- ※信の設定が特殊です。
- 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
- 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
- 李牧×信/ギャグ寄り/甘々/趙後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.
苦手な方は閲覧をお控え下さい。
李牧の屋敷
屋敷に到着すると、すぐに医師がやって来た。初老の医師で、李牧とはそれなりに長い付き合いらしい。
寝台へ寝かせた李牧の傷口の状態や、脈を確認し、手慣れた手つきで処置を行っていく。
この屋敷に来るまで時間が経っていたせいか、額の傷は縫合するほどではないとのことで、軟膏を塗布した後は清潔な布を宛がい、包帯を巻いて様子を見ることになった。
頭を強く打ったことは大丈夫なのかと信が医師に尋ねると、眼球を見る限りそういった心配はないと医師に言われ、彼女はようやく安堵することが出来たのだった。
あの時は酔っ払い男に父を侮辱された怒りのあまり、手を出してしまったのだが、これで李牧の命を奪ってしまったらと思うと、とても夢見が悪かった。
こんな形で父の仇を討っても、恨みが晴れることはなかっただろう。静かに寝息を立てている李牧に、信は複雑な気持ちを抱いていた。
処置を終えた医師は屋敷で働いている李牧の従者たちと何やら話をするために部屋を出て行った。
医師の手配と馬車の用意をしていたという慶舎は部屋に来ていなかったこともあり、今は李牧と二人きりである。
「はあ…」
寝台のすぐ傍にある椅子に体を預け、李牧の寝顔を見つめながら、信は溜息を吐いた。
こんな騒ぎを起こしておいて、趙国から出るどころではない。あの場は李牧が上手く収めてくれたとはいえ、彼に謝罪も告げないで趙から去る訳にもいかなかった。
普段の態度はがさつでも、こういう律儀な性格だからこそ、信は多くの兵や民に慕われているのだ。
「う…」
小さな呻き声がするのと同時に、眠っている李牧の瞼が鈍く動いたので、信は思わず彼の名を呼んでいた。
「李牧!おい、しっかりしろ!」
ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、現れた瞳がぼうっと天井を見つめている。それから隣にいる信へと視線が動いた。
「信?ここは…」
信は扉の方に一度視線を向けて、この場に自分たちだけしかいないことを確かめてから答えた。
「お前の屋敷だよ…慶舎と俺で連れて来たんだ」
配下の名前を聞き、李牧は納得したように頷いた。
酒瓶で殴られた額が痛むのか、李牧が苦悶の表情を浮かべる。包帯を巻かれている額に触れると、彼は全てを思い出したように瞬きを繰り返した。
「…そうでした。あなたが着替えている間、慶舎に馬車の手配を頼んでいたんです」
城下町を出たらその馬車を使って関門へ向かうつもりだったのだと李牧は言った。
やり手の女主人がいる呉服店に自分を置いてどこへ行っていたのかと思ったが、やはり李牧は考えなしに動くような男でない。
途中ではぐれてしまったことは予想外だったろうが、もしあのまま李牧と一緒に城下町を出ていたら、今頃は秦への帰路を急いでいたかもしれない。
(…全部、俺のせいだな)
簪が売られている店で女性客たちからの視線を受け、正体を気づかれていると早とちりをしてしまった。
本当に気づかれていたのかは分からなかったが、自分が逃げ出さずとも、きっと李牧が何とか場を収めてくれたに違いない。
そして何より、あの酔っ払いに父を侮辱されて、怒りに我を忘れることもなかっただろう。結果的に李牧に傷を負わせてしまったことで、信は後悔の念に駆られていた。
「…!」
寝台に横たわったまま、李牧が信の頭を優しく撫でたので、信は驚いて顔を上げた。
「何するんだよっ」
まるで子どもを慰めるように頭を撫でられたことに、信がきっと目を吊り上げる。
「とても悲しそうな顔をしていたものですから、つい」
何の悪気もない笑顔を向けられると、信の胸は罪悪感でちくりと痛んだ。
「…勝手なことして、悪かった…」
今にも消え入りそうな声で信が李牧に謝罪すると、李牧は目を瞬かせている。どうして謝罪されたのか、理由が分からないでいるらしい。
信は膝の上で両手を強く握り締め、俯いてしまう。
城下町で、李牧があの男に掛けた言葉が鼓膜に蘇る。
―――王騎将軍の侮辱は、彼と同じ戦場に立っていた者として、断じて許しませんよ。
侮辱された父を庇うように、敬うようにあの男に掛けた言葉を、信は未だに信じられなかったのだ。
李牧が父である王騎の仇なのは変わりない。どうしてそんな男があのような言葉を掛けたのか、信には理解が出来なかった。
李牧が嘘を吐いている様子はなかった。しかし、それが本心なのかは分からない。
あんな風に思っているのなら、どうして殺したのかというのは愚問だろう。
今日、李牧と共に邯鄲を歩きながら、彼が多くの民や兵に慕われていることを知った。李牧にとって大切なこの領土を守るために、敵将を討ち取ったに過ぎない。
信が過去に討ち取って来た敵将たちだって、同じように家族や仲間から悲しまれただろう。もし、李牧が討たれたら、彼を慕っている民や兵たちも大いに悲しむはずだ。
(…そういえば、こいつって…)
李牧の許嫁
謝罪の後、信が不思議そうな表情を浮かべて、自分の顔を覗き込んで来たので、李牧は小首を傾げた。
「どうしました?」
「そういや、お前…民衆の前で、俺のこと妻って呼んだよな」
ああ、と李牧が思い出したように頷く。
「あの場では仕方ないでしょう」
「………」
自分の正体を気づかせまいとするためだったのだろうが、咄嗟の嘘にしては無茶だったのではないだろうか。
そもそも、李牧の家族について何も知らない信からしてみれば、本当の家族から恨まれるのではないだろうかと不安になった。
「お前くらいの立場なら、妻の一人や二人いてもおかしくないだろ。戦場で死ぬならまだしも、くだらねえ色事に巻き込まれて死ぬなんて、俺は嫌だからな」
信がげんなりした表情で言うと、李牧はゆっくりと上体を起こそうとしていた。
「お、おい、あんまり無理するなよ…!」
全力で殴ってしまった手前、無茶をさせる訳にはいかないと信は李牧の肩を支えて、上体を起こすのを手伝った。
信の手を借りながら何とか上体を起こした李牧は体の前で手を組み、目を伏せる。
「…私には昔、許嫁がいたんです」
なぜ過去形なのか疑問に思ったが、信は口を挟むことなく彼の話に耳を傾ける。
李牧の過去を信は何も知らない。しかし、宰相の座にまで上り詰めた彼のことだ。きっと多くの武功を挙げて来たのだろう。
だが、李牧の表情に宿っていたのは、過去の栄光を想像させるものではなく、ただの悲しみだった。
「…当時の私は、今より愚かな男でした。彼女より、戦での武功を優先していたのです」
本当に愚かな男でした、と李牧は悔しそうに拳を握っていた。
拳が白くなるほど強く握り締めているのを見て、本気で悔やんでいることが分かる。
「…久しぶりに屋敷へ戻ると、元々体の弱かった彼女は…」
暗い表情のまま、李牧は口を噤んだ。
続きを促さなくても、許嫁の女性がどうなってしまったのか、誰もが理解する。亡くなったのだろう。
許嫁がいたのだと過去形で話していた理由が繋がり、信は掛ける言葉に迷ってしまう。安易に妻の話を持ち掛けてしまった先ほどの自分を殴りたくなった。
重い沈黙が二人を包み込む。いたたまれなくなった信が李牧に謝罪をしようと思ったその時だった。
「…と言って、涙でも拭う仕草をしておけば、縁談を断る理由になるので便利なんです」
「……はっ?」
突然李牧が笑顔を浮かべた。つい先ほどの暗い表情を浮かべていた彼とは別人のように切り替わったのである。
何が起きているのか少しも理解出来ず、聞き返した信に、李牧が目を丸めている。
「何か?」
「つ、作り話…!?」
あれだけ他人の同情を誘う演技までしておいて、まさか許嫁など初めから存在しなかったというのか。信が大口を開けて驚愕する。
「どこかの国の仏教の言葉らしいですが、嘘も方便とはよく言ったものです」
回りくどい言い方ではあるが、許嫁の存在が嘘だと認めた李牧に、信は開いた口が塞がらないままでいた。
「おや、あなたも信じましたか?」
少しも悪いと思っていないらしい李牧に問われ、信のこめかみに鋭いものが走った。酒瓶で思い切り殴りつけた非は謝罪しない方が良かったのかもしれない。
驚愕していた信がみるみるうちに憤怒の表情に変わっていくのを見て、李牧が困ったように笑う。
「こんのッ…嘘吐き野郎ッ…!」
「ですから、嘘も方便というやつです」
「んなこと言っても嘘は嘘だろッ!」
納得出来ないと信が噛みついて来る。納得出来ないのを理由に、感情論を押し通そうとする信に、李牧の苦笑はますます深まるばかりだ。
「…しかし、駆けつけて驚きました。まさかあなたが一人の男に襲われているのかと…実際には襲っている方でしたけれど」
さり気なく李牧が話題を切り替えたことに、信は気付かず、小さく頷いた。
しかし、そこでも信は李牧の嘘に気付くことになる。
「…駆けつけた?…お前そういえば、足挫いたって言ってなかったか?」
「ああ、すっかり治ったようですね」
李牧がまた悪気のない笑顔を浮かべたので、信は腸が煮えくり返りそうになった。
「まさか、てめえッ!それも嘘だったのか!?」
着物を掴んで睨み付けると、李牧が顔をしかめる。
「…思い出したらまた痛くなって来ました。あいたたた…」
わざとらしく左足を擦る李牧に、信の堪忍袋の緒がいよいよ切れた。
「―――捻ったっつったのは右足だろッ!もう騙されねえぞッ!」
腕を組み、信が李牧から思い切り顔を背ける。
全て演技だと見抜かれてしまったことに李牧は諦めたように笑った。
「それでは、これから関門を抜けるための書簡を用意しますから、少し待っていて下さい」
寝台から立ち上がろうとした李牧に、それまで憤怒の表情を浮かべていた信が不安げな顔になる。
「お、おい、立ち上がって大丈夫なのかよ…」
「いつまでも寝てる訳にはいかないでしょう。それとも、付きっきりで看病してくれますか?」
「嫌だね」
即答した信に「でしょう?」と李牧が笑う。本当によく笑う男だと信は思った。
帰省準備
筆を取った李牧が関門を通るのに必要な書簡の準備を始めたので、信は黙って彼の背中を見つめていた。
許嫁の存在も、右足を捻ったのも嘘だと分かったが、額の傷だけは誤魔化せない。
そういえば医者からは、特に安静にしていろとも言われなかった。本当に見た目ほど傷は深くないのだろうか。
酒瓶で殴りつけたせいで失神までしたのだから、そんな浅い傷のようにも感じられない。とはいえ、医学の知識がない信には医者の言葉を信じるしかなかった。
「…そうだ。信、こちらへ来てください」
振り返った李牧が手招いたので、信は何用だと近づいた。
「え…?」
呉服店の女主人によって結われていた髪に何かを差し込まれる。
「ああ、やはり着物の色と同じ色にして正解でした」
まるで鈴の音のように美しい音が聞こえ、信がそれを手に取ると、花の形を象った青水晶がついた金色の簪だった。あの時の店で購入したのだろうか。
信が目を丸めていると、その反応を楽しむように李牧が口元を緩めている。
満足したのか、再び筆を走らせる彼を見て、信はまさかこれもくれるのかと驚愕するのだった。
青水晶だけでも高額だというのに、金まで使っている。もしかしたら着物よりも高額なのではないだろうか。着物の価値も簪の価値もよく分かっていない信でもそのくらいの知識はあった。
「お、お前、この着物もそうだけど、簪まで…なんつーもんに金掛けてんだよ!?」
「別に良いでしょう。せっかく趙へ来たのですから、土産の一つくらいないと寂しいじゃないですか」
土産という言葉で収まるほどの額ではないはずだ。
しかし、趙へ連れて来られた時の着物は後宮に身売りされた時に奪われてしまったし、後宮を抜け出す時に着ていた着物も呉服屋に置いたままだ。今さら取りに戻る訳にもいかないだろう。
李牧からの土産であるこの着物を着たまま秦に帰るしかないだろう。趙で過ごした数日を思い出させるようなものは持ち帰りたくなかったのだが、そうもいかない。
「…さて、これで良いでしょう。一番早い馬を使ってください。護身用に剣の一本もあった方が安心ですね。すぐに用意をさせます」
関門を抜けるのに必要な書簡を書き上げた李牧は紐で丁寧に包むと、立ち上がって信にその書簡を差し出す。
「ああ…えっと…」
そういえば李牧からは土産という名の着物から簪、それから関門を通るために必要な書簡や馬、はたまた護身用の剣など、もらってばかりだ。
礼を言うべきなのは分かっているのだが、先ほど騙されたと気づいて逆上したせいか、信は素直に感謝の気持ちを伝えられなかった。
「どうしました?」
だが、李牧は信よりも大人で、信が気にしていることなど大して何とも思っていないようだった。
いよいよ秦へ帰る手筈が整ったというのに、李牧への感謝の気持ちを伝えねば、いつまでも胸に残るだろう。
李牧に会えなかったら、もしかしたら今頃は後宮へ連れ戻されて悼襄王の伽の相手を強要されていたかもしれないし、正体が気付かれて首を晒されることになっていたかもしれない。
無事に趙から出られることになったのは全て李牧のおかげである。
きっと、彼と次に会うのは戦場だ。軍師である彼と戦場で相まみえるということは、戦況が大きく傾いている時に違いない。
もしかしたら次の戦場では彼を討つことになるのかもしれないと思うと、礼を言う機会を先延ばしにする訳にはいかなかった。
「李牧…」
礼を言おうと、意を決して、信が顔を上げた時だった。
「ん…ぅっ…!?」
両肩をそっと抱かれたかと思うと、視界いっぱいに李牧の顔が映っていて、唇に柔らかいものが押し当てられている。口付けられたのだと頭が理解するまでには時間を要した。
唇を交えながら、信が握っていた簪が李牧の手によって奪われ、再び彼女の結われている髪に差し込まれる。
「え…」
唇がゆっくりと離れていく。信は白昼夢でも見ていたのではないかと思った。
しかし、未だ唇に残っている柔らかい感触に嘘偽りはなく、李牧と唇を交わしたことが現実であることを知る。
「ああ、すみません。どうやら立ち眩みを起こしてしまったようで…」
わざとらしく言う李牧に、信はきっとそれも演技であることをすぐに理解した。
「な、何してんだよッ!」
唇に残っている感触を手の甲でごしごしと拭いながら顔を真っ赤にしている信に、李牧が肩を竦める。
「随分と無粋なことを聞きますね。さあ、これから秦国へ帰るのでしょう?今、必要な物の手配を行いますから、そこで待っていて下さい」
未だ動揺冷めやらぬ信の脇をすり抜け、李牧は部屋を後にした。
立ち眩みをしたと言っていた割に、しっかりとした足取りで歩いている。やはり立ち眩みも嘘だったに違いないと信は確信したのだった。
七つの偶然
必要な物を持った後、信は馬を走らせて祖国へと出立した。
本当ならば関門を抜ける辺りまで同行したかったのだが、生憎、宰相という立場である以上、そこまで時間を割くことは出来ない。
束の間だったとはいえ、彼女と過ごした時間を李牧は静かに思い返していた。
「ただいま戻りました」
屋敷に戻ると、手の甲に乗せた蜘蛛と戯れていた慶舎が李牧を出迎えた。
「…傷の具合は」
慶舎の視線が包帯に包まれている李牧の額に向けられる。
「少し痛むくらいで、何ともありません。心配をかけましたね」
安心させるようにそう言った李牧の言葉に、慶舎は小さく頷いた。
「てっきり、頭を殴られて気を失われたのかと」
「あれくらいで倒れる私ではないですよ」
「では、なぜあのような演技を?」
演技という言葉に反応したのか、李牧が困ったように肩を竦めた。
「残念ながら演技ではありませんよ。私はどうも昔から酒が苦手でして…」
自らを下戸なのだと証言した師に、慶舎は表情を変えずに頷いた。
李牧があの場で意識を失ったのは信に酒瓶で殴りつけられたからではない。中に入っていた酒を浴びたせいである。
昔から酒の匂いでも気分が悪くなってしまうほどの下戸である李牧は、苦手な酒を頭から浴びてしまったせいで意識を失ってしまったのだ。
酔っぱらっていた男は、龐煖が討ち取った王騎に対して何か言っていたらしいが、忠告はしてやった。二度と王騎を侮辱をすることはないだろう。
あの時の李牧は酒を浴びたせいで、少々気が立っていた。しかし、信と民衆の前ということもあり、酔いを堪えながら、誰もが慕う宰相を演じ切ることが出来たのだ。
父の仇として自分を憎んでいた信も、僅かに心境の変化があったのはそのおかげだろう。
「…王騎の娘。逃がしても良かったのですか?」
手の甲から腕を這い上がる蜘蛛を眺めながら、慶舎が声色を変えずに問う。意外だという瞳で李牧は弟子を見た。
「おや、いつから気づいていました?」
信は戦で仮面で顔を覆っているため、慶舎は信の素顔を知らないはずだった。こちらは何も告げていないというのに、一体いつ王騎の娘だと気づいたのだろうか。
「李牧様ご自身が、あの娘を信と呼んでいました。そして、王騎の侮辱を許すまいと、絡んで来た男を殺そうとした…李牧様を二人で馬車へ運んだ時、腕が傷だらけで、剣に覚えがある手をしていました。病弱な許嫁でも、普通の女でもないでしょう」
「さすがは慶舎です」
そこまで注視していたなんてと李牧は素直に慶舎を褒める。
偽装工作のために、信を呉服店に預けた後、李牧は共に宮廷に来ていた慶舎に馬車と、足の速い馬の手配を頼んでいた。
護身用に持たせるための剣も馬車へ積んでおくよう声をかけていたのだが、僅かな情報だけで信の正体に気付くとは、李牧は感心してしまう。
本来の計画ならば、城下町を出た後すぐに秦へ続く関門へ向かう予定だった。
しかし、李牧が同行出来るのは途中までで、関門に必要な書簡も、本当は馬車の中で用意するつもりだったのだ。
大きく予定が狂うこととなったが、その分、贈り物も出来たし、今の李牧はとても機嫌が良かった。
「彼女のおかげで、久しぶりに楽しい時間を過ごすことが出来ました」
額の傷がある部分にそっと触れながら、李牧が微笑んだ。その言葉に嘘偽りがないことを、慶舎は彼の声色から察した。
「…せっかく趙へ誘い込んだというのに、なぜ逃がす真似をなさったのか、理解し兼ねます」
信が趙へ来たのは、いくつもの不運が重なってのことだった。しかし、慶舎は全てを見透かした瞳で師である李牧を見つめる。
李牧は意味ありげに笑みを深めると、首を横に振った。
「…たまたまですよ。信がこの国に来たのを、いくつもの不運が重なったと言うのなら、私が彼女に会えたのは、いくつもの偶然が重なっただけということです」
慶舎の疑問には一切答えず、李牧はそう答えた。
偶然という言葉で都合よく片付けようとする師に、慶舎は表情を変えないで口を開く。
「…奴隷商人を装えば、秦への関門を越えるのは容易いことでしょう」
慶舎の言葉に、李牧は噛み堪えていた笑いを抑え切れなくなっている。
「いやあ、まさかあの子は酒癖が悪いだなんて、本当に知りませんでした」
肩を震わせた後に大笑いを始めた李牧に、慶舎は相変わらず表情を変えないでいたのだが、頭の中では、全て彼の策通りに物事が動いていたのだと納得出来た。
今回のことは全て、李牧の中では単なる偶然として片づけられる出来事だったのだろう。
秦国の情報を探るため、配下に奴隷商人を装うよう指示を出したこと。
関門を抜けて秦国に潜入したところで、李牧が恋い焦がれてやまぬ女将軍が酒に酔って寝入っていたこと。
趙への移動中に彼女が目覚めぬよう薬を盛られてしまったことも。
ちょうど人手が足りないと言われていた妃が住まう宮殿に、彼女が下女として身売りされてしまったことも。
悼襄王が久しぶりに妻に会いに後宮へ赴き、そこで彼好みである少年のような風貌である下女を気に入ったことも。
後宮から彼女が脱出に使いそうな場所があそこだけだったのも、そして李牧があの場に通りかかったことも―――
李牧の中では、七つとも、全て偶然なのである。
その後~趙~
宰相である李牧に年下の美人な妻がいるという噂が広まり、密かに彼に想いを寄せていた女性たちは悲鳴に近い声を上げたという。
噂を聞きつけた李牧の側近であるカイネも、その真相を確かめるべく李牧の下を訪ねた。
彼女が李牧の屋敷に着いたのは、ちょうど信が出発した後だった。
「り、李牧様…」
難しい表情で書簡に筆を走らせている李牧に、カイネが恐る恐るといった様子で声を掛ける。
「カイネ、すみません。急いでこの書簡を送らないといけないので、このままで許してください」
先ほど屋敷に戻って来たばかりの李牧は、すぐに書簡の準備をするように家臣たちに声をかけていた。
どうやら急ぎの用らしく、李牧は筆を動かしながらカイネに用件を尋ねた。もちろんですと頷いた後、カイネは意を決したように顔を上げる。
「…あのっ、以前、李牧様にはお体の弱い許嫁がいると…」
「ええ、それが何か?」
早鐘を打つ胸を押さえながら、カイネは口を開く。緊張のあまり、口の中がからからに乾いていた。
「その、先ほど…城下町で、若い女性とご一緒されていて、その方を妻だと、李牧様がおっしゃったのだと…民の間で噂になっておりました…」
あくまで民の噂だと仄めかせ、カイネは李牧から真相を聞き出そうとした。
途中まで書いた文字に目を通しながら、無慈悲にも李牧が口を開く。
「はい、許嫁の彼女です。体調が良い日は、夫婦で一緒に出掛けるんですよ」
カイネの頭に鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。
誰よりもずっと長く李牧に仕えていたというのに、一度も李牧の浮いた話を聞いたことが無かったカイネには衝撃的な内容だったのである。
体の弱い許嫁がいるのだという話を聞いた時から、きっとその女性は病で亡くなり、それから李牧は恋愛不振になっているのだろうとカイネは考えていた。
それがまさか、こうもあっさりと否定され、その許嫁とめでたく結婚していただなんて。
側近という立場である自分にどうして一言もそんなおめでたい話をしてくれなかったのかとカイネはやるせなくなった。
李牧は宰相の名を語るだけでなく、軍の総司令を務めているほどの立場の男だ。
多くの民や兵たちにも慕われている彼が選んだ女性を気になる者は趙に多かった。体格も顔立ちも性格も立場も申し分ない。李牧に声を掛けられれば多くの女性が頬を染めて笑顔を浮かべることだろう。
実際に李牧に選ばれた女性が病弱という話から、可憐な花のような美女を想像する者も多かった。
カイネは実際に妻と呼ばれた女性を見ていないのだが、噂によると、誰もが振り返るほどの美しさを秘めていたんだとか。
自分のために簪を選ぶ李牧を見て、妻の女性は恥ずかしそうに俯いていたのだという。
高価な物を勧めても目を光らせない、欲の少ないその女性こそ、宰相の立場を鼻にかけずに民たちに慕われる李牧に相応しいとまで噂が広まっていた。
「し、失礼します…」
噂が本当だったのだと分かったカイネは顔から血の気を引かせてふらふらと歩き出し、おぼつかない足取りで部屋を出て行く。
再度筆を取った李牧に、部屋の隅で、未だ一匹の蜘蛛と戯れている慶舎が視線を向けた。
「…聡明な李牧様のことですから、その方が色々と都合が良かったのでしょう」
その言葉を聞き、李牧は動かしていた筆をぴたりと止めた。
一度筆を置いた李牧は墨が乾くのを待つフリをして、慶舎の方を振り返った。
「…今は訳あって、別の場所で暮らしていますが、全てが終わったら迎えに行くつもりですよ」
「秦国にですか?」
李牧が苦笑を深める。どうやら慶舎にはお見通しだったらしい。
「ええ。何年後になるかは分かりませんが…私の目が黒いうちに、必ず」
再び筆を取った李牧が竹簡に続きを書いていく。
「…李牧様のお望みが叶うよう、尽力致します」
供手礼をした慶舎に、李牧がにこりと微笑む。
「ありがとうございます。…それでは、その第一歩として、この書簡を至急、秦へ届けるように手配を頼みましたよ」
「はっ」
たった今書き上げたばかりの書簡を、李牧は慶舎へ手渡した。
その後~秦~
見慣れた景色が視界に飛び込んで来て、無事に帰還が叶ったのだと噛み締めた。
「や、やっと、帰って来れたぜ…!」
母国の土を踏み締めているだけで、目頭に熱いものが込み上げて来る。一時はどうなることかと思ったが、敵国から生還出来て本当に良かった。
みんな心配しているに違いない。
飛信軍の仲間たちはもちろんだが、父である王騎の副官として長年仕えていた騰や録嗚未たちも、信にとっては家族のような存在だ。自分に何かあれば王騎に申し訳が立たないと思っているに違いない。
幼い頃から過ごしていた王騎の屋敷に帰宅すると、家臣たちが無事に帰って来た信に大騒ぎしていた。
「御無事で何よりです」
幼い頃から信の世話をしてくれた年老いた侍女たちは涙を流している。
「悪いな…随分、心配かけちまって」
戦に出た訳でもなく、連絡もなしに失踪したことで大いに心配をかけてしまったと信は家臣や仲間たちに深々と頭を下げた。
もちろんどこで何をしていたのかまでは告げなかったのだが、秦王にはそんな訳にはいかないだろう。
趙を出てから、信はずっと此度の言い訳を考えていた。
元を辿れば、武器も持たずに外で眠っていた自分にこそ非があるのだ。酒に酔ってしまい、寝具を被って眠るのは暑いからという安易な考えから、屋敷の外で眠ったことが最大の原因である。
そういえば眠る寸前、道に迷ったという商人に道を教えてやった気がする。何度も感謝された男に名前を尋ねられ、飛信軍の信だと答えてから記憶が無くなっていた。
…もしかしたら、あれも夢だったのだろうか。
趙へ連れていかれたのは、色んな不運が積み重なった末に起きた更なる不運だ。同情をして欲しい訳ではないが、真実を告げたところで、信用してくれないに違いない。
翌日、嬴政に告げる上手い言い訳を決めた信は、日の出と共に咸陽宮へと馬を走らせた。
普段ならば秦王の前に姿を見せる時には、きちんとした身なりをするよう言われていたのだが、今回は事情が事情だ。
自分に礼儀というものを教えてくれた両親に心の中で謝罪しながら、信は咸陽宮の門をくぐった。
衛兵に声をかけて、秦王である嬴政に謁見を申し出ると、すぐに部屋へ案内された。
どうやら宴の後から信が失踪していたことは秦国中で噂になっていたようで、衛兵たちも、すれ違う官吏や女官たちも信を見て大層驚いた顔をしていた。
「―――信!今まで一体どこで何をしていた!」
政務中だっただろうに、帰還の報せを聞いた嬴政がばたばたと走って彼女の前に現れる。
玉座に腰掛けることもなく、嬴政は今にも信に掴みかからん勢いで怒鳴りつける。
大王という立場の彼がこれほど取り乱している姿を見るのは初めてのことだった。ぐうの音も出ず、信はその場に膝をついて頭を下げている。
現れたのは嬴政だけでなく、側近たちもだ。彼らも心配してくれていたのだろう。信の姿を見てほっと安堵した表情を浮かべている。
しかし、嬴政だけは信が無事で良かったという意志は感じられず、目をつり上げて、彼女を睨み続けていた。
心配の裏返しなのだろうが、そこまで怒りを露わにされると、委縮してしまう。
「…あのー…色々あって…だな…」
そう。宴の後から今日に至るまで色々とあったのだ。言葉を濁らせて、語ろうとしない信に、嬴政の瞳がさらに怒りで染まっていく。
「大王である俺に言えぬことか?」
「う…」
卑怯な物言いをすると信は俯いたまま奥歯を噛み締めた。素直に答えなければ打ち首にするぞと脅しているようなものではないか。
しかし、真相を告げたところで信じてもらえる訳がない。
大将軍である自分が下女として奴隷商人に売り飛ばされたなどと笑い話でしかないし、出来ることなら墓まで持っていきたい秘密だった。
「えっと…」
信が用意していた言い訳を話し出そうとすると、背後で扉が開き、衛兵が膝をついて頭を下げる。その手には書簡が握られていた。
「大王様!趙の宰相から、秦国宛てに至急の書簡が」
「…李牧から?」
嬴政が目を見張る。李牧からの書簡が来たことによって、それまで信に向けていた怒りが消え去ったらしく、信はほっとした。
(ん?なんで李牧から至急の書簡なんて来るんだ?)
しかし、まるで機を見計らったかのような書簡の存在に、李牧がどのような書簡をよこして来たのだろうと信は気になった。
右丞相の昌平君が衛兵から書簡を受け取り、中身を確認している。
軍の総司令官を務めていることもあり、多少のことでは動じない昌平君であったが、書簡の内容を読み進めていくにつれて眉間に皺が深まっていった。
全員がその表情の変化に、何か悪い内容なのだろうかと考える。
(何だ…?ものすごい嫌な予感がする…)
ここからの位置では書簡に何が書かれているのかは少しも分からない。
しかし、李牧の名前を聞いた瞬間から、自分に関する内容が書かれているのではないかと信は不安に襲われた。
それは幼い頃から戦場に身を置いて来たことによる野生の勘だったのかもしれない。
「………」
「………!」
昌平君と目が合う。
彼の瞳に呆れの色が宿ったのを見て、信は顔から血の気を引かせた。
「昌平君、李牧からの書簡には何が書かれていた?」
「は…」
嬴政の問いに、昌平君が書簡の内容を読み上げようと口を開く。
七つ目の不運
立ち上がった信は、慌てて昌平君の手から書簡を奪い取ろうと駆け出した。
「読むなーッ!」
突進して来た信に書簡を奪われないよう、昌平君は瞬時に書簡を高く掲げた。
長身の彼が腕を上げると、信がどれだけ手を伸ばしても、跳ねてみても届かない。
後宮から脱出した時のように、助走をつければ取り戻せたかもしれないが、昌平君が相手では助走をつけたところで意味はないだろう。
信が血相を変えて慌てふためいている様子に、その場にいる者たちも小首を傾げている。
しかし、嬴政は彼女が慌てふためく理由が書簡の内容に隠されていると分かり、傍にいる昌文君に声を掛けた。
「昌文君、あの書簡をこちらに」
「はっ」
長身の二人が信の手の届かない高い位置で書簡を受け渡している。
「オッサン!だめだ、頼む!やめてくれ!」
昌文君に渡った書簡を取り戻そうと、信が兎のようにぴょんぴょんと跳ねた。
しかし、昌文君は構わずに受け取った書簡を高く掲げ、信に奪われないように嬴政の下へと向かった。
もはや半泣きになっている信に、嬴政は顔を引き攣らせる。
(趙の宰相である李牧からの書簡と、信のこの反応…まさか…)
信じたくないが、まさか信は趙と密通していたのだろうか。
ありえないと嬴政は否定したが、信の慌てぶりを見る限り、気づかれたくないという気持ちが前面的に押し出ている。密通を疑わざるを得ないだろう。
まだ秦趙同盟が解消されていないとはいえ、趙の宰相と繋がりがあるだなんて、忠義の熱い信が一体どうして。嬴政の胸に不安が広がっていく。
「政、頼む!後生だ!それを読むのはやめてくれ!」
結局、昌平君に羽交い絞めされる形で抵抗が出来なくなった信は、懸命に嬴政へ呼びかけていた。
一体何が記されているのだろう。
「………」
生唾を飲み、嬴政は昌文君から書簡を受け取った。
そこに記されていた内容に、嬴政は違う意味で驚愕することとなる。
信の身に起きた数々の不運。
趙の宰相である李牧という男に魅入られてしまったことこそ、信の七つ目の不運だったのである。
七つ目の不運~真相~
信は大王嬴政の前で正座をして、ぐすぐすと鼻を啜っていた。
彼女の頭には立派過ぎるほど大きなたんこぶが出来ている。大王嬴政からの立派な賜り物である。
この中華全土どこを探しても、大王から鉄拳を受ける女など信くらいだろう。
信の涙が滲んでいるのは決して頭を殴られた痛みからではなく、羞恥心によるものだ。
大王嬴政は腕を組み、玉座にふんぞり返っている。過去に政権を握っていた弟の成蟜を思わせるような態度だ。やはり兄弟に共通点というものはあるらしい。
嬴政がそのような態度を取るのはとても珍しく、すなわち、まだまだ彼の怒りは引くことはないということでもある。
「他の者たちにも伝わるよう、大きな声で読んでみろ。一言一句違えることなく読め」
「う…うう…」
握った拳が白くなるほど信は力を込めている。どうしてこんな辱めを受けているのだろうと信は自問自答した。
彼女の前に広げられている書簡は、先ほど届いたもので、それは趙の宰相である李牧が秦国宛てに送ったものである。
「…飛信軍の信将軍が、趙国、後宮の、下女として…過ごしていた事に、ついては、…」
たった今、信が音読させられている内容を要約すると、彼女が敵国である趙へ渡った経緯が記されていたのである。
恐らく、李牧としては気遣いのつもりだったのだろう。
秦の大将軍である彼女が一人で趙へ行くはずがない。秦趙同盟の期間内とはいえ、目的も告げずに趙へ行くなんて密通を疑われてもおかしくない行為だ。
だからこそ李牧は信が密通をしていないことを証言するために、彼女から聞いた事実を書簡にして嬴政に送ったという訳である。
信にとっては墓場まで持っていくつもりだった秘密事項が事細かに記されており、このまま舌を噛み切って死んでしまいたいほどの屈辱だった。
震える声で李牧からの書簡を読み終えた信はいよいよ限界で、双眸から涙を流し始める。
話を聞いていた官吏たちは皆、今日まで信の身に起きた事実に唖然としており、一番初めに書簡を読んだ昌平君だけが表情を変えずにいた。
「はあー…」
嬴政は玉座からゆっくり立ち上がると、わざとらしく大きな溜息を吐く。
まさかこれ以上の辱めを受けさせるのかと、信は嬴政に怯えた瞳を向けた。
「大将軍とあろう者が、酒に酔って外で寝ていたところを、奴隷商人に捕らえられ…」
「う…」
「そのあげく、趙に着くまで爆睡していて、後宮に身売りされ?悼襄王の寵愛を受けるとこだった?」
「うう…」
「…お前は、秦国の大将軍だという自覚があるのかッ!!」
「うううう…!」
嬴政の怒鳴り声に、信はいよいよ顔を上げられなくなった。
周りにいる官吏たちは誰一人として嬴政の怒りを宥めようとしない。全て信が招いた結果であることは李牧の書簡の内容から一目瞭然だったからだ。
「…李牧に礼を言わねばならんな」
呆れた表情のまま、嬴政が呟く。書簡に記されていた内容から、趙国で李牧が信を助けてくれたということは誰が見ても明らかだった。
(くっそー!全部李牧のせいじゃねえか!)
腹の内をむかむかとさせながら、信は李牧になんて余計なことをしてくれたのだと怒鳴り散らしたくなった。
彼が真相を記した書簡を送って来なければ、秦王からここまでお咎めを受けることにはならなかっただろう。
信は、山の王である楊端和に美味い酒を持っていく代わりに、今回の件の口裏を合わせてもらう作戦を考えていた。山の民に会いに行っていたのだと言えば、数日の不在くらい誤魔化せたに違いない。
そして楊端和は六大将軍の一人であり、嬴政も信頼を置いている女性だ。その彼女が率いる山の民たちの下へ行っていたのなら、嬴政だって咎めることは出来ないだろう。
想定外だったのは、李牧が事実を記した書簡を送って来たことだ。
(あの野郎…!今度会ったらもう一発殴ってやる…!)
李牧の余計な気遣いのせいで、こんなことになってしまったと信は奥歯を噛み締める。
頭を下げながら、静かに李牧への怒りを募らせていく信に、嬴政はようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「…経緯は見過ごせぬが、お前が無事で良かった」
本当にそう思ってくれているのだろう。とても穏やかな声色だった。
「……悪かっ…も、申し訳、ありません…」
礼儀にうるさい官吏たちの目もあったので、ぎこちない謝罪をして、信は頭を下げたままでいた。
信が無事だったことと、彼女の口から謝罪の言葉を聞けたことで、嬴政は長い息を吐く。
「…では、此度の騒動における処罰を言い渡す」
七つ目の不運~贈り物の意味~
その後、信は謹慎処分を受けることとなった。
謹慎処分と言ってもそれは名ばかりで、通常通りの生活は保障されている。飛信軍の鍛錬の指揮を執らなくてはならないし、大将軍としての仕事が大いにあるのだ。
しかし、面倒なのは、外出の際に必ず護衛の兵をつけなくてはならなくなったことである。
謹慎処分が始まって数日後、友人である蒙恬が噂の真相を確かめるために屋敷を訪ねて来た。
嬴政に報告しに咸陽宮へ行ったあの日、偶然にも別用で訪れていた蒙恬と出会ったのだ。
その時には長ったらしい秦王のお説教も終わり、さっそく謹慎処分として命じられた護衛の兵と共に信は廊下を歩いていた。
余程、嬴政の説教が堪えたのか、ともすれば、幼子のように泣き出してしまいそうな信を見て、蒙恬は彼女が何かやらかしたのだと察したらしい。
彼も蒙家の嫡男として忙しい身であるに違いないだろうに、こんなことに時間を割いている暇があるのだろうか。
追い返す訳にもいかず、信は蒙恬を客室へともてなした。話題はさっそく信の謹慎処分についてである。
「ねえ、信ってば一体何やらかしたの?教えてよー。俺たちの仲じゃん!」
「別に何もやらかしてねえよ。むしろ俺は被害者だ!」
ムキになって反論すると、蒙恬がにやにやと嫌な笑みを浮かべる。
「嘘だあ。だって秦国中で、信が失踪したって大騒ぎだったんだよ?どこ行くにも護衛の兵までつけられてるし、何かあったんでしょ?」
「言わねえ!墓場まで持ってくって決めたんだ!」
趙国へ連れていかれたことは、あの玉座の間にいた者たちだけの機密事項となった。
密通ではないことは李牧によって証明されたが、下手に噂が広まれば、違う場所で密通を疑う者も出て来るかもしれないため、情報操作を行っている。
「ちぇ、せっかく来たのに」
信が頑なに口を開こうとしないので、蒙恬は諦めたように肩を落とす。その時、蒙恬の視界に、台の上に置いてある青水晶と金色の簪が目に入った。
「…あれ?珍しい。新しい簪買ったの?青水晶に金って、かなり高価なものじゃん」
化粧や装身具には少しも興味を示さない信が新しい簪を購入したのかと蒙恬が小首を傾げている。
青水晶と金色の簪から連鎖的に李牧の姿が瞼に浮かび上がった。
「あ、いや、それは…も、もらい物だ!その、世話になった男から…」
嘘は言っていない。もらい物であるのも事実だ。束の間ではあったが、簪をくれた男の世話になったのも事実である。
実際の額は分からないが、安易に捨てられるような代物ではない。とはいえ、普段から簪を身につける習慣のない信にはどう扱うべきか分からずにいたのである。着物も同様だ。
名前は出していないのだが、男からの贈り物という言葉が気になったのか、蒙恬が目を見張る。
「…え?もしかして、素直に受け取ったの?」
意味深な言葉に、信はきょとんとした。その反応を見て、蒙恬はまさかと顔を引き攣らせている。
「男が女に簪を贈る意味…分かってる?」
「は?ただのもらい物だろ。意味なんてあるのか?」
当然のようにそう答えた信に、蒙恬が呆れた表情を浮かべる。両手を頭の後ろに回し、蒙恬は椅子の背もたれにどっかりと体を預けた。
「あーあ、その人かわいそー」
「はあ?」
信に簪を贈った男――李牧になぜか同情する意味が分からず、信がどういう意味か教えろと催促する。困った笑みを浮かべながらも、蒙恬が正解を教えてくれた。
「簪の価値が高価であればあるほど、誠実さと身分を証明できるってことだよ」
「ああ、まあ…それなりに身分の高い奴ではあるな」
李牧の正体を勘付かれないように、信は当たり障りのない答え方をした。
しかし、誠実さと身分を自分に証明するというのは一体どういう意味なのだろう。
誠実さというものを証明するのなら、もしかしたら、趙から脱出することを協力すると、簪を使って自分に知らせたかったのだろうか。
「もちろんそれだけじゃないよ」
まだ他に意味があるのかと信が頭に疑問符を浮かべている。やはり理解していないのだと察した蒙恬があははと笑った。
「…要するに、男が女に簪を贈るっていうのは…好きですっていう想いを告げて、求婚してるみたいなものだよ。ま、信はこの手の話に疎いから、知らなかったのも無理はないだろうけどね」
「……え?」
「何も知らないで受け取っちゃったんなら、そのうち、迎えに来るんじゃないの?」
信の中でその瞬間、確かに時間が止まったのだった。
終
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