軍師学校の空き教室(昌平君×信)後編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ギャグ寄り/IF話/軍師学校/ハッピーエンド/All rights reserved.

一部原作ネタバレあり・苦手な方は閲覧をお控え下さい。

中編はこちら

 

王騎との勝負

「では、あなたからどうぞ」

王騎はせめてもの情けのつもりなのか、先行を信に譲った。

総大将を含め、軍に見立てた駒は六ずつ。そのうち、一つは総大将の駒だ。今回設定した地形には山や川などの障害物がないため、伏兵などの作戦は通用しない。

中央で陣形を組合い、攻防戦となるだろう。先日、河了貂と信が軍略囲碁をしていた時と同じ条件の試合だった。

「………」

信は総大将以外の五つの軍に見立てた駒を横一列に並ばせて前進させた。陣形を取る様子はない。ただの前進であり、王騎の出方を見ようとしているのだろう。

どちらも真剣に囲碁台を見つめており、声を発さない。戦場にいるかのような重々しい空気が二人の間に横たわっていた。

次に王騎が駒を動かす。彼は、信とは違って五つの軍を別々に動かし始める。四つの軍を二列ずつに並べ、陣形の準備を始めていることが分かる。

横一列に並んでいる信の駒を崩そうと、四つの軍を斜めに配置させている。これは斜陣がけだと昌平君も信もすぐに気づいた。

横一列に並べた信の兵の群れに綻びを作ろうとしているのだ。

あっと言う間に横一列に並べていた信の兵たちの動きが乱れ始め、信は眉根を寄せた。このまま斜陣かけの陣形が成功されてしまえば、安易に本陣への道が開かれてしまう。

斜陣かけの陣形を成しているのは四つの軍であり、残りの軍を背後に待機させているのは、恐らく綻びが出来た途端に、本陣へ突入する役目を担う部隊の軍だ。
陣形①
「く…」

様子見のため、初歩を横一列に並べた信は悔しそうに下唇を噛み締めている。

王騎が少しも手を抜くことはないのだと信自身も分かっていただろうに、油断したという顔だ。

本陣への守りを固めるために、信は両端の軍をすぐに後ろへ下がらせる。綻びが出来たところに突撃して来る背後の軍に備えたのだ。

しかし、恐らく王騎はそれも見越していたのだろう。すぐに背後に待機させていた軍の兵力を二つに分散させた。

意図的に・・・・中央に集められた信の軍を嘲笑うかのように、王騎は分散させた兵を左右に動かす。

それまでは横一列に並んで塞がれていたのだが、中央に戦力が集まったことで、道が開けたのだ。

陣形②左右から迫り来る王騎軍の対応に兵を割かねば敗北は確実だ。

しかし、中央に集めた戦力を分散させれば、斜陣がけによって中央に大きな綻びが出来てしまい、そこからさらに本陣を攻め立てられるだろう。

囲碁台を眺めながら、昌平君は初手で信がしくじったことを察した。

王騎が信に先行を譲ったのは、親心でも良心でもなく、信と同じように相手の出方を見るため・・・・・・・・・・だったのだ。

既に勝負は駒を並べる前に始まっていたということである。

王騎が優勢な状況にあるのは誰が見ても明らかだ。斜陣がけによって、防衛の姿勢を取らされた信はこの状況をどう脱するべきかを考えている。

昌平君も二人の間で囲碁台に視線を向けながら、打開策を巡らせていた。無論、これは信と王騎の真剣勝負だ。助言をするつもりはない。

「………」

信は瞬き一つせずに、囲碁台を見据えている。それまで苦悶の表情を浮かべていた信だったが、急に顔から表情が消えた。

何か打開策を閃いたのだろうか。信のこの表情を見るのは、昌平君は初めてではなかった。

今の彼女には、王騎と昌平君には見えない、勝利への道が確かに見えているのだろう。

学校で行っていた軍略囲碁でも、彼女がその表情を浮かべて駒を動かした時には、彼女の相手を務めていた河了貂と蒙毅も予想をしていなかった道を突き進んでいた。

それが、信の本能型の将としての才能であることを昌平君は気づいていた。王騎が信を軍師学校へ預けたのも、この才能を芽生えさせるためだったに違いない。

基礎を叩き込んだ三か月の後、ひたすら軍略囲碁を打たせていたのは昌平君の提案だったが、その中で信はみるみるうちに本能型の将としての才能を発揮していた。

木簡で王騎と昌平君は信のやり取りを行っていた。彼女にしか見えない道が見え始めたことを王騎に告げると、彼は約束の半年で娘の実力を確かめるために赴いたのだろう。

この勝負に信が勝てば、いずれは彼女が天下の大将軍である王騎を超える存在になるかもしれない。そしてそれは、秦の未来には欠かせないとなる。

「降参ですか?死地に立った時、優雅に悩む時間などないのですよォ」

「………」

挑発するように王騎が笑い掛けたが、信の耳にはその声が届いていないようだった。

視線は揺らぐことなく、戦場に見立てた囲碁台を見つめている。

信は迷うことなく、中央にある軍――ではなく、総大将の軍・・・・・を動かした。

「!」

本陣の守りをしていた総大将を動かしたことに、王騎と昌平君が目を見開いた。

このまま防戦一方の持久戦では確実に敗北すると分かった上で総大将を動かしたのだろう。

しかし、中央に兵力が集中しており、味方本陣の守りをしていた総大将を動かすということは、信は味方本陣を捨てたということになる。

「ンフフフ。さて、ここからどうしますか?」

王騎は分散させた兵を信の本陣へ向かわせている。このまま本陣を落とし、総大将を討ち取れば王騎の完全勝利、そして信の大敗だ。

しかし、信の表情に迷いはなかった。きっと彼女には勝利への道筋が見えているのだ。

河了貂と蒙毅との軍略囲碁のように、あとは王騎が先に信の本陣を落とすのが先か、それとも信が勝利の道筋を辿るのが先か、どちらかである。

信の駒を動かす手は止まらない。中央で戦っている兵力を斜めに配置し始める。

「これは…」

昌平君は思わず呟いていた。

ここで信が用いた陣形は、王騎と同じ斜陣がけだったのである。

陣形③中央の戦況が鏡合わせのように・・・・・・・・なり、斜めに伝播していた力が、同じく反対側に力が伝播していく。斜陣がけの効力が消えたことは一目瞭然だった。

信が中央を突破されぬように、まさか同じ陣形を用いるとは思わなかった。

「………」

王騎の口元に浮かんでいた笑みが消える。先ほどまでは余裕を携えていた彼から、信と同じように表情が消えた。

斜陣がけの効力はなくなったが、王騎は陣形を解かない。新たな陣形を組むこともせず、中央に集まった戦力で戦わせている。

中央に集中している兵たちを引きつけたまま、信の本陣へと向かわせている左右の兵をそのまま前進をさせ、手早く本陣を取ることに決めたのだろう。

左右の軍で本陣を落とした後、背後から中央に集まっている信の軍を一掃しようと企んでいるようだ。昌平君には手に取るように王騎の軍略が分かった。

「………」

次は信の番だった。本陣を捨てるように動かした総大将の駒をどう動かすのか王騎と昌平君が注視していると、彼女は驚くことに総大将の軍を大きく右に迂回させて、王騎の本陣へと向かわせた。

「おや、無謀ではありませんか?」

先ほどまで表情を消していた王騎の口元に笑みが戻って来る。

王騎は一つの軍を左右に分散させて本陣を狙っている。しかし、信は兵力を分散させることもせず、がむしゃらに前進させているようだった。

だが、彼女の顔に、焦りや不安の色は少しもない。それどころか、自信に満ち溢れた力強い意志をその瞳に宿していた。

「やってみねえと分からねえだろ」

先ほどの王騎のように挑発するような笑みを浮かべ、信は中央で戦っている後ろの三軍を動かす。四つの敵軍に対して、中央残した軍はたった二つだけだ。

このままでは安易に押し切られてしまうのは誰が見ても明らかである。しかし、激戦地であるそこの兵力を激減させたのは、きっと何か意図があるのだろう。

信は自分の五千人将という地位も、飛信隊も失う代償と覚悟を背負いながら軍を前に進めていく。

先ほど味方本陣から離した総大将の駒も動かし、信は合わせて四つの軍を、敵の総大将のいる本陣へと向かわせたのだ。

あろうことか、信は大胆にも動かしている四つの軍のうちの、二つの軍を中央の激戦地の間にある道・・・・・・・・・・・・を進ませ、敵本陣と総大将のもとへ向かわせた。

中央から軍を大きく迂回させれば、その隙に味方本陣が先に取られてしまうため、最短距離で敵本陣へと到達する道を選んだのだろう。

効力を失ったとはいえ、斜陣がけの陣形はまだ解かれていないというのに、渦の中心に飛び込むような動きに、さすがの王騎も先の動きを見兼ねているようだった。

中央に集中させていた軍と、左右に分散させて信の本陣を落とそうとしていた王騎の瞳に、僅かに迷いの色が浮かぶ。

本陣へ向わせている分散させた兵力では、信の本陣を落とすまでに時間がかかる。

一度、本陣を落とすのを諦め、背後から中央にある信の二軍を囲むべきか、それとも時間が掛かるのを承知の上で本陣を落とすべきか、王騎は決めかねているようだった。

その間も信が向かわせた四つの軍は、王騎の本陣と総大将のもとへ向かっている。

中央で戦っている軍は圧倒的に王騎軍が優勢だが、本陣へ走らせている軍の兵力差は信の方が上だ。

(…見える)

囲碁台を見つめている信の瞳には、勝利への道筋が浮かんでいた。

普段なら敵本陣に辿り着くよりも先に、自分の本陣を落とされてしまっていたのだが、今は総大将を動かしていることもあって、本陣を見捨てでも敵の喉元に攻め立てる勢いが続いていた。

(ここと、ここだ)

中央の激戦地を抜け切った二つの軍で敵大将の左と背後を取り囲む。

さらに迂回させていた軍で、敵の大将の右を塞ぐ。そして手前にある総大将の軍を前進させて前方を塞げば、敵大将の軍は四方を塞がれてしまう。

王騎の本陣と総大将が完全に逃げ道を失ったことで、王騎と昌平君は目を見開いた。

「―――包雷の陣の完成だッ!」

 

王騎との勝負 その二

陣形④高らかに信がそう叫び、敵大将に見立てた駒を掴み取る。

「………」

昌平君も王騎も固唾を飲みながら、のめり込むように囲碁台を注視していた。

「…ンフゥ。お見事でした」

束の間の沈黙の後、潔く王騎が白旗を挙げた。負けたというのに、王騎は少しも残念そうな顔をしておらず、むしろ自分が勝利をしたような陶酔感が浮かんでいた。

最も早く本陣と総大将のもとへと向かうために、中央を抜けた二軍止めていれば、恐らくは左右に分散させていた王騎軍が先に信の本陣を落としていたに違いない。

しかし、今回の勝負では中央を突っ切り、本陣と総大将のもとへ向かわせた信の行動が早かったのだ。

「か、勝った…のか…?」

今になって我に返ったように、信は肩で息をしながら、自分の勝利を噛み締めていた。

「やっ、た…ぁ…!」

拳を作った両手を持ち上げた信が立ち上がる。勝利の喜びを噛み締めるのかと思いきや、大きな音を立てて、信の体は椅子ごと後ろ向きに倒れ込んだ。

「信ッ!?」

昌平君が駆け寄り、肩を揺すって声を掛けた。信は譫言を繰り返しながら目を瞑っており、意識を朦朧とさせている。

顔が真っ赤になっており、肌に触れるととても熱い。熱があると判断した昌平君はすぐに彼女の体を抱き上げた。

慌てている昌平君に対して、王騎といえば囲碁台を見つめて、駒の動きを再確認しているようだった。

「王騎…」

養父とはいえ、ここまで娘に容赦ない態度を取れるものなのかと昌平君が眉根をひそめていると、その視線を察したのか、王騎が口を開く。

知恵熱・・・でしょう。少し休めばすぐに落ち着きますよ」

「…知恵熱?」

あまり聞き馴染みのない言葉であったが、知恵熱とは幼子が出す発熱のことだ。腕の中でぐったりとしている信を見下ろし、昌平君は瞬きを繰り返した。

「その子、昔から考え過ぎたらそうなるんです。軍師学校にいる間に、それもなくなったかと思っていたのですがねェ…少し休ませてやってください」

囲碁台の上の駒を眺めながら王騎がそう言ったので、そういえば、河了貂たちとの軍略囲碁の後に信が決まって頭痛を訴えていたことを思い出した。あれは発熱の前兆だったのかもしれない。

王騎はじっと囲碁台の駒を見つめたままで、動き出す様子はない。

とことん厳しい男だと昌平君は思った。軍略を学ばせるために、屋敷から信を追い出した厳しい父親が今さら甘やかす行動に出るはずがないのだ。

甘やかす役割は摎が担っていたのだと王騎自身も言っており、今さら自分がその役割を引き受けることもしたくないのだろう。だから、こんな時でさえも彼は厳しいのだ。

昌平君は諦めて、信の体を抱きかかえて部屋から運び出した。

 

近くの部屋に移動し、寝台に信を横たえると、彼女はゆっくりと目を開いた。

見慣れない部屋にいることに驚き、目をきょろきょろと動かしている。昌平君と目が合うと、彼女は安堵したように息を吐いた。

「俺…父さんに、勝ったのか…?」

「ああ」

「…じゃあ、俺、帰れるのか…?」

昌平君が頷いたのを見て、信は「そっか」と嬉しそうに笑みを浮かべた。帰宅許可を得たことを心から喜んでいるらしい。

勝負の途中で窮地に追い込まれ、このままずっと帰れないと思っていたらしく、彼女の表情には安堵の色が浮かんでいる。五千人将の座から降ろされることも、飛信隊が解散にもならず、無事に帰宅出来ることが本当に嬉しいようだ。

「色々ありがとな」

寝台に横たわったまま、信が昌平君に礼を告げた。

「…って言っても、お前から直接なんか学んだことはねえけどよ」

「礼を言った後に言う言葉ではないな」

「だって事実だろ」

信がカカカと笑う。

「でも、いつも俺のこと見てただろ?」

「………」

彼女の言葉に昌平君は意外そうな表情を浮かべた。河了貂と蒙毅と軍略囲碁の勝負を繰り返し、あらゆる戦を経験していたのだが、信はどこからか昌平君の視線を感じていたのだ。

口を出すことはないが、いつだって自分を気にかけてくれているのを信は知っていた。昌平君はしばらく信のことを見つめた後、ゆっくりと口を開いた。

「…お前は本能型の将としての才がある。王騎に勝てたのも、お前の才が芽生え始めた証拠だ」

将軍には本能型と知略型に二種類に分かれる。信が前者だといち早く気づいていたのは王騎だ。強化合宿の話を持ち掛けられた時、王騎は昌平君にそのことを告げていた。

―――あの子の直感は、時々戦況を面白い方向に傾けるんですよ。あれは典型的に本能型の動きですねェ。ただ、追い込まれないと、その道筋が見えないというのは難点です。

五千人将まで上り詰めた信の強さは、言葉にせずとも王騎は認めていた。

無謀と勇敢の違いをようやく理解して来た彼女に、軍略を学ばせようとしたのは、本能型の将としての才能を引き出すためだったのだろう。

模擬戦とはいえ、あらゆる戦い方を想定することで、信は勝利への道筋を見分けられるようになっていた。

強引に戦いから身を引かせ、軍略を集中的に叩き込んだことが実を結んだのだろう。

王騎が五千人将の座を解くといったり、飛信隊の解散をちらつかせたのも、わざと信の心を追い詰めることで、本能型の将としての才能を引き出すためだったに違いない。

きっと信と飛信隊はこの国に欠かせない強大な戦力となっていく。王騎に劣らぬ力で中華全土にその名を轟かせていくだろうと昌平君は考えた。

「よくやったな」

昌平君が手を伸ばし、信の頭を優しく撫でる。まさか彼から褒められるとは思わなったようで、信は瞠目し、それから照れ臭そうに笑みを浮かべた。

「…へへ。お前の笑った顔、初めて見た」

指摘されて、昌平君は自分の口元が優しく緩んでいることに気がついた。

瞬時に唇を固く引き結び、いつもの表情に戻ると、信がつまらなさそうな顔になる。

 

信の才能と悪知恵

王騎が話していたように、本当に知恵熱だったのか、少し休むだけで信の熱はたちまち引いていった。

「あーあ…安心したら気ぃ抜けたぜ。帰ったら祝い酒だな」

祝い酒という言葉を聞き、昌平君は思い出したように顔を上げた。

「昨夜も飲んでいただろう」

「ははっ、酒ならいつ飲んだって良いじゃねえか。麃公将軍にもらった昨日の酒も美味かったなあ」

昌平君は寝台に横たわる信を見下ろし、腕を組んだ。

「…昨夜は部屋に戻ってから、ずっと寝ていた・・・・・・・のか?」

「?ああ」

「私たちが扉を開けるまで一度も起きなかった・・・・・・・・・のか?」

どうしてそんなことを尋ねるのだろうと、不思議そうに信は頷いた。返事を聞いた昌平君がきゅっと眉根を寄せた。

「…ならば何故、扉が本棚で塞がれていた・・・・・・・・・・・と知っていた?」

問い掛けると信がさっと青ざめたので、その反応だけで合点がいった。

追い打ちを掛けるように、信の動揺を煽るように、昌平君は言葉を続ける。

「ずっと眠っていたのなら、そもそも扉が外から塞がれていることも、そしてそれが本棚であると確かめる術はないはずだ」

「………」

沈黙している信があからさまに目を泳がせた。

「それなのに、一度も起きなかったはずのお前は、扉が塞がれていたことも、そして本棚が使われていたことも知っていた」

昌平君の耳奥で、あの時の信の言葉が蘇る。

―――あ、先生。これってズル休みじゃねーよな?そんな重い本棚が塞いでたんだから・・・・・・・・・・・・・・・・、俺にはどうしようも出来なかったし。

信が昌平君にそう尋ねた時、まだ彼女は室内にいた。

河了貂たちが部屋に入って来るまで眠っていたという彼女が、一体なぜ扉を塞がれていたことを、そして見てもいないはずなのに、それが本棚であることを知っていたのだろう。

信の身体能力を考えれば、違う部屋の窓を伝って自分の部屋に戻ることも不可能ではないだろう。

しかし、あの重量感のある本棚は、王賁と蒙恬の力があってやっと動かせたのだ。いくら信であっても一人では動かすことは出来ない。

軍師学校の中で信の協力者といえば河了貂と蒙毅の二人が考えられるが、二人の反応から協力したとは思えない。

状況からして自作自演でないのは明らかだったが、答えは簡単だ。

彼女は、本棚を使って部屋の扉が塞がれることを、事前に知っていた・・・・・・・・のである。

あの場では他の者たちもいたので尋ねなかったが、今は都合よく二人きりであるため、昌平君は真意を問い質した。

「………」

唇を固く引き結んでいるところを見る限り、話したくないのだろう。

しかし、ここまで来れば何としてでも真意を知りたい。昌平君はさらに追い打ちを掛けることを決めた。

「…麃公の話だと、あの酒は半年ほど寝かせた方が特に美味いそうだな。入門祝いに渡されたあの酒は、今頃ちょうど半年か?」

麃公と酒の話に反応したのか、信が顔を引き攣らせている。

「なんで、知って…」

「麃公に話を聞いた。会えたのは偶然だがな」

「………」

「あの酒は、お前が軍師学校に来てからすぐに渡したと言っていた」

天井を見上げながら、信が「あーあ」と諦めたように声を上げた。

今朝の騒動の後、昌平君が執務をこなすために一度宮中に戻った時のことだった。偶然にも麃公が咸陽宮に来ており、彼の手には大きな酒瓶が握られていた。

彼が大酒飲みであることは知っていたのだが、まさか宮中に来た時まで持ち歩くとは何事だと思い、昌平君が声を掛けたのだ。

―――王騎のところの童に持って来てやったんじゃ。この酒は、前に渡したものと違って、寝かせなくても美味いからのう。

それが二度目の差し入れ・・・・・・・・だと分かった昌平君は、前回渡した酒についての話を聞いた。

前回渡した酒は半年ほど日の当たらない場所で寝かせておけば、より味に深みが出るのだという。

恐らく長い期間、軍師学校にいることになるだろうと見込んだ麃公が、その酒を渡したらしい。

酒の楽しみが先にあると思えば、少しは息抜きになるだろうという彼なりの気遣いだったのだろう。

―――へへ…この前・・・、麃公将軍から差し入れてもらったんだ。

酒臭いと蒙恬に言われた時、信はそう言っていた。

差し入れの酒をもらってすぐに開封せず、麃公に言われた通り、寝かせておいたのだろう。
今はちょうど信が軍師学校に来てから、半年が経過した頃だ。酒を飲むなら絶好の機会である。

そこで昌平君は今朝の騒動と、昨夜の酒についての繋がりを見抜いた。

偶然だと言われてしまえばそれまでだが、信は酒を飲むのをあえて昨夜・・・・・にしたことには何か理由があるような気がしてならなかった。

それはきっと今朝の騒動である扉を塞がれていたことが関わっているに違いない。

「…黄芳たちが、部屋の扉を塞ぐのを知っていたのか」

信は悪戯が見つかった子どものような、ばつの悪そうな表情を浮かべた。

「翌日にあのようなことが起きて、咎められずに遅くまで眠れると分かっていたから、昨夜に飲んだのではないのか?」

しばらく沈黙していたが、諦めたように彼女は溜息を吐く。

「だってよ…あいつらが教室の隅でこそこそ話してるのが聞こえたから…」

いよいよ白状した。今度は昌平君が溜息を吐く番だった。

つまり、信は翌朝に寝坊しても咎められないことを分かった上で、昨夜に月見酒をしたのだ。

軍師学校の中での生活態度も王騎は厳しく評価することを分かっていたのだろう。だからこそ酒を飲む機会をずっと考えていたに違いない。

そこで黄芳たちが扉を塞ぐ作戦を話し合っているのを知り、これ幸いと夜のうちに麃公が差し入れてくれた酒を一人で飲み干すつもりだったのだ。

月見酒をしている場に昌平君が来たのは偶然だったが、こんなことを彼が王騎に告げ口をしないと信は分かっていたのかもしれない。

翌朝になって、扉が塞がれていれば学校に行けないことになっても、誰も彼女を怪しむ者はいない。被害者の立場を上手く利用して月見酒を堪能したのだろう。

意外と単純そうに見えて、頭を使っている。軍略を学んでいる中で、そのような悪知恵も身につけてしまったのだろうか。もしそうなら王騎に悪いことをした。

今回のことで、信に唯一の誤算があるとすれば、昌平君が月見酒に同席したことと、麃公に話を聞いたこと、そして信の思考を読んだことだ。

河了貂たちと扉を開けたあの時に、余計なことを言わなければ流石の昌平君も気づかなかったに違いない。口は災いの元・・・・・・なのだ。

知恵熱がすっかり引いた信が上体を起こし、昌平君に両手を合わせる。

「なあ、頼むから、父さんにはこのことを黙って…」

上目遣いで懇願して来る信に、昌平君は腕を組みながら悩む演技をした。月見酒に関しては黙っていても良かったが、意図的に寝坊としたとなれば話は別だ。

「さて、どうしたものか。私では判断し兼ねるな」

「うう…」

信の眉が下がる。捨てられた子犬のような哀愁を漂わせる彼女に、昌平君は笑いそうになってしまい、下唇を強く噛み締めて堪えた。

もちろん王騎に言うつもりはなかったし、言ったところで王騎が強化合宿を延期するとは思えない。

次の戦では飛信隊を活躍させたいと話していたし、屋敷に帰還したらすぐに信の鍛錬もつけるつもりなのだろう。

自ら足を運び、その目で娘の成長を見届けにここまでやって来たのだから、態度も言葉も素っ気ないが、見方によっては王騎も娘には甘いのだろう。

それに、王騎の命令で嫌々ながらも軍師学校に来てから、信は真面目に勉学をこなしていた。もちろん河了貂と蒙毅の協力も大きいが、ここに来た時に比べると半年の間で確実に将として成長したことが分かる。

「…麃公は、王騎に酒を渡していったぞ」

「え?」

「屋敷に戻り、王騎と卒業祝いでもするが良い」

本当は麃公が二度目の差し入れを信へ渡すつもりだったのだが、軍師学校に行くために宮廷へ来ていた王騎が預かっていったのだ。その姿を昌平君も見ていた。

今日の勝負で、王騎も麃公も信が本能型の将としての才能を発揮すると分かっていたのかもしれない。

もしも才能が芽生えていなかったすれば、本気で五千人将の座を解いただろう。ここでも王騎の甘言と脅しの使い分けの上手さが発揮されたのかもしれない。

「へへ…ありがとな」

満面の笑みを浮かべた信に、昌平君はやや呆気にとられる。笑顔を見ただけだというのに、昌平君の胸は早鐘を打っていた。

 

天罰

教室に戻る頃にはすっかり陽が沈み始めていた。

信の姿を見て、河了貂と蒙毅がすぐに駆け寄って来る。可愛らしいつぶらな瞳をつり上げて、河了貂が信を睨み付けた。

「信!遅いぞ!何してたんだよッ」

もらい湯と昼食を終えてから戻ると話していたというのに、ずっと姿を現さなかったことに心配してくれていたらしい。

悪い悪いと宥めながら、信は二人に向き直った。

「俺、今日で強化合宿終わりなんだ」

「えっ?」

河了貂と蒙毅が瞠目する。

声を潜めて、信は二人に先ほどの王騎との軍略囲碁試合について話し出す。王騎との勝負に勝ったのだと知った二人はまるで自分のことのように喜んでくれた。

「やったな、信!おめでとう!」

「おめでとうございます」

「へへ、ありがとな。二人のおかげだ」

二人に礼を言ってから、信は思い出したように教室を見渡した。黄芳と目が合う。驚いた顔をした後に顔ごと目を逸らされたが、信は構わなかった。

木簡を塗り潰したり、部屋の扉を塞いだのが彼の仕業だというのは信は気づいていた。

幼い頃から戦場に出ていたせいか、信は常人よりも目と耳が利くのだ。だからこそ昌平君からの視線にも気づいていた。

黄芳が取り巻きたちとそのような企みをしていることを事前に知っていたのは、教室の隅で彼らが作戦会議をしているのを聞いていたからである。

そしてそれを聞いていたのは信だけではなく、他の生徒もだ。

今日まで黄芳が信に行っていたことは、軍師学校の生徒のほとんどが知っていた。とはいえ、現場を見られていないことから、黄芳だけは知られていないというつもりで嫌がらせを続けていたらしい。

「おい、黄芳」

信が声を掛けると、彼は分かりやすく肩を竦ませた。取り巻きの連中も信が声を掛けて来たことに驚いた表情を浮かべている。

今日まで彼女が言い返すことは一度もなかったので、声を掛けられたことに何事かと身構えていた。

彼らが怯えた表情で振り返るところを見ると、どうやら自分がいない間に河了貂と蒙毅にこっぴどく責められていたのだろう。

構わず、信は腕を組んで黄芳のことを睨み付けた。

「…お前、テンのことが好きなんだろ?」

そう言った瞬間、教室が水を打ったような静けさに包まれた。

自分の名前が出て来たことに河了貂が背後できょとんとしていた。

「なッ!ななッ、なんだと!?」

真っ赤な顔を引き攣らせて黄芳が怒鳴るが、河了貂へ想いを寄せていることを否定はしない。

わざとらしく溜息を吐き、信は彼に人差し指を向けた。

「だからって俺に八つ当たりすんなよな。テンは俺にとって妹みたいな存在だ。お前の恋敵になるつもりはねえよ」

いきなり軍師学校に現れた下僕出身の信が、河了貂と仲睦まじく軍略囲碁を打っている姿が黄芳は気に入らなかったのだろう。

河了貂と常に一緒に行動している自分に嫉妬しているのだと信は以前から気づいており、嫌がらせもその延長だと分かっていた。

「………」

思わぬ形で河了貂への想いを暴露されてしまった黄芳はこの世の終わりだという顔をして信を見つめていた。

しかし、そんな彼の気持ちなど知るものかと言わんばかりに、信は言葉を続ける。

「悪いがテンはこれから俺の軍師になるんだ。まだお前のとこに嫁がせる訳にはいかねえな」

俺の軍師・・・・という言葉に、黄芳が衝撃を受ける。信の中では飛信隊の軍師という意味だったのだが、彼女の正体を知らない黄芳からしてみれば、俺の女と言われているのも同然の言葉に聞こえたようだ。

信が女だと気づいていないのも些か問題に思えるが、黄芳からしてみれば河了貂に近づく者は誰であっても許せなかったのだろう。

「へえ」

傍で話を聞いていた蒙毅の顔に影が差し込んでいる。

「…河了貂は僕の大切な妹弟子だからね。彼女に何か話をするなら、まずは僕に勝ってからだよ。さあ、さっそく勝負しようじゃないか。と言っても、君が僕に勝てるとはとても思えないけどね」

ひいいと青ざめる黄芳を引き摺って、軍略囲碁の勝負を始める蒙毅の姿を横目に、信は長居は無用だと言わんばかりにさっさと教室を出た。

「信!」

後ろから河了貂が追い掛けて来たので、信は小首を傾げながら振り返った。

「俺、絶対に飛信隊の軍師になるから!軍師の席、空けて待ってろよ!」

河了貂の力強い言葉に、信は思わず笑みを浮かべる。

「ああ、もちろんだ。待ってるぜ、テン」

乱暴に頭を撫でてやると、河了貂は嬉しそうに目を細める。飛信隊の軍師の席はずっと前から彼女のために空けていた。共に戦場で戦えることを楽しみにしながら、信は咸陽宮を後にする。

厩舎で借りた馬に跨ると、また父のもとで厳しい鍛錬が始まる日常に、信は懐かしさと期待に胸を膨らませていた。

 

反旗と月見酒

その後、信が大将軍の座に就くことも、河了貂が飛信軍の軍師となるのも、そう時間はかからなかった。

時が進むにつれ、王騎、蒙驁、麃公…名のある秦の将軍たちが次々と没していく。

彼らの死に追い打ちをかけるように、それから数年後、嬴政の加冠の儀を利用して反乱軍による咸陽への侵攻が起こった。

一時は騒然となった秦国であったが、秦将たちは反乱軍に屈しない強さと忠義を見せつけたのである。

中でも飛信軍の女将軍である信の強さは凄まじく、彼女が幼い王女を守り抜いた活躍は秦国中で大いに広まることになった。

咸陽の防衛に成功し、毐国が壊滅に追い込まれた後、呂不韋は丞相の地位を剥奪となる。

裏で玉座を狙っていた呂不韋の活躍に終止符を打ったのは、呂不四柱の一人であった昌平君が反旗を翻したことがきっかけでもあった。

此度の勝利は、秦国の天下統一を大きく前進させるものとなる。秦王であり親友である嬴政の夢がまた一歩前進したことに、信は大いに喜んだ。

 

―――その日の夜は、此度の勝利を天が祝うかのように満月だった。

反乱軍との戦いの事後処理をこなしながら、昌平君の足は自然と夜の軍師学校へと向かっていた。

長年世話になった呂不韋との決別は、笑えるほど短い会話のやりとりだった。しかし、少しも後悔はしておらず、不思議と胸はすっきりとしていた。

無性に一人になりたい訳でも、集中して何かを考えたい訳でもないのに、夜の軍師学校へ足を運んでいる矛盾に、昌平君は自分が何を求めているのかを考えた。

「…?」

結局答えが出ないまま廊下を進んでいると、奥の空き教室に明かりが洩れていることに気が付いた。

「………」

心臓が早鐘を打ち始めたことを自覚して、昌平君は空き教室に向かう。自然と早足になっていたことには気付けなかった。

扉を開けると、あの日と同じように窓枠に腰掛けて月見酒をしている信の姿があって、昌平君は思わず息を飲んだ。どうして彼女がここにいるのだろう。

「…もう生徒でないお前の立ち入りは禁じているはずだが」

動揺していることを悟られないように、素っ気なく声を掛けると、

「授業が終われば学校じゃなくて、もぬけの殻だろ」

信はあの日と同じように振り返りもせず、素っ気なく同じ言葉を返した。

此度の防衛戦で、彼女は後宮を走り回って樊琉期の軍を相手にしていただけでなく、戎翟公の軍とも戦っていた。

寝込んでいてもおかしくないほど疲弊しているだろうに、彼女は酒を煽っていた。着物の隙間から覗く肌は包帯が巻かれていて、此度の防衛戦がどれだけ激しかったかを物語っている。

「お前も飲むか?」

まだ半分以上中身の入っている酒瓶を掲げながら、信がようやく振り返る。

「…杯は」

「一つしかねえけど?」

夜の空き教室で一つの杯で酒を飲み交わすなど、これではあの日と同じではないかと昌平君は苦笑を滲ませた。

「さすがに祝宴やらねえみたいだからな」

「当然だ」

戦の勝利の後は祝宴が開かれるものだが、反乱軍が首府である咸陽に侵攻して来た被害は大きく、将や兵は休息を取り、他の者たちは宮廷や後宮の修復作業や戦後の後処理に当たっている。

敗走後に逃げ出した反乱軍は、函谷関を抜けたところで桓騎軍によって取り押さえられているという。

桓騎軍に首謀者を生きたまま捕らえるよう指示を出したのは昌平君だ。太后と共に此度の反乱を企てたとされる首謀者の嫪毐は確実に処罰されるだろう。

水面下で広がっていた後宮権力の再調や、毐国の領土である河西太原の制圧など、やることは山ほどある。

明日から昌平君もその戦後処理に追われるのは目に見えていた。早めに休まなくてはと頭では分かっているのだが、なぜか休む気になれずここまで足を運んでしまった。

戎翟公を討つために、武装をして槍を振るったのは随分と久しぶりのことで、未だ昂りから冷めやらぬのかもしれない。

「…祝宴より、これくらい静かな方が良い」

元々賑やかな場を得意としない昌平君は、祝宴など開かなくても、静かに勝利を噛み締めていればそれで良いと考えていた。

窓枠に腰掛けて月見酒をしている信の傍に椅子を寄せ、昌平君も彼女の向こうにある満月を眺めることにした。

共に月見酒をしているはずなのに、昌平君の視線は満月ではなく、手前にある信の美しい横顔にしか向かない。

青白い月の光を浴びているせいか、あの日と同じように信の存在がどこか儚げに感じてしまう。

手を伸ばしても掴むことが出来ず、かき消してしまいそうな気がして昌平君は妙に恐ろしくなった。

「ほらよ」

一つしかない杯に酒を注ぎ、信が差し出す。

受け取った杯を口元に寄せると、芳醇な香りが漂った。ゆっくりと口に含むと、酸味と苦味が広がる。すっきりとした後味には覚えがあった。

「…この酒は」

信がにやっと歯を見せて笑った。

「懐かしいだろ?麃公将軍が贔屓にしてた酒蔵から取り寄せたんだ」

今は自分がその酒蔵から頻繁に酒を取り寄せているのだと信は笑った。

「………」

束の間、信が強化合宿と称して軍師学校で過ごしていた日々が瞼の裏に浮かび上がる。

無事に軍師学校を卒業できた後に行われた戦で、信は大いに武功を挙げ、五千人将から将軍へと昇格したのだった。

その後は本能型の将としての才能を発揮し、軍師に河了貂を迎えたこともあり、飛信軍の力は今や王騎軍に引けを取らぬ強大なものとなっている。

今回の防衛戦も飛信軍の活躍がなければ、この咸陽は毐国の手に落ちていただろう。

「今になって、分かったことがある」

酒を飲む昌平君を横目に、信が静かに口を開いた。

「…父さんは、あんたがいつか呂不韋を裏切って、政についてくれるって分かってたんだろうな」

馬陽の戦いで命を落とした王騎のことを思い返しているのか、寂し気な瞳で月を眺めながら信がそう言った。

数年前になる信の強化合宿の時や、それ以外のことでも王騎と幾度か言葉を交わしたことは幾度もあった。

しかし、自分が呂不韋を裏切ることは王騎に一度も話していないというのに、彼はそれを見抜いていたのかもしれないと信は言った。

もしそうだとすれば、大王側についている彼が、敵対関係にある呂氏四柱の一人である自分に信を任せたのは偶然ではなかったということになる。

自分を信頼した上で、王騎は娘を任せたのだ。

「…王騎は」

養父の名を出たことに、信は弾かれたように顔を上げた。

「お前を甘やかす役割は、母親が担っていたと言っていた」

「………」

「だが、言葉や態度にせずとも、いつもお前のことを気にかけていた。お前を一人の将として、娘として、大切に想っていた」

その言葉を聞いた信は目を見開き、それから戸惑ったように視線を彷徨わせる。

養父である王騎が馬陽の戦いで命を落としてから、数年の月日を経てから知った事実に戸惑いを隠せないようだった。

天下の大将軍として中華全土に名を轟かせた厳しい父親が、自分の知らないところで大切に想ってくれていたのだと分かり、信の瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていった。

「…そういうのはよ…人伝いじゃなくて、俺に言わなきゃ、意味ねえだろ」

泣き顔を見られたくないのか、信は月を見上げる素振りで昌平君から顔を背ける。

拳を白くなるほど握り締めた信は、奥歯を強く噛み締めて涙を堪えているようだった。昌平君は彼女に視線を向けないようにしながら、杯に酒を注ぐ。

「いッ、でで…」

「信?」

涙を堪えている信が、苦悶の表情を浮かべて右の脇腹を押さえたのを見て、昌平君が立ち上がる。

どうしたと声を掛けると、彼女は涙で瞳を潤ませたまま昌平君のことを見上げた。

「なんでも、ねえ…」

涙を堪えようと力んだのが原因で、戦で受けた傷が痛んだのだろうか。

信の苦悶の表情が少しも和らがないのを見て、昌平君はまさか傷口が開いたのではないかと心配になる。

脇腹を押さえている信の手に自分の手を重ね、昌平君は彼女の顔を覗き込んだ。

「傷を見せろ」

「いいって…手当てならしてもらった」

それならばなおさら傷口が開いた可能性が考えられる。頑なに傷を見せないでいる彼女に、昌平君は低い声で囁いた。

「見せなさい」

「っ…」

その声色に怒気は含まれていなかったのだが、信は叱られた子どものように怯えた表情を浮かべる。

諦めたように右の脇腹を押さえていた手を放したので、昌平君は迷うことなく彼女の着物の帯と紐を解いた。

襟合わせを開くと、信が言った通りに腹部は包帯に包まれていた。痛みがあった右の脇腹の包帯に赤黒い染みが出来ているのを見つけ、やはり傷が開いたのだと分かる。

「…ちゃんと見せたから、もういいだろ」

なぜか信が顔を赤らめて襟合わせを元に戻した。素肌を見られたのが恥ずかしいのだろうか。

普段から男のような口調と態度をしているが、信は女だ。異性に肌を見せるというのは慣れていないのかもしれない。しかし、やましい目的があって脱がせた訳ではない。

「手当てをしに行くぞ」

昌平君が彼女の手首を掴むと、信はその手を振り払った。

「俺はいい。他にも重症な奴らの面倒見てるだろ…」

自分のことよりも他の兵の心配をする信に、昌平君はもどかしい気持ちを抱く。

今回の防衛戦でも、自分の身を粉にして咸陽と王女を守り抜いたのだ。

嬴政の金剛の剣だと自ら名乗る信だが、盾の役割も担っている。自分の命を顧みずに国を守ろうとする姿は正しく将の鑑だ。

だが、勇猛と蛮勇は違う。

王騎の養子として、幼い頃から戦に出ていた彼女がその意味を履き違えることはないだろうが、命を無駄にすることだけはして欲しくない。

「なら、今夜はもう休め。酒は預かっておく」

包帯の染みが広がっていないことに安堵したが、何をきっかけに傷口が開くことになるか分からない。

大人しく横になっていれば傷口もこれ以上広がることはないだろうと思い、昌平君がそう言ったのだが、信は首を横に振った。

「嫌だね。まだ全然飲んでねえ」

相変わらず聞き分けのない子だ。昌平君はわざとらしく溜息を吐いた。

「…いてて…」

わざと傷口を圧迫させるように信は帯をきつく締め直していた。

帯を締め終わると、傷の具合を確認するために着物を脱がせたからか、信が夜風で冷えた体を温めようと腕を擦る。

それを見た昌平君は迷うことなく羽織りを脱ぎ、あの日と同じように彼女の肩に掛けてやったのだった。

 

月見酒の約束

「………」

しかし、あの日と違うのは昌平君が酒瓶と杯を持って教室を出て行かないことだ。

まるで信の代わりに飲もうとでもしているのか、昌平君は杯に注いだ酒をひっきりなしに口に運んでいる。

ただでさえ強い酒なのに、そんなに早く飲んで大丈夫なのだろうかと信は心配そうに目を向けた。

「おい、俺が酒蔵から取り寄せた酒なんだぞ。ちゃんと残しとけよ」

信はようやく立ち上がって、昌平君の横に椅子を持って来て腰を下ろした。強引に昌平君の手から杯を奪い、喉に流し込むように一気に飲み干す。

「…変わらない飲み振りだな」

褒めているのだろうか、それとも皮肉を言っているのだろうか。昌平君は普段からあまり表情が豊かな方ではないため、信には分からなかった。

「お前は本当に変わらねえよな」

足を組み、信は肩を竦めるようにして笑った。

「こう…何て言うか、いつまでも大人の余裕を崩さねえ感じがあるっていうか…ちょっとくらい緊張することとかないのかよ」

「している」

からかうように信が言葉を続けると、昌平君は窓の向こうにある満月を見上げながらそう答えた。

「え?」

思わず聞き返すと、昌平君が信の杯を持っていない方の手を掴み、その手のひらを自分の胸に押し当てた。

何をしているのだと問おうとするよりも先に、手のひらから昌平君の早い鼓動が伝わって来る。

「お前と二人でいる時は、余裕など、微塵もない」

「え……えっ?」

昌平君が発した言葉が耳を伝って脳に染み渡るまで、しばらく時間がかかった。

ようやく言葉の意味を理解した途端、信は全身の血液が顔に全て集まったのではないかというほど顔を真っ赤にさせる。

「う…」

戦で受けた傷は右の脇腹だけではなく、他にもあるのだ。戦いの最中で幾度も血を流したせいだろうか、くらくらと眩暈がする。貧血だろう。

「信」

椅子から崩れ落ちそうになった体を昌平君の両腕が優しく抱き止める。

「っ……」

彼の胸に顔を埋める形になった信は眩暈と羞恥のせいで、顔を上げることが出来ない。

抵抗しない彼女に気を良くしたのか、昌平君が背中に腕を回して信の体を抱き締めた。より密着することになり、今度は耳から彼の早い鼓動が聞こえて来る。

「…そんなの、酒のせいだろ」

昌平君の着物を弱々しく掴みながら信がそう言うと、昌平君の手が伸びて来て、頬を包まれた。

「ッ…!」

無理やり目線を合わせられると、視界いっぱいに端正な彼の顔が映り込み、また顔が赤くなった。

こんなにも近い距離で昌平君と見つめ合うのは初めてのことで、心臓が激しく脈を打つ。顔を動かせぬよう顔を掴まれて固定されていたが、視線は背けることは出来る。

目を逸らした途端に、昌平君の顔がさらに近づいて来たので、驚いて信は視線を戻した。

「んッ…ぅ…?」

これ以上ないほど視界いっぱいに昌平君の端正な顔が映っていて、唇を柔らかいものが覆っている。

やがて呼吸ができるようになると、信は陸から上がった魚のようにぱくぱくと口を開閉させたが、驚愕のあまり喉が塞がってしまう。

「おまっ、ここ、学校…!」

ようやく振り絞った声は、かつてないほど震えていた。笑えるほどに情けない声だった。

授業が終われば・・・・・・・学校ではなくもぬけの殻だ・・・・・・・・・・・・

「~~~ッ…!」

聞き覚えのある台詞を返されて、信は言葉を失う。

「殴らないのも、逃げ出さないのも、期待して良いということか」

「へ…?」

未だ昌平君の腕の中にいることに気が付いた信は、まるで術でもかけられたかのように動けずにいた。

しかし、彼が言うように殴るつもりも逃げ出すつもりもない自分に信は驚く。

怒りの感情を通り越して、ただ驚愕しているだけなのかもしれないが、それでも彼の腕の中は居心地がいいと感じているのも事実だった。

「お、お前、酔ってんだろっ…!からかうなよ」

これはきっと酒のせいだと信は自分に言い聞かせる。先ほどまで唇を覆っていた柔らかい感触を名残惜しく思うのも、昌平君に抱き締められて心地よく感じるのも、全て酒のせいに違いない。

背中に腕を回そうとして、信は慌てて自分の手を引っ込めた時だった。

「信、お前が好きだ」

その声は蜂蜜のように蕩けるほど優しくて、信は思わず息を飲む。

再び近い距離で見つめられると、とっくに酔いは回っているはずなのに、まるで顔に火が灯ったように熱くなる。

昌平君はようやく夜の軍師学校に足を運んだ理由に気が付いた。

ここに来れば、信に会える気がしていた。きっと、自分は無意識のうちに彼女の姿を探していたのだ。

「…昌平君、あの、…俺…」

顔を真っ赤にしながら信が言葉を紡いだが、昌平君は彼女の唇に指を押し当てて、

「返事は今じゃなくて良い」

そう言って、静かに杯へ酒を注いだ。

彼女の傷が癒えた後に、返事を聞こうと思った。

きっとまた、彼女は美味い酒と一つの杯を持って、この空き教室にやって来るはずだから。

 

このシリーズの続編(恋人設定)はこちら

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軍師学校の空き教室(昌平君×信)中編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ギャグ寄り/IF話/軍師学校/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

前編はこちら

 

進展と妨害

軍略の基礎中の基礎を、信は三か月かけて、どうにか頭に詰め込んだ。

基礎を覚えたら次のことを教えると昌平君は伝言をしていたが、特に彼が指導をすることはなく、信はひたすら河了貂と蒙毅を相手に軍略囲碁を打っていた。

覚えたばかりの陣形を実際に動かすと、どのような時に利点と欠点があるのか理解出来るようになる。

もしかしたら昌平君はそれを見越して、軍略囲碁を打たせているのかもしれないと信は思った。

軍略囲碁はあらゆる地形、戦い方を想定して行うため、同じ条件で勝負をすることはほとんどない。それだけ軍略の形には数が多く、戦い方もその倍は存在している。

河了貂も蒙毅もこの軍略学校で軍師としての才能を開花させており、信は二人を相手に何敗もしていた。

しかし、数を重ねていけばいくほど、あらゆる動きの想定が出来るようになっていき、勝利に至ることはなくとも、敵本陣に攻め込む一歩手前まで駒を進められるようになっていた。

(…あ、ここに道がある)

軍略囲碁をこなしていくうちに不思議なことが起きた。それは軍略囲碁をしている最中に、道筋が見えるようになったことだ。

蒙毅と河了貂には見えていないようだが、まるで光が浮かび上がるかのように、一つの道が見えるのだ。

浮かび上がった光の道の先には敵大将のいる敵本陣があって、導かれるようにそこに駒を進めると、蒙毅と河了貂は驚いたように、その道の妨害をしようと別の駒を進める。

敵の駒が動くと、そちらの対処もしなくてはならないので、光の道が消えてしまう。しかし、そうしているうちにまた別の道が浮かび上がり、信はまたそこに駒を進めていく。

初めのうちは余裕の表情を浮かべて信に圧勝していた蒙毅と河了貂だが、日を追うごとに苦戦を強いられるようになっていた。

二人を相手に幾度も勝負を重ね、軍略囲碁を打った数はとうに三桁を越えようとしていた。

優等生である河了貂と蒙毅が苦戦を強いられている姿を見て、周りの生徒たちも信の軍略囲碁を注目するようになり、勝負の度に生徒たちが囲碁台を取り囲むようになっていた。

「あー、くそーっ、また負けた…!」

河了貂が駒を進め、信の本陣を奪ったことで軍略囲碁は終了。此度も河了貂の勝利だった。

追い詰めはするものの、あと一歩というところで敵本陣への道を妨害されてしまう。

光の道筋が消えてしまうと、敵の駒を対処することに集中するのだが、次の道筋が浮かび上がる前にこちらの本陣を落とされてしまうのがいつもの敗因だった。

「いや、あのまま進められてたら俺は負けてたよ」

勝負を終えた河了貂は安堵したように、長い息を吐き出す。

「うん。今回も危なかったね」

口元に手を当てながら、蒙毅は険しい表情を浮かべている。信が動かした駒の動きをじっと見詰め、何かを考えているようだった。

過程がどうであれ、負けは負けだと信は椅子の背もたれに身体を預ける。

「ああー…考え過ぎて、頭いてえ…」

気づけば夕方になっていて、朝から軍略囲碁を打ち続けていた体は疲労を抱えていた。頭がずきずきと痛む。凝り固まった肩を回しながら、信は溜息を吐く。

頬杖をつきながら、信は疲労感に身を委ねていた。鍛錬ではなく、頭を使ってへとへとになるのは軍師学校に来てから毎日のことだった。

王騎からは相変わらず音沙汰はない。きっと今頃は厳しい鍛錬を終えて、花の浮かべた風呂に浸かっているのだろうなと信は考えた。

…一体いつになったら屋敷に帰れるのだろうと、信は目を伏せながら考えた。ずっと剣を振るわず、机上での学びを続ける日々で、すっかり筋力が落ちてしまった。

戦の気配はまだないようだが、軍師学校ではひたすら軍略について学ぶ場であるため、そういった情報が入って来るのは遅い。

将軍昇格への道が遠ざからぬよう、次の戦までには強化合宿を終えたいのだが、昌平君から合宿の終了条件に関しては未だ告げられていない。

しかし、河了貂と蒙毅を軍略囲碁で倒せるくらいにならないと許しを得られないような気がしていた。

王騎が言っていたように、五年や十年かかったらどうしようと信は不安と焦りを覚えた。

「…うおッ!?」

目を開くと、昌平君の横顔が目の前にあって、驚いた信は椅子から飛び上がった。

いつもなら河了貂と蒙毅に任せっきりである昌平君が、今は真剣な眼差しで囲碁台を眺めている。

河了貂の勝利で終わったことは見れば明らかなのだが、その過程についてを確かめているようだった。

「…なぜ、ここの軍を迂回させなかった?」

昌平君が軍に見立てた駒の一つを指さす。

「あ?」

今回設定した地形は特に山や川などの障害物のない平坦なものだった。

伏兵を隠せるような場所もなく、中央で激戦が行われる。それはこの地形を設定されてから信も河了貂も、もちろん他の生徒たちも分かっていた。

中央に集められた軍が陣形や兵法を用いて戦いを行う中で、信は軍を幾つかに分け、中央に集まっている敵軍を無視して前進を図ったのだ。

だが、兵力を分散させれば簡単に討ち取られてしまう。陣形を組んだ敵兵力の前なら尚更だ。しかし、信は陣形を作って対応することをせず、軍が壊滅する危険を犯してまで前進を続けたのだ。

無謀だとは思うが、がむしゃらに敵本陣を狙っているようには思えず、昌平君は彼女にその意図を尋ねた。

これには蒙毅も河了貂だけでなく、他の生徒も驚いていた。

なぜなら昌平君が一人の生徒に対して、そのような問いかけをするのは初めてのことだったからである。

わざわざ本人に尋ねなくとも、残っている結果を見れば、どちらがどのような動きをしたのか簡単に予想するほど、総司令官という役割を担う彼は聡明だからだ。

しかし、そんな彼が信に真意を問い掛けた。昌平君でさえ、信がこのように軍を動かした意図を計りかねているということである。

もちろんそんなことを知らない信は、囲碁台を眺めながら「んーと…」と間延びした声を上げ、考えていたことを思い出そうとする。

「全部の軍から百ずつ兵を分散させたから、合わせて五百をここで合流させて…」

信は激戦地を指さした。

五百の兵に見立てた駒を手に取り、信は敵本陣へ繋がる一本の道へと運ぶ。それは河了貂と軍略囲碁の最中に見えた光の道筋だ。

ここの道・・・・を通れば、敵本陣に行けると思ったんだ」

大胆にも敵と味方が入り組んでいる場所の真横をすり抜けて、信は敵本陣を目指そうと睨んでいたのだ。

河了貂と蒙毅は、信が駒をその道に進ませた時に驚いていた。信が駒を進ませた場所が道になっていることに、二人は気づけなかったのだ。

二人も他の生徒たちも、真横を通ろうとは考えもしなかった。敵本陣へ向かうならば、敵味方が入り組んでいるその場を大きく迂回するはずと考えていたのだ。

結局は五百の兵を向かわせている最中に、分散してしまった味方兵力を押し抜いた複数の敵軍によって、味方本陣を先に取られてしまったことが此度の敗因である。

「…そうか」

昌平君はそれだけ言うと、背を向けて行ってしまった。

(なんだったんだ?)

軍師学校に来てからというものの、彼からは何も教えられていないなと思いながら、信は両腕を頭の後ろに組む。

 

進展と妨害 その二

使用した駒を片付けようとしない信に、河了貂は腕を組んで彼女を睨み付けた。

「おい、信ッ!片づけは負けた方がやる約束だろ!」

「んな怒るなよ。今やるとこだったって」

やれやれと椅子から立ち上がり。信は囲碁台の上に並べてある駒を手に取っていく。

「じゃあ、俺から宿題だ。軍略基礎の木簡の第一巻を読み直すこと!平坦な戦での兵法や陣形が載ってるから、もっかい読んでおけ」

久しぶりに木簡の話題が出て来て、信はどきりとした。

「あー…えーと、だな…」

あからさまに表情を曇らせて目を泳がせる信に、河了貂は円らな目をさらに真ん丸にさせる。信が嘘を吐けない性格なのは、昔から付き合いがあるからこそ分かっていた。

軍略学校からの付き合いである蒙毅でさえも、信のあからさまな動揺に疑問を感じているようだった。

「どうしたんだよ?なんかあったのか?」

「いや、その…部屋に、ある…んだけどよ…」

「?」

河了貂と蒙毅が二人して目を丸める。部屋に置いてある木簡がどうかしたのだろうか。

まさか失くしたとは思えない。あんな質素な部屋ならば、木簡を失くすような要因など何一つないだろう。

だとすれば一体何があったのか、二人の聡明な頭脳を持っていたとしても、想像が出来なかった。

教室にも同じことが記されている木簡はあるのだが、今は他の生徒が目を通しているようだったので、河了貂は仕方がないと溜息を吐く。

「じゃあ、俺が信の部屋から持って来てやるよ」

「えッ!?いや、部屋戻ったらちゃんと読むから大丈夫だッ」

「なんか怪しい!そこで蒙毅と待ってろ!」

信の制止も聞かず、河了貂が宿舎へ向かおうとする。彼女を止めようと信は腕を伸ばしたが、河了貂はその手をすり抜けてさっさと行ってしまった。

あからさまに動揺している信を横目で見て、蒙毅はどうしたのだろうと小首を傾げていた。

 

「―――信ッ!!」

しばらくして信の部屋から木簡を持って来た河了貂は憤怒の表情を浮かべていた。

彼女が持って来たのは一つだけではなく、両手に抱え切れるだけの木簡だ。

第一巻を読み直すように信に言っていたはずなのに、どうしてそんなに持って来たのだろう。

だが、信は理由が分かっているようで顔を強張らせて、泣き笑いのような表情を浮かべている。

「どうしたんだよ、これッ!」

「テンッ、声がでけえよ!」

あたふたと信が河了貂の口を塞ごうとするのだが、河了貂の怒りは止まらない。教室中に彼女のよく通る高い声が教室に響き渡ったことで、生徒たちから好奇の視線が向けられていた。

昌平君だけは相変わらず手元にある木簡に目を通していて興味を示していないようだが、河了貂の声は彼の耳にも届いているだろう。

「一体誰にやられたんだよッ!こんなの、自分でやるはずないだろ!」

顔を真っ赤にして声を荒げながら、河了貂が信の部屋から持って来た木簡を広げる。軍略の基礎について記されているはずの木簡には、全ての文字を覆うように墨が塗られていた。

不注意で墨を零したような染みではなく、わざと文字が読めなくなるような塗り方をされていた。

「これは…」

蒙毅が瞠目する。

他の木簡を広げると「出ていけ」「帰れ」「下僕出身」「奴隷の分際で」などと言った文字が乱雑に記されており、記されている文字などとても読めそうにない。

どれも墨は乾き切っており、随分と前からそのような状態になっていたことは蒙毅も河了貂も簡単に予想がついた。

木簡について信が狼狽えたのは、きっとこのことを知っていたからだろう。

「お、落ち着けって…」

目をつり上げて自分のことのように憤怒している河了貂を宥めようと、信が声を掛ける。しかし、河了貂の怒り少しも収まらない。

彼女はぐるりと教室を見渡して、初日に信へちょっかいを出して来た黄芳のもとへと大股で近づいた。

「黄芳ッ!お前がやったのか!」

河了貂に怒鳴られて、黄芳はあからさまに顔を引き攣らせた。教室に張り詰めた空気が広がる。

「い、いきなり何だッ!そんな言いがかりをつけて…!俺がやったっていう証拠でもあるのかッ!」

「いつも信にちょっかい出してたのお前だろッ!お前以外に誰がやったって言うんだよッ」

ちょっかいという範囲で収まるかどうかは話が別だが、黄芳が一番の容疑者だというのは誰もが予想していた。

軍師学校に入門してから、信が軍略基礎を頭に詰め込み終えるまで、黄芳は頻繁に口を出しに来た。

初日に投げつけたような軽い嫌味ばかりで、信は大して気にしていなかったのだが、河了貂と蒙毅はその度に彼に言い返してくれたのである。

しかし黄芳はしつこく、軍略のことを何も分かっていない信にやたらとちょっかいをかけ続けた。

ここでは素性を明かさないという王騎との約束を守るために、信が「自分は下僕出身で運よく入門できただけだ」と黄芳に告げてからは、彼の言動は激化したように見える。

下僕出身だと言えば素性も隠せるし、相手にされなくなるだろうと思っていたことが、裏目に出てしまったようだ。

どこかの貴族の出なのだろうか、取り巻きの連中も何人かいるし、もしかしたら木簡のことも彼らに命令してやらせたのかもしれない。

今までのことを考えると、黄芳しかありえないというのが河了貂の見解だった。

「信に謝れよ!」

「な、なんで俺が!俺がやったっていう証拠もないくせにッ!」

このままではどちらかが手を出して暴力沙汰になると思い、信は蒙毅と共に河了貂のもとへと急いだ。

二人の間に割って入り、信は河了貂の丸い肩を掴む。

「テン、やめろ。お前ももうガキじゃねえんだから」

「なんで信も黙ってたんだよッ!」

墨だらけの木簡を指さして河了貂が信に迫る。

「それは…」

言えば今のような騒動になると分かっていたし、大事にしたくなかったのもあるのだが、何より、このような幼稚な真似をする者の相手にするのが面倒臭かったというのが一番の本音である。

下僕出身なのは事実だし、当時に受けた待遇に比べたら黄芳の行いなど大したことではないと思っていた。

そんなことを、頭に血が昇っている彼女に本音を打ち明ければ確実に殴られてしまうと思い、信は口を噤んだ。

「―――今日はこれで終いだ。皆、帰りなさい」

教室に漂っている張り詰めた空気を打ち破ったのは、立ち上がった昌平君の一言だった。

黄芳は逃げるように教室を飛び出していき、他の生徒たちも嫌な空気から逃れるように足早に教室を出て行った。

教室に残ったのは昌平君と信、それから河了貂と蒙毅の四人である。

「さ、さーて、俺も戻ろーっと」

何事もなかったかのように信も教室を出ようとするのだが、残念ながらそんな上手く逃げられる訳がなかった。

「信!話はまだ終わってないぞッ!なんで黙ってたんだよッ!」

河了貂に背中から腕を掴まれて、信は肩を竦めるようにして笑った。

「んなこと言ったってよ…今さらどうしようないだろ、これ」

真っ黒に塗り潰された木簡に視線を向けて信がそう言うと、河了貂が悔しそうに奥歯を噛み締めた。

木簡がこのようになっていると気づいた時、信も河了貂と同じくらい驚いた。しかし、驚愕の後にやって来たのは、怒りではなく諦めだった。

自分が騒いだところで犯人が名乗り出るとは限らない。河了貂は黄芳の仕業だと信じているようだが、彼を罰したところで木簡が元に戻る訳でもない。

恐らくそれは昌平君も思っていることだろう。何も言わずに信の姿を見つめているが、その瞳からは怒りも感じないし、咎めようとする様子は微塵もなかった。

 

軍師学校の夜

授業が終わり、生徒たちが宿舎に戻ると、軍師学校はもぬけの殻になる。

宮廷のあちこちには常に見張り役の衛兵たちが出入りしているため、昌平君は一人になりたい時や、集中して何かを考えたい時は、夜の軍師学校に来る習慣があった。

今日中に目を通しておこうと考えていた木簡を片手に、反対の手には明かりを持ち、昌平君は廊下を歩く。

誰も居ないのだから使う教室はどこでも良かったのだが、突き当りにある空き教室を使うことが多かった。空き教室の窓から月がよく見えるからだ。

月見をするのではなく、月明かりが差し込むので、文字が読みやすいという味気ない理由である。今宵は満月で、月の光がより多く差し込んでいた。

「…?」

突き当りの空き教室から明かりが洩れているのが見えて、昌平君は僅かに身構えた。

生徒たちは既に宿舎に帰っている時間だし、この時刻なら既に寝入っているはずだ。自分以外にここを利用する者がいたのかと驚いたのが正直なところだ。

心当たりがあるとすれば、同じ呂氏四柱の一人である蔡沢くらいである。しかし、彼は外交に出ているため、今は不在にしているはずだ。

野盗という可能性もあるが、ここは学校で金目の物などは置いていないし、そう言った目的なら宮中に行くはずだ。宮廷内にあるこの学校も易々と忍び込めるような建物ではない。

生徒が軍略が記された木簡を読み耽っているのかとも考えたが、わざわざ空き教室を利用せずとも、宿舎の部屋で読めばいいはずだ。

昌平君が明かりが灯っている空き教室を覗き込むと、そこにいたのは信だった。

椅子を使わず、窓枠に腰を下ろして月を眺めている…だけなら良かったのだが、傍らに酒瓶と杯があるのを見て、昌平君は思わず眉根を寄せた。

「ここは学校だぞ」

「授業が終われば学校じゃなくて、もぬけの殻だろ」

昌平君に声を掛けられても信は驚きもしないどころか、振り向かずにそう答えた。足音と気配で自分だと気づいていたのだろう。

空になっていた杯に酒を注ぎ、信は豪快に飲み干す。女にしては良い飲みっぷりだった。

「どこから持ち込んだ」

近くにあった椅子に腰を下ろし、持って来た木簡を広げながら昌平君が尋ねる。

「麃公将軍からの差し入れだ。お前も飲むか?」

ようやく振り返った信の顔は紅潮していた。ここで飲み始めてからどれくらい時間が経ったのかは分からないが、既に酔っているようだった。

軍師学校に信がいることを麃公は一体どこから知ったのだろうか。もしかしたら宮廷で遭遇したのかもしれない。

強化合宿と称しているが、授業以外の時間は拘束していない。王騎との約束があるため、屋敷に戻らず、宮廷で暇を潰していたのかもしれないと昌平君は考えた。

麃公も咸陽宮を出入りすることがある将軍だ。大酒飲みで知られている彼は、王騎とも交流があり、彼の養子である信のことも気にかけているようだ。

持って来た木簡にざっと目を通してから、昌平君は彼女の近くに椅子を寄せた。酒の誘いに乗ったのだ。

「ああ、悪いな。杯は一つしかねえんだ」

信が手に持っていた杯を掲げながら言う。構わずに昌平君は彼女の手から杯を奪い、酒を注いだ。

口に含んだ途端、ぬるいせいか、酸味と苦味がはっきりと舌に広がる。しかし、雑味が含まれていない分、後味はすっきりとしていた。芳醇な香りもまた良い。飲み込むと、胃に火が灯ったかのような感覚を覚える。

思わず長い息を吐いた昌平君を横目で見た信は、楽しそうに目を細めていた。

強い酒だというのは、大酒飲みである麃公からの差し入れだと聞いた時から察していたが、酒に弱い者が飲んだら卒倒してしまうだろう。

酒瓶の中身はまだ半分も減っていなかったが、こんなにも強い酒を一人で飲み干そうとしていたのだから、彼女は随分と酒に耐性があるらしい。

 

月見酒と特別授業

一つの杯で酒を飲み交わしていると、信がどこか寂しそうな表情で月を見つめていた。

酒瓶の中身が大分減って来た頃、昌平君の頬にも赤く染まっており、酔いが回り始めたことを自覚する。

「…なぜあの者たちに言い返さず、黙っている」

気づけば昌平君は信にそう尋ねていた。尋ねる気など微塵もなかったのに、口を衝いて言葉が出てしまったのだ。きっと酔いのせいだろう。

彼女が軍師学校に来た初日から、黄芳や彼の取り巻きの生徒たちから、軍師の才がないことを馬鹿にされていることを、昌平君は知っていた。

彼女が何も言い返さない分、代わりに蒙毅と河了貂が彼らを軍略囲碁で打ち負かしているのも、視界の隅でいつも見ていた。だが、信が黄芳に言い返したり、怒っている姿は一度も見たことがなかった。

「下僕出身なのは事実だろ」

「…庇うのか?」

昌平君が聞き返すと、信が不思議そうに首を傾げた。

「は?何も間違ったことを言ってねえあいつらから、何を庇うって言うんだよ」

まさかそんな答えが返って来るとは思わず、昌平君は表情を変えずに驚いた。

感情的になりやすいことは信の弱点だと思っていたのだが、黄芳や取り巻きたちに掛けられる言葉に、信は微塵も興味を抱いていないらしい。

気にしないようにしているのか、それとも本当に鈍いのかは分からないが、河了貂が怒るのも頷けた。

「下僕出身の俺が気に入らないんだろ。そんなのは王賁から言われ慣れてる」

王一族の中心である宗家には、信の幼馴染である王賁がいる。玉鳳隊の隊長である彼は、下僕出身である信が王家の一族に加わることが気に食わないのだという。

しかし、信は剣に覚えがあり、初陣から武功を挙げ続け、あっという間に五千人将にまで上り詰めた。王騎と摎が見抜いた力を発揮したのだ。

王賁から下僕出身のことをあれこれ言われなくなったのは最近だというから、恐らく彼も信の実力を認めようとしているらしい。

空になった杯を昌平君の手から奪い取りながら、信は酒を注いだ。青白い月明りを浴びた彼女の横顔が何だか儚げに映って見えた。

「…平等って、何なんだろうなあ」

信の口からその言葉が出て来るのは初めてのことだったが、彼女が疑問に思うのも当然だろうと昌平君は思った。

注いだ酒を一気に喉に流し込むと、信がにやりと歯を見せて笑った。

「下僕にも、当たりとはずれがあるんだぜ。知ってるか?」

「………」

何を言わんとしているのか、昌平君には手に取るように分かった。

この戦乱の世では親を失って、下僕として売り捌かれる子どもは珍しくない。信のように才能を見初められて、下僕の立場を脱する者はほんの一握りしかいないのだ。

信と時機を同じくして奴隷商人に売られた者たちは、今も下僕としての生活を続けている者が大半に違いない。

自分は当たり・・・であると信にも自覚があるらしい。もちろんそんなことは本人だけでなく、誰に聞いても答えられる質問だ。

「そんじゃあ、下僕の当たりはずれには、どんな種類があるかを知ってるか?」

一歩踏み込んだ質問が投げかけられる。信のように名家に引き取られるのが当たりなら、他にはどのような道があるのか。

安易に想像はつくのだが、下僕の出だからこそ知っている話もあるのだろうと、昌平君は彼女の言葉に耳を傾けていた。

何も答えない彼が話を聞く態度でいるのを見て、信が得意気に笑う。

「特別に今日は俺が先生になって授業してやるよ。机上じゃ絶対に知らない知識ばかりだ。良い勉強になるぜ?」

立ち上がった彼女は、酔いのせいでふらふらとした足取りだったが、まるで教鞭を執るように空き教室の中心に立った。

「下僕ってのは、運が良けりゃあ、奉公先で金持ちの旦那に飼われることもある。女だろうが男だろうが関係ない。物好きはたくさんいるからな。慰み者になって死んでく奴もいる」

「………」

酒で顔を赤く染めながら、誇示するように信は饒舌を振るう。

「姓がなくたって、力があればそれだけで価値がある。下僕の中でも、男ってだけで優遇されるんだよ」

男の下僕ならば農耕や荷役などの重労働をさせるために、その労働力を買われることも、徴兵されて軍事力にもなると言いたいのだろう。

酔いが回っているせいで、立っているのが辛くなったのか、信は昌平君の向かいにある椅子に腰を下ろした。

「…織布や家事とか、そりゃあ女にも色んな仕事はあるけどよ。女はそれなりに顔が良けりゃあ、娼館や後宮に売られたり、どこかの男の愛人になることもある。妓女として才能があるんなら、出世だってできるんだ」

女の下僕は、男とは大いに生き方が異なるのだと信は言った。

「女としての価値が買われるんなら、飢えも寒さも凌げる。…それじゃあ、ここで先生に質問だ」

信が口元に笑みを繕った。口元とは正反対で、その瞳は少しも笑っていない。

「見てくれも悪けりゃ、愛想も物覚えも悪い。何の取り柄も価値もねえ女はどうなると思う?」

「……」

昌平君はすぐには答えなかった。口を噤んでいる彼を見て、信が不思議そうに小首を傾げる。

「そんなに難しいかよ?前に王賁や蒙恬にも聞いたけど、あいつらも答えられなかったんだよな。簡単だろ」

つまらないという表情で信が椅子の背もたれに身体を預けた。

「それは違う」

昌平君が低い声で否定すると、信は彼に視線だけを向ける。

「二人が答えなかったのは、お前を気遣ったからだろう」

その言葉に、信の口の端が引き攣った。一瞬、彼女の目から殺意にも憤怒にも似た、底知れぬ感情が浮かび上がったのを昌平君は見逃さなかった。

「…それじゃあ、お優しい名家の嫡男様たちのように、お前も俺に気を遣って答えないってことか?」

挑発的な瞳を向けられ、昌平君は静かに口を開いた。

「…世を儚み自ら死を選んだか、悪戯にその命を奪われたか、どちらかだろうな」

どうやら正解だったらしく、信があははと笑いながら拍手を送った。

「見たことあるか?これから戦に出るどこぞの嫡男様に、逃げ惑ってるところを弓矢の的にされたり、武器の切れ味を確かめるのに使われる・・・・こともあるんだぜ?埋葬もされないまま、野ざらしで捨てられて、カラスや獣の餌になったやつだっている」

次々と信の口から告げられていく残酷な事実に、昌平君は口の中に苦いものが広がっていく。

奉公先でいじめに耐え切れず自ら命を絶つ者や、飢えや寒さに耐え切れ得ず亡くなっていく者がいるのだろうと想像していた。

しかし、信の口から聞かされたのは、あまりにも粗末な扱われ方だった。

同じ命だというのに、生まれが違うだけで、こんなにも生き方が異なる。だからこそ信は平等について疑問を感じていたのだろう。

信は将軍の才を王騎と摎によって見抜かれたことで、そのような死を回避出来た。だが、もしも二人が信を見つけてくれなかったのなら、その辺に転がっている小石と何ら変わりない価値のまま、玩具のように弄ばれて殺されていたかもしれない。

「…生まれた時から恵まれている者たちが憎いか?」

どうしても問わずにはいられなかった。普段から言葉にしないだけで、信は内側に下僕の命を粗末に扱う者たちに怒りを秘めているのかもしれないと思ったからだ。

しかし、昌平君が問うと、信はすぐに首を横に振った。

「別に、そんなの考えたことねえよ。…腹が減った時に飯が食えて、屋根がある場所で眠れる。それで良いじゃねえか」

頬杖をついて、信はゆっくりと瞼を下ろす。酔いが回って眠くなって来たのだろうか。

「そんなことが当たり前だと思ってる坊ちゃんたちは、それ以上に何が欲しいんだろうな。俺には分かんねえよ」

微睡みながら、信が呟く。

完全に瞼を下ろし切ってしまった信がこのまま寝てしまうのではないかと思い、昌平君が声を掛けた。

「寝るなら部屋で寝ろ。風邪を引く」

「寝てねえよ。もうちょっとだけ…酒飲み終わったら、戻る」

すぐに動き出さないところを見れば、本当に寝入ってしまうのではないかと疑わしくなる。酒の中身は二人で飲んだおかげで大方減っているが、まだあと数杯分は残っていた。

あんな話をした後で、機嫌良く過ごせるはずがない。表面的には笑顔を浮かべていたが、心の中で、信はどう思っているのだろうか。

「っくしゅん!」

静寂を打ち消すように、信が盛大にくしゃみをかました。

わざとらしく溜息を吐いた昌平君は紫紺の羽織を脱ぐと、その羽織を信の体に掛けてやる。

「酒が回って暑くなった。お前が預かっておけ」

「え?」

「馳走になったな」

肩に掛けられた羽織に信が戸惑っている間に、昌平君は酒瓶と杯を持って空き教室を出て行った。学校に酒瓶があったとなれば騒ぎになるのは目に見えている。不始末にならないように持って行ったのだろう。

まだ中身が残っていたのにお預けを食らったような気分になり、信は口を尖らせる。

「………」

一人教室に残された信は複雑な気持ちを抱いていた。

いくら麃公が差し入れてくれた強い酒を飲んでいたとはいえ、陽が沈み、夜風が吹いている今は誰であっても「暑い」とは思わないだろう。

風邪を引かないよう配慮したことを言わず、恩着せがましくないやり方で自分に羽織を着せていった昌平君に、信は妙な苛立ちを覚えた。

「何なんだよ…」

大人の余裕を見せつけられた気分だ。

いつかその余裕ぶった態度を揺すってやりたいと思いながら、信は窓の向こうに浮かんでいる月を眺めていた。

 

事件勃発

翌朝の軍師学校に、信の姿がなかった。

屋敷にいる時は他の兵たちと同様に早朝から夜遅くまで厳しい鍛錬をこなしていた信だったが、ここでの生活に慣れてからは、朝は随分とゆっくりと起きるようになったらしい。

眠っているところを副官である騰に首根っこを掴まれて、無理やり部屋から連れ出されることもないと笑っていた。

だから河了貂も、信が教室に来るのが遅いことに何も疑問を抱かなかった。

しかし、その日は違った。生徒全員が学校に集合して、蒙毅と河了貂がいつものように軍略囲碁を打ったり、勉学に勤しんでいたのだが、いつまでも信は現れない。

軍略囲碁が四回戦を終えた頃、もう時刻は昼になろうとしていた。

信はまだ教室に姿を現さない。さすがに遅すぎると河了貂は信を宿舎へ迎えにいった。

しばらくすると血相を変えた河了貂が教室に飛び込んで来て、円らな瞳を限界まで広げて蒙毅の腕を掴んだ。

「も、蒙毅ッ!来てくれ!」

「どうしたんだい?」

普段から冷静である蒙毅も、妹弟子の動揺に何かあったのだろうかと考える。

しかし、状況を説明するよりも見てもらった方が早いと言わんばかりに河了貂は蒙毅の腕を掴んで教室を飛び出して行った。

階段を駆け上がり、一番奥にある信の部屋に向かっていると、既に異変が起きていた。

「これは…」

信の部屋の前に、巨大な本棚が置かれていたのである。

「こんなもの、一体いつ…」

蒙毅の疑問に河了貂は首を横に振る。

「俺が朝、部屋を出た時にはこんなのなかった!」

「うん。僕も部屋を出た時に、こんなのを見た記憶はないよ」

蒙毅と河了貂は信よりも早い時刻に隣接している軍師学校へと着いていた。

昨夜こんな本棚は廊下にも置かれていなかったし、二人が部屋を出た時にだってこんな物が置かれていた記憶はない。

それに扉の前に置いてある本棚を見る限り、まるで信を部屋から出さないように、扉を塞いだとしか思えない。

一体どこからこんな大きな本棚が運ばれたのだろうか。誰がやったのか考えてみるが、一人での犯行はまず不可能だろう。そして当然ながら、室内にいる信の自作自演の線はなしである。

二階にこんな本棚が置いてあるのは見たことがない。どこかから持って来るにせよ、ここまで本棚を運ぶということは、あの階段を上って来なければならない。

複数犯しか有り得ないと分かると、河了貂と蒙毅は顔を見合わせた。黄芳とその取り巻きに違いないと二人は同じことを考える。

しかし、今は信のことが気がかりだ。

「信!おい!信ってばッ!」

本棚と扉越しに、中にいるであろう彼女に呼びかける。しかし、返事は一向に返って来なかった。

木簡を墨で汚された時も黙っていたのだから、今回の犯行に関しても、信は怒らずに大人しくしているのかもしれない。

しかし、河了貂は妙な不安を覚えた。さすがにこんな時間なのだから、信も起きているに違いないのに、どうして返事がないのだろう。

「河了貂。とりあえず、この本棚をどうにかしよう!」

「あ、ああ!」

蒙毅と共に本棚を扉の前から押しのけようとするのだが、少しも動かない。

かなりの重量があるのは目視しただけでも分かっていたが、まさかこれを抱えて階段に上がって運んで来たなんて。軍師よりも戦場で敵を薙ぎ払う方が向いているのではないだろうかと二人は考えた。

「んん~ッ!ダメだ!びくともしない!」

二人で力を込めても、本棚は少しも動かない。他の生徒たちの力を借りるべきかと考えた時だった。

「あー、いたいた。探したよ」

「兄上!」

蒙毅の兄である蒙恬がひらひらと手を振りながら、廊下を歩いて来たのだ。蒙恬の後ろを不機嫌そうな顔で王賁が歩いている。

王賁が不機嫌なのは、蒙恬に引っ張られて来たからに違いない。王賁の父である王翦は蒙驁の副官である。呂不韋側についている蒙家との接点があるため、軍師学校への出入りは蒙恬同様に警戒されない立場であった。

軍師学校を首席で卒業をしている蒙恬は、弟の蒙毅の顔を見るのを理由に時々ふらりとやって来る。

本当は軍師学校に可愛い女子生徒が入門していないか確認しているのだと知っているのは弟の蒙毅くらいだ。

「どうして兄上がここに…」

「信が来てるんでしょ?こっちに用があったら、顔出していこうと思ってさ」

素性を隠して軍師学校に強化合宿をしていることをどこから聞きつけたのか、蒙恬の情報網は早い。しかし、悪意は微塵もなく、純粋に友人を労いに来たのだろう。

「それが…」

蒙毅が言葉を濁らせて、顔色まで曇らせたので、蒙恬と王賁は何かを察したようだった。

部屋の前にある本棚を指さし、河了貂が目尻をつり上げる。

「黄芳の奴ら…信を部屋から出られないようにしやがったんだ!」

「は?」

蒙恬と王賁が瞠目する。こんな姑息なことをするのは黄芳に違いないと、憤怒した河了貂が言葉を続ける。

「俺と蒙毅が、信より先に軍師学校に行くのを知ってて、その隙にやったに違いない!絶対にあいつらの仕業に決まってる!」

「…ちょっと待ってよ。その言い方、もしかして他にも前例があるってこと?」

急に険しい目つきになった蒙恬が聞き返す。

強化合宿と称して信が軍師学校に来てから、蒙恬と王賁が来るのは初めてのことだったが、河了貂の言葉を聞いた二人は、彼女が穏やかな学校生活を送れていないのだとすぐに気づいた。

蒙毅は信が軍師学校に来てから、黄芳に言われた言葉や嫌がらせについてを二人に全て打ち明けた。
話を聞いていくうちに、蒙恬と王賁の顔がどんどん険しくなっていく。

「下僕出身だとしても、王家だと名乗れば、そのようなことはされなかったはずだろう。養子とはいえ、王騎将軍の娘だぞ」

腕を組んだ王賁が低い声で二人に聞き返した。ここに来てようやく口を開いたということは、王賁も憤りを感じているに違いない。

苦虫を嚙み潰したような顔で、河了貂が首を横に振る。

「…王騎将軍が、自分たちは大王側の人間だから学校では素性を隠せって言ってたらしくて…信は、ずっと何も言わなかったんだ…何されても、へらへらしてて…」

「あのバカ女…」

呆れたように王賁が肩を竦めている。信のことだからそうではないかと予想はしていたが、蒙恬は納得出来ないと声を荒げる。

「ちょっと、信だって女の子なんだよッ?そんなことされて、傷つかない訳ないだろ!」

顔を真っ赤にして自分のことのように怒る兄を蒙毅が宥める。弟の説得を受け、冷静さを取り戻した蒙恬がぎらりと目を光らせた。

「…よし、決めた。そいつら全員、卒業したら宦官にしちゃおう。男じゃなくなれば多少は反省するんじゃない?」

「兄上、落ち着いてください」

男の象徴である大事な物を捥いでしまえという蒙恬に、弟の蒙毅が静かに首を横に振った。

「女性にこのような振る舞いを行う低俗な者を宦官にするのは反対です。改心させるためにはもっと痛い想いをさせなくては」

笑顔で恐ろしいことを言い放つ兄弟子に、河了貂が青ざめていた。

「と、とにかく、まずはこれを退かそうぜ!」

話題を変えようと河了貂が本棚を指さした。四人がかりならばきっと本棚も動かせるだろう。

全員で本棚を動かそうとした時、廊下の向こうから昌平君がやって来た。

「…何をしている」

「先生!」

教室に信を含めた三人の姿がなかったことを気にかけていたのだろう。

なぜか宿舎に蒙恬と王賁がいることに昌平君は表情を変えないでいるが、何か異変があったことを察したようだった。

もう昼になるとはいえ、いつまでも信が学校に来ないことから、河了貂と蒙毅が迎えにいったことは分かっていた。

昨夜のこともあり、寝坊をしているのか、体調が優れないのか確認するために、昌平君も腰を上げたという訳である。

「………」

蒙毅から一通りの事情を聴いた後、部屋の前を塞いでいる大きな本棚を見て、昌平君の切れ長の瞳が鋭くなる。信が軍師学校に来ない理由は、寝坊でも体調不良でもないことは明らかだった。

黄芳のことは、信自身が気にしていないようだったので、こちらも口を出すことはしなかったが、このようなことが続くのならばそろそろ熱い灸を据えなくてはならないかと昌平君は考えた。

「信ッ!」

部屋の前から重い本棚を動かし、河了貂が扉を開けた。

「んんー、なんだよ…うるせえなぁ…」

返事がないことを怪しんでいたが、扉を開けた先で、信は寝台に横たわっていた。

まだ眠いと言わんばかりに、頭まで布団を被ったのを見て、信以外の全員が顔を強張らせたのだった。

 

惰眠

「信、なに寝てんだよッ!?」

こちらの心配や苦労など知らず、ぐっすりと寝入っていたらしい信に、河了貂が怒鳴りつける。

布団越しに信の体を揺すり、河了貂は行き場を失った怒りをぶつけている。

河了貂に続いて、信のもとに駆け寄った蒙恬が苦笑を浮かべる。すん、と鼻を鳴らして、蒙恬が苦笑を浮かべる。

「…信、お酒臭いよ。まさか酒飲んだのか?さすがに俺だって軍師学校にいる時は我慢してたのに」

「へへ…この前、麃公の将軍から差し入れてもらったんだ」

布団から顔を覗かせ、何の悪気もなく笑顔を浮かべて答えた信に、王賁がずかずかと大股で近づき、拳を振り上げる。ごつんと鈍い音を立てて、王賁の拳が信の額に振り落とされた。

「いでえぇッ!?王賁てめえ、何しやがるッ!」

一切加減のないげんこつに、信が涙目で王賁を睨み付ける。

「これだから己の立場も弁えぬバカはッ…」

本気で苛立っている王賁に、信は聞き飽きたと言わんばかりに肩を竦める。

自分が下僕出身だと打ち明けてから、黄芳たちからも似たような言葉を掛けられていたのだが、王賁に言われた言葉の数に比べると、ほんの一つまみにしかならない。それが信に強い耐性をつけていたのだろう。

「あー、もう昼か。飯食って、いや、その前に宮廷でもらい湯して来るかなあー」

ようやく寝台から体を起こした信が呑気にそんなことを言うものだから、全員は溜息を吐いた。

まだ眠たい目を擦りながら、信が思い出したように昌平君を見る。

「あ、先生。これってズル休みじゃねーよな?そんな重い本棚が塞いでたんだから、俺にはどうしようも出来なかったし」

どこか得意気に笑いながら尋ねる信に、昌平君は僅かに眉根を顰める。

部屋の前に本棚で塞がれていたのは不可抗力だ。軍師学校に来れなかったのは、信が原因ではない。

「…そうだな」

昌平君が頷くと、信は満足そうに笑った。

「これ、ありがとな」

身に纏っていた紫紺の羽織りを脱ぐと、信は畳むこともせず昌平君の胸に押し付けた。

昨夜彼女に貸した羽織りだった。ずっと着ていたということは、部屋に戻ってからすぐに寝てしまったのだろう。本当に今の今まで眠り続けていたらしい。

「先に宮廷でもらい湯して来るわ。じゃあな」

ひらひらと手を振りながら、信が部屋を出ていく。

「………」

彼女がいなくなってから、その場にいる全員から視線が向けられたのを感じ、昌平君はわざとらしく咳払いをした。

にやりと嫌な笑みを浮かべた蒙恬が、先ほど信から返された昌平君の羽織に視線を向けている。

「先生、信と晩酌したんですか?二人きりで?」

その言葉を聞いた王賁が瞠目していたが、昌平君は何事もなかったかのように羽織に袖を通して全員に背を向ける。

どうして信が彼の羽織を着ていたのか、全員が気になっているようだが、余計なことは何も言うまいと昌平君は口を閉ざしていた。

愕然としている三人と違い、なぜか蒙恬だけはにやにやとした笑みを浮かべていた。

空き教室で酒を飲み交わしていたことを、とても話す気にはなれなかった。口は災いの元・・・・・・なのである。

 

再会と再戦

もらい湯を済ませ、遅い昼食を終えてから、信はようやく学校へと向かった。

まだ二日酔いが続いていたが、昼までぐっすりと休めたこともあって、気分はすっきりしている。

また河了貂から説教を食らいそうだなと考えながら教室に向かっていると、廊下の向こうから昌平君がこちらへ歩いているのが見えた。

「信」

すれ違いざまに呼び止められて、信は振り返る。

「お前に客人が来ている。ついて来なさい」

「俺に?」

そうだ、と昌平君が頷く。客人が誰なのかを告げずに歩き出したので、信は彼の背中を追い掛けた。

軍師学校を出てからしばらく長い廊下を歩き、宮中の一室に辿り着いた。客人というのは誰だろうと小首を傾げながら、信は昌平君と共に部屋に入る。

見覚えのあり過ぎる大柄な男が、椅子に腰掛けたままこちらを振り返った。

艶のある分厚い唇を意味ありげにつり上げた男に、信がぎょっと目を見開く。

「父さ…王騎将軍ッ!?」

「ンフフフ。元気そうですねェ?」

大らかに笑う養父は相変わらずのようだ。久しぶりの再会ということもあって、信の口元が自然と緩んでしまう。しかし、どうして彼がここにいるのか分からない。

「なんでここに?」

咸陽宮に何かしら用があって、立ち寄ったついでに自分の様子を見に来たのだろうか。それとも、昌平君から強化合宿の進行具合について聞きに来たのかもしれないし、両方かもしれなかった。

「…さて、軍略を学んだ成果を見せてもらいましょうか」

得意気に王騎が微笑んだので、戸惑ったように信は視線を泳がせた。

「んなこと言っても…騰が俺の剣、持っていっちまっただろ」

屋敷を追い出されたあの日、軍師学校に武器は不要だからと剣は没収されていた。真剣な表情でそんなことを言う娘に、王騎がココココと独特に笑う。

「何を言っているんです?軍師学校で勝負といえば、これでしょう?」

養父の視線を追い掛けると、軍師学校にも置かれている囲碁台がある。

まさか軍略囲碁で勝負しろというのか。信の心臓がどきりと跳ね上がった。

「座りなさい」

「………」

信はぎこちない表情のまま、囲碁台を挟んで向かいの席に腰を下ろした。

「それでは、今回の勝負は平坦な地にしましょう」

特に障害物も挟まず、隠れることも出来ない平坦な地を戦場と見立てることとした。

軍に見立てた駒を用意していく王騎を、信は緊張した面持ちで見つめている。昌平君は二人の間にある囲碁台をじっと見つめていた。二人の勝負を見守るつもりなのだろう。部屋から出る気配を見せない。

自分と信にそれぞれ駒を分けた王騎は、真剣な眼差しで口を開いた。

「もしも私に勝てれば、屋敷に帰る許可をあげましょう」

養父の言葉に信が弾かれたように顔を上げた。顔に喜色が浮かんでいたが、すぐに消え去ってしまう。

「…負けたら?」

聞き返した信の声が僅かに震えている。負けた時の罰はきっとひどいものだと、彼女は既に予想しているようだった。

「そうですねェ」

口元に手をやり、王騎が考える素振りを見せる。

「即座に五千人将の座を解き、あなたの地位を伍長に戻します。強化合宿も年単位で延長としましょう」

「ッ…」

これには信だけでなく、さすがに昌平君も驚いた。そのような話は初耳だった。

いくら大将軍である王騎とはいえ、信の五千人将の座を解く権限は持っていない。本来、その権限を持つ立場の総司令官が傍にいる状況を、王騎は味方につけたのだ。

「………」

王騎と昌平君が、事前にそのように話をつけていたと信は見事に勘違いし、固唾を飲んでいる。

青ざめている娘を見据え、王騎が挑発するように笑い掛ける。

「怖いのなら、勝負をしないという手もありますよ?その場合、将が不在ということで飛信隊は解散となりますが」

あまりにも容赦ない王騎の言葉に、勝負を見守る立場の昌平君までもが固唾を飲んだ。

王騎に勝利をしなければ飛信隊は解散。勝負から逃げても同様だ。

選択肢を与えるようにみせかけて、一つの道しか与えない王騎の厳しさに、信は嫌な汗を滲ませながら呼吸を繰り返していた。

将軍を目指す以上は、敵を前にして逃亡も敗北も許されない。きっと幼い頃から信はそう教えられていたのだろう。

「…やるしかねえだろ」

信は自分に言い聞かせるように、返事をすると、椅子に座り直した。

 

後編はこちら

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軍師学校の空き教室(昌平君×信)前編

  • ※信の設定が特殊です。
  • 女体化・王騎と摎の娘になってます。
  • 一人称や口調は変わらずですが、年齢とかその辺は都合の良いように合わせてます。
  • 昌平君×信/ツンデレ/ギャグ寄り/IF話/軍師学校/ハッピーエンド/All rights reserved.

苦手な方は閲覧をお控え下さい。

 

養父からの命令

戦を終えて屋敷に帰還した信は、誰が見ても分かるほど落ち込んでいた。此度の戦は秦軍の勝利で終えたのだが、少しも勝利を喜んでいない。

今頃、秦の首府である咸陽では大いに祝宴を挙げているだろうに、信はまるでこれから葬儀にでも参列するのかと思うほど暗い雰囲気を携えていた。

いや、実際に葬儀は執り行った。作法に基づいたものではないが、戦地で大勢の兵たちの死を悼んだのだ。

大勢の屍の前で打ちひしがれている信に肥を掛けたのは、養父である王騎だった。

恐らく此度の戦も参戦せずに遠くから眺めていたのだろう、「帰ったら話があります」と呼び出されたのである。

咸陽宮で行われた論功行賞の後、勝利を祝う宴には参加せず、信はすぐに馬を走らせて屋敷へと帰還した。

馬で帰路を走っている最中も、信の気持ちは少しも晴れない。呼び出された時から説教を受けることになるのは分かっていた。

包帯だらけの身体を引き摺って、信は王騎の部屋へと向かった。

戦の後、王騎に呼び出された時は必ずと言って良いほど、説教を受けるのだ。

少しくらい娘が無事に生還したことを喜んだり、戦での活躍を労ってもらいたいものだが、王騎は厳しいのだ。かといって、自分を棚に上げることはしない。

兵たちと共に命がけの鍛錬を行い、常に自分の力に磨きをかけている父だからこそ慕う者も多く、天下の大将軍と称えられているに違いない。

だから信はお説教を受けることは憂鬱ではあるが、それほど苦ではなかった。

咎められたことを次の戦で活かせれば、素直に褒めてくれるし、これまでの経験で得た知識を授けてくれる。王騎は甘言と脅しの使い分けが上手いのだ。

しかし、今回のお説教は長引きそうだというのは信も察しがついていた。

何故なら信が率いる飛信隊は、此度の戦で兵の大半を失ったのである。壊滅状態と言っていい。将としての責を厳しく追及されるだろう。

此度の戦で戦果を挙げれば、将軍昇格になることは信も嬴政から聞いていたのだが、この被害を受けて見直すことになったらしい。

父に一歩近づけたと思ったのに、仕切り直しになってしまった。

次回の戦で大いに武功を挙げれば、将軍昇格を再び検討してもらえるらしいが、此度のような軽率な行動を行えば、仕切り直しどころか、将軍昇格は白紙になってしまうかもしれない。

きっと王騎もそのことを自分に厳しく伝えるつもりなのだろう。信はあらかじめ覚悟をしていた。

「入る…入り、ます」

普段のように敬語を使わず声を掛けそうになったが、信は寸でのところで言葉遣いを直した。下手すれば入室の時点から叱られてしまう。

秦王の前に出るため礼儀作法を習っていたこともあったのだが、少しも身についていないのは、王騎も摎も信の物覚えの悪さに諦めてしまったからだろう。苦手なものは何をしても苦手なのだから仕方ない。

扉を開けると、王騎が呆れた表情を浮かべて信を見た。

「ンフゥ。来ましたね、戦況も見えないお馬鹿さん」

さっそく王騎から此度の戦の失態を比喩したような声を掛けられる。副官である騰も一緒だった。返す言葉もないと信が苦笑を浮かべると、部屋にいたのは王騎と騰だけでなかった。

紫色の着物を身に纏った男が振り返る。彼こそ秦軍の総司令官を務める右丞相の昌平君である。

「え?なんで昌平君が…?」

戦後の事務処理で一番忙しくしていそうな男が一体なぜこの屋敷にいるのだろう。

疑問を抱くのと同時に、王騎の呼び出しと昌平君の存在に繋がりがあるような気がして、信は嫌な予感を覚えた。

しかし、王騎はすぐに昌平君がここにいる理由を打ち明けることはせず、信をじっと見つめる。

「ッ…」

戦場でないというのに、毛穴にびりびりと食い込むような嫌な感覚に、信が後退りをしそうになった。しかし、腹に力を込めて王騎と真っ直ぐに見つめ合う。

気迫だけで人を圧倒させることが出来るのは、天下の大将軍と称えられるほどの実力を兼ね備えている父だからこそ出来る技だろう。

しばらく無言で見つめ合い、重い沈黙が部屋を包み込む。先に口を開いたのは、王騎の方だった。

「信、あなたを勘当します」

「え…」

勘当という言葉が親子の縁を切るものだと知っている信は頭の中が真っ白になった。

「というのは冗談です。驚きました?ココココ」

「………」

冗談だと笑われても、信の全身から浮かんだ嫌な汗は少しも引いてくれなかった。愕然としたままでいる娘に、王騎は肩を竦めるようにして笑う。

王騎が人をからかうのが大好きなのは分かっていたが、信には少しも笑えない冗談だった。

「さて、本題ですが…此度の飛信隊の動きは、とても残念でした」

「………」

信は唇をきゅっと噛み締める。やはり予想していた通りの説教が始まるようだ。

「まるで発情期の獣が、ようやく雌を見つけて、なりふり構わず襲おうとしているような…あんなにも単純かつお馬鹿さんな隊は初めて見ましたよ」

信にはよく分からない比喩だったが、王騎はやたらよく分からないものに比喩するのが好きだ。

要約すると、布陣を構えた敵陣に突っ込んでいったのは無謀だったのだと言いたいのだろう。

王騎と昌平君の二人の間には軍略囲碁台が置かれている。時々、この部屋で王騎が副官の騰や録嗚未たちと軍略囲碁をするのは知っていた。

信は剣の扱いや兵たちの鍛錬の指揮を得意でも、軍略に関してはからきしだったので、一度も父と軍略囲碁を打ったことはない。

下僕出身ということもあり、文字の読み書きなど出来ない自分には剣しかないと思っていた。

養子となってからは、鍛錬の合間に字の読み書きの練習をさせられて何とか習得したのだが、ずっと勉学とは無縁だったせいか、机に向き合う時間は今も好きに慣れない。

恐らく信が来るまでに二人で打っていたのであろう軍略囲碁も、一体どちらが勝利したのか、どんな勝負だったのか、今並んでいる駒を見ても信には少しも分からなかった。

「私も反省すべきところでした。多くの戦を見て学ばせたつもりでしたが、ここまでお馬鹿さんだったとは思いませんでしたよ。今までの武功は全て運が良かっただけでしょうねェ」

「なっ…!」

今までの戦で命を落としそうになったことだって一度や二度じゃない。

何度も死地を乗り超え、多くの兵たちの犠牲の上で得た勝利を、「運が良かった」という一言で片づけられるのはとても腹立たしかった。

何か言い返そうと信が口を開いたが、王騎がその言葉を遮った。

「軍略について学んで来なさい。強化合宿というやつです」

「…へっ?」

怒りを飛び越して、信が呆けた顔になった。

 

強化合宿

「軍略の…強化合宿…?」

言葉を繰り返すと、王騎がゆっくりと頷いた。

「期限は特に定めていません。判断は総司令官に委ねます」

「な、なんで…」

狼狽える信を見つめながら、王騎は艶のある分厚い唇を歪めて笑う。

「愚問ですねェ。あなたに軍略を学ばせようという父の優しい想いですよ?」

どう考えても命令にしか聞こえない。こんな風に王騎が自らを父と名乗って何かを話す時ほど、恐ろしい目に遭った。

幼い頃に「残党を最低十人は殺してその証を持ち帰って来なさい」と言われ、崖から突き落とされたことを思い出し、信はぶるぶると全身を震わせる。

いつも王騎はこうやって無理難題を押し付けて来る。そして達成出来ないと絶対に屋敷に入れてくれないのだ。

戦で死地を乗り超えて来たが、幼少期の鍛錬に比べればマシかもしれないと思えるほど、信には過酷な思い出として頭に刻まれている。

そして今回も自分には拒否権はないのだろう。信は顔を引き攣らせることしか出来なかった。

「合宿って…ど、どれくらいかかるんだよ…」

声を震わせながら信が二人に問うと、自分の髭を指で丁寧に整えながら、王騎は口の端をつり上げた。

「さあ?総司令官のお許しが出なければ、五年でも十年でもいるかもしれませんよォ?もちろん、その間は戦に出ることは許しません」

「―――」

信の顔からみるみる血の気が引いていく。ただでさえ今回の件で将軍昇格への道が取り消しになろうとしているのに、戦で武功を挙げなければ、将軍昇格がどんどん遠ざかってしまう。

「そ、んなぁ…」

軽い眩暈を覚えて、信はその場にしゃがみ込んでしまった。

…勘当は冗談だと言っていたが、もしかしたら王騎は本当は自分を屋敷から追い出す名目で強化合宿の話を考えたのだろうか。

愕然としている信に、王騎がくすくすと笑い、昌平君と騰は先ほどからずっと表情を変えていない。

「が、合宿って…どこで…」

泣きそうな声で尋ねると、王騎が目を細める。

「もちろん軍略学校ですよ。そのために総司令官においでいただいたのですから」

昌平君は軍の総司令官であり、右丞相を務める男だが、もう一つの顔があった。それは軍師学校の指導者である。

昌平君の軍師学校といえば、秦の軍師育成機関の中でも国内最高峰とも言われている。全国に多くの入門希望者がいるが、百人に一人が通ることの出来る超難関だという。

信の友人である河了貂もその軍師学校に通っており、日々勉学に勤しんでいる。

軍師の才がある者を集め、育成している場所で、大将軍を目指している信には無縁の場所だと思っていた。

強化合宿という一時的なものではあるが、六大将軍・王騎の力による、いわゆる裏口入門というやつである。

河了貂に会えるのは嬉しいが、軍師でもない自分が軍師学校に通わなくてはならないということに、信はいたたまれない気持ちになった。

どうやら娘の考えを読んだ王騎が呆れたように肩を竦める。

「軍略を練るのは軍師だけではありません。将も頭を使った戦をしなくてはなりませんからねェ」

「………」

「いかに強さがあっても、それを使いこなす頭が無ければ、意味はありませんよ。飛信隊の強さをどうしたら活かせるか、軍師学校で学んでらっしゃい。その間、飛信隊は私が預かります」

信が返事をせずに狼狽えた視線を向けたので、王騎は溜息を吐いた。

「騰」

「はッ」

騰が信の背中に携えていた剣を奪い取る。何をするんだと信が剣を取り返そうとするのだが、騰は信の襟を掴んでその体を猫のように軽々と持ち上げた。

「騰ッ!放せッ!せめて剣は返してくれよッ!」

「軍師学校に剣は不要だと、殿と総司令官殿が」

どれだけ手を伸ばしても剣を返してくれる気配はなかった。王騎軍の副官である騰にとって、王騎の命令は絶対なのである。

 

ぎゃーぎゃーと喚く信が騰と共に部屋を出ていった後、王騎は困ったように笑みを深めていた。

「…ああ言ってしまいましたが、長くても半年と言ったところでしょうか。次の戦の気配があれば、飛信隊にも出番をあげたいですからねェ」

信が居なくなってからようやく本音を打ち明けた王騎に、昌平君は表情を変えぬまま瞬きを繰り返す。

「素直にそう言えば良かったのではないのか。養子とはいえ、娘だろう」

幼い頃から信に厳しい鍛錬を強いていたのは噂で聞いていたが、今のやり取りを見る限り、本当に容赦ない鍛錬を強いて来たのだと分かる。

王騎軍が日々こなしている厳しい鍛錬については知っていたが、まさか娘にまでそのような鍛錬を強いていたとは思わなかった。

しかし、今の王騎の言葉を聞く限り、彼もがむしゃらに信を躾けている訳ではなさそうだ。単純に愛情表現が不器用なのだろうか。

昌平君には未だ妻子はいないのだが、他の同僚たちの家庭を見ていると、父という存在は娘に甘いものだという認識があった。天下の大将軍といえど、その認識はこの中華では共通らしい。

「甘やかす役割は、母親が担っていましたからねェ。ココココ」

右手の甲を左頬に押し当てながら、王騎が大らかに笑った。母親というのは、今は亡き六大将軍の一人である摎のことだ。

彼女が趙の龐煖に討たれてから、信もがむしゃらに強さを求めて武功を挙げるようになっていた。その焦りが、今回の飛信隊壊滅に繋がったのかもしれない。

「では、娘のことを頼みましたよ。あなたが動かしやすい駒になるよう、しっかりと学ばせてやってください」

あえて駒という言葉を使ったのは、決して嫌味ではない。軍師にとって将や兵は駒であるのは事実だし、戦に出ない分、大勢の命を背負っている役割がある。

此度の戦で兵の大半を死なせてしまった信にもその役割を学ばせて欲しいという王騎の気持ちの表れだった。

「字の読み書きは一通り出来るはずですが、机上で何かを学ぶ経験が乏しいので、上手くやってください」

要するに信はかなりの飽き性なのだと告げられ、昌平君は返答に困った。

王騎からの頼みである以上、何も成果を出さずに彼女を帰す訳にはいかない。半年という期限を設けられたが、その間に一体どれだけの軍略を詰め込めるだろうか。

 

信の幼少期の鍛錬についてはこちら(李牧×信)

 

出発

「開門ッ!開門しろーッ!」

追い出されるように、身体を放り投げられ、信はすぐに立ち上がった。

門が閉じられてしまう前に全速力で駆け出すが、寸でのところで門が閉められてしまう。こうなれば何をしても開かないことは信も分かっていた。

「くっそー!騰の馬鹿野郎ッ!」

怒鳴りつけるが、もう騰は門の向こうにもいないだろう。

今日の浴槽に浮かべる花は何だろうと思っているような顔で、信を放り投げていたし、本当に薄情な男だ。

信は門に背中を預けてその場にずるずると座り込んでしまった。

(…軍略を学んだって…)

自分が五千人将にまで昇格したのは、飛信隊の強さだと自負していた。

過去の戦では楽華隊の蒙恬や、玉鳳隊の王賁にも無謀だと言われたことは何度もあったが、それでも飛信隊の強さがあれば敵の布陣を崩すことだって容易に可能だった。

信頼している兵たちの力があるからこそ、ここまでやって来れたし、きっと将軍になってからもそうなるだろう。信はそう疑わなかった。

だが、今回の飛信隊の被害の原因は他の誰でもない自分だと王騎に指摘をされてしまい、自分には将として才能がないのかと信は落胆してしまう。

軍略を学んだところで、自分は戦に活かせるのだろうか。それよりも鍛錬を積んで兵たちの強化に充てた方が良いのではないだろうか。色んな考えが脳裏を過ぎる。

「…ん?」

馬の嘶きが聞こえて、信は顔を上げた。屋敷の前に馬車が一台停まる。

来客だろうかと信が立ち上がった途端、背後で門が開く音がした。反射的に信は開いた門に全速力で飛び込んでいた。

「どこへ行く」

「ぐえッ」

先ほど騰にされたように、目にも止まらぬ速さで昌平君に襟元を掴まれて、信は喉を詰まらせた。彼が屋敷から出て来たということは、王騎と話を終えたようだ。

襟首を掴まれたまま、信はじたばたと手足を動かした。

「放せよッ!門が閉まっちまう!」

「そろそろ戻らねば日が暮れる」

「勝手に決めつけたくせに見送りもしねえッ!父さんに文句言いに行ってやる!」

信がぎゃーぎゃーと騒いでいる間に、再び門が閉められてしまった。

なおも暴れる娘の首根っこを掴んだまま、昌平君は無言で馬車へと引き摺っていった。

有無を言わさず、まるで荷物のように馬車に身体を押し込まれ、昌平君も乗り込むと、すぐに騎手が馬を走らせた。

「………」

がたごとと揺れる馬車の中で、信は拗ねた子どものように膝を抱えて、窓から遠ざかっていく屋敷を眺めている。

むくれ顔なのは、王騎に強化合宿を勝手に決められたことと、剣すら持たせてもらえなかったことや、見送りもされなかったことなど様々な要因だろう。

戦場に立つと彼女は別人のように顔つきが変わるという。軍師として後方に立ち、戦場に赴くことがない昌平君は、子どものような表情しか知らなかった。

態度を見る限り、どうやらもう逃げ出すつもりはないらしい。戻ったところで屋敷に入れないことは信も分かっているのだろう。

「………」

昌平君は先ほど王騎から渡された書簡に目を通しながら、果たして信はいつ屋敷に帰せるだろうかと考えた。

此度の飛信軍の動きだけではなく、今までの戦での兵の動かし方を見る限り、彼女は兵の強さを過信する傾向にあるようだ。

確かに飛信隊の騎馬兵や歩兵たちの強さは、王騎軍にも引けを取らぬものがある。

だが、いかに兵力があっても使い方によっては簡単に弾かれてしまう。今回の飛信隊の壊滅は良い例だ。

彼女が五千人将にまで上り詰めた実力を疑う訳ではないが、将軍に昇格するとなれば、兵力も増員する。

それだけ多くの命を預かるのだから、今以上に将としての責任も重くなる。王騎はその自覚を促そうとしたのかもしれない。

今後の戦で今回と同じように無茶な戦い方をして、兵が壊滅する被害がないとは限らない。

敵軍がどのような策を使って来るかは分からないが、軍略を学ぶことで、対応策を立てることだって出来るはずだ。

信が将軍の座に就いたのなら、今後の秦軍の兵力は強大なものになる。恐らく王騎もそれを見込んで、軍略を学ばせようとしたのだろう。

話によると、王気は幼い頃から信を連れて数多くの戦を見せていたらしいが、将軍同士の戦いに夢中になるばかりで軍略に関してはちっとも興味を示さなかったそうだ。

将軍たちが何を考え、あのような動きをしているのかについても助言をしていたようだが、信はそれを聞き流していたという。

天下の大将軍である王騎から助言を聞ける機会など、将を目指す者たちからすれば喉から手が出るほど貴重なことだというのに勿体ないことをする。

「別に軍略なんて学ばなくても、飛信隊なら…」

小さく信が呟いたので、昌平君は視線を動かして彼女を見た。声色から察するに、信は軍略ん冠して微塵も興味がないことが分かる。だが、興味がないからというのは軍略を学ばない理由にはならない。

これから信は今以上の兵の命を預かることになるのだから、そのような考えは捨て去るべきだ。此度の失敗を次の戦に活かさねば亡くなった兵たちのためにもならない。

「…そのような感情論は捨てろ。戦ではその過信が命取りになる」

昌平君の言葉に、体のどこかが痛んだかのように、信がきゅっと眉を寄せた。

「………」

抱えた膝に顔を埋めた信がそれきり何も話さなくなったので、昌平君も何も言わなかった。
軍師学校がある宮廷に到着するまで、馬車の中は重い沈黙で満たされていた。

 

宿舎

宮廷に到着した時には、既に陽が沈みかけていた。

馬車から降りた後も、信の表情は暗いままである。ここまで来たのなら軍略を学ぶしかないと諦めたという様子でもない。

憂いの表情を浮かべているのは、亡くなった兵たちのことを考えているからなのだろうか。

「信、来なさい」

構わず昌平君は彼女に声を掛け、軍師学校へと向かった。宮廷にある軍師学校には、生徒たちが寝泊まりできる宿舎も備えられている。二階には空き部屋があったはずだ。

「………」

地面を睨み付けるように前屈みになって、信は昌平君の後ろを歩いていた。

しばらく長い廊下を歩き続け、突き当りに軍師学校へと続く新たな廊下があった。軍師学校と宿舎は隣接している構造となっている。

一階の全てと、二階の階段手前の部屋は男子生徒が使っており、二階の奥の方は女子生徒が使用している。軍師学校に通う女子生徒は、今は信の他に一人しかいないので、奥の方はほとんどが空き部屋になっていた。

一番奥の空き部屋に入り、昌平君は手に持っていた木簡を信に押し付けるように渡した。

「これは?」

「王騎からだ」

まさか養父の名前が出るとは思わなかったのだろう、信は驚いたように目を丸める。

受け取った書簡の内容に目を通すと、信の表情はみるみるうちに強張っていった。

「…はあ…」

最後の一文まで目を通した彼女は書簡を乱暴に折り畳み、大袈裟な溜息を吐く。

書簡は昌平君に宛てたものであったが、信にも見せるよう伝えられていた。

―――内容を要約すると、軍師学校では己の素性を隠すこと、昌平君の指示に従うこと、無断で帰って来ても屋敷には入れないことが記されていた。

素性を隠すよう指示したのは、昌平君が呂氏四柱の一人であることを気遣ってのことだろう。昌平君が仕切っているこの軍師学校は、呂氏陣営の一つだと言っても過言ではない。

しかし、王騎軍と飛信隊は大王側に身を置いている。敵対関係にある将を軍師学校に入門させるとなると、あらぬ疑いを掛けられてしまうに違いない。

それは信と王騎だけでなく、王騎の頼みを受け入れた昌平君もである。

昌平君が軍師学校で軍略を教えることは、呂氏陣営や政治とは一切関係のない公務とはいえ、どこで誰が聞いているか分からない。恐らく王騎はそれを警戒しているのだろう。

長くとも半年だと期限を設けたのは、信を次の戦に出すためだと言っていたが、いつまでも敵地に娘を置いておきたくないという親心なのかもしれない。

「どうせ父さんのことだから、そうだろうと思ったぜ…」

屋敷で話していたことと内容は大して変わりないのだが、書簡にして残すほど王騎が本気なのだと分かった信は、ここに来てようやく腹を括るしかないといった表情を浮かべていた。

唇を噛み締めた信が何か言いたげに昌平君を見上げたが、それは言葉にはならなかった。

「河了貂もいる。分からないことがあれば彼女に聞きなさい」

二人が成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いだと知っている昌平君がそう言うと、信は小さく頷いた。

 

旧友との再会

昌平君が宿舎を出て行った後、信は与えられた部屋に入って重い溜息を吐いた。

まるで修道院を思わせるかのような簡素な部屋で、机と椅子と寝台くらいしかなかった。

軍師学校に通う生徒は、色々と必要なものを持ち込んでいるのかもしれないが、追い出されるように連れて来られた信は何も持って来ていない。あるのは先ほど昌平君から渡された書簡くらいだ。

剣も没収されてしまったのは、軍略に集中しろという王騎の伝言なのかもしれない。

「………」

寝台の上に横たわり、信は天井を見上げた。

一体いつになったら屋敷に戻れるのだろうか。昌平君の許しが出るまでとのことだが、軍略について今から改めて学ぶなんて、どれだけ時間がかかるのだろう。

幼い頃、両親に幾度も戦に連れ出されたのは、自分の目で見て軍略を学べということだったのかもしれない。

将軍同士の白熱した戦いにばかり目を奪われていた幼い自分を、今になって悔いた。しかし、今さら悔いたところでもう遅い。

天井を見上げながらひたすら溜息ばかり吐いていると、扉が開かれる音が聞こえて、信は反射的に起き上がった。

扉の隙間からこちらを覗いている少女を見て、信は、あっと声を上げた。

「テン!?」

「聞いたことのある声がすると思ったら、やっぱり信だったか!」

河了貂という名の少女が駆け寄って来て、満面の笑みを浮かべる。

信にとっては妹のような存在である河了貂は嬴政が弟である成蟜から政権を取り戻す時に出会った。最後に会った時よりも、彼女の姿は随分と大人びて見えた。

「その年で五千人将になんてすごいぞ!五千人将から昇格したら、次は将軍なんだろ!?」

「あ、ああ…」

久しぶりの再会を喜んだのも束の間、信はみるみるうちに暗い表情になる。河了貂もその表情の変化に何かを察したようだった。

「信…軍師学校に来たってことは…」

信が五千人将として活躍している話を知っているのなら、此度の飛信隊のことも知っているはずだ。河了貂は言葉を探すように目を泳がせている。

軍師学校に集うのは、軍略を学ぶ生徒たちだ。信が五千人将だからと言って例外はない。

「…今回の戦と、また同じことを繰り返したら、飛信隊が解散になるかもしれねえ。そうなったら、将軍昇格どころじゃねえ…」

「ええッ!?」

河了貂が驚いて大声を上げた。

寝台の上で縮こまりながら、信は戦から帰還して先ほどまでの経緯を河了貂に包み隠さず伝えた。

もしもここで河了貂に会わなかったら、愚痴の一つも零せず、溜息ばかり吐いていたに違いない。

信から一通り話を聞いた河了貂は、掛ける言葉を選ぶように「あー…」と顔を強張らせていた。

「…でも、やるしかないだろ」

顔を上げて信が苦笑を浮かべながらそう言ったので、河了貂は大きく頷いた。

「あ、ここじゃあ、素性を隠すよう言われてんだ。やりにくいだろうけど頼むぜ」

長く軍師学校にいる河了貂はなるほどと頷いた。

詳細を告げなくても、呂不四柱の昌平君と、大王側につく王騎の立場を考えてすぐに納得してくれたようだ。

ここに来るまでは色んな思いがあって複雑な気分を抱いていた信だったが、旧友との再会に気分はすっかり良くなった。我ながら単純だなと思うほどに。

「…?」

扉の向こうからまた別の気配を察知し、信は顔を上げる。

「誰だ?」

声を掛けると、扉の向こうにいる人物がゆっくりと部屋に入って来た。

「蒙毅!」

河了貂の顔に明るいものが差し込む。知り合いだろうか。

くっきりとした目鼻立ちの端正な顔立ちにはどこか見覚えがあった。蒙毅という名の少年は部屋に入るなり、信に向かって供手礼をした。

「兄上…蒙恬がお世話になっております。僕は弟の蒙毅と申します。信五千人将」

「えッ」

予想もしていない言葉を立て続けに言われ、信の声が裏返った。

そういえば友人である蒙恬には弟がいて、軍師学校にいるのだと過去に聞いていた気がする。見覚えのある顔立ちをしていたのは、彼が蒙恬の弟だからだったのか。

こちらはまだ何も名乗っていないというのに、正体を見抜いたことに、信は青ざめた。

「お、お前っ…」

「先ほど先生から話を伺いました。ご安心下さい」

どうやら蒙毅自身が信の正体に気付いたのではなく、昌平君から話を聞かされていたらしい。

つまり、この軍師学校で信の正体を知っているのは昌平君、河了貂、蒙毅の三人だけということになる。

信が複雑な表情を浮かべていると、河了貂がちょんと体を肘で突いて来た。

「蒙毅は俺の兄弟子みたいなもんだ。心配しなくて良い」

安心させるように河了貂が微笑んだので、信は頷くことしか出来なかった。

信が蒙恬と河了貂と友人であることから、芋づる式に蒙毅に正体が気づかれてしまう前に昌平君が打ち明けたのだろう。

彼の父である蒙武も呂不四柱の一人だ。父親が呂不四柱の一人ならば、息子の蒙恬や蒙毅だって呂不韋側の人間ということになる。

大王側についている信に、あらぬ疑いを掛けられる前に手を打ったに違いない。本当に頭の切れる男だ。

しかし、裏口入門にここまで付き合ってくれるのはどうしてなのだろうか。

六大将軍の一人である王騎の存在がそれほど偉大なものなのは分かっているが、そうだとしても同じ国内の敵対勢力に準ずる自分を、ここまで優遇してくれるのには、何か別の理由があるような気がした。

「それでは、まずは基礎中の基礎から始めましょう」

「は?」

いきなり話題を切り出され、信は小首を傾げた。

蒙毅が廊下を出たかと思うと、両手に大量の木簡を抱えて部屋に戻って来る。かと思えばまた廊下に出て大量の木簡を部屋に運ぶ。それを五回ほど繰り返した頃には、机に木簡の山が出来ていた。

「は?え?な、なんだ、これ?」

「なにって、軍略の基礎が記されている木簡です。まずはこれを頭に詰め込んでください」

大量の木簡を運び終え、まるでいい汗をかいたと言わんばかりに蒙毅が手の甲で額の汗を拭った。

河了貂は木簡の一つを手に取って目を細めている。

「わあ、懐かしいなあ。これ、俺も最初は覚えるの苦労したよ」

「ふふ。でも河了貂は来たばかりだったのに、あっと言う間に覚えたじゃないか」

二人が思い出話に花を咲かせている中で、信も木簡の一つを手に取って、目を通した。

文字ばかりのそれが軍略の基礎について記されているのは分かったが、一つの木簡を解読する頃には信は謎の頭痛に襲われていた。

「え…これ、全部か…?俺、さっき来たばっかりなんだぞ…?」

まずはこれを覚えたら・・・・・・・・・・次のことを教えると、先生からの言伝です」

口元に笑みを浮かべた蒙毅が頷いたので、信の手から木簡が滑り落ちる。

前言撤回だ。昌平君は頭の切れる男ではなく、ただの鬼である。

 

軍師学校

夜通し、軍略の基礎について記された木簡を読み、信はいよいよ力尽きた。

容赦なく朝がやって来て、目の下に濃い隈を刻んだ信は、河了貂に引っ張られながら宿舎で朝食を済ませ、軍師学校へと向かった。

軍師学校と宿舎は隣接している構造になっているので、すぐに教室に辿り着く。百人に一人しか入れないという難関の軍師学校の教室には、既に生徒たちで賑わっていた。

様々な地形や戦い方を想定した軍略囲碁を打っている者が大半である。教室を見渡しても、昌平君の姿は見えなかった。この時間は呂不四柱としての政務をしているらしい。

恐らく昌平君は自分が不在の間のことも考えて、信の正体を知る河了貂と蒙毅という協力者を作ったのだ。同時に勉学を怠っていないか監視させる役割も担わせたのだろう。

(こんな生活がいつまで続くんだよ…)

既に信は屋敷に帰りたかったのだが、許されるはずがない。

教室の中には蒙毅の姿もあったが、別の生徒と軍略囲碁を打っていた。こんな朝から頭を使わなくてはならないなんて本当に憂鬱になる。何も考えずに剣を振るう鍛錬の時間が恋しくて仕方がなかった。

この教室にいる生徒の年齢はまばらであり、信や河了貂と近い年齢の者もいれば、立派な髭を生やしている者もいる。軍師学校にいる女子生徒は信と河了貂だけのようだ。

とはいえ、信の口調や化粧っ気のない外見から見れば男だと間違えられても仕方がないが…。

その点、河了貂は最後に会った時よりも随分と大人びて、女性らしくなったように思える。この差は何なのだろう。

「…さてと、まず、信は昨日の続きだな」

河了貂に引っ張られながら教室の奥へと移動する。

見慣れない姿に好奇の視線を浴びるが、新しい生徒だろうと大して気にも留められなかった。

生徒たちはみんな軍略を学ぶことに忙しく、新しい仲間が入って来ても大して気にならないのだろう。

河了貂の話だと、せっかく難関の軍師学校に入っても思うように実力がつかず、泣く泣く辞めていく生徒も少なくないのだそうだ。

全国から応募が来ると言っていた割には宿舎に幾つも空き部屋があるのはそのせいなのかもしれない。生徒の入れ替わりが激しいのだろう。

教室の奥には、昨夜、部屋に運ばれたと同じ内容が記されている木簡が積み重なっていた。

椅子に腰を下ろし、渋々木簡を手に取った信が思い出したように顔を上げる。

「テンは俺に付き合ってて良いのかよ?」

眉根を寄せて、信が河了貂に尋ねた。

自分に軍略の基礎を教える役割を担っているのなら、その間、河了貂は自分に付きっきりになってしまう。

しかし、河了貂は肩を竦めるようにして笑った。

「ここにいる奴らで、俺の相手が務まるのは蒙毅くらいだからな」

「えッ!?」

信が目を見開く。数年離れていた間、河了貂も立派な軍師の卵になっていたのだ。

これだけ数多くの生徒がいるというのに、蒙毅と二人で教室の頂点に立っているのだという。

成長したのは体だけではなかったのだと分かり、信は驚愕する。

「そっ、それなら別に俺が軍略学ばなくなたって、テンが飛信隊の軍師に―――」

「さっさと昨日の続きやるぞ!」

慌てて河了貂の両手が信の口に蓋をする。

もがもがと手の下で口を動かしている信を、河了貂が睨み付けた。可愛らしい顔でも凄まれれば、鬼人のような恐ろしさになる。

(素性を隠すんだろッ)

小声でそう言われ、そうだったと思い出した信は小さく頷いた。

「おはよう、河了貂。それに、信殿」

軍略囲碁を終えたらしい蒙毅がやって来る。

悔しそうな顔をして項垂れている対戦相手の反応を見る限り、どうやら蒙毅の圧勝だったらしい。

「……?」

自分に向けられている視線の数が多くなって来たことに気付く。

先ほどまでは見慣れない顔だと、生徒たちから好奇な視線を幾つか感じていたが、すぐに興味を失ったように軍略を学ぶことに没頭していた。

だが、今は確実に視線の数が増えている。ただの新人だったなら、ここまで興味を示されなかっただろう。

恐らくは、優等生である河了貂と蒙毅の二人から親切にされているということで、自分もただならぬ軍師の才能を持っている新人なのではないかと勘違いされているらしい。

「………」

いたたまれなくなり、信は木簡で顔を隠した。

「信?寝るなよ」

「寝てねえよッ」

河了貂の小言に信が声を荒げて、彼女の額を指で弾いた。

「いでっ!相変わらずの馬鹿力だなッ!」

仰け反った河了貂が額を擦りながら信を睨み返す。こんなやりとりをするのも久しぶりだなと思いながら、信は頬杖をついた。

彼女とは成蟜から政権を取り戻す時からの付き合いで、最後に会ったのも随分と前だったのだが、性格が変わってなくて良かったと心の中で安堵してしまう。

もしも昌平君のもとで軍略を学んだ影響で、彼のような鬼になっていたら泣いていたかもしれないと信は思った。

一方、可愛い妹弟子である河了貂の額を指で弾いた信に、蒙毅はただならぬ雰囲気を携えていた。それが殺気に近いものだと察し、信は反射的に身構えてしまう。

「…な、なんだよ、蒙毅」

「信殿。ここは軍師学校です。頭を使った勝負をしましょう。その方が覚えるのも早いかもしれません」

積み重なっている木簡の一つを手に取った蒙毅が、うっすらと口元に笑みを浮かべた。

その姿は、信の友人であり、蒙毅の兄である蒙恬が怒った時とそっくりな威圧感で、信は思わず冷や汗を浮かべたのだった。

もしかしたら蒙兄弟から時々感じる恐ろしい威圧感は、師である昌平君の影響なのかもしれない。

 

軍師学校 その二

陣形や兵法、城の攻略策や防衛策…軍略の基礎と一言で言っても、覚えることは膨大である。

昨夜読み進めた部分の復習だと蒙毅に幾度も質問をされたが、信は一つも答えられなかった。

大量の知識を詰め込まれ、そして忘れぬようにと質問を繰り返されて、いい加減に眩暈を起こしそうになる。

信は元々下僕出身の身で、王騎と摎に引き取られるまで字の読み書きも出来なかった。机上で何かを学んだという経験はその時くらいで、その後はすぐに鍛錬や戦場に連れ出されていた。

初陣を終えてから、あっと言う間に五千人将にまで上り詰めた信の強さは、幼い頃から天下の大将軍である王騎と摎に鍛えられた経験よるものだった。軍略がどうとかは知る由もない。

昨夜渡された木簡に載っている陣形や兵法は確かに戦場で見かけたものではあったが、それがどういった効力を持つものなのかを考えたことはなかった。

厳しい鍛錬をこなす飛信隊ならば、完璧なまでに整えられた陣形であっても容易に崩すことが出来たからだ。

しかし、此度の戦ではそうはいかなかった。王騎が言った通り、今までは運が良かっただけなのかもしれないと信はここに来てようやく思い知るのだった。

「はあ…分からねえ…」

「こればかりは繰り返し覚えるしかありません」

「うう…」

自分の物覚えの悪さに嫌気がさす。

もしも自分が下僕出身ではなくて、本当に王家に生まれていたのなら、王賁や蒙恬のように軍略というものを意識しながら戦をこなしていたのだろうか。

もしそうだとしたら、今頃は五千人将ではなくて、父と並んで大将軍として戦に出ていたかもしれない。

「…そんな簡単なことも分かんないなんて、なんで入門出来たんだ?」

机に突っ伏して頭痛を堪えていると、蒙毅でも河了貂でもない男の声が降って来た。

ただでさえ頭痛がするのだから余計な刺激をしないでもらいたいと思いながら、信が顔を上げると、河了貂と蒙毅が目をつり上げているのが見えた。

まるで全身の毛穴に針を刺されているかのような嫌な感覚に、思わず信は顔を強張らせる。

二人が睨み付けている先には、信と同い年くらいの男子生徒が立っていて、彼は腕を組んでこちらを小馬鹿にするような顔をしていた。

ふんぞり返っているその姿が、嬴政の腹違いの弟である成蟜のように見えて、信は思わず苦笑してしまう。ああいう性格の男というのは政権絡みでなくても、どこにでもいるらしい。

「それくらいの基礎知識はこの軍師学校に入門する前に覚えているのが常識だろ。なんだってそんなやつがここにいるんだか」

あからさまに敵意を向けられている。しかし、信は頬杖をつきながら聞き流していた。

父から素性を隠すように言われていたし、正体が気づかれれば混乱どころじゃすまない。

嬴政側の自分たちが何かしようと忍び込んでいたのだとあらぬ疑いをかけるかもしれないし、そうなれば天下の大将軍と称えられている養父の顔に泥を塗ることになる。

「…黄芳、学び方は人それぞれ違います。そのような言い方は改めた方が良い」

黄芳という名の少年に、諭すように蒙毅が言った。穏やかな口調を努めているが、目つきは怒りに染まっている。河了貂も同じだった。

しかし、黄芳は蒙毅の言葉も気に食わないのか、ふんっと鼻を鳴らす。

自分を庇うように怒ってくれる二人に信は感謝しながらも、「気にすんなよ」と小声で声を掛ける。

大事にするべきではないと二人も分かってはいるのだろうが、怒りが抑えられないのだろう。

蒙毅の言葉を聞いても態度を改めようとしないところを見ると、どうやら黄芳は優等生である彼のことも気に食わないのだろう。

もしかしたら自分ではなくて、蒙毅と河了貂に言いがかりをつけたいのだろうか。

しかし、下僕時代に受けて来た待遇に比べたら、鞭を突き付けて脅すようなこともしない分、黄芳の言葉など可愛いものだと信は思った。

「そんな基礎も分からないなんて、此度の飛信隊の五千人将みたいな失敗をするぞッ」

まさか黄芳の口から飛信隊の名前と自分の存在が出ると思わず、信は硬直した。蒙毅と河了貂も目を見張る。

「何の策も講じずに突っ込んで壊滅だなんて、馬鹿の一つ覚えじゃないか!あんなのがよく五千人将になったもんだ!」

気づかれたのだろうかと冷や汗をかいたが、どうやら違うらしい。

恐らく黄芳は信の正体に気付かず、知識がないことをバカにするためだけに飛信隊壊滅の話を突き付けたのだろう。此度の戦での飛信隊の動きはまさか軍師学校にも伝わっていたのか。

「基礎も知らないなんて、お前も飛信隊と同じことになるぞ!」

指をさされて、罵倒された信はこめかみに青筋を浮かべた。

その失敗を活かすために軍師学校に放り込まれたという事情を黄芳が知るはずもないのだが、信は拳を震わせた。

ここで手を出す訳にはいかない。問題を起こせば王騎の顔に泥を塗ることになると自分に言い聞かせ、信は黄芳の言葉に耐えていた。

しかし、怒りに打ち震えているのは信だけではなかった。

「…さっきから黙って聞いてりゃ、黄芳ッ!好き勝手に言い過ぎだろ!」

先に堪忍袋の尾が切れたのは河了貂の方だった。

まさか河了貂が怒鳴るとは思わなかったのだろう、黄芳が驚いたように顔を強張らせる。

「飛信隊は俺たちと違って、実際に戦場で命を懸けて戦ってんだぞ!一生懸命戦ってくれた兵たちによくもそんなことが言えるなッ!」

河了貂のよく通る声は教室中に響き、波を打ったかのような静寂をもたらした。

「…テン」

いたたまれなくなり、信は河了貂の着物を引った。怒りに染まっていた河了貂の真っ赤な顔がはっと我に返る。

素性を隠さねばならない自分が言い返せないのを分かった上で怒ってくれた河了貂と、黄芳を諭すように声を掛けてくれた蒙毅に、信は純粋に感謝した。

しかし、ここで素直に礼を言うと正体に気付かれてしまうかもしれないので、信は穏やかな笑みを二人に向ける。

「ふ、ふんッ!これだから女は嫌なんだ!」

どうやら河了貂の威圧に負けたらしい、黄芳は最後まで憎まれ口を叩きつつ去っていく。

静寂だった教室が元の賑やかさを取り戻したので、信はにやっと歯を見せて河了貂と蒙毅を見た。

「ありがとな、二人とも」

周りに聞こえないように、信は二人に感謝の言葉を伝えた。二人も黄芳がいなくなったからか、穏やかな笑みを返してくれる。

「!」

再び木簡に目を通そうとした時、視界の隅に昌平君の姿を見つけた信は心臓を跳ね上がらせる。

一体いつから居たのだろう。河了貂と共にこの教室に来た時には彼はいなかったはずだ。

座って木簡に目を通している姿を見る限り、もしかしたら先ほどの黄芳とのやり取りを聞かれていたのかもしれない。

信が焦燥感を抱いているのは黄芳とのやり取りではなく、自分がまだ基礎を覚えていないことを咎められるのではないかという不安によるものだった。

真面目にやっているつもりだが、全然基礎の一つも覚えていないと知られれば、有無を言わさず強化合宿を延長させられることになるかもしれない。それだけは嫌だった。

(やべッ!)

うっかり目が合ってしまい、信は木簡で顔を隠し、存在感を消そうと縮こまる。

あからさまに挙動不審となった彼女に、蒙毅と河了貂は小首を傾げていた。

恐る恐る木簡を盾にしながら昌平君の方を覗き見てみたが、彼は既に手元の木簡に視線を向けていた。

安堵しながら、信は蒙毅と河了貂から再び軍略の基礎についてを教わるのだった。

 

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