絶対的主従契約(昌平君×信)後日編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

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出立

「宮廷へ発つ。すぐに支度をしなさい」

信が執務室の清掃を行っていると、主である昌平君が筆を置くなり、そんなことを言ったものだから、信はきょとんと目を丸めた。

今日という日に宮廷へ行くことは先日から聞いていたが、自分を同伴する話はなかったように思う。

しかし、支度をしなさいという言葉は、確実に自分に向けられたものである。今この執務室には昌平君と信しかいないからだ。

「えっ?お、俺も一緒に行くのか?」

聞き間違いかもしれないので、念のため確認してみると、昌平君が頷いた。

「そこの着物に着替えなさい」

立ち上がった昌平君が信の背後を指さした。
反射的に振り返ると、青藍※紫を含んだ暗めの青色の着物と紫紺の帯が丁寧に折り畳まれた状態で置かれている。

早朝にこの執務室に入ってからその着物が置かれていることには気づいていたのだが、てっきり昌平君の着物だと思っていた。まさか宮廷に行くために自分の着物を用意してくれたとは。

手に取ってまじまじと眺める。
ほつれや汚れは見当たらず、触り心地が良さそうな生地が使われていることから、着物の価値が分からぬ信でも、これが上質なものであることが分かった。

…とはいえ、信にはそのような上質な着物を着た経験などなく(李一族にいた頃は着ていたのかもしれないが)、本当にこれを着るのかという緊張が走る。

礼儀作法といった教養を一切知らないため、粗相をして着物を汚してしまう自信しかなく、信は呆然としていた。

着物を見つめるばかりで動き出さない信に、昌平君がゆっくりとした足取りで近づいて来る。

 ※ズボンはそのままで、着物だけ変えればいい」

「わ、分かった…」

声を掛けられて、信は丁寧に畳まれていた青藍の着物を広げた。
しっかりと手首まで袖がある新品で上質な着物は、普段着用しているものと違ってずっしりと重みがあった。

さっそく腕を袖に通してみたものの、手首まで覆う袖がくすぐったくて、なんだか落ち着かない。そして袖を通してから、着物の大きさが自分にぴったりであることに気づいた。もしかして今日のために仕立てていたのだろうか。

(なんのために?あとでなんか要求でもされんのか?)

信は戸惑ったように昌平君を見た。
秦国の行政と軍政を司る昌平君は、相手に考えを読ませぬためなのか、もともとそういう仏頂面の星に生まれて来たのか、滅多なことでは表情を変えない。

自分を宮廷に連れていくのにはどんな考えがあるのだろう。普段の仕事ぶりを評価するにしても、こんな上質な着物を贈ることには何か裏があるような気がしてならなかった。

信が眉間に不安の色を浮かべているのを見た昌平君は呆れた表情で小さく溜息を吐く。

それから紫紺の帯を手に取ってその場に片膝をついたので、思わずぎょっとする。
侍女にでも頼めばいいものを、昌平君は信を抱き込むようにして紫紺の帯を結び始めたではないか。

 

 

「べ、別にお前がやらなくたって…!」

「動くな。やりづらい」

前合わせが開かないように、しっかりと帯を結ぶと、昌平君が膝をついたまま信を見上げた。

身長差と立場の違いから、いつも見下ろされているのが日常だったので、昌平君に見上げられるのはなんだか落ち着かない。

「苦しくはないか」

「え?ああ…」

頷くと、昌平君がすぐに立ち上がった。
いつもの着物よりも布の面積が広く、首から手首と足首まで体をすっぽりと包み込まれる違和感に、信は戸惑ったように昌平君を見上げた。

「なあ」

「着たくないのなら屋敷に残ってもいい」

信が何を言わんとするかすでに察していたようで、昌平君は容赦なく留守を言い渡した。

「ま、まだ何も言ってねえだろッ!ど、どれくらい宮廷にいるのかと思って…」

留守番は嫌だと、信が慌てて言い返した。

過去に宮廷に行ったことはあるが、指で数えられるくらいしかないので、信にとってはかなり貴重な遠出なのだ。昌平君の執務が終わったのなら城下町にも連れて行ってくれるかもしれない。

「明日の拝謁が終わればそれで終いだ。終わり次第すぐに屋敷へ戻る」

「ふ、ふーん?」

堪え切れない喜びが顔に滲んでいたが、信は大して興味もなさそうな返事をする。

以前、宮廷へ連れて行かれたことがある。あの時は秦王への拝謁ではなく、昌平君の私用だった。

用を済ませた後、腹が減ったと駄々を捏ねる信に、城下町で昌平君が包子※中華まんのことを買ってくれたことがある。

帰りの馬車の中で食べた包子の味を思い出し、信は思わず涎を垂らしそうになった。信の両手ほどもある包子はちょうど蒸かし立てで、皮はもちもちとした弾力があり、中には細かく刻まれた野菜と肉を混ぜたものが入っていた。

具材の旨味も逃がさないように、甘辛い味がついている餡で包まれていて、信は口の中を火傷しながら頬張ったのだが、あれほど美味い包子を食べたのは初めてのことだった。

下僕たちは冷めた食事を食べるのが当たり前だったこともあり、作り立ての食事にありつけた感動も大きかったのである。

あまりの美味さに感動した瞬間、馬車の揺れのせいで包子を落としてしまったのだが、それでも信は構わずにかぶりついた。(腹を壊すから落としたものを食うなと昌平君から嫌悪されたが、構わずに平らげた)

お代わりを所望したのだが、すで馬車が動き始めたあとだったこともあり、信は遠ざかっていく城下町を恨めしそうに見つめていたのである。
露店は入れ替わりが激しいと聞いていたが、まだあの店はやっているだろうか。

 

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出立 その二

馬車に乗り込み、馬を走らせると、信が窓から見える景色を見て目をきらきらと輝かせていた。

信を宮廷へ連れていくのはこれが初めてではないのだが、回数としてはかなり少ない。

普段通ることの少ない道を眺め、信は楽しそうに目を細めていた。
そんな彼の様子を横目で時々眺めながら、昌平君は秦王嬴政に上奏する内容が記された書簡に目を通す。

拝謁の予定は明日なのだが、宮廷に到着するのは今日の昼を過ぎた頃になるだろう。
相手が秦王ということもあって、時間に遅れる訳にはいかなかったので、前日に宮廷へ到着しておく予定だった。

「…なあ、今日はなんで俺も一緒なんだよ?秦王の前に出る執務の時は、今まで一度も連れてってくれなかったじゃねえか」

素朴な疑問を口すると、昌平君は目を通していた木簡を折り畳んだ。

「新しい茶葉を購入しておけ」

なるほど、と信が頷いた。
屋敷から近い街にあった茶葉屋でこれまでは茶葉を購入していた店があったのだが、今は事情があってその店を利用していない。今後もその茶葉屋を利用することはないだろう。

信には具体的に事情を告げなかったし、今後も告げるつもりもないのだが、納得してくれたようだ。

「あ、じゃ、じゃあっ…」

両目をきらきらと輝かせながら、何かを期待するように信が昌平君を見た。昌平君は思い出したように懐に手を忍ばせる。

「余った分は好きに使いなさい」

「よっしゃあ!」

懐から銀子を取り出して信に手渡すと、あからさまに喜んでいた。いつも茶葉を購入したあと、残りの金額で好きなものを買い食いすることは信の楽しみらしい。

主の目を盗んでまで奴隷解放証を手に入れようとしていたのに、その銀子を逃亡用の資金として貯めずににいるのは、少々頭が足りないからなのだろうか。

とはいえ、たまの贅沢に好物を購入したり、屋敷の同僚たちにこっそりとお土産を渡していることは、陰で信の監視を行っている豹司牙から報告を受けていた。

好きに使えと命じたのは自分の方だし、使い道に関しては干渉するつもりはないのだが、信らしいと思う。

李一族の中で厳しい鍛錬を続ける日々の中でも、信は時々街に出て好きに買い食いを楽しんでいた。街へ出る時は欠かさず家臣たちにも土産を買っていたし、記憶を失ったとしても、彼の根本的なところは何も変わっていない。

そのことに昌平君が安堵していると、聞いている方もつい気が抜けてしまうような情けない音が馬車の中に響き渡った。

「………」

「………」

それが信の腹の虫だというのはすぐに分かったが、宮廷に着くまではまだしばらくは時間がかかる。

 

食事休憩

「…腹減った」

いわゆる食べ盛り成長期である信が朝餉を抜いたとは思えない。

生意気な態度からは想像出来ないだろうが、下僕としての生活が長かったせいか、彼が朝寝坊をしたことは一度もないのである。

今朝は執務室の清掃くらいしか行っていなかったと思うが、信の空腹状態を放置しておくと、普段の生意気な態度に拍車がかかり、それはもう面倒なことになる。

「休憩だ」

御者に声をかけると、すぐに馬車が停まった。

信が移動中に空腹を訴えるのは予想していたので、あらかじめ食料を積んでおくよう事前に指示をしていたのである。

移動しながら馬車の中で食事をさせるのではなく、わざわざ食事休憩のために馬車を停めたのには理由があった。

以前、信を連れて行った時のことだ。帰りの馬車の中で、城下町で購入した包子を食べていたのだが、揺れのせいで信が手に持っていたその包子を落としてしまった。

そして運悪く、その食べかけの包子は昌平君の膝に落ちてしまい、着物を汚してしまったのである。(構わずに信は包子を平らげていた)

用を済ました帰り道であったから良かったものの、屋敷に着くまで肉の脂が染み込んだ着物を着たままでいることに、昌平君は嫌悪したものだ。

信といえば豹司牙にげんこつを落とされて説教をされても、蒸したての包子の美味さに感動しており、昌平君の着物を汚したことを忘れたかのようにはしゃいでいた。

…そういった経緯があり、必ず馬車の外で食事をさせるようにしていたのである。

道端に馬車を寄せ、従者たちが馬車のすぐ傍にある平地に敷物を広げ、飲み物や積んでいた料理を並べていく。

食料を積んでおくように指示をしたのは昌平君自身だったということもあり、まさか主ではなくて、下僕の信がこの料理を全て平らげるとは従者たちも思っていないだろう。

しかし、満足するまで腹を満たせば、信はすぐに眠ってしまうことを昌平君は知っていた。

屋敷に要れば仕事があるので居眠りをする暇などないのだが、宮廷に到着するまでは特にやることはないので、移動中の昼寝だけは特別に許していた。

豹司牙から食事の準備が出来たと報せが入り、昌平君は馬車を降りる。その後ろを信が続いた。

並べられた料理を見て、大袈裟なほど騒ぎ立てるだろうと思っていたのが…。

「…?」

敷布の上に並べられている料理を前にしても感嘆の声がしなかったので、昌平君は不思議に思い、後ろを振り返った。

信といえば料理には目もくれず、というより気づいていないようで、茂みを覗き込んでいるではないか。

 

 

「あった!」

昌平君が声を掛けようとした途端、信がその茂みに手を突っ込んだので、何事かと驚いた。

(なんだあれは)

信が手にしている丸い実を、昌平君は一度も見たこともなかった。
長生きしていると自慢できるほどの年齢ではないのだが、信よりは長く生きており、人生経験はそれなりに豊富な方である。

しかし、信が手に持っているそれが果実なのか、木の実なのか、はたまた別の何かなのか少しも分からない。初めて見るものだった。

黒ずんでいる見た目から、成熟をはるかに通り越していることは誰が見ても明らかだ。率直に言おう。あれは確実に腐っている。

しかし、なぜか信は目をきらきらとさせており、今にも涎を垂らしそうなほど口を開けていた。

明らかに腐っているだけでなく、毒かも分からない実を食べようとするとは見境がなさすぎる。

こちらにきちんとした料理が並べられているというのに、それも気づかないほど空腹だったのだろうか。

「………」

昌平君が僅かに頬を引きつらせ、信が握っている何かの実を見つめているものだから、優秀な重臣である豹司牙がすぐに信の手からその実(のようなもの)を取り上げた。

「あーっ、なにすんだよ!食いたいなら自分で取って来いよな!」

なぜか豹司牙がその実を食べたがっていると誤解した信が慌ててその実(のようなもの)を取り戻そうとする。

「こんな得体の知れないもの…口にすれば腹を壊すぞ」

子供である信との身長差を利用して、豹司牙は取り返されないように、奪った実(のようなもの)を高く掲げていた。

「はあ?この色の時が一番美味いんだよ!」

「………」

「………」

出征経験のある昌平君も豹司牙も、腐った馬の肉くらいは口にしたことはあるのだが、信が手に持っている黒ずんだ実(のようなもの)からは少しも味の想像が出来なかった。

凝視していると、そもそもそれが実なのかさえ分からなくなってくる。
しかし、下僕としてあの辺鄙な集落で暮らしていた頃は厳しい里長によって、ろくに食事も与えられていなかったようだし、その辺になっている実を食べるのも、飢えをしのぐために腐ったものを口にするのも日常的だったに違いない。

それにしても本当にそんな粗末なものを食べて生き長らえていたのかと思うと、もっと早く見つけ出してやればよかった。
表情は変わらないまま、昌平君の良心がしくしくと痛んだ。

「信、来なさい」

未だに豹司牙の手にある実(のようなもの)に執着している信に声をかけると、ようやく彼は並べられた料理に気づき、目を輝かせた。

「わ、すっげー料理!」

もしも信が料理よりも、あの謎の実(のようなもの)を選んだらどうしようという不安があったのだが、それは杞憂で済んだらしい。

しかし、あの謎の実(のようなもの)を掴んだ手で料理に触ろうとしたものだから、昌平君はすぐにその手首を掴んだ。

「なんだよ。食って良いんだろ?」

「手を洗ってからにしなさい」

その言葉を聞いた豹司牙が信から奪った実(のようなもの)を遠くに投げ捨て、水の入った竹筒を手に取ったので、信は渋々といった様子で両手を差し出した。

しかし、もう信の興味は並べられている美味しそうな料理に向けられている。

あ~、腹減った~」

竹筒の水で手を洗った後、濡れた手を拭かせようと昌平君が手巾を差し出す。
しかし、信の視線と興味はずっと料理に向けられており、彼は近くにあった布――昌平君の着物――で手を拭いたのだった。

「信ッ!!」

豹司牙のこれほど激しい怒声と血相を変えた姿は珍しいことで、昌平君も見聞きしたことがなかったのだが、まさか宮廷への道中で目の当たりにするとは思わなかった。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
宝石姫

 

予定変更

豹司牙の強力なげんこつが落とされ、堪らず涙を流していた信だったが、空腹に勝てなかったようで、立派なたんこぶを抱えながらも颯爽と食事を平らげたのだった。

「ふい~、食った食った~!」

満腹になった合図なのか、信が膨らんだ自分の腹をぽんと叩く。もうたんこぶのことなど忘れてしまったらしい。

食事の件はこれで良いとして、問題は着物だ。以前のように肉の脂が染み込んだ訳ではないのだが、秦王に拝謁する立場としては、汚れた着物のまま会うわけにはいかない。

汚されないように食事を用意していたものの、予想外の行動によって着物が汚されてしまった。

さすがの昌平君もこれは想定外であったので、生憎にも着物の替えを持って来ていなかった。それで豹司牙の怒りも倍増したのだろう。

拝謁の予定は明日であり、着物を用意するなら今日中だ。当然ながら仕立ててもらう時間はないので、城下町で見繕うしかないだろう。

馬車に乗り込むと、腹を満たして昼寝でもするつもりだったのか、我が物顔で椅子に横たわる信の姿があった。

「…予定を変更する」

「ん?」

「着物を変えねばならん」

城下町で着物を購入すると伝えると、信が再び目を輝かせて体を起こした。

「じゃあ、昌平君も城下町に行くんだな?」

「私は着物を見立てなければならない。店を回るなら豹司牙と行け」

「えーっ!」

楽しみにしていた自由時間を豹司牙と一緒に過ごさなくてはならないのだと分かり、信があからさまに駄々を捏ねた。

どうやら茶葉を購入したあとで、城下町で好き勝手出来ると思っていたらしい。

人の行き来が激しい城下町で子ども一人を歩かせれば、迷子になってしまうかもしれない。それにまだ先日の件があったばかりだ。李一族の生き残りを探している者に狙われるのではないかという心配が絶えなかった。

豹司牙を同行させるのは万が一のときの護衛のためなのだが、信は豹司牙と二人で行動するのは気が重いらしい。

しかし、背に腹は代えられないし、李一族の生き残りを狙っている輩は咸陽宮にいる。城下町に見張りを放っているとしてもおかしいことではない。用心はしておいた方が良いだろう。

「あ、そうだ!俺がお前の着物を選んでやるよ!それなら…豹司牙と一緒にいなくてもいいだろ?」

馬車の外で御者を先導している豹司牙に聞かれないようにか、一度視線を窓の方に向けてから不自然に声を潜めたのをみると、よほど豹司牙と一緒に行動したくないらしい。先ほどの件を責められて、またげんこつを落とされるのではないかと怯えているようだ。

だが、豹司牙との行動することを強要したら、信は豹司牙の目を盗んで一人で街を歩くかもしれない。信はまだ子どもということもあって、身軽ですばしっこいのだ。

城下町には多くの人が出入りするし、あの人ごみの中で信を見失えば、いくら豹司牙とはいえ見失ってしまうだろう。

「…決して私の傍から離れるな」

信の本当の素性を知っている自分か豹司牙が一緒なら安全だろうと思い、昌平君は仕方ないと頷いた。

 

 

城下町に到着すると、相変わらず人の出入りが激しかった。この人ごみの中にいるだけで正直気分が悪くなりそうだ。

げんなりとしている昌平君とは反対に、信の方は笑顔で露店を見渡していた。
今にも一人で勝手に動き出しそうな彼に危機感を抱き、昌平君はしっかりと信の腕を掴む。

「なんだよ、放せよ」

「離れるな」

まるで幼子のような扱いを受けたことで、信が鬱陶しそうに昌平君を見上げる。

しかし、馬車を先導している豹司牙に鋭い視線を向けられると、信は何事もなかったかのように昌平君の着物を掴んだ。

「これでいいだろ」

「絶対に放すな。この人ごみの中でお前を見失っても、見つけられる自信はない」

「お前でもそんなこと言うんだな」

自信がないと言った主に、信は珍しいと目を丸めた。
主をお前呼ばわりする相変わらず無礼な態度に、傍にいる豹司牙の視線がますます鋭くなっていく。殺気に近いものを感じたのか、信が昌平君の背後に身を隠して縮こまった。

昌平君が豹司牙に「もう行って良い」と目で合図を送ると、優秀な配下である彼は一礼して、再び馬に跨り、馬車を先導していく。

馬車と荷を預けに行った豹司牙の後ろ姿を見て、信はほっと安堵しているようだった。

「………」

豹司牙に叱られるのが怖いのなら、どうして叱られないように態度を改めないのか、昌平君は信の学習能力のなさが不思議で堪らなかった。李一族の頃の記憶と共に学習能力まで失ってしまったのだろうか。

しっかりと信が着物を掴んでいるのを確認しながら、昌平君は城下町にある呉服店へと向かう。

「うわー、あれ美味そうだな」

その間も信の興味は美味しそうな食べ物を売っている露店へと向けられていた。

先ほど腹を満たしたというのに、まだ食べたいのだろうか。子どもというのは無限の食欲を持っているらしい。

しかし、先に着物を購入しなくてはならないので、信の用事は後回しだ。新しく購入した着物も汚されないように気を付けなくてはならない。

 

呉服店にて

何の前触れもなく、右丞相が来店したことで、呉服店の当主は驚いて頭を下げていた。気にしなくて良いと声を掛け、商品として並んでいる着物にざっと目を通す。

秦王に拝謁することや、自分自身の右丞相という立場を考えると、落ち着いた色合いのものしか選択肢がない。

もともと派手なものを好まないことや、時間を無駄にしたくない性格であることから、今着ているものと同じ色合いの着物を選ぼうとした時だった。

「これが良い!」

少し離れた場所で信が急に大声を出したので、昌平君は反射的に顔を上げた。

「ほら、これ!これにしろよ」

信が指さしている着物は、昼間の晴天の空を切り抜いたかのような青色の着物だった。青と白の中間の、明るい淡い色を見て、昌平君は信に言われるままに、その着物を手に取っていた。

「………」

直接指で触れてみると、生地が厚く、しっかりと重みがある。仕立てる時の糸が多く、職人が時間をかけて作り上げた証拠だ。これだけ淡い色を出すために、染料を作製するのにも時間がかかったに違いない。

男物ということで柄や刺繍は入っていないが、昌平君はその空色の着物に好感を抱いた。

「これを貰おう」

店主に代金を支払い、着物を包んでもらっていると、信は誇らしげな顔をして隣から視線を送って来た。

選んでやった礼を寄越せと言わんばかりの表情に、目的は露店の食べ物かと考える。

信が率先して着物を選んだのは、もしかしたら早くこの用事を終わらせて街を歩きたかったからという単純な理由なのではないかと思った。

「なぜこの着物にした?」

だから、あえて本人に問いかけてみたのだ。
慌てて理由を考える素振りを見せれば黒、そしてすぐに答えられたのなら白。

「え?この中で一番きれいだったから」

「………」

黒と白の中間である灰色という回答は、昌平君の中では想定外であった。

 

単独行動

店主から着物を受け取り、二人は呉服店を後にした。

相変わらず何か期待するように、信が隣から熱烈な眼差しを送って来る。なにか露店で売られている食べ物ががあるのだろう。

今度こそ着物を汚されまいとして、昌平君は着物が入っている包みをしっかりと抱きかかえた。

「あ、あった!」

何を言われるのかと身構えていると、急に信が昌平君の向こうを指さす。

つられてそちらに視線を送ると、人ごみの向こうに包子※中華まんのことを売っている店があった。湯気と一緒に蒸したての包子の良い香りが漂ってくる。

そういえば以前、城下町に二人で行った時も、腹が減ったと喚く信に包子を買い与えたことを思い出す。

蒸したての包子は匂いから美味そうで、信が買ってくれるまで動かないと強固な意志を見せていたので、一つ買い与えてやったことを昌平君は覚えていた。(そして帰りの馬車で信が包子を落とし、着物を汚されたことも覚えている)

どうやらあの包子が人気なのは今でも変わりないようで、店の前には人だかりが出来ている。
蒸し終えた包子を、恰幅の良い店主が慣れた様子で売り捌いていく姿がそこにあった。

「あっ、あーっ!急がねえと売り切れちまう!」

あっという間に一つ二つと売れていく包子に、自分の分が無くなってしまうと焦った信が走り出した。

「信ッ!」

自分から離れるなと口酸っぱく告げていたのに、信はそんなことを忘れたと言わんばかりの勢いで店へと向かっていく。

何とか人ごみを掻き分けながら、昌平君は信の姿を見失わないようにしながら、必死に追いかけた。

まさかこんなところに右丞相がいるとは誰も思わないのだろう、昌平君に道を譲ろうとする者は誰もおらず、昌平君は人ごみの中でもみくちゃになっていた。

そこらの客よりも背丈が高いことが幸いし、なんとか包子を売っている店は見失わずにいたのだが、小柄な信は人ごみの中に紛れてしまうと、見分けがつかなくなる。

「信!」

もう一度名前を叫んでから、昌平君は慌てて口を噤んだ。

もしもこの人ごみの中に李一族の生き残りである彼を探している者がいたら、存在が気づかれてしまう。

この雑踏では昌平君の声など誰にも聞こえていないに等しいかもしれないが、それでも警戒を怠るわけにはいかない。

あの時のように、自分の知らない場所で命を奪われるのではないかという不安が波のように押し寄せて来た。

今は豹司牙も傍にいない。この人ごみの中で見失い、二度と信が戻って来ないのではないかと思うと、それだけで心臓の芯が凍りつきそうになる。

両手でどうにか人ごみを掻き分けながら前に進み、なんとか包子の店の前に到着した。
恰幅の良い店主が申し訳なさそうに頭を掻いた。

「ああ、悪いけど売り切れだよ。今日はもう食材がねえからまた明日にでも来てくれ」

肩で呼吸をしている昌平君を見て、店主は包子を買いに来た客であると疑わなかったらしい。
それはそうだろう。人ごみの中をもみくちゃになって進み、いつも丁寧に整えているはずの髪も着物も激しく乱れている。

こんな無様な右丞相の姿を民に見せたことなど一度もないのだから、気づかれなくて当然だ。
しかし、そんなことはどうでも良かった。

「青い着物の子供はっ?」

店主の言葉が言い終わる前に、昌平君は声を被せるようにして尋ねた。鋭い目つきを向けられた店主はぎょっとした表情になる。

「一人でこの店の包子を買いに来たはずだ。青い着物の、」

「あっ、昌平君」

余裕のなさから沸き起こる苛立ちを押さえながら、信の特徴を伝えていると、背後からのんきな声が聞こえたので、昌平君は反射的に振り返った。

 

 

こちらの心配など微塵も感じていないような満足げな表情で、二つの包子をしっかりと両手で抱えている信がいた。

間違いなく信だ。姿を見た途端、昌平君の肩から一気に力が抜けてしまい、長い息が零れる。

「私から離れるなと言っただろう」

僅かに声を荒げると、信は驚いたように目を見開いた。
それからしゅんと肩を落として、こちらの顔色を窺うように上目遣いで見上げて来る。

「わ、悪い…人気だから、売り切れちまうと思って…」

反省している姿を見て、昌平君もようやく我に返ったのだった。
無事だったのならばそれで良いはずなのに、大人げなく声を荒げてしまうなんて。少し離れただけでこんなにも不安に駆られてしまったことに、昌平君は己を恥じた。

「しょ、昌平君っ?」

無意識のうちに昌平君は信の体を両腕で抱き締めていた。いきなり抱き締められたことに、信が驚いて目を見開く。

「………」

いかなる場面であっても余裕を繕う必要はないが、焦燥感や不安は視野と思考を狭める。

多くの将と兵の命を預かっている軍の総司令という立場である自分が一番よく理解しているはずだったのに、どうも信のことになると感情が前面に出てしまう。

李瑤りよう ※信の父・李一族の当主との約束を守らなくてはという私情だと、昌平君も理解していた。

亡き師との約束を違えるわけにはいかないという義務感から来ているのは分かっていたのだが、先日の庖宰ほうさい ※料理人との一件があってから、余計にその義務感を強く抱くようになっていた。

「…あっ、あっ…潰れるっ!潰れちまう!」

腕の中にいる信が焦った声を上げたので、はっと我に返って昌平君が手を離す。

「せっかく買ったのに、お前のせいで台無しになるとこだった!」

信が抱えていた二つの包子が少し形が崩れていた。昌平君が強く抱き締めたせいだろう。
中の具材は出ておらず、食べるのには問題ないようだが、信が目尻を吊り上げて昌平君を睨みつける。

「…すまんな」

余裕を欠いていたとはいえ、自分らしくないことをしたことは自覚があったので、昌平君は素直に謝罪した。

「別に、食えるから良いけどよ」

そこまで気にしていないと言うと、信は何かに気づいたように目を丸めた。

「…あれ?そういえばお前、買った着物は?」

店を出た時には抱えていたはずの着物がなくなっていることに気づいたのは、信に指摘されてからだった。
信を探すのに必死だったとはいえ、あの人ごみの中で手放してしまったのだろう。上質な着物であったことから、きっと今頃、誰かの手に渡ってしまったに違いない。

「………」

あからさまに落胆している主の姿を見て、信がにやっと笑い、包子を一つ差し出した。

「腹満たしてから、また考えようぜ!」

刺客から信を守るために厳格な主で装わなくてはと思うのだが、眩しいほどの笑顔を向けられると、それだけで全てを許してしまいそうになる。

少しだけ形を崩れた包子を受け取ると、そういえば腹が減っていたことを思い出す。隣で美味そうに包子を頬張る信を眺めながら、昌平君も包子に噛り付いたのだった。

 

昌平君×信の別の主従関係話はこちら

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絶対的主従契約(昌平君×信)後日編①

  • ※信の設定が特殊です。
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約束

いつものように昌平君が茶を一口啜った後、茶器を置いた。

また文句を言われるのかと反射的に信が身構えると、

「…約束はいつ果たすつもりだ」

「え?」

茶の感想以外の言葉を掛けられたので、信はつい聞き返してしまった。

「私が気に入る茶を毎日淹れるのではなかったのか」

「いや、だから毎日とは言ってねえって!」

あの勝負のことを言っているのだとすぐに分かったが、自分が負けた時の約束として、主の気に入る茶を淹れるという約束をしただけで、毎日とは言っていない。

一応約束を果たすつもりで良い茶葉を購入しに行ったものの、あのような事件が起きたこともあり、信は療養という名目でしばらく外出を禁じられていた。

茶葉屋の店主と庖宰の男がその後どうなったのかは分からないし、昌平君も豹司牙も答えることはなかったが、二度と会うことはないだろう。

「俺がどう淹れたって結局文句言うじゃねえか。最初から茶を淹れるのが得意なやつに淹れてもらえば…」

幾度となく提案した言葉を再び告げると、昌平君がじろりと信を見た。睨んだと言って良いだろう。

昌平君が信を傍に置いているのは、信の父との約束のこともあるが、表向きは機密事項の取り扱いをしているからだ。

字の読み書きが出来ない下僕という立場を利用し、膨大な機密情報を取り扱っているこの執務室の出入りを許可している。もちろんそれは情報漏洩を防ぐための配慮だ。

「あーあ、美味い茶葉さえ手に入ればなー」

信がわざとらしい独り言を洩らす。
いかに茶葉の質が良くても、淹れ方によって茶葉の旨味を掻き消すことも出来ると証明したのは信自身であった。

昌平君は静かに筆を置くと、腕を組んだ。

確かに屋敷の中で茶を淹れることを得意とする者はいる。その者に淹れ方を習わせるべきだろうか。信は物覚えが悪い方ではないのだが、熱意に欠ける面がある。

自尊心が高いようにも思えないが、誰かに命令されるのを好ましく思わないのだろう。特に自分の苦手分野であればなおさらだ。

昌平君も自ら頭を下げてまで信に茶を淹れてほしいとは思わない。しかし、国の行政と軍政を担当している昌平君の執務量は膨大で、合間に美味い茶を飲むくらいの休憩はしたいのである。

…あの日の勝負は、予想外の出来事による昌平君の不戦勝だったのだが、死にかけたところを侍医に診せたことに、信は少なからず恩を感じているらしい。

かといって普段の態度を改める気配はない。自分の素性を教えられて、もともと昌平君と面識があったと知ってから、その生意気な態度にさらなる拍車がかったように思う。
豹司牙にげんこつを落とされる回数が倍増していることから間違いないだろう。

 

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相変わらず主からのしつこい要求に信は溜息を零しそうになる。

(…ん?待てよ…)

信はふと考えた。約束を果たすのは今回限りであって、毎日ではない。

どうしてそこまで昌平君が美味い茶を飲みたがっているのかは分からないが、この屋敷にも茶を淹れる者を得意とする者はいる。

その者に美味い茶を淹れてもらい、自分が淹れたと主張すれば・・・・・・・・・・・・約束を果たすことが出来るのではないだろうか。

どうしてこんな簡単なことを今まで実行しなかったのかというと、それは昌平君のこだわりが強く、淹れたての熱い茶が飲みたいという要求されるからである。

しかし、本当に美味い茶ならば、多少冷めたところで味に変わりはないはずだ。だとすればさっそく他者に協力を要請しよう。

ずる賢い考えではあるが、良い手を思いついたことに信の口角が持ち上がる。

昌平君の背中に目があったのなら、今の表情だけで何を考えているのか見抜かれただろう。しかし、昌平君の死角に立っている信の考えは誰にも読まれることはなかった。

ゆえに信は、ずる賢い方法だと自覚しながら、その方法を実行することに決めたのである。

「よっし、それじゃあ美味い茶を飲ませてやる!今回だけだからな!?」

一度美味い茶を淹れる技術を身に着けたのなら何故それを継続しないのかと昌平君は不思議に思ったが、信のずる賢い考えをさすがの彼も見抜くことは出来なかった。

 

共謀

信は鼻歌交じりで厨房へと向かっていた。昼食も終えたばかりなので、庖宰 ※料理人たちは片づけを行っているものの、今はそれほど多忙ではない。

以前、報酬欲しさに密偵として屋敷に潜入し、信を手に掛けようとしたあの庖宰の男がどうなったのかは、昌平君も豹司牙も教えてくれなかった。

庖宰の男が以前、自分と同い年の息子がいると話してくれたことを思い出し、胸がきゅっと締め付けられるように痛む。

使用人たちの間では、母の危篤のため急な暇を出したという話で通っていたが、昌平君の情報操作だろう。本当は生きているのかさえ分からない。

あれから屋敷に出るのを禁じられているため、茶葉屋の店主もどうなったのかは信も分からないのだが、尋ねたところで昌平君が教えてくれないことは分かっていた。

(…っと、美味い茶を淹れてもらわねえとな)

思考を振り払うように、信は頭を軽く振った。

厨房の裏手に回ると、火を起こすのに使う薪が積んである。その傍に背凭れもついていない簡易な椅子と卓子が設置されていた。

ここは庖宰たちが休憩所として利用している場所であり、今は数人の庖宰が昼食を摂っていた。厨房で片づけをこなす者たちと交互に休憩を取っているらしい。

粥を啜っている若い女と目が合うと、彼女は笑顔を浮かべた。

「信じゃない」

「よっス」

手を上げて、信は彼女の隣に座る。ちょうど粥を食べ終えたところだったらしい。

彼女は信よりもいくつか年上で、下僕という立場ではあるものの、味付けや茶の淹れ方が丁寧なところを評価されて、今は庖宰見習いとしてこの屋敷に雇われていた。

年が近いということもあり、信が姉のように慕っている仕事仲間である。

「お昼を食べ損ねたの?」

粥の残りを持ってこようかと提案してくれた少女に信は首を横に振った。

「美味い茶を淹れてほしいんだ」

単刀直入に目的を告げると、少女があははと口を大きく開けて笑った。
幼い頃から礼儀を教え込まれる令嬢であれば絶対にしない豪快な笑い方だ。相手の笑い方や立ち振る舞いをみれば、下僕仲間であるかどうかがすぐにわかる。

「わかったわ。どうせまた怒られたんでしょう?」

信が昌平君に茶を淹れることも、毎回文句を言われることも、信自身が愚痴として下僕仲間に広めているので、今では笑い話の一つとなっていた。

「あいつのこだわりが強いんだよっ」

思わず反論すると、少女が慌てて自分の口元に人差し指を押し付ける。こんなところで主の悪口を言うんじゃないという仕草だ。

「ええっと、だから見本で美味い茶を淹れてほしいんだよ」

信が両手を合わせて少女に頼むと、彼女は困ったように肩を竦めた。

少女が淹れたお茶を自分が淹れたことにして昌平君に飲ませるという話をしなかったのは、絶対に断られるという確信があったからだ。

もしも作戦を打ち明けたとして、後で昌平君に知られてしまい、共謀した罰として仕事を失うのは恐ろしいと断られるに決まっている。

見本として淹れてもらった茶を昌平君に飲ませれば、きっと約束は果たせるだろう。そして信の狙いはもう一つあった。

自分ではなく、少女が淹れた美味い茶に文句を言うようだったなら、昌平君はただの味音痴・・・だ。茶の味など分からず、文句を言いたいだけではないかと反論する材料が出来る。

…もちろん少女のことを思えばこそ、共謀したことは内密にしたいのだが…。

とはいえ、聡明な昌平君でさえ見抜くことが出来なかった信のずる賢さを、同じ下僕である少女が見抜けるはずもなかった。

「いいわ。ついて来て。まだ茶葉が残っていたはずだから、それで淹れてあげるわよ」

空になった皿を片手に、少女は信を厨房へと呼びつける。

(よし!これで昌平君に一泡吹かせてやる!)

美味い茶を淹れるという約束から、主の味音痴を見極めるという目的にすり替わっていることに、信は気づいていなかった。

 

 

厨房にある戸棚を覗き込み、少女はいくつかの茶葉を取り出した。

信がいつも昌平君の茶を淹れているのはあの執務室で、茶葉もそちらで保管しているのだが、他の家臣たちに淹れる用に厨房でも茶葉は保管されていた。

騒動の後、茶葉屋の店主がどうなったのかは教えられていないのだが、街で茶葉を売っているのはあの店だけだ。今は特に何も言われていないが、もしかしたら今後は購入先を変えるのかもしれない。

取り出した茶葉は色んな種類があったのだが、その中には見たことのない茶葉もいくつかあった。少女が手に取ったのは黄色い茶葉だった。

「これにしましょう。私もちょうどお茶が飲みたかったの」

「なんだ、その茶葉?なんで黄色いんだよ」

茶葉と言えば緑が一般的だと思っていた信が黄色の茶葉を見るのは初めてだった。茶葉屋にも、その茶葉は売られていなかったように思う。
もしも見かけていたら物珍しさで覚えていただろうし、どんな茶なのか気になって尋ねていたはずだ。

少女は黄色の茶葉に顔を近づけて匂いを嗅ぐと、うっとりと目を細めた。

「菊の花のお茶よ。花のお茶はあまり男性に好まれないけど、美味しいの」

「花も茶になるのか!」

昌平君にそれなりの回数の茶を淹れて来た信だったが、花の茶があることは初耳だった。

話を聞くと、その少女は時々そういう花茶を淹れて、下僕仲間の少女たちに振る舞うことがあるそうだ。

「どこで手に入れたんだよ。店にそんなの売ってなかったと思うぜ」

仕入れ先を尋ねると、少女が首を横に振った。

「これは私が作った茶葉だもの。花を摘んで、乾かしたり、煎ったり、色々やり方があるんだけど…上の方にはとてもお出しできないわ」

茶葉の原料を摘むところから行っているという少女に、信は大口を開けた。そんな工程も経験しているからこそ、少女は茶の淹れ方が上手いのだろう。これはますます主に飲ませたくなってきた。

「…でも、信は男の子なんだし、飲むのは少しにしておきなさいね」

少女はそう言って湯を沸かし、菊の花の茶を淹れる準備を始めた。

さまざまな工程を通して乾燥させた菊の花から、爽やかな香りが漂ってくる。茶に詳しくない信でも、これは美味い茶になると確信があった。

丁寧に茶葉を蒸らしたり、茶器に注いでいく少女の手つきを眺めるものの、信は自分が普段やっている茶の淹れ方と何が違うのか少しも分からなかった。

「さ、できた」

菊の茶を淹れた少女が杯に茶を淹れようとしたのだが、他の庖宰から休憩の交代を告げられる。

もう仕事に戻らなくてはならないと、少女は申し訳なさそうに信を見る。しかし、信にとっては都合が良かった。

菊花の茶がどんな味がするのか気になったのは確かだが、この機を逃すわけにはいかない。

「あとは俺がやっとくから気にすんな!またな!」

少女を見送ってから、信は茶器を盆に載せた。自分も飲んで絶賛したという説得力を持たせるために、杯は二つ用意しておく。

せっかく淹れてもらった茶を零さぬよう、細心の注意を払いながら、足早に執務室へと向かう。普段は何とも思わない距離がとても長距離に感じられた。

なんとか茶を零さぬように執務室に到着すると、両手が塞がっているので、辺りに誰もいないことを確認してから足で扉を開ける。

以前これを豹司牙に見つかり、こっぴどく叱られてしまったことがあった。

昌平君は両手が塞がっていても扉を開けてくれる者がいるし、なんだったら荷を持ってくれる者だっている。偉い立場の者は両手が塞がって困るようなことはないのに、どうしてこうも立場が違うだけで不利益しかないのだろうと信は腹立たしくなった。

部屋に入るものの、そこに昌平君の姿はなかった。

「あれ?どこ行った?」

今日は宮廷へ行く予定はないと話していたし、屋敷にいる時の大半はこの執務室で過ごしているはずなのに、どこへ行ってしまったのだろうか。

菊花の茶が入っている茶器を盆ごと卓上に置き、信は辺りを見渡す。執務室の奥を覗き込んでも昌平君の姿はなかった。厠だろうか。

冷めても茶の美味さは変わりないはずだが、湯気が立っていないと見ただけで「冷めている」と文句を言われてしまうと思い、信は早く戻って来るよう促しに部屋を出て、主を探すことにした。

 

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旧友の来客

意気揚々と執務室を出て行った信が何か企んでいることは予想していたが、それが何かまではわからなかった。

以前のようにその辺に生えている草を積んで茶葉代わりしようとするのなら、恐らく豹司牙か家臣たちが制裁を与えるだろう。

「………」

信が部屋を出て行ってから昌平君は執務をこなしていたものの、なんだか落ち着かずに室内を見渡してしまう。

先日の密偵に誘拐された件もあって、自分の目の届かない場所でまた何者かに攫われていないだろうかという気持ちが沸き起こっていた。

二人の密偵を捕らえたことを黒幕に勘付かれぬよう偽装工作を行っているが、それもいつまで続くか分からない。

こうなれば自分が近くにいない時に何かあっても対抗できるよう、護身術の類でも学ばせた方が良いのだろうか。だが、それをきっかけに李一族の才能が開花するのは困る。

悶々と思考を巡らせるものの、結論は出なかった。

その時、扉越しに家臣に呼びかけられた。

「蒙武将軍がいらっしゃいました」

「蒙武が?」

旧友の来客の報せに昌平君はすぐに立ち上がった。
もともと約束をしていた訳ではないのだが、事前の報せも寄越さずに、蒙武が屋敷にやって来るということは何か急ぎの用があるのだろう。

「出迎える」

立ち上がると、昌平君はすぐに執務室を後にした。恐らくは軍政に関してのことだろう。誰が聞いているか分からない客間ではなく、人の出入りを制限している執務室の方が気兼ねなく話しやすい。

廊下を出て屋敷の門へと向かっていると、反対の廊下で信が盆を持って足早に移動している姿が見えた。盆の上には茶器が乗っていて、茶を零さぬよう手元に集中しながら進んでいる。

もしかしたら美味い茶を淹れて、冷めぬように急いで運んでいる途中なのかもしれない。

しかし、旧友を待たせるわけにいかなかったので、昌平君は信に声をかけることなく門へと向かった。

 

 

来客の対応をしているという話を聞き、信は思わず舌打ちそうになった。

主が執務室にいなかったのは、恐らくは客と共に客間にいたからだろう。
せっかく昌平君との約束を果たして、早々にあの勝負の再戦を仕掛けようと思っていたのに、台無しではないか。

あーあと肩を竦めながら、信はふらふらと廊下を歩いていた。

菊花の茶は盆ごと卓上に置いて来たものの、あのままでは確実に冷めてしまう。昌平君が飲まないのなら自分があの茶を飲めば良かったと考えた。

(…そういや、再戦したところで、何を賭ければいいんだ?)

あの時は奴隷解放証をもらうことを約束していたのだが、自分の素性を教えられてからはもう奴隷解放証に興味を失ってしまっていた。

李一族の生き残りであることを悟られぬようには、下僕でいる方が都合が良いらしい。自分がこの屋敷に置かれている理由が分かってから、信は以前のように外の世界への憧れを持たなくなっていた。

かといってこのまま一生この屋敷で過ごすことになるのだろうか。李一族の話を聞かせてくれた時、昌平君は特に語らなかったが、許してくれそうな気がした。

庖宰の男と茶葉屋の店主を動かしていた者に存在を気づかれまいと外出禁止令を出したのだろうが、そのほとぼりが冷めれば、この屋敷を出て一人で生きていくのも許してくれるような気もしていた。

「うーん…どうすっかなあ…」

つい独り言ちる。来客が帰るまで、下僕仲間たちの仕事の手伝いでもしようと考えた時、

「あ、信!」

裏庭で井戸の水を汲んでいた少女が信に声をかけて来た。菊の茶を淹れてくれたあの少女だと気づき、信が手を振る。

「あのお茶、どうだった?」

自分が作った茶葉の感想が聞きたいのだろう、少女が目を輝かせている。

実は一口も飲んでおらず、主に飲ませようとしていたのだと気づかれぬように、信は無理やり笑顔を取り繕った。

「あ、あー、えーと、俺、あんまり茶には詳しくねえんだけどよ、なんか、あー、そうだ、変わった味だったな!」

嘘だと気づかれないように、当たり障りない感想を言ってみるものの、どうやら少女はその感想が嬉しかったらしい。

「やっぱり花のお茶は、男の人の口には合わないかもしれないわね」

「そ、そうか?そんなことないと思うぜ。俺も今度花の茶葉見つけたら淹れてみっかな」

信の提案に少女は「それはいけないわ」と首を横に振った。

 

花茶の作用

「花茶の中には、陽の気・・・を消し去ってしまう作用もあるから、もしも花の茶葉を買う時には注意するのよ」

「陽の気…?なんだそれ?」

聞き慣れない言葉に、信はつい小首を傾げてしまう。
下女は辺りを見渡して近くに誰もいないことを確認すると、小声で囁いた。

「…ご子息に関わるものよ。もしも陽の気を失えば、お世継ぎが生まれなくなっちゃうの」

「えっ」

あまり意味が理解出来ていない信に、言葉の意味を知らしめようと、少女が手の甲でぽんと信の股間を叩く。教えられた言葉と仕草で、教養のない信も理解した。

陽の気を失うということは、男にとって宝同然である象徴を失うのだと。

(ん?そういや、あの茶葉って…)

記憶を巡らせて、信は先ほど淹れてもらった茶が、菊の花を乾燥させたものだと思い出した。

「なあ、さ、さっきの菊の花の茶は…その、陽の気?ってやつを奪うのか?」

「そうね。だからあまり男の人は多く飲まない方が良いと言われているわ。そういう理由があって、男の人に花のお茶は好まれないのかも」

「えッ」

全身の毛穴からどっと汗が噴き出た。

先ほどの茶は執務室に置きっぱなしにしているのだが、もしも昌平君が来客の対応を終えて一足先に戻っていたら、あの茶を飲んでしまうのではないだろうか。

「…まあ、色々言われているけれど、心配なら最初から飲まないのが一番安全ね…って、どうしたのっ!?」

会話の途中であるにも関わらず、信は全速力でその場から駆け出し、証拠隠滅のために慌てて昌平君の執務室へと向かうのだった。

 

 

蒙武を執務室に案内すると、てっきり信がいると思ったのだが、彼の姿はどこにもなかった。

先ほど茶器を抱えて廊下を歩いていたのを見ていたが、どこへ行ったのだろう。

卓上に置かれているのは信が抱えていた茶器だ。中には茶が入っているが、湯気はもう上がっていない。しかしまだ茶器自体は温かく、茶は冷め切っていないようだった。

「…?」

茶壷※急須のことの蓋を外すと、緑ではなく黄色の茶葉が現れる。花弁が混じっていることから、何かの花の茶だということはすぐに分かった。

少しだけ茶葉を掴み匂いを嗅ぐと、爽やかな香りがする。
念のため、茶葉を少量だけ口に含んでみるものの、舌に痺れも感じないし、毒の類は入っていないようだ。

過去に信が毒を盛ったことはないのだが、行政や軍政を担っている立場である昌平君は幾度も命を狙われたことがある。普段から口に入れる物を警戒するのは習慣になっていた。

(ちょうどいい)

来客も来ているのだから、茶を頼もうとしていたところだった。蒙武は食べ物や飲み物に少しもこだわりがないので、よほど不味い茶でなければ文句を言われることはない。

茶壷を傾けると、茶葉と同じように黄色みがかった茶が注がれた。普段飲んでいる茶と色も香りも異なるが、こんな茶葉をいつの間に用意していたのだろうか。

蒙武に茶を差し出すと、普段見かけない色の茶に何か言いたげではあったものの、昌平君が黙って茶を啜ったのを見て、後に続いた。

(悪くない味だ)

花の茶を飲んだことはなかったが、香りや味が普段と異なり、味わい深いものであった。どうやら蒙武も悪い気はしなかったようで、静かに茶を飲んでいる。

もしもこの茶を本当に信が淹れたのなら・・・・・・・・・・・、律儀に約束を果たしたことになるが、きっと次に淹れた茶の味で判断出来るだろう。

「………」

「………」

てっきり蒙武の方から用件を話し出すとばかり思っていたのだが、彼は口を噤んだままでいる。

何か用があって訪ねて来たことは昌平君も理解していたので、蒙武が話し始めるまで、昌平君も口を開かなかった。

気づけば無言で茶を啜る時間だけが経っており、茶壷も空になっていた。

武に一筋である蒙武がただ茶を飲みに屋敷までやって来たとは思えなかったのだが、ここまで本題を話さないことには何か理由があるのだろうか。

「…密偵が潜んでいたそうだな」

いよいよ茶が無くなって本題を切り出すしかなくなったのか、蒙武が静かにそう問いかけた。

昌平君は僅かに眉根を持ち上げたものの、彼が言わんとしていることが先日の騒動であると勘付き、小さく頷いた。

蒙武も昌平君と同じように李瑤りよう ※信の父を師として称えていた一人である。

李一族が先帝の勅令で処刑されることになったあの日、蒙武は遠方の領土視察を行っていた。

急報を聞き、李一族の救援に駆け付けた時にはすべてが終わっていた。昌平君と同じく、李瑤を慕っていた蒙武は、重臣を切り捨てた先帝に不信感を抱くようになったという。

今の秦王である嬴政にはどういう想いを抱いているのかは分からないが、少なくとも先帝の時のような不信感は持っていないだろう。
それは彼の嬴政に向ける眼差しを見れば明らかだった。

武に一途である旧友は、昔から権力争いに一切の興味を示さない。しかし、蒙武が今の地位を築いているのは紛うことなく、己の強さを証明出来たからだろう。

そういう真っ直ぐな性根が幼い頃から少しも変わっていない彼と言葉を交わす度に、昌平君は救われる気持ちになる。お前もそのままで良いのだと、認められたような気がするのだ。

しかし、蒙武が密偵の情報をわざわざ尋ねるとは何事だろうか。

蒙武は李瑤の息子である信の存在は知っていたが、一族が滅んだ後の信の行方については知らない。

昌平君も情報が漏洩がしないように徹底的に箝口を敷いていたので、旧友である蒙武にさえも、信をこの屋敷で匿っている事実を告げなかった。

もしかしたら密偵が潜入したという情報から、信の足取りを掴んだのではないだろうか。

いつまでも隠しておくのは不可能だと分かっていたが、こうなれば蒙武にも隠蔽の協力を要請しておくべきか。

昌平君が眉根を寄せながら考えていると、いきなり執務室の扉が開けられた。

 

 

信が扉を壊す勢いで思い切り開けると、中には昌平君と来客の姿があった。

「騒々しい。何事だ」

重要な話をしている訳ではなかったようで、咎められることはなかったが、信の形相に昌平君が小首を傾げている。

来客の男は座っているにも関わらず、信が首を上に向けなければ目を合わせられないほど、長身の男だ。背丈が高いだけでなく、腕の太さも足の太さも信の何倍もある。

体格だけで威圧感を覚えるが、鋭い眼光を向けられるだけで失神してしまう者もいそうだった。どうしてこうも主の周りには威圧感の強い連中が揃うのだろうか。

しかし、信は今、別の意味で失神しそうになっていた。

つい先ほど信が茶を注いだ茶器が二人の前にあって、どちらもすでに空になっていたのを見つけたからだ。

「の、の、の、飲んだのか…」

真っ青な顔で信が茶器を指さす。その指も震えていた。

「毒の類は入っていなかっただろう?普段口にしない味わいだったな」

信は二人の間に飛び込んで、茶壺を持ち上げた。

「ぜ、ぜ、ぜぜんぶ…全部…飲んだのか…?」

こちらも同じく中身が空だと知ると、信は水を失った魚のように口をぱくぱくと開閉させる。

驚愕のあまり、喉が塞がって言葉も出なくなっている信を見て、昌平君は何があったのかと問いかける。しかし、信は主の言葉さえ耳に入らないのか、その場で愕然と立ち尽くすだけだった。

「今は来客中だ。出ていきなさい」

主に促され、放心状態の信はふらふらとしたおぼつかない足取りで部屋を出て行った。

 

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回想

「なんだあいつは」

武が濃い眉を僅かに寄せる。少し迷ったが、昌平君は観念して打ち明けることにした。

密偵の潜入の件も感付かれているのなら、そのうち信の所在も掴むことになるだろう。
ならば、少しでも協力者は多い方が良い。蒙武が私欲のために自分を裏切るような男ではないことを昌平君は知っていた。

「…今のが、李一族の生き残りだ」

「まさか、李瑤りようの息子の信か?」

信が出て行った扉の方を見て、僅かに驚愕した表情を浮かべる。
あの勇ましい当主とは少しも似つかないことや、消息が不明になっていたということから、すぐには信じられなかったのだろう。

信が生きているということと、この屋敷にいるという事実から、蒙武はすぐに昌平君のこれまでの行動を察したらしい。

「…このまま匿う気か。お前の身も危ういぞ」

「李瑤との約束だ。容易には捨て置けん」

昌平君は静かに瞼を伏せた。

「…本当に骨折り損・・・・だな」

独り言ちる蒙武に、随分と上手いことを言うと昌平君は口角を持ち上げた。

先帝の勅令で李一族が襲撃されたあの日、昌平君は信を助けるために、姿を隠して兵たち戦っていた。もしも正体を知られれば先帝への謀反とみなされ、一族もろとも処刑となる。

李一族が根絶やしにされていく中で、昌平君は信の姿を見失ってしまったのだが、未だに遺体が見つかっていないことから、突如現れた協力者が嫡男である信を逃したという報告が王朝内で飛び交った。

未だ見つかっていない李瑤の息子が、それまで昌平君の屋敷にその身柄を預けていたという情報が漏れてしまい、昌平君は先帝に呼び出されたのである。

信を逃がす際に、素性を知られないよう細心の注意を払っていたものの、信が屋敷で療養していた事実は偽装出来ない。

至急、宮廷に来るよう呼び出されたのは、先帝がその事実を突き止めようとしているのだとすぐに分かった。李一族の嫡男を逃したとなれば一族の処刑は免れない。

昌平君は覚悟を決めたのだが、その危機を救ったのが蒙武であった。

処刑を言い渡されるのを覚悟しながら宮廷へ出立する前、屋敷に駆け付けた蒙武は言葉を掛けることもなく、そして容赦なく昌平君の利き腕を折った。

信を匿ったことや逃亡を協力したことを責めているのではなく、偽装工作に協力してくれるのだと、激痛に息を詰まらせながら昌平君は察したのである。

蒙武と共に拝謁した昌平君は、本題に入る前に、折れている利き腕について尋ねられた。
その問いに蒙武は、先日の自分との手合わせで負った怪我であると答える。

信が昌平君の屋敷に療養していた事実は確かだが、こんな腕で李一族を助けられるはずがないという蒙武の証言により、先帝を欺き、処刑を免れた。

それまで一族の命運がかかっていたこともあり、気を張り詰めていた昌平君であったが、先帝に向けられていた疑惑が晴れた安堵と右腕の激痛によって、謁見の間を出た途端に意識を失ったことは覚えている。

昔から武一筋である蒙武がまさか偽装工作に協力してくれるとは思わなかったし、容赦なく自分の利き腕を折ったことには彼らしいと思った。

処刑を免れるためとはいえ、先帝を欺いた罪は許されることではない。先帝が病で崩御してからも、互いにその話をすることはなかったのだが、今日初めて蒙武がそれを打ち明けたのである。

腕を折ってまで一族を守ったというのに、またもや災いの種となる信を保護したとなれば、蒙武と昌平君にとって、本当の意味で骨折り損であった。

しかし、昌平君は再び信と再会したことも、彼を保護していることにも、後悔はしていなかった。

 

手段

「…まだ見ての通り子どもだ。李の家を再び繁栄させようとは考えていない。復讐など考えず、静かに生きる道もあるだろう」

当時の記憶を失っており、信を狙う者たちを欺くために今は下僕として仕えさせているのだと告げると、蒙武は強大な筋肉を纏った太い腕を組んだ。

「あくまでお前の保護下に置くのは、徴兵に掛けられるを免れるためか」

鋭い友の考察を聞こえなかったふりをして、昌平君は空になった茶器を見つめた。
しかし、蒙武はそれを肯定と見て、静かに言葉を紡ぐ。

「李一族は、女も子供も、例外なく武の才に長けている。一度開花させれば、あの小僧もすぐに戦で活躍するようになるだろう」

「…何が言いたい?」

昌平君が瞼を持ち上げると、蒙武は肌を切りつけられるような感覚を覚えた。

それが昌平君から奮い立つ殺気だとは分かっているものの、少しも怯む気配を見せず、蒙武は言葉を続ける。

「信を蒙一族の養子として引き取ってやっても良い。生き残る術は一つでも多い方が良かろう」

今は下僕の身分である信を蒙家の保護下に置き、生まれつき芽吹いている信の才を開花させてやると蒙武は言った。

幼い頃の信は、李瑤に命じられて昌平君と蒙武に稽古をつけてもらったことがあった。

しかし、蒙武は当時から加減という言葉を知らず、あっさりと信の腕を折ってしまうので、李瑤は蒙武に稽古をつけさせるのはもう少し成長してからにしようと考えたらしい。それゆえ、当時の信の稽古担当は昌平君になったというわけだ。

今の信が武の才能を一度開花すれば、たちまち戦で活躍し、その名を広めることになるだろう。それに、蒙の姓を名乗っていれば、李一族の生き残りだと気づかれる可能性も低くなる。

何より、蒙武のもとで鍛錬を積めば、李一族の壊滅を企んでいる暗殺者たちから狙われたとしても自分で身を守ることが出来る。名家である蒙の姓を得たのならば、将軍昇格において支障もなくなる。

しかし、蒙武が己の一族の繁栄のために、信を欲している訳ではないのはすぐに分かった。

昔から武に一筋の男で、自分こそが中華一だと誇っているその実力も本物だが、優秀な二人の息子以外にも、自分の強さを受け継ぐ器が欲しいのだろう。

「ならん」

しかし、昌平君は蒙武からの提案を断った。

旧友がそう答えるのを分かっていたように、蒙武は反論も不機嫌な顔色も浮かべることはしない。

「この時代、戦は避けて通れんぞ」

「それでもならん。俺は信を戦に関わらせるつもりはない」

今は執務中でないというのに、珍しく早口で捲くし立てる昌平君の姿に、蒙武は本気で彼が信を守ろうとしているのだと察した。

蒙武、と昌平君が低い声で呼ぶ。

「…お前も理解しているだろう。李一族は強大な力のせいで、政治の道具として利用され、最後にはその力を恐れられ、切り捨てられた」

昌平君の顔に憂いの影が落ちる。

「…あの子が戦場に出れば、また同じことを繰り返すのは目に見えている。ここで終わらせるべきだ」

李瑤りようの遺言が何たるかは知らんが、李一族を最後に滅ぼしたのはお前ということになるぞ」

その言葉に、昌平君の胸は抉られるように痛んだ。

旧友の指摘通り、昌平君が信を守る方法は李一族を血を絶やす方法である。この中華全土で、一族の繁栄を望まぬ家などない。

いずれ信が妻を娶り、子を儲けたとしても、戦から遠ざけられた信では李一族の繁栄は望めない。
あの強さを引き継ぐのは李一族の血筋だけではなく、幼少期からの血の滲むような鍛錬も備わっているからだ。

「………」

当時の記憶が蘇って来て、師と仰いでいた男の死に際が瞼の裏に浮かび上がった。

強く拳を握り、目を逸らすことなく、真っ直ぐに蒙武を見据える。

「李瑤から受けたのは、何かあれば息子を頼むとの遺言だ。李一族のことは何も話していなかった」

すぐに蒙武が口を開きかけたが、言葉を遮るように、昌平君は続けた。

「もしもあの子が武の才を開花させたのなら、戦場に立てぬよう足を落とす。なおも武器を持とうとするなら腕を落とす。それが俺の、信を守る唯一の方法だ」

権力のための道具として二度と利用されぬよう、信を守る。そのためには武の才能を開花させぬよう傍で監視しておく必要があった。

蒙武は何も言わなかったが、納得したような表情を浮かべることもない。

「…お前は本当に、昔から不器用な男だ」

「………」

「お前の手に負えなくなったのなら、あの小僧は俺が引き取ろう」

そう言うと、彼は立ち上がって振り返ることもなく部屋を出て行ったのだった。

 

今後の課題と困難

蒙武が部屋を出て行った後、入れ違いで再び信が入ってくる。どうやらずっと部屋の外で待っていたらしい。

「しょ、昌平君…俺…」

ぐすぐすと鼻を鳴らして涙を堪えようとしている信を見て、昌平君はぎょっとした。

「何があった」

執務室は閉め切っていたので盗み聞きはされなかったはずだが、様子がおかしい。
まさか李一族を失った時の記憶を取り戻したのだろうかと不安に思ったものの、

「さ、さっきの…あ、あの、オッサンって…ガキはいるのか?」

少しも予見していなかった質問をされて、呆気に取られてしまう。

「蒙武のことか?息子が二人がいる」

その言葉を聞いて、信が安堵したように長い息を吐いた。
しかし、昌平君と目が合うと、再び鼻をぐすぐすと鳴らし始める。

「お、お前は、まだ、結婚してないけど、ほんとに、隠し子の一人や二人も、まだいねえのか…?」

どうしてそのようなことを問われなくてはならないのか。質問の意図がまるで分からない。

腕を組みながら、そんなものはいないと答えると、信はその場に膝から崩れ落ちてしまった。

未だ伴侶がいないことも、世継ぎがいないことも、以前から家臣に心配されているのは知っていたが、まさか信までもがそのような心配を、しかも泣きながらされるとは思いもしなかった。

右丞相と軍の総司令官として激務を極めている昌平君には、いちいち縁談話を聞くことも縁談相手を見極める暇などないのである。

「お、俺…自分がバカなのはわかってる…!そのせいで、お前に、とんでもねえものを、飲ませちまった…」

「は?」

大粒の涙を手の甲で拭った後、信はあろうことかその場で跪いて頭を下げ出した。

今まで生意気な態度を咎めても、これほどまでに頭を下げることのなかった信がどういうの風の吹き回しだろうか。

「信?」

呆然としている昌平君の視線を受けながら、信が涙の理由を語り始める。

「さ、さっきの茶…陽の気ってのを消し去っちまう茶で…だ、だから、昌平君は、もう…世継ぎを産めなくなるんだ…!!」

己の罪を自白した信が大声を上げて泣き喚く。
ようやく彼が謝罪した理由を理解した昌平君は腕を組んで、わざとらしい溜息を吐いた。

隠し子という言葉は知っているくせに、肝心な部分を間違えているのは、今までまともな性教育を受けなかったからなのだろうか。

「私が産む側なのは根本的に間違えているが、茶にそのような作用がある訳ないだろう」

ずっと思い悩んでいたそれを否定すると、信の瞳から涙がぴたりと止まる。
顔を上げた信が、泣き腫らした真っ赤な目で昌平君のことを見上げた。主の言葉の意味をその頭が理解するまでには、やや時間がかかった。

「え…?で、でも、陽の気を消し去っちまったら…」

「茶がそこまで強い作用を起こすはずがない。本当だとしても、あの量だけなら問題ないだろう。お前の勘違いだ」

不安を一蹴され、信は唾液を零してしまいそうなほと、ぽかんと口を開けていた。

 

 

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しかし、まだ納得出来ないようで、彼を包み込んでいる哀愁は消えていない。

「わ、わかってる…お前はいつも上手いこと言って、俺を守るために、俺を騙してんだ…!」

騙しているつもりはないのだが、否定はせずに昌平君は口を閉ざす。真実を告げないことで混乱を防いでいるだけだ。

「ほ、ほんとは、もう、ガキが産めなくなっちまったんだろ…!」

「だからどうして私が産む側になる」

何を言っても今の信には伝わらないと理解した昌平君は、ひとまず信が落ち着いてから諭すことにした。

しかし、黙り込んでしまった昌平君に、信がさらなる不安を覚えてしまったらしい。

「俺のせいで、お前が世継ぎを産めなくなったってんなら、せき、責任取って、俺が、お前の世継ぎを産むから…!」

呆れて言葉が出ないとはこのことだ。

誤解を招きかねないこのやりとりを他の者に聞かれていないことを願いながら、昌平君は来客のために中断した執務を再開しようとした。

「昌平君ッ」

椅子に腰を下ろした途端、それまで跪いていた信が四つん這いになって足元ににじり寄って来た。

「何をしている。仕事に戻れ」

「隠すなよッ!もう俺は騙されねえぞッ!」

主の足の間に体を寄せた信が、あろうことか下から着物を捲り上げようとした。

両手で力いっぱい着物を掴んで来るものだから、昌平君も咄嗟に彼の両手首を抑えて抵抗を試みた。

こちらは大の大人だというのに、信の力は思ったよりも強く、引き離すことが出来ない。

「信、放しなさい」

「お前はいつも俺に大事なこと隠してるだろッ!」

確かに、こんな昼間から大事なものを披露するのは道徳に反する行為である。

「信、放せ。二度は言わんぞ」

「俺だってこんなことしたくねえよ!でもお前が隠すんだから確かめねえと!」

互いに声を荒げながら攻防戦を繰り広げる。
いつも簡単に振り払えるはずなのだが、信の細い両腕には大の大人も敵わぬほどの力が備わっていた。

昌平君は歯を食い縛って両手首を抑える手に力を籠める。血管が浮き立つくらい力を込めているのだが、少しも怯む気配がない。

まさかこれをきっかけに李一族の武の才を開花させたらと思うと恐ろしくなった。

「何事ですか」

廊下から二人の大声を聞きつけたのだろう、豹司牙が腰元にいつも携えている剣に手を掛けながら部屋に飛び込んで来た。

昌平君の足の間で膝立ちになって、着物を下から捲り上げようとしている信と、それを抑え込んでいる昌平君の姿を見て、さすがの豹司牙も状況が分からずに呆然と立ち尽くしている。

重臣の登場によって一瞬だけ気を抜いた昌平君だったが、その油断が勝敗を分けたのだった。

えいやと信が勢いよく昌平君の着物を下から捲り上げ、無遠慮に中を覗き込む。

…嫌な沈黙が部屋の空気を鉛のように重くした。

「ん?あれ?…なくなってない…?良かった~!!」

しかし、信だけはその重い空気を感じていないのか、陽の気が消えていない物理的証拠を見つけ、大声で歓喜した。

すぐさま昌平君と豹司牙の両方からげんこつを落とされ、あまりの激痛に意識を手放した信はぐったりと床に倒れ込む。

立派なたんこぶを二つも同時に得た信を見下ろしながら、昌平君は乱れた呼吸と着物を整える。

まさか信がここまで性に関して無知だとは思わず、礼儀作法といった教育や、今後の身の振り方を考える前に、正しい性教育・・・・・・を施さねばならないかと考えるのであった。

隣に立つ優秀な配下に目を向け、昌平君はわざとらしく咳払いをした。

「…豹司牙。一つ、頼みたいことが」

「今回はお断りいたします」

「………」

気絶したままでいる信を見下ろし、二人は同時に重い溜息を吐き出した。

 

後日編②「宮廷道中記」は現在執筆中です。更新をお待ちください。

昌平君×信のバッドエンド話はこちら

The post 絶対的主従契約(昌平君×信)後日編① first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

絶対的主従契約(昌平君×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/シリアス/ノーマルエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編②はこちら

 

逃走劇

庖宰ほうさい ※料理人の男から逃れようとひたすらに走り続け、後ろから聞こえていた怒鳴り声が遠くなった頃、信は近くの茂みに飛び込んだ。

なるべく音を出さないように必死に呼吸を整える。あのまま走り続けていれば、いずれ体力の限界に達していただろう。

子どものすばしっこさが幸いし、かなり距離は開けたものの、庖宰の男は未だに信のことを探している。怒鳴り声と茂みを掻き分ける足音がまだ後ろから聞こえており、信の恐怖をより煽った。

遠くに見えた建物の明かりは少しずつ近くなって来ているが、子どもの足ではまだかかるだろう。どうにか庖宰の男を撒いて逃げ切らなくては。

「ッ…!」

すぐ近くの方で茂みを掻き分ける足音が聞こえ、信は咄嗟に、未だ一括りに拘束されたままである両手で自分の口に蓋をする。

「どこに隠れやがった」

「…、……」

男は夜目が利くのか、信が茂みに隠れるところを見たらしい。この近くにいるのだと気づかれており、信は息を殺して身を屈めていた。

庖宰の男が過ぎ去るのを待つ時間は、まるで生きた心地がしなかった。

庖丁※包丁で首を切り裂かれるのだろうか、腹を突かれるのだろうか。未知なる痛みと死の恐怖に体の震えが止まらなくなる。

先ほどからあの男が話している李一族とかいう存在に、ふざけんなと怒鳴りたかった。何を勘違いされているのかは知らないが、自分はそんな一族とは無縁の存在だ。

もしも自分が殺されてしまい、あの世で李一族と対面したのなら、絶対に罵声を浴びせてやると誓う。優雅に初対面の挨拶など絶対にしてやるものか。開口一番、呪いの言葉を吐いてやろうと思った。

(くそ…どうしたら…!)

庖宰の男の気配が過ぎ去るどころか、こちらに戻って来たのを感じ、信は声を上げて泣き出しそうになる。

前方から馬の足音が近づいて来たのは、ちょうどその時だった。

「―――信ッ!どこにいる!」

馬の嘶きが響いた後、聞き慣れた声がして、信は思わず顔を上げた。

(豹司牙だ!)

反射的に返事をしそうになったが、まだ庖宰の男が近くにいる今、安易に動き出すのは危険だ。豹司牙の声がした方に視線を向けるものの、助けを求めることが出来ない。

「信!返事をしろッ」

豹司牙は馬に乗ったまま、手に持っている松明で辺りを照らす。しきりに周りを見渡すものの、茂みに隠れている信に気づくことはない。

庖宰の男も主の近衛兵の登場に驚いたのか、どこかの茂みに身を潜めているようだった。

しかし、このまま身を潜めていれば、豹司牙は気づかずに行ってしまう。何か合図を送らなくてはと思うのだが、庖宰の男の方が近くにいると思うと、安易には動き出せなかった。
信は物音を出さぬように何か合図を出せる物がないかを探った。

(あ…)

懐に昌平君から渡されていた銀子が入っていることに気づく。

色んな方面に注意を払いながら、銀子を幾つか手に取ると、信は庖宰の男がこちらに気づかないことを祈りつつ、豹司牙の声がした方にそれを投げつけた。

銀子が地面に転がる僅かな音を聞きつけ、豹司牙が信の方を向く。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
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豹司牙が松明を掲げ、明かりに反射した銀子を見つけたようだった。

「そこにいるのか?」

馬から降りた豹司牙が、松明を掲げながらこちらへゆっくりと歩み寄って来る。

「…、……、……」

すぐにでも駆け寄りたかったのだが、足腰に力が入らず、強張ったままの喉では上手く声も出せない。信は豹司牙が気づいてくれるのを待った。

少し離れたところに、松明の明かりに照らされたいつもの仏頂面が見えて、信は大声で泣き出したいほど安堵した。

助かったのだ。そう思った瞬間、

「信、ここにいたのか!探したぞ!」

「ッ!?」

後ろから腕を掴まれて立ち上がらせられ、信は心臓が止まりそうになった。

庖宰の男が人の良さそうな笑みを浮かべて、足腰に力の入らない信の体を支えている。

恐らく自分が信を連れ去った犯人だと悟られぬように、庖宰の男が荒々しい手つきで両手を拘束している縄を外していく。その間、信は恐怖で全身を硬直させていた。

二人に気づいた豹司牙が反射的に松明を投げ捨てて剣を構えたものの、信の姿を見て僅かに警戒を解く。

しかし、その時には両手の拘束はすでに解かれており、気づかれぬように縄は茂みへと投げ捨てられていた。

「無事だったか」

「……、……」

対面した豹司牙に声を掛けられるが、信は頷くことも返事をすることも出来ない。

両手は自由になったものの、背中にひやりとした鋭いものが押し当てられており、それが庖丁だと気づくのに時間はかからなかった。

豹司牙の死角で、庖宰の男は信の背中に庖丁の切っ先を押し当てていた。

「そこで何をしていた」

仏頂面が微塵も変わることなく、豹司牙が二人に問い掛ける。
下手に答えれば容赦なく背中を一突きされるだろう。今の状況を打ち明けても命を奪われることには変わりない。

「…っ、……」

信は血の気を失った唇を震わせることしか出来なかった。

いつまでも話し出さない信に豹司牙が眉根を寄せたのを見て、庖宰の男が代わりに話し始める。

「茶を淹れるのに必要な軟水を買おうと思って、二人で水売りの家を訪ねたんですが、辺鄙な場所にあるもんだから、途中ではぐれちまって…いやあ、無事に見つかって良かった」

背中に宛がわれている庖丁の切っ先に軽く力を込められて、信は何度も頷く。言葉に出されずとも、怪しまれぬように話を合わせろと指示されているのはすぐに分かった。

もしも信の命を奪おうとしていた状況を豹司牙に気づかれれば、すぐに切り捨てられることを庖宰の男も理解しているに違いない。

昌平君の近衛兵団長が動くのは、主の命令があった時だけだ。
それはすなわち、今この場に彼がいるということは、信の捜索は昌平君からの命令であると察したのである。

「………」

豹司牙といえば、庖宰の話を聞いても、眉間に刃で刻まれたような皺を崩さない。確実に怪しまれていることに気づいた庖宰が、何とかその場をやり過ごそうと大らかに笑う。

背中に庖丁の刃を軽く押し当てられて、ちくりとした痛みと同時に血が流れたのを感じた。

(たすけ、て)

すぐ目の前に豹司牙がいるというのに、いつ庖宰の男が庖丁で体を貫いてくるか分からない恐怖に耐え切れず、信は涙を流した。

「おいおい、なに泣いてんだよ!そんなに怖かったのか?」

庖宰の男が笑いながら信をからかうものの、豹司牙は真っ直ぐに信のことを見据えたまま動かない。

「信」

低い声で名前を呼ばれて、信は涙を流しながら豹司牙を見た。

何を言われるのだろうと思っていると、

「そこから動くな」

豹司牙が下したその命令を信が理解するよりも早く、隣にいた庖宰の男はその場に崩れ落ちていた。

 

救出

背中に宛がわれていた庖丁が地面に落ちる小気味良い音がして、信の硬直が解けた。
すぐに駆け寄った豹司牙が、倒れている庖宰の男の首筋に、剣の切っ先を突き付ける。

「えっ…!?」

驚愕のあまり、上ずった声が零れる。
うつ伏せに倒れ込んだ庖宰の肩に、深々と矢が刺さっていることに気づき、反射的に振り返る。

(昌平君…?)

目を凝らすと、弓を構えている紫紺の着物の男の姿が見えて、信は再び足腰から力が抜けてしまい、その場に座り込んでしまった。

昌平君がこちらに駆け寄って来る足音が聞こえたが、信は無事であることを告げることも出来ず、ただただ呼吸を整えていた。

昌平君が放った矢は肩を貫通しており、鏃が突き出ていた。戦場と異なり、鎧で遮られることもなかったせいだろう。

「ぐ…くそッ…!あと少しで…」

矢が射抜いたのは、庖丁を持っていなかった方の肩だったことから、こんな暗闇の中だというのに、昌平君が正確に狙いをつけていたのが分かった。

「ひっ…」

倒れている庖宰から血走った眼を向けられ、信は思わず身を竦める。

昨日まで共に働いていた仲間がどうして自分に殺意を向けて来たのか、信には何も分からなった。

(あ…)

急に視界が紫紺の着物に覆われ、男の姿が見えなくなる。

恐ろしい眼差しを遮るように、昌平君が信の体を包み込んでいた。着物が汚れるのも構わず、その場に膝をついた主に後ろから抱き寄せられる。

恐怖と夜風で冷え切っていた心と体が、昌平君の温もりを感じて、信はようやく助かったのだと理解した。

それまで休むことなく、張り詰めていた緊張の糸が切れ、信は昌平君の腕の中に倒れ込んだ。

 

 

気を失った信の体を抱きとめ、昌平君は長い息を吐いた。安堵したのは信だけでなく、昌平君と豹司牙もだった。

しかし、信の方はもっと不安だったはずだ。今の今まで、殺されそうになっていたのだから無理はない。

命を奪われる恐ろしさは、戦場に立つ者ですら恐ろしいと感じるのに、信のような子どもには大層堪えたことだろう。

「総司令!団長!」

すぐに周囲を捜索していた黒騎兵たちもやって来て、庖宰の男を連行していく。弓矢が肩を貫通したものの、致命傷には至らなかった。

「…豹司牙」

「はっ」

「他に密書のやりとりや協力者がいないかを調査させろ。密偵であった二人が同時に消えたのなら、この屋敷に李一族の生き残りがいると、黒幕に気づかせることになる」

指示を出すと、豹司牙がすぐさま承知の意味を込めて拱手を行い、連行されていった男の後を追った。

まだ聞かなくてはならないことがあったので、茶葉屋の店主と合わせて捕らえた二人はまだ殺すなと指示をしたが、あとは彼が上手くやってくれるだろう。

密偵の二人が落ち合う場所である小屋に昌平君が辿り着いた時には、すでにそこに信の姿はなかった。
血痕がなかったことから上手く逃げ出せたのだろう。しかし、子どもの足では逃げ切れないことは目に見えていた。

暗号を読んでいた豹司牙も、どうやら軟水の記載には違和感を抱いていたようで、あの小屋に目星をつけて周辺を捜索してくれていたことは幸いだった。

意図せず、信の素性を知っている二人の挟み撃ちという形で庖宰を捕らえることが出来たのである。

豹司牙の死角となる背後で、庖宰の男が庖丁を信に押し当てている姿を見て、血の気を引くという感覚を随分と久しぶりに味わった。

「………」

見たところ、外傷は背中と首の傷、そして両手首に巻かれていた縄のかすり傷くらいで、深いものではなさそうだ。

背後で弓矢を構えた主に豹司牙がいち早く気づき、信に動くなと指示を出してくれたことで、昌平君も安心して標的を射抜くことが出来た。

昌平君も信を抱きかかえながら馬に乗ると、昌平君は屋敷への帰路を急いだのだった。

 

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ムーンライズ・領主の帰還
宝石姫

 

目覚め

ゆっくりと目を開くと、見慣れない部屋の天井が映り込んだ。
温かい何かに包まれていることに気づき、顔を動かすと、すぐ隣に昌平君の寝顔があった。

(わっ)

驚いて声を上げそうになった寸前、咄嗟に口に蓋をして、声を飲み込んだ。

「…?」

寝具の中で、背中に腕を回されていることに気づき、まさかずっとこの状態で眠っていたのだろうかと考える。だとすれば、ここは昌平君の寝室だろうか。

いつの間に戻って来たのだろう。着物も清潔なものに替えられていた。

「………」

昌平君と一緒の褥で眠るだなんて、随分と久しぶりのことだった。

確かあれは、この屋敷に引き取られたばかりの頃だっただろうか。冬の寒い時期で、信は高い熱を出したことがあった。

あの時も侍医に診察の手配を頼んでくれたし、寒さに震えている自分が寝付くまでずっと抱き締めていてくれた。今となっては随分と昔・・・・のことのように思う。

束の間、昔の思い出に浸っていたものの、そういえば今まで自分は何をしていたのだろうと記憶の糸を手繰り寄せた。

(…今までの、全部、夢…だったのか…?)

もしかしたら今の今まで悪い夢を見ていたのだろうか。部屋を照らしている灯火器の火が消えかかっていることに気が付いた。

執務をしている訳でもないのに、貴重な獣脂を使い切るなんて勿体ない。灯盞の火を吹き消そうと体を起こしかけて、首筋と背中に走った小さな痛みに、信ははっとした。

ちくちくとした痒みにも似た痛みではあるが、庖宰の男に庖丁を突き付けられていた場所だ。

(夢じゃない)

悪夢であったならと思ったが、あれは現実であったのだと思い出し、信は全身が凍り付くような感覚に襲われた。

「っ…」

昌平君と豹司牙のお陰で助かったのだと頭では理解しているが、体の震えが止まらなくなる。

背中に回されている昌平君の腕に、僅かに力が込められたことに気づき、信は顔を上げた。

目を覚ましたのか、昌平君が信のことを見下ろしている。信は気まずくなって、目を逸らしてしまった。

思い返せば、豹司牙の言いつけを破った自分が悪いのだ。言いつけ通りに、あの書簡をすぐ昌平君に見せていればこんなことにはならなかったと直感する。

しかし、たかが下僕一人自分のために、昌平君も豹司牙もあんな場所まで駆け付けてくれたのかと思うと、いたたまれない気持ちになる。

「…あ、あの…」

謝罪しようと口を開くと、昌平君が片手を持ち上げたので、てっきりげんこつが落ちて来るのかと思い、信は咄嗟に目を瞑った。

しかし、頭に落ちて来たのは激痛ではなく、優しい温もりで、頭を撫でられているのだと気づいた信は恐る恐る目を開いた。

昌平君の瞳には、決して嫌悪も怒りも浮かんでおらず、むしろ自分を慈しむような、穏やかな色が浮かんでいた。

 

 

ゆっくりと昌平君が体を起こし、床に足をついたので、信も一緒に起き上がった。

「…街で何があった?」

静かに問われるが、その声にも怒気は含まれておらず、単純にこれまでの経緯が知りたいようだった。

「えっと…」

信は記憶の糸を手繰り寄せながら、豹司牙と街へ行った時のことを話し始める。

もちろん昌平君は豹司牙から報告は受けていたし、暗号が記された書簡に関しても目を通していた。しかし、情報漏洩に繋がった経緯は分かっていない。

密偵が屋敷に潜入していたのは予想外であったが、機密情報の管理は徹底していたというのに、どこで情報漏洩があったのか昌平君も分からなかった。

豹司牙の話によると、馬を厩舎へ預けていた時と、茶葉屋の店主と会話をしていた時は信と行動を別にしていたという。

信の本当の素性について目を付けられたのなら、恐らくはその単独行動の時だろう。

茶葉屋の店主と話した内容について、昌平君は詳しく尋ねた。

あの庖宰の男と茶葉屋の店主が協力関係にあったことに、信は驚愕していたが、眉根を寄せながら、茶葉屋の店主との会話を話し始める。

豪雨の影響で茶葉が不作となってしまい、売ることが出来ないと言われたこと。代わりに茶葉の風味を上げる煎り方を教えてもらったこと。

その話を聞く限り、信の素性が気づかれるきっかけがあるようには思えなかった。

「他には何もなかったのか」

「ええと…」

催促すると、信が少し目線を泳がせる。
何かまだ報告し終わっていないことがあることが分かり、昌平君がじっと見据えると、諦めたように信は話し始めた。

「…今朝のことで、医者を手配してもらったから…ちゃんとお前との約束通りに、美味い茶を淹れねえとって、話してて…」

信の素性が気づかれるきっかけになったのは、恐らくそれ・・だろうと昌平君は溜息を吐いた。

 

信の素性

「盲点だった」

「え?」

溜息と共に吐き出されたその言葉に、信が目を丸めた。

「恐らくは、私が侍医を手配してまでお前を助けたことで勘付いたのだろう」

「は?だって、医者は怪我人や病人を診るもんだろ?」

そうだ、と昌平君は頷く。

「…だが、下僕を診ることもある町医者ならまだしも、宮廷や高官に仕える侍医は貴族の出である者がほとんどだ。下僕を毛嫌いしており、下僕の診ることは辱め同然だと思い込んでいる者が多い」

「な、なにが言いたいんだよ」

「私が侍医に辱めを受けさせてまで、…そこまでしてお前を助けなくてはならない・・・・・・・・・・理由があったことから、お前の素性を疑われたのだろう」

そんな会話の糸口から目を点けられてしまっていたとは、昌平君も豹司牙も盲点であった。

茶葉屋の店主とは、屋敷で起きたことを世間話として話すくらいだったというが、それほどの洞察力があったのなら、わずかな会話の糸口からこれまでも情報を盗んでいたと考えて良いだろう。

店主と庖宰の身柄は黒騎兵が預かっている。拷問で口を開かせると、二人とも報酬を目当てに、ある男から李一族の生き残りを探るよう依頼されていたそうだ。

二人に話を持ち掛けた者は黒衣に身を包んでおり、男だということしか分からなかったようだが、立ち振る舞いから高貴な立場にあることは分かったという。

恐らくは過去に李一族の殲滅を指示した先帝側の人間だろう。昌平君が宮廷で顔を合わせている者だとすれば、数人の候補が挙がった。

それにしても、ここまで執拗に李一族の壊滅を目論むのは、よほど報復を恐れているのだろうか。子ども一人をそこまでして探し出していたことに、執念のようなものを感じさせる。

茶葉屋の店主も庖宰も、普段は信のことをよく気にかけている男たちだと思っていたのに、金に目が眩み、子どもであってもその命を奪おうとするなんて無情な世の中だ。

「な、なあ、そもそも俺の素性って…李一族って何なんだよ…」

きっと庖宰の男から何かしら話を聞いていたのだろう。信が李一族の口に出したことに、昌平君ははっとした。

不安そうにこちらを見つめる信に、昌平君は隠しておくのもここまでかと観念した。

「…李信。それがお前の姓と名だ」

 

 

李一族とは、先帝の代に仕えていた将軍の一族である。

他国への侵攻戦には必ずしも出陣を命じられるほど、強大な力を持っており、女子供も戦力として加えられるほど戦に優れていた。

徴兵に掛けられる年齢よりはるかに幼くても、李一族の者たちは初陣を経験するのが習わしであった。幼少期から徹底的に武の才を仕込まれるのである。

その強大な戦力で秦国を守り、幾度も戦を勝利に導いて来た一族の当主・李瑤りようの息子こそ、李信だ。

李一族が現在も存命であったのなら、間違いなく信も戦に出て武功を立てていただろうし、秦の中華統一も限りなく前進していた違いない。

それだけ強大な戦力で先帝に仕えていたにも関わらず、一族が壊滅に追いやられたのには理由がある。

その強さゆえに、李一族の権力増長を恐れた官吏たちが、彼らがいずれこの国を揺るがす恐ろしい存在になると皇帝に奏上したのである。

当時の皇帝は官吏たちの言葉を受け入れ、李一族に謀反の疑いを抱くようになった。

ただ、正面から襲撃したところで敗北は必須。そこで官吏たちは当時の将軍たちの知恵と力を借り、李一族の殲滅を図ったのである。

その方法こそがまさに卑怯としか言いようのないものだった。

日頃からの皇帝からの褒美だと語り、官吏たちは豪華な着物や布を贈ったのだ。外見こそ美しいものであったが、それらはすべて伝染病患者に着用させたものであった。

普段の功績を皇帝から讃えられることは、一族にしてみればこの上ない褒美だ。一族の者たちは疑うことなく、伝染病の元凶に接触してしまったのである。

いくら戦で敗北を知らぬ李一族とはいえ、所詮は人間。たちまち一族の間でその伝染病は広まり、大勢が亡くなった。

治療法が確立していない病に困り果てた彼らが宮廷の医師団に救援要請を送ったことをきっかけに、官吏たちは李一族のみで広まったその伝染病の根源を、他国との密通によるものだと偽装したのである。

伝染病を広めないことと、他国との密通による謀反の恐れを理由に、皇帝は李一族全員の処刑を言い渡した。

それまで皇帝と秦国に尽くして来た強大な一族は、王朝を取り巻く権力争いの渦によって呆気なく消滅させられたのである。

逆に言えば、そこまで姑息な手段を使わなければ真っ当に相手が務まらないほど、当時の李一族は最強だったと言ってもいい。

表向きは他国への密通の疑いから、皇帝への謀反を理由とした処刑であったものの、真相を知る者は極僅かだ。情報操作が行われたことから、真相を外部に洩らす者がいれば例外なく処刑されていた。

当時の皇帝が病で崩御してからもその情報操作は今もなお続いており、李一族壊滅の真相は完全に闇へ葬られたのである。
昌平君自身もこの件を言葉に出して伝えるのは、信が初めてのことであった。

今回の一件で分かったことがある。
それはまだ李一族が完全には滅んでいないと勘付いている者がいて、その人物が今もなお信の命を狙っているということだ。

 

信の素性 その二

「李…一族…」

どれだけ記憶の糸を手繰り寄せても、信には当時の記憶がなかった。

気づいたら奴隷商人によって辺鄙な里に売られ、ひどい目に遭いながら、奴隷として毎日を生きていたのが、信の中で最古の記憶である。

親の顔など覚えておらず、他の奴隷たちと同じように自分も戦争孤児だと信じ切っていた。

「何も覚えてねえ…俺は、なんで生き延びたんだ?病が蔓延しちまったって、みんな処刑されたっていうんなら、俺も死んでたかもしれねえってことだろ」

信は困惑した表情で昌平君を睨みつけた。

相変わらず昌平君は表情を崩すことはなかったが、しばし目を伏せていた。信は彼が話し始めるまで、その場からじっと動かずにいた。

「…先帝から李一族へ、病の根源である品が下賜されたあの日、お前は私の屋敷にいた」

「えっ?」

どんな答えが来ても驚くまいと身構えていた信であったが、まさか昌平君が関わっていたことは予想しておらず、思わず聞き返してしまう。

「は?え…俺、お前に会ったことがあったのか?」

静かに昌平君が頷いたのを見て、信は何度も記憶を巡らせてみたが、やはり思い出すことは出来なかった。

「…あの当時、李一族の当主であり、お前の父である李瑤りようは、私が師と称えていた男だ」

「………」

初めて・・・父の名を聞いた信は、戸惑ったように眉根を曇らせて、何度も瞬きを繰り返した。

名前を聞いても父の顔は朧気にも思い出せないのだが、胸元の辺りがざわざわと落ち着かなくなる。こんな気持ちになるのは初めてのことだった。

「じゃあ、お前…俺のこと知ってて、下僕になった俺を引き取ったのか?」

小さな集落にいた下僕の自分が昌平君に引き取られたのは、彼が領土視察のためにたまたま訪れたからだと疑わなかった。

字の読み書きが出来ないことを知って、常日頃から機密情報の取り扱いをしている自分に仕えさせるのに都合が良かったのだろうと思っていた。

しかし、過去に面識があったというのなら、それは決して偶然の出会いではない。昌平君は国中を探し回り、あんな辺鄙な地までやって来たのということになる。

昌平君は何も答えなかったが、恐らくそうなのだろうと信は納得した。

どうして自分が昌平君の屋敷にいたのか、そしてあんな辺鄙な集落に移り住んだのか、信が尋ねようとすると、昌平君が先に答えた。

「…お前が伝染病を免れた理由だが、李瑤がお前を連れて私の屋敷に来た時、幼いお前は風邪を拗らせ、そのまま私の屋敷で療養していた」

「風邪…?」

それは伝染病よりも断然軽いものではあったようだが、どうして昌平君の屋敷で風邪を引いてしまったのだろうか。

信が疑問を浮かべているのを読んだのか、昌平君が言葉を続ける。

「お前が後ろから飛び掛かって来たのを私が避けたせいで、お前はそのまま池に落ちた。真冬の池で体が凍えたのだろう」

「ええ…?」

記憶はないとはいえ、なんだか安易にその光景が想像出来てしまい、信は顔を強張らせる。

「李一族に生まれた者は、一般的に徴兵を掛けられるより前の年齢で初陣を経験させる。しかし、お前はその単純さゆえに、李瑤から初陣に出るのを禁じられていた」

「………」

どうやら当時のことを昌平君は鮮明に記憶しているようで、すらすらと続きを話してくれた。

「もしも私に、一撃でも与えることが出来たのなら初陣に出るのを許すと、李瑤はお前と約束をしていたらしい」

しかし一撃を与えることが出来なかったどころか、真冬の池に落下して風邪を引いたのだと、昌平君はどこか呆れた様子で語る。

どうして父が初陣の許可に昌平君を巻き込んだのか分からなかったが、恐らくその当時から、昌平君には一度も勝てなかったのだろうということは何となくわかった。

 

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壊滅の真相と再会

「…真冬に病を広めたのも、李一族の壊滅を狙う者たちの策だったのだろう」

当然ながら病人に寒さは堪えるものだ。真冬の季節に伝染病を広めたことから、官吏たちがきっと以前から厳密に策を企てていたということが分かる。

「………」

思い出すだけでも腸が煮えくり返りそうになり、昌平君は無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。

信が昌平君の屋敷で療養していた時に、李一族の伝染病は広まった。

もしも信が風邪を拗らせていなければ、李瑤と共に屋敷へ帰還して、伝染病に倒れていたか、処刑されていたに違いない。

昌平君のもとに李瑤からの書簡が届いのは、李瑤自身も伝染病にかかってからだった。

その書簡には、一族の中で流行り病が広まっていることを理由に、息子の風邪を悪化させないよう、もうしばらくそちらで預かっていて欲しいという旨が記されていた。

恐らく李瑤は、一族の中で不自然に広まった病に違和感を抱いていたに違いない。暗号や予見こそ記されていなかったが、何かあれば信を頼むと記されていたのである。

李瑤の勘はよく当たった。師と称えていた彼と共に出征した時も、軍略囲碁で腕を競い合った時もそうだった。それは本能型の将が持つ独特な感性で、危険を予知する特殊な能力なのだろう。

そして、杞憂では済まず、その勘は当たってしまった。

李一族の中で伝染病が広まったのは他国との密通によるものであることも、謀反の疑いがあることも、たちまち秦国中で話が広まり、昌平君の耳にも届いたのである。

まだ幼い子どもであった信の耳にその話が入らぬように屋敷内で箝口かんこうを敷いたものの、国中で広まったその噂を全て防ぎ切ることは不可能であった。

どこからか噂を聞きつけた信は、昌平君の制止を振り切って、生家へと駆け付けたのである。

あの当時の信は、今より幼いながらも一人で馬を走らせることが出来た。李一族に生まれた者は幼い頃から武器と馬の扱い方を教えられるからだ。

昌平君もすぐに追いかけたものの、そのときすでに先帝の指示で、李一族の屋敷には火が放たれており、勅令を受けた兵たちが一族の虐殺を行っていた。

女子供も例外なく処刑の対象であり、病で苦しみながらも反撃する李一族の者たちを誰一人として逃すことなく、勅令を受けた兵たちは切り捨てていったのである。

どうしてそこまで残虐な行いをしたかというと、李一族の殲滅は勅令であり、兵たちにとっても失敗は許されぬことだったのだ。

燃え盛る生家の中、無残に殺されていく仲間たちの姿に泣き叫ぶ信の姿は、今でも昌平君の瞼に焼き付いている。

無謀だと分かりながら、怒りを抑え切れなかった信は武器を持って奮闘した。子どもであっても、最強と称えられた一族の嫡男である信の姿は、戦場に立つ李瑤の生き写しのようであった。

しかしこの時、李一族に味方する者は誰一人としていなかった。

李一族と共に戦場に立った秦将も、昌平君のように李瑤を師として慕う一族も多くあったというのに、勅令には逆らえなかったのである。

殲滅を阻止しようとする者は、李一族の味方であり、つまりは秦国への謀反であるとみなされるからだ。だからこそ、助けようとする者はいなかった。

昌平君も自分の一族を守る保身のために、李一族を見殺しにした一人で、その罪を一生背負うつもりでいた。

供をしてくれた豹司牙も、燃え盛る屋敷と戦友ともいえる李一族が虐殺されていく光景に、血が滴り落ちるほど拳を握っていたことは覚えている。

…程なくして、信も体力の限界を迎えることとなる。
次々と送られてくる増援も尽きることがなく、誰もが李一族はもう終わりだと悲観していた。

それでも、昌平君は李瑤との約束だけは守ると決め、何としても信だけは守らねばならんと覚悟を決めたのである。

 

 

「私と豹司牙は兵に紛れ、お前をその場から連れ出した。正体を知られぬよう追手と戦っていたが…途中でお前を見失い、先にあった崖に、お前の靴が片方だけ落ちていた」

「………」

苦虫を噛み潰したような表情で、昌平君が言葉を続ける。

「どこかに亡骸があると思い、崖の下にあった川や付近の森まで捜索を続けさせたが、遺体は見つからなかった」

淡々と語られる事実を、信はじっと聞いていた。

「…じゃあ、俺がまだ生きてると思って、探し続けたのか?あんな集落まで…」

昌平君はまたもや肯定こそしなかったが、首を横に振ることもしなかった。

「…あの集落で再会した時、お前は全てを忘れていた。李一族の存在や私のことだけではない。馬の乗り方も、武器の扱い方も、字の読み書きすらも出来ない下僕となっていた」

昌平君に身柄を引き取られることが決まった時、信は昌平君と初対面だと思い込んでいた。

彼から名前を呼ばれたのは、里長から自分の名前を事前に聞いたのだとばかり思っていたのだが、そうではなかったのだ。信だけが全ての記憶を忘れていたのである。

頭を打ち付けたのか、それとも辛辣な現実に耐え切れず、心が記憶を手放したのかは分からない。

しかし、腑に落ちたように、信は大きく頷いた。

「…それじゃあ、お前と豹司牙は、俺に記憶を思い出させようとして、毎日俺の頭をひっぱたいてたのか」

「それは違う」

「えっ?」

即座に否定すると、信が間抜けな声を上げた。げんこつを落とされるほどの無礼を働いたことに信は一切の自覚がなかった。

 

絶対的主従契約

昌平君が鋭い眼差しを向ける。

「今のお前は、ただの下僕だ。だが、当時の記憶を取り戻したのならば、李一族の生き残りとなる」

未だ信は当時の記憶を取り戻していない。それでも李一族の生き残りを探している者がいたことから、今でも李一族の報復を恐れている者や、先帝を唆した悪事を暴かれるのを恐れている者がいることが分かった。

庖宰の男と茶葉屋の店主を動かしていた者が黒幕だと目は付けていたが、その者だけとも限らない。今後も情報漏洩がないように徹底的に管理していく必要がある。

しかし、信自身が此度の件で、自分の素性を知ってしまったように、いつまでも信の存在を隠し通すのは難しいだろう。

一族を処刑された恨みは消えることはないし、信に復讐をする権利はある。だが、それはあまりに無謀なことだ。

「…お前が李一族を滅ぼされたことを復讐するのなら、お前を助けた立場として、私はそれを止めねばならん。…お前を傍に置いていたのはそれだけだ」

信の父である李瑤との約束については語らなかった。

それを伝えれば、昌平君がずっと信を探していたのも、保護したのも、亡き父からの遺言によるものだと教えることになる。

今さらそれを話したところで信を戸惑わせることになるのは目に見えていたし、復讐への意志を固めることにもなりかねない。

しかし、信は薄く笑みながら首を横に振った。

「分かってる。お前が話さないってことは、きっと他にもなにか理由があるんだろ」

「………」

意外にも信にそれを見抜かれ、昌平君はやや呆気に取られた。

茶葉屋の店主と庖宰の男が繋がっていたという証拠を押さえた豹司牙から、街へ向かう途中で、奴隷解放証に名前が必要になることを伝えたのだと、謝罪と報告を受けていた。

信があまりにも無礼な態度を続けるものだから、いい加減見ていられず真相を伝えてしまったのだという。

盗んだ原本と印章と信の名前が揃えば、その奴隷解放証は確かに効力を持つことになる。

しかし、昌平君が最初から案じていたのは、偽造や不正入手で裁かれること以前に、何の力も持たない子どもがたった一人で生きていけるはずがないという心配からだった。

未だ七か国での領土争いは絶えることはなく、力のない者が生きていくには過酷な世界だ。李瑤との約束を守り続ける立場として、何としても信を犬死させるわけにはいかなかった。

たとえ信が李一族の生き残りだとしても、今の彼に当時のような武の才はない。
李瑤が危惧していた感情的になりやすい面を除けば、当時の年齢であっても、信はそこらの将よりも確実な力があった。

下僕の身分に落ちた彼と再会してから、昌平君は文字の読み書きはもちろん、馬の扱い方も武器の持ち方も一切教えなかった。
そんなことを教えれば、信は再び武の才能を開花させてしまうかもしれない。

当時の記憶を取り戻すような兆しは今までも見られなかったが、何をきっかけに信が復讐鬼と化すか分からなかった。

今までずっと下僕として自分の傍に仕えさせ、偽りの主従関係を築いていたのは、信が記憶を取り戻していないか、常時の監視を兼ねていたのである。

全ては師である李瑤との約束を守るためだった。

 

 

「私の話を聞いて、何か思い出したか?」

「んー…いや?」

李一族の話をすることで、信が記憶を取り戻すのではないかという不安もあったのだが、杞憂で済んだらしい。

しかし、自分の正体を知ったことで、信の心に変化が現れるのではないだろうか。それをきっかけに当時の悲惨な記憶を取り戻したら、間違いなく信は一族を滅ぼした王族への復讐を誓うはずだ。

武の才能が完全に開花すれば、彼の父がそうであったように、たとえ信一人でも大勢の命を奪うことは容易いだろう。

先帝はすでに病で崩御しているが、当時の官吏たちの何人かはまだ健在で、強い権力を持って現秦王である嬴政に仕えている。

信は怒りの矛先を嬴政に向けるかもしれないし、保身のために自分の一族を見殺しにした昌平君や他の者たちにも向けるかもしれない。一族を滅ぼされた恨みが収まらず、王朝を滅ぼすかもしれない。

…だが、それは無謀だと言ってもいい。いくら信であっても、一人では敵わないのは目に見えていた。

「…一族を陥れ、滅ぼした者たちが憎いか」

問いかけたのは、もしも信が李一族への復讐を決意するのなら、李瑤との約束を果たすため、昌平君にも考えがあったからだ。

「………」

信は俯いてしばらく考える素振りを見せていたが、ゆっくりと顔を上げる。
黒曜の瞳に力強い意志が浮かんでおり、昌平君は僅かに身構えた。

「わかんねえや」

眩しいほどの笑顔で判断出来ないと言われたものだから、昌平君は驚いた。
珍しく感情を顔に出した主の反応を見て、信は困ったように頭を掻く。

「だってよ…何も覚えてねえのに、復讐も何もねえだろ。そこまで俺も命知らずじゃねえし」

「記憶を取り戻したら?」

すかさず昌平君が聞き返したので、信は腕を組んでうーむと小首を傾げる。

「その時になってみねえとわかんねえよ」

あまりにも単純過ぎる答えだが、確かに理に適っている。

心の何処かでは、信が一族の復讐を誓い、その命を無残に散らしてしまうことになるのではないかという心配が絶えなかった。

しかし、信の答えを聞く限り、今のところはまだその心配はしなくて良さそうだ。

だが、何をきっかけに記憶を取り戻すかは今後も分からない。積極的に記憶を取り戻そうとするつもりはないようだが、これからも傍で監視を続けなくてはならないようだ。

「…なあ」

まるで昌平君の顔色を窺うように、信が上目遣いで見上げて来る。

「もし、俺が全部思い出して…お前や、一族を滅ぼした奴ら全員に復讐してやるってなったら、さっさと斬り捨ててくれよ」

「………」

「今回みたいなことが起きたんだから、これ以上お前に迷惑かける訳にはいかねえだろ」

祈るように眉根を寄せて信がそう言ったものだから、昌平君はしばし返答に困った。
表情を変えずとも、昌平君が返事に悩んでいることを察したのか、

「お前って、意外と義理堅い男だもんな」

昌平君は何も答えなかった。
束の間の沈黙の後、信があははと笑う。

「それじゃあ、もしも俺が記憶を取り戻した時…俺に従うって言うんなら、命だけは助けてやってもいいぜ?」

随分と上から目線の挑発的な態度に、昌平君の眉間が曇ったのが分かった。

信が本当に記憶を取り戻したのなら話は別だが、今でも主と下僕の主従関係は続いているというのに、相変わらずな態度だ。

「…その時になってみないと分からんな」

わざとらしく溜息を吐いて、昌平君は誤魔化すように信の言葉をそのまま返した。そりゃそうだと信は大らかに笑う。

「…もう今日は休め。あとのことは私が引き受ける」

信は頷いて、もう一度柔らかい寝具に寝転がった。
本来ならいつも休んでいる部屋に戻るべきなのだろうが、寝台に横たわっても文句を言われなかったので、今日は特別なのだろう。

驚くことに、昌平君も寝台に横たわった。目を覚ますまでは共に眠っていたが、まさか今夜は一緒にここで休まなくてはいけないのか。

少し気恥ずかしさもあるものの、思い出したように体の疲労が圧し掛かって来る。
柔らかい上質な寝具と、隣にいる昌平君の温もりに包まれて、信の意識はすぐに眠りに落ちていった。

 

絶対的主従契約~簒奪~

…昌平君が師と慕っていた男は、もう一人いる。

それは信の祖父にあたる李崇りすうという男で、彼は知将の才を持ち、優れた軍略を用いて自軍を勝利に導く男だった。

息子・李瑤りようのように、味方の士気を高める奮起の言葉を熱く語るものの、それらは全て、自軍の勝利へ導くための演技であることを、昌平君は早いうちから見抜いていた。

李瑤は情と忠義に厚い男であったが、李崇は勝利のためならば味方も駒として使い捨てる冷酷さがあった。それが彼の本当の顔である。

表向きは情に厚い将、しかし、確実な勝利のために冷酷に駒を操る裏の顔を持つ二面性を兼ね備えていることから、息子である李瑤とは似ても似つかない性格であった。

李崇の交渉に長けている口の巧さは、知将としての才によるものだったのだろう。

彼が瞬き一つせず・・・・・・にじっと相手の目を見据えて交渉を開始すると、まるで術にでも掛けられたかのように、相手の方はその話に乗ってしまうという不思議なものだった。

昌平君も幾度もその瞳に見据えられたが、心を見透かされているかのような嫌な感覚に襲われた。
しかし、大半の者はその嫌悪感すら感じることなく、李崇の望むままに動いてしまうのだった。

李崇が敵軍と交渉する時は、決まって自軍が優位になるように導いていた。捕らえた敵兵に、機密情報を軽々と吐かせていたのもそのおかげだろう。

…今思えば、あれは李崇だけが使える一種の洗脳のようなものだったのかもしれない。

しかし、昌平君は李崇のその術にはかからなかった。彼が自分の心を覗き見ようとする度に、さりげなく視線を逸らして、術を回避していたのである。

どうやら自分の思い通りに動かないことを気に入られたらしく、昌平君は李崇から軍略について教えられるようになった。

そういった経緯があり、昌平君は二人の師からそれぞれ武と知を学んだのである。特に李崇からは駒の扱い方をとことん教え込まれた。

信は武の才に優れていた父・李瑤りようの血を濃く受け継いでいたので、もしも李一族が滅んでいなかったのなら、今では戦の前線で大いに活躍する将になっただろう。

しかし、少なからず李崇りすうの血も受け継いでいるはずだ。相手の裏をかくことを何よりも得意とし、いかなる状況においても機転を利かせる知将の才能を。

昌平君は、一度も李崇との軍略囲碁に勝利したことがない。いかに優位に進めていても、必ず綻びを突かれ、徹底的に打ち負かされるのである。

しかし、数えきれない敗北から軍略と駒の動かし方を学んだおかげで、昌平君は今の地位を築いたと言っても良い。

李崇りすうは味方も敵も、そして自分をも駒として扱い、確実に勝利に導く存在であった。官吏たちが李一族の権力増長を恐れたのは、李崇の存在があったからなのかもしれない。

…もしも信が父と祖父の両方の血を受け継いだとすれば、本能型の将と知略型の将の両方の才を持つ将として、秦国に欠かせない存在になっていただろう。

そして当時と同じように、この国を揺るがす存在だと恐れられ、理不尽に命を狙われることは目に見えていた。

これからも記憶が戻らないように願いながら、昌平君は隣で眠る信を見つめる。

「んー…」

小さな寝言を零しながら、信が寝返りを打って、昌平君の胸元に顔を埋めて来た。
まるで腹を満たした赤ん坊のような、何も不安など感じていない安らかな寝顔と静かな寝息に、昌平君も眠りに誘われる。

きっとこのまま何も思い出さない方が、信にとっては幸福に違いない。

信が戦や復讐と無縁な生活を送り、人生を全うしたのなら、その時初めて昌平君は李瑤りようとの約束を果たせると信じて止まなかった。

(…だが、信の提案も悪くないかもしれない)

もとより、自分は李一族を見殺しにした罪を背負っているのだから、復讐に協力することで、自分の罪の償いになるとも考えられた。

何より、師や信を苦しめた者が、今も同じ国に存在している事実は覆せない。
多くの犠牲を対価に、この国の政治を我が物顔で牛耳る官吏たちを思い浮かべるだけで、反吐が出そうになる。

今でも李一族が滅んだことや、保身のために師と一族見捨てたことは、重い楔となって昌平君を縛り続けていた。
一族が滅んだ事実が変わらないように、その楔がこれから先も外れることはない。

それでも、自分が信に従い、彼の駒として動くという新たな主従契約を結んだのなら、少しはその楔が軽くなるのかもしれない。

先帝は崩御したが、今も生き残っている李一族の殲滅を指示した官吏たちに、信と共に復讐するのも悪くないかもしれない。

しかし、それはあまりに無謀で短慮で、愚かであるという自覚はあった。

「………」

いよいよ重くなって来た瞼を抑えられなくなる。

思えば、豹司牙からの報告を受けてから休むことなく信を探し続けていたのだ。体に疲労が残っていてもおかしくなかった。

風邪を引かぬよう、しっかりと信の肩に寝具をかけてやり、その体を抱き寄せる。腕の中の温もりを感じながら、昌平君の意識は眠りへと落ちていった。

 

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昌平君の静かな寝息を聞きながら、信はゆっくりと目を開いた。

無防備に眠る昌平君の姿を見るのは珍しいことではなかったのだが、今はとても懐かしい感覚があった。

隙だらけであった昌平君の背中に一撃を与えようとしたものの、呆気なく回避されてしまい、冬の池に落ちてしまったあの日のことを思い出す・・・・

青銅製の火鉢で部屋は暖められていたが、高熱にうなされ、なおも寒さを訴える自分を抱き締めて温めてくれたのは他でもない昌平君だった。

「………」

つい先ほどまで自分の主だった男の寝顔を、信は瞬き一つせず・・・・・・に見つめる。

手を伸ばして、彼の頬をそっと撫でると、

「…なあ、最後まで、俺に利用されてくれよ?お前は俺の駒なんだから」

信が、にやりと笑った。

 

後日編①はこちら

The post 絶対的主従契約(昌平君×信)後編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

絶対的主従契約(昌平君×信)中編②

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編①はこちら

 

茶葉屋へ

街に着くと、豹司牙が厩舎へ馬を預けに行った。

屋敷と違って多くの民衆が入り乱れている相変わらず賑やかな街並みを眺めながら、信は豹司牙が戻って来るのを待つ。

屋敷から一番近いこの街にはいつも屋敷で仕入れている茶葉を売っている店がある。昌平君や家臣たちが毎日のように愛飲することもあって、信はその店でいつも茶葉を大量に購入していたので、今ではすっかりお得意様になっている。

しかし、茶葉をよく購入するものの、自分では滅多に茶を飲まないのだと話すと、店の主は下僕の信に同情の眼差しを向けて、こっそり茶菓子をくれることがあった。

「行くぞ」

後ろから低い声を掛けられて、信は反射的に振り返る。豹司牙が馬を預けて戻って来たようだった。
今日は豹司牙が傍にいるので茶菓子はもらえないかもしれない。

「茶葉を購入したらすぐに戻る。店へ案内しろ」

「えーっ!ちょっとくらい寄り道したって…」

歩き出した豹司牙にそんなことを言われたものだから、信は駄々を捏ねた。
しかし、すぐに鋭い眼光を向けられてしまい、勝手に口が塞がってしまう。

街へ降りるのは珍しいことではないのだが、その頻度は決して多くない。屋敷の中にいるだけでは知らない売り物があったり、食べたことのない料理が店に並んでいたり、子どもの好奇心を掻き立てる要素がいくつもあるのだ。

いつも昌平君の傍についている息抜きとして、街へ降りた時にはそれくらいの贅沢は許してほしいと訴えた。

街へ降りる時には銀子を渡されるのだが、大量の茶葉を購入しても多少のおつりがくる。
それは好きに使えと主から言われていたので、ヤギ乳を飲んだり、タイ ※水あめを買ったりして、それなりに楽しんでいたのだ。

あまり長居はしないようにと言われていたので、短い時間ではあるものの、信はその時間が好きだった。

豹司牙の眼光がますます鋭くなったので、信は肩を落とす。今日は諦めるしかなさそうだ。

「…茶葉屋はこっちだ」

がっかりしながら、信はいつも茶葉を購入している店へと案内する。
前方に店が見えて来たが、いつもと店の様子が違い、信は思わず目を凝らした。

「あれ?今日は休みか?珍しいな」

いつも開いているはずの入り口が今日は閉じられている。
小走りで店に近寄ってみるものの、見間違いではなく、どうやら今日は茶葉は売られていないようだった。

街へ降りる日は決まっていないのだが、今まで店が閉まっていたことは一度もなかったので、信は驚いた。今日は店じまいしなくてはならない用事があったのだろうか。

豹司牙も閉じられている店の入り口を見て、今日は店をやっていないのだとすぐに察したらしい。

「他の店は?」

「茶葉を売ってんのはこの店だけだ」

「ならば、これ以上長居する必要はない。戻るぞ」

他に候補がないのだと言うと、豹司牙はすぐに屋敷に戻ると言い放った。
主からの指示とはいえ、下僕の信と一緒に居たくないのだろう。

「あ、おいっ!声かけりゃ、特別に売ってくれるかも…!」

足早にその場を去ろうとする豹司牙の背中に声をかけるものの、彼は振り返ることもしない。

 

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「なんだよ、あいつ…!」

いくら昌平君が信頼を寄せている近衛兵でも、背中に目がないことを良いことに、信はべーっと舌を出した。

しかし、せっかくここまで来たのだから、無駄足になるのは避けたい。

「おい、オッサン!今日は居ねえのか?」

閉まっている扉を乱暴に叩きながら声をかける。

こちらはいつも大量に茶葉を購入しているお得意様なのだから、休みであっても茶葉を売ってくれるのではないかと、信は扉を叩くのをやめなかった。

しばらくすると、扉が開けられて、隙間から見慣れた顔が現れる。茶葉屋の店主だ。
この街で唯一の茶葉売りをしていることもあり、それなりに需要がある店で、儲けは悪くない。

信のような(正確には昌平君だが)お得意様も多くついているので、その店構えや、でっぷりとした腹を見れば、裕福な暮らしをしていることが分かる。

信に茶菓子をこっそりくれるのもこの男で、気前の良い性格が民たちから親しまれていた。

「なんだ、信か。今日も買いに来たのか」

「ああ、休みなのに悪いな。茶葉売ってくれねえか?」

店主が表情を曇らせたので、信は思わず目を丸める。

「実はなあ、いつも茶葉を採ってる畑がこの間の豪雨でやられちまってなあ…」

申し訳なさそうに店主が頭を掻いた。

店主の言葉通り、先月この地方一帯を豪雨が襲った。この季節で豪雨が来るのは珍しく、数日間ずっと続いていたこともあり、農作物にかなりの影響が出てしまったのだという。茶葉の収穫にも影響が出てしまったようだ。

「じゃあ、しばらく茶葉は採れねえのか?」

「保存分はまだ残ってるんだけどなあ…悪いが、一日に売れる量は制限させてもらおうかと考えててなあ」

新しい茶葉が入るまでどうするか検討するために、今日は店じまいをしていたらしい。
確かにこちらがお得意様とはいえ、この店で売られている茶葉を欲している客が多くいることを信は知っていた。

「そっか…それじゃあ、仕方ねえな」

昌平君の気に入る茶を淹れようと考えていた信は肩を落とす。

まだ屋敷には購入した茶葉が残っていたが、主との約束があったので、今日は店主にとびきり美味い茶葉を譲ってもらおうと考えていたのだ。

落ち込む信を見て、店主が豪快に笑う。

「わかったぞ。お前また不味いって怒られたんだろ?いい加減に学習しろよ」

「どう淹れたって、熱いだの渋いだの色々言われるんだよ!あれはぜってー嫌がらせだ!」

昌平君によく茶の文句を言われていることを、店主の男は知っていた。信が茶葉を購入しに来る度に愚痴を聞いていたのである。

気を利かせた店主が美味い淹れ方について過去に伝授していたのだが、湯の温度や茶の蒸らし方など、子どもの信が理解出来るはずがなかった。

 

 

伝授

「でも、今回は…ちゃんとしねえとな」

普段は主の文句を言うか、他愛のない話をして笑うか、茶菓子をもらって喜ぶ信が、いつになく真顔でそう呟いた。

「なにかあったのか?」

店主の男が不思議そうに問うと、信は僅かに口角を持ち上げる。

「…あいつのお陰で、長生き出来てたのが、わかったっていうか…」

自分の半分も生きていない子どもが長生きという言葉を使ったことに、店主が豪快に笑い声を上げた。

「そうだそうだ。下僕の中でもお前はマシな方なんだぞ!」

太い指が乱暴に髪の毛を撫でるものだから、信はやめろよと後ろに仰け反った。

「医者も手配してもらったから、ちょっとくらいはな」

乱れた髪を直しながら、昌平君に感謝の意を示さなくてはと独り言ちる。

「医者…?お前、怪我でもしたのか?」

見るからに元気の塊である少年が、病や怪我を連想させる医者を口に出したことに、店主が再び首を傾げた。

「ああ、いや、まあ…」

まさか大量の布団の中に押し込められていたなど言えず、信は言葉を濁らせた。

「話せば長くなるから言わねえけど、死に掛けたところを侍医に診てもらったんだよ」

「へえ、そりゃまた…右丞相様に仕えてる侍医に診てもらうなんざ、お前さんは随分と大切にされてるんだなあ」

店主がまじまじと信を見る。それから何かを思いついたように、店主はぽんと掌を叩いた。

「そうだ。茶は売ってやれねえが、今残ってる茶葉をより美味くする方法を教えてやるよ」

「え?そんな方法があるのか!」

ああ、と店主が頷いた。

「どうせここで説明しても、屋敷に戻ったら忘れちまうだろ?やり方を書いてやるから、誰かに読んでもらって教えてもらえ」

下僕の信が字を読めないことも店主は知っており、それはまた随分と親切な提案だった。

「時間が経った茶葉でもな、煎れば風味が段違いなんだ。きっとこれなら喜ばれるぞ」

「へへ、ありがとな!」

茶葉の煎り方が記された木簡を受け取り、信は笑顔を見せる。

「煎る時間も火加減も事細かに書いてあるから、字が読める庖宰ほうさい ※料理人に読んでもらって、一緒にやってもらうんだぞ。お前一人でやったら屋敷が火事になりかねん」

「いつも一言多いんだよ!」

軽口を叩き合いながら二人は笑う。銀子を渡そうとしたのだが、今日は特別だと断られた。

「お前みたいなガキでも、れっきとしたお得意様だからな。ほら、暗くなる前にとっとと帰れ」

茶葉は購入出来なかったが、普段からのお得意様としての行いが実を結び、良い情報を得ることが出来た。

店を出ると、信は豹司牙の姿を探した。

預けていた馬を連れて、先に帰ってしまったのではないだろうかと不安に思ったが、店を出てすぐのところで彼は信のことを待ってくれていた。

店を出て来た信の手に茶葉がないのを見つけ、豹司牙の視線が鋭くなる。無駄話をしていたのだと誤解されたのかもしれない。

「ちゃ、茶葉は不作で今売れねえみたいだから、代わりに残ってる茶葉を美味く煎る方法を教えてもらったんだよ」

木簡を差し出しながら言い訳をすると、豹司牙は何も言わずに歩き出した。どうやら怒ってはいないらしい。

すぐ外で待っていたことから、店主との会話が筒抜けになっていたかもしれないが、幸いにも昌平君の悪口は聞かれなかったようだ。もし聞かれていたらまたげんこつが落とされていただろう。

預けていた馬を取りに行き、豹司牙が先に馬に跨る。続けて信の腕をぐいと引っぱり、来た時と同じように前に乗せた。

馬に乗せられると、視界が高くなって、いつもと世界が変わる。

昌平君と共に馬車に乗る時も、馬車の窓から見える景色を眺めるのは好きだが、馬に跨って高くなった世界を見渡すのも信は好きだった。

自分の視界が高くなっただけなのに、見渡す世界が広がって、それだけで活力が湧き上がってくる不思議な感覚に、手足の爪先まで満たされるのである。

 

疑惑

屋敷が見えて来たところで、信は興味本位で木簡を開いた。

何が書いてあるのか、自分で解読出来ないのは分かっていたが、そのうちの一つだけ見覚えのある漢字を見つけて「あっ」と声を上げる。

すももだ!これだけは読めるぞ」

果物を意味する文字を見つけ、信は誇らしげにそう語った。

当然後ろにいる豹司牙から反応がないのは分かっていたが、別に彼に読み聞かせるために木簡を開いたわけではない。ただの興味本位である。

「…ん?茶葉の煎り方に李ってどういうことだ?李を使うのか?」

自分の知らない茶葉の煎り方が書いてあるのは分かったが、李は果物だというのに、茶葉を美味くする方法とどういう繋がりがあるのだろうか。

「おわっ?」

豹司牙が急に手綱を引いて馬を止めたので、信は反射的に振り返った。
まさかまたお説教が始まるのかと身構えると、豹司牙が信の手から木簡を奪い取った。

「あっ、何すんだよ」

「………」

豹司牙は答えず、じっと木簡の内容を確認している。

残っている茶葉を煎って風味を上げる方法が記されているそれ見て、彼の眉毛に剣先で刻まれたような深い皺が寄った。

まさか豹司牙も茶葉の煎り方に興味があるのだろうか。この仏頂面が自ら茶を淹れている姿など微塵も想像できず、信は怪訝な顔をする。

「茶葉の煎り方なんて、お前が読んだってわかんねえだろ。庖宰ほうさい ※料理人に見せろって言われてんだよ」

「…降りろ」

豹司牙が低い声で囁いた。

発言が気に障ったに違いないと直感で悟った。もう前方に屋敷が見えているとはいえ、ここから徒歩で帰れと言われたら、信の足でもそれなりに時間がかかる。

「な、なんでだよ!これくらいで怒んなよ。ちゃんと屋敷まで乗せてくれって…」

てっきり豹司牙の機嫌を損ねたことで歩いて帰れと言われているのだと信は疑わなかった。

しかし、豹司牙は木簡を手早く畳んで紐で縛る。信の手にその木簡をしっかり握らせると、いつもとは違った眼差しを向けて来た。

あの鋭い威圧感ではなく、頼みごとをするような、何かを訴える眼差しだった。

「至急、これを総司令へお届けしろ。必ずだ。他の誰にも見せてはならん」

「えっ?」

「豹司牙がそう申していたと告げろ。二度は言わん」

そう言うと、豹司牙は強引に信の体を突き飛ばした。

「おわあッ!?」

咄嗟に受け身を取ったので怪我はしなかったが、何をしやがると文句を言おうと顔を上げた時にはすでに豹司牙は馬を走らせて行ってしまった。

なぜか街の方へ戻っていく彼の姿を見て、信は頭に疑問符を浮かべる。

「なんなんだよ、あいつ…」

手に握ったままである木簡に気づいて、信は改めて内容を見返した。しかし、すもも以外の字は何が書いてあるのかさっぱりである。

茶葉の煎り方がそんなにも珍しかったのだろうか。それにしても急いで昌平君に見せろと言う豹司牙の意図が分からない。主と同じで、肝心なことだけは教えてくれない男だ。

(…急ぐか)

昌平君なら何か分かるのだろうと考えながら、信は遠くに見えている屋敷へと走った。

 

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疑惑 その二

全速力で走り続けたせいか、屋敷に到着した時には、信はすっかり息を切らしていた。

止まらない汗を拭いながら、昌平君に木簡を渡すよりも先に水が飲みたい気持ちが膨れ上がる。

喉を潤してから昌平君に木簡を渡そうと考えた。こんなカラカラの喉では、豹司牙からの伝言など伝えられそうにない。

井戸がある裏庭に向かうと、屋敷の中で従者たちはすでに夕食の準備に向けて働いていた。今朝の信の捜索によって、仕事を中断していた時間帯があり、普段よりも忙しそうだ。心の中で詫びながら、井戸のある裏庭へと降りる。

「…ふはあ、生き返った」

柄杓で水を飲むと、乾いていた喉が一気に潤った。

「おう、信じゃねえか。今朝は大変だったみたいだなあ」

後ろから声を掛けられて振り返ると、厨房を担当している庖宰ほうさい ※料理人 の男がいた。彼は下僕ではないのだが、信に優しく接してくれる。

屋敷で雇われたのは半年前のことだが、どうやら息子が信と同じ年齢であることから、信のことをよく気にかけてくれる男だった。昌平君に命じられて、救出された信に豪勢な料理を作ってくれたのも彼だ。

「朝からひっでー目に遭ったんだよ」

「ははは!布団しまう場所で寝てて、そのまま気づかれなかったんだって?それはお前が悪いだろ!」

自業自得だと笑われて、信はいたたまれない気持ちになる。不貞腐れた表情をしていると、庖宰の男が信の手に握られている木簡に気づいた。

「ん?お前、何持ってんだ?サボってねえでさっさと仕事しろよ」

信の勤務態度が不真面目であることは屋敷中で誰もが知っていた。しかし、信は「サボってねえよ」と反論する。

(…あ、そうだ。オッサンならコレのやり方わかるんじゃねえのか?)

茶葉屋の店主から、火加減や煎り方には細かいやり方があるので、この書簡は庖宰に見せろと言われたことを思い出す。

その木簡を誰にも見せるなと豹司牙に言われていたことを忘れ、信は茶葉の煎り方について庖宰の男に聞こうと考えた。

「なあ、茶葉を煎るのにすももって使うのか?」

「はあ?李だと?」

なにを言っているのだと言わんばかりの表情で聞き返され、信が頭を掻く。

「いや、だってよ…茶葉屋のオッサンがこれに李って書いてたから…」

「どれどれ?」

庖宰の男が信の手から木簡を奪う。彼は下僕ではないし、字の読み書きをしっかりと習っているので、その木簡も問題なく読めるようだった。

 

 

紐を解いて中を見ると、庖宰が険しい表情を浮かべる。

「ははあ、なるほどな…これの通りにすりゃあ、茶葉が美味くなるってのか」

豪雨の影響で新しい茶葉を購入出来ず、代わりにこの方法を教えてくれたのだと伝えると、庖宰の男がふむふむと頷いた。

「…そりゃあお前、そもそもここの水は硬水なんだから、茶葉がどうこう考える前に、まずは水から仕入れなきゃダメだろ」

「はあ?水から変えろってのか?意味わかんねえよ」

子どもの信には水に種類が存在することなど分かるはずもなかった。
庖宰の男が辺りを見渡して、信に手招きをする。

「仕方ねえ。夕食の仕込みはもう終わってるからよ、今から急いで茶を淹れるのに適した水を買いに行くぞ。急げばまだ水売りに会えるはずだ」

まるで秘密ごとを共有するかのように、小声でそう言われたので、信は目を丸めた。

仕込みを終えているとはいえ、厨房が一番忙しくしている時間帯だ。そんな時に、自分のために仕事を抜けて良いのだろうかと心配になった。

それに、茶葉を煎るのに軟水が必要なのだろうか。
茶葉屋の店主は火加減について話してくれたが、水の話は一切していなかった。何か矛盾を感じ、信は思わず身構える。

「別にそこまで急ぐことじゃ…」

「この屋敷の近くに水売りの家があるんだ。そこなら軟水も売ってくれてるはずだ。ほら、行くぞ」

手首を掴まれて、信は狼狽えた。

裏庭には小さな門があって、そこから屋敷の外へ出入りすることが可能だった。裏門へ連れて行こうとする庖宰の強引な手つきに、何か嫌な予感を覚える。

「また屋敷を出るなら、昌平君に言わねえと…」

反射的に主の名前を出すと、庖宰の男の目つきが変わった。目つきだけでなく、人格まで変わったように凄まれる。

「な、なんだよっ」

機嫌を損ねるような言動をした覚えはなかったので、さすがに信もおかしいと強い違和感を覚える。

「とっとと来いッ!」

「おい、放せッ」

なんとかその手を振り解こうとするが、子どもの力では全然振り解くことが出来ない。

それでも両足に力を入れて、なんとかその場から連れていかれまいと踏ん張っていると、庖宰の男が乱暴に舌打った。

木簡を手放し、空いた手が信の腹部を殴りつける。

「うぐッ」

くぐもった声を上げ、信の意識はずるずると闇の中へと引きずり落されてしまうのだった。

 

豹司牙と共に茶葉を買いに行ったはずの信が戻って来ないことに気づいたのは、夕食の報せを受けた時だった。

馬を走らせればそこまで時間はかからないはずだし、あの豹司牙が寄り道をするはずがない。信が茶葉以外の買い物をしたいと駄々を捏ねたとしても、彼が許すとは思えなかった。

何かあったのだろうかと昌平君が席を立って部屋を出ると、ちょうど豹司牙が廊下の向こうから足早にこちらへ向かっているのが見えた。傍に信の姿はなかった。

「信はどうした」

問いかけるものの、また何か面倒事を起こしたに違いないと昌平君は考えていた。反省させるために物置にでも閉じ込められられたのだろうか。

昌平君の前で拱手した豹司牙が、怪訝そうな顔で昌平君の背後を見た。

「…お会いになっていないと?」

豹司牙からの問いと、彼の鎧に小さな返り血が付着しているのを見つけ、昌平君は思わず眉根を寄せる。

「何があった」

さっと辺りを見渡し、誰もいないことを確認してから豹司牙が答える。

「屋敷に密偵が潜んでいるようです。連絡を取っていた外部の者はすでに捕縛しております」

豹司牙の言葉に、昌平君は鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

「…信の正体が気づかれたか」

恐らくは、と豹司牙が低い声で返す。

「外部の者が密偵へ渡す予定だった書簡を確認しました。字の読めぬ信にその書簡の運搬を委ねたようで…まだその書簡をご覧になっていないということは、すでに信は密偵の手の内に落ちたかと」

豹司牙が簡潔に要点だけを伝えていく。

茶葉屋の店主が、茶葉の煎り方を記した書簡を信に渡したこと、字の読めぬ信に、それを庖宰ほうさい ※料理人に見せて読んでもらうよう指示を出したこと。その書簡に、暗号が記されていたこと。

暗号を解読すると、この屋敷に李一族の生き残りがいる・・・・・・・・・・・旨が記されており、恐らく信がその生き残りだという推測が記されていたのである。

「………」

昌平君は目を伏せて、思考を巡らせていた。嫌な汗が背中に滲む。

重臣である豹司牙が情報漏洩をするはずはない。もしも彼が情報漏洩をするような口の軽い男だったのなら、すでに信の命はなかったはずだ。

どこで情報漏洩があったのだろうか。屋敷内でも厳重に情報管理を行っていたし、信の本当の素性・・・・・は昌平君と豹司牙しか知らぬ事実だ。

そして、その事実は信自身も知らない・・・・・・・・し、証明することは出来ない。

「茶葉屋の店主を捕らえるために、一度街へ戻ったのですが、信には必ず書簡を届けるよう。単独行動を委ねました。…この責は信の救出後、どうか俺の首で」

すぐさまその場に跪き、豹司牙が頭を下げる。昌平君は首を横に振った。

「良い。お前の判断に不足はなかった。私に会う前に、先に密偵が信と接触して書簡を読んだのだろう。…密偵の詳細は?」

豹司牙の鎧についている返り血から、恐らくは茶葉屋の店主を拷問にかけて、情報を吐かせたのだろうとすぐに察した。

返り血の量がそう多くないことから、茶葉屋の店主はすぐに情報を吐いたに違いない。だとすれば密偵としての経験はそう長くないか、報酬を目当てに雇われたとも考えられる。

「半年前に屋敷で雇われた庖宰の男一名のみ。書簡を渡す先を指名していたことから間違いないでしょう。これまでも何度か書簡に暗号を記して報告をし合っていたそうです」

「…至急、黒騎兵を徴収させて信の救助を。人目を避けるために、まだそう遠くへは行っていないはずだ。屋敷の周辺をくまなく探せ。密偵は殺さずに捕らえよ」

「はっ」

二人はすぐに行動を開始した。

 

危機

「うう…」

腹部の鈍痛によって、意識に小石が投げつけられた。

ゆっくりと瞼を持ち上げると、草と夜露の匂いが鼻をつく。じっとりと湿り気のある嫌な空気が漂っていた。

藁の上に寝かせられていたのだが、その藁も湿気を吸っており、寝心地がかなり悪い。藁の上で眠るだなんて随分と久しぶりのことだった。

ここはどこだろうと考える前に、信は記憶を失う前のことを思い出した。

「う…ッ…?」

何かで口を塞がれていることに気づき、それを外そうと腕を動かそうとしてそれが叶わないことを知る。体の前で両手は縄で一括りに拘束されており、信は狼狽える。

(な、なんなんだよ…!?)

状況が分からず、混乱しながら信は辺りを見渡した。

あばら屋の中にいるようで、縄枢じょうすう  ※扉代わりに下げている縄が目につく。

甕製のゆう  ※丸い窓から見える空はもう真っ暗だった。月も覆われてしまっているほど雲が濃い。

どうしてこんなところにいるのだろうかと信が記憶を失う前のことを思い出していると、砥石で刃物を研ぐ嫌な音に気が付いた。
反射的に振り返ると、簡素な台で庖宰ほうさい ※料理人 の男が静かに庖丁※包丁を研いでいる姿がそこにあった。

月明りもなく、簡素な竈の火だけが室内を照らしている。竈から上がる煙と湿気がじっとりと肌を包み、汗を滲ませる。

鋭く研がれた刃に男の顔がぎらりと映ったのを見て、信は背筋を凍らせた。

(まさか…こいつ、俺を殺す気か?)

床に転がったまま、信は男が庖丁を研ぐのを見つめることしか出来ない。
体を拘束してあるのはきっと逃げられないようにしているためで、口を塞いでいるのは助けを呼べないようにしているからだろう。

もしも信の予見通りならば、体の下に敷かれている藁は布団代わりなどではなく、血を吸う役割を担うことになる。もちろん殺した後の処理がしやすいための配慮だ。
竈に火をつけているのは、殺した証拠を燃やすためなのだろうか。

「っ…」

そこまで考えて、心臓を鷲掴みにされるような恐怖が信を襲い、思わず体が震え上がった。
庖宰の男がどうして自分の命を奪おうとするのか、何も理由が思いつかない。

息子と同い年である自分を何かと気にかけてくれていて、いつも昌平君や家臣たちに叱られている自分を慰めてくれたのも彼だった。食べ盛りの年齢である自分に、余った材料で夜食を作ってくれたことだってよく覚えている。

自分に父親がいたら、きっとこんな風に優しく接してくれるだろうと何度も思った。そんな彼が一体どうしてこんなことを。

「―――」

目が合うと、庖宰の男の手が止まる。

心臓が早鐘を打つものの、拘束されている信には逃げ出す術を持っておらず、硬直することしか出来ない。

もしも口が塞がれていなかったのなら、どうしてこんなことをするのかとすぐに問い詰めていただろう。

 

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「まさかお前が、あの李一族の生き残りだったとはなあ」

(…は?)

聞き慣れない言葉に、信は眉根を寄せる。

何の話だと瞬きを繰り返していると、庖宰の男は庖丁を研ぐのを手を止めて、刃をじっと見つめていた。竈の火に照らされたその刃に信の恐怖している顔が映る。

研ぎ終えた庖丁を握り締め、庖宰の男がゆっくりと信の方に歩み寄って来る。

「っ、…っ…!」

来るなと叫びたくても、口は塞がれており、恐怖で喉が塞がってしまう。身を捩って何とか逃げようとしても、あっという間に距離を詰められてしまった。

すぐ目の前までやって来た庖宰の男は、まるで信の反応を楽しむように、庖丁の切っ先を顔の前でゆらゆらと動かした。

「あの男はやけに下僕のガキを優遇していると思ったが、李一族の生き残りだってんならそれも納得出来る」

独り言ちる男に、信が思わず怪訝な表情を浮かべる。李一族とは何なのだろうか。

信の表情を見て、庖宰の男は不思議そうに首を傾げた。
庖丁の切っ先を向けられたまま、口に噛ませていた布を外されて信は息を整える。

「な、なんだよ…!李一族って、何の話だよ…!」

緊張と不安で声が震えてしまう。
信が嘘を吐けない性格なのは屋敷の家臣たちもよく知っている事実だったので、庖宰の男は信の言葉を聞いて、僅かに顔をしかめた。

「…お前、引き取られる前は辺鄙な集落にいたって言ってたよな?その前はどこにいた?」

「どこって言われても…そんな昔のこと覚えてねえよ。親の顔だって覚えてねえし…」

「だが、お前はの字を読めた。それはなぜだ?」

茶葉屋の店主から渡された書簡に記されていた内容を見て、信は李の字だけはなぜか読めた。果物を意味する字でもあるのだが、字の読み書きが一切出来ない彼がなぜその字だけを知っていたのか、庖宰の男は疑問を抱いているらしい。

しかし、信にもそれはわからない。
誰かに教わったのかと問われても記憶はない。機密事項の取り扱いのことがあるので、昌平君には一切字の読み書きは習っていないし、他の下僕仲間たちから習った覚えもない。

では、どうして自分は李の字を読めたのだろうか。

信もその答えが分からずにいると、庖宰の男が庖丁を下げて、静かに話し始めた。

「…李一族が滅んだのは、今から何年も前の話だ。女も子供も一人残らず根絶やしにされたが、将軍の息子だけは未だ遺体が見つかっていない」

「………」

なんの話をしているのだと庖宰の男を見据える。

男の機嫌を損ねれば簡単に首を掻き切られてしまうのだと察して、口を挟むことはしなかった。

将軍という言葉が出て来たことから、恐らくは力のある一族だったのだろう。この国に仕えていたのだろうか。

「もしもお前が、あの時に逃げ延びた李一族の嫡男だったなら、この国を大いに揺るがすことになる。…だから、分かってくれよ」

縋るような眼差しで、自分の命を奪うことに許しを請う言葉を掛けられて、信は固唾を飲んだ。

「…ったく、あの野郎、いつになったら来るんだよ。まあいい。先にやっちまうか」

庖宰の男が独り言ちて再び庖丁を構えたので、信は恐ろしさのあまり、動けなくなってしまう。拘束されていなかったとしても、きっと逃げられなかっただろう。

「ち、ちが、う…李一族なんて、俺は、知らない」

強張った喉を震わせながら、何とか必死に言葉を紡ぐ。
信の命を奪おうとしているはずの庖宰の男の瞳に悲しみが浮かぶものの、庖丁を下げる様子はない。

涙を浮かべながら必死に首を横に振る。極限まで追い詰められた信には、もうそれくらいしか意志表示の手段が残されていなかった。

庖宰の男が庖丁を振り上げたのを見て、信は死に直結する激痛と恐怖を見越して、強く目を瞑った。

 

捜索

裏門の近くに落ちていた木簡は、豹司牙が話していた暗号が記された書簡だった。

普通に読めば、茶葉の煎り方を記した内容である。しかし、書き出しの文字だけを読み込むと、確かに豹司牙が話していたように、李一族の生き残りが信である可能性が高いという内容が記されていた。

庖宰の男がこの屋敷に潜んでいた密偵であり、茶葉屋の店主が情報の受け渡し役として仲介し、そこからさらに繋がっていた第三者がいることも明らかになった。恐らくはその人物が黒幕だろう。

茶葉屋の男が報酬目当てに動いていたことは豹司牙の拷問で明らかになったし、黒幕からしてみれば使い捨ての駒だったに違いない。

昌平君が定期的に茶葉を購入する常客であったことから、屋敷との繋がりを見つけ、店主は目をつけられたのだろう。
店主が庖宰の男と協力をしていたのは先月頃からで、豪雨被害による茶葉不作の経営難があり、報酬に目が眩んだのだそうだ。

ただし、黒幕が何者であるのかは茶葉屋の店主も分からないのだという。
現れる時は必ず黒衣で顔を隠し、名前も名乗らなかったようで、男であるということしか分からなかったそうだ。

その行動から、誰にも正体を知られないよう、足がつかないよう、細心の注意を払っていることが分かる。

庖宰の単独行動だったならまだしも、二人を動かしていた黒幕がいることに、昌平君は溜息を隠せなかった。

その正体を推察するのは簡単で、李一族を根絶やしにしようと企んでいる者が未だ存在しているということだからだ。

「………」

昌平君は胸に湧き上がる不安に、思わず眉根を寄せた。

黒幕の目的を考えれば、信の命を奪うことは確実だ。わざわざ生き長らえさせておく必要はないし、もしかしたら信の首と引き換えで密偵に報酬を用意しているのかもしれない。

先に信と接触した密偵が彼の命を奪おうとするのなら、きっと屋敷以外での殺害を試みるに違いない。
誰かに信の殺害を目撃されれば、昌平君に報告がいき、すぐに自分の首が飛ぶことになると分かっている証拠だともいえる。

信も無抵抗のまま殺されることはないはずだし、そうなれば確実に周囲に助けを求めることが出来ない場所で殺害を実行すると読めた。問題はその場所である。

「………」

執務室で昌平君は屋敷周辺の地図を睨むように見つめていた。
豹司牙率いる黒騎兵たちには周囲を探らせているが、万が一間に合わなかったらと思うと、それだけで心臓の芯まで凍り付きそうになる。

(…茶葉屋の店主は、信を殺すのも協力するつもりだったのか?)

大の大人が子ども一人を殺すのはそう難しいことではない。しかし、信に限ってはそうではない。

彼は昌平君が傍に置いている下僕であり、今朝の騒動のように、姿が見えなくなれば配下たちに捜索をさせることも想像出来たはずだ。

だとすれば、信の殺害を気づかせぬように、見張り役を立てていた可能性が考えられる。
書簡のやり取りと豹司牙からの証言を考えると、密偵と茶葉屋の店主が二人で実行に移そうと企んだに違いない。そうなれば、落ち合う場所が必要だ。

密偵は茶葉屋の店主が捕縛されたことには恐らく気づいていないし、合流を待ってから信の殺害を実行する予定なら、僅かながらではあるが、まだ猶予は残されている。

(どこで落ち合うつもりだった?)

この木簡は裏庭に落ちていたのだが、密偵がわざわざ証拠を残すような失態をするとは思えなかった。

信が抵抗したにせよ、あえて証拠を残したまま、その場を去った密偵の行動には、何か意味があるような気がしてならない。

証拠となる木簡を残していった行動に、密通者同士にしか解けぬ暗号・・・・・・・・・・・・・が記されていることを示唆しているのではないかと考えた。

何か見落としがないか、昌平君は再び木簡に目を通す。
第三者が読んでも解読出来ない暗号が潜んでいるのならば、たとえ証拠を残しておいても何ら問題はないということだ。

「…?」

信の素性を示す暗号が記されていた木簡には、暗号を隠すために茶葉の煎り方が事細かく記されていたが、読んでいて一つ違和感を覚えた。

茶葉の煎り方について特記しているはずなのに、軟水を汲むよう指示が書かれているのだ。

(この周辺で取れるのは硬水だ。なぜ軟水を汲む・・・・・と書いてある?)

軟水は水売りから購入しないと手に入らない。だというのに、その木簡には井戸で軟水を汲むよう指示していた。茶葉を煎る過程で使用するのかと思いきや、汲んだ軟水の使い道に関しては一切記されていない。

弾かれたように昌平君は屋敷周辺の地図に視線を向けた。

裏門から出て真っ直ぐ進んだ先に、今は使われていない小屋がある。もともとそこは水売りが住んでいた家だった。

現在は使われていないことを記すために、墨で斜線が引かれている。しかし、小屋の隣には確かに井戸の記述があった。

その井戸からはこの周辺で唯一軟水が取れたことが記されている。珍しいことであったので、昌平君も水源を調査させたことを記憶していた。

この周辺では滅多に取れない軟水をその井戸から汲み、水売りの男はそれで生計を立てていた。

ところが先月の豪雨被害により、井戸の水は泥交じりのものになってしまったのである。
そのため、水売りの男はその井戸水を使えなくなってしまい、別の地方へ旅立って行ったという記録が残っていた。

(…小屋で殺害を行い、使われていない井戸ならば、亡骸を隠す・・・・・には都合が良い)

茶葉屋の店主が密偵と協力して信の殺害と、証拠隠滅を図ろうとしているのなら、その小屋と井戸を候補に挙げた可能性が高い。

昌平君はすぐに馬の手配をさせ、裏門から真っ直ぐ進んだところにある小屋を目指した。

 

開花の兆し

殺気を剥き出しに、そのままの勢いで庖宰ほうさい ※料理人が庖丁が振り下ろした瞬間、全ての時間が止まってしまったかのような錯覚に襲われた。

その瞬間、恐怖でいっぱいだったはずの信の胸が急に軽くなる。

「なあ、こんな簡単に殺しちまって良いのか?」

庖丁の切っ先が首元に触れる寸前で止まった。

それまで死の恐怖で怯え切っていた子どもが、まるで人が変わったかのように冷静な言葉を掛けたものだから、庖宰の男もあからさまに戸惑っている。

首筋に鋭い切っ先が宛がわれているというのに、信は前に身を乗り出すようにして、庖宰の男を真っ直ぐに見据えた。刃物の切っ先が僅かに皮膚を傷つけたものの、怯む様子はない。

「お前が言うように、もしも俺が李一族とかいう生き残りだったんなら、使い道は山ほどあるだろ。ここでただ殺すだけなんて、本当に良いのか?」

意外にもそれは、命乞いでもなければ、恨み言でもなかった。

しかし、れっきとした意志を持って、信が庖宰の男の目を見つめながら語り掛ける。
瞬き一つしないでいる信の瞳に、恐怖の色は微塵も浮かんでいなかった。

つい先ほどまで怯え切っていた子どもがまるで別人のように変化したことに、庖宰の男はためらい、庖丁を持つ手を震わせる。

「おい、決めるなら急いだほうが良いぞ?」

命を奪われそうになっているというのに、信は挑発するように笑った。

「俺をここに連れて来てすぐに殺せば良かったのに、お前がもたもたしてっから、豹司牙と昌平君はもう黒騎団を動かしてるはずだ。今頃ここに向かってるさ」

「な…」

男が愕然としたのを見て、信がにやりと笑う。

「昌平君を甘く見るなよ。あいつはいつだって俺の首輪の引き紐を握ってんだ。飼い犬の居場所を探るくらい訳ないさ」

その言葉には確かに信憑性があった。

今朝の騒動の時も、信の捜索を命じたのは主である昌平君自身で、たかが下僕一人のために家臣たち全員を動かしたのである。信の不在を不審に思い、黒騎団を動かしたとしても何らおかしなことではない。

「お前、茶葉屋の店主とここで落ち合うつもりだったな?」

確信を得たような信の言葉に、庖宰の男は思わず息を詰まらせる。

まさか文字の読み書きが出来ないはずの信が、あの書簡の暗号を解いたというのか。
いや、それはあり得ない。恐らくは木簡を書いたのがあの茶葉屋の店主ということで、自分たちに繋がりがあると気づいただけだろう。

「なあ、なんであいつはここに来ないと思う?」

瞬き一つせずに、庖宰の男を真っ直ぐに見据える信の瞳は、闇一色の虚ろだった。

その虚ろな瞳に映る自分の怯え切った顔を見て、庖宰の男はすっかり動揺してしまい、無意識のうちに体が後退してしまう。

「な、なんなんだお前は…!あいつが、あの暗号を解いたとでも言うのか?」

たかが子ども一人に怯える彼に、信はますます口角を吊り上げた。

「軍の総司令と右丞相はただの肩書きだと思ってんのか?」

先ほどまで恐怖で歪んでいたはずの信の顔は、今では余裕の色しか浮かんでいなかった。しかし、その瞳は今でも闇一色の虚ろであるという違和感に、庖宰の男は鳥肌を立てる。

追跡を免れるために、書簡に暗号を紛れさせたのだ。そう簡単に解読されるはずはないと庖宰の男は自分に言い聞かせたものの、昌平君を甘く見るなという信の言葉に動揺が止まない。

きっと救援が来るまで、信は言葉巧みに時間を稼ごうとしているに違いない。
騙されないぞと言い返そうとして、それよりも早く信が口を開いた。

「…ああ、もうそこまで来てるぞ?ほら」

背後にある、縄枢じょうすう  ※扉代わりに下げている縄を顎で示すと、弾かれたように庖宰の男が振り返った。

まさかもう昌平君たちがここまでやって来たのかと焦燥の表情を浮かべるものの、そこにいは誰もおらず、小屋の外に誰かがいる気配すらない。

庖宰の男が縄枢を振り返った瞬間に信は立ち上がっていた。そして間髪入れずに、大きく体を捻らせ、強力な回し蹴りを隙だらけの背中にぶち込んだのだった。

「ぐわあッ!」

両手は拘束されたままだというのに、子どもの威力とは思えない蹴りによって、庖宰の男が小屋の壁に叩き付けられる。その隙を逃さず、信は縄枢から勢いよく小屋の外に飛び出した。

弓矢のように一直線に駆け出していると、

(…あれ…俺、今まで何してた…?)

全速力で駆け出していることに気づいた信は、今の今まで何をしていたのかよく思い出せなかった。

「待ちやがれッ!」

「!?」

後ろから怒鳴り声が響き、庖宰の男に命を狙われていることを思い出す。

(早く逃げねえと)

もうとっくに日は沈んでおり、月にも雲が掛かっている。どこに連れて来られたのかは分からないが、近くに民居はなく、見渡す限り好き放題に伸び切っている草木ばかりだった。

遠くにぼんやりと明かりが見える。あの建物まで逃げ切れば助かるかもしれない。

夜の闇の中で信はひたすら走り、庖宰の男から逃げ続けた。

 

後編はこちら

The post 絶対的主従契約(昌平君×信)中編② first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.

絶対的主従契約(昌平君×信)中編①

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

勝負前夜~昌平君~

茶器を片しに部屋を出て行った信を見送った後、昌平君は再び寝室へと向かった。

執務を終えた後に一度寝室に戻るフリをしたものの、ふと思い立って引き返してみれば、信はやはり悪さをしていた。本人は気づいていないようだが、奴隷解放証の存在を知ってからの行動は目に余る。

主が傍にいなくなると、こそこそと奴隷解放証を探しているのだ。あからさまに媚びを売ってくるのではなく、何としても自分の力で見つけ出そうとしているところが彼らしい。

以前からずっと信が下僕の身分を脱したいことは知っていたが、だからと言って奴隷解放証は簡単に渡せるもの代物ではない。

あれは正式な機関に提出する書簡で、偽造や不正取引で入手したことを知られれば、当然厳しい処罰が与えられる。

膨大な機密情報や、書簡やり取りを日常的に取り扱っているのを傍で見ていることから、恐らくは信も理解しているだろう。だからこそ彼は本物の奴隷解放証を見つけ出そうとしているのだ。

昌平君が記した奴隷解放証に印章さえ押してしまえば、偽造も入手経緯も疑われることはないと考えているようだが、詰めが甘かった。

そう簡単に渡せないものだからこそ、彼の手の届く場所には置いていない。執務室を探すだけ無駄という訳だ。

どうにか手を打って、早急に諦めさせなくてはと昌平君は溜息を吐いた。

彼に勝負を持ち掛けたのも早急に奴隷解放証を諦めさせる手段の一つにしか過ぎない。屋敷に来てから剣を握ったことさえない彼が、自分に指一本触れられるとは思えなかったし、勝敗はすでに目に見えていた。

信の方はなぜか勝利を確信していたが、昌平君も手を抜くつもりはなかったし、なにより奴隷解放証を諦めさせるきっかけをずっと探していたのである。

 

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「…豹司牙か」

廊下を歩いていると背後に誰かが立ったのを感じ、昌平君は振り返るよりも先に、信頼のおける配下の名前を口に出した。

ゆっくりと振り返ると、近衛兵団の団長である豹司牙が片膝をついて供手礼をしていた。
目が合うと、豹司牙は何度か瞬きを繰り返した。

頼んでいた件の報告だろうと考えていたのに、報告を始めないどころか、不思議そうに主の顔を見つめる豹司牙に昌平君は疑問を抱く。

主と同じで無駄な時間を好まない豹司牙がそのように時間を費やすのは珍しいことだった。

「…私の顔に何かついているか?」

「いえ。…先に何か、良い報告でもございましたか」

その問いに思い当たることはなく、昌平君は首を横に振った。

指摘されたということは、どうやら顔が緩んでいたらしい。長年傍で仕えている豹司牙だからこそ、主の些細な変化に気づいたのだろう。

昌平君の脳裏に信の姿が浮かび上がった。

「餌を目当てに寄って来た野良猫がようやく懐いて来たところだ」

「懐いて…?」

野良猫が信のことを比喩していることは彼も分かっている。
しかし、納得出来なかったのか、豹司牙が僅かに顔を強張らせる。あれで懐いていると言えるのだろうかと疑問を抱いている顔だ。

「報告を聞こう」

昌平君が声をかけると、豹司牙がすぐに報告を始めた。

 

勝負前夜~信~

茶器を片づけた後、信は下僕たちが寝室として利用している広間へ向かった。

その広間では全員が布団を敷いて川の字になって寝るため、かなり窮屈である。まだ下僕の中では子どもに分類される信は、隅の方で休んでいるのだが、手足を伸ばして眠った記憶は一度もなかった。

屋根があって夜露が凌げて、布団まで与えられているのだから、それ以上の贅沢は望めないと分かっているが、いつかゆっくりと手足を伸ばして眠ってみたいと思う。

同じ下僕でも、男女で部屋は分けられている。
雑魚寝をする男部屋と違って、女性の下僕部屋には寝台があるのだから、羨ましいとも思う。

しかし、人数の少ない女性の部屋でも窮屈なのは変わらないと、仲の良い下僕仲間の女性から教えられたことがあった。

寝台があっても、全員で並んで窮屈に眠るのは男部屋と同じだし、朝の支度には化粧道具や着物を広げるので、男の部屋と窮屈さはそう変わらないのだという。

もしも自分が昌平君との勝負に勝つことが出来たのなら、奴隷解放証をもらうついでに、下僕たちの寝室を一つずつ増やしてもらうことを交渉しようと信は考えた。

自分がこの屋敷を出ていけば一人分は広くなるが、すぐに新しい下僕が雇われて、窮屈になるのは目に見えている。

そっと広間を覗くと、すでに下僕仲間たちは眠っていた。大きないびきをかいて眠っている彼らの見慣れた顔をざっと眺め、もう会えなくなるのだと思うと、胸がきゅっと締め付けられるように痛む。

昌平君の屋敷に連れて来られてから、仕事を教えてくれたり、色々と面倒を見てくれたのだ。そう長い付き合いではないとはいえ、家族同然とも言える。

女性の下僕仲間たちも、弟や息子のように接してくれたし、寂しい気持ちが湧き上がるのは当然だった。

 

 

「ふわあ…」

大きな欠伸が零れる。早く休んで明日の勝負に備えなくてはと、眠っている下僕仲間たちを起こさぬよう、足音を忍ばせながら自分の寝床へと向かった。

「………」

先に眠っている仲間の誰かが自分の分の布団を敷いていてくれたことに気づき、信は思わず唇を噛み締める。

(…どうせ、明日からはもう屋敷にいないんだ。俺も自由にさせてもらうから、今夜から少しでも広く使ってくれよ)

大勢が眠っている窮屈な寝室で、少しでも広く使えるよう、信は敷かれていた布団を両手に抱きかかえる。

またもや足音を忍ばせながら、信はさらに寝室の奥へと向かう。そこにはただ布団を収納するためだけに作られた小間があった。

ここなら大人でも手足を伸ばして広々と眠ることが出来るのだが、もちろん良い寝床となれば奪い合いになる。

奴隷たちの朝は早いし、そんな口論で貴重な睡眠時間を削る訳にはいかず、不公平にならないように誰も使わないという、奴隷たちの中の暗黙の規則があった。

しかし、明朝から昌平君との勝負に備えなくてはならない信は、この屋敷に来て初めてその規則を破ったのである。

明日は奴隷たちの誰よりも先に起きて寝室を出るつもりだったし、昌平君との勝負にはもちろん勝つと信じて止まなかったので、この寝室で眠るのも今夜限りの付き合いだと考えていた。

(ああ、手足を伸ばして眠れるって良いな…)

布団を被ると、上下左右の誰にもぶつかることを気にせず手を伸ばせ、それだけで気分が良い。

もしも奴隷解放証を手に入れて、下僕の身分を脱したのなら何をして生きていこうかと心が沸き起こる。

仲間たちとの別れに惜しんで寝付けないのではないかと思っていたのだが、疲労している体は無情にも睡眠を優先した。

すぐに瞼が重くなっていき、信はすぐに眠りへ落ちたのだった。

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明朝

日が昇り始めた頃、窓から差し込む薄白い光が瞼にさしかかり、昌平君はゆっくりと目を開けた。

再び瞼を下すことはせず、寝台から起き上がると身支度を始める。

他の高官たちは侍女を呼び寄せて着物を着たり、髪を結わせ、身支度一つにも従者に依存している者もいるのだが昌平君はそうではない。

右丞相と軍の総司令官としての執務は膨大な量であり、たかが身支度一つに時間をかける訳にはいかないのだ。

着物の袖にはもちろん自分で腕を通すし、帯も自分で締める。僅かに寝ぐせの残る髪を櫛で乱雑に梳き、邪魔にならないように簪で留める。

日が昇る前から侍女が用意しておいてくれた桶の水で顔を洗ってから、今日の執務の予定を確かめるために、寝室を出る。朝食を摂るのは執務室に寄った後だ。

執務室に向かいながら、信と奴隷解放証をかけた勝負があることをすぐに思い出した。

明朝というだけで他のことは決めていなかったが、いつものように執務室にいるだろう。

廊下を歩いていると、執務室の前に黒衣に身を包んだ従者が立っていることに気が付いた。昌平君に気づいた従者は、すぐに供手礼を行う。

「報告を聞こう」

毎日のように届けられるのは、他国に潜入している密偵の報告だ。

少しでも戦の気配を感じたのならば、領土を奪われぬようにすぐに対策を打つ必要がある。軍の総司令官を担っている昌平君は、日々届く膨大な情報量から、軍政を操作しなくてはならなかった。

今日の報告では特に動きはなさそうだったが、水面下で侵攻を企てている可能性も考えられるため、決して油断は出来ない。

軍政を担うということは、民や兵たちの命だけではなく、国そのものの命運を司る重責がある。

過去に信から、仏頂面で何を考えているのか分からなくて怖いと指摘されたことがあったが(偶然その場にいた豹司牙にぶたれていた)、気が休まる暇がないのだから仕方がない。

「…?」

執務室に入るものの、まだ信の姿はなかった。

下僕としての生活が長いせいか、あれだけ憎まれ口を叩く小生意気な性格をしているものの、実は信が過去に遅刻をしたことは一度もないのだ。

奴隷解放証を喉から手が出るほど欲しがっていたし、信の性格を考えると自ら勝負事から手を引くとは思えない。

これから来るだろうと思い、昌平君は先に今日の執務予定を確認することにした。

 

 

(……遅い)

予定を確認した後、今日の執務に必要になりそうな書簡に目を通していたのだが、いつまで経っても信が来る気配がなかった。

いつもならすでに来ている時刻のはずなのだが、一向に姿を現さない。それどころか、朝食の報せまで来てしまった。

過去に一度も遅刻をしなかった信が今日に限って来ないことに、昌平君は思わず表情を曇らせる。

(まさか)

昌平君はすぐに席を立つと、少し遅れてから朝食を摂ることを従者に告げて足早に寝室へと戻った。

印章を置いてあるのは執務室だが、奴隷解放証の原本を置いてあるのは寝室だ。信が悪さをするのを防ぐために、原本を盗まれぬよう、保管場所を移していたのである。

正式な機関に提出する書簡であるため、奴隷解放証には定型文がある。奴隷解放証を作成するには、その原本を書き写し、最後に印章を押すのが習わしであった。

寝室に入ると、侍女が寝床を整えており、部屋の清掃を始めているところだった。主の訪室に気づいた侍女がすぐに頭を下げる。

「この部屋に入る前に、先に誰か来ていたか?」

「いいえ、どなたも見かけておりません」

彼女が部屋の清掃を始める前に、何者かが寝室に来ていたか問うものの、寝室を訪れた者や主を尋ねにやって来た者はいなかったという。

頭が締め付けられるように痛み、昌平君は思わず額に手をやった。

(…だとすれば、私が部屋を出た直後か)

昌平君はこれが信の策であると考えていた。
昨夜だけじゃない。昨日まで、ずっと奴隷解放証を探して見つからずにいたのだから、執務室に置いていないことに信も気づいたのだろう。

だとすれば、次に信が目をつけるのは、この屋敷の中で昌平君が次に過ごす時間が長い寝室になる。しかし、夜間は見張りがついているので侵入することはまず不可能だ。

それに昌平君が物音と気配に敏感であることにも信は知っているだろうし、もしも侵入が叶ったとして、眠っている昌平君の傍を捜索して気づかれる危険性も分かっていただろう。

主だけではなく、見張りや侍女が確実にいない隙を狙うのなら、身支度を終えた昌平君が執務室に向かうあのわずかな時間だ。

寝室の清掃が始まるのは朝食を摂っている間で、それまでは誰も部屋に訪れない。下僕仲間たちからその情報を事前に得ていたとすれば不可能ではない。

確実に昌平君のいない隙を狙って、信はこの部屋で奴隷解放証を探したとみて間違いないだろう。

すでに原本を持ち去ったとしたら、あとは印章を押す機会を狙っているはず。

先ほど執務室に寄ったときには印章はまだあったので、盗んだとは考えににくい。この屋敷の敷地内のどこかで、今度は執務室に誰もいなくなるのを待っているのかもしれない。

そこまで考えて、昌平君は軽率に寝室へ戻って来たことを後悔した。

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脱走?

(やられたな)

無意識のうちに重い溜息を吐いてしまった。

もしも予想通りならば、明朝に昌平君が身支度を終えて寝室を出た直後、入れ違いで信が寝室に潜入し、奴隷解放証を手に入れたことになる。

その後、昌平君がその事態に気づいて、奴隷解放証を確認するために執務室を出て寝室へと戻った。

対して信は、またもや昌平君と入れ違う形で執務室に潜入する。誰もいない執務室で印章を押せば、奴隷解放証が完成するという訳だ。

今頃は、主からお使いを頼まれたとでも言って、怪しまれることなく屋敷を抜け出していったかもしれない。

下僕たちには、以前から信に字の読み書きを教えたり、余計な知識を与えるなと口酸っぱく教育していたので、協力者はいないだろう。

それに奴隷解放証は一枚につき、一人しか使えない。
信一人を助けるために、処罰を覚悟で脱走計画を協力するような下僕がいるとは思えなかった。

不思議そうな顔をしている侍女に、部屋を出るように指示する。背後で扉が閉められてから、昌平君は隠していた奴隷解放証の原本を確認した。

奴隷解放証の原本は、容易に見つけられぬよう、机の裏に忍ばせていたのである。

身を低くして机の下に潜り込まなければ見当たらない仕掛けにしていたが、小柄な信ならば、簡単に見つけたのかもしれない。

「…?」

しかし、ここで予想外の出来事が起こった。
机の裏には以前より移しておいた奴隷解放証がそのまま残っていたのである。

手に取ってまじまじと確認するものの、本物の原本だ。差し替えられた様子はない。

時間稼ぎという目的があったとしても、字の読み書きが出来ぬ信が事前に偽物を用意しておくことは出来ないだろう。

では、なぜここに原本が残されているのか。

「………」

昌平君はそれまで考えていた仮説を一度すべて否定した。見方を考えなくては、いつまでも疑問に縛られてしまうからだ。

部屋を出るなり、昌平君は廊下で待機していた侍女に目を向けると、

「信はどこにいる?」

自分でも驚くような低い声で尋ねたので、侍女は青ざめ、信を探すために廊下を駆け出して行った。

 

 

早朝からの主命令のせいで、屋敷内は不穏な空気に包まれていた。

家臣も下僕も全員が一丸となり、敷地内で一人の下僕を探す光景はまさに異様だった。主命令ということもあって、全員が普段の業務を放ってまで信を捜索しているのだ。

たかが下僕一人にここまで労力をかけなくてもと家臣に文句を言われたが、気持ちは分からなくもない。下僕の脱走は珍しいことではないし、ここまで騒ぎにする必要は確かにないからだ。

ましてや、奴隷解放証の原本はそのままだったし、執務室にある書簡が盗まれた形跡もないのだから、機密事項の漏洩を心配する必要もない。

しかし、昌平君は家臣たちの言葉を一蹴して、信の捜索を続けるよう命じた。

まだ屋敷の敷地内にいるとすれば、これだけの騒ぎになっているというのに、出て来ないはずがない。もしくは処罰を恐れて隠れているのだろうか。

昌平君が想像している最悪の結果・・・・・でないことを祈りながら、彼自身も屋敷の部屋を一つずつ探していく。

男の下僕たちが寝床として使っている広間に入り、中を見渡した。

すでに布団は収納されているようで、見渡す限りは何もない。ここにはいないかと考えて部屋を出ようとした時だった。

「~~~!~~~…!」

奥の方からくぐもった声が聞こえて、ぴたりと足を止める。

その声に引っ張られるように、昌平君は広間の奥へと進んだ。
そこには布団を収納するためだけに作られた小間があり、今はぎっしりと下僕たちが使った布団が押し込められている。

くぐもった声がするのは、その隙間からだった。

「………」

布団が収納されている小間の前に片膝をついて、その声によく耳を澄ませる。

かなり下の方から聞こえて来て、よく観察すれば、積み重なった布団が僅かに動いているではないか。

まさかと思い、昌平君は声が聞こえるあたりの布団を両手で掴み上げた。

見覚えのある自分よりも小さな手が隙間から現れたので、昌平君は思わず目を見開く。
布団の隙間から覗くその小さな手が、縋るように昌平君の手を掴んで来る。

「だ、だずげ、で、くれぇ…」

布団を動かしたせいか、先ほどよりも声がはっきり聞こえた。

両手で布団を押しのけて、中を覗き込むと、そこには顔を真っ赤にして悶え苦しんでいる信の姿があった。

 

救出

本当に脱走してしまったのではないかという予想が外れた安心感と、呆れの感情が一気に襲い掛かって来た。

「…何をしている」

顔に動揺が出ないように取り繕うものの、昌平君の胸は早鐘を打っていた。

大量の布団に挟まれた信は、昌平君の姿を見つけると、今にも泣き出してしまいそうなほど顔を歪める。

「と、とりあえず、まずはここから出してくれ…動けねえ…」

布団に挟まれているせいで身動きが取れないのだという信に、それは見ればわかると昌平君は溜息を吐いた。

どうしてこうなってしまったのか状況を聞くには、まずは彼を布団の中から救出しなくてはならない。

「つかまっていろ」

昌平君は信の両手をしっかりと握り、力任せに彼の体を引っ張った。

「ぷはあッ」

まるで水から上がったかのように信が大口を開けて呼吸する。ずっと大量の布団に挟まれていたその体は汗だくだった。

力任せに引っ張り上げた勢いで、布団の隙間から飛び出した信の体が、昌平君の体の上に覆い被さってくる。

尻もちをついて、信の体をなんとか受け止めた昌平君であったが、不意に落ちて来た影に気づいて顔を上げる。

そして次の瞬間、昌平君はまたもや己の軽率な行動に後悔した。

信の体を挟んで安定を保っていたはずの大量の布団が、まるで雪崩のように覆い被さって来たのだ。

「~~~ッ!!」

「ぎゃーッ!またかよッ!!」

派手な音を立てて、布団に飲み込まれてしまう。たかが布団とはいえ、重なればかなりの重さだ。男の下僕たちの人数分あるのだから相当な量だろう。

さらには自分の胸の上にいる信の重みも合わさって、肺が押し潰されそうになる。

どうして自分までこんな目に遭うのかと、ひたすらに行き場のない怒りがこみ上げた。
冷静になって、布団を少しずつ退かしていくべきだったと後悔するものの、もう遅い。

物音を聞きつけた従者たちがすぐに救出に来るはずだと頭では理解しているものの、大量の布団の下で待機するのはこの上なく不快だった。布団の重さだけでなく、布団に染み込んでいる匂いも混ざり合って、それもまた不快である。

「おい!なにしてんだよッ、俺を助けに来たんじゃなかったのかよ!」

布団に覆われた暗闇の中、昌平君の胸の上で信が咎めるように声を荒げたので、昌平君も怒気を込めて反論した。

「お前が約束の明朝に現れていればこんなことにはならなかったッ」

約束の明朝という言葉に反応したのか、信が愕然とする。

「は!?まさかもう過ぎちまったのか!?」

「私の不戦勝だ。約束は守ってもらうぞ」

「仕切り直しだ!俺だってこんなことにならなきゃ間に合ってた!」

何重にも重なった布団の下で言い争う度に息が苦しくなる。

喋れば喋るほど苦しくなるだけだと察した二人は、従者たちに救出されるまで、お互いの吐息がかかる距離で睨み合いながら堅く口を閉ざしていた。

 

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…結局のところ、信の言い分を要約するとこうだ。

明朝の勝負に備えて、昨夜は誰も使用していない小間で就寝していた。頭まで布団を被って眠っていたこともあり、明朝に起きた下僕仲間は気づかずに、小間で眠る信の上に布団を重ねる。

窓から日の光が差し込んでいたとはいえ、奥の小間は薄暗いままで、信がそこに眠っていることに誰も気づかなかったのだ。

もちろんその時点で気づかれなかったせいで、他の下僕たちも気づかずに、次々と布団を積み重ねていき…。

重みと苦しみのあまり信が目を覚ました時には、すでに布団から抜け出せなくなっていて、明朝から仕事をこなす下僕たちは誰一人として気づくことなく寝室を出て行った。

明朝の勝負のためになんとしても布団から抜け出そうとした信だが、子ども一人の力であの大量の布団から抜け出せるはずがなかった。

大人である昌平君も、従者たちに救出されるまで身動きが取れなかったのだから、確かに納得は出来る。

しかし、そんな経緯があったにも関わらず、昌平君は無情にも、今回の勝負は信の遅刻により、自分の不戦勝であると告げたのだった。

もしかしたら圧死していたかもしれないのだから、今回の勝負は無効にして日を改めろと信は騒いでいたが、昌平君が不戦勝を撤回をすることはしなかった。

その後、昌平君は信の捜索のために、仕事を後回しにして協力してくれた従者たちへ感謝の言葉を贈った。

命令なのだから逆らえなかったとは誰も言わなかったが、昌平君の感謝の言葉を聞くと、従者たちも恐れ多いと頭を下げ始める。

最後まで信だけは納得がいかない顔を浮かべていたが、昌平君がゆっくりと拳を振り上げる仕草を見るや否や、すぐに頭を下げて迷惑をかけたことを全員に詫びたのだった。

 

不戦勝

予想外のこととはいえ、執務の遅れが生じたのは変わりない事実だ。

信は未だに不戦勝に納得出来ておらず、ずっと文句を言っているのだが、確かにあのまま昌平君が気づかなければ夜になってから遺体で発見されたに違いない。

だが、振り返ってみれば小間で眠っていた信の自業自得である。

救出してから楽に呼吸が出来るようになり、顔色の悪さは随分と改善していたものの、念のため侍医に診せた。

命に別状はないらしいが、かなりの汗をかいたことが原因で衰弱しているのは確かだ。汗で失った分を補うために、塩気のあるものと水を存分に摂るように勧められた。

下僕なのだから塩水を舐めさせておけばいいと家臣に言われたものの、昌平君はそれを許さず、食事の用意をするように命じる。

普段なら下僕の身分のことを言われると、相手が主であろうが誰であろうが関係なく反論する信だが、さすがに今は何も言い返す気力もないようで、ぐったりと座り込んでいた。

「信、来なさい」

低い声で命じると、抵抗する気力もない信は返事もせず、のろのろと立ち上がる。

今日の執務は休むように命じたものの、昌平君が普段通りに信を執務室に連れて来たのは、きちんと食事を摂らせるためであった。

 

 

「はあ…」

むくれ顔のまま、信は執務室の隅に座り込んで溜息を吐いている。
今、信の目の前には、下僕が普段口に出来ない食材がうんと使われた食事が並んでいたが、手を付ける気配がまるでない。

保存用に塩漬けにしていた豚肉を食事に用意させたものの、まるで興味がないようだった。ずっと布団に挟まれていた疲労のせいで、食欲がないのだという。

執務をこなしながら、昌平君は時々横目でその様子を観察していた。
食欲がないとはいえ、食べなくて良いとは命じない。その食事を完食するよう、事前に命じていたのである。

水は多く飲んだようだが、溜息を吐くばかりで、食事はまだ一口も進んでいない。

信の年頃ならば、食事に肉が出れば大いに喜ぶものだが、今はそうではないらしい。よほど疲れ切っているのだろう。しかし、それは昌平君とて同じだった。

かといって、昌平君は安易に執務を投げ出すことは出来ない。その重責ゆえ、代役がいないので一日でも執務を怠れば、翌日に負担がかかるのは自分自身なのである。

「…食べないのなら下げさせるぞ」

一向に食事に手をつけないことに見兼ねて声をかけると、普段は滅多にお目にかかれない馳走を取り上げられると分かり、信は慌てて箸を取った。

下僕の立場では、肉はただでさえ貴重な代物なのだ。それも贅沢に塩漬けにした豚肉だなど、次に食べられるのはいつになるかわからない。

「んっ…!」

塩漬けにされていた豚肉にかぶりついた途端、それまで虚ろだった信の瞳が輝き出す。
一口食べただけでも、あまりの美味さに活力が湧き上がったようだった。

塩気と旨味が染み込んだ豚肉の味が口内に強く残っているうちに粟飯を豪快に掻き込んで、再び豚肉に噛り付いている。

次に骨付きの鶏と薬味を長時間煮込み、味を整えた鶏湯ズイタンを啜った。
この周辺の水は硬水であり、重い口当たりや独特な苦みを消すために、わざと濃い味付けにされている。

昌平君はあまりその汁物を得意としなかったが、常日頃から汗水流して働く下僕たちには評判が良いらしい。信も美味そうに啜っていた。

それから、細切れにして煮びたしにした野菜を口に運ぶ。豚肉や鶏湯と違って、さっぱりとした味付けになっており、それがまた塩気の強い料理の旨味を強めるのである。

(食欲は戻ったようだな)

全身で「美味しい」を訴えている信のその食いっぷりを見ているだけでも腹が満たされてしまう。

そういえば、信が食事をしている姿を見たのは、随分と久しぶりであることを思い出した。

「………」

気づけば昌平君は筆を動かす手を止めたまま、信の前にある膳が全て空になるまでずっと見つめていたのである。

食事に夢中になっていたせいで、信は自分に向けられている主からの視線も、その瞳が今まで見たことがないほど穏やかな色を浮かべていたことに気づくことはなかった。

 

勝敗の約束

「あー、食った食った!」

あっという間に食事を平らげた信は、ようやく普段通りに大らかに笑った。塩気の強い食事を摂ったことで、すっかり元気を取り戻したらしい。

空になった膳を片づけようと立ち上がった彼に、昌平君が静かに筆を置く。

「美味い茶を淹れるのは明日で良い。今日はもう休め」

美味い茶という言葉に反応したのか、信がぎくりと動きを止めた。
言葉を選んでいるのか、何か言いたげに視線だけを向けて来たので、昌平君はわざとらしく小首を傾げる。

「お前が負ければ、毎日・・私の気に入る茶を淹れるという約束だった」

「いや、毎日とは言ってねえよッ!?」

すかさず反論されるものの、此度の不戦勝が撤回されることはない。

「文句言わねえでお前の気に入る茶を淹れてやるって言ったんだよ!」

記憶力に乏しいくせに、自分の発言はよく覚えているらしい。
昌平君が普段のように鋭い眼差しを向けると、信が頭を掻いた。

「ったく…なら、今から街に降りて良い茶葉を買って来てやるよ。…助けてくれた礼もあるしな」

問題は茶葉ではなく、普段の茶の淹れ方にあるのだが、昌平君は寸でのところで言葉を飲み込んだ。

こちらが命じていないというのに、信が自主的に茶を淹れてやると言ったのは初めてだった。信が勝負に負けた時の約束であるとはいえ、その気持ちはありがたく受け取ろうと考える。

「…街へ行くなら豹司牙と行け」

茶葉を買いに行くだけとはいえ、一人で行かせるわけにはいかず、昌平君は自分の近衛兵の名前を口に出した。

「ええっ、なんでだよ!逃げたりしねえよ

あからさまに信の表情が曇る。
普段、信が街へ行くときは昌平君の供であったり、他の従者たちと買い出しを目的に行くことがほとんどで、豹司牙と二人だけで行くことは滅多にない。

逃げ出さないように厳しい監視をつけられるとでも思っているのだろうか。そのように誤解しているのなら都合が良いと考えた。

「豹司牙がいると、なにか困ることでもあるのか」

豹司牙は有能な配下だ。無駄口を叩くことはないし、何より主の命令がなくとも、主の意志を読んで行動に移すことが出来る忠義に厚い男である。

「だって、あのオッサン、お前と一緒で仏頂面だし、何考えてるかわかんなくて怖えんだよ」

この場にいない豹司牙と目の前にいる主に向かって堂々と無礼なことを言う下僕は、恐らく信だけだろう。
他のところで雇われていたら、即座に笞刑ちけい ※笞で打たれることにされるか、斬られていたに違いない。

前の主のもとでも、よく無事に生き延びていたものだと昌平君は感心してしまった。
扉の向こうにある気配を感じ、昌平君はそちらへ向き直る。

「…だそうだ、豹司牙」

「へっ?」

この場にいないはずの人物の名前を口に出され、信の顔が凍り付く。

すぐさま扉が開けられると、豹司牙が立っていた。
信が話していた言葉通り、仏頂面で何を考えているのか分からない彼だが、今だけは誰が見ても怒っていることが分かった。

 

主の心遣い

げんこつを落とされて痛む頭頂部を擦りながら、信は半泣きのまま馬に揺られていた。

背後には、子どもで小柄な信を抱きかかえるように手綱を握り、馬を走らせている豹司牙の姿がある。

「まだ痛え…おい、オッサン!頭割れてたらどうするんだよっ!ちっとは加減しろよッ」

背後にいる豹司牙を睨みつけるものの、彼は前方を睨みつけるように馬を走らせているばかりで信と目を合わせようともしない。

主である昌平君からの命令で信の買い出しに付き合っているだけで、相変わらず必要最低限のことしか話さない寡黙な男だ。

(おお、怖え…)

こちらの言葉など一切耳に入っていないという態度に、信は縮こまる。

奴隷解放証を賭けた勝負の件や、布団の中に閉じ込められて屋敷で大騒動になっていたことも聞いたのか、普段よりも豹司牙の威圧感が倍増していた。

豹司牙は背丈も主と近いし、昌平君に似ている部分がいくつかあった。

全身から漂う威圧感も相当酷似しているが、あの鋭い目つきは特に昌平君と近いものを感じさせる。

近衛兵の団長を務めている彼は忠義に厚く、昌平君は深い信頼を寄せている。宮廷や屋敷でも二人でいる姿もよく見るが、少しも会話が盛り上がってるのを見たことがない。

必要最低限のことしか話さない、無駄話を一切好まない似た者同士であることから、それがお互いに落ち着くのかもしれないと信は勝手に推察していた。

「…お前は」

「えっ?」

いきなり声を掛けられたので、信は驚いて振り返った。
豹司牙の方から話しかけて来たのはこれが初めてだったかもしれない。

「自分の名を書けるようになったのか」

初めて話しかけられたかと思いきや、いきなりそんなことを問われたので、信は目を丸めていた。

「いや、書けねえよ?習ってねえもん」

下僕が字の読み書きを習得していないのは特段珍しいことではない。

それに、昌平君が自分を傍に置くのは、機密情報の漏洩や盗難を防止する目的として、字の読み書きが出来ないことを買われたからだ。

そんなことは豹司牙も分かっているだろうに、どうしてそのような質問をして来たのだろう。

自分の名を書くことが出来ないと答えた信に、豹司牙が向けて来たのは、バカにしてるような目つきではなく、呆れた顔だった。

昌平君と同じで仏頂面だと思っていたが、そんな人間らしい表情も出来ることに信は驚いた。

小さく溜息を吐いた豹司牙が手綱を引き、馬の足を止めた。

「な、なんだよ?」

「次は主の目を盗んで、奴隷解放証を盗む気か」

信はひくりと頬を引きつらせたものの、否定はしなかった。

それを勘付かれてしまったから此度の勝負(不戦勝で終わってしまったが)を持ち掛けられたのだ。しかし、奴隷解放証を手に入れることを諦めた訳ではない。

屋敷のどこかにある奴隷解放証に印章を押せば、確実に下僕の身分を脱することが出来る。信の中で、下僕の身分を脱する熱意はますます高まる一方だった。

「…あの御方がお前を嘲笑うために、奴隷解放証を隠していると思っているのか?」

なんだか棘を感じさせる言葉に、信が眉根を寄せる。

「そりゃあ価値のあるもんだから、簡単に盗まれちゃ困るんだろ」

昌平君から教わった通りの言葉を返すと、豹司牙は首を横に振った。

「お前が奴隷解放証を見つけ出したとしても、それは効力を持たない」

「昌平君が持ってる印章を押せばいいんだろ!それくらい知って…」

「そうではない」

今までずっと信じていた言葉をあっさりと否定され、信は言葉を失った。

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「もしもお前のやり方で関門を潜ろうとすれば、即座に首を刎ねられるぞ」

まるで氷のように冷え切った豹司牙の言葉に、信は思わず固唾を飲み込んだ。

「だ、だって…印章も押してんのに…」

確かに下僕の身分である自分が奴隷解放証を盗んで印章を押せば、盗みや偽装の罪に問われることは間違いない。しかしそれは、その場を目撃された場合だろう。

右丞相である昌平君の印章が押してあるのだから、正式な書簡として通るはずだと信は反論した。

「お前は何も分かっていない」

豹司牙にぎろりと睨まれて、信はその威圧感に言葉を発することが出来なくなってしまった。

「…奴隷解放証には、対象となる下僕の名を記さなくてはならない」

「え?」

豹司牙が淡々と説明を始めた。

奴隷解放証は定文で、対象となる奴隷の名前を記している。
もしも信が計画通りに奴隷解放証を盗み出し、昌平君の印章を押したところで、字の読み書きを習得出来ていない彼は自分の名前を記すことは出来ないし、そもそも、名前の記載が必要になることも知らなかった。

…よって、名前の記されていない奴隷解放証の効力は無効となる。

印章を押した奴隷解放証を入手して、昌平君のもとから逃げ出したとしても、効力の持たない奴隷解放証を見せれば、不正入手だと即座に取り押さえられてしまう。

だからこそ、昌平君は奴隷解放証を隠しているのだと教えられ、ずっと知らなかった真実に、信は開いた口が塞がらずにいた。

「…じゃ、じゃあ…俺が奴隷解放証を見つけて、印章を押したところで、名前が書いてないそれを届けたら、すぐに殺されるって、…昌平君は、それで隠してたのか…?」

「あの方の心遣いに感謝せよ」

豹司牙は頷くことも肯定もしなかったが、主のおかげで信が犬死をしなかった事実を伝えた。

手綱を握り直した豹司牙が馬の横腹を蹴りつける。

すぐに走り出した馬に揺られながら、信は口の中に苦いものが広がっていくのを、どこか他人事のように感じていた。

 

中編②はこちら

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絶対的主従契約(昌平君×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

主と下僕

この中華全土には、奴隷と呼ばれる下僕の者たちが一定数存在している。

戦で親を失った孤児、貧困を理由に実親に売られた子ども、罪を犯して身分を剥奪された者やその家族、戦争捕虜、奴隷間の子供。

どういった経緯で奴隷という身分に落とされるのかはそれぞれだが、奴隷は労力としての需要が高い存在だ。
安い給金で重労働を行わせることが出来るため、農業や荷役、戦での戦力としても活用される。

女の奴隷も、侍女として家事や雑用を行わせたり、妓楼や後宮に売られることもあり、使い道は数多だ。

信という名の戦争孤児も、奴隷という低い身分なのだが、彼は奴隷の中でも恵まれた環境下で飼われている下僕だった。

 

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主が茶を一口啜った直後、茶杯を置いた音を聞き取り、信は次に文句が来ることを予想していた。

「熱過ぎる」

やはり文句が来た。
一口啜った直後に茶杯を置くのは、主が気に食わなかった時の決まりごとだ。文句がない時はすぐに二口目を啜るのだが、今日の茶は気に食わなかったらしい。そしてこれは、本日二回目の淹れ直しだ。

「さっきはぬるいって言ってたくせに」

苛立たしい様子で信が大きな独り言を洩らすと、主である昌平君が鋭い眼差しを向けて来た。しかし、信は少しも目を合わせようとしない。

次にまた目を合わせれば、淹れ直せという命令が来ることが分かっていたからだ。
茶を淹れ直せと言われるのはそう珍しいことではない。普段は二、三回言われるのが当たり前だった。

過去の最高記録は六回だが、あの時はさすがの信も学習し、「そんなに美味い茶が飲みたいのならお前が見本を淹れてみせろ」と主の前に茶器と茶葉を並べた。

さすがに無視出来なかったのか、昌平君の家臣から、下僕にあるまじき無礼な態度だとむち
で打たれたことは今でも覚えている。あの時の痣は五日は消えなかった。

それでも苛立ちは消えず、信は翌日にその辺の草を茶葉代わりにしてやろう考えた。

しかし、不敵な笑みを浮かべて庭の草を摘んでいたところを運悪く昌平君に見つかってしまい、草むしりをしていたと咄嗟に吐いた嘘も「そんな仕事は命じていない」と一蹴されて、頭にげんこつを落とされてしまった。

…思えば、あの日からさらに茶の評価が厳しくなった気がする。

一切の手加減をされなかった拳に、信は激痛に悶えて涙を浮かべたことを覚えている。あの一撃は誇張なしに、笞で打たれる何倍も強烈だった。

普段から筆や木簡、それから頭くらいしか使っていないように見えるが、どこにそんな腕力を隠しているのだろうか。

いちいち文句を言って茶を淹れ直すよう指示されるたびに、信は苛立ちを隠せない。美味い茶が飲みたいのなら、茶を淹れるのが得意な者に任せればいいものを、なぜか昌平君はそうしなかった。

「熱いんなら冷ましてから飲めば良いだろ」

信は目を合わさずに素っ気なく返した。

「熱過ぎるせいで渋みが強い」

「茶には変わりねえだろうが」

もしもまた淹れ直せと言われても、もう湯を沸かすのも、茶葉を蒸らすのも面倒だった。

ぬるいと言われたから、熱い茶を淹れ直したというのに、今度は渋いと言われる始末。
文字の読み書きも満足に出来ない下僕が、茶の淹れ方など生涯習うことはないと言っても過言ではない。

それならば、熱い湯で茶を淹れれば渋くなるという知識を事前に教えておくべきだろうと信は心の中で反論していた。

それに、この秦国の右丞相と軍の総司令を務めている主、いわゆるお偉いさんの茶の好みなど、知る訳がないのである。

きっと昌平君は自分に嫌がらせをしたいだけなのだと信は疑わなかった。

身分差

この中華全土に住まう人間たちの地位を分けるとすれば、下僕の信は最下級という位置づけで間違いないだろう。

そして秦王の傍に仕えている昌平君は上級階級だ。上級階級の者たちは、茶を淹れる面倒さなど知るはずもない。

茶を淹れるための水を汲んで来ることも、茶器を扱うことも、湯を沸かすことも、その手で茶葉に触れることだってない。そのくせ、温度や濃さの文句ばかりを言って来る。

上に立つ者は、自ずと下にいる者を見下ろす習慣が出来ることを信は知っていた。虐げられるのはいつも下にいる自分たちだということも。

上に立つ者の中には、下にいる者を虐げることを息抜きにしたり、趣味にしている者だっている。

昌平君もその類の人間だと信は疑わなかった。

茶を淹れることはあっても、茶の美味しさなど分からない信には温度も濃さもどうでも良かった。どうせ淹れた茶を飲むのは自分ではないからだ。

一日に一度は必ず茶を淹れるように指示を出されるのだが、信にとってこの作業は苦痛でしかない。

まだ屋敷の掃除をしている方が気が楽で良い。とにかく、近くに主の存在を感じる仕事は苦手だった。

この屋敷には大勢の従者がいるというのに、なぜか昌平君は信を傍に置きたがる。
昌平君に引き取られたのは、もう数年前のことだが、それまでの生活は今よりも最悪なものだった。

 

 

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信を引き取った男は、小さな集落の里長で、下僕たちに何かと仕事の不手際に文句をつけては暴力を振るう男だった。

これは罰だと自分を正当化しながら、下僕たちを日常的に苦しめているくせに、屋敷の外では里の者たちに親しまれている二つの顔を持っていた。内と外で顔を変える男だったのだろう。

当時、信と共に屋敷で働いていた下僕仲間たちの何人かは、その里親によって悪戯に命を奪われた。

簡単に命を奪った里長が許せずに、仲間たちの報復をしようと企んだ信だったが、他の仲間たちに止められてしまう。彼らは、里長からさらなる報復を受けることを恐れていたのである。

信の報復によって、全員が酷い目に遭うと懇願されてしまえば、信も怒りを飲み込むことしか出来なかった。

身分の低さに比例した無力さを噛み締めながら、手を土だらけにして仲間を弔っているところに現れたのが、今の主である昌平君だったのだ。

右丞相である彼がわざわざ辺鄙な地にある集落までやって来たことに驚いたが、領土視察や税制のことで自ら赴いたのだという。

その後のことはよく分からないのだが、後日になってから里親の姿が急に見えなくなり、信は昌平君に引き取られることが決まった。

何もしていないというのに、共に過ごしていた下僕仲間たちから感謝された理由も、信はよく分かっていない。

昌平君の屋敷は、秦国の首府である咸陽にあった。宮廷や軍師学校に頻繁に出入りをしていることもあり、また右丞相と軍の総司令という立場であることから、立派な屋敷である。構造を覚えるまでは、屋敷内で迷子になることも珍しくなかった。

前の里長のもとで働いている時と、仕事の内容も待遇も大きく変わった。
信の年齢ならば、そろそろ徴兵に掛けられてもおかしくはないし、荷役や農業といった重労働をさせられている下僕も少なくない。

しかし、昌平君は信にそういった労働はさせなかった。
以前は幼かったこともあって、家事をすることがほとんどであったが、昌平君に引き取られてからは彼の身の回りの世話を任されるようになったのである。

と言っても、昌平君はどこかの令嬢という訳ではないので、着物を着せたり髪を結ってやるようなことはしない。

この屋敷での信の仕事は、昌平君に茶を淹れることや執務室の清掃、それから他の下僕たちと同じ雑用を行うことが主だった。昌平君の命令があれば軍師学校や宮廷へ供をすることもある。

衣食住を保証してくれるだけありがたいと思うべきなのだろうが、素直に感謝をすることが出来ないのは、昌平君の性格の悪さだろう。

もともと表情を変えることのない男だとは思っていたが、何を考えているかさっぱりわからないし、茶に関しての要求は特にしつこい。

かといって、気に入らない茶を淹れても笞刑ちけい  ※笞で打たれることをされることはない。

信の態度を見兼ねた家臣に笞で打たれることはあるが、昌平君が笞刑を命じることや、自ら笞を持つことは一度もなかった。

あるのは、棘のある言葉を吐かれたり、鋭い眼差しを向けられることくらいだ。
まれにげんこつを落とされることもあるが、それは信がはっきりとした敵意を持って、主へ悪巧みを目論んでいる時だけである。

 

 

「………」

近くにあった椅子に腰を下ろしても、主である昌平君からの視線はずっと感じていた。
沈黙は我慢出来たが、さすがに視線がうっとおしくなり、信は睨み返す。

「良い歳した男がフーフーして茶を冷ましてほしいってのか?あぁ?」

またそのような態度を取れば、生意気だと家臣から笞打ちの刑にされると分かっていたが、信は構わずに言い返した。

我が身可愛さで、言いたいことを飲み込む方が身体に悪いという性分なのである。この曲げられない性格のせいで、前の住処ではどれだけ傷を負わされたことか。

昌平君は信の態度を咎めることはなかったが、代わりに大きな溜息を一つ吐いた。
どう考えてもわざととしか思えない大きさの溜息に、信のこめかみに鋭いものが走る。

「なんだよ!どうせ淹れ直せっていうくせに!」

つい椅子から立ち上がって文句を言うが、昌平君はすでに執務を再開していた。
相変わらず訳の分からない内容が記されている木簡に目を通して、その返事をしたためている。

墨が乾いてから、昌平君は丁寧にその木簡を畳んだ。

「今日はもう休む。片付けておきなさい」

木簡を片手に、昌平君は立ち上がった。

「はいはい」

返事をしたというのに、昌平君はその返事の仕方が気に食わなかったのか、再び鋭い目線を向けて来た。

美味い茶の淹れ方も教わっていないように、主に対して忠実な態度も、敬語の使い方さえも、信は今まで習う機会がなかったのである。

しかし、習っていたとしても、昌平君にはきっと今まで通りの態度で接するだろうと断言出来た。

 

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信の探し物

昌平君が部屋を出て行った後、信は部屋の片づけを始めた。

片付けと言っても茶器を片すくらいで、他には大してやることはない。
もともと昌平君は几帳面な性格で、部屋を散らかすようなことはしないのだ。

執務に必要な物も、自分で置き場所を把握しておかないと気が済まない性格で、信に机上の物を触らせることはしなかった。

もう日が沈んでいて、辺りは真っ暗だ。
茶器を片付けてさっさと自分も休もうと考えたが、信は振り返って扉の隙間から廊下を覗き込んだ。

「………」

昌平君の後ろ姿が遠くに見えたが、こちらに戻って来る様子はない。もう空は真っ暗で、廊下には蝋燭が灯されていた。

すでに他の家臣たちは休んでいるようで、辺りには誰もいなかった。
昌平君の屋敷は宮廷と違って、見張りの兵はさほど多くない。彼の直属の近衛兵団である黒騎兵団が何人か交代で見張りをしているだけだ。

黒騎兵団とは昌平君の傍で仕事をしている信にとって、顔なじみの存在だが、立ち話をするような仲でもない。

彼らは見た目通り厳重で寡黙な性格で忠誠心が厚い。礼儀知らずな信とは特に相性が悪かった。

その辺の草を摘んで茶葉代わりにしようとしているのを昌平君ではなく、黒騎兵団に見つかっていたら、有無を言わさずに嬲り殺されていたかもしれない。

しかし、この執務室には近衛兵である彼らや家臣たちでさえも、昌平君の許可がない限りは立ち入りが出来ない。

その理由は単純なもので、豊富な機密情報を取り扱っているからだ。

右丞相として国の行政と、総司令として軍政を任されている昌平君が扱う機密事項の量は膨大である。いくら信頼している近衛兵や家臣たちとはいえ、安易に見せられるものではない。

では、なぜ信がこの部屋の出入りを許されているのかといえば、それも単純な理由である。

―――字が読めぬ者に、機密情報の判別が出来るのか?

文字の読み書きもろくに出来ない下僕では、機密情報を知ることも、外部に漏らす心配がないからである。

昌平君が信を引き取ったのも、そういった理由だったらしい。

下僕の中では、字の読み書きが出来る者が採用されることが多いのだが、中には信のように字の読み書きが出来ぬ者を重宝する場合もある。

機密情報を知られないことや、外部に持ち出すにも、それが機密情報であるかを自身で判別出来ないからだ。

機密情報を持ち出したところで、それを外部に売却するような知識も持たぬ子どもだからこそ昌平君は信を買ったのだろう。

他の者ではなく、信に茶を淹れさせるのも、執務室に出入り出来る者が限られているからだ。
別室で別の者に美味い茶を淹れてもらい、それを執務室に運ぶのはどうかと提案したこともあるのだが、それでは冷めて風味が落ちるらしい。

そんなに淹れたての茶が飲みたいなら、執務室を出てすぐの廊下で淹れてもらえと言うと、げんこつを落とされた。

懸命に下僕たちが屋敷の清掃をしているのだから廊下だって汚くはないし、多少の埃が茶に混入したところで死ぬわけでもない。
これから潔癖症の上級階級の人間は嫌なんだと信はつくづく思ったものだ。

この屋敷に仕えている下僕は、もちろん信以外にもいる。他の上級階級の人間たちと比べると、昌平君は屋敷で雇っている下僕の数は多くないそうだ。

しかし、右丞相と軍の総司令という高い地位に就いている彼の身の回りの世話をするということもあってか、信以外の下僕は全員が字の読み書きが出来る。

過去に信は、昌平君に気づかれぬように、下僕仲間から字の読み書きを教わろうとしたが、彼らからこっぴどく咎められてしまった。

事前に主から通達があったようで、機密情報が置かれている執務室に出入りする信には、決して字の読み書きを教えてはならないと言われているらしい。もしもその命令に背けば処刑とまで言われたと聞く。

屋敷で働く下僕たちとは、苦悩を共にして来た仲間意識があるおかげでそれなりに仲が良いのだが、文字の読み書きを教えてもらおうとすると、処刑を恐れて全員が口を閉ざしてしまうのである。

 

 

信の中で下僕の身分を脱したいという気持ちは変わらない。

物心がついた時には既に親はおらず、奴隷という立場に落ちていた。
奴隷商人や、買われた先でも、人間としての尊厳など与えられていなかったし、それを仕方ないと諦めるようなことはしたくない。

もちろん昌平君に引き取られてからは、衣食住を保証されて人間らしい生活を送れているものの、奴隷という立場は変わっていないのだ。

(よし、誰も来ねえな)

何度も扉の方を振り返る。誰も来ないことを確認してから、信はさっそく今日も探し物を始めた。

(今日こそ絶対に見つけてやる…!)

信は昌平君がいつも執務を行っている机の辺りを重点的に探し始めた。
先月から信はあるものをずっと捜索している。

それは、奴隷解放証だ。

下僕という身分を脱するためには何をしたら良いのか下僕仲間たちに問うと、奴隷解放証という書が必要になるのだと教えてくれた。

げんこつを落とされるのを覚悟で、主である昌平君にも確認すると、彼もそうだと肯定したのである。

重責を担っている昌平君は嘘や冗談を言う男ではない。まさか素直にそのようなことを教えてくれるとは思わなかったのだが、奴隷解放証が必要になるという情報は、下僕の身分を抜け出したい信にとって、大きな前進だった。

どういった方法で奴隷解放証を入手出来るのかまでは、昌平君は教えてくれなかったが、下僕仲間たちによると、下僕を引き取った主が用意するのだという。

ただし、里長のような弱い権力者は奴隷解放証の作成は出来ない。
その地域ごとに下僕たちを管轄している県令※県知事以上の役職に就いている者の書と印章が必要になるのだそうだ。

つまり、右丞相である昌平君ならば、県令を通さずに奴隷解放証を作成することが出来るということである。

主を脅迫して奴隷解放証を書かせるという手段もあったのだが、字の読み書きの出来ない信では、たとえ奴隷解放証と関係のない文言を書かれたとしても気づくことは出来ない。

だからこそ確実に奴隷解放証を手に入れる方法が必要だった。

下僕仲間たちから奴隷解放証の話を聞いた後日、いつものように茶を淹れ直していると、昌平君が何かの書に印章を押しているのを見たことがある。

何気なしにその作業を見ていると、信の視線に気づいた昌平君が無表情のまま奴隷解放証だと教えてくれたのだ。

後日に、下僕仲間のうちの一人が奴隷解放証を渡されて、何度も昌平君に頭を下げながら屋敷を出て行った。

彼女は昔からこの屋敷に務めている下僕の侍女で、真面目な勤務態度が家臣たちから高い評価を受けていた。

貧困を理由に親に売られたことで下僕となった彼女だったが、村の幼馴染と結婚することを夢見ており、定期的に里帰りも許可されるほど、この屋敷の中では優遇されていた下僕だったのだ。

晴れて、下僕の身分を脱した彼女は里に戻って、幼馴染と結婚の約束を果たすらしく、全員から祝福をされて屋敷を出て行ったのである。

奴隷解放証と普段よりも多い給金は、昌平君からの結婚祝いだと言っても過言ではない。

彼女が屋敷を出ていく時、信も他の下僕たちと同じようにお祝いの言葉を贈り、奴隷解放証を見せてもらった。

さすがに記憶のそれを模写することは不可能だが、信はこの時に、昌平君が奴隷解放証を幾つか保管していると気付いたのである。

あの時、昌平君は筆を取らずに、印章を押していただけだった。つまり、印章の押されていない奴隷解放証が幾つか部屋にあるはずだと信は睨んでいた。

奴隷解放証を見つけて、自分で印章さえ押してしまえば、昌平君が作成した書であると誰も疑わないだろう。

印章の場所は見つけていたが、奴隷解放証だけが見つからず、信はこうして主がいない間に探しているのである。

すべては下僕という身分を脱して、自由をつかみ取るためだった。

 

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信の探し物 その二

(うーん、見つからねえな…見逃してるだけか?)

昌平君がいつも作業を行っている机の周辺や棚を探すのだが、奴隷解放証は見当たらない。

手がかりといえば、あの日に見せてもらった奴隷解放証の記憶だけで、どんな内容が記されているのかは分からない。とにかく信は記憶にある奴隷解放証と一致する書を探していた。

探し物の作業で注意点は、昌平君に探し物をしていたことを気づかれぬように、原状回復しなくてはならないことだ。

几帳面な性格である主のことだから、昨夜と物の配置が大きく変わっていたらすぐに気づくだろうし、その犯人は執務室の出入りを許されている信しかありえない。

また、探している最中に大きな物音を立てれば、見張りの兵たちがすぐにやって来るだろう。

なるべく物音を立てないよう、独り言も漏らさぬよう、信は奴隷解放証を探し続けた。

蝋燭の明かりを持って、机上の書簡や引き出しなど、あらゆる場所を探すのだが、それらしいものは見当たらない。

昌平君のことだから、重要な書類はこの周辺にまとめていると思っていたのだが、まさか場所を移したのだろうか。

信が奴隷解放証を探していることを気づいているのだとしたら、やはり見つけられぬように場所を移されたのかもしれない。

執務室以外で考えられる場所と言えば、まさか昌平君の寝室だろうか。

色々と思考を巡らせながら探すものの、結局今夜も奴隷解放証らしきものは見つけられなかった。

「はあ…」

つい溜息を吐いてしまう。
奴隷解放証さえ手に入れば、このような屋敷にいつまでも留まっておく必要はない。とはいえ、盗んだことが気づかれれば確実に処刑されることになる。

信の中では、奴隷解放証を手に入れたあとは普段通りに仕事をこなし、昌平君と屋敷を出ることがあれば、何処かで隙を見てそのまま脱走するという計画を企てていた。

屋敷から大胆に脱走する方法もあったが、それはかなりの危険が伴う。見張りの兵はよく鍛錬されているし、黒騎兵団ならば捕らえられるのと同時に首を刎ねられることになるだろう。

だからこそ、見張りの兵や近衛兵が多くない時期を狙う必要があった。

(今日は諦めるか…)

あまり長居していても、見張りの兵から怪しまれるかもしれないと思い、今日のところは切り上げることにした。

さっさと茶器を片付けて、部屋の蝋燭を消そうとする。

「ん?」

その時、背後から視線を感じて、信は反射的に振り返った。

「ひッ!?」

思わず上擦った声が出た。
扉の隙間から、呆れ顔の昌平君がこちらを見つめていたのだ。

 

悪巧み阻止

一体いつから覗き見ていたのだろうか。信はだらだらと冷や汗を流しながら硬直し、頭の中で言い訳を考えていた。

一応手には茶器を握っていたので、片付けが長引いたと言えば信じてもらえるかもしれない。

扉を開けて入って来た昌平君が腕を組み、信のことを見下ろしている。

もとから大きな身長差があったので、図らずとも見下ろされる形になるのだが、普段より強い威圧感を感じた。

「え、っと…あ、あの、か、片付け…してた…」

「まだ何も訊いていないが」

普段よりも声の低さに拍車掛かっている。表情こそ変わっていないが、怒っているのだと察した信は反射的に縮こまった。

げんこつが落ちて来ると身構えていたのだが、昌平君は信を見つめるばかりで何も話さない。

いつから見られていたのかは定かではないが、触るなと言われていた机上やその周辺を捜索していたところは見られていたかもしれない。

言いつけを守らなかったことで罰を与えられるのではないかと信が怯えていると、昌平君がわざとらしい溜息を吐いた。

その溜息にさえ怒気が籠められていて、信は硬直したまま動けずにいる。

ゆっくりと歩み寄ってきた主が目の前にやって来ても、信は驚愕と怯えのあまり、そこから逃げ出すことも出来なかった。

「何を探していた」

「………」

その言葉から、確実に探し物をしていたことは気づかれている。
下手に答えれば、げんこつではなく刃が振り下ろされると思うと、緊張で喉が強張ってしまい、全く声が出なかった。

真っ青になっている信を見下ろす昌平君の瞳は氷のように冷たかった。

このまま沈黙を続けたところで許されることはないと、頭では理解しているものの、何と答えれば見逃してもらえるかも分からない。

とはいえ、謝罪すれば自分の非を認めたことになる。そうなれば確実に処罰を受けることになるだろう。

信はどうしたらいいのか分からず、口を噤むことしか出来なかった。

「………」

「………」

重い沈黙が二人の間に横たわる。
いっそ都合よく気絶でも出来ないか信が考えていると、痺れを切らしたのか、昌平君の方から先に口を開いた。

「お前が探している奴隷解放証はここにはない」

「えッ!?」

思わず声が裏返ってしまう。それと同時に信は後悔した。

もしも昌平君が鎌をかけたのだとしたら、奴隷解放証を探していたことを気づかれてしまう。つまり、言い訳をしたところで、完全に自分の負けだ。

慌てて口を塞いだものの、聡明な主は全てお見通しだと言わんばかりの表情を浮かべていた。

その表情を見た途端、信は脱力し、その場にずるずると座り込んでしまう。

きっと処刑を言い渡されるに違いない。

下僕の身分を脱することなく、このまま犬死するのかと、信は泣きそうになった。来世ではもっとマシな人生を歩めるように祈っていると、

「解放証が欲しいのか」

笞刑でも斬首でもない、予想外の言葉を掛けられて、信は驚いて顔を持ち上げた。

 

主との取引

「下僕という身分を脱するにあたり、見合った働きをしている訳でもない。かといって、私を敬うこともない。お前を切り捨てたところで文句を言われる筋合いはない」

拳を握って、信が昌平君を睨みつけた。
その態度が無礼であるというのは百も承知だったし、それで切り捨てられるとしても、今まで散々咎められて来たのだから、今さら驚きもしない。

奴隷解放証を探していたのは事実だし、自分の命を生かすも殺すも主の気分次第だということは分かっていた。

「俺だって、親がいないってだけで下僕扱いされるなんて、もううんざりなんだよ!」

物心がついた時から下僕という身分に落ちていたのは、戦争孤児という理由だけで決められたことだった。しかし、そんなのはおかしいと信は訴える。

同じ人間であるはずなのに、生まれながらに階級を分けられるなんて不公平だ。他の下僕仲間たちだって同じように思っているはずなのに、報復や処罰を恐れて誰もが口を閉ざして、その想いを隠している。

下僕は自由に発言することも許されぬ不自由な身だ。どうして生まれが違うだけで自由を制限され、見下され、機嫌を伺わなくてはならないのか、信には理解が出来なかった。

そんな信の気持ちを知らずに、昌平君は相変わらず顔色一つ変えずに口を開く。

「解放証は無償で渡せるほど価値の低いものではない」

「…下僕らしく従えって言いたいのかよ。そんなのこっちから願い下げだ!」

今さら生に執着するために頭を下げるのも嫌だった。
身分の違いでこうも容易く命の価値が決められるなんて、こんな世の中、こっちから願い下げである。

殴られることを覚悟で吐き捨てたが、昌平君が逆上することはなかった。

しばらく嫌な沈黙が続いた後、昌平君は小さな溜息を吐いた。

「…私に一度でも、傷をつけることが出来たのなら、奴隷解放証を与えよう」

「…はっ?」

何を言われたのか理解出来ず、信は間抜けな声で聞き返した。反対に昌平君は微塵も表情を変えていない。

「それが解放証を渡す条件だ。出来なければ、お前は永遠に私の下僕だということを忘れるな」

「ちょ、ちょっと待てよ!」

勝手に話を進められて、信は頭の中を整理させろと制止を訴えた。
煩わしそうに顔をしかめられるものの、信はゆっくりと先ほどの昌平君の言葉を繰り返す。

「お、お前に…一撃でもぶち込めたなら、ほんとに、解放証をくれるんだなっ?」

「私を殺す気か。致命傷である必要はない」

それはそうだ。間違って昌平君を殺めてしまったら、奴隷解放証をもらうどころの騒ぎではなく、主殺しの罪で処刑されてしまう。

一撃でも与えればいいという条件に、信の口角はみるみるうちに持ち上がっていった。これは奴隷解放証を手に入れるだけでなく、今までのうっ憤を晴らす機会でもある。

「…やってやろうじゃねえか!ぜってー奴隷解放証を渡せよ!」

「では、私に一撃も入れられなかった場合は?」

「えっ?」

まさか逆に聞き返されることになるとは思わず、信はきょとんと目を丸めた。

「不公平にならぬように、お前も条件を設けるべきだ」

言われてみれば、このままでは自分に利があり過ぎる。

下僕の身分である信と上級階級である昌平君の立場には最初から優遇の差がありすぎるので、それくらいの不公平は甘く見てほしいものだが、指摘すればこの取引がなかったことにされてしまう危険があった。

「じゃ、じゃあ…文句言わねえで、お前が気に入る茶を淹れる」

主に向って堂々と「お前」と言えるのはきっと信だけだろう。
しかし、信が提示したその条件に満足したのか、昌平君は迷うことなく頷いた。

「なら、明朝に勝負だ。正々堂々とな」

「おう!」

先ほどまで意気消沈していた男児と同一人物とは思えぬほど、信は潔く返事をした。

「…茶器を片付けて今日は早く休め。言っておくが手加減はせぬぞ」

「ふん!お前こそ、手ェ抜いたら泣きつくことになるぞ!泣いても許してやんねーからな!」

抱えた茶器を片すために、信は足早に執務室を出ていく。
残された昌平君は僅かに口角をつり上げて、遠ざかっていく下僕の後ろ姿を見つめていた。

 

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