平行線の終焉(桓騎×信←李牧)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編③はこちら

 

決意

李牧が部屋を出て行ってから、信はずっと泣き崩れていた。

ずっと一緒にいてくれると思っていた李牧が、自分のもとを去って行ったあの雨の日も、今みたいに声を上げて泣いていた。

昔から声を堪えて泣く癖があったのに、あの時ばかりは嗚咽を押さえられなかったことを思い出す。
情けない声を上げないよう、信は感情的になると拳を握るのが癖になっていた。酷い時には爪が食い込んで血を流してしまう。

それを李牧は「無意味」だと比喩していた。

自分の手をそっと包んでくれて、こんな傷を作ってまで悲しみを堪える必要はないのだと、彼はそう言ってくれたのだ。

―――泣きたい時は声を上げて、気が済むまで泣けば良い。

李牧はいつも泣いている自分を抱き締めては、その胸を貸してくれた。

そんな優しい態度をとられるものだから、李牧からいつまでも子ども扱いされていることも、甘やかされていることも、信は自覚していた。

声を堪えて泣いていると、必ずといっていいほど李牧が現れて、泣き止むまで抱き締めてくれた。その思い出は、信の心に今でも深い杭となって残っている。

だから、我慢せずに泣いていれば、李牧はすぐに自分のもとに戻って来てくれるのではないかとずる賢いことも考えたこともあった。

しかし、あの雨の日から、自分のもとを去った李牧が戻って来ることはなかった。

長い月日を経て、ようやく李牧のことを思い出さない時間が長くなっていたというのに、此度の秦趙同盟で趙の宰相として現れた李牧に、信は喜悦と不安を抱いたのである。

生死も安否も分からなかったのに、再会できることはおろか、まさか敵対することになるだなんて誰が想像出来ただろう。

王騎を失っただけでなく、まさか今度は李牧と敵対しなくてはならないのだという悲しみに、信は無意識のうちに拳を握る。

心に深く突き刺さった杭を、いよいよ引き抜かなくてはならない時が来たのだ。

過去と決別し、自分の歩むべき道を進まなくてはならない。このままいつまでも、平行線の関係を続ける訳にはいかなかった。

守るべき国の未来のため、そして自分自身のためにも。

ようやく涙が止まってから、信は杯に注いだ水を一気に飲んだ。失っていた水分を一気に取り戻し、長い息を吐く。

泣き過ぎて目元がひりひりと痛むし、頭も鈍く痛む。

このまま眠ってしまおうかと思ったが、横になればまた李牧のことを考えてしまいそうだった。

いつまでもこの部屋に閉じ込められていては気が狂いそうだ。もう今は熱もないのだから、見張りの兵に言って、少しの間だけ外出させてもらおう。

真っ赤に泣き腫らした瞳をした飛信軍の女将軍が宮廷を歩いていたら、あらゆる噂が立ち回りそうだが、このまま部屋に閉じ込められている方が具合が悪い。

恐らく扉越しで李牧との会話は聞こえなかったに違いないが、彼が部屋を出て行ってから大きな声を上げて泣いていたのは、見張りの兵に聞かれていたのだろう。気分転換をしたいという信の意志を尊重して、兵は外出を認めてくれた。

一刻だけと約束をして、信は一時的に部屋から釈放・・される。

李牧が王騎の仇であることは、この秦国では誰もが知る周知の事実だ。もしかしたら亡き養父のことを想って泣いていたのかと誤解してくれたかもしれない。

「…?」

城下町でも眺めに行こうかと廊下を歩いていると、天井まで伸びている太い柱の根元に誰かが座り込んでいるのを見つけ、信は思わず眉根を寄せた。

秦王がいるこの咸陽宮には多くの兵が常駐しており、そういった不届き者はすぐに追い出されるはずだが、廊下を通る女官も兵たちも横目でその者の姿を見やるばかりで、誰も声を掛けようとしない。

座り込んでいるということは、具合が悪くて動けないのだろうか。しかし、誰も声を掛けようとしないことに信は疑問を抱いた。

近づいていくうちに、座り込んでいる男に見覚えがあることに気付き、信はまさかと息を飲む。

(桓騎…?)

座り込んで自分の膝に顔を埋めているせいで、顔は見えない。

しかし、幼い頃から彼を知っていたこともあり、その男が桓騎だと信はすぐに分かった。
あの夜のことが脳裏を過ぎり、心臓を鷲掴みにされたように、胸が苦しくなる。

(こんなところで何してんだ)

しかし、桓騎がここで何をしているのかという疑問の方が前面に出てしまい、信は立ち止まることなく彼に近づいていた。

すぐ傍まで近寄っても、桓騎は気づいていないのか、顔を上げようとしない。

僅かに身体を震わせている桓騎から、鼻を啜る音が聞こえて、まさか泣いているのだろうかと信は驚いた。

彼が泣く姿なんて、未だかつて見たことがあっただろうか。自分に凌辱を強いた男だというのに、やはり無下には出来ない。

それが自分の弱みだとか甘さという類であり、仲間たちからこっぴどく叱られてしまう悪いクセだ。しかし、信は桓騎を見捨てることなど出来なかった。

「…桓騎、お前…泣いてんのか?」

声を掛けると、桓騎が弾かれたように顔を上げた。頬に涙の痕が幾つも残っていた。

「…見りゃ分かるだろ、バカ女」

あの夜があったというのに、開口一番それかと信は苦笑した。

 

決断

その場に座り込んだまま桓騎が動こうとしないので、信は彼の前に片膝をついて目線を合わせた。

桓騎が泣いている姿を思い返してみたが、やはりこれが初めてだった。

珍しいものを見る目つきで、信が桓騎のことを見据えていると、その視線が癪に障ったのか、桓騎がぎろりと睨み返して来る。

「………」

何か言いたげに唇を戦慄かせたものの、信も自分と同じで真っ赤に泣き腫らした瞳をしていることに気づいたのようで、桓騎は視線を泳がせた。

桓騎の泣き顔を見るのは初めてだったが、信が彼に泣き顔を見せたのはこれが初めてではない。

子どもの頃から桓騎を知っている信は、あまり情けない姿を見せたくなくて、さり気なく目元を擦ると、照れ臭そうに笑う。

無理やり犯された時は、確かに辛かった。

しかし、それはずっと成長を見守って来た彼に裏切られたことや、屈辱だとか、そういった痛みじゃない。

李牧の身代わりだと誤解されたことが辛かった。その誤解を解けずにいることが、今でも信の心を苦しめている。

そして、桓騎も同じように苦しんでいることを、彼の涙を見て悟った。

「…桓騎、聞いてくれ」

縋るような眼差しを向けるものの、桓騎は目を合わせようとしない。しかし、黙って自分の言葉に耳を傾けてくれているのは分かった。

自分が李牧に利用されていたと分かった時の胸の痛みは、今でも続いている。
自分の物差しで桓騎の苦痛を測るつもりはないが、どうか、この苦しみから桓騎が解放されて欲しい。それだけを願いながら、信は言葉を紡いだ。

「俺は、お前を李牧の代わりだと思ったことは、一度もない」

その言葉は紛れもなく本心だったのだが、果たして桓騎の胸に届いただろうか。

あの夜はどれだけ訴えても信じてもらえなかった。そう都合よく聞き入れてくれるはずがないと信も分かっていたのだが、伝えずにはいられなかった。

凌辱を及んだのは、親鳥を追いかけ回す雛鳥のように、いつも自分の傍にいたがった桓騎の本気の反抗だったのだろう。

それほどまでに、李牧の身代わりとして育てられたという誤解は、桓騎の心を傷つけたのだ。だからこそ、このままではいけない。

自分も李牧も振り返らずに前へ歩み出すことを決めたのだ。もう後ろを振り返ることはしたくないし、桓騎もそうであってほしかった。

「………」

桓騎は相変わらず何も言葉を発さないが、話を遮ることはしない。
ただ、何かを考えるように瞼を下ろして、じっと俯いていた。

その表情が、初めて彼と出会ったあの雨の日に、凍えて死にかけている時と全く同じに見えて、信は弾かれたように腕を伸ばしていた。

「桓騎っ…」

彼の体を強く抱き締めて、腕の中の温もりを確かめる。

もちろん桓騎はしっかりと呼吸もしていたし、その体も冷え切ってはいなかったのだが、目を離せば自分の知らない場所へ行ってしまうのではないだろうかという不安が込み上げて来た。

李牧と同じように、このまま桓騎が自分を置いていくのではないかという考えが過ぎる。
その考えを振り払うように信は首を振ったのだが、そこで彼女はようやく気付いたのだった。

(ああ、そっか…)

どれだけ自分が否定しようとも、無意識のうちに桓騎のことを、李牧と重ねていたのかもしれない。

いつか自分の手の届かない場所へ行ってしまうのではないかという不安と、あの時と同じ苦しみを味わいたくないという気持ちに支配されていた。
それこそが桓騎を戦に出したくない理由の根本だったのかもしれない。

桓騎を苦しみから救いたいと思ったのも、ただの独りよがりだ。

決めるのは他でもない桓騎自身なのだから、自分がどれだけ言葉を掛けたところで彼の胸に響かないのは当然である。

あの雨の日に桓騎を助けたのだって、桓騎が自分に助けを求めたからではなく、信の意志だ。
彼の身柄を蒙驁のもとに預ける時でさえ、将軍になる意志があるのか、桓騎に確かめようともしなかった。

(全部、全部…桓騎の意志を確かめないで、俺の意志で決めてた・・・・・・・・・から、桓騎のことを苦しめてたんだな)

きっと桓騎が苦しがっているのは、李牧の身代わりでいることではなく、いつまでも自分の傍から離れられないことだ。

桓騎は今までずっと、自分の意志で決めた道を歩むことが出来たはずなのに、死を選ぶ自由さえ、信が奪ってしまっていた。

それが桓騎を心を縛り上げているのだと気づき、信は胸が張り裂けそうな痛みを覚えた。

「…悪い」

抱き締めた腕を放すと、信は無理やり笑みを繕った。

「もう、好きに生きろ。秦将をやめるなら、俺が何としても政を説得する」

信の言葉を聞き、桓騎が不思議そうに目を丸めている。何を言っているのか、理解出来ないのだろう。

今までずっと桓騎の意志と選択権を奪っていた自分が許せなくなり、信は涙を堪えるために強く歯を食い縛った。

自分が泣いて詫びたところで、どれだけ悔いても、桓騎の意志を奪い続けていた長い年月は戻って来ない。

しかし、今からでも桓騎は自らの意志で・・・・・・道を進んでいくことが出来る。

もしも桓騎が自分を見限るとしても、自分にそれを止める権利はないし、いい加減に彼を解放するべきだろう。

自分が桓騎を手放すことこそが、彼を苦しみから解放できる手段だったのだ。
どうして今まで気づかなかったのだろうと、信は自虐的に笑んだ。

 

「………」

桓騎はずっと押し黙ったままだった。しかし、信から目を逸らすことはしない。そして、その瞳に浮かんでいるのは嫌悪でも軽蔑でもなかった。

いつの間にか涙は止まっていたが、信の方は少しでも気が緩めば涙を流してしまいそうになる。

彼女が歯を食い縛って静かに涙を堪えていることに気付いたのか、桓騎は小さく溜息を吐く。

「…あいつに何を言われた?」

何を言われるのかと身構えていると、第三者の存在が出て来たことに、信は驚いて涙が引っ込んでしまった。

「えっ、あいつ…?」

「李牧だ」

桓騎の目が鋭い光を宿したので、李牧が部屋を出入りしたところを見ていたのかと気づいた。

「何も…ただ、話をしてただけだ」

彼と決別を決めたことに、後ろめたさはないのだが、つい目を泳がせてしまう。
その反応に確信を得たのか、桓騎がわざとらしく溜息を吐く。

「さっさと趙に来いって?」

「え?な、なんでっ」

扉の前には見張りの兵がいたはずだし、盗み聞きなど出来るはずがない。それなのに、李牧が自分に伝えた用件を口に出したことに、信は心臓を跳ねさせた。

「やっぱりな」

低い声で吐き捨てた桓騎がようやく立ち上がったので、信も慌てて立ち上がった。

「俺は、趙に行くつもりなんてない!」

良からぬ疑いを掛けられぬ前に、すぐにそう伝えると、

「んなこと分かってる」

わざわざ聞かずとも、そう答えると知っていたと桓騎が返した。
眉根を寄せている信の顔を眺めながら、何か気に食わないことでもあるのか、桓騎が不機嫌に舌打つ。

「…あの野郎、ただのフラれた負け惜しみじゃねえか」

「え?」

独り言のように呟いたその言葉を聞き、まさか李牧と何か話したのかと信は瞠目する。

それが桓騎が幼子のように泣きじゃくっていたことと関係があるような気がして、再び信の胸に不安が募った。

「桓騎…」

一体李牧に何を言われたのだと問おうとしたのだが、桓騎が信の顎に指を掛ける方が早かった。

 

平行線の終焉

「あ…」

桓騎の顔が近づいて来て、信は思わず目を見開いた。

唇を柔らかい感触が包み込み、胸に蕩けるような甘い疼きが走る。
互いの唇が触れ合っていたのはほんの一瞬だったのだが、信には随分と長い時間に感じられた。

しかし、桓騎からはっきりと意志が浮かんだ強い眼差しを向けられると、途端に緊張が走った。

「…お前が言ったように、俺が行く道は、俺の意志で決める」

桓騎のことを解放すると決めたのは自分自身のはずなのに、信は思わず固唾を飲み込んだ。

無意識のうちに拳を握って、張り詰める緊張を耐えようとしていると、桓騎が右手を掴んで来た。

食い込んだ爪の痕が残っているその手を開かせ、そこに唇を寄せる。

「桓騎…!?」

その仕草には見覚えがあった。李牧と同じことをしようとしているのだ。

まさか桓騎は李牧の身代わりになることを決意したのではないかと、信は不安と焦燥感に体を強張らせる。

手を振り払おうとしたが、それを遮るように鋭い痛みが走った。

「痛ッ…!」

人差し指と親指の付け根の辺りに桓騎が思い切り歯を立てていた。
容赦なく上下の歯で噛みつかれ、歯形に沿って血が溢れる。それを丁寧に舐め取り、唇を強く押し付けている。

李牧の口づけとは、少しも似ていなかった。

「俺は、他の誰でもない俺の意志で・・・・・、お前に惚れたんだよ」

信から視線を逸らすことなく、桓騎は想いを打ち明けた。

「今でもそうだったし、これからも同じだ。そこにお前の意志なんて関係ねえよ」

今までもずっと、自分の意志で信のことを愛していたという桓騎の熱烈な告白に、全身の血液が顔に集まってしまったのではないかと思うほど、信の顔が熱く上気していく。

「えっ…あ、…ぇ…」

まさかそのような告白をされるとは思わず、信は言葉を喉に詰まらせてしまう。

幾度も桓騎は信に想いを告げていたが、初恋に思いを馳せる少女のように恥じらった表情を見るのは初めてのことだった。

「か、桓騎…あ、あの…俺…」

上擦った声で名前を呼んだ信に、桓騎は思わず頬が緩んでしまう。

いつもは適当にあしらうはずの信が、目を逸らしてもなお顔を紅潮させたままでいる。

あまりにも愛らしい態度に、再び口づけをしそうになったのだが、ふと周りから向けられる視線に気づいた。

「…?」

そういえばここは宮廷の廊下だ。多くの女官や高官、兵たちが出入りしている場所である。

二人から少し離れたところで、誰もが立ち止まってこちらに視線を向けていることに気付いたのは、桓騎だけでなく信もだった。

今の今までやりとりをずっと野次馬たちに見られていたらしい。接吻も見られていたに違いない。興味に満ちた視線を感じた。

中華全土にその名を轟かせている女将軍の信と、彼女に保護されて立派に成長した知将の桓騎との男女の関係に、野次馬たちからの視線は熱かった。

桓騎が信のことを好いているのは、秦国では民衆にまで広まっている周知の事実だったし、もちろん桓騎もそれを知っていた。その上で噂を好きなように広めていたのだ。
事実である話を止める理由など何一つないのだから。

その甲斐あってか、誰もが満面の笑みを浮かべている。

まだ信は返事をしていないというのに、全方位から、自分たちの関係を祝福しているような温かな眼差しを向けられていた。

「~~~ッ…!」

桓騎の告白の時とはまた違った羞恥心に、信が顔を上げられなくなっている。
湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしているので、このまま失神してしまうのではないかと桓騎は危惧した。

「ここじゃ目立つな。場所を変えるぞ」

信の腕を掴むと、桓騎は彼女を引き摺るようにして歩き始めた。

療養に使っている部屋に戻り、見張りの兵には人払いをしておくよう告げる。彼も遠目で桓騎と信のやり取りを見ていたようで、礼儀正しく一礼で答えてくれた。

気づけば雨は止んでおり、抜けるように澄み切った青空が広がっていた。

 

扉を閉めて二人きりになると、信が両手で顔を覆ってその場にずるずると座り込んでしまった。

「どうした」

具合が悪いのかと問えば、信は大きく首を横に振る。指の間から泣きそうな顔を覗かせると、

「う、うう…これから、どんな顔して秦国を歩けば良いんだよ…!」

「はあ?」

野次馬たちの視線から逃げ切ったものの、今後の立ち振る舞いについて考えているらしい。

桓騎が信のことを好いている話を好きなだけ民衆に広めさせ、外堀を埋めておいたのは、信を落とす策の一つだった。

まさか今日という日に、この策が成されるとは思わなかったが、結果としては狙い通りに信の気持ちに揺さぶりをかけることが出来た。
もちろんその策は胸に秘めたままで、墓場まで持っていくつもりである。

「信」

先ほど噛みついた右手がまだ出血していることに気付き、桓騎はその場に膝をつくと、彼女の腕を掴んだ。

再び手の平に唇を寄せて、血の滲む歯形に沿って舌を這わせ、ちゅうと吸い付く。

「っ…」

傷口が痛むのか、切なげに眉を寄せて、信が桓騎のことを見つめていた。

「…返事を聞くつもりはねえぞ」

「え?」

間の抜けた声を上げて、信が桓騎を見やる。

どうやら大勢の野次馬たちに見られていたことに、よほど精神的な打撃を受けたようで、何のことか分からないと顔に書いていた。

もう一度、手の平に舌を這わせて、唇を落としていく。そして今度は血が滲まない程度に甘く歯を立て、桓騎は上目遣いで信を見た。

「たとえお前が嫌だっつっても、放すつもりは一生ねえからな」

先ほどの言葉の続きを告げると、信はあんぐりと口を開けて目を丸めていた。

「お、お、おま…」

誰が見ても動揺していると分かる信の狼狽ぶりに、桓騎はにやりと笑った。

彼女が再び顔を赤らめたことと、普段のように告白を無視されなかったことから、どうやら今まで以上に揺さぶりを掛けられたことが分かる。

それは間違いなく、信が自分を男として意識している証拠だ。

彼女が李牧の誘いを断って秦に残ることを決めたのは、すなわち李牧と共に生きる未来を拒絶し、共に過ごした過去との決別を意味する。
未だ自分が選ばれた訳ではないのだが、もうあの男が信の心を巣食うことはない。

信の泣き濡れた瞳を見る限り、彼女の心が李牧との決別を受け入れるまで時間が掛かるかもしれないが、その穴は自分が埋めるつもりだった。

これからも信を愛していく。
それは自分自身の意志で決めたことであって、決して李牧の身代わりではない。

他の誰にも代わりが出来ない唯一無二の存在として、これからも彼女のことを愛していくと桓騎は決意した。

それはもう、彼女と出会ったずっと昔から決めていたことだった。

 

平行線の終焉~桓騎と信~

「桓騎…」

何か言いたげにしている信に見据えられると、堪らなく愛おしさが込み上げて来て、桓騎は彼女の顎を捉えて顔を寄せる。

「っ…」

信が僅かに身体を強張らせたのが分かったが、桓騎を押し退けることはしない。
咄嗟に目をつむって、長い睫毛を震わせているのを見ると、まるで口づけを待っているかのようだった。

緊張しているその顔が可愛らしくて、いつまでも唇を重ねずに眺めていると、薄く目を開けた信がまさかといった表情を浮かべた。

「かッ、からかったな!」

「おっと」

平手打ちが飛んで来たが、桓騎は軽々とその手首を受け止める。

幼い頃は頭頂部にげんこつを落とされることもあったが、桓騎が成長するにつれて身長差が広まっていき、もう同じ技を繰り出せなくなったらしい。

本当にこれで戦に出ているのかと疑わしく思うほど細い手首を掴んだまま、桓騎は反対の腕で信の体を抱き寄せた。

体を密着させると、てっきり暴れると思っていたのだが、信は腕の中でじっとしている。

「信…?」

それどころか、抱擁を受け入れるように顔を埋めて来たので、桓騎は呆気にとられた。

「……、……」

名前を呼んでも信は顔を上げなかったが、しばらくの沈黙の後、彼女は意を決したように顔を上げた。

「…言っとくけどな」

急に信が低い声を出したので、桓騎は反射的に眉根を寄せた。

彼女がそうやって話を切り出す時は、いつも決まって無駄に長ったらしいお説教が始まるからだ。

ここに来て何の説教を聞かされるのだろうと桓騎が黙っていると、

「俺は、お前より年は上だし、これからも戦の前線で戦う。お前より早く死ぬ自信がある」

「そんな自信、誇らしげに持ってんじゃねえよ」

何を言い出すかと思えば、まさかそんな物騒なことを言われるとは思わず、桓騎は彼女の言葉を遮るように言い放った。

愛する女が死ぬ姿など見たくない。それは男なら誰でも同じだ。

きっと李牧が趙に来いと言ったのも、自分の知らないところで信を死なせたくなかったからに違いない。
それはつまり、李牧がまだ信のことを想っている証拠でもある。

もしも信の心が、李牧と共に生きることを望んでいたならば、確実に彼女は李牧の手を取っていただろう。

先ほどまで宮廷の廊下で無様に泣いていた桓騎に目もくれず、今頃は李牧と共に趙へ出立する準備を整えていたかもしれない。

忠義に厚い信が安易に国を見捨てるとは思えなかったが、それでも彼女が今でも李牧を愛していたのなら、その可能性もあっただろう。

だから今、腕の中にある温もりをしっかりを感じて、桓騎は安心感に浸っていた。

「お前…本当に良いのかよ」

確かめるように信が訊いたので、何がだと桓騎が返した。

「いつどこで死ぬか分かんねえ女より、いつでも帰りを待っててくれる女の方が、お前の心配を解消してくれるだろ」

それはつまり、自分のような女はやめておけと別言しているのだろうか。

「口の減らねえ女だな」

桓騎は両腕で信の体を力強く抱き締めた。このまま自分の胸で鼻と口を塞いで窒息させてしまおうかとも考えるくらい、両腕に力を籠める。

もぞもぞと肩口から顔を覗かせた信が「ぷはっ」とまるで小動物のような愛らしい声を上げた。

真っ直ぐに信のことを見つめると、桓騎は口元に笑みを繕った。

「お前が死ぬんなら、息絶える最後のその瞬間まで、俺が見届けてやるよ」

甘くて穏やかなその声に、腕の中にいる信が息を詰まらせたのが分かった。

「桓騎…」

「全部、俺の意志で決めたことだ。お前が何を言っても、俺はやめるつもりはねえよ」

しばらく信は戸惑ったように視線を彷徨わせててから、俯いてしまった。

ゆっくりと信の両腕が背中に伸ばされ、自分の言葉が彼女の胸に響いたことが分かる。
前髪で表情を隠していた信の頬に、一筋の涙が伝っていくのが見えた。

「だから信、お前も、お前の意志で決めろ」

返事の代わりに、背中に回された信の手が桓騎の着物をそっと掴んだ。泣き顔を隠したまま、信が桓騎の体に凭れ掛かる。

その瞬間、桓騎は自分と信の平行線にあった関係が、ようやく交差した終わったことに気付いたのだった。

 

平行線の終焉~李牧~

―――…俺は…お前とは、行けない。

あの時、信が自分の誘いを拒絶することは、李牧も誘いを口にする前から薄々勘付いていた。

それでも、もしかしたら信が祖国を捨てて共に生きてくれるかもしれないという想いが絶えなかったのは、紛れもなく自惚れだったのだ。

信と久しぶりに再会を果たして、もう一つ確信したことがある。

彼女は養父である王騎を討ち取ったことを責めはしたものの、一方的に別れを告げて自分の前から忽然と姿を消したことを責めはしなかった。

抱き締めた時も、唇を重ねた時も、彼女は親の仇だと頭では理解していても、拒絶をしなかった。

その事実こそ、未だ彼女の心に自分という存在が巣食っている証である。

秦将という立場を奪えば、守るべき国や民を彼女から全て奪い取れば、信はただの女に成り下がる。

自分と共に生きることが、何よりも平穏な人生を歩めることになるのだと信は未だに気付いていない。

国と共に滅ぶ運命から、彼女を救い出さなくてはならない。それは自分に課せられた使命のようなものでもあった。

帰る場所を奪えば、信が自分のもとに戻って来ると、李牧は信じて止まなかった。

「李牧様。準備が整いました」

楚の宰相との会談準備が出来たという報告を受け、李牧は馬を降りた。

密林の中に天幕を用意させたのは、万が一にも秦国に気付かれるのを避けるためだった。

この会談で成し遂げる同盟、そしてその先にある未来は、秦国の滅亡だ。

側近のカイネに目配せをして、李牧は一人で天幕の中へと足を踏み入れる。
先に中で待っていた楚の宰相・春申君がその鋭い眼差しを李牧に向けた。

「…では、始めましょうか」

穏やかな声色で、しかし、揺るぎない意志を込めて、李牧は会談を始めた。

全ては秦国の滅亡のため。
そして、その先にある自分と信の平行線の関係に終わりを告げるために。

 

おまけ小話の李牧×信の過去話・桓騎×信の後日編(8000文字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

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平行線の終焉(桓騎×信←李牧)中編③

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

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中編②はこちら

 

療養

桓騎に犯されたことで、ただでさえ弱っていた体に無理が祟ったのか、さらに高い熱が出た。

侍女が部屋に訪れたのは朝方のことで、夜明けまで信のことを犯し続けていた桓騎も疲れ切り、彼女を抱き締めて寝入っていた。

隠しようのない情事の痕跡が体や室内に多く残っていることから、二人が何をしていたのかは言葉にせずとも分かったのだろう。

桓騎はすぐに部屋から追い出されたが、信は朦朧とする意識の中で、侍女にこのことは誰にも告げないように懇願した。

合意のない行為であったことが嬴政の耳に入れば、間違いなく彼は桓騎に処罰を与える。

熱が出ている自分の看病に当たるよう侍女に命じたのも嬴政だ。信の体調が悪いというのに、桓騎が寝込みを襲ったと誤解されるに違いない。

それに、桓騎のことだから、凌辱の罪を問われても弁明することなく、喜んで斬首を受けるような気がしてならなかった。

そこまで桓騎のことを心配してしまうのは、長年共に過ごして来た情なのかもしれない。

苦い薬湯の味も分からないほど熱が出たのは初めてのことだった。しかし、朦朧とする意識の中で考えていたのは、やはり桓騎のことだった。

 

 

三日も経つと熱は引いて、普段通りに体を動かせるようになっていた。

まだ少しだけ喉の痛みと咳が続いていたが、すぐに快調するだろうから、もう薬湯は飲まなくても良いと医師から言われていた。

看病をしてくれていた女官も役目を終えたのだが、桓騎とのことは内密にしておくことを誓ってくれた。

ずっと横になっていたので、体力の衰えを取り戻さなくてはと信はすぐ鍛錬に励もうとした。しかし、完治するまでは武器を持つことを親友である嬴政は決して許さなかった。

見張りの兵がついたのは外部からの侵入を防ぐためではなく、信の逃亡阻止と、行動を監視をするためだったのだろう。

脱走を阻止するためにわざわざ兵を手配した親友の相変わらずな心配性に、信は肩を竦めた。

桓騎とのことは知られずにいるようだが、一晩で体調が悪化した報告は聞いていたのか、無理をさせまいとしているのだろう。

もしかして見張りの兵をつけたのは、自分が無理をしたことが原因で体調が悪化したのだと思っているのだろうか。桓騎とのことを知られずに済むのなら誤解されたままにしておこうと考えた。

完治するまで部屋で大人しくしてれば、速やかに釈放されるに違いない。

「………」

腹を擦り、信は目を伏せた。
桓騎はこの身に子を宿らせるために、凌辱を強いたのだろうか。

―――…俺は、あいつの代わりだったんだな?

あの時、すぐに違うと否定していたのなら、桓騎は自分の言葉を信じてくれたのだろうか。

まさか李牧とこんな形で再会するとは思わなかったし、昔から自分のことなら何でも把握したがる桓騎が、李牧のことを気にならないはずがなかった。

趙の宰相である李牧と過去に関係を持っていたことは、秦将の立場であることから、後ろめたさを感じていた。

この国と嬴政に忠誠を誓っている立場でありながら、趙の宰相と過去に関係があったことを知られれば、あらぬ噂を流されて謀反の疑いを掛けられる要因にもなり得る。

当時の李牧は何者でもなかった。だからこそ、彼が自分のもとを去ってから、敵国に仕え、宰相の立場に上り詰めるだなんて想像もしていなかった。

同盟が成立したとはいえ、秦国の敵として李牧が自分の前に現れたことに、何を話すべきか分からなくなってしまった。

自分の養父だと知りながら、馬陽で王騎を討ち取ったのは、自分との決別を意味していたのだろう。

あの日に自分のもとを去っただけでなく、今度は自分から大切なものを奪っていくのかと信は絶望した。

李牧の存在が秦国とっての脅威となることを信は頭では理解していたのだが、共に過ごしていたあの日々がそれを認めたくないと拒絶している。

「はあ…」

気になるのは李牧のことだけではない。
寝台に横たわりながら、次に桓騎に会った時、何を伝えるべきなのかを考えていた。

もしかしたら桓騎は自分に嫌悪して、二度と顔も見たくないと思っているかもしれない。この腹に子種を植え付けたのは、きっと凌辱の延長に過ぎないのだろう。

―――ば、バカッ、抜けよ!何してんだッ!

目を覚ました時、なぜか桓騎と身を繋げていて、心臓が止まるかと思うほど驚愕した。

昔から足音と気配を忍ばせて、布団に潜り込んで来ることは多々あったが、まさか幼い頃から面倒を見て来た彼に抱かれることになるとは夢にも思わなかった。

―――今さら言われても抜けねえだろ。お前が早く欲しいって言ったくせによ。

桓騎の言葉を思い出すと、まるで自分が桓騎を誘ったような状況だったらしいが、信は少しも覚えていない。熱のせいだろうか。

「はあー…」

考えることが山積みで、しかしどれもが自分で結論を導き出すことの出来ない悩みで、信は頭痛を催した。

もともと考え込むのは性に合わない。かといって、直接話を聞き出すような度胸も、今の信にはなかった。

 

来客

扉が叩かれたので、信は反射的に起き上がった。

見張りの兵が扉を叩く時は食事の時か、来客のどちらかだ。
数刻前に食事は終えていたし、となれば消去法で誰かが面会に来たのだろう。療養している自分に、囚人と同等の扱いを指示をした嬴政かもしれない。

「信将軍。趙の宰相がお見えになりました」

「えっ!?」

扉越しに聞かれされた来客に、信は驚いて声を上げた。

(しまった…)

呼び掛けに反応せず、眠っていたことにしていれば良かったと後悔する。慌てて口を塞いだが、もう遅かった。

「お通しします」

「あ、お、おいッ!?勝手に…」

扉越しに信の声を聞いた兵が、こちらの承諾も得ずに扉を開けた。
面会を断るか問われなかったのは、同盟が成立したばかりの今、秦趙の間で波風を立てるのを防ぐためだろう。

「………」

部屋に入って来た李牧の姿を見て、寝台に腰掛けたまま、信は思わず眉根を寄せた。

どうして自分が宮廷に療養していることを知っているのだろう。

「あ…」

頭を下げた兵が早急に部屋を出ていく。
李牧と二人きりにならないよう、室内で待っているよう兵に命じておくべきだったと、信はまたもや後悔した。

「………」

信に睨みつけられた李牧は少しも臆することなく彼女の前までやって来ると、僅かに身を屈めて手を伸ばして来た。

あの回廊で会った時のように、信の頬に優しく触れると、穏やかな笑みを浮かべる。

「…熱は下がったようですね」

その手を振り払うことは簡単に出来たはずなのに、信はそれをしなかった。
まだ心のどこかに、李牧の温もりに触れていたいと、彼と共にいたいと望んでいる自分がいるのだ。

それを未練がましいと思いながらも、信は上目遣いで李牧を見上げる。

「…なんで」

「先日、医師が慌てた様子で部屋に入っていくのを見かけたので、心配していました」

どうして会いに来たのかと問おうとした信の言葉を、李牧は遮った。

宮廷のこの部屋で療養をしていることを、彼は何処かから知り得たのだろう。

自分の看病に当たってくれていた侍女から、まだ趙の一行が帰還していないことは聞いていたが、まさか李牧自らここにやって来るとは思わなかった。

彼は自分のことをずっと気に掛けて、何処からか見ていたのかもしれない。

それが趙の宰相として敵将を警戒してのことなのか、それとも本当に自分を心配してのことなのか、信には分からなかった。

 

 

「突然すみません。もう明日には発たないといけないので」

少し寝ぐせが残っている黒髪を撫でられて、信は咄嗟に俯いた。

隣に腰を下ろした李牧が穏やかな眼差しを向けていたことには気付いていたが、信は決して目を合わせようとしない。

少しでも目を合わせれば、何故だと問い詰めてしまいそうだった。

「…驚きましたか?趙の宰相として現れたこと」

信の考えを察したのか、李牧が苦笑しながら問い掛けた。

「………」

その問いを肯定し、怒鳴ったところで李牧の立場は変わらない。膝の上で静かに拳を作った途端、李牧の手がそれを押さえつけた。

「また傷を作るつもりですか」

「っ…」

先日まで包帯が巻かれていた右手を開かせる。
もう傷はほとんど塞がっていたが、まだ痕が残っているそこに、あの時と同じように唇を落とされた。

「あ…」

唇の柔らかい感触に、信の背筋が甘く痺れた。
目を合わせるまいと俯いていたのに、反射的に顔を上げてしまい、李牧の双眸と視線が絡み合う。

すぐに顔ごと視線を逸らそうとしたのだが、顎を捉えられて、視線を逸らすのを阻まれた。
何を言う訳でもなく、李牧は信のことを見つめている。

「ッ、やめろ…!」

まるで蜘蛛の糸のように粘っこく視線を絡められ、耐え切れなくなった信は両腕を突っ撥ねて李牧の体を突き飛ばした。

全身の血液が顔に集まったのではないかと思うほど顔が赤くなっていることを自覚していたが、からかわれたくなかったので、態度だけは冷静を装う。

「ハッ、立ち振る舞いや言葉遣いのせいで、別人みたいになっちまったな。久しぶりに会ったのに、誰か分からなかったぜ」

皮肉っぽく言ってみるものの、李牧は眉一つ寄せることをしない。
この男に挑発の類は無意味だと知っているものの、わざとらしく信は溜息を吐いた。

「…見舞いじゃなくて、別の用があって来たんだろ。さっさと言えよ」

意外そうに李牧が目を丸めた。

「見舞いという理由で会いに来てはいけませんでしたか?」

趙の宰相ともあろう立場の男が護衛もつけず、家臣たちも連れずにわざわざ一人で会いに来たのだ。誰にも聞かれたくない用件があるのだろう。

「御託はいいから、さっさと言えよ」

睨みつけながら催促すると、穏やかに笑んでいた李牧の顔から表情が消える。

「信、俺と共に趙へ来い・・・・・・・・

一人称も口調も、目つきも雰囲気も別人のように変わり、信は目を見開いた。

今目の前にいるのは、趙の宰相ではなく、信がよく知っている李牧そのものだった。

 

選択

「……、……」

動揺のあまり、声を喉に詰まらせてしまう。心臓が激しく脈を打ち始めた。

趙の宰相と軍師になってからは、趙王だけでなく、多くの高官や将達と関わる機会が増えたのだろう。兵や民からの支持にも影響するため、親しみやすい雰囲気を繕ったのだと思っていた。

もしかしたら、過去の自分を全て壊して、今の人格を作り上げたのかもしれないとも考えていたのが、そうではなかった。

信が愛していた李牧は今でも存在している。いや、何も変わっていなかった・・・・・・・・・・・

自分のもとを去った後、趙の宰相という立場にまで上り詰めたのは、何か考えがあってのことなのだと、信はすぐに理解した。

だが、秦将である自分が趙に行くということは、つまり、この国を裏切るということだ。

「俺…は…」

俯いてしまいそうになるのを、顎を掴まれて再び阻まれた。

「秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ」

秦国が滅ぶ未来を断言したことに、信は思わず寝台から立ち上がった。炎のような激しい怒りが腹の内を突き上げる。

「まさか、お前…馬陽で父さんを討ったのも…」

怒りで声が震え、全身を戦慄かせた。
睨みつけても、李牧は少しも臆することなく平然と答える。

「王騎の死は始まりに過ぎない」

全身の血が逆流するようなおぞましい感覚に、怒りで燃えていた信は水を被せられたように押し黙った。

「秦国を滅ぼすのは他でもない、この俺だ」

追い打ちを掛けるように告げられた言葉に、視界がぐるぐると回りだし、自分が立っているのか座り込んでしまったのかさえ分からなくなる。

「馬陽では、王騎の死が目的だった。初めから全て・・・・・・俺の策通りに進んでいたというのに、そのことに気づいた者は、秦国には誰一人として居なかっただろう」

座ったままでいる李牧の手が伸びて来て、信の手首をそっと掴んだ。

その手は以前と変わらず温かいはずなのに、触れられた場所から凍り付いていくような錯覚を覚える。

「もし、あの戦にお前がいなければ・・・・・・・・、秦軍の全てを壊滅させる手筈も整えていた」

予想もしていなかった事実を知らされて、信は束の間、呼吸することを忘れていた。

李牧が持つ戦の才は、嫌というほど知っている。戦況を手の平で弄ぶような発言が、決して冗談ではないことも信は理解していた。

だからこそ、背筋が凍り付くほど恐ろしくて堪らない。

李牧が本気でこの国を滅ぼす手立てを練っていて、もしかしたら馬陽で王騎を討ち取った後から今も、彼の策通りに進んでいるのではないかと不安に駆られた。

此度の同盟も彼の策だとしたら。そう考えるだけで肺が凍り付いてしまいそうだった。

「は…はぁッ、ぁッ…はあ、ッ」

胸が締め付けられるように苦しくなって喘ぐように呼吸を再開すると、まるで慈しむかのように、李牧は優しく笑んだ。

 

 

寝台に座り込んでしまった信の頬を両手で包み、無理やり目線を合わせると、李牧がゆっくりと口を開く。

「俺は本気だぞ」

「っ…」

李牧の双眸に、凍り付いた自分の顔が映り込んでいた。

共に過ごしていた日々では、時々冗談を言って自分を笑わせてくれたこともあったし、彼の聡明な思考にはいつも何かを学ぶことが多かった。

しかし、今の李牧は一切嘘を吐いていない。双眸に宿る強い意志を見て、すぐに分かった。
脅迫とも取れるその言葉を聞き、李牧が本気で秦国を滅ぼす意志を固めたのだと悟る。

「信、俺と趙に来るんだ」

無理だ。この国を裏切ることは出来ない。

この国には自分の大切な仲間たちが生きている。たくさんの思い出が詰まっている。それを斬り捨てるような真似なんて出来ない。

これからも自分が秦将であり続けることは、最後まで秦国に忠誠を誓っていた養父に対しての誓いだとも思っていた。

もしも相手が李牧でなかったのなら、刃の切先を向けて罵倒していたに違いない。同盟さえ成立していなければ、その首を掻き切って王騎の墓前に供えていただろう。

「………」

唇を噛み締めて、信は力なく首を横に振った。秦国を裏切ることは出来ないという精一杯の意志表示だった。

「…信」

信が誘いを拒絶することを李牧は知っていたようで、その表情が崩れることは少しもなかった。

「あ…」

李牧の両腕が信の背中に回される。
青い着物に顔を埋める形になると、抱き締められる温もりと懐かしさを感じて、目頭に熱いものが込み上げた。

「ッ…」

無意識のうちに、李牧の背中に腕を回しそうになった自分の手を制し、信は李牧の体を突き放そうとした。

しかしそれよりも早く、李牧の腕が信の体を抱き押さえる。

「お前の将としての誇りも、王騎の意志も、俺が全て受け継ぐ。だから、お前はもう戦に出るな」

「……、……」

その言葉の意味を問い質すことは出来ず、信は唇を戦慄かせることしか出来ない。
腕の中から李牧を見上げると、信がよく知っている李牧の顔がそこにあった。

「趙で俺に嫁ぎ、子を育めばいい。母国を裏切ったと後ろ指をさすような連中など、俺が全て黙らせてやる」

「っ…」

返事を聞くつもりはないのか、李牧は信の体を抱き締めたまま放そうとしない。
それはまるでお前に拒否権はないと言われているようだった。

記憶にある李牧はこんなにも強引なことはしなかったのに、彼が自分のもとを去ってから、一体何があったのだろう。外見は李牧であるはずなのに、中味だけが別人になってしまったかのようだった。

いや、もしかしたらこれが李牧の本性なのかもしれない。自分が知らなかっただけで、ずっと李牧は自分を騙していたのだ。

その真実に、信の胸は引き裂かれるように痛んだ。

 

選択 その二

「…一つ、答えろ」

李牧の着物を弱々しく掴んだ。

「趙に行く前から…俺と、出会った時から、ずっと…俺を、利用してたのか?」

彼の胸に顔を埋めたまま、信は問い掛けた。

この着物の下の肌にはたくさんの傷が刻まれていることも、自分がつけた傷痕があることも、信は鮮明に覚えている。背中に残した掻き傷は、もう消え去っているだろう。

李牧と肌を重ねる度に、彼の肌に刻まれたたくさんの傷痕を指でなぞるのが好きだった。

あの森で倒れていた李牧を助けてから、療養という名目で共に生活し、彼が自分のもとを去るまで、それなりの月日があった。

今でも鮮明に覚えているあの日々は、信にとってはかけがえのないものだというのに、その情さえも李牧は利用していたのだろうか。

答えを知りたいと思う自分がいる一方で、聞きたくないと叫んでいる自分がいるのも事実だった。

「信」

名前を呼ばれても、信は顔を上げられずにいた。
心の何処かでは、李牧が出会った時からずっと自分を利用していたのだと諦めに似た答えを導き出してしまっている。

「信」

もう一度名前を呼ばれ、顎に指を掛けられて顔を持ち上げられると、信は怯えた瞳で李牧を見上げた。

「知っているだろう?俺が卑怯者・・・だと」

「ッ…!」

問いに対する答えになっていないが、やはり自分は利用されていたのだと悟り、信の胸は引き裂かれるように痛んだ。

(桓騎も、同じだったのか…?)

あの時の桓騎も、きっと同じ痛みを感じていたに違いない。

李牧の身代わりとして利用していたつもりは微塵もないのだが、このまま誤解が解けなければ、桓騎はいつまでもこの胸の痛みに耐えなくてはならないのだ。

李牧の手が信の薄い腹を撫でたので、何をするのだと信は瞠目した。

「お前は趙に来て、桓騎の子を産めばいい・・・・・・・・・・

先日の夜、桓騎に犯された時のことが脳裏に蘇り、信はひゅっ、と息を飲む。

「…な、んで…それを…」

掠れた言葉を紡いで問い掛けると、李牧は刃のような凍てついた瞳を向けて来た。

「俺以外の男の子種で実った命だとしても、お前の子であることには変わりない」

青ざめながら、信はその言葉を他人事のように聞いていた。

「…なんで、桓騎だって…」

上擦った声で、どうして桓騎の名前を出したのか問うと、李牧が目を細める。幾度も自分を狂わせたあの妖艶な笑みだった。

網膜に焼き付いているその笑顔に背筋が甘く痺れ出し、信ははっとして拳を強く握って意識を取り戻した。

あの夜・・・、せっかく見舞いに行ったのに、先に来客がいただろう」

瞬きをすることも忘れて、信は李牧を見つめていた。

あの夜、李牧は見ていたのだ。自分以外の男に犯されている信の姿を。
それを知った上で、李牧は今も信を手放したくないと言っているのだ。

 

 

心臓を鷲掴みにされたかのように、信は喘ぐように苦しげな呼吸を繰り返していた。

こんなにも胸が痛むのは、李牧にあの場を見られていたことに対する羞恥心ではない。
李牧が王騎の次に、桓騎を標的にするのではないかという耐え難い不安だった。

「……、……」

この腹に桓騎の子種が実っているかは分からないが、信は自分の腹を守るように両手を当て、怯えた目で李牧を見上げる。

どうやらその反応が気に障ったのか、ここに来て李牧が初めて眉根を寄せた。

「何を迷うことがある。お前はあの男を俺の身代わりとして利用していたんだろう?」

「違うッ!」

李牧の言葉を遮るように、信は叫んだ。否定したのは、ほとんど無意識だった。

どうしてあの時、桓騎にも同じようにすぐ否定してあげられなかったのだろうという後悔が信の胸を締め上げた。

急に大声を出したせいか、こめかみがずきずきと熱く脈動し、顔が赤く上気していく。

「俺は、桓騎を…お前の身代わりだと思ったことなんて、一度もない」

声を振り絞ると、李牧は黙って信の言葉に耳を傾けていた。

「お前が…俺のもとを去っていったあの日に、桓騎と出会った」

あの雨の日のこと・・・・・・・・は、いつでも瞼の裏に浮かび上がる。

悲しそうに微笑む李牧から理由も伝えられず、一方的に別れを告げられて、信は引き留めることも追い掛けることも出来ず、ただ立ち尽くしていた。

彼が濡れないようにと、持っていったトウ ※傘も使うことはなかったし、いっそ雨に打たれて、ひどい風邪を引いてそのまま死んでしまえたらなんて安易なことまで考えていた。

「…でも」

桓騎を保護したのは、その帰り道だった。

「あの雨の日じゃなくても、倒れていたのが桓騎じゃなかったとしても、俺は…きっと同じことをしていたし、お前の面影と重ねるなんて、絶対にしない」

もし、桓騎と出会ったのがあの日でなかったとしても、倒れていたのが桓騎でなかったとしても、信は目の前で倒れている人がいたのなら、保護していたに違いなかった。

目の前の人々を救うことは、自分の信念であったし、そこに李牧の存在は関係ない。

李牧と男女の関係を築いていたのは確かな事実だが、だからと言って桓騎を李牧の代わりとして見ていたことは一度もなかった。

ただ、彼を戦に出したくなかったのは、本当だ。自分に懐いてくれている桓騎が戦で殺されると思うと、胸が痛む。

しかし、それは桓騎でなくても同じだ。誰かが死ぬのは、自分の前から居なくなるのは悲しいもので、それでも哀悼に優先順位はつけられない。

人の命というものは、平等なのだから。

 

選択 その三

「…っ」

頬に熱いものが伝い、信は自分が涙を流していることに気が付いた。
泣き顔を見られまいとして、咄嗟に俯いて前髪で顔を隠す。

「信…」

静かに鼻を啜っている信の体を抱き寄せると、李牧はその耳元に唇を寄せた。

「きっと、今以上に辛い想いをさせることになる。これからも秦将として戦場に立ち続けるなら尚更だ」

「………」

奥歯を噛み締めて、信は無意識のうちに拳を作った。爪が手の平に食い込む前に、李牧がそっとその手を包み込む。

「もう無意味な傷を作るな・・・・・・・・・

李牧の胸に顔を埋めたまま、信は唇を噛み締めた。

しかし、彼について行くとは決して答えない。言葉にせずとも、李牧は信の意志をすでに察しているようだった。

それでも共に来るよう説得を続けるのは、彼女を失いたくないからだ。

信の背中に回している両腕に、自然と力が籠もる。だが、信は両腕を伸ばして彼の体を押し退けた。

今も涙を流し続ける信の黒曜の瞳に、李牧が生唾を飲み込む。

その濡れた瞳に浮かんでいる強い意志が、自分との決別を確立したものだと察し、李牧の胸は針で突かれたように痛んだ。

「…俺は…お前とは、行けない」

信が発した言葉は、情けないほどに震えており、とても聞けたものではなかった。しかし、瞳と同じで揺るがない強い意志が宿っている。

それは将として、一人の女として、信という存在そのものが選んだ道だった。信は最後の瞬間まで、滅亡の運命にも抗うつもりなのだ。

「信、考え直せ。まだ間に合う」

力強く両肩を掴んで、説得を試みる。しかし、何度訊いても信の答えは変わらなかった。

彼女の頑固な性格も、忠義の厚さも、李牧は理解していた。だからこそ、ここで引く訳にはいかなかった。

愛する女が死ぬ姿なんて見たくない。
趙国の宰相に上り詰めたのも、滅びの運命にある国から信を救うためだったのに、彼女を秦から連れ出せないのなら何の意味もない。

もちろん彼女を趙へ連れていく手段など幾らでもある。だが、それでは意味がない。

彼女の意志でこの国を見限らせなければ、趙へ連れて行ったとしても、すぐに秦へと逃げ帰るだろう。そうなれば、今以上に秦国を守ると固執してしまう。

李牧が予想外だったのは、彼女の中で、自分の存在と秦国に対する忠義が逆転していたことだった。

共に過ごしていた時のように、愛する自分に従順であった彼女はもう何処にもいない。

しかし、李牧は今でも信が秦国よりも自分を優先してくれるはずだと自負していた。未だ彼女の心の中に自分という存在が根付いていることと、理由はもう一つあった。

それは信が保護し、今では知将としてその名を広めている桓騎の存在だ。
信は彼を自分の身代わりとして育て、傍に置くことで、自分がいなくなった後の寂しさを埋めているのだと思っていた。

だからこそ、再び彼女と再会したのならば、あの時のように、素直に自分の言うことを聞いてくれると、李牧は疑わなかったのだ。

だが、それは自惚れに過ぎなかったのだと、ここに来てようやく理解した。

彼女はもう、自分の背中を追い掛けるのをやめて、自分が決めた道を歩み出しているのだ。誰かに命じられた訳ではなく、自分自身の意志で。

 

 

もう何を言っても信の決意が揺るがないと分かった李牧は、諦めたように力なく笑った。

「…そうだな。お前はそういう女だった」

頬を伝う涙を拭ってやり、李牧が呟いた。

「ご、め…」

幼い子供のように泣きじゃくる彼女が、趙には行けないことを謝罪をしようとしたので、李牧はその言葉を唇で塞いだ。

「ん、…ぅ、っん…」

抵抗する素振りはなく、むしろ受け入れるようにして、目を閉じたまま李牧の口づけに応えている。これが最後の口付けになるのだと、信は悟ったようだった。

お互いの体を強く抱き締め合い、何度も唇を交えてから、李牧はまだ頬を伝う涙に舌を這わせる。塩辛い味がして、喉の奥がきゅっと締め付けられるように痛んだ。

「お前が謝罪することは何もない。謝るのは俺の方だ」

「…っ、……」

しゃっくりを上げながら、信が李牧を見つめている。

少しも泣き止む気配のない信に、幼い頃から相変わらず泣き虫な女だと思いながら、李牧は穏やかな瞳を向けた。

どれだけその双眸を涙で濡らしていても、その奥にある意志は決して揺るがない。その意志の強さに惹かれたことを、李牧は思い出した。

同時に、彼女を泣き止ませるのは、もう自分の役目ではないのだと思い知らされる。

信が自分に背を向けて歩み出しているのならば、自分も前に進まなくてはならない。
深く息を吸ってから、李牧は意を決したように信を見つめた。

「俺たちが次に会う時は戦場で、俺は趙の宰相、そしてお前は秦の将だ」

まさかまた彼女に決別の言葉を告げることになるとは思わなかった。

信は涙を流しているものの、引き止めるような言葉は言わない。しばらく沈黙した後、彼女の手が、ずっと掴んでいた李牧の着物をようやく放した。

自分と離れる覚悟が出来たのだと察し、それを合図に、李牧は躊躇うことなく立ち上がる。

「李牧…」

弱々しい声に名前を呼ばれて、李牧は振り返った。

何を言う訳でもなく、信は眉根を寄せて祈るような表情で李牧のことを見つめている。

本当は行かないでほしいと、自分を引き止めようとするのを必死に堪えているのが分かり、同時に愛おしさが込み上げた。

彼女から別れの言葉を聞かずとも、その顔さえ見られれば、それで十分だった。

「俺は卑怯者だが、嘘は言わない。今でもお前のことを愛しているし、これからもそのつもりだ」

その言葉を聞いた信が両手で顔を覆い、声を上げて再び泣き始めた。

瞼の裏に、いつも自分の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いていた彼女の姿が浮かんだ。しかし、もうその肩を抱いてやることも、慰める言葉を掛けることは出来ない。

信の泣き声を聞きながら、李牧は振り返ることなく、部屋を出ていく。

部屋を出てからも、李牧は、一度も後ろを振り返らなかった。

 

後編はこちら

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平行線の終焉(桓騎×信←李牧)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編①はこちら

 

身代わり

まるで痛みを堪えるような信の表情を見て、桓騎の中にあった嫉妬の感情がより大きく膨らんでいった。

あの男がまだ信の心を巣食っているのは明らかだ。しかし、一方では信に対して怒りの矛先が向けられている。

彼女が李牧と関係を持っていたことを知らなかったのは、きっと自分だけではない。

秦将である立場にあるにも関わらず、趙の宰相と姦通していたとなれば、過去のものだとしても重罪として扱われる可能性がある。信もそれを理解していたからこそ、今まで誰にも告げなかったのだろう。

ただ、どうして自分にさえ打ち明けてくれなかったのかという、行き場のない怒りが桓騎の嫉妬の炎をより燃え盛らせた。

彼女が李牧との関係を素直に打ち明けてくれたところで、何が変わる訳でもないし、信の心から李牧が消え去ることはないことも分かっている。

それなのに、彼女のことなら全て把握しておきたいという気持ちが絶えることはない。
幼い頃から信のことを想っていた桓騎は、自分だけが信の特別な存在になりたい願っていた。

彼女の秘密を共有すれば、信にとって自分は特別な存在になれたのかもしれない。

たとえそれが、李牧とは違う意味での特別・・・・・・・・だとしても、桓騎は彼女の心に自分という存在を刻みたかったのだ。

それほどまでに、桓騎は信のことを愛していた。

「信…」

未だ傷が癒えていない彼女の右手を掴んで、桓騎はその手の平に口づける。今彼女と唇を重ねれば、間違いなく舌を噛み千切られると思ったからだ。

いつも剣や槍を握っている彼女の手の皮はマメだらけで肥厚している。爪を立てて血が流れたということは、相当な力を入れていたのだろう。

回廊で李牧に会った時、養父を討たれた憎しみ以外にも、色んな感情が蘇ったに違いない。

「か、桓騎…」

震える声で名前を呼ばれて、桓騎は手の平に唇を押し付けながら、信を見た。
発熱しているせいか顔が赤い。それが恥じらいによるものであれば、どれだけ救われたことだろう。

「…俺は、あいつの代わり・・・・・・・だったんだな?」

「―――」

静かに問い掛けると、信が目を見開いて、言葉を喉に詰まらせる。

それが信に対しても、自分に対しても、残酷な問いであることは十分に自覚していた。

否定されなかったことから、それが答え・・だと確信した桓騎は、口の中に苦いものが広がっていくのをまるで他人事のように感じていた。

次いで、胸が引き裂かれるように痛み、いつものように小言を返す余裕もなくなってしまう。

顔から表情を消した桓騎を見上げて、信が力なく首を横に振った。

「…違う」

すぐにでも消えてしまいそうな、弱々しい声。それは紛れもなく桓騎の問いを否定する言葉ではあったものの、桓騎の胸に響くことはなかった。

「桓騎、俺は…」

「もういい」

弁明の言葉を遮ると、信が怯えた表情を浮かべる。

桓騎は幼い頃から聡明な頭脳を持っていた。相手に見抜けぬ奇策を用いることで次々と敵軍を一掃して来たし、相手の思考を見抜くことを得意とし、何より物事の理解が早かった。

だから、信と李牧の関係を確信してから、自分が信にとってどういう存在であったのかも、すぐに理解してしまったのだ。

ある意味では、それは桓騎の望む特別だった。だが、李牧以上の特別になることはない。

「お前が俺を戦に出したくなかったのも、あいつの代わりだったからなんだろ」

「ちが…」

小癪にもまだ弁明をしようとするその口を塞ぐために、桓騎は唇を押し当てた。薄く開いた口の中に舌を差し込んで、彼女の舌を捉える。

「んんッ…!」

自分の口の中に信の舌を導くと、容赦なく噛みついた。

血が滲むほど強く噛んでやり、このまま黙らせるために舌を噛み切ってやろうかと考える。
鉄錆の苦い味が口の中に広がると、今まで夢見ていた信との甘い口づけとは、程遠い現実だったことを自覚した。

 

 

血の味の口づけを交わしながら、彼女の手を頭上で一纏めに押さえ込む。

「ふう、ッ、んん…!」

くぐもった声を上げた信が、まるで許しを請うように、涙で潤んだ瞳を向けて来た。

もしも初めから、李牧の身代わりとして自分を拾ったのだと教えてくれたのなら、自分は喜んでその役目を全うしただろう。

たとえ身代わりだとしても、きっと今以上に愛してもらえたに違いない。

しかし、身代わりであることは一切告げず、桓騎の自我を崩さぬように扱って来たのは他でもない信だ。憎らしいほど、彼女は他人を欺く才に恵まれなかった。

身代わりであることを確かめたのは、他でもない桓騎自身だ。もしも李牧と信の関係に気づかなければ、一生この事実を知らないままでいられたかもしれない。

信が自分の中に李牧の姿を見ていたとしても、それを知ることなく、偽りの愛情で満足して死ぬという道もあっただろう。今となっては全て手遅れだが。

それでも、自分が李牧の身代わりだったと分かってもなお、桓騎の信を愛する気持ちが揺らぐことはなかった。

自分こそが救いようのないバカだと、桓騎は引き攣った笑みを浮かべる。

彼女にとって自分が李牧の身代わりなのだとしたら、その役目を全うするべきだ。それは信のためではない。信に愛されるためであって、他でもない自分のためである。

「李牧にされたこと、俺が全部やってやるよ。俺はあいつの身代わりだから・・・・・・・・・・・・・な」

「…!」

その言葉が、信の胸に重く圧し掛かったのは、彼女の表情を見ればわかった。

ざまあみろと歯を剥き出して笑ってやれたのならと思うのだが、切なさで胸が満ちているせいか、上手く笑みを繕えない。

「桓騎ッ、やめろ…!」

再び律動が始まったことに、信が焦燥の表情を浮かべる。

身代わりになることを選んだというのに、一切喜ぶ様子のない信に、桓騎はやるせなさを覚える。
しかし、その気持ちとは裏腹に、腰は軽快に動いた。

「やああッ」

喜悦に染まった声が上がった。それは紛れもなく、女の声だった。

最奥を突き上げた時に、こつりと何かが亀頭に触れる。それが女にしかない尊い臓器だと分かると、桓騎は夢中でそこを突いた。

「ぁあっ、や、めッ、ぁああ」

上体を覆い被さるようにして、まだ逃げようと抵抗を続ける信の体を強く抱き押さえる。

黒髪を振り乱して体を痙攣させるところを見れば、急所を突いているのだと分かった。

濡れた瞳と視線が絡み合う。耐え難い苦悶に眉根を寄せながら泣いている表情が愛おしくて、もっと壊してやりたいという想いに駆られた。

初めから李牧の身代わりであることを潔く受け入れていたのなら、信は抵抗することなく、その身を委ねてくれたのだろうか。今となってはもう分からない。

「ぁぐッ…!」

両手首を押さえていた手で、男根を咥え込んでいる腹を圧迫してやると、外側と内側から圧迫される刺激によって、信の体が大きく仰け反った。

「ぐる、しぃ…」

許しを乞うように、信が涙で濡れた瞳で見上げて来る。

絶対に許さない。自分が味わった苦しみを、信も同じ分だけ味わえば良いと思った。それが自分が李牧の身代わりとなる条件だ。

もっと苦しめと心の中で呟きながら、桓騎は力強く彼女の体を抱き込む。
すでに彼女の最奥まで貫いているはずなのに、さらに奥へと進みたくて腰を突き出した。

「はッ…はあッ、ぁあっ、ああぅ」

苦悶を浮かべていた信の顔が徐々に蕩けていく変化を、桓騎は見逃さなかった。

腹の底から込み上げて来る快楽に、桓騎も絶頂へ上り詰めることしか考えられなくなっていく。

激しい律動を繰り返していると、信が縋るものを探して桓騎の背中に腕を回して来た。情事中の彼女の癖なのだろうか。

今だけは、自分を求めてくれている。

その事実さえあれば、桓騎はこのまま死んでも良かった。もちろん信も道連れにして。

 

身代わり その二

「ぁ、ま、待て、ほんとに、も、やめろ…!」

荒い呼吸の合間に、信が上擦った声で言葉を紡いだ。

背中に回していた手で、覆い被さっている桓騎の体を押し返そうと肩を掴んだものの、その手にはほとんど力が入っていなかった。

「抜けっ、もう抜けってば!」

犯されている体は今も喜悦の反応を見せているが、彼女の中にある強固な意志は決してそれを許さないようだ。信らしいと桓騎は笑った。

「放せって…!」

自分の体を力強く抱き締めて放さない桓騎の腕に、信が何度も同じことを訴える。それが無意味なことだと何故気づけないのだろう。

信はどんな負け戦でも最後まで諦めない不屈の精神を持つ女だが、状況と相手が悪かった。
どうにかして深い結合を解こうと腰を捩る姿に、さらに嗜虐心が煽られる。

ずっと恋い焦がれて止まなかった女を、この腕に抱いているのだ。途中でやめられるはずがない。

「李牧には、自分から足開いてたんだろ」

信の瞳に怯えが走った。
自ら男根を手で愛撫して、口淫まで行った信を見れば嫌でも分かる。あれは男を喜ばせる術であり、李牧に行っていたのだろう。

それを彼女に教えたのが李牧なのか、他の男なのかは分からない。もしかしたら誰に教わった訳でもなく、信が男を誘う才を芽吹かせただけなのかもしれないが、もうそんなことはどうでも良かった。

「いや、いやだッ」

さらに力強く信の体を抱き込むと、桓騎は容赦なく腰を突き出した。

子供のように泣きじゃくりながら信が腕の中で力なく暴れ出すが、結合が解ける気配はなく、桓騎の体を押し退けられないと分かると、小癪にもまだ抵抗を続けるつもりなのか、腕や背中に爪を立てて来た。

「や、ッ…桓騎、頼むから、話を…」

「今さら話すことなんて何もねえだろ」

弁解も哀訴も聞きたくないと、桓騎は彼女の口を己の唇で塞いだ。

「んんッ…!」

くぐもった声を上げた信が、まだ何か言おうとしているのだと分かると、桓騎は口内に舌を差し込んで今度こそ言葉を奪った。

もう何も聞きたくないと、桓騎は彼女の赤い舌に容赦なく歯を立てる。

「ん、ふ…」

再び口の中に血の味が広がって、自分たちに相応しい口づけの味だと桓騎は嘲笑を浮かべた。

血の味で嗜虐心がさらに煽られると、桓騎はいよいよ彼女の中に子種を植え付けるために腰を打ち付ける。

張り詰めた男根が、何度も淫華の奥にある子宮の入り口を何度も穿った。

桓騎が今行っているのは、紛うことなき凌辱だった。

 

 

「んっ…!んんッ、ん…ぅ」

信の悲鳴の中にも、僅かに被虐の喜悦の色が浮かんでいることを桓騎は感じ取っていた。

想いが通じ合わないとしても、彼女が自分を男として受け入れている。

それは桓騎が幼い頃から望んでいたことで、まさかこんな凌辱の中で夢が叶うとは思っていなかった。

「はあッ…はあ…」

息が苦しくなって口を離すと、信が大口を開けて呼吸をしていた。涙を流し続けるその顔は、憎らしいほど淫蕩が増していた。

「あっ、あぁっ、やだ、やめろっ、はなせ、だめだって、頼むから」

射精に向けた昂進に、信が哀願を振り絞る。
疲労のせいで抵抗もままならないのだろう。声を上げるのが精一杯といった様子だった。
言葉とは裏腹に、男根を咥え込んでいる信の淫華が、子種を求めてきゅうきゅうと締め付けて来る。

「中で出すからな」

腹の底から駆け上がる吐精の衝迫に、堪らず呟くと、信が青ざめたのが分かった。

李牧の身代わりとして、信が彼にされたことを全てやるつもりだったが、こればかりは嫌がらせだった。

彼女に今も子がいないことから、腹に子種を植え付けられたことはないのだろう。それは桓騎にとってとても都合が良かった。

どれだけ李牧のことを想っていたとしても、信が身籠るのは他でもない自分の子である。

嫌でも自分という存在を意識して生きなくてはならない。これは自分の好意を利用した信の贖罪だ。一生をかけて償えと桓騎は心の中で吐き捨てた。

「やだ!やめろッ、やだあぁッ」

悲鳴を上げながら、必死に逃げようとする信の細腰をしっかりと両手で捉える。一番奥深くまで性器を密着させた状態で、尚も先に進もうと腰を揺すり続けた。

「あッ…やぁああーッ」

信の体が弓なりに反り返ると、子種を全て吸い尽くすかのように、男根を痛いくらいに締め上げた。

「ッ…!」

眩暈がするほど凄まじい快楽が全身を貫いたのと同時に、桓騎の下腹部が痙攣を起こした。痙攣に合わせて、精液が何度かに分けて吐き出されていく。

快楽の波に意識が飛ばぬよう、縋りつくものを探して、彼女の身体を腕の中に閉じ込める。
吐精が終わるまで、桓騎は彼女の身体を強く抱き締めたまま動かずにいた。

「…ぁ、あ…う、嘘…」

子宮に子種を植え付けられる、女にしか分からない感覚に、信の顔が絶望に染まっていく。
絶頂の余韻と、家族のように想っていた男から犯された事実に、瞳から止めどなく涙を流している。

きっと李牧には、その表情を見せたことはなかったに違いない。

そう思うと、李牧の身代わりだと知ってから切なさでいっぱいだった桓騎の胸は、不思議と優越感で慰められた。

 

夜明け

一度目の絶頂を迎えた頃はまだ真夜中だったが、今では灰青色の夜明けの光が室内に入り込んで来ていた。

もう何度絶頂を迎えたのか、信も桓騎も覚えていない。繰り返し抽挿する男根も淫華も擦れて赤くなり、どちらの性器も焼けつくような痛みがあるだけでなく、敏感になっていた。

信の中に植え付けた子種も、桓騎が腰を揺する度に逆流して、二人が繋がっている僅かな隙間から零れている。

後背位や騎乗位など様々な体位で繋がっては、何度も信の中で吐精して、信も甲高い声を上げて絶頂を迎えた。

いつまでも繋がったままでいたいと思うし、しかし、体を繋げていれば、腰を動かさずにはいられない。

「も、無理ッ…だって、ぇッ…!」

止めどなく涙を流しながら、信が力なく桓騎の体を押し退けようとする。

覆い被さるように彼女に抱き締めながら、桓騎はうるさい口を黙らせようと、唇で蓋をした。

「んんッ、んッ…!」

信が嫌がって首を振る。舌を差し込んだが、もう噛みつく気力すら残っていないらしい。

ずっと水分も摂らず、性の獣に成り果ててしまったかのように交わりあっているせいで、濃い唾液を絡め合った。

もうやめてくれと信が許しを請う度に、より一層苦しめてやりたくなる。

自分が味わった苦しみを信に思い知らせれば、少しは気が晴れると思ったが、余計に虚しさが駆り立てられるばかりだった。

「あ…ぅ…」

激しい凌辱によって、ついに気を失ったのか、信がぐったりと動かなくなる。閉ざされた瞼が鈍く動いていたが、目を覚ますことはなかった。

「っ…」

ゆっくりと腰を引くと、中で吐き出した精液が逆流して溢れ出て来た。
尻や内腿を伝っていく精液を指で抄うと、桓騎は迷うことなく、潤んで充血している中へと押し込んだ。

確実に子種を実らせようと、指を使って自分の精液を中に塗り付ける。何度も男根を突き上げてやった子宮口には念入りに擦り付けた。

どれだけ自分を拒絶をしたとしても、内側から芽吹いた種は、その身に根を張っていくのだ。容易には取り除けないほどに。

自分の子を身籠った信は、一体どんな顔を見せてくれるのだろう。我が子ですら、李牧の身代わりとして扱うのだろうか。

「クソ…!」

きっと信は、李牧の代わりになるのなら、自分じゃなくても良かったに違いない。今まで信へ向けていた純粋な好意を、利用という形で踏み躙られた。

彼女が腹の内に黒いものを抱えていることに気付けなかったのは自分の失態だが、どこまでも自分を苦しめる残酷な女だと思った。

意識を失ってからも涙を流し続けている信の寝顔を見下ろして、やるせなさが込み上げて来た。

李牧の身代わりとして自分を利用していた信のことが憎いはずなのに、それを上回る愛情が、桓騎の心を惑わせる。

憎しみに靄が掛かってしまうのは、これだけ残酷な仕打ちをされても、信を愛しているからだ。

「…信…」

彼女の身体を強く抱き締め、桓騎は彼女の首筋に顔を埋める。

幼い頃はこうやって甘えれば、穏やかに笑んだ信が抱き締め返してくれて、眠りに就くまでずっと背中を擦ってくれた。

あの頃から、信は自分を李牧の身代わりとして見ていたのだろうか。李牧の身代わりにするために雨の中で倒れていた自分を保護したのだろうか。

目頭がじんと沁みるように熱くなり、桓騎は強く目を閉じた。

 

 

朝陽が昇り、二人きりの時間は強制的に終止符を打たれた。

信の看病を命じられた女官が部屋を訪れたことで、信を抱き締めながら眠っていた桓騎は部屋から追い出されたのである。

その後、桓騎が信の部屋に侵入したことがきっかけになったのか、療養のために宛がわれたあの一室には見張りの兵がつくようになった。

熱が出ていた身体に無理を強いたことが原因で、どうやら信の体調が悪化してしまったらしい。医師が慌ただしく部屋を出入りしている姿を幾度か見かけた。

ろくに水分も摂らずに激しい情事を続けていたのだから当然だ。冷静になった頭で、桓騎は今さらながらに後悔と罪悪感を抱いた。

合意の上だったのかと問われれば、素直に首を縦に振ることは出来ない。

しかし、熱と疲労で朦朧としながらも、信は桓騎と共に寝台に横たわっていたのを目撃した女官を説得してくれたようで、桓騎に処分が下されることはなかった。

合意もない上に、熱を出して弱っている彼女の寝込みを襲ったとなれば、秦王嬴政からすぐにでも斬首を命じられたかもしれない。嬴政がそれほど親友の存在を大切に想っていることは桓騎も昔から知っていた。

此度の件が嬴政の耳に入るのを信が事前に阻止したのか、その後も特にお咎めはなかった。

自分のことが嫌になったのなら、さっさと嬴政に事実を告げて斬首にすれば良いのに、どうして信はそうしなかったのだろう。

女として男に犯された事実を他の者に告げたくなかったのか、それとも将として、桓騎という軍力を失いたくなかったのか。もしくはまた別の理由があるのかもしれない。

真意を確かめたかったが、ただでさえ秦王がいる宮廷内には見張りの兵が多いので、窓からの侵入は困難だろう。

見張りの兵を上手く唆して無理に押し通っても良かったが、そんなことをしたら、さすがに信も怒り狂うことになるだろう。次は嬴政に報告して斬首の運びに持っていくかもしれない。

(上手くいかねえな…)

こうなれば、ほとぼりが冷めるまでは時間と距離を置くしかない。

熱が出ていた体に無理強いをしたことを謝罪するつもりはあったが、彼女と身を繋げたことに関しては少しも後悔していないし、自分を李牧の身代わりとして利用していたことを許すつもりはなかった。

 

敵対心

三日ほど経ってから、桓騎は再び宮廷へと訪れた。

回廊を進んで信が療養している部屋に向かっていると、扉の前で兵が見張りを行っている。
まだ信があの部屋で療養していることが分かると、桓騎の中で複雑な想いが浮かんだ。

軽快したという報せは聞いていなかったし、むしろあの夜のことがきっかけになって今もまだ寝込んでいるのではないかと心配だった。

彼女の顔を一目見られればそれで良かった。きっと信にしてみれば、自分とは二度と会いたくないと思っているかもしれない。
もしかしたら、自分の顔を見たら即座に斬りかかって来るかもしれない。

彼女に殺されるなら、信がその人生を全うする最期の瞬間まで、自分を忘れさせぬよう、呪いの言葉を吐いて死んでやろうと思った。

(さて、どうするか…)

柱の陰に身を潜めて、扉の前にいる見張りの兵をどのようにして追い払うか考えていると、部屋から何者かが出て来た。

見張りの兵が礼儀正しく一礼したその人物に、桓騎は思わず目を見開く。

(は…?)

なぜか信の部屋から、趙の宰相である李牧が出て来たのである。桓騎は思わず睨みつけるようにして目を吊り上げた。

(なんであいつが…)

趙の一行は未だこの宮廷に留まっている。秦趙同盟を結んだ暁に、丞相の呂不韋から咸陽の観光を勧められて、予定以上の滞在になっているという話は噂で聞いていた。

宮廷にいることは不思議ではないのだが、なぜ信が療養している部屋からあの男が出て来たのだろう。

「…!」

柱の陰に身を潜めていたのだが、李牧の存在に驚いて身を乗り出していたことで、向こうもこちらの気配に気付いたらしい。

目が合ってしまい、桓騎は咄嗟に顔ごと視線を逸らした。その場から立ち去ることも出来たのに、なぜか桓騎の足は杭に打たれたかのように動かない。

護衛も連れず、李牧は一人で信に会いに来たようだった。彼が信と会っていたことは安易に予想出来たが、一体何を話していたのだろう。

優雅な足取りでこちらに近づいて来る。
先日のように、そこにいない者として素通りされるのかとばかり思っていたが、今日は違った。

「あなたが桓騎ですね」

桓騎のすぐ前までやって来た李牧が、まるで天気の話題でも出すかのように、明るい声色で問い掛けた。

先日、信に声を掛けて来た時にも感じたが、彼は一見ただの優男に見えて、中には触れてはいけない何かを抱えている。

それはきっと、鋭い刃の切先のような、安易に触れようとした者の手をたちまち傷をつけてる棘のようなものに違いない。

「………」

返事の代わりに睨みを送ってやると、まるで挑発するかのように、李牧が人の良さそうな笑みを深めた。

「信の体調が悪いと聞いたので、見舞いに来たのですよ」

こちらは何も聞いていないというのに、李牧は信に会った目的を話し始めた。

信に熱があることを指摘したのは確かに李牧だ。宴の夜から体調が悪化したことを何処からか聞いたのだろう。
秦王の勅令もあって侍女が看病に就いていたくらいなのだから、噂が広まっていたのかもしれない。

李牧がその場を去ろうとしないことから、まだ何か用があるのかと桓騎は眉根を潜めた。
僅かに身を屈めて、桓騎の耳元に口を寄せて来た李牧が、

「せっかく恋い焦がれて止まなかった彼女を抱いたというのに、随分と辛そうな顔をしていますね?」

「ッ…」

声を潜めてそう言ったので、桓騎は弾かれたように顔を上げる。まるでその反応を予想していたかのように、李牧が目を細めた。

初めに思ったのは、信が李牧にあの夜のことを告げたのかという疑問だった。
動揺のあまり、聞き返すことも出来ずに桓騎が李牧をじっと見据えていると、彼は信が療養している部屋の方に視線を向けた。

「信が求めていたのは、貴方ではなかったということですね」

その反応を見れば分かりますと、勝ち誇ったような笑みを向けられて、目の奥が燃えるように熱くなる。

桓騎の怒りを煽るかのように、李牧は静かに言葉を紡いだ。

「…彼女に破瓜の痛みを、男を喜ばせる術を教えたのは私ですよ。そして、今でも・・・彼女は私のことを求めている」

顎が砕けるのではないかと思うほど、桓騎は無意識のうちに歯を食い縛っていた。

もしも今、剣を手にしていたのなら、間違いなく目の前の男の首を斬り落としていただろう。両手が拳を作っていなかったら、その首を締め上げていたに違いない。

怒りに打ち震えたまま沈黙する桓騎に、今度はまるで同情するかのような、慈しむ視線を向けて来た。

「信にとって、あなたは、私の代わりでしかない」

その残酷な事実は、信と李牧の関係を知ったことで桓騎自らが掴み取った結論でもある。まさか、よりにもよって李牧から聞かされることになるとは思わなかった。

怒りが胸に渦を巻いており、ぐらりと眩暈がした。
しっかりと両足で立っているはずなのに、視界だけが揺れていて、吐き気が込み上げて来る。

「………」

回廊から空を見上げ、まるで墨絵のような雲が空を閉ざし始めていくのを李牧は黙って見つめていた。

やがて、雨が地を打ち始める。
今朝までは晴れていたというのに、陰鬱な天気になったことに、桓騎は空が自分の代わりに泣いてくれているのかと思った。

「…そういえば、私が彼女のもとを去ったあの日・・・も、雨が降っていました」

独り言のようにそう囁くと、李牧は桓騎から興味を失ったかのように歩き始めた。

その場に残された桓騎は雨の音を聞きながら、泣いている空を見上げる。堰を切ったかのように、雨はどんどん強まっていった。

「………」

そういえば、自分が信と出会った日もこんな雨だったと、桓騎はぼんやりと考えた。

 

雨の日

信が自分を見つけて保護してくれたあの日、彼女はトウ ※傘を二本持っていた。

一つは自分たちが濡れないように差していたが、もう一つは足下に転がっていた。

あの場に居たのは信と自分だけで、あの簦の持ち主は誰だったのか、桓騎はずっと答えを知らずにいた。

―――…そういえば、私が彼女のもとを去ったあの日・・・も、雨が降っていました。

先ほどの李牧の言葉を照らし合わせ、桓騎はいよいよ立っていられずに、その場に座り込んでしまう。

簦を差して雨を凌いでいたはずの信の頬が何故か濡れていたことも、全てが繋がった。

桓騎が信と出会ったあの日、李牧が信のもとを去っていたとしたら?

優しい性格の彼女のことだから、雨で濡れないよう、李牧に簦を届けようとしたのだろうか。それとも李牧を引き止めるために追い掛けていたのだろうか。

「…く、くくっ…」

柱に背中を預けながら、桓騎は引き攣った笑みを浮かべていた。
回廊には丈夫な屋根があり、雨は降り注いでいないはずなのに、幾つもの雫が頬を伝っていく。

「くく、はは…ははッ…は…」

乾いた笑いが止まらない。頬を伝う雫もいつまでも止まらなかった。

信にとって、自分が李牧の身代わりであることを、心のどこかでは拒絶していたのだ。

しかし、あの雨の日に李牧が信のもとを去り、それがきっかけとなって自分が保護されたのだとしたら、その残酷な事実を認めるしかない。

秦軍の知将と名高い桓騎が回廊に座り込んで泣き笑いをしている奇妙な光景に、通りすがりの女官や兵たちが好奇の目を向けている。しかし、誰も声を掛けようとしない。

(結局、何も変わらねえ)

地位や名誉を手に入れたところで、結局は自分の力で立たないといけないのだ。

信と出会うよりも、その残酷な事実をずっと前から知っていたはずなのに、心の中ではいつも縋るものを探していた。

信は素性も分からぬ自分を怪しむことなく、一人の人間として扱ってくれて、この身が汚れていようとも、構わずに抱き締めてくれた。

そんな彼女だったから、身も心も、命すらも差し出せたのに。

いっそ李牧の身代わりとして彼女の傍で生き続けると開き直れたらと思ったが、信は凌辱を強いた自分を見限ったに違いない。しかし、秦王に告げ口をしなかったのは、彼女なりの慈悲なのだろう。

(信…)

もう二度と彼女から口を利いてもらえず、目も合わせてもらえないのなら、このまま生きていても意味などない気がした。桓騎にとって、信の存在だけが生きる理由だった。

潔く、秦王に信を凌辱したことを告げて、斬首にしてもらった方が手っ取り早く楽になれるかもしれない。

俯いたままの桓騎が静かに鼻を啜っていると、

「…桓騎、お前…泣いてんのか?」

上から聞き覚えのある声が降って来て、真っ赤に泣き腫らした瞳で桓騎は声の主を見上げる。

相変わらずこちらの気持ちも考えず、無神経に顔を覗き込んで来る女の顔を見て、桓騎は無性に苛立った。

同時に、それを上回る愛おしさが込み上げた。

 

中編③(李牧×信)はこちら

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平行線の終焉(桓騎×信←李牧)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

眠れぬ夜

宮廷に常駐している医師から手当てを受けた信は、喉の腫れと微熱があることを指摘された。

数日は安静にしているようにと薬を処方されたのだが、手当てを受けている間、信はずっと上の空だった。

(…李牧って言ったな、あの男)

あの男のことを考えているのだと、桓騎はすぐに分かった。

陽が沈み始める頃には、信の咳も目立つようになっていて、今日は宮廷の一室に泊まることを決めたらしい。

風邪をうつす訳にはいかないから帰るように言われたが、桓騎はそれを断った。どうせ趙の一行が帰るまで宴は行われるのだ。信の付き添いをしても、嫌な顔をされることはないだろう。

しかし、すでに信の看病を行う侍女が配置されていたので、桓騎は部屋を出ていくしかなかった。

どうやら診察と手当てをした医師が、秦王である嬴政に報告をしたようで、信の看病を行うようにと勅令があったらしい。

信は嬴政と年の離れた親友である。どういった繋がりで元下僕の彼女が秦王と親友という関係に上り詰めたのかは聞いたことがなかったが、地位や名誉に一切の興味を示さない彼女だからこそ信頼されているのだろう。

(しばらくは入れねえな…)

看病が必要になるほど重病ではなさそうだったが、勅令を受けた侍女を無下にする訳にもいかず、信も大人しく看病を受けているのだろう。

戦で重傷を負っても、救護班たちに他の兵たちの手当てを優先するよう指示を出す女だ。さすがに夜通しの看病は信も断るだろう。

看病役の侍女に構わず、無理やり部屋に入り込んでも良かったのだが、そのことを上に報告をされたら厄介なことになる。

自分の身勝手な行動一つで、嬴政が安易に処罰を命じることはない。自分の知将としての才が秦軍にとってどれだけの貢献をもたらしているか、嬴政も知っているからだ。

しかし、もしも嬴政に告げ口をされれば、きっと快調した信から普段以上のお説教を受けることになるのは目に見えていた。

もちろん彼女と二人で過ごせる口実にはなるものの、お説教を受けることこそ、子供扱いが延長される要因だ。
酒を飲み交わすほど大人になったというのに、いつまでも子供扱いされるのは癪に障る。

何としても大人になった自分を認めさせたい気持ちは、桓騎の中で日に日に強く根付いていった。

そして自分たちの前に現れた李牧の存在は、その気持ちに焦燥と不安を抱かせたのである。

 

 

陽が沈んでも宴はまだ続いており、広間からは楽しそうな声が響き渡っていた。

あの男、李牧も宴の間にいるだろう。信とどういった関係であるのか、宴の席であの男に直接尋ねても良かったのだが、信に気付かれては面倒だったので、桓騎も宴の席には出なかった。

気に食わず刺し殺してしまう可能性も否定できないし、返答によっては酒に毒を盛ってしまうかもしれない。そうなれば間違いなく秦趙同盟は決裂となるだろう。桓騎もそこまで頭の回らない短慮な男ではない。

互いに同盟関係にある間は、どれだけあの男が気に食わないとしても、自分の都合一つで殺めることは許されないのである。それは自分だけでなく、信も同じだ。

「………」

信の看病に当たっていた侍女が部屋を出て行ったのを柱の陰から見届けた後、桓騎は物音を立てぬよう、部屋の扉を開けて中を覗き込んだ。

(よし、寝てるな)

奥にある天蓋付きの寝台で、信は仰向けで目を瞑っていた。

信は眠りに落ちるまでが早い。幾度も戦に出ているうちに、僅かな時間でも意識を眠りに落とすことが出来るようになったのだそうだ。体を強制的に休ませる手段なのだろう。

しかし、ちょっとした物音や気配には敏感で、すぐに目を覚ましてしまう。それも命が懸かっている戦場で培った才だろう。

まだ桓騎が芙蓉閣で保護されていた頃、足音を忍ばせて、彼女が眠っている布団の中に潜り込んだ時、信は大層驚いていた。

眠っていたとはいえ、こんな傍に来られるまで気づかなかったのは桓騎が初めてだったらしい。

起こさないように気遣ってやったのだから当然だと返すと、信は大笑いしていた。

当時の桓騎はまだ子供だったこともあり、信も無下には出来なかったのだろう、抱き締めながら寝かしつけてくれた。

蒙驁に身柄を引き渡されてからは今まで以上に信に会えなかったし、二人きりで過ごす時間もめっきりなくなってしまった。

「………」

少しだけ、彼女の寝顔を見て安心できればそれで良かった。
大人になったことだし、彼女の寝込みを襲っても構わなかったのだが、今の彼女の気持ちを考えると当然だがそんな気持ちにはなれなかった。

扉の隙間から身体を滑らせて室内に入る。

「…桓騎か?」

目を開いてもいないし、こちらを向いてもいないというのに、信が尋ねて来た。

物音を立てぬように細心の注意を払ったのだが、気配を感じ取られてしまったらしい。すぐに気配を察知したということは、まだ起きていたのだろう。

「ああ」

諦めて返事をすると、ゆっくりと布団の中で寝返りを打って、信はようやくこちらを見た。

「帰れって言ったのに…どうした?なんかあったか」

「別に」

素っ気なく言葉を返すものの、後ろ手に締めた扉に背を預け、部屋から出ようとしない。
その姿を見て、信は小さな咳をした後、困ったように笑んだ。

「…風邪うつっても知らねえぞ」

「バカでも風邪引くんだな」

「じゃあ、お前に移ることはなさそうだな」

生意気な口を叩く桓騎に信が苦笑を深める。普段ならムキになって怒って来るくせに、今日はそんな余裕もないらしい。

出て行けとは言われなかったので、桓騎は寝台に横たわる彼女に近づいた。

蝋燭の明かりは灯っておらず、窓から差し込む月明りだけが部屋を照らしている。そんな薄暗い部屋でも、信の顔が熱で赤く火照っているのが分かった。

診察の最中、僅かに寒気も感じていたことから、医師からこれから熱が上がるかもしれないと言っていた。その見立ては間違っていなかったようだ。

寝台の側にある台には、空になった器と水瓶が置いてあった。就寝前の薬湯は飲んだらしい。

静かに休ませてやるべきだと頭では理解していたのだが、ずっと感じていた疑問が口を衝いた。

「…あの李牧って野郎、お前の何だ?」

寝台の端に腰掛けながら問うと、李牧の名前に反応したのか、信が僅かに顔を強張らせたのが分かった。

嘘を吐けない彼女が無理に嘘を吐こうとする時は、すぐに態度や表情に出る。桓騎はそれを見逃すまいとして、信の顔から視線を逸らさずに返答を待つ。

しばらく押し黙っていた信だったが、桓騎が本気で李牧との関係を知りたがっているのだと察し、諦めたように口を開いた。

「…知り合いだ。昔のな」

静かにそう言った信の視線は、包帯が巻かれている自分の右手に向けられている。

「知り合いっていうような間柄には見えなかった」

間髪入れずに桓騎がそう言って振り返ると、信があからさまに目を泳がせた。

きっと彼女は生まれた時から、人を騙すという才に恵まれなかったのだろう。

確信は得ていないが、信にとって李牧は、ただの知人ではない気がした。
趙の宰相であり軍師を務める李牧は、秦将の信に対して、敵対しているような意識を微塵も見せなかった。

体調を気にしていたことやあの眼差しから、むしろ彼女を慈しむような、大切に想っているような、そんな気持ちさえ感じられたからだ。

「…抱かれたのか?」

「はあッ?」

いきなり大声を出して喉を酷使したからか、信がごほごほと咳き込んだ。

「なにバカなこと言ってんだよ…」

呆れた表情を浮かべながらも、信が言葉を探している。

否定しないどころかその反応を見れば、問いを肯定されたようなものだが、それを指摘することはしない。

二人が恋仲だと一番認めたくなかったのは他でもない桓騎自身だった。

「…昔、助けてやったんだよ。俺がまだ初陣にも出てないガキの頃にな」

しばしの沈黙の後、信が諦めたように白状した。答えない限り、桓騎はずっと引かないと察したのだろう。

自分たちよりも長い付き合いだったのだと知り、桓騎の胸に苛立ちのようなものが込み上げた。

「そうかよ」

素っ気なく返事をすると、桓騎が怒っていることに気が付いたのか、信が不思議そうに目を丸めている。

「なんだよ、怒ってんのか?李牧に何か言われたワケでもないだろ」

「怒ってねえよ」

そう返した声にも怒気が含まれていることに気付いた信は、熱を持つ自分の額に手をやりながら、困ったように桓騎を見た。

桓騎は信に目を合わせることないが、その場から動こうとしない。

「…ほら」

寝台の奥に身を寄せ、信は桓騎が横になれる幅を確保すると、ぽんと敷布を叩いた。

ちらりと目線を向けた桓騎は何も言わずに、すぐに布団の中に潜り込む。二人分の重みに、寝台がぎしりと音を立てて軋んだ。

 

 

眠れぬ夜 その二

桓騎が部屋に来た時から予想はしていたが、添い寝をしたかったのだろう。

(いつも素直なら可愛いのにな)

そんなことを言えば怒って部屋を出ていくかもしれないので、信は口を噤んで静かに微笑んだ。

最後に桓騎と添い寝をしたのは、彼がまだ芙蓉閣にいた時だった。

まだ彼が子供だった頃は、よく布団に忍び込んで来るその小さな体を抱き締めながら眠ったものだ。

宮廷の客室に置かれている寝台は、大の大人が二人で寝転んでも窮屈には感じない広さがあったが、信は寝返りを打つふりをして桓騎の傍に身を寄せる。

瞼を閉じていても、隣から桓騎の視線は感じていた。他にもまだ自分に何か聞きたいことがあったのだろう。

「………」

桓騎がどこから来たのか、信は知らない。

咸陽で行き倒れているところを保護したのは信だったが、それまでどこで何をして生きていたのか、今も知らないままだった。

気にならないといえば嘘になる。しかし、桓騎が一向に語ろうとしないことから、話したくないという意志は十分に伝わって来たので、信も尋ねたことはなかった。

成長すればもともと住んでいた地に帰るかもしれないと思っていたのだが、それもしないことから、もしかしたら住んでいた場所が失われたのか、別の理由があって帰れないのかもしれないとも推察していた。

蒙驁将軍のもとに桓騎を預けてから、彼は知将としての才をみるみるうちに芽吹かせていった。

飛信軍に入りたいと熱望していた桓騎だが、将になることを望んでいたのか、それは信にも分からない。

強要する訳にもいかなかったので、桓騎が将の務めを嫌悪しているようならそれとなく退かせてやってほしいと蒙驁将軍に伝えていた。しかし、今でも桓騎は蒙驁将軍の副官を活躍を続けており、知将としての存在も中華全土に広まっていた。

それこそが桓騎の答えだと蒙驁将軍に聞かされた時、信は安堵した。

芙蓉閣で騒動を起こしたり、やたらと自分の傍に居たいという桓騎の意志は昔から伝わっていたが、それは自分を保護者代わりに想っているからなのだと信は疑わなかった。

自分を子供扱いするなと何度も叱られたこともあるのだが、背伸びして大人になろうとしているのも保護者代わりである自分を安心させようとしている桓騎の気持ちの表れなのかもしれない。

未だ夫と子を持たぬ信には、そう考えるのが精一杯だった。

今では話をする時、信が首を上に向けなければならないほど背も伸びたし、元野盗の仲間たちから「お頭」と慕われるほど、桓騎は立派な将になっていた。

自分の腕の中で静かに寝息を立てていたあの頃の姿を思い出し、信は桓騎の成長を認めざるを得なかった。
桓騎はこれからも、秦国を支える立派な知将として中華全土に名を轟かせていくだろう。

(ほんと、大きくなったんだなあ、お前…)

隣にいる桓騎の温もりのせいだろうか、少しずつ意識が微睡んでいく。

(…李牧…)

眠りの世界に溶けかけた意識の中で、不意に李牧の姿が浮かび上がった。

いずれは自分も桓騎も、養父のように李牧の軍略によって討たれてしまうのだろうかという不安が込み上げて来る。

共に過ごしたあの日々が走馬燈のように目まぐるしく瞼の裏を駆け巡ったが、もうあの時の李牧は帰って来ないのだ。

頭では理解しているはずなのに、心はまだその事実を受け入れられなかった。

しかし、微睡んだ意識の中ではその不安を対処することは叶わず、そのまま信の意識は夢の世界へと溶け込んでいった。

 

 

隣から信の寝息が聞こえて来たが、桓騎の瞼は少しも重くならないでいた。共に床に就くのは何年ぶりのことだろう。

昔は子供という立場を利用して彼女の腕の中で眠っていたのだが、こうも体格差が開けてしまうと、もうそれも叶わない。

自分も成長したのだと信に知らしめる良い機会だったに違いない。彼女の体調さえ悪くなければ、確実にその体を組み敷いていただろう。

蒙驁のもとで知将としての才を芽吹かせ、着実に武功を挙げていったというにも関わらず、信は少しも態度を変えてくれなかった。

芙蓉閣で共に育った者たちからは黄色い声援を上げられるほど良い男になったというのに、信だけは少しも男として意識をしてくれない。

ずっと昔から口説いているというのに、彼女の中では今も自分は幼い子供のままなのだろうか。

天蓋を見つめながら、桓騎は悶々と考えていた。

「…?」

すぐ隣から荒い息遣いがして、横目で見やると、信が苦しそうに呼吸を繰り返している。

僅かに汗を浮かべている額に手を当てると、明らかに熱が上がっているのが分かった。苦しそうに喘ぐ姿を見て、桓騎は宮廷に常駐している医師を呼ぼうと体を起こす。

「っ…?」

後ろから袖を引っ張られ、驚いて振り返る。熱にうなされながら、信が身を起こして桓騎の着物の袖を掴んでいたのだ。

いつもなら彼女に引き留められたなら喜んで応えるというのに、今は状況が悪かった。

「おい、放せ。医者を呼んで来る」

聞いているのかいないのか、信は桓騎の袖を掴んだまま放さない。その手から体の震えが伝わって来る。熱のせいか、瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。

「行、くな…頼む、から…」

そんな表情で引き留められて話を聞かない男はいない。
医師を呼びに行くのを諦めた桓騎を見て、僅かに手の力が緩まる。しかし、着物を放すことはしなかった。

風邪を引くと心細くなるというのは、何となく桓騎にも覚えがあった。

芙蓉閣に保護された時の桓騎は熱を出していた。長い間、雨に当たっていて体が冷え切ったのが原因らしい。

街医師に診察を依頼してくれた信は、その後も頻繁に見舞いに来てくれた。

何をする訳でもない、どこから来たのかを尋ねることもない、ただ傍にいてくれた。熱にうなされていた朧げな記憶だが、信が傍にいてくれたことだけははっきりと覚えていた。

あの雨の中で自分の死を受け入れていたというのに、それを邪魔した信に怒りは感じなかった。

彼女が傍にいてくれた、それだけで桓騎の冷え切った心は溶かされていったのである。

「行くな…」

袖を掴んだまま放そうとせず、信は涙を浮かべた瞳を向けている。今の彼女は、普段の気丈な振る舞いからは想像できないほど弱っているらしい。

そんな信の弱々しい表情を見るのは初めてのことだったので、桓騎は思わず息を飲んだ。

「何処にも行かねえよ」

気づけば、桓騎は両腕を伸ばして彼女の体を抱き締めていた。

熱を持った呼吸を繰り返しながら、信は目を閉じて桓騎の背中に腕を回して、凭れるように身を預けて来る。

ようやく安堵したように、信の表情が解れたのを見て、いつも心の奥底に隠している弱さを、初めて見せてくれたような気がした。

彼女が心を開いてくれたという訳ではない。ずっと心を閉ざしているのかといえばそうでもない。

信は、誰にも弱さを見せないようとしないだけだ。だから、他者が心に踏み込んで来るのを拒むことはしない。

彼女がそういう女だというのは、桓騎も昔からよく知っていた。

「信…」

これほどまでに弱々しい姿を曝け出すのは、熱にうなされているせいと、李牧が現れたせいだろうか。

養父の仇だと分かりながらも、彼を殺せないでいる信を見ると、彼女は李牧に対して特別な感情を向けているのかもしれない。

桓騎の胸は締め付けられるように、切なく痛んだ。

 

 

誘惑

「ん…」

胸に顔を埋めていた信が悩ましい声を上げたので、桓騎は彼女の身体を横たえようと肩を掴む。

熱で苦しげな呼吸を繰り返している信は大人しく寝台の上に倒れ込んだ。

未だ信の手が着物を掴んだまま放そうとしないことに、よほど心細さを感じているのだろうかと考える。

共に寝台に横たわり、桓騎は再び信の体を抱き締める。

風邪を引いている者の近くにいると風邪が移るというのは医学に携わらない者でも知っていることだが、約束したように彼女から離れるつもりはなかった。

むしろ彼女が治癒するのなら、自分が苦しい想いをすることになっても構わないと思うほど、桓騎は信のことを愛おしく思っていた。

「はあ…ぁ…」

腕の中で苦しげな呼吸を続けている信を見て、本当に医者を呼ばなくても良いのだろうかと不安に駆られる。

(…人肌で熱を吸ったら、多少は楽になるか?)

桓騎は迷うことなく彼女の着物の帯を解いた。眠っているせいで着物を脱がされていることに信は気づいていないようだが、その方が都合が良かった。

小さなものから致命傷となった深い傷まで、多くの傷が刻まれている肌が露わになり、桓騎は思わず目を見張った。

戦場ではいつも鎧に覆われている肌は、陽に当たらないせいか、静脈と傷痕が浮き上がって見えるほど白かった。

幾度も秦軍を勝利に導いた彼女は、それだけの数の死地を乗り超えて来たと言っても過言ではない。

生死の狭間を彷徨うほどの重傷を負っていたことは桓騎も知っていたし、その度に信が二度と目を覚まさなかったらと不安に襲われたものだ。

初めて目にした信の裸体を見て、桓騎が初めに感じたのは、崇高だった。
確かに桓騎は信を一人の女として意識していたのだが、その傷だらけの肌を目の当たりにして、情欲よりも先に、信の気高さと生き様を感じ取ったのである。

「………」

いつまでも彼女の肌に見惚れている訳にもいかず、桓騎も自らの着物の帯を解いた。
素肌を重ね合うと、信の火照った身体がじんわりと染み渡る。

「ん…」

自分よりも体温の低い肌が心地良いのだろう、眠ったまま信が頭を摺り寄せて来た。

(これは結構、…堪えるな)

下心があってこんな行動を起こした訳ではないのだが、恋い焦がれていた女と布一枚の隔てもなく触れ合っている状況に、桓騎は思わず生唾を飲み込んだ。

子供の頃は彼女が抱き締めてくれる温もりが心地よくて、すぐに眠りに落ちていたのだが今は違う。

生まれたままの彼女の姿を初めて見たのは初めてだし、やはり自分も男だと自覚せざるを得ない。この状況下で理性と戦い続けるのはなかなか堪える。

さっさと眠ってしまえともう一人の自分が呆れ顔で言うのだが、目を閉じても信の温もりを直に感じてしまい、下半身が熱く疼いてしまう。

それどころか彼女の匂いにまで反応してしまうなんて、浅ましい男だと桓騎は自分を罵った。

信はいつもその身に花の香りを纏っている。養父である王騎の趣味らしいが、湯に浸かる時は花を浮かべているのだという。

嗅げばいつも安らいだ気分になるはずその香りが、今だけは禁忌の香りに感じた。

 

 

「ぅ…ん…」

桓騎が静かに歯を食い縛りながら、腹の底から沸き上がる情欲に堪えていると、信が小さく呻き声を上げた。

「信?」

名前を呼ぶと、信はゆっくりと瞼を持ち上げて、潤んだ瞳を向けて来た。

眠っている彼女によからぬことを考えていたことを見抜かれた気がして、ばつが悪そうに桓騎は目を逸らしてしまう。

冷静な態度を取り繕ったとしても、下半身は素直だ。この煩悩を吹き飛ばすには、怒鳴られるだけでなく、容赦なく殴られた方が良かったかもしれない。

「ッ…!?」

信の火照った手がそこ・・に伸びたのと同時に、桓騎は驚愕のあまり、目を見開いた。

「………、……」

潤んだ瞳が半目であることから、未だ夢から覚めたばかりで意識が朦朧としているらしい。

ゆっくりと身を起こした信は、着物を脱がせられたことにも気づいていないのか、少しも戸惑う様子を見せない。

それどころか、布団を跳ね除けて四つん這いになると、桓騎の足の間に体を割り込ませたのである。

何をするのかと目を向けていると、彼女のその手が迷うことなく上向いた男根をゆるゆると包み込んで来たので、桓騎は思わず喉を引き攣らせた。
火照った指先が伝うその感触に鳥肌が立つ。

「信ッ…!?」

五本の指で輪を作り、上下に扱き出すその動きは間違いなく男を喜ばせる術だった。

「お、おいッ?」

動揺のあまり裏返った声を掛けたのとほぼ同時に、信は唇から赤い舌を覗かせた。

「ッ…!」

唇で亀頭を挟まれ、滑った感触が染み渡ると、桓騎の背筋が伸び上がる。
恋い焦がれた女が自分の足の間に顔を埋めている光景を、すぐには信じられなかった。

ざらついた舌の表面で亀頭部や裏筋を撫でられる。それだけではなくて、唇で陰茎と亀頭のくびれの部分ときゅっと締められると、勝手に腰が震えてしまうほど気持ちが良い。

与えられる刺激に息を乱すと、その反応を上目遣いで見た信が淫靡な笑みをその顔に刻んだ。

「ッ…」

それは長年、信と共にいた桓騎であっても、初めて見た表情だった。

先ほどのように、自分に行かないでくれと訴えた弱々しい表情も初めて見たのだが、この淫靡な笑みは男を狂わせる。

今まで自分が知らなかっただけで、彼女は自分以外の男と身を重ね合っていたのだろう。そう考えるだけで、桓騎は嫉妬で腸が煮えくり返りそうになった。

「ふ、は…」

敏感な先端に舌を這わせながら、信が右手に巻かれている包帯を邪魔くさそうに解き始める。爪が食い込んだ痕は出血こそしていなかったが、まだ癒えていない。

包帯を解いた右手を使って陰茎を再び扱き始めた。痛みよりも情欲に呑まれてしまったのだろうか。

彼女だって一人の女だ。将軍なんて地位に就いていなければ早々に嫁ぎ、たくさんの子を産んでいたに違いない。

信がすでに自分以外の男の手垢に汚されていることを、本当は気づいていたのに、今までずっと見て見ぬフリをしていたのだ。

他でもない自分が彼女の破瓜を破った男だと、信の記憶に刻まれたかった。
もっと早く彼女と出会っていたのなら、それは叶ったかもしれない。桓騎の中でその想いが絶えることはなかった。

「…クソが」

こちらの気持ちも露知らず、どこの男に仕組まれたかもわからぬ口淫を続ける信に、これ以上ないほどの憤りと切なさを感じてしまう。

「ふ、んん、ぅッ…?」

強引に信の前髪を掴んで、桓騎は咥えていた男根から口を離させた。

「あ…」

肩を押してその身を寝台の上に横たえると、信が薄口を開けて桓騎を見つめていた。

まだ彼女が夢から覚め切っていないことは分かっていたが、誘って来たのは信の方だ。目覚めてしまった雄は、理性一つで押さえ込めるほど安易なものではない。

「っん、…」

敷布の上で指を絡ませ、身を屈めると、桓騎は信と唇を重ね合う。

幾度も頭の中で描いていた彼女との口づけに、桓騎は目を閉じる。信の唇は、想像していた以上に柔らかかった。

 

交わり

何度か角度を変えて、柔らかい唇の感触を味わっていると、ぬるりとしたものが口内に入り込んできて、桓騎は驚駭した。

薄目を開けたまま、信が舌を伸ばしているのだ。舌を絡めて来た信は先ほどから淫靡な表情を続けており、まるで彼女であって彼女ではない女を相手にしているかのようだった。

眠る前に飲んだ薬湯だろうか、口づけの中には仄かな苦味があった。しかし、互いに舌と唾液を絡めていくうちに、その味さえも甘美なものに感じて来る。

敷布の上で互いに強く結んでいる指に力が込められた。もっとしてほしいと強請っているのだと分かり、桓騎は夢中になって彼女と舌を絡ませていた。

「ん、んふぁ、ぁ、んぅっ…」

口づけを深めていくと、息が苦しくなったのか、鼻奥で唸るような声が上がった。

唇を離すと、信がはあはあと肩で息をし始める。互いの唇を唾液の糸が紡いでいた。激しい口づけのせいか、先ほどよりも潤んで熱の籠もった瞳で見つめられると、もうそれだけで堪らなかった。

「信」

思わず名前を囁いて、再び唇を重ね合う。今度は桓騎の方から舌を伸ばして、彼女の口の中を貪った。

口づけを交わしながら、桓騎は性感帯を探るように、彼女の体に手を這わせた。

胸の膨らみをそっと包み込むと、予想していた以上に豊満だった。
豊満なだけでなく、心地よい柔らかさと弾力を手の平いっぱいに感じて、桓騎も興奮のあまり息を乱してしまう。

「ん、あぁっ…」

首筋に甘く噛みつきながら、胸に指を食い込ませると、信が切なげな声を上げた。

素肌に溶け込んでしまいそうな淡い桃色の芽は、未だ男の味を知らぬ少女の胸にも見える。
口づけを交わしながら、二本の指で胸の芽を挟んだり、指の腹でくすぐったり刺激を続けていくと、信の息がさらに乱れていった。

もどかしげに膝を擦り合わせているの彼女を見て、導かれるように足の間に手を差し込むと、熱気と湿り気を感じた。女が発情している証だった。

「ッあ…!」

蜜で潤んでいる花弁の合わせ目に触れると、信の体が大きく跳ね上がった。

見たことのない信の表情と反応に興奮が止まず、桓騎は上目遣いで彼女の顔を見つめながら、中に指を差し込んでいく。

「ふ、んん…ッ、く…」

痛がる素振りもなく、すんなりと二本の指を飲み込んだ淫華を見て、彼女の破瓜が既に自分以外の男に破られたことを確信した。自分以外にも、彼女の今の顔を見た男がいるのだ。

出来れば認めたくなかった事実に、胸が締め付けられるように痛む。
誰にその純血を捧げたのかと問い質しくなったが、知りたい気持ちとこのまま知らずにいたい気持ちが桓騎の中でせめぎ合っていた。

「はあッ、ぁ…ん、んッ」

中に入れた指に、高い熱を持った粘膜と蜜が絡み付いて来た。少しでも指を動かすと、敏感な場所が擦れて気持ち良いのか、悩ましげな声が上がる。

もっとその声が聞きたくて、未だ見たことがない彼女の一面が見たくて、桓騎は堪らず指を抜き差ししたり、鉤状に折り曲げて、中に刺激を与え始めた。

中央にある花芯がつんとそそり立ち、触って欲しそうにその顔を覗かせている。

「ひ、ぅうッ」

反対の手を使って花芯をそっと撫でてやると、信が泣きそうな声を上げた。紛れもなく、女の反応だ。

それは今まで知り得なかった信の一面で、桓騎がずっと頭に描いていた彼女の姿の生き写しでもあった。

 

 

花芯と淫華への刺激を続けていくと、信の口からひっきりなしに切なげな声が上がる。飲み込めない唾液が、彼女の唇を妖艶に色付けていた。

「…ぁ、は、早く」

甘い声で促されて、桓騎は苦笑を滲ませる。
余裕がないのはこちらの方だというのに、男の心を搔き乱す言動をするのは無意識なのだろうか。

紛れもなく女の顔で脚を開き、男を受け入れる体勢をとった信に、やはり桓騎は複雑な気持ちを抱いた。

自分以外の誰かがこの淫らな姿を先に目にしたのだと思うと、それだけで顔も名も知らぬ男を殺したくなってしまう。

しかし、その嫉妬を上回るほど、情欲は限界まで膨れ上がっており、もう押さえることは出来なかった。

膝裏を抱えてさらに脚を広げさせ、痛いくらいに硬く張り詰めた男根の先端を宛がう。

「ッ…ん、…」

敷布を掴んで、信が唇を噛み締めたのが分かった。

「信」

名前を呼ぶと、潤んだ瞳がこちらを見上げる。切なげに寄せられた眉が、男根を腹に迎え入れる期待と、不安の色を浮かべていた。

「んんッ…ぅ…」

花弁を捲るように、合わせ目を男根の先端でなぞってやると、それだけで信はうっとりと目が細まる。

まだ先端が淫華に口付けているだけだというのに、蜜に塗れた粘膜が中に導こうと厭らしく蠢いていた。

「んッ…ぁ、ぁああっ」

ゆっくりと腰を前に押し出すと、すぐに温かい粘膜が吸い付いて来る。

男の急所であり象徴でもある敏感な部分が温かく包み込まれる感触は何にも耐えがたいもので、そしてこれが信の体だと思うと、幸福感に鳥肌が立った。

自分を奥へ引き摺り込もうと吸い付いて来る淫華に、今まさにこの身が食われている、と桓騎は優越感を感じた。

このまま骨の髄まで食われてしまいたい。それが地獄の苦しみだとしても、相手が信なら甘受するに違いないと桓騎は思った。

「あああッ」

自らこの身を差し出すように、桓騎が彼女の細腰を掴んで最奥を貫くと、悲鳴に近い声が上がった。

信が背中を弓なりに反らせ、敷布の上で身を捩っていたが、桓騎は腰を掴む手に力を入れて放さない。

「は…ぁ…」

根元まで男根が彼女に食われてしまうと、桓騎は喜悦の息を吐いた。
信が潤んだ瞳で見上げて来る。性器だけじゃなく、唇も重ねようと身を屈めた時だった。

「…李、牧…」

自分じゃない名前を呼ばれ、束の間、桓騎は呼吸を止めていた。

 

信の想い人

狼狽を顔に滲ませると、信が不思議そうに瞬きを繰り返している。

李牧。回廊で会った趙の軍師の名前だ。聞き間違いであったのならと願ったが、都合よくそんなことは起きなかった。

まさか自分をあの男だと勘違いしているのか。桓騎は束の間、動けなくなってしまった。
呆然としたまま動かないでいる桓騎に、信が不思議そうに首を傾げていた。

「…えっ…?」

それまで潤んだ瞳で男の情欲を煽り続けていた彼女だったが、少しずつその瞳に光を取り戻していく。

「はッ?…えっ、な、なに…?」

誰が見ても動揺しているのが分かるほど顔を強張らせた彼女と目が合った。

「桓騎ッ!?お前、何して…」

ああ、起きたのかと桓騎はぼんやりと考えた。

彼女の布団に入り込むのは初めてではなかったし、信もそれには慣れていたのだが、桓騎が成長してから布団に入り込んで来るのは初めてだったので、あからさまに驚いていた。

お互いに何も身に纏っていないのだから、それにも驚いたに違いない。

「う…」

腹に圧迫感を感じたのだろう、信が桓騎の顔から視線を下げていき、自分たちの性器が繋がっているのを見つける。

途端に青ざめた彼女は、ひゅっ、と息を詰まらせた。

「ば、バカッ、抜けよ!何してんだッ!」

急に大声を出したせいか、むせ込みながらも、敷布を掴んでいた両手が桓騎を押しのけようと突っ張る。

しかし、桓騎は彼女の細腰を掴んでさらにその体を引き寄せた。

「っんうぅッ…!」

敏感になっている中を擦られて、信が強く目を瞑る。

「今さら言われても抜けねえだろ。お前が早く欲しいって言ったくせによ」

自分が襲ったと思われているのなら心外だと桓騎は笑った。

「んなこと、言ってねえよッ…!」

腰を掴む桓騎の手に爪を立てながら、信は身を捩ってなんとか男根を抜こうとしている。

先ほどまで自分が欲しいと強請っていた態度が一変したことに、桓騎は眉根を寄せた。そして、同時に認めたくない仮説が立った。

「…なら、お前が誘ったのはじゃなくて、李牧・・だったってことで良いんだな?」

「ッ…!」

李牧の名前を出すと、信が分かりやすく狼狽えた。

返事をせずとも、それが肯定を意味する態度だと分かると、桓騎の口の中に苦いものが広がっていく。

李牧に抱かれたのかと問うた時、信は否定も肯定もしなかったが、きっとその身を委ねたのだ。

信が李牧に剣を向けなかった理由はきっとそれ・・だろう。桓騎は確信した。

一番答えを知りたくなかったのは自分自身であったはずなのに、自ら答えに辿り着いてしまったことを桓騎は後悔してしまう。

「んなこと、どうでも良いだろ…とっとと抜けって…!」

目を逸らしながら信が訴える。

桓騎の両手が彼女の腰を掴んでいなければ、信は身を捩って男根を引き抜いていただろう。しかし、彼女の言葉とは裏腹に、淫華は抜かないでくれと強く吸い付いて来る。

「桓騎ッ」

早くしろと睨みつけられるが、桓騎は彼女の腰を掴んだまま動かなかった。

いくら信といえども、武器もない今の状況では男の腕を振り解くことは叶わない。

李牧と身を繋げたのが事実だとして、それが信の合意を得られていないものだったなら良かった。だが、きっとそうではないだろう。

慈しむように潤んだ瞳で見上げて、甘い声で李牧の名を呼んだのだ。

今まで桓騎が見たことのなかった女の顔を見せたことが、信が李牧を愛していた・・・・・・・・・・何よりの証拠である。

 

 

「………」

それまでは信を抱くつもりで昂っていた頭が、急に水を被せられたかのように冷えて来た。

しかし、彼女と繋がっている部分だけは未だに熱が続いている。淫華が吸い付いてくるように、男根もまだ離れたくないと訴えていた。

「早く、抜けって」

睨まれながら促されると、桓騎はゆっくりと腰を引いていく。

素直に従ってくれたことに、信は安堵した表情を見せる。男根が引き抜かれていくにつれ、信の眉根がどんどん切なげに寄せられていった。

「んっ…」

一番太い楔の部分が引っ掛かっているだけになり、信の唇から切なげな吐息が零れる。引き抜かれる刺激に備えて、彼女が腹筋のついた腹にきゅっと力を込めたのが分かった。

「…ッぁああッ!?」

男根を引き抜くと見せかけて、桓騎は思い切り腰を打ち付けた。

まさか裏切られるとは思わなかったのだろう、その顔には驚愕と動揺が浮かんでいた。
しかし、桓騎は構わずに彼女の体を乱暴に突き上げ始める。

「な、なんでっ、バカッ、やめろッ」

切迫した声を掛けられても、桓騎は何も答えなかった。

制止を求める態度とは裏腹に、男根を抽挿すればするほど、淫華の吸い付きが激しくなっていく。

このまま絶頂まで抽挿を続ければ、彼女に全てを飲まれてしまい、ただ性器を交えるだけではなくて、本当の意味で一つになれるのではないかと思った。

「やめろッ、桓騎ッ!放せってッ」

自分はこんなにも、信に骨の髄までこの身を捧げたいと思っているのに、信は大きく首を振って逃れようと身を捩っている。

覆い被さるようにその体を抱き締め、桓騎は寝台から信の体が浮き上がってしまうほど激しく腰を打ち続けた。

初めて会った時は信が自分を抱き上げていたというのに、今自分の腕の中にいる彼女の身体がこんなにも華奢だったなんて知らなかった。ますます愛おしさが込み上げる。

少しも言うことを聞いてくれない桓騎に、信は制止を求める発言を諦めたのか、大口を開けたかと思うと、目の前にある肩に思い切り噛みついた。

「ッ…!」

血が滲むほど強く噛みつかれ、燃え盛っていた桓騎の情欲に歯止めがかかる。

ようやく抽挿を止めてくれた桓騎に、唇を赤い血で染めた信が、切なげに眉を寄せて、まるで祈るような顔を見せた。

 

 

心の傷

「なんで、お前が…李牧の名前を出すんだよ…」

秦趙同盟が結ばれた後、あの回廊で桓騎が李牧の姿を見たことは信も知っていた。

しかし、桓騎と李牧の繋がりはたったそれだけであり、彼の口から李牧の名前が出たことに驚きを隠せなかったのである。

「お前に近づく男が、どんな野郎か気になるのは当然だろ」

昔からずっと飛信軍に入りたいと言っていた桓騎が、自分に付き従う者たちのことを知りたがるのは別に珍しいことではない。

だが、李牧との出会いや関係は、信は今まで一度も彼に打ち明けたことがなかった。

趙国の宰相、つまり自分たちにとっては敵対関係にある男だ。秦国に忠義を捧げている信にとって、容易に打ち明けられるものではなかった。

自分と李牧の本当の関係を知っている者と言えば、養父の王騎くらいだったかもしれない。ただし、王騎に直接告げたことは一度もなかった。

養父として、秦の将として、彼は何も言わず自分と李牧の関係を察してくれているようだった。

口を出されなかったのは黙認していたのか、それとも興味がなかったのか、自分たちの関係をそもそも気づいていなかったのか、今となっては確かめようがない。

此度の一件で、まさか李牧自ら咸陽まで赴くとは思わなかったが、事情がどうであれ、桓騎にも黙っておくべきだったのかもしれない。

再会の理由が何であれ、信は李牧のことを忘れていたかった。

可能ならば記憶から抹消してしまいたいほど、李牧の存在は信にとっては禁忌とも呼べるものであった。
李牧こそが、心の傷そのものだと言っても過言ではない。

たとえ桓騎であっても、この傷には触れてほしくなかった。

 

中編②はこちら(桓騎×信)

The post 平行線の終焉(桓騎×信←李牧)中編① first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

平行線の終焉(桓騎×信←李牧)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/李牧×信/年齢操作あり/年下攻め/執着攻め/秦趙同盟/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

迷子

激しい雨が身体を叩いている。冷たい地面に横たわりながら、体温を雨と地面に吸い取られていくような気がした。

瞼が重くなっていき、目を開けていられない。体はこれ以上ないほど冷え切っていて、歯を打ち鳴らすことかおろか、指先一つ動かせなくなっていた。

「………」

このまま眠ってしまえば、もう二度と目覚めなくて済むのだろうか。

(こんなクソみたいな世の中、死んじまったほうが楽だろうな)

少年は意識の糸を手放す寸前まで、この世を憎んでいた。

怒りの矛先をこの世に向けていたところで、力のない自分があがいても何も変わらないのだと、頭では理解していた。

それでも少年がこの世を憎み続けるのは、それが少年にできる唯一の抵抗だったからである。

このまま死んでしまえば、明日の今頃にはカラスか野犬の餌にでもなっているのだろうか。
自分の亡骸がどうなってしまうのかさえ、少年は興味を失っていた。

「…?」

意識の糸を手放しかけた瞬間、痛いくらいに身体に叩きつけられていた雨が急に途切れた。
しかし、雨音は変わらない。何かが雨を遮っているのだ。

「…死んでるのか?」

雨音に重なるように、誰かの声が響いた。

(誰だ?)

目を開けて声の主を探そうとしても、衰弱し切った身体は瞼を持ち上げることさえ叶わず、鈍く動かすことが精一杯だった。

「お、まだ生きてるな」

温かい手が唇に触れたのを感じた。息をしているか確認したのだろう。

声は確かに女だったが、その手は傷があるのか、随分と爛れている。言葉遣いもそうだが、水仕事を一切しない貴族の娘でないことは明らかだ。

「………」

普段ならば、自分に近づく者は例外なく振り払っていたのに、少年はもう指一本動かせる体力も残っていなかった。

背中と膝裏に手を差し込まれた後、ぐんと身体を持ち上げられる浮遊感に少年は手放し掛けていた意識の糸を掴んでしまった。

(余計なことしやがって)

自分を助けようとしているのか、それとも商売道具として利用するつもりなのかは分からないが、少しでも慈悲を与えてくれるのならば、このまま見殺しにしてほしかった。

放っておけと言えば望みを叶えてくれるだろうか。少年は僅かに残っている力を振り絞って重い瞼を持ち上げると、自分を抱きかかえているその人物を睨みつけた。

「起きたか」

自分の体を抱き上げていたのは、意外にも女だった。生きているか確認するために自分の唇に触れた女だと、少年はその声で気づいた。

自分よりも一回りは上だろう。しかし、掛けられる口調から淑やかな女であるとは言い難い。淑やかな女だとしたら、こんな風にどこの生まれかも分からないみすぼらしい子供を抱きかかえる真似などしないはずだ。

先ほど唇に触れられた時に感じた爛れていた手にも、何か事情があるような気がした。

「………」

ゆっくりと目だけを動かして周りを見てみるが、女の他には誰もいない。

従者にでも自分の身体を担がせたのかと思っていた少年は、まさか女に抱きかかえられるとはと驚いた。

彼女は器用に首と肩の間にトウ ※傘の持ち手を挟みながら、自分たちの体が濡れないようにしている。

「……?」

ずっと簦を差していたようで、自分と違って彼女の身体は少しも濡れていなかったのだが、なぜかその頬には水滴が滴っていた。

「なあ、お前…名前は?」

美しい黒曜の瞳に見据えられると、不思議とこの女になら殺されても良いという気になれた。

女の問いに、少年はずっと閉ざしていた唇を動かした。

「…桓騎」

ふうん、と女が楽しそうに目を細める。

「父さんと同じ名だな」

(お前の父親なんざ知らねえよ)

生意気に言い返そうとした桓騎だったが、彼女の腕に包まれる温もりがあまりにも心地よくて、すぐに意識が溶け落ちていく。

瞼を下ろす寸前、自分たちの足元に、もう一本のトウ ※傘が落ちているのが見えた。彼女が差しているものとは別のものだ。

あの簦の持ち主が誰だったのか、桓騎は今もその答えを知らない。

 

芙蓉閣

芙蓉閣ふようかくは咸陽にある信が立ち上げた避難所であり、行き場を失った女性や、戦争孤児など、女子供を多く保護している。

信は六大将軍と称えられた王騎と摎の二人の養女である。二人から将の才を見抜かれ、彼女の才は着実にその才の芽を伸ばしていった。

飛信軍を率いる女将軍。今や秦国のみならず、中華全土に信の名を知らぬ者はいない。

王騎と摎に劣らぬ強さは、まさしく秦国を勝利に導くために与えられた才だったのだろう。

信自身が戦争孤児の下僕出身という弱い立場であり、彼女は自分のように恵まれなかった者たち・・・・・・・・・・の末路を多く目にしていた。

少しでもそういった者たちを減らす目的で、信は将軍昇格と同時に、芙蓉閣を立ち上げたのである。

駆け込んで来るのは、奉公や嫁ぎ先に恵まれなかった女性たちや、奴隷商人の商売道具として取引される親を失った戦争孤児たちが主である。

こういった保護施設を展開している場所は他になく、信の名前が広まるのと同等に、芙蓉閣の存在は中華全土に広まっていた。

信が独自に行っていた慈善活動だが、今では彼女の親友でもある嬴政や、名家の出である友人たちからの支持と協力を得ている。

捕虜や女子供には手を出さないとして有名な飛信軍と、芙蓉閣の存在は、たちまち中華全土で高い評判を得るようになっていた。

桓騎という名の美しい顔立ちの少年も、戦争孤児として、数年前にこの芙蓉閣に保護された一人である。

 

 

おおよそ一月ぶりに芙蓉閣へ視察に訪れた信は、回廊を大股でずんずんと歩いており、誰が見ても苛立っているのが分かった。

今や中華全土にその名を轟かせている女将軍の機嫌が悪いことに、芙蓉閣の者たちは何があったのだろうと怯えている。

回廊の途中にある一室の扉を声も掛けずに勢いよく開けると、信は中にいた桓騎をぎろりと睨みつけた。

後ろをついて回る侍女たちは憤怒している信に怯え切っているというのに、桓騎だけは違った。

大将軍を前にしても頭を下げる様子は一切なく、椅子に腰掛けたまま堂々と寛いでおり、それだけではなく、信の怒りを煽るかのように、大きな欠伸をかましていたのである。

「桓騎」

低い声で名を呼ばれても、桓騎は退屈で気だるげな表情を崩さない。この芙蓉閣で信にそんな態度を取れる者といえば彼だけだった。

他の者たちは信に助けられたという恩を感じているため、彼女に感謝こそすれ、怒らせるような真似は絶対にしないのである。

だというのに、ここ数年の間、信は芙蓉閣で怒鳴り散らすことが増えた。その原因は、全て戦争孤児として保護された桓騎にある。

「なに怒ってんだよ、信」

憤怒の表情を浮かべている信に、桓騎がにやりと笑みを浮かべる。

「んな怒ってたら嫁の貰い手がなくなるぞ?ま、俺がもらってやるから丁度良いけどな」

「そんな話をしに来たんじゃねえッ!」

いつも武器を握っており、女らしさの欠片もない傷とマメだらけの手で拳を作ると、桓騎の頭に振り落とす。鈍い音がして、桓騎は脳天に走った激痛に目を剥いた。

室内に響き渡った音と桓騎の表情を見れば、その一撃がどれほどの威力を持っていたが分かる。

もしも彼女が秦王から賜りし剣を振るっていたのなら、桓騎の首と身体は繋がっていなかっただろう。

「ってーな!何しやがる!」

げんこつを喰らった頭頂部を擦りながら、涙目で睨みつける。しかし、信の怒りは未だ収まることはないらしい。

また・・奴隷商人を懲らしめたんだとッ!?手ェ出すなって何度言ったら分かんだよ!」

心当たりのある話を持ち出され、桓騎はつまらなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。

「どこぞの名家のガキを攫おうとしてたから、とっ捕まえて、見逃してやる代わりに有り金全部くすねてやっただけだ。何か悪いことしたか?」

そのまま役人の元へ連れ出しても良かったのだが、戦争孤児でもない子を商品として売買しようとした罪は重く、間違いなく処刑になるだろう。

役人に突き出さなくても、子供の親のもとへ連れていけば、それはそれで無残に殺されたに違いない。

何としてでも自分の首を守るために、奴隷商人の男は桓騎に必死に命乞いをしたのだという。まだ子供である桓騎に頭を下げてまで。

有り金をあるだけ渡すのを条件に、桓騎はその奴隷商人を見逃してやったらしい。

芙蓉閣は信が立ち上げた保護施設であるが、彼女自身は将軍として戦場に赴くことや兵たちの鍛錬を主としているため、数か月に一度、視察に訪れるくらいだった。

視察に行けない間も、芙蓉閣の管理をしている代人から近況について記された木簡が送られる。

今回送られて来た木簡には、桓騎が奴隷商人から金を巻き上げたことと、それがとんでもない額であったこと、そして全額をこの芙蓉閣に寄付したのだと記されていたのである。

寄付された額を見て、信は目を剥いた。下僕出身であり、あまり金勘定に詳しくない信でさえも大金だとすぐに分かるほどの金額だったのだ。恐らく子どもでも大金だと分かる額だろう。

桓騎が奴隷商人から巻き上げた金は、論功行賞の時に秦王から褒美として授かる額と、ほぼ同等だったのである。

木簡を読んだ信は全ての執務を放棄し、こうして馬を走らせて芙蓉閣までやって来たというワケだ。

女子供を売り物にする奴隷商人がそれほどの金額を稼いでいたという事実は見逃せないが、何よりまだ子供でありながら、そこらの野盗よりも大金を巻き上げたことに驚かされた。

表面的には憤怒しているが、もちろん心配の感情の方が強い。桓騎もそろそろ徴兵に掛けられる年齢とはいえ、まだ子供であることには変わりない。

「一人で危ないことすんじゃねーッ!何度言ったら分かんだよ!」

二度目のげんこつが振り落とされたが、桓騎は後ろに一歩下がることで軽々と避けた。一度目は受けてやっても、同じ手は食らわないことを信条にしているらしい。

「いちいちうるせえなあ。資金繰りに協力してやってんだから感謝しろよ」

わざとらしく溜息を吐きながらそう言うと、信の怒りがますます燃え上がった。

「資金繰りなんてガキが口出す話じゃねーだろ!」

顔を真っ赤にして額に血管が浮き上がっている信を見て、これ以上刺激すると本当に面倒なことになりそうだと桓騎は話題を変えることにした。

 

芙蓉閣が登場する話(昌平君×信)はこちら

 

 

子ども扱い

「なら、とっとと俺を飛信軍に入れろよ。そうすりゃ監視下に置けるだろ」

腕を組みながら言うと、怒り一色だった信の表情が一瞬だけ曇った。

「…いや、頼む側のお前が何でそんな偉そうな態度なんだよッ!」

もっともな言葉に、桓騎は肩を竦めるようにして笑う。

「そろそろ恩を返してやる・・・・・・・って言ってんだよ」

相変わらず傲慢な態度を続ける桓騎に、先に折れたのは信の方だった。

「はあ…お前ってやつは、どうしていつもそう、太々しいんだか…」

長い溜息を吐いた後、彼女は後ろで苦笑を浮かべている侍女たちに視線を向ける。

彼女の意志を察した侍女たちは礼儀正しく一礼し、その場を離れていく。どうやら桓騎と二人きりで話をしたいようだ。

「飛信軍に入りてえなら、ちゃんと試練に合格してからだ」

試練という言葉を聞き、桓騎の表情がおもむろに曇った。ついでに舌打ちまでしている。

今や中華全土にその名を轟かせている飛信軍に入るには、体力試練というものに合格しなくてはならないのだという。

信を筆頭に、副官を務める羌瘣、そして軍師の河了貂の三人の女性を目当てにやって来る男共も少なくない。

まだ飛信軍が隊の時からその体力試練は行っていたらしいが、彼女たちに近づきたいという安易な理由で体力試練を受けた男たちは必ずと言って良いほど泣かされることになるらしい。

その噂は桓騎の耳にも届いていた。しかし、彼女に命を救われた桓騎は、信さえ言い包めてしまえば自分も飛信軍に入れるものだと思い込んでいたのである。

情に厚い信なら、恩を返したいといえばきっと応えてくれると思ったのだが、どうやらそれで一度痛い目を見たことがあるらしく、総司令や飛信軍の仲間たちからこっぴどく叱られたらしい。

そもそも嘘を吐けない素直な性格の信が、裏での行い縁故採用など一切出来ないことは何となく察していた。

彼女らしいと言えば正しくその通りなのだが、桓騎自身も早く飛信軍に入りたいという焦燥感があった。

桓騎には、将軍や軍師として戦場に立ちたいといった想いは一切ない。

彼が飛信軍に入りたいと考える理由は何とも単純なもので、信がいるからであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

芙蓉閣に彼女が訪れるのは視察の時だけで、戦が始まれば長い期間会えなくなる。いくら大将軍の座に就いているとはいえ、いつ敵将に討たれるかも分からない。もしかしたら次に会うことはないかもしれないのだ。

飛信軍に入れば、いつだって彼女に会えるし、傍で彼女を守ることが出来ると桓騎は信じて疑わなかった。

 

 

「…そりゃあ、飛信軍が良いって言ってくれるのは嬉しいけどよ…」

不機嫌に顔色を曇らせた桓騎を見て、信が慰めるように言う。彼女の言葉から察するに、どうやら自分が信を目当てに飛信軍に入りたいと思っていることには一切気づいていないようだった。

もしかしたら、今日こそは諦めて飛信軍に入れてくれるのだろうかと桓騎が期待に目を輝かせていると、

「んー…でも、お前が飛信軍に入ると、何だかややこしいことになりそうだって言われてるんだよなあ…」

「あぁ?誰にだよ」

不機嫌に眉を寄せて聞き返すと、信が目を泳がせながらすぐに白状する。

「父さ…王騎将軍だよ」

王騎は天下の大将軍として中華全土に名を轟かせ、そして下僕であった信を養子として引き取った男だ。

さすがに養父の言葉を無視するわけにはいかず、信も悩んでいるようだった。

(余計なこと吹き込みやがって…)

王騎と直接の面識がある訳ではないのだが、信が芙蓉閣での様子や、桓騎のことをよく話しているのだという。

信がどのように自分のことを伝えているのかは分からないが、今回のような奴隷商人から金を巻き上げたことは過去に何度もある。その話だけ聞いた者たちから、自分が相当な問題児とみなされているのは分かっていた。

飛信軍に入るためには信の返事一つあれば良いのだとばかり思っていたが、他の者たちからの許可も必要になるのだとしたら相当面倒だ。

そういった者たちの弱みを事前に握っておけば、飛信軍に入ることを推薦してくれたかもしれない。今回の奴隷商人から巻き上げた資金を賄賂として渡しておけば、全面的に信の説得を強力してくれたのではないだろうか。

そんなことを考えていると、信が思考を読んだのかあからさまに顔色を曇らせた。

「その悪知恵は一体どこで身に着けて来たんだか…」

溜息交じりで信がそう言ったので、桓騎は得意気に笑ってみせた。

「将来困らせることはねえぞ。むしろ傍に置いてて良かったって思うはずだ」

はいはい、と信が呆れた表情で聞き流されて、桓騎は舌打った。
こうなればいくら信でも、まともに取り合ってくれないだろう。

「…そんなに戦に出たいのか?」

束の間、室内が沈黙で満たされた後、信が静かに問い掛けて来た。目を合わせることなく、じっと俯いている。

その問いの真意から、桓騎はまだ自分が子供扱いをされていることを嫌でも理解した。

「俺が犬死にすると思ってんのか」

もしそう思われているのなら、自分は随分と甘く見られているらしい。

信にとってまだ自分は幼い子供で、戦とは無縁の存在だと思われていることは随分と前から分かっていた。

戦で武功を挙げれば相応の褒美がもらえるし、地位や名声を手に入れることだって出来る。しかし、桓騎はそういったものには一切の興味を示さなかった。

飛信軍に入れば、戦場に立つことが出来たのならば、信の傍にいられる。彼女を守ることが出来る。

しかし、桓騎がそれを言葉にしないのは、信から「そんな理由で」と罵られることを分かっていたからだ。

徴兵を掛けられれば、大人しく従わなくてはならない年齢であることは信も分かっている。わざわざ信に懇願しなくても軍に入れられるだろうが、それが飛信軍であるとは限らない。

信がいない軍に入っても、無意味だと桓騎は考えていた。傍で彼女を守れなければ、何の意味などないのだ。

少しでも目を離せば、二度と彼女に会えなくなるかもしれない。そう思えば思うほど、桓騎の中で飛信軍に入りたい気持ちが膨らんでいくのだ。

 

子ども扱い その二

芙蓉閣を立ち上げたのは信だが、他にもこの保護施設を支援をしている者は大勢いるという。

差配状況が悪くはないことは知っていたが、何かしら騒ぎを起こさないと信は今日のように駆けつけて来ない。

桓騎が初めて芙蓉閣で騒ぎを起こしたのは、この保護施設に逃げ込んで来た自分の妻を追い掛けて来た夫を凝らしめた時だった。

見張りの兵たちを目を潜り抜け、芙蓉閣の敷地内に侵入して来たその男は血走った目で声を荒げながら、自分の妻を探していたのだが、桓騎は怯むことなくその男に立ち向かったのである。

刃物を持っていた男によって多少の怪我は負わされたものの、子供の身軽さを最大限に利用し、結果的には桓騎の圧勝で男を懲らしめた。

その騒動はすぐに信の耳にも入り、怪我の手当てを受けている桓騎のもとにやって来た。

てっきり褒められるのかと思ったが、そうではなかった。自分の顔を見るなり、信に思い切り頬を打たれたことと、その痛みは今でもよく覚えている。誇張なしに鼓膜が破けたかと思った。

他の者たちの被害がなかったことを考えれば、男を捕まえた自分の活躍を褒め称えるべきだろうと逆上すると、

―――ガキのくせに一人で危ないことするなッ!

逆上した桓騎も思わず縮こまるほど、信が憤怒したのだ。思えば、信が桓騎に怒ったのはあの時が初めてだったかもしれない。

怒りと不安と悲しみが織り交ぜられた、何とも言葉にし難い表情を浮かべた彼女に抱き締められ、桓騎は初めて誰かから心配という行為をされたのだと気づいた。

芙蓉閣には桓騎以外にも大勢の女子供がいる。信だって大将軍として多くの執務があるというのに、彼女はそれらを全て投げ打ってまで、駆けつけてくれたのだ。他の誰でもない自分のために。

信に心配を掛けないよう、大人しくしていれば良かったのだが、桓騎はここで騒動を起こせば・・・・・・・・信が駆けつけてくれると学習してしまったのである。

一度味を占めた桓騎は信に迷惑を掛けないように、こちらに一切の非がない状況を前提として、騒動を起こすようになった。信の顔に泥を塗る迷惑な行為は一切しないが、顔を見ないと安堵できないような心配させるようになった。

芙蓉閣への不法侵入者や奴隷商人といった相手を選び、桓騎がそういった者たちを嬉々として懲らしめるようになったのはその頃からだった。

桓騎が信に好意を寄せているのは誰が見ても明らかだったのだが、なぜか信は未だに気付いていない。

「じゃあな」

どうやらお説教と言う名の用件はこれで終いらしい。まだ陽が沈んでいないことから、今日はこのまま屋敷に帰るらしい。

桓騎は咄嗟に信の腕を掴んでいた。

「ん?」

なんだよ、と信が振り返る。

「………」

あからさまに視線は逸らしているものの、桓騎の手は彼女の腕を放そうとしない。

執務を途中で放棄してやって来たので、そろそろ戻らねばならないのだが、引き留められると、お人好しの信はつい立ち止まってしまう。

それこそが桓騎の足止めであると、彼女は未だに気づいていない。もちろん桓騎の方も気づかせるつもりはなかった。

陽が沈み始めるまでここで粘れば、彼女は諦めて芙蓉閣で一夜を過ごすしかなくなることを桓騎は知っていた。飛信軍の話をしたのも、そのための足止めである。

「………」

「桓騎…お前…」

ばつが悪そうな表情をしている桓騎を見て、信が此度の件を反省しているのだろうと思った。

もちろん表面的な態度だけである。簡単に騙されてくれる信に、桓騎は内心ほくそ笑んでいた。

「………」

信は腕を組んで何かを考えるように目を伏せた。

「…じゃあ、ちゃんと考えといてやるから、もう今回みたいな無茶は二度とするなよ」

「!」

確定ではないが、それでも希望が持てる返事が来たことに、桓騎はすぐに頷いた。

心の中で舞い上がっていると、「じゃあな」と軽快な挨拶と共に、桓騎の腕を振り解いた信はさっさと部屋を出て行ってしまう。

あっ、と桓騎が走って追い掛けた時には、既に彼女は正門に待たせていた愛馬に跨っているところだった。

「信!」

「悪いな。また来るから、いい子にしてろよ」

馬上から腕を伸ばして来たかと思うと、頭をぐしゃぐしゃと乱雑に撫でられた。相変わらず女の上品さなど一欠片も持たない手付きだ。

「あっ…おい!」

手綱を振るうと、すぐに愛馬が駆け出した。子供の足では追えないほど、遠くに行ってしまい、桓騎は重い溜息を吐く。

もう少し足止めをしておけば、久しぶりに一夜を共に過ごすことが出来たのにと桓騎は舌打った。

彼女が眠る布団に忍び込むのも、呆れた彼女に抱き締められながら共に夜を過ごしたのは一体いつが最後だっただろう。

次にそんな機会が来れば、もう簡単に彼女の身体を組み敷くことが出来るほど、この体は男として成長しているかもしれない。

成長した自分を見て、顔を赤らめる信の姿を想像し、桓騎はその日が来るのを楽しみに待っていた。

そして飛信軍に入ることが出来れば、いつだって彼女の褥に潜ることが出来るのだと、幼い頃から桓騎は疑わなかったのである。

 

成長

大人になれば、さぞや黄色い声を上げられるだろうと芙蓉閣に住まう者たちから期待されていた桓騎は、その想像通りに、端正な顔立ちに加えて大人の魅力を増幅させた。

さまざまな女性から黄色い声を上げられ、多くの視線を向けられるようになったというのに、予想外にも、信だけは桓騎に対する態度を微塵も変えることはなかった。

こんなにも良い男に成長したというのに、いつまでも彼女にとっての桓騎は子どものままらしい。

それでも進展があったといえば、彼女が戦に出ることを認めてくれたことだろうか。

徴兵が掛けられれば従わなくてはならない年齢だった時も、彼女は言葉にせずとも、桓騎を戦に出したくないと思っているようだった。

その理由は恐らく子どもだからだろう。いつまでも彼女が自分を子ども扱いすることが腹立たしかった。

桓騎が信に向けている好意は紛れもなく愛情である。
大将軍に対する尊敬だとか、家族に向けるような恩愛ではなく、桓騎にとって信は唯一無二の存在だった。

しかし、信が桓騎に向ける感情は男女のものではない。きっと幼い頃から自分を保護している慈愛なのだろう。

 

 

それから数年の月日が経ち、桓騎は蒙驁将軍の副官として、秦軍を勝利に導いている。

知将として名を広めている彼のもとに、信が訪れた。
論功行賞でも桓騎の活躍は大いに称賛され、褒美として与えられた屋敷は信が住まう屋敷に劣らず立派なものである。

「久しぶりだなあ、桓騎。元気だったか?」

相変わらず護衛を率いることなく愛馬と共にやって来た信は、屋敷の門で出迎えてくれた桓騎を見て、にやっと笑った。

此度の戦に参戦しなかった彼女が、祝杯を手土産に桓騎を労いに来たのだ。

領土視察の任務のために、此度の戦は出陣せず、祝宴にも論功行賞にも顔を出せなかったようで、信が桓騎に会うのは随分と久しかった。

屋敷の一室に案内された信は、持って来た酒瓶をさっそく開け始める。

「今回の戦でも随分活躍したらしいな。やっぱり蒙驁将軍に頼んで正解だったぜ」

二人分の杯に酒を注ぎながら、信が大らかに笑った。

「………」

祝杯だというのに、桓騎の顔に喜色は浮かんでいない。出迎えてくれた時から一度も笑みを見せてくれないことに、信は不思議そうに首を傾げた。

その顔は普段通りの表情ではあるものの、機嫌の悪い空気を発している。

幼い頃から桓騎の成長を見守っていた信は、彼が不機嫌であることに気づいていたのだが、その理由だけが分からずにいた。

「どうした?」

「…白老は、人が良い御仁だ」

他人を蹴落とすことが大好きな桓騎が、ここに来てようやく他人を褒めたことに桓騎の成長を感じながら、信は小首を傾げた。

「…だがな」

桓騎が喉を鳴らして、一気に酒を飲み干す。酒好きな麃公に勧められた酒だろうか。喉が焼けるように熱かった。

「なんで飛信軍じゃなかったんだよ」

手に持っていた酒杯を、わざと音を立てて机に置いた桓騎に、信はきょとんと目を丸めた。雰囲気だけではなく、態度や仕草も完全に怒っている。

そこまで怒りを剥き出しにする桓騎を見るのは随分と久しぶりのことだった。
他の者であれば、その鋭い眼差しに凄まれれば術を掛けられたかのように動けなくなるだろうが、信は違った。

「は?そりゃあ、俺の軍に入れたら贔屓だろ」

酒を注いだ自分の杯を手繰り寄せながら、信が冷静に答える。

少しも躊躇うことなく、あっさりと返答されたことに、桓騎の眉間にますます深い皺が寄った。どうやらまだ納得出来ないでいるらしい。

「良いじゃねえか。俺の下につかなくても、このまま蒙驁将軍の役に立ってれば、すぐにまた昇格するだろ」

笑いながら向かいの席に着いている桓騎の肩を叩くと、ますます切れ長の目がつり上がった。

 

昇格

今から数年前、信は白老と称される蒙驁将軍に、桓騎の身柄を引き渡したのである。

あの生意気な性格とまともに付き合えるのは、心が広い蒙驁将軍だけだろうという判断だった。
徴兵が掛けられる前に、桓騎の身柄を蒙驁へ引き渡したのには理由があった。

この男が配属された軍で大人しく上からの指示に従うとは思えなかったし、気の合わない仲間がいれば容赦なく手を出すだろうと思ったからだ。

それにもしも、養父である王騎の軍に入れば、その態度を問題視されて即座に首を撥ねられることは明らかだった。

桓騎と王騎に面識はないが、芙蓉閣で桓騎が起こした幾つもの騒動は、信の口から王騎の耳にも入っている。昔から桓騎が飛信軍に入りたいと話していることも、信を通して聞いていたのだが、あまり良い顔をされないのは今も同じだった。

恐らく王騎軍以外の軍に入らせても、良い顔はされなかっただろう。

もとより、桓騎は縛られるの嫌がる性格だ。
ある程度の自由を約束されないと独断で何をしでかすか分からないし、それが騒動になれば連帯責任として、桓騎を受け入れた将が罰せられる。

その点、蒙驁は桓騎のような自由人を好きに泳がせる傾向にあった。それでいて桓騎の才を見抜き、それを芽吹かせたのだから、彼には感謝しかない。

桓騎の目を盗んで、信は幾度も蒙驁と連絡を取り合い、彼の口から直接桓騎の様子を聞くこともあった。

その聡明な頭脳を用いることで、初陣を済ませてから桓騎はすぐに昇格していき、今では蒙驁の右腕として活躍している。

蒙驁自身も随分と助けられていると言い、逆に彼から桓騎を軍に入れてくれたことを感謝された時、信は自分の判断が間違っていなかったのだと胸を撫で下ろした。

今や知将としての才をどんどん芽吹かせている桓騎の活躍を知った王騎が「やはりそうでしたか」と意味深に呟いていたことも、信は気になっていた。

まさかここまで桓騎が知将の才を芽吹かせるとは信も予想外だったが、結果としてはこの道に進ませて良かったのだろうと思えた。

…だというのに、桓騎自身は未だ飛信軍に未練があるらしい。

「別に飛信軍に入らなくたって良いだろ。桓騎軍だって、今じゃ秦国には欠かせない存在だ」

望むだけの褒美も大方手に入ったと思うのだが、どうして未だ飛信軍に未練があるのか分からない。

「…お前、俺が将軍昇格だとか、褒美目当てでここまでやって来たと思ってんのか?」

予想もしていなかった言葉を返されて、信の顔から表情が消えた。

「えっ?じゃあ、なんだよ」

本当に分からないといった表情で聞き返されて、桓騎は謎の頭痛に襲われた。

(この鈍感女め)

あからさまに好意を告げても、信は冗談だとしか思っていないらしい。どれだけ真面目に訴えても結果は同じだった。

それはまだ彼女の中で、桓騎という存在が大人の男に昇格出来ていない何よりの証拠である。

信は情に厚い女だ。たかが行き倒れの男児一人くらい見殺しにすれば良かったものを、彼女は目に留まる人々を見捨てられない性格なのである。信自身が下僕出身で、王騎に拾われた過去が影響しているのかもしれない。

飛信軍が捕虜や女子供を殺さないという話が中華全土に広まっているのも頷ける。それは決して噂ではなく、事実だった。

芙蓉閣に住まう女子供や飛信軍の兵たち、民の笑顔を見れば、大勢の人々が信を慕っていることが分かる。

信にとって、自分もそのうちの一人に過ぎないのだろうか。桓騎は時々訳もなく不安を覚えることがあった。

 

秦趙同盟の成立

咸陽宮に趙の一行が来ているという報せは、桓騎の耳にも届いていた。

呼び出しを受けた訳ではないのだが、信が赴いているという噂を聞きつけ、久しぶりに彼女の顔を見ようという安易な理由で、桓騎は宮廷へと訪れた。

趙の一行が何用で秦の首府に訪れたのかは分からない。聞いたような気がするが、興味のないことを桓騎は一切記憶しないのだ。

宮廷の廊下を慌ただしく従者たちが行き来している。酒や料理の準備をしている姿を見て、宴の準備が始まるのだと察しがついた。

趙の一行をもてなすのだと分かったが、彼らが来ると分かっていながら、事前に宴の準備をしていなかったのは何故だろうか。

廊下の隅で官僚たちが何やら声を潜めて話をしている姿を見て、桓騎はそちらの方向に用があることを思わせるような、自然な足取りで歩いた。

すれ違い様に彼らの話に耳を傾けると、どうやら秦趙同盟が結ばれたのだという。

(随分と急だな)

馬陽の戦いから一年の月日しか経っていない。それに、秦と趙の現在の情勢からして、同盟を結ぶような必要などないようにも思う。

総大将を務めた王騎の死により、馬陽の戦いでは秦軍が敗北となった。相手は趙軍で、出陣しなかった桓騎の耳にも、王騎の死と敗北の報せは届いた。

こちらが勝利しようが敗北しようが興味はなかったのだが、飛信軍が相当な被害を受けた話だけは聞き逃さなかった。

さらに、信の養父である王騎の死は、信の心に相当深い傷をつけたらしい。

王騎の弔いの儀の後、見舞いと言う名目で信の屋敷を訪れたが、そこに信はいなかった。侍女たちに話を聞くと、どうやら彼女は幼少期を過ごしていた王騎の屋敷に引き籠っているのだという。

今でこそ、ようやく普段通りに話をすることが出来るようになったのだが、あの時の信はまるで抜け殻のようだった。

桓騎の前では気丈に振る舞い、涙こそ流していなかったが、ふとした拍子に今にも泣き出してしまいそうな子供のような表情を浮かべていたことはよく覚えている。

(信は宮廷に呼び出されたのか?それとも自ら赴いたのか?)

王騎を討ち取ったとされる敵国との同盟を、信が素直に認めたのかが気になる。もちろん同盟成立において、将軍である彼女の意志が尊重されることはない。

この場に彼女が来たのは高官から呼び出されたのか、それとも自らの意志なのだろうか。

何となく後者な気がしていると、回廊を歩く信の後ろ姿を見つけた。地面を睨みつけながら歩いているが、随分と重い足取りだった。

「信」

背後から声を掛けると、一度立ち止まった彼女は、表情を繕ったのか、少し間を置いてからこちらを振り返った。

「よお、桓騎。お前も来てたのか」

口元だけに笑みを携えている、下手な作り笑いだ。嘘を吐けない彼女が無理をしている時、いつもぎこちない笑みを浮かべる。

何と言葉を掛けるべきか一瞬悩んだが、同盟のことには触れない方が良いだろう。その延長で王騎の話題にでもなったら、間違いなく信は悲しむ。

今でも養父の死を悼んでいることから、彼女の心の傷がまだ癒えていないのは明らかだったし、彼女のことが大切だからこそ、自分の不用意な発言でその傷口を抉るような真似をしたくなかった。

適当な話題でもしようと桓騎が口を開いた時だった。

「久しぶりです、信」

 

 

自分の知らない間に、背後に誰かが立つというのは嫌悪に直結するものだ。反射的に桓騎は振り返った。

声を掛けて来たのは金髪の男だった。青い着物に身を包んでいて、すらりと背が高く、桓騎も僅かに視線を上向けなければならないほどだった。

着物から覗く首筋や手首のがっしりとした骨付きを見ると、筋骨の逞しい体をしていることが分かる。

しかし、その体格とは真逆で、威圧的な雰囲気は微塵もなかった。
むしろ誰とでもすぐに打ち解けられそうなほど、人の良さそうな笑みを浮かべている。

(こいつ…)

しかし、彼の瞳は鋭利な刃物のように鋭く、決して触れてはいけない何か・・・・・・・・・・を持っていることを危惧させる。

腹の内にどんな黒いものを隠しているのかが分からず、桓騎は思わず眉根を寄せた。

「李牧…」

驚いた信が男の名を呼んだので、知り合いなのだろうかと桓騎は二人を交互に見た。

喜悦と困惑が入り混じった表情で身じろいだのを見ると、信がこの李牧という男にどういった感情を抱いているのかが分からなかった。

信と共に過ごす時間はそれなりに長かったはずだが、李牧という名は一度も聞いたことがない。

震えるほど強く拳を握った信が李牧を睨みつける。彼女が首を真上に向けなければならないほど、李牧と信はかなりの身長差があった。

信に睨みつけられているというのに、李牧は少しも臆する様子はない。それどころか、慈しむような眼差しを向けていた。

「馬陽での戦…お前の軍略だったんだろ」

低い声を震わせ、信が唸るように言った。その声には、凄まじい怒りで込められている。

信の言葉から察するに、この男は趙の軍師らしい。王騎を討つ軍略を企てたのがこの男だと、信は分かっているようだった。

「ええ、そうです。戦では姿を伏せていましたが、あなたなら気づくと思いました」

あっさりと頷いた李牧に、信が力強く奥歯を噛み締めたのが分かった。

「…対抗策を投じる時間も与えたつもりだったのですが、残念ながら結果は変わりませんでしたね」

その言葉が火種となったのか、信は弾かれたように駆け出し、彼の胸倉を掴んだ。

「なんでッ…!なんで、父さんを…!」

その言葉を聞いた桓騎は二人の関係に仮説を立てた。元々面識があったのだろうが、王騎の死をきっかけに、二人の間に大きな亀裂が入ったのだろう。

好敵手という関係で結ばれているのかとも思ったが、李牧の微塵も揺らぐことのない余裕ぶりを見る限り、そういった関係ではないことは明らかである。

もともと二人の間に亀裂が入っていたのかは定かではないが、王騎のことをきっかけに、元には戻れぬほど深い溝が広まってしまったようだ。

父の仇ならばさっさと斬り捨てれば良いものを、それをしないのは、秦趙同盟が成立してしまったことも関わっているのだろう。

しかし、それだけではなく、王騎を死に至らしめた理由を問うていることから、信はこの男を殺せないのは、何か別の感情・・・・が邪魔をしているからなのだと桓騎は思った。

「………」

信に凄まれても、李牧は眉一つ動かすことはしない。

(こいつ…)

余裕しか持ち合わせていない態度に、二人を見ている桓騎もやや苛立ちを覚えた。

胸倉を掴んでいる信の手を覆うように、そっと大きな手で包み込んだ李牧は穏やかに笑んだ。

「こちらの目的を果たしただけです」

「目的…?」

信が眉根を寄せて聞き返す。

「王騎の死。それが馬陽での目的でした」

ひゅ、と信が息を飲んだのが聞こえた。それまで憤怒していた彼女の表情に、怯えとも不安とも似つかない色が浮かび上がった。

みるみる青ざめていく彼女を慰めるように、慈しむように、李牧は反対の手で彼女の頬を撫でる。

まるで触れられた場所から凍り付いていくかのように、信は身動き一つ出来ずにいた。唇を戦慄かせてはいるものの、声を象ることはない。

「馬陽には、あなたも出陣していたのですよね?…無事で良かった」

信の無事に安堵するその言葉には、やや矛盾を感じさせるものがあった。

この男が趙の軍師だということは確定したが、王騎を敵視していながら、なぜ信の無事を喜ぶのだろう。二人の間に、桓騎の知り得ない事情があるのは明らかだった。

信の頬を撫でていた李牧が心配するように、信の顔を覗き込んだ。

「…少し熱がありますね。悪化する前に、きちんと休まなくてはいけませんよ。宴の席は出ない方が良い」

「触んなッ!」

弾かれたかのように、信は李牧の腕を振り払う。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

肩で息をしているところを見れば、王騎を殺した張本人を前にして憤怒していることが分かる。しかし、相変わらず背中に携えている剣を抜こうとはしない。

感情的になりやすい彼女が、自らを制するように拳を握り締めているのを見て、桓騎は違和感を覚える。

その拳から赤い雫が滴っていることに気付き、桓騎はすぐに声を掛けた。

「おい、信ッ…!」

「信、無意味なこと・・・・・・はやめなさい」

李牧は穏やかな声色を崩すことなく、彼女を諭すようにして、血を流している右手をそっと両手で包み込んだ。

「ッ…!」

深く爪が食い込んだ手の平を開かせると、李牧は迷うことなく、そこに唇を寄せた。

信が目を見開いていたが、驚いて声を喉に詰まらせるばかりで、先ほどのように振り払うことはしない。

懐から手巾を取り出した李牧が、傷ついた手の平をそっと包み込む。
きつく手巾を結んでやり、簡易的に止血の処置を行うと、彼はにこりと微笑んで彼女の手を放した。

「では、また」

さりげなく再会の約束を取り付け、李牧は背を向けて歩き出す。宴が行われる間に向かったようだ。

桓騎の存在はずっと視界に入っていたはずだが、まるでそこにいないものとして扱っているように、李牧は一瞥もくれずに去っていった。

(あいつ…)

その無言の態度が、まるで敵視する価値もないと言い表しているようで、桓騎は腸が煮えくり返りそうになる。

残された信は遠ざかっていく李牧の背中を見つめながら、何か言いたげに唇を戦慄かせていたが、言葉に出すことはせず俯いてしまう。

「おい、信」

声を掛けると、彼女は弾かれたように顔を上げた。

すぐにでも李牧とどういった関係なのか問い詰めたかったが、桓騎は手巾で包まれた信の手を掴んだ。

「手当てに行くぞ」

「…ほっとけよ。こんなの、すぐ治る」

先ほど李牧が唇を寄せていたことを思い出し、桓騎は反吐が出そうになった。

本当に戦場で武器を振るっているのかと疑わしくなる細い手首を掴み、桓騎は彼女を引き摺るように歩き出す。

自分以外の男に、特にあの男のせいで信の傷が癒えるなんて、考えたくもなかった。

 

中編①はこちら

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