ストーブ列車だけじゃない!! 日本最北の私鉄路線「津軽鉄道」の魅力を再発見する旅

おもしろローカル線の旅~~津軽鉄道(青森県)~~

 

津軽富士の名で親しまれる岩木山を望みつつ走るオレンジ色のディーゼルカー。最北の私鉄(第三セクター鉄道を除く)として知られる津軽鉄道の車両だ。

津軽鉄道といえば、雪景色のなかを走るストーブ列車がよく知られ、最果て感、美しい雪景色に誘われ、冬季は多くの人が訪れる。

 

そんな雪のイメージが強い津軽鉄道だが、あえて雪のない津軽へ訪れてみた。すると、雪の降らない季節ならではの発見があり、おもしろローカル線の旅が十分に楽しめた。

 

【津軽鉄道の現状】何とか存続を、と盛り上げムードが強まる

津軽鉄道の路線は津軽五所川原駅〜津軽中里駅間の12駅20.7km区間を結ぶ。北海道に第三セクター方式で経営する道南いさりび鉄道があるが、私鉄=民営鉄道と限定すれば、津軽鉄道は日本最北の地に路線を持つ私鉄会社ということになる。

津軽鉄道を取り巻く状況は厳しい。平成20年度から27年度の経営状況を見ると、黒字となったのは平成20年度と、平成22〜24年度まで、平成25年度以降は赤字経営が続く。路線の過疎化による利用者の減少傾向が著しい。

 

とはいえ、地元の人たちのサポートぶりは手厚い。2006年に津軽鉄道の存続を願うべく市民の機運を盛り上げる「津軽鉄道サポーターズクラブ」が発足。さらに観光案内役の「津軽半島観光アテンダント」が列車に同乗し、好評だ。ほか全国の鉄道ファンの応援ぶりも熱い。熱気を感じさせる具体例が最近あったばかりだが、それは後述することにしよう。

 

【津軽鉄道をめぐる歴史】五能線の開業がその起源となっていた

さて津軽鉄道の歴史を簡単に触れておこう。

 

津軽鉄道のみの歴史を見ると、地方路線によく見られる、地元有志による会社設立、そして路線開業という流れが見られる。津軽鉄道の開業する前、五所川原に初めて敷かれた鉄道が現在の五能線だった。

 

五能線の開業のため、地元有志による出資で、まず陸奥鉄道という会社が創られた。

 

●1918(大正7)年9月25日 陸奥鉄道により川部駅〜五所川原駅間が開業

現在の奥羽本線川部駅と五所川原駅間で、JR五能線の起源となる。ちなみに、この開業後に五所川原駅から先、鯵ケ沢駅(あじがさわえき)との間の路線建設が鉄道省の手によって始められている。そして、

 

●1927(昭和2)年6月1日 鉄道省が陸奥鉄道の川部駅〜五所川原駅間を買収、五所川原線(現・五能線の一部)に編入された

鉄道省の買い上げ条件が良く、その資金が津軽鉄道の開業の“元手”となった。

 

●1930(昭和3)年 7月15日に津軽鉄道の五所川原駅〜金木駅間が開業、10月4日に金木駅〜大沢内駅間が開業、11月13日に大沢内駅〜津軽中里駅間が開業

前年の1929年に鉄道免許状を交付されてから、翌年に開業したというその手際の良さには驚かされる。当時、鉄道の建設ブームということが背景にあり、また新線建設が地域経済の発展に大きく貢献したということなのだろう。

 

【車両の見どころ】個性的な動きを見られる機関車と旧型客車

現在、使われている車両は主力のディーゼルカーが津軽21形で、5両が在籍している。オレンジ色に塗られ、沿線出身の作家、太宰治の作品にちなみ、「走れメロス号」の愛称が付けられている。

 

ストーブ列車などのイベント列車に使われているのは、DD350形+旧型客車のオハフ33系やオハ46系といった1940年代および1950年代に製造された車両だ。DD350形ディーゼル機関車は、動輪にロッドという駆動のための機器が付く。いまとなっては貴重な車両で、走るとユニークな動輪の動きが見られる。

↑ストーブ列車などのイベント列車はディーゼル機関車+旧型客車という編成が多い。写真はGW期間に開かれる金木桜まつり用のイベント列車がちょうど五農校前駅を通過していったところ

 

↑列車を牽引するDD350形は1959年に製造されたディーゼル機関車で、動輪の駆動を助ける棒状の機器、ロッドが付く。津軽鉄道の客車は屋根にダルマストーブの煙突が付くのが特徴

 

同機関車には暖房用の蒸気供給設備がないために、客車にはダルマストーブが付けられている。暖房用にダルマストーブを設置したことが、逆に物珍しさとなり、いまやストーブ列車は津軽鉄道の冬の風物詩にまでなっている。

 

【津軽鉄道の再発見旅1】風が強い路線ならではの工夫が見られる

では、津軽五所川原駅から下り列車に乗り込むことにしよう。

 

筆者が乗車した列車は、津軽五所川原駅を15時以降に発車する列車だったこともあり、あいにく観光案内役の「津軽半島観光アテンダント」の乗車がなかった。「津軽半島観光アテンダント」の同乗する列車内では津軽のお国言葉を生で楽しむことができる。同乗しない列車に乗ってしまったことを悔やみつつ、旅を続ける。

↑乗り合わせた列車は「太宰列車2018」。2018年の6月19日から8月末まで沿線を走った。太宰ゆかりの作家や芸術家たちが手作りしたパネルなどの展示が行われた

 

↑前後の運転席横は図書スペースとなっている。このあたり小説家・太宰治の出身地らしい。津軽に関わる書籍やパンフレットなどもが置かれている

 

さて津軽五所川原駅。津軽鉄道の駅舎で乗車券を購入して、改札口を入る。構内に入ったつもりが、そこはJR五所川原駅の構内。跨線橋もJRと同じだ。このあたり五能線と津軽鉄道の関係が、その起源や歴史を含めて縁が深かったことをうかがわせる。

↑JR五所川原駅に隣接する津軽鉄道の起点、津軽五所川原駅。ホームは改札口からJR五所川原駅の構内へ入り、JRと共用する跨線橋を渡った奥にある

 

↑津軽五所川原駅の軒先に吊られるのは伝統的な津軽玩具「金魚ねぷた」。幸福をもたらす玩具とされている。駅舎内の売店でもお土産用の「金魚ねぷた」が販売されている

 

津軽五所川原駅の3番線が津軽鉄道のホーム。オレンジ色の車体、津軽21形1両が停車する。ホームの反対側には津軽鉄道の車庫スペースがあって、個性的な車両が多く停まっている。このあたりは、帰りにじっくり見ることにしよう。

 

ディーゼルエンジン特有の重みのあるアイドリング音を耳にしつつ車両に乗り込む。ちょうど地元の学校の休校日にあたったこの日は、乗り込む学生の姿もまばら。観光客の姿もちらほらで、半分の席が埋まるぐらいで列車は出発した。

 

しばらく五所川原の住宅地を見つつ、次の十川駅(とがわえき)へ。この十川駅から五農校前駅(ごのうこうまええき)付近が、もっとも岩木山がよく見える区間だ。

 

五農校前駅は、地元では「五農」の名で親しまれる「県立五所川原農林高等学校」の最寄り駅でもある。同高校で育てられた野菜や、生産されたジャムやジュースなどの産品は津軽五所川原駅の売店で販売されている。

 

次の津軽飯詰駅(つがるいづめえき)に注目。駅の前後のポイント部分にスノーシェルターが付けられている。このシェルター、進行方向の左側と上部のみ覆いがあり、ポイントへの雪の付着を防いでいる。

↑津軽飯詰駅の前後のポイント部分にかかるスノーシェルター。片側と屋根部分のみ覆われ、反対側には覆いが付いていないことがわかる

 

なぜ、進行方向左側のみなのか。それは、冬は日本海側から吹く西風が強いため。西風対策として進行方向左側のみ覆いが付けられたのだ。ただし、このスノーシェルター、現在はポイント自体が使われていないため、あまり役立っていないという現実もある。

 

このような風対策は、次の毘沙門駅(びしゃもんえき)でも見られる。

 

毘沙門駅は林に覆われている。西側が特に見事だ。津軽鉄道の社員が1956(昭和31)年に植樹した木々が60年以上の間に、ここまで育ったもので、冬に起こりやすい地吹雪や強風から鉄道を守る役割を果たしてきた。駅ホームには「鉄道林」の案内も立てられている。

↑毘沙門駅には鬱蒼とした林により覆われる。西側を覆う林は津軽鉄道の社員が植樹したもの。鉄道を風害から守る鉄道林の役割をしている

 

次の嘉瀬駅(かせえき)では構内に停まるディーゼルカー・キハ22形に注目したい。

 

倉庫前に停められた古いディーゼルカーは、ユニークな絵が多く描かれている。先頭には「しんご」の文字が。香取慎吾さんと青森の子どもたちが一緒にペイントした「夢のキャンバス号」だ。1997年にTV番組の企画でペイントが行われたもの。同車両は2000年に引退し、嘉瀬駅に停められていたが、2017年に、再度、塗り直しが行われた。

↑嘉瀬駅のホームに停まるキハ22028号車。1997年にTV番組の企画で香取慎吾さんと青森の子どもたちの手でペイント、さらに20年後に同メンバーが集まり塗り替えられた

【津軽鉄道の再発見旅2】太宰治の生家といえば金木の斜陽館

津軽鉄道の各駅には注目ポイントが多く、乗っていても飽きない。時間があれば、それぞれの駅に降りてじっくり見てみたい。

 

津軽鉄道で最も観光客が多く降りる駅といえば、嘉瀬駅のお隣、金木駅(かなぎえき)。津軽鉄道で唯一、列車交換ができる駅でもある。金木駅に進入する手前には、いまでは珍しい腕木式信号機がある(津軽五所川原駅にもある)ので、確認しておきたいところ。

 

金木といえば、小説家・太宰治の故郷であり、生家「斜陽館」が太宰治記念館(入館有料)となり残されている。「斜陽館」は金木駅から徒歩5分ほどの距離にある。

↑太宰治の生家「斜陽館」。太宰が生まれる2年前の1907(明治40)年に建てられた。和洋折衷・入母屋造りの豪邸で、国の重要文化財建造物にも指定されている

 

金木駅の先も見どころは多い。

 

次の芦野公園駅(あしのこうえんえき)は、その名のとおり芦野公園(芦野池沼群県立自然公園)の最寄り駅。春は1500本の桜が見事で、日本さくら名所100選にも選ばれる公園だ。児童公園やオートキャンプ場もある。

 

鉄道好き・太宰好きならば、この駅で見逃せないのが、旧駅舎。太宰治の小説「津軽」にも小さな駅舎として登場する。現在の駅舎に隣接していて、建物は喫茶店「駅舎」として利用される。店では「昭和のコーヒー」や、金木特産の馬肉を使った「激馬かなぎカレー」を味わうことができる。

↑芦野公園駅付近を走る「走れメロス号」。線路は芦野公園の桜の木に覆われている。桜が花を咲かせる季節が特におすすめで、例年、多くの行楽客で賑わう

 

↑津軽鉄道開業当時に建てられた芦野公園駅の旧駅舎。国の登録有形文化財でもある。建物は喫茶店「駅舎」となっていて、ひと休みにもぴったりだ

 

【津軽鉄道の再発見旅3】終点の津軽中里駅の不思議なこといろいろ

芦野公園駅を過ぎると、急に視界が開ける。川倉駅から深郷田駅(ふこうだえき)まで、線路の左右に見事な水田風景が広がる。

↑川倉駅付近の水田風景。路線の左右に広々した水田が広がる。もちろん冬になれば一面の雪原となる。地元、金木では地吹雪体験ツアーという催しも厳冬期に開かれる

 

美しく実る稲穂をながめ、乗車すること35分ほど。終点の津軽中里駅(つがるかなさとえき)に到着した。

 

駅に到着してホームに降り立って気がついたのだが、駅の先の踏切(津軽中里駅構内踏切)の遮断機が下りている。あれれ…この列車は、先には走らず、到着したホームからそのまま折り返すはずだが。

 

数分もしないうち、遮断機があがり、踏切は通れるように。ちょっと不思議に感じた。線路はこの踏切を通り駅の先まで延びているものの、通常、ホームから先の線路は走らない。

 

ストーブ列車などのイベント列車が、進行方向を変えるために機関車を機回しして付け替えるときや、側線を利用する事業用車以外に、ほぼ車両は通らない。それなのに稼働する不思議な踏切となっている。

↑津軽中里駅に到着した列車。駅構内には側線と左に木造の車庫が用意されている。車庫の手前には転車台があり、駅のホームからも望むことができる

 

↑津軽中里駅の北側にある踏切。列車がホームに入ってくると、警報器が鳴る。通常の列車は写真の位置から先に進むことはなく、遮断機を閉める必要はないと思うのだが

 

津軽中里駅には転車台がある。その赤い色の転車台がホームからも見える。さて、この転車台はどのようなものなのだろう。

 

実はこの転車台、開業時から1988(昭和63)年まで使われていたものだった。開業時は蒸気機関車の方向を変えるため、その後は、除雪車などの方向転換にも使われた。近年は使われなかったこともあり、長年、放置されていた。

 

その転車台を復活すべく前述した「津軽鉄道サポーターズクラブ」が立ち上がった。同クラブが主導役となり、クラウドファンディングにより、改修費を全国の鉄道ファンに向けて募った。すると、目標とした改修費を大幅に上回り、倍以上の資金が集まった。

 

これこそ津軽鉄道を応援する鉄道ファンが多いことを示す証でもあった。その資金を元に、2017年5月に本州最北にある転車台として見事に復活。復活イベントも行われ、全国からファンも多く集まり、転車台復活を祝った。

↑復活した津軽中里駅の転車台。右の建物は旧機関庫。ほか給水タンクや給炭台なども古くにはあった。ちなみにこの転車台への車両の入線は構内踏切を通ることが必要になる

 

↑津軽中里駅のホームに立つ「最北の駅・津軽中里駅」の案内板。この案内を見て“最果てに来た”という印象を持つ人も多いのでは無いだろうか。筆者もその1人

 

【津軽鉄道の再発見旅4】昭和初期生まれの雪かき車を見ておきたい

ちなみに北海道新幹線開業後は、新幹線の奥津軽いまべつ駅と津軽中里駅の間を結ぶ路線バスも日に4本出ている。運賃は1200円で、約1時間の行程だ。往復乗車を避けたいとき、または北海道や青森市を巡りたいときなどに便利だ。

 

筆者は津軽中里駅でしばらくぶらぶら。そして折り返しの列車を待って津軽五所川原駅に戻ることにした。

 

上り列車に乗り、おさらいするように車窓風景を楽しむ。

 

そして津軽五所川原駅へ到着。ホーム横に停められた旧型客車、事業用の貨車などを見て回る。ホームから、これらの車両がごく間近に見えることがうれしい。

 

停められる車両のなかで、やはり気になるのが雪かき車キ100形だ。1933(昭和8)年に鉄道省大宮工場で造られた車両で、国鉄時代はキ120形を名乗っていた。1967(昭和42)年に津軽鉄道へとやってきた車両だ。

 

太平洋戦争前の雪かき車で現在も残っている車両は、この津軽鉄道のキ100形と、同じ津軽地方を走る弘南鉄道のキ104形、キ105形の3両のみ。非常に貴重な車両となっている。

↑津軽五所川原駅のホームからはディーゼルカーなどが停まる機関区がすぐ横に見える。通常時は庫内の奥にイベント列車用のディーゼル機関車が停められていることが多い

 

↑夏期は津軽五所川原駅の構内に留置される雪かき車キ100形。近年は保線用の除雪機が使われることも多く、出動も稀だが、イベントなどで走行シーンに出会えることがある

 

雪かき車に後ろ髪を引かれつつも帰路に着くことに。最後に津軽五所川原駅構内の売店でお土産探し。五所川原農林高等学校で収穫または生産された野菜や、ジャムやジュースが並ぶ。

 

さらに津軽鉄道の人気キャラクター「つてっちー」関連グッズがずらり。筆者はそのなかの「つてっちー飴」を450円で購入。りんご味の金太郎飴で、かわいらしいパッケージ入り。どうも、開封するのが忍びなく、いまだにそのままオフィスの机の上に置いてある。

 

つてっちーを見るたびに津軽恋しの気持ちが高まる。「また津軽鉄道に乗りに行きたい!」と思うのだった。

↑津軽五所川原駅の駅舎内にある売店。津軽鉄道のグッズ類、前述の金魚ねぷたなどのお土産、そして農産品など販売する。17時にはクローズしてしまうので注意したい

 

↑キャラクター「つてっちー」飴(450円)。変形袋入りで、裏の顔部分から金太郎飴の姿が見える。津軽で販売されてはいるが、製造しているのは東京の金太郎飴本店だった

 

◆今回のローカル線の旅 交通費

2400円(コロプラ☆乗り放題1日フリーきっぷ)
*コロプラ☆乗り物コロカ【津軽鉄道】乗車記念カードをプレゼント

ほか「津軽フリーパス」2060円もあり。津軽フリーパスは津軽鉄道の津軽五所川原駅〜金木駅間が利用できる。金木より先は乗継ぎ料金が必要。同フリーパスは津軽地方を走るJRの路線(区間制限あり)と弘南鉄道、弘南バスの利用が可能だ。

【おもしろローカル線の旅】美景とのどかさに癒される「伊豆箱根鉄道」

おもしろローカル線の旅~~伊豆箱根鉄道(神奈川県・静岡県)~~

 

伊豆箱根鉄道は大雄山線(だいゆうざんせん)と駿豆線(すんずせん)の2本の路線で電車を運行している。この2本の路線は神奈川県と静岡県と走る県が別々で、線路は直接に結ばれず、電車の長さが異なり共用できない。そんな不思議な一面を持つ私鉄路線だが、美景と郊外電車の“のどかさ”が魅力になっている。

 

乗れば癒されるローカル線の旅。今回はおもしろさ満載の伊豆箱根鉄道の旅に出ることにしよう。

 

【路線の概要】2本の特徴・魅力はかなり異なっていておもしろい

最初に路線の概要に触れておこう。まずは大雄山線から。

大雄山線は小田原駅を起点に南足柄市の大雄山駅までの9.6kmを結ぶ。路線は、小田原市の郊外路線の趣。住宅地が続き、途中、田畑を見つつ走る

 

ちなみに路線名と駅名に付く大雄山とは15世紀に開山した最乗寺(大雄山駅からバス利用10分+徒歩10分)の山号(寺院の称号のこと)を元にしている。

↑大雄山線の主力車両5000系。5501編成のみ、赤電と呼ばれたオールドカラーに復刻されている。赤電は大雄山線だけでなく、西武鉄道でも1980年代まで見られた車体カラーだ

 

一方の駿豆線(すんずせん)は三島駅と修善寺駅間の19.8kmを結ぶ。

 

こちらは観光路線の趣が強く、富士山の眺望と、沿線に伊豆長岡温泉、修善寺温泉など人気の温泉地が点在する。東京駅から特急「踊り子」が直通運転していて便利だ。

 

ちなみに、駿豆線の駿豆とは、駿河国(するがのくに)と伊豆国(いずのくに)を走ることから名付けられた路線名。開業当初に駿河国に含まれる沼津市内へ路線が延びていたことによる。現在は同区間が廃止されたため、駿豆線と呼んでいるものの伊豆国しか走っていないことになる。

↑駿豆線の三島二日町駅〜大場駅間は富士山の美景が楽しめる区間として知られる。185系の特急「踊り子」の走る姿を写真に収めるならば、空気が澄む冬の午前中がおすすめ

 

両線の起点は大雄山線が小田原駅、駿豆線が三島駅だ。お互いの路線の線路は別々でつながっていない。しかも、神奈川県と静岡県と走る県も違う。

 

大手私鉄のなかで異なる県をまたぎ、また線路がつながらない路線を持つ例がないわけではない。しかし、伊豆箱根鉄道という中小の鉄道会社が、どうしてこのように別々に分かれて路線を持つに至ったのだろう。そこには大資本が小資本を飲み込んで拡大を続けていった時代背景があった。

 

【伊豆箱根鉄道の歴史】戦前に西武グループの一員に組み込まれる

伊豆箱根鉄道は、現在、西武グループの一員となっている。元は、両路線とも地元資本により造られた路線だった。その後に勢力の拡大を図った堤康次郎氏ひきいる箱根土地(現・プリンスホテル)が合併し、伊豆箱根鉄道となった。

 

まずは駿豆線の歩みを見ていこう。

●1898(明治31)年5月20日 豆相鉄道が三島町駅(現・三島田町駅)〜南条駅(現・伊豆長岡駅)間を開業
同年6月15日に三島駅(現・御殿場線下土狩駅)まで延伸させた。

 

●1899(明治32)年7月17日 豆相鉄道が大仁駅まで路線を延長
ちょうど120年前に、駿豆線が生まれた。同時代の地方鉄道にありがちだったように、運行する会社が次々に変って行く。

豆相鉄道 → 伊豆鉄道(1907年) → 駿豆電気鉄道(1912年) → 富士水力電気(1916年) → 駿豆鉄道(1917年)

と動きは目まぐるしい。駿豆鉄道は、1923(大正13)年に箱根土地(現・プリンスホテル)の経営傘下となる。そして…。

 

●1924(大正14)年8月1日 修善寺駅まで路線を延伸

↑1924年に生まれた駿豆線の修善寺駅。修善寺温泉や天城、湯ケ島温泉方面への玄関口でもある。修善寺温泉へは駅からバスで8分ほどの距離

 

一方、大雄山線の歩みを見ると。

●1925(大正14)年10月15日 大雄山鉄道の仮小田原駅〜大雄山駅が開業

 

●1927(昭和2)年4月10日 新小田原駅〜仮小田原駅が開業

 

●1933(昭和8)年 大雄山鉄道が箱根土地(現・プリンスホテル)の経営傘下に入る

 

その後、1941(昭和16)年に大雄山鉄道は駿豆鉄道に吸収合併された。さらに1957(昭和32)年に伊豆箱根鉄道と名を改めている。歴史をふりかえっておもしろいのは、同社が駿豆鉄道と呼ばれた時代に静岡県を走る岳南鉄道(現・岳南電車)の設立にも関わっていたこと。会社設立に際して、資本金の半分を出資している。そして。

 

●1949(昭和24)年 岳南線の鈴川駅(現・吉原駅)〜吉原本町駅が開業
しかし、駿豆鉄道が運営していた時代は短く、1956(昭和31)年には富士山麓電気鉄道(現・富士急行)の系列に移されている。

↑ライオンズマークを付けた伊豆箱根バス。大雄山駅最寄りのバス停は伊豆箱根バスが「大雄山駅」、箱根登山バスは「関本」としている

 

かつて西武グループの中核企業だった箱根土地が、神奈川県と静岡県の鉄道路線を傘下に収めていった。同時期に東京郊外の武蔵野を巡る路線の覇権争いも起きている。

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いずれも首都圏や関東近県まで含めた西武グループ対東急グループの勢力争い巻き起こる、その少し前のことだった。その後の1950年代から60年代にかけて、箱根や伊豆を舞台に繰り広げられた熾烈な勢力争いは箱根山戦争、伊豆戦争という名で現代まで言い伝えられている。

 

いまでこそ、西武池袋線と東急東横線が相互乗り入れ、協力し合う時代になっているが、半世紀前にはお互いのグループ会社まで巻き込み、すさまじい競争を繰り広げていたのだ。

 

伊豆箱根鉄道は、堤康次郎氏が率いる西武グループの勢力拡大への踏み石となっていた。そんな時代背景が、いまも感じられる場所がある。

 

大雄山駅近くのバスセンター。西武グループの伊豆箱根バスと、小田急グループ(広く東急系に含まれる)の箱根登山バスが走っている。伊豆箱根バスのバス停は「大雄山駅前」、一方の箱根登山バスのバス停は「関本」。この名前の付け方など、それこそ昔の名残そのもの。知らないと、少し迷ってしまう停留所名の違いだ。

【大雄山線1】なぜ長さ18m車しか走らない?

↑大雄山線の主力車両5000系が狩川橋梁を渡る。同車両の長さは18m。駿豆線を走る3000系と正面の形は酷似しているものの3000系は20m車両と長さが異なっている

 

大雄山駅の近くでも見られた大企業による争いの名残。いまはそんな争いもすっかり昔話となりつつある。

 

歴史話にそれてしまった。伊豆箱根鉄道の現在に視点を戻そう。

 

伊豆箱根鉄道の大雄山線は、小田原駅の東側にホームがある。同駅は東側からホーム番線が揃えられている。そのため、大雄山線のホームは1・2番線。ちなみにJR東海道線が3〜6番線、小田急線・箱根登山鉄道が7〜12番線、東海道新幹線が13・14番線となっている。

 

大雄山線のホームは行き止まり式。しかし、駅の手前にポイントがあり、JR東海道線の側線に向けて線路が延び、接続している。その理由は後述したい。

↑大雄山線小田原駅のホームは2面あるが、右端のホームは未使用。線路は2本ありそれぞれ1番線2番線を名乗る。左側の東海道線とは線路が結びついている

 

大雄山線の電車は5時、6時台、22時台以降を除き日中は、きっちり12分間隔で非常に便利だ。例えば小田原発ならば、各時0分、12分、24分、36分、48分発。どの駅も同様に12分間隔刻みで走るので時刻が覚えやすい。たぶん、沿線の人たちは自分が利用する駅の時刻を、きっちり覚えているに違いない。

 

小田原駅を発車した電車は、東海道線と並走、間もなく緑町駅に付く。この先で、路線は急カーブを描き、東海道線と東海道新幹線の高架下をくぐる。

 

このカーブは半径100mm。半径100mというカーブは、大手私鉄に多い車両の長さ20mには酷な急カーブとされている。よって大雄山線の全車18mという車体の長さが採用されている。さらにカーブ部分にはスプリンクラーを配置。線路を適度に濡らすように工夫、車輪から出るきしみ音を減らす工夫を取っている。

↑半径100mとされる急カーブを走る様子を緑町駅付近から写す。連結器部分をぎりぎりに曲げて走る様子が見える。線路下にはスプリンクラーがあり、きしみ音を防いでいる

 

↑駅ホームにある接近案内。レトロな趣だが、どちら行きの電車が接近しているのか、明確で分かりやすく感じた

 

緑町駅を過ぎ、JRの路線をくぐると、あとは住宅地を左右に見ながら、北を目指す。五百羅漢駅の先で小田急小田原線の跨線橋をくぐり北西へ。穴部駅を過ぎれば水田風景も見えてくる。

 

しばらく狩川に平行して走り、塚原駅の先で川を渡り、左に大きくカーブして終点の大雄山駅を目指す。

 

終点の大雄山駅へは、きっちり22分で到着した。鉄道旅というにはちょっと乗り足りない乗車時間ではあるものの、大雄山駅周辺でちょっとぶらぶらして小田原駅に戻ると考えれば、ちょうど良い所要時間かも知れない。

↑終点の大雄山駅に到着した5000系。構内には車庫がわりの留置線と検修庫がある

 

↑足柄山の金太郎、ということで足柄山の麓、大雄山駅前には金太郎の銅像がある。熊にま〜たがりという童謡の光景だが、熊が屈強そうで金太郎、大丈夫か? とふと思ってしまった

 

【大雄山線2】今年で90歳! コデ165形という古風な電車は何をしているの?

終点の大雄山駅には茶色の車体をしたコデ165形という古風な電車が停められている。この電車、なんと1928(昭和3)年に製造されたもの。今年で90歳という古参電車だ。17mの長さで国電として走った後に、相模鉄道を経て、大雄山線にやってきた。果たして何に使われているのだろう。

 

実は、このコデ165形は大雄山線では電気機関車代わりに利用されている。大雄山線の路線内には、大雄山駅に検修庫はあるものの、車両の検査施設がない。そのため定期検査が必要になると、駿豆線の大場工場まで運んでの検査が行われる。

↑大雄山駅の検修庫内に停まるコデ165形。90年前に製造された車両で、現在は電気機関車代わりとして検査車両の牽引以外に、レール運搬列車の牽引に使われている

 

大雄山線では検査する車両を、このコデ165形が牽引する。小田原駅〜三島駅は、JR貨物に甲種輸送を依頼。小田原駅構内の連絡線を通って橋渡し。JR貨物の電気機関車が東海道線内を牽引、三島駅からは同路線用の電気機関車が牽引して大場工場へ運んでいる。2本の路線の線路が結びついていないことから、このような手間のかかる定期検査の方法が取られているわけだ。

 

なお、このコデ165形の走行は、事前に誰もが知ることができる。

 

「駅に●月●日、●時●分の電車は運休予定です」と告知される。これは大雄山線のダイヤが日中、目一杯のため、定期列車を運休させないと、この検査する電車の輸送ができないために起こる珍しい現象。

 

他の鉄道会社では、検査列車などの運行は一切告知しないのが一般的だが、この大雄山線に限っては、検査列車の運行をこのように違う形で発表しているところがおもしろい。

↑各駅に貼り出される列車運休のお知らせで検査車両の運行が行われることがわかる。大雄山線の運行が目いっぱい詰ったダイヤのために起こる不思議な現象だ

 

【駿豆線1】元西武線のレトロ車両ほか多彩な電車が走る

伊豆箱根鉄道の2路線を同じ日に巡るとなると、小田原駅から三島駅への移動が必要となる。

 

もちろん東海道新幹線での移動が早くて便利だ。とはいえ乗車券670円のほかに特別料金1730円が必要となる。ちなみに在来線ならば乗車券の670円のみで移動できる。所要時間は新幹線が16分、在来線ならば40分ほどと、差は大きく悩ましいところだ。

 

さらに、小田原駅と三島駅間を直通で走る在来線の普通列車は少なく(特急はあり)、熱海駅での乗換えが必要となる。小田原駅はJR東日本だが、途中の熱海駅がJR東日本とJR東海の境界駅で、三島駅はJR東海の駅となる。ICカードを利用した場合は、下車した駅で改札をそのまま通ることができない。窓口や精算機で乗継ぎ清算が必要となるとあって、やや面倒だ。

↑大雄山線は交通系ICカードの利用が可能。一方の駿豆線は同じ伊豆箱根鉄道の路線ながらICカードは使えず、切符を購入しての乗車が必要。1日乗り放題乗車券も販売(1020円)

 

駿豆線を走る電車はすべて長さ20m車両で、大雄山線に比べて変化に富む。大雄山線が5000系だけだったのに対して、駿豆線の自社車両は1300系、3000系、7000系の3種類。さらにラッピング電車や色違いの車体カラー、JRの特急列車の乗り入れもあるので、より変化に富む印象が強い。

↑7000系はJR乗り入れ用に造られた。当初は快速列車用だったが、現在は普通列車として運用される。正面は写真の金色と、銀色の2編成が走っている

 

↑1300系は元西武鉄道の新101系。2編成走るうちの1編成は西武鉄道で走っていたころの黄色塗装に戻され「イエローパラダイストレイン」の名で駿豆線内を走っている

 

三島駅から駿豆線の電車に乗車してみよう。駿豆線の三島駅は南側にあり、JRの通路からも直接ホームへ入ることができる。JRの三島駅南口と並んで、伊豆箱根鉄道の駅舎も設けられている。

↑JR三島駅の南口駅舎の隣に建つ駿豆線の三島駅駅舎。観光路線らしく、おしゃれなたたずまいになっている

 

ホームは小田原駅とは逆で、JR東海道線のホームが1〜4番線、新幹線ホームが5・6番線。そして駿豆線のホームが7〜9番線となっている。ちなみに駿豆線に乗り入れる特急「踊り子」は、1番線ホームを利用している。

 

【駿豆線2】富士山の清らかな伏流水が街中を豊富に流れる

三島駅から緩やかなカーブを描き、東海道本線から離れていく。そして三島市内をしばらくの間、走る。

 

三島は富士山麓から湧出する伏流水が豊富に流れる街だ。三島駅の次の駅、三島広小路駅の近くでは源兵衛川をまたぎ、さらにその先の三島田町駅の手前で御殿川をまたぐ。

 

いずれも伏流水が流れる河川で、清らかな流れが楽しめる。河川沿いには緑地や親水公園も設けられていて、のんびり歩くのには格好な場所だ。

↑三島駅の次の駅、三島広小路駅近くを流れる源兵衛川。富士山麓から湧き出す豊かで澄んだ伏流水の流れで、親水公園では親子が水遊びを楽しむ様子が見られた

 

3番目の駅、三島二日町駅と次の大場駅の間は、前述したように、富士山の眺望が素晴らしいところ。三島市の住宅街が途切れ、畑ごしに富士山と駿豆線を走る電車の撮影を楽しむことができる。

 

さらに大場駅近くには伊豆箱根鉄道の車両の定期検査を行う大場工場があり、駅側からこの工場へ入る引込線が設けられている。大雄山線の車両も、この工場まで運ばれ、検査が行われているわけだ。

↑大場工場内を望む。構内に停まる電気機関車はED31形で、1948(昭和23)年に西武鉄道が導入した車両。現在は大雄山線の検査車両を主に牽引している

 

大場駅から伊豆長岡駅まではほぼ直線路が続く。途中駅の韮山駅は、世界遺産にも指定された韮山反射炉(循環バス利用で約10分)の最寄り駅。また伊豆長岡駅は伊豆長岡温泉(バス利用で約10分)の最寄り駅だ。

 

伊豆長岡駅から先は、狩野川沿いに電車は走る。大仁駅付近で蛇行する狩野川に合わせてのカーブが続く。普通列車で30分ちょっと、まもなく終点の修善寺駅に到着する。

↑大仁駅付近からは山容に特徴のある葛城山が見える。この葛城山は富士山を望む美景の地として名高い。山頂と麓の伊豆長岡温泉の間にはロープウェイが架けられている

 

↑駿豆線の終着駅・修善寺駅。観光拠点の駅らしくホームは2面、1〜4番線ホームが揃う。停車中の特急「踊り子」は、1日に2〜4本が東京駅との間を走っている

 

ちょうど修善寺駅には特急「踊り子」が停車していた。「踊り子」に使われる185系だが、走り始めてからすでに40年近い。数年内に185系の退役させることがJR東日本から明らかにされており、ここ数年中に、駿豆線を走る特急「踊り子」はE257系(中央本線の特急「あずさ」「かいじ」に使われた車両)に引き継がれる予定だ。

 

国鉄生まれの特急形電車の姿もあと数年後には消えていきそうだ。駿豆線ではお馴染のスター列車だっただけに、ちょっと寂しく感じる。

常時営業を行っていない臨時駅が起点という鉄道路線「鹿島臨海鉄道」の不思議

おもしろローカル線の旅~~鹿島臨海鉄道(茨城県)~~

 

茨城県の南東部を走る鹿島臨海鉄道。鹿島灘の沿岸部に敷かれた路線を旅客列車と貨物列車が走る。旅客列車が走るにも関わらず、路線の起点となる駅は常時営業を行っていない臨時駅だ。えっ、なぜ? どう乗ればいいの? ということで、今回は鹿島臨海鉄道にまつわる謎解きの旅に出かけることにしよう。

 

【路線の概要】まずは鹿島臨海鉄道の路線紹介から

まず鹿島臨海鉄道の路線の概要から見ていこう。

鹿島臨海鉄道には2本の路線がある。まず1本目は鹿島サッカースタジアム駅〜奥野谷浜駅(おくのやはまえき)間の19.2kmを結ぶ鹿嶋臨港線である。2本目は鹿島サッカースタジアム駅〜水戸駅間53.0kmを結ぶ大洗鹿島線だ。

 

鹿島臨港線は貨物列車のみが走る貨物専用線で、大洗鹿島線は旅客列車が走る旅客路線だ。2本の路線の起点が鹿島サッカースタジアム駅となる。

 

この鹿島サッカースタジアム駅だが、常時営業しているわけではない。最寄りの鹿島サッカースタジアムで、サッカーの試合やイベントが行われるときのみ営業される臨時駅だ。よって通常は、同駅を通るすべての旅客列車が通過してしまう。

 

実は同駅が路線の起点なのだが、大洗鹿島線を走る旅客列車は、隣りの鹿島神宮駅まで直通運転をしている。すべての旅客列車が鹿島神宮駅を発着駅としているのだ。鹿島サッカースタジアム駅〜鹿島神宮駅はJR鹿島線の線路で、鹿島臨海鉄道の全列車は、JRの同区間に乗り入れる形になっている。

 

なぜ、このような不思議な運転方式になったのだろう。そこには同社設立の歴史が深く関わっていた。次は鹿島臨海鉄道の歴史に関して触れたい。

↑鹿島臨海鉄道の2本の路線の起点駅・鹿島サッカースタジアム駅。サッカーやイベント開催日のみに営業する臨時駅だ。通常は貨物列車の入れ換え基地という趣が強い

 

貨物輸送用にまず駅が造られた

鹿島臨海鉄道の歴史は鹿島灘沿岸に造られた鹿島臨海工業地帯の誕生とともに始まる。

 

1969(昭和44)年、元は砂丘だった鹿島灘に面した海岸に鹿島港が開港、住友金属鹿島製鉄所の操業が始まった。23の事業所の進出とともに工業地帯が発展していく。鹿島臨海鉄道とJR鹿島線もこの工業地帯の誕生に合わせて路線が敷かれた。

 

●1969(昭和44)4月1日 鹿島臨海鉄道株式会社が設立
主要な株主は日本国有鉄道(後に日本貨物鉄道=JR貨物に引き継がれる)、茨城県、住友金属工業、三菱化学といった自治体および団体、企業だ。つまり第三セクター方式の鉄道事業者として発足したわけだ。

 

●1970(昭和45)年7月21日 鹿島臨港線19.2kmが開業
鹿島臨港線の北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅)〜奥野谷浜駅(おくのやはまえき)間が開業した。当初は貨物輸送のみを行う路線だった。

 

●1970(昭和45)年8月20日 国鉄鹿島線の香取駅〜鹿島神宮駅間が開業

 

●1970(昭和45)年11月12日 国鉄鹿島線が北鹿島駅まで延伸される
この延伸により北鹿島駅構内で鹿島臨海鉄道とJR鹿嶋線の線路がつながった。

 

国鉄鹿島線が北鹿島駅へ延伸した後も旅客列車は鹿島神宮駅止まり。一方、貨物列車は北鹿島駅まで走り、同駅で鹿島臨海鉄道に引き継がれ、鹿嶋臨港線を通って各工場へ貨物が運ばれていった。

↑JR鹿島線(右)と鹿島臨港線(左)の合流ポイント。JR鹿島線の鹿島神宮駅〜鹿島サッカースタジアム駅間は、JR貨物と鹿島臨海鉄道の共用区間となっている

 

●1978(昭和53)年7月25日 北鹿島駅〜鹿島港南駅(現在は廃駅)間で旅客営業を開始
貨物輸送のみだった鹿島臨港線だが、旅客営業を開始、北鹿島駅で折り返し、鹿島神宮駅まで乗り入れた。

 

●1983(昭和58)年12月1日 鹿島臨港線の旅客営業が終了
利用客が少なく、わずか6年で鹿島臨港線の旅客営業が終了した。同時に鹿島神宮駅への乗り入れも中止された。

 

北鹿島駅から北へ向かう大洗鹿島線はどのような経緯をたどったのだろう。こちらは鹿島臨港線に比べて、かなり遅い路線開業となった。

↑鹿島サッカースタジアム駅には入れ換え用の線路が設けられ、貨物列車の信号場としての役割を担う。首都圏では珍しくなったEF64が牽引する貨物列車が乗り入れている

 

●1985(昭和60)年3月14日 大洗鹿島線水戸駅〜北鹿島駅間が開業
北鹿島駅(現・鹿島サッカースタジアム駅)〜水戸駅を走る大洗鹿島線は、当初、国鉄の鹿島線を水戸駅まで延ばすことを念頭に計画が立てられた。そして1971(昭和46)年、日本鉄道建設公団により着工された。しかし、当時の国鉄は巨額な赤字に喘いでいた。改革が迫られ、さらに民営化と推移していく時期でもあり、新線の経営を引き受けることが困難になっていた。

 

着工が間近に迫った1984年に、新線の経営を鹿島臨海鉄道にゆだねることが決定、そして大洗鹿島線は、開業当初から鹿島臨海鉄道の路線として歩み始めたのだった。

 

大洗鹿島線は当初から旅客中心の営業だったため、開業と同時に北鹿島駅から鹿島神宮駅までの列車の乗り入れを開始している。

 

香取駅〜水戸駅間の路線が国鉄鹿島線として計画されたものの、最初の計画が頓挫。北鹿島駅〜水戸駅の新区間が鹿島臨海鉄道に経営が引き継がれたことにより、路線の起点が臨時駅で、実際の列車の発着駅とは異なる、という不思議な運行方式になったわけである。

 

なおその後、1994(平成6)年3月に北鹿島駅は鹿島サッカースタジアム駅と改称された。1996(平成8)年には大洗鹿島線での貨物営業を中止、以降、貨物列車は鹿島臨港線を走るのみとなっている。

↑鹿島サッカースタジアム駅を通過する列車。ホームをはさみ貨物列車用の線路がある。駅周辺には民家も少なく、利用者が見込めないためイベント開催日限定の臨時駅となった

【鹿島臨港線】神栖には謎の階段やホーム跡が残る

路線の歴史説明がやや長くなってしまったが、次は各路線の現在の姿を見てまわることにしよう。まずは貨物列車専用の鹿島臨港線から。

↑鹿島臨港線は東日本大震災による津波の被害を受けた。津波により速度表示もなぎ倒された(2012年撮影)。被害は甚大だったが震災から4か月後に全線復旧を果たしている

 

鹿島臨港線は貨物専用線のため、列車に乗って見て回るわけにはいかない。そこでクルマで巡ってみた。貨物列車が走る様子をたどろう。

 

鹿島サッカースタジアム駅を発車した貨物列車はまもなく、JR鹿島線と分岐、非電化路線をひたすら南下する。しばらくは鹿島市の住宅地を左右に見て走る。

 

10分ほど走ると、鹿島港に近い工業地帯へ出る。工場用に造られた造成地が線路の周囲に広がっている。鹿島サッカースタジアム駅を発車して約20分で、列車は貨物専用の神栖駅(かみすえき)へ到着する。

 

この神栖駅でコンテナの積み降しが主に行われている。神栖駅の西側には和田山緑地という公園があり、この園内に手すり付きの階段がある。ここを上るとフェンス越しに元ホームが見える。この階段やホームは旅客営業時に使われていたもの。いまはフェンスが階段の上に設置されているため、ホーム内に立ち入りはできないが、旅客営業時代の面影を偲ぶことができる。

↑神栖市の和田山緑地内にある、手すり付き謎の階段。フェンスがあり階段の上から先に入ることはできない。構内にはJR貨物のコンテナ貨車が停まっていた

 

↑和田山緑地からフェンス越しに神栖駅構内を見ることができる。このように元ホームや休車となった古いディーゼルカー、そして貨物用機関車の車庫を望むことができる

 

神栖駅から線路は奥野谷浜駅まで延びている。この奥野谷浜駅は、いまも貨物時刻表の地図に掲載されているが、すでに駅施設らしきものはない。不定期で運行される貨物列車がJSR鹿島工場へ走っているが、駅は通過するのみだ。

 

神栖駅より先は、単調に線路が延びるのみで、駅施設などはすべてきれいに取り除かれているのがちょっと残念だった。

↑鹿島臨港線の主力KRD64形ディーゼル機関車が鹿嶋市の住宅地を左右に見ながら進む。鹿島臨港線では写真のような化学薬品を積んだタンクコンテナの割合が多い

 

↑1979年に導入されたKRD5形ディーゼル機関車も使われる。鹿島臨港線の貨物列車は下り2便、上り3便と本数は少なめだが、コンテナを満載して走る列車が目立つ

 

【大洗鹿島線1】 日本一長いひらがな駅名を持つ駅とは?

鹿島臨海鉄道の旅客列車が発車するJR鹿島神宮駅に戻り、水戸行き列車を待つ。鹿島神宮駅発の列車は、朝夕を除き、ほぼ1時間間隔で発車する。水戸に近い大洗駅〜水戸駅間は列車の本数が増え、約30分間隔で列車が走っている。

 

急行や快速列車はなく、すべて普通列車だ。ただし前述したように、鹿島サッカースタジアム駅は通常、普通列車も停まらずに通過してしまう。

鹿島神宮駅でのJR鹿島線から大洗鹿島線への乗換えは、朝夕を除いて、接続があまり良くないのが実情だ。さらに、東京方面からの直通の特急列車は廃止され(6月のみ特急「あやめ」が走る)、また直通の普通列車も1日に1往復という状態になっている。列車利用の場合は佐原駅乗換えが必要で、東京方面からのアクセスがちょっと不便になっているのが残念だ。

 

鹿島神宮駅での待ち時間が長くなりそうな場合は、駅から徒歩10分の鹿島神宮を立ち寄っても良いだろう。巨大な古木が立ち並ぶ参道は、森閑として一度は訪れる価値がある。

↑大洗鹿島線の列車はすべてがJR鹿島神宮駅から発車する。駅から徒歩10分のところに紀元前660年の創建とされる鹿島神宮がある。駅前に古風な屋根が持つ案内が立つ

 

筆者が乗った車両は6000形ディーゼルカー。赤い車体に白い帯を巻いた鹿島臨海鉄道の主力車両だ。中央部の座席がクロスシート、ドア近くがロングシートというセミクロスシートの車両だ。座るシートはふんわり、軟らかさに思わず癒される。鉄道旅には、やはり堅めのシートより、ふかふかシートの方が旅の気分も高まるように思う。

↑鹿島臨海鉄道の主力車両6000形の車内。片側2つの乗降トビラの間にクロスシートがずらりと並ぶ。ふんわりと座り心地もよく、旅の気分が味わえる。トイレも付いている

 

↑6000形の車体にはK.R.T(kasima rinkai tetsudo)の文字が入る。金属製の斜体文字。新車の8000形にも同文字は入るが、金属製ならではの重厚感でレトロな趣が強まる印象

 

さらに、鹿島臨海鉄道の列車は乗っていて快適さが感じられる。それはなぜだろう。

 

全線が単線とはいうものの、建設当初に急行列車を走らせる予定だったため、高規格な設計で造られている。ロングレールが使用され、騒音もなく、揺れずにスピードを出して走ることができる贅沢設計なのだ。

 

しかも踏切が途中になく(水戸駅近くを除く)、全線が立体交差。警笛を鳴らすこともあまりなく、列車は最高時速95kmのスピードで快調に走っていく。

↑大洗鹿島線を走る6000形ディーゼルカー。鹿島サッカースタジアム駅〜大洋駅間は沿線に畑が広がるエリア。踏切はなく、道はすべて立体交差となっている

 

JR貨物の電気機関車や貨車を横目に見ながら鹿島サッカースタジアム駅を通過。その先、2つ目の駅の表示に目が止まる。

↑日本一長い駅名とされる「長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅」。徒歩10分の所に展望台や全長154mという長いローラー滑り台が名物の「大野潮騒はまなす公園」がある

 

長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅。

 

駅名の表示には日本一長い駅名というシールが貼ってある。実際にひらがなで書くと「ちょうじゃがはましおさいはまなすこうえんまえ」と22文字になる。これは南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原駅」のひらがな文字表記と同じ文字数だそうだ。

 

いやはや、プロのアナウンサー氏でも、一気に読むのが大変そうな駅名だと感心させられる。

 

長い駅名の長者ケ浜潮騒はまなす公園前駅を過ぎ、大洋駅付近までは、ひたすら左右に畑を見て列車が走る。地図を見ると鹿島灘の海岸線と路線が平行に走っているのだが、内陸部を走るため、列車から海は見えない。

↑北浦湖畔駅から水戸駅近くまでは、このように水田の中を高架線が走る。ロングレールを使った高規格路線で、地方ローカル線としてはトップクラスの最速95kmで快走する

 

【大洗鹿島線2】広がる水田風景の中を高架路線が通り抜ける

北浦湖畔駅まで走ると、風景は一変する。高架路線を走るとともに、北浦、涸沼(ひぬま)といった大きな湖沼が車窓から眺められる。

 

間もなく大洗駅だ。大洗駅は鹿島臨海鉄道で最も賑やかな駅。駅からは海岸沿いにある観光施設行きのバスも出ている。

 

駅舎内に産直品の販売店やインフォメーションコーナー、その前には鹿島臨港線の知手駅(しってき)で実際に使われていたポイント切り替え用の機械(連動制御盤)や、踏切警報器が置かれ、鉄道好きはつい見入ってしまう。

 

大洗駅〜水戸駅間は列車本数も多いので、鹿島神宮駅方面から乗車した場合は、途中下車しても良いだろう。

↑大洗鹿島線の大洗駅。鹿島臨海鉄道の本社もこの駅舎内にある。大洗には多彩な観光施設が揃う。北海道方面へのカーフェリーが発着する大洗港へは徒歩10分ほど

 

↑大洗駅のインフォメーションコーナーの前には写真のような踏切警報器と、以前に鹿嶋臨港線の駅で使われていたポイント切り替え用の機械が置かれ、楽しめる

 

↑大洗駅構内に旅客列車用の車庫がある。大きな洗車機もあり。水戸駅発、大洗駅止まりの列車も多く、頻繁に車両の出し入れを行う様子がホームから眺められる

 

大洗駅から水戸駅までは途中2駅ほどと近い。

 

大洗駅の先で大きくカーブ、常澄駅(つねずみえき)付近からは、水田のなかをほぼ直線の線路が水戸駅近くまで延びている。高架路線、さらにロングレールが使用され、また踏切もないので、乗車していても快適、車窓の広がりも素晴らしく、乗るのが楽しい区間だ。

 

それこそ関東平野のひろがりが感じられる快適区間と言って良いだろう。

 

水戸駅手前で那珂川の支流にかかる鉄橋を渡れば、まもなくJR常磐線と合流。列車はカーブを描き、水戸駅ホームへ滑り込んだ。

↑水戸駅付近でJR常磐線と並走する。写真の車両は2016年3月に導入された8000形。これまでの6000形と異なり片側3トビラで乗り降りしやすくなっている

 

途中下車しなければ、乗車時間は鹿島神宮駅から水戸駅までが約1時間20分。長さはまったく感じず、快さだけが心に残ったローカル線の旅となった。

震災被害に遭いつつも復興に大きく貢献する「鉄道会社」が岩手にあった

おもしろローカル線の旅〜〜岩手開発鉄道(岩手県)

 

岩手県の三陸沿岸の街、大船渡市(おおふなとし)を走る「岩手開発鉄道」という鉄道会社をご存知だろうか。

 

自らも東日本大震災で大きな被害を受けながら、いち早く路線を復旧。日々、セメントの材料となる石灰石を大量に運び、東北復興に大きく貢献している。その輸送トン数を見ると、JR貨物を除く私鉄・臨海鉄道のなかで国内トップの輸送量を誇る。

 

さらに貨物専用鉄道ながら、沿線には趣ある駅やホームが残っている。そんなちょっと不思議な光景が見られるのが同鉄道の魅力でもある。今回は震災復興の裏方役に徹する岩手開発鉄道をご紹介しよう。

↑大船渡鉱山で採掘された石灰石が18両の貨車に積まれ、太平洋セメント大船渡工場の最寄り赤崎駅まで運ばれる。牽引するのはDD56形ディーゼル機関車

 

当初は旅客営業のため創立された鉄道会社だった

三陸鉄道南リアス線、JR大船渡線の盛駅(さかりえき)の横を青いディーゼル機関車に牽かれた貨物列車が、日中ほぼ40分間隔で通り過ぎる。

 

岩手開発鉄道の路線は赤崎駅〜岩手石橋駅間の11.5km。下り・上りとも1日に13〜18列車が走る。途中には3つの駅があり、それぞれに行き違いできる施設が設けられている。旅客列車が通らないので、駅というよりも信号所と言ったほうがよいかもしれないが、ホームとともに駅舎が残っている。これらの駅の跡が、貨物列車のみが走る路線なのに、旅情をそそるほど良い“アクセント”になっている。

この岩手開発鉄道、当初は旅客営業のために設けられた鉄道会社だった。

 

ここで、大船渡市を巡る鉄道史を振り返ろう。

 

1935(昭和10)年9月29日 国鉄大船渡線が盛駅まで開業

盛駅までは太平洋戦争前に鉄道が開通したものの、盛から北は地形が険しく鉄道が延ばせない状況が続いた。ちなみに三陸鉄道南リアス線の盛駅〜釜石駅間が全通したのは、1984(昭和59)年と、かなりあとのことになる。

 

1939(昭和14)年8月 岩手開発鉄道を設立

資本は岩手県、沿線各市町村、関係企業が出資し、当初から第三セクター経営の鉄道会社として誕生した。大船渡線の盛駅から釜石線の平倉駅(ひらくらえき)までの29kmの路線の開業を目指して会社が設立された。

 

なお、平倉駅を通る国鉄釜石線が三陸沿岸の釜石駅の間まで全通したのは1950(昭和25)年と、こちらもかなりあとのことだった。

 

1950(昭和25)年10月21日 盛駅〜日頃市駅間が開業

会社は設立したが、太平洋戦争が間近にせまっていた時代。物資の不足で路線工事は進まず、盛駅〜日頃市駅(ひころいちえき)が開業したのが1950(昭和25)年のことだった。

 

1957(昭和32)年6月21日 赤崎駅〜盛駅間が開業

太平洋セメントの大船渡工場の製品を輸送するために、赤崎駅〜盛駅間の路線を延長。同区間では旅客営業は行われず、貨物輸送のみが開始された。

 

1960(昭和35)年6月21日 日頃市駅〜岩手石橋駅間が開業

日頃市駅から先の岩手石橋駅まで路線を延伸され、赤崎駅〜岩手石橋駅間の路線が全通。大船渡鉱山からの石灰石の運搬が始まった。

 

震災による被害――津波により臨海部の線路が大きな被害を受けた

会社設立後、貨物輸送は順調だったものの、計画されていた釜石線平倉駅への路線の延伸は達成できず、当初から旅客営業は思わしくなかった。経営合理化のためもあり、40年以上にわたり続けられた旅客列車の運行が1992(平成4)年3月いっぱいで休止された。

↑2012年春に訪れた時の日頃市駅の様子。「がんばろう!東北」のヘッドマークを付けた貨物列車が行き違う。路線の復旧は早く、震災後、8か月後に列車運行が再開された

 

そして東日本の太平洋沿岸地域にとって運命の日、2011年3月11日が訪れる。岩手開発鉄道の路線や車両の被害状況はどのようなものだったのだろう。

 

岩手開発鉄道の路線では臨海部の盛駅〜赤崎駅の被害が特にひどかった。津波により線路の道床やバラストが流失、踏切や信号設備なども津波でなぎ倒され、流された。

↑臨海部の赤崎駅付近の2012年春の様子。盛駅までの臨海部の線路は新たに敷き直され、信号設備なども新しいものに付け替えられた

 

東北三陸沿岸で唯一のセメント工場でもある太平洋セメントの大船渡工場。震災1か月後の4月に太平洋セメントの経営陣が大船渡工場を訪れ、さらに岩手開発鉄道にも足を運んだ。大船渡工場のいち早い再開を決断するとともに、岩手開発鉄道による石灰石輸送の再開を望んだのだった。

 

とはいえ路線の被害は予想よりも深刻で、臨海部の路線復旧は、ほとんど新線を建設するのと変わらない手間がかかった。

 

岩手開発鉄道にとって幸いだったのは、盛川(さかりがわ)橋梁に大きな被害がなかったこと。ほかにも、ちょうど3月11日は工場の作業上の問題から、石灰石輸送の休止日にあたっていたため、沿線で被害にあった列車がなかった。津波は盛駅まで何度も押し寄せたが、機関車が納められていた盛車両庫までは至らなかった。

 

とはいえ、盛駅に停められていたすべての貨車は津波による海水の影響を受けた。貨車の多くは分解して潮抜きという作業が必要となった。

 

太平洋セメント大船渡工場は2011年11月4日からセメント生産を再開。岩手開発鉄道もいち早く路線復旧と車両の整備を行い、11月7日から石灰石輸送を再開させたのだった。

↑路線復旧後には貨車に「復旧から復興へ〜一歩一歩前へ〜がんばっぺ大船渡」「太平洋の復興の光と共に大船渡」などの標語が掲げられ地元・大船渡を元気づけた

 

ちなみに、盛駅に乗り入れている三陸鉄道南リアス線は、2013年4月5日に盛駅〜釜石駅間が復旧した。またJR大船渡線は、2013年3月2日からBRT(バス高速輸送システム)により運行が再開されている。

 

被害状況の差こそあれ、岩手開発鉄道の路線復旧がいかに早かったかがわかる。

 

JR貨物を除き、輸送量は私鉄貨物トップを誇る

東北の震災復興に大きく貢献している岩手開発鉄道。実は輸送量がすごい。国土交通省がまとめた鉄道統計年表によると、最も新しい平成27年度の数字は、岩手開発鉄道の輸送トン数は205万8156トン。

 

近い数字を上げているのは秩父鉄道の192万7301トン。臨海鉄道で最大の輸送トン数をあげたのが京葉臨海鉄道で185万607トンとなっている。

 

石灰石とコンテナ主体の輸送では、同じ土俵で比べるのは難しいものの、輸送トン数では、JR貨物を除き、貨物輸送を行う私鉄および第三セクター鉄道のなかでは最大の輸送量を誇っている。路線距離11.5kmという鉄道会社が、実は日本でトップクラスの輸送量だったとは驚きだ。

 

大船渡鉱山は石灰石の埋蔵量が豊富で新たな鉱区も開発されている。岩手開発鉄道が復興に果たす役割はますます大きくなっていると言えるだろう。

↑石灰石の輸送に使われるホッパ車ホキ100形。上部から石灰石を載せ、車両の下部の蓋を開けて石灰石を降ろす。ホキ100形は岩手開発鉄道の専用貨車として造られた

【路線案内1】盛駅をスタートして山側の駅や施設を見てまわる

貨物輸送専用の鉄道路線なので、もちろん列車への乗車はできない。そこでローカル線の旅としては異色だが、クルマで路線を見て回ろう。まずは盛駅を起点に山側の路線へ。

 

出発は盛駅から。岩手開発鉄道の盛駅は、JRや三陸鉄道の盛駅の北側に位置する。旅客営業をしていた時代のホームが残る。1両編成のディーゼルカー用に造られたホームは短く小さい。だが、四半世紀前に旅客営業を終了したのにも関わらず、待合室はそのまま、「盛駅」の案内もきれいに残っている。構内には立入禁止だが、盛駅の北側にある中井街道踏切から、その姿を間近に見ることができる。

↑岩手開発鉄道の盛駅。1両編成のディーゼルカー用に造られたホームは短く、またかわいらしい。待合室や案内表示などは、旅客営業をしたときのまま残されている

 

中井街道踏切から駅と逆方向を見ると、岩手開発鉄道の本社と、その裏手に盛車両庫があり、検査中の機関車や貨車が建物内に入っているのが見える。

↑盛駅の北側にある岩手開発鉄道の盛車両庫。東日本大震災の津波被害はこの車両庫の手前までで、施設やディーゼル機関車はからくも被災を免れた

 

ここから路線は、終点の岩手石橋駅へ向けて、ほぼ盛川沿いに進む。クルマで巡る場合は、国道45号から国道107号(盛街道)を目指そう。この国道107号を走り始めると、盛川の対岸に路線が見えてくる。

 

途中に駅が2つあるので、立ち寄ってみたい。

 

まずは長安寺駅。国道107号から長安寺に向けて入り、赤い欄干のある長安寺橋を渡る。すぐに踏切がある。このあたりから長安寺駅の先にかけて、撮影に向いた場所が多くあり、行き来する列車の姿も十分に楽しめるところだ。

↑長安寺駅のホームと駅舎。駅舎やホームは立入禁止だが、線路をはさんだ、盛川の側から、駅舎の様子が見える。木造駅舎で、改札などの造りも趣があって味わい深い

 

↑日頃市駅を通過する下り列車。日中は長安寺駅もしくは、この日頃市駅で列車の行き違いシーンが見られる。駅構内は立入禁止ながら外からでも十分にその様子が楽しめる

 

長安寺駅付近で上り下り列車を見たあと、次の日頃市駅を目指す。道路はしばらく路線沿いを通っているが、その後に、国道107号と合流、しだいに周囲の山並みが険しさを増していく。

 

列車の勾配もきつくなってくる区間で、長安寺駅前後が9.2パーミル(1000m間に9.2mのぼる)だったのに対して、次の駅の日頃市駅前後は19.6パーミルとなっている。

 

日頃市駅は大船渡警察署日頃市駐在所のすぐ先を左折する。細い道の奥に日頃市駅の駅舎がある。駅構内は立入禁止だが、駅舎横に空きスペースがあり、ここから列車の行き来を見ることができる。

 

【路線案内2】山の中腹に岩手石橋駅と石灰石積載施設がある

↑終点の岩手石橋駅に到着した列車は、バックで石灰石積載用のホッパ施設に進入する。施設内に入った列車は数両ずつ所定の位置に停車し、順番に石灰石を載せていく

 

↑石灰石積載用のホッパ施設の裏手には、周辺の鉱山から集まる石灰石がベルトコンベアーを使って、うずたかく積まれていた。この石灰石が施設を通して貨車に積み込まれる

 

日頃市駅から先は、国道107号がかなり山あいを走るようになる。終点の岩手石橋駅へは、岩手開発鉄道の緑色の「第二盛街道陸橋」の手前の交差点を右折する。さらに県道180号線を線路沿いに約1.0km、石橋公民館前のT字路を左折すれば到着する。

 

岩手石橋駅はスイッチバック構造の駅で、列車はスイッチバック。進行方向を変えて駅に進入してくる。山の中腹に、巨大な石灰石の積載用のホッパ施設がある。このホッパ施設内に貨車がバックで少しずつ入り、数両ずつ石灰石を積み込んでいく。ガーッ、ガラン、ガラン、という石が積まれる音が山中に響き、迫力満点だ。

↑岩手石橋駅はスイッチバック構造になっている。ホッパ施設で石灰石を積んだ列車は機関車を前に付替え、後進で写真奥の引込線に入ったあと、進行方向を変え赤崎駅を目指す

 

18両の貨車全車に石灰石が積まれたあとに、ディーゼル機関車が機回しされ、列車の逆側に連結される。そして後進して、スイッチバック用の引込線に入った後に進行方向を変更。石灰石を満載した上り列車は、下り勾配気味の路線をさっそうと駆け下りて行く。

 

岩手石橋駅の構内は立入禁止。踏切もあり注意が必要だ。見学の際は、安全なスペースでその様子を見守りたい。

 

【路線案内3】盛駅から赤崎駅までの路線も見てまわる

↑三陸鉄道の盛駅の横を通り抜ける赤崎駅行き上り列車。貨車には石灰石が満載されている。盛駅から赤崎駅へは約2kmの距離

 

↑太平洋セメント大船渡工場の最寄りにある赤崎駅。左が荷おろし場で、ここに列車ごと入り、貨車の下の蓋を開いて石灰石の荷おろしが行われる

 

盛駅に戻り、臨海部にある赤崎駅を目指す。三陸鉄道の盛駅のすぐ横に岩手開発鉄道の留置線があるが、上り列車はここには停まらず、終点の赤崎駅を目指す。市街地を抜け、間もなく盛川橋梁を渡る。

 

この橋梁よりも港側に架かるのが三陸鉄道南リアス線の盛川橋梁だ。クルマで赤崎駅方面へ移動する場合は、南リアス線の橋梁と平行に架かる佐野橋を渡る。道はその先で、岩手開発鉄道の踏切を渡り、県道9号線と合流する交差点へ。ここを右折すれば、間もなく赤崎駅が見えてくる。

 

この赤崎駅は当初から旅客列車が走らなかったこともあり、ホームや駅舎はない。岩手開発鉄道の職員の詰め所と荷おろし場が設けられ、その姿は県道からも見える。岩手石橋駅を発車した上り列車は、約30分で到着。荷おろし場にそのまま進入した列車から降ろされた石灰石は、ベルトコンベアーで隣接する太平洋セメントへ運ばれていく。

↑学研プラス刊「貨物列車ナビvol.3」誌(2012年7月発行)掲載の時刻表。同時刻はほぼ現在も変らずに使われている。工場の操業により運転休止日もあるので注意したい

 

赤崎駅〜岩手石橋駅間の11.5kmの旅。山あり川あり、趣ある駅舎が残るなど変化に富んでいる。

 

首都圏や、仙台市や盛岡市からも遠い岩手県の三陸海岸地方だが、三陸を訪れた際には震災復興を支える岩手開発鉄道にぜひ目を向けてみたい。最後に、大船渡周辺の復興状況と、そのほかの交通機関の現状を見ておこう。

【沿岸部の状況】大船渡駅周辺にはホテルや諸施設が建ち始めた

↑市街と大船渡湾の間に造られつつある防潮堤。もし大津波がきたときには遮断機が下り、右の重厚なトビラが閉められる。近くに立つと思ったより高く、巨大でそそりたつ印象

 

岩手開発鉄道の盛駅の周囲は、震災前から残る建物が多い。しかし、港側に足を向けると、その被害が大きかったことがわかる。JR大船渡駅付近は大船渡市内でも津波の影響が大きかった地区だ。2012年に筆者が訪れた当時は、ガレキが取り除かれていたが、何もない荒れ野の印象が強かった。

 

現在、大船渡駅周辺は更地となり、複数のホテルやショッピングセンターなど諸施設が建ち始めている。港との間には巨大な防潮堤の建設が進む。

 

一部、線路が道床とも津波にさらわれたJR大船渡線の跡はどのようになっているのだろうか。

 

【沿岸部の交通】北の鉄路は回復したが、南はBRT路線化

↑跨線橋から見た盛駅。右ホームには三陸鉄道南リアス線の列車が停まる。左側はJR大船渡線のBRT用ホームで駅舎側が降車用。右ホームから気仙沼方面行きバスが発車する

 

↑盛駅を発車した三陸鉄道南リアス線の下り列車。2019年3月には釜石駅の先、宮古駅まで旧山田線区間が復旧の予定。三陸鉄道に運営が移管され、全線通して走ることが可能に

 

↑盛駅には三陸鉄道南リアス線の車庫もある。南リアス線では主力のディーゼルカー以外に、レトロな姿の36-R3(写真中央)といった観光用車両も使われている

 

前述のように盛駅からの交通機関の復旧は2015年のことだった。三陸鉄道南リアス線は震災前の姿を取り戻した。

 

2019年3月には、釜石駅から先の宮古駅までJR山田線が復旧される予定だ。復旧後は列車の運行は三陸鉄道に移管され、盛駅と北リアス線の久慈駅まで直通で列車が運行できるようになる。

 

この三陸鉄道の北リアス線と南リアス線が結ばれる効果は、観光面でも大きいのではないだろうか。

 

残念なのは南側のJR大船渡線の区間だ。震災によりJR大船渡線は気仙沼駅〜盛駅間は路線の被害が大きく、列車の運行が行われていない。

 

列車に代わって運行されているのがBRTだ。BRTとはバス・ラピット・トランジットの略で、日本語ではバス高速輸送システムと略される。旧大船渡線の被害の少ない区間では線路を専用道に作り替えた。さらに専用道に転換できない区間は一般道路を利用してBRTを走らせている。

↑大船渡駅付近のBRT専用道。大船渡線の線路はすべて取り除かれ、バス専用道として造り直された。一般道との交差地点には、このように進入できないよう遮断機が設けられる

 

↑盛駅を発車した気仙沼行きBRTバス。元線路を専用道路化、復旧が難しい区間は一般道を利用して専用バスを走らせている。列車に比べて所要時間がかかるのが難点

 

鉄道に比べて本数が増発できるなど、利点はあるが、盛駅〜気仙沼駅間の列車ならば約1時間で着いた所要時間が、+15分〜20分かかるなどの難点も。

 

大船渡線の復旧が進まない現状とは裏腹に、三陸沿岸の海岸線をほぼなぞって走る三陸自動車道が2020年度には仙台市から岩手県宮古市まで全通の予定だ。この高速道路が完成すれば、仙台市方面からの直通の高速バスがより便利になり増発もされることになるだろう。

↑整備が続けられる三陸自動車道。2020年度中には仙台市から宮古市までの全線が開業する予定。全通後は高速バスなどの増発も予想される

 

三陸沿岸の鉄道網は、1896(明治29)年に起きた三陸地震の被害地域に、支援物資が届けられなかった反省を踏まえ構想された。以降、非常に長い期間を経て整備された。それから一世紀以上たち、東日本大震災以降は、鉄道復旧よりも、むしろ高速道路の整備が急がれている。

 

かつて大地震が起きたことで整備された鉄道網が、地震により一部は復旧を断念、代役のバス交通や高速道路網に代わられつつある。さまざまま事情があるだろうが、なんとも言えない寂しさが心に残った。

なぜ別々に発展? 近くて遠い2つの路線を抱えた東北の私鉄ローカル線のいま

おもしろローカル線の旅~~弘南鉄道弘南線・大鰐線(青森県)~~

 

青森県弘前市を中心に弘南線(こうなんせん)と大鰐線(おおわにせん)の2つの路線を走らせる弘南鉄道。同じ鉄道会社が運営する2本の路線だが、起点となる弘前市内の2つの駅は遠く離れ、線路はつながっていない。なぜこのように2本の路線は別々に運営されることになったのだろうか。

今回は列島最北の私鉄電車、弘南鉄道の旅を楽しんだ。そこには、過疎化に悩む地方鉄道の現状と、東北の私鉄ローカル線の魅力が浮かびあがってきた。

 

起点の駅が接続しない謎――弘前駅から中央弘前駅へ歩くと20分はかかる

まずは弘南鉄道の2本の路線の概略に触れておこう。

弘南鉄道の弘南線は弘前駅と黒石駅間、16.8kmを結ぶ。起点となる弘前駅はJR弘前駅に隣接しており、JR奥羽本線を走る列車との乗換えもスムーズだ。

 

一方の弘南鉄道の大鰐線は中央弘前駅と大鰐駅間の13.9kmを結ぶ。起点となる中央弘前駅は、駅名のとおり、弘前市の市街中心部、土手町に近い繁華街の近くにある。桜で有名な弘前城にも、中央弘前駅が近い。

 

この両線の起点となる弘前駅と中央弘前駅。ちょっと不思議に感じるのは、両駅が、約1.2km以上も離れていて(弘南鉄道の乗換案内では約2kmとある)、歩くと20分以上もかかることだ。両線の線路も接続されていない。

 

同じ会社なのに、なぜ駅が離れ、路線も別々となっているのだろう。それは、両線が異なる鉄道会社によって造られた路線だったからだ。

 

【駅が別々の理由1】元・和徳村に作られた官営の弘前駅

↑弘南鉄道弘南線の起点駅・弘前駅。JR弘前駅の駅舎に隣接していて、乗換えも便利だ。官営の奥羽北線の開業当時、同駅は弘前の外れ、和徳村に造られた

 

弘前市に鉄道が敷かれたのは1984(明治27)年のことだった。奥羽北線の弘前駅がこの年に設けられた。

 

実は弘前駅を名乗ったものの、駅は旧中津軽郡和徳村に設けられた。和徳村は昭和になり弘前市に編入されたが、弘前を名乗りながらも駅は市街から遠い場所に造られたのだった。その理由としては、鉄道黎明期に見られた住民の反対の声の高まりとともに、早く線路を敷設させたい明治政府の意向もあった。その結果、弘前駅は市街から遠い、当時は辺鄙な場所に造られたのだった。

 

その後の1927(昭和2)年に弘南鉄道の弘南弘前駅が、弘前駅に併設される形で誕生する。現在の弘南線の弘前駅である。

 

【駅が別々の理由2】市街の不便さを解決するため生まれた大鰐線

↑弘南鉄道大鰐線の起点・中央弘前駅。弘前市の中心街である土手町にも近い。ホーム横には土淵川が流れる。停まるのは主力のデハ7000系電車

 

一方の中央弘前駅だが、誕生したのは1952(昭和27)年と、弘南線に比べるとかなり新しい。当時はバスも普及しておらず、駅の遠さが市民生活のネックとなっていた。その不便さを改善すべく地元の有力者と三菱電機が出資して、弘前電気鉄道という会社を設立、現在の中央弘前駅〜大鰐駅間の路線を通したのだった。

 

だが、後発の弘前電気鉄道は堅調とは行かなかった。地域の幹線である奥羽本線とは、南側の大鰐駅で接続していているものの、肝心の弘前駅につながっていない。さらに台風の被害などの影響もあり、深刻な経営難に陥る。陸運局の仲介もあり、結局、弘前電気鉄道の路線は、1970(昭和45)年に弘南鉄道に譲渡され、会社は解散となった。

 

街から離れたところに幹線の駅が設けられ、駅周辺が次第に繁華になっていく。一方で駅から離れた市街が衰退していくという例は全国各地で見られる。弘前でも、こうした全国の都市と似た状況となっていったわけである。

↑弘前市の繁華街にあたる土手町。大鰐線の中央弘前駅から近いが、JR奥羽本線弘前駅からはバスの利用が必要となる。日中にも関わらず、通行する人の少なさが目立った

 

弘南鉄道に譲渡されてから40年近く。現状はどうなのだろう。国土交通省の鉄道統計年表の平成24年度〜27年度の数字を見ると、弘南線の年間乗車人数を見ると132万人〜134万人でほぼ横ばいとなっている。

 

一方、大鰐線は、平成24年度に57万人あった年間乗車人数は3年後の平成27年度には46万人まで減ってしまっている。中央弘前駅の1日の平均乗降人員も2004年には1814人あったものの、2015年には737人と半分以下にまで落ちている。

 

その理由として考えられるのは、同地域の幹線である奥羽本線との接続が悪いという点が大きいだろう。弘前に住む人が東京方面へ行く場合に、現在は奥羽本線に乗り、東北新幹線の新青森駅経由で移動する人が多い。高速バスも弘前駅前から発着する。大鰐線を使っても、弘前駅へは中央弘前駅からの移動が必要になる。

 

さらに弘前市の人口自体も1995(平成7)年には19万4485人をピークに徐々に減少、2017年1月には17万5721人にまで減っている。沿線人口の減少も、乗客減少に歯止めがかからない1つの要因なのかもしれない。

 

大鰐線は、路線の廃止がこれまで何度も取り沙汰され、そのたびに撤回されているのが現状で、現在も予断を許さない状況となっている。

 

さて、そんな弘南鉄道の2本の路線。まずは弘南線から乗車してみることにした。両路線に乗車する際には、1日フリー乗車券「大黒様きっぷ」(大人1000円)を使うと便利だ。

 

【弘南線の旅1】 東京五輪の年に生まれたデハ7000系に乗車

↑弘前駅に停まるデハ7000系。駅には1・2番線のホームがある。すぐ左にJR奥羽本線の線路が並んでいる。弘南線の線路幅はJR線と同じ1067mmで線路もつながっている

 

弘前駅に停まるのはデハ7000系電車。元東急電鉄の7000系電車だ。銘板を見ると1964(昭和39)年に造られた車両とある。東京オリンピックの年に生まれた電車だ。40年以上にわたり、東急そして弘南鉄道を走り続けてきた古参電車。ロングシート、天井に付けられた首振り扇風機が懐かしい。

↑デハ7000系の車内。2両編成が基本で、朝夕に増結される日もある。ロングシートで天井に付いた首振りタイプの扇風機が懐かしい。渋谷109の吊り革がいまも使われている

 

列車は日中の11〜13時台を除き30分間隔。弘前駅から黒石駅は全線乗車しても約30分の道のりだ。ただし終電が21時台で終了するので注意したい。

 

【弘南線の旅2】新里駅で五能線を走ったSLが保存される

↑新里駅(にさと)駅で保存される48640号機。五能線で活躍した8620形蒸気機関車で、新里駅の駅舎内には当時の写真なども展示されている。保存・塗装状態は非常に良い

 

弘前駅を発車して3つめの新里駅(にさとえき)。窓の外を見ていると、「あれっ!蒸気機関車だ。なぜここに?」

 

駅舎の横に8620形蒸気機関車が保存されていた。弘南線は開業後に、蒸気機関車が使われた時期が短く、1948(昭和23)年には早くも全線電化されている。よってこの路線に縁はないはず……。慌てて駅で降りて見たものの、車両がなぜここで保存されているのか、解説などはない。

 

調べたところ、48640号機は1921(大正10)年、汽車製造製で、晩年は五能線で活躍していた機関車とわかった。青森県の鯵ケ沢町役場で保存されていたが、NPO法人・五能線活性化クラブに譲渡され、2007年7月にこの場所に移設された。有志の人たちの手で整備されているせいか、保存状態も良かった。

 

【弘南線の旅3】 田舎舘(いなかだて)といえば「田んぼアート」

↑弘南線沿線の田舎舘村名物の「田んぼアート」。臨時駅も開設される。色違いの稲を植えることにより絵を描く「田んぼアート」。展望所から見ると素晴らしい絵が楽しめる

 

SLが保存されている新里駅から再乗車。終点を目指す。

 

館田駅(たちたえき)を過ぎると、90度以上のカーブを描き、平賀駅へ着く。ここには車庫があり、デハ7000系とともに古い電気機関車や除雪車などが並ぶ。赤い電気機関車は大正生まれの古参で、武蔵野鉄道(のちの西武鉄道)が導入した車両だ。こうした古参車両も目にできるが、車両のとめ具合により、ホーム上から見えないときもあるので注意したい。

↑平賀駅には車庫がある。左右のデハ7000系は中間車に運転席を設けた改造タイプで、顔つきが異なる。中央のED33形機関車は1923(大正12)年製、西武鉄道で使われた車両だ

 

平賀駅の先、柏農高校前駅(はくのうこうこうまええき)や、尾上高校前駅(おのえこうこうまええき)と学校の名が付く駅に停車する。弘南線、大鰐線では学校の名がつく駅が計7つある。弘南鉄道の電車が通学手段として欠かせないことがわかる。尾上高校前駅の1つ先が田んぼアート駅。この駅は臨時駅で朝夕や冬期は電車が通過となる。

 

この駅のすぐそばに道の駅 いなかだて「弥生の里」があり、こちらで田んぼアートが楽しめる。田んぼをキャンパスに見立て、色が異なる稲を植えることにより見事な絵が再現される田んぼアート。地元の田舎館村(いなかだてむら)の田んぼアートの元祖でもあり、多くの観光客が訪れる。ここで写真を紹介できないのが残念だが、今回訪れたときには手塚治虫のキャラクターが田んぼのなかに描かれていた。

 

【弘南線の旅4】 終点の黒石駅で見かけた黒石線とは?

↑黒石駅には、通常は使われていないホームと検修庫が隣接している。この検修庫の外壁には「黒石線検修庫」とある。弘南線でなく黒石線となっているのはなぜだろう?

 

↑夏祭りが盛んなみちのく。黒石駅前には「黒岩よされ」の飾り付けがあった。日本三大流し踊りの1つとされ、連日2000人にもおよぶ踊り手の流し踊りが名物となっている

 

途中下車しつつも到着した終点の黒岩駅。ホームの横には大きな検修庫が設けられている。その壁には「黒石線検修庫」の文字が。

 

「ここの路線は弘前線なのに、どうして黒石線なのだろう?」という疑問が浮かぶ。

 

調べてみると、黒石線とは以前に奥羽本線の川部駅と黒石駅を結んでいた6.2kmの路線の名であることがわかった。1912(大正元)年に黒石軽便線として誕生、その後に国鉄黒石線となり、1984(昭和59)年に弘南鉄道の黒石線となった。弘南鉄道では国鉄へ路線譲渡の打診を1960年代から行っており、20年以上もかかりようやく弘南鉄道の路線となったわけである。

 

弘南鉄道の路線となったものの、黒石線は非電化路線のためディーゼルカーを走らせることが必要だった。路線距離も短く、効率が悪かった。そのため1998(平成10)年3月いっぱいで廃止となってしまった。もし、鉄道需要が高かった1960年代に弘南鉄道に引き継がれ、電化され電車が走っていたら。時を逸したばかりに残念な結果になったわけである。

 

【大鰐線の旅1】 レトロな印象が際立つ中央弘前駅の駅舎

↑大鰐線の起点駅、中央弘前駅の駅舎。中に切符売場と小さな待合室、改札口がある。1952(昭和27)年からの姿でここにあること自体に驚きを感じる

 

弘南線の弘前駅へ戻って、次は大鰐線の起点駅、中央弘前駅を目指す。弘南バスの土手町循環バス(運賃100円)に乗車して「中土手町」バス停で下車、土淵川沿いの遊歩道を歩けば、すぐに駅がある。

 

見えてきた中央弘前駅。年期が入った駅舎に驚かされた。

 

列車は朝夕30分間隔、除く10時〜16時台と19時以降は1時間間隔となる。中央弘前駅発の終電は21時30分発と早い。弘南線よりも、乗降客が少ないこともあり本数が少なめだ。

 

中央弘前駅はホームが1つという質素な造り。弘南線と同じデハ7000系がそのまま折り返して発車する。

 

【大鰐線の旅2】土淵川沿いを走りリンゴ畑を見ながら進む

↑大鰐線の沿線にはリンゴ畑が多い。9月ともなると沿線のリンゴが赤く色づきはじめる

 

弘南線よりも大鰐線は、よりローカル色が強く感じられた。中央弘前駅を発車するとしばらく土淵川沿いを走る。次の弘高下駅(ひろこうしたえき)、さらに弘前学院大前駅、聖愛中高前駅(せいあいちゅうこうまええき)と3駅とも、学校名が駅名となっている。

 

4つめの千年駅(ちとせえき)を過ぎると、沿線には畑が多くなる。弘南線の沿線に水田が目立ったのにくらべて、大鰐線ではリンゴ畑が目立つ。青森リンゴの産地らしい風景が目を引く。

 

【大鰐線の旅3】津軽大沢駅の車庫にねむる古い車両に注目

↑津軽大沢駅の車庫の全景。1番左側がデハ6000系。中央にED22形電気機関車。ほか右には保線用の事業用車などが並ぶ

 

大鰐線の乗車で最も気になる箇所が、津軽大沢駅に隣接する車庫。ここには珍しい車両が眠っている。

 

まずはデハ6000系。元・東急電鉄の6000系で、1960(昭和35)年に製造された。現在では一般化しているステンレス車体を持つ新性能電車で、東急では試作的に造られ、また使われた車両だった。現在、2両のみが残り、秋の鉄道の日イベントなどの車庫公開時に近くで見ることができる。

 

ほかED22形電気機関車は、1926(大正15)年製で、信濃鉄道で導入、その後、大糸線、飯田線、西武鉄道、近江鉄道を経て弘南鉄道へやってきた車両だ。

↑ED22形は米国のボールドウィン・ウェスチングハウス社製。電気機関車草創期の車両で、国内の鉄道会社の多くが同社製を輸入、使用した。同線では保線などに使われている

 

↑大鰐線の除雪車キ104。元国鉄キ100形で、国鉄では貨車の扱いだった。機関車が後ろから押して走る。くさび状の先頭部で線路上の雪を分け、左右のつばさで雪をはねのける

 

赤い電気機関車ED22形と並び注目したいのが、除雪用のラッセル車。弘南線とともに大鰐線でも、国鉄で使われていたラッセル車キ100形を導入、冬期の除雪作業に使用している。大鰐線の除雪車はキ104形と名付けられた車両で、1923(昭和12)年に北海道の苗穂工場で造られた車両だ。

 

ED22形電気機関車と組んで使われる除雪車。冬期は大鰐駅に常駐して、降雪に備えている。寒い冬に、ぜひともこうした車両の雪かきシーンを見たいものだ。

 

【大鰐線の旅4】大鰐駅の名前がJRと弘南鉄道で違う理由は?

↑平川橋梁を渡る大鰐線のデハ7000系。同線沿線は周囲の山や河川など、変化に富み、写真撮影にも最適なポイントが多い

 

車庫のある津軽大沢駅を過ぎると、JR奥羽本線を立体交差で越え、さらに平川を越える。周囲の山景色が美しいあたりだ。

 

平川沿いに走ると、間もなく終点の大鰐駅に到着する。同駅は弘南鉄道の駅は大鰐駅。併設しているJR奥羽本線の駅は大鰐温泉駅を名乗る。この駅名にもおもしろい経緯がある。

 

1895(明治28)年に奥羽北線の駅が開業。大鰐駅と名乗った。1952(昭和27)年に弘前電気鉄道の大鰐駅が開業した。

 

その後、1970(昭和45)年の弘南鉄道に譲渡されたあとに同駅は、弘南大鰐駅と名が変更された。さらに1986(昭和61)年には国鉄と同じ大鰐駅に改称された。一方の国鉄・大鰐駅はJR化後の1991(平成3)年に大鰐温泉駅と改称された。

 

大鰐駅が、元々の名前で、二転三転していている。一時期、同じ名前となっていたものの、JR側の駅に新たに「温泉」が付けられていった。

↑弘南鉄道大鰐駅の全景。ホームは4・5番線となっている。JRの大鰐温泉駅のホームが1番線と、2・3番線となっているので、それに続く連番となったわけだ

 

↑弘南鉄道大鰐駅の北口出入り口。建物の中を通り、左に見える通路を使うと国道7号側の出入り口がある。北口駅舎は目立たたない造りで筆者も気付かず通り過ぎてしまった

 

↑JR奥羽本線とつながる跨線橋。昭和の香りがする構造物がこうして残っていることがおもしろい。この跨線橋を通り、先にある階段を下りれば弘南鉄道大鰐駅の南口がある

 

↑JR奥羽本線の大鰐温泉駅の玄関。写真右手には足湯も用意され、無料で大鰐温泉の湯が楽しめる。足湯とJR駅舎のちょうど間、奥に見えるのが弘南鉄道大鰐駅の南口の建物

 

弘南線と大鰐線の両線に乗車して、次のように思った。

 

1950年代に大鰐線を開業させた人たちが将来を見越して、いまのJR弘前駅と中央弘前駅を結ぶ路線を計画し、さらに大鰐線の線路と結びつけていたら。大鰐線もいまほどに乗客数の減少に苦しみ、廃止を取り沙汰されることもなかったかもしれない。

 

さらに廃止されてしまった黒石線が、鉄道需要が高かった時代に弘前鉄道の経営に移管されて姿を変えていたら。弘前市や黒石市をめぐる鉄道網も状況が変ったかもしれない。

 

歴史に“もし”や、“たられば”は禁物だとは思うものの、両線に乗車しつつ、そんな思いにとらわれた。

険路に鉄道を通す! 先人たちの熱意が伝わってくる「山岳路線」の旅【山形線・福島駅〜米沢駅間】

おもしろローカル線の旅〜〜山形線(福島県・山形県)

 

ステンレス車体の普通列車が険しい勾配をひたすら上る。せまる奥羽の山々、深い渓谷に架かる橋梁を渡る。スノーシェッド(雪囲い)に覆われた山のなかの小さな駅。駅の奥にはスイッチバック用の線路や、古いホームが残っている。駅を囲む山々、山を染める花木が一服の清涼剤となる。

JRの在来線のなかでトップクラスに険しい路線が、山形線(奥羽本線)の福島駅〜米沢駅間だ。福島県と山形県の県境近くにある板谷峠(いたやとうげ)を越えて走る。

 

いまから120年ほど前に開業したこの路線。立ちはだかる奥羽山脈を越える鉄道をなんとか開通させたい、当時の人たちの熱意が伝わってくる路線だ。

 

8時の電車の次は、なんと5時間後!

福島発、米沢行きの普通列車は5番・6番線ホームから出発する。5番線は在来線ホームの西の端、6番線は5番線ホームのさらにその先にある。この“片隅感”は半端ない。さらに普通列車の本数が少ない。2駅先の庭坂駅行きを除けば、米沢駅まで行く列車は日に6本しかない。

↑板谷駅の「奥羽本線発車時刻表」。この日中の普通列車の少なさは驚きだ。一方で山形新幹線「つばさ」はひっきりなしに通過していく *現在は本写真撮影時から時刻がやや変更されているので注意

 

上の写真は板谷駅の時刻表。光が反射して見づらく恐縮だが、朝は下り・上りとも7時、8時に各1本ずつ列車があるが、それ以降は13時台までない。さらにその後は、下りは16時台に1本あるが、上りにいたっては、13時の列車以降、5時間半近くも列車が来ない。

 

山形線の普通列車は、米沢駅〜山形駅間、山形駅〜新庄駅間も走っているが、こちらはだいたい1時間に1本という運転間隔だ。福島駅〜米沢駅間の列車本数の少なさが際立つ。沿線人口が少ない山岳路線ゆえの宿命といっていいかもしれない。

 

一方、線路を共有して運行される山形新幹線「つばさ」は、30分〜1時間間隔で板谷駅を通過していく。新幹線のみを見れば山形線は幹線路線そのものだ。

 

福島駅〜米沢駅間で普通列車に乗る際には、事前に時刻を確認して駅に行くことが必要だ。また途中駅で乗り降りするのも“ひと苦労”となる。新幹線の利便性に比べるとその差は著しい。

 

今回は、そんな異色の山岳路線、福島駅〜米沢駅間を走る普通列車に乗車、スイッチバックの遺構にも注目してみた。

 

【驚きの険路】 標高差550m、最大勾配は38パーミル!

上は福島駅〜米沢駅の路線マップと、各駅の標高を表した図だ。福島駅〜米沢駅間は40.1km(営業キロ数)。7つある途中駅のなかで峠駅の標高が1番高く海抜624mある。峠駅をピークにした勾配は最大で38パーミル(1000m走る間に38m高低差があること)で、前後に33パーミルの勾配が連続している。

 

一般的な鉄道の場合、30パーミル以上となれば、かなりの急勾配にあたる。ごく一部に40パーミルという急勾配がある路線もあるが、山形線のように、急勾配が続く路線は珍しい。

 

いまでこそ、強力なモーターを持った電車で山越えをするので、難なく走りきることができる。しかし、1990(平成2)年まで同区間では、赤岩駅、板谷駅、峠駅、大沢駅の計4駅でスイッチバック運転が行われ、普通列車は徐々に上り、また徐々に下るという“手間のかかる”運転を行っていた。

↑開業時から1990(平成2)年まで使われていた板谷駅の旧ホームはすっかり草むしていた。米沢行き普通列車は本線から折り返し線に入り、後進してこのホームに入ってきた

 

【山形線の歴史1】 難工事に加え、坂を逆行する事故も

さて、実際に乗車する前に、山形線(奥羽本線)福島駅〜米沢駅間の歴史をひも解いてみよう。

●1894(明治27)年2月 奥羽本線の福島側からの工事が始まる

●1899(明治32)年5月15日 福島駅〜米沢駅間が開業

当時の鉄道工事は突貫工事で、技術の不足を人海戦術で乗り切る工事だった。奥羽本線は北と南から工事を始めたが、青森駅〜弘前駅間は、わずか1年5か月という短期間で開業させている。一方で福島駅〜米沢駅間の5年3か月という工事期間を要した。この時代としては想定外の時間がかかっている。

 

特に難航したのが、庭坂駅〜赤岩駅間にある全長732mの松川橋梁だった。川底から高さ40mという当時としては異例ともいえる高所に橋が架けられた。開業後も苦闘の歴史が続く。

●1909(明治42)年6月12日 赤岩信号場(現・赤岩駅)で脱線転覆事故

下り混合列車が急勾配区間を進行中に蒸気機関車の動輪が空転。補助機関車の乗務員は蒸気とばい煙で意識を失ったまま、列車は下り勾配を逆走、脱線転覆して5人が死亡、26人が負傷した。

●1910(明治43)年8月 庭坂駅〜赤岩信号場間で風水害によりトンネルなどが崩落

休止した区間は徒歩連絡により仮復旧。翌年には崩落区間の復旧を諦め、別ルートに線路を敷き直して運転を再開させた。

●1948(昭和23)年4月27日 庭坂事件が発生、乗務員3名死亡

赤岩駅〜庭坂駅間で起きた脱線事故で、青森発上野行きの列車の蒸気機関車などが脱線し、高さ10mの土手から転落する事故が起きた。列車妨害事件とされるが、真相は不明。太平洋戦争終了後、原因不明の鉄道事故が各地で相次いだ。

 

当時の非力な蒸気機関車による動輪の空転・逆走事故、風水害の影響と険路ならではの問題が生じた。そこで同区間用の蒸気機関車の開発や、電化工事が矢継ぎ早に進められた。

●1947(昭和22)年 福島駅〜米沢駅間用にE10形蒸気機関車5両を製造

国鉄唯一の動輪5軸という珍しい蒸気機関車が、同路線用に開発された。急勾配用に開発されたが、思い通りの性能が出せず、同区間が電化されたこともあり、稼働は1年のみ。移った北陸本線でも走ったのは1963(昭和38)年まで。本来の機能を発揮することなく、稼働も15年のみという短命な機関車だった。

↑E10形蒸気機関車は国鉄最後の新製蒸気機関車とされ、福島駅〜米沢駅間の急勾配区間向けに開発された。登場は昭和23(1948)年で、1年のみ使われたのち他線へ移っていった

 

↑E10形は石炭や水を積む炭水車を連結しないタンク車。転車台で方向転換せずにバック運転を行った。現在は東京都青梅市の青梅鉄道公園に2号機が展示保存されている

 

●1949(昭和24)年4月29日 福島駅〜米沢駅間が直流電化

当時はまだ電化自体が珍しい時代でもあった。東海道本線ですら、全線電化されたのが1956(昭和31)年と後になる。いかに福島駅〜米沢駅間の電化を急がれたのかがよくわかる。

 

【山形線の歴史2】 新幹線開業後に「山形線」の愛称がつく

●1967(昭和43)年9月22日 福島駅〜米沢駅間を交流電化に変更

交流電化の変更に加えて路線が複線化されていく。1982(昭和57)年には福島駅〜関根駅間の複線化が完了している。

●平成4(1992)年7月1日 山形新幹線が開業(福島駅〜山形駅間)

線路を1067mmから1435mmに改軌し、山形新幹線「つばさ」が走り出す。それとともに、福島駅〜山形駅間に山形線の愛称がついた。

●平成11(1999)年12月4日 山形新幹線が新庄駅まで延伸

これ以降、福島駅〜新庄駅間を山形線と呼ぶようになった。

 

【所要時間の差は?】 新幹線で33分、普通列車ならば46分

さて福島駅〜米沢駅間の列車に乗車してみよう。同区間の所要時間は、山形新幹線「つばさ」が約33分。普通列車が約46分で着く。運賃は760円で、新幹線利用ならば運賃+特急券750円(自由席)がかかる。

 

所要時間は13分の違い。沿線の駅などや風景をじっくり楽しむならば、やはり列車の本数が少ないものの普通列車を選んで乗りたいものだ。

 

山形線の普通列車として使われるのは標準軌用の719系5000番代と701系5500番代。福島駅〜米沢駅間の普通列車はすべて719系5000番代2両で運行されている。

↑福島駅の5番線に停車する米沢駅行き電車。車両はJR東日本719系。2両編成でワンマン運転に対応している。ちなみに5番線からは観光列車「とれいゆつばさ」も発車する

 

車内は、窓を横にして座るクロスシートと、ドア近くのみ窓を背にしたロングシート。クロスシートとロングシートを組み合わせた、セミクロスシートというスタイルだ。

【山形線の車窓1】営業休止中の赤岩駅はどうなっている?

筆者は福島駅8時5分発の列車に乗った。乗車している人は定員の1割ぐらいで、座席にも余裕あり、のんびりとローカル線気分が楽しめた。同線を走る山形新幹線「つばさ」の高い乗車率との差が際立つ。

 

福島駅の先で、高架線から下りてくる山形新幹線の線路と合流、まもなく最初の笹木野駅へ到着する。次の庭坂駅までは沿線に住宅が連なる。

 

庭坂駅を発車すると、しばらくして線路は突堤を走り、右に大きくカーブを描き始める。ここは通称、庭坂カーブと呼ばれる大カーブで、ここから山形線はぐんぐんと標高をあげていく。ちょうど福島盆地の縁にあたる箇所だ。

↑庭坂駅から赤岩駅間の通称・庭坂カーブを走るE3系「つばさ」。同カーブ付近から列車は徐々に登り始める。福島盆地の雄大なパノラマが楽しめるのもこのあたりだ

 

庭坂駅から10分ほどで、眼下に流れを見下ろす松川橋梁をわたる。ほどなく赤岩駅へ。駅なのだが、普通列車もこの赤岩駅は通過してしまう。さてどうして?

↑赤岩駅は現在、通年通過駅となっている。普通列車も通過するので乗降できない。利用者がいない駅とはいうものの、ホーム上は雑草も無くきれいな状態になっていた

 

赤岩駅は廃駅になっていない。が、2016年秋以来、通過駅となっていて乗降できない。時刻表や車内の案内にも、赤岩駅が存在することになっているのだが、乗り降りできない不思議な駅となっている。営業していたころも長年、乗降客ゼロが続いてきた駅であり、このまま廃駅となってしまう可能性も高そうだ。

 

【山形線の車窓2】 スイッチバック施設が一部に残る板谷駅

板谷駅の手前で山形県へと入る。

 

板谷駅は巨大なスノーシェッド(雪囲い)に覆われた駅で、ホームもその中にある。おもしろいのは、旧スイッチバック線の先にある旧ホームだ。実際にスイッチバック施設が使われていた時代には、現在のホームの横に折り返し線があり、米沢方面行き列車は、この折り返し線に入り、バックしてホームへ入っていった。

 

特急などの優等列車は、このスイッチバックを行わず、そのまま通過していった。板谷駅は山間部にある同線の駅のなかでは、最も人家が多く、工場もある。が、列車の乗降客はいなかった。国道13号が近くを通るため、クルマ利用者が多いのかもしれない。

↑板谷駅は駅全体が頑丈なスノーシェッドに覆われている。駅舎はログハウスの洒落た造り。右側のホームが福島駅方面、左に米沢駅方面のホームがある

 

↑上写真の立ち位置で逆を写したのがこの写真。右の2本の線路が山形線の本線で、左の線路の先に古い板谷駅のホームがある。現在は保線用に使われている

 

↑上写真のスノーシェッドの先にある旧板谷駅のホーム。行き止まり式ホームで、列車は前進、または後進でホームに入線した。このホームの右手に板谷の集落がある。同駅は国道13号からも近くクルマでも行きやすい

 

【山形線の車窓3】雪囲いに覆われる峠駅、峠の力餅も楽しみ

板谷駅から5分ほどの乗車で、福島駅〜米沢駅間で最も標高が高い峠駅に到着した。

 

海抜624m。山あいにあるため冬の降雪量も尋常ではない。多いときには3mも積もるという。この峠駅の周辺には、滑川温泉などの秘境の温泉宿があり、若干ながら人の乗り降りがあった。

↑峠駅は巨大なスノーシェッド(雪囲い)に覆われている。標高624mと福島駅〜米沢駅間では最も高い位置にある駅で、冬の積雪はかなりの量になる

 

この峠駅、雪から駅を守るために、スノーシェッドが駅の施設をすっぽりと覆っている。この駅の改札口付近から、さらに別のスノーシェッドが200mほど延びている。

↑峠駅へと続くスノーシェッド。スイッチバックして旧峠駅へ進入するためのルートに使われた。複線分のスペースがあり非常に広く感じられる

 

こちらは現在、使われていない施設だが、複線の線路をすっぽりと覆う巨大な大きさだ。スノーシェッドは、200mぐらい間を空けて、さらに先の山側に入った地点にも残っている。このスノーシェッドの間に元の峠駅があったという。

 

駅近くの「峠の茶屋」で聞くと、「スノーシェッドですべて覆ってしまうと、蒸気機関車の煙の逃げ場がなくなる。あえて、スノーシェッドを空けた部分を設けていたんです」と教えてくれた。

 

現在の峠駅ホームをはさみ反対側には折り返し線用のトンネルがあった。福島方面行き列車は、この折り返し線に入り、バックして旧駅に入線していた。スイッチバックが行われた時代、さぞや楽しい光景が展開していたことだろう。

↑峠駅の目の前にある「峠の茶屋」。江戸時代は参勤交代が行われた羽州米沢街道の峠で茶屋を営んでいた歴史ある店だ。現在の「峠の茶屋」といえば、名物「峠の力餅」で有名

 

↑現在も峠駅のホームでの立売り(窓越し販売)が行われている。停車時間の短いのが難点だが、電話で事前予約しておくこともできる

 

↑峠の力餅10ヶ入り(926円)。餅米は山形置賜産のヒメノモチ、小豆は厳選した大納言、地元吾妻山系の伏流水を使用して製造する。ボリュームあり、お土産にも最適だ

 

峠駅近くの「峠の茶屋」。峠駅で下車した際には、昼食、小休止、そして次の列車待ちに利用するのも良いだろう。

 

【山形線の車窓4】関根駅〜米沢駅間は不思議に単線となる

峠駅から米沢駅側は、ひたすら下りとなる。峠駅の1つ先の大沢駅もスノーシェッド内の駅だ。峠駅や板谷駅のように明確ではないが、スイッチバックの遺構が残っている。

 

4駅に残るこうしたスイッチバックの遺構などは、1999(平成11)年5月に「奥羽本線板谷峠鉄道施設群」として産業考古学会の推薦産業遺産として認定された。

 

推薦理由は、「奥羽山脈の急峻な峠を越えるために、スイッチバック停車場を4カ所連続させ」、加えて「広大な防雪林を造営するなど、東北地方の日本海側地域開発にとって記念碑的な鉄道遺産である」こと。この路線が、歴史的に重要であり、国内の鉄道遺産としても貴重であるという、学会から“お墨付き”をもらったわけである。

 

大沢駅を過ぎると、右に左にカーブを描きつつ列車は下っていく。田畑が見え集落が広がると関根駅へ着く。

 

この関根駅の次が米沢駅。この区間は米沢盆地の開けた区間となり路線もほぼ直線となる。険しい福島駅〜関根駅間が複線なのに、関根駅〜米沢駅間のみ単線となる。

↑関根駅〜米沢駅間の単線区間を走る観光列車「とれいゆつばさ」。ほかの駅間と比べて平坦な同区間がなぜ複線とならなかったのだろうか

 

米沢駅の先、赤湯駅まで単線区間が続く。よってこの区間で列車に遅れが生じると、対向列車まで影響を受ける。米沢駅〜赤湯駅間も米沢盆地内の平坦な土地なのに、この米沢盆地内のみ単線区間が残ることに、少し疑問が残った。

 

終着の米沢駅に付くと、ちょうど向かいに観光列車「とれいゆつばさ」が停車していた。「とれいゆつばさ」の車内にある「足湯」を浸かりながらの旅も癒されるだろうな、とつい誘惑にかられてしまう。

↑米沢市の玄関口・米沢駅。江戸時代は上杉藩の城下町として栄えた。現在は人気ブランド米沢牛の生産地でもある。駅2階のおみやげ処でも米沢牛関連商品が販売されている

 

だが、今回はローカル線の旅なのだ。帰りにもこだわり、4時間ほど米沢周辺で時間をつぶして、福島行き普通列車に乗車した。逆からたどる山岳路線も味わい深い。峠駅を過ぎると、福島市内までひたすら下り続ける。普通列車とはいえ標準軌ならではの安定した走行ぶり、快適な乗り心地が心に残った。

東京方面行きが“下り”になる不思議ーー会津線はほのぼの旅に最高の路線

おもしろローカル線の旅〜〜会津鉄道会津線(福島県)~~

 

南会津の山あい、阿賀川(あががわ)の美しい渓谷に沿って走る会津鉄道会津線。2017年4月21日に東京浅草駅から会津鉄道の会津田島駅まで、特急「リバティ会津」が直通で運転されるようになり、山間のローカル線も変わりつつある。

 

さて、今回は1枚の写真から紹介しよう。次の写真は会津下郷駅で出会ったシーン。列車の外を何気なく撮影していた時の1枚だ。

↑会津下郷駅でのひとコマ。列車の発着時にスタッフの人たちがお出迎え&お見送りをしていた。さらに停車する列車の車掌さんも素敵な笑顔で見送ってくれた

 

これが会津鉄道会津線(以降、会津線と略)の、魅力そのものなのかもしれない。緑とともに鉄道を運行する人たち、そして会津の人たちの「素敵な笑顔」に出会い、心が洗われたように、ふと感じた。

 

ほのぼのした趣に包まれた会津線らしい途中駅でのひとこま。南会津のローカル線の旅は、この先も、期待が高まる。

 

【会津線の歴史】 開業してからすでに91年目を迎えた

会津線は、西若松駅〜会津高原尾瀬口駅間の57.4kmを走る。

 

その歴史は古い。およそ90年前の1927(昭和2)年11月1日に、国鉄が西若松駅〜上三寄駅(現・芦ノ牧温泉駅)間を開業させた。その後、路線が延伸されていき、1934(昭和9)年12月27日に会津田島駅まで延ばされている。

 

会津田島駅以南の開通は太平洋戦争後のことで、1953(昭和28)年11月8日に会津滝ノ原駅(現・会津高原尾瀬口駅)まで路線が延ばされた。

 

1986(昭和61)年には、野岩鉄道(やがんてつどう)の新藤原駅〜会津高原尾瀬口駅(当時の駅名は会津高原駅)間が開業した。この路線開通により、東武鉄道(鬼怒川線)、野岩鉄道、会津線(当時は国鉄)の線路が1本に結ばれた。

 

翌年の1987(昭和62)年4月1日には、国鉄が民営化され、会津線はJR東日本の路線になった。さらに同年7月16日に会津鉄道株式会社が設立され、会津線の運営がゆだねられた。

↑会津線ではディーゼルカーが入線するまでC11形蒸気機関車が主力機として活躍した。その1両である254号機が会津田島駅の駅舎横に保存・展示されている

 

【会津線の謎】ちょっと不思議? 東京方面行きが“下り”となる

会津線は西若松駅〜会津田島駅間が非電化、会津田島駅〜会津高原尾瀬口駅間が電化されている。

 

電化、非電化が会津田島駅を境にしているため、会津田島駅から北側、そして南側と別々に運行される列車が多い。北側は会津若松駅〜会津田島駅間、南側は会津田島駅〜新藤原駅・下今市駅間を結ぶ。さらに北はJR只見線に乗り入れ、南は野岩鉄道、東武鉄道と相互乗り入れを行う。

 

会津線全線を通して走るのは快速「AIZUマウントエクスプレス」のみで、会津若松駅〜東武日光駅(または鬼怒川温泉駅)間を日に3往復している。週末には、会津若松駅から北へ走り、ラーメンや「蔵のまち」として知られるJR喜多方駅までの乗り入れも行う。

 

昨年春から運行された特急「リバティ会津」は東京・浅草駅〜会津田島駅間を日に4往復、両駅を最短で3時間9分で結んでいる。以前は直通の快速列車が運行されていたが、最新の特急列車「リバティ会津」の登場で、より快適な鉄道の旅が楽しめるようになっている。

↑会津田島駅まで直通運転された特急「リバティ会津」。会津線内では、各駅に停まる列車と主要駅のみ停車する2パターンの特急「リバティ会津」が運行されている

 

↑快速「AIZUマウントエクスプレス」と、特急「リバティ会津」のすれ違い。会津田島駅〜東武日光駅間では、会津鉄道のディーゼルカーと東武特急とのすれ違いシーンが見られる

 

さて、一部の時刻表などで表記されているのだが、会津線にはちょっと不思議なルールが残っている。通常の鉄道路線では、東京方面行きが上り列車となるのだが、会津線内の西若松駅〜会津田島駅間では会津若松駅行きが上り列車となっている(会津田島駅から南は、会津高原尾瀬口駅方面行きが上り列車となる)。

走る列車番号にも、その習慣が残されていて、会津田島駅行きには下りということで末尾が奇数の数字、会津若松駅行きの上り列車には末尾に偶数の数字が付けられている。

 

この上り下りの基準が、通常と異なるのはなぜなのだろう。

 

【謎の答え】 国鉄時代の名残そのまま受け継がれている

国鉄時代、栃木県との県境を越える野岩鉄道の路線がまだできていなかった。会津線は福島県内だけを走る行き止まり路線だった。

 

行き止まり路線の場合は、ほとんどが起点側の駅へ走る列車が上りとなる。国鉄時代の会津線は、会津若松駅へ向かう列車がすべて上りだった。

 

野岩鉄道の開通により東京方面への線路が結びついたものの、会津田島駅を境にして、上り下り方向の逆転現象は残された。西若松駅〜会津若松駅間ではJR只見線の路線を走る。只見線の列車も、会津若松駅行きを上り列車としており、会津線の上り下りを以前のままにしておけば、同線内で列車番号の末尾を上りは偶数、下りは奇数に揃えられる利点もあった。

↑東武日光駅へ直通運転を行う「AIZUマウントエクスプレス」。漆をイメージした赤色のAT700形やAT750形と、AT600形・AT650形と連結、2両編成で運行される

 

↑2010年に導入されたAT700形やAT750形は、全席が回転式リクライニングシートで寛げる。その一部は1人用座席となっている

【人気の観光列車】 自然の風が楽しめる「お座トロ展望列車」

会津線には週末、観光列車も走っている。その名は「お座トロ展望列車」。2両編成で、1両はガラス窓がないトロッコ席(春〜秋の期間)、もう1両は展望席+お座敷(掘りごたつ式)席の組み合わせとなっている。

 

会津線の絶景スポットとされる3か所の鉄橋上で一時停車。絶景ビューが楽しめる。さらにトンネル内ではトロッコ席がシアターに早変わりする。

 

お座トロ展望列車は乗車券+トロッコ整理券310円(自由席)が必要になる。会津若松駅〜会津田島駅間の運転で、所要約1時間30分。のんびり旅にはうってつけの列車だ。

↑阿賀川を渡る「お座トロ展望列車」。左側のAT-351形がトロッコ席のある車両。右のAT-401形が展望席+お座敷席付きの車両だ。ちなみに阿賀川は福島県内の呼び方で、新潟県に入ると阿賀野川(あがのがわ)と名が改められる

 

↑湯野上温泉駅〜芦ノ牧温泉南駅間にある深沢橋梁。若郷湖(わかさとこ)の湖面から高さ60mを渡る橋で一時停止する。なお写真の黄色い車両AT-103形はすでに引退している

 

【歴史秘話】江戸時代の会津線沿線は繁華な街道筋だった

会津線の旅を始める前に、ここで会津、そして南会津の歴史について簡単に触れておこう。

 

まずは「会津西街道」の話から。会津西街道は会津線とほぼ平行して走る街道(現在の国道121号と一部が重複)のことを指す。会津藩の若松城下と今市(栃木県)を結ぶ街道として会津藩主・保科正之によって整備された。江戸時代には会津藩をはじめ、東北諸藩の参勤交代や物流ルートとして重用された。いわば東北本線と平行して延びる東北道とともに、東北諸藩には欠かせない重要な道路だったわけだ。

 

その栄えた面影は、大内宿(おおうちじゅく)で偲ぶことができる。すなわち、いまでこそ山深い印象がある南会津の里も、江戸時代までは華やかな表通りの時代があったということなのだ。

↑茅葺き屋根の家並みが残る大内宿。会津西街道の宿場として栄えた。会津線の湯野上温泉駅から乗り合いバス「猿游号」が利用可能。所要約20分(日に8往復あり)

 

あと忘れてならないのは、会津藩の歴史だろう。会津若松の鶴ヶ城を中心に3世紀にわたり栄えた会津藩。戊辰戦争により、西軍の目の敵とされた会津藩の歴史はいまでも、その悲惨さ、非情さが語り継がれる。会津藩の領地でもあった南会津や、会津西街道は戦乱の舞台となり、多くのエピソードが残されている。

 

【会津の人柄】朴訥な人柄を示す言葉「会津の三泣き」とは?

会津の人柄を示す言葉として「会津の三泣き」という言葉がある。

 

会津の人は山里に育ったせいか、朴訥な趣の人が多い。それはよそから来た人、とくに転勤族にとっては、時に“とっつきにくさ”を感じさせてしまう。そのとっつきにくさに、他所から来た人は「ひと泣き」する。

 

やがて暮らしに慣れると、その温かな心に触れて「二泣き」する。さらに会津を去るときに、情の深さに心を打たれ、離れがたく三度目の「三泣き」をするというのだ。

 

筆者は、個人的なことながら、会津とのつながりが深く、ひいき目につい見てしまうのだが、このような人々の純朴さは、訪れてみて、そこここで感じる。

 

先にあげたように列車に乗り降りする客人を迎え、見送る駅スタッフや乗務員の人たちの笑顔。こうした会津の人柄を知ると、旅がより楽しくなるだろう。

【車窓その1】まずは会津高原尾瀬口駅から会津田島駅を目指す

さて、会津鉄道会津線に乗車、見どころおよび途中下車したい駅などを、写真をメインに紹介していこう。

 

まずは野岩鉄道との境界駅でもある会津高原尾瀬口駅から。ここは、尾瀬沼への登山口でもある尾瀬桧枝岐方面へのバスが出発する駅でもある。

 

実際に野岩鉄道と会津鉄道の境界駅ではあるのだが、鉄道会社が変わったということはあまり感じられない。野岩鉄道方面から走ってきた電車は、ここでの乗務員交代は行わない。普通列車の大半が、東武鉄道6050型で、この車両は会津田島駅まで野岩鉄道の乗務員により運転、また乗客への対応が行われる。

↑会津高原尾瀬口駅は野岩鉄道との境界駅だが、駅案内には野岩鉄道の社章が付く。停まっているのは東武鉄道6050型電車。野岩鉄道、会津鉄道両社とも同形式を所有・運行させている

 

一方、ディーゼルカーにより運行される「AIZUマウントエクスプレス」は、野岩鉄道、東武鉄道線内も、会津鉄道の乗務員により運転、乗客への対応が行われる。

 

山深い会津高原尾瀬口駅からは、徐々に視界が開けていき、田園風景が広がり始め、20分ほどで会津田島駅へ到着する。

↑会津田島駅に停車する東武鉄道の特急「リバティ会津」。2017年4月に運行を開始した。東京の浅草駅〜会津田島駅間を日に4往復している

 

【車窓その2】「塔のへつり」とは、どのようなものなのか?

会津田島駅からは、非電化ということもあり、よりローカル色が強まる。

 

会津線の駅名表示。見ていると面白い仕掛けがある。田島高校前駅は高校生のイラストとともに「青春思い出の杜」とある。養鱒公園駅(ようそんこうえんえき)は、鱒のイラストとともに「那須の白けむりを望む」。会津下郷駅は昔話の主人公の力持ちのイラストと「会津のこころと自然をむすぶ」という、各駅それぞれ、キャッチフレーズが付けられている。こんなキャッチフレーズを探しつつの旅もおもしろい。

 

会津下郷駅を過ぎると、山が険しくなってくる。阿賀川も間近にせまって見えるようになる。そして塔のへつり駅に到着する。

 

「へつり」とは、どのようなものを指すのだろうか。「へつり」とは福島県または山形県の言葉で「がけ」や「断崖」のことを言う。駅から徒歩3分ほどの「塔のへつり」。阿賀川の流れが生み出した奇景が望める。

↑森のなかにある塔のへつり駅。独特の門が駅の入り口に立つ。景勝地・塔のへつりへは駅から徒歩3分の距離。塔のへつり入口には土産物屋が軒を並べ賑やかだ

 

↑100万年にもわたる阿賀川の侵食作用により造られた塔のへつり。対岸から吊橋が架かる。断崖絶壁に加えて人が歩行できるくぼみもできている

 

【車窓その3】 茅葺き屋根の駅やネコの名誉駅長がいる駅など

塔のへつり駅の隣りの駅が湯野上温泉駅。この駅は、時間に余裕があればぜひ途中下車したい。

 

ここは駅舎が茅葺きという珍しい駅だ。会津鉄道が発足した年に建て替えられた駅舎で、2005(平成17)年度には日本鉄道賞・特別賞も受賞している。

 

駅内には売店があり、また地元・湯野上温泉の観光ガイドも行われている。駅舎のすぐ横には足湯があってひと休みが可能だ。また駅から周遊バスに乗れば、会津西街道の宿場として知られる大内宿に行くこともできる。

↑湯野上温泉駅の駅舎は珍しい茅葺き屋根だ。駅舎内には観光案内所があり、南会津の特産品を中心に多くの土産品が販売される

 

↑湯野上温泉駅にある足湯「親子地蔵の湯」。列車を見送りながら“ひと風呂”が楽しめる。ちなみに駅から湯野上温泉へは徒歩2分〜15分の距離で、23軒の温泉宿や民宿がそろう

 

湯野上温泉駅の先はトンネルが多くなる。湯野上温泉駅〜芦ノ牧温泉駅間は、大川ダムが造られたことにより、1980(昭和55)年に建設された新線区間となっている。ダムにより生まれた湖を迂回するように長いトンネルが続く。

 

大川ダムにより生まれた若郷湖(わかさとこ)が芦ノ湖温泉南駅の手前、深沢橋梁から一望できる。会津若松駅行き列車の左手に注目だ。さらに大川ダム公園駅は、初夏ともなるとホームを彩るあじさいが美しい。

 

そして芦ノ牧温泉駅へ到着する。

 

この駅で良く知られているのが名物駅長の「らぶ」。2代目駅長で、芦ノ牧温泉駅の人気者となっている。施設長の「ぴーち」とともに働いているが、大人気のため営業活動(?)に出かけることも多い。ぜひ会いたいという方は、会津鉄道のホームページ上に“勤務日”が掲載されているので、確認してから訪れたほうが良さそうだ。

↑芦ノ牧温泉駅の名誉駅長「らぶ」がお座トロ展望列車をお見送り。施設長「ぴーち」とともに駅務に励んでいる/写真提供:芦ノ牧温泉駅(※写真撮影等はご遠慮ください)

 

【車窓その4】会津磐梯山が見えてきたら終点の会津若松駅も近い

芦ノ牧温泉駅あたりになると、両側に迫っていた山も徐々になだらかになっていき、沿うように流れていた阿賀川の流れも、路線から離れていく。

 

そして沿線に田園風景が広がっていく。このあたりが会津若松を中心とした会津盆地の南側の入口でもある。いくつか無人駅を通り過ぎると、右手に会津のシンボル、会津磐梯山が見えてくる。

 

南若松駅あたりからその姿はより間近になっていき、そして会津線の起点駅・西若松駅に到着する。

↑会津線の南若松駅付近は田園地帯も多く、好天の日には会津磐梯山の姿が楽しめる。秀麗な姿で、会津地方に伝えられた民謡では「宝の山よ」と唄われてきた

 

↑会津鉄道会津線の起点となる西若松駅。駅表示にJR東日本と会津鉄道の社章が掲げられている。鶴ヶ城の最寄り駅だが、城まで歩くと20分ほどかかる

 

西若松駅は会津線の起点駅だが、ここで終点となる列車はなく、全列車がこの先、JR只見線を走り会津若松駅まで乗り入れている。

 

会津若松駅は、会津若松市の玄関駅。会津藩にちなんだ史跡も多い。街の中心や主要な史跡は、会津若松駅からやや離れているので、まちなか周遊バス「ハイカラさん」を利用すると便利だ。

↑会津若松市の玄関口、JR会津若松駅。会津線の全列車は同駅からの発車となる。駅前に戊辰戦争の際に犠牲となった少年たちを讃えた「白虎隊士(びゃっこたいし)の像」が立つ

 

実に「絵」になる鉄道路線!! フォトジェニックな信州ローカル線の旅【長野電鉄長野線】

おもしろローカル線の旅~~長野電鉄長野線(長野県)~~

 

信州の山々を背景に走る赤い電車は長野電鉄長野線の特急「ゆけむり」。最前部と最後部に展望席があり、列車に乗りながらにして迫力ある展望風景が楽しめる。

長野電鉄長野線は長野駅と湯田中駅間を結ぶ33.2kmの路線。起点となる長野駅はJR駅に隣接した地下にホームがあり、また長野市街は路線が地下を走っていることもあって、ローカル線というより都市路線だろう、という声も聞こえそうだ。

 

しかし、千曲川を越えた須坂市、小布施(おぶせ)町、中野市を走る姿は魅力あるローカル線そのもの。山々をバックに見ながら走る姿が実に絵になる。ここまで“写真映え”する鉄道路線も少ないのではないだろうか。今回は、絵になる長野電鉄の旅を、写真を中心にお届けしよう。

 

【写真映えポイント1】

赤い特急と山や草花、木の駅舎の組み合わせが絶妙!

なぜ、長野電鉄長野線は写真映えするのだろう。まず車体色が、赤が基本となっていることが大きいように思う。色鮮やかで写りがいい。

 

特急は、1000系「ゆけむり」(元小田急ロマンスカー10000形HiSE)と、2100系「スノーモンキー」(元JR東日本253系「成田エクスプレス」)の2タイプが走る。それぞれ赤ベースの車体が鮮やかで、青空、周囲の山々、花が咲く里の景色、そして木の駅舎と絶妙な対比を見せる。

 

普通電車の8500系(元東急8500系)や3500系(元営団地下鉄3000系)も、車体に赤い帯が入り華やかで、こちらも信州の風景と良く似合う。

↑特急「ゆけむり」が信濃竹原駅を通過する。1000系は、元小田急電鉄のロマンスカー10000形。赤い特急電車と古い駅舎とのコントラストが何とも長野電鉄らしい

 

↑桜沢駅付近を走る特急「ゆけむり」。4月末、ようやく信州に遅い春がやってくる。沿線は桜などの草花が一斉に花ひらき見事だ。車窓から望む北信五岳にはまだ雪が残る

 

【写真映えポイント2】

プラス100円で乗車可能な「ゆけむり」展望席がGOOD!

車内から撮った風景も写真映えしてしまう。

 

特に特急「ゆけむり」の前後の展望席から見た風景が素晴らしい。展望席は、広々した窓から迫力の展望が楽しめる特等席で、志賀高原や高社山など沿線の変わりゆく美景が存分に楽しめる。

↑夜間瀬駅〜上条駅付近からは志賀高原を列車の前面に望むことができる。ぜひ特急「ゆけむり」の展望席から山景色を楽しみたい

 

↑長野線の夜間瀬川橋梁から望む高社山(こうしゃさん)標高1351.5m。整った姿から高井富士とも呼ばれ、信州百名山にも上げられている

 

特急「ゆけむり」は、元は小田急ロマンスカー10000形として生まれた車両で、小田急当時のニックネームはHiSE。車内に段差があり、バリアフリー化が困難なため、登場からちょうど25年という2012年に小田急電鉄から姿を消した。この2編成が長野電鉄へやってきて大人気となっているのだ。

 

筆者が乗車した週末には、小布施人気のせいか、長野駅〜小布施駅間は混んでいた。その先の小布施駅→湯田中駅はそこそこの空き具合となった。湯田中駅発の上り「ゆけむり」にも乗車したが、湯田中→小布施間で、運良く後部展望席を独り占めという幸運に出会えた。

 

この美景が乗車券+特急券100円(乗車区間に関わらず)で楽しめるのが何よりもうれしい。指定席ではなく自由席なので、席が開いてればどこに座っても良い。

 

週末には「ゆけむり〜のんびり号〜」という、ビューポイントでスピードを落として走るなど、まさに写真撮影にぴったりの特急も走るので、ぜひチャレンジしていただきたい(列車情報は記事末尾を参照)。

 

【写真映えポイント3】

長野電鉄のレトロな駅舎が、また絵になる!

駅で撮った写真も絵になる。

 

長野電鉄の路線の開業は大正の終わりから昭和の初期にかけて。開業したころに建てられた木造駅舎が信濃竹原駅、村山駅、桐原駅、朝陽駅と、複数の駅に残っている。トタン屋根、ストーブの煙突、木の腰板。木の格子入りガラス窓といった、古い駅の姿を留めている。

↑須坂駅の跨線橋で写した1枚。長野電鉄の多くの駅ではいまも昭和の駅の懐かしい情景がそこかしこに残されている

 

↑先にも紹介した信濃竹原駅の駅舎。開業は1927(昭和2)年のこと。90年も前の昭和初期の駅舎がほぼ手付かずの状態というのがうれしい

 

↑こちらは村山駅。駅の開業は1926(大正15)年のこと。沿線ではほかに、桐原駅、朝陽駅に古い木造の駅舎が残っている

 

長い時間、そこに立ち続けてきた駅舎。日々、人々を見送り迎えてきたそんな多くのストーリーが透けて見えてきそうだ。この4駅ほど古くはないものの、ほかの駅で目に触れる風景もレトロ感たっぷりで、何気なく撮った風景が実に絵になるのだ。

 

【写真映えポイント4】

さりげなく置かれる古い車両や機器にも注目

停車中の保存車両や、古い機器も絵になる。

 

例えば、須坂駅には赤い帯を取った3500系06編成2両が停められている。同車両は元営団地下鉄日比谷線の3000系で、当時、珍しかったセミステンレス車体を採用、車体横はコルゲートと呼ばれる波形の板が使われている。

↑須坂駅構内の3500系。この車両はすでに引退した車両で、長野電鉄の赤い帯やNAGADENという表示も取られ、営団地下鉄当時のオリジナルの姿に戻されている

 

1961(昭和36)年に登場し、高度成長期に都心を走る日比谷線の輸送を支え、1994(平成6)年に、日比谷線の最終運転を終えている。同車両は、長野電鉄のみに計39両が譲渡され、現在も現役車両として活躍している。ちなみに2両は2007年に東京メトロに里帰りした。

 

日比谷線を走っていた往時の姿を知る人にとっては、この須坂駅にたたずむ古い車両に、胸がキュンとなってしまう人も多いのではないだろうか。

 

また、須坂駅のホームには、いまでは使われていない古い転轍器(てんてつき)が多く置かれ、保存されている。

↑ポイント変更用の転轍器(てんてつき)なども須坂駅のホームで保存されている。右側に発条転轍器が並ぶ。このような古い装置が特に説明もなく保存されていておもしろい

 

これらの保存車両や転轍器は、特に案内があるわけでなく、また乗客に見せるために保存展示されているわけではない。さりげなく置かれているといった様子である。そこに案内表示はなくとも、長野電鉄を守ってきたという誇りが伝わってくるようでほほ笑ましい。

【残る路線の謎】不自然なS字の姿をしているワケを探る

ここからは長野電鉄長野線の歴史と路線の概要を説明していこう。

上の路線図を見るとわかるように、路線は長野駅からSの字を描きつつ湯田中へ向かう。

 

まずは長野駅と東西に結ぶ路線が千曲川を越えて須坂駅へ向かう。須坂駅の手前で急カーブ、信州中野駅までではほぼ南北の路線が結ぶ。信州中野駅から先で急カーブ、路線が東に向かい回り込むようにして湯田中駅を目指している。

 

この路線、須坂駅と信州中野駅付近の曲がり方が極端に感じてしまう。どうしてなのだろう。

 

現在は長野線という1つの路線になっているが、開業時は千曲川東岸を走る路線が先に設けられた。その歴史を追うと、

1922(大正11)年6月 河東(かとう)鉄道により屋代駅〜須坂駅間が開業

1923(大正12)年3月 須坂駅〜信州中野駅間が開業

1925(大正14)年7月 信州中野駅〜木島駅間が開業 河東線全線開通

 

そのほかの路線は

1926(大正15)年6月 長野電気鉄道により権堂駅〜須坂駅間が開業。この年に河東鉄道が長野電気鉄道を合併、長野電鉄となる

1927(昭和2)年4月 平穏線の信州中野駅〜湯田中駅間が開業

1928(昭和3)年6月 長野駅〜権堂駅間が開業、現長野線が全線開通する

 

このように、長野電鉄は、元々、千曲川東岸の屋代駅と木島駅(長野県飯山市)を結ぶ鉄道が最初に造られ、その後に沿線の途中駅から長野駅へ、また湯田中駅へ路線が延ばされていった。

 

長年、この路線網が引き継がれていたが、利用者減少が著しくなり、まず2002(平成14)年3月末に木島駅〜信州中野駅間が、2012年3月末に屋代駅〜須坂駅間の路線が廃止された。南北に延びていた路線がそれぞれ廃線になり、S字の路線のみが長野線として残されたわけだ。

↑2012年3月まで運行していた長野電鉄屋代線(須坂駅〜屋代駅間)。真田松代藩の城下町・松代(まつしろ)を通る路線でもあった。写真は松代駅に入線する3500系電車

 

↑現在、須坂駅から屋代方面へ延びる線路の一部が残り河東線(かとうせん)記念公園として整備されている。例年、10月中旬の土曜日にイベントも開かれている

 

↑信州中野駅の先で湯田中方面へ線路が右にカーブしている。左の線路は木島駅へ向かった元河東線の線路跡。この分岐付近のみ線路が残されている

 

【輝かしい歴史】上野駅発、湯田中駅行き列車も走っていた!

長野電鉄が最も輝いていたのが1960年ごろから1980年ごろだった。1961(昭和36)年からは、長野電鉄への乗り入れる上野駅発の列車が運転された。国鉄の急行形車両を利用、信越本線の屋代駅から、屋代線経由で湯田中駅まで直通運転を行った。翌年には通年運転が行われるほど乗客も多かった。この直通運転は1982(昭和57)年11月まで続けられている。

 

自社製の車両導入も盛んで1957(昭和32)年には、地方の私鉄会社としては画期的な特急形車両2000系も登場させた。その後、1967(昭和42)年には鉄道友の会ローレル賞を受賞した0系や10系といった一般列車用電車も新製するなど、精力的に新車導入を続けた。

 

路線も長野駅〜善光寺下駅間の地下化工事が1981(昭和56)年3月に完了している。

↑かつての須坂駅構内の様子。中央が2000系特急形車両でツートン塗装車と、後ろにマルーン色の編成が見える。2006年に特急運用から離れ2012年3月をもって全車が引退した

 

そんな順調だった長野電鉄も1980年代から陰りが見えはじめた。先の国鉄からの直通列車も1982年に消えた。営業収入は1997年の35億2000万円をピークに、長野冬期五輪が開催された1998年から減収に転じ、2002年には24億6000万まで落ち込んでいる。

 

この2002年に信州中野駅〜木島駅間の河東線の路線を廃止した影響もあったが、急激な落ち込みは河東線と平行して走る上信越自動車道が、徐々に整備されていったのが大きかった。まず1993年に更埴JCT〜須坂長野東IC間を皮切りに2年ごとに北へ向けて延ばされていき、1999年には北陸自動車道まで全通している。高速道路網の充実で、クルマで移動する人が増え、また高速バスの路線網も充実していった。

 

長野電鉄では2002年と2012年に河東線を廃線にし、車両は首都圏の鉄道会社の譲渡車を主力にするなど、営業努力を続けてきた。同社の平成24年度から平成27年度の損益を見ると(鉄道統計年表による)、平成24年度の5億から平成27年度には8億円まで数字を上げ好転している。前述した古い駅舎が数多く残る理由は、駅舎を建て直すほどの余裕が、これまではなかったという理由もあるのだろう。

 

ただ、古いものが数多く残り、昭和と平成が混在する、まさに写真映えする状況が生まれているわけで、少し皮肉めいた現象とも言えるだろう。

【鉄道好き向け乗車記】長野駅から湯田中駅まで撮りどころは?

長野電鉄長野線の始発駅はJR長野駅西口の地下にある。JR駅を出てすぐのところにあり便利だ。行き止まり式のホームからは、朝夕が特急を含めて15分間隔、日中は20分間隔で列車が発車する。

 

特急は一部列車を除き湯田中駅行き、普通列車は須坂駅もしくは信州中野駅行きが出ている。

↑長野駅の西口を出てすぐ目の前にある長野電鉄長野駅の入り口。こうした造りは都市と近郊を結ぶ都市鉄道の起点駅といった趣だ

 

↑長野電鉄長野駅の地下ホーム。停まるのは2100系「スノーモンキー」と8500系。8500系はいまも東急田園都市線で現役として活躍する車両だ。長野電鉄では2005年から走る

 

長野市街は地下路線が続き、3つ先の善光寺下駅まで地下駅となる。善光寺下駅の先で始めて地上へ出る。長野駅から朝陽駅まで複線区間が続き、しなの鉄道の路線などと立体交差する。朝陽駅から先は、単線区間となり、柳原駅〜村山駅間で千曲川を越える。

↑長野駅〜朝陽駅間は複線区間となっている。2100系「スノーモンキー」と8500系がちょうどすれ違う。写真の桐原駅近くでは都市路線らしい光景が見られる

 

25分ほどで須坂駅に到着する。ここには車両基地があるので、ぜひとも降りて見ておきたい。先の3500系などの保存車両や、古い転轍器などにも出会える。

 

須坂駅からは、ローカル色が強まる。長野ならではリンゴ園も沿線に多く連なる。

 

須坂駅から乗車7分ほどで小布施駅(おぶせえき)に到着する。小布施といえば、名産の栗、そして江戸時代には地元の豪商、高井鴻山(たかいこうざん)が葛飾北斎や小林一茶が招いたことで、独自の文化が花開いたところでもある。

 

そうしたうんちくにうなずきつつも、鉄道好きならばホームの傍らにある「ながでん電車の広場」に足を向けたい。ここには現在、特急として活躍した長野電鉄2000系3両が保存展示されている。車内の見学もできる。

↑小布施駅の構内にある「ながでん電車の広場」。長野電鉄オリジナルの特急型電車2000系が保存展示される。傍らの腕器式信号機もいまとなっては貴重な存在を言えるだろう

 

信州中野駅から先は、長野線の閑散区間となる。長野駅から湯田中駅まで直通で走る普通列車はなく、途中の須坂駅か信州中野駅での乗り換えが必要となる。

 

信州中野駅〜湯田中駅間では、朝夕30分間隔、日中は特急を含めて1時間に1本の割合で電車が走っている。本数は少なくなるものの、信州中野駅〜湯田中駅間には絵になるポイントが多く集まっている。

 

まず夜間瀬川橋梁。左右に障害物のないガーダー橋で、橋を渡る車両が車輪まで良く見える。もちろん撮影地としても名高い。車内からは高井富士とも呼ばれる高社山が良く見えるポイントでもある。

↑夜間瀬川橋梁を渡る2100系「スノーモンキー」。元JR東日本253系で、特急「成田エクスプレス」として走った。長野電鉄では2編成が入線、4人掛け個室(有料)も用意される

 

夜間瀬川を渡ると、路線は右に左にカーブを切りつつ、勾配を登っていく。このあたりの沿線はリンゴ園や、モモ園などが多いところ。GWごろは薄ピンクのリンゴの花、桃色のモモの花が沿線を彩り見事だ。

↑夜間瀬駅〜上条駅間を走る1000系「ゆけむり」。GWごろ高社山を仰ぎ見る夜間瀬付近ではモモやリンゴの花が見ごろを迎える

 

リンゴ園を見つつ急坂を登れば、列車は程なく湯田中駅に到着する。

 

この駅の構造、少し不思議に感じる人がいるかもしれない。現在のホームと駅舎とともに、すぐ隣に古い駅舎とホームがある。実はかつて、普通列車よりも長い編成の特急列車などは駅の先にある県道を越えて引込線に入り、折り返してホームに入っていた。

 

駅構内でスイッチバックする複雑な姿の駅だったのだ。さすがに不便だということで、2006年に大改造、スイッチバック用の施設は取り外され、現在のホームと線路のみとなっている。

↑湯田中駅に到着した1000系「ゆけむり」。右側の駅舎がかつての駅舎で、現在は日帰り温泉施設として使われている。線路は右側ホームにも沿って敷かれていた

 

↑日帰り温泉施設「楓の湯」として使われる旧湯田中駅舎。この建物の前には足湯(写真円内)もあり、無料で湯田中温泉の湯を楽しむことができる

 

列車が到着すると「美(うるわ)しの志賀高原」という懐メロがホームに流れる。志賀高原、そして湯田中・渋温泉の玄関口である湯田中駅らしい演出でもあるのだが、この曲が作られたのは1956(昭和31)年だという。このタイムスリップ感は並ではない。これぞ世代を超えた永遠のリゾート、志賀高原! というところだろうか。

↑湯田中駅前のバス乗り場。奥志賀高原ホテル行きや白根火山行きのバスが出ている。こうした“高原行きバスと乗り場”の光景も昭和の面影が強く感じられ、懐かしく感じられた

 

【観光列車の情報】

毎週末、下り:長野駅13時6分発、上り:湯田中駅11時25分発の上下2本は特別な「ゆけむり〜のんびり号〜」として走る。普通列車のようにゆっくりと沿線を走る観光案内列車で、撮影スポットで徐行運転を行うサービスもあるので、期待したい。料金は通常の特急と同じで、乗車券プラス特急券100円が必要。一部の車両はワインバレー専用車両となる(要予約)。

762mm幅が残った謎――三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】

おもしろローカル線の旅~~三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道(三重県)~~

 

今回のおもしろローカル線の旅は、線路の幅について注目してみたい。

 

日本の鉄道の線路幅は次の2タイプが多い。まずは国際的な標準サイズを元にした1435mmで、新幹線や私鉄の一部路線の線路幅がこのサイズだ。JRや私鉄など在来線には1067mmという線路幅が多い。ほかに1372mmという線路幅も、京王電鉄京王線や都営新宿線で使われている。

 

さて、そこで注目したいのが、今回紹介する、三重県を走る三岐(さんぎ)鉄道北勢(ほくせい)線と四日市あすなろう鉄道という2つの路線。この2つの路線は762mmという、ほかと比べるとかなり細い線路幅となっている。

↑三岐鉄道北勢線の線路。踏切を渡る軽自動車を比較してみても、762mmという線路幅の細さがよくわかる

 

↑コンパクトな車両に比べると集電用のパンタグラフがかなり大きく、ちょっとアンバランスに感じてしまう

 

↑三岐鉄道北勢線の車内。細い線路幅に合わせ車内の横幅もせまい。そのためシートに大人同士が座ると、このような状況になる

 

ちなみに762mmという線路幅はナローゲージとも言い、この線路幅の鉄道は軽便鉄道(けいべんてつどう)と呼ばれる。大正末期から昭和初期、全国さまざまなところに鉄道路線が敷かれていったころに、地方の鉄道や鉱山鉄道、森林鉄道などが採用したサイズだった。1435mmや1067mmといったサイズに比べて、小さいために建設費、車両費、維持費が抑えられるという利点がある。

 

一方で、ほかの鉄道路線と車両が共用できない、また貨車などの乗り入れできない、スピードが出せない、といった短所があり、鉄道が成熟するにしたがって、多くの軽便鉄道が線路幅を広げるなどの変更がなされ、あるいは廃線になるなどして消えていった。

 

現在、762mmという線路幅を採用している旅客線は、三重県内を走る三岐鉄道北勢線と四日市あすなろう鉄道の2路線に加えて、富山県の黒部峡谷鉄道のみとなっている。黒部峡谷鉄道の場合は、山岳地帯、しかも峡谷沿いの険しい場所にダム工事用の鉄道を通すために、あえて軽便鉄道のサイズにした経緯がある。

 

では、三重県の平野部に、なぜ762mmという線路幅の鉄道が残ったのだろうか。

 

【762mm幅が残った謎】広げる機会を逸してしまった両路線

三岐鉄道北勢線と四日市あすなろう鉄道の両路線は、いまでこそ運行している会社が違うものの、生まれてからいままで、似た生い立ちをたどってきた。762mmの線路幅の路線が残った理由には、鉄道の利用者が多かった時代に、線路の幅を広げる機会を逸してしまったからにほかならない。

 

路線が開業したのは、四日市あすなろう鉄道が1912(大正元)年8月(日永駅〜伊勢八王子駅=1976年廃駅に)、三岐鉄道北勢線が1914(大正3)年4月(西桑名駅〜楚原駅間)と、ほぼ同時期だ。

 

開業させたのは三岐鉄道北勢線が北勢鉄道、四日市あすなろう鉄道が三重軌道(後に三重鉄道となる)という会社だった。太平洋戦争時の1944(昭和19)年に両社を含めて三重県内の複数の鉄道会社が三重交通として合併する。

 

その後に三重交通は、三重電気鉄道と名を変え、さらに近畿日本鉄道と合併(1965年)という経過をたどり、それぞれが近鉄北勢線と、近鉄内部線(うつべせん)・八王子線となった。

 

三重電気鉄道と近畿日本鉄道が合併した前年に、三重電気鉄道三重線(いまの近鉄湯の山線)が762mmから1067mmに改軌している。1960年代は鉄道需要が高まりを見せた時代であり、利用者が急増していたそんな時代でもあった。湯の山線は、沿線に温泉地があり、その観光客増加を見込んだため、改軌された。

 

その後の、モータリゼーションの高まりとともに、地方の鉄道路線は、その多くが利用者の減少に苦しんでいく。線路幅を変更するための工事は、新路線を開業させるくらいの資金が必要となる。近鉄湯の山線のように利用者が増加していた時代に改軌を実現した路線がある一方で、近鉄北勢線と、近鉄内部線・八王子線の路線は762mmという線路幅のまま残されてしまった。

 

40年以上にわたり、運行を続けてきた近鉄も、路線の維持が困難な状況に追いこまれていった。

 

2003(平成15)年4月に、近鉄北勢線が三岐鉄道に運営を譲渡、さらに2015(平成27)年4月に近鉄内部線と八王子線が四日市あすなろう鉄道へ運営が移管された。ちなみに四日市あすなろう鉄道は、近鉄と四日市市がそれぞれ出資して運営する公有民営方式の会社として生まれた。

【三岐鉄道北勢線】見どころ・乗りどころがふんだんに

前ふりが長くなったが、まずは路線距離20.4km、西桑名駅〜阿下喜駅(あげきえき)間、所要1時間の三岐鉄道北勢線の電車から乗ってみよう。

↑三岐鉄道北勢線の電車は一部を除き、車体はイエロー。車体の幅は2.1mで、JR在来線の車両幅、約3m弱に比べるとスリムで、コンパクトに感じる

 

北勢線の車両の幅は2.1m。車両の長さは15mが標準タイプとなっている。ちなみにJR山手線を走るE235系電車のサイズは幅が2.95m、長さは19.5mなので、幅はほぼ3分の2、長さは4分の3といったところだ。

 

乗ると感じるのは、そのコンパクトさ。先に紹介した車内の写真のように、大人がシートに対面して座ると、通路が隠れてしまうほどだ。

 

北勢線の起点はJR桑名駅に隣接する西桑名駅となる。列車は朝夕が15〜20分間隔、日中は30分間隔で運転される。そのうち、ほぼ半分が途中の楚原駅(そはらえき)止まりで、残りは終点の阿下喜駅行きとなる。

↑JR桑名駅に隣接する北勢線の西桑名駅。ホームは1本で、阿下喜行きか楚原行き電車(朝夕発車の一部電車は東員・大泉行きもあり)が15〜30分おきに出発している

 

↑北勢線の電車は正面が平たいスタイルの電車がほとんどだが、写真の200系は湘南タイプという形をしている。同編成のみ三重交通当時の深緑色とクリーム色に色分けされる

 

ほかの路線では経験することができない面白さ

さて762mmという線路幅の北勢線。床下からのモーター音が伝わってくる。かつての電車に多い吊り掛け式特有のけたたましい音だ。さらに乗ると独特な揺れ方をする。横幅がせまく、その割に車高があるせいか、横揺れを感じるのだ。クーラーの室外機も昨今のように天井ではなく、車内の隅に鎮座している。

 

ただこうした北勢線の音や揺れ、車内の狭さは、ほかの路線では経験することができない面白さでもある。

 

途中の楚原駅までは、ほぼ住宅地が連なる。楚原駅を過ぎると、次の駅の麻生田駅(おうだえき)までの駅間は3.7kmと離れている。この駅間が北勢線のハイライトでもある。車窓からは広々した田畑が望める。車内からは見えないが、コンクリートブロック製のアーチが特徴の「めがね橋」や、ねじれた構造がユニークな「ねじれ橋」を渡る。楚原駅から麻生田駅へは、傾斜も急で吊り掛け式モーターのうなり音が楽しめるポイントだ。

↑橋脚のアーチ部分が美しい「めがね橋」を北勢線140形が渡る。楚原駅からは1.2km、徒歩で15分ほどの距離で行くことができる

 

麻生田駅から終点の阿下喜駅へは員弁川(いなべがわ)沿いを下る。西桑名駅からちょうど1時間。乗りごたえありだ。運賃は全区間乗車で片道470円、1日乗り放題パスは1100円で販売されている。この1日乗り放題パスは、北勢線とほぼ平行して走る三岐線の乗車も可能だ。北勢線と三岐線を乗り歩きたい人向けと言えるだろう。

 

阿下喜駅には駅に隣接して軽便鉄道博物館もある。開館は第1・3日曜日の10〜16時なので、機会があれば訪れてみたい。

↑阿下喜駅に隣接する軽便鉄道博物館には、モニ226形という車両が保存されている。1931(昭和6)年に北勢線を開業させた北勢鉄道が導入した電車で荷物を積むスペースがある

 

さて北勢線の現状だが、順調に乗客数も推移してきている。2003年に三岐鉄道に移管され、運賃値上げの影響もあり一時期、落ち込んだ。その後に車両を冷房化、高速化、また曲線の改良工事などで徐々に乗客数も持ち直し、最近では近鉄当時の乗客数に匹敵するまで回復してきた。沿線の地元自治体からの支援が必要な状況に変わりはないが、明るい兆しが見え始めているように感じた。

【四日市あすなろう鉄道】車両リニューアルでイメージUP!

四日市あすなろう鉄道は全線が四日市市内を走る鉄道だ。

 

路線はあすなろう四日市駅〜内部駅間を走る内部線5.7kmと、日永駅〜西日野駅間の八王子線1.3kmと、2本の路線がある。西日野へ行く路線に八王子線という名が付く理由は、かつて同路線が伊勢八王子駅まで走っていたため。集中豪雨により西日野駅〜伊勢八王子駅間が1974(昭和49)年に不通となり、復旧されることなく、西日野駅が終着駅となった。

 

電車は起点のあすなろう四日市駅から内部駅行きと、西日野駅行きが出ている。それぞれ30分間隔、朝のみ20分間隔で走る。路線の距離が短いため、あすなろう四日市駅〜内部駅間で18〜20分ほど。あすなろう四日市駅〜西日野駅間にいたっては8分で着いてしまう。

 

四日市あすなろう鉄道になって、大きく変わったのが車両だ。近鉄時代の昭和50年代に造られた車両を徹底的にリニューアル。車内は、窓側に1人がけのクロスシートが並ぶ形に変更された。通路も広々していて、通勤通学も快適となった。同車両は、技術面で優れた車両に贈られる2016年のローレル賞(鉄道友の会が選出)にも輝いている。たとえ762mmと線路の幅は細くとも、居住性に優れた車両ができるということを示したわけだ。

↑四日市あすなろう鉄道となり、旧型車をリニューアル、新260系とした。同車両は車内環境の向上などが評価され、2016年に鉄道友の会ローレル賞を受賞している

 

↑リニューアルされた新260系は、ブルーの車両に続いて薄いグリーンの車両も登場。3両編成に加えて2両編成も用意され、輸送量に応じた運用が行われている

 

↑新260系の明るい車内。1人掛けクロスシートで、座り心地も良い。通路は広く造られていて、立っている乗客がいても圧迫感を感じることなく過ごすことができる

 

↑車内には吊り革(車内端にはあり)の代わりに座席にハート型の手すりが付けられている。車内が小さめなこともあり、吊り革よりこの手すりのほうが圧迫感なく感じる

 

まるで模型の世界のような可愛らしい駅や車両基地

近鉄四日市駅の高架下に同路線の起点、あすなろう四日市駅がある。ホームは1面、2本の線路から内部駅行き、西日野駅行きが出発する。
料金はあすなろう四日市駅から日永駅・南日永駅までが200円、それより先は260円となる。この200円と260円という料金以外はない。1dayフリーきっぷは550円。全線乗車する時や、また途中下車する場合には、フリーきっぷの方がおトクになる。

↑四日市あすなろう鉄道の車両の形をした1dayフリーきっぷ550円。あすなろう四日市駅の窓口で購入できる

 

↑内部行きと西日野行きが並ぶあすなろう四日市駅。朝は3両編成の新260系がフル回転で走っている

 

車両は現在、新260系が大半を占めている。新会社に移行したあとに、リニューアルされた車両だけに、きれいで快適。乗っても762mm幅ならではの狭さが感じられなかった。乗り心地も一般的な電車と差がない。

 

路線は内部線、八王子線ともに四日市の住宅街を走る。面白いのは内部線と八王子線が分岐する日永駅。駅の手前、四日市駅側で路線が分岐、八王子線用のホームはカーブの途中に設けられている。急カーブに車両が停車するため、ドアとホームの間に、やや隙間ができる。

 

ちなみにこの急カーブ、半径100mというもの。新260系などの車両の先頭部が、前にいくにしたがい、ややしぼむ形をしているが、この半径100mという急カーブで、車体がホームにこすらないようにするための工夫だ。

↑日永駅で内部線と八王子線の線路が分岐している。手前が内部行き電車。向かいが八王子線の電車。同駅で必ず内部線と八王子線の電車がすれ違うダイヤとなっている

 

ちなみに内部線は国道1号とほぼ平行して線路が敷かれている。途中、追分駅前を通る道は旧東海道そのものだ。古い町並みも一部に残っているので、時間に余裕があれば歩いてみてはいかがだろう。

 

八王子線の終点、西日野駅は日永駅から1つ目、行き止まりホームで駅舎もコンパクトだ。

 

内部線の終点は路線名のまま内部駅。この駅も味わいがある。駅の建物を出ると、すぐ右手に引込線があり、検修庫に電車が入っている場合は、駅のすぐ横まで先頭車が顔をのぞかせている。762mmという線路幅ならではの小さめの車両が顔をのぞかせるシーンは、普通サイズの車両のような威圧感もなく、見ていて何ともほほ笑ましい。それこそ鉄道模型のジオラマの世界が再現されているような、不思議な印象が感じられた。

↑内部駅を出たすぐの横にある検修庫。鉄道模型のジオラマの世界のような趣がただよう。普通サイズの電車ではとても味わえないサイズ感の違いが楽しめる

 

帰りは偶然だが、古くから走るパステル車両に乗り合わせた。3両編成のうち中間車両はロングシートで、乗るとナローゲージ特有の狭さが感じられた。昭和生まれの1編成(265・122・163号車)は何と2018年9月で引退する予定とされている。昔ながらの内部線・八王子線の雰囲気が味わえるのもあと少しとなった。

↑新260系が増えているなか、パステルカラーの旧車両の面影を残した車両も1編成3両のみ残っている。2018年9月には引退となる予定。乗るならいまのうちだ

日本一短い地下鉄となぜか電化されない路線――名古屋の不思議2路線を乗り歩く【名古屋市営地下鉄上飯田線/東海交通事業城北線】

おもしろローカル線の旅~~名古屋市営地下鉄上飯田線・東海交通事業城北線(愛知県)~~

 

今回紹介する名古屋市営地下鉄上飯田線/東海交通事業城北線の2路線。東海地方にお住まいの方でも、あまりご存知ないのではないだろうか? 沿線に住む人以外には馴染みの薄い路線となっている。だが、2路線とも謎が多く、実に不思議な路線なのだ。

 

【地下鉄上飯田線の謎】なぜ路線距離が0.8kmと短いのか?

まずは名古屋市営地下鉄上飯田線(以降、上飯田線と略)から。こちらはローカル線とは言えないかもしれないものの、異色路線として紹介しよう。

 

上飯田線は平安通駅(へいあんどおりえき)と上飯田駅(かみいいだえき)を結ぶ路線で、その距離は0.8kmしかない。わずかひと駅区間しかなく、上飯田駅より北は、名古屋鉄道(以降、名鉄と略)小牧線となる。そのため、ほぼ全列車がひと駅区間のみ走るのではなく、小牧線との相互乗り入れを行っている。

 

ちなみに0.8kmという路線距離は日本の地下鉄路線のなかで、最も短い。まさか記録を作るために短くしたのではなかろうが、0.8kmという短さは極端だ。なぜこれほどまでに短い路線になってしまったのだろう。

↑路線図ではわずかひと駅区間のみラインカラーが変わっているのがおもしろい

 

当初は名古屋市の中央部まで延ばすプランがあった。しかし−−

上飯田線が誕生したのは2003(平成15)年のこと。開業してから今年でちょうど15年となる。上飯田線が造られた理由は、名古屋市中央部への連絡を良くするためだった。

 

かつては、上飯田駅からは名古屋市電御成通(おなりどおり)線が走り、その市電に乗れば平安通や大曽根へ行けて便利だった。ところが、高度成長期、路面電車がじゃまもの扱いとなり、御成通線も1971(昭和46)年に廃止されてしまった。

 

それ以降、小牧線の上飯田駅は起点駅でありながら、鉄道駅との接続がなく、“陸の孤島”となっていた。その不便さを解消すべく造られたのが上飯田線だった。最小限必要なひと駅区間のみを、先行して開業させた。

↑名古屋市営地下鉄上飯田線の起点となる平安通駅。この駅で名古屋市営地下鉄の名城線と連絡している。車両は名鉄の300系

 

↑上飯田線の終点・上飯田駅。終点でもあり名鉄小牧線との境界駅となる。駅の表示には名古屋市交通局のマークと名鉄の両マークが併記されている

 

利用者が伸びない将来を考えて延伸プランは白紙に

上飯田線の路線着工は1996(平成8)年のこと。当初は0.8km区間に留まらず、名古屋市営地下鉄東山線の新栄町駅、さらに南にある中区の旧丸太町付近まで延ばす計画だった(1992年に答申の「名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画」による)。

 

ところが、2000年以降、大都市圏の人口が増加から減少傾向に転じ、新線計画が疑問視されるようになった。そのため名古屋市は当初の計画を見直し、新たな路線開業は行わないとした。こうした経緯もあり、今後も上飯田線は0.8kmという路線距離のままの営業が続けられていきそうだ。

 

希少な名古屋市交通局7000形に乗るなら朝夕に訪れたい

上飯田線の電車はすべて平安通駅での折り返し運転。朝夕は10分間隔、日中でも15分間隔で、便利だ。平安通駅〜上飯田駅の乗車時間は、わずか1分あまり。

 

さすがにひと駅区間は短いので、乗車したら上飯田駅の隣駅、味鋺駅(あじまえき)、もしくは小牧駅や犬山駅まで足を伸ばしてみてはいかがだろう。

 

味鋺駅付近からは、地下を出て、外を走り始める。郊外電車の趣だ。小牧線の終点、犬山駅までは、平安通駅から片道30分ちょっと。犬山駅で接続する名鉄犬山線の電車で名古屋駅方面へ戻ってきてもいい。

↑上飯田線を走る電車のほとんどが名古屋鉄道の300系だ。電車は平安通駅発の小牧駅行きや犬山駅行きが多い。平安通駅から犬山駅までは所要時間30分ほど

 

上飯田線を走る電車は、ほとんどが名古屋鉄道の300系だ。ヘッドライトが正面中央部の高さにない不思議な顔立ちをしている。客席はロングシートとクロスシート併用タイプだ。

 

この上飯田線には名古屋市営地下鉄(運行する名古屋市交通局が所有)の電車も走っている。それが7000形だ。この7000形、4両編成×2本しか造られなかった車両で、この路線ではレアな存在となっている。切れ長のライトで、個性的な顔立ちをしている。

↑名古屋市交通局の7000形。2編成しか走っておらず、レアな存在。朝夕の時間帯のみを走ることが多い。フロントのピンク部分が色落ちしているのがちょっと残念だった

 

日中はあまり見かけることのない車両でもある。7000形に乗りたい、撮りたい場合は、朝夕に訪れることをオススメしたい。

【東海交通事業城北線の謎】なぜJR東海城北線ではないのか?

東海交通事業城北線(じょうほくせん・以下、城北線と略)は、中央本線の勝川駅(かちがわえき)と東海道本線の枇杷島駅(びわじまえき)間の11.2kmを結ぶ。

 

この路線には不思議な点が多い。まずはその運行形態について。

 

城北線は名古屋市の北側を縁取るように走る。起点となる勝川駅は、名古屋市に隣接する春日井市の主要駅で、JR中央本線の勝川駅は乗降客も多い。終点の枇杷島駅は、東海道本線に乗れば名古屋駅から1つめの駅だ。名古屋から近い両駅を結ぶこともあって、利用者は多いように思える。しかも全線が複線だ。

 

それにも関わらず非電化でディーゼルカーが使われている。しかも1両での運転だ。列車本数も朝夕で20〜30分に1本。日中は1時間に1本という、いわば閑散ローカル線そのものなのである。

↑東海交通事業城北線の車両はキハ11形のみ。朝夕を含め全時間帯、ディーゼルカー1両が高架橋を走る光景を見ることができる。正面に東海交通事業=TKTの社章が入る

 

↑枇杷島駅の駅舎にはJR東海と東海交通事業の社章が掲げられる。同駅の1・2番線が城北線の乗り場となっている

 

↑非電化にも関わらず、ほぼ全線が高架で複線という城北線。線路は名古屋第二環状自動車道の高架橋に沿って設けられている

 

JR東海の路線だが、列車を走らせるのは東海交通事業

城北線は運営方法も不思議だ。

 

路線を保有するのはJR東海で、JR東海が第一種鉄道事業者となっている。運行を行っているのはJR東海でなく、子会社の東海交通事業だ。城北線では、この東海交通事業が第二種鉄道事業者となっている。

 

さらに不思議なのは他線との接続。

 

終点の枇杷島駅のホームは東海道本線と併設され、乗り継ぎしやすい。

 

一方の勝川駅は、中央本線のJR勝川駅と離れている。JR勝川駅には城北線乗り入れ用のスペースが確保されているのだが、乗り入れていない。乗り入れをしていないどころか、両線の高架橋がぷっつり切れている。両鉄道の駅名は同じ勝川駅なのに、駅の場所は500mほど離れていて、7分ほど歩かなければならない。

 

JRの路線以外に、路線の途中で2本の名鉄路線とクロスしているが、接続はなく、最も近い城北線の小田井駅と名鉄犬山線の上小田井駅(かみおたいえき)でさえ約0.5kmの距離がある。

 

利用する立場から言えば、不便である。なぜこのような状況になっているのだろう。

↑手前はJR中央本線の高架橋。右奥が城北線の勝川駅がある高架橋。写真のようにぷっつりと両線の高架橋が切れている。さらにJR勝川駅と城北線勝川駅は500mほど離れている

 

↑城北線の勝川駅ホームから200m近く歩道が設けられている。その横に城北線用の留置線があり保線用の車両などが置かれている。先に見えるのがJR中央本線の高架橋

 

↑城北線ではICカードが使えず、車内清算のみ可能(一部駅では乗車券を販売)。枇杷島駅で下車するときは降車証明書が渡され、JR東海道本線へは一度ゲートを出て乗り換える

 

40年間にわたり必要となる路線のレンタル料

JR東海は現状、城北線を建設した鉄道建設・運輸施設整備支援機構(着工時は日本鉄道建設公団)から路線を借りて列車を走らせている。当然、そのための借損料を支払っている。借損料とは造った鉄道建設・運輸施設整備支援機構に対して払う賃借料のこと。「借りている路線の消耗分の賃料」という名目になっている。その金額は膨大で年間49億円とされている。この支払いは開業してから40年(城北線の全線開業は1993年)という長期にわたって行われる。

 

借損料は、現時点の設備にかかるもので、もし電化や路線延長など改良工事を“追加発注”してしまうと、支払う金額は、さらに上がってしまう。

 

投資金額に見合った収益が上がれば良いのだろうが、城北線の開業時点で、そこまでは見込めないと考えたのだろう。そのため、運営は子会社に任せ、運行も細々と続けられている。現状、駅の改良工事などの予定もなく、いわば塩漬け状態になっている。

 

路線の途中で上下線が大きくわかれる理由は?

城北線の路線は、不相応と思えるぐらい、立派な路線となっている。なぜこのような路線が造られたのだろう。小田井駅~尾張星の宮駅間にそのヒントがある。

↑小田井駅〜尾張星の宮駅間で上下線が大きく離れ、また高低差がある。ここから東海道本線の稲沢方面へ路線が分岐する予定だった

 

この駅間では上の写真のように上下線が離れ、また高低の差がある。ここから東海道本線の稲沢方面へ分岐線が設けられる予定だった。稲沢駅には旅客駅に加えてJR貨物の拠点駅がある。

 

下の地図を見ていただこう。名古屋周辺のJRの路線と、未成線の路線図だ。城北線と未成線の瀬戸線を結びつけることで、中央本線と東海道本線との間を走る貨物列車をスムーズに走らせたい計画だった。

 

かつて名古屋中心部を迂回する遠大な路線計画が存在した

JRとなる前の国鉄時代。輸送力増強を目指して、各地で新線計画が多く立てられた。城北線もその1つの路線だった。前述の地図を見てわかるように、城北線は中央本線と東海道本線を短絡する路線であることがわかる。

 

この地図には入っていないが、東側に東海道本線の岡崎駅〜中央本線の高蔵寺駅間を結ぶ岡多線・瀬戸線が同時期に計画され造られた。その路線は現在、愛知環状鉄道線として利用されている。

 

この愛知環状鉄道線と城北線をバイパス線として利用すれば、列車の運行本数が多い名古屋駅を通らず、東海道本線の貨物列車をスムーズに走らせることができると考えられた。

 

首都圏で言えば、東京都心を通る山手貨物線を走らずに貨物輸送ができるように計画されたJR武蔵野線のようなものである。

↑中央本線を走る石油輸送列車。四日市〜南松本間を走るが、名古屋近辺では一度、稲沢駅まで走り、そこでバックして中央本線、または関西本線へ向かうため不便だ

 

↑名古屋の東側を走る愛知環状鉄道線も名古屋のバイパスルートとして生まれた。同路線は国鉄清算事業団が賃借料を引き継ぎ開業、城北線のように借損料が発生しなかった

 

↑流通拠点、名古屋貨物ターミナル駅は名古屋臨海高速鉄道あおなみ線の荒子駅に隣接している。貨物列車は全列車があおなみ線経由で入線する(写真は稲沢駅行き貨物列車)

 

↑城北線や愛知環状鉄道線と同じ時期に造られた南港貨物線の跡。東海道本線から名古屋貨物ターミナル駅へ直接向かう路線として着工されたが、現在その跡が一部に残る

 

借損料の支払いが終了する2032年以降、城北線は変わるか

名古屋近辺では、東海道本線から名古屋貨物ターミナル駅へ直接乗り入れるために南港貨物線の工事も行われた。この南港貨物線も、当初に計画された貨物列車を走らせるというプランは頓挫し、一部の高架施設がいまも遺構として残っている。

 

貨物列車の需要は伸びず、また貨物列車もコンテナ列車が増え、高速化した。こうしたことですべての路線計画が立ち消えとなり、一部の路線が旅客線として形を変えて復活し、開業した。

 

さて城北線の話に戻ろう。城北線の借損料の支払いは、これから14年後の2032年まで続く。ここで終了、めでたくJR東海が所有する路線となる。

 

そこから城北線の新たな時代が始まることになるのだろう。複雑な経緯が絡む城北線の問題。せっかくの公共財なのだから、もっと生かす方法がなかったのだろうか。

 

国鉄時代の負の遺産にいまも苦しめられる構造に、ちょっと残念な思いがした。

カラフルトレインと独特な路面電車が走る稀有な街――“元気印”のローカル線「豊橋鉄道」の旅

おもしろローカル線の旅~~豊橋鉄道渥美線(愛知県)~~

 

愛知県の東南端に位置する豊橋市。この豊橋市を中心に電車を走らせるのが豊橋鉄道だ。今回はまず、豊橋鉄道がらみのクイズから話をスタートさせたい。

【クイズ1】普通鉄道+路面電車を走らせる会社は全国に何社ある?

【答え1】全国で5社が普通鉄道+路面電車を走らせる

豊橋鉄道は渥美線という普通鉄道(新幹線を含むごく一般的な鉄道を意味する)の路線と、市内線(東田本線)という路面電車を走らせている。こうした普通鉄道と路面電車の両方を走らせている鉄道会社は5社しかない(公営の鉄道事業者を除く)。

 

ここで普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社を挙げておこう。

 

東京急行電鉄(東京都・神奈川県)、京阪電気鉄道(大阪府・京都府など)、富山地方鉄道(富山県)、伊予鉄道(愛媛県)に加えて、豊橋鉄道の計5社だ。東京急行電鉄が走らせる路面電車(世田谷線)は、道路上を走る併用軌道区間がほとんどなく、含めるかどうかは微妙なところなので、実際には4社と言っていいかもしれない。

 

このように豊橋鉄道は全国でも数少ない普通鉄道と路面電車を走らせる、数少ない鉄道会社なのだ。

↑豊橋市内を走る路面電車・豊橋鉄道市内線(東田本線)。写真はT1000形で、「ほっトラム」の愛称を持つ。低床構造の車両で2008年に導入された

 

【クイズ2】1の答えのなかで、県庁所在地でない街を走る鉄道は?

【答え2】県庁所在地でない街を走るのは豊橋鉄道のみ

前述した普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社は、ほとんどが都・府・県庁所在地を走る鉄道だ。

 

5社のうち唯一、豊橋鉄道が走る豊橋市のみ県庁所在地ではない。豊橋市の人口は約37万人で、首都圏で同規模の人口を持つ街をあげるとしたら川越市、所沢市(両市とも埼玉県)が近い。人口30万人台の都市で、普通鉄道と路面電車の両方が走る、というのは異色の存在と言うことができるだろう。

 

豊橋市は愛知県の中核都市とはいえ、豊橋鉄道を巡る環境は決して恵まれていない。にも関わらず豊橋鉄道は優良企業であり、年々、手堅く収益を上げ続けている元気な地方鉄道だ。

 

今回は、そうした“元気印”の豊橋鉄道渥美線と市内線を巡る旅を楽しもう。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべてが1800系。もと東京急行電鉄の7200系だ。電車は3両×10編成あり、すべての色が異なる。写真は1808号車で編成名は「椿」

 

渥美線、市内線ともに90年以上、豊橋を走り続けてきた

豊橋鉄道の歴史を簡単に振り返っておこう。

 

1924(大正13)年1月:渥美電鉄が高師駅(たかしえき)〜豊島駅間を開業

1925(大正14)年5月:新豊橋駅〜田原駅(現・三河田原駅)間が開業

1925(大正14年)7月:豊橋電気軌道が市内線を開業、以降、路線を延長

1940(昭和15)年:名古屋鉄道(以降、名鉄と略)が渥美電鉄を合併

1949(昭和24)年:豊橋電気軌道が豊橋交通に社名変更

1954(昭和29)年:豊橋交通が豊橋鉄道に社名を変更。同年に名鉄が渥美線を豊橋鉄道へ譲渡

 

歴史を見ると、太平洋戦争前までは、渥美線と市内線(東田本線)は別の歩みをしていた。その後に名鉄に吸収合併された渥美線が、名鉄の経営から離れ、市内線を走らせていた豊橋鉄道に合流した。ちなみに、現在も豊橋鉄道は名鉄の連結子会社となっている。

 

【豊橋鉄道渥美線】全10色の「カラフルトレイン」が沿線を彩る

豊橋鉄道は旅をする者にとって、乗って楽しめる鉄道でもある。

 

まずは豊橋鉄道渥美線の旅から。渥美線の電車は、その名もずばり「カラフルトレイン」の名が付く。

 

渥美線の電車は、とにかくカラフルだ。3両×10編成の電車が使われるが、すべての色が違う。1801号車は赤い「ばら」、1802号車は茶色の「はまぼう」、1803号車はピンクで「つつじ」、というように各編成には、沿線に咲く草花の愛称が付けられる。

↑赤い車両は1801号で編成名は「ばら」。渥美線の電車は沿線を彩る花や植物にちなんだカラーに正面やドアなどが塗られ、「カラフルトレイン」の名が付けられている

 

↑カラフルトレインの車体には写真のようにカラフルなイラストが描かれる。10編成ある車体の違いを見比べても楽しい

 

電車は元東京急行電鉄の7200系。1967(昭和42)年に誕生したステンレス車で東急では田園都市線、東横線などを長年、走り続けた。2000(平成12)年には全車両がすでに引退している。豊橋鉄道では、この東急を引退した年に計30両を譲り受けた。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべて1800系。元東急の7200系で、製造されたのは昭和42年から。東急車輌の銘板が掲げられる。車歴はほぼ50年だが大事に使われている

 

生まれた年を考慮すると、かなりの古参の車両ではあるが、豊橋鉄道では、古さを感じさせないカラフルなカラーに模様替えされている。

凝ったつくりの1日フリー乗車券。乗車記念にもぴったり

渥美線の起点となる新豊橋駅。駅名が違うものの、JR・名鉄の豊橋駅を出ればすぐ。アクセスも良く駅舎も快適だ。

↑渥美線はJR豊橋駅に隣接した新豊橋駅が起点となる。新豊橋駅は2009年に新装された駅舎で、豊橋駅東口・南口の連絡デッキ(自由通路階)とつながり利用しやすい

 

渥美線を旅するならば新豊橋駅で「1日フリー乗車券(1100円)」を購入したい。単に新豊橋駅と終点の三河田原駅を往復するだけならば、通常切符の方が割安だが(520円×2)、途中駅にも立ち寄るならばフリー乗車券のほうが断然におトクとなる。

 

さらに、この1日フリー乗車券。鉄道好きな人たちの心をくすぐる工夫がされている。ジャバラ状になっていて、広げると渥美線のカラフルトレイン10編成のイラストや解説を楽しむことができるのだ。使用後にも大事に保存してきたい、そんな乗車券だ。

↑豊橋鉄道の1日フリー乗車券。凝ったつくりで表裏に「カラフルトレイン」各色の車両説明とともに沿線の案内がプリントされる。記念に保存しておきたい乗車券だ

 

↑渥美線の新豊橋駅のホームには、フグなどの地元の産品のイラストが描かれる

 

乗車時間は片道40分弱。渥美半島の景色を楽しみながら走る

渥美線は新豊橋駅〜三河田原駅(みかわたはらえき)間の18.0kmを結ぶ。乗車時間は40分弱で、長くもなく、短くもなく、ほどほど楽しめる路線距離だ。

新豊橋駅から、しばらく東海道本線に並走して最初の駅、柳生橋駅へ到着。さらに東海道本線を越え、東海道新幹線の線路をくぐり南下する。

 

しばらく住宅街を見つつ愛知大学前駅へ。このあたりからは愛知大学のキャンパスや、高師緑地など沿線に緑が多く見られるようになる。

 

高師緑地の先にある高師駅(たかしえき)には渥美線の車庫があり、検修施設などをホームから見ることができる。

↑高師駅の南側に車両基地が設けられる。留置線に停まるのは1805号の「菖蒲」。菖蒲は梅雨の時期、豊橋市の賀茂しょうぶ園や田原市の初立池公園などで楽しめる

 

↑1807号「菜の花」の車内。シートは菜の花柄。吊り革も黄色と菜の花のイメージで統一されている。乗っても楽しめるのが豊橋鉄道渥美線の魅力だ

 

芦原駅(あしはらえき)を過ぎると沿線の周辺には畑を多く見かけるようになる。路線が通る渥美半島の産物はキャベツ、ブロッコリー、レタス、スイカ、露地メロンなど。渥美線の1810号車は「菊」が愛称となっているが、電照菊を栽培するビニールハウスの灯りも、この沿線の名物になっている。

 

そうした畑を見つつ乗車すれば、終点の三河田原駅へ到着する。同駅からは渥美半島の突端、伊良湖岬(いらこみさき)行きのバスが出ている。

↑渥美線の終点・三河田原駅。2013年10月に駅舎が改築された。1980年代まで貨物輸送に利用されていたため駅構内はいまも広々としている

【豊橋鉄道市内線】豊橋市内を走る路面電車も見どころいっぱい

豊橋鉄道では路面電車の路線を「豊鉄市内線」と案内している。路線名は東田(あずまだ)本線が正式な名前だ。ここでは市内線という通称名で呼ぶことにしよう。

 

ちなみに東海中部地方では、豊橋鉄道市内線が唯一の路面電車でもある。

 

市内線の路線は駅前〜赤岩口間の4.8kmと、井原〜運動公園前間の0.6kmの計5.4kmである。

 

路面電車は豊橋駅東口にある「駅前」停留場から発車する。行き先は「赤岩口(あかいわぐち)」と「運動公園前」がメインだ。途中の「競輪場前」止まりも走っている。

↑豊橋駅ビル(カルミア)の前に広がる連絡デッキを下りた1階部分に「駅前」停留場がある。写真は「赤岩口」行きの市内線電車。車輌はモ3500形で元都電荒川線7000形

 

名鉄や都電の譲渡車輌に加えて新製した低床車輌も走る

市内線で使われる車輌は5種類。

 

まず低床のLRV(Light Rail Vehicleの略)タイプのT1000形「ほっトラム」は、1925年以来、約83年ぶりとなる自社発注の新製車輌でもある。

 

ほか、モ3200形は名鉄岐阜市内線で使われていたモ580形3両を譲り受けたもの。モ3500形は東京都交通局の都電荒川線を走った7000形で、4両が走る。

 

モ780形は名鉄岐阜市内線を走ったモ780形で、市内線では7両が走り、主力車輌として活躍している。そのほか、モ800形という車輌も1両走る。こちらは名鉄美濃町線を走っていた車輌だ。

↑市内線の主力車輌となっているモ780形。地元信用金庫のラッピング広告が施された781号車など、華やかな姿の車輌が多い

 

↑元名鉄岐阜市内線を走った3203号車。クリーム地に赤帯のカラーは豊鉄標準カラーと呼ばれる。標準カラーだが、実際にはこの色の車輌は少なく希少性が高い

 

↑3201号車は「ブラックサンダー号」。豊橋で生まれ、現在、全国展開するお菓子のパッケージそのものの車体カラー。市内線の「黒い雷神」として人気者になっている

 

↑「おでんしゃ」は車内でおでんや飲み物を楽しみつつ走る、秋からのイベント電車だ。秋の9月24日までは納涼ビール電車が運行されて人気となっている

 

市内線を走る電車は、T1000形以外は、名鉄と都電として活躍した車両が多い。豊橋鉄道へやってきたこれらの電車たち。独特のラッピング広告をほどこされ、見ているだけでも楽しい電車に出会える。

 

日本一の急カーブに加えて、国道1号を堂々と走る姿も名物に

市内線は豊橋駅から、豊橋市街を通る旧東海道方面や、三河吉田藩の藩庁がおかれた吉田城趾方面へ行くのに便利な路線だ。

 

興味深いのは、市役所前から東八町(ひがしはっちょう)にかけて国道1号を走ること。国道1号を走る路面電車は、全国を走る路面電車でもこの豊橋鉄道市内線だけ。自動車や長距離トラックと並走する姿を目にすることができる。

↑豊橋公園前電停付近から東八町電停方面を望む。国道1号の中央部に設けられた市内線の線路を走るのはT1000形「ほっトラム」

 

国道1号を通るとともに、面白い光景を見ることができるのが井原電停付近。井原電停から運動公園前へ行く電車は、交差点内で急カーブを曲がる。このカーブの大きさは半径11mというもの。このカーブは日本の営業線のなかでは最も急なカーブとされている。

 

ちなみに普通鉄道のカーブは最も急なものでも半径60mぐらい。それでもかなりスピードを落として走ることが必要だ。

 

路面電車でも半径30mぐらいがかなり急とされているので、半径11mというカーブは極端だ。このカーブを曲がれるように、同市内線の電車は改造されている。

 

T1000形は、この急カーブを曲がり切れないため、運動公園前への運用は行われていないほどだ。日本で最も厳しいカーブを路面電車が曲がるその光景はぜひとも見ておきたい。

↑井原電停交差点の半径11mという急カーブを走るモ780形。見ているとほぼ横滑りするかのように、また台車もかなり曲げつつスピードを落として走り抜ける

 

赤岩口へ向かう電車は井原電停の先を直進する。赤岩口には同線の車輌基地がある。

 

この赤岩口も、同路線の見どころの1つ。車庫から出庫する電車は市内線に入る際に一度、道路上に設けられた折り返し線に入って、そこでスイッチバックして赤岩口電停へ入る。

 

折り返し線は道路中央にあり、通行する自動車の進入防止の柵もなく、何とも心もとない印象だが、通行するドライバーも慣れているのだろう。白線にそって電車の線路を避けて通る様子が見受けられる。

 

カラフルトレインと独特な路面電車が走る稀有な街――“元気印”のローカル線「豊橋鉄道」の旅

おもしろローカル線の旅~~豊橋鉄道渥美線(愛知県)~~

 

愛知県の東南端に位置する豊橋市。この豊橋市を中心に電車を走らせるのが豊橋鉄道だ。今回はまず、豊橋鉄道がらみのクイズから話をスタートさせたい。

【クイズ1】普通鉄道+路面電車を走らせる会社は全国に何社ある?

【答え1】全国で5社が普通鉄道+路面電車を走らせる

豊橋鉄道は渥美線という普通鉄道(新幹線を含むごく一般的な鉄道を意味する)の路線と、市内線(東田本線)という路面電車を走らせている。こうした普通鉄道と路面電車の両方を走らせている鉄道会社は5社しかない(公営の鉄道事業者を除く)。

 

ここで普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社を挙げておこう。

 

東京急行電鉄(東京都・神奈川県)、京阪電気鉄道(大阪府・京都府など)、富山地方鉄道(富山県)、伊予鉄道(愛媛県)に加えて、豊橋鉄道の計5社だ。東京急行電鉄が走らせる路面電車(世田谷線)は、道路上を走る併用軌道区間がほとんどなく、含めるかどうかは微妙なところなので、実際には4社と言っていいかもしれない。

 

このように豊橋鉄道は全国でも数少ない普通鉄道と路面電車を走らせる、数少ない鉄道会社なのだ。

↑豊橋市内を走る路面電車・豊橋鉄道市内線(東田本線)。写真はT1000形で、「ほっトラム」の愛称を持つ。低床構造の車両で2008年に導入された

 

【クイズ2】1の答えのなかで、県庁所在地でない街を走る鉄道は?

【答え2】県庁所在地でない街を走るのは豊橋鉄道のみ

前述した普通鉄道と路面電車の両方を走らせる鉄道会社は、ほとんどが都・府・県庁所在地を走る鉄道だ。

 

5社のうち唯一、豊橋鉄道が走る豊橋市のみ県庁所在地ではない。豊橋市の人口は約37万人で、首都圏で同規模の人口を持つ街をあげるとしたら川越市、所沢市(両市とも埼玉県)が近い。人口30万人台の都市で、普通鉄道と路面電車の両方が走る、というのは異色の存在と言うことができるだろう。

 

豊橋市は愛知県の中核都市とはいえ、豊橋鉄道を巡る環境は決して恵まれていない。にも関わらず豊橋鉄道は優良企業であり、年々、手堅く収益を上げ続けている元気な地方鉄道だ。

 

今回は、そうした“元気印”の豊橋鉄道渥美線と市内線を巡る旅を楽しもう。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべてが1800系。もと東京急行電鉄の7200系だ。電車は3両×10編成あり、すべての色が異なる。写真は1808号車で編成名は「椿」

 

渥美線、市内線ともに90年以上、豊橋を走り続けてきた

豊橋鉄道の歴史を簡単に振り返っておこう。

 

1924(大正13)年1月:渥美電鉄が高師駅(たかしえき)〜豊島駅間を開業

1925(大正14)年5月:新豊橋駅〜田原駅(現・三河田原駅)間が開業

1925(大正14年)7月:豊橋電気軌道が市内線を開業、以降、路線を延長

1940(昭和15)年:名古屋鉄道(以降、名鉄と略)が渥美電鉄を合併

1949(昭和24)年:豊橋電気軌道が豊橋交通に社名変更

1954(昭和29)年:豊橋交通が豊橋鉄道に社名を変更。同年に名鉄が渥美線を豊橋鉄道へ譲渡

 

歴史を見ると、太平洋戦争前までは、渥美線と市内線(東田本線)は別の歩みをしていた。その後に名鉄に吸収合併された渥美線が、名鉄の経営から離れ、市内線を走らせていた豊橋鉄道に合流した。ちなみに、現在も豊橋鉄道は名鉄の連結子会社となっている。

 

【豊橋鉄道渥美線】全10色の「カラフルトレイン」が沿線を彩る

豊橋鉄道は旅をする者にとって、乗って楽しめる鉄道でもある。

 

まずは豊橋鉄道渥美線の旅から。渥美線の電車は、その名もずばり「カラフルトレイン」の名が付く。

 

渥美線の電車は、とにかくカラフルだ。3両×10編成の電車が使われるが、すべての色が違う。1801号車は赤い「ばら」、1802号車は茶色の「はまぼう」、1803号車はピンクで「つつじ」、というように各編成には、沿線に咲く草花の愛称が付けられる。

↑赤い車両は1801号で編成名は「ばら」。渥美線の電車は沿線を彩る花や植物にちなんだカラーに正面やドアなどが塗られ、「カラフルトレイン」の名が付けられている

 

↑カラフルトレインの車体には写真のようにカラフルなイラストが描かれる。10編成ある車体の違いを見比べても楽しい

 

電車は元東京急行電鉄の7200系。1967(昭和42)年に誕生したステンレス車で東急では田園都市線、東横線などを長年、走り続けた。2000(平成12)年には全車両がすでに引退している。豊橋鉄道では、この東急を引退した年に計30両を譲り受けた。

↑豊橋鉄道渥美線の電車はすべて1800系。元東急の7200系で、製造されたのは昭和42年から。東急車輌の銘板が掲げられる。車歴はほぼ50年だが大事に使われている

 

生まれた年を考慮すると、かなりの古参の車両ではあるが、豊橋鉄道では、古さを感じさせないカラフルなカラーに模様替えされている。

凝ったつくりの1日フリー乗車券。乗車記念にもぴったり

渥美線の起点となる新豊橋駅。駅名が違うものの、JR・名鉄の豊橋駅を出ればすぐ。アクセスも良く駅舎も快適だ。

↑渥美線はJR豊橋駅に隣接した新豊橋駅が起点となる。新豊橋駅は2009年に新装された駅舎で、豊橋駅東口・南口の連絡デッキ(自由通路階)とつながり利用しやすい

 

渥美線を旅するならば新豊橋駅で「1日フリー乗車券(1100円)」を購入したい。単に新豊橋駅と終点の三河田原駅を往復するだけならば、通常切符の方が割安だが(520円×2)、途中駅にも立ち寄るならばフリー乗車券のほうが断然におトクとなる。

 

さらに、この1日フリー乗車券。鉄道好きな人たちの心をくすぐる工夫がされている。ジャバラ状になっていて、広げると渥美線のカラフルトレイン10編成のイラストや解説を楽しむことができるのだ。使用後にも大事に保存してきたい、そんな乗車券だ。

↑豊橋鉄道の1日フリー乗車券。凝ったつくりで表裏に「カラフルトレイン」各色の車両説明とともに沿線の案内がプリントされる。記念に保存しておきたい乗車券だ

 

↑渥美線の新豊橋駅のホームには、フグなどの地元の産品のイラストが描かれる

 

乗車時間は片道40分弱。渥美半島の景色を楽しみながら走る

渥美線は新豊橋駅〜三河田原駅(みかわたはらえき)間の18.0kmを結ぶ。乗車時間は40分弱で、長くもなく、短くもなく、ほどほど楽しめる路線距離だ。

新豊橋駅から、しばらく東海道本線に並走して最初の駅、柳生橋駅へ到着。さらに東海道本線を越え、東海道新幹線の線路をくぐり南下する。

 

しばらく住宅街を見つつ愛知大学前駅へ。このあたりからは愛知大学のキャンパスや、高師緑地など沿線に緑が多く見られるようになる。

 

高師緑地の先にある高師駅(たかしえき)には渥美線の車庫があり、検修施設などをホームから見ることができる。

↑高師駅の南側に車両基地が設けられる。留置線に停まるのは1805号の「菖蒲」。菖蒲は梅雨の時期、豊橋市の賀茂しょうぶ園や田原市の初立池公園などで楽しめる

 

↑1807号「菜の花」の車内。シートは菜の花柄。吊り革も黄色と菜の花のイメージで統一されている。乗っても楽しめるのが豊橋鉄道渥美線の魅力だ

 

芦原駅(あしはらえき)を過ぎると沿線の周辺には畑を多く見かけるようになる。路線が通る渥美半島の産物はキャベツ、ブロッコリー、レタス、スイカ、露地メロンなど。渥美線の1810号車は「菊」が愛称となっているが、電照菊を栽培するビニールハウスの灯りも、この沿線の名物になっている。

 

そうした畑を見つつ乗車すれば、終点の三河田原駅へ到着する。同駅からは渥美半島の突端、伊良湖岬(いらこみさき)行きのバスが出ている。

↑渥美線の終点・三河田原駅。2013年10月に駅舎が改築された。1980年代まで貨物輸送に利用されていたため駅構内はいまも広々としている

【豊橋鉄道市内線】豊橋市内を走る路面電車も見どころいっぱい

豊橋鉄道では路面電車の路線を「豊鉄市内線」と案内している。路線名は東田(あずまだ)本線が正式な名前だ。ここでは市内線という通称名で呼ぶことにしよう。

 

ちなみに東海中部地方では、豊橋鉄道市内線が唯一の路面電車でもある。

 

市内線の路線は駅前〜赤岩口間の4.8kmと、井原〜運動公園前間の0.6kmの計5.4kmである。

 

路面電車は豊橋駅東口にある「駅前」停留場から発車する。行き先は「赤岩口(あかいわぐち)」と「運動公園前」がメインだ。途中の「競輪場前」止まりも走っている。

↑豊橋駅ビル(カルミア)の前に広がる連絡デッキを下りた1階部分に「駅前」停留場がある。写真は「赤岩口」行きの市内線電車。車輌はモ3500形で元都電荒川線7000形

 

名鉄や都電の譲渡車輌に加えて新製した低床車輌も走る

市内線で使われる車輌は5種類。

 

まず低床のLRV(Light Rail Vehicleの略)タイプのT1000形「ほっトラム」は、1925年以来、約83年ぶりとなる自社発注の新製車輌でもある。

 

ほか、モ3200形は名鉄岐阜市内線で使われていたモ580形3両を譲り受けたもの。モ3500形は東京都交通局の都電荒川線を走った7000形で、4両が走る。

 

モ780形は名鉄岐阜市内線を走ったモ780形で、市内線では7両が走り、主力車輌として活躍している。そのほか、モ800形という車輌も1両走る。こちらは名鉄美濃町線を走っていた車輌だ。

↑市内線の主力車輌となっているモ780形。地元信用金庫のラッピング広告が施された781号車など、華やかな姿の車輌が多い

 

↑元名鉄岐阜市内線を走った3203号車。クリーム地に赤帯のカラーは豊鉄標準カラーと呼ばれる。標準カラーだが、実際にはこの色の車輌は少なく希少性が高い

 

↑3201号車は「ブラックサンダー号」。豊橋で生まれ、現在、全国展開するお菓子のパッケージそのものの車体カラー。市内線の「黒い雷神」として人気者になっている

 

↑「おでんしゃ」は車内でおでんや飲み物を楽しみつつ走る、秋からのイベント電車だ。秋の9月24日までは納涼ビール電車が運行されて人気となっている

 

市内線を走る電車は、T1000形以外は、名鉄と都電として活躍した車両が多い。豊橋鉄道へやってきたこれらの電車たち。独特のラッピング広告をほどこされ、見ているだけでも楽しい電車に出会える。

 

日本一の急カーブに加えて、国道1号を堂々と走る姿も名物に

市内線は豊橋駅から、豊橋市街を通る旧東海道方面や、三河吉田藩の藩庁がおかれた吉田城趾方面へ行くのに便利な路線だ。

 

興味深いのは、市役所前から東八町(ひがしはっちょう)にかけて国道1号を走ること。国道1号を走る路面電車は、全国を走る路面電車でもこの豊橋鉄道市内線だけ。自動車や長距離トラックと並走する姿を目にすることができる。

↑豊橋公園前電停付近から東八町電停方面を望む。国道1号の中央部に設けられた市内線の線路を走るのはT1000形「ほっトラム」

 

国道1号を通るとともに、面白い光景を見ることができるのが井原電停付近。井原電停から運動公園前へ行く電車は、交差点内で急カーブを曲がる。このカーブの大きさは半径11mというもの。このカーブは日本の営業線のなかでは最も急なカーブとされている。

 

ちなみに普通鉄道のカーブは最も急なものでも半径60mぐらい。それでもかなりスピードを落として走ることが必要だ。

 

路面電車でも半径30mぐらいがかなり急とされているので、半径11mというカーブは極端だ。このカーブを曲がれるように、同市内線の電車は改造されている。

 

T1000形は、この急カーブを曲がり切れないため、運動公園前への運用は行われていないほどだ。日本で最も厳しいカーブを路面電車が曲がるその光景はぜひとも見ておきたい。

↑井原電停交差点の半径11mという急カーブを走るモ780形。見ているとほぼ横滑りするかのように、また台車もかなり曲げつつスピードを落として走り抜ける

 

赤岩口へ向かう電車は井原電停の先を直進する。赤岩口には同線の車輌基地がある。

 

この赤岩口も、同路線の見どころの1つ。車庫から出庫する電車は市内線に入る際に一度、道路上に設けられた折り返し線に入って、そこでスイッチバックして赤岩口電停へ入る。

 

折り返し線は道路中央にあり、通行する自動車の進入防止の柵もなく、何とも心もとない印象だが、通行するドライバーも慣れているのだろう。白線にそって電車の線路を避けて通る様子が見受けられる。

 

「全駅から富士山が望める鉄道」の見どころは富士山だけじゃない! おもしろローカル線「岳南電車」の旅

おもしろローカル線の旅~~岳南電車(静岡県)~~

 

富士山の南側、静岡県富士市を走る岳南電車(がくなんでんしゃ)。富士山を見上げつつ1両で走るカラフルな電車が名物となっている。「全駅から富士山が望める電車」が岳南電車のPR文句。だが、売りは富士山が見えるだけではない! 乗っていろいろ楽しめる岳南電車なのだ。

↑主力車両の7000形。元京王井の頭線の3000系で、中間車の両側に運転台を付ける工事を受けたあとに、岳南へやってきた。オレンジ色のほか水色の7000形も走る

 

奇々怪々―― カーブが続く路線

岳南電車、その名もずばり、岳(富士山)の南を走る電車である。東海道本線の吉原駅(よしわらえき)と岳南江尾駅(がくなんえのおえき)間の9.2kmを結ぶ。路線はすべてが静岡県富士市の市内を通る。富士市内線と言ってもいい。

上の路線図を見てわかるように、吉原駅から、ぐる~っとカーブして、吉原の繁華街を目指す。さらにその先もカーブ路線が続く。なぜこのようにカーブが多いのだろう?

 

まずは、岳南電車の歴史を簡単に触れておこう。

 

1936(昭和11)年:日産自動車の専用鉄道として路線が設けられる。

1949(昭和24)年:岳南鉄道により鈴川駅(現・吉原駅)〜吉原本町間が開業される。その後、徐々に路線が延長されていく。

1953(昭和28)年:岳南富士岡駅〜岳南江尾駅間が開業し、全線開業。

 

太平洋戦争後に誕生、ちょうど70周年を迎えた鉄道路線である。そして、

 

2013(昭和25)年:岳南鉄道から岳南電車に路線の運行を移管

 

現在は富士急行グループの一員になっている。2013年に岳南鉄道から岳南電車に名前を変更した理由は後述したい。

↑岳南電車の起点となる吉原駅。JR吉原駅のホームとは専用の跨線橋で結ばれる。武骨な駅舎ながら、それが岳南電車らしい味わいとなっている

 

↑終点の岳南江尾駅。レトロな駅表示に変更されている。駅のすぐ横を東海道新幹線が通る。2駅手前の須津駅(すごえき)の近くには新幹線の名撮影地もある(徒歩15分)

 

↑岳南唯一の2両編成8000形。こちらも元京王井の頭線の3000系だ。岳南では「がくちゃん かぐや富士」の名が付く。朝夕のラッシュ時や臨時列車に利用されている

 

工場をよけて路線を敷いた結果、カーブが多くなった

富士市は第二次産業が盛んな都市である。

 

岳南電車が走る地域で、最も大きな工場といえばジヤトコだ。ジヤトコ前駅という駅すらある。吉原駅の北側にジヤトコ本社富士事業所が大きく広がる。直線距離にして南北1kmという大きな工場だ。

 

ジヤトコの富士事業所は太平洋戦争前に、日産自動車の航空機部吉原工場として誕生した。現在、同社は日産自動車グループの一員として、主に変速機を生産。日産自動車や、国内外の自動車メーカーに納入している。

 

岳南電車の路線は、太平洋戦争以前にこの工場用に敷かれた専用線が元になっている。路線開業の際には、工場を縁取るように線路が延ばされていった。

 

さらにその先にも大規模な工場などがあり、この敷地をよけるように線路が敷かれている。こうして工場をよけるように線路が敷かれていった結果、カーブが多い路線となったのだ。

 

岳南原田駅〜比奈駅間では工場内を走る箇所もある。奇々怪々、電車の上を太いパイプ類が通るその風景は、この岳南電車ならではの車窓風景だ。日が落ちると工場のライトをくぐるように走り、幻想的な光景が楽しめる。

↑富士市は大規模工場が多い。この工場を縫うように路線が通る。岳南原田駅〜比奈駅間では、工場の内部を抜ける。上空をパイプが張り巡らされた不思議な光景と出会う

大規模な引込線、これはもしかして…?

比奈駅と岳南富士岡駅の間に大規模な引込線が残されている。旅客輸送のみを行う岳南電車が、これはもしかして……?

 

岳南電車の沿線には、かつて多くの引込線が敷かれ、2012年3月17日まで実際に貨物輸送が行われていた。沿線の工場へ向けての貨物輸送の比重がかなり高かった。

 

貨物輸送を取りやめた理由は、JR貨物が連絡貨物の引き受けを中止したため。その裏には、鉄道貨物輸送のなかで大きな割合を占めていた紙の輸送が急激に減っていった現状があった。沿線には豊富な水を利用して日本製紙などの製紙工場が多いが、ペーパーレス化の流れもあって紙の生産量が減り、鉄道を使った紙の輸送量が急減していた時代背景があったのだ。

↑比奈駅と岳南富士岡駅間に残る大規模な引込線の跡。多くの貨車が停まっていた時代があった。この先、使われることなく放置されるのには惜しいように思われる

 

↑岳南富士岡駅構内には当時の貨物用機関車が保存される。手前のED50形ED501号機は上田温泉電軌という会社が1928(昭和3)年、川崎造船所に発注した電気機関車だ

 

かつては珍しい「突放」も見られた

先の引込線跡は、鉄道貨物の輸送用に設けられた留置施設でもあった。

 

2012年3月まで行われた岳南電車での貨物輸送。この路線の貨物輸送ではほかで見ることのできないユニークな輸送風景が見られた。

 

まずは使われる貨車の多くがワム80000形という屋根付きの有蓋(ゆうがい)車だった。最終盤となった6年前、このワム80000形が使われていたのは、岳南へ乗り入れる貨物列車のみとなっていた。

↑貨物列車が運転された当時の比奈駅の構内。コンテナ貨車とともに有蓋車のワム80000形が紙の輸送に使われていた。現在は比奈駅構内の引込線はほとんどが取り外されている

 

↑岳南での輸送に使われたワム8000形。すでに有蓋車での貨物輸送は消滅してしまった。かつては一般的だった天井の無い無蓋車もごく一部で利用されるのみとなっている

 

さらに岳南では、「突放(とっぽう)」と呼ばれる貨車の入れ換え作業が最後まで行われていた。かつては、貨車からの荷卸し、貨車の組み換え作業が行われた駅では、ごく普通に見られた突放。だが、近年になり、この突放が行われていたのは岳南のみとなっていた。

 

機関車がバック運転し、走行中に貨車を切り離し、その惰性で貨車のみを走らせる。それこそ「突放」の字のごとく、機関車が貨車を突き放した。貨車には作業員が乗っていて、貨車に付いたブレーキをステップに乗って操作、巧みに停止位置に停めるという作業だった。

 

機関車の運転士、そしてポイントの切替え、ブレーキをかける作業員らの息のあった作業を必要とした。危険が多い作業でもあったが、所定の位置に上手く停止、またはほかの貨車と連結させる熟練のワザが見られた。

↑後ろに写る貨車と連結を試みる突放作業の様子。無線片手に機関車の運転士らと連絡を取り合い、ステップ操作でブレーキを利かせ、貨車のスピードを巧みにコントロールした

臨時電車や沿線マップといった取り組みも

貨物輸送の割合が大きかった当時の岳南鉄道にとって、輸送中止の痛手は大きかった。不動産業、ゴルフ場経営などを行う岳南鉄道への影響を小さくしようと、鉄道部門のみを切り離して、子会社へ移した。貨物輸送が終了した翌年にそうした移管が行われ、鉄道の名前も岳南鉄道から岳南電車に変えた。

 

岳南電車のなかでも注目された貨物輸送ではあるが、廃止されてからだいぶ日が経った。筆者は久々に現地を訪れて電車に乗ったが、鉄道会社の経営も順調に軌道に乗っているように感じられた。

 

「ビール電車」や「ジャズトレイン」が夏期限定で運行。ほかにも、お祭り用に臨時電車やラッピング電車を走らせたり、詳細な沿線マップを作ったり、グッズをふんだんに用意したり……と地道な営業活動を続けている。こうした細かい活動が少しずつ実を結びつつあるように見えた。

↑吉原の祇園祭(6月9日・10日開催)に合わせて走った「お祭り電車」。タイムリーなラッピング電車を走らせるなど小さな鉄道会社ならではの動きの良さが感じられる

 

↑吉原駅構内に並ぶグッズコーナー。ずらりと並ぶグッズ類に驚かされる

 

↑全線1日フリー乗車券は700円。こどもは300円。春・夏・冬休みのこども券は200円と割安に。駅で配布されている沿線MAPは飲食店や観光地情報も掲載され便利だ

 

沿線の隠れた見どころ

起点の吉原駅から終点の岳南江尾駅まで、乗車時間20分ほど。沿線の見どころを紹介しよう。

 

吉原駅から出発すると、しばらく東海道本線と並走する。その後、ジヤトコの工場にそってカーブを走り、しばらく走るとジヤトコ前駅に付く。そこから吉原の町並みのなかを走り、吉原本町通りが通る吉原本町駅へ。さらに本吉原と住宅街が続く。

 

岳南原田駅を過ぎ、大きな工場を見つつ、前述した工場内を走れば比奈駅へ到着する。

 

この比奈駅には駅舎内に鉄道模型専門店「FUJI Dream Studio501」がある。模型好きの方は立ち寄ってみてはいかがだろう。

 

さらに隣りの岳南富士岡駅には車両の検修庫があり、また貨物輸送に使われた電気機関車と貨車が保存されている。これらの保存車両は駅ホームからの見学に限られるが、昭和初期生まれの貴重な機関車も残されるので、じっくり見ておきたい。

 

須津駅(すどえき)から岳南江尾駅までは住宅街を走る。須津からは東海道新幹線と富士山が美しく撮れることで知られる名スポットが近い。
電車が走る富士市は小さな河川が多く、豊富な水が流れる地でもある。岳南電車は数多くの河川を跨いで走る。これらは富士山麓から豊富に湧き出る伏流水が生み出した河川でもある。

↑岳南富士岡駅近くの流れ。沿線には富士山の伏流水を集めた小河川が多く、豊富な水の流れが目にできる。春から初夏にかけてはカルガモ一家との出会い、なんてことも

 

筆者が撮影していたポイントでも、こうした河川に出会ったが、水が豊富で流れは澄んでいる。見ていてすがすがしい気持ちになった。カルガモ一家がのんびり泳ぐ、そんな川の流れに心も癒された旅であった。

東急の路線らしくない!? 「東急こどもの国線」の不思議と“大人の事情”

おもしろローカル線の旅~~東急こどもの国線~~

 

前回のおもしろローカル線の旅では、千葉県を走る流鉄流山線を紹介した。路線距離5.7km、乗車時間が11分の非常に短い路線だったが、今回取り上げる、神奈川県を走る東急こどもの国線は路線距離3.4km、乗車時間7分とさらに短い。そのみじか~い路線に秘められた謎について解き明かしていこう。

 

東急の路線らしくない!? 東急こどもの国線の謎

東急こどもの国線は、東急田園都市線の長津田駅からこどもの国駅まで3.7kmを結ぶ。

この路線、ちょっと不思議なことがある。東京急行電鉄(以下、東急と略)の純粋な路線とは言い難い事例が、いくつか見られるのだ。

 

例えば、電車は横浜高速鉄道が所有する車両で、シルバーに黄色と水色という東急のほかの電車とは異なる車体カラーとなっている。駅などの表示は、東急の社章とともに、横浜高速鉄道という会社の社章が掲示されている。さらに長津田駅のホームも、東急の改札口を出た外に設けられている。

 

なぜ、このように東急の路線を名乗っているのに、ちょっと異なる点が多いのだろうか?

↑こどもの国線では横浜高速鉄道Y000系電車が2両編成で走る。横浜高速鉄道の車両だが、車両の運行や整備などは、すべて東急の手で行われている

 

↑終点のこどもの国駅。駅の表示は東急とともに横浜高速鉄道の社章が付けられている。そこには、こどもの国へ行くために造られた路線ならではの事情が潜んでいた

 

こどもの国行き電車にからむ“大人の事情”

こどもの国線は、東京急行電鉄の路線のなかでは、やや複雑な「立場」となっている。実は路線の所有者は東急ではない。横浜高速鉄道という第三セクターの鉄道事業者が持つ路線なのだ。

 

横浜高速鉄道は、神奈川県内でみなとみらい線の運営を行う鉄道事業者。みなとみらい線では、自社の車両を走らせ、東急東横線や東京メトロ線などとの相互乗り入れを行っている。このみなとみらい線では横浜高速鉄道が第一種鉄道事業者といわれる立場。第一種鉄道事業者とは、自ら路線を持ち、自らの車両を運行させる鉄道事業者のことだ。

 

横浜高速鉄道のこどもの国線の立場は、みなとみらい線とは異なり「第三種鉄道事業者」となっている。第三種鉄道事業者とは、鉄道路線を敷設、運営する事業者のこと。別会社である第二種鉄道事業者にその線路での列車運行を任せている。こどもの国線では東急が、この第二種鉄道事業者となっている。

 

こどもの国線にこのような複雑な事情が絡んだ理由を簡単に触れておこう。

 

こどもの国は旧日本軍の弾薬庫跡地を利用した施設。もともと、この弾薬庫まで延びていた引込線をこどもの国線として活用した。そしてこどもの国開園の2年後の、1967(昭和42)年に路線が開業した。

↑1965(昭和40)年に開園したこどもの国。こどもの国へ行く専用の路線として1967(昭和42)年に造られた

 

路線開業や電車の運行には東急が協力したが、開業時に路線を所有したのは社会福祉法人こどもの国協会だった。当初はこどもの国へ行く専用路線という色合いが濃く、休園日には列車の本数が大幅に削減された。

 

その後、沿線は徐々に住宅地化していった。通勤路線として使う側にしてみれば、こどもの国の営業にあわせた列車運行が不便でもあった。途中駅がなく、列車の交換が途中でできないなど、増発もかなわなかった。

 

通勤路線化にあたり路線の所有者が横浜高速鉄道に変わった

そこで通勤路線化が進められたが、こどもの国協会という公益法人が鉄道事業に本格的に関わるのは問題がある、とされた。

 

そのため1997(平成9年)、こどもの国協会から横浜高速鉄道に路線の譲渡が行われた。ちなみに、みなとみらい線の開業が2004年のことだから、それよりもだいぶ前に横浜高速鉄道の鉄道路線が生まれていたことになる。

 

子ども向けのこどもの国行き専用線から、通勤路線化するにあたって、第二種、第三種という「大人の事情」がからむ話になっていたのである。

↑長津田駅にあるこどもの国線の案内。平日の朝夕は列車が増発され、また日中は20分間隔で運行される。所要時間は長津田駅からこどもの国駅まで7分

 

急カーブから路線がスタート。途中に東急の車両工場も

長津田駅から電車が発車すると、すぐに東急田園都市線と分かれるように急カーブが設けられる。このカーブの半径は165m。普通鉄道のカーブとしては、かなりの急カーブだ。

 

そのため、時速を30km程度に落として走る。実は通勤路線化を図るときに、地元から「騒音がひどくなる」と反対運動が起きた経緯もあり、いまも騒音対策のためにかなり徐行して走っているのだ。

 

ほどなく、畑地を左右に見て走ると唯一の途中駅、恩田(おんだ)駅へ。

↑長津田駅を発車したこどもの国駅行きY000系電車。すぐに半径165mという急カーブにさしかかる。この急カーブを徐行しつつ走り始める

 

↑横浜高速鉄道のY000系のシートは、このようにカラフル。こどもの国のシンボルマークの赤、緑、青、黄(シートでは同系のオレンジを使用)に合わせた色のシートが使われる

 

恩田駅の近くには東急の長津田車両工場がある。東急の全車両の大掛かりな検査や整備が行われる重要な車両工場だ。時に留置線には、興味深い車両が停められていることもあり、鉄道ファン必見のポイントでもある。

 

さらにナシが植えられる果樹園が連なるエリアを過ぎれば、ほどなく終点のこどもの国へ到着する。こどもの国へは駅から徒歩3分の距離だ。

 

長津田駅から7分と乗車時間は短いものの、注目したい急カーブがあり、車両工場あり、となかなか興味深い路線でもある。

 

子どものころ、東京都や神奈川県で育った方のなかには、遠足でこどもの国へ行った人も多いのではないだろうか。時には童心に戻ってこどもの国で遊んでみてはいかがだろう。

↑恩田駅に近い東急の長津田工場を敷地外から見る。写真に映る白い車体は伊豆急行2100系。この後に同工場でザ・ロイヤルエクスプレスへの改造工事が行われた

開業1世紀で5回の社名変更の謎――乗車時間11分のみじか〜い路線には波乱万丈のドラマがあった!

おもしろローカル線の旅~~流鉄流山線~~

 

千葉県を走る流鉄流山線の路線距離は5.7kmで、乗車時間は11分。起点の駅から終点まで、あっという間に着いてしまう。それこそ「みじか〜い」路線だが、侮ってはいけない。その歴史には波乱万丈のドラマが隠されていたのだ。

↑流鉄のダイヤは朝夕15分間隔、日中は20分間隔で運行している。全線単線のため、途中、小金城趾駅で上り下りの列車交換が行われている。写真は5000形「あかぎ」

 

【流鉄流山線】開業102年で5回も社名を変えた謎

千葉県の馬橋駅と流山駅を結ぶ流鉄流山線。流山線は流鉄株式会社が運営する唯一の鉄道路線で距離は前述したとおり5.7kmだ。

歴史は古い。1913(大正2)年の創立で、すでに100年以上の歴史を持つ。その1世紀の間に5回も社名を変更している。このような鉄道会社も珍しい。ざっとその歩みを見ていこう。

 

1916(大正5)年3月14日:流山軽便鉄道が馬橋〜流山間の営業を開始

1922(大正11)年11月15日:流山鉄道に改称

1951(昭和26)年11月28日:流山電気鉄道に社名変更

1967(昭和42)年6月20日:流山電鉄に社名変更

1971(昭和46)年1月20日:総武流山電鉄に社名変更

2008(平成20)年8月1日:流鉄に社名変更、路線名を流山線とする

 

改名の多さは時代の変化と、波にもまれたその証

流鉄が走る流山(ながれやま)は江戸川の水運で栄えた町である。味醂や酒づくりが長年にわたり営まれてきた。この物品を鉄道で運ぶべく、流山の有志が資金を出し合い、造られたのが流山軽便鉄道だった。

 

創業時から流山の町のための鉄道であり、町とのつながりが強かった。そのためか、ほかの鉄道会社のように、路線延長などは行われず創業時からずっと同じ区間での営業を続けてきた。

 

当初の線路幅は762mmと軽便鉄道サイズ。その後に、常磐線への乗り入れがスムーズにできるようにと、線路幅が1067mmに広げられた。このときに流山軽便鉄道から流山鉄道と名称が変更された。

 

太平洋戦争後、電化したあとは流山電気鉄道と名を変え、さらに流山電鉄へ。この流山電鉄の社名は、わずか4年で総武流山電鉄と名を改められている。これは経営に平和相互銀行が参画し、大株主となった総武都市開発(ゴルフ場事業会社)の「総武」が頭に付けられたためだった。

↑総武流山鉄道時代の主力車1300形。こちらは元西武鉄道の譲渡車両で、西武では551系、クハ1651形だった。「あかぎ」というように編成の愛称がこの当時から付けられた

 

しかし、平和相互銀行は1986年に不正経理が発覚、住友銀行に吸収合併されて消えた。さらに大株主の総武都市開発がバブル崩壊の影響を受け、2008年に清算の後に解散。小さな鉄道会社は、こうした企業間のマネーゲームに踊らされ、また投げ出された形となった。

 

2008年には現在の、鉄道事業を主体にした「流鉄株式会社」となっている。

 

つくばエクスプレスの開業で厳しい経営が続いているが――

時代の変転、また経営陣が変わることで社名が変わるという、なんとも小さな鉄道ならではの運命にさらされてきた。

 

さらに2005年8月には、つくばエクスプレスの路線が開業。流鉄が走る流山市と都心をダイレクトに結ぶために、この開業の影響は大きかった。流鉄の利用者減少がその後、続いている。

 

とはいえ、流鉄の決算報告を見ると、2016年3月期で、鉄道事業の営業収益は3億3093万円、2017年3月期で3億2822万円。純利益は2016年度が340万円、2017年度が286万円と少ないながらも純利益を確保し続けている。

 

一駅区間の運賃は120円、馬橋駅〜流山駅間の運賃は200円、1日フリー乗車券は500円と運賃は手ごろ。ICカードは使えず、乗車券を購入し、出口で駅員に渡すという昔ながらのスタイルをとっている。大資本の参画はないものの、5.7km区間を地道に守り続ける経営が続けられている。

↑流鉄の馬橋駅。総武緩行線や、総武本線の線路と並ぶように駅とホームがある。通常はJR側の1番線を利用する。手前は2番線で、通勤時間帯のみの利用となる

 

↑馬橋駅の自由通路の西側に「流山線」の小さな案内板が架かる。発車ベルは「ジリジリジリーン」という昔ながらのけたたましい音色。レトロ感たっぷりだ

 

鉄道ファンの心をくすぐる所沢車両工場の銘板

流鉄の車両は1980年ごろから、すべて西武鉄道から購入した車両が使われている。1979年から導入された1200形・1300形、1990年代から使われた2000形や3000形。そして2009年からは、5000形車両が順次、旧型車両と入れ替えて使用している。

 

現在走る車両の5000形は、赤、オレンジ、黄色、水色など6色に塗られ、それぞれ「あかぎ」「流馬」「流星」といった車両の愛称が付けられる。
これらの車両は、すべてが所沢車両工場製だ。2000年まで西武鉄道では、ほとんどの車両を所沢駅近くにあった自社工場で製造していた。そんな証でもある銘板が、いまも車内に掲げられている。 鉄道ファン、とくに西武好きにとっては心をくすぐるポイントといっていいだろう。

↑現在、流鉄を走る5000形電車は2両×6編成。そのすべてが西武鉄道から購入した車両だ。西武時代の元新101系で、車内には「西武所沢車両工場」という銘板が付けられる

 

↑2012年まで走っていた2000形「青空」。西武では801系(2000形の一部は701系)という高度経済成長期に造られた車両で、1994年から20年近く流鉄の輸送を支えた

 

↑終点の流山駅。駅の奥に車庫と検修施設が設けられている。駅から徒歩3分、流山街道を越えたところに近藤勇陣屋跡(近藤勇が官軍に捕縛された地とされる)がある

 

流山には味醂を積みだした廃線跡など興味深い史跡が残る

乗車時間は11分と短いが、沿線の見どころを簡単に紹介しよう。

 

馬橋駅〜幸谷駅付近は常磐線の沿線で住宅街が続く。小金城趾駅に近づくと農地が点在する。鰭ケ崎(ひれがさき)駅からは流山市内へ入る。大型ショッピングセンターすぐ近くにある平和台駅を過ぎたら、間もなく流山駅へ到着する。

↑難読駅名の「ひれがさき」。ここの地形が魚の背びれに似ていたから、または地元の東福寺に残る伝説、神竜が残したヒレ(鰭)から鰭ケ崎の地名となったとされる

 

流山の街は「江戸回廊」を名乗るように味わいのある街が残る。新選組の近藤 勇が官軍に捕縛されたとさる、近藤勇陣屋跡。18世紀から味醂製造を続けてきた流山キッコーマンの工場も、街中にある。ここで造られるのが万上(まんじょー)本味醂(みりん)だ。1890(明治23)年に建てられ、国登録有形文化財に指定される呉服新川屋店舗(いまでも営業を続けている)といった古い建物も残る。

↑流山駅前に立つ流鉄開業100年記念の案内板。歴代の車両が写真付きで紹介されている。蒸気機関車やディーゼル機関車で客車を牽いたころからの歴史がおよそわかる

 

↑かつて流山駅から流山キッコーマンの工場まで引込線(万上線)が敷かれていた。1969(昭和44)年に廃止されたあとは市道として使われ、かたわらに記念碑も立つ

 

↑万上(まんじょー)本味醂の製造を続ける流山キッコーマンの工場。レトロふうな塀には引込線があった当時の写真などが掲げられている

 

コンパクトにまとまった古い流山の街。わずか乗車11分ながら、街を歩いた余韻を感じつつ、帰りはオレンジ色の「流星」に身を任せた。

 

都内を走る「忘れ去られた貨物路線」に再び栄光の時は来るか?――越中島支線/新金線の現状

おもしろローカル線の旅~~JR越中島支線/JR新金線~~

 

お江戸の中心といえば日本橋。その日本橋からわずか5kmのところに、都内で唯一となった、非電化路線が走っていることをご存知だろうか。JR越中島(えっちゅうじま)支線という名の貨物線がその路線。ディーゼル機関車が貨車を牽いてのんびり走っている。

今回は、JR越中島支線と、さらにその先の貨物専用線・JR新金(しんかね、もしくは、しんきん)線の2本の貨物専用線をご紹介しよう。両線とも貨物専用線のため、列車への乗車はできないが、路線にそってのんびり歩くことができる。新たな発見とともに、不思議さが十分に体験できる路線だ。

 

【謎その1】なぜ、都内唯一の非電化路線として残ったのか?

越中島支線や新金線という路線名を聞いて、すぐにどこを走っているのかを思い浮かべられた方は、かなりの鉄道通と言っていいだろう。それこそ、長年、忘れられてきた路線と言ってもいい。

 

走る列車の本数も少ない、いわば“ローカル貨物線”だが、なんとか旅客線にできないか、という地元自治体の話もあり、近年にわかに脚光をあびるようにもなっている。

 

まずは両路線のデータをおよび路線図を見ていこう。

◆越中島支線(運営:東日本旅客鉄道)
路線:小岩駅 〜 越中島貨物駅
距離:11.7km
開業:1929(昭和4)年3月20日

◆新金線(運営:東日本旅客鉄道)
路線:小岩駅 〜 金町駅
距離:8.9km
開業:1926(大正15)年7月1日(新小岩操車場〜金町駅間)

まずは越中島支線から見ていこう。なぜ都内で唯一の非電化路線として残されたのだろうか。電化される計画はなかったのだろうか。

 

【謎解き1】輸送量が少なく非電化のままが賢明だとの判断か

現在、越中島支線の列車は新小岩信号場と越中島貨物駅の間を走っている。日曜日を除いて日に3往復の列車が走り、JR東日本管内で使われるレール輸送やバラスト輸送が行われている。ちなみに貨物時刻表で紹介されているダイヤは、

9295列車 新小岩信号場12時10分発 → 越中島貨物駅12時22分着
9294列車 越中島貨物駅13時42分発 → 新小岩信号場13時55分着

という1往復のみだ。ほか2往復も走っているが、全便が臨時列車扱いで、実際に沿線で待っていても、上記の時刻を含め列車が走らない日がある。

↑新小岩信号場12時10分発の9295列車。この日はJR東日本のDE10形ディーゼル機関車が1両のみで走る。列車の早発、遅発はこの路線ではごく普通なのでご注意を

 

越中島駅にはJR東日本のレールやバラストを管理する東京レールセンターがある。現在、越中島支線にはこの東京レールセンターから、JR東日本管内へ運ばれるレールや、バラストの輸送列車が走る。ただ、前述の通り列車の本数は日に3本で、それすら走らない日もある。わざわざ電化して列車を走らせるほどの輸送量ではない。ゆえに、都内唯一の非電化路線として残ったのだろう。

↑越中島支線の終点、越中島駅には東京レールセンターがあって、JR東日本のレールやバラストの基地として使われている。最寄り駅は京葉線の潮見駅だ(徒歩約15分)

 

↑越中島駅から新小岩信号場へ向かう上り列車。大半が写真のようにレール輸送用の貨車(長物車)や、バラストを積んだホッパ車を連ねた列車が運行される

 

いまでこそ列車の本数が非常に少ない越中島支線だが、かつては多くの貨物列車が行き交い、賑わいを見せた時代もあった。ここからは、そんな時代を振り返っていこう。

 

【補足情報その1】かつては東京湾岸の鉄道輸送に欠かせない路線だった

昭和の初期に開業した越中島支線だが、この路線が1番、輝いたのが、太平洋戦争後の1950〜60年代のことだった。越中島駅から先、1953年に深川線が豊洲まで開業。さらに晴海まで晴海線が1957年に開業した。さらに1959年には豊洲物揚場線と、次々に路線が新設された。

 

豊洲といえば現在、築地市場の移転で話題になっている場所だが、かつて豊洲には石炭埠頭や鉄鉱埠頭があり、ほか様々な物資の陸揚げ基地として賑わっていた。

 

それらの物資の多くは貨物列車を使って都内および首都圏各地へ輸送されていった。それは路線をさらに汐留駅まで延ばす計画が立てられるほどの盛況だった。こうした逸話を聞くだけでも、多くの貨物列車が走った往時の様子が彷彿される。

↑いまも、越中島駅から豊洲方面へ数100mほど線路が延びている。線路が途切れた先の線路跡地は駐車場などに使われている

 

↑往時の姿を残す元晴海線の鉄道橋。橋の遺構は晴海通り・春海橋に沿うように残っている。線路も残り、いまにも貨物列車が走ってきそうな趣がある

 

貨物輸送に湧いた越中島支線だったが、1980年代になると物流の主役はトラック輸送となり、鉄道による貨物輸送が激減する。越中島駅から先の路線が徐々に廃止されていき、1989年の晴海線の廃止を最後に路線がすべて消滅した。

 

以降、越中島支線は、新小岩信号場と越中島駅間のレールとバラスト輸送のみが行われる路線となっている。

 

【補足情報その2】路線沿いには線路スペースを使った公園や、路面軌道の跡も

越中島支線の一部を線路に沿って歩いてみた。

 

今回、スタート地点としたのは都営地下鉄新宿線の西大島駅。まず明治通りを南へ向かった先に小名木川(おなぎがわ)が流れる。この小名木川は水運用につくられた人工河川で、川沿いには陸揚げした物資を積み込むための駅・小名木川駅が設けられていた。

↑小名木川に架かる越中島支線の小名木川橋梁。この左手にかつて小名木川駅があった。橋梁はワーレントラス橋で、見てのとおり重厚な構造の橋となっている

 

現在、駅の跡地には巨大なショッピングセンターが立っている。ちなみに同センター前の交差点名が「小名木川駅前」となっている。駅はすでにないものの、交差点名にのみ、その名残があるわけだ。

 

小名木川駅があった付近を線路ぞいにさらに歩いていくと、南砂線路公園がある。線路の跡地を歩道と自転車道にした公園で、江東区が設けた公園案内も立てられる。列車を待ちながらの一休みに最適だ。

↑越中島支線沿いに設けられた南砂線路公園(写真右)。複線区間の線路が敷かれていたスペースを利用。歩行者と自転車用のルートが設けられている

 

この先、線路沿いの道がいったん途切れるので、明治通りへ。南砂三丁目の交差点を過ぎたあたりで、不思議な遊歩道(南砂緑道公園)を発見した。この遊歩道は、横幅もあり、明らかに線路の跡のよう。越中島支線をくぐるように立体交差している。地元の人に聞くと、「ここは昔、チンチン電車が走っていたところなんですよ」とのこと。

 

遊歩道をしばらく歩くと説明があり、城東電気軌道(地元では城東電車の名で親しまれた)の砂町州崎線の跡だった。この城東電車はその後、都電となり都電砂町線(水神森=亀戸駅近く〜州崎間)として1972(昭和47)年まで走り続けた。

↑南町緑道公園はもと都電砂町線の路線跡。越中島支線と立体交差している。南側にはかつて汽車製造会社東京製作所があり、造られた鉄道車両が越中島支線を使って運ばれた

 

汽車製造会社東京製作所があったその先に永代通りが通る。平面交差するため、永代通りには踏切が設けられている。しかも信号機付き。列車が近づくと、通りの信号が赤になる。列車が少ないこともあり、通常の踏切では危険という判断からか、このようにドライバーに注意を促す造りとなっているのだろう。

↑永代通りと交差する越中島支線。列車の本数が少なく廃線と思うドライバーが多いためか、信号機付きの踏切となっている。この踏切から日本橋へ5kmの案内が架かる

 

永代通りを越え、明治通りを南に向かえば、終点の越中島駅も近い。帰りは東京メトロ南砂町駅か、JR京葉線の潮見駅を目指したい。

【謎その2】複線用の敷地がしっかりと残る新金線の謎

新金線は、誕生の経緯がなかなかおもしろい。そこから見ていこう。

 

千葉県の産物を、総武本線を使って輸送するにあたって問題になったのが、隅田川を越える橋がなかったこと。長年、総武本線は両国止まりだった。そのため、当時の貨物輸送は東武鉄道の路線経由で常磐線の北千住駅まで運ばれていた。この問題を打開すべく1926(大正15)年に誕生したのが新金線だった。

 

その後の1932(昭和7)年に総武本線の隅田川橋梁が完成したが、両国駅〜御茶ノ水駅間が旅客営業のみに造られた路線だったため、その後も総武本線の貨物列車は、新金線経由で走り続けている。

 

この路線を訪れてみて、奇異に感じるのは、ほとんど全線にわたり複線用の用地が確保されていることだ。下の写真のように、敷地はゆったりとしていて、さらに架線を吊る鉄塔も複線用に造られている。

↑新金線の線路は、ほとんどが複線化できるよう広いスペースが確保されている。将来、複線にして旅客路線に使えないか、地元の葛飾区などでは検討を続けている

 

【謎解き2】列車本数の減少で複線化が実現しなかった

1970年ごろまで新金線は、千葉方面と都心を結ぶ物流の大動脈でもあった。さらに越中島支線を走る貨物列車も、この路線を通って各地へ向かった。最盛期は、さぞや過密ダイヤとなっていたに違いない。

 

複線用のスペースを確保しておいた理由は、路線開業時に、将来の列車本数の増加を見越してのものだったのだろう。

 

ところが、1980年以降となると、新金線の列車本数は激減する。現在は、定期運行している貨物列車が日に3往復(うち1往復は日曜日運休)、ほか数便が臨時運行という状態だ。こうなると、とても複線にする意味がないと思われる。結局、新金線の複線化計画は夢物語に終わってしまい、確保した用地もそのまま塩漬け状態になってしまったわけだ。

↑金町駅から新小岩信号場へ向かう下り列車。高砂付近で京成本線の下をくぐって走る。写真の1093列車はEF65形式直流電気機関車での運用が行われている

 

【補足情報その1】貨物列車で必須の「機回し」作業に注目

現在、新金線を走る定期列車は次の3往復だ。

◆下り列車(金町駅 → 新小岩信号場)
1091列車:隅田川駅発 → 千葉貨物ターミナル駅行き
金町駅10時49分発 → 新小岩信号場11時00分着
1093列車:越谷貨物ターミナル駅発 → 鹿島サッカースタジアム駅行き
金町駅6時24分発 → 新小岩信号場6時35分着
1095列車:東京貨物ターミナル駅発 → 鹿島サッカースタジアム駅行き
金町駅0時27分発 → 新小岩信号場0時38分着(日曜運休)

◆上り列車(新小岩信号場 → 金町駅)
1090列車:千葉貨物ターミナル駅発 → 隅田川駅発行き
新小岩信号場19時20分発 → 金町駅19時30分着
1092列車:鹿島サッカースタジアム駅発 → 越谷貨物ターミナル駅行き
新小岩信号場19時52分発 → 金町駅20時02分着
1094列車:鹿島サッカースタジアム駅発 → 東京貨物ターミナル駅行き
新小岩信号場15時23分発 → 金町駅15時33分着(日曜運休)

 

貨物列車は電車のように、前後、進行方向をすぐに変えて走り出すことができない。進む方向を変える時には、機関車を切り離して併設された線路を逆方向へ走り、先頭となる側に機関車を連結させる「機回し」作業が必要となる。

 

地図上、Z字形の路線になっているこの新金線の路線。どの駅で機回しが行われているのだろうか。

 

まず金町駅では隅田川駅発の1091列車と、戻りの隅田川駅行きの1090列車の機回しが行われる。

 

新小岩信号場では、前述した3往復の列車がすべて機回し作業を行う。この機回しには地上の補助要員が必要なうえ、時間は最低でも15分程度は見ておかなければいけないとあって、各列車とも機回しのための時間に余裕を持たせている。

↑新小岩信号場へ到着したら、千葉方面へ機関車を付け替えるために、機回し作業が行われる。写真の1093列車で6時35分到着後に機回し、11時35分まで同信号所で待機する

 

ちなみにこうした作業は新小岩信号場に沿った遊歩道から見ることができる。貨物列車好きな方は一度、訪れてみてはいかがだろう。

 

【補足情報その2】国鉄形電気機関車の宝庫、新金線。撮影できるポイントも多い

前述した定期的に走る3列車だが、鉄道ファンにとってうれしいのは、すべての列車に、いまや貴重となりつつある国鉄形電気機関車が使われていること。

 

下り1091列車・上り1090列車、そして下り1093列車・上り1092列車にはEF65形式直流電気機関車が使われる。また下り1095列車と上り1094列車には、EF64形式直流電気機関車が使われている。

 

両形式とも、国鉄当時の原色に戻されつつある車両が増えているだけに、鉄道ファンにとって気になるところだ。新金線は、撮影ポイントが多く、国鉄形電気機関車が貨物列車を牽くとあって、鉄道ファンにとっては見逃せない路線にもなっている。

↑新金線では関東エリアでは少なくなったEF64形式の運用が見られる。上り列車は夜の運行が多いが、写真の1094列車のみ新小岩信号所15時23分発と理想的な時間帯に走る

 

【補足情報その3】新金線を訪れるとしたら小岩駅か京成高砂駅からがおすすめ

新金線は、金町駅から中川沿いに南下、路線のほとんどが、住宅の建ち並ぶなかを走る。踏切が数多いこともあり、撮影しようとするときには、この踏切が生かせる。複線化用に用意されたスペースを、列車との適度な“間”として生かせることもうれしい。

 

新金線を訪れるならば、京成高砂駅や、JR小岩駅から歩くことをおすすめしたい。京成高砂駅から中川方面に向かい、新金線に並走する道や中川の土手を歩けば、快い散策も楽しめる。

 

また小岩駅からは、徒歩15分ほどで、この路線の最大のポイントでもある中川橋梁へ行くことができる。

↑1091列車が新金線の中川橋梁を渡る。EF65形式が牽引、同橋梁を10時55分前後に通過する。中川の土手は広く、散歩がてらに訪れて撮影できる

 

新小岩信号場へは、JR新小岩駅からJR小岩駅方面へ徒歩で10分ほど。信号場内に停まる貨物列車や総武本線の列車がよく見えて、鉄道ファンにとっては魅力的なポイントにもなっている。ベンチもあり、小休止の場所にも利用できる。

↑新金線の新小岩信号場近くでみかけた花々。フェンスが花壇がわりに使われていた。新金線らしい何とものんびりした光景が沿線のそこかしこで見られる

 

↑新小岩信号場に停まる長物車(チキ車)。信号場沿いの道は遊歩道になっていて、行き交う列車が気軽に楽しめる。ただ遊歩道を走る自転車の通行には注意

 

葛飾区の新金線旅客化計画のその後を追う

今回、紹介した越中島支線と新金線には、長年にわたり、旅客路線とするプランが立てられてきた。

 

両路線が走る江東区、葛飾区を南北に結ぶ公共交通機関といえば、バスのみだ。バスはどうしても道路の渋滞に悩まされる。特に朝夕のラッシュ時には、運行が思い通りいかない。

↑JR新小岩駅と京成電鉄の青砥駅、JR亀有駅を結ぶ路線バスが運行されている。15分おきに走るバスで、新金線とほぼ平行して走るバスとしては最も便数が多く便利だ

 

こうした現状から江東区も葛飾区も、越中島支線や新金線を、旅客化できないか長年にわたり検討を続けてきた。

 

2017年に、さらに具体的に旅客化できないかを検討したのが葛飾区。新金線をLRT(ライトレールトランジットの略)の路線として生かせないかというものだった。低床で、高齢者にもやさしい乗り物として見直されつつあるLRT。国も導入支援を行い、実際に宇都宮市では、新たなLRT路線の建設に乗り出している。

 

新金線はすでに複線化できる用地があり、まっさらの新線を造るよりは、建設費も安くできる。

 

さてその検討結果が、2018年6月11日に葛飾区のホームページで発表された。

 

新金線のLRT案は、国道6号との平面交差や、需要予測に基づく採算性、貨物線のダイヤとの共存などの課題があるとしたうえで、「周辺の動向を見守りながら、南北交通の充実を図るストック材として活用方法を検討していく」としている。

 

新金線旅客化案はまったく消えたわけではないが、まずは地下鉄の延伸計画などのプランの促進に力を入れていくことになりそうだ。

西武鉄道の路線網にひそむ2つの謎――愛すべき「おもしろローカル線」の旅【西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線】

おもしろローカル線の旅~~西武国分寺線/西武多摩湖線/西武多摩川線~~

 

東京都と埼玉県に路線網を持つ西武鉄道。その路線を地図で見ると、ごく一部に路線が集中して設けられている地域がある。一方で、ポツンと孤立して設けられた路線も。これらの路線網のいきさつを調べ、また訪ねてみると、「おもしろローカル線」の旅ならではの発見があった。

 

今回は、西武鉄道の路線網の謎解きの旅に出かけてみよう。

 

【謎その1】国分寺駅のホームは、なぜ路線で場所がちがうのか

下の地図は、西武鉄道の東京都下の路線図である。都心と郊外を結ぶ西武新宿線と西武池袋線、西武拝島線の路線が設けられる。東西にのびる路線と垂直に交わるように、南北に西武国分寺線と西武多摩湖線という2本の路線が走っている。

起点となる駅は国分寺駅で同じだが、国分寺線は東村山駅へ。その先、西武園線に乗り継げば西武園駅へ向かうことができる。一方の多摩湖線は萩山駅を経て、西武遊園地駅へ向かう。両路線はほぼ平行に、しかも互いに付かず離れず線路が敷かれている。途中、国分寺線と多摩湖線は八坂駅付近で立体交差しているが、接続する駅はなく、乗継ぎができない。

↑西武国分寺線とJR中央線の電車が並走する国分寺駅付近。路線を開業した川越鉄道は中央線の前身、甲武鉄道の子会社だった。以前は連絡線があり貨車の受け渡しも行われた

 

さらに、不思議なことに国分寺線と多摩湖線が発着する国分寺駅は、それぞれのホームが別のところにあり線路がつながっていない。国分寺線のホームはJR中央線のホームと並んで設けられているのに対し、多摩湖線の国分寺駅は、やや高い場所にある。同じ西武鉄道の駅なのに、だ。どうしてこのように違うところにあるのだろうか。

↑西武多摩湖線は、西武国分寺線よりも一段高い位置に設けられる。4両編成用のホームが1面のみでシンプルだ。駅に停まっているのは多摩湖線の主力車両、新101系

 

【謎解き】路線開発を競った歴史が複雑な路線網を生み出した

謎めく路線が生まれた理由は、ずばり2つの鉄道会社が、それぞれ路線を設け、延長していったから、だった。

 

国分寺線と多摩湖線の2本の路線の歴史を簡単にひも解こう。

◆西武国分寺線の歴史
1894(明治27)年 川越鉄道川越線の国分寺駅〜久米川(仮)駅間が開業
1895(明治28)年 川越線久米川(仮)駅〜川越(現:本川越)駅間が開業
*川越鉄道は後に旧・西武鉄道となり、1927(昭和2)年に東村山駅〜高田馬場駅間に村山線(現・西武新宿線)を開業させた。

◆西武多摩湖線の歴史
1928(昭和3)年 多摩湖鉄道多摩湖線の国分寺駅〜萩山駅間が開業
1930(昭和5)年 萩山駅〜村山貯水池(現・武蔵大和)駅間が開業
*多摩湖鉄道の母体は、堤康次郎氏(西武グループの創始者であり衆議院議員も務めた)が率いた箱根土地。経営危機に陥った武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の再建に乗り出し、株を取得。1940(昭和15)年、武蔵野鉄道が多摩湖鉄道を吸収合併し、同じ会社となった。

 

川越線(現・国分寺線)を運営していた旧・西武鉄道陣営と、多摩湖線を含む武蔵野鉄道陣営の競り合いはすさまじかった。

 

武蔵野鉄道が1929(昭和4)年に山口線(現・西武狭山線)の西所沢駅〜村山公園駅(のちに村山貯水池際駅と改称)間を開業、また1930(昭和5)年1月23日に多摩湖鉄道が多摩湖線の村山貯水池(仮)駅まで路線を延ばした。すると1930年4月5日には旧・西武鉄道が東村山駅〜村山貯水池前(現・西武園)駅間に村山線を延伸、開業させた(現在の西武園線)。1936(昭和11)年には、多摩湖鉄道が0.8kmほど路線を延ばし、村山貯水池により近い駅を設けている。

↑1930(昭和10)年ごろの旧・西武鉄道の路線案内。すでに多摩湖線が開業していたが、熾烈なライバル関係にあったせいか多摩湖線や武蔵野鉄道の路線が描かれていない

 

村山貯水池(多摩湖)の付近には、似たような名前の駅が3つもあり、さぞかし当時の利用者たちは、面食らったことだろう。両陣営の競り合いは過熱し、路線が連絡していた所沢駅では乗客の奪い合いにまで発展したそうだ。

↑東京市民の水がめとして1927(昭和2)年に設けられた村山貯水池(多摩湖)。誕生当時は、東京市民の憩いの場にもなったこともあり路線の延長が白熱化した

 

村山貯水池を目指した激しい戦いの痕跡が、いまも複雑な路線網として残っていたわけである。

 

そんなライバル関係だった両陣営も、1945(昭和20)年に合併してしまう。会社名も西武農業鉄道と改め、さらに現在の西武鉄道となっていった。

 

【補足情報その1】両路線とも本線系統とは異なる古参車両が運用される

筆者は、西武鉄道の路線が通る東村山市の出身であり、国分寺線や多摩湖線は毎日のようにお世話になった。いまもそうだが、国分寺線や多摩湖線は、西武鉄道のなかではローカル線の趣が強い。西武池袋線や西武新宿線といった本線の運用から離れた、やや古めの車両が多かった。

 

子ども心に、新しい電車に乗りたいと思っていたものだが、やや古い車両に乗り続けた思い出は、いまとなっては宝物となって心に残っている。そのころに撮影したのが下の写真2枚だ。

↑国分寺線を走る351系(1970年ごろ)。同車両は西武鉄道としては戦後初の新製車両として誕生した。晩年には大井川鐵道に譲渡され、長年にわたり活躍した

 

↑西武園線を走るクハ1334。西武鉄道では急速に増える沿線人口に対応するため、国鉄から戦災車両の払い下げを受け再生して使った。クハ1334もそんな戦災車両を生かした一両

 

現在、多摩湖線を走るのが新101系。西武鉄道の車両のなかで唯一残る3扉車で、1979(昭和54)年に登場した車両だ。40年近く走り続ける、いわば古参といえるだろう。

↑多摩湖線の車両は新101系のみ。写真のような黄色一色、先頭車がダブルパンタグラフという新101系や、グループ企業の伊豆箱根鉄道カラーの車両も走っていて楽しめる

 

一方の国分寺線や西武園線は2000系。西武初の4扉車として登場し、こちらも40年にわたり走り続けてきた。国分寺線には2000系のなかでも角張ったスタイルの初期型の2000系も走っている。古参とは言っても、それぞれ内部はリニューアルされ、乗り心地は快適だ。

↑国分寺線の主力車両は2000系。写真は初期の2000系で、角張った正面に特徴がある。この初期型も最近になって廃車が進みつつある

 

多摩湖線には、レトロな塗装車も走っているので、そんな車両に乗りに訪れるも楽しい。

 

【補足情報その2】国分寺線と多摩湖線のおすすめの巡り方は?

昭和初期に生まれた国分寺線と多摩湖線をどう乗り継げば楽しめるだろうか。手軽に楽しめるルートを2パターン紹介しよう。

 

◆ルート例1
国分寺駅(多摩湖線) → 萩山駅 → 西武遊園地駅 →(西武レオライナーを利用)→ 西武球場前駅 → 所沢駅 → 東村山駅 → 国分寺駅
*多摩湖線の電車は国分寺〜西武遊園地間を直通する電車と、国分寺〜萩山間を走る電車がある。

◆ルート例2
国分寺駅(多摩湖線) → 萩山駅 → 西武遊園地駅 →(徒歩10分)→ 西武園駅 → 東村山駅 → 国分寺駅
*西武園〜国分寺間は、直通電車の本数が少ないので、東村山駅での乗換えが必要となる。

 

ちなみに西武園駅から徒歩約10分の北山公園では6月17日まで菖蒲まつりが開かれている。駅からは八国山緑地などを散策しつつ歩けるので、訪ねてみてはいかがだろう。

↑西武遊園地駅と西武球場前駅を結ぶ西武レオライナー(西武山口線)。大手私鉄で唯一の案内軌条式鉄道(AGT)が走っている。古くはこの路線をSLや、おとぎ電車が結んでいた

 

↑北山公園は狭山丘陵すぐそばにある自然公園で、初夏には200種類8000株(約10万本)の花菖蒲が咲き誇る。6月17日までは菖蒲まつりが開かれ多くの人で賑わう

【謎その2】西武鉄道の路線網とは離れた「孤立路線」はなぜ生まれたのか

西武鉄道の路線図を見るとJR中央線の北側にほとんどの路線が広がっている。そんななか、唯一、JR中央線から南に延びる線がある。それが西武鉄道多摩川線だ。

路線距離は8km、駅数は6駅と路線は短い。西武鉄道の本体と離れた「孤立路線」がどうして生まれたのか、また孤立している路線ならでは、手間がかかる実情を見ていこう。

↑西武多摩川線を走る電車はすべてが新101系。標準色のホワイトだけでなく、写真のようにレトロなカラー(赤電と呼ぶ塗装)も走っていて西武鉄道のファンに人気だ

 

【謎解き】西武鉄道が計画してこの路線を開業させたわけではない

西武多摩川線の元となる路線が開業したのは、境(現・武蔵境)駅〜北多磨駅間が1917(大正6)年のこと。1922(大正11)年には是政駅まで線路が延ばされた。路線を造ったのは多摩鉄道という鉄道会社だった。

 

その後、1927(昭和2)年に旧・西武鉄道が多摩鉄道を合併した。1945(昭和20)年の、武蔵野鉄道と、旧・西武鉄道の合併後は、西武鉄道の路線となり、いまに至っている。要は西武鉄道が計画してこの路線を開業させたわけでなく、鉄道会社同士が合併を進めたなかに、この路線が含まれていたというわけだ。

 

この路線は多摩川の砂利の採取が主な目的として造られたが、すでに西武多摩川線での貨物輸送はなくなり旅客輸送のみ。沿線に競艇場や複数の公園が点在することもあり、レジャー目的で利用する人も多い。

 

【補足情報その1】赤や黄色いレトロカラーの電車がファンの心をくすぐる

西武多摩川線を走る車両は新101系のみ。多摩湖線と同じ車両だ。新101系はホワイトが標準色となっている。この標準色に加えて、西武多摩川線では、鉄道ファンに「赤電」の名で親しまれた赤いレトロカラー(1980年ごろまで多くの車両がこのカラーだった)と、新101系が登場したころの黄色いレトロカラーというレアな色の2編成も走っている(2018年6月現在)。

↑新101系のレトロ塗装車。同車両が登場した当時の色に塗り直され、赤電塗装の車両とともに西武多摩川線の人気車両になっている

 

この2編成のカラーは、西武鉄道のオールドファンに特に人気で、懐かしいレトロカラーの電車をひとめ見ようと沿線に訪れる鉄道ファンも目立っている。

 

【補足情報その2】JR中央線との接続は便利だが、京王線との乗換えはやや不便

西武多摩川線の起点駅は武蔵境駅。JR武蔵境駅と同じ高架路線の駅となっている。乗継ぎ改札口を利用すれば、JR中央線との乗換えは便利だ。

↑西武多摩川線の起点となる武蔵境駅。JRの駅と並ぶように高架下に設けられている。こちらは自由通路側の改札口だがJR中央線との乗換え口がほかにある

 

電車は平日、休日に関わらず10分間隔で発車している。武蔵境駅から終点の是政駅まで12分あまりだ。車窓からは、武蔵野らしく畑地のほか、野川公園など三多摩地区を代表する公園も点在し、四季を通じて楽しめる。

 

途中、白糸台駅が京王線の武蔵野台駅との乗換駅になる。ただし、乗換えはやや不便で、徒歩6分ほどかかる。白糸台駅の駅舎が京王線の武蔵野台駅側とは逆側のみのためだが、この位置関係がちょっと残念に感じる。ちなみに白糸台駅には車両基地があり、仕業点検など簡単な整備や清掃はここで行われる。

 

そして終点の是政駅へ。この駅は多摩川のすぐ近くにあり、裏手に土手があり、のぼればすぐに多摩川河畔となる。

↑終点の是政駅の先にはバラスト用の砂利や、レールの置き場があり、その区間のみ線路が延びている。かつてこの先が多摩川まで延び砂利運搬用に利用されていたのだろうか

 

↑是政駅を出たすぐ裏手に多摩川があり、土手からはJR南武線や、武蔵野貨物線の橋梁が見える。長い間、河畔では砂利採集が行われ西武鉄道多摩川線で運搬されていた

 

【補足情報その3】鉄道ファンにとっては隠れた人気イベント!? 孤立路線ならではの苦労

西武多摩川線には白糸台に車両基地があるが、この基地では本格的な整備を行っていない。そのため、西武鉄道の路線内にある車両検修場まで運び、検査や整備をしなければいけない。そのあたりが孤立路線のために厄介だ。

 

武蔵境駅には、JR中央線との連絡線がある。車両は通ることはできるが、西武鉄道の電車がJRの路線を自走することはできない。そこで「甲種輸送」という方法で、輸送が行われる。JR貨物に輸送を委託、JR貨物の電気機関車が西武鉄道の電車を牽引して運ぶのだ。

 

そのルートは、武蔵境駅 →(中央線を走行)→ 八王子駅(進行方向を変える) →(中央線・武蔵野線を走行)→ 新秋津駅付近 →(西武池袋線への連絡線を走行)→ 所沢駅 → 武蔵丘車両検修場 という行程になる。
また、整備を終えた車両や交代する車両は、その逆で西武多摩川線へ戻される。

 

約3か月に1回の頻度で行われるこの「甲種輸送」。JR貨物の電気機関車が西武鉄道の電車を牽くシーンが見られるとあって、鉄道ファンには隠れた人気“イベント”にもなっている。

↑武蔵境駅の先でJR中央線への連絡線が設けられている。検査や整備が必要になった車両は連絡線を通りJRの路線経由で西武鉄道の車両基地へ「甲種輸送」されている

 

↑西武多摩川線用の新101系の「甲種輸送」の様子。JR路線内では西武鉄道の電車は自走できないため、JR貨物の機関車に牽かれて運ばれる