終焉への道標(李牧×信←桓騎)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

中編③はこちら

 

真実

残酷な真実が耳から脳に染み渡るまでには、やや時間がかかったらしい。

「お前、なに言ってんだよっ」

発作的に言い返されるが、李牧は信の両肩を掴んだまま放さない。

「桓騎と秦国を捨てて、俺を選んだのはお前の意志だ。その過程があって、今の俺たちがいる。思い出せ」

目を見開いた信が唇を震わせ、顔を蒼白にさせている。両腕で耳に蓋をして、何度も首を横に振った。

「い、やだ…いや、思い、出したく、な…い」

拒絶の言葉を聞き、李牧は確信した。
信は今、底に封じられていた記憶を取り戻すことに葛藤している。それを思い出すことに恐怖しているのだ。

封じられた記憶を取り戻せば、その心痛に耐えられないことを彼女は理解しているに違いない。だからこそ、今の彼女はこんなにも恐怖している。

その痛みさえ受け入れさせて、桓騎と祖国を見捨てて自分を選んだことを分からせてやりたかった。

耳に蓋をしている彼女の両腕を強引に引き剝がす。

真っ直ぐに目を見据えながら、李牧はなおも残酷な言葉を紡いだ。

「目を背けるな。お前は桓騎と秦国を、全てを捨てて俺を選んだ。お前にはそれを受け入れる義務がある」

「いやだッ」

李牧を押し退けようとしたその両腕には、少しも力が入っていなかった。その場から逃げ出そうとした彼女の細腰を抱き寄せる。

信の顎を掴んで無理やり目線を合わせると、底に封じられた記憶の蓋を抉じ開けるように、低い声で囁いた。

「思い出せ、あの男を」

涙で濡れた黒曜の瞳が揺れた。

 

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「いや、いやだぁ…」

子どもが駄々をこねるように、信は首を横に振る。

全てを捨てて自分を選んだくせに、今さら何を恐れるのかと李牧は苛立たしげに舌打った。

なおも目を背けようと抵抗する彼女の顔を掴んで、無理やり目線を合わせてみても、信は子どものように泣きじゃくるばかりだった。

まともに話を聞こうとしない彼女に苛立ちが止まないものの、声を荒げるような真似はしない。これ以上怯えさせたところで、彼女は記憶を取り戻す拒絶を強めるだけだ。

「…信」

泣きじゃくっている彼女を慰めるように、李牧は彼女の体を抱き締める。可哀想なほどにその体は震えており、今のは冗談だと、つい嘘を吐いてしまうところだった。

「ううっ…ひっ、ぅ…ぅ、う…」

すぐに胸に顔を埋めて背中に腕を回してくる彼女に、絆されてしまいそうになる。

しかし、それではだめだ。信に真実を受け入れさせなければ、いつまでも過去に引き摺られることになる。

涙が伝っている頬に唇を押し当て、李牧は残酷な真実を嘘だと撤回するとなく、薄く笑んだ。

「俺がなぜお前の両目を奪わなかったと思う?」

「え…」

泣き腫らした瞳で、信が李牧を見上げる。

「あの男の首を見せるためだ。姿が見えぬと、悲鳴を聞かせても気づかないだろう?お前は信じようとしないだろう」

刃のように冷たいその言葉に、信がますます萎縮したのが分かった。
血の気を失った唇を震わせながら、信が微かに首を横に振る。

「か、…桓、騎…」

掠れた声で呼んだ名前が自分以外の男であったことから、李牧の胸は鉛が流し込まれたかのように重くなる。

思い出せと命じたのは自分のはずなのに、彼女の心を巣食っているのはやはりあの男だと、無情にも思い知らされた。

 

崩壊

「いやだっ…!」

信は涙を流しながら、李牧の体を突き飛ばした。

よろめいた李牧が机に体をぶつけ、空になっていた茶壺※急須のことと茶器が床に落ちる。小気味良い音を立てて、茶壷と茶器が割れてしまう。

子どものように泣きじゃくりながら信が身を屈め、床に落ちている茶器の破片を左手で掴むと、すぐにそれを首に宛がった。喉を切り裂くつもりなのだと瞬時に李牧は理解した。

「やめろっ!」

焦りと怒気が声に滲む。
柔らかい皮膚に鋭い破片が食い込んだのを見て、青ざめた李牧は衝動のままに彼女の頬を打つ。

「ううっ」

頬を打たれた信が茶器を手放し、その場に崩れ落ちる。

しかし、彼女は未だ首を掻き切るのを諦めなかった。床に落ちている別の破片に左手を伸ばしたのを見て、李牧の目の裏が燃えるように熱くなる。

「信ッ!」

破片を拾おうとしていた左手を容赦なく踏み付け、李牧が怒鳴りつける。

「うっ、う、ぅううっ…」

堰を切ったように双眸から大粒の涙が溢れ、食い縛った歯の隙間から、信が泣き声を上げる。

左手を踏みつけていた足を退かし、李牧は肩で息をしていることに気が付いた。

寸前のところで阻止したものの、あのまま彼女が喉を切り裂いていたらと思うと、全身の血液が逆流するようなおぞましい感覚に襲われた。

今までだって、やろうと思えば出来たはずだった。

この部屋の中で帯を使って首を括ろうが、食器を割って首を切り裂くことだって、幾つもの死地を乗り越えて来た彼女が自害する方法を知らぬはずがない。

記憶を取り戻し、祖国と仲間たちを裏切った罪悪感に蝕まれた心が自らを死に至らしめようとしている。

李牧は信に、秦国と桓騎を裏切って自分を選んだことを思い出させたかっただけで、決して彼女が死ぬことは望んでいない。

望んでいるのはその逆で、信と共に生きることだった。

 

 

これ以上言えば、信が舌を噛み切る恐れだってあることは分かっていた。それでも、李牧は堰を切ったかのように、胸に押し込めていた言葉を吐き出していく。

「お前は、桓騎と祖国を裏切って俺を選んだ。だからこそ、お前は今ここ趙国にいる」

「あっ…ああ、ぁ…あ…」

虚ろな瞳で涙を流しながら、信は李牧の言葉を拒絶することも出来ず、ただ聞いていた。
彼女の頬をそっと手で包み、無理やり目線を合わせる。

「いずれ、桓騎の首を見せてやる。そう遠くはないだろう。お前を助けるために、あの男は自ら命を差し出しに来るはずだからな」

当然のようにそう言ったのは、李牧に確信があったからだ。

秦国へ送り付けた彼女の右手と剣を見れば、誰もが彼女の死を認めざるを得ない。しかし、あの男だけはきっと信の死を信じることはない。生きていると確信をしたのなら、何としてでも救出に来るに違いないと李牧は読んでいた。

その時こそ、桓騎の命が散る瞬間を信に見せつけ、この腕の中だけがお前の居場所であると彼女に知らしめる時だ。

たとえ真実を受け入れられずに、信の心が砕けてしまったとしても、もう彼女が自分以外の男に抱かれることはない。その事実さえあればそれで良かった。

思考を巡らせていたせいか、信の左手が再び茶器の破片を掴んだことに、李牧は気づくのが遅れてしまった。

「ッ!」

茶器の破片を握る左手が視界の隅に映り込んだ瞬間、すぐにそれを抑え込もうとしたのだが、信の行動の方が僅かに早かった。

返り血が顔に跳ね、一瞬遅れてから、李牧は目の前の状況を理解する。

「ぁああ”あ”ッ」

茶器の破片で両目を切り裂いた信が悲鳴を上げている。小気味良い音を立てて、血に染まった茶器が床に転がった。

「信ッ!」

両目から血の涙を流しながら、信がその場に蹲る。

「いた、痛いぃッ、いたい、いたいッ」

自ら両目を引き裂いた激痛に堪え切れず、幼子のように泣き喚く。李牧はすぐに従者に声をかけ、侍医の手配を急がせた。

「馬鹿なことをッ」

自ら目を切り裂いたのは、桓騎の死に顔を見たくないという彼女なりの意思表示だったのだろう。

手巾で上から強く圧迫してみても出血は止まらず、それだけ深く傷をつけたことが分かる。油断していたとはいえ、李牧は止められなかったことを後悔した。

信にとって、桓騎という存在がそれほどまで強く心に根を張っていたことを今になって思い知らされたのだった。

 

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傷が深かった分、かなりの出血ではあったものの、命に別状はないようだった。

人間は目の前に何かが迫ると、反射的に瞼を閉じる習性があるというが、瞼ごと眼球が切り裂かれていた。

恐らくは二度と光を見ること出来ないだろうと侍医は冷酷に告げた。

包帯で両目を覆われた信は、今は寝台の上で寝息を立てている。

もしもあの時、両目ではなく、首を掻き切っていたのなら、きっと絶命していたに違いない。視力を失ったとしても、信の命が繋ぎ止められたことに、李牧はただ安堵していた。

桓騎の屍を見たくないという拒絶の意志から、衝動的に、自ら命を絶つことよりも両目を切り裂いたのだろう。

視力の回復の見込みがないことは、侍医に言われなくても李牧も察していた。これで彼女に桓騎の亡骸を見せることは叶わなくなってしまった。

無理やりにでもあの男の死を受け入れさせれば、信の未練は断ち切られると思っていた。今度こそ自分を選んでくれると思っていたのに、自らの手で両目を奪うほどに信の心は屈強だった。

今さらになって、彼女の心根の強さに惚れたことを思い出す。

自分が信のもとを去り、趙の宰相に上り詰めたのも、全ては彼女を滅びの運命にある秦国から救い出すためだったのに、自分の傲慢さを優先するようになっていたのはいつからだろう。

「…信」

身を屈め、彼女の額に唇を落とした。
包帯が巻かれている両目には、治癒を促す軟膏が塗布されており、薬草の独特な匂いが鼻をつく。瞼の傷が塞がるまではこの処置を続けるのだと侍医に言われた。

傷の手当てを施しながら、眠らせる薬湯も飲ませていたので、しばらくは目を覚ますことはないだろう。

右手だけでなく、両目まで失った信を見下ろす。

残っている右手で武器を持つようになるのではないかと危惧したこともあったが、視力を失ったことで、これで完全に戦場へ立てなくなった。

これで信は自分から逃げられないと安堵したことに、李牧は彼女を手に入れたいあまり、歪んだ愛情を抱いてしまったのだと自覚する。

だが、結果論だけで見れば、桓騎から信を取り戻す・・・・ことが出来た。どんな形であれ、彼女が傍にいる。

今の李牧には、それだけで十分だった。

 

 

終焉への道標

宮廷から屋敷に帰って来たのは数日ぶりのことだった。

留守を任せていた家臣たちから、留守中は特に変わりなかったとの報告を受け、李牧は屋敷の敷地内にある別院へと向かう。

家臣たちは李牧の後ろをついて歩いていたが、別院の入り口で足を止めると頭を下げ、そこからは誰一人としてついて来ない。

構わずに李牧は廊下を進み、一番奥にある寝室の前に立つ。
閂が嵌められている扉が軋む音を立てており、向こうから扉を押し開けようとしているのだとすぐに分かった。

思わず吐いた溜息は深かったが、反対に口角は軽く持ち上がっている。

「あ、ぅわっ…!?」

閂を外して扉を開けてやると、向こうから扉を押し開けようとしていた信が倒れ込んで来た。急に扉が開いたことで驚いたようで、小さな悲鳴が上がる。

「信」

反射的にその体を片手で受け止めた。

今でも包帯に包まれている両目では、何が起きているのか分からないようで、信はしきりに首を動かしていた。
そんなことをしても、その瞳にはもう一筋の光さえ届かないというのに。

「信」

静かに名前を呼ぶと、信が驚いたように体を竦ませて顔を上げる。

「あ…り、李牧…?」

左手を持ち上げて、頬に触れて来る。
視力を失った彼女は、残された左手を使って輪郭や、髪の毛、鼻の形に触れることで、相手が誰であるかを認識するようになっていた。

「か、帰って、来たのか?」

「ああ」

返事をすると、信はぎこちない笑みを浮かべる。
李牧が帰って来たことに安心した反面、どこか不安を抱いているようだった。

以前よりも随分と軽くなった彼女の体を抱きかかえると、体の至るところに新しい青痣が作られていることに気づく。

従者たちに身の回りの世話をさせているものの、この別院の奥にある寝室で一人で過ごす時間が多い。

視力を失った彼女は、少しの段差にも気づけず躓いてしまうし、家具の配置を理解出来ずに体をぶつけてしまうのだ。

怪我をしないよう、従者たちに付きっきりで世話をさせず、わざと一人の時間を長くしているのは、信の心を常に自分へ向けさせるためだった。

寝台に座らせてやると、信の左手は李牧の着物を掴んで離さない。
その手を離そうと手首を掴むと、信が首を横に振った。

「あ、ま、待ってくれ…まだ、行くな…」

不安に顔を染めている彼女を見て、李牧の口角がつり上がる。しかし、声を堪えていることから、信は李牧が恍惚な笑みを浮かべていることに気づくことはない。

「信、悪いがまだ執務が残っている」

わざと突き放すように冷たい言葉を掛けると、信が唇を噛み締めながら、名残惜しそうに着物から手を離した。

視力を失い、暗闇の世界で生きる信は、いわば孤独だった。

右手を失ったばかりの頃と違い、従者たちとも話す時間は限られており、今の自分が眠っているのか起きているのかも分からない、気の狂いそうになる時間を彼女は一人で耐えている。

だからこそ、李牧がこの部屋を訪れる度に、信は大いなる安心感を得ることが出来る。孤独を忘れることが出来る唯一の時間だからだ。そしてそれが、今の彼女の心を保っていると言ってもいい。

李牧自身、宰相としての執務があるのは嘘ではないのだが、冷たく突き放すことで、信の心を壊すことも繋ぎ止めることも出来ることを分かっていた。

そして、信自身も李牧に捨てられれば、もう自分に行き場所がないことを理解しただろう。両目を失って意識を取り戻してから、桓騎や秦国の名前を一言も発さなくなったのは、李牧の機嫌を損ねないために違いない。

これからも信が自分だけを求めるように、李牧は今の状況を最大限に利用しているのである。

 

 

「あ…も、もう少し、だけ…一緒に、…」

李牧が立ち上がると、信が小さくしゃっくりを上げて泣き始めてしまう。

一人にしないでほしいという静かな訴えに、立ち上がった李牧は思わず部屋を出るのを躊躇った。その顔は喜悦に歪んでいる。

自らの手で両目を引き裂き、視力を失っても、涙を残す機能は残されていた。包帯に染みが作られたのを見て、李牧は彼女の頬に手を伸ばす。

「…扉を開けようとしていたな」

外から閂を嵌めていることは告げず、李牧が問い掛けた。ここが母屋ではなく、別院の奥にある寝室であることは彼女に教えていない。

彼女に告げていたのは、この部屋から出てはいけないということだった。

「待っていろと約束したはずなのに、黙って部屋から出ていくつもりだったのか」

信が顔を歪めたのを見て、それが答えだと確信する。

「ち、ちがう…」

震える声で否定したが、それが嘘だというのは誰にでもわかることだった。

そして、それはまだ彼女がここから逃げ出したいという意志を捨てられずにいる証拠である。

わざとらしく大袈裟な溜息を吐くと、信が肩を竦ませる。

こんなにも彼女が臆病になり、その場をやり過ごそうとする嘘を吐くようになったのはいつからだろう。

包帯で両目を覆われていても、李牧から向けられる冷たい視線に耐え切れなくなったのか、寝台から立ち上がり、震えながら床に膝をついた。

「あ…あの、ごめ、ごめんッ、しない、…もうしない、…大人しく、待つ、から…」

包帯にいくつもの涙の染みを作りながら、謝罪を繰り返す姿は加虐性を煽らせた。

彼女が部屋を出ようとした理由など分かり切っている。孤独に耐え切れず、自分を探しに行こうとしていたのだ。

約束を破ってまで、自分を探そうとしていた彼女の健気な気持ちに、李牧の心は潤った。

「ごめん、ごめん、なさい」

信がここまで怯えているのは、李牧に見捨てられれば今度こそ行き場所を失ってしまうからだ。

右手と光を失い、二度と戦場に立てなくなった彼女は、もう記憶を取り戻している。
しかし、敵国の宰相のために国を出て、将としての価値を失った自分は、秦国へ帰っても受け入れてもらえないと思い込んでいるらしい。

だからこそ、病的なまでに彼女は李牧に捨てられることを恐れているのだ。

「り、李牧、ごめ、ん、ごめ、なさい、ご、ごめん…あの、俺…」

何も話さない李牧にますます怯えてしまい、信は泣きながら何度も謝罪を繰り返す。

記憶を取り戻してからの信はいつだって涙を流している。泣かせているのは自分だという自覚は十分にあったのだが、それでもいつかは自分を欺いて、傍にいない時に逃げ出そうとしているのではないかという疑惑が晴れない。

その疑心のせいで、信に対する愛情にさらなる歪みが生じ始めていることも、李牧は自覚していた。

しかし、生じた歪みを元に戻そうとは思わない。
それだけ彼女を愛していることも、彼女に狂わされているのも事実だからだ。

「信」

名前を呼ぶと、信の肩が大きく竦み上がった。

恐る恐るといった具合にこちらの機嫌を伺ってくる彼女に、李牧はなるべく怯えさせないように笑む。

「俺との約束を破ったのは事実だ」

すっかり痩せ細った両足に視線を落とすと、両目は見えないはずなのに、その視線に気づいたのか、泣きながら逃げようとした。

李牧の許可なしに無断で部屋を出ようとするのなら、次は足を落とすと言っていたことを思い出したのだろう。

すでに左手の親指は完治し、今では自由に使えている。右手が使えない分、左手で色々と補っているようだが、まさか閂を嵌められた扉を開けようと試みると思わなかった。

壁伝いに扉に辿り着いたことも、脱走を企てていたに違いない。

つい先ほどまで、自分に会いたがっていたはずだと優越感に浸っていた心は、いつの間にか彼女が自分から逃げ出すのではないかという焦燥感に包まれていた。

身を捩る彼女の右足を掴むと、か細い悲鳴が上がる。

「ひぃッ…!やっ、いやだ、…」

意図を察したのか、涙声で信が李牧の手を振り払おうと身を捩る。しかし、李牧は細い足首から手を放すことはしなかった。

「次に約束を破ったら、脚を落とすと言ったのに、約束を破ったお前が悪いんだろう」

諭すように穏やかな声色をかける。声色に一切の怒気は籠めていないというのに、信は震えながら首を横に振った。

もう信はこの部屋から出ることがないというのに、なぜそんなにも足を失うことを恐れているのだろうか。

「も、もうしない、ほんと、ほんとだから、頼む、おねが、お願いします」

包帯の隙間から流れ落ちた涙が頬伝うのを見て、今彼女を泣かせているのは他でもない自分だと直感した。

やるせない気持ちに襲われて、右足を掴んでいた手から力が抜ける。
足を放された信は、なりふり構わず、すぐさま李牧の前に跪いた。

「何をしている」

額を床に押し当てて、これ以上ないほどに頭を下げる信の行動を李牧はすぐに理解出来なかった。

彼女が約束を破ったのは事実だし、謝罪一つで許してもらえると思ったのなら、それは自惚れでしかない。李牧は彼女を許すつもりで右足を離した訳ではなかった。

「信」

名前を呼んでも、信は体を震わせるばかりで顔を上げようとしなかった。

手を伸ばして、李牧は彼女の顎を掴むと、無理やり顔を上げさせる。李牧はそっと彼女の唇に指を這わせながら口を開いた。

「足を落とされるのは嫌か」

泣きながら信が何度も首を縦に振る。

「俺に捨てられるのは?」

「い、やだ…」

「では、簡単な問いだ。なぜ約束を守れなかった?」

刃のように冷え切った声で詰問すると、瞼の隙間から大粒の涙が込み上げた。

「り、李牧が、帰って来ないから、あの、俺、探そうと、思って…だ、誰も、李牧がいつ、帰って来るか、どこに行ったか、教えて、くれないから」

しゃっくり交じりの涙声で必死に言葉を紡ぎ、扉を開けようとした理由を打ち明ける。

それが本心なのか、こちらの機嫌を損ねないように吐いた嘘なのかは分からない。

しかし、前者であると信じたいのは、信を愛しているからこそだ。
沈黙している李牧を見て、さらに機嫌を損ねたのではないかと、信が再び怯えたように謝罪を始めた。

額に床をついて何度もごめんなさいと繰り返す信に、李牧の乾き切った心に再び水が差す。

自分に捨てられたくないと全身で訴えており、必死に李牧の機嫌を取ろうとするその態度を見て、心の底から優越感が込み上げて来た。

もう彼女が自らの意志で自分から離れることは出来ないのだと、安堵に近い感情が李牧の口角を持ち上げていく。

李牧が声を堪えて笑っていることに、両目を失った信が気づくはずもなかった。

 

終焉への道標 その二

「お前はいつだって俺に怯え、俺の機嫌を伺う女になってしまったな」

「……、……」

責められるように冷たい声を向けられ、つい俯いてしまう。そんな信の態度を見て、李牧は小さく溜息を零した。

「俺と共にいるのが恐ろしいのだろう?傍にいない方が心休まるはずだ」

李牧のその言葉が、自分への拒絶だと理解した途端、信の顔がたちまち絶望に染まっていく。

「…以前から縁談が届いている。今までは不要だと思い断っていたが、こうなれば愛人を何人か作らなくてはならないな」

妾と聞いて、信の心臓が早鐘を打ち始める。このままでは李牧に捨てられてしまうと直感で察した。

「あ…や、いやっ、やだっ」

自分以外の妻を迎えることと、彼女たちに子を産ませようと考えている李牧に、信は悲鳴に近い声を上げた。

信の左手が李牧の着物を力強く掴んだ。許しを請うように、信は李牧に頭を摺り寄せる。

正式に婚姻を結んだものの、もしも李牧が妾を迎えて、その妾が子を孕んだとなれば、李牧は必ず自分から興味を失うだろう。考えるだけで、信の心は砕けてしまいそうなほどひどい痛みを覚えた。

約束を守らず、夫に尽くすことも出来ない自分を咎めているのだと分かったが、李牧に捨てられれば、もう自分には帰る場所がない。

将として生きることも、この敵地で女一人で生き抜くことも、何の術も持たぬ今の信には、李牧だけが拠り所だった。

野たれ死ぬのが嫌な訳ではない。敵国の将であることを理由に、死よりも辛い辱めを受けるのが怖い訳でもない。

全てを捨てて李牧を選んだ愚かな自分が、その李牧自身に捨てられるという結末を迎えるのがただ恐ろしくて堪らなかった。

「いやだ…!」

お願いだから捨てないでほしいと全身で訴える信に、李牧の口角がつり上がっていることに、彼女が気づくことはなかった。

 

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夫婦という対等であったはずの関係が、主従関係にすり替わっていることに、以前から李牧は気づいていた。

だが、婚姻関係などという弱い鎖で縛り付けておくよりも、この方がずっと良かった。

自分から逃げても、その先には何もないのだと信が理解している。それは何よりも強い足枷と鎖になって、彼女を繋ぎ止めておいてくれる。そう考えるだけで、李牧の心は満たされた。

「信」

手を伸ばして、泣きじゃくっている彼女の頭を撫でてやる。

こちらの機嫌を窺うように信がゆっくり顔を上げたので、李牧は何も言わずに彼女の唇を指でなぞった。

「………」

主の意を察したのか、信は鼻を啜ると膝立ちになり、手探りで李牧の下衣に左手を伸ばす。

目が見えないことから、手探りで男根を探そうとする彼女のたどたどしい仕草が、今となってはとても愛おしかった。

「う…」

左手だけでは ※ズボンを脱がすことが出来ず、信は鼻息を荒げながら歯を使って紐を外そうと試みる。

口での奉仕のやり方は過去に幾度となく教え込んでいたが、着物の脱がし方を教えたことはない。右手が使えないので、残された左手と口を使って懸命に男根に辿り着こうとする姿が犬のように思えて滑稽だった。

その姿が見たいために、着物に手をかける時はあえて助言をしないようにしている。

「はあっ…」

なんとか手と口の両方を使って紐を解き、褲を歯で噛んで下げると、信がすぐに男根に舌を這わせ、口に含む。まるで飢えた犬のようだった。

先ほどまでずっと泣きじゃくっており、緊張のせいか、信の口内はひどく乾いていた。ざらついた舌が男根を擦り上げて来る。

「ふ、う…ん、ふぅッ…」

必死に舌を動かし、左手が男根の根元を扱く。

異物を咥えているせいか、少しずつ唾液が分泌されて来て、信が頭を動かすたびに淫靡な水音が立ち上がって来た。

口の中で少しずつ硬くなっていく男根を感じて、信の瞳に安堵の色が浮かんだ。上手く口淫をすることが出来れば、これ以上こちらの機嫌を損ねないのだと健気に学習していたらしい。

自分を喜ばせるためだけに口淫を施す彼女の姿を、あの男にも見せてやりたいと思った。

お前ではなく信は自分を選んだのだと笑いながら、信の体を犯し尽くす姿を見せつけてやれば、あの男は自ら舌を嚙み切るだろうか。

信に桓騎の亡骸を見せてやれないことだけは心残りではあったが、今となってはもうどうでもいいことだった。

「う、ぶッ」

興奮のあまり、信の頭を抑え込み、根元まで男根を咥えさせる。陰毛に鼻を埋め、男根が隙間なく喉が塞ぐと、呼吸が出来ずに信の体が硬直した。

くぐもった声を鼻から洩らすものの、歯を立てるようなことはしない。左手が李牧の太腿を弱々しく掴むだけだった。

「っ…う、…ッぐ、ぅ、ぶ…」

永遠に閉ざされた瞳から涙が止まらず、体の痙攣が始まったのを機に、李牧は男根を引き抜いた。

激しくむせこんで、信が必死に呼吸を再開する。息が整うよりも前に、再び手探りで李牧の男根を見つけ、すぐに舌を這わせて来た。

褒めるように優しく頭を撫でてやると、惚けた表情で信が男根を口に含む。
李牧が腰を引くと、戸惑ったように信が顔を上げた。

身を屈めて彼女の体を抱き起こし、寝台に横たえると、信が緊張で固唾を飲んだのが分かった。

もう幾度となく身を繋げているというのに、未だに彼女はその腹に李牧の精を受け入れることを苦手としているらしい。

ここ最近になって月事※月経が再び途絶えてしまったのは懐妊が原因なのか、それとも両目の怪我が原因なのか、未だ侍医には判別がつかないという。もしも懐妊しているのなら、近々症状が出るに違いない。

「無理はしなくていい。俺の子を孕むのが嫌なんだろう?」

もうその腹に自分との子を孕んでいるかもしれないというのに、信が拒絶出来ないことをわかった上で、李牧は彼女に選択を委ねた。

「嫌、じゃ、ない…欲しい」

はっきりと信がそう言ったので、李牧は思わず頬を緩ませる。

自分を受け入れてくれることを信が言葉にしてくれるだけで、救われたような気持ちになる。たとえ自分の機嫌を損ねないように吐いた偽りの言葉であったとしても、彼女が桓騎ではなく自分を選んだことに意味があった。

「李牧…」

甘えるように信が名前を呼ぶ。その期待に応えるように、李牧は彼女に口づけていた。

 

二人で進んでいるこの道が、たとえ救いのない終焉へ続いているとしても、決して引き返すことも、後悔することもない。

元より、もう自分たちには戻る道など、残されていないのだから。

 

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終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編③

  • ※信の設定が特殊です。
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従順な彼女

目を覚ますと、隣に信の姿がなかった。

「…信?」

辺りを見渡すが、室内のどこにも彼女の姿は見つからない。
腕の中にも寝具の中にも彼女の温もりは残っておらず、李牧が目を覚ますよりも前に褥を抜け出していたのだと分かる。

(まさか…)

目を覚ました時に、信が失われていた記憶を取り戻しており、自分から逃げ出したではないかという不安に襲われた。

従者たちには常時見張りを頼んでいたし、両手が使えない信が扉を開けて逃げ出すようことはないと思っていたのだが、彼女を捕らえたという報告は聞かれていない。

主が眠っていたとしても、従者たちがそういった報告を怠るとは考えられなかった。
しかし、従者たちの目を盗んで逃げ出したということも考えられる。

もしも脱走していたとすれば、すでに褥に温もりが残っていないことから、恐らくはもう屋敷を抜け出したに違いない。

とはいえ、秦へ戻るにしても、あの両腕では馬の手綱を引くこともままならないだろう。一度は安心したものの、幾度も死地を生き抜いた経験がある信なら、決して不可能ではないと思うと、李牧の胸は不安に駆り立たれた。

(一体どこに…)

すぐさま着物を身に纏い、部屋を飛び出す。
まずは従者たちに信を見ていないか話を聞こうとしたのだが、

「あ、李牧」

李牧の予想に反し、廊下に出たところで、あっさりと信と再会を果たした。

「信?」

二人の侍女に支えられながら、この部屋に戻って来る途中だったらしい。
しかし、逃亡を企てたような様子はなく、付き添っている侍女たちの表情も穏やかなものだった。

信の髪が濡れており、頬が赤く上気しているのを見て、湯浴みをしていたことが分かる。情事の後で身体を清めたかったのだろう。

 

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「李牧?」

自分を見据える信の眼差しには怒りや恐怖の色はない。
まだ記憶を取り戻していないのだと分かり、李牧はほっと胸を撫で下ろした。心配は杞憂で済んだらしい。

「えっ、うわっ、な、なんだよっ?」

目の前の体を抱き締めていたのは、ほとんど無意識だった。

いきなり抱き締められたことで信は戸惑い、すぐ後ろにいる侍女たちの目線も気にして、李牧の体を突き放そうとする。

侍女たちも気を遣ったのだろう、笑顔で一礼し、何事もなかったかのように下がっていった。

しばらく腕の中で暴れていた信だったが、李牧が少しも放してくれる気配がないことが分かり、諦めたように両腕を下ろした。

「李牧…?」

声を掛けても放してくれない李牧に、信が不思議そうに首を傾げる。
彼女の体をしっかりと抱き締めながら、李牧は切なげに眉根を寄せていた。

「…お前が、居なくなってしまったかと思った」

素直にそう答えると、信が驚いたように顔を上げた。

「少しは思い知ったかよ」

僅かに怒気を込めながら彼女がそう言ったので、李牧は言葉を喉に詰まらせてしまう。体の一部が痛むかのように顔が強張った。

あの雨の日に行先も告げずに去っていった自分のことを、信はまだ恨んでいるのだとすぐに察した。

信の肩を掴み、真っ直ぐに彼女の瞳を見据える。

「…あの時は、すまなかった」

突然目の前から居なくなったことを、今更ながらに謝罪した。もしも彼女が許してくれなくても、それは当然のことだろう。信のためとはいえ、彼女を裏切ったことには変わりないのだから。

「…もういい。仕方ないから、許してやる」

返って来た声色は随分と明るかった。
目が合うと、信が歯を見せて笑ったので、李牧もつられて笑った。

「う…」

その直後、李牧の胸に凭れ掛かるように、信が膝から力を抜いてしまったので、反射的にその体を抱き止めた。

「信?」

「わ、悪い…なんだか、目の前が…揺れて…」

眩暈が起きているらしい。その言葉を聞くや否や、李牧はすぐに彼女の体を横抱きにした。風呂に入って赤く上気していたはずの顔が、今は少し青ざめている。

すぐに部屋へ戻って、寝台にその身を横たえてやると、信が力なく笑った。

「心配、すんな…風呂でも…同じだったんだ…」

それで侍女たちに支えられていたらしい。

「…昨夜は無理をさせた。すまない」

三日ぶりに目を覚まし、未だ傷も治り切っていない彼女に、昨夜は無理を強いてしまった。浅ましい情欲を抑え切れなかったことを今さらながら恥じる。

信はちいさく首を横に振ると、左手を伸ばして、そっと李牧の頬に触れた。

「…嬉しかった」

「え?」

まさかそのような言葉を言われるとは思わず、つい聞き返してしまう。

 

 

信は恥ずかしそうに目を逸らすと、泣き笑いのような顔で言葉を紡いだ。

「俺のことが、嫌になって、居なくなったって…ずっと、そう思ってたから…」

「あり得ない」

すぐに否定した李牧は身を屈めると、お互いの吐息がかかる距離まで顔を寄せた。

「お前を忘れたことなんて、一度もなかった」

その言葉を聞いた信の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。

今の彼女・・・・は、李牧が趙の宰相になったことを知らない。自分のもとを離れた理由も知らないのだと思い出し、李牧は言葉を続けた。

「…目的も告げずにお前のもとを去ったことは謝る。だが、お前を想う気持ちは何も変わっていない」

秦趙同盟の時も、李牧は決別の言葉と一緒に、今までもこれからもずっと愛し続けていることを伝えた。

もちろんそれは嘘ではなく、離れている間も、李牧が信を愛する気持ちは微塵も揺らぎはしなかった。

「じゃあ、なんで」

どうして自分のもとを去ったのだと信が問うのは必然だった。
しかし、彼女は途中で口を閉ざすと、静かに首を横に振る。問い掛けるのをやめたことに、李牧は瞠目した。

「…信?」

涙を堪えるように、信は幾度か視線を彷徨わせながら、呼吸を整えて、再び李牧を見た。

「俺のため…だったのか?」

語尾に疑問符がついている辺り、確信を突いたとは言い難いが、信がこちらの目的を察したことは間違いなさそうだ。

「何故そう思った?」

すぐには頷かず、穏やかな声色で理由を尋ねる。
少しだけ口を噤んでから、信はゆっくりと話し出す。視線は合わなかったが、彼女が自分のことを考えてくれていることは手に取るように分かった。

「…お前がすることは、いつだって、俺のためだったから…って、そんなの、自惚れだよな」

恥ずかしそうに答えた信に、鼓動が早鐘を打つ。

「自惚れじゃない」

李牧は込み上げる愛おしさに突き動かされるまま、信に口付けていた。
昨夜無理をさせたことを先ほど反省したばかりだというのに、溢れ出る想いは止められなかった。

手首から先のない右手を動かし、李牧の想いに応えるように、信はの背中に腕を回してくれた。

 

従順な彼女 その二

…その後の信は、李牧のよく知る従順な彼女に戻っていった。

馬陽から一切の記憶がない、つまりは李牧を趙の宰相だと知らないのが大きな理由だろう。
屋敷の中で療養していることもあって、ここが敵地である趙国だとも気づいていないようだった。

政務や軍務で屋敷を空けることも珍しくない李牧は、従者たちに信の世話を任せている。

自分の留守を任せている間の信の様子を報告を聞くものの、記憶を取り戻した様子もなければ、脱走する様子も見られない。

しかし、傷が癒えるにつれて、そろそろ王騎のもとへ帰りたいと愚痴を零しているらしい。

馬陽での敗走により、深手を負った養父のことが心配なのだろう。

もしも信が屋敷の外に出て、ここが趙国だと気づかれれば、彼女はなんとしても自分を敵国に連れて来た理由を探るはずだ。

今は祭祀儀礼に携わると身分を偽っているが、李牧が趙の宰相であり、王騎はもう討たれた後だと知られるのは時間の問題である。

しかし、そんな不安を覆いつくすようにして、李牧の胸を埋め尽くしていたのは幸福感だった。

今まで離れていた時間を埋めるように、夢中になって信と身を繋げ、その腹に子種を植え付けることで、彼女が記憶を取り戻すかもしれないという不安など塵のように消し飛んでしまう。

幸福感の正体は、自分の子種が信の腹で芽吹けば、どのような未来になっても彼女は自分から離れられないという安心感だった。

いずれ芽吹くそれが頑丈な鎖となって、いつまでも信を自分の傍に繋ぎとめておいてくれると、李牧は信じていたのである。

 

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「李牧、帰ったのか」

数日ぶりに屋敷に戻ると、侍女から報告を受けたすぐに信が出迎えてくれた。

「ああ、留守を任せてすまなかったな」

屋敷に帰って来ただけだというのに、信は満面の笑みを浮かべた。
不思議なことに、その笑顔を見るだけで執務の疲労や重責なんて消え去ってしまう。

「退屈していただろう」

「んー…まあ、ちょっとはな」

敷地内の庭園に出るくらいの外出は許可しているが、屋敷から出るのは、傷が完全に癒えてからだという約束をしている。王騎たちのもとへ顔を出すのもその時にしようと話していた。

従順な彼女が約束を破ることはないと分かっていたが、記憶を取り戻したのならばきっと脱走を試みるに違いない。

ようやく彼女を手に入れたはずなのに、李牧はいつも不安に襲われていた。

「傷の具合はどうだ」

自分の意識を不安から逸らすように問いかけると、信があははと笑った。

「薬湯をもらってからは調子が良い。まあ、すっげえ苦ぇけど…」

失った右手が痛むことがあると、信が訴えたのは先月からだった。
右腕を落とした時に処置をしてくれた侍医に依頼し、薬湯を調合してもらっているのだが、それを飲むまでは寝台から起き上がれないほどの強い痛みがあったという。

切断面の傷口は順調に塞がっていたのだが、失ったはずのその先が痛むのだと、幼子のように泣きながら訴えて来た信の姿は今でも覚えている。

侍医に相談すると、一時的な幻肢痛だろうと言われ、痛み止めと称して気分が落ち着く薬湯を調合してくれた。万が一を考えて、妊婦が服用しても問題ないものだ。

薬湯を飲むと痛みが和らいだと言うので、痛みがひどい時には同じ薬湯を飲ませるように従者たちに指示をしている。

実際には痛み止めの作用が含まれていないというのに、効果があったということは彼女の精神的なものが関与しているのかもしれないと侍医は言った。

それはきっと、二度と戦場に立てぬという信の中の葛藤が引き起こしているのかもしれない。

将としての未練がまだ根強く残っているのは分かっていたが、いずれ自分の妻として生きることを受け入れれば、幻肢痛もなくなるだろうと李牧は考えていた。

薬湯を飲んでも痛みが引かぬ時には、眠りの作用がある香を焚いて、彼女の意識を無理やり痛みから引き離していた。

何をきっかけに記憶を取り戻すか分からない彼女を逃がさないためであったが、それらの処置が全て李牧の気遣いによるものであると信は疑うことなく信じているらしい。

「…ありがとな」

照れくさそうに信に感謝される。
そのはにかんだ笑顔を目の当たりにすると、心が掻き立てられるように、李牧は無意識のうちに両腕を伸ばしていた。

「わっ、何だよ?」

つい彼女の体を抱き締めると、驚いた信が腕の中で身じろぐ。周りにいる侍女たちの目を気にしているだけなのはすぐに分かった。

食事の支度があるからと、自分たちを気遣った侍女たちが下がっていき、誰も居なくなってから、信は背中に腕を回して来た。

自分の胸に顔を埋めて、幸せそうに笑みを浮かべている信の姿を見て、二度と放したくないという想いはますます膨れ上がるばかりだった。

 

「…なあ、俺、そろそろ」

信が何を言わんとしているのかは手に取るように分かった。

「まだ傷は完全に癒えていないだろう」

屋敷へ帰るという彼女の言葉を掻き消すように、李牧は言葉を発すると、信は少し不満そうに眉根を寄せた。

傷が癒えてから外に出る約束を交わしていたが、王騎たちのもとへ顔を出すのもその時だという約束を交わしていた。ただし、彼女は右手が使えないので一人で乗馬は出来ない。

執務が落ち着いたら、馬車を手配するから二人で会いに行こうと何度も伝えているのに、信は李牧の執務を気遣ってか、一人で帰ると聞かないのだ。

「左手があるんだから手綱も握れる。一人で戻れるって」

「もしも馬に振り落とされたら?以前のように動けると思うな」

「でも…」

まだ食い下がろうとする信に、李牧がわざとらしく溜息を吐く。

「あ…」

僅かに怯えの色を浮かべた信を見下ろし、李牧は口を閉ざした。
言葉にせずともその態度を見れば、李牧に見捨てられれば行き場を失ってしまうことを信は理解しているようだった。

「わ、悪い…俺…」

元より、武の才能を見出されて王騎に引き取られた彼女は、右腕を失ったことで将としての未来が潰えた。すなわちそれは、将として王騎の期待に応えることが出来なくなったということだ。

常日頃から王騎と嬴政のもとへ顔を出したいと話している彼女が、武器を持てなくなったことを何と伝えようか悩んでいることも知っている。

それまで将としての地位を築いていたというのに、もう秦の戦力にはなれないのだと知った仲間たちに落胆されるのが恐ろしいと感じていることも、李牧は分かっていた。

幻肢痛にうなされながら、朦朧とする意識の中で、彼女は何度も仲間たちに謝罪していたからだ。

李牧の腕の中が、これから自分の唯一の居場所になるのだと信は分かっている。
だからこそ、李牧の機嫌を損ねて、自らその居場所を失うような真似はしたくないのだろう。

「り、李牧の執務が落ち着いてから…一緒に、…」

一人ではなく、二人で一緒に帰ると話した信に、李牧の機嫌はようやく戻った。

「ああ、王騎には書簡を出しておく。心配するな」

心配をかけぬようにと、李牧は定期的に王騎へ書簡を送っていると伝えていた。もちろん送り主はすでにこの世にいないので、そんな書簡のやり取りなど行っていないのだが、信は李牧の言葉を健気に信じ込んでいる。

「と、父さ…王騎将軍から、返事は?」

その問いには答えず、李牧は食事の支度が出来たと知らせに来た侍女の方へ向き直った。

王騎からの返事がないことに、信の心が不安に蝕まれていることは分かっていた。どうやら、右手を失ったことで養父から見捨てられたと思い始めているらしい。

こうして信の周りにいた者たちの存在を蹴落としていけば、ますます彼女の心の拠り所は自分という存在だけになっていく。

隣から不安そうに顔を歪める信の視線を感じていたが、李牧は気づかないふりをして背中を向け、薄く笑んだ。

 

違和感

あれから数か月が経ったが、未だ信の記憶が戻ることはなかった。

傷が癒えてから屋敷の外に出るという約束を交わしていたのだが、外出中に右手が痛んだらと思うと、信も外出が億劫になってしまったらしい。

無理はしなくていいと伝えたが、李牧にとってはとても都合が良いことだった。

恐らくは李牧の機嫌を損ねないように、外出を控えることを選んだのだろう。王騎たちのもとに顔を出したいと言わなくなったのも、李牧の執務が落ち着いてからと共に行くのだと、健気に信じているようだった。

 

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「あ、ま、待ってくれ…」

その日の夜も、寝台に信の体を横たえると、戸惑ったように彼女は左手で李牧の肩を押し返した。

珍しく抵抗の色を見せたことに、李牧は瞬きを繰り返す。

「…最近…その」

何か言いづらいことがあるのだろうか、信が言葉を選ぶように目を泳がせている。

下腹に手を当てていたので、もしや懐妊したのではないかと李牧は期待に胸を膨らませた。
この屋敷で信の世話を任せている医師や侍女たちからは、その類の報告を受けていなかったが、もしかしたらと考える。

「どうした。体調が優れないのか?」

それを表情に出すことはなく、李牧は冷静に話を聞き出すことに務めた。

彼女を趙に連れて来てから、自分たちは未だ婚姻を結んでいない。夫婦になる前だというのに、子を孕んでしまうことを信は気にしているのかもしれない。

しかし、今の記憶が混雑している信は、馬陽の戦いの後、李牧の屋敷で療養していると信じ切っている。ここが趙国であることも、そして李牧が趙の宰相であることも信は知らないのだ。

本来なら、趙の宰相と秦の将軍という敵対している者同士での婚姻は許されるはずがないのだが、もちろんそんなことは李牧も分かっている。

だからこそ、李牧は彼女の死を偽装したのである。

切り落とした右手を、信が秦王から賜った剣と共に送ってやったし、趙や他国でも飛信軍の信の訃報は広まっている。首を晒すことはせずとも、そのような話が広まったのは李牧による情報操作によるものだった。

信の死が中華全土に広まってから、李牧は何者でもなくなった彼女と婚姻を結ぶ手立てを講じていた。

信が趙に来てから、密偵に秦の動きを追跡させていたが、大々的に彼女の葬儀を執り行った以外で特に動きはないらしい。

…もっとも、秦国で彼女の死を認めぬ者・・・・・・・・・が、邪魔立てをしないとは限らない。

だが、彼女一人のために戦を起こすことや、単騎で取り戻しに来るような愚か者はいないだろう。それが例え、桓騎だとしてもだ。

聡明な頭脳を持つからこそ、桓騎が単騎で取り戻しに来るとは考えられなかった。かといって、信の死をその目で確かめるためだけに、独断で軍を動かすとも思えない。

慢心してしまう状況にあるのは当然だ。この状況下で信を取り戻されることは絶対にないと断言出来るからである。

信が生きる道は、もう自分の腕の中にしかない。

国と共にその身を滅ぼすような愚かな真似はせず、自分の妻としての役目を果たせば良い。そのために、李牧は一度は彼女を裏切ったのだから。

従者たちから、妻の扱いを受けていることには未だに慣れないようだが、李牧が不在の間も逃げ出す素振りはないという。

そしてこの屋敷で過ごす間に、信に月事月経が戻って来たのも、侍女から報告を受けていた。

長年ずっと戦に出ていた侵襲からか、月事が途絶えることは彼女にとって珍しいことではなかったという。桓騎の子を孕まなかったのもそれが幸いしたのだろう。

将として生きる道が途絶えたことで、愛する男との子を産むという女の幸せを手に入れようとしているのだと、彼女の腹が自分の子種を求めているのだと、李牧は決して疑わなかった。

 

 

「え、と…」

言葉を待っていると、信は顔色を窺うように、上目遣いで見上げて来た。

「その、最近、なんで…中で…出すんだ…?」

「…は?」

どうして中で射精するのかという問いに、その胎に子種を植え付ける以外の回答があるのかと李牧は瞠目した。

瞠目している李牧を見ると、信は恥ずかしそうに俯いて、それから両手を自分の胸の前で挙げた。

右手は手首から先がなく、止血のために焼かれた断面は痛々しい。火傷自体の治療は終わったものの、今も包帯を巻いているのは傷跡を直に見ないようにするための配慮だ。

左手の親指は、正しい位置に骨を戻されて完治していたが、時折引き攣るような痛みがあって、上手く動かせない時があるらしい。未だ包帯で固定しているのはそのせいだった。

どちらも馬陽での戦で受けた傷であると、信は李牧の言葉を疑うことなく信じている。

落馬によって左手の指を骨折したこと、右腕は傷口が化膿したせいで落とすより他に方法がなかったと言えば、記憶のない彼女も受け入れるしかなかったらしい。

もしも、二度と武器を持たせぬために落としたのだと言えば、信は憤怒するだろうか。

「お、俺…今、手がこんなだから…うまく、中の、あの…掻き出せなくて…」

予想もしていなかった言葉を掛けられて、李牧はしばらく言葉を失った。
そういえばここ最近の情事の後、目を覚ますと信が居なくなっており、湯浴みをしていたのだと話していたことを思い出す。

着替えを手伝っていた侍女たちの証言もあったので、そこまでは気に留めていなかったのだが、それは失態だった。

記憶が戻ったことを内密にしており、水面下で逃亡を企てているのではないかという心配は絶えず、今も従者たちには動きを見張らせている。

しかし、まさか情事を終える度に、自分が腹に植え付けた子種を掻き出していたとは思わなった。

彼女の両手が不自由であることから、侍女に身の回りの世話は任せていたが、湯浴みの手伝いは不要だといつも断られていると報告があったことを思い出す。

それは常日頃から手を借りている侍女たちに対して、ただの遠慮だと思っていたのだが、その時に気付くべきだった。

未だに褥で肌を重ね合うのも恥じらうくらいなのだから、浴室で精液を掻き出す姿を誰にも見せたくなかったのだろう。

確実な避妊方法とは言い難いが、まさか自分の目を盗んでそんなことをしていたとは思わず、李牧は眉根に不機嫌の色を浮かべる。

右手を落として五日ぶりに目覚めた信と体を重ねた翌朝も、彼女は傷だらけの体を引きずって湯浴みをしていた。

それもすべて腹に植えつけた子種を掻き出すためだったのかと思うと、李牧はひどく裏切られた気分に陥った。

 

 

「あ…李牧…?」

急に黙り込んだ李牧に、信が顔色を窺うように見上げて来る。

人の顔色を気にするような女ではなかったのに、この屋敷で過ごすうちに、信は随分と臆病な性格に変わっていた。

「…いつも俺が見ていないところで、子種を掻き出していたんだな?」

まるで責めるような口調で詰め寄られ、信は怯えたように肩を竦ませた。

「だ…だ、って、もし、孕んだら…」

「孕めばいい。何も問題はないはずだ」

どうやらその答えは信にとっては予想外だったのか、あからさまに狼狽えていた。

手首から先のない彼女の右腕を掴むと、

「…この腕では、どのみち将に戻ることは出来まい。俺の妻として生きればいいと、何度も言っているだろう」

婚姻を結ぶのは簡単だが、未だ信の傷が完全に癒えていないこともあり、彼女の体調が落ち着いてから行う予定だった。

しかし、信にその話は幾度となくしていたが、彼女は後ろめたさがあるのか、いつも返事を濁らせるばかりだった。

きっと将としての未練が心に深く残っているのだろう。

右手を失い、馬にも乗らず、武器を持たぬことで衰えていく筋力を見れば、信も将として再び戦場に立つことは叶わないのだと分かっているはずだ。

「で、でも、…まだ…」

しかし、まだ子を孕むことには抵抗があるような素振りに、李牧の苛立ちは増すばかりだった。

「父さ…王騎将軍にも、仲間たちにも、何も、伝えてないし、それに、政にだって…」

将としての未練があるとは直接言わず、養父と秦王から将の座を降りることを告げていないと言った。義理堅い彼女が考えそうなことだ。

「そんなこと、もう戦に出られないお前が気にすることではない」

今の信は王騎の死を知らない。そして間もなく秦国が滅びゆく未来も知ることはない。
しかし、李牧にとってそれは些細なことだった。

隠蔽を決めたのは、事実を告げることで信が記憶を取り戻すことになり兼ねないという配慮からである。

信を戦から遠ざけることさえ出来れば、李牧はそれで良かったのだ。

「何が不満だ?もう将への未練はないはずだろう」

どうして普段のように自分の言うことを聞かないのかと、声色に苛立ちを滲ませると、信が弱々しい瞳で見上げて来た。

「な、なんか…お前、最近、怖いぞ?」

引き攣った笑みを口元に浮かべ、信が恐る恐るといった様子で、しかし李牧を怒らせたくないのか、どこか茶化すような雰囲気を滲ませながら問う。

 

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「怖い?」

聞き返すと、信が小さく頷いた。
目を合わせようとしないのは、こちらの機嫌を損ねたくないからなのだろうか。

「前まで、そんなこと…妻になれなんて、言わなかった、のに…」

そういえば共にあの屋敷で過ごしていた日々では、彼女を身体を重ねることも、想いを告げることはあっても、面と向かって求婚をしたことはなかった。

その当時の記憶のままでいる信は、急に李牧から妻のような扱いを受けることに戸惑っているらしい。

「信」

言葉を遮ると、信が泣きそうなほど顔を弱々しく歪めて、口を噤んだ。

今のお前の務め・・・・・・・は、なんだ?」

小癪にもまだ将への未練を残している信に、低い声で問い掛ける。

「……、……」

何度か唇を戦慄かせるものの、信はそれ・・を言葉にする前に、諦めたように口を噤んでしまう。

答えを強要することは簡単だ。だからこそ、彼女の意志で言わせなければ意味がない。

右手を失ったことはもう受け入れているのだから、きっと以前のように従順になると思ったのだが、そうではなかった。

秦将として祖国を守ることは彼女の生きる道でもあったのだから、そう簡単に取り除くことは出来なさそうだ。

時間さえ経過すれば、そのうち忠義も風化していくとばかり思っていたのだが、戦から遠ざけようとすればするほど信は将への未練に執着してしまう。

いっそ、馬陽で王騎を討ち取ったことも、秦が間もなく滅びることも告げてやろうかと考え、その度に言葉を飲み込んでいた。

馬陽の後から記憶を失っている彼女にその残酷な事実を告げれば、それをきっかけに記憶を取り戻すことになるかもしれない。

もしもそんなことになったら、彼女は自ら命を絶つに違いなかった。

過程はどうであれ、信が自らの意志でこの腕の中に戻って来てくれたのだ。二度と失いたくはない。

「信、今のお前の務めは何だ?」

自分でも驚くほど低い声で、もう一度同じことを問いかける。

 

綻び

しばらく沈黙を貫いていた信だったが、口元に力なく笑みを繕うと、

「…李牧と、一緒にいる」

乾いた声でそう答えたのだった。

答えとしては上々。あとはその胎に自分の子を宿してくれたのなら、もう将としての未練も断ち切り、李牧の妻として生きる道を歩んでくれることだろう。李牧はずっとそう思っていた。

「けど…」

か弱い声で言葉を紡いだので、李牧はまだ未練があるのかと眉根を寄せた。

「政や、父さんにも、伝えねえと…」

義理堅い信は、将の座を退くにあたって、他にもやり残したことがあると訴える。

「それに、芙蓉閣にも、顔出さねえと…あれからずっと、顔出してねえから、桓騎が…色々文句言って来そうだし…」

秦王や王騎の名前はともかく、今の信から桓騎の名前が出て来るとは思わず、李牧は驚いて息を詰まらせてしまう。

気づけば信の両肩を掴んでいて、李牧は血走った目を向けていた。

「痛ぇってッ…李牧っ…!」

急に力強く肩を掴まれたことで、信も驚いている。

「桓騎のことを思い出したのか」

「は…?」

低い声で囁いた李牧に、信は訳が分からないといった表情を浮かべた。

「お、思い出すも、何も…桓騎は、咸陽で保護したガキだ…ずっと面倒見てたんだから、忘れるわけがないだろ」

以前、間者を送り込んで徹底的に桓騎の素性について調べさせたが、特に情報は得られなかった。

親もおらず、戦争孤児となって咸陽で行き倒れていたところを信が保護し、彼女が立ち上げた女子供の保護施設である芙蓉閣で育てられたのだという。

初陣を果たしてからみるみるうちに知将の才を芽吹かせた桓騎は、初陣でも功績を上げてみるみる昇格していった。馬陽の時はまだ将軍ではなかったものの、その後はすぐに将軍昇格を果たしていたし、今では秦国欠かせない強大な戦力である。

そして桓騎は信を恩人として慕うのではなく、女として見ていた。そして、信も桓騎を愛していた。

李牧がそれを知ったのは、秦趙同盟を結んだ後のことである。

彼女の体調が優れないことを指摘したのは李牧自身だったし、自分と再会したことを気に病んで、きちんと休めているのかが心配だった。

信が療養している部屋に向かうと、扉の隙間から聞こえた嬌声に、思わず立ち入るのをやめてしまったのだが、桓騎とまぐわっている姿がそこにあった。

甘い声で鳴く信の姿に、自分と離れている間にあの男と恋仲になったのかと、李牧はやるせない想いに駆られたことを思い出す。

理由も告げずに彼女のもとから去っていった自分への罰だと思った。

―――…李、牧…

しかし、信は桓騎の愛撫に甘い声を上げながら、あの時、確かに自分の名前を呼んだのだ。
その瞬間、桓騎は驚愕し、そして信も我に返ったかのように桓騎と身体を繋げていることに青ざめていた。

―――…なら、お前が誘ったのは俺じゃなくて、李牧だったってことで良いんだな?

それまで自分を求めていた女とは思えないほどの豹変ぶりに、桓騎は冷酷に尋ねていた。
その問いに、信は分かりやすく狼狽え、そしてそれが肯定だと分かったのは桓騎だけでなく、李牧もだった。

今でも信は、自分のことを愛しているのだ。

途端に愛しさが込み上げて来て、叫び出しそうなほど、李牧は喜悦した。
しかし、後日になって快調した信のもとを訪れ、趙に来るように告げた時、彼女はそれを拒絶した。

あのとき既に、信は過去を断ち切り、自分と別の道を歩み始めていたのである。

 

綻び その二

未だ秦王たちに会いに行くのを諦め切れないでいる信が、縋るように李牧を見た。

「あいつらに顔を見せて、安心させてやらねえと…」

「お前の近況を記した書簡なら出したと言っただろう」

一向に書簡の返事が来ないことを彼女が気にしていることも分かっていた。もちろん書簡のやり取りなど行っていないのだから、返事など来るはずがない。

屋敷を出る許しが得られないのだと分かり、信が泣きそうな表情を浮かべる。しかし、そんな表情一つで李牧の心が揺れ動くことはなかった。

「…全部終わったら、ちゃんと、ちゃんとするから…頼む…」

ここで引いておけば良かったものを、信は諦めずに説得を試みることにしたらしい。

ちゃんとする・・・・・・というのは、自分との婚姻を受け入れることだと分かったが、李牧は彼女の言葉を受け入れようとはしない。

縋るように、信が涙目で見上げて来た。

「飛信軍のことだって…桓騎軍・・・のことも、信頼出来る奴らに任せねえと」

馬陽の戦いで記憶が途切れている信が、桓騎軍と言ったことに、李牧は違和感を覚えた。

「今、桓騎軍と言ったな?」

聞き返すと、信は不思議そうに頷く。

「あ、ああ、言った…え、あれ…?軍…?」

今の信の中では、桓騎はまだ将軍へ昇格していないはずだ。だというのに、なぜ桓騎軍の存在が出て来るのか。

それを疑問に感じたのは李牧だけでなかった。

「え…な、なんで、俺、桓騎が将軍みたいなこと…まだあいつ、そこまで…」

どうして桓騎軍と口に出したのか、信自身も疑問を隠せないでいるらしい。
記憶が混在しているのだと李牧は冷静に考えたが、もしかしたら少しずつ失われた記憶を取り戻そうとしているのかもしれない。

「信」

早鐘を打つ心臓を押さえながら、李牧は信の両肩を掴む。

「な、なんだよ」

怯えたように信が声を震わせる。

「…信」

今の彼女があるのは、秦国を裏切る選択をしたからこそだ。
全てを捨てて自分を選んだのは信自身なのだから、その事実を受容させなくてはならない。

信が本当に愛しているのは桓騎ではなく、この自分だと、李牧は何としてでも彼女に理解させようと考えた。

「思い出せ。王騎は馬陽で死に、お前は桓騎と秦国を裏切って俺を選んだ」

真っ直ぐに信のことを見据えた李牧は、静かに呪いの言葉を言い放つ。

封じられた記憶の扉を開ける鍵の役割を担っているその言葉を、信は愕然とした表情で聞いていた。

 

後編はこちら

The post 終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編③ first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

中編①はこちら

懺悔

激痛で焼き切れそうになる意識を繋ぎ止めたのは、幾度も死地を駆け抜けた強靭な精神力のおかげだったのかもしれない。

しかし、今となってはもう、武器を振るうことも出来ない弱い女が、ただ痛みに耐えているだけだった。

「信、気をしっかり持ちなさい」

止血のために切断面に布を被せ、強く圧迫しているのは、右手首を落とした李牧自身だった。

「ひぐ、ッぅ…ふ、ぅく…」

床に落ちている手と、止血をされている腕を交互に見て、右手が身体から切り離されたことを頭が理解するまで、しばらく時間が掛かった。

呼吸がしやすいように、咥えさせられていた布を外されると、がちがちと歯が打ち鳴った。

止血のために断面部を強く押さえられているものの、布はたちまち血で真っ赤に染まっていく。

右手を失うことくらい致命傷ではないと頭では理解しているものの、心臓が脈打つ度に血が溢れて、布だけでなく、床まで真っ赤に染まっている。

床を汚しているおびただしい血の量を見て、それが全て自分の血だと思うと、このまま死んでしまうのではないかという気持ちになった。

しかし、まだ死ぬわけにはいかない。信は歯を食い縛りながら、李牧を睨むように見据えた。

「こ、これ、で…桓騎は、見逃して、くれるんだな…?」

歯を打ち鳴らしながら何とか紡いだ信の言葉を聞いた李牧は、不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げた。

「…何の話ですか?」

返された言葉に、信の中で一瞬だけ時間が止まった。

 

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呆然としている信を見据えながら、

「もう二度とあなたには武器を握ってもらいたくないとは言いましたが、桓騎に手を出さないと誓った覚えはありませんよ」

圧迫止血をする手を休ませることなく、李牧は残酷な言葉を吐き捨てた。

目の奥が燃えるように熱くなり、信はその一瞬、右手を切断された痛みを忘れるほど、怒りに頭が支配された。

「李牧、てめえッ」

残っている左手を振り上げる。
武器を持つことも考えられず、ただ拳を作っただけの攻撃に、李牧は驚くこともしなかった。

まるで信の反撃を予想していたと言わんばかりに、軽々と左手首を掴まれる。
これが決して埋められぬ力の差であると、認めざるを得なかった。

しかし、頭に血が上り切った信は、諦めを知らない。

両手が使えないならと李牧の腕に噛みつこうとした途端、耳を塞ぎたくなるような、嫌な音が響き渡った。

「あああッ」

左手の親指が不自然な方向を向いていることに気付くのと、新たな激痛に信が悲鳴を上げたのはほぼ同時だった。

「あ…ぁ…」

血を流し過ぎたせいだろうか、信の意識は白く霞んでいく。

着物が血で汚れることも厭わず、目線を合わせるように信の前で膝をついた李牧は、彼女の青白くなっていく顔を見つめる。頬に手を伸ばすと、しっとりと汗をかいているものの、まるで氷のように冷たくなっていた。

もう抵抗する気力も体力も底をついたのだろう、李牧に触れられても、信はその手を振り払うことも顔を背けることもしなかった。

「…自らの意志で敵地に乗り込んで来たことは称賛します。しかし、考えが甘かった。あなたの敗因は、卑怯者である私を信じたことでしょうね」

少しずつ瞳から光を失っていく信が、その言葉に反応するかのように唇を戦慄かせた。今の彼女が懺悔と後悔に支配されているのは、言うまでもない。

「か、桓、騎…」

頬を伝う涙は、血の気を失った青白い肌と違って温かった。

その涙を指で拭ってやりながら、李牧は小さく溜息を吐く。

「…あの夜は、桓騎に抱かれながら私の名を呼んでいたというのに、…今となっては、ではなく、あの男の名を呼ぶのだな」

悲しげな瞳をしていたが、その声は、刃と同じくらいに冷ややかだった。

 

 

右手の止血に集中しなくてはと思っていたのだが、最後まで信が抵抗を続けたせいで、速やかな処置が出来なかった。余計な出血をさせてしまったのはそのせいだろう。

青白い顔で床に倒れ込んでいる信は、か細い呼吸を繰り返していた。

僅かに目は開いているものの、その瞳に光はなく虚ろで、体も脱力している。もうほとんど意識を手放していると言っても良いだろう。

ちょうどその時、あらかじめ呼んでおいた医師が来訪した。

未だ出血している右腕の状態を見て、このまま止血を続けるより、切断面を焼いた方が早いだろうと言われる。

部屋の隅に設置していた青銅製の火鉢には、一本の剣が刺さっている。念のためにと用意していたものだったが、やはり使うことになったかと李牧は落胆を隠し切れなかった。

柄を掴んで剣を引き抜く。火鉢の中で熱を帯びていた刃がぬらぬらと熱を帯びて赤く光っていた。

医師が信の右腕を持ち上げて、未だに血を流し続ける断面を李牧へ向けた。

迷うことなく李牧は真っ赤な刃を断面に押し当てる。意識を失っていても体が激痛を感じているのか、信の体が大きく跳ね上がった。

皮膚が焼ける音がして、鼻につく匂いが煙と共に部屋に充満する。待機していた兵たちはその匂いに顔をしかめていたが、李牧だけはうっすらと笑みを浮かべていたのだった。

一瞬で焼け爛れた腕の断面に軟膏を塗布し、医師が丁寧に包帯を巻いていく。

左手の親指も骨の位置を正しく戻してから、きつく包帯で固定する。これでしばらく両手は使えないだろう。もっとも、右手は二度と使えないのだが。

「………」

李牧は床に落ちていた信の右手を拾い上げた。
切り離されたその手は少しずつ冷たくなっていて、すでに拘縮が始まっており、文字通り血の気が失われている。幾度も武器を振るって肥厚した将の手だった。

悲しみを堪えるために、拳を握って血が流れるほど爪を食い込ませた痕が残っている。他の誰でもない信の手だ。

腕を切り落とすのに借りた剣は、信が秦王嬴政から賜った剣であることを李牧は知っていた。彼女自身の血に塗れた刃をあえて拭うことはせず、李牧は兵に声をかける。

「これを秦国に、必ず送り届けて下さい」

礼儀正しく一礼した兵が李牧の手から、切り落とされた信の右手と血塗れの剣を受け取る。

信は多くの兵や民から慕われている秦将だ。秦王嬴政だけでなく、他の将とも交流があるし、配下たちからは厚い信頼を得ている。今頃、彼女の不在を不審がる者たちが現れているに違いない。

そんな時に趙からの贈り物・・・・・・・が秦に届けば、混乱は必須。しかし、彼女が趙でその命を散らせたと誰もが信じ込むはずである。

そして合従軍から秦王と秦国を守り抜いた英雄として、信の存在は長く語り継がれることだろう。

なぜ彼女が戦でもないのに、趙国でその命を散らすことになったのか。それを深く追求し、答えに辿り着く者がいるとすれば、それは李牧の懸念材料である桓騎だけだろう。

(…きっと、あの男だけは信じないでしょうが)

自分の処刑を記した木簡を彼が読んだかは分からないが、信が必死に桓騎を守ろうとしていたあの姿を見れば、彼が救援に来ることを想定していたのだろう。

あの男の聡明な頭脳と知将としての才、そして信に向けている気持ちは李牧もよく知っている。

信が敵国へ、しかも秦を滅ぼさんとした趙の宰相の救援へ向かったと裏付ける証拠になり得るあの木簡を、桓騎は誰の目にもつかぬ場所で処分するはずだと睨んでいた。

命を懸けて秦国と秦王を守り抜いた彼女が趙と密通していたという疑いが掛けられれば、英雄から一転、裏切り者として中華全土にその汚名が広まることになる。

桓騎としては、信の名がそのように汚されることは断じて許さないはずだ。

もっとも、李牧にとっては信の訃報さえ広まれば、彼女が英雄扱いされようが、裏切り者扱いされようが、どちらでも良かった。

…そして、もしも桓騎が信を救出しに来るのならば、それは桓騎自身も命を捨てる覚悟を決めた時だろう。

彼が信と共倒れをするような、短慮な策を考える男ではないことを李牧も分かっていた。自らの命を犠牲にしてでも、何としても信を救い出そうとするに違いない。

そして李牧も、その機を逃すことなく、桓騎の首を取るつもりだった。

趙国の宰相である自分の屋敷に敵国の将がいるとなれば、下手に密通を勘繰る者もいるだろうし、飛信軍に恨みを抱く者たちが報復のために信の身柄を奪いに来るかもしれない。信の身に危険が及ぶことだけは避けたかった。

それに、どのみち秦国に贈り物・・・が届いたのならば、生死は問わず、信の所在は趙にあると広まるだろう。彼女の死を信じない者たちから、信を奪われることだけは何としても避けたかった。

だが、もしも信を逃がすことになったとしても、桓騎の首を取った後で、もう一度取り戻せば良いだけだ。

彼女が自分のために身一つで趙へ駆けつけてくれたのは、長い間共に過ごしていた単なる情に過ぎない。それは桓騎への愛よりも下回る感情なのだと思うと、それだけで腸が煮えくり返りそうになる。

だが、もう二度と他の男の手垢に汚されることはない。

李牧は信を手に入れる未来のために、一度は彼女を手放したのだから。

 

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初めての嘘

命に別状はないとはいえ、右腕の出血がそれなりに多かったせいか、回復まで時間を要するだろうと医師は話していた。

今、彼女の身柄は李牧の屋敷にあり、信頼出来る従者たちにその世話を任せている。

その日、執務を終えて屋敷に戻るなり、従者から信がようやく目を覚ましたという報告を受けた李牧は、足早に彼女がいる部屋へと向かった。彼女が趙に来てから、三日目のことだった。

部屋に入ると、信は寝台で身を起こしていた。
李牧が部屋に入って来たことにも気づかず、ぼうっとした様子で格子窓の向こうにある月夜を眺めていた。

三日も眠っていたのだから、自分の身に何が起きたのか、彼女自身も混乱しているのかもしれない。

「信」

名を呼ぶと、信はゆっくりとこちらを振り返った。

「…李牧…?」

彼女の双眸に光は戻っていたが、李牧を見るなり、顔に僅かな緊張が浮かぶ。

趙国に信を誘い込んだだけでなく、その右腕を落としたのだから、怯えるのも無理はない。憎悪を向けられるのは当然だと思った。

しかし、信の瞳は戸惑うばかりで、こちらに罵声を浴びせることもしない。

人質という立場として利用している訳でもないので、信自身もどうして生かされているのか、きっと分からずに戸惑っているのだろう。

何と声を掛けようか、李牧が思考を巡らせていると、

「お前…今まで、ずっと、どこで何してたんだよッ!?」

まるで自分のことを案ずるような言葉を掛けられ、これにはさすがの李牧も動揺を隠し切れなかった。

何を言っているのだと聞き返そうとした途端、信の瞳にみるみるうちに涙が溜まっていく。
それが決して演技などではなく、本気で自分との再会に安堵しているのだと分かると、李牧は沸き上がる違和感に思わず眉根を寄せるのだった。

あの雨の日・・・・・、お前が急に居なくなって…俺、…」

嗚咽で濁ってしまった言葉に、李牧はまさかと目を見開く。
たった今、信の口から出たあの雨の日というのが、自分が彼女のもとを去ったあの日であると、すぐに結びついた。

李牧が内心動揺していることに気づかず、信は思い出したように言葉を続ける。

「あ、そ、そうだ!父さ、王騎将軍はっ?馬陽で趙軍の策に嵌められたんだ。俺、父さんを助けようと思って…それで…」

信の養父である王騎が没した馬陽の戦の話を持ち出され、李牧のこめかみは締め付けられるように痛んだ。しかし、それを表情に出すことはしない。

訴えから察するに、恐らく信は、馬陽の戦いから先の記憶が無くなっているようだ。

(まさか、そんなことがあり得るのか)

予想外の出来事に、李牧は言葉を失ったまま、信のことを見つめていた。

 

人は耐え切れぬ心痛に襲われると、防衛のため、無意識のうちに記憶を排除することがあるのだという。
医学に関してはそこまで知識のない李牧だが、その話は人づてに聞いたことがあった。

ただし、実例を見たことは一度もない。よって、記憶が元に戻る方法は、聡明な李牧であっても分からない話だった。

「…李牧?」

いつまでも黙り込んでいる李牧に、信が不思議そうに問いかける。
はっと我に返った李牧は、寝台に腰掛けている彼女のもとに近づくと、強くその体を抱き締めた。

信は抵抗する素振りを見せず、むしろ再会した自分・・・・・・との抱擁を喜ぶように、身体を預けて来た。

両腕を背中に回して自分の体を抱き寄せる信が堪らなく愛おしくて、李牧は喜悦に奥歯を噛み締めた。

信を滅びの運命にある国から救い出すために、李牧は彼女の元を去ったのだが、その間に彼女は心変わりをしてしまい、秦趙同盟で再会した時には既に自分との決別の意志を固めていた。

しかし、今の信は、何よりも誰よりも、恋人である自分を優先していた当時の彼女だ。

もう二度と会えないと思っていた彼女が戻って来てくれたのだ。それが他でもない自分のためであると、李牧は疑わなかった。

(もう二度と手放すものか)

心に固く誓いながら、李牧は信の体を強く抱き締める。

「…王騎は、生きている」

初めて、彼女に嘘を吐いた。

信を完全に我が物にするために、卑怯者に成り下がったことを、李牧は決して後悔することはなかった。

 

 

養父が生きていると聞かされた信は安堵の笑みを浮かべた。

「…良かった…」

自分の言葉を微塵も疑うことなく聞き入れるその姿が懐かしくて、李牧もつい笑みを深めてしまう。

この幸せを守っていくためなら、嘘を吐いてでも、卑怯者になろう。
それは信と自分の未来のために必要な好意であると、李牧は自分に言い聞かせた。

彼女を滅びの運命にある国から救い出すために、養父を奪い、合従軍で秦を責め立てた李牧には、もう痛む良心などなかった。

「お前は殿しんがりを務めているうちに倒れたんだ。覚えているか?」

信が自分に違和感を抱かぬよう、無意識のうちに、口調が昔のものに戻っていた。

そして当然のように事実と嘘を並べる。嘘を吐くことを、彼女を騙すことに対し、罪悪感など微塵も感じなかった。
全ては自分たちの幸福のためなのだから。

「……、……」

何があったのか思い出そうとしているのか、信が眉根を寄せる。しかし、そう簡単に記憶は戻らないようで、小さく首を横に振った。

馬陽は総大将の王騎の撤退により、秦の敗北で終わった。

撤退の途中で王騎は力尽き、その最期の瞬間に信は立ち会ったと聞いていた。実際にあの戦で殿を務めたのは別の将だが、李牧は都合よくそれを彼女に置き換えたのだった。

「…俺が殿を務めたってことは、…秦は、負けたんだな」

あの戦で秦が敗北したのは事実だ。李牧は沈黙で返事する。

殿しんがりは敵軍の侵攻阻止の役割を担う。後方に配置されることが主であり、いつも前線で敵を薙ぎ払っていた飛信軍が担当することは滅多にない役割だった。

自分が殿を務めたということから、信は敗北を察したのだろう。

しかし、彼女の言葉を聞く限り、王騎の死を覚えていない。どうやら、馬陽の戦の最中から記憶が途切れているらしい。

「…?」

未だ李牧の背中に回したままでいる右手に違和感を覚えたのだろう、信は小首を傾げながら、自分の右手に視線を向ける。

手首から先が失われ、包帯に包まれている右腕を見て、信がひゅ、と笛を吹き間違えたような声を上げた。

 

その視線の先を追い掛けた李牧は、信が自分に腕を落とされたことも覚えていないのだと確信した。

「あ…ぁ…」

信の顔がみるみるうちに青ざめていく。

腕を失うということは、武器を振るえないことに直結する。それはすなわち将としての命運が尽きたという残酷な宣告でもあった。

将以外の生きる道を知らぬ信にしてみれば、それは死刑宣告とも等しいことだろう。青ざめた顔が絶望に染まっていく。

咄嗟に李牧は、彼女を抱き締める腕に力を込めた。

「…お前が殿を務めたことで、王騎は死を免れた。お前のおかげで、王騎だけではなく、兵たちの犠牲も最小限に抑えられたんだ」

痛まし気な表情を浮かべ、彼女の心を傷つけぬように選び抜いた言葉を告げた。

「っ…、ぅ…」

李牧の胸に顔を埋めている信が、小さく嗚咽を零し始める。

「最後まで敵軍に抗ったことは、将として誇るべきことだ。お前を責める者は誰もいない」

その言葉は本心だった。

信が将として戦場に出ることで、どれだけ秦国に貢献しただろう。
蕞から合従軍が撤退することになったのは、信が命を懸けて秦王を守り抜き、そして圧倒的な兵力差にも怯むことなく士気を高め、最後まで戦い抜いたからだ。彼女の存在が秦の命運までも左右したと言っても過言ではない。

山の民からの救援が来なければ、蕞を落とせたのは言うまでもないのだが、仲間を信じていた秦軍の勝利であったことは覆せない事実だ。

「………」

泣き崩れる彼女を抱き締めてやりながら、李牧は昔のことを思い出す。

いつも悲しみを堪える彼女をこうして抱き締めながら、落ち着くまで泣かせていたものだ。そうしないと、彼女は拳を作り、血が流れるまで爪を食い込ませる。恐らく下僕時代からの癖だったのだろう。肥厚した皮膚がそれを物語っていて、李牧が信と出会った時にはその癖は習慣化されていた。

自分が彼女のもとを離れてから、その悪い癖は再発してしまったようだが、右手を失った今ではただの過去でしかない。

「…信?」

「……、……」

声を上げて泣き続けていた信だが、しばらくすると疲れてしまったのか、李牧の胸に凭れ掛かったまま、瞼を下ろし掛けている。

その頭を優しく撫でてやっているうちに、静かな寝息が聞こえ始めた。

寝台に横たえてやり、風邪を引かぬよう肩までしっかり寝具を掛けると、李牧は部屋を出ようと立ち上がった。

馬陽から先の記憶が失われているのは分かったが、もしかしたら一時的に記憶が混在しているだけかもしれない。

傷が癒えたところで、もう彼女が武器を振るうことは叶わない。左手も親指を折っているので、扉を開けることにさえ時間を要するだろう。とはいえ、今の信は休息が必要だ。

三日も眠り続けていたとはいえ、右腕を失ったせいでかなり出血もあったし、体が本調子に戻るまではしばらく時間がかかるに違いない。

従者たちには彼女を外に出さないようにと、常時見張りを頼んでいる。
両手が不自由でも、両脚に枷をしている訳ではないので、万が一のことも考えられたからだ。

二度と武器を持たせぬように右手を落とした時、逃げ出さぬようにと足を落とさなかったのは、やはり情があるのかもしれない。

がむしゃらに彼女を傷つけたい訳ではなかった。
信がここに来たのは自分を救出するためであり、それはまだ彼女の心に自分という存在が強く刻み込まれている証拠なのだから。

幸いにも、今の彼女には桓騎と相思相愛であった記憶はない。
過去に桓騎の素性を調査したが、どうやら彼には身寄りがなく、咸陽で行き倒れているところを信が保護したのだという。

今の信にとって、きっと桓騎はただの子どもでしかないだろう。このまま記憶が戻らなければ、彼女の心は自分が支配出来たままでいられる。

…問題なのは、今の信が、李牧を趙の宰相だと知らぬ・・・ことだ。

王騎を討ち取った軍略を企てたのも李牧であり、養父の仇同然であると知れば、きっと信は大いに混乱するはずだ。

彼女の心の平穏を保つためには、そして記憶を取り戻すようなきっかけを遠ざけるためには、王騎の死も、自分の趙宰相である立場も告げぬ方が良いだろう。

次に目を覚まして、信の記憶がもとに戻っていたのなら、ただの杞憂で済む話だが、そう上手く事が運べるとも思っていなかった。

 

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懐古

「…?」

寝台から離れようとした時、腰元に何かが触れたので反射的に振り返った。

信は手首から先のない右腕を、懸命に自分の方に伸ばし、小刻みに動かしていた。きっと手が残っていれば着物を掴んでいたに違いない。

「信?」

まだ起きているのかと声を掛けると、閉ざされていた瞼が僅かに持ち上がり、泣き濡れている瞳と目が合った。

「…行くな、行か、ないで、くれ」

その言葉には聞き覚えがあった。
彼女のもとを去ったあの雨の日、信は泣きながらそう言って自分を引き留めようとした。

もう離れることはないというのに、目を離した隙にどこかへ行ってしまうのではないかという不安に打ち震える信を見て、李牧は胸が締め付けられるように痛んだ。

「ああ、もうどこにも行かない」

寝台の傍に膝をつき、眠っている彼女の体を抱き締める。

将としての未来も潰えてしまい、再び自分を失えば、今度こそ心が壊れてしまうと、信は無意識のうちに恐れているのだろう。

もう自分にしか縋るものがない信の心境を考えると、李牧は卑怯だと分かりながらも、ようやく彼女を手に入れることが出来たのだと思えた。

「李牧…」

弱々しく背中に腕を回して来て、安堵を顔に滲ませる信が堪らなく愛おしくて、浅ましいほどに情欲が膨れ上がる。

抑えなくてはと思うのだが、すでに李牧の手は彼女の両肩に伸びていた。

「…すまない、信。今すぐお前が欲しい」

情欲に染まった瞳を向けると、信は少し戸惑ったように視線を泳がせて、それから小さく頷いた。恥ずかしがりながらも、承諾してくれたことに懐かしさを覚える。

 

彼女の身体を組み敷くと、二人分の重みに寝台がぎしりと音を立てた。

「う…」

顔を寄せ合うと、信は緊張したように目を閉じた。
ゆっくりと唇を合わせる。秦趙同盟の後に唇を交わしたことを思い出し、李牧はうっとりと目を細めた。

あの時は別れを惜しむ口づけだったが、今はその反対で、再会の喜びを分かち合う口づけだ。

「ん…ふ、ぅ…」

舌を差し込むと、仄かに薬湯の苦味を感じた。
信が眠り続けている間も、気休め程度にしかならないだろうが、痛みを和らげる薬湯を飲ませるよう医師に指示していた。

「う…ぁ…」

舌を絡ませて口づけを深めようとすると、信の体が強張って顔を背けてしまう。

「信?」

口づけを嫌がるような素振りに、李牧はまさか記憶を思い出したのではないかと考えた。

「あ…えっと…」

狼狽える姿を見れば、記憶を取り戻した様子はない。
口づけを拒絶というよりは、恥ずかしさのあまり、どうしたらいいか分からないという反応だった。

「ひ、久しぶりだから、…その、う、上手く、できない、かも…」

信が顔を真っ赤にしたまま目を泳がせる。

緊張で身体を強張らせながら、上手く自分の相手が務まるか分からないと打ち明ける信の初々しい態度に、思わず頬を緩めてしまった。

きっと秦国では桓騎とも体を重ねたのだろうが、今の信には自分以外の男に抱かれた記憶がない。
それでいいと思った。自分以外の男に、その体を抱かれた記憶など、信には必要ない。彼女の破瓜を破ったのも、男に抱かれる喜びを教えたのも、この自分なのだから。

「傷に響くかもしれない。無理はするな」

欲しいと言ったのは自分の方だったのに、李牧は信を気遣う言葉を掛けた。

切り落とした右手は止血のために断面を焼き、今もまだ手当てを続けている。

左手の親指も骨は正しい位置に戻していたが、まだ完全に腫れは引き切っておらず、包帯できつく固定されたままだ。傷の処置は今も続けており、薬湯を飲ませているとはいえ、痛むこともあるだろう。

しかし、信は小さく首を横に振ると、まるで甘えるように李牧の首に両腕を回す。

「いいからっ…」

切羽詰まった声で催促されると、彼女も同じ想いで、自分を欲してくれているのだと分かり、李牧の心臓が激しく脈打った。

「んんっ…」

唇を重ねていたのはほとんど無意識だった。
二度と手放すものかと、李牧は独占欲に掻き立てられるままに、体を動かしていた。

 

 

「う…ぅん、ぁ…」

夢中になって舌を絡ませながら、李牧は信の着物を脱がせに掛かっていた。

同じように信も李牧の帯に手を伸ばしているが、右手が使えないせいで、残された左手もたどたどしい動きだった。親指にはまだきつく包帯が巻かれているので、残された四本の指しか使えないのである。

この手では、扉や窓を開けることは容易に出来ないだろう。
…もっとも、信が記憶を取り戻した時や、左手の親指が完治した時にはどうなるかは分からないが。

「はあ…ぁ、…」

まだ口づけしかしていないというのに、信の瞳が恍惚の色を滲ませている。

彼女の破瓜を破ったのも、男に抱かれる悦びをその身に刻み込んだのも全て自分だ。他の男に抱かれたとしても、信の体は自分に触れられる悦びを忘れてなどいなかった。

信の着物を脱がせると、最後に見た時よりも傷の増えた肌が現れる。

致命傷になり得た深い傷からそうでないものまで、自が信のもとを去った後も、彼女は何度も死地へ赴いていた。

この部屋に連れて来た時、胸元に残っていた赤い痕はもう消えかけていた。

それが戦で受けた傷痕ではなく、情事の時につけられたものであると、すぐに分かった。自分もこのような痕を残した記憶があったからだ。

きっと信がここに来るのを引き留めようとした桓騎の仕業だろう。彼女が眠っている間に、初めてその痕を見た時は嫉妬の感情が膨れ上がり、そのまま信の首を締めて、本当に自分のものにしてしまおうかと思ったほどだ。

しかし時間が経てばこの痕がいずれ消えてしまうように、きっと信の記憶からも自分以外の存在は全て消えてしまうに違いない。

 

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「ひゃ、ぅ…」

胸の柔らかさを手の平で味わっていると、信が甘い声を上げた。
最後にその体を抱いた時よりも幾分か成長していたらしく、豊満さを感じる。先端の芽を指で弾くと、信の体がぴくりと震えた。こちらは相変わらず鋭敏のようだ。

「ぁ…は、ぅ…」

二本の指で胸の芽を挟んだり、軽く摘まんだりしているうちに、信がもどかしげに膝を擦り合わせていた。

硬くそそり立ち、摘まみやすくなった芽をさらに可愛がってやりながら、身を屈め、李牧は信の耳元に熱い吐息を吹き掛ける。舌を差し込むと信の肌がぶわりと鳥肌を立てたのが分かった。

「あ、ぁぅッ…」

擦り合わせている膝を開かせ、脚の間に手を差し込むと、そこは熱と湿り気を帯びていた。

「やあっ…」

少女じみた反応に、変わっていないなと思わず笑みを深めてしまう。
自分を欲しがるくせに、恥じらいを切り離せないでいるのは、記憶の中の彼女のままで、目の前の信はその生き写しだった。

「う…、っ…」

両腕を動かし、男根を愛撫しようとしているようだが、両手が自由に使えないことで、信がもどかしげな表情を浮かべる。

「は…ぁ…」

それでも何とかして男根に触れようと、信は一度身を起こして、李牧の脚の間に頬を摺り寄せて来た。

まるで犬が飼い主に自分の身体を擦り付けるような甘える仕草に、李牧は思わず笑んでしまう。

もちろん愛しい女を奴隷や飼い犬のように扱うつもりは毛頭ないのだが、積極的に甘えて来る信の姿が純粋に嬉しかった。

「ん、んぅ」

自由に使えない両手では着物を脱がせられないと分かった信は、諦めたように着物越しに男根を愛撫することに決めたらしい。

「は、ふ…」

上下の唇で男根を甘く挟み込まれる。着物越しであっても、熱くて湿った吐息を感じ、李牧は思わず息を乱してしまう。褒めるように、脚の間に顔を埋めている信の頭を撫でた。

信の恍惚とした表情を見れば、彼女も同じ想いでいることが分かる。日焼けで傷んだ髪を指で梳きながら、李牧の胸は幸福感でいっぱいになっていた。

 

 

救済と幸福

着物越しの愛撫でも男根が屹立してしまったのは、相手が信だからだろう。

どれだけ技量の優れた妓女であったとしても、信でなければ、この身が欲情することはない。それは李牧が信のことを愛している証であった。

彼女のもとを去ってから、李牧は信のことを一日たりとも忘れたことはなかった。

初めから李牧は秦国のことを見限っており、信を滅びの運命から救い出すために、今の地位を築き上げたのだ。一度は彼女を手放すことになったが、その先にある未来のためにもやむを得ないことだった。

秦趙同盟で再会を果たしたとき、どれだけ説得を試みても、信が李牧を選ぶことはなかった。

信は決して自分の信念を曲げない心根の強い女だ。だからこそ、彼女が祖国を見捨てることは出来ないことは分かっていたし、共に滅びの道を選ぶことも分かっていた。

そんな運命から救い出さなくてはならない。過去に王騎を討ち取ったのも、秦国を滅ぼそうとしているのも、すべては信の救済のためだった。

二度と信の笑顔を見られなくなったとしても、それは彼女を滅びの運命から救い出す代償だ。

すでに自分が趙についたことと、王騎を討ち取った軍略によって、信頼は失っているし、今さら彼女から嫌われることを恐れるはずがない。

だから、一時的とはいえ、信が記憶を失ってしまったことに、再び自分を愛していたあの頃の彼女に戻ってくれたことに、李牧はただ幸福を感じていた。

 

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両脚を割り広げ、今度は李牧が彼女の脚の間に顔を埋めた。

驚きと羞恥で閉じそうになる脚をしっかりと押さえ込み、慎ましい淫華に唇を寄せる。
蜜が滲んでいるせいで、縦筋は艶めかしい光沢を帯びていた。縦筋をなぞるように尖らせた舌先を這わせると、信の体が大きく震えた。

「んんっ、ふ、くっ…はあっ…」

李牧の舌が卑猥な水音を立てながら花弁を捲り上げる度に、信の腰がびくびくと震える。

いつもなら敷布を強く握り締めるのだが、不自由な両手では物を掴むこともままならない。呼吸を切迫させながら、信は敷布の上で両腕を泳がせていた。

「あ、はぁ…」

唾液と蜜で濡れそぼった淫華は、男を誘うように珊瑚色をさらに艶やかに見せている。

固く閉じていた花弁がふやけて左右に開く頃には、信の瞳はとろんしており、もっと欲しいと言わんばかりに李牧に熱い眼差しを向けていた。

「ぁ、うっ…んんっ…!」

もっと善がらせてやろうと舌を差し込むと、信が力なく首を振って身を捩った。中の肉壁は奥の方までよく濡れていた。

一度口を離し、淫華の中に指を押し込んだ。
上壁のざらついた箇所を指の腹で擦る。目当てのものをすぐに見つけ、李牧は腹の内側を指で突き上げた。

「あ、やっ、ぁあっ」

隠れた性感帯を刺激され、信が目を剥いた。信が善がり狂う箇所は全て覚えていた。
自分の手技で善がり狂う信を見ると、彼女の全てを支配出来たような心地になった。

「っ、あ、待っ、ぇ…!」

指を動かしながら、李牧が再び脚の間に顔を寄せると、信が涙を流しながら制止を求めて来る。

花芯を舌で舐ると、彼女の声が甲高くなった。
外側と内側の急所を同時に責め立てられ、信が泣きながら善がる。両手が敷布を掴めないせいで、快楽から意識を逸らす術がなく、どうしようもなくなっているらしい。

久しぶりに身を重ねたのもあるが、感度が高いのはそのせいだろう。

「あっ、ぁ、はあッ、ああぁッ」

やがて、身体が大きく痙攣をしたかと思うと、信の体は力が抜けたように寝台の上に沈み込んだ。

 

二度目の初夜

寝台の上で荒い呼吸を繰り返す信は、長い睫毛を小刻みに震わせていた。

「信」

汗ばんだ頬を優しく撫でてやると、気持ち良さそうに目を細める。
もっと撫でて欲しいと言わんばかりに、手の平に頬を擦り付ける姿が愛らしくて、李牧は思わず唇を重ねていた。

「ん…」

今度は信の方から舌を絡めて来たので、どうやら絶頂を迎えたことで大いに緊張が解れたことが分かる。

李牧の襟合わせを開こうと、信が不自由な両手をたどたどしく動かす。

口づけを深めながら、李牧は自ら着物の帯を解いて着物を脱ぎ捨てた。
着物を脱いで素肌を寄せ合っても、皮膚で肌を隔てられていることがもどかしい。早く一つになりたいと焦る気持ちを押さえ込みながら、李牧は真っ直ぐに信を見据えた。

「信…本当に良いのか?」

正常位の体勢で結合に備えると、信は何度も頷いて、両手を李牧の背中に回して来る。

初めて彼女の破瓜を破った時も、こうやって何度も確認をした。その身を自分に委ねてくれることの了承の意味もあったし、本当に自分で良いのかという確認でもあった。

「…挿れ、て…くれ…」

泣き笑いのような顔で求められ、李牧は胸の奥から燃え盛るような感覚を覚えた。自分だけを求めているその態度が堪らなく愛おしくて、二度と彼女を手放したくないと思った。

男根の先端を淫華に宛がうと、信が切なげに眉根を寄せた。

胸に赤い痣が残っていたことから、桓騎とは頻繁に身体を重ねていたのかもしれないが、今の彼女にはその記憶はない。

男に身を委ねるのは随分久しぶりのことだと思っているに違いないし、先ほども彼女自身がそう言っていた。

だから、李牧は初夜の時のように、無理をさせず、ゆっくりと腰を前に送り出したのだった。

 

「は、っぁ、ああっ…!」

太い異物が中を掻き分けていくにつれて、信の背中が弓なりに仰け反った。

無意識のうちに逃れようとする信の体を両腕で強く抱き押さえ、花弁を巻き込むように、李牧は時間をかけて男根を押し込んでいく。

「っ…!」

彼女と身を繋げるのは随分と久しぶりのことだったので、尖端の一番太い部分が入ると、李牧はそこで腰を止めた。

初めて信の破瓜を破ったあの日も、かなり時間を掛けたことを思い出す。
自分と彼女の体格差は大きく、破瓜を破るにはただでさえ激しい痛みを伴うというのに、自分の男根を全て受け入れるのは苦痛でしかない。

破瓜を破るまでにも、李牧はかなりの時間をかけ、この行為は決して痛いだけではないのだとその体に教え込んだのである。懐かしいあの日々が瞼の裏に浮かび上がった。

「信…大丈夫か?」

「う、うぅっ…」

切なげに眉根を寄せながら、しかし信は何度も頷いた。
苦痛に呑まれていないと分かったが、少しでも痛がる様子があればすぐに止めようと、李牧は彼女の顔から視線を外さずに腰を引いてく。

「や、やあっ…」

浅瀬をゆっくり穿つつもりで腰を引いたのだが、男根が抜かれてしまうと誤解したのか、信は嫌がるように首を横に振った。

「ぜ、全部…挿れ、て…」

李牧の肩に腕を回し、強請るようにそんなことを言われると、つい応えたくなってしまう。

「だめだ」

しかし、李牧は首を横に振った。目を覚ましたばかりの体に負担はかけられない。

「力を抜いていろ」

言ってから、初夜の時も同じ指示をしたことを思い出す。

きっと今、自分たちは、二度目の初夜を過ごしているのだと思った。もう一度、彼女と身体と心を結ぶ幸福が訪れているというのに、負担を掛けることはしたくない。

しかし、信は涙を浮かべながら、駄々を捏ねる幼子のように首を横に振った。

「ふ、うぅっ…ん…」

両腕を李牧の背中に回しながら、信はその細腰を淫らに揺らして、男根を深く飲み込もうと淫華を押し付けて来た。

その顔は恍惚としており、苦悶の色は少しも見られない。心から自分を欲してくれているのだと思うと、めちゃくちゃに犯してしまいたくなる。

「どこでそんな強請り方を覚えた?俺はそんなものを教えた覚えはないぞ」

「うう、んぅっ」

叱りつけるように、李牧は呼吸を奪う勢いで、何度もその唇と舌を貪った。

「ふ、はッ…はあッ、あ…」

激しい口づけを終えて、呼吸を整えている信の顔中に何度も唇を落としながら、李牧はさらに腰を前に送り出した。

「っ、んんんッ!」

欲しがっていた信の望みを叶えると、彼女は苦しそうな吐息を洩らしたものの、うっとりと目を細めて李牧のことを見据えていた。

隙間なく密着した下腹部を見下ろし、李牧は自分の男根を全て飲み込んだ信の薄い腹を撫でる。

ゆっくりと指に力を込めて、外側から腹を圧迫すると、連動するように淫華が男根をさらに締め付けた。

「んんっ…!ぁ、そこ、押した、ら…」

内側を男根で犯され、外側からも刺激をされて、信はしたたかに身を捩る。
咄嗟に李牧は彼女の左手を掴み、男根を受け入れている腹に触れさせた。

「こんなに深くまで俺のが入っている。分かるか?」

自分の腹を犯している李牧の男根を感じたらしく、信が薄目を開けながらちいさく頷いた。

「ぁ、…李牧、の、…奥、まで、入って、る…」

身体だけでなく、意識でも一つになったことを実感させると、信の淫華が再び強く男根に吸い付いて来た。

男の子種を求めているその動きに、李牧は思わず生唾を飲み込む。

共に過ごしていた日々では、幾度も信とその身を重ねていたが、中で射精したことは一度もなかった。

当時の信はまだ将軍の座に就いておらず、養父の背中を追い掛けて将軍になろうと日々武功を重ねていた。将軍昇格への夢を、自分の浅ましい欲望で阻む真似はしたくなかった。

今思えば、彼女を手っ取り早く戦から遠ざけるためには、早々に孕ませてしまえば良かったのだ。

もちろんその卑怯な方法を考えなかった訳ではないが、当時の李牧には信を裏切る度胸がなかったのである。

出来ることなら傷つけたくなかったが、彼女を滅びの運命から救うためには、そんな生易しい気持ちではいられなかった。

しかし、今は違う。右手を失った信を妻にすることは容易いことだ。

秦国の女将軍と趙の宰相の婚姻となれば、周りからの反対されることは目に見えているが、李牧にとってそれは些細なことであった。

誰にも自分と信の邪魔はさせない。李牧が趙国についたのは信を滅びの運命から救うためであって、利用している他ならない。

もしも自分と信の婚姻を許さず、彼女を奪おうとする者が現れるのならば、力で捻じ伏せるまでだ。

 

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顔を寄せ合って熱い吐息を掛け合い、李牧は愛しい女との結合の実感を噛み締めていた。

無理はさせないと誓ったというのに、胸の内側に膨らんでいく独占欲と情欲が腰を動かし始める。

「あ…り、李牧…」

敏感になっている淫華の肉壁を硬い男根が擦り上げる度に、信が切ない吐息を洩らした。

手首から先を失った右手と、親指が折れた左手で顔を挟まれる。
唇が触れ合う寸前まで顔を引き寄せられて、潤んだ瞳に見据えられると、それだけで李牧は絶頂を迎えてしまいそうだった。

「もう…どこにも、行くな…」

縋るような哀願の言葉を掛けられて、李牧の胸は苦しいほどに締め付けられる。

腹の底から込み上げて来る衝動に突き動かされるようにして、李牧は信の身体を強く抱き締める。

「ふあッ…!?」

奥を突くと男根の切先に柔らかい肉壁があたり、それが信の子宮であることはすぐに分かった。

男根を咥えている淫華も、開通するまでにはかなり時間を掛けたものだが、そのさらに奥にあるこんな狭い場所で赤子が育まれ、そして産み落とされるのだと思うと、生命の神秘というものを感じた。

「信っ…!」

「んぁっ、ああっ」

力強く突き上げる度、信の瞳から止めどなく涙が伝っていく。
その涙さえ自分の物だと言わんばかりに、李牧は唇を押し付けて啜り取った。

「り、李牧っ、んぅうっ、ぁ、はあッ」

信が切迫した呼吸の合間に甲高い声で喘ぐ。

ひっきりなしに口から零れる声は喜悦に染まっており、少しも苦痛の色がないことが分かると、李牧は腕の中に収まっている信の体が浮き上がってしまうくらい激しい連打を送った。

顎が砕けるくらい奥歯を噛み締め、首筋に幾つもの線を浮かび上がらせながら、ひたすら信の体を貪る。

会えなかった時間を埋めるように、自分のものである証を刻み付けるように、李牧は夢中で腰を突き動かした。

「あぁっ、ぁッ、もっ、もう…ッ!」

信の体が大きく痙攣したかと思うと、これ以上ないほど淫華が男根を締め付け、李牧の腕の中で身体を仰け反らせていた。

信が絶頂に達した瞬間、李牧自身も目の眩むような快楽と恍惚に包まれて、意識が真っ白に塗り潰されてしまう。

「ッ…!」

息を止めて、彼女の身体を抱き締めながら、最奥で射精する。

幾度も彼女と身体を重ねたことはあったが、中で射精するのはこれが初めてだった。

信が将としての務めに全うするため、李牧の子を孕まぬように、その腹に子種を植え付けないでいたのは、二人の中で暗黙の了解としていたのである。

「あッ、ぇ、な、中…!」

中で射精されていることに気づいたのだろう、戸惑ったように信が眉根を寄せている。

「っ…、くっ…」

全ての精を出し終えるまで、李牧は彼女の体を抱き締めたまま、決して放さなかった。

愛しい女の苗床に、自分という子種を植え付けている感覚は、これ以上ないほど優越感で胸が満たされた。

絶頂の余韻に浸りながら荒い息を吐いていると、信の身体が腕の中でくたりと脱力する。
どうやら気をやったようで、腕の中で規則的な寝息を立てていた。しかし、その表情に苦悶の色は少しもない。

息が整ってからも、李牧は彼女の中から男根を引き抜こうとしなかった。

こうして信と身を繋げたのは随分と久しぶりのことだったが、まだ彼女の体は自分を覚えていたし、心から自分を求めてくれた。

その事実を知って、李牧はますます信のことが愛おしくて堪らなくなる。

(もう二度と手放すものか)

李牧は眠っている信に、静かに口づけた。

 

中編③はこちら

The post 終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編② first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

前編はこちら

 

処刑場

趙国にある雷環広場に到着するまで、当然ながら国境を越えることもあって、それなりの日数がかかったが、李牧が処刑される日には間に合った。

処刑をされた後は、見せしめのために数日は首を晒されることになる。
雷環広場に李牧の首が晒されていなかったことが、まだ処刑が行われていない何よりの証拠である。

馬を走らせている間、もしも処刑場に駆け付けて、すでに李牧の首が晒されていたらと思うと恐ろしくて堪らなかった。

(間に合った…)

まだ李牧を救出した訳ではないものの、僅かに安堵してしまう。

雷環広場は趙の首府である邯鄲の一角にあり、城下町ということもあってか、大勢の民たちが生活を行っていた。

秦国でもそうだが、このように民が多く出入りしている市場で処刑が行われることは珍しくない。見せしめのために、あえて人の出入りが激しい場所が選ばれるのである。

よって、賑やかな日常の一場面に、罪人の断末魔が響いたとしても、疑問や恐怖を抱く者はいない。

「………」

信は素性を気づかれないように仮面で顔を覆い、背中に背負っている剣を隠すように外套を羽織っていた。

旅人の装いに見えることから、信を怪しむ者はいない。

邯鄲は首府であり、趙の中で一番広い領土だ。外から人が出入りすることは決して珍しくないのだ。

もしもここで自分の素性が気づかれれば、それは李牧の処刑から気を逸らす大きな騒動となり、彼の処刑が延期されるかもしれない。しかし、それが李牧の救出に直結する訳ではない。

一番望ましいのは、二人とも無事に趙国を脱出することだ。

李牧が処刑されることは、まだ秦国で広まっていない。
趙の宰相であった男を、秦国を滅ぼそうと企てた男を秦国へ連れ帰れば、もちろん裏切りだと罵られるだろう。

黙って趙へ行ったことだって謀反の疑いがあると責め立てられ、それ相応の処罰を受けることになるはずだと信は覚悟はしていた。

死罪は免れたとしても、将軍の地位を下ろされるかもしれないし、投獄されることになるかもしれない。

それでも李牧の命が助かるのなら、そんな処罰など喜んで受け入れようと思った。

(桓騎には…ぶん殴られても、手足の一本折られたとしても、文句は言えねえな)

絶対に行くなと引き止めてくれた桓騎のことを考え、信は唇に苦笑を滲ませた。

もしも秦国に李牧を連れ帰ったならば、桓騎から遠慮なく嫌味を言われるだろう。

彼が眠っている隙をついて黙って出て行ったのだから、何を言われても、何をされても許してもらえないかもしれない。

心の中では何度も謝罪をしていたが、彼に伝わることはないだろう。信も許されるとは思わなかったし、恨まれるのを覚悟で李牧の救援のために国を出たのだから。

(お説教や処罰のことを気にするのは後だな…)

信は軽く頭を振って、今は目の前のことに集中しようと考えた。

休まずに馬を走らせ続けていたせいで、体はくたくたに疲れ切っていたが、頭は冴えている。李牧の処刑が目前に迫っているせいだろう。

戦でも似たような経験はあった。体はもう動けないほど疲弊しているものの、気力だけでどうにか剣を振るっているあの感覚だ。

 

(どうやって助けたら…)

ここに来て、信は勢いだけで趙へやって来たことを悔やんだ。頼れる味方がいるのならまだしも、単騎で乗り込んだところで、やれることには限界がある。

李牧が広場に連行されたところで彼を連れ出せたとして、そこから逃走を企てるなら、大勢の市民たちの中に飛び込んで、追っ手を撒く必要がある。

市民たちを脱出の騒動に巻き込んで、傷つけてしまうのは本意ではないのだが、それも覚悟しておいた方が良さそうだ。

救出方法を考えながら、信が邯鄲を歩いていると、ある違和感を覚えた。

(…おかしい)

民たちの賑やかな会話に耳を傾けているものの、李牧の話が聞かれないのである。

趙の宰相であったあの男が、民たちから大いに支持を得ていたことは噂で知っていた。それなのに、彼の処刑どころか、投獄されている話すら聞かれないのは一体何故なのだろうか。

反乱の気を起こさぬよう、民たちには処刑を知らされていないのかもしれない。だが、それが事実だとすれば、李牧が処刑されるために広場に連行されて来た途端、民たちは大いに混乱するのではないだろうか。

その混乱に乗じて李牧を救出する方法も考えたが、もしその機会を失えば、信は目の前で李牧を永遠に失うこととなる。

せめて投獄されている場所が分かればと思ったが、邯鄲城内の牢獄だろうか。

(待てよ…カイネたちはどうした?)

そこで信は一つの疑問を抱いた。李牧に付き従っている側近たちについてだ。

(まさか、あいつらも一緒に処刑されるのか?)

処刑されるのは李牧だけではなく、彼の配下たちもなのだろうか。合従軍の敗北を李牧一党の命で償わせるつもりなのだとしたら、あまりにも惨い。

きっと李牧のことだから、配下たちの命は庇ったはずだ。どれだけ残虐な策を用いる男であっても、仲間の命を見捨てられるような薄情な男ではない。

しかし、悼襄王がその哀願を聞き入れるとは思えなかった。

側近たちの死罪を免れたとしても、処刑の邪魔を刺せないように配下たちも共に投獄されているのかもしれない。

(なんで李牧は…)

付き従っていた配下の命を容易く斬り捨てられる血も涙もない残虐な王に、どうしてあの李牧が忠誠を誓ったのか、信には何も分からなかった。秦趙同盟で再会した時に聞いておくべきだったかもしれない。

しかし、桓騎と同じで、李牧が考えなしに行動をする男ではなかった。

だからこそ、悼襄王に仕えることで、李牧が成し遂げようとしていた何かがあるに違いない。その目的が何なのかを聞いておくべきだった。

―――秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ。

秦趙同盟で再会した時、李牧は信に祖国を捨てて、自分と共に来いと言った。

もちろん秦王も祖国も裏切ることはせず、李牧とは決別を決めたというのに、結局はその誓いを自らで背いてしまった。

「…ん?」

それまで賑わっていた市場が、一変して民たちの動揺による騒がしさに包まれた。

 

(なんだ?)

大きな通りに何頭もの馬が走って来るのが見えた。
馬に乗っているのが血相を変えた役人たちだと分かり、咄嗟に近くにあった露台の裏に身を隠す。

秦将であると素性を気づかれてしまい、捕縛しに来たのだろうかと身構える。

しかし、李牧の処刑のことで情報を得ようと民たちの話に耳を澄ませている間、民たちが自分を怪しんでいる様子はなかったはずだ。信以外にも外套で身を包んだ旅人は大勢いたし、目立つようなことはしていない。

身を潜めながら様子を伺っていると、役人たちが大声で民たちに何かを伝えているのが分かった。

「悼襄王が崩御された!」

―――それが悼襄王が亡くなった報せだと知った信は、驚愕のあまり言葉を失った。

 

 

趙王の崩御

役人から国王崩御の報せを聞き、驚いた民たちだったが、すぐに服喪期の準備が始まっていく。

役人たちによって弔意を表す漆黒の弔旗があちこちに掲げられていき、賑やかだった市場にいた民たちも慌てて家に戻っていく。

普段ならば人の出入りが特に激しいであろう食堂や酒場も、たちまち静けさを取り戻していった。

国王が崩御したとなれば、その死を悼むために、民たちは働くことも好きに出歩くことが許されないし、服喪期が終わるまでは、役所もその他も、さまざまな場所が公休となる。王位継承の儀が終わるまで、つまりは次の王が即位するまで服喪期は続く。

早急に次の王が即位しなければ、民たちは働けず、つまりは大勢が食い扶持を失うと言っても過言ではない。

趙王には二人の子息がいると聞いていたから、そのどちらかが即位することになるだろう。もしも王位継承が煩雑化しているのなら、服喪期は長引きそうだ。

親友である嬴政と、弟の成蟜の王位継承争いを経験していた信は王位継承の複雑さをよく知っていた。

 

国王崩御の報せを届け、弔旗を掲げ終えた役人たちがいなくなると、市場に静寂が訪れた。それまで賑わっていた市場が葬儀一色になり、民たちの姿もまばらである。

露台の裏に身を潜めたまま、信はまさかの事態に戸惑うばかりだった。

病で亡くなったようだと噂が飛び交っていたが、重要なのは死因ではなく、その後のことだ。

(趙王が崩御したんなら、李牧の処刑はどうなるんだ…?)

きっと今の宮廷は次に即位する王を決める話で持ち切りだろう。そんな状況下で李牧の処刑を実行するはずがない。

彼の死罪を命じたのが悼襄王なら、彼の崩御によって、李牧の処刑が無くなることも考えられる。次に即位するであろう悼襄王の子息が、父の意志を継ぐ残虐な男でなければの話だが。

もしも死罪が免れなかったとしても、処刑執行は延期となるはずだ。

そのことに安堵した信は、趙国が国王崩御の喪に服している間に李牧を救出する方法を考えた。

王位継承のことで見張りの兵たちも手薄になっているに違いない。
子息たちの王位継承争いが煩雑化しているのなら、そちらに兵を割くだろうし、その隙に李牧を救出することが出来る。

まずは投獄されているであろう李牧が何処にいるかを捜し出さなくてはと信が前に踏み出した時だった。

 

 

「信」

聞き覚えのある声がして、信は反射的に顔を上げる。

「な…」

声の主を見て、信は驚きのあまり、喉が塞がってしまう。

李牧だった。
傍に控えている配下はいない。拘束されている様子もなく、それどころか死刑囚を取り締まる兵たちの姿もない。これから処刑をされる様子など微塵もなかった。

怪我一つしておらず、疲弊している様子もないことから、とても投獄されていたようには思えない。

(なんで李牧が)

どうしてここにいるのか問い掛けようとしたが、声が出て来なかった。

仮面の下にある彼女の顔が凍り付いたのを見て、李牧は穏やかな笑みを浮かべる。

信は素性を気づかれぬよう、仮面と外套で変装していたというのに、李牧はすぐに彼女だと見抜いたらしい。

「あなたなら来てくれると思っていましたよ」

まるで信がここに来ることを予想していた言葉。
ここで再会出来たことを喜ぶべきなのか分からず、信は呆然とその場に立ち尽くすことしか出来ない。

ゆったりと足取りで李牧が近づいて、手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まった。

「私を助けに来てくれたんですね?」

「………」

素直に頷くことが出来ないのは、信の胸の中に不安が渦巻き始めていたからだった。

李牧を処刑から救い出すために、全てを捨てる覚悟で趙国へやって来た。しかし、信が邯鄲に到着してから・・・・・・・・・すぐに悼襄王の崩御の報せが広まる。

国王の死を悼むために服喪期が始まったことは当然のことであるが、なぜか違和感が拭えない。

目の前の男は、自分の養父である王騎の命を奪う軍略を企て、秦国を亡ぼす一歩手前まで追い詰めた男である。

その聡明な頭脳で、軍どころか、国を動かすことも容易いはずだ。

しかし、いくら宰相という立場でありながら、本当にそのようなことが可能なのかと信は固唾を飲んだ。

処刑は偽装に違いないだと桓騎は推察していたが、李牧は昔から嘘を吐く男ではない。

―――俺は卑怯者だが、嘘は言わない。今でもお前のことを愛しているし、これからもそのつもりだ。

決別を決めた時も、彼はそう言っていた。

共に過ごしていた時も、冗談を言うことはあったが、決して嘘を言うことはなかった。

だから、書簡で知らせてくれた処刑のことも、信は真実だと疑わなかった。心のどこかで李牧のことを信じていたからだ。

だからこそ、ある疑惑が浮かんだ。

 

「此度の崩御によって、釈放されることが決まったんです」

処刑を命じられたのが事実で、しかし、悼襄王の突然の崩御によって彼が無罪放免となり、釈放されたというのなら、李牧は決して嘘を吐いていない・・・・・・・・ことになる。

「まさか…お前…」

信の背筋に冷たいものが走った。

「処刑を免れるために、趙王を」

途中で言葉が途切れたのは、李牧に頬を撫でられたからだった。

「あなたならきっと、私のために来てくれると信じていましたよ」

その言葉の意味を理解するよりも先に、弾かれたように後ろへ飛び退く。背中に携えている剣の柄を握ったのはほぼ無意識だった。

見たところ、李牧は武器らしいものを所持していない。着物の下に暗器など忍ばせているような男ではない。

しかし、彼が素手であっても、信は彼に一度も膝をつかせたことはなかった。

こちらの剣筋を見抜き、あっという間に間合いを詰められて剣を奪われることもあったし、呆気なく膝をつかされることだってあった。

彼とは、これまで通って来た死地の数が違うのだ。着物の下に、それを示す傷痕が多く刻まれていることを信はよく知っている。
彼と肌を重ねる時に、何度もその傷痕を見て来た。最後に肌を重ねた時より、傷跡は増えているに違いなかった。

「今は服喪期ですよ。ここで騒ぎを起こすのは賢明ではありません」

宥めるように声を掛けられて、信は剣の柄から手を放す。

「…お前の処刑がなくなったんなら、もうここにいる意味はねえな」

李牧が生きているのは、自分自身のこの目で確かめた。

どういった経緯で李牧が処刑を免れた・・・・・・のかは、自分の知るところではない。
結果として、彼の救出はもう必要ないのだと分かり、趙国から早急に撤退することを考えた。

辺りを見渡すと、民たちはほとんど市場からいなくなっていた。趙の首府である邯鄲が静寂に包まれている奇妙な光景に、信は気味悪さを感じる。

市場にある厩舎に預けていた馬のもとへ向おうと考えたが、李牧が阻むように道を塞いで来たので、信は仮面越しに睨みつけた。

「信、話をしましょうか」

まるで旧友に邂逅したかのような軽い口調で声を掛けられる。

もう決別は決めたというのに、今さら何を話そうというのか。秦趙同盟の時のように、趙へ来いとでも言われるのかもしれない。

ここに来たのは、李牧を処刑から助けるために来たのであって、決して趙に寝返るためではなかった。

「もう話すことなんて何もねえだろ」

秦趙同盟で彼と決別を決めた信は、冷たく言い放った。
しかし、まるで彼女がそう言うのを予測していたかのように、李牧は口角をつり上げる。

「その性格、昔から変わりないですね。安心しました」

共に過ごしていた頃を懐かしんでいるのか、李牧が目を細めた。

 

 

信は李牧と目を合わさないようにしていた。

長く彼の瞳を見ていると、昔の思い出が蘇って来て、李牧と離れることを躊躇ってしまいそうになる。

それは情に過ぎないことだと信自身も理解していた。しかし、戦場ではたった一つの情でさえ隙を生み出し、命を失うことにもなり兼ねない。

だが、李牧と決別を決めたのは自分自身なのに、彼が処刑されると聞いて、見捨てられなかった。

次に李牧に会う時には、秦の将と趙の宰相という敵対関係であると決めていたのに、それも出来なかった。

ここに来たのは、まだ李牧の存在が心に根付いている証拠だ。桓騎に指摘された弱みでもある。だからもうこれ以上、李牧と一緒にいてはいけない。

彼が生きていたことが分かり、信の心にあった不安の塊は呆気なく溶け去ってき、ここに来てようやく、不安の支配から解き放たれたような気がした。

今や彼とは敵同士であるというのに、相手の命の心配をするだなんて、自分は本当に情に弱い。きっと秦に戻ったら仲間たちに罵声を浴びせられるに違いない。桓騎には容赦なく殴られるだろうと思っていた。

「…じゃあな」

目を合わせないまま、信は李牧に声を掛け、彼の脇をすり抜けようとした。

きっと今度こそ、これが最後の別れだと考えながら、李牧に背中を見せた途端、

「きっと今頃、桓騎はあなたを追い掛けて、趙国こちらへ向かっているでしょうね」

まさかここで桓騎の名前が出るとは思わず、信は驚いて振り返る。

その瞬間、李牧が武器を所持していないことと、殺気を向けられていなかったことに対して慢心していた自分を後悔した。

瞬きをした時はすぐ目の前に李牧が迫って来ていて、片手で首を強く締め上げられていた。

「ぐッ、う…!?」

自分の注意を引くために、李牧はわざと桓騎の名前を出したのだ。信は苦悶の表情を浮かべながら、策に陥ってしまった自分を悔いた。

首を締め上げる李牧の手首に爪を立て、腕を振り解こうと試みる。しかし、その手が外れる気配がない。
未だ合従軍との戦で負傷した体は療養を必要としており、とても李牧の腕力には敵いそうになかった。

男と女の力量差を知らしめるように、彼は薄く笑んでいた。

内側から目玉が押し出される痛みに呻きながら、信は必死に抵抗を続ける。

「ッ、ぅ、う、…」

呼吸を遮断されているせいで、指先までもが痺れていく。
背中に背負っている剣を引き抜こうと腕を持ち上げる余裕もなく、視界に靄がかかっていった。

このままではまずいと、李牧の鳩尾を蹴りつけようしたが、李牧の手が首を締め上げる力を込める方が早かった。

「ッ……」

視界が暗くなったのと同時に、信はそのまま意識の糸を手放した。

 

人質

次に目を覚ました時、一番初めに喉の違和感を感じて、何度かむせ込んだ。
意識を失う前の記憶が雪崩れ込んで来て、信は李牧の姿を探す。

(ここは?)

机と椅子があるだけの簡素な部屋だった。明らかに客人をもてなすための部屋ではないが、かといって頑丈な格子があるような黴臭い牢獄でもなかった。

締め切られた窓を見て、ここが地下でないことが分かる。蝋燭の明かりだけが部屋を薄く照らしていた。

外の光を遮断しているせいで、今が昼か夜かは定かではないが、きっと李牧がここへ連れて来たのだろう。

「くそ…」

椅子に身体が縄で縛り付けられている。両手は後ろ手に一括りにされていて、自分でこの縄を解くことは困難だと嫌でも理解した。

足だけは縛られていなかったが、縄を解かない限りは立ち上がることもままならない。

当然ながら剣は奪われており、顔と素性を隠すために使っていた仮面と外套も無くなっている。

口に布を噛ませられなかったのは、信が自害する気がないと見込んでのことなのか、それとも舌を噛み切る自由を与えてくれているのか分からなかった。

(なんで俺を殺さない?)

あの場で殺さなかったことは、趙王の崩御が関わっているのかもしれないが、わざわざ敵の将を生かしておく理由が分からない。

李牧のことだから、きっと何か考えがあってのことだろう。人質として利用されるのだろうか。

自分という存在が趙国に渡ったとなれば、親友の嬴政や仲間たちは大いに動揺するだろう。

今回の李牧の救出は完全なる信の独断であったが、かえって仲間たちに迷惑をかけることになり、信は今になって自分の行動を悔いた。桓騎も呆れているに違いない。

「気が付きましたか」

その時、李牧が数人の兵と共に部屋に入って来た。相変わらず李牧は武器を持っていないが、背後にいる兵たちは腰に剣を構えている。

「手荒な真似をしてしまってすみません」

「……、……」

何も答えようとしない信を見ても、李牧が表情を崩すことはない。この状況で優勢なのはもちろん李牧の方で、彼の機嫌次第で容易く命を奪われると分かっていた。

 

「…お前が欲しがるような情報なんざ、俺は持ってねえよ」

あの場ですぐに殺さなかったことから、何か情報を聞き出そうとしているのだろうか。

もしも拷問にかけられたとしても、絶対に口を割るものかと信は歯を食い縛る。

李牧のことだから、自分を活かした理由があるのだとしたら、それは秦国の弱みとなる情報を手に入れようとしているのかと考えた。

しかし、信は内政について一切関与していない。それはきっと李牧も知っているはずだ。だとすれば軍事に関与した情報を欲しているのだろうか。

合従軍の侵攻によって、秦国の領土は多大なる被害を受けたし、今でもその復旧作業や事後処理に追われている。

服喪期に入った趙国がすぐに動き出すとは思わないが、また時期を見て秦国に攻め入ろうとしているのだろうか。

しかし、信の言葉を聞いた李牧は不思議そうに小首を傾げた。

「…私が秦国の情報欲しさにあなたを生かしたと、そう思っているのですか?」

穏やか過ぎる声が信の耳朶を打つ。

「そんなものは密偵に任せておけばいい。私が欲しいのは情報ではありません」

密偵という言葉を聞いた信が切迫した表情で李牧を見た。

「…ああ、武器も持っていないのに拘束しておくだなんて、無粋な真似をしてしまってすみません」

李牧が前に出て、椅子ごと拘束されている信の縄を外し始めた。この状況で抵抗など出来まいと思われているらしい。

(ナメやがって)

李牧と、彼の後ろには、扉を塞ぐように三人の兵たちが立っている。

武器を持ってしても李牧に勝てなかった自分が、素手でやり合って勝てるとは思わなかったし、この人数差では呆気なく取り押さえられてしまうだろう。

窓も外から塞がれているようだし、この部屋から逃げ出すには兵たちの向こうにある扉を通らなくてはいけない。

きっと扉の向こうにも見張りの兵が待機しているに違いない。李牧が警戒を怠るような男ではないことを信は昔からよく知っていた。

「…少々きつく締め過ぎましたね。すみません」

縄を解かれると、李牧は手首に残っている縄の痕を慈しむように撫でた。その優しい眼差しと声色に、信は懐かしさと同時に嫌悪感を覚える。

「触るなッ」

弾かれたように李牧の手を振り払い、信は咄嗟に距離を取った。

拘束は解かれたが、武器を所持していないことからロクな抵抗も出来ないと思われているのだろう、後ろの兵たちが動く気配はなかった。

振り払われた自分の手を見下ろし、李牧はその双眸に寂しそうな色を浮かべる。
しかし、信が瞬きをした途端、見間違いだったのか、李牧の表情はもとに戻っていた。

 

「目的はなんだ。まさか俺が趙国へ寝返るとでも思ってんのかよ」

この状況下でそのようなことを言ったとしても、虚勢を張っているとしか思われないだろう。しかし、信にとってそれは本心だった。

どのような目に遭わされたとしても、自分の忠義が揺らぐことはない。

李牧が処刑されると聞かされた時は私情を優先してしまったのだが、処刑を免れたのならば、もうここにいる必要はない。
帰還すれば、無断で趙国へ行ったことを、趙の宰相を助けようとした罪を、秦将として償うつもりだった。

「あなたのことは昔からよく知っていますよ。そんな安易に国を捨てられるはずがないことも十分に理解しています」

当然のように返した李牧に、信は汗の滲んだ手を握り締めた。

「………」

李牧の瞳が動き、静かに拳を作った手に視線が向けられたことを信は気づいていたが、それを指摘されることはなかった。

「じゃあ、なんで俺を…」

何か考えがあって、李牧は自分を生かしておいたはずだ。

敵国の将軍には、大いに人質としての利用価値がある。
交渉の末、城や領土と引き換えにその命を保証されることもあり、過去にはそれで命を救われた仲間もいた。

しかし、首を晒される辱めを受けるよりも、仲間たちがいる祖国に迷惑をかけることの方が信は耐えられなかった。

李牧が口許に穏やかな笑顔を浮かべたが、その双眸は刃のように冷え切っていて、決して笑っていなかった。

「…あなたが趙国ここにいれば、桓騎は必ずやって来ますから」

その言葉の意味を理解した瞬間、信は目を見開いた。全身から血の気が引いていく。

「お前、最初から・・・・…桓騎を狙ってたのか…?」

思わず口を衝いた問いは、情けないほどに震えていた。

それが正解かどうかを李牧は答えようとしなかったが、少なくとも間違えではなかったのだろう、彼の口許の笑みが深まる。

しかし、その沈黙が答えであると察した信は青ざめることしか出来なかった。

自分が趙国へ行けば、李牧の策が成ってしまうと桓騎は危惧していた。

桓騎が虚偽だと訴えていた処刑は、実際には事実であったとはいえ、悼襄王の急な崩御により、結果として李牧は処刑は免れることとなる。

それを知らず、信は桓騎の忠告を無視して趙国へ赴いたのだが、李牧の目的は、信を呼び寄せることではなかった。

李牧の本当の目的は、桓騎の命だ。

捕らえられた信を救出するために、桓騎は絶対に趙国ここへやって来る。李牧は桓騎の首を取るために、信を利用したのだ。

ここに来てようやく李牧の本当の目的を知った信は、激しい後悔に襲われる。
しかし、ここで懺悔をしている時間はない。

何としても李牧から桓騎を守らなくてはと、信は迷うことなく、その場に膝と両手をついた。

「…何の真似です?」

その行動の真意を尋ねる李牧に、信は俯いて頭を下げながら口を開く。

「どうしたら、何を…したら、桓騎を、見逃してくれるんだよ…?とっとと答えろよ…!」

跪いて桓騎の命だけは見逃してほしいと許しを乞う信に、李牧は苦笑を隠せなかった。

「あなたが頼む立場だというのに、言動が釣り合っていない随分と傲慢な態度ですね。それも桓騎の影響でしょうか?」

「答えろッ!」

両手をついたまま、信が顔を上げて睨みつける。

とても許しを乞うているとは思えないほど無礼な態度だと自覚はあったが、信の頭の中は、自分はどうなってもいいから桓騎を助けることしかなかった。

 

取引

「…それでは、右手の親指を頂けますか?」

李牧が口にした取引の条件に、信は思わず息を詰まらせた。

「親指…?」

自分の命を奪うつもりはないのだろうが、大勢の兵たちが見ている手前、無傷で返す訳にもいかないのだろう。右手の親指だけというのは李牧なりの慈悲かもしれない。

「っ…」

しかし、右手は信の利き手であって、武器を持つことに大いに支障が出る。きっと李牧はそれをわかっていて、指定したのだろう。

信が躊躇っていると、追い打ちを掛けるかのように李牧が淡々と言葉を紡いだ。

「もし布を巻きつけてでも武器を持つようでしたら、残りの指を全て頂きましょう」

その言葉を聞いて、李牧は自分に二度と武器を持たせぬつもりだと確信した。

抵抗する手段を奪うというより、彼のことだから戦に出さないようにする目的があったのかもしれない。

信の存在は、強大な戦力である飛信軍にも、秦国にも欠かせない。
特に飛信軍は優秀な副官や軍師が揃っていても、信の存在がなければ士気に大きく影響が出る。それはきっと李牧も分かっていたのだろう。

しかし、指の一本なら命よりも安い。ましてや、桓騎の命を救えるのならと、信は迷うことなく彼の要求を呑んだ。

「…わかった。剣を貸せ」

もちろん承諾したのは建前であって、信はまだこの場からの脱出を諦めていなかった。

これ以上、李牧の策通りに動いてたまるかという憤りと、桓騎の言葉を信じなかった自分への怒りで支配されていた。

彼女の潔い返事に、李牧も迷うことなく、後ろで待機していた兵が持っていた剣を受け取る。そしてそれを信へ差し出した。

「どうぞ」

それは信から押収していた剣だった。秦王から授かった、信と幾度も死地を共にした剣である。

ここに来て都合よく自分の剣を渡されたことに、信は思わず固唾を飲み込んだ。

(まさか、この取引まで李牧の策通りなのか?)

 

自分が趙国に来ることも、桓騎が追い掛けて来ることも、桓騎の命を見逃してもらう代わりに信に指を落とせと命じたことも。一体いつから李牧の策に嵌められていたのだろうか。

しかし、信は李牧の命令通りに、指を切り落とすために息を整えた。

左手で渡された剣を握り、信は机に右手を置く。何度か柄を握り直し、決して狙いを逸らさぬように構える。

すぐ目の前にいる李牧から鋭い眼差しを向けられていることにも気づいていたし、周りの兵たちも緊迫した空気の中で佇んでいた。

(…李牧と、扉の前に兵が三人、きっと外にも見張りの兵がいる。李牧は武器を持っていない。李牧を人質に、逃走用の馬を奪うか用意させるしかない)

信は指を落とすことに緊張をしている演技を続け、頭の中でこの場からの脱出の図を描いていた。

もとより人数差があり過ぎる。無茶を承知で乗り込んで来た代償が今になって全て降りかかって来たのだ。

救援など一切期待が出来ない状況で逃げ出すとなれば、やはり李牧を人質に取るしか手段はないだろう。

本当に処刑を免れたならば、李牧の宰相としての地位はそのままであるに違いない。

つまり、合従軍との敗戦の事後処理に追われている今の状況下で、これ以上の混乱を招かぬために、趙国はなんとしても李牧を失う訳にはいかないはずである。人質の価値は十分にあった。

「…怖気づきましたか?」

もう迷っている時間はない。からかうように声を掛けて来た李牧を一瞥し、信は低い声を放つ。

「黙ってろよ」

信はもう一度呼吸を整えてから、剣の柄を握り直した。

(失敗は許されない。桓騎のためにも、秦のためにも)

ここで脱出の機会を失えば、李牧の策通りになってしまう。
もしかしたら、自分と桓騎という多大なる戦力を失った秦国に、再び攻め入ることまで企てているかもしれない。

何としても失敗する訳にはいかなかった。

右手の親指を切り落とすために、剣を握っている左手を思い切り振り上げ、信はすぐに行動に出た。

その場にいる全員が信の行動に注視していたが、全員がそのまま命令通りに右手の親指を落とすと疑わなかっただろう。

「はあッ!」

誰もが縦に振り落とされると思っていた剣筋が、目の前の李牧に向けられる。

急所である喉元を突くつもりではあったが、趙国から脱出するまでの人質としての価値があるので、信は李牧を殺すつもりはなかった。

しかし、その生半可の殺意が、皮肉にも勝敗を分けたのである。

 

 

剣を振るった瞬間、李牧は驚く様子もなく、後ろに引いて斬撃を回避する。

信が剣を振り切った直後、李牧はすぐに間合いに入り込むと、追撃を許すことなく彼女の体を押さえ込んだのだった。

その動きは、幾度も死地を駆け抜けた直感というより、初めから信がこうすると分かっていた反撃だった。

「―――ぐッ!?」

気づけば信は思い切り顎を床に打ち付けており、李牧から凄まじい力で頭と身体をうつ伏せに押さえ込まれていた

「…ああ、残念です。あなたは私と違って、卑怯者ではなかったはずなのに」

少しも残念そうに思っていない李牧の声が頭上から降って来たかと思うと、左手首を捻り上げられる。

彼女の反撃を予想していたものの、本当に反撃を行ったことをまるで惜しむような口ぶりだった。

「うぁあッ!」

骨を折られる寸前まで容赦なく力を込められて、口から勝手に悲鳴が上がった。失敗の二文字が脳裏を過ぎる。

痛みに剣を手放してしまい、床に転がった剣が鈍い音を立てた。それを合図に待機していた兵たちが、李牧と入れ替わりで信の身体を取り押さえる。

彼らの表情は驚愕と焦燥に歪んでおり、恐らく信の反撃を見抜けなかったに違いない。

「くそッ、放せ!」

さすがに二人の男に抑えられてしまえば、信も抵抗が出来なくなる。

両腕を背中で押さえられ、肩も押さえ込まれると、顔を上げるくらいしか叶わない。脂汗を浮かべて、信は自分から離れた李牧のことを睨みつけた。

このまま首を落とされるかもしれない。もとより自分の命を捨てて趙に乗り込んだのだから、死への恐怖心は微塵もなかった。

ただ、無様に首を晒されるようなことだけは、秦のためにも避けねばならない。

いっそ自ら喉を掻き切ってしまおうと信は覚悟を決めた。無傷で帰還出来るとは考えていなかったし、失敗すれば死しかないことだって頭では理解していた。

どうにか拘束を振り解いて剣を手にしなければ、抵抗も自決もままならない。

「大人しくしろ!」

「うぐッ…」

信が暴れれば暴れるほど、兵たちも押さえつけようと力を込めて来る。

剣を奪い返すよりも、舌を噛み切った方が早そうだ。信は深く息を吸い込んでから口を閉ざした。

尚も無言の抵抗を続ける信を冷たい眼差しで見下ろし、李牧が静かに口を開いた。

「…あなたが全てを捨てる覚悟でここに来てくれることは分かっていました。いえ、そう信じたかっただけかもしれませんが」

信を見下ろすその瞳は刃のように冷え切っていたが、掛ける言葉は穏やかで優しいものを感じさせる。

李牧の言葉を聞き入れるものかと、信は舌を噛み切るために歯を立てる。

「きっと桓騎も、あなたが説得を聞かずに私のもとへ来ることを分かっているでしょう。今頃は馬を走らせてこちらへ向かっているはず」

「…っ」

まるで桓騎の行動を予見するような発言に、信は心臓の芯まで凍り付いてしまいそうなおぞましい感覚を覚える。

舌を噛み切ろうとしていた信は、李牧の口から再び桓騎の名前が出たことに、思わず息を詰まらせてしまう。

顔を上げると、李牧が薄く笑みを浮かべていて、それは彼が企てた策通りに事が進んでいることを直感させた。

「秦趙同盟の時、あなたを動かせば桓騎も動くのだと分かりました」

淡々とした口調で李牧が語っていく。

「いくら奇策の使い手とはいえ、彼も人間ですからね。弱点というのは安易に見せてはならないものですよ」

自分が死ぬだけならまだしも、桓騎が殺されてしまうと直感的に悟った信は、喘ぐような呼吸を繰り返して、李牧に縋りつくような眼差しを向けた。

自分という存在が、桓騎の弱点であることを、どうしてここまで軽視していたのだろう。

「や、やめ…やめてくれ、頼む…!桓騎、桓騎だけは…!頼む…」

弱々しく首を振って、信は必死に懇願する。
一度は跪いて懇願したのだから、もうなりふり構っていられなかった。

「俺の命はどうなってもいい!だから、頼む…おねが、お願い、します…」

兵に押さえつけられながら、信は床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。
自尊心など微塵も残っておらず、何としても桓騎の命だけは見逃してもらおうと許しを乞う。

「…妬けるな」

溜息交じりに李牧が低く呟いたので、機嫌を損ねてしまっただろうかと不安に身体が竦んでしまう。
しかし、信は顔を上げることなく、額を床に押し付けたまま必死に哀願を続けた。

「とても、妬けますよ、信」

信の前に片膝をついた李牧が手を伸ばして、彼女の顎に指を掛けて、目線を合わせて来た。

 

その瞳には慈しみを感じさせるような優しい色が浮かんでいたが、なぜか信の目には恐ろしく映り、背筋は凍り付いた。

「私があなたのもとを離れる時は、そこまで止めてくれなかったのに」

あの雨の日のことを懐かしむようにそう言うと、信が口角を引き攣らせた。

「…どうせ、あの時…俺が止めたって、お前は、聞かなかっただろ…」

「それもそうですね」

あっさりと頷いた李牧は信から手を放して、自分の顎を撫でつけた。

「共に過ごした時間が長ければ長いほど、あなたは慈愛によって執着をするようになる」

執着という言葉に反応したのか、信が眉根を寄せた。

愛と執着は似て非なるものではなく、同じものだ。愛おしいからこそ追求したくなる。手に入れたいという欲求は、愛するからこそ湧き起こる人間の本能だと言ってもいい。

「…だからこそ、お前は桓騎を選んだ」

信がよく知っている・・・・・・・・・口調で、李牧は低い声を発した。

 

交渉決裂

「…は、ははッ」

引き攣った笑いを顔に貼り付けながら、信は最後まで抵抗の意志を示す。

どれだけ自分が懇願しても李牧が聞いてくれる気配はなかった。桓騎の命を奪おうとするのなら、何としてもここで李牧を殺すしかない。

「一人で逝くのが寂しいって言うんなら、お前が死んだのを見届けてから、すぐに後を追ってやるよ…!」

自ら命を絶つのは、李牧を手に掛けた後でも遅くはない。

もとより桓騎の反対を押し切って秦国を出て来たのだから、無傷で戻れるとは思っていなかったし、犬死する覚悟も出来ていた。

全ては秦趙同盟での李牧との決別を受け入れられなかった自分の甘さゆえに招いた結果である。桓騎と秦国を守るためには、ここで刺し違えてでも李牧を討たねばならないと直感的に悟った。

「それは是非ともお願いしたいですね。約束ですよ?」

形だけの笑みを浮かべた李牧が床に片膝をついたかと思うと、信の前髪を強引に掴み上げた。逸らすことなどしないというのに、無理やり目線を合わせて来る。

「私が死んだら、必ず追い掛けて来てください。あなたが先に死んだら、私も必ず追い掛けますから」

「ッ…!」

自分を見据える双眸はどんな刃よりも透き通った冷たい鋭さを秘めており、しかし、溶岩のように触れられないほど熱くてどろどろとしたものも彷彿とさせた。

初めて李牧のそんな恐ろしい顔を見た信は思わず息を詰まらせてしまう。その反応に満足したのか、李牧は信から手を放した。

「…随分と喋り過ぎましたね」

反省したかのように独り言ち、李牧はずっと信のことを押さえつけている兵たちに目を向けた。

「しっかり押さえていてください。医者の手配も済んでいますね?」

「はっ。隣の部屋に待機しております」

冷静な様子で話を進めていく李牧と兵たちの下で信は狼狽えた。一体李牧はこれから何をしようとしているのだろうか。

「ま、待て…!李牧、はな、話はまだ…」

必死に訴えても、李牧はもう何も答えようとしなかった。兵から布を受け取ると、それを信の口元へと宛がう。

「んんッ!」

布を咥えさせられたのは、舌を噛まないようにする配慮なのか、それとも騒がしい口を塞いだだけなのか信には分からなかったが、李牧のことだから両方かもしれないと思った。後頭部できつく布を結んでから、李牧はゆっくりと立ち上がった。

「っ!んんッ、うぅ!」

右腕を伸ばされた状態で固定される。それから、李牧が床に落ちていた信の剣を手にしたのを見て、冷や汗が止まらなくなった。

(まさか、こいつ…!)

剣を手にした李牧の行動に、一切の躊躇いがなかったことから、本気で自分の右腕を落とそうとしているのだと気づいた。

 

彼は自らを卑怯者と名乗る男だった。しかし、冗談は言うことはあっても、嘘を吐かない誠実さがある。

自分が大人しく右手の親指を落としていれば、きっと許すつもりだったのだろう。しかし、今となっては全てが手遅れだと、信は認めるしかなかった。

(まずい!)

くぐもった声を上げながら、信は必死に身を捩って抵抗を試みる。

「ん、んんーッ!」

塞がれた口で懸命に制止を訴えるものの、李牧はもうこちらを見向きもしなかった。

「暴れるな!」

兵たちも暴れる彼女を取り押さえるために、さらに力を込めて来た。

このまま右腕を失えば、武器を振るえなくなる。それはすなわち、李牧への勝算がなくなるということだ。

武と知恵、そのどちらで対抗したとしても、信は一度だって李牧に勝てたことがない。隻腕で武器を振るったところで、敗北は目に見えている。

相手が李牧でないとしても、慣れない隻腕で剣を振るったところで、何の抵抗にもならないだろう。今のように、易々と兵たちに押さえ込まれるに違いない。

足を奪われないとしても、利き腕を奪われることは、脱出の手段を失うのと同じであると言っても過言ではなかった。

手首の辺りに刃が振り落とされるよう、一人の兵が信の手を、もう一人が背中から覆い被さるようにして肩と肘を押さえ込む。

床と兵に上下に挟まれて完全に動けなくなってしまった信は、声を上げることしか抵抗する術がなくなってしまう。

「ふッ、ぅう、うーッ、んんーッ!」

必死に呼び掛けるものの、李牧は冷たい眼差しを向けて、柄を握り締めている。

右手の甲をゆっくりと足裏で踏みつけ、手首の辺りで剣の切先をゆらゆらと動かしている。切り落とす位置を見定めているようだった。

「信」

穏やかな声色で名前を呼ばれ、信は冷や汗を流しながらも、過去に愛していた李牧のことを思い返した。

見逃してくれるのかと僅かに希望を抱きながら顔を上げると、彼は静かに笑んでいた。

「これは、あなたが招いた結果ですよ」

冷ややかに李牧がそう言い放った、次の瞬間。

無慈悲にも刃が振り落とされて、自分の右手首の肉と骨が断たれる瞬間を、信ははっきりと見たのだった。

 

中編②はこちら

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終焉への道標(李牧×信←桓騎)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

前編はこちら

 

処刑場

趙国ある雷環広場に到着するまで、当然ながら国境を越えることもあって、それなりの日数がかかったが、李牧が処刑される日には間に合った。

処刑をされた後は、見せしめのために数日は首を晒されることになる。
雷環広場に李牧の首が晒されていなかったことが、まだ処刑が行われていない何よりの証拠である。

馬を走らせている間、もしも処刑場に駆け付けて、すでに李牧の首が晒されていたらと思うと恐ろしくて堪らなかった。

(間に合った…)

まだ李牧を救出した訳ではないものの、僅かに安堵してしまう。

雷環広場は趙の首府である邯鄲の一角にあり、城下町ということもあってか、大勢の民たちが生活を行っていた。

秦国でもそうだが、このように民が多く出入りしている市場で処刑が行われることは珍しくない。見せしめのために、あえて人の出入りが激しい場所が選ばれるのである。

よって、賑やかな日常の一場面に、罪人の断末魔が響いたとしても、疑問や恐怖を抱く者はいない。

「………」

信は素性を気づかれないように仮面で顔を覆い、背中に背負っている剣を隠すように外套を羽織っていた。

旅人の装いに見えることから、信を怪しむ者はいない。

邯鄲は首府であり、趙の中で一番広い領土だ。外から人が出入りすることは決して珍しくないのだ。

もしもここで自分の素性が気づかれれば、それは李牧の処刑から気を逸らす大きな騒動となり、彼の処刑が延期されるかもしれない。しかし、それが李牧の救出に直結する訳ではない。

一番望ましいのは、二人とも無事に趙国を脱出することだ。

李牧が処刑されることは、まだ秦国で広まっていない。
趙の宰相であった男を、秦国を滅ぼそうと企てた男を秦国へ連れ帰れば、もちろん裏切りだと罵られるだろう。

黙って趙へ行ったことだって謀反の疑いがあると責め立てられ、それ相応の処罰を受けることになるはずだと信は覚悟はしていた。

死罪は免れたとしても、将軍の地位を下ろされるかもしれないし、投獄されることになるかもしれない。

それでも李牧の命が助かるのなら、そんな処罰など喜んで受け入れようと思った。

(桓騎には…ぶん殴られても、手足の一本折られたとしても、文句は言えねえな)

絶対に行くなと引き止めてくれた桓騎のことを考え、信は唇に苦笑を滲ませた。

もしも秦国に李牧を連れ帰ったならば、桓騎から遠慮なく嫌味を言われるだろう。

彼が眠っている隙をついて黙って出て行ったのだから、何を言われても、何をされても許してもらえないかもしれない。

心の中では何度も謝罪をしていたが、彼に伝わることはないだろう。信も許されるとは思わなかったし、恨まれるのを覚悟で李牧の救援のために国を出たのだ。

(お説教や処罰のことを気にするのは後だな…)

信は軽く頭を振って、今は目の前のことに集中しようと考えた。

休まずに馬を走らせ続けていたせいで、体はくたくたに疲れ切っていたが、頭は冴えている。李牧の処刑が目前に迫っているせいだろう。

戦でも似たような経験はあった。体はもう動けないほど疲弊しているものの、気力だけでどうにか剣を振るっているあの感覚だ。

 

(どうやって助けたら…)

ここに来て、信は勢いだけで趙へやって来たことを悔やんだ。頼れる味方がいるのならまだしも、単騎で乗り込んだところで、やれることには限界がある。

李牧が広場に連行されたところで彼を連れ出せたとして、そこから逃走を企てるなら、大勢の市民たちの中に飛び込んで、追っ手を撒く必要がある。

市民たちを脱出の騒動に巻き込んで、傷つけてしまうのは本意ではないのだが、それも覚悟しておいた方が良さそうだ。

救出方法を考えながら、信が邯鄲を歩いていると、ある違和感を覚えた。

(…おかしい)

民たちの賑やかな会話に耳を傾けているものの、李牧の話が聞かれないのである。

趙の宰相であったあの男が、民たちから大いに支持を得ていたことは噂で知っていた。それなのに、彼の処刑どころか、投獄されている話すら聞かれないのは一体何故なのだろうか。

反乱の気を起こさぬよう、民たちには処刑を知らされていないのかもしれない。だが、それが事実だとすれば、李牧が処刑されるために広場に連行されて来た途端、民たちは大いに混乱するのではないだろうか。

その混乱に乗じて李牧を救出する方法も考えたが、もしその機会を失えば、信は目の前で李牧を永遠に失うこととなる。

せめて投獄されている場所が分かればと思ったが、邯鄲城内の牢獄だろうか。

(待てよ…カイネたちはどうした?)

そこで信は一つの疑問を抱いた。李牧に付き従っている側近たちについてだ。

(まさか、あいつらも一緒に処刑されるのか?)

処刑されるのは李牧だけではなく、彼の配下たちもなのだろうか。合従軍の敗北を李牧一党の命で償わせるつもりなのだとしたら、あまりにも惨い。

きっと李牧のことだから、配下たちの命は庇ったはずだ。どれだけ残虐な策を用いる男であっても、仲間の命を見捨てられるような薄情な男ではない。

しかし、悼襄王がその哀願を聞き入れるとは思えなかった。

側近たちの死罪を免れたとしても、処刑の邪魔を刺せないように配下たちも共に投獄されているのかもしれない。

(なんで李牧は…)

付き従っていた配下の命を容易く斬り捨てられる血も涙もない残虐な王に、どうしてあの李牧が忠誠を誓ったのか、信には何も分からなかった。秦趙同盟で再会した時に聞いておくべきだったかもしれない。

しかし、桓騎と同じで、李牧が考えなしに行動をする男ではなかった。

だからこそ、悼襄王に仕えることで、李牧が成し遂げようとしていた何かがあるに違いない。その目的が何なのかを聞いておくべきだった。

―――秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ。

秦趙同盟で再会した時、李牧は信に祖国を捨てて、自分と共に来いと言った。

もちろん秦王も祖国も裏切ることはせず、李牧とは決別を決めたというのに、結局はその誓いを自らで背いてしまった。

「…ん?」

それまで賑わっていた市場が、一変して民たちの動揺による騒がしさに包まれた。

 

(なんだ?)

大きな通りに何頭もの馬が走って来るのが見えた。
馬に乗っているのが血相を変えた役人たちだと分かり、咄嗟に近くにあった露台の裏に身を隠す。

秦将であると素性を気づかれてしまい、捕縛しに来たのだろうかと身構える。

しかし、李牧の処刑のことで民たちの話に耳を澄ませている間、民たちが自分を怪しんでいる様子はなかったはずだ。信以外にも外套で身を包んだ旅人は大勢いたし、目立つようなことはしていない。

身を潜めながら様子を伺っていると、役人たちが大声で民たちに何かを伝えているのが分かった。

「悼襄王が崩御された!」

―――それが悼襄王が亡くなった報せだと知った信は、驚愕のあまり言葉を失った。

 

 

趙王の崩御

役人から国王崩御の報せを聞き、驚いた民たちだったが、すぐに服喪期の準備が始まっていく。

役人たちによって弔意を表す漆黒の弔旗があちこちに掲げられていき、賑やかだった市場にいた民たちも慌てて家に戻っていく。

普段ならば人の出入りが特に激しいであろう食堂や酒場もたちまち静けさを取り戻していった。

国王が崩御したとなれば、その死を悼むために、民たちは働くことも好きに出歩くことが許されないし、服喪期が終わるまでは、役所もその他も、さまざまな場所が公休となる。王位継承の儀が終わるまで、つまりは次の王が即位するまで服喪期は続く。

早急に次の王が即位しなければ、民たちは働けず、つまりは大勢が食い扶持を失うと言っても良い。

趙王には二人の子息がいると聞いていたから、そのどちらかが即位することになるだろう。もしも王位継承が煩雑化しているのなら、服喪期は長引きそうだ。

親友である嬴政と、弟の成蟜の王位継承争いを経験していた信は、その複雑さを知っていた。

 

国王崩御の報せを届け、弔旗を掲げ終えた役人たちがいなくなると、市場に静寂が訪れた。それまで賑わっていた市場が葬儀一色になり、民たちの姿もまばらである。

露台の裏に身を潜めたまま、信はまさかの事態に戸惑うばかりだった。

病で亡くなったようだと噂が飛び交っていたが、重要なのは死因ではなく、その後のことだ。

(趙王が崩御したんなら、李牧の処刑はどうなるんだ…?)

きっと今の宮廷は次に即位する王を決める話で持ち切りだろう。そんな状況下で李牧の処刑を実行するはずがない。

彼の死罪を命じたのが悼襄王なら、彼の崩御によって、李牧の処刑が無くなることも考えられる。次に即位するであろう悼襄王の子息が、父の意志を継ぐ残虐な男でなければの話だが。

もしも死罪が免れなかったとしても、処刑執行は延期となるはずだ。

そのことに安堵した信は、趙国が国王崩御の喪に服している間に李牧を救出する方法を考えた。

王位継承のことで見張りの兵たちも手薄になっているに違いない。
子息たちの王位継承争いが煩雑化しているのなら、そちらに兵を割くだろうし、その隙に李牧を救出することが出来る。

まずは投獄されているであろう李牧が何処にいるかを捜し出さなくてはと信が前に踏み出した時だった。

 

 

「信」

聞き覚えのある声がして、信は反射的に顔を上げる。

「な…」

声の主を見て、信は驚きのあまり、喉が塞がってしまう。

李牧だった。
傍に控えている配下はいない。拘束されている様子もなく、それどころか死刑囚を取り締まる兵たちの姿もない。これから処刑をされる様子など微塵もなかった。

怪我一つしておらず、疲弊している様子もないことから、とても投獄されていたとは思えない。

(なんで李牧が)

どうしてここにいるのか問い掛けようとしたが、声が出て来なかった。

仮面の下にある彼女の顔が凍り付いたのを見て、李牧は穏やかな笑みを浮かべる。

信は素性を気づかれぬよう、仮面と外套で変装していたというのに、李牧はすぐに彼女だと見抜いたらしい。

「あなたなら来てくれると思っていましたよ」

まるで信がここに来ることを予想していた言葉。
ここで再会出来たことを喜ぶべきなのか分からず、信は呆然とその場に立ち尽くすことしか出来ない。

ゆったりと足取りで李牧が近づいて、手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まった。

「私を助けに来てくれたんですね?」

「………」

素直に頷くことが出来ないのは、信の胸の中に不安が渦巻き始めていたからだった。

李牧を処刑から救い出すために、全てを捨てる覚悟で趙国へやって来た。しかし、信が邯鄲に到着してから・・・・・・・・・すぐに悼襄王の崩御の報せが広まる。

国王の死を悼むために服喪期が始まったことは当然のことであるが、なぜか違和感が拭えない。

目の前の男は、自分の養父である王騎の命を奪う軍略を企て、秦国を亡ぼす一歩手前まで追い詰めた男である。

その聡明な頭脳で、軍どころか、国を動かすことも容易いはずだ。

しかし、いくら宰相という立場でありながら、本当にそのようなことが可能なのかと信は固唾を飲んだ。

処刑は偽装に違いないだと桓騎は推察していたが、李牧は昔から嘘を吐く男ではない。

―――俺は卑怯者だが、嘘は言わない。今でもお前のことを愛しているし、これからもそのつもりだ。

決別を決めた時も、彼はそう言っていた。

共に過ごしていた時も、冗談を言うことはあったが、決して嘘を言うことはなかった。

だから、書簡で知らせてくれた処刑のことも、信は真実だと疑わなかった。心のどこかで李牧のことを信じていたからだ。

だからこそ、ある疑惑が浮かんだ。

 

「此度の崩御によって、釈放されることが決まったんです」

処刑を命じられたのが事実で、しかし、悼襄王の突然の崩御によって彼が無罪放免となり、釈放されたというのなら、李牧は決して嘘を吐いていない・・・・・・・・ことになる。

「まさか…お前…」

信の背筋に冷たいものが走った。

「処刑を免れるために、趙王を」

途中で言葉が途切れたのは、李牧に頬を撫でられたからだった。

「あなたならきっと、私のために来てくれると信じていましたよ」

その言葉の意味を理解するよりも先に、弾かれたように後ろへ飛び退く。背中に携えている剣の柄を握ったのはほぼ無意識だった。

見たところ、李牧は武器らしいものを所持していない。着物の下に暗器など忍ばせているような男ではなかった。

しかし、彼が素手であっても、信は彼に一度も膝をつかせたことはなかった。

こちらの剣筋を見抜き、あっという間に間合いを詰められて剣を奪われることもあったし、呆気なく膝をつかされることだってあった。

彼とは、これまで通って来た死地の数が違うのだ。着物の下に、それを示す傷痕が多く刻まれていることを信はよく知っている。
彼と肌を重ねる時に、何度もその傷痕を見て来た。最後に肌を重ねた時より、傷跡は増えているに違いなかった。

「今は服喪期ですよ。ここで騒ぎを起こすのは賢明ではありません」

宥めるように声を掛けられて、信は剣の柄から手を放す。

「…お前の処刑がなくなったんなら、もうここにいる意味はねえな」

李牧が生きているのは、自分自身のこの目で確かめた。

どういった経緯で李牧が処刑を免れた・・・・・・のかは、自分の知るところではない。
結果として、彼の救出はもう必要ないのだと分かり、趙国から早急に撤退することを考えた。

辺りを見渡すと、民たちはほとんど市場からいなくなっていた。趙の首府である邯鄲が静寂に包まれている奇妙な光景に、信は気味悪さを感じる。

市場にある厩舎に預けていた馬のもとへ向おうと考えたが、李牧が阻むように道を塞いで来たので、信は仮面越しに睨みつけた。

「信、話をしましょうか」

まるで旧友に邂逅したかのような軽い口調で声を掛けられる。

もう決別は決めたというのに、今さら何を話そうというのか。秦趙同盟の時のように、趙へ来いとでも言われるのかもしれない。

ここに来たのは、李牧を処刑から助けるために来たのであって、決して趙に寝返るためではない。

「もう話すことなんて何もねえだろ」

秦趙同盟で彼と決別を決めた信は、冷たく言い放った。
しかし、まるで彼女がそう言うのを予測していたかのように、李牧は口角をつり上げる。

「その性格、昔から変わりないですね。安心しました」

共に過ごしていた頃を懐かしんでいるのか、李牧が目を細めた。

 

 

信は李牧と目を合わさないようにしていた。

長く彼の瞳を見ていると、昔の思い出が蘇って来て、李牧と離れることを躊躇ってしまいそうになる。

それは情に過ぎないことだと信自身も理解していた。しかし、戦場ではたった一つの情でさえ隙を生み出し、命を失うことにもなり兼ねない。

だが、李牧と決別を決めたのは自分自身なのに、彼が処刑されると聞いて、見捨てられなかった。

次に李牧に会う時には、秦の将と趙の宰相という敵対関係であると決めていたのに、それも出来なかった。

ここに来たのは、まだ李牧の存在が心に根付いている証拠だ。桓騎にも指摘された弱みでもある。だからもうこれ以上、李牧と一緒にいてはいけない。

彼が生きていたことが分かり、信の心にあった不安の塊は呆気なく溶け去ってき、ここに来てようやく、不安の支配から解き放たれたような気がした。

今や彼とは敵同士であるというのに、相手の命の心配をするだなんて、自分は本当に情に弱い。きっと秦に戻ったら仲間たちに罵声を浴びせられるに違いない。桓騎には容赦なく殴られるだろうと思っていた。

「…じゃあな」

目を合わせないまま、信は李牧に声を掛け、彼の脇をすり抜けようとした。

きっと今度こそ、これが最後の別れだと考えながら、李牧に背中を見せた途端、

「きっと今頃、桓騎はあなたを追い掛けて、趙国こちらへ向かっているでしょうね」

まさかここで桓騎の名前が出るとは思わず、信は驚いて振り返る。

その瞬間、李牧が武器を所持していないことと、殺気を向けられていなかったことに対して慢心していた自分を後悔した。

瞬きをした時はすぐ目の前に李牧が迫って来ていて、片手で首を強く締め上げられていた。

「ぐッ、う…!?」

自分の注意を引くために、李牧はわざと桓騎の名前を出したのだ。信は苦悶の表情を浮かべながら、策に陥ってしまった自分を悔いた。

首を締め上げる李牧の手首に爪を立て、腕を振り解こうと試みる。しかし、その手が外れる気配がない。
未だ合従軍との戦で負傷した体は療養を必要としており、とても李牧の腕力には敵いそうにあかった。

男と女の力量差を知らしめるように、彼は薄く笑んでいた。

内側から目玉が押し出される痛みに呻きながら、信は必死に抵抗を続ける。

「ッ、ぅ、う、…」

呼吸を遮断されているせいで、指先までもが痺れていく。
背中に背負っている剣を引き抜こうと腕を持ち上げる余裕もなく、視界に靄がかかっていった。

このままではまずいと、李牧の鳩尾を蹴りつけようしたが、李牧の手が首を締め上げる力を込める方が早かった。

「ッ……」

視界が暗くなったのと同時に、信はそのまま意識の糸を手放した。

 

人質

次に目を覚ました時、一番初めに喉の違和感を感じて、何度かむせ込んだ。
意識を失う前の記憶が雪崩れ込んで来て、信は李牧の姿を探す。

(ここは?)

机と椅子があるだけの簡素な部屋だった。明らかに客人をもてなすための部屋ではないが、かといって頑丈な格子があるような黴臭い牢獄でもなかった。

締め切られた窓を見て、ここが地下でないことが分かる。蝋燭の明かりだけが部屋を薄く照らしていた。

外の光を遮断しているせいで、今が昼か夜かは定かではないが、きっと李牧がここへ連れて来たのだろう。

「くそ…」

椅子に身体が縄で縛り付けられている。両手は後ろ手に一括りにされていて、自分でこの縄を解くことは困難だと嫌でも理解した。

足だけは縛られていなかったが、縄を解かない限りは立ち上がることもままならない。

当然ながら剣は奪われており、顔と素性を隠すために使っていた仮面と外套も無くなっている。

口に布を噛ませられなかったのは、信が自害する気がないと見込んでのことなのか、それとも舌を噛み切る自由を与えてくれているのか分からなかった。

(なんで俺を殺さない?)

あの場で殺さなかったことは、趙王の崩御が関わっているのかもしれないが、わざわざ敵の将を生かしておく理由が分からない。

李牧のことだから、きっと何か考えがあってのことだろう。人質として利用されるのだろうか。

自分という存在が趙国に渡ったとなれば、親友の嬴政や仲間たちは大いに動揺するだろう。

今回の李牧の救出は完全なる信の独断であったが、かえって仲間たちに迷惑をかけることになり、信は今になって自分の行動を悔いた。桓騎も呆れているに違いない。

「気が付きましたか」

その時、李牧が数人の兵と共に部屋に入って来た。相変わらず李牧は武器を持っていないが、背後にいる兵たちは腰に剣を構えている。

「手荒な真似をしてしまってすみません」

「……、……」

何も答えようとしない信を見ても、李牧が表情を崩すことはない。この状況で優勢なのはもちろん李牧の方で、彼の機嫌次第で容易く命を奪われると分かっていた。

 

「…お前が欲しがるような情報なんざ、俺は持ってねえよ」

あの場ですぐに殺さなかったことから、何か情報を聞き出そうとしているのだろうか。

もしも拷問にかけられたとしても、絶対に口を割るものかと信は歯を食い縛る。

李牧のことだから、自分を活かした理由があるのだとしたら、それは秦国の弱みとなる情報を手に入れようとしているのかと考えた。

しかし、信は内政について一切関与していない。それはきっと李牧も知っているはずだ。だとすれば軍事に関与した情報を欲しているのだろうか。

合従軍の侵攻によって、秦国の領土は多大なる被害を受けたし、今でもその復旧作業や事後処理に追われている。

服喪期に入った趙国がすぐに動き出すとは思わないが、また時期を見て秦国に攻め入ろうとしているのだろうか。

しかし、信の言葉を聞いた李牧は不思議そうに小首を傾げた。

「…私が秦国の情報欲しさにあなたを生かしたと、そう思っているのですか?」

穏やか過ぎる声が信の耳朶を打つ。

「そんなものは密偵に任せておけばいい。私が欲しいのは情報ではありません」

密偵という言葉を聞いた信が切迫した表情で李牧を見た。

「…ああ、武器も持っていないのに拘束しておくだなんて、無粋な真似をしてしまってすみません」

李牧が前に出て、椅子ごと拘束されている信の縄を外し始めた。この状況で抵抗など出来まいと思われているらしい。

(ナメやがって)

李牧と、彼の後ろには、扉を塞ぐように三人の兵たちが立っている。

武器を持ってしても李牧に勝てなかった自分が、素手でやり合って勝てるとは思わなかったし、この人数差では呆気なく取り押さえられてしまうだろう。

窓も外から塞がれているようだし、この部屋から逃げ出すには兵たちの向こうにある扉を通らなくてはいけない。

きっと扉の向こうにも見張りの兵が待機しているに違いない。李牧が警戒を怠るような男ではないことを信は昔からよく知っていた。

「…少々きつく締め過ぎましたね。すみません」

縄を解かれると、李牧は手首に残っている縄の痕を慈しむように撫でた。その優しい眼差しと声色に、信は懐かしさと同時に嫌悪感を覚える。

「触るなッ」

弾かれたように李牧の手を振り払い、信は咄嗟に距離を取った。

拘束は解かれたが、武器を所持していないことからロクな抵抗も出来ないと思われているのだろう、後ろの兵たちが動く気配はなかった。

振り払われた自分の手を見下ろし、李牧はその双眸に寂しそうな色を浮かべる。
しかし、信が瞬きをした途端、見間違いだったのか、李牧の表情はもとに戻っていた。

 

「目的はなんだ。まさか俺が趙国へ寝返るとでも思ってんのかよ」

この状況下でそのようなことを言ったとしても、虚勢を張っているとしか思われないだろう。しかし、信にとってそれは本心だった。

どのような目に遭わされたとしても、自分の忠義が揺らぐことはない。

李牧が処刑されると聞かされた時は私情を優先してしまったのだが、処刑を免れたのならば、もうここにいる必要はない。
帰還すれば、無断で趙国へ行ったことを、趙の宰相を助けようとした罪を、秦将として償うつもりだった。

「あなたのことは昔からよく知っていますよ。そんな安易に国を捨てられるはずがないことも十分に理解しています」

当然のように返した李牧に、信は汗の滲んだ手を握り締めた。

「………」

李牧の瞳が動き、静かに拳を作った手に視線が向けられたことを信は気づいていたが、それを指摘されることはなかった。

「じゃあ、なんで俺を…」

何か考えがあって、李牧は自分を生かしておいたはずだ。

敵国の将軍には、大いに人質としての利用価値がある。
交渉の末、城や領土と引き換えにその命を保証されることもあり、過去にはそれで命を救われた仲間もいた。

しかし、首を晒される辱めを受けるよりも、仲間たちがいる祖国に迷惑をかけることの方が信は耐えられなかった。

李牧が口許に穏やかな笑顔を浮かべたが、その双眸は刃のように冷え切っていて、決して笑っていなかった。

「…あなたが趙国ここにいれば、桓騎は必ずやって来ますから」

その言葉の意味を理解した瞬間、信は目を見開いた。全身から血の気が引いていく。

「お前、最初から・・・・…桓騎を狙ってたのか…?」

思わず口を衝いた問いは、情けないほどに震えていた。

それが正解かどうかを李牧は答えようとしなかったが、少なくとも間違えではなかったのだろう、彼の口許の笑みが深まる。

しかし、その沈黙が答えであると察した信は青ざめることしか出来なかった。

自分が趙国へ行けば、李牧の策が成ってしまうと桓騎は危惧していた。

桓騎が虚偽だと訴えていた処刑は、実際には事実であったとはいえ、悼襄王の急な崩御により、結果として李牧は処刑は免れることとなる。

それを知らず、信は桓騎の忠告を無視して趙国へ赴いたのだが、李牧の目的は、信を呼び寄せることではなかった。

李牧の本当の目的は、桓騎の命だ。

捕らえられた信を救出するために、桓騎は絶対に趙国ここへやって来る。李牧は桓騎の首を取るために、信を利用したのだ。

ここに来てようやく李牧の本当の目的を知った信は、激しい後悔に襲われる。
しかし、ここで懺悔をしている時間はない。

何としても李牧から桓騎を守らなくてはと、信は迷うことなく、その場に膝と両手をついた。

「…何の真似です?」

その行動の真意を尋ねる李牧に、信は俯いて頭を下げながら口を開く。

「どうしたら、何を…したら、桓騎を、見逃してくれるんだよ…?とっとと答えろよ…!」

跪いて桓騎の命だけは見逃してほしいと許しを乞う信に、李牧は苦笑を隠せなかった。

「あなたが頼む立場だというのに、言動が釣り合っていない随分と傲慢な態度ですね。それも桓騎の影響でしょうか?」

「答えろッ!」

両手をついたまま、信が顔を上げて睨みつける。

とても許しを乞うているとは思えないほど無礼な態度だと自覚はあったが、信の頭の中は、自分はどうなってもいいから桓騎を助けることしかなかった。

 

取引

「…それでは、右手の親指を頂けますか?」

李牧が口にした取引の条件に、信は思わず息を詰まらせた。

「親指…?」

自分の命を奪うつもりはないのだろうが、大勢の兵たちが見ている手前、無傷で返す訳にもいかないのだろう。右手の親指だけというのは李牧なりの慈悲かもしれない。

「っ…」

しかし、右手は信の利き手であって、武器を持つことに大いに支障が出る。きっと李牧はそれをわかっていて、指定したのだろう。

信が躊躇っていると、追い打ちを掛けるかのように李牧が淡々と言葉を紡いだ。

「もし布を巻きつけてでも武器を持つようでしたら、残りの指を全て頂きましょう」

その言葉を聞いて、李牧は自分に二度と武器を持たせぬつもりだと確信した。

抵抗する手段を奪うというより、彼のことだから戦に出さないようにする目的があったのかもしれない。

信の存在は、強大な戦力である飛信軍にも、秦国にも欠かせない。
特に飛信軍は優秀な副官や軍師が揃っていても、信の存在がなければ士気に大きく影響が出る。それはきっと李牧も分かっていたのだろう。

しかし、指の一本なら命よりも安い。ましてや、桓騎の命を救えるのならと、信は迷うことなく彼の要求を呑んだ。

「…わかった。剣を貸せ」

もちろん承諾したのは建前であって、信はまだこの場からの脱出を諦めていなかった。

これ以上、李牧の策通りに動いてたまるかという憤りと、桓騎の言葉を信じなかった自分への怒りで支配されていた。

彼女の潔い返事に、李牧も迷うことなく、後ろで待機していた兵が持っていた剣を受け取る。そしてそれを信へ差し出した。

「どうぞ」

それは信から押収していた剣だった。秦王から授かった、信と幾度も死地を共にした剣である。

ここに来て都合よく自分の剣を渡されたことに、信は思わず固唾を飲み込んだ。

(まさか、この取引まで李牧の策通りなのか?)

 

自分が趙国に来ることも、桓騎が追い掛けて来ることも、桓騎の命を見逃してもらう代わりに信に指を落とせと命じたことも。一体いつから李牧の策に嵌められていたのだろうか。

しかし、信は李牧の命令通りに、指を切り落とすために息を整えた。

左手で渡された剣を握り、信は机に右手を置く。何度か柄を握り直し、決して狙いを逸らさぬように構える。

すぐ目の前にいる李牧から鋭い眼差しを向けられていることにも気づいていたし、周りの兵たちも緊迫した空気の中で佇んでいた。

(…李牧と、扉の前に兵が三人、きっと外にも見張りの兵がいる。李牧は武器を持っていない。李牧を人質に、逃走用の馬を奪うか用意させるしかない)

信は指を落とすことに緊張をしている演技を続け、頭の中でこの場からの脱出の図を描いていた。

もとより人数差があり過ぎる。無茶を承知で乗り込んで来た代償が今になって全て降りかかって来たのだ。

救援など一切期待が出来ない状況で逃げ出すとなれば、やはり李牧を人質に取るしか手段はないだろう。

本当に処刑を免れたならば、李牧の宰相としての地位はそのままであるに違いない。

つまり、合従軍との敗戦の事後処理に追われている今の状況下で、これ以上の混乱を招かぬために、趙国はなんとしても李牧を失う訳にはいかないはずである。人質の価値は十分にあった。

「…怖気づきましたか?」

もう迷っている時間はない。からかうように声を掛けて来た李牧を一瞥し、信は低い声を放つ。

「黙ってろよ」

信はもう一度呼吸を整えてから、剣の柄を握り直した。

(失敗は許されない。桓騎のためにも、秦のためにも)

ここで脱出の機会を失えば、李牧の策通りになってしまう。
もしかしたら、自分と桓騎という多大なる戦力を失った秦国に、再び攻め入ることまで企てているかもしれない。

何としても失敗する訳にはいかなかった。

右手の親指を切り落とすために、剣を握っている左手を思い切り振り上げ、信はすぐに行動に出た。

その場にいる全員が信の行動に注視していたが、全員がそのまま命令通りに右手の親指を落とすと疑わなかっただろう。

「はあッ!」

誰もが縦に振り落とされると思っていた剣筋が、目の前の李牧に向けられる。

急所である喉元を突くつもりではあったが、趙国から脱出するまでの人質としての価値があるので、信は李牧を殺すつもりはなかった。

しかし、その生半可の殺意が、皮肉にも勝敗を分けたのである。

 

 

剣を振るった瞬間、李牧は驚く様子もなく、後ろに引いて斬撃を回避する。

信が剣を振り切った直後、李牧はすぐに間合いに入り込むと、追撃を許すことなく彼女の体を押さえ込んだのだった。

その動きは、幾度も死地を駆け抜けた直感というより、初めから信がこうすると分かっていた反撃だった。

「―――ぐッ!?」

気づけば信は思い切り顎を床に打ち付けており、李牧から凄まじい力で頭と身体をうつ伏せに押さえ込まれていた

「…ああ、残念です。あなたは私と違って、卑怯者ではなかったはずなのに」

少しも残念そうに思っていない李牧の声が頭上から降って来たかと思うと、左手首を捻り上げられる。

彼女の反撃を予想していたものの、本当に反撃を行ったことをまるで惜しむような口ぶりだった。

「うぁあッ!」

骨を折られる寸前まで容赦なく力を込められて、口から勝手に悲鳴が上がった。失敗の二文字が脳裏を過ぎる。

痛みに剣を手放してしまい、床に転がった剣が鈍い音を立てた。それを合図に待機していた兵たちが、李牧と入れ替わりで信の身体を取り押さえる。

彼らの表情は驚愕と焦燥に歪んでおり、恐らく信の反撃を見抜けなかったに違いない。

「くそッ、放せ!」

さすがに二人の男に抑えられてしまえば、信も抵抗が出来なくなる。

両腕を背中で押さえられ、肩も押さえ込まれると、顔を上げるくらいしか叶わない。脂汗を浮かべて、信は自分から離れた李牧のことを睨みつけた。

このまま首を落とされるかもしれない。もとより自分の命を捨てて趙に乗り込んだのだから、死への恐怖心は微塵もなかった。

ただ、無様に首を晒されるようなことだけは、秦のためにも避けねばならない。

いっそ自ら喉を掻き切ってしまおうと信は覚悟を決めた。無傷で帰還出来るとは考えていなかったし、失敗すれば死しかないことだって頭では理解していた。

どうにか拘束を振り解いて剣を手にしなければ、抵抗も自決もままならない。

「大人しくしろ!」

「うぐッ…」

信が暴れれば暴れるほど、兵たちも押さえつけようと力を込めて来る。

剣を奪い返すよりも、舌を噛み切った方が早そうだ。信は深く息を吸い込んでから口を閉ざした。

尚も無言の抵抗を続ける信を冷たい眼差しで見下ろし、李牧が静かに口を開いた。

「…あなたが全てを捨てる覚悟でここに来てくれることは分かっていました。いえ、そう信じたかっただけかもしれませんが」

信を見下ろすその瞳は刃のように冷え切っていたが、掛ける言葉は穏やかで優しいものを感じさせる。

李牧の言葉を聞き入れるものかと、信は舌を噛み切るために歯を立てる。

「きっと桓騎も、あなたが説得を聞かずに私のもとへ来ることを分かっているでしょう。今頃は馬を走らせてこちらへ向かっているはず」

「…っ」

まるで桓騎の行動を予見するような発言に、信は心臓の芯まで凍り付いてしまいそうなおぞましい感覚を覚える。

舌を噛み切ろうとしていた信は、李牧の口から再び桓騎の名前が出たことに、思わず息を詰まらせてしまう。

顔を上げると、李牧が薄く笑みを浮かべていて、それは彼が企てた策通りに事が進んでいることを直感させた。

「秦趙同盟の時、あなたを動かせば桓騎も動くのだと分かりました」

淡々とした口調で李牧が語っていく。

「いくら奇策の使い手とはいえ、彼も人間ですからね。弱点というのは安易に見せてはならないものですよ」

自分が死ぬだけならまだしも、桓騎が殺されてしまうと直感的に悟った信は、喘ぐような呼吸を繰り返して、李牧に縋りつくような眼差しを向けた。

自分という存在が、桓騎の弱点であることを、どうしてここまで軽視していたのだろう。

「や、やめ…やめてくれ、頼む…!桓騎、桓騎だけは…!頼む…」

弱々しく首を振って、信は必死に懇願する。
一度は跪いて懇願したのだから、もうなりふり構っていられなかった。

「俺の命はどうなってもいい!だから、頼む…おねが、お願い、します…」

兵に押さえつけられながら、信は床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。
自尊心など微塵も残っておらず、何としても桓騎の命だけは見逃してもらおうと許しを乞う。

「…妬けるな」

溜息交じりに李牧が低く呟いたので、機嫌を損ねてしまっただろうかと不安に身体が竦んでしまう。
しかし、信は顔を上げることなく、額を床に押し付けたまま必死に哀願を続けた。

「とても、妬けますよ、信」

信の前に片膝をついた李牧が手を伸ばして、彼女の顎に指を掛けて、目線を合わせて来た。

 

その瞳には慈しみを感じさせるような優しい色が浮かんでいたが、なぜか信の目には恐ろしく映り、背筋は凍り付いた。

「私があなたのもとを離れる時は、そこまで止めてくれなかったのに」

あの雨の日のことを懐かしむようにそう言うと、信が口角を引き攣らせた。

「…どうせ、あの時…俺が止めたって、お前は、聞かなかっただろ…」

「それもそうですね」

あっさりと頷いた李牧は信から手を放して、自分の顎を撫でつけた。

「共に過ごした時間が長ければ長いほど、あなたは慈愛によって執着をするようになる」

執着という言葉に反応したのか、信が眉根を寄せた。

愛と執着は似て非なるものではなく、同じものだ。愛おしいからこそ追求したくなる。手に入れたいという欲求は、愛するからこそ湧き起こる人間の本能だと言ってもいい。

「…だからこそ、お前は桓騎を選んだ」

信がよく知っている・・・・・・・・・口調で、李牧は低い声を発した。

 

交渉決裂

「…は、ははッ」

引き攣った笑いを顔に貼り付けながら、信は最後まで抵抗の意志を示す。

どれだけ自分が懇願しても李牧が聞いてくれる気配はなかった。桓騎の命を奪おうとするのなら、何としてもここで李牧を殺すしかない。

「一人で逝くのが寂しいって言うんなら、お前が死んだのを見届けてから、すぐに後を追ってやるよ…!」

自ら命を絶つのは、李牧を手に掛けた後でも遅くはない。

もとより桓騎の反対を押し切って秦国を出て来たのだから、無傷で戻れるとは思っていなかったし、犬死する覚悟も出来ていた。

全ては秦趙同盟での李牧との決別を受け入れられなかった自分の甘さゆえに招いた結果である。桓騎と秦国を守るためには、ここで刺し違えてでも李牧を討たねばならないと直感的に悟った。

「それは是非ともお願いしたいですね。約束ですよ?」

形だけの笑みを浮かべた李牧が床に片膝をついたかと思うと、信の前髪を強引に掴み上げた。逸らすことなどしないというのに、無理やり目線を合わせて来る。

「私が死んだら、必ず追い掛けて来てください。あなたが先に死んだら、私も必ず追い掛けますから」

「ッ…!」

自分を見据える双眸はどんな刃よりも透き通った冷たい鋭さを秘めており、しかし、溶岩のように触れられないほど熱くてどろどろとしたものも彷彿とさせた。

初めて李牧のそんな恐ろしい顔を見た信は思わず息を詰まらせてしまう。その反応に満足したのか、李牧は信から手を放した。

「…随分と喋り過ぎましたね」

反省したかのように独り言ち、李牧はずっと信のことを押さえつけている兵たちに目を向けた。

「しっかり押さえていてください。医者の手配も済んでいますね?」

「はっ。隣の部屋に待機しております」

冷静な様子で話を進めていく李牧と兵たちの下で信は狼狽えた。一体李牧はこれから何をしようとしているのだろうか。

「ま、待て…!李牧、はな、話はまだ…」

必死に訴えても、李牧はもう何も答えようとしなかった。兵から布を受け取ると、それを信の口元へと宛がう。

「んんッ!」

布を咥えさせられたのは、舌を噛まないようにする配慮なのか、それとも騒がしい口を塞いだだけなのか信には分からなかったが、李牧のことだから両方かもしれないと思った。後頭部できつく布を結んでから、李牧はゆっくりと立ち上がった。

「っ!んんッ、うぅ!」

右腕を伸ばされた状態で固定される。それから、李牧が床に落ちていた信の剣を手にしたのを見て、冷や汗が止まらなくなった。

(まさか、こいつ…!)

剣を手にした李牧の行動に、一切の躊躇いがなかったことから、本気で自分の右腕を落とそうとしているのだと気づいた。

 

彼は自らを卑怯者と名乗る男だった。しかし、冗談は言うことはあっても、嘘を吐かない誠実さがある。

自分が大人しく右手の親指を落としていれば、きっと許すつもりだったのだろう。しかし、今となっては全てが手遅れだと、信は認めるしかなかった。

(まずい!)

くぐもった声を上げながら、信は必死に身を捩って抵抗を試みる。

「ん、んんーッ!」

塞がれた口で懸命に制止を訴えるものの、李牧はもうこちらを見向きもしなかった。

「暴れるな!」

兵たちも暴れる彼女を取り押さえるために、さらに力を込めて来た。

このまま右腕を失えば、武器を振るえなくなる。それはすなわち、李牧への勝算がなくなるということだ。

武と知恵、そのどちらで対抗したとしても、信は一度だって李牧に勝てたことがない。隻腕で武器を振るったところで、敗北は目に見えている。

相手が李牧でないとしても、慣れない隻腕で剣を振るったところで、何の抵抗にもならないだろう。今のように、易々と兵たちに押さえ込まれるに違いない。

足を奪われないとしても、利き腕を奪われることは、脱出の手段を失うのと同じであると言っても過言ではなかった。

手首の辺りに刃が振り落とされるよう、一人の兵が信の手を、もう一人が背中から覆い被さるようにして肩と肘を押さえ込む。

床と兵に上下に挟まれて完全に動けなくなってしまった信は、声を上げることしか抵抗する術がなくなってしまう。

「ふッ、ぅう、うーッ、んんーッ!」

必死に呼び掛けるものの、李牧は冷たい眼差しを向けて、柄を握り締めている。

右手の甲をゆっくりと足裏で踏みつけ、手首の辺りで剣の切先をゆらゆらと動かしている。切り落とす位置を見定めているようだった。

「信」

穏やかな声色で名前を呼ばれ、信は冷や汗を流しながらも、過去に愛していた李牧のことを思い返した。

見逃してくれるのかと僅かに希望を抱きながら顔を上げると、彼は静かに笑んでいた。

「これは、あなたが招いた結果ですよ」

冷ややかに李牧がそう言い放った、次の瞬間。

無慈悲にも刃が振り落とされて、自分の右手首の肉と骨が断たれる瞬間を、信ははっきりと見たのだった。

 

更新をお待ちください。

李牧×信のハッピーエンド話はこちら

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終焉への道標(李牧×信←桓騎)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 李牧×信/桓騎×信/年齢操作あり/ヤンデレ/執着攻め/合従軍/バッドエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は「平行線の終焉」の牧信IFルートです。

 

防衛戦の成功

お前が好きだと口に出したのは、酒の酔いのせいだっただろうか。それとも口を滑らせたからだったか、よく覚えていない。

その時はまだ、李牧が自分のもとを去るだなんて思いもしなかった。
だからあの時、ずっと胸の奥に秘めていた想いを告げてしまったことを、信は少しも後悔していない。

胸に秘めたままにしていたら、きっと後悔していたに違いないと、今ならそう思う。互いに違う道を歩むことになると分かっていたとしてもだ。

ただ、時々思うことがある。

もしもあの雨の日に、全てを捨てて李牧を追い掛けていたのなら、彼と共に笑い合う未来が待っていたのだろうか、と。

 

 

合従軍による秦国への侵攻は、失敗で終わった。

被害は膨大であったが、此度の防衛戦成功は、秦王嬴政の中華統一の夢を中華全土に知らしめたと言っても過言ではないだろう。

嬴政自らが蕞を訪れ、兵に偽装した民たちを奮い立たせることがなければ、戦が始まる前の士気の差から、秦の敗北は決まったようなものだった。

救援に駆け付けてくれた山の民たちに感謝の言葉を贈った後、手当てを受けながら、信は物思いに耽っていた。

(李牧…)

撤退を始める合従軍の中で、信は無意識のうちに李牧の姿を探していた。

彼が本気で彼が秦を滅ぼそうとしているのだと知り、同時に彼の軍略の恐ろしさを痛感した。

まさか水面下でこのような計画を企てていたとは思わなかったが、秦趙同盟の時に再会したあの時にはすでに李牧の中では決まっていたことだったのだ。

―――秦国はいずれ滅びる。そうなる前に、趙に来るんだ。

今思えば、あの時の彼の言葉は、すでに秦を滅ぼす計画を企てていたものだったに違いない。

だからこそ、彼は自分を趙へ来るように説得したのだろう。
それが李牧からの情だと気づいてはいたのだが、秦将である立場をそう簡単に手放すことは出来ず、信は彼との決別を決めた。

きっと李牧からしてみれば、秦を滅ぼすうえで、自分という存在が唯一の心残りだったに違いない。

信がそれを拒絶したからこそ、彼は合従軍の同盟を成してまで、本気で秦を滅ぼしにやって来たのだ。

「………」

信は途端にやるせない気持ちに襲われた。

防衛戦の成功に涙を流して喜ぶ兵たちや、歓喜の声を上げる蕞の民たち。そして勝利の喜びを分かち合うことも出来ぬ多くの犠牲。

もし、秦趙同盟のあの時に李牧の計画を見抜いて、彼を止めることが出来たのなら、こんなにも大勢が血を流すことはなかったのだろうか。

意志の固い彼に、自分が何を言っても聞き入れてくれることはなかっただろうが、それでも何かは出来たはずだ。

後悔と罪悪感に襲われ、信は唇を噛み締めて、拳を握りしめた。

信と李牧の関係を知る者は、今は亡き養父である王騎と、それから桓騎だけ。

最後まで秦を守り抜いた忠義の厚さから、まさか趙との密通の疑いなど掛けられることはないだろうが、趙の宰相である李牧と信に接点が合ったことを知れば、良からぬことを考える輩はきっと出て来る。

桓騎もそれを見越して、周りに二人の過去を告げ口することはしないでいてくれたのだろう。

「はあ…」

大きな息を吐いて、信はその場に座り込んでしまった。

限界まで酷使した体がもう休みたいと悲鳴を上げており、気を許せばすぐにでも意識の糸を手放してしまいそうだ。

合従軍が撤退したとはいえ、もしもまた時期を置いてから、水面下で合従軍に攻め込まれるようなことがあれば、次こそ覚悟しなければならない。

李牧はただでは転ばぬ男である。きっとこの秦国の中で、それを知っているのは自分だけだろうと信は考えた。

しかし、合従軍を結成したのも、秦を滅ぼすための侵攻も、全ては李牧が企てたことであり、此度の責任を取らされるのではないかという不安が募る。

撤退をしていく合従軍とそれを追撃する秦軍を見つめながら、信は李牧の無事を祈っていた。

まだ自分の心には李牧という存在が根強く残っている。そのことを、信は理解していたものの、取り除く術を知らずにいた。

 

李牧の処刑

蕞の防衛に成功した後、兵たちは被害を受けた領土の復旧作業を中心に行っていた。深手を負った信は、屋敷で療養する日々が続いている。

その日々の中で、李牧の処刑が決まったという書簡を信へ送ったのは、他ならぬ李牧自身であった。

(まさか、そんな…)

木簡の内容を目にした信は、たちまち青ざめる。此度の戦での責任を取らされるのだとすぐに察した。

丞相という地位の剥奪だけで済むことを祈っていたのだが、やはり合従軍を率いてまで持ち掛けておきながら敗北した代償は大きかったようだ。

此度の戦は、初めから秦国に勝ち目のない戦だと誰もが思っており、だからこそ他国も協力したに違いない。

趙の宰相と軍の総司令を務めた李牧の首で、此度の敗北の埋め合わせをするつもりなのだろうか。

彼が仕えている悼襄王が一切の情けを掛けない男であることは噂で聞いていた。

皮肉ではあるが、信の養父である王騎を討つ軍略を授け、趙国に多くの貢献をもたらしたというのに、まさかこんなにも容易く李牧の命まで斬り捨てるとは思わなかった。

(処刑の日は…)

木簡には処刑の日が記されており、場所は雷環広場であるとも記されていた。もう指で数えるほどしか日数は残されていない。

「李牧…!」

心臓の芯までもが凍り付くような感覚に、信は思わず木簡を落としてしまい、その場に膝をついてしまう。

戦で疲弊した傷だらけの体より、心が痛かった。

共に過ごしたあの日々が、目の裏に走馬灯のように目まぐるしく駆け巡る。
激しく脈を打つ胸を押さえながら、まだ自分の中では李牧に対する情が少しも消えていないことを自覚する。彼と決別するには、まだ長い時間が必要だった。

このままでは言葉を交わすことも出来ずに、今生の別れとなってしまうのか。

李牧に対する未練の感情が、信の胸を強く締め上げた。

 

 

見舞いのために、桓騎は信の屋敷を訪れた。

顔見知りの従者たちは信と桓騎の関係を知っている。門の見張りをする兵に止められることもなかったし、我が物顔で屋敷を歩いていても従者たちは何も言わない。

桓騎は幼い頃、咸陽で行き倒れていたところを信に保護され、彼女が立ち上げた芙蓉閣という女子供の保護施設で育った。その後、蒙驁のもとで知将の才を芽吹かせた桓騎は、今では秦国に欠かせない将軍にまで成長した。

長年の片思いが実り、信とめでたく結ばれることが出来たのは、今や秦国では民たちにまで広まっている有名な話である。

当然のように、桓騎が信の部屋に入ると、床に座り込んでいる恋人の姿があった。

「…信?」

戦で受けた傷が痛むのかと思ったが、どこか虚ろな表情をしている彼女の異変に気づく。

何があったと問うよりも前に、信の前に落ちている木簡に目がいった。
彼女が落としたらしいその木簡を拾い上げて、内容に目を通すと、みるみるうちに桓騎の顔が強張っていく。

最後に李牧の名前が記されていることに気づき、桓騎もその顔から僅かな動揺を隠し切れずにいた。

(李牧が送って来たのか?)

まさかここで李牧の名前を見ることになるとは思わなかった。

信も彼から書簡が送られて来るとは、ましてやそれが処刑の知らせだったとは予想もしていなかったことだろう。

「あ…桓騎…?」

ようやく桓騎が訪れたことに気付いたのだろう、信が青ざめた顔を持ち上げた。

切なげに寄せられた眉と、弱々しい色をした瞳に涙が浮かんでいるのを見て、桓騎は思わず奥歯を噛み締める。李牧のことが心配で堪らないといった顔だった。

「李牧が…」

未だ体のあちこちを包帯で覆われている信がゆっくりと立ち上がる。

青ざめた顔で、体をふらつかせているところを見れば、まだ療養が必要であることが分かる。

函谷関の防衛を命じられていた桓騎も、蕞と秦王嬴政を守り抜いた信の活躍は聞いていた。

李牧も自ら蕞に赴き、その場で将と兵たちに指示を出していたという。
もちろん兵力から分かるように、合従軍が優勢であり、その勢いのまま落とされると思われていた蕞は、駆けつけた山の民の救援によって守り抜くことが出来た。

しかし、もしも蕞が落ちていたら、李牧は信を殺していたのだろうか。それとも趙へ連れて行ったのだろうか。
そもそも李牧が秦を滅ぼそうとした目的が、彼女と関係していることだとしたら…考えたくもない話だ。

戦以外で二度とあの男の名前を、ましてや、信の口から聞きたくもなかった。

こんな書簡を信に送り付ける李牧が何を考えているのか、考えただけでも反吐が出る。

「ちッ」

木簡を握る手に力を込め、勢いに任せて左右に押し開く。

紐が千切れ、繋がっていた木簡がばらばらに広がってしまい、小気味良い音を立てて床に散らばった。

「桓騎っ?」

何をするのだと驚いた信が床に散らばった木簡と桓騎を交互に見上げる。

「まさか、あいつを助けに行くつもりか」

息を整えながら、桓騎は冷静に問いかけた。すると信は、何度か視線を彷徨わせた挙句、口籠ってしまう。

この国を滅ぼそうとした張本人である男を救出する意志を固めつつある信に、桓騎は罵声を浴びせそうになった。

 

疑惑

「行くな」

信の腕を掴んだ桓騎は、指の痕が残るくらい強く握り、決して彼女のことを放そうとしなかった。

「で、でも…!」

痛みを堪えながら、見過ごすわけにはいかないと訴えると、桓騎はまるで体の一部が痛んだかのように、切なげに眉根を寄せる。

「…俺がガキの頃、芙蓉閣で騒ぎを起こしてた理由を知ってるか?」

いきなりそんなことを言われ、信は瞠目した。

「はあ?今そんなこと話してる場合じゃ…」

幼い頃の桓騎が芙蓉閣で起こした騒動など数え切れないほどある。
名家の子どもたちを売り物にしようとした奴隷商人を叩きのめして財産を奪ったことや、芙蓉閣で保護されている女性の身内が暴れたのを取り押さえたりしていた。

大人に任せておけばいいものを、桓騎は子どもながらに、それらの騒動を制圧したのだ。

どうして今になってそんな話を持ち出すのかと、信が困惑していると、

「騒ぎを起こせばお前が来ると分かってたからだ。あいつも分かっててそんな報せを寄越した・・・・・・・んだろ」

思いもしなかった言葉を告げられ、信は驚愕した。

「寄越したって…何言ってんだよ!それじゃあ、まるで…」

信を呼び出すために幼い桓騎が芙蓉閣で騒動を起こしていたのと、李牧がこの木簡を送って来た真意は同じだと桓騎は言う。

「李牧が…わざと、俺を、趙へ来させようとしてるっていうのか…?」

いくら桓騎の言葉とは言え、とても信じられなかった。

まさか李牧が自分に趙に来させるためにこのような木簡を送って来たというのか。なんのためにそんなことをするのか。信には李牧の考えも、桓騎が言わんとしていることも分からなかった。

しかし、桓騎は李牧の行動の真意を裏付けるように、言葉を紡いでいく。

「なんでわざわざ敵国の、それも、お前だけに・・・・・そんな報せを寄越したと思う?それに、処刑される本人に、執行日なんて普通は前もって知らせねえだろ」

その問いに、信は思わず息を詰まらせる。

此度の戦の敗北の責任を取るために趙の宰相が処刑されることになったとしたら、秦だけでなく、趙と同盟を組んだ他の国にもその報せが行き届くだろう。

しかし、信も桓騎もそんな報せは知らず、初めてこの木簡で処刑を知らされた。そしてそれを知らせたのが李牧自身だということにも矛盾を感じる。それに、処刑される本人に執行日は直前まで知らせないものだ。

執行日を意図的に伝えぬことは、処刑される側の心情を配慮しているのかもしれないが、迫り来る命の期限への恐怖を味わわせているという見方も出来る。

しかし、李牧は事前に処刑の執行日を知り、身内でもなければ敵国の将である信に、執行日を記した書簡を送ることまで許された。趙の宰相という立場にあったとはいえ、本来ならあり得ぬ優遇だ。

だからこそ、これは意図的な情報操作だと桓騎は信に訴える。

「…自分が処刑されるって言えば、お前が趙に来る・・・・・・・のを分かってるからこんな書簡を送って来たんだろ。バカでも少し考えりゃ分かるだろうが」

言葉はやや乱暴だが、冷静になれと諭される。
ようやく桓騎の言葉の意味を理解した信は、心臓の芯まで凍り付きそうな感覚を覚え、呼吸を乱すことしか出来なかった。

 

 

「う…」

眩暈がして、足元がふらついてしまう。再び床に座り込んでしまいそうになる体を桓騎の両腕が抱き止めた。

「り、李牧が、そんな、こと…」

血の気が引いた顔で、信が尚も否定しようとする。

桓騎の言葉が真実である確証はない。
だからこそ、李牧のことを信じたかったのに、これが彼の策であることを否定する言葉は喉に張り付いて上手く出て来てくれなかった。

王騎を討ち取った策を企てたあの男ならやりかねないと、もう一人の自分が囁いている。李牧が持っている戦での才も、明晰な頭脳も、信はよく知っているはずだった。

だが、一体何のためにそんなことをするというのか。李牧の行動の真意だけがどうしても分からない。

「…あいつの処刑が事実かどうか、確かめる方法は一つだけだ。趙に行かなきゃいい」

どうしたらいいか分からないといった顔をしている信に、桓騎は穏やかな口調で答えた。

これが李牧の策だとしたら、彼が処刑されると言うのは真っ赤な嘘だ。だから趙に行かずに様子を見ていればいいと、桓騎は冷静に諭す。

趙国に李牧という存在は欠かせない。宰相という立場だけでなく、軍の指揮を執る総司令を担っている彼をそう簡単に排除出来るはずがない。

「けど…」

未だ不安を拭えず、信は弱々しい声を発した。

「もし、…もしも」

―――処刑が本当だったら?

確信を得られずにいるのは、李牧に対する情が深く残っているからだろう。
李牧に対しての情がなかったのならば、この報せを聞いても動揺することはなかったはずだ。

だが、もしも本当に李牧が処刑されることになっていたら、これが最後のやり取りになってしまう。彼は最期のその瞬間まで、自分を待っているかもしれない。

彼が趙の宰相となって自分の前に現れた時に、決別は済ませたはずだった。しかし、それは秦将としての建前だと言っても良い。敵対関係にあるからこそ、儀式的に行ったもので、信の中でそれは本当の決別ではなかった。

説得にも応じず、狼狽えるばかりの信を見て、桓騎はわざとらしく溜息を吐いた。

「…お前、まだあいつのことを忘れられねえんだな」

桓騎に指摘されなくても、李牧との決別を未だ受け入れられず、彼の存在が自分の心を巣食っていることは十分に自覚していた。

「っ…」

喉元に熱いものが込み上げて来て、目頭が沁みるように痛む。涙が溢れそうになって、信は咄嗟に前髪で顔を隠した。

もしも李牧が処刑されてしまったら、もう二度と彼に会えなくなる。考えるだけで脚が竦みそうになるほど恐ろしくて、不安と後悔で胸が押し潰されそうになる。

まさかこんな急に別れが来ることになるだなんて思わなかった。

あの雨の日に、突然自分のもとを去っていった時と同じ悲しみに胸が支配され、頭の中は李牧との思い出一色に染まってしまう。

突然自分のもとを離れていったとはいえ、しかしあの時は何処かできっと生きているはずだと信じていた。

だが、処刑の話が本当ならば、どれだけ無事を願ったところで、二度と彼には会えない。

こんなことになるなら、秦趙同盟の後に再会したあの日にもっと話をしておくべきだった。そうすればきっと、何か今と違った未来が待っていたかもしれないという後悔が信の心を縛り上げる。

たとえ桓騎が何を言っても、信の頭と心はもう、李牧のことしか考えられなくなっていた。

 

 

嗚咽が零れそうになって奥歯を食い縛っていると、いきなり桓騎に腕を掴まれたので、驚いて顔を上げてしまった。

「趙には行かせねえぞ」

声色は憤怒に染まっていたが、桓騎はなぜか切なげな表情を浮かべている。

「行くな。行けばお前は、趙から一生出られなくなる」

殺されるという言葉ではなく、まるで幽閉されるような言葉を使ったことに、信は訝しんだ。

返答に迷っていると、桓騎の両腕が信の身体を強く抱き締めた。

「か、桓騎?」

「…行くな」

何処か怯えているような、懇願するような桓騎の言葉を聞き、本気で彼が自分のことを想っていてくれているのだと分かった。

広い背中に腕を回して、安心させようとするものの、逆に自分の不安が伝わってしまったのか、桓騎は決して信のことを放そうとしない。

「えっ?」

背中と膝裏に手を回したかと思うと、いきなりその体を横抱きにして歩き始めたので、信は驚いて声を上げた。

「な、なにすんだよっ?」

どこに連れていくつもりだと聞いても桓騎は何も答えない。目的地はすぐに到着したようで、寝台に身体を落とされた。

体を組み敷かれたかと思うと、着物の帯を解かれたので、信はまさかと青ざめる。

「お前っ、こんな時に何考えてんだよッ!」

こんな時にふざけるなと信は怒鳴り、桓騎の体を押し退けようと腕を突っ張った。未だ治り切っていない傷がずきりと痛む。

しかし、桓騎は少しも表情を崩さないし、退く気配を見せない。言葉を発さずとも、趙には行かせないと双眸が強い意志を宿していた。

秦趙同盟で李牧と決別をしてから、桓騎と恋人となり、幾度も体を重ね合った。この国を滅ぼそうとした敵将ではなく、恋人である桓騎を優先すべきだと、彼の言葉に従うべきだと頭では理解しているのに、信は狼狽えてしまう。

「ま、待てって!本当に、今はこんなことをしている場合じゃ!」

何とか説得を試みようと言葉を紡いだ途端、乾いた音がして、信の視界が大きく傾いた。遅れて左の頬がじんと痺れるように痛み、熱を帯びていくのを感じる。

「っ、え…?」

思考と視界が真っ白に染まり、少しずつ色を取り戻していく。桓騎に頬を打たれたのだと気づくには、しばらく時間が掛かった。

躊躇うこともなく頬を打ったことから、容赦なく力を込めていたのだろう、口の中にじわりと血の味が広がった。

「冷静になれ。お前が趙に行って、李牧の策が成ったら、秦は今度こそ滅びるぞ」

血の味を噛み締めながら、信は桓騎が脅しではなく、本気で訴えているのだと察した。

 

 

「お前がいなくなったこの国に、俺は興味なんてない」

函谷関では得意の奇策を用い、膨大な被害を受けながらも防衛に成功した桓騎ではあるが、信がいない秦国など守る義理も価値もないと言い切った。

容赦なく秦国を見捨てるつもりでいる桓騎を、信は呆然と見上げている。

信も桓騎もいない状況で、再び合従軍のような強大な戦力から侵攻を受ければ、今度こそ秦は滅びることになるだろう。

国を守るのか、一人の男の命を選ぶのか。残酷な選択肢を天秤に掛けられ、信の胸は鉛を流し込まれたかのように重く痛んだ。

こんなにも悩むのは、李牧の処刑が彼自身が企てた策なのか確信が持てないせいだ。

もしも処刑が本当なら、信は何としてでも李牧を救出して、その身柄を保護するつもりだった。

だが、もしかしたら、それさえも策なのではないかという疑惑が信の中に滲み出て来た。

李牧が秦国を滅ぼすためにあらゆる手段を用いる男だというのは、今回の合従軍の侵攻から誰もが理解したことだろう。

それでも、李牧のことを救いたいと思うのは、未だに彼を愛している何よりの証拠だ。

もちろんそれが自分の弱さであることも信は理解していたのだが、だからと言って簡単に李牧を見捨てるような真似も出来なかった。

そんな簡単に、彼への想いを切り捨てられていたのなら、こんなに悩むことはなかったはずだ。
李牧が合従軍を引き連れて秦を攻めて来た時に、迷うことなく彼の首を狙っていたに違いなかった。

 

慰留

苦悶の表情を浮かべている信に構わず、桓騎は彼女の着物の襟合わせを開く。首筋に舌が這う感触に、信ははっと我に返った。

「やッ、やめろ、桓騎ッ…!」

抵抗する両手で桓騎の体を押し退けようとするものの、頭上で一纏めに押さえ込まれる。

こんな強引に組み敷かれるのは、秦趙同盟の時に桓騎が李牧と信の関係を知って、今までずっと李牧の身代わりにしていたのかと逆上された時以来だ。

「放せって…!」

どれだけ力を込めても、桓騎は放してくれなかった。

桓騎は片手で両手首を押さえているだけだというのに、未だ治り切っていない傷を抱えた体では抵抗もままならない。男女の力量差を見せつけられたような気さえした。

「単純な二択だ。李牧を選ぶか、それとも秦を選ぶか」

「っ…」

李牧の命と国の命運を問われ、信は狼狽えた。

ここで天秤に掛けたのが桓騎自身ではなく、祖国にしたのは、信の心を大いに揺さぶるためであった。秦国には自分だけではなく、彼女の大切な仲間たちの命も全て含まれているのだから。

もちろん時間稼ぎの目的もある。
こうして迷っているうちにも、李牧の処刑がどんどん迫っていく。もしも李牧の処刑が策ではなく事実だとしても、李牧が死ぬだけだ。桓騎にとってはそれだけの話だった。

秦将の立場であるならば迷うことなく祖国を取ると答えるのに、それが出来ないのは過去に愛していた、いや、今も愛して止まない男を助けたいという情があるからだ。

秦将である前に、信も一人の女である。それこそが、彼女に正常な判断を出来なくさせているのだ。

桓騎の中で憎らしい気持ちが込み上げる。それが妬みという感情だというのは桓騎も分かっていた。

「桓騎…俺は…」

縋るような視線を向けられ、桓騎は舌打った。

「お前にとっては二択だ」

だがな、と桓騎は言葉を紡いだ。

「お前をこの国に留める方法なんざ、俺は幾らでも知ってる」

「か、桓騎…?」

信が怯えたように瞳を揺らす。

何も言わずに桓騎は信の両手を押さえている手を放し、代わりに彼女の右足を掴んだ。

左手でしっかりと足首を握り締め、右手は指の付け根の辺りをしっかりと掴む。両手に力が入りやすいよう、足裏を胸に押し当てた。

「…足が壊れちまえば・・・・・・・・、趙に行きたくても行けねえよなあ?」

すぐにその行動の意図を察した信が途端に青ざめた。

彼女を李牧のもとへ行かせないのなら、足を砕けばいい。手綱を握れぬよう手を落とせばいい。
手足を落とすことまでしないにしても、何処にも行かせぬよう、閉じ込めてしまっても良かった。

それが信の心を壊すことになろうとも、彼女から拒絶されることになろうとも、確実な方法である。

「ま、待てッ!やめろッ、桓騎!」

冷や汗を流しながら、自分の右足を掴んでいる桓騎の手を振り解こうとする。

しかし、無情にも桓騎は、彼女の右足を捻り上げるために両手に力を込めた。
きっと捻り上げるだけじゃない。そのまま骨を折る気だと直感で察した信は無意識のうちに口を開け、叫ぶように誓っていた。

「行かないッ!」

束の間、沈黙が二人を包み込む。右足を掴んでいる桓騎の手から、僅かに力を抜けたのが分かった。

しかし、まだ足から手を放そうとしないところを見る限り、確信を得るまでは解放するつもりはないらしい。

「い…行かない…趙へは、行かねえよ…」

声を震わせながら、もう一度同じことを言うと、桓騎は何かを考えるように口を噤んだままでいた。

右足を掴む両手から力が抜けたが、まだ安心は出来ない。

少しでも彼の疑心を煽る行動をすれば、間違いなく足を折られるだろう。心臓が激しく脈を打つのを感じながら、信は黙って桓騎を見つめていた。

「…なら、今すぐ足開けよ」

ようやく右足を放してくれたかと思うと、桓騎は残酷な言葉を発した。

 

 

「なんで…」

狼狽えた視線を向けられて、桓騎は舌打った。

彼女が過去に愛した男の処刑が迫っているというのに、そんな状況で抱かせろと言っているのだから困惑するのは当然だ。

趙へ行かないことを強要させたのは、足を折る脅迫まがいなことをしたせいであって、信の本心ではない。

まだ彼女の中では、李牧に対する情が強く根強いている。

きっと自分が少しでも目を離した隙に、きっと彼女は趙へ行くだろう。他でもないあの男を助けるために。

処刑が事実だとしても、趙へ行けば確実に信は殺される。いかに彼女が強さを秘めていたとしても、一人で敵地へ飛び込めば命はない。李牧もろともその首を晒すことになるだろう。

そして、この処刑は李牧の策であると桓騎は疑わなかった。彼の手中に陥れば、信は二度とこの国に戻って来れなくなる。

それこそが李牧の狙いであることを、どうして気づかないのかと苛立たしくもあった。

合従軍を使ってこの国を滅ぼそうとしたことも、そしてその敗北さえも全てを利用して信を手に入れようとしている。その執着心は恐ろしいほどに根強い。

きっと信の中では、李牧はそんなことを企てる男でないと未だに思っているのだろう。

彼女と李牧が共に過ごしている時間、どれだけ彼女は甘い夢を見せられていたのだろうか。そして、今でもその幻影に狂わされているのだと、どうして理解しようとしないのか。

「聞こえなかったか。足開けって言ったんだよ」

もしも少しも信が迷うことなく、自分と秦国を選んでくれたのなら、きっとこんな手段に出ることはなかった。

 

慰留 その二

狼狽えてばかりで一向に言うことを聞こうとしない信に、桓騎は舌打ちながらその体を組み敷く。

こうなれば、無理やりにでも彼女をこの場に繋ぎ止めるしかない。

それが信の意志を無視することになると分かっていながら、桓騎はやめようとしなかった。

目を離した隙に、信が李牧のもとへ行ってしまうのなら、たとえ彼女を傷つけることになったとしても阻止しなくてはならない。

「あっ、や、やめろッ」

膝を掴んで足を開かせようとした途端、抵抗の悲鳴が上がる。

どこまで自分を拒絶するつもりだと腹立たしくなり、桓騎は再び右足首を掴んだ。
足を折るなど容易いことだ。道具など必要ないし、その気になればいつだって出来る。

「桓騎ッ」

それだけで桓騎の行動の意図を察した信は顔を歪める。許しを乞うような、今すぐ泣き出してしまいそうな弱々しい子どものような顔だった。

いっそ自分を殴りつけて、本気で抵抗してくれたのならば、こちらも心置きなく凌辱を強いることが出来るのに、信は小癪にも理性に訴えかけて来る。

理性に訴え掛ければ、こちらが躊躇うことを無意識のうちに知り得ているからこそ、信は本気で抵抗をしない。普段は鈍いくせに、こういうところが厄介だった。

「やめろ…今は、頼む…」

哀願する信の言葉に右足を掴んでいた手を放してしまい、自分にもまだ良心というものが残っていたことに驚いた。それはきっと、相手が信だからだと断言出来た。

それでも、ここで自分が引けば信は間違いなく李牧のもとへ向かうだろう。だからこそ、桓騎はやめるわけにはいかなかった。

彼女の体を両腕で抱き込むと、桓騎は無理やり唇を重ねる。

「んんッ…!」

信が嫌がって首を振る。強引に彼女の顎を掴み、桓騎は口の中に舌を差し込んだ。

逃げ惑う彼女の舌を追い掛け、絡め合う。

「ぅ…ふ、ぁ…」

唾液と舌を絡ませているうちに、信の息が乱れ始めていく。

信の瞳に浮かぶ哀願が情欲の色にすり替わったのを見て、桓騎の口角がつり上がった。

絶対にあの男には渡さない。この女は自分だけのものだ。

独占欲に胸を掻き立てられながら、桓騎は信の着物に手を掛けたのだった。

 

裏切り

桓騎の腕の中で目を覚ました時、窓の外が薄闇になっていることに気が付いた。

「………」

瞼が重いのは疲労による眠気と、泣き過ぎたのが原因だろう。

散々彼に抱かれたせいで声を上げた喉もひりひりと痛む。水を飲んだらもう一眠りしたいと身体が訴えていた。桓騎自身も疲れてしまったのか、目を覚ます気配がない。

「……、……」

目を覚まさないことを祈りながら、信はゆっくりと桓騎の腕の中から抜け出し、床に足をつけた。

「っ…」

立ち上がろうと体に力を入れた時、脚の間からどろりと粘り気のある白濁が零れる嫌な感触が伝い、信は青ざめた。

嫌だと叫んだのに、桓騎はあの時と同じように、この腹に子種を植え付けたのだ。

秦趙同盟で李牧と再会したあの日の夜、桓騎に犯された時は孕まずに済んだ。
幾度も戦場で命の危機に晒される体は激しい侵襲を受け、月経が途絶えることも不思議ではなかった。孕みにくい体質だったことが幸いしたのである。

しかし、二度目は分からない。万が一にも備えて堕胎薬の調合を医師に依頼しようかとも考えたのだが、今の信はそれよりも優先すべきことがあった。

着物を身に纏うと、信は寝息を立てている桓騎を振り返る。

(…悪い、桓騎)

心の中で謝罪したものの、きっと彼は自分を許さないだろう。そのために自分の脚を折ろうとまで考え、この身を暴いたのだから。

それでも信の心は、李牧を忘れることが出来なかった。

声を掛けることをしなかったのは、桓騎を起こさないための気遣いと、秦国を裏切ろうとしている自分が、言葉を掛ける資格などないと思ったからだ。

趙に寝返るつもりなど微塵もない。
それでも、趙の宰相を助けようとする行為は、裏切りと同等の行為である。

李牧の命を救うことだけが、今の信を動かしていた。

処刑は彼の偽装工作だと桓騎は言ったが、もしも本当だったのなら見過ごすわけにはいかない。

それにもし処刑が本当なら、信がしようとしている行動は、趙宰相の地位を剥奪された一人の男の命を救うこと。

李牧の命を救うことを正当化する戯言だと、信にも自覚はあった。それだけ彼の存在が深く心に根強いているのだと、認めざるを得なかった。

信は部屋を出る時も、屋敷を出てからも、一度も後ろを振り返らなかった。

 

中編①はこちら

※前編の桓騎×信のヤンデレバッドエンドルート(4700字程度)はぷらいべったーにて公開中です。

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