七つ目の不運(李牧×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

李牧の屋敷

屋敷に到着すると、すぐに医師がやって来た。初老の医師で、李牧とはそれなりに長い付き合いらしい。

寝台へ寝かせた李牧の傷口の状態や、脈を確認し、手慣れた手つきで処置を行っていく。

この屋敷に来るまで時間が経っていたせいか、額の傷は縫合するほどではないとのことで、軟膏を塗布した後は清潔な布を宛がい、包帯を巻いて様子を見ることになった。

頭を強く打ったことは大丈夫なのかと信が医師に尋ねると、眼球を見る限りそういった心配はないと医師に言われ、彼女はようやく安堵することが出来たのだった。

あの時は酔っ払い男に父を侮辱された怒りのあまり、手を出してしまったのだが、これで李牧の命を奪ってしまったらと思うと、とても夢見が悪かった。

こんな形で父の仇を討っても、恨みが晴れることはなかっただろう。静かに寝息を立てている李牧に、信は複雑な気持ちを抱いていた。

処置を終えた医師は屋敷で働いている李牧の従者たちと何やら話をするために部屋を出て行った。

医師の手配と馬車の用意をしていたという慶舎は部屋に来ていなかったこともあり、今は李牧と二人きりである。

「はあ…」

寝台のすぐ傍にある椅子に体を預け、李牧の寝顔を見つめながら、信は溜息を吐いた。

こんな騒ぎを起こしておいて、趙国から出るどころではない。あの場は李牧が上手く収めてくれたとはいえ、彼に謝罪も告げないで趙から去る訳にもいかなかった。

普段の態度はがさつでも、こういう律儀な性格だからこそ、信は多くの兵や民に慕われているのだ。

「う…」

小さな呻き声がするのと同時に、眠っている李牧の瞼が鈍く動いたので、信は思わず彼の名を呼んでいた。

「李牧!おい、しっかりしろ!」

ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、現れた瞳がぼうっと天井を見つめている。それから隣にいる信へと視線が動いた。

「信?ここは…」

信は扉の方に一度視線を向けて、この場に自分たちだけしかいないことを確かめてから答えた。

「お前の屋敷だよ…慶舎と俺で連れて来たんだ」

配下の名前を聞き、李牧は納得したように頷いた。

酒瓶で殴られた額が痛むのか、李牧が苦悶の表情を浮かべる。包帯を巻かれている額に触れると、彼は全てを思い出したように瞬きを繰り返した。

「…そうでした。あなたが着替えている間、慶舎に馬車の手配を頼んでいたんです」

城下町を出たらその馬車を使って関門へ向かうつもりだったのだと李牧は言った。

やり手の女主人がいる呉服店に自分を置いてどこへ行っていたのかと思ったが、やはり李牧は考えなしに動くような男でない。

途中ではぐれてしまったことは予想外だったろうが、もしあのまま李牧と一緒に城下町を出ていたら、今頃は秦への帰路を急いでいたかもしれない。

(…全部、俺のせいだな)

簪が売られている店で女性客たちからの視線を受け、正体を気づかれていると早とちりをしてしまった。

本当に気づかれていたのかは分からなかったが、自分が逃げ出さずとも、きっと李牧が何とか場を収めてくれたに違いない。

そして何より、あの酔っ払いに父を侮辱されて、怒りに我を忘れることもなかっただろう。結果的に李牧に傷を負わせてしまったことで、信は後悔の念に駆られていた。

「…!」

寝台に横たわったまま、李牧が信の頭を優しく撫でたので、信は驚いて顔を上げた。

「何するんだよっ」

まるで子どもを慰めるように頭を撫でられたことに、信がきっと目を吊り上げる。

「とても悲しそうな顔をしていたものですから、つい」

何の悪気もない笑顔を向けられると、信の胸は罪悪感でちくりと痛んだ。

「…勝手なことして、悪かった…」

今にも消え入りそうな声で信が李牧に謝罪すると、李牧は目を瞬かせている。どうして謝罪されたのか、理由が分からないでいるらしい。

信は膝の上で両手を強く握り締め、俯いてしまう。

城下町で、李牧があの男に掛けた言葉が鼓膜に蘇る。

―――王騎将軍の侮辱は、彼と同じ戦場に立っていた者として、断じて許しませんよ。

侮辱された父を庇うように、敬うようにあの男に掛けた言葉を、信は未だに信じられなかったのだ。

李牧が父である王騎の仇なのは変わりない。どうしてそんな男があのような言葉を掛けたのか、信には理解が出来なかった。

李牧が嘘を吐いている様子はなかった。しかし、それが本心なのかは分からない。

あんな風に思っているのなら、どうして殺したのかというのは愚問だろう。

今日、李牧と共に邯鄲を歩きながら、彼が多くの民や兵に慕われていることを知った。李牧にとって大切なこの領土を守るために、敵将を討ち取ったに過ぎない。

信が過去に討ち取って来た敵将たちだって、同じように家族や仲間から悲しまれただろう。もし、李牧が討たれたら、彼を慕っている民や兵たちも大いに悲しむはずだ。

(…そういえば、こいつって…)

 

李牧の許嫁

謝罪の後、信が不思議そうな表情を浮かべて、自分の顔を覗き込んで来たので、李牧は小首を傾げた。

「どうしました?」

「そういや、お前…民衆の前で、俺のこと妻って呼んだよな」

ああ、と李牧が思い出したように頷く。

「あの場では仕方ないでしょう」

「………」

自分の正体を気づかせまいとするためだったのだろうが、咄嗟の嘘にしては無茶だったのではないだろうか。

そもそも、李牧の家族について何も知らない信からしてみれば、本当の家族から恨まれるのではないだろうかと不安になった。

「お前くらいの立場なら、妻の一人や二人いてもおかしくないだろ。戦場で死ぬならまだしも、くだらねえ色事に巻き込まれて死ぬなんて、俺は嫌だからな」

信がげんなりした表情で言うと、李牧はゆっくりと上体を起こそうとしていた。

「お、おい、あんまり無理するなよ…!」

全力で殴ってしまった手前、無茶をさせる訳にはいかないと信は李牧の肩を支えて、上体を起こすのを手伝った。

信の手を借りながら何とか上体を起こした李牧は体の前で手を組み、目を伏せる。

「…私には昔、許嫁がいたんです」

なぜ過去形なのか疑問に思ったが、信は口を挟むことなく彼の話に耳を傾ける。

李牧の過去を信は何も知らない。しかし、宰相の座にまで上り詰めた彼のことだ。きっと多くの武功を挙げて来たのだろう。

だが、李牧の表情に宿っていたのは、過去の栄光を想像させるものではなく、ただの悲しみだった。

「…当時の私は、今より愚かな男でした。彼女より、戦での武功を優先していたのです」

本当に愚かな男でした、と李牧は悔しそうに拳を握っていた。

拳が白くなるほど強く握り締めているのを見て、本気で悔やんでいることが分かる。

「…久しぶりに屋敷へ戻ると、元々体の弱かった彼女は…」

暗い表情のまま、李牧は口を噤んだ。

続きを促さなくても、許嫁の女性がどうなってしまったのか、誰もが理解する。亡くなったのだろう。

許嫁がいたのだと過去形で話していた理由が繋がり、信は掛ける言葉に迷ってしまう。安易に妻の話を持ち掛けてしまった先ほどの自分を殴りたくなった。

重い沈黙が二人を包み込む。いたたまれなくなった信が李牧に謝罪をしようと思ったその時だった。

「…と言って、涙でも拭う仕草をしておけば、縁談を断る理由になるので便利なんです・・・・・・

「……はっ?」

突然李牧が笑顔を浮かべた。つい先ほどの暗い表情を浮かべていた彼とは別人のように切り替わったのである。

何が起きているのか少しも理解出来ず、聞き返した信に、李牧が目を丸めている。

「何か?」

「つ、作り話…!?」

あれだけ他人の同情を誘う演技までしておいて、まさか許嫁など初めから存在しなかったというのか。信が大口を開けて驚愕する。

「どこかの国の仏教の言葉らしいですが、嘘も方便・・・・とはよく言ったものです」

回りくどい言い方ではあるが、許嫁の存在が嘘だと認めた李牧に、信は開いた口が塞がらないままでいた。

「おや、あなたも信じましたか?」

少しも悪いと思っていないらしい李牧に問われ、信のこめかみに鋭いものが走った。酒瓶で思い切り殴りつけた非は謝罪しない方が良かったのかもしれない。

驚愕していた信がみるみるうちに憤怒の表情に変わっていくのを見て、李牧が困ったように笑う。

「こんのッ…嘘吐き野郎ッ…!」

「ですから、嘘も方便というやつです」

「んなこと言っても嘘は嘘だろッ!」

納得出来ないと信が噛みついて来る。納得出来ないのを理由に、感情論を押し通そうとする信に、李牧の苦笑はますます深まるばかりだ。

「…しかし、駆けつけて・・・・・驚きました。まさかあなたが一人の男に襲われているのかと…実際には襲っている方でしたけれど」

さり気なく李牧が話題を切り替えたことに、信は気付かず、小さく頷いた。

しかし、そこでも信は李牧の嘘に気付くことになる。

「…駆けつけた?…お前そういえば、足挫いたって言ってなかったか?」

「ああ、すっかり治ったようですね」

李牧がまた悪気のない笑顔を浮かべたので、信は腸が煮えくり返りそうになった。

「まさか、てめえッ!それも嘘だったのか!?」

着物を掴んで睨み付けると、李牧が顔をしかめる。

「…思い出したらまた痛くなって来ました。あいたたた…」

わざとらしく左足を擦る李牧に、信の堪忍袋の緒がいよいよ切れた。

「―――捻ったっつったのは右足・・だろッ!もう騙されねえぞッ!」

腕を組み、信が李牧から思い切り顔を背ける。

全て演技だと見抜かれてしまったことに李牧は諦めたように笑った。

「それでは、これから関門を抜けるための書簡を用意しますから、少し待っていて下さい」

寝台から立ち上がろうとした李牧に、それまで憤怒の表情を浮かべていた信が不安げな顔になる。

「お、おい、立ち上がって大丈夫なのかよ…」

「いつまでも寝てる訳にはいかないでしょう。それとも、付きっきりで看病してくれますか?」

「嫌だね」

即答した信に「でしょう?」と李牧が笑う。本当によく笑う男だと信は思った。

 

帰省準備

筆を取った李牧が関門を通るのに必要な書簡の準備を始めたので、信は黙って彼の背中を見つめていた。

許嫁の存在も、右足を捻ったのも嘘だと分かったが、額の傷だけは誤魔化せない。

そういえば医者からは、特に安静にしていろとも言われなかった。本当に見た目ほど傷は深くないのだろうか。

酒瓶で殴りつけたせいで失神までしたのだから、そんな浅い傷のようにも感じられない。とはいえ、医学の知識がない信には医者の言葉を信じるしかなかった。

「…そうだ。信、こちらへ来てください」

振り返った李牧が手招いたので、信は何用だと近づいた。

「え…?」

呉服店の女主人によって結われていた髪に何かを差し込まれる。

「ああ、やはり着物の色と同じ色にして正解でした」

まるで鈴の音のように美しい音が聞こえ、信がそれを手に取ると、花の形を象った青水晶がついた金色の簪だった。あの時の店で購入したのだろうか。

信が目を丸めていると、その反応を楽しむように李牧が口元を緩めている。

満足したのか、再び筆を走らせる彼を見て、信はまさかこれもくれるのかと驚愕するのだった。

青水晶だけでも高額だというのに、金まで使っている。もしかしたら着物よりも高額なのではないだろうか。着物の価値も簪の価値もよく分かっていない信でもそのくらいの知識はあった。

「お、お前、この着物もそうだけど、簪まで…なんつーもんに金掛けてんだよ!?」

「別に良いでしょう。せっかく趙へ来たのですから、土産の一つくらいないと寂しいじゃないですか」

土産という言葉で収まるほどの額ではないはずだ。

しかし、趙へ連れて来られた時の着物は後宮に身売りされた時に奪われてしまったし、後宮を抜け出す時に着ていた着物も呉服屋に置いたままだ。今さら取りに戻る訳にもいかないだろう。

李牧からの土産であるこの着物を着たまま秦に帰るしかないだろう。趙で過ごした数日を思い出させるようなものは持ち帰りたくなかったのだが、そうもいかない。

「…さて、これで良いでしょう。一番早い馬を使ってください。護身用に剣の一本もあった方が安心ですね。すぐに用意をさせます」

関門を抜けるのに必要な書簡を書き上げた李牧は紐で丁寧に包むと、立ち上がって信にその書簡を差し出す。

「ああ…えっと…」

そういえば李牧からは土産という名の着物から簪、それから関門を通るために必要な書簡や馬、はたまた護身用の剣など、もらってばかりだ。

礼を言うべきなのは分かっているのだが、先ほど騙されたと気づいて逆上したせいか、信は素直に感謝の気持ちを伝えられなかった。

「どうしました?」

だが、李牧は信よりも大人で、信が気にしていることなど大して何とも思っていないようだった。

いよいよ秦へ帰る手筈が整ったというのに、李牧への感謝の気持ちを伝えねば、いつまでも胸に残るだろう。

李牧に会えなかったら、もしかしたら今頃は後宮へ連れ戻されて悼襄王の伽の相手を強要されていたかもしれないし、正体が気付かれて首を晒されることになっていたかもしれない。

無事に趙から出られることになったのは全て李牧のおかげである。

きっと、彼と次に会うのは戦場だ。軍師である彼と戦場で相まみえるということは、戦況が大きく傾いている時に違いない。

もしかしたら次の戦場では彼を討つことになるのかもしれないと思うと、礼を言う機会を先延ばしにする訳にはいかなかった。

「李牧…」

礼を言おうと、意を決して、信が顔を上げた時だった。

「ん…ぅっ…!?」

両肩をそっと抱かれたかと思うと、視界いっぱいに李牧の顔が映っていて、唇に柔らかいものが押し当てられている。口付けられたのだと頭が理解するまでには時間を要した。

唇を交えながら、信が握っていた簪が李牧の手によって奪われ、再び彼女の結われている髪に差し込まれる。

「え…」

唇がゆっくりと離れていく。信は白昼夢でも見ていたのではないかと思った。

しかし、未だ唇に残っている柔らかい感触に嘘偽りはなく、李牧と唇を交わしたことが現実であることを知る。

「ああ、すみません。どうやら立ち眩みを起こしてしまったようで…」

わざとらしく言う李牧に、信はきっとそれも演技であることをすぐに理解した。

「な、何してんだよッ!」

唇に残っている感触を手の甲でごしごしと拭いながら顔を真っ赤にしている信に、李牧が肩を竦める。

「随分と無粋なことを聞きますね。さあ、これから秦国へ帰るのでしょう?今、必要な物の手配を行いますから、そこで待っていて下さい」

未だ動揺冷めやらぬ信の脇をすり抜け、李牧は部屋を後にした。

立ち眩みをしたと言っていた割に、しっかりとした足取りで歩いている。やはり立ち眩みも嘘だったに違いないと信は確信したのだった。

 

七つの偶然

必要な物を持った後、信は馬を走らせて祖国へと出立した。

本当ならば関門を抜ける辺りまで同行したかったのだが、生憎、宰相という立場である以上、そこまで時間を割くことは出来ない。

束の間だったとはいえ、彼女と過ごした時間を李牧は静かに思い返していた。

「ただいま戻りました」

屋敷に戻ると、手の甲に乗せた蜘蛛と戯れていた慶舎が李牧を出迎えた。

「…傷の具合は」

慶舎の視線が包帯に包まれている李牧の額に向けられる。

「少し痛むくらいで、何ともありません。心配をかけましたね」

安心させるようにそう言った李牧の言葉に、慶舎は小さく頷いた。

「てっきり、頭を殴られて気を失われたのかと」

「あれくらいで倒れる私ではないですよ」

「では、なぜあのような演技・・・・・・・を?」

演技という言葉に反応したのか、李牧が困ったように肩を竦めた。

「残念ながら演技ではありませんよ。私はどうも昔から酒が苦手・・・・でして…」

自らを下戸なのだと証言した師に、慶舎は表情を変えずに頷いた。

李牧があの場で意識を失ったのは信に酒瓶で殴りつけられたからではない。中に入っていた酒を浴びたせいである。

昔から酒の匂いでも気分が悪くなってしまうほどの下戸である李牧は、苦手な酒を頭から浴びてしまったせいで意識を失ってしまったのだ。

酔っぱらっていた男は、龐煖が討ち取った王騎に対して何か言っていたらしいが、忠告はしてやった。二度と王騎を侮辱をすることはないだろう。

あの時の李牧は酒を浴びたせいで、少々気が立っていた。しかし、信と民衆の前ということもあり、酔いを堪えながら、誰もが慕う宰相を演じ切ることが出来たのだ。

父の仇として自分を憎んでいた信も、僅かに心境の変化があったのはそのおかげだろう。

「…王騎の娘・・・・。逃がしても良かったのですか?」

手の甲から腕を這い上がる蜘蛛を眺めながら、慶舎が声色を変えずに問う。意外だという瞳で李牧は弟子を見た。

「おや、いつから気づいていました?」

信は戦で仮面で顔を覆っているため、慶舎は信の素顔を知らないはずだった。こちらは何も告げていないというのに、一体いつ王騎の娘だと気づいたのだろうか。

「李牧様ご自身が、あの娘を信と呼んでいました。そして、王騎の侮辱を許すまいと、絡んで来た男を殺そうとした…李牧様を二人で馬車へ運んだ時、腕が傷だらけで、剣に覚えがある手をしていました。病弱な許嫁でも、普通の女でもないでしょう」

「さすがは慶舎です」

そこまで注視していたなんてと李牧は素直に慶舎を褒める。

偽装工作のために、信を呉服店に預けた後、李牧は共に宮廷に来ていた慶舎に馬車と、足の速い馬の手配を頼んでいた。

護身用に持たせるための剣も馬車へ積んでおくよう声をかけていたのだが、僅かな情報だけで信の正体に気付くとは、李牧は感心してしまう。

本来の計画ならば、城下町を出た後すぐに秦へ続く関門へ向かう予定だった。

しかし、李牧が同行出来るのは途中までで、関門に必要な書簡も、本当は馬車の中で用意するつもりだったのだ。

大きく予定が狂うこととなったが、その分、贈り物も出来たし、今の李牧はとても機嫌が良かった。

「彼女のおかげで、久しぶりに楽しい時間を過ごすことが出来ました」

額の傷がある部分にそっと触れながら、李牧が微笑んだ。その言葉に嘘偽りがないことを、慶舎は彼の声色から察した。

「…せっかく趙へ誘い込んだ・・・・・・・・・・・というのに、なぜ逃がす真似をなさったのか、理解し兼ねます」

信が趙へ来たのは、いくつもの不運が重なってのことだった。しかし、慶舎は全てを見透かした瞳で師である李牧を見つめる。

李牧は意味ありげに笑みを深めると、首を横に振った。

「…たまたまですよ。信がこの国に来たのを、いくつもの不運が重なったと言うのなら、私が彼女に会えたのは、いくつもの偶然が重なった・・・・・・・・・・・・だけということです」

慶舎の疑問には一切答えず、李牧はそう答えた。

偶然という言葉で都合よく片付けようとする師に、慶舎は表情を変えないで口を開く。

「…奴隷商人を装えば、秦への関門を越えるのは容易いことでしょう」

慶舎の言葉に、李牧は噛み堪えていた笑いを抑え切れなくなっている。

「いやあ、まさかあの子は酒癖が悪いだなんて、本当に知りませんでした」

肩を震わせた後に大笑いを始めた李牧に、慶舎は相変わらず表情を変えないでいたのだが、頭の中では、全て彼の策通りに物事が動いていたのだと納得出来た。

今回のことは全て、李牧の中では単なる偶然として片づけられる出来事だったのだろう。

秦国の情報を探るため、配下に奴隷商人を装うよう指示を出したこと。

関門を抜けて秦国に潜入したところで、李牧が恋い焦がれてやまぬ女将軍が酒に酔って寝入っていたこと。

趙への移動中に彼女が目覚めぬよう薬を盛られてしまったことも。

ちょうど人手が足りないと言われていた妃が住まう宮殿に、彼女が下女として身売りされてしまったことも。

悼襄王が久しぶりに妻に会いに後宮へ赴き、そこで彼好みである少年のような風貌である下女を気に入ったことも。

後宮から彼女が脱出に使いそうな場所があそこだけだったのも、そして李牧があの場に通りかかったことも―――

李牧の中では・・・・・・、七つとも、全て偶然なのである・・・・・・・・・

 

その後~趙~

宰相である李牧に年下の美人な妻がいるという噂が広まり、密かに彼に想いを寄せていた女性たちは悲鳴に近い声を上げたという。

噂を聞きつけた李牧の側近であるカイネも、その真相を確かめるべく李牧の下を訪ねた。

彼女が李牧の屋敷に着いたのは、ちょうど信が出発した後だった。

「り、李牧様…」

難しい表情で書簡に筆を走らせている李牧に、カイネが恐る恐るといった様子で声を掛ける。

「カイネ、すみません。急いでこの書簡を送らないといけないので、このままで許してください」

先ほど屋敷に戻って来たばかりの李牧は、すぐに書簡の準備をするように家臣たちに声をかけていた。

どうやら急ぎの用らしく、李牧は筆を動かしながらカイネに用件を尋ねた。もちろんですと頷いた後、カイネは意を決したように顔を上げる。

「…あのっ、以前、李牧様にはお体の弱い許嫁がいると…」

「ええ、それが何か?」

早鐘を打つ胸を押さえながら、カイネは口を開く。緊張のあまり、口の中がからからに乾いていた。

「その、先ほど…城下町で、若い女性とご一緒されていて、その方を妻だと、李牧様がおっしゃったのだと…民の間で噂になっておりました…」

あくまで民の噂だと仄めかせ、カイネは李牧から真相を聞き出そうとした。

途中まで書いた文字に目を通しながら、無慈悲にも李牧が口を開く。

「はい、許嫁の彼女です。体調が良い日は、夫婦・・で一緒に出掛けるんですよ」

カイネの頭に鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。

誰よりもずっと長く李牧に仕えていたというのに、一度も李牧の浮いた話を聞いたことが無かったカイネには衝撃的な内容だったのである。

体の弱い許嫁がいるのだという話を聞いた時から、きっとその女性は病で亡くなり、それから李牧は恋愛不振になっているのだろうとカイネは考えていた。

それがまさか、こうもあっさりと否定され、その許嫁とめでたく結婚していただなんて。

側近という立場である自分にどうして一言もそんなおめでたい話をしてくれなかったのかとカイネはやるせなくなった。

李牧は宰相の名を語るだけでなく、軍の総司令を務めているほどの立場の男だ。

多くの民や兵たちにも慕われている彼が選んだ女性を気になる者は趙に多かった。体格も顔立ちも性格も立場も申し分ない。李牧に声を掛けられれば多くの女性が頬を染めて笑顔を浮かべることだろう。

実際に李牧に選ばれた女性が病弱という話から、可憐な花のような美女を想像する者も多かった。

カイネは実際に妻と呼ばれた女性を見ていないのだが、噂によると、誰もが振り返るほどの美しさを秘めていたんだとか。

自分のために簪を選ぶ李牧を見て、妻の女性は恥ずかしそうに俯いていたのだという。

高価な物を勧めても目を光らせない、欲の少ないその女性こそ、宰相の立場を鼻にかけずに民たちに慕われる李牧に相応しいとまで噂が広まっていた。

「し、失礼します…」

噂が本当だったのだと分かったカイネは顔から血の気を引かせてふらふらと歩き出し、おぼつかない足取りで部屋を出て行く。

再度筆を取った李牧に、部屋の隅で、未だ一匹の蜘蛛と戯れている慶舎が視線を向けた。

「…聡明な李牧様のことですから、その方が色々と都合が良かったのでしょう」

その言葉を聞き、李牧は動かしていた筆をぴたりと止めた。

一度筆を置いた李牧は墨が乾くのを待つフリをして、慶舎の方を振り返った。

「…今は訳あって・・・・・・、別の場所で暮らしていますが、全てが終わったら迎えに行くつもりですよ」

「秦国にですか?」

李牧が苦笑を深める。どうやら慶舎にはお見通しだったらしい。

「ええ。何年後になるかは分かりませんが…私の目が黒いうちに、必ず」

再び筆を取った李牧が竹簡に続きを書いていく。

「…李牧様のお望みが叶うよう、尽力致します」

供手礼をした慶舎に、李牧がにこりと微笑む。

「ありがとうございます。…それでは、その第一歩として、この書簡を至急、秦へ届けるように手配を頼みましたよ」

「はっ」

たった今書き上げたばかりの書簡を、李牧は慶舎へ手渡した。

 

その後~秦~

見慣れた景色が視界に飛び込んで来て、無事に帰還が叶ったのだと噛み締めた。

「や、やっと、帰って来れたぜ…!」

母国の土を踏み締めているだけで、目頭に熱いものが込み上げて来る。一時はどうなることかと思ったが、敵国から生還出来て本当に良かった。

みんな心配しているに違いない。

飛信軍の仲間たちはもちろんだが、父である王騎の副官として長年仕えていた騰や録嗚未たちも、信にとっては家族のような存在だ。自分に何かあれば王騎に申し訳が立たないと思っているに違いない。

幼い頃から過ごしていた王騎の屋敷に帰宅すると、家臣たちが無事に帰って来た信に大騒ぎしていた。

「御無事で何よりです」

幼い頃から信の世話をしてくれた年老いた侍女たちは涙を流している。

「悪いな…随分、心配かけちまって」

戦に出た訳でもなく、連絡もなしに失踪したことで大いに心配をかけてしまったと信は家臣や仲間たちに深々と頭を下げた。

もちろんどこで何をしていたのかまでは告げなかったのだが、秦王にはそんな訳にはいかないだろう。

趙を出てから、信はずっと此度の言い訳を考えていた。

元を辿れば、武器も持たずに外で眠っていた自分にこそ非があるのだ。酒に酔ってしまい、寝具を被って眠るのは暑いからという安易な考えから、屋敷の外で眠ったことが最大の原因である。

そういえば眠る寸前、道に迷ったという商人に道を教えてやった気がする。何度も感謝された男に名前を尋ねられ、飛信軍の信だと答えてから記憶が無くなっていた・・・・・・・・・・

…もしかしたら、あれも夢だったのだろうか。

趙へ連れていかれたのは、色んな不運が積み重なった末に起きた更なる不運だ。同情をして欲しい訳ではないが、真実を告げたところで、信用してくれないに違いない。

翌日、嬴政に告げる上手い言い訳を決めた信は、日の出と共に咸陽宮へと馬を走らせた。

普段ならば秦王の前に姿を見せる時には、きちんとした身なりをするよう言われていたのだが、今回は事情が事情だ。

自分に礼儀というものを教えてくれた両親に心の中で謝罪しながら、信は咸陽宮の門をくぐった。

衛兵に声をかけて、秦王である嬴政に謁見を申し出ると、すぐに部屋へ案内された。

どうやら宴の後から信が失踪していたことは秦国中で噂になっていたようで、衛兵たちも、すれ違う官吏や女官たちも信を見て大層驚いた顔をしていた。

「―――信!今まで一体どこで何をしていた!」

政務中だっただろうに、帰還の報せを聞いた嬴政がばたばたと走って彼女の前に現れる。

玉座に腰掛けることもなく、嬴政は今にも信に掴みかからん勢いで怒鳴りつける。

大王という立場の彼がこれほど取り乱している姿を見るのは初めてのことだった。ぐうの音も出ず、信はその場に膝をついて頭を下げている。

現れたのは嬴政だけでなく、側近たちもだ。彼らも心配してくれていたのだろう。信の姿を見てほっと安堵した表情を浮かべている。

しかし、嬴政だけは信が無事で良かったという意志は感じられず、目をつり上げて、彼女を睨み続けていた。

心配の裏返しなのだろうが、そこまで怒りを露わにされると、委縮してしまう。

「…あのー…色々あって…だな…」

そう。宴の後から今日に至るまで色々とあったのだ。言葉を濁らせて、語ろうとしない信に、嬴政の瞳がさらに怒りで染まっていく。

「大王である俺に言えぬことか?」

「う…」

卑怯な物言いをすると信は俯いたまま奥歯を噛み締めた。素直に答えなければ打ち首にするぞと脅しているようなものではないか。

しかし、真相を告げたところで信じてもらえる訳がない。

大将軍である自分が下女として奴隷商人に売り飛ばされたなどと笑い話でしかないし、出来ることなら墓まで持っていきたい秘密だった。

「えっと…」

信が用意していた言い訳を話し出そうとすると、背後で扉が開き、衛兵が膝をついて頭を下げる。その手には書簡が握られていた。

「大王様!趙の宰相から、秦国宛てに至急の書簡が」

「…李牧から?」

嬴政が目を見張る。李牧からの書簡が来たことによって、それまで信に向けていた怒りが消え去ったらしく、信はほっとした。

(ん?なんで李牧から至急の書簡なんて来るんだ?)

しかし、まるで機を見計らったかのような・・・・・・・・・・・・書簡の存在に、李牧がどのような書簡をよこして来たのだろうと信は気になった。

右丞相の昌平君が衛兵から書簡を受け取り、中身を確認している。

軍の総司令官を務めていることもあり、多少のことでは動じない昌平君であったが、書簡の内容を読み進めていくにつれて眉間に皺が深まっていった。

全員がその表情の変化に、何か悪い内容なのだろうかと考える。

(何だ…?ものすごい嫌な予感がする…)

ここからの位置では書簡に何が書かれているのかは少しも分からない。

しかし、李牧の名前を聞いた瞬間から、自分に関する内容が書かれているのではないかと信は不安に襲われた。

それは幼い頃から戦場に身を置いて来たことによる野生の勘だったのかもしれない。

「………」

「………!」

昌平君と目が合う。

彼の瞳に呆れの色が宿ったのを見て、信は顔から血の気を引かせた。

「昌平君、李牧からの書簡には何が書かれていた?」

「は…」

嬴政の問いに、昌平君が書簡の内容を読み上げようと口を開く。

 

七つ目の不運

立ち上がった信は、慌てて昌平君の手から書簡を奪い取ろうと駆け出した。

「読むなーッ!」

突進して来た信に書簡を奪われないよう、昌平君は瞬時に書簡を高く掲げた。

長身の彼が腕を上げると、信がどれだけ手を伸ばしても、跳ねてみても届かない。

後宮から脱出した時のように、助走をつければ取り戻せたかもしれないが、昌平君が相手では助走をつけたところで意味はないだろう。

信が血相を変えて慌てふためいている様子に、その場にいる者たちも小首を傾げている。

しかし、嬴政は彼女が慌てふためく理由が書簡の内容に隠されていると分かり、傍にいる昌文君に声を掛けた。

「昌文君、あの書簡をこちらに」

「はっ」

長身の二人が信の手の届かない高い位置で書簡を受け渡している。

「オッサン!だめだ、頼む!やめてくれ!」

昌文君に渡った書簡を取り戻そうと、信が兎のようにぴょんぴょんと跳ねた。

しかし、昌文君は構わずに受け取った書簡を高く掲げ、信に奪われないように嬴政の下へと向かった。

もはや半泣きになっている信に、嬴政は顔を引き攣らせる。

(趙の宰相である李牧からの書簡と、信のこの反応…まさか…)

信じたくないが、まさか信は趙と密通していたのだろうか。

ありえないと嬴政は否定したが、信の慌てぶりを見る限り、気づかれたくないという気持ちが前面的に押し出ている。密通を疑わざるを得ないだろう。

まだ秦趙同盟が解消されていないとはいえ、趙の宰相と繋がりがあるだなんて、忠義の熱い信が一体どうして。嬴政の胸に不安が広がっていく。

「政、頼む!後生だ!それを読むのはやめてくれ!」

結局、昌平君に羽交い絞めされる形で抵抗が出来なくなった信は、懸命に嬴政へ呼びかけていた。

一体何が記されているのだろう。

「………」

生唾を飲み、嬴政は昌文君から書簡を受け取った。

そこに記されていた内容に、嬴政は違う意味で・・・・・驚愕することとなる。

信の身に起きた数々の不運。

趙の宰相である李牧という男に魅入られてしまったことこそ、信の七つ目の不運だったのである。

 

七つ目の不運~真相~

信は大王嬴政の前で正座をして、ぐすぐすと鼻を啜っていた。

彼女の頭には立派過ぎるほど大きなたんこぶが出来ている。大王嬴政からの立派な賜り物である。

この中華全土どこを探しても、大王から鉄拳を受ける女など信くらいだろう。

信の涙が滲んでいるのは決して頭を殴られた痛みからではなく、羞恥心によるものだ。

大王嬴政は腕を組み、玉座にふんぞり返っている。過去に政権を握っていた弟の成蟜を思わせるような態度だ。やはり兄弟に共通点というものはあるらしい。

嬴政がそのような態度を取るのはとても珍しく、すなわち、まだまだ彼の怒りは引くことはないということでもある。

「他の者たちにも伝わるよう、大きな声で読んでみろ。一言一句違えることなく読め」

「う…うう…」

握った拳が白くなるほど信は力を込めている。どうしてこんな辱めを受けているのだろうと信は自問自答した。

彼女の前に広げられている書簡は、先ほど届いたもので、それは趙の宰相である李牧が秦国宛てに送ったものである。

「…飛信軍の信将軍が、趙国、後宮の、下女として…過ごしていた事に、ついては、…」

たった今、信が音読させられている内容を要約すると、彼女が敵国である趙へ渡った経緯が記されていたのである。

恐らく、李牧としては気遣いのつもりだったのだろう。

秦の大将軍である彼女が一人で趙へ行くはずがない。秦趙同盟の期間内とはいえ、目的も告げずに趙へ行くなんて密通を疑われてもおかしくない行為だ。

だからこそ李牧は信が密通をしていないことを証言するために、彼女から聞いた事実を書簡にして嬴政に送ったという訳である。

信にとっては墓場まで持っていくつもりだった秘密事項が事細かに記されており、このまま舌を噛み切って死んでしまいたいほどの屈辱だった。

震える声で李牧からの書簡を読み終えた信はいよいよ限界で、双眸から涙を流し始める。

話を聞いていた官吏たちは皆、今日まで信の身に起きた事実に唖然としており、一番初めに書簡を読んだ昌平君だけが表情を変えずにいた。

「はあー…」

嬴政は玉座からゆっくり立ち上がると、わざとらしく大きな溜息を吐く。

まさかこれ以上の辱めを受けさせるのかと、信は嬴政に怯えた瞳を向けた。

「大将軍とあろう者が、酒に酔って外で寝ていたところを、奴隷商人に捕らえられ…」

「う…」

「そのあげく、趙に着くまで爆睡していて、後宮に身売りされ?悼襄王の寵愛を受けるとこだった?」

「うう…」

「…お前は、秦国の大将軍だという自覚があるのかッ!!」

「うううう…!」

嬴政の怒鳴り声に、信はいよいよ顔を上げられなくなった。

周りにいる官吏たちは誰一人として嬴政の怒りを宥めようとしない。全て信が招いた結果であることは李牧の書簡の内容から一目瞭然だったからだ。

「…李牧に礼を言わねばならんな」

呆れた表情のまま、嬴政が呟く。書簡に記されていた内容から、趙国で李牧が信を助けてくれたということは誰が見ても明らかだった。

(くっそー!全部李牧のせいじゃねえか!)

腹の内をむかむかとさせながら、信は李牧になんて余計なことをしてくれたのだと怒鳴り散らしたくなった。

彼が真相を記した書簡を送って来なければ、秦王からここまでお咎めを受けることにはならなかっただろう。

信は、山の王である楊端和に美味い酒を持っていく代わりに、今回の件の口裏を合わせてもらう作戦を考えていた。山の民に会いに行っていたのだと言えば、数日の不在くらい誤魔化せたに違いない。

そして楊端和は六大将軍の一人であり、嬴政も信頼を置いている女性だ。その彼女が率いる山の民たちの下へ行っていたのなら、嬴政だって咎めることは出来ないだろう。

想定外だったのは、李牧が事実を記した書簡を送って来たことだ。

(あの野郎…!今度会ったらもう一発殴ってやる…!)

李牧の余計な気遣いのせいで、こんなことになってしまったと信は奥歯を噛み締める。

頭を下げながら、静かに李牧への怒りを募らせていく信に、嬴政はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

「…経緯は見過ごせぬが、お前が無事で良かった」

本当にそう思ってくれているのだろう。とても穏やかな声色だった。

「……悪かっ…も、申し訳、ありません…」

礼儀にうるさい官吏たちの目もあったので、ぎこちない謝罪をして、信は頭を下げたままでいた。

信が無事だったことと、彼女の口から謝罪の言葉を聞けたことで、嬴政は長い息を吐く。

「…では、此度の騒動における処罰を言い渡す」

 

七つ目の不運~贈り物の意味~

その後、信は謹慎処分を受けることとなった。

謹慎処分と言ってもそれは名ばかりで、通常通りの生活は保障されている。飛信軍の鍛錬の指揮を執らなくてはならないし、大将軍としての仕事が大いにあるのだ。

しかし、面倒なのは、外出の際に必ず護衛の兵をつけなくてはならなくなったことである。

謹慎処分が始まって数日後、友人である蒙恬が噂の真相を確かめるために屋敷を訪ねて来た。

嬴政に報告しに咸陽宮へ行ったあの日、偶然にも別用で訪れていた蒙恬と出会ったのだ。

その時には長ったらしい秦王のお説教も終わり、さっそく謹慎処分として命じられた護衛の兵と共に信は廊下を歩いていた。

余程、嬴政の説教が堪えたのか、ともすれば、幼子のように泣き出してしまいそうな信を見て、蒙恬は彼女が何かやらかしたのだと察したらしい。

彼も蒙家の嫡男として忙しい身であるに違いないだろうに、こんなことに時間を割いている暇があるのだろうか。

追い返す訳にもいかず、信は蒙恬を客室へともてなした。話題はさっそく信の謹慎処分についてである。

「ねえ、信ってば一体何やらかしたの?教えてよー。俺たちの仲じゃん!」

「別に何もやらかしてねえよ。むしろ俺は被害者だ!」

ムキになって反論すると、蒙恬がにやにやと嫌な笑みを浮かべる。

「嘘だあ。だって秦国中で、信が失踪したって大騒ぎだったんだよ?どこ行くにも護衛の兵までつけられてるし、何かあったんでしょ?」

「言わねえ!墓場まで持ってくって決めたんだ!」

趙国へ連れていかれたことは、あの玉座の間にいた者たちだけの機密事項となった。

密通ではないことは李牧によって証明されたが、下手に噂が広まれば、違う場所で密通を疑う者も出て来るかもしれないため、情報操作を行っている。

「ちぇ、せっかく来たのに」

信が頑なに口を開こうとしないので、蒙恬は諦めたように肩を落とす。その時、蒙恬の視界に、台の上に置いてある青水晶と金色の簪が目に入った。

「…あれ?珍しい。新しい簪買ったの?青水晶に金って、かなり高価なものじゃん」

化粧や装身具には少しも興味を示さない信が新しい簪を購入したのかと蒙恬が小首を傾げている。

青水晶と金色の簪から連鎖的に李牧の姿が瞼に浮かび上がった。

「あ、いや、それは…も、もらい物だ!その、世話になった男から…」

嘘は言っていない。もらい物であるのも事実だ。束の間ではあったが、簪をくれた男の世話になったのも事実である。

実際の額は分からないが、安易に捨てられるような代物ではない。とはいえ、普段から簪を身につける習慣のない信にはどう扱うべきか分からずにいたのである。着物も同様だ。

名前は出していないのだが、男からの贈り物という言葉が気になったのか、蒙恬が目を見張る。

「…え?もしかして、素直に受け取ったの・・・・・・・・・?」

意味深な言葉に、信はきょとんとした。その反応を見て、蒙恬はまさかと顔を引き攣らせている。

「男が女に簪を贈る意味…分かってる?」

「は?ただのもらい物だろ。意味なんてあるのか?」

当然のようにそう答えた信に、蒙恬が呆れた表情を浮かべる。両手を頭の後ろに回し、蒙恬は椅子の背もたれにどっかりと体を預けた。

「あーあ、その人かわいそー」

「はあ?」

信に簪を贈った男――李牧になぜか同情する意味が分からず、信がどういう意味か教えろと催促する。困った笑みを浮かべながらも、蒙恬が正解を教えてくれた。

「簪の価値が高価であればあるほど、誠実さと身分を証明できるってことだよ」

「ああ、まあ…それなりに身分の高い奴ではあるな」

李牧の正体を勘付かれないように、信は当たり障りのない答え方をした。

しかし、誠実さと身分を自分に証明するというのは一体どういう意味なのだろう。

誠実さというものを証明するのなら、もしかしたら、趙から脱出することを協力すると、簪を使って自分に知らせたかったのだろうか。

「もちろんそれだけじゃないよ」

まだ他に意味があるのかと信が頭に疑問符を浮かべている。やはり理解していないのだと察した蒙恬があははと笑った。

「…要するに、男が女に簪を贈るっていうのは…好きですっていう想いを告げて、求婚してるみたいなものだよ。ま、信はこの手の話に疎いから、知らなかったのも無理はないだろうけどね」

「……え?」

「何も知らないで受け取っちゃったんなら、そのうち・・・・迎えに来る・・・・・んじゃないの?」

信の中でその瞬間、確かに時間が止まったのだった。

 

 

牧信バッドエンド話はこちら

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七つ目の不運(李牧×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

偽装工作完了

数刻後、約束通りに李牧は呉服店へと戻って来た。

どうやら着替えを終えたらしく、女主人が得意気な顔をしている。

彼女の後ろをついて来た女性を見て、李牧ははっと目を見張ったのだった。

「…随分と変わりましたね」

「うるせえな!お前がそうしろって言ったんだろうがッ」

憤怒して顔を真っ赤にしている信は、顔色と正反対の青い着物に身を包んでいた。

淡い青色から透明感のある水色へ階調をしている裳は、生地に特殊な染め方が施されているらしい。丁寧に蓮の花が刺繍されており、まるで生地に直接色を載せて絵を描いているようにも見える。

表着も裳と色を合わせたのだろう。しかし、表着には裳と違って金色の刺繍が施されており、信が歩く度にその刺繍がきらきらと輝いて見えた。

「………」

まるで彼女自身から光を発しているかのようで、李牧は言葉を掛けるのを忘れて、信に見惚れていたのである。

華やかなのは衣裳だけではない。無造作に後ろで纏めていただけだった黒髪も、女主人によって梳かされ、女性の美しさを引き出すように、高い位置で結われていた。

小さな傷痕が目立つ頬はおしろいを叩いたのか、見事なまでに消え去っている。

みずみずしい赤色に染まった唇は上品さを際立たせており、そこにあったのは別の女の顔だった。

「……おい、それ以上見るなら金取るぞ」

信の怒気が含まった低い声を聞き、李牧ははっと我に返る。

「すみません、あまりにも別人だったので驚いてしまいました」

「ふんッ」

信が腕を組んで大きく顔を背けた。

秦王嬴政の前に出る時や、論功行賞などの畏まった場で、信はいつもの男物の着物は着ずに、身なりを整えていた。その時も、李牧と似たような反応をされることが多い。

きちんとした身なりに整えるだけで驚かれるのは慣れているはずなのだが、李牧に限っては苛立ちしか感じなかった。

女主人も信の変貌ぶりに驚いた李牧の顔を見て、満足げな顔を浮かべている。一仕事終えたと言わんばかりの達成感を噛み締めているようだった。

かくして、偽装工作は無事に成り立ったのである。

 

城下町

信も女主人もぎょっとしてしまうほどの金銭を李牧が笑顔で支払った後、ようやく呉服店を後にした。

城下町は多くの民で賑わっていたが、呉服店に入る前にはなかった不穏な空気が広がっている。

宮廷の護衛に努めている兵たちがあちこちにいるのだ。民たちが何かあったのだろうかと不安そうにしている。

(動き出したな…)

信が見渡す限り、既に二十人近くの衛兵が城下町を歩いている。

城下町は宮廷よりも遥かに広いため、多くの人数を用いられば見つからないと思ったのだろうか。

それにしても、下女一人に対してここまで兵を割くとは何事だ。

信が眉間に皺を寄せていると、李牧は表情を変えず、信にだけ聞こえるように声を潜めた。

「…偽装工作をしたとはいえ、気づかれないとは限りません。怪しまれないよう、自然に振る舞ってください」

「お、おう」

緊張しながら相槌を打つと、李牧がぴたりと足を止めた。

「…その話し方、今だけどうにかなりませんか?」

「は?」

きょとんと目を丸めて信が聞き返す。

「いえ、宦官たちは衛兵にあなたの特徴を伝えているはずですから、そういった言葉遣いも怪しむ可能性があります」

「…んなこと言われても…」

確かに李牧の言う通りである。

後宮の中で、普段から男のような言葉遣いをする女は、信しかいなかった。外見で判断出来ないとしても、言葉遣いから怪しまれる可能性は確かにありそうだ。

とはいえ外見と違って、言葉遣いというのは簡単に変えられるものではない。

「では、寡黙な性格ということにしましょう」

「寡黙な性格?」

ええ、と李牧が笑顔を浮かべる。声を潜めながら、彼は言葉を続けた。

「どこで誰が聞いているかも分かりませんし、用心するに越したことはありません」

「まあ…それもそうだな」

承諾した信に、李牧が意味ありげな笑みを浮かべる。彼がこんな風に笑うのは何かを企んでいる時に違いない。信は嫌な予感を覚えた。

「余程の緊急事態でない限りは口を開かないように」

「な…!」

なんでだよ、と信が反論しようとするが、李牧は自分の唇に人差し指を押し当てた。

「…そういうところです。せめて城下町から出るまでは大人しくしてくださいね。これはお互いの命を保証するためです」

「………っ」

悔しそうに奥歯を噛み締める信に、李牧が穏やかな眼差しを向ける。

悼襄王が伽を命じた下女を匿ったとなれば、たとえ宰相であっても厳しい処罰は避けられないのだろう。

信も自分の正体を知られる訳にはいかなかったため、悔しいが彼の指示に従うことにした。

「門があるのはこの先です」

「………」

城下町の表通りを進んでいき、門を潜れさえすれば逃げられる。

もう少しで秦に帰れるのだと信は胸に希望を灯した。

 

城下町その二

いつもならば着物の乱れなど気にせずに大股で歩く信だったが、女性用の着物で歩く時は、歩幅を狭めないと裾を踏んづけて転倒してしまう。

過去に何度もそれで痛い思いをしていたため、信は図らずとも淑やかに歩いていた。

信が見上げるほど身長の高い李牧の方が歩幅は当然広い。しかし、今は信と離れないように、ゆっくりと歩いていた。

捻ったという右足を庇っているのかと思ったが、引き摺るような仕草はなかったので、恐らく信を気遣って速度を合わせてくれているのだろう。

「……?」

李牧と並んで歩いていると、すれ違う民たちから好奇な視線を向けられる。

脱走した下女だと気付かれたのだろうかと不安に思いながら、視線を送って来る民たちの顔を見た。

怪しんでいるというより、なぜか全員が穏やかな視線を自分たちに向けている。信は頭の中に疑問符を浮かべた。

「………」

おい、と声を掛ける訳にもいかなかったので、信は隣にいる李牧の裾をちょんと引っ張った。

「どうしました?」

すぐに足を止めた李牧が不思議そうに小首を傾げる。手招くと、李牧は体を屈めて顔を近づけてくれた。

余程の緊急事態でない限りは口を開くなと言っていたが、あれは大声で話すなという言葉のあやだったのかもしれない。

「…すげえ見られてるぞ…気づかれたんじゃねえのか?」

耳元で声を潜めながら信が不安を打ち明けると、李牧は周りにいる民たちを見渡して、それから首を横に振った。

「いえ、衛兵たちもこの辺りには来ていませんし、そんな様子はありません。ただの物珍しさ・・・・のでしょう」

物珍しさという言葉を素直に呑み込めず、信は眉間に皺を寄せた。

「…どういう意味だよ」

「そのままですよ。普段は仕事ばかりですから、私がこうして城下町を歩くのは久しぶりなんです」

へえ、と信は頷いた。

確かに宰相という立場であり、趙軍に軍略を授けている李牧ならば、与えられる仕事は後を絶たないのだろう。

将軍である信には戦以外の仕事が何たるかはよく分かっていないのだが、軍の総司令官である昌平君はいつも何が書いてあるのか分からない書簡に目を通している。

秦王である嬴政や他の文官や武官や文官にも様々な指示を出しているし、その上、軍師学校の生徒たちの教育もしなくてはならないらしい。

呉服店に入る前も視線を向けられているとは思ったが、そんな忙しい御仁が城下町を歩くのは、民たちにとっては珍しいことなのだろう。

「宰相様!」

門へ向かって表通りを歩いていると、背後から声を掛けられた。

反射的に振り返ると、宮廷の衛兵たちが数名、焦った表情を浮かべてこちらへ駆け寄って来ている。

まずいと信の心臓が早鐘を打った。

「どうしました?」

まるで信の姿を隠すように、彼女の前に立った李牧が駆け寄って来た衛兵たちに用件を尋ねる。

「それが…後宮から下女が逃げ出し、その者を探し出せという勅令が…」

勅令。つまり悼襄王の指示である。信は李牧の背後で顔を引き攣らせた。

たかが一人の下女のために、まさか悼襄王自らそんな指示を出すなんて、とても信じられなかった。

兵たちから逃げた下女の特徴を告げられ、李牧はふむと頷く。

言葉遣いも外見も男のようで、壁を飛び越える身体能力の高さがあるという特徴に信はいたたまれない気持ちになった。

まさかその張本人が李牧の背後にいる着飾った女で、正体は秦の大将軍の一人だなんて、誰も思わないだろう。

「そうでしたか…見かけたらすぐにお伝えします」

宰相の言葉に、衛兵たちは礼儀正しく供手礼をする。

「!」

李牧の身体越しに衛兵たちと目が合ってしまい、信は咄嗟に顔ごと目を逸らしてしまった。

怪しまれただろうか。俯いて李牧の背中に隠れていると、衛兵たちはなぜか頬を赤く染めて、驚いたように李牧を見たのだった。

「こ、これはお二人の貴重な時間を邪魔をしてしまい、申し訳ございません!それでは」

「え?」「は?」

李牧と信が同時に聞き返したが、衛兵たちはその場から逃げるように去っていく。

残された信と李牧はしばらく呆然としていたが、衛兵たちが遠ざかっていったことに安堵し、再び歩き始めた。

(何だったんだ?あいつら…)

衛兵の言葉を未だ理解出来ずにいる信は頭に大量の疑問符を浮かべながら、李牧の隣をついて歩く。

李牧は意味を理解したのか、それとももう興味を失くしたのか、いつものように人の良さそうな笑みを口元に繕っていた。

「…逃げ出した下女の騒動、大きくなって来たようですね」

それは他でもない信のことなのだが、李牧は辺りを見渡しながら呟いた。

勅令ということもあってか、衛兵たちが必死な形相で民たちから話を聞いていた。

後宮にいたのはたったの数日だ。後宮に務めている下女など大勢いる。宦官や女官たちも一人一人の顔や特徴など細かく覚えていないのだろう。そのおかげか捜査が随分と難航しているようだった。

(とっとと諦めて、他の女にすればいいのに…)

大王と褥を共にするのが仕事である女は後宮に大勢いるというのに、一体どうして執拗に自分を探そうとしているのだろうか。

高貴な生まれの令嬢でもあるまいし、後ろ盾もない下女の一人くらい放っておけばいいものをと信は考えた。

どうやら李牧は信の考えを表情から読み取ったらしく、少し困ったように溜息を吐く。

「ああ、すみません。少し肩を借りてもいいでしょうか?」

どうやら捻った右足が痛むのだろう。信はすぐに頷いた。

李牧の大きな手が信の左肩に寄せられる。傍から見れば、身を寄せ合いながら歩いている男女ということで夫婦か恋人にしか見えなかった。

すれ違う民たちから好奇心が含まれた視線を向けられるが、信の中では「足を捻った李牧に肩を貸しているだけ」である。

自分の正体に気付いたのではないかという不安の方が大きく、彼らが視線を向けて来る理由が好奇心であることに気付けなかった。

信の肩を借りたことで、先ほどよりも距離が近づいた李牧は、

「…稚児趣味で有名な御方です。あなたの外見から、相手をさせたがったのでしょう」

他の者たちに聞こえないように小声で囁いた。

下女になった経緯はともかく、信が見初められた理由を李牧はそのように理解している。

「うぅ…」

後宮の中で悼襄王に声を掛けられた時の、あの絡み付くような視線を思い出し、信はぶわりと鳥肌を立て、思わず両手で自分の体を抱き締めた。

幼い頃から戦場に身を置いていたことから、信は自分に怖いものなど何もないと思っていたのだが、これは新たな発見だ。

そこで、信はふと浮かんだ疑問を躊躇うことなく口に出す。

「…なんで、お前はあんな奴に仕え――もがっ」

言い切る前に李牧の大きくて骨ばった手が信の口元を塞いだ。

「ああ、あそこで綺麗な簪が売っていますね。せっかくですから見ていきましょう」

片手で口を塞がれたまま、ちょうど視界に入った簪が売っている店に引っ張られていく。

「~~~ッ!」

放せと李牧の着物を掴むと、彼は信の耳元に顔を寄せて声を潜める。

「…王の侮辱となれば、さすがに私も庇い切れませんよ」

一切の感情を読み取られない低い声に、信はぎくりと体を強張らせる。

確かにここは悼襄王が収める趙の領地であり、首府の邯鄲だ。

悼襄王に嫌悪感を抱いているとしても、彼に従っている将や兵は多くいる。李牧もそのうちの一人だ。

仕えている王の侮辱は許せないのだろう。自分だって、なぜ嬴政なんかに仕えているのかと問われれば逆上したに違いない。

「………」

反省したように縮こまった彼女を見て、ようやく手を放してくれた李牧は穏やかな笑顔を浮かべている。

他の民たちに怪しまれないようにとはいえ、簪が売っている店にやって来た信は戸惑ったように李牧を見上げた。

自分の目的はあくまで城下町から出ることであって、買い物など不要だ。

しかし、怪しまれないためだと思い、信は大人しく店の前に立った。

陳列棚に並んでいる簪は、多くの種類が並んでいる。金や銀で出来たもの、磨き抜かれた美しい黒檀でできたもの、眩い宝石が取り付けられているものなど、色とりどりだ。

女性ならば目を輝かせるものばかりで、陳列棚の周りには多くの女性客たちがいた。

当然、一般民には手の届かぬ額のものばかりのため、眺めるだけで満足しているようだった。

しかし、彼女たちの視線は今や簪ではなく、宰相である李牧の端正な顔立ちに向けられていた。

そして彼のすぐ背後にいる信に気づくと、彼女たちはぎょっとした表情を浮かべ、李牧と信の交互に視線を向けているのだった。

(やっぱり怪しまれてんじゃねえのか…)

楽しそうに簪を眺めている李牧に早く行こうと催促するように、信は背後から李牧の着物を引っ張った。

「何か欲しいものはありますか?」

振り返りざまに笑顔を向けられると、周りにいる女性たちが顔を真っ赤にしている。しかし、信は簪になど少しも興味がなく、あっさりと首を横に振った。

(早く行くぞ)

言葉遣いから、探されている下女だと見抜かれる訳にはいかなかったので、信は李牧の着物を掴む手に力を込める。

周りの女性たちが信に羨望の視線を向けていたが、それを疑いの眼差しに感じた信は嫌な汗を滲ませる。

偽装工作をしたとはいえ、李牧と二人でいるのは目立つ。

周りにいる女性たちが信の方を見ながら、何かを囁き合いながら、鋭い目つきを向けて来る。

(…やっぱり気づかれてるじゃねえか!)

睨まれているのだと分かり、信はいたたまれなくなった。

このままここにいたら、あの女性たちに逃げ出した下女だと衛兵に告げられるのかもしれない。

着物の袖で口元を隠し、なるべく顔を見られないように、信は足早にその場を離れた

 

別行動その一

その場から逃げるように去っていった信に、李牧が気づくことはなかった。

数多くある簪の中で、彼女に何が似合うだろうかと考えている内に夢中になっていたのである。

信が着ている着物と彩りが似ていることから、青水晶で花の形を象っている金色の簪を選んで店主に包んでもらっていると、先ほどから店にいた女性客に声を掛けられる。

「宰相様、あの、先ほどのお付きの方は…」

「え?」

振り返ると、そういえば信がいなくなっていることに気付く。

簪を眺めている最中に、後ろから何度か着物を引っ張られたが、大人しく待ってくれていると思っていた。

店主から簪を受け取りながら、李牧は辺りを見渡した。

遠くで彼女を探している衛兵たちの姿がちらほら見える。声を掛けられていたような気配はなかったが、衛兵たちの姿を見て怯んでしまったのだろうか。

「すみません、先ほどの女性がどちらへ行ってしまったかご存じありませんか?」

声を掛けてくれた若い女に尋ねると、彼女は門のある方を指さした。もしかしたら一人で門まで行ったのだろうか。

せっかく国を出るまで協力すると言ったのに、一人で行ってしまうなんてと李牧の瞳に寂しい色が浮かぶ。憂いの表情を見た女性客たちの顔に緊張が走った。

「あ、あの、宰相様にはお体の弱い許嫁様がいる・・・・・・・・・・・と…」

その言葉を聞き、そういえば過去にそんなことを公言したなと李牧は苦笑を浮かべた。

宰相という立場であるせいか、その地位を欲しがる者から李牧は縁談の話を持ち掛けられることが多かった。

名家の娘を中心として、他にも名のある商人の娘だったり、王宮を出入りする評判の良い妓女など、縁談として選ばれる相手は様々なのだが、李牧はそれらを全て断っていた。

しかし、いつまでも妻がいないことを不憫に思われているのか、良かれと思って縁談を持って来る者も絶えず、苦肉の策として李牧はある女性の存在を仄めかせるようになった。

それが、病弱な許嫁という架空の存在・・・・・である。

身体が弱く、滅多に屋敷から出て来られないのだと言えば、大半の者は納得して引き下がってくれる。

側近たちにもその話をしたのだが、怪しまれることもなく、事実だと受け入れてくれた。

情報が制限されると、人は良いように想像するものだ。李牧はその体の弱い許嫁と結ばれるために縁談を全て断っているのだと話がたちまち広まり、それから縁談の話はぴたりと止んだのだった。

未だに李牧が子を持たないことも、架空の許嫁のおかげなのか、勝手に納得されていた。

名前も明かしておらず、ただ病弱だということしか伝えていないのだが、絶世の美女だとか、可憐な女性なのだとか、様々な憶測が飛び交っている。

噂が一人歩きをすると、色んな枝が生えるものだ。どうやら、一緒にいた信がその病弱な許嫁だと思われたらしい。

(ちょうど良いかもしれません)

李牧は思考を巡らせた。

「ええ、彼女がその女性です。今は許嫁ではなく、妻ですが」

妻という単語を聞いて、なぜか青ざめて悲鳴を上げる女性や、歓喜の表情を浮かべる女性がいた。

李牧に声を掛けてくれた女性は後者で、思い出したように、はっとした表情を浮かべた。

「あの、御口許を押さえていましたから、もしかして、お体の具合が優れないのかもしれません…」

「それは大変です。彼女はいつ発作・・を起こすか分かりませんので、早く連れ帰らねば…では、私はこれで失礼しますね」

李牧は簪を着物の袖の中にしまうと、足早に・・・信の姿を追い掛けた。後ろから女性客たちの羨望の視線を感じたが、李牧は一度も振り返らなかった。

我ながら上手い言い訳だと李牧は表情に出さずに自画自賛する。

病弱な許嫁は架空の存在であったのだが、実際に姿を見た者がいれば、噂にさらなる信憑性が伴う。

それでいて発作という言葉を使って、病弱な印象をさらに深められた。これによって今後、李牧に未だ子がいないことも勝手に納得されるに違いない。

信が口元を抑えていたのは恐らく顔を見られないようにするためだろうが、都合よく立ち回ってくれた。

心の中で感謝しつつも、まだ彼女を逃がす訳にはいかない。

李牧は信が向かったであろう門の方向へと駆け出した・・・・・

 

別行動その二

簪を売っている店から逃げて来た信は、スカートの歩きにくさに苛立ちを覚えていた。

あの呉服店の女当主はやり手で、身包みを剥がされるように下袴を奪われてしまったのだ。

宦官の下袴だと気づかれないだろうかと信は不安だったが、女当主は商売人であり、後宮には出入りしないと言っていた。恐らく宦官との関わりがないことを知った上で、李牧もあの呉服店の女主人を頼ったのだろう。

少しでも早く趙国から脱出したい信は構わずに門を目指した。

国に入る分には色々な取り調べがあるが、出ていく分には許可は不要だろう。李牧がいなくても何とかなりそうだ。

着物の袖で口元を隠したまま、信は俯きながら前に進む。気持ちが急いているため、意識せずとも足取りが早まっていた。

裳を踏まぬように気をつけながら、ひたすら表通りを進んでいると、近くにある酒場から出て来た中年の男とぶつかってしまった。

(うおッ!)

女性らしさの欠片もない悲鳴を寸前で飲み込んだ信だったが、勢いのあまり、尻餅をついてしまう。

(いってーな!どこ見て歩いてんだよ!)

痛む尻を擦りながらぶつかって来た男を睨み付けると、彼も同じように尻餅をついていた。

大分酒に酔っているらしく、顔が真っ赤になっている。吐き散らかしている激臭を感じ、信は思わず袖で自分の鼻と口元を覆う。

麃公が日頃から愛飲している胃が燃えるような強い酒も飲むことが出来る信だったが、その激臭には耐性がなかった。

髭面の男はふらふらと立ち上がって、信を見下ろすと、にたりと嫌な笑みを浮かべた。

立ち上がると、李牧くらい背丈のある男であることが分かる。

がっしりとした体格や、体にいくつもの傷があることから、恐らく趙兵として戦に出ている者に違いない。

男は片手に持っていた酒瓶の蓋を開けて、中に入っている酒を水のように喉を鳴らして飲み始めた。

酒場にいる店員や客たちがこちらに視線を向けている。迷惑そうな視線であることから、飲み過ぎだと店から追い出されたところだったのかもしれない。

「お嬢ちゃん、良いところの娘だな?」

まるで勘定でもするかのように頭の先から足の先まで視線を向けられ、信は嫌悪感を覚えた。

「………」

こういう酔っ払いには関わらないのが一番だと、信は颯爽と立ち上がって、無言で着物についた土埃を払う。

李牧が呉服屋の女主人に支払った金銭はとんでもない額だったというのに、土埃をつけてしまった。後で着物を返せと言われないことを願うしかなかった。

そういえば嬴政からもらった着物を着ている時でも、信は構わずに地べたに座ることがあり、その度に王賁に叱られていたことを思い出した。今度からは気を付けよう。

何事もなかったかのように男の横を通り抜けようとすると、太い毛むくじゃらの腕が信の細い手首を掴んだ。

(なんだよ、この酔っ払い!)

普段の信だったらすぐに振り払っただろう。ついでに蹴りの一発でもお見舞いしていたに違いない。

しかし、今それをするのはまずい。趙国を出るためには、何としても衛兵たちの目に留まるような目立つ振る舞いをする訳にはいかなかった。

もどかしい気持ちのまま、しかし、相手を刺激しないために沈黙を貫いていると、男が激臭を吐き散らかしながら大声で笑う。

「ちょうど酌をしてくれる相手を探していたんだ!付き合ってくれよ、嬢ちゃん。別の店で飲み直そう!」

(お、おいっ!?)

強引に腕を引っ張られ、門と逆方向へ向かっていく男に、信は狼狽えた。

宮廷へ向かう方にはまだ衛兵たちがうろついている。早く門を抜けて城下町を出たい信は両足に力を込めて踏ん張り、男の手を振り解こうとした。

しかし、意外と酔っ払いの力は強い。酒が入ると力が抜けてしまいそうなものだが、この男は元々それなりの力量を持っているのかもしれない。

傍から見れば、酔っ払いの男がどこぞの高貴な娘に絡んでいる図にしか見えないのだが、面倒事には関わりたくないのか、通行人たちは見て見ぬふりを決め込んでいる。

後宮から脱走した下女を探している衛兵たちもこんな時に限って傍にいない。だが、声を上げて助けを求めれば、信の正体に気付く者がいるかもしれない。

李牧と離れたのは間違いだったかもしれない。宰相という立場があれば、それだけで虫除けになったに違いない。

(くっそ…!)

必死の抵抗を装って脛にでも蹴りを食らわせようかと信が考えた時だった。

「嬢ちゃん、俺はなあ、秦の六大将軍の王騎が討たれる瞬間をこの目で見た男なんだぞ!」

男の言葉を聞いた信の中で、一瞬、確かに時間が止まった。

抵抗していた信がその言葉を聞いて、力を抜いたので、男は得意気に言葉を続ける。

「王騎は俺たちに囲まれて身動きが取れなくなってからも抵抗を続けてたんだ!とっとと首を差し出せば良かったのによお」

どうやら、この男は馬陽の戦いで王騎軍と戦ったことがあるらしい。

天下の大将軍と名高い王騎の姿を見ただけで、自慢げに語る者は敵にも味方にも多い。それほど父の存在はこの中華では偉大なものだった。

「本当なら魏加じゃなくて、俺の弓で討ち取るはずだったんだがなあ」

腰元に剣を携えていないのは、彼が弓の使い手だったからだ。

誇らしげにあの戦のことを語る男の様子を見る限り、どうやら天下の大将軍を追い詰めたことを武勇伝のように思っているのだろう。

信の中で、男の言葉以外の雑踏が消えていく。目の奥から燃えるような熱さを感じ、信は体が小刻みに震え始めたのを他人事のように感じていた。

馬陽の戦いで行われた龐煖と王騎の一騎打ち。弓の名手である魏加という副将が、その一騎打ちに横槍を入れたのだ。

普段の王騎だったなら背後からの射撃など容易く回避していただろう。しかし、強敵である龐煖との戦いに集中していたせいで、遅れを取った。

背中に射撃を受けた僅かな隙を龐煖は見逃さなかったのだ。

「―――」

槍で貫かれる父の姿が瞼の裏に浮かび上がり、信は思わず息を詰まらせる。

信もあの戦場に、そして王騎のすぐ傍にいた。あの時、魏加が王騎の背中に弓を向けていたことに気付くことが出来たのならという後悔は今でも止まない。

「………」

瞬きもせずに体を震わせ、何の感情も持たない虚ろな瞳を浮かべている信を見て、男が不思議そうに小首を傾げている。

もしも信が背中に剣を携えていたのなら、迷うことなく男の首を撥ねていただろう。

他の誰でもない、天下の大将軍を、秦の六大将軍の一人を、最愛の父を侮辱されて、このまま黙っていられるはずがなかった。

虚ろだった信の瞳に、憤怒の色が宿る。

「おい!何するんだ!」

―――気付けば信は男から酒瓶を奪い取っていた。

頑丈なそれを、彼女は迷うことなく、男の頭部に向かって振り上げたのだった。

 

悔恨と謝罪

小気味いい音がするのと同時に、周囲からたくさんの悲鳴が聞こえた。

「え…?」

しかし、信の視界に映っていたのは、倒れ込む男の姿ではなく、額から血を流してこちらをじっと見据えている李牧だったのだ。

酒瓶が割れて、中に入っている酒を浴びたのだろう、頭も着物も酒でずぶ濡れになっている。

どうして李牧がここにいるのだろう。信は冷たい水を頭から被せられたように呆然としていた。

(な、…んで…)

驚きのあまり、信は言葉を失ってしまう。李牧が男を庇ったのだと理解するまでには時間がかかった。

額から流れる血を手で拭いながら、李牧は何も言わずに信に背を向ける。

「大丈夫ですか?」

か弱い女に殴られると思ったのか、驚いて腰を抜かしている男に、李牧は膝をついて声を掛けた。

突然現れた宰相の存在に、周りの者たちは固唾を飲んでいる。

「ああ、さ、宰相様!」

宰相に声を掛けられたことでようやく我に返った男は、驚きのあまり、酔いが一瞬で冷め切ったようだった。

李牧の後ろにいる信を指さしながら、男が喚き散らす。

「そ、そこの女が、秦の王騎の話で逆上したのです!どこの娘かは知りませんが、厳しい罰をお与え下さい!」

敵将である王騎を庇ったかのような行動を理由に、男が信を責め立てる。

騒ぎによって注目の的になってしまった信は、拳を握りながら俯いていた。

(もう、どうでもいい)

王騎を侮辱した男が許せなかった。

父が討たれたのは李牧の軍略が原因なのだが、龐煖と対峙している最中に、趙兵が弓矢を放たねば父が負けるはずはなかったのだ。

あの場で魏加が弓矢で王騎を討たんとしたのは、趙兵たちの言葉を聞く限り、どうやら彼の独断による行動だったらしい。

あの時、矢を受けなければ、天下の大将軍である父は龐煖に負けなかった。

悔やんでも悔やみ切れない想いが、信の心にはわだかまりとなっており、未だに負の色の根を張っていた。

こうなればいっそ、この場で自分は王騎の娘だと正体を告げてやろうかと信が考えた時だった。

「…すみません、彼女は私の妻でして」

ゆっくりと立ち上がった李牧の言葉の口から、妻という単語が出て来たことに、信と男だけではなく、周りにいる者たちがざわめき始める。

こんな時に何を言っているのだと、信は驚きのあまり声を出せなかった。

偽装工作は既にしたはずだが、妻を名乗れとは言われていない。恐らく、注目を集めてしまったせいで、李牧が信の正体を隠し通すために嘘を吐いたのだろう。

しかし、こちらを凝視している者たちが「体の弱い許嫁だ」と噂しているのが聞こえ、李牧は一体いつからそんな偽装工作を仕組んでいたのだろうと考える。

宰相である李牧に、病弱な許嫁がいるというのは趙では有名な噂・・・・・・・であったため、信だけが知らないだけなのだが。

「さ、ささ、宰相様の、妻…!?」

自分を殴りつけようとした無礼な女が李牧の妻だと知った男が大口を開けている。

少しも冗談を言っているとは思えない神妙な顔で、李牧は頷いた。

「妻は滅多なことでは怒りませんし、当然、相手に手を出すことはありません。それは私が保証します。だというのに、王騎将軍の話で逆上したということですが…彼女に一体何を伝えたのですか?」

「い、いえ、その…」

険しい表情で李牧が詰問すると男は言葉を濁らせた。

先ほどまでは酔いで顔を真っ赤にしていたはずの男が、今は血の気を引かせて真っ青な顔になっている。

下手したら自分が処罰を言い渡されるのではないかと恐れているのだろう。

何も語り出そうとしない男に、李牧はわざとらしく溜息を吐いた。

「…私は卑怯で姑息な策を使い、何とか王騎将軍を討つことが出来ました。しかし、逆に言えば、そのような策を使わなければ・・・・・・・・・・・・・、彼を討つことは出来なかったということです」

信は李牧の背中を見据えながら、黙ってその言葉を聞いていた。

彼女だけではない。真っ青になっている男も、こちらを注目している多くの民が李牧の言葉に耳を傾けていた。

軍略に長けていると誰からも評価されているはずの李牧自ら、用いた策を卑怯で姑息だと言ったことに驚いている者もいる。

真っ向からぶつかれば、趙軍は王騎に敵わなかったのだと、李牧は公言した。

一騎打ちに横槍を入れたのは魏加の独断によるものだったが、どちらにせよ李牧の策によって王騎軍が苦戦を強いられたことは事実である。李牧の策さえなければ、あの父が討たれることは決してなかった。

しかし、李牧は王騎を討ち取った自分の軍略を鼻にかけることはせず、むしろ自らを蔑むように語っていた。

秦趙同盟を結ぶ際も、呂不韋に似たようなことを話していたことを信は思い出しす。

「―――王騎将軍の侮辱は、彼と同じ戦場に立っていた者として、断じて許しませんよ」

信の心に、李牧のその言葉は不思議と染み渡っていった。

父を討つ軍略を企てた憎い男だとしか思っていなかったはずなのに、なぜか今だけは、李牧が一人の軍師として信の瞳に映っていたのだった。

一切の感情を感じさせない低い声で、李牧が言葉を続ける。

「たとえ、秦国の将であろうとも、天下の大将軍である彼が、今でも偉大な存在として中華全土に名を轟かせているのは変えられない事実です。その意味を、決して忘れぬよう」

氷のような冷たさを秘める李牧の瞳に見据えられ、男がその場に膝をつく。申し訳ありませんと泣きそうな声を上げながら、地面に額を擦り付けるほど頭を下げた。

「…分かっていただけたのなら良かったです。妻には日頃からそのように言い聞かせていたので、話を聞いて逆上してしまったのでしょう。どうか、妻の無礼を許して下さい」

信は謝罪する気など微塵もなかったのだが、李牧が代わりに頭を下げた。

「とんでもございません!宰相様、それに奥様、誠に申し訳ございませんでした…!」

少しも顔を上げないまま、男は李牧と信に対して何度も謝罪をする。

先ほどまで憤怒の感情に呑まれていた信だったが、今では落ち着きを取り戻していた。

思わぬ注目を集めてしまったが、民たちは李牧と彼の言葉に意識を向けていたに違いない。

敵将の武功を認めるどころか讃える発言をした宰相に、反抗するような目つきを向ける者は一人もいなかった。

むしろ、誰もが温かい眼差しを向けており、宰相である李牧を慕っている者がこれほど多いのかと信は驚かされる。

「さ、行きましょうか」

何事もなかったかのように振り返った李牧は、穏やかな瞳と、優しい笑みを信へ向けた。

冷静になった頭で、信は李牧の頭を殴ってしまったことに、ばつが悪そうな表情を浮かべている。

「あっ…!」

彼の額からまだ血が流れていることに気付き、信が慌てる。男を殴るつもりだったとはいえ、思い切り酒瓶で殴ってしまい、額の皮膚が切れてしまったのだ。

「見た目ほど傷は深くないですから、心配は要りません。こう見えて石頭なんです」

そんなことを言われても出血しているのは事実だ。信は不安そうな表情を浮かべながら、何か出血を押さえるものを探す。

だが、彼女を安心させるように、李牧は血を流しながら笑みを深めていた。傍から見れば、血を流しながら笑う怪しい男でしかない。

早くここを去りたかったが、自分が怪我をさせてしまった手前、信はどこかで手当てを受けさせなくてはと考える。

「…おや、何だか眩暈がしますね」

「李牧ッ!」

ふらついた李牧の体を信が慌てて抱き止める。

出血の量はさほどひどくないように見えたが、頭部からの出血ということもあって決して油断は出来ない。一切の加減をせずに殴りつけたため、何かあってもおかしくはないと信は不安になった。

「ああ、すみません…少し休めば、すぐに良く…」

途中で言葉が途切れた後、どうやら意識を失ってしまったらしく、李牧の体が脱力する。信は奥歯を噛み締めて踏ん張った。身長差も体格差もあるせいで、信一人だけでは完全に支え切れない。

(くそ…!宮廷に戻るしか…!)

王族が住まう宮廷になら常駐の医師がいるだろう。宰相の立場ならば、すぐに診てくれるに違いない。

宰相が意識を失ったことに、周りにいる民たちはざわめいている。

こうなれば李牧の妻を演じ切り、誰かの手を借りるしかないと信が意を決した時だった。

「…こちらでしたか」

背後から凛とした声が響き、信は李牧の体を支えながら振り返った。

 

宰相の将

そこにいたのは、李牧が従えている趙将の一人、慶舎だった。

(なんでこいつが…)

李牧の体を抱えながら、信は顔を強張らせる。

秦趙同盟が結ばれたあの日、慶舎は秦国へ来ていなかったこともあり、信の素顔を知らないはずだ。

信自身もそれを分かってはいるのだが、まるで人形のように表情を変えない慶舎に、全てを見透かされているような気持ちになってしまう。

こちらが動揺していることに気付いているのかすら、信には分からなかった。

「………」

信に支えられながら、ぐったりと動かない李牧を見て、慶舎が近づいて来る。

正面から李牧のことを支えている信を退かせると、慶舎は彼の右脇に手を差し込んで、体を支えた。

「…李牧様の指示で馬車の用意をしてあります。こちらへ」

慶舎と目が合うと、礼儀正しい言葉で声を掛けられ、信は目を丸めた。彼の態度から考える限り、恐らく信の正体には気付いていなさそうだ。

李牧が馬車を用意するよう指示を出していたようで、信は戸惑いながらも慶舎の言う通りに従う。怪我をさせた手前、このまま李牧に謝罪もせず趙を去ることはしたくなかった。

「ど、どこに…?」

傷の手当てを最優先にしたかったのだが、馬車で宮廷に戻るのだろうか。信が疑問を口にすると、慶舎は「李牧様のお屋敷です」と表情を変えないで答えた。

「医者の手配もすぐに行いますので、ご心配なさらず」

信の心を読んだかのように、慶舎が告げる。信は頷いて、慶舎とは反対の李牧の左側に立って、彼の体を支えた。

慶舎も将軍ではあるが、李牧の体格には及ばない。二人で運んだ方が早いと信は李牧の体を支える腕に力を込める。

少し進んだ先に慶舎が言っていたように馬車が停まっており、彼の力を借りながら、信は李牧の体を馬車の中へ運んだのだった。

馬車で移動している最中も、李牧は一度も目を覚まさなかった。

 

後編はこちら

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七つ目の不運(李牧×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

六つの不運

その日、信に起きた不運といえば、その数は六つ・・にも上る。

一つは、いつも背に携えている秦王から授かりし剣を置いて宴に出てしまったこと。

そして、酒の酔いから醒められず、外で深い眠りに落ちてしまったこと。

その後、広野で大の字で眠っているところを、通りがかった奴隷商人に目をつけられてしまったこと。

泥酔して眠り続けたせいで、奴隷商人の馬車が引く檻の中に乗せられていたことに気づけなかったこと。

それらの不運が重なり、信が目を覚ました時には、敵国である趙に連れて来られていた。

信にとって最大の不運は、秦の大将軍である自分が、趙の後宮に下女として売り飛ばされたことだった。

これこそが、六大将軍である彼女が経験した、六つの不運である。

 

趙の後宮

趙の悼襄王が美少年たちを侍らせる男色家なのは信も知っていた。

秦趙同盟を結ぶ前、呂不韋が悼襄王の寵愛を受けている春平君という美少年を捕らえ、趙の宰相である李牧が秦に赴いたことは、そう遠い記憶ではない。

信が放り込まれた後宮には多くの美女の姿が多くあったが、悼襄王がこの後宮に訪れることは滅多にないという。

遷と嘉という公子がいると聞いていたが、妃たちも悼襄王の趣味は理解しているのだろう、特に不満を抱いているような様子は見られなかった。

互いに子孫を残さねばならない義務はもう果たしたつもりなのだろうか。

王のために喜んで体を差し出す美女が大勢いるとしても、寵愛を受けられるのは美少年たちばかり。

(いや、そんなことはどうでもいい)

信が今考えるべきは、この後宮からの、趙国の脱出である。

秦の大将軍である彼女の名は、今や中華全土に轟いている。

信は母の摎と同じように、仮面で顔を隠して戦に出陣していた。

そのおかげで後宮の中を歩いていても、信が秦の大将軍であると気づく者は一人もいなかった。不幸中の幸いとはまさにこのことだ。

趙国で自分の素顔を知っている者といえば、宰相の李牧とその側近くらいである。

秦趙同盟の後に行われた宴の席で、信は仮面を外した。

趙の一行に宴を盛り上げるための妓女だと思われたのは未だに納得いかないが、背中に携えていた剣に見覚えがあったのだろう、李牧はいち早く信が飛信軍の女将軍だと気づいたのだ。

…今はまだ秦趙同盟の期間であるが、父である王騎を討つ軍略を企てた男がいる地に、長居する気などなれなかった。

不可抗力とはいえ、趙国の土を踏むことになるなんて思いもしなかった。

あくまで同盟は建前として結ばれたものだが、敵であることには変わりない。

秦の大将軍が邯鄲に潜んでいるとなれば、何を企んでいるんだと疑われるに違いない。もしかしたらこれをきっかけに秦趙同盟が解消されるかもしれない。

酒に酔って外で寝ていたところを、奴隷商人に誘拐されて、下女として安い金額で売られたなんて口が裂けても言えないし、誰もそんな話を信じようともしないだろう。

何としても、正体に気付かれずに脱出しなくてはならない。

(早く帰らねえと、みんな心配してるだろうな…)

後宮は基本的に王族と女性、それから宦官しか出入りが出来ない。

下女としてこの後宮に売り飛ばされてから、与えられた仕事をこなしながら宦官たちを見て来たが、腕っぷしが強そうな者はいなかった。

元は男であったとしても、信を取り押さえられそうな力を持つ宦官はいないようだが、下手に騒動を起こせば正体を気づかれるかもしれない。

まさか下女の正体が秦の大将軍などとは誰も思うまいが、念には念を入れなくてはと信は考えた。

万が一、正体に気付かれれば騒動になるのは避けられない。

信がここに連れて来られた経緯に、奴隷商人に売り飛ばされたなどと誰が信じるものか。

女の立場を利用して、趙の後宮に忍び込み、悼襄王を暗殺しようとしたなどと疑いを掛けられるだろう。

疑いを晴らすこともできず、秦趙同盟の解消の証として自分の首が秦国へ送られるかもしれないと思うと、信の背筋はたちまち凍り付いた。

(ここを出て、李牧と側近たちに会わなきゃ何となるだろ)

宰相である李牧と、彼の側近たちには顔を知られている。

彼らが後宮を出入りすることは絶対にないが、後宮は宮廷の中にあるため、後宮の外で遭遇する可能性も考えられる。

宰相という立場に就いているのだから、首府である韓皋に李牧が出入りしていてもおかしくはない。

(あー、とっとと抜け出さねえと…)

きっと秦国では今頃、自分の失踪事件で大騒ぎだろう。

宴で気分良く酒を飲み、仲間たちの忠告も聞かずにふらふらと外を歩いたことを信は今になって後悔した。

酒に強いと自負していた自分の失態である。戻ったら嬴政たちに何と言い訳をしようと考えながら、信は大量の着物を洗濯していた。

「信、これもお願い!」

「おう。そこに置いといてくれ」

顔見知りとなった下女が籠に、化粧と香でむせ返るような匂いが染みついた洗濯物を積み重ねていく。後宮内の女官たちの着物だった。

元々下僕出身である信はこういった下仕事には経験があり、まだ後宮に連れて来られて数日ではあるが、上手く下女たちに紛れることが出来ていた。

偽名を使おうかとも考えたが、別に珍しい名前でもなかったし、まさかこんなところに秦の六大将軍の一人がいるだなどと誰も思わないだろう。

信は名を変えずに、ただの身売りされた下女として仕事をこなしていた。

水桶の中で洗濯物をごしごしと擦りながら、信は辺りを見渡す。

同じように仕事をこなしている下女たちと、宦官が数人歩いているのを確認した信はさり気ない仕草で、籠の中に入っている着物の一つを自分の着物の中に隠したのだった。
隠したのは宦官の下袴である。

信は幼い頃から男勝りで、下袴を穿いて行動していた。

女性の着物だとお転婆が過ぎることもあり、見かねた摎が男物の下袴を穿かせたのをきっかけに、その習慣は今でも続いていた。

しかし、秦王・嬴政の前や、宴の席などではきちんと身なりを整えるよう、王騎からは口酸っぱく言われていた。

もしもあの宴の日に身なりを整えず、普段通り男物の格好をしていたら後宮に売り飛ばされることはなかったに違いない。

下女たちは仕事服として同じ着物を与えられる。着物と身なりで役職が定められているのは秦も趙も同じだった。

もしも今の格好のまま脱走して誰かに見つかれば、後宮の下女が逃げ出したとして騒ぎになるだろう。

敵国である以上、何としても決して目立つ訳はいかなかった。

秦の大将軍である自分が下女として後宮に売り飛ばされたなんて、とんだお笑い種である。死んでも死に切れない。

この失態は墓まで持っていこうと信は心に誓った。きっとあの世にいる父と母は、今頃呆れているに違いない。

 

悼襄王の勅令

(はー、終わった終わった)

水をきつく絞った洗濯物を籠に載せ、信は立ち上がる。

次は日当たりの良い場所に今度は洗った洗濯物を干す作業だが、着物の中に隠した下袴を落とす訳にもいかず、厠へ行くフリをして、信は洗濯場を離れた。

人目のつかないところまでやって来た信は、隠していた男物の下袴を取り出し、スカートの下から足を通す。

腰紐をきつく結んで、裾を膝の辺りまで上げておけば、外見は下女の着物のまま、何ら変わりない。

信は何事もなかったかのように洗濯場へと戻り、先ほど洗った着物を干す作業へと移った。

(よし。あとは機を見て後宮から脱出だな…!)

下女が堂々と後宮の入り口を通る訳にもいかないので、信は後宮を取り囲んでいる壁をよじ登って外に出ると決めていた。

下女の仕事をこなしながら、信は既に後宮から外に出られそうな場所に目星をつけていたのだ。

後宮を探索している時に、自分が二人立ったくらいの高さになっている壁を見つけたので、全員が寝静まった夜中にそこを飛び越えて後宮を脱出する手筈である。

あれくらいの高さならば勢いをつけて壁を蹴れば、手が届くだろう。

壁をよじ登った先で下女の着物を脱ぎ、あとはなるべく人目につかぬように韓皋の宮廷を脱出すれば、後はどうにでもなる。

皺を伸ばしながら着物を干していると、奥の方から人々のざわめきが聞こえた。

(ん?なんだ?)

ざわめきが聞こえる方を見ると、人だかりが出来ていることに気付き、信は小首を傾げる。

「大王様よ!早く頭を下げて!」

近くにいた女官に言われ、信は反射的にその場に膝をついた。

男色として知られている悼襄王が後宮に来るのは珍しい。後宮にいる二人の妃の顔を見に来たのだろうか。

その場にいる者たちが誰もが頭を下げ、信もそれに倣いつつ、悼襄王へちらりと目を向けた。

(やべ…!)

一瞬だけ目が合ってしまい、信は反射的に瞼を下ろす。

悼襄王たち一行の進行方向とは違う位置にいる自分の前に、複数の足音が近づいて来るのが分かった。目をつけられてしまったようだ。

(まずったな)

信は額に冷や汗を浮かべた。無礼だと処罰を言い渡されるかもしれない。

大王にとって下女の命など、その辺の石ころと何ら変わりない価値なのだ。

嬴政は低い身分の者であっても、絶対に命を軽んじることはないのだが、悼襄王がどんな人物か信はよく分かっていなかった。

顔に影が落ちて来て、目の前に悼襄王が立ったのが分かった。

「…そこの下女、顔を上げよ」

やはり無礼だと処罰が下されるに違いない。

もしも処罰を言い渡されたのなら、その騒ぎを利用して後宮から逃げ出そうと考えた。

打ち首はごめんだが、百叩きの刑くらいならば問題はない。その苦痛に耐え切れなかったとして、後宮から下女が一人脱走したとしても何ら怪しまれることはないはずだ。

信は諦めて目を開き、命じられるままに顔を上げた。

男にしては病的に白い肌は、建物からあまり出ていない証拠だろう。

病的な肌に見合った筋力のなさそうな細い体には上質な布で出来た着物と、陽の光が反射して目が痛くなるような宝石で彩られていた。

まるで狐のように細い瞳から発せられる、からみつくような視線に、信は鳥肌を立てる。

もしもこの場で首を斬られようものなら、従者である宦官の剣を奪い取って、混乱に乗じて逃げるしかないかと考えた。

「………」

発言の許可を得ていないので、信は黙って悼襄王を見つめていた。

顔を上げるように命じておきながら、悼襄王も信のことをじっと見つめるばかりで何も話そうとしない。

美貌も後ろ盾も持たぬ下女に大王自らが声を掛けるのは異例の出来事であり、辺りにいる下女たちも宦官も、物珍しい視線を送っている。

「そなた、今宵、私の部屋に来い。化粧はするなよ・・・・・・・

「……はっ?」

信はぽかんと口を開け、悼襄王へ聞き返していた。

しかし、彼は同じ言葉を告げることなく、宦官たちと行ってしまう。その場に残された信はただ茫然としていた。

大王たちの姿が遠ざかると、止まっていた時間が動き出したかのように賑わいが戻って来た。

(なんだ?趙の後宮の下女って、大王の部屋の掃除とかもすんのか?でも、なんで夜?)

悼襄王の命令の意味を理解出来ないでいる信に、後宮へ連れて来られた時から仕事を教えてくれた同僚の下女が駆け寄って来る。

「信、良かったわね!大出世・・・じゃない!後宮に来て、まだたった数日なのにすごいわ!」

「は?な、なんでだよ?」

悼襄王に呼び出されたことと大出世という言葉が結びつかず、信は顔をしかめた。

本当に何も分からないでいる信を見て、同僚の下女が呆れたように肩を竦める。

「今のは夜のお誘いよ!悼襄王様はたくさん稚児を侍らせていることで有名でしょう?だからあなたを気に入ったのね!」

「………」

だからという順接に、信は顔を引き攣らせる。

つまり、その目つきの悪さと化粧もしていない少年のような風貌が悼襄王のお気に召したのだと遠回しに言われ、信の思考はしばらく停止していた。

信は思い出した。後宮とは、大王の世継ぎを産むために作られた制度・・・・・・・・・・・・・・・・・・であることを。

 

後宮からの脱走

その後、後宮と外宮を出入りしている宦官から信は呼び出された。

(ふざけやがってッ!)

夜には悼襄王の寝室へ向かうため、隅々まで体を清めるようにと言われ、本当に伽の命令だったのだと信は絶望する。

秦の大将軍である自分が、趙の世継ぎを作るための道具にさせられるという訳だ。

陽が沈んだ頃に迎えに行くと言われ、何かの間違いだと信は宦官に縋りついたが、哀れみを込めた視線で首を横に振られると、まるで「諦めろ」と言われているようだった。

どこの国でも大王権力というのは絶対なのである。

「ねえ、どの子?」

「あの子だって!」

数日前に奴隷商人から身売りされて後宮にやって来た身寄りのない下女の大出世に、後宮にたちまち噂が広まった。

男色家で有名な悼襄王が見初めた下女が一体どんな女か気になった女官や下女たちが、わざわざ仕事を抜け出して、信の姿を見にやって来る。

「へえ、あの子なんだ…」

「確かに、大王様が好みそうね…」

しかし、誰もが信の顔を見て、彼女たちは納得したように仕事へ戻っていくのだった。

自信と美貌に満ちた女性だったのならば、とことん見る影もなくなるほど嫌がらせをしてやろうと考えていたに違いない。

しかし、化粧っ色もなく、生まれつきの目つきの悪さと、幼い頃から戦場に身を置いて来た傷だらけの身体を持つ女など、同じ土台に立つ価値もないと思われたようだ。嫉妬の対象にすらならないらしい。

(なら代わってくれよ…!俺は何としても目立つ訳にはいかねえんだからよッ!)

普段のように下袴を穿いて剣を振るっていれば当然、男だと間違われるし、信も彼女たちの好奇な視線には興味がなかった。

それに伽を命じられたことで、何としても今日中に後宮を脱出しなくてはならないと危機感を抱き、それどころではなかったのだ。

六大将軍の王騎と摎の養子であり、天下の大将軍の娘とその名を轟かせた信がどんな存在なのか気になっている者はこの中華全土に多くいる。

秦国でも、戦場でもそのような者たちから好奇な視線を向けられ続けていたことで、慣皮肉にも信は慣れていたのだ。

本当ならば陽が沈み、皆が寝静まった夜中に後宮を抜け出すつもりだったのだが、信はその計画を取り止めた。

このまま夜中まで時が過ぎれば、後宮の外ではなく、悼襄王と共に褥の中にいるかもしれないと思うと恐ろしさのあまり鳥肌が立つ。

こうなれば夜まで待つことはせず、人目を避けて後宮の外に脱出しようと信は誓った。

「な、なあ、仕事終わったんだけど、他に何かないか?届け物とかあるなら行ってやるよ」

洗濯の仕事を終えたのは事実だ。信は近くにいる同僚の下女たちに声を掛けた。

悼襄王の伽を命じられて、有頂天になっている様子は微塵もなく、謙虚に事をこなす信の姿に心を打たれた下女たちが穏やかな笑みを浮かべる。

「ありがとう。それじゃあ、これを診療所へ届けてくれる?」

丁寧に畳まれた洗濯物が入った籠を渡され、信はそれを両手でしっかりと受け取った。

「ああ、任せろ!」

診療所という言葉を聞いて、信の心に光が差し込んだ。脱出の目星をつけていた壁があるのは診療所に向かう道にあるからだ。

両手にこの洗濯物を持っていれば、何食わぬ顔で診療所へ向かっていても何ら怪しまれることはない。

仕事を教えてくれた同僚の下女たちに心の中で別れを告げ、信は洗濯物を抱えて走った。

(…よし)

診療所へと向かう道の途中で小道に入り、目星をつけていた壁の前に立つ。

訳も分からぬまま後宮に身売りされてしまったので、この壁の向こうがどうなっているのかは分からない。恐らく宮廷のどこかに繋がっているのだろう。

信は物陰に身を潜めながら、下女の裳を脱いだ。

ふんだんに布が使われている裳ではなく、宦官の下袴になると、途端に動きやすさを実感する。

「…よし」

丁度、休憩の時間ということもあり、下女や宦官たちの姿はない。

頼まれていた洗濯物を人目の付きそうな場所に置いてから、信は後宮からの脱走計画を実行する。

壁から十分に距離を空け、深く息を吸ってから全速力で駆け出した。

「たあッ!」

助走をつけて、信は壁の手前で地面を力強く蹴った。勢いを落とさずに今度は壁を蹴りつける。

屋根に手が触れた途端、絶対に放すまいと、信は腕に血管が浮き立つほど強く掴んだ。

「うっ…く…!」

腕力だけで自分の体を持ち上げ、屋根に足を掛けてよじ登る。

浮いていた足裏がしっかりと屋根につくと、信は後宮からの脱出が成功したのだと思わず歓声を上げそうになった。

「―――そこで何をしているのですか?」

「!?」

下から男に声を掛けられて、信は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

後宮で人目に触れなかったものの、後宮から一歩外に出れば宮廷である。下女や宦官以外の者たちが居たとしてもなんら不思議ではない。

逆光のせいで男の顔はよく見えなかったが、こちらを見上げているのは分かった。

騒ぎになっては信がまずいと、声を掛けた男を何とか黙らそう考える。

無関係の者に手を出すのは気が引けるが、自分の首が掛かっているのだから、仕方がない。

意識を失う程度に加減して急所を突こうと考え、信が屋根から降りようとした時だった。

「女ッ!そこで何をしている!

「やべッ!」

後宮の方から宦官の怒鳴り声を聞きつけ、まさか宮廷と後宮から同時に脱走が見つかることになるとは思わず、信は動揺した。

捕まったら終わりだ。

悼襄王の伽を強要されるのも、敵国で無様に首を晒すことになるのもどちらも嫌だった。何としてもこの場から逃げ出さなくては。

「うおぉッ!?」

動揺のあまり、せっかく登った屋根を踏み外してしまう。

降りようと思っていた宮廷の方に身体が大きく傾き、しまったと思った時には体が浮遊感に包まれていた。

激痛を覚悟して、信は反射的に目を瞑った。

趙の宰相

悲鳴を上げることもできず、信は屋根から落下していった。

覚悟していた激痛は少しもなく、代わりに力強い何かに包まれているような感覚がある。

「?」

ゆっくりと目を開けると、そこには信が今は一番会いたくない人物の顔があった。

「…少々お転婆が過ぎるのではないでしょうか。ここはあなたの母国ではないのですよ」

「―――」

驚愕のあまり、信は顔から血の気を引かせて、悲鳴と言葉を喉に詰まらせる。

趙の宰相、李牧。彼こそが今、信の体を抱きかかえている男の名前だった。

今日まで起きた不運の連続。七つ目の不運が何かと尋ねられたなら、信は間違いなく、李牧と出会ったことだと答えただろう。

「―――下女が脱走したぞ!」

「あの女は逃がしてはまずい!何としても連れ戻せ!」

壁の向こうにある後宮から、宦官たちの少し高い声とざわめきが聞こえる。

このままだと彼らがここまで駆けつけて来るかもしれない。信は焦燥感を覚え、李牧の腕の中で暴れた。

「お、下ろせッ!」

じたばたと手足を動かすと、李牧は苦笑を浮かべながら放してくれた。

しかし、すぐに逃げ出そうとした信の腕を力強く掴む。解放してくれる様子がないことに、信は冷や汗を浮かべた。

「受け止めたことに対するお礼がないのは構いませんが、こちらとしては色々と伺いたいものですね」

李牧があえて信の名前を口に出さないのは正体を見抜いているからであることと、周りにいる者たちに聞こえれば、混乱を招くことを理解してのことだろう。

後宮に務める下女と、後宮に出入り出来ない宰相が関係を持つはずがない。

そこから下女の正体を怪しみ、飛信軍の信だと気づく者が現れないとも限らないだろう。

とはいえ幸いにも、後宮から信が脱走するところを目的してたのは、宮廷で李牧だけだったようだ。

降りた先が、元々人通りの少ない裏道だったのは幸いだったのかもしれない。だが、信にとって李牧との遭遇はこれ以上ない不運であった。

「これは一体どういう状況でしょう?」

「ふ、不運が重なったんだよッ」

その言葉でしか言い表せない。

「………」

李牧が口元に手を当てながら何かを考えている。彼は思考を巡らせる時によく口元に手を運ぶ癖があった。信が言う不運とは何かを考えているのだろう。

しかし、少しも答えが分からなかったようで、彼は残念そうに肩を落とした。

「…どのような不運が重なったら趙の後宮に来れるんです?それに、下女だと聞こえましたが…まさか働いていたんですか?あなたが?」

ぐっ、と信が奥歯を噛み締める。

聡明な李牧であっても答えを導き出せないのは当然である。信だって目を覚ました時は何が何だか分からなかったのだから。

「うるせえなッ!お前に関係ねーだろ!」

父の仇とも等しいこの男に、一から十まで詳細は語りたくなかった。

騒ぎが大きくなる前にここから早く逃げなくてはと思うのだが、李牧は信の腕を放そうとしない。

「ここに後宮から逃げ出した下女がいますよー」

信の腕を掴んだまま、李牧は人通りの多い道に向かって大きな声を上げた。

「てめえッ、静かにしろ!!」

掴まれていない方の手で信は李牧の胸倉を掴んで凄んだ。少しも怯む気配を見せないどころか、李牧は再び人通りの多い道の方に顔を向けた。

「みなさーん、急いで兵たちを呼んでくださーい」

「わかった!わかったから黙れ!このバカッ!」

必死な形相で信がそう言うと、李牧はそれを待っていたと言わんばかりに人を呼ぶのをやめて、笑みを浮かべた。

秦趙同盟の時もそうだったが、この男の笑い方が信はどうしても好きになれなかった。

まるで全てを見越しているかのような恐ろしさがあり、全てを知っていることを告げずにこちらを躍らせているような、嫌な気分になる笑いだからだ。

「それで、どうしてあなたがここにいるのですか?

李牧に名前を呼ばれて、信はたじろいだ。

先ほどまでは名前を呼ばなかったくせに、まるで、ここにはお前の味方など一人もいないのだぞと知らしめているようだった。

「だ、だからっ、色々、不運が重なったんだよ…」

天下の大将軍の娘として中華全土に名を轟かせている信が、まさか奴隷商人によって後宮に身売りされたなど、李牧が信じるとは思えなかった。

李牧だけじゃない。この話を聞いた者たち全員がありえないと言うに決まっている。

それに、今日までの経緯は墓まで持っていくと誓った秘密であり、信はそう易々と打ち明ける訳にもいかなかったのだ。

「みなさーん、後宮から逃げ出した不届き者がここにいますよー」

「てめえ、からかってるだろ!」

自分の欲しい情報が手に入らないと分かるや否や、李牧は何の躊躇いもなく信を差し出そうとする。

腹立たしい男だが、趙では宰相として多くの兵や民から慕われている男だ。

その宰相の言葉を信じるに違いない。そもそも、敵国の女将軍の言葉に耳を貸す者などいるはずがないのだ。

このままでは本当に人が集まってしまうと思い、信は意を決して、李牧にこれまでの経緯を語り始めた。

いっそ全てが夢だったら良かったのにと、趙に連れて来られてから何回も考えていたことを願うのだった。

協力者

敵国で首を晒されるよりも辱めを受けた気分になった信は、顔を真っ赤にしながら、李牧の笑い声に耐えていた。

李牧自身も笑いの最中、「すみません」と少しも申し訳なさそうに思っていない謝罪を挟んでいる。抑えようとしても笑いが溢れて止まらないらしい。

ここが趙国でなければ信は両手で彼の首を締め上げていたに違いない。

笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、李牧はようやく笑いが落ち着いたようだった。

「…連れてくなら、さっさとしろよ」

笑われただけでなく、このまま衛兵たちに身柄を差し出されるのだろうと信は覚悟したようだった。

真っ赤な顔をして俯きながら体を震わせている信を見て、李牧は同情するように目を細める。

「事情が事情ですから、そんなことはしませんよ」

「は?」

兵たちに身柄を渡すことはしないと言った李牧に、信はぽかんと口を開けて聞き返した。

「見たところ、武器は持っていませんし、将軍であるあなたが情報欲しさに潜入なんてするとは思えません。…それに、あなたに限って、大王を暗殺なんて卑怯な真似はしないでしょう?もしそうなら、喜んで伽を引き受けたに違いありません」

穏やかな眼差しを向けられ、信はまさか今の話を信じるのだろうかと疑った。

自分の口から告げたのは確かに事実だが、信じるかどうかは聞いた側の判断に委ねられる。

天下の大将軍の娘が奴隷商人に捕まって下女として身売りされるなんて誰も信じないだろうと思っていたので、信は純粋に驚いた。

「奴隷商人を管理できていなかったこちらにも責任はあります。その詫びと言ってはなんですが、趙国を出る手伝いをさせてください」

何はともあれ、一番警戒していた宰相の李牧を味方にすることが出来たらしい。

一時的なものとはいえ、趙から脱出するにはこれ以上ない戦力だ。信はほっと安堵した。

「…しかし、あなたは宦官たちに顔を見られていますから、このまま宮廷と城下町を歩くのは危険ですね」

壁の向こうにある後宮では随分な騒ぎになっているようだが、広い宮廷に報告がいくまで随分と時間が掛かっているのだろう。兵たちが宮廷を走り回っている様子はまだなかった。

冷静に考えれば、宦官が衛兵たちに下女の脱走を知らせるために宮廷へ走るのも、知らせを受けた兵たちが情報を頼りにここまで駆けつけるまでにはそれなりに時間が掛かる。

きっと李牧が先ほど、大声で衛兵に呼び寄せていたのは、それを見越してのことだったに違いない。

衛兵たちがすぐに信を追って来ないことを知った上で、信の動揺を煽り、彼女の口から情報を聞き出したのだ。

この策士の手の平で踊らされていたことに信はむかむかと腹を立てたが、今となってはもうどうしようもないことだ。

「抜け道とかねえのかよ」

信が辺りを見渡す。李牧は笑いながら首を横に振った。

「そんなものがあったとしても教えませんよ。攻め込まれたらどうするんですか」

「………」

趙からの脱出を手伝う意志を見せ、信が卑怯な真似をしないとは分かっているくせに、やはり宮廷の構造を敵に知られるのはまずいと思っているらしい。

そもそも抜け道の有無さえも言わない辺り、本当にこの男は口が堅く、そして交渉に長けている。

認めたくはないが、父が討たれたのも納得出来る頭脳の持ち主だ。

「それでは、兵たちの目を欺くために、まずは偽装工作をしましょう」

「偽装工作?」

ええ、と李牧が頷いた。

「あなたが悼襄王の伽を命じられたのなら、兵は何としてでもあなたを捕まえに、宮廷の外まで探しに来るでしょう」

だから兵たちに気付かれないようにその姿を隠すのだと李牧は言った。しかし、信は納得が出来ず、小首を傾げる。

「そんなこと言われたって…どこに隠れてりゃ良いんだよ。近くにお前の屋敷でもあんのか?」

「何も隠れるというのは身を潜めておくだけではありませんよ。さ、急ぎましょう。そろそろ報せを受けた衛兵たちが人数を集めてやって来ますよ」

李牧が歩き出したので、信は慌てて彼の背中を追い掛けた。

途端に、彼が眉間に皺を寄せて足を止めたので、何かあったのだろうかと信は目を見張る。

「どうした?」

問い掛けると、李牧はその場に屈んで右足首の辺りを擦っていた。

「…いえ、先ほど貴女を受け止めた時に、少し足を捻ってしまったようです」

軽々と受け止めてくれたように感じていたが、信は落ちた時に強く目を瞑っていたので、李牧が苦痛に顔を歪めていたのか分からなかった。

「えっ…だ、大丈夫か?」

その瞳に不安の色を宿し、信が声を掛ける。立場は敵同士であるとはいえ、自分を受け止めて怪我をしたとすれば、自分に非がある。

李牧は人の良さそうな笑みを浮かべた。

「そこまで酷いものではありませんが…そうですねえ、もしかしたら、時々手を借りるかもしれません」

「あ、ああ。分かった」

それくらいなら、と信は何の疑いもなく頷いた。

「では、行きましょう」

李牧の先導によって、信は後宮脱出の後、宮廷の脱出に成功するのだった。

偽装工作

宮廷を出る時には門番を務める衛兵たちがいるのだが、宰相である李牧の姿を見ると、すぐに通してくれた。

後ろを歩いている信は下袴を穿いており、少年のような風貌から、李牧の側近か見習いの軍師であると誤解したようで、特に詰問されることはなかった。

「ふあー…やっと外の空気が吸えたぜ」

多くの民で賑わっている城下町を歩きながら、信が長い息を吐く。ぐーっと両腕を伸ばし、いかにも解放されたという顔つきだった。

まるで牢獄から出て来た囚人のような言葉を聞き、李牧は唇に苦笑を浮かべた。

「後宮だってそう狭い場所ではないでしょう。私は入ったことはありませんが…」

「どれだけ広くたって壁で仕切られてるんだぜ?牢獄と同じ・・・・・だろ」

彼女の言葉を聞き、確かにそうだと李牧は納得したように頷く。

後宮に住まう女性たちを、籠の中の鳥だと比喩していたのは後宮に住まう女性たち自身であったが、それとも彼女たちを傍で見る宦官の言葉だっただろうか。

後宮の美女たちは王のために用意された存在だ。

だというのに、悼襄王といえば彼女たちには見向きもせずに美少年たちを侍らせている。

まさか信の風貌を見初めて伽を命じることになるとは思わなかったが、そうなると悼襄王の趣味はますますよく分からないものであった。

戦のために多くの知識を得て来た李牧だが、唯一分からないことと言えば、自分が従える悼襄王の趣味くらいだ。

歩いていると、目的の店が見えて来た。

「ああ、見えて来ました。まずはあそこに寄りましょう」

「ん?」

呉服店であることに気付いた信が目を丸めている。

彼女としてはもう宦官の下袴を穿いていることで変装したつもりになっているらしいが、顔も知られていることから、それだけでは当然気づかれてしまう。

だからこその偽装工作であった。

久しぶりに顔を出した呉服店の年老いた女主人は、宰相である李牧の来店に大層喜んでいた。

先ほどから歩いている時にも李牧に「宰相様」と喜んで声を掛ける民や、李牧を見て笑顔を浮かべる民が多くいた。

よほどこの国では慕われているのだなと思いながら、信は複雑な気持ちを胸に浮かべる。

父の仇だと憎んでいるこの男も、この国では英雄扱いをされているのだ。李牧だって趙国を守るために軍略を使って王騎を討ったに過ぎない。

守るべきものが違えば、守るべきもののために戦は避けられない。それぞれの国に住まう民たちや生活があるとしてもだ。

「すみません。今日はお願いがあって参りました」

人の良さそうな笑みを浮かべながら、李牧が信の肩に手を回す。

「彼女に、似合う着物を見立てて欲しいのです。これから私の家臣たちにも挨拶をさせるので、なるべく良いものを見立てて下さるとありがたいのですが…」

「えっ」

信は驚いて李牧を振り返った。家臣たちに挨拶という言葉が気になったのだが、恐らくそれは李牧の嘘だろう。

(なるほどな…)

逃げた下女に服を与え、匿ったとなれば店の主も処罰を受けることになるかもしれない。
上手い言い訳を考えたものだと信はいっそ感心してしまった。

年老いた女主人は信のことをじろじろと見つめ、少ししてから、李牧が言ったように「彼女」…つまり信が女であると察したようだった。

「なるほどねえ」

女主人が顔に深く刻まれている皺をより深くして、にやりと笑った。

その恐ろしい笑みに信は嫌な予感がして、つい後退る。

しかし、李牧の骨ばった大きな手が信の背中を押さえたので、逃亡はそこで終わってしまう。

「それでは、後ほど迎えに来ますので。よろしくお願いします」

「えッ!?お、おい!?」

急に一人にされることが分かって不安になった信は李牧を呼び止める。

しかし、彼は笑顔で手を振ると、呉服屋を後にしたのだった。

 

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