セメタリー(李牧×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/慶舎×信/秦敗北IF話/ヤンデレ/監禁/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

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昔話

李牧が宮廷から屋敷に戻った頃には、既に陽が沈みかけていた。

従者に馬を預け、すぐに信のいる部屋へ向かうと、留守を任せていた慶舎が扉の前に立っていた。手の甲に蜘蛛を歩かせて遊んでいる。

鍵を外してしまったこともあり、扉の前で立ち塞がって鍵代わりになってくれていたらしい。本当に良く出来た律儀な弟子だ。

師である李牧が帰宅したことに気付くと、慶舎はゆっくりと顔を上げた。

「李牧様。あの娘、また脱走しました」

「おや、随分と元気なのですね。安心しました」

扉の前に立ちはだかりながら報告するということは、今回も無事に脱走は阻止されたのだろう。

今頃は部屋の中で泣いているに違いないと思ったが、すすり泣く声が聞こえなかったことから不貞寝しているのだろうと考える。

「李牧様」

手で蜘蛛と戯れながら、慶舎が李牧に声を掛けた。

「なんですか」

「…人を愛するとは、好きになるとは、どういうことなのでしょう」

まさか弟子からそのようなことを問われるのは初めてのことだったので、李牧は驚いた。

戦に関すること以外は、良い意味で損得勘定を持たぬ慶舎が人の感情について尋ねるとは珍しい。

「…なぜ、そのようなことを?傅抵にでも何か言われたのですか?」

普段から色話をするのも聞くのも好きな傅抵ならば、思い当たる節はあるのだが、慶舎が自分に尋ねるというのは、よほどの好奇心が彼を動かしているということだ。

「いえ。秦の、あの娘に」

「信が?」

扉の方を見やりながら慶舎が言ったので、李牧はまたしても目を丸めた。

「彼女が、あなたに何を?」

「…“ただ黙って脚を開くのは、好きになることではない。そんなのは、娼婦と同じだ“と」

そんな風に慶舎に話していたのか。李牧は苦笑を浮かべることしか出来なかった。

「李牧様があの娘を愛しておられるのは承知しております。しかし、なぜあの娘が李牧様を愛さないのか、理解出来ないのです。これほどまでに李牧様から寵愛を受けているのに、一体なぜ」

幼い頃、両親を目の前で殺されたという慶舎には、感情というものを理解する力が他者より乏しい。それは軍略に長ける彼の弱点とも言える。

李牧はまるで慈しむような優しい瞳で微笑んだ。

「軍略と同じで、人を愛することには色んな形があるんです。ただ、あなたは絶対に真似をしてはいけませんよ」

趙の未来を想ってこそ、自分が知り得る軍略なら惜しみなく授けよう。しかし、この愛し方だけは絶対に真似をさせる訳にはいかなかった。

ただ、この弟子には自分と近いものを感じる。それは、欲しい物を手に入れるためならばどんな手段も厭わない強欲な一面があることだ。

李牧は、愛しい女を手に入れるために自分が行って来たことを、一度も間違いだと思ったことはない。

しかし、その方法はあまりにも強欲過ぎたのだ。歴史を改変させてしまうほど、李牧の想いは揺るぎなく、そして強かった。

本当に相手のことを想うのならば、この手段はあまりにも残酷過ぎる。それでも李牧がこの道を選んだのは他でもない彼女との約束を守るためだった。

「…私も、不思議なんです」

瞳に寂しい色を浮かべながら、李牧が口を開いた。

「彼女から微塵も愛されていないと理解しているのに、彼女を手に入れたことに幸せを感じている。…彼女と会った時に、私は、狂ってしまったのかもしれませんね」

「…あの娘と会ったというのは、戦場で、ですか?」

二人の出会いを知らない慶舎の問いに、李牧はゆっくりと首を振った。

「いいえ。私と慶舎が出会う前…まだ将として戦っていた時に、実は一度だけ彼女に会っているんです。家族も仲間も、守るべきものを全て失い、あとは野垂れ死ぬのを待つだけだった私を、信は手厚く介抱してくれたんです」

あの恩は一生忘れません、と李牧が呟いた。

長い付き合いである弟子や側近たちでさえ知らない過去を知り、慶舎は何度か瞬きを繰り返した。

「……なぜ、そのことをあの娘は覚えていないのです?」

信は自分が将軍にならなければ李牧に見初められることはなかったと話していた。李牧に手厚い看病をしていたというのに、まるでそのことを知らないような口ぶりだったことに、慶舎は疑問を抱く。

しかし、李牧は当然のように答えた。

「十年以上も前のことですし、初めて会った当時の彼女はまだ子供でした。…どうやら、王騎の手厳しい修行の最中だったようです。彼女も厳しい修行をこなすのに必死だったんでしょう」

その時のことを思い出したのか、懐かしむように李牧が頬を緩めた。

「…まさか、あの時の少女が秦の大将軍にまで成長するなんて、当時は思いもしませんでした。そして私も、趙の宰相になり、敵として再会することになるなんて、想像もしていませんでした」

「………」

伏し目がちに、李牧が言葉を続ける。

「春平君が呂不韋によって拉致され、秦趙同盟を結んだあの日…宴の席で信と出会って、すぐにあの時の少女だと分かりました。でも、残念ながら、彼女は何も覚えていなかったんです。私と交わした約束のことも、何もかも…」

「………」

何も答えず、微塵も表情を変えず、慶舎はじっと李牧のことを見据えている。視線に気づいた李牧は困ったように肩を竦めた。

「ふふ、こんな話を聞かせてしまってすみません。…でも、彼女と再会したことに、私は何か縁を感じてどうしようもなかったんですよ」

「………」

「たとえ、信が二度と笑顔を見せてくれないとしても。私は、欲張りですから、誰にも彼女を渡したくなかったんです」

強欲。それが李牧が信を手に入れるために秦を潰した何よりの原動力だ。

「…きっと私は、彼女よりも先に逝くでしょう。国の命運と同じで、寿命は変えられませんからねえ」

あはは、と李牧が笑う。

「でも、私はとても意地悪なんです。寿命が来て、私が信の傍を離れることになっても、彼女を解放したくありません。だから、彼女がいつだって私を思い出せるように、子を孕ませたのですよ」

「聡明なお考えかと」

嫌味でもない、社交辞令でもない、何の感情も籠っていない慶舎の言葉に、李牧は少しだけ救われた気になった。

「そんなことを言ってくれるのは慶舎だけですね。カイネや傅抵たちに言えば、きっと軽蔑されてしまいますから」

李牧の大きな手が慶舎の頭を優しく撫でた。

それから彼は一度も振り返りもせず、信がいる部屋の扉を開けて中へ入るのだった。

 

旧時

―――袖の中に死骸の耳を詰め込んだ後、幼い信は長い時間を掛けてようやく崖を登り切った。

突き落とされるのは簡単だが、崖を登るのはかなり至難の業だ。子どもの身軽さを持ってしても、苦難の連続である。

幾度も滑り落ち、爪は剥がれ、数え切れない擦り傷が出来た。ようやく崖を登り切ったところで、信はやっと帰れるのだと思うと、安堵のあまり、大声を上げて泣き喚いてしまった。

崖に落とされた時は愕然とするばかりだったが、一度も涙は流さなかった。

どこの国かも分からない兵たちに襲われて剣を振るい、その命を奪った時も信の心は既に麻痺をしていたのだ。

握り締めた柄越しに感じた肉と血管を絶つ嫌な感触。それを今になって思い出し、信は胃液を吐いた。

思えば人を殺すのは初めてだったのだが、他に自分を助けてくれる者はいないのだと思うと、そんなことには構っていられなかったのだ。

ようやく帰れるという安心感に包まれたことで、あの森で過ごしていた数日が、いか日常を逸脱していたものかを痛感する。

あの森にいた兵たちの人数など、戦場に立つ父と母にしてみれば生温いことだろう。

鍛錬用の木刀を振るい、目に見えぬ敵をいくら切ったところで、それは何の力にもならないのだと信は改めて思い知らされた。

実践を重ねた数だけ、死地を乗り越えて来た数だけ、それは確実に力となる。それはまさに父と母の六大将軍と称される強さを裏付けるものだった。

涙と吐瀉物で顔をぐちゃぐちゃにしながら、尚も泣き続けていると、上から大きな影が現れて信の体を包み込んだ。

「ココココ。思ったより早かったですねェ」

父だった。凰という名の愛馬から降りて来ると、まじまじと信のことを見つめた。

娘の着物と背中に携えている剣は血に塗れていたが、屋敷に帰る条件として与えたものは何処にも見当たらない。

「…十人討ち取った証はどうしたのです?それがなければ屋敷には入れませんよ」

信は涙を拭うこともせず、着物の袖から十人分の耳を取り出し、地面に並べた。全て左耳であることから、十人とも別の人間であることを理解し、王騎が満足そうに「ンフゥ」と微笑んだ。

「あなたのことだから、てっきり十人分の首を担いで来ると思っていたのですがねェ」

「十人の首担いで崖なんか上がれねえだろッ」

それまで幼子のように泣きじゃくっていた信がようやく普段の自分を取り戻したかのように、目をつり上げて父を睨み付けた。

「信!」

少し離れたところから女性の声がして、信は反射的に振り返る。こちらに馬を走らせている母だった。

ずっと心配してくれていたのだろう、今にも泣きそうに顔を歪めている母の顔を見ると、信の瞳から引っ込んだはずの涙が溢れ出て来る。

馬から転がるように降りて来た摎が、自分の着物が汚れるのも構わずに娘の体を抱き締める。

「よく頑張った…本当に、よく、生きていてくれたね…」

母の腕と愛に包まれ、信はそれまで張り詰めていた糸がふつりと切れ、再び大声を上げて泣き喚いた。

本当は怖くて堪らなかったのだ。弱い自分がたった一人で生き抜くことなど出来るのかと不安で堪らなかった。

摎は信の気持ちを受け止めるかのように、ずっと娘の体を抱き締め続けていた。

…やがて、泣き疲れて摎の腕の中で眠りに落ちた信を見下ろし、王騎がようやく彼女の頭を撫でた。

「素直に抱き締めてあげたらどうです?崖から突き落としておいて、王騎様だって心配していたくせに」

細い体に見合わず、摎は娘の体を片手でひょいと担いで馬に跨った。

まるで虎の親子のように、崖から娘を蹴落とした王騎だったが、娘がいつ帰って来るのか一番気になっていたのは王騎本人だったのだ。

いつもこの場所まで馬を走らせては、崖の下を覗き込み、信が上がって来る気配を探っていた。声を掛けた訳でもなかったのだが、摎も必ず一緒だった。

「信に嫌われても知りませんよ」

愛馬の凰に跨った王騎が、妻の言葉にココココと独特な笑い声を上げる。

「摎」

「はい」

「…あの簪、良かったのですか?」

眠っている信の髪に差していたはずの簪がなくなっていることに気付いたのは、摎だけではなく、王騎もだった。

摎は少しの沈黙した後、ゆっくりと頷いた。

「…ええ。きっと、あの簪に宿る王騎様の想いが、信を守ってくれたのでしょう」

そう言って微笑んだ摎の瞳には、哀愁のようなものが浮かんでいた。

信の髪に差していたのは、摎が王騎と婚姻をする時に、王騎から授かった物だった。

男が女に簪を渡す意味を知っていた摎は、王騎と婚姻をする約束であった百個目の城を落とした時より歓喜したことを覚えている。

宝物のように扱っていたその簪を、摎は此度の修行が始まる時に、娘の髪に差してやり、無事に帰って来るよう祈っていた。

突き落とされた崖の下では、多くの者と戦ったのだろう。傷だらけの身体と血塗れの着物と剣がそれを示していた。

信とは血の繋がりはない。しかし、養子として引き取ってからは本当の親のように慕ってくれている愛しい娘である。

親である自分たちの影響なのか、いつからか剣を振るい出した信の素質を見抜き、王騎は彼女を戦場へ連れ出すようになっていた。命がけの厳しい修行も、彼女が死地を生き抜くためには欠かせないものである。

…きっと、あの簪は戦いの最中で落としてしまったのだろう。

それでも、お守りとして渡していた物だったのだから、こうして無事に帰って来てくれただけで十分だ。

愛する夫からの初めての贈り物だったこともあり、未練がないといえば嘘になる。それでも娘の命には代えられないと摎は何度も自分に言い聞かせていた。

今となっては、簪よりも、この娘の存在が二人の宝なのだから。

 

悪夢

信はゆっくりと重い瞼を持ち上げる。視界に見慣れた天井が広がっており、自分はまだ悪夢の中にいるのだと信は溜息を吐いた。

慶舎に部屋へ連れ戻され、ずっと泣き続けていたせいで頭が痛む。泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。

(夢…?)

随分と昔の夢だった。朧げな記憶ではあるが、自分が初めて人を殺した時だというのは覚えている。

こちらは何もしていないというのに自分の身なりを見て、金目の物を奪おうとしたのか、子どもであっても容赦なく武器を向けて来た兵たちがいた。生き抜くために、両親の下へ帰るために、信は彼らの命を奪ったのだ。

剣の柄を通じて感じた肉と血管を断つ、あの嫌な感触。今では何とも感じなくなっていたが、当時の幼い自分には衝撃が強過ぎた。

記憶に靄が掛かっているのは、あまりにも辛かった記憶であるため、体が思い出さないようにしているのだろう。正気を保つための術なのかもしれない。

もう一つ覚えていることがある。不安と孤独に苛まれていた時に、傷だらけでぼろぼろだった一人の男を助けたことだ。

顔はよく覚えていないが、今思えば、兵たちに追われていた彼は、敗国の将だったのだろう。

―――すまない…全て、俺の責だ…全て…俺が…

意識のない彼が誰かに謝りながら涙を流している姿を見て、この男も辛い思いをしているのだということは子どもながらに理解出来た。

大人とは泣かない生き物なのだと子どもながらに思っていたが、それは違ったらしい。
この男も自分と同じように孤独に苛まれているのだと感じ、信は着物の裾を破って、男の傷口を止血し、水を飲ませて、出来る看病を行った。

自分がここで死ねば、この男もじきに死ぬ。

両親のような大将軍になりたいと大口を叩いておきながら、目の前にある弱い命を救えずに、本当に将になるつもりなのかと信は自分に問うた。

男が何者なのかは結局わからなかったし、顔も名前も覚えていない。しかし、彼のおかげで信はあの厳しい修行を生き抜くことが出来たのだ。

「―――!」

扉が開く音がして、信は反射的にそちらに目を向ける。李牧だった。

城の建設や守備の手配で激務な日々を送っている彼と最後に会ったのは一体いつだっただろう。確か赤子が初めて腹の中で動いた時だっただろうか。

「顔色は良さそうですね」

目が合うと、彼は相変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべて、こちらへ近づいて来た。寝台の端まで身を捩り、信は李牧のことを睨み付ける。

威嚇する子猫のような態度が可愛らしく、李牧は思わず笑ってしまった。挑発するつもりは一切なかったのだが、その笑い声に、信の目がますますつり上がる。

「ぅ…」

その時、腹の内側をゆっくりと抉られるような、何とも言い難い感触がして、信は思わず呻き声を上げた。咄嗟に膨らんでいる腹に手を当てると、赤子が中で動いているのが分かる。

寝台に腰掛けた李牧がその手を伸ばして彼女の腹に触れる。胎動を感じたのか、李牧の目が嬉しそうに細まる。

「今日、趙王にも報告をしたのですよ。この子の名前を考えてくださるそうです」

「っ…!」

触るなとその手を払いたかったのだが、睨み付けることしか出来ないのは、李牧に全てを奪われたことに対する恐怖が怒りよりも上回っているからだ。

相国という立場まで上り詰めた男ならば、王族のように、妻が何人いてもおかしくはない。だというのに、李牧は信だけを妻に迎え入れ、子を孕ませた。

それは信を逃がさないための足枷を作るためだけの行為であり、恐らく赤子に対しての感情など持っていないに違いない。

だからこそ、李牧の機嫌一つでこの尊い命も簡単に奪われてしまうのではないかと思うと、信は恐ろしくて堪らなかった。

心が彼に屈し始めていることに、信は気づいていない。

「…信」

優しい声色のはずなのに、信には恐ろしい響きだった。

袖の中から何かを取り出した李牧が、信の手の平にそれ・・を握らせる。

「ようやく、あなたにこれを返すことが出来ました」

赤い宝石が埋め込まれた金で出来た簪にはひどく見覚えがあり、信は目を見開いた。

「…この、簪…」

顔から血の気を引かせて震え始める信を見て、李牧は思い出に浸るように目を伏せる。

「…昔、命の恩人から頂いたものなんです。頂いてからは、ずっと、私のお守りでした」

お守りという言葉に、信の頭がずきりと痛んだ。

―――綺麗でしょ?

確か亡くなった母もその言葉を使って、これとそっくりな簪を大切に扱っていた。

大切な物なのだと言っていた母の笑顔が瞼の裏に浮かび上がる。

その簪が王騎から初めてもらった贈り物だというのを知ったのは、信があの修行を終えてからのことだった。

何も知らずに信は剣を振るう時に邪魔だからと男に渡してしまい、ひどく後悔したことを覚えている。しかし、父も母も簪を失くしたことを責めることはなかった。

信が生きて帰って来てくれたのは、きっとあの簪のおかげなのだと母は言っていた。

簪を渡してしまったことを素直に告げるべきか信は悩んだが、両親の気持ちを考えると、どうも後ろめたさがある。そのせいで、信は修行中に一人の男を助けたことも、その男に大切な簪を渡してしまったことも言えなかった。

あの時に助けた男の顔も名前も覚えていないのだが、父が母へ贈った大切な物だと知らずにその簪を渡してしまったことだけは、未だに信の心の中にわだかまりとして残っていた。

龐煖によって両親の命が奪われ、信も戦場に出るようになってからはすっかり忘れてしまっていたのだが…。

懐かしい夢を見ただけでなく、二度と取り戻せないと思っていたその簪がまた目の前に現れたことで、信の記憶の糸が一気に引き戻された。

 

楽園の墓場

生唾を飲み込んで、信は簪と李牧を交互に見た。

まるで信の想像を肯定するように李牧が微笑んだので、その瞬間、確かに信の中で時間が停まった。

「ま、さか…」

頭が割れそうに痛み、信は両手で頭を押さえる。何の感情か分からない涙が溢れて止まらない。

青ざめている信を見つめながら、李牧は優しい声色で言葉を続けた。

「…あなたと昔出会ったのは森の中でした。すぐ近くに川があって、あなたは息も絶え絶えの私に、水を口移しで飲ませてくれた」

「……、………」

昔話でも言い聞かせるかのような穏やかな口調で話し始める李牧に、青ざめた信が首を横に振る。

―――頼む。やめてくれ。それ以上言わないでくれ。もうこれ以上自分から何も奪わないでくれ。

驚愕のあまり、喉が塞がってしまい、李牧に制止を求めることも出来ない。

頭を掻き毟りながら、認めたくないと首を横に振っている信を見ると、李牧がくすくすと笑った。

「秦趙同盟の宴で再会した時は、何も覚えていなかったのに、ようやく思い出してくれたのですね」

「……、……、……」

嘘だ、と信の唇が戦慄く。しかし、その言葉は声にならなかった。

李牧の指が信の涙を優しく拭う。どれだけ拭っても、涙は溢れて止まらなかった。

「…俺が、助けた、せい…で」

振り絞った声は情けないほど震えていた。涙に濡れている信の瞳から、意志の光が失われていく。

幼い頃の自分は、なぜこの男を助けてしまったのか。

自分がこの男を助けなければ、父が討たれることも、秦が滅ぶこともなかった。

信の言葉を聞いた李牧が、自分の口元に手をやる。それは彼が何かを考える時の癖だ。

「…結果論で言うと、そうですね。あの時、あなたが私を見捨てておけば、王騎は死なず、秦は滅ばなかったに違いありません」

「―――ッ!」

自分の過ちが認められたことに、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

嫌な汗が止まらず、がたがたと震え始める彼女を見て、李牧は慰めるように背中を擦ってやる。

衝撃のあまり、上手く呼吸が出来ずにいる信に苦笑を浮かべながら、李牧は残酷なまでに、無慈悲な言葉を続けた。

「全ては、私を生かしたあなたの責です」

もはや李牧の言葉は、信の耳に届いていないのかもしれない。

虚ろな瞳を見開き、涙を流し続けている信の肩を抱いた李牧は、彼女の耳元に唇を寄せた。

「…ですが、このことを知っているのは私とあなただけ。このまま二人の秘密にしておきましょう?」

肩を抱いていた手を滑らせ、李牧は信とお互いの小指を絡ませ合う。

「ぅ、あ…」

もう信を責める者はどこにもいないというのに、守るべき国を、仲間を、全てを失った彼女の心は罪の意識に苛まれていた。

なぜ自分だけが生きているのかという罪の意識に、信は寝台の上で泣き崩れた。

「ぁあああああああッ!」

もう彼女には抵抗する気力など微塵も残っていないようだが、自分自身が祖国を滅ぼす元凶だと知った今なら、赤子の命など構わずに命を断とうとするだろう。この場に刃物があったなら、きっと迷うことなく彼女は自らの首を斬っていたに違いない。

もしかしたら食器や備品を割って、自ら首を掻き切ろうとするかもしれない。万が一のことを考えて、今日からは両手を拘束しておこうと李牧は考えた。

「…信」

「ぅあぁっ、ぁあっ…」

名前を呼んでも信は泣きじゃくるばかりで返事もできずにいる。恐らく李牧の声は彼女の耳に届いていないのだろう。

「私はあなたに、あの日の恩・・・・・を返しに来たんですよ」

そう囁くと、李牧は腹に負担を掛けないように、優しく信の体を抱き締めた。

秦との戦に勝利した後、趙へと向かう馬車の中でも彼女の体を好きに扱ったが、今になってようやく彼女を心身共に手に入れた実感が湧いた。

「…百倍、いや、千倍ですね。約束通り、欲張りなあなたに恩を返すために、私は生き続けて来ました」

嗚咽を零す信の背中を何度も擦ってやりながら、李牧は歌うように言葉を続ける。

「将軍として死地に立ち続ければ、あなたはいずれ殺されてしまう。…だから、あなたをそこから救い出すことが何よりの恩返しだと思ったんです」

二度と死地に立てないようにすることが、信から大将軍の座を奪うことが、滅ぶ運命にあった秦から救い出すことが、彼女に命を救われた李牧の考える返礼だった。

たとえそれが信が望まないものだとしても。もう二度と、彼女が自分以外の誰かに傷つけられる日は来ないのだ。

「愛しています、信」

心からの愛の言葉を囁いて、李牧は彼女に唇を寄せる。

李牧にとってはここが楽園であり、信にとっては死に場所でしかなかった。

 

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セメタリー(李牧×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
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前編はこちら

 

宰相の帰還

趙の首府である邯鄲に帰還すると、此度の勝利を大勢の民や兵たちが歓声を上げた。

宰相である李牧の名は民たちの間でも広く知れ渡っており、此度の軍略を指示したのが李牧であることから、歓声の中には、李牧の名前も含まれていた。

窓を閉め切っていることもあり、馬車の中からは外の様子は見えない。

賑やかな席をそれほど好まない李牧は、彼らに姿を見せることはせず、腕の中にいる愛しい女の寝顔を眺めていた。

初めて男を受け入れた痛みと疲労に、苦悶の表情を浮かべながら、信は深く寝入っている。

行為の最中に信が意識を失う度に、李牧は気つけ薬を嗅がせて、その意識を引き戻していた。

自分という存在をしつこいくらいに彼女の心に刻み付けたかった。

気つけ薬を入れていた小瓶が空になるまですっかり使い切った頃には、彼女の中で何度達したのか李牧もよく覚えていなかった。

信にとっては仇でもある男との姦通はこれ以上ないほどの凌辱。李牧にとっては確実に自分の子種を実らせるための行為だった。

「信…」

涙の痕が残っている頬を指で拭ってやり、泣き腫らした瞼に唇を押し当てると、塩辛い味がした。

秦国の女将軍が李牧と共に馬車の中にいるだなんて、誰が想像できるだろうか。

まずは大王がいる王座の間へ赴き、戦の勝利報告もしなくてはならないが、李牧は誰にも信の姿を見られたくなかった。

城下町を抜けて、門を潜ると、民たちは一行を追えなくなる。ようやく歓声が遠ざかっていった。

その機を狙ったかのように、馬車の窓が小さく叩かれる。信の寝顔を見つめていた李牧はようやく顔を上げた。

「…先に屋敷へ戻られますか」

慶舎の声だ。彼は馬車の中で李牧が何をしていたのか、誰といるのかを知っている唯一の家臣である。

信を捕虜として趙へ連れ帰るのは、李牧と慶舎しか知らない。

他の家臣たちを信頼していない訳ではないのだが、ほとぼりが冷めるまで、彼女が生きていることを気付かれる訳にはいかなかった。

信は決して降伏するはずのない秦の大将軍だ。捕虜として連れて来たと言っても、過去の戦いで、趙軍は彼女が率いる飛信軍に幾度も辛酸を嘗めさせられている。

信が李牧を仇だと憎んでいるように、彼女を仲間や家族の仇だと憎む者たちは大勢いるのだ。

自分の後ろ盾があったとしても、目を離した隙に李牧が見ていないところで彼女を汚されることだけは絶対に避けたかった。

時間が経ち、誰もが秦国の存在を過去のものだと認識した頃に、妻として打ち明ければ良い。

彼女が秦国の女将軍であることを知らせる必要はない。これから信は二度と武器を振るうこともなくなるし、守るべき国を失った彼女が、仲間もいないのに反乱など企てることはないだろう。

警戒すべきは彼女の脱走と、彼女を憎む者たちである。

これから胎に植え付けた子種が実れば、正式に信を妻だと公表したところで、彼女を憎む者たちも容易には手を出せなくなる。

何故なら秦を滅ぼし、趙国へ大いなる貢献をした宰相の妻であり、その赤子を身籠った女なのだ。それだけで信の価値は敗戦国の将から、十二分に上がる。

もしも妻に手を出そうものなら処罰に値するし、実際に李牧は長年仕えてくれている家臣であっても容赦なく斬るつもりでいた。

それほどまでに李牧は信のことを愛して止まないのだ。

「…そうですね、一度戻ってから王へ報告に馳せ参じます」

李牧の言葉を窓越しに聞いた慶舎が言葉を続けた。

「悼襄王様ではなく、嘉太子様が出迎えるとのこと」

「…そうですか。太子様が」

趙王ではなく、息子の嘉の名前が出たことに、李牧は頬を緩ませた。

「…戦が始まってから、流行り病のせいで・・・・・・・・、お加減が優れないのだとか」

あくまで噂を装い、慶舎が告げた。

流行り病の話など、趙国の中には少しも出回っていない・・・・・・・・・・ことを李牧はもちろん、慶舎も知っていた。

「それはお可哀相に…勝利の報告を、見舞いの品として伺いましょう」

悼襄王が病に伏せていることに、なぜか少しも心配していない・・・・・・・・・・・・・李牧の声を聞き、慶舎は何も答えずに窓から離れた。

馬車馬の手綱を握っている騎手へ、慶舎は李牧の屋敷へ向かうよう指示を出す。

趙へ帰還している最中も、勝利を祝う兵たちの歓声のせいで、信の悲鳴は誰の耳にも届かなかったことだろう。

馬車の中に敗国の女将軍がいるとは誰も思うまい。

誰にも見つからぬように手配したのだから、信の存在が気づかれなかったのは必然であった。

李牧たちを乗せた馬車は、勝利の歓声を上げ続ける一行から抜け出し、彼の屋敷へと向かうのだった。

 

趙王との謁見

秦を滅ぼし、急速にその領土を広げたことで、趙国の存在は他の五国からも危険視されている。全ては宰相・李牧が導いたものだった。

戦の後、悼襄王が急な病で崩御し、息子の嘉が即位することとなる。

内政やこの中華の状況などまるで興味を示さなかった悼襄王とは真逆で、嘉は優秀で民想いであり、即位する前から彼の人望は厚かった。

元より悼襄王を見限っていた李牧には、彼の子息である嘉が即位することで、ますます趙の未来が明るくなったことを胸積りした。

父親譲りの性格である弟の遷が即位することになっていたら、いくら領土を広げた趙とはいえ、未来はそう長く続かなかっただろう。

大幅に領土を広げたことで、趙の未来は安定していくと見えた。少なくとも、自分の目が黒いうちは趙が滅ぶことはないだろう。李牧は自信を持ってそう答えることが出来た。

ここらが引き際だろうと思っていた李牧だったが、大王である嘉に「もう少し手を貸して欲しい」と頭を下げられてしまい、断る訳にはいかなかったのだ。

宰相だった李牧が、此度の大功によって廷臣の最高職である相国への昇格が決まると、多くの兵と民から歓声が上がった。

代王嘉だけでなく、李牧を慕うものたちは趙に多くいる。彼らのために、李牧は最後まで己の才を活かすことを決めたのだった。

―――秦国が滅んでから、早いもので半年が経過していた。

他国に領土を奪われぬよう、城の建設や守備の手配に追われていた李牧は戦よりも忙しい日々を送っている。

この日は趙国の首府・邯鄲にて、代王嘉へ現状の報告を行った。

「此度も趙のためによく尽くしてくれた。心から感謝するぞ。そなたがいなければ、趙はここまで国を築けなかっただろう」

王宮の玉座の間で、一通り現状の報告を終えた李牧へ代王嘉は労いの言葉を掛けた。李牧は深く頭を下げる。

「勿体なきお言葉です。太子…いえ、失礼しました、大王様」

「よい。そなたにとって、私はまだまだ子どもだ。…時に李牧」

情勢についてでも相談されるのかと思い、李牧が顔を上げると、代王嘉は口元に深い笑みを浮かべていた。

「そなたの妻…秦に仕えていた女将軍だとか」

まさか代王嘉の口からそのような話が出て来るとは思わず、李牧は一瞬だけ目を見張った。

しかし、表情には微塵も動揺を出さない。それは相手に隙を与えないための、李牧の昔からの癖だった。

待機している衛兵や、官吏たちが顔を見合わせているのが視界の隅に映り込む。

李牧が結婚していたという話は、誰も知らなかったのだから驚くのも当然だろう。そして、その相手が敵国であった秦の女将軍などと、驚かない方が難しい。

これだけの地位を築いておきながら、李牧がずっと独り身であることを心配していた兵や民たちもいた。

その心配が火種となり、独り身であることに何か理由があるに違いない、実は女に興味がないのではないかなど、本人の知らぬところでさまざまな噂が広まっていると、李牧は傅抵にからかわれたことがある。

しかし、李牧には心から愛している女がいた。それが秦に仕えていた飛信軍の将、信である。

残念ながら立場は敵同士であり、李牧の一方的な片想いとなっていたのだが、秦を滅ぼした戦で、李牧は彼女の身柄を拘束し、自分の妻にしたのだった。

秦を滅ぼした功績を讃えて相国にまで上り詰めた男が、なぜ敗国の女将軍を娶ったのかと考えるのは当然である。

しかし、相国である自分の後ろ盾がなければ、見せしめとして信はすぐにでも首を晒されてしまう。女ならば斬首を免れたとしても、奴隷以下の存在に落とされるかもしれない。

信を誰にも渡さないためには、妻にするより他ないと李牧は初めから・・・・考えていたのだ。

幼い頃から秦国に仕え、秦の大王の剣として生きていた彼女にとってはこれ以上ない屈辱だろう。

李牧との結婚に、信の意志は存在しなかった。いっそ首を晒された方が救われたと思っているに違いない。

大王に嘘を吐く訳にもいかず、李牧は素直に頷いた。

「……お言葉の通りにございます」

李牧は信が生存していることだけでなく、妻としてその身柄を保護していることを認めた。

戦が終わってからしばらくの間、李牧は信の存在を隠していた。敵国の将である信を妻にしたことを良く思わない者もいるからだ。

彼女が率いていた飛信軍は投降兵や、女子供などの弱い命を奪わないことで有名な軍だった。しかし、善行と同じくらいに、飛信軍の強さは中華全土に轟いていた。そうなれば当然、誰かの仇として憎まれる。

飛信軍に恨みを持つ者から彼女を守るために、李牧は慶舎にしか信を連れ帰ることを告げていなかったのだ。

他の側近たちを信頼していない訳ではないのだが、幾度も李牧の策を打ち破った信を憎んでいる者も多い。しかし、慶舎だけは信にそのような感情を抱いていなかったため、李牧は彼にだけ信の存在を明かしたのだった。

秦が滅び、広げた領土の改築や保守に当たっている今が時期だろうと、李牧は少しずつ妻であり飛信軍の将であった信の存在を表に出すようにしていたのだ。

噂はたちまち広まり、こうして代王嘉の耳にまで届いた訳である。戦でなくとも、全ては李牧の策通りに動いているのだ。

悼襄王だったのならば、即座に信の斬首を命じていただろう。急な病で・・・・崩御してしまったため、その心配はなくなったのだが、果たして代王嘉はどう出るか。

李牧が代王嘉を見据えていると、彼はさっそく口を開いた。

「中華全土に名を轟かせた秦の女将軍…ぜひとも一度、この目で見てみたいと思ってな。李牧が妻に選ぶくらいだ。余程、肝の据わった女なのだろう」

そう来たかと、李牧は口元に笑みを繕った。正直のところ、李牧は大王の言葉に安堵した。

「…婚姻を結んだ後、夫婦で大王に御挨拶をとも考えたのですが…現在も秦国の事後処理に追われていますゆえ、どうかお許しを。それに、まだ妻の体調も優れておらず、私のわがままで申し訳ありませんが…」

李牧が謝罪すると、代王嘉は「気にするな」と首を振った。

「秦の大将軍という座だけでなく、生まれ育った国の全てを投げ売ってまで、李牧を選んだか。余程の忍耐強さと見た。…確か、飛信軍の信といったな。今後は趙の戦力として使うのか?」

自分以外の男がその名を口に出したことで、李牧のこめかみに鋭いものが走った。相手が大王でなければ、即座に首を撥ねていたかもしれない。

代王嘉は初めから李牧の妻が信だと分かった上で、李牧の口から話を聞き出そうとしていたのだ。そうでなければ誰も妻の名を答えていないのに、名前を出すはずがない。

「…いいえ」

口元に繕った笑みを微塵も崩さずに、しかし、眉を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべた。

どうやら代王嘉は自分と信が相思相愛だと思ってくれているらしい。信の名前を安易に口にしたことは許せないが、そう思ってくれているのなら好都合だ。

その勘違いを利用して、李牧は同情を誘うように寂しそうな表情を浮かべた。

「…此度の婚姻は、私のわがままです。今後、彼女が趙の将として生きることはないでしょう。秦の将としての彼女はあの戦で死に、残ったのは私の妻である、ただの女性です」

守るべき国を、仲間や家族を全て失った信には自分しかいないのだと思うと、背筋が痺れるような愉悦が込み上げて来る。

李牧は微塵も表情には出さなかったが、信を手に入れるために、秦国を滅ぼしたのだと告げれば、誰もが驚愕するだろう。無論、それはこの先も李牧しか知らない秘密になるのだが。

悲しみの色を目に宿しながら、李牧は言葉を続けた。

「…彼女から全てを奪った私が、愛される権利などありません。憎まれて当然です。…しかし、彼女はそれでも私を受け入れてくれました。ですから、私は残りの人生をかけて、誰よりも妻を幸せにしたいと考えております。それが彼女への贖罪になると、勝手ながら信じているのです」

李牧の言葉を聞いた代王嘉が慈愛に満ちた穏やかな目を向ける。衛兵たちや官吏たちも、李牧の言葉に胸を打たれたように、瞳に涙を浮かべている者もいた。

「そなたたちが末永く幸せに過ごせるよう祈ろう。李牧がそれほど妻を愛しているというのに、安易な言葉を掛けてすまなかった」

「勿体なきお言葉、痛み入ります」

李牧が深く頭を下げる。

これで代王嘉から信の興味がなくなったと思いきや、彼はまだ気になることがあるらしく、もう一度名前を呼ばれた。

「前線に出ないそなたが、なぜその女に興味を抱いたのだ?」

 

趙王との謁見 その二

前線で戦う将軍とは立場が違い、李牧は軍師として後方で指揮を執っている。

秦の飛信軍といえば、その強さゆえに前線を任されることが多い。飛の旗を見ると、それだけで前線に立つ趙兵たちが恐ろしさゆえに震え上がっていた。

信が率いる騎馬隊が道を作り、その後と歩兵が続く。飛信軍が進む場所に、いかに固めようとも道が作られてしまうのだ。事実、李牧は彼女の奮闘によって幾度も策を成せずに失敗したことがあった。

まるで彼女自身が勝利の女神として、秦を幾度も勝利に導いていた。

彼女に愛情を感じるよりも、辛酸を嘗めさせられた回数の方が多いのではないかと考えているのは代王嘉だけではないだろう。

もう一度、李牧は深々と頭を下げた。

「私が秦国と密通をしていないことを、先にお伝えしておきますが…」

言葉を濁らせた李牧に代王嘉が顔を上げるように言う。

李牧が趙の相国という座に就いていること、そして秦国を滅ぼした軍略を企てたのが他でもない李牧だということから、密通を疑うなどするはずはなかった。

「…趙に来る前、実は、彼女に会ったことがあるのです。彼女のお陰で、私は命を救われました」

趙に来る前の李牧の話は、代王嘉も噂程度でしか聞いたことがなかった。

家族も仲間も全てを失い、趙に流れて来て、軍師としての才能を芽吹かせたことは知っている。

「彼女が、…妻が居なければ、私はあそこで無様に首を晒していたでしょう。きっと、大王様のお役に立つこともありませんでした」

李牧の言葉を聞き、代王嘉は神妙な顔で深く頷いていた。

「では、趙がここまで国を築けたのは、李牧を助けたその者のおかげでもあるのだな」

ええ、と李牧は頷いた。

「しかし、未だ飛信軍に恨みを持つ民や兵も多いはずです…どうか、このことは内密にしていただけますか」

「もちろんだ。他の者も、一切他言せぬようここで誓ってくれ」

代王嘉の言葉に、官吏たちは即座に供手礼をした。

安堵したように笑みを浮かべる李牧に、代王嘉が言葉を続ける。

「今の屋敷が手狭なら、新しいものを用意させよう。相国であるそなたには、今の屋敷は不釣り合いだと言う声も多く聞く」

趙王からの提案に、李牧は慌てて首を横に振った。

「そんな恐れ多いことを…今の屋敷が気に入っているので十分です。妻のことを想い、落ち着いたら、咸陽にでも移り住もうかとも考えたのですが…」

李牧の口元が自然と緩んでいく。

「…これから子どもが産まれるので、あまり妻の体に負担を掛けたくないのです」

「ほう!それはめでたい話だ」

妻の妊娠の吉報に、代王嘉だけでなく、その場にいる衛兵や官吏たちもおめでたいと笑みを浮かべた。

「そなたは昔から色話がなかったから、心配している配下もさぞ多かったであろう」

「はは…ありがとうございます。長年の片思いがようやく実った想いです。…ぜひとも大王様から、私たちの子どもの名を頂戴したいと思っているのですよ」

「ああ、もちろんだ。今から名を考えておこう。愛妻家な上に、子煩悩になる李牧の顔を見るのが今から楽しみだな」

まるで自分のことのように喜んでくれる代王嘉に深々と頭を下げてから、李牧は玉座の間を後にした。

後のことは信頼出来る部下たちに頼んでいる。ここ最近は手に入れた領地の視察へ向かい、指示を出すことが多く、自分の屋敷に帰っていなかった。

早く信の顔が見たい。

妊娠が分かってからは、無理をしていないか心配でならなかったのだが、従者たちにも口酸っぱく言っておいたし、きっと大丈夫だろう。

悪阻があった時期は注視しなくても、信も動けなかったし、脱走はしないだろうと安堵していたのだが…今は違う。

最後に会った時は大分妊婦らしい身体になっていたが、悪阻がなくなった分、信は動けるようになっていた。

秦が滅んだことは、彼女も嫌でも理解しているようだが、まだ彼女の瞳から諦めの色は見えないのが気がかりだった。

仇を討とうと自分を殺す計画を企ててくれるのならまだ良かったのだが、信は身重の体で脱走を企てるに違いない。

その胎に李牧の子を宿しながらも、彼女は李牧から逃げることを未だ諦めていないのだ。

自ら命を絶つ方法など語らずとも信は分かっているはずだ。それをしないということは生に執着している何よりの証拠である。心だけが未だ抗っているのだ。

全てを諦めて、自分に身を委ねるしか道はないと、信は一体いつになったら理解するのだろう。それが李牧にはもどかしくもあったし、同時に愛おしくて堪らなかった。

李牧には、信を放すつもりなど、一生ないのだから。

 

不屈の心

日を追うごとに、腹の中で子が成長しているのが分かる。

信はすっかり重くなって来た腹に手を当てながら、溜息を吐いた。

「ぅう…」

内側から腹を蹴られる何とも言い難い感覚に、信は呻き声を上げる。頼むから大人しくしていてくれと、信は腹を擦った。

最後に李牧に会った時も今のような胎動があり、李牧は大層嬉しそうに信の腹を撫でていた。

あの日、馬車の中で凌辱を受けただけでなく、李牧の子を孕んでしまった信は、両足に見えない枷をつけられている心地だった。もちろん李牧もそのつもりで信を孕ませたのだろう。

拘束具の類をつけなくても、身重になった信が無理をすれば、腹の子に影響する。

たとえ憎い男の種から芽吹いた命であったとしても、この腹の下で眠っているのは紛うことなき自分の子である。

信が率いていた飛信軍は、敵の捕虜も一切傷つけないことで有名だった。

自分の前に立ちはだかる敵兵は容赦なく殺める信だったが、武器を持たぬ女子供や老人には一切手を出したことがない。きっと、李牧はそれを逆手に取ったのだ。

敵であっても弱い命を殺せぬような女が、我が子を殺せるはずがない。李牧は、信が我が子を手に掛けることはないと読んだのだ。

せめて情が湧かぬうちにと信は処置を考えたのだが、堕胎薬の類を与えられるはずもなければ、それを手に入れるなんて許されない。

李牧の子を下ろすことも叶わなかった信は、見えない枷が頑丈になってしまったことを察した。

腹の中で成長していく子が、ここ最近は頻繁に動くのが分かるようになっていた。

初めて胎動を感じた時はいよいよ堕ろすことも叶わず、李牧の策通りになってしまったと涙が止まらなかった。

同時に、憎き男との子でありながらも、自分の子である愛おしさが込み上げ、信の心は雁字搦めになっていた。きっと李牧はそれも分かっているのだろう。

そして妊婦である自分を気遣うようにと、屋敷にいる従者たちに監視をさせているのだ。

隙を見て屋敷から逃げ出そうとしても、侍女たちが「お体に障ります」と目ざとく信を見つけ、追い掛けて来る。

何故か彼女たちは、信と李牧が相思相愛だと思っているらしい。

事情を知らない彼女たちの心配を押し退けることも出来ず、信は真綿で首を絞められるような毎日を過ごしていた。

李牧は一体彼女たちにどんな話をしたのだろう。敵国の将であるはずの自分を嫌悪するどころか、李牧と結ばれたことを祝福しているような言葉を掛けられたこともあって、信は恐ろしくなった。

あの男は平気で嘘を真実に塗り替える話術を持っている。もしかしたら自分が秦に仕えていたのも、全ては李牧のためだったとでも誤解しているのではないだろうか。

あの男は、一体どれだけ自分の心を追い込めば気が済むのだろうか。

しかし、信は孕まされてからも、決して心を渡すような真似はしなかった。李牧に心を渡さないことだけが、今の信にできる唯一の反抗だからだ。

 

脱走計画

今朝、食事を運んで来た侍女に「今日は体調が悪いから部屋で休む」と告げてからは、様子を見に来る気配もない。

「………」

信は扉に耳を押し当てて、廊下に人の気配がないかを確かめていた。

鍵を掛けられていないことは何よりも救いだった。

秦が敗北し、この屋敷に連れて来られてからは扉にも頑丈に鍵が掛けられていた。その後に悪阻の症状が出て、信の妊娠が分かると、李牧は彼女の目の前で扉の鍵を取り外したのだ。

逃げたければ逃げてみろと言わんばかりの態度であったが、李牧がそんなことをしたのには、見えない足枷がいよいよ完成したからだったのだろう。

身重の体で負荷を掛ければ胎児にも影響するし、信が尊い命を奪えるはずがないと李牧は読んでいたのだ。

悪阻で思うように体を動かせず、信は扉が開いているのに逃げられない日々が続いた。

最近になってようやく落ち着いてきて動けるようになったのだが、李牧は領地の視察に出ているようで、しばらく屋敷には戻らないと侍女が言っていた。

自分が生まれ育ち、両親が秦王のために広げ、守っていた地を、趙の者たちが我が物顔で踏み躙っているのだと思うと、それだけで腸が煮えくり返りそうだった。

結局自分は父の仇を討つこともできず、無様にも生き残ってしまった。それだけではなく、憎い男の子まで孕まされている。この状況を地獄と呼ばずに、なんと示せば良い。

あの戦場で仲間たちと共に逝っていれば、どれだけ幸せだったのだろうか。

扉の向こうに人の気配がないことを確認してから、信は自分の腹をそっと擦った。

「…ごめんな」

まだ顔も知らぬ我が子に、信は罪悪感で胸をいっぱいにさせながら謝罪する。自ら命を奪うことは出来ないのは、せめてもの情だった。

無様に敵国で首を晒すことはしたくなかったが、李牧の妻として生きる道を選ぶことは、彼に心を渡すのと同等の行為である。

ならば李牧の知らない間に、李牧の知らない誰かに、この首を差し出そう。今以上の苦痛など存在するはずがないのだから、何をされてもきっと耐えられる。

自分が李牧の妻になったことは趙に知れ渡っているのかは分からないが、きっと快く思わない者が大勢いるはずだ。

信が李牧を憎んでいるように、趙の者たちだって大勢の命を奪った信を許さないに決まっている。

彼らの怒りを煽れば、簡単に斬り捨てられるだろう。秦国の将軍の命など、下僕よりも軽いものなのだから。

「………」

ゆっくりと扉を開いて、隙間から信は廊下の様子を伺う。

自分の望みを叶えるためには、李牧の屋敷から抜け出す必要があった。

彼の従者が自分に何かしらの恨みを抱いていたとしても、主の命に背くことはしないはず。つまり、この屋敷にいる限り、自分は殺されないことを信は理解していた。

扉の隙間から覗き限り、従者たちが行き交う姿はなく、足音も聞こえない。部屋を出るなら今しかない。

(よし)

信は物音を立てないように扉を開き、廊下に足を踏み入れた。

馬車の中で凌辱を受けてから、目を覚ました時にはこの屋敷の一室に閉じ込められていた。
そのせいで、信はこの屋敷の構造を知らない。

窓から見える景色を見る限り、この部屋が高い階層でないことは分かっているのだが、その他の情報は全く分からなかった。

しかし、いつまでもこの部屋にいる訳にはいかない。

自分が嘆こうが怒ろうが、腹の中にいる子は日に日に成長していく。

目に見えない足枷が、より頑丈なものにならないように、逃げ出すならば今しかないと信は考えた。

 

蜘蛛の糸

廊下へ踏み出した途端、信の背筋がぞくりと凍り付く。

それは凄まじい殺気にも似た気配で、戦場でしか感じることのないものだった。どうしてこんな屋敷の中でそれを感じるのだろう。

「うッ」

振り返るよりも先に、後ろからぐいを着物の襟首を引っ張られる。首が圧迫されて息が詰まった。

むせ込みながら振り返ると、李牧の配下である慶舎が相変わらず無表情のまま、信を見下ろしている。

何故ここにいるのかと疑問に思うよりも前に、腕を掴まれてしまい、信は逃亡に失敗したことを察する。

李牧でないとしても、彼は屋敷の従者たちだけでなく、信頼している配下たちに自分を見張らせていたのだ。

きっと従者たちだけなら撒けたに違いない。李牧も側近たちも、てっきり領地の視察にでも出ていると思ったのに、詰めが甘かった。

「諦めの悪いの女だ」

相変わらず彼の表情は微塵も揺らぎなかったが、その声には呆れが含まれていた。

慶舎は信の腕を掴む手に力を入れると、彼女を部屋に連れ戻すために歩き始める。

「くそッ、放せよッ!」

信が腕を振り解こうとするが、慶舎の腕は決して離れない。

両足に力を入れても、慶舎は構わずに信を引き摺っていく。再び部屋の中に戻って来た信は歯痒い気持ちに襲われる。

武器を持っていたのならまだ抵抗が出来ただろうが、男と女の力量差を見せつけられているようで、信は悔しくて堪らなかった。

悪阻が落ち着いて来たことは李牧も知っているだろうが、逃亡を企てたことを李牧に告げられて、また扉に鍵を掛けられたら今度こそ逃げられなくなってしまう。

なんとか力を込めて慶舎の腕を振り解こうとするのだが、筋力の衰えた腕では彼の腕を振り解くことはおろか、足を止めることも叶わない。

「…敗戦国の将が、安易に趙の地を歩けると思うな。本来なら首を晒されるのに、李牧様の庇護下にあるからこそ、お前はまだ生きていられる。李牧様に感謝するべきだ」

たった数歩しか廊下に出ていないというのに室内に戻って来ると、信の考えなど知ったことかと言わんばかりに、慶舎は冷たい声を発した。

扉に鍵を掛けないのは李牧の命令だからなのだろうか。脱走を企てた信のことを逃すまいと、慶舎は扉を閉じ、その前に立ち塞がるように立った。

淡々と語る慶舎に、信は怒りを込めて睨み付けた。

「うるせえッ、是非とも李牧以外の野郎に殺されるつもりで逃げてんだよ…!あいつの弟子のくせに、んなことも察せないのか!」

信の言葉を聞いた慶舎が、表情を変えぬまま、さも不思議そうに首を傾げている。

感情が豊かでない男なのは知っていたが、本当に人形のように微塵も顔色を変えないのは不気味に思う。昔からこうなのだろうか。

「…なぜ李牧様を愛さない?」

「は…?」

彼の問いに、信はつい聞き返した。

「李牧様は寛大な心を持つお方だ。たかがお前という女一人のために秦を落とした。そして、お前に妻と言う役割を与えた。それなのに、なぜお前は李牧様を愛さない?」

慶舎の言葉を聞いていくうちに、怒りに染まっていた信の表情が消えていく。

「……お前、人を好きになったことがないのか?」

「好き…?」

「お前が、李牧に対して抱いてるのは尊敬とか、恩だろ。お前の従順な態度を見てりゃ、すぐに分かる」

だがな、と信が言葉を紡いだ。

「…黙って脚を開くのは、…好きになるってことじゃねえんだよ。…そんなのは、娼婦と同じだ。まだ体で稼ぐって目的があるだけ、娼婦の方がマシかもしれねえな、はは…」

俯いた信の声が震えている。涙を堪えているのだと慶舎には分かったが、なにを悲しんでいるのか、慶舎には微塵も分らなかった。

「…お前は他の女と違う。男に嫁ぎ、子を孕み、産み、育てる。それをお前はせずに戦場に出ていた」

信が自虐的な笑みを浮かべる。

「それで李牧に見初められたなんて、笑い話だよな…!俺が将軍にならなきゃ、あいつとは無縁でいられたんだ…秦が滅びるとしても、最後まで…あいつの顔なんて見なくて良かったんだ…父さんと、母さんに、拾われた時から、将軍なんか目指さなきゃ、良かった…」

堰を切ったかのように、信の瞳から涙が零れ出す。

しかし、その涙が何の感情から来ているものなのか、慶舎には少しも理解出来なかった。

 

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セメタリー(李牧×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/慶舎×信/秦敗北IF話/ヤンデレ/監禁/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

宰相の帰還

趙の首府である邯鄲に帰還すると、此度の勝利を大勢の民や兵たちが歓声を上げた。

宰相である李牧の名は民たちの間でも広く知れ渡っており、此度の軍略を指示したのが李牧であることから、歓声の中には、李牧の名前も含まれていた。

窓を閉め切っていることもあり、馬車の中からは外の様子は見えない。

賑やかな席をそれほど好まない李牧は、彼らに姿を見せることはせず、腕の中にいる愛しい女の寝顔を眺めていた。

初めて男を受け入れた痛みと疲労に、苦悶の表情を浮かべながら、信は深く寝入っている。

行為の最中に信が意識を失う度に、李牧は気つけ薬を嗅がせて、その意識を引き戻していた。

自分という存在をしつこいくらいに彼女の心に刻み付けたかった。

気つけ薬を入れていた小瓶が空になるまですっかり使い切った頃には、彼女の中で何度達したのか李牧もよく覚えていなかった。

信にとっては仇でもある男との姦通はこれ以上ないほどの凌辱。李牧にとっては確実に自分の子種を実らせるための行為だった。

「信…」

涙の痕が残っている頬を指で拭ってやり、泣き腫らした瞼に唇を押し当てると、塩辛い味がした。

秦国の女将軍が李牧と共に馬車の中にいるだなんて、誰が想像できるだろうか。

まずは大王がいる王座の間へ赴き、戦の勝利報告もしなくてはならないが、李牧は誰にも信の姿を見られたくなかった。

城下町を抜けて、門を潜ると、民たちは一行を追えなくなる。ようやく歓声が遠ざかっていった。

その機を狙ったかのように、馬車の窓が小さく叩かれる。信の寝顔を見つめていた李牧はようやく顔を上げた。

「…先に屋敷へ戻られますか」

慶舎の声だ。彼は馬車の中で李牧が何をしていたのか、誰といるのかを知っている唯一の家臣である。

信を捕虜として趙へ連れ帰るのは、李牧と慶舎しか知らない。

他の家臣たちを信頼していない訳ではないのだが、ほとぼりが冷めるまで、彼女が生きていることを気付かれる訳にはいかなかった。

信は決して降伏するはずのない秦の大将軍だ。捕虜として連れて来たと言っても、過去の戦いで、趙軍は彼女が率いる飛信軍に幾度も辛酸を嘗めさせられている。

信が李牧を仇だと憎んでいるように、彼女を仲間や家族の仇だと憎む者たちは大勢いるのだ。

自分の後ろ盾があったとしても、目を離した隙に李牧が見ていないところで彼女を汚されることだけは絶対に避けたかった。

時間が経ち、誰もが秦国の存在を過去のものだと認識した頃に、妻として打ち明ければ良い。

彼女が秦国の女将軍であることを知らせる必要はない。これから信は二度と武器を振るうこともなくなるし、守るべき国を失った彼女が、仲間もいないのに反乱など企てることはないだろう。

警戒すべきは彼女の脱走と、彼女を憎む者たちである。

これから胎に植え付けた子種が実れば、正式に信を妻だと公表したところで、彼女を憎む者たちも容易には手を出せなくなる。

何故なら秦を滅ぼし、趙国へ大いなる貢献をした宰相の妻であり、その赤子を身籠った女なのだ。それだけで信の価値は敗戦国の将から、十二分に上がる。

もしも妻に手を出そうものなら処罰に値するし、実際に李牧は長年仕えてくれている家臣であっても容赦なく斬るつもりでいた。

それほどまでに李牧は信のことを愛して止まないのだ。

「…そうですね、一度戻ってから王へ報告に馳せ参じます」

李牧の言葉を窓越しに聞いた慶舎が言葉を続けた。

「悼襄王様ではなく、嘉太子様が出迎えるとのこと」

「…そうですか。太子様が」

趙王ではなく、息子の嘉の名前が出たことに、李牧は頬を緩ませた。

「…戦が始まってから、流行り病のせいで・・・・・・・・、お加減が優れないのだとか」

あくまで噂を装い、慶舎が告げた。

流行り病の話など、趙国の中には少しも出回っていない・・・・・・・・・・ことを李牧はもちろん、慶舎も知っていた。

「それはお可哀相に…勝利の報告を、見舞いの品として伺いましょう」

悼襄王が病に伏せていることに、なぜか少しも心配していない・・・・・・・・・・・・・李牧の声を聞き、慶舎は何も答えずに窓から離れた。

馬車馬の手綱を握っている騎手へ、慶舎は李牧の屋敷へ向かうよう指示を出す。

趙へ帰還している最中も、勝利を祝う兵たちの歓声のせいで、信の悲鳴は誰の耳にも届かなかったことだろう。

馬車の中に敗国の女将軍がいるとは誰も思うまい。

誰にも見つからぬように手配したのだから、信の存在が気づかれなかったのは必然であった。

李牧たちを乗せた馬車は、勝利の歓声を上げ続ける一行から抜け出し、彼の屋敷へと向かうのだった。

 

趙王との謁見

秦を滅ぼし、急速にその領土を広げたことで、趙国の存在は他の五国からも危険視されている。全ては宰相・李牧が導いたものだった。

戦の後、悼襄王が急な病で崩御し、息子の嘉が即位することとなる。

内政やこの中華の状況などまるで興味を示さなかった悼襄王とは真逆で、嘉は優秀で民想いであり、即位する前から彼の人望は厚かった。

元より悼襄王を見限っていた李牧には、彼の子息である嘉が即位することで、ますます趙の未来が明るくなったことを胸積りした。

父親譲りの性格である弟の遷が即位することになっていたら、いくら領土を広げた趙とはいえ、未来はそう長く続かなかっただろう。

大幅に領土を広げたことで、趙の未来は安定していくと見えた。少なくとも、自分の目が黒いうちは趙が滅ぶことはないだろう。李牧は自信を持ってそう答えることが出来た。

ここらが引き際だろうと思っていた李牧だったが、大王である嘉に「もう少し手を貸して欲しい」と頭を下げられてしまい、断る訳にはいかなかったのだ。

宰相だった李牧が、此度の大功によって廷臣の最高職である相国への昇格が決まると、多くの兵と民から歓声が上がった。

代王嘉だけでなく、李牧を慕うものたちは趙に多くいる。彼らのために、李牧は最後まで己の才を活かすことを決めたのだった。

―――秦国が滅んでから、早いもので半年が経過していた。

他国に領土を奪われぬよう、城の建設や守備の手配に追われていた李牧は戦よりも忙しい日々を送っている。

この日は趙国の首府・邯鄲にて、代王嘉へ現状の報告を行った。

「此度も趙のためによく尽くしてくれた。心から感謝するぞ。そなたがいなければ、趙はここまで国を築けなかっただろう」

王宮の玉座の間で、一通り現状の報告を終えた李牧へ代王嘉は労いの言葉を掛けた。李牧は深く頭を下げる。

「勿体なきお言葉です。太子…いえ、失礼しました、大王様」

「よい。そなたにとって、私はまだまだ子どもだ。…時に李牧」

情勢についてでも相談されるのかと思い、李牧が顔を上げると、代王嘉は口元に深い笑みを浮かべていた。

「そなたの妻…秦に仕えていた女将軍だとか」

まさか代王嘉の口からそのような話が出て来るとは思わず、李牧は一瞬だけ目を見張った。

しかし、表情には微塵も動揺を出さない。それは相手に隙を与えないための、李牧の昔からの癖だった。

待機している衛兵や、官吏たちが顔を見合わせているのが視界の隅に映り込む。

李牧が結婚していたという話は、誰も知らなかったのだから驚くのも当然だろう。そして、その相手が敵国であった秦の女将軍などと、驚かない方が難しい。

これだけの地位を築いておきながら、李牧がずっと独り身であることを心配していた兵や民たちもいた。

その心配が火種となり、独り身であることに何か理由があるに違いない、実は女に興味がないのではないかなど、本人の知らぬところでさまざまな噂が広まっていると、李牧は傅抵にからかわれたことがある。

しかし、李牧には心から愛している女がいた。それが秦に仕えていた飛信軍の将、信である。

残念ながら立場は敵同士であり、李牧の一方的な片想いとなっていたのだが、秦を滅ぼした戦で、李牧は彼女の身柄を拘束し、自分の妻にしたのだった。

秦を滅ぼした功績を讃えて相国にまで上り詰めた男が、なぜ敗国の女将軍を娶ったのかと考えるのは当然である。

しかし、相国である自分の後ろ盾がなければ、見せしめとして信はすぐにでも首を晒されてしまう。女ならば斬首を免れたとしても、奴隷以下の存在に落とされるかもしれない。

信を誰にも渡さないためには、妻にするより他ないと李牧は初めから・・・・考えていたのだ。

幼い頃から秦国に仕え、秦の大王の剣として生きていた彼女にとってはこれ以上ない屈辱だろう。

李牧との結婚に、信の意志は存在しなかった。いっそ首を晒された方が救われたと思っているに違いない。

大王に嘘を吐く訳にもいかず、李牧は素直に頷いた。

「……お言葉の通りにございます」

李牧は信が生存していることだけでなく、妻としてその身柄を保護していることを認めた。

戦が終わってからしばらくの間、李牧は信の存在を隠していた。敵国の将である信を妻にしたことを良く思わない者もいるからだ。

彼女が率いていた飛信軍は投降兵や、女子供などの弱い命を奪わないことで有名な軍だった。しかし、善行と同じくらいに、飛信軍の強さは中華全土に轟いていた。そうなれば当然、誰かの仇として憎まれる。

飛信軍に恨みを持つ者から彼女を守るために、李牧は慶舎にしか信を連れ帰ることを告げていなかったのだ。

他の側近たちを信頼していない訳ではないのだが、幾度も李牧の策を打ち破った信を憎んでいる者も多い。しかし、慶舎だけは信にそのような感情を抱いていなかったため、李牧は彼にだけ信の存在を明かしたのだった。

秦が滅び、広げた領土の改築や保守に当たっている今が時期だろうと、李牧は少しずつ妻であり飛信軍の将であった信の存在を表に出すようにしていたのだ。

噂はたちまち広まり、こうして代王嘉の耳にまで届いた訳である。戦でなくとも、全ては李牧の策通りに動いているのだ。

悼襄王だったのならば、即座に信の斬首を命じていただろう。急な病で・・・・崩御してしまったため、その心配はなくなったのだが、果たして代王嘉はどう出るか。

李牧が代王嘉を見据えていると、彼はさっそく口を開いた。

「中華全土に名を轟かせた秦の女将軍…ぜひとも一度、この目で見てみたいと思ってな。李牧が妻に選ぶくらいだ。余程、肝の据わった女なのだろう」

そう来たかと、李牧は口元に笑みを繕った。正直のところ、李牧は大王の言葉に安堵した。

「…婚姻を結んだ後、夫婦で大王に御挨拶をとも考えたのですが…現在も秦国の事後処理に追われていますゆえ、どうかお許しを。それに、まだ妻の体調も優れておらず、私のわがままで申し訳ありませんが…」

李牧が謝罪すると、代王嘉は「気にするな」と首を振った。

「秦の大将軍という座だけでなく、生まれ育った国の全てを投げ売ってまで、李牧を選んだか。余程の忍耐強さと見た。…確か、飛信軍の信といったな。今後は趙の戦力として使うのか?」

自分以外の男がその名を口に出したことで、李牧のこめかみに鋭いものが走った。相手が大王でなければ、即座に首を撥ねていたかもしれない。

代王嘉は初めから李牧の妻が信だと分かった上で、李牧の口から話を聞き出そうとしていたのだ。そうでなければ誰も妻の名を答えていないのに、名前を出すはずがない。

「…いいえ」

口元に繕った笑みを微塵も崩さずに、しかし、眉を下げて申し訳なさそうな表情を浮かべた。

どうやら代王嘉は自分と信が相思相愛だと思ってくれているらしい。信の名前を安易に口にしたことは許せないが、そう思ってくれているのなら好都合だ。

その勘違いを利用して、李牧は同情を誘うように寂しそうな表情を浮かべた。

「…此度の婚姻は、私のわがままです。今後、彼女が趙の将として生きることはないでしょう。秦の将としての彼女はあの戦で死に、残ったのは私の妻である、ただの女性です」

守るべき国を、仲間や家族を全て失った信には自分しかいないのだと思うと、背筋が痺れるような愉悦が込み上げて来る。

李牧は微塵も表情には出さなかったが、信を手に入れるために、秦国を滅ぼしたのだと告げれば、誰もが驚愕するだろう。無論、それはこの先も李牧しか知らない秘密になるのだが。

悲しみの色を目に宿しながら、李牧は言葉を続けた。

「…彼女から全てを奪った私が、愛される権利などありません。憎まれて当然です。…しかし、彼女はそれでも私を受け入れてくれました。ですから、私は残りの人生をかけて、誰よりも妻を幸せにしたいと考えております。それが彼女への贖罪になると、勝手ながら信じているのです」

李牧の言葉を聞いた代王嘉が慈愛に満ちた穏やかな目を向ける。衛兵たちや官吏たちも、李牧の言葉に胸を打たれたように、瞳に涙を浮かべている者もいた。

「そなたたちが末永く幸せに過ごせるよう祈ろう。李牧がそれほど妻を愛しているというのに、安易な言葉を掛けてすまなかった」

「勿体なきお言葉、痛み入ります」

李牧が深く頭を下げる。

これで代王嘉から信の興味がなくなったと思いきや、彼はまだ気になることがあるらしく、もう一度名前を呼ばれた。

「前線に出ないそなたが、なぜその女に興味を抱いたのだ?」

 

趙王との謁見 その二

前線で戦う将軍とは立場が違い、李牧は軍師として後方で指揮を執っている。

秦の飛信軍といえば、その強さゆえに前線を任されることが多い。飛の旗を見ると、それだけで前線に立つ趙兵たちが恐ろしさゆえに震え上がっていた。

信が率いる騎馬隊が道を作り、その後と歩兵が続く。飛信軍が進む場所に、いかに固めようとも道が作られてしまうのだ。事実、李牧は彼女の奮闘によって幾度も策を成せずに失敗したことがあった。

まるで彼女自身が勝利の女神として、秦を幾度も勝利に導いていた。

彼女に愛情を感じるよりも、辛酸を嘗めさせられた回数の方が多いのではないかと考えているのは代王嘉だけではないだろう。

もう一度、李牧は深々と頭を下げた。

「私が秦国と密通をしていないことを、先にお伝えしておきますが…」

言葉を濁らせた李牧に代王嘉が顔を上げるように言う。

李牧が趙の相国という座に就いていること、そして秦国を滅ぼした軍略を企てたのが他でもない李牧だということから、密通を疑うなどするはずはなかった。

「…趙に来る前、実は、彼女に会ったことがあるのです。彼女のお陰で、私は命を救われました」

趙に来る前の李牧の話は、代王嘉も噂程度でしか聞いたことがなかった。

家族も仲間も全てを失い、趙に流れて来て、軍師としての才能を芽吹かせたことは知っている。

「彼女が、…妻が居なければ、私はあそこで無様に首を晒していたでしょう。きっと、大王様のお役に立つこともありませんでした」

李牧の言葉を聞き、代王嘉は神妙な顔で深く頷いていた。

「では、趙がここまで国を築けたのは、李牧を助けたその者のおかげでもあるのだな」

ええ、と李牧は頷いた。

「しかし、未だ飛信軍に恨みを持つ民や兵も多いはずです…どうか、このことは然るべき時が来るまで内密にしていただけますか」

「もちろんだ。他の者も、一切他言せぬようここで誓ってくれ」

代王嘉の言葉に、官吏たちは即座に供手礼をした。
安堵したように笑みを浮かべる李牧に、代王嘉が言葉を続ける。

「今の屋敷が手狭なら、新しいものを用意させよう。相国であるそなたには、今の屋敷は不釣り合いだと言う声も多く聞く」

趙王からの提案に、李牧は慌てて首を横に振った。

「そんな恐れ多いことを…今の屋敷が気に入っているので十分です。妻のことを想い、落ち着いたら、咸陽にでも移り住もうかとも考えたのですが…」

李牧の口元が自然と緩んでいく。

「…これから子どもが産まれるので、あまり妻の体に負担を掛けたくないのです」

「ほう!それはめでたい話だ」

妻の妊娠の吉報に、代王嘉だけでなく、その場にいる衛兵や官吏たちもおめでたいと笑みを浮かべた。

「そなたは昔から色話がなかったから、心配している配下もさぞ多かったであろう」

「はは…ありがとうございます。長年の片思いがようやく実った想いです。…ぜひとも大王様から、私たちの子どもの名を頂戴したいと思っているのですよ」

「ああ、もちろんだ。今から名を考えておこう。愛妻家な上に、子煩悩になる李牧の顔を見るのが今から楽しみだな」

まるで自分のことのように喜んでくれる代王嘉に深々と頭を下げてから、李牧は玉座の間を後にした。

後のことは信頼出来る部下たちに頼んでいる。ここ最近は手に入れた領地の視察へ向かい、指示を出すことが多く、自分の屋敷に帰っていなかった。

早く信の顔が見たい。

妊娠が分かってからは、無理をしていないか心配でならなかったのだが、従者たちにも口酸っぱく言っておいたし、きっと大丈夫だろう。

悪阻があった時期は注視しなくても、信も動けなかったし、脱走はしないだろうと安堵していたのだが…今は違う。

最後に会った時は大分妊婦らしい身体になっていたが、悪阻がなくなった分、信は動けるようになっていた。

秦が滅んだことは、彼女も嫌でも理解しているようだが、まだ彼女の瞳から諦めの色は見えないのが気がかりだった。

仇を討とうと自分を殺す計画を企ててくれるのならまだ良かったのだが、信は身重の体で脱走を企てるに違いない。

その胎に李牧の子を宿しながらも、彼女は李牧から逃げることを未だ諦めていないのだ。

自ら命を絶つ方法など語らずとも信は分かっているはずだ。それをしないということは生に執着している何よりの証拠である。心だけが未だ抗っているのだ。

全てを諦めて、自分に身を委ねるしか道はないと、信は一体いつになったら理解するのだろう。それが李牧にはもどかしくもあったし、同時に愛おしくて堪らなかった。

李牧には、信を放すつもりなど、一生ないのだから。

 

不屈の心

日を追うごとに、腹の中で子が成長しているのが分かる。

信はすっかり重くなって来た腹に手を当てながら、溜息を吐いた。

「ぅう…」

内側から腹を蹴られる何とも言い難い感覚に、信は呻き声を上げる。頼むから大人しくしていてくれと、信は腹を擦った。

最後に李牧に会った時も今のような胎動があり、李牧は大層嬉しそうに信の腹を撫でていた。

あの日、馬車の中で凌辱を受けただけでなく、李牧の子を孕んでしまった信は、両足に見えない枷をつけられている心地だった。もちろん李牧もそのつもりで信を孕ませたのだろう。

拘束具の類をつけなくても、身重になった信が無理をすれば、腹の子に影響する。

たとえ憎い男の種から芽吹いた命であったとしても、この腹の下で眠っているのは紛うことなき自分の子である。

信が率いていた飛信軍は、敵の捕虜も一切傷つけないことで有名だった。

自分の前に立ちはだかる敵兵は容赦なく殺める信だったが、武器を持たぬ女子供や老人には一切手を出したことがない。きっと、李牧はそれを逆手に取ったのだ。

敵であっても弱い命を殺せぬような女が、我が子を殺せるはずがない。李牧は、信が我が子を手に掛けることはないと読んだのだ。

せめて情が湧かぬうちにと信は処置を考えたのだが、堕胎薬の類を与えられるはずもなければ、それを手に入れるなんて許されない。

李牧の子を下ろすことも叶わなかった信は、見えない枷が頑丈になってしまったことを察した。

腹の中で成長していく子が、ここ最近は頻繁に動くのが分かるようになっていた。

初めて胎動を感じた時はいよいよ堕ろすことも叶わず、李牧の策通りになってしまったと涙が止まらなかった。

同時に、憎き男との子でありながらも、自分の子である愛おしさが込み上げ、信の心は雁字搦めになっていた。きっと李牧はそれも分かっているのだろう。

そして妊婦である自分を気遣うようにと、屋敷にいる従者たちに監視をさせているのだ。

隙を見て屋敷から逃げ出そうとしても、侍女たちが「お体に障ります」と目ざとく信を見つけ、追い掛けて来る。

何故か彼女たちは、信と李牧が相思相愛だと思っているらしい。

事情を知らない彼女たちの心配を押し退けることも出来ず、信は真綿で首を絞められるような毎日を過ごしていた。

李牧は一体彼女たちにどんな話をしたのだろう。敵国の将であるはずの自分を嫌悪するどころか、李牧と結ばれたことを祝福しているような言葉を掛けられたこともあって、信は恐ろしくなった。

あの男は平気で嘘を真実に塗り替える話術を持っている。もしかしたら自分が秦に仕えていたのも、全ては李牧のためだったとでも誤解しているのではないだろうか。

あの男は、一体どれだけ自分の心を追い込めば気が済むのだろうか。

しかし、信は孕まされてからも、決して心を渡すような真似はしなかった。李牧に心を渡さないことだけが、今の信にできる唯一の反抗だからだ。

 

脱走計画

今朝、食事を運んで来た侍女に「今日は体調が悪いから部屋で休む」と告げてからは、様子を見に来る気配もない。

「………」

信は扉に耳を押し当てて、廊下に人の気配がないかを確かめていた。

鍵を掛けられていないことは何よりも救いだった。

秦が敗北し、この屋敷に連れて来られてからは扉にも頑丈に鍵が掛けられていた。その後に悪阻の症状が出て、信の妊娠が分かると、李牧は彼女の目の前で扉の鍵を取り外したのだ。

逃げたければ逃げてみろと言わんばかりの態度であったが、李牧がそんなことをしたのには、見えない足枷がいよいよ完成したからだったのだろう。

身重の体で負荷を掛ければ胎児にも影響するし、信が尊い命を奪えるはずがないと李牧は読んでいたのだ。

悪阻で思うように体を動かせず、信は扉が開いているのに逃げられない日々が続いた。

最近になってようやく落ち着いてきて動けるようになったのだが、李牧は領地の視察に出ているようで、しばらく屋敷には戻らないと侍女が言っていた。

自分が生まれ育ち、両親が秦王のために広げ、守っていた地を、趙の者たちが我が物顔で踏み躙っているのだと思うと、それだけで腸が煮えくり返りそうだった。

結局自分は父の仇を討つこともできず、無様にも生き残ってしまった。それだけではなく、憎い男の子まで孕まされている。この状況を地獄と呼ばずに、なんと示せば良い。

あの戦場で仲間たちと共に逝っていれば、どれだけ幸せだったのだろうか。

扉の向こうに人の気配がないことを確認してから、信は自分の腹をそっと擦った。

「…ごめんな」

まだ顔も知らぬ我が子に、信は罪悪感で胸をいっぱいにさせながら謝罪する。自ら命を奪うことをしないのは、せめてもの情だった。

無様に敵国で首を晒すことはしたくなかったが、李牧の妻として生きる道を選ぶことは、彼に心を渡すのと同等の行為である。

ならば李牧の知らない間に、李牧の知らない誰かに、この首を差し出そう。今以上の苦痛など存在するはずがないのだから、何をされてもきっと耐えられる。

自分が李牧の妻になったことは趙に知れ渡っているのかは分からないが、きっと快く思わない者が大勢いるはずだ。

信が李牧を憎んでいるように、趙の者たちだって大勢の命を奪った信を許さないに決まっている。

彼らの怒りを煽れば、簡単に斬り捨てられるだろう。秦国の将軍の命など、下僕よりも軽いものなのだから。

「………」

ゆっくりと扉を開いて、隙間から信は廊下の様子を伺う。

自分の望みを叶えるためには、李牧の屋敷から抜け出す必要があった。

彼の従者が自分に何かしらの恨みを抱いていたとしても、主の命に背くことはしないはず。つまり、この屋敷にいる限り、自分は殺されないことを信は理解していた。

扉の隙間から覗き限り、従者たちが行き交う姿はなく、足音も聞こえない。部屋を出るなら今しかない。

(よし)

信は物音を立てないように扉を開き、廊下に足を踏み入れた。

馬車の中で凌辱を受けてから、目を覚ました時にはこの屋敷の一室に閉じ込められていた。
そのせいで、信はこの屋敷の構造を知らない。

窓から見える景色を見る限り、この部屋が高い階層でないことは分かっているのだが、その他の情報は全く分からなかった。

しかし、いつまでもこの部屋にいる訳にはいかない。

自分が嘆こうが怒ろうが、腹の中にいる子は日に日に成長していく。

目に見えない足枷が、より頑丈なものにならないように、逃げ出すならば今しかないと信は考えた。

 

蜘蛛の糸

廊下へ踏み出した途端、信の背筋がぞくりと凍り付く。

それは凄まじい殺気にも似た気配で、戦場でしか感じることのないものだった。どうしてこんな屋敷の中でそれを感じるのだろう。

「うッ」

振り返るよりも先に、後ろからぐいを着物の襟首を引っ張られる。首が圧迫されて息が詰まった。

むせ込みながら振り返ると、李牧の配下である慶舎が相変わらず無表情のまま、信を見下ろしている。

何故ここにいるのかと疑問に思うよりも前に、腕を掴まれてしまい、信は逃亡に失敗したことを察する。

李牧でないとしても、彼は屋敷の従者たちだけでなく、信頼している配下たちに自分を見張らせていたのだ。

きっと従者たちだけなら撒けたに違いない。李牧も側近たちも、てっきり領地の視察にでも出ていると思ったのに、詰めが甘かった。

「諦めの悪いの女だ」

相変わらず彼の表情は微塵も揺らぎなかったが、その声には呆れが含まれていた。

慶舎は信の腕を掴む手に力を入れると、彼女を部屋に連れ戻すために歩き始める。

「くそッ、放せよッ!」

信が腕を振り解こうとするが、慶舎の腕は決して離れない。

両足に力を入れても、慶舎は構わずに信を引き摺っていく。再び部屋の中に戻って来た信は歯痒い気持ちに襲われる。

武器を持っていたのならまだ抵抗が出来ただろうが、男と女の力量差を見せつけられているようで、信は悔しくて堪らなかった。

悪阻が落ち着いて来たことは李牧も知っているだろうが、逃亡を企てたことを李牧に告げられて、また扉に鍵を掛けられたら今度こそ逃げられなくなってしまう。

なんとか力を込めて慶舎の腕を振り解こうとするのだが、筋力の衰えた腕では彼の腕を振り解くことはおろか、足を止めることも叶わない。

「…敗戦国の将が、安易に趙の地を歩けると思うな。本来なら首を晒されるのに、李牧様の庇護下にあるからこそ、お前はまだ生きていられる。李牧様に感謝するべきだ」

たった数歩しか廊下に出ていないというのに室内に戻って来ると、信の考えなど知ったことかと言わんばかりに、慶舎は冷たい声を発した。

扉に鍵を掛けないのは李牧の命令だからなのだろうか。脱走を企てた信のことを逃すまいと、慶舎は扉を閉じ、その前に立ち塞がるように立った。

淡々と語る慶舎に、信は怒りを込めて睨み付けた。

「うるせえッ、是非とも李牧以外の野郎に殺されるつもりで逃げてんだよ…!あいつの弟子のくせに、んなことも察せないのか!」

信の言葉を聞いた慶舎が、表情を変えぬまま、さも不思議そうに首を傾げている。

感情が豊かでない男なのは知っていたが、本当に人形のように微塵も顔色を変えないのは不気味に思う。昔からこうなのだろうか。

「…なぜ李牧様を愛さない?」

「は…?」

彼の問いに、信はつい聞き返した。

「李牧様は寛大な心を持つお方だ。たかがお前という女一人のために秦を落とした。そして、お前に妻と言う役割を与えた。それなのに、なぜお前は李牧様を愛さない?」

慶舎の言葉を聞いていくうちに、怒りに染まっていた信の表情が消えていく。

「……お前、人を好きになったことがないのか?」

「好き…?」

「お前が、李牧に対して抱いてるのは尊敬とか、恩だろ。お前の従順な態度を見てりゃ、すぐに分かる」

だがな、と信が言葉を紡いだ。

「…黙って脚を開くのは、…好きになるってことじゃねえんだよ。…そんなのは、娼婦と同じだ。まだ体で稼ぐって目的があるだけ、娼婦の方がマシかもしれねえな、はは…」

俯いた信の声が震えている。涙を堪えているのだと慶舎には分かったが、なにを悲しんでいるのか、慶舎には微塵も分らなかった。

「…お前は他の女と違う。男に嫁ぎ、子を孕み、産み、育てる。それをお前はせずに戦場に出ていた」

信が自虐的な笑みを浮かべる。

「それで李牧に見初められたなんて、笑い話だよな…!俺が将軍にならなきゃ、あいつとは無縁でいられたんだ…秦が滅びるとしても、最後まで…あいつの顔なんて見なくて良かったんだ…父さんと、母さんに、拾われた時から、将軍なんか目指さなきゃ、良かった…」

堰を切ったかのように、信の瞳から涙が零れ出す。

しかし、その涙が何の感情から来ているものなのか、慶舎には少しも理解出来なかった。

 

後編はこちら

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セメタリー(李牧×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/慶舎×信/秦敗北IF話/ヤンデレ/監禁/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

戦に溺れた男

今の自分は、一体何のために戦っているのだろう。

満身創痍の体で剣を振るい、追手の兵を斬り払いながら、男は考えた。

守るべき国も、父も兄弟も仲間も、何もかもを失ったというのに、生きる意味などあるのだろうか。

この剣を手放して大人しく首を差し出せば、自分も楽になれるのではないか。みんなも待っているのではないかと男は考える。

葉や枝が積み重なって出来た獣道を通り、男は木々の間に身を潜めた。

「まだ近くにいるはずだ!探せ」

「見つけて殺しちまえ!」

遠くでまだ追手の気配と声がする。自分の血の跡を辿り、すぐにでも追い掛けて来るだろう。

まるで飢えた獣が取り逃がした獲物を探すような執着ぶりだった。

彼らは一人でも多くの敵兵の首を持ち帰り、武功を挙げたいのだろう。それに応じた報酬が欲しいのだ。

人間の欲深さに、男はとことん嫌悪した。男が最も嫌悪したのは、戦に溺れた自分という存在である。

「………」

一度腰を下ろしてしまうと、まるで根を生やしてしまったかのように、立ち上がるのが億劫になってしまった。

体がもう楽になりたいと叫んでいるのだ。あとは心が従うのを待つだけだった。

目を閉じると、瞼の裏に地獄絵図が浮かぶ。敵兵に容赦なく殺されていく家族や仲間たちの姿。

敵の勢いを押し返せないと分かるや否や、撤退命令を出す将軍たち。戦場に転がっていく数多の屍。

自分もあの戦場で命を差し出せば良かったのだろうか。

戦に溺れていた自分には、死への恐怖などなかったはずなのに、それなら一体なぜ無様にも逃げ惑っているのだろうか。

どうせ敵兵によって無残に殺されるのなら、戦場で死んでいても、ここで死んでも何ら変わりないような気がした。

(もう、疲れた)

まるで操り人形の糸が切れてしまったかのように、男の全身から力が抜けていく。

戦が始まってからずっと握り締めていて、体の一部のようになっていたはずの剣も、呆気なく手から離れてしまったのだった。

「おい!こっちに血の痕があるぞ!」

どんどん足音と声が近づいて来る。自分の死が目前までやって来たことを、男は他人事のように察したのだった。

早く楽にしてくれと願った直後、意識の糸がふつりと切れる。

体はとっくに限界を超えていたのだ。

 

赤い着物の少女

眩しい朝陽が瞼を刺激する。温かい日の光に包まれて、男はようやく楽になれたのと察した。

(…随分と眠ってしまったな)

重い瞼を持ち上げた時に、男は先に逝っていた家族や仲間たちが自分を出迎えてくれるのだとばかり思っていた。

「…?」

瞼を持ち上げると、遠くに空があった。木々に囲まれた風景を見つけて、自分はまだ死んでいないことを悟る。まだあの森の中にいた。

少し遅れて、全身に鈍い痛みが走る。

休むことなく戦場で剣を振るい続けていた筋肉が悲鳴を上げており、体のあちこちが痛み出した。

戦場で受けた傷のせいか、熱が出て来たようで、身体が熱い。

疲労と怪我と発熱で男は肩で息をしていた。

体はこの上なくぼろぼろなのに、少し眠ったせいか、混濁していた意識が少しまともになっていた。

(なぜ、俺はまだ生きている…)

意識を失った後に敵兵たちに見つかり、首を斬られたのだと思っていたのだが、体と首はまだ繋がっている。

持続する体の痛みから、決して夢幻の類でないことも分かった。

「…!」

遠くから足音が聞こえる。自分を探している敵兵だろうかと男は横たわったまま、音のする方に目を向けた。

自分を探し回っているような喧しい声はしない。

足音を聞く限り、人数は一人だとわかった。しかも、かなり早い。この獣道を歩き慣れているような足取りだということが分かる。

足音から察する限り、獣の類ではなく、人間だろう。

「………」

どうでもいいかと男は再び瞼を下ろした。

きっと次に目を覚ました時こそ、家族や仲間たちが自分を出迎えてくれるはずだ。

いよいよ足音が近くにやって来た。全てを諦めた男が、再び意識の糸を手放そうとした時だった。

「―――ッ!」

急に額が痛いほどの冷たさで覆われる。

遠ざかっていた意識が強制的に引き戻されて、男がかっと目を見開いた。

ぎゃあッと短い悲鳴が聞こえ、目の前にあった何かが飛び退く。

「起きてんなら言えよッ!」

「………」

男は何度か瞬きを繰り返す。自分と同じように、驚愕の表情を浮かべている幼い少女が立っていた。

まだ十にも満たないであろう少女だった。

赤い着物に身を包み、黒髪を後ろで結われている。結われた髪には金色と赤色で彩られた簪を差していた。

腕を動かして額に触れると、水で湿らせた手巾が宛がわれており、この少女が用意してくれたものだと察する。

傷ついて血を流していた腕には、別の布が巻かれていた。少女が着ている着物と同じ布だった。

目だけを動かして男が少女を見ると、着物の裾が破れている。少女が着物を破って、手当てしてくれたのだろうか。

「お前、は…?」

唇を戦慄かせ、掠れた声で問い掛けたが、少女の耳に男の小さな声は届かなかったらしい。

「ほら」

竹筒を取り出して、少女は男の口元に宛がった。冷たい水が男の乾いた口内に流れ込む。

「こほっ…」

しかし、ずっと乾いていた体が驚いて、水を拒絶するように激しくむせ込んでしまう。

まるで体が生き長らえるための栄養を拒絶しているようだった。
もうこれ以上は生きたくないと、身体が叫んでいるのだと男は他人事のように感じていた。

「ったく、仕方ねえなあ」

見兼ねた少女が竹筒の水を自らの口に含む。

何をしているのかと男が少女を見つめていると、彼女は迷うことなく男に口付けたのだ。

「―――」

視界いっぱいに映っている端正な顔立ちと、柔らかくて温かい唇の感触に、男が驚いていると、再び水が口の中に流れ込んで来る。

乾いていた喉に潤いが満ちていき、気付けば男は涙を流していた。乾いていたのは身体だけではなく、心もだったのだ。

まだ年端も行かぬ少女の口づけから、生気を分け与えられたような、不思議な感覚に、胸の内が熱くなっていく。

水を飲ませた後、少女は男が静かに涙を流していることに気が付いたようだった。

しかし、気づかなかったふりをして、「もっかい水を汲んで来る」と足早にその場を去っていく。

少女の足音と気配が遠ざかり、再び一人になった男は、幼子のように声を上げて泣いたのだった。

 

約束

せっかく取り入れた水分も、全て使い果たしてしまうほど泣き終えた男は、妙にすっきりした気分になっていた。

年甲斐もなく声を上げて泣いてしまったが、きっと少女にも聞こえたに違いない。

一人にしてくれた少女の優しさに感謝しつつ、彼女は何者なのだろうと考えた。

近くに集落でもあるのだろうかと思ったが、男が敵兵から逃亡を続けている間は、そのようなものは見なかった思う。

「くっ…」

まだ痛みと怠さの残っている体に鞭打ち、男はふらつきながら立ち上がる。

地面にしっかりと両足がついた感覚に、自分はまだ生きなくてはいけないと思い知らされた。

(川…?)

遠くから微かに水音が聞こえる。

少女が水を汲んで来た川があるのだろう。男は重い体を引き摺りながら、水音に導かれるように歩き出した。

少女が通ったであろう痕跡を追いかけていると、男ははっと目を見開いた。

赤い血の海が広がっており、その上には自分を追いかけていた敵兵たちの死体がいくつも重なっていた。

足を止めて敵兵の死体を観察するが、全員が首を斬られたり、胸を刺されていたり、急所を突かれている。

まさか、死んだと思った仲間が自分の救援に来てくれたのだろうか。

いや、そんなはずはない。だとすれば、敵兵たちは誰にやられたのだろう。獣に襲われたような傷はなかった。

やはり死に至ったのは首や胸の傷に違いない。

草を踏み躙る音が聞こえ、男はつい身構えた。音のした方を見ると、あの少女だった。

片手に竹筒を持っている。川で水を汲み直して来たのだろう。

先ほどまで元気そうだった少女の着物に、まるで柄を入れたかのように、真っ赤な血が付着していた。

(いや、違う・・

今思えば彼女の着物は初めから・・・・赤く染まっていた。

そして彼女の背中には、一本の剣が携わっている。

鞘や柄にも血が付着しているのが見えて、男は息を飲んだ。

男が気づかなかっただけで、彼女は初めから血に塗れていたのだ。

敵兵たちの死体には虫がたかっており、皮膚は腐り始めている。殺されてから時間が経過していることが分かった。自分が眠っている間に殺されたのだろう。

(まさか…)

男が敵兵たちの死体の山と少女の姿を交互に見る。

この場にいる生存者は自分とこの少女だけだ。自分を探していた敵兵を返り討ちにした記憶はない。

「どうした?」

驚愕している男の表情を見て、少女は小首を傾げていた。

「全部…お前が殺したのか?」

男が問うと、少女は不思議そうな顔をして、それから頷いた。肯定の返事に、理解するまで時間を要した。

年端もいかぬこの少女が、本当に大の大人を、しかも、これだけの人数を殺したというのか。

一番驚いたのは、少女に嘘を吐いている様子がないことだ。

そういえばと男は改めて少女を見つめる。どうしてこんな森に少女が、それも一人でいるのだろう。

近くに集落などは見当たらなかったはずだ。まだ十にも満たない年齢であることから、親がどこかにいるに違いない。

少女が着ているのは上質な布で作られている着物だ。

もし、この森のどこかに集落があるとしても、このような高価な着物を着るだろうか。

高貴な家柄の娘なのかもしれない。だとすれば、敵兵を殺したと彼女が言ったのは、自ら手に掛けたという訳ではなく、護衛の兵に命じたということになる。

気になることは他にもあった。上質な着物を着ているというのに、言動がまるでつりあっていない。

高貴な家柄だとすれば、幼い頃からも相応な教育を受けさせるとは思うのだが、この少女からは微塵にも教養が感じられなかった。

この少女は一体何者なのだろう。

「お前、こいつらに追われてたのか?」

先に問いかけたのは少女の方だった。男は小さく頷く。

「俺の首を持ち帰れば、この上ない褒美が手に入るからな」

「ふーん」

尋ねておいて少女はまるで興味の無さそうな返事をした。しかし、男にはその返事が嬉しかった。

褒美を目当てに自分の首を取ろうと狙う敵兵と違って、自分が何者であるかに対して興味を抱かない少女の素っ気なさが、今だけは嬉しかった。

「…娘。お前は、何故このような場所にいる?お前は何者だ?」

もしかしたら、少女の姿をしているだけで森に住まう妖や神の類なのかもしれない。

本当にそうだったとしても、男は今さら驚かないだろう。

あの戦で大敗し、自分が生きていること以上の奇跡を目の当たりにしても、きっともう驚くことはない。

男が質問を返すと、少女は不機嫌そうに目をつり上げた。

「修行」

「なに?」

つい聞き返してしまった。少女はもう一度、「修行」と繰り返した。

(修行?十にも満たないこの娘が、こんな森で?一体何の修行を?)

次々と疑問が浮かび、男が目を丸めていると、少女はその場に座り込んで重い溜息を吐いた。

「父さんに戦を見に行くぞって引っ張り出されたかと思ったら、いきなりあそこの崖から突き落とされたんだぜ?ひっでえ話だろ!」

上方を指さしながら、少女が頬を膨れさせる。

もしかして、修行と言う名目で森に捨てられたのだろうか。

戦を見に行かせるだなんて、彼女の父親はどこの国かの将なのだろうか。

上質な着物や少女の肉付きの良い体を見る限り、食いぶちには困っていないように思える。

名のある将の娘なのかもしれないが、家庭には家庭の事情というものがある。男には知り得ない何かがあるに違いない。

「それは…大変だな」

男が労いの言葉を掛けると、少女は「あーあ」と着物が乱れるにも構わず、両腕を頭の後ろに当てていた。

こういう仕草を見る限り、やはり淑女としての教育は一切受けていないに違いない。

「最低でも十人は討ち取った戦利品を持ち帰って来いって、置いていきやがって…本当にひでえ父さんだよなあ!」

「…話があまり読めないが…十人殺せと、命じられたのか?」

顔を強張らせながら男が問うと、少女は大きく頷いた。

「この森にいるやつら。戦場から逃げて来たやつとか、追い掛けて来るやつがたくさんいるだろうからって」

「………」

戦を見にいくことを強要したり、この森に娘を一人取り残し、ましてや十人殺せと命じるなど、彼女の父親は一体何者なのだろう。

そこらの将軍だとしても、そこまで我が子に強いるだろうか。

普通、父親という存在は、娘には甘いはずだ。

男にはまだ妻も子もいないのだが、家庭を持つ仲間たちの話を聞く限りはその認識で間違いない。

口調や態度から少年と間違えてしまってもおかしくはない娘ではあるが、自分の子なら愛おしく思うに違いない。

だが、幼い少女が血に塗れる姿を望む親など、一体どこにいるというのか。男は眉を顰めた。

「…無理だと泣きついて帰れば良かっただろう」

男がそう言うと、少女は首を横に振った。

「だって、十人殺した戦利品を持ち帰らねえと、屋敷に入れてくれねえから…」

少女が着物についた土埃を手で払う。

「でもよお、十人の首を抱えて、あの崖登るのはぜってー無理だろ」

大の大人でも、十人の首を抱えながら崖を登るのは不可能だろう。愚痴る少女に、男は助言をすることにした。

「…首じゃなくても、耳とか指とか、軽いものにしたらどうだ?戦利品としか言われていないんだろう?」

男の助言を聞き、それまで表情を曇らせていた少女が明るい笑顔を浮かべた。

「あ、そっか!頭良いなあ、お前!」

「………」

会話の内容は物騒だが、やはり年相応の少女だ。

まるで太陽のように、周りを照らしてくれる少女の笑顔に、男は胸が温かくなっていくのを感じていた。

この少女になら殺されても良い。既に生き長らえるつもりもない命だ。少女の帰宅を許可する証として差し出しても良いと男は考えていた。

そこまで考えて、男はそういえば彼女はなぜ自分を介抱してくれたのだと考えた。

放っておけば殺さなくても、殺したという証を奪い取れたものを。わざわざ口移しで水を飲ませてまで、彼女は自分を生かそうとしてくれたのだ。

少女を見つめていると、視線に気づいた彼女が「なんだよ」と素っ気なく訊いて来る。

「俺は殺さないのか?」

「殺す理由がない」

それはあまりにも単純で、明白な理由だった。真っ直ぐな瞳で見据えられ、男は言葉を詰まらせた。

「こいつらはお前と違って、俺のこと襲って来たから」

追いかけて来た敵兵たちは褒美を目当てに男の首を欲していたが、まさかこんな年端もいかない少女にさえ刃を向けたのか。

黙り込んでしまった男を見て、少女がきょとんとした目つきになった。

「……もしかして、お前…本当は死にたかったのか?」

「え?」

「寝てる間、ずっと謝ってたから…俺、お前が誰かに会いたいのかと思って…」

少女の言葉を聞き、男ははっとした。自分が謝罪をしていたのは、戦に溺れた自分のせいで、逝ってしまった仲間たちに対してに違いない。

眠っている間も、自分は仲間たちへの罪の意識に苛まれていたのだ。

少女にしてみれば、男が謝罪をしていたのは死んだ仲間たちに対してだなんて知る由もなく、自分の帰りを待っている者たちに対してだと勘違いをしていたらしい。

「会いに行ってやれよ」

少女の言葉に、男は自虐的な笑みを浮かべた。

ここまで懸命に介抱してくれた少女の目を見れなくなってしまい、男はつい目を逸らしてしまった。

「…みんな、俺のせいで死んだ。親も、兄弟も、仲間も、みんな」

男の言葉を聞き、少女ははっとした表情を浮かべる。

戦に出ていない少女に一体何を愚痴っているのだろう。

何を言ったところで、失った家族も仲間ももう戻らないことは分かっている。

しかし、限界まで重荷を背負った心ははち切れんばかりに膨らんでいた。少しの刺激で簡単に砕けてしまうだろう。

慰めてもらいたい訳ではない。

しかし、全てを失った自分はこれから一体どうしたら良いのか、男にはこれから進む道が全く分からなかったのだ。

もう自分の前には進むべき道すら存在しないのだと思っていた。

「…でも」

少女が顔を上げた。

「お前はまだ生きてる」

掛ける言葉に悩むことなく、少女は男にそう告げた。

「………」

「お前のせいで死んだっていうなら、お前がそいつらの分まで生きる・・・・・・・・・・・のは、だめなのか?」

少女の穏やかな声色に、男は思わず言葉を詰まらせた。

自分が戦に溺れる愚か者でなければ、助かった命は数え切れないほどあるだろう。

自分一人が死ねば良かったのに、自分だけが生き残ってしまった。だというのに、少女は生きる道を示した。

「…俺が、生きることを、許してくれるのか?」

「ああ、俺は許すぜ」

罪の意識に苛まれていた男の心に、少女の言葉はまるで一筋の光のように差し込んだ。

失った命は二度と戻らないのだから、全てが許される訳ではない。

しかし、その失った命のためにも生きろと、生きるのを許すと少女は言ってくれたのだ。

「そうだ」

少女が髪に差していた金と赤の簪を手に取ると、それを男に差し出した。

「これ、やるよ」

質にでも出せと少女が簪を男に握らせる。着物と同じで、とても高価なものに違いない。

断ろうとしたが、少女は「俺には似合わねえし、剣を振るうのに邪魔だから」と首を横に振ったので、男は素直に受け取ることにした。

少女が背中に携えていた剣で、転がっている死体の耳に刃を当てる。

何の躊躇いもなく耳を削ぎ落していく少女に、男はそういえばと声を掛けた。

「お前の名は?」

少女は振り返った。

なるほど。純粋な少女にぴったりの名前だ。

少女は太陽のような眩しい笑顔を浮かべ、言葉を続けた。

「いつか俺に、今日の恩を百倍…いや、千倍にして返せよ!期待しないで待っててやるから、約束だぞ」

男はふっと口元を緩めた。

「欲張りな女だな。将来が楽しみだ」

「そういうお前は?名前知らなかったら、恩を返してもらえないだろ」

「…俺は、李牧だ」

 

敗国の女将軍

がたごとと荒っぽい音がして、信の意識に小石が投げつけられた。

ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、目を開けているはずなのに視界には何も映らない。目隠しをされているらしい。

真っ暗な視界の中で、信は両手足に軋むような痛みを感じた。

「!」

敷布の上に寝かせられていたようだが、寝台ではない。何かに乗せられて移動させられているのだ。

荷台かと思ったが、外の音が遮断されていることから、恐らく馬車の中だろうと信は考えた。

状況を把握しようと信は体を起こそうとして、それが叶わないことを知る。

自由に手足を動かせないことから、両腕を背中で拘束され、足首と膝もきつく縄で縛られているのが分かった。

「―――ッ、―――!」

声を出そうとして、布を噛ませられていることに気付く。

次々と頭に入り込んでくる今の状況に、信は言葉を失った。

そうだ。趙国と命運をかけた戦いの最中だったはず。

まさか戦の最中に居眠りなどしていた覚えないのだが、拘束されているこの状況から、自分が捕虜の立場になったことはすぐに理解できた。

覚醒した意識がどんどん記憶を巻き戻していく。

飛信軍が前線で、待ち構える趙軍へ突撃をした後に、隠れていた伏兵によって取り囲まれてしまい――そこからは記憶がない。

伏兵如きにやられる飛信軍ではないはずなのに、一体何があったのだと動揺していると、左腕に矢が貫通した痛みを感じた後に信は意識を失ったのだ。

(まさか…)

両手足は頑丈に拘束されているのに、床に布が敷かれている気遣いに違和感を覚えながらも、信は外の様子を探ろうとした。

「ッ…ん、…!」

床に顔を擦り付けて目隠しを外そうとすると、頭上で小さく笑い声が聞こえ、信はぎくりと体を強張らせた。すぐ傍に誰かがいる。

ずっと同じ空間にいながら、少しも気配を察知出来なかった。視界を覆われ、自分の状況を把握することに意識を向け過ぎていたのだ。

捕虜として捕らえられたのなら、見張りがいてもおかしくはない。

信はじっと黙り、相手の出方を待った。

大人しくしろと頭を踏みつけられるかもしれないと警戒していると、相手が動いたのが分かった。

「ぅ…」

目隠しを外され、信の視界は色を取り戻した。

目の前にいた男に、信は驚愕して目を見開く。そこにいたのは趙の宰相である李牧だった。

父、王騎を討つ軍略を企てた男であり、此度の戦でも圧倒的な軍略で秦を滅ぼした憎き仇である。

「――、――ッ!」

途端に殺意を込めた瞳で李牧を睨んだ信が喚く。

しかし、その声は口に噛ませられた布で蓋をされてしまう。

「暴れると傷に障りますよ。弱い毒とはいえ、解毒薬が完全に効くまでは安静にしていた方が身のためです」

馬車の座席に優雅に腰を下ろしている李牧に、余計なお世話だと信は鋭い視線を向けた。

李牧の言葉通り、左腕がずきりと痛む。今は丁寧に包帯が巻かれていた。

意識を失ったのは毒のせいだったらしい。
口の中に薬独特の苦みが残っている。李牧の言葉通りなら、解毒薬を飲まされたらしい。

そのまま放置しておけば死に至らしめたかもしれないのに、なぜそんなものを使ったのか理由が分からず、信は眉間に皺を寄せた。

李牧は目隠しをしていた布以外は決して外そうとしなかった。

当然だろう。捕虜である将の拘束を簡単に解くなど自殺行為に等しい。

武器はないとしても、その気になれば牙で喉笛に噛みつき、両手で首を絞めることなど容易く行える。

妙に落ち着き払っている李牧は、戦の勝利に酔い痴れているのだろうか。いや、彼はどんな状況でも冷静な男だ。

今頃、手に入れた領地をどうするかを考えているに違いない。

戦の勝利を喜ぶこともなく、既にその先を読んでいる。悔しいが、李牧の才能に抗うことは出来ても、勝利することは出来なかった。

(なんで、俺を殺さない…?)

李牧が無駄な殺生を好まないのは知っている。しかし、此度の戦においては別だ。

徹底的に秦を滅ぼすつもりで次々の名のある将を討つ軍略を企てていた。

飛信軍も完全に李牧の策に陥り、ほぼ壊滅状態に追い込まれてしまったのだ。

趙の勝利は決まった。今さら敗戦国の将である自分から聞き出すような情報など何もないはずだ。

目的が分からず、信が睨み付けていると、彼は口元に薄ら笑いを浮かべていた。

勝者の笑みに、信の腸が煮え繰り返りそうになる。

「なぜ、自分だけが生かされているのか、不思議ですか」

自分だけという言葉に、信は胸が締め付けられるように痛んだ。

李牧の軍略に大敗し、他に生き残った者はいないのかもしれない。もしくは李牧が動揺を誘うために、わざとそう告げたのか。

信は李牧を睨み続けた。

忘却

過去に行われた趙軍との戦いで、信は大勢の敵将を討ち取った。

飛信軍の強さを前に敗れた軍も数え切れないほどいるだろう。

信に恨みを持つ者は多い。その見せしめとして、趙で首を晒すつもりなのだろうか。

しかし、返って来た李牧の言葉は意外にもそれを否定するものだった。

「…先に言っておきますが、私はあなたを殺すつもりはありません。今さら欲しい情報がある訳でもないので、拷問にかけることもしませんよ」

殺すつもりはないという言葉を信はすぐに信じられなかった。

首を晒すつもりもなく、情報を入手するつもりもないとすれば、もう自分に用はないはずだ。ますます李牧の目的が分からない。

「っ…!」

座席に座ったままでいる李牧が手を伸ばしたので、信は咄嗟に身を捩ってその手から逃れようと体を仰け反らせる。

触れられるのも嫌だと、拘束された体で拒絶を示す彼女に、李牧の胸に切ないものが広がった。

しかし、逃がさないと言わんばかりに李牧の手が信の顎を掴む。

骨が軋むほど強く掴まれ、無理やり目線を合わせられると、信の瞳に僅かな怯えが浮かんだ。

「あなたを手に入れるためですよ、信」

李牧の言葉を理解するまで、信はしばらく時間が掛かった。

殺意を込めて睨み付けていた瞳が、呆然としたものに変わり、李牧が口元が緩む。

彼女の顎を掴んだまま、李牧が顔を寄せて来たので信は驚いて身を捩って逃げようとした。

「んんッ」

布を噛ませられたままの信の口に、李牧が唇を寄せる。

柔らかい感触が唇を覆ったのと同時に、李牧の端正な顔立ちが視界いっぱいに映り込み、信は動揺に目を瞬かせることしか出来ない。

唇に舌を這わせられて、ぬるりとした感触に鳥肌が立つ。

「ぅぐ…ッ!」

逃げようとしたが、李牧の腕が矢傷を受けた左腕を思い切り掴んだので、信はくぐもった悲鳴を上げて、痛みに身体を硬直させた。

大人しくなった信を褒めるように、李牧は顔の向きを変えて口づけを深めていく。

どうして李牧が自分に口付けているのか、信には少しも理解が出来なかった。

「っ…ん、…ふ…」

息が苦しくなって、小さな呻き声を上げると、ようやく李牧が顔を離してくれた。

「本当はあなたの声を聞きたいところですが、せっかく手に入れたのに、舌を噛み切られては堪りませんからね」

布を噛ませているのは決して声を抑える訳ではなく、自害を阻止するためだと李牧は言った。

なぜそこまで自分を生かそうとするのだろう。

口付けられておきながら、信は李牧の目的が少しも分からなかった。

眉間から深い皺が消えない信を見て、李牧が困ったように肩を竦める。

「…やはり、覚えていませんか」

「?」

李牧の瞳に寂寞が浮かぶ。しかし、その理由を信が知る由もなかった。

「私は、あなたとの約束を果たすために、秦を滅ぼしたというのに」

何を言っているのだろう。信は李牧の言葉を一つも理解出来なかった。

敵の軍師である李牧と、約束などした覚えはない。

しかも、自分が仕えている国を亡ぼすように頼んだとでもいうのか。ありえないと信は李牧を睨んだ。

―――やっと、会えましたね。

秦趙同盟を結んだ後の宴で、信は李牧と対峙した。

それは春平君を人質にとった呂不韋の企みによるものであったが、信は父である王騎の仇である彼がどんな男であるかを、確認しに堂々と李牧の前に立ったのだ。

初対面であるはずなのに、李牧は飛信軍の活躍と、王騎と摎の娘である信のことを知っていたようだった。

あの日のことはよく覚えているが、彼と何か約束を交わした覚えはなかった。

秦を滅ぼす約束など、亡くなった仲間たちに誓って、一度もしたことはない。

李牧は何かを言おうとしたが、すぐに口を閉ざし、首を横に振る。

「…いえ、何も急ぐ必要はありません。もうあなたは私のものなのですから」

(俺がいつお前のものになったんだよ)

布を噛ませられていなかったら、信はすぐに言い返しただろう。

どうやら言葉にせずとも信の想いが伝わったようで、李牧が苦笑を深める。

「趙へ戻ったら、やることが山積みなのです。ですから、今の二人きりの時間を有効に活用しなくてはなりませんね」

「ッ…!」

李牧の骨ばった大きな手が信の首元をするりと撫でた。

首を絞められるのかと警戒し、信が身を捩る。肌をそっと撫でるだけで、李牧の手が気道を圧迫することはなかった。

しかし、彼に押し倒されてから、なぜ馬車の中に布が敷かれているのかを、信は嫌でも察するのだった。

情欲

李牧に身体を組み敷かれ、信は顔から血の気が引いていくのを感じた。

自分を見下ろす李牧の瞳に殺意など微塵もない。

代わりに浮かんでいるのが情欲だと分かると、信の中には怯えよりも、信じられないといった感情が沸き上がって来た。

辱めを受けさせてから趙に首を晒すつもりなのだろうか。

しかし、李牧は先ほど殺すつもりはないと言っていた。

李牧は軍略に長ける男ではあるが、嘘を吐く男ではない。

だとすれば、この状況は何だというのか。敗戦国の将を生かすことに価値はないはずだ。

幾度も戦う中で、李牧の軍略を破って来た自分に辛酸を嘗めさせられた恨みを持っているのなら、それとも情を掛けるつもりならば、一思いに首を絞めて殺してほしかった。

もしかしたら安易に死ぬことも許されず、苦痛を与え続けるつもりなのだろうか。

それならば一人でも多くの趙兵を道ずれにして、死んでいった方がまだマシだと思えた。

「んんーぅッ!」

李牧の顔が近づいてきて、先ほどと同じように布越しに唇が重なり合う。

父である王騎の仇とも言える男と姦通するなど、信にとっては趙に首を晒される以上の屈辱だった。

きっと李牧も信の気持ちを知った上でこのような行いをするのだろう。

最後の最後までこの男の策通りに動くことになるなんて。

死ぬことも許されないのかと思うと、信は男の愉悦を煽るだけだと分かりながらも、信は溢れ出る涙を堪えられなかった。

布さえ噛まされていなければ、すぐにでも舌を噛み切っていたに違いない。

李牧の指が信の涙を拭う。その涙さえ逃がすまいと、李牧は指に付着した涙を舐め取る。

「私が、恐ろしいですか?」

挑発するようにそう問われ、信は布を噛み締めて、李牧を睨み付けた。

この涙は決して李牧に恐れをなした訳でも、屈した訳でもない。

父の仇を取れなかった悔恨の念と、弱い自分に対しての憤りによるものだ。

涙で濡れた瞳で李牧を睨みつけながら、背中の下敷きになっている拘束された両腕を動かした。

両手首には縄が頑丈に巻き付けられているが、関節を外せば縄から抜け出せるかもしれない。

今の李牧は武器を所持していない。馬車の中には武器らしいものは見当たらなかった。
両手さえ自由になれば、この近い距離ならば首を絞めてやることだって出来るはずだ。

拘束を解こうと必死になっていると、李牧が小さく笑った。

「…私を殺したら、その後はどうします?」

こちらが考えていることなどお見通しなのだろう。それが無性に腹立たしい。

「帰る場所もなくなったというのに」

その言葉を聞いて、信は悔しさで顔を歪ませる。

李牧を殺すのは、父の仇を取るだけではなく、秦の無念を晴らすためだ。

目の前のこの男さえ殺せば、あとは自分の首を掻き切るか、舌を噛み切れば良い。先に待っている仲間たちもよくやったと言ってくれるに違いない。

どうせこの馬車の外には趙の兵と将しかいないのだ。宰相が殺されたと気づけば、すぐに自分も殺されるだろう。

それに、秦王が崩御した以上、もう秦国の再建は成り立たない。それは信も分かっていたし、自分が帰るべき場所がなくなったことも理解していた。

「ようやく、ですね」

李牧が帯に手を掛けたのを見て、信が布を噛ませられた口でくぐもった声を上げた。

凌辱その一

無遠慮に帯を解かれ、着物の衿合わせを開かれる。

毒矢を受けた腕には厚手の包帯が巻かれており、他の傷にもきちんとした処置が施されていた。

足にも深い傷を受けていたのだが、包帯を巻くのに邪魔だったのか、そういえば下袴が脱がされていることに気づいた。

鎧を着るために胸に巻いていたさらしも外されており、着物を捲られると、形の良い胸が露わになる。

舐めるような視線を向けられて、信は羞恥心を上回る嫌悪感に顔を歪ませる。

両腕だけでなく、膝と足首まで頑丈に拘束しているのはきっと蹴りつけられないようにするためだったのだろう。

首筋にぬるりと舌を這わせられ、信は嫌悪のあまり、鳥肌を立てた。

「あなたは今後、私の妻として生きるのですよ」

李牧の言葉に、信は何を言っているんだと目を瞬かせる。

決して冗談を言っているような声色でも、からかっているような笑みを浮かべている訳でもなかった。

「これは、約束ですから」

一体この男は先ほどから何を言っているのだろう。

こんな状況で記憶の糸を冷静に手繰り寄せることも出来ず、信はこれから我が身に起こることを嫌でも想像し、逃げ出すことを優先した。

「んぅ、う」

拘束された体で身を捩り、何とか李牧の下から抜け出そうとするが、簡単に引き戻されてしまう。

李牧の下から抜け出せたとしても、両手の拘束を解かない限り、信は馬車の扉を開ける術を持たない。

「ぅぐッ…」

矢傷を受けた左腕を再び強く握られ、信は痛みに抵抗を止めてしまう。傷口が開いてしまったのか、包帯に赤い染みが滲んでいた。

口を塞がれていなければ、李牧の怒りを煽る言葉を投げかけていただろう。

逆上して、さっさと殺してくれたならどれだけ良かったことか。

「ッ…!」

李牧が体を屈めたかと思うと、露わになった胸に唇を寄せていた。

「ふ…ぅ…」

李牧の舌が肌の上を滑る度に、信の胸が切なさに締め付けられる。

むず痒いような、優しくて甘い刺激に、信はこの上ない屈辱を感じていた。

せめて刃で切り裂いてくれたのなら、槍で貫いてくれたのなら、首を絞めてくれたのなら。
痛みで頭がいっぱいになれば、こんな情けない声を上げずに済んだだろう。

信の声色から決して嫌悪だけではない色を察し、李牧が小さく笑った。彼の金髪が揺れて、肌の上をくすぐる。

反対の胸はまるで壊れ物でも扱うように優しく包まれて、そのむず痒い刺激に、信は首を横に振った。

男が己の性欲を満たすだけなら、前戯など不要だ。
こんなに時間を掛けているのも、李牧が自分を長く辱めるために違いない。

「ッ…」

上向いた若い桃色の突起を突かれ、信が息を詰まらせる。

まるで少しも反応を見逃さないように、李牧が上目遣いでこちらを見上げていることに気付き、信は顔を背けた。

背中の下にある拘束された両手を白くなるほど強く握り締める。

「ふ…、ぅ」

唇で柔らかく挟まれたり、上下の歯で甘噛みされたり、舌で舐られ、信の背筋に甘い痺れが走った。

反対の突起も指の腹で擦られたり摘ままれたりして、絶え間なく甘い刺激が与えられる。

背筋に走っていた甘い痺れが、いつの間にかすり替わったように、下腹部がずくずくと疼く。

初めての感覚に信は戸惑ったが、少しでも表情に出したり、声に上げれば李牧に気付かれると思い、必死に目を瞑ってやり過ごそうとした。

しかし、一度自覚した下腹部の疼きは早々簡単に治まることはなく、李牧から与えられる刺激に体が反応してしまう。

胸を弄るのをやめた李牧は、顔を動かして、今度は鎖骨の辺りに唇を寄せた。

きつく皮膚に吸い付かれ、ぴりりとした痛みが走る。

李牧が口を離すと、赤い痣が浮かび上がっていた。まるで雪原に赤い花びらが散ったようだった。

凌辱その二

ようやく顔を上げた李牧は手を伸ばして、膝と足首にきつく結んでいた縄を解き始めた。

「おっと」

両足が自由になった途端、すぐさま蹴りつけようとしたのだが、長い間拘束されていたせいか、勢いづいた蹴りにはならなかった。

軽々と足首を受け止めた李牧が、困ったように微笑む。

「んんッ…!」

膝を大きく開かされ、李牧が腰を割り入れると、足が閉じられなくなる。

押しのけようとしても自分に跨っているこの男を蹴りつけることも叶わなかった。

着物をはだけさせ、李牧の手が内腿をするりと撫で、それから奥まった場所を指の腹で擦り上げた。

「―――ッ!」

自分でも滅多に触れない場所を触られて、信の全身が強張る。

まだ蜜を垂らしていない淫華を指で感じ、李牧は濡れていないのも当然かと苦笑する。

今行っているのは、信にとっては、紛れもなく凌辱だ。

こんな状況だというのに淫らに蜜を流していたら、誰にどんな調教をされたのか、きっと嫉妬で狂ってしまっていただろうと李牧は考えた。

自分の指を咥えて唾液で湿らせると、もう一度、淫華に指を擦り付ける。

唾液の潤いを利用して指を一本押し進めると、表情で不快感を露わにし、信が嫌がるように首を振る。

「…あまり、こういうことには慣れていないんですね」

指一本だけでも中はかなり狭く、李牧は思わず安堵の息を吐いた。

信が秦王である嬴政と深い仲であることは知っていた。

後宮にどれだけの美女たちがいようとも、もしかしたら中華統一を果たした後は、信を妃として迎え入れるつもりだったのかもしれない。

たとえ信がそれを望まないとしても、女である以上は大王の命令に背くことは出来ないし、今までだって伽を命じられて、嫌々従っていたかもしれない。

嬴政だけではなく、多くの兵や将、官吏だって、信を女として見ていたに違いない。

幼い頃から戦に身を置いていた彼女がその立場ゆえに、男との付き合いが絶えないことは李牧も分かっていた。

秦王でないにせよ、趙でも名の知られている将と関係を持っていたに違いない。

信を女として見ていた男がいるのなら、信だって同じだろう。それを考えると、李牧はとてもやるせない気持ちに襲われた。

「ッ、ふ…ぅ…」

ここに自分の男根を咥えさせるのだと教え込むように、狭い中を広げようと李牧の指が動かすと、信がぎょっとしたように目を見張る。

その大柄な体格ゆえに、生娘を夜の相手に出来ない李牧は、信が男を受け入れるのが初めてではないとはいえ、負担を掛けたくないと思っていた。

潤んだ淫華に自分の男根を突き挿れたいと欲に従っても良かったのだが、まだ蜜の垂らしていない蕾に突き挿れるのは女にとって負担になる。

李牧は信を傷つけたい訳ではなかった。

趙に戻れば戦の事後処理に追われ、手に入れた領土の今後の使い道を決めなくてはならない。秦が滅び、その地を手に入れた趙に危機感を抱き、他の国も領土を奪いに来るだろう。

既に李牧の中はその対策を検討していたのだが、趙に戻れば休む間もなく、その対応に追われることとなる。

すぐにまた秦の地へ戻り、城の再建を指示することになるかもしれない。彼女の身柄は自分の屋敷に置くつもりだが、当分は帰ることは出来ないだろう。

だからこそ、一緒にいられるこの時間を有効に活用しなくてはと李牧は考えていた。

「ぅ、う…」

先ほどまで愛撫していたように胸に吸い付きながら、しつこいくらいに中で指を動かしていると、信の声色に嫌悪ではないものが混じって来た。

じわりと蜜が滲んで来たのが分かり、柔らかい肉壁が打ち震えている。

その潤いを使って、指を増やした李牧は、堪らず彼女の唇に舌を伸ばした。

布を噛ませていなければ、李牧も舌を噛み切られていたに違いない。何としても憎い自分に致命傷を負わせてから、信も自ら舌を噛み切っていただろう。

向けられる感情に微塵も愛が含まれていなくても、信が自分を見てくれるのなら憎まれたままでも李牧は良かった。

最愛の父と祖国の仇である自分の慰み者に陥ったことに、信は心が引き裂かれるような思いでいるだろう。

「んッ、ぅ…!」

広げる目的で、李牧が中で指を折り曲げると、信の体が小さく跳ねた。

その反応を見逃さず、内側から腹に向かって擦ると、信は戸惑ったように首を振る。

中で蜜が溢れ出したのを感じた李牧はにたりと目を細めた。

凌辱その三

ここが馬車の中ではなく、褥の上だったのならば、帰還中でなかったのなら、もっと時間を掛けて彼女の体を隅々まで愛撫していただろう。

花襞や花芯に吸い付き、溢れて止まない蜜で喉を潤し、柔らかな胸を手の平いっぱいに味わい続けたかった。

しかし、これだけ潤いがあればもう十分だろう。指で刺激したおかげで、中も柔らかく広がっていた。

趙に到着するまではまだ時間があるが、李牧は一刻でも早く信を手に入れたという実感が欲しくて堪らなかったのだ。

今や、李牧の男根は痛いくらいに膨れ上がり、下衣を押し上げている。

視線を下ろした信がそれに気づき、顔から血の気を引かせたかと思うと、身を捩って逃げようとしていた。

まさかまだ逃げられると思っているのかと李牧は苦笑を深めながら、細腰を捕まえて、引き寄せる。

もう逃げられないのだと教え込むように、硬い男根の先端を擦り付けた。蜜と先走りの液が混ざり合って、淫靡な水音が立つ。

「んッ、ふう、ぅううッ」

布で塞がれた口が何かを訴えている。言葉を発せない代わりに何度も首を横に振っていた。

どうせやめろと言っているのだろうが、李牧は聞こえないふりをして彼女に微笑む。

細い腰を抱え直した李牧は、容赦なく彼女の体を男根で貫いた。

「んんぅ―――ッ!!」

体が真っ二つに引き裂かれるような激痛が走り、布の下で悲鳴が上がる。無理やり開かされた両足が無意味に宙を蹴った。

狭い其処を無理やり抉じ開けられる苦痛に、信の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出す。

「ふ、ふぐ、ふっ、ふう、ぅ」

布を噛ませられた状態では口でまともに息が出来ず、彼女は目を白黒させながら、懸命に鼻で呼吸を繰り返していた。

「信…?」

男の味を知らなかった信の其処は、李牧の男根を咥え込みながら、血の涙を流している。

体を震わせているのを見ると、相当な苦痛に悶えていることが分かった。

初めて男を受け入れるのは、激しい苦痛が伴うという。男でも知っている。

痛みに震える彼女を気遣ってやりたかったのだが、今の李牧の瞳には愉悦が浮かんでおり、口元には笑みが浮かんでいた。

自分の男根を咥えている其処が血の涙を流していることに、李牧の胸は歓喜で満たされる。

不慣れなのは分かっていたが、まさか信が一度も男の経験がなかったとは思わなかった。

彼女の記憶と体に、他の誰でもない自分という存在を刻み込めたことで、優越感を覚える。

もしも彼女が秦国で結婚し、既に誰かの子を孕んでいたとしても、李牧は同じことをしただろう。

自分以外の男も、彼女の子でさえも、全てなかったことにしてしまえば良いと思っていた。

信から全てを奪い取り、ここから自分との関係を作り上げていけば良い。

彼の歪んだ独占欲は留まることなく広まっていき、それは信の破瓜を破ったことで、底なしの闇のように深まった。

「ぅうううッ」

やめてくれと懇願するような瞳を向けられると、李牧は慈しむような笑みを浮かべる。

優しい笑みを向けられれば多くの女性が恥ずかしそうに頬を赤く染め上げるだろうが、信の瞳には悪魔のように映っていたに違いない。

家族や仲間だけでなく、祖国まで奪ったのだ。罵られても当然だろう。

自分が気づいていないだけで、李牧は自分が外道に落ちているのかもしれないと思った。

しかし、今となっては全てがどうでも良いことだ。もう彼女は自分のものなのだから。

 

 

「…信?」

それまでひっきりなしに泣き声を上げていた彼女が急に静かになったので、李牧が小首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。

虚ろな瞳で涙を流しながら、それまで初めて体を暴かれる痛みで強張っていた体も脱力している。

何度か呼び掛けてみたが反応がなく、気を失ったのだと分かった。だが、今さら解放するつもりなどない。

もう彼女は、その体だけではなく、意識も全て自分のものなのだ。そのために、彼女の帰る場所も奪ったのだから。

意識を失うのも自分から逃げようとする抵抗の一種だ。そんなことは許さない。

李牧は懐から手巾と手の平に収まるほどの小瓶を取り出した。小瓶の中の液体を手巾に染み込ませると、それで信の鼻と口を覆う。

「―――ッ」

つんとした刺激臭に意識が無理やり引き戻され、信は目を白黒とさせる。

真っ暗だった景色が突然色づいていき、信は怯えたように目を見張った。

「まだ寝るには早過ぎるでしょう」

「ッ、――ッ…!」

李牧に声を掛けられて、信はすぐに状況を思い出したらしい。

隙間なく密着している下腹部が視界に入り、途端に内臓を押し上げられる圧迫感が彼女を襲う。

意識を失って脱力していた体が目覚めたことで、李牧の男根をきつく締め上げた。

二人が繋がっている隙間から、粘り気のある白濁の液体が溢れ出る。
それは李牧が確実に彼女の腹で子種を実らせようとしたことを物語っていた。

 

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