芙蓉閣の密室(昌平君×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ミステリー/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は軍師学校の空き教室の後日編(恋人設定)です。

芙蓉閣ふようかく:咸陽にある信が立ち上げた保護施設。戦争孤児や行く当てのない女子供を保護している。元は王騎と摎が住まう予定の民居だった。名前は王騎が生前好んでいた花から信が名付けた。

 

チョウ:芙蓉閣に保護された女性。現在は芙蓉閣に住まう女性たちに織り子の仕事を教えながら、まとめ役を担っており、信からの信頼も厚い。商人の夫がいる。

 

シン:芙蓉閣で失踪した男児。芙蓉閣に保護された戦争孤児で、信を姉のように慕っており、飛信軍に入ることに憧れていた。

 

ハン:芙蓉閣で生まれた少女。宸の妹のような存在で、失踪した彼の行方を案じている。手先が器用で織り子の仕事を手伝っている。

 

肖杰ショウヒャク:太后が後宮権力を思うままに操っていた時代に、後宮に務めていた宦官の医者。後宮を追放され、現在は咸陽で街医者として働いている。民たちから慕われており、芙蓉閣の出入りも許されている。

中編はこちら

 

生還

目を覚ますと、最初に覚えたのは喉の渇きだった。

「う…」

寝台の近くにある水差しを取ろうとして、上体を起こすと手首に引き攣るような痛みが走る。右の太腿にも鈍い痛みがあった。

手首に包帯が巻かれているのを見て、信の頭に目を覚ます前の記憶が一気に雪崩れ込んで来た。

部屋は薄暗く、寝台の近くに蝋燭の明かりが灯っていた。

「目が覚めたか」

寝台の傍にある椅子に座っていた昌平君が、木簡に目を通しながら声を掛ける。

「…俺…」

薬を嗅がされたことで喉を腫らされて、声が出せないようにされていたのだが、あれから時間が経ったからなのか、ようやく声が出るようになっていた。

木簡を手にしたまま立ち上がった昌平君が寝台に近づき、信に水差しを手渡す。受け取って水を飲むと、乾き切っていた喉がつんと沁みた。

喉の腫れは引いたようだが、まだ少しだけ違和感が残っている。きっとこの違和感も時間が経てば消えるだろう。

肖杰ショウヒャクは…?」

「然るべき場所へと送った。あの屋敷の庭から、子供たちの亡骸も見つかっている。あとはお前の証言が揃えば、すぐに罰せられるだろう」

端的に答える辺り、肖杰へ慈悲を掛けることは一切しないようだ。

「そっか…」

寝台に倒れ込み、信はぼうっと天井を見上げる。見覚えのない部屋だと気づき、信は目だけ動かして昌平君を見た。

「そういや、ここは?」

芙蓉閣ふようかくの一室だ」

昌平君がここまで運んでくれたのだろうか。

意識を失った自分の手当てもしなくてはならず、かといって肖杰の診療所に留まる訳にもいかなかったのだろう。

診療所からそう遠くない距離にある芙蓉閣ならば、二人とも顔が利く。信の救援に駆け付けたのは昌平君と彼の近衛兵たちだけでなく、救護班も同行していたのだという。

救護班による手当てを受け、今は芙蓉閣の一室で眠っていたという訳だ。

「手当ても終わって寝てるだけなんだから、わざわざ付き添わなくても良かっただろ」

「………」

指摘すると、昌平君は聞こえないフリをしているのか、黙って木簡に目を通している。二人きりしかいない密室で聞こえないはずがないのにと信は苦笑した。

右丞相や司令官、軍師学校の指導者など多くの執務を抱えている昌平君は、屋敷に帰るよりも宮廷で寝泊まりをすることが多かった。

本来ならこの騒動は、右丞相として優先するようなものではない。捕史たちに犯人探しを命じるだけで、昌平君自らが出る必要などなかったのだ。

「………」

しかし、信の瞼の裏に、肖杰に殺されそうになった寸前で駆け付けてくれた昌平君の姿が浮かぶ。

他の誰でもない自分のために、彼は駆けつけてくれたのだ。

「…ありがとな」

先ほどよりも声を潜めたというのに、礼の言葉はしっかりと耳に届いたらしい。昌平君は顔を上げると、持っていた木簡を信に手渡した。

彼の手を借りながら、信はゆっくりと上体を起こす。蝋燭の明かりに目を凝らし、木簡の内容に目を通した。

「これは…」

信の瞳が驚愕のあまり、見開く。

渡された木簡には、肖杰が犯した罪について記されていた。

「後宮にいたんじゃなかったのか?」

彼は医者という職に就いているものの、後宮には務めていなかった。宦官になるために去勢をされたのではなく、宮刑によって去勢・・・・・・・・されたのだ。

宮刑とは、男は去勢、女は監房への幽閉のことを指す。子孫を残せないという意味では、死刑に次ぐ重罰とも言われている。

さらに驚いたのは彼の罪状だ。それは他ならぬ母親を自らの手で殺めたというものだった。
動機についてまでは記されていなかったが、身内を殺した罪により、宮刑に処されたらしい。

信は顔を上げると、狼狽えた表情で昌平君を見た。

「で、でも、あいつ、年老いた母親がいるって……」

「………」

何も言わずに昌平君が首を横に振った。言葉のないその返答に、信は全てを悟る。母親を自らの手に掛けたことを、肖杰は覚えていないのだろう。

「すまなかった」

昌平君の謝罪の理由が分からず、信が目を丸める。

「お前には奴隷商人に目をつけていると告げたが、私は初めから・・・・この男に目をつけていた」

「はっ?な、なんで…」

予想もしていなかった言葉に、信はただ驚愕することしか出来なかった。

「芙蓉閣と関わりを持つ者の中で、前科がある者に限定すると、この男が一番に浮上したからだ」

「………」

「宮刑まで受けた者が、素直に心を入れ替えて生き長らえているとはどうしても思えず、色々と探らせていた」

信の手から木簡を受け取り、昌平君が言葉を紡いでいく。

「…当時のことを知る者から報告を聞くと、肖杰には妻子がいた。しかし、流行り病で二人は亡くなり、それからは年老いた母親と二人で暮らしていたそうだ。あとは記されている通り」

「…そうか」

肖杰は妻子を失ってから、すでに狂っていたのだ。だからこそ、母親も手に掛けてしまったのだろう。

「あの迷信についても、執念深く調べているという報告を受けていた。だが、調べているという情報だけで、容易に屋敷へ踏み入ることも出来ず、様子を伺っていた。…無理やりにでも押し通っていれば、子供たちの犠牲も防げたかもしれない」

本人も狂っているという自覚がなかったのだから、本性を見抜けないとしても無理はない。

信が無理やりにでも彼の屋敷に侵入しなければ、子供たちが殺された証拠は見つけられなかっただろう。

彼が後宮に務めていたのも嘘だと分かったが、男としての生殖機能がないのは宦官として働いていたからだと伝えれば、誰も宮刑を受けた罪人だとは思うまい。

表向きは多くの民から慕われる医者として、しかし、罪を犯したことで彼は苦しんでいた。

妻子を失ったことから気が狂い、自分が殺したはずの母親も死んでいないと思い込み、子孫を残すためにと、あの迷信を信じて子供たちを殺し、その臓器を喰らった。

境遇には同情するものの、これだけの罪を犯した彼の死刑はもう免れないだろう。

 

お守りの絹紐

「すまなかった」

もう一度謝罪すると、昌平君は静かに目を伏せた。今回の件で彼に謝罪をされるのは何度目だろうと信は複雑な表情を浮かべる。

初めから肖杰を警戒しておくよう忠告していれば、信があのような危険な目に遭うことはなかったのだと、昌平君は悔恨の念に駆られているらしい。

「…いいって。もうこれ以上の被害が出ることはないだろ。お前のお陰で助かった」

信が笑顔でそう言うと、少しは救われたのか、昌平君もどこかほっとした表情を浮かべる。

「でもよ、本当によく来てくれたよな」

信が肖杰の屋敷に行くことは昌平君も知っていた。しかし、まさか近衛兵である黒騎団を率いてまで救援に来てくれるとは予想外だった。

「…もともと、私も黒騎兵と共に、肖杰の屋敷に踏み入る準備をしていた」

「え?そうなのか」

芙蓉閣で信と別れた後、昌平君はいよいよ肖杰の調査に本腰を入れるつもりだったらしい。

それまでは様子を見ているばかりだったが、涵から他の子供たち肖杰の屋敷を出入りしているという情報を聞き、昌平君もいよいよ肖杰の屋敷へ踏み入れることを決めたのだという。

肖杰に前科があることから犯人だと疑っていることを信に伝えれば、彼女は証言欲しさに肖杰を刺激してしまうかもしれない。

人攫いの可能性として、奴隷商人の調査をしていたことは本当だが、昌平君は意図的に彼に前科があることを信には告げなかったのだ。

万が一にも彼を刺激しないようにという気遣いが裏目に出てしまった訳だが、結果としては肖杰を捕らえることが出来たし、子供たちを弔うことが出来た。

黒騎兵たちと共に屋敷に乗り込むのがあと少しでも遅れていれば、確実に信は殺されていただろう。

それを思うだけで昌平君は背筋が凍り付きそうになった。しかし、その不安を信に告げることはしない。

「…これが正門の前に落ちていた」

着物の袖に手を入れて、昌平君が青い絹紐を差し出した。

草木染という手法で美しく青色に染まった絹紐は、ハンが作ってくれたのと同じ物である。

 

「え?あれ…落としてたか?」

青い絹紐を受け取り、信がきょとんと眼を丸めた。

「俺のは、駿の手綱に結んでおいたはずだ。…それに、俺は裏門から入ったぜ?」

「なに?」

怪訝そうな顔で、昌平君が信の手の中にある絹紐に視線を落とした。

信が最初に肖杰の屋敷を訪れた時は、確かに正門から入った。

しかし、再度侵入を試みたのは裏門で、絹紐は駿の手綱に結び付けていたし、正門にこの絹紐を落とすはずがなかった。
それに、絹紐とはいえ、鮮やかな青色が目を引く代物だ。落ちていたとすれば絶対に気づくだろう。

「これは…」

昌平君が拾った絹紐をよく見ると、赤黒い染みがついており、それが血だとすぐに分かった。

正門前に落ちていたこの絹紐を見るなり、昌平君は信が危険に晒されているのだと察知して屋敷に飛び込んだのだという。

自分の手の中にある青い絹紐を、信はもう一度よく見返した。

―――シンのお兄ちゃんにも、お守りで同じのあげたの。だからあげる。

この絹紐を受け取った時の涵の言葉を思い出す。

まさかと信は目を見開いた。

「これ、宸の…絹紐か?」

肖杰に殺された子供の名前が出たことに、昌平君が眉根を寄せた。

「…なぜあの場に落ちていた?」

宸が失踪したのは一週間ほど前のことだ。今になって彼の持ち物が出て来たことに、二人は疑問を隠せなかった。

―――先生!お願いです!どうか診て下さい!
―――先生ッ、お願い!開けて!

肖杰に殺されかけた時、屋敷の門を叩いて急患の診療を頼む子供たちの声を思い出した。姿は見えなかったが、あの声はどちらも少年のものだった。

ちょうど屋敷に来た昌平君たちと、その少年たちが入れ違いになったかもしれない。信は何となく、その少年のことが気になった。

「そういや、屋敷の敷地内か周辺にガキはいなかったか?ちょうど昌平君たちが来る前に、肖杰が追い返すか診療をしてたはずだ」

少し考える素振りを見せてから、昌平君は首を横に振った。

「…いや、そのような者は見ていない。屋敷に出入りする者も、敷地内にも誰も居なかったはずだ」

「………」

その言葉を聞いて、信は手の平にある絹紐に視線を落とした。

肖杰の屋敷に一度訪れ、手がかりがないことに肩を落としながら帰ろうとした時、門の向こうに子供たちの姿を見た。

あの時は見間違いだろうと思っていたが、まさか宸たちは、命を失ってからもあの屋敷でずっと自分のことを待っていたのだろうか。

「っ…!」

もしかしたら、自分を助けるために門を叩いて肖杰の気を引いたり、昌平君にこの絹紐を渡して居場所を知らせてくれたのかと思うと、信の瞳にみるみるうちに涙が溢れて来た。

都合の良い解釈かもしれないが、自分に懐いていたあの子たちならやりかねないと思えた。

赤黒い染みを見つめ、宸や他の子供たちが一体どれだけ苦しんで殺されたのだろうと考える。

助けてやれなかった自分を恨むどころか、肖杰から自分を助けようとしてくれた子供たちの気持ちを想うと、胸が引き裂かれそうになる。

「……バカなこと言ってるって自覚はあるんだけどよ…」

鼻を啜りながら、信が青い絹紐に視線を下ろしたまま言葉を紡いだ。

「俺、あの屋敷で、ガキどもを見た気がするんだ」

「………」

何も言わずに昌平君はじっと話を聞いていた。

「殺されそうになった時、門を叩いて、肖杰を呼ぶガキ共の声がして…俺を、助けようとして、くれたのかも…」

青い絹紐を握りながら涙を流している信を見て、昌平君がそっと体を抱き締めてくれる。

「う…ぅうッ…!」

彼の胸に顔を埋め、信は堰を切ったように溢れ出る涙を流し続けた。

 

添い寝

ようやく涙が落ち着いた頃には、昌平君の着物が涙で湿ってしまっていた。

「あ、あの、悪い…」

真っ赤に充血した目で見上げるが、昌平君は何も気にしていないようだった。

「落ち着いたか」

穏やかな声色を掛けながら、昌平君が信の目元を指でそっと擦ってくれる。

泣き続けて腫れ上がった目元には、彼の指はひんやりと冷たくて気持ち良かった。
気の利いた言葉を掛けられなくても、ずっと傍にいてくれる彼の優しさが、信には嬉しかった。

「今夜はもう休め」

そう言って昌平君が寝台の上から立ち上がったので、信は戸惑った視線を向けた。

「宮廷に戻るのか?」

「いや、朝になったらここを発つ。今回の件の事後処理が残っているからな」

昌平君は信が目覚めるまで座っていた椅子に再び腰を下ろした。

肖杰の罪が記されている木簡を再び開きながら昌平君がそう答えたので、まさか彼は朝までそこで過ごすのだろうかと驚いた。

「他に客間があったはずだ。寝るならそこで…」

「案内人から聞いている」

燈のことだろう。客間で休むよう言われていただろうに、昌平君は信が寝つくまで傍にいてくれるらしい。

言葉に出さないが、先ほどのようにずっと抱き締めてくれていたように、彼の優しさが心に染み渡った。

「ん…」

傷に響かないようにゆっくりと寝台に横たわった信は、身体を端に寄せる。これでもう一人分の寝床が確保できた。

「昌平君」

もうとっくに覚えたであろう内容が記されている木簡に目を通していた昌平君が顔を上げる。

「ん」

ぽんぽんと寝具を叩いて呼び寄せると、昌平君は無言のまま何度か瞬きを繰り返した。

「…大人しく寝ていろ」

わざとらしく溜息を吐いていたが、木簡を折り畳んだのを見ると、信の誘いに応じてくれるようだ。

ゆっくりと昌平君が寝台に横たわると、彼の胸に頭を摺り寄せ、信は目を細めるようにして笑った。

「へへ、あったけえな」

「………」

昌平君がそっと頭を撫でてくれる。彼の方が年上なのはもちろん分かっているが、こうしていると、恋人ではなくて、まるで子供扱いされているような感覚になる。

無性に恥ずかしくなって、信は彼の手首を掴もうとした。

 

「ッ…!」

包帯で包まれている手首が引きつるように痛み、信は顔をしかめた。

縄を切ろうとした時に誤って傷つけてしまった箇所だ。止血はしているが、まだ傷は塞がっていないため、まだ無理に動かすことは出来ない。

「痛むか?」

「少し…でも、平気だ」

昌平君の骨ばった大きな手が、信の手首をそっと包み込む。

包帯に血が滲んでいないことを確かめると、彼はその手首に唇を寄せて来た。

柔らかい唇の感触を包帯越しに感じて、信は視線を泳がせる。唇が触れただけだというのに、不思議と痛みが和らいだ。

「あの男、ここまでお前を追い詰めるとは…」

声に怒気が込められていた。この傷は肖杰によってつけられたものだと昌平君は勘違いしているらしい。

そういえば、薬で喉が腫れていたせいで、細かに状況の詳細を伝えていなかった。

絶体絶命だったあの状況にいた信を見れば、この手足の傷は肖杰にやられたのだと誰もが誤解するだろう。

「いや、これは俺が自分でやったんだ」

薬で喉を腫らされたこと、拘束していた縄を切ろうとしたこと、朦朧とする意識を取り戻すために自ら足を斬りつけたことを伝えると、昌平君の顔つきがますます険しいものになっていく。
不安と心配と怒りが混ざったような複雑な表情だった。

子供たちの犠牲を防げなかっただけでなく、大切な恋人の命までもが奪われそうになった事実を知り、自責の念に駆られているようだ。

きっと今の関係を築いていなければ、昌平君がそのように考えていることを信は気づけなかっただろう。

「…その、俺は昌平君が来てくれたお陰で助かったんだし、あんまり自分を責めるなよ」

信の言葉を聞き、昌平君は何も言わずに、彼女の体をそっと抱き締める。

自分は生きているのだと安心させるために、信は彼の広い背中をそっと擦ってやった。

しばらく昌平君は信の体を抱き締めたまま、口を閉ざしていた。

「…昌平君」

肩に顔を埋めている恋人を呼び掛けるが、顔を上げようとしない。こうなれば、しばらくは喋らないだろう。

いつもなら昌平君が甘やかしてくれるのに、今日は逆の立場に立てたようで、どこか新鮮な気分になる。

「…はあ…」

少ししてから、信の体を抱き締めていた昌平君が小さく溜息を吐いたので、信はようやく顔を上げた。

途端に唇を重ねられ、驚きのあまり口を開いてしまう。すぐに舌が入り込んで来た。

 

「っん、ぅ…」

戸惑った信が昌平君の胸を突き放そうとするが、強く抱き締められて、情熱的な口づけが深まっていく。

舌を絡め取られて、歯列をなぞられると、信の背筋が甘く痺れた。

視界いっぱいに映っている恋人の端正な顔も、唇の柔らかい感触も、ざらついた舌の表面も、口づけの合間に洩れる吐息も、何もかもが愛おしい。

彼の胸を突き放そうとした信の手が、もっと口づけを強請るように、弱々しく紫紺の着物を握り締めた。

「…は、ぁ…」

ようやく唇が離れると、信は肩で息をしていた。

「う…」

手首と右足から多く血を流したせいだろうか、軽く眩暈を覚えて、信は昌平君の胸に凭れ掛かる。

「大丈夫か?」

心配そうに尋ねて来る昌平君に、信は無理やり笑みを繕った。

ただでさえ今日は心配ばかり掛けたのだから、今くらいは安心させてやりたかった。

「…もう休め」

先に仕掛けて来たのはお前の方だと、信が煽るように昌平君を上目遣いで見た。

潤んだ瞳を向ければ、酒を飲んでいなくても昌平君の理性が揺らぐことを信はもう理解している。

もちろん昌平君自身もその自覚があるようで、僅かに顔を強張らせていた。

「…傷に障る」

「お前の技量次第だろ」

煽るようにそう言えば、昌平君の瞳が大きく揺らいだ。

 

添い寝 その二

起き上がった彼が身体を組み敷いて来たので、どうやら挑発に成功したようだと信はにやりと笑った。小癪な女だと昌平君が内心毒づく。

しかし、信がここまで厄介な性格をしていなければ、昌平君も彼女に興味を引かれることはなかったかもしれないと冷静に考えていた。

信の着物を脱がす手に、迷いは微塵もなかった。

襟合わせを開くと、傷だらけの肌が露わになる。小さな傷から、致命傷になりえたものまで、彼女が死地を生き抜いて来た証拠がそこにあった。

この傷跡だらけの肌が、堪らなく尊いと思う。しかし、自分がつけた傷痕でないと思うと、憎らしくもあった。

「っ…」

胸元にある傷痕に沿って舌を這わせると、信がくすぐったそうに顔をしかめる。

この傷を上書きすることは叶わない。それどころか、信が将であり続ける限り、新しい傷は今後も増え続ける。

ならばせめて、傷痕ごと彼女を愛そうと、肌を重ねる度に昌平君は思う。

傷痕に沿って指と舌を這わせていると、信の息が少しずつ乱れていった。頬が紅潮している彼女の顔が見える。

まだ傷痕にしか触れていないというのに、まるで焦らすような愛撫に信が甘い吐息を零していた。

身体を重ねる度に、昌平君が愛撫するものだから、初めの頃より感度が高まっているらしい。

破瓜を破った時は痛みに打ち震え、昌平君の腕の中で啜り泣いていたというのに、今ではもうその面影もない。

初めて信の体を拓いたことと、彼女の身体をここまで変えたのは他でもない自分だという優越感があった。

それを指摘すれば、きっと信から頭突きされるだろうと分かっていたので、昌平君はその事実を自分の内に秘めている。

「ふ、…うっ…」

手の平でそっと胸を揉みしだくと、信の鼻奥でくぐもった声が上がる。胸の中央にある芽を指の腹で擦ると、すぐに固く尖ってきた。

「ぁあっ」

上向いたその芽を二本の指で挟むと、泣きそうな声が上がる。その声に、嫌悪の色が混じっていないことに、昌平君の口元はつい緩んでしまう。

柔らかい肌に顔を寄せて胸のふくらみを揉みしだき、時折、上向いた芽を指で愛撫する。
どこか期待を込めた眼差しを頭上から感じ、昌平君はその欲望を叶えてやることにした。

 

「っひ、あ」

胸の芽を唇で咥え、舌を這わせる。ざらついた舌の表面と唾液の滑った感触が気持ち良いのだろう。信の表情に恍惚としていた。

口と舌で愛撫される気持ち良さは理解出来る。不慣れながらも信が男根を口と舌で愛撫してくれる時には、昌平君も声を堪えるのに必死になる。

ましてや、愛しい者が自分ためにしてくれてるのだと思うと、それだけで快楽が全身を貫くものだ。

「んっ…うぅ…」

反対の胸を手で攻められると、信が強く目を瞑って、唇を固く引き結んでいた。

誘ったのは信の方だというのに、声を堪えようとする姿が健気に思え、欲を煽られる。何としても鳴かせてみたくなった。

一度、身体を起こして、昌平君は彼女の耳元に唇を寄せた。

「信」

静かに耳元で名前を囁けば、まるで火傷でも負ったように信の身体が大きく跳ねる。

「しゃ、喋んなッ…」

組み敷いている体に鳥肌が立ったのが分かった。彼女の敏感な部分は幾度も知り得ている。信は耳元で囁かれるのも、吐息を吹き掛けられるのも弱いのだ。

肩を竦めるように力み、敏感な耳への耐えようと敷布を強く握り締める。

まだ手首の傷も癒えていないというのに、そんなことをすれば傷口が開いてしまうと、昌平君は耳から顔を離した。

「信、力を抜け」

「うぅ…」

できないと首を横に振って意志表示をする姿がしおらしく、昌平君の口元が意地悪な笑みを浮かぶ。

笑い声を聞きつけ、信が切なげに眉を寄せた。

「こんな時に、笑うなっ…」

笑っている顔はたまに見るくらいで良いと言ったのは信のはずなのに、どうやら気に障ったらしい。

彼女が指摘するまで、昌平君は口角がつり上がっていたことに気づかなかった。

恋人の愛らしい姿を見て表情を変えない男など、果たしてこの世に存在するのだろうか。そんなことを考えながら、昌平君は敷布を握り締めている彼女の手に指を絡ませた。

指と指を交差しているだけだというのに、繋がっている気持ちが形としてそこに現れたかのように、胸が熱くなる。

右丞相と大将軍という立場ゆえに付き従う者も多く、今思えば、信とこのように身体を密着させられるのは、人目のつかない場所だけだった。

軍師学校の空き教室、お互いの私室、そしてこの芙蓉閣の密室。

本当ならばもっと彼女と身を寄せ合っていたいし、この女は自分のものなのだと周囲に言い示してやりたい。それが私情であり、醜い独占欲だということを、昌平君も十分に理解していた。

信のことを想うからこそ、独占欲で勝手を起こす訳にはいかない。

そのせいか、信と二人きりになると、今まで抑制していたものが簡単に溢れてしまうのだ。彼女に煽られて、すぐに身体を組み敷いたのもそのせいである。

年齢も立場も自分の方が上なのに、信と二人きりになると、余裕など微塵もなくなる。
余裕のなさを理由に、彼女に無理強いをしていないか不安になることだってあった。

 

独占欲

「信」

懲りずに昌平君はもう一度、彼女の耳元で囁く。愛の言葉よりも、彼女の名前を呼ぶ回数の方がはるかに多かった。

下唇を噛み締める信を見て、昌平君がその唇に舌を伸ばす。

「はぁっ…」

薄く開いた唇から信の赤い舌が覗く。舌を絡ませ合いながら、昌平君は右手を彼女の下腹部に伸ばした。

「っ、う、んん…」

引き締まった腹筋からさらに下に手を這わせる。足の間に辿り着くと、そこは淫華はもうぐずぐずに蕩けていた。

こちらはまだ触れてすらいなかったのに、こんなにも自分を求めていたのかと思うと、優越感に胸が満たされた。

「あ…」

蜜を絡ませて指を進めていくと、信の身体がぴくりと跳ねる。根元まで押し進めると、まるで待ち侘びていたかのように、柔らかい肉壁が指を締め付けて来た。

「ひっ、ぅ」

中で指を鉤状に折り曲げて、腹の内側を優しく掻き毟られると、信が切なげに眉を寄せる。

こうして腹の内側を刺激されると、尿意にも似た何かが迫り来る感覚があるらしい。その感覚が苦手らしく、信が力なく首を振ってやめてくれと訴えた。

しかし、前戯もろくにせず男根を押し込むのが気が引けた。

何度も身を重ねているとはいえ、女にしかない繊細な部位を手荒く扱うつもりはない。ましてや大切な恋人を、自慰の道具のように、自分の欲望の捌け口になどしたくなかった。

 

「んんッ…」

しつこいほどに中で指を動かしていると、固く引き結んでいる唇からくぐもった声が洩れていた。

今度は首を振るのではなく、何かを訴えるように見据えて来る。

彼女の昂りから、指ではなくて別のものが欲しいと訴えているのは分かったが、昌平君は指の数を増やすだけで望みを叶えようとはしなかった。

焦らしているつもりはない。これは信のためだと自分に言い聞かせながら、昌平君も己の昂りを自覚していた。彼女の喘ぐ姿を目の当たりにして、痛いくらいに男根がそそり立っている。

どうやら信もそれを察したようで、腕を伸ばし、着物の上から男根を愛撫して来る。

行為の最中に信は男根を手や口を使って愛撫してくれることもあるが、肖杰の屋敷で負った傷のことを考えると、今日はそのような真似をさせる訳にいかなかった。

淫華から指を引き抜く。前を寛げて男根を取り出すと、信がとろんとした瞳を向けて来る。

「ん…」

男根の先端を淫華に押し当てると、信が身体を強張らせたのが分かった。挿入の瞬間はいつも初夜のように身を固くするのだが、その恍惚の表情を浮かべている。

褥でしか見せない、この世で自分しか知らない信の顔だと思うと、昌平君はそれだけで堪らない気持ちになった。

「ぁああっ」

短い悲鳴が上がったが、構わずに昌平君は最奥を突いた。

全身を貫いた快楽に信が昌平君の背中に腕を回し、強くしがみ付いて来る。隙間なく下腹部が密着した後、お互いの性器がなじむまで動かずにいた。

しかし、待ち切れなかったのか、信が腰を押し付けるように前後に揺らし始める。まさかそんな淫らな技を得ていたことに昌平君は驚いた。

寝具に踵をつけて腰を動かしているのを見て、右の太腿の傷に障るのではないかと心配になる。

「信」

うっすらと包帯に赤い染みが滲んで来たのを見て、昌平君は彼女の名を呼んだ。

「う…?」

痛みよりも快楽に支配されているらしく、信は傷口が開きかけていることに気付いていないようだった。

「足の傷に障る」

細腰を両手で押さえつけて動きを止めると、昌平君は彼女を気遣いながらその体を抱き起こした。

「で、でも…ぅわッ?」

向かい合う体制で座らされ、驚いた信が慌てて昌平君の背中に両腕を回した。何度か行ったことのある体位だが、今日は不安そうに瞳を揺らしている。

「あ、ま、待って…怖い…」

目の前の体にしがみつきながら、信が声を震わせる。

「大丈夫だ。つかまっていろ」

「そ、じゃなくて…」

弱々しく信が首を振ったので、昌平君は小首を傾げた。

「これ、深く、入ってくる、から…良過ぎて…こわい」

「………」

その言葉がどれだけ男の性を煽っているのか、信には自覚がないらしい。

「ひ、ああーッ」

下から突き上げられ、信は甲高い声を上げる。たった一突きされただけだというのに、目の奥で火花が散った。

この体勢のせいで、自重によって子宮が下りて来ており、いつもより深く男根が突き刺さる。

ぎゅうとしがみつきながら、信はどうにかして目まぐるしく襲う快楽から意識を背けようと、昌平君の背中に爪を立てる。

この客間は、芙蓉閣に住まう女子供たちとは遠い部屋にあるのだが、それでも誰が聞いているか分からない。

彼の肩に顔を押し付けながら、何とか声を押さえようと必死になっている信を見て、寝台の上では見られなかった彼女の新しい表情に、昌平君はさらなる興奮を覚えた。

「んんッ、んーッ」

首を横の振って、必死に制止を求めている。
顔を真っ赤にして、やめてくれと言葉に出す余裕もないのだと思うと、ますます攻め立てて鳴かせてやりたいと思うのが男の性だった。

右足の傷や両手首の傷の負担にならないようにと思ったはずが、今ではすっかり性の虜になってしまっている。

もう一人の自分が、昌平君の余裕のなさを指摘するが、もう止められそうになかった。

これ以上ないほど男根は深く入り込んで、信の中を支配しているというのに、さらに奥へ進もうとする。

「んううッ、んぅーッ」

声を堪えようと、信が埋めている肩に歯を立てて来る。制止を聞いてくれない昌平君に抵抗しているようにも見えた。

血が滲むほど歯形を刻まれて、その痛みさえ愛おしいと、昌平君は口元に笑みを浮かべていた。

 

後日編

肖杰の屋敷から戻った後、信は芙蓉閣の一室で療養していた。昌平君の手配により、医師団も派遣されていた。

処置をしたはずの傷痕がなぜか・・・開いてしまったことで、療養の期間は一時的に延長となったのだが、今ではもうすっかり傷も癒えている。

療養のせいで厩舎に預けっぱなしだった愛馬の駿の迎えが遅くなり、ようやく迎えに行った時には駿は信に苛立ちを見せて、その背中に乗せてくれなくなってしまった。

人の言葉が分かっている賢い馬であり、信が何度も謝罪をして今回の事件について語ると、渋々と言った様子で背中に乗せてくれ、ようやく屋敷へ帰ることが出来たのだった。

ハンからもらった青い絹紐も、駿はちゃんと預かってくれていた。

信が療養をしている期間に、肖杰の屋敷の庭から見つかった子供たちの亡骸は、然るべき場所へ弔われた。

月日が経っていたせいか、ほとんどが白骨化していたのだという。まだ白骨化していない亡骸を検死すると、女児は子宮を、男児は心臓を抉り出されて殺されていたらしい。

信の予想通り、肖杰の庭から見つけ出された亡骸は芙蓉閣の十人だけではなかった。

城下町に来ていた子供が何人か行方不明になっていたようで、他の亡骸は恐らくその子供たちだろう。

此度の騒動で肖杰は死刑が決まり、現在は独房に幽閉されているのだと昌平君が教えてくれた。

 

(久しぶりだな…)

子供たちの失踪事件がようやく終息した後で、信は久しぶりに芙蓉閣へと訪れた。

ここのところは戦の気配もなく、穏やかな日々が続いている。そのせいか、咸陽の城下町は普段よりも賑わっているように見えた。

「あ、信さま!」

回廊を歩いている信の姿を見つけ、涵が笑顔で駆け寄って来る。いつもは二つ結びにしている髪が、今日は一つ結びになっていた。

信は彼女がくれた絹紐のおかげで命拾いしたことを思い出し、唇に苦笑を浮かべた。

「よお、涵。元気だったか?」

頭を撫でてやると、彼女は後ろで一つに括られている自分の髪を指さした。

「お姉さんみたいでしょ?」

「そうだな。いきなりどうしたんだ?」

いつもは髪を二つ結びにするのがお気に入りだと話していた彼女が珍しいと信は目を丸めた。

「私、もうちょっとしたらお姉さんになるの!」

その言葉に信は疑問符を浮かべた。涵が嬉しそうに、奥の部屋で女性たちに織り機の使い方を指導している燈の方を見やったので、納得したように頷く。

「そうか…」

燈はあと数か月後に出産を備えている。
この芙蓉閣では一番若い年齢だと言っても良い涵に、いよいよ妹分か弟分が出来るのだ。きっと嬉しくて堪らないのだろう。

信は懐から絹紐を取り出した。

昌平君が涵から買い取った絹紐は、今は信の髪に結ばれている。今、信が手にしているのは、シンにお守りとして渡した方だ。

もしも宸がこの絹紐を、昌平君に信の居場所を知らせるために使ったのだとしたら、間違いなくこれはお守りとしての効力を発揮したに違いない。

宸や他の子供たちの命を救ってやることは叶わなかったが、子供たちに助けられたこの命を大切にしていかなくてはと信は改めて思うのだった。

「…ほら、後ろ向け」

侍女に頼んで血を洗い流してもらった青い絹紐を、信は涵の髪紐の上から結んでやった。

「涵」

名前を呼ぶと、涵は不思議そうに円らな瞳をさらに丸くする。
身を屈めて、信は彼女を真っ直ぐに見つめた。

「宸は…」

「お兄ちゃん?戻って来るの?」

満面の笑みを向けられて、信は言葉を詰まらせた。

このままでは嘘を見破られてしまうと思い、彼女は空を見上げる。雲一つない、どこまでも青い空だった。

「…今な、飛信軍の下っ端としてこき使ってやってるんだ。だから、もうここには戻って来ない」

「えーっ」

納得いかないのだろう、涵が頬を膨らませた。彼女の小さな頭を撫でてやりながら、信は笑みを繕った。

「宸が一人前になるまで、俺が厳しく育ててやるから、心配しなくていい。な?」

目を覗き込みながら言うと、涵はしぶしぶ納得したように頷いた。

「この紐も、お前が持ってて欲しいんだとよ」

髪に結んでやった青紐を指で撫でつけながら信が言うと、涵は再び頬を膨らました。

「お守りで作ったのに!」

「ああ、そうだよな…でも、お前に持っててもらいたいんだとよ」

信の言葉を聞き、涵はようやく笑顔を見せてくれた。

「…会えなくても心配すんなって、言ってたぞ」

そう言うと、涵はぱちぱちと瞬きを繰り返した。それから涵は、信に抱き着いた。
目を閉じて、信の薄い腹に耳を押し当てている。

子供というのは案外鋭いものだ。まさか宸が殺されたことを察したのだろうかと信は不安を抱いた。

しかし、顔を上げた涵は笑顔で口を開く。

「お兄ちゃんなら、ちゃんとここにいる・・・・・よ?」

「え?」

「大丈夫!私、みんなのお姉さんになるから!」

彼女が話す言葉の意味は分からなかったが、悲しんでいる様子がないことに、信はほっとする。

 

…その後、信の懐妊が分かり、昌平君が誰にも見せたことがない驚愕と喜悦の表情を見せたというのは、また別のお話。

 

昌平君×信のBL話はこちら

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芙蓉閣の密室(昌平君×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ミステリー/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は軍師学校の空き教室の後日編(恋人設定)です。

芙蓉閣ふようかく:咸陽にある信が立ち上げた保護施設。戦争孤児や行く当てのない女子供を保護している。元は王騎と摎が住まう予定の民居だった。名前は王騎が生前好んでいた花から信が名付けた。

 

チョウ:芙蓉閣に保護された女性。現在は芙蓉閣に住まう女性たちに織り子の仕事を教えながら、まとめ役を担っており、信からの信頼も厚い。商人の夫がいる。

 

シン:芙蓉閣で失踪した男児。芙蓉閣に保護された戦争孤児で、信を姉のように慕っており、飛信軍に入ることに憧れていた。

 

ハン:芙蓉閣で生まれた少女。宸の妹のような存在で、失踪した彼の行方を案じている。手先が器用で織り子の仕事を手伝っている。

 

肖杰ショウヒャク:太后が後宮権力を思うままに操っていた時代に、後宮に務めていた宦官の医者。後宮を追放され、現在は咸陽で街医者として働いている。民たちから慕われており、芙蓉閣の出入りも許されている。

前編はこちら

後宮を追放された街医者

昌平君と別れ、信は咸陽の城下町にある診療所へと向かった。

元は後宮に務めていた宦官の医者である肖杰ショウヒャクの診療所に到着した信は、思わず小首を傾げてしまった。

家格を象徴する屋敷の大門にはほとんど装飾がされておらず、門の前には階段もない。

それどころか、彩色のされていない灰色の瓦で作られた屋根を見れば、医者という立場でありながら、他の民たちと何ら変わりない大きさの民居である。

「肖杰はいるか?」

扉に取り付けられている銅製の取っ手を台座に叩きつけると、鈍い音が響いた。呼び鈴の役割も担っているその音を聞きつけ、少ししてから門が開かれる。

「はい。どちら様で?」

現れたのは初老の男だった。屋敷の外装と同じで派手ではないものの、小綺麗な格好をしている。ほっそりとした体格で、気の弱そうな顔をしていた。

「飛信軍の信だ。街医者の肖杰ってやつに聞きたいことがある」

秦国の大将軍の名前を聞き、その気の弱そうな男はぎょっと目を見開く。それから急に膝をついて頭を下げたので、信も驚いた。

「信将軍自らおいでくださるとは…このような街医者に何用でございましょう」

その言葉に、信はこの初老の男が肖杰なのだと理解した。

「そういう堅苦しいのはいい。患者が来てないなら、少し話をしても良いか?」

肖杰はもちろんですと頷いた。

「もう少ししたら病人の家へ往診へ行く予定でしたので、それまでの間でしたら…」

「悪いな」

「いいえ。夕刻まで戻らぬところでしたので、入れ違いにならなくて良かった」

すぐに肖杰は信を客間へと案内してくれた。

 

街の診療所だと聞いていたが、この民居の一室を診療所として提供しているだけで、入院させるような部屋は用意していないらしい。

(こいつ、左足が…)

客間へと案内するために回廊を歩いている肖杰が、左足を引きずっていることに気付いた。

太后が後宮権力を意のままに操っていた時代に、彼は何か失態を犯して後宮を追放になったと聞いていたが、その際に罰を受けたのだろう。

今は着物で隠れているが、腱を切られたか、骨を砕かれたかどちらかに違いない。

追放になったとはいえ、医者という職業はどこでも重宝される。足が不自由でも、食べていくには困らないのだろう。

(色んな部屋があるな…)

芙蓉閣ほどではないが、そこらの民が住まう屋敷より広かった。

しかし、自ら来客を案内しているところによると、助手の一人もいないようだ。敷地の中には他の者の気配もなく、どうやら妻子もいないらしい。外出中なのだろうか。

その足では随分と不便に違いない。食うに困らない職をしているのならば、使用人の一人でも雇えば良いのにと信は考えたが、彼にも都合があるのだろう。

(…なんか、嫌な臭いだな…)

屋敷の敷地内には独特な匂いが漂っていた。どこかに薬草を植えているのかもしれない。
身体が丈夫で病とは縁がない信に、薬草の匂いは耐性がなかった。

客間に通されると、肖杰が茶の準備をしようとしたので、不要だとすぐに断った。

木製の椅子に腰を下ろし、信はまじまじと肖杰を見る。

「…そういや、あんたと顔を合わせるのは初めてだったな」

「戦でご活躍をされている信将軍ですから、私のような街医者とはご縁が無くて当然です」

穏やかな声色で肖杰が答える。

「芙蓉閣の女子供も診てくれてるんだろ。あそこは俺が立ち上げた施設だからな、いつか礼を言おうと思ってたんだ」

とんでもございませんと肖杰が頭を下げる。随分と腰が低い男だ。

「将軍たちが戦で命を張って国を守ってくださるように、私も医者としての責務を果たしているだけです」

髭も薄く、声も僅かに高くて中性的だ。そして、彼がこんなにも物腰柔らかなのは、宦官として男の生殖機能を失った影響なのだろうか。

「それで、本題だ」

声を低くした信に、真剣な眼差しを向けられたことで、肖杰がごくりと生唾を飲み込んだ。

 

「ここ最近、芙蓉閣でガキが十人行方不明になってる。お前のとこに、菓子をもらいに来たりしなかったか?」

その問いに、肖杰はすぐ首を横に振った。

「いえ…常備薬を渡す以外で、最近は…私の方も少々忙しくて、診療所ではなく、病人の家へ往診をすることが多く、留守にしていたものですから…」

「そうか…」

ここにも手がかりがないことが分かると、信は重い溜息を吐いた。

「いきなり押しかけて悪いな」

「いいえ、こちらこそお役に立てず…」

椅子から立ち上がると、肖杰は左足を庇いながらゆっくりと立ち上がった。

客間を後にした信は肖杰に見送られながら屋敷を出た。入って来た門を潜り、そういえばと振り返る。

「お前…ここにはずっと一人なのか?色んな患者を診てんなら、助手の一人くらい雇えばいいだろ」

人を雇わないのは彼にも都合があることなのだろうが、左足の不自由を考えると、信はやはり心配になった。

必要なら支援の手配をしようかとも考えたのだが、肖杰は薄い笑みを顔に貼り付けて首を横に振った。

「後宮を追放となった罪人が一人でいるのは、相応しい処遇でしょう」

「………」

そう言われてしまえば、信は言葉を返せなくなる。

一人と言い切ったことから、恐らく妻子とも離れ離れになってしまったのだろう。

後宮を追放されてから一人で仕事をこなすのは、彼にとって罰を受けているのと同等らしい。

然るべき罰はもう受けただろうに、肖杰自身は未だ自分を許そうとしていないのだと察した。

どのような罪を犯したのか、さすがに本人に聞くのは野暮だろう。

「…そうか」

それ以上、信は彼に質問をしなかった。

「邪魔したな。これからも芙蓉閣のことを頼むぜ」

「ええ、もちろんです。それでは…」

肖杰が門を閉める時、信ははっと目を見開いた。

彼の背後に見覚えのある子供たちの姿が見えたからだ。

「待っ…!」

手を伸ばすが、肖杰は気づかずに門を閉めてしまった。

(見間違い…だったか?)

思わず目を擦る。将として戦場に出ているせいか、いつだって人の気配に敏感な信だが、敷地内に子供たちがいた気配は少しも察せなかった。

「………」

やはり、気のせいだったのだろうか。
信は後ろ髪を引かれる思いを断ち切るようにして、馬に跨り、診療所を後にした。

 

侵入捜査

一度芙蓉閣に引き返した信だが、先ほどの肖杰の屋敷で見たあの光景を忘れることが出来なかった。

回廊の柱に寄りかかりながら、信はずっと考えていた。

「………」

案内されたのは客間だけだったが、回廊を歩いている時には幾つもの部屋があった。

追放をされなければ、本来は後宮での任期を終えた後、あの屋敷に家族水入らずで暮らすつもりだったのだろう。

使われていなさそうな部屋もあったが、処置に必要な道具や医学書だったり、たくさんの物を置いているのかもしれない。

(…まさか)

信が訪れていない他の部屋に、子供たちがいるのかもしれない。

あの時に見た子供たちの姿が幻の類だったとしても、手がかりなら何だって欲しいし、納得するまで調べないと自分を納得させることは難しそうだった。

―――…気をつけて行け。何か手がかりを掴んでも、一度引き返せ。独断での行動は控えろ。

昌平君の言葉を思い出すが、今の時点では、まだ何も手がかりを掴んでいない。

もう一度、彼の屋敷に行って部屋を見せてもらうことは出来ないだろうか。

こちらが疑っていると分かれば肖杰も良い気分はしないだろう。しかし、子供たちがどこかの部屋に閉じ込められているのならば、それを隠される前に見つけ出す必要がある。

肖杰が不在の時間を狙って屋敷に侵入することは叶わないだろうか。もちろん家主の留守中に忍び込むのは道徳に反した行為であると自覚はある。

常備薬を受け取りに来たとでも言って、用事があるフリをして侵入するべきか。だが、肖杰の目があるうちは他の部屋の侵入は難しいだろう。

 

「信さま」

悶々と侵入経路について考えていると、チョウの声がした。盆に茶の入った器が載っている。茶を淹れて来てくれたようだ。

「悪いな」

いいえと燈が穏やかに微笑む。

「肖杰の屋敷に行って来たんだが、あいつも特に知らねえみたいだった」

「そうですか…」

切なげに眉根を寄せて、燈が頷く。

「最近は先生も往診でお忙しいようですね。他の者から聞きました」

「往診…ああ、そういや俺と会った後も往診に出掛けるって言ってたな」

「この芙蓉閣にも頻繁に来て下さって、子供たちが怪我をしたら、甲斐甲斐しく面倒を見てくれていたんですよ」

ふうん、と信が頷く。

気の弱そうな男ではあったが、やはり医者として人助けをしたいという信念は強くあるのだろう。芙蓉閣にいる女子供からも大いに慕われているらしい。

シンが城下町で貴族の子供たちと大喧嘩した時も手当てをしてくだったんです」

「ああ、噛みついて泣かせてやったって言ってたな」

思い出し笑いをしながら信が言うと、燈も静かに口角をつり上げた。

燈までもが信頼を寄せている医者だが、信の中にはずっと引っ掛かるものがあった。それはやはり先ほどの、屋敷を出る時に見た子供たちの姿である。

信が複雑な表情を浮かべていることに気付かず、燈が言葉を続けた。

「先生もあまりお体が強くないのに、重い葛籠を背負って、芙蓉閣まで往診にいらしてくれるんですよ」

「あの足でそんなことしてるのか?」

後宮追放の処罰を受けた左足を引き摺りながら、まさかそんな重労働を続けていたのかと信は驚いた。

「え?足ですか?」

不思議そうに燈が聞き返したので、信は頷いた。

「あいつ、左足を引き摺ってるだろ」

信が屋敷に訪れた時に、左足を庇うようにして歩いていた肖杰の姿を思い浮かべながら言い返すと、燈が何か考えるように小首を傾げていた。

「いえ…そんなことはなかったと思うのですが、どこかでお怪我をされたのでしょうか?」

「………」

自分よりも肖杰と面識のある燈が、彼の左足のことを知らないはずがない。もしかしたら普段は左足の痛みをさほど感じていないのだろうか。

「…悪い。やっぱり、もう一回肖杰の屋敷に行って来る!」

何か違和感を覚え、信はすぐに肖杰の屋敷へと引き返すことを決めた。

 

今は患者の家に往診へ行き、不在にしているはずだ。

わざわざ芙蓉閣に引き返さなくても、肖杰が外出するのを分かっていたのなら、屋敷の近くで待機していれば良かった。しかし、彼が戻って来るという夕刻まではまだ時間がある。

愛馬の駿を走らせればすぐに到着する距離なのだが、もしも彼が戻って来た時に厩舎に見知らぬ馬がいることを怪しまれてはまずいと思い、駿は同行させなかった。

厩舎にいる駿から、まるで自分を置いていくのかとでも言わんばかりの悲しい視線を向けられて、信はばつが悪そうな顔をした。

「すぐ迎えに来てやるから、ここで待っててくれよ」

宥めるように駿に声を掛けると、駿が不満げに嘶いた。いつも一緒にいてくれる相棒に嫌われるのは信としても気分が良いものではない。

「…そんじゃあ、これを人質・・として置いてく」

信は髪を結んでいた青い絹紐を解くと、駿の手綱にきつく結びつけた。ハンからの贈り物だが、大切な品であることには変わりない。

「必ず迎えに来る約束の証だ。これでいいだろ?」

駿のたてがみを撫でつけながら言うと、渋々納得してくれたように耳を動かしていた。

(急ぐか)

信はすぐに芙蓉閣を出て、肖杰の屋敷を目指した。

 

人通りの多い城下町だが、診療所でもある屋敷は端の方にある。人目を気にしながら、あまり人通りの少ない裏路地を通って、信は肖杰の屋敷の裏に回った。

先ほど肖杰を訪ねた時に通った正門よりも狭い門を見つける。正門と同じで、装飾が一切ない簡素な門だった。

試しに手で押してみるが、門が開く気配はない。

(さすがに開いてねえか…)

予想はしていたが、内側から鍵が掛けられているようだ。

この裏門はあまり手入れが行き届いていないようだ。門も壁も随分とくたびれていて、欠けている部分もある。

「………」

壁の欠けている部位をまじまじと観察した信は、良い足場になりそうだと考える。

(飛び越えるか)

辺りを見渡して、誰もこの場にいないことを確認すると、門から距離を取った。

「―――ふッ!」

助走をつけて、欠けている壁の一部に足を掛けた信は、大きく飛び上がった。瓦の屋根を掴み、腕力だけで自分の体を持ち上げる。

「よっ、と…」

敷地内に足をつくと、信は長い息を吐いた。薬の独特な匂いが再び鼻を突いた。

内側から鍵の役割をこなしている閂を外そうと考えたが、屋敷を出た後に裏門の鍵が開いていることを、肖杰が不審がらないように触れないでおいた。

(まだ戻って来てねえな)

気配を探るが、肖杰は往診に出たようで敷地内に気配はない。

シン、いるか?」

声を掛けながら、信が回廊を進んでいく。
客間以外の部屋の扉を次々と開けて中を覗き込む。部屋を見て回ったが、子供たちの姿はどこにもなかった。

(やっぱりここにはいないか…)

やはり、肖杰の屋敷を出た時に見た彼らの姿は見間違いだったのだろうか。諦めて信は往診に出ている肖杰が戻って来る前に、屋敷を出ようとした。

「え?」

その時、後ろから誰かに着物を引っ張られたような気がして、信は反射的に振り返る。

(なんだ?風か…?)

最後に覗いた部屋から風が吹き抜けた。導かれるように信はもう一度その部屋の中を覗き込むと、窓が開けっぱなしになっていた。

たくさんの木簡が棚に敷き詰められていて、机には筆や木簡が置かれている。どうやらここは書斎として使っているようだった。

「ん?」

読みかけだったのだろうか、机に広げられている木簡が目に留まった。随分とくたびれていて、墨も掠れていることから、かなり年季の入った古書だと分かる。

びっしりと字が書き込まれており、恐らく医学に関することが記されているのだろうと思った。

医学に関しては全く知識がないこともあって、まるで読む気にはなれない。しかし、信は妙にその古書が気になった。

養子として引き取られてから字の読み書きは一通り教わったが、専門知識に関しての用語はさっぱりだ。

読み取れる文字だけを目で追っているうちに、信の顔色はみるみるうちに曇っていった。

「…なんだ、これ…」

古書に記されていたのは、信が一度も聞いたことのない話だった。しかし、これが医学に関する知識でないことは明らかである。

思わず生唾を飲み込んだ。

子供たちの失踪がこの木簡に関する内容と関わりがあるかもしれない。信は冷や汗を浮かべた。

こんなの・・・・を知って、肖杰の野郎は…)

手に取ったその木簡を読み続けていると、扉の方から物音が聞こえ、信は弾かれたように顔を上げた。

そこには、夕刻に戻ると話していたはずの肖杰が立っていた。

迷信

「あ…」

まずった、と信は顔を強張らせる。
夕刻まで戻らないと聞いていたので、まさかこんなに早く戻って来るとは思わなかった。

古書を読むのに夢中になっていて、近づいて来る気配に気づけなかったのだ。信の失態である。

驚愕のあまり、手から古書を滑り落としてしまい、乾いた音が室内に響き渡った。

心臓が激しく高鳴る。不法侵入が気づかれたことに関する焦りではない。

この古書に記されている内容を彼が行おうとしている、あるいは既に実践したことを気づいてしまったからである。

「忘れ物を取りに来たのですが…信将軍、ここで何を?」

背中に大きな葛籠を背負っている肖杰は、落とした古書に視線を向けながら、信へ静かに問い掛ける。

無断で屋敷に立ち入ったことを咎めることもせず、まるで世間話でもするような、穏やかな表情を浮かべていた。

「ッ…!」

質問には答えず、背中に携えている剣を掴みながら、信は肖杰を睨み付けた。睨まれた肖杰は少しも怯む様子を見せない。

「お前…これはなんだ?」

鞘から刃を引き抜いた信は、肖杰に鋭い切先を突きつけながら、床に落ちている古書に視線を向けた。

―――男児の心臓を食えば失われた器官が再生する。女児の子宮を食えば寿命が伸びる。

古書にはそのように記されていた。

こんな内容、迷信にしたって一度も聞いたことのない話だ。どこから出回った情報なのだろう。

刃を向けられているにも関わらず、肖杰は少しも取り乱す様子がない。床に落ちているその木簡を拾おうと、彼はゆっくりと身を屈めた。

 

「うぅ…」

後宮で処罰を受けた左足が痛むのか、膝を擦っている。

「…?」

着物越しに擦った箇所に赤い染みが出来ている。床に小さな血溜まりが作られているのを見て、肖杰の左足から出血していることが分かった。

彼が後宮を追い出されたのは、少なくともここ最近の話ではない。太后がまだ後宮権力を好きに振るっていた時代に追い出された聞いていたから、左足の傷はもう塞がっていてもおかしくない。

しかし、屋敷に戻ってチョウから話を聞いたが、彼女は肖杰の左足のことを知らなかった。
新しく怪我でもしたのだろうか。それにしても床に血溜まりを作るほどの傷ならば、相当な深手だろう。

「ああ、すみませんがね、少し手当てをさせてください」

「………」

信に刃を向けられたまま、肖杰は不自然なほど笑顔を浮かべながら、背負っていた葛籠を床に降ろすと、近くにあった椅子に腰を下ろした。

「一週間ほど前の傷なんですが、なかなか治りが悪くて…」

葛籠を開けて、中を漁っている。葛籠の中には漆塗りの薬箱や処置に必要な道具が入っていた。

左足の着物を大きく捲ると、脛の辺りに包帯が巻かれており、赤い染みが出来ているのが見えた。後宮で受けた古傷が開いたのではなく、新しい傷だとすぐに分かった。

「!」

慣れた手つきで包帯を外していくと、そこには咬み傷があった。

獣に噛まれたものではなく、人間の歯形だと分かり、信は全身の血液が逆流するような感覚に襲われる。

肌に深く刻まれた上下の歯型に沿って血と膿が溢れている。傷口が化膿しているのか、周辺も赤く腫れ上がっており、見るだけで痛々しかった。

信が驚いたのはそれだけではない。てっきり足を引き摺っていたから、後宮で処罰を受けたのだとばかり思っていたのだが、捲った着物の下にあるのは咬み傷だけ・・・・・だったのだ。

「おいッ!どういうことだッ!」

大股で近づいた信は、剣を持っていない反対の手で肖杰の着物をさらに捲り上げる。膝を見るが、やはりそこにも傷はない。

彼が足を引き摺っていたのは、この咬み傷のせいだったのだ。

肖杰の処罰は後宮追放だけであったと分かると、信は痛々しい咬み傷を睨み付ける。
傷の小ささから、大の大人ではなく、子供が噛んだものだとすぐに分かった。

―――貴族の奴らがうるさいから、噛みついてやったら、泣き喚いて逃げてったんだ!

城下町で貴族の貴族の子供たちから心無い言葉を向けられたことで大喧嘩し、仕返しに噛みついてやったのだと誇らしげに話していた宸の姿を思い出す。

一週間前・・・・…?」

肖杰が先ほど話した言葉が引っかかり、信は嫌な汗を浮かべた。

確か、最後に失踪した子供…宸がいなくなったのも一週間ほど前だ。これは偶然なんかじゃないと信の心が叫ぶ。

 

怪奇

肖杰の左足についている咬み傷が、宸が抵抗の際につけたものだとすれば、そう考えるだけで信の背筋はたちまち凍り付いた。

「…まさか、お前…食った・・・のか?」

自分でも驚くほど、その声は冷え切っていた。剣を持つ手が震え、肖杰に向けている切先までもが揺れ始める。

椅子に座りながら懐紙で傷口を止血している肖杰がゆっくりと顔を上げる。

「宸や、他のガキどもを、殺して…食ったのか?」

信の言葉を聞き、それまで穏やかな表情を浮かべていた肖杰が、急に血走らせた双眸を向けて来た。

「ああ、食ってやったさ!」

まるで人が変わったように肖杰が声を荒げたので、信は思わず肩を竦ませる。こちらの問いに肖杰が肯定したことを、すぐには信じられなかった。

殺しただけではなく、まさかあの古書に書いてあることを鵜呑みにしたというのか。

男児の心臓を食えば失われた器官が再生する、女児の子宮を食えば寿命が伸びる。

まさかそんな馬鹿な迷信を信じて、十人もの子供たちの命を奪ったのか。いや、もしかしたら信が知らないだけで、芙蓉閣以外の子供たちの命までも奪ったのかもしれない。

「――――」

驚愕のあまり、信の喉は塞がってしまい、言葉を失っていた。

凍り付いたかのように動けなくなった信に、肖杰が笑い出す。男としての生殖機能を失ったせいなのか、耳につく甲高い笑い声だった。

「あのガキどもッ!私の、私の前で、薪を割る・・とはしゃいで、指を切って・・・、斧の刃が欠けている・・・・・と言って、私を、私を侮辱したんだッ」

笑いながら怒鳴り散らす肖杰は、本当に狂っているのかもしれない。

割る、切る、欠ける。これらは宦官であること、つまり生殖機能を失ったことを恥じる男に対して禁句とされている。男性器を失った時のことを連想させるからだろう。

涵の話では、薪割りや他の仕事を手伝えば肖杰がおやつをくれると言っていた。この広い屋敷で仕事をこなしながら生活するにあたり、相手が子供でも、やはり人手は欲しかったのだろう。

しかし、子供たちがわざとそんな言葉を並べたはずがない。

全員まだ年端もいかぬ子供たちで、宦官とは何かさえ分かっていない者だっていたはずだ。肖杰が宦官であることを恥じている理由など、子供たちが知る由もない。

そんなことも冷静に考えられず、自分を侮辱していると思い込んだ肖杰はよほど宦官であることを恥じているのだろう。

この古書を所持していると知った時点で、本性に気づくべきだったのだ。

今まで肖杰の悪事に気付かなかったのは、彼の前で禁句を言わない限り、親切な街医者でしかなかったからだろう。

殺された子供たちの共通点は、母親がいないことだと思っていたが、それは本当に偶然だったらしい。

肖杰に殺された子供たちの本当の共通点は、その禁忌を口にしてしまったことだったのだ。

 

「そんな理由でッ…!」

信は悔恨のあまり、奥歯を噛み締めた。
彼女の言葉が気に障ったのか、肖杰が鬼のような形相を浮かべる。

「そんな理由だとッ!?」

「うッ!」

床に落ちていた古書を顔面に投げつけられ、信は視界を遮られてしまう。まさか反撃をされるとは思わず、油断してしまっていた。

その弾みに剣を手放してしまい、信はすぐに拾い上げようとした。

憤怒のあまり左足の痛みを忘れているのか、肖杰に思い切り体当たりをされ、信は床に倒れ込んでしまう。

強く背中を打ち付け、信はむせ込みながら立ち上がろうとする。

しかし、それよりも早く肖杰が乗り上がって来て思い切り頬を殴られ、頭が真っ白に塗り潰された。

 

怪奇 その二

視界に色が戻って来た時には、信は両腕を背中で拘束されていることに気が付いた。先ほど殴られた頬が引き攣るように痛み、口の中は血の味が広がっている。

「うぅ…」

この屋敷に来た時から鼻についていた嫌な臭いを強く感じて、信は思わず顔をしかめた。

どれだけ気を失っていたのかは分からないが、殺されはしなかったらしい。

水の入っていない青銅製の浴槽に寝かせられていることに気付き、浴室に移動させられたのだと気づく。

壁のくぼみに置かれている灯心に火が灯されていた。どうやらもう陽が沈みかけているらしい。

「…?」

すぐ傍で何かを研ぐ音が聞こえて、浴槽からそっと顔を覗かせると、肖杰が砥石を使っている姿が見えた。研いでいるのは信の剣だった。

「秦王から賜ったという剣…とても切れ味は良いでしょうが、念には念を入れておこうと思いまして」

信が目を覚ましたことに気付いたのか、肖杰は剣を研ぎながら、穏やかな視線を向ける。

(くそ…)

両腕は縄によってがっちりと拘束されている。
拘束さえされていなければ、すぐにでも剣を奪還し、この男を叩き斬っていただろう。

「!」

縄を解こうと腕に力を込めていると、寝かせられている青銅製の浴槽に赤い染みがこびりついているのが見えた。

それが血の痕だと気づいた信は、後処理をしやすいように、この浴室で子供たちが殺されたのだと瞬時に悟る。浴室ならば、診療に訪れた患者の目に触れることもない。

この独特な薬草の臭いは、このむせ返るような強い血の匂いを誤魔化していたのだろう。

剣の刃を研ぎ終えたのか、肖杰は切先を向けて来た。
ぎらりと光る刃に、自分の強張った顔が映っており、信は思わず生唾を飲んだ。

 

「…大将軍が急に姿を消せば、当然怪しまれる。あのガキどもとは比べ物にならない捜索が行われるでしょう」

まるで信の反応を楽しむかのように、剣の刃を彼女の首筋に宛がいながら肖杰が言葉を続けた。

「この咸陽にも荒くれ者は多くいる。民たちを守るために、その者たちと刺し違えたとでもすれば、大将軍の名誉でしょう」

「…!」

やはり自分も殺すつもりなのだと信は目を見開いた。ご丁寧にも、大将軍としての名誉ある死を偽ろうとしているらしい。

剣の柄を握り直しながら、肖杰が口の端をにたりと吊り上げる。血走った瞳と目が合うと、背筋に氷の塊を押し当てられたような感覚に襲われた。

「古書には女児の子宮とあったが、あなたのような女性を食らえば寿命も多く伸びるでしょう」

その言葉を聞いて、信の顔が引きつった。殺されるだけじゃ済まないのだと分かり、冷や汗が止まらない。

戦場で戦っている時とはまた違う命の危険を感じ、全身がこの男に対する拒絶を剥き出しにしていた。

「お前…どこまで、あのバカな迷信を信じて…」

両腕が拘束されているのだから、逆上すればろくな抵抗も出来ずに殺されることは信も分かっていた。

しかし、そう言わずにはいられなかった。

殺されるかもしれないという恐怖より、彼が迷信を信じて子供たちの命を奪った非道さに憤怒していた。

バカな迷信という言葉に反応したのか、肖杰が胸倉を掴んで来た。視界いっぱいに彼の凄んだ顔が映り込む。

「…この世で最大の親不孝がなにか分かるか?」

今の彼に余計な口を出せば、すぐに首を掻き切られて臓器を食われるだろう。信は下手なことを言えず、沈黙を貫いた。

「…跡継ぎがないことだ。子孫が絶えれば、死後の祀りをしてもらえなくなる」

その言葉を聞くのは、初めてではなかった。この中華で跡継ぎを作ることは一族を繁栄させるのに必須な行為で、そしてそれは親孝行だとも認識されている。

「私に兄弟はいない。父も幼い頃、病で亡くなり、年老いた母だけ。貧しいながらも勉学に励み、後宮に務める医者になったが、今の私では子孫を作れない…」

それまで憤怒の表情を浮かべていた肖杰の瞳に、悲しみの色が浮かんだのを見て、信は息を飲んだ。

「だから…あの古書を…?」

「そうだ!男児の心臓を食らえば、私は子孫を成すことが出来る!それまでは死ねない…死ぬことは許されないッ!寿命を寄越せッ!」

もうこの男は後戻りが出来ないほど、狂気の道を進んでしまったのだと信は察した。

後宮に務めるに当たって男の生殖機能を失い、子孫繁栄を成せぬ罪の意識に苛まれたことで狂ってしまったのだろう。

「寄越せッ!私に寿命を寄越せえッ!」

肖杰が叫んだ途端、信の中で抑え込んでいた怒りが爆発した。

両手を後ろ手に拘束されており、相手が凶器を持っている状況でも、信は怯えるだけの弱い女ではなかった。

 

「このッ…バカ野郎ッ!」

信が勢いよく体を起こし、肖杰の額に自分の額を打ち付ける。

鈍い音と共に、肖杰が悲鳴を上げて仰け反り、物をなぎ倒しながら床に倒れ込んだ。彼の手から滑り落ちた剣が鈍い音を立てて床に転がっていく。

額にじんと痺れるような痛みを堪えながら、信は寝かせられていた浴槽から転がり落ち、拘束されている両手を解放しようとした。

「くそッ…」

しかし、両手首を一括りにしている縄は頑丈で、一人では解けそうにない。両手が使えないせいで、立ち上がって逃げることも叶わなかった。

「この女ッ…よくも…!」

「!」

倒れで込んだ肖杰は怒りで頭に血が昇っていたのか、意識を失わずにいた。立ち上がった彼は血走った瞳で信を睨み付けている。

せっかく子供たちを殺した犯人を見つけたというのに、こんなところで殺されてしまうのか。

冷や汗を流しながら、信が肖杰を見上げていると、門の方から大きな声が響いた。

「先生!お願いです!どうか診て下さい!」
「お願い!開けて!」

がんがんと銅製の取っ手を台座に叩きつける音が聞こえる。この部屋まで響いた声は高く、複数の子供の声だとすぐに分かった。

急な患者の訪問に、肖杰も信も驚いた。

「ちぃっ…」

多くの民たちに慕われている街医者の立場では、急患を断ることは出来ないのだろう。

「そこから動くなよ」

「………」

肖杰がそう言ったので、信は彼が急患の対応に行くのだと察した。その隙を突いて逃げ出せるかもしれない。

彼は懐から何か瓶を取り出すと、手巾に瓶の中身を染み込ませている。薬独特の匂いを感じて、信は思わず顔をしかめた。

「何すんだッ、放せッ」

謎の薬を染み込ませた手巾を近づけられ、信は咄嗟に顔を背ける。

しかし、後ろ手に拘束された体ではその手を突き放すことも出来ず、信は手巾で口と鼻を覆われた。

「―――ッ!」

吸ってはいけないのだと頭では理解しているのだが、当然ながら呼吸を止めるのは長く続かない。

「んぅッ」

手巾に染み込んだ謎の薬を吸い込んでしまう。つんと沁みるような匂いが鼻腔を突き抜けた途端、信の喉に焼けつくような痛みが走りった。

それだけではなく、目の前がぐらぐらと揺れ始める。

(なんだッ…これ…)

信が薬を吸い込んだのを確認した肖杰はようやく手巾を離す。

 

「…ここから逃げ出そうとしたら、生きたまま子宮を抉り出して、お前の目の前で食ってやる」

低い声で囁き、肖杰は足早に浴室を出て行った。幸いなことに剣は床に投げ捨てられたままだった。

「―――ぁ、……ッ!」

焼けつくような痛みが喉から引かず、声を出そうとしたが、掠れた空気が洩れるばかりだった。

(くそ…!)

薬で喉を腫らされたのだと理解し、助けを呼ぶことが叶わないことを悟る。

眩暈も止まらず、信は気持ち悪さのあまり吐き気が込み上げて来た。

しかし、ここでじっとしている訳にはいかない。急患の対応を終えて肖杰が戻ってくれば、その時こそ彼は自分を殺すに違いない。

「…!」

床に転がったままの剣を見つけ、信は身を捩った。鞘から剥き出しになった刀身で縄を切ろうと、背中で縛られた両手首を近づけ、縄を切ろうとする。

少しでも縄が緩まればあとは自力で解くことが出来る。

(痛ッ…)

腕を動かすと縄で縛られている手首の近くに鋭い痛みが走った。背後で腕を縛られていることもあり、上手く縄を切ることが出来ず、刃が違う部位を傷つけたのだ。

剣の切れ味の鋭さは持ち主である自分が一番よく知っている。さらに肖杰によって研がれた刃は持ち主にも牙を剥いた。

しかし、痛みによって意識に小石が投げつけられ、眩暈が少しだけ和らぐ。

腕にいくつもの傷を作りながら、どうにか縄を切り、信は両腕が自由になったことを実感した。

床に血溜まりが出来ていたが、気にしている時間はない。

早くここから逃げないと肖杰が戻って来てしまう。先ほどよりも和らいだとはいえ、未だ続く眩暈のせいで、まともに剣を振るう自信はなかった。

(ち、くしょ…)

ふらつきながら立ち上がると、和らいだはずの眩暈が再び大きくなる。思わず剣を手放してしまいそうになり、信は両足に力を込めた。気力だけで意識を繋ぎ止めているようなものだった。

浴室の床に葛籠が置いてあるのが見えた。

肖杰が往診に行く時に背負っていたもので、中に漆塗りの薬箱だったり、処置に必要な道具が入っていたはずだが、今は空っぽだった。

子供一人なら余裕で入れそうな大きなをしている。大人であっても、体を部品を切り刻んで詰め込めば余裕で入るだろう。

浴槽と同じように内側に赤い染みを見つけ、まさかと信は息を飲んだ。

(芙蓉閣へ往診に来る時も、この葛籠を背負ってたんなら…)

血の痕があることから、既に事切れた状態で葛籠に詰め込まれて、あるいは今の信のように薬で声を出せなくして、子供たちは人目につかないように運ばれたのかもしれない。

もしかしたら、おやつをもらいにこの屋敷にやって来て襲われたのかもしれないが、芙蓉閣で失踪した子供たちの目撃情報がなかったことは、この葛籠で運んだことが関係していそうだった。

(あの野郎ッ…!)

信の胸が殺意でいっぱいになる。薬を使われていなければ、すぐにでも彼のことを叩き斬っていただろう。

しかし、今は堪えて逃げねばならない。自分が殺されてしまえば、失踪した子供たちの死の真相は闇に葬られてしまうのだから。

眩暈が止まらず、吐き気が込み上げて来た。痛みで眩暈が和らいだことを思い出し、信は意を決したように大きく息を吸い込む。

 

(ぐうッ…!)

迷うことなく、彼女は自ら右の太腿を傷つけた。

激しい痛みに信は座り込んでしまいそうになったが、歯を強く食い縛って耐える。痛みに意識が向けられ、眩暈が大きく和らいだ。

(今は、ここから逃げねえと…)

この屋敷は人通りの多い城下町に位置している。屋敷さえ脱出できれば、肖杰もさすがに追っては来ないだろう。

壁に手をつきながら浴室の扉を開けようとした。しかし、肖杰が通った道をいけば、戻って来た彼と遭遇してしまうかもしれない。

(どうする…)

傷つけた右足の出血が止まらず、右足の感覚が少しずつ麻痺して来た。力が抜けてしまいそうになり、立っていることも困難になっていた。急がねばならない。

「…!」

目に付いた窓から部屋を出ることにした。屋敷の構造は分からないが、窓を通れば敷地内のどこかに出る。

この足では、侵入した時のように高い壁を登ることは出来ない。どこかで身を潜めておき、閂を外して正門か裏門を抜ける方法しかないと信は考えた。

しかし、窓を通るには窓枠を壊さねばならないし、血の痕を辿って肖杰がすぐに追いつくかもしれない。だが、今さら他の脱走手段を考える時間は残されていなかった。

「ッ…」

窓に嵌め込まれている枠を壊そうと、信は剣の柄を振り上げた。右足の出血のせいか、それとも嗅がされた薬の影響か、両手に上手く力が入らない。

「…!」

そのせいで剣の柄は呆気なく弾かれてしまい、それどころか剣を落としてしまう。その音は耳を塞ぎたくなるほど、浴室に大きく反響した。

(まずい…!)

物音を聞きつけて、急患を相手にしていた肖杰が戻って来るのではないかと振り返る。
そして、その嫌な予感は見事に命中してしまうのだった。

(くそっ…!戻って来やがった…!)

ばたばたと荒々しい足音が近づいて来るのが分かり、信は思わず後退った。

血相を変えた肖杰が扉を破る勢いで部屋に入って来る。怒りのあまり、左足の怪我など少しも気にしていないようだった。

拘束が解かれて立ち上がっている信を見て、肖杰の顔が再び憤怒に染まる。

「大人しくしていろと言っただろうッ!」

背後を気にせずに怒鳴りつけるということは、急患は適当にあしらったのだろうか。

信は反射的に床に落としたままの剣に手を伸ばすが、薬を嗅がされたのと怪我のせいで、身体が言うことを聞いてくれない。肖杰の手が信の頬を殴りつける方が早かった。

「ッ…!」

一切の加減をされず殴られた信は、腫れ上がった喉のせいで悲鳴を上げることも叶わない。浴槽にぶち当り、派手な音を立てて身体が崩れ落ちた。

右足の傷も肖杰に味方したのか、いよいよ立ち上がることも叶わない。目の前がぐらぐらと揺れる。

(さすがに、もう…これ以上は…)

信は何度目になるか分からない死を覚悟した。ここは戦場でもないというのに、敵将でもない男に殺されることになるとは予想もしていなかった。

自分が殺されれば、子供たちの死の真相が闇に葬られてしまう。自分は殺されても良いが、せめて、この男に罰を与えたかった。

尊い命を奪ったこの男に重い罰を与えねば、殺された子供たちも報われない。

「先ほど言ったように、生きたまま子宮を抉り出して、お前の目の前で食ってやる」

床に落ちていた信の剣を掴んだ肖杰が不敵な笑みを浮かべる。

「…!」

彼が剣を振り上げたのを見て、信は激痛に身構えるために、強く目を瞑った。

 

救出

「ぎゃあッ!」

激痛の代わりに肖杰の悲鳴が降って来た。いつまでも痛みがやって来ないことに、信は恐る恐る目を開く。

自分を殺そうとしていた肖杰がうつ伏せに倒れており、そして、見覚えのある紫紺の着物の男がこちらを見据えていた。

「信ッ!」

紫紺の着物の男が駆け寄って来る。それまで信は術を掛けられたかのように硬直していたが、聞き覚えのある声によって、その硬直が解けた。

右手に剣を持つ昌平君の姿がそこにあった。珍しく取り乱していたのか、汗を浮かべて髪が乱れている。

「…、……」

恋人の名前を呼ぼうとした信の口からは、掠れた音しか出ない。

唇は動かしているのだが、声を出せずにいる信に気付いたようで、昌平君はすぐに膝をついて彼女と目線を合わせた。

「無事…ではないな」

声を出せないでいるところや、殴られて腫れ上がった頬と切れた唇、血で真っ赤に染まっている右足と手首の傷を見て、昌平君が眉根を寄せる。

「遅れてすまなかった」

懐から手巾を取り出すと、昌平君は未だ出血が続いている右足をきつく縛った。

 

(なんで、ここに…?)

色々と聞きたいことはあったのだが、信の胸は安堵でいっぱいで、ただ昌平君を見つめることしか出来ない。

そうしているうちに騒がしい足音や気配が増えていき、信たちがいる浴室には黒騎兵たちが集まって来た。

昌平君の近衛兵でもある彼らがいるということは、まさか救援に駆けつけてくれたのだろうか。

「きさ、貴様らッ!」

背後から斬られた肖杰は死んでいなかった。
昌平君ほどの武力の持ち主ならば、いともたやすく絶命させることも出来たはずだが、わざと致命傷には至らないように加減したのだろう。

自分の屋敷に右丞相と彼の近衛兵が駆け込んで来た状況を、肖杰が理解出来ずにいるらしい。それはもちろん信も同じだった。

「こんなことをして、ただで済むと思っているのかっ!」

血走った眼で侵入者たちを睨み付ける。しかし、兵たちに囲まれると、さすがの彼も狼狽えていた。

「私は、多くの民たちの命を救った医者だぞッ!貴様ら如きが、この私を罰するつもりかッ!」

無様に怒鳴り散らす肖杰の姿に、信は憤りを通り越して哀れみを視線を向けた。

表面上は多くの民に慕われる医者でありながら、この男は狂っていた。しかし、今この場で彼が行っていた残虐非道な行いを知っているのは信だけだ。

「っ…、……」

すぐにでも昌平君に伝えたかったが、喉の腫れが引かなければ声を出すこともままならない。

必死に何かを訴えようとしている信に気付いた昌平君は静かに立ち上がり、ゆっくりと肖杰の方を振り返った。

「…豹司牙」

「はっ」

名前を呼ばれた豹司牙が前に出る。昌平君直属の近衛兵とはいえ、まさか黒騎兵団の団長である彼まで来ていたことに信は驚いた。

「私が今斬った男は何者・・だ?」

その声は、刃のように冷え切っていた。普段から聞き慣れているはずの声なのに、信は思わず恐ろしくて身震いしてしまう。

主の問いに、豹司牙は顔色一つ変えることなく、口を開く。

「…司令官様が斬ったのは、この咸陽を騒がせている罪人・・にございます。信将軍を殺そうとしたのも、ここにいる全員が証人になるかと」

傷だらけの信の姿と、血に染まっている浴室を見渡しながら豹司牙が答えた。納得したように昌平君が頷く。

 

「ならば、これで何ら問題ない行為・・・・・・・・だと証明できたな。捕らえろ」

昌平君が指示を出すと、兵たちがすぐに肖杰の身柄を取り押さえた。

致命傷には至らない傷とはいえ、背中に大きな傷がある肖杰が兵たちの手から逃れようと暴れる。

「放せえッ!私は、私は子孫を成さない限り、死ねないッ」

「連れて行け」

騒ぎ立てる肖杰が兵たちに連行されていくのを呆然と見つめ、信はようやく安堵の息を吐いた。

(たす、かった…)

駆けつけてくれた昌平君に礼を言おうとしたのだが、それまで張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れる。

ここに来てようやく意識を手放すことを許された信が床に崩れ落ちる寸前、昌平君の両腕がしっかりと彼女の身体を抱き止めた。

 

後編はこちら

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芙蓉閣の密室(昌平君×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘・めちゃ強・将軍ポジション(飛信軍)になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ミステリー/IF話/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

このお話は軍師学校の空き教室の後日編(恋人設定)です。

 

事件の噂

軍師学校の一番奥にある空き教室。そこはいつの間にか恋人と月見酒をする場所になっていた。

信が五千人将だった頃、戦で率いていた隊を壊滅させるという失態を犯したことがあった。

養父である王騎から軍略について学んで来いと、この軍師学校に投げ込まれたのだ。あの半年間の強化合宿があったからこそ、信は大将軍の座に就いたと言っても過言ではない。

あの日々を共に過ごすうちに、軍の総司令官である昌平君と恋仲になった信は、今日もこの空き教室で月見酒をしていた。

互いにやるべきことを多く抱えているため、頻繁に会うことはないのだが、逢瀬の時はこうして共に酒を飲み、褥を共にするようになっていた。

時々、軍略囲碁を打つこともある。未だ勝てたことはないのだが、お陰で軍略についての学びが深まり、以前よりも戦での立ち回りが上手くなったと自負していた。

今や、信が率いる飛信軍の存在が秦国に欠かせない強大な戦力となっていることから、それは明らかだった。

 

その夜、軍師学校の空き教室で、二人で静かに酒を飲んでいた。

昌平君は時間を無駄にするのを好まない性格であり、何かしら思考を巡らせたり、執務に関連する木簡を読み漁っているのだが、今日は珍しく木簡を持ち込むこともなく、静かに酒を飲んでいた。

「信、聞きたいことがある」

「ん?」

月を眺めていた信が振り返り、どうしたのだろうと目を丸めた。

僅かに眉根を寄せている昌平君にじっと見据えられ、信は思わず顔をしかめる。

(待てよ、まさか…筆のことが気づかれたんじゃ…)

先日、昌平君の寝室で共に夜を明かした信は、朝になって寝台から降りた時に転んでしまったのだ。

久しぶりの再会ということもあり、会えなかった時間を埋めるように互いを求め合い、ここ最近の中で一番激しい情事だった。そのせいで足腰が立たなかったのだ。

転んだ拍子に、偶然床に落ちていた筆を額で折ってしまったのである。昌平君が愛用しているものだと知っていた信は絶望した。

泣きそうなくらい額も痛かったが、恋人の大切なものを壊してしまった罪悪感の方が上回った。自分の石頭を呪っても、筆は元に戻らない。

執務があるため、昌平君は先に出ていたので、部屋には信一人だけだった。

これ幸いと折れた筆を隠し持って、信は早々に証拠隠滅を図ろうと企んだのである。

城下町でなるべく似た色合いの新しい筆を購入し、黙ってそれを置いていったのだが、愛用していた筆が急に新品になっていたのなら誰だって気づくだろう。

謝罪もせずにいたのだから、きっとそのことを咎められるに違いないと信は青ざめた。

「い、いや…あの、あれは違うんだ!転んだ先に、偶然あの筆があっただけで、わざとじゃなくてっ…」

両手を挙げながらしどろもどろに答えると、昌平君が何度か瞬きを繰り返した。

「…何の話だ」

どうやらその話ではなかったらしい。信は「何でもない」と首を振った。

「戦で親を失った孤児はどこに集められる」

「は?なんでそんなこと…」

昌平君の口から戦争孤児の話が出て来るとは思わなかった。冗談を言う男ではないし、表情を見る限り、とても真剣であることが分かる。

その質問を信にしたのは、彼女が下僕出身だからだろう。

「どこって言われても…ふらふらしてるところを奴隷商人に捕まって、馬車に乗せられて、どっかに売られるんじゃねえのか?運が良ければ保護されることもあるだろうけどよ…」

「…そうか」

反応を見る限り、あまり欲しい答えではなかったらしい。

昌平君は寡黙な男で、感情の変化が分かりにくい。総司令官を務めている上、安易に思考を読まれぬように無意識に身体がそうさせているのかもしれないが、信は彼の僅かな表情の変化や返答の間など、些細なことから昌平君の感情が何となく分かるようになっていた。

どうして戦争孤児の話題を出したのかは分からないが、信が下僕出身であるからこそ、自分の知らない情報を持っていないか確かめたのだろう。

「ガキの頃のことなんて、あんまり覚えてねえよ。奴隷商人に目ぇつけられるよりも、野垂れ死んでいるガキの方が多いかもしれねえぜ。まあ、咸陽は大分マシになっただろうけどよ…」

「………」

口元に手を当てて、何かを考えている。彼の感情の変化には気付くようになったものの、秦軍の総司令官であり、右丞相を務めている彼の考えていることなど、信の理解には及ばなかった。

彼と今の関係を築いてから、もっと聡明な女を隣に置くべきではないかと時々思うことがある。

右丞相という地位に立つのだから、彼の妻になりたい女など山ほどいるに違いない。

蒙恬と違って少しも色話を聞かないのは、右丞相と総司令、それから軍師学校の指導者という激務のせいだろう。

こうして軍師学校の空き教室で酒を飲み交わす時や、共に褥で過ごす以外は一体いつになったら休んでいるのだろうと思うことがある。

「…これは機密事項だが、お前には言わなくてはならない。決して口外はするな」

「え?」

いきなり話を切り出されたので、信は驚いて目を丸めた。

一部の者しか知らない機密事項を自分に教えるということは初めてのことだった。昌平君の真剣な眼差しを受けて、信は思わず生唾を飲み込む。

「…ここ最近、芙蓉閣ふようかくで子供が攫われているらしい」

「なんだとっ?」

信は思わず立ち上がった。

 

事件の噂 その二

芙蓉閣ふようかくというのは咸陽にある女子供の避難所のことだ。秦王である嬴政が弟の成蟜から政権を取り戻し、その後に信が立ち上げた施設でもあった。

戦争孤児だけでなく、世継ぎを産めずに夫に捨てられた女性や、夫から逃げて来た女性、奉公先で辱めを受け、生家にも帰れない女性を主に保護している。

身籠った者もいれば、幼い子を連れて必死に生き場所を探している者もいた。

支援を提供しているのは信だけではない。信がこのような活動をしていると知った蒙恬と王賁はすぐに支援の協力に名乗り出てくれた。

后である向も、国母としての立場で協力をしてくれており、芙蓉閣は支援施設としてその知名度を上げていた。

極秘事項だというのに、昌平君が自分に話してくれたのは、信が芙蓉閣の立ち上げに大きく関わった人物だからだろう。

「なんで極秘事項なんだよ」

そのような事件が起こればたちまち噂になるはずだが、極秘事項にしている理由が分からなかった。

昌平君は机の上に手を組んで、彼女の問いに答えた。

「目撃証言が少な過ぎる。いつの間にか居なくなっていた・・・・・・・・・・・・・・という話ばかりで、そもそも人攫いなのかも未だ判別がついておらぬ」

「え…」

信が眉根を顰めると、昌平君は小さく溜息を吐いた。

「手がかりが少な過ぎて、役人も動くに動けんということだ」

芙蓉閣には、逃げ込んだ妻を追い掛けて来る夫や、自分の悪事が明るみに出るのを恐れて連れ戻そうとする男もいて、容易に外部の者が立ち入りが出来ぬよう護衛をつけている。

護衛の者たちは交代で夜通し見張りをしているのだが、不審な人物の出入りはそもそも許さないし、姿が消えたという子供が出て行く姿は見ていないのだという。

目撃情報も、芙蓉閣を出入りした不審な人物もいないことを理由に役人たちも子供たちを探す手がかりすら掴めていないのだという。

「じゃあ、消えたガキどもは一体どこに…?」

「それが分からないから私にまで話が回って来たのだろう」

昌平君がゆっくりと目を伏せた。

表向き・・・は、外出中に子供が失踪したことになっている」

「はあっ?なんで芙蓉閣内で失踪したことを隠してるんだよ」

納得出来ず、信はどういうことだと詰め寄った。

「…そのような事実が明るみに出れば、保護施設としての品性や評判に影響しかねる。それゆえ、芙蓉閣内で子供が失踪したことは、一部の者だけが知っている極秘事項だ」

「今はそんな評判なんかどうでもいいだろ!」

芙蓉閣内で子供が失踪したことを知っているのほんの一握りの女性たちと、それから昌平君の周辺の一部のみだという。

目撃情報を持つ者がいるかもしれないのに、そのような不吉な噂が出回ることで芙蓉閣の評判が落ちるより、今は失踪した子供たちの行方を掴むほうが先決だと信は反論した。失踪した子供の母親が不安で堪らないはずだ。

しかし、昌平君は眉根を寄せて静かに首を振る。

「この情報操作は独断ではない。彼女たちからの頼み・・・・・・・・・だ」

「!」

昌平君の独断ではなく、芙蓉閣の評判を落とさぬように、芙蓉閣にいる女性たちの頼みだと聞かされ、信は言葉を失った。

失踪した子供たちの生死や安否が気になるのは当然だが、それを知るためには少しでも手がかりを探さなくてはならない。

「…誰に何を言われようが、俺は捜しに行くぞ」

酔いが回っているというのに、信が空き教室を出て行こうとしたので、昌平君は彼女の手を掴んだ。

「んだよ、放せって」

「此度の件、私は奴隷商人に目をつけている」

奴隷商人という言葉を聞き、信がはっと目を見開いた。

何か思い当たる節があるのか、視線を左右に泳がせた信はゆっくりと椅子に腰を下ろす。

「……商売が干上がってる奴隷商人どもから、恨みを買ってる自覚はある」

重い口を開き、信は呟くようにそう言った。

芙蓉閣の存在が、行き場を失った女子供から重宝されているのは確かだ。しかし、同時に反対の感情を抱く者もいる。

逃げた妻や侍女を連れ戻そうとする男たちもそうだが、その次は奴隷商人だ。彼らにとって、行き場のない女子供というのは商品同然の存在である。

下僕の使い道は様々だ。農耕、荷役、徴兵、織布、家事という重労働を安い金銭で行わせることが出来るので、下僕自体の身分は低いものだとしても、需要と供給は大きく成り立っている。

女なら見目が優れていれば、娼館で買われることもある。もしも人気の妓女になれば、その売り上げの一部が手に入るので、奴隷商人にしてみれば、いつまでも金が手元に流れて来る仕組みが出来上がるというわけだ。

奴隷商人は当然ながら芙蓉閣に立ち入ることができないため、商売道具がそこにいると分かっていても、指を咥えることしか出来ない。

秦国の大将軍である信に直接文句を言いに来るような奴隷商人はいないのだが、彼らから商売道具を横取りされたと恨まれていることは分かっていた。

彼らも下僕商品を売り捌くことで生計を立てているのだから、このまま商売が干上がれば、明日をどう生きるかを考えなくてはならない。

どうやら、そのことで昌平君も奴隷商人に目をつけたのだという。

「明日には報告が入るはずだ。今は待て」

既に咸陽周辺の奴隷商人について調査を指示していたらしい。さすが仕事が早い。

「…ただでさえ忙しいのに、悪いな」

本来なら芙蓉閣を立ち上げた自分が受け持つべき話だったかもしれないと信は謝罪した。
しかし、大将軍である信には軍事力以外に人脈がない。

反対に右丞相ともなれば、県尉や県令との関わりがあり、何より顔が利くのだろう。捕吏たちに失踪した子供たちの手がかりを探させるよう指示を出してくれたことに、信は感謝した。

話し過ぎて乾いた喉を酒で潤すと、昌平君は鋭い眼差しを向けた。

「先日、私の部屋で誰かが筆を折った・・・・・・・・のも仕事に支障をきたしている。いつの間にか新しい筆が置かれていたが、使い慣れるまで時間が掛かりそうだ」

まさかここで筆の話が出て来るとは思わず、信が顔を引き攣らせる。ずきりと額が痛んだ。

「へ、へえー?新しく替える時機だったんだろ、きっと、は、ははは…」

「………」

無言の眼差しに、信は冷や汗を浮かべた。

聡明な昌平君が気づかないはずがないと分かっていたが、いざ咎められると、罪悪感で胸が締め付けられる。

「あー、もう!悪かったって!わざとじゃねえんだから怒んなよ!新しいやつ置いといたんだから良いだろッ」

白旗を上げながら逆上した信に、昌平君は静かに目を伏せる。

「…お前から初めての贈り物だな」

てっきり叱られるとばかり思っていた信は、予想外の言葉を掛けられたことに目を丸くした。

「…嫌だったか?」

「そんな訳ないだろう」

顔は相変わらず不愛想だが、声色は優しい。どうやら本当に喜んでくれているようだ。

慣れ親しんだ筆と急に別れることになったとはいえ、恋人が初めてくれた贈り物ということもあって、大切に扱ってくれているらしい。

「顔は全然嬉しそうに見えねえけどなあ」

昌平君の前にずいと身を乗り出し、信は彼の口元に手を伸ばした。両手の人差し指で口角を無理やり引き上げて、笑顔を作らせてみる。

「………」

「………」

形だけの笑顔を作らせてみたものの、信は眉根を寄せて何か言葉を探しているようだった。感想に困っているのだろう。

あからさまに狼狽えている信の両手をそっと引き剥がし、昌平君が目を反らす。納得したように信が大きく頷いた。

「やっぱり、お前が笑った顔は、たまに見るくらいがちょうど良いな」

「…褒めているのか?」

ああ、と信が頷く。

「無理に笑ってなくても、綺麗な顔してるから、いつ見ても俺は眼福だぜ?」

まさかそのような言葉を掛けられるとは思わず、今度は昌平君が目を丸める番だった。耳からその言葉が脳に染み渡るまで時間がかかった。

言葉の意味を理解した途端に、昌平君はさり気なく口元に手をやって、溢れそうになる笑みを堪えていた。

「お前という女は…」

「ん?なんか変なこと言ったか?」

信は、良い意味でも悪い意味でも、相手の心に土足で踏み込んで来る。

時々そういうところが他の男の心を刺激しないか心配になるのだが、きっと信は気づいていないだろう。本人も心に踏み込んでいることに自覚がないのだ。

「結果が出たら、すぐに報せを出す」

話を逸らすように、昌平君がそう言うと、信は大きく頷いた。

「そっちは任せた。俺は明日、芙蓉閣の視察に行って、手がかりを探ってみる。…つっても、話を聞くことしか出来ねえだろうけど」

行方不明になった子供たちの母親に会いに行くのだろう。芙蓉閣にいる女性たちや信の気持ちを考えると、引き留める理由などなかった。

 

芙蓉閣

まだ陽が昇り始める前だというのに、目を覚ました時には、隣で眠っていた昌平君の姿はもうなくなっていた。

風邪を引かぬように、しっかりと寝具を掛けてくれた形跡だけが残っていたのだが、二度寝をする訳にはいかず、日が昇り始めた頃に信は咸陽宮を発った。

しばらく馬を走らせて、芙蓉閣に到着する。見張りの兵たちは信の姿を見ると、すぐに門を通してくれた。

門を潜り、回廊を進んでいくと中央にある中庭に辿り着いた。

子供たちが楽しそうな笑い声を上げながら、中庭で走り回っている。女性たちも朝から食事の支度や洗濯など忙しそうにしている。

「信様!」

「将軍っ!」

信が来た途端、芙蓉閣にいる女性たちがざわめいた。

頭を下げようとする彼女たちに「構うな」と顔を上げさせると、信は中庭にいる子供たちに目をやった。

最後に信が視察に来たのは先の戦を終えてからであり、すでに三か月は経過している。昌平君の話だと子供たちが失踪したのはここ一月の出来事らしい。

「信様、よくおいでくださいました…」

声を掛けて来たのはチョウという女性だった。芙蓉閣を立ち上げてから、一番初めにやって来た女性でもある。

彼女は嫁ぎ先に恵まれず、夫や使用人たちからの暴力に耐え兼ね、身一つで逃げ出したのである。ろくに食事も与えられなかったらしく、咸陽で行き倒れていたところを信が保護したのだ。

今はこの芙蓉閣に住まう者たちのまとめ役を担ってくれており、幼い頃から続けている織り子の仕事もこなしていた。

絹織物の需要はどの国でも高く、織り機を使えれば仕事にありつける。
そのため燈は芙蓉閣にいる女たちに織り機の使い方を教え、絹産業の仕事に就けるよう手助けをしているのだ。

細かいところまで気が付く燈を慕う者たちは多く、信も芙蓉閣のほとんどのことを彼女に一任していた。

昨年、咸陽で名の知れた商人と婚姻をしたこともあり、この芙蓉閣を寝泊まりすることはなくなったが、夫と共に住まう屋敷はこの近くにあるのだという。

燈が何か言いたげにしていることに気付き、信は彼女と共に中庭を出て回廊を進んだ。

回廊の一番奥にある部屋に入ると、燈は暗い表情のまま、重い口を開く。

「信様がここにいらっしゃったということは…」

「ああ、昌平君…右丞相から聞いた」

右丞相に反応したのか、燈ははっとした表情になり、その場に膝をついて頭を下げようとする。

「おい、やめろ!お前、身重だろっ?」

慌てて燈の腕を掴んで立ち上がらせると、彼女の円らな瞳には涙が浮かんでいた。

今は新しい夫との命をその胎に宿しているというのに、彼女は芙蓉閣を任されている責任を強く感じているのだろう。

「居なくなったガキは?」

「…十人です。男児が六人、女児が四人。最後に消えたのは、シン。一週間前の昼のうちから姿が見えなくなりました」

「宸もか?」

子供が失踪していることは事前に昌平君から知らされていたので驚かなかったが、まさか十人もいたとは。そして宸もそのうちの一人だったことに、信は驚愕した。

宸は戦で親を失った孤児だ。橋の下で物乞いをしているところを、通りがかった昌平君直属の近衛兵である黒騎兵が保護してくれたのだ。

やんちゃな男児で、まだ十になったばかりだというのに、芙蓉閣にいる子供たちの面倒を見てくれて、兄のように慕われている子である。

何かと気が短く、喧嘩早いのは難点であったが、素直でいい子だ。それゆえ、女たちも宸を我が子のように可愛がっていた。

―――貴族の奴らがうるさいから、噛みついてやったら、泣き喚いて逃げてったんだ!

城下町で戦争孤児だとバカにして来た貴族の子供と大喧嘩をして、思い切り噛みついて泣かせてやったのだと誇らしげに勝利報告をしていた彼を、大笑いしながら褒めてやったことはよく覚えている。心根の強い男児だった。

時折この芙蓉閣に訪れる信の姿に影響されたのか、大きくなったら飛信軍に入るのだと夢を語っていた彼の姿は鮮明に信の記憶に残っている。

名前の音が同じであるせいか、妙に親しみがあって、信も年の離れた弟のように可愛がっていた。

「外部から誰かが出入りしてたワケでもないんだろ?なんで消えちまったんだ?」

信が問い掛けると、燈が神妙な面持ちで口を開いた。

「…昼間、他の子供たちと遊んでいるのは見ていたのですが、気づいたらそれっきり…」

「まさか、全員が・・・そうなのか?」

燈が頷いた。
他にも失踪した子供たちが中庭で遊んでいた姿を目撃した者は多くいる。

しかし、気づいた時には姿を消していて、芙蓉閣の中にいるとばかり思っていたのだが、夕食の時間になっても戻って来なかった。

一緒に遊んでいた子供たちも、どこへ行ってしまったのか見ていないのだという。失踪した子供たちに関する情報が少ないと言っていたのは、このことだったのか。

肖杰ショウヒャク先生のところに行ったのかと思って、お訪ねしたのですが、先生も姿を見ていないと…」

「ああ、あの街医者か」

肖杰というのは咸陽の城下町に診療所を構える街医者である。元は後宮に務めていた宦官だ。

今は雍城へ幽閉されている太后が後宮権力を意のままに操っていた頃、彼は失態を犯したらしく、それが原因で後宮を追放になったという。

自分の利になることには目ざとく、山の天気のように機嫌が変わる太后の気に触れてしまったのだろう。さすがに同情するしかなかった。

どんな失態を犯したかは知らないが、肖杰の医者としての腕は確かだ。多くの民が頼りにするほど優秀な男だと聞く。

貧しい民がいても金銭を要求することなく無償で診察や治療を行っており、大勢から慕われているらしい。

彼の優しい心根や宦官であることを理由に、信は女たちからの頼みもあって、肖杰の芙蓉閣への立ち入りを特別に許可をしていた。

許可を出しながらも、信は肖杰に会ったことは一度もない。戦で傷を受けた時は救護班か医師団の治療を受けるので、将軍である彼女は街医者とは縁がないのだ。

「時々、子供たちに先生の診療所へ常備薬を受け取るお使いを頼んでいたんです。でも、その日は先生のところにお使いを頼んだ者もいなくて…」

「そうか…母親たちも心配してるだろ」

燈が「それが」と言葉を濁らせたので、信は続きを促した。

「消えた十人は、母が居ない子たちなんです」

言われてみれば、宸も他の失踪した子供も、戦争孤児として行き場を失っていたところを保護された子たちだ。

全員が共通して、この芙蓉閣に母親がいない。

攫われたのだとしたら、その共通点は意図的なものなのか、ただの偶然なのだろうか。
今、

この芙蓉閣にいる女子供は合わせて五十人程度だ。子供はそのうちの半分にも満たなかったのだが、それだけの人数がいる芙蓉閣で目撃証言がないのは、やはり気になる。

「昌平君…右丞相も、この件については気にかけてくれてる」

大王の傍に仕えている高官が関わっていると知り、燈は驚愕の表情を浮かべた。安心させるように信が微笑むが、彼女の表情は暗いままだった。

失踪した子供たちの足取りさえ分かっていないことから、今後も手がかりが見つかるか不安なのだろう。

昌平君が奴隷商人の調査をしていることを伝えようかとも考えたのだが、あれは極秘事項だ。安易に洩らす訳にはいかなかった。

「信将軍」

扉の外から見張りの兵に声を掛けられて、信は振り返った。

「どうした」

返事をすると、すぐに扉が開けられる。
兵の後ろに見覚えのあり過ぎる顔の男が立っていて、信はぎょっと目を見開いた。昌平君だった。

「な、なんで昌平君が、ここに?」

「調査の報告だ」

報告と言われ、信は昨夜の奴隷商人の件だとすぐに気づいた。
目配せをすると、昌平君を案内してくれた兵も燈も速やかに退室していく。

後ろで扉が閉められたのを確認してから、昌平君が僅かに眉根を寄せた。その表情を見て、どうやらあまり好ましい結果は得られなかったのだと気づいた。

「…逃げられたのか?」

いや、と昌平君が否定する。

「他国の奴隷商人の仕業かもしれぬ。可能性としては、咸陽に近い楚か韓だ」

秦と国境を隔てて隣接している二国の名前が出たことに、信は胸に鉛が流し込まれたような感覚に襲われた。

言葉には出さないが、追跡は困難かもしれないと、昌平君は伝えたかったのだろう。

「…すまぬ」

昌平君の謝罪に、信は弾かれたように顔を上げた。

「な、なんでお前が謝るんだよっ!本来なら、ここを立ち上げた俺がやらなきゃいけねえことなのに…」

「………」

何か言いたげに昌平君が唇を戦慄かせたが、信は遮るようにして彼の肩を掴んだ。

「その、大丈夫だ。俺の方でも探ってみる。十人も居なくなってんだ。きっと何人かは消えた奴らを見てたはずだろ」

「ああ。捕吏たちには、引き続き手がかりを探すよう指示を出している」

どうやら昌平君は信がそう答えるのを分かっていたかのように、既に手を回していたらしい。

「ありがとな」

「………」

昌平君の眉間に寄った皺は消える気配がなかった。

「お前…笑わなくても良いけどよ、そんな顔続けてたら、皺が消えなくなるぞ?」

彼の眉間に、信が人差し指を押し当てる。ぐりぐりと皺を引き延ばすように指の腹で揉んでやると、昌平君がやめろと信の手首を掴んだ。

 

芙蓉閣 その二

部屋を出て回廊を歩いていると、昌平君が興味深そうに中庭や建物を見渡している。そういえば彼が芙蓉閣に訪れるのは、今日が初めてだと信は気づいた。

「…立派な民居だな」

褒めるように声を掛けられ、信は口元に薄く笑みを浮かべながら振り返る。

「元々は王騎将軍と摎将軍がこっちに移り住む予定だったんだ。…まあ、その予定は無くなっちまったんだけどよ」

今は亡き将軍たちの名前が出たことに、昌平君は些か呆気にとられる。

王騎と摎といえば六大将軍であり、下僕である信を養子として引き取った夫婦だ。趙の龐煖によって討たれてしまったのだが、それがなければ、ここは保護施設ではなく二人が住む民居になっていたらしい。

「…そのあと、王翦将軍が買い手になってくれようとしてたんだが、俺がワガママ言って譲ってもらったんだよ」

「……」

本来は養子である信に受け渡るものだと思ったが、王一族の本家である王翦の方が立場としては強いのだろう。それでも信の想いを考慮して、王翦は彼女に民居を譲ったのだ。

回廊を通って中庭に下りると、至る所に花が植えられていることに気が付いた。ここに住まう女たちが熱心に世話をしているのか、綺麗に咲いている。

「…それで芙蓉閣・・・か」

白や桃色の花を眺めながら昌平君が腑に落ちたように呟いた。

芙蓉とは、この中庭に咲いている花の名だ。

馬陽の戦いで没した王騎は、男にしては珍しく花を愛でる趣味があった。

王騎がまだ生きていた頃、信に軍略を学ばせてやってほしいと頼まれたことがある。その時、昌平君は王騎と信が住まう屋敷に訪れたのだが、その屋敷にもこの花が咲いていた。王騎が好んでいた花の名前を名付けたのだろう。

「父さんは、いつも風呂に花を浮かべてたからなあ」

「………」

昔を懐かしむように笑った信に、昌平君は瞬きを繰り返した。

花を愛でる趣味は知っていたが、まさか風呂でも花を愛でていたというのか。

咲いている花を眺めながら、信が花の風呂について色々と教えてくれた。王騎軍の兵たちも厳しい鍛錬を乗り越えて良い体格をしているが、彼らもその風呂に入るのだという何とも信じられない光景があったようだ。

確かに王騎からは花の香りがするとは思っていたが、まさかそんな方法で花の香りを纏っていたとは初耳だった。

「…!」

隣にいる信から、時々花の良い香りが漂って来ることを思い出し、昌平君ははっとなる。

「?なんだよ」

「いや、何でもない」

平静を装いながら返答したが、昌平君の頭は激しく動揺していた。彼女も王騎と同じように、花を浮かべた浴槽に浸かっているのだと分かったからだ。

そういえば今までも花の香りがするとは思っていたが、女物の香を焚いているのだとばかり思っていた。

互いに肌を重ねたことは何度かあったが、彼女が入浴する姿はまだ見たことがない。

愛しい者の姿、ましてや一糸纏わぬ姿なら、何度見たって飽きないし、むしろ芸術品のように隅々まで眺めたいものである。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

昌平君は煩悩を振り払うために自らの太腿を思い切り殴りつけた。鈍い音がして、信が驚いて振り返る。

「な、何してんだ?」

「気にするな。虫を追い払っただけだ」

「?」

追い払うというより確実に殺しにいった動きに、信は頭に疑問符を浮かべる。
しかし、門の向こうで馬の嘶きが聞こえたことで、彼女の意識がそちらに向けられた。

 

手がかり

「執務を抜け出して来たんだろ?悪かったな」

「これも執務の一環だ。また何か情報が入り次第、伝える」

「わざわざお前が直接言いに来なくなって、使いを出せばいいいだろ」

「………」

執務を理由に会いに来たのだと、素直に言えなかった。

この反応を見る限り、信は自分が会いに来たことを喜んでいるようには見えない。

今の彼女の頭は、失踪した子供たちに対しての心配でいっぱいになっている。それは昌平君も分かっていた。

しかし、彼女が一人で今回の件を気負い過ぎていないか、無茶な行動をしないか、心配でならなかった。余計な気遣いだと笑われるかもしれないことも十分に理解している。

(そろそろ戻らねば)

あまり馬車の騎手を待たせる訳にはいかない。他の執務も溜まっているし、そろそろ咸陽宮に戻らなくてはならないかと昌平君が考えていると、背後から何者かがこちらに駆け寄って来る音が聞こえた。

「信さまッ!」

「うおぉッ!?」

振り返ると、髪を二つ結びにしている少女が信の背中に抱き着いていた。信の腰元に頭が来るくらいの幼い少女だった。

ハンか。元気だったか?」

振り返った信が少女の頭を撫でてやりながら、信が笑顔で声を掛ける。少女の名前は涵というらしい。

後で信から聞いた話だが、奉公先の主人によって性暴力を受けた女性がこの芙蓉閣に逃げ込み、出生したのがこの少女なのだそうだ。

涵はその円らな瞳にうっすらと涙を浮かべながら、俯いた。

「宸のお兄ちゃんがね…迷子かもしれないの」

信は慰めるように、涵の頭を撫でてやった。

「お前は、妹みたいに可愛がられてたもんな」

最後に失踪したと言われている宸自身もまだ子供だったが、この芙蓉閣で過ごす子供たちからは兄のように慕われていた。

失踪した子供たちのことは、この芙蓉閣の中でも一部の者しか知らない。しかし、子供は好奇心旺盛のせいか、変化に気づきやすい生き物だ。

きっとここで過ごす子供たちには伝わっていないだろうが、それでも毎日顔を合わせていた兄妹のような存在たちが居なくなったことには気付いているだろう。

芙蓉閣で生まれた涵からしてみれば、この芙蓉閣に住まう者たちは家族同然の存在である。心配で堪らないのだろう。

「…宸も他の奴らも、きっと帰って来るから、お前はちゃんといい子で待ってろ」

信の言葉に、涵は不安げな瞳のまま頷いた。

「お兄ちゃん…先生のところに、おやつをもらいに行ったのかなあ?」

先生とは街医者の肖杰ショウヒャクのことだろう。

「おやつ?」

信が小首を傾げると、涵が「そう」とぎこちない笑みを浮かべた。

「先生、お薬だけじゃなくて、おやつも作れるの。薪割りのお仕事とか色んな手伝ったら、内緒で・・・おやつくれるの。お兄ちゃん、時々みんなのおやつをもらいに行ってたから」

その情報は知らなかった。燈の口からも聞かなかったし、もしかしたら子供たちだけの秘密事なのかもしれない。

(肖杰のとこに行ってみるか…)

おつかい以外で、子供たちが診療所に行っていたのなら、肖杰が失踪した子供たちの情報について何か手がかりを持っているかもしれない。

「そうだ!」

思い出したように涵が顔を上げた。

「あのね?これ、信さまに作ったの。今度会えたら渡そうと思って」

着物の袖から何かを取り出すと、それを信に差し出した。正絹で出来た青い紐だった。

「もしかして、涵が作ったのか?すげえな!」

受け取った絹紐をまじまじと見つめて、信が目を輝かせる。涵が嬉しそうに笑っていた。

信の方が確実に年上だというのに、その反応だけ見ればどちらが子どもか分からない。彼女が子供たちに懐かれる理由もそこにあるのだろう。

いつまでも変わらない信の無邪気さに、昌平君は思わず口元を緩ませていた。

「こんなのを作れるようになるなんて、涵もでっかくなったんだなあ」

赤ん坊の頃から涵の成長を見て来た信はしみじみと呟いた。

正絹を紐にするには手先が器用じゃないと難しい。しかし、涵が作ったというそれは品物として売っていても何ら不思議でないほど、上質に編み込まれていた。

織り子として女たちに仕事を教えている燈から作り方を教わったのだという。

「この青色も綺麗だな~」

絹紐を上に持ち上げて、陽射しに透かしながら信がうっとりと目を細める。

「…草木染か」

「草木染?」

深みのある青色を見て、昌平君が呟いた。聞き馴染みのない言葉に信が小首を傾げる。

「植物の茎や樹皮を染料として利用する方法だ」

へえ、と信が興味深そうに頷く。涵の話によれば、その方法も燈から教わったのだという。

「こんな綺麗な紐、本当に俺がもらっていいのか?売り物にした方が良い値がつくだろ。それで美味いモン食った方が良いんじゃねえか?」

少女からの贈り物だというのに、何とも思いやりのない言葉だと昌平君は苦笑した。

世辞も嘘も言えない素直さが信の魅力だと分かっていながらも、本当に鈍い性格である。

「いいの、あげる!」

信が美しい絹紐を返そうとするが、涵は決して受け取ろうとしない。どちらの言い分も分かる。

「宸のお兄ちゃんにも、お守りで同じのあげたの。だからあげる」

「でもよぉ…」

このままでは埒が明かないと判断した昌平君は、信の手から青い絹紐を奪い取り、少女を見下ろした。

「ならば私が買おう」

「えっ?」

二人が同時に昌平君を見上げる。

その場に膝をついて少女と目線を合わせた昌平君は、懐からあるだけの所持金を取り出して、小さな両手に握らせた。

見たことのない大金を、文字通り手にした涵が瞬きを繰り返している。

「で、でも…信さまにあげようと思って…」

おろおろと戸惑う涵に、昌平君は信に視線を向けてから、穏やかな顔を向けた。

「ちょうどこの者に贈り物を考えていたところだった。素敵な品を作ってくれたこと、礼を言う」

信の手元に絹紐が渡ると分かっても、こんな大金を受け取って良いのかと、涵は困惑した眼差しを昌平君と信へ交互に向ける。

「買ってもらえって!大将軍だけじゃなくて、右丞相様も気に入ってくれたんだって、どこに行っても自慢出来るぞ!」

まるで自分のことのように、信が満面の笑みを浮かべて涵の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
信に背中を押してもらったことによって、涵も嬉しそうに笑顔を浮かべた。

「ありがとう!おじさん・・・・!」

感謝の言葉と共に投げられた「おじさん」という言葉に、信が盛大に噴き出した。

 

贈り物

受け取った大金をしっかりと両手に抱えて、涵は母親の元へと戻っていった。

「ふはっ、くく…おじさん…!おじさんだとよッ…!」

彼女の後ろ姿を見送りながら、信は腹を抱えて大笑いをしている。

笑い過ぎだと鋭い眼差しを向けると、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら「悪い悪い」と少しも心の籠っていない謝罪をされた。

年端もいかぬ少女からしてみれば、昌平君の年齢の男はみんな「おじさん」に分類されるものである。

もちろん昌平君自身もそれは自覚していたのだが、信が大笑いしていることには納得がいかなかった。

「昌文君のオッサンなら分かるけどよ、…ぷッ、くく…そっか、お前も涵からしてみたら、オッサンかあ」

「…後ろを向け」

わざとらしく溜息を吐いた昌平君がそろそろ本気で怒りそうだと気づき、信は大人しく従うことにした。

後ろで一つに結んでいた髪紐が急に解かれる。

「ん?何してんだよ」

「そのまま動くな」

素直に従い、信は昌平君に背中を向けたままでいた。

解かれたと思っていた髪が、再び一つに括られていくのが分かった。

「…思わぬところで筆の礼を返せたな」

先ほど涵から買い取った青い絹紐で、信の髪を結び終えた昌平君が満足そうに呟いた。

いつもは適当な紐で括っていただけだった黒髪が青い紐で結ばれただけだというのに、上品な印象に見える。

「あ、ありがとな…」

まさか髪紐として利用するつもりだったとは信も想像していなかったらしく、彼女は恥ずかしそうに目を泳がせた。

「これからどうするつもりだ」

昌平君にいきなり今後のことを尋ねられ、信は切り替えた。

「…街医者の肖杰ショウヒャクのとこに話を聞こうと思う」

「そこに子供たちが行ったのか?」

「燈の話だと、肖杰のとこに常備薬を取りに行くよう頼むことがあったらしい。ガキ共が消えた日には頼んでなかったみたいだが…あの街医者はよくガキどもに菓子を渡してたらしいからな。大人が知らない間に、ガキどもがそれ目当てに診療所に行っていたかもしれねえ」

「………」

昌平君は口元に手を当てて何かを考えていた。

「もしかしたら、その行き帰りで奴隷商人に目をつけられたかもしれねえし…とにかく、何でもいいから手がかりが欲しい」

彼女の言葉に、昌平君は何か言いたげに唇を戦慄かせた。しかし、言葉にはせず、昌平君は真っ直ぐに信の目を見つめる。

「…気をつけて行け。何か手がかりを掴んでも、一度引き返せ。独断での行動は控えろ」

端的に用件を伝えると、信は肩を竦めるようにして笑った。

信は感情的になりやすく、怒りに自分を制御することが出来なくなることがある。もちろんそれは将としての弱点だと、彼女自身も理解していた。

今回の件も子供たちの手掛かりを掴めば、周りに相談する前に自分で解決しようと突っ走るかもしれない。

彼女一人だけで解決できる問題ならば良いが、今回の件に関しては情報が少なく、相手が複数犯なのかさえ分からない。

子供たちの安否が気になるのはもちろんだし、本当に奴隷商人の仕業ならば、彼女が簡単にやられるとは思わない。

しかし、恋人として、昌平君は彼女を危険な目には遭わせたくなかった。彼女が幾度も死地を乗り超えた強さを持っていたとしてもだ。

 

中編はこちら

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