、桓騎たちの前に立ちはだかった。

「…俺が隊長だ」

「那貴ッ?なんで、てめえがここにいる!」

雷土を中心に、桓騎軍の者たちがざわめいた。彼らの視線が那貴に向けられている隙に、信は彼から受け取った布で顔を隠す。

「飛信軍に入っておいて、こんな百人隊の隊長とは、随分と出世したじゃないか」

皮肉交じりに黒桜が那貴に言葉を掛けた。

「あんまり一つのところに留まるのは好きじゃなくてね。で?なんだっけ?」

とぼけるように那貴が肩を竦めると、雷土が背中に背負っていた剣を手に取る。

「お前ら、まさか逃げようとしたのか?もしそうなら、てめえの足を落とす」

「相変わらず物騒だなあ、桓騎軍は。出立の準備が少し遅れただけだろ」

「さっさと足を出せ」

馬から降りた雷土が那貴に剣の切っ先を向けるのを見た途端、信は駆け出していた。

「やめろッ!」

那貴を庇うように、信は彼の前に立つ。雷土に剣の切っ先を向けられてもなお、信は怯むことなく彼らを睨み付けていた。

「なんだてめえは」

「蒙虎…この隊の副長だ」

用意していた名を名乗る。蒙という姓を聞いた雷土が眉間に皺を寄せた。

「…てめえ、まさか蒙驁将軍の身内か?」

「ああ。だが、訳ありで迷惑を掛けるから詳しいことは言えない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

蒙恬が考えておいてくれた台詞を言うだけだったのだが、信は布の下の顔を緊張で強張らせていた。

目の前にいる雷土ではなく、背後にいる桓騎からのねっとりとした視線に、信は背中に嫌な汗を滲ませた。

見つめられているだけなのだが、全てを見透かしているようなあの瞳に、体がまるで拒絶反応を出しているようだ。

那貴が目の前に現れた時も、桓騎だけは表情を変えず、微塵も動揺していなかったことに信は気づいていた。

蒙驁将軍の身内だという言葉を聞いた雷土が背後を振り返り、まるで知っているかと確認するように桓騎を見る。

しかし、桓騎はその口元を楽しそうに緩ませるだけで何も答えない。

「…さっさと行くぞ。次に遅れたら、最後尾の兵の首を落とす」

桓騎が手綱を引いて馬を進ませたので、他の側近たちは大人しく彼の後を追って行った。雷土だけは何か言いたげに那貴と信の方を睨んでいたが、黙って後を追い掛けていく。

「…こうなりゃ仕方ねえ。出立するぞ!伝令にもそう伝えろ」

信は低い声で全員に指示を出した。桓騎たちに目をつけられたこの状態でさすがに撤退は出来ない。

疑いを掛けられてしまった以上、今から撤退を始めれば確実に追撃されるだろう。内輪揉めで楚国との戦に影響が出ることだけは何としても避けたかった。

まさかここで桓騎に目をつけられることになるとは思わず、信は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「ま、こうなりゃ仕方ないな」

信を慰めるように、那貴がぽんと肩を叩く。信の正体を隠すためとはいえ、那貴の正体が気付かれてしまった。

咄嗟の機転を利かせてくれた那貴のおかげで、信の正体と此度の計画が全て勘付かれずに済んだのだのだが、感謝の気持ちよりも罪悪感の方が大きい。

「…悪い。全部、俺のせいだ」

信が項垂れながら謝罪する。

桓騎軍から飛信軍に抜ける時も、仲間たちには裏切者だと散々罵られて嫌な気分になっただろうに、危険も顧みず桓騎たちの前に出てくれた。

昨夜のこともあり、信は自分を責めた。

「気にするな。むしろ俺の場合、正体がバレた方が動きやすくて良かったかもしれない」

兵たちに出立を急ぐように声を掛け、那貴は先に歩み始める。

信は唇を噛み締めて、彼の後を追いかけた。

 

撤退不可その二

その後、何故か桓騎は軍の最後尾――信たちの百人隊の前方を馬で歩いていた。側近たちに先導を任せて、まるで信たちが逃げないかを見張っているかようだった。

時々こちらを振り返るのを見ると、完全に疑われているらしい。

(どうしてここまで俺たちを疑う…?たかが百人隊にそこまで興味を持つか?)

信は兵たちに紛れながら、桓騎の動向を探っていた。
那貴がこの隊を率いていることを知ったからか、それとも蒙驁の身内がいると知ったからか。

だが、那貴から聞いていた話だと、そのようなことに興味を示すことも、しかも自分の目で確かめるような男ではないはずだ。

様々な奇策を用いて敵軍を翻弄する桓騎だが、彼の思考が読めずに苦戦する敵が多いのも納得出来る。

味方である信でさえ、彼の考えていることが少しも分からなかった。

「那貴」

前方を歩いていた桓騎が振り返り、後ろを歩いている那貴に声を掛ける。

「なんすか、お頭」

「うちを出てから、長いこと飛信軍に居たんだろ。どうだった?」

桓騎の口から飛信軍の話が出るとは思わず、信は思わず顔をしかめた。

「漠然とした質問っすね」

苦笑を浮かべながら、那貴が言葉を続けた。

「思ったより、居心地良かったですよ」

過去のこととして伝えているのは、恐らくまだ飛信軍にいることを悟られないためだろう。

桓騎が鋭い男だというのは那貴もよく知っていた。だからこそ、些細な会話の糸口から、今回の任務を嗅ぎつけられないよう、細心の注意を払っているようだ。

「…飛信軍の女将軍はどうだった?向こうでも千人将やってたんなら、何度か会ったんだろ」

自分の話題が桓騎の口から出て来たことに、信ははっとして目を見開いた。

気づかれたかと冷や汗を浮かべたが、そんなはずはない。桓騎はただ那貴の口から飛信軍の話を聞きたいだけなのだ。

早鐘を打ち始めた自分の心臓に、落ち着け、と信は何度も言い聞かせる。

「噂通り、強い女でしたよ」

当の本人が後ろを歩いているのだが、那貴は少しも動揺を顔に出さない。

きっと桓騎ならば、会話の糸口からでなく、顔色の変化にも敏感に気づくだろうと思っていたからだ。

那貴の言葉を聞き、桓騎がつまらなさそうな表情になる。

「それだけか?もっと良い話が聞けると思ったんだがな」

んー、と那貴が考える素振りを見せる。

「お頭の好みではないことは確かです」

嫌な笑みを浮かべて那貴がそう言った。
馬上にいる桓騎が、ちらりと那貴に視線を落とす。

「論功行賞の時に傍で見たが、あれは山の女より色気に欠けるな。確かに、俺の好みじゃねえ」

(色気がなくて悪かったなッ!つーか、お前の好みなんて知らねえよッ!)

布の下でぎりぎりと歯を食い縛りながら、信が拳を握った。

兵たちが自分に落ち着けと言わんばかりに狼狽えた視線を送っていることに気付き、信は冷静さを取り戻す。

山の王である楊端和と色気を比較されると、ぐうの音も出ない。

楊端和も信と同じく大将軍の座に就いており、美しく、そして強い女性だった。嬴政が弟の成蟜から政権を取り戻す時に、楊端和とは初めて出会った。

同性であってもつい見惚れてしまったほどの気高さを兼ね備えている女性だ。そんな彼女と比べられれば、大半の男が楊端和を選ぶだろう。

負け惜しみではないが、よりにもよって桓騎に女として楊端和と比べられたことに、信の中で苛立ちが込み上げて来た。

秦の怪鳥の異名を持つ父と、同じく六大将軍の一人である母。
血の繋がりはないのだが、その二人の娘というだけで、天下の大将軍の娘とは化け物のような強さを秘めている女であるという噂が中華全土に広まっている。

噂は色んな場所にたちまち根を生やしていき、化け物のような強さから、化け物のような外見をした女だというものになっていることもあった。

戦に出る時は母である摎のように仮面で素顔を隠していることも原因なのかもしれない。

一体どんな娘なのか気になっている者はこの中華全土に多く存在している。恐らく桓騎もそのうちの一人だったのだろう。
論功行賞で隣に並んだ信を横目で見ていた時、一体彼は何を思ったのだろうか。

「好みじゃない女に、なんでいきなり興味を持ったんすか」

もっともらしい那貴の問いに、桓騎がまるで何かを思い出すかのように目を伏せた。

「―――あの目は悪くない」

ゆっくりと瞳を開きながら告げた桓騎に、那貴がはっとした表情を浮かべる。

一体何の話だと信が小首を傾げていると、いきなり桓騎が振り返ったので、信は慌てて目を逸らした。

不自然な視線の背け方に勘ぐられただろうかと不安になる。
桓騎が笑った気配を感じて、信は恐る恐る顔を上げた。

もうこちらを見てはいないようだったが、桓騎を見つめている那貴の顔が強張っている。どうしたのだろうか。

「那貴。それと副官の蒙虎だったか?今夜、俺のところに来いよ」

「は…!?」

桓騎の口から名を呼ばれ、信は思わず声を上げていた。信の驚いた声を聞いた桓騎が再び口の端をつり上げる。

元々そういう顔なのだろうが、笑うと不気味に思えてしまうのはどうしてだろうか。
自分の中の桓騎に対する拒絶反応がそういう風に見せているのかもしれない。

那貴は顔を強張らせたまま、肩を竦めた。

「作戦なら摩論から聞きますよ。お頭、そういうのはいつも摩論に任せてるでしょう。どういう風の吹き回しっすか?」

「おいおい、誰が戦の話をするなんて言った?」

「え?」

那貴の顔がさらに強張った。

「今の話の続き、聞かせろよ。特別に美味い酒を用意しておいてやるから、逃げんなよ」

そう言うと、桓騎は馬の横腹を蹴りつけ、馬を走らせた。どうやら先導していた側近たちと合流するらしい。

桓騎の姿が見えなくなってから、兵たちがようやく安堵した表情を浮かべた。
信だけは桓騎の言葉を理解するまでにしばらく時間がかかっており、眉間に皺を寄せている。

「…まずいな」

表情を曇らせて那貴がそう呟いたので、信も同意した。

「なんで俺らがあんな奴と酒飲まなきゃならねえんだよ。これから楚との戦を控えてるっていうのに、ふざけやがって…」

「そこじゃなくて…完全に目ぇつけられてるぜ、信将軍」

那貴の低い声から、冗談ではないことを察した信が小首を傾げる。

「口ではああ言ってたけど…お頭は、完全にあんたのことが気になってる」

はあ?と信が大声で聞き返した。

「なんだよ、楊端和より色気がねえとか、俺の好みじゃねえとか好き放題言ってたくせに」

苛立つ信の隣で、那貴の曇った表情は晴れることはなかった。

「問題は山積みだ。まず今夜、あんたはお頭にその顔を見られるかもしれない」

「へ?」

きょとんと目を丸めた信に、やはり分かっていなかったと那貴が肩を落とした。

「酒を用意しておくってことは、俺らに飲ませるつもりだろ。顔を隠したまま酒が飲めるか」

那貴に説明され、信は「あッ!」と大声を上げた。その通りだ。

信が黒い布で隠しているのは目から下で、酒を飲むためには口元まで覆っている布を外さなくてはならない。

顔を見せろと直接言われた訳ではないが、酒の席に誘うということは、桓騎が信の顔を見ようとしている何よりの証拠だった。

「お頭に正体を気づかれたとしても、あんたの立場的に殺されることはないと思うが…」

歯切れの悪い那貴の言葉に、信がどうしたと問う。

「…殺されないとしても、殺されない程度に何かをされる可能性は否定できないな」

沈痛な表情で那貴はそう答えた。腕を組んで、信は口を噤む。

「このまま少しずつ速度を落として、桓騎軍と距離を空けて撤退するか?お頭は先導の側近たちといるから、森にでも逃げ込んじまえば、馬の足じゃ深追いは出来ないだろ。馬に乗ってない桓騎軍の兵だけなら、この百人隊でも撒ける」

那貴の撤退の案はもっともだ。しかし、信は意外にもその案に難色を示したのだった。

「…俺らが逃げたら、那貴はまたあいつらに好き勝手言われるだろ。それはだめだ」

何度か瞬きをしてから、那貴がふっと笑う。

「あんた、自分が将軍っていう立場なの、自覚あるのか?」

「はあ?当たり前だろ」

たかが一人の兵が、仲間だった者たちから後ろ指をさされないために、撤退を拒否したのだ。

付き従う兵たちのことを誰よりも考えているという点では、確かに信の右に出る者はいないだろう。

飛信軍に移って来た時も散々桓騎軍の者たちには好き勝手言われたが、その話を人づてに聞いた信はまるで自分のことのように憤怒したのだ。

いつも自分ではなく、誰かのことを優先する彼女に、那貴は桓騎軍にはない居心地の良さを改めて感じるのだった。

両腕を頭の後ろで組んだ那貴はやれやれと困ったように目を伏せた。

「…そりゃあ、好かれて当然だな」

「?何がだよ」

「こっちの話だ。さて、今夜どうするかねぇ…下戸って言っても、あのお頭が引くはずがないだろうし…」

信が撤退の意志を見せないと分かった那貴は今夜、桓騎からの酒の誘いをどう断るべきか頭を巡らせた。

 

疑念その一

夜になり、野営の準備が始まった。
信と那貴は素知らぬ顔で天蓋の準備をしていたが、桓騎軍の兵が現れたことで思わず身構えた。

「おい、那貴と蒙虎はいるか?お頭が呼んでるぞ」

「………」

わざわざ呼び出しに来るとは、やはり桓騎は自分たちを逃がすつもりはないらしい。

信と那貴は顔を見合わせる。周りの兵たちも緊張を浮かべた顔で二人を見ていた。安心させるように信は彼らに「行って来る」と声を掛け、那貴と共に桓騎軍の野営地に向かう。

桓騎軍の兵に案内され、彼らの野営地に到着する。

昨夜はなかったはずの印が天幕が見えて、やはり昨夜は意図的に印を外していたのだろうと那貴は考えた。

「来たな」

天幕の近くで火が焚かれていた。傍にある椅子に腰掛けている桓騎が信と那貴の姿を見て、楽しそうに目を細める。

もう先に飲み始めているらしい。杯を傾けている桓騎の姿を見て、信は思わず眉を顰めた。明後日には戦を控えているというのに、こんな状況で酒を飲むなど、まるで緊張感が感じられない。この男は一体何を考えているのだろうか。

桓騎の奇策は、戦では前例がなく、先の読めぬものばかりだ。
それはまるで彼の思考と同じで、桓騎が何を考えているのかは、信だけでなく桓騎軍の兵たちも分からない。

那貴の話を聞くかぎり、桓騎が腹を割って話をするような人物は軍に一人もいないようだった。

信頼している仲間にさえ本心を見せない彼は、腹の内に一体どんな黒いものを抱えているのだろう。

(って、何考えてんだ俺…!政のための調査だろ)

今回の目的は桓騎軍の素行調査だ。

正体が勘付かれるかもしれないという危機感はあるが、嬴政のためにもその目的を果たさなくては。信は布の下できゅっと唇を噛み締めた。

「随分と機嫌が良いんすね、お頭」

桓騎の近くにある椅子に那貴が腰を下ろしたのを見て、信も空いている椅子に腰を下ろす。

側近の雷土たちはそれぞれの天幕にいるのか、この場に姿がなかった。

那貴の言葉に桓騎は何も答えず、酒瓶を掴んだ。それから台の上に用意してあった二人分の杯に酒を注いでいく。

「飲みながら飛信軍のことを聞かせろよ」

酒の入った杯を桓騎が二人の前にそれぞれ置く。杯を取ろうとしない信を見て、桓騎が気怠そうに口を開いた。

「…蒙虎、酒を飲むのにその布は邪魔だろ」

やはりそう来たかと那貴は桓騎を見据えた。

あれこれ理由をつけて蒙虎の顔を見ようとしている桓騎は、一体この兵が何者かと疑っているに違いない。

蒙驁の身内ならば命を奪われることはない。しかし、それが嘘だと気づかれれば、ましてや飛信軍の将がここにいると知れば、誰かの差し金だと疑うに決まっている。

桓騎軍と飛信軍の相性が悪いのは桓騎も知っているはずだ。
だからこそ信が単独で潜入するはずがないと考えるだろう。そうなれば自分と同じ大将軍である信に指示を出した者がいると睨むはずだ。

大将軍である彼女に指示を出せる者は限られるし、なおかつ桓騎軍の動向が気になっている者と言えば、おのずと答えに辿り着くことになる。

「…顔を知られたら蒙驁将軍に迷惑が掛かるんでな。無礼を承知で、このままでいさせてもらう」

信はここでも白老と呼ばれる蒙驁将軍の名前を出した。
いくら本心を見えない桓騎とはいえ、彼が蒙驁に恩を感じているのは事実だ。

蒙驁に迷惑が掛かるとくれば、無理強いは出来ないだろうと信と那貴は考えたのだ。その読みは当たったようで、桓騎はそれ以上何も言うことなく、杯を口に運んでいる。

この場で信の正体に気付かれることがあれば、撤退も止むを得ないと考えていた那貴はこっそりと安堵の息を吐いた。

「北の酒蔵から取り寄せた美味い酒だぞ。遠慮しないで飲め」

「………」

目の前に置かれたままの酒杯に、信が目を輝かせている。

酒好きな信は、素行調査中である緊張感と、どんな酒なのかという好奇心の狭間で心が揺れていた。

もちろん飲むためには顔を半分隠している布を外さなくてはならないので、飲む訳にはいかないのだが…。

「…で、飛信軍の話でしたっけ?」

那貴は桓騎がこちらを見ていない隙に、自分の杯と信の杯をすり替える。まるで乱れた髪を直すような、さり気ない仕草だった。

何をしているのだと信が不思議そうに見つめて来るが、那貴は構わずに桓騎の返事を待つ。

静かに酒を口に運んでいる桓騎は、那貴が信と杯を取り換えたことに気付いていないようだった。

「向こうは随分と居心地が良かったみてえじゃねえか」

足を組み直した桓騎に、那貴は曖昧に頷く。

「…今さら飛信軍の何が知りたいんすか?」

「女将軍のことだ」

まさか再び自分の話題になるとは思わず、信はぎくりとした。

本人がここにいるのだから、決して口を滑らせる訳にはいかないと、那貴は桓騎のことをじっと見据えている。

「話したいんなら、わざわざ俺に聞かなくても、お頭の方から行けば良いじゃないですか。同じ大将軍でしょう?」

「残念ながら、向こうから嫌われてるみたいでな」

少しも残念そうに思っていない桓騎と目が合い、信はさり気なく目を逸らした。
桓騎に見つめられると、信の中に存在している桓騎に対しての嫌悪感が胸をざわつかせる。

今まで信は桓騎と面と向かって話をしたことはなかったのだが、桓騎軍と飛信軍の相性が悪い話は彼も知っていたのかもしれない。

「…飛信軍の女将軍は下僕出身っていう話だ。元下僕と元野盗で気が合うと思ったんだがな」

「………」

名前に元がつくだけで、野盗とやっていることは何ら変わりない桓騎軍の悪行の話を思い出し、信は思わず眉を寄せた。

彼女の表情の変化に気づいたらしい桓騎が楽しそうに目を細める。

「なんだ?蒙虎。何か言いたそうな顔だな」

「えッ…あ、いや…」

まさか話を振られるとは思わず、信は狼狽えた。
ここで動揺していることに気付かれれば、自分が飛信軍の女将軍であると気づかれてしまうかもしれない。

「…俺も下僕出身だから、驚いただけだ」

咄嗟に信はそう口に出しており、それからすぐに後悔した。

蒙驁の身内だという架空の存在を演じていたのだが、下僕出身である自分がなぜ蒙家と繋がりがあるのだと疑われるかもしれない。信は背中に嫌な汗を滲ませた。

「ほう?下僕の分際で、蒙の姓を得るとはとんでもねえ出世じゃねえか。白老も本当に人が良い御仁だ」

どうやら蒙家の養子だと思われたのだろう。良いように誤解してくれて、信は布の下で安堵の息を吐いた。

桓騎のような元野盗と、王翦のような野心家を副官として従わせている蒙驁の懐の深さを考えれば、下僕出身の人間を養子にしたとしてもおかしいことではない。

蒙恬もそれを見越して蒙の姓を名乗れと言ったに違いない。

「…ああ。蒙驁将軍には感謝している」

信の言葉を聞き、桓騎の瞳に穏やかな色が宿った。蒙驁将軍に恩を感じているのは確かなのだろう。

他人に心を読ませない男だとは思っていたが、ちゃんと人間らしい部分もあるのだなと思い、信は思わず桓騎を見つめていた。

その視線に気づいたのか、桓騎が立ち上がる。

「蒙虎」

信の前にやって来た桓騎は、肩にその腕を回し、彼女の顔を覗き込むようにして顔を近づけて来た。

「ッ…」

鋭い双眸に見据えられ、信は思わず息を詰まらせた。彼の黒曜の瞳に、怯えた自分の姿が映っており、心臓が早鐘を打ち始める。

「元下僕と元野盗同士、気が合うだろ。仲良くしようぜ」

口をつけずにいた酒杯を掴んだ桓騎はそれを信に握らせた。

酒を飲ませるのを理由に顔を見ようとしているらしい。まだ彼は諦めていなかったのだ。

 

疑念その二

(まずい!)

那貴が弾かれたように立ち上がる。

「お頭、蒙虎は下戸だ。酒の匂いだけも気分が悪くなるから、勘弁してやってくれ」

那貴の言葉を聞き、意外にも桓騎はあっさりと信から腕を離した。

「飲めねえなら仕方ねえな」

幸いにも正体に気づいた様子はなさそうで、桓騎は自分の席へと戻っていく。信は布の下で再び安堵の息を吐いた。

桓騎に対する嫌悪感のせいだろうか、体が小刻みに震えており、心臓はまだ早鐘を打っていた。

椅子に腰を下ろした桓騎が、台の上に両足をどんと置いた。

「今日は気分が良い。俺に飛信軍の女将軍のことを教えるなら、うちの軍のことを色々と教えてやっても良いぜ」

「は…?」

桓騎の提案に、那貴は思わず聞き返した。
当然だろう、千人将として桓騎軍に属していた那貴には不要な情報だからだ。

しかし、桓騎は那貴には一目もくれず、じっと信のことを見据えている。

「蒙虎。うちの軍について、俺に聞きたいことがあるんだろ?」

はっと目を見張った。蒙虎という名を彼に告げてから、一言もそんなことを言っていないというのに、どうして桓騎はこちらが桓騎軍について知りたがっていることを察したのか。

(…教えてくれるっていうなら丁度良いか)

少し悩んでから、信は布の下でゆっくりと口を開いた。

「桓騎軍についた隊のほとんどが全滅してるって噂がある。奇策を成り立たせるのに、わざと殺してるんじゃねえだろうな?」

嬴政に頼まれた素行調査であるものの、先に口を衝いて出たその疑問は、信がずっと気になっていたことだった。

軍が隊を手駒として使うのは当然のことだが、桓騎が用いる奇策を成すために、わざと見捨てているような真似をしているのではないかと信は睨んでいた。

教えてやると言った割には答えようとせず、酒を飲んでいる桓騎に、信が鋭い眼差しを向ける。

「俺らはあんたに従う立場なんだから、気になるのは当然だろ。答えろよ」

怒気を込めて催促すると、桓騎はにやりと口の端をつり上げた。

「生きるか死ぬかはそいつら次第だろ。策を成すのに、奴らの生死は関係ない」

「………」

腹が立つ返答だが、筋は通っている。

わざと殺している訳ではないようだが、失われていく味方兵の命に、桓騎が少しも興味も抱いていないことは分かった。

「なら、次は俺の番だな」

桓騎が酒で喉を潤してから、那貴と信を見据える。質問の数だけ質問を返していく等価交換といったところか。

何を訊かれるのだろうと信が身構えていると、桓騎が発したのは予想外の言葉だった。

「飛信軍の女将軍と大王はデキてんのか?」

「はああッ!?」

思わず信は立ち上がっていた。
驚愕している信に、那貴が諦めにも似た表情を浮かべながら目頭を押さえている。

背もたれに身体を預けながら、桓騎は不思議そうに小首を傾げていた。

二人の視線を受け、信は顔から血の気を引かせていく。これだけ動揺したのなら、確実に怪しまれたに違いない。

「どうした?」

「い、いや…!元下僕出身の女が、大王となんて、立場的に、二人がそんなこと…」

「男と女である以上、そんな綺麗事が通じる訳ねえだろうが」

桓騎にそう言われると、膝から力が抜けていき、信はずるずるとその場に座り込んだ。

信は嬴政と、彼の弟である成蟜から政権を取り戻す時からの仲であり、親友である。
秦王である嬴政の金剛の剣として、大将軍である信は幾度も秦軍を勝利を導いて来た。今までもこれからも自分たちの関係は変わらない。

それに、後宮には嬴政のために喜んで足を開く美女がごまんといるのだ。決して嬴政にそんな目で見られたことなど一度もないし、誓って男女の仲になったことはない。

許されるなら、今すぐここでそれを証言したかった。

(マジかよ…)

恐らく自分と嬴政の関係をそんな風に考えているのは、桓騎だけではないだろう。
だからこそ、彼は真相を確認するために、二人のことをよく知ってそうな自分たちに尋ねたに違いない。

男と女という性別だけで、周りからそんな風に誤解されていることに、信は落胆した。

「いや、そんな話は聞いたことがない。将軍が大王の下へ行く時、軍師の河了貂も一緒だった。…故意に二人きりになりたいのなら、お供は連れて行かないだろ」

那貴の言葉を、納得したのかそうでないのか、桓騎は表情を変えずに耳を傾けていた。

今度はこちらが質問する番だ。
信はこほんと咳払いをして、冷静さを取り戻してから桓騎のことを見据える。

「…戦の最中、敵の領地にある村を焼き払うだけじゃなくて、村人たちを虐殺したり、金目の物を奪ってるっつー噂がある。…全部お前の指示か?」

二つ目の質問に、桓騎は興味が無さそうに目を逸らした。

「…答えねえなら、そうだと受け取るぞ」

信は腕を組んで桓騎を睨み付けた。ようやく目が合った時には、桓騎の口の端がつり上がっており、嫌な笑みを浮かんでいることに気付く。

「白老の身内だからって随分と強気だな」

「とっとと答えろ」

大将軍の一人である桓騎を前にしても恐れを見せず、それどころか、信はあからさまに敵意を剥き出していた。
もしも桓騎の側近が近くにいたのならすぐに斬られていたに違いない。

今の立場は、名も知られぬ百人隊の副官だと理解しているのだろうか。那貴はその不安を顔に出さず、信を横目で見ていた。

重い沈黙が三人を包み込んだが、その沈黙を破ったのは桓騎だった。

「命じた訳じゃねえが、俺らの軍はそういうのの集まりだからな。別に珍しいことじゃない」

やはり元野盗というのは名前だけで、現役らしい。信のこめかみに鋭い怒りが走った。

(やっぱりこいつは早めに抑えとかねえと、後が面倒だな)

嬴政の中華統一を成し遂げるためには桓騎の奇策が、桓騎軍の力が必要なのは分かるが、野党の性分はどうにか抑えねばならない。

彼らの悪行によって、嬴政の名が汚れてしまうのだけは許せなかった。

回答し終えた桓騎が気怠そうに頬杖をつく。酒の酔いが回って来たのだろうか。

次は桓騎がこちらに質問をする番だ。何を訊かれるのだろうと身構えてると、

「蒙虎」

低い声で名前を呼ばれ、信はどきりとした。

「―――お前は、何者・・だ?」

桓騎の双眸に宿る底なしの闇を見て、那貴と信は同時に生唾を飲み込んだ。

ただの好奇心や興味から来る質問ものではない。立派な尋問だった。
嘘を吐くことは許されないという威圧感より、嘘を吐いても意味はないといった絶望に近いものを感じさせる視線に、信は言葉を喉に詰まらせる。

下手に答えれば、見えない何かに首を斬り落とされてしまうような恐怖さえ感じた。

信は桓騎には見えない台の下で強く拳を握り、自分に喝を入れる。

こんなことで怯むなど、大将軍の名が泣いてしまうと自分に言い聞かせ、信は目を逸らすことなく桓騎を睨んだ。

「…強いて言うなら、てめえとは一生分かり合えない存在だな」

その答えは、桓騎と那貴の予想を遥かに超えるものだった。

一瞬呆けた顔をした後、桓騎は喉奥でくくっと話い声を上げる。桓騎はよく笑う男だと、信は昨夜から学んでいた。

父である王騎も、よく独特な笑い方をしていたことを思い出す。
死地に立った時でさえも、まるで敵兵に余裕を見せつけるように、王騎は口元にいつも笑みを浮かべていた。

だが、この男の笑い方は王騎が見せていたものとは違った余裕を感じさせる。見ているこちらは訳もなく腹立たしくなるような、嫌な気にさせる笑みだった。

「…じゃあな」

もうこれ以上は用はない。信は颯爽と立ち上がった。

差し出された酒を一口も飲まずに帰るのは少々気が引けたが、桓騎に顔を見られる訳にはいかなかったので、諦めることにした。

「蒙虎」

野営地を出ようと背を向けた信に、桓騎が呼び掛ける。
振り返ると、桓騎は楽しそうな瞳でこちらを見つめていた。

「…俺は気に入った女は逃がさない主義だ。足の腱を切ってでも捕まえる。覚えとけ」

何を言っているのだろう。桓騎の言葉の意味が理解出来ない信は、呆れたように肩を竦める。

「執念深い男は嫌われるぞ。覚えとけ」

まるで挑発するように返した信は振り返ることなく、桓騎軍の野営地を後にした。

「…もう嫌われてる・・・・・って言っただろうが」

残された桓騎がそう呟いたのを、那貴は聞き逃さなかった。

これ以上ここに長居する理由はない。信の後を追い掛けようと那貴が立ち上がる。

「あー、お頭と那貴だ!」

近くに側近はいないと思ったのだが、千人将であるオギコが二人の姿を見つけて駆け寄って来た。

「お頭ー!あっちの天幕で女の人がずっと待ってるよ」

「ああ、待たせておけ」

連れ込んだ娼婦のことだろう。信がいる間に知られなくて良かったと那貴は僅かに安堵した。

きちんと金で彼女たちの夜を買っているのだから、悪行と言われれば異なるだろうが、信のことだから、戦が始まる前なのに何を考えているのだと逆上するに決まっている。

「あ、お酒だ!一緒にお酒飲んでたの!?」

台の上に置かれている酒瓶と杯を見つけたオギコが円らな瞳を好奇心で輝かせる。

「こっちは口つけてねえから飲んで良いぞ」

那貴が信の前に置かれていた方の杯を差し出すと、オギコは嬉しそうにごくごくと喉を鳴らして酒を飲んだ。

―――中身は桓騎が飲んでいた酒と同じものだと分かっていたが、信の杯にだけ薬を仕組んでいることを那貴は初めから勘付いていた。

娼婦を抱く時に、桓騎が戯れに媚薬や眠剤の類を酒に混ぜて飲ませているのを知っていたからだ。

もしも本当に蒙驁の身内ならば、下手に手出しは出来ない。大人しくさせるには薬を使うのが一番だと桓騎は考えたのだろう。

だが、那貴がそれを知りつつも、その場で指摘することが出来なかったのは、他でもない信のためだ。

薬が入っていることを知った信は逆上するかもしれない。
この場で騒ぎを起こして側近や兵たちに取り囲まれる状況こそ、桓騎と二人きりになるより危険だと判断し、彼女には何も告げなかったのだ。

しかし、ここまでして蒙虎の顔を見ようとするなんて、桓騎から強い執着のようなものを感じる。

やはり言葉にしないだけで、正体に気づいているのだろうか。

「……ん、んんッ!?な、なんらか、体が、しび、へ、て、…」

「オギコ?」

目を白黒させながらオギコがずるずるとその場に崩れ落ちていく。意識はあるようだが、舌がもつれているだけでなく、上手く体を動かせないでいるようだった。

その姿を見て、那貴がまさかと冷や汗を浮かべる。

彼に渡したのは、那貴が信とすり替えておいた杯――薬が入っていない方の杯だったのに、酒を飲んだオギコにはあからさまな症状が出ていた。

オギコが地面に倒れ込んだのを見て、すり替えておいたはずの杯に・・・・・・・・・・・・・薬が入っていたのだと気づいた那貴は、顔から血の気を引かせた。

思い出したように、桓騎が那貴の方を振り返る。

「お前ら二人とも、飲まなくて良かったな?」

「!」

はっと目を見開いた那貴が、口をつけなかったもう一つの杯に視線を向ける。

桓騎の言葉から察するに、渡された両方の酒杯に薬が仕組まれていたらしい。
まさか桓騎は、那貴が杯を取り換えるのを想定していたというのか。

那貴が杯をすり替えようとも、信と自分のどちらかが口をつけた時点で・・・・・・・・・・・・・、負けが決まっていたのだ。

もしも、片方だけが眠らされていたのなら、二人とも眠らされていたら、今頃どうなっていたのだろう。

娼婦が待っているという天幕へ向かう桓騎の後ろ姿を見つめながら、那貴は背筋を凍らせた。

やはり桓騎は、恐ろしい男だ。

 

後編はこちら

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アナーキー(桓騎×信←那貴)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/那貴×信/無理やり/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

大王勅令の極秘任務

その日、信はある軍の将と兵たちの素行調査を頼まれた。

これが任務でなく依頼だったなら、そして秦国の大王であり、友人である嬴政からの直々の頼みでなかったのなら、速やかに断わっていただろう。

承諾はしたものの、信は少しも意欲的にはなれなかった。桓騎軍の悪行は、信の耳にも届いていたからだ。

―――咸陽宮の城下町を見渡せる露台で、蒙恬と王賁が驚愕の表情を浮かべた。

「ええッ!?信が桓騎軍に!?」

「バカッ!声でけえよ、蒙恬!」

誰にも聞こえないように、慌てて信は蒙恬の口を塞いだ。

もごもごと手の下で何か呻きながら、蒙恬は焦った表情を浮かべている。普段は冷静沈着な王賁も眉を顰めていた。

辺りを見渡し、誰にも聞かれなかったことを確認して信はほっと安堵する。手を外すと、蒙恬は声を潜めた。

「いくら大王の頼みだからって、それは危険だって!じいちゃ…祖父の蒙驁将軍に仕えてくれるから、あんまり言いたくないけど…良い噂は一つも聞かないぞ?」

だから・・・だろ」

飛信軍を率いる若き女将軍であり、秦国の六大将軍の王騎と摎の娘の信は何度目になるか分からない溜息を吐いた。

―――桓騎軍の兵として潜入し、彼らの素行を調査するというのが、信に与えられた任務だった。

元野盗である桓騎は、奇策を用いて、数々の戦で勝利に貢献している。
論功行賞でもその名を呼ばれることは多く、秦国でも桓騎の存在は広く知れ渡っていた。

しかし、知れ渡っているのは将の名前や武功だけでなく、素行の悪さだ。

戦に巻き込まれた村が桓騎軍によって焼き尽くされたり、そこに住んでいた者たちも殺されたという話があった。老人や子供相手であっても、決して例外はない。

兵糧だけでなく金品を奪い、女は連れ去る。元野盗の集まりだと聞いていたが、その話だけ聞けば、名前に「元」がつくだけで、野盗と何ら変わりないではないか。

さらには敵軍を動揺させるために、敵兵の亡骸を使って脅しのように、士気を下げることもあると噂で聞いている。

先に行われた山陽の戦いでは、魏兵たちの目玉をくり抜いて敵将の元へ届けたり、 まるで見世物のように屍を磔にしたとか。
そんな残虐極まりない桓騎軍に仕えるよう命を受けた隊は、確実と言って良いほど全滅している。

奇策を用いるからなのか、桓騎軍は他の軍よりも兵の被害が少ない。しかし、彼の軍に仕える隊が必ずと言って良いほど全滅しているのは信も少々気になっていた。

桓騎軍の下につくのは、未だ名の知られない数百人規模の小さな隊ばかりだ。

恐らく、蒙恬の率いる楽華隊が一度も桓騎軍についたことがないのも、祖父である蒙驁が手を回しているに違いない。
そして王賁率いる玉鳳隊も同様に、桓騎軍につかないように王翦が何かしら手を回しているのだろうか。

(奇策を成すために犠牲に使ってるのかもしれねえが…)

中華統一を目指す秦にとって、桓騎のような奇策を用いる将は必要不可欠だ。

彼の戦略が勝利を導くとはいえ、信も桓騎のことはあまり好きになれなかった。噂だけで相手を判断するのは良くないことだとしてもだ。

信は桓騎と共に戦場に立つことはあっても、受け持つ拠点が異なることもあって、直接の関わりはなかった。

過去に信が総大将を務める戦では、桓騎軍も参加していた。飛信軍の軍師である河了貂が他の軍や隊に軍略を伝える席にも、桓騎が姿を見せたことは一度もない。

桓騎軍の軍師であり、桓騎の側近でもある摩論もなかなかクセのある男だったし、桓騎軍とはそういった者の集まりのようだ。

その戦での論功行賞の時に信は嬴政から名前を呼ばれ、同じく名前を呼ばれた桓騎が隣に座っていた。

思えば、桓騎の姿をしっかり見たのは、あの時が初めてだったかもしれない。

無意識のうちに身体が彼を拒絶しているような、怖気にも寒気にも似た感覚を、信は今でも覚えている。
横目で桓騎がこちらを見ていたことには気付いていたが、信は一度も彼と目を合わさなかった。

若い女ながら、桓騎よりも先に大将軍の座に就いており、六大将軍の王騎と摎の娘である自分の存在がどのようなものかを見定めていたに違いない。そのような興味を抱く者はこの中華全土に多くいる。

あの時は桓騎から声を掛けられることもなかったが、もしも目を合わせていたら、何を言われていたのだろうか。

「ッ…」

無意識のうちに鳥肌を立てており、信は腕を擦った。蒙恬が頬杖をつきながら、苦笑を深める。

「よりにもよって信に素行調査を頼むか…随分と無茶言うなあ、うちの大王も」

「政が無茶言うのは今に始まったことじゃねえよ」

腕を組んだ王賁が眉間の皺を崩さないまま、信を見据えた。

「…今からでも桓騎に殺されない策を考えとけ。大将軍だと名乗る前に首を撥ねられるかもしれんぞ」

「ああ、それは大丈夫だ」

二人を安心させるように、信はにやりと笑った。

「桓騎軍の兵に紛れる。完璧な作戦だろ?」

「どこが?男のフリして兵に紛れるなんて、そんなの潜入するに当たって大前提だろ」

「バカの一つ覚えだな」

「ええぇ…」

信にとっては自信のある作戦だったらしい。しかし、そんなものは作戦ではないときっぱり否定した蒙恬と王賁に、彼女はあからさまに肩を落とす。

落ち込んだ信に、本当に正体を隠して潜入する気があるのかと王賁がこめかみに青筋を浮かべた。

今にも彼女に掴みかからんばかりの怒りを察し、蒙恬は「まあまあ」と信を庇うように二人の間に立つ。

「んー…作戦かあ…」

腕を組んで、信は思考を巡らせる。

将軍には本能型と知略型の二種類がある。言い換えれば力か知恵かという二択だ。信は本能型の将軍に分類される。

兵たちの士気を湧き立たせる信の強さはもちろんだが、軍略はからきしで、軍師の河了貂と、冷静に戦況を見極めることができる副官の羌瘣がいなければ、飛信軍はここまで育たなかっただろう。

「そもそも信が作戦通りに動けるとは思えないんだけどね」

「ああ?どういう意味だよ」

蒙恬の言葉に、信が眉を顰めた。

元々の性格なのだろうが、良い意味でも悪い意味でも、信には表裏がなく、嘘を吐くことが出来ない。

そんな彼女が兵に紛れて桓騎軍に潜入するなんて、本当に出来るのだろうか。王賁と蒙恬は顔を見合わせると、呆れたように溜息を吐いた。

「…それじゃあ、名を尋ねられたら、蒙の姓を名乗った方が良い。蒙驁将軍の身内だと分かれば、きっと殺されることはないだろう」

「俺が蒙の姓を語るとなると……じゃあ、蒙信か?」

「正真正銘のバカか貴様。姓を偽りながら、なぜ素直に名乗っている」

王賁の正論に、信が面倒臭そうに顔をしかめる。こんな調子で本当に大丈夫なのだろうか。蒙恬のこめかみがずきずきと痛んだ。

もしも正体を怪しまれた時に、桓騎を副官として迎え入れた白老・蒙驁の身内だと分かれば、桓騎も悪いようにはしないだろう。蒙恬はそう睨んでいた。

だが、それは桓騎に名前を尋ねられるという前提の話だ。自分の軍でもない隊の兵になど、桓騎が興味を持つはずがない。

そんな彼に名前を尋ねられる状況に陥るということは、確実に信が潜入時に何かやらかした時に違いない。

素行調査をするとはいえ、正義感の強い信が、彼らの噂に聞く悪事を目の当たりにして、果たして黙っていられるのだろうか…。

蒙恬と王賁は言葉には出さずとも、絶対に無理だろうと考えていた。
そして、悪事を働いた桓騎軍の兵たちを信が一掃するのは、今回の話を聞いた時から目に見えていた。

兵に変装するとはいえ、正体は中華全土に名を轟かす天下の大将軍の娘だ。そこらの兵が簡単に取り押さえられるはずもない。そして、騒ぎを聞きつけた側近たちが、謎の兵の話を桓騎に伝える。

騒ぎが大きくなるにつれ、興味を持った桓騎が自ら出向いて信の前に現れる…そこまでの過程は安易に予想出来た。

蒙恬と王賁が不安に思っていたのはそれだけではない。信が強いのは分かっているが、桓騎の奇策に適うかどうかは別だ。

今回は戦でないにせよ、頭の切れる彼に目を付けられて面倒なことにならないか、それが一番の不安の種だった。

しかし、信といえば兵に潜入することしか事前に考えていなかった。彼女は今回の件を、あまり深刻に考えていないらしい。

このまま無策で桓騎軍に潜入なんて、確実に失敗する未来しか見えない。下手したら、弁明する前に桓騎軍の全兵力で取り押さえられて、首を飛ばされてしまうかもしれない。

蒙恬が更なる不安を覚え、恐る恐る尋ねた。

「…信、まさかとは思うが…」

「ん?」

「桓騎軍に潜入するに当たって、知らない百人隊に、たった一人で、入り込むつもりじゃない…よな?」

蒙恬に問われた彼女はきょとんと目を丸める。

「そのつもりだったぞ?」

「このバカ女がッ!」

ついに痺れを切らした王賁の鉄拳が信の頭に振り落とされた。いでええッ、と信が泣きそうな声を上げる。

普段なら受け止めることも出来たはずなのに、王賁の凄まじい勢いに対応出来なかったようで、信は両手で頭を押さえて涙目でしゃがみ込んでしまう。

普段なら穏やかに王賁を落ち着かせる蒙恬だったが、今回ばかりは見て見ぬふりだった。痛む頭を擦りながら、信が涙目で二人を睨み付ける。

「な、なんだよッ!羌瘣だって、俺だって初陣の時は誰も知らねえ百人隊で伍組むとこからだったぞ!?」

「それは過去の話でしょ。…信が少しも作戦らしい作戦を練れていないのはよく分かった。よし、今から大至急で作戦会議だ」

桓騎軍に行く前に話してくれて良かったよと、薄ら笑う蒙恬のこめかみにも青筋が浮かび上がっているのが見えて、信は顔を引き攣らせた。

「じゃ、じゃあ、まずは名前から考えるか!何にするかなあ…」

腕を組んで、信がうーんと考える。不思議なことに、背中に携えている剣がきしりと音を立てた。その音は決して聞き間違いではなく、二人の耳にも届いていた。

山陽の戦いで信が討った魏軍の将、輪虎の剣だ。王騎と共に廉頗の屋敷に出入りしていた信にとって、輪虎は兄のような存在であった。

輪虎との手合わせで信は一度も勝ったことがなかったのだが、山陽の戦いで初めて彼に勝ったのだ。

彼の命の重みを背負うと心に決めた彼女は、彼が生前使っていた剣を廉頗から引き継いだ。

蒙虎・・!虎ってのは?」

信は笑顔で二人に提案した。

彼女が輪虎の剣を見てそう提案したことに、蒙恬と王賁は訳を訊かなくても、輪虎の名前を取ったのだと察する。

安易すぎると思ったが、飛信軍の信を連想させる要素は少しもない。

あれだけ苦戦を強いられた将軍の名から取ったという理由には正直納得したくないが、一時的な偽名だ。そこまで深くこだわる必要はないだろう。

偽名を決めてから、蒙恬を中心に、今回の桓騎軍への潜入における作戦会議が始まった。

「…よし、それじゃあ、作戦を振り返るよ?これから急いで、信頼出来る飛信軍の中から、なるべく名の知られていない兵を集めて、百人隊を結成する。常に飛信軍と連絡を取り合う伝令係も忘れずに任命する」

おう、と信が頷いた。

「返事だけは潔いな」

「なんだと?」

王賁に横槍を入れられ、信のこめかみに鋭いものが走る。瞬時に睨み合いが始まり、蒙恬は大きく手を叩いた。

小気味良い音によって二人の意識が蒙恬へと戻る。

「喧嘩は後にしろよ。もしかしたら大王様のお願いで、信が命を落とすかもしれないんだ」

低い声を発した蒙恬が二人を宥める。信は背筋を正し、蒙恬の話の続きを聞くことに集中する。

「信は大前提として、目的である素行調査に集中すること。もしも桓騎軍の悪事を目の当たりにしても、その場では絶対に堪える。いい?」

信は頷いた。先ほど王賁が言ったように返事は潔いが、きっと悪行を目の当たりにすれば、頭に血が昇ってなりふり構わず止めようとするだろう。それを見越して、蒙恬は次の言葉を紡いだ。

「もし、悪事を発見した場合は、とにかくその場から撤退だ。目の当たりにした事実を大王様に伝えればいい」

ぐっと唇を噛み締め、信は渋々頷く。蒙恬は、すっと深く息を吸ってから言葉を続けた。

「一番最悪なのは、信が桓騎軍の兵を切り捨てた場合だ」

「………」

「桓騎が出て来るとすれば、その場合だけだろう。その時は、名を尋ねられなくても、絶対に蒙の姓を名乗る。五体満足じゃないかもしれないけど、命は保証されるはずだ。あとは隙を見て逃走。…良い?」

蒙恬に真っ直ぐに目を見つめられながらそう尋ねられた信は、少しも納得していない表情で、小さく頷いた。

彼女の表情を見て、王賁の眉間に鋭い皺が寄る。口を開こうとした王賁を、蒙恬がさっと手を挙げて止めた。

「…と、まあ、そんな感じで作戦を立ててみたけれど、結局は信次第だからなあ」

「上手くやってやるから、んな心配すんなって!」

信の笑顔と説得力のない言葉に、蒙恬は苦笑を深めた。王賁も呆れた表情を浮かべている。

「…信」

蒙恬が彼女の手をそっと握った。

「戦と同じで、無駄死にだけはしないで欲しい。この国には、大王様には、信が必要なんだから」

真っ直ぐに信の目を見据え、蒙恬が告げる。

「ありがとな、二人とも!ぜってー無事に帰って来るから、その時は朝まで飲むの付き合えよ!」

花が開いたような満面の笑みを浮かべ、信は蒙恬と王賁の肩を軽く叩いた。

少しも緊張感のない彼女の態度に、二人はますます不安を募らせたが、それ以上はもう何も言うまいと顔を見合わせたのだった。

 

出立前のひととき

嬴政が信に頼んだ桓騎軍の素行調査。
軍の総司令官を務める昌平君もその話を聞いており、此度の戦に飛信軍は参戦しないことになった。

蒙恬と王賁と念入りに考えた作戦通り、飛信軍の兵から百人隊を結成し、桓騎軍の指示に従う。状況を知らせる伝令係も任命した。
桓騎軍の下についた隊がいつも全滅している話は、兵たちの間でも噂になっていたらしい。

信は大王命令による極秘任務であること伝えた上で、桓騎軍の素行調査に協力することを兵たちはすぐに承諾してくれた。

「三日だ。三日だけ耐えてくれ。あと、もしも俺が桓騎軍の兵どもに手ェ出しそうになったら、ぶん殴ってでも止めろ!頼むぜ!」

信の言葉に兵たちが苦笑する。どうやら兵たちも、信ならやり兼ねないと思っていたらしい。

三日の期限を設けたのは、軍の総司令官である昌平君からの指示だった。
此度の戦の舞台になる平原までは移動に三日かかる。その三日目で信が率いる百人隊は撤退する予定になっていた。

そして本来、桓騎軍につく予定の百人隊と入れ替わる手筈になっている。秦から見て、南にある楚国の侵攻を防衛するのが此度の戦の目的だった。

しかし、南に戦力を費やせば、その隙を狙って李牧のいる趙国が北から攻めて来るかもしれない。

桓騎軍の素行調査が大王嬴政からの命令であるとはいえ、さすがに李牧率いる趙国の侵攻には備えなくてはならない。趙の侵攻に備え、飛信軍の戦力は何としても保持しておきたかったのだ。

「懐かしいなあ」

信は久しぶりに一般兵が着る鎧を身を纏った。普段の鎧よりも防御力に欠けるが、こちらの方が大きく腕を振るえて動きやすい。

信が不在の間は軍師である河了貂と、副官の羌瘣の二人に飛信軍の指揮を任せることになっていた。
出立の準備が整ったと連絡を受け、信は河了貂と羌瘣に声を掛ける。

「そんじゃ、テン、羌瘣。悪いけど後は任せたぜ。また三日後な」

「往復するんだから六日後だろ」

河了貂の冷静な言葉に、信が「あ、そっか」と納得する。

こんな調子で大丈夫なのだろうかと河了貂が不安そうに眉を落とした。

「李牧がこの機を狙って北から攻めて来るかもしれないんだから、もしそうなったら桓騎なんかに構ってないで、さっさと戻って来いよ!」

「おう、心配すんな。すぐ戻って来る。何かあればすぐに伝令を寄越せ」

妹同然である河了貂を安心させようと、彼女の丸い肩をぽんと叩き、信は黒い布で口と鼻を覆った。

普段の戦場では、母である摎のように仮面で顔を隠しているということもあって、信は顔を隠しながら行動することに慣れていた。

「お、なんか昔の羌瘣みたいじゃね?カカカ。完璧に男だろ」

ぎろりと羌瘣に睨まれる。

信に何か言い返そうと考えた羌瘣が急にしゃがみ込んで地面に手を突っ込んだので、信たちは小首を傾げた。

「…さっさと行ってこい」

「ひッ――ぅああああああッ!お前それやめろって言ってるだろおおッ!」

羌瘣の手に握られているものを見て、珍しく信が仰け反って甲高い悲鳴を上げた。

羌瘣の手には多数の足を持つ毒虫、ギュポーが握られている。この醜怪な虫は、地面の中に巣を作る習性があるらしい。

からかった罰だと言わんばかりに、羌瘣は真顔で信にギュポーを突き付けていた。

幾つもの死地を駆け抜けている信であったが、彼女はこのギュポーと呼ばれる毒虫が苦手だった。羌瘣に背中を掴まれて、多足をもだもだと動かしている様子がまた気持ち悪い。

信は幼い頃、この虫で遊んでいたことがあった。
その際に、思い切り手を噛まれ毒を受けて三日三晩寝込んだことが恐怖となって、彼女の中に深く根付いているらしい。

天下の大将軍がこんな虫一匹に怯むだなんて笑い話だ。信の弱点を知り得た羌瘣は時折、ギュポーを使って信をからかうのだ。

信がギュポー嫌いであることは口外を禁じており、飛信軍の中だけの機密事項となっていた。

不適の笑みを浮かべている羌瘣と怯え切っている信に、河了貂が「二人とも大人げない」と呆れている。

羌瘣がギュポーを地面に戻してから、ようやく安堵した信は「行って来る」と彼女たちに大きく手を振った。

 

出立

今回のためだけに結成された百人隊に声を掛け、いよいよ出発する。馬に乗らず、歩兵として出陣するなんて、何年ぶりのことだろう。

今から移動を始め、桓騎軍と合流するのは夕刻だろう。たった三日とはいえ、正直に言うと気が重かった。
もしかしたら桓騎に近づきたくないという本能の警告なのかもしれない。

「…つーか、潜入なんてしなくても、那貴が政に知ってること話せば良いだけだよなあ」

「は?そんな恐れ多いこと出来る訳ないだろ」

「何が恐れ多いことだよ。ただ喋るだけじゃねえか」

元桓騎軍の千人将である那貴がやれやれと肩を竦めた。

「大王にあんな失礼な口聞いてるのは、中華全土どこを探してもあんただけだろうよ」

「あ?お前こそ大将軍の俺に失礼な口聞いてるだろうが」

「飛信軍なんてみんなそうだろ。態度のデカさだけで言うなら、桓騎軍より上かもな」

那貴の言葉に、むっとした表情を浮かべた後、信が肩を震わせて笑った。つられて那貴も笑い出す。

今回の任務を遂行するに当たり、百人隊を結成する時に、那貴は「俺も行く」と率先して名乗り出てくれた。

百人隊に名の知られている兵は入れないようにと蒙恬から言われていたが、桓騎軍の良し悪しを知っている彼が居れば心強いと、信は那貴の同行を許したのだ。

桓騎軍の者に気付かれないよう、那貴も信と同じように口元を黒い布で覆っていて、顔の半分を隠している。

過去に信が総大将を務めた戦で、飛信軍は桓騎軍と共に戦ったことがある。
どうやら那貴はその時に飛信軍に居心地の良さを感じたようで、桓騎軍から移って来た異例な存在だった。

飛信軍に移ると申し出て、桓騎から引き止められなかったのか問うと、那貴はあっさりと頷いた。

―――桓騎軍は軍であって、軍のような規律はない。あそこはお頭が白と言えば白、黒と言えば黒っていう集まりなんだよ。他の奴らにはボロクソ言われたけどな。

つまり、桓騎の指示一つで何でも許されるという訳だ。あの軍の中では、将である桓騎こそが規律なのかもしれない。

桓騎は元野盗。そして彼に付き従っている者たちも野盗の集団だ。
そのせいか、桓騎軍の兵たちは全員気性が荒く、飛信軍の兵たちと度々言い争いになることもあった。

同士討ちは禁忌とされているため、信はその度に兵たちを落ち着かせるのだが、桓騎はそう言った場にも一度も姿を見せない。

噂だけが一人歩きしているのかと思っていたが、恐らく本当に噂通りの男なのだろう。本当に自分の娯楽以外は何も興味がない男のようだ。

それでも付き従う兵が多いのは、桓騎が慕われている何よりの証拠に違いない。

「…なあ、那貴から見て、桓騎ってどんな男だ?」

歩きながら、信が那貴に問い掛けた。

間近で桓騎という存在を見て来た那貴ならば、噂以上の情報を知っているに違いない。

「今さら俺が話したところで、将軍の中のお頭の想像図は覆せないと思うがな」

苦笑を浮かべた那貴に、信は自分の知っている桓騎の噂を話し始めた。

「…敵兵の目ん玉くり抜いて送り付けたり、見世物みたいに死体を吊るしたり、金目の物を奪って、女も犯して。兵器ならともかく、村まで焼き払って…悪党以外の何者でもねえだろ」

今までの戦で桓騎軍が行ったことを皮肉っぽく言うと、那貴は桓騎を庇うような発言はせず、素直に頷いた。

「何せ、あの人の趣味は、何をしたら一番相手が苦しむかを考えることだからな」

あっさりと肯定した那貴に、信はますます気が重くなる。

絵に描いたような大悪党である男の下に自ら行かなくてはいかないなんて。こんなに気が重いのは、戦で敗北が決まり撤退した以来だ。

しかし、今回のことは他の誰でもない嬴政の頼みだ。断る訳にはいかなかった。

今までの桓騎軍の悪行について、嬴政は目を瞑らざるを得ないと思っていたらしい。

蒙驁が野心家である王翦と、元野盗の桓騎の二人を副官にしているのは、二人の才を認めており、何よりその才は秦の未来のためになるという判断からだった。

中華統一するにあたり、桓騎軍の悪事は民からの信頼に大きく影響が出ると睨んだのだろう。

嬴政の元には噂程度にしか入って来ない桓騎軍の悪行を、代わりに確認して欲しいというのが嬴政の頼みだった。
誰よりも信頼しているからこそ、他の誰でもない信に頼んだのだ。

(政の中華統一の足枷になるんだったら、今のうちに抑制しとかねえと後が大変だな…)

 

桓騎軍の野営地へ

一日目の夜。前方を歩いていた桓騎軍と合流し、今日は野営で休むことになった。

「蒙虎」

夕食の後、那貴にそう呼ばれて、信は少し反応が遅れた。
そうだ。もう桓騎軍の目があるのだから、信という名を隠さなくてはならない。

「どうした?」

「桓騎軍の野営地はそう遠く離れてない。調査に行くなら付き合うぜ。お頭の天幕なら印がついているから、見ればすぐに分かる」

那貴も桓騎軍に顔を知られている。

飛信軍に移ったはずの那貴がここにいると知られれば、連鎖的に信の存在も気づかれてしまう。信と同じように顔を隠しているのは、彼の心遣いだった。

「…ああ、行くか」

信は顔を隠している布が解けないように、後ろの結び目をきつくして立ち上がった。

夕刻に桓騎軍と合流した時、桓騎は軍の先頭を走っているようで、さすがに姿を見ることは叶わなかった。

桓騎軍の野営地はここから少し離れた場所にある。素行調査のためには、桓騎軍の野営がある場所に忍び込まなくてはならなかった。

さすがにこの野営地から百人隊全員で移動することは出来ない。
大人数の移動は目立ち過ぎる、もしも桓騎軍の者たちが何か伝令を伝えに来た時に、誰もいなければ怪しまれるだろう。怪しまれぬように兵のほとんどはここに残さなくてはならない。

目立たずに捜査を行うために、信は那貴と二人だけで桓騎軍の野営地に潜入することに決めた。

自分たちが戻らなければ細心の注意を払いつつ、兵の半分は桓騎軍の野営に来るように、そして残りの半分は引き返すように指示を出す。

まさか初日から桓騎軍に気付かれて全滅させられるだなんて最悪な筋書きにはならないだろうが、念には念を入れなくてはならない。

もしも桓騎軍と戦闘になり、信を含めて五十の兵が全滅した場合を想定する。
残りの五十の兵が追撃に遭ったとしても先に退避していれば全滅は避けられるはずだ。

そうなれば待機している副官の羌瘣率いる飛信軍や、軍の総司令官である昌平君に状況を伝えることが出来る。

楚国の戦を控えているため、追撃にまで兵を割くことはないとは思うが、桓騎の奇策にはどんなものがあるのか信も分からない。飛信軍と相性が悪いのは性格だけでなく、恐らく戦略もだ。

桓騎軍には敵も味方もないのだと那貴から話を聞いていた。

桓騎が敵だとみなせば秦国の軍や隊であろうが、敵である。彼こそが桓騎軍の規律なのだから、何があってもおかしくはない。

桓騎軍の野営地まで距離はそう遠くないところにあった。
馬を使えば嘶きや蹄の足音で見つかる危険が高まると考えた二人は森の中を通りながら野営地へ近づいていく。

「…今頃は飯と酒で気分良くいるだろ。そう身構えなくても平気だ」

まるで安心させるように那貴が囁く。

信が那貴と二人だけで桓騎軍の野営を視察に来たのは、とっておきの秘策があるからだ。その秘策を使えば、命は助かるという保証がある。

それこそが蒙虎という名前と存在だった。蒙恬が祖父であり、桓騎が秦国の中で唯一恩を感じている蒙驁の存在を仄めかす架空の存在。

―――蒙の姓を名乗ったなら、必ず蒙驁の身内か問われるはずだ。その時は馬鹿正直に語る必要はない。訳ありで迷惑を掛けるから詳しくは言えないとだけ言うんだ。絶対に顔も見せるなよ。

蒙恬には何度も釘を刺されたが、蒙驁の存在を後ろ盾につければ大丈夫に違いない。信はそう考えていた。

いくら元野盗とはいえ相手も人間で、夜目が利かないのは同じである。

何より顔を見られて正体に気付かれることを恐れた二人は、明かりを持たずに、空から差し込む月明りだけで森の中を進んでいた。

「見えて来たぞ。あそこだ」

草木を掻き分けて進んでいると、先方に明かりが見える。人の気配や談笑から、桓騎軍の野営地に来たことを察した。

草陰に身を潜めながら那貴が野営を見渡している。焚火の周辺で兵たちが酒を飲んで談笑している姿が見えた。

「…おかしい」

那貴が眉間に皺を寄せている。どうしたと信が小声で尋ねると、彼は野営地から目を離さず口を開いた。

「お頭の天幕が見当たらない。いつも印がついているはずなのに、今日はそれがない。…妙だ」

口元に手を当てながら怪訝な表情を浮かべる那貴に、信は目を見張った。

将軍である桓騎がこの場にいないはずがない。場所を変えて天幕を立てているにせよ、辺りを見渡す限り、野営が可能なのはここしかないだろう。

信は嫌な予感を覚えた。単純に天幕に印をつけていないとも考えられるが、それはおかしい。

いつも印がついているはずの桓騎の天幕に、なぜ今日に限って印がないのか。

まるで桓騎がこちらの素行調査のことを知っているのではないかという不安を覚え、信は生唾を飲み込んだ。

楚国の奇襲に備えているとも考えたが、まだ決戦の場である平地までは移動に時間がかかる。それに、こんな場所に奇襲をかけるような軍略を立てる者は楚国にいないはずだ。

奇襲の対策を取っているにせよ、他の兵たちに野営をさせながら、桓騎だけがいないというのもおかしい。

もし奇襲の対策を取っているにせよ、兵たちがこんなにも寛いでいるのも妙だ。楚国からの奇襲を警戒しているという説は否定されるだろう。

「…戻るぞ、那貴」

信は那貴に声をかけると、今来た道を戻ることにした。那貴も天幕の印がない違和感を拭えないようで、素直に頷く。

「ッ…!?」

戻ろうとした時に、信の足に何かがぶつかった。

木の根かと思ったが、目を凝らすとまるで桶のようなものが転がっているのが見えた。足をぶつけた拍子に転がしてしまったようだ。

(なんだ?桶…?)

どうしてこんなものがここにあるのだと信が疑問を抱いた途端、桶のあった場所に見覚えのある大きな虫が蠢いているのを見つける。

目を凝らしてみると、それは信の大嫌いな毒虫、ギュポーだった。

「―――」

全身の血液が逆流するような感覚に、信が息を詰まらせる。ぶわりと全身の鳥肌が立った。

こんな状況で声を上げればどうなるか分かっているはずなのに、心に根付いているギュポーに対する恐怖は構わずに信の中を暴れ回った。

「ぎゅッ、…きゃぁあああああ――――ッ!」

咄嗟に那貴が手を伸ばして信の口に蓋をするが、既に悲鳴は桓騎軍の兵たちの耳に響き渡った後だった。

「おい、女の悲鳴だぞ!」

「近くにいるんじゃねえのか?なんでこんなとこに?」

那貴の手の下で、もごもごと悲鳴の余韻を上げていると、桓騎軍の兵たちの声が聞こえた。彼らが動き出したのを見て、那貴は信と共に身を屈めた。

「良い女なら捕まえて輪姦マワしちまおうぜ」

その言葉を聞いて、那貴はやはりそうなるかと苦笑を浮かべた。

桓騎軍の兵たちは見境がない。相手が良い女ならば玩具のように凌辱し、弄んで、最後はごみのように捨てるのだ。

その様子を、那貴も桓騎軍にいる時は傍で見て来たはずだったのに、今は無性に許せなかった。

「撤退するぞ」

ここで信が捕らえられ、女だと気づかれれば、きっと弁明する前に彼女が汚されてしまう。

命が無事だったとしても、女としては心に一生の傷を負うことになる。何としても避けなくてはと那貴は考えた。

信が安易に男たちに屈するはずはないし、彼女の強さも分かっているのだが、那貴は桓騎軍の兵たちに彼女を触れさせたくないと感じていた。

桓騎軍の兵たちが集まって来る前に、何としても逃げ出さなくてはと、那貴が信の手を掴んで走り出す。

信の手首は想像していたよりも細くて驚いた。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

身を屈めているとはいえ、足音は隠せない。
二人分の足音を聞きつけた兵たちが「あっちだ!」と仲間に声を掛け合っている。

「わ、悪い、那貴…!俺のせいだ…」

ようやくギュポーによる動揺が落ち着いた信は、今にも泣きそうなほど顔を歪めながら謝罪した。

(意外と女らしいところもあるんだな)

飛信軍に入ってから信がそんな表情を見せたのは初めてのことだったので、那貴は走りながら、つい見惚れてしまう。
こんな時に何を考えているのだと那貴は思考を振り払った。

「とにかくここから離れるぞ。うちらの野営まで戻れば何とでもなる」

「ああ!」

後ろに目をやるが、桓騎軍の兵たちの声と気配が近づいて来ている。近い距離ではないが、まだ追い掛けて来ているらしい。

ひたすら走り続け、ようやく自分たちの野営地の明かりが見えると、二人はほっと安堵の息を吐いた。

それまでずっと握っていた信の手首を放したが、那貴の手の平には彼女の温もりが名残惜しく残っていた。

 

任務失敗

信が膝に手を当てながら、長い息を吐いていた。

「はー…まさか何も出来ずに引き返すなんてな…那貴がいてくれて助かったぜ」

信がやれやれと肩を竦める。手首を掴んでいたことを意識しているのは自分だけだったようだと那貴は苦笑した。

顔に疲労を滲ませながら、信と那貴は待機している兵たちの元へ向かう。

「悪い、待たせたな……ん?」

待機していたはずの兵たちが重々しい空気を纏っている。信と那貴が戻って来たのを見た彼らは、何か言いたげな表情を浮かべていた。

どうしたのだろう。彼らの視線を追い掛けると、紫の鎧に身を包んだ男が焚火の前にある椅子に腰を下ろしていた。

「お頭…!?」

那貴の小さな声に、信が目を見開いた。桓騎軍の野営地にいるとばかり思っていた桓騎がいたのだ。

(なんでこいつがここに!?)

信も那貴も驚いて言葉を失っている。お供としてついて来たのか、桓騎軍の千人将であるオギコが桓騎の肩を揉んでいる。

辺りを見渡す限り、どうやら桓騎軍からやって来たのはこの二人だけのようだった。一体なんのために来たのだろうか。

戦の作戦などは参謀である摩論が伝えるはずだ。桓騎自らが百人隊の野営地に出向くなど、目的がまるで分からない。

信と那貴の姿を見て、桓騎はにやりと口の端をつり上げた。
顔を隠しているとはいえ、この男に睨まれると、まるで全てを見透かされているような嫌な気持ちになる。

「…おい、なんで桓騎将軍がここにいる」

近くに立っていた兵に声を潜めながら尋ねると、「分かりません」と彼は首を横に振った。

ふらりとこの野営に桓騎が現れたかと思うと、戦の作戦を伝える訳でもなく、ただ座っているだけだという。

用件を尋ねても何も答えず、オギコも桓騎の肩を揉むのに必死で、まるで話にならないのだそうだ。

信は那貴に目を向けると、彼は小さく首を横に振った。那貴が桓騎軍に居た時も、このようなことは一度もなかった。

桓騎軍との付き合いが一番長い那貴でさえも、桓騎の目的が分からないらしい。

一体何を目的に、桓騎はやって来たのだろう。
重々しい空気の中、複数の足音が聞こえて信は顔を上げた。

「おい、百人隊!こっちに女が来なかったか!」

先ほどの桓騎軍の兵たちだった。その数は合わせて十人。まさかここまで追い掛けて来るとは思わなかった。

それまでオギコに肩を揉ませて寛いでいた桓騎がようやく顔を上げる。

「お前ら、何かあったのか」

ここに来て、ようやく桓騎が口を開いた。
桓騎軍の兵たちもどうしてここに桓騎がいるのだと驚いているようだったが、先ほどの出来事を話し始める。

「俺らの野営の近くで女の悲鳴が聞こえたんだ。この辺りに集落なんてなかったはずなのによお。良い女だったらお頭にも献上しようって思ってたんだぜ」

鼻息を荒くして話す男たちに、信は寒気を感じた。

これから戦に赴き、命の奪い合いをするというのに、まさかこんな状況で女に飢えているのか。

桓騎軍は戦であっても構わずに自分の野営地に娼婦を連れ込んでいるというのは那貴から聞いていたが、やはりそういう目的で連れ込んでいるのだ。

正体を隠していなければ、彼らをぶん殴っていたに違いない。

信は素知らぬ顔をして、とことん白を切ることにした。

「…女だと?一体何の話だ?ここに来たのは桓騎将軍とそこの千人将だけだぞ」

桓騎軍の兵から逃げた女がいるという話を聞き、恐らく信が失敗したのだろうと飛信軍の兵たちもすぐに察したようだった。

きっと後で何があったのだと責め立てられるに違いない。兵たちから呆れが含まれた視線を感じ、信は居心地が悪くなった。

「ちっ、逃げちまったか」

誰も情報を持っていないことで、桓騎軍の兵の者たちはあからさまに不機嫌な顔になる。

もう用はないと言わんばかりに桓騎軍の兵たちが野営地を出ていった。
これで完全に逃げ切れたと胸を撫で下ろした信だったが、まだ悩みの種は一つある。桓騎がまだこの場から去ろうとしないことだ。

作戦を告げるつもりもないのなら、何をしに来たのだろう。
目的は気になるが、桓騎に怪しまれる訳にはいかない。さり気なくその場を離れようとした時だった。

「ねー、お頭!ここに飛信軍がいるってほんと?」

「っ…!」

桓騎の肩を揉んでいたオギコの言葉に、信はぴたりと足を止めた。
飛信軍の兵たちの顔に、僅かな動揺が浮かぶ。那貴もまさかという表情を浮かべる。

頬杖をつきながら、桓騎は長い脚を組み直した。

「…ただの噂だ。飛信軍は今回の戦に参加しねえからな」

「オギコ、信に会いたかったなー!」

信は桓騎たちに背中を向けたまま、歯を食い縛る。

他の桓騎軍に所属している将たちはさすが元野盗ということもあって、飛信軍とはとても性格が合わない輩ばかりだ。

野盗時代の癖なのか、いちいち脅し文句を言わなければ気が済まないのも付き合いづらい。

しかし、オギコだけは違った。過去に、桓騎軍と共に戦った時、信はオギコの命を救ってやったことがある。オギコは表裏がなくて親しみやすい男だった。

素直に「助けてくれてありがとう!」と笑顔で感謝されて、嫌な気持ちになる者はいないだろう。

武器の扱いはからきしだが、オギコのその純粋な性格ゆえ、信はどうして彼が桓騎軍にいるのかが不思議でならなかった。

桓騎軍が嫌になったらいつでも飛信軍に来いと伝えたが「ありがとう!でもオギコ、お頭が好きだからごめんね!」とフラれたのは、信の中であまり納得がいかなかった。

…とはいえ、オギコは信に助けられた恩が忘れられないらしい。この場に桓騎がいなければ、信はすぐにでもオギコを飛信軍に勧誘していたに違いない。

それを見抜いた那貴が信の耳元に顔を寄せる。

「…オギコは何でも悪気なくお頭に言っちまう。今はやめとけ」

「う…」

信は渋々頷いた。那貴がいなければ、オギコを通して桓騎に正体を気付かれてしまうところだった。

先ほどのオギコと桓騎のやりとりを思い出す。

(なんで飛信軍がここにいるって噂があるんだ?)

一体どこから情報が洩れたのか、信は分からずに眉間に皺を寄せた。

出立してからは、飛信軍の兵で結成された百人隊として行動しており、合流するまで桓騎軍とは一度も接触をしなかった。

情報漏洩をした者がいるとは信じたくなかったが、桓騎の耳にまで入ったということは、それを疑わざるを得ない。

もしかして桓騎がこの野営地にやって来たのは、噂の真相を確かめるためなのではないだろうか。

(いや、でも…)

オギコの問いに、噂だと告げたのは桓騎の方だ。

此度の戦で飛信軍が参加しないことは桓騎は知っているし、真相を確かめに来たような態度とは思えない。

だとしたら一体なぜこの野営地に来たのか。ますます彼の目的が分からず、信は思考を巡らせた。

「――!」

オギコと目が合い、信は咄嗟に視線を逸らしてしまった。

あからさまに視線を逸らされたことにオギコが小首を傾げ、頭に疑問符を浮かべている。
視界の隅でオギコがこちらをじいっと見つめていることに、信は嫌な汗を浮かべた。

(気付かれたか…!?いや、オギコに限ってそんな…)

もしもここでオギコの興味が自分に向けられるようなことがあれば、厄介なことになるのは目に見えていた。

先ほど那貴が話していた通り、悪気なく何でも桓騎に話してしまうというのだから、他の兵と同じで、オギコにも正体を気づかれる訳にはいかない。

心臓が早鐘を打つ。

これだけ念入りに作戦を立てて桓騎軍の素行調査を行おうと思ったのに、まだ何も成し遂げていないことにも後ろめたさがあったし、初日から正体を気づかれるなんて失態を起こせば間違いなく蒙恬と王賁から怒号が飛び交うだろう。

しかも、よりにもよってオギコに気付かれるだなんて、笑い話でしかない。

さっさと帰れと心の中で信が叫んでいると、その想いが通じたのか、桓騎が立ち上がった。

「行くぞ、オギコ」

「はーい」

最後まで桓騎はこの野営地に訪れた目的を告げることはなかった。

二人は乗って来た馬に跨り、颯爽と自分の野営地へと戻っていく。遠ざかっていく彼らの後ろ姿を見て、信はようやく安堵の息を吐いたのだった。

 

桓騎の作戦

「…ねえねえ、お頭」

馬を走らせながら、オギコが桓騎に声を掛ける。

「噂じゃなくて本当に信が居たけど、挨拶しなくても良かったの?」

「ああ」

オギコの言葉に、桓騎は驚く様子はなく、むしろ初めから知っていたように頷いた。

「どうせ明日も会うからな。那貴の野郎にも、聞きたいことがたくさんある」

「二人とも、なんで顔隠してたんだろー?」

「たまには頭使えよ、オギコ。ちっせえ脳みそが無くなっちまうぞ」

オギコがうーんと考える。しかし、答えが分からないようで、彼はいつまでも唸り続けていた。

自分たちの野営地に戻って来た桓騎は馬から降りると、野営地を囲んでいる木々の間へ進んでいく。

「お頭ー?なにしてるの?」

オギコの言葉を無視して、桓騎は足元に視線を向けた。

目を凝らすと、仕掛けておいたはずの桶が転がっていた。桶の下に隠していたはずのギュポーと呼ばれる多足の毒虫もいなくなっている。

―――俺らの野営の近くで女の悲鳴が聞こえたんだ。この辺りに集落なんてなかったはずなのによお。良い女だったらお頭にも献上しようって思ってたんだぜ。

兵の言葉を思い出し、桓騎の口の端がつり上がった。

 

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