月表面土壌の研究で新たな進展 月探査機「嫦娥5号」が持ち帰ったサンプルから磁鉄鉱を発見
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このお話は毒酒で乾杯を(桓騎×信)の番外編です。
秦趙同盟が結ばれた宴の席で、李牧は息をするのも重苦しい不穏な空気を察していた。
天下の大将軍と中華全土に名を轟かせていた王騎の仇でもある自分が歓迎されていないのは当然理解している。
首を守ることは叶ったが、代わりに城を一つ失った。よりにもよって韓皋の城であり、宴を楽しむ気になどなれるはずがなかった。
しかし、目の前にいる呂不韋という男は、この不穏な空気を微塵も察していないのか、両脇に美しい妓女を侍らせて笑顔を見せている。
酒を飲んで気分が良くなっているのだろう。自分の命を奪おうとしていた男と同一人物とは思えなかった。
李牧の隣にいる側近のカイネが何か言いたげに呂不韋を睨んでいたが、李牧は視線を送って彼女を宥めた。
韓皋の城を失う代わりに犬死は免れたのだ。ここで事を荒立てる訳にはいかなかった。
悔しいが呂不韋の交渉の話術には、趙の宰相である李牧でさえも白旗を上げるしかなかったのである。
自分たちが殺された後、人質である春平君も殺され、趙に侵攻するつもりだったのかもしれない。そうなれば秦国の思うつぼだ。
韓皋の城を明け渡すことになったとしても、これ以上、趙の領土を奪われる訳にはいかなかった。
妓女たちと楽しく過ごしていた呂不韋が思い出したように李牧の方を見る。
「めでたい宴ということで、特別な酒を用意したのだが、いかがかな?」
何がめでたい宴だと、隣でカイネが奥歯を噛み締めていたが分かった。李牧は困ったように笑う。自分が素直に感情を露わにしない分、側近たちが怒ってくれるのだと思うと、それだけで心が温かくなった。
「…お気持ちは嬉しいのですが、私はあまり酒が得意ではないのです」
どうぞご勘弁をと丁重に断ったのだが、酒に酔った呂不韋は引く気配を見せない。頬を紅潮させて大らかに笑うところを見ると、相当酔っていることが分かる。
此度の交渉に勝ったことが相当嬉しいのかもしれない。
傍に控えていた侍女に何か告げると、一度席を外した侍女が酒瓶を抱えて戻って来た。
「一杯だけでも御飲みになると良い。宴はまだ続くのだから」
呂不韋が杯に酒を注ぐと、有無を言わさず李牧に突きつけて来た。
先ほど酒が苦手だと言ったばかりなのに、酔ったこの男には耳がついていないのだろうか。
心の中で毒づきながらも、李牧はその杯を受け取らざるを得なかった。
「それでは、一杯だけ」
李牧が酒が苦手なのは本当だったが、こうなっては仕方がない。一杯だけなら良いかと、彼は杯を傾けた。
「え…?」
杯に唇が触れる寸前、横から伸びて来た手によって杯が奪われる。酒が苦手なことを知っている側近の仕業だろうか。
反射的に振り返ると、そこにいたのは、見知らぬ女だった。
妓女でも侍女でもない、赤色の生地と金の刺繍で彩られた華やかな着物に身を包んでいる黒髪の女が、豪快に喉を鳴らして李牧が飲むはずだった酒を飲んでいる。酒豪にも劣らぬ豪快な飲みっぷりだった。
杯を奪われた李牧だけでなく、その場にいる者たち全員が瞠目していると、その女は化粧で彩られた双眸をにたりと細めた。
彼女も既に酒に酔っているのか、頬が紅潮している。自分の唇についた酒をべろりと舌で舐め取り、女は妖艶な笑みを深めた。
「こりゃあ美味い鴆酒だな?どこの鴆者に作らせた?」
女から鴆酒という言葉を聞き、李牧たちははっとした表情になる。
鴆酒というものは一般的に出回らない貴重な酒だ。
なぜ一般的に出回らないのかといえば、鴆酒は酒ではなく、毒として扱われているからである。嗜好品ではなく、暗殺の道具として用いられるものだ。
宴の間に入る時、武器の類は全て預けていた。それは趙の自分たちだけではなく、秦の者たちも同じである。
まさか刃を使わずに、毒を用いて殺そうとするとは、呂不韋はとことん隙のない男だ。
韓皋の城を明け渡したことで、命は見逃してもらえたと思ったのだが、まさか宴の場で暗殺されようとは思いもしなかった。
やはり敵国の地で油断するべきではなかったと李牧は内心舌打つ。
李牧一同が呂不韋に鋭い眼差しを向けると、呂不韋は大して表情を変えずに、顎髭を弄っていた。先ほどまで気分良く笑っていたくせに、今は神妙な顔つきになっている。
「貴様ッ!李牧様を殺そうとしたのかッ!」
カイネの怒鳴り声にも動じず、呂不韋は小さく笑った。
「これは物騒なことを言う。鴆酒というのは、飲んだ相手を即座に殺す毒酒であろう?」
「ああ、そうだ」
李牧から杯を奪った女が頷くと、呂不韋の目が鋭く光った。
「…ならば、なぜそなたは生きていられる?飛信軍の信」
その名前を聞き、李牧は目を見開いた。呂不韋に憤怒の表情を向けていたカイネも、その名前に反応したのか、彼女の方を凝視している。
(飛信軍の、信将軍…?)
飛信軍の信といえば、天下の大将軍である王騎の娘だ。魏の輪虎をも討ち取った彼女の強さには、過去に趙国も辛酸を嘗めさせられている。
秦国だけでなく、中華全土にその名を轟かせている女将軍が目の前にいることに、さすがの李牧も驚いていた。
戦では仮面で顔を覆っているせいで、強さ以外は謎に包まれた女将軍であったが、化粧と派手な着物で彩られているせいか、どこぞの貴族の娘だと言われても頷ける。
しかし、天下に名を轟かす大将軍としての威厳を兼ね備えており、その立ち振る舞いは堂々としていた。
男のような口調と振る舞い方だが、黙っていればその端正な顔立ちに見惚れてしまう男が現れるに違いない。
彼女と道ですれ違ったのなら、きっと振り返っていただろう。李牧はそう思った。
「………」
呂不韋の問いに答えず、信は開けたばかりの酒瓶を手繰り寄せ、まだ飲み足りないと言わんばかりに直接口をつけていた。
女性がそのような振る舞いをするなんてと李牧は驚く。王家といえば名家の一つだが、教養というものを身につけていないのだろうか。
鴆酒は即効性の毒で、解毒の方法が未だ解明されていないものである。一口でも飲めば、たちまち毒が体内に回り、死に至らしめるというものだ。
しかし、呂不韋の言葉通り、信は少しも苦しがる様子を見せていない。
「言いがかりは良してもらおう」
信を睨みつけながら、呂不韋が腕を組んだ。
「もしもそれが鴆酒なら、既にそなたは死んでいるはずであろう?そなたが生きていることが、その酒が毒ではない何よりの証拠ではないか」
「………」
呂不韋の言葉は確かに頷ける。
もしも本当に鴆酒だったとすれば、それを飲んだ彼女は毒に苦しめられて死に追いやられているはずだ。
それがないということは、彼女が李牧から奪った酒が鴆酒でないということになる。
しかし、李牧には一つの疑問があった。
(なぜ彼女は私を助ける真似を…?)
もしも渡された酒が本当に毒だとすれば、信が李牧からそれを奪う理由は何なのか。
彼女の父親である天下の大将軍である王騎は、李牧が軍略で討ち取った。李牧は彼女にとって父親の仇だと言っても過言ではない存在である。
自分を父の仇だと憎んでいるのならば、黙って飲ませていれば良かったはずだ。毒に藻掻き苦しむ自分を見下ろして、せせら笑うことだって出来ただろうに。
からかっている様子は微塵も感じられないし、脅している様子も見られない。この酒が本物であれ偽物であれ、どうして信は鴆酒だと告げたのだろうか。
李牧が怪訝していると、まだ半分ほど残っている酒瓶を呂不韋に突き出し、信がにやりと笑った。
「…確かに俺は死ななかった。…だが、これが鴆酒じゃないって言うんなら、お前もこの酒を飲めるはずだよな?呂不韋」
呂不韋の表情は少しも揺らがなかったが、僅かに彼の瞳が泳いだのを李牧は見逃さなかった。
「………」
信に突き出された酒瓶を受け取ろうとしない呂不韋に、その場にいる者たち全員が視線を向ける。賑やかな宴の席が、重い空気と沈黙に満たされた。
舞台で舞を披露していた妓女たちも、楽器を演奏していた芸者たちも、不安そうな顔でこちらを見つめている。
「…どうなんだ?こんなにも美味い酒なんだ、俺としてはぜひ口移しで飲ませてやっても良いくらいなんだがな」
挑発をするように信が言葉を投げかけ、瑞々しく紅が塗られた唇が歪む。思わず生唾を飲んでしまうほど、妖艶な笑みだった。
「………」
返す言葉がなくなったのか、呂不韋が悔しそうに奥歯を噛み締めたのを見て、やはり本物の鴆酒だったのかと李牧は察した。
「貴様ッ!やはり李牧様を!」
主を毒殺しようと企てていた呂不韋に、カイネが再び憤怒の表情を浮かべて立ち上がる。武器を回収されていなければ、すぐに鞘から剣を抜いていただろう。
「カイネ」
「しかしっ、李牧様!」
落ち着くよう声を掛けると、彼女は納得いかないといった表情で食い下がって来た。
鴆酒を飲ませようとした呂不韋が次にどのような行動に出るのか李牧が警戒していると、あろうことか、彼は肩を震わせて笑い始めた。
「いやあ、これは誠に申し訳ないことをした!贔屓にしている酒蔵から仕入れた珍酒だとばかり思っていたが、まさか猛毒の方の鴆酒だったとは…」
「………」
手のひらを返したように、べらべらと言い訳を始める呂不韋に、やはり食えない男だと李牧は苦笑を浮かべた。
今さら取り繕ったところで、呂不韋が李牧に毒酒を飲ませようとしたことは変わりない事実である。
「ふん」
潔くこの酒が毒だと認めたことに信も納得したのか、飲み掛けの酒瓶を片手に彼女は宴の間から出て行った。
何はともあれ、飛信軍の女将軍のおかげで命拾いをした訳である。
「…すみません、少し席を外します」
側近たちに呼び止められたが、李牧は構わずに宴の間を飛び出した。
廊下に出ると、重苦しい空気から解放された気がして、李牧はようやくまともな呼吸が出来るようになった。
長い廊下を歩いている信の後ろ姿を見つけ、李牧は足早に彼女を追い掛けた。
「飛信軍の信」
名前を呼ぶと、信が面倒臭そうな表情で振り返る。片手には先ほどの酒瓶を持ったままで、先ほどよりも中身は減っていた。まさか鴆酒だと分かりながら、また口をつけたのだろうか
。
毒であるはずのそれを飲みながら、なぜ平然としていられるのか。理由は一つしかない。
突然変異などで毒物に耐性を持つ者がいるということは聞いていたが、彼女はまさにその特殊体質なのだろう。毒が効かぬ体を持つ者に出会ったのは初めてだった。
「…まずは感謝を。あなたのおかげで命拾いしました」
頭を下げながら拱手礼をすると、信は何も言わずに酒瓶に口をつけた。
着物の価値が分からぬものでも高価なものだと分かる着物に身を包み、化粧で美しく象られた顔だというのに、男と何ら変わりない立ち振る舞いに、李牧は苦笑を滲ませた。
酒瓶から口を離すと、彼女は李牧と目を合わせることなく言葉を紡いだ。
「…お前を助けた訳じゃない。俺は鴆酒が飲みたかっただけだ」
おや、と李牧が片眉を上げる。
「鴆酒が飲みたかったのなら、私が死んだ後でも、飲むことは出来たはずでしょう?」
自分を見殺しにすることは出来たはずなのに、なぜそれをしなかったのか尋ねると、信は居心地が悪そうな顔を浮かべた。
信が李牧を殺す動機を持っていることは、誰が見ても明らかである。
李牧が敵国の宰相であること、天下の大将軍と称えられる秦将の王騎を討つ軍略を企てた張本人であること。そして何より、李牧は信にとって親の仇に等しい。
あの場で信が鴆酒を奪わなければ見殺しに出来たはずなのに、一体どうして彼女はそれをしなかったのか、明晰な頭脳を持つ李牧も分からなかったのだ。
沈黙が二人を包み込む。先ほどの宴の間で感じていた嫌な沈黙と違い、李牧には妙に居心地よく感じるものだった。
やがて諦めたのか、信がわざとらしい溜息を吐き出す。
「…これ以上、呂不韋のせいで秦国が卑怯な連中だと思われるのは癪だからな」
「え?」
予想していなかった言葉に、李牧はつい聞き返した。
二度は言わないという意志表示なのか、信は李牧に背を向けて歩き出す。李牧は無意識のうちに、彼女の腕を掴んでいた。
腕を掴まれた信が眉根を寄せて、鬱陶しそうに李牧を見上げる。
「なんだよ」
「…卑怯なのは私の方です。お相子ですから、どうぞお気になさらず」
腕を掴んだ理由にはなっていないのだが、李牧の言葉を聞いた信の瞳がきっとつり上がった。
卑怯だと言ったのは、李牧が王騎を陥れた軍略を企てたからだと気づいたのだろう。
「放せッ」
乱暴に腕を振り払うと、信は歩きながら自分の怒りを宥めるように酒瓶に口づけた。
「毒が効かないとは、不思議な体質ですね」
「………」
背中を追い掛けながら声を掛けるが、信は振り返る素振りを見せない。
ついて来るなという意志表示なのだろうが、李牧は構わなかった。逃げられたら追い掛けたくなるのは男の性分なのかもしれない。
「私は酒があまり得意ではないのですが、鴆酒とはどのような味なのですか?」
「………」
「やはり猛毒ですから、何か特別な味がするのでしょうか?」
「………」
「鴆酒が飲めるのなら、他の毒酒や毒物を口にしても問題はないのですか?」
「………」
信は何も答えずに歩き続ける。そして、李牧も彼女と一定の距離を保ちながら、声を掛け続けていた。
…やがて、李牧の問い掛けの数が十を超えたあたりで、廊下の突き当りに到着してしまい、逃げ場所がなくなった信は憤怒の表情を浮かべながら振り返った。
「お前、しつこいぞッ!さっさと失せろ!」
真っ赤な顔で怒鳴られるが、李牧は少しも怯まない。
純粋な興味があって質問をしているだけだというのに、何一つ答えようとしない信がようやく振り返ってくれたことに、李牧は歓喜の表情を浮かべていた。
「一応、私は客人として招かれている立場なのですが…」
怒鳴られたのに笑顔を浮かべている李牧に、信が気味の悪いといった視線を向けた。李牧がゆっくりと口を開く。
「あなたは私の命の恩人ですから、何かお礼をさせてください」
「要らねえよ。お前にとっては命の恩人でも、俺にとっては違う」
決して馴れ合うつもりはないと言われ、李牧は寂しそうに顔を歪ませた。
厳しい言葉を掛けたはずなのに、李牧が去る気配を見せないので、信は諦めたように酒瓶に口をつける。
手に持っている酒瓶には中身がまだ残っている。さっさと李牧と分かれて、残りを飲み干したかったのかもしれない。
(面白い子だ)
李牧の思考は、あっと言う間に目の前の少女のことでいっぱいになっていた。
飛信軍の秦といえば、秦の六大将軍である王騎と摎の娘であり、仮面で顔を隠して戦う女将軍という情報しか知られていない。
しかし、実際に話してみると、信は一人称も口調も素振りも完全に男を真似ている。王家は名家として知られている存在だというのに、一切の教養を感じられないのだ。
毒に耐性があることももちろんだが、李牧はそのことにも興味を抱いた。
女が将軍の座に就くことはそう珍しいことではない。しかし、名家の生まれでありながら、男に嫁がなかったのは、両親が大将軍だったからなのだろうか。
まだ若い年齢でありながら、中華全土にその名を轟かせるほどの強さを持つ彼女は、秦に欠かせない強大な戦力だ。
是非とも趙に欲しい人材ではあるのだが、李牧が王騎の仇である以上、信が秦を離れることはないだろう。
「…さっさと宴に戻れよ。側近たちが心配してるんじゃねーのか」
廊下の突き当たりにある扉に背を預けながら、信が素っ気なく言う。
呂不韋の企みを阻止して李牧の命を救っただけでなく、まさか宴の間に残して来た側近たちを心配しているとは思わず、李牧は苦笑した。
「随分とお人好しなんですね」
「はあ?」
お人好しという言葉が気に食わなかったらしく、信が鋭い眼差しを向ける。しかし、彼女の睨みに怯むことなく、李牧は言葉を続けた。
「忠義に厚い将なら数多く見て来ましたが、敵の宰相を気遣うなんて、あなたのような将は珍しい。さすが、天下の大将軍の娘だ」
王騎と摎の存在を出すと、信の瞳が再び憤怒の色に染まる。
(やはりそうか)
この数刻の間で、李牧は既に信の情報を幾つか掴んでいた。毒に耐性があるということと、もう一つは弱点についてである。
本能型の将軍に分類される彼女の弱点は、感情的になりやすいということだ。
それが分かっただけでも、優位に策を立てることが出来る。
戦の最中、秦兵の亡骸を見せしめに使えば、罠を疑うこともなく、怒りに我を忘れて簡単に姿を現すに違いない。いかに冷静な副官や兵たちが引き止めたとしても、彼女の行動は抑えられないはずだ。
こちらは韓皋の城を明け渡したのだから、引き換えに秦国の強大な戦力である将軍の弱点を知るくらい安いものだろう。
飛信軍の女将軍の弱点をこうも簡単に入手できるとは思っていなかった。
常に自分たちが優位に立つ情報を探っている李牧の腹の内を、信はきっと見抜くことは出来ないだろう。優秀な軍師がいるのならば話は別だが。
…酒に陶酔すると、人間というものは簡単に口を開くようになる。
李牧が酒を苦手としているのは体質的に酔いやすいというのもあったが、安易に口を開くようになることを嫌悪しているからでもあった。
「さっさと戻れよっ」
壁に背中を預けながら、信は去ろうとしない李牧を睨み付けていた。
少しでも手を伸ばせば引っ掻いて来そうな、野良猫のような彼女に、李牧はつい笑みを深めてしまう。
「すみません。夢中であなたを追い掛けて来てしまったので、宴の間がどこだったか忘れてしまいました。案内してくれませんか?」
まさかまだ一緒にいなくてはならないのかと信の顔が強張る。
「私が一人で宮中をうろついていたら、何をしているのかと色々と疑われてしまうでしょう?」
もっともらしい理由をつけて道案内を頼もうとすると、信は腕を組み、顔ごと李牧から視線を逸らす。もう関わりたくないという意志の表れだった。
嫌われているのは分かっていたが、ここまであからさまな態度を取られると、何としてでも捻じ伏せたくなってしまう。
彼女を自分に跪かせたいという征服感が浮かぶのは、李牧が趙の宰相である前に、男という生き物だからである。
「…では」
野良猫のような彼女に引っ掻かれるのを覚悟で、李牧は信のすぐ後ろにある壁に両手をつき、体で完全に逃げ場を塞いでしまう。
「二人で何をしていたのだと、一緒に疑われますか?」
ゆっくりと顔を近づけて、甘い声で囁いた。
普通の女性だったのならば、趙の宰相という地位に上り詰めた男に迫られて顔を赤らめるだろう。
しかし、信は違った。それは敵同士である立場というのもあったが、普通の女性とは大いに違う生き方をしていたせいかもしれない。
唇が触れ合う寸前で、信が片手で自分の口に蓋をする。咄嗟に口づけを防いだ信は、李牧の双眸をじっと見据えた。
「…お前、死にたいのか?」
口を押えていない方の、酒瓶を持っている手が李牧の体を押しのける。
(ああ、そうでした)
一歩後ろに下がってから、李牧は思い出した。
毒に耐性がある彼女はその口で鴆酒を飲んでいた。口づけをしたら、たちまちその毒をもらい受け、絶命していただろう。
少しからかってやるつもりが、いつの間にか彼女に夢中になっていた自分に驚いた。
僅かに戸惑った李牧の表情を見て、信の口元が妖艶につり上がる。
「俺は構わないぜ?これは卑怯でも何でもなく、お前の意志だからな」
「………」
李牧は困ったように肩を竦めた。
咄嗟に信が口づけを防いでくれなかったら、今頃は毒が身体を巡り、苦しみにのたうち回っていただろう。毒から守ってくれたのは、これで二回目だ。
まさかこの短時間で二度も死を回避することになるとは思わなかった。信の弱点を知り、随分と良い気になってしまっていたのかもしれない。
これからやるべきことは山ほどあるというのに、こんなところで自ら死を選ぶところだった。
信が再び酒瓶に口をつけた。
宴の間で、李牧から杯を奪った時はあんなにも美味そうに飲んでいたというのに、今は李牧と二人きりでいる気まずさを紛らわすように、仕方なく飲んでいるように見える。
「あーあ…」
あれだけ量が入っていた酒瓶がすっかり空になると、信は楽しみを失ってしまったかのように、残念そうに溜息を吐いた。
こんな小柄な女が酒瓶を一つ丸々空にするなんて、中身が毒酒だとしても、信は随分と酒に慣れているらしい。
大の男でも簡単に酔ってしまいそうな量だというのに、まだ飲み足りないと言わんばかりに信はつまらなさそうな表情を浮かべていた。
「…お前もさっさと仲間のとこに戻れよ」
「残念ながら、迷子になってしまったので、道案内をしてもらわないと戻れません」
「………」
ここまでしつこくされると、信も諦めた方が賢明だと察したらしい。
今来た道を戻り出した信の後ろ姿を追い掛けながら、李牧は楽しそうに目を細める。
こちらのしつこい要求に諦めただけなのだろうが、律儀に案内してくれている彼女に、李牧はますます興味が湧いた。
無言で歩き続けていると、遠くから聞こえる楽器や談笑が聞こえた。随分と宴の間から離れてしまったらしい。
「…信?」
自分の前を歩いている信が息を荒くしていることに気付き、李牧は彼女を呼び掛けた。
猛毒である鴆酒を酒と何ら変わりなく飲む彼女だが、酔ったのだろうか。それにしても様子がおかしい。
「大丈夫ですか?」
どうしたのだろうと思い、彼女の肩を掴んで振り向かせようとすると、その手は叩き落とされてしまう。
「う…」
「信ッ?」
手を振り払った後、信は壁に手をついてその場にずるずると座り込んでしまう。李牧は焦った表情を浮かべた。
回り込んで彼女の前に膝をつき、様子を観察するが、まるで高い熱でも出しているかのように顔を真っ赤にして、苦しげに肩で息を繰り返している。
力なく手放した酒瓶を見て、まさか鴆酒の影響だろうかと考えた。毒に耐性があるようだが、こんな大きな酒瓶を一人で空けたのだ。それだけ大量の毒を摂取したということである。
いかに毒の耐性を持っているにせよ、身体が苦しんでいるのかもしれない。
「しっかりしてください。すぐに医師を頼んで来ますから」
ここは宮廷なのだから、皇族専用の優れた医師が常駐しているに違いない。李牧が助けを呼ぼうとした時、後ろから着物を掴まれた。
「放っておけ…死ぬ訳じゃ、ない…」
苦悶の表情でそんなことを言われても説得力がない。しかし、と李牧が言葉を紡ぐと、信はうっすらと涙を浮かべた瞳で李牧を睨み付けた。
「いいんだッ」
「………」
凄まれると、李牧は口を閉ざすしかなかった。
床に座り込んだままでいる信に、せめてどこか横になれる場所に連れて行こうと、李牧は彼女の背中を膝裏に手を回す。
予想以上に彼女の体が軽いことに李牧は驚いた。
「なっ、おいっ…!」
急に体を抱き起された浮遊感に信の瞳に怯えが走る。
「せめて安静になれる場所に連れて行くくらいは許してください」
「………」
腕の中で、信はぷいっと顔を背けた。もう抵抗する気力が残っていないのか、好きにしろとでもいうような態度だった。
彼女の体を抱えながら宴の間があった方まで歩いていくと、料理や酒を運ぶ従者たちが忙しなく廊下を歩いている。
そのうちの一人に声を掛け、用件を伝えると、すぐに空いている客室へ案内してくれた。
案内された部屋は咸陽宮へやって来た李牧たち一同のために用意していた部屋だったのだろう、とても綺麗に整えられていた。
信の体を寝台に横たえると、彼女は不満そうな表情で李牧を睨み付ける。
「…お前、道覚えてないって言ってたよな…」
「宴の華やかな音が導いてくれたんです。運が良かっただけですよ」
返事をするのも億劫だと言わんばかりに、信が顔ごと目を逸らす。
横になってもまだ苦しそうに呼吸をしている彼女を見下ろして、このまま離れて良いものかと李牧は躊躇った。
恐らく、信としては早く一人にしてほしかったに違いない。しかし、李牧は寝台の端に腰を下ろしたのだった。
背中を向けていても李牧が部屋から出て行こうとしないことを察したのだろう、信がわざとらしく溜息を吐いた。
「…早く戻れよ。本当に疑われるぞ」
「いいえ。そちらの丞相殿にちょっとした嫌がらせですよ」
呂不韋の行動を咎める者もいれば、李牧が死なずに残念がる者もいるだろう。
此度の訪問は、悼襄王から寵愛を受ける春平君を救い出すために、宰相の李牧が駆り出されたと言っても過言ではない。
春平君を取り戻すために必ずこちらが動き出すのを想定した上で、呂不韋は彼を利用したのだろう。
商人の出であるあの男にしてやられたという訳だ。損得勘定や交渉術に関しては中華一かもしれない。
韓皋の城を明け渡す代わりに、こちらも命を保証されたとはいえ、こんな気分で宴など楽しめるはずがなかった。
ましてや、向かいの席には辛酸を嘗めさせられた男が座っているのだから、なおさらのことである。
付き添ってくれた側近たちには申し訳ないが、宴に出たくないと子どものようなことを考えてしまった。
お互いに背中を向けており、表情は見えない。しかし、李牧はもう信が自分に嫌悪感を向けていないことを察していた。
どちらも口を閉ざしてしまったので、部屋に沈黙が広がる。しかし、この沈黙は決して重いものではなく、むしろ李牧の心を穏やかにさせるものだった。
「ん…はぁ…」
信の悩ましい吐息が聞こえるが、呂不韋の笑い声より何倍も良い。
寝台のすぐ傍にある台に水差しと杯が置いてあり、李牧は信に水を渡そうと考えた。酒の酔いを解くのに水は必要不可欠だ。
信が飲んだのは猛毒である鴆酒だとしても、彼女にとっては酒であることに変わりないのだから、水を飲ませれば少しは落ち着くかもしれない。
「信」
杯に水を汲み、李牧は彼女の肩に触れる。まるで火傷でもしたかのように、信の肩が竦み上がったので李牧は驚いて杯を寝台に落としてしまった。
「あっ」
寝台の上に横たわっている信に水をぶちまけてしまい、李牧は焦った表情を浮かべた。上質の着物を濡らしてしまったことと、酔っ払いに水を浴びせてしまった罪悪感に襲われる。
慌てて懐から手巾を取り出して、濡れた箇所を拭こうとするが、信がその手を押さえつける。
「さ、わるな…頼む、から」
「信?」
前髪で表情を隠した信が声を絞り出すように訴えたので、李牧は瞠目した。
手首を掴んでいる信の手が震えていることに気付く。
毒で苦しんでいる様子は少しもないが、この反応は一体何なのだろうか。他者に触られると、困ることでもあるのか。
本当に医師を呼ぶべきなのではないかと思い、李牧は信の顔を覗き込んだ。
両腕で自分の身体を抱き締めながら悩ましい息を吐き、頬を紅潮させて耳まで真っ赤になっていた。寝ぼけ眼のようなとろんとした瞳からは、女の色気が籠っている。
膝を擦り合わせているのが見えて、李牧はまさかと息を飲んだ。
決して悪戯をしたいという気持ちはなく、李牧は彼女の項にそっと指と這わせた。
「は、ぅッ…」
悩ましい声を上げ、信の身体がぴくりと跳ねる。
その反応を見て、彼女の身に何が起こっているのか、李牧は確信したのだった。
酒を飲むと饒舌になったり、陶酔感に浸ったり、様々な変化がある。中には内に秘めていた性的欲求に従う者もいる。
恐らく、信はその類なのだろう。毒に耐性のある彼女には媚薬のようなものなのかもしれないと李牧は考えた。
先ほどから頻繁に早く一人にして欲しいと訴えていたのは、一時的に増した性欲のせいに違いない。
感情的になりやすいという弱点だけでなく、こんな情報まで手に入れてしまった。
毒に耐性があることを知っていたとしても、今のような状態になることを知っている人物は秦にも少ないかもしれない。
まるで新しいおもちゃを買い与えられた子どものように、李牧の目は好奇心で輝き、口元には笑みが浮かんでいた。
The post 毒杯を交わそう(李牧×信)前編 first appeared on 漫画のいけない長編集【ドリーム小説】.
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息をするのも忘れて、悠仁はその場に立ち尽くしていた。まるで金縛りにでもあったかのように、指先一つ動かすことが出来ない。
(なんで…)
悠仁は今の状況を信じられずにいた。
唯一自由に動かせる思考を巡らせるが、一体彼はいつ自分を見つけたのだろう。
術者は、自分が張った帳に誰かが侵入したのならばすぐにその気配を察知出来る。しかし、帳に誰かが侵入した気配はなかった。
空はまだ絵具を塗ったかのように暗く、帳を破られた気配はない。一体なぜ彼はここにいるのだろう。
「悠仁、会いたかった」
最後に聞いた時と何も変わりない優しい声色に名前を囁かれ、後ろから抱き締められる。
肺が砕けそうなくらい力を込められて、悠仁の唇から、ひゅ、と笛を吹き間違ったかのような音が出る。
顔を見なくても、この腕の力だけで彼が憤怒しているのは分かった。
「ぅ…」
抱き締めている腕がゆっくりと悠仁の首に伸びたので、このまま殺されるのだろうと悠仁は覚悟した。
恨まれても仕方がないことをしたのは分かっている。謝罪もせずに姿を消したのだから、当然だ。
「……、……」
浅い呼吸を繰り返しながら、悠仁は身体の力を抜こうとした。抵抗はしないという気持ちの表れであり、これが悟への謝罪になると信じて止まなかった。
首に掛けられた手がゆっくりと離れると、顎に指が掛けられて、ゆっくりと目線を合わせられる。
もう二度と見ることもないと思っていた青い硝子玉のような美しい瞳がそこにあり、悠仁の瞳から何の感情かも分からない涙が溢れ出た。
薬品で焼け爛れた顔と体を見ても、悟は驚く様子を見せない。醜いと罵って、さっさと自分を忘れてくれたのならどれだけ良かっただろう。
しばらく無言で見つめ合い、悟の唇がゆっくりと笑みを浮かべた。その笑顔が自分との再会を喜んでいるものではないことを察する。
「ねえ、それ、誰がやったの?」
赤く爛れた肌を指さしながら、悟が刃のように冷たい声で悠仁に問い掛けた。
悟に抱き締められたまま、悠仁は口籠る。本当のことを言えば、悟は潔く見放してくれるだろうか。
「…自分でやったの?」
静かにそう問われても、悠仁は震えることしか出来ない。
長い沈黙を肯定と受け止めた悟がわざとらしく溜息を吐いた。
悟の指が頬をするりと撫でる。
その途端、空気に触れているだけでぴりぴりと痛みを感じていた肌が急に痛みを感じなくなった。
「えっ…?」
金縛りが解けたかのように、悠仁は反射的に自分の顔に触れた。赤く焼け爛れていた肌の感覚がない。
顔に触れた手も元の肌に戻っており、悠仁は瞠目した。
「…ああ、ちょっと待ってね。僕、女の子じゃないから手鏡なんて持ってないんだ。スマホで良い?」
懐から取り出したスマホを操作して、内カメラを作動させた悟は笑顔でスマホの画面を向けた。
「―――な…」
顔が、元に戻っていた。
まるで初めから傷などなかったかのように、あの赤く焼け爛れた肌がなくなっている。
久しぶりに元の自分の顔を見た悠仁は驚愕することしかできない。
「綺麗に戻したよ。少しでも残るようだったら美容整形のことも考えたんだけどさ、僕の力で治せて良かった。顔にメスを入れるなんて可哀相だから」
慈しむように悟が言う。手付きも声と同様に優しかったが、悠仁には氷のような冷たさに感じた。
彼は呪術界における回復術の一種である反転術式を使ったのだ。
「な、んで…?」
喉から声を絞り出すと、悟がにっこりと目を細める。
「恋人がひどい傷を負ったなら、何とかしてあげたいって思うのは普通じゃない?」
悟がひどい傷と言うほど、悠仁の全身は醜いまでに赤く焼け爛れていた。しかし、それは悠仁が自らの意志で行ったことであり、微塵も後悔などしていない。
一生会えないことを覚悟して悠仁が自らつけた傷を、悟は何の躊躇いもなく消し去ってしまった。
「ぅぐッ」
悟の手が容赦なく悠仁の顎を掴む。骨が軋むくらい力を込められて、悠仁は苦悶の表情を浮かべた。
「…ねえ、誰の許可を得てその顔に傷をつけたの?悠仁であっても僕は絶対に許さないよ?」
無理やり目を合わせられ、地を這うような低い声を掛けられる。口元は笑みを携えているが、瞳も声も先ほどとは別人のようだ。
「っ…」
悠仁の身体がかたかたと震え始める。
呪力の差だとか悟の強さだとか、そういったものは以前から分かっていた。しかし、今は違う。
根本的にこの男には敵わないという絶対的な恐怖が悠仁を包み込んでいるのだ。
自分の顎を掴む悟の手を、悠仁は反射的に弾いてしまった。ぱしん、と乾いた音が二人の間を駆ける。
「………」
弾かれて行き場を失った手を見つめ、悟は肩を竦めるようにして、なぜか笑っていた。
「…悠仁はさ、顔を変えれば、僕が興味を失うとでも思ってたの?」
一頻り笑った後に、悟は悠仁に問い掛けた。
「僕は悠仁のことを好きだって何度も言ったけど、もしかして、その顔と体が好きだと思ってた?」
「………」
悠仁は何も答えない。喉が強張って何も話せないのだ。
沈黙を肯定と受け止めた悟がわざとらしく大きな溜息を吐く。
「僕ってそんなサイテーな男だと思われてたんだ」
違う、と信は声を振り絞ろうとするが、空気を僅かに振るわせるばかりで、それは音にさえならなかった。
代わりに涙が溢れて来た。頬を伝う涙が、肌に沁みて痛むことはなかった。
悠仁が悟のことを愛していたのは本当だ。
それは嘘偽りないと誓えるし、彼と過ごした日々は悠仁の中で今もなお色褪せない思い出として残っていた。
離れている時間が長ければそのうち風化していくだろうと思っていたのに、少しも忘れることが出来なかったのは、今でも悟を愛しているからだ。
悟が五条家の嫡男でなかったのなら、もしかしたら違ったのかもしれない。何度そう思ったことだろう。
何も話さず、静かに涙を流し続けている悠仁を見て、悟が不思議そうに首を傾げている。
「…悠仁はさ、僕のことが嫌いになって逃げたの?」
そんなはずはないと悠仁は黙って首を横に振った。
否定してから、どうして素直に答えてしまったのだろうと後悔する。悟の優しさに甘えて縋ろうとする自分に嫌悪し、悠仁は俯いて唇を噛み締めた。
素直に打ち明けたところで、悟が五条家の嫡男である事実は変えられないし、自分が彼につり合う立場にはなれない。
「じゃあ、なんで逃げたの?」
今度は穏やかな声を掛けられる。悟が怒りを押さえていることはすぐに分かった。
青いガラス玉のような美しい瞳は、背筋が凍り付いてしまいそうなほど冷たい瞳をしていたからだ。刃のような鋭い眼差しを向けられているだけで、悠仁の身体は情けないほど震え始めた。
「連絡も取らないように、居場所を掴まれないように、随分と徹底したみたいだけど、そんなことで僕が諦めると思った?」
もちろん思わない。
いずれ諦めてくれることを信じて、悠仁はそのように行動をしていたのだ。
一年月日の近くが経っていたが、悠仁が少しも悟のことを忘れられなかったように、悟も同じだった。
しかし、気持ちが同じだったとしても、自分と悟の立場が変わる訳ではない。
悟に五条家の嫡男という立場を捨ててもらいたいなんてことは一度も思ったことはないし、自分さえ身を引けば解決するのだとばかり思っていた。
だから、このまま時間が経って、悟が自分のことを忘れてくれればそれで良かったのだ。
悟に気持ちも伝えず、身勝手な行動をしたことは傲慢だという自覚は十分にある。
恨まれても仕方のないことをしたと分かっているのに、悠仁はどうして自分の気持ちをわかってくれないのだと逆上してしまいそうだった。
全ては悟を想ってのことだった。
「…そうそう。何で僕がここに居たのか分かる?」
一向に悠仁が話そうとしないので、悟が急に明るい口調で話題を切り替えた。
こちらを見据えている瞳からは憤怒の色が消えていない。笑顔を浮かべているのは表面だけで、その仮面を外せばすぐにでも殺されてしまいそうだった。
「僕ね」
悟は窓に顔を向ける。帳によって真っ黒に塗り潰された空を見上げながら、悟は言葉を続けた。
「ここで悠仁のことを待ってたんだ。悠仁が帳を張る前から」
「ッ…!」
その言葉に、悠仁は目を見開いた。
帳に何者かが侵入した気配も、破られた形跡もないのに、なぜ悟が入って来れたのかと悠仁は疑問でならなかった。
しかし、悟は悠仁が帳を張る前からこの学校で待っていたのだという。
気配を察知出来なくて当然だった。帳を破って侵入したのではなく、初めから彼は帳の中に居たのだから。
呪霊の気配が消え去ったのは、帳の中にいる悟が祓ったからなのだろう。怪しむことをせず、すぐに逃げ出すべきだったのだ。
(…いや…)
悟は、悠仁が呪霊の気配を消えたことを不思議に思い、校舎内を探索すると分かっていたのだろうか。
まさか帳の中に悟がいるとは思わなかったとはいえ、なぜ誘き寄せられていることに気づかなかったのだろう。
そもそも悟はどうして自分がこの学校に来ることを知っていたのか、悠仁には分からなかった。
机に置いたままのココア缶を手に取り、悟が付着している砂を手で払った。
飲み口に砂が付いていないことを確認すると、彼はプルタブを開ける。小気味良い音が教室に響き渡った。
「…ん、甘い」
ココアを一口だけ口に含むと、味わうようにゆっくりと嚥下する。
早くここから逃げ出すべきだと分かっているのに、悠仁の脚は棒のように動かなかった。
悟が手に持っているココア缶が、今朝、公園のベンチに置かれていたものと同じ種類なのは、単なる偶然なのだろうか。
嫌な予感がして、心臓が早鐘を打つ。
―――もしも、悟が手に持っているココアがあの公園で買ったものだったなら?
悠仁は血の気のない唇を戦慄かせた。
「…いつ、から…」
「ん?」
「いつから、俺のこと…気づいて…」
ココアをもう一口啜りながら、悟が不思議そうに小首を傾げる。
唇をぺろりと舐めた悟は、楽しそうに双眸を細めた。
「悠仁がいなくなった日から、ずっとだよ」
悟の言葉を、悠仁はすぐには信じられなかった。
「どうして…」
掠れた声を振り絞る。
まさか悟は、悠仁が居なくなった日から、ずっと自分のことを追い掛けていたというのか。
東京の呪術高専を自主退学してから、もう一年近くが経っている。スマホだって変えたし、位置情報を特定されるような類のものは全て手放した。連絡を全て絶ち、足が付かないように注意を払って呪術師としての仕事の依頼を受けていた。
逃げることが出来ていると思っていたのは自分だけで、悟は傍でずっと自分を嘲笑っていたのかもしれない。
今までずっと自分の居場所を知っておきながら、どうしてすぐに姿を現さなかったのだろう。
悠仁が瞠目していると、悟は静かにココアに口をつけていた。空になった缶を机に置き、彼は気だるげな表情を浮かべる。
「気の迷いかと思ってさ。ちょっと時間置いたらすぐに帰って来てくれるって思ってたんだよね」
「………」
「僕、何か悠仁に嫌われるようなことしたかなあって反省してたんだけど、全然思い浮かばないの」
青い瞳が悠仁の姿を捉える。
「ねえ、なんで逃げたの?僕のことが本当に嫌いになったなら、そう言ってくれれば良かったのに、悠仁ってば何も言ってくれないんだもん」
「…、……」
唇を戦慄かせたが、声は喉に張り付いて出て来ない。僅かに空気を震わせるばかりで、悠仁は涙を浮かべながら俯いてしまった。
嫌いになって逃げ出した訳ではないのだと悟に言えば、彼はなおさら逃げた理由を詰問して来るだろう。
悟さえ自分のことを忘れてくれればそれで良かったのにと、悠仁は奥歯を噛み締めた。
「他の誰かと浮気する訳でもない、真面目に呪霊を祓って呪術師を続けて…ねえ、僕、悠仁が何したいのか全然分かんない」
子どもが初めて目にしたものを「あれは何」と問うように、目を輝かせながら悟が問う。
しかし、彼を納得させる答えなど悠仁は持ち合わせていなかった。
家柄や立場など、悟にはどうでも良いことなのだから、どうしてそんな理由で逃げたのか理解出来ないと言うに決まっている。悠仁にはどうしようも出来ない問題だというのに、悟にしてみればその程度の認識なのだ。
「僕のことが嫌いになった訳じゃないのなら、他の誰かを好きになったんじゃないなら、なんで?なんで、逃げたの?」
骨ばった大きな手が悠仁の肩を掴む。目を背けることさえ許されず、悠仁は思わず固唾を飲み込んだ。
今さら逃げ出すことは叶わない。そもそも逃げ出せてもいなかったのだから、もう諦めるしかないのかもしれない。
「………」
瞬き一つ見逃すまいとして、悟が悠仁の顔を見つめている。青いガラス玉のような美しい瞳が、氷の刃のような冷たさを秘めていて、とても恐ろしく感じられた。
「…先生と、一緒に、なれない」
情けないほど弱々しい声を喉から振り絞ると、肩を掴む悟の手に力が込められた。
目の前にある悟の表情は微塵も変わっていないのに、爪が食い込み、痛みに悠仁の顔が歪む。
「俺のこと、忘れて、幸せになってほしかった、から…」
ぎりぎりと肩から伝わる痛みを堪えながら、悠仁は必死に言葉を紡いだ。
身勝手極まりない傲慢な行動だという自覚はある。しかし、いっそのこと、軽蔑してくれればとさえ思っていた。
悟が幸せになるためには、自分という存在が、彼の世界から消えるべきなのだ。
「…だから、僕に嫌われたくて、そんなことしたの?」
肩を掴んでいた手が離れ、悠仁の頬を擦る。今は元に戻っているが、悟が触れているのは赤く焼け爛れていた箇所だ。
頷くこともせずに悠仁は沈黙する。それを肯定と受け止めた悟は、体のどこかが痛んだような顔をして、悠仁のことを強く抱き締めた。
「…何が悠仁をそうさせたの?」
低い声で囁かれ、悠仁は心臓を直接握られたかのような感覚に襲われた。
悠仁を強く抱き締めたまま、悟は彼女の耳元で言葉を続ける。
「僕の家の奴らになんか言われたんでしょ?それとも他の奴ら?」
「あ、あの…」
腕の中で悠仁は喘ぐような呼吸を繰り返す。
独断で行ったのだと言おうとした途端、物凄い勢いで悟に顎を掴まれる。骨が軋むくらい強く掴まれて、悠仁は痛みと恐怖で体を硬直させた。
「悠仁が居なくなってから、家の奴らが急に縁談の話振って来るようになったから、おかしいと思ったんだよね」
「……、……」
「悠仁は優しいから庇うかもしれないけどさ。…いい子だから、本当のことを教えて?」
優しい声色で尋ねられ、かちかちと歯が鳴る。
悟の青い瞳に、恐怖で凍り付いた表情を浮かべている情けない自分の顔が映っていた。
何も話そうとしない悠仁に、追い打ちをかけるように悟が問い掛ける。
「僕の家の奴らに脅されたんでしょ?」
「………」
首を縦にも横にも振らず、口を噤んだままでいる悠仁を見て、悟は確信した。
悠仁の唇に指をそっとなぞったかと思うと、彼は静かに微笑む。
「誓約でも交わした?僕に話さないことを条件に、ってところかな」
「………」
悠仁は何も答えられない。
それを肯定と認めた悟は悠仁に真っ直ぐな視線を向け、決して逸らそうとしなかった。まるで悠仁の瞬き一つ見逃すまいと注視しているようだ。
何も話していないというのに、青いガラス玉のような瞳に全てを見透かされているような心地になる。
「その誓約はもう無効だから、悠仁はなんにも気にしないでいいんだよ」
沈痛な面持ちで唇を固く引き結んでいる悠仁に、悟は明るい声色で言う。
「え…?」
悟が何を言っているのか理解出来ず、悠仁は呆然とすることしか出来ない。
「気になるなら確かめてみたら?誓約に背くことをすれば、すぐに分かるよ」
利害による縛りである誓約。それを破ることは罰を受けること、即ち、死を意味する。呪術界では常識のことだ。
まさか自分の居場所だけでなく、誓約のことまで知っていたというのか。悠仁は直接心臓を鷲掴みにされたような感覚に息を詰まらせた。
「悠仁」
いつまでも口を閉ざしたままでいる悠仁に、悟が穏やかな声を掛ける。
「本当のこと、教えて?誰と、どんな誓約を交わしたの?」
頬に手を添えられて、そう問われると、悠仁は術にでも掛けられたかのように唇を動かした。
「…五条家の人に、先生に近づくなって、言われた」
それは誓約に反する行為であると、悠仁は分かっていた。体が飛散してしまう罰を覚悟することも出来ないまま、勝手に口が動いていたのだ。
しかし、いつまでも苦痛はやって来ない。体に異変も起きないことから、悠仁は瞠目する。
悠仁本人からその言葉を聞けた悟は満足そうな笑みを浮かべている。
「ほら?なんともないでしょ?」
「………」
「だって、悠仁が誓約を交わした相手はもういないんだから、誓約自体、成り立たないんだよ」
全身の血液が逆流する感覚に、悠仁は眩暈を覚える。
悠仁が誓約を交わした相手を、同じ家の人間を、彼は殺したのだ。言葉を噛み砕かなくても、悠仁には分かった。
誓約が第三者によって打ち破られるということは、誓約を交わした、どちらかの人間の死しか有り得ない。
悠仁が五条家の人間と誓約を交わしたことを、なぜ悟は知っていたのだろう。
悟の想いに応えてはいけないのだと自分を戒めるようになったのは、彼の家臣だと名乗る人物が現れてからだ。
彼は五条家の嫡男である悟がいかに尊い存在であるか、そしてそんな彼の妻に相応しい人物とはどんな女性かを悠仁に言い聞かせた。
その後にはっきりと、お前は五条家の人間には相応しくないと、そう言われた。他人に言われなくとも、悠仁にはその自覚は元々あった。
身寄りもなく、名家の出でもない悠仁が誇れるのは、両面宿儺の強大な呪力だけ。
五条悟という男に相応しい女の条件を何一つ満たしていない自分は、悟に近づいてはいけないのだ。
家臣を名乗る男は、悟に今の話を言わないことを誓約にして、悠仁を悟から遠ざけた。その制約は、決して男の保身ではない。
自らの命を天秤にかけて、その男は悠仁が悟に近づかないことを確かめようとしていたのだ。もしも悠仁が誓約に反したことで男が死ねば、他の家臣が気づく。
そうなれば、再び悠仁に悟に近づかぬよう説得しに別の家臣が来るかもしれないし、強行手段に出るかもしれなかった。
だからこそ、悠仁は何も言わずに悟の前から姿を消したのだ。誓約に反さないよう、悟にこれ以上の迷惑を掛けないために。
それがまさか悟自ら、家臣を消し去っただなんて思いもしなかった。第三者によって誓約が破られた気配も感じなかった。
「…まだ、つけていてくれたんだね」
頬に添えられていた悟の手が、するりと肌の上を通って耳に触れる。右の耳朶に埋め込まれている小ぶりな銀色のピアスを指先で軽く突かれた。
悟と交際を始めた頃に、初めて彼から贈られたプレゼントだった。
呪術高専は他の高校と違って校則が緩い。アクセサリーに関しても同様で、任務に支障をきたさなければ特に咎められることはなかった。
―――指輪はちゃんとした時に、ちゃんとしたものを贈りたいから。
照れ臭そうに悟がはにかんだのを、悠仁は今でも覚えていた。
いつも大人の余裕を見せつけている彼が、そんな風に余裕のない顔を自分だけに見せてくれることが、恋人としてこの上ない優越感に浸ることが出来た。
ピアッサーを使ってピアス穴を開けてくれたことも、あの時のじんと痺れるような熱い痛みも、ちょっとだけ大人になったと誇らしげに思えた日のことも、悠仁はちゃんと覚えている。
ピアスをつけているのは右耳だけで、もう一つのピアスは悟の左耳にある。左右のピアスを悟と悠仁でそれぞれつけていた。
悟とのことは全て忘れなくてはと思うのに、いつまでも色褪せない思い出として、心に根付いている。
悟の左耳にも同じデザインのピアスがついているのを見て、離れている間も同じようにピアスをつけてくれていたのだと分かった。
「悠仁」
身を屈めた悟が耳元に唇を寄せて来たので、悠仁は反射的に目を閉じた。
「…うん、電池切れてなくて良かった」
安堵したように囁かれた言葉に、悠仁は目を見開いた。
唇の柔らかい感触を耳元に感じたかと思うと、再び悟に抱き締められる。
「そのうちこうなるんじゃないかなって思ってたんだ」
まるで今日までのことを事前に察していたかのような口ぶりだった。
「まさか誓約を交わさせてまで、僕から悠仁を遠ざけるとは思わなかったけど、もう大丈夫だよ。悠仁に近づかないように、ちゃあーんと五条家当主としてお説教しておいたから」
「………」
「でも、悠仁が自分を傷つけるくらい苦しい想いをしていたんだから、もっと…もっと、苦しめてから殺すべきだったね」
声色は穏やかだったが、青いガラス玉のような瞳からは憤怒を感じる。毛穴という毛穴に針が突き刺さるような、嫌な感覚に全身が包まれる。
やはり彼があの男を殺したのだ。
「せ、んせ…」
「ん?なあに」
「…さっきの、電池って…なに…」
先ほど悟が独り言のように囁いた言葉は、悠仁の中でわだかまりとして残っていた。
呪術高専を自主退学した後にスマホはすぐに新しい物に取り換えたし、何処にも足がつかないように徹底していた。
悟が先ほど言った言葉が、自分の居場所を知っていたと繋がりがあるような気がしてならない。
悠仁の問いに、悟は肩を竦めるようにして笑った。
優しい手付きで右耳のピアスを撫でつけられた瞬間、悠仁は火傷でもしたかのように、悟の腕を振り解いて後ろに下がった。
「………」
二人きりの教室に、悠仁の荒い呼吸だけが響き渡る。
帳を下ろしたせいで、自分たちだけがこの世界に取り残されてしまったかのような錯覚を覚えた。
目の前に立っている悟から静かな狂気すら感じる。外見は五条悟その人のはずなのに、なぜか中身だけが全くの別人のように思えた。青い瞳を直視出来ず、悠仁は後退る。
「逃げてもいいよ?すぐに見つけちゃうけどね」
悟がスマホを操作する。見せつけるように悠仁に画面を翳すと、そこには地図が表示されていた。
地図が示しているのはこの学校であり、その中心で赤い丸が点滅している。赤い色に目がちかちかとした。
「ッ…!」
震える手で悠仁は右耳のピアスを乱暴に外し、床に投げ捨てた。今日まで身体の一部だったピアスを急に外したことで、耳朶がしくしくと切なく疼いた。
小気味良い音を立てて転がったピアスを見下ろし、悟が憂いの表情を浮かべる。
「初めて僕が悠仁に贈ったプレゼントなのに…」
残念そうに言いながら、ピアスを拾い上げた悟はまるで悠仁に見せつけるように、そのピアスに舌を伸ばした。
大切な恋人からの初めての贈り物であるお揃いのピアスに心を躍らせていた自分を、悠仁は思い切り殴りたくなった。
まさかあのピアスに位置情報を知らせる機能がついていたなんて誰が想像出来ただろう。きっと悟も知られまいとして何も告げずに贈ったに違いない。
渡されたあの日からずっと悟は自分のことを監視していたというのか。
瞼の裏に、幸せだった日々の記憶が過ぎる。
悟も自分と同じ想いでいてくれたのは知っていた。だけど、今目の前にいる悟のことを悠仁は何も知らない。
自分に愛を囁いてくれた悟が、自分をずっと監視していた事実に、悠仁の中で何かが音を立てて崩れ落ちていった。
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