毒酒で乾杯を(桓騎×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/ツンデレ/毒耐性/ミステリー/秦後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話はアナーキーの後日編・完全IFルート(恋人設定)です。

はこちら

 

大王の寝室

侍女頭が后の毒殺疑いで身柄を拘束されたことを受け、向の身柄は宮廷で保護されることになった。

向に襲い掛かった侍女頭を射止めたのは何者だったのだろう。結局それは分からずじまいだった。恐らく桓騎はその正体に気付いているようだが、味方だとも敵だとも告げなかった。

宦官に扮した桓騎が侍女頭の件も報告するとのことだったが、桓騎の正体が気づかれないかも心配だ。

信も自らの目で見たことを嬴政に伝えたかったのだが、宮官長たちに此度の騒動の説明をしていると、あっという間に時間が経ってしまった。

夜になると、宦官からの呼び出しは来なかったが、信は後宮を抜け出した。秦王から伽に来るよう命じられたのは事実だ。抜け出しても何ら問題はないだろう。

後宮を出て、宮殿を通り、嬴政の寝室へ向かう。

いつもなら目隠しをされて寝室の場所が分からないように配慮されるのだが、何度か繰り返すうちに、信は嬴政の寝室を突き止めていた。それは本能型の武将としての直感だったのかもしれない。

向の身柄は宮廷へ移されたのだから、もう後宮に留まる必要もないだろう。着物は後宮で着ていたものではあるが、もう女官を演じる必要はない。久しぶりに背中に携えた剣の重みが懐かしかった。

「おい、政ッ!」

返事を待たずに扉を開ける。無礼なのは十分承知しているが、事情は事情だ。

もしかしたら今宵、本当の犯人が襲撃に来るかもしれない。向が襲われた報告と同時に、その可能性も告げられただろうが、なぜか寝室の前どころか廊下には護衛の兵が一人もいなかった。

犯人を誘き出す作戦があったとしても、大王の身に危険が迫っているのだと分かれば、さすがに護衛の兵は配置させるだろう。あまりにも無防備過ぎると、信は苛立った。

いつもなら書簡に目を通している時刻だが、今は布団を被っている嬴政に、信は目をつり上げる。

「なに呑気に寝てんだよっ!」

上質な寝具を引き剥がし、叩き起こそうと思うとしたのだが、そこに居たのは嬴政ではなかった。

「―――よお」

桓騎が頬杖をついて、信のことを見上げている。

「…はッ!?」

状況が理解出来ず、信はただ愕然としていた。

宦官に扮していた時もそうだったが、一体どうして彼がここにいるのか。

「なッ、なんで…!?」

ようやく振り絞った声に、桓騎がにやりと笑う。

「お前に会うのに理由なんて必要ねえだろ」

「いや、そうじゃなくてッ、ここ政の寝室だろッ!」

咸陽宮を出入りできる立場だとはいえ、どうして彼が大王の寝室にいるのか。

しかも我が物顔で寝台に横たわっていることに、信は驚愕することしか出来なかった。

「政はどこにいるんだ?」

まさか無断で寝室に忍び込んだ訳ではないだろうが、だとしたら嬴政はどこにいるのだろう。

向の身柄を宮廷へ移した際に、宦官に扮した桓騎が嬴政に事情を伝えたというから、もしかしたら今は向と共にいるのかもしれない。

信が嬴政の居場所を気にしていると、桓騎がわざとらしく溜息を吐いた。

「…つれねえなあ。せっかく愛しの男に会えたってのに、違う男の話を出すのかよ」

本当にそう思っているのか、感情の籠っていない声で返される。

「お前がこんな所に来れる訳ないだろっ!何考えてんだよ」

まさか周りの目を欺いて後宮に侵入しているとは予想外だったが、桓騎であったとしても、大王の寝室に入れるはずはない。

信が問い詰めると、桓騎の口の端が怪しくつり上がった。

「俺が考えなしに動く男だと思ってんのか?」

「それは…」

信は言葉を濁らせる。

それなりに長い付き合いであり、桓騎が何も考えずに動く男でないことは分かっていた。

「…なら、最後まで付き合えよ」

「………」

どうやらこれも彼の策の内らしい。しかし、いつまでも策の内を明かさないことに、信は複雑な表情で頷く。

桓騎がここにいるということは、もしかしたら嬴政と向の命を狙った犯人を誘き出そうとしているのかもしれない。

諦めて信が寝台に腰を下ろすと、桓騎の手が伸びて、寝具の中に引き摺り込まれた。

「な、おいっ!?」

あっと言う間に抱き締められて、信が困惑した表情を浮かべる。

後宮にいた期間を考えると、彼と触れ合うのはとても久しぶりのことだった。だが、今は感傷に浸っている場合ではなかった。まるで緊張感が感じられない桓騎の普段通りの態度に、信は苛立ちを覚える。

「桓騎、真面目にっ…」

「後宮にいる間、大王とは何度寝た?」

嬴政との情事を疑われ、信は瞠目する。

「はあッ?な、なに言って…!?」

予想もしていなかった言葉を投げ掛けられ、信は大口を開けた。愕然としている隙を突かれ、体を組み敷かれる。

確かに嬴政から伽に呼ばれたことは幾度もあったが、それは後宮での様子を伝える報告会である。

情報漏洩を防ぐために、嬴政と二人きりになるには伽を装うしかなかったのだ。てっきりそれも分かっていたのだと思っていたが、どうやら違ったらしい。

今宵の呼び出しは桓騎の策の内なのかと信は考えていたのだが、もしかしたら本当に嬴政からの呼び出しだったのだろうか。だとすれば、桓騎が苛立っている理由も納得出来た。

 

刺客

「…誓って、政とは何もしてねえよ。伽を装って、後宮での様子を報告してただけだ」

信がそう言うと、桓騎はまだ納得していない表情を浮かべていた。嫉妬しているのだろうか。

桓騎が自分のことを想って嫉妬しているのだと思うと、悪い気分ではない。むしろ、優越感を覚えた。

ついにやけてしまいそうになる口元を必死に押さえ込みながら、桓騎を見上げた。

何を思ったのか、桓騎の手が着物の帯を解きにかかり、信はぎょっとする。

「えっ、お、おいっ?」

両手で桓騎の手を押さえ込みながら叫ぶと、桓騎がつまらなさそうに目を細める。

「…これ以上、待ては出来ねえぞ。俺は犬じゃねえんだ」

身を屈めた桓騎が首筋に唇を寄せて来たので、信は言葉に窮した。

いかに天下の大将軍である信であっても、所詮は女であり、男の腕力には敵わない。両手首を桓騎に片手で押さえられながら、帯を解かれてしまう。

首筋にちゅうと吸い付かれ、信は顔から火が出そうになった。

「バカッ、こんな時に何考えて!」

「こんな時だからこそ盛り上がるんじゃねえか」

策を成している途中だろうに、どうしてそんなに余裕たっぷりの笑みを浮かべていられるのか。

ぬるりとした舌を鎖骨に這わせられると、信の背筋に甘い痺れが走った。

こんな時でも反応してしまう桓騎に抱かれ慣れた体が恨めしい。唇を噛み締めて、溢れそうになる声を堪えた。

「…で?誰が孕めないお前が都合良いって?」

「へっ?」

信は頭の中に疑問符を大量に浮かべる。突然冷たくなった彼の声色に、顔を見なくても桓騎が憤怒していることはすぐに分かった。

責め立てられるような言葉と目つきに、一体何の話だと信が戸惑う。しかし、後宮に行った初日に、向へ話した話したことを思い出したのだった。

―――…あいつには、孕めない俺が都合良いんだろうな。

まるで陸から上がった魚のように、口をぱくぱくと開閉させ、信は青ざめた。あの場には向しかいなかったはずなのに、どうして桓騎がその話を知っているのだろう。

(いや…待てよ…)

あの部屋にいたのは確かに向と信の二人だった。しかし、扉の前にはもう一人いたはずだ。

見張り役と護衛を担っていた宦官の姿を思い出し、信はひゅっ、と笛を吹き間違ったような声を喉に詰まらせた。

「ま、まま、まさか、お前っ、俺が後宮に行った日から・・・・・・・・・・・…!?」

「今さらかよ」

その言葉と苦笑は肯定だった。まさか後宮へ行った初日から、桓騎が宦官に扮していたのだと分かり、信の頭に鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。

「俺がそんな理由で、お前を抱いてると思われてたとはな」

「え…あ、あの…違う、のか?」

泣き笑いのようなぎこちない表情で言葉を返すと、桓騎が不機嫌に舌打つ。

「心外だな」

「う…」

戸惑った信が目を泳がせていると、桓騎はわざとらしく溜息を吐いた。

桓騎が怒る時は、あからさまに怒鳴るようなことはしない。嫌がらせをして相手を逆上させるようなことの方が多いのだが、信に至ってはもうやめてくれと懇願させられるほど抱かれる。

まさか嬴政の寝室で襲うつもりなのだろうかと信が狼狽えていると、桓騎が扉の方にちらりを目線を送った。

「…来るぞ。構えとけ」

そう言って、桓騎は寝台の上に転がっていた信の剣を乱暴に放り投げる。

咄嗟に両手で柄を掴むと、剣の重みを感じて、一気に現実に引き戻された。そうだ。嬴政の命を狙う刺客を誘き出していたのだ。

先ほど解かれた帯を慌てて結び直していると、背後で乱暴に扉が開かれた。

 

刺客 その二

扉を開けて入って来たのは、黒衣に身を包んだ男だった。

後宮の宦官のように顔のほとんどを覆っており、素顔は見えないが、体格から男であることは分かる。手には短剣が握られていた。

「誰だ、てめえ」

帯は結び直したが、僅かに着物が乱れたまま、信は鞘から剣を引き抜く。

男の背後に他者の気配はない。どうやら一人だけのようだ。正体が誰であろうと、嬴政を狙う不届き者であることは間違いない。

向を狙っていた侍女頭を弓で撃ったのもこの男なのだろうか。

どうやら男の方はこの状況が想定外といった様子だった。僅かに見える目元に動揺が浮かんでいる。

嬴政が一人でいるところか、後宮の女とまぐわっているところを、まとめて片付けるつもりだったのかもしれない。

こんな状況だというのに、桓騎は寝台の上から微塵も動かない。

頬杖をつきながら、男と信が対峙しているのをじっと見据えていた。まるで余興でも眺めているかのような態度に、信は呆れてしまう。

「嬴政、覚悟ッ!」

剣を構えている信の方には見向きもせず、男は桓騎に短剣の刃を突き出すと、勢いよく駆け出した。

どうやら桓騎のことを嬴政と勘違いしているらしい。

嬴政の姿も見たことがなければ、恐らく信と桓騎の姿も見たことがないのだろう。中華全土に名を轟かせている将が、それも二人も秦王の寝室にいるだなんて普通は考えない。

「このッ!」

咄嗟に信は男の前に出て、桓騎にその刃が届くのを防ごうとする。持っていた剣で短剣を弾いたつもりが、男の動きは早く、あと一歩のところで届かない。

「ちぃッ」

咄嗟に信は剣を持っていない方の腕を伸ばした。短剣の刃が彼女の左腕を傷つける。切り裂かれた痛みが脳に届くよりも早く、信は思い切り男の腹部を蹴りつけた。

「うぐっ」

苦しそうに呻いた男が短剣をその場に落として、床に転がる。

「大人しくしろッ!」

その隙を見逃さず、信はうつ伏せになった男の背中に跨って、暴れる体を押さえ込む。
男女の力量差はあっても、この体勢に持ち込めたのなら、信の勝ちはほぼ確定だった。

「殺すなよ」

寝台の上から優雅に指示を出す桓騎を、信が恨めしそうに睨み付ける。

「お前は本当に高みの見物ばっかりだなッ!」

未だ暴れている男を大人しくさせるために、信は剣の柄で男の首筋を鈍く打ち付けた。

「ぐ…うう…」

男の体がずるずると沈み込み、動かなくなる。死んでないことを確認すると、信は長い息を吐いた。

今になって切り裂かれた左腕が痛み始めた。心臓の早鐘と共に、血が溢れ出る。

懐に入れてあった手巾を取り出し、左腕の出血を押さえる。ようやく寝台から降りて来た桓騎が、その手巾を奪って、傷口をきつく結んでくれた。

部屋に訪れた沈黙に、信がようやく終わったのかと考えていると、

「…何が起きている?」

自分の寝室にやって来た嬴政が愕然とした表情を浮かべていた。

 

桓騎の策

腕の傷を押さえながら、信がふらふらと立ち上がった。

「…よお、政。とりあえず終わったぞ」

嬴政に声を掛けるが、彼は自分の寝室に広がっている光景に呆然としている。

倒れている男の手元に短剣が転がっているのを見て、彼は理解したように頷いた。

「刺客が来たのか。ここまで侵入を許すとは…」

「護衛を外させたのは俺だがな」

桓騎が腕を組みながら、挑発するように嬴政に声を掛ける。

そういえば信が嬴政の寝室に来る時も、護衛の兵がいなかった。まさかそれも桓騎が手配していたというのか。

秦王の護衛を外させ、もしも暗殺をされていたとすれば、桓騎も処刑されていたに違いない。桓騎は自分の命を天秤にかけてまで、刺客を誘き寄せたということである。

(…ん?)

そこまで考えて、信はふと疑問を浮かべた。

向の身柄を後宮から宮廷へ移したのは宦官に扮した桓騎であり、侍女頭の件も嬴政に話しておくと言っていたはずだ。

桓騎が嬴政の寝室にいたのも、犯人を誘き寄せる策だったとして、嬴政も協力していたのではないのだろうか。

まるで何も知らないといった嬴政の反応に、信は嫌な予感を覚えた。

「……桓騎から、後宮のことも、今のことも、全部聞いてたんじゃねえのか?」

「何の話だ?」

嬴政の返答に、嫌な予感が当たってしまい、信は目頭を押さえながらその場にしゃがみ込んでしまった。

「おい、終わったぞ」

桓騎が声を掛けると、嬴政が入って来た扉から、彼の配下である砂鬼一家が数名現れた。気配もなく現れたが、恐らく近くで待機していたのだろう。

刺客が来る前の桓騎とのやり取りは、全て筒抜けだったに違いない。桓騎軍のほとんどは自分たちの関係を知っているらしいが、信はますます溜息が止まらなかった。

桓騎の配下であったとしても、男女のやり取りを聞かされて、決して良い気分にはならないだろう。刺客の登場によって未遂ではあったものの、砂鬼一家が近くにいるのに、抱かれていたと思うと信はぞっとした。

しかし、桓騎は少しもそんなことを気にしていないようで、気を失っている男に目配せをした。

「朝までには吐かせておけ。侍女頭の方も殺すなよ」

「ああ。あの女は拷問にかける前に全部吐いたぞ」

拷問に長けている砂鬼一家とのやり取りに、信が顔をしかめる。

刺客と侍女頭に繋がりがあるのだろうか。恐らくそれを吐かせるために、桓騎は侍女頭を砂鬼一族に預けていたのだろう。

気を失っている男の体を拘束し、砂鬼一家は部屋から出て行った。恐らく、数刻後にあの男は地獄を見ることだろう。

「……桓騎」

腕を組み、信は桓騎を睨み付ける。信が怒っている理由が分からないらしく、桓騎は小さく首を傾げていた。

「あの後、侍女頭をどうしたんだよ。政にも伝えるって言ってただろ」

「んなこと言ったか?」

わざとらしく桓騎が信から目を背ける。やられた、と信は呆れた表情を浮かべた。

「最初から全部話してもらおうか」

この状況を一番理解していないのは嬴政だ。詰問するように、嬴政は二人を睨み付ける。端正な顔立ちでも、鋭い眼差しを向けられるとそれだけで凄まじい威圧感がある。

これ以上、秦王の機嫌を損ねる訳にはいかないと、桓騎は諦めて話し始めたのだった。

…向の身柄を宮廷に移した後、桓騎は後宮で起きた出来事を嬴政に告げなかった。

しかし、それはあの刺客を誘き寄せるためであって、護衛を強化することで逃げられる可能性があったからだったという。

桓騎の見立てでは、侍女頭と刺客に繋がりがあったようだが、砂鬼一家の拷問によって、その答えが分かるだろうと睨んでいた。

味方に作戦を告げないのは桓騎のいつものやり方だが、まさか秦王にすら作戦を告げないとは、その度胸に感心してしまう。

恐らく桓騎は侍女頭と刺客にある繋がりを予想していたのだろう。それで今回の作戦を企てたに違いない。

砂鬼一家の拷問によって真相は明らかとなるだろうが、信は桓騎の口からその答えを聞きたかった。

ここまで桓騎の策通りに動いたのならば、これから明らかとなる真相も、桓騎は既に読んでいるに違いないからだ。

「侍女頭とあの男に、なんの繋がりが…」

言いかけて、信はその場に膝をついた。

「信ッ!?」

それまで普通に話をしていた信が苦しそうにしている姿を見て、嬴政が目を見開いた。

 

副作用

「はあっ…ぁ…」

苦しそうに肩で呼吸をしている信を見て、桓騎が思わず舌打った。

先ほど男に切りつけられた腕を痛がる様子はないだが、それでもこの反応はおかしい。まさかと思い、床に落ちている短剣を手繰り寄せ、その刃を見た。

「毒か」

信の血で刃が汚れていたが、目を凝らすと白い粉のようなものが付着している。向の匙に塗布されていたものと同じ毒が塗られていたのだ。確実に嬴政を殺すつもりだったに違いない。

刃を受けたのが信でなければ、きっと傷口から毒に蝕まれて死に至っただろう。毒に耐性を持っている信でさえ、この有り様だ。相当な猛毒を仕込んでいたに違いない。

「ぁ…か、桓騎…くる、し、ぃ…」

涙を浮かべた瞳が縋るように桓騎を見据え、弱々しく着物を掴んだ。

「信ッ!しっかりしろ!」

何も知らない嬴政からしてみれば、毒の耐性を持っているはずの彼女が毒を受けて苦しがっているだなんて、瀕死に直結しているとしか思えないはずだ。

しかし、信が激しく息を乱しているのは、決して毒による苦痛でない・・・・・・・・・ことを、桓騎だけは見抜いていた。

「すぐに医師団を呼ぶ!死ぬな!」

「いらねえよ」

医師団を呼び出そうとする嬴政を制止し、桓騎が呆れたように肩を竦める。

「…こうなりゃ毒が抜けるまで付き合うしかねえな」

「は?何を言っている?」

―――嬴政が聞き返した時には、すでに桓騎は信と唇を重ねていた。

「ん、ぅ、…ふぁ…」

同じ空間に嬴政がいるにも関わらず、信はまるで彼の姿が見えていないかのように、桓騎の首に両腕を回して舌を絡めている。

こんな状況で一体何をしているのだと嬴政は愕然としていた。秦王の視線を受けながら、桓騎も恥じらうことなく、信の口づけに応えている。

「んぁ…」

唇を離すと、名残惜しそうに信が切なげに眉根を寄せた。

未だ互いの唇を繋いでいる唾液の糸すら逃がしたくないと、舌を伸ばして絡め取る信の姿は、娼婦にもない妖艶さを兼ね備えていた。

桓騎は彼女の腕を止血していた布を外し、毒が塗られた短剣で切り付けられた傷口に唇を寄せた。

「ひゃぅ…」

傷口にきつく吸い付くと、信の体がびくりと跳ねる。彼女が身を捩らせたのは、痛みだけではないことを桓騎は分かっていた。

「桓騎…か、んきっ…」

喘ぐような呼吸を繰り返す信の身体を軽々と抱きかかえ、桓騎は彼女の体を寝台に横たえる。

部屋の隅で固まったままでいる嬴政を振り返り、桓騎は邪魔だと言わんばかりに、しっしっと手を払った。

「…毒の副作用・・・・・だ。命に別状はないから安心しろ。責任持って俺が最後まで相手する」

その言葉を聞いた嬴政は全てを察したように、憤怒の表情を浮かべる。しかし、何も言うことはなく、足早に部屋を出て行った。命を助けられた手前、信と桓騎のことを無下に出来なかったのだろう。

思い切り扉が閉められると、ようやく邪魔者がいなくなったと桓騎は苦笑を浮かべる。

「ぁ…桓騎…」

涙で潤んでいる信の瞳には、もう桓騎の姿しか映っていなかった。そんな風に見つめられると、下半身がずしんと重くなる。

―――毒耐性を持っている信ではあるが、一定量を超えた毒を摂取すると、まるで媚薬を飲まされたのかと疑うほど性欲が増強するのだ。

初めて体を重ねた時も、普段以上に鴆酒を飲んだことで、彼女の体に今のような異変が起きた。

酒に酔ったかのような陶酔感と、感度の上昇、性欲の増強。薬には良い効果だけでなく、副作用があるように、毒にもそのようなものがあるらしい。

もしかしたら信の特殊な体質が影響しているのかもしれないが、淫らに自分を求める信の姿は滅多にお目に掛かれない。桓騎にとって、今の信はご馳走だった。

「ん、ぁ…」

顔を赤らめた信が膝をすり合わせている。

唇を重ねながら、彼女の帯を解き、性急に着物を脱がしていく。

先ほど、信の腕の傷から毒を直接吸い出したことで、桓騎自身も息を乱していた。信と同じように、桓騎も毒を一定量以上摂取することで、同じ作用が起こるのだ。

短剣の刃に塗布されていた毒がそれだけ強い効力を持っていることが分かる。刺されても致命傷になっただろうし、僅かに傷をつけられただけでも、確実に死に追いやられただろう。

信もそれを分かっていて、自分の体を盾にして庇ったのだ。

だが、心臓を一突きされていれば、毒の耐性を持つ信であっても死んでいたに違いない。自らの命を顧みず、信が自分を庇ったことに、桓騎は複雑な気持ちを抱いた。

「…俺の許可なく、勝手に死ぬんじゃねえぞ」

「え、な、なに…?」

とろんとした瞳で見据えられ、桓騎は何でもないと首を振った。

「ひゃぅ…」

足の間に手を伸ばすと、既に淫華は蜜を零していた。指の腹で擦ると、信は切ない声を上げて、白い太腿を震わせる。

 

副作用 その二

足を開かせて、間に腰を割り入れた桓騎は彼女の下半身に視線を下ろした。

親指と人差し指で花襞を押し広げると、艶めかしい薄紅色の粘膜が見える。

蜜を零しているせいで、光沢を帯びているそこは男を求める雌の匂いを漂わせていた。すぐにでも男根を飲み込ませたい衝動を押さえつけ、桓騎は身を屈める。

女の官能をつかさどる珊瑚色の小さな花芯に、ふうっと熱い吐息を吹き掛けると、信の体が大きく跳ねた。

初めて身を繋げた時も、鴆酒の毒のせいで、処女とは思えないほど淫らな声を上げていたことを思い出す。

「はあっ、ぅ、ん…」

花芯や花襞を舌で愛撫していくと、どんどん蜜が溢れて来る。導かれるように桓騎は淫華に舌を這わせた。

雄としての本能を目覚めさせる雌の匂いと味わいが、舌から体内に染み込んでいく。

「ああぁっ」

尖らせた舌先で敏感な花芯を突くと、信が悲鳴に近い声を上げる。

無駄な肉など微塵もついていない引き締まった腰がくねる姿は、それだけで男を誘惑させる魅力を放っている。

「やぁっ…」

蜜を溢れさせている淫華に指を二本押し込むと、信が頬を紅潮させて首を横に振っている。もう何度も桓騎と体を重ねたはずなのだが、その初々しい態度に桓騎は思わず苦笑した。

「は、はやく…」

切なげに声を振るわせ、信が桓騎の腕を掴む。恥じらっているのではなく、指じゃないものが欲しいと催促していたらしい。

毒が回り始めたせいで、桓騎の男根も苦しいまでに反り立っていた。

指を引き抜いて、蜜に塗れた手で自分の男根を何度か扱く。自分の手の平の刺激だけでも容易に達してしまいそうなほど、今の桓騎には余裕がなかった。

「信…」

信の肩を抱き締めて体を被せて、唇を重ね合う。舌を絡ませながら、桓騎が自分の男根を掴んで、その切っ先を淫華に宛がった。

幾度も体を重ねていたからか、入り口を探し当てるのは簡単だった。

「ん、んうぅ、んーッ…!」

唇を重ね合いながら、腰を前に押し出す。淫華に飲み込まれていく切っ先が、溶けてしまいそうなほど強い快楽に包み込まれた。

「ふっ、んんっ、んんんぅッ」

奥に進んでいく度に、唇の間から信のくぐもった声が洩れる。

互いの下腹部が隙間なく密着すると、桓騎は唇を離して、長い息を吐いた。男根が燃えてしまいそうなほど熱い。

「ぅっ…ふ、ぁ…」

敷布の上で手と手を繋ぎ合い、しばらく動かずに桓騎はじっと目を瞑っていた。
気を許せば、信の体を気遣うことなく好きなように動いてしまいそうだった。

「ぁ…桓騎…」

名前を呼ばれて、桓騎は信の目尻から伝う涙に気付き、舌を伸ばした。

桓騎が動き出すのを待てなかったのか、信が自分の腰を揺らし始める。一体どこでこんな淫らな技を覚えて来たのだろうかと桓騎は瞠目した。

嬴政とは身を繋げていないと彼女自身が話していたが、他の男の手垢に染められたのではないかという嫌な想像が脳裏を過ぎった。

「信、覚悟しろよ」

細腰を掴んだ桓騎が律動に没頭し始めると、信はひっきりなしに声を上げることになったのだった。

もしも身を繋げたまま、互いの心臓が止まっても、きっと後悔はしないだろう。

 

一件落着?

…夜が更けて毒が抜け切ってからも、情事に夢中になっていた二人が目を覚ました時には、既に昼を回っていた。

信がもらい湯をしている間に、桓騎は砂鬼一家から、侍女頭と刺客の情報を聞いていた。

概ね、桓騎が予想していた通りだったが、秦王である嬴政に報告しなくてはなるまい。
桓騎は信と共に、嬴政の下へ向かった。

「よう」

「桓騎…!?」

信の体を横抱きにしながら玉座の間に現れた桓騎に、嬴政だけでなく官吏たちも驚いていた。

なぜ信の体を抱きかかえているのかというと、朝方まで続いていた情事のせいである。

下半身をがくがくと震わせながら、まるで生まれたての小鹿のように、ぎこちなく歩く信を見兼ねて、抱えた方が早いと判断したらしい。

全員の視線を受けて、信は顔を真っ赤にさせていた。

飛信軍の兵たちと共に厳しい鍛錬をこなしている信でさえ、さすがに一晩中の情事は堪えたらしい。しばらくはまともに歩くことが出来ないだろう。

桓騎の腕の中で借りて来た猫のように縮こまっている信を見下ろすと、あれだけ自分を求めていた女と同一人物とは思えないなと桓騎は苦笑してしまう。

「…侍女頭と昨日の奴が全て吐いたぜ」

頭を下げることもせず、用件だけ伝えると、嬴政の綺麗に整った顔が僅かに強張った。

向が後宮で再び毒殺されかけた事件については情報操作を行っていたため、刺客を捕らえてから宮廷で広まったらしい。

その話をしていたのだろうか、官吏たちは桓騎が情報を知っていることに不思議そうな顔をした。

 

…玉座の間に残ったのは、嬴政と信と桓騎の三人だけである。

嬴政と長い付き合いである信ならばともかく、元野盗である桓騎までいる状況は初めてのことで、人払いをする時には官吏たちが警戒していた。

しかし、人払いをしなければ話すつもりはないという桓騎の態度を、嬴政は察したらしい。嬴政は彼らを宥めて玉座の間から退室させた。

「…それで、侍女頭と昨夜の刺客は何を企んでいたのだ?」

玉座に腰掛けた嬴政が桓騎にさっそく尋ねる。

未だ体をふらつかせてる信の腰を支えながら、桓騎はゆっくりと話し始めた。

侍女頭は、以前から向が正室となったことに、嫉妬の念を抱いていたらしい。

そこで、正室である彼女を毒殺すれば、嬴政の伽に呼ばれるよう手配をすると、刺客が侍女頭に取引を持ち掛けたのだという。

一度毒殺に失敗してしまったため、時機を見計らっていたようだが、信が毒見役として現れて、警戒心が薄れた頃に同じ手法を用いて向を毒殺しようとした。しかし、桓騎と信が見抜いたことで二度目の毒殺も失敗に終わる。

その後、桓騎が向の身柄を宮廷へ移し、侍女頭の身柄は砂鬼一家へ渡したことで、刺客の男と意図的に連絡を取らせなかった。

失敗の合図を送ることも出来ず、向の毒殺に成功したのだと勘違いした刺客は、手筈通りに秦王の寝室で暗殺計画を実行する。

あの事件の直後、桓騎が信に伝えたのは、本来ならば侍女頭に掛けられる伽の呼び出しだったのだ。

刺客の計画通りに進んでいたのなら、侍女頭が嬴政の伽を行っているところに現れ、毒の塗った刃で嬴政と侍女頭を一突きし、凶器を残して立ち去っていたという。

致命傷に至らなかったとしても、少しでも傷をつけることが出来たのなら、体に毒が回って死に至らしめることが出来る。

二人の亡骸と凶器だけが残った現場を見れば、侍女頭が秦王と無理心中を図ったと判断されるという筋書きだったらしい。

侍女頭は嬴政からの寵愛を受けたい気持ちと、向に対する嫉妬心を良いように利用されたという訳だ。

「………」

桓騎から事件の真相を聞いた嬴政は、千人以上の女官や宦官がいる後宮の中から、たった一人の真犯人を引き摺り出した桓騎の策に、驚愕と感嘆が入り混じった吐息を零した。

向の毒見と護衛を頼まれていた信も、まさか桓騎がここまで協力してくれるとは思っておらず、目を丸めている。

真相を説明する中で、もしかしたら嬴政は、桓騎が宦官に扮して後宮に潜入していたことに気付いたかもしれないが、咎めるような言葉は発しなかった。

桓騎が協力してくれなかったら、侍女頭に向の命は奪われていたかもしれない。そして、無理心中に見立てて嬴政の命も奪われていたかもしれなかったのだ。

そのことに比べたら、宦官に扮して後宮に潜入していた罪など見逃されて当然である。

向は騒動が落ち着き次第、後宮へと戻ることが決まっていたが、あの侍女頭はもう二度と後宮に足を踏み入れることはない。

后暗殺の証拠がこれだけ出揃っているのだから、厳しい処罰を下されるに違いない。秦王暗殺を企んだ刺客の末路は、言うに及ばないだろう。

侍女頭のように、向を気に入らないと思っている女官は他にもいるかもしれないが、今回の騒動をきっかけに手を出すような真似はしないはずだ。

「…さて、これで大方解決のはずだ。こいつはもう連れて帰っても構わねえんだろ?」

信を見下ろしながら桓騎が嬴政に問う。ああ、と嬴政が頷いた。

「此度の件、感謝する。二人のお陰で、向も子も無事だった」

秦王の感謝の言葉を、桓騎は鼻で笑った。

「元はと言えば、てめえの管理不足だろうが。自分の女くらい自分で守れねえのかよ」

「桓騎ッ!」

処罰を言い渡されてもおかしくない無礼な言葉に、信が慌てて制止を呼び掛ける。しかし、桓騎は構わずに言葉を続けた。

「女一人も守れねえで、よくもそんな野郎が民だの国だの守るなんて大口叩いたもんだな」

「お前、政になんつー口の利き方を…!俺以上に無礼だぞ!!」

長い付き合いであり、嬴政に敬語を使わない信でさえ青ざめる桓騎の無礼に、嬴政は憤怒することも、処罰を言い渡すような真似もしなかった。

「…いや、桓騎の言う通りだ。此度の件、後は俺に任せてくれ」

嬴政の言葉を聞き、信はほっとする。しかし、嬴政が怒っていないからと言って、桓騎の発言は許されるものではない。

「…俺だって…」

俯いて、信は落ちて来た前髪に自分の表情を隠した。

「一人で、後宮にいた時は、辛かった」

絞り出すように、切れ切れに言葉を紡ぐと、嬴政と桓騎の視線が向けられたのが分かった。

誰が向の命を狙っているか少しも分からない状況で、誰を信じるべきかも判断出来ず、後宮にいる間、信は孤独感に苛まれていた。

信じられるのは自分だけだと勝手に壁を作っていたのだが、桓騎が宦官に扮していたことに気付いた時、自分は一人ではないのだと気づき、冷え切っていた心が温かく満たされた。

信じられる仲間がいると思えば、それだけで活力になる。

「…後宮の女官や宦官たちが、全員、敵に見えて…でも、政が抱えてんのは、そんなもんとは、比にならない重みなんだよ」

秦王の座に就いているとはいえ、嬴政だって一人の人間だ。誰よりも多くの命を背負う重荷で押し潰されそうになる時だってある。

全ての責任を嬴政に押し付ける訳にはいかない。将軍である自分たちだって、その重荷を共に背負わなくてはならないと信は思った。

強く拳を握り、苦しげに眉を寄せて、信が顔を上げる。

「だから、政にばっかり責任を押し付けんなよ。俺たちみんなで、政の重みも支えてやんねーと」

ようやく顔を上げた信が真っ直ぐな瞳で桓騎を見据える。桓騎は何も言わなかったが、口元にはいつもの余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。

弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いである信の言葉は、嬴政の胸に染み渡ったらしい。

「信、お前には本当に救われる」

嬴政の言葉に、信は照れ臭そうに頭を掻いた。

「…さっさと帰るぞ」

信は再び桓騎に身体を横抱きにされて、二人は玉座の間を後にしたのだった。

 

帰還

咸陽宮を出て、桓騎の屋敷に向かう途中で、信は今日までのことを走馬灯のように思い返していた。

桓騎の背中に頬を押し付けて、馬に揺られながら信の口元に苦笑が浮かぶ。

「なんだ?」

背後で恋人の笑った気配を察したのか、桓騎が振り返った。

「いや…色々あったけど、お前が来てくれて本当に助かった。ありがとな」

首を竦めるようにして微笑むと、桓騎がにやりと笑った。

「ちょうど良い機会だったからな」

「?何のだよ」

「秦王に媚を売る機会だ」

どういう意味か分からず、信は頭に疑問符を浮かべた。あれだけ嬴政に無礼な大口を叩いておきながら、媚を売るというのは、やや矛盾がある。

しかし、結果論で見ると、桓騎のおかげで向も嬴政も命拾いした。秦の未来が救われたと言っても過言ではない。

大王と后、そして秦王の血を継ぐ子の暗殺を阻止した桓騎の活躍は、これから秦国中で広く知れ渡ることになるだろう。

「何か欲しい物でもあんのか?」

王族を守った褒美についてはまた追って伝えると嬴政は言っていたので、信は安易に尋ねた。

しかし、その線は違ったらしく、桓騎の瞳に不機嫌な色が浮かぶ。

「まさか、お前…俺が褒美目当てに動いたと思ってんのか?」

手綱を握り直しながら、桓騎が眉根を寄せた。

桓騎は考えなしに動く男ではない。それは信も分かっていた。

だからこそ、策を用いて侍女頭と刺客を引き摺り出したし、その先にある欲しい物も手に入れようとしているのだと考えたのだ。

「じゃあ、政に媚を売るって何だよ」

聞こえないふりをしているのか、桓騎は何も答えない。

こうなれば策を成す時と同様に、味方であっても、恋人であっても、とことん口を開かないだろう。

「…それにしても、よく手がかり見つけたよな。宦官に変装してても、そんな自由に歩けないだろ」

話題を変えると、桓騎が「あー?」と気だるげに聞き返した。

桓騎が宦官に扮していたのは向の護衛と、部屋の見張り役だ。常に后の傍につかなくてはいけないため、それほど自由に動ける立場ではなかったはず。その中で侍女頭と刺客の繋がりを見抜いただなんて、とても信じられなかった。

情報の受け渡し・・・・・・・なんていくらでも出来るだろうが」

受け渡しという言葉に信が目を見張る。情報の受け渡しというものは、決して一人で出来るものではない。

「は?受け渡しって…まさか…」

表情を強張らせながら、信が聞き返した。

「黒桜は面倒見が良いからな。お前の監視の兼ねて快く引き受けてくれたぜ」

「黒桜だとッ!?」

後宮に侵入していたのは桓騎だけではなかったのだ。桓騎軍幹部の一人である黒桜まで動かしていたのだという。

桓騎本人が宦官に扮していたとなれば、黒桜は女官に扮していたのだろうか。確かに千人以上の女官がいる後宮に、一人の女が混ざったとしても、気付く者はいない。

青ざめながら、信は黒桜が弓の使い手でもあることを思い出した。

それじゃあ、まさか…あの時の弓矢って、黒桜が撃ったのか!?」

「ああ、そうだ」

つい声を荒げて桓騎を問い詰めると、彼はあっさりと首を縦に振る。

向の食事に用意されていた匙に毒が塗られていると気づいた時、侍女頭の敏が隠し持っていた短剣で向に襲い掛かった。

信は彼女を取り押さえることが出来なかったが、向を救ったのは、宮殿の庭から放たれた一本の弓矢だったのだ。

てっきり侍女頭の口封じのために撃たれたのだとばかり思っていたが、弓の扱いに長けている黒桜が撃ったのならば納得がいく。

桓騎が匙に毒が塗られていることを助言してくれたことと、黒桜の弓矢のおかげで、向の命を守ることが出来た。

「はは…」

全て桓騎の策通りに動いていたのだと分かった信は乾いた笑いを浮かべながら、桓騎の背中に額を押し付ける。

屋敷が見えて来たというのに、桓騎が手綱を引いて馬の足を止めたので、信はどうしたのだろうと小首を傾げた。

「ん、ぅ…!?」

振り返った桓騎が急に顔を寄せて来て、唇を重ねて来たので、信は驚きのあまり目を見開く。

「…もう二度と、俺以外の男の褥に呼ばれんじゃねえぞ」

低い声で囁いた桓騎の瞳に憤怒の色が灯っている。

嬴政の寝室に行った時もそうだったが、どうやら嬴政の伽をしていたことが相当気に食わなかったらしい。

実際には後宮での様子を報告するだけだったのだが、眠るために褥を共にしたのは事実だ。だが、誓って男女の一線は超えていない。

あの時も伝えたはずだったのだが、桓騎の嫉妬の炎は未だ消えていなかった。

先ほどは答えを誤魔化されたが、もしかしてと信が桓騎を見上げる。

自惚れかもしれないが、信は自分が関わっているのではないかと考えた。

「…なあ、政に媚を売るって、まさか、俺との関係を…んっ、うんッ、ん」

言葉を紡ごうとした信の唇に、まるで黙れと言わんばかりに、再び桓騎の唇が覆い被さって来た。

―――嬴政が、信と桓騎の関係を知っているのは向から聞いていた。

元野盗である桓騎は、嬴政だけでなく、側近たちからもあまり良く思われていない。そのことで、信は桓騎軍の素行調査を依頼されたこともあった。

しかし、王族を助けた此度の桓騎の行いは、彼の実力を見直すきっかけになったに違いない。

どこぞの馬の骨に、親友を渡すものかと嬴政が逆上しないように、桓騎は此度の騒動を利用して、己の実力を示したのだろうか。

…考え過ぎかもしれないし、限りなく自惚れに近いが、信は何となくそう思ったのだった。

「俺以外の男に足開くのは許さねえからな」

その言葉を聞いて、信は桓騎の嫉妬を確信した。

宦官に扮して後宮にいた時も、報告のためとはいえ、嬴政の伽に呼ばれる自分を歯痒い想いで見ていたに違いない。

申し訳ない気持ちと、桓騎が嫉妬してくれたのだという嬉しい気持ちに、信はぎこちない笑みを浮かべた。

「ふぅ…ん、ぅ、んッ…」

薄く開いた口の中に舌が入り込んで来て、信の舌を絡め取る。歯列をなぞられ、舌をくすぐられているうちに、信の瞳がとろんとなっていく。

「返事が聞こえねえぞ?」

耳元で熱い吐息と共に囁かれると、信の腰にぞくぞくとした甘い痺れが走る。

毒を受けたせいとはいえ、昨夜あれだけ体を重ねたというのに、まだ自分の体は目の前の男を求めている。

「わ、わか、った、からぁっ…」

「…よく出来ました」

まるで子どもを褒めるような口調に、信が奥歯を噛み締めた。

唇をするりと指で撫でられると、お預けを食らったような気分になる。

「…続きは褥の中でだな。その前に鴆酒で乾杯だ」

桓騎が馬を走らせた。彼の背中に顔を埋めながら、信は猛毒の味を思い返す。

そして、その後に嫌というほど与えられるであろう快楽の味を想像して、うっとりと目を細めるのだった。

 

②毒杯を交わそう(李牧×信)

③毒を喰らわば骨の髄まで(桓騎×信←王翦)

④恋は毒ほど効かぬ(桓騎×信←モブ商人)

⑤毒も過ぎれば情となる(桓騎×信)

⑥毒も過ぎれば糧となる(李牧×信)

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毒酒で乾杯を(桓騎×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/ツンデレ/毒耐性/ミステリー/秦後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話はアナーキーの後日編・完全IFルート(恋人設定)です。

前編はこちら

 

決意

向の身の回りの世話をする女官は、侍女頭の敏を含めて、十人程度だ。太后に仕える女官の数に比べると圧倒的に少ない。

秦王の正室であるとはいえ、田舎の出ということで後ろ盾がないのも影響しているのだろう。

向に仕えている女官たちの勤務態度は至って真面目で、向に殺意を向けているような姿は見られない。

幾度も死地を乗り越えて来た信は、人間の敵意や殺意というものには敏感になっているのだが、向の周りにいる女官たちからはそういったものは一切感じられなかった。

毒見役として任命を受けた信は、侍女頭から他の雑務はしなくて良いと命じられたのだった。次の食事の時にでも亡くなる短い命だと思われているらしい。

他の女官たちからも哀れみの目線を向けられたが、信は少しも気にならなかった。

「…信様が傍に来て下さっただけで、なんだかとても安心してしまいました」

腹を擦りながら、向が笑顔を向ける。

毒見以外の仕事がない分、信は話し相手として向の傍につくことになっていた。護衛という役目も担っているため、信にとってはその方が都合が良い。

「後宮も、違う意味で毎日が戦なんだな…」

後宮内の話はあまり聞いたことがなかったのだが、やはり秦王の寵愛を求めて女性たちの争いが絶えないのだという。

正室に選ばれたことや、嬴政の子を身籠ったことを素直に祝福してくれたのは彼女の友人である陽や、他の仲の良い同僚だけだったらしい。

後宮にはそれなりに地位のある貴族の娘も多く、後ろ盾もない田舎出身の向が正室に選ばれたことを気に食わない者も多いのだそうだ。彼女たちからしてみれば、どうして向が選ばれたのか理解出来ないのだろう。

(…動機としては十分過ぎるよなあ)

信は椅子の背もたれにどっかりと背中を預けた。

王騎と摎の養子である信だが、それまでは下僕として生きていた。何の後ろ盾もなく、それどころか地位や人権も存在しないという立場であったなら、その辺と石ころと何ら変わりない命だった。

将としての才能を見出されなければ、今でも下僕として生きていたに違いない。

しかし、後ろ盾のない低い身分であったとしても、後宮で働けるのは運が良いことだ。寝床も食事も給金も与えられるのだから、下僕と違って飢えや寒さに苦しむこともない。

後ろ盾がない弱い立場で、大王の寵愛を受けられないとしても、人として扱われて真っ当に生きていける。

(俺もいつまでいられるか分かんねえが…)

信が後宮で向の護衛と毒見役として滞在する期間は決して長くない。戦の気配があればすぐに呼び戻されるだろう。

しかし、向のやつれ具合を見る限り、まだしばらくは彼女の傍に居た方が良さそうだと信は考えた。

向の友人である陽もこの宮殿には務めておらず、頻繁に会うことが出来ないのだという。心を開ける人物が傍にいないのは辛いことだ。

実際に毒見役の死を目の当たりにしたことで、向は悲しみと疑心暗鬼に陥っていた。

子どもを守るという母親の義務も、后として安易に弱みを見せてはいけないという気持ちもあって、随分と苦しめられていたらしい。きっと嬴政もそれを感じて、信に護衛を頼んだのだろう。

親友であり、秦王である嬴政が頭を下げてまで信に妻を守ってくれと頼んだのだ。秦の未来のためにも、向と子どもの命を守らなくてはならないと信は決意した。

「…向。俺の正体もそうだけど、俺が毒を食っても平気なのは、他の奴らには絶対言うなよ」

「え?」

きょとんと向が目を丸めたので、信は呆れたように肩を竦めた。

「あんまり疑いたくねえけどよ…もし近くに犯人がいたら、俺が居なくなってから毒を盛るに決まってるだろ」

そのために飛信軍の女将軍であることも隠しているのだと告げれば、向は複雑な表情で頷くしかなかった。

毒を盛ることが可能な人間に目星をつけるとすれば、食事を作る者、器によそう者、配膳する者になるだろう。

食事が配膳されるまでの過程で何者かが毒を混入させるということも考えられるが、女官の出入りが多いことから、目撃者がいてもおかしくはない。

桓騎から聞いた毒殺方法を参考にして考えると、向の身の回りの世話をする女官が怪しいと信は睨んでいた。

―――…一度毒殺に失敗したんなら、当然だが全員が警戒する。少し時間を置かねえと動き出さねえだろうな。

褥の中で桓騎が言っていたことを思い出す。

向を毒殺しようとした犯人は、確実に彼女と子供を殺すために、再び毒を盛る機会を見計らっているに違いない。桓騎も信もそう睨んでいた。

 

毒見

昼食の時間になると、途端に宮殿の中にある重々しい空気が増した。向も女官たちも顔に緊張を浮かべている。

「じゃあ、これ…お願いね」

食膳が運ばれて来ると、侍女頭の敏が小皿に食事を少量移した。葉物を出汁に浸したものだ。

小皿を受け取った信はすぐに口に運ぶことはせず、食事を観察をする。

「………」

並べられている食器は全て銀製だ。よく観察してみるが、変色はない。毒見する分を盛った小皿も銀製だったが、こちらにも変色はみられなかった。

もしも毒が盛られていれば黒く酸化するのだが、それがないということは一見、無害のように思える。

しかし、今回の毒殺事件は特殊だった。食器に酸化がなかったというのに、毒が盛られていた。つまり、食器に変色がなかったとしても油断は出来ないということである。それを分かっているからこそ、女官たちも怯えているのだろう。

「…自分でよそっても良いか?」

「え?」

いきなり信が箸を取ったので、その場にいる女官たちが全員呆気にとられた顔をする。信は返事を待たずに、違う小皿に自分で毒見する分をよそった。

―――毒見役をすり抜けるなら、毒見させる食事をよそう奴を演じても良い。毒が入っている部分さえよけて、毒見役に食わせれば簡単に欺けるからな。

桓騎の声が耳裏に蘇る。

あの日、褥で聞いていた毒殺方法は、十は超えており、まるで物語を聞かせられているかのように、信はいつの間にか寝入ってしまった。桓騎の頭には、一体いくつの毒殺方法があるのだろうか。

様々な毒殺方法があったのは分かったが、疑うのならば、とことん疑った方が良いということだけは理解している。

身近な者たちに紛れて犯人がいるとすれば、食事を作るところから監視しておくべきなのかもしれないが、あからさまに警戒心を剥き出しにしていれば犯人も動けないだろう。

自分で食事をよそった信は迷うことなく、それを口に放り込んだ。ゆっくりと咀嚼するが、鴆酒の時のような痺れは少しも感じない。

「うん、大丈夫だな」

何ともないことが分かると、信は次の料理を自分でよそって勝手に毒見していく。

これほど毒見に怯えず、むしろつまみ食いのように食事を口に運んでいく女官を見るのは初めてだったのだろう、その場にいる者たち全員が驚愕していた。

「全部食っても良いぞ」

毒見で腹が膨れると、信が向に食事の許可を出した。

「ちょ、ちょっと、あなたっ!向様になんて口の利き方をっ」

ずっと傍で見ていた侍女頭の敏が信の頭を軽く叩く。いでっ、と信が顔をしかめると、それまで暗い表情をしていた向がくすくすと笑い始めた。

何ともないことが分かり、安心して食事を運んでいく向の姿を見て、信もほっと胸を撫で下ろす。

食事の度に怯えているなんてキリがない。腹の子のためにも、栄養は摂らなくてはならないのに、その食事に毒を盛るだなんて心無いことをする。

(早く犯人を捕まえられれば良いんだがな…)

複数犯の仕業なのか、一人の仕業なのかも分からないこの状況で、向はよく耐えていたものだと信は感心してしまった。

嬴政に依頼されたのは護衛と毒見役だけだったが、やはり自分が後宮にいる間に犯人を捕えねばと思うのだった。

 

報告会

食事に毒を盛られることはなく、一週間ほど経った頃。向と二人で茶を飲みながら、寛いでいると、宮廷と後宮を出入りする宦官から信は呼び出しを受けた。

「女官の信だな?」

「ああ。なんか用か?」

宦官たちの仕事着なのか、いつも黒衣と黒い仮面を身に纏っている。宦官だという判別しやすくするためなのか、鼻と口元以外は覆われているため、顔の認識が出来なかった。

声を聞く限り、恐らく信が後宮に来た時から、向の護衛に務めている者なのだろうが、同じ仮面と着物のせいで、全く判別が出来ない。

「大王様から、今宵、伽に来るようにと」

宦官の言葉を聞き、信の顔があからさまに引き攣った。

伽を装って後宮での様子を報告することになっているのは事前に決めていたのだが、それにしても伽という言葉以外に何かなかったのだろうか。

嬴政の妻である向がここにいるというのに、もう少し彼女の気持ちを考慮してもらいたいものである。

分かったと返事をしてから、信は強張った表情のまま、向の下へと戻った。

うんざりした表情で席に座ると、向が困ったように笑みを浮かべる。どうやら聞こえていたらしい。

「あ、あのー、私のことはどうぞお気になさらず…」

「いや、気にするだろ。つーか、なんであいつの方から来ないんだよ」

嬴政の寝室は宮廷だけではない。妻のいるこの後宮にも用意されているというのに、どうして彼の方から来ないのだろうか。

そこまで考えてから、情報漏洩を防ぐためなのかもしれないと信は気付いた。

犯人が後宮にいる可能性が高いと睨み、信を護衛と毒見役として後宮に送ったのだ。後宮で情報交換をすれば犯人の耳に届く可能性があるかもしれない。

「はあ…」

上手くいかないものだと信は頬杖をついた。

向には無事に子を産むことだけを考えてもらいたいのに、やはり秦王の子ということもあれば、王族に襲い掛かる危険とは切っても切れぬものらしい。

(結局誰か分かんねーな…)

食事を作る者、よそう者、配膳する者が怪しいと睨んでいた信だったが、未だ犯人が動き出す気配はなかった。

あの毒殺事件が起きてから、全員が食事を警戒しているのは確かだ。かと言って、今夜の食事に毒が盛られないとは限らないし、絶対に安全という保障はどこにもない。

この一週間は、何も起こらなかった。それもあって、疑うべきは女官だけで良いのだろうかという考えも起こるようになっていた。

もしかしたら複数犯の可能性だって考えられるし、女官でない可能性も十分にある。女官でないとすれば宦官か。

犯人が複数いるとすれば、毒を盛った者だけでなく、それを手引きした者がいるということだ。かなり厄介である。

信は毒を摂取しても何ともない体だが、本来はそうでないがほとんどだ。

毒を盛られるというのは、生きるか死ぬかの瀬戸際であり、恐怖に苛まれてもおかしくはない。向はよく耐えて来た方だと思う。

 

報告会 その二

夕食にも毒は入っていなかった。信が何ともないと告げると、向は今まで食事が摂れていなかった分を取り戻すように食事を食べていた。

信の存在は向にとっても、余程心強いのだろう。

この一週間で向の顔色は随分と良くなった。それまでは亡くなった毒見役のことを想って、ろくに休むことも出来なかったようだが、夜もよく眠れるようになったらしい。

就寝の時刻になると、信は宦官たちと共に宮廷へ向かった。

大王の寝室の場所を知られないようにするためなのか、後宮を出た後は目隠しをされる。廊下で体を幾度も回されて、方向感覚を失ってから歩かされ、ようやく寝室へと辿り着いた。

目隠しを外されると目の前に大きな扉がある。ここが嬴政の寝室らしい。

幾度も嬴政とは顔を合わせているが、そういえば彼の寝室に入るのはこれが初めてだった。
報告会の建前であるとはいえ、まさか伽で寝室に呼ばれる日が来るなんて夢にも思わなかった。

「入れ」

すぐ背後から宦官に指示をされ、信は扉を開けた。振り返ることも許されないのは、寝室の位置を知られないためだろう。

背後で扉が閉められてから、信はわざとらしい溜息を吐いた。

「…建前だとしても、お前の褥に呼ばれるなんて良い気分じゃねえな」

嫌味っぽく言ってみたが、寝台の上で書簡に目を通している嬴政は無反応だった。書簡を畳みながら、嬴政が顔を上げる。

「向は無事か?」

ああ、と信が頷くと、嬴政は安堵した表情を浮かべた。

部屋にあるのは大きな寝台と、机くらいだ。寝台の端に腰を下ろした信は足を組みながら、後宮であったことを報告した。

「…この一週間、水にも食事にも毒が入ってたことはねえ。身の回りの物も見させてもらったが、別にそれっぽい毒が仕組まれてる気配もなかったな。可能な範囲で宮殿にいる宦官や女官も見てたが、別に怪しい動きもなかった」

「そうか…」

相槌を打った後、嬴政が黙り込む。彼も相当悩み込んでいるようだ。

本来ならば自分の手で向を守りたいと思っているに違いない。もしも、犯人の動機が嫉妬だったとすれば、嬴政が向のために後宮を頻繁に出入りすることは、怒りを煽ることになる。

情報漏洩だけでなく、そういった理由から、嬴政は後宮への出入りを控えているのかもしれない。

後宮には嬴政の寵愛を待ち侘びる女性たちがごまんといるのだ。自分が選ばれなかったことを妬む女性が居たとしても決しておかしいことではない。

そしてそれを動機に、身籠っている后を毒殺しようとするなんて、憎悪の塊である。

(…ちょっと待てよ)

向の身に危険が迫っているのは分かったが、もしも動機が本当に嫉妬だったとしたら、今の自分はどうなるのか。

正体を隠すために、表向きは後宮へ身売りされた毒見役の下女という提で向の傍にいるが、後宮に来て、たかだか一週間の下女が大王の伽に呼ばれたなんて前代未聞だろう。

誰もが振り返る美貌を持っている訳でも、歌や舞が得意という訳でもない。一体何の理由があって伽に呼ばれたのかと不審がる者が居てもおかしくはないはずだ。

…もしかしたら今度は自分が毒殺をされる番かもしれない。

「はあー…面倒臭えな…戦の方が楽だ」

「?」

信の大きな独り言に、嬴政が小首を傾げた。

もしも向ではなく自分に毒が仕向けられるなら願ったり叶ったりではあるが、そうなると犯人はあの宮殿に務める女官たちに絞られる。

なぜなら信が今宵、嬴政の伽に呼ばれたのを知っているのは、信を呼び出した宦官と、向と彼女の身の回りの世話をする女官たちだけだからである。

あまり考えるのを得意としない信は謎の頭痛に悩まされた。

「…おい、そういや俺の寝床は?」

部屋を見渡しながら、寝台が一つしかないことに信は疑問を抱いた。

「ここにあるだろう」

二人が腰掛けている寝台に目を向けながら嬴政がそう言ったので、信は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

「なんでお前と寝なきゃいけねえんだよ。政は床で寝ろよ」

「大王である俺に床で寝ろとは聞き捨てならんな」

先日、嬴政と男女の仲でないことを向に告げたばかりだというに。信が苦虫を嚙み潰したような顔になった。

何もなかったとはいえ、同じ寝台で朝を迎えたなんて、何もなかったという方が疑わしい。向は気にしていないように振る舞っていたが、きっと心は嫌悪していたはずだ。

「はあ…俺が床で寝れば良いんだろ」

野営をすることに慣れているため、信は基本的にどこでも眠ることが出来る。戦では休息が欠かせず、すぐに体を休ませなくてはならないので、眠る環境などいちいち気にしていられないのだ。

伽を命じられている以上は部屋を抜け出して後宮へ戻る訳にもいかず、信は仕方ないと床で寝ようとした。

「風邪を引く。諦めてここで寝ろ」

嬴政に腕を引っ張られ、信は寝台に渋々横になる。上質な寝具を体に掛けると、その温かさに信の瞼がすぐに重くなった。嬴政は書簡を読み終わってから眠るらしい。

(そういや、桓騎…何してんのかな…)

後宮に行く前に様々な毒殺方法を教えてくれた恋人の顔が瞼の裏に浮かび上がったが、信の意識はすぐに眠りへと落ちていった。

 

朝帰り

日が昇った頃、信は足早に後宮へと戻った。既に他の女官たちは仕事を始めていて、信も朝食の毒見をするために宮殿に向かう。

まだ朝食は準備中のようで、信は眠たい目を擦りながら、向に嬴政とは何事もなかったことを伝えようと彼女の部屋に向かった。

いつも部屋の前で待機している護衛の宦官の姿が見当たらなかったので、信は小首を傾げながら部屋を覗き込んだ。

どうやらまだ向は朝の支度をしているのか、部屋に来ていないらしい。

「あら、戻ったのね」

寝室まで向を迎えに行こうかと考えていると、女官に声を掛けられる。彼女は信と向よりも幾つか年下だったが、この宮殿では働き者として有名だった。

昨夜、信が伽に呼ばれたことを知っていたこともあり、彼女はにやけ顔になって信に駆け寄って来る。

「ねえ、大王様とはどうだった?」

好奇心を隠し切れていない表情が迫って来る。潜めていた声も興奮でやや震えていた。伽に呼ばれたとなれば体を重ねたのだろうと考えるのは普通のことである。

漠然とした質問を投げ掛けられ、信はたじろいた。

後宮には嬴政の寵愛を求める女性が大勢いる。しかし、嬴政が弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いである信には、彼をそのような目で見たことは一度もなかった。

端正な顔立ちをしていることはともかく、一度決めたことを覆さないこと、強い志を持っていることなどは確かに王の素質として欠かせないものだろう。

だが、改めて「どうだった」と問われると、何を答えるが正解なのか分からず、信は返事を詰まらせてしまう。

「朝から立ち話はおやめなさい」

「あっ、敏様…!」

振り返ると、敏が目をつり上げていた。

さすが女官たちをまとめる侍女頭と言うべきか、仕事をしていない者には厳しいらしい。
すぐに仕事へ戻っていった女官の後ろ姿を見つめながら、信も何か仕事をするべきだろうかと考える。

毒見役以外の仕事はしなくても良いと言われていたが、向の話し相手だけというのも、正直良いものか分からない。

むしろ、女官の仕事をした方が情報は探りやすいと思い、信は思い切って侍女頭に声を掛けた。

「俺も、そろそろ毒見以外の仕事を…」

「それはいいのよ。向様のお傍にいてちょうだい。あなたが来てくれたお陰で、ようやくお元気になられたようだから」

「………」

そう言われてしまえば、大人しく引き下がるしかなくなる。

「それより…」

敏が声を潜めたので、信は小首を傾げた。

「大王様の伽へ呼ばれたんでしょう?どうだった?」

(お前もかよ)

侍女頭である彼女も好奇心は抑えられなかったらしい。寸でのところで信は言葉を飲み込んだ。

「それにしても…まだ後宮に来て間もないのに、どうやってお眼鏡に掛かったの?最近は大王様も後宮にはお見えにならないのに…」

嬴政に伽へ呼ばれるのは、やはり珍しいことなのだろう。先ほどの女官もそうだったが、羨望の眼差しを向けられて、信はなるほどと思った。

向に続いて自分も呼ばれたとなれば、美貌を持ち合わせている娘や、強い後ろ盾を持つ貴族の生まれの娘たちからしてみれば不思議で仕方がないだろう。

他者より優れた美貌や特技どころか、何の後ろ盾も持たぬ田舎娘が選ばれるだなんて、彼女たちにとっては屈辱に感じることなのかもしれない。

(…少しからかってやるか)

信はにやりとする。自分に大将軍以外の仕事を押し付けた嬴政に、ちょっとした嫌がらせをしてやろうと思ったのだ。

「…昨夜は、とても恐ろしい目に遭った…」

「え?」

信はわざと着物の袖で目元を拭う仕草をした。それから信はすぐさま袖を捲り上げて、傷だらけの腕を侍女頭に見せつける。

「―――ひッ!?」

信の右腕に刻まれている醜い傷跡を見て、敏が分かりやすく青ざめた。

幼い頃から幾度も戦に出ていた信の体は傷だらけであり、中でも、過去の魏軍との戦で、廉頗四天王の一人である輪虎によって、骨が覗くまで斬りつけられた右腕には一番深い傷痕が残っている。

他にも、目も当てられぬような傷ばかりが刻まれているが、右腕は特にひどい。

身売りされた下女がこんな傷だらけであるはずがないのだが、戦とは無縁である後宮の女官ならば、このような傷痕を見慣れていないのも当然だろう。

普段から血を見ることもない人間からすれば、信の体に刻まれている傷は恐ろしいものであった。

「きっと、大王様は、俺のようなみすぼらしい女を痛めつけるのがご趣味なんだ…」

自分の体を抱き締めながら、信は渾身の演技を見せつけた。信の傷だらけの体を見て、侍女頭は青ざめたまま、逃げるように離れていく。

(はっ、これで変な噂が広まれば、政に抱かれたいなんて夢見てる女どもはビビるだろ)

すれ違いで朝の支度を終えた向と、護衛として付き添っている宦官がやって来たので、信は何事もなかったかのように袖を戻した。

「…あの、何かあったのですか?」

血相を変えていた侍女頭を不審がり、向が小首を傾げている。にやっと笑った信は首を横に振った。

「麗しき大王様のご趣味について教えてやっただけだ」

「………」

信が嬴政のことを麗しき大王様と呼んだことに、向は何か嫌な予感を覚える。悪い噂が広まらないことを祈るばかりだった。

「あ、昨日は本当に何もしてねえからな?色々話して寝ただけだ」

身籠っている向に余計な不安を与えたくない。護衛の宦官も傍にいるので、報告会であることは内密に、信は昨夜の出来事を向に伝えた。

体を重ねたことは絶対ないと先日も伝えたのだが、向は信じてくれただろうか。

 

事件

その後も、水や食事に毒が盛られることはなかった。

念のために化粧品や香も頻繁に確認させてもらっていたが、それらしい毒は見つからない。女官や宦官たちの動きにも不審な点は見つからないし、いよいよ犯人が雲隠れしてしまったかもしれない。

何度か行っている報告会で、嬴政もそのことを危惧していた。

幸いにも隣国が攻めてくるような気配はなく、信は後宮で護衛と毒見役を継続していたが、やはり犯人を捕らえることは出来ないかもしれない。

―――三月ほど日が経つと、信が後宮に来た時よりも向の腹は大きくなっていた。

信のおかげで食事も摂れるようになり、以前のような消沈していた彼女はもうどこにもいなかった。

身重の向に負担を掛ける訳にもいかないと、嬴政も久しぶりに後宮へ姿を見せるようになった。

信の企みで、後宮には一時的に嬴政が加虐性愛だという恐ろしい噂が広まってしまい、伽に呼ばれたらどうしようと不安がる女官が多く現れた。

しかし、後宮にやって来た嬴政の端正な顔立ちと大王としての振る舞いを目の当たりにして、再び以前のように、彼の寵愛を求める者が続出してしまったのだった。

…嬴政の秦王としての素質は、噂如きで揺るぐはずがなかったということである。

後宮に嬴政が訪れた際も、信は女官たちや宦官の動きを見張っていたが、特別怪しい動きをするような者は見当たらない。

全員を疑っていた信だったが、三月も共に生活をすれば情が湧くもので、この宮殿には犯人はいないのではないかとさえ思うようになっていた。

向に仕える者たちが、いかに后へ忠誠を尽くしているかは、後宮に来てから目の当たりにして来たからだ。

「夕食のご用意が出来ました」

食事の支度が終わったと報告を聞き、信と向は頷いた。
これから運ばれて来るのだが、扉の前で見張りをしていた宦官が信に声を掛ける。

「毒見役の女官」

「ん?なんだ」

見張りをしている宦官も無口な男だったが、きちんと仕事をこなしている真面目な男だ。彼に呼ばれるのはあまりないことだったので、信は珍しいなと目を丸める。

「今夜は粥だそうだ」

「…?ああ…」

いきなりそんなことを言われたので、信は戸惑いながら相槌を打った。

「……?」

「………」

用件はそれだけだったらしく、彼は口を閉ざして見張り役に徹している。

何なのだと思いながら、信は部屋に戻って、目の前に並べられていく夕食を眺めていた。主食が宦官が言ったように粥になっている。

「昼間は脂の多い食事でしたから、夕食はお腹に優しいものを作らせました」

侍女頭の敏がそう言ったので、信はなるほどと頷いた。

食欲がない訳でもないのに、どうして急に粥を用意したのかと不思議だったが、さすが后のことを一番に考えている。

(…皿は、大丈夫だな)

銀製の食器に変色は見られない。信は普段通りに小皿に自分で毒見分をよそい、口に運ぶ。
舌にも喉にも痺れは感じない。飲み込んだ後も、症状は出ないことから、信は大きく頷いた。

「……ん、問題ない」

信がそう言ったことに、向も女官たちも安堵したように頷いた。

さっそく粥の入った器を手に取り、向が匙で粥を掬い上げる。その姿を見て、信は胸騒ぎを覚えた。

(…なんだ…?何か…引っ掛かる…)

妙な違和感を覚え、信はつい口元に手を当てて考えた。食事自体には毒がないことは確認出来たのだが、胸騒ぎがするのだ。

信は嬴政に后の護衛と毒見役を任命され、桓騎の屋敷へ泊まったあの日のことを思い出した。

 

確実な毒殺方法

―――桓騎がにやりと笑った。

「あるぜ」

「え?」

毒見役お前の目を誤魔化して、確実に后だけを毒殺する方法だ」

信は疑いの眼差しを向けた。毒見役を演じて、毒を飲ませる方法は聞いたが、さすがにすり抜けるのは無理があるのではないだろうか。

毒見役か、毒見する分の食事をよそう者になれば、怪しまれることはないと言っていたが、さすがにこれ以上の方法など存在しないだろう。

「致死量の毒を飲ませるなんて簡単じゃねえか」

そんな簡単なことだろうか。信は眉間に皺を寄せる。

「んなこと言ったって、本人が食う前に、絶対に毒見役が気付くだろ。…それに、食器だって銀製にしてるんだから、変化があればすぐに毒入りだって気づくはずだ」

向の食事を毒見した下女が毒殺されたことが大きな噂になったのは、どのように毒が用いられたのかが分からなかったからだ。

食事に毒が盛られていたのは明らかだが、銀勢の食器にも変色はなかったという。嬴政から聞いた話を思い出し、信は口籠ってしまう。

「食器の色は変わりなかったっていうのに、毒見役は即死だったんだろ?」

「………」

何も言っていないというのに、桓騎が発した言葉に、信は肯定の意味を込めて沈黙した。相変わらず少ない情報から真相を読み取るのが上手い男だ。

険しい表情を浮かべている信に手を伸ばし、桓騎は彼女の柔らかい頬を軽く引っ張った。ふわっ、と信が情けない声を上げる。

「気付かせねえで致死量を口に入れさせるなら、俺だったら、食事には盛らねえな」

頬を引っ張る桓騎の手を振り払い、信がきっと目をつり上げる。

「は?じゃあ、どうやって飲ませるんだよ」

「…少しは頭使えよ」

桓騎が自分のこめかみをとんとんと指で叩いた。

「食事をする時には必ず使う・・・・が、銀製じゃねえ物が一つか二つはあるだろ」

「…?なんだよ、勿体ぶらずに教えろよ」

信が随分と余裕のない表情で迫って来たので、桓騎は口の端をつり上げて、彼女に正解を教えてやるためにゆっくりと口を開いた。

 

「―――待てッ!」

信が怒鳴ると、口に粥を運ぼうとしていた向が驚いて動きを止めた。

「ふ、ぇ…?し、信さま…?」

いきなり信が大声を上げたので、向だけではなく、その場にいる者たち全員が彼女に注目をしている。

信は立ち上がると、向が握ったままの匙を奪い取った。

その匙を凝視していると、緊迫した空気の中で、一人の女官が足音を立てぬよう部屋を出ようとしている姿が目の端に映り込む。

「おい、そこのお前」

低い声で信が呼び掛けると、部屋を出ようとしていた女官が弾かれたかのように肩を竦ませた。全員の視線がその侍女に集まる。侍女頭の敏だった。

全員からの視線を向けられた彼女はあからさまに狼狽えている。

「…あ、あの、今日の食事を作った者が、誰か、厨房を調べて来ようと…」

こちらはまだ何も尋ねていないというのに、部屋を出ようとした理由を彼女は自ら打ち明けた。

「…部屋から一歩でも出たら后暗殺の疑いを掛ける。疑われんのが嫌なら、そこから動くんじゃねえぞ」

怒気の籠もった信の言葉に、その場にいる者たち全員が生唾を飲んだ。

すぐに叩き斬られてしまいそうな、戦場に立つ時の威圧感を剥き出している信に、侍女たちが怯えていた。

「食事を運んだのは誰だ?」

周りにいる侍女たちを見渡しながら信が声を掛けると、向のすぐ傍に控えていた女官が恐る恐るといった様子で手を挙げた。信が嬴政の伽に呼ばれた翌日に声を掛けて来た女官だった。

気の弱そうな女官だが、向のことを随分と慕っている娘である。働き者だが、少し幼さの残っている顔つきのせいか、向も妹のように彼女を可愛がっている存在だ。

「…この匙を用意したのもお前か?」

信が手に持っていた木製の匙・・・・を彼女の眼前に突き出すと、女官は困ったような表情で首を横に振った。

「い、いえ…私が用意したのは、箸です…」

彼女が匙を用意していないと否定したことに、信の中で妙に腑に落ちたことがあった。

食事と共に添えられている何の変哲もない箸を見て、やはりそうかと頷く。

「…じゃあ、誰がこれを用意したかわかるか?」

なるべく怯えさせないよう、穏やかな声色を装って信が問うと、女官は小さく頷いた。

「しょ、食事をお出しする前に…粥なら匙の方が食べやすい・・・・・・・・・・・・と…敏様が…」

侍女頭の名前が出て来たことに、信は振り返った。

「おい、てめえ」

匙を握ったまま、信はずかずかと大股で侍女頭の前へと向かった。

木製の匙の裏一面には、粥とは違った、何かを磨り潰したような、白い粉が付着している。確かめるまでもなくそれが毒であることを信は確信した。礜石ヒ素を含む鉱物から摂取した物だろうか。

もしも知らずに口付けていたら、間違いなく向は倒れていただろう。生まれる前の子の命だって危険に晒されていたに違いない。

一度でも粥を掬ってしまえば、匙に毒が付着しているなど素人では判別出来ない。

しかし、銀製の食器にも異常はなく、毒見役が実際に食事を確認して何ともなかったことから、本人は疑うことなく食事と共に匙に塗られた毒を摂取してしまう。最初からそういった筋書きだったのだろう。

 

確実な毒殺方法 その二

―――…どんな毒を使うにしろ、確実に致死量を飲ませるなら、俺ならを使う。

信の耳奥に、桓騎の声が蘇った。

後宮へ女官として潜入する前夜。褥の中で、桓騎はまるで子どもに物語を言い聞かせるような穏やかな口調で話し始めた。

それは信が考えても分からなかった、銀製の食器と毒見役の確認をすり抜けて、確実に毒を盛って相手を殺す方法である。

―――…全員の意識は食事に向けられる。銀製の食器も、毒見役も何ともないって言うんなら、そいつは安心して食うだろ。だが、銀製じゃねえ匙の裏に毒が塗られてるかなんて、誰も確かめねえからな。

匙を口に運んだ時点で、こちらの勝ちなのだと桓騎は言った。

―――警戒して少しだけ口をつけるにしても、匙で飯を掻き混ぜちまえば、すぐに毒入り料理に早変わりするって訳だ。一口目は運良く免れたとしても、二口目で確実に殺せる。…なんでこんな簡単なことを、バカ共は気づけねえんだろうなあ?

…すべて、桓騎の言う通りだった。

食事に毒が混入していれば、銀製の食器は黒く変色する。しかし、食器に変色は見られず、毒見役である信が食べても何ともないことに安堵した向は、毒が塗られている木製の匙で口に運ぼうとした。

警戒すべきは食事だけではなかったのだ。

まさか桓騎が話していたことが全て目の前で実現したことに信は驚愕したが、今はそんな悠長に過ごしている暇はない。

「…侍女頭の敏、だったな。お前が毒を盛った犯人ってことか?」

侍女頭を睨みつけながら、信が問う。背後で向たちがまさかと青ざめた顔をしていた。
敏という侍女頭も青ざめていたが、反論は出て来ない。

無実だとしたらすぐさま言い返そうとするに違いないが、目を泳がせているところを見ると、何か上手い言い訳を探しているのだろう。

息をするのも重苦しいほどの沈黙が流れる。どうやら上手い言い訳も見つからなかったようだと信は腕を組む。

「…俺は処分を言い渡すような立場じゃない。後のことは上の判断に任せる」

外に待機している宦官へ後のことは頼もうと、信が部屋を出ようとした。

敏の横をすり抜けた時、全身の毛穴が針に突かれるような嫌な感覚がして、信は反射的に振り返る。戦場でしか感じないあからさまな殺意だ。

「向…!お前さえいなければッ」

振り返った時には既に敏が帯の中から取り出した短剣を構えて、向の方へと直進している時だった。

「向!逃げろッ!」

信が叫んだが、伸ばしたその手は敏の着物を掴むことは叶わなかった。

名を呼ばれても愕然としている向はその場から動けずにいる。短剣といえど、凶器には変わりない。腹を刺されでもすれば向どころか、腹の中にいる赤子の命まで危うい。

心を掻き毟られたように慌てた信が、背後から敏を取り押さえようとした時だった。

「きゃあッ」

ひゅん、と何処からか風の切るような音がしたかと思うと、火傷をしたかのように敏の身体が跳ね上がり、その体は仰向けに崩れ落ちた。

何があったのだろう。信も向も、倒れた侍女頭も、その場にいた者たち全員が分からなかった。

「う、ぅう…く、くそッ…!」

敏の左肩に、深々と弓矢が突き刺さっているのを見て、信がはっとなる。

痛みに呻いている敏の手から短剣を奪い取ると、信は愕然としたままでいる向に顔を向ける。

「大丈夫か?」

「は、はい…!」

寸でのところであったが、毒も口にせず、怪我もなかったようだ。

騒ぎを聞きつけた宦官がやって来て、彼が侍女頭の身柄を拘束してから、信はようやく安堵の息を吐き出すことが出来たのだった。

(あの弓矢…一体どこから…?)

妃の毒殺だけでなく殺害まで図ろうとした敏が宦官に連れていかれた後、信は部屋の窓へ駆け寄った。

外を覗き込むと、美しく整備されている裏庭がある。

誰かが通った痕は見つからなかったが、敏の左肩を貫いた弓矢は正面から撃たれたものに違いない。ということは、裏庭からこの部屋に向かって弓矢を撃ち込んだとしか考えられないのだ。

窓にはいくつもの直線の枠が埋め込まれた装飾がされていたのだが、不思議なことに傷一つついていない。

まさかこの複雑な装飾をかいくぐって弓矢を放ったというのだろうか。それどころか、同じ空間にいた向や女官たちを避けて、適切に敏だけを狙ったのというならば、相当な腕前だろう。

弓矢の扱いに慣れているとしか思えない。だが、一体何のために敏を狙ったのだろうか。

向を守るためなのか、はたまた口封じとも考えられる。仕留め損なっただけかもしれない。

しかし、侍女頭だけを的確に狙った腕前があるのなら、口封じのために頭か胸を貫くだろう。わざわざ致命傷じゃない肩を狙うなんてことはしないはずだ。

(ああ、くっそ…!ますます分かんねえ…!)

味方ならば、なぜ姿を現さないのか理由が分からない。疑問が次なる疑問を呼んでいき、信の思考はたくさんの糸が絡まり合っていた。頭痛に襲われ、こめかみを押さえながら目を伏せた。

味方であるという確信がない以上、これからも油断は出来ない。向とその子どもを殺そうとしていた仲間だとすれば、今度は毒以外にも一層の用心が必要となるということだ。

「信様…」

名前を呼ばれて信はすぐに振り返る。他の侍女たちには宮官長たちへの報告を頼んだため、今この部屋にいるのは向と信だけだった。

ずっと自分に付き従っていた侍女頭が捕らえられたことに、向は瞳に涙を滲ませていた。しかし、涙を堪えながら、彼女は信に深々と頭を下げる。

「ありがとうございます。信様のおかげで私も、大王様の御子も無事でした」

きっと裏切られた気持ちで心が引き裂かれるような痛みを抱えているに違いない。しかし、涙を堪えている辺り、やはり嬴政の隣に並ぶのに相応しい女だと信は思った。

「…いや、俺は何もしてねえよ。犯人があの女だって分かった時点で、さっさと縛り上げちまえば良かったのに…」

向の身に怪我がなかったとはいえ、信は侍女頭である彼女がまさか短剣を隠し持っているとは思わず、油断してしまった。

それなりに長い間、向に尽くしていたという忠義心があった侍女頭だったからこそ、全員が油断していたのだ。

厚い忠義を装っていたのは、大王の寵愛を受ける向を妬んでいたのだろうか。

向は田舎の貧しい出であり、この後宮では後ろ盾がない。そういった身分の者がなぜ嬴政の寵愛を受けることが出来たのだと妬む者が多いというのは噂で聞いていたが、まさかこんなにも身近に潜んでいたとは思わなかった。

 

矢文と宦官

「毒見役の女官はいるか」

先ほど侍女頭を連れて行った宦官が部屋に戻って来た。いつも向の護衛をして、見張り役も行っているあの男である。何かあったのだろうか。

「ああ、俺だ」

信が手を挙げて近づくと、宦官はこちらに来るように手招いた。大人しく従って廊下に出ると、文を差し出される。

「…これは?」

「侍女頭の肩に撃たれた弓矢に括られていた。お前宛てのようだ」

「?」

信は眉間に皺を寄せながらその文を受け取った。先ほど侍女頭の左肩を撃ち抜いた弓矢に文が括られていたらしい。

毒を盛った犯人が身近な人物であったことと、向の命を守ることで必死だったため、弓矢に文が添えられていたなんて気づきもしなかった。

敵か味方かも分からぬ相手からの文を、信はやや緊張しながら開く。

―――后の次は秦王。

そこに並べられていた言葉に、信は総毛が立つ。

(まさか、政まで狙われてるっていうのか!?)

先ほど侍女頭を狙って弓矢を撃った者からの言伝に違いない。やはり向を殺そうとした侍女頭を口封じのために始末しようと企んでいたのだ。

まだこの後宮には、別の犯人がいる。その者が侍女頭を動かしていたのかもしれない。

先ほどの弓矢を見る限り、相当な腕前である。今までは食事ばかり注視していたが、これからはいつ何時、弓矢が向を襲うか注意しなくてはならない。

いや、それよりも向だけでなく嬴政の身にも危険が迫っていることを伝えねばならない。分かってはいるのだが、信の心は雁字搦めになっていた。

(どうすりゃいいんだ…)

先ほどの弓矢が今度はいつ向を狙うか分からないこの状況下で、信は彼女の傍を離れる訳にはいかなかった。

向だけでなく大王も狙われているのだという報せを知り、細心の注意を払うように嬴政に言伝を頼もうにも、手段が見つからない。

向が厚い信頼を寄せていた侍女頭が毒を盛った犯人だったのだ。今のこの後宮で信じられる者など、信には判断が出来なかった。

先ほどの侍女頭の反撃も予想出来なかった自分が、果たして向を守り切れるだろうか。ましてや嬴政にまで危険が迫っているというのに、それを知らせることも出来ない。

(一体どうしたら…)

胸に不安が大きく渦巻き、信が困惑した表情を浮かべる。

矢文を届けた宦官は彼女の表情の変化を見て、仮面の下で微かに口の端をつり上げた。

「…?」

傍で宦官が笑った気配を察し、信は仮面で覆われたその顔を見上げる。

仮面の隙間から覗く意志の強い瞳に見据えられ、信は思わず息をするのを忘れていた。

「か――」

名前を口に出そうとした唇が、宦官の人差し指によって押さえ込まれる。今は喋るな、という合図である。

すぐに口を閉ざした信に、宦官はゆっくりと頷く。

「…これから后の身柄は宮廷で保護する」

目の前にいる宦官の正体が、自分の恋人であることを察した信は安堵と嬉しさが交じり合ったぎこちない笑みを浮かべてしまう。

(そっか…俺、一人じゃねえんだ)

それまで自分一人で全てを守り切らねばという不安と重責を抱えていた心が、羽根のように軽くなっていくのを信は確かに感じていた。

誰を信用して良いか分からなくなった雁字搦めの状況で、宦官に扮した桓騎の存在は、暗闇に差し込んで来た希望の光だった。

いつから桓騎があの宦官に扮していたのかは分からないが、冷え切っていた信の心はすっかり温かくなっていた。

食事が運ばれて来る前に、粥だと告げたのも、匙に警戒しろという忠告だったに違いない。

「…后の身柄を宮廷へ引き渡した後、大王様にも侍女頭の件を報告をして来る」

信が手に持っていた文を桓騎が奪い取り、さり気ない仕草で袖の中にしまう。

犯人が書いたものだとばかり考えていたのだが、冷静になって考えると、自分宛てと言われたはずなのに、信の名前はどこにも記されていなかった。

(…じゃあ、やっぱり、あの文…)

記憶の糸を引き戻すが、やはり侍女頭の肩を貫いた弓矢に文など括られていなかったはずだ。

―――つまり、あの文は犯人が書いたものではなく、犯人の次の動きを読んだ桓騎から信への言伝である。

桓騎は既に、侍女頭の他に別の犯人がいると目星をつけているらしい。侍女頭に矢を撃った者だろうか。

もしも他の者たちにこの文の内容が広がれば、宮廷にたちまち噂が広まり、嬴政の護衛が強化されるだろう。そうなれば嬴政を狙っている犯人が身動きを取れず、隠れてしまうかもしれない。

他に犯人がいることを信以外に告げないのは、確実に犯人を誘き出す意図をあるのだろう。相変わらず味方に作戦を告げない男だと信は苦笑した。

「…それと、大王様から今宵、伽に来るようにと」

「え?」

報告会の呼び出しに、信は驚いて目を見開いた。

侍女頭が向に毒を盛ろうとした犯人であることはまだ嬴政の耳には届いていないはずだが、この適時にその呼び出しが来たのはきっと偶然だろう。

嬴政の身に危険が迫るとすれば、見張りや護衛が少なくなる夜間のはずだ。

もしも犯人の方から寝室にやって来るのなら、迎え撃てば良いだけである。桓騎もそう考えているに違いない。

「ああ、分かった」

「これから后の身柄を宮廷へ移す」

「…大丈夫なのか?」

信は不安げに尋ねた。桓騎が宦官に扮しているのは恐らく独断での行いで、正式な許可を得たものではないはずだ。

後宮に務めている宦官たちは同じ仕事着をしており、仮面で顔を隠しているため、恐らく気づかれてはいないだろう。

しかし、后と行動を共にすれば、いくら顔を隠しているとはいえ、目立つに違いない。もしも桓騎が宦官に扮して後宮に潜入していたことが気づかれれば、騒動になることは目に見えていた。

心配すんな・・・・・何も問題ない・・・・・・

周りに誰もいないことを確かめてから、桓騎が普段の口調に戻った。

「まあ、それなら、良いけどよ…」

桓騎がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。不思議な説得力を持つ彼の言葉に、信は大人しく頷いた。

仮面で覆われており、口元くらいしか分からないのだが、正体が分かるとやはり隠し切れない彼の雰囲気や仕草が浮き彫りになっていく。

「…信」

「ん?」

急に桓騎が体を屈めたかと思うと、仮面で覆われている彼の顔が、視界いっぱいに映り込んだ。

「―――」

唇に柔らかい感触が押し当てられたのはほんの一瞬のことで、信が瞬きをした時には既に桓騎は顔を離していた。

「え……えっ?」

「今夜には全て終わらせる。さっさと帰るぞ」

向がいる部屋に入ると、桓騎は再び別人のように口調を変えて、向に宮廷へ移動する旨を説明し始める。

背後でその声を聞きながら、廊下に残された信は、桓騎に口付けられたのだとようやく理解して、耳まで顔を真っ赤にさせたのだった。

 

後編はこちら

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毒酒で乾杯を(桓騎×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 桓騎×信/ツンデレ/毒耐性/ミステリー/秦後宮/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話はアナーキーの後日編・完全IFルート(恋人設定)です。

 

秦王からの頼み事

秦王嬴政の正妻である向が、子を身籠っていることが発覚してから早三か月。

飛信軍の女将軍・信は、嬴政より火急の報せを受け、秦の首府である咸陽へと駆けつけた。

玉座の間に向かうと、嬴政は人払いをし、信と二人きりになる。他者に聞かれてはまずい話なのは分かったが、一体何があったのだろう。

「信、お前に頼みがある」

神妙な顔つきで自分に頼みごとをする親友の姿を見るのは、これが初めてではなかった。

以前、桓騎軍の素行調査をして欲しいと頼まれた時も、嬴政は重々しい空気をその身に纏って、信に頭を下げたのだ。

今回は一体どんな用件だろうと信は身構え、彼の言葉を待つ。

「…向が、何者かに命を狙われている。後宮に行き、彼女を守ってやって欲しい」

「……はっ?」

信は間抜けな顔で聞き返した。

 

秦王からの頼み事 その二

始まりは、向の食事を毒見した女官が帰らぬ者になったことだった。

たった一口食しただけで血を吐き、その血が肺に流れ込んだことでたちまち呼吸困難に陥ったのだという。

少量だけでも死に至らしめた強力な毒を食事へ混入させた犯人は、未だに分かっていない。

毒に反応して変色する銀製の食器を使用していたのだが、食器には何も変化がなかった。だというのに、食事に毒が盛られていたことに、女官たちは騒然となったそうだ。

毒を盛った犯人は未だ分かっておらず、手がかりが少な過ぎて、目星もつけられずにいるのだという。

後宮には千人以上の女官たちがいる。後宮の出入りが許されているのは、王族、そして、後宮だけでなく宮廷での仕事も請け負っている宦官くらいだ。

疑いを掛けることが出来るものたちはある程度絞られるにしても、これだけの人数から犯人を炙り出すのは困難なことだった。

嬴政の正室として迎え入れられた向は、その身に王族の子孫を宿しているということもあって、以前よりも多数の護衛がつけられていた。

武器を持って戦う術を持たぬ者たちが集う後宮は、決して平穏ではない。大王の寵愛を狙う者、正室の立場を狙う者、様々な者たちの欲望が渦巻く場所でもあるのだ。

そして、その欲望は時に狂気を孕み、邪魔な者を消し去ろうという殺意にも変わることがある。今回の毒混入事件は、向を敵視している者がいる何よりの証拠だ。

しかし、正室である向は後宮で過ごす他ない。

身の回りの者たちが自分の命を庇って亡くなっていくのも、いつ自分と愛する我が子が狙われるかと思うと、向も精神的に疲弊しているのだという。

いつ命を狙われているかという危険が付き纏うのは堪えるものだ。幾度も死地を駆け抜けて来た信だって同じ状況に立たされれば疲弊するに決まっている。

しかし、向は秦王の子を身籠っているという責任から、何としてでも我が子を守らねばならないという母としての尊厳も保持しなくてはならなかった。

秦王の正室である以上、簡単に弱音を吐き出すことも、弱みを見せることも出来ない。

しかし、毒の混入事件があってから、色んなことが向を追い詰めているようで、嬴政は頻繁に後宮に訪れて彼女の体調を気にするようになっていた。

嬴政も大王としての政務があり、常に向の傍にいられる訳ではない。そこで親友である信に助けを求めたという訳だ。

「…俺に、女官として後宮に行って、妃を守れっつーことか?」

「お前にしか頼めない」

真剣な顔で嬴政が言う。普段なら即答するのだが、信は腕を組むと険しい表情を浮かべた。

自分の知らない組織に変装して潜入するのを頼まれるのは、今回が初めてではなかった。

以前頼まれたのは桓騎軍の素行調査だったが、今回は後宮に住まう妃の護衛という訳だ。

向の周りにいる者たちは信と違って戦う術を持たぬ者たちであり、相手が宦官であっても、信は容易に手出しはさせぬ自信はあった。だが、問題はそこではない。

「…毒を入れた犯人も分からねえのに、俺が護衛についたところで何も変わらねえだろ」

相手が一人なのか、複数いるのか、女官なのか、宦官なのか、それともまた別の誰かか。何も手がかりがないというのに、姿も分からぬ相手から向を守れというのはなかなか無茶な要求だ。

後宮にいる者が犯人であるという仮説は立てられても、千人以上もいる女官たちから犯人を探し出すのは不可能に近い。

食事に毒を用いたということは、犯人は下手に足がつかぬように工夫をしているはずだ。直接彼女に手を出して来る真似はしないに違いない。

きっと嬴政もそれを分かっているはずなのに、それでも信に妻の護衛を頼むということは、彼も相当追い詰められているのだろうか。

しかし、嬴政が発した言葉は信の予想を上回るものだった。

「信。お前には毒の耐性があるのだろう?」

「なッ…」

思わず信は顔を強張らせた。信が毒に対して耐性を持っていることはあまり知られていない情報である。親友である嬴政にもそれを告げた覚えはなかった。

信が毒に対する耐性を持っているというのは、多数の足を持つ毒虫…ギュポー嫌いなことに関連している。

幼い頃にギュポーに手を噛まれ、三日三晩その毒に寝込んだ信は、幸か不幸か、毒への耐性を持ってしまったのだ。

頭痛、発熱、悪寒、嘔吐、下痢、呼吸困難、謎の発疹…さまざまな症状に苦しめられた信は、あれほどまで苦しい経験を過去にしたことがなかった。

今思えば、三日三晩さまざまな症状が出て寝込んだのは、体が変質していた影響だったのかもしれない。

当時の辛い記憶が今も信の中に恐怖として根付いており、この年齢になっても信のギュポー嫌いは克服されていない。

天下の大将軍である王騎と摎の養子であり、今や信自身も両親と同じ六大将軍の座に就いている。そんな自分がギュポーなどという毒虫が苦手だなんて笑い話である。

飛信軍だけの機密事項として取り扱っていたのだが、嬴政の指示で行った桓騎軍の素行調査中にギュポーと遭遇したことがきっかけで、信のギュポー嫌いの噂は呆気なく広まってしまったらしい。

毒に耐性があることを告げると、芋づる式にギュポーが嫌いだということに気付かれてしまうので、信は今までずっと内密にしていたのだ。

桓騎軍の素行調査中も、毒に耐性があることは誰にも告げなかったはずなのだが、まさか嬴政が知っているとは思わなかった。

大抵の者は信がギュポーが嫌いということに、驚くか腹を抱えて笑うのに、それをしないというのはさすが親友であり、秦王の器を持つ男である。

「心苦しいことだが、後宮を出入りする者は限られている。俺も常に向を守ってやれる訳ではない…お前にしか頼めんのだ。妻を守ってやってほしい」

「つまり、俺に護衛と毒見役をしろってことか」

嬴政は辛そうな表情を浮かべて頷いた。

弟の成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いであり、今や親友である彼女に護衛だけではなく、毒見役まで頼むのは、きっと苦肉の策だったのだろう。

しかし、他に頼める者がおらず、信に頼むことを決めるまで嬴政も苦悩したに違いない。

「頼む、信」

玉座に腰掛けている嬴政が、信に深く頭を下げた。親友であり、秦王である彼にそこまで頼まれては、信は拒絶する訳にいかなくなる。

「…犯人が見つかるかはあんまり期待するんじゃねーぞ。あくまで毒見役と護衛ってだけだからな」

「ああ、感謝する」

信が引き受けてくれたことに、彼は不安と安堵が入り混じったような複雑な表情を浮かべて頷いた。

 

逢瀬

嬴政からの頼み事を聞いた後、信は後宮に行く手筈が整うまで、数日の猶予をもらった。

秦王の勅令であり、信に初めから拒否権などなかったのだが、嬴政は無理強いはしなかった。他国の王ならば、一人の将に頭を下げて「妻を守って欲しい」だなんて言わないだろう。

大勢の妻を抱えている王だっている。一人の妻が毒殺されかけたところで、配下たちに丸投げする王もいるかもしれない。

もしも嬴政がそんな男だったならば、信は早々に彼を見限っていただろう。

秦の未来のためにも、大将軍である自分は、向とその胎に宿る子を守らねばならない。

親友の頼みだからこそ引き受けた信だったが、咸陽宮を出てから、かなりの大役を引き受けてしまったのではないだろうかと不安になった。

後宮で起こっていることは、信が経験したことのない争いだ。

命を狙われているという点では戦場なのかもしれないが、後宮の勝手がわからない信には、分からないことだらけである。

毒に耐性のある自分が毒見役を引き受けたのは良いとして、どこに敵が潜んでいるのかなど予想もつかない。戦場とは違い、武器を持たぬ者たちの争いというものに、信は経験がなかった。

後宮には千人以上もの女官と宦官がいる。毒を入れた疑いがある者は少しも目星がついていないということは、全員を疑うべきだろう。

全員を敵とみなしたとして、果たして本当に自分は向と嬴政の子を守り切れるのだろうか。

「………」

黒ずんだ不安が胸に渦巻き、信は手綱を引いて愛馬の駿の足を止めた。主を心配するように駿がぶるると鼻を鳴らしたので、信はたてがみをそっと撫でてやる。

「…駿、悪い。ちょっと寄り道だ」

自分が住まう屋敷に戻ろうと思っていたのだが、信はここ最近になって通い慣れた道の方へと駿を走らせた。

桓騎の屋敷に到着した頃には、既に陽が沈みかけていた。

従者からこちらに馬を走らせている信の報告を聞いたのか、彼は屋敷の外で待ってくれていた。

「珍しいな。呼んでねえのに、お前の方から来るなんてよ」

紫色の着物に身を包んでいる彼が、馬から降りた信に声を掛ける。

「………」

いつもならすぐに用件を話し出す信だったが、今日は違う。桓騎の小言にも反応を示さないし、何か言いたげに唇を戦慄かせているが、躊躇うように口を閉ざしてしまう。

視線も合わず、桓騎は彼女が悩みを抱えていることを察した。嘘を吐けない素直の性格している信は、すぐに表情に出すのでとても分かりやすい。

桓騎軍の素行調査として、百人隊の兵に紛れていた時も、それはもう面白いくらいに顔に動揺を出していた。

思い出し笑いを噛み殺しながら、桓騎は信が何を言おうとしているのかを考える。

今日のように、急に彼女が屋敷へ訪れる時は決まって何かを悩んでいる時だ。助言をもらいに来たというよりは、ただ不安な気持ちをどうしたら良いのか分からずに持て余してしまうのだろう。

将軍には本能型と知能型の二種類がある。信は前者で、桓騎は後者だ。

考えるよりもすぐに行動に移すことを何よりも得意とする信は、頭を使うことが苦手らしい。本能型の将軍が単純というのはまた違う。こればかりは信の元々の性格だろう。

「…どうした?」

桓騎が穏やかな声色で問うと、信は少し目を泳がせてから、ゆっくりと口を開いた。

「その…しばらく、会えなくなる」

「は?戦か?」

特にこの頃は隣国の動きに異常はなかったはずだと、桓騎が今日まで聞いた報せを思い返していると、信が首を振った。

「詳しくは言えねえんだけどよ。政の頼みで、ある女の護衛につくことになったから…」

不安な気持ちを打ち明けに来たのではなく、しばらく会えなくなることを伝えに来たらしい。少なくとも数か月は会えないのだと言われ、桓騎の眉間に皺が寄った。

「…なるほどな」

護衛を任せられた者について詳しく話そうとしない信に、桓騎は小さく頷く。

「後宮で妃の護衛か。それとも、毒見役にでも抜擢されたか?」

「そう…って、なんで知ってんだよッ!?」

ぎょっとした表情で信が問う。向の護衛を行うことは嬴政と信しか知らないはずなのに、一体いつ情報を手に入れたのかと信は驚愕していた。

しかし、桓騎からしてみれば、秦王である嬴政からの頼みであり、女ということさえ分かれば、正解を聞いたようなものだった。

後宮には王族の子孫繁栄のために千人以上の女性が集められている。しかし、嬴政が褥に呼ぶのはほんの一握りどころか、一つまみであった。

嬴政自ら信に護衛を頼む女性といえは血縁者くらいだろう。母である太后には元々十分過ぎる護衛がついている。だとすれば消去法で、嬴政の子を身籠っている后という訳だ。

さらには嬴政が信頼を置いている将は他にもいるが、信でなければいけない理由…それは他でもない性別である。

后は宮廷の奥にある後宮で生活する決まりがある。後宮には女性か、男であって男の機能を持たぬ宦官か、王族しか出入り出来ない仕組みになっているのだ。

飛信軍の女将軍である信の名前は後宮にも広まっているが、彼女は戦で顔を隠していることや後宮に出入りすることがないため、後宮に住まう者たちには顔を知られていないのだ。

大将軍の座につくほど武力をその身に備えているだけでなく、毒に耐性を持っていることも理由の一つに違いない。

…要するに、信は后の護衛に一番相応しい存在ということである。

 

特殊体質

限られた情報でそこまで答えを導き出した桓騎に、信は苦笑を深めることしか出来なかった。

駿を厩舎に預けた後、桓騎は信を屋敷へ招いた。寝室の扉を閉めた途端、いきなり腕を引かれて抱き締められ、信は目を見開く。

桓騎の両腕に抱き締められているのだと分かり、信は戸惑ったように体を強張らせた。

「…いつまでかかる」

「え?」

「後宮にいる期間だ」

腕の中で、信は借りて来た猫のようにしゅんと縮こまった。

「分かんねえよ…そんなに、長い間はいられねえと思うけど…」

信自身も大将軍としての役割がある。戦がない間の飛信軍の指揮は副官である羌瘣や、他の将に頼むことは出来るだろう。しかし、いつまでも後宮で后の護衛をすることは出来ない。

嬴政もそれを分かっているはずだが、それでも信に向の護衛を頼んだということは、よほど向の命の危機を感じているということに違いない。

毒見役の代わりなどいくらでも用意出来るだろうが、自分に仕える女官が自分のせいで命を奪われるなど、並大抵の者は耐えられるものではない。

戦場で多くの敵味方の死を経験して来た信でさえ堪えるものがあるのだから、向の心にはきっと重く圧し掛かっているはずだ。

そういった配慮も込めて、信頼している自分に依頼したのかもしれないと信は思っていた。

「そりゃあ、犯人さえ見つかれば、すぐに戻って来られるだろうけどよ…」

信が言葉を濁らせる。千人以上の女官がいる後宮で、毒を盛った犯人を捜すのは至難の業だ。

嬴政から話を聞いた時点で、信は毒殺を未然に防ぐことは出来たとしても、犯人を見つけることは不可能であると察していた。

「無理だろうな」

信の黒髪を指で梳きながら、桓騎が苦笑した。彼も同じことを考えていたらしい。

「………」

遠慮がちに信が桓騎の背中に腕を回す。性格上、普段から大胆に身を寄せて来ることがない恋人が、こうして甘えて来るのは随分と珍しいことだった。

素直に寂しいと言えない頑固な性格も愛らしい。

しばらく無言で身を寄せ合っていたが、桓騎は思い出したように顔を上げた。

「すぐ後宮へ発つのか?」

信は首を横に振った。

「羌瘣やテンたちに軍を任せなきゃならねえから、あと数日してから、後宮に行くつもりだ」

信頼している仲間たちよりも先に自分へ会いに来てくれたことに、桓騎はつい口の端をつり上げた。誰が見ても彼の機嫌が良くなったことは明らかである。

夜通し馬を走らせれば仲間たちの下へ辿り着くだろうが、それをせずにこの屋敷に立ち寄ったということは、今夜は一緒に過ごしたいという信の気持ちの表れである。

次に会えるのが一体いつになるか分からないのならば、今日は存分に楽しむしかない。

「ほらよ」

桓騎は台の上に置いてある飲み掛けの酒瓶の中身を杯に注いで、それを信へと手渡した。

酒杯を受け取った信が酒を口に含む前に匂いを嗅いでいる。どんな酒か確かめているのだろう。

鴆酒ちんしゅだ」

「えっ!」

正解を教えてやると、信が目を輝かせた。

鴆酒というのは滅多に出回らない酒であり、この酒を作ることが出来る者もかなり限られている。その理由は鴆酒がだからだ。

鴆の羽毛に含まれている猛毒から作られているこの酒は、嗜好品ではなく、暗殺の道具として使用されている。

普通の人間なら一口飲んだだけでも、たちまち毒に身体が蝕まれ、命を落とす代物だ。…だというのに、酒瓶は既に開けられて、何者かが飲んだ形跡があった。

「最近目を付けた酒蔵に鴆者鴆酒を作る者がいたんだ。それなりに良い味だぞ」

毒に対する耐性を持っているのは、桓騎もだった。

猛毒である鴆酒だと分かった信は迷うことなく杯に口をつけ、一気に喉に流し込んだ。

焼けつくような熱さと同時に、強い痺れが舌と喉を襲うが、その刺激が堪らない。信はぶるぶると歓喜に体を震わせた。

毒虫であるギュポーは大嫌いだし、毒を受けたせいで失ったものもあるのだが、毒酒の美味しさを実感出来るようになったことは唯一感謝すべきことである。

「ふはー、鴆酒なんて飲むの久しぶりだなあ」

中華全土のどこを探しても、毒酒を愛飲しているのは信と桓騎だけだろう。

酒好きで知られる麃公でさえも、毒の耐性を持っていないため、この鴆酒だけは飲めない。麃公とは幾度も酒を交わしていた仲だったので、この美味さを分かち合えないのは残念だと信は思っていた。

久しぶりに鴆酒を飲んだ信は先ほどまで暗い表情を浮かべていたが、今はすっかり笑顔になっていた。

屋敷に訪れた時は寂しそうな表情をしていた信が、太陽のような明るさを取り戻したのを見て、桓騎も思わず頬を緩めていた。

 

しばしの離別

酒瓶がすっかり空になった後、どちらが誘う訳でもなく、二人は体を重ね合った。

鴆酒は一般的に猛毒に分類されるものだが、二人にしてみればただの酒でしかない。酔いも合わさって、普段以上に激しい情事になった。

すっかり疲れたのか、褥の中で信は桓騎に抱き着いたまま、寝息を立てていた。

窓から差し込む月明りだけが部屋を薄く照らしている。

「………」

眠るとより幼さが際立つ寝顔を見つめながら、桓騎はそういえば久しく娼婦を抱いていないことを思い出した。

娼婦に興味がなくなったのは、信と今の関係になってからだ。

肌はあちこち傷だらけで、中には目も当てられぬような深い傷跡だってある。醜い傷跡が肌に残っているなど、女としては致命傷だろう。

それでも情事の最中にその傷跡に舌を這わせることは、桓騎は嫌いではなかった。むしろ自分だけの証として、醜い傷痕を増やしてやりたいとさえ思った。

これまで桓騎が抱いて来た娼婦たちのように、信は特別な美貌や玉の肌を持ち合わせていない。

論功行賞や宴の席ではそれなりに身なりを整えて来て、美しい女に化けることは分かっていたが、彼女は男の喜ばせ方を何一つ知らないのだ。桓騎にはそれが好ましかった。

一から自分好みに染められるという男の優越感もあるのかもしれない。

夜の指南に戸惑いながらも従う信は、確実に自分の好みの女へと成長しているし、ますます愛おしさが込み上げる。

優越感と同時に、独占欲まで広まってしまったようだ。もう他の女では満足出来ないかもしれないと思えるほどに。

「…ん…」

前髪を指で梳いてやると、眠っている信が小さく声を上げた。ゆっくりと瞼が持ち上がっていき、ぼんやりとした瞳が桓騎を捉える。

「まだ寝てろ。朝にはすぐ発つんだろ」

頷いた信が瞼を擦ってから、桓騎の胸にすり寄った。

「…なあ」

「ん?」

信が不安そうに眉を寄せている。

「相手に、確実に毒を飲ませる方法・・・・・・・・・・・って…あると思うか?」

「あぁ?」

寝起きだと言うのに、信の目は真剣だった。嬴政に后の護衛と毒見役を頼まれてから、ずっと気になっていたことだったのかもしれない。

「そのために毒見役がいるんだろうが」

「………」

信の髪を撫でながら言うと、信はあまり納得いかない表情で口を閉ざしてしまう。

嬴政自ら后の護衛と毒見役を頼んで来たということもあって、何としても后を守らねばならないと重責を感じているようだ。

「もしも、后を毒殺しようとしているのがお前なら、絶対に毒見役の目をすり抜けるだろ」

彼女の言葉に桓騎は苦笑を浮かべた。奇策を用いて戦う自分を敵に回せば、確実に標的を殺すに違いないと思われているらしい。

「やろうと思えばいくらでもあるな」

宦官ではない桓騎が後宮に入れるかどうかは置いといて、彼の頭に毒殺の方法はいくらでもあるようだ。

「例えば?」

「井戸に毒をぶち込むのが一番手っ取り早い」

「おいっ」

「冗談だ」

冗談でも物騒なことを言うなと信が桓騎が睨んだ。井戸に毒なんて流せば、大勢の者たちが被害に遭うだろう。

見境ないやり方に桓騎らしさを感じてしまうあたり、この男の性格に随分と慣れて来た証拠なのかもしれない。

頬杖をつきながら、桓騎が口を開く。

「…確実に殺すなら、一度に致死量を飲ませる必要はない。食事や香に混ぜるだけでじわじわ効いていくだろうな。女なら、紅やおしろいに混ぜれば確実に吸うだろ」

普段の食事や、部屋に焚く香。さらには女が普段から行っている化粧品にまで毒を盛るだなんて、本当にこの男だけは敵に回したくないなと、つくづく信は思うのだった。

「后だけを確実に毒殺する方法か」

桓騎は静かに目を伏せた。

「…毒見役で気づかれるっていうんなら、毒見役になって・・・・・・・食事に毒を盛ればいい。目の前で飯を食った毒見役が何ともねえって言うんなら、疑うことなく食うだろ」

「………」

信の眉間に深い皺が寄る。毒殺を防ぐ方法として、逆に桓騎だったらどのように毒殺をするかを聞いてみたのだが、さすが奇策の持ち主だ。

毒見役を演じておきながら、何ともなく食事をする姿を見せれば、食事に毒が盛られていないと誰もが信じるだろう。

「…後宮ではお前が毒見役をやるんだろ?それをすり抜ける方法か…」

なぜか楽しそうに桓騎の口元が緩んだ。

後宮へ行くのは后の護衛であって、決して遊びに行く訳ではない。信がきっと目を吊り上げると、桓騎は頭を乱暴に撫でた。

「あるぜ」

「え?」

毒見役お前の目を誤魔化して、確実に后だけを毒殺する方法だ」

桓騎がにやりと笑った。

 

護衛任務

明朝に桓騎の屋敷を発ち、信は自分の屋敷へと帰還した。仲間たちにしばらく不在する旨を伝えてから、信はすぐに咸陽へと戻るのだった。

信が後宮にいる向の護衛につくことを知っているのは嬴政と向、それから桓騎だけである。

秦国を幾度も勝利へ導いている飛信軍の女将軍の話は後宮内でも有名だった。そんな女将軍が直々に護衛につくとなれば、毒を盛った犯人が安易に手を出せなくなることは目に見えている。

信が後宮を出るまで向に手出しはしないだろうが、それでは根本的な解決にはならない。信の目がなくなってから再び動き出すに違いなかった。

あくまで今回の目的は后である向の護衛と毒見が主なのだが、犯人を捕まえられるならば、それに越したことはない。

大将軍の座に就いている信が後宮にいられる期間はそう長くないのだ。具体的な日数は決められていないとはいえ、いつ近隣の国が攻め込んで来るかも分からない乱世である。戦の気配があればすぐに呼び戻されるだろう。

可能ならば、自分が後宮に滞在している間に、向を毒殺をしようとした犯人を捕まえたかった。

後宮へ赴く日。信は後宮に身売りされた下女という後ろ盾のない立場を装った。

犯人を刺激しないよう、飛信軍の女将軍であることは内密にしなくてはならないのだが、女官の仕事着に身を包んだ信は誰がどう見ても下女にしか見えないだろう。

後宮には幾つもの宮殿があり、一番大きいものは嬴政の母親である太后が住まう宮殿だ。その次は嬴政の正室である向が住まう宮殿である。

必要最低限の荷物を抱えてその宮殿を訪れると、働いている侍女たち全員が暗い雰囲気に包まれているのが分かった。

毒殺事件があってからまだそう日は経っていないのだ。全員がどこか怯えた表情を浮かべている。

「あら、あなたは…」

信に気付くと、廊下の掃除を行っていた女官が無理やり笑みを繕った。年は信よりも上だということがすぐに分かる。

敏と名乗った彼女は、この宮殿に務める女官たちの中では一番長く後宮に務めており、女官たち統率する侍女頭の役割を担っているのだそうだ。

「話は聞いているわ。今日からよろしくね。ええと、名前は…」

「信だ」

偽名を使うのは面倒だったので、素直に名前を名乗った。まさか名前だけで飛信軍の女将軍だとは気づかれないだろう。

敏は悲しみ込めた眼差しを信に向けてから、笑顔を繕った。

どうしてそんな目を向けられるのか信には分からなかったが、新しい毒見役として遣わされたことから、恐らく哀れんでいるのだろう。

嬴政から聞いた話だと、向の食事を確かめた毒見役の女官は即死で、最後まで苦しんでいたそうだ。恐らく信も同じ目に遭うのだという同情のような哀れみ込められているのだと気づいた。

「…それじゃあ、向様のお部屋へ案内するわね」

女官に案内されながら信は廊下を歩いた。窓を開けて換気しながら女官たちが宮殿の清掃に勤しんでいる。

「…掃除は毎日してんのか?」

「もちろん。大王様の御子を抱えた大事なお体ですもの。こまめに空気も入れ替えているのよ」

一度に致死量は飲ませず毒殺するのなら、部屋に焚く香にも毒を仕込ませると桓騎は言っていたが、その点は心配なさそうだ

「あの、あなた…向様の前でその口調は、ちょっと…」

振り返った敏が言葉を濁らせる。

「下僕から身売りされた立場なんでな。あんまりそういった教育は受けてねえんだ」

嘘は吐いていない。王騎と摎の養子になってから、淑女としての教育は受けたことはあったが、微塵も直らなかったのも事実である。

将としての才能以外はからきしだと理解した両親も諦めたようで、気付けば何も言われなくなっていた。

もしも淑女としての教育がしっかりとされていたのなら、信は将ではなく、どこかの名家に嫁いでいたかもしれないと母によく笑われたものだ。

「…向様のご不快になるようなことだけは、気をつけてちょうだいね」

本来なら口酸っぱく指導するところだろうが、毒見役を担っているため、長い付き合いにはならないかもしれない。

今日明日にでも毒殺されてしまうのかという危惧しているのか、敏はそれ以上は何も言わなかった。

下女の替えなどいくらでも利く。毒見役など所詮は捨て駒に過ぎない。侍女頭の敏の態度はまさにそれを示していた。

替えられない命といえば、嬴政からの寵愛を受ける向と子どもの命だ。彼女たちを守るためにも捨て駒の存在は欠かせないのだろう。それは秦の未来のための礎とも言える。

(向に会うのは久しぶりだな…)

秦王の后に仕える立場として無礼は許されないというのは承知していたが、向と会うのは初めてではない。

幾度も嬴政から話を聞いていたし、何度か嬴政と二人でいるところにも遭遇したことがあり、そこで会話を交わしたことがあった。

後宮には大勢の美女がいるというのに、特別美人でもない田舎娘を選んだ嬴政には大笑いしてしまったものだ。

しかし、向と関わっているうちに、何となく嬴政が彼女を選んだ理由を信も分かるようになっていた。

高貴な生まれである娘と違って、向には芯の強さがある。そして何より、后という立場に興味を持たず、嬴政のことを愛していることが分かった。

秦王の后になることを羨望する娘は多い。しかし、誰もが后という国母に憧れているばかりで、夫となる秦王には興味を抱かない者も多いのだ。

信は後宮に出入りしたことはこれまでなかったのだが、母の摎からそのような女性もいるのだと聞いた覚えがあった。だからこそ、戦とは違った争いが絶えないらしい。

 

后との再会

「向様がいるのは、あの部屋よ」

突き当りの部屋の前に、一人の宦官が立っていた。

(見張りはちゃんとついてるんだな)

あの部屋が嬴政の正室である向がいる部屋のようだが、御子を身籠っている彼女の護衛をしているのだろう。

嬴政でさえ一人になることは滅多にないくらい護衛がついているのだ。その后ともなれば、護衛がつくのは当然だろう。ましてや、王族の子を身籠っているのだから、護衛がつかないはずがないのだ。

王族以外の男の出入りが許されない後宮では、男としての生殖機能を持たない宦官でも十分に護衛の役割を担うことが出来る。

女の力で敵わないことを分かっているからこそ、毒殺に目をつける者も多いのだろう。

目に見える凶器を振り払えたとしても、隠された凶器を見抜くのは、いかに力を持つ者でも至難の業である。

侍女頭である敏の姿を見ると、宦官は何も言わずに扉の前からその身を退いた。宮殿の女官たちを統率しているということもあって、彼女は随分と信頼されているらしい。

「向様。新しい女官を連れて参りました」

「あ、はい。どうぞ…」

扉を開けると、信は久しぶりの再会に喜ぶよりも前に、驚愕の表情を浮かべた。

向の体は、かなりやつれていた。ふっくらとした腹を見ると妊婦らしい体に思えるが、目の下の隈や、顔色の悪さから、健康でないことは誰が見ても明らかだったのだ。

驚きのあまり、信は向に掛ける言葉を失い、呆然としていた。

しかし、嬴政から話を聞いていたようで、信の姿を見た向は今にも泣きそうなくらい顔を歪めている。

挨拶もせずに呆然と后の顔を見ている信に、侍女頭の敏が焦った表情を浮かべた。無礼をしないように忠告はしていたが、頭を下げることもしない信に敏が慌てて口を開く。

「も、申し訳ありません!この子は下賤の出でして、ご無礼を…!」

「いえ、良いのです。あの、二人でお話をしたいのですが…」

向の言葉を聞いた侍女頭は不思議そうに目を丸める。

二人に面識があることは誰にも口外していない。そこにはどこに潜んでいるか分からない犯人を警戒させぬためという目的があった。

しかし、名も知らぬ初対面の下女と二人きりになりたいと言った向に、侍女頭は不安そうな表情をする。向もそれを察したのだろう、咄嗟に上手い言い訳を口にした。

「ええと、毒見役として来てくれているのですから…私の口からぜひともお話をしたくて…

毒見がいかに危険な仕事であるかは誰もが分かっている。向の心遣いを察した侍女頭は深く頷いて部屋を後にした。

「信さまぁあぁ…!」

背後で扉が閉まった途端、向はずっと堪えていた涙を溢れさせたかと思うと、子どものようにその顔をぐちゃぐちゃに歪ませて泣き始めたのだった。

「お、おいっ?いきなり泣くなよ…!」

動揺した信は一体どうしたら良いのか分からず、向の背中を擦ってやる。

とりあえず座らせると、部屋に用意されていた水甕から杯に水を汲んだ。

毒殺の方法の一つとして、井戸に毒を入れると言っていた桓騎の言葉を思い出し、試しに一口飲んでみる。唇や舌に痺れは感じないし、喉にも違和感はない。毒は入っていないようだ。

一頻り泣いてからようやく落ち着いたのか、向がぐすっと鼻を啜る。

「…信様。ご迷惑をお掛けしてすみません…」

「迷惑なんて言うなよ。お前は政の妻で、子どもを身籠ってるんだ。守られて当然だろ」

信が当然のように発した言葉を聞き、向の瞳に引っ込んだはずの涙が再び現れる。

「でも、でもぉ…!私のせいでッ…あの子が…」

あの子というのは亡くなった毒見役の女官だろう。

自分と身籠った子の命よりも、亡くなった者のことを想って涙を流せるのは、きっと嬴政が彼女を選んだ何よりの理由だろう。

信は苦笑を浮かべて彼女の頭を乱暴に撫でてやった。先ほどの侍女頭がまだこの場にいれば、后の頭を撫でるなんて無礼だと激怒されたに違いない。

「向」

信は真っ直ぐな瞳で彼女を見つめた。

「…お前のせいじゃないとか、そいつを忘れろだとか、そんなことは言わねえ。だがな…政のやつも、たくさんの命を背負って進んでんだよ」

嬴政の話が出たことに、向がぐっと歯を食い縛る。

その反応を見れば、いつまでも悲しみに囚われている訳にはいかないのだと彼女自身も分かっていることは明らかだった。

「お前が今やるべきことは、いつまでも不細工な泣き顔晒すことじゃねえはずだろ。亡くなった毒見役のことを想ってんなら、尚更だ。お前は生きなきゃいけねえんだよ」

信の言葉に、向は乱暴に涙を拭い、大きく頷いた。

勢いで言葉を綴ってしまったが、后本人に不細工だという言葉を投げ掛けたのは、中華全土どこを探しても信一人だけに違いない。

向が嬴政に告げ口をしたら、厳しい処罰を言い渡されるかもしれないと信が危機感を抱いたのは、随分と後のことだった。

 

耐性の代償

今度こそ涙が落ち着いて、向はごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。

豪快な飲みっぷりに、泣いたせいで失われた水分を取り戻そうとしているのと、毒殺事件があってから、ろくに食事を摂取出来ていないことが分かる。

「…あの、大王様から信様が毒見をするから大丈夫だって聞いていたのですが…」

言いにくそうに向が口を開いたので、信はあっさりと頷く。

「ああ、俺は毒が効かねえからな」

「ええッ!?」

信じられないといった表情をされる。毒が効かない人間など本当にいるのかと疑っている顔だ。

この反応を見る限り、どうやら嬴政は信の特殊体質のことを向に話していなかったらしい。

「毒見と護衛を兼ねて俺に頼んだんだろ。まあ、そんな訳だから、お前は安心して飯を食え」

「…本当に、体には何も支障がないのですか?」

疑うのも当然だろう。信自身も、毒が効かない特殊な体質である人間は、自分と桓騎以外に出会ったことがない。

それだけ珍しいものであるのは信にも自覚はあったが、体に支障がないといえば嘘になる。

「毒の症状は何も出ないけどよ…将軍の座に就いている俺には丁度良いんだ」

信がどこか寂しげな表情を浮かべながら自分の下腹部を擦った。

どうやら真意に気付いたようで、はっとした表情になった向は相槌も打てないほど驚いていた。

毒の耐性を持った代償として、信は子を孕めなくなったのだ。

幼少期にギュポーの毒を受け、毒の耐性を持つ特殊な体質へ変化した時に、どうやら女としての生殖機能を失ってしまったらしい。

信の年齢であれば、大抵は嫁に行っているし、子を産んでいる女もいる。しかし、信には未だ初潮が来ていなかった。

医師の診察を受けても、原因は分からないと言われた。しかし、思い当たることといえば、幼少期に毒を受けたことしか思いつかない。

他に居ない毒耐性を持つ特殊体質ということもあって、医師からはこの先も初潮は来ないかもしれないとまで言われていた。女としての生殖機能がないという意味だ。

子を孕めないと分かっても、信に焦りや不安はなかった。

大将軍の座に就いている以上、安易にその座を明け渡す訳にもいかなかったし、将軍として生きる道を選んだのだから、女としての幸せは不要だと思っていたからだ。

自分が将軍にならなければ、王騎と摎の養子として、どこかの名家にでも嫁いでいたのかもしれない。もしそうなっていれば、子を孕めないことに焦りや劣等感に苛まれていたに違いないだろう。

「もし戦に出られなくなったなら、その時はお前専属の毒見役になってやるよ。大王様のお墨付きだぞ?」

カカカ、と信は陽気に笑った。しかし、向は複雑な表情を浮かべていた。

 

都合の良い関係

一頻り笑ってから、信は思い出したように顔を上げる。手招きをして、顔を寄せてくれた向に小声で囁いた。

「政から聞いてるかもしれねーけど…」

この部屋には信と向しかいないのだが、普段の声量で話せる内容ではない。

俺があいつに伽で呼ばれる時・・・・・・・・・・・・・は、後宮での状況を報告するだけだから、くれぐれも誤解するんじゃねえぞ」

「はい。大王様から伺っております」

信はほっと胸を撫で下ろした。

自分と嬴政は親友という関係で結ばれているが、男女であることから、実は親友以上の関係で結ばれているのではないかという噂がどこからか広まっていた。

もちろんそんなことは絶対にないのだが、情報が限られている後宮では男女の色事についての噂が広まるのは早い。向の耳にも、その噂が届いたに違いない。

不本意だが、噂を止める術というものは未だ見つかっておらず、ほとぼりが冷めるまで待つしかないのだ。

「もし、本当に信様が伽に呼ばれたとしても、それは大王様のご意志ですから」

「誓ってお前の夫に手を出してねえし、出されてねえ。これからも絶対にないから安心しろ」

嬴政のために剣を振るうことはあっても、彼のために足を開くことは絶対にない。信は断言出来た。

彼女の言葉を聞いた向が曇りない笑顔を浮かべる。

「信様には心に決めた殿方がいらっしゃると、大王様から伺っていました」

「…はっ?」

まさかそんなことを言われるとは思わず、信の心臓が跳ね上がった。

心に決めた殿方と言われ、瞼の裏に桓騎の姿が浮かび上がる。嬴政に桓騎との関係は一度も告げたことはないのだが、どうして彼が知っているのだろうか。

桓騎と信の関係が深まったのは、信が桓騎軍の素行調査を行ったことがきっかけだった。

桓騎軍は元野盗の集団で構成されている。訪れた村を焼き払い、村人を虐殺し、金目の物を奪うという悪事の噂を聞きつけた嬴政が親友である信に、桓騎軍の素行調査を依頼したのである。

強豪である飛信軍の兵たちで結成した百人隊に紛れ、桓騎軍を見張っていたのだが、桓騎は初めから監視されていることに気付いていたらしい。

同じ大将軍である信が内密に素行調査を行っていたことをすぐに見抜いた桓騎は、逆上することなく信に酒を酌み交わそうと声を掛けた。

その時に差し出されたのが鴆酒だった。決して桓騎は逆上している訳ではなかったのだが、猛毒の酒を飲ませて藻掻き苦しむ信の姿を楽しもうとしていたのだ。

しかし、ここで予想外のことが起きる。それは信が桓騎と同じで毒に耐性を持っていたことだった。

―――う…美味いッ!なんだ、この酒!?初めて飲んだぞ!

―――…は?これは鴆酒だぞ?

普通の人間なら、鴆酒を飲み込めば、まず助からない。

解毒の方法がまだ解明されていないこともあるが、即効性がある毒だ。喉に流し込めば、吐き出す間もなく毒が回って死ぬことになる。

―――珍酒・・?そっか、だから飲んだことねえ味してんのか!

しかし、信は目を輝かせて、初めて飲んだ鴆酒の美味さに感激していた。

苦しむどころか、満面の笑みで鴆酒を飲み続ける彼女に、桓騎は呆気に取られる。

―――鴆酒・・だ。…お前、毒が効かねえのか?

桓騎の言葉に頷きながら、信は彼の手から酒瓶を奪い取り、お代わりを注いでいた。

美味しそうにごくごくと喉を鳴らしながら鴆酒を飲んだ信は、そこでようやく鴆酒を自分に飲ませた桓騎の意図に気が付いたのだった。

―――てめえ!俺のこと殺そうとしたなッ!?

二杯目を美味しく飲み終えてから憤怒した信に、桓騎は肩を震わせ、今さらかよと大笑いしたのだった。

素行調査では噂通りの悪事を目撃することは出来なかった。しかし、桓騎と距離が縮まったのは、お互いに毒を飲んでも平気だという共通点があったからだろう。

桓騎は毒を持つ生き物の珍味や酒など珍しい物をよく取り揃えており、時々、信に美味いものが手に入ったと酒の席に誘ってくれるようになった。

この中華全土のどこを探しても、毒酒の美味さを分かち合えるのは自分たちだけだろうと信は思った。

猛毒が入っているとはいえ、二人にしてみれば美味い酒であることには変わりない。

―――体を重ねたのは、何度目かの酒の席で、酔った流れだった。

先に唇を重ねて来たのはどちらだっただろうか。酒に酔った朧げな記憶ではそれさえも覚えていないのだが、決してどちらも嫌がらなかったことだけは覚えている。

「…あいつには、孕めない俺が都合良いんだろうな」

苦笑を滲ませながら、信は呟いた。

大将軍である桓騎は端正な顔立ちで、金で夜を買われた娼婦たちも彼のために喜んで足を開いている。元野盗の性分や悪事はともかく、大将軍という高い地位についているのだ。妻になりたいという女性も多くいるのも頷ける。

だが、桓騎がいつまでも妻を娶らずにいるのは、気ままな性格に婚姻という束縛をされるのが嫌なのだろうと信は思っていた。

毒酒の味を分かち合い、子を孕めない自分は、きっと桓騎にとって都合が良い女でしかない。

それでも桓騎に求められれば、舌を絡めながらその情欲に応えたし、肌を重ね合うあの時間は嫌いではなかった。

 

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