フォビア(蒙恬×信←桓騎)番外編②後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/桓騎×信/ヤンデレ/執着攻め/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

企み(桓騎×信)

馬に揺られながら、信はこれからどこへ連れて行かれるのかを考えていた。

堕胎薬さえ手に入ればもう桓騎に用はない。着物の左袖に懐に薬包紙をしまったのは見ていたし、自分を抱き込むように手綱を握っている今なら奪えるのではないかと考える。

しかし、桓騎は勘の鋭い男だ。自分がここに来た理由も目的も事前に知っていたのならば、今自分が何を考えているのかも見越しているかもしれない。

(そういえば…)

信の懐妊を知っているのは彼女自身と、懐妊を告げた老医と蒙恬。それから家臣たちだけだ。家臣たちには老医か蒙恬が告げたかもしれないが、桓騎はどこでその話を知り得たのだろう。

屋敷に忍び込んで盗み聞きをしていたとは思えないし、桓騎の配下が監視していたとは思えない。そこまで彼は蒙恬や自分に興味を抱いていないはずだ。

ましてや、蒙恬が桓騎に告げたとは考えられなかった。桓騎が忠誠を誓っていたのは蒙驁で、将の位だと桓騎は蒙恬よりも上である。
蒙驁の孫とはいえ、自分より下の立場にある蒙恬に関わるとは思えなかった。

信が桓騎と会うのは随分と久しぶりのことで、最後に会ったのは恐らく桓騎軍の兵と娼婦たちを殺めた時だ。信自身、その当時のことは記憶に靄が掛かっていて覚えていないのだが、あれから桓騎とは一度も会わなかった。

蒙恬との婚姻が決まり、飛信隊の将の座を降りる時も、祝いの言葉を掛けられることはなかったし、もう二度と会わないとばかり思っていた。

(何でこいつ、今になって・・・・・現れた?)

桓騎に従うことは取引だと頭では理解しつつも、嫌な予感が拭えない。

自分の知らないうちに、彼の策通りに進んでいるのではないかという不安を覚え、信は僅かに怯えた瞳で振り返った。

目が合うと、桓騎は何も言わずに口角を吊り上げる。自分の嫌な予感が当たったと確信するには十分過ぎるほど、おぞましい笑みだった。

「ッ!」

咄嗟に馬から降りようとするものの、もともと桓騎に背後から抱き込まれるように手綱を握られていたので、簡単に阻止されてしまう。

「おい、危ねえだろ」

馬から降りたところで、この左足では走ることは不可能だ。それでも馬の入れない小道や建物の中にでも入り込めば、もしかしたら逃げ切れるかもしれない。

「放せッ」

腕の中で暴れる信に、桓騎が舌打つ。
それから彼は迷うことなく手綱を信の細い首に引っかけた。

「っ、ぐ…!」

巻き付けた手綱で容赦なく首を締め上げると、呼吸を遮られた信が手綱を外そうと首に手を伸ばす。

「このまま白老の孫んとこに帰るか?」

手綱で信の首を締めながら、桓騎が耳元で問い掛けた。

「っ、ぁ…、…」

必死に首を横に振る。
蒙恬のところには戻りたくないが、いっそこのまま殺される方が良いのかもしれないと考えていると、手綱が解かれた。

 

「げほッ…」

激しくむせ込んだ信が必死に呼吸を再開する様子を見て、桓騎はまた笑った。

「今さら逃げ出して、どこへ行く気だ?」

桓騎の冷たい声が降って来る。当てもないくせに、と残酷な言葉が続くような気がした。

(そうだ…俺、逃げても…どこに行けば…)

将軍への道は絶たれてしまった。蒙家に嫁いだ立場で今さら将へ戻ることなど許されない。
それは強要されたことではなく、飛信隊の兵たちの命を守るために、自ら選んだ道である。

きっとこれは、桓騎軍の兵と娼婦を殺した罰なのだ。

大人しくその罰を受け入れれば良いだけの話なのに、養父の背中を追い掛けて目指していた将軍への道を絶たれたことが信の心に未だ深い傷を残している。

養父を失ったあの時、早々に首を括れば良かったのだ。
そうすれば後ろ盾を失った自分の立場の弱さも、王賁の子を身籠り、その命を失う悲しみも知らずに済んだだろうし、ずっと友人だと思っていた蒙恬から凌辱を受けることもなかったに違いない。

いっそ何も分からなくなるくらい、蒙恬に酷い凌辱を受ければまた違っただろう。

しかし、蒙恬は残酷なまでに信を愛し、信の腹に宿る尊い命と、飛信隊を人質に取った。

その愛情と優しさが恐ろしくて、彼から逃げ出せばきっと楽になれるはずだと疑わずにいるのである。

欲しいもの・・・・・があるんじぇねえのか?」

大人しくなった信を見下ろして、桓騎が薄ら笑いを浮かべながら耳元で囁いた。
蜂蜜のように甘く、どろどろと意識を絡め取られ、信は生唾を飲み込んだ。

「………」

先ほど見せられた薬包紙を思い出し、信は静かに唇を噛み締める。

そうだ。堕胎薬を手に入れるために桓騎の手を取ったことを忘れてはいけない。

桓騎が何かしらの策を企てていたとしても、堕胎薬さえ手に入れられれば、信の策は成り立つ。
今は何としても耐えなくてはと、信は奥歯を噛み締める。

その瞬間、急に視界が何かに覆われて真っ暗になり、信は驚いて悲鳴を上げそうになった。

「なっ、何…!」

布で目元を覆われているのだと気づき、信は布を両目に押し当てている桓騎の手を剥がそうとした。

「黙ってろ」

布の両端を頭の後ろできつく結ばれる。
目を覆われたことと、桓騎が目的地も教えないことに繋がりがあるような気がしてならなかった。

場所を知られては面倒になると思われているのだとしたら、桓騎の屋敷へ向かっているのかもしれない。

大将軍として豊富な給金だけでなく論功行賞での褒美もあり、金には一切不自由をしていなさそうな男だが、大将軍の中でも彼の屋敷の場所の所在だけは誰も知らなかった。

屋敷の場所が知られていない、つまりは桓騎が誰にも教えていないということは、彼が自分の配下たち以外を信頼していないからなのか、別の理由があるからなのか、信には分からなかった。

敵味方関係なく残虐に命を奪う男だ。恨みを買っている自覚があって、報復されないように屋敷の場所を内密にしているのかもしれない。

桓騎のことだから何か別の理由も考えられたが、どちらにせよ、桓騎を尋ねて屋敷に赴く用事など一度もなかったし、もしも屋敷の場所を知ったところで興味などなかった。屋敷の場所を他者に告げ口をされるとでも思われているのだろうか。

「………」

真っ暗闇の視界の中で馬に揺られ、背後には桓騎がいる。もしかしたら連れて行かれた先で首を切られるのではないだろうかという形のない不安に胸が支配され、信は僅かに息を速めた。

未だ薄い腹に手をやり、中で眠る小さな命のことを考える。

自分のせいで一度ならず、二度までも、この命を散らせなくてはならないのかと胸が締め付けられるように痛んだ。

 

企み その二

しばらく馬に揺られていたが、目的地に着いたのか、ぴたりと動きが止まった。

先に桓騎が馬から降りた。未だ目隠しは外されていないが、自分も降りるべきなのだろうかと考えていると、ぐいと手首を引っ張られた。

「う、うわっ…!?」

馬上から引き摺り下ろされる。浮遊感と落下の痛みに構え、目隠しの下で咄嗟に目を瞑る。
しかし、背中と膝裏に手を回された感覚があって、どうやら桓騎に横抱きにされているようだった。

「じ、自分で歩けるッ」

まさかこの男に抱えられるとは思わず、信は目隠しをされた状態で身を捩った。

「こっちの方が早い。暴れたら落とすぞ」

「っ…」

脅迫めいた言葉を告げられ、信は大人しく腕の中で縮こまる。

ここが桓騎の屋敷だとしたら、彼の側近たちもいるのだろうか。下手に騒ぎを起こせば、信が仲間討ちしたことを未だに値に持っている者から報復を受けるかもしれない。

桓騎軍の残虐性は十分に知っている。女でも子供や老人であっても構わずにその身を細かく刻み、家畜の餌にしたという話も聞いていた。

じっとしていると、重厚感のある扉が開かれる重い音が鳴り響いた。桓騎の屋敷だろうか。

桓騎は信の体を両腕で抱いているので、誰かが扉を開けてくれたらしい。ここが桓騎の屋敷だとして、しかし一言も声を掛けられないのは、主の腕の中に部外者がいるからなのだろうか。屋敷の場所を洩らさぬよう、徹底しているのかもしれない。

幾度か扉を潜り、廊下を進んである部屋に到着する。

「うっ…!」

ようやく目的地に着いたのか、信は乱暴に身体を放り投げられた。
柔らかい寝具が背中に当たったことから、寝台の上に落とされたのだと気づくと同時に、信は目隠しの布を取った。

「とっとと目的を言え!」

こちらは時間がないのだと切迫した表情で怒鳴りつけると、桓騎はまるで怒りを煽るように、口角をつり上げた。

きっと今頃、蒙恬か侍女が信がいないことに気づき、屋敷では捜索が始まっているに違いない。

逃走を企てたことによって、蒙恬が飛信隊を消し去る計画を実行に移しているのではないかと思うと、気が気でなかった。

蒙恬が話していたのは戦場でしか成し遂げられない策ではあったが、聡明な頭脳を持つあの男が、隊を一つ潰すなど簡単に違いない。

一刻も早く堕胎薬を手に入れて処罰を受けなくては、自分のせいで仲間たちが殺されてしまう。

「ほらよ」

桓騎は先ほど着物の懐にしまった堕胎薬を取り出すと、信へ手渡した。
ここまで連れて来ておきながら、随分とあっさり渡してくれたことに信は嫌な予感を覚える。

桓騎の手から薬を奪い取ると、信はすぐに薬包紙を開き、中身を口に含もうとした。

「えっ…?」

薬包紙の中がだと気づいたのは、その時だった。

 

信のこめかみに熱くて鋭いものが走る。

「騙したなッ」

怒りのあまり、桓騎の胸倉を掴みかかろうとするが、呆気なくその腕を掴まれてしまう。

「騙した?お前が欲しいもんじゃなかっただけだろ?これがお前の望んでいる物だなんて、俺は言った覚えはないぜ」

掴まれた腕を振り解くことも出来ず、それどころか力を込められると、痛みに藻掻くことしか出来ない。

呆気なく体を組み敷かれてしまい、無様なまでに弱くなった自分を認めざるを得なかった。

「いや、いやだッ、放せ、放せよッ」

自分の下で力なく暴れる信に、桓騎は一切の情けを掛けることなく、高らかに笑った。
耳障りな笑い声に信はますます怯えてしまい、幼子のように泣き喚いている。

「お、俺のことが、憎いなら、さっさと殺せば良いだろッ」

「憎い?」

不思議そうに桓騎が聞き返したので、信は怯えながらも言葉を紡いだ。

「俺が、お前の仲間を、殺したから…!」

それは記憶にはないものだったが、変えられない事実である。
過去に信は桓騎軍の兵と娼婦を殺めた。信の記憶にはないのだが、合わせて十三人の命を奪い、本来なら仲間討ちの罪に問われて、死罪になっているはずだった。

蒙恬の情報操作によって、その事実は今でも隠蔽されているが、桓騎と桓騎軍の兵たちはそのことを今でも覚えているに違いなかった。

だからきっと、これは桓騎の復讐なのだと信は疑わなかったのである。

「憎いなら、一思いに、殺せよっ…」

叫ぶように訴えると、桓騎は呆気にとられた表情になり、静かに肩を震わせる。

彼が込み上げる笑いを堪えているのだと信が気づくまでに、そう時間は掛からなかった。
やがて、ギャハハと大らかに笑った桓騎に、信は気圧されたように縮こまる。

「まさかお前、楽に死なせてもらえるとでも思ってんのか?」

残酷な言葉が降って来る。
桓騎が配下を殺されたことを憎んでいるのかは分からなかったが、自分を甚振ろうとしているところを見る限り、少なくとも何とも思っていない訳ではなさそうだ。

骨ばった手に腹を撫でられて、信は反射的にその手を弾く。腹を庇うように、両手で腹を覆った。

「や、やめろッ…」

そう言うと、桓騎が一瞬目を見開き、それからまた肩を震わせて大笑いを始める。

「へえ?本当に孕んでたんだな。てことは堕胎薬だと思ったのか?」

「ッ…!」

腹を庇った彼女の行動に、今ここで初めて信の妊娠を知った言葉を洩らす。驚きのあまり、信は息を詰まらせた。

そうだ。今まで桓騎は、薬包紙の中身が堕胎薬だと一言も口にしていなかった。自分が堕胎薬を求めるあまり、勝手に桓騎が堕胎薬を持っていると信じ込んだのだ。

狼狽える信を見て、桓騎の口角がますますつり上がっていく。

「殺せって言うわりには、まだ死にたくないって顔だな」

堕胎薬を手に入れようとしているくせに、腹の子を守ろうとしている矛盾じみた信の行動に、桓騎が肩を竦めるように笑った。

 

 

着物の襟合わせを開かれて、信は青ざめた。目の前にある桓騎の下衆な笑みに鳥肌が止まらない。

「な、何ッ…!」

桓騎の骨ばった手が再び信の下腹部を撫でたので、反射的に体が強張った。

「堕ろしたいっていうんなら、ここ子宮の入口抉じ開けて、俺ので、中のガキを掻き出してやるよ」

その言葉が耳から入って脳に染み渡るまで、しばらく時間がかかった。

「放せッ!このくそ野郎ッ!」

桓騎の下から逃げ出そうと身を捩るが、強い力で抑え込まれてしまう。
まだ大きく膨らんでいない下腹部に視線を向けながら、桓騎が小首を傾げた。

「父親は白老の孫と王翦のガキのどっちだ?」

その問いに、胸に鉛が流し込まれたかのように、息が苦しくなった。

信が妊娠していたことは今知ったようだが、父親が蒙恬ではなく、王賁の可能性があることまで知っていたことに、信は驚きを隠せなかった。

もちろん蒙恬は、信が王賁の子を身籠っている可能性も知った上で彼女を娶った。

王一族の集まりがあったあの日に、友人だと信じていた二人に凌辱された時のことは今でも悪夢として思い出す。

今でもその悪夢に魘されることは珍しくないし、自分を追い詰めた蒙恬の腕の中での目覚めといえば、最悪という言葉に尽きる。

今でもまだ悪夢の中にいて、目覚めていないだけではないかと思うことがある。
全てが悪夢なのだとしたら、きっと今のこの状況も、この光景も、桓騎との会話も全てが夢に違いない。

(早く、目を覚ませ、覚ましてくれ)

早く悪夢から目覚めるように、信は何度も自分に訴えかける。

「う…うぅ…」

しかし、夢から覚める予兆はなく、桓騎の手が肌を撫ぜる嫌な感触をはっきりと感じた。
青ざめたまま、歯を打ち鳴らしている信を見下ろして、桓騎はやはり笑うのだった。

 

 

信の胸元に幾つも散らばっている赤い花弁や、手首に残る指の痕を見れば、彼女が異常なまでに男から愛されていることが分かる。
きっと左足の捻挫も、転倒して出来たものではないだろう。

女の愛し方をとやかく言うつもりはないが、白老の孫がこれほどまでにこの女に執着しているとは意外だった。

着物を脱がしても、抵抗する素振りを見せない。むしろ大人しくしていた方が早く終わるとでも言いたげな、全てを諦めたような態度だった。

それなのに、蒙恬のもとから逃げ出した理由は何なのだろうか。

もうその身に子を孕んでしまったのだから、全てを投げ出して、その身を委ねてしまえば良いのに、まだ信の中で諦め切れていないものがあるのかもしれない。

堕胎薬を手に入れようとしていた彼女の行動からは、生きたいという意志がまるで伝わって来なかった。

腹の子の父親が誰であろうと、今の信が蒙恬の妻という立場である以上、子の父親は蒙恬だと認識されている。
堕胎薬を内服しようとしたことが知られれば、名家の嫡男である夫の子を殺そうとした罪で、罰せられるに違いない。

そんなことは信も分かり切っているだろうに、どうしてわざわざ自らの首を締めるような真似をするのか。

そこまで考えて、それこそが信の狙いであると桓騎は気づいた。

今頃はどうやって蒙恬から逃れようか、一刻も早く楽になれる方法を考えているのかもしれない。

もしかしたら自分と身を重ねたことを打ち明けて、不貞の罪で首を跳ねられようと考えているのかもしれなかった。

そんなまどろっこしいことを考えるくらいなら、自ら首を掻き切れば良いものを、それをしないのは腹の下で眠る子のためなのだろうか。そうだとしたら、そんなものは偽善でしかない。

自ら命を絶とうが、他者に罰せられようが、腹の子の命共々失うだけだ。そんな簡単なことも考えられないほど、信の心は弱り切っているらしい。

自分の下で震えながら、何かを堪えようと拳を握る彼女を見ても、同情するつもりはなかった。

 

フォビア(蒙恬×信)

つい先ほどまでひっきりなしに悲鳴が聞こえていた部屋の扉を開けると、噎せ返るような独特な臭いが立ち込めていた。

それが男と女がまぐわっていた情事の香りだと分かったのは、蒙恬自身がこの香りをよく知っているからである。

「………」

もう日が沈みかけているのだが、部屋の中には明かりが点いていない。
薄暗い部屋の中に信はいた。だらりと四肢を投げ出して床に倒れている信の姿を見つけて、蒙恬はゆっくりとした足取りで歩み寄る。

乱れた着物と彼女の脚の間から白濁が溢れているのを見えたが、血は混じっていなかった。

捻挫をした左足首はまだ赤く腫れ上がっていたが、骨が折れている訳でもないし、今さら急いで処置をする必要もないだろう。

信の瞼は閉じておらず、虚ろな瞳のまま宙を見上げている。頬には涙の痕が幾つも伝っていて、未だに虚ろな瞳は大粒の涙で濡れていた。

「…信」

声を掛けても、彼女の意識は朦朧としているようで、蒙恬が迎えに来たことにも気づいていないらしい。

傍では桓騎が椅子に腰掛けて酒を煽っていたが、蒙恬の方を一瞥しただけで、何も話そうとしない。信にも蒙恬にも、もはや興味がないのだろう。

「信、信、起きて」

体を屈めて優しい声色で名前を呼ぶと、信の体が火傷でもしたかのように跳ねた。
虚ろな瞳の焦点が合い、顔を覗き込んでいる蒙恬の姿を捉える。

「ぁ、ぁあ…ぁ…!」

何か言いたげに唇を動かすが、上手く言葉を紡げず、無意味な音を発していた。抵抗しようとして押さえつけられたのだろう、手首に指の痕が残っていた。

「帰ろう?信」

そっと頭を撫でてやり、優しい笑みを浮かべる。しかし、信は震えるばかりで返事もしようとしない。

「…それとも、ここに残る?」

「や、…ぃ、や…!」

わざとそう問い掛けると、泣きながら信は首を振って、蒙恬の胸に飛び込んだ。
啜り泣きながら、胸に埋めたまま体を震わせ続ける信に、よほど恐ろしい目に遭ったのだと分かる。

左足の捻挫もあり、もはや自力で立ち上がることも出来ないほど怯え切っているようだった。

蒙恬は彼女の背中を膝裏に腕を回すとその体を軽々と抱き上げた。赤子が眠る腹を持つその体は、驚くほどに軽かった。

「…どーも」

部屋を出る間際、蒙恬は視線を向けることなく桓騎に礼を述べた。当然、返事はなかった。

 

 

待たせていた馬車に乗り込んでも、信は蒙恬から離れようとしなかった。

未だに身体の震えは止まず、散々泣き叫んでいただろうに、涙が止まる気配もない。それはまだ彼女の心が壊れていない証拠だった。

その態度からようやく反省したのだと分かると、蒙恬の乾いていた心にも少しだけ潤いが戻って来る。きっと乾いた心に降り注いだのは、信の涙だろう。

脱走を試みた信の左脚を捻った時に改心してくれることを願っていたのだが、それでも逃げ出したのは、信自身が招いた結果であり、自分の躾が足りなかった証拠だ。

躾を多少やり過ぎた・・・・・・・・・という自覚はあったが、徹底的に教え込まなければ、彼女はまだ自分から逃げ出すに違いない。
躾という名目で、あの男に妻を預けたことを、蒙恬は微塵も後悔していなかった。

「…信?」

名前を呼ぶと、信の肩がびくりと跳ねた。
怒っていないと教えるように、優しい手付きで蒙恬は彼女の震える背中を擦ってやる。

「俺もね、色々考えたんだ。どうやったら信が学んでくれる・・・・・・のかなって」

「…、……」

考えたのは安易な計画だった。
一度でも痛い想いをすれば、動物というものは学習するもので、人間もそれは同じだ。

諦めて全てを投げ捨てて、妻としての役割を全うすれば良いものの、彼女が今の状況に耐え切れず、自分のもとから逃げ出すことは予想していた。

しかし、どれだけ追い詰められても彼女が自ら命を絶つことが出来ないのは、他でもない腹の子のためである。

王賁の子種か、それとも蒙恬の子種で実った命かは分からないが、信にとってはかけがえのない存在なのだから、彼女が簡単に見捨てることが出来るとは思わなかった。

以前、王賁との子を身ごもった時、その尊い命が散ってしまったことを彼女は今でも悔いている。

だからこそ、彼女が再び自責を感じないように、他者によって命を切り捨てられることを選ぶと、蒙恬は分かっていた。

そして信は、蒙恬が自分の命を切り捨てることは絶対にしないと自覚していたからこそ、夫以外の蒙家の者たちに、子殺しの罪で裁かれるつもりでいたのだ。

堕胎薬を手に入れるために、屋敷から逃亡を企てて、わざと事を大きくしようとしたのもその計画のせいだろう。

蒙恬がその計画を事前に阻止したのなら、人質である飛信隊の命はきっと次の戦で失われてしまう。

飛信隊の大勢の副官や兵たちの命を守るためにも、信は何としても蒙恬に気づかれず、堕胎薬を手に入れようと焦っていたに違いない。

だからこそ、懐妊を知った信がこの数日の間で堕胎薬を探しに、無計画な逃亡を企てることも、蒙恬の中では想定内だったのだ。

この辺りの土地勘のない彼女が街医者を頼って、屋敷から一番近くにある街に逃げ込むことまで、全ては蒙恬の想定内だったのである。

あの街には酒場が多く、桓騎の配下が常日頃から出入りしている。そこまで治安が良いとは言い難いため、それなりに身なりの良い女がやってくれば必ず誰かの目に留まる。

…もしも自分の指示がなければ、桓騎は信の望み通りに命を奪っていたのか、それは定かではないが、恐らく死以上に辛辣な目に遭っていただろう。

蒙恬が事前に桓騎へ手を回していたことを、当然ながら信は知らない。
何とか逃げる機会を見計らって、人目を忍んで部屋の窓枠を外そうとしていた時から、蒙恬は既に手を打っていたのである。

自ら命を絶つことを選べない彼女に、その残酷な事実を告げれば、逃げ場などないのだと諦めてくれるだろう。二度と改修出来ないまでに、その心が壊れてしまうかもしれなかった。

しかし、それでは意味がない。信の意志がなければ、何も意味などないのだ。

その体だけが欲しいのならば、寝台に縛り付けておいたり、誰も近寄らぬ離れに幽閉しておけばいい。
それをしないのは、蒙恬が信という存在の隅々まで愛している証拠であり、彼女の心を欲しているからこそだった。

たとえ恐怖を利用することによる姑息な方法であったとしても、彼女が自分の名を呼び、自分の愛に応えてくれれば、蒙恬の心はそれだけで満たされるのだ。

 

「……怖かったね、信」

同情するように穏やかな声色を務め、腕の中にいる信の頭を撫でてやる。ずっと蒙恬の腕の中で震えている信が、その言葉を聞くと、再び声を上げて泣き出した。

まるで母が夜泣きをしている子供を慰めるように、その丸い背中を擦り、蒙恬は彼女の耳元に唇を寄せる。

「もうどこにも行っちゃだめだよ?また・・信のせいで、お腹の子が死んだら…大切な人たちが死んだら、辛いのは信なんだから」

火傷をしたかのように体を跳ねさせた信が、真っ赤に泣き腫らした瞳で見上げて来る。
涙で濡れた彼女の黒曜の瞳には、蒙恬しか映らない。

優しい笑みを偽りながら、蒙恬はいくつもの涙の痕がついている頬を撫でてやった。

「……、……」

虚ろな瞳で涙を流しながら、信が唇を戦慄かせている。
小さく声を発しているので耳を傾けてみると、ごめんなさいと、誰かに対しての謝罪が聞き取れた。

ごめんなさい。ごめんなさい。蒙恬様、ごめんなさい。逃げようとしてごめんなさい。もう二度と逃げません。言うことを聞きます。ごめんなさい。二度と逆らいません。だから許してください。どうか誰も殺さないでください。お願いします。どうかお許しください。

その謝罪が自分に向けられているものだと理解し、蒙恬はうっとりと目を細めた。

「分かってくれたらそれでいいんだよ」

涙の痕が途切れない頬に唇を寄せ、目尻に舌を伸ばす。
嫌がることもなくじっとしている信を見ると、口角がつり上がっていく。

涙の塩辛い味を味わいながら、蒙恬は彼女の震えが落ち着くまで、ずっと抱き締めたまま放さなかった。

「…さあ、帰って薬湯を飲んだら、ゆっくり休もう?」

もう二度と信が自分から逃げ出さないことに確信を得た蒙恬は、蜜のようにどろどろと身体に絡み付くような、甘く優しい声色で囁いた。

 

さらなる後日編(2200字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

このお話の本編(王賁×信←蒙恬)はこちら

番外編①(王賁×信)はこちら

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フォビア(蒙恬×信←桓騎)番外編②前編

  • ※信の設定が特殊です。
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本編はこちら

 

望まぬ婚姻(蒙恬×信)

このお話は本編の後日編です。

 

蒙恬のもとに嫁ぐことが決まり、信は飛信隊の将の座を降りることとなった。同時に、信が男だと偽って戦に出ていたことも公表されることになる。

もともと信が女であることを知っていたのは、王一族と飛信隊の一部の者たちだけだった。

信が女だったと知って、驚く者がほとんどではあったが、誰もが祝福の言葉を掛けてくれた。

元下僕である彼女が名家の嫡男のもとへ嫁ぐという吉報は、瞬く間に秦国に広まることとなる。

下賤の出である信が王騎の養子となったことも今までに前例がないもので、下僕たちからは羨望の眼差しを向けられていた。

名家の養子となっただけでなく、名家に嫁ぐという、女としてはこの上ない幸せを手に入れたことから、ますます信の名は秦国中に広まったのだった。

誰もが祝福の言葉を贈る中、信だけは自身のことであるにも関わらず、此度の婚姻を喜べずにいた。

自分の名が中華全土に轟くのなら、養父のような大将軍になった時だと信じていたのに、そうではなかった。

天下の大将軍と称えられた養父の背中を追い掛け、自らも大将軍の座に就くことを目指していたというのに、その夢を奪われた。

蒙恬は信を嫁がせるために、自ら王一族に赴いて許可を得たのだという。下賤の出である信が王騎の養子となり、一族に加わることも大いに反対をしていた王家はそれを喜んで受け入れた。

彼女が蒙家の人間となれば、円満に王家から追放することが出来るとして、二つ返事で了承を得たのだと聞かされたのは、王賁と蒙恬の二人から凌辱を受けている時だっただろうか。

事情が何であれ、下賤の出である自分が、正式に名家の伴侶として認められるとは思わなかった。

下賤の出である自分が気に食わない者によって、婚姻の儀を終える前にきっと事故と見せかけて殺されるに違いない。

馬車の事故を装うのか、それとも食事に少量の毒を盛られ続けて病死に見立てられるかもしれない。信はそうなることを疑わなかったし、早く楽になれるのならとそれを待ち望んでいた。

しかし、蒙恬が嫡男の立場で家臣たちを説き伏せたのか、嫁ぎ先で肩身の狭い想いをするどころか、命の危機に晒されることは一つもなかった。

自分の身の周りを世話する侍女たちから嫌がらせを受けることもなかったし、蒙恬の妻として、家臣たちは信に礼儀正しく接してくれた。

王一族にいる間、冷たい視線を向けられたり、嫌がらせを受けることは日常茶飯事だったので、きっとそうなるだろうと予想していたのだが、拍子抜けである。

むしろ冷遇を受けたことを理由にして、自ら首を括っても良かったと思っていたので、信は戸惑った。

きっと蒙恬が自分を妻として扱えと、家臣たちを説き伏せたのだろうが、そこまでして蒙恬が自分に執着しているのだというのも初めて知った。

蒙恬の自分に対する態度は以前に比べて、極端な変化はない。ただし、関係は友人から夫婦へと大きく変化した。

養父という後ろ盾を失って、王賁の名を呼び捨てるのを許されなくなったように、蒙恬の名を呼び捨てることが許されなくなった。

嫁いだ身なのだから、夫を敬うのは当然のことで、屋敷で夫の帰りを待つことが妻の務めである。それは蒙恬自身に言われたことで、戦から自分を引き離す口実だとすぐに分かった。

名前を呼ぶにも敬称をつけなくてはならず、信は嫌でも蒙恬と婚姻関係で結ばれたことを認めるしかない。

そして、彼の妻として生きるしかないと認めるしかなくなる。

友人だった男と、褥の上で何度も肌を交えるあの時間ほど、苦痛なものはなかった。

 

兆し

体調が優れないという信に、医師の診察を依頼したのは蒙恬だった。

ここのところ、倦怠感が強く、食欲もない。大将軍になる夢を断たれ、養父の仇を自らが討つことも叶わなくなったせいで、気落ちしていることが原因であると信は疑わなかった。

違う理由だとしたら一つだけ心当たりがあったが、なるべく考えないようにするしかなかった。

診察は不要だと何度も蒙恬に断っていたのだが、寝台に横たわっている信のもとに、蒙恬が老医を連れてやって来た。

彼は昔から蒙家に仕えている医師だそうで、蒙恬も幼少期から世話になっているのだという。

いつから症状があるのか、食事は摂れているのか、簡単な問診が続いた。

険しい表情を浮かべ、老医が信の手首の脈を調べる。しばらく無言で触脈をしていた老医が納得したように頷いたので、信は何かの病なのだろうかと考えた。

このまま病魔に蝕まれて、何も分からないまま死んでしまえば良いのにと思っていると、老医は床に座り直し、蒙恬に深々と頭を下げたのだった。

「誠におめでとうございます」

懐妊しているという老医の診断を聞いて、信の目の前はその一瞬だけ、確かに真っ白になった。

「…え?今、何て…」

信の懐妊をすぐに信じられなかったのは、蒙恬も同じだった。
懐妊の話を裏付けるように、老医が妊婦の特徴である滑脈かつみゃくが現れていると話す。

他にも、先ほどの問診で聞いた最近の信の症状は、初期の妊娠によく見られる症状だと言われた。

話を聞いた蒙恬が、みるみるうちに喜悦の表情へとすり替わっていく。

「そっか…そっかぁ」

顔を綻ばせた蒙恬が寝台に横たわったままでいる信に駆け寄り、愛しげにその頬を撫でた。

老医はもう一度頭を下げて、そっと部屋を出ていく。信の身の回りの世話をする侍女たちへ、体調を気遣うことや、食事内容についての説明を行っているのが微かに遠くで聞こえた。

歓喜の声が遠くで聞こえる一方で、信だけは呆然と顔から表情を失っている。

(そんな…)

孕んでしまった事実を第三者から告げられたことで、信の瞳に涙が滲んでいく。

もう婚姻を結ばれてしまった時点で、蒙恬から逃げることは出来ないのだと思っていたが、孕んでしまったというその事実は、信の足にさらなる重い足枷となって巻き付いた。

彼に抱かれ、腹に子種を植え付けられる度に感じていた不安と恐れが現実となってしまった。

「信」

目尻を伝う涙を指で拭ってやり、それから蒙恬は信のまだ膨らんでいない腹を撫でると、うっとりと目を細めた。

「…俺と王賁のどっちの子・・・・・だろうね?」

耳元で囁かれた言葉に、信は思わず息を飲んだ。

この腹に実ったのは、王賁と蒙恬のどちらの子種なのか、そんなことは分からない。

王賁の子であったとしても、蒙恬は信と自分の子として育てるのだと話していたのは、二人から凌辱を受けたあの日だっただろうか。

もう思い出したくもなかった。もう何も考えたくなかった。

 

 

信が蒙家に嫁いでから懐妊したという吉報は、まるで流行り病のように短期間で秦国に広まった。

家臣たちから祝福の言葉を掛けられても、信の表情は暗く、上手く笑みを繕うことも出来ない。

以前よりも身の回りの世話をする侍女たちが傍にいる時間が増えていき、必然的に一人でいる時間も少なくなっていた。

信が暗い表情を浮かべているのは、まだ妊娠初期で体調が優れないのだと都合の良いように解釈され、きっとこの屋敷にいる限り、自分が何を訴えても、蒙恬の手中からは逃れられないのだと信は諦めていた。

体を拘束されているわけではないのだが、屋敷の中で過ごす日々も、腹に眠る新しい命が重い足枷となって信の心を苦しめている。

(もう全部忘れて楽になりたい)

苦痛から解放されたいという気持ちから、信は蒙恬から見放される方法についてを考えるようになっていた。

自分はどこで道を違えてしまったのだろう。馬陽で王騎を救うことが出来なかったことか、それとも後ろ盾を失くしてから王賁に玩具のように扱われたことか。

桓騎軍の兵たちを殺め、罪を蒙恬に隠蔽してもらうよう取引に応じたことか。
今さらそんなことを悔いても過去には戻れないし、この苦痛から解放される訳でもないと頭では理解していた。

そしてこのまま後悔と猛省を続けたところで、救われることもないし、腹の子の成長も止められない。

(…今なら、まだ…)

まだ腹が目立たぬ今の時期なら、堕胎薬を服用することも可能なはずだ。

このまま子が成長していき、産み落とすしかなくなれば、きっと心が壊れてしまう。そうなる前に、事を起こさねばならない。

堕胎薬を望んだところで持って来てくれるような者はいない。だからこそ信は自ら堕胎薬を探しに行くことを決意した。

蒙家の身内であることは内密にして、十分過ぎるほどの大金を渡せば、その辺の街医者なら喜んで作ってくれるだろう。

素性を気づかれれば、門前払いをされるのは目に見えている。名家である蒙家の世継ぎを殺す手助けをしたと報復を恐れるのは当然のことだ。

堕胎薬を服用しようとした自分だけが処罰を受けるならと思ったが、蒙恬は決してそんなことはさせないだろう。

高狼城の時のことも考えると、彼は情報操作に長けている。きっと堕胎薬を製薬した医者にだけ罪を擦り付けて、余計なことを言う前に口を封じるに違いない。

そして自分が堕胎しようとしていることを蒙恬に気づかれれば、間違いなく軟禁されると断言出来た。

もしかしたら何処にも行けぬように、寝台に縛り付けられて幽閉されてしまうかもしれない。

それだけ蒙恬が自分に執着していることを信は自覚していた。このまま子を産めば、より執着されてしまうことも予想出来た。

だからこそ、今のうちに事を起こさねばならない。

蒙家の子孫であり、我が子を殺した罪で処刑される。
それこそが、自分が楽になれる方法であると、彼女は信じて疑わなかったのである。

心が壊れてしまう前に、何としてでもその策を成し遂げようと信は決意した。

 

禁忌

堕胎薬を入手しようとしていることを、誰にも気付かれる訳にはいかなかった。

製薬が出来ないのは医学に関しての知識がないためだ。だからこそ、堕胎薬を製薬をする者と接触する必要があった。

信の懐妊を報告した老医は、古くから蒙家に仕えている男である。信が堕胎を企てていることを知れば、すぐに蒙恬に告げるだろう。だとすれば、やはり街医者を頼るしかない。

堕胎薬の製薬を断られたとしても、せめて妊婦が避けなくてはならない食物や茶など、堕胎の可能性があるものを知ることが出来ればと考えていた。

王騎に引き取られてからは鍛錬続きだったし、戦に出る日々が続いていた。幼い頃から妊婦と関わる機会が一切なかった信には、医学の知識どころか、妊婦なら当たり前に知っていることも、何も知らないのである。

将として生きるつもりだった自分には必要ないと思っていた類の知識ではあるが、自分の無知をこれほど憎んだことはなかった。

出産経験のある侍女たちから妊娠中に控えていたものを聞く方法も考えたが、この屋敷に来てからというもの、侍女と会話内容すらも蒙恬は把握していた。信が覚えていないような何気ない会話でさえもだ。恐らく逐一報告しているのだろう。

会話の糸口から堕胎を企てていると勘付かれれば、蒙恬はすぐに行動を起こすに違いない。

堕胎を未然に塞がれてしまえば、信は子殺しの罪で命を絶たれることが出来なくなってしまう。

もしかしたら既に信が堕胎を企てていることを予見しているのかもしれなかった。

それを裏付けるように、信一人だけで屋敷を出ることは叶わない。敷地内ならともかく、屋敷を出るためには蒙恬の許可が必要である。

表向きはもちろん身重の体に負荷を掛けないためだとしていたが、自分が傍にいない間も配下たちに監視させているとしか思えない。

すでに悪阻も始まっていて、信は部屋で休む時に限って一人の時間を確保出来た。

妊娠が分かってからは蒙恬と身体を重ねることはなくなり、今まで以上に身体を気遣われるようになった。

廊下にはすぐに呼び出しに応じられるよう侍女が常に待機していたので、物音を立てぬように行動をしなくてはならなかった。

「………」

何度も背後を振り返りながら、信はそっと窓辺に近づいた。

これまでも侍女たちの目を盗んで、腕の筋力が衰えぬ前に窓枠を外していたので、あとは窓から屋敷を出て、町へ向かうだけだった。

部屋の窓枠を外したことを知っているのは他にいないし、まさか窓から逃げ出すとは侍女たちも考えていないだろう。

悪阻で体調が優れないのは事実だが、ずっと部屋で休んでいると錯覚されている今こそが絶好の機会だ。

とはいえ、信が部屋に居ないと気づいた侍女たちが大騒ぎをするのは目に見えている。

少しでも時間を稼ぐために、寝具の中に着物を敷き詰めて、一見、寝台の上で眠っているように見立てた。一度くらいは錯覚してくれるだろうが、いつまでもそれで誤魔化せるとは思わない。

屋敷が騒ぎになれば、すぐに蒙恬に報告されるだろう。猶予はない。

街医者でなくても、蒙家とは一切関わりのない出産経験のある女性でも構わない。なにか堕胎の助言を得られればそれで良かった。

「っ…」

背後の扉を気にしながら、静かに窓枠を外すと、信は外に出るために足を掛けた。
体を半分ほど窓から乗り出した時、

「窓から外出するなんて、危ないなあ」

すぐ隣から聞きたくもない声がして、信の心臓はその一瞬、確かに止まった。

 

 

窓から片足を出した状態で、信は動けなくなってしまう。

地面はすぐそこにあるはずなのに、足裏をつけずに、信は怯えた瞳を動かす。

壁に背中を預けた蒙恬が木簡に目を通している姿がそこにあった。宮廷に行くから数日は帰って来ないと話していたはずなのに。

どうしてここにいるのだと問うよりも先に、信は震え上がって言葉が出なくなってしまった。

読んでいた木簡を畳んだ蒙恬は、窓に片足をかけた状態で動けずにいる信に冷たい眼差しを向ける。

「夫婦らしくさ、二人で話をしようか」

顔から血の気を引かせている信に、蒙恬はこれ以上ないほど優しい口調で話しかけた。

人の良さそうな笑みを刻んでいるその顔とは裏腹に、瞳の奥には逃亡に対する怒りが浮かび上がっている。

「……、……」

嫌な汗が滲み、信は思わず固唾を飲み込んだ。
蒙恬は信の返事を聞かずに木簡を抱えると、彼女の前に立ちはだかるように正面に立った。

「っ…」

弾かれたように信は窓から足を引っ込ませて、室内で後退る。情けないくらいに膝が笑っていた。

「よ、っと」

軽々と窓から飛び込んで来た蒙恬は優雅な足取りで室内を歩き、それから椅子に腰を下ろす。

「おいで、信。話をしよう?」

向かいの席を指さされ、信は震えながらその命令に従った。従うしかなかった。

腰を下ろしてからも蒙恬からの視線は痛いほどに感じていたが、目を合わせることが出来ず、俯いてしまう。

心臓が激しく脈打つ度に、こめかみをきつく締め上げられる痛みで喘ぐような呼吸を繰り返す。

先ほどまで目を通していた木簡を机の上に広げ、蒙恬はある一文を指さした。

「信にはまだ伝えてなかったんだけど、飛信隊は今後、楽華軍の管轄下に置かれることになったんだ」

「…え?」

予想もしていなかったその言葉に、信は思わず聞き返した。
広げている木簡の内容に目を通すと、右丞相であり、軍の総司令を務めている昌平君の名が記されていることに気がついた。

飛信隊が楽華軍の下につく旨が記されている。それは信が婚姻のために、隊長の座を降りたことが原因のようだった。

なぜ他にも軍がある中で、楽華軍の下につくことになったのか。信は青ざめながら木簡に目を通すことしか出来ない。

「この意味、分かる?」

にこりと微笑んだ蒙恬に、信は嫌な予感を覚えた。恐らく蒙恬が手回しをして飛信隊を楽華軍の下につけたのだろう。

同士討ちの件の隠蔽から、相変わらず飛信隊が人質に取られている状況は変わりないのだと思い知らされる。

元は妻が率いていた隊なのだから、普段の様子を伝えるためにも楽華軍の管轄におきたいと昌平君に伝えたのかもしれない。

軍の総司令であり、右丞相という中立な立場にある昌平君とはいえ、教え子からの頼みに反論する理由はなかったのだろう。

ましてや、信と蒙恬の婚姻は、相思相愛によるものだと秦国中の誰もが疑っていないのだから。

 

人質

「…っ、ぁ……」

何か言いたそうにしている彼女を見下ろしながら、蒙恬の口元からは笑みが絶えなかった。

彼女が何を話そうとしているのかを聞くつもりはないらしい。わざわざ言わせなくても、もう分かっているからだ。

「飛信隊は強いから、戦を動かす上では利用価値がある。とても助かるよ。…だから、多少の無理・・・・・をしてもらっても良いかなって思ってるんだ」

「無理って…何を…」

「うーん、そうだなあ」

顎に手をやり、蒙恬はわざとらしく何か考える素振りを見せる。

「たとえば、伏兵の奇襲が起きそうな場所に、積極的に進んでもらうのも助かるかも。…もちろん信が育てた飛信隊なんだから、伏兵があることはすぐに見抜けるはずだし、俺からの助言は不要・・だろ?」

背筋を冷や汗が伝うのが分かった。

戦を利用して飛信隊の全滅を図ろうとしている蒙恬の意図に気付き、信の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出た。

婚姻を結んだことで、同士討ちの件の脅迫が使えなくなったからだろうか。過去の同士討ちの件が明るみに出れば、飛信軍の兵たちだけでなく、信までもが処罰の対象になってしまう。しかし、妻の処罰は蒙恬も望んでいないのだろう。

だからといって、秘密裏で飛信軍だけを壊滅させるようなその手段は、あまりにも残酷だった。

「や、やめ…ろ」

「信が育てた自慢の隊だろ?そんな簡単に全滅するはずがない。俺は信じてるよ」

飛信隊の強さを信頼していると蒙恬は言う。心にもないことを言っていると、信はすぐに分かった。
部屋の外で誰が聞いていても怪しまれぬように、心優しい嫡男を演じているのかもしれない。

伏兵に襲われたとして、切り抜けられないような弱い隊ではないが、それでも被害は免れないだろう。

有力な軍師や副官たちだって、伏兵を事前に見抜くことは出来るに違いないが、それでも全てに対応できるかと言われればそうではない。

蒙恬が助言をしないと言ったことに、誰にも疑われない・・・・・・・・飛信軍の壊滅方法が既に彼の頭の中で成されているのだと気づいた。

「ふ、っ…ぅう、…ぇ…」

何の感情かもわからない涙が溢れ、嗚咽が零れる。
懸命に首を横に振ってやめてくれと訴えるが、蒙恬の冷たい瞳が色を変えることはない。

「ねえ、信」

ゆっくりと蒙恬が立ち上がって、信の前にやって来る。
彼の指が信の喉をそっと撫でたので、もしかしたらこのまま首を締められるのだろうかと体を硬直させた。

いっそこのまま何もかも見捨てて、彼に殺されれば、楽になれるかもしれない。それは諦めにも似た感情だった。

静かに目を閉じて、首を締められる苦しみに身構えていると、蒙恬は額に唇を押し当てて来た。それはこれ以上ないほど優しい口づけだったが、まだ許しはもらえていない。

蒙恬が身を屈めて来て、再びその端正な顔が近付いて来る。彼の艶のある茶髪が落ちて来て、頬をくすぐった。

「まだ将としての未練があるの?」

浮かべているその笑顔とは裏腹に、恐ろしいほど冷え切った声でそう囁かれ、信はひゅ、と息を詰まらせた。

ゆっくりと彼の右手が信の左腕を掴んだかと思うと、じわじわと力を込めていく。まさか腕を腕を折るつもりか。

戦で骨折の経験は何度かあった。落馬した時に肋骨にひびが入る程度のものから、関節が一つ増えたものまで。どちらにせよ、痛みは酷いものだった。

きっと骨折自体は事故に見せかけるだろうが、それを理由に、今まで以上に従者たちに世話という名目で監視をさせるだろう。

堕胎薬を手に入れるどころか、部屋から出ることも叶わなくなってしまう。

「ま、待て、待ってくれ…!」

情けなく声を震わせながら説得を試みる。信の左腕を掴んだまま、蒙恬は肩を竦めるようにして笑んだ。

「話ならもう済んだでしょ?他に何か話すことなんてある?」

もうこちらの意志など一切関係ないのだと突き放されたようで、信の唇から掠れた空気が洩れる。

「も、蒙恬、さ、まっ…!」

敬称を付けて、祈るように名前を叫んでも、左腕を握る手に力が緩まることはなかった。このまま腕を折る気に違いない。
嫌な汗を浮かべながら、強く目を閉じて激痛に構えていると、

「…なーんて、びっくりした?」

急に手を放されて、あまりにも無邪気な笑みを向けられたので、信は呆気にとられた。どうしてこんな状況でも笑っていられるのだろう。

しかし、腕を折られなかったことに安堵していると、途端に蒙恬の顔から表情が消える。

「っ…」

嫌な予感がして、信は狼狽えた。
何も言わずに、蒙恬は椅子に座ったままでいる信の前に片膝をつくと、今後は左の足首をそっと撫ぜる。

「心配しないでいいよ。こっちにするから」

 

 

耳を塞ぎたくなるような嫌な音がするのと同時に左足に走った痛みに、信は束の間呼吸をすることを忘れていた。

「うう…ぅ、ぐ…!」

痛みのせいでどっと汗が毛穴から吹き出し、思い出したように肩で息をする。

蒙恬が掴んだ左足は変な方向を向いてはいなかったが、足首の関節が腫れ上がっていくのがすぐに分かった。

しかし、目を剥くほどの激痛ではなかったことから、折れてはいないらしい。
それでも痛みは酷いもので、みるみるうちに足首が腫れ上がっていく。骨を折るまでに至らず、捻挫で留めたのは蒙恬の慈悲なのかもしれない。

「あーあ、痛そうだね」

自分でやったくせに、蒙恬は他人事のように共感を呟いた。

履いていた靴を脱がされ、腫れ上がった左足をまじまじと見つめている。太くなった足首に、足枷でも巻いたつもりでいるのだろうか。

そっと頬を撫でられて、信は怯えた瞳で蒙恬を見上げる。

「ひ…」

蜘蛛の糸のように、ねっとりと視線を絡められ、恐ろしさに総毛が立った。

「信はいい子だから、もう俺に、これ以上はさせないよね?」

確認するように小首を傾げられて、信は黙って頷くしかなかった。こんなふうに脅迫まがいの約束をさせられることは初めてではなかったが、何度されても気分は良くない。

「良かった。今手当てをさせるから、そこで待ってて」

望み通りの返事に満足したのか、蒙恬が顔を綻ばせる。
安堵の表情で蒙恬が部屋を出て行った後、信は嫌な汗を滲ませたまま、ゆっくりと立ち上がった。

「う…」

自分の体重が掛かると、左足が軋むように痛む。
しかし、先ほど捻られた時に感じた一番強い痛みは過ぎ去っていた。むしろ痛みが麻痺し始めたのか、どんどん感覚が鈍くなってきているようだった。

先ほど蒙恬によって脱がされた靴を手に取った。腫れ上がった関節のせいで靴に足を収めることは叶わず、踵を踏む。

着せられている着物もそうだが、金色の糸で美しい刺繍が施された青色の靴はとても価値の高いものだ。もしかしたら二度と将には戻らせないことを比喩して、自分にいつも高価なものを着飾らせていたのかもしれない。

「………」

中途半端に靴を履いた左足を引き摺るようにしながら、信はしきりに背後を気にしながら窓辺に近づいた。

外した窓枠はまだそのままになっており、信は今しかないと再び窓枠に足を掛ける。

「っ…」

瞼の裏に、仲間たちの姿が浮かんだ。

もしも自分がこのまま屋敷から逃げ出せば、蒙恬は飛信隊を壊滅させる策を実行に移すかもしれない。

しかし、蒙恬が考えているそれは、戦でしか出来ない策・・・・・・・・・である。

まだ戦が始まっていない今なら、堕胎の罪で自分だけが首を落とされるはずだ。
蒙恬が執着しているのは自分だけであって、この命が失われれば、飛信隊に人質の価値はなくなる。

今はもう隊長の座に就いていないものの、彼らを救い出すためにはこの方法しかなかった。

(…今しかない)

信は自分を奮い立たせ、窓から屋敷を抜け出した。

 

裏切り

屋敷に常駐している老医に、妻が不注意で転倒して足を捻らせた事情を伝えると、処置に必要なものを用意したらすぐに向かうと言ってくれた。

先に信のいる部屋に戻ると、蒙恬は思わず目を見開いた。

「…信?」

そこに信の姿はなく、蒙恬はまさかと室内を見渡す。
先ほど脱がせたはずの靴が無くなっていることに気付くまで、そう時間は掛からなかった。

外された窓枠もそのままになっている。職人を呼んで修繕をするまで、信の身柄は別の部屋に移すつもりだったが、まさかまだ逃亡を諦めていなかったのか。

つい先ほど約束を交わしたばかりだというのに、まさかこんな短時間で裏切られるとは思いもしなかった。

わざとらしく重い溜息を吐くと、追い掛ける素振りは見せず、椅子に腰を下ろす。

「…やっぱり一回くらい、痛い目を見ておかないと、動物って覚えないんだよね」

頬杖をつきながら、蒙恬が小さく呟いた。

妻の脱走に蒙恬が慌てる素振りを見せないのは、彼女がこの屋敷に戻って来るのは必然・・だと分かっているからだ。

「蒙恬様。奥様は…」

薬箱を背に抱えて部屋にやって来た老医に、蒙恬は人の良さそうな笑みを浮かべた。

「足の手当ては後でいいや。…それよりさ、お腹の子には影響しない、気持ちが落ち着くような薬湯を用意しておいてくれる?きっと必要になるから」

信の脱走に関しては一言も告げなかったが、長年蒙家に仕えている老医はすぐに頭を下げて、指示通りの薬湯の準備に取り掛かった。

 

 

蒙恬によって捻られた左足が、鈍く痛み始めた。熱を伴っている足首の腫れを見れば、安静にすべきだと医学の知識のない信でさえ分かる。

それでも酷使して進み続けるのは、れっきとした目的があるからだ。

「………」

屋敷の敷地を出るまでに、見張りの兵や世話係の侍女たちに捕まるのではないかと不安があり、何度も背後を確認した。

部屋に戻って来た蒙恬は、自分が窓から逃亡したことにすぐ気付くだろう。

窓から出たところはちょうど屋敷の裏庭に面している。信は身を屈めながら、庭に植えられている木々で身を隠し、手探りで敷地を抜け出した。

窓枠を外そうと試みる度に、裏庭から敷地を抜け出す経路についても確認を行っていたのである。

ただし、屋敷の敷地を抜けてからその先のことは何も知らないので、賭けだと言ってもいい。

もしかしたら、すぐにでも蒙恬の指示で、従者たちが追い掛けて来るのではないかと言う不安もあり、信の心臓は常に激しく脈を打っていた。

堕胎薬を入手出来なければ、決して誰の邪魔の入らない場所で、帯を使って首を括ることも考えていた。

屋敷で首を括ったところで様子を見に来た侍女がすぐに制止するだろうし、常駐している老医が適切な処置を行うだろう。だからこそ、誰の目のつかぬ場所で行う必要があった。

(もう、戻れない…)

敷地を抜けてしばらく歩き続けているうちに、息が上がっていた。

しかし道を進むにつれて、建物や人々の姿が見えて、街が近づいて来ていることが分かる。

談笑が聞こえ、街の日常がすぐそこにあるのだと思うと、それだけで信はほっと胸を撫でおろした。

大勢の人がいる中に紛れ込めば、蒙恬も容易くは追って来れないだろう。しかし、堕胎薬を手に入れることが出来るまでは決して油断は出来ない。

婚姻を結んだ後に屋敷へ連れて行かれたが、馬車の中から横目で見ていたくらいで、街に降りて来たのは初めてのことだった。

「う…」

疲労のせいか、歩幅が次第に小さくなっていく。左足の痛みがさらに増してきて、信はその場に座り込んでしまいそうになった。

蒙恬と婚姻を結んでから、屋敷の室内で過ごす日々が続いていたせいで、筋力も体力も衰えていたのだ。

しかし、ここで立ち止まる訳にはいかなかった。
気力だけで体を奮い立たせ、信は必死に前へと進んでいく。少しずつ陽が傾いて来ていることに気付き、急がねばならないと体に鞭打った。

陽が沈めば人々も家に戻るし、医者を探すことは困難になるだろう。

街医者が住まう屋敷は、他の屋敷とはさほど区別がつかない。
しかし、医師という存在は重宝されていることから、街では誰もが知っている。話を聞けばすぐに教えてくれるだろうと信は思っていた。

もしかしたら薬草を摘みに行ったり、患者のもとに往診をして留守にしているかもしれないが、何としてでも今日中には、いや、今すぐにでも医師と会わなくてはと思っていた。

左脚を引き摺るようにしながら歩き続けていくと、人々から好奇の視線を向けられていることに気付いた。

上質な着物を着ている割には、まるで作法など知らぬといった歩き方、左脚を引き摺っていることから、怪我をしているのは誰が見ても分かることだろうが、血走った瞳でいる信を怪しむ者が多いのは当然のことである。

屋敷から一番近いこの街は、きっと蒙家の息が掛かっているに違いない。

役人に報知されぬことを祈りながら、信は街医者の屋敷の場所を問おうと彼らに近づいた。

「ッ…!」

何処からか馬の蹄の音が近づいて来るのが聞こえて、信はぎくりと体を強張らせる。反射的に辺りを見渡して音の位置を探った。

まさかもう蒙恬が追い掛けて来たのだろうかと背筋が凍り付く。

身を隠さねばと思った途端、すれ違っていた人々がまるで自分を遠ざけるように走り出したので、信は焦燥感を覚える。

「…、……」

頭から影に覆われ、もうすぐ後ろにいることを悟る。足元に馬上の人物の影の輪郭が浮かび上がった。

固唾を飲み込み、蒙恬でないことを祈りながら振り返る。

紫紺の着物に身を包み、耳に幾つもの装身具をつけた骨格の良い男が馬上からこちらを見下ろしていた。

目が合うと、信は戸惑って眉根を寄せる。その反応を楽しむかのように、馬上の男は高らかに笑った。

「元下僕じゃねえか。蒙家に嫁入りしたって聞いてたが…良いご身分だなァ?」

蒙恬ではなかったが、かといって安心出来る存在でもないし、可能なら会いたくなかった男である。

「桓騎…将軍…」

信は顔を引きつらせた。

 

取引

どうして桓騎がこんなところにいるのだろう。

武装をしていないことから、私用で街に訪れたのは安易に想像がつくが、まさかこんなところで再会することになるとは思いもしなかった。

彼が仕えていた蒙驁は山陽の戦いの後に没している。秦王にも国にも忠誠など誓わずに好き放題している野盗の性分が抜け切っていない男が、こんな街に来ることがあるのか。

「………」

捻挫した左足を引き摺るようにして、信は後退った。
桓騎と蒙恬が繋がっているとは思えないのだが、彼がここに来たのが偶然とは思えず、信は警戒する。

自分が蒙恬と関係を深めるきっかけとなった桓騎軍の兵と娼婦を虐殺したことを、桓騎は今も興味を持っていないようだったし、これだけの月日を置いてから今になって報復しに来たとも思えない。

桓騎と信は下賤の出であるという共通点がある。
そのせいか、何度か桓騎軍の下についていたこともあり、その度にちょっかいを掛けられたのだが、好きになれない男だった。

捨て駒同然に兵を扱い、奇策を成すその知略の才は、他に替えのないものではある。

しかし、味方にも策を告げることをしない彼の態度は、まるで誰も信用していないのだと言っているようで、信は桓騎の考えが読めず、掴みどころのない男だと思っていた。

そんな彼を副官として携えていたのは蒙恬の祖父である蒙驁だ。
秦国にも秦王にも忠誠を誓わない彼を唯一従えていたのは、後にも先にも蒙驁だけであり、かといって蒙一族を敬うことはしない。

だから蒙恬との繋がりはないと思っていたのだが、今に限ってはこの状況のせいか、嫌な予感がする。

「!」

馬から降りた桓騎が大股で近づいて来たので、信はやはり自分と接触するためにここへやって来たのだと確信した。

「ぐッ…!」

無様だとは分かりつつも、背中を向けて逃げようとした瞬間、後ろから腕で抱き込まれるようにして喉を締められた。

初めて桓騎に会った時も、こうして後ろから腕を回されたことを思い出す。あの時は全身の総毛が立ち、咄嗟に剣を向けてしまった。それだけ強い拒絶反応が起きたのは、今まで出会って来た中でもこの男が初めてだった。

がっしりとした腕のはずなのに、まるで蜘蛛の糸が何重にも絡まって首を少しず圧迫されていくような、あのおぞましい感覚は慣れることはない。

その拒絶ぶりが気に障ることなく、むしろ彼の好奇心を刺激したのか、会う度にこうして抱き寄せるように腕を回されていた。

「久しぶりに会ったっていうのに、随分と他人行儀じゃねえか」

逃げようとした自分を咎めるようにして、桓騎が目を細める。

その瞳に浮かんでいるのは怒りでもなく、ただの愉悦だ。こちらは視界にも入れたくないというのに、とことん桓騎は相手に嫌がらせをすることが好む性格らしい。

「ぐッ」

腫れ上がった左足を思い切り踏みつけられてしまい、飛び上がるような激痛に目を剥く。

関節が腫れていたせいで、靴を中途半端に履いていたおり、馬上からでも足の異変に気付かれたのだろう。

声を掛けられたのは背後からだったし、左足を引き摺っているのも観察されていたのかもしれない。少しも興味のない態度を取るものの、桓騎の観察力はいつだって鋭い。

「ッ……」

痛みのせいで冷や汗を浮かべながら、信は大人しく縮こまった。

未だ左足は踏みつけられたままである。少しでも逃げる素振りを見せれば、容赦なく体重を掛けられるだろう。

「…何の用だよ」

怯えていることは悟られないように、冷静を装って信は生意気に問いかけた。

口角をつり上げた桓騎は、まるで信がそれを問うのを分かっていたかのように、懐から何かを取り出す。薬包紙だった。

中に入っている薬が何なのかは教えられなかったが、全て知っていると言わんばかりの鋭い眼差しを向けられ、固唾を飲み込む。

それが堕胎薬だと、信は瞬時に察したのだった。

 

 

「ッ…!」

薬包紙を掴もうとした途端、それを手の届かない頭上に持ち上げられる。

思わず睨みつけると、桓騎が楽しそうに目を細めていた。取引を持ち掛けるようとしているらしい。

(どうする…)

自分が蒙恬から逃げて堕胎薬を求めていることも、きっと彼は知っているのだろう。
ここで取引を断れば、桓騎は蒙恬のもとへ信がしようとしていることを告げにいくかもしれない。

屋敷を抜け出したことは恐らくもう蒙恬には気付かれているし、彼が従者に指示を出しているのだとしたら、ここで時間を食う訳にはいかなかった。

追手が迫っているかもしれないし、このまま堕胎薬を手に入れられずに屋敷へ連れ戻されたら、二度と陽の目を浴びることが出来ないかもしれない。

逃げようとした自分を咎めるように、蒙恬は躊躇なく左足を捻り上げた。今度は二度と外に出ないようにと足を切り落とされるかもしれない。悪さをしたと責められ、腕を折られるかもしれない。

家臣たちをいつものように上手く言い包め、世話という名目で見張りを強化するだろう。蒙恬は明晰な頭脳を持つ分、口が達者で相手を動かすことに長けている。それは信もよく知っていた。

何としてでも堕胎薬を口にして、世継ぎを殺そうとした罪を成さなくてはと、桓騎を睨みつける。

「…何をすれば良い」

きっと桓騎は、信がそう選択することさえも読んでいたのだろう。

楽しそうな表情を崩すことなく着物の懐に薬包紙をしまうと、待たせていた馬に跨った。

手を差し伸べられ、信が狼狽えたように目を泳がせる。しかし、もう悩んでいる時間はなかった。

桓騎の手を掴んだ途端、ぐいと馬上に身体を持ち上げられ、桓騎の前に座らされる。

「ど、どこに連れてくつもりだ」

背後から自分を抱き締めるように手綱を握った桓騎が怪しげに笑う。

「さあな?」

嫌な予感がするのは先ほどからそうだが、本当にこんな時でさえ何も教えてくれないのかと、信は不安に胸が締め付けられた。

「おい、本当に…」

「黙らねえなら、このまま白老の孫のとこに連れてくぞ」

反射的に声が喉に詰まってしまう。怯えた視線を向けると、桓騎が満足そうに目を細めた。

こちらは何も言っていないというのに、やはり彼は自分が蒙恬から逃げ出したことも分かっているようだ。

「……、……」

蒙恬を裏切ったことも、彼の子を堕ろすことも覚悟の上だったし、今さら恐ろしいと感じるものがあるなんておかしな話だ。

しかし、もしも桓騎が自分を騙していたら、蒙恬から逃げられることが出来なくなる。彼を信頼していないのは元からそうだが、向こうから取引を持ち掛けて来た手前、応じるしかなかった。

どんな条件であったとしても、堕胎薬さえ口に出来れば、自分の目的は達成出来るのだから。

 

後編はこちら

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フォビア(王賁×信)番外編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 王賁×信/ヤンデレ/執着攻め/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

本編はこちら

 

身分差

本編で割愛したシーンです。

 

馬陽で討たれた王騎の弔いの儀を終えた後、信は屋敷の一室に引き籠る日々が続いていた。

養父を救えなかった自分の弱さと、母の仇を討てなかった憎しみが、信の中に深い杭となって残っている。

王騎の私室には、生前に記したのであろう、自分が戦で命を失った後の信に処遇についてが記されていた。後ろ盾を失った信が、王一族を追放されることになると王騎は分かっていたのだ。

木簡には、信を正式な跡取りして決めてあることが遺言として記されていた。

この遺言の効力により、信が王一族から追放されることは免れたのだが、信には、王一族に対して何の未練もなかった。

ただがむしゃらに天下の大将軍として中華全土に名を轟かせていた養父の背中を追い掛けていただけで、名家に取り入るなんてことに、興味などなかった。

そんな立ち回りが出来るようだったら、王騎に養子として迎えられる前に、マシな買い手を見つけて取り入っていたかもしれない。

もしも王騎が遺言を残していなかったとしても、信は一族追放の命を受けたのならば大人しく従うつもりだった。

王騎のいない一族に、自分が留まる理由など何もなかった。それに、名家のしがらみに縛られるのは性に合わない。

しかし、王一族に留まるというのが王騎からの遺言ならば、信は大人しく従うしかなかった。

 

 

王賁が屋敷に赴いたのは、未だ信が王騎の悲しみから立ち直れずにいる時だった。

弔いの儀でも、彼は信に声を掛けることはなかったのだが、家臣たちからの目もあった手前、掛ける言葉に悩んでいたのかもしれない。

もとより他人を気遣った言葉を並べられるような男ではないと信も分かっていたし、王騎が討たれた事実は覆らない。

わざわざ彼が屋敷まで来た理由が分からない。腑抜けた自分を笑いに来たのだろうか。

しかし、気分が乗らないという理由だけで、王家嫡男である彼を追い出す訳にもいかない。信は王賁を客間に通すよう侍女たちへ指示を出した。

それまでは寝台の上で丸まっていた信だったが、最低限の身だしなみを整えてから部屋を出た。

客間の扉を開けると、相変わらず王賁は視線だけをこちらに向けて来た。

上質な着物に身を包んでいるが、戦場にいる時のような鋭い眼差しはいつだって健在だ。背中に武器を構えていないというのに、何か機嫌を損ねる発言をすればすぐに叩き斬られてしまいそうな威圧感も備わっていた。

王賁とはそういう男だ。いつだって隙を見せることがない。

「…なんか用か」

向かいの席に腰を下ろしながら、信が素っ気なく問い掛ける。思えば王賁の方から屋敷を尋ねて来るのは、これが初めてだった。

伝えたいことがあるのなら伝令を使えば良いし、事前の訪問も知らせずに突然やって来たことに、なにか用があったのだとしか考えられなかった。

蒙恬のように自分の気分で時間を消費するような男でないことも信は分かっていたし、だとすれば尚更、屋敷にやって来た理由が気になった。

「…王騎将軍の遺言、貴様が見つけたのか」

腕を組んでこちらを見据えている王賁の眼差しは相変わらず鋭かった。睨みつけているといった方が正しい。

「俺じゃない」

臆することなく、淡々と答えた。
王賁に睨まれるのは初めてではなかったし、下賤の出である自分が名家の一員に加わるのを非難されていることにも慣れていた。

「遺言を王家に提示したのは、騰だ。俺も遺言の存在を知らなかったし、たぶん、騰は父さんから言われてたんだろうな」

弔いの儀の終えた後、王騎軍の副官である騰は、本家当主である王翦のもとを訪れて王騎の遺言が記された木簡を渡したのだという。

遺言があると知らされたのは、騰が王一族に木簡を渡した後のことで、きっとそれも王騎からの命令だったのだろうと思った。

「…俺が先に見つけたなら、とっとと燃やしてた」

その言葉通り、信は先に養父の遺言を見つけていたのなら、それをなかったことにするつもりだった。

そして、それを王騎は分かっていたからこそ、信には何も告げずにいたに違いない。

追放を命じられるよりも先に、自ら王一族を去ろうと決意する娘の企みを、王騎は見事なまでに阻止したのである。

 

身分差 その二

「………」

言葉を選んでいるのか、王賁は急に押し黙った。

養子として引き取られた頃から信は名家という家柄に一切の興味を示さなかったし、それは今も変わらない。王一族に対して、何の未練もないのだろう。

王騎からの遺言を燃やそうと考えていたという言葉が何よりの証拠だ。

「王騎将軍が討たれたのに、俺が一族に残ってることを気に食わないのは分かってる」

王賁は自分の考えを言葉に出す性格ではなかった。
言葉数が少ないのと、その眼光のせいでいつも怒っているように感じてしまうが、腐れ縁とも言える長い付き合いである信は、彼の表情を見ればそれとなく気持ちを察することが出来るようになっていた。

もちろん気持ちを代弁すれば「下僕出身の分際で生意気だ」と罵られるので、言葉にすることはしなかった。しかし、養父の死が絡んでいる今だけは許されるだろう。

「俺が目障りなのは分かってる。俺だって、遺言がなけりゃ、喜んで王一族から抜けてた」

自虐的な笑みを浮かべながら信が言う。心中穏やかでないのは王賁だけではなく、彼女もだった。

「…戦以外何も知らぬ貴様が、王一族を抜けたとして、どう生きるつもりだ」

まさかそのような問いを投げ掛けられるとは思わず、信は瞠目した。
声色から察するに、心配しているつもりは微塵もないようだ。だとすれば、ただの興味だろう。

信が女であることを知っているのは、王一族の中でも、当主の王翦と、嫡男の王賁くらいだ。王一族でも大半の者が信を男だと信じて疑わない。

初陣に出された時、王騎から性別は偽っておいた方が良いと言われ、それからずっと信は男だと性別を偽って生きていた。

幼い頃から王家の出入りをしていた信は、年齢が近い王賁と頻繁に手合わせをしては、好敵手として切磋琢磨し合っていた。

女が戦に出るのかと王賁に罵られたこともある。
きっと王騎が性別を偽るように指示をしたのは、そういった心無い言葉を投げられるのを避けるためだったのかもしれない。

何度も手合わせを続けていき、互いに将として戦に出るようになってからは、女が戦に出ることに関して王賁は何も言わなくなっていた。

口止めをしたことはないが、王賁が信の性別を周りに告げたことはない。

当主である王翦には事前に王騎が口止めをしていたのか、それとも王翦自身の判断なのか分からないが、彼も信の性別を広めるようなことはしなかった。恐らく、興味がないのだろう。

「んー…」

信は背もたれにどっかりと身体を預け、天井を見上げながら考えた。

「…俺を邪魔だと思ってる奴はお前以外にもたくさんいるだろ」

自虐的に笑んだ後、

「王翦将軍に相談したら、適当に嫁ぎ先でも見つけてくれるんじゃねえか?」

将以外の生きる道を知らない信が、絶対に選ばないだろう方法を冗談めいて言うと、王賁から向けられている眼差しがより鋭くなる。

勢いよく立ち上がった王賁が大股で近づいて来たかと思うと、乾いた音が鼓膜を激しく揺さぶり、頬に焼けるような痛みが走った。

 

 

「え…?」

いつの間にか視界が傾いており、床に倒れ込んでいた。王賁に頬を打たれたのだと気づくまでには、しばらく時間がかかった。

頬を打たれた衝撃のあまり、まだ鼓膜が震えている。

痺れるような痛みと耳鳴りに混乱していると、王賁から今まで見たこともない冷え切った眼差しを向けられた。

憎悪が込められたその視線に、信は狼狽えてしまう。

「な、なに、すんだよ…いきなり…」

王賁に向けられている瞳がいつもより鋭いのは先ほどからずっと感じていたのだが、彼の機嫌を損ねるような言動をした覚えなどなく、信は頭に疑問符を浮かべることしか出来ない。

頬を打たれた拍子に口の中を切ってしまい、苦い鉄錆の味が舌の上に広がった。熱を帯び始めた頬は未だ痺れており、耳鳴りも止まない。

「いい加減に立場を弁えろ」

身を乗り出した王賁が低い声でそう囁き、床に倒れ込んだままの信の胸倉を掴んだ。

「は…ぁ…?」

こんな風に王賁から凄まれたのは、幼い頃から一度もなかったので、信は困惑する。

「王騎将軍亡き今、お前は王一族の中で邪魔な存在でしかない」

思わず身震いしそうなほど、怒気が籠もった低い声だった。しかし、信は怯むことなく王賁を真っ直ぐ見据える。

少しでも目を逸らせば、彼の怒気に押されて負けてしまう気がした。
胸倉をつかんでいる王賁の腕を振り払いながら立ち上がり、両足にぐっと力を入れる。

「…俺が、王一族の中で邪魔な存在だなんて、王騎将軍が亡くなる前からそうだったろ。んなこと言われなくても分かってる」

「分かっていない」

何が言いたいのだと彼を睨みつける。
王賁の目つきは少しも変わらない。自分を殺したいほど嫌悪しているのは明らかだった。

「お前は下僕出身の分際で、王家に取り入ろうとしている卑しい存在でしかない」

その言葉を聞いた信のこめかみに鋭いものが走った。相手が王賁でなければ、最後まで言葉を聞かずに殴り飛ばしていたかもしれない。

生まれも立場も自分より低い信が、同じ舞台に立っていることが気に食わないらしい。
怒りを統制するために作った拳を震わせながら、信は長い息を吐いた。

いつまでも王賁に言われっぱなしでいるのは癪に障る。挑発するように引き攣った笑みを浮かべた。

「そんなに俺のことが気に食わねえくせに、嫡男様のご権限では俺一人を追放することも出来ねえんだな」

立派なお立場で。

嘲笑いながら、血の混じった唾を吐きかけてやるつもりだった。しかし、信が最後まで言葉を紡ぎ切る前に、記念すべき二発目の殴打が飛んで来た。

 

身分差 その三

視界が真っ白に染まり、再びその場に倒れ込んでしまう。

「う”…」

先ほどよりも強力な殴打だったことで、立ち上がろうとしても体に上手く力が入らなかった。一切の加減をされず、本気で殴られたのだと分かった。

鼻血が伝う感触があったが、それを拭うために腕を持ち上げることもままならない。

「………」

信は目だけを動かして、王賁を見上げる。
自分よりも立場の低い女に罵られた王賁が、どのような表情を浮かべているのか、興味があった。

表情は崩れていなかったものの、こちらに向けている瞳は相変わらず冷たいままだ。

「はッ…つまんねえの」

余裕のない表情をしているのだとばかり思っていたので、残念だとわざとらしく肩を落とした。

謝罪をされることはないと分かっていたが、王賁が一向にその場から去る気配も見せないので、まだ何か話すことがあるのかと信は陰鬱になった。

「おいっ?」

未だ床に倒れ込んだままの体に王賁が馬乗りになって来たので、信は三発目の殴打が来るのかと身構えた。

しかし、拳が飛んで来ることはなく、王賁が何か言おうと唇を戦慄かせたのが見えた。しかし、言葉が紡がれることはなかった。

まるで何かを諦めたかのように口を閉ざした王賁を見て、信は小首を傾げた。

「…王賁?」

訝しげに眉根を寄せて声を掛けると、再び視界が揺れた。

「うッ…!」

力強く肩を掴まれたかと思うと、今度は頬ではなくて背中に鈍い痛みが走る。自分を見下ろしている王賁と目が合い、彼に押し倒されたのだと頭が理解した。

「…なんだよ、退けよ」

自分に馬乗りになっている王賁を押し退けようとするものの、彼は普段以上に目を吊り上げたまま何も話さないし、動こうとしない。

何か言いたいことがあるのならば、普段のように罵れば良いものを、王賁は固く唇を引き結んでいた。

王賁は口数が多い方ではない。昔からずっとそうだ。

必要ないと思ったことは一切口を挟まないし、それでも罵倒をして来るということは、腹を立てている時だけである。

名家の嫡男として生まれたことに誇りを抱いており、下賤の出である信には、初対面の時からずっと厳しい態度を貫いていた。

武の才を見込まれて拾われた信は、名家に取り入ろうなどと思ったことは一度もない。

それを告げても、自分を気に入らない王賁の態度が変わる訳でもなかったし、きっと自分が王一族にいる限り、彼から疎まれることになるとも分かっていた。

そして目指す先が同じ天下の大将軍であることも、疎まれる要因の一つだろう。

「……もういい」

何かを諦めたかのように、王賁がそう言い放った。
不機嫌に目をつり上げていた彼の瞳が、哀愁を漂わせる色を浮かべたのを見て、信は薄口を開ける。

彼が何を諦めたのか、その前に何を言おうとしていたのか、信には分からなかった。

 

教示

王賁の両手が動いたので、信は反射的に身構えた。また殴打が飛んで来るのだと思った。

しかし王賁の手は、両腕を交差させて顔を庇っている信の両腕をすり抜けて、彼女の青い着物を掴む。

「何すんだよッ!?」

襟合わせを強引に開かれて、信は瞠目した。
その反応から、これから何をされるのか微塵も予想が出来ずにいる彼女を見て、王賁は舌打った。

名も顔も知らぬ男のもとに嫁ぐ道を示しておきながら、純情を装っているその態度に、ますます憤怒が燃え盛る。

確信はなかったが、信が男の味を知らぬことを、王賁は何となく予想していた。

色情に一切の興味を示さない信が男に抱かれている姿を想像したくなかっただけなのかもしれない。

それが独占欲だと気づく前に、王賁は彼女の帯に手を掛けていた。

「はッ?」

間抜けな声を上げた信が薄く口を開けて、解かれていく帯を見つめている。
解かれた帯を結び直される前に、王賁は彼女の手の届かない場所へ帯を放り投げる。

少し遅れてから、意図を察したのか信の顔がみるみるうちに真っ赤になっていった。

「は、はあッ!?何してんだよ!」

開いた襟合わせを強引に押さえ込みながら、信は王賁に怒鳴りつけた。
凄まれても怯むことのない王賁の手が再び伸びて来る。信がその手を押さえつけるよりも、王賁が彼女の首を締め上げる方が早かった。

「ぐッ…!」

急に気道を圧迫され、呼吸を阻まれたことに、信は目を白黒させている。
その手を外そうともがく信を見下ろす王賁の瞳は、暗く淀んでいた。

「がっ…ぁ…」

目の前が白く霞んでいき、このままではまずいと手首を引っ掻いて抵抗を試みる。
しかし、首を締める手の力が少しも緩まることはない。王賁が本気であることを察して、信は背筋を凍らせた。

意識の糸を手放す寸前で、ようやく手を放されて、強制的に呼吸を再開させられた信は激しくむせ込んだ。

まだ呼吸が整っていないうちに、容赦なく前髪を毟られて、王賁が顔を近づけて来る。

「これ以上無駄口を叩かぬよう、立場を弁えさせてやる」

「っ…」

怒気の込められた低い声に、信の体は竦み上がった。怯えた瞳で見上げられると、王賁の中にある加虐心に火が点いた。

中途半端に脱がされていた着物を強引に広げられて、信はまさかという表情を浮かべていた。

自分の体に跨って、腹の辺りに硬い何かが当たる。
王賁の足の間にある男の象徴が、情欲を誇張していることに気付き、信は顔から血の気を引かせた。

「ううッ」

悪罵を叫ぼうとした途端、再び頬を打たれてしまい、口の中に血の味が広がる。先ほどから何度も殴られ打たれた頬が赤く腫れ上がっているのは分かっていたが、もはや痛覚は麻痺していた。

「うッ…!」

怯んで抵抗が出来なくなった隙に、王賁が身を屈めて首筋に噛みついて来たので、そういえばこいつは、蒙恬のように冗談を言う男じゃなかったと思い出した。

まさか王賁にこのような行為を強いられるとは夢にも思わなかったし、彼から女として扱われたのは、これが初めてだった。

 

 

王一族の嫡男とあろう男が、女に困っているはずがない。だからと言って、何のために自分にこのような行為を強いるのか、信には少しも理解が出来なかった。

彼のために喜んで足を開く娘などごまんといるだろうし、金に不自由している訳でもないのだから娼館に行くことだって出来るだろう。欲望の捌け口などいくらでもあるはずだ。

それなのに、王賁がよりにもよって自分を選んだのは、本当に立場を弁えさせるためなのだろうか。

王一族の誇りを受け継ぎ、信の知る限り、王賁は誰よりも自尊心の高い男だ。

自分の減らず口を黙らせるためにこのような行為を強いるということは、余程頭に来ているのだろう。

下賤の出でありながら王騎の養子として引き取られた手前、確かに嫡男である王賁には頭を下げるべきなのかもしれない。

しかし、名家のしきたりなど、養子として引き取られた時から興味がなかった。ひたすらに武功を挙げて上り詰めて、父のような大将軍になることだけが信の全てだった。

「こ、のッ…!」

このまま好きにされてたまるかと、信は歯列を剥き出し、王賁に憎悪の視線を向けた。

凄まれても王賁は表情を変えず、少しもやめる気配を見せない。彼の手が胸を覆っていたさらしを外しにかかったところで、いよいよ信の中で何かがふつりを切れた。

「おい、王賁」

低い声で呼びかけて視線が合うと、すかさず血の混じった唾を王賁の顔に向かって吐きかけた。

「ッ…!」

吐きかけた唾は王賁の右目に当たり、王賁が顔をしかめる。僅かに腕の力が緩んだ。

「放せッ!」

怯んだ隙をついて、信は王賁の腹を蹴り上げた。咄嗟の抵抗だったので、勢いはつけられなかったものの、油断したところに入ったそれは大分堪えたらしい。

彼の下から抜け出すことに成功すると、鳩尾を押さえている王賁を横目に、信は立ち上がった。

着物の乱れなど気にする余裕もなく部屋を出ようと駆け出す。部屋さえ出てしまえば、家臣たちの目もあることから、きっと執拗に追っては来ないはずだ。

「うッ!?」

しかし、一歩目を踏み出した時、左足首を思い切り掴まれて、信は顔面から派手に転倒してしまう。一体今日だけで何度顔面を負傷したことだろう。

思い切り鼻を打ち付けたせいで悶絶していると、上から影が落ちて来て、信はぎくりと体を強張らせた。

うつ伏せの状態で視界が遮られているにも関わらず、王賁がこれ以上ないほどの殺意を向けていることが分かった。

先ほどの蹴りの仕返しだと言わんばかりに、王賁の踵が背中に振り下ろされる。

「がッ…」

あまりの衝撃に、呼吸が抑制され、信は目を白黒させた。

 

最終警告

体を反転させられた後、王賁が胸の辺りに跨って来た。このまま一方的に殴られるのだろうかと信がむせ込みながら、痛みに構える。

しかし、王賁の手は拳を作ることなく、先ほど奪い損なったさらしを外しに掛かっていた。
口の中で血の味を感じながら、信が鼻で笑う。

「はっ…女一人抱くのに、ここまでしなきゃならねえなんて、お前ってほんと、不器用だよな」

皮肉を込めてそう言うと、王賁が鋭い眼差しを向けて来る。

「黙れ。誰が貴様を女だと認めた」

「話逸らすっつーことは図星か?蒙恬から指南でも受けろよ、この欲求不満野郎」

腫れ上がった頬を緩ませ、引き攣った笑みを浮かべながら信が返す。

「ぐ…」

王賁からの反論はなかったが、さらしを外されて露わになった胸をもぎ取られるように力強く掴まれて、思わず呻き声を上げてしまった。

信の苦悶の声に満足したのか、今度は量感のある胸の柔らかさを確かめるように、五本の指が食い込んで来る。

痛みを与えてから、何度か指を動かしてから、胸の芽を強く摘ままれて、信は脇腹をくすぐられるような、むずかゆい感覚に襲われた。

「ッ、ん…」

思わず洩れた小さな声は、痛みを堪えるためのものではない。王賁が鼻で笑った。

「貴様を女だと認めるなら、誰にでも軽々と足を開く売女娼婦としてだな」

侮辱以外何でもないその言葉を投げられ、信の瞳に憤激が宿る。

反発のつもりで自分の胸を揉みしだいている王賁の手首を掴み、骨が軋むほど強く力を込めた。手首に走った痛みに、王賁の眉間に皺を寄ったのを見上げ、信が低い声を発する。

「俺にだってな、抱かれる男を選ぶ権利・・・・・・・・・・くらい、あるんだよ」

王一族の嫡男として生まれた王賁が、昔から自尊心が高い男であるのは知っていた。そこを突いて、さらなる侮辱の言葉を与えてやろうとした瞬間、思い切り下顎を掴まれる。

「いつまでも減らぬ口だ」

「…、…ッ…」

強制的に黙らされると、王賁がまるで口づけでもするのかと思う程に顔を寄せて凄んで来た。

「信」

王賁から名前を呼ばれたのは随分と久しいことだった。

幼い頃に王騎の養子として、王一族に引き取られてから、随分と長い付き合いになるが、王賁から名前を呼ばれたのは今日まできっと数えるくらいだったと思う。

「これが最後の警告だ。立場を弁えろ」

下顎を強く掴んだまま、鋭い目つきで自分を見下ろしている王賁は、首を縦に振る以外の返事を認めないつもりだろう。そのことに、信は無性に反発を覚えた。

一応返事を待ってくれているらしい王賁に、信は迷うことなく再び唾を吐きかける。今度は頬に命中した。

反撃に殴られることは予想していたので、信はすぐに身構えたのだが、王賁は閉眼するばかりで、何かを考える素振りを見せていた。

「…貴様のような下僕風情に、警告などという無意味なことを続けた俺がバカだった」

彼の声色から、落胆の声色を感じ取り、信は眉根を寄せる。

その一瞬の油断によって王賁が振り被った拳への反応が遅れてしまい、一切加減されることなく頬を殴打された激痛に、信の意識は焼き切れた。

 

 

次に目を覚ました時、信は目覚めたことを瞬時に後悔した。

「……ぅ…ん…」

太い何かが何かが唇を押し開いて、口の中を出入りしている。

「ふ、ッく…っ、んん…!?」

口の中を出入りしている太いそれが時折喉を塞ぐので、口での呼吸が出来ず、必死に鼻で呼吸を繰り返す。

状況を理解するよりも先に、その苦しみから逃れようと首を動かすが、頭を押さえられて阻止される。

「んんッ…!」

王賁が自分の顔に跨っていて、その男根を咥えさせているのだと気づくと、信の中で驚愕よりおぞましさが上回った。

何をしているのだと問おうとしても、口は塞がれており、くぐもった声を上げることしか出来ない。

かといって突き放そうとしても、意識を失っている間に両腕は後ろで一纏めに拘束されており、使い物にならない。

信が目を覚ましたことに気が付いたのか、王賁が腰を動かすのをやめて、信の前髪を掴み上げる。

「んんッ、んぐッ、ん、むぅっ」

男根によって塞がれた口が蠢くものの、言葉を紡ぐことは出来ない。

頭を前後に揺さぶられて、喉奥を突かれる度に生理的な吐き気が込み上げた。
唾液に塗れた男根がぬらぬらと怪しく艶を持ち、口の中が出入りを続ける。粘り気のある液体が弾ける音に、信は耳を塞ぎたくなった。

自分の口を使って自慰に浸っているような王賁に、信は目を白黒とさせている。

絶頂に向けて上気した顔も、切なげに眉を寄せてながら荒い息を吐いているその姿を見るのも初めてだった。

信は未だ男に抱かれた経験はないのだが、男の象徴ともいえるそれを無理やり咥えさせられている今の状況は、凌辱を強いられているのと同等な行為だと断言出来る。

どこまで自分を侮辱する気だと、怒りを込めて睨みつける。
しかし、王賁はその視線を受け流すと、より深く信の口に男根を飲み込ませた。

「ふ、ぅぐッ…ぐ、ぅんんッ」

喉奥まで男根を咥えさせられるだけでなく、下生えに鼻を塞がれると、息が出来なくなる。

呼吸が出来ない苦しみに、このまま殺されるのだろうかと恐怖が這い上がって来た。

将としての名誉ある死ではなく、女として凌辱の末に殺される憫然たる末路を想像する。咄嗟に歯を立てて抵抗をしたのは、ほとんど無意識だった。

「ううッ…」

呼吸が出来るようになったのと同時に、思い切り頬を打たれる。

薄く開いた瞳に王賁の憤激した顔が映ったが、ざまあみろと信は引き攣った笑みを浮かべることでとことん反発の意を示すのだった。

 

最終警告 その二

まさかまだ抵抗されるとは、王賁も予想外だったに違いない。

諦めてさっさと解放すれば良いものを、どうやら信の抵抗は王賁の加虐心に火を点けてしまったようだった。

大きく足を開かされたと思うと、王賁がその間に腰を割り入れる。
意識を失っている間に両手を拘束されるだけでなく、着物まで脱がせられていたことに気付いた。

「放せッ…」

何度も顔を殴られて、腫れ上がった顔を惨めに歪ませながら、信が王賁に訴える。しかし、彼はもう耳を傾けることもしなかった。

「あっ、やだ…やめ、ろ…!」

先ほど噛みついて抵抗したというのに、今もなお、硬さと大きさを変えずにいる男根の先端が淫華に押し付けられた。

両手を背中で拘束されたまま、信は必死に身を捩って逃げようとした。
その腰を掴んで引き戻し、王賁は唾液で濡れそぼった男根で花弁の合わせ目を何度かなぞる。

男に抱かれた経験のない信であっても、王賁が何をしようとしているのか、それが分からぬほど愚鈍ではなかった。

破瓜を破られる痛みは未知なるものだが、それが激痛を伴うというのは噂で聞いたことがあった。

将として生き抜くことを誓っていた自分には縁のない話だとばかり思っていたのだが、まさか王賁によってその痛みを味わわせられることになるだなんて、想像もしていなかった。

「っ…ん…」

自分でも滅多に触れない場所を、何度も切先で擦られて、信の中で嫌悪以外の感情が芽生え始めた。

それが性的な喜悦であることは信にも自覚があり、同時にこんな状況で浅ましいと思ってしまう。よりにもよって王賁にこんな声を聞かれたくなかったし、情けない顔も見られたくなかった。

「う、…く…」

歯を食い縛って身を固くしていると、王賁が身を屈めて首筋に吸い付いて来る。むず痒い刺激に、鼻から抜ける声な声が洩れた。

「な、なにッ…?」

男根の切先を淫華に擦り付けながら、王賁の手が今度は胸に伸びて来た。さらしを外した時は容赦なく掴み上げて来たくせに、まるで別人のように優しい手付きをしている。

「…ふ、ぅ…」

胸の芽を立たせるように指で摘ままれて、下腹部が切ない疼きを覚える。
必死に声を堪えているものの、先ほどのように小言も言わずに黙り込んだ信を見て、王賁も体の変化に察したようだった。

「ぁ…はあ…」

胸への刺激を続けられ、先ほどから切先を擦り付けられている淫華から、次第に水音が大きくなっていく。

強く目を閉じても、互いの荒い呼吸と、粘り気のある卑猥な水音が鼓膜を震わせ、嫌でも男女の性を意識してしまう。

「っ、ふ…んんッ、ぅ…!」

日頃から武器を握って鍛錬に勤しんでいる王賁の指が、狭い其処を掻き分けて奥へ入り込んで来たのが分かり、信は息を詰まらせた。

挿れられたのは一本だけだったが、蜜で潤んだ中の粘膜を確かめるように、中で指を動かされる。

「あ、やっ、やめっ…」

中で指が動かされる度に、信の意志とは関係なく淫華が蜜を分泌させていく。
まるで自分の体が自分のものではなくなってしまったかのように、体がびくびくと跳ね上がった。

胸を弄られている時と同じで、異物感とは違う嫌悪以外の感情が溢れて来る。

王賁は微塵も表情を変えていなかったが、彼の瞳には軽蔑の色が見て取れた。喜悦に身体を震わせる目の前のおんなを浅ましいと思っているのだろう。

しかし、動かしている指を止めることはせず、むしろ信に声を上げさせようと指の動きを大きくしていく。

蜜でどろどろに塗れた指をようやく引き抜かれた時、信はぐったりと床に倒れ込んでいた。

 

 

指が抜かれてから間を置かず、指とは比べ物にならない太いものを押し当てられて、信はひゅっと息を飲む。

下肢を見やると、恐ろしいまでに屹立したそれが奥へ進んで来ようとしているところだった。

「ぁ、やだッ、いやだッ!王賁、やめろッ」

信は懸命に身を捩って、最後の最後まで抵抗を試みた。

「警告を聞かなかったのは貴様だ」

一切の感情を感じさせない声に、信が怯えたように瞳を揺らす。

このまま王賁が腰を押し出せば、もう元には戻れない。
王一族の繋がりはあるとはいえ、好敵手だと思っていた王賁を、二度と友だと呼べなくなってしまう。

嫡男である王賁が、王一族に突然やってきた下僕出身である自分のことを毛嫌いしていることは昔から知っていた。

それでも戦で武功を重ねる度に、王賁が言葉にせずとも自分の奮闘を認めてくれていることをわかっていたので、身分差など気にせず、王賁と付き合ってこれたのだ。

好敵手として、友としてこれからもその関係を深めていくのだと思っていたのに、王騎の死がきっかけとなって全てが崩壊してしまった。

「うッ…うう…」

泣きたくもないのに、泣いてもどうしようもないのに、堰を切ったかのように涙が止まらなくなる。

信は嗚咽を堪えながら、王賁に泣き顔を見せまいと顔を背けた。

「…己の立場を理解したか」

王賁のその言葉は、穏やかな声色が伴っていた。機嫌が良い時の王賁の声だ。
もしかしたらやめてくれるのだろうかと微かな希望が胸に宿る。

鼻を啜りながら目線だけを王賁へ向けると、彼は相変わらず鋭い眼差しを向けていた。

「王一族に取り入った下僕風情が、誰を敬うべきか言葉に出してみろ」

「っ……」

信は声を喉に詰まらせる。答えないのなら、このまま凌辱を続けるつもりだろう。

王賁と身を繋げて今までの関係が全て壊れてしまうくらいならと、信は奥歯を噛み締めて、声を振り絞った。

「お、王賁、…」

言葉にするのは簡単だったが、声に出してから、信は拒絶反応でも起こしたかのように体を震わせた。

初めて信が「王賁様」と呼んだことに、王賁自身も何か感じることがあったのだろう。束の間、沈黙が二人の間に横たわった。

(これで、終わる…)

言うことには従ったのだから、信はこれで解放されると安堵していた。
脅しのつもりで挿入を試みようとした王賁には、どれだけ罵声を浴びせても足りない。しかし、それだけ彼が憤激していたことを理解した。

今後も王賁とは必要以上の付き合いはしないと心で誓ったところで、彼が退く気配を見せないことに、信は嫌な予感を覚えるのだった。

「お、おい…?早く、退けよ…」

催促すると、爬虫類を思わせるような冷たい瞳を向けられたので、信は背筋を凍らせた。

「勘違いするな。これは仕置きだ。俺は一度たりともやめるとは言っていない・・・・・・・・・・・

「え?」

指の痕が残るほど強く腰を掴まれて、王賁が腰を前に突き出す。

「ぁ”あ”ああ―――ッ」

狭い場所を無理やり抉じ開けられる痛みに、信の口から無意識に悲鳴が溢れた。

 

恐怖症

いくら蜜で潤んでいるとはいえ、男を受け入れたことのないその道は狭く、入り込んで来た屹立に拒絶反応を示していた。

真っ赤に焼いた鉄棒を捻じ込まれるような激痛に悲鳴が止まらない。無意識のうちに身体が激痛から逃れようと仰け反った。

苦悶に顔を歪めて悲鳴を上げる信は非力そのものだった。女に生まれて来なければ良かったという後悔さえ覚える。

しかし、王賁は迸る悲鳴を聞いても一切顔色を変えることも、やめる素振りも見せない。

より一層奥へ進もうと王賁が腰を前に突き出すと、なにかがぶつりと弾けたような感覚がして、信の意識が錯乱した。

このまま意識を手放してしまえばどれだけ良かっただろう。目の前の現実から逃れたい一心で、信は大粒の涙を流し続ける。

「っ…」

細腰を抱え直し、王賁がしきりに呻き声を上げていた。信にとっては激痛でも、男根は蕩けるような快楽に包み込まれていた。

互いの性器が繋がっている部分に赤い雫が滲んでいる。それが破瓜の血であり、紛れもなく信が初めて男を受け入れた証拠だと分かると、王賁の胸に愉悦が浮かんだ。

「いたい、いたいぃっ、やだ、やあッ」

泣きじゃくりながら、幼子のような口調で信が哀訴する。

普段は強気で弱みを一切見せないはずの彼女の豹変ぶりと血の匂いに、王賁の中の加虐心は歯止めが利かなくなってしまう。

背中で拘束してある両手ががりがりと爪を掻いていることには気付いていたが、拘束を外す気にはなれなかった。

自分の立場を思い知れば良いと心の中で毒づきながら、王賁は容赦なく腰を律動させた。

「ッ、…ぁ…!」

下から突き上げられる怒張の勢いに息が紡げず、信が目を白黒とさせる。

ひっきりなしに悲鳴を上げていたはずの彼女が急に押し黙ったので、気をやったのかと王賁が一度腰を止める。

不自然に唇を閉じ、強く瞼を閉ざしている信を見て、王賁は考えるよりも先にその首を締め上げた。

「がッ…あ…」

現れた舌に、歯形に沿って血の滲んでいる。凌辱に耐え切れぬあまり、舌を噛み切ろうとしたのだと分かった。

死に逃げようとするほど、自分からの凌辱が彼女の心を追い詰めたのだと思うと優越感に浸ることが出来たが、同時にそれはとても不快でもあった。

「はッ…はあ、ッぁ…」

僅かな気道を残す程度に首を締める力を加減をしていると、信が陸に上がった魚のように口を開閉させている。

酸素を取り入れようと開く上の口とは違って、王賁の男根を受け入れている下の口はぎゅうと締まった。

「んんッ…!」

首を締められながら唇を重ねられ、信は霞みゆく視界いっぱいに王賁の顔が映っているのが見えた。

王賁と唇を重ねるのはこれが初めてだったが、ただの凌辱の延長でしかない。
口づけの感想を考える間もなく、完全に呼吸が出来なくなり、信が意識の糸を手放し掛けたのを見計らって、王賁はようやく唇と首を締める手を離してくれた。

小さくむせ込みながら何とか呼吸を再開する。未だ破瓜を破られた痛みが後を引いているというのに、王賁は容赦なく腰を動かした。

「ぁあッ、あぐッ、ぁあ、はッ、ぁあ」

内側を抉じ開けられるだけじゃなく、引き裂かれるような痛みが伴い、串刺しにでもされたかのような感覚を覚える。

背中で拘束されたままの両腕は使い物にならず、ろくな抵抗も出来ないまま甚振られる今の状況に、信の心は揺るぎ始めていた。

 

 

「う…ぅうッ…」

破瓜の痛みに声を上げていた信が、鼻を啜っている。

痛みに苦悶の表情を浮かべていたのは気づいていたが、双眸から涙が流れ始めている。泣き顔を隠すように背けていたが、その瞳には確かに恐怖の色が浮かんでいた。

自分に屈したとしか言いようのない彼女の表情に鳥肌が立ち、王賁の心が激しく波立つ。

「許しを乞え。低俗な下僕らしくな」

信の前髪を掴み上げ、低い声を放つ。
下僕という言葉に反応したのか、信が奥歯をさらに強く食い縛ったのが分かった。目を逸らしたのは抵抗の意志を示すためだろう。

しかし、その瞳から恐怖の色が薄れることはない。
抵抗も拒絶も許さないと王賁が睨みつけていると、泣き濡れた瞳が王賁を捉え、唇を戦慄かせた。

「…王賁、様…」

先ほどのように、嫌々言わされている声色ではなかった。

「お、許し、くだ、さ、い」

情けないまでに震える声が紡がれた。
その言葉が、自分の命じた通りに許しを請うものだと分かると、胸に優越感が沁みていく。

「ぁあッ!?んッ、っぅう、ッ…!」

腰を律動すると、信が咄嗟に食い縛った歯の隙間から情けない悲鳴が漏れ出した。
当惑を見せた信に、王賁は僅かに口の端をつり上げる。

「この俺が下僕の言うことを聞くと思っているのか」

「ッ、は、嵌めやが、ったなッ」

二度も様付けを強要されただけでなく、無様に許しを請う言葉まで強要されたことで、信が悔しそうな表情を浮かべる。

「うッ」

またもや生意気な口を利いたことに、王賁は容赦なく頬を打つ。真っ赤に腫れ上がった顔で睨みつけられても、無様な姿が強調されるだけだ。

なぜいつまでもこの女は学習しないのかと疑問を抱いたが、答えは考えるまでもない。信に学ぶ気がないからである。

(ならば、骨の髄まで分からせてやれば良い)

王賁は組み敷いている信の体を抱え直すと、容赦なく腰を前に突き出した。

「ふぐ、ぅ、あうぅッ」

苦悶に染まった信の声を聞くと、それだけで心が潤う。もっと泣き叫んで、無様に許しを請えば良いと思った。

そして彼女のこんな情けない姿を見るのは、生涯自分だけで良い。

自分が認めた男ならまだしも、名も顔も知らぬ男の手垢に汚されて、信が信でなくなってしまうのなら、このまま手折ってしまおう。

それが紛れもなく、信に対する独占欲だという感情だということに、王賁自身が気づくことはない。

ただ、胸に沈んでいるどろどろとしたものを拭い去るように、王賁はひたすらに凌辱を強いた。

 

恐怖症 その二

「ッ…」

破瓜を破ったばかりの開通した道はかなり狭く、首を締めなくとも痛いまでに締め上げてくるのだが、子種を搾り取られるかのようなうねりに思わず息を吐いてしまう。

膝裏を抱え直して、より深い結合を求める。絶え間なく与えられる刺激と、絶頂に向けて荒い息を吐いている王賁に、信が怯え切った眼差しを向けた。

「いやッ、やだ、やめろッ…!」

男根が肉壁を押し開いていく度に、信がひっきりなしに泣きそうな声を上げる。

「…やめろ・・・?」

聞き捨てならない言葉遣いに低い声で聞き返すと、信が失言をしたことを自覚したらしい。

「や、やめて、くださ、い」

しゃっくりをあげながら紡いだ言葉は、正しく慈悲を請う言葉だった。

昂りが信の体を支配し、その心をも征服出来たのだと王賁は悟る。こんなにも簡単に、心根の強い彼女が屈するとは思わなかった。

「自分の立場を覚えておけ。俺に逆らうことは、決して許されない」

一切の拒絶を許さない、信の意志も返事も必要ない冷酷な言葉に、信の瞳から止めどなく涙が流れ続けている。

喉が潰れるまで泣き喚いて、自分の過ちを悔いろと王賁は嘲笑った。

下賤の出である立場を弁えていたのなら、もっと真っ当に信を愛することが出来たに違いない。

なぜ卑しい身分でありながら、将を続けるのか、自分と同じ場所に立とうとするのか、王賁にはそれが理解出来なかった。

将になる夢など諦め、健気に自分の帰りを待っていれば良い。自分に嫁ぎ、子を孕み、産み、女としての幸福を掴んで、その生を全うすればいい。

今まで何度その言葉を飲み込んだことだろう。王賁は数えることも諦めていた。

「んぁあッ」

乱暴な突き上げに、信が身体を反り返らせる。
律動を繰り返すつれて、もともとが一つであったのかと思うほど、互いの性器が馴染んでいくのが分かった。

「はあッ…」

射精への衝迫に、顔が燃えるように上気していく。

「やっ、やあッ」

まだ諦めていないのか、信が幼子のように首を振って泣き喚きながら、懸命に身を捩る。

体重をかけてその体を押さえ込みながら、王賁が最後の楔を打ち込む。腹の底から昂りにかけて熱いものが迸り、快楽が全身を貫いた。

「ぁ、いや、だぁッ…!」

女にしか分からない、子宮に精液を注がれる耐え難い不快感に、信が内腿を震わせながら掠れた声を上げる。

しかし、慈悲を掛けることはない。最後の一滴まで零すことなく、子宮に子種を植え付けてから、王賁が長い息を吐いた。

ゆっくりと男根を引き抜くと、破瓜の血と混ざり合った精液が一緒に溢れてしまう。

「…ぅ…う…」

自分と身を繋げたことや、中に射精されたことが余程堪えたのか、信は静かに啜り泣いている。

冷酷な瞳で見下ろすと、王賁はようやく身を起こして、彼女の口元に未だ濡れている男根を押し付けた。

破瓜の血と白濁で汚れている切先で唇をなぞってやると、小癪にも男根から顔を背けようとする。

「う、ぅんんッ」

髪を掴んで男根を清めさせるために、無理やり口腔に突き挿れると、苦し気な声が上がった。

自分の破瓜を破り、何度も肉壁を押し分けていたものが口に入れられることには生理的な嫌悪感があったのだろう。

「…ん、んぅ…」

やがて、苦悶の表情を浮かべたまま、切先に舌を這わせ始めた。
涙を流し続けているその瞳から、反発の色も恐怖の色も失われていき、絶望に染まる瞬間を、王賁は確かに見たのだった。

 

番外編②(蒙恬×信←桓騎)はこちら

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フォビア(王賁×信←蒙恬)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/ヤンデレ/執着攻め/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

歪な関係

蒙恬と関係を持ってから、信は今まで以上に口数が少なくなっていた。

仲間たちの前では何ともないと気丈に振る舞って見せていたが、いつも目元を腫らしている彼女を不審に思わない仲間はいなかった。

何かあったのかと尋ねても彼女は何でもないと無理に笑うばかりで、決して答えようとしない。

蒙恬に自分たちの関係を口止めされたことはなかったし、脅された訳でもなかった。それは王賁も同じである。

他者に告げたところで、この状況に終わりはないことを信は分かっていた。二人もそれを知っていたからこそ、口止めなど不要なことをしなかったのだろう。

きっと蒙恬も王賁も、信が誰にも打ち明けないことを察していたに違いない。

信は蒙恬の言うことを何でも聞く、そして蒙恬は桓騎に同士討ちの件を黙らせておくという取引は今でも続いていた。

特に蒙恬には、飛信隊という人質があり、改めて言葉にすることはないが、その沈黙の脅迫は着実に信の心を蝕んでいた。

仲間たちの命を守るためには自分が耐えるしかない。
自分が桓騎軍の兵と娼婦を斬り捨てたことが糸口となったことであり、これは他の誰でもない自分の責任である。

同士討ちの件を、蒙恬を通して桓騎に黙らせておくのは、決して保身のためではなかった。もしも自分の首だけで済む話ならば、信は潔く命を差し出しただろう。

しかし、五千人将の地位に就いている信の同士討ちの罪は重い。
もしもこの事実が明るみに出て軍法会議に掛けられれば、間違いなく連帯責任として全員が処刑されてしまうだろう。それだけは何としても避けたかった。

信が決して声を上げず、歯を食い縛って蒙恬との取引を続けるのは、仲間たちのことを思ってのことだった。

終わりのない取引に、信の精神は着実に蝕まれていく。

(これは、罰なんだろうな)

背後から蒙恬に身体を揺さぶられながら、信は考えていた。

彼の男根が突き上げている、その先に眠っていたはずの尊い命。抱き上げることはおろか、顔も見ることも叶わなかった小さな命を想い、信は涙を流した。

「っ、ぅ…ふ、…」

情けない嗚咽を零しそうになった口に手で蓋をする。昔からずっと、声を上げて泣くことが苦手だった。

まだ王騎と出会う前、下僕である自分が泣くことで、自分を買い取った男からうるさいと怒鳴られ、鞭で叩かれた苦痛の記憶が刻まれているからだ。

容赦なく肌を打つ鞭の痛みに、自分には帰る場所などないのだと思い知らされた。

親の顔も知らない自分の生き場所はここしかないのだと、そのやり場のない虚しさを紛らわすために、ひたすら木剣を振るっていた。
手の平のマメが潰れ、血で真っ赤に染まっても、痛みというものを一切感じなかったのだ。

その後、剣の腕を見込まれ、信を養子として引き取りたいと王騎が申し出た時、男は人が変わったように自分を差し出した。

今までさんざん自分を甚振っていたはずの男の豹変ぶりを見て、信は悟った。

自分にも、力と名声があれば、もう酷い目に遭うことはないのだと。

 

「っ、ぅ、んんッ…!」

行為から気を逸らすのは許さないとばかりに、項に噛みつかれ、信の身体がびくりと震えた。

肉を穿つ打擲音と蒙恬の荒い吐息を聞き、まるで終わりなき地獄にいるようだと錯覚する。敷布を力強く掴みながら、信はなんとか意識を繋ぎ止めていた。

「…王賁がつけた痕、すっかり消えちゃったね」

たった今つけたばかりの噛み痕に舌を這わせた後、蒙恬が囁いた。

自分で見ることは叶わなかったのだが、蒙恬の屋敷で療養をしていた頃、信の体には王賁につけられた情事の痕があったのだという。

情事の際、体に痕をつけられたことは、これまでも何度かあった。

もちろん愛の言葉を囁かれるなんてことは一度もなかったが、王賁と身を交えた証が確かにこの身に刻まれたような気がして、信はいつもその痣を眺めては溜息を吐いていた。

がむらしゃらに快楽に身を委ね、女として生まれた喜びを得られていたのなら、少しは苦痛も紛れたのかもしれない。

何も考えずに快楽を追い求めれば、もっと楽になれただろう。

しかし、それを許さないのは、他ならぬ信の理性だった。仲間たちの命が天秤に掛けられている限り、永遠に楽にはなれないだろう。

「はあッ…あ…イく…ッ」

「ッ…!」

耳元に蒙恬の熱い吐息を掛けられ、信は身を強張らせた。

それまで腹の内側を抉っていた男根が引き抜かれ、内腿に白い子種が迸る。
中に射精されなくて良かったと胸を撫で下ろすのは、これで何度目だろうか。

「……、……」

絶頂の余韻に息を整えている蒙恬が後ろから体を抱き締めて来たので、信はようやく終わったのかと長い息を吐いた。

「んぅ」

顔を覗き込まれたかと思うと、そっと唇を重ねられ、信は戸惑った。

王賁と身を繋げた時もそうだが、妻でも恋人でもない女と口づけをするのは、体に痕をつけるのと同じで、行為の延長なのだろうか。

「ふ、ぅ…」

ぬるりとした舌が入り込んできて、信は蒙恬に教えられたように舌を絡ませた。

唇と舌を交えながら蒙恬が笑った気配を感じ、機嫌を損ねていないことに安堵する。

名家の嫡男だというのに、蒙恬も王賁もなぜ自分にこのような行為を強いるのか、信には理由が分からなかった。

彼らの立場を考えれば、喜んで足を開く女はごまんといるだろうに、どうして自分でなければならないのだろう。

貴族の娘を相手にするのと自分を相手にするのとでは随分と事情が違う。
きっと何にも気遣わず、好きに扱える都合の良い道具性欲処理として見ているのだろう。

早く飽きて見放してくれれば良いのにと思う。
だが、もしもそうなれば、同士討ちの件を黙ってくれている蒙恬が次に何の欲求をして来るのかが分からず、信はそれが恐ろしかった。

 

歪な関係 その二

「もう帰るんだ?」

着物の袖に腕を通している信に、寝台に横たわったままでいる蒙恬がつまらなさそうに声を掛けた。

帯を締めながら、信は振り返ることなく頷く。

あの日から頻繁に呼び出されては体を交えるようになっており、先ほどまで蒙恬の男根が埋まっていた其処に、疼くような、擦れるような言葉にし難い痛みが続いていた。帰路で馬に跨るのが憂鬱だった。

ゆっくりと起き上がった蒙恬が、口元に手を当てて何かを考えている。

「じゃあ、次はさ」

「…王家の集まりがある」

次に会う日取りを告げようとした蒙恬の言葉を、信は低い声で遮った。

今日まで呼び出しを断ることがなかった信が初めて断ったので、蒙恬は驚いたように目を丸めていた。

ふうん、と返事はするものの、それ以上は何も言われない。蒙恬も嫡男として、そういった集まりの重要さは理解しているのだろう。

私用であったのなら蒙恬の呼び出しを優先していたのだが、王家の集まりとなれば、自分の都合ではどうにもならない。
少しでも蒙恬と離れられる時間があることに、信は表情に出さず安堵していた。

「王賁に会うんだ?」

蒙恬の口からその名を聞くのは珍しいことではなかった。

気が合うようには見えないが、名家の嫡男同士の付き合いがあるのだろう、蒙恬は昔から王賁のことを知っていた。信が王騎の養子として王一族の一員となり、王賁が出会うよりも前から二人は面識があったのだろう。

養父である王騎は、王一族の中では分家の人間にあたる。天下の大将軍として中華全土に名を轟かせていた養父ではあるが、本家当主の座とは離れていた。

そのせいか、信が蒙恬と初めて出会ったのは、お互いに三百人将の地位に立っていた頃だった。

軍師学校を首席で卒業しただけでなく、戦での功績は噂で聞いており、初めて会った時、まさかこんな優男が蒙武将軍の息子なのかと大層驚いたものだ。

(…あの頃は、今よりマシだったな)

父の背中をひたすら追い求めていたあの頃は、今のように雁字搦めな状況ではなく、いくらでも羽ばたけた。

まだ王騎が生きていた頃、王賁から嫌味は言われるものの、少なくとも今よりはまともな扱いを受けていた。三人で戦での功績を競い合っていたあの日々も、今となっては懐かしい思い出だ。

信が女であることを王賁は出会った時から知っていたし、初陣から性別を偽るようになっていたことにも彼は何も言わなかった。
そもそも興味がなかったのだろうが、その無言の気遣いが当時の信には嬉しかった。

「信」

束の間、昔の王賁に思いを馳せていると、蒙恬から名前を呼ばれ、信は弾かれたように顔を上げる。

振り返ると、蒙恬がじっとこちらを見つめていた。暗く淀んだ瞳と目が合うと、信はそれだけで動けなくなってしまう。

何を言われるのかと固唾を飲んでいると、蒙恬がゆっくりと口角をつり上げた。

「…信はさ、俺のものになったんだよね?」

その問いには、一体どんな意味が込められていたのだろう。

考えるよりも先に、信は頷いて、蒙恬の言葉を肯定していた。彼の機嫌を損ねないために。

安堵したように、蒙恬は優しく笑んだ。

「うん、分かってるならいいよ。気をつけて帰ってね」

「………」

穏やかな声色を掛けられ、信は無意識のうちに安堵の息を吐いていた。今日も仲間たちの命を守ることが出来たようだ。

 

再会

王一族の集まりというのは、いわば論功行賞のようなものである。
褒美こそ出ないが、名家と称される自分たち一族に、相応しい貢献出来ているかを評価されるのだ。

本家の屋敷で行われるこの集まりは昔から続いており、養父である王騎はよく名を呼ばれてその功労を称えられていた。

分家の出であるものの、誰よりも中華に名を轟かせていた養父が誇らしくもあったし、その広い背中はいつまでも信の目に焼き付いている。

信も飛信隊の将としての活躍を称えられることはあったものの、下賤の出である彼女の功労を称えるのは形ばかりで、一族の者たちから冷たい視線を向けられていることには昔から勘付いていた。

養子として引き取られることが決まった時も、王一族の間では随分な騒ぎになったらしい。しかし、王騎の多大なる功績が認められていたからこそ、下賤の出である信は、異例として彼の養子となることが認められた。

名家の一員に下賤の出である彼女が加わることを快く思っていない者は未だ多くいる。

だからこそ、養父である王騎が馬陽で討たれた時、信はそれを理由に王一族を追放されるのだとばかり思っていた。

しかし、王騎の遺言が記されている木簡が屋敷で見つかったことで、追放は免れた。王騎はいつか自分が戦場で命を失い、自分と言う後ろ盾がなくなった娘のことをずっと案じていたのである。

王騎が亡くなったことで、すぐに追放されるはずだった信が、今でも王一族にいられるのはその遺言による効力のおかげだ。

しかし、隠蔽されている同士討ちの件が広まれば、すぐに信は王一族から追放となるだろう。

最期まで自分を案じてくれていた養父には申し訳ないが、彼が龐煖に討たれた時、いっそ王一族から追放された方が良かったかもしれないと思うことがあった。

そうなれば、幼馴染であり、良き好敵手でもあった王賁との上下関係を意識することもなかっただろう。

王騎が生きていた頃は、下賤の出であることに対して嫌味は多かったものの、今よりも人として接してくれていた。

あの時の優しい王賁を、信はいつまでも心待ちにしている。

この苦痛さえ耐え凌げば、いつかはあの時の優しい王賁に戻ってくれると、疑うことなく信じていた。

 

夕刻に祝宴が始まった。王一族の者たちがこうして一つの場に集まることは滅多になく、それを理由に毎度宴が開かれるのだ。

信の席も相変わらず端の方に用意されていたが、とても宴に出る気にはなれなかった。
ここ最近は蒙恬から呼び出される度に身体を暴かれているので、その顔には濃い疲労の色が滲んでいた。

(集まりには顔を出したんだら、もう十分だろ)

何も言わずに、愛馬を預けている厩舎へ向かおうと踵を返す。

宴に出ないで帰ることに断りを入れずとも、誰も信のことを気にしていないようだった。

王騎が生きていた頃は、王賁と酒を飲み交わして互いの功績を讃え合い、朝までどちらが先に天下の大将軍の座につくか酒を飲み交わしながら語り合っていたのだが、もうそんなことはなくなってしまった。

先に将軍の座に就いたのは王賁と蒙恬であって、信は今でも五千人将の座に就いたままである。大きく開いてしまったこの差は、もう永遠に埋められぬような気がしてならなかった。

「………」

廊下では、一族の者たちをもてなすために従者たちが慌ただしく動き回っている。
突然の来客があった話をしており、その対応に追われ、ますます忙しさが増しているようだった。

宴の間から聞こえる談笑に後ろ髪を引かれることもなく、信は屋敷を出ようと入り口を目指していた。

「っ…?」

不意に後ろから腕を掴まれ、驚いて振り返る。王賁だった。

蒙恬に逆らえない関係が始まってから、そういえば王賁とは一度も会っていなかった。

最後に会ったのは、楚の防衛戦に成功した帰路だ。桓騎軍の兵と娼婦を斬り捨てる前、呼び出された天幕で彼と身を繋げていたことは、朧げではあるが覚えていた。

「お…」

名前を呼ぼうとして、信は慌てて口を噤む。
以前ならば気さくに名を呼んでいたが、今ではもう許されない。

用があって引き留めたのだろうが、声を掛けることはおろか、目を合わせたら生意気だと頬を打たれるのではないかと怯えてしまい、信は俯いたまま顔を上げられずにいた。

青ざめたまま動かない信に、王賁は一向に表情を変えることはないが、いつものように向けられる鋭い眼差しは、どこか怒っているようにも感じる。

王家の嫡男であり、此度も名前を呼ばれて功績を讃えられていたというのに、宴に出なくても良いのだろうか。

捕まれた腕を放される気配がなく、信は戸惑ったように狼狽えた。

「あっ…」

何も言わずに王賁に腕を引っ張られたので、信は大人しく彼の後ろをついていく。自らの意志でその腕を振り解くことは出来なかった。

廊下を進むにつれて、この先に王賁の私室があるのだと思い出し、心臓が激しく脈打ち始める。

もう嫌だと心が悲鳴を上げるものの、それを言葉にすることは許されない。

「うっ…」

部屋に入るなり、信は寝台にその身を投げ出される。上質な寝具で統一されている高価な寝台がぎしりと軋んだ。

驚いて起き上がろうとするが、それよりも早く王賁が信の身体を組み敷いた。

「なにして…」

顔色を見れば、王賁が酒に酔っていないことは明らかだった。宴の間では一族が集まっているというのに、何を考えているのだと驚いた。

「お、王賁、さまっ…!」

帯を解こうと伸ばされた手を掴み、信が教え込まれた呼び方で制止を求める。

王騎が討たれてから、王賁は信にこれまで通りの態度を許さなくなった。

以前は名前を呼び捨てていたのに、立場を弁えなければ容赦なく頬を打たれるようになって、信は王賁より下の立場であることをその身にとことん教え込まれたのである。

 

 

腕を跳ね除けられ、呆気なく帯を解かれる。

強引に襟合わせを開かれると、先日の情事で蒙恬につけられた赤い痣の残る肌が露わになった。

それが自分がつけたものではないとすぐに気づいた王賁が右手を振り上げる。信は両手で顔を守るよりも先に、反射的に目を瞑っていた。

「うッ…!」

乾いた音が鼓膜を揺すり、左頬に激しい痛みが走る。

「ち、ちが、う…」

まだ何も問われていないというのに、信は否定する。熱を帯びて、痺れるような痛みがする左頬に手をやりながら、信は何度も違うと首を横に振った。

自分が望んだことではないのだと、王賁には分かって欲しかった。

しかし、仲間たちのためにも、同士討ちの件を告げることも、蒙恬が関わっていることを告げることも許されない。

真実を隠し通さねばならないという気持ちと、王賁にだけは誤解されたくないという想いがせめぎ合う。

「違う、ちが、う…」

彼の子を身籠ったと分かった時も、これで何かが変わるかもしれないと、また以前のように自分と接してくれるかもしれないと信じていた。

生まれる前の尊い命は戦の侵襲と負担が原因で失われてしまったのだが、それでも信が今でも王賁のことを信じているのは、彼と共に過ごしたあの日々の思い出が、鮮明に心に刻まれているからであった。

初めて体を暴かれた時の破瓜の痛みも、道具として利用される悲しみも、全ていつか救われると信じていた。

自分さえ耐え凌げば、いつかまたあの時のように優しい王賁に戻ってくれると思っていたのだ。

「い、だッ…!」

首筋に歯を立てられ、血管を食い千切られるかもしれないという恐怖に身を震わせる。

いつかはまたあの温かい日々が戻って来ると信じていた彼女を嘲笑うかのように、痛みによって意識が現実へと引き戻された。

 

恐怖症

体を震わせるばかりで抵抗しなくなった信のさらしを強引に外しながら、王賁が不機嫌に眉間を寄せた。

「誰の許可を得て、その身を許した」

低い声で問われると、それだけで信の体は強張ってしまう。

「あ、あの、俺…」

王賁以外の男にこの身を差し出したことは既に気づかれている。

それが蒙恬だと素直に打ち明けることで、同士討ちの罪に気付かれないだろうか、今の王賁に同士討ちの件を知られて、上に報告されるのではないかと不安がよぎった。

取引通りに蒙恬は桓騎を口止めしてくれているが、横槍を入れるように、王賁が同士討ちの件を上に報告したのならば、間違いなく軍法会議が行われるだろう。

「ぁうッ」

狼狽えていると、今後は右の頬に痛みが走った。容赦なく頬を打たれ、痺れるような痛みの余韻に涙が滲む。

「答えろ」

鋭い瞳に見下ろされ、信は息を詰まらせた。

「……っ…」

唇を戦慄かせ、自分を抱いた男の名を口に出し掛けた寸前、信の瞼の裏に仲間たちの姿が浮かぶ。

(だめだ)

自分の保身のためじゃない。大切な仲間たちの命を守るために、信は沈黙を貫いた。

いつものように奥歯を強く噛み締め、溢れ出そうになる涙と声を堪える。せめてもの意志表示に、瞼を下ろし、強く拳を握り締めた。

「貴様…」

王賁の視線がますます鋭くなる。
歯を食い縛りながら、次なる痛みに堪えていたが、着物を脱がされていく感触があった。

「あっ…!?」

あっと言う間に下袴を奪われ、剥き出しになった下肢がひやりとした空気に触れる。

驚いて閉じていた目を見開くと、今まで見たことのない王賁の表情がそこにあった。

憤怒だけではなく、まるで親とはぐれた迷子のような不安の色と、耐え難い痛みを堪えているような、複雑な色が混ざり合った表情。

その表情を見て、王賁が何を自分に思ったのか、信には何も分からなかった。

「ん、っ…!」

いきなり唇を重ねられ、信は瞠目する。
体を重ねている最中に口づけられることは何度かあったが、まだ挿れてもいないのに口づけられたのは初めてのことだった。

「ふ…ぅ、ッん」

唇を交えながら、王賁の手が信の内腿をするりと撫で上げる。

足の間に辿り着き、まだ乾いたままである淫華に触れられたかと思うと、花弁の合わせ目を指がなぞられ、信は思わず体を跳ねさせた。

「は、ぁ…」

破瓜を捧げた男に愛撫されているのだと思うと、それだけで熱い吐息が零れた。
いけないと頭では分かっているのだが、繊細な箇所を擦られる甘い刺激につい膝を擦り合わせてしまう。

「っ…あう、ぅ…」

王賁の唇が首筋を伝った感触に、信は小さな声を上げた。

淫華から卑猥な水音が立つ。僅かな刺激だけだというのに、蜜が滲み始めて来たことに、信は浅ましい自分の体に嫌悪感を抱いた。

「あ、ッ…はぁ…」

滑りを利用して、中に指が入り込んで来る。

初めて王賁の男根を咥え込んだ時は、あまりの激痛に泣き喚いていたというのに、今では男の味を覚えてしまった。

女として生まれた喜びを知った浅ましい体が、快楽に全てを委ね、何もかも忘れてしまえと甘い言葉を囁いて来る。

何の感情かもわからない涙で視界がぼやけてしまう。このまま何も分からなくなってしまえたらと、どれだけ願ったことだろう。

「…、……」

体の力を抜いて、信はゆっくりと目を閉じた。
いつも通り、王賁の機嫌を損ねないように声を堪えれば良い。蒙恬はやたらと声を上げさせたがるのだが、王賁は違う。泣き声がうるさいと、何度も頬を打たれたことを信は覚えていた。

「…っ…ふ、ぅ…」

瞼を閉じたことによって広がった暗闇の世界で、王賁の吐息だけが聞こえていた。
膝裏を大きく持ち上げられ、指が差し込まれていた場所に、熱くて硬い男根の先端が押し当てられる。

「んんんうッ」

狭い其処を押し広げるように男根が入り込んで来て、信がくぐもった声を上げた。一番深いところまで入り込んで来て、圧迫感に息が苦しくなる。

互いの性器が馴染んでから、王賁が腰を動かし始めたので、敷布を強く握り締め、信は歯を食い縛った。

腹の内を抉られて、揺すられて、満足するまでそれを続けられるだけだ。すぐに終わる。今までだって耐えて来れたのだから今回だってきっと耐えられる。だから大丈夫だと、信は何度も言い聞かせた。

瞬間。部屋の扉が開かれた音がして、

「…信、俺との約束破ったの?」

聞き覚えのある声に、信が思わず閉ざしていた瞼を持ち上げた。

 

 

視線の先に蒙恬が立っていて、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。どうしてここに彼がいるのだろう。

息を詰まらせて体を強張らせていると、束の間、王賁が止めていた腰を動かし始める。

「あぁっ…!?」

腹の内側を抉られる感触に、思わず声を上げてしまう。

慌てて口に手で蓋をするものの、すでに蒙恬の表情には苛立ちの色が宿っていた。

後ろ手に扉を閉めた蒙恬が口元だけ笑みを携えながら、寝台に近付いて来る。
王賁といえば、蒙恬がなぜここにいるのか興味さえないのか、構わずに腰を揺すり続けていた。

「あっ、ま、まって、ぇ」

制止を求めて王賁の腕を掴もうとするのだが、体に上手く力が入らない。

まさか蒙恬がここに現れるとは思ってもみなかったし、今まさに王賁と身を交えている今の状況で、彼が機嫌を損ねないはずがなかった。

この状況でも情事を続けている二人に、蒙恬の頬がひくりと引き攣った。

「ねえ、信」

低い声で蒙恬に名を呼ばれると、信の背筋に冷たいものが走った。

「ッ…」

暗く淀んだ彼の瞳と目が合ってしまい、まるで術にでも掛けられたかのように動けなくなってしまう。

「取引の内容、忘れた?」

ひゅ、と笛を吹き間違った音が唇から洩れた。

彼が取引の話を持ち出す時は、決まって機嫌が悪い時である。仲間たちの命をちらつかせているのも、単なる脅迫ではなく、本気だということを信は理解していた。

「うッ、んんッ」

怯えた瞳を蒙恬に向けていると、王賁に腰を掴まれて深く男根を叩きつけられる。あまりの激しさに体を仰け反らせた。

そんな信を見て、蒙恬の表情がますます濁っていく。口元に浮かべていた形だけの笑みも崩れていた。

王賁はまるで蒙恬のことなどそこに居ないかのように扱っている。しかし、信を抱いた男が蒙恬であると気づいたようだった。

自分の上でどんどん息が荒くなっている彼と、こちらを睨みつけている蒙恬に視線を交互に向けながら、信は狼狽えることしか出来ない。

王賁が腰を動かす度に、繋がっている部分から卑猥な水音が立つ。熱くて硬い男根が何度も中を突き上げていく感覚に、信の内腿が震え始めた。

これ以上、蒙恬の機嫌を損ねるわけにはいかないと頭では理解しているのに、信は抗う術を持たない弱者だった。

力と名声があれば、もう酷い目に遭うことはないのだと、王騎の養子となったあの日に悟ったというのに、信は弱いままだった。

荒い息を吐きながら、王賁が身体を抱き締めて来たので、信は顔から血の気を引かせる。

彼が絶頂に上り詰める時は、まるで快楽に意識を持っていかれぬよう、縋るものを探すかのように身体を抱き締めて来るのだ。

まさかと思い、力の入らない腕を突っぱねるが、それはろくな抵抗にならない。

「や、…いやッ…!」

瞼の裏に、生まれる前に消え去ってしまった幼い命に懺悔する自分の姿が浮かび上がる。

王賁の子を孕んでも、その命が消え去っても、彼は何も変わらなかった。

本当は気づいていたのだ。王賁にとって自分は道具であり、自分がどうなろうと、何も変わらない。

昔の王賁はもうどこにもいないのだと、自分は彼にとって単なる道具にしか過ぎず、それはこれからも永遠に変わらないことを。

「あッ、やだッ、やだあぁッ」

幼子のように泣き喚き、信は首を振った。腹の奥に熱いものが迸る感覚に、涙が止まらなくなる。

自分がこれからも地獄の中で生き続けることを認めたくなくて、信は声を上げて泣いた。

「え、うそ、中に出したの?最悪」

歯を食い縛って腰を震わせ、信の最奥で射精をしている王賁の姿に、蒙恬が頬を引き攣らせた。

 

恐怖症 その二

泣きながら顔をぐちゃぐちゃに歪めている信の前髪を掴み、蒙恬がその顔を覗き込んだ。

「あーあ、可哀相。信、泣いちゃってるじゃん」

わざわざ近距離で顔を覗かなくても分かることを、蒙恬はあえて言葉に出した。

「ぃ、たい…」

前髪を掴んでいる手には容赦なく力が込められていて、頭皮が引き攣る痛みに信は顔をしかめる。

「こんな風に泣かされないように、俺を選んでくれたんだと思ってたのに。また嘘吐かれちゃった」

肩を竦めながらそう話す蒙恬だったが、なぜかその口元には笑みが戻って来ている。

涙で歪む視界の中でも、信はそれを察して嫌な予感を覚えた。

「も、蒙恬…ご、ごめ…」

要求されなくても、百回でも千回でも、喉が裂けても、蒙恬の気の済むまで謝罪するつもりだった。

取引に応じなかったことで、隠蔽されている同士討ちの件が明るみに出て、仲間たちの首が飛ぶことだけはなんとしても避けねばならない。

「なに?今さら謝罪も言い訳も聞きたくないんだけど」

しかし、蒙恬の怒りは完全に鎮火出来ないほど広がってしまっているらしい。声色だけでそれが分かった。

「賁、いつまで挿れてるのさ。さっさと退いてよ。俺、信にお仕置きしなきゃならなくなったんだから」

信の言葉を聞こうとせず、蒙恬が王賁に目を向けた。ふん、とつまらなさそうに王賁が鼻を鳴らす。

「ぅうう」

深く埋まっていた楔が引き抜かれる感触に、信は思わず呻き声を上げた。

抜かれた男根の後を追うように、白濁が溢れ出て来るのを感じる。臀部を伝う嫌な感触がして、信は息を飲んだ。

「あ”っ、ぅ…」

早く中に出された精液を掻き出さなくてはと手を動かすのだが、今度は蒙恬から体を組み敷いて来たので、信は顔から血の気を引かせた。まさかという瞳で蒙恬を見上げる。

「久しぶりに王賁と会うっていうから、何となく予想してたけど、本当にその通りだったね」

必要な場所だけ脱ぎ、自分の上で男根を扱く蒙恬の姿に、信が喉を引き攣らせる。

手の中でみるみるうちに硬く上向いていく男根を見るのは初めてではなかったのだが、こんな状況で蒙恬が自分を抱こうとするだなんて信じられなかった。

「ぁッ、いや、だ…!」

泣きながら、信は蒙恬から逃れようと寝台の上で身を捩った。床に足をつけようとした途端、乱暴な手つきで腰を引っ張られる。

「ぅぐッ」

体をうつ伏せにさせられて、蒙恬が情事の際によく取らせる姿勢になると、無遠慮に淫華へ指が差し込まれた。

「あーあ、どろっどろじゃん。随分溜まってたんだね?」

先ほどの王賁の精液を掻き出そうとしているのか、それとも中で馴染ませようとしているのか、鉤状に折り曲げた指を抜き差ししながら蒙恬が苦笑を深めた。

「ひッ…い、いやだ…」

指が引き抜かれて、男根の先端を押し当てられたのが分かると、信は背後にいる蒙恬を突き放そうと腕を突っ撥ねる。
しかし、それを遮るかのように、王賁の手が前髪をぐいと引っ張った。

「んぐっ」

薄く開けていた口元に男根が押し込まれ、目を白黒とさせる。
先ほどまで自分の中に埋まっていたそれを、喫するように命じているのだ。

「ぐ、…ん、うぅ…」

気道を押し上げられ、息苦しさのあまり顔をしかめるが歯を立てることは許されない。身体がそれを覚えていた。

「ふ、ふ…ん、ぅ」

鼻で必死に息を続けながら、頬張った男根に舌を這わせていると、背後で蒙恬が笑った気配がした。

「なにそれ、妬けるんだけど。俺の時は言わないとしてくれないのに」

「お前の使い方が悪いんだろう」

自分を挟みながら頭上で交わされる二人の会話に、まるで自分が二人とって単なる都合の良い道具であることを認めるしかなかった。

双眸から涙を流していると、花弁を押し開いて蒙恬の男根が勢いよく入り込んで来る。

「んんんッ!」

全身を貫いた衝撃に思わず歯を立てそうになり、信は思い切り拳を握った。爪に皮膚が深く食い込み、血が伝う。

ここで抵抗をすれば蒙恬の機嫌を損ねて同士討ちの件が明るみに出てしまうのではないかという恐怖が心を信の縛り上げていた。

同士討ちの件をここで王賁に気付かれる訳にもいかない。二人が満足するまで、自分は道具としての役目を全うしなくてはならないのだと頭では理解しているものの、心は引き裂かれるように痛みを覚える。

(俺、何で…こんなこと、してんだろ)

友人だと思っていた二人に身体を暴かれている状況で、信はどうしてこんなことになってしまったのかと考える。

 

 

「ふ、ふぅ、ん、うッ、ぐ…!」

苦しそうな声を上げて口いっぱいに王賁の男根を頬張りながらも、時折後ろにいる蒙恬を振り返り、まるで許しを乞うような瞳を向けて来た。征服感と残虐心を満たしてくれる弱々しい瞳だった。

「んう”ッ」

指の痕が残るほど腰を強く引き寄せると、これ以上ないほど奥を突かれ、くぐもった声を上げた信の身体が仰け反る。

信の腰がこんなにも細いだなんて、信が女だと気づくまでは、今まで考えもしなかった。

男らしい体格を偽装するために、さらしを撒いて胸の膨らみを押さえたり、腰のくびれを隠していたのだから気づかないとしても仕方がなかっただろう。

信が女だと知っている者はほんの一握りだけだ。しかし、よりにもよって王賁が含まれていることに蒙恬は苛立ちを隠せなかった。

ましてや、一度は王賁の子を身籠ったことがあるなんて、許す訳にはいかない。

「う、ぁっ、も、蒙恬っ、やめ、て、くれ」

涙で濡れた瞳で制止を求めるが、蒙恬は無視をして腰を揺すった。
王賁の手が伸びて、信の顎を強引に掴んだかと思いきや、その口を開かせる。

「んぅぅッ」

無理やり男根を咥えさせられて口に蓋をされると、信は振り返って懇願することも制止を呼び掛けることも出来なくなってしまう。

喉奥まで突かれて息が苦しいのだろう、顔を真っ赤にして信が王賁の太腿を軽く叩いた。
しかし、どれだけ苦しくても歯を立てることは絶対にしない。

その仕置きと称して破瓜を破られ、腹に子種を植え付けられた恐怖は今でも根強く信の記憶に残っていた。

「信、叩いたらだめだよ」

子供を注意するような穏やかな口調で、蒙恬は腰を掴んでいた手で信の両腕を後ろから引き寄せて、後ろから激しい律動を始めた。

「~~~ッ!」

咥えた男根を吐き出さないように、王賁の手が強く後頭部を押さえつけられており、信が目を白黒させている。

蒙恬の男根を咥え込んでいる淫華がぎゅうと口を窄ませる。まるで子種を絞り出そうとするその締め付けに、思わず切ない吐息を零した。

「ねえ、信」

呼び掛けながら信の黒髪を後ろから掴んで顔を持ち上げる。

「んうっ、ん、はっ、はあっ、はあ」

それまで王賁の男根で口に蓋をされていた信が苦しげに肩を上下させている。
頭皮が引き攣るような痛みと、後ろから突き上げられる快楽に彼女は顔を歪ませていた。

「俺、すごい傷ついたんだよ?俺のものになるって約束したのに、信が王賁と関係を続けてたこと」

あんな約束を交わしたところで、信が王一族の中では弱い立場のままであり、次期当主である王賁の命令に逆らえないことなど分かっていた。

しかし、抵抗する素振りもなく、王賁に抱かれていたという事実が蒙恬には許せなかった。無様に泣き顔を晒してでも、助けてくれと自分に縋れさえすれば、それで良かったのだ。

それもせず、それどころか、今まで通りに王賁との関係を隠し通そうとするなんて、欲張りな女だと蒙恬は叱責する。

取引の関係が始まってから王賁に抱かれるのは今日が初めてだったのだが、蒙恬がそれを知る由もなかった。

「ごっ…ごめ…ぁぅうッ」

冷え切った刃のような瞳を向けられて、信が怯えたように謝罪を口にしようとしたが、言い切る前に王賁が容赦なく彼女の前髪を掴み上げる。

「所詮は道具だ。こんな物・・・・のために、必死になるお前がバカなんだろう」

「なにその言い方。悪いけど、信は俺のお嫁さんになるから、次に手ェ出したら王賁であっても容赦しないよ」

二人に挟まれながら、信は瞠目した。何を言われているのか分からないと言った表情でいるのを見て、王賁が小さく笑う。

「下僕の分際で名家に拾われ、嫁ぎ先も名家とは、見上げた図々しさだな」

信が怯えた瞳で振り返る。目が合うと、蒙恬は軽快に笑った。

「これからは戦に出なくていいし、飛信隊のことも気にしなくて良いから」

その言葉を聞き、信が目を見開いた。

「んんッ、んんぅ、うーっ!」

突き上げられながら、敏感な花芯を指で擦り付けられて、信の目の奥で火花が散った。

 

 

恐怖症 その三

内腿をがくがくと震わせながら、目も眩むような快楽に戸惑った信がやめてくれと目で訴えている。その瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出していた。

蒙恬は顔に垂れ落ちた自分の髪を手で掻き上げると、信の肩を掴んで、うつ伏せの体を仰向けに倒れさせた。

「けほっ…」

敷布の上に倒れ込んだ信が小さくむせ込みながら、逃げようと身を捩っている。
しかし、蒙恬は容赦なく細腰を掴んで、その体を引き戻した。

「あぅううッ」

正常位の姿勢となり、抜け掛けていた男根を再び奥まで突き挿れた。

「やっぱり、こっちの方が好みだなあ。信の泣き顔もいやらしい所もよく見える」

柔らかい胸を揉みしだきながら、蒙恬があははと笑う。

「ま、って、と、嫁ぐ、なん、て、き、聞いて、ない」

途切れ途切れの言葉を紡いで訴える信に蒙恬は小さく小首を傾げた。

「うん?だって言ってないもん。言ったら逃げただろ?」

口元には相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべているものの、瞳は一切笑っておらず、信は蒙恬の冷たい瞳に背筋を凍らせた。

「もう王家には話を通してあるから心配しないで?さっき・・・、二つ返事で了承されたから」

「ッ…!?」

なぜ今日に限って蒙恬が王家の屋敷に来たのか、初めからそのつもりだったのだ・・・・・・・・・・・・・・と分かり、信の瞳が恐怖で大きく揺らいだ。

表情はいつもの蒙恬だが、中味はまるで別人だった。信頼していた友人の姿に似せた別人である。

怯え切っている信の額に口づけた後、蒙恬は自分の男根を咥え込んでいる彼女の薄い腹を擦りながら、

「…次に産まれるのは、俺と王賁のどっちの子・・・・・だろうね?ま、どのみち俺の子として扱われるんだけどさ」

口元に笑みを携えながら、問い掛けた。
恐怖に凍り付いている信を安心させるように、蒙恬は穏やかな笑みを浮かべた。

「だから、安心して孕んでいいよ」

身を屈めた蒙恬に耳元でそう囁かれ、信の頭の中が一瞬真っ白に染まる。

これまで築き上げて来た将の地位が全て奪われる。父と母の後を追って将軍になる夢も、何もかも全て奪われてしまう。自分以外の人間に、自分の生き場所と死に場所を決められてしまう。

「ま、待って!たの、頼むから…!」

怯えながらも懇願し、信は歯を打ち鳴らしていた。

「黙れ。誰が貴様の発言を許可した」

「お、王賁、さまッ、あ、た、たすけ、んぅっ」

仰向けになった信の傍に身体を滑り込ませ、再び彼女の口に男根を突き挿れる。
くぐもった声を上げながら、信が蒙恬を押し退けようと両手を突っ撥ねた。

「ほら、俺たちこれから夫婦になるんだから、手繋ごうね?」

伸ばされた両手首を引き寄せて指を絡ませると、両手を敷布の上に押さえつけた。優しい声色を掛けながらも、蒙恬は容赦なく腰を前に押し出す。

「ッん、ぅううーッ」

男根の先端に柔らかい肉壁が触れる。子種を求めて子宮が降りてきているのだと分かった。

それほどまでに子種を欲しているのか、まるで搾り取るかのように男根が締め付けられて、蒙恬は堪らず腰を動かし続ける。

「~~~ッ!」

王賁に前髪を引っ張られながら、口淫に集中するよう促されるが、信は二人から逃れようとじたばたと両脚を動かしている。

敷布の上で押さえつけている手に力が込められ、男二人を相手に逃げ出すことも叶わない。

なんとか蒙恬の男根を引き抜こうと身を捩るのだが、信の両足は無意味に宙を蹴るばかりだった。それほどまでに信は無力であった。

「んーッ、んんぅ、ふう、んぁ」

口も手も押さえ込まれた信は大粒の涙を流しながら、唯一自由に動かせる瞳で王賁と蒙恬を交互に見上げている。

助けを求める彼女の無言の行為を二人は嘲笑うばかりで、やめる素振りを少しも見せなかった。

「あ、…もう…イくッ…」

余裕のない表情で息を荒げている蒙恬の言葉を聞きつけて、信が恐怖で目を見開いた。

「やっ、やだッ、や、やあああぁ――ッ!!」

絶叫しながらがむしゃらに暴れて逃れようとする信の体を両腕で抱き押さえ、蒙恬は彼女の最奥へ向けて吐精した。

結合している部分から全身にかけて、快楽が突き抜ける。

「ッ…飲み込め」

「やあぁッ、ん、んんーッ」

王賁も限界だったのか切なげに眉根を寄せると、悲鳴を上げるのに大口を開けていた信の口の中に精を吐き出した。

 

 

「…あれ、信?」

それまで静かに啜り泣いていた信の声が途絶えたので、蒙恬は顔を上げて彼女を見た。

汗で張りついた前髪を指で梳いてやると、信は虚ろな瞳で薄口を開けて規則的な呼吸を繰り返していた。

意識を失ったのだと分かり、蒙恬はつまらなさそうに顔を歪めた。

躊躇うことなく蒙恬は右手を振りかぶり、信の頬を打つ。乾いた音がして、信の顔が傾いた。

「う…ん…?」

二発目を浴びせようとした途端、王賁の精液に塗れた信の唇から小さな声が上がる。
まだ体を交えていることを、今の状況を思い出したように信が目を見開いた。

「も、蒙、恬…」

涙を流しながら、許しを乞うように、信が震える手を伸ばして来る。恐怖で色を失ったその手に頬ずりをして、蒙恬は口元だけで微笑んだ。

「信」

低い声で名前を呼ぶと、信が怯え切った瞳を向けて来る。

「俺たち、もう友人じゃなくて、夫婦・・になるんだから」

その言葉を聞いた信が呆然としている。王賁の白濁で汚れた唇が戦慄いた。

ヒビの入った心を完全に打ち砕くように、蒙恬は言葉を続ける。

「蒙恬、だろ?」

暗く淀んだ蒙恬の瞳に映る信の表情が、恐怖で凍り付いた。

 

 

番外編①(王賁×信)はこちら

番外編②(蒙恬×信←桓騎)はこちら

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フォビア(王賁×信←蒙恬)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/ヤンデレ/執着攻め/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

帰還

咸陽に戻ってからも、桓騎は兵と娼婦を殺した信の行動を告げ口することはなかった。

桓騎軍の兵たちが信の処罰を求めるような声を上げずにいるのは、桓騎が口止めをしているのだろうか。

だからと言って、桓騎がこちらに何かを要求して来るようなこともない。つくづく何を考えているのか分からない男だが、恐らくこの一件に興味がないのだろう。

しかし、信の身柄を受け取りに桓騎軍の野営地へ行った時の桓騎の言葉を、蒙恬は未だに忘れることが出来なかった。

―――王翦のガキと面白ェことをしてるな。今度俺にも貸せよ。

防衛戦勝利における論功行賞で、信の武功は高く評価されていた。
しかし、将軍昇格には至らず、次回の戦での武功が期待されることになったらしい。そのことに、蒙恬は安堵した。

信は療養の名目で宴にも論功行賞にも不参加だったが、彼の身柄は今、蒙恬の屋敷で保護されている。

信に仕える兵たちは多くいるが、下僕出身である彼に家臣はおらず、身の回りの世話をさせるような従者たちもいない。

秦王嬴政の親友ということもあり、宮廷での療養も提案されたのだが、蒙恬はそれを断った。

桓騎軍の兵を殺したという同士討ちの件を信が自白すれば、いくら親友であるとはいえ、嬴政も処罰せざるを得ないだろう。

同士討ちの件は何としても隠し通しておくべきだと判断し、此度は楽華軍の下についていたことを理由に、蒙恬は彼の身柄を保護することを嬴政に名乗り出た。

信のことを心配する飛信隊の兵たちには、戦で受けた傷が咸陽への帰還中に開いてしまったのだと伝えたが、信が桓騎軍の兵を斬り捨てた同士討ちのことは告げていない。

飛信隊を信頼していない訳ではないのだが、万が一でも同士討ちの噂が広まって、信の処罰が確実なものになるのは避けたかった。

蒙恬が住まう屋敷に信は保護されていた。今は薬湯を飲ませて眠らせており、療養に専念させている。

幸いにも致命傷になり得るような傷はなかったため、蒙恬は医師に傷口を診せることはしなかった。

包帯の交換や、薬湯や水を飲ませることなど、本来なら従者たちが行うような療養の世話も蒙恬が自ら行っている。

いくら信が蒙恬の友人とはいえ、主にそんなことをさせるわけにはいかないと何度も従者たちが説得を試みるも、蒙恬は決して譲らなかった。

それだけではなく、信がいる部屋の出入りを許さないとまで指示を出したのだ。

どうして執拗に、信を隠そうとするのか・・・・・・・・・・蒙恬がその理由を家臣たちに伝えることはなかった。

 

目覚め

扉が開く音がして、信はゆっくりと目を開いた。

「…あ、今日は起きてるね」

顔を覗き込んで来た男が安心したように微笑んだ。
それが自分の友人であることに気付いた信は、名前を呼ぼうと唇を戦慄かせる。

「――、――」

久しぶりの発声だったせいか、笛を吹き間違ったような音が上がった。

背中に手を添えられて、体を起こすのを手伝った後、蒙恬は水甕から水を汲んでそれを信に差し出した。

「ゆっくり飲んで」

「ん…」

何度かに分けて水を飲み込むと、乾き切った口内と喉が潤っていく。

長い息を吐いた信は、咸陽への帰路にいたはずなのに、どこかの屋敷の一室にいることに気が付いた。

「…咸陽に、帰って来たのか?」

「帰還したのはだいぶ前。…えーと、どこから話そうかな…」

蒙恬は口元に手を当てて目を伏せた。

女が羨むほど端正な顔立ちである蒙恬がどこか体の一部が痛むかのような、辛そうな表情を浮かべていることに気付き、信は頭に疑問符を浮かべた。

「…どこまで覚えてる?」

そう問われ、信は躊躇った。何を問われているのか、蒙恬が何が訊きたいのかまるで分からない。

しかし、聡明な知能を持ち、幾度も秦軍を勝利に導いて来た蒙恬には、信のその反応を見ただけで察したようだった。

「包み隠さずに、全て言うよ」

低い声で蒙恬がそう言ったので、信は思わず固唾を飲み込む。

咸陽への帰路を辿っている途中で、信の記憶は不自然に途切れていた。撤退したはずの敵の襲撃にでも遭ったのだろうか。身体に目立つ傷はないのだが、一体何が起きたのだろう。

信は真剣な表情で蒙恬の言葉を待った。

「信が、桓騎軍の兵たちを斬った」

その言葉が耳に入って脳に届き、理解するまでには随分と時間がかかった。

「え…?」

何を言っているんだと顔を強張らせながら聞き返すが、蒙恬が笑顔を見せることはない。

もしもからかっているのなら、驚愕している自分の反応を見て、肩を震わせて笑い始めるだろう。それがいかに質の悪い冗談であったとしてもだ。

しかし、蒙恬の真っ直ぐな瞳が信から逸らされることもなければ、いつまでも冗談だと切り返す様子はなかった。

「兵と娼婦、合わせて十三人。全員死んだ」

心臓が早鐘を打っていき、こめかみが締め付けられるように痛み、背中に嫌な汗が伝ったのが分かった。

まだ自分の立場が今よりも低かった頃、死罪になるのを覚悟で千人将を斬り捨てたことを、信は今でも覚えていた。

同士討ちの罪の重さは分かっている。
非道な行いをする千人将を斬り捨てたことには微塵も後悔していないが、大切な仲間たちまでもが処罰を受けるかもしれなかったのだ。

感情を優先とした自分の安易な行動を恥じたし、二度とそのような軽率な行動は控えるべきだと自分に誓ったというのに。

「なんで、俺が…」

喘ぐような浅い呼吸を繰り返しながら、信は身体を震わせる。蒙恬が話すことが事実なのだとしても、信にはその記憶が一切なかった。

愕然としている信を見て、蒙恬は言葉を選ぶように、一度目を逸らして口を噤んでいた。

 

取引

「同士討ちの罪を知っているのは、俺と信…それから、桓騎と桓騎軍の兵たちだけ」

同士討ちをした事実を受け入れられないでいる信に、蒙恬が囁く。この部屋には自分たちしかいないというのに、それでも誰にも聞かれまいと細心の注意を払っていた。

恐らく桓騎軍の中では情報操作が行われているだろうという予見も伝える。

信は誰が見ても分かるほど動揺しており、その黒曜の瞳にうっすらと涙を浮かべていた。

すぐに処罰される訳ではないことは理解しているようだが、自分が同士討ちをした現実を受け入れられないでいるようだった。

「…桓騎は、今回のことを上に告げるつもりはないらしい」

蒙恬がそう言うと、弾かれたように顔を上げた。

「なんで…」

それは自分にも分からないと蒙恬が小さく首を振る。
口止めのために何かを要求して来る訳でもないのだと言えば、信の眉間にますます皺が寄った。

「…殺された仲間にも、殺した信にも、興味がないんだろう。恨んでるなら自分で手を下すか、すぐに上に告げて処罰してもらってたに違いない」

あくまで予測だが、桓騎が信の同士討ちの罪を口外しなかった理由を述べると、信は安堵したような、納得いかないような、複雑な表情を浮かべていた。

「…でも、あくまで予見だ。もしかしたら、桓騎は面白半分でこっちの様子を伺っているだけかもしれない」

あいつならやりかねないと言葉を付け足せば、信が固唾を飲み込んだのが分かった。

桓騎の非道な行いは秦軍の中でも有名だ。今はこちらの様子を楽しんで見ているだけなのかもしれない。

桓騎の機嫌一つで同士討ちをした罪が暴かれることになるのだと言えば、信は青ざめて体を震わせることしか出来ないようだった。

自分の処罰よりも、無関係の仲間たちを巻き込むことを恐れているのだろう。高狼城の時も、彼はそうだった。

怯え切っている信を安心させるように、蒙恬が優しい笑みを浮かべる。

「…俺が動けば、桓騎の口を封じることが出来る」

その言葉に嘘偽りはなかった。祖父に恩を感じている桓騎を黙らせる手段など、いくらでも持っているのは事実だった。

「信だけじゃなくて、飛信隊そのものを助けることできるってことだよ」

「………」

諭すように告げても、信はわずかに眉根を寄せるばかりだった。こちらの言葉を疑っているのだろう。

しかし、自分の命はともかく、大切な仲間たちを助ける術を持たない彼は、諦めて蒙恬を頼るしかないのだと分かっているはずだ。

その背中を押してやるために、信自らの意志で決断させるために、蒙恬は本題を切り出した。

「俺と取引しない?」

心地よく響いた声が、信の鼓膜を震わせる。女ならば・・・・腰が抜けてしまいそうになるほど甘い声だった。

「…なんのだよ」

顔を強張らせてはいるが、取引内容に興味を示したことに、蒙恬が口角をつり上げる。

「信は今から俺の言うことを聞く。俺は桓騎に今回のことを黙らせておく。信と飛信隊を守る最善の方法だと思うけど?」

「………」

その言葉を信用して良いのかと、信は蒙恬ではなく、自分自身に問い掛けているように見えた。

安心させるように蒙恬は双眸を細める。

「万が一のことがあっても、高狼城の時・・・・・みたいに一晩の投獄くらいで済むようには交渉するよ。桓騎軍の素行の悪さは誰もが知っているんだから、信が剣を抜いたとしても誰も怪しむはずがない」

過去のことを連想したのか、信がはっと息を飲む。

「…まさか、俺が軽罰になったのって…」

何年も前になる高狼城陥落の後、降伏した民たちに残虐非道な行いをした乱銅千人将を斬り捨てた時のことを思い出したのだろう。

返事の代わりに、蒙恬は穏やかな眼差しを向けた。

あの時、なぜ軽罰になったのか信は疑問を抱いていたが、まさか蒙恬が裏で手を回していたとは思わなかったようだ。

祖父と父の威光を受け継ぐ蒙恬の立場ともなれば、情報操作など容易いのだと信はようやく理解したらしい。

「……、……」

しかし、その瞳はまだ揺らいでおり、蒙恬との取引に応じるべきか悩んでいることが分かる。

 

 

この様子では、返事は当分先だろう。多少、強引な手段を取ってでも決断させなくてはと、蒙恬はわざとらしく溜息を吐いた。

「…俺さあ、待たされるの嫌いなんだよね」

わざと低い声で呟くと、信の瞳に動揺が浮かぶ。

「それじゃあ残念だけど、桓騎が上に同士討ちの件を告げても、関わらないでおくよ」

胸の内ではほくそ笑みながら、蒙恬はその場を去ろうと立ち上がった。

「待てっ…待って、…」

背を向けると、すぐに信が蒙恬の腕を掴む。

「なに?」

笑いを堪えながら冷たい視線を向けると、信は縋るような眼差しを向けている。
信は狼狽えながらも、意を決したように頭を下げた。

「…飛信隊を…助けて、ください」

絞り出した声は情けないほど震えていて、その声を聞くだけで信が今にも泣き出してしまいそうなのが分かった。蒙恬の腕を掴んでいる手も小刻みに震えている。

「取引に応じるってこと?」

思わず緩んでしまいそうになる口元を制し、蒙恬が問い掛ける。信は青ざめたまま頷いた。

「じゃあ、俺の言うこと、聞いてくれるんだね?」

信はもう一度頷いたが、確信が欲しくなった蒙恬は嘲りを含んだ笑みを向ける。

「返事は?」

自分の意志で選択したことを知らしめるために、蒙恬は返事を確認した。

「は、い…」

弱々しいが、それは確かに了承の返事だった。すっかり気分を良くした蒙恬は、穏やかな眼差しを向ける。

「…じゃあ、今すぐ脱いで?」

命じると、信が大きく目を見開いたので、蒙恬は小首を傾げた。

「脱いでって言ったんだけど、聞こえなかった?」

「…なんで…そんなこと…」

「俺の言うこと聞くんでしょ?」

「…理由を、聞かせろ」

まさか理由を問われるとは思わなかったが、蒙恬はすぐに答えた。

「信が女かどうか確かめるため・・・・・・・・・・・

ひゅ、と信の口から笛を吹き間違ったような音が上がった。

 

隠し事

同士討ちの事実を告げた時よりも驚愕している信に、蒙恬があははと笑った。

「まあ、その反応見ちゃったら、もう答えを聞いたようなものだし、そもそも寝てる間に全部見させてもらった・・・・・・・・・・んだけどさ」

「っ…」

咄嗟に信が着物の襟合わせを押さえる。いつもさらしで押さえ込んでいた胸の膨らみが、今は何にも覆われていなかった。

「なんで隠してたの?」

小首を傾げた蒙恬が怯えさせないように、穏やかな口調で問う。しかし、その双眸からは怒りの色が見て取れた。

俯いて視線を逸らした信は冷や汗を浮かべていた。

「別に…隠してた、ワケじゃ…」

途切れ途切れに言葉を紡ぐと、蒙恬がわざとらしい溜息を吐く。

「隠してただろ?」

怒りを隠し切れていない低い声でそう言うと、蒙恬は信の胸倉を掴み、ぐっとその体を引き寄せる。

着物の下にある、女にしか作れない柔らかい胸の谷間に視線を下ろし、それから近い距離で信を睨みつけた。

怯えたように信の瞳が揺れたのが分かり、蒙恬は追い打ちを掛けるように言葉を紡いでいく。

「さらしで胸を潰して、口調や仕草まで男を真似てさ。…すっかり騙された」

騙されたという言葉を聞いた信は、体の一部が痛んだように、きゅっと眉根を寄せた。

「王賁には抱かれてたくせに、俺にはぜーんぶ秘密だったんだ?」

「―――」

どうして、と信の唇が戦慄く。声が喉に張り付いており、その唇からは掠れた吐息が掻い潜るばかりだった。

胸倉を掴んでいた蒙恬の手が、信の薄い腹をそっと擦った。

「…もしかしたら今頃、王賁の子を抱いてたかもしれないんでしょ?」

目を見開いた信が、血の気のない顔で呆然としている。

「可哀相だね。信も、赤子も、救われなくて・・・・・・

同情するように、しかし、無邪気な笑みを浮かべながら、蒙恬は信の耳に囁き入れる。

「ッ…!」

瞬間、腹を撫でている手を振り払われた。
奥歯を噛み締めた信が蒙恬を睨みつけるが、弱々しい瞳から、それが虚勢であることは分かり切っていた。

「ほんと、可哀相」

言葉では同情するものの、乾いた笑いが込み上げて来る。

「っ…、……」

食い縛った歯の隙間から、嗚咽が零れている。これ以上ないくらい強張った顔をしている信を見て、蒙恬はゆっくりと目を細めた。

彼女の腹の中に眠っていた尊い命が、もうそこにはない・・・・・・・・・ことを、蒙恬は知っていたのだ。

 

 

「なんで…」

絞り出すような声を聞き、蒙恬は肩を竦めるようにして笑う。

みるみるうちに彼女の双眸から涙が溢れ出したのを見て、思わず手を伸ばして、その涙を拭っていた。指に付着した涙を舌で舐め取り、塩辛い味に苦笑を深める。

「俺、隠し事されるの嫌いだから」

伝令を受けて、桓騎のもとから放心状態でいる信を連れ戻した後、蒙恬は血塗れの着物を脱がせようとして、信がが女であることを知った。

同士討ちの件を内密にするために、天幕に他の者を出入りさせなかったことは幸いだったと言える。

咸陽へ帰還した後、蒙恬はすぐに信の屋敷を出入りしているという医者を訪ねた。

信の秘密を知っている・・・・・・・・と告げると、医者は信が身籠っていたこと、しかし、その命が芽吹かなかったことを教えてくれた。此度の戦ではなく、前の戦を終えた後、それが発覚したらしい。

それが誰との子であるかは教えられなかったが、その話を聞いた時、蒙恬はすぐに王賁との子であることに気付いた。

王賁が信を呼びつけていたことや、虚ろな瞳で彼女が天幕から出て来た姿を幾度も見ていたことから、答えは必然的に導くことが出来たのだった。

今までずっと知らずにいた信の秘密を、蒙恬は彼女が眠っている間に全てを知り得た。

しかし、王賁にその体を暴かれることを、彼の子を身籠ったことを、その命が失われたことを信はどう思っているのだろう。それだけは分からない。

医者によると、信が自ら堕胎薬の類を口にしただとか意図的なことはなく、戦場に立つ侵襲が原因だったのだという。それ以上は何も教えてくれなかった。

馬に乗ることや怪我よる出血、戦でかかる侵襲は、弱い命には負担でしかない。当然だろうと蒙恬は考えた。

 

成立

それまで強く奥歯を噛み締めて黙り込んでいた信は、憤怒の色を宿した瞳で蒙恬を睨みつけた。

「…本当に、飛信隊を助けてくれるんだな?」

「うん。信が取引に応じるなら」

凄まれても怯むことなく、蒙恬はあっさりと頷いた。
信は一度俯いて、すんと鼻を啜ってから、ゆっくりと寝台から立ち上がると、着物の帯に手を掛けた。

もう正体を知られているとはいえ、取引はまだ続いている。健気にも信は仲間たちを処罰から守るために、蒙恬の命令通りに着物を脱いだのだった。

帯と着物が床に落ちて、眠っている間に幾度となく見た女の身体が露わになる。しかし、信が自らの意志で着物を脱いだことに大きな意味があった。

程良い胸の膨らみや、典麗な身体の曲線、すらりとした四肢。いつもは着物や鎧で覆われていた、隠されていた本当の姿だ。

数多くの戦場を駆け抜けて来た身体には多くの傷がついていたが、無駄な肉は微塵もなく、どこも引き締まっている。

彼女自身が、この戦乱の世の生の象徴のように見えて、今まで見て来たどの女性よりも美しいと思った。

王賁の子を孕んでいた時は、その薄い腹も少しは膨らんでいたのだろうか。

その身が既に王賁によって汚されていることは知っていたが、それでも生唾を飲み込んでしまうほど美しさは衰えていない。

なぜこんなにも女性としての魅力が詰まった彼女を傍で見て来たのに、その正体に気づかなかったのだろう。

信の体を見つめながら、蒙恬はつい溜息を吐いていた。

「…満足かよ」

何も話し出さない蒙恬に痺れを切らしたかのように、信が低い声で問い掛ける。

「これでおしまいだと思ってる?」

弾かれたように信が顔を上げた。

今から俺の言うことを聞く・・・・・・・・・・・・っていう条件だったはずだけど」

先ほど提示した条件を再び口にすると、信の顔があからさまに引き攣った。まさか着物を脱ぐことだけが条件だと思っていたのだろうか。

「それじゃあ、次は何してもらおうかな」

苦笑を深めながら、次の指示を考えていると、信がみるみるうちに青ざめていった。

 

 

「おいで、信」

寝台に腰掛けたまま、蒙恬は信を手招く。
彼女はしばらくその場から動けずにいたが、もう一度「おいで」と声を掛けると、ゆっくりとこちらへ歩み寄って来た。

手を差し出すと、信は少し躊躇ってから、その手を取った。

緊張のせいか、冷え切っているその手を握ってやってから、蒙恬は寝台に腰掛けたまま信の体を抱き締めた。

柔らかい女の肌の感触を手の平いっぱいに感じ、目の前にある彼女の腹に頬を押し当てた。

「…ここに、王賁との子がいたんだ」

上目遣いで見上げると、信の強張った顔が見えた。

「王賁は全部知ってたの?」

きゅっと信が唇を引き結ぶ。

「…教えて・・・?あいつは全部知ってたの?」

これは取引の範囲の内だと信を見上げながら、蒙恬は臍の辺りに頬をすり寄せた。
少し間を置いてから小さく頷いたのを見て、へえ、と蒙恬の頬が緩んでしまう。

「それでいてあんな態度を続けられるなんて、さすが王賁だね」

信を妻にするつもりもなければ、身籠った子を抱くことが出来なかったことにも何の興味も抱いていないのだろう。

自分の知らないところで王賁が信に優しい言葉を掛けている姿など想像も出来ないのだが、そんなことをしていたのなら、信ももう少しは安らいだ表情をしていたに違いない。

後ろ盾を失くし、弱い立場になった彼女に凌辱を強いる友人を今さら蔑むことはしないが、もう少し違った方法で愛してやれなかったのだろうかと思った。

いや、王賁はそもそも信を愛する対象には捉えていないだろう。信は王賁にとって、ただ都合の良い道具だったのだ。

背中に回していた手をゆっくり下げて、女性らしい丸みのある尻に触れると、信の体がぎくりと硬直した。

「俺ならそんな酷いことしないのに…」

囁きながら薄い下腹に唇を寄せる。

「ひッ、…」

女性らしい曲線が作られている尻から内腿を指を滑らせ、足の間にある淫華を撫でると、信が息を詰まらせたのが分かった。

其処は少しも濡れていなかったが、蒙恬は構わずに指を前後に動かした。

「ッ、ん…」

女の官能を司る部位なのだから、其処を刺激されて感じない女などいない。信であっても例外はない。

逃げようとする腰を反対の手で抱き押さえ、蒙恬は花びらの合わせ目を指でなぞりながら信を見上げた。

「俺のものになってよ、信」

その言葉を聞いた信は、怯えたように瞳を揺らがせる。
少しずつ蜜を溢れさせて来た淫華の割れ目を押し開いて入口をくすぶると、信が息を飲んだのが分かった。

「ッ…ふ、…ぅ…」

手で口を押さえ、溢れそうになる声を堪える彼女の姿を見て、王賁にどれだけ酷い目に遭わされても、こんな風に声を堪えて涙を流していたのだろうかと考えた。

「俺が信のことを守ってあげる。だから、…ね?」

子供に言い聞かせるような優しい声色を向けながら、小首を傾げる。

今まで相手にして来た女性ならば、たちまち顔を真っ赤にして自分の手を取っていたというのに、信は違った。

口に蓋をしたまま、首を横に振って蒙恬の誘いを拒絶したのだ。

 

成立 その二

まさか拒絶されるとは思わず、蒙恬は呆気にとられた。

「ひッ…!」

蜜でぬるぬると滑る淫華に、指を根元まで突き挿れると、信の体が大きく跳ねた。

「飛信隊を助けて下さいって言ってなかったっけ?」

拒否権など最初からないのだと思い知らせるために、蒙恬は飛信隊の存在をちらつかせた。
思い出したように、信が悲痛の表情を浮かべる。

「ぅう…ふ、ぅッ…」

中で指を動かし続けていると、信の内腿が震え始めた。俯いて体を折り曲げようとするのと見る限り、そろそろ立っているのが辛くなっているらしい。

「ねえ、取引の内容なんだっけ?」

最奥にある女にしかない臓器を優しく撫でながら、蒙恬が穏やかな口調で尋ねた。

「ん、んんっ、ふ…ッぅ…」

小刻みに身体を跳ねさせている信が、指の間から苦しそうな声を上げる。
返事をもらえないことから、聞こえていないのだろうかと苛立ち、蒙恬はわざとらしく溜息を吐いた。

淫華から指を引き抜くと、蒙恬は信の腕を掴んで引き寄せた。

「あっ…」

立っているのもやっとだった信は呆気なく膝の力が抜け、蒙恬の膝の上に座り込んでしまう。

急に両腕で抱き締められ、信は戸惑ったように瞳を泳がせた。蒙恬は信の耳元に唇をそっと寄せる。

「…飛信隊を助けたいんだろ?」

その言葉に、信は身体を震わせながら、何度も頷いた。

「じゃあ、俺の言うこと、聞けるよね?」

確認するように問い掛けると、信が涙を浮かべた瞳で見上げて来る。情欲を煽るその弱々しい瞳に屈することなく、蒙恬は返事を待った。

「は、い…」

信の返事を聞き、蒙恬は満足げな笑みを浮かべる。

膝に座らせている彼女の身体を強く抱き締め、蒙恬は首筋に顔を埋めた。

他の女性を抱く時にはこんな甘えるような仕草はしないのだが、信にはどんな自分を受け入れてもらいたかったし、どんな彼女でも受け入れる自信が蒙恬にはあった。

 

 

「信」

顎に指をかけて顔を寄せると、信が緊張したように身を強張らせたのが分かった。

構わずに唇を重ねると、信の手が蒙恬の着物を遠慮がちに掴む。やめてくれと制止しているのだろうが、甘えているようにも思え、蒙恬は唇を交えながら苦笑した。

何度も顔の向きを変えて、彼女の柔らかい唇の感触を味わいながら、今でも信が男だと思い込んでいたのなら、こんな風に卑怯な取引を持ち掛けることはなかっただろうと考える。

「うっ、んん…」

口づけながら、彼女の柔らかい胸を揉み込む。

もしも王賁の子が無事に生まれていたのなら、赤子に吸わせていたに違いない。そんな姿は見たくないと、独占欲に満たされた心が拒絶をしていた。

信の身体を抱き締め、蒙恬は膝の上に座らせていた彼女の身体を寝台へと押し倒した。

「あ…」

どこか怯えた表情をしている彼女を安心させるように、蒙恬は静かに笑んだ。

ぼろぼろに傷つき、凍てついた彼女の心を慰めるには、優しさで溶かすしかないだろう。
頬をそっと撫でてやり、蒙恬は再び彼女の耳元に唇を寄せる。

「愛してるよ、信」

今まで抱いて来た女には一度も言わなかった愛の言葉を囁く。

無意識で囁いた愛の言葉に驚愕したのは、信だけではなく、蒙恬自身もであった。

 

後編はこちら

蒙恬×信のボツシーン(900字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

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フォビア(王賁×信←蒙恬)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 蒙恬×信/王賁×信/高狼城陥落/ヤンデレ/執着攻め/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

信の罪

高狼城の陥落後、城下町で降伏した民たちを虐殺する千人将乱銅とその兵の姿があった。

当時の信はまだ三百人将と弱い立場だったのだが、同士討ちの罪で斬首されることを厭わずにその千人将を斬り捨てた。

信が持つ将としての信念の強さを知った蒙恬は、蒙驁と蒙武の力を利用して、彼の処刑を揉み消したどころか、その千人将と隊の悪行を軍法会議に掛けるまで、裏で密かに事を起こしたのだった。

幸いにも乱銅が命を取り留めたこともあり、信は一晩の投獄だけの処罰となる。しかし、それも蒙恬の活躍あってのことだった。

逆に言えば、蒙恬が信を見放せば、彼の命はなかったということである。

 

 

城下町の一角、罪人が放り込まれる牢獄がある。

壁に開けられた大きな穴に鉄格子を差し込んだだけの簡素な檻だが、人通りの多いこの場所に牢獄を作ったのは見せしめのためだろう。

高狼城が陥落した今では投降した民たちは一か所に集められ、乗り込んだ秦軍は制圧の後処理に追われている。

そのせいで、この簡素な檻の周囲には誰も寄り付かなかった。制圧の後処理に兵を割いているせいか、見張りもついていない。

だからこそ、蒙恬は邪魔が入らない今のうちに信のもとへやって来たのだ。

(いたいた)

その牢獄の中に信はいた。当然ながら敷物はなく、冷たい土の上に胡坐をかいているだけである。

しかし、誰が見ても落ち込んでいると分かるほど、顔に暗い影を差していた。

「や、元気?」

蒙恬はなるべく普段通りを装って、鉄格子の向こうにいる彼に明るい声を掛けた。

「蒙恬…!」

顔を上げた信が、どうしてここにいるのかと言わんばかりに目を丸めている。

「こんな場所で反省してるんだ?」

「ああ…よく分からねえけど、一晩の投獄っていう軽罰で済んだらしい」

一晩の投獄だけで処罰が済むように情報操作を行ったことは告げず、蒙恬は驚いている顔を繕った。

檻の向こうにいる信は、投降した民たちに凌辱を虐げた千人将乱銅を斬り捨てた人物とは思えないほど弱々しく見えた。

彼が乱銅を斬り捨てた時の刃には一切の迷いがなかった。
卑劣な行いをした将を斬り捨てたことには一切の後悔はしていないようだが、同士討ちの罪で自分だけでなく、仲間の命までもを天秤に掛けた行為を悔いているのだろう。

だが、幸いにも乱銅の方が先に剣を抜いていたのを大勢が目撃していたことから、信は一晩の投獄だけの処罰で済んだのだ。

もしも乱銅が剣を抜いていなかったとしても、蒙恬は信を同じだけの処罰にする情報操作を強引に行うつもりだった。

それが可能なのは、祖父と父の威光が秦軍において欠かせないものである何よりの証拠だ。

「飛信隊の兵たちも嘆願してくれたし、何より先に剣を抜いてたのはあの千人将だ。上は正しい判断をしたと思う」

「………」

嘘偽りなく、蒙恬が自分の目で見た事実を告げたのだが、信は腑に落ちない顔をしていた。

「…蒙恬」

「ん?」

信が何か言いたげに唇を戦慄かせ、しかし、言葉にするのを躊躇うように俯いた。

飛信隊には処罰は下りなかったことは信にも伝わっているはずだが、他になにか気になることがあるのだろうか。

「どうしたの」

穏やかな声色で促すと、信は俯きがちに口を開いた。

「…王賁、は…?」

二人きりでなければ聞き逃してしまいそうなほど、小さな声だった。

まるでこちらの顔色を窺うように見上げて来る信を見て、蒙恬は小さく肩を竦める。
信は王賁を恐れているのだ。それは普段の態度から見て分かっていた。

 

 

六大将軍である王騎と摎の養子として引き取られた下僕出身の彼だが、馬陽の戦いで二人を失ってからは、王家の中でも肩身の狭い想いをしているらしい。

もはや後ろ盾もないことから、王家の中では目の敵にされているのだというのを噂で聞いていた。

王賁が下僕出身である信を気に食わないでいるのは今に始まったことではないのだが、それでもまだ王騎が生きていた頃は、少なくとも今よりは仲が良く見えた。

それまでは呼び捨てていたというのに、信が「王賁様」と呼ぶようになったのもその頃からだった。

お前のような下賤の者が呼び捨て良い名ではないと、王賁の側近から厳しい言葉を突き付けられていたことはこれまでも何度かあった。

主に似て頭の固い側近たちの小言を聞き流していた信だったのに、後ろ盾を失くしたことで従わざるを得なくなったのだろう。

しかし、王騎と摎の養子として迎えられた手前、信も自分の意志一つで王家の名を捨てられないのだろう。

それを裏付けるように、王騎が討たれてから、信は目に見えて元気を失い、以前のように笑うことがなくなったように思う。

だが、大将軍になることこそ、亡き両親の意志を継ぐことだと信じている彼は、その執着ともいえる強い信念だけで生き抜いている。

信の揺るがない信念を、もともと蒙恬は気に入っていたし、今回の一件でますます好きになっていた。

もしも信が王家の人間ではなかったのなら、自分の傍に置いておきたいと思うほどに。

「…別に気にしてないみたいだったよ」

「そ、そっか」

此度の信の振る舞いを王賁は気に留めていないと聞き、信は安堵したような、不安を拭い切れていないような複雑な笑顔を浮かべた。

今回の飛信隊の一件は、秦軍の中でも大いに広まった。自分の軽率な行動が、王家の顔に泥を塗ったのではないかという不安があったに違いない。

信が軽罰で済んだことに違和感を覚え、王賁はすぐに蒙恬の仕業だと見抜いた。

王賁は蒙恬と信の行動を咎めることはしなかったが、彼の側近たちは信が斬首されることを期待しているようだった。

信が王家に相応しくない人間だと思っているのは王賁だけではないらしい。
しかし、此度の件に関して何も言わないのは、王賁も信をまだ心のどこかで気に掛けている証なのかもしれない。

もしも王賁が信のことを本当に邪魔だと思っているのなら、蒙恬と同じように父の威光を使って、確実に死刑にしていただろう。

 

憂い

「…っくしゅん!」

信がくしゃみをしたので、蒙恬ははっと我に返った。

「大丈夫?」

心配するように鉄格子の間から手を伸ばした。触れようとしたのは無意識の動作で、純粋に友人を心配してのことだった。

「ッ!」

肩に触れた途端、まるで触るなと言わんばかりに振り払われる。乾いた音が二人の間を突き抜け、その後で沈黙が横たわった。

自分の手を振り払った時の信が、まるで化け物でも見るかのような恐怖と怯えの色が混じった瞳をしていたのを、蒙恬は見逃さなかった。

「あ…」

青ざめた信が言葉を探している。王賁の話をしていたから、怯えさせてしまったのだろうか。

ぼんやりとそんなことを考えながら、蒙恬は気にしていないことを教えてやるために優しく笑んだ。

「今夜はそこで過ごすんだろ?風邪引くなよ」

夜は冷えるからと、蒙恬は着ていた羽織を脱いで、鉄格子の間から差し出した。

「………」

差し出された赤い羽織りと蒙恬を交互に見るものの、信が受け取る気配を見せなかったので、蒙恬は反対の手を鉄格子の間に差し込んだ。

「信、こっち来て」

声を掛けると、信は強張らせたまま蒙恬に近づく。手を振り払ったことに罪悪感を覚えているのか、抵抗する素振りは見せなかった。

その場に膝をつき、鉄格子と信の体を抱き込むようにして、広げた羽織を信の肩に掛けてやる。

城を陥落したといっても、まだ高狼の全てが落ちたわけではない。明日からもやることは山積みなのだ。

飛信隊の副官たちも信に劣らぬ実力を持っていることは噂で聞いていたが、信自身も楽華隊と玉鳳隊に並ぶくらいの武功を挙げなくてはと焦燥感を覚えていることだろう。

羽織を掛けてやった時にも、信の身体が震えていることには気づいていたが、蒙恬は指摘しなかった。

それが寒さによる震えでなかったことも分かっていたし、先ほど自分の手を振り払った信の瞳を思い出せば、理由を訊くのは野暮なことだと分かる。

「じゃあ、おやすみ」

蒙恬は信の返事を待たずに背を向けて、その場を後にした。

 

 

憂い その二

翌日も高狼を落とすため、秦軍は陥落させた高狼城を拠点とし、早朝から行動を起こした。

楽華隊の兵たちを動かす前に、蒙恬は信の様子を見るためにあの牢獄へと向かったのだが、そこに信の姿はなかった。

(もう出されたのか?)

見張りの兵は相変わらずついておらず、いつ彼が出されたのかを知る者はいなかった。

今は飛信隊のもとにいるのだろうかと思い、蒙恬は動き始めた大勢の軍や隊を掻き分けて、信がいるであろう飛信隊を探すことにした。

しかし、飛信隊のもとにも信はいらず、兵たちから話を聞けば、まだ戻って来ていないのだという。

(一体どこに…)

馬を走らせながら、蒙恬は辺りを見渡す。
ちょうど出立の準備を整えていた玉鳳隊の姿を見つけ、先頭にいる王賁に声を掛けようと思った時、彼のすぐ傍に信の姿を見つけた。

「王賁、信」

大きく手を振りながら二人に声を掛けると、何やら重い空気が辺りに漂っていることを蒙恬はいち早く察した。

蒙恬に気付いた王賁は顔を上げ、煩わしそうな視線を向けて来る。一方で、信は俯いたままでいた。

昨夜、牢獄にいる時と同じ暗い表情を浮かべているあたり、もしかしたら王賁から千人将を斬った行動を咎められていたのかもしれない。

昨夜は口を出すことも、興味を示すこともなかったのに、今さら何のつもりだろうか。

それまで二人で何か話していたようだが、王賁は何も言わずに手綱を握り直し、馬を走らせて行ってしまう。玉鳳隊もその後に続いた。

「………」

残された信は王賁率いる玉鳳隊の姿が見えなくなった後でも、俯いたまま顔を上げようとしなかった。

「…信?」

馬から降りて蒙恬が声を掛ける。今になって蒙恬が来たことに気付いたように、信は驚いて顔を上げた。

「あ、蒙恬…」

ぎこちなく笑みを浮かべた信の頬が腫れ上がっていることに気付き、蒙恬は思わず眉根を寄せた。

頬が腫れているだけではなく、唇も切れている。昨夜会った時にはそんな傷はなかったはずだ。殴られたことによって出来た傷だと、蒙恬はすぐに見抜いた。

「…王賁にいじめられたの?それとも玉鳳隊の誰か?」

なるべく怯えさせないよう、穏やかな声色で問うと、信は静かに首を横に振った。

「違ぇよ。牢から出されたのが嬉しくて、転んだんだよ」

誰が見てもすぐに作りものだと見抜かれるような下手くそな笑顔を浮かべる。

もしかしたら信が斬り捨てた乱銅千人将の兵の報復を受けたのだと思ったが、自分の不注意のせいにしたことから、恐らく王賁か玉鳳隊にやられたのだと蒙恬はすぐに察した。

同時に、これが信の立場なのだと理解した。

「そうだ。これ…悪いな。汚しちまった…」

脇に抱えていたのは、昨夜、蒙恬が風邪を引かぬようにと貸した赤い羽織りだった。
土埃が付いているが、蒙恬は少しも気にしていないと首を振る。

羽織を受け取りながら、昨夜のように身体が震えていることに気が付いた。もう王賁も、彼が率いる玉鳳隊の姿はないというのに、まだ怯えているらしい。

昨夜も同じように怯えていた信のことを思い出すと、どうしても放っておくことができない。

信のような下僕の出である者など数え切れないほどいるというのに、どうしてこんなにもこの男のことが気になるのだろう。

蒙恬は、この感情を単なる友への心配だと思っていた。
しかし、気づくと信のことを目で追っている自分がいることも自覚はしていた。

 

 

違和感

それから数年の月日が流れ、王賁と蒙恬は五千人将から将軍へと昇格となった。

信も五千人将の座に就いてはいるものの、此度の戦では武功が挙げられず、将軍昇格をあと一歩のところで逃してしまったのだった。

しかし、信や飛信隊の実力は高く評価をされているし、次の戦で武功を挙げれば自分たちと同じように将軍昇格となるだろう。そう思っているのは蒙恬だけではないはずだ。

信が早く将軍の座に就くことを、蒙恬は心の中で常に願っていた。

友人であり、好敵手として、同じ舞台に立ちたいというのもあるが、王賁の下に配属されるのが不憫でならないという想いが特に強かった。

信が将軍になれば、王家から真っ当な処遇を受けられるのではないだろうか。

王賁が信に接する態度は相変わらずだったが、元下僕出身の立場から五千人将にまで上り詰めた信の実力は、今や中華全土に轟いている。

名家の威光を捨て切れない頭の固い連中にも、信の努力は少しずつ認められているように思えた。

信自身は王賁や彼の側近たちに恨みを抱いているような様子を見せておらず、しかし、彼らを前にして怯えを見せるのも変わらなかった。

もしも信が将軍の座に就き、王賁と対等の立場になったのならば、名家のしがらみから解放されるかもしれない。

いつからか、蒙恬はその手助けをしたいと思うようになっていた。

この時はまだ、信が大切な友人だからこそ、何か力になってやりたいという親切心からだろうとしか思わなかった。

 

次に行われた戦は楚国の侵攻を阻止する防衛戦だった。

飛信隊は蒙恬率いる楽華軍に配属されることが決まり、その報せを聞いた蒙恬は人知れず安堵した。

王賁が傍にいない時の信は、どこか安らいでいるような顔をしている。王家のしがらみを意識しなくて良いからだろう。

楚から領地を守り切り、防衛の成功の報せを届けるために、秦軍が咸陽へと戻る道中で、蒙恬はある事実・・・・を知ることになる。

 

 

咸陽へ帰還中の野営で、蒙恬は此度の戦で武功を挙げた王賁に声を掛けようと思い、玉鳳軍の野営地に訪れた。

無事に勝利を収めたこともあり、どの野営地からも安堵と喜びの声が上がっている。
此度の武功を挙げたのは王賁だけではない。

武功の数だけで言うならば、信の方が上だ。此度の戦でも、彼は数多くの敵将を討ち取った。

蒙恬が軍略を授けたことも、信が武功を挙げるのに大きく影響したと言っても過言ではない。

しかし、信の将軍昇格を望んでいる蒙恬は、その軍略のことは告げず、全て信の手柄として与えようと考えていた。

王賁がいる天幕を見つけ、蒙恬は馬を預けると、鼻歌交じりに向かった。

あの仏頂面が崩れることはないと蒙恬は昔から知っていたが、いつか崩してやりたいと思うと、悪戯心でちょっかいを出したくなるのだ。

寛いでいるところに、自分が急に現れたら驚くだろう。口元を緩めながら天幕に辿り着いた時だった。

ちょうど天幕から誰かが出て来る。副官だろうか。

「……信?」

王賁の天幕から出て来たのは信だった。

飛信隊の持ち場は離れているはずなのに、どうして彼がここにいるのだろう。

疑問を抱いたが、そういえば今までもこのようなことは幾度かあった。持ち場が違っても、王賁が呼びつけているのだろう。

(嫌ってるなら放っておけばいいのに)

下僕出身であり、今は後ろ盾のない信を毛嫌いしているはずの王賁が執拗に彼を傍に置く理由が蒙恬には未だに理解出来なかった。

飛信隊の実力は楽華隊と玉鳳隊に並ぶほど、着実に堅実なものとなって来ている。そのことが気に食わないのだろうか。

信の体にある痣や傷は、此度の戦で受けたものではないとすぐに分かった。

戦を終えた後、信と勝利の喜びを分かち合った時にはあのような痣や傷はなかったはずだ。
誰かからの暴力によって受けたものだとすぐに分かる。

しかし、王家の嫡男という自尊心の高い彼が、一人の男を暴力で押さえるだなんて安い行動をしているとは思えなかった。

いつも信が王賁に怯えているのが、本当に暴力によるものなのかも蒙恬は分からなかった。

あくまで暴行を受けているというのは蒙恬の推察であり、実際にその現場を目にした訳ではないからだ。

天幕から出て来た信はふらふらとおぼつかない足取りで歩いている。
玉鳳隊の兵たちはそんな彼には一瞥もくれず、まるで信の存在がそこにないものとして扱っていた。

信自身も周りのことを一切気にしておらず、ただその場から離れようとしているだけで、心ここにあらずといった様子だった。

こんな彼は今まで一度も見たことがない。

「信」

蒙恬は反射的に信の腕を掴んでいた。

 

 

違和感 その二

掴んだ腕は、高狼城を陥落させたあの夜のように振り払われることはなかったが、一向に視線が合うこともなかった。

「信…信ってばっ!」

何度も呼び掛けるが、信は蒙恬に気付いていないようだった。

虚ろな瞳で薄く口を開けている彼は、まるで抜け殻のようにも見える。

「信ッ!」

耐え兼ねた蒙恬は視界に自分の姿が映り込むように彼の正面に立つと、両肩を掴んで、無理やり目線を合わせた。

焦点の合っていない信の瞳に、強張った表情を浮かべている蒙恬の姿が映り込むが、彼はそれが蒙恬だと認識はしていないようだった。

「喧しい。何事だ」

信に続いて天幕から出て来たのは王賁だ。蒙恬の声を聞きつけてやって来たのだろう。

王賁の声に反応するように、信の肩が大きく竦み上がったのを蒙恬は見逃さなかった。

「も、蒙恬…?」

ここに来てようやく蒙恬の存在に気付いたように、信が怯えた目で見上げて来る。蒙恬は安心させるように黙って口角をつり上げた。

それから信を自分の背後に隠すようにして、蒙恬は王賁の前に立つ。

「信に何をした?」

「お前には関係ないことだ」

教えるつもりはないと王賁は相変わらず鋭い目つきを向けて来る。負けじと蒙恬も睨み返した。

「飛信隊は今回、俺の下に配属されてる。関係ないのはそっちだろ」

苛立った口調は喧嘩腰であるものの、告げたのは事実だ。
だが、それを気にする様子もなく、王賁は何も言わずにその場を去ろうと前に出た。

「良い身分に昇格したものだな」

すれ違いざまに、彼は信に低い声で皮肉としか受け取れない言葉を囁いた。

「………」

その場に残された信は、俯いたまま顔を上げない。

「…信」

蒙恬が呼び掛けると、信は弾かれたように顔を上げた。まだその顔は青ざめており、身体は小刻みに震えている。

王賁に対する怯えた態度が以前よりも増しているような気がして、蒙恬の心に不安が重く圧し掛かった。

このままではいずれ、王賁に心を壊されてしまうのではないだろうか。憂慮に堪えない。

これから先も王家から脱することは叶わなくとも、王賁と離れさせなくてはならないと蒙恬は思った。

此度の武功で信が将軍昇格となれば、少なくと玉鳳軍の下につくことはなくなるだろう。

意図的に信の昇格を邪魔するような動きがなければ良いが、過去にそういった情報操作は一度もなかった。

信の昇格が気に食わないなら、彼が五千人将になるまで何もしないはずがない。

一度も昇格の邪魔をせずにいるのは信の実力を認めているからなのか、それとも情報操作をする行為自体が王家という名家に相応しくない行為だからなのか。

(…きっと後者だろうな)

名家の嫡男という共通点はあっても、王賁は蒙恬と正反対の性格であり、王賁自身が王家嫡男であることに強い誇りを持っている。

自尊心も高い彼が、情報操作など汚い真似をして相手を蹴落とす真似が出来ないのは安易に予想が出来た。

だからこそ、こうして信を呼びつけては、信自身が将の座を退くように何か事を起こしているに違いない。

過程がどうであれ、信が自ら将の座を退けば、名家の嫡男が手を下したとは誰も思わないからだ。

きっと信が昇格をする度に、王賁の加虐が強まっていたに違いない。
そうでなければ、心根の強い信がこんなにも怯えることはなかっただろう。

「…戻ろうか」

自分たちの野営地への帰還を促すと、信は小さく頷いた。
未だ震えている彼の肩を抱くと、信がひゅ、と笛を吹き間違ったような音を唇から洩らす。

「信ッ!?」

その場に崩れ落ちるようにして膝をつき、信は胃液を吐き出した。

吐いても吐いても、吐くものがなくなっても、信は嘔吐えずき続けている。

口元を唾液と胃液で汚しながら、瞳からはとめどなく涙を流していることに気付き、蒙恬はその痛ましい姿にしばし言葉を失った。

もう彼の心は壊れる一歩手前まで追いつめられているのだと、すぐに理解出来た。

「…一人で、戻る…」

王賁の天幕から出て来た時と同様に、立ち上がった信はおぼつかない足取りで行ってしまう。

すぐに追い掛けて彼の腕を掴むことは出来たはずなのに、蒙恬はその場から動けずにいた。

 

 

伝令

先に野営地に戻って信のことを待っていたが、彼は一向に姿を現さない。

何かあったのだろうかと不安が募る中、此度の戦に出陣していた桓騎軍から、蒙恬のもとに伝令が来た。

「蒙恬はいるか?」

馬上の男は軍で支給される鎧は見に纏っておらず、目の周りに刺青が刻まれていた。その外見から、元野盗である桓騎軍の兵だと分かった。

「お頭からの伝令だ」

(なんで桓騎から伝令が…?)

あとは帰還するだけだというのに、伝令を寄越すとは何かあったとしか思えない。

しかも此度の戦では持ち場が異なる桓騎からということで、伝令の内容を聞く前から嫌な予感がしていた。

他言無用だと指示があり、二人は他の兵たちの目をはばかるように場所を移動した。
天幕に通し、生唾を一つ飲み込んでから伝令を聞く。

桓騎からの伝令を聞き、蒙恬の頭の中は真っ白に塗り潰された。

「信、が…?」

もしかしたら野営地に戻って来ない彼が関係しているのではないかという予感は的中してしまった。

同士討ちは禁忌とされているにも関わらず、信は桓騎軍の兵たちを殺したのだという。

「そんな…なんで…」

どうして先ほど、無理やりにでも彼を引き留めなかったのだろうと後悔の念に駆られた。

玉鳳軍の野営地を出た信は、恐らく目的もなく歩いていたのだろう。ただひたすら、王賁を意識させる場所から離れたかったのかもしれない。

桓騎軍の野営地の辿り着いた信は、そこで娼婦を手籠めにしている兵たちの姿を目撃する。

元野盗の集団で、素行の悪さは噂で聞いていたが、戦にも娼婦を連れ込んでいたらしい。
凌辱の場を見たことが起因となったのか、信はいきなり剣を振るい始め、その場にいた兵と娼婦もろとも皆殺しにしたというのだ。

信の行いはすぐに軍法会議に掛けられることだろう。

同士討ちの罪は重く、さらには戦と関係のない者を殺したということで、今回の武功を挙げたことによる将軍昇格が取り消しになるどころか、その地位の剥奪、最悪の場合は斬首を言い渡されるかもしれない。

「信…!」

伝令からの報告を受けた蒙恬はすぐに野営地を飛び出して、信の身柄を捕縛している桓騎軍の野営地へと向かった。

副官や護衛に声を掛けず、単独で馬を走らせたのは、これ以上事態を大きくさせないためだ。

本来ならば勝利の喜びを噛み締めながら帰路を辿っている中で、まさかこんなことになるとは思わなかった。

これまでも残虐な行いをして来た桓騎軍ならば、軍法会議に掛けられるのを待たずに信の首を撥ねるはずだ。

しかし、それをしなかったのは、蒙驁に恩のある桓騎の判断に違いない。

自分が蒙驁の孫でなければ、此度の戦で飛信隊が楽華軍の下についていなければ、こちらに伝令を出すこともなく、信をとことん甚振ってから殺していただろう。

だが、命を保証されたとして五体満足である可能性は低い。

もしかしたら信が軍法会議に掛けられて、厳しい処罰を受けることを前提とした上で、手か足の一本は既に落とされているかもしれない。

(無事でいてくれ…)

手綱を握る手が動揺のあまり、震えていた。

 

 

捕虜

桓騎軍の野営地に来ると、兵たちから鋭い視線を向けられた。

きっと初めて彼らと遭遇した者たちならば、竦み上がりそうになるほどの威圧感を秘めている。

「信を迎えに来た」

しかし、蒙恬はそんな彼らを前にしても怯える素振りは微塵も見せなかった。

信が無事なのかという不安でいっぱいになっている心では、彼らを恐ろしいと思う感じるの余裕もない。

ただ、信の安否を心配していることを表情に出すこともしない。

桓騎は信と同じで下賤の出でありながら、頭の切れる男だ。
蒙驁の副官として支えてくれたことには感謝しているが、普段の素行は褒められるものではない。そんな男に、動揺を見抜かれるのは癪だった。

信がいる場所の案内をする兵は一人もおらず、蒙恬は一人で桓騎軍の野営地を回って信の姿を探していた。檻の中にでも閉じ込められているのだろうか。

「…!」

紫の鎧に身を包んでいる桓騎の姿があり、そして彼の近くで座り込んでいる信を見つける。

青い着物が真っ赤に染まっているのが遠目でも分かり、蒙恬は全身から血の気を引かせた。まさかすでに手か足を落とされたのだろうか。

「信ッ!」

駆け寄ると、気怠そうに桓騎がこちらを見た。彼は椅子に腰を下ろしており、信は地べたに座り込んでいる。

信の体は確かに血塗れではあったが、縄で拘束されているだけで、欠けている部分はない。全て返り血なのだと分かり、蒙恬は安堵した。

「…信?」

呼び掛けるが、蒙恬が迎えに来たことにも気づいていないようだった。王賁の天幕から出て来た時と同じだ。虚ろな瞳で俯いている。

信の縄を解こうとしても、桓騎は何も話さなかった。

機嫌が悪いようにも見えないし、仲間を殺された怒りを信に向ける様子もない。きっと信にも蒙恬にも、殺された仲間たちにさえ興味がないのだろう。

「…信を殺さないでいてくれたこと、感謝する」

供手礼をしながら礼を告げても、桓騎は静かに酒杯を口を運ぶばかりだった。

さっさと失せろとでも言いたげな空気を察し、蒙恬は信の肩を抱きながらその体を立ち上がらせる。

「…そいつ」

「え?」

桓騎が口を開いたので、蒙恬は驚いて聞き返した。ようやく目が合い、存在を認知されたような気がする。

「王翦のガキと面白ェことをしてるな。今度俺にも貸せよ」

まるで物のように扱う言葉だった。蒙恬のこめかみに鋭いものが走り、桓騎を睨みつける。
しかし、桓騎はその睨みにも挑発的な笑みを返し、蒙恬の怒りを煽った。

これ以上、彼の挑発に乗れば殴りかかってしまいそうだ。蒙恬は自分を制すると、何も答えずにその場を後にする。

桓騎軍の兵たちには手を出さないように指示を出していたのか、兵たちは悔しそうな視線を向けて来るものの、蒙恬と信の前に立ちはだかる者は一人もいなかった。

 

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隠蔽

血塗れの信を抱えて戻って来た蒙恬に、楽華軍の兵たちは何事かとどよめいた。

桓騎が寄越した伝令の内容を知っているのは蒙恬一人だけである。信が同士討ちをした話を広めようとしないのは、桓騎の計らいだろう。

もしかしたら軍には黙っておいてやるという意図があるのかもしれない。あとは蒙恬が伝令の内容を広めずに情報操作を行えば、信は処罰を免れる。

人目をはばかるように自分の天幕に連れて行くと、蒙恬は湯の準備を頼んだ。
着物は着替えればなんとでもなるが、肌に付着した血は洗い流さねばならない。

「………」

信は薄く目を開けているものの、起きているのか眠っているのか分からなかった。もしかしたら、ずっとこのままなのではないだろうかという不安を覚える。

「信…」

名前を呼びながら、蒙恬は湯で絞った布で顔の血を拭ってやる。

もちろん他の者に頼むことは出来たのだが、同士討ちの話を広めないためにも、蒙恬自ら返り血を拭ってやっていた。

殺された兵と娼婦は何人いたのだろう。一人や二人ではないことは、この返り血の量を見れば明らかだった。

捕虜や女子供を殺さず、弱い命を守ることを信念として掲げていた信が、どうしてそんな真似をしたのだろう。

娼婦を手籠めにしていたという桓騎軍の兵ならともかく、その娼婦まで斬り捨てたことを、蒙恬はどうしても信じられなかったのだ。

だが、桓騎に嘘を吐いている様子はなかった。
自分の利になることには目ざとい男なのは蒙恬も知っていたが、信の同士討ちの事実を偽ったところで桓騎の利になることなど何もないはずだ。

それどころか、一人の将が同士討ちの罪で斬首になろうが、興味など示さないと思っていた。

信の同士討ちの罪を隠蔽しようとする桓騎の意図が蒙恬には分からなかった。

後で口止めに協力したことから何か強請られるのかもしれないなと苦笑を浮かべながら、蒙恬は信の返り血を拭い続ける。

心の中で詫びを入れ、蒙恬は帯を解いた。真っ赤に汚れた着物を脱がせるために襟合わせを押し開くと、包帯に包まれた胸が覗く。

此度の戦で致命傷となる傷は負っていなかったと思うのだが、これだけ頑丈に巻かれているということは深い傷を負ったに違いない。

着物と同様に、その包帯も真っ赤に染まっていた。着物の裏地にまで沁み込むほど、大量の返り血を浴びたことが分かる。

結び目がやや緩んでいるが、これだけ汚れているのなら着物だけではなく、胸の包帯も替えた方が良さそうだ。

「…え?」

結び目を解き、包帯を外した時に、蒙恬はある違和感・・・に気が付いた。

 

中編はこちら

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