物言わぬ、満点宣言

ものづくりに軸足を置いたジャーナリストの伊藤公一です。製造業に関わる業界や企業、経営者などを対象とする取材活動をしています。業界記者歴三十余年の活動を通して感じたことや気づかされたことなどを自然体で取り上げていく考えです。

チェンジアップの質問

記者として、記事になるかどうかは分からないけれども、とりあえず尋ねておけば後で重宝することが多い質問に「(製品なり仕事なりの成果を)自己採点すると何点ですか?」というのがあります。「健康法は」「座右の銘は」なども同様です。一種の記者あるあるといえるでしょう。話を聞く相手の緊張をほぐして流れを少し変える効果もあります。野球に例えれば、チェンジアップの球のようなものかもしれません。導いた答は一問一答形式で直接的に引用することがあれば、地の文(記事を形づくる説明や叙述)に織り込むこともあります。無論、まったく使わないこともあります。

富士重工業(現・SUBARU)との共同開発で2012年に発売されたトヨタ自動車のスポーツカー「86(ハチロク)」。その開発チームを率いたチーフエンジニア多田哲哉氏にこの質問をした時、答えは「百点満点」でした。内心はそう思っていても、控えめに言うことが美徳とされる日本社会では、なかなか口にしにくい答えです。

量産化に向けた最終局面では、豊田章男社長が頻繁に足を運び、自らハンドルを握って徹底的なダメ出しをしたそうです。指摘された点は直ちに修正され、完成度を高めるの役立てられました。そういう手順を丹念に積み重ねているので「満点」でないはずがない、との誇りが言外に感じられました。

開発者にとっては破格の厚遇

「本当に納得できるものでなければ無理に出さなくていい。発売日も問わない」。豊田社長が86の開発に臨む多田氏に出していた条件です。製品の種類を問わず、開発を託された担当者にとっては破格の厚遇といえるでしょう。いささか乱暴に言えば「気に入るものができるまでは会社の金で何をしてもいい」からです。

86の開発は「投資対効果」の壁に阻まれ、長らく途絶えていたトヨタ製スポーツカーの新車を世に送り出そうという役員の意見をきっかけに動き出しました。2007年1月のことです。この役員は「技術がしっかりしたら、営業はしっかり売る」と言い切りました。その役員とは現在の豊田社長です。86はプロジェクトの立ち上げ時から「成功させなければならない」宿命を負っていたともいえるでしょう。

写真:東京モーターショー2017で披露されたコンセプトカー、GRハイブリッドスポーツ

採点に込められた思い

実のところ、私には相手から返ってくる答が「零点」でも「満点」でも一向に構いません。それぞれの採点には相応の理由があるからです。その理由から話が広がることもあります。「70点」であれば、理由と共に、足りない30点分を補うためにはどうすればよいのかを聞くことができます。取材者にとって大切なのは点数の単純な大小ではなく、その点数に込められた思いや熱意、言い訳、戸惑いなどを引き出したり読み解いたりすることです。

開発担当となった当初、社内では「(売れない車種の代表である)スポーツカーを押し付けられて気の毒に」と多田氏を哀れむ声が公然と囁かれていたといいます。「俺が断ってやろうか」と男気を見せる役員もいたぐらいです。

多田氏はその後、2017年に創設された社内カンパニーの一つ、GRカンパニーのGR開発担当部チーフエンジニアに就任。BMWとの協業で2018年3月にスイスで公開されたスポーツカー、スープラの開発でも陣頭指揮を執りました。社内の同情をよそに、86で今日的なスポーツカーのムーブメントを起こし、スープラの復活に携わることで、モータースポーツファンの心をざわつかせる多田氏。その仕事ぶりは、無言の満点宣言であるように思えます。