エタニティ(王賁×信←王翦)番外編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/王翦×信/甘々/嫉妬深い/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

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初夜

本編で割愛した賁信の初夜話です。

 

襟合わせを開いて現れた信の白い肌に手が触れる寸前、信が王賁へ声を掛けた。

「そ、その、…俺…今まで、こういうこと、したこと、ないから…」

もごもごと口の中で言葉を揉み砕いている信に、王賁は口の端を僅かにつり上げる。

「貴様がむやみに足を開く女でないことなど知っている」

幾度も死地を駆け、その度に生き抜いて来た傷だらけの肌を見下ろし、王賁は目を細めた。

身を屈めて、首筋にちゅうと吸い付くと、くすぐったい感触に信が顔をしかめる。

「…戦以外、何も知らぬだろう」

「わ、悪かったな…!」

それまで羞恥に顔を染めていた顔に不機嫌な色が差し込んだ。信と同じ年頃の女性ならば、早い者ならもう子を産んでいるし、大抵の者は嫁いでいる。

しかし、大将軍の座に就いている彼女は、いつまでも男に嫁ぐことはせず、かといって、色話も聞かれない。

縁談の話が来ているのは知っていたが、それをことごとく断り、信は克己して秦のために戦っているのだ。

だから王賁は、信が男とそういうことをした経験がないことを、何となくだが察していたのだ。

王賁だけじゃなく、恐らく彼女を知っている者なら大半は気付いているだろう。それもあって縁談の話が途切れないのかもしれない。

そんな彼女が、他の誰のものでもなく、自分だけのものになるのだと思うと、王賁は優越感に胸を躍らせた。

信の体を寝台の上に横たえながら、王賁が耳元に唇を寄せる。

「力を抜いていろ」

優しい声色で指示を出すが、信は小さく首を横に振った。強張った身体は小刻みに震えたままである。

「ぅ……だ、って…緊張、して…」

真っ赤な顔でそう打ち明ける彼女に、王賁は愛おしさが込み上げた。口づけた時から既に危機感を覚えていたが、これ以上煽られると余裕も理性も完全に失われてしまう。

信にとっては初夜になるのだから、乱暴にして、この行為が恐ろしいものだと記憶に刻むことだけは何としても避けなくてはならないと思った。

「信」

王賁は着物を掴んでいる彼女の手をそっと掴んだ。

顔は真っ赤になっているが、緊張のせいで、彼女の手は随分と冷えていた。掴んだ手首を優しく導き、王賁は彼女の手を自分の胸に当てさせる。

「あ…」

とくとくと王賁の心臓が早鐘を打っているのが手の平から伝わり、信は些か呆気にとられたような顔になった。

「…分かるか?」

緊張しているのは自分だけじゃないのだと気付き、信が瞠目している。

「…う、ん」

優しく囁くと、信は僅かに身体から力を抜いたようだった。再び唇が重なり合うと、信は口づけを受け入れるように目を伏せる。長い睫毛が微かに震えていた。

唇を交えながら、王賁は信の体を抱き締めた。帯が解かれ、引っ掛けていただけの着物を脱がすと、傷だらけの肌が露わになる。

とても女性が持つ玉の肌とは言い難いものだったが、王賁には美しく見えた。彼女が幾度も死地を駆け抜けて来た証であり、勲章なのだから、醜いはずがない。

女性らしいくびれも胸の膨らみも悩ましく、王賁の下腹部がずんと重くなる。

幼い頃から王家としての付き合いがあり、幼馴染として付き合って来た彼女だったが、鎧の下では、こんなにも女の体に成長していたのかと驚いた。

初陣を済ませてから、あっと言う間に大将軍の座に上り詰めた信の後ろ姿ばかりを見て来たせいだろう。

いつの間にか、信のことを幼馴染の女性である前に、将軍という位置づけをしてしまっていたのだ。

鎧と着物を脱いだ今、紛れもなく信は女性だった。そして紛れもなく彼女を自分だけのものにしたいと思っている自分を、王賁は改めて自覚した。

 

初夜 その二

唇を交えながら、王賁の手が信の肌の上を這う。いつもは着物と鎧で覆われている腰のくびれは、女性特有の曲線を兼ね備えていた。

「ふ…ぁ…」

くすぐったいのか、口づけの合間に信が小さな声を上げる。先ほどよりは少し緊張が解れたような顔をしているが、まだ体は強張っていた。

「んっ…」

隆起している胸を掌で包むと、程良い重さを感じさせた。先端の突起を指の腹でくすぶってやると、信がきゅっと唇を噛んで声を堪える。初めての感覚に戸惑っているのだろう。

「信」

安心させるように名前を呼びながら、耳元に息を吹きかける。柔らかい胸を弄りながら、頬や首筋に口付けていくと、信は少しずつ甘い吐息を洩らすようになっていく。

「ひゃっ」

胸に顔を寄せて先端の突起に舌を這わせると、信が小さな声を上げる。全てが初めての経験で、こんなにも困惑している彼女の姿を見るのは新鮮だった。

「んッ…んう…」

尖らせた舌先でつついたり、舐ったりを繰り返していると、口の中で硬くなっていくのが分かった。

口と手で胸を愛撫を続けていけば、信は鼻息を弾ませ、陶然とした表情を浮かべていた。

「っ…」

その反応に気を良くした王賁が片方の手を下肢へ伸ばす。信が全身を強張らせたのが分かった。

内腿に指を這わせ、猫の毛のような柔らかい下生えを指で掻き分けていくと、淫華に辿り着いた。僅かに蜜を零している。

花びらを指で押し広げると、蜜に塗れた薄紅色の粘膜が露わになる。蜜で濡れ光っている粘膜はまだ男の味を知らない初々しさを残していた。

「あっ…」

ゆっくりと人差し指を差し込むと、信が小さな声を上げる。

破瓜の痛みは男には想像出来ないものだと聞く。苦痛は避けられないとはいえ、なるべく大事に扱ってやりたい。王賁は信と唇を重ねながら、指で中を押し広げるように動かした。

身を屈め、中を指で広げながら、再び胸に吸い付く。

目線に困ったのか、信は両腕で顔を覆っていた。

「顔を隠すな」

「っ…」

咎めるように言うと、信が泣きそうな顔で睨んで来る。言い返す余裕もないのだと分かり、王賁は彼女と唇を重ねた。

「ん、ふ…」

舌を絡め合い、弾む吐息をぶつけ合う。

時間を掛けて指を動かし、中を押し広げていくと、二本目の指も抵抗なく飲み込んだ。

根元まで押し込むと、それ以上の侵入を拒むように柔らかい肉壁にぶつかった。それが子宮だと分かると、王賁は慈しむように指の腹で女性にしかないその臓器を愛撫する。

「ふ、うぅっ…」

信が手の甲で口に蓋をして、溢れ出る悲鳴を堪えている。しかし、表情と声に苦痛の色は混じっていない。

今は指で愛撫しているここを、自分の男根で掻き回したら彼女は一体どんな表情でどんな声を上げるのだろうか。思わず固唾を飲む。

「ぁ、あ…」

内側から蜜がどんどん溢れて来る。

「俺、ばっかり、やだ…」

そろそろ指をもう一本増やそうと思った頃に、信が子どものように駄々を捏ねて王賁の腕を掴んだ。

 

初夜 その三

指を引き抜くと、信が切なげに眉根を寄せる。

「ん…」

それまで自分の淫華を弄っていた王賁の手を両手でそっと包むと、彼女は躊躇うことなく唇を寄せて来た。

興奮のあまり、勃起し切った男根を着物越しにそっと撫でられて、王賁が思わず喉を引き攣らせる。

先ほどまで王賁が彼女の反応を楽しんでいたように、信も小さく笑った。

寝台に手をついて身を起こした信が身を屈めたかと思うと、着物を捲られる。
臍につくくらい反り立った男根を目の当たりにした彼女が赤い舌を覗かせ、妖艶な笑みを浮かべた。

「下手くそでも笑うなよ…」

経験はないはずなのに、色気に満ちたその表情を見て、王賁は思わず生唾を飲み込んだ。

「っ…」

舌が亀頭に触れると、温かい感触がねっとりと沁みた。熱い吐息を洩らした王賁に、信が嬉しそうに目を細める。

慣れていないせいで舌の動きが単調だった。決して上手い口淫ではなかったが、気持ち良くなってもらいたいという健気な態度に、王賁の胸は満たされていく。

「ぅ、んん、っ…」

先走りの粘液が出て来た頃に、信は唇を割り広げて亀頭を咥える。温かくてぬめった感触に敏感な箇所が包まれて、背筋に甘い痺れが走った。

「ふ…ぅ、…」

口の中で舌を動かしながら、信が上目遣いで王賁を見上げる。

上気した頬は桃色に染まっており、潤んだ瞳に見つめられると、それだけで絶頂を迎えてしまいそうになる。腹に力を込め、王賁は迫り来る射精感に耐えていた。

信の頭を撫でて、もういいと男根を口から吐き出させる。名残惜しそうな瞳を向けられたが、王賁にはもう余裕がなかった。

再び信の体を寝台に横たえてやると、彼女の足を大きく広げさせる。先ほど指で慣らしてやったが、本来ならばもう少し時間を掛けて丁寧に扱ってやりたかった。余裕のない男だと思われるだろうか。

「は、やく…挿れろよ」

信も王賁と早く見を繋げたいという想いがあるようで、少し戸惑った表情を浮かべてはいるものの、抵抗はしない。

信の唾液と先走りの液で濡れそぼった男根の切っ先を、淫華に宛がう。

「ぅ…」

緊張に信が身を固めたのが分かる。王賁は信の額や頬に唇を落としながら、なるべく力を抜かせようとした。

「っ、んん…!」

狭い其処を男根が押し広げていくと、信の眉間に苦悶の皺が寄る。

「ぁあああッ」

信の体を抱き締めながら、男根を押し込むと甲高い悲鳴が上がった。堰を切ったかのように彼女の瞳から涙が溢れ出す。しかし、拒絶の声は上げない。

「信ッ…」

口の中よりも温かくて柔らかい粘膜に男根が痛いくらいに吸い付かれ、王賁はあまりの快楽に奥歯を強く食い縛る。

痛みに打ち震える体を抱き締め直すと、互いの肌がしっとり汗ばんでいるのが分かった。

半分ほど男根が彼女の中に埋まると、快楽に飲み込まれそうになったが、王賁は彼女の痛がる姿を見て、必死に理性をつなぎ止めていた。

「…抜くか?」

「ぃや、だ…」

素直に頷いてくれたのなら、王賁も理性に従えただろう。しかし、信は首を横に振って、王賁の首に両腕を回して抱きついて来る。虚勢を張っているのはすぐに分かった。

大丈夫だから続けてくれという信の意志表示だと分かり、王賁は彼女の体を強く抱き締めながら、男根を根元まで進めたのだった。

隙間なく下腹部が密着した頃には、信の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。

「愛している」

破瓜の痛みに打ち震える彼女の耳元でそう囁くと、信は王賁の体に回した腕に力を込めた。

「お、れも…」

泣きながら、痛みに堪えながら、ぎこちない笑みを浮かべた信に、王賁は思わず唇を重ねていた。

敷布の上で指と指を交差させ、唇を交えていると、信の表情が僅かに和らいだ。

それまで苦悶の表情を浮かべていた信だったが、ぐすぐすと鼻を啜って王賁のことを見つめている。

「…動くぞ」

信が小さく頷いたのを確認してから、王賁はゆっくりと腰を引いた。男根に吸い付いていた温かな肉壁が擦られ、信も王賁も切なげに眉を寄せている。

半分ほど引き抜くと、蜜と処女膜が破れた血で塗れた自分の男根が、まるで凶器のように淫華の割れ目に突き刺さっているのが見えた。この女の処女を奪ったのが自分だという実感で、胸がいっぱいになる。

「あううッ」

再び根元まで男根を押し込むと、信が苦しげな声を上げた。

まだ破瓜の痛みの余韻があるだろうに、心の中で謝罪をしながら、王賁は律動を始めていく。とっくに余裕など消え去っていた。
潤んでいる中が擦れて、信の艶やかな悲鳴と共に、肉が擦れる音と卑猥な水音が響いた。

「賁…王賁ッ…!」

信は痛がる様子はあっても、決して拒絶の声は上げない。代わりに、名前を呼びながら重ね合わせた手を強く握り締められる。

「くッ…信…」

この女は自分だけのものだという独占欲と共に、体の底から込み上げて来る情欲が膨らんでいく。

夢中になって腰を揺すり、唇を重ね合い、名前を呼び合い、愛を囁き合った。

「ッ…!」

最奥に男根の先端を押し当てて、射精する。どくどくと脈を打ちながら子種が迸る熱い感覚を確かに感じていた。

最後の一滴を吐精し終えても、二人は抱き締め合ったまま動かなかった。

―――やがて、互いの息が整った頃に、真っ赤に泣き腫らした瞳を擦りながら、信が小さく笑った。

「…戦で受ける傷とは、比べものにならねえな」

王賁が思わず苦笑する。まさか褥で戦の話になるとは思わなかった。

戦で幾度も致命傷受けたことがある信だが、その彼女が涙を見せるくらいなのだから、破瓜の痛みは相当辛かったに違いない。

「…無理をさせたな」

汗で額に張り付いた前髪を指で梳いてやりながら、王賁が呟いた。信が首を横に振る。大丈夫の言葉の代わりに、信が王賁の鼻頭に唇をちゅ、と寄せた。

「………」

そんな可愛らしい返事をされるとは思わず、王賁が思考が一瞬だけ停止する。しかし、未だ彼女の中に埋まっている男根は随分と素直だった。

「なっ、ぁえ、えッ?お、お前ッ…!?」

吐精の後に元の大きさになっていたはずの男根が再び硬くなったのを感じる。敏感になっていた肉壁が甘い刺激を感じ取り、信は戸惑ったように王賁を見上げた。

「…貴様が誘ったんだろうが。もう一度付き合ってもらうぞ」

「はッ!?な、なんでそうなるッ…!?」

信の抗議は王賁の唇によって遮られ、次に彼女の唇から洩れたのは、艶やかな声だった。

 

 

王翦からの申し出

本編で割愛した論功行賞時の王翦×信です。

 

王賁の将軍昇格が決まったのは、戦の勝利が確定する前のことだった。

伝令から戦況を聞いていたが、多くの武功を挙げた王賁の活躍が戦況を傾けたと言っても過言ではない。

此度の戦には出陣していなかった信は、人伝いにその話を聞き、自分のことのように王賁の将軍昇格を喜んだ。

論功行賞の後に行われる宴で盛大に祝ってやろうと思っていたのだが、彼女の住まう屋敷にある男が訪れたことで、その計画は中断せざるを得なかった。

「…王翦が?」

来客の報せを持って来た兵に、信は怪訝な表情を浮かべる。

せっかく宴に行く準備として、普段着慣れない華やかな着物を纏ったところだったのだが、追い返す訳にもいかなかった。

王賁の父である王翦は、信と同じ六大将軍の一人だ。

信は養子ではあるが、王家の人間だ。王賁と幼馴染であり、彼の屋敷にも出入りしていたことがあったため、王翦ともそれなりに付き合いが長い。

そんな彼が自ら訪ねて来たことなど、過去に一度もなかったため、一体何の用だろうと考える。

息子の将軍昇格についてではないことだけは分かる。彼は王賁の父親でありながら、一切の私情を挟まない冷酷な男だった。

その冷酷さを持っているからこそ、戦でも感情に左右されることなく、冷静な判断が出来るのかもしれない。

少しも用件が予想出来ないまま、信は王翦を出迎えた。

今日は武具を解いており、身軽い恰好をしていたが、黒い仮面だけは外していなかった。王翦の素顔を見たことは一度もない。

「…用件って何だよ」

来客用の部屋に通すと、信は椅子に腰掛けながら彼に用件を尋ねた。

「縁談の申し出だ」

「ふーん……誰のだよ」

侍女が淹れてくれた茶を啜りながら返すと、王翦は仮面の下で微塵も表情を変えずに信を見つめる。

「私から王騎の娘お前へだ」

鼓膜を揺すったその声が、脳に届いて理解するまで、しばらく時間がかかった。

口に含んだ茶を静かに嚥下してから、信は聞き間違いかと思って王翦を見る。

「…はっ?今なんつった?」

「私から王騎の娘お前へだ」

瞬きを繰り返しながら聞き返すと、王翦は微塵も表情を変えずに同じ言葉を繰り返す。

信の思考が停止し、彼女はぽかんと口を開けていた。

「……縁談の申し出?…お前が?俺に?」

「そうだ」

躊躇いもなく頷いた王翦を見て、信は謎の頭痛に襲われる。

こめかみに手を当てながら、どうしてこんな話になっているのだろうと信は唸り声を上げた。

もしかしたら自分が知らないだけで、最近になって縁談という言葉の意味がすり替わったのかもしれない。

きっとそうに違いないと思い、信は王翦を見た。

「あー、っと…俺の知る限り…縁談ってのは、結婚の申し出ってことになってるが…いつから意味が変わった?」

「何も変わっておらん」

両腕を組んだ状態で信は閉眼した。全く思考が追い付かない。

「結婚?俺とお前が?」

「そうだ」

何故だ。率直に信はそう思った。

 

王翦からの申し出 その二

王翦には妻がいた。王賁の母親に当たる女性である。出産の時に亡くなったのだと信は王賁から聞いていた。

その後、王翦が別の女性を娶らずにいた理由までは知らなかったが、大将軍である彼の立場ならば、喜んで妻になるという女性など多くいるだろう。

自分に白羽の矢が立ったことを理解出来ず、信は閉眼したまま動けずにいた。

「…………」

「…………」

やがて、息をするのも苦しいほどの重い沈黙に耐え切れず、信は勢いよく立ち上がった。

「いや!おかしいだろッ!」

「何がだ」

王翦が何を考えているのか少しも分からないように、王翦も信の言葉を理解出来ないでいるようだった。

「な、なんで俺がお前と結婚しなくちゃならねえんだよッ!?」

「強要はしていない」

とことん冷静な王翦に、信は自分の調子が狂わされていくのを感じた。謎の頭痛は悪化する一方で、こめかみを押さえる。

仮面越しにじっと目を見据えられると、信は思わず背けてしまった。どうもこの男は昔から苦手である。

何を考えているのか分からないというのもあるが、その鋭い眼差しに全てを見透かされているような気がして、見つめられると居心地が悪くて堪らない。

「…理由は?」

信は目を背けたまま、王翦に尋ねた。

「私がそなたを欲しいと思ったからだ」

とても心地よく響く低い声だった。王翦に想いを寄せる女性であったのなら、喜んで縁談の申し入れを受け入れていたに違いない。

しかし、信は違う。

「お断りだ。なんで俺が王賁の義母にならなきゃいけねーんだよ」

声に怒気を含ませながら拒絶すると、王翦が小さく首を傾げた。

「私の妻になれと言っている。母になれとは言っておらぬ」

「同じだろ」

王翦と結婚するということは、彼の息子である王賁の母になることと同じである。

幼馴染である王賁に母と呼ばれる日が来るだなんて思いもしなかったし、絶対に嫌だった。

もしも、王翦と王賁が親子関係でなかったとしても、この縁談の申し入れを信が受け入れることはない。

「とにかく、お断りだ。別に俺じゃなくても女なんて山ほどいるだろ」

このままでは宴に遅れてしまう。王賁に将軍昇格のお祝いをしたいのに、これ以上時間を取られる訳にはいかなかった。

部屋を出ようとすると、王翦に腕を掴まれて、信はなんだよと振り返る。

「倅に飽きたのなら、いつでも私の下に来るがいい」

「はあっ?」

訳が分からないと睨み返すと、仮面の下で王翦の瞳が楽しそうに細まった。

こいつも笑うことがあるのかと驚いていると、掴まれた腕ごと体を抱き寄せられたので、ぎょっと目を見張る。

「―――」

唇が触れ合う寸前まで顔が近づいたので、信は思わず息を詰まらせる。

…結局、唇が重なることはなく、王翦は満足したように信のことを解放した。

「ではな」

立ち上がった王翦は颯爽と部屋を出ていく。

顔を寄せられたのは突然のことだったとはいえ、心臓が激しく脈打っている。信は顔を真っ赤にして、王翦の背中を睨み付けていた。

(…今日は王賁に合わせる顔がねえな…)

その場にずるずると座り込み、信は重い溜息を吐き出す。

本当なら将軍昇格を祝ってやりたかったのだが、彼の父に当たる男から縁談を申し込まれたなんて、一体どんな顔で話せば良いのだろう。

「はあ…」

祝いの席で言うべき内容じゃないと分かっていても、隠しごとは出来ない性格であることは自分自身が一番よく分かっていた。

 

 

後日編

本編の後日編です。

 

褥の中で、着物の上からでも膨らみが分かる腹を撫でる夫に、信はつい笑みを零した。

「辛くはないか?」

頷いて、信は王賁の背中に腕を回す。

今は王賁の屋敷で過ごしている信だが、臨月に入る前には咸陽宮に身柄を移すことになっている。

妊娠が発覚した時に、親友である嬴政が医師団の手配を約束してくれたのだ。

出産するまで油断は出来ないとはいえ、ここのところは体調も変わりなく過ごせていた。

身の回りの世話をしてくれる者たちも優しいし、いつも気を遣ってくれる。

唯一不満があるとすれば、身重の体では馬に乗れないことと、鍛錬も許されないことである。

ここのところ剣を振るっていないせいか、信は筋力が落ちて来た自覚があった。出産を終えてから、再び大将軍の座に就けるだろうかと不安になってしまう。

「どうした?」

憂いの表情を浮かべている妻に、王賁が小首を傾げる。

「んん…」

信は自分の腹を撫でながら、言葉を濁らせた。

「このままじゃ、剣の使い方も馬の乗り方も忘れちまいそうだなって思って…」

「…大王様の許可を得た上で、寝台に縛り付けるぞ」

少しも冗談に聞こえない言葉に、信の顔が強張った。

信の華奢な肩を包み込むように抱き寄せると、王賁が切なげに眉根を寄せる。

「そんなに、俺や他の将たちは頼りないか?」

「え?」

王賁の質問の意味が分からず、信は目を丸めた。

「飛信軍を率いていたお前の強さは、確かに誰もが認めている。無論、俺もだ」

「………」

「だが、お前の目には他の将たちが頼りなく映っているのか?お前が居ない秦軍では、国を守れないと…そう思っているのか?」

信は今までも自分の力を過信しているつもりはなかった。それに、他の将たちの力は何度も同じ戦場に立っていた信もよく知っている。

どうやら王賁には、信が自分たちの力を信頼しておらず、一刻も早く戦場に戻らなくてはと焦っているように見えたらしい。

「ううん」

信は泣き笑いのような顔で首を横に振った。

「…みんなのこと、信頼してるに決まってるだろ」

どうやら信の返答を分かっていたかのように、王賁がふっと唇を緩める。

「ならば、何も気にすることはない。今のお前の役割は、無事に子を産むことだ」

優しく頭を撫でられて、信は照れ笑いを浮かべながら頷いた。

日頃から鍛錬を欠かさないマメだらけである王賁の手を掴み、信は自分の手と絡ませる。

信と夫婦となってから、些細に身を寄せ合うことが当たり前となっていた。

幼馴染という関係で結ばれていた時にはこんな日が来るなんてお互いに想像もしていなかったが、今ではお互いの存在がない日常なんて考えられないほど、二人は想いを寄せ合っている。

「…へへっ」

自分の手を握りながら、はにかむ信を見て、王賁の胸が早鐘を打つ。もう何度も愛しいと感じているはずなのに、愛という感情には底がない。

褥の中で身を寄せ合っていたのだが、信は自分の太腿に何か硬いものが押し当てられたことに気が付いた。

「ん?」

何だろうと顔を下に向けて、その正体が分かると、信の顔に火が灯ったかのように赤くなる。王賁があからさまに目を泳がせた。

「あっ、えっ!?えっと…?」

どうしたらいいのか分からないという顔で、信が着物を押し上げている男根と王賁の顔を交互に視線を送る。

王賁に破瓜を捧げるまで信は一度も男との経験がなかった。想いが通じ合ってから婚姻を結ぶまではそう長くかからなかったが、信の妊娠が分かってからは、腹の子に負担を掛けたくないという王賁の気遣いもあり、二人は体を重ねていない。

未だ情事に経験が乏しい信はこんな時、どうしたら良いのか知識がなく、狼狽えることしか出来ない。

放っておけと言わんばかりに王賁が目を伏せたので、信はますます困惑する。

初めて身を繋げた時の王賁の表情を覚えており、勃起した状態で何も出来ないのは苦痛でしかないことを、経験が少ないながらに信は知っていた。

さすがに身籠った身体では以前のように激しく情事は不可能だが、王賁が苦しんでいるのだから、何とか出来ないだろうかと模索する。

 

情交

目を閉じている王賁の足の間に腕を伸ばし、信は彼の着物越しに男根を手で擦った。

「ッ…」

びくりと体を震わせた王賁が驚いたように、目を見開く。何をしているのだという視線を向けられたのは分かったが、信は俯きながら、着物越しに男根を手で擦り続けた。

悶えるような、小さな呻き声が聞こえて、信は弾かれたように男根から手を放す。

「わ、悪い…」

顔を見ていなかったせいで、嫌悪の声だと思ったのだ。しかし、王賁は咎めるようなことはしない。何も話さず、ずっと目を伏せている王賁を見て、もしかして続けて欲しいのだろうかと考える。

言葉に出すのは恥ずかしかったので、王賁の顔を眺めながら、信は再び男根に手を伸ばした。

「っ…」

掌で優しく包み込むようにすると、王賁の瞼が僅かに震える。

僅かに吐息が聞こえて顔を上げると、切なげに眉根を寄せていた。しかし、止める気配がないことから、嫌がっていないことを確認すると、信は着物の中に手を忍ばせて、屹立の根元に指を絡ませた。

五本の指で輪っかを作り、掌でゆるゆると扱いていくと、男根の漲りが増していく。浮き上がった血管が熱い脈動を打っていた。

(これで合ってんのかな…)

情事に豊富な経験がないので、このやり方でも男が満足するのかは分からなかったが、信は上目遣いで王賁の表情を確かめながら、手の動きを速めていった。

何が正解なのかは分からないが、王賁の呼吸が早まっていき、気持ち良さそうにしているのを見ればこのままで良さそうだ。

手の刺激を続けていると、鈴口から粘り気のある透明な液体が滲んで来たので、信が目を見張る。

親指の腹で鈴口を擦って、先走りの液を掬い取る。王賁がぐっと奥歯を食い縛ったのが分かり、信は続けざまに指の腹で鈴口を刺激した。

戦場で見せることのない顔を自分にだけ見せてくれているのだと思うと、信の胸に優越感が宿る。

「王賁…」

名前を呼ぶと、眉根を寄せていた王賁の表情がさらに強張ったのが分かった。

手の中にある男根が今すぐにでも弾けてしまいそうなほど脈動を打っている。しかし、手だけの刺激では足りないのではないだろうかと思った信は腹を気遣いながらゆっくりと身を起こし、王賁の体に跨った。

「信ッ…?」

何をしているのだと王賁が問うよりも先に、信は頭を屈めて、男根をその口に咥え込んだ。

「―――ッ…!」

咥え切れない根元は指先を絡ませ、しっとりと唾液を纏った水気の多い舌で亀頭を這い回ると、王賁が息を詰まらせた。

初めて体を重ねた時に、先端を責められるのが弱いことは分かっていたので、信は得意気に口淫を続ける。

「ん、む…」

唾液ごと、亀頭をちゅうと吸い立てれば王賁が喉を引き攣らせ、内腿を震わせた。もう限界が近いのは王賁も信も分かっていた。

「信、もうよせ…」

このままでは口の中で果ててしまうと王賁が信の肩を掴む。しかし、信は聞こえないフリをして口の中での射精を促した。

頭を動かして、男根を深く口の中に咥え込む。

「ん、ッ…」

生々しい水音を立てながら、唇を滑らせていくと、下腹部を震わせながら王賁が呻き声を上げた。

「ふ…ぅ…」

やがて口の中で熱い何かが溢れ出る。唇と口内で男根が打ち震えるのを、信は目を伏せながら感じていた。

舌の上に粘り気のある苦くて熱いそれが広がっていき、信は瞼を持ち上げた。

「……んぅ、ぅ…」

男根を咥えたまま、どうしたら良いのか分からず、信は戸惑ったように王賁を見上げる。

絶頂の余韻に肩で息をしながら、王賁がばつの悪そうな顔を浮かべた。

「吐き出せ」

男根を信の口から引き抜くと、未だ彼女の口の中に残っている精液を吐かせようとする。しかし、信は首を横に振った。

「信っ」

涙目のまま喉を動かした信が、まるでいたずらを咎められた少女のような顔をして、ぎこちなく笑う。

「吐き出せと言っただろう」

彼女の唇に残っている残渣を指で拭いながら、王賁が叱りつけるように言った。しかし、言葉とは裏腹に、信へ向けている眼差しは優しい。

「よく分からねえけど…男って、我慢したら辛いんだろ?」

顔ごと目を背けた王賁に、信は苦笑を隠せなかった。

「…王賁」

両腕を伸ばして、信は王賁に抱き着いた。いきなり抱き着いて来た彼女に驚いたように、王賁が目を見張る。腹を圧迫しないように気遣いながら、彼も背中に腕を回してくれた。

表情に出さずとも、こういう分かりやすい態度はどことなく自分と似ているなと、信ははにかんだ。

 

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エタニティ(王賁×信←王翦)後編

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一ヶ月後

それから、あっという間に一月が経過した。

あの宴の日から、王賁は一度も信と会っていない。

今までは喧嘩をしても、信が一晩眠れば嫌なことをけろっと忘れてしまう性格だったこともあり、特に仲直りという儀式を設けなくても普段通りに接することが出来ていた。

しかし、今回に至ってはそういう訳にもいかないのだろう。

王翦と婚姻が無事に終わった暁には一体どんな顔をすれば良いのか、王賁はまるで分らなかった。

毎晩、休もうと横になっても、信とまぐわった光景が瞼の裏に浮かび上がる。

この寝台で彼女の体を隅々まで愛したあの夜の記憶が、王賁の中に強く根付いていた。

いつの間にか信の温もりを探していて、一睡も出来ずに朝を迎える日々が続いており、王賁は誰が見ても疲労困憊状態だった。

瞼の上に睡魔は重く圧し掛かって来るのだが、いざ瞼を下ろすと信のことを思い出して、睡魔が消え去ってしまうのだ。

ふらふらの状態でも槍の鍛錬を欠かさない主を、家臣や兵たちは大いに心配していた。

見かねた番陽が「一日で良いからお休みください」と槍を置くよう王賁を説得するのだが、今の王賁にとっては体を動かしていた方が楽だったのだ。

信のことを考えずに済む時間を設けないと、苦しくて身動きが出来なくなってしまいそうになる。

 

戦友

そんな日々が続いていたある日、蒙恬が王賁の屋敷を訪れた。

恐らく関常辺りが手配したのだろう。それでいて、休ませるように説得してくれと頼まれたに違いない。

屋敷の広い庭で、王賁は相変わらず槍を振るっていた。相変わらずだなと蒙恬が肩を竦める。

「せっかく祝い酒持って来たのに、俺一人で全部飲んじゃおうかな」

祝い酒という言葉に、王賁は槍の穂先を蒙恬に突きつけてやろうかと考えた。

ただでさえ眉間に皺が寄っていたのに、ますます皺が深まる。

「まったく…こんなにおめでたい話だっていうのに、賁くんはなんで怒ってるのかなー?」

手酌で酒を杯に注ぎ、蒙恬が苦笑を浮かべる。

「…あのバカ女の勝手が過ぎるからだろうが」

酒を口に含もうとしていた蒙恬がぴたりと動きを止めた。

「は?信が何かしたの?」

蒙恬の問いに何も答えず、王賁は奥歯を噛み締める。

何度か瞬きを繰り返してから、蒙恬が口を開く。

「…賁って、実は結構な女泣かせ?今までもそうだったの?」

王賁は槍の構えを解いた。

「何がめでたい話だ。よりにもよって、あの女…父との縁談を受け入れるなど…」

「………」

蒙恬はなぜ王賁が怒っているのか合点がいったようで、「ははあ」と頷いた。

「王翦将軍と信が、ねえ…」

「父も父だ。なぜあの女を嫁にしようと思ったのか…」

「愛に年齢は関係ないんだよ、王賁」

蒙恬が言うと、妙な説得力があるから不思議だ。

しかし、王翦と信が愛し合っている図など微塵も想像が出来ない。

今自分がこうしている間にも、信は父の寵愛を受けているのかもしれない。

息子である自分の将軍昇格の時にも一声も掛けなかったあの男が、信には愛の言葉を囁いているのだろうか。想像するだけで反吐が出そうだった。

「で、信とはいつから会ってないの?」

「…先月の祝宴からだ」

酒で喉を潤した蒙恬があははと笑った。

「じゃあ、全然会ってないんだ?大変な時期なのに、信ってば、可哀相だなあ」

「………」

女好きの蒙恬はあくまで信の味方をするらしい。

これ以上、蒙恬の話を聞いても無駄だと思い、王賁は休めていた手で再び槍を握った。

「それじゃあ、つまり、王賁は信に興味失くしたってことで良いんだよね?」

腰を低く降ろして槍を身構えた時、蒙恬の言葉に王賁のこめかみにふつりと青筋が浮かび上がる。

その問いに王賁が返事をするよりも先に、蒙恬は満面の笑みを浮かべた。

「てことは、俺が信を嫁にもらっても問題ないってことだよね?」

「貴様…」

まさかの言葉に、王賁が憤怒する。

彼の憤怒を煽るかのように、蒙恬はけらけらと笑って言葉を続けた。

「だって信から破談を言い渡された・・・・・・・・・んでしょ?それでいて、落ち込んでる信を慰める大役までもらっちゃって、夫になるなんて…こんな美味しい話ないでしょ。今の信なら、きっと一晩かければ口説き落とせるよ」

相変わらず口の減らない奴だ。しかし、破談という単語を聞いた王賁が、些か呆気にとられた表情になる。

「…待て、何を言っている?なぜ俺が、あの女から破談を言い渡された立場になっている?」

当然の疑問を口にすると、蒙恬が杯に酒を注ぎ足しながら口を開いた。

「なぜって…あちこちで噂になってるよ?王翦将軍が、自分の息子と信を結婚させるって」

「――ッ!?」

これにはさすがの王賁も狼狽し、蒙恬の言葉を頭で理解するまでに、僅かに時間が掛かった。

(俺と信を結婚、させる…?)

おかしい。王翦が信に縁談を申し込んで、彼女がそれを受け入れたのではなかったのか。

王賁は全身の毛穴から一気に嫌な汗が噴き出るのを感じていた。

まるで敵の罠に嵌められて絶体絶命の危機に陥ったような、死地にいるような感覚だった。

―――王翦があちこちで話をしている。…信と家族になれるだなんて、良かったじゃないか。

あの時の宴で、飛信軍の副官である羌瘣が確かそう言っていた。

彼女の言葉を今改めて考えると、王翦と信が結婚するとは一言も言っていない。

信と家族になるというのは、王翦と彼女が結婚することで、自分が信を母と呼ばなくてはならないことを指しているのだと誤解していたのだ。

文字通り言葉を失い、顔面蒼白になっている王賁に、酒の酔いが回って来た蒙恬が大声で笑う。

「あははははっ!賁のそんな顔、初めて見た!…でも、いいよね?信から破談を言い渡されたんだから、この話はなかったことに…」

「なっていない!!」

感情が爆発し、王賁は握っていた鍛錬用の槍を真っ二つに折った。

本気で彼が怒っていることを察して、蒙恬の表情が強張る。

「くそっ、父上もあの女も…!一体なぜ、俺抜きで話を進めるッ…!」

王賁の言い分はいくつかあった。

王翦がどうして自分と信の結婚を広めていたのか。いつの間に自分と信の関係に気付いていたのか。信の耳にも結婚の話は入っているだろう。

同意の上で体を重ねたとはいえ、結婚の話など微塵も出していなかったのに、信は納得しているのだろうか。

そこまで考えて、王賁はあの宴で信が話していたことを思い出した。

―――…喜んでくれると、思ったのに…

信は、王賁との結婚を受け入れてくれていたのだ。

だというのに、自分は父と信が結婚すると勝手に勘違いして、彼女に酷い言葉を投げつけてしまった。

王賁は眩暈がして、膝から力が抜け落ちそうになった。

愕然としている王賁を見て、それまで笑っていた蒙恬の顔から表情が消える。

「…え?まさか本当に知らなかったの?」

返事をするのも億劫で、王賁は沈黙を貫いた。

「それじゃあ、なんで信が具合悪いかも知らないってこと?」

「は?」

具合が悪いとはどういうことだ。

あの宴の席では王賁に怒鳴っていたが、まさか体調が優れないのは、自分が酷い言葉を投げつけてしまったからだろうか。

罪悪感で胸が針に突かれたように痛む。

蒙恬がぐいと酒を飲むと、呆れたように肩を竦めた。

「妻のことも大切に出来ないような頑固男が、父親・・になるなんてねえ…」

皮肉っぽく話す蒙恬の言葉に、王賁ははっとする。

彼が夫ではなく、父親と言った理由に、まさかと息を飲んだ。

宴の席で、信は普段とは別人のようにめかし込んで来る。

王騎と摎からそう言った場の嗜みについては口酸っぱく言われていたのだと過去に言っていた。

そういえば、あの宴で信は普段以上に布をふんだん使った着物を着ていた気がする。まるで体の線を覆うような着物だった。

普段はきっちり巻かれている腰帯も緩めのものが使われていた。

加えて、手巾で口元を抑えていた彼女の姿を思い出し、王賁はいよいよ膝から崩れ落ちた。

「ちょっと、賁くん?大丈夫?」

心配そうに声を掛けるものの、蒙恬は手を貸そうとはしない。さらに追い打ちをかけるように、蒙恬は王賁に口を開いた。

「だから言ったじゃん、おめでたい話だって」

―――信は、王賁の子を身籠ったのだ。

気づけば王賁は駆け出して馬に跨っていた。

ほとんど無意識で、一刻も早く信に会わなくてはという想いだけで王賁は動いていた。

蒙恬が酒を飲みながら「飛信軍と王騎軍に打ち首にされないように気をつけてね」と呑気に手を振って、遠ざかっていく王賁の背を見送る。

一体どこで二人がすれ違っていたのかは分からないが、二人とも大切な友人なのだから末永く幸せになってほしい。

蒙恬は杯に酒を注ぐと、空を見上げた。

「…きっと亡き将軍たちもお祝いしてくれてるよ、二人とも」

雲一つない、透き通るような青色を帯びた空がどこまでも広がっていた。

 

回想その一・仲間

気持ち悪い。

普段なら食事の香りを嗅ぐと空腹が刺激されて、早く食べたいという気持ちが現れるのに、ここ最近は全くそんな気になれなかった。

食べ物の匂いを嗅ぐと、気持ち悪さが吐き気となって込み上げるのだ。

屋敷で食事の支度が始まる頃になると、信は匂いから逃げるように屋敷を抜け出すようになっていた。

そんなことを朝昼晩と続け、食事もまともに喉を通らない。

どれだけ空腹でも、吐き気が勝ってしまうのだ。むしろ空腹さえも気持ち悪さを煽る原因になっていた。

鍛錬を続けようとしても、食事が摂れないせいか、武器を振るう気力もない。

こんなことは生まれて初めてだった。もしかしたら得体の知れない病に侵されているのだろうか。

まともに食事を摂れていないはずなのに、下腹部が膨らんでいる矛盾に、信は悪い病気なのではないだろうかと不安に思った。

兵たちの士気を落とさないように、何ともないふりをしていたが、さすがに連日食事が摂れないことで、信の体調の悪さに気付き始める者たちも出て来た。

一番初めに気づいたのは、信の妹同然である河了貂だった。

信が河了貂に症状を相談すると、彼女はぎょっとした表情になり、すぐに従者たちを通して医師を手配してくれた。

やはり悪い病気なのだろうかと信が肩を落としていると、河了貂が小声で信に尋ねて来る。

「あのさ、信…この前、王賁の屋敷に行ってたよな?確か、王翦将軍が尋ねて来た次の日…」

「ん?ああ、将軍昇格の祝いにな。それが?」

河了貂が言いにくそうに口をもごもごと動かしていたので、信は小首を傾げた。

「その…王賁と、恋仲になった…とか?」

恥ずかしそうに小声で尋ねる河了貂に、今度は信がぎょっとした表情を浮かべた。

「なっ、なな、なんで分かった…!?」

あの夜に王賁と幼馴染であり、戦友である関係の一線を越えてしまったことは誰にも話していない。

だというのに、河了貂は信の身に起こっている症状だけでそれを見抜いたというのか。

信が驚いていると、河了貂は顔を赤らめながら、しかし、ほっと安堵した表情を浮かべる。

「まずは医者に診てもらおう!」

「?ああ…」

河了貂がころころと表情を変えていた理由は、医師の診察で分かった。

ここ最近、信の身に現れた症状を聞いた医師が下腹部に触れ、子を身籠っていると告げたのだ。

間違いなく、王賁の子だ。

それまでは悪阻に苦しんでいた信だったが、王賁の子を身籠っているのだと知ると、その苦しみなど微塵も辛くないと思えるようになっていた。

ついこの間、幼馴染と戦友の関係を越えたばかりだったのにと信は動揺したが、それを上回ったのは喜びだった。

これから子が大きくなるにつれて、腹も膨らんでいくだろう。

早い内に王賁に言わなくてはと思うのだが、信にはある不安があった。

このことはまだ誰にも言わないで欲しいと、医師や河了貂たちに口止めをし、信はすぐに書簡を出した。

それは子の父親である王賁ではなく、彼の父親である王翦へ宛てた書簡だった。

 

回想その二・義父

王騎の屋敷に出向いた王翦は、普段通り仮面で顔を隠していた。

正直、来てくれるか分からなかったので、信は彼が屋敷を訪ねてくれたことに安堵する。

信は王翦と二人きりで話したいことがあるのだと、人払いを頼んだ。

「突然呼び出して悪かったな」

王翦と会うのは、彼の縁談の申し入れを断った以来だ。

彼には何人か妻がいる。王賁の母親に当たる女性も、そのうちの一人だ。

どうして自分を妻にしたいなどと言い出したのだろうか。信には全く心当たりがなかったし、王翦の考えていることが分からなかった。

「…縁談の返事を取り消すか。王騎の娘よ」

「あ、悪い。そうじゃないんだ」

顔の前で手を振った信は、すぐに本題に入ろうと真剣な表情になる。

彼女の表情の変化を察し、王翦は何の話だと表情を崩さぬまま身構えた。

「…俺は王騎将軍と摎将軍の養子だからよ、王家のことをよく分かってねえんだ。その…まだ本人から承諾された訳じゃねえんだけど…」

すうっと信が息を深く吸って、王翦の瞳を真っ直ぐ見据える。

「俺が、王賁の妻になるのって…問題ねえのか?」

信が自分の腹に手を当てながらそう問い掛けたことに、王翦が何度か瞬きを繰り返す。

「………そなた、倅の子を身籠ったのか」

子の話など一言も話していないというのに、王翦は鋭い。信は顔を赤らめながら、こほんと咳払いをする。

「ま、まあ、そういうことだ。王賁には、まだ伝えてねえけど…」

不安そうに信の眉が下がる。

「…もし、王家同士の婚姻に問題が生じるっていうんなら、俺はこのまま独りで王賁の子を産む。とはいえ、王賁の血を継いでるんだから、あんたの孫になるし、王家の子孫だ。然るべき場所で育ててもらうのが一番だろ」

信の不安とは、自分と王賁の立場ゆえのものだった。

王騎と摎の養子である信は、正式な後継者には当たらないのではないかいう不安を抱いていた。

しかし、自分の腹にいるのが、王賁の血を継いだ子であることは間違いない。

養子である立場ゆえに、信は名家である王家から、王賁との結婚を反対されるのではないかと考えていたのだ。

しかし、子どもに罪はない。

王家から反対されるのであれば、自分が産んだことは内密にして、王賁のいる王家で育ててもらうのが適切だろうと思っていた。

きっと王賁に子を身籠ったことを告げれば、障害があったとしても、彼は構わず信を妻にすると言うだろう。

王賁の生真面目な性格が昔から変わりないことから、信はそう読んでいた。

だからこそ、信は王賁に身籠った事実を告げる前に、王翦に相談することにしたのだ。

「………」

二人の間に重い沈黙が流れる。信は黙って王翦の返事を待っていた。

やがて王翦がゆっくりと口を開く。

「…何も問題はない。王賁と結婚せよ、王騎の娘」

「えっ」

正直、名家のいざこざに対する知識が一切なかった信にとって、それは予想外の返答だった。

「歓迎するぞ。我が血族に、そなたのような娘を正式に迎えられることをな」

「あ、ああ…」

王翦は相変わらず表情を変えないままでいるが、不思議と声色がいつもより柔らかく感じられる。

いつも厳しい目つきも、何だか穏やかに見えた。

緊張感が一気に抜けて、信は乾いた笑いを浮かべる。

「…もしも倅に飽きることがあれば、その時は私の妻として迎えてやろう」

いきなり王翦の指が信の顎を掴んで持ち上げたかと思うと、無理やり目線を合わせられた。

「無論、今からでも私は構わぬが?」

緊張感が抜けたせいか、すっかり普段通りに戻った信はカカカと笑う。さり気なく王翦の手を払いながら、信は首を横に振った。

「悪いけど、それは一生ねえよ。ま、ケンカした時は間に入ってもらうかもしれねえけどな」

王翦が穏やかな瞳のまま、信を見下ろしていた。

「………ふん」

踵を返して、部屋を出て行く王翦の後ろ姿を見て、信は再び己の腹をそっと擦った。

回想その三・幸福

悪阻はまだ続いており、信は口と鼻を覆うための手巾を手放せない日々が続いていた。

食事の匂いを感じると、反射的に気持ち悪さが込み上げる。

時間が経てば少しずつ落ち着いて来ると医師から言われていたが、悪阻にも個人差があるらしい。信は長引いている方だった。

しかし、少しずつ下腹部が膨らんで来るのが分かると、それだけで悪阻のつらさなど吹き飛んでしまう。

次に王賁に会った時こそ、身籠ったことを伝えなくてはと考えていた。

書簡で伝えることも考えたのだが、できれば自分の口から伝えたかったのだ。

口止めはしなかったので、もしかしたら王翦が先に伝えてしまうのではないかと思った。

しかし、もし王翦が伝えたとしたら、生真面目な王賁は馬を走らせて事実を確認しに来るだろう。

それがないということは、王翦も信が自ら伝えることを察しているに違いない。

不愛想ではあるが、相手の動きを考えるのを得意とする男だ。

無事に子を産んだ暁には、王翦に孫を抱かせなくてはならないなと信は考える。

いつも仮面で覆われている仏頂面が孫の顔を見て緩む姿を想像すると、思わず笑みが込み上げた。

(みんなびっくりするだろうなあ…)

自分も大将軍という座から一度身を引かなくてはならない。

まさか自分が子を産むことになるだなんて、女としての生を全うすることは諦めていた信は、今でも信じられなかった。

最愛の男と肌を重ね合い、子を授かる。それがこんなにも幸福なことだなんて初めて知った。

腹の下で眠っている我が子の顔は見えないが、奇跡にも等しい生命の誕生に、ただ感謝するばかりだ。

とはいえ、出産を終えてからもすぐに戦場に出られる訳ではない。

しばらくは軍師の河了貂、副官の羌瘣と将たちに飛信軍の指揮を頼むことになるだろう。

河了貂と羌瘣には既に王賁とのことを伝えているのだが、二人とも心から祝福してくれた。

重臣以外の飛信軍と王騎軍の兵たちはまだ身籠ったことは伝えていないし、子の父親が王賁であることも当然伝えていない。

正直、飛信軍も玉鳳軍も隊だった頃には、性格の不一致から兵士同士で争いが絶えなかった。

信と幼馴染という関係を知りつつも、王賁を嫌っている兵も多かったので、全員から祝福されることはないだろうなと信は苦笑する。

しかし、子を授かった以上、王賁の妻になるのが道理だ。

(…政たちにも伝えておかねえとな)

戦に出られなくなる旨を書簡に記し、秦王であり、親友の嬴政へ届けるのだった。

回想その四・友人

此度の論功行賞で、王賁の武功が評価されていたことに、信は自分のことように喜んだ。

将軍になってからも王賁の活躍は凄まじい。

もしかしたら自分が戦から身を引いている間に、彼が自分の大将軍の座に就くのではないだろうか。それでも良いかと信は嬉しく思っていた。

論功行賞が終わり、戦の勝利を祝う宴が始まった。

豪勢な食事の匂いが辺りに漂って来ると、信は手巾で口と鼻を覆い、匂いから逃げるように廊下を歩く。

「あっ」

廊下の向こうに、論功行賞で将たちを労っていた嬴政の姿があった。宴の席に出席するために着替えに行くのだろうか。

信は嬴政の名を呼びながら、大きく手を振った。

「おーい、政!」

信の声に気付いた嬴政がはっとした表情を浮かべる。

すぐに嬴政の下へ向かおうとすると、なぜか血相を変えて嬴政が駆け出した。いつもなら信が駆け寄るのに、今日は逆である。

慌ただしく嬴政が廊下を走る姿に、共にいた昌文君がぎょっとした表情を浮かべていた。

大王ともあろう男が廊下を走る姿に信も驚いていると、目の前にやって来た嬴政は信の両肩を掴んだ。

「身重の体で走るな!大事な時期だろう」

事前に送られていた書簡で信の妊娠を知っていた嬴政は、本気で心配しているようで、目をつり上げている。

「わ、悪い…」

「…いや、おめでとうが先だったな、信」

嬴政の祝福に、信は照れ臭そうな笑みを浮かべた。

急に走り出した嬴政を追いかけて来た昌文君が信の姿を見るや否や、なぜかその瞳に涙を滲ませている。

「なに泣いてんだよ、昌文君のオッサン!」

目頭を指で押さえながら、昌文君は嗚咽を堪えている。

感極まると涙ぐむ男であるのは知っていたが、顔を合わせただけで泣かれるのは初めてのことだった。

「ええい、嬉し泣きじゃ!王騎も摎も、きっと喜んでおるわ…!」

両親の名前に、信ははっと目を見開いた。

そうだ。身籠った子は王翦と王賁の亡き母だけではなく、二人の孫にもあたるのだ。

信が照れ臭そうに頭を掻いていると、嬴政が思い出したように口を開いた。

「婚姻の祝宴はどうするのだ?」

彼の問いに、信はばつの悪そうな顔になる。

「いやあ、それがさ、…身籠ったことを、まだ王賁に言ってなくてよ…これから言うんだ」

「なに?」

まだ王賁に妊娠を告げていないという事実に、嬴政と昌文君が目を丸めた。

「身籠っていることが分かってから、もうそれなりに経っただろう。大丈夫なのか?」

昌文君が不安そうに眉を寄せた。

そうなんだけどよ、と信が目を逸らす。

「あいつ、将軍になったばっかりで、今回の戦に備えてたし…なんていうか、重みになるんじゃねえかって…」

「………」

「あ、あと、王家同士の婚姻になるから、養子の俺にはその辺の事情がさっぱりで…王翦にも色々聞かなきゃならねえこともあって…それで…」

打ち明ける機会がどんどん先延ばしになってしまったのだと自白した信に、嬴政はやれやれと肩を竦めた。

「それなら、なおさら早く伝えてやれ。愛しい女が身籠ったと聞いて、喜ばぬ男などいないだろう」

「…うん。政、俺…」

信が申し訳なさそうに、嬴政を見上げる。

「戦のことは心配するな。他の将たちだってお前に引けを取らぬ力を持っている。お前は無事に子を産むことだけを考えていればいい」

戦から身を引かなくてはならないことに、信が不安を抱いていることを、嬴政は書簡が届いた時から察していた。

安心させるように、嬴政は彼女に微笑みかける。

「子を産むのは、戦で受ける痛みなどと比べ物にならないというぞ。医師団の手配をするから、産気づく前には咸陽宮に来い」

大王からの温かい言葉に、信は思わず笑みを浮かべて、供手礼をする。

「じゃ、王賁のやつを驚かせて来るわ!」

「気持ちは分かるが、くれぐれも走るなよ。王賁に別の意味で気苦労させるぞ」

信が笑顔で手を振り、王賁の姿を探しに宴の間へと戻っていく。

その後ろ姿を眺めながら、嬴政と昌文君は温かい気持ちで満たされていた。

回想その五・婚約者

―――身籠ったことを告げようとしていた信を待っていたのは、王賁の罵声だった。

「貴様ッ、一体何を考えている!」

まだ何も告げていないのに怒鳴られた信は、びくりと肩を竦ませる。

憤怒しているを王翦を見て、信は狼狽えた。

「な、何って…」

王賁が信の下を尋ねることはなかったが、もしかして王翦から身籠った話を聞いたのだろうか。それで婚姻の話が伝わったのかもしれない。

「…大王にも、その報告をしていたのか」

嬴政と話していたのを見ていたのだろうか。信は小さく頷く。

一体王賁は何を怒っているのだろう。

身籠ったことを告げるのが遅くなったことよりも、別なことに対して怒っているような気がする。

「誰の許可を得て婚姻するつもりだッ!このバカ女がッ!」

王賁の言葉を聞いた信は、頭の中が真っ白になり、絶句した。

彼は、自分と夫婦になることを拒絶したのだ。

力強く掴まれた肩ではなく、胸に鋭い痛みが走る。戦場で受けた傷などとは比べ物にならない痛みに、涙が溢れて来る。

「…喜んでくれると、思ったのに…」

初めて口付けを交わし、身体を重ね合ったあの夜のことが瞼の裏に浮かび上がる。

破瓜の痛みに涙する自分を抱き締めながら、愛していると何度も囁いてくれたのに、あの言葉は嘘だったのだろうか。

王翦に縁談を申し込まれたことに王賁が怒ったのは、自分を愛してくれているからこその嫉妬ではなかったのか。

色んな考えがぐるぐると頭を回り、信の中でそれが大きな音を立てて爆発した。

「お前の言う通り、俺がバカだったッ!」

裏切られた気分になり、信は涙を拭うこともせずに、王賁に怒鳴りつけた。

「もうお前なぞ知らんッ!」

王賁から返って来た言葉に、信は完全に彼が自分を見限ったのだと察する。

手が白くなるほど、信は拳を握り締めた。爪が皮膚に食い込み、血が滲んでいく。

昔のように安易に手を出すほど、信はもう子どもではなかった。

「もう、…お前となんて一緒にいられねーよッ!」

顔も見たくないと信は踵を返す。

嬴政に身重の体で走るなと釘を刺されたばかりだったが、耐え切れなかった信は走ってその場から逃げ出す。

背中に王賁の視線を感じていたが、信は一度も振り返ることはしなかったし、王賁が追い掛けて来ることもなかった。

自分は、王賁に見限られたのだ。泣きながら、信はその事実を受け入れていた。

和解

…そんな最低男が、今、信の前で頭を下げている。

床に額を押し付け、手足が汚れるのにも構わず土下座をしている王賁に、信は絶句していた。

名家である王家の家に生まれたことから、何よりも尊厳というものを誇りに持っていた王賁が、自分に頭を下げているのだ。

「え、……えっ?」

混乱するばかりで、信はなんと声を掛けるべきか分からず、頭を上げろとも指示を出せなかった。

…遡ること一刻ほど前。

部屋で王翦に送る書簡の準備をしていた信の耳に、何やら騒がしい物音が聞こえた。

血気盛んな兵たちが外で揉めているのだろうと思っていた。

鍛錬の指揮も今は信頼できる羌瘣たちに任せているため、気になりはしたが、顔を出すことはやめておいた。

悪阻でろくに食事も摂れずにいる信を心配した河了貂にも、「軍のことは俺に任せて、信は絶対に手を出すなよ」と口酸っぱく言われていたのだ。

王賁との縁談は破談になったことだし、とはいえ王賁の子を身籠ったのは事実だ。

無事に子を産むまでは、戦から身を引かなくてはならない。

兵たちにその事実をどう告げるべきか、信は宴の夜からずっと悩んでいた。

悩み過ぎのせいか頭も痛いし、王賁に酷い言葉を投げつけられてから胸の痛みが取れない。前に増して、食欲がさらに落ちてしまった。

それでも、時間が経つにつれて、腹の中で子は成長していく。

もう以前のように男のような下袴も穿かなくなった。

腹部を締め付けるものはやめた方がいいと医師や侍女に言われてしまい、ここ最近は苦手な女物の着物を毎日着ている。

いつも鍛錬がしやすいように着ていた下袴を着なくなった信に、違和感を覚えている兵たちもいるはずに違いない。

隊の頃から王賁のことを良く思っていなかった兵たちのことを考えると、今回のことをきっかけに何か暴動を起こすのではないかという不安があった。

とりあえず、王賁と破談になった旨を、王翦に伝えなくてはならない。

子を産んだ後は、王家の血筋である王賁との子を、差し出すしかないだろうと考えていた。

書簡にそのことを書いていると、制止する侍女たちを押し退けて、なんと王賁が信の部屋に飛び込んで来たのだ。

「どうかお引き取りを!」

「二度とこの敷居を跨がれぬよう!」

信が幼い頃から屋敷に仕えてくれている年老いた侍女たちが、血走った目をして王賁の腕や着物を掴んでいた。

信が王賁の子を身籠ったことと、婚約が破談になったことは重臣である彼女たちに伝えていた。

そのせいか、彼女たちは王賁をまるで目の敵にして追い返そうとしているらしい。

まさか屋敷に、しかも何の連絡もなく王賁が突然やって来たことに、信は彼の目的が分からず、ただ驚くことしか出来ない。

「放せ!俺はただ話をしに来ただけだッ」

憤怒している侍女たちに引っ張られながら、王賁が叫ぶ。

余裕のない表情を浮かべている王賁を見て、信は一体何の話をしに来たのか気になった。

「…悪いけど、通してやってくれよ」

「信様ッ!」

信の代わりに王賁に怒りをぶちまけていた侍女たちだったが、信が「頼む」と催促したので、大人しく王賁に道を開けた。

人払いを頼み、信は王賁と二人きりになる。

王賁は怒っているような、悲しんでいるような、複雑な表情を浮かべていたが、信の部屋へと入った。

背後で扉が閉まると、息苦しいほど重い沈黙が流れる。

書きかけの書簡を完成させるために、信は椅子に腰かけて再び筆を取ったのだった。

最後の一文を書いていると、背後で王賁が動いた気配を感じる。

わざわざ屋敷にまでやって来たのだから、向こうから話を始めるのだろうと思っていた。しかし、いつまでも声は掛からず、痺れを切らした信が振り返る。

そこにあったのは、額を床に擦り付ける勢いで頭を下げている王賁の姿であった。

「え、……えっ?」

あからさまに信が狼狽えていると、王賁は少しも顔を上げない。

「…俺が悪かった」

王賁の謝罪を聞き、信は瞬きを繰り返す。その謝罪の意味が一体何を示しているのか、信には分からなかった。

狼狽えている信の顔を見ることもなく、王賁は言葉を続ける。

「…俺は、お前が父の縁談を受け入れたのだと誤解していた」

「へッ!?断ったって言っただろ!」

王翦に縁談を申し込まれたことも、それを断ったことも王賁に告げたはずなのに、一体どうしてそんな勘違いをしたのだろう。

相変わらず顔を上げない王賁だが、自尊心の高い王賁がたった一人の女に頭を下げていることもあって、苦虫を嚙み潰したような顔をしているのだろうなと信は思った。

(……なんだよ…)

それまで感じていた不安が溶け出していくのを感じていた。目頭がじわりと熱くなる。

「じゃあ…誤解だったってことか?」

「ああ」

王賁が自分を愛していてくれたのは、本当だったのだ。

どうして王翦の縁談を受け入れたという誤解をしたのかは分からないが、信はずっと胸に感じていた痛みがいつの間にか消え去ってしまったことに気がついた。

本当はすぐにでも王賁の胸に飛び込みたかった。

しかし、王賁がこんな風に頭を下げているのは初めてで、勝気になった信は少しからかってやろうと考える。

王翦に渡すはずの書簡はほとんど書き終えてしまった。最後に自分の名前を記せば完成である。

ほぼ完成状態である書簡を手に取り、信はふんぞり返る。

「い、今さら言われたって…!王翦将軍に、破談になったって書簡を出すところだったんだぜ」

「………」

父である王翦の名前に反応したのか、王賁がようやく顔を上げる。普段よりも眉間の皺が三倍寄っていた。

立ち上がった王賁は腕を伸ばし、信の手から書き上げたばかりの書簡を奪い取る。

「あっ、何するんだよ!」

返せと手を伸ばすが、王賁は信に背を向けてその書簡に目を通している。

文字を追っているうちに、王賁の表情がみるみる曇っていくのが分かった。

当然だろう。書簡には「王賁と自分は婚姻を結ばず、身籠った子はそちらに渡す」と記しているのだから。

王賁のこめかみに青筋が浮かび、信が制止する前に、その竹簡の紐が引き千切られた。

「あーっ!」

繋がっていた竹簡がばらばらと床に散らばり、信が何をするんだと王賁を睨み付ける。

こうなればもう書き直すより他にない。

しかし、目をつり上げた王賁に睨み返されると、あまりの迫力に思わず口を噤んでしまった。

「―――なぜ身籠ったことをすぐ俺に言わなかった!!」

王賁の当然である問いに、今度は信が謝る番だった。

「わ、悪い…戦の準備で、気張ってると思って…」

「………」

納得いかないという表情を浮かべた王賁に、信は慌てて言葉を続けた。

「だって、将軍になってからの初めての戦だろ?…気負わせたく、なかったんだ…」

俯きながら言葉を紡ぐと、信の体がぐいと引き寄せられた。王賁に抱き締められているのだと分かり、信は驚いて目を見張る。

そういえば彼に抱き締めてもらえたのは、身体を重ねた翌日の朝が最後だった。

「…許せ。もっとお前のことを知るべきだったと、猛省している」

囁かれた言葉に、信は小さく頷いた。信もゆっくりと王賁の背中に腕を回す。

「あの、…俺も、もっと早く王賁に、伝えるべきだった……悪い…」

素直に謝ると、王賁の腕に僅かに力が入った。

互いに謝罪をして、仲直りをするのは、随分と久しいことだった。

王賁が信を王家と血の繋がりのない子だと罵り、信が王賁の頭を殴ったあの幼い頃以来だ。

「信」

優しい声色で名前を呼ばれて、信は王賁の顔を見た。

真っ直ぐな瞳で信を見据えると、王賁がゆっくり口を開く。

「俺と、結婚しろ。俺たちの子を父に渡す必要などない」

王賁の言葉に、信の瞳から堰を切ったかのように涙が溢れ出る。

「…こんな時まで命令口調かよっ!言われなくてもそのつもりだったっての!」

涙を流しながら笑った信を見て、ようやく王賁の口元にも笑みが浮かぶ。

穏やかな表情で、涙を指で拭ってくれる王賁に、信はますます惚れてしまった。

「…腹に」

「ん?」

「腹に、触れても良いか?」

王賁に問われ、信はもちろんだと頷く。

許可を得てから、着物越しに王賁が下腹部に触れた。

まだ胎動が分かるほどではないが、うっすらと膨らんでいるその腹の下に、自分と信の子どもが眠っているのだと思うと、とても不思議な心地になる。

まだ顔も見ていないというのに、これから自分が父親になるのだという重みが肩に圧し掛かった。

顔を上げると、信が嬉しそうな笑顔を浮かべている。

王賁は再び彼女の体を抱き締めた。

あまり腹を圧迫しないように気遣いながら、優しく腕の中に包み込む。

王賁の胸に顔を押し付けて、信は幸せな気持ちで胸が満たされていくのを感じていた。

仲間たちからの祝福

信と王賁がお互いの身体を抱き締め合いながら、幸福な気持ちに浸っていると、扉越しに何者かの気配を感じた。

「……おい、押すなって!」

「そっちこそッ…!」

扉の向こうが何やら騒がしい。聞き覚えのある声に、信は振り返った。

それまで穏やかな笑みを浮かべていたはずの王賁の表情が、普段と同じ不愛想なものに切り替わる。

「うわああッ!」

信が声を掛ける前に、扉が開いて、外にいた者たちが雪崩れ込んで来た。

河了貂と羌瘣を先頭に、祟原、松左、尾平や渕…その他にも、飛信隊が結成された時からの見知った顔ばかりだ。楚水の姿もある。

人払いを頼んだはずなのだが、どうして彼らがここにいるのだろう。

「お、お前ら、何してんだよッ!盗み聞きかッ!?」

驚いた信が王賁の腕の中から慌てて抜け出して、全員に怒鳴りつける。

申し訳ないと最初に頭を下げたのは、さすが礼儀正しい楚水だった。

「王賁将軍が突然、信殿をお訪ねになったと聞き…その、私は止めたのですが…」

目を泳がせる楚水に、今度は河了貂が苦笑を浮かべながら前に出た。

「い、いやあ、俺と羌瘣も止めたんだぞ?でも、みんな信のこと心配してたから…」

一部の者にしか身籠ったことを伝えていなかったため、何も知らない兵たちは急に鍛錬にも姿を見せなくなった信を心配してくれていたらしい。

…もしかしたら、一部始終ずっと聞かれていたのだろうか。信は羞恥で顔を真っ赤に染めた。

(でも、さすがにもう隠し切れねえよな…)

確認するように、信が隣にいる王賁へ視線を向ける。

呆れたような顔で王賁は溜息を吐くと、彼は信の肩に手を添え、その体を抱き寄せながら口を開く。

「貴様らの将は、今日からこの王賁の妻となる。身重であるゆえ、しばらく戦には出られぬが、将が不在の間も手を抜くことなく鍛錬に励め」

必要最低限のことしか伝えない相変わらずな王賁の態度に、信は笑ってしまった。

つい先ほどまでの穏やかな表情や声色を、他の者には見せないでいてくれたことが、純粋に嬉しかった。

それが独占欲の類だと分かっていても、これからは正式に夫婦となるのだから、誰にも咎められることはない。

「信~!良かったなあ~!」

初陣の時に伍を組んだ時からの仲間である尾平が、みっともなく声を上げて泣き始める。

昌文君もそうだったが、年を食うと涙腺が脆くなるのだろうか。

祟原や松佐たちも穏やかな笑みを浮かべながら「おめでとう」と笑顔で祝福してくれた。

「他の兵たちにも言って回らねえとな…はは、今まで隠してたのがバカみてえだ」

仲間たちから温かい祝福を受け、信は憑き物が落ちたかのような、すっきりした表情で笑顔を浮かべた。

ここにいる者たちは、飛信軍がまだ隊だった時からの顔見知りだ。

もしかしたら河了貂と羌瘣が、彼らにだけ事前に伝えてしまったのかもしれない。

誤解だったとはいえ、王賁との婚姻が白紙になったことは一体どこから広まってしまったのか分からないが…結果良ければ全て良しとはこのことである。

「みんなに言って回るかあ」

他の兵たちにも伝えなくてはならないと思い、信は王賁と共に屋敷を出ようとした。

「あ、それは大丈夫」

安心させるように羌瘣がそう言ったので、信と王賁は目を丸めた。

「あーっ、二人とも、やっと仲直り出来たの?全く、世話が焼けるよねえ」

またもや聞き覚えのある声がして、もう一人の男が部屋に入って来た。蒙恬だった。

大分酒に酔っているようで、顔を真っ赤にして、上機嫌に笑っている。

片手に酒瓶を抱えているところを見ると、王賁の屋敷を訪れた時からずっと飲んでいるらしい。まだまだ飲み足りないようだ。

「王騎軍も、飛信軍も、玉鳳軍も、楽華隊も、みーんな、お祝いしてくれてるよ」

蒙恬の言葉を聞き、王賁と信は顔を見合わせる。

まさかと王賁は先に察したが、信は分からないようで、小さく首を傾げていた。

「貴様…本来は俺たちの口から話すことだろう」

「えー?だって、おめでたい話題なんだから、誰が言ったって一緒だよ~」

どうやら蒙恬が、信と王賁の結婚と妊娠の話題を既に広めていたらしい。

王翦も口々に広げていたようだったが、玉鳳軍と王騎軍と飛信軍の者たちに告げなかったのは、王賁と信が自ら伝えると考えていたからだろう。

「貴様…」

「そんな怖い顔しないでよー。俺からの祝辞だと思ってよ。ね?」

…確かに蒙恬が王賁の屋敷に尋ねて来なければ、信との誤解が解けないままだった。

もしかしたら今も王賁は一人で鍛錬を続け、信は王翦へ破談となった旨が記された書簡を届けるように使いを出していたかもしれない。

最悪の結末を回避することが出来たのは、蒙恬のおかげである。王賁は一応感謝していた。

普段なら無視するところだったが、王賁は真っ直ぐに蒙恬を見つめて、口を開いた。

「…感謝している」

「えっ!」「えっ?」

蒙恬と信がほぼ同時に聞き返した。なんだ、と王賁が二人を睨み付ける。

長い付き合いだが、蒙恬も信も王賁の口から感謝の言葉を聞いたのは初めてだったのだ。

驚いていた二人がにやにやとしているのを見て、王賁のこめかみに青筋が浮かび上がる。

「王賁が素直に礼を言ったよ!これは子どもが出来てからどんな風に変わるのか楽しみだねえ、信」

「はははッ、きっと親バカってやつになるぞ」

「…貴様らぁ…!」

目をつり上げた王賁に、信と蒙恬は大笑いしながら、子が生まれた後の王賁はきっと性格が丸くなっていくに違いないと話し合った。

その後、信と王賁は飛信軍と王騎軍の兵たちに正式に結婚と妊娠を公表し、盛大に祝福を受けた。

玉鳳軍への公表は、王賁が屋敷に戻ってから行ったのだが、玉鳳軍も二人の結婚を大いに祝福をしてくれた。

宿敵

その後、信は王賁の屋敷へ移り住むこととなった。

昔からお転婆が過ぎる彼女が、いつ人目を盗んで無理をするか分からない。

王賁は彼女を監視下に置くために、出産を終えるまで自分の屋敷に住まわせることを決めたのだ。

無茶をしないかの監視と言う名目があることを黙って、なるべく一緒に過ごしたいと告げれば、信は少し照れ臭そうに了承してくれた。

「馬車かあ…俺、馬に乗る方が好きなんだけどなあ」

「絶対に許さん。貴様の今の発言を告げれば、大王様から直々に乗馬禁止令が下りるぞ」

「政も王賁も心配性だよなあ…」

身重となった体では、以前のように馬に跨ることが出来ず、信は移動に制限が掛かったことに大層文句を言っていた。

もちろん子に何かあってからでは遅いと訴える王賁だけでなく、色んな者たちに説教をされてから、渋々納得したようだったが…。

嬴政も信が無茶をするのではないかと気にかけており、産気づく前には咸陽宮に来いと言ってくれたようだ。

医師団の用意をしておくという手厚い大王の気遣いに、王賁は信が大王に見初められなくて良かったと安堵したのだった。

信が屋敷に王賁の移り住む日が来ると、王賁は意外な来客に驚愕の表情を浮かべた。

王翦が訪ねて来たのだ。将軍昇格の時には一言も声を掛けなかった父が、どうして急に現れたのかと報せを受けた王賁は戸惑った。

一行が屋敷の門をくぐったところで、王賁はすぐに父を出迎えた。

王翦は護衛の兵たちも何人か引き連れていたが、誰一人として王翦と同じように馬から降りようとしない。

用はあるようだが、手短に済ませたいという彼の意志が現れていた。

王翦はいつもと変わらず、何を考えているか分からない瞳で王賁を見下ろしている。

「…王騎の娘と破談になると聞いた。兵たちが騒いでおったぞ」

その言葉に、王賁の眉間に僅かに皺が寄る。

「いえ、ただの噂でしょう」

色々と誤解が生じて大喧嘩したことは報告すべきではないと王賁は考えた。

これを機に、王翦がまた信に縁談を申し込むようなことがあったら厄介だ。不安の火種になるものはとことん消し去らなくてはならない。

噂だと聞いた王翦が、つまらなさそうに肩を竦める。

「そなたが要らぬというのなら、この王翦の妻にしてやろうと考えていたのだがな」

やはり王翦は信のことをまだ諦めていないらしい。王賁のこめかみに鋭いものが走る。

「要らぬと申した覚えはありません。それに、貴方には他にも妻がいるでしょう」

「その中に王騎の娘も加わるだけだ。そなたは、あの娘を母と呼ばねばなるまいがな」

少しも感情が灯っていない声のはずなのに、まるで自分の怒りを煽ろうとしているような言葉に、王賁は冷静になれと自分に言い聞かせた。

拳を強く握り、王賁は王翦を睨み付ける。

「信は俺の妻です。身籠っているのも、正真正銘、俺の子だ」

「………」

王翦がじっと王賁の目を見つめる。

普段から王賁の顔は仮面で覆われているが、彼は身内である自分にも素顔を見せたことはない。まるで身内にさえ心を許していないようだ。

そのせいか、王翦という人物がどんな人物であるかを、王賁も分からない時があった。

冷たい瞳の奥にある闇を見ると、足が竦みそうになることがある。

だが、ここで少しでも目を逸らせば、負けだと思った。

この男は戦と同じで、相手の隙を少しも見逃さない。もしも自分の心が揺らげば、そこを突いて信を奪っていくかもしれなかった。

だからこそ、決して目を逸らさず、王賁は奥歯を食い縛って、信は渡さないという意志を込めて睨み返す。

しばらく沈黙が続いていたが、先に沈黙を破ったのは王翦の方だった。

「…祝宴には、私の席を空けておくがいい」

手綱を握り直し、王翦は馬を動かす。どうやら用件は済んだらしい。

「……考えておきます」

あえて返事を保留にした王賁は、王翦の背中を見つめながら、いつの間にか額に滲んでいた嫌な汗を手の甲で拭った。

結末

夕食と湯浴みを済ませた後、寝台に腰掛けている王賁は、自分の膝の上に信を座らせ、彼女の体を後ろから抱き締めたままでいた。

既に一刻はこの状態のままである。

最近ようやく悪阻が落ち着いて来たらしく、信は以前通りに食事が摂れるようになっていた。

肉付きが戻って来た彼女の体を抱き締めたまま、王賁は彼女を放す気配を見せない。

「だーかーら、何もなかったって言ってるだろ。王賁だって見てたじゃねえか」

「………」

彼女の言葉を聞かなかったふりをして、王賁は背後から信の首筋に顔を埋めている。

意外と彼が嫉妬深く、そして甘えたがりな性格だと知ったのは身を結んでからだ。

しかし、それを嬉しく思いながら、信は王賁の胸に身体を預ける。

まるで誰にも渡すまいと言わんばかりに、王賁は信の体を、腹に負担を掛けないように抱き締めた。

―――王翦が王賁の下を訪ねた直後、信を乗せた馬車が到着した。

信が馬車から降りようとした時に、驚くことに王翦が馬から降りて、身重の彼女を随伴するように手を引いて歩いたのだ。

自分と話す時は馬上から見下ろしていたあの男が、信と話す時は馬から降りた。

それだけではなく、馬車から降りようとする信の手を引いたことも、さりげなく腰元に手を当てていたことも王賁は許せなかった。

信の手を引きながら、そして歩く速度も信に合わせながら、王賁の前までやって来ると、王翦は何も言わずに勝ち誇ったような瞳をして、今度こそ屋敷を出て行ったのである。

仮面で覆われた顔は微塵も表情を変えていなかったが、あの時の瞳は絶対に王賁を小馬鹿にしたものだった。

少しでも隙を見せれば、お前からこの女を奪い取ってやるという、宣戦布告にも近いものかもしれない。

それが王賁には憎らしくもあったし、同時に恐ろしくもあったのだ。

自分が父に適わないことを、心のどこかで分かっているからこその思いなのかもしれない。

そして先ほど、信から打ち明けられたのだが、彼女は子を身籠ったことを王賁に告げるよりも先に、王翦へ伝えていたらしい。

王家同士の婚姻となることから、王騎と摎の養子である自分が王賁の妻になることに、何か問題がないかを確認するためだったというが…。

王賁はその事実にも嫉妬し、信を抱き締めながら口を噤み…そして、今に至るという訳だ。

「んな心配しなくても大丈夫だって」

「………」

父に嫉妬したなんて一言も言っていないのだが、信は王賁が嫉妬したことに気づいたようで、なぜか嬉しそうな表情を浮かべている。

信の「大丈夫」は正直、信頼出来ない。

多くの死地を駆け抜けた彼女だが、敵の戦略に陥ってしまい、瀕死の状態で戻って来たことなど幾度もあった。

ここが戦場でないとしても、いつか王翦の策略に彼女が陥るのではないかと思うと、王賁が気が気でならない。

自分がこんなにも幼稚で、独占力の強い男だとは思わなかった。

「…王賁って、心配性なんだな」

意外な事実を発見した信が小さく笑った。

その通りだと王賁は言葉に出さずとも、彼女の体を優しく抱き寄せる。

まるで子どもを甘やかすように頭を撫でられる。普段の王賁ならば「やめろ」とその手を弾いていたのだが、今だけは信の好きにさせてやった。

それがどうやら信には新鮮だったようで、嬉しそうに王賁の頭を撫で続けている。

「不安なら何度でも言ってやるよ。…好きだぜ、王賁」

信に笑顔で告げられ、王賁の胸が高鳴った。

肩越しに目が合うと、照れ臭そうに信がはにかむ。

いつも兵たちに見せるような笑顔じゃなく、自分にだけ見せる恥じらいの表情だ。

これからもこの笑顔は自分だけのものだし、誰にも渡すつもりはない。

「一生放すつもりはないから、覚悟しておけ」

王賁はそう言うと、信の唇に己の唇を押し当てた。

正しく王賁らしい愛の言葉だなと信は笑った。

 

番外編(本編で割愛した初夜シーンなど)はこちら

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エタニティ(王賁×信←王翦)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/王翦×信/甘々/嫉妬深い/ツンデレ/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

将軍昇格

王賁が信と最後に会ったのは、此度の戦が始まる前だった。

この戦で功を立てれば将軍になるのだと、意気込む王賁の背中を押してくれたのが信だった。

―――さっさとここまで上って来いよ、待ってるぜ。

自分よりも一つ年下でありながら、信は先に大将軍の座に就いていた。

血の繋がりはないが、六大将軍の王騎と摎の娘である彼女の強さは、今や中華全土に知れ渡っている。

元下僕である立場の女が、自分という存在を追い抜いて、高い位置から戦を見下ろしていることに王賁は納得出来なかった。

幼い頃は手合わせをすれば、ほとんど王賁が勝っていた。泣かれても、噛みつかれても、相手が女でも王賁は容赦はしなかった。

女だからという理由で手を抜けば、信を侮辱することになると幼心ながらに思ったからだ。

幼い頃とはいえ、敗戦ばかりの手合せが信の闘争心に火を点けたのだろう。彼女は誰よりも長く鍛錬に勤しみ、ひたすら王騎と摎の下で剣の腕を磨いていた。

その結果が、大将軍の座に結び付いたのである。

まさかあんな泣き虫な女が自分を差し置いて、先に大将軍の座に就くとは思わず、王賁は嫉妬の念に駆られていた。

しかし、飛信軍と共に行動をするよう指示を受けた戦で、王賁は理解したのだ。天下の大将軍の娘と呼ばれる信の実力を。

王賁が知らないだけで、彼女は確実に成長していた。

初めは弱々しい苗だったのが、今ではしっかりとした根を張っている。

多少の衝撃ではその根は揺らがない。それほどまで信は強い女になっていたのだ。

だからこそ王賁は背中を追い掛けるでも、隣に並ぶのでもなく、彼女を越えなくてはならないと思っていたし、これ以上の差をつけられないようにしなくてはならないと思っていた。

将軍の座に就くことが決まり、ようやく一歩ではあるが、信に近づくことが出来た。

初めの内は父の武功を抜くことばかりを考えていた王賁だったが、いつの間にか信を抜くことに目標がすり替わっていたのだった。

此度の戦で武功を挙げ、王賁率いる玉鳳隊はついに軍となった。王賁の将軍への昇格が決まったのである。

論功行賞で、大王嬴政から名を呼ばれ、将軍になることを命じられた王賁は、目頭に熱いものが込み上げた。

いよいよ信と父と肩を並んで戦場に出られるのだ。

深々と供手礼をすると、嬴政から此度の戦での活躍を労われる。

「王賁、今後も期待しているぞ」

「お任せください」

それから嬴政は他の誰にも聞こえないように声を潜め、王賁にそっと囁いた。

「…信のことも、よろしく頼む」

「は…?」

まさか嬴政の口から信の名前が出て来ると思わず、王賁はつい聞き返してしまった。

僅かに狼狽える王賁に、嬴政は意味ありげに口元を緩め、玉座へと戻っていく。

その姿を眺めながら、王賁はどうして信の名前が出たのかと頭に疑問符を浮かべるばかりだった。

 

祝宴

論功行賞の後に開かれた宴では、王賁を中心として、玉鳳軍が大いにもてなされた。

ここまでついて来てくれた家臣や兵たちに労いの言葉を掛け、王賁も久しぶりに宴の雰囲気に酔いしれるのだった。

「王賁、将軍昇格おめでとう」

蒙恬が笑顔で王賁の肩に腕を回して来る。既に酒に酔っているらしく、顔が赤かった。

楽華隊も此度の戦で大いに武功を挙げていたが、将軍の座になるまでには至らなかった。

しかし、次の戦で武功を上げることが出来れば、蒙恬も将軍へ昇格することになるだろう。気を抜いているとすぐに抜かされてしまう。

いつもへらへらしているように見えて、軍略を立てるのに優れている男だ。

何より王賁と信と違うのは、彼が率いている楽華隊の実力を過信することなく、戦の最中でも冷静に判断をし、的確な指示を出せるところである。

蒙恬自身も、自分と同じ時期に初陣を済ませた王賁に差を広げられたことを気に病んでいるかもしれない。

宴が始まってまだ間もないのだが、既に酒に酔っているところを見ると、恐らくそうなのだろう。

特に嫌味を言って来ることもないが、それが蒙恬の長所なのかもしれない。

蒙恬から杯に酒を注がれると、王賁は黙って飲み込んだ。

良い飲みっぷりに蒙恬があははと笑う。それから彼は辺りを見渡して小首を傾げる。

「…あれ、信は来てないんだね?真っ先に祝いに来ると思ったのに」

王賁はぴくりと眉を顰めた。

六大将軍の王騎と摎の娘、信。飛信軍と王騎軍を指揮する女将軍であり、今や秦国に欠かせない大将軍の一人だ。

彼女を示す天下の大将軍の娘という呼び名は、中華全土に轟いている。

信と王賁は昔から王家の立場上、付き合いがあった。いわば幼馴染である。

しかし、幼い頃から信とは喧嘩が絶えなかったこともあり、王賁にとっては腐れ縁でしかない。

昔からの付き合いということもあって、自分の方が立場が上の癖に、王賁が論功行賞で名を呼ばれた時はまるで自分のことのように祝うあの彼女が、そういえば今日は見ていない。

幼馴染である王賁の将軍昇格と聞けば真っ先にやって来そうなものだが、そういえば論功行賞の時にも姿を見なかった。

此度の戦には参加していなかったが、戦が始まる前に見送りに来てくれたことは覚えている。

彼女に限って風邪で寝込むようなことはないだろう。

バカは風邪を引かないという言葉は彼女自身が示しているようなものだ。

だとすれば、一体何の理由で論功行賞と宴を不在にしているのか王賁には分からなかった。

「…じゃあ、あの噂は本当なのかな」

自分の杯にも酒を注ぎながら、蒙恬が口元を緩めている。

「噂?」

王賁が尋ねると、蒙恬が頷いた。

縁談・・だって」

「は…?」

すぐに理解出来ないでいる王賁に、蒙恬がやれやれと肩を竦めながら言葉を続けた。

「あのねえ、賁。俺たちもそうだけど、信だってお年頃でしょ?賁が知らないだけで、信は物凄い数の縁談を断ってるんだよ?話を聞く前に断っちゃう縁談なんて数え切れないくらいあるって言うし…」

諭すようにそう言われ、王賁の胸にもやもやとした正体不明の何かが広がる。

「それが今回は違う。ちゃんと事前の申し入れも確認した上で、相手と顔を合わせて、どんな男かを確かめようとしてる」

「………」

そこまで噛み砕いて説明された王賁は、胸に広がっている正体不明のもやもやがますます濃くなっていくのを感じていた。

今まで信に縁談が来ていたのは王賁も知っていた。

大将軍という立場だけでなく、自分たちと同じ王家という名家の養子であることや、六大将軍の王騎と摎の娘というのも彼女の名を轟かせている理由だろう。

加えてあの容姿である。

普段はいかなる時でも剣を震えるように、男と間違えられるような格好をしているが、きちんと身なりを整え、黙ってさえいれば誰が見ても淑やかな女にしか見えない。

大王の前や宴の席に出る時にはきちんと身なりを整えているため、外見に騙される男も数多だ。

それでいてどこの家の娘だと調べれば、名家の出であると知り、縁談を申し込む男も多いのだという。

しかも、秦王である嬴政の親友というのも強い決め手である。

信自身も嬴政の剣として、大将軍の座を安易に退く訳にはいかず、縁談を断っているのだろう。

信の気を引くために、上質な着物や宝石の類の贈り物をする男もいたというが、彼女は全く興味を示さなかったのは言うまでもないだろう。

下僕の出身でありながらも、戦漬けの毎日を過ごしていたせいか、信は金目の物に興味がない女なのである。

そんな彼女がまさか今回の相手には興味を示しているというのか。

せっかく自分の将軍昇格の祝いの席だったのに、王賁の表情は暗くなっていた。隣にいる蒙恬があからさまに気になっている王賁を見て、くすくすと笑う。

「どんな相手なんだろうね?もしかしたら、信もいよいよお嫁に行くのかなあ」

「………」

王賁は構わずに酒を飲み込む。美味いと感じていたはずの酒が、なぜか急に味気なくなっていた。

自分の知らない男を夫だと慕う信の姿を想像するだけで、無性に苛立ちが込み上げて来る。

しかし、王賁は妙な自信を持っていた。

嬴政の剣として大将軍の座に就いている信が、これからも縁談を受け入れることはないはずだと信じていたのだ。

 

祝宴その二

宴は朝まで続き、夕刻になってようやく屋敷に戻ると、今度は多くの家臣たちからもてなされた。

それほど大将軍の座に就いた功績というのは大きいものである。

誇り高き王家の血筋として当然の成果であるとも王賁は思っていた。

酒はもうこりごりだと家臣たちに断っていると、側近である番陽が「賁様…」と小走りで近寄って来た。

「王騎の娘が参りました」

信が屋敷を訪ねて来たのだという。

そういえば信が論功行賞と宴を不在にしていたことを思い出す。

そして連鎖的に、彼女が縁談を申し入れるのではないかという蒙恬の話も思い出してしまった。酒の酔いのせいか、僅かな動揺が顔に出てしまう。

宴で疲労している王賁を気遣うように、番陽が「追い返しましょうか?」と問う。

「…いや、通せ」

王賁の指示を聞き、番陽が頷く。しばらくしてから、賑やかな声が向こうから聞こえて来た。

「王賁!」

小走りでやって来た信は女物の着物に身を包んでいた。

目を引く鮮やかな青色の着物には、牡丹の刺繍がされている。彼女の細い腰を強調させるように、白い帯が巻かれていた。

普段は後ろで一括りにされているだけの黒髪も、今日は高い位置で編み込みを入れて結われていた。唇には紅が引かれている。

髪型と衣装と化粧を変えただけで、女性というものはこれほどまで別人に化けるので不思議だ。

王賁の将軍の昇格を祝いに来たのだろう。

もしも普段通りに男物の下袴を穿いて、名家の名を汚すような気品さに欠ける格好だったなら、容赦なく一発殴るところだった。

「いやあ、お前もついに大将軍かぁ!大きくなったなあ」

仄かに顔を赤らめているのを見ると、既に酔っているらしい。

信の方が一つ年下のくせに、酒で気が大きくなっているのか、彼女は王賁の頭をわしわしと撫でた。家臣たちがぎょっとした表情を浮かべる。

彼女の無礼は今に始まったことではなく、昔からずっと続いているものだった。

すぐに手首を掴んで振り払うと、信は「こんなにめでたい日でもいつも通りだな~!」と大声で笑った。

さっそく我が物顔で王賁の隣の席に腰を下ろし、信が土産として持参した酒瓶を掲げる。

「これからの玉鳳軍は、きっと飛信軍の強敵になるな!」

「当然だ。飛信軍などすぐに追い抜く」

信が王賁の盃に酒を注ぐ。

昨夜の宴でさんざん酒は飲んでいたのだが、信からの祝い酒を断る訳にもいかず、王賁は注がれた酒をぐいと煽った。

しっかりとした苦味と酸味が口いっぱいに広がる。雑味が全く入っていない良い酒だった。

「色々あって宴に出れなかったから、自分の屋敷で祝い酒してたんだけどよぉ…やっぱり王賁の顔見て言いたかったから、来て良かったぜ」

信も自分の杯に酒を注ごうとするが、王賁は目にも止まらぬ速さで、彼女の手から酒瓶を奪い取った。

「貴様、飲み過ぎだ」

「まだここ座ってから一杯も飲んでねえって!」

「ここに来る前に存分に飲んだんだろうが。この酔っ払い」

王賁から酒瓶を奪い取ろうとする信の手を振り払い、王賁は侍女に水を持ってくるように声を掛けた。

「だって、王賁が将軍になったんだから、そりゃあ祝わねえと…」

仄かに赤い顔で笑顔を見せる信に、他の家臣や兵たちが鼻の下を伸ばしていることに気付いた。

普段着ない女物の着物に身を包んでいるとはいえ、中身はいつもの信と何ら変わりない。

大きく足を広げており、着物の隙間から彼女のすらりとした美しい白い脚が覗いていた。

何の躊躇いもなく無防備な姿を見せる信に、王賁はどうしようもない苛立ちを覚える。

こんなことなら、色気の欠片も名家の気品さもない普段のような格好の方が良かったかもしれない。

少し目つきは悪いが、黙っていれば申し分ない端正な顔立ちだ。笑顔を浮かべるだけで彼女に心を奪われる男も多いだろう。

王騎と摎の養子になった彼女は下僕の出で、王家の血は入っていないが、それでも王賁や蒙恬よりも早くに大将軍となった実力を持っている。

彼女の強さは王賁も認めざるを得なかった。

幼い頃の手合せでは、当然のように王賁が勝っていた。

初陣を済ませる頃には、信と手合せをすることもなくなったが、戦で挙げた武功の数を比べると、明らかに王賁は信に後れを取るようになっていた。

王賁が遅れを取り戻すよりも早く、いつの間にか信は本能型の武将としての才を芽吹かせ、あっという間に大将軍の座に上り詰めた。

此度の戦での武功が認められて、王賁もようやく将軍の座に就いたとはいえ、信との間にある武功の数は少しも埋まっていない。

王賁はそれが歯痒くもあったし、改めて信の強さを意識せざるしかなかった。

しかし、今の信には大将軍の面影は少しも見当たらない。

どうしてこんな女が自分よりも高い目線で戦場を見渡しているのだろうと王賁は時々不思議に思うことがあった。

 

信の縁談相手

「…あ、王翦将軍は?来てねえのか?」

侍女が持って来た水に口をつけながら、信が問う。

王賁は杯を握る手にぐっと力を込めた。

父である王翦から将軍昇格に関して、何も声を掛けられなかった。

論功行賞の場にはいなかったが、報せは聞いているだろう。元は王翦の側近だった関常が今回の昇格を告げたかもしれない。

しかし、音沙汰がないということは、王賁が将軍になったことに興味を抱いていない証拠だ。

何も答えず、酒に映る自分の姿を見つめている王賁に、信は察したようで、そっか、と呟く。

「あのさ、王賁…」

信が何か言いたげに王賁を見つめる。

少し困ったような視線を横から送って来ているのは気づいていたが、王賁は目を合わさなかった。

父との不仲は昔からだ。

いや、不仲と表現するのはおかしいかもしれない。少なくとも、王賁は王翦を父として、将軍として認めていた。

王翦と共に戦に出ることはあっても、父らしい声を掛けてもらった覚えは一つもない。

きっと王翦は自分が息子であることに、家族としての感情は抱いていないのだ。

決して寂しいという訳ではないのだが、時折未練がましく、幼少期に王翦が声を掛けてくれた時のことを思い出すことがあった。

王賁が父である王翦をどう思っているのか、信は分かっていた。だからこそ、掛ける言葉に悩んでいるのだろう。

慰めてもらいたい気持ちなどない。信が何を言おうと無意味だ。

自分と王翦は父と子という関係があったとしても、今の平行線の関係が続いていくのだと王賁は思っていた。

だが、信の発した言葉は、王賁も予想していないものだった。

「昨日…王翦将軍と会った」

「!」

驚いて王賁が信の方を振り返る。

酒に酔っていて、先ほどまでへらへらと笑っていた彼女の表情は別人のように、真剣なものになっていた。

「悪い。俺、隠しごととか…そういうの、出来ねえから」

申し訳なさそうに話す信に、王賁は無言で空になった自分の杯に酒を注いだ。

信が嘘や隠しごとが出来ない性分なのは昔からだ。彼女がわざわざこの屋敷に来たのは、将軍の昇格の祝いではなく。王翦と会ったことを告げに来たのだろう。

息子が将軍になった報せを聞いておきながら、一体、信にどのような用件を告げたのか。王賁は黙って彼女の話に耳を傾けていた。

王賁が無言で話の続きを促していることに信も気づいていたが、よほど言い辛い内容なのか、口を僅かに開いては、声を出す前に閉じている。

「…なんだ。勿体ぶらずに言え」

父のことだ。どうせ自分の将軍昇格に興味がないだとか、そんな分かり切った内容だろう。

さっさと話せと王賁が信を睨み付けると、彼女は意を決して、大きく息を吸った。

「王翦将軍に、縁談を申し込まれた」

「…………」

王賁は何も言わず、瞬きを繰り返していた。

聞き間違いだろうか。今、縁談という単語が出て来たような…。

信が気まずそうに口を閉ざしたのを見て、聞き間違いではないことを知る。

(父が信に縁談を申し込んだ?)

そんな馬鹿な話があるものか。王賁は顔を引き攣らせながら、信を見つめる。冗談にしては質が悪い。

宴の席で蒙恬が話していた、信に縁談を申し込んだ相手が王翦だったというのか。

だとしたら、信が宴に来なかった理由は、王翦からの縁談の申し入れを決めたから?まかさ、王翦の縁談を了承したというのか。

「………」

顔を真っ赤にして俯いた信を見て、王賁は文字通り言葉を失った。

今の話が冗談ではないことは彼女の態度を見れば分かる。

他の家臣たちは王賁の動揺に気付かず、楽しそうに騒いでいる。

賑やかな談笑が、皮肉にも王賁と信の沈黙をかき消していた。

「………」

王賁の手から杯が滑り落ちる。派手な音を立てて床に酒を零してしまい、気づいた侍女が慌てて布を持って駆け寄って来た。

立ち上がった王賁は、無意識のうちに信の手首を掴んでいた。

「お、王賁ッ!?」

「来い」

引き摺るように信の手首を引きながら、王賁は宴の間を出ていく。

「王賁ッ、痛ぇって!」

強く掴まれているせいで、信が顔を歪ませる。彼女の悲鳴に近い声に、家臣たちが何事かと驚いて視線を向けていた。

宴の間を出ようとする途中で番陽と目が合うと、

「誰も俺の部屋に入れるな。人払いをしろ」

王賁は低い声で指示を出した。

番陽は驚きながらも、王賁のあまりの威圧感に、無言で頷くことしか出来なかった。

妬み

有無を言わさず信を自室に連れて来ると、王賁は信を寝台の上へ乱暴に突き飛ばした。

「な、なんだよッ…!隠さないで言ってやったのに!」

背中を打ち付け、痛みに顔をしかめながら信が反論する。

「そんなのはどうでもいい。どういう意味だ。父から貴様に縁談だと…?」

「も、もちろん断ったぞ!?」

「当たり前だッ!」

言葉を被せるように王賁が怒鳴ったので、信は寝台の上でびくりと肩を竦ませる。

王翦からの縁談を断ったと聞いて、王賁は怒りながらも安堵していた。

「なんで、そんな怒ってんだよ…!断ったって言っただろ!」

断ったという事実を聞いておいて王賁が少しも安堵せず、それどころか、苛立ちを増している理由が分からなくて信は狼狽える。

信に問われ、ようやく王賁は自分が怒りの感情に支配されていることに気付いた。

まさか父である王翦までもが彼女に心を奪われたというのか。

とても信じられず、その疑いを晴らすというよりは、王賁は信に対して無性に怒りを覚えていた。

下僕の出であり、互いの立場を気に留めず、誰とでも話す彼女の明るい性格に救われた兵も民も大勢いるという。

実らぬ恋だと分かりながらも、信に想いを寄せている男が大勢いるのだという噂を蒙恬から聞いたのは、昨夜の宴でだっただろうか。

父からの婚姻の申し出を断ったとはいえ、今後もこのようなことが続くのかと思うと、王賁は今すぐにでも信を自分のものにしなくてはと考えていた。

幼馴染である信が自分以外の男に嫁ぐ姿など想像もしたくない。

それは決して愛情などではなく、独占欲の類だと王賁は思っていた。

今までも信の元に縁談話が届くことはあったが、信は全く興味を示さずに断っていたのだ。

王翦からの縁談も同じように断ったとはいえ、王賁は耐え難い不安に襲われる。

いつか自分以外の男が信の夫と名乗り、彼女の隣を歩くのかと思うと、腸が煮えくり返りそうだった。

しかもそれが王翦だと思うと、それだけで王賁は大声で叫び出してしまいそうなほど嫌悪した。

「も、もう帰る…」

怒りの色を示している王賁にたじろいだ信は、寝台の上から降りようとした。

しかし、王賁はすぐに彼女の体に跨って、その両手首を敷布の上に押さえつける。

何をするんだと信が抵抗を始めるより前に、王賁は彼女の唇に己の唇を押し当てていた。

「―――ッ!」

驚いて硬直していた信がはっと我に返り、王賁を突き放そうと両手に力を込める。しかし、王賁も彼女の両手首を決して放さない。

触れるだけの口づけではあったが、唇が離れた頃には、信は顔を真っ赤にして肩で息をしていた。

手首を押さえつけていた王賁の手がようやく離れる。

信の着物の帯にその手が伸びたのを見て、信は慌てて彼の手を押さえた。

これから何をされるか、バカな彼女でも察したのだろう。

「や、やめろって…!王賁…!俺たちは、恋人でも、夫婦でもないだろ…!」

「なら、なればいい・・・・・ッ!」

王賁の言葉を聞き、信は目を見開いた。

何を言っているのか、理解しているのだろうか。信は問い掛けようとして、言葉を詰まらせた。

あまりにも弱々しい王賁の顔がそこにあったからだ。

まるで親とはぐれた迷子のような、今にも泣きそうな表情だった。

そんな王賁の顔を見るのは信は初めてで、決して冗談を言っているつもりも、からかっているつもりもないのだと理解できた。

「ほ、本気、なのか…?」

信が声を掛けると、王賁がぐっと奥歯を噛み締めたのが分かった。

表情は変わらず弱々しいままだった。まるで信に拒絶されるのではないかと怯えているような態度に、信は胸がきゅっと切なく締め付けられる。

しかし、王賁は信から目を逸らすことはなかった。

決して嘘ではないとその目が訴えている。

「信…」

王賁の手が信の頬を包む。

常日頃から槍を握っているマメだらけの手の平から伝わる温もりに、信の鼓動が速まった。

顔が燃えるように熱くなり、信は王賁から目を逸らしてしまった。

「目を逸らすな。俺を見ろ」

「だ、って…」

咎めるように王賁に囁かれるが、信は目を向けることが出来ない。

王賁に見つめられているだけで顔の火照りが止まらない。言い知れぬ羞恥に駆られて、信は顔を上げられなくなってしまった。

頬に触れていた王賁の手が顎に滑り、顔を持ち上げる。

無理やり目線を合わせられて、信は困惑した。

あからさまに戸惑っている信の様子に、王賁はますます歯痒い気持ちに襲われる。

「…父などに渡すものか…」

王賁の両腕が信の体を強く抱き締める。

「お、王賁…?」

「貴様が、他の男のものになるのは、許せない」

嫉妬しているとしか思えない彼の言葉に、信は思わず声を喉に詰まらせた。

王賁は信の体を抱き締めながら言葉を続けた。

「…嫌なら、俺を殴りつけてでも逃げろ」

そう言って王賁が着物の帯に手を伸ばしたので、信は彼が本気で自分を女として見ていることを悟るのだった。

選択の時間を与えているかのように、王賁はゆっくりと帯を解いていく。しかし、信は決して逃げる素振りを見せない。

やがて帯が解かれて、襟合わせが開かれても、信は抵抗しなかった。

せっかく忠告してやったのに何をしているのだと王賁が信を睨む。しかし、信は顔を真っ赤にしながら下唇を噛み締めたまま動かない。

「…なぜ逃げんのだ」

「に、逃げてほしかったのかよ…!つーか、言わせんなよッ…!」

逃げなかった理由を察しろと信が怒鳴る。もちろん王賁は彼女が逃げない理由など手に取るように分かっていた。

しかし、本当にこんな幸せなことがあっても良いのだろうかと、王賁自身も戸惑っていたのだ。

「…嫌だと言っても、放す気はないぞ」

覚悟しろと王賁が言うと、信は小さく頷く。それから二人は顔を見合わせて、笑った。

束の間の幸福

王賁が目を覚ますと、窓から差し込む朝陽が室内を満たしていた。

腕の中で静かに寝息を立てている信の姿を見て、昨夜の情事を思い出す。

永久にも思えた昨夜のあの時間で、信と幼馴染と戦友という一線を越えてしまったのだ。

決して酔いのせいでもないし、当然ながら後悔はしていない。

本当はずっとこうしたかったのだ。

幼馴染でも戦友でもなく、一人の男として信を愛したかった。

自分の首に腕を回し、愛らしい声で何度も自分の名前を呼んだ信の姿が瞼の裏に蘇る。

散々愛し合ったというのに、その姿を思い浮かべるだけで王賁は再び下腹部に熱いものが込み上げてくるのが分かった。

ぐっと拳を握り、自分を制す。

幾つもの死地を駆け抜けた信の体は傷だらけであったが、その傷痕さえも彼女の一部だと思うと愛おしさが込み上げる。

傷跡の他に、彼女の肌には赤い痕が残っている。昨夜の情事で、王賁がつけたものだった。

「ん…」

肌寒さを感じたのか、温もりを求めて信が王賁の体にすり寄った。

無意識のうちに自分に甘える彼女に王賁は息を詰まらせる。

思わず信の額に唇を落とすと、王賁は一体何をやっているのだと自分に問いかけた。

きっと今の自分は情けなく顔を緩ませているだろう。しかし、これ以上ないほどに胸が満たされていた。

信の体を抱き寄せて、寝具を掛け直してやる。

普段ならば、もう身支度を済ませて槍の鍛錬を始める王賁だったが、今日だけは特別に自分を甘やかすことにした。

信の不在と王翦の報せ

―――後に行われた戦でも、王賁は大いに戦果を挙げた。

玉鳳軍の兵たちの士気も右肩上がりで、この勢いを続けていれば、大将軍の座に就くのもそう遠くはないだろう。

信が率いる飛信軍は此度の戦にも参加していない。

最近の飛信軍は、隣国から侵攻の気配がないかを調査したり、急な侵攻に備えて待機していることが多いようだ。

論功行賞の後に開かれた勝利を祝う宴で、王賁はあることに気が付いた。

(…いない?)

祝宴の場に、信がいないのだ。

酒が入るとすぐ上機嫌になって、すぐ王賁に絡みに来る信の姿が見えないことに、王賁は疑問を抱いた。

盃を傾けながら、王賁は信の姿を探した。

彼女自らここに来ないということは、蒙恬や自分の軍の者たちと共にいるかもしれない。

しかし、飛信軍の副官と軍師である少女たちの姿は見つけたのだが、信の姿が見つからなかった。

バカ騒ぎをするのが大好きな彼女が宴を欠席するなんて珍しい。

王賁が将軍になった時の宴にも参加していなかったが、あの時は王翦に縁談を申し込まれたと言っていたこともあり、王賁に合わせる顔がなかったのだろう。

だとすれば、今日の宴の席に信がいない理由は何だ。

(まさか、また父が…?)

宴の席にいないのは信だけでなく、王翦もだ。

元々王翦は寡黙な男であり、好んで宴に参加するような人物ではないのだが、信に縁談を申し込んだ話と、二人が宴に参加していないことに、何か繋がりがあるような気がしてならない。

嫌な予感がして、王賁は信の所在を知って良そうな飛信軍の副官と軍師の少女たちの元へと向かった。

「おい、貴様ら」

声を掛けると、河了貂と呼ばれる軍師の少女がぎくりと顔を強張らせた。

副官の羌瘣という少女は王賁には一目もくれず、その細身からは想像も出来ないほど大量の食事をかき込んでいる。

「貴様らの将はどこにいる」

王賁が問うと、河了貂が戸惑ったように目を泳がせたので、王賁の眉間にますます皺が寄った。

「あ、えっと、信のこと、だよな?」

こちらが質問をしたのに、河了貂から質問で返される。

一体何の話だと王賁が聞き返せば、大きな猪肉を頬張っている羌瘣がようやく顔を上げた。

「信は今、大王のところにいる。今後しばらくは戦も宴も出ないだろう」

「は…?」

羌瘣の言葉は、王賁が尋ねた質問の答えをきちんと返していた。

しばらく戦も宴も出ないとはどういう意味だ。

あっと言う間に猪肉を飲み込むと、羌瘣は指についた猪肉の油をを舐め取っていた。

「王翦将軍があちこちで話をしている。…信と家族になれる・・・・・・・・だなんて、良かったじゃないか」

「―――」

まるで鈍器で頭を殴りつけられたかのような衝撃に、王賁は絶句する。

王翦が信の話を広げているという事実に、全身の血液が逆流する感覚を覚えた。

(バカな…!あいつは父の縁談を断ったはずだ!)

王翦が信を嫁に迎え入れたというのか。あの寡黙な父が噂を流しているだなんて、余程の報せでないと有り得ない。

数か月前、王賁が将軍昇格が決まった時に、信は王翦からの縁談の申し入れを断ったと言っていた。

まさかまた父が縁談を申し入れたのか。それとも信が断りの返事を取り止めたのか。

王賁の目の前がぐらぐらと揺れる。

酒の酔いが回ったのだろうか。謎の頭痛まで出て来て、王賁は気分が悪くなり、外の空気を吸おうと足早に宴の間を抜け出した。

宴の間を出ると、外のひんやりとした空気に頭痛が和らいだ。

信の裏切り

手摺りに凭れながら、空を見上げる。

今日は三日月だ。戦で武功を上げ、秦を勝利に導いたはずなのに、何故こんなにも気が重いのだろう。

「あ、王賁」

背後から声を掛けられて振り返ると、信だった。

大王の嬴政と何かを話していたと言っていたが、用件は済んだのだろうか。

手巾で口元を拭っている彼女を見て、王賁は先ほどの羌瘣から聞いた言葉を思い出し、怒りが込み上げた。

「貴様ッ、一体何を考えている!」

信の肩を掴み、王賁は怒りの感情のままに怒鳴りつけた。

幸いにも宴の間から流れて来ている大きな談笑のせいで、王賁の怒鳴り声は他の者たちの耳に届くことはなかった。

しかし、目の前にいる信にはしっかりと伝わり、彼女は戸惑ったように狼狽える。

「な、何って…」

「…大王にも、その報告をしていたのか」

信が小さく頷く。

王賁の怒りは安易に消せないところまで燃え広がり、彼女の肩を掴む手に思わず力が籠もってしまう。

「誰の許可を得て婚姻するつもりだッ!このバカ女がッ!」

再び王賁に怒鳴られ、信は困惑した表情を浮かべながらも、唇をきゅっと固く引き結んだ。

「…喜んでくれると、思ったのに…」

消え入りそうな声で信がそう呟いたが、王賁の耳には届かなかった。

しかし、信の瞳にうっすらと涙が浮かんだのを見て、王賁の心が僅かに揺らぐ。

自分以外の男――まして父の王翦との婚姻など、認められるはずがない。

王賁は信を睨み付けていたが、信も目を真っ赤にして王賁を睨み付けた。

「お前の言う通り、俺がバカだったッ!」

信の瞳から涙が一筋流れる。

しかし、王賁もここまで来て引く訳にはいかなかった。

どうしてだ。あの日の夜、信が自分に言った言葉は嘘だったのだろうか。

王賁が信に告げた言葉は、全て偽りなき想いだったのに、全て裏切られた気分になる。

「もうお前なぞ知らんッ!」

もうどうでもいい。

口を衝いて出た王賁の言葉を聞き、信の瞳からとめどなく涙が流れ出す。

こんな言い合いをして、信を泣かせたのは幼い頃以来だろう。

幼い頃の王賁は王家の血を引いていない信を、立場の弁えない娘だと罵っていた。

天下の大将軍である王騎と摎の娘のくせに、王家の血を引いていない彼女が王家を出入りすることに王賁は子どもながらに憤りを感じていたのだ。

今考えてみれば、それは単なる妬みだった。

王騎と摎と血の繋がりを持たない信が、まるで本当の娘のように甘やかされていることが気に食わなかったのだ。

自分は王翦の血を継いでいるはずなのに、なぜ父は、王騎が信にするように甘やかしてくれないのか。

子どもの頃の王賁には何一つ事情が分からなかった。だからこそ信に嫉妬してしまったのだ。

―――立場を弁えろ。将軍たちと血の繋がりもない元下僕のくせに。

しかし、王賁の言葉に激怒した信が、泣きながら鍛錬用の模造剣で、

―――俺は父さんと母さんの娘だ!謝れコノヤロー!

王賁の頭を思い切り殴って来たことは今でもよく覚えている。

今の信の表情が、幼い時の彼女と重なり、王賁は思わず言葉を詰まらせていた。

「もう、…お前となんて一緒にいられねーよッ!」

信は肩を掴む王賁の手を振り払い、踵を返してその場から走り去っていった。

残された王賁も彼女を追うことはしない。

しかし、棘が刺さっているかのように、胸がちくちくと痛む。

信を愛しているはずなのに、泣かせてしまったことを、冷静な自分が後悔しているのだ。

彼女が自分以外の男を夫と呼び、隣を歩く姿を見たくないと思っていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。

このまま王翦との縁談話が進み、自分は信を母と呼ばなくてはならない日が来るなんて、悪夢でしかない。

「はあ…」

王賁は宴の席に戻ると、酒に溺れたのだった。

戦で武功を挙げた自分を褒め称えるのではなく、全てを忘れたかった。

 

後編はこちら

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