- ※信の設定が特殊です。
- 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
- 昌平君×信/年齢操作あり/主従関係/ギャグ寄り/All rights reserved.
苦手な方は閲覧をお控え下さい。
このお話の本編はこちら
出立
「宮廷へ発つ。すぐに支度をしなさい」
信が執務室の清掃を行っていると、主である昌平君が筆を置くなり、そんなことを言ったものだから、信はきょとんと目を丸めた。
今日という日に宮廷へ行くことは先日から聞いていたが、自分を同伴する話はなかったように思う。
しかし、支度をしなさいという言葉は、確実に自分に向けられたものである。今この執務室には昌平君と信しかいないからだ。
「えっ?お、俺も一緒に行くのか?」
聞き間違いかもしれないので、念のため確認してみると、昌平君が頷いた。
「そこの着物に着替えなさい」
立ち上がった昌平君が信の背後を指さした。
反射的に振り返ると、青藍の着物と紫紺の帯が丁寧に折り畳まれた状態で置かれている。
早朝にこの執務室に入ってからその着物が置かれていることには気づいていたのだが、てっきり昌平君の着物だと思っていた。まさか宮廷に行くために自分の着物を用意してくれたとは。
手に取ってまじまじと眺める。
ほつれや汚れは見当たらず、触り心地が良さそうな生地が使われていることから、着物の価値が分からぬ信でも、これが上質なものであることが分かった。
…とはいえ、信にはそのような上質な着物を着た経験などなく(李一族にいた頃は着ていたのかもしれないが)、本当にこれを着るのかという緊張が走る。
礼儀作法といった教養を一切知らないため、粗相をして着物を汚してしまう自信しかなく、信は呆然としていた。
着物を見つめるばかりで動き出さない信に、昌平君がゆっくりとした足取りで近づいて来る。
「褲 はそのままで、着物だけ変えればいい」
「わ、分かった…」
声を掛けられて、信は丁寧に畳まれていた青藍の着物を広げた。
しっかりと手首まで袖がある新品で上質な着物は、普段着用しているものと違ってずっしりと重みがあった。
さっそく腕を袖に通してみたものの、手首まで覆う袖がくすぐったくて、なんだか落ち着かない。そして袖を通してから、着物の大きさが自分にぴったりであることに気づいた。もしかして今日のために仕立てていたのだろうか。
(なんのために?あとでなんか要求でもされんのか?)
信は戸惑ったように昌平君を見た。
秦国の行政と軍政を司る昌平君は、相手に考えを読ませぬためなのか、もともとそういう仏頂面の星に生まれて来たのか、滅多なことでは表情を変えない。
自分を宮廷に連れていくのにはどんな考えがあるのだろう。普段の仕事ぶりを評価するにしても、こんな上質な着物を贈ることには何か裏があるような気がしてならなかった。
信が眉間に不安の色を浮かべているのを見た昌平君は呆れた表情で小さく溜息を吐く。
それから紫紺の帯を手に取ってその場に片膝をついたので、思わずぎょっとする。
侍女にでも頼めばいいものを、昌平君は信を抱き込むようにして紫紺の帯を結び始めたではないか。
「べ、別にお前がやらなくたって…!」
「動くな。やりづらい」
前合わせが開かないように、しっかりと帯を結ぶと、昌平君が膝をついたまま信を見上げた。
身長差と立場の違いから、いつも見下ろされているのが日常だったので、昌平君に見上げられるのはなんだか落ち着かない。
「苦しくはないか」
「え?ああ…」
頷くと、昌平君がすぐに立ち上がった。
いつもの着物よりも布の面積が広く、首から手首と足首まで体をすっぽりと包み込まれる違和感に、信は戸惑ったように昌平君を見上げた。
「なあ」
「着たくないのなら屋敷に残ってもいい」
信が何を言わんとするかすでに察していたようで、昌平君は容赦なく留守を言い渡した。
「ま、まだ何も言ってねえだろッ!ど、どれくらい宮廷にいるのかと思って…」
留守番は嫌だと、信が慌てて言い返した。
過去に宮廷に行ったことはあるが、指で数えられるくらいしかないので、信にとってはかなり貴重な遠出なのだ。昌平君の執務が終わったのなら城下町にも連れて行ってくれるかもしれない。
「明日の拝謁が終わればそれで終いだ。終わり次第すぐに屋敷へ戻る」
「ふ、ふーん?」
堪え切れない喜びが顔に滲んでいたが、信は大して興味もなさそうな返事をする。
以前、宮廷へ連れて行かれたことがある。あの時は秦王への拝謁ではなく、昌平君の私用だった。
用を済ませた後、腹が減ったと駄々を捏ねる信に、城下町で昌平君が包子を買ってくれたことがある。
帰りの馬車の中で食べた包子の味を思い出し、信は思わず涎を垂らしそうになった。信の両手ほどもある包子はちょうど蒸かし立てで、皮はもちもちとした弾力があり、中には細かく刻まれた野菜と肉を混ぜたものが入っていた。
具材の旨味も逃がさないように、甘辛い味がついている餡で包まれていて、信は口の中を火傷しながら頬張ったのだが、あれほど美味い包子を食べたのは初めてのことだった。
下僕たちは冷めた食事を食べるのが当たり前だったこともあり、作り立ての食事にありつけた感動も大きかったのである。
あまりの美味さに感動した瞬間、馬車の揺れのせいで包子を落としてしまったのだが、それでも信は構わずにかぶりついた。(腹を壊すから落としたものを食うなと昌平君から嫌悪されたが、構わずに平らげた)
お代わりを所望したのだが、すで馬車が動き始めたあとだったこともあり、信は遠ざかっていく城下町を恨めしそうに見つめていたのである。
露店は入れ替わりが激しいと聞いていたが、まだあの店はやっているだろうか。
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出立 その二
馬車に乗り込み、馬を走らせると、信が窓から見える景色を見て目をきらきらと輝かせていた。
信を宮廷へ連れていくのはこれが初めてではないのだが、回数としてはかなり少ない。
普段通ることの少ない道を眺め、信は楽しそうに目を細めていた。
そんな彼の様子を横目で時々眺めながら、昌平君は秦王嬴政に上奏する内容が記された書簡に目を通す。
拝謁の予定は明日なのだが、宮廷に到着するのは今日の昼を過ぎた頃になるだろう。
相手が秦王ということもあって、時間に遅れる訳にはいかなかったので、前日に宮廷へ到着しておく予定だった。
「…なあ、今日はなんで俺も一緒なんだよ?秦王の前に出る執務の時は、今まで一度も連れてってくれなかったじゃねえか」
素朴な疑問を口すると、昌平君は目を通していた木簡を折り畳んだ。
「新しい茶葉を購入しておけ」
なるほど、と信が頷いた。
屋敷から近い街にあった茶葉屋でこれまでは茶葉を購入していた店があったのだが、今は事情があってその店を利用していない。今後もその茶葉屋を利用することはないだろう。
信には具体的に事情を告げなかったし、今後も告げるつもりもないのだが、納得してくれたようだ。
「あ、じゃ、じゃあっ…」
両目をきらきらと輝かせながら、何かを期待するように信が昌平君を見た。昌平君は思い出したように懐に手を忍ばせる。
「余った分は好きに使いなさい」
「よっしゃあ!」
懐から銀子を取り出して信に手渡すと、あからさまに喜んでいた。いつも茶葉を購入したあと、残りの金額で好きなものを買い食いすることは信の楽しみらしい。
主の目を盗んでまで奴隷解放証を手に入れようとしていたのに、その銀子を逃亡用の資金として貯めずににいるのは、少々頭が足りないからなのだろうか。
とはいえ、たまの贅沢に好物を購入したり、屋敷の同僚たちにこっそりとお土産を渡していることは、陰で信の監視を行っている豹司牙から報告を受けていた。
好きに使えと命じたのは自分の方だし、使い道に関しては干渉するつもりはないのだが、信らしいと思う。
李一族の中で厳しい鍛錬を続ける日々の中でも、信は時々街に出て好きに買い食いを楽しんでいた。街へ出る時は欠かさず家臣たちにも土産を買っていたし、記憶を失ったとしても、彼の根本的なところは何も変わっていない。
そのことに昌平君が安堵していると、聞いている方もつい気が抜けてしまうような情けない音が馬車の中に響き渡った。
「………」
「………」
それが信の腹の虫だというのはすぐに分かったが、宮廷に着くまではまだしばらくは時間がかかる。
食事休憩
「…腹減った」
いわゆる食べ盛りである信が朝餉を抜いたとは思えない。
生意気な態度からは想像出来ないだろうが、下僕としての生活が長かったせいか、彼が朝寝坊をしたことは一度もないのである。
今朝は執務室の清掃くらいしか行っていなかったと思うが、信の空腹状態を放置しておくと、普段の生意気な態度に拍車がかかり、それはもう面倒なことになる。
「休憩だ」
御者に声をかけると、すぐに馬車が停まった。
信が移動中に空腹を訴えるのは予想していたので、あらかじめ食料を積んでおくよう事前に指示をしていたのである。
移動しながら馬車の中で食事をさせるのではなく、わざわざ食事休憩のために馬車を停めたのには理由があった。
以前、信を連れて行った時のことだ。帰りの馬車の中で、城下町で購入した包子を食べていたのだが、揺れのせいで信が手に持っていたその包子を落としてしまった。
そして運悪く、その食べかけの包子は昌平君の膝に落ちてしまい、着物を汚してしまったのである。(構わずに信は包子を平らげていた)
用を済ました帰り道であったから良かったものの、屋敷に着くまで肉の脂が染み込んだ着物を着たままでいることに、昌平君は嫌悪したものだ。
信といえば豹司牙にげんこつを落とされて説教をされても、蒸したての包子の美味さに感動しており、昌平君の着物を汚したことを忘れたかのようにはしゃいでいた。
…そういった経緯があり、必ず馬車の外で食事をさせるようにしていたのである。
道端に馬車を寄せ、従者たちが馬車のすぐ傍にある平地に敷物を広げ、飲み物や積んでいた料理を並べていく。
食料を積んでおくように指示をしたのは昌平君自身だったということもあり、まさか主ではなくて、下僕の信がこの料理を全て平らげるとは従者たちも思っていないだろう。
しかし、満足するまで腹を満たせば、信はすぐに眠ってしまうことを昌平君は知っていた。
屋敷に要れば仕事があるので居眠りをする暇などないのだが、宮廷に到着するまでは特にやることはないので、移動中の昼寝だけは特別に許していた。
豹司牙から食事の準備が出来たと報せが入り、昌平君は馬車を降りる。その後ろを信が続いた。
並べられた料理を見て、大袈裟なほど騒ぎ立てるだろうと思っていたのが…。
「…?」
敷布の上に並べられている料理を前にしても感嘆の声がしなかったので、昌平君は不思議に思い、後ろを振り返った。
信といえば料理には目もくれず、というより気づいていないようで、茂みを覗き込んでいるではないか。
「あった!」
昌平君が声を掛けようとした途端、信がその茂みに手を突っ込んだので、何事かと驚いた。
(なんだあれは)
信が手にしている丸い実を、昌平君は一度も見たこともなかった。
長生きしていると自慢できるほどの年齢ではないのだが、信よりは長く生きており、人生経験はそれなりに豊富な方である。
しかし、信が手に持っているそれが果実なのか、木の実なのか、はたまた別の何かなのか少しも分からない。初めて見るものだった。
黒ずんでいる見た目から、成熟をはるかに通り越していることは誰が見ても明らかだ。率直に言おう。あれは確実に腐っている。
しかし、なぜか信は目をきらきらとさせており、今にも涎を垂らしそうなほど口を開けていた。
明らかに腐っているだけでなく、毒かも分からない実を食べようとするとは見境がなさすぎる。
こちらにきちんとした料理が並べられているというのに、それも気づかないほど空腹だったのだろうか。
「………」
昌平君が僅かに頬を引きつらせ、信が握っている何かの実を見つめているものだから、優秀な重臣である豹司牙がすぐに信の手からその実(のようなもの)を取り上げた。
「あーっ、なにすんだよ!食いたいなら自分で取って来いよな!」
なぜか豹司牙がその実を食べたがっていると誤解した信が慌ててその実(のようなもの)を取り戻そうとする。
「こんな得体の知れないもの…口にすれば腹を壊すぞ」
子供である信との身長差を利用して、豹司牙は取り返されないように、奪った実(のようなもの)を高く掲げていた。
「はあ?この色の時が一番美味いんだよ!」
「………」
「………」
出征経験のある昌平君も豹司牙も、腐った馬の肉くらいは口にしたことはあるのだが、信が手に持っている黒ずんだ実(のようなもの)からは少しも味の想像が出来なかった。
凝視していると、そもそもそれが実なのかさえ分からなくなってくる。
しかし、下僕としてあの辺鄙な集落で暮らしていた頃は厳しい里長によって、ろくに食事も与えられていなかったようだし、その辺になっている実を食べるのも、飢えをしのぐために腐ったものを口にするのも日常的だったに違いない。
それにしても本当にそんな粗末なものを食べて生き長らえていたのかと思うと、もっと早く見つけ出してやればよかった。
表情は変わらないまま、昌平君の良心がしくしくと痛んだ。
「信、来なさい」
未だに豹司牙の手にある実(のようなもの)に執着している信に声をかけると、ようやく彼は並べられた料理に気づき、目を輝かせた。
「わ、すっげー料理!」
もしも信が料理よりも、あの謎の実(のようなもの)を選んだらどうしようという不安があったのだが、それは杞憂で済んだらしい。
しかし、あの謎の実(のようなもの)を掴んだ手で料理に触ろうとしたものだから、昌平君はすぐにその手首を掴んだ。
「なんだよ。食って良いんだろ?」
「手を洗ってからにしなさい」
その言葉を聞いた豹司牙が信から奪った実(のようなもの)を遠くに投げ捨て、水の入った竹筒を手に取ったので、信は渋々といった様子で両手を差し出した。
しかし、もう信の興味は並べられている美味しそうな料理に向けられている。
「あ~、腹減った~」
竹筒の水で手を洗った後、濡れた手を拭かせようと昌平君が手巾を差し出す。
しかし、信の視線と興味はずっと料理に向けられており、彼は近くにあった布――昌平君の着物――で手を拭いたのだった。
「信ッ!!」
豹司牙のこれほど激しい怒声と血相を変えた姿は珍しいことで、昌平君も見聞きしたことがなかったのだが、まさか宮廷への道中で目の当たりにするとは思わなかった。
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予定変更
豹司牙の強力なげんこつが落とされ、堪らず涙を流していた信だったが、空腹に勝てなかったようで、立派なたんこぶを抱えながらも颯爽と食事を平らげたのだった。
「ふい~、食った食った~!」
満腹になった合図なのか、信が膨らんだ自分の腹をぽんと叩く。もうたんこぶのことなど忘れてしまったらしい。
食事の件はこれで良いとして、問題は着物だ。以前のように肉の脂が染み込んだ訳ではないのだが、秦王に拝謁する立場としては、汚れた着物のまま会うわけにはいかない。
汚されないように食事を用意していたものの、予想外の行動によって着物が汚されてしまった。
さすがの昌平君もこれは想定外であったので、生憎にも着物の替えを持って来ていなかった。それで豹司牙の怒りも倍増したのだろう。
拝謁の予定は明日であり、着物を用意するなら今日中だ。当然ながら仕立ててもらう時間はないので、城下町で見繕うしかないだろう。
馬車に乗り込むと、腹を満たして昼寝でもするつもりだったのか、我が物顔で椅子に横たわる信の姿があった。
「…予定を変更する」
「ん?」
「着物を変えねばならん」
城下町で着物を購入すると伝えると、信が再び目を輝かせて体を起こした。
「じゃあ、昌平君も城下町に行くんだな?」
「私は着物を見立てなければならない。店を回るなら豹司牙と行け」
「えーっ!」
楽しみにしていた自由時間を豹司牙と一緒に過ごさなくてはならないのだと分かり、信があからさまに駄々を捏ねた。
どうやら茶葉を購入したあとで、城下町で好き勝手出来ると思っていたらしい。
人の行き来が激しい城下町で子ども一人を歩かせれば、迷子になってしまうかもしれない。それにまだ先日の件があったばかりだ。李一族の生き残りを探している者に狙われるのではないかという心配が絶えなかった。
豹司牙を同行させるのは万が一のときの護衛のためなのだが、信は豹司牙と二人で行動するのは気が重いらしい。
しかし、背に腹は代えられないし、李一族の生き残りを狙っている輩は咸陽宮にいる。城下町に見張りを放っているとしてもおかしいことではない。用心はしておいた方が良いだろう。
「あ、そうだ!俺がお前の着物を選んでやるよ!それなら…豹司牙と一緒にいなくてもいいだろ?」
馬車の外で御者を先導している豹司牙に聞かれないようにか、一度視線を窓の方に向けてから不自然に声を潜めたのをみると、よほど豹司牙と一緒に行動したくないらしい。先ほどの件を責められて、またげんこつを落とされるのではないかと怯えているようだ。
だが、豹司牙との行動することを強要したら、信は豹司牙の目を盗んで一人で街を歩くかもしれない。信はまだ子どもということもあって、身軽ですばしっこいのだ。
城下町には多くの人が出入りするし、あの人ごみの中で信を見失えば、いくら豹司牙とはいえ見失ってしまうだろう。
「…決して私の傍から離れるな」
信の本当の素性を知っている自分か豹司牙が一緒なら安全だろうと思い、昌平君は仕方ないと頷いた。
城下町に到着すると、相変わらず人の出入りが激しかった。この人ごみの中にいるだけで正直気分が悪くなりそうだ。
げんなりとしている昌平君とは反対に、信の方は笑顔で露店を見渡していた。
今にも一人で勝手に動き出しそうな彼に危機感を抱き、昌平君はしっかりと信の腕を掴む。
「なんだよ、放せよ」
「離れるな」
まるで幼子のような扱いを受けたことで、信が鬱陶しそうに昌平君を見上げる。
しかし、馬車を先導している豹司牙に鋭い視線を向けられると、信は何事もなかったかのように昌平君の着物を掴んだ。
「これでいいだろ」
「絶対に放すな。この人ごみの中でお前を見失っても、見つけられる自信はない」
「お前でもそんなこと言うんだな」
自信がないと言った主に、信は珍しいと目を丸めた。
主をお前呼ばわりする相変わらず無礼な態度に、傍にいる豹司牙の視線がますます鋭くなっていく。殺気に近いものを感じたのか、信が昌平君の背後に身を隠して縮こまった。
昌平君が豹司牙に「もう行って良い」と目で合図を送ると、優秀な配下である彼は一礼して、再び馬に跨り、馬車を先導していく。
馬車と荷を預けに行った豹司牙の後ろ姿を見て、信はほっと安堵しているようだった。
「………」
豹司牙に叱られるのが怖いのなら、どうして叱られないように態度を改めないのか、昌平君は信の学習能力のなさが不思議で堪らなかった。李一族の頃の記憶と共に学習能力まで失ってしまったのだろうか。
しっかりと信が着物を掴んでいるのを確認しながら、昌平君は城下町にある呉服店へと向かう。
「うわー、あれ美味そうだな」
その間も信の興味は美味しそうな食べ物を売っている露店へと向けられていた。
先ほど腹を満たしたというのに、まだ食べたいのだろうか。子どもというのは無限の食欲を持っているらしい。
しかし、先に着物を購入しなくてはならないので、信の用事は後回しだ。新しく購入した着物も汚されないように気を付けなくてはならない。
呉服店にて
何の前触れもなく、右丞相が来店したことで、呉服店の当主は驚いて頭を下げていた。気にしなくて良いと声を掛け、商品として並んでいる着物にざっと目を通す。
秦王に拝謁することや、自分自身の右丞相という立場を考えると、落ち着いた色合いのものしか選択肢がない。
もともと派手なものを好まないことや、時間を無駄にしたくない性格であることから、今着ているものと同じ色合いの着物を選ぼうとした時だった。
「これが良い!」
少し離れた場所で信が急に大声を出したので、昌平君は反射的に顔を上げた。
「ほら、これ!これにしろよ」
信が指さしている着物は、昼間の晴天の空を切り抜いたかのような青色の着物だった。青と白の中間の、明るい淡い色を見て、昌平君は信に言われるままに、その着物を手に取っていた。
「………」
直接指で触れてみると、生地が厚く、しっかりと重みがある。仕立てる時の糸が多く、職人が時間をかけて作り上げた証拠だ。これだけ淡い色を出すために、染料を作製するのにも時間がかかったに違いない。
男物ということで柄や刺繍は入っていないが、昌平君はその空色の着物に好感を抱いた。
「これを貰おう」
店主に代金を支払い、着物を包んでもらっていると、信は誇らしげな顔をして隣から視線を送って来た。
選んでやった礼を寄越せと言わんばかりの表情に、目的は露店の食べ物かと考える。
信が率先して着物を選んだのは、もしかしたら早くこの用事を終わらせて街を歩きたかったからという単純な理由なのではないかと思った。
「なぜこの着物にした?」
だから、あえて本人に問いかけてみたのだ。
慌てて理由を考える素振りを見せれば黒、そしてすぐに答えられたのなら白。
「え?この中で一番きれいだったから」
「………」
黒と白の中間である灰色という回答は、昌平君の中では想定外であった。
単独行動
店主から着物を受け取り、二人は呉服店を後にした。
相変わらず何か期待するように、信が隣から熱烈な眼差しを送って来る。なにか露店で売られている食べ物ががあるのだろう。
今度こそ着物を汚されまいとして、昌平君は着物が入っている包みをしっかりと抱きかかえた。
「あ、あった!」
何を言われるのかと身構えていると、急に信が昌平君の向こうを指さす。
つられてそちらに視線を送ると、人ごみの向こうに包子を売っている店があった。湯気と一緒に蒸したての包子の良い香りが漂ってくる。
そういえば以前、城下町に二人で行った時も、腹が減ったと喚く信に包子を買い与えたことを思い出す。
蒸したての包子は匂いから美味そうで、信が買ってくれるまで動かないと強固な意志を見せていたので、一つ買い与えてやったことを昌平君は覚えていた。(そして帰りの馬車で信が包子を落とし、着物を汚されたことも覚えている)
どうやらあの包子が人気なのは今でも変わりないようで、店の前には人だかりが出来ている。
蒸し終えた包子を、恰幅の良い店主が慣れた様子で売り捌いていく姿がそこにあった。
「あっ、あーっ!急がねえと売り切れちまう!」
あっという間に一つ二つと売れていく包子に、自分の分が無くなってしまうと焦った信が走り出した。
「信ッ!」
自分から離れるなと口酸っぱく告げていたのに、信はそんなことを忘れたと言わんばかりの勢いで店へと向かっていく。
何とか人ごみを掻き分けながら、昌平君は信の姿を見失わないようにしながら、必死に追いかけた。
まさかこんなところに右丞相がいるとは誰も思わないのだろう、昌平君に道を譲ろうとする者は誰もおらず、昌平君は人ごみの中でもみくちゃになっていた。
そこらの客よりも背丈が高いことが幸いし、なんとか包子を売っている店は見失わずにいたのだが、小柄な信は人ごみの中に紛れてしまうと、見分けがつかなくなる。
「信!」
もう一度名前を叫んでから、昌平君は慌てて口を噤んだ。
もしもこの人ごみの中に李一族の生き残りである彼を探している者がいたら、存在が気づかれてしまう。
この雑踏では昌平君の声など誰にも聞こえていないに等しいかもしれないが、それでも警戒を怠るわけにはいかない。
あの時のように、自分の知らない場所で命を奪われるのではないかという不安が波のように押し寄せて来た。
今は豹司牙も傍にいない。この人ごみの中で見失い、二度と信が戻って来ないのではないかと思うと、それだけで心臓の芯が凍りつきそうになる。
両手でどうにか人ごみを掻き分けながら前に進み、なんとか包子の店の前に到着した。
恰幅の良い店主が申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ああ、悪いけど売り切れだよ。今日はもう食材がねえからまた明日にでも来てくれ」
肩で呼吸をしている昌平君を見て、店主は包子を買いに来た客であると疑わなかったらしい。
それはそうだろう。人ごみの中をもみくちゃになって進み、いつも丁寧に整えているはずの髪も着物も激しく乱れている。
こんな無様な右丞相の姿を民に見せたことなど一度もないのだから、気づかれなくて当然だ。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
「青い着物の子供はっ?」
店主の言葉が言い終わる前に、昌平君は声を被せるようにして尋ねた。鋭い目つきを向けられた店主はぎょっとした表情になる。
「一人でこの店の包子を買いに来たはずだ。青い着物の、」
「あっ、昌平君」
余裕のなさから沸き起こる苛立ちを押さえながら、信の特徴を伝えていると、背後からのんきな声が聞こえたので、昌平君は反射的に振り返った。
こちらの心配など微塵も感じていないような満足げな表情で、二つの包子をしっかりと両手で抱えている信がいた。
間違いなく信だ。姿を見た途端、昌平君の肩から一気に力が抜けてしまい、長い息が零れる。
「私から離れるなと言っただろう」
僅かに声を荒げると、信は驚いたように目を見開いた。
それからしゅんと肩を落として、こちらの顔色を窺うように上目遣いで見上げて来る。
「わ、悪い…人気だから、売り切れちまうと思って…」
反省している姿を見て、昌平君もようやく我に返ったのだった。
無事だったのならばそれで良いはずなのに、大人げなく声を荒げてしまうなんて。少し離れただけでこんなにも不安に駆られてしまったことに、昌平君は己を恥じた。
「しょ、昌平君っ?」
無意識のうちに昌平君は信の体を両腕で抱き締めていた。いきなり抱き締められたことに、信が驚いて目を見開く。
「………」
いかなる場面であっても余裕を繕う必要はないが、焦燥感や不安は視野と思考を狭める。
多くの将と兵の命を預かっている軍の総司令という立場である自分が一番よく理解しているはずだったのに、どうも信のことになると感情が前面に出てしまう。
李瑤 との約束を守らなくてはという私情だと、昌平君も理解していた。
亡き師との約束を違えるわけにはいかないという義務感から来ているのは分かっていたのだが、先日の庖宰 との一件があってから、余計にその義務感を強く抱くようになっていた。
「…あっ、あっ…潰れるっ!潰れちまう!」
腕の中にいる信が焦った声を上げたので、はっと我に返って昌平君が手を離す。
「せっかく買ったのに、お前のせいで台無しになるとこだった!」
信が抱えていた二つの包子が少し形が崩れていた。昌平君が強く抱き締めたせいだろう。
中の具材は出ておらず、食べるのには問題ないようだが、信が目尻を吊り上げて昌平君を睨みつける。
「…すまんな」
余裕を欠いていたとはいえ、自分らしくないことをしたことは自覚があったので、昌平君は素直に謝罪した。
「別に、食えるから良いけどよ」
そこまで気にしていないと言うと、信は何かに気づいたように目を丸めた。
「…あれ?そういえばお前、買った着物は?」
店を出た時には抱えていたはずの着物がなくなっていることに気づいたのは、信に指摘されてからだった。
信を探すのに必死だったとはいえ、あの人ごみの中で手放してしまったのだろう。上質な着物であったことから、きっと今頃、誰かの手に渡ってしまったに違いない。
「………」
あからさまに落胆している主の姿を見て、信がにやっと笑い、包子を一つ差し出した。
「腹満たしてから、また考えようぜ!」
刺客から信を守るために厳格な主で装わなくてはと思うのだが、眩しいほどの笑顔を向けられると、それだけで全てを許してしまいそうになる。
少しだけ形を崩れた包子を受け取ると、そういえば腹が減っていたことを思い出す。隣で美味そうに包子を頬張る信を眺めながら、昌平君も包子に噛り付いたのだった。
終
昌平君×信の別の主従関係話はこちら
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