日本のどこにも似ていない会津。その歴史と魅力を深く感じる。[福島県南会津郡]

一面の田んぼの銀世界と、墨の濃淡で描いたような里山は冬の景色。

アレックス・カー

古民家のオーソリティーとして知られるアレックス・カー氏が、隠れた茅葺き民家を求め冬から初夏にかけて、数度にわたって南会津を訪問。「どの季節に訪れてもそれぞれに違った魅力がありますね」と語ります。自然・歴史・食文化……。国内に限らず旅をすれば、どこででもその土地らしい観光資源としての魅力に出会えるもの。日本を拠点とし、世界を旅して回るアレックス氏の目に映った、南会津の持つポテンシャルについて語って頂きました。

緑豊かな広葉樹に囲まれた里山の裾野にある『前沢曲家集落』は、『大内宿』とはまた違った魅力を持つ。

アレックス・カー人知れず茅葺き民家が点在する、南会津。

一連の旅で改めて感じたのは、東北には広く知られていない魅力がまだまだあるということです。ひとえに東北人の気質というのもあるのでしょうが、「自ら自信を持って伝える」ということに長けていないのかもしれません。茅葺古民家の宿場がそのまま残された『大内宿』は知識としては押さえていて、一度訪れたいと思っていたので感動しました。残すべきものを残しつつ観光地としても整っていますし、茅葺伝習施設をご案内頂いた「こめや」の吉村氏をはじめとした皆さんの、古民家継承も見えない所で大変な努力をされていることが伝わってきました。

今回とにかく驚いたのは、会津各地にトタンは被せられていても茅葺き屋根の民家そのものがたくさん残っているということです。家1戸の規模は関西より大きくて、曲家も雪国特有のもので珍しいのです。古民家の集積地として知られた『大内宿』だけでなく、『前沢集落』や『水引集落』など、あまり知られていないけれども見応えのある茅葺き屋根集落も少なくなく、旧本陣を中心にした『糸沢集落』の佇まいも個人的に好きになりました。

下郷町の『大内宿』は旧街道沿いに整然と茅葺き民家が並び、毎年多くの観光客が訪れている。

雪解け進む春の『大内宿』。その眺めは全てが白ひと色に包まれる冬から、命の色に満ちる季節へとその眺めは鮮やかに一転する。

「こめや」の吉村氏と、集落の茅葺き伝習施設にて。遠方から実習に訪れる人も少なくない。

保存のため茅葺き屋根にトタンを被せている「民宿ふじや」。現代住宅にはない屋根の厚みが重厚な雰囲気を漂わせている。

アレックス・カー古民家を更に美しく見せる広葉樹の山々も魅力のひとつ。

また、会津は周辺の山々が漆器の原材料である「木地」の供給地であるためか、暮らしの場に近い里山から奥山にいたるまで広葉樹林が多く、国内のどこと比べても常緑樹の杉が比較的少ないことが風景として優れていると感じました。春の萌えから樹種によって濃淡の違う夏の緑、そして秋の紅葉の美しさは言うまでもないでしょう。山肌に積もった雪の白が引き立てる、冬の落葉の枝ぶりも見逃してはなりません。その山々を背景とした民家集落が、広い範囲に点在しているのが魅力なのです。

特に『前沢集落』は手前を川が流れ、田畑が広がった先に曲家の家々が点在しています。日本の田園風景が山裾に小ぢんまりとしており、まるで桃源郷のようです。整然と並ぶ『大内宿』とは違う魅力があるので、合わせて訪れてほしい場所。これから人口減少が進み、ますます保存への課題は増えていくばかりですが、持ち主が年2、3回様子を見に来る「半空き家」の活用が増えていくといいですね。

新緑の息吹もまた、広葉樹林の魅力だ。

『前沢集落』。時が止まったような集落内は静かに散策したい。正面の建物は『曲家資料館』。

近くの山からは『前沢集落』の全景が見渡せる。アレックス氏のお気に入りの場所となった。

アレックス・カー住んでいるからこそ伝えられる「茅葺民家」の魅力。

茅葺きの民家の魅力は、古民家全体にいえることですが、太い柱や梁、煤竹、土壁など自然素材を使っていること。特に煤で真っ黒になった梁の荘厳さは神秘的ですらあります。家全体を風が吹き抜けるオープンさも現代の住宅にはない魅力です。実際に暮らしているからこそわかることですが、茅は自然の省エネルギーシステムとして優れており、冬は断熱効果が高く、夏は積み重なった茅の間の水分が太陽光で蒸発することで気化して涼しくなります。何より人の心に与える温かみは抜群でしょう。

日本での茅葺民家は「近世のお百姓さんの家」という印象が強いのかもしれませんが、イギリスでいえばコッツウォルズにあるような草葺屋根の住宅は、銀行家などサラリーマンが「住みたい」と思って転居してくる、憧れの住まいなのです。

また、伝統的で扱いにくい建物と思われていることも多いのですが、デンマークやオランダの建築家は、ガラスや鉄骨と組み合わせるなどの新しい発想で、草葺屋根に挑戦しています。葦や茅は厚みを持たせて積み重ねるとまるで彫刻するように造形できる自由さが魅力なのです。実際の建築例も面白い形の屋根が多いですね。もちろん、一から造るのではなくて今あるものに手を加えていくことも大切です。

集落で唯一、曲家内部が見られる『曲家資料館』で区長の小勝氏と。床も柱も梁も、囲炉裏の煤で黒光りしている。

デンマークにある草葺き屋根の家。この自由な造形こそが草葺き屋根の魅力だろう。

アレックス・カー観光の流れはこれからもっと変わる。

今の日本の観光は「道の駅」など、完成した施設に遊びに行くのがメインですが、前編にもあったように「何もない所へ行きたい」というアドベンチャー魂により「本物の素晴らしさに触れること」へと移っていくでしょう。むしろ海外からの観光客の方が先に、地方へと広がりつつあるのです。日本も「モノ消費からコト消費」へとシフトしていますが、その「本物」を、胸を張ってきちんと説明できることも、地域の課題のひとつになっていきます。

これまで私が訪れたアドベンチャー魂をかきたてる魅力溢れる場所については、色々なメディアで随時発信しています。今後南会津についても書いていきたいと考えています。2年後には『ニッポン巡礼』という本を上梓する予定でいます。それまでにもっと、南会津を巡り新たな発見ができれば幸いです。

日本一標高の高い地にあるという『檜枝岐(ひのえまた)の歌舞伎舞台』も茅葺き。神社境内の階段状の客席まで含めて国の重要有形文化財に。

住所:〒967-0306 福島県 南会津郡南会津町 前沢 MAP
http://www.tateiwa-tic.jp/maezawa/

住所:〒967-0333 福島県南会津郡南会津町湯ノ花312 MAP
電話: 0241-78-2627
http://yunohana-fujiya.com/

住所:〒967-0521 福島県南会津郡檜枝岐村字下ノ原 MAP
http://www.oze-info.jp/spot/hinoematanobutai/

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

最先端の技術を使って、次世代につなぐトマト作り。[エコファーム 21/大分県竹田市]

中身がぎゅっと詰まった『エコファーム21』産のトマト。冬季には糖度が高くなり、更に甘いトマトが出荷される。

エコファーム21西日本有数のトマトの産地で変革を起こす。

西日本でも有数の夏秋トマトの産地として知られる、大分県竹田市荻町。標高500mの高原地帯であるこの地域は昼夜の温度差が大きく、中身の詰まった甘くジューシーなトマトが育ちます。

トマトの一大産地である荻町で、農業にITを取り入れ、働き方においても大きなイノベーションを起こしている農家がありました。それは太田修道氏が経営する『エコファーム 21』です。のどかな田園風景が広がる荻町で、ひときわ目立つハウスが太田氏のフィールドです。

社員11名を抱える『エコファーム 21』の代表・太田氏。最新技術を取り入れた農業の経営革新で、新たな農家の道を創り上げている。

荻町では太田氏の所にしかないオランダ式の大きなハウス。

エコファーム21オランダ式の最先端ハウスが地域農業を救う。

高さ5.75m、一般的なビニールハウスの約3倍となる高さを持つガラス張りのハウスは、太田氏がオランダから取り寄せたものです。九州でも数少ないオランダ式のハウスを、なぜこの小さな町で取り入れようと思ったのでしょうか。太田氏が考えていたのは、次世代へと続く農業でした。

農業高校卒業後、実家でトマト栽培を始めた太田氏。約20年間家族で農業を続けてきましたが、ある時農家の未来に危機を感じるようになったといいます。

「30代の頃に農業協同組合の理事を務めて、経営にも携わっていて。その時にこれから生産者が高齢化でどんどん減っていく現状ではまずいっち気付いてな。最近は地震とか台風も多いやんか。これからは自然災害にも強い農業形態を持たないとダメなんよ。しっかりしたハウスを作って、ひとり当たりの栽培面積を増やして。地域が潤うために、1年間確実に収穫できるような農業形態をつくらんといけん」と太田氏は話します。

そこで向かったのが、ハウス栽培の先進国・オランダ。風速55mまで耐え得るガラス張りのハウスには、最先端のシステムや設備が整えられていました。自然災害への対応がしっかりできていること、そして最先端の技術が生んだ農家の働き方にも感銘を受けた太田氏は、オランダ式を取り入れることを決意。『エコファーム21』という法人を立ち上げました。この結果、荻町で地域農業のイノベーションが起きたのです。

三角屋根の部分は天窓になっており、空気の流れを良くする効果があるという。

ビニールハウス特有の蒸した空気がこもらず、明るく快適な空間でトマトがのびのびと育っている。

エコファーム21若い世代とともに歩むための働き方改革。

ハウスの中は温度・湿度の調整はもちろん、水やりも全自動。更に週に1度業者がトマトの生育状況を確認し、水分や肥料の過不足を数値化。トマトが育ちやすい環境をデータでコントロールすることで、味に差がないトマトを安定的に供給できるようになりました。

それにより大きく変わったのが働き方。『エコファーム21』では6月~9月の繁忙期を除き、完全週休2日制、勤務時間は7時半~17時半までという、まるでサラリーマンのようなスタイルを実現したのです。

「高齢化が進む中で僕たちは、先人が作り上げてくれた農業をしっかりと次世代にバトンタッチしていかんといけん。でも働く環境が良くないと続かんやろ? だからお金をかけて最新鋭の機器とハウスを持ってきた。普通のサラリーマンと同じ感覚で働ける、そんな若者が憧れるような農業形態を先陣切ってやれたらいいかな」と太田氏。

10年後、20年後の地域農業の未来を考えての投資は、決して安くはありません。数億円という初期費用に加え、膨大なランニングコストもかかります。しかし、それも地域の農業を次世代へとつないでいくため。その思いに呼応するように若い社員が集まり、収穫量と収入は格段に増加。10年間で初期投資を回収することができたのです。

夏場ではカーテンを閉めることができ、半日陰状態で作業ができるので、社員の負担も少ない。

20代、30代の若手社員に1ハウスを丸ごと任せて、若手の育成も行っている。

エコファーム21一種入魂の販売戦略。

手に持った瞬間、ずっしりとした重みを感じる『エコファーム21』のトマト。ホルモン剤を使わず蜂の受粉によってトマトを成長させることによって、果肉がぎっしり詰まり、甘みのある仕上がりになると言います。『エコファーム21』で作っているトマトは、この大玉トマト1種類のみ。品種はあえて増やさない、ここにも太田さんのこだわりがありました。

「『エコファーム21』のトマトとして出荷して、お店や時期によって品種を変えると“この前と味が違う”ということで顧客が離れていってしまうかもしれない。だからうちの商品はこれですよと自信を持って言える商品を1種類だけ作り続けるんよ」。

現在は直接販売せず、九州内のスーパーマーケットに卸しているが、今後は自社で育てた安心・安全なトマトを消費者の元へ届けたいと、生産から販売までを自社で行おうと画策している太田氏。100アールからスタートした農場も、今や年間550tものトマトを収穫する3.4haの大規模農場へと急成長を遂げました。

自社で選果場も完備しており、パートも含めて40名近いスタッフが栽培から卸の業務まで携わっている。

12月〜2月の時期を除いて年間を通して収穫できる『エコファーム 21』のトマト。

2週間に1度、ハウスの責任者を集めて勉強会を行い、質の高いトマトを供給できるようにしている。

エコファーム21地域のための投資で、未来へ続くトマト作りを。

地域の未来のために投資を続ける太田氏。そんな彼の次なる挑戦は6次産業への進出です。トマトを使った特産品や竹と魚粉を配合した肥料の開発など、オリジナル地域ブランドを作りたいという野望を教えてくれました。
「後に続くような農業をやってかんと面白くないやんか」。
地元の特産品を世代を超えて残していきたいという思いに突き動かされた、太田氏のトマト作り。最先端の技術を取り入れた農業が今、新たな地域の未来を描き始めました。

20代、30代の社員のほか、福祉施設とも連携し、現在は40名近いスタッフが働いている。

住所:大分県竹田市荻町恵良原2108番地1 MAP
電話:0974-68-3156

湯布院の地に溶け込んで湯布院とともに歩む。[COMICO ART MUSEUM YUFUIN/大分県由布市湯布院町]

「旧由布院美術館」の跡地にオープンした現代美術館。村上 隆氏と杉本博司氏の作品を常設展示(photo:イクマ サトシ)。

コミコアートミュージアム由布院「ムラ」である湯布院との共存を目指して。

豊かに湧き出る温泉と、「豊後富士」とも呼ばれる由布岳を望む美しい景観。そして、先進的な地域おこしのお手本の地としても知られるのが、大分県の湯布院です。

「一度は訪れてみたい!」と憧れる人の多い温泉地ですが、そこに2017年10月22日、今までにない斬新なスタイルの美術館がオープンしました。

その名は『COMICO ART MUSEUM YUFUIN』。運営するNHN JAPANが、文化芸術における社会貢献の一環として建設しました。“COMICO”はNHN JAPANのグループ企業NHN comicoが提供するオリジナルのコミックやノベルが楽しめるスマートフォンアプリケーションです。

隈研吾(くま・けんご)氏の設計による建物は、由布院の景観に溶け込みながらも個性と格式を漂わせています。更に美術館の鑑賞スタイルに一石を投じる「ガイド式のツアー制」を採用し、独自の路線を追求しています。(後編はコチラ

湯布院のシンボルとして親しまれている由布岳を大きく望める眺望も魅力(写© NHN JAPAN Corp)。

2階の多目的ラウンジは、由布岳を望みながら厳選された書籍を楽しめるライブラリーとなっている(写© NHN JAPAN Corp)。

コミコアートミュージアム由布院サブカルチャー企業の枠を超えて社会貢献を目指す。

『COMICO ART MUSEUM YUFUIN』の建築のコンセプトは、「自然素材と現代的素材の共存」です。湯布院の街や風景との調和を図りながらも、確かな個性を漂わせています。

加えて、運営者のNHN JAPANが韓国資本であることから、近年急増している韓国人観光客やインバウンドを重視。外国人観光客が訪れやすい地を、日本中の候補地の中から選んだそうです。

それらを踏まえた上で、地域の人々と連携しながら湯布院を盛り立てていく――こうしたコンセプトとポリシーをもとに、高い水準の文化芸術を提供しながら社会貢献を目指しています。

湯布院の景観に溶け込んだ、隈氏による建築は必見(写© NHN JAPAN Corp)。

コミコアートミュージアム由布院湯布院と周囲の自然との調和を第一に、一流の建築家に依頼。  

『COMICO ART MUSEUM YUFUIN』の設計を手がけたのは、東京大学の教授で新国立競技場やフランス・パリのエントレポット マクドナルドなどの建築で知られる隈氏です。同館の「湯布院の風土と景観に合った建物にしたい」という依頼に沿って、「自然と調和する建築」をテーマに取り組みました。

派手さや自己主張の強さはないものの、確かな個性と存在感を実現。様々な「個」の調和によって成り立っている湯布院の街並みに溶け込みながらも、自身のコンセプトとポリシーを訴えています。

その象徴ともいえるのが、遠くからは漆黒に見える焼杉の外壁。湯布院や周囲の景色をくっきり浮かび上がらせて、その価値を引き立てています。それでいて、近寄って見れば確かな木の温もりや風情を内包。分節された小さな屋根の連なりは、小さな家々が集まって成り立つ湯布院の景観と調和して、一体化しながら個性を漂わせています。

個性的でありながら謙虚。謙虚でありながら唯一無二。悠然とたたずむ存在感(写© NHN JAPAN Corp)。

ロゴデザインは無印良品アートディレクション、代官山蔦屋書店VIなどで知られる原研哉(はら・けんや)氏が担当(写© NHN JAPAN Corp)。

コミコアートミュージアム由布院中からの眺めも格別! 湯布院の美を再発見。

また、美術館の内と外に広がる風景を眺めれば、時間と空間の絶妙な均衡からなる美しさを堪能できます。
大都会のコンクリートジャングルを離れて、癒しやひらめきを得る。自然と文化の調和の中で、心身をリフレッシュさせる。そんな癒しの場としても訪れたい場所です。

こぢんまりとした静かな街でありながら、全国的にも稀有な存在感を放つ湯布院。そのコンテンツ性をも写し取った『COMICO ART MUSEUM YUFUIN』は、建物自体が十分以上に魅力的です。更に高い水準のアートを取り揃えており、その存在は、美術館という施設の在り方を新たなステージへと引き上げているといってもよいでしょう。

次回の後編では、そんな『COMICO ART MUSEUM YUFUIN』が収蔵している独自の展示物と、それらを自由な発想で鑑賞できる「ツアー制」をご紹介します。(後編はコチラ)

様々な家々が集い、調和して成り立っている「ムラ」としての湯布院。その風景と存在をアンサーとして、一体化することを目指す(写© NHN JAPAN Corp)。

住所:大分県由布市湯布院町川上2995-1 MAP
電話:0977-76-8166
営業時間:9:30 ~ 17:30
ツアーご案内時間:09:40 ~ 16:00   ※所要時間 約60分
休館日:隔週月曜日
観覧料:
一般 :1,500円
学生 :1,000円 (高校・中学・小学生)
子ども:無料 (小学生未満)
※ 表示料金は全て消費税込です。
入館に関する詳しい内容はチケットガイドの入館の方法をご確認ください。
快適な観覧のため、事前予約制のツアー形式でご案内しております。
お手数ですが、お越しになる前日までに申し込みをお願いいたします。
http://camy.oita.jp
写真提供:COMICO ART MUSEUM YUFUIN

鳥取の誇りを改めて思い出す。地元ゲストを招いた『DINING OUT LOCAL DAY』の意義。[DINING OUT TOTTORI-YAZU with LEXUS/鳥取県八頭町]

雨に煙る清徳寺の境内で、『LOCAL DAY』のディナーが幕を開けた。

ダイニングアウト鳥取・八頭本番前日に行われた、もうひとつの『DINING OUT』。

2018年9月8日、9日に開催された『DINING OUT TOTTORI - YAZU with LEXUS』に先立つ9月7日、もうひとつの『DINING OUT』が開かれました。それは食材生産者、開催地の関係者、地域のゲストを招く『DINING OUT LOCAL DAY』。そもそも今回は、鳥取出身の徳吉洋二シェフが地元・鳥取に戻って行った史上初の“凱旋ダイニングアウト”。そんな縁から地元企業の協賛が集まり、この『LOCAL DAY』の実現に至ったのです。では地元の方々は自ら住み、あるいは自ら育てた鳥取の食材を改めて味わい、何を感じたのでしょうか? 参加したゲストの言葉を紐解きながら、『LOCAL DAY』の模様をお伝えします。

『LOCAL DAY』の厨房内は本番同様の緊張感に包まれていた。

ダイニングアウト鳥取・八頭同郷だからこそ伝わるシェフの思い。

朝から降り続けた雨は夕方になっても止む気配はなく、会場となった清徳寺はしっとりと雨に濡れていました。そんな会場へ『LOCAL DAY』に参加するゲストたちが三々五々到着しました。なかには食材視察でお会いした生産者や協賛社の方々、会場となった清徳寺のご住職、徳吉シェフのご家族の姿もあります。どの顔にも、足元のぬかるみも気にかけぬ期待に満ちた表情が浮かんでいます。

この『LOCAL DAY』は地元で生産された食材を、世界で活躍するシェフが調理して提供する『DINING OUT』本来のディナーを、地元の方々に味わって頂くイベント。「地元の方にこそ“鳥取ってすごい!”と改めて気づいて欲しい」という徳吉シェフの言葉を形にすべく、本番と同様の料理が、同様のサービスで供されます。

アペリティフのハタハタから始まり、前菜、魚、サラダと展開されるコース。鳥取県産の食材をふんだんに使い構成された美麗なる料理。ゲストは一皿ごとに驚きの声を上げ、その味わいをじっくりと堪能していました。
中盤、司会を務めた大橋直誉氏により徳吉シェフが紹介されると、会場はひときわ大きな拍手に包まれました。鳥取が誇るスターシェフ・徳吉洋二。その名を耳にしたことはあっても、その料理を味わったことがないゲストも多かったのでしょう。

「久しぶりに地元に戻ってきて、鳥取の素晴らしい食材の数々を改めて見つめました。今日はその魅力をお伝えできたかな、と思います」そう、今回の料理の根底にあるのは、徳吉シェフが抱く鳥取の食材への敬意。その熱い想いは、同じルーツを持つ地元の方々にこそ、ダイレクトに伝わったことでしょう。

乾杯は徳吉シェフの音頭で。和やかな雰囲気でディナーは進んだ。

さまざまな表情を見せる鳥取の食材がゲストを楽しませた。

シェフの知人も多く駆けつけたこの日。会場内を歩くシェフと会話も弾んだ。

ダイニングアウト鳥取・八頭驚きと感動を伝える生産者や家族の声。

「このトマトは本当にすごい!」と徳吉シェフを驚かせた『井尻農園』。その代表・井尻弘明氏は、自らのトマトを使ったサラダを味わい、少しだけ声を詰まらせました。「こんな料理ははじめて食べました。素晴らしい料理にしてもらって感激です」

対照的に満面の笑みを浮かべていたのは、米農家『田中農場』の田中正保氏。「手前味噌だけど、旨い米でしょう。このリゾットは、本来の甘みを良く引き出してくれています」

卵かけご飯風のリゾットには、平飼い飼育で上質な「天美卵」を生産する『大江ノ郷自然牧場』の小原利一郎氏も「コクがあって風味もある。全体としてまとまっているのに卵の存在感もしっかりと感じられる料理」と称賛を送りました。食材に慣れ親しんだ生産者をも驚かせる徳吉シェフの料理。そこに満ちるアイデアとリスペクトが、生産者たちの心を捉えたのでしょう。

素材感だけではなく、プレゼンテーションの面でも地元ゲストを驚かせました。たとえば宅配ピザを模した一品「Pizza delivery」を前に、三つ子である徳吉シェフの兄・淳一氏は目を細めました。「子供の頃、宅配ピザが大好きで、届くと兄弟で先を争って箱に飛びついていたんです。その頃のことを思い出しました」。弟の雄三氏も、徳吉シェフそっくりの顔を綻ばせて頷いています。

「昔から料理は好きな子だったけれど、まさかここまで立派になるとは」お母様・徳吉由美子氏は感慨深げに呟きました。今回のディナーの根底に、徳吉シェフの記憶にある郷土料理、そして幼き頃に食べた“おふくろの味”があることを思えば、その感慨もひとしおなのでしょう。

「三人には同じもの食べさせて同じように育てたけど、やっぱり違うものなんですね」お父様の徳吉公司氏は言います。聞けば昔から、長男の淳一さんは面倒見が良く、次男の洋二シェフは負けん気が強く、三男の雄三さんはおっとりしたタイプだったとか。「ひとりでイタリアに渡って、逃げ出したくなることだってあったはず。でも持ち前の負けん気でここまでやってきたんでしょうね」息子の晴れ舞台を前に、ひと口ずつ噛みしめるように味わうその姿が印象的でした。

『井尻農園』の井尻弘明氏は、自身が丹精込めたトマトのおいしさを改めて感じていた。

『田中農場』の田中正保氏。弾ける笑顔が、満足を物語っていた。

鳥取市内で地産地消を大切にする『炭火焼ジュジュアン』を営む渡邉建夫氏も料理に舌鼓を打った。

『大江ノ郷自然牧場』の小原利一郎氏は、卵かけご飯を思わせるリゾットに驚いたという。

レセプション会場となった『オズガーデン』の遠藤姉妹も会場に駆けつけた。

徳吉シェフの三つ子の兄弟、淳一氏(右)と雄三氏(左)。

徳吉シェフの“味の記憶”の源流にある母・由美子氏(写真左)。その感慨は想像に難くない。

徳吉シェフの父・公司氏は、知られざる三つ子の思い出話も聞かせてくれた。

ダイニングアウト鳥取・八頭志を同じくする協賛社との地域振興の第一歩。

明確な意義を持って開催され、「いままで以上に鳥取を誇りに思ってもらう」という確かな成果を上げた今回の『LOCAL DAY』。その開催を支えた協賛社の方々も、会場に足を運んでくれました。

鳥取市を拠点に、エネルギー事業で地元を支える『enetopia』(鳥取ガス株式会社)。代表取締役社長であり、徳吉シェフの高校の後輩でもある児嶋太一氏は「インフラ企業として鳥取を盛り上げたいというのが半分、もう半分は個人的にも応援したかった」との思いを明かしてくれました。「どれも本当においしい。鳥取にはこんなに素晴らしい食材があったんですね」と、地元の魅力を再確認していました。

「地方から都心、世界へ飛び出すシェフの姿に共感しました」とは、米子市で美容・健康関連商品の製造、販売を手がける株式会社エミネットの内田泰介氏。鳥取だけではなく日本や世界というマーケットを視野に入れる同社の未来に、世界で活躍する徳吉シェフの姿が重なる部分があったのでしょう。「骨を手で掴んで食べる料理がありましたよね。ああいった常識に囚われない発想に驚かされました」と、ディナーのプレゼンテーションにも深く感じ入る部分があった様子です。

テーブルには山陰合同銀行の取締役・杉原伸治氏の姿もありました。「驚かせるような仕掛けと地元愛が詰まった料理。きっと明日、明後日の都心から来たゲストも満足されますよね」との感想を伝えてくれました。さらに「弊社は金融機関ですから、自主的にイベントをやることはあまりありません。しかし、地元を盛り上げたいという気持ちは同じ。今日のようにお手伝いできることがあれば、積極的にやっていきたいと思います」との声を寄せてくれました。

協賛社はインフラ、メーカー、金融と業種はさまざまですが、鳥取という地域を盛り上げるという目標は皆同じ。“地域に隠された魅力を伝える”という『DINING OUT』の意義にも共感し、史上初となる『LOCAL DAY』の第一歩を共に踏み出しました。

鳥取ガス株式会社代表・児嶋太一氏は協賛企業としてだけでなく、友人としてもディナーを楽しんだ。

徳吉シェフと同様、鳥取からの飛躍を続ける『株式会社エミネット』の内田氏。

「ともに鳥取を盛り上げる手段を探したい」と『山陰合同銀行』の杉原氏。

会場となった清徳寺の住職は「地域は外に開くことが必要」と語った。

ダイニングアウト鳥取・八頭鳥取はすごい。ゲストが共有したひとつの思い。

当日は会場に駆けつけられなかった『岸田牧場』も協賛社のひとつ。大山山麓に田中徳行社長を訪ねると、そこには従来のイメージを覆す牧場の姿がありました。「おいしい牛乳のためには、まず牛が健康であること。それには身体的な健康だけなく、ストレスなくのびのびと過ごすことも大切」と田中氏。牛が自由に動きエサを食べることができる放し飼い式牛舎、365日毎日配合を変える飼料、牛に愛情を持って接するスタッフ。牧場を構成するすべてが、牛の健康を考え抜いて作られているのです。だからこそ『岸田牧場』の牛乳は、本来のコクと甘みを湛えつつ、さっぱりとした飲み口も両立する極上の味わいとなっているのです。

徳吉シェフはこの牛乳を、その場で仕上げるリコッタチーズにしました。さっぱりとしているのにコクがある、できたてのリコッタチーズ。「当牧場でもモッツァレラの製造をはじめたところ。コクのあるウチの牛乳はチーズにするのにも最適です」と田中氏。さらにディナーでは新鮮な雲丹と長期熟成のバルサミコを合わせて供された料理に、会場からは称賛の声が続々と上がりました。きっと田中氏も満足する上質な味わいの一品でした。

終演後、徳吉シェフはマイクを握り、会場に謝意を伝えました。陽気なシェフの言葉の端々に、秘められた本心や地元への思いが垣間見えます。

「今日は家族や友人、知人にも来て頂いて少し緊張しましたが、思った通りの料理ができあがったと思います。やっぱり鳥取はすごい。まずは地元の方々にそう思ってもらうことで、これから鳥取がもっともっと賑わってくれれば。今日の『LOCAL DAY』は、そのきっかけになって欲しい」

そんな徳吉シェフの言葉は、この『LOCAL DAY』の意味を端的に語っていました。そして晴れやかな顔で口々に称賛を寄せるゲストを見るにつけ、シェフの思いは確かに伝わっていると確信できたのです。

『岸田牧場』の田中氏。牛と心を通わすような姿が印象的。

岸田牧場の牛乳をその場でリコッタチーズにして、雲丹と合わせた逸品。味と演出の両面で鳥取の食材の魅力を伝えた徳吉シェフの料理。

適度な緊張感はありつつも、地元らしい和やかさに包まれながらディナーは幕を下ろした。

『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。

Ristorante TOKUYOSHI 
http://www.ristorantetokuyoshi.com

心に語りかける、民話の風情も色濃い茅葺き民家を訪ね歩く。[福島県南会津郡]

東洋文化研究家として著書も多いアレックス氏とともに巡る南会津の旅。

アレックス・カー

浅草から北を目指し鉄路の旅に出れば、いにしえの街道に沿って時を遡るような旅ができるでしょうか……。

豊かな田園地帯にぽつりと佇む、昭和の面影も濃い小さな木造駅舎をいくつも過ぎ、重畳(ちょうじょう)とした山々をくぐりいたるといつしか民話のような草屋根の家々が姿を現します。そう、ここは東北地方の南の玄関口・南会津。会津田島駅からクルマを足に、アレックス・カー氏とともに地元の「守り人」たちと出会うショートトリップに出かけてみましょう。

峠を下ると目に留まる、曲家を改修したスカンジナビア料理を味わえる宿。ヨーロッパのエッセンスが感じられる。

アレックス・カー北欧と曲家の古民家が融合する空間にて、スカンジナビア料理を頂く。

南会津町の中心部から国道を西へクルマを走らせ、険しい峠を越えた最初の集落に佇むのがスカンジナビア料理を味わえる宿『ダーラナ』。雪国独特の構造を持つ曲家の古民家を生かし、北欧のエッセンスを盛り込み改修された建物は、ヨーロッパの片田舎を訪れたかのような佇まいを見せています。

宿のオーナー・大久保清一氏は、10代でスウェーデンに渡り単身修業したスカンジナビア料理の第一人者。常連客は地元でとれる季節の食材、主にイワナや山菜、キノコ、近所の猟師が獲る新鮮なジビエなどを用いた大久保氏の料理を楽しみに訪れます。

四半世紀を重ねた古民家の宿の始まりは偶然の出会いから。レストランの新規開店を目標に、適地を求めて走り回っていた大久保氏がふと目に留め、無住の曲家に魅了されて、1年以上をかけてリノベーションしたのがこの宿です。

屋内は南会津の冬の厳しさをそのまま体感できる昔ながらの住環境です。南会津と北欧とがセッションするスペシャルな夕餉(ゆうげ)の後には、炉火を囲み自然と始まる夜長の会話のみが娯楽。時を急かす何ものも存在しない宿は、鄙(ひな)にありながらも多くの常連客を招き、愛されつつ時を刻んでいます。「こんなオーベルジュがあれば、アクセスの悪い地にも観光客は必ず足を運びます。大切なことは原状を磨き上げるセンスと魅力にあると思います」と、自身の経験からアレックス氏は語ります。

曲家に接続している蔵の重厚な扉。奥には会食用のテーブル席がある。

鹿肉と舞茸のストロガノフ。ジビエの鹿肉は要望があれば提供できる。

清流に棲むイワナのムニエルに、春の息吹を纏った山菜を添えて。どちらも地元のとれたて。

料理に腕を振るうオーナーシェフの大久保氏。御年72歳とは思えない早業で次々と皿を繰り出す。

ダイニングキッチンはかつて厩(うまや)だった所。大久保氏は曲家に魅了され1年以上をかけて民宿にリノベーションした。

アレックス・カー再生の日を待ちわびる、南会津の古材が眠る巨大な倉庫。

『大内宿』は江戸時代の宿場の佇まいを今に残した国の重要伝統的建造物群保存地区で、江戸時代に建てられた茅葺きの家並みが旧街道沿いに整然と並ぶ、古民家ファンの聖地。建物の保全だけでなく、里山と田畑の風景、昔ながらの民俗行事も大切に守り、里人の暮らしは30軒の茅葺き民家に静かに息づいています。

「これは……すごいです」と開口一番、アレックス氏は言います。自ら改築を手がけた古民家を有するアレックス氏だけに、膨大な量の希少な太い梁や柱のストックを陶然と眺めため息を漏らします。『ダーラナ』の設計施工に携わった『大内宿』の只浦豊次氏は『三澤屋』のオーナーでもあり、一本葱でそばを食するというインパクトある提供方法を発案、それまで年間3万人だった観光客数を飛躍的に伸ばしたいわば地域の先達です。旧街道沿いに膨大な量の古材を保管しているとうかがい、その巨大な倉庫を訪ねました。

「海外の作家を案内したことがあるのですが、彼は“新幹線の通っていない所に行きたい”と。今は国内外を問わず、不便であることに価値を感じる人が増えているようです。それは古民家住まいも同じこと」との只浦氏の言葉に、アレックス氏も同意を込め、膝を打ちます。「今は不便な所にムーブメントの兆しがあります。東京などの大都会から地方へ。そこにロマンを感じるのですね」。

『大内宿』のもうひとつの看板ともいえる「ねぎそば」。そばや餅はもてなしの「ごちそう」だった。

古民家の材や建具がそのまま保管されている巨大な倉庫。足下の長ネギは蕎麦処で提供する品。

明治時代の瓦や石材なども同じ敷地に整然と保管されている。

只浦氏(写真中央)は『大内宿』の蕎麦処『三澤屋』も経営しているアイデアマンだ。

アレックス・カー2つの危機を乗り越え、今も息づく民俗行事の里・大内宿。

『大内宿』で、この存在なくして現在の賑わいを語れない人物はもうひとりいます。通りの中ほどで、手ずから打ったそばを提供する『こめや』の吉村徳男氏です。『大内宿』は山間に40戸160名が暮らす小集落で、通り沿いに築300年の茅葺き民家が整然と並びます。江戸時代に本陣のある宿場として発展しましたが、幕末の戊辰戦争での戦火を免れ、明治時代に入っても近代化が進まなかったことが、今の景観を残せた2つの奇跡といえます。

そして、吉村氏は茅葺き職人でもあります。40代で勤めを辞し、熱意を持って「茅手」の道へ入りました。屋根葺きはもともと集落単位で力を合わせて行うことで各家の負担を軽くするものでしたが、茅葺き屋根の減少とともに廃れ、技術も失われつつあります。ここは茅葺きの技術を守るために伝習施設を造り、若い世代に技とともに「結びつきの大切さ」を伝えている希有な地なのです。

「この地をバトンとして子孫へ渡していくのが代々の役割と考えています。近場に素材となる茅地を確保し、手ずから屋根葺きをするなど、私たちの暮らしやなりわいをきちんと見せるのも、訪れる人々の楽しみにしたい」と熱く語る吉村氏。その熱意にアレックス氏も深く共鳴したようです。「技術と材料があれば、茅葺きには新しいチャンスがいくらでもありますよ。会津にはまだ茅葺きの建物が多いので、どんどん外にも出してほしいです」と語ります。さて、かつては技術の高さから関東方面で鳴らした『会津茅手』の復活となるでしょうか。

集落の子供たちが書いた「火の用心」「十一月十一日」の札。民俗行事は今もリアルに残っている。

街道沿いに茅葺き屋根の民家が整然と並ぶ。周囲の山々を背に、四季折々に美しい里。

廃校を再利用した若手のための茅葺き伝習施設を案内してくれた吉村氏。

『大内宿』の茅葺き屋根は全て、地元の若手らによって葺き替えられている。

アレックス・カーなだらかな山裾に身を寄せ合う「もうひとつの」茅葺き集落。

街道に沿って直線的に形成された近世の集落が『大内宿』であるなら、南会津町の南部にある『前沢集落』は、中世の村落スタイルを今に伝える山裾の民家群。『大内宿』と同じく人の暮らしとともにありますが、観光客で賑わう『大内宿』からここへ来ると、その静けさにほっとします。集落入口には水車小屋が建ち、それを動力に米搗(こめつ)きなどを行う「バッタリ小屋」が牧歌的な音色を響かせています。

集落の始まりは、中世にこの一帯を拝領した山内氏の家人・小勝氏が、主家が滅んだため移り住んだと伝わっており、集落住民の9割以上が小勝氏なのだそうです。オンシーズンは集落保全のための入場料が必要ですが、村内の『曲家資料館』は入館無料になります。初夏は集落右側に広がる花しょうぶ園でアヤメや花しょうぶ、ツツジなどが次々と開花し、ベストシーズンを迎えます。

「冬は2m近く雪が積もるので、道から直に出入りできる間取りの“曲家”は雪国ならではの構造です。60cmほどある茅葺き屋根の厚みが豪雪に耐え、夏には涼しさを生み出す機能もあります。この景観を今後も保持していくために、茅の葺き替えは喫緊(きっきん)の課題。若い人が入ってくれれば……」と心配そうに語るのは、案内して頂いた保存会長の小勝周一氏。「ここは自然に近くて個性もあり、とても絵になる集落。イギリスの田舎を思い出すような所です。全体の整備はほとんど済んでいるので、後は保全の扶けになるような仕組みができれば安心かもしれません」とアレックス氏。

南会津を中心に、今も多くの茅葺き屋根の古民家が多く守り残されているのが会津地方。そのほとんどは茅が傷まないように赤色や茶色などのトタンを被せられています。現代の住宅と違って、屋根が大きく厚みもあるため簡単に見分けられるはずです。自然豊かな風景の中に点在する集落から「隠れ茅葺きの家」を探しながらの会津旅も楽しいかもしれません。

屋根を保護するために焚かれる、囲炉裏の煙漂う資料館内で区長の小勝氏とアレックス氏。

前沢集落一帯で産出する名物、赤カブ畑の花が民家を引き立てる。家々でも庭で可憐な花を育てる。

無住になったため移築し、原状に復元した曲家の民家は内部見学用の資料館として公開。

住所:〒967-0000 福島県南会津郡南会津町 東居平426-1 MAP
電話: 0241-72-2838 ※完全予約制
http://dalarna.jp/guest/about.html

住所:〒969-5207 福島県南会津郡下郷町 大内字山本26-1 MAP

電話: 0241-68-2927
http://www.misawaya.jp/

住所:〒967-0306 福島県南会津郡南会津町 前沢 MAP
http://www.tateiwa-tic.jp/maezawa/

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

「秋の訪れを告げる秋季例祭」。[長野県の秋まつり/長野県]

上空に舞った火の粉が降り注ぎます。

長野県の秋まつり数百年の歴史を紡ぐ奉納煙火。

まだまだ残暑厳しい近年の9月ではありますが、この頃になると長野県内のあちらこちらでは秋祭りが行われます。旅の途中に号砲雷(昼間に上がるお知らせの花火)が聞こえたら夜には花火が観られるかも知れません。小さな神社で行われることが多いので、もし行ってみたいと思われたら地元の方に声をかけてみてください。そして、お祭りの状況を聞き、飛び入りでも観覧が出来るか確かめてから足を運んでいただきたいと思います。神社の境内いっぱいに花火が仕掛けられていることもあります。火祭りと言っても過言ではないと感じるお祭りも多数あります。中には地元の氏子さんのみが参加出来るお祭りもありますので、その場合はご配慮いただけますと幸いです。何百年もの歴史を紡いできた地元の方々にとってはかけがえのない大切なお祭りです。神様に捧げる奉納煙火です。これから先も末永く歴史を刻んでいけるよう各お祭りのルールを守ってご観覧いただけたらと思います。お祭りは時に深夜にまで及ぶこともあります。

小さな神社で秋季祭が行われます。

氏子さん達が長年伝承してきました。

長野県の秋まつり口伝を受け継ぐ伝承花火。

県内各地の秋季例祭は、神楽のお囃子や獅子舞、巫女舞、細工も見事な神輿など見どころも満載です。神社によって内容は様々ですが、どこも大切に守り継がれたお祭りということに変わりはありません。煙火業者さんの監督の下、住民の方々の手で行われる伝承花火も多く存在しています。昔から口伝で受け継がれてきた手づくり花火の製造が今もなお残っています。花火の原点とも言える伝承花火がそこにはあります。神社内での杜花火には大三国、車火、手筒、吹筒、立火、仕掛け、綱火、銀滝、清滝など、日本の花火の歴史を継承していく上でも貴重で重要な花火ばかりです。決して色鮮やかで華やかな近代的な花火ではないかも知れませんが、その雅な美しさは心にいつまでも残るものです。

子供たちが伝承されている神楽を舞います。

長野県の秋まつり秋の夜長に遠花火。

秋季例祭での撮影は三脚も一脚もご使用になれないことが殆どです。狭い境内では危険が伴うからです。私自身は出来る限り小さなカメラを用意し手持ちで撮影するようにしています。もしくは少し離れた安全な場所での撮影を心掛けています。また、撮影場所が特定される様な地名の入った写真などの公表はしないよう気を付けています。多くの方に伝統花火を知っていただきたいと思う反面、地元に根付いた素晴らしい歴史をいつまでも守り続けていただきたい思いがあります。

秋季例祭では伝統的な花火とともに打ち上げ花火が行われることもあります。例え神社に辿り着けなくとも音の聞こえる方角の空を見上げれば優美な花火に出会えるかも知れません。秋の夜長に美しく夜空を染める大輪の華をゆっくりと愛でるのも風情があって良いのではないでしょうか。

回転する仕掛け花火。

境内のあちこちに様々な仕掛け花火が設置されています。

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1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751

かつてない和紙アイテムで伝統に革新を。[FIVE/富山県南砺市]

世界遺産の合掌造り集落の里・五箇山(ごかやま)に連綿と受け継がれてきた手漉き和紙が、現代のセンスで生まれ変わった。

ファイブ深山の合掌造りの里から伝統産業に新風を吹き込む。 

鮮やかな蛍光色に染められた、メモ帳やブックカバーなどの使いやすいアイテム。「古くさい」「色が地味」「使いづらいアイテムが多い」といった和紙プロダクトのイメージを払拭するブランドです。
この『FIVE』を生み出したのは、富山県と岐阜県の県境にある“一般財団法人 五箇山和紙の里”。豊かな水と緑に恵まれた深山の里で育まれた手漉き和紙の技を、今の暮らしに馴染むアイテムとして展開しています。

『FIVE』をプロデュースした石本泉(いしもと・せん)氏は、富山県の出身でもなければ和紙職人でもありませんでした。一体どんな経緯で五箇山の地に根をおろして、伝統産業の再興に取り組むことになったのでしょうか?(後編はコチラ

既存の和紙の感覚にとらわれない、自由な発想が魅力。機械漉き障子紙の技法を活かした『メモロール(105mm×15M)』。

“五箇山和紙の里”と、隣接する“道の駅たいら”の外観。手漉き和紙にチャレンジできる“和紙体験館”や、和紙の歴史を学べるギャラリーなどを併設。和紙のショップの奥には、手漉き、機械漉きの工房がある。

ファイブ数奇な運命で“理想の地”に移住。 

約10年前。武蔵野美術大学の学生だった石本氏は、大学の合宿施設がある五箇山をふとした縁で訪れることになりました。「大学の木工科で家具を製作していたのですが、その自由課題で『家具以外のものも作ってみよう』と思い立ったんです。そして手漉き和紙を木から作る工程に着目したところ、教授から『越中和紙に数えられる五箇山和紙の発祥地に、大学の合宿施設(五箇山無名舎)があるから行ってみたらどうか?』と勧められ、五箇山を訪れることになったんです」とのこと。

夏休みのレジャー感覚で訪れた石本氏は、初めて見た五箇山の風景にはからずも圧倒されたそうです。
「深い山と谷が延々と連なる、雄大な風景。かつて旅したチベットを思わせる景観に、『日本にもこんな場所があったのか!』と感動しました。和紙を原料の楮(こうぞ)から作るという工程も、全国的に珍しいものでした。そして『ここに住んでみたい!』と強く思うようになり、ご縁を得て“五箇山和紙の里”に就職することになったんです」と振り返ります。

五箇山の風景。アジアの秘境のような山里から、都会的なセンスのアイテムを発信。

合掌造りの家の内部。土間で和紙や塩硝(黒色火薬の原料)をつくり、天井裏で蚕を育てていた。

冬の五箇山。加賀藩の指定生産物だった五箇山和紙は、この雪深い秘境で厳重に守り伝えられてきた。

ファイブ好機を生かして“攻め”の姿勢でチャレンジ。

こうして五箇山に移住して、豊かな自然と理想の風景の中で暮らし始めた石本氏。そんな彼のもとに、ある依頼が舞い込んできました。
「2012年に五箇山がある南砺市から、『地場産業を生かした新商品を開発してください』と依頼されたんです。ですが、そうした補助金事業は成功事例が少ないことを聞いていましたし、ありがちなものを作って終わり、という結果にもしたくありませんでした」。せっかくの機会なのに、後に何も残せなかったらもったいない――そう思った石本氏は、同じ武蔵野美術大学の出身で友人でもあったデザインユニット『minna』に相談を持ちかけたのです。

長谷川哲士氏と角田真祐子氏が主催する『minna』は、伊勢丹・三越・FELLISIMOなどのプロジェクトで名をはせていました。さらに地域おこし関連のプロダクトやイベントまで手がけており、「みんなのために・みんなのことを・みんなでやっていきたい」をモットーにしていました。和紙にまつわるデザインの経験もあった『minna』は、石本氏の依頼を「面白いね」と快諾。そして五箇山までわざわざ足を運び、五箇山の風景や和紙づくりの様子を視察した上で、約1年もの時間をかけて構想を練ってくれました。

「せっかく取り組むのだから、五箇山の和紙を後世にまで残していけるブランドにしたい」――石本氏のそんな想いに応えて、『minna』の二人は検討を続けたのです。

「センスが古風」「普段使いしづらい」といった既存の和紙商品の課題を解消。

バイカラーの色鮮やかなペンケース。水にも強く、しっかりとした強度がある。

ファイブ高い伝統技術はそのままに、時代に即したプロダクトに転換。

ブランド立ち上げの期日は、2013年冬の東京での発表会。それまでに、もともとあった和紙商品の経験を生かしながらも、全く別の新商品を生み出さなくてはなりませんでした。

その軸となるコンセプトが定まるまでには、石本氏も『minna』も非常に悩んだそうです。ですが、既存の和紙製品や和紙産業全体の課題を考慮した結果、「現代のセンスに即したオシャレなプロダクト」「伝統産業に興味のない若者にも魅力的なもの」「普段使いできるアイテム」といった方向性が定まったのです。

「『とにかく今までにない新しいものを!』と考えた末に、自然に囲まれた五箇山の風景の中にキラリと光る色――蛍光色をイメージすることにしました」と石本氏。「そのアイデアは『minna』が提供してくれましたが、『和紙と言えばナチュラル』『和紙アイテムの色と言えば渋い伝統色や中間色』といったイメージから抜け出して、『FIVE』ならではの個性を追求することにしたんです」と振り返ります。

ですが、実際に和紙を蛍光色で染めてみた先例はほとんどなく、実際に作ったという人もまた見当たりませんでした。そこで石本氏は、まずは手探りで試作を始めました。

豪雪地帯ゆえの豊富な雪解け水が、冬の手仕事としての和紙を育んだ。

激しい寒暖の差が、繊維の強い楮(こうぞ)を育てる。それで漉いた五箇山和紙もまた強くしなやかな性質を持つ。

楮のちり取り作業の風景。斬新なアイテムの基盤は連綿と守り伝えられてきた確かな伝統技術にある。

ファイブ和紙×蛍光色の実現はいかに? 

「最初はどうやって蛍光色に染めればいいのかすらわからずに、いろいろ試行錯誤してみたものの、全くうまくいきませんでした。蛍光色の特徴である鮮やかさが出ずに苦心していたところ、ふと『シルクスクリーンでやってみたらどうだろう』というアイデアが浮かんだんです。それを五箇山和紙の伝統である「手揉み」という製法に載せてみたところ、見事に美しい蛍光色に染まってくれました」と石本氏は語ります。

道が開ければ、あとはトントン拍子でした。『五箇山和紙の里』がもともと作っていたアイテムの中から、普段使いに適したものや、若者が手に取りやすいものを厳選。カードケース・ブックカバー・メモロール・封筒(ポチ袋・金封)の5種類の商品が、2013年冬の発表会までに完成しました。

「和紙の産地は全国各地にありますが、五箇山和紙ならではの特長は“強くしなやかなこと”です。標高が高くて寒暖の差が激しいため、原料の楮(こうぞ)の繊維が強く育つんです。それを昔ながらの製法で漉いて、対照的に斬新な蛍光色をのせました。さらに『揉み紙』という製法で強靭にしています。和紙の固定観念を打ち破る、型にはまらない、それでいて、和紙の伝統と可能性を生かした製品になったと自負しています」と石本氏。

長い歴史と高度な技術を誇る伝統工芸でありながら、地元の人々の認知度や、若い世代への訴求力が不足していた五箇山和紙。それを全く新しいプロダクトとして生まれ変わらせて、『FIVE』は完成したのです。
「特に若い世代に『古くさい』と敬遠されていため、若者を第一のターゲットに据えました」と石本氏。次回の後編では、こうして完成した『FIVE』の反響と、その後の展開をお伝えします。(後編はコチラ)

伝統技術を「地元の若者が誇れる商品」として再生。使い込むほどにしなやかな風合いになるブックカバー(文庫本/ A6サイズ)。

斬新なプロダクトを確かな伝統が支える。

住所:富山県南砺市東中江215 MAP
電話:0763-66-2223
営業時間:9:00〜17:00
休日:年末年始
写真提供:一般財団法人 五箇山和紙の里
http://www.five-gokayama.jp/

自然のエナジーを改めて感じさせた土砂降りのなかの晩餐。降りしきる雨が教えてくれた『DINING OUT』の原点。[DINING OUT TOTTORI-YAZU with LEXUS/鳥取県八頭町]

会場は古刹・清徳寺の境内。14回目の『DINING OUT』は降りしきる雨の中で幕を開けた。

ダイニングアウト鳥取八頭『DINING OUT』を知る3人による万全の体制。

2018年9月8日、9日に鳥取県八頭町で『DINING OUT TOTTORI - YAZU with LEXUS』が開催されました。豊かな自然に囲まれ、大地の力強さを感じる古からのパワースポット、八頭町。担当したのは昨年の『DINING OUT NISEKO with LEXUS』を大成功に導いた徳吉洋二シェフです。さらにホストには6回目の登場となる東洋文化研究家のアレックス・カー氏、サービス統括に2016年『DINING OUT ONOMICHI with LEXUS』に参加した大橋直誉氏を迎えました。いずれも『DINING OUT』を知る3人による万全の体制でした。

地元・鳥取県出身の徳吉洋二シェフを迎えた“凱旋DINING OUT”であったこと、同一シェフによる二度目の担当など、14回目の『DINING OUT』にして、新たな挑戦が詰まった今回。しかし蓋を開けてみると、“史上初”はそれだけに留まりませんでした。

降りしきる雨の中でのディナー、そして直前の会場変更。数々のハプニングを乗り越え、どんな結末を迎え、ゲストと地元に何を伝えたのか? その全貌をお伝えします!

「どんな状況でも質問に答えよう」と、地元鳥取に成果を残すことを意識したという徳吉シェフ。

ダイニングアウト鳥取八頭ゲストを出迎えたのは、大地のパワーを凝縮した奇跡のような葡萄の木。

前日から降り続けたこの日も雨は弱まる気配がなく、むしろ夕方には雨脚が強まってきました。そんな雨に濡れながら、ゲストを乗せたLEXUSがレセプション会場である『オズガーデン』に続々と到着しました。出迎えたホストのアレックス・カー氏が、ゲストを屋内庭園に誘います。

この庭園に今回のダイニングアウトのテーマ「Energy Flow –古からの記憶を辿る-」を象徴する光景が広がります。頭上一面にたわわに実る500房以上の葡萄は、たった一本の木に実ったもの。大地の力を凝縮したような眺めに、ゲストはしばし見とれていました。

レセプション会場を後にして、ゲストが向かった先は和同2年(709年)開山と伝わる古刹・清徳寺。この寺の境内が、今回のディナーの会場でした。後醍醐天皇のお手植えと伝わる銀杏、重厚な存在感を放つ菩提樹など、巨樹銘木が雨に濡れて輝いています。頭上には雨よけのテントが張られ、足元はぬかるんでいますが、それさえも忘れるほどここは自然のパワーに満ちた場所なのです。

アペリティフは、鳥取県が国内1、2の漁獲量を誇るハタハタを皮切りにスタート。揚げたハタハタにらっきょう入りのサルサベルデを合わせる事でヱビスマイスターの研ぎ澄まされたコクと相性抜群のスナックで食欲を掻き立てた。さあ、いよいよディナーの幕開けです。

オズガーデンの葡萄の下で、テーマ「Energy Flow」の思いを伝えるアレックス氏。

たわわに実る「オズガーデン」の葡萄。1本の木に宿るパワーに驚かされる。

雨の中、会場には次々とゲストを乗せたLEXUSが到着した。

会場となった清徳寺の境内で、重厚な存在感を放つ鹿子の木。これもまた大地の力の象徴。

アペリティフは鳥取特産のハタハタに、同じく特産品のらっきょうを合わせ、ペアリングにはヱビスマイスターが提供された。

ダイニングアウト鳥取八頭幼い頃の記憶を、現在の技に乗せて料理で表現。

一品目の料理がサーブされると、会場には少し訝しげなざわめきが広がりました。テーブルの上には宅配ピザのような箱。料理名もそのまま「Pizza delivery」。しかし蓋を開くと、それは歓声に変わります。現れたのは八頭のブランド米「神兎」の米粉生地の上に紅ズワイガニやトマトソース、さらに色とりどりの花があしらわれた小ぶりな“ピザ”。いかにも徳吉シェフらしい遊び心と、同じくシェフらしいアーティスティックな盛り付け。

「子供の頃、デリバリーピザってワクワクしましたよね。あのボックスを開けるときの高揚感を思い出しながら、古の記憶を辿る旅をスタートして欲しい」そんな思いが詰まった一品でした。

続いての料理「水と魚」は八頭産の茄子に鳥取の高級魚アコウを合わせて刺身仕立てに。続く「ホワイトモノトーン」では、八頭に残る白兎伝説をヒントに白イカやイタリア産ラルド(豚の脂)で真っ白な一皿を演出しました。合わせるのはシェフが修業時代に慣れ親しんだイタリア風パンのティジェッレ。会場となった八頭の地域性と、シェフ自身の記憶が混じり合う、この日、この場所でしか楽しめない料理が卓を賑わせます。

次の料理はサラダ。徳吉シェフが仕立てるコースには、いつもサラダが登場します。それは「舌をリフレッシュしてもらう」という狙いからですが、今回のサラダの役割はそれだけではありません。「高木農園」の葉野菜や「井尻農園」のトマトといった20種ほどの八頭の野菜は、それぞれが自然の恵みを湛えた濃厚な味わい。そして全体をまとめるソースは、二十世紀梨の酢。「エナジー」と名付けられたこの料理は、大地のエネルギー、生命力をそのまま感じられるような力強いおいしさで、「Energy Flow」のテーマを伝えてくれたのです。

箱を開ける喜びのように、ちょっとしたサプライズや遊び心を潜ませる。

「Pizza delivery」。エディブルフラワーの下にはブッラータチーズや紅ズワイガニが潜む。

「水と魚」。塩水に浸けて発酵させた茄子と熟成させたアコウを合わせた一皿。

「ホワイトモノトーン」。鳥取の白イカとラルドをシンプルな一皿に。白イカのブロード、イタリアのパンとともに。

「Energy」と名付けられたサラダは、今回のテーマを象徴する大地のパワーを凝縮。

ダイニングアウト鳥取八頭地元食材に焦点を当てたシンプルな料理の数々。

依然、雨は降り続けています。ですが相変わらず、この雨にネガティブなイメージはありません。アレックス氏は言います。「今回の“Energy Flow”というテーマを、改めて説明する必要はありませんね。まさに皆さんはいま、その“エナジー”に包まれているのですから」降り続ける雨に囲まれたレストランは、どこか不思議な一体感に包まれながら続きます。

新鮮な牛乳からその場で作ったリコッタチーズと雲丹を合わせた「さっき作ったリコッタと雲丹」は、濃厚でコク深い味わいが印象的でした。肉質日本一の評価を受けている鳥取和牛を使った「骨と肉」は骨を手で持って齧り付く仕掛け。シェフの故郷の味・牛骨ラーメンをイタリア料理の手法で再現した「しじみと牛」、生命力の象徴である米と卵を使い「究極の卵かけご飯」といえる料理にした「Mantecando il risotto…」、そしてシェフにとってのソウルフードであるホルモンソバに着想を得た「タラ ヒラメ ホルモン」。徳吉シェフといえば思い起こされるアートな仕掛けやハッと目を引くビジュアルは抑えられ、逆に素材の滋味深さや力強さにフォーカスされた料理が続きます。

聞けば「馴染み深い地元の食材だからこそ、テーマの枠を考えすぎず、シンプルに表現できたのだと思います」と徳吉シェフ。八頭の名産品や鳥取の郷土料理が、世界の食通たちを虜にした徳吉シェフのフィルターを通して再構築される。そしてその根底には、郷土愛や幼少時の温かい記憶が宿る。シェフ自身の出身地で行う“凱旋DINING OUT”の本質は、こうして少しずつ表れてきました。

続いての料理は「鹿と鮎」。先程の「タラ ヒラメ ホルモン」と同様、この食材名だけを並べる料理名も、徳吉シェフの新たな一面。パワースポットである八頭の「大地の象徴・鹿」と「水の象徴・鮎」。それぞれのエネルギーを感じさせる一皿を考案したときに、これ以上の仕掛けは余計だと考えたのです。

しかし、シンプルなだけに難しさもありました。「鳥取の食材は本当に素晴らしいものばかり。そしてイタリアよりもずっと繊細ですね。だから塩加減には細心の注意を払いました」と、1日40人分の料理すべて、最後の塩はシェフ自らが振りました。繊細な食材を活かす、細やかな技。これが、ゲストの心に刻まれたおいしさの一因だったのです。

降り止まない雨の音は、眼の前の料理への集中を高める効果も生んだ。

「さっき作ったリコッタと雲丹」新鮮なチーズに雲丹の旨みが加わり極上の味わいに。

骨を掴んで食べるというワイルドなプレゼンテーションもまた、エナジーの表現。

「骨と肉」スイカと合わせた万葉牛のローストを、骨の上に盛り付けた。

シェフの思い出の味をアレンジした「しじみと牛」は、卓上で熱々の牛脂をサーブ。

土鍋で炊き上げたご飯に卵を合わせた「mantecando il risotto…」も客席で仕上げられた。

「タラ  ヒラメ ホルモン」もベースにあるのは、幼い頃から慣れ親しんだご当地料理の記憶。

雨の中で舞われた地域に伝わる麒麟獅子舞。その幽玄な舞が雰囲気を盛り上げた。

「鹿と鮎」。パワースポットである八頭の自然を象徴する食材を組み合わせた。

雨の会場においてもなお、シンプルな徳吉シェフの料理の存在感が際立った。

ダイニングアウト鳥取八頭圧倒的な自然の力が思い出させた、『DINING OUT』の原点。

デザートの一品目は「梨狩り」。豊穣のシンボルである二十世紀梨をくり抜いた器に、梨のゼリーとルバーブのマリネ、バジリコのグラニテを合わせた爽やかな一皿でした。そしてコースの〆に登場した「Milano collection」は、レセプションで訪れた「オズガーデン」の葡萄と花粉のジェラート、カカオのビスケットを合わせたプレート。皿に描かれた人体にアルケルメスで作ったシートのドレスをまとわせた、徳吉シェフらしいアーティスティックな一皿でした。

コースの終了後、シェフが登場すると、会場は雨音を打ち消すほどの歓声と拍手に包まれました。ゲストの顔には一様に、笑顔が浮かんでいます。考えてもみてください。野外で食事を楽しむ『DINING OUT』にとって、雨は決して恵まれた状況とはいえません。しかし“野外で食事をする”という意味にまで立ち返ってみるならば、つまり「五感すべてで自然に接することで動物の本能としての“食事”を思い出す」という意義から見つめ、この激しい雨はむしろプラスに働いたとさえいえるでしょう。「Energy Flow」。あふれる自然のエナジーに触れ、その偉大さを改めて思い出すこと。だからこそ、ゲストはこの状況を特別な体験として受け止め、大きな拍手で応えてくれたのです。「DINING OUTの原点に戻りましたね」アレックス氏は、そう語りました。

厳しい状況を乗り越えた末の成功。その影には、地元サービススタッフの力がありました。料理が雨に濡れないよう盆を重ねて配膳したこと、自ら濡れるのも厭わずに会場に目を配り続けたこと、できたての料理を客席に届けるようにぬかるみに足を取られながら動き回ったこと。どれも誰かの指示を聞いていたのでは間に合いません。それぞれのスタッフが随時判断を下し、適切な対応を取ってくれたこと。これが、豪雨という逆境にもかかわらず今回の『DINING OUT』を成功に導いた原動力でした。

状況を楽しむゲストたちとともに、会場は不思議な一体感に包まれた。

鳥取の豊穣のシンボルである梨をそのまま器にしたデザート。

皿の絵にドレスを着せた「Milano collection」は徳吉シェフらしいプレゼンテーション。

地元スタッフの素晴らしい工夫と判断で雨の『DINING OUT』を乗り越えた。

ダイニングアウト鳥取八頭史上初の予備会場開催。そしてゲストとスタッフに刻まれたもの。

しかし試練はこれで終わりではありませんでした。翌日は前日以上の豪雨。大雨警報が発せられ、山間部では土砂崩れの危険も高まります。“DINING OUT”と銘打つイベントでの苦渋の決断でしたが、やはり安全が最優先。ディナーの舞台は予備の荒天時会場に変更されました。14回目を迎える『DINING OUT』で初の選択です。時刻は正午。18時開演のディナーまで、残り6時間しかありません。

しかし、前日の豪雨開催を乗り切ったスタッフたちは、この状況をも乗り越えました。会場は築120年の古民家で有形文化財に登録される「太田邸」。その日の午前中までは影も形もなかったこの空間に瞬く間にレストランができあがり、ゲストを笑顔でお迎えしたのです。そして場所を変えて行われた2日目もまた、ゲストの拍手に包まれ大成功で幕を下ろしたのです。

サービスを統括した大橋氏は、終演後のスタッフを見回して言います。「開始前と顔つきがぜんぜん違うでしょう? みんな誇らしげな顔をしていますよね」ある女性スタッフは少し顔を上気させて言いました。「サービスって料理を運ぶだけの仕事だと思っていました。でも本当はシェフの思いとか、大げさに言えば“感動”を運んでいるんですね。これからもっともっとサービスを勉強したいと思いました」

アレックス氏は終演後、しみじみと語りました。「雨も良かったね。知られざる町で、大自然に囲まれて、その土地の魅力を味わい、特別な体験をする。そんな「DINING OUT」の原点に戻りましたね」。14回目を迎え、ノウハウは蓄積され、ホスピタリティは洗練された。しかし大雨という今回の特別な状況が、改めて大自然の力強さと、それ自体を楽しむという特別感を伝えてくれたというのです。

徳吉シェフも感慨とともに振り返ります。「雨も含めて、本当に楽しかった。鳥取の良さをうまく伝えられたと思います」この一年、大病からの復帰、第一子の誕生など公私含めてさまざまな体験があった徳吉シェフ。「最近、僕が改めて実感するのは“諦めないこと”の大切さ。この「DINING OUT」を通して、伝えたこと、教えられたことは、やはりその部分でした」持ち前の陽気さで会場を笑わせた徳吉シェフ。その内側には、苦難を乗り越えることの難しさ、大切さが実感として宿っていたのです。だからこそ、雨の「DINING OUT」は、ゲストとスタッフに確かな記憶として刻まれたのです。

明治30年(1897年)築、敷地面積2000平米の古民家・太田邸が舞台となった。

前日の大雨を乗り越えたスタッフの自信が、この日の成功に繋がった。

「DINING OUTの原点に戻った」と評したアレックス氏(写真左)。

ユーモアで会場を盛り上げた大橋氏だが、その目はいつもスタッフたちに注がれていた。

徳吉シェフはそのパフォーマンスを通して、凱旋DIINNG OUTの魅力を存分に伝えてくれた。

サービス、キッチンを支えた地元スタッフたちの力が成功の原動力に。

『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。

Ristorante TOKUYOSHI 
http://www.ristorantetokuyoshi.com

1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の吹き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社刊)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

調理師専門学校を卒業後、正統派グランメゾンで知られる『レストラン ひらまつ』に料理人として入社。翌年ソムリエ資格を取得後、サービス・ソムリエに転向。2011年に渡仏し、ボルドーの二つ星レストラン『シャトー コルデイヤン バージュ』でソムリエを経験し、帰国後は白金台『カンテサンス』へ。ミシュラン東京版で三つ星を獲得し続ける名店で研鑽を積む。その後、レストラン移転に伴い、店舗をそのまま受け継ぐ形で2013年9月に『ティルプス』を開業。オープンからわずか2ヵ月半という世界最速のスピードでミシュラン一つ星を獲得する快挙を成し遂げる。

大自然の中での豊かな暮らしが、唯一無二の商品を生む。[tretre/高知県吾川郡仁淀川町]

仁淀川町に移住し『tretre(トレトレ)』を立ち上げた竹内氏。

トレトレ

その美しさから「奇跡の清流」と謳われる『仁淀川』の源流域に位置し、自然豊かな山間に広がる高知県吾川郡仁淀川町。この地に自生する草木を中心に、大地の恵みを独自の感性で配合した『摘み草ブレンドティー』を生み出しているのが、竹内太郎氏が代表を務める『tretre(トレトレ)』です。後編では、この土地の魅力や『tretre』の軌跡をたどります。(前編はコチラ)

『tretre』の拠点である、高知県吾川郡仁淀川町。

トレトレ鮮やかな緑と眩しい青のコントラストが美しい、大自然に彩られた山間の町。

四国山地西部、西日本最高峰の『石鎚山』に発し、長さ124kmもの流れを経て太平洋へと注ぐ『仁淀川』。深い川底まで透き通るコバルトブルーの清流は、この地で美しい風景を撮り続けてきた写真家・高橋宣之氏によって「仁淀ブルー」と名づけられました。

『tretre』が拠点としているのは、そんな『仁淀川』の源流域に位置する仁淀川町。勾配のきつい山間の土地で気候条件が良く、昔から日本茶の名産地となっています。メジャーなのは、緑茶の葉っぱから作る、煎茶や釜炒り茶。お茶農家が自分たちの茶畑で栽培するのはもちろん、山の斜面にはちらほらと野生の自然茶も見られるような環境です。

愛媛県から高知県を貫く、「仁淀ブルー」の清流。

全国の一級河川水質ランキングでも連年1位を記録。

『仁淀川』の源流に近く、昔の営みが残る仁淀川町。

山の斜面をよく見ると、自生するお茶の木がある。

トレトレ豊かな暮らしの営みを求め、京都のど真ん中から高知の山奥へ。

竹内氏が生まれ育ったのは、高知県の中心部である高知市内。高校卒業後は京都の大学に進学し、そのまま京都の老舗麺料理店に就職しました。店舗業務から外交販売などの本社業務まで多岐にわたり活躍した竹内氏。しかし、40歳を目前にした頃「もっと生活に根づいた仕事、実感のある暮らしの中から商品を生み出す仕事がしたい」という想いに駆られます。

「これから自分が欲しい商品って何だろう?と考えた時に、理屈ではなく、感覚に基づいた、手作り感のあるものが良いなと思って。それまでも、例えば器なら大量生産ではなく、産地の素材と作り手の感性が生きたものを好んで買っていましたし、書家や陶芸家などアーティストの友人も多く、彼らの仕事ぶりにも惹かれていました」と竹内氏は振り返ります。

そうなると、都会では思うような素材が見当たりません。しかし、自分のルーツをたどると、高知県は森林が県土の84%を占める天然素材の宝庫。森林の間を縫うように美しい川が流れ、三方が海に面しています。実家は団地の中にありましたが、少し離れれば豊かな自然に囲まれ、幼い頃はよく川や森で遊んでいました。

「でも、実は仁淀川町は訪れたことがなくて。京都時代に参加していた、高知県を拠点に活動するデザイナー・梅原 真さんが主宰する『84会議』の中で、この町のことを知りました。高知市在住の写真家・高橋宣之さんが撮影した『仁淀川』の美しさに、強く惹かれましたね」と竹内氏。

実際に訪れてみると、仁淀川町は高知市街地から車で1時間ほどの距離ながら、コンビニエンスストアは1軒だけ、大きな工場も水田もない町。民家が点在し、それぞれが庭の畑で自分たちが食べる分程度の作物を育てている、自給自足を楽しみで続けているような状態であり、「ここにはまだ昔ながらの暮らしが残っている」と思い、竹内氏は感動したといいます。そして「この町でなら、何か商品化できるかも」と可能性を感じ、移住を決意。2014年5月、奥様とともに京都を離れました。

豊かな自然と昔ながらの営みに惹かれたそう。

美しい光景は、今も竹内氏の心を強く打ちます。

トレトレお茶処の隠れた逸品、野草茶に大きな魅力と可能性を感じて。

「山の暮らしの中から生まれる商品で会社を興したい」という強い想いはあったものの、具体的なことは決めないまま、仁淀川町で暮らし始めた竹内氏。まずは、素材を探すことから始めました。

なんとなく「味に関わる仕事」をテーマにしつつ、大切にしたのは「変に飾りつけず、素材そのものが十分魅力的で、事実を並べただけで勝負できるもの」と「大都市や海外にも打って出られるもの」であること。「“田舎に引っ込んで細々”というような消極的なことではなく、“こんな田舎だからこそできる”という積極的なものづくりをしたいと思いました」と竹内氏は言います。

そして着目したのが、この土地で昔から飲まれてきたお茶。最盛期に比べ、お茶作りを生業として続けているお茶農家は格段に減っています。それでも、ここで暮らす人々にとって、お茶はとても身近な自然の恵み。野菜と同様に、家族分程度の量を自分たちで作り、大切に飲む習慣が残っているのです。

しかし、煎茶や釜炒り茶などスタンダードな日本茶では、すでに多くの人が取り組んでおりなかなか太刀打ちできません。そんな中で出合ったのが、自生する様々な山野草を摘み、乾燥させて作る野草茶。商品として確立されているポピュラーな煎茶や釜炒り茶に対して、こちらは大々的に売り出されているのではなく、各家庭で個人的に飲まれているようなお茶です。その存在を初めて知り、豊かな味わいに驚いた竹内氏。「マイナーでありながら美味しい野草茶の商品化こそ、取り組み甲斐のある仕事だ」と感じ、早速動き出しました。

あらゆる山野草を採集し、お茶にした時の味わいを、自らの舌でひとつずつ分析して記録。同じ山野草でも、標高や日当たりなどによって風味が変わるため、環境ごとの違いも事細かに記しました。更に、それらを正確に0.1g単位で配合。最適なブレンド具合を見つけていきました。

竹内氏曰く「ひとつの商品が出来上がるまでに、40~50回はブレンドを繰り返しました。風味はもちろん、山野草にはそれぞれ効能の違いもあって、ケンカしない組み合わせを考えることも大切でした」とのこと。気の遠くなるような作業は、半年以上にも及んだといいます。

そうして2015年6月に会社を立ち上げ、地道な研究の成果である『摘み草ブレンドティー』の販売を始めた竹内氏。ブランド名は、イタリア語で「3」を意味する「tre」を重ねて『tretre』。町を走っている国道33号線にちなみ、豊作(トレトレ )の願いも込められました。

自ら山野草を集め、地道に分析していきました。

山野草を摘むのも、もちろんひとつずつ手作業です。

風味の要、0.1グラム単位で行われるブレンド作業。

カップ一つがティーバッグひとつ分になります。

少しずつ色々な葉が混じり、豊かな香りが広がります。

トレトレ地域の素材と知恵の賜物、この土地でないと作れなかったお茶。

竹内氏の探究心と努力の結晶である『摘み草ブレンドティー』ですが、やはりひとりではここまでできなかったといいます。

「どこにどんな山野草が生えていて、それがどんな味で、摘み時はいつ、干し方はどうとか、地域の方には色々なことを教わりました。特に長年この地で生活する人生の先輩方からは、本当に学ぶことが多くて。暮らしの中から生まれたノウハウや、実体験に基づいたアドバイスは、何よりも貴重なものでした」と竹内氏。

また、竹内氏は「畑仕事をしている方からすると、場合によって山野草は作物の生育を邪魔する雑草であり、恵みどころか目の敵なんですよね(笑)。でも、自分のやりたいことを丁寧に説明することで、賛同を得られるようになりました。例えば、何々の葉を探していると相談すれば、『誰々さん家の裏に生えているよ』とか、『うちでちょっと育てているのがあるから持ってきてあげる』とか、自社農園で育てるために株分けしてくださった方もいて、有難かったです」とも話します。

こうした地域の方々のサポートは、『tretre』が軌道に乗った今現在も、変わらず続いています。日常の中でのやり取りもそうですが、主な交流の場となっているのが、定期的に行っている「ハッパカイギ」。地域に住み、『tretre』の活動に興味を持って協力しようという方々が参加しています。基本的にはお茶農家の集まりかと思いきや、むしろ逆。お茶農家の方はゼロで、専業農家の方もほぼおらず、小さな畑でちょっと作物を育てて暮らしているような方が大半です。

「ハッパカイギ」では、地域の山野草についての情報交換をしたり、色々な山野草をお茶にして試飲しては、より美味しく飲むための方法を思案したりします。「昔は切り傷ができたらヨモギの葉を薬代わりに使っていた」など、遠い記憶をたどって共有することもあります。「お茶にする以外の山野草の活用法も勉強になります。放っておくと誰にも受け継がれず、なくなっていくこうした知恵も、大切にしたいですね」と竹内氏は話します。そして、収穫の時期になれば、一部の摘み草集めを依頼。決して負担にならないよう、無理のない程度にお願いしているそうですが「皆さん、畑仕事のついでとかに、楽しみながら応じてくださっています」とのこと。こうして、竹内氏曰く「柔らかなつながり」でできたネットワークが、『tretre』のものづくりを支えているのです。

地域の恵みが結集した『摘み草ブレンドティー』。

商品パッケージやネーミングは、梅原氏に依頼。

『tretre』のメンバーは竹内氏と奥様、女性スタッフの3名。

トレトレ自然の中で生まれる、心地よい暮らしのためのものづくりをこれからも。

仁淀川町で暮らし始めて5年目。移住当初こそ、都市暮らしとのギャップに若干とまどったものの「不便さも楽しめたので、特に困らずにここまできました」と竹内氏は振り返ります。『tretre』の活動以外でも、普段からご近所同士で作物を分け合うのは当たり前。更に、祭りなどのイベントや町内会の役割を通して住民同士で交流する機会も多いため、早い段階で自然と溶け込み、関係性が築けたのも大きかったようです。

思い切った決断ながら、望んでいた暮らしを実現した竹内氏。「京都では旬を追っていましたが、ここでは旬に追いかけられる。その感覚も新鮮です」と話します。そして、現在オリジナルの『摘み草ブレンドティー』については、東京からの依頼が多いそうです。「山奥に来たことで、逆に京都にいる頃よりも東京が近くなりました」と笑います。

また、竹内氏は日課として1日1点、町内の自然風景を撮影してSNSに投稿しているのですが、意外と地元の方がよく見ているのだとか。『摘み草ブレンドティー』や、前編で紹介した『によどヒノキウォーター』も、地元で人気商品となっています。『tretre』の取り組みが、地元の魅力を再発見し、自分の町を誇りに思うきっかけにもなっているようです。

今後も『摘み草ブレンドティー』を軸に、自然の心地よさを感じられるものづくりに勤しむ『tretre』。新商品の『によどヒノキウォーター』も、更にブラッシュアップしていくそうです。今後もまだまだ楽しみは広がります。

住所:〒781-1741 高知県吾川郡仁淀川町名野川27-1 MAP
電話:0889-36-0133
http://tretre-niyodo.jp/

高知県出身。高校卒業後は京都の大学に進学し、そのまま京都の老舗麺料理店へ就職。20年弱勤めた後、2014年3月に退職し、高知県吾川郡仁淀川町に移り住んだ。2015年6月には『トレトレ株式会社』を立ち上げ、『tretre』のブランド名で『摘み草ブレンドティー』の製造・販売をスタート。自生する草木やハーブを使う独自の味わいは、多方面から厚い支持を受けている。2017年8月には、『ヒノキの蒸留水』で作るルームミスト『によどヒノキウォーター』を発売。

小林紀晴 夏の写真紀行「濃厚で濃密な季節」。

 季節は巡って、夏。
 短い梅雨があっという間に去ると、恐ろしいまでの猛暑がやってきた。おそらく今年の夏のことは、しばらくのあいだ語り継がれるだろう。
 桜の頃と同じく、浅草から列車に乗った。あのときは進行方向に向かって右側の座席だったが今回は左側。隅田川を渡る瞬間、窓からスカイツリーが見えた。乗客はお父さんと男の子という組み合わせが多く、私の隣は男の子の二人兄弟の弟くんだった。小学一年生のようだ。お父さんとお兄ちゃんは通路を挟んだ向こう側に座っている。どこから来たのかと訊ねてみる。
「チョウフ、デス……」
 消え入るような、それでも生真面目な声が返ってきた。蒸気機関車をこれから見に行くのだ、と教えてくれた。

 降り立った会津田島の駅はもわんとした熱のある空気に満たされていた。それでも、東京とは明らかに質が違った。かなり暑さが和らいで感じられる。陽射しは強いが湿気は低く、時折心地よい風が吹く。
 
 私は大桃をめざす。
 春に来たときと同様に厳冬にこの地を訪れたことが頭に浮かぶ。冬の記憶に、春の記憶が、さらに夏が重なってゆく。冬はとにかくその雪深さに驚いた。埋もれるように無言で雪をかく人の姿を、いたるところで目にした。誰もがまさに黙々と雪をかいていた。土地に生きる人の気質はこんなところから形成されるに違いない。

 ひまわりの花がときおり道端に揺れている。冬のあいだ、この花たちはどんなふうに雪の下にいたのだろうか。もちろん種子としてそこにあったはずだが、あの雪深さを頭に描けば、花を咲かせること自体が奇跡のように思えてくる。

 小学二年生の夏。私はひまわりの研究をした。私が通っていた小学校には「一人一研究」というものがあって、いってみれば「自由研究」にあたるもので、私は夏休みのあいだ、ひまわりを観察し続けた。

 日向と日陰。
 それぞれの場所でひまわりを育て、成長の違いを調べるというものだ。小学二年生がみずからそんな研究を発想できるはずなどなく、母に言われてやったにすぎない。果たして母がみずから考えついたのか、それともどこかで読み聞きしてきたものなのかは知らないが、成長記録をつけた。
 夏が過ぎ、枯れると花からタネを丁寧に取り出し、その数を数えた。日向と日陰で数は大きく違った。いずれにしても私はその「一人一研究」により、それなりの成果を得た。というのはクラスで一人だけ選抜され、諏訪地方全体の何かの賞をいただいたからだ。どんな賞だったのか。思い出せないが賞状をもらったのは確かだ。

 ただ、子供心に小さな罪悪感があった。自分で考えついたわけではないことはもちろんだが、それ以上に育ちすぎたひまわりについて。

 日向のひまわりは畑で育てた。もともと肥料がたっぷりだったのだろう、恐ろしいほどに巨大になった。高さ2メートルをはるかに超えたし、茎もたくましく太かった。それに対し日陰のひまわりは納屋の裏で育てた。もちろん肥料などまったくあげないのだから、日向、日陰という対比以上に肥料による差が生まれてしまった。「肥料あり、肥料なし」の対比の方が「日向、日陰」より高かったはずだ。そのことに私は薄々気がついていた。でも伏せたまま、あくまで日向と日陰の対比で「こんなも育ちが違う」という内容にしたのだ。

 そのことを今でもひまわりを目にすると、思い出す。ひまわりと目が合った、と感じる瞬間に。

 冬に訪れたときに「落雪注意」という看板をいくつも目にした。その多くは窒息寸前という感じになかば雪に埋まっていたのだが、雪のやみ間にそれらがあらわになって、誰かの忘れものように居心地悪くあちこちに佇んでいた。考えてみれば、季節の忘れものという言い方もできるかもしれない。

 私はその文字を何度も「落雷注意」と誤って読み間違えた。どうしてこんなところに雷が落ちるのかな?と疑問に思った後で、雷ではなく雪だと気付くことを繰り返した。人の身体も季節に同調しているのかもしれない。雪深い地に立ち、雪を雷とは間違えるはずなどないのだから。

 大桃の舞台は濃い緑に囲まれていた。

 季節の一片としてある。そんな言葉が浮かんだ。植物や花、川だけでなく、すべてのものが同じ速度で新たな季節を迎える。同じ場所にあって、少し先に進んでいたり、遅れたりということはない。すべてのものは、すべて同じ速度で同じ時を刻んでいる。逆にいえば、例外は許されない。

 そんなふうに感じたのはやはり、ここを冬に訪ねた記憶が深く関係しているはずだ。あの日、この大桃の舞台は完全に雪にとざされていた。除雪された細い道をなんとか進んだのだが、あるところからはまったく進めなくなった。舞台のあたりは当然ながら除雪されておらず、それ以前に、集落内を除雪した雪が舞台の手前に、あたかも壁のように積まれ、立ちはだかっていた。私は雪の塊の端に登り、舞台を望んだ。かすかに屋根が見えた。そこから下は完全に雪に埋まっていた。
 
 いまはセミの鳴き声に包まれている。「大桃夢舞台」が行われる前日だ。見上げた大桃の舞台は茅葺屋根に草が茂っていて、その上は小さな庭のようだ。あるいは草原を連想させた。

 ひとりの男性に会った。地区の区長であり、翌日開催される「大桃夢舞台」の実行委員長をされている星さん。この地で生まれ育った方だ。

 舞台の前で幼い頃の話を伺った。印象的だったのは、かつてはこの地区の小学生は11キロ余りも離れた小学校まで通っていというのだが、冬はカンジキを履いた大人が必ず付き添っていたという。ただ1年生から3年生まで、冬のあいだは地区に開校される季節分校に通ったという。
「では4年生から6年生は?」
「冬のあいだも歩いて通い続けていました」

 時に命の危険を感じながら、通った記憶があるという。ちなみに現在は季節分校は存在せず、一年を通してバスで通学しているようだ。

「冬は本当に命懸け。だからここの子供の気持ちはすごい。どこにも負けません」
 対して、夏。
「夏休みは早朝のラジオ体操をして終わると川で泳ぎ、泳ぎ疲れるとそのままこの舞台に来て柱をよじ登りました。屋根裏までみんなで登って、あの格子のあいだから遠くを眺めていました。柱を一人で登れなければ一人前ではなかった」

 そう言って星さんは目を細めた。思い出にも冬と夏のコントラストがあった。

 翌日はハレ。

 客席の向こうの舞台は昨日とは明らに違って映った。多くのお客さんに見つめられて舞台そのものが緊張し、目を見開いている。そんな印象を覚えた。この日のために向かって左側に花道が作られている。ここは標高800メートルほどある。だから陽射しは強いが湿気は低い。風が吹くと心地よく、汗が自然とひいていく。

 最初の演目は青柳八木節笠踊り。八木節とは群馬、栃木を中心にした民謡だ。南会津は、尾瀬(群馬)を通してそれら地方との繋がりが古くから強い。そのこととおそらく関係があるはずだ。

 青柳というのは大桃に隣接する地区で芸能の集落として知られている。この踊りは明治時代から途切れ途切れに続いてきた歴史をもつ。戦時中には出征する者のために踊られた。そのことを知ったうえで舞台を眺めていると、出征する若者たちの姿を考えずにはいられない。セピア色に染まった古い写真の中からこちらを見ている誰か。

 十年ほど前に、古いアルバムのなかに祖父の出征の写真を見つけた。記憶にあるはずもない、それでも私に関係のある人たちに囲まれた若い頃の祖父。私が生まれる前に壊された実家の前に集まった一族。家族と親戚に囲まれた軍服姿の祖父が中心にいる。私の父がその脇にいる。父はおそらく2、3歳だろう。

 私はこの写真を、みずからの『kemonomichi』と名付けた写真集のなかに収めた。拝借したといってもいい。撮影者は不明。庶民が手軽にカメラを持てる時代ではなかったはずだから、地元の写真館の方だろうか。

 その写真集を観た私の母の姉である90歳近い伯母が、漏らした言葉がある。
「みんな切なえ顔をしてるじゃあ」

 意外だった。

 私にはどの顔ももちろん嬉しそうには見えないが、だからといって悲しそうには映らなかったからだ。伯母は戦時中、10代半ばだったはずで、その頃の記憶は自覚的なはずだ。当時のことをよく知っている人には、そんなふうに見えるのか。新たな発見だった。

 22歳の青年に舞台の裏で会った。久川城太鼓を演奏する、男ばかり三人兄弟の一番下。現在、この太鼓は彼の父と兄二人、さらにもう一人の方しか演奏する者がいない。年を追うごとに次第に減って来ているという。
「保育所に通っている頃からやっていました」

 思春期の頃に辞めたいとい思ったことはないのですか。
「そういうものはありませんでした。逆に自分だけやっているという特別感があったし、親父、兄貴たちもやっているので、あまり抵抗はなかった」

 後継者となる若い人がなかなか見つからないという。
「これからも、自分はやり続けたい」

 力強い言葉。

 私は来た道を戻る。まだ通ったことがない道へ分け入ってみる。すると、不意に花を咲かせた蕎麦畑が目の前に広がった。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。

小林紀晴 夏の写真紀行「濃厚で濃密な季節」。

 季節は巡って、夏。
 短い梅雨があっという間に去ると、恐ろしいまでの猛暑がやってきた。おそらく今年の夏のことは、しばらくのあいだ語り継がれるだろう。
 桜の頃と同じく、浅草から列車に乗った。あのときは進行方向に向かって右側の座席だったが今回は左側。隅田川を渡る瞬間、窓からスカイツリーが見えた。乗客はお父さんと男の子という組み合わせが多く、私の隣は男の子の二人兄弟の弟くんだった。小学一年生のようだ。お父さんとお兄ちゃんは通路を挟んだ向こう側に座っている。どこから来たのかと訊ねてみる。
「チョウフ、デス……」
 消え入るような、それでも生真面目な声が返ってきた。蒸気機関車をこれから見に行くのだ、と教えてくれた。

 降り立った会津田島の駅はもわんとした熱のある空気に満たされていた。それでも、東京とは明らかに質が違った。かなり暑さが和らいで感じられる。陽射しは強いが湿気は低く、時折心地よい風が吹く。
 
 私は大桃をめざす。
 春に来たときと同様に厳冬にこの地を訪れたことが頭に浮かぶ。冬の記憶に、春の記憶が、さらに夏が重なってゆく。冬はとにかくその雪深さに驚いた。埋もれるように無言で雪をかく人の姿を、いたるところで目にした。誰もがまさに黙々と雪をかいていた。土地に生きる人の気質はこんなところから形成されるに違いない。

 ひまわりの花がときおり道端に揺れている。冬のあいだ、この花たちはどんなふうに雪の下にいたのだろうか。もちろん種子としてそこにあったはずだが、あの雪深さを頭に描けば、花を咲かせること自体が奇跡のように思えてくる。

 小学二年生の夏。私はひまわりの研究をした。私が通っていた小学校には「一人一研究」というものがあって、いってみれば「自由研究」にあたるもので、私は夏休みのあいだ、ひまわりを観察し続けた。

 日向と日陰。
 それぞれの場所でひまわりを育て、成長の違いを調べるというものだ。小学二年生がみずからそんな研究を発想できるはずなどなく、母に言われてやったにすぎない。果たして母がみずから考えついたのか、それともどこかで読み聞きしてきたものなのかは知らないが、成長記録をつけた。
 夏が過ぎ、枯れると花からタネを丁寧に取り出し、その数を数えた。日向と日陰で数は大きく違った。いずれにしても私はその「一人一研究」により、それなりの成果を得た。というのはクラスで一人だけ選抜され、諏訪地方全体の何かの賞をいただいたからだ。どんな賞だったのか。思い出せないが賞状をもらったのは確かだ。

 ただ、子供心に小さな罪悪感があった。自分で考えついたわけではないことはもちろんだが、それ以上に育ちすぎたひまわりについて。

 日向のひまわりは畑で育てた。もともと肥料がたっぷりだったのだろう、恐ろしいほどに巨大になった。高さ2メートルをはるかに超えたし、茎もたくましく太かった。それに対し日陰のひまわりは納屋の裏で育てた。もちろん肥料などまったくあげないのだから、日向、日陰という対比以上に肥料による差が生まれてしまった。「肥料あり、肥料なし」の対比の方が「日向、日陰」より高かったはずだ。そのことに私は薄々気がついていた。でも伏せたまま、あくまで日向と日陰の対比で「こんなも育ちが違う」という内容にしたのだ。

 そのことを今でもひまわりを目にすると、思い出す。ひまわりと目が合った、と感じる瞬間に。

 冬に訪れたときに「落雪注意」という看板をいくつも目にした。その多くは窒息寸前という感じになかば雪に埋まっていたのだが、雪のやみ間にそれらがあらわになって、誰かの忘れものように居心地悪くあちこちに佇んでいた。考えてみれば、季節の忘れものという言い方もできるかもしれない。

 私はその文字を何度も「落雷注意」と誤って読み間違えた。どうしてこんなところに雷が落ちるのかな?と疑問に思った後で、雷ではなく雪だと気付くことを繰り返した。人の身体も季節に同調しているのかもしれない。雪深い地に立ち、雪を雷とは間違えるはずなどないのだから。

 大桃の舞台は濃い緑に囲まれていた。

 季節の一片としてある。そんな言葉が浮かんだ。植物や花、川だけでなく、すべてのものが同じ速度で新たな季節を迎える。同じ場所にあって、少し先に進んでいたり、遅れたりということはない。すべてのものは、すべて同じ速度で同じ時を刻んでいる。逆にいえば、例外は許されない。

 そんなふうに感じたのはやはり、ここを冬に訪ねた記憶が深く関係しているはずだ。あの日、この大桃の舞台は完全に雪にとざされていた。除雪された細い道をなんとか進んだのだが、あるところからはまったく進めなくなった。舞台のあたりは当然ながら除雪されておらず、それ以前に、集落内を除雪した雪が舞台の手前に、あたかも壁のように積まれ、立ちはだかっていた。私は雪の塊の端に登り、舞台を望んだ。かすかに屋根が見えた。そこから下は完全に雪に埋まっていた。
 
 いまはセミの鳴き声に包まれている。「大桃夢舞台」が行われる前日だ。見上げた大桃の舞台は茅葺屋根に草が茂っていて、その上は小さな庭のようだ。あるいは草原を連想させた。

 ひとりの男性に会った。地区の区長であり、翌日開催される「大桃夢舞台」の実行委員長をされている星さん。この地で生まれ育った方だ。

 舞台の前で幼い頃の話を伺った。印象的だったのは、かつてはこの地区の小学生は11キロ余りも離れた小学校まで通っていというのだが、冬はカンジキを履いた大人が必ず付き添っていたという。ただ1年生から3年生まで、冬のあいだは地区に開校される季節分校に通ったという。
「では4年生から6年生は?」
「冬のあいだも歩いて通い続けていました」

 時に命の危険を感じながら、通った記憶があるという。ちなみに現在は季節分校は存在せず、一年を通してバスで通学しているようだ。

「冬は本当に命懸け。だからここの子供の気持ちはすごい。どこにも負けません」
 対して、夏。
「夏休みは早朝のラジオ体操をして終わると川で泳ぎ、泳ぎ疲れるとそのままこの舞台に来て柱をよじ登りました。屋根裏までみんなで登って、あの格子のあいだから遠くを眺めていました。柱を一人で登れなければ一人前ではなかった」

 そう言って星さんは目を細めた。思い出にも冬と夏のコントラストがあった。

 翌日はハレ。

 客席の向こうの舞台は昨日とは明らに違って映った。多くのお客さんに見つめられて舞台そのものが緊張し、目を見開いている。そんな印象を覚えた。この日のために向かって左側に花道が作られている。ここは標高800メートルほどある。だから陽射しは強いが湿気は低い。風が吹くと心地よく、汗が自然とひいていく。

 最初の演目は青柳八木節笠踊り。八木節とは群馬、栃木を中心にした民謡だ。南会津は、尾瀬(群馬)を通してそれら地方との繋がりが古くから強い。そのこととおそらく関係があるはずだ。

 青柳というのは大桃に隣接する地区で芸能の集落として知られている。この踊りは明治時代から途切れ途切れに続いてきた歴史をもつ。戦時中には出征する者のために踊られた。そのことを知ったうえで舞台を眺めていると、出征する若者たちの姿を考えずにはいられない。セピア色に染まった古い写真の中からこちらを見ている誰か。

 十年ほど前に、古いアルバムのなかに祖父の出征の写真を見つけた。記憶にあるはずもない、それでも私に関係のある人たちに囲まれた若い頃の祖父。私が生まれる前に壊された実家の前に集まった一族。家族と親戚に囲まれた軍服姿の祖父が中心にいる。私の父がその脇にいる。父はおそらく2、3歳だろう。

 私はこの写真を、みずからの『kemonomichi』と名付けた写真集のなかに収めた。拝借したといってもいい。撮影者は不明。庶民が手軽にカメラを持てる時代ではなかったはずだから、地元の写真館の方だろうか。

 その写真集を観た私の母の姉である90歳近い伯母が、漏らした言葉がある。
「みんな切なえ顔をしてるじゃあ」

 意外だった。

 私にはどの顔ももちろん嬉しそうには見えないが、だからといって悲しそうには映らなかったからだ。伯母は戦時中、10代半ばだったはずで、その頃の記憶は自覚的なはずだ。当時のことをよく知っている人には、そんなふうに見えるのか。新たな発見だった。

 22歳の青年に舞台の裏で会った。久川城太鼓を演奏する、男ばかり三人兄弟の一番下。現在、この太鼓は彼の父と兄二人、さらにもう一人の方しか演奏する者がいない。年を追うごとに次第に減って来ているという。
「保育所に通っている頃からやっていました」

 思春期の頃に辞めたいとい思ったことはないのですか。
「そういうものはありませんでした。逆に自分だけやっているという特別感があったし、親父、兄貴たちもやっているので、あまり抵抗はなかった」

 後継者となる若い人がなかなか見つからないという。
「これからも、自分はやり続けたい」

 力強い言葉。

 私は来た道を戻る。まだ通ったことがない道へ分け入ってみる。すると、不意に花を咲かせた蕎麦畑が目の前に広がった。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。

手紙を書くことから始まる旅。「何もない宿」が教えてくれる心の豊かさ。[苫屋/岩手県九重郡]

苫屋OVERVIEW

何年振りでしょうか? こうして手紙を書くこと自体、最後がいつだったかさえ正確には思い出せません。
岩手県野田村にある辺境の宿『苫屋』。この宿を取材するにあたり、編集部が初めにしたことはペンを取ることでした。何せ『苫屋』には電話線が引かれていません。宿の人は携帯電話も持っていません。ましてやPCなど持っているはずがありません。
宿泊の予約はもちろん、取材を申し込むにはこうして手紙を書くしか手立てがないのです。

便箋に企画内容をびっしりと書き、返信用封筒と切手を入れ、大切に封をして投函。5日ほどして、待ちに待った返信が届きました。

企画書つきお手紙ありがとうございます。
URLのご案内もありがとうございます。
『苫屋』には電話がないので、インターネットで検索はできないのですが、お気持ちだけ頂きます。
私たちはスマートフォンも携帯電話も持っていません。
この状況で記事になりますか?
編集部のスタッフさんが「大丈夫です」と言われるのでしたら●月●日(金)、●日(火)のどちらかでお待ちしたいのですが如何でしょう?
(原文ママ)

取材班は『苫屋』へ向かうことにしました。
何ひとつラグジュアリーなものはありません。しかし、このデジタル社会において、26年前のオープンから変わらないスタイルで営む宿。オーナーである坂本 充氏、久美子氏夫妻がここで宿を営み続ける理由はどこにあるのでしょう。

野田村にある南部曲り家の茅葺き屋根の宿。手紙を出してまで宿泊する意味とは? 常連客が毎年のようにここを訪れるその魅力とは?
『ONESTORY』取材班が、そのありのままの姿をレポートします。

住所: 岩手県九戸郡野田村大字野田第5地割22 MAP
電話: なし

集落の象徴を守ろうという人々の情熱が磨き上げた、神々しい舞台の輝き。[大桃の舞台/福島県南会津町]

舞台正面の欄間には、春夏秋冬を表した精緻な彫刻が良い状態を保ったまま残されている。舞台間口は檜枝岐の舞台より一間ほど広く取られている。

大桃の舞台国の重要有形民俗文化財にも指定されている、農村舞台建築の美しい頂点。

大桃の舞台とは南会津町の深奥部、檜枝岐村との町村境に接する大桃地区に残る、農村歌舞伎の上演のための舞台です。南会津一帯が御蔵入地(天領)であった藩政期に起源を持ち、1895年(明治28年)に再建されたこの舞台を、人々は集落の象徴として守り続けてきました。その貴重さが認められて、現在では檜枝岐の舞台と並んで国の重要有形民俗文化財に登録されています。切妻造りの舞台建屋は正面の破風の前に庇がつけられ、そこから左右に連なる軒端の造形の力強い表情から「兜造り」とも呼ばれます。さらに舞台中央には二重二層機構が取り入れられてより立体的で奥行きを感じさせるよう工夫されているなど、農村舞台の一つの到達点を示すその建築の完成度は、緑の草に覆われた茅葺屋根の詩的なまでの美しさと相まって、訪れた人の胸に強い印象を残すはずです。

住所:福島県南会津郡南会津町大桃字居平164 MAP


(supported by 東武鉄道

登山をしなければたどり着けない、九州最高所に湧く秘湯。[法華院温泉山荘/大分県竹田市]

阿蘇・くじゅう国立公園内にある、九州随一の秘湯。建物の裏手には九州最高峰の中岳が望める。

法華院温泉山荘雄大な山々に囲まれた山小屋の温泉。

大分県玖珠郡九重町から竹田市の北部にまたがるくじゅう連山。「九州の屋根」とも呼ばれる山中に、九州一標高が高い所に湧く天然温泉があります。「法華院温泉山荘」は、久住山、大船山、平治岳、三俣山などの山々に囲まれた湿原「坊ガツル」に佇む山小屋。もちろん車で行くことはできず、たどり着くには歩くしか方法はありません。九州最高所の温泉から望む景色を楽しみにして、九重町の長者原・登山口をスタート。

「坊ガツル」では、九州本土最高峰の中岳(標高1791m)のほか、1700mを超える山が八座、1000m以上が20座以上連なるくじゅう連山を見ることができる。

法華院温泉山荘花や木、美しい山々を愛でながらトレッキング。

「法華院温泉山荘」までは、登山初心者にオススメの雨ヶ池越のコースで向かいます。歩き始めるとすぐ眼前に広がるのが「タデ原湿原」。「坊ガツル」とともにラムサール条約に登録された湿原は、木道が整備されており散策に最適です。初秋の風に気持ちよく揺れるヒゴタイを写真に収めながら、三俣山の山中へと入りました。木々が生い茂る登山道では山鳥の鳴き声が響き、柔らかな木漏れ日がルートを照らしてくれます。森林浴を楽しみつつ、時折岩場や石がゴロゴロと堆積した道も通り、息が上がりながら歩くこと90分。ノハナショウブやヤマラッキョウの群生地としても知られる、「雨ヶ池」に到着しました。雨が降ると池ができる湿地帯は視界が開かれ爽快感抜群。季節の花々を眺めながらのんびりと歩き、いよいよ目的地の「坊ガツル」へと向かいます。

8月中旬から9月頃にかけてタデ原湿原に咲くヒゴタイ。絶滅危惧種にも指定されている貴重な花。

ノハナショウブやヤマラッキョウの群生地としても知られる「雨ヶ池」。

木漏れ日の中、苔むした岩を登り目的地を目指す。

法華院温泉山荘鎌倉時代から続くお寺が山小屋へ。

雄大な山々に囲まれた標高1230mの盆地にある「坊ガツル湿原」。中央には筑後川の水源でもある鳴子川が流れる数少ない高層湿原です。山の緑と空の青、美しいコントラストに感動しながらトレッキングを続けると、山の麓にロッジが見えてきました。川のせせらぎが聞こえる「法華院温泉山荘」は標高1250mにある山小屋。元は鎌倉時代を開基とする「九重山法華院白水寺」と呼ばれる修験道場を建立したことが始まりで、明治時代に入り信仰の山から登山の山へと変化する中で山小屋の運営を始めたのです。そんな歴史ある地に、登山客の疲れた体を癒す天然温泉が待っていました。

「法華院温泉山荘」の前に広がる「坊ガツル湿原」。運が良ければ野うさぎや山鳥たちに出会うことができる。

訪れる客も久住山や中岳など、目指す山頂は様々。食事処もあり、多くの客で賑わっている。

秋にはススキが一面に広がり、美しい山々の紅葉も見ることができる。

法華院温泉山荘最高のロケーションとともに入る爽快風呂。

登山口から2時間半をかけてたどり着いたのは、眼前に大船山、平治岳、立中山を望むことができる、源泉掛け流しの硫酸塩泉。乳白色のにごり湯だった温泉は約20年前の硫黄山の噴火によって泉質が変わってしまったそうで、現在は澄みきった透明の湯が溢れています。ふわりと湯の花が舞う温泉は適温に設定され、柔らかでさらりとした肌触り。汗をかいた体にはさっぱり感がちょうどよく、時折窓から山々を通り抜ける風と相まって気分は爽快。筋肉痛や関節痛、運動麻痺、疲労回復などに効果があると言われるだけあって、約5kmの登山を終えて疲れた体もすっかりリフレッシュできました。

1年を通じて山小屋を運営する支配人によると、大きな窓から望む景色は四季折々の表情を見せ、5月〜6月に見ることができるミヤマキリシマの時期や、辺り一面を真っ白に包む冬山の時期もまた趣があるのだと言います。春夏秋冬を通じて、訪れたものを楽しませてくれる温泉。簡単にはたどり着かないからこそ、入浴したときの感動と達成感は格別です。ここから先、山頂を目指すもよし、来た時とは違うルートで下山するもよし。まずは温泉を目掛けて山登りを楽しんでみませんか。

露天はないが窓からは山々を望むことができ、夜には星空も楽しめる。

泉質は硫酸塩泉。宿泊客は24時間入浴できる。入浴料500円。

乳白色のにごり湯だった温泉は約20年前の硫黄山の噴火によって泉質が変わってしまったそうで、現在は澄みきった透明の湯が溢れている。

5月〜6月の時期に見ることができる天然記念物のミヤマキリシマ。この時期山荘では1年のうち一番の賑わいを見せる。

住所:〒878-0202  大分県竹田市久住町大字有氏1783 MAP
電話:0974-77-2810
http://www.hokkein.co.jp

「泊まれる商店街」が、地域を救うかもしれない。 [商店街HOTEL 講/滋賀県大津市]

『HOTEL講』の一つ「丸屋」。菱屋町商店街にある、天ぷら屋だった建物。

商店街HOTEL 講日本の古き良き「助け合い精神」を現代に。

かつての日本には、「講」という相互扶助組織がありました。誰かが困った時にみんなで手を差し伸べる制度で、参詣による「伊勢講」「熊野講」や、経済的に地域で支え合う「頼母子講」などが代表的です。戦後になって「講」は解体されましたが、最近滋賀県で、その日本人の支え合う精神のもと復活された「講」があります。それが、『商店街HOTEL 講 大津百町』です。

5棟ある一棟貸し町家の中で一番広い「鍵屋」。

商店街HOTEL 講工務店と雑誌がタッグを組んだホテル。

大津はかつて「大津百町」と呼ばれ、東海道五十三次最大の宿場町として賑わった街です。しかし現在ではその面影もなく、駅に近いこのアーケード商店街も空き家が目立つように。築100年を超える町家の維持もできず、多くが取り壊しの危機にありました。その現状を何とかしようと動いたのが、滋賀県竜王町で谷口工務店を営む谷口弘和氏。雑誌「自遊人」を発行し新潟県南魚沼市で体感型宿泊施設「里山十帖」を運営する『株式会社自遊人』に相談を持ちかけ、メディア型ホテルにするというプロジェクトが生まれました。

「丸屋」ダイニング。フィン・ユールの「カードテーブル」などを配した。

商店街HOTEL 講観光地ではない普通の街に、観光客を呼び込む。

このプロジェクトが他のデベロッパーや大資本が行うホテル建設と異なるのは、「作る」という使命を根幹に持つ民間企業2社が始めたタウンマネジメントプロジェクトであるということ。地域に密着し「社内大工の技術力」に誇りを持つ谷口工務店と、メディアディレクターでありオペレーターとしても実績がある自遊人のタッグは、「ホテルという媒体を通じて商店街を観光資源化することにより、生活圏外の人々の消費を取り込む」という互いの強みを生かした新たな社会実験でもありました。そうして彼らが蘇らせたのは7軒の町家。デザイン面はもちろん、実用性と快適性を重視して、今後さらに100年使用できる“現代の町家”として誕生したホテルは、『講 大津百町』と名付けられました。「伊勢に詣でたように大津に来て欲しい」「古き良き日本を感じて欲しい」「旅する人々に街の活性化を担って欲しい」という想いからです。

ベッドはすべて、アメリカ・シーリー社のハイクオリティーシリーズを採用。

商店街HOTEL 講町家にヤコブセン。居心地にはとことんこだわった。

『講 大津百町』は、「近江屋」「茶屋」「鍵屋」「丸屋」「萬屋」「鈴屋」「糀屋」の7棟で構成。ゲストハウスなどとは異なり、全室にバス・トイレを完備し、防音・断熱も最大限の工事を実施。できる限り元の梁や柱を生かしたり、土間の吹き抜けや中庭もそのままにしたりと、古来の町家の快適性や風情を損なわないよう工夫を凝らしています。家具はアルネ・ヤコブセンやフィン・ユールといった北欧デザインにこだわり、和モダンな空間に仕上げました。

長等商店街にほど近い、かつて花街として栄えたエリアに建つ「糀屋」のLDK&ベッドルーム。

商店街HOTEL 講一人旅からファミリーまであらゆるニーズに。

7棟すべて間取りやデザイン、家具も異なるのも魅力の一つです。例えば「近江屋」は、フロントとレストラン、宿泊者専用ラウンジ、客室3部屋を擁する大型の町家。部屋は定員2名のスーペリアツインで、一人旅やビジネスユースにも最適です。

「茶屋」も大きな町家で、デラックスツインやスーペリアツインなど5室を備えます。その一室は、風情溢れる庭に面した部屋。ここで茶会を開くこともできる風趣豊かな和室です。アルネ・ヤコブセンの「エッグチェア」や「スワンチェア」でくつろげるという点もポイントです。

 「鍵屋」は、明治時代築の小ぢんまりした2階建ての長屋。一棟貸し切りタイプで、バスルームは檜の浴槽を設えた贅沢な造りです。「丸屋」「萬屋」「鈴屋」「糀屋」も一棟貸しスタイル。いずれもミニキッチンやダイニングキッチンを備えているため、自分たちで食材を購入して調理を楽しむことができます。

「糀屋」ではダイニングキッチンを囲みながら料理や食事ができる。ミニパーティーにもいい。

商店街HOTEL 講これからの観光は、より地域に根ざしていく。

ホテルは「丸屋町」「菱屋町」「長等」というアーケード商店街にあり、大津の中心部として庶民的な活気に包まれています。近くには本モロコやイサザをはじめ琵琶湖の淡水魚が何でも揃う鮮魚店や、宮内庁御用達だった漬物店、コロッケが40円という精肉店など地元密着の商店がたくさんあり、近所の人が集まる居酒屋やモーニングが人気の喫茶店など飲食店も充実しています。

「街に泊まって、食べて、飲んで、買って」をコンセプトにする新しい形のホテル。商店街の活性化や古民家再生といった街へのベネフィットだけでなく、旅行者もその土地の素顔にふれられ、ほかにはない体験を得ることができる―。この新たな価値を創造する宿泊のスタイルが、これからの旅のスタンダードになるかもしれません。

「鈴屋」の2階には路地を見下ろす空間や、書斎も設けられている。

リノベーションの際に断熱を徹底しているため、冬でも隙間風に悩まされる心配はない。

「町家=和の家具」という概念にとらわれず、快適性を追求。

住所:滋賀県大津市中央1-2-6 MAP
アクセス:フロントのある「近江屋」へはJR大津駅から徒歩7分
電話:077-516-7475
料金:1泊素泊まり9,900円~(税別・サービス料込)
写真提供:商店街HOTEL 講 大津百町
http://hotel-koo.com/

奇跡のような真夏の7日間、儚く消えたポップアップレストラン『tetxubarri』&シェフ・前田哲郎とは?[tetxubarri]

イベント数日前に行われた『TIRPSE』での1Day Dinner。仕込みの合間、熱源である薪の前にて。

「都会の真ん中で、薪なんて大丈夫ですかね?」と炎を前に子供のようにはしゃぐ前田氏。

テチュバリ世界屈指の名店で働く日本人シェフが、この夏、謎のイベントを開催。

突然ですが皆様、『Asador Etxebarri(アサドール・エチェバリ)』という名のレストランをご存知でしょうか? その店はスペインバスク州の小さな小さな集落にある山奥の一軒家レストランなのですが、訪れるだけでも一苦労のこの場所に、この店を訪れるためにだけにバスクを目指す美食家が後をたたないと言われています。ちなみに2018年度の『世界ベストレストラン50』では10位にランクイン、数カ月先まで予約の埋まる、名実ともに世界屈指の名店でもあるのです。

そして現在、その『Etxebarri』でオーナーシェフ、ビクトル・アルギンソニスの右腕として活躍するのが今回の主役、前田哲郎氏。

2013年から同店で働き始め、今では店の2番手として焼き場を仕切る前田氏。ほぼすべての料理を、薪を熱源とする同店で、焼きを任されるこのポジションがいかにシェフの信頼を得ているかは推して知るべし。長く同地に暮らし、水と緑、景色に空気と隅々まで土地の環境を理解したことでビクトル氏の考えを体現できる、稀有な存在こそが前田氏というわけです。

さらに近年、前田氏が知人や友人をもてなす際にイベント名的に使用していたのがEtxebarriと自らの名前をもじった『tetxubarri(テチュバリ)』。自宅などに旧知の友を招き、『Etxebarri』では出せない希少食材や珍しい料理を振る舞ってくれるというイベントの噂は、食通の間で話題になるほど。そして今回、金沢から車で1時間の山奥に開かれた期間限定レストランの名も同じく『tetxubarri』だったのです。

そう、勘のいい読者であればすでにお気づきかもしれませんが、前田氏は今夏凱旋帰国。それに伴い金沢の山奥に突如姿を現し、儚く消えたポップアップレストランこそが『tetxubarri』! 世界中から称賛を集める『Etxebarri』のエスプリを感じさせ、さらに金沢という自らの故郷で『tetxubarri』を行った前田氏に、ONESTORYはイベント前とイベント中、二度に亘りインタビューをさせていただきました。

そして奇跡のような7日間を体験。世界で活躍するシェフ・前田哲郎は生まれ育ったこの地に何を思うか? じっくり話を伺いました。

日本ではなく、あえての金沢。そこには氏が料理を作る上でもっとも大切にする根源が静かに流れていたのです。

金沢から車で1時間ほど。白山市のスキー場の麓に建つ木造の小屋がレストランに。

プロデュサーの稲本健一氏と小屋のテラスにて談笑。

開店前の束の間、テーブルでくつろぐ前田氏と大橋氏。窓外には鬱蒼と山の緑が迫る。

テチュバリ同郷というキーワードがイベント実現の原動力に。

まずは、tetxubarriの意味・内容について伺うと、シェフ・前田氏の心の内はすぐに見えてきました。
「個人的に料理をするのがtetxubarri。今までも舞台はさまざま、依頼や要望があった際、やりたいと心が動いた時に不定期で行ってきました」

バスク語で“エチェ”は家、“バリ”が新しいの意味を持ち、そこに自らの名前・哲郎の頭文字Tを付けたイベント名は、“新しい自分”という意味を持たせたそう。
「ビクトルシェフにもレストランを出すならtetxubarriにしたいと言ったら勝手にやれと言われた。だから、それからは自分の料理を振る舞うイベント名になっているんです」

そう屈託なく笑う前田氏ですが、今回のイベント前までは実はtetxubarriの開催自体を渋っていたと言います。
「『Etxebarri』というレストランがそうであるように、土地への理解がないと成立しないのが僕の料理。何度かやってみてわかったのですが、正直バスク以外でtetxubarriをやる意味が見えなくなっていました」

たぶんこの人はとても純粋な人なのでしょう。料理を作るにはまずは深い部分での土地への理解が必須であり、それはその地に長く暮らさないと見えてこない。その地で育つ野菜を知り、家畜を育て、土地の水を使い、自分の視野の中だけで完結する料理の世界。ビクトルシェフの教えはもちろんですが、だからバスク以外で料理を振る舞うこと自体に体も心も拒否反応を起こし始めていたのです。
「いろいろと考えている時に、後押ししてくれたのが稲本さん。バスク以外でできるとしたらスペインに来るまで暮らしていた金沢だけなんですよね」

前田氏が名前を挙げた“稲本さん”とは外食産業の風雲児と言われ数々の話題店を世に送り出してきた稲本健一氏。株式会社ゼットンの創業者であり、現在、株式会社DDホールディングス取締役兼海外統括CCOとして世界を駆け巡る氏が、前田氏の背中を後押しし、今回のtetxubarri開催のプロデュースを担っていたのです。
「僕は夏の1ヶ月間、身体を空けただけ。日本に来るまでの間に、山奥の小屋探しに始まり、サービスを担当してくれた『TIRPSE』大橋直誉さんのアサイン、小屋の修繕、地元スタッフの声がけまでいろいろと手を回してくれていました」

実は前田氏と稲本氏は隣の中学出身という同郷同士。世界で戦うふたりであり、同じ金沢の水で育ったふたりだからこそ、土地を理解するという意味と、金沢でのtetxubarri開催が自然と結びつき、幻のようなイベントは実現へと大きく舵を切ることになったのです。

炎に包まれる能登牛。こんがりと焼き目をつけつつも中はジューシー。

金沢ではバスクでは使わないジビエにも初挑戦。夏鹿の旨さに開眼!

肉汁滴る日本鹿。添えられたミョウガは山小屋のすぐ横で採取。

牛肉にはぶどうの樹を使用。食材により楢の木と使い分ける前田氏。

テチュバリ魂が呼び起こされるような薪料理とは?

「日本でtetxubarriが味わえる!」
大それた宣伝はしなくとも、その噂はSNSを媒介にまたたく間に広がり、7日間のイベントは告知後、すぐに満員に。それほどまでに期待を集める前田氏の料理とは一体どんなものなのか?

ひとことで言えばプリミティブ(原始的)。薪を使い、肉を焼き、魚を焼く。イベント期間で提供された料理は、ジビエあり、能登の魚あり、能登牛あり、日の仕入れによって日々姿を変えていきました。
「地元で育った楢の木を使うから意味があるのだと思います。遠くアラブからタンカーで運ばれたガスを使っても意味がない。それが僕の料理なんです」

真夏の炎天下、炎と煙に包まれながら焼かれた鹿は赤々と土地の滋味を称え、優しく火入れしたのどぐろはどこまでも儚く消えたその後、しっかりと余韻を楽しませる。その都度、鼻孔をくすぐるような山の香りこそ、薪を使う意味なのでしょう。
「人類がはじめて食べ物に火入れした調理がたぶん薪。だからかな、哲郎の料理は人として魂を揺さぶられる気がする」とは稲本氏。
「やらなくてもいいことは、やっちゃいけないこと。それはシェフにさんざん言われてきました。やらなきゃいけないことに気づいていないだけだ、とも」とは前田氏。

廃墟のような山小屋を7日間のためだけに改修し、ミシュラン史上最速で1つ星に輝いた『TIRPSE』オーナーの大橋氏がサービスを務めた7日間。金沢は元より全国各地から前田氏を手伝いに集結したシェフも多数。地元の農家や漁師、生産者たちもこぞって協力を惜しまなかったといいます。いつしかメニュー表の裏に記しはじめた協力者の名前はびっしりと裏面を埋め尽くすことに。その想いの籠もったメニュー表すらも、ジャズのセッションのように日々変わる前田氏の料理の前では意味をなさなかったといいます。だからメニュー表は使わない。それこそが、やらなくてもいいことは、やっちゃいけないことなのでしょう。この幻のメニューこそが前田氏の料理そのもの。土地への理解から生まれる料理とは、日々土地を感じて変化するもの。すべての関わる人の想いを詰めこんだ料理でありつつも、食べ手は本能の赴くままに味わえる料理なのです。
「知らなかった金沢がたくさんありました。感謝したいです」
そう笑う前田氏の今後……、それもまた本能の赴くままに。

この笑顔にまた会いたい。そう思える破顔した笑顔が印象的。

1984年生まれ、石川県金沢市出身。地元にある父が経営するおばんざいバーを数年間手伝う。その後、金沢のとある店で、バスクの一ツ星『アラメダ』のシェフと出会ったことをきっかけに、料理の修業未経験のまま食の都・バスクへ渡ることを決意。『アラメダ』で研鑽を積むと、『エチェバリ』で食べた料理の味に惚れ込み、修業を直談判。現在はオーナーシェフ、ビクトル・アルギンソニス氏の右腕を務める。

自生する山野草を手摘みし、個性豊かなブレンドティーに。[tretre/高知県吾川郡仁淀川町]

『tretre(トレトレ)』の代表を務める竹内氏。

トレトレ

その美しさから「奇跡の清流」と謳われる『仁淀川』の源流域に位置し、自然豊かな山間に広がる高知県吾川郡仁淀川町。この地に自生する草木を中心に、大地の恵みを独自の感性で配合した『摘み草ブレンドティー』を生み出しているのが、竹内太郎氏が代表を務める『tretre(トレトレ)』です。前編では、自然と寄り添う『tretre』のものづくりに迫ります。

『tretre』オリジナルの『摘み草ブレンドティー』。

トレトレそれは、山の味わいがたっぷり詰まった、和のハーブティー。

高知県と愛媛県の県境に広がり、水質日本一と謳われる『仁淀川』の源流に近い、高知県吾川郡仁淀川町。この地に暮らす竹内氏が率いるブランド『tretre』では、土地の恵みを生かしたお茶、『摘み草ブレンドティー』を製造・販売しています。

素材のベースとなるのは、その名のとおり摘み草。昔から山の暮らしの中で使われ、人々に親しまれてきた山野草です。この土地は気候条件がとても良く、交通量の多い幹線道路からも離れていて、空気が綺麗な場所。「例えば、ビワの葉は排気ガスを吸収することで苦味が出てしまうのですが、ここではその心配はありません。その辺に生えているヨモギも、安心して摘めますね」と竹内氏は話します。

また、勾配のきついこの土地では、同じ種類の山野草でも標高によって味わいが大きく変わるそうです。そんな気候条件や標高など、環境の違いによる風味の差を熟知している竹内氏は、ブレンドごとに摘む場所、摘み時を見極め、使い分けているといいます。

更に、町内の数ヵ所に自社園を設け、和ハッカなどのハーブ類を栽培。もちろん無農薬で、限りなく自然に近い状態で育てられています。これらを山野草と混ぜ合わせることで甘味や旨味が増幅され、よりいっそう豊かな味わいのお茶となるのです。この自社園も標高別に設けられているだけではなく「ハーブは株ごとに香りや味わいが微妙に違います。そのため、色々比べて気に入った株を、1株ずつ分けて育てているんです」と竹内氏。細かいこだわりが光ります。

こうして、季節ごとに徹底的に吟味された自生の山野草と自家栽培のハーブ類などを組み合わせて生み出される、オリジナルブレンドのお茶の数々。それは「日本のハーブティー」と称され、人気を呼んでいます。

勾配のきつい土地。急斜面に家が点在している。

山野草それぞれの味の違い、旬などを把握している竹内氏。

のびのびと育つ和ハッカ。鮮やかな緑が眩しい。

摘んだ瞬間、スーッとフレッシュな香りが広がる。

トレトレ収穫からパッケージングまで全ての工程を手作業で行い、豊かな風味を実現。

『tretre』の工房があるのは、仁淀川町の集落の一角。工房らしからぬ佇まいや立地は、元保育園だった建物を活用しているためです。

お茶の主原料となる山野草を集める作業は、竹内氏を含めた『tretre』のスタッフ3名の手で行われるのはもちろん、その時々に応じて地域に住む人々も手伝ってくれています。各所から持ち寄られた山野草は、この工房で丁寧に洗い、干され、断裁されます。そして、ブレンドは0.1g単位で行われます。ほんの少しの誤差も見逃せないほど、『摘み草ブレンドティー』は繊細な味わいなのです。

驚くのは、この工程が手作業で行われていること。収穫から茶葉への加工、ブレンド、更にはティーバッグに詰めてパッケージングするところまで全てです。竹内氏曰く、「山野草から芳醇な風味を引き出すには、乾燥方法も都度工夫することが必要。葉っぱの断裁は機械に任せると画一的になり、味の出方が求めているものとは違うものになってしまいます。ブレンドは0.1g単位ですが、機械だと0.05~0.14gまで全て0.1gと認識されてしまう。数字で見るとわずかな差ですが、風味に与える影響は想像以上に大きいんです」と竹内氏は話します。理想を追い求めた結果、地道な手作業によるお茶づくりが確立されました。

民家の間に溶け込むように建つ『tretre』の工房。

フロアの一角ではシソが干され、良い香りが漂う。

ブレンド作業。0.1g単位で細かく量られる。

種類も大きさも様々な葉っぱが混ざり合っている。

驚くほどたっぷり葉が詰まったティーバッグ。

トレトレ真骨頂は、飲まれるシーンに合わせたオーダーメイド。

和洋約50種類もの素材を組み合わせ、四季折々に多彩なバリエーションを展開している『摘み草ブレンドティー』。ヨモギと釜炒り茶、レモングラス、ペパーミントをブレンドした『mogi(モギ)』、ゆずの皮、しょうが、ほうじ茶、レモングラスをブレンドした『yellow(イエロー)』など、個性豊かなお茶が揃います。

こうした定番ブレンドは、自社のオンラインショップをはじめ、高知県内はもとより関西、関東地域の取扱店で購入できます。しかし、実は世に出ている『摘み草ブレンドティー』の大半はオーダーメイドとのこと。料亭や旅館が食事の席で出すお茶であったり、雑貨店や企業などがオリジナル商品として販売するお茶であったりするのだそうです。多方面から様々な依頼を受け、それぞれ独自のブレンドティーを提供しているのです。
特に料亭や旅館の場合、そのオーダーはかなり具体的かつ高度なものに。「濃い味わいの料理と繊細な味わいの料理の間に、一旦リセットするために飲むお茶」、「会席料理の食後に、胃にもたれないようさっぱりするために飲むお茶」など、コース料理のひとつとして楽しめる、存在感のあるお茶が求められます。「一歩も二歩も踏み込んで、料理との相性やそれぞれのシーンに応じた『この場面、この味』というオーダーに合わせてブレンドする作業は、お客様と一緒に作っているという感覚が強いです。時には仁淀川町で取れる素材だけではなく、お客様の地域の素材もブレンドしながら、ぴったりの味を追い求めます」と語る竹内氏。

こうして生まれた唯一無二の美味しさを誇るお茶が、人々の心を掴まないはずはありません。その評判は人づてにどんどん広まり、『tretre』には全国から依頼が寄せられています。

定番ブレンドのひとつである『yellow(イエロー)』。

芳醇な味わい。じんわりと味が変化する2煎目以降も楽しみ。

口コミで評判が広まり、竹内氏のもとには依頼が後を絶たないそう。

トレトレ新たに発見した自然の産物で作る、和のリネンウォーター。

2014年3月に京都から仁淀川町に移り住み、2015年6月から『摘み草ブレンドティー』を作り始めた竹内氏。しかし、この町の魅力、『tretre』の生み出す商品は、お茶だけではありません。この土地の暮らしになじみ、地域の人々との交流も深まった2016年、竹内氏は新たな天然の宝を見つけます。それが、『ヒノキ蒸留水』です。

『ヒノキ蒸留水』は、町内の木材生産・加工会社である池川木材工業が作る『ヒノキオイル』の副産物。まず、製材時に出るヒノキの端材を燃料に、大きな釜で仁淀川の水を沸騰させ、出てきた水蒸気でヒノキチップを蒸します。すると、その水蒸気には、ヒノキの成分がたっぷりと含まれるのです。それをまた仁淀川の水で冷却すると上下に分離し、上にはオイル分、下にはヒノキの香りや成分が入った蒸留水が生まれるのです。

様々な用途がある『ヒノキオイル』は製品化されているものの、『ヒノキ蒸留水』は需要がなく、そのまま流されていました。ところがある日、そんな現場を目の当たりにした竹内氏は、ヒノキならではの良い香りがするこの水に、新たな可能性を感じます。早速、自宅である古民家に持ち帰り、スプレーボトルに入れて家の中でシュッシュッ。すると、それまで悩まされていた古民家独特の臭いが和らいだのだそうです。

「それから、ヒノキの良い香りを生かしつつ、もっと良くならないかと、いろんな精油を混ぜてみました。特に、このあたりでは5月になると、清々しい森の香りの中にふと、穏やかなミカンの花の香りが漂うんです。その感じがすごく好きなので、最終的には柑橘系に絞って。高知県産の文旦や小夏も試しましたが、一番良い香りだなと思えたベルガモットに落ち着きました」と竹内氏。そうして、竹内氏が「朝もやのたちこめる森林で、フッと甘い柑橘の香りが鼻先をかすめてスッと引くような心地よさをイメージした」と言う、なんとも自然な芳香のルームミストが生まれました。

当初は自分たちで使用するに留めていたものの、周囲の後押しもあり商品化を決意。そこからは厳しいテストを何度も繰り返す日々が2年ほど続きましたが、高知県立大学の協力のもとで成分を分析、財団法人日本食品分析センターでその高い消臭効果を実証され、2017年8月に『によどヒノキウォーター』の名で発売されました。

天然素材のみで作られる『によどヒノキウォーター』。

『ヒノキ蒸留水』は、清流『仁淀川』の産物のひとつ。

トレトレ土地の恵みに新たな価値を見出し、地域に新風を吹き込む。

『によどヒノキウォーター』は正真正銘、『ヒノキ蒸留水』と香りづけの精油のみでできたもの。竹内氏のこだわりで、通常なら入れることの多い安定剤、アルコール、着色料、保存料、合成香料などはいっさい使用されていません。ケミカルフリー、エタノールフリーなので、化学物質特有の嫌な感じがなく、子供にもペットにも安心安全。部屋にも衣類にも車内にも気にせずシュッとかけられますし、肌に直接かかってしまっても心配はありません。にも関わらず、消臭力は抜群というから驚きです。

「多くの消臭剤は、科学的に嫌な臭いを香りや成分で包み込む『マスキング』という消臭方法が取られますが、時間が経つと臭いが戻る場合も。それに比べて『によどヒノキウォーター』は、臭い成分そのものを分解することで消臭するのです」と竹内氏。アンモニアやトリメチルアミンといった代表的な臭いに効くことが実証されており、暮らしのあらゆる場面で活躍してくれます。

地元では、個人の家庭はもちろん、飲食店や宿泊施設、介護施設、病院などで幅広く採用されているそうです。竹内氏が見出した新たな町の産物が、地域の人々の暮らしを豊かにしているのです。

次回の後編では、『tretre』が拠点とする高知県吾川郡仁淀川町の魅力や、竹内氏がこの地へ移住し『摘み草ブレンドティー』を開発するまでの経緯、地元の人々との交流について掘り下げます。

住所:〒781-1741 高知県吾川郡仁淀川町名野川27-1 MAP
電話:0889-36-0133
http://tretre-niyodo.jp/

高知県出身。高校卒業後は京都の大学に進学し、そのまま京都の老舗麺料理店へ就職。20年弱勤めた後、2014年3月に退職し、高知県吾川郡仁淀川町に移り住んだ。2015年6月には『トレトレ株式会社』を立ち上げ、『tretre』のブランド名で『摘み草ブレンドティー』の製造・販売をスタート。自生する草木やハーブを使う独自の味わいは、多方面から厚い支持を受けている。2017年8月には、ヒノキの蒸留水で作るルームミスト『によどヒノキウォーター』を発売。

ロマン漂う廊下を巡らせた、極楽浄土へと続く名刹。[長谷寺/奈良県桜井市]

長谷寺の総門で、三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門「仁王門」。両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置している。

長谷寺日本の建築構造の最高峰であり、傑作。

真言宗豊山派の総本山である、奈良県桜井市の「長谷寺」。古くから多くの文化人が訪れる名所であり、有名な観光地として広く知られています。しかし、違った観点に立つと新たな魅力が見えてくる。その観点とは「登廊(のぼりろう)」です。日本は雨が多い気候から、壁や看板など何にでも屋根をつける特徴があります。柱を立てて屋根をつければ、東屋が出来る。中国から伝来した木造建築で、石造りの建築には見られない構造です。日本の建築構造の歴史には、廊下を巡らすというひとつの伝統があります。建物Aから建物Bを繋ぐ構造もあり、場合によってはジグザグしていることも。廊下は雨をしのぐことができ、周囲の景色も眺められ優雅。何よりロマンがあります。京都なら「大覚寺」の村雨の廊下、奈良「東大寺 二月堂」、岡山の「吉備津神社」の全長360mにも及ぶ廻廊も素晴らしい。しかし、傑作と言えるのがこの「長谷寺」。重要文化財にも指定されています。

本堂へと続く直線的な廊下。天井に「長谷型」と呼ばれる丸い灯篭が吊るされている。

長谷寺極楽浄土へ導く、美しき「登廊」。

重厚な「仁王門」をくぐると、「登廊」は百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれています。この「登廊」は長さ、大きさ、規模といい、造りといい、丁寧で実に美しいのです。階段を登りきると、そこには柱が見事な国宝の本堂が控えている。小初瀬山中腹の断崖絶壁に建つ、清水寺の舞台のような懸造りされた大殿堂で、遥か遠くの山の峰が見渡せます。本堂には高さ10mを超える国内最大級の本尊十一面観世音菩薩立像が安置されおり、威厳やパワーを感じさせます。例えば、「浄瑠璃寺」や「平等院」は「浄土」。「高野山」なら「須弥山」。「比叡山延暦寺」は「宇宙の中心」というように、寺や神社には色々な意味合いがあります。僕なりの解釈ですが、この「長谷寺」は古代の自然と深い信仰心とがひとつになった場所。登廊の長い階段を登り、本堂に立つと、観音様が待つ極楽浄土にたどり着いたように思える。外舞台から下界を見下ろすと、そこには完璧で純粋な世界が広がる。そう感じてならないのです。

本堂からせり出た外舞台からは、遠くの山々まで見晴らせる。奈良の古の自然と信仰心を感じてみたい。

小初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造り(舞台造)された南面の大殿堂。見事な柱があり、陰影が印象的。

住所:奈良県桜井市初瀬731-1 MAP
電話:0744-47-7001
入山時間:8:30〜17:00(4月〜9月)、9:00〜17:00(10月〜11月、3月)、9:00〜16:30(12月〜2月)
http://www.hasedera.or.jp

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

生地そのものがデザインになる。伝統が最先端を奏でる。[小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA/福岡県北九州市]

過去に隆盛を極めながらも途絶えてしまった『小倉織(こくらおり)』を、新時代のテキスタイルとして再生。

小倉 縞縞一度は途絶えた伝統技術を、染織家の情熱が蘇らせた。 

平面の写真からでもその風合いが伝わってくるかのような、なんとも繊細な縞模様の布地。

これは、江戸初期から豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)で袴(はかま)や帯などとして織られていた『小倉織(こくらおり)』を、現代のセンスと技術で復元・再生したブランド『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』です。
多用した経糸(たていと)が色のリズムを奏でるかのように、立体感あふれるたて縞を描く木綿布。その美しさと心地良さから、かつては日本全国で珍重されていました。

明治時代には、文明開化の波に乗って男子学生服の生地にも採用されました。ですが、非常に手間のかかる製法と熟練の職人技を必要とする工程のため、昭和初期の戦時下に一度は途絶えてしまいました。
それを甦らせたのが、染織家の築城則子(ついき・のりこ)氏です。数十年間忘れ去られていた『小倉織』を、偶然出会った布の断片から復元。2年近くも試行錯誤を繰り返し、その独特の美と製法を再生したのです。(後編はコチラ)

「遊生(ゆう)染織工房」を主宰する染織家の築城氏。わずか10cm四方の布片から『小倉織』を復元した。

美しいたて縞と丈夫でしなやかな質感はそのままに、現代の生活とインテリアになじむテキスタイルとして再生。

小倉 縞縞わずか10cm四方の端切れとの運命の出会い。

大学で文学を学んでいた築城氏は、能舞台に充ちている色と音の世界に惹かれて染織の道に入りました。そして大学を辞めて紬織(つむぎおり)を学び、勉強のためにと骨董店に通って世界中の布を見ていたところ、今まで見たことのない色合いと、触れたことのない感触の布と出会ったのです。

それは、わずか10cm四方の端切れでした。まさしく、途絶えてしまっていた『小倉織』だったのです。
「普通、織物は触れた時の感触から絹や木綿などといった素材がわかるのですが、それはなめし皮のような不思議な感触で、とても驚きました」と築城氏は振り返ります。

立体感のある縞模様と、それでいて、凹凸を感じさせないなめらかな手触り。普通の木綿はざらりとした素朴な感触ですが、その端切れは木綿とは思えないほどスムーズに肌の上を滑りました。
「しかも、私が生まれ育った小倉が産地だったんです。そこで350年以上も名を馳せながら、生産が途絶えてしまったことも初めて知りました」と築城氏。木綿でありながら絹と見まがうような底光りと、くっきりと冴えた縞。その全てに魅了された築城氏は、「自分の手で創ってみたい!」と一念発起して試作を始めました。

そして2年余りの試行錯誤を経て、1984年に見事に復元。ですが、築城氏が手がけていた草木染めの手織りでは、多くの人に愛用してもらうための量産は困難でした。「使い込んでこそ独特のなめらかな手触りになるのが小倉織の神髄。それを多くの人々に堪能してもらうには、機械化による量産しかない」――そう判断した築城氏は、汎用品としての機械織の研究を始めました。そして2007年に、ついに『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』を完成させたのです。

築城氏自らがテキスタイルデザイナーとなり、新しい時代のブランドとして誕生した『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』。伝統を大切にしながらそれに捉われず、新たな縞のカラーリングやプロダクトの可能性を広げている。

小倉井筒屋店に併設された築城氏のギャラリー。築城氏のデザインワークスを直に見られる。

小倉 縞縞「美しい日常」を意識してもらうために、量産化できる機械織にした。 

「小倉織を復元するにあたって、特に苦労は感じませんでした」と語る築城氏。小倉織の復元・再生に注ぐ熱い情熱ゆえかもしれませんが、やはりその過程は並大抵ではありませんでした。

まずは当時は誰も作っていなかった織物のため、製法の手がかりとなるのは残存する布だけでした。そこで組織分解などをして、小倉織の組成や工程を研究。中でも一番困難だったのが、経糸(たていと)の色だけが表れる小倉織の仕組みの解明でした。普通の織物は経糸と緯糸(よこいと)が組み合わさった色になりますが、小倉織はなぜか経糸の色だけが表れる。その仕組みを理解して、さらに、美しく織り上げる方法を確立することが大変だったそうです。

最初に出会った小さな端切れの中に凝縮されていた、凛とした縞の美しさ。とても丈夫なのになめらかという、かつて見たことのない特性。それらを量産できるように、築城氏は試行錯誤を重ねました。

そうして確立した製法のプロデュースを請け負ってくれたのは、築城氏の妹の渡部英子(わたなべ・ひでこ)氏が社長を務める有限会社小倉クリエーションでした。糸を先染めしてから織る。その糸による美しい縞のグラデーションと、複雑極まる織りを再現できる機屋(はたや)を探す。非常に困難だったこれらを実現すべく奔走しました。

風呂敷、バッグ、カーテンなど、多彩なアイテムとカラーリングで展開。あらゆる用途に応用できる風呂敷は、2010年にグッドデザイン賞を受賞。

オリジナルアイテムの「シンプルBAG(エコバッグ)」も人気。

小倉 縞縞伝統を受け継ぎながら、新しい時代の織物として復元。

『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』の美しい縞模様の秘密は、緯糸(よこいと)の3倍もの密度で使われている経糸(たていと)です。木綿らしからぬなめらかな手触りと、丈夫さとしなやかさも、この驚きの密度から生まれています。

普通の織物は経糸1:緯糸1の比率で織られていますが、『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』は経糸3:緯糸1の比率。60双(ろくまるそう)という細めの木綿糸を使い、1cm四方に経糸を60本も敷き詰めています。「糸の本数が多い生地はほかにもありますが、それらは糸が柔らかすぎたり、織りあがった生地があまり丈夫でなかったりします。丈夫でなめらかで、かつ、これだけの密度で糸を使用している織物は、あまりありません」と築城氏は語ります。

さらに糸を先染めしているので、美しい縞模様が両面に表れます。片面しか楽しめない織物が多いなか、これも『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』ならではの魅力となっています。

60双(ろくまるそう)という細めの糸を使っているため、機械化しても熟練の職人の手が欠かせない。

1本1本手作業で並べる。織りの工程で切れた糸も丁寧に手直し。

小倉 縞縞機械織とは言え簡単ではない。熟練の職人技がそのプロダクトを支える。

そんな『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』の実現には、熟練の職人技も欠かせませんでした。
約8,000本強もの糸を、なんと手作業で並べてから織ります。美しい縞を出すために、数本単位でグラデーションに並べていくという途方もなさ。一口に「機械化」と言っても1~2ヶ月かかる気の遠くなるような工程を経て、ようやく生地を織ることができるそうです。

さらに、いざ織り始めても糸が細いため、1時間に1本程度は切れてしまうそうです。これを手直しするのも熟練の職人技。この工程を担当できるようになるまでに、何年もかかるそうです。

また、機械織によって実現したのは量産化だけではありませんでした。手織りでは難しかった「広巾(ひろはば)」も作れるようになり、それをカーテン・クッション・椅子張りなど多彩な用途に拡大。国内外のインテリア業界から高い評価を受けただけでなく、ファッションの分野でも、ほかにはない特性を持った高品質な木綿という点から非常に注目されています。
「手でしかできないことがあり、機械だからこそできることがあり、その双方の結びついた着地点を志高く目指して制作をしていきたいと思っています」と築城氏は語ります。今の時代に即した新たな伝統として、『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』は生み出されたのです。

「無彩キュービック」「藍輪舞」 「光の尾」など、それぞれの色合いに応じた風情の香る名が付けられている。モノトーンでも色を感じる。

小倉 縞縞美しい縞模様に妥協はない。可能な限り自然な色合いを表現。 

そして『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』の最大の魅力とも言える美しい縞のグラデーションにも、並々ならぬこだわりが秘められています。元となる築城氏の手織りは天然の染料で染められていますが、機械織りの色も、それに準じて染色職人が調合した染料を使用しています。「機械織りは自然の染料ではありませんが、可能な限り私の作品同様に自然の色に近づけてもらっています」と築城氏。機械化された量産品とはいえ、その色合いも風合いも、驚くほど手仕事の要素を再現しているのです。そうやって生み出された『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』は、多彩なグラデーションが独特の美を描いています。

小倉織の技法を継承しながらも、より現代的な汎用品として生まれ変わった『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』。その評価は、意外なところから広がっていきます。次回の後編では、インテリアやファッションなどの多方面で注目されながら、世界のクリエイターたちとのコラボレーションを進めていく様を追います。
(後編はコチラ)

有限会社 小倉クリエーション
住所 : 福岡県北九州市小倉北区大手町3-1-107 MAP
電話 : 093-561-0700
営業時間 : 10:00~18:00 (本店)
定休日 : 水曜
http://shima-shima.jp/
写真提供 : 有限会社 小倉クリエーション

眼前に広がる雄大な山々。おんせん県が誇る、国立公園内の絶景露天。[久住高原コテージ/大分県竹田市]

日本自然保護協会がネイチャー・インに認定した宿泊施設内の天然温泉。四季折々、美しい景色を見せてくれる絶景露天は足を伸ばしてでも訪れる価値あり。

久住高原コテージ爽快感抜群! 鮮やかな緑のパノラマ。

温泉の源泉数・湧出量ともに日本一を誇る、おんせん県大分。県内には多種多様な温泉施設がありますが、中でも竹田市は日本一と名高い炭酸泉や広大なロケーションに心震える露天風呂、さらに登山をしないと辿り着けない温泉など、バリエーション豊か。四季折々の景色を交えながら、竹田市自慢の温泉施設を紹介します。

竹田市の中心部から車で走ること30分。山道を通り抜けた先に待っていたのは、どこまでも続く緑の草原でした。熊本県との県境にある竹田市久住町は、「阿蘇くじゅう国立公園」を有する自然豊かな地域。開放感のある絶景に感動しながらゆっくり車を走らせていると、放牧された牛たちがお出迎えをしてくれます。美しくのどかな風景に心癒されたら、車を停めてゆっくりと深呼吸。両手を広げ、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、目的地の宿へと向かいます。

国立公園内に佇む「久住高原コテージ」。周囲には山々と草原だけがどこまでも続いている。

草原の中に現れるコテージ。木のぬくもりあふれる宿でくつろぎのひと時を過ごせる。

道中で出会う、放牧された牛たち。

コテージの裏手には久住山がそびえる。温泉は写真の左手側。

久住高原コテージ訪れるものを楽しませてくれる自然の演出。

着いた先は日本百名山のくじゅう連山や阿蘇五岳に囲まれた場所にある「久住高原コテージ」です。360度の大パノラマを満喫できる贅沢な宿には、ここにしかないとっておきの露天風呂がありました。

大浴場の名前は、美しい眺望を想像させる「満天望温泉」。期待に胸を膨ませて中へ入ると、内湯の湯気で曇ったガラス窓の向こうにうっすらと緑の大草原が映っていました。露天風呂の扉を開けた瞬間、待っていたのは果てしなく続く大自然のパノラマビュー。褐色の湯には空の青が反射し、キラキラと輝きます。思わず感嘆の声を上げると、次々に露天風呂へと入ってくる人たちもまた同じように感嘆の声を上げるのでした。まさに絶景に浸かっているような贅沢なひととき。頰をかすめる心地よい風とぬるめのお湯は長湯にもってこいで、移ろいゆく景色をずっと眺めていられるのです。

どのくらい浸かっていたのか、そろそろ出ようとしていると「夕陽を見らんで出るなんかもったいない!」と地元のおばあちゃんが教えてくれました。夕刻に茜色に染まる空と山々を、湯に浸かりながら見ることこそが「満天望温泉」の醍醐味なのだそう。日が落ち始め、刻々と表情を変える空。幻想的な光景に時を忘れて浸かってしまいました。

新緑の時期に見ることができる、爽快なロケーション。

炭酸水素塩泉の湯は、神経痛、関節痛、慢性消化器病に効果があるほか、美肌効果も感じられるという。立ち寄り入浴も可能。

久住の夕焼け。山々を染める茜色のグラデーションが美しく、陽が沈むまでずっと眺めていたくなる。

久住高原コテージ九州屈指の星空露天。

「久住高原コテージ」の温泉をもっと楽しむならば、立ち寄りよりも宿泊がオススメなのだと支配人は話します。その理由は、深夜0時まで入浴ができる家族風呂があるからです。
大浴場に隣接する内湯と露天を備えた3つの家族湯。内湯と露天は続いていて、窓を開けるとひと続きで外に出ることができました。大浴場のにぎやかな雰囲気とは異なり、掛け流しのお湯が流れる音と虫たちの声しか聞こえない静かな空間。23時、夜の闇が深くなった久住の町には満天の星空がきらめいていました。

九州でも屈指の美しさと言われる星空の下で温泉に浸かる。これこそが宿泊した人だけが見ることができる特権なのです。時折流れる流れ星に歓喜しながら、あっという間の50分。記憶に残るひとときを過ごすことができました。

秋には紅葉とススキ、冬の早朝は雲海。季節はもちろん、朝昼晩と時間帯によっても様々な表情を見せてくれる久住の風景。訪れるたびに異なる景色を楽しめることから、「久住高原コテージ」には1万5000人ものリピーターがいるのだそう。その日その時間にしか出合えない、一期一会の入浴体験をぜひ。

露天風呂から望むことができる阿蘇の山々。

大浴場の「満天望温泉」と同じ眺望を楽しめる家族風呂。

久住にはいくつもの天体観測スポットが。都会では見ることができない、まばゆいほどに輝く星空を堪能して。

住所:大分県竹田市久住町久住高原天空の丘820 MAP
電話:0974-64-3111
営業時間:9:00〜18:00
入浴料:大人600円、小人400円、家族風呂1,600円(50分)
宿泊料:9,971円〜、テントサイトは3,780円〜
https://www.kujukogen.com

徳吉洋二シェフが、鳥取に凱旋。料理人の目で見た故郷、その胸に湧いた思いとは?[DINING OUT TOTTORI-YAZU with LEXUS/鳥取県八頭町]

野菜の収穫やシジミの水揚げも、まず自らの手で体験する徳吉シェフ。

ダイニングアウト鳥取八頭昨年の『DINING OUT』を成功に導いた徳吉洋二シェフが、再び登場。

2018年6月某日。イタリア・ミラノに店を構え名声を得た徳吉洋二シェフが、久しぶりに生まれ故郷の鳥取に帰ってきました。目的は『DINING OUT TOTTORI - YAZU with LEXUS』の食材視察のため。生産者の元を巡り、知られざる逸品を見つけ出し、それを元にアイデアを練り、自身の料理に落とし込む。その長い道のりの第一歩が、この視察なのです。

とはいうものの、やはり馴染みある地元だからでしょう。視察の旅は真剣ではあっても終始なごやか。馴染み深い地元で、徳吉シェフは何を見つけ、何を感じたのか。一度、距離を置いてから故郷を見つめることで、そこに新たな発見があったのか。その思いのほどを伺いました。

自然豊かな鳥取県八頭町が舞台。その自然と人のパワーを料理に落とし込む。

ダイニングアウト鳥取八頭方言まじりで交わされる会話に、温かい思いが宿る。

「たとえば郷土料理なら、表面的な素材やレシピではなく、なぜこれが生まれたのか、なぜこういう形になったのか、という起源や過程を考えます。そういったトラディショナルを理解した上で、そこから発展させた新しい料理を生み出していきたい」徳吉シェフの料理観はそんな言葉に集約されます。

徳吉シェフが目指す料理は「クチーナ・イタリアーナ・コンタミナータ(混成されたイタリア料理)」。それはイタリア料理と日本や他国の料理との表面的な“融合”ではなく、より根源的な、食文化や伝統までを踏まえた上での“混成”のこと。だからこそ徳吉シェフは、土地の伝統を紐解き、生産者の思いに耳を傾け、自身の足で野山を歩き、可能な限りの情報を仕入れるのです。

そして自身の生まれ故郷であるというアドバンテージは、この「土地を知る」ことに大きく役立ちました。記憶の中にある思い出、血肉となっている鳥取の水と空気。生産者の元を訪ねても
「僕、(鳥取市)鹿野の出身なんですよ」
「おお、そうか!」
という会話が度々交わされます。そしてその会話をいとぐちに「ならこれ知ってるか?」「これちょっと食べてみな」という話が広がるのです。地元の人にしかわらかないような方言で話し、笑い合うシェフと生産者の姿を見ることもしばしば。そうして生産者の思いを深く受け止めながら、シェフは熱意もいっそう高まります。
「鳥取ってすごいところなんだ!と、都会の方々だけではなく、地元の人にも改めて知ってほしい」徳吉シェフは本番への思いをそう語りました。

人とすぐ打ち解けるのは徳吉シェフの持ち味。地元ならさらにその様子が顕著に。

背後に潜む伝統や思いまで汲み取るために、食材と向き合う徳吉シェフは真剣そのもの。

ダイニングアウト鳥取八頭料理人として歩く鳥取、新たな発見と湧き上がるアイデア。

生まれ故郷とは言っても、かつて子供時代や一人の青年として見た鳥取と、いま料理人として見る鳥取は、きっと異なることでしょう。今回の視察でもさまざまな新発見があったようでした。

たとえば鹿肉を扱う『わかさ29工房』を訪れたときのこと。鳥取県は鹿肉などのジビエ利用量で、北海道に次ぐ国内第2位。しかし加工されるジビエのほとんどは、首都圏などに出荷されて県内での利用は少ないといいます。
「北海道のエゾシカは冬を越えるために脂を蓄えますから冬が旬。一方こっちの鹿は食べたものがそのまま身になりますので、春先から徐々においしくなって夏から初秋がピーク」河戸健社長のそんな話に熱心に耳を傾けていました。

さらに実際に見せてもらった肉を前にすると「最高ですよこの肉。フィレなんてキレイな赤で鮪かと思うほど」と興奮気味。帰り際にはハンター歴50年の河戸社長に「今度狩りに連れて行ってください」と頼みこむほどの入れ込みようでした。

あるいは湖山池のシジミ漁師・邨上和男(ムラカミカズオ)氏の船に乗せてもらった際は、自ら籠の引き上げにも挑戦。同じ池の中でも場所によって色が異なるシジミを興味深そうに眺める徳吉シェフ。同郷の若者に冗談を交えながらシジミ漁をレクチャーする邨上氏。そのいかにも楽しそうな笑い声は、湖岸にまで届いていました。

『大江ノ郷自然牧場』では平飼いの鶏を見学し、その産みたての卵を試食。無農薬栽培にこだわる『田中農場』では、土の力を活かした米作りについて学びました。『陣構茶生産組合』では名人・橋井恭一氏から紅茶づくりの行程を学びました。『あおぞら農園』で採れたてビーツを味わえば「味にミネラルがあります。ぬか漬けにしたら最高」と評し、400年続く『日光生姜』を前にすればイタリアンへの取り入れ方を考える。新発見と再発見、そしてシェフ自身の中にある土地への愛着。それらがすべて混じり合いながら、さまざまなアイデアが徳吉シェフの中で浮かんだ様子でした。

懐かしい再会もありました。ペアリングの酒を探して訪れた『谷本酒店』は、若き日の徳吉シェフがアルバイトの道すがら頻繁に通った店。「フランスワインとドイツワインについて、この店で教えてもらいました」というシェフの言葉に応え、出迎えた谷本暢正氏も秘蔵の酒を惜しみなく試飲させてくれました。徳吉シェフも「この酒に何が合うか改めて考えたい。課題ができました」とさらに火がついたようでした。

『わかさ29工房』にて。鳥取の鹿肉のクオリティは徳吉シェフをも驚かせた。

シジミ漁師・邨上和男氏は水揚げから船上での選別まで一連の流れを教えてくれた。

陣構茶生産組合の茶畑にて。徳吉シェフからは栽培方法から加工法までさまざまな質問が挙がった。

『谷本酒店』では旧知の店長と再会。気の置けない間柄での酒談義に花が咲いた。

ダイニングアウト鳥取八頭斬新な発想の源は、土地への深い理解と生産者への敬意。

徳吉洋二シェフは多くの場合「天才型」と評されます。ある種のひらめきにより料理の全体像が頭に浮かび、そこにパズルのように食材を当てはめる。確かにそういう側面はあることでしょう。しかしその“ひらめき”の裏には鋭い観察眼と生産者や食材へのリスペクトが潜んでもいるのです。その土台があるからこそ、ひらめきはただの空論ではなく、明確な輪郭と芯を持つアイデアとなるのです。

八頭町の『井尻農園』でバイケミ農業(竹肥料栽培)のトマトに出合ったときのこと。「イタリア料理にトマトは必須ですから、これは必ず使います。ただこんなに良いトマトを当たり前の使い方ではもったいない。もっと素材を感じる使い方を考えます」と徳吉シェフ。通常は捨ててしまう葉や脇芽の香りや食感まで確かめながら、その頭にはすでにアイデアが浮かんでいたことでしょう。

『オズガーデン』の葡萄の木も、徳吉シェフにインスピレーションを与えました。ここで目にしたのは、樹齢40年の一本の葡萄の木が見渡すかぎりに枝を伸ばす驚くべき光景。パワースポット・鳥取を象徴するようなこの眺めを前に、すでにシェフの頭には料理の輪郭ができあがっていたようでした。
「いろいろな生産者の元を訪れて思ったのは、皆さん条件づくりに真剣に取り組んでいること。条件がきちんとできていればおいしいものはできあがります。それはレストランも同じだと思います」徳吉シェフは今回の視察をそう振り返りました。生産者の思いをしっかりと受け止めたからこその言葉。その食材を使わせてもらうこと、おいしい料理でゲストに届けることが、徳吉シェフが常々語る「料理人の責任」なのです。

「僕がいた頃は東京までの飛行機が1日3便、新幹線はもちろん、高速道路もありませんでした。とくに八頭町は決して観光地ではありません。しかしだからこそ、土地の力、人の力がはっきりと見える場所でもあります。その魅力をどう伝えていくかが課題」と徳吉シェフ。真剣な言葉ではありますが、その顔には、まるで自分の宝物を誰かに見せる子供のような、明るい表情が浮かんでいます。「大好きな鳥取のPRですから。ワクワクした気持ちでいっぱいです」。

世界を沸かせるシェフの技と発想、そして地元愛が詰まった史上初の「凱旋ダイニングアウト」は、果たしてどんな驚きを届けてくれるのか。開催はいよいよ目の前です。

『井尻農園』の上質なトマトを前に、料理のアイデアが湧き上がる。

たわわに実る『オズガーデン』の葡萄。これがすべて一本の木になっている。

生産者の思いを汲み、形にすることを「料理人の責任」と語る徳吉シェフ。

『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。

Ristorante TOKUYOSHI 
http://www.ristorantetokuyoshi.com

ハム、ハム、ハム、ハム…。これでもかと自家製ハムで攻め立てる。不器用シェフの特化型イタリアン。[IL COTECHINO/山形県山形市]

イルコテキーノOVERVIEW

「山形にウチのハムのお師匠がいる。絶対に行った方がいい」。そんなあるシェフの推薦から、取材のためにアプローチを開始したのが、今回ご紹介する『IL COTECHINO』です。

ちなみにご推薦頂いたシェフとは、山田宏巳氏です。そうです、'90年代イタ飯ブームを巻き起こし、冷たいトマトのカッペリーニや4代目徳次郎天然氷のかき氷など、型にはまらないスタイルで、今なお日本イタリア料理界を牽引(けんいん)する重鎮です。

『リストランテ ヒロ』や『ヒロソフィー』など、数々の名店を生み出してきた山田氏が2018年4月、自身の集大成という位置づけでオープンしたのが南青山にある『テストキッチンH』。連日連夜、盛況を極める同店にあってひとつの象徴的なメニューこそが、自家製のハムなのです。

『ONESTORY』編集部が同店でハムを味わい、感動し、話をうかがい、行きついたのが今回のお話。イタリア料理の巨匠がスタッフを弟子入りさせてまで扱いたかったハムの源へ。それこそが6年にも及ぶイタリア修業で独自のスタイルを開花させた『IL COTECHINO』の佐竹大志氏なのです。
今回はハム尽くし。ハムを味わうためだけに、訪れてほしい山形の1軒です。

住所:山形県山形市七日町4-1-32 松源ビル 1F MAP

電話:023-664-0765
http://ilcotechino.com/

世界を沸かせる徳吉シェフが故郷・鳥取に帰還。史上初となる「凱旋DINING OUT」を開催![DINING OUT TOTTORI-YAZU with LEXUS/鳥取県八頭町]

徳吉シェフは生まれ育った鳥取をめぐり、さまざまな未知の食材とも出合った。

ダイニングアウト鳥取八頭昨年の『DINING OUT』を成功に導いた徳吉洋二シェフが、再び登場。

2018年9月8日(土)、9日(日)に開催される 14回目の『DINING OUT』の舞台は鳥取県八頭町。回を重ねてもなお、毎回“史上初”の新たな試みが取り入れられる『DINING OUT』ですが、今回もまた過去に例を見ない新たな『DINING OUT』をお見せすることができそうです。

今回の担当シェフは、イタリア・ミラノで活躍する徳吉洋二シェフ。記憶にある方もいることでしょう。そう、昨年開催されたDINING OUT NISEKO with LEXUSを大成功に導いたあの徳吉シェフです。同じシェフが二度目の登場という初の試み。「公私にわたりいろいろありました」という1年を経て、徳吉シェフの料理はどう変わったのか。そして昨年の『DINING OUT』の経験を踏まえ、今回はどのような料理を作り上げてくれるのか。いまから期待が尽きません。

しかし「DINING OUT史上初」はそれだけではありません。実は徳吉シェフは開催地である鳥取県の出身。世界で活躍するシェフが生まれ育った故郷に戻り、地元の食材で料理を作る。つまり「凱旋DINING OUT」となるのです。シェフ自身が馴染みある食材、そして地元への思い。それらがどう表現されるのかという点も、今回のみどころとなりそうです。

今回の舞台は鳥取。人口約60万人のこの県に、さまざまな素晴らしい食材が潜む。

ダイニングアウト鳥取八頭色を使って北海道の自然を描いた2017年の『DINING OUT』。

2017年7月。初の北海道開催となった『DINING OUT NISEKO』は、多くの方の記憶に残る回となりました。担当した徳吉洋二シェフは、ミラノ『Ristorante TOKUYOSHI』で日本人オーナーシェフ初のミシュラン星獲得を果たした人物。日本とイタリアの食文化を融合した「クチーナ・イタリア―ナ・コンタミナータ(混成されたイタリア料理)」は、世界の食通たちの注目を集めています。

もちろんニセコの地でも、その技は遺憾なく発揮されました。徳吉シェフの「混成された料理」の本質は、ただ日本の食材でイタリア料理を作るという表面的な「混成」ではありません。「その食材にどんな歴史があるのか」「どんな生産者がどんな思いで作っているのか」「地元ではどのように食べられているのか」といった食文化を掘り下げ、そして一度解体、それから再び自身のフィルターを通して再構築するのです。だからその料理は洗練されたイタリアンでありながら、地元の方にとってもどこか親しみ深い不思議な存在感を放つのです。

ニセコを沸かせた徳吉シェフの料理には、さらにもう一つテーマが設定されていました。それは「色」。鮮やかな花咲蟹で表現した赤、魚拓で描く静謐な白と黒、そして蝦夷鹿をラベンダーの色と香りが包んだ紫。「ニセコでまず印象に残ったのが自然の織りなす色でした。だからその感動を共有したかったんです」とは徳吉シェフの言葉。ときに食欲をそそる穏やかな色で、ときに意表をつく鮮やかな色で、ゲストの目を楽しませました。ホストを担当したコラムニスト・中村孝則氏をして「この料理は、モードです」と言わしめた、鋭い感性と個性、そして食材を活かしきる技が凝縮された素晴らしい料理の数々でした。

「土地の空気と料理が混じり合う、レストランでは絶対にできない体験」とニセコの経験を振り返った徳吉シェフ。ならば自身が生まれ育った今回の鳥取の“空気”が料理とどのように混じり合うのか。「おやつに蟹、喉が乾いたら梨という育ち方をしてきましたからね。鳥取は僕の中の大切な要素。もちろん、今回の料理にもそれは出てくると思います」そんな含みある言葉にも、さらに期待が募ります。

ニセコの厨房の一場面。日頃は陽気な徳吉シェフも、厨房では緊張感漂う真剣勝負。

花咲蟹を使った「赤」の皿。それぞれの料理に小さなスープが添えられるのも徳吉シェフのスタイル。

イタリアでも好評を博す徳吉シェフのスペシャリテ「魚拓」。

蝦夷鹿を使った料理は、意表をつく紫。徳吉シェフの感性がもっとも現れた一皿。

2017年7月の『DINING OUT NISEKO with LEXUS』は大盛況で幕を閉じた。

ダイニングアウト鳥取八頭古から八頭に満ちる「Energy」を辿る。そんな難解なテーマを料理に落とし込む。

舞台となる八頭は、天照大神が降臨した際に白兎が道案内を務めたという「白兎伝説」が残る地。白兎は豊穣と子孫繁栄の象徴とも伝えられることから、古くからの「パワースポット」といえる場所なのです。
そこで今回の『DINING OUT』に設定されたテーマは「Energy Flow―古からの記憶を辿る―」。八頭という地に残る自然と、そこに宿る生命力や神秘性を、この『DINING OUT』を通して体感して頂くことが狙いです。

時代を越えて受け継がれるエナジー。そんな難しいテーマへのヒントを探すために、徳吉シェフが久しぶりに鳥取に戻ってきました。八頭を象徴する自然の恵みを探し、あるいは郷土料理を紐解き、文字通り自然の「Energy」を感じ、テーマを料理に落とし込む緒を探す徳吉シェフ。生産者の元を訪れ、その思いに耳を傾ける。ときには道端に生えるヨモギを積んで鼻を寄せる。ときには懐かしい知人と再会し、思い出話に花が咲く。

とりわけ徳吉シェフの興味を惹いたのは、大自然の象徴たる鹿や鮎、そして大地の力を凝縮した米と卵。そこに見出した「Energy」を、徳吉シェフらしいフィルターを通してイタリア料理に昇華する。どのような形になるのかは、まだわかりません。しかし昨年ニセコで客席を沸かせた色とりどりの料理のように、きっとゲストを驚かせる料理が登場することでしょう。

「たとえばこんなに素晴らしい鹿肉があることを、地元の人はあまり知りません。野菜もそう。僕だって今回巡って、さまざまな新しい発見がありましたからね。だから、そういうものを取り込んで、地元の人に改めて“鳥取はすごい”と思ってもらえる何かを作ってみたい」そんな言葉が印象的でした。

アルバイトをしていた居酒屋、かつて通った道など、各所に思い入れがある鳥取の町。

山菜や野草も多用する徳吉シェフの料理。道端のヨモギなどにも興味は向かう。

ダイニングアウト鳥取八頭波乱万丈の1年を越えて、新たに生まれ変わった徳吉シェフ。

冗談が好きで、オープンマインドで、誰とでもすぐに打ち解ける。徳吉洋二という人物は、そこにいるだけで人を惹きつける魅力を持っています。しかしそのにこやかな笑顔からは想像しにくいのですが、2017年の『DINING OUT』から1年は、山あり谷ありの波乱万丈な日々だったといいます。

徳吉シェフは今年の初め、病気を患いました。一時期は料理人生命に関わるほどの大病でした。その病を乗り越えると、次には朗報が待っていました。5月に待望の第一子が誕生したのです。そして次は『Ristorante TOKUYOSHI』改装です。店舗を一時休業にして大規模リニューアル。目的はもちろん、現在を越える二ツ星、そして三ツ星の獲得。大きな変化が続けざまに起きた1年。料理人としての心持ちにも、少なからぬ変化があったことでしょう。昨年の『DINING OUT』の経験を踏まえ、さらにその生活のなかで変化した徳吉シェフの新しい料理を『DINING OUT TOTTORI-YAZU with LEXUS』では堪能することができるのです。

「鳥取らしさってなんだろう、というところを改めて考えてみたい。砂丘や大山だけじゃない、もっと内面的な鳥取らしさ。それを表現できればいいと思います」本番への意気込みを、徳吉シェフはそう語りました。この地で生まれ、この地の水と食べ物で育った徳吉シェフだからできる鳥取の表現。それがどのような形になるのかはまだわかりません。しかし、いつもの不敵な笑顔で「楽しみにしといてください」と笑う徳吉シェフの言葉には、本番への確かな手応えと自信が垣間見えました。

山と谷を越えた徳吉シェフが今考える鳥取らしさ。それを料理で表現することが目標。

『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。

Ristorante TOKUYOSHI 
http://www.ristorantetokuyoshi.com

決して主役にはなれないけれど。料理の名脇役を育てて、伝える。[和田農園/大分県竹田市]

大分県は全国でも約9割をシェアしているカボスの特産地。8月のお盆過ぎに収穫の最盛期を迎える。

和田農園歴史は浅いが大分を代表する特産物「カボス」。

大分県の南西部に位置する竹田市。豊かな自然と名水に恵まれた地は西日本有数の高原野菜の産地として知られ、さらに全国でもトップクラスの生産出荷量を誇るカボスやシイタケなど様々な産品が生産されています。農業生産額は県内1位の年間約200億円。ちいさな町から生まれた知られざる産品を、これからシリーズでご紹介します。

爽やかな香りとまろやかな酸味を備えた、青々と瑞々しい果実「カボス」。日本一の生産量を誇る大分県の中でも朝晩の寒暖差が大きい竹田市は、味も香りも色味も良質なカボスが生育しやすく、主要な産地として知られています。

竹田市でカボス栽培が本格的に始まったのは、約50年前。昭和45年頃の米の減反政策がきっかけでした。特産品としての価値が高く、さらに山間部での栽培に向いていることから栽培を始める農家が急増したのです。その中でいち早く生産を始めたのが「竹田市カボス生産出荷組合」の組合長を務める和田久光(ひさみつ)氏でした。農業高校を卒業後、18歳でカボス農家を始めた和田氏。試行錯誤しながら見つけた独自の栽培方法は、今や農家にとってのスタンダードになりました。

以前はタバコの栽培を行っていたと言う畑を使って、露地カボスとハウスカボス、そして原木椎茸の生産を行なっている。

香りも色も良い主要な品種「大分1号」と冬の出荷に向いている貯蔵用の「豊のミドリ」、種が少ない品種「香美の川」の3種を栽培。

和田農園みかんの本をバイブルに、禁断の“剪定”が新たな道を拓く。

和田氏の畑は竹田市の中心部から車で15分ほど離れた、入田小高野地区の台地にあります。朝晩の寒暖差が必要ではあるものの、寒さには弱いカボス。風がよく吹き抜けるこの場所は、冷気が溜まることがなく栽培に最適だと言います。

現在は150アールの畑で年間約40トンを出荷している和田氏ですが、栽培を始めた当初は、師匠はおろか文献さえもありませんでした。そこで参考にしたのがみかんの本。本に書かれていることを参考に毎年失敗と成功を繰り返し、独学で研究を重ねたのです。そして良質なカボスを作るためにたどり着いたのが、当時NGとされていた“夏剪定”でした。

木のエネルギーをたくさん使う花が咲きすぎないように枝を切って調整を行う春剪定は推奨されていたものの、光合成が活発に行われる夏の時期に葉や枝をとるということは、カボスを大きく育たせるためにはタブーだと考えられていました。しかし夏に剪定をしないと葉っぱが重なり合うように生える。するとカボスが病気をしやすいということに気づいたのです。「枝抜きや葉もぎをすると虫がつきにくく、薬もかかりやすい。もっと大事なのはカボス一つひとつに陽を当てて、全ての面をグリーンにすることなんや」。

ひたむきにカボスと向き合って独自の栽培方法を見つけた結果、量と質がアップ。今では春と夏に枝抜きと葉もぎを行う和田氏の方法が主流に変化してきました。

カボスの木の理想の形は台形。容積をどれだけ大きくできるかが要で、剪定によって陽の当たる葉っぱをたくさん作っていくのだと話す。

和田農園誰も知らない「カボス」という果実。

魚やお肉に絞ってかけるほかに、ジュースやお酒、シロップにスイーツなど様々な加工品も登場し、少しずつ認知度が拡大してきているカボスですが、特産品として知られるようになるまでには、先駆者たちの地道な努力がありました。

52年間栽培を続けてきた和田氏が一番苦労したのが、販路だったと言います。北九州の市場まで初めてカボスを売りに行った時には「なんですかこれは」「どげんして食べるんですか」と言われ、無名であることに衝撃を受けました。さらに一口食べた人からは「酸っぱかったけん捨てた」とまで言われることも。そこから和田氏たちは市場に何日も泊まり、売り込みを始めました。スーパーに立ち、ジュースにして紹介したり、料理を作ってカボスをかけて提供したり。手間暇かけた宣伝活動によって、次第に売上は上昇してきたのです。しかし昔は500人いた生産者も、今や140人にまで減少。高齢化が進み後継者不足が深刻化してきています。

酸味の中に甘みと香りのバランスが抜群に良い竹田産のカボス。

大分名物のとり天にも相性抜群のカボス。魚やお肉以外にも味噌汁や揚げ物など何にでも合う。

大分県産カボスの爽やかな風味と甘みを感じられるジュース

和田農園未来へ繋げるために。独占ではなくシェアをする。

和田氏が収穫したカボスは、個人で販売するのではなく、すべて農協に卸しています。そこには「みんなの力で商売やっていかないと」という想いがあるからなのです。
「カボスなんかお金が余った時しか買わんやろ?魚か肉買って、あとカボス買ってとはならんのや。でも売れるのはみんなが手を取って宣伝しよるから。一人じゃなくてみんなで売り出していかんとダメなんよ」。

現在は「竹田市カボス生産出荷組合」の組合長のほか、カボス農家を育てる「かぼす講座」で剪定の講師も務めている和田氏。一人でも多くの人にカボス栽培に関わってもらい、みんなの力でカボスを広めていくために、自身の研究してきたノウハウを惜しみなく伝え続けているのです。

「まずは自分が良いものを作って金取っちみせんとね、若い人とか年取った人も生産意欲がなくなるやん。そんでみんなが儲かるようにせんといけん。それが自分の儲けに繋がるんよ」。

先駆者として次の世代へと繋げて行くために、和田氏は日々奮闘を続けています。
いよいよ出荷が始まる夏の時期。地域が総力をあげて育てた「主役にはなれない名脇役」が、今年も食卓を彩ります。

剪定のプロフェッショナルとして、カボス農家を始めようとする人たちにノウハウを伝授し続けています。

露地だけでなくハウス栽培と貯蔵庫を駆使して、現在は1年間を通して供給できるようになったカボス。

住所:〒878-0026 大分県竹田市飛田川2095–1 MAP
電話:0974-63-2343

南会津・大内宿のカフェが示す、新たな伝統の守り方。[茶房 やまだ屋/福島県南会津郡]

茶房 やまだ屋OVERVIEW

大きな茅(かや)葺きの屋根を持つ、築200年、築300年の古民家が連なる大内宿は、年間100万人が訪れるという福島県随一の観光地です。土産物店が軒を並べるその一角に、『茶房 やまだ屋』はあります。営むのは、3年前に会津に移住した諸岡泰之氏。

母親の郷里ではあったものの、「この地にさほど愛着を持っていなかった」と言う諸岡氏。31歳で訪れた人生の思わぬ転機が、大小様々な挑戦と連続になっていくとは、ご本人も思っていなかったに違いありません。
そんな中、彼を今も支え続けているのは、会津に生きる人たちとのつながり、そしてそこに感じた意気です。雪深い小さな村で始まった物語には、胸を熱くする人もきっと多いはずです。


(supported by 東武鉄道

住所:〒969-5207 福島県南会津郡下郷町大字大内字山本46 MAP
電話:0241-68-2943
http://ouchijyuku.com/

南会津の酒造り。その伝統を担う酒蔵が、目指す新しい未来。[会津酒造/福島県南会津郡]

会津酒造OVERVIEW

日本でも有数の豪雪地帯といえる福島県南会津町。この地の豊かで美味しい雪解け水は、全国で指折りの「米どころ」そして「酒どころ」としての文化をつくり上げてきました。現在、相応の量を生産する酒蔵は4つ。東京都23区内で最も人口が少ない千代田区の、3分の1にも満たない1万5,000人という人口を考えれば、それが驚くべき数だと言わざるを得ません。

そのうちのひとつである『会津酒造』は、元禄初期に創業し、300年以上の歴史を持つ酒蔵。3年前、29歳の若さで杜氏となり、2018年の春から社長となった当主の渡部景大(けいた)氏は、全国的にも高い評価を得る新たな日本酒ブランド「山の井」を生み出した杜氏(とうじ)としても、知られています。

新たな日本酒の文化をつくりたい――そんな目標をかかげる渡部氏の歩んできた道と、その先に広がる自由な世界には、どんな物語があるのでしょうか。


(supported by 東武鉄道

住所:〒967-0006 福島県南会津郡南会津町永田字穴沢603 MAP
電話:0241-62-0012

地域を盛り上げるために出した答えは南会津産ビール。[Taproom Beer Fridge/福島県南会津郡]

タップルームビアフリッジOVERVIEW

南会津町内で製材所を営む関根健裕氏が、会津田島駅の駅前に『南会津マウンテンブルーイング/Taproom Beer Fridge』をオープンさせたのは、2017年の秋のこと。忙しい本業の傍らで店を切り盛りするだけでなく、2~3週間に1度のペースで、たったひとりで手がける地ビール「アニービール」の醸造も行っています。

全くの異業種に飛び込んだ理由のひとつは、大学時代からクラフトビールが大好きだったから。そしてもうひとつは、地ビールで地域を盛り上げることができると感じたから。その可能性に向かって、早くも動き始めているようです。


(supported by 東武鉄道

住所:福島県南会津郡田島字後町甲3984-3 MAP
電話:090-2277-9069

木製玩具の地域ブランド『マストロ・ジェッペット』が発信する、南会津の木の魅力、南会津の人の魅力。[Mastro Geppetto/福島県南会津郡]

福島県南会津郡OVERVIEW

自身がデザインする木製玩具を作ってくれる腕のいい職人を探していた、東京のデザイナー富永周平氏。新たな木製玩具の開発のために、アートディレクターを探していた南会津の職人たち。

南会津が発信する木製玩具のブランド木製玩具の地域ブランド『マストロ・ジェッペット』は、その偶然の出会いによって、10年前に誕生しました。

当時は一度も訪れたことがなかった南会津で、今では地域おこしの一端を担う富永氏。その裏側には、南会津の人々との関わりと、彼らの「木」に対する思い、そして地域に対する思いがありました。


(supported by 東武鉄道

住所:〒967-0004福島県南会津郡南会津町田島南下原66-2 MAP
電話:0241-62-1600
https://www.mastrogeppetto-jp.com/

真夏の鶴岡お祭りウィークを存分に楽しむ。[赤川花火大会/山形県鶴岡市]

色鮮やかな花火を組み合わせたワイドスターマイン。

赤川花火大会二つの競技、割物花火とデザイン花火。

山形県鶴岡市では8月中旬に鶴岡お祭りウィークを開催しています。その中で行われる3つの大きなお祭りが荘内大祭・おぃやさ祭り、そして今回紹介する『赤川花火大会』です。

2018年で第28回を迎える『赤川花火大会』は、鶴岡市内を流れる赤川の広々とした河川敷を舞台に繰り広げられます。2018年のテーマは「誇り ~こころゆさぶる感動花火~」です。花火好きな人たちの間でも人気の高い『赤川花火大会』は、全国からトップクラスの煙火業者が参加し二つの競技大会が行われます。花火師さんの個性が光る匠の技を駆使した10号玉(尺玉)2発で競われる「割物花火の部」と、7号玉を最大として煙火業者がそれぞれのテーマに合わせて構成し、音楽とともに表現する「デザイン花火の部」です。競技を進行するアナウンスが丁寧なのも特徴のひとつです。「次は正面で上がります」とか、「次は右側で」など打ち上がる場所を教えてくれます。写真を撮る私にとってはとても親切に感じます。

『赤川花火大会』のもうひとつの特徴として、観客が気に入った煙火業者に投票できるシステムがあります。特別観覧席を購入した方はインターネットで投票ができます。お気に入りの煙火業者に1票を投じてみてはいかがでしょうか? この花火大会は音楽が重要な役割を果たしていますので、音楽がよく聴こえる有料席での観覧をお勧めします。

上段から順番に開花する柳のワイドスターマイン。

広い河原は有料席になります。

赤川花火大会競技の合間も気が抜けない珠玉の特別プログラム。

競技以外にも見逃せないのが特別プログラムです。2017年よりひとつ増えて5つの豪華なプログラムが用意されています。花火大会の開幕を彩るオープニング花火は秋田県大仙市大曲の北日本花火興業さん。ドラマチック花火は愛知県岡崎市の磯谷煙火店さん。この花火はストーリー仕立てになっており、それに合わせた花火の饗宴は夜空に開いた大きな絵本を読み進めるように展開してゆきます。2017年は人間の子供と仲良くなりたい優しくて可愛いオバケのマシューが奮闘する様子をストーリー仕立てで表現していました。2018年はどんなストーリーなのか期待が高まります。

そして市民花火は長野県上伊那郡の伊那火工堀内煙火店さん。希望の光は山梨県市川三郷町のマルゴーさん。エンディング花火は長野県長野市の紅屋青木煙火店さん。花火の盛んな地域から代表的な煙火業者が大集結します。これほどの贅沢はなかなかないといえる一押しの煙火業者さんが揃い踏みです。

尺玉三重芯花火。

赤川花火大会煙をも楽しんでしまう、観客の一体感を生むパタパタタイム。

『赤川花火大会』には可愛らしくて愛嬌のある「はなぶぅ」というブタのキャラクターが活躍しています。このキャラクターをデザインしたグッズの販売も行われています。グッズの中で人気なのが大きめのうちわ「パタパタうちわ」です。夏の花火大会は湿気が多く、その湿気を核に煙が増大してしまうのが悩みどころです。そこで考え出されたのが、滞留した花火の煙を流してしまおうというコーナーです。グッズの「パタパタうちわ」を使ってみんなでパタパタします。実際にうちわで起こす風で煙が流れるわけではありませんが、発想のユニークさがあり、観客に一体感が生まれて楽しく盛り上がるコーナーになっています。「パタパタうちわ」をお持ちでない方もお手持ちのうちわや扇子で一緒にパタパタすると楽しいですよ。気が付けば、パタパタしているうちに煙は風に流され、クリアな空になって花火が格段に見やすくなります。煙待ちをする時間も観客を飽きさせないようにしようという実行委員会の思いやりを感じます。

各地の花火大会では特徴を出そうと様々な工夫をしています。夏の花火大会の大敵、湿気によって増大する煙さえも楽しんでしまおうという逆転の発想のパタパタもそのひとつ。こういう企画を存分に楽しめるのも花火大会の醍醐味だと私は感じています。

夏の花火は浴衣姿の人たちで賑わいます。

日時:2018年8月18日(土) 19時15分〜
場所:山形県鶴岡市 赤川河畔 MAP
赤川花火大会HP:http://akagawahanabi.com/

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1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751

「海の京都」の食と文化を堪能。走るダイニングルーム。[丹後くろまつ号/京都府丹後地方]

ここでしか体験できない食と空間。丹後の魅力を味わい感じる列車。

丹後くろまつ号知られざる「海の京都」を走る。

「京都」と聞いて、あなたはいったいどんなものをイメージするでしょうか? 
由緒ある神社や仏閣、舞妓さんや着物姿の男女、千年以上もの昔から残る雅(みやび)な都の風景――。しかし、そんな「内陸の古都」のイメージとは違った側面も、京都は持っています。

日本海に面する「丹後地方」。起伏に富んだ地形とそれらが育む海と山の幸に恵まれた、自然と人情に溢れる「海の京都」です。

そんな「海の京都」の美しい風景の中を走り抜けるのが、『京都丹後鉄道』。「丹鉄(たんてつ)」の愛称で、丹後地方の人々のライフラインとして親しまれている鉄道会社ですが、2015年に「移動ソリューションを提供する」WILLER株式会社が、WILLER TRAINS株式会社として上下分離の形で経営と運営を引き継いだのをきっかけに、丹後地方の魅力を内外にPRする存在としても注目され始めました。

その象徴ともいえるのが、予約制(指定席)のレストラン列車『丹後くろまつ号』です。丹後の食と文化を堪能できるダイニング列車として人気を集めており、和モダンかつラグジュアリーな車両で、日本海の絶景や四季折々の風景を楽しめます。他にも予約制(自由席)のカフェ列車『丹後あかまつ号』や、予約不要(自由席)の『丹後あおまつ号』などがあり、「丹鉄の観光列車」として活躍しています。

「内地の古都」のイメージが強い京都だが、丹後地方にはまた違った絶景と文化が息づく。その多面性に浸りたい。

丹後の景観と絶妙に調和する3両。日本海の「白砂青松(はくしゃせいしょう=白い砂浜と青々とした松)」の風景を象徴する松をテーマとしている。

丹後くろまつ号「海の京都」との出会いが新鮮な驚きをもたらす。

「内陸の古都」のイメージがあまりにも強いため、京都府が海に面している事実はあまり知られていません。更に、京都市内の住人でも『京都丹後鉄道』の存在を知らないことが珍しくないそうです。そのため、日本三景の天橋立をはじめとする様々な景勝地と青々とした海とのコントラストは、新鮮な驚きをもって受け止められるそうです。他にも「奈具海岸」など奇岩の絶景スポットが多数あり、車窓から眺める風景は季節ごとに変化します。

何度乗っても印象が異なるため、足しげく乗車するリピーターも多数。走行コースも、季節ごとに変更したり、お客さんの要望を取り入れて絶景スポットで停車させたりと、こだわっています。
鉄橋としては西日本エリアで最長を誇る『由良川橋梁』。水面から6.2mの高さを徐行して走るので、まるで海の上を走っているような感覚が味わえます(コースによっては走行しない場合もあります)。

鉄橋としては西日本エリアで最長を誇る『由良川橋梁』。水面から6.2mの高さを徐行して走るので、まるで海の上を走っているような感覚が味わえる(コースにより走行しない場合もあります)。

トンネルを抜けるごとに新たな風景に出会える。

丹後くろまつ号タイムスリップしたかのようなラグジュアリーな調度。車体デザインも必見!

『丹後くろまつ号』の車体デザインは、JR九州のクルーズトレイン『ななつ星 in 九州』など、あまたの列車デザインで知られる水戸岡鋭治氏が担当。日本鉄道賞などの多数の受賞歴を誇る水戸岡氏のセンスは、さすがです。

まずは漆黒の車体にゴールドのラインという高級感のある外装が目を引きますが、随所に配された「松」をテーマとしたロゴデザインも、ほどよいアクセントを添えています。松は丹後地方でよく見られる木で、路線の風景との調和も意識されています。

内装には天然木を贅沢に使い、居心地の良さを重視しています。窓には京すだれ、壁にはやはり松のデザインがあしらわれており、明治の文明開化や大正浪漫の香りが漂います。地元の特産品なども展示されており、丹後の歴史と文化にゆったりと浸れます。車内では、アテンダントによる沿線の歴史や見所の案内、丹後くろまつ号限定商品の販売も実施されています。

落ち着いて寛げる和モダンな雰囲気。洗練された調度が上品。

のどかな田園から美しい海に移り変わる風景と、地元の食材をふんだんに使った料理が人気。

丹後くろまつ号コンセプトは「丹鉄FOOD EXPERIENCE」。食を通じて丹後の魅力を発見。

『京都丹後鉄道』の前身である『北近畿タンゴ鉄道』は、地元の人々に親しまれてきたローカル鉄道でした。WILLER TRAINS株式会社は、そこに観光の要素を加えて地域外の人々を呼び込み、地域の人々が誇れる存在にしていこうと様々な企画を行っています。
特に『丹後くろまつ号』をはじめとする観光列車群は、丹後の沿線地域の魅力を発信するツールとしておおいに活用されています。「食」という要素を通じて地域と地域外の人々をつなげることで、様々な交流や感動体験を生み出しているのです。

「食堂列車」は全国に多々ありますが、「食を通じて地域の魅力を発見できる」のが『丹後くろまつ号』の魅力。過去のツアーでは駅に停まって網焼きをしたり、駅で開催されているマルシェに参加したりといったイベントが行われました。
見て・体験して・地域の全てを味わう――地域に愛されている鉄道を、その地域の人々とともに体感する。ただ旅と食事を楽しむ以上の喜びがここにはあります。

ただの観光列車に留まらず、丹後の地域と人々とも密接に連携。「丹後地方のシンボルとしていきたい」という願いで運行されている。

丹後くろまつ号高クオリティの「食」と瀟洒(しょうしゃ)な車両が評判!

そんな『丹後くろまつ号』に乗った人々の感想は、とにかく「食事の質が高い!」という声が多いそう。
丹後の食材をふんだんに使って季節に応じて多彩なメニューを提供。魚・肉・野菜といったメインの食材のみならず、小麦粉や調味料といった目に留まりにくい食材までも丹後産にこだわっているそうです。

さらに車内に常駐するアテンダント達にも地元出身者を多く採用。それでいて、サービスは全国レベルの高い水準を徹底しています。そのためもあって、「また乗りたい!」と言うファンが着実に増えているそうです。
海外からの観光客も多く、そちらには特に車両のデザインが好評だそう。「こんなに面白い列車には初めて乗った!」「旅行が特別なものになった!」と喜ばれていて、結婚記念日などの特別な旅にも選ばれているそうです。

食材も料理も季節やコースごとに変更。地酒・地ワインとそれに合うおつまみを中心に、丹後の歴史に絡めた料理ツアーなども開催。

丹後の美しい海を望みながら「ほろ酔い」でめぐる列車の旅は現在予約受付中。丹後の地酒とおつまみを存分に味わえる。

丹後くろまつ号魅力あふれる「日本海縦断観光ルート」。今後の発展とPRに注目。

また、京都丹後鉄道は周辺の新潟市・敦賀市・舞鶴市・豊岡市と連携して『日本海縦断観光ルート・プロジェクト』という計画を推進しています。

これは京都丹後鉄道の沿線とそれを取り囲む広域エリアとをつなげて、太平洋側の『ゴールデンルート』に対抗する日本海側の観光ルートを開発およびアピールをしていこう、という試み。関西のみならず関東からも観光客を呼び込んで、日本海側の魅力的な「食」と「観光」を広げ、繋げていく――その魅力が十分に知られているとは言いがたい丹後から北陸地方の認知度を高め、その存在感を内外に示していきます。

10月からは、このプロジェクトの一環として『日本海SAKE-1グランプリ@丹後くろまつ号』を実施。日本海の地酒と食をテーマにしたグランプリを車内で開催し、乗客の投票によって栄冠を決めます。

『ランチコース(写真)』では地ワイン、『ほろ酔いコース』では地酒の飲み放題を実施。後者は丹後の酒蔵からこの時季で最も美味しい地酒を厳選して提供。

『スイーツコース』のメニュー。目にも美味しく彩り鮮やか。

丹後くろまつ号未来に向けてつながる、広がる。

『日本海縦断観光ルート・プロジェクト』の企画はこれだけに留まりません。他にも金沢市を起点とした3エリアを巡る食のバスツアー『日本海レストランバス』、金沢と舞鶴間で食と観光を楽しめる1DAYサイトシーイングバス『日本海縦断観光DELIライナー』、新潟ならではの食を堪能できるキャンプツアー『WILLERビークルで行く 新潟ブランドキャンプ』など、多彩な企画がラインナップされています(各企画の催行期間は販売サイトを参照)。

魅力的な食と地域を豊富に持ちながらも、それらを巡る交通がやや不便だった丹後と北陸。『丹後くろまつ号』と『京都丹後鉄道』、そして『日本海縦断観光ルート・プロジェクト』の展開によって、WILLER株式会社は観光による交流人口の増加と、日本海沿線の経済発展を目指していきます。

ご当地コーヒーの「丹鉄珈琲」をはじめとするお土産も楽しみ。

日本海縦断観光ルートプロジェクト
https://japansea.jp/
■ほろ酔いコース ・スペシャル 日本海 SAKE - 1グランプリ
■運行開始日:2018年10月5日(金)~
■運行コース※10月1日~のコース
①スイーツコース 5,200円(福知山駅10:03発→天橋立駅11:53着)
②ランチコース   10,800円(天橋立駅12:48発→西舞鶴駅14:50着)
③ほろ酔いコース 4,200円(西舞鶴駅15:30発→天橋立駅17:40着)
※価格は全て税込み
■運行日
定期運行:金曜・土曜・日曜・祝日
貸切運行:月曜・木曜

「聖域のような島」と共に歩む。[今治市伊東豊雄建築ミュージアム/愛媛県今治市]

今治市伊東豊雄建築ミュージアム古き良き自然と人情が息づく「神の島」に座す、日本初の「建築ミュージアム」。

陽光がさんさんと降りそそぐ瀬戸内海。愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ「しまなみ海道」の途上に、その島はあります。

大三島(おおみしま)。「日本総鎮守」と呼ばれ、全国に1万社あまりの分社を持つ大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を戴く「神の島」と呼ばれる地です。愛媛県に属する島々の中では最大の面積を持ちますが、古来から神聖視されてきたその歴史ゆえに、豊かな自然と美しい風景、そして、人と人との温かな関わりを今に残しています。

そんな大三島の魅力に惚れ込んだ世界的な建築家の伊東豊雄氏が、篤志家の所敦夫氏らの協力を得て、この地に日本初の「建築ミュージアム」を設立したのが2011年。そして7周年を迎えた今、その『今治市伊東豊雄建築ミュージアム』と大三島を舞台として、地域の未来を見据えた様々な取り組みが進んでいます。

「何もないのに全てがある」。ありふれた言葉だが、大三島ほどこの言葉を体現している場所は珍しいかもしれない。世界の桧舞台で活躍してきた建築家も魅了された(撮影:中村絵)。

“日本建築学会作品賞”を受賞した伊東氏の私邸を再現した『シルバーハット』。隣接する『スティールハット』と共に『今治市伊東豊雄建築ミュージアム』を構成する(撮影:阿野太一)。

今治市伊東豊雄建築ミュージアム世界的な建築家と「聖域のように美しい島」との出会い。


さかのぼること2004年。東京大学や多摩美術大学などの教授を歴任し、日本建築学会賞・UIAゴールドメダル・プリツカー建築賞などの多くの建築賞を受賞した伊東豊雄氏は、篤志家の所敦夫氏から「大三島に寄贈した『ところミュージアム大三島』の隣にアネックスを設計してもらいたい」という依頼を受けました。

そして大三島を訪れた伊東氏は、島に降り立った瞬間、その美しい風景と、地霊の存在が伝わってくるかのような土地の潜在力に圧倒されたそうです。当初の計画は斜面の多い島の地形や、大三島町と今治市の合併などによって二転三転してしまいましたが、その過程で「若い建築家を育てるための塾をつくりたい」という伊東氏の願いも取り入れられ、今の形となりました。

『今治市伊東豊雄建築ミュージアム』は、伊東氏の作品を展示する『スティールハット』と、東京の中野にあった伊東氏の私邸を再現した『シルバーハット』の2棟で構成されています。

『シルバーハット』には“伊東豊雄建築アーカイヴ”として、氏が手がけたプロジェクトのうち約100件あまりの図面やコンペティションへの応募案などが収蔵されています。さらに、それらを自由に閲覧できる図書閲覧スペースや、ワークショップのスペースも設けられています。「若い建築家を育てたい」という伊東氏の理念が体現された場所と言えるでしょう。
『スティールハット』『シルバーハット』のいずれも、建物自体が展示物となっています。瀬戸内の美しい海を背景に並び立つ、意義深い“建築ミュージアム”。ですが、このミュージアムはそれだけに留まらず、大三島という土地とそこに住まう人々との連携も深めています。

『スティールハット』。単なるミュージアムに留まらず、伊東氏の理念と大三島の未来を体現する施設となっている(撮影:阿野太一)。

今治市伊東豊雄建築ミュージアム「建築」には人が集い、暮らす。それをテーマとするミュージアムが、地域の人々の問題にも向き合い始めた。

ミュージアムの設立を機に、伊東氏は、東京で主宰している『伊東建築塾』の塾生達と共に大三島に通うようになりました。塾生達も大三島の美しさと、そこに生きる人々の暮らしに非常に感銘を受けたそう。そして、伊東氏と塾生達と、島の人々との交流が始まりました。しかし、昔ながらの温かな情の通う交流に癒されながらも、それをおびやかす過疎の問題も次第に知ることとなりました。

とりわけ由緒ある大山祇神社の参道の衰退は、伊東氏にとっても『伊東建築塾』の塾生達にとっても見過ごせないものでした。そこで伊東氏は、塾生達と共に参道に面した空き家を借り、人々が集える拠点とすべく改修を始めたのです。

そうして完成したのが、『大三島みんなの家』。大三島の食材を使った料理や、「もの」と「もの」の気を区を交換する物々交換、多世代が気兼ねなく集えるイベント、生活の知恵をシェアできる教室などを楽しめる場です。さらに、ここを中心とした“参道マーケット”を主催するなど、大山祇神社の参道に人を呼び戻す催しも行なっています。

「みんなの場所」として親しまれるようになった『大三島みんなの家』。誰でもやさしく受け入れてくれる。

『伊東建築塾』の塾生が手ずから改修し、今治北高校大三島分校の生徒と共にテーブルや椅子を作った。地域と共に再生した「居場所」。

毎年開催している『参道マーケット』の様子。「この場所を通じて島の人々とのコミュニケーションをより活発にしていきたいと考えています」と伊東氏は語る(撮影:高橋マナミ)。

今治市伊東豊雄建築ミュージアム聖域のような島で、明日のライフスタイルを考える。

こうしてミュージアムの枠を超えて大三島の人々と連携し始めた伊東氏は、その過程で様々な気づきを得たといいます。
「私は東日本大震災までは、都市を中心に建築を考えてきました。しかし、三陸の人々と接することによって地域の人々の魅力に気付き、大三島でもそれを確認したいと考えるようになりました。このような人々は、都会の人には無い豊かな表情をもち、自然と接した暮らしをしています。そうした人々に触れて感動を覚え、自分自身の明日の暮らしについても考え始めています」。

世界の桧舞台で活躍してきた建築家が、「建築に集い、住まう人々」に改めて着目。その原点とも言える意義に回帰したのは、ある意味当然だったのかもしれません。さらに、大三島という特別な地を護り、その存在を未来に繋ぐ活動に打ち込み始めたのも、ごく自然な流れだったのでしょう。伊東氏は、さらにこう語ります。

「大三島は由緒ある大山祇神社に護られて、瀬戸内の島々の中でも極めて美しい風景を継承してきました。特に島の西側から見られる夕日の風景はかけがえのない美しさです。観光地でもなく、何も無い島の良さを十分に感じ取っていただきたいと思います」。

そして伊東氏は、「私は大三島を観光地にしたいのではなく、あくまで明日のライフスタイルを考える場所にしたいと思っています」とも強調。「神の島」と呼ばれて開発を免れてきたからこそ息づく、この地にしかない美しさや魅力。「聖域」としての大三島そのものを大切に、地域の存続に取り組んでいます。

「土地に接した暮らし」「時間を大切にする暮らし」「自給自足を目指す暮らし」「シェアする暮らし」。せわしい現代人が忘れてしまった多くのものが大三島には残っている(撮影:西部裕介)。

大三島のシンボルであり、島を「聖域」たらしめている大山祇神社(撮影:高橋マナミ)

単なる宿泊施設に留まらず、大三島に息づく価値観をも体験できる『大三島 憩の家』(撮影:高橋マナミ)。

今治市伊東豊雄建築ミュージアム大三島と共にミュージアムは歩む。 

伊東氏と伊東氏に賛同する人々の想いをさらに広めるべく、『今治市伊東豊雄建築ミュージアム』と『大三島みんなの家』では、様々なイベントや展示会を催しています。
その大きな柱となっているのが、『伊東建築塾』を中心に神奈川大学の『曽我部・吉岡研究室』も協力して推し進めるプロジェクトです。

例えば、耕作放棄されたミカン畑を借りて葡萄畑に変え、小さなワイナリーづくりを行なっている『大三島みんなのワイナリー』。古い小学校を利用した民宿を改装して若者の力で魅力的な宿泊施設に生まれ変わらせた『大三島 憩の家』など、新たなライフスタイルを発信しています。

ミュージアムの展示も、これらのプロジェクトに取り組む若い人々を紹介する方向にシフト。2018年7月に全面的にリニューアルし、『大三島 憩の家』のリノベーションをはじめとする、多彩なプロジェクトを紹介しています。

「今後も『大三島みんなのワイナリー』の発展に合わせて、“オーベルジュ(ワイナリーのワインと島の食材を味わえるレストラン兼小規模宿泊施設)”を作るなど、島の魅力をさらに高めていきたいと考えています」と伊東氏。経済に勝る豊かさのビジョンを描く取り組みは、多方面に広がっています。

『大三島みんなのワイナリー』の葡萄畑。独自のアイデアで島おこしに取り組み、島の人々と協同で「島づくり」を進める(撮影:宮畑周平)。

移住した高橋氏夫妻が営む『大三島ブリュワリー』。大三島に魅せられて多くの若者が定住している(撮影:山田宗草)。

今治市伊東豊雄建築ミュージアム大三島と人々の未来を見据えて。

「大三島には、古くからお住まいの方々と、UターンやIターンで新たに農業を始めたり、地域おこし協力隊としてパン作りや地ビール作りなどの活動を行っている人々がいます。前者は現在の生活に満足されているようですが、このままでは限界集落に近づいていってしまうでしょう。私達は新たな活動を始めた人々と協力して、明日のライフスタイルのモデルをつくりたいと考えています」と伊東氏は語ります。

人と人との繋がりと、人間らしいライフスタイルを再構築する試み。それは、島に住まう人々と島の未来を広く見据えています。
「移住してくる若い人々が年々増えつつありますが、これらの人々とどのような“明日の日本の暮らし”があるのかを考えていきたいと思います」と伊東氏。

ミュージアムの域を超えて、大三島とそこに生きる人々と連携し続ける伊東氏。暮らしと人生の価値観を問い直すその試みは、堅実に続いていきます。

『今治市岩田健母と子のミュージアム』からの眺め。こちらの建築も伊東氏が手がけており、施設同士も様々に連携しあっている(撮影:阿野太一)。

住所 : 愛媛県今治市大三島町浦戸2418  MAP
電話 : 0897-74-7220
営業時間 : 9:00~17:00 
休館日:月曜日(祝日の場合は原則翌日振替)、年末(12/27-12/31)
観覧料:
一般 800円、学生 400円
※団体(20名以上)、65歳以上は2割引
※高校生以下または18歳未満無料
※障がい者とその介助者1名無料
HP : www.tima-imabari.jp
写真提供 : 伊東豊雄建築設計事務所

生と死に向き合い、花の命と対峙する。[金高刃物老舗/京都府京都市]

「花を扱う仕事は命を扱う仕事」と語る東氏。日々、花と向き合い、挑戦し続ける。

東 信×金高刃物老舗

使い始めて約20年。一生涯、このハサミを使い続ける。

国内外、いや、むしろ世界を主軸に活動し続けている東 信氏。その一貫した姿勢は今も昔も変わりません。フラワーアーティストである一方、オートクチュールの花屋『JARDINS des FLEURS(ジャルダン・デ・フルール)』も主宰する東氏は、「花屋として、毎日花と触れ合っているからこそ花を表現できます」と語り、「季節ごとはもちろん、新しい花は常に増えています。それは、現場の最前線にいないとわかりません」と言葉を続けます。

芸術家である前に花屋であれ、そんな風にも捉えられる言葉の意味は、花の命と真摯に向き合っていることに尽きます。

表現する時のみ向き合うだけでは偽物。24時間365日、花と生きることが必要なのです。生きる花を作品にするということは、言い変えれば、その命を絶つということです。東氏の表現は、常に生死が表裏一体。覚悟と責任の上で形成されているのです。

その命と対峙する上で必要不可欠な存在、それは花に直接触れるハサミです。
「花屋の道具といえばハサミと桶。後は水さえあれば十分です」とは東氏の言葉。

使い始めて約20年のそのハサミは、京都の『金高刃物老舗』のものです。

『金高刃物老舗』は、寛永末期に日本剃刀の鍛冶屋として創業し、約200年の歴史と伝統を持つ老舗。花の世界だけでなく、伝統工芸の盛んな京都にて織物や呉服、表具、料理など、各分野の職人からの信頼も厚く、一つひとつ丁寧に仕上げています。

東氏が「全て手に合わせて作ってもらっている」と言う『金高刃物老舗』のハサミ。

東 信×金高刃物老舗最初はハサミに使われていた。今、ようやくハサミに追いついてきた。

「花を扱う行為で大切なことは水揚げです」と東氏は話します。

水揚げとは、花の茎を切り、その切り花に水を再び吸わせてあげることです。切り口しだいで花の寿命が変わるため、「水揚げの基本は、水切りにあり」といわれています。ゆえに、ハサミが重要なのです。
「外国製のものも含め、様々なハサミを使用したことがありますが、日本の花には日本のハサミが一番合うと思いました。特に『金高刃物老舗』のハサミは、斜めにスパンと鋭く切れ、その切り口も美しい。ただ切れ味が良いだけでないことは、その後の花を見ればわかります。咲き方や生き生きとした姿は、あきらかに他のハサミで切った花と『金高刃物老舗』で切った花とではあきらかに異なります」と東氏。

その結果、何が大きく異なるのでしょうか。それは「命の長さ」です。

前出の水揚げの「行為」は、東氏にとっては命を吹き込む「儀式」なのかもしれません。
しかし「昔はこのハサミに値する技術が自分には足りなかった」と、東氏は約20年前の当時を振り返ります。

今、東氏が使用している『金高刃物老舗』のハサミは2種。主なハサミとそうでないものです。そうでないものとは、特に太い茎などを切る場合にのみ使うハサミです。
「昔はもっと多くの種類のハサミを使い分けていました。それぞれ異なる形状の茎をうまく切る技術が足りなかったので、ハサミの機能に頼りすぎていたのです。ですが、今は2種。切る回数も使う頻度も昔よりはるかに多いですが、今の方が持ちも良く、昔の方が消耗も早かった。使い方や研ぎ方など、ようやく自分の技術がハサミに追いついてきたのかもしれません。とはいえ、まだまだですが」と東氏は話します。
そして東氏は「いずれは一本を目指したいです。出刃包丁一本で何でも作れる料理人や刀一本で勝負する侍のように」と続けます。

ハサミにはAMKK(東 信、花樹研究所)の刻印も。ハサミ自体にも堂々とした風格が漂う。

「使い始めて約20年。歴史があるものは長く付き合わないとわからないと思います」と東氏。

日々、切る。「本物を長く使うことによって、自分自身も養われます」と東氏。

切り口によって花の「命の長さ」が決まる。東氏にとって水揚げは命を吹き込む「儀式」。

魂を込めて茎に刃を入れ、命を吹き込んだ後は、再び水を吸わせ、花に呼吸させる。

花の命と対峙する唯一の道具だからこそ、自ら手入れを行い、自ら研ぐ。

東 信×金高刃物老舗「消える芸術」。それは命ある生きた芸術ゆえ、必ず結末を迎える。

東氏の創造する芸術は様々なスタイルがあるため、ひと言で表現するのは難しいです。しかし、あえてひと言で表すならば、それは「消える芸術」だということです。
「命ある花は生で見るのが一番美しいです。だから、生で見た人の心に残ればそれでいいのです。命に永遠はありません。生きた作品がそのまま残り続けていたら感動は与えられないので」と東氏は話します。

根を大地から切り離し、育つ環境の異なる花を組み合わせ、新たな世界を創造する東氏の作品は、ある意味では自然の摂理に反しています。華道の世界でも用いられる言葉ですが、その表現は人間のエゴイズムや欲望 です。
「時に残虐的にも映るかもしれません。時に可哀想だと思うかもしれません。食材だって同じです。命を頂くということは、そういうことだと思います。だからこそ、命と向き合うことが大切なのです。ゆえに、その道具にもこだわります」と東氏は話します。

花と東氏の関係は、強い絆で結ばれているのかもしれません。花は東氏を信頼し、その身を委ね、東氏はその花を一番美しい表情へ導き、別世界へと誘うのです。

花を生かす東氏もまた、花に生かされているのです。

作品1 Flower Art:AZUMA MAKOTO  Photograph:SHIINOKI SHUNSUKE

作品2 Flower Art:AZUMA MAKOTO  Photograph:SHIINOKI SHUNSUKE

作品3 Flower Art:AZUMA MAKOTO  Photograph:SHIINOKI SHUNSUKE

作品4 Flower Art:AZUMA MAKOTO  Photograph:SHIINOKI SHUNSUKE

作品5 Flower Art:AZUMA MAKOTO  Photograph:SHIINOKI SHUNSUKE

東 信×金高刃物老舗東 信が考える、「ジャパンクリエイティブ」とは。

「表現することだけでなく、伝えたい」。
花を通して世界中を旅している東氏は、各国を回り、「表現することだけでなく、伝えたい」と感じているそうです。
その「伝えたい」気持ちとは、芸術のことではありません。

ただ花が美しいということ、花を贈ることの素晴らしさ、花のある生活……。

そう思い始めてから展開したプロジェクト、それが「希望 KIBOU」です。これはアーティストとしての東 信ではなく、花屋としての東 信の活動です。
世界を巡り、「希望 KIBOU」という1日限定のゲリラショップを立ち上げ、各国の人々に花を配り、花の魅力を伝えているのです。

「花を配って思うのが、まず笑顔にならない人がいないことはもちろん、その花を私欲にしないことでした。例えば、お墓に手向けたい。大切な人にプレゼントしたい。家族を笑顔にしたい。その美しさをシェアしたい、感動を共有したい。そう思わせる花の力は、やはりすごいと思いました」と東氏は話します。

「例えば、新たな命が生まれる時に花は人を幸福にし、また別の命がなくなった時に花はその心を癒します。ある学者の話によると、はるか昔のミイラの棺の中に花が添えられていたそうです。そんな昔から花と人は密接な関係にあったのです。なぜ花を贈るのか? なぜ献花するのか? それが花でなければいけない理由はないですし、なぜ花を贈るのかもわかりません。しかし、考え続け、命と向き合い続け、生きていくことが大切なのだと思います」と東氏は語ります。

芸術活動や「KIBOU 希望」プロジェクトを通じて、おそらく世界中の花市場を巡っている日本人のひとりである東氏。

「世界中の花市場を見て思うのですが、日本の花市場は間違いなく世界一。花が綺麗なだけではなく、きっちり揃った陳列、花を収めた箱。そこには、花を作る生産者だけではなく、携わる様々なプロフェッショナルな方々が仕事に対して手を抜いていない姿が見えます。規模の大小を問わず、何かを成し遂げるには、時に辛いことや大変なこと、もう無理だと感じることもあると思います。ですが、日本人は、そこからもうひと踏ん張りできる国民性、スピリッツを持っていると思います。これは海外にはないメンタル。極論すれば、花は花さえ美しければ成立しますが、その周辺のことまでこだわるクラフツマンシップや匠の精神は、僕の身も引き締まる思いです」と語る一方で、「その技術などに関して危惧する思いもある」と東氏は言います。

東氏は、「伝統、歴史。これは世界的に見ても日本はトップレベルです。しかし、それらが衰退する恐れもあります。薄利多売、現代人は便利な方に流されていってしまう傾向が見られます。ですが、時代の文脈を理解し、本物に触れ、長く付き合うからこそ得られる事柄が大切なのだと思います。技術を継承する方や継承される方はもちろん、その継承される方が、また次世代に継承できるような環境をつくる責任が我々にはあると思います。需要がなければ供給はできません。本物が生き難い時代だと思います」と話します。

しかし、東氏の言葉のとおり、苦しい時ほどもうひと踏ん張りできるのが日本人。逆境に直面した時ほど、我武者羅になれるのも日本人なのです。

東氏が考える「ジャパンクリエイティブ」とは、そんな日本人の「精神性」なのです。

これまで様々なを巡った「希望 KIBOU」プロジェクト。花を通して世界中の人々を笑顔にし、その名のとおり、希望を与え続けている。

「いつかは自分たちで花を育てるところから表現したい」と話す東氏。

1976年生まれ。フラワーアーティスト。2002年より、注文に合わせてデッサンを起こし、花材を仕入れ、花束を作るオートクチュールの花屋『JARDINS des FLEURS』を銀座に構える(現在の所在地は南青山)。2005年頃から、こうした花屋としての活動に加え、植物による表現の可能性を追求し、彫刻作品ともいえる造形表現=Botanical Sculptureを開始し、海外から注目を集め始める。ニューヨークでの個展を皮切りに、パリやデュッセルドルフなどで実験的な作品を数多く発表する他、2009年より実験的植物集団『東 信、花樹研究所(AMKK)』を立ち上げ、欧米のみならずアジア、南米に至るまで様々な美術館やアートギャラリー、パブリックスペースで作品発表を重ねる。近年では自然界では存在し得ないような地球上の様々なシチュエーションで花を生ける創作を精力的に展開。独自の視点から植物の美を追求し続けている。また、世界各国を巡り、花の美しさや植物の存在価値を伝えるプロジェクト「希望KIBOU」も展開。
http://azumamakoto.com

自分たちでできることから。DIYで行う、mitosayaの実験的プロジェクト。[mitosaya 薬草園蒸留所/千葉県夷隅郡]

以前は屋根と柱のみだった東屋が、今は、焼杉の壁面を纏い、暮らせる場所へと進化した。

mitosaya薬草園蒸留所工事期間は、なんと4ヵ月! 自ら仕上げた、東屋を超えた東屋。

蒸留所ができるまでの間、今できることに江口宏志氏は取り組んでいます。その中から、今回は3つ取り上げたいと思います。
まずは、敷地内にある東屋の改修です。

本来、東屋とは屋根と柱だけの小屋。つまり休憩所です。しかし、今回の改修では、東屋を超える東屋に進化しました。まるでヴィラやコテージを思わせるようなそこは、焼杉の壁が設えられ、冬の寒さをしのげるストーブも設置し、窓にはペアガラスを採用。室内にはベッドなども配され、家具には座面をレザーに張り替えたハンス・J・ウェグナーのビンテージの椅子。棚には本が並びます。

その全てを江口氏が自ら4ヵ月かけて作り上げたというから驚きです。
「素人の僕がやったので、作っては不具合が起きたり、それをまた作り直したり、杉板の焼きにもムラがあったり……」と江口氏は言います。

蒸留家を目指していたはずが、いつしか大工に!?という冗談はさておき、「今後、わざわざ遠くから蒸留所まで足を運んでくださるお客様もいらっしゃると思います。そんな方々にゆっくりと過ごして頂ける場所になったらいいなと。そして、いつかは泊まれる施設になるといいなと思い、作りました」と話す江口氏。
前回の取材で話していた「未来のことばかり話している」という言葉を思い出します。

ちなみに、この日に置いてあった本は、ジェイムズ・リーバンクス作の『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』と江口まゆみ作・小のもとこ絵の『タイ ラオス ベトナム 酒紀行』でした。

両者に共通しているのは、「旅」を感じる作品という点です。取材班からの「これはこの東屋で読んでほしいと思う作品をセレクトしたのですか?」との問いに、「いや、僕がこの間寝る前に読んだ本です(笑)」との答え。「でも、いつかはここへいらっしゃるお客様のために本をセレクトしたいですね」と、一瞬、ブックディレクターの表情を見せた江口氏でした。

『mitosaya 薬草園蒸留所』へ訪れた際は、東屋へぜひ。

東屋の室内には、既存のテーブルとベンチはそのままに、ストーブやソファベッドなどを配す。

椅子は、ハンス・J・ウェグナーのビンテージチェア。座面は江口氏が自らレザーに張り替え。

多くの日本建築にも採用される焼杉。焼くことによって耐久性が増すため、雨風にさらされる外壁には最適な素材。

自ら焼いた杉板を見て、「素人がやったから、やっぱりムラがありますね。(苦笑)」。しかし、それもまたプロジェクトの軌跡。

室内には本のディスプレイも。江口氏がセレクトした本を、ここでゲストがゆっくりと読める日もそう遠くはない。

まずは自身がその心地よさを体験。蒸留所の完成も待ち遠しいが、今後の東屋にも期待大!

mitosaya薬草園蒸留所月報、「蒸留家12ヶ月」とともに何が送られるかわからないギフトを。

現在、江口氏は、『mitosaya 薬草園蒸留所』の月報を発行しています。そんな活動も江口氏らしいです。

「カレル・チャペックの『園芸家12ヶ月』や植草甚一の作品に挟み込まれている月報みたいなものを作りたいなぁと思って。正直、どうでも良い内容もあるのですが……。僕がやるとついこうなっちゃう」とはにかむ江口氏。

その月報には、今の蒸留所の状況や『mitosaya 薬草園蒸留所』で採れた植物を使った料理のレシピ、何が送られるかわからないギフトについて書かれています。

ちなみに、vol.1の月報「newsletter mitosaya botanical distillery」とともに送られたギフトは、2種のシロップです。ひとつは、春に咲いた染井吉野の花を塩漬けにした後、ホワイトバルサミコ酢を加えた「染井吉野の花びらシロップ」。もうひとつは、2017年秋に収穫したウコンをひと冬乾燥させた後、同じショウガ科の生姜を加えた「春ウコンの根っこシロップ」です。

ともに炭酸水で割って飲むも良し、料理のアクセントに使うも良し、の万能シロップです。そして、味だけではなく、瓶やパッケージデザインが美しいことも特筆すべき点。プロダクトとしても高いクオリティを実現しています。月報のvol.2以降も期待が高まります。

「染井吉野の花びらシロップ」(左)、「春ウコンの根っこシロップ」(右)。味はもちろん、ボトルデザインも美しい。

「newsletter mitosaya botanical distillery」は、『mitosaya 薬草園蒸留所』の状況や無駄な!?あれこれを紹介。

mitosaya薬草園蒸留所苗を植えること。それは、一生涯その場所が特別な場所になるということ。

『mitosaya 薬草園蒸留所』では、お客様の苗木を限定数植える活動もしていました。苗木には多くの種類がありますが、どれも将来的に大きくなる木ばかり。お客様の中には、「結婚の記念に」など、思い出に残すためにと参加された方もいたようです。

植物の良いところは、成長し続けることです。今年よりも来年、来年よりも再来年、10年後よりも20年後、20年後よりも30年後……。人生100歳時代と囁かれる昨今、樹々の成長を見続けられるのは、この先ずっと楽しみになるでしょう。
そして、その植えた人物の中には、江口氏の母も。

「まさか母親と苗木を植える日が来るとは」と照れ笑いをする江口氏。植えた苗木は、プラムの木でした。
「責任を持ってこの樹々を育て、実った植物を使って、いつの日かその人だけのお酒を作り、お届けしたいと思っています」と江口氏は話します。

また、『mitosaya 薬草園蒸留所』では、新たに養蜂も始めました。「蜂は、半径約2〜3kmを活動範囲にしているそうです。養蜂することによって施設内の植物を活性化させ、蜜を採取し、今後何かに活かしたいと思っています」と、江口氏。
日々、小さな達成を喜びにし、徐々にカタチになりつつある『mitosaya 薬草園蒸留所』。蒸留所の完成ももう間近だ。

敷地内に植えられた苗。それぞれに苗木オーナーの名前が刻まれ、これからの成長が楽しみ。

丁寧に苗を植える江口氏。「それぞれ思いが詰まった大切な苗。責任を持って育てさせて頂きます」。

「まさか母親と一緒に苗を植える日が来るとは(笑)」と話す江口氏。良き思い出はもちろん、ここが親子の大切な場所となった。

養蜂も始めた『mitosaya 薬草園蒸留所』。花から花へ飛び回るミツバチを介して受粉し、この場所を活性化させる。

ミツバチによって作られる蜜が、今後、『mitosaya 薬草園蒸留所』の新たな商品として生まれ変わるかもしれない。

住所:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜486 MAP
http://mitosaya.com
info@mitosaya.com

世界最大級の水上花火「三尺玉海上自爆」。[熊野大花火大会/三重県熊野市]

彩色千輪が夜空一杯に広がります。

三重県熊野市客船から観るも良し、メイン会場で観るも良し。

2017年のコラムでは客船から観る熊野大花火大会をテーマに紹介いたしました。今回はメイン会場で観る熊野大花火大会について2017年のコラム「花火と客船クルーズ」を捕捉する形で書き進めていきたいと思います。このコラムと2017年のコラムを合わせてお読みいただければ幸いです。

熊野大花火大会の最寄り駅である熊野駅は、日ごろは電車が一日に数本という静かでのどかな町です。交通の便が良いとは決して言えません。花火大会当日は電車の増便がありますが、念のため交通手段や宿泊については十分にお調べの上お出かけいただく事をお勧めします。メイン観覧席となる七里御浜は砂浜ではなく玉砂利です。一つ一つの石は波に削られ丸く、座っても痛くはありませんが、真夏の焼けつくような日差しで日中はかなり熱くなります。夜になっても温かいままですので多少厚めのシートをお持ちになるとよろしいかと思います。

海岸は砂浜ではなく玉砂利です。

三重県熊野市夜空いっぱいに広がる計算し尽くされた花火。

熊野大花火大会の特徴として立地を生かした打上筒の設置があります。上空に打ち上げるものだけでなく、斜めや横に向かって打ち上げられるように打上筒が設置してあります。様々な角度をつけて花火を打ち上げることにより夜空いっぱいに花火が広がるように計算されています。フィナーレを飾る鬼ヶ城大仕掛け「巌頭のとどろき」の一幕に彩色千輪という一際華やかな花火を夜空いっぱいに開花させる場面があります。このシーンが私は大好きです。この場面だけは毎年必ず撮影したいので緊張する瞬間でもあります。

熊野大花火大会一番の目玉でもあり客船からも大迫力の「三尺玉海上自爆」ですが、メイン会場での観覧はまた格別です。「いよいよ三尺玉海上自爆です」というアナウンスに会場全体がどよめく様に盛り上がってまいります。そして始めに小さなスターマインが上がります。「この場所に三尺玉が開きますよ」というお知らせの花火です。その後、観客全員でカウントダウン。そしてついにその時は訪れます。心の準備は出来ていても、その遥か上をいく迫力に思わず後ずさりする程です。海上から押し寄せてくる花火の迫力は会場全体の浜に響き渡り空気を震わせお腹にずしりと響きます。メイン会場ならではの感動と興奮を体感できます。三尺玉は鉄製の筏に乗せられ海上に浮かべられた状態で開きます。三尺玉開発(花火が開くことを開発といいます)の威力で鉄製の筏はぐにゃりと曲がります。

上空に打ち上げる花火以外に斜めや横に打ち出す花火もあります。船から撮影しているため町の灯りが揺れています。

「三尺玉海上自爆」が開花すると振動で浜辺が揺れます。

三重県熊野市翌日は打ち上げ現場でもある世界遺産「鬼ヶ城」へ。

時間に余裕があれば花火大会の翌日に「鬼ヶ城」を訪ねても楽しいでしょう。国の天然記念物であり世界遺産でもある「鬼ヶ城」は熊野大花火大会の打ち上げ現場でもあります。どんなところから花火が打ち上っていたのか一見の価値ありです。時間によっては花火師さん達が片付け作業を行っているかも知れませんし、一部はまだ立ち入り禁止になっている場合もありますのでその点は十分ご注意ください。鬼ヶ城センターでは熊野特産の柑橘類新姫(にいひめ)のドリンクやポン酢など名産品を販売しています。レストランでは熊野地鶏などもいただけます。更に熊野の歴史紹介や熊野大花火大会の映像上映、また三尺玉のレプリカも展示されていますので三尺玉がどれほどの大きさかご覧いただけます。

国定公園の「鬼ヶ城」も花火設置場所の一つになっています。

鬼ヶ城センターには三尺玉のレプリカが展示してあります。

日時:2018年8月17日(金)
場所:三重県熊野市 七里御浜海岸 MAP
煙火業者(50音順):伊藤煙火工業、伊那火工堀内煙火店、紀州煙火、和田煙火店
熊野市観光協会HP:https://www.kumano-kankou.info/kumano-fireworks/

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1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751

神の領域が幻想のデジタルアート空間になる。[下鴨神社 糺の森の光の祭 Art by teamLab – TOKIO インカラミ/京都府京都市]

京都府京都市古都の神社が幻想の灯で満ちる。

真夏の神社。ノスタルジックな響きとともに、不思議な涼感と未知なる存在への畏怖(いふ)まで想起させてくれる言葉です。そんな真夏の神社で、今夏、幻想的な光の祭典が催されます。
 
その祭典の名は『下鴨神社 糺の森の光の祭 Art by teamLab – TOKIO インカラミ』。
ユネスコ世界文化遺産の“古都京都の文化財”に指定されている下鴨神社(正式名:賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ))を舞台に、その参道や楼閣内を光のアート空間に変えるイベントです。
非物質的なデジタルアートによって「自然が自然のままアートになる」という『チームラボ』のアートプロジェクト、「Digitized Nature」の一環として企画されました。

舞台となる下鴨神社(賀茂御祖神社)は、東西の両本殿が国宝に指定されている由緒正しい神社。その参道と楼閣内を光のアートで彩る。

京都府京都市デジタル×自然が生み出す新たなアート。

『チームラボ』は2001年から活動を開始したアートコレクティブです。アーティスト・プログラマ・エンジニア・CGアニメーター・数学者・建築家など様々な分野のスペシャリストで構成されており、集団的創造によって人間と自然、そして、自身と世界との新たな関係をアートによって模索しています。
 
そんな『チームラボ』が展開する「Digitized Nature」は、光や音などの非物質的なテクノロジーによって、自然を破壊することなくアートにするという試み。自然が長い時をかけて築き上げた妙(たえ)なる造形を生かし、その悠久の時をもアートの中に映し出してくれます。

『呼応する、たちつづけるものたちと森 – 下鴨神社 糺の森 /Resisting and Resonating Ovoids and Forest – Forest of Tadasu at Shimogamo Shrine』。古社の参道と森を光と音で彩り、幻想的な空間へと変える。

京都府京都市厳粛な参道に「たちつづけるものたち」。呼吸を思わせる球体の明滅が神秘の世界へいざなう。

下鴨神社の参道沿いに広がる「糺の森(ただすのもり)」は、太古の姿をそのまま残した広大な森です。静寂の中に佇む高い木々の合間には、ゆっくり明滅する球体が並んでいます。それらは木々を照らす光と呼応するかのように、輝いては消え、消えては輝き、人が触れればそれぞれの色に応じた特有の音色を響かせます。
 
このアートの名は、『呼応する、たちつづけるものたちと森 – 下鴨神社 糺の森 /Resisting and Resonating Ovoids and Forest – Forest of Tadasu at Shimogamo Shrine』。
光と音は放射状に伝播し、連続して広がりながら、幻想の協奏曲を奏でていきます。光と音のさざめきは、下鴨神社の楼門の中に漂う光の球体にまで伝播していき、空間を超えて共鳴します。
 
長い参道の向こうから押し寄せる光は、自分以外の人や、森に住む動物たちの存在を知らせてくれます。他者の存在を強く意識して互いに感じ合う経験は、自らの存在の意味と、神社という神々の領域の神秘性をより高めてくれるでしょう。

『呼応する球体 / Resonating Spheres – Shimogamo Shrine』。空間に漂う球体が、触れることによってアートとなる。

京都府京都市光と音のデジタルテクノロジーを駆使した、「人々の存在によって変化するアート空間」。

参道の先に現れる荘厳な楼門の中には、宙に浮かんだ球体たちが漂っています。これらも自ら光を放っており、呼吸めいた明滅を見せてくれます。

このアートは、『呼応する球体 / Resonating Spheres – Shimogamo Shrine』。人の手で叩かれたり、何かにぶつかったりするなどして衝撃を受けると、その光は色を変え、特有の音色を響かせます。その反応は周囲の球体にまで広がっていき、色も同様に変化していきます。
球体の近くの木々も同様に呼応して、光と音を伝播させながらさざめきます。人工のマテリアルが、自然の木々や人々の存在と共鳴する――デジタルと自然と人によって織り成されるアートは、真夏の夜の神秘性をより高めてくれるでしょう。

球体たちは、参道の「たちつづけるものたち」とも楼門を超えて呼応します。境界を超えて伝播していく光と音は、やはり他の人々や動物たちの存在を強く意識させてくれます。

触れれば色を変え、それが他の球体や木々に伝播していく。ここを訪れるあなたの存在も、そのアートの一部になる。

京都府京都市大都市の中の自然を舞台に繰り広げられる、変幻自在のアート。

京都という大都市の中にありながら、森閑(しんかん)とした深山を思わせる空間がデジタルのアートで満ちる。非現実的な世界を創出しながらも、その成立には「人」の存在が不可欠です。ここを訪れ、鑑賞する人々の存在があって、初めて「光の祭」は完成するのです。
 
また、このイベントは単なるライトアップではなく、一過性の催しでもなく、京都の文化価値の向上をも図る継続的な取り組みです。伝統行事として根付かせる意図で企画されており、1回目の2016年に続いて、2018年で2回目の開催となります。更に、今後も末永く継続されていく予定です。

古都・京都と、そこで守り伝えられてきた文化財の価値を高める試み。神域を彩るデジタルアートは、真夏の夜の夢のように儚いが、人々の記憶に鮮烈に残りながら今後も続いていく。

<イベント概要>
世界文化遺産の神社が、光と音のデジタルアート空間に変貌するイベント。下鴨神社(賀茂御祖神社)の参道と楼門内が、チームラボによる作品『呼応する、たちつづけるものたちと森 – 下鴨神社 糺の森』と、『呼応する球体 – 下鴨神社 糺の森』の2つの作品によって彩られる。
開催期間:2018年8月17日(金)~9月2日(日)
開催場所:下鴨神社(賀茂御祖神社)糺の森 

京都府京都市 左京区下鴨泉川町59 MAP
※糺の森南側、御影通りからご入場ください。
時間:18:30~22:00(最終入場21:30)
※会場の混雑状況により変更することがあります。
入場料:平日1,000円 土日1,200円
※小学生以下無料
※8月17日(金)~19日(日)3日間のみ使用可能な限定前売ペア券 1,200円(2名1組)
※前売ペア券は、枚数限定で販売致します。
※販売場所:ローソン・ミニストップ各店舗
※Loppi【Lコード:57291】
ローチケ:http://l-tike.com/tl-sg/
HP:http://shimogamo-lightfestival.teamlab.art
※開催中は、会場でも販売致します。
写真提供:チームラボ

2次元で3次元を描く!?大分から世界へ名を轟かせる、革新的な立体造形物。[FLATS/大分県国東市]

組み立て式段ボール製のマネキン「FLATS(フラッツ)」。さまざまな種類が展開されている。

大分県国東市

CTスキャンで輪切りにしたような、インパクトある立体造形物「FLATS(フラッツ)」。セレクトショップやミュージアムショップで、あるいはアート展示会やデパートのショーウィンドウで、一度は目にしたことがある方も多いことでしょう。では商品を手に取って、そのパッケージの裏書きを見てみます。そこには、思わぬ文字が記されます。「大分県国東市」。いまや世界からも注目を集めるスタイリッシュで革新的な作品は、のどかな里山の風景が残る山間の町で生み出されていたのです。大分から世界に名を轟かせる「FLATS」、その誕生秘話や製作の背景を探りに、国東市を訪ねました。

国東時間株式会社の代表・松岡勇樹氏。設計士としての経験が、現在の作品に活かされている。

大分県国東市舞台は大分県の里山にある廃校になった小学校。

大分県国東市。空港から少し離れるだけで、周囲は緑濃い山々と田園が織りなすのどかな景色に変わります。車に乗って30分ほど。聞いていた住所に到着すると、そこには小学校がありました。そう、この廃校になった小学校を拠点に「FLATS」を製作する国東時間株式会社は運営されているのです。

出迎えてくれた代表・松岡勇樹氏に案内され、まずは内部を一周。構想を練るアトリエがあり、過去の作品がずらりと並ぶ展示室があり、加工場があり、会議室があり、在庫が積まれた倉庫がある。つまり初期構想から企画、製作、梱包、発送まで、「FLATS」のすべてが、この校舎内で完結しているのです。文字通りのメイド・イン・国東。では、その誕生のストーリーを伺ってみましょう。

もともと建築設計の仕事をしていた松岡氏。ある時、友人のデザイナーが出店する展示会でマネキンを使う必要に迫られました。しかし市販のマネキンは高額。ならば作ってしまおうと、マネキン製作に取り掛かります。「作ってみるか」というライトなスタートではありましたが、取り掛かってみるとそれは、簡単な道ではありませんでした。

舞台は廃校となった小学校。給食室や保健室など、往時のままの施設も残されている。

一から十まで「FLATS」の製作工程のすべてが、この場所に詰まっている。

社内にはショップも併設。小売店より手頃な価格で購入することができる。

大分県国東市試行錯誤を経て誕生した組み立て式段ボールマネキン。

素材として「いわば必然的」に選んだのは、身近にあり、安価で、加工が容易な段ボール。しかしいざ折り曲げてみると、どうしても滑らかな曲線ができない。曲面ではなく多角形になってしまう。何度も試行錯誤を繰り返す時間が続きます。

そんな時、突如松岡氏にあるアイデアが湧きました。それは2次元の平面を積み重ねることで立体を表現するという方法。仕事柄、立体を平面で考えることに慣れた建築家らしい発想です。
手書きでデザインを起こし、段ボールをカッターで切って作った第一号のマネキン。「段ボールのトルソー」の意味で「d-torso」と名付けられました。しかし当初は展示会で通常のマネキンとして使用するだけで、販売をする予定もなかったのだといいます。

しかし売る気はなくとも、人々は放っておきませんでした。3次元を横にスライスして2次元にし、それを重ねることで再び3次元を作る。そして2次元同士を繋ぐ表面の部分は、人間の想像力で補完する。そんな独特な発想は、展示会の会場でも注目を集めたのでしょう。やがて松岡氏の元に、製作の依頼が次々と舞い込み始めます。

しばらく後、松岡氏はPCで3Dデザインを起こし、レーザーカッターで加工する方法を採用しました。これにはさまざまな素材を加工できる上、金型などを必要としないため小ロットでも製作できるというメリットがありました。もちろん保管や配送のしやすさ、組み立て式段ボールマネキンというインパクトも作用したことでしょう。各界からの注目はさらに高まり、徐々に存在感を増した「d-torso(現在のFLATS)」。松岡氏は、この「d-torso」の製造、販売をする『有限会社アキ工作社』を、生まれ故郷である大分空港近くの安岐町(あきまち)に設立しました。1998年のことでした。

「FLATS」の原点でもある段ボール製マネキン。滑らかな曲線が美しい。

組み合わされた平面を人間の想像力が補い、三次元の立体として認識される。

現在はレーザーカッターにより、段ボール以外のさまざまな素材の加工が可能。

大分県国東市目指したのは都会の時間に縛られない、国東らしい働き方。

独創的なスタイルで世界に名を轟かせる組み立て式マネキンですが、それを手がける会社にもまた、さまざまなオリジナリティが潜んでいます。そのひとつは、やはり廃校となった小学校を拠点としていることです。

2002年頃からは海外取引も盛んになり、2004年にアトリエを新築。5年ほどそこを本社として製造をやっていましたが、だんだんと手狭になって来たときに折よく、この廃校の話が舞い込んできました。廃校を事業所に転換して再利用する、という国東市の方針によるものです。「すでにインターネットも普及していましたから、どこでも同じことはできます。ならば少しでも地元のためになるように」と松岡氏。事実この場に移ったことで地域との接点が増えたといいます。校庭ではお祭りも開催され、地域交流の拠点にもなっています。

2011年の震災も転機でした。「それまで前提としていた社会が一瞬で崩れ去りました。そこで考え方も変えることにしたのです」松岡氏はそう振り返ります。そして松岡氏はひとつの決断をします。「せっかく環境の良い場所にいるのだから、東京のシステムに合わせる必要はない。国東には国東固有の時間があるはず」と、自身の会社を週休3日制にしたのです。「4日はオン。残りの3日は地域に入って、さまざまな体験をしてほしい」松岡氏は社員たちにそう伝えました。この“国東らしい時間の使い方”が功を奏したのでしょう。勤務時間が4/5となりましたが、社の収益は3割増加。「これだけが理由とは特定できませんが」と言いながらも、確かな手応えを感じていたようです。

のどかな里山で、週休3日で運営される会社。そう聞くと、どこかのんびりした地方企業を思い起こします。世界で話題を集めるクールな作品が、ここから生み出されていることに、改めて驚かされました。

のどかな里山の中にある会社。ここからあのスタイリッシュな作品が生み出される。

週休3日制という国東らしい時間の使い方が業績のアップに繋がっている。

大分県国東市世界のマーケットから日本の伝統まで。終わることのない挑戦。

「しょうがないから作るか、というモチベーションの低いスタート」と松岡氏が笑う組み立て式段ボールマネキン。しかしその斬新な発想は、瞬く間に各所からの注目の的となりました。ミキモト銀座本店のマネキン、エルメスのディスプレイなどを手がけたことで、さらに知名度に拍車がかかりました。

また新たに制作したミニチュアキットではサンリオ、東宝、ムーミンなど、さまざまなキャラクターとのコラボレーションも実現。とくにビジネスパートナーの選定にシビアなことで知られるディズニーは、相手側からオファーがあったといいます。さらに同様の構造を使ったパッケージは、ワインや自動車メーカーのノベルティにも採用されました。まさに大躍進といえる活躍です。

創業20年となった2018年には、社名を国東時間株式会社に、商品名を「d-torso」から「FLATS」に一新。そしていま、松岡氏はさらなるステージに挑戦しています。それが能舞台の美術製作。薪能の舞台を飾る「老松」を、史上初めて立体造形物で表現することに挑んでいるのです。

松の複雑な形を表現する難しさだけではありません。もともと2次元である「老松」を一度3次元のデザインにしてから、それを再び2次元に。さらに組み立てて3次元にするというステップが、松岡氏の新たな挑戦なのです。あるいは海外からも高い評価を得た「FLATS」が日本の伝統芸能に立ち返るという挑戦でもあります。

「平面パーツを組み立てて3次元を表現する」という基本構造は変えず、さまざまなジャンルに果敢に挑む国東時間株式会社と松岡勇樹氏。地名を冠した社名と共に続くその活動は、いまや地域の方々の誇りとなっていることでしょう。

おなじみのキャラクターとのコラボレーションもいろいろ。

LEXUSのノベルティのパッケージとしても採用された。

現在構想中の「老松」。まず平面を立体として捉えるイメージからスタート。

作品の構造を明快に解説してくれた松岡氏。卓上に見えるのはペンギン型のシャンパンケース。

住所:大分県国東市安岐町富清3209-2 MAP
電話:0978-64-3002
https://kunisakitime.com/

世界に誇る3つの才能が集結。会場もスタッフも“ホーム”に変え、一体感を創り出す。[CUISINE SAGA VOL.04/佐賀県佐賀市]

フィールドを超えて尊敬しあえる間柄という、(左から)清水氏、川手氏、長谷川氏。

佐賀県佐賀市アジア2位&3位、そして日本唯一の肉のスペシャリストが共演。

美術館(MUSEUM)に飾るような器を使って(USE)、佐賀の食材をふんだんに使った料理を楽しむ維新(これあらた)なるレストラン「USEUMSAGA」。その象徴ともいえるのが、国内外から注目を集めるトップシェフを招聘し、一日限りで開催するクリエイティブなレストラン「CUISINE SAGA」です。VOL.04となる今回も錚々たるスターシェフたちが集結しました。

今回登場したのは東京・神宮前の「傳」の長谷川在佑シェフと、神宮前「フロリレージュ」の川手寛康シェフ、初台「アニス」の清水将シェフの3人。なかでも、2018年に発表された「アジアベストレストラン50」では、「傳」が2位、「フロリレージュ」が3位にランキングされたばかりというホットなタイミング。これで、VOL.02で話題をさらったガガン・アナンド氏(同1位)を含めて、アジアのトップ3のシェフたちがそろって佐賀の地を踏んだことになります。また、長谷川氏と川手氏は、日本各地の土地の恵みや文化を料理に落とし込むプレミアムな野外レストラン「DINING OUT」の経験者。佐賀の恵みをどのような皿に仕立てるのかに注目が集まります。

今回の3人のシェフたちは2016年に佐賀で行われた「世界料理学会 in ARITA」にも参加し、佐賀の料理人との交流も継続的に行ってきた経験があります。そうした経緯から今宵のレストランでも、佐賀の気鋭の料理人たちが厨房やフロアはもとより、地元のすぐれた食材の調達の面でも活躍。新たなクリエーションの一翼を担ったのでした。そのような身近でサポートしたシェフたちの視点も含めて、3人のシェフたちの凄みや魅力をお届けしたいと思います。

遊び心ともてなしの精神に溢れた日本料理が世界から評価されている長谷川氏。

稀代のシェフたちのコラボの噂を聞きつけ、香港から駆けつけたゲストも。

今回も有田焼のモダン&クラシックな器が饗宴を引き立てた。

佐賀県佐賀市認め合った仲だからこそ、唯一無二の空気感が生まれる。

“仲良しシェフトリオ”と称されることも多い、長谷川氏、川手氏、清水氏の3人。シェフ同士のコラボが今ほど脚光を浴びていなかった時代から一緒に料理を作り上げることに取り組んできただけに、息もぴったり。互いの得意料理や考え方を知り尽くしているため、今回のメニュー構成や役割も、話し合いをするまでもなくスムーズに決定したといいます。その勝手知ったる仲間との1年半ぶりとなるコラボイベントというだけに、3人からは楽しくて仕方がないというオーラが満ち溢れていました。

今回のイベントを開くにあたり、佐賀の旧知のシェフたちに声をかけ、おすすめの食材を幅広く集めたといいます。地元のサポートスタッフもさらに料理仲間や生産者仲間に声をかけ、結局サポートに携わった人数はゲストの数を上回るほど。オール佐賀の料理人が結集し、この地の魅力を届けたい一心で会を盛り立てたのでした。

その甲斐もあって、この日のメニューはほとんど全てが地元・佐賀のもの。長谷川氏は「有明海、玄界灘と個性の異なる海で獲れる魚介類も面白いし、野菜もうまい。佐賀の食材のポテンシャルは相当高いと思います」と断言。

1皿目のアミューズとして出された、「傳」名物の傳最中には、佐賀・白石町の日本料理店のお母さんが漬けた奈良漬と佐賀・大和町の干し柿を忍ばせ、アクセントとしていました。また、傳のシグニチャーディッシュとしても知られる傳サラダは、すべて佐賀の野菜だけで構成。カツオ節で和えたり、トマトの旨みを含ませたりと1つ1つの野菜に合わせた味付けを施し、“サガダ”と命名されて供されました。

地元の農家レストランとして野菜や米などを食材として提供し、さらにカリスマシェフたちの料理風景を間近で見ながら調理サポートした「農家の厨 野々香」の小野智史氏は、3人の皿に秘められた緻密で膨大な仕事量に圧倒されたと語ります。「ゲストを喜ばせるため、目に見えない部分にかける労力がすごいなと。例えば、長谷川シェフの海老の真薯はつなぎを一切使わず、包丁の腹で丹念に叩くことで海老ならではの食感を引き出すなど、素材の味の引き出し方が本当に上手い。知らずに食べると気付くか気づかないかのレベルなんですが、そのひと手間が料理の完成度を左右するということを改めて教えてもらいました」(小野氏)。

その言葉を象徴する一皿が、3品目に供された川手氏による「岩ガキのサラダ仕立て フロマージュブラン」。佐賀県太良町のカキ生産者「海男」の梅津氏が育てた濃厚な旨みの岩ガキと一緒に包まれているのが、玄界灘産のウニ。そのウニは醤油とみりん、酒を煮切った“煮切り”で洗い、軽く“ヅケ”にすることで、ウニが本来持つ甘味や旨みをいっそう凝縮させ、さまざまな味が入り混じる料理のなかでも、ひときわ印象的を残す食材へと昇華させているのです。まさに“神は細部に宿る”という川手氏の料理におけるフィロソフィーを体現したクリエーションとなりました。

得意とするフィールドが違うため、お互いの仕込みの作業にも興味津々。

3人の店名が刺繍されたコックコートが、コラボの際のお決まりのユニフォーム。ここにも3人の仲の良さが垣間見える。

普段、店では寡黙に肉に向き合う清水氏だが、この日は楽しげに肉のレクチャーを行った。

「有田焼はずっと使い続けている器で、実家の器を使っているようなもの」と話す川手氏。

焼きあがったばかりの塊肉を持ってテーブルを周るプレゼンテーションにゲストも驚きの笑顔。

アミューズの「傳最中」。14代今泉今右衛門などの人間国宝や、三右衛門の器にのせ提供された。

清水氏と川手氏による「鶏の燻製とナスのタルト」。スモーキーな燻香をまとったありた鶏とハーブがマッチ。

川手氏の「岩ガキのサラダ仕立て フロマージュブラン」。地元の道の駅で見つけたナスを傳の出汁を使って三倍酢仕立てに。

長谷川氏の「海老真薯」。海老を丹念に叩くことで粘りが出て、甘味や香りも増す。

佐賀県佐賀市世界的シェフたちも舌を巻く、“究極の肉”が登場。

今回、アジア2位と3位にランキングされた長谷川氏と川手氏の揃い踏みに注目が集まりがちなのですが、その2人をして「料理観、技術ともにリスペクトできる」と一目置かれているのが、肉料理のスペシャリスト・清水将氏です。

実際、ゲストの目の色が一番輝いたのも、清水氏がローストした豚や牛肉を使ったコラボ料理でした。
パリの3つ星「アルページュ」のシェフで、肉料理のレジェンドとも称されるアラン・パッサールシェフから肉焼きの極意を学んだ清水氏。その調理法は極めて独特。肉を火傷させない(ジュッといわせない)ために、炭火の上にプレートをのせ、さらに肉の下にトウモロコシの芯や藁、柑橘類、ハーブなどを敷いて焼くというもの。この日も朝7時から焼き場に立ち、ときどき肉に触れては状態を確かめながら、数時間をかけて肉を仕上げていました。

「料理界というのは誰でもできるように簡略化していくことがいまの潮流です。でも僕の場合は逆に、自分にしかできない方法を突き詰めたいんです。それがアラン・パッサールの弟子としての使命だと考えています」(清水氏)。

そうした手間と時間をかけて焼いた豚肉に包丁を入れた瞬間、うっすらピンクがかった断面が現れます。いかにも柔らかくしっとりとした質感なのに、肉汁が全くこぼれ落ちないのが驚きです。今か今かと待ちわびたゲストたちからも「今まで食べてきた肉料理とはまったく別物」「アメージング」と、次々と感嘆の声が漏れました。

清水氏が手がけた肉は、ありた鶏、武雄の若楠ポーク、佐賀牛という佐賀のブランド肉。ありた鶏では川手氏のなすのタルトとともに、また、若楠ポークは川手氏のカブとビーツの美しいスープとともに提供。そしてメインは、佐賀牛サーロイン(清水氏)、佐賀牛タルタル(川手氏)、もろこし雑炊(長谷川氏)と3人がコラボした一皿を完成させました。

「豚肉 カブとビーツのスープ仕立て」。清水氏が焼いた若楠ポークに、川手氏による野菜本来の甘味を生かしたスープを添えて。

長谷川氏の「サガダ」。塩昆布を纏わせたリーフの中にはスライスしたきゅうりやごぼうの薄揚げなどの野菜のほか、マンゴーやブルーベリーも。ひと口ごとに違った印象が楽しめる。顔型にくり抜いた人参を潜ませる遊び心も。

「佐賀牛サーロイン 佐賀牛 赤身のタルタル モロコシ雑穀」は3人によるコラボメニュー。玉ねぎと水だけを4時間煮詰めたというソースは蜂蜜のような濃密な甘さ。

川手氏がミルン牧場の牛乳に水飴を加えて作った「牛乳アイス」。砂糖漬けにした実山椒がアクセント。

川手氏による「しそ&チョコ」。シソの爽やかな香りと、カカオやバター、黒砂糖などでビターに仕上げたチョコが調和。

清水氏の「マドレーヌ」と川手氏の「サクランボ」。果実を濃縮させたパートドフリュイで、フレッシュなサクランボをコーティング。

時間をかけて優しく火を通すことで佐賀牛の旨みを1滴も逃さず、肉の中に閉じ込めている。

メインディッシュには「野々香」でとれた米やスイートコーンなどを混ぜた十三穀米を土鍋で炊き上げた“米のソース”を添えて。

フードエッセイストとして人気の平野紗季子氏も、旧知の川手氏たちの夢の競演に終始笑顔。

3人のスターシェフとオール佐賀でつくりあげた晩餐に、ゲストからも惜しみない拍手が。

佐賀県佐賀市高い目標を共有することで、佐賀の地に新たな種を撒く。

3人のシェフが醸し出す和気あいあいとした雰囲気。それがゲストにも伝わって、あたかも会場全体がホームパーティーのような温かな空気感で満たされたひととき。そうした光景を裏舞台で支えた地元のシェフたちはどのような思いを抱いたのでしょうか。

「世界料理学会in ARITA」に登壇した経験もある佐賀県武雄市のイタリアンシェフ梶原大輔氏もその一人。梶原氏は今回の長谷川氏たちがチームのために掲げたテーマは「ゲストも、働く人も楽しく」だったと打ち明けます。「招聘されたシェフたちの姿で一番刺激を受けたのは、その人間性。3人とも自分が前に出るわけではなく、周りの人が活躍するのを楽しみにしているような感じなんです。レシピも全て包み隠さず教えてくれて、さらにこういう場合はこうした方がいいよ、とプラスアルファの情報まで。僕たちはサポートする立場でしたが壁が何もなくて、チームとしての一体感を感じました」。

一方、長谷川氏の「傳」で研修した経験もある小野氏は「普段、佐賀の食材に触れているはずなのに、まだまだ地元の食材のことを知らないな、と気づかされました。佐賀にはすごくいい食材がある。いい器もある。それを再認識できたので、今度は料理人もレベルアップしていかないと。せっかくの明治維新を記念したイベントに報いるためにも、料理に真摯に向き合っていこうと思います」。

佐賀・白石の「農家の厨 野々香」の小野智史氏。USEUM SAGAのデイリーメニューも監修する。

小野氏が教鞭をとっていた調理専門学校の生徒たちも見学に訪れ、世界的なシェフたちの技に見入っていた。

「凝縮された2日間を過ごしたことで、チームとしての絆を感じた」と話す清水氏ら3人と、佐賀のサポートシェフたち。「USEUM ARITA」や「世界料理学会in ARITA」に携わった山田氏(前列左)や西山氏(前列右)の姿も。

佐賀県佐賀市次回の「CUISINE SAGA」は9月に予定。

次なるスターシェフを招聘したプレミアムなレストランは、9月に開催予定。
佐賀の食材と器、そしてシェフの感性がどのように響き合ったディナーとなるのか、ご期待ください。

住所:佐賀県佐賀市城内2丁目8−8 MAP
電話:0952-97-9300
https://useumsaga.jp/

1978年東京生まれ。幼い頃、芸者をしていた母親が仕事先の料亭から持って帰くる弁当を食べ料理に興味を持つ。高校卒業後、「神楽坂 うを徳」に住み込、18歳より老舗割烹「うを徳」にて修行。その後、多数の料理店にて経験を積み、2007年29歳で独立。東京・神保町に『傳』を開店する。開店からわずか3年目で『ミシュランガイド東京2011』にて二つ星を獲得。2016年12月、店舗を神宮前に移転。2016年「アジアベストレストラン50」に初登場で37位を獲得し、2017年には11位と「アート オブ ホスピタリティ賞」を受賞、さらに2018年には2位と大躍進。豊富な食材、四季、日本独特の文化といった良さを大切にしつ、遊び心ともてなしの精神に溢れた「新しい形の日本料理」を創作し、世界中から高い評価を受けている。

1978年生まれ、東京都出身。両親は洋食店を経営、親戚も料理人という家庭に生まれ、幼い頃からシェフになること以外は考えられなかったというほど料理が身近な環境で育つ。高校を卒業後、2000年『恵比寿Q.E.D. CLUB』『オオハラ エ シイアイイー』にて修行を積む。2002年より西麻布『ル ブルギニオン』でスーシェフまで務める。20代で自分の店を開くことを決意し2006年渡仏。モンペリエの『ジャルダン・デ・サンス』にてフランス修行を積んだ後、2007年に帰国。白金台『カンテサンス』のスーシェフを経て2009年に独立。東京・南青山に『フロリレージュ』を開店し、2015年には神宮前に移転。国産の食材にこだわった「日本・東京でしか出来ない、フロリレージュでしか出来ない日本人に合う創作フランス料理」を作り、固定概念にとらわれないフレンチの新しいかたちを生み出し続けている。2015年12月『ミシュランガイド東京2016』の一つ星、同ガイド2018では二つ星を獲得。2016年「アジアベストレストラン50」の中で、近い将来トップ50に入る可能性が最も高いレストランに贈られる「注目のレストラン賞」を受賞、2017年に14位、そして2018年には3位に輝いた。

1975年生まれ、大分県出身。工科短大卒、半導体メーカーに1年勤務後、料理界へ。和食を3年間修業した後に「ジャルダン・デ・サヴール」に入る。2002年渡仏。リヨンのビストロを経て、三ツ星「マルク・ヴェラ」で2年。パリの「ボナクイユ」「シャマレ」で経験を積み、「アルページュ」で2年弱、後半は肉部門シェフを務める。さらに、パリ随一の精肉店「ユーゴ・デノワイエ」に半年間勤務。2009年帰国、銀座「ラール・エ・ラ・マニエール」の初代エグゼクティブシェフに就任。2013年8月カジュアルフレンチレストラン「anis」をオープン。

復活から12年。今年のテーマは「希望」。[うつのみや花火大会/栃木県宇都宮市]

目標は100年続く花火大会です。

栃木県宇都宮市100年続く花火大会を目指して。

栃木県宇都宮市では1984年から花火大会を開催していましたが残念ながら資金不足などの諸事情により一旦途絶えていました。しかし、2007年に「復活」をテーマに地元ボランティアの方達の努力により再開されました。その後も毎年テーマを決め開催されています。復活後も決して平坦な道のりではなく様々な困難に見舞われました。近年では鬼怒川の氾濫により花火打ち上げ現場の一部が流出してしまう被害にも遭いました。そんな中でもボランティアの方達の熱い想いで苦境を乗り越えながら開催されています。復活から12回目となる今年のテーマは「希望 ~未来を照らす大輪の花」です。今年の打ち上げを担当される煙火業者は、花火の町山梨県市川三郷町のマルゴーさん、老舗中の老舗丸玉屋小勝煙火店さん、地元栃木県の須永花火田島煙火工場さんです。うつのみや花火大会は100年続く花火大会を目標に頑張っています。

色鮮やかなワイドスターマイン。

栃木県宇都宮市夢の花火を描く、こどもたちの想いが現実に。

花火大会の約一か月前、宇都宮市ではこどもたちが描いた「花火の絵 展覧会」が開催されます。そして展示された絵の中から抽選で選ばれた作品をイメージした花火を実際に打ち上げるのです。選ばれた作品を描いたこどもたちが花火会場内のステージに上がり描いた作品に込めた想いを語ります。可愛らしく微笑ましいその光景に観客席全体から笑みがこぼれ温かな空気に包まれます。「ぼくの花火上がれ!」「わたしの花火上がれ!」。こどもたちの元気な合図を皮切りに様々な花火が打ち上げられます。さらにもう一つの魅力として「ことだま花火」があります。いわゆるメッセージ花火です。ステージに上がり直接贈られるメッセージに観客も大いに盛り上がります。プロポーズをする人もいます。一生の想い出になるはずです。

有料観覧席のスペースは広くゆったりと花火を楽しめます。

栃木県宇都宮市雷都宇都宮を花火で表現。

宇都宮市は雷が発生しやすいことでも有名です。その特徴を花火で表現するプログラムがあります。花火の中でも最も明るく眩しい種類の「雷」や「花雷」を多用した構成になっており光り輝くその花火の連続は目を開けていられないくらいです。このプログラムはカメラマン泣かせです。どんなに露出(明るさ)を調整しても白飛びしてしまうからです。そんな時は写真撮影を少しお休みして観覧しています。そしてもう一つ宇都宮で忘れてはならない物、それは餃子。楽しい餃子型の花火も必見です。花火会場内には餃子型の照明も並びます。少し珍しいのは花火大会の途中に休憩時間が設けられていることです。写真を撮る人にとっては前半の写真を見返し、後半の撮影計画を練り直すことが出来ます。

照明が餃子の形にデザインされていました。

椅子に座って観覧できる場所もあります。

Data

うつのみや花火大会

日時:2018年8月11日(土)
場所:宇都宮市道場宿町上河原地先 MAP
うつのみや花火大会HP:http://www.utsunomiya-hanabi.jp/home

※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。

1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751

有明海を臨む小さな町から、日本の家具が世界に羽ばたく。[Ariake/ 佐賀県佐賀市]

佐賀県佐賀市日本文化のスピリットを生かした、現代の都市生活に馴染む家具。

誰もが毎日使う椅子やテーブルなどの家具。多くの時間を共に過ごすだけに、それらの使い心地は人生の質までも左右すると言っても過言ではありません。そんな暮らしのパートナーとも言える家具に、日本ならではのデザインとマテリアルを凝縮させて、世界に向けて発信しているブランドがあります。
 
その名は『Ariake』。有明海に臨む小さな町で生まれた、それでいて、世界に大きく羽ばたきつつある家具ブランドです。
家具職人の町として発展してきた佐賀県の諸富町(もろどみちょう)。そこでレグナテック社と平田椅子製作所の2社が立ち上げた新ブランドです。佐賀県と世界をつなげる湾であり、「夜明け」を意味する言葉でもある『有明』をブランド名として、国内外の著名デザイナー達とのコラボレーションによってグローバル市場に展開しています。(後編はコチラ

人口わずか1万2千人の町から、最高の技と機械によって製作された家具ブランドが生まれた。

有明海へ、そして世界へとつながる諸富町の風景。

佐賀県佐賀市目指すは海外! 小さな町から世界に挑戦。

テーブルや収納家具などの幅広い家具を得意とし、諸富家具振興協同組合の理事長も務めているレグナテック社の社長・樺島雄大(かばしま・たけひろ)氏には、「創業50周年を機に本格的に海外に進出したい」という想いがありました。そこで、その50周年目であった2014年に、椅子やソファなどを得意とする平田椅子製作所を含めた数社と共に、シンガポール国際家具展示会(IFFS - International Furniture Fair Singapore-)に出展したのです。
 
レグナテック社はもともと台湾や香港と取引があり、海外販売のノウハウは0ではありませんでした。平田椅子製作所も、佐賀大学医学部と共に椅子の座り心地などのデータを研究し、人間工学に基づいた体にやさしい椅子を実現するなど、高い品質を自負していました。しかし、最初の出展の結果は芳しくありませんでした。

ガブリエル・タン氏。袖振り合うような出会いで『Ariake』に参加した。

タン氏のデザインによる「離宮サイドボード・メディアコンソール」。木製の柱で建てられた日本の伝統的な住宅や、襖や障子からインスピレーションを得ている。

佐賀県佐賀市祖振り合うように、運命のデザイナーと出会った。

レグナテック社も平田椅子製作所も、海外のバイヤーの注目を集めることができず、目立った成果は上げられませんでした。諦めずに翌年の2015年も出展したものの、バイヤー達の反応はやはりいまひとつ。思い悩む2社のブースの隣には、シンガポール人のデザイナー、ガブリエル・タン氏が出展していました。

デザインだけでなくブランディングやディレクションも手がけるというタン氏の話を聞いた樺島氏は、彼と名刺を交換。3回目の出展の前に連絡を取り、「もう一度出展するからぜひ我々の家具をデザインしてください」と依頼したのです。平田椅子製作所の社長・平田尚二(ひらた・しょうじ)氏と共に、新たに戦略を練り直した結果でした。

樺島雄大氏(右)と平田尚二氏(左)と、『Ariake』のために集ってくれた海外のデザイナー達。「夜明け」を意味する『Ariake』が、レグナテック社と平田椅子製作所の新たな幕開けにもなった。

佐賀県佐賀市思いがけない「チーム結成」。海外デザイナー達との壮大なコラボが実現。

ところがタン氏から返ってきたのは、予期せぬ壮大な提案でした。「せっかく世界に向けてオリジナルブランドを展開するのなら、私だけでなく様々な国のデザイナー達とチームを組みませんか?」。
タン氏は世界各国に人脈を持つ著名なデザイナーで、それを生かして2社のプロジェクトをさらに発展させようと考えてくれたのです。
樺山氏も平田氏も驚いたものの、タン氏の熱意と意欲に応えるべく、予算やバックアップ体制をなんとか整えました。
 
こうして集ったのが、世界各国からはせ参じてくれた4人の強力なスターティングメンバーでした。
まずはガブリエル・タン氏。袖振り合うような偶然の縁によって、プロジェクトの要となってくれたデザイナーです。次にノルウェーのアンデシェン&ヴォル(グループ名)。WALLPAPER誌のアワードをはじめ多数の受賞歴を持つデザイナー達で、『Ariake』のプロダクトに最初に取り組んでくれました。続いてノルウェーのスタファン・ホルム氏。彼がデザインした『組子キャビネット』はイギリスのWALLPAPER誌の表紙になりました。さらに日本人の芦沢啓治(あしざわ・けいじ)氏。家具はもちろんのこと、建築やインテリアのデザイン・展示会のディレクション・工房の運営まで行なうマルチなデザイナーで、そのスキルと広い視野で『Ariake』に高いユーザビリティを取り入れてくれました。
 
こうして彼らは、諸富町で2年の間に1週間~10日のワークショップを2回行ないました。平田氏や諸富町の家具職人らも、共に工場で寝泊りしながらこのワークショップに参加。1回目はスターティングメンバー達と、2回目はさらに3名のデザイナーとアートディレクターとフォトグラファー達が加わって、最終的には世界7か国にまたがるチームが結成されたのです。
 
濃密なディスカッションと試作を集中的に重ねたワークショップは、『Ariake』チーム全体の意識を一体化させていきました。こうして『Ariake』のブランドコンセプトとデザインの方向性が構築されていったのです。

ワークショップの風景。家具産地としての諸富町の歴史、有明海に臨む雄大な風景、実直な職人達の丹精こめたものづくり。それらの全てに『Ariake』はインスパイアされている。

世界で活躍するデザイナー達のセンスを、諸富町の職人技が実現。

佐賀県佐賀市苦労もあったが、成果は大きかった。

「仕事における強いつながりは、良いものづくりの土台である」。これが『Ariake』の信念となりました。人が共に住み、働き、食事をする社会生活のために作られる家具ブランドには、ふさわしい信念と言えるでしょう。
 
しかし、そこに至るまでのワークショップは苦労の連続でもありました。最も苦労したのは、海外デザイナー達とのコミュニケーションだったそう。言語が違う上に、英語が喋れるメンバーも少なかったため、デザイナー達が意図するデザインを平田氏も家具職人達もなかなか理解できなかったのです。そこで紙と鉛筆で絵を描いたり、その場で図面を引くなどして、地道に打ち合わせを進めていきました。荒削りながらもデザイナーのイメージを形にしていき、ついに日本文化のスピリチュアリティーと都市の生活背景にインスパイアされた家具コレクションが誕生したのです。

世界のデザイナー達の発想とプロモーション能力が、日本の伝統的なものづくりに新風を吹き込んだ。それを形にした諸富町の家具職人達。

佐賀県佐賀市いざ再チャレンジ! 『Ariake』の評価はいかに?

こうして『Ariake』は、計30点の家具コレクションとしてラインナップされました。
グローバル市場を見据え、国内外のデザイナー達と共に諸富の伝統技法を生かした家具を創り上げる――人口わずか1万2千人の町から生まれた家具ブランドが、満を持して2017年3月のシンガポール国際家具見本市(IFFS)に出展されました。
 
次回の後編は、その反響と、『Ariake』ならではのプロダクトの魅力についてお伝えします。

ついに完成した『Ariake』。そのプロダクトは百戦錬磨の海外バイヤー達にどう評価される?

レグナテック株式会社
住所:佐賀県佐賀市諸富町大字山領266-1 MAP
電話:0952-47-6111
 
平田椅子製作所
住所:佐賀県佐賀市諸富町大字徳富118-2 MAP
電話:0952-47-6534

HP:http://www.ariakecollection.com/
連絡先:info@ariakecollection.com
写真提供:Ariake

確固たるブランディングで世界を目指す。地方の家具メーカーの壮大な挑戦。[Ariake/ 佐賀県佐賀市]

家具職人の町・佐賀県の諸富町でレグナテック社と平田椅子製作所が立ち上げた新世代の家具ブランド。

佐賀県佐賀市世界のデザイナー×日本の職人技。「外の視点」だからこそ引き出せた魅力。

佐賀県の小さな町から、グローバル市場を見据えて生み出された『Ariake』。
日本のものづくりに国内外のデザイナー達のエッセンスとプロデュース能力が加わった家具ブランドは、世界でどう評価されたのでしょうか? 後編では、その反響と今後の『Ariake』の展開を追います。(前編はコチラ)

一口に「家具の輸出」と言っても、その実現には多くの壁がある。言語・流通・税金・国交など多くの困難を乗り越え、『Ariake』の家具は海を越えた。

佐賀県佐賀市うってかわって大反響! 『日本の家具』が世界に認められた。

2017年3月のシンガポール国際家具展示会 (IFFS)にて、満を持して発表された『Ariake』。その反響は、失意に終わった過去の出展とは真逆のものでした。
 
主に寄せられた声は、「デザインがすごくいい!」「シンプルなのにとても存在感がある」「どんなインテリアや家にも馴染みそう」というもの。さらに国内外のデザイナー達による和モダンなデザインは、海外バイヤー達の目にもエキゾチックに映ったようです。「日本ならではの美を感じる」「それなのに、現代のライフスタイルにもマッチする」といった感想も多く寄せられました。

海外メディアにも多く取り上げられた。スタファン・ホルム氏が手がけた『組子キャビネット』は、世界的に著名なイギリスのライフスタイル誌『WALLPAPER』の表紙を飾った。

日本伝統の『組子』にインスパイアされた精緻(せいち)なデザイン。WALLPAPER誌が開催する「WALLPAPER DESIGN AWARDS」も受賞した。

佐賀県佐賀市海外の評価が国内にも還流。世界を目指した戦略が当たった。

「シンガポールでのデビューを機に、海外から『Ariake』の評価は広がっていきました。シンガポール国際家具展示会(IFFS)の次は、反響を逆輸入する形で東京ビッグサイトに出展。その次は、再び海外に出てスウェーデンに出展。その後もオーストラリア・ベトナム・デンマークと出展して、今後はアメリカやノルウェーに出すという話があります」とレグナテック社社長の樺島雄大(かばしま・たけひろ)氏は語ります。
 
デザイナー達のネームバリューの恩恵もあるものの、「きちんとブランディングされた製品が少なかった日本の家具が、ようやく相応に評価された」という実感も大きいそうです。
「きちんとブランディングすれば、日本の家具も十分に海外で通用することが分かりました。その自信と評価が得られたことが、何よりもうれしいですね」と樺島氏は語ります。

ものづくりの国・日本のプロダクトは、もともと海外で根強い人気があります。家具もそうなのに、かつてはそれに応えられるブランドがなかった――『Ariake』がその潜在ニーズを掘り起こせたことに、確かな手ごたえを感じているそうです。

『Ariake』プロジェクトのために集ってくれた国内外のデザイナー達と、その発想を形にした諸富町の家具職人達。その開発のストーリーにも思いを馳せたい(中央左奥が樺島氏・中央右奥が平田氏)。

ノルウェーのデザイングループ・アンデシェン&ヴォルが手がけた『サガチェア』の背もたれ。強化和紙で編まれており、風合いと通気性に優れる。

『Ariake』のInstagramのフォロワーはノルウェーへの出展時は3千ほどだったが、現在は8千以上にもなった。

佐賀県佐賀市『Ariake』ならではの個性を随所に表現。

『Ariake』の特徴は、名前の由来である有明海のモチーフをデザインのディティールに取り入れていること。例えば多くのプロダクトに見られる黒のカラーリングは、有明海の干潟の色をイメージしています(墨染め)。また、海外の人々が「日本独自の色」としてイメージしがちな藍や、佐賀県で開催されている熱気球の世界大会からインスパイアされた熱気球のモチーフなども、随所に取り入れられています。

熱気球の係留ロープのしなりを棚の脚のフォルムに取り入れた『スカイラダーシェルフ』。詩的であると同時に、構造的にも有効性がある(シンガポールのガブリエル・タン氏のデザイン)。

日本の芦沢啓治氏による『サギョウテーブル』。中央のスリット(溝)に付属のパーツを取り付ければ、さらに小さなテーブルが出現。小物や道具などを置ける。

カナダのゾエ・モワット氏が手がけた『藍染キャビネット』。狭いスペースに適した高機能な収納で、墨・2種類の藍・赤色染料という日本の伝統色を採用している。

佐賀県佐賀市美しくハイセンスであると同時に、人にもやさしい家具。

ブランド発足からまだ5年足らずの『Ariake』ですが、そのデザイン性の高さと使い心地の良さは高く評価されています。個人客はもちろんのこと、ホテルや観光施設などへの納入も増えており、そういった場所で『Ariake』の家具を体感した人々が、ショールームを探して直接訪ねてきてくれることもあるそう。
 
「その際に寄せられたのは、『デザインが良い』というお声と『使い心地や座り心地が良い』『腰が楽になった』などというお声ですね」と平田椅子製作所の社長・平田尚二(ひらた・しょうじ)氏は語ります。「弊社は人間工学に基づいた体にやさしい椅子づくりを行なっているので、デザインやセンスだけではない価値を感じていただけているようです」とのこと。
 
レグナテック社も人にやさしい家具づくりに取り組んでおり、素材や塗料に含まれる有害物質のホルマリンを可能な限り低減しています。国内基準で最高の「F☆☆☆☆ (使用面積制限なし)」を獲得しており、その安全性もさらに進化させていくそうです。

人の暮らしに欠かせない家具は、人生の質までも左右する。

佐賀県佐賀市「使う人を幸せにする家具」を提供。

『Ariake』の家具を通じて、それを使う人々にどのような価値を提供していくのか――樺島氏と平田氏はこう語ります。
 
「レグナテック社のキャッチコピーは、“木の家具は人を幸せにしてくれる”です。『Ariake』にもそれを生かして、使う人々に幸せになってもらいたい、という想いで作っています。何もかもが使い捨ての時代となってしまいましたが、家具は常に家の中に在って、家族や人々が寄り添う基盤となるものです。心地よい家具が配された心地よい空間と共に、人生を歩んでいただきたい。良い家具に囲まれれば、くつろぎと安らぎが生まれます。そのためには、長くご愛用いただける高品質な家具でなければいけません。『Ariake』は、そのニーズにお答えできるプロダクトだと自負しています」。
 
一方の平田椅子製作所のキャッチコピーは、“かたらいのしたに、いつも”。家族が集う空間には、会話や食事といった幸せな光景が日々生まれます。そんな光景に自然に溶け込み、家族の絆を支える助けになりたい――そんな願いがこめられているそうです。
「さらに人生まで豊かにしていただきたい、というのが私達の想いです」と平田氏は語ります。「社名の通り、椅子を主に作っている弊社は、『リビングでの家族の団欒』を大切に考えています。ひとつのテーブルを囲んでご家族にゆったりコミュニケーションをとっていただきたい。ご家族が一つ屋根の下で暮らすなかで、大きな役割を占めるのが家具です。上質で使い心地の良い家具は、心を和ませて人生まで豊かにしてくれます。また、優れたデザインや座り心地の良さは、目を楽しませて心身をリラックスさせてくれます。そんな価値ある椅子や家具で、人生をより豊かにしていただきたいのです」。
 
レグナテック社も平田椅子製作所も、『Ariake』の洗練されたデザインの中に、家具職人としての変わらぬ実直さをこめています。日本の家具職人の誇りと技がこめられているからこそ、『Ariake』は世界で評価されているのです。

暮らしに溶け込んでその幸せを支える。

佐賀県佐賀市『Ariake』と自社だけでなく、「日本の家具」全体のブランディングを目指す。

「日本の家具は、いまだ世界における認知度が低くて評価も十分にされていません。ですが、『Ariake』がその突破口を開きつつあると実感しています。地方の小さな家具メーカーでも、世界に通用するブランドが作れる。これからも『Ariake』でそれを証明していきたいと考えています」と樺島氏は語ります。
 
さらに目指すのは、『Ariake』とレグナテック社と平田椅子製作所の家具に留まらず、諸富町という『家具職人の町』をもブランド化すること。より多くの人に諸富町の「ものづくり」を知ってもらい、海外の顧客と販路を開拓していきたいそうです。
 
「日本は急激に少子化が進んでいて、この流れは止められません。今後は国内の家具需要は縮小していく一方なので、海外の販路開拓は絶対に必要です。ですが、家具業界は輸出に関する取り組みがあまり進んでおらず、実績も上がっていません。だから我々が先陣をきるつもりでチャレンジしていきます」。
 
樺島氏と平田氏のさらなる目標は、そうやって作り上げた販路を諸富町の家具業者だけでなく、日本の家具業界全体に広めていくこと。家具業界全体の未来をも見据えて取り組んでいます。
「『Ariake』を諸富町を代表するブランドに育て上げて、海外のバイヤーが買い付けに来るようにしたいですね。諸富町の家具産地としての歴史は浅く、町自体も小さいですが、そこから積極的に海外に打って出て、日本の家具業界全体の道を切り拓いていきたいと考えています」。
 
人のために家具をつくり、家具業界全体のために海外を目指す。『Ariake』を生み出したレグナテック社と平田椅子製作所は、今後もその挑戦を続けていきます。

『Ariake』とレグナテック社と平田椅子製作所の製品だけでなく、日本の家具業界全体のブランディングを目指す。

レグナテック株式会社 MAP
住所:佐賀県佐賀市諸富町大字山領266-1
電話:0952-47-6111
 
平田椅子製作所 MAP
住所:佐賀県佐賀市諸富町大字徳富118-2 
電話:0952-47-6534

HP:http://www.ariakecollection.com/
連絡先:info@ariakecollection.com
写真提供:Ariake

極東・日本より世界の頂を掴む! 若きシェフの野心ある挑戦。[第3回 サンペレグリノ ヤングシェフ2018]

帰国後、東京でのインタビューに応じてくれた藤尾氏。

30歳以下の料理人コンテストで日本人初の快挙!

「遅れてしまって、すみません〜。寝坊しました!」。
180cmを超える上背に、スラリと引き締まったスタイル、端正な顔立ちに合わせているのは、学者然とした丸眼鏡。品川駅の雑踏の中、ひときわ目を引く出で立ちで現れたのは、藤尾康浩氏、30歳。スタイルの良さからは想像もつかないほどの腰の低さで10分ほどの遅刻を平謝り。そんな出会いからインタビューは始まったのですが、実は藤尾氏、2017年に好評を博した『DINING OUT UCHIKO with LEXUS』での活躍も記憶に新しい大阪『La Cime』のスーシェフ(副料理長)なのです。

なぜ、ミシュラン2つ星シェフの高田裕介氏ではなく、あえてスーシェフの藤尾氏にインタビュー?と思った方も多いのではないでしょうか。

そうなのです。今回、『ONESTORY』がインタビューをお願いしたのは、藤尾氏であり、話をうかがったのは30歳以下の料理人の世界一を決める、国際料理コンクール「第3回 サンペレグリノ ヤングシェフ2018」についてです。こちらはまだまだ日本ではなじみのない若手料理人のコンクールではありますが、実は国際的に評価の高いコンペティションであり、世界を目指す若き料理人の登竜門としても位置づけられています。主催がイタリアの世界的飲料メーカー・サンペレグリノということもあり、ゆくゆくは同社が同じく主催する『世界ベストレストラン 50』での活躍も期待できます。世界を見据えたシェフたちの土台づくりや、育成という側面があるのかもしれません。

そして、去る5月12日と13日の2日間、ミラノで行われた同大会の決戦大会で、今年度のグランプリに輝いたのが藤尾氏なのです!

世界各地3,000人以上の候補者から予選を勝ち抜いた精鋭21人が、開催地のミラノで激戦を繰り広げた2日間、ひと皿のみのシグネチャーディッシュで審査されたという料理について、更には自らの生い立ちや料理人としてのこれからについてまで、『ONESTORY』では、若き世界王者の想いを独占インタビューしました。なぜ、彼が世界一になれたのか、そんな核心にも迫ってみました。

受賞直後、舞台上にて記念撮影。メンター・シェフ(指南役)を務めたルカ・ファンティン氏とともに。

「Across the Sea」と題された鮎を使ったひと皿。こちらで日本を表現。

表現したのは世界に出たからこそわかった「日本」。

世界各地区より選び抜かれた若き21人の料理人が競い合う同大会。審査はいたってシンプルで、それぞれがシグネチャーディッシュひと皿を作り、7人の審査員に試食をしてもらい審査されるというものです。
「使った食材は鮎。日本人がとても大切にしている食材で、旬、食材への思い、環境へのリスペクトを盛り込みました」。

イギリス・フランスと海外経験が長い藤尾氏。帰国後、料理人として知った日本独特の食文化を、海外に出たからこそわかった自らの経験と視点で再構築してみせたのです。

海外で魚の頭を食べる文化は皆無。しかし鮎はまるごと味わうのが醍醐味。そうであるならば、一旦頭は取ってしまい、一度焼いた後、パウダー状にする。身の部分は、皮だけを残して筒状に中身をくり抜いた。一度外した身は三枚におろして骨を取ってから、炊いた米、クレソンと合わせてムースにし、皮の中に再び戻す。更に日本人が愛してやまない鮎の肝は、塩漬けにしてソースに。黒ニンニクとタマネギを炒め、泡立てたホイップクリームを合わせたといいます。
「軽やかだけど苦味が残るのが、鮎の醍醐味。それをひと皿ではなく、ひと口で味わってほしい。メンター・シェフのルカさんに審査でのひと口の重要性を説かれていましたので、とにかくファーストインパクトにはとことんこだわりました」。

更に香りを山椒でまとめ、パリパリの皮の食感を大切に、火傷するくらい熱々の焼き立てで審査員のテーブルへと皿が運ばれたといいます。

そのようにしたのは、香り、食感、温度という日本人が大切にする三位一体を、ひと口目で感じてもらうためでした。

そんな彼のひと皿は、素材に対して最もリスペクトが高かったシェフに贈られる「アクアパンナ賞」とグランプリのダブル受賞という快挙でも証明されたのです。

「大勢いる場合は基本黙ります」と藤尾氏。飄々(ひょうひょう)と語る姿が印象的だが秘めたる情熱を持つ人。

「10代のうちに海外で生活できたのが大きいです」と当時を語る藤尾氏。

世界と渡り合う際のコミュニケーション力の重要性。

舞台上、流暢な英語でのスピーチで、自身の料理のコンセプトを自らの言葉で語った藤尾氏。とかく、英語でのコミュニケーションが苦手な日本人シェフが多い中、英語で話すことに抵抗がなく、言葉の壁がなかったのは勝利の一因でしょう。
「大阪時代、エスカレーター式の学校で中学からそのまま高校へ進学できたのですが、それがすごく嫌で。普通ではないことがしたくて、イギリスへ留学をしたんです。その後、イギリスで高校卒業、フランスに渡りビジネスを学び大学を卒業。その頃から家で料理を作るようになり、それが楽しくて料理人という選択肢が朧気ながら見え始めるんです。そして大学時代に興味本位で研修をさせていただいた『パッサージュ53』で何もできなかった自分がいて。身の程を知る。そこからですね、料理にのめり込んでいくのは」。

決して話し好きというわけではないが、必要があれば言葉を選び淡々と語る藤尾氏。クレバーかつ冷静沈着に物事を分析できる藤尾氏の素地は、学生時代の経験にも隠されています。海外の街で、ひとりで暮らした10代。日本人が築き上げてきたその街での地位は、その街に暮らす自分の言動ひとつでどうとでもなってしまう。だからこそ、どんなに若く、未熟でも日本人の代表として見られる意識が芽生えたといいます。考え、言葉を選び、伝えていく。大会のプレゼンテーションにおいて、秘めたる思いを大切に語ったスピーチは、同様に彼らしさを象徴するひと幕でもあったのです。

世界中のシェフたちから祝福を受ける藤尾氏。

店の定休日に東京での取材に応えてくれた藤尾氏、当日夜にはとんぼ返りするという。

日本の料理のすごさを世界に伝えるために…。

「『龍吟』の山本さんには海外の人に鮎の良さを伝える難しさを教えてもらいましたし、『NARISAWA』の成澤さんには大会前に料理を試食してもらいダメ出しも頂きました。中村孝則さんには、釣りキチ三平の漫画で鮎を説明するアイデアも頂きました。もちろん、常に相談に乗って頂いたルカさん、師である高田さん、料理を食べて頂いた『傳』の長谷川さんなど、お世話になった方ばかりなんです。アジアのシェフたちの応援も力になりました。この大会で、本当にひとりでは何もできないということを学べたのも大きかったですね」。

 
藤尾氏が挙げた名前を聞いただけでもわかるとおり、錚々(そうそう)たる日本人シェフたちが藤尾氏の挑戦を後押ししていました。若き日本の才能を遠く日本から温かく見守っていたのです。更に交流があったアジアのシェフたちも、チームアジアとして藤尾氏を応援。
「周りの人たちの力を借りる重要性、更にそれを素直に受け止め、自分なりにどう放っていくかが大切なんだと思いました」。
 
 最後に藤尾氏は、まだまだ日本のすごさは海外の人には伝えきれていないと力強く言い放ちました。寿司や天ぷらではない、日本の料理のすごさ。もっと深い所で、それらを伝えたいし勝負していきたいとも。世界が注目する若き才能、その進化と真価を『ONESTORY』は、今後も楽しみに見守っていきたいと思います。

藤尾さん、世界一、本当におめでとうございます!

住所:〒541-0048 大阪府大阪市中央区瓦町3丁目2−15 瓦町ウサミビル MAP
電話:06-6222-2010
営業時間:12:00~15:30, 18:30~23:00

この夏は新潟へ。歴史と文化の歩みが成した大輪の花火と、現代アートがもたらす豊かな旅。[新潟県長岡市・小千谷市・越後妻有]

「片貝まつり」で打ち上がる四尺玉『昇天銀龍黄金すだれ小割浮模様』。左下の花火は尺玉。

幸福な未来へ願いを込めて。新潟を代表するふたつの花火大会。

前例がないほど厳しい暑さに辟易する、そんな気分を明るくしてくれるイベントが目白押しの日本列島。中でも豊かな海山に囲まれた新潟県では、伝統や文化に寄り添った、日本の魅力を再発見できる催しが開催されます。

県下第二の人口を有する長岡市にて8月2日・3日に行われ、全国から100万人以上の人が集まる「長岡まつり大花火大会」は、新潟県を代表するお祭りです。73年前に長岡市街を襲った戦火、その犠牲者の慰霊と復興を願い、長岡まつりの前身となる「長岡復興祭」が始まったのは終戦からわずか一年後の1946年。以来、恒久平和への願いを乗せ、打ち上げられ続けてきた花火は美しく、時代を超えて人々の胸に強く残り続けています。
▶「長岡まつり大花火大会」の記事はこちら

一方、夏の気配がまだ残る9月9日・10日には、三尺玉の発祥地とされる小千谷市片貝地区で、「片貝まつり」が行われます。その歴史は400年以上といい、一帯の氏神である浅原神社へ奉納する花火、いわゆる奉納煙火が打ち上げられます。花火一発毎にアナウンスされる人々の願いを乗せ、花開く大輪の花火は圧倒的な美しさ。注目は世界最大級の四尺玉で、大きな音と共に打ち上げられると、小さな町は大歓声に包まれます。
▶「片貝まつり」の記事はこちら

ONESTORYで日本の花火についてのコラムを執筆されている写真家の金武さんも、歴史や文化の影響が色濃く残るふたつの花火を絶賛しています。そこには、ただ美しいだけでない、人の歩みとともに紡いできた物語があり、その物語が、百戦錬磨の写真家をも魅了するのでしょう。
▶「金武 武の日本の花火100」のコラム一覧はこちら

慰霊と復興を願って行われる「長岡まつり大花火大会」は8月2日・3日で開催。

寝ても冷めてもアートに浸る!光を感じる宿と、三年越しの芸術祭。

花火を見た後は、新潟が誇るもう一つの魅力、アートを感じられるお宿へ。今夏、三年越しに開催される芸術祭「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」、その第一回にあたる2000年に十日町市に誕生した「光の館」は、光のアーティストとして知られるジェームズ・タレル氏が手がけた建築です。谷崎潤一郎の文学作品『陰影礼賛』からインスピレーションを得たという光の世界には、なんと宿泊することが可能。滞在により作品をより深く感じられる、究極の芸術鑑賞が待っています。
▶「光の館」の記事はこちら

宿泊の後は、もちろん「大地の芸術祭」へ。「人間は自然に内包される」を理念に掲げ、広大な里山を舞台に行われるアートの祭典は、越後妻有(十日町市、津南町)にて7月29日から9月17日の開催です。国内外の芸術家が手がける様々な作品に触れ、人と自然とアートの融合を、全身で感じてみてください。
▶「大地の芸術祭」の過去の記事はこちら

瞑想のためのゲストハウス、ジェームズ・タレル『光の館』が最も美しく見えるのは、内側の温かな光が外に漏れだす夜の帳が下りる頃。Photographs:TSUTOMU YAMADA

『光の館』のインスタレーションである可動式の屋根「アウトサイドイン」。天井に映しだされる色と空の色が、見る者を深い精神世界に導きます。Photographs:GENTARO ISHIZAKA

冬は完全に雪で埋まってしまうトーマス・エラー作『人 自然に再び入る』も、夏になると大自然の緑の中に溶け込み違った表情を見せる。

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獲る、売る、場をつくる。自慢の海の恵みをそれぞれの形で発信する。[福井県高浜町]

海に面しているため、昔から漁業が盛んだった高浜町。ねり製品や干物など、水産加工業も行われている。

福井県高浜町独特の地形と海流が、自慢の海の幸を育む。

日本は四方を海に囲まれているため、「うちの魚はうまい」、「うちの魚が一番だ」と、あちらこちらで魚自慢の声を耳にします。しかし、北陸の魚介類のおいしさは別格。特に、福井県の南西、若狭湾で獲れる魚は関西圏を中心に一目置かれています。 若狭湾は日本海側ではめずらしい大規模なリアス式海岸の上、海底から立ち上がる天然礁により複雑な潮の流れが発生します。この潮の流れにより、良質なプランクトンが繁殖。そのプランクトンをエサにする魚介類が集まってくるのです。

さらに、暖流の対馬海流と寒流のリマン海流がぶつかる複雑な海流により、豊かな漁場をつくり出しています。 若狭湾に面した海辺のまち、高浜町。地元の人たちは、「ここの魚を食べたら、よそでは食べられない」と口々に言います。高浜人たちが誇る自慢の海の幸を探しに、いざ港へ、海へ。(前編はコチラ)

高浜町和田地区にある、和田漁港の毎朝の風景。年間で500〜700tの魚が水揚げされる。

朝一番の漁港は、かもめやとんびも集まりにぎやか。海沿いの町らしい光景だ。

福井県高浜町ひと口食べれば、その新鮮さに驚く。漁師たちの魚への熱い思い。

朝7時、定置網漁を終えた漁船が和田漁港に戻ってきました。和田漁港は高浜町の東部にある港で、国際環境認証のひとつ「BLUE FLAG(ブルーフラッグ)」を取得した若狭和田ビーチと同じ地区にあります。 船には20人ほどの海の男たち。若手もいれば、ベテラン組も。船が港に着くや否や持ち場につき、慣れた手つきで水揚げされた魚の選別を始めます。ここからは時間との勝負。魚が新鮮なうちに、種類や大きさ別に手早く分ける必要があります。

網には、あじ、いわし、とびうお、鯛、さごし、剣先いかなど、夏の高浜を代表する魚がかかっていました。 船はほぼ毎日、4時半ごろ出航します。よほどの荒天でない限り、休むことなく海へ出るそう。高浜をはじめとする福井の漁業の特徴は、漁港から漁場までの距離が近いこと。早朝出航し、遅くても昼までには帰航。沖合で何日も操業することがないため、水揚げした魚は他の地域に比べて活きが良いまま持ち帰ることができる。そして、新鮮なまま、いち早く出荷できるのです。

高齢化や輸入水産物の増加、魚の絶対数の減少など様々な問題もある。これまでの獲る漁業から、加工したり畜養したりと、つくり育てる漁業も視野に入れている。

沿岸に網をしかけ、網に入ってきた魚を獲る定置網漁が主流。魚を傷つけることなく、また網の目より小さい魚は捕獲できないため、他の漁法に比べて海に与える影響が少なくてすむ。

温暖化の影響で、獲れる魚の種類が変わってきたという。以前はあまり獲れなかったさわらやさごしの漁獲量が増しているそう。

福井県高浜町朝獲れ魚を夕方に食べる、海のまちならではの贅沢。

一般的な市場では、水揚げされた魚は中央卸売市場などに集められてから流通します。高浜でも6〜7割は関西圏に出荷しますが、地元の市場で競りにかけられるものも多いそう。「朝獲れた魚は、午後には店先に並ぶよ」と、漁業組合の人は何でもないことのように言いますが、通常の流通から考えれば極めて稀なこと。高浜の人たちが誇る魚のおいしさの理由が、ここにありました。

和田漁港がある和田地区には、1軒だけ魚屋があります。「昔は地区に2軒、他に行商の魚屋もいたけど、今はうちだけ」と話すのは、店主の福井啓道氏。昭和18年に創業した魚屋『ふく井』の2代目です。 昔は、魚をよそからも仕入れてたくさんの種類を扱っていたそうですが、今は地元の市場で競り落とす地物の魚のみ。お客は高浜の魚介のおいしさをとことん知っている、近所の馴染みの顔ばかり。味に厳しい、高浜の人たちを納得させる目利きが必要です。「1人でも買いに来てくれる人がいる限り、続けたいね」と、福井氏は話してくれました。

『ふく井』店主の福井啓道氏。魚屋以外にも、渡船やキャンプ場も運営している。

福井県高浜町海の目の前に店を構え、高浜の海の素晴らしさを伝える。

「今日は地物のサザエと若狭ぐじが入っていますよ」と、運ばれてきた海の幸。高浜ならではの食の体験ができる場所があると聞き、伺ったのはカフェ&バー『FAMILIAR(ファミリア)』。パスタやカレー、タコライスなど洋食メニューを提供するお店ですが、この時期のお楽しみは、海を見ながら楽しめるバーベキューです。

バーベキューの食材といえば牛肉や豚肉、にんじんや玉ねぎなどの野菜が真っ先に浮かぶと思いますが、高浜のバーベキューといえば海の幸が主役。まずは、自慢のサザエをつぼ焼きに。炭火の上に殻ごと乗せて、しばらく見守ります。ブクブクと汁が出てきたところに醤油を垂らすと、何ともいえない香ばしい香り。思わず、唾を飲み込みます。

「さあ、どうぞ」ということで、迷わずがぶり。日本海側のサザエはぷっくり肉厚とは聞いていましたが、これほどまでに食べ応えがあるとは! 養殖とは違って臭みがまったくなく、新鮮だから肝までしっかり食べられる。程よい苦みに、ビールを飲む手が止まりません。

店主の今井俊吾氏は高浜町出身で、一度は高浜を離れたものの4年前にUターン。きっかけはサーフィンを始めて、日本各地や海外の海に出かける中で地元高浜の海の素晴らしさに気がついたことだといいます。「水質、ロケーション、波、すべてにおいて最高です。若狭和田の海の素晴らしさを多くの人に知ってもらいたい。店はそのための場なんです」と、今井氏は力強く話します。

店を通して、食を通して、海の素晴らしさを伝える今井氏の挑戦はまだまだ続きます。昼も夜もたくさんの客でにぎわう店内からは、その思いが十分に伝わってきました。

高浜の人は各家庭にひとつはBBQセットがあるほど、BBQ好き。そんな文化が根付いていることから、海沿いの店や浜茶屋などでは手ぶらでバーベキューを楽しめるところが増えている。

お邪魔した日はサザエ、剣先イカ、若狭ぐじが並び、あらかじめリクエストをすれば食材を魚介尽くしにすることも可能なのだとか。

「夏は海水浴、それ以外のシーズンはサーフィンと、1年を通して楽しめる海はそうそうあるものではありません」と、今井氏。自身もサーフィンを楽しむ。

半径25km以内の食材を味わう「スローフードな旅館」。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

自社農園『拓美ファーム』で飼育するサフォーク種の羊。年産15頭前後。12ヵ月の時間をかけ、嚙んだ時に旨みのある肉質に仕上げる。

北海道檜山郡江差の食材のポテンシャルを最大限に生かす味作り。

『江差旅庭 群来』の夜の食事は、棚田 清氏と妻の冨美子氏が漬けた自家製の果実酒からスタートします。旬魚を贅沢に使った椀物には白板昆布が浮かび、初夏なら殻付きの雲丹、ずわい蟹など、北の海の幸がずらり。平目や北寄貝など、魚介は何もかもが目を見張る美味しさです。飽くなき鮮度へのこだわりと確かな包丁仕事が、極上の素材の味を余すところなく引き出しつつ、上品かつ見目麗しい懐石のひと品へと昇華させます。

開業時の料理監修を手がけたのは中村孝明氏。まだ海のものとも山のものともつかない無名の小さな宿に著名な料理人が力を貸してくれたのは、まさにこの食材のレベルに感服してのことだったといいます。

海の幸はもちろん、川魚、春の山菜と、自然の恵みには事欠きません。加えて、『江差旅庭 群来』の料理を特別なものにしているのが、自社農園『拓美ファーム』で棚田氏夫妻が育てる食材の数々。有機栽培で育てる野菜や季節の果物に加え、地鶏、そして羊にいたるまで、自分たちの手で育てているといいます。これだけの食材を自給する旅館は、そうはありません。

夕食のお造り。江差産の雲丹、噴火湾の牡丹海老、海峡もののマグロ、平目など豪華な海の幸がずらり。

宿から100mほどの港で揚がる紅ずわい蟹。水揚げの時間から釜茹での時間を逆算し、最高の状態で供する。

拓美ファーム サフォーク種羊海洋深層水塩焼。アツアツに熱した石で焼いていただく。噛み応えがあり、香り、旨味ともに豊か。季節の野菜を添えて。

北海道檜山郡宿で提供する分だけ。自社農園の妥協なき取り組み。

今回の取材も、宿から車で10分ほどの場所にある自社農園『拓美ファーム』からスタートしました。「この宿は農園ありき。農園での仕事を見て頂ければ、宿が目指すもの、あり様が伝わるはず」という棚田氏の想いからです。

ひば造りの立派な農作業小屋を中心とした『拓美ファーム』は、周りをぐるりと歩くとこぢんまりした印象を受けますが、その広さは東京ドーム2個分。畑はアスパラガスなどの春野菜が終わり、ズッキーニやパプリカ、ブロッコリー、オクラなどの夏野菜の苗が育ち始めた頃でした。有機栽培で少量多品種を育てる畑から収穫される農作物は、年間約40~50種。イタリアンパセリやミント、野生のミツバに紫蘇や和洋のハーブ類も、都内のスーパーマーケットで見かけるものとは別の、生き生きと力強いものが、どれだけ採っても採り足りぬというほどの勢いで生い茂っています。

加えて食肉用の北海地鶏に鶏卵用の種であるシェーバーブラウン、サフォーク種の羊も飼育。平飼いで飼育される鶏は、広々とした鶏舎を自由に駆け回り、毛並みのいい羊はのんびりと草を食んでいます。
野菜も鶏も羊も宿で提供する分だけを、目の届く範囲で、丁寧に。これが『拓美ファーム』のモットーです。

平飼いで飼育される鶏卵用の鶏。生みたて卵で作る卵かけご飯は朝食の楽しみのひとつ。

栗や梅の木に囲まれた『拓美ファーム』の野菜畑。トマトのみハウスを使用、他は全て露地栽培を行う。

宿でゲストに提供したずわい蟹の殻。粉砕して飼料や肥料として活用する。

北海道檜山郡生ゴミゼロの循環型農業。地産地消を次のステージへ。

農地は棚田氏が両親から譲り受けたもの。広い畑を駆けまわり、新鮮な野菜、果物を好きなだけ食べて育った棚田氏にとって、自分自身で納得のいく農業を実践することは、旅館経営に乗り出す前からのライフワークでした。「農のある宿」という現在の姿は、『江差旅庭 群来』にとっては必然だったのです。

「イタリアのスローフードの考え方にも刺激を受けました」と棚田氏は話します。地産地消は明確な定義を持ちませんが、『江差旅庭 群来』では、宿で使用する食材は、原則、半径25km以内で調達したものと厳しく定めています。車でなら1時間で往復できる距離。手間暇かけた飼育と栽培、鮮度を保ったままの調理に徹底的にこだわった結果です。

『拓美ファーム』では宿の食事で出された蟹やホタテの殻、出汁を取った後の昆布などが粉砕して鶏や羊の飼料に使われ、生ゴミは堆肥にして畑の土作りに生かされています。理想的な循環型農業が実践されていて、開業から9年が経ちますが、瓶やペットボトル以外のゴミを一度も出していないというのは特筆すべき点ではないでしょうか。

「田舎だからできることを、江差を訪れて下さるお客様の喜びに」という棚田氏の哲学は、宿の食、味作りにおいて、もっとも徹底されているのです。

シイタケの原木栽培も行う。収穫したシイタケの一部は乾シイタケに。左は冬に水揚げした鮭を寒風にさらして乾燥させた寒干山漬という保存食。加工もすべて棚田夫妻が行う。

夜のコースの最後の食事として供される自家製の寒干山漬を使った茶漬け。凝縮された滋味が出汁にあふれ出す。

棚田氏と妻の冨美子氏。農作業は基本、2人の仕事で、繁忙期のみスタッフが手伝う。『拓美ファーム』の農産物を土台にした自給自足の宿経営は、冨美子氏の協力なしでは成し得ない。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

半径25km以内の食材を味わう「スローフードな旅館」。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

自社農園『拓美ファーム』で飼育するサフォーク種の羊。年産15頭前後。12ヵ月の時間をかけ、嚙んだ時に旨みのある肉質に仕上げる。

北海道檜山郡江差の食材のポテンシャルを最大限に生かす味作り。

『江差旅庭 群来』の夜の食事は、棚田 清氏と妻の冨美子氏が漬けた自家製の果実酒からスタートします。旬魚を贅沢に使った椀物には白板昆布が浮かび、初夏なら殻付きの雲丹、ずわい蟹など、北の海の幸がずらり。平目や北寄貝など、魚介は何もかもが目を見張る美味しさです。飽くなき鮮度へのこだわりと確かな包丁仕事が、極上の素材の味を余すところなく引き出しつつ、上品かつ見目麗しい懐石のひと品へと昇華させます。

開業時の料理監修を手がけたのは中村孝明氏。まだ海のものとも山のものともつかない無名の小さな宿に著名な料理人が力を貸してくれたのは、まさにこの食材のレベルに感服してのことだったといいます。

海の幸はもちろん、川魚、春の山菜と、自然の恵みには事欠きません。加えて、『江差旅庭 群来』の料理を特別なものにしているのが、自社農園『拓美ファーム』で棚田氏夫妻が育てる食材の数々。有機栽培で育てる野菜や季節の果物に加え、地鶏、そして羊にいたるまで、自分たちの手で育てているといいます。これだけの食材を自給する旅館は、そうはありません。

夕食のお造り。江差産の雲丹、噴火湾の牡丹海老、海峡もののマグロ、平目など豪華な海の幸がずらり。

宿から100mほどの港で揚がる紅ずわい蟹。水揚げの時間から釜茹での時間を逆算し、最高の状態で供する。

拓美ファーム サフォーク種羊海洋深層水塩焼。アツアツに熱した石で焼いていただく。噛み応えがあり、香り、旨味ともに豊か。季節の野菜を添えて。

北海道檜山郡宿で提供する分だけ。自社農園の妥協なき取り組み。

今回の取材も、宿から車で10分ほどの場所にある自社農園『拓美ファーム』からスタートしました。「この宿は農園ありき。農園での仕事を見て頂ければ、宿が目指すもの、あり様が伝わるはず」という棚田氏の想いからです。

ひば造りの立派な農作業小屋を中心とした『拓美ファーム』は、周りをぐるりと歩くとこぢんまりした印象を受けますが、その広さは東京ドーム2個分。畑はアスパラガスなどの春野菜が終わり、ズッキーニやパプリカ、ブロッコリー、オクラなどの夏野菜の苗が育ち始めた頃でした。有機栽培で少量多品種を育てる畑から収穫される農作物は、年間約40~50種。イタリアンパセリやミント、野生のミツバに紫蘇や和洋のハーブ類も、都内のスーパーマーケットで見かけるものとは別の、生き生きと力強いものが、どれだけ採っても採り足りぬというほどの勢いで生い茂っています。

加えて食肉用の北海地鶏に鶏卵用の種であるシェーバーブラウン、サフォーク種の羊も飼育。平飼いで飼育される鶏は、広々とした鶏舎を自由に駆け回り、毛並みのいい羊はのんびりと草を食んでいます。
野菜も鶏も羊も宿で提供する分だけを、目の届く範囲で、丁寧に。これが『拓美ファーム』のモットーです。

平飼いで飼育される鶏卵用の鶏。生みたて卵で作る卵かけご飯は朝食の楽しみのひとつ。

栗や梅の木に囲まれた『拓美ファーム』の野菜畑。トマトのみハウスを使用、他は全て露地栽培を行う。

宿でゲストに提供したずわい蟹の殻。粉砕して飼料や肥料として活用する。

北海道檜山郡生ゴミゼロの循環型農業。地産地消を次のステージへ。

農地は棚田氏が両親から譲り受けたもの。広い畑を駆けまわり、新鮮な野菜、果物を好きなだけ食べて育った棚田氏にとって、自分自身で納得のいく農業を実践することは、旅館経営に乗り出す前からのライフワークでした。「農のある宿」という現在の姿は、『江差旅庭 群来』にとっては必然だったのです。

「イタリアのスローフードの考え方にも刺激を受けました」と棚田氏は話します。地産地消は明確な定義を持ちませんが、『江差旅庭 群来』では、宿で使用する食材は、原則、半径25km以内で調達したものと厳しく定めています。車でなら1時間で往復できる距離。手間暇かけた飼育と栽培、鮮度を保ったままの調理に徹底的にこだわった結果です。

『拓美ファーム』では宿の食事で出された蟹やホタテの殻、出汁を取った後の昆布などが粉砕して鶏や羊の飼料に使われ、生ゴミは堆肥にして畑の土作りに生かされています。理想的な循環型農業が実践されていて、開業から9年が経ちますが、瓶やペットボトル以外のゴミを一度も出していないというのは特筆すべき点ではないでしょうか。

「田舎だからできることを、江差を訪れて下さるお客様の喜びに」という棚田氏の哲学は、宿の食、味作りにおいて、もっとも徹底されているのです。

シイタケの原木栽培も行う。収穫したシイタケの一部は乾シイタケに。左は冬に水揚げした鮭を寒風にさらして乾燥させた寒干山漬という保存食。加工もすべて棚田夫妻が行う。

夜のコースの最後の食事として供される自家製の寒干山漬を使った茶漬け。凝縮された滋味が出汁にあふれ出す。

棚田氏と妻の冨美子氏。農作業は基本、2人の仕事で、繁忙期のみスタッフが手伝う。『拓美ファーム』の農産物を土台にした自給自足の宿経営は、冨美子氏の協力なしでは成し得ない。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

北海道初、日本遺産の町の魅力を全国、そして世界へ。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

江差漁港から見る鴎島。宿からは車で渡ることができる。島からは江差の町を一望できる。

北海道檜山郡名は体を表す。「群来」の名に込めた想い。

「江差に群来が来た、群来が来たぞ」
2017年2月、江差の町全体が歓喜で湧きあがりました。
「群来」とは、ニシンの産卵活動で沿岸部が白く濁る現象を指します。江差で「群来」が確認されたのは、大正2(1913)年以来、実に104年ぶりのことでした。

江差は函館市、松前町と並び北海道で最も早く栄えた土地のひとつ。江戸時代はニシン漁が盛んで、北前船の交易港として栄華を誇りました。当時の人口は3万人。「江差の五月は江戸にもない」といわれたほど。「群来」は、江差の繁栄の象徴。棚田氏は、町の再生への強い願いを込めて、宿名に「群来」を掲げたのです。

「『江差旅庭 群来』は江差の町の一角に過ぎません。開業から9年間、無我夢中でやってきましたが、これからは地域と連携を深め、ゲストの方々に宿のみならず江差の思い出を持ち帰っていただくようにすることが何よりも重要です」と話します。

104年ぶりの群来を祝して建てた記念碑。宿のためではなく、「江差町の繁栄を再び」という願いを込めて。

夕食で供される浜干しニシン。宿の創業から8年、近隣で取れるニシンを使っていたが、2018年に初めて、江差産のニシンで作ることができた。

北海道檜山郡くつろげる宿を、「江差を知る旅」の拠点に。

「江差の地とともにある宿でありたい」とは、創業時から変わらぬ棚田氏の想い。『江差旅庭 群来』では、地元『五勝手屋本舗』の丸缶羊かんで到着したゲストをもてなします。創業は明治3(1830)年。150年前から変わらぬ製法でつくる羊かんは、道産金時豆の自然な甘みがいきたやさしい味わい。香ばしい黒豆茶とよく合い、旅の疲れをほっと癒してくれます。

「繁栄と衰退の歴史をたどった江差で、180年以上続く老舗は地元の誇り。現社長の息子さんが、精力的に新しいことにも挑戦されるなど、いい形で世代が受け継がれていて、ブランド力を上げている点にも刺激を受けます」

『五勝手屋本舗』は宿から車で5分ほどの場所に。丸缶羊かん以外にも、生菓子から焼き菓子まで多種多彩な和菓子が揃い、江差の味を旅のお土産に持ち帰ることができます。ほかにも小さな町内には、車で5分、10分の場所に、訪れるべき場所がいたるところに。「ぜひ足を運んで欲しい」と、棚田氏自らが案内してくれました。宿から望める、江差港の一角と砂州で繋がった鴎島と、その隣に立つ高さ10メートルの瓶子岩の眺めの美しさ。ニシン漁と檜材交易で隆盛を極めた江戸から明治期、問屋蔵や商家、町家が建ち並んだ海岸沿いの町並みは「江差いにしえ街道」として整備され、当時の面影を今に伝えています。

リピーターも楽しみにするという宿のウェルカムスイーツ。『五勝手屋本舗』の丸缶羊かんは、宿のロビーでも販売している。

『五勝手屋本舗』の5代目、小笠原隆社長と談笑する棚田氏。「自社の繁栄は町のため」という認識を共にする。

北海道檜山郡再生の道しるべを、他地域へ、次の世代へ。

旅行代理店や広告の力に頼らず、9年間の日々の営みの中で少しずつですが確実にファンを増やしてきた『江差旅庭 群来』。今やゲストの7割近くを、全国を旅する首都圏在住者が占め、人気は各地で名を馳せる高級旅館とも肩を並べつつあります。

「まず静かなこと、土地が安くさまざまな挑戦に贅沢に活用できること。これが地方の強み。循環型農業による自給食材の上に成り立つ『江差旅庭 群来』は、この強みを活かした試みだったといえます。ネットと交通網が発達した現代は、地方に固有の魅力を時差なく発信し、全国から人を集めることができる。形は違えど、どの地方にも普遍できる考えだと思います」
棚田氏は、言葉に力を込めます。

「何か気付いたことがあればぜひ教えて下さいね」とも。経験ゼロで始めた宿では、ゲスト一人ひとりも大事な先生だと話します。「老い先が短いんだから、やれることは急いでやらなくっちゃ」と、冗談で周囲を和ませながら。

2017年4月、「江差の五月は江戸にもない‐ニシンの繁栄が息づく町‐」というストーリーは北海道初の日本遺産の認定を受けました。同年2月、104年ぶりの群来の確認を経て、ニシン漁も再びにわかに活気づいています。2018年は、前年の3倍ものニシンが揚がりました。

「生まれ育った町への恩返しに」と、第二の人生のすべてを「群来」の名を冠した宿の経営に賭けた棚田氏を力付けるかのよう。そして氏の情熱の炎も、いまだ衰えず燃え続けているのです。

修繕された商家や町家が建ち並ぶ江差いにしえ街道。平成元年から江差町が「歴史を活かすまちづくり事業」をスタートし、平成16年に街路事業が完了。

「まだまだやれることがある」と、語気を強める棚田氏。宿とそれを取り巻く環境を意欲ある若い世代にいい形で引き継ぐことが目下の課題だ。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

悠々自適の老後を捨てて挑んだ、町のシンボルとなる宿づくり。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

客室はすべて同じ造りで、一室63㎡。床に座って丸石の庭を望めるよう設計しており、コンクリートの塀の向こうに港が見える。所有地内で建物が占める割合はわずか27%。

北海道檜山郡寂れた漁師町を、7室の高級旅館で再生させる。

函館空港から車で約1時間30分。道南の渡島半島の日本海沿岸に立つ『江差旅庭 群来』は、 静かな、ともすればやや寂しい印象をも受ける小さな町に忽然と現れます。コンクリートの壁、その奥に見える黒い建物は、古い民家が立ち並ぶ昔ながらの漁師町の中で、異質な空気を放っています。外側を囲む高い壁は、迷路のようなアプローチへと連なり、ゲストを建物の入口まで導いてくれます。扉が開くと、ロビーにはゆったりとしたソファが配され、一面のガラス窓から玉石が敷き詰められた中庭を望むことができます。外の街並みとは別世界。日常から離れ、無になり、ひたすら体と心を休めることに没頭できる空間です。

『江差旅庭 群来』の建設は、町を挙げたプロジェクトとしてスタートしました。漁業不振を背景にした若者の流出、観光客の減少に歯止めをかけようと、新たな観光の起爆剤として宿泊施設の建設が持ち上がったのです。町が先導役を依頼したのが棚田 清氏。生まれ育った江差で40余年、電機会社を営み、多いときは6つの会社を経営してきた手腕を買われてのことでした。

外観、夕景。モダンなコンクリートの壁に木造の石置き屋根が映える。

滞在への期待を高めるアプローチ。一歩進むごとに外界から遮断され、日常から解き放たれていくのを感じる。

北海道檜山郡旅館経営の経験ゼロ、60歳からの挑戦。

「『温泉が出たらやってみようか』と話していたら、どういうわけか出てしまったもんで。参ったなあ、と」
棚田氏は、笑いながらそう話します。
新たな宿泊施設の建設、運営を町から依頼されたのは2000年。60歳のときでした。
「自分の事業は後継者に任せて、妻と一緒に好きなことだけしてのんびり老後を過ごす予定だったんです。それがね、まったく予定違いになっちゃって(笑)」

それまでいくつかのサービス関連業に携わった経験はあるものの、高級旅館の経営は初めて。温泉の採掘は大きな後押しになりましたが、真に棚田氏を突き動かしたのは、生まれ育った町・江差に寄せる深い郷土愛です。恵まれた自然環境、海の幸をはじめとする豊富な食材。日本を代表する民謡のひとつ、江差追分や370年以上の歴史を持つ姥神大神宮渡御祭などの文化、伝統。
「江差が持っている魅力を活かし、きちんとしたサービスでご提供すれば、満足して下さる方がきっといる」
そう信じて、自ら“畑違い”という旅館経営の道に第二の人生を賭けたのです。

フロントデスクのあるロビーラウンジ。丸石の敷き詰められた中庭を望む。

河原で採取した丸石が敷き詰められた庭。時間の移りうろいとともに変わる美しさがあり、見飽きることがない。

北海道檜山郡逆境を越え、名もなき宿に“一流”の仕事を引き寄せる。

棚田氏の情熱とは裏腹に、宿の建設計画は決して順風満帆というわけにはいきませんでした。当初は5階建ての旅館にする予定でしたが、景観維持の観点から地元住民の猛反対に合い、建設計画は一度、白紙に戻ります。崖っぷちに追い詰められた棚田氏は、180度の方向転換を決断します。平屋造りで客室はわずか7室。1泊2食付きの宿泊料金は4万円からという高級旅館を造ることにしたのです。

「『こんな寂れた町に高級旅館を造っても、お客が来るわけがないじゃないか』。これが地元の人たちの意見。やり方を変えたところで、結局は四面楚歌でした」

逆境は棚田氏の心をさらに奮い立たせました。若い世代に交じって北海道大学大学院観光創造専攻課程を学び、各地の先達にも教えを乞いました。学んだことをそのままモデルにせず、「江差ならではの発信力、求心力のある形はどうすればつくることができるのか」を一つひとつ検証しながら形に出来たのは、江差を知り、愛する棚田氏の視点、洞察にほかなりません。

高い志と情熱、一軒の旅館建設に止まらない地域再生のビジョン、試みに多くの著名なクリエーター、料理人が賛同し、惜しみない協力を与えてくれました。その一人が札幌を拠点に世界で活躍する建築家の中山眞琴氏。木造船に例えた木造平屋建ての建物は、渋墨塗りの石置き屋根で、モダンで芸術的ながら、漁師町の文化を継承したスタイルに。客室はすべて独立していながら中廊下で繋がり、塀は外部からの視線を遮断しながら、室内から江差の風景を望めるぎりぎりの高さに設計されています。

開業時の料理監修は、日本料理界の重鎮、中村孝明氏が手掛け、スタッフの衣裳デザインは世界的なデザイナー、コシノジュンコ氏によるもの。

「まず自らが動けば、必ず応えてくれる人がいる。60歳を過ぎて『江差旅庭 群来』を造り、改めて学んだことです。あとは彼らの名に恥じない仕事を続け、お客様に期待を超える満足感を持ち帰っていただく宿に育てなければ」
現在76歳の棚田氏は、青年のような瞳で力強く語ります。

ベッドルーム。過度な装飾はなく、上質で落ち着いた雰囲気。リビング、ベッドルームのほか、和室もある。

浴場は客室内のみ。滞在中、自由に源泉かけ流しの湯に浸かれる。

ロビーラウンジにはバーも併設。ワイン、カクテルから日本酒まで酒の品ぞろえも充実。食後の時間をゆったりと過ごせる。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

日本遺産の町を世界へ。北海道発、食糧自給率70%のラグジュアリー旅館。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

北海道檜山郡OVERVIEW

宿の設計も、料理の監修を手がけたのも、第一線で活躍する有名建築家であり料理人。客室の浴槽には源泉かけ流しの湯が湛えられ、朝晩の食事に使われる食材は、地元で獲れた新鮮なものを贅沢に。スペックだけを並べてみると、『江差旅庭 群来』は、高級旅館として別段珍しい存在ではないかもしれません。しかしながらここには、語られるべきワン&オンリーな物語があります。

この宿を一からつくり、経営を手がけるのは、有名ディベロッパーでも大手ホテルチェーンでもありません。オーナーである棚田 清氏は、地元江差出身の76歳。旅館経営の経験ゼロで、60歳のときにこのプロジェクトをスタートさせました。更に驚くことに、朝晩の料理の食材の多くを、妻の冨美子氏と2人、自分たちの手で育てています。野菜や果物だけではありません。食肉用、産卵用の鶏から、羊に至るまでです。畑の最盛期の夏から秋には、食糧自給率は70%にも及びます。

ユニークな成り立ちゆえに、これまでなかなかメディアに登場することがなかった『江差旅庭 群来』。初夏の江差を訪ねると、棚田氏が笑顔で出迎えてくれ、1軒の宿を通じて伝えたかったこと、叶えたかった夢について、たっぷりと語ってくれました。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

3つの「つくる」を視点に、映画『ピース・ニッポン』を読み解く。[ピース・ニッポン]

佐賀県・浜野浦棚田。石積みの畔は戦国・江戸時代から受け継がれてきたもの。水が張られ苗が成長するまでの4~5月下旬、その水面は青空や夕焼けをうつす。

人が造ったもの――連綿と受け継ぐ人の営みの尊さ。

海に囲まれた小さな国土の中に、変化に富む多くの山々を持つ日本。そうした自然は、稲作を中心とした農耕によって生活してきた民族にとって、必ずしも御しやすいものではなかったに違いありません。

日本独特の文化は、そうした環境を創意工夫によって乗り越えてゆくこと、時には逆に利用することで、築かれていったものと言えるかもしれません。
例えば、山間の幅150mほどの谷間に、不規則な形を描きながら造られた浜野浦の棚田。断崖絶壁の岩窟に造られた三佛寺投入堂(さんぶつじなげいれどう)は、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が法力で投げ入れたと信じられています。四方を見渡す山頂に建てられた山城は、それによって難攻不落の自然の要塞となりました。

自然に逆らうことなく寄り添いながら、人々がその上に造っていった生活、信仰、文化。そしてそうしたものが、今にいたる数百年にわたって、受け継がれてきたという事実。連綿と続く人々の営みの尊さにも、また、頭が下がる思いです。

鳥取県・三佛寺投入堂。706年開山の三徳山三佛寺の奥の院。平安密教建築の希少な遺構にして国宝。現代でも参拝には修験者がたどった険しい道を行く。

兵庫県・竹田城。城を頂く古城山の形状から別名「虎臥城」と呼ばれる。廃城から400年の時を経るが、石垣などほぼ完存。雲海に浮かぶ姿は「天空の城」とも呼ばれる。

自然が創ったもの――人知を超えた存在への畏敬。

人間は、ややもすれば自然は人間のために存在しているかのように考えてしまいがちです。でもテクノロジーが極まったこの現代でさえ、人間の開発の手が入っているのは、大きな自然のほんの一部。人間がまだ足を踏み入れることが難しい場所や、ひとたび自然が猛威を振るえば、完全に失われてしまう場所もたくさんあります。『ピース・ニッポン』ではその姿をドローン撮影で捉えています。

例えば日本最大の湿原、釧路湿原。果てしなく続く緑の中に、大きく蛇行する川や、点在する湖沼が描く壮大な俯瞰図。現在も噴火を続ける桜島、その火口に見る地球の脈動。久米島沖、潮の干満でも沈むことのない天国のようなビーチ、ハテの浜。

それらの場所にあるのは、人間には制御できないパワー、作ることのできない美しさ、起こすことのできない奇跡。自然界のあらゆるものを崇め、そこに「八百万(やおよろず)の神」が宿ると信じたかつての日本人たち。彼らと同じ畏敬の念を、感じずにはいられません。

熊本県・阿蘇市道狩尾幹線(どうかりおかんせん)。もとは農道だが、阿蘇盆地に発生した霧の中に浮かぶ様から「天空の道」とも呼ばれる。熊本地震の影響で現在は通行不能。

北海道・釧路湿原。日本最大の湿原。1980年にはラムサール条約登録地に、1987年には湿原周辺を含む約2万6861haが国立公園に指定。タンチョウの生息地としても知られる。

沖縄県・ハテの浜。沖縄県久米島沖東5kmに浮かぶ、3つの砂州の総称。真っ白い砂浜を360度囲むのはエメラルドグリーンの海。魚は少なく透明度が抜群の究極のビーチ。

瞬間が作るもの――一期一会の美。

日本的な感性を語る際には外せない価値観である「無常」。「あらゆる物事はうつろいゆくもの、“常でない”ものである」という意味です。どんな国でも自然は変化し続けているものですが、ことに明確な四季を持つ日本において、その変化は死と再生を想起させるほどのもの。去年の桜と今年の桜が違うのはもとより、たとえ同じ年の同じ桜であっても、その時の天候や空気、見る人間の心持ちによって、その見え方、感じ方は全て異なります。次に会えるのはいつになるのでしょうか。もしかしたら二度と会えないかもしれません。そうした一期一会の「はかなさ」や「せつなさ」を知りつつ愛でる、その季節、その時間、その瞬間に、心が震えないはずがありません。

愛媛県「肱川(ひじかわ)あらし」。11月~翌年3月の早朝、陸で発生し肱川へと流れ込む霧は、冷たい強風とともに河口へと一気に吹き抜ける。その様は「白い龍」にも例えられる。

青森県奥入瀬(おいらせ)渓流、蔦沼。風の弱い日には湖面が鏡のように景色を映し、上下シンメトリーの世界を描き出す。紅葉の景色はもちろん、新緑と青空もひと味違う美しさ。

愛知県・豊橋の炎の祭典。9月に開催される手筒花火を中心とした花火大会。火薬をつめた竹筒を人が抱えながら行う吹き上げ式の花火。火柱は時に十数mを超える。

2018年7月14日(土)公開 新宿バルト 9他全国にて
監督:中野裕之
脚本:柴崎明久・中野裕之
エグゼクティブプロデューサー:林郁
プロデューサー:中野裕之
ナビゲーター:小泉今日子、東出昌大
出演:渡辺 大、及川さきの
タイトルディレクション:葛西 薫
配給:ファントム・フィルム
http://peacenippon.jp/
©2018 PEACE NIPPON PROJECT LLC

今の時代にも響く愉しさ。お茶と茶道の世界へようこそ。[茶論/ 奈良県奈良市]

“以茶論美(茶を以て美を論ず)”がコンセプト。お茶(茶道)を通して自身の美意識の物差しを磨いてほしい、との想いがこめられている。

奈良県奈良市奥深い茶道を気軽に体感。

お茶と茶道に親しむための入り口となるべく、“侘茶(わびちゃ)”の祖である村田珠光の出生地・奈良にオープンした『茶論(さろん)』。後編では、前編でご紹介したコンセプトと志をさらに掘り下げ、『茶論』で体験できる斬新かつ奥深いお茶の世界をうかがいます。

手績み手織りの麻織物の老舗である中川政七商店の本店『遊 中川(ゆうなかがわ)』に併設。近鉄奈良駅から徒歩約5分。

奈良県奈良市軽い気持ちでも大歓迎。あらゆる「お茶好き」に扉を開く。

「抹茶スイーツが好き」「緑茶や抹茶って健康にいいんでしょう?」「お茶の道具が家にあったらなんだか素敵だし、インテリアとしても映えそう」――何かに興味を持つきっかけは、そんな些細な好奇心のはず。とかく敷居が高く思われがちな『茶道』ですが、『茶論』はそんなライトな好奇心もやさしく受け入れてくれます。

その入り口となるのは、「喫茶」「見世」「稽古」という3つの業態。いずれも独自のセンスとコンセプトによるプロダクトを取り揃えており、『茶論』でしかできない体験が詰まっています。

京都や大阪から1DAYトリップで行ける新たな観光スポットとしても人気。創業300年を超える老舗の構えも必見。

奈良県奈良市多彩なお茶と和菓子が味わえる「喫茶」。

まずは「喫茶」。「本当に気軽に、普通の喫茶店のように訪れてください」とスタッフが語るように、明るくモダンな雰囲気が漂うお茶と甘味(かんみ)のお店です。ここで味わえるのは、スタッフが心をこめて供するお茶と、奈良の有名和菓子店『樫舎(かしや)』の和菓子。お茶は抹茶だけでなく煎茶やほうじ茶も用意しており、気分とお好みに合わせて愉しめます。
さらにあんみつ・かき氷・抹茶ラテなど、季節に合わせた甘味やドリンクも用意。メニューは季節ごとに変わるため、四季折々の風情を味わえます。

奥行きと格式ある建物は、『茶論』を創設した中川政七商店の会長・十三代 中川政七(なかがわ・まさしち)氏の生家でもあります。その古式ゆかしい建築と、店内から望める美しい庭園も必見です。

各所に歴史を感じるたたずまい。椅子席のスペースもあり。

大人気の『樫舎(かしや)』の和菓子が味わえる穴場でもある。季節ごとの粋が漂う。

奈良県奈良市職人の手による普段使いもできる茶道具。

次は「見世(みせ)」。お茶を点てるときに使う茶道具を取り揃えていますが、「お茶席でしか使えないもの」ではなく、一般の家庭でも普段使いできる道具となっています。さらに近代的なインテリアにもなじむデザインとしているため、どんな部屋に置いてもしっくり馴染みます。
 
それでいて、伝統の職人技がきちんと生かされています。例えば『茶筅(ちゃせん)/お茶を点てる道具)』は、徳川幕府によって名字を与えられた茶筅師十三家のうち、現存する三家のひとつの20代目当主である谷村丹後氏によって作られています。
そして茶巾(ちゃきん)は、高級麻織物『奈良晒』の卸問屋である中川政七商店が代々守り伝えてきたもの。消耗品だからこそ本物であることを大切に、リデザインしています。
 
初めて茶道に触れる方でも使いやすい造りでありながら、長年茶道を習ってきた人の手にも馴染む本物。日常の道具としてもインテリアとしても活用できる「きちんとした茶道具」です。

一子相伝の茶筅師の技が生きる『高山茶筅(たかやまちゃせん)』。日本古来の茶道具の成り立ちを大切に、モダンなセンスも取り入れている。

古帛紗(こぶくさ)を現代のインテリアに馴染むカラーや形で展開。

眺めるだけでも愉しい個性あふれるプロダクトの数々。

奈良県奈良市もてなしの力量を上げて、日常を豊かに。

最後は「稽古」。初級・中級・上級の3つのコースがありますが、いずれもかしこまった雰囲気ではなく、テーブル席でカジュアルに行ないます。「美味しくお茶を点てられるようになりたい」「美しい所作を身に付けたい」などなど、茶道を習いたい人の動機は様々。それらの目的に合わせて、多彩な単科コースも用意しています。
 
また、茶道で最も大切な「もてなしの心」をはじめ、礼儀作法や点前(てまえ)といった『型』、茶道の歴史や決まりごとといった『知』を、バランスよく学ぶことができます。これらの学びを日常に生かすことで「もてなしの力量」が上がり、日常そのものが豊かになっていきます。

『稽古』のコースを監修しているのは、『芳心会』を主宰する茶人・木村宗慎(きむら・そうしん)氏。本物の道具に触れ、その歴史や背景を知り、お茶にまつわる知識を深めていく――木村氏直々の薫陶(くんとう)を受けたスタッフ達の「稽古」を受ければ、お茶を通じて美と技と知を探究する喜びが味わえます。

個性的な茶道具の数々。「どうしてこういう道具を使うようになったのか」といった背景まで深く知ることができる。

堅苦しくないカジュアルな「稽古」は、誰でも気軽に受けられる。

奈良県奈良市茶人の目利きによる良質な茶道具に触れる喜び。

『茶論』の大きな魅力は、こうしたカジュアルなスタイルでありながらも、茶人・木村宗慎氏の目利きによる「良質な茶道具」に触れられること。普段なかなか見られない『本物』と直に触れ合うことができます。
様々な作家や産地の茶碗に触れることで、器への興味や理解を深めてもらい、日々使う器にも自然と気を配るようになっていく。「本当に良いもの」を知ることで、ご自分で料理をされた時にも器の選び方や盛り付け方に気を配ったり、より良い器や道具を探してみたりと、暮らしに潤いがもたらされます。
 
このように、『茶論』の「稽古」を受けることで日常もより良く変わっていきます。

『茶論』の「稽古」や「喫茶」で使用している器は、骨董から現代の作家物まで多様に取り揃えている。気に入ったら購入も可。

奈良県奈良市家庭で日常的にお茶を点ててもらいたい。

今までになく親しみやすい茶道を愉しめる『茶論』。「喫茶」や「見世」に訪れる人々にも、「稽古」を受ける人々にも、その気軽さに驚かれます。
「お茶に興味はあるけれど二の足を踏んでいた、という方々から『とても親しみやすい』というお声をいただいています」とはスタッフの言。特に「稽古」は「師匠と弟子」といったかしこまった関係ではなく、「講師と生徒」というフラットな関係としていることがポイント。また、一般的な「稽古」では師匠が話すことをメモするなどして覚える必要がありますが、『茶論』では、わかりやすいスライドを用意しています。これもまた好評だそうです。

さらに、茶道の歴史や道具に関する興味深い逸話も聞けるので、「利休ってそんな人だったんだ!」などという反響もあるといいます。まずは「体験稽古」を受けることを薦めていますが、それを受講した人達の本入会率が非常に高く、『茶論』が目指す方向性が支持されていることが伺えます。

これらのことから、『茶論』のスタッフ達は「茶道について思っていた以上に難しいイメージを持たれていた」という事を実感しているそう。でも、コーヒーや紅茶を日常的に嗜む人は多く、その産地や淹れ方、飲む際の器などにこだわる人もたくさんいます。「そういった感覚でお茶もぜひ愉しんでください」と『茶論』のスタッフは語ります。

例えば煎茶を熱湯で淹れてしまう人はとても多いですが、適温のお湯で丁寧に淹れたお茶は、味わいからして全く違います。いったん湯飲みにお湯を移し変え、そのお湯で淹れる。器や合わせるお菓子にもこだわる。そういった作法を学んで生かすだけで、まったく新しい世界が開けるのです。

コーヒーや紅茶を嗜むように、家でもお茶を点ててもらいたい。「他の用途には使いにくい」と思われがちな抹茶や茶道具を日常の様々なシーンで生かす方法も伝授。

奈良県奈良市お茶をきっかけに、文化や歴史への造詣をも深める。

『茶論』では、未入会でも参加できる『公開講座』を定期的に開いています。こちらの内容も非常に興味深いもので、先述の茶筅師の谷村丹後氏や、ブランドディレクターの木村宗慎氏ら外部講師を招いています。去る7月7日には、ブックディレクターとして多くの作家や読者に支持されている幅允孝氏を招いて、ブランドディレクターの木村宗慎氏と、『茶論』を立ち上げた中川政七商会長の十三代 中川政七氏との3名で、『以本論美(本を以て美を論ず)』という講座を開催しました。このように、文化的な知識と興味を深めることのできる催しも多彩に行なっています。
 
こうした『茶論』の取り組みに魅かれて、お茶業界を超えた様々な企業から商品開発やコラボレーションの企画が持ちかけられているそうです。すでに動き出している企画もあり、今後の展開が期待されます。

母体の中川政七商店が守り伝えてきた多彩なプロダクトが、『茶論』の「茶道具」や今後の展開に生きる。

奈良県奈良市茶道をより親しみやすいものにするために、新たなステージへ。

2018年9月25日には、東京の日本橋高島屋S.C.に新店舗をオープンします。『茶論 奈良町店』と同じく「喫茶」「見世」「稽古」の3業態全てを展開。茶道文化の入り口をより広くするため、あえてショッピングセンター内のテナントとして出店したといい、お買い物のついでに気軽に訪れほしいそうです。

さらに「東海地方や東海や九州にも作って欲しい」というお客様からの要望が寄せられてるそうで、将来的には全国展開も視野に入れているそう。様々な土地で、その土地の文化や趣向と絡めながら、「茶道はこんなにも楽しい」という体験を提供していきます。

その最終的な理想は、「『茶論』の「稽古」を受けた人達がご自分流のもてなしを見出し、自らの『茶会』を開いて欲しい」というもの。日本人が古来より親しんできたお茶と茶道を、『茶論』が再びその暮らしに呼び戻そうとしています。

店舗という枠に留まらず、外部でのイベントやケータリング的なワークショップも検討中。多様なサービスの展開に期待。

『茶論』オフィシャルサイト
https://salon-tea.jp/
「稽古」の予約、「喫茶」店舗情報、「見世」の道具オンライン販売
住所:『茶論 奈良町店』 MAP
奈良県奈良市元林院町31-1(『遊 中川』 本店奥) 
電話:0742-93-8833
営業時間:
【稽古・見世】 10:00~18:30
【喫茶】 10:00~18:30 (LO 18:00)
定休日:毎月第2火曜(祝日の場合は翌日)
写真提供:『茶論』

今の時代にも響く愉しさ。お茶と茶道の世界へようこそ。[茶論/ 奈良県奈良市]

“以茶論美(茶を以て美を論ず)”がコンセプト。お茶(茶道)を通して自身の美意識の物差しを磨いてほしい、との想いがこめられている。

奈良県奈良市奥深い茶道を気軽に体感。

お茶と茶道に親しむための入り口となるべく、“侘茶(わびちゃ)”の祖である村田珠光の出生地・奈良にオープンした『茶論(さろん)』。後編では、前編でご紹介したコンセプトと志をさらに掘り下げ、『茶論』で体験できる斬新かつ奥深いお茶の世界をうかがいます。

手績み手織りの麻織物の老舗である中川政七商店の本店『遊 中川(ゆうなかがわ)』に併設。近鉄奈良駅から徒歩約5分。

奈良県奈良市軽い気持ちでも大歓迎。あらゆる「お茶好き」に扉を開く。

「抹茶スイーツが好き」「緑茶や抹茶って健康にいいんでしょう?」「お茶の道具が家にあったらなんだか素敵だし、インテリアとしても映えそう」――何かに興味を持つきっかけは、そんな些細な好奇心のはず。とかく敷居が高く思われがちな『茶道』ですが、『茶論』はそんなライトな好奇心もやさしく受け入れてくれます。

その入り口となるのは、「喫茶」「見世」「稽古」という3つの業態。いずれも独自のセンスとコンセプトによるプロダクトを取り揃えており、『茶論』でしかできない体験が詰まっています。

京都や大阪から1DAYトリップで行ける新たな観光スポットとしても人気。創業300年を超える老舗の構えも必見。

奈良県奈良市多彩なお茶と和菓子が味わえる「喫茶」。

まずは「喫茶」。「本当に気軽に、普通の喫茶店のように訪れてください」とスタッフが語るように、明るくモダンな雰囲気が漂うお茶と甘味(かんみ)のお店です。ここで味わえるのは、スタッフが心をこめて供するお茶と、奈良の有名和菓子店『樫舎(かしや)』の和菓子。お茶は抹茶だけでなく煎茶やほうじ茶も用意しており、気分とお好みに合わせて愉しめます。
さらにあんみつ・かき氷・抹茶ラテなど、季節に合わせた甘味やドリンクも用意。メニューは季節ごとに変わるため、四季折々の風情を味わえます。

奥行きと格式ある建物は、『茶論』を創設した中川政七商店の会長・十三代 中川政七(なかがわ・まさしち)氏の生家でもあります。その古式ゆかしい建築と、店内から望める美しい庭園も必見です。

各所に歴史を感じるたたずまい。椅子席のスペースもあり。

大人気の『樫舎(かしや)』の和菓子が味わえる穴場でもある。季節ごとの粋が漂う。

奈良県奈良市職人の手による普段使いもできる茶道具。

次は「見世(みせ)」。お茶を点てるときに使う茶道具を取り揃えていますが、「お茶席でしか使えないもの」ではなく、一般の家庭でも普段使いできる道具となっています。さらに近代的なインテリアにもなじむデザインとしているため、どんな部屋に置いてもしっくり馴染みます。
 
それでいて、伝統の職人技がきちんと生かされています。例えば『茶筅(ちゃせん)/お茶を点てる道具)』は、徳川幕府によって名字を与えられた茶筅師十三家のうち、現存する三家のひとつの20代目当主である谷村丹後氏によって作られています。
そして茶巾(ちゃきん)は、高級麻織物『奈良晒』の卸問屋である中川政七商店が代々守り伝えてきたもの。消耗品だからこそ本物であることを大切に、リデザインしています。
 
初めて茶道に触れる方でも使いやすい造りでありながら、長年茶道を習ってきた人の手にも馴染む本物。日常の道具としてもインテリアとしても活用できる「きちんとした茶道具」です。

一子相伝の茶筅師の技が生きる『高山茶筅(たかやまちゃせん)』。日本古来の茶道具の成り立ちを大切に、モダンなセンスも取り入れている。

古帛紗(こぶくさ)を現代のインテリアに馴染むカラーや形で展開。

眺めるだけでも愉しい個性あふれるプロダクトの数々。

奈良県奈良市もてなしの力量を上げて、日常を豊かに。

最後は「稽古」。初級・中級・上級の3つのコースがありますが、いずれもかしこまった雰囲気ではなく、テーブル席でカジュアルに行ないます。「美味しくお茶を点てられるようになりたい」「美しい所作を身に付けたい」などなど、茶道を習いたい人の動機は様々。それらの目的に合わせて、多彩な単科コースも用意しています。
 
また、茶道で最も大切な「もてなしの心」をはじめ、礼儀作法や点前(てまえ)といった『型』、茶道の歴史や決まりごとといった『知』を、バランスよく学ぶことができます。これらの学びを日常に生かすことで「もてなしの力量」が上がり、日常そのものが豊かになっていきます。

『稽古』のコースを監修しているのは、『芳心会』を主宰する茶人・木村宗慎(きむら・そうしん)氏。本物の道具に触れ、その歴史や背景を知り、お茶にまつわる知識を深めていく――木村氏直々の薫陶(くんとう)を受けたスタッフ達の「稽古」を受ければ、お茶を通じて美と技と知を探究する喜びが味わえます。

個性的な茶道具の数々。「どうしてこういう道具を使うようになったのか」といった背景まで深く知ることができる。

堅苦しくないカジュアルな「稽古」は、誰でも気軽に受けられる。

奈良県奈良市茶人の目利きによる良質な茶道具に触れる喜び。

『茶論』の大きな魅力は、こうしたカジュアルなスタイルでありながらも、茶人・木村宗慎氏の目利きによる「良質な茶道具」に触れられること。普段なかなか見られない『本物』と直に触れ合うことができます。
様々な作家や産地の茶碗に触れることで、器への興味や理解を深めてもらい、日々使う器にも自然と気を配るようになっていく。「本当に良いもの」を知ることで、ご自分で料理をされた時にも器の選び方や盛り付け方に気を配ったり、より良い器や道具を探してみたりと、暮らしに潤いがもたらされます。
 
このように、『茶論』の「稽古」を受けることで日常もより良く変わっていきます。

『茶論』の「稽古」や「喫茶」で使用している器は、骨董から現代の作家物まで多様に取り揃えている。気に入ったら購入も可。

奈良県奈良市家庭で日常的にお茶を点ててもらいたい。

今までになく親しみやすい茶道を愉しめる『茶論』。「喫茶」や「見世」に訪れる人々にも、「稽古」を受ける人々にも、その気軽さに驚かれます。
「お茶に興味はあるけれど二の足を踏んでいた、という方々から『とても親しみやすい』というお声をいただいています」とはスタッフの言。特に「稽古」は「師匠と弟子」といったかしこまった関係ではなく、「講師と生徒」というフラットな関係としていることがポイント。また、一般的な「稽古」では師匠が話すことをメモするなどして覚える必要がありますが、『茶論』では、わかりやすいスライドを用意しています。これもまた好評だそうです。

さらに、茶道の歴史や道具に関する興味深い逸話も聞けるので、「利休ってそんな人だったんだ!」などという反響もあるといいます。まずは「体験稽古」を受けることを薦めていますが、それを受講した人達の本入会率が非常に高く、『茶論』が目指す方向性が支持されていることが伺えます。

これらのことから、『茶論』のスタッフ達は「茶道について思っていた以上に難しいイメージを持たれていた」という事を実感しているそう。でも、コーヒーや紅茶を日常的に嗜む人は多く、その産地や淹れ方、飲む際の器などにこだわる人もたくさんいます。「そういった感覚でお茶もぜひ愉しんでください」と『茶論』のスタッフは語ります。

例えば煎茶を熱湯で淹れてしまう人はとても多いですが、適温のお湯で丁寧に淹れたお茶は、味わいからして全く違います。いったん湯飲みにお湯を移し変え、そのお湯で淹れる。器や合わせるお菓子にもこだわる。そういった作法を学んで生かすだけで、まったく新しい世界が開けるのです。

コーヒーや紅茶を嗜むように、家でもお茶を点ててもらいたい。「他の用途には使いにくい」と思われがちな抹茶や茶道具を日常の様々なシーンで生かす方法も伝授。

奈良県奈良市お茶をきっかけに、文化や歴史への造詣をも深める。

『茶論』では、未入会でも参加できる『公開講座』を定期的に開いています。こちらの内容も非常に興味深いもので、先述の茶筅師の谷村丹後氏や、ブランドディレクターの木村宗慎氏ら外部講師を招いています。去る7月7日には、ブックディレクターとして多くの作家や読者に支持されている幅允孝氏を招いて、ブランドディレクターの木村宗慎氏と、『茶論』を立ち上げた中川政七商会長の十三代 中川政七氏との3名で、『以本論美(本を以て美を論ず)』という講座を開催しました。このように、文化的な知識と興味を深めることのできる催しも多彩に行なっています。
 
こうした『茶論』の取り組みに魅かれて、お茶業界を超えた様々な企業から商品開発やコラボレーションの企画が持ちかけられているそうです。すでに動き出している企画もあり、今後の展開が期待されます。

母体の中川政七商店が守り伝えてきた多彩なプロダクトが、『茶論』の「茶道具」や今後の展開に生きる。

奈良県奈良市茶道をより親しみやすいものにするために、新たなステージへ。

2018年9月25日には、東京の日本橋高島屋S.C.に新店舗をオープンします。『茶論 奈良町店』と同じく「喫茶」「見世」「稽古」の3業態全てを展開。茶道文化の入り口をより広くするため、あえてショッピングセンター内のテナントとして出店したといい、お買い物のついでに気軽に訪れほしいそうです。

さらに「東海地方や東海や九州にも作って欲しい」というお客様からの要望が寄せられてるそうで、将来的には全国展開も視野に入れているそう。様々な土地で、その土地の文化や趣向と絡めながら、「茶道はこんなにも楽しい」という体験を提供していきます。

その最終的な理想は、「『茶論』の「稽古」を受けた人達がご自分流のもてなしを見出し、自らの『茶会』を開いて欲しい」というもの。日本人が古来より親しんできたお茶と茶道を、『茶論』が再びその暮らしに呼び戻そうとしています。

店舗という枠に留まらず、外部でのイベントやケータリング的なワークショップも検討中。多様なサービスの展開に期待。

『茶論』オフィシャルサイト
https://salon-tea.jp/
「稽古」の予約、「喫茶」店舗情報、「見世」の道具オンライン販売
住所:『茶論 奈良町店』 MAP
奈良県奈良市元林院町31-1(『遊 中川』 本店奥) 
電話:0742-93-8833
営業時間:
【稽古・見世】 10:00~18:30
【喫茶】 10:00~18:30 (LO 18:00)
定休日:毎月第2火曜(祝日の場合は翌日)
写真提供:『茶論』

日本人の暮らしの中に、再びお茶の愉しみを。[茶論/ 奈良県奈良市]

現代のライフスタイルに沿った親しみやすい茶道を提案。

奈良県奈良市茶道文化の入り口を広げて、日々の暮らしの中で愉しんでほしい。

『茶道』と聞いて、あなたは一体どんなイメージを思い浮かべるでしょうか?
「堅苦しい」「礼儀作法に厳しい」「軽い気持ちで習おうとしたら、先生に叱られてしまいそう…」そんな風に思って尻込みしている方が多いかもしれません。

ですが、『茶の湯の祖』と伝わる室山時代の茶人・村田珠光が創始した“侘茶(わびちゃ)”の本来は、簡素簡略かつ“もてなしの心”を重んじるもの。もちろん“わび・さび(侘・寂)”の言葉で表されるような趣(おもむき)ある茶道具に触れ、心地よくしつらえられた場にたたずむ喜びもありますが、心づくしのもてなしにくつろいで人や茶道具、菓子や季節の花々などとの一期一会を愉しむことが本意なのです。

そんな茶道にもっと気軽に触れて、愉しんで、ご自分の日常にも取り入れてほしい――そんな想いのもとに、気の置けない茶道のお店が奈良にオープンしました。

その名は『茶論(さろん)』。とかく敷居が高く思われがちな茶道の入り口を広げ、気軽に親しんでもらうことを目指しています。(後編記事はコチラ

お茶は難しいものではなく、日常的に愉しめる身近なもの。潜在的なお茶好きの人々に向けて、お茶に気軽に触れられる場を提供。

奈良県奈良市「お茶」ともっと身近に親しめる場を。

『茶論』を創設したのは、“侘茶”の祖である村田珠光の出生の地・奈良で、その様式を確立させた千利休が茶巾として愛した高級麻織物『奈良晒』の卸問屋として商いを始めた中川政七商店です。創業302年を迎えた現在も変わらず茶道具全般を扱い続けるなど、茶道とは深い関わりがあります。
 
ですが、茶道に親しむ人は、20年前と比べて約1/3にまで減ってしまいました。一方、様々なメディアで『お茶』の特集は日々組まれており、魅力的で奥深い「茶の湯の世界」が多々紹介されています。『お茶』と『茶道』への興味はとても高まっているのに、それを受け入れられる入り口が少ない――そんな危機感から『茶論』を企画したそうです。

多くの人々を魅了する「茶道」の世界。しかし、その愉しさにたどり着くまでには様々なハードルがある。それらを取り払って茶道文化の入り口を広げる。

「茶道を習いたいが、どこで習えばいいのかわからない」「お茶の道具をどこでどう揃えたらいいのかわからない」といった多くの疑問に答える。

奈良県奈良市「稽古」「喫茶」「見世」の3本柱で茶道への入口を広げる。

『茶論』の特徴は、茶道への興味に合わせて3つの入り口を用意していること。
 
まずは「喫茶」。伝統とモダンを両立させたしつらえの中で気軽に本物のお茶を愉しんでもらい、心に“閑”を持ってお茶への関心を深めてもらいます。次に「見世(みせ)」。目利きの茶人が選りすぐった茶道具や、『茶論』ならではのセンスとコンセプトで創られた新たな茶道具を手に入れることができます。最後に「稽古」。上記の2つで茶道により興味を持った人に、いよいよ茶道に取り組んでもらいます。と言っても、その敷居は高くはありません。畳の茶室ではなくテーブル席で行い、使う茶道具も日々の暮らしにまで生かせるモダンなデザインとなっています。それでいて、「お茶を通して”もてなし”の力量を上げる」ことを目標に掲げており、従来の茶道やお花の教室を経験した人々にも十分以上に興味深い内容となっています。

もちろん「見世」で取り揃えている茶道具も、「喫茶」で味わえるお茶やお菓子も、お茶に長年親しんでいる方々でも満足いただけるに違いない逸品。経験者の方々にもぜひ体験していただきたい、とのことです。

「稽古」・「喫茶」・「見世」の3業態の複合によってワンストップで茶道文化を愉しめる。「喫茶」にはテーブル席、座敷席の両方があり。

「喫茶」をきっかけに「稽古」に興味を持ち、「見世」で道具を揃える。自然に茶道に親しめる流れ(「喫茶」のメニュー)。

奈良県奈良市気軽な「入り口」でありながら一流を取り揃える。

そんな『茶論』のもうひとつの魅力は、こうして気軽に茶道に触れられる場でありながらも、一流のクリエイター達による一流の「知」やプロダクトを体感できること。

『茶論』そのものの柱であるクリエイティブディレクションは、数々の有名ブランドや著名キャラクターを手掛けた”good design company”の水野学(みずの・まなぶ)氏が担当。
自ら『茶論』を企画した中川政七商店代表取締役会長である十三代中川政七(なかがわ・まさしち)氏の考える『茶論』の「志」、中川政七商店がプロデュースする「理由」、目指す「イメージ」から、ディスカッションを重ね、その独自のポジションとイメージを確立し、コンセプトである“以茶論美(茶を以て美を論ず)”を考案しました。
「お茶(茶道)を通して、自身の美意識の物差しを磨いてほしい」というスタッフ一同の願いがこめられています。

また、ブランドディレクターは茶人であり『芳心会』を主宰している木村宗慎(きむら・そうしん)氏が担当。「稽古」のコースの監修を行なうと共に、『茶論』のスタッフにも月1回の「稽古」を行なっています。木村氏から学んだ様々な作法や「型」や「知」を、スタッフが『茶論』の「稽古」に取り入れ、それがコースの内容の元となるという流れ。「見世」の茶道具も監修しており、それらのクオリティも高めています。

また、「稽古」だけでなく日々の暮らしの中にも生かせるオリジナルの『茶道具箱』などのプロダクトデザインは、金沢美術工芸大学の客員教授で『HUBLOT DESIGN PRIZE 2016』において日本人初のファイナリストとなった“PRODUCT DESIGN CENTER”の鈴木啓太(すずき・けいた)氏が担当。既存の茶道具が日本独自の寸法である「一寸」をもとに構成されているものが多いことから、お茶道具全体の方向性として「一寸」をベースにプロポーションを決めています。
『茶道具箱』も同様に「一寸」の考え方を踏襲して正方形に形作られ、ひとつひとつがモジュールに沿って作られているため、中身を自由に組み合わせられます。

いずれのクリエイター達も、中川政七商店の会長である十三代 中川政七氏とは懇意な間柄だといいます。中川氏の茶道に対する熱い想いを汲み、『茶論』に深く携わっています。

十三代 中川政七氏。「暮らしの中に根付くお茶文化を創っていきたい」という志で茶論を創設。

茶道にはお花・書道・香道など様々な要素が詰まっている。一歩足を踏み入れれば、より深く雅(みやび)な世界が待っている。

「見世」で入手できる「茶道具箱」。季節やシチュエーションに合わせて道具の取り合わせを変えることができ、それを生かした新しい愉しみとして「家で日常的にお茶を点てること」を提案している。

奈良県奈良市お茶の世界の新たな扉を開く。

このように、『茶論』では気軽に本格的な茶道に触れることができます。さらに、そこで得た様々な「学び」をご自分のライフスタイルの中に取り入れ、暮らしをより豊かにすることができます。次回の後編では、『茶論』を通じて得られる斬新な体験や、独自のプロダクトの魅力、お茶の新たな愉しみ方などをご紹介します。

興味と動機の段階に合わせて、自由に、気軽にお茶に親しめる。

『茶論』オフィシャルサイト
https://salon-tea.jp/
「稽古」の予約、「喫茶」店舗情報、「見世」の道具オンライン販売
住所:『茶論 奈良町店』 MAP
奈良県奈良市元林院町31-1(遊 中川 本店奥) 
電話:0742-93-8833
営業時間:
【稽古・見世】 10:00~18:30
【喫茶】 10:00~18:30 (LO 18:00)
定休日:毎月第2火曜(祝日の場合は翌日)
写真提供:茶論

海と共に生きる北陸の小さな町が、 「世界が認める美しい海」を生み出した理由。[福井県高浜町]

国際環境認証のひとつブルーフラッグのほか、JLA認定海水浴場や環境省の日本の水浴場55選、日本の水浴場88選、日本の快水浴場百選などにも認定されている若狭和田ビーチ。

福井県高浜町世界レベルの環境認証を、アジアで初めて取得した高浜町の快挙。

福井県の最西端に位置する海辺のまち、高浜町。京都府との県境にある町は、北側は日本海若狭湾、南西側は山々に囲まれた自然豊かな町です。町を見守るかのようにそびえたつ青葉山は「若狭富士」と呼ばれ、かつて、若狭・丹後の漁師たちは漁船の位置を確かめる目印にしていたそうです。 高浜町は漁業と農業に加え、夏は海水浴を中心とした観光業が盛んです。昭和より前から関西地区の避暑地として知られ、最盛期はひと夏で100万人、今でもたくさんの人が訪れています。

海水浴客のお目当ては、青葉山のふもとから8kmも続く遠浅の美しい海岸。中でも若狭和田ビーチは、2016年にビーチやマリーナの国際環境認証のひとつ「BLUE FLAG(ブルーフラッグ)」を取得した世界が認める美しい海です。 でも、名誉ある認証の取得には水質や景観の素晴らしさだけではない、地域に暮らす人たちの意識の高さや努力があってこそ。高浜ならではの財産を地域で守り、次の世代につなげる活動をする人たちと出会う旅に出ました。

青葉山を目の前に望む、唯一無二のビーチ。人口1万人強に対して、ひと夏に20万人ほどの客が訪れるという。

毎朝4時半ごろ和田漁港を出航し、7時頃に定置網漁から戻ってくる。海と隣り合わせで暮らす高浜ならではの光景だ。

福井県高浜町ブルーフラッグの取得は、かつての賑わいを取り戻せるのか。

高浜町を訪れた7月1日は、海開きの日。町内にある5つの海水浴場では「浜茶屋」と呼ばれる海の家が一斉にオープンし、「今年もよろしく〜」という声があちらこちらから聞こえてきます。 海開きを待っていた人たちが我先にと海へと駆け出し、砂浜ではビーチバレーを楽しむ大学生。波打ち際で楽しむファミリーや、浜茶屋でおなじみのカレーをほおばる常連組。凪いだ海はこれから始まる本格的な夏を、静かに歓迎しているようでした。

高浜の海水浴場の中でも、ひと際注目を集める若狭和田ビーチが「ブルーフラッグ」を取得したのは2年前。そもそもブルーフラッグとは? 日本ではあまり馴染みのないものですが、1985年にフランスで誕生。世界で最も歴史のある環境認証のひとつで、水質、環境マネジメント、安全性、さらには環境教育と33もの基準をクリアしたビーチやマリーナだけに与えられる勲章のようなもの。これまで世界49カ国、4271カ所のビーチやマリーナが認定され、日本で認証されているのは鎌倉の由比ケ浜と、ここ高浜の若狭和田ビーチだけです。

海浜美化や施設管理、利用者のマナー、経済振興、人口減少など多くの課題を解決するには、ブルーフラッグというひとつの目標に対して地域みんなで協力することが課題を一気に解消できるのではないかと高浜町は考えた。

多目的トイレの設置や車椅子対応駐車場、障害を持つ人のためのバリアフリー設備や水陸両用車椅子などブルーフラッグ取得のための整備は、すべての人たちに優しいビーチをつくり出す。(写真提供:高浜町)

福井県高浜町水質や景観だけではない、地域に住む人のたゆまぬ努力によって。

ブルーフラッグという世界的にも名誉ある認証は、一度取得すれば永続される制度ではありません。毎年申請し、審査され、改めて認証を受けられるという非常に厳しいもの。認証に欠かせない条件のひとつに「安全リスク評価」がありますが、その要となるのが「若狭和田ライフセービングクラブ」の活動です。 「ライフセービングは溺れた人や倒れた人を救助するイメージが強いですが、本来の目的は事故を未然に防ぐための活動をすることだと思っています」と話すのは、クラブを立ち上げ、代表を務める細田直彦氏。

例えばひとりで遊んでいる子どもがいたら真っ先に声をかけたり、海の楽しさや安全面を伝える講習会を開いたり、人命救助や監視するだけでなく、常にコミュニケーションを取ることがライフセーバーの大切な役割だと話します。 クラブの登録人数は70名ほど。他に仕事を持ちながらライフセーバーの活動をしている人がほとんどです。両立しながらの活動はたいへんなことですが、「自分たちが大好きな高浜の海を守りたい。そして、魅力をたくさんの人に伝えたい」という素直な思いが活動の原点になっているのでしょう。

高校生の時に水難事故を間近で見たことがあり、「何か自分にもできることがないだろうか」と辿り着いたのがライフセービングの世界だったと話す細田氏。新潟県出身だが、高浜の海に惚れ込み結婚を機に移住。

海の生き物観察会や水に関する体験型教育プログラムは、美しい海を次世代にも継承するための大切な活動。(写真提供:高浜町)

福井県高浜町透明度の高い高浜の海を、満喫できる最新アクティビティ。

海水浴とともに、ここ数年じわじわと人気が高まっているのがハワイ発祥のビーチアクティビティ「Stand Up Paddleboardスタンドアップパドルボード)」、通称「SUP(サップ)」です。専用のボードの上に立ってパドルで波をかき、海面を移動します。サーフィンのように波乗りをしたり、ボードの上でヨガや釣りを楽しんだりする人もいるそう。

今回の旅の目的のひとつであったSUP。立ち上がって高い目線から景色を眺めることができるため、高浜の美しい海をより満喫するのにもってこい。高浜町の近隣でサーフショップ『hot style小浜店』を営む浜岸宏明氏の案内で、海上クルージングに出かけました。

ボードの上でバランスを取りながら、パドルをひとかき、二かき。SUPのボードは一般的なサーフボードよりも長く、幅も広く厚みもあるため安定感は抜群。想像よりも簡単で、すーっと水上を滑る様は今までに味わったことがないような不思議な感覚です。海と空と風との一体感は、何ものにも代えられない贅沢な時間です。

沖に出る前に、まずはSUPの漕ぎ方を練習。いきなり立って漕ぐのは難しいので正座、立ち膝からスタート。SUPは波打つ海の上を立って漕ぐので体幹が自然に鍛えられる。

高浜の名所、明鏡銅。その他に洞窟探検など、ビーチからでは行くことができない場所もSUPならば楽しめる。

福井県高浜町高浜の海とSUPを盛り上げるふたりの立役者。

今回ガイドをしてくれた浜岸氏は、高浜町出身。小さい頃から海が目の前の環境で育ち、サーフィン歴は30年以上という海のスペシャリスト。そんな浜岸氏ですが、今はもっぱらSUPに夢中だそう。
「SUPを始めて、今まで気がつかなかった海の楽しさを再確認しました。高浜の海がきれいだということに改めて気がついたり、景勝地がたくさんあるので景色を楽しんだり。今までは波ばかりを見ていましたが、SUPは潮の流れや風を感じることもできる。海を広い視野で見られるようになりましたね」と、嬉しそうに話します。

また、浜岸氏のガイドのもと、海に一緒に出たのは地域おこし協力隊として高浜町に住む月田ショーン氏。ショーン氏はイギリス出身で、京都で5年間暮らしたのち高浜町へ。現在は高浜の海をはじめ、様々なイベントや人を取材し記事にしているそう。
「最初に来たときは京都から2時間ちょっとで、こんなにきれいな海があったのかと衝撃を受けました。高浜に海があったことは、移住する決め手のひとつになりました。今回SUPは初めてでしたが、思っていたよりも簡単。洞窟探検をしたり島まで行ったり、海水浴とは違う形で高浜の海が楽しめますね」。今後は、海や山を紹介するガイドの仕事にも挑戦したいと話します。ショーン氏は、地元の人にとっては当たり前にある海や高浜の素晴らしさを、外からの目線で発信していくキーパーソンになるに違いありません。

物心ついた時から海と隣合わせの暮らしだった浜岸氏は様々なマリンアクティブティを通して、高浜の海の素晴らしさを伝え続けている。

4月から高浜に移住したショーン氏。海から車で10分ほどの山あいにある集落に住む。「海も山もどちらもあることが高浜の魅力」と話す。

高浜の海は海水浴、SUPと並び海釣りも人気。手ぶらで来ても、和田地区にある村橋釣具店で貸し竿や釣りエサを用意してもらえる。地元の人たちとのふれあいも魅力。

和田地区を訪れた日は、年に一度の「和田de路地祭」当日。村橋釣具店の店主・村橋武子さん率いる「福の会」のメンバーで露天を出店。地元で獲れた肉厚のサザエなどを販売する。

『DINING OUT TOTTRI-YAZU with LEXUS』販売開始! [DINING OUT TOTTRI-YAZU with LEXUS/鳥取県八頭町]

鳥取県八頭町

来る2018年9月8日(土)、9日(日)に『DINING OUT』第14回となる『DINING OUT TOTTRI-YAZU with LEXUS』を鳥取県八頭町にて開催します。

星空の美しさは国内屈指といわれる鳥取県。その幻想的な光景も、見どころのひとつ。

鳥取県八頭町眼の前は日本の原風景のような、懐かしい景色。古代からの「パワースポット」を舞台に、2夜限定の饗宴を開催。

日本のどこかで数日間だけオープンするプレミアムな野外レストラン『DINING OUT』。一流の料理人がその土地の食材を、新しい感覚で切り取って料理に。それをたった2夜のみ限定で、その土地を最も魅力的に表現する場所と演出とともに味わって頂く“幻のレストラン”です。

今回の舞台は、どこからでも天の川が見られると言われるほど自然豊かで、空気の澄んだ鳥取県。
その中でも日本の原風景を思わせる、ひときわ懐かしい景色が広がる八頭町です。

ゆるやかに蛇行する八東川に沿って走る若桜鉄道や、趣のある木造の駅舎。田植えの時期になれば空を映す田園風景、秋になれば花御所柿がたわわに実をつけて橙色に染まる柿畑。そんなのんびりとした時間の流れる八頭町ですが、かつては大きな勢力のあった政の中心地でした。また、天照大神が八上郡(現八頭郡)に降臨した際に、霊石山への道案内を白兔がつとめたという「白兎伝説」も残されるなど、まさに八頭は、古代からの「パワースポット」でもあるのです。

そんな土地の魅力を伝えるべく、今回のDINING OUTのテーマは、「Energy Flow -古からの記憶を辿る-」。

日本の原風景のような懐かしい景色が広がる、古代からの「パワースポット」を舞台に、二夜限定で幻の饗宴を開催します。

素材への深い理解を、斬新なクリエーションで表現する徳吉シェフ。

鳥取県八頭町世界で活躍するシェフが、生まれ故郷に凱旋。

今回料理を担当するのは、地元・鳥取出身、昨年の『DINING OUT NISEKO with LEXUS』を担当し、クリエイティブで斬新な料理でゲストを驚かせた、ミラノ『Ristorante TOKUYOSHI』の徳吉洋二シェフ。そして今回のDINING OUTは、世界で活躍するシェフが自身の地元に戻って、地元と一緒につくりあげる"凱旋DINING OUT"の第一弾でもあります。

ホストは東洋文化研究家であり作家
としても活動し、国内の昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っているアレックス・カー氏。

さらに、今回のフロアを取り仕切るサービス統括には、『
DINING OUT ONOMICHIを担当したTIRPSEの大橋直誉氏が参加。

八頭という地に古来より漂う、"生命力"や"自然の神秘"を、五感で味わう究極のダイニングにどうぞご期待ください。

ホストを務めるアレックス・カー氏。日本各地の歴史、文化にも造詣が深い。

サービス統括には、レストランプロデューサー「TIRPSE」の大橋直誉氏が参加。

Data
DINING OUT TOTTRI-YAZU with LEXUS

開催日程:①2018年9月8日 (土)~ 9日(日) / ②2018年9月9日 (日)~ 10日(月) ※2日間限定
開催地:鳥取県八頭町
出演 : 料理人  徳吉洋二(「Ristorante TOKUYOSHI」 )/ホスト アレックス・カー (東洋文化研究家)
オフィシャルパートナー:LEXUS http://lexus.jp)、YEBISU(http://www.sapporobeer.jp/yebisu/
オフィシャルサポーター : 鳥取県
協力:八頭町

『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。

Ristorante TOKUYOSHI 
http://www.ristorantetokuyoshi.com

1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の吹き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社刊)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

調理師専門学校を卒業後、正統派グランメゾンで知られる『レストラン ひらまつ』に料理人として入社。翌年ソムリエ資格を取得後、サービス・ソムリエに転向。2011年に渡仏し、ボルドーの二つ星レストラン『シャトー コルデイヤン バージュ』でソムリエを経験し、帰国後は白金台『カンテサンス』へ。ミシュラン東京版で三つ星を獲得し続ける名店で研鑽を積む。その後、レストラン移転に伴い、店舗をそのまま受け継ぐ形で2013年9月に『ティルプス』を開業。オープンからわずか2ヵ月半という世界最速のスピードでミシュラン一つ星を獲得する快挙を成し遂げる。

『DINING OUT TOTTRI-YAZU with LEXUS』販売開始! [DINING OUT TOTTRI-YAZU with LEXUS/鳥取県八頭町]

鳥取県八頭町

来る2018年9月8日(土)、9日(日)に『DINING OUT』第14回となる『DINING OUT TOTTRI-YAZU with LEXUS』を鳥取県八頭町にて開催します。

星空の美しさは国内屈指といわれる鳥取県。その幻想的な光景も、見どころのひとつ。

鳥取県八頭町眼の前は日本の原風景のような、懐かしい景色。古代からの「パワースポット」を舞台に、2夜限定の饗宴を開催。

日本のどこかで数日間だけオープンするプレミアムな野外レストラン『DINING OUT』。一流の料理人がその土地の食材を、新しい感覚で切り取って料理に。それをたった2夜のみ限定で、その土地を最も魅力的に表現する場所と演出とともに味わって頂く“幻のレストラン”です。

今回の舞台は、どこからでも天の川が見られると言われるほど自然豊かで、空気の澄んだ鳥取県。
その中でも日本の原風景を思わせる、ひときわ懐かしい景色が広がる八頭町です。

ゆるやかに蛇行する八東川に沿って走る若桜鉄道や、趣のある木造の駅舎。田植えの時期になれば空を映す田園風景、秋になれば花御所柿がたわわに実をつけて橙色に染まる柿畑。そんなのんびりとした時間の流れる八頭町ですが、かつては大きな勢力のあった政の中心地でした。また、天照大神が八上郡(現八頭郡)に降臨した際に、霊石山への道案内を白兔がつとめたという「白兎伝説」も残されるなど、まさに八頭は、古代からの「パワースポット」でもあるのです。

そんな土地の魅力を伝えるべく、今回のDINING OUTのテーマは、「Energy Flow -古からの記憶を辿る-」。

日本の原風景のような懐かしい景色が広がる、古代からの「パワースポット」を舞台に、二夜限定で幻の饗宴を開催します。

素材への深い理解を、斬新なクリエーションで表現する徳吉シェフ。

鳥取県八頭町世界で活躍するシェフが、生まれ故郷に凱旋。

今回料理を担当するのは、地元・鳥取出身、昨年の『DINING OUT NISEKO with LEXUS』を担当し、クリエイティブで斬新な料理でゲストを驚かせた、ミラノ『Ristorante TOKUYOSHI』の徳吉洋二シェフ。そして今回のDINING OUTは、世界で活躍するシェフが自身の地元に戻って、地元と一緒につくりあげる"凱旋DINING OUT"の第一弾でもあります。

ホストは東洋文化研究家であり作家
としても活動し、国内の昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っているアレックス・カー氏。

さらに、今回のフロアを取り仕切るサービス統括には、『
DINING OUT ONOMICHIを担当したTIRPSEの大橋直誉氏が参加。

八頭という地に古来より漂う、"生命力"や"自然の神秘"を、五感で味わう究極のダイニングにどうぞご期待ください。

ホストを務めるアレックス・カー氏。日本各地の歴史、文化にも造詣が深い。

サービス統括には、レストランプロデューサー「TIRPSE」の大橋直誉氏が参加。

Data
DINING OUT TOTTRI-YAZU with LEXUS

開催日程:①2018年9月8日 (土)~ 9日(日) / ②2018年9月9日 (日)~ 10日(月) ※2日間限定
開催地:鳥取県八頭町
出演 : 料理人  徳吉洋二(「Ristorante TOKUYOSHI」 )/ホスト アレックス・カー (東洋文化研究家)
オフィシャルパートナー:LEXUS http://lexus.jp)、YEBISU(http://www.sapporobeer.jp/yebisu/
オフィシャルサポーター : 鳥取県
協力:八頭町

『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。

Ristorante TOKUYOSHI 
http://www.ristorantetokuyoshi.com

1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の吹き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社刊)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

調理師専門学校を卒業後、正統派グランメゾンで知られる『レストラン ひらまつ』に料理人として入社。翌年ソムリエ資格を取得後、サービス・ソムリエに転向。2011年に渡仏し、ボルドーの二つ星レストラン『シャトー コルデイヤン バージュ』でソムリエを経験し、帰国後は白金台『カンテサンス』へ。ミシュラン東京版で三つ星を獲得し続ける名店で研鑽を積む。その後、レストラン移転に伴い、店舗をそのまま受け継ぐ形で2013年9月に『ティルプス』を開業。オープンからわずか2ヵ月半という世界最速のスピードでミシュラン一つ星を獲得する快挙を成し遂げる。

くにさき七島藺(しちとうい)。消えかけた伝統の灯火を燃え上がらせた、一人の作家の熱い思い。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

国東の特産品・「くにさき七島藺」を使った工芸品を手がける「七島藺工房ななつむぎ」七島藺工芸作家の岩切千佳氏。

大分県国東市

2018年5月末に行われた『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』。国東半島に降り立ち、文殊仙寺の石段を登って会場へ向かうゲストたちの胸には、おそろいのコサージュが輝いていました。艷やかで力強く、鼻を寄せると爽やかな匂いが立つ植物製のコサージュ。これはかつてこの地の産業を支え、現在では国東半島だけに残るくにさき七島藺で作られたものでした。

作者は七島藺作家の岩切千佳氏。国東の産業の中心として栄え、しかし時代とともに消えかけていた七島藺を、現代的な視点で蘇らせた人物です。宮崎県から国東に移住し、七島藺を知り、やがてその魅力を広める旗手となるーー。そこにどのような物語が潜み、どんな思いが秘められているのでしょうか。岩切氏の言葉を元に、その背景に迫ります。

ゲストの胸を飾ったコサージュ。くにさき七島藺と国東オリーブの蕾を組み合わせた岩切氏の作品。

大分県国東市かつて地域を支えた一大産業が消滅の危機に。

「とにかくたいへん!」くにさき七島藺の生産について伺うと、岩切氏はそう言いました。密集して生える性質のため機械化ができず、いまでも手植え、手刈りが基本。収穫後にじっくりと乾燥させたら、今度は繊維を縦に裂く作業が待っています。「断面が丸い藺草と違い、七島藺は断面が三角。だから縦に割かないと編めないんです」なんとも手間暇のかかる作業です。

江戸時代初期にトカラ列島から伝わり、その後国東半島の主要産業として発展した七島藺。最盛期には作付面積1600ha、畳表にして年間500万枚も生産されていたというのですから、まさに地域を支えた主要産業です。しかし先述のように栽培の難しさ、さらに生活様式の変化に押され、生産量は徐々に減少します。現在では、7軒の農家が1haほどの農地で育てるのみ。畳表の生産量も年間2000枚程度まで激減しました。七島藺はこのまま時代の流れの中で忘れられていく過去の遺物なとなるのか。

そんな折、岩切氏がこの地にやってきました。“くにさき七島藺の救世主”だなんて言うと、本人はきっと笑うかもしれません。しかし「たいへん」と言いながら、自身も畑に出向き、いきいきとに仕事に励む岩切氏の手で、くにさき七島藺がいま再び輝きを取り戻していることは確かなのです。

国東市歴史体験学習館でも七島藺の歴史を学ぶことができる。

蕎麦処『両子河原座』のエントランス。市内の各所でくにさき七島藺を使った小物と出合う。

七島藺の断面は三角形。これを丁寧に縦に裂いてから編み上げる。

大分県国東市ひとりの作家の思いが、伝統を再び蘇らせる。

宮崎県に生まれた岩切氏。幼い頃からものづくりが好きで、大学も美術系へ進学。卒業後はTVの小道具を作る仕事に就き、身につけたものづくりの才覚を存分に発揮していました。しかしそんな岩切氏に転機が訪れます。あるとき、仕事に最も大切な手に怪我を負ってしまったのです。「それは落ち込みましたよ。幾度もの手術が必要なほどの怪我でしたから」たしかにこれでは、これまでの仕事を続けることはできません。

しかし悪いことばかりは続きません。休職し、縁のあった国東に移った岩切氏に、運命の出合いが待っていたのです。それがくにさき七島藺です。当初はリハビリを兼ねた工芸品作りでした。しかし続けるうちに岩切氏の作家魂に火がつきます。それが消えつつある伝統だと聞けば、きっとなおさら放って置けなかったのでしょう。やがて岩切氏は決断します。「これ一本で生きていこう」と。

もちろんそれが茨の道だったことは想像に難くありません。この地で続けられていたくにさき七島藺の大半は畳表や伝統工芸品。新たな作家の入る余地は少なかったことでしょう。もしかすると移住者で、女性であったことも、ハードルとなったかもしれません。

しかし岩切氏の決意は変わりませんでした。七島藺振興会の工芸セミナーに参加して基本的な編み方を習得。その合間に生産農家の元も繰り返し訪れて信頼関係を築きます。自身の創作活動のほか『くにさき七島藺振興会』の職員として、その宣伝普及活動も開始します。できることはすべてやり尽くすようなバイタリティーで、岩切氏の存在は少しずつ地域に知れ渡ります。その前向きさと、明るくチャーミングな人柄が、縮小しつつあったくにさき七島藺を照らし始めたのです。

にこやかな岩切氏だが、言葉の端々にくにさき七島藺への思いが垣間見える。

くにさき七島藺振興会は、廃校になった学校を利用。各所に往時の面影が残る。

畳表の織り機があるのは元体育館。こちらで大型の作品も製作中。

伝統的なくにさき七島藺で身近なアイテムを作ることで、伝統と日常の距離を近づける。

大分県国東市作家としてだけではない岩切氏の存在。

「今までになかった工芸品を作ってくれるからね。新たな七島藺の魅力をいろんな人に伝えてくれてますよ」岩切氏についてそう語るのは、国東市の七島藺生産者である松原正氏。この道30年、七島藺の盛衰を間近に見つめてきただけにその言葉は感慨にあふれていました。

岩切氏が作るのは、アクセサリーをはじめとした身近な品々。くにさき七島藺の魅力を活かしつつ、独創的かつスタイリッシュに仕上げることで、若い世代が手に取るような作品となっています。その完成度と秘められた思いが評判を呼び現在では『ビームスジャパン東京』や『TENOHA代官山』といった高感度のセレクトショップに並べられるほどになりました。

しかし作品の評価ばかりではありません。先の松原氏はこう続けます。「畑にも来て、栽培の難しさも知っている。私らが想像もつかんようないろいろな活動をして、畳表のこともしっかり広めてくれている。工芸家なんだけど、物を作るだけじゃない。本当に良い宣伝部長ですね」

各地でのワークショップ始まり、講演やメディア出演も多数。江戸時代の羽根藩を舞台にした2014年公開の映画『蜩ノ記』では、岩切氏自身が七島藺職人の役として出演しました。さらに九州の自然や食、歴史、文化の魅力を列車内で届けるプレミアムクルーズトレイン『ななつ星in九州』内のプログラムとしても、くにさき七島藺の小物作りが取り入れられています。従来では想像もしなかった幅広く、活発な活動。これもまた、くにさき七島藺復権の大きな鍵となったのです。

数少ない七島藺生産者である松原正氏も、岩切氏の活動を理解し、影で支えるひとり。

くにさき七島藺振興会には、映画『蜩ノ記』で使われた衣装なども展示されている。

大分県国東市語らなくても伝わる思い。モノに秘められた心。

「1日に編めるのは20cm四方1枚くらい」そう岩切氏が語る通り、くにさき七島藺の工芸品作りは繊細で地道な作業。ひとつは繊維が硬く、しっかり押し込みんがら編まないと形が崩れてしまうから。そしてもうひとつは、一本一本に心を込めるように、丁寧に編み込むから。だから小さなアクセサリーひとつにも、人の目を惹きつける存在感が宿るのでしょう。

『DINING OUT』当日、ゲストに渡されたコサージュについてそれほど詳細な説明があったわけではありません。あるいはただの「参加者の目印」と受け取られてしまったかもしれません。これほどの作品を胸に差し、食事をしていたことを、ゲストのほとんが知らなかったのですから。

しかし終演後の卓上に、このコサージュはひとつとして残されていませんでした。誰もがそのコサージュを宝物のように大切に扱い、そして丁寧に包んで持ち帰ったのです。秘められた価値が、語らずとも伝わった瞬間でした。心を込めた“モノ”は、人の心を動かす。そんな事実が証明されたのです。影で見つめていた岩切氏にも、それが届いたはず。だからきっとこれからの岩切氏の作品は、前にも増して心のこもったものになることでしょう。

「くにさき七島藺の素晴らしさを、もっと多くの人に知って欲しい」いつも自然体な岩切氏ですが、これからの目標を尋ねると、毅然としてそう答えました。伝統を守るという役割、生産者の思いを伝える責任、作家として意欲。「これからも、できることは全部やっていきます」という決意の言葉には、さまざまな思いが詰まっていたのでしょう。

卓上の箸置きも岩切氏の作品。神社の茅の輪を思わせるフォルムで、神仏習合の地・国東らしさを表現した箸置き。

『竹筒烏骨鶏(烏骨鶏竹筒蒸しスープ)』の紐も七島藺で。竹筒に香りを閉じ込める大切な役割を果たした。

ただの飾りではなく、その香りでゲストの心を掴んだくにさき七島藺。

Data
くにさき七島藺振興会

住所:大分県国東市安岐町富清3209 MAP
電話:0978-65-0800
http://shitto.org/

岩の聖地を舞台に相対する要素が見事交じり合った幻の晩餐。2人のキーマンが『DINING OUT』を振り返る。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

大分県国東市

2018年5月末、巨石に囲まれる神秘的な土地・国東を舞台にDINING OUT KUNISAKI with LEXUSは開催されました。

両子山という岩山を中心に6つの山稜に分かれた国東半島には、総称して「六郷満山」と呼ばれる無数の寺院が点在。日本古来の宗教観である神仏習合のルーツともいわれ、土地に根付いた山岳信仰と混淆し、この地独自の六郷満山文化として発展しました。目を奪う奇岩が聳え、寺社の山門には苔むした石造仁王像が立つ。その静謐で神秘的な空気は、宗教という枠組みを抜きにしても、誰しもの心に響くことでしょう。

そんな印象的な空気感を伝えるべく、今回設定されたテーマは『ROCK SANCTUARY―異界との対話』。

このテーマに挑んだのは、オープンわずか9ヶ月でミシュラン2つ星を獲得した『茶禅華』の川田智也シェフ。「和魂漢才」をテーマに日本食材と中華料理の融合を追求するシェフの考え方と国東に通じる「神仏習合」の精神性が見事にマッチングしたプレゼンテーションで、ゲストの心を掴みました。

そしてホスト役には、「世界のベストレストラン50」の日本評議委員長を務める中村孝則氏が登場。過去5回にわたり『DINING OUT』に出演した経験と、多岐にわたる深い知識で、国東らしい不思議な体験へとゲストを誘ってくれました。

「神と仏」と「和と中華」二つの異なる要素を美しく混淆させ紡がれた2日限りの饗宴を2人の言葉で振り返ります。

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、テレビにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を受勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称)の称号も受勲。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。

http://www.dandy-nakamura.com/

ここはいわば、日本のブータン。ホスト・中村孝則氏が見た、国東の特異性と神秘性。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

修験者の装束で登場し、会場を盛り上げた中村氏。

大分県国東市風景だけでなく、その精神性にも古来の伝統が宿る。

日本にこんな場所があったのか――今回の『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』を機会に初めて訪れた国東は、まず私にそんな思いを呼び起こしました。それはここに“昔”がそのまま残っているから。ただの田園風景や手付かずの自然ではありません。そこに生きる人々の精神性まで含めた“昔”です。

あるいは、ただふらりと訪れただけなら、日本によくある田舎だと感じたかもしれません。しかし繰り返し足を運び、人々の思いに触れ、土着の文化を深く知るほどに、この地の特異性が徐々に顕になってきました。そもそも『DINING OUT』は、対象となるその土地に深く入り込み、知られざる魅力を“発掘”することがテーマです。そして国東らしさを見事に掘り起こした今回はきわめて『DINING OUT』らしい展開になったといえるでしょう。

国東が特異である第一の点は、やはり宗教観でしょう。土着の山岳信仰と大陸から伝来した仏教が混じり合い、六郷満山文化として花開く。そんな宗教観の元には、新たなものを受け入れる寛容な気質があります。海に突き出した地形で、大陸からの玄関口となり、また東にある朝廷の入口でもあったという地理的な条件も、おそらくこの気質の形成の一因かもしれません。

また、この地に点在する無数の寺院が、観光名所ではなく宗教施設として存在していることも印象的でした。庭や仏像を見ることも大切ですが、本来の寺院は宗教的共有をする場所。受け継がれる祭りやご住職の方々の話を通し、その世界観に触れられることも国東の特長でしょう。

さらに点在する六郷満山の寺院が天台宗の密教寺院であること、奇岩・巨岩が連なる景観なども国東の空気を独特なものにしています。そこにあるのは、現代の日本とは思えぬ神秘性です。どこか妖しく、静謐。その空気感が国東の魅力です。

かつて東アジアのブータンという国を訪れたことがあります。昔ながらの田園が広がり、その田園を支えとして生きる国民性が残る。そして国教であるチベット仏教の影響による、ある種の神秘性が漂う。国東は私に、そんなブータンを思い出させました。画一化が進む日本にあって、この空気は誇るべき、そして守るべきものだと思います。

のどかな里山に漂う神秘性。そこにブータンとの類似性を見出した。

受け継がれる祭りの話などを元に、地域性を掘り下げる中村氏。

連なる奇岩・巨岩が独自の神秘的な景観を生み出す。

大分県国東市スペイン・ビルバオに学ぶ、国東活性化の起爆剤。

神秘的で特異な地でありながら、空港からの距離は車で15分程度。そこに私は、国東のポテンシャルを感じました。国東という土地が、日本を代表する観光地となるポテンシャルです。旅に訪れる場所には、現代生活とのギャップがある方が良いですよね。その意味で、国東は大きな可能性を秘めていると思います。もちろん、ただ待っているだけでは多くの観光客はやって来ないでしょう。宿泊施設の不足解消など、ハード面での計画も不可欠です。しかしそれよりも大切なのは、地域の方の意識の問題です。

私は先日まで『世界のベストレストラン50』の関係で、スペインのビルバオに滞在していました。かつて工業生産で支えられていましたが、1980年代の工業危機で方向転換、現在はサービスや観光の町として世界中から観光客が訪れる町に生まれ変わった町です。食や文化という核はありますが、印象的だったのは若者の数が多いこと。自然と町に活気が満ち、さらなる観光客を呼ぶという好循環が生まれていました。

このビルバオに、国東のさらなる発展のヒントがある気がします。若者にどう訴えかけるかが、これからの観光業の肝です。たとえばビルバオは酒税がないため、人々はさまざまな場所で遅くまでお酒を楽しみます。国東をそういった特区にしてしまうのも良いかもしれない。あるいは食でも音楽でもスポーツでも、何らかの核を据えて、広くアナウンスしていくことも有効でしょう。

国東は元来、“外から来るもの”を受け入れてきた土地です。製鉄の技術を持っていた渡来の一派を受け入れたこと然り、山岳信仰と仏教を混淆したこと然り。海外のテクノロジーを土着の文化に取り入れ、「まあやってみようか」としてしまうオープンマインドな地域性があるのです。1300年前からそれをやってきたのですから、きっとこれからもできるはず。新たな試みを通して、若い人を受け入れる。そんなチャレンジが、やがて地域の活性化に繋がるのです。そしてその点も、今回の『DINING OUT』が良かったこと。『DINING OUT』は、ゲストもスタッフも若い世代が多いですから、今回の成功がひとつのきっかけとなるかもしれません。

山中に点在する寺院も国東の有効な観光資源。中村氏はそれらをベースにしつつ、さらなる活性化を願った。

国東のアイコンたる石造仁王像が守る両子寺を歩き、受け継がれてきた歴史を思う。

ときには寺院のご住職から貴重な話を伺い知識を深めた。

大分県国東市川田智也シェフの料理に垣間見る、正直な人間性。

料理には時折、シェフの人間性が表れます。今回の料理を前に思ったのは、川田智也シェフという人が、嘘のつけない正直な人なんだろう、ということ。コースを通した物語には整合性があり、テーマへのこじつけが一切見当たりません。だから料理を口に運ぶと、その味わいとともに、この国東という土地のことがすんなりと入ってくるのです。

その象徴が、地元の魚・三島ふぐを使った「国東的良鬼」という料理でしょう。高温で揚げたら鬼のようになったという偶然性も含めて、国東らしさ、川田シェフらしさが表れていたと思います。淡白な身を優しい餡が包み込み、医食同源にも通ずる滋味深い味わいとなっていました。

また温泉で育てる泥鰌で仕立てた「爆米炸泥鰌」も印象的でした。実はこの泥鰌は、ともに視察に訪れた際、川田シェフが強く興味を惹かれていたもの。大ぶりな泥鰌に紹興酒の香りをまとわせてから揚げるという、素材の良さとバックグラウンドをシンプルに伝えるアプローチ。里山の象徴である泥鰌を文殊仙寺の境内の石の器に盛るという演出も見事でした。

その他の品々も含め、それぞれの料理はショーアップされたものではなく、むしろ静謐さを感じさせるものでした。この地に根ざし、この地の思いを形にしたような料理。これは遠くからやってきたゲストにはもちろんのこと、地元の方にも刺さったのではないでしょうか。これもまた、『DINING OUT』の大切な役割のひとつ。地元の方々が、自らが住む土地の魅力を再発見し、そこに新たなモチベーションが生まれる。そうして最終的には独自の力で、地域を活性化する。その起爆剤としての役割を果たせた点もまた、今回の『DINING OUT』の成果だといえそうです。

中村氏が「嘘のつけない正直な人」と表現した川田智也シェフ。

川田シェフが市場で出合った三島ふぐ。この出合いから今回の『DINING OUT』を象徴する料理が生まれた。

国東に伝わる鬼を表現した「国東的良鬼」。中村氏の心を捕らえた一品。

地元の方々のモチベーションを上げたことが今回の大きな成果と中村氏は語る。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、テレビにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を受勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称)の称号も受勲。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。
http://www.dandy-nakamura.com/

味の手帖 取締役編集顧問・マッキー牧元氏が体験した饗宴。二つが一つに繋がった夜。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

鋭い舌で、料理を分析する「味の手帖」取締役編集顧問のマッキー牧元氏(写真左)。

大分県国東市神聖なる文殊仙寺の境内で。それは始まった。

清涼な山奥の空気に包まれる。岩山に漂う、神聖な霊気に抱かれる。夜が静かに地表から木の幹に忍び寄り、最後に空が暮れていく。

ここは開山1300年を迎える、大分県国東半島、六郷満山随一の古刹霊地、文殊仙寺の境内である。山下の参道口から300の石段を登りきった山寺の一角に、キッチンと、客席が運び込まれた。

夕刻から40名の宴席が始まろうとしている。今回のDINING OUT KUNISAKI with LEXUS」の料理を担当するのは、東京南麻布「茶禅華」の料理長、川田智也氏である。

四川料理をベースにしながら、食材の持ち味を淀みなく引き出して表現する、日本でも屈指の料理人だけに、大分の豊かな食材をいかに駆使するのか、期待が募る。

同時に、少し懸念もあった。中国料理は、“火の料理”と呼ばれるように、加熱によって食材の滋味を最大限に引き出し提供する。いわば“熱さ”が命の料理でもある。それをコントロールするのが困難な野外、そして40人のお客さんに同時に提供するという課題を、川田シェフがいかに克服するのかという点である。 

闇が足元からゆっくりとせり上がって来る中、宴は始まった。

会場となった文殊仙寺の境内は、300段以上の石段を上った先。

「和魂漢才」をテーマに据え、四川料理に日本の心を溶け込ませる稀代の料理人・川田智也氏。

大分県国東市牡蠣とドジョウが味覚を目覚めさせる。

一皿目は、味が濃く、食感がたくましいことで評判となっている国東オイスターの料理が出された。牡蠣を地元西の関と上海老酒のそれぞれ30年古酒にくぐらせ、汁と古酒のジュレをかけた皿である。

牡蠣の養分が古酒と抱き合い、艶を増す。味わいに、食事場所である山の冷気と遠く離れた海の冷水が溶け合うような感覚があって、ゆっくりと舌や喉、胃袋の細胞を開き、食欲を目覚めさせる。

二皿目は、酔っ払いドジョウである。大分で養殖しているドジョウを、紹興酒に浸けて酔わし、おこげをつけて揚げたものだという。「カリッ」。歯を立てれば、おこげの衣が弾け、ふわりとしたドジョウの身に歯が包まれる。その時、にゅるりと皮のぬめりが広がった。カリッ。ふわり。にゅるり。鮎など他の淡水魚にはない、食感の多様な魅力を見事に生かしている。さらに噛んでいくと、紹興酒が染み込んだ肝のうま味が広がり、思わずニヤリとさせられる。紹興酒とおこげという、同じ米同士の相性も実にいい。

農業機械で知られる「ヤンマー」の技術が生んだ牡蠣の名品・くにさきオイスター。

「国東開胃菜」。中国と日本の古酒の香りを添え、味わい深い牡蠣の旨みを引き出した。

「爆米炸泥鰌」は紹興酒の香りを纏った泥鰌(どじょう)のおこげ揚げ。文殊仙寺境内の岩の器で供された。

大分県国東市驚くほど清らかな野菜とスープ。

続いて、せいろがテーブルに運ばれ、そこに熱い岩茶を注ぐと、濛々たる湯気が立ち上った。せいろの中には、熱した岩とともに、野菜や椎茸と牡蠣が収められ、岩茶の香りをまといながら蒸しあがっている。

岩山に囲まれた聖域にちなんで、国東の岩と福建省の岩茶を使った料理だという。先ほど冷製の牡蠣とは異なり、熱せられた牡蠣が、旨味と香りを膨らます。野菜や椎茸を食べれば、驚くほど清らかさがある。雑味がない、純粋な味わいが、茶の香りを帯びながら、舌の上で花開く。

四皿目は、ワンタン入り、烏骨鶏のスープが運ばれた。「はあ」。一口飲んで、充足のため息が漏れる。烏骨鶏のすべてが溶け込んだ汁が、ゆるゆると口の中を滑り、体に染み渡っていく。滋養への感謝が、湧き上がる。川田シェフのスペシャリテの一つにキジのスープがあるが、その名品を彷彿とさせる逸品である。

卓上で立ち上る岩茶の香気もまた、料理の大切なエッセンス。

地元の牡蠣や野菜を中国茶で蒸した「岩香蒸山海」は、「和魂漢才」という川田氏のテーマを象徴する一品。

「竹筒烏骨鶏」。スープの澄んだ味わいの奥に、青竹とクレソンの爽やかな香りが潜む。

大分県国東市国東と中国の共通項「峨眉山」の名を冠したスペアリブ。

五皿目は、「峨眉山排骨」と名付けられた、四川風スペアリブの香り炒めが登場した。国東に峨眉山があると聞いた時、シェフは愕然としたという。四川にも峨眉山という名山があり、自身も訪ねたことがあるからである。またこの地に流れる神仏習合の精神は、シェフが、中国料理の技法で日本の食材を生かすことを目指しテーマとして掲げる、「和魂漢才」とも通じている。

「今まで国東のことはあまり知りませんでした。でも今回のお話をいただいて、神仏習合といい、峨眉山といい、導かれた気がしました」。そうシェフは語る。

峨眉山を模して山の形に盛り付けられた料理の姿に、今回のプロジェクトへの敬意がにじみ出ている。唐辛子、山椒、ネギ、ニンニク、生姜、香菜、クミン。辛く、様々な香りが強烈に弾ける味わいの中で、豚の脂がすうっと溶けていき、甘く香る。この料理でこそ、桜王豚の脂の魅力がいきている。

複雑な香りをまとった料理で、桜王豚のクリアな脂の魅力が際立つ。

「峨眉山排骨」。唐辛子が目を引くが、口にするとその味わいは、辛さよりも桜王豚の旨味に焦点が当たる。

大分県国東市鬼フグと冠地鶏の滋味が心に染み入る。

口直しの意味も含めたトマトの八角煮に続いて出されたのは、地元で“鬼”と呼ばれる、三島フグであった。
「地元の市場で、様々な魚を物色している時、この魚と目があったのです。
1匹20円ほどと値段は安い。しかし、この魚と目があった瞬間に、味わったこともない、ガンシャオユイという四川の料理を思いつきました。そして実際あげてみると、角が立って修成鬼会のお面のような姿になる。不思議な食材との出会いでした」。

やはり川田シェフは、導かれていたのかもしれない。四川では川魚を使って作られるというガンシャオユイは、高温の油で揚げた魚を、再び蒸し、ひき肉やたけのこなどを炒め合わせた辛いソースをかけた料理である。硬い骨も多く、食べにくく、姿も醜いことから雑魚に甘んじているのかもしれない、三島フグだが、中国料理の技法によって、堂々たる宴席料理に昇華している。「どうだ、なかなかやるだろ」。三島フグが鼻を高め、自慢し、高笑いをしている。

羅漢果のお茶が続いて出され、そのほの甘い香りが、三島フグ料理の余韻を優しく、ゆっくりと終わらせてくれる。そして最後の主菜は、冠地鶏を使い、四つの料理に仕立てた皿であった。

カボスの釜に詰めた、胸肉とクラゲ。すっぽんとフカヒレを詰めた、手羽先の揚げ物。ローストした、味付け鳥もも肉。そして鶏スープ麺の四種類である。よく運動させているのだろう。冠地鶏は味が濃く、脂が少ない。その特性を、それぞれの料理で生かしきっている。フカヒレやすっぽんなどのコラーゲンの旨味とも合い、スープは滋養が深い。

魚市場でこの三島ふぐと“目が合った”ことが、後にゲストを驚かせる料理へと繋がる。

「国東的良鬼」。やや刺激のあるソースを合わせて、淡白な身の旨味を引き立てた。

「冠地鶏四囍」は、複数の料理でひとつの食材を際立てる川田氏らしい逸品。

「冠地鶏四囍」のひとつである麺には、国東の食材で仕立てたオリジナルのXO醤が添えられた。

大分県国東市野外における完璧な加熱の再現。中国料理の本領。

そしてなにより驚いたのは、火入れの完璧さである。手羽先、鳥もも肉ともに、熱々で、行き過ぎず、足りなさすぎずという最適の過熱に保たれている。考えれば、三島フグ、ドジョウ、スペアリブなども、理想の加熱で提供された。

「40人のお客様に、どういう風にして、最適な温度管理でだすことができるか。それがいちばんの課題でした。普段店でやっている状況とは違います。冷涼な外気にさらされながら調理し、運ぶのにも時間がかかる。すべてを計算に入れて仕上げる努力をしました。最後の方は、照明はあるものの、手元も見えません。香りを嗅ごうにも飛散するので、火傷するほど鼻を近づけ、耳をすまして料理をしました。いかに料理にとって視覚が大事かを学び、また自分の未熟さも痛感しました」。そう川田シェフはおっしゃる。だが過熱や温度管理は、お客さんの口元に運ぶまで、店と寸分変わらぬほど最適に管理されていた。

それは、川田シェフの技量もあろう。そしてもう一つ言えるのは、彼が初めてであったという大分の食材の力ではないだろうか。

牧元氏を驚かせた川田シェフの火入れ。卓越した技術が、魅力的な食材を光らせる。

大分県国東市澄んだ滋味が響き渡る大分の食材。

鳥も豚も、三島フグもドジョウも、野菜やキノコも、どの食材を食べても、清らかな味がするのである。おそらくそう両子山から短い距離で海に流れ込む、この地形が、ピュアでたくましい食材を生み出したのだろう。

その食材たちに触れ、純粋無垢な味わいが、川田シェフを突き動かし、これら料理の完成度を高めたのだろう。

国東の恵みと川田シェフの新たな才。神仏習合と和魂漢才の出会い。川田シェフによって昇華させられた命が我々客にもたらした鳴動。遠く離れ、普段は交わらず、一見異質と思われる二つの事象が、一つになる。

人も生物も、土地も神も繋がっている。DINING OUTとは、当たり前のようでいながら、日常では気がつかない真実を知らしめてくれる場所なのだ。

海と山が近いという国東の地理的条件が、数々の上質な食材を育む。

神仏習合の地・国東と、「和魂漢才」を目指す川田シェフの出合いが、稀有なる晩餐を生んだ。

1955年東京出身。立教大学卒。 株式会社味の手帖 取締役編集顧問、タベアルキスト。 立ち食いそばから割烹、フレンチからエスニック、スィーツから居酒屋まで、日々飲み食べ歩き、雑誌寄稿、ラジオ、テレビ出演など行う。現在、「味の手帖」「ビッグコミックオリジナル」「東京カレンダー」「食楽」他、連載7誌。料理評論 人物インタビュー 紀行記事などの他、料理開発なども行う。去年より、256の食材を日めくりとして綴った「味のカレンダー」を発売。著書に「東京 食のお作法」文芸春秋刊ほか。

あなたがまだ知らない、日本のピースな美しさ『ピース・ニッポン』。[ピース・ニッポン]

OVERVIEW

真っ青な空に映える城と桜の花、森の緑と岩を割る清らかな水の流れ、山深くまで続く巡礼の道の石畳、人知れず星空を映す青い湖、霊峰に静かに降り積もる雪。そうした風景は、日本人ならば誰もが心に描き出すことができるものですが、それが日本のどこに存在するのか、明確に答えられる人はそう多くはないかもしれません。

7/14(土)より公開される映画『ピース・ニッポン』は、そうした日本の美しい風景を、文字どおり日本中から集めた作品です。監督は劇映画やミュージックビデオで知られる映像作家、中野裕之氏。撮影に8年もの歳月を費やした映像の数々は、私たちのイメージを超える美しさで迫り、日本にこんな場所があったのかと驚かされることの連続です。

でもこの作品は「ただ美しい風景をつないだだけ」のドキュメンタリーとは少し異なります。美しい風景を通じて浮き彫りになってゆくのは、日本という国の歴史そのもの。その風景はなぜ作られたのでしょうか。そしてなぜ現在まで残ってきたのでしょうか。そこには、日本の風土に根づいた精神性と美意識、そして文化と歴史があるのです。
東日本大震災によって失われた風景にかりたてられ、「日本の風景を保存しなければ」と、この作品を撮り始めたという中野氏。そんな思いのもと、小泉今日子氏、東出昌大氏(両者ともにナビゲーター)、海外でも高い評価を得るアンビエント・アーティスト、岡野弘幹氏(音楽)など、多くのアーティストが集まり、映画は完成しました。

あなたがまだ知らない日本のストーリーが、この映画の中にはきっとあるに違いありません。

2018年7月14日(土)公開 新宿バルト9 他全国にて
監督:中野裕之
脚本:柴崎明久・中野裕之
エグゼクティブプロデューサー:林 郁
プロデューサー:中野裕之
ナビゲーター:小泉今日子、東出昌大
出演:渡辺 大、及川さきの
タイトルディレクション:葛西 薫
配給:ファントム・フィルム
http://peacenippon.jp/
©2018 PEACE NIPPON PROJECT LLC

日本の自然の中に、時を越えて残るもの。[ピース・ニッポン]

「日本史好き」としても知られる東出氏。作品が切り取った城の姿にも惚れ惚れ。

東出昌大インタビュー日本史を愛する東出昌大氏が語る、『ピース・ニッポン』の「城攻め」。

日本の自然の美しさ、そしてそこから生まれた文化や歴史を紐解く映画『ピース・ニッポン』。中野裕之監督がそのナビゲーターを、俳優・東出昌大氏にオファーしたのは、彼が「歴史好き」だったからだといいます。その東出氏に「映画の中で行ったことがある場所は?」とたずねると、むべなるかなという答えが返ってきました。

「犬山城、高知城、姫路城、熊本城、彦根城。丸亀城、広島城……“城攻め”は結構やっていますね(笑)。撮影の合間にレンタカーを借りて、ひとりで見に行ったり。僕のお城の楽しみ方は、時代が時代であれば登ることなどできない天守閣に登り、その景色を見てること。“昔のお殿様はこんな気持ちだったんだ”と、身分を越えた感覚を味わうというか。人力で作っているはずなのに、こんなの絶対に攻め落とせない!と感じることも多く、すごいなと思います。ちょっと変態的なまでに歴史好きなので、みなさんとは違う着眼点かもしれません(笑)。

映画の中で印象に残ったお城は松本城(長野県松本市)ですね。“烏城”とも呼ばれているんですが、すごく威厳があってカッコよかった。あとは姫路城。数年前の修復を終えた後に行った時は、地元の人も言っていたように“白すぎるかな”と感じたんですが、ドローンで撮られた映像を見ると、瓦の質がいいために反射して白く見えてしまっていただけで、上から見るとちゃんと黒いんだなって……誰得な情報ですが(笑)。この映画の中のお城は、どれも撮り方がすごくカッコいいんですよ。監督も“城オタク”なのかなと思うくらい」と東出氏は語ります。

地元では「鳥城」と呼ばれる松本城。天守が国宝に指定された全国で5つの城のうちのひとつ。

東出昌大インタビュー大画面の迫力と臨場感、ドローンによる未体験のアングル。

映画は日本の自然の中に見る精神性や美意識について、様々な歴史上の人物や文化人の言葉を引用しながら、観客を導いてゆきます。でもそれはそれ。「ナレーションを担当しながらこう言うのもなんですが、単に美しい映像を楽しんでもらうだけで満足してもらえる作品」と東出氏。大画面だからこその迫力と臨場感、更にドローンで捉えた、これまで体験したことのないアングルで、この映画でしか見られない映像が満載です。

「ドローンを使って撮った花火はまるで火花の中にいるような、体験したことのないアングルで、すごい迫力でした。花火は通常は地上で、遠くから愛でるもので、ここまで肉薄した映像は初じゃないかと思います。撮影された当時とは法律が変わり、今後は撮ることができないらしいので、貴重な映像です。
阿波踊り(徳島県)の映像も他にはない臨場感がありましたね。これまではニュース映像などの1コマでしか見たことしかなかったのですが、踊る人たちがシュッと集まって隊列を作ったりする、それがカッコよくて。祭に参加する人々の息吹、生き生きとした熱気が映像からあふれ出ていて、すごく楽しそうだな、行きたいなと思いました。

様々な星空も素晴らしかったですね。特に小笠原諸島・父島の星空(東京都)は、天の川があまりにはっきりと見えることに驚きました。流れ星と人工衛星の違いも分かります。地球の周りには様々な方向に人工衛星が飛んでいることも初めて知りました。
どれも大画面ならではの映像だと思います」と東出氏は話します。

隅田川花火大会をはじめ、様々な花火の映像も。「長良川の花火大会にはいつか行ってみたいと思っています」と東出氏。

東出昌大インタビュー旅に出ると、普段とは見える世界が変わる。

「“旅”は自分にとっての一番のご褒美。それを目標に、日々仕事をしている」と語る東出氏。その遍歴は世界中、日本中に及びますが、最初に旅を好きになったきっかけは、18歳の時に訪れたパリだったそうです。

「仕事の関係で行って、ひとりで延泊したんです。僕はすごく小心者で、フランス語はおろか英語すらもおぼつかない。それこそ“カツアゲされたらどうしよう”なんてビクビクして、お金を細かいパケで何袋にも分けて、カバンの奥と、お財布と、ホテルの金庫に入れる、なんてことをやっていましたね(笑)。
国内旅行では年に一回、知人のいる沖縄を必ず訪ねているのですが、行けば行くほど面白い場所だなあと思います。足を運んで初めて理解できた歴史的な問題もありますし、同じ日本でありながら、お正月のお祝いが旧正月だったり、お餅を食べる習慣がなかったり、様々な文化の違いも感じます。台風が来ても“家で酒飲んでればいいさあ”という感じで、大らかさのようなものを教わりましたね」と東出氏は言います。

旅に出ることの効能は、異なる価値観を目にすることができること。自分の悩みのちっぽけさを実感できること。自由になれること。
「“かわいい子には旅をさせろ”と言うのは、旅先ではいつもは考えないことを考えるし、普段とは見える世界が変わるからなんでしょうね」と東出氏は続けます。

ちなみに、旅の必需品は「スキットル」と呼ばれるウイスキー用の携帯用ボトル。海外や地方ではお店が閉まる時間が早いので、夜、自分の気に入った景色の中で飲めるように、用意していくのだそうです。持って行くのはいつもの飲みなれたお酒なのですが、旅先ではなぜかそのお酒の味さえも違って感じられるのだとか。

「この映画を見て、初めて富士山の美しさを知りました」と東出氏。

東出昌大インタビュー諸行無常の中にあるからこそ、「一瞬の美」に心打たれる。

「非日常」を求めるがゆえでしょうか。旅に出る時に、海外を念頭に置く人は多いかもしれません。でもこの映画を見て、日本にもまだまだ知らない景色、見たこともないような景色があることを知ったと、東出氏はいいます。

「“本当に日本なのか?”と思うような場所も多かったですね。例えば慶良間(けらま)諸島(沖縄県)の海。ナレーションでも世界屈指の美しさと言っていますが、ケラマブルーといわれるその青さも驚きで。水中の映像も本当に楽園のようで、竜宮城ってこういう所なのかなと、目が覚める思いがしました。アフリカの大地としか思えないような場所もありましたし、“天空の城”と呼ばれる竹田城跡(兵庫県朝来市)も、ペルーの空中都市マチュ・ピチュを彷彿とさせますよね」と東出氏は話します。

そうした唯一無二の映像とともに東出氏の心に残ったのは、「日本には、世界の活火山の7%がある」という言葉です。ここ数年多発する大規模地震を始め自然災害の多い日本では、全てが「諸行無常」――つまりこの世のあらゆる存在や現象は移ろい変化し、常に同じものはあり得ないということです。全てがはかなく、だからこそ日本人は、「一瞬の美」に心を打たれるのかもしれません。

「“日本人の心”と言われることも多い富士山(山梨県・静岡県)ですが、僕自身としてはこれまで何の思い入れもなく、まあ決まり文句のようなものかなと思っていたんです。でもこの映画で見て、富士山ってこんなにも美しいのかと感じました。最初から最後までストーリーテラーのように、ことあるごとに登場するのですが、四季折々、角度により、時間帯により、その表情は常に少しずつ違う。中盤に出てきた夕景は特に印象的でした。夕日を浴びて、頂上に頂く白い雪も、空も雲も、真っ赤に染まって……ずっと見ていたいなという気持ちになりましたね」と東出氏は言います。

映画の中で様々に表情を変えて登場する富士山。写真は精進湖(しょうじこ)から眺めた星空。

東出昌大インタビューここに立った後世の人に、この景色を見せたい。

「熊野古道(三重県・奈良県・和歌山県・大阪府)は、和歌山出身の父からよく聞かされていて、以前から行ってみたいなと思っていた場所です。父はカタブツで宗教や信仰に関してほとんど思い入れのない人なのですが、それでも熊野古道の空気感には、何かしら神聖で荘厳なものを感じると。あの父が言うくらいなんだから、それはすごいことじゃないかなと思うんです。千何百年前の人が作った古く苔むした石畳や山道、その両脇にたたずむ樹齢何百年の大木――そこには、時を超えて存在する何かがあるのかもしれません。この映画だからこそ、紹介されているんだろうな、とも」と東出氏。

映画が捉えた日本の様々な絶景は、先人たちが「ここに立った後世の人に見せたい。見せるべきだ」という思いから創造され、守られてきたものなのではないか。それを受け継いだ自分たちもまた、次の時代に引き継いでいく気持ちで、日々を生きていくべきではないか。映画を見て、東出氏はそんな風にも感じたといいます。

「東日本大震災の時、駅の階段に座り込む人たちが真ん中を開けて両サイドに座っていた、それが海外で驚きを持って報道されたと聞きます。他者に配慮する日本人の在り方は、そうした景色の中にも生きているのかもしれません。“日本人の心”というとおこがましいけれど、そういう精神性は世界に通じる美徳だと思うし、今後もつないでゆきたい。僕自身が、作品からそんなメッセージを受け取った気がします」と東出氏は語ってくれました。

熊野三山に通じる参詣道・熊野古道。「日本書紀」にも登場する自然崇拝の地であり、江戸時代には伊勢参詣と並ぶ庶民の信仰の対象だった。ユネスコ世界遺産登録。

1988年埼玉県生まれ。モデルとして活躍の後、2012年に映画『桐島、部活やめるってよ』で俳優デビュー。同作で日本アカデミー賞新人俳優賞他、数多くの映画賞を受賞。2013年のNHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』で人気を獲得、以降、映画、テレビ、CMなど幅広く活躍。『クリーピー 偽りの隣人』『聖の青春』『関ケ原』『散歩する侵略者』など話題作に次々と出演。2018年は、カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作『寝ても覚めても』(9月公開)と本作を含め、出演作6本が公開される。本作でともにナビゲーターを務める小泉今日子氏とは、2017年『散歩する侵略者』以来の共演となる。

2018年7月14日(土)公開 新宿バルト9 他全国にて
監督:中野裕之
脚本:柴崎明久・中野裕之
エグゼクティブプロデューサー:林 郁
プロデューサー:中野裕之
ナビゲーター:小泉今日子、東出昌大
出演:渡辺 大、及川さきの
タイトルディレクション:葛西 薫
配給:ファントム・フィルム
http://peacenippon.jp/
©2018 PEACE NIPPON PROJECT LLC

残したかったのは、日本の一期一会の美しさ。[ピース・ニッポン]

「同じ場所に行っても、同じ風景があることは二度とない。一期一会なんです。」と中野氏。

中野裕之インタビュープロジェクト始動のきっかけは、あの東日本大震災。

日本全国にある様々な「美」を記録した『ピース・ニッポン』。この映画の監督で、劇映画やミュージックビデオなどで知られる映像作家、中野裕之氏がプロジェクトを始動したきっかけには、あの東日本大震災がありました。
「3.11が起き、“電気がなければただの人”という事実に1週間くらいパニクった後、仮に電気が復活したとして、自分に貢献できることはないかと考えたんです。ちょうどその時に、東北の町の写真館が、保存していた写真もろとも津波で流されたという報道を聞いて、“自治体が運営する映像施設はどうなったんだろう”と気になりました。そうした映像資料の作り手を個人的に知っていたので問い合わせたら、やはりマスターからコピーまで全部流されてしまったと。インターネットへのアップロードもなし。本当に全部なくなっちゃうんだなって」と中野氏は話します。

その前年から、京都の3D映像を作ろうと撮影を始めていた中野氏。震災以前には、東北にあまりロケーション撮影に行っていなかったことに気付き、京都に限らず、日本中を記録していこうと心に決めます。当初は3DとHDで撮影しており、2年後には3Dと4Kに切り替え、同じ景色を取り直そうと同じ場所を訪ねてゆくのですが――このことが図らずも中野氏に、ある事実を強く強く実感させることとなります。

「同じ場所に行っても、同じ風景があることは二度とない。一期一会なんです。だから行ってはがっかりする(笑)。城もたくさん撮りましたが、例えば鶴ヶ城(福島県会津若松)なんて、桜吹雪が撮りたくて6回くらいは足を運びました。そうすると、去年すごい綺麗な場所だったからと思って、今年行ってみると、全部裏切られるんです。
紅葉を撮る時も、同じ場所に3~4回は行きますね。これもこの8年の間に知ったことですが、紅葉って3年周期なんですよ。去年は“当たり年”で、どこにいっても真っ赤だし、葉っぱ1枚まで寄っても綺麗だった。そういう時は“すごいじゃん!すごいじゃん!”って大興奮なんですが、それに対して“なんで赤くならないの!?”っていう徒労の2年のなんと悲しいこと」と中野氏は言います。

全国的には会津若松城という名で知られる「鶴ヶ城」。周辺の鶴ヶ城公園は桜の名所100選にも選ばれている。

一期一会の象徴のような桜の花。「今年はすごく美しく咲いていた場所が、来年も美しいとは限らない」と中野氏。

中野裕之インタビュー古代から今も残る日本の森、その豊かさと美しさ。

この映画を撮る以前には、仕事の拠点を海外に置いたこともある中野氏。そこから日本に戻った理由のひとつには、海外の自然では感じられなかった、日本の森の豊かさへの思いがあります。「八百万(やおよろず)の神」「山岳信仰」「森林信仰」という概念は、古代から何千年も続く森が今も多く残るがゆえ。そうした思いとともに映画の中に映し出される森は、奇跡のような美しさを放ちます。

「僕が個人的に、日本一の紅葉の名所だと思うのは十和田湖(青森県十和田市・秋田県鹿角郡)。これはゆるぎないです。京都のお寺にある紅葉も素晴らしいけれど、あれは人が植えたもの。人間の作った庭としてフレーミングした美。十和田湖はそのフレームを取っ払って、手前に膨大な水を引き込んだもの、極端な話、嵐山が100個くらいあるようなものです。桜は全然なくて、紅葉もブナなのでわりと黄色っぽいオレンジ系なんですが、時々ナナカマドとかの赤いのがポンと入ってる。夕暮れになると、そのオレンジが夕焼けを反射して真っ赤になる。奥にある蔦沼なんか、真っ赤な映り込みの美しさにもうびっくりします。“リオ・ネグロ(黒い川)”といわれるアマゾンに似た、鏡みたいな水面、しかも黒締めで。あんなに大きい湖が全部湧き水で、今も滾々と湧き続けている。その水がすごく旨くて、僕なんかガブガブ飲むんですけど」と中野氏は語ります。

「日本一の紅葉」と中野氏が語る十和田湖。日本で3番目の深さを持つカルデラ湖は、火山活動によってもたらされた賜物でもある。

十和田湖から流れ出した奥入瀬(おいらせ)渓流が作る蔦沼、その湖面に燃える紅葉の美しさ。

中野裕之インタビュー小さきものの中に宇宙を見る。それが日本人の感性。

日本を代表する原初の森として、多くの人が思い描くのは屋久島(鹿児島県)かもしれません。もちろんこちらにも中野氏は足を運び、「ジブリ映画が描くような、とてつもない森」と絶賛しています。でも中野氏が屋久島で最もお勧めするのは、少し違う場所のようです。

「屋久島に行くとみんな縄文杉を目指しますよね。でも初めて行くなら、苦行のような山登りをして縄文杉を見に行くより、いなか浜に行ってほしい。屋久島で僕はあそこが一番好き。夏休みに3km続くビーチをひとり占めにできる、そんな場所は他にありません。そこでおじさんが売ってるグァバ氷を食べると、美味しくて泣きそうになりますよ」と中野氏。

それから――と、中野氏が語ったのは、ちょっと屋久島とは思えない楽しみ方。屋久杉の原生林の森、白谷雲水峡の駐車場にびっしりと密生する「スギゴケ」に心を奪われて、全てをファインダーに収めようと4日間も駐車場に通ったのだそうです。

「日本には、モンゴルとかロシアとか、アメリカのグランドキャニオンみたいな、広大な風景はないんです。でも例えば苔を見るにしても、顔を10cmくらいまで近づけてずーっと動かせば、それだけで空撮になるわけでしょう。そういう小さいものの中に宇宙を見ることができるのが日本人だし、日本人の感覚なんだと思う。ノルウェイのツンドラとか、ハワイのジャングルとか、すごいとは思うんですが、ワイルドなんですよね。荒々しくて荘厳で、近寄りがたい。反対に、日本は繊細で可憐で耽美で、風情がある。紅葉の名所として知られる瑠璃光院(京都府京都市)にしても、中からしか見られないし、ちんまりしているんです。日がまんべんなく当たらないから、絶対に一度には紅葉しない。僕が撮りに行っても、ベストな状況って一回もない。でもだから瑠璃光(様々な色を反射する瑠璃の光)っていうんだけど、そういうものに美を見るっていう感覚って育つ環境だと思うんですよね。日本にはそういうものを分かってた人がいっぱいて、それが日本の文化とか歴史を作っているんです」と中野氏は語ります。

樹齢数百年の屋久杉が根を張り、枝を広げる屋久島の森は、「まるでジブリ映画の世界」と中野氏。

様々な色で溢れる瑠璃光院の紅葉は、床への映り込みやフレーミングによって美しさが際立つ。

中野裕之インタビュー億万長者にも総理大臣にも区別なく、自然は美しく過酷。

もちろんこれだけの美しい風景を撮るのに、相当の苦労がないはずはありません。誰も見たことのない「その場所」を探し、たどり着く苦労。誰も見たことのない「その瞬間」を狙い、待つ苦労。その最たるものは、山奥でひっそりと流れ落ちる「滝」を巡るものかもしれません。

「滝を撮る時って、晴れていないことがほとんどだし、晴れていれば晴れていたで、写真に撮ると白く飛んでしまうんです。でもある時間帯だけ、滝全体に日が当たって虹が出る。太陽の角度と自分がいる場所から計算して予測して、“この時間帯でこのあたりに虹が出るんじゃないか”とずーっと待って――ひとつも出ない(笑)。でもドローンで上から撮ると出ていたりすることもある。何かで写真を見て、でも実際はこんなにいいわけじゃないんだろうな……と期待しないで行ったら大当たり!なのに、そういう時に限ってドローンを持ってきていないんです(笑)」と、中野氏はその時のことを振り返りながら話してくれました。

中でも中野氏が「あのキツさは一生忘れない」と語るのは西沢渓谷(山梨県)の七釜五段の滝。

「前に3D、後ろにHDのダブルリュックに、三脚を持って歩いていたんですが、道幅がしだいに1mから30cm、15cmと狭くなってきて。そのうち鉄鎖が設置された急斜面で、すれ違えない一方通行になってきて、すごくいい景色なのに写真を撮るどころじゃなく、ただ進むしかない。やっと撮れるかなっていう所に来ても、人が後ろから来るからどかなきゃならない。ようやく滝の所にたどり着いたんだけど、そこから上に上がるとなるとほとんど垂直の壁。鎖があっても壁に貼り付きながら上がるようなところで、そりゃないよって。若い人、アドベンチャー好きな人なら最高だと思います(笑)」と中野氏は話します。

日本人の、一番日本人らしい所はなんですか?とたずねると、中野氏は「“お互い様”と思えること」と答えます。

「最近は“お互い様”がわからない人が増えていますよね。でもたとえ億万長者でも総理大臣でも、西沢渓谷まで行こうと思ったら自力で山を登るしかない。区別なくしんどいんです。自然はそういう謙虚さを思い出させてくれるものなんですよ」と中野氏。
自然とともに暮らすこと。それが日本人本来の生き方なのかもしれません。四国の仁淀川(高知県・愛媛県)では、そうした営みを目の当たりにしたといいます。

「仁淀川は高知市内から1時間くらいで行けるのですが、透明度は四万十川よりも高いと言われています。晴れて日が差すと“仁淀ブルー”と呼ばれる水がとんでもなくきれいで、川が増水した時に沈むように作られた“沈下橋”という、欄干のない橋が幾つもあります。しぐれていれば雲がワーッと上がる山間、その山筋をずーっと上がっていくと果てしなく山しかないんだけれど、山頂の少し下あたりにポツンポツンと民家がある。源平の戦いの頃からある集落なんんですが、よくこんな山深いところにと、人の営みの生命力にド感動しました」と中野氏は語ります。

天候、天気、湿度に左右される夕景もまた一期一会。

5つの滝が集まる高知県の轟(とどろき)の滝。流れる水が滝を作るのは、そこが険しい場所だからこそ。

中野裕之インタビュー旅の目的は「土佐清水サバ」と「飛騨桃」。それでももちろん構わない。

ちなみに仁淀川を含め高知県に足を運んだ時、中野氏は必ず食べるものがあるそうです。それは「べらぼうに美味い“土佐清水サバ”」。佐賀で言うところの「関サバ」と同じものですが、土佐の漁師が獲って持ち帰ると「土佐清水サバ」という名前になり、ずっとお値ごろな値段で食べることができるのだとか。「辛い思いもいっぱいしているけれど、例えば“美味しい栗”が一個食べられれば、それで満足」という中野氏。誰もがそうであるように、食は旅の大きな楽しみだといいます。

「8月9日、厄落としの日に行われる飛騨高山(岐阜県)の手筒花火打ち上げには、毎年通っています。市内を流れる宮川にかかる橋と橋の間に仮設の舞台を作り、とび職の人が5人くらい立って、花火を手に持って打ち上げる。橋の上ではガタイのいい男の子たちが褌(ふんどし)姿で太鼓を打ち鳴らして。カッコよくてシビれますよ。この花火の奉納の本家は愛知県の豊橋なんですが、それでも僕が飛騨高山を推すのは、飛騨桃と高山ラーメンが好きだから(笑)。僕は桃フリークで、飛騨高山は暑いわ寒いわの土地なので本当に桃が美味いんだけど、手筒花火の頃は一番美味しい。宮川の近くにあるフルーツ屋さんで桃を箱買いして、川の水で冷やしてその場でしゃくしゃくしゃくって食べる。これが昼の部。夜は高山ラーメン、たまに飛騨牛。実は福井から鯖街道が伸びてるから、鮨もめちゃくちゃ美味い。何回も行くところは、そこに美味しい店があるからかもしれません」と中野氏は話します。

飛騨高山の手筒花火。その火柱は圧巻の迫力。火の粉を浴びることで厄落としになるという。

中野裕之インタビュー自然の「ありがたさ」を知ることで、心はPEACEを得る。

いわゆる観光名所や美味しい食べ物など、目的は何でも構いません。とにかくその場所に足を運ぶこと。そしてそこに自分が立ったリアリティを感じること。インスタグラムで写真を撮るのも確かに楽しいけれど、それだけで行った気になり、振り返りもせず立ち去ってしまうのは、「もったいなさすぎる」と中野氏は言います。その場所に立ち、右から左までゆっくりと見て、深呼吸を5回。それだけで見えてくるもの、感じるものはきっと変わってくるはずです。それこそが中野氏の言う「PEACE」のように思えます。

「木々の間を抜けていく風を愛おしく思うこと。満開の桜にぱーっと風が吹き、散る花びらと一緒に呼吸をする。花吹雪が静まり、また静けさが戻る。さてと、じゃあそろそろ次に行こうか、と思いますよね。その“さてと”という瞬間に、僕は一番のPEACEを感じるんです。
自然を愛でることができる時間、空間を、僕は“ありがたい”と思う。何に対してか分からないけれど、感謝するんです。きれいなものがたくさんある日本には、“ありがたい”と思えるチャンスが無数にある。太陽に、山に、空気に、花の美しさに、美味しい食べものに。実際の場所に行き、その場所の空気を体内に吸い込んで、そういう国に住んでいることを実感してほしい。
上手く言えないんだけど、好きな彼女を誘って滝に行き2時間ゆっくり過ごしたら、きっと二人は恋人になる。仲間で行けば、絆はめちゃくちゃ深くなる。その場所を好きになれば、そこが自分の居場所――自分がPEACEになれる場所が増えてゆく。そういう場所をたくさん持つことが、本当の心の豊かさにつながってゆくんじゃないかなと思います」と中野氏は語ってくれました。

「自分が“PEACE”になれる場所を多く持つことで、本当の心の豊かさを得られる」と語る中野氏。

1958年広島県生まれ。早稲田大学卒業後、読売テレビに入社。その後1998年に「ピースデリック」を立ち上げ、’98年に初の劇映画『SF サムライ・フィクション』を監督。富川国際ファンタスティック映画祭グランプリ、毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞他、数々の映画賞を受賞。『SF Stereo Future』『RED SHADOW 赤影』、2009年の『TAJOMARU』(09)に続き、2014年には青森大学男子新体操公演のドキュメンタリー『FLYING BODIES』、そして『FOOL COOL ROCK! ONE OK ROCK DOCUMENTARY FILM』などを監督。また、米MTVアワード6部門にノミネートされたDeee-liteの "Groove is in the heart"を始め、今井美樹氏、布袋寅泰氏、GLAYなどのミュージックビデオも多く手がける。その映像制作は、CM、映画、ドキュメンタリーなど、多岐にわたる。

2018年7月14日(土)公開 新宿バルト 9他全国にて
監督:中野裕之
脚本:柴崎明久・中野裕之
エグゼクティブプロデューサー:林郁
プロデューサー:中野裕之
ナビゲーター:小泉今日子、東出昌大
出演:渡辺 大、及川さきの
タイトルディレクション:葛西 薫
配給:ファントム・フィルム
http://peacenippon.jp/
©2018 PEACE NIPPON PROJECT LLC

どこか懐かしいノスタルジックな気分になれる納涼花火大会。[安倍川花火大会/静岡県静岡市]

華やかなワイドスターマイン。

静岡県静岡市素敵なアナウンスも魅力のひとつ。

2018年で65回目を迎える『安倍川花火大会』は、戦没者の慰霊と鎮魂、復興を願って、1953年(昭和28年)に始まりました。安倍川河畔で開催され、地元に根付いたどこか懐かしい雰囲気を感じられる花火大会です。会場の入り口近くにかかる安倍川橋のたもとには、200年以上の歴史を誇る静岡県の定番土産である安倍川餅の老舗石部屋さんがあり、出来立ての安倍川餅を頂けます。花火大会の会場は整備が行き届いており、気持ち良くゆったりと観覧できます。中でもよりいっそう良い雰囲気を作り出しているのが会場アナウンスです。落ち着いた声と上品なアナウンスが会場を柔らかな空気で包み込みます。観覧客に対する気遣いも細やかで、皆が穏やかな気持ちになれる素敵なアナウンスです。一方、大スターマインを紹介する時の「だ~いスターマッイーーーン!」という特徴のあるアナウンスも観客を盛り上げます。

整備された会場でゆったりと観覧できます。

安倍川の河川敷が会場になっています。

静岡県静岡市花火には1発1発特徴を表す名前(玉名)がつけられています。

この花火大会を担当される煙火業者は地元静岡県の4社、イケブンさん、神戸煙火工場さん、静玉屋さん、光屋窪田煙火工場さんです。打ち上げプログラムには担当煙火業者や一つひとつの花火の名前(玉名)も丁寧に記載されていますので、それらを照らし合わせながら見るのも楽しいかもしれません。例えば「三重芯変化菊」「冠菊」「百花千輪咲」など様々な花火の名前(玉名)を知ることができます。「三重芯変化菊」とは、花火が開いた時に三重の芯が入り、その外側に本体が開く四重の花火。「冠菊」とは、花火が開いた後に火の粉がシャンデリアのように垂れ下がっていく花火。「百花千輪咲」とは、花火の玉の中に小さな花火玉が仕込まれていて、花火が開いた時に一瞬不発かな?と思わせるような間が空いた瞬間に、小さな花火がいくつも開く花火です。このように花火には開いた時の様子を表す名前がついています。近年は直接的な様子を表す物以外に、イメージを玉名にすることも多くなっています。プログラムを見ながらどんな花火が上がるのか想像すると楽しいですよ。

錦冠菊花火などを単発で一発ずつ丁寧に打ち上げていました。

静岡県静岡市尺玉の迫力、スターマインの華やかさ。

花火大会の全体的な構成としては、単発打ち上げあり、早打ちあり、スターマインありと、それらを組み合わせながら進んでいきます。迫力満点の大きな尺玉も上がります。仕掛け花火としては、櫓(やぐら)を組み、その櫓(やぐら)から花火を打ち出すタワー花火もあります。タワー花火は会場のどこからでもよく見えるというわけではありませんが、打ち上げ場所の正面中央あたりから見ると良いかもしれません。

枠仕掛け花火。

Data

安倍川花火大会

日時:2018年7月28日(土) 19:00〜21:00
場所:安倍川河川敷 MAP
安部川花火大会HP:http://www.city.shizuoka.jp/000_007547.html

※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。

1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751

忘れ去られた建物に、アートが 「きざし」をもたらす。[BIWAKOビエンナーレ/滋賀県近江八幡市]

メーンビジュアル「淡い陽」(小曽川瑠那)。花をモチーフにしたガラス作品だ。

滋賀県近江八幡市何度も行きたくなる芸術祭。その理由とは?

『BIWAKOビエンナーレ』は9月15日から11月11日までの約2ヵ月間にわたって開催されます。少し期間が長めですが、この芸術祭の特徴は「一度見るだけではもったいない」こと――。日を変え、時間を変えて何度も見たくなる不思議な引力があるのです。それがなぜなのか、この記事で解き明かしていきましょう。

虫籠窓(むしこまど)や「うだつ」が見られる重厚な建物が立ち並ぶ。

滋賀県近江八幡市建築的にも注目を集める街、近江八幡。

まずは滋賀県近江八幡市という場所の説明から。1585年(天正13年)に豊臣秀次によって築かれた城下町で、近世には近江商人が経済を活性化させて発展しました。碁盤の目状に整備された街には八幡堀が巡らされ、水運に恵まれ商業都市として栄えた当時の風情がそのまま残されています。新町通り、永原町通り、八幡堀沿いには築150年を超える豪商の旧家や商家が今なお立ち並び、国の重要伝統的建造物保存地域にも指定されています。

八幡堀沿いの「旧市街」と呼ばれるエリアは駅から少し離れている。

滋賀県近江八幡市歴史的に貴重な建物が、どんどん失われていった。

近江八幡の建築物は全国的にも珍しい造りだといわれます。屋根に防火用の壁である「うだつ」を上げ、虫籠窓(むしこまど)からは涼やかな風が入る町家。建物の中は柱を表面に見せた真壁造りです。また酒蔵には酒造りに必要な室や蔵があり、迷路のような構造になっています。2階から荷物を下ろすため吹き抜けになった倉庫もあります。しかしそういった建物は、持ち主の高齢化などにより維持が難しく、壊されて近代建築や駐車場に変わったり、荒れ果てたまま放置されたりするように。そうして、かつての古い商家が立ち並ぶ景観が失われていきました。

2016年の作品「幻視」(池原悠太)。アクリルの透明シートで幻想的な世界を表現。

滋賀県近江八幡市古いもの――海外では守られ、日本では壊される。

そんな現状を打開しようと声を上げたのは大津市出身の中田洋子氏。大学卒業後、約20年間にわたって海外で芸術創作活動をしたのち、フランスに在住。展覧会のキュレーターなどとして、アートを通じた国際交流活動に取り組んでいます。中田氏は自分の住むパリを含め欧米では古い建物を残す運動が盛んなのに対し、日本では自分たちの手で古い建物を壊すことを悲しく思い、故郷である滋賀県の景観の劣化を食い止めようと決意。この近江八幡ならではの建築を生かしたアートの祭典を開き、美しい街並みを後世に残そうと計画しました。

6月に都内の【ここ滋賀】で行われたプレス発表会。右から3番目が中田氏。

滋賀県近江八幡市「あの人ら、ボロボロの家綺麗にしてくれはるらしいで」。

しかし古い建物を保存することには様々な壁があります。高齢化による維持不能や人が住まないことによる廃墟化など、クリアしなければならない問題が山積みです。そこで中田氏は「NPO法人エナジーフィールド」を立ち上げ、日本各地から有志を募って、まず建物を清掃するプロジェクトをスタート。もちろん最初は地元の人々に受け入れられず、「このお化け屋敷を使って何がしたいんや」と訝(いぶか)しがられたといいます。しかし中には「面白そう」と建物を使わせてくれる人もいて、そこを掃除してアーティストの手で見違えるような空間になるのを目の当たりにすると、住民の見方もしだいに変わってきました。2001年の大津での初開催を経て、2004年には近江八幡で古い町家を現代アートと融合させたビエンナーレを成功させました。回を重ねるうちに「うちも使って」と名乗りを上げてくれる人も現れ、アーティスト数も会場も来場者も増えていったといいます。

長谷川早由氏の水墨画は、山の中で墨を磨(す)るところから始まるという。

滋賀県近江八幡市「中田イズム」に賛同したアーティストが続々と。

そうして2018年の今回、アーティストは77組、うち20組がスウェーデン、フィリピン、ポーランドなど海外から参加。8月頃から街中に作家が滞在制作し、近江八幡がインターナショナルな空気とアートで彩られます。会場は元酒蔵や醤油のもろみ蔵など12ヵ所です。榎 忠氏が元酒工場の空間に約8tの薬莢(やっきょう)で作品を演出したり、江頭 誠氏が日本間に毛布だけのオブジェを作ったりと、著名アーティストから若手まで、多彩な作家による個性豊かな表現が繰り広げられます。『プレBIWAKOビエンナーレ』もマニラとパリで開かれるなど、日本を飛び出して展開されています。

花柄の毛布で日本間をシュールな空間に仕立てた「お花畑」(江頭 誠)。

滋賀県近江八幡市古い建物は、そこに入る光すら芸術になる。

何より見所は、この作品全てが「空間ありきの展示」だということです。蔵の壁の破れ目から差し込む朝の光、虫籠窓(むしこまど)から注ぐ木漏れ日、ヒグラシの声とともに下りる薄闇。「午後の光じゃないと見られない表情もある。晴れの日と曇りの日ではまた表情が違う。日を変え、時間を変えて見てほしい」と中田氏。自身も、「あの作品はこの時間が一番綺麗なんや!」と言って、会場を走り回って見に行くそうです。つまり、シチュエーションによって作品の美しさが変わるのです。冒頭で「何度も見たくなる芸術祭」と称したのは、そんな意味からです。
中田氏をはじめ、運営メンバーやアーティストは皆エネルギッシュで和気あいあいとした雰囲気。1日からでも参加できる「サポーター」も募集しています。町家や蔵、工場を清掃しながら、アートを通じて国際交流――。そんな形でこの芸術祭に関わるのも、少し面白そうですね。

「薬莢/Cartridge」(榎 忠)2012年 兵庫県立美術館。撮影:豊永政史(SANDWICH GRAPHIC) ©Chu Enoki。

時空間造形作家の田中真聡氏は、有機的に動くオブジェ作品について記者会で語った。

球体に入ると、自分の「動き」が可視化される作品について説明する田中誠人氏。

開催期間:2018年09月15日(土)~11月11日(日)
開場時間:10:00~17:00
休場日:火曜定休
開催場所:滋賀県近江八幡旧市街 MAP
料金:会場パスポート料金
一般2,200円【前売2,000円】、学生(大学生・専門学校生・高校生)1,500円【前売1,300円】、中学生以下無料
写真提供:NPO法人エナジーフィールド
https://energyfield.org/biwakobiennale/

「本当の沖縄」から生まれた「しまんちゅの良いもの」をお届け。[琉Q/沖縄県那覇市]

沖縄の「上等素材」から生まれた逸品たち。「普段の暮らしの中に“沖縄の良いもの”を自然に取り入れてもらう」ことを目指す。

沖縄県那覇市「本当の沖縄」の姿と、そこから生まれる恵みや知恵を届けたい。

抜けるように青い空。エメラルドグリーンにきらめく海。さんさんと降り注ぐ太陽の光を受けて真っ白に輝く砂浜――誰もが思い浮かべる沖縄のこんなイメージは、しかし、「本当の沖縄」の姿なのでしょうか?

「意外に思われるかもしれませんが、沖縄は曇りや雨の日が多くて日照時間が短いんです。台風も頻繁に来るので、観光パンフレットなどで強調されているこういった風景は、日常ではさほど見られません。でも、そんな曇りや雨の日々の中にも柔らかな光に包まれたなんとも言えない風情や、穏やかさなどがあります。そんな沖縄の“本当の日常”から生まれた“良いもの”を、ありきたりな『土産物』ではないハイセンスなアイテムにしてお届けする――それが『琉Q(ルキュー)』のコンセプトです」と語るのは、『GUILD OKINAWA』の地域プロデューサー兼クリエイティブディレクターの仲本博之氏です。つくられたイメージではないリアルな沖縄が育んだ恵みや、そこで地に足をつけて生きる人々の知恵を届けたい――この想いが、『琉Q(ルキュー)』のアイテムとして結実したのです。

イメージに反して曇りや雨の日が多い沖縄。しかし、雲間から降り注ぐ柔らかな光や、恵みをもたらす雨こそが、他にはない滋味や手仕事を生む。

どこにでも手に入るような「ありきたりな土産物」ではない、真のオリジナリティを実現。

沖縄県那覇市「ありふれた沖縄」のイメージを打ち破る逸品。

『琉Q(ルキュー)』がラインナップしているのは、沖縄にしかないストーリーや出会いを感じさせてくれる逸品たちです。形骸化した観光地としての「沖縄」や、そこかしこに溢れている「土産物」からは決して見つけられないハイセンスな「本物」。『東村の塩パインバター』『沖縄の島唐辛子のコーレーグース』などなど、いずれも著名なデザイナーズアイテムと並べても見劣りしない存在感があります。

『沖縄の島唐辛子のコーレーグース』180ml 1,058円(税込)。島唐辛子のピリッとした辛さと泡盛の風味が芳醇に香る。

『沖縄のパッションフルーツバター』40g 604円(税込)。イギリスで愛されているレモンカードを沖縄の果物で再現した。

『沖縄八重山の島胡椒ピィパーズ』11g 702円(税込)。ひと振りするだけであらゆる料理やお菓子、飲み物などに南国のエキゾチックな香りをプラス。

沖縄県那覇市「本当の沖縄」の姿を伝えるために1からブランディング。

仲本氏が『琉Q(ルキュー)』を立ち上げたのは、障がい者の就労支援を行っている『一般財団法人 沖縄県セルプセンター』から、「商品の販売促進をお願いしたい」と依頼されたことがきっかけでした。
「でも、実際にその時点であった商品を見せて頂いたところ、一般市場で競争するにはクオリティが足りないと思えたんです。障がい者の訓練の一環として作られていたため、簡素だったり、しっかりブランディングされていなかったり、といった課題を感じました。そこで全く別の提案として、『新たにハイクオリティなブランドを立ち上げてラベリングなどの作業を依頼できるようにしましょう』とお伝えしました」と仲本氏は話します。

そうなると、それなりの高額商品として1からブランディングしなくてはいけません。例えば瓶製品のシール貼りなどは、手作業で行うよりも機械化した方がコストは安くなります。手作業にしてその工賃を支払うためには、一般市場のデザイナーズブランドとも渡り合えるクオリティが絶対条件でした。

仲本氏。「本当の沖縄」の姿と沖縄の「本当の日常」から生まれた「良いもの」にこだわる。

就労支援事業所での作業風景。これも大切な「手仕事」。

沖縄県那覇市やはりこれは譲れない、「本当の沖縄」の商品を届けたい!

更に仲本氏には、広告代理店でブランディングや企画を手がけていた経験から、既存の沖縄の「土産物」に対する違和感がありました。黒糖入りのありふれたお菓子、ハイビスカスのエキスを入れた化粧品や香水、とかくギラギラと派手に目立つパッケージ、など――。

「果たしてそれらは、本当に“沖縄の商品”といえるのかどうか。そのような無理に作られた物ではなく、真の沖縄の風土に育まれた果物や野菜などを、誰もが手に取りやすい日用品にしていきたい――そう考えました。ですが、高価格帯のブランドにするためには、沖縄の住人ではなく都市圏の人々をターゲットにする必要があります。そこで、都市圏の視点を持つクリエイターに協力して頂きたい、と思い、かねてより注目していた『キギ:KIGI』の植原亮輔さんにメールを送りました」と仲本氏は話します。

デザインユニット『キギ:KIGI』を主催する植原氏(左)と渡邉良重氏(右)。企業やブランド、ショップなどのアートディレクションを幅広く手がける。

「農業生産法人アセローラフレッシュ」のアセローラ畑。生は収穫から数日しかもたないが、『琉Q(ルキュー)』の「沖縄本部のアセローラジャム」は長く味わえる。沖縄はアセローラ栽培の北限地で、国産アセローラの生産者は同法人を含めてわずか30軒ほど。

沖縄県那覇市2人のクリエイターの熱意が実を結んだ。

仲本氏は、溢れる熱意を2万字ものメールに込めました。
「植原さんとは知り合いでもなんでもありませんでしたが、メールを読んですぐに共感してくださって、次の週には沖縄に飛行機に乗って来てくださったんです。そのまま意気投合して『琉Q(ルキュー)』の生産者の現場を巡り、めでたくディレクションをお任せできることになりました」と仲本氏はその時のことを振り返ります。

植原氏は最先端のアートディレクターとして活躍しながらも、障がい者支援への理解も深い人物でした。その点も『琉Q(ルキュー)』のコンセプトとぴったりと一致。頼もしいパートナーになってくれたのです。

海水をかけて育てている「カナンスローファーム」の塩パイン。人気商品『塩パインバター』の原料。

ジャム・調味料・塩・砂糖など、誰もが手に取りやすい「日用品」として提案。

沖縄県那覇市志が高かったぶん、苦労もひとしおだった。

ところが、実際に『琉Q(ルキュー)』をブランド化するまでには並たいていではない苦労がありました。
「こだわればこだわるほど、ふさわしい原料を作っている生産者さんが見つからないこともあり、取引の交渉が難しかったんです。例えばパッションフルーツは無農薬で作っている農家さん自体が希少で、沖縄を北から南まで歩き回ってようやく見つけました。まるで探偵のように情報を集めては聞き込みをし、1軒1軒訪ねていったんです。そして原料をジャムやバターに加工してもらうパティシエさんも、無添加や手作りなどの方針を受け入れてくれる方がなかなか見つからなかった。『琉Q(ルキュー)』の商品は、どれもこのように一歩一歩積み重ねるように作り上げていったんです」と仲本氏は語ります。

『コーレーグースと琉Qの琉球ガラス瓶』4,760円(税込)にセットされている『琉球ガラス瓶』も、最初は職人かたぎなガラス工房の社長さんにロゴマークを刻印するのを拒まれてしまったそうです。それでも何度も訪ねては説明することで、仲本氏の想いを理解してもらいました。

BEAMSや無印良品ともコラボレーションしている「奥原硝子製造所」の『琉球ガラス瓶』。コーレーグースが更に美味しそうに見える。

1個でも数個でも、「本当の沖縄」を求める人々のもとに届けたい。

沖縄県那覇市「見たことのないお土産!」と大反響。

こうして完成した『琉Q(ルキュー)』のアイテムは、沖縄の空港やデパートで満を持してデビューしました。

その際に多く寄せられたのは、「お土産にあげたらとても喜ばれた!」という声でした。やはり仲本氏の想いは間違ってはいなかったのです。「当時は東日本大震災の影響で『食の安全』についての意識も高まっていたため、『沖縄独自の自然由来のもの』『素材や製法にこだわった良いもの』といった『琉Q(ルキュー)』の方針に多くの反響を頂きました。特にアセローラやパッションフルーツなどのジャムが好評でした」と仲本氏。

その後、植原氏の『キギ:KIGI』のルートで販売してもらい、東京にも販路を得るなどして、『琉Q(ルキュー)』の商品はますます評判になりました。「本当に魅力ある沖縄の品々を普段使いしてほしい」という仲本氏の想いは、少しずつ実現し始めています。
植原氏曰く、「現在は沖縄県内を主として、少しずつ全国にも販路を拡げています。様々な地域の方々にぜひ手に取って頂きたいですね。『取り扱ってみたい』と思われるお店があれば、少量でも大歓迎ですのでぜひお問い合わせください」とのこと。

紺碧の空でなくても真っ白な砂浜でなくても、沖縄はこんなにも美しい。

沖縄県那覇市「本当の沖縄」をもっと知ってもらうために。

「本当の沖縄」と人々を結びつけようという『琉Q(ルキュー)』の試み。それを更に前に進めるために、仲本氏は新たな計画も立てています。

まずは果物の木のオーナー制度。買って味わう立場だったお客さんに生産の現場にも関わってもらい、木から採れた実で作ったジャムなどをお届けして、畑や生産者に想いをはせて頂く、という試みです。
次に、『琉Q(ルキュー)』の世界観を体感できる『琉Q TRIP(ルキュートリップ)』。

『琉Q(ルキュー)』の商品に縁(ゆかり)のある土地や、『琉Q(ルキュー)』と同様の意識で良いものを作っている人々を訪ねて、見て・知って・体験してもらう旅。こちらは既にモニターツアーを数回実施しており、いずれは正式なツアー旅行として開催することを視野に入れているそうです。
「観光やマリンスポーツといった“非日常の沖縄”からは見えない“本当の沖縄”の姿。そこに息づく暮らしや文化も、ぜひ伝えていきたいんです」と仲本氏は語ります。沖縄を心から愛する地域プロデューサーが展開する『琉Q(ルキュー)』は、美味しさだけでなく、沖縄の人々の想いをも届けています。

人気商品『琉Q山猫のやちむん(焼き物)』を囲んで。愛らしい姿の焼き物には、上品な口当たりのきび砂糖を入れられる。

お問い合わせ先:一般財団法人 沖縄県セルプセンター
住所:沖縄県那覇市首里石嶺町4-373-1 MAP
電話:098-882-5663
営業時間:9:00~18:00
休日:土曜・日曜・祝祭日
HP:http://ruq.jp/
琉Qウェブショップ:http://shop.ruq.jp/
写真提供:琉Q

魅力はピースな一体感。どこにも似ていない夏フェス。[大宴会 in 南会津2018/福島県南会津郡]

今年で9年目を迎える「大宴会 in 南会津」。乾杯の音頭で、アーティスト、スタッフ、観客の境界線が消える。

福島県南会津郡

福島県の山間にある小さな町・南会津で、2010年に始まった『大宴会 in 南会津』。地元のボランティアが作り続けてきた手作りの夏フェスは、9年目を迎えた今年、チケットが前売りでソールドアウトするほどの人気となっています。

地元でカフェ「JI*MAMA」を営む発起人の五十嵐大輔氏が、時に「村祭り」と表現するそのスタイルは、他のどんなフェスにも似ていません。訪れる人たち、そしてフェスを作る人たちが、魅了されるのはなぜなのか。今年の大宴会を紐解けば、その物語が見えてくるかもしれません。

地元でカフェ「JI*MAMA」を営む発起人の五十嵐大輔氏のあいさつで始まった「大宴会 in 南会津2018」。

子供たちも一緒に楽しめる夏フェス、それが「大宴会 in 南会津」。

福島県南会津郡夏フェス『大宴会 in 南会津』。主役は音楽、そして地域愛。

緑深い「うさぎの森のキャンプ場」の一角に、響く「カンパーイ」の声。
ステージに立つのは「U-zhaan&環ROY&鎮座DOPENESS」のユニット。その音楽の合間の小休止に、フェス代表の五十嵐大輔氏がやにわに舞台に表れます。手にしているのは南会津伝統の手仕事「南郷刺し子」の半纏。おもむろに袖を通した鎮座氏、観客に「みんな、自分の飲み物、用意しました?」と声をかけ、冒頭の「カンパーイ」へつながります。小さなステージに集まる人たちと、文字通り手の届く距離にいるアーティスト、そしてスタッフたちの一体感――でもそれは「ギュッ」とした感じではなく、「ほんわか」とした、なんとも自由でピースな一体感です。

今年で9回目を迎えた、南会津の夏フェス『大宴会 in 南会津』。夏フェスですから主役はもちろん音楽なのですが、フェスの代表を務める五十嵐大輔氏は「普通の夏フェスと思ってきたら、ちょっと違うかもしれません」と言います。

チケットが完売御礼の今年ですが、このフェスに集まるお客さんたちはせいぜい1000人超えるくらい。ステージを取り巻く人たちの中には、小さなお子さんを抱っこしながら、一緒に身体を揺らすお父さんお母さんの姿もたくさんあります。その観客の外縁にはたくさんの色とりどりのテントが張られ、ゆったり寝転びながら音楽を聞く人もいれば、気持ちよくウトウトしている人も。そのさらに外縁には――なぜか鍛冶仕事に熱中する男の子と、独楽回しに苦戦する20代女子……?

ちょっと不思議な気もしますが、これこそ『大宴会 in 南会津』なんです。

乾杯に欠かせないのは、会津伝統の手仕事「南郷刺し子」の半纏。

「家族で楽しめる、のんびり感とユーモア」を意識してセレクトするアーティスト。そのものの存在である「ハンバートハンバート」は、2回目の出演。

今年のオープニングアクトを飾ったのは、地元の高校生シンガー、大竹涼華氏。

会津山村道場内には「ベビールーム」も用意。小さな子供連れにも好評。

音楽を遠くに聞きながら、ゆったりと寝転がって過ごせるのも、『大宴会 in 南会津』ならではの楽しさ。

「和釘づくり体験」のワークショップ。赤い鉄を叩くことで、形が作られていくことに
興味津々の子供たち。

福島県南会津郡それぞれのペースでのんびり楽しむ、居心地のいい夏フェス。

9年前に始まった『大宴会 in 南会津』。その始まりは、代表である五十嵐氏が自身の営むカフェ「JI*MAMA」で、ある音楽好きのお客さんと意気投合したこと。当然ながらフェスを企画するなんて初めてで、ノウハウも何もないまま初回は開催。予想外に好評だったのは、地元色の強い飲食やワークショップでした。そうしたスタートが、『大宴会』を、他のどんな夏フェスとも違う独自の路線へと進ませてゆきます。

例えば今回の『大宴会』でステージから一番離れた場所で展開していた、「森の幼稚園・こめらっこ」。猪苗代のお母さん仲間が運営する、子育てサークルによるワークショップです。小さなテントの中では南会津の木や草花、土を使った遊びが用意されていて、周辺ではたくさんの子供たちが裸足で走り回る賑わいです。

さらにそのすぐ横で行われているのは、地元のお爺ちゃんが教える「昔遊び」。木の枝や幹から作られた独楽回しを、「難しい!」と夢中になっているのは、むしろ大人たちのほうかもしれません。

スタッフの一人、今年で4回目の参加の加茂氏は言います。
「最初に聞いた時は“こんな山奥で、それも地元の人が手作りでやってるフェスなんて、面白いの?”と。でも“ちょっと覗いてすぐ帰る”くらいのつもりで遊びに行ったら、すごく楽しくて。結局最後まで残ってしまいました(笑)。それまでは、“音楽フェスって、ちょっと疲れる”と思っていたんですが、『大宴会』はみんながそれぞれのペースで、それぞれに楽しめる。それがすごく居心地がよかったんですよね」

毎年好評のワークショップ「森デコ体験」。草花を髪に飾る子供たちがかわいい。

南会津の木材の端材を積み木代わりに。自然の中には、工夫次第でたくさんの遊びを見つけることができる。

昔遊びを教えるおじいちゃん。独楽は、木の枝を短い円柱状にして、片方を尖らせただけの素朴なもので、ベーゴマ風にヒモを巻いて回す。

いわき出身で、大学時代は茨城で過ごしたという若手スタッフの加茂氏。南会津で就職したのをきっかけに、大宴会にかかわるように。

福島県南会津郡同じ思いを持つ人たちが、『大宴会』を通じてつながってゆく。

とはいうものの、そこには共通するテーマがあります。それこそ“南会津”。豊かな自然や歴史を持つこの地方で暮らす楽しさや価値を、様々な方法で掘り起こしてゆくことです。

もちろん、地元で評判になっているカフェや、名物料理を持つ店の出店も、そんな切り口のひとつ。その一方で、かつてコメの収穫時期に食べた郷土食“信五郎”(うるち米の団子に、特産の荏胡麻味噌を塗って焼いたもの)や、南会津の4つの酒蔵が出す地酒も忘れてはいけません。今年初登場の地ビールも飛ぶように売れています。

でもそうした出店者を南会津のみに限定しようとは、五十嵐氏は思っていません。
「この土地にある“自然に根差した暮らし”という部分に共鳴できるものがあれば、あとは人と人とのつながりの方が大切だなと。この9年間の間に、点として存在していた同じ思いを持つ人たちが、様々なところで繋がり、その友達がまた繋がって、最近では福島県内の範囲まで徐々に広がっています。そうやって繋がることこそが、これからの地方都市のいい在り方なんじゃないかなと」

うるち米の団子に、地元特産の”じゅうねん(えごま)”の味噌をつけて炭火で焼いた「信五郎」。農民が納めるべき新米を食べたいがため、米とバレないよう黒い味噌をつけた、という説も。

南会津にある4つの酒蔵の4種類の地酒を楽しめるブースも。

福島県内を中心に、飲食、物販、ワークショップなど、34の店舗が参加し、大宴会を盛り上げた。

福島県南会津郡頑張っているみんなが、世代を超えてひとつになれる場所。

初回の時に何の気なしに選んだ会場「会津山村農場」の存在も、そうしてみると、深い意味があるように思えてきます。五十嵐氏は続けます。
「ここは戦前から戦後にかけて、南会津の農業従事者を育てるための学校だったのですが、政策が農業から林業に転換してゆくにつれて使われなくなってしまったんです。それが再開発の話が持ち上がった時、地元の卒業生を中心に署名活動が起こり、補修して保存されることに。以前、90歳くらいのお婆ちゃんが見に来て、本当に当時のままだとおっしゃっていましたね」

そうして守られてきた歴史が、五十嵐氏たち30代半ばの世代に受け継がれていくように、『大宴会』の精神もまた、新たな歴史として若い世代に引き継がれてゆきます。初回に高校生ボランティアとして参加し、この数回の『大宴会』では若手の中心的役割を担う樋口聖也さんは言います。

「初回は高校生ボランティアとして参加したんですが、すごく刺激を受けました。小さな町でも、やろうと思えばこんなことができるんだな、って。自分が何かやろうと思った時には、大輔さんに相談に乗ってもらえる、そう思えるのも心強いです」

自分たちが住む町にある、歴史、魅力、刺激、信頼、自信。1年また1年と年を重ねることで、『大宴会』は南会津の人たちに様々なものを実感させているのかもしれません。前出の加茂氏は言います。
「正直準備している間はすごく大変で、直前まで胃がキリキリ痛むことも。でもこうしてたくさんの人たちが集まり喜んでくれること、1年に1度、同窓会みたいに仲間と集まれること、元気でやってた?と言いながら再会できることが、すごく嬉しい。『大宴会』は、地元でそれぞれ頑張っている人たちが、世代を超えてつながれる場所。フェスなんだけれど、“大宴会”っていう言葉がやっぱりふさわしいなって思います」


(supported by 東武鉄道

修復し次世代に引きつがれが「会津山村農場」は、この地に息づく「自然とともに生きる暮らし」のシンボルでもある。

若手スタッフの中心的役割を担う樋口聖也氏は、地元菓子店の跡継ぎ。東京で修業し、3年前に南会津に戻った。

大成功で幕を閉じた2018年の『大宴会 in 南会津』。終了後は、関係者の労をねぎらう大宴会が開かれた。

※2018年度のイベントは終了致しました。
住所:〒967-0014 福島県南会津郡南会津町糸沢字西沢山3692-20
会津山村道場うさぎの森オートキャンプ場 MAP
※最寄り駅:「会津山村道場駅」徒歩約10分
電話:0241-66-2108
http://daienkai.org/

海を地を越え、世界中にアートの架け橋を。[水と土の芸術祭/新潟県新潟市]

松井紫朗『君の天井は僕の床/ One Man's Ceiling is Another Man’s Floor』2011(photo : Shiro Matsui)

新潟県新潟市生命の源となる「水」「土」への敬意をこめて。

全国各地に数あるアートイベントの中でも、この芸術祭が珍しいのは、都市名ではなく「水」と「土」というエレメンツを表題に掲げていることではないでしょうか。舞台となるのは新潟。2009年に始まったこの「水と土の芸術祭」がどのようなメッセージを発信し、そして今年はどんな新たな挑戦を目論んでいるのか、開催を前に少しだけご紹介します。

福島潟(写真)、鳥屋野潟、佐潟など多くの潟が点在する。

新潟県新潟市“潟”に抱かれた自然豊かな大地。

「新潟」と聞いてどのようなイメージを抱きますか? 日本海に面した荒々しい風土、そこで生きる人々のたくましい暮らし、信濃川や阿賀野川の水流に恵まれた自然豊かな大地。まさにこの芸術祭は、そういった「水」と「土」によって形成された独自の文化や生活に光をあてることで、人間と自然との関わり方を見つめ直し、ひいては豊かな未来社会を展望していきたいという思いから生まれたものです。「私たちはどこから来て、どこへ行くのか~新潟の水と土から過去と現在(いま)を見つめ、未来を考える~」を基本理念に3年に1度開催され、今年で4回目を迎えます。

谷氏はヴェネチア・ビエンナーレなどでコミッショナーを務めた。(photo:Osamu Nakamura)

新潟県新潟市芸術祭の柱は5つのプロジェクト。

総合ディレクターを務めるのは美術評論家の谷新氏。今回のコンセプトを「メガ・ブリッジーつなぐ新潟、日本に世界にー」と掲げ、「この芸術祭は、新潟と日本各地、そして世界を結び、市民同士を結び、新しい感性、視点を育む壮大なアートの架け橋」と語ります。主なプロジェクトは「アートプロジェクト」「市民プロジェクト」「こどもプロジェクト」「シンポジウム」「にいがたJIMAN」の5つ。「多彩なアプローチでこれまでにない新潟市の魅力を発信していきたい」という谷氏の意気込み通り、世界で活躍する作家による作品展示から、市民自ら企画・運営するプロジェクト、ワークショップ、食や伝統芸能を楽しむイベントまでさまざまな催しが繰り広げられます。

塩田千春『Where are we going?』スタジオでの制作風景2016 Berlin (Photo : Sunhi Mang)

新潟県新潟市キーワードは「地、水、火、風とそれによって育まれる生命」、そして「環日本海」。

目玉となる「アートプロジェクト」には2つの柱があります。1つ目は、「世界を構成する四元素と考えられてきた『地(土)、水、火、風(大気)』に焦点を当てる」ということ。少し難しいですが、作家たちはこれら生命のもとになる自然的要素=素材と対話し、「命とは何か」「生きるとは何か」といった芸術の根源となるような命題に挑み、それらを自分なりの解釈に落としつつ人間と自然との関係を表現します。

セルゲイ・ヴァセンキン『I will become a captain』2016

新潟県新潟市アートは国籍を問わず人の心を揺さぶる。

もう1つは「日本海に面した新潟の過去と未来」に関わるもの。現在、日本海を挟んで向かい合う国とは極度の緊張関係にあります。そういった国際的障壁を取り払い、中国、韓国、ロシアの作家たちと交流し、日本海にアートによる橋を架ける。まさに谷氏の「メガ・ブリッジ」がその根底にあり、この芸術祭における大きな意義といえるかもしれません。

例えば、冬の日本海を思わせる曇天の海原を描く画家・ロシアのセルゲイ・ヴァセンキン氏や、日本画壇に旋風を巻き起こした韓国の異彩画家・柳根澤(ユ・グンテク)氏といった環日本海の国々の作家たち。こうした海外独自の伝統技法や感性がつくり出す芸術が新潟という地にもたらされることも、相互理解への第一歩と言えるでしょう。

星野曉『再生/コペルニカス以前の泥Ⅱ』1998 (photo:Nathalie Sabato)

新潟県新潟市ジャンルを問わない47作品。市内全体が展示会場に。

日本の作家では、黒陶による漆黒の色合いが特徴的な陶オブジェを作る星野曉氏や、素材の特性を活かした絵画と彫刻作品を絶妙なバランスで展示する森北伸氏など、絵画から彫刻、陶芸、インスタレーションまで、ジャンルを問わないアーティストが参加。万代島にある、かつて水産物の荷さばき施設だったかまぼこ型の建物(通称「大かま」)や新潟市芸術創造村・国際青少年センター、天寿園をはじめとした18会場に作品が展示されます。

森北伸『ライムライト(街の灯)』2016

新潟県新潟市市民が「自分ごと」として関われることが大事。

そしてこの芸術祭の最大の特徴が、市民自ら企画・運営を行う「市民プロジェクト」です。各地の芸術祭でこういった市民プロジェクトが行われますが、「水と土の芸術祭2018」では今年新たな可能性に踏み出します。それは空き家を地域の人達が集まる茶の間にリノベーションするなど、アートを活用して地域の課題に取り組む「地域拠点プロジェクト」の実施。例えば秋葉区で作家の深澤孝史氏を招へいし、区の特色である「石油」「花と緑」などの地域資源を活かして開かれる「水と油の芸術祭(仮)」や、南区臼井の狸伝説にちなんだ「狸の婿入り行列」を地域のシンボルとして盛り上げる「狸の婿入り行列プロデュース」など、このような地域拠点プロジェクトを含む84ものユニークな市民プロジェクトが催されます。

また「にいがたJIMAN」では伝統芸能や音楽などのほか、新潟の水と土がもたらした最大の宝物である「食」や「農」の魅力を紹介。料理人と生産者によるクッキングショーや、親子で新潟を巡る「収穫」&「ご飯ワークショップ」、マルシェなど美味しい催しも盛りだくさんです。

地球上の万物がその恩恵を受けてきた「水」と「土」。この芸術祭は、新潟という一地方にとどまらない世界的な視点で、人と自然との関係性について問いかけるグローバルなアートイベントだといえるでしょう。

「狸の婿入り行列プロデュース」では築100年の『たぬきの茶の間』も会場に。(photo:臼井アートプロジェクト2016)

2015年に行われた「小須戸ARTプロジェクト2015』(photo:Osamu Nakamura)。今年も多彩なプロジェクトに期待。

Data
水と土の芸術祭 2018

開催期間:2018年7月14日(土)〜10月8日(月・祝)
開催場所:新潟市内全域(メイン会場:万代島多目的広場) MAP
料金:大かま 万代島多目的広場(屋内)、NSG美術館、天寿園(屋内会場)は有料。有料3会場に入場できるお得なパスポート:一般1500円(前売1200円)、学生・65歳以上1000円(前売800円)。単館チケット(当日券のみ)もあり。
その他、無料会場多数。
http://2018.mizu-tsuchi.jp/
写真提供:水と土の芸術祭2018実行委員会・新潟市

静謐で神秘的な地で開かれた幻の饗宴『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』 スペシャルムービー公開。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

大分県国東市

DINING OUT KUNISAKI with LEXUS(2018年5月開催)の感動を、スペシャルムービーとフォトギャラリーでお届けします。

13回目となる今回の『DINING OUT』の舞台は、六郷満山文化随一の歴史を持つ古刹・文殊仙寺です。今回設定されたテーマは『ROCK SANCTUARY―異界との対話』。山岳信仰と神仏習合の地として知られる大分県国東半島。静謐で神秘的で、それでいてどこか懐かしい。そんな会場で開催されたプレミアムな饗宴。ぜひ体感してみてください。

作り手と食べ手を直につなぐ、新しい農業。[Farm Owner’s/ 山形県山形市]

オーガニックで味が濃い、『Farm Owner’s』の野菜。

山形県山形市農家が自分のために、野菜を育ててくれる。

カブ主になりませんか? ただし、配当は野菜です―。
こんな面白いキャッチフレーズのもと、2016年2月、山形県であるユニークな農業の形が誕生しました。その名も『Farm Owner's』です。

ウェブサイト上で「蕪(株)券」を買うと、農家のオーナー(蕪主)になり、自分の食べたい種類の野菜が届けられるというシステムです。立ち上げたのは、誰よりも伝統野菜を愛する農家の4代目・佐々木康裕氏です。

農薬や化学肥料は使わず、腐葉土など自然に近い環境で育てる。

山形県山形市味が美味しく安全でも、農家が作りたがらない。

「本来、ピーマンは苦いものなんです」と佐々木氏。昔ながらの固定種・在来種と呼ばれる野菜は、トマトはトマトらしい酸味がしっかりあり、ニンジンは土の香りがして、大地の味が感じられるもの。それが今は、トマトはトマトを超えた糖度を追求され、根菜や葉菜もえぐみが少なくなり、何よりも形が綺麗で均一です。それらが悪いわけではありませんが、農薬や化学肥料を使うことで大量生産を可能にしている場合も多いため、健康面への影響が懸念されています。

国の発表によると、現在有機野菜は市場の0.4%程度で、更にその中でも固定種や在来種は約0.01%しかないそうです。農家がこういった野菜を育てないのは、「特別な野菜を育ててもJAや市場には適正な値段で売れない」「ほとんどの農家の人が70歳近くで、自力で売り先を広げるのが難しい」「農薬や化学肥料を使わないことで野菜の成長が遅くなり、しばらく収入が減る」といった理由があると佐々木氏は話します。

生育状況はSNSやグループメールで通知される。

山形県山形市農家は安心して作れる。消費者は信頼して買える。

一方でそういった安全な昔ながらの野菜を求める消費者は増え、レストランでも在来種の無農薬野菜を使いたいというシェフも多くなっています。ですが、作る人が少ないため、これらはスーパーマーケットにもあまり並ばず、あっても種類が少なく、価格も高め。この流通のミスマッチをなんとかしようと考えた佐々木氏は、「作った野菜を買ってもらう」という従来の仕組みから、「食べたい野菜を農家に育ててもらう」という関係に変えることを考えつきました。それが、この『Farm Owner’s』という制度です。

農業は素人だったため一から勉強したという佐々木氏。

山形県山形市年収200万円程度という状態を、当たり前と思ってはいけない。

佐々木氏の家は4代続く農家でしたが、「農業は儲からないからやめなさい」と祖母に諭されていました。佐々木氏は一度全く違う仕事に就いていましたが、東日本大震災で食の安全や日本の農業の大切さを見直したことも、この新たな農業のシステムを始めようということのきっかけになりました。まずは自分が農家を継ぎ、自分の農園をこの事業の実験台に。クラウドファンディングで資金を集め、ウェブサイトで「蕪(株)券」を販売したところ、蕪主は予定数を達成することができました。

事前に連絡すれば畑に遊びに行くことも可能。

山形県山形市美味しい「蕪主総会」。農家とつながることが喜ばれる。

「蕪(株)券」の金額によって届く内容や回数が異なり、定額以上の蕪を買った人には定期的に野菜が届きます。山形赤根ほうれんそうや、甚五右ヱ門芋、肘折かぶなど、どれも都会では手に入らない在来種・無農薬野菜です。届いた人からは「こんな野菜見たことがない」「味が濃くて美味しい」「野菜ってこんな味がするんですね」といった喜びの声ばかり。野菜の定期便だけでなく、東京で「蕪主総会」と称してバーベキューや芋煮会を開くなど交流会も開催しています。

野菜を買うことで、会社も出身も関係ないオーナー同士のつながりも生まれます。蕪主からは、野菜そのものへの感想はもちろんですが、「生産者との関係づくりができることが楽しい」という声も多いそうです。都会の消費者は顔の見えない「食」よりも、作った人の体温が感じられる食べ物を求めているー。佐々木氏自身もそのことを強く認識したといいます。

届く野菜は3,000円で6〜12種が目安。年間30種ほどを生産する。

「種まきや収穫を体験して頂くこともできます」と佐々木氏。

山形県山形市まず自分で食べたかった、が原点。

今のところ『Farm Owner’s』の生産農家は佐々木氏だけで、今後他の農家と協働するなどの拡大予定はないそうです。その理由を聞くと「まず私が食べたかったんです、伝統野菜を」との答え。誰よりも地元に伝わる野菜を愛し、それを人に届けたいという純粋な想いが原点となっているのです。

「蕪(株)券」はあと数枠残っているそうなので、あなたもオーナーになってみては?

Data
Farm Owner’s

住所:山形県山形市肴町 MAP
電話:090-7333-4771
営業時間:13:00〜18:00
休日:不定休
料金:蕪主(小)12000円の例
あなたの野菜のお届け便(小)16L(80サイズ)×4回分(7・8・9・10月まで毎月1回お届け)
http://farmowners.thebase.in/
写真提供:Farm Owner’s

「世界のベストレストラン50」13位。エンリケ・オルベラ氏のポップアップレストランへ。[マンダリン オリエンタル 東京/東京都中央区]

温かくやさしいまなざし、ゆったりと落ち着いた物腰が印象的なエンリケ・オルベラシェフ。

東京都中央区世界的メキシカンファインダイングが繰り広げた贅沢な4日間。

2018年6月、バスクにて発表されたばかりの「世界のベストレストラン50」。日本から17位『傳』、22位『NARISAWA』、41位『龍吟』の3店がラインクインしたことは記憶に新しいところでしょう。
今回、お届けする話題は、その「世界のベストレストラン50」において13位を獲得した『プジョル(Pujol)』のエンリケ・オルベラシェフによる日本初のイベントです。世界を代表するメキシカンファインダイニングの実力を堪能あれ!

伝統に培われた豊かな料理文化と、精緻な味わいの構成――メキシコの伝統料理は、ユネスコの「食の無形文化遺産」に、和食より3年早い2010年に登録されました。エンリケ・オルベラシェフは、そんなメキシコ料理の奥深さを世界中に知らしめたシェフの一人です。アメリカの有名な調理師科学校を卒業後、首都メキシコシティにファインダイニングレストラン『プジョル(Pujol)』を立ち上げたのは2000年のこと。以来、伝統をバージョンアップさせるその卓越したセンスに世界中のフーディー達が注目し、2011年以降は「世界のベストレストラン50」に毎年ランクイン。2018年6月には13位に選出されています(※)。現在はメキシコに多数(『Eno』など)、ニューヨークに2店(『Cosme』、『Atla』)のレストランを展開し、今年末から年始の予定でLAにも新店をオープンすることを発表。その人気はとどまることを知らないようです。

そのオルベラシェフを迎え、去る2018年5月15日(火)~18日(金)の4日間、『マンダリン オリエンタル 東京』において『プジョル』の期間限定ポップアップイベントが開催されました。大の日本好きで頻繁に来日するオルべラシェフですが、意外にもイベントは初体験。日本がはじめて体験した、メキシカンファインダイニングの世界をご紹介します。

※ラテンアメリカ版である「ラテンアメリカのベストレストラン50」のリストでは、2013年のスタート時からずっと一桁代の順位をキープ。

封蝉(シーリングワックス)の上に「Pujol」の頭文字Pをあしらったスタンプを。ミニマルながら印象深い演出のメニュー表。

メキシコ料理にとって大切な食材、コーンの外皮(ハスク)を乾燥させた「紙」で折った鶴をテーブルのセンターピースに。さりげなくメキシコ×日本を表現している。

東京都中央区伝統的なメキシコ料理をガストロノミーに昇華させる。

イタリアなどと同様に、メキシコは各州によって特徴的な食文化を持つことで知られます。なかでもオルべラシェフがもっとも影響を受けた地域のひとつは、南部・オアハカ州。豊かな海と変化に富む地形を持ち、先住民の伝統文化が色濃く残る、また美食の地としてもよく知られるこの地方の食文化、そして他の様々な文化に感化され、現代(いま)の食べ手に寄りそうテクニックと洗練されたプレゼンテーションを掛け合わせた数々の料理を発表してきました。

たとえばスペシャリテの「熟成させたモーレ・マドレとモーレ・ヌエボ」(写真参照)。ピューレ状のモーレ(ソース)はオアハカ州の名物のひとつですが、プジョルでは甘く香ばしいアンチョなどの乾燥唐辛子、玉ねぎやトマト、ニンニク、ナッツなど50種以上の食材をじっくり煮込んだオリジナルのモーレを二種類重ねて提供しています。色の深いモーレ・マドレは食材を足しながら毎日火を入れ、味の深みを重ねたもので、1500日以上熟成させています。中心には作りたてを流し、二種類の味の対比を楽しませる趣向です。伝統に倣い、毎日キッチンでトウモロコシを挽いて粉にし、都度焼き上げる香り高いトルティーヤもこの皿には欠かせません。

「既存の料理や味わいに新たな価値を与え続けること――それが私の料理哲学なんです」と、オルベラシェフは説明します。

まっすぐに相手の目を見てゆったりと話す。謙虚で穏やか、かつロジカルに言葉を操る様子に知性があふれる。

終始和やかな雰囲気で進んだインタビュー。シェフ二人のあいだの信頼関係が伝わる。

3品目の「帆立貝のトスターダ ハバネロと黒胡麻」。香ばしいコーン生地のトスターダに、やさしい甘みの帆立貝のマリネとサラダを重ねて。ハバネロオイルのスパイシーな刺激がアクセントだ。

メインディッシュの「熟成させたモーレ・マドレとモーレ・ヌエボ」。モーレ・マドレ(母なるモーレ)はコクとうま味たっぷり、複雑ながらバランスの取れた深い味わいで、今回はなんと1580日以上のもの! 会期中、毎日日付が更新されていった。モーレ・ヌエボ(新しいモーレ)のフレッシュな風味との対比が面白い。

6品目、メインの直前に提供された「茄子のタコ オハ・サンタ ひよこ豆とクレソン」。オハ・サンタとは大きな葉。コーン生地のタコと重ねて一緒に丸く抜き、ひよこ豆のピュレ、茄子のソテー、そしてクレソンを載せ、巻いて食べる。

東京都中央区『プジョル』の味と、メキシコ×日本の融合の皿。

オルべラシェフが、初めて日本を訪れたのは2010年。それ以来毎年1~2回はプライベートで来日し、各地の料理を食べ歩いています。
「新鮮な食材が何より大切なこと、魚が食文化のなかでとても重要な位置にあること、酸味の使いかた、軽やかな食後感、、、日本料理はメキシコ、特に太平洋に面した地方の料理と似た点が多いと感じています。だからこそ日本が好きなのかもしれませんね。今回はそんな僕の思いを表現するためにも、肉を使わず魚と野菜だけでコースを構成しました」

今回提供されたコースは、デザート2皿を合わせて全9皿。このうち数皿は、食材も含めプジョルの味そのままを伝える料理です。先に紹介したモーレの皿をはじめ、「茄子のタコ オハ・サンタ ひよこ豆とクレソン」などもそのひとつ。逆に、メキシコ×日本を意識して作った皿も目立ちました。たとえば一皿目の「蕪 デコポン ワームソルト ハーブのワカモレ」では、オリジナルの料理に使うヒカマ(葛芋)をカブに、オレンジをデコポンに置き換え、またデザートの「プルケ酒と酒粕のソルベ 宮崎とメキシコのマンゴー」では両国の食材を巧みに組み合わせるなど、意識的に二つの文化を融合させるチャレンジも。
「これまでの来日機会では料理をする機会がなかったので、今回は本当に楽しかったですね。市場を歩いていろんな食材を試しました」

『マンダリン オリエンタル 東京』の総料理長、ダニエレ カーソン氏のバックグラウンドはイタリア料理。フレンドリーなキャラクターでネットワークも広い。

東京都中央区

常に進化を重ねるために。

マンダリン オリエンタル 東京は、2015年の『ノーマ Noma』(デンマーク・コペンハーゲン)に続いて、昨年は『ガガン Gaggan』(タイ・バンコク)のポップアップイベントを開催。今回の『プジョル』招聘にあたっては、総料理長であるダニエレ・カーソン氏の力が大きかったといいます。
「昨年、オルべラシェフがプライベートで東京を訪れていた際に会い、すっかり意気投合したんです。日本に本当のメキシコ料理を知る人は少ない。ならばぜひうちのホテルでポップアップレストランを、と話をさせていただきました」

それから1年弱、トウモロコシをはじめメキシコ食材の調達は本当に大変だったものの、ホテル側の大きな情熱で困難を乗り越え、今回のイベント開催が実現したのです。
「ダイバーシティ(多様性)」をテーマに掲げ、キッチンを含め積極的に様々な国籍のスタッフを招いてきた同ホテルにとって、世界の最前線のレストランと通じることはごく自然な流れなのでしょう。なかでも一流シェフを招聘するポップアップレストランは、とても意義あるイベントだとカーソン氏は言います。
「日本の料理文化はとても洗練されていて、食べ手の経験値も高い。そんな中で常に進化を重ねるためには、このような機会はとても大切です。レストランのスタッフにとって、世界の一流と接し、ともに働くことは、今後に向けた大きな学びになったと思います」

「我々にとってもいろんな刺激と学びがある。ポップアップはとてもいい機会なんです」とカーソン総料理長。

東京都中央区未知の食文化に通じる窓として。新しい味覚への道しるべとして。

今回、日本に初めて紹介されたメキシカンファインダイニングの世界。今回を体験したゲストが、メキシコの『プジョル』を訪れる日も遠くないかもしれません。未知の食文化に通じる窓として、新しい味覚への道しるべとして、このようなポップアップやコラボレーションなどのイベントが、世界中で大きな役割を果たすようになっているのを感じます。

インタビューの最後に、日本の若い料理人にメッセージはありますか、と聞いてみました。
「ミシュランで三ツ星を取るために、フランス料理でなければいけないという時代は終わりました。日本料理はもちろんですが、どんな料理分野であれ可能性を秘めています。若い料理人の方々には自分のルーツをまず確立し、そして多様性を受け入れるフレキシビリティを持っていただきたいですね」

Data
マンダリン オリエンタル 東京

住所:東京都中央区日本橋室町2-1-1 MAP
電話:03-3270-8800
http://www.mandarinoriental.co.jp/tokyo/
Text:HIROKO SASAKI

繰り返される小さなサプライズが、やがて大きな満足に繋がる。[阿讃琴南/香川県仲多度郡]

館内の各所にゆったりとくつろげるスペースが設けられている。

香川県仲多度郡「小さなお得や満足を、これでもかと積み重ねる」。それがこの宿のおもてなし。

最初にお会いした時、支配人の山口氏は「不便な場所にあることが魅力」と笑いました。それは人里を離れることで、身の回りの小さなことに改めて目を向けることができるから。そしてこうも言いました。「不便ではあっても、不満はあってはいけない」。その言葉通り、2日間滞在してみて、確かに心地よい満足感に包まれました。その理由を振り返ってみると、随所に小さな驚きが、無数に隠されていたことに気づきます。ジェットコースターのような、インパクトある驚きではありません。ひとつひとつは、ほんの些細なサプライズ。その積み重ねが、やがて大きな満足に繋がるのです。

たとえば温泉から上がってみると、置かれた冷蔵ケースの横に「18時までアイスキャンディー無料」の文字。冷たいアイスキャンディーが、風呂上がりの火照った体に気持ちよく染み込みます。

客室には、話題のカプセル式コーヒーマシンが備えられていました。無論、こちらも無料。ソファやデッキでくつろぎながら、好きなだけコーヒーが楽しめる。これもまた、小さいけれど確かな満足です。

山歩きに出かけたければ、フロント横で登山靴や雨合羽などのグッズを無料で貸し出ししてくれるサービスも実施。この日は生憎の雨でしたが、夕食前にファミリー揃って登山を楽しむゲストも多いといいます。

21時からは囲炉裏ラウンジで、焼きマシュマロが振る舞われます。これだって温泉宿に必須というサービスではありません。「あればうれしい」という程度の小さなサプライズ。しかしそれが積み重なることで、やがて心は「うれしい」の思いに満たされていくのです。
小さな満足はそればかりではありません。館内用の車椅子はゆったりとした木製。クッションの利いた座面は、長く座っても疲れません。スモーキングエリアは、庭を臨む気持ちの良いガラス張りの一室。「もちろん喫煙をされる方も大切なお客様。気持ちよく過ごして頂きたいですから」と、近年の事情から隠されるように隅に追いやられていることが多い喫煙所を、できるだけ気持ちの良い空間に設えました。

あるいは里山ヒュッテのゲストには「坂道をお歩き頂くことになりますので」と、毎朝の牛乳が届けられます。また、ヒュッテは部屋に露天風呂がない代わりに、60分の貸切露天風呂無料利用が可能。小さな不満を大きな満足に変える心配りです。

風呂上がりにうれしい気の利いたサービス。大人にも好評だとか。

コーヒーは好きなタイミングに、好きなだけ。部屋での時間に彩りを添える。

焼きマシュマロというニッチなサービスも、やがて大きな満足につながる。

香川県仲多度郡影でホテルを支える支配人は、生粋のホテルマンであり、“ホテルの便利屋さん”。

ゲストが積み重ねる小さな満足には、スタッフの存在も欠かせません。それを支える支配人の山口氏は、プロフェッショナルのホテルマン。新卒で『リーガロイヤルホテル』グループに入り、フランス料理部門のマネージャーも経験。その後は鉄道系ホテルブランドの開業にも携わり、ここ『阿讃琴南』の支配人に就任。ホテル一筋30年。黒子のようにゲストの影に控え、言葉にするより前にその要望を汲み取る、生粋のホテルマンです。

そのプロフェッショナルぶりは、日々の仕事を見ていると伝わります。たとえばある日の支配人はこんな感じ。
朝一番に出勤すると、まずは施設の点検も兼ねて館内すべてを歩いてまわります。次にレストランで朝食の手伝いをし、売店のチェックをし、それから書類仕事をした後、チェックアウトのお客様のお見送り。午後一番にミーティングで、その日のお客様の情報を共有し、続いて部屋のメンテナンスの対応。電球の交換程度なら、支配人自らがやってしまいます。そろそろお客様がやってくる頃。にこやかに出迎え、館内のを案内したら、お次は夕飯の準備。休む間もありません。

お客様からの質問や世間話によどみなく答えるのは「空き時間はすべて読書です」という実益を兼ねた趣味の賜物。フランス料理部門の経験を活かし、センス抜群のワインのラインナップも、すべて支配人のセレクトです。このホテルの申し子のような支配人の存在が、求心力となりスタッフ全員のモチベーションとなっているのです。そして満足感の高い滞在は、そんなスタッフのサービスにより支えられているのです。

気づいたことは何でもやる支配人。この姿勢がスタッフたちにも伝わっている。

支配人が自信を見せるワインセレクション。ツボを押さえたラインナップ。

ゲストの迎えと見送りの場面にも、必ず支配人の姿がある。

香川県仲多度郡スタッフの多くは業界未経験。だから教えるのはルールではなく、おもてなしの心。

支配人だけではなく、他のスタッフたちも皆、気持ち良い滞在に欠かせぬ存在。しかも形式的ではなく、どこか温かみのある心のこもったサービスが印象に残ります。そんな点を支配人に尋ねると、予想外の言葉が返ってきました。

「実は当館のスタッフでホテル業界経験者は、私とマネージャーだけなんです」
そう、宿を支えるスタッフの多くは、2017年の開業にあたり新たに募集した方々。異業種からの転職や新社会人、外国人留学生の姿もあります。その全員が、それぞれ自覚を持って、心尽くしのサービスでもてなすのです。

「たとえばコーヒーをお出しする順番や、テーブルでどなたの前に伝票を置けば良いのか。これはホテルマンの経験から自然とわかることです。レディファーストや年功序列だけではない、勘のようなものも必要。教えてわかるものではありません」
そう話す支配人。ホテルのゲストは10人居れば10通りの接客が必要。それを身につけるためには、長い業界経験を要するというわけです。しかし宿はオープンしています。お客様は待ってはくれません。

「ですからマニュアルを覚える、という接客ではなく、より根本的な“おもてなしの気持ち”を共有することにしたのです」
つまりパターン化して機械的に対応するのではなく、ただ相手のことを思い、気持ちよく過ごしてもらうことを願う。それを形にしたサービスを徹底したというわけです。

宿の外観を撮影している間、雨の中、傘を持って待っていてくれたスタッフがいました。方言の残る言葉で、地元の歴史を教えてくれたスタッフもいました。「こうしなさい」と言われたサービスではなく、「こうしたら喜ぶだろう」と思うサービス。それがこの宿の魅力を形作っていることは疑いようもありません。

洗練されずとも、心尽くしのサービス。それがゲストを和ませる。

それぞれが気づいたことを実践することで、宿の魅力が底上げされている。

心を満たす満足感から、帰り際に次回予約を入れるゲストも多い。

Data
阿讃琴南

住所: 〒766-0204 香川県仲多度郡まんのう町勝浦1 MAP
電話: 0877-84-2611
https://www.asankotonami.com/

その佇まいは絢爛ではなく、優雅。穏やかな木の香りに包まれる温泉宿。[阿讃琴南/香川県仲多度郡]

周囲にコンビニひとつない山間。この不便さに、宿の魅力がいっそう際立つ。

香川県仲多度郡激しい雨さえもプラスに変える、豊かな緑が茂る場所。

高松空港から車に乗って南へ。町並みはすぐに木々に取って代わり、まるで山の中に分け入って行く感覚になります。時間にすれば、わずか30分ばかり。それでも「遠くまで来た」という印象があるのは、この山景色の影響でしょうか。人の気配もまばらな山間。この辺鄙な場所に『阿讃琴南』はあります。

訪れたのは5月の初旬。天気は雨。それもしとしと煙るような雨ではなく、叩きつけるような激しい雨足です。天気は旅の印象を大きく左右するもの。この雨は宿にマイナスの印象を与えてしまうのか、それとも天気などものともしない魅力を、宿自体が備えているのか。やがて到着した『阿讃琴南』は、すぐさまその問いに答えてくれました。

「この季節の雨は、緑をいっそう輝かせます」
出迎えてくれた支配人の山口孝博氏は、そう言って笑いました。山懐に抱かれるように建つ宿。見れば周囲の緑は、雨に濡れて青々と輝いています。

「晴れには晴れの、雨には雨の良さがあります。そんな当たり前のことに気づけるのも、こんな山の中ならではでしょう」
この後、館内を歩くごとに雨景色の良さは何度も実感することになるのですが、第一印象で、雨の日ならではの瑞々しい緑が心に残ります。

水を得て輝きを増す5月の新緑。この景色も『阿讃琴南』の魅力。

夜半まで続いた雨は、神秘的な夜景をも生み出した。

香川県仲多度郡第一印象は「森」。穏やかな木の香りに包まれる空間。

「山道はたいへんだったでしょう? 不便な場所ですから」
支配人の山口氏は穏やかにそう尋ねます。聞けば近隣にはスーパーもコンビニもなく、病院が開くのも2日に一度。失礼ながら頷くと、山口氏は我が意を得たりとばかりに微笑みます。
「その不便さこそが、当館の魅力なんです」

技術が発展し、生活は便利になる一方の昨今。だからこそ少々の不便さが、身の回りのさまざまなことに改めて目を向けさせてくれる。やがて日常に戻ったとき、この場所の記憶がそれまでの意識に少しの変化を加えてくれる。だからこそ、辺鄙な場所にあることさえも、「この宿の魅力」と言い切れるのです。

もちろん、不便な場所であっても、不満はあってはいけません。この宿で過ごすごとに、その絶妙なさじ加減に唸らされます。まずは順を追ってみてみましょう。

自動ドアを抜けると、そこがロビー。正面には一年通して薪ストーブに火が入れられています。その温もりも含めて、最初の印象は「森」。木を多用したインテリア、大きな窓の外に見えるしっとり濡れた緑、そしてここに来るまでに抜けてきた山道の記憶。それらがすべて作用して、森のなかのロッジのような印象を抱かせるのでしょうか。森の空気さえ感じるような気持ち良い雰囲気にしばし浸ります。入り口右手にフロントがありますが、そこで記帳をする必要はありません。まずは左手のラウンジに腰を落ち着けて、お茶と甘味でひと息。部屋の説明や宿泊手続きも、ここで座ったまま済ませます。

案内を見ると館内には庭園、足湯、セレクトショップ、温泉、ビリヤードが置かれた娯楽室など、気になる場所がいろいろ。さっそく散策してみたいところですが、その前にまずは部屋に行って荷物をおろしましょう。部屋にもまた、多彩な魅力が詰まっています。

ロビーでは一年通して薪ストーブに火が灯る。来客を温かく迎え入れる心の表れだ。

木を多用したラウンジ。窓の外の庭園も、心地よい印象に拍車をかける。

本館前の東屋に設えられた足湯。露天風呂と同じ温泉が満ちている。

香川県仲多度郡ラグジュアリーな客室と、野趣あふれる露天風呂。

全28室の客室は、大別して本館内にある通常の客室と、独立型の里山ヒュッテの2タイプ。本館客室はゆったりと温泉を堪能できる専有露天風呂付きと、気軽に利用できるモデレート客室があります。設えは部屋により異なりますが、どの部屋も10畳以上の余裕があるスペースと、緑を臨む大きな窓は共通。さらにウッドテラスやモダンなソファなど、部屋ごとにくつろぎのスペースが設えられているのも特徴です。
「お部屋内にお気に入りの場所を作っていただきたい」
そんな思いの表れなのでしょう。

一方の里山ヒュッテは、本館横の坂道を辿った先、山の斜面に十分な間隔を取って点在するコテージ型の客室。2間続きの居室とウッドテラスで構成され、よりいっそう山に抱かれる気分が感じやすい場所です。ウッドテラスでくつろぎ、清流のせせらぎと鳥の声に耳を澄ます。宿泊者だけに許される、なんとも贅沢な時間の使い方です。

どの部屋もラグジュアリーで、いつまでもくつろいでいたくなりますが、ここは温泉宿。風呂も忘れてはなりません。河畔風呂「せせらぎ」に足を運んでみましょう。
まず印象的なのは、河畔風呂の名の通り、川沿いに作られた岩風呂。清流と滝を借景にした、野趣あふれる露天風呂です。隣にはタイル張りの露天風呂も。こちらには深さ100cmの深湯や寝湯などもあり、好みのスタイルで湯を満喫できます。湯船に満たされるのは無色無臭でありながらしっとりと肌に馴染むアルカリ泉。夏場で39度程度というぬるめの温度に保たれているのも、ゆったりくつろいでもらうための心配りです。

ダイジェストで見てきた館内。どこも正統派の温泉宿でありながら、どこかに人の“思いやり”が潜んでいます。できたばかりの近代的な施設でありながら、無機質にならず、ほっと安らげるのは、周囲を包む木々の息吹と、そんな心遣いの帰結なのでしょう。

里山ヒュッテの一例。どの部屋にも居心地の良い特等席が設えられている。

客室の一例。山との距離が近く、大自然を感じながらくつろげる

滝の音に包まれる岩風呂。時間帯により男女入れ替えはあるが、常時入浴可能。

Data
阿讃琴南

住所: 〒766-0204 香川県仲多度郡まんのう町勝浦1 MAP
電話: 0877-84-2611
https://www.asankotonami.com/

舞台は山間の正統派温泉宿。滞在するほどにその魅力にはまる、小さなサプライズの連続。[阿讃琴南/香川県仲多度郡]

香川県仲多度郡OVERVIEW

高松空港から車で30分ほど。山道を抜けた先の静かな山間に『阿讃琴南(あさんことなみ)』はあります。決して便利な場所ではありませんが、そこには温泉があり、ラグジュアリーな客室があり、レストランがあり、カラオケを備えた娯楽室があり、そして豊かな自然があります。誤解を恐れずに言うならば、ここはお手本のような温泉宿。誰しもが想像する、いわば“スタンダード”な施設です。

ならばその魅力も想像の範囲内かと思えば、そうではありません。一見、普通と思える施設。しかし、やがてゲストは気づくのです。客室の家具ひとつ、コーヒーメーカーひとつとっても見えてくる、細やかな心配りとこだわり。そして何度も繰り返される小さなサプライズ。だから滞在するほどに、誰もがこの宿の魅力に惹かれていくのです。そして、その施設にさらなる魅力を添える、スタッフひとりひとりにまで浸透したおもてなしの心。それらに触れるうち、ゲストは再訪の思いを強くします。

普通だなんてとんでもない。想像した施設をすべて備え、さらにそこに素晴らしいサービスが加わる。『阿讃琴南』こそは、日本人の誰しもが「戻ってきたい」と思うような温泉宿の完成形なのです。

Data
阿讃琴南

住所: 〒766-0204 香川県仲多度郡まんのう町勝浦1 MAP
電話: 0877-84-2611
https://www.asankotonami.com/

素朴であっても地味ではない。京料理をベースに温泉旅館の発想を加えた、独自の里山料理。[阿讃琴南/香川県仲多度郡]

里山料理の素朴さに、京料理の華やかさが加わるここだけのおもてなし。

香川県仲多度郡料亭からキャリアを開始した腕利きの料理長。

「ゆったり楽しんでくれたらいいですよ。懐石料理じゃないですから」
料理長・石田健二氏は一見、いかにも“頑固一徹な料理人”という顔つき。恐る恐る話を聞くと、先の言葉が返ってきました。自身の料理を「素朴な里山料理」という石田氏。山に囲まれた近隣の食材は、たしかに素朴な印象。しかし料理自体は、華やかささえ感じさせる豪勢な品々。つまり食材と料理との間、技術や発想の部分に華やかさがあるのでしょう。だから料理の詳細を聞く前に、まずは料理長について尋ねてみました。

石田氏は昭和37年、淡路島生まれ。高校を卒業するとすぐに料理の世界に飛び込み、まずは京都の名料亭『下鴨茶寮』で修業を開始しました。そこから関西の店をいくつか経て、次に入ったのは兵庫県の塩田温泉にある名門旅館『夢乃井』。ここで温泉宿の料理を学び、技術の幅を広げてきたといいます。その後、淡路で名の知れた国際ホテルを経て『ホテルニュー淡路』グループに入社、2017年『阿讃琴南』の開業と同時に料理長に就任します。

京料理からスタートし、旅館の懐石を学び、ホテルの厨房も経験。そんな道をたどってきたからこそ「今までやってきたことの応用であり、集大成」として、この里山料理が生みだされるのです。「魚は川魚。それに山菜や野菜。伊勢海老や雲丹を出すわけにいきませんからね。どうしても地味になってしまう。あとは工夫です」さらりと言ってのける石田氏ですが、その“工夫”の数々には、きっと誰もが驚かされることでしょう。

石田料理長。妥協を許さぬ職人気質だが、ユーモア溢れる一面もある。

食事は本館1階にあるダイニング『穀雨』にて。

香川県仲多度郡味の基本は香川の食材に共通する、透明感ある脂。

「香川はオリーブの産地ですから、油の質が高いんです」
それが石田氏の、地元食材への印象。オリーブオイルはもちろん、オリーブで育てる豚やコーチン、サーモンも、脂の質が良くなっているのだといいます。そしてその透明感あるおいしさが、里山料理に輝きを加えます。たとえば美しく盛られた前菜には、オリーブオイルで焼いた油揚げに鯛味噌をのせたカナッペ風の一品も見られます。あるいはスモークサーモンは、上質な燻香のなかから爽やかな旨みが立ち上がります。見た目の華やかさ以上に、複雑で重層的な味わいが広がります。

山から切り出してきた竹筒で焼き上げるオリーブ豚の竹筒焼きも印象的な一皿。ほのかに移る竹の香りが、オリーブ豚のピュアな脂をいっそう爽やかな味わいに仕上げます。一方、オリーブ牛は、石焼きに。遠赤効果でじっくりと火を通し内部の脂を溶かし出すことで、こちらは噛むごとに溢れる旨みの印象が先立ちます。素材を知り、それを活かす術を知る料理長ならではの技。これを「工夫」の一言で済ませてしまうあたりにも、料理人としての矜持が垣間見えます。

地場の食材の力強い味わいを活かしつつ、華やかな彩りで仕上げる前菜「里山旬菜盛り合わせ」。

「オリーブ豚竹筒焼」。山から切り出した竹筒で、白菜、玉ねぎ、オリーブ豚を焼き上げる。

「オリーブ牛の石焼 旬菜添え」。脂のふくよかな旨みを石焼きで引き出している。

香川県仲多度郡メイン料理は夏でも鍋。和食料理人の粋を集めた技アリのスープが光る。

メイン料理は一年通して鍋。これも「夕食のひとときを、賑やかで楽しい時間に」という心遣いです。取材時は、コラーゲン豆乳鍋。鶏白湯と豆乳を合わせ、香川の白味噌で味を調えたスープで、讃岐コーチンや地元の野菜を味わいます。

特筆すべきは、30リットルが半分になるまで炊くというこのスープ。口に含んだ瞬間に濃厚なパンチがあるわけではないのですが、そこからじわりと旨みが広がり、長い余韻を残す。出汁という和食の基本を知る料理長だからこそ、素材が鶏に変わってもその魅力を引き出す術を知るのでしょう。「塩分ではなく、旨みでインパクトを生む」という信念も、このスープに込められているようです。ちなみに他の季節には胡麻ポン酢鍋、すき焼き、酒粕鍋などが登場するとか。この料理長のことですから、きっとその名前以上のインパクトを持つ鍋となっていることでしょう。

コースの終盤、鍋と共に登場するご飯も印象深い一品。使用するのは地元で採れた琴南米。標高が高い場所で育てられるため虫がつきにくく、結果、低農薬で栽培できるという安心の米。これをゲストの食事のタイミングに合わせて釜で炊き上げます。その艷やかな見た目通り、ふっくらとした食感と上質な甘みがあるこのご飯、コースのなかの隠れた主役とさえいえそうです。
山里の幸をふんだんに使い、そこにひと手間、ひと工夫を加えることで華やかに仕立てた全10品の膳。随所に潜む心遣いに、最初に「ただ楽しめばいい」といった料理長の真意が改めて見えてくるようです。宿の食事は、団欒の時間でもある。そんな事実を再確認させてくれる心尽くしの品々でした。

若鮎の南蛮漬け。角のない酸味に仕上げた、肉料理の後の口直し的位置づけ。

「讃岐コーチン コラーゲン豆乳鍋」。豆乳と味噌のコクがスープに深みを加える。

釜焚きのご飯も名物のひとつ。朝食にも、炊きたてご飯が登場する。

Data
阿讃琴南

住所: 〒766-0204 香川県仲多度郡まんのう町勝浦1 MAP
電話: 0877-84-2611
https://www.asankotonami.com/

1300年の時を経た神仏習合発祥の地を舞台にした幻の野外レストラン。ドキュメンタリー番組「奇跡の晩餐」6/30(土)ついに放送。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

大分県国東市『LEXUS presents 奇跡の晩餐 ダイニングアウト物語 ~大分 国東篇~』6/30(土)放送。

大分県国東市で開催された『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』(2018年5月26-27開催)の準備段階から密着したドキュメンタリー番組『LEXUS presents 奇跡の晩餐 ダイニングアウト物語 ~大分 国東篇~』が6/30(土)21時からBS-JAPANで放送されます。

『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』の開催模様はこちらから

番組では『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』の準備段階から密着した至極のドキュメンタリーをお楽しみ頂けます。

今回の『DINING OUT』の舞台は山岳信仰と神仏習合の地として知られる大分県国東半島です。
両子山という岩山を中心に6つの山稜に分かれた国東半島には、総称して「六郷満山」と呼ばれる無数の寺院が点在。日本古来の宗教観である神仏習合もこの地で生まれたといわれ、土地に根付いた山岳信仰と混淆し、この地独自の六郷満山文化として発展しました。目を奪う奇岩が聳え、寺社の山門には苔むした石造仁王像が立つ。その静謐で神秘的な空気は、宗教という枠組みを抜きにしても、誰しもの心に響くことでしょう。

そんな印象的な空気感を伝えるべく、今回設定されたテーマは『ROCK SANCTUARY―異界との対話』。耳に沁みるような静寂の裏に、ふと感じられる人知を超えた何者かの存在。それは近現代の神仏のように、明確なイメージを伴うものではなく、より得体の知れない何か。その何者かに問いかけているのか、それとも自分自身に語りかけているのか。この半島に足を踏み入れた人は、きっとそんな思いにとらわれるに違いありません。そしてそんな独特な空気感を、『ROCK SANCTUARY(岩の聖地)』という言葉に込めたのです。

捉えどころのない、この難しいテーマに挑んだのは中華料理人の川田智也シェフ。「和魂漢才」をポリシーに掲げ、中華料理の大胆さに、日本料理の精緻さ、滋味深さを加え独自の料理を生み出す気鋭のシェフ。その実力は、2017年に開いた『茶禅華』が、オープンわずか9ヶ月でミシュラン2つ星を獲得したことからも明らかです。
そしてホスト役は、「世界のベストレストラン50」の日本評議委員長を務める中村孝則氏が務めました。今回で6度目となる『DINING OUT』に出演した経験と、多岐にわたる深い知識で、国東らしい不思議な体験へとゲストを誘ってくれました。

番組では、川田シェフが出会った個性豊かな地元の生産者や国東の食材に心動かされる様子や、1300年の歴史ある山岳宗教「六郷満山」の文化から大きなインスピレーションを受け誕生した今回の『DINING OUT』メニューが完成するまでのバックストーリーに迫ります。

突如出現した幻の野外レストランがオープンするまでに完全密着し、その模様を余すところなくお届けします。あの奇跡の晩餐がドキュメンタリー番組として蘇ります。

番組の詳細はこちらから

Data
BS-JAPAN『LEXUS presents 奇跡の晩餐 ダイニングアウト物語 ~大分 国東篇~』

放送日時:6月30日(土)21:00~
番組ホームページ:http://www.bs-j.co.jp/official/diningout11/

自由気ままに絶景ステイ。十勝の雄大な自然を満喫。[KOYA.lab/ 北海道中川郡]

タイニーハウスとは「小さな家」の意味。充実した設備で快適なアウトドア体験を実現。

北海道中川郡フリーな滞在スタイルと特別な体験を叶える。

「自然の中でアウトドアを存分に楽しみたい!」「でも、日ごろの疲れを癒してリフレッシュしたいから快適な設備が欲しいし、土地勘の無い場所でいきなりキャンプはしたくない…」。そんな現代人ならではの贅沢な悩みに、至れり尽くせりで応えてくれる滞在スタイルがあります。

北海道の本別町を拠点に展開するタイニーハウスレンタルの『KOYA.lab』。十勝平野の絶景の中に設置された「移動式の家」の中には、キッチン・シャワー・冷蔵庫・空気清浄器・ウォッシュレット付きトイレなどが完備。寝具や洗面用具などのアメニティも充実しており、最低限の荷物で思い立ったときにアウトドア体験ができます。

椅子やテーブルも設置された広々とした空間。断熱もバッチリで冬でも暖かく過ごせる。

設置場所は4ヶ所から選べる。眺望抜群のプライベートサイトが自慢の「本別町新明台」。

北海道中川郡バラエティ豊かな4ヶ所の絶景スポットで、個性豊かなアクティビティを満喫。

このタイニーハウスの魅力は、大掛かりなアウトドア用品を揃える必要もなく、苦労して持ち運ぶ必要もなく、気軽にアウトドアステイを楽しめることです。さらに、車で運べる“モバイルハウス”なので設置場所も自由自在です。

タイニーハウスをプロデュースする『KOYA.lab』がおすすめするのは、抜群の景観を誇る4つのビューポイント。まずは小高い山の上から足寄町市街と雌阿寒岳を一望できる『本別町新明台』。次に、管理の行き届いた芝生と森林に囲まれて、お子様用の遊具も充実している『本別公園』。そして、「日本一星が綺麗に見える」と名高い『陸別銀河の森』。最後に、広大な畑の中で“ばんえい競馬”の競走馬だった“ばん馬アズキ”と触れ合える『アズキとコムギ牧場』です。
いずれも個性豊かなアクティビティを兼ね備えた、厳選スポットです。

希望の場所にあらかじめ設置してくれる。動物好きにはたまらない「アズキとコムギ牧場」は、地平線が見えそうな広大な眺めも爽快。

ダッチオーブンや炭火を使う豪快なアウトドア料理も手ぶらで楽しめる。

北海道中川郡料理もアクティビティも手ぶらでOK!

さらに『KOYA.lab』では、料理やアクティビティも手ぶらで楽しめます。
北海道ならではの豊かな食材を味わえるバーベキューや、名物のスープカレーや、ジビエの鹿肉料理などなど。食材のデリバリーからテーブルや椅子のセッティングに至るまでスタッフが行なってくれます。「焼く」「味わう」といったアウトドア料理の醍醐味だけを楽しんだ後は、後片付けもスタッフにおまかせ。まさに楽々ステイのアウトドア体験です。
 
また、十勝の広大なロケーションを堪能できるツアーも2種類用意。マウンテンバイクのレンタル付きの“サイクルツーリング”と、滞在箇所の周辺を巡れる“ウォーキングツアー”は、ぜひオプションで楽しみたいものです。さらに、これらのオプションの移動先を次の滞在地として、そこにタイニーハウスを移動してもらえるプラン『ちほくモビリティー』もおすすめです(※『ちほく地方』とは本別町・足寄町・陸別町の3町の総称)。

北海道ならではの食材がゴロゴロ入ったスープカレー。セッティングと後片付け込みで3,500円。ほかにも多数のメニューがある。

ガイド付きのウォーキングツアーは1名4,000円/1時間。参加者の体力に合わせたコースと距離をコーディネートしてくれる。

北海道中川郡十勝を愛する地元の青年と、十勝に惚れ込んで移住してきた青年が考案。

この『タイニーハウス』でのプランを考案したのは、地元の建設会社の4代目である岡崎慶太(おかざき・けいた)氏でした。

「本業の建設業が公共事業の浮き沈みなどで安定しない中で、社員やトラックなどの経営資源を生かして新たな事業を始められないだろうか、と模索していたんです。さらに、『生まれ育った十勝の素晴らしい自然を、訪れる人々に満喫して頂きたい』という想いもありました。しかし本別町には、観光客の方々が滞在できるようなホテルがありませんでした。かと言って、資金面、環境面などから新たなホテルの建設も難しかったんです。これらの課題を解決するために、『移動できる快適なモバイルハウス』の運用を思いつきました」と岡崎氏は語ります。
 
帯広信用金庫が主催する創業支援プログラム『とかち・イノベーション・プログラム』に参加していた岡崎氏は、そこで十勝の自然に魅せられて移住してきた、一級建築士の山本晃弘氏と知り合いました。自らの理想と山本氏のアイデアをぶつけ合ううちに岡崎氏に返ってきたのは、「それなら設計してみましょう」という山本氏の快諾。「建築技術で地域に貢献したい」と考えていた山本氏が、岡崎氏のかけがえのないパートナーとなってくれたのです。

KOYA.labのタイニーハウスは、山本氏が独自に設計した。コンパクトなスペースの中に「家の機能」を凝縮する、という難しい課題を見事に実現させている。

タイニーハウスを多彩なアイデアで運用している岡崎慶太氏(左)。タイニーハウスを海外の類似の事例などを参考に1から設計した山本晃弘氏(右)。

北海道中川郡「滞在施設」は多くの仕事を生み出す。地域おこしも担う挑戦。

岡崎氏と山本氏が立ち上げた『KOYA.lab』は、タイニーハウスという斬新なアイデアを独占することなく、本別町全体の振興のために活用しています。

「もともと地域の商工会に所属していて、地域振興にまつわる課題に直面していたんです。青年部の若手達でイベント等を立ち上げても、そのほとんどが一過性で終わってしまって、継続性と集客力のあるプロジェクトになりきれていなかった。誰かが新たなアイデアを生み出して、皆のやる気を取り込めるプロジェクトを立ち上げないと――そう考えていたからこそ、このタイニーハウスを企画できたんです」と岡崎氏は語ります。
 
楽しく、珍しく、話題性も抜群のタイニーハウス。さらに、滞在にまつわる新たな仕事も生み出しつつあります。

「『滞在=人が暮らす』ためには、多くの人々の手を必要とします。まずは誰もが欠かせない食事をはじめとして、快適に過ごすためのライフラインや、クリーニングなどなど。多くの方面に仕事が生まれて、地元や周辺地域の業者にお金が落ちるようになります。タイニーハウス用のウッドデッキ製作も地元の工務店にお願いしたんですが、食材の用意やデリバリーは飲食店に、調理用のガスや衣服のクリーニングはそれぞれの業者に、といった風に連携の輪を広げています。一歩ずつの歩みではありますが、地域のお店の繁栄のための起爆剤になれれば。生まれ育った大好きな本別町に恩返しをして、訪れる人々にも本別町の良さを実感していただきたい。これが全ての動機です」と岡崎氏は熱く語ります。

タイニーハウス用ウッドデッキの製作の風景。新たな仕事を多方面に生み出している。

本別町には素晴らしい景色や資源が多く息づいている。「ぜひ訪れて良さを実感してください」と岡崎氏は語る。

北海道中川郡地域おこしのモデルプランとして、全国に広めていきたい。

現在は1台のみで運営している『タイニーハウス』ですが、将来的には台数を増やしていきたいそうです。

 
「本別町にゆっくり滞在していただくためにも、『ホテルが少ない十勝に滞在したい』というニーズにお応えするためにも、5台程度には増やしたいですね。さらに、私達の取り組みをモデルケースとして、全国にタイニーハウスでの地域振興を普及させていければ。『地元業者とコラボした真の地域振興』に魅力を感じてくださったなら、今進めている内容などを惜しみなくお話しさせて頂きます。 このタイニーハウスでの活動を何らかの利権にするつもりはなく、ただ地域振興のためのツールとして広めていき地域間で互いに繋がりたいんです。多くの地域資源がありながら、それを楽しむための滞在施設が無い・あるいは不足している、といった地域は多いはずです。タイニーハウスによる地域振興にチャレンジしてみたい方は、ぜひお声掛けください」とのこと。
 
斬新なアイデアとビジネスモデルを、愛する地域と全国のために広めていきたい――岡崎氏と山本氏の志あふれる取り組みは、今後も堅実に展開していきます。

屋根裏部屋のような2階の寝室からは、ガラス窓を透かして空を望める。誰もがワクワクするようなシチュエーション。

キャンプ感覚のアウトドアと快適な滞在を両立。

Data
KOYA.lab

住所:北海道中川郡本別町勇足71番地9 (事務所) MAP
電話:0156-30-4315
営業時間:9:00~18:00 (お問い合わせ時間帯)
休日:日曜
定員:4~5名(大人4名もしくは大人3名・子ども2名)
料金:
【早割22時間レンタル】プラン 40,000円
【道民割22時間レンタル】ベーシックプラン 40,000円
【22時間レンタル】ベーシックプラン 60,000円
https://www.koya-lab.com/

アートは、地域に「気付き」を与えてくれる。[BEPPU PROJECT/大分県別府市]

Anish Kapoor/「Sky Mirror」/2006/Photo:Seong Kwon Photography/(c) Anish Kapoor, 2018

大分県別府市湯けむりの街、アートの街、別府。

「別府がアートの街になっている」。メディアでそう耳にしたり、実際に行ったりして、街のあちこちにアートやデザインが溶け込んでいる様子に触れたことがある人も多いと思います。

「アートの力で地域活性」が決まり文句となるずっと前から、別府ではアートの力で街を変えようという運動が起こっていました。今回は、そんなアートプロジェクトが生まれた背景と、そのユニークで斬新な発想の根幹となるものについて探ってみました。

西野 達/「油屋ホテル」/2017/Photo:脇屋伸光/(c)混浴温泉世界実行委員会

大分県別府市年間を通して大小100ほどのプロジェクトを手がけるアートNPO。

2009年から2015年まで3回行われた別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」や、アーティストが暮らす「清島アパート」、古い建物のギャラリーやショップ、宿への利活用など、別府はここ10年ほどで「アートの息づく街」という印象が強まりました。

それらを手がけているのは、『BEPPU PROJECT』。2005年に発足し、アーティストでありアートプロデューサーの山出淳也氏が代表を務めるNPO法人です。

「別府のトキワ荘」的存在の清島アパート。

大分県別府市「その風景を見てみたい」という思いから始まった。

端的に言うとこのプロジェクトは「地域経済を活性化させよう!」という社会的意義よりも、「この作家が別府を舞台に作品を作ったらどうなるんだろう」という山出氏の個人的興味から生まれたものでした。しかし誤解してはいけないのは、山出氏はもともとキュレーター的な素質を持っており、日本人にはないグローバルな発想の持ち主だったということです。

1970年に大分で生まれ、「興味のあることはやってみなければ納得しない」という性格。高校時代からイベントを友人たちと開催し、横のつながりを広げていったといいます。そして美術の専門教育を受けたことがないのにもかかわらず、高校卒業後に自分で描いた絵の展覧会を開いたところ、20点ほどの作品が完売。それを元手にイギリスやイタリアに留学、その後は「台北ビエンナーレ」などの国際展に参加し、国から国へと飛び回って国際的なアートシーンの中で活躍していました。

山出氏(写真)が率いる「BEPPU PROJECT」の職員は15人ほど。

大分県別府市別府には果てしない「伸びしろ」がある。

しかし2003年頃、自分の仕事のあり方を見つめ直そうとした時、ちょうどインターネットで別府についての記事を目にしました。それは、「別府のホテル経営者が個人宿泊者対象の路地裏散策ツアーを始めた」というもの。山出氏が小さい頃に両親に連れられて行った別府といえば、旅館は団体客でいっぱいで、浴衣を着たお客たちが浴衣姿で笑い、時には大声で歌い、賑々しく夜の温泉街を闊歩するイメージがあったそうです。その団体で成り立っていた別府が個人向けに視点を切り替えた背景には何かがあるはずー。

別府は戦災を免れたため街には趣深い建物や商店が数多く残り、古い路地のあちこちに公共温泉があります。また移住者や旅行者を日常的に受け入れてきた背景から、地元の人もよその人を優しく受け入れてくれる土壌がある場所。山出氏は別府という街そのものに限りない魅力と可能性があることを確信し、帰国を決意。別府で芸術祭を開くという目的で『BEPPU PROJECT』を立ち上げ、「混浴温泉世界」の実現に向けて動き出しました。

「別府という街はどこかセンシュアス(官能的)でもある」と山出氏。

大分県別府市「芸術祭」とは街の課題を洗い出すためのもの。

1回目の「混浴温泉世界」はパスポートと地図を片手に温泉、港、商店街、神社などに点在するアート作品を巡る芸術祭でした。最初の計画では1回のみで終える予定でしたが、開催の準備過程で、街にある「課題」が次々に見えてきたと山出氏は話します。外国人対応や宿泊施設といった対観光客の問題から、人材育成、空き家、後継者不足といった暮らしにかかわる問題。

山出氏は芸術祭とは一度打ち上げて終わる花火ではなく、街の課題を解決しながら、インフラや暮らしをより良い方向へマネジメントしていく長期的なコンサル活動のようなものだと考えていました。

宮島達男/「Hundred Life Houses」/2014/Photo:久保貴史(C)国東半島芸術祭実行委員会

大分産の商品を紹介する「OitaMade」など地域産品プロジェクトも。

大分県別府市存続のために、終わりを決めていた。

「混浴温泉世界」は全国的に注目を浴びていたにも関わらず、3回目で終わることが決められていました。「大事なのは会期が終わった後なんです」と山出氏。『BEPPU PROJECT』が芸術祭と並行して手がけてきた事業は、空き家利活用やアーティストの活動支援、企業のブランディング、お土産商品の開発など多岐にわたります。別府では、芸術祭を通じて地域の課題を抽出し、会期終了後にその解決を図る事業を展開してきました。そして次の芸術祭でその成果を測るとともに、これまで行ってきた事業の発展や新たな課題の解決に向けてすべきことを見出すためのいわばマーケティングの場ととらえ、芸術祭を継続開催。芸術祭を継続することで、永続的な課題の解決を目指す。それが真の意味での「アートによる地域活性」といえるのかもしれません。またこの取り組みをモデルケースとして、別府以外の地域でも、「国東半島芸術祭」やトイレを舞台・テーマにした「おおいたトイレンナーレ2015」などアートイベントを展開してきました。

チームラボ/「花と人、コントロールできないけれども、共に生きる Kunisaki Peninsula」/2014
撮影:久保貴史(C)国東半島芸術祭 実行委員会

東野祥子ほか/「楠銀天街劇場」/2012/Photo:久保貴史/(C)混浴温泉世界実行委員会

大分県別府市大家の遺志を継いだアーティストレジデンス。

芸術祭のコンテンツの一つが「継続的な地域プロジェクト」へとシフトした例もあります。それが、「清島アパート」です。「混浴温泉世界」のプログラムの1つとして、戦後すぐに建てられた元下宿アパートが若手アーティストによる滞在制作・展示空間に変身。この時の参加クリエイターの中から清島アパートでの居住・制作を継続したいと希望する人々が現れ、芸術祭終了後も清島アパートは続くことになりました。現在は6期目を迎え、画家や服作家、現代美術作家など新進気鋭の9組が居住。一般の人も参加できる展示会や交流イベントも開かれ、地域からは「身近にアートに触れられる場所」として親しまれています。芸術祭を通じてアーティストとの親交が深まっていた大家さんは、「アーティストの活動の場として維持してほしい」と『BEPPU PROJECT』にアパートの運営を委ねました。数年前に大家さんは亡くなりましたが、その遺志は今も受け継がれています。

アパートの居住は公募によって決定する。毎年多くの応募があるという。

大分県別府市「前例がない」はやらない理由にはならない。

何かのムーブメントを起こす人に共通しているのは、「社会を変えよう」という正義感よりも「自分が好きだからやりたい」という純粋な夢が原動力になっていることではないでしょうか。加えて、人並み以上の行動力。普通の人が「できない」「無理」と考える前に、まずやってみるという人が多いような気がします 。

「やれるかやれないかじゃなく、やるかやらないかが大事」と山出氏。次は別府で何が始まるのかー? プロジェクトのたびに洗練されていく別府を見て、私たちは「アートの力」の大きさを実感することでしょう。

小沢剛/「バベルの塔イン別府 <別府タワーのネオン広告「アサヒビール」を使った作品>」/2012/Photo:草本利枝/(C)混浴温泉世界実行委員会

クリスチャン・マークレー/「火と水」/2012/Photo:久保貴史/(C)混浴温泉世界実行委員会

Data
BEPPU PROJECT

住所:大分県別府市野口元町2-35 菅建材ビル2階 MAP
電話:0977-22-3560
http://www.beppuproject.com/

数百年続く窯元から、歴史を塗り替える斬新なプロダクトを創出。 [SUEKI CERAMICS/徳島県鳴門市]

ブランドを生んだ夫の後を継いで活躍する矢野氏。

徳島県鳴門市

徳島県の特産品である『藍染め』とともに発展した『大谷焼』の里、徳島県鳴門市大麻町。この地で最も古い歴史を持つ窯元『矢野陶苑』から誕生し、業界に新鮮な驚きを与えたのが、矢野実穂氏が率いる陶器ブランド『SUEKI CERAMICS』です。後編では、拠点とする大麻町やルーツである『大谷焼』の歴史から、矢野氏の経歴、ブランド誕生までの道のりをたどります。(前編はコチラ

『大谷焼』の里で最も長い歴史を誇る『矢野陶苑』。

徳島県鳴門市徳島県の名産品・『藍染め』ともに発展した伝統工芸『大谷焼』。

徳島駅から電車で約20分。町中とは打って変わって、穏やかな田園風景の中に佇む阿波大谷駅を降りると、そこは『大谷焼』の里、鳴門市大麻町大谷です。この地で『大谷焼』が誕生したのは約230年前。徳島県の名産品として知られる『藍染め』の藍を発酵し、染料にするために使われる『藍甕(あいがめ)』をはじめ、醤油や酒を入れるための甕(かめ)、睡蓮鉢など、大型の陶器を得意とし発展してきました。

鉄分が多い大谷の土を使って作られる『大谷焼』は、ザラッとした風合いとかすかに金属のような光沢を感じさせる質感が特徴です。素朴な土の味わいを感じられる焼き物です。また、時代の流れに合わせて、ここ数十年は大型の甕(かめ)や睡蓮鉢だけではなく、湯呑みや茶碗など日常使いの食器やインテリア雑器など、より実用的な製品も多く作られています。

『大谷焼』の原点である、巨大な甕(かめ)。

独特の風合いを醸し出す、大きな睡蓮鉢も。

近年は小型の酒器など、日常使いの器も。

味わい深い湯呑みや茶碗なども数多く見られる。

徳島県鳴門市紆余曲折を経て、陶芸の世界へと足を踏み入れた5代目夫婦。

『SUEKI CERAMICS』の生みの親である矢野氏の夫・耕市郎氏は、130年以上続く窯元『矢野陶苑』の5代目です。『大谷焼』の里では最も長く続く、歴史ある窯元で生まれ育ちました。しかし、高校卒業後は大阪の大学に進学。デザインや映像などを学び、そのまま大阪に残ってウェブデザイナーとして働いていました。その前には一時プロフェッショナルを目指し、ドラマーとして音楽活動も行っていたそうです。

それでも3年ほど経った頃から、やはり陶芸の方が向いているのではないかと思うようになった耕市郎氏。当時はウェブデザイナーといっても、職場はネットショップの経営をしている会社で、デザインよりはオペレーション作業を担当していました。毎日大量に届く注文メールをさばいて、商品を発注して……ということを繰り返しているうちに、ものづくりの道、中でも最も身近である陶芸の道への想いが募っていったのです。幼い頃から父親の姿を間近に見ながら、遊びの一環とはいえ本物の土を触り、人形や器を作ってきた経歴を考えると、とても自然な流れに思えます。

そうして今から9年前の2009年、耕市郎氏は妻の実穂氏と子供を連れてUターンしました。「私は兵庫県出身で、陶芸とは無縁の環境で育ちました。大学卒業後も全く関係ない職業に就いていたので、まさか徳島県に移住し、陶芸の道に進むことになるとは夢にも思いませんでしたね」と実穂氏は当時を振り返ります。

なお、耕市郎氏の父親である4代目は、『大谷焼』で初めて作家として成功した人物だそうです。人間国宝も所属する日本工芸会の四国支部の幹部を務めています。そんな父親が最も活躍した時期、耕市郎氏が小学生だった30~40年ほど前は、ちょうどバブルや陶芸ブームも重なったタイミングでした。時代の後押しもあって、『矢野陶苑』は順風満帆だったそうです。こうした良い時代のイメージが頭に残っていたこともあり、「さすがに当時ほどの勢いはなくても、ある程度なんとかなるだろう」と楽観的に考えていたといいます。

『矢野陶苑』の5代目、耕市郎氏(右)と実穂氏(左)。

広大な敷地には、工程ごとにいくつもの工房が。

130年以上使い続ける、希少価値の高い大きな登り窯。

窯の中に、今も現役で作陶している4代目の作品を発見。

徳島県鳴門市作家ではなくメーカーとして、面白いプロダクトを生み出したい。

実家に舞い戻り、新たに仕事として陶芸に取り組むことになった耕市郎氏。父親の成功体験をイメージしながらのスタートだったものの、想像以上に厳しい産地の現状を目の当たりにし、すぐに当初の考えの甘さを痛感することになりました。『大谷焼』の窯元は、最盛期には町に数十軒も点在していたものの、残っているのはたったの7軒。「それぞれの窯元が、時代の流れ、消費者のニーズの変化に合わせて、大型の甕(かめ)や鉢ばかりではなく日常使いの食器なども手がけるようになってはいました。それでも、ずっと厳しい状況が続いていたんですよね。芸術品のひとつとして、この地までわざわざ買い求めに来てくださる方もどんどん減っていて。産地としての規模は年々縮小し、私たちが移り住んだ時にはまさに底辺。最盛期の約4分の1にまで落ち込んでいました」と実穂氏は話します。

そんな中、耕市郎氏はまず父親と同じく作家活動をスタート。東京での展示会の機会などにも恵まれましたが、徐々に自身の作家活動に疑問を抱き、プロダクトの製造へとシフトするようになりました。耕市郎氏は磁器で作った器など色々と試みますが、何を作ってもダメで、相手にされなかったといいます。「ショップ関係の方などには、『大谷焼』の方が良いと言われたようです。正直、皆さんは『大谷焼』なんて見たこともないはずなんですけどね(笑)。なんとなく『大谷焼』のストーリー性に惹かれるのか、そういう反応でした。それならばということで、大谷の土や徳島の青石を使ったものづくりを始めたところ、少しずつ目に留めてもらえるようになったんです」と実穂氏。

耕市郎氏が目指したのは、作家が作るアートと、メーカーが作るプロダクトの間を取ったような存在。作家の一点モノではなく、メーカーの大量生産品だけれど、既存のプロダクトとはちょっと違うものを生み出すことで、多くの人に使ってもらい、多くの人に影響を与えたい。そういった思いで、最初は自らろくろを回してプロダクトを作り、それを持って営業活動を行っていました。しかし、これでは量産できず商売にならないということで、ろくろではなくある程度の技術があれば、誰でも製作可能な型を使った製造方法に思い切って変えることに。『大谷焼』はろくろで作るものであり、その伝統から考えると邪道でしたが、大谷の土や徳島の青石を使うことで、地元の素材を生かしたストーリー性のあるものづくりとして認められるのではないかと、果敢に挑戦したのです。「とにかく当時の主人は、地元に戻ってきた以上、何かしら成し遂げなければ!と必死に試行錯誤していました」と実穂氏は語ります。

こうして、歴史ある窯元に身を置きながら、新しいスタイルのものづくりを模索。約2年という準備期間を経て、2012年に新たな陶器メーカーとして『SUEKI』を立ち上げ、『SUEKI CERAMICS』を生み出したのです。それから、作家のように自由な発想で、メーカーのようにきちんとした安定的なものづくりを行う『SUEKI』のプロダクトが注目を浴びるのに、そう時間はかかりませんでした。

広大な敷地の一角に、大谷の土が集められる。

土の加工場。巨大な機械で大量の土が加工される。

ろくろでの製造に代わり、新たに導入された型。

徳島県鳴門市理想の実現を目指して、感覚ではなく理論立てて考え、着実に販路を拡大。

『SUEKI CERAMICS』の成功には、独自性溢れるプロダクト自体の魅力はもちろん、耕市郎氏によるブランディングや販売戦略によるところも大きいといえます。実穂氏曰く、「いわゆる業界のトップの方と仕事をすることで、認知度を拡大していきました」とのこと。例えば、ブランドを立ち上げて最初にアポイントメントを取った相手は、東京でハイセンスなインテリアショップやカフェを運営する企業『Landscape Products』の代表・中原慎一郎氏でした。中原氏は『SUEKI CERAMICS』のヒントになった『ヒースセラミックス』をいち早く扱っていたこともあり、耕市郎氏は「この人に認められれば間違いない!」という想いでアプローチをしていきました。すると、その3ヵ月後には、国内外の様々なブランドのPR業務を行う『alpha PR』代表のクリエイティブディレクター・南 貴之氏からコンタクトが。『SUEKI CERAMICS』のPRを手伝わせてほしいという逆オファーを受けました。そこから更に勢いは加速。一流のセレクトショップや飲食店などから、『SUEKI CERAMICS』を取り扱いたいというオファーが続々と寄せられ、現在にいたります。

元来、耕市郎氏は物事を理論立てて考えることが好きな性格だとか。パズルのピースをひとつずつ組み上げていくように、頭の中で思考を完全に整理してから、物事を進めていくタイプなのです。だからこそ、前述のとおり釉薬の研究も根気強く、地道に楽しみながら取り組めたというもの。そして、ブランド運営においても、どのように舵を切ればどのような発展が可能になるのか、じっくりと策を練り行動に移したことで、成功を収めたのです。「主人は、これを作りたい!というのではなく、どういうものづくりをすればどういった人に受け入れてもらえるのかということを考えて、プロダクトのラインナップや、一つひとつの製品の色や形といったデザインの設計、製造方法や販路拡大の計画を立てていました。だから、やっぱり作家ではなくメーカーですよね。メーカーだけど、自由でアート性の高いメーカー。その実現に向けて、スタートからゴールまで徹底的に、具体的に想定して実行に移していったんです」と実穂氏は話します。

耕市郎氏が確立したブランドを、実穂氏が更に高みへ。

どのような料理にも合い、飲食店からも引く手あまた。(写真/濱田英明、料理/丸山智博)

徳島県鳴門市ブランド設立後初の大幅リニューアルを追い風に、更なる飛躍を。

試行錯誤の末に生まれ、順調に発展してきた『SUEKI CERAMICS』。その成功と高い人気を受けて、全国的にマットな質感の器を作るメーカーも増えたそうです。そしてもちろん、2018年5月のリニューアル後も勢いは留まるところを知らず、東京・日比谷にニューオープンした注目の商業施設『日比谷ミッドタウン』でも人気に。出店しているセレクトショップで販売されている他、飲食店でも使用する器の一部に採用されています。

実穂氏曰く、「『大谷焼』の窯元のうち、主人や私と同世代の若手が引き継いでいる所が4軒ほどあるのですが、皆さん地場産業的にしかやっていないんですよね。うちだけが唯一、毛色の違うことをやっているという状態」とのこと。その現実は、伝統を守りながら新しいことに挑戦するということがどれほど大変なのかを物語っているようです。それでも「これからも主人がつないできた縁を大切に、一流の方々と一流の仕事をしていきたいです。これまで培ってきた中に私らしさも加えながら、楽しく続けていきたいと思っています」と笑顔で話す実穂氏。『SUEKI CERAMICS』は、まだまだこれから新たな道を切り開いていくことでしょう。

Data
矢野陶苑/SUEKI CERAMICS

住所:〒779-0303 徳島県鳴門市大麻町大谷字久原71-1 MAP
電話: 088-660-2533
営業時間:9:00〜17:00
定休日:年末年始
http://sue-ki.com/

兵庫県出身。130年以上の歴史を持つ『大谷焼』の窯元、『矢野陶苑』の5代目・矢野耕市郎氏の妻となったことから、少しずつ作陶の道へ。当初は簡単なサポートのみだったが、2012年に耕市郎氏が『SUEKI CERAMICS』を立ち上げて以降、同ブランドの製造にも携わるようになった。そして2018年5月、耕市郎氏からブランド運営を継承。女性ならではの感性も加えながら、デザインから製造までトータルに携わり、新たなブランド構築を図っている。

その彩りで巡りくる季節を里の人々に伝える、格調高い桜のクロニクル。[馬ノ墓の種蒔桜/福島県会津美里町]

「馬ノ墓」とはこの一本桜が立つ集落の名。満開時には周囲に咲く桃の花のピンクと林檎の花の白との間で見事なグラデーションを織り成す。

福島県会津美里町ただ愛でられるだけではなく、農耕の日々の始まりを告げるために立つ桜。

果樹園と水田に囲まれるようにして立つ、幹回り6mのエドヒガンの大木です。樹齢は300年を超えるといい、桃や林檎の花が咲き誇る中、そうした果樹より頭ひとつもふたつも抜け出して紅色の花を開かせるその姿は、あたかも周囲の花々を従えた「春の王」のような風格を漂わせます。見頃は例年4月中旬から下旬で、近くの「馬ノ墓」の集落の人々が古くより、この力強い野生種の桜の開花を作物の種を蒔く時期の目安としていたことから、「種蒔桜」の名がついたといいます。観光客に広く知られるような存在ではなく、満開の時期に花見のために人々が押し寄せるということはありませんが、枝が地表付近まで伸びる見事な半球状の樹形を備えた「春の王」は、その花の気高い色合いをもって、会津の人々に農耕の日々が始まる時期を今日まで告げ続けてきたのです。

Data
馬ノ墓の種蒔桜

住所:福島県大沼郡会津美里町旭三寄字薬師堂 MAP


(supported by 東武鉄道

仏都・会津の光陰を見つめ続けてきた、古刹の境内を満たす静謐さ。[法用寺/福島県会津美里町]

天台宗の寺院で山号は雷雲山。本尊の十一面観音は火中仏(火事で焼け焦げた仏)として秘仏となっている。会津三十三観音の第29番札所でもある。

福島県会津美里町穏やかな田園風景を一望できる高台に広がる、会津地方でも2番目に古い寺院。

『法用寺』は720(養老4)年に創建されたという寺伝を持つ会津屈指の古刹で、平安京を造営した桓武天皇の皇子である嵯峨天皇の祈願所でもあり、往時には多くの末寺を有して栄えたといいます。境内にあってひときわ目を引く三重塔は、初重から三重までの屋根の大きさの差が少ない均整のとれた姿が特徴。三重塔は、時代が下って1780(安永9) 年の建立ですが、会津地方ではこの『法用寺』以外では見ることができず、その意味でも貴重な存在です。三重塔に隣接した観音堂には、金剛力士像2躰と厨子(ずし)といういずれも国の重要文化財に指定されている寺宝が収められており、また境内に植えられている「虎の尾桜」は「会津五桜」のひとつにも数えられる名木です。境内の池の水面には、この田園の古刹を流れた時を映すかのように、今日も三重塔の影が静かに揺れています。

Data
法用寺

住所:福島県大沼郡会津美里町雀林字三番山下3554 MAP

小林紀晴 春の写真紀行「人知れず、花」。

 久しぶりに浅草から列車に乗った。浅草に足を運ぶのは久しぶりのことだ。いつ以来だろうか。数年前の冬に一人の小説家のポートレイトを撮らせてもらうために訪れたのが最後だった気がする。その方が浅草在住だったからだ。
 
 でも、初めて浅草に来た時のことはしっかりと憶えている。いまから32年前の春のことだ。わたしは18歳で、写真学校に入学して一ヶ月ほどしかたっていなかった。1986年5月。

 入学した写真学校では報道写真部に入部したのだが、その部では伝統的に三社祭を撮影することになっていた。当時は東京の地理のことはほとんど知らないに等しかったのだが、それでも浅草という地名は知っていた。雷門の前に立ったときには少なからずの感慨があったし、脇を流れる隅田川にかかる橋の上、中央に立って川面の写真を撮ったことをよく憶えている。

 記憶に刻まれていることがある。偶然、世界的に著名な写真家にばったり出会ったのだ。写真家の名はエド・ヴァン・デル・エルスケンという。オランダ出身の写真家で、若い頃にパリにやって来て、あやうさをともなった若者たちを撮影した「セーヌ左岸の恋」で一躍有名になった写真家だ。
 
 そのエルスケンに早朝のファストフードの店内で出会った。浅草寺の境内で一夜を明かし、早朝「宮出し」と呼ばれる神輿が浅草神社から出る場面を撮影したあと、数人の先輩たちと近くのその店で朝食をとっていたら、エルスケンが入って来たのだ。先輩もわたしもカメラを持っていて、テーブルの上に投げ出していたからだろう、エルスケンから話しかけられたのだ。

 ただ、先輩もわたしも、赤ら顔で長身の外国人が著名な写真家であるなどとは考えもしなかった。カメラを持った、日本好きの外国のおじいさん程度の認識だった。

 有名な写真家だと知ったのは数日後、たまたまアパートでテレビを観ているとあの赤ら顔が写し出されたからだ。著名な写真家が来日しているというニュースだった。名前もそこで初めて知った。それからエルスケンについて調べて、彼のことを好きになった。

 30代になってからドイツの田舎町まで彼の企画展に足を運んだこともある。エルスケンが亡くなったあとのことだが、あの日、浅草で出会っていなければ、わざわざ足を運んだりはしなかっただろう。

 列車が駅のホームを離れ隅田川が窓の外に見えた。その流れにカメラを向けたあと、シートに身を任せているとそんなことが自然と思い出される。あの頃と変わらないことより、変わってしまったことのほうがどれほど多いのだろうか。あるいはその逆はどうなのだろうか。30数年という時間の流れについてぼんやりと考える。窓の外にはスカイツリー。

 車窓を風景が流れていく。居眠りを誘う。土曜日の午前、車内には行楽へ向かうと思われる人たちの姿がいくつかある。

 東京ではすでに桜が散った。今年は例年よりずっと早く、満開の頃がずいぶん遠い季節のように思える。すると果たして、私がこれから向かう地にその花は咲いているだろうかと不安になる。

 奥へ奥へとわけいっていく。そんな感覚がやってくる。山の木々の多くはまだ芽吹いていない。春ではなく、まだ冬の続きにある。あたかも季節は逆行しているようで、そのことにホッとしている自分に気がつく。

 地下のホームで列車は止まった。湯西川温泉駅。駅名を目にして、小さく声をあげそうになった。ああ、あの湯西川かと。

 20代前半の頃、わたしは山を分け入った先、深い谷を越えたこの地に何度も車で通った。平家の落人伝説がある地なのだが、谷沿いの道をこわごわ運転しながら進んでいると、その伝説は十分にうなずけた。とにかく険しい谷あいを行くからだ。 

 親からお金を借りて買ったあの中古のカローラは、ずっと昔に売ってしまった。カメラマンとしてまだ駆け出しの頃のことで、湯西川のホテルや民宿のパンフレットを撮影する仕事だった。ただ、多くはカメラマンではなく、そのアシスタントとしてだった。

 アジアへの長い旅から帰ってきたばかりの頃で、身体全体が弛緩しているような、時間もまた弛緩しているような感覚をおぼえる日々だった。また再びアジアへ旅に出たいという強い思いに突き動かされるたびにそれを必死に抑え、日本でどうにかカメラマンとしての基盤を築かなければと自分に言い聞かせた。職業としての写真というものに直面した頃ともいえる。

 あの時に巡ったあの場所は、この地下ホームから上がったところにいまも本当に広がっているのだろうか。わたしは衝動的にここで列車を降りて、改札の向こうへ歩んでいきたい気持ちになった。

 平家大祭という祭りがあって、それを撮影しに行ったこともある。慣れない中判カメラにボジフィルムを入れて撮影した。そのフィルムは露出を少し間違うと明るくなりすぎたり、暗くなりすぎたりして扱いが難しいのだが、デジタルカメラが主流になってからは、もはや使うこともほとんどなくなった。

 ぼんやりと車窓に目をやる。流れゆくものたちが目の前を通りすぎてゆく。

 見ることは不思議だと改めて思う。意識しなくても、いろんなものが目の前を過ぎるだけなのに「こと」になるからだ。それは能動的な行為だろうか。いや、やはりどこまでも受動的なものだろうか。

 遠く、山の中腹にピンク色に染まった「何か」が見えた。目を凝らす。桜の花だった。それを合図とするように、桜の花が車窓の向こうにポツポツと広がり始めた。

 わたしは思い出す、いや正確には思い出そうとする。遠い日の桜を……。

 あれは小学3年生だったはずだ。わたしは父と母と祖父と姉と兄と、高遠(長野県伊那市高遠町)へ向かった。そのときのことはしっかりと憶えているのだが、肝心な内容は曖昧だ。何を食べたかとか、桜はどんなふうに咲いていたかとか……一切憶えていない。家族総出だという記憶も、もしかしたら残されたアルバムの中の写真をあとから見て、修正されたものかもしれない。

 あの頃、祖父も祖母もまだ若かった。60代だろうか。父と母は30代だったはずだ。あの頃を家族の青春時代と呼べばいいのだろうか。3世代なのだから、そんな言葉が正しくないのは十分わかっているのだが、ふとそう呼びたくなる。この冬に13回忌を迎えた写真の中の父はいまのわたしよりずっと若く、青年のように映る。

 高遠城址の桜。4月終わりのはずだ。家から峠をひとつ越えれば高遠だ。私の実家は古い宿場町にあって、子供の頃から親や学校の先生に何度も繰り返し、その地名を聞かされた。
「高遠の殿様が参勤交代で江戸へ行く時、ここを必ず通った」

 誰もがまるで直接目にしたような口ぶりだった。

 そんなこともあって高遠という場所には特別な思いがある。峠の向うの見はてぬ花園とでもいったような。徳川の直轄地だったから、特別な存在として誰もが語っていたのかもしれない。

 高遠の殿様、保科正之が会津藩主となったことは子供の頃は知らなかったはずだが、あるときそれを知ってからは会津に親しみを抱くようになった。

 高遠に花見へ行ったのはその時限りだと思う。それ以後の記憶はない。どうしてだろうかと考えるまでもなく、畑と田んぼの繁忙期と重なるからだと気がつく。実家には田んぼと畑があって、特に田おこしの時期にあたる。

 ちなみに子供の頃、ゴールデンウイークにどこかへ連れて行ってもらったことはほとんどない。連れて行ってもらえるという発想すらなかった。野良の手伝いばかりしていた。

 大内宿で高遠蕎麦に出会った。かすかに高遠とこの地が繋がって感じられ、遠い過去とか歴史の片鱗とかに触れた気がした。

 この山深い地に何故、主要な街道(会津西街道)があったのか。不思議でならなかったのだが、今回改めて調べてみると会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などと江戸を結ぶ重要な街道で、東北、新潟から江戸への物流と人の流れが盛んだった街道だったことがわかった。多くの藩が米どころであるのも特徴だ。それと会津と新潟が繋がっているとは思いもしなかったのだが、会津を流れる阿賀野川は太平洋に向かってではなく、新潟へ、つまり日本海へ向かって流れていることも今回初めて知り、ここが東北、新潟から江戸への人と物流の幹線だったことを理解した。多くの大名が参勤交代でここを通ったことを考えると、同時に政治の道でもあったはずだ。

 この街道を整備したのは保科正之といわれている。保科正之は二代将軍秀忠の実子だが、母は正室でも側室でもない女性だといわれている。そんな事情から高遠藩に養子にやられ、若くして高遠藩主になった。わずか三万石の小さな藩へ送られたのは、そんな出生の事情が影響しているようだ。その後、26歳で最上山形の領主をへて会津藩の藩主となった。

 司馬遼太郎の『街道をゆく』の「白河・会津のみち」には保科正之が「もっとも重視したのは、風儀だった」とある。風儀とは文化、士度、精神的慣習をつくることで、その代表的なものとして「会津家訓(かきん)十五カ条」を作り上げた。

 トンネルを抜けるたび桜の花が窓の外に増えていく。風景も次第に穏やかな里山のそれへと変わってゆく。列車は思い出したように小さな駅に停車する。ほとんど人影はない。どの駅前にも桜の木があって、人知れず花が揺れている。

 ふと、なにか、ものたりない。東京では常に桜の下に誰かがいる。そのことに慣れすぎていたのだろうか。

 わたしが父と娘を初めて一枚の写真におさめたのは桜の花の下だった。いまから13年前の4月の終わり、初めて娘をつれて信州へ帰省したときのことだ。満開を少しだけ過ぎたていた。

 生まれて数ヶ月の娘を父が抱いている。それが最後の父と娘の写真となった。父はその直後、癌であることがわかり、約10ヶ月後、大雪が降る日にこの世を去ったからだ。娘を抱いた父を立たせた桜の木は山の麓、田んぼの脇で誰にも気づかれないようにひっそりあった。

 南会津でいくつもの桜を訪ねた。会いに行くという感覚に近かった。そのなかに「馬ノ墓の種蒔桜」と呼ばれるものがあった。桃畑とリンゴ畑の先の巨木で、枝が八方へ地面につきそうなほどに伸びていた。その姿を神々しく感じた。

 木の脇に小さな立て看板があり、「ここには昔、薬師堂があり、境内の桜が美しい桜を咲かせていた。周辺の人達は桜が丁度、稲の種蒔き時期に重なる事から、いつしかこの桜を『種蒔桜』と呼ぶようになった」と記されていた。樹齢は約400年ほどのようだ。

 やはり、誰もいない。根元に小さな祠のようなものがあったが、花見をしている人の姿はない。ああ、ここも同じなのだと思う。父と娘を撮影したあの日のことが鮮明に甦る。

 桃の花越しに咲く桜にカメラを向ける。夢幻(ゆめまぼろし)という言葉が浮かぶ。ふと自分がそんな世界にいるような錯覚をおぼえる。ほんの数ヶ月前、厳冬にこの地を訪ねたときに見た風景が信じられなくもなる。例年にない大雪で、屋根の雪下ろしをする姿はあちこちで見た。見渡す限りの雪が春になったら本当にとけるのだろうかと、心配になるほどに圧倒的だった。

 ファインダーを覗き、シャターを押しながら思う。奇跡だと。
 
 そんなふうに感じるのは長い冬を経たからだと気がつく。
 
 寒さが厳しい地方では春になると、多くの花がほぼ同時に咲く。目の前で桜と桃とリンゴとタンポポ、さらに名も知らぬ花が同時に咲いている。それでいて目をつぶり、再び開けると、すべてが目の前から消えてなくなっていそうな、そんな儚さがある。どれもが風に揺れている。

 今回の旅は、この場所に、こうして立つために来たのだと唐突に思う。何かがシンクロしたという実感を得た。

 その夜、地ビールのお店へ向かった。この地で作られた「アニー」という名のそれを飲んだ。入り口のガラスドアの向こうは穏やかに暮れ、やがて闇に包まれた。誰もいない桜の木の下で、花見をしている気持ちになった。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。

地の利の悪さやリスクを受け入れ、鹿屋(かのや)という地で発信し続ける意味。[Araheam/鹿児島県鹿屋市]

肩の力の抜けた、気持ちのいい接客が印象的な宅二郎氏。お店は兄の良一郎氏と共同経営。

鹿児島県鹿屋市鹿児島県の端っこで、エッジを利かせながらも地に足の付いた活動をする。

多肉植物や観葉植物、サボテンなどの多種多様なグリーンとともに、ライフスタイルの延長線上にある服やグッズなどをセレクトして取り扱う『Araheam(アラヘアム)』。

ショップのある場所は、鹿児島県鹿屋(かのや)市です。
と、聞いて、すぐにその地を思い描けたり特長を挙げられたりしたら、かなりの鹿児島ツウ。もしくは地元関係者ではないでしょうか。何しろここは、なかなかの地の利の悪さなのです。

鹿児島に2つある半島のうちのひとつ、大隅半島。その中央部に位置するのが鹿屋(かのや)市で、県内では3番目の人口規模を有する町といいます。しかし現実的なロケーションでいえば、鹿児島空港からは車で順調に走り続けても所要時間約1時間、鹿児島市内からはフェリーを乗り継いで約1時間30分と、県外から足を運ぶには結構な距離です。

周辺環境も、国道沿いにあるいくつかの大手チェーン店の他は、個人経営のお店は限られており、シャッターが下りている商店も少なくない場所です。
「ここで店をやることは、リスクだらけですよ」と語るのは、前原宅二郎氏。『Araheam(アラヘアム)』を、兄・良一郎氏とともに経営しています。

しかし、その言葉をそのまま受け取ると、なんだか厳しい環境下に身を置いているように思えるのですが、これがちょっと違うのです。なんというか、その環境を「ごく普通に」受け止めているだけ、という感じなのです。

躍起になって、ここから何かをやってやろうとか、仲間を集めて事を動かそうとか、そういうムードではないのが、妙に印象的です。
「昔はそういうのも、多少はあったんです。でも寄ってたかってこうしようと、その時だけ、見た目だけの考えで何かをしても、結局続かないんですよね。それよりも、地に足をつけて自分たちの店をしっかりやる。元気な店作りをすることが、一番の町おこしなんじゃないかなと思うようになったんです」と宅二郎氏は話します。

まずは、自分たちのできることをやっていく。けれどその実、とてもエッジが利いているのです。
それは宅二郎氏然り、扱うアイテムや漂うオーラ、空気感の全てに、通じるものがあります。

種類、大きさ、高低と様々なグリーンが置かれる店内。元は材木倉庫だった場所を利用した、広々とした空間だ。

奥の部屋では服、生活雑貨、鉢などライフスタイルまわりの商品が並んでいる。

鹿児島県鹿屋市「お客さんが5分で帰る店」から、「住みたい」と思わせる店作りへ。

なんとも、気持ちがいい。
『Araheam(アラヘアム)』の中にいると、全身が深呼吸しているような感覚になります。店内をとりまく数々のグリーンの効果はもちろんですが、ぐるぐると店内を徘徊する楽しさや、立ち止まったりしゃがみ込んだり、目線を色々と動かせる楽しさに気付くのです。
「皆さんそう言ってくれますね。『住みたい』なんて言う人も。『住めませんよー』って言うんですが(笑)」と宅二郎氏。

でも実は、この店の前身である『Edge×Edge(エジエジ)』時代は、その真逆だったようで、「お客さんが5分で帰る店」だったとか。

現在は、元材木店の倉庫を改装した、かなり広い空間。天井高もたっぷりあるので、圧迫感はいっさいありません。店内にはコンテナが設置してあり、そこはギャラリースペースになっています。
「そのコンテナが、以前の『Edge×Edge(エジエジ)』だったんです。場所はここからすぐ近くの別の所にあったんですが、父親の会社で倉庫として使っていたものを、そのまま店舗にして。2009年に、兄と始めました。最初は植物とジュエリーという商品構成でスタートしたんですが、何しろ狭いでしょ。お客さんが入ってはくれるんだけど、居づらいのか、見たら帰る、買ったら帰る。ホントに5分。なんとかもう少し長く、店に居続けてほしくて」と、宅二郎氏は当時を振り返りながら話します。

そんな折、現在のこの倉庫が空き物件だったこともあり、2011年に移転。『Araheam(アラヘアム)』として心機一転、始動したといいます。

この広い倉庫に移ってからも、「5分で帰らせない」対策は続きます。店内に設けたコーヒーショップ『POT a cup of coffee』が、それです。
「極端な話、植物って別に普段なくてもいいものじゃないですか。でもコーヒーはごくごく日常的なものだし、せっかく広いのでコーヒーでも1杯、飲めるといいかな、と」と宅二郎氏。

そんな思いから設けたコーヒーショップは、今やご近所の喫茶店代わりの存在にもなり、遠方から来た人には、旅の途中の安息所にもなっています。

取材時、東京から来たゲストが、次の場所へ移動するためにタクシーを呼んでいたのですが、「車中で飲みます」と、コーヒーをテイクアウトしていました。そのコーヒーを飲みながら『Araheam(アラヘアム)』を思い出し、窓の外を流れる知らない町の景色を見る−−−−。そんな、1杯のコーヒーが、旅という非日常の思い出になるのも、なんだかいいなと思った瞬間です。

そっけないほどの外観。ここが店舗と気付くかどうかさえ危うい佇まいだ。

このコンテナが、かつての『Edge×Edge(エジエジ)』の店舗。現在は店内に設置し、ギャラリースペースとして活用している。

多肉植物やサボテン、観葉植物など、取り扱う植物は自社農園で育成・養生したものと、生産者から直接買い付けたもの。

一杯のコーヒーがあるだけで、ぐっと身近な存在となる。ゲストにより気軽に、ゆっくりと過ごしてもらうための、前原兄弟の「作戦」だ。

鹿児島県鹿屋市幼い頃からそばにあった植物の存在に、リアルな「いま」の気分の可能性を感じて。

前原兄弟がともにお店を始めるにいたったきっかけは、父親が経営する会社の存在だったそうです。その会社は、全国に植物を卸していて、園芸店も営んでいたといいます。それらの植物を入れる鉢や器も作っており、数でいえば1,000個単位でものを動かすような、いわゆる量販の業務を行っていたとか。

良一郎氏はアメリカ、宅二郎氏は中国とイギリスへの留学経験があり、帰国後それぞれ、父親の会社にて勤務。家業を継ぐことは、自然な流れだったのでしょうか。
「確かに、物心ついた時から植物に囲まれて生活していたので、グリーンは身近な存在でしたけど、まさか仕事にするとは思っていなかったですよ。何しろ小学生の時から手伝わされていたのが、イヤでイヤで。台風の時とか、外で育てている鉢物を保護するため、土砂降りの中で作業するんですが、もう大っ嫌いでしたもん(笑)」と宅二郎氏。

でも留学先から帰ってきたら、「なんか植物っていいな、面白いな」と思い始めたのだそうです。

父親の会社で扱うものは、大手量販店向けの「かわいい」ものが多かったとか。そうではなく、自分たちの家にも置きたいような、「かわいい」ではないものを扱いたくて、良一郎氏と独立したのだといいます。

確かに子供の頃から慣れ親しんできた植物ではありますが、もう少し違う目線で選べば、もっと今の自分たちのリアルに合ったグリーンライフを提案できる。そしてふたりの海外経験を生かした目線があれば、鹿屋(かのや)の地でも、 『Edge×Edge(エジエジ)』なことができるのではないか。そんな思いから、前原兄弟は動き始めたのです。

幼い頃から身近にあった植物に改めて魅力を感じたのは、海外から帰ってきてからのことと語る宅二郎氏。

「自分たちの家に置きたいもの」という目線が、今の気分にフィットするグリーンライフの提案になっている。

Data
Araheam

住所:鹿児島県鹿屋市札元1丁目24-7 MAP
電話:0994-45-5564
http://araheam.com/

リアルな鹿屋の「半歩先の日常」を、自ら楽しんで実践する。[Araheam/鹿児島県鹿屋市]

店内には、前原兄弟の目線で選んだものが、ゆったりと置かれている。

鹿児島県鹿屋市思いを形にするための、呪文のような店名。

すでに気付いている方もいるかと思いますが、『Araheam(アラヘアム)』という店名は、店主が考えた名前のトリックです。
「いやぁ、大学生の時、ミュージシャンのセバジュンが自分の名前を逆から読ませるNujabesっていうのを使っていて、めっちゃカッコいいと思って」と、店名の由来を明かしてくれた前原宅二郎氏。現在のお店のロゴマークも宅二郎氏がデザインしたものだといいます。「ものすごく書き直しました(笑)」と宅二郎氏。

名字を使った店名には、結果論かもしれないですが、重要な意味があったそうです。ここは、兄・良一郎氏と、弟・宅二郎氏のふたりのコンセプトがひとつになって、形となる場所。現在は更に父と、三男の弟さんも、『Araheam(アラヘアム)』には欠かせない存在になっています。
「自社農園があるんですが、その農園はもともと父が中心になって始めたことで、弟は現在その生産管理をしています。海外からの仕入れは、兄と僕のふたりで」と宅二郎氏は話します。

まさに前原ファミリーが、ひとつになるために用意されたかのような『Araheam(アラヘアム)』。言葉の力は大きいと常日頃から感じますが、まるで呪文のようなこの店名は、家族が一丸となって店に携わるための言霊だったのかもしれません。

宅二郎氏が試行錯誤してデザインしたというロゴマーク(写真はドアの裏から撮影)は、どこか異国の呪文のような響きを持つ。

個性的であり美しさも持ち合わせているサボテンが多く並ぶ。宇宙的な神秘さえ感じるものも。

鹿児島県鹿屋市またひとつ鹿屋(かのや)に、日々を少しだけ楽しくするお店が誕生。

基本的に今回のような取材対応は、宅二郎氏が担当。店頭に立っているのも、多くが宅二郎氏だといいます。そう聞くと、宅二郎氏が全面的にコンセプトから何からを考えているように思えますが、実際にはそうでもないのだとか。
「セレクト自体はふたりで一緒にやっていますが、どちらかといえば僕の方が保守的で、兄はもっと自由。野球のバッテリーでいったら兄がピッチャーで僕はキャッチャー。更に両親に置き換えると、兄が父、僕が母、という感じ。対照的な互いの性格がいい刺激にもなって、バランスがとれているんでしょうね」と宅二郎氏は話します。

ふたりが最初に手がけた『Edge×Edge(エジエジ)』は、商品構成が植物とジュエリーだったといいますが、ジュエリーを最初から展開したいと言っていたのは、良一郎氏の方だったとか。今のようにライフスタイル全般の提案であれば、そこにジュエリーがあるのも不思議ではないですが、植物ともう1アイテムを掛け合わせる時にジュエリーをイメージできるのは、確かに大胆かつ自由な発想です。

そしてその良一郎氏の温めていたプロジェクトが、また新たに動き始めるのだとか。
「今度は犬です。犬と飼い主のためのお店で、『Balmy Grooming & Supply』といいます。予約制のグルーミングと、オリジナルのグッズやオーガニックのフードなんかを扱っていく予定です。犬と飼い主が集えるお店になればいいなぁと思っています」と宅二郎氏は話してくれました。

こうやって、ふたりは自分たちの生まれた地・鹿屋(かのや)で、少しずつ、でも確実に、自分たちの「あったらいいな」を形にしています。

『Araheam』のことを考えていると、ロックバンド「くるり」の『ハイウェイ』という曲を思い出します。そこで描かれる旅に出る理由のように、前原兄弟の「鹿屋(かのや)でお店を出す理由」は、少なくともだいたい100個くらいあるのではないでしょうか。

それは、生きること、食べること、眠ること、嬉しいこと、悲しいこと……。その全ての日常の瞬間に寄り添う何か。生きていく上で、さり気ないけれどとても大切な何か。それを伝えたり、分かち合ったりできる場所を、持ちたいだけなのかもしれません。
「もっともっと洗練させたいんですよね」と語る宅二郎氏ですが、肩の力は、あまり入っていないように感じます。商売という意味では、人がたくさんいる所や都会でやっていたらどうなんだろうと、想像することはたまにあるといいます。でも、鹿屋(かのや)にいて、鹿屋(かのや)で何かを、続けていきたいと考えているそうです。
「自然と、ここだったので」と宅二郎氏。

鹿児島の端っこ、大隅半島の中央部で、今日も前原兄弟は「日々の素敵な何か」とともに、ゲストを待っています。

2018年5月にオープンしたばかりの『Balmy Grooming & Supply』。

犬のグルーミングまわりと飼い主のグッズなど、商品は徐々に広がる予定。

これからはもっと屋外での過ごし方やグリーンとの付き合いも提案したいと宅二郎氏。形にしたいものは、まだまだ数えきれない。

Data
Araheam

住所:住所:鹿児島県鹿屋市札元1丁目24-7 MAP
電話:0994-45-5564
http://araheam.com/

「人」とのつながりを大切にした、ストーリーを伝えたくなるものたち。[Araheam/鹿児島県鹿屋市]

ものだけでなく、そのバックグラウンドをも一緒に伝えたい。言い換えれば、それを伝えられるものしか置かないという『Araheam(アラヘアム)』。

鹿児島県鹿屋市羊の皮を被った狼のごとく、園芸店を装ったハイセンスな快適空間。

材木店の倉庫だったという広い店内には、入り口から奥まで所狭しと、大小様々な植物が置かれています。右手の部屋には衣類や雑貨、アクセサリーなどのライフスタイルまわりの商品が、左手には緑色に塗装されたコンテナがあり、ギャラリーになっています。更に奥にはコーヒーショップがあり、その脇には園芸雑貨をディスプレイした小さな温室があります。

店内に足を踏み入れた最初の印象は、ちょっと変わったグリーンショップかな?といった、取り立てて何かガツンとくる気配はない、さっぱりとしたもの。ところがそれらの緑の茂みの奥から、何やら素敵そうで面白そうなものが、じわじわ、続々と現れてくるのです。

極端な例え話をするなら、無人島で、まるで廃屋のような倉庫の中で、実はものすごく文化レベルの高い生活をしている民族を見つけてしまった! そんな感じです。

全体のレイアウトとしては一応カテゴリー分けされているのですが、植物に関しては細かなグルーピングはされておらず、どちらかといえば意外な位置に置かれているものが多いことに気付きます。
「農場とか生産者の所へ行くと、『おっ!』と目が合う植物があるんですよね。そういう時は、『こいつは店のどこに置いてやろうかな』って思います。これなんか、まさにそう」と、優に3mを超える高さの、シタシオンという植物を指差す前原 宅二郎氏。シタシオンはベンジャミンという植物の一種ですが、ベンジャミンの「可もなく不可もなく」という顔つきとは違い、そのシタシオンは「自由」なオーラが幹全体から漂っていました。
「家の中で、ものを見上げる機会ってあまりないでしょう? そういうのも提案できたらいいなと思って。ちなみにこれは、鹿児島生まれです」と宅二郎氏は言います。

日常の視点を変える。それだけで、日々新しい何かが生まれることを、気付かせてくれるのです。

グリーンの先に見える部屋に、何やら楽しそうな服や雑貨が置かれており、初めて訪れたゲストはその「発見」感がとても楽しい。

天井高のある元材木店の倉庫を利用した店内の中でも、ひときわ背の高いシタシオンは、「これが家にあったらどんなだろう」と空想させる面白さがある。

鹿児島県鹿屋市全てのもののバックグラウンドストーリーを伝えたい。

宅二郎氏は、先に挙げたシタシオン同様、他の植物の出自も、「どこ生まれとか、どこ育ちとかだけでなく、どんな人が育てたかということも伝えますね。『これはものすごく几帳面な人が育てている』とか、『若いヤンキーみたいな人で(笑)』とか、『おじいちゃんが育てているんですよ』とかね。うちの店に置いているものは、どれも一つひとつストーリーがあるんです。何を取っても、“人”の話になりますね」と説明してくれます。

服や小物もそうです。例えば、『MULTIVERSE』というブランドは、デザインからパターン、縫製まで全てひとりで行っている、鹿児島を拠点に活動する女性デザイナーの洋服です。シンプルなのですが、手仕事の良さや丁寧さが伝わるそれらの洋服は、宅二郎氏が伝えたくなる「ストーリーを持つもの」の代表だとか。
「嬉しいのは、初めから僕が、この服はなんだと話す前に、お客さんがそれに気付いてくれること。オーラや佇まいなんでしょうね。数ある中でもすっと手が伸びるものって、必ず伝えたいことがある何か、なんだと思います。だから話し出すとついこっちも熱くなっちゃって」と宅二郎氏。

洋服を扱い始めた当時は、全国的にも知られた、わりと大手のブランドものが中心だったといいます。鹿屋(かのや)という地では珍しくても、ちょっと足を延ばせば手に入るものでした。でもだんだんと、ミニマムなものに絞り込まれていったのは、「話が盛り上がらない」からだそうです。お客さんがわざわざ足を運び、求めているのは、『Araheam(アラヘアム)』にしかない何か、そしてここでしか過ごせない時間だった、と宅二郎氏は気付いたのです。

また、コンテナで展開するギャラリーの作家は、展示をするまでに、必ず何かしらつながりがあるとか、長く付き合いのある人だといいます。どこかで目にした作品というだけで、展示のオファーをするのではなく、きちんと「人」付き合いがあった上で情報発信を行っているそうです。
「国内の作家も海外の作家も、僕と兄の今までの付き合いやつながりが、ここでの情報発信になっています。販売する商品も、ギャラリーの作品も、僕ら2人の出会いの形なんです」と宅二郎氏は話します。

天然素材を使った『MULTIVERSE』の服は、凛としたなかに抜け感もある心地いい服。全国でも限られた所でしか取り扱いがない。

取材時のギャラリーでは、長野のガラス工房『STUDIO PREPA』の照明にスポットを当てた展示が。ここでの展示も前原兄弟の「人」との繋がりをフィーチャーしている。

手の圧力と的確な温度でコーヒーの美味しさを引き出すエアロプレス。スタッフの安田雄大氏は、その技術を競う大会『JAPAN AEROPRESS CHAMPIONSHIP』で2位受賞の経歴を持つ人だ。

Data
Araheam

住所:鹿児島県鹿屋市札元1丁目24-7 MAP
電話:0994-45-5564
http://araheam.com/

グリーンとライフスタイルグッズ、コーヒーショップとギャラリー。日常と非日常を、同じ目線で気持ち良く提案する。[Araheam/鹿児島県鹿屋市]

鹿児島県鹿屋市OVERVIEW

鹿児島県の大隅半島中央部・鹿屋(かのや)市に、グリーン好きの間では全国的に著名なショップがあります。前原良一郎氏、宅二郎氏の兄弟が営む『Araheam(アラヘアム)』です。

こちらは、多肉植物や観葉植物など様々な植物の販売を中心に、二人の目線で選んだライフスタイルまわりのものと、「あったらいいよね」という遊び心を感じさせるライフスタイルアイテムを取り扱っています。

また店内には、コーヒーショップとギャラリーもあり、日常と少しだけ非日常が混在しているのも面白いところです。

実際に足を運ぶとわかるのですが、ショップのある場所の周辺は本当に静かなもの。個人経営のお店としては、かろうじて飲食店がいくつかありますが、散歩がてらに他に寄り道できそうな場所は、あまり見当たらないのです。

そんな中、悪目立ちすることは決してない佇まいながら(むしろ町と同化するように溶け込んでいるといった方が正しい)、一度足を運ぶと、空間全体に広がる気持ち良く感度の高いオーラに、心を掴まれてしまいます。植物、衣類、雑貨、ギャラリーにコーヒーショップと、様々なものに囲まれているのに、何ひとつ違和感なく同居し合って、『Araheam(アラヘアム)』という空間を生み出しているのです。

ハイセンスなのに、それをグイグイ押してくるところがまるでないこの不思議な空気感は、弟の宅二郎氏と話をしていても同じように伝わってきました。

店内にひしめくグリーンがそうさせるのか、のほほんとした、ある意味時空を曲げるその「抜け感」は、全身の毛穴を開かせる、極上のミストスパのようでもあるのです。

Data
Araheam

住所:鹿児島県鹿屋市札元1丁目24-7 MAP
電話:0994-45-5564
http://araheam.com/

俗世から隔絶されたアンコールワットを思わせる山城。[岡城/大分県竹田市]

緩いカーブを描く岡城の高石垣。大手口から大手門へ向かう登城道の崖側にある「かまぼこ石」も見もの。

大分県竹田市自然に溶け込んだワイルドな城跡。

大野川の支流、稲葉川と白滝川とに挟まれた舌状台地上に築かれた「岡城」。高さ数十メートルの断崖にそそり立つその姿は天然の要塞に守られた難攻不落の城だったことが伺えます。大分県竹田市に対談の仕事で招かれた際、詳しく調べずにわからないまま訪れ、真っ先に連れて行かれたのがこの「岡城」でした。周囲を山に囲まれており、城下町から離れたところに位置し、住民の気配もありません。その名の通り丘の上にあり、規模も大きい。これほど大きな城跡は見たことがありません。有名な「荒城の月」の発祥地であり、瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、この曲を発表したと言います。かつて日本にあった多くの城は、明治政府によって取り壊され、この「岡城」もそのひとつです。高さのある立派な石垣は残されていますが、草木に覆われており、自然に溶け込んだワイルドな佇まいは一種の遺跡のよう。まるでカンボジアのアンコールワットを思わせ、非常にロマンチックです。

遠くの山々を背景にし、標高325メートルの山上に築かれ、難攻不落とされた「岡城」。

緑の木々や草木に覆われ、自然と溶け込むように残された山城。古の時代に思いを馳せてみるのもいい。

大分県竹田市登城口に残されたキリシタンの遺物。

「岡城」の特徴のひとつが、丸くカーブのついた独特のかまぼこ石。城に登っていく登城口や石垣に水を逸らすために使われており、これがまた美しい。この「かまぼこ石」はキリシタンの墓碑とも言われており、ひょっとしたら、岡藩は藩主が中心となって藩ぐるみでキリシタン隠しをしたと推測されている。実に独特な形をしています。これほどの規模でありながら、兵庫県竹田城のように観光地化されすぎておらず、周囲の景色や自然と溶け込み、世間からも隔絶されている。その佇まいが何よりの魅力と言えるでしょう。最近では、街の復興に貢献している若いアーティストがこの岡城からインスピレーションを受けているそうで、毎日登っても飽きないと聞きました。私もその気持ちがわかります。写真写りが良く、雨の日も雪の日もいい。100景で紹介したい好きな場所のひとつです。

石垣は一見の価値あり。ヨーロッパの古城を思わせる存在感と壮麗さを漂わす佇まい。

Data
岡城

住所:〒878-0013 大分県竹田市竹田2912 MAP
拝観時間:9:00〜17:00(年中無休)
https://www.city.taketa.oita.jp/okajou/

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

山が見守る土地で、山のような言葉と物語を紡ぐ。[みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ/山形県山形市]

荒井良二氏の作品「山のヨーナ」。山形ビエンナーレ2018のメインビジュアルでもある。

山形県山形市山形は、可能性を秘めた土地。

東京ではなく、地方で行われる芸術祭。その魅力とは、「土地の自然や文化そのものも作品の一部となり得る」ということかもしれません。まさに、そんな地の利を生かしたアートの祭典が2014年から山形で開かれています。「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」。3回目が、9月の開幕に向けて始動しています。

東北芸術工科大学(通称『芸工大』)。アートやデザインを通じて地域と密接につながる。

山形県山形市東北芸術工科大学が開催する2年に1度の祭典。

山形市から蔵王方面にバスで20分。東に西蔵王高原と蔵王連峰を背負い、上桜田の斜面にそびえる切妻形のシンメトリーな建物は、「東北芸術工科大学」。1992年に開学し、現在は現代美術家でデザイナーの中山ダイスケ氏が学長を務める芸術大学です。「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」を主催するのはこの大学。2年に1回、現代アートをはじめ幅広いジャンルの作家を招いて、国の重要文化財「文翔館」をメイン会場に多彩なプログラムを展開します。

文翔館は大正5年築の旧県庁舎・県会議事堂。現在は山形県郷土館として無料公開。

2014年には文翔館の前庭もトラフ建築設計事務所によって作品「WORLD CUP」に。

山形県山形市「山のようなもの」を、山のように。

3回目となる2018年のテーマは「山のような」。一見とらえどころのない、現代アートらしい漠然としたテーマですが、これには「東北の暮らしと地域文化への深い共感や鋭い洞察から、現在の山形を表す(=山のような)作品を提示する」「芸術祭の制作過程において、山形の過去・未来に光をあてる創造的なアイデアや協働をたくさん(=山のように)生み出していく」というメッセージが込められています。実はこのテーマは、荒井氏が15年前につくった物語『山のヨーナ』から生まれたもので、今回の芸術祭でも実際にヨーナのお店をはじめとする物語の世界が「文翔館」に登場します。

公式ポスターは2種のビジュアルがある。こちらは少女の「ヨーナ」バージョン。

大人バージョンの「ヨーナ」はモデルで女優の前田エマ氏。

山形県山形市日本を代表するクリエイティヴが山形を舞台に表現。

芸術監督は山形出身で世界的に知られる絵本作家・荒井良二氏。総合プロデューサーは中山氏、プログラムディレクターは芸工大教授の宮本武典氏、キュレーターは東京の古書店『6次元』店主のナカムラクニオ氏……と、各界で活躍する面々が指揮を執り、出展・参加アーティストも作家のいしいしんじ氏、ライブパフォーマーの空気公団、トラフ建築設計事務所、音楽家の野村誠氏など、日本のみならず世界的に知られるクリエイター約40組が名を連ねます。「文翔館」のほか、若者が再生させた商店、丘の上のアトリエ群(大学キャンパス)を舞台として、作品展示やインスタレーション、映像、体験、ワークショップ、食など、五感やジャンルにとらわれない多彩なアートプロジェクトを展開します。

18歳まで山形で過ごしたという荒井氏。世界的な絵本作家でありアーティストだ。

『6次元』のナカムラ氏。番組制作、執筆活動、プロデュースなど活躍の幅は広い。

山形県山形市仕事を離れて本気で表現したら、どうなるか。

実はこの芸術祭には、少しマニアックな「もう一つの見どころ」が隠れています。それは、「作家が普段の仕事を離れて作りたいものを作ったらどうなるか」という遊び的な企みがもたらされていること。というのも、出展作家はほとんどがデザイナーや写真家、絵本作家などとして商業的にも活躍している第一人者。「その彼らが仕事としてのクライアントワークを離れて、あるテーマのもと、自由に作りたいものを作ったらどうなるか。その化学反応はかなり面白い」と中山氏は話します。

山形県山形市「食」を突き詰め、向き合った「ゆらぎのレシピ」。

例えば、ケータリングやフードコーディネートを行う「山フーズ」の小桧山聡子氏は、今回の芸術祭で、最上郡真室川町での食をめぐる取材を通して制作した「ゆらぎのレシピ」を展示。山での山菜採りや、地鶏を解体して焼くまでの様子など、狩猟や屠殺の現場を通して体験した印象を写真・映像・テキストで表現します。「都会にいると、『食べる』ことの生々しい部分と距離ができてしまう。この真室川で、食材と対峙した時に感じたことをリアルに伝えたい」(小桧山氏)。

山フーズ「ゆらぎのレシピ#01 記憶をつなぐ勘次郎胡瓜のサラダ」制作風景。

山形県山形市文字のお化け、のようなものだってあると思う。

またタイポグラフィを中心としたグラフィックデザインなどで注目を集める大原大次郎氏は「もじばけ – Throw Motion – 」と称し、月山の雪原や庄内の砂浜を巡って描いた文字の軌跡を記録写真とモビールで再構成。「例えば消しゴムで字を消したら、消えた文字はどこへ行くんだろう?と不思議になって。消えずに残っている文字の想いみたいなものがあるんじゃないかと。『文字と自然の間』に見える風景、を表現しようと思いました」と制作背景を語ります。「クライアントのあるデザインの仕事では、意味のわかるものしか求められません。けれど、“意味と無意味”の間を追求してみたかった。この芸術祭は、自分の中のアートという分野において『やっておかなきゃいけないこと』をできる機会だと思っています」(大原氏)。

大原大次郎「もじばけ」のためのスタディ(月山にて根岸功撮影)。

山形県山形市山のような包容力で、年齢もアート経験値も問わず楽しめるアートを。

もちろん、芸術祭では普段アートに関わりのない人も驚きや興味を持って楽しめるようなデジタルアート、ライブ、陶器市といったプログラムも充実。年齢を問わず楽しめるため、子供連れが多く訪れるそうです。「東京で開催したら物凄くたくさんの人が来ると思う。でも山形でやるからいいんです」と中山氏。さまざまなアーティストが山形の自然・文化への畏敬の思いやインスピレーションを形にし、観る人々が自分なりに解釈し、それぞれの物語を紡ぐ。そこに決まった形はありません。つまり「○○のようなもの」に見え、感じる。どのようなものに見えてもいい。それぞれの「ような」ものが、山のように生まれることを願って、この芸術祭は今年も山形で開催されようとしています。

画家・絵本作家のミロコマチコ氏による「からだうみ」(2017年制作)。

WOWの「YADORU」はこけしが自分の顔になる不思議なデジタルアート。

Data
みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ

開催期間:2018年9月1日(土)~9月24日(月・祝)
*期間中の金・土・日・祝日のみ開催(9/1・2・7・8・9・14・15・16・17・21・22・23・24)
開催場所:文翔館(山形市旅籠町3-4-51)、東北芸術工科大学(山形市上桜田3-4-5)、とんがりビル、郁文堂書店、BOTA theater、gura、長門屋ひなた蔵・塗蔵、東北芸術工科大学キャンパス
料金:無料(一部イベントプログラムは有料)
主催:東北芸術工科大学 MAP
芸術監督:荒井良二
プログラムディレクター: 宮本武典
キュレーター:ナカムラクニオ、三瀬夏之介、宮本晶朗、森岡督行
アートディレクター:小板橋基希
総合プロデューサー:中山ダイスケ
電話:023-627-2091(東北芸術工科大学 山形ビエンナーレ事務局)
https://biennale.tuad.ac.jp/
写真提供:山形ビエンナーレ事務局

飛騨でこそ、つくれる、伝えられるものがある。裏にあるのは限りない飛騨愛。 [岐阜県飛騨]

日本三名泉のひとつ下呂温泉がある下呂市で、飛騨牛の繁殖と循環型農業を行う『熊﨑牧場』の熊﨑光夫氏。飛騨だからできる、伝えられるものがあると、新しいことにもどんどん挑戦している。

岐阜県自分たちが楽しむことが、飛騨の魅力を伝える早道。

インターネットが普及し、あらゆる情報やモノが簡単に手に入るようになった現代。どういった基準でモノやコトを選択すればよいのでしょうか。こんな時代だからこそ、確かなつくり手と伝え手に出会うことは、とても贅沢なことなのかもしれません。

地産地消にこだわるスイス人と日本人の夫婦、次世代につなげる農業を目指す牛飼い、民芸運動から暮らしの在り方や生き方のヒントを得た民芸品店の店主。飛騨という土地を選び、それぞれの観点や視点でこの土地でしかつくることのできないモノや思いを伝える3人に出会いました。

3者に共通するのは、自分たちがまずは楽しむことと、限りない地元愛。彼らの自分たちらしい仕事や暮らしが、飛騨をより魅力的なものにしています。

ミューズリーの専門店を営みながら、農業にも勤しむスタインマン氏。畑でつくられた野菜は店で使う。故郷スイスを離れ、高山で暮らすスタインマン氏にとって店も畑もどちらもなくてはならないものである。(写真提供:トミィミューズリー)

岐阜県偶然の出会いから導かれた飛騨が、定住の地になる。

飛騨高山にある商店街で、ミューズリーの専門店『トミィミューズリー』を営むスタインマン氏と尾橋美穂氏。ミューズリーはシリアルの一種。スタインマン氏のミューズリーはオーツ麦(オートミール)のみに、ドライフルーツやナッツなどを混ぜ合わせたものです。元々はスイス人の医師が考案した健康食品のひとつとして知られ、スイスでは朝ごはんの定番だそうです。

スイス人であるスタインマン氏が高山にやってきたのは約30年前。世界を旅している中で、のちに奥様となる美穂氏とオーストラリアで出会います。ふたりはたまたま知り合った日本人から奥飛騨にある宿を仕事先として紹介してもらい、迷うことなく飛騨へ。

「飛騨は自然があり、小さな町があり、四季があるところがスイスに似ている。実は軽い気持ちで来たけど、他に行こうという気持ちには一度もならなかった」とスタインマン氏。オーストラリアという自然豊かな地で出会ったふたりは、いつしか自然に寄り添う暮らしをしたいと夢見ていたのかもしれません。偶然の出会いから導かれた飛騨でしたが、この地に足を運び、定住するのは必然だったのかもしれません。

今でこそ外国人の姿をよく見かける高山だが、「30年前はとてもめずらしかった」とスタインマン氏は話す。奥飛騨では、初めて外国人を見る宿のおばあさんに、手を合わせられたこともあったのだとか。

ミューズリーのもっともポピュラーな食べ方はヨーグルトや豆乳などをかけて食べる。「今後は、お湯を注いで食べるスープ仕立てのミューズリーもつくりたい」とスタインマン氏。

最近ではシリアルといえばグラノーラをよく見かけるが、油脂やはちみつ、糖類などを添加して焼き上げるグラノーラと違い、ミューズリーはそれ自体に味をつけないことが多いためヘルシー食だといわれている。

岐阜県飛騨に恩返しがしたい。その思いが新しいことへの活力に。

奥飛騨で1年ほど働いたのち高山に移ったスタインマン氏たちは、スイス料理の店を始めます。店は一度移転をしたものの26年続き、モーニングで提供していたミューズリーはとても人気だったそう。その後タイミングや縁が重なり、2017年、現在の場所にミューズリーの専門店をオープンしました。

ここ数年、ふたりは新しい試みを開始しています。ミューズリーの主材料であるオーツ麦の栽培を始めたのです。飛騨は冷涼でオーツ麦の栽培に適していることもありますが、りんごや糀など良い素材が多いので、自分たちで育てたオーツ麦と飛騨の材料を使って商品がつくれないかと思ったのです。さらに、「飛騨に恩返しがしたい」とふたりは話します。観光客は増えても、高山に住む人は減る一方。オーツ麦の栽培が広がり、それが高山の産業のひとつになればよいと思っているのです。

とはいっても、商品化は簡単ではありません。「栽培自体は難しいことではないのですが、脱穀や籾殻を外す方法が分からない。今はまだ手探りです」と美穂氏。言葉で表現するよりも、それはきっと大変なことに違いありません。でも、今まで過ごした30年間のように、自分たちらしいやり方を模索する姿は困難ではなく、どこか楽しげなのです。

店がある商店街は、今はシャッター通り化しているが気に留めていないそう。商品や店を気に入ってくれれば、立地に関係なく足を運んでくれると思っているから。

持ち帰り用のミューズリーはお客のリクエストからつくられたもの。りんごや糀甘酒、えごまなど飛騨の食材を使用したオリジナルのミューズリーも人気。すべて、添加物、保存料を使わずにつくられる。

しばらく空き店舗を借りた。2階は改装をせず和室のまま使用。「おもしろいと思ったことをやった方が人生楽しい」と話すスタインマン氏は、高山の人気者だ。

岐阜県化学肥料を使っていてはダメだ。循環型農業が地域の未来をつくる。

昔から農業や畜産業が盛んな地域でも、近年は高齢化が進み耕作放棄地が目立っているのは事実。今回訪ねた『熊﨑牧場』がある下呂市萩原町も、例外ではありません。各地で次世代につなぐ農業の仕組みとして「集落営農組織」が立ち上がって久しいですが、「この地域でも去年から集落営農が立ち上がった」と、牧場主の熊﨑光夫氏は話します。

熊﨑氏が発起人として立ち上げた「南ひだ羽根ファーム」。何よりこだわったのが、化学肥料を一切使わずに有機で作物をつくること。化学肥料を使うと一旦は収穫量が上がりますが、使い続けると土の中の必要な微生物が死んでしまい、長期的にみれば有機栽培よりも収穫量が落ちるといわれています。ですが、従来の農法に慣れた組合員の多くは有機農業に反対だったそう。循環型農業をやっていた熊﨑氏は懸念する組合員を根気強く説得し、100%有機の米づくりが始まりました。

循環型農業とは牛や鶏など家畜の糞尿から堆肥をつくり、その堆肥で野菜やお米を育て、米を収穫した後の藁や野菜のくずは家畜が食べて……と、それが繰り返される農業のことです。「昔の農業ではそれが当たり前だった。昔の米がおいしかったのは循環型農業でつくられていたからだと思っとる。あの味をもう一度復活させたい」と、熊﨑氏は力強く言います。

牧場主の熊﨑光夫氏。熊﨑牧場は一代で築き上げた。「南ひだ羽根ファーム」は現在30〜60代が所属し、100人ほど組合員がいる。熊﨑氏は生産部長兼理事を務める。

ファームでは有機コシヒカリと、飛騨地域のブランド米「銀の朏(みかづき)」を生産している。組織化してから初年度の収穫は、目標の8割は達成できたそう。今年度は、5反ほどはさがけ米もつくる予定。

岐阜県牛も育てるし、米も日本酒もつくる。そこにストーリーが生まれる。

熊﨑氏が子どもの頃は、牛を飼っていた農家はめずらしくなかったそう。その頃の牛は食肉用ではなく、畑を耕したり、物を運んだりする役用だったといいます。それが機械化により役用牛は衰退。そこから循環型農業は姿を消していきました。

将来は牛を飼って生計を立てたいと思っていた熊﨑氏は、高校は畜産科に進み、農業大学校、北海道で酪農を学んだ後、飛騨牛の繁殖を手がけることに。「野菜や米をつくる農家と違って牛飼いは簡単な仕事ではない。おまけに、設備投資など相当のお金もかかる。家族に迷惑をかけたこともあるけど、それでも続けているのは楽しいから。繁殖は子育てと一緒。子育てはたいへんだけど、やっぱり楽しいでしょ(笑)」と熊﨑氏は本当に楽しそうです。

熊﨑氏が育てる牛は繁殖牛ですが、ここ6年くらいは経産牛をつぶして食肉にしています。基本的には他に卸さず、年に1日限り店をオープンさせ販売しています。雑草を含んだ牧草を食べた牛は健康で、さらに無駄な肥育をしていないため味は格別なのだとか。また、地域の人たちと一緒に自分たちでつくったお米を使って、日本酒造りも行っています。

あらゆるものが簡単につくられ、簡単に手に入る世の中で、熊﨑氏が目指す農業は時代と逆行しているのかもしれません。でも、誰がどこでどんな風につくったか、そこにひとつのストーリーが生まれます。その価値に、私たちは気づかねばなりません。

循環型農業には欠かせない大事なパートナー。農業大学校時代には、「牛飼いはやめた方がいい」と先生に反対されたこともあったそう。現在は50頭ほどの牛が飼育されている。

化学肥料は簡単に手に入り量も少なくて済むが、あくまで有機物でつくる堆肥にこだわる。熊﨑氏の牧場では、おがくずと牛糞を混ぜて堆肥をつくる。牛が食べる牧草も自分で育てている。

牛、鶏、犬、猫、ヤギと、様々な動物と共存する熊﨑牧場。ヤギは雑草を食べてくれるため、草刈り機の代わりとして大切な戦力だという。

岐阜県民芸運動との出会いが、人生をがらりと変えた。

情緒ある古いまち並みが残る飛騨高山の中心地から国道41号線を北西へ。10分も車を走らせれば、緑が濃い山々が目に入ります。その先さらに10分ちょっと。里山らしい景色が広がってきたところに現れる一軒の古民家が、『やわい屋』です。築150年の家を移築し、自宅の一角を店に。民芸や古本などを扱っています。

店主の朝倉圭一氏は高山市出身で、20代の頃は愛知県で働いていました。十数年前に高山に戻ってきましたが、当時は今の暮らしとは仕事も住まいも真逆。会社員として勤め、アパートメントに住んでいたそうです。何かが違うと思っていたものの、その答えは見つからなかったといいます。

人文学や社会学、郷土史に興味を持ち、たくさんの本を読む中で出会ったのが思想家の柳宗悦であり、民芸運動でした。民芸運動は「用の美」や「機能美」ばかりがクローズアップされがちですが、本来の趣旨は日々の暮らしに価値を見出して、より豊かな暮らしを実現していくこと。ひとり一人が個性を発揮しながら生きていける社会をつくるその考え方に共感した朝倉氏は、今の暮らしにヒントを見つけました。

取材で訪ねた日は目の前の田んぼに水が張られ、そろそろ田植えが始まる時期。響き渡るカエルの鳴き声に驚いていると、「街から来た人たちはみんなそう言いますね。僕たちはもう、慣れてしまって聞こえないんですよ」と、朝倉氏。

やわい屋をさらに奥に進むと、県立自然公園に指定されている『宇津江四十八滝』がある。やわい屋がある場所は高速道路のICからも県道からも近く、地元の人なら誰もが分かるベストポジションだったのだとか。

岐阜県ケの部分にこそある美しさ。飛騨で古民家に住むことの意味。

「古民家に暮らしたいとか民芸品店をやりたいとか、そうではなく飛騨高山らしい暮らしと仕事は何かということをずっと考えていました。民芸運動と出会ってハレとケの、ケの部分にこそ日々の美しさがあると感じたのです」と朝倉氏。それを伝える手段として、結果的に古民家に住むことになったといいます。

古民家は日々の普通の暮らしを営む人とともに育ち、その土地に根ざします。朝倉氏と話している中で、何度なく出てきた「普通に暮らしたい」という言葉。地元らしさや普通の暮らしにこだわった気持ちの表れが、朝倉氏たちを飛騨や古民家での暮らしに導いたのでしょう。 民芸のうつわと古本の販売も、それが始めからやりたかったというよりは、古民家に合うものを考えた末に自然にそうなったといいます。それでも、高山には民芸にゆかりがある人が多く訪れ、民芸館や関連が深い家具メーカーもあり、今のようなスタイルは飛騨高山だからこそ、自分たちだからこそできることではないかと考えています。

「こういう仕事のやり方や暮らし方がある。自分たちのような生き方が、新しい生き方のひとつとして感じてもらえればいいと思っています。でもそれはひとつの選択肢であり、これが絶対ではないとも思っています」と朝倉氏は話します。

店名の「やわい」は、飛騨の方言で支度をするという意味。日々の暮らしはやわいの積み重ねというところから、そのお手伝いをするという意味を込めて『やわい屋』と名付けたそう。

扱うものは、近隣のものや自分たちが会いに行ける範囲の、いいと思うもの。高山市で活動する安土草多氏のガラスの照明シェードもそのうちのひとつ。

朝倉圭一氏と奥様の佳子氏。「普通に暮らしていくことが都市ではやりにくい。お金に振り回されず、自分たちが本当に心地いいとか楽しいことをここならば実現できる」と話す。

Data
トミィミューズリー

住所:〒506-0011 岐阜県高山市本町4-60 MAP
電話:080-6975-4013

南ひだ羽根ファーム

住所:〒509-2506 岐阜県下呂市萩原町羽根1926 MAP

やわい屋

住所:〒509-4121 岐阜県高山市国府町宇津江1372-2 MAP
電話:0577-77-9574

くすんだ色とマットな質感、独特のフォルムの器で新風を吹き込む。[SUEKI CERAMICS/徳島県鳴門市]

『SUEKI CERAMICS』の代表である矢野氏。

徳島県鳴門市

徳島県の特産品である『藍染め』とともに発展した『大谷焼』の里、徳島県鳴門市大麻町。この地で最も古い歴史を持つ窯元『矢野陶苑』から誕生し、業界に新鮮な驚きを与えたのが、矢野実穂氏が率いる陶器ブランド『SUEKI CERAMICS』です。前編では、日本中の名高いセレクトショップが注目する、『SUEKI CERAMICS』のプロダクトの魅力を紐解きます。

徳島県鳴門市大麻町にある『矢野陶苑』の工房&直営店。

徳島県鳴門市独特の風合いとフォルム、使い心地の良さで瞬く間に話題に。

2012年に誕生して以来、北海道から沖縄まで、全国各地のセレクトショップがこぞって取り扱う陶器ブランド『SUEKI CERAMICS』。

200年以上の歴史を誇る徳島県の特産品『大谷焼』の里において、最も古い窯元『矢野陶苑』の5代目である、矢野耕市郎氏が立ち上げたブランドです。そして2018年5月からは、妻の実穂氏が引き継ぎ代表を務めています。

大谷の赤土や阿波の青石など地元産の材料を選び抜き、独自に開発した釉薬による絶妙な色合いとマットな質感の器は、これまでありそうでなかった逸品。カラフルながらも、ややくすみがかった、落ち着いたトーンの色味は、どのような料理とも相性抜群だと評判です。

料理との相性だけを考えると、最も無難なのは白い器。しかし、そればかりではつまらないものです。そこでカラフルな器も欲しいと買い求めると、一般的にはポップなカラーや、日本の伝統的な渋い色合いのものが多く目に付きます。ところが、これらは器単体で見ると素敵だと感じても、食べ物を乗せた瞬間いまいちな印象になってしまうことも少なくないものです。それに引き替え、『SUEKI CERAMICS』の器は、あらゆるライフスタイルにぴったりフィット。和洋どのような食べ物も、ちょっとリッチに、美味しく美しく見せてくれるのです。

また、マットながらサラリ&しっとりとした肌触りで、器は手に持った時の触感が良く、カップは優しい口当たり。柔らかなフォルムを描く、ほどよい厚みと端正なデザインも魅力的で、シーンを問わず使える実用性の高さを誇り人気を集めています。

食卓を彩る『SUEKI CERAMICS』のプロダクト。

『大谷焼』の原料の一つである大谷の赤土。

耕市郎氏からブランド運営を引き継いだ実穂氏。

徳島県鳴門市シンプルながら、これまでにない新たなプロダクトを目指して。

『SUEKI』とは、焼き物を示す『陶物(すえもの)』と、縄文式・弥生式土器などの後に登場して今日の陶芸方法が確立したとされる『須恵器(すえき)』にちなんで命名されたもの。見た目は徹底的にシンプルでありながら、常に進化し続けたいという想いが込められています。

そんな『SUEKI CERAMICS』のデザイン性が高いプロダクトは、しばしばアメリカの『ヒースセラミックス』と比較されることも。矢野氏曰く、実際に参考にしている部分もあるそうです。「日本国内にはたくさんの陶器メーカーがありますが、こういったくすんだ色味でマットな質感、適度な厚みのものを扱っている所はなくて。日本どころか世界でもあまりないけれど、でも皆が探しているであろう品質だと目を付けた主人が、同じような雰囲気のものを作れないかと模索したことで、『SUEKI CERAMICS』が生まれたんです」と矢野氏は話します。

欲しいけれど誰も手を出さないのは、それだけ品質の維持が難しいということを意味します。それでも、130年以上続く窯元の歴史にあぐらをかかず、さらなる進化を求めて果敢に挑戦したことで、新たな道が開けたのです。

器の底に見られる、想いを込めた『SUEKI』の刻印。

国内メーカー初の、くすんだ色味やマットな質感を実現。

徳島県鳴門市試行錯誤の末に生まれた、理想的なくすみカラー&質感を叶える釉薬。

『SUEKI CERAMICS』の落ち着いた色合いとマットな質感の要となっているのが、オリジナルの釉薬。釉薬とは、陶磁器を覆っているガラス質の部分のことです。粘土や顔料などの素材を混ぜて作られた液状のもので、最後に窯で焼く前、素焼き段階の陶磁器の表面に仕上げとして施されます。つまり、この釉薬によって最終的な色や手触りが変化するのです。

通常、光沢のあるはっきりとした色味はつるっとした触感、マットでくすんだ色味はざらっとした触感になるもの。そんな中で矢野氏は、落ち着いた色味ながらサラリ&しっとりと心地良く使いやすい、理想的なラインを追求しました。釉薬のテストに費やした時間は、実に2年弱で通算約2万回。細かい単位で成分量を変えながら、試行錯誤を繰り返したと言います。

「釉薬の開発は主人が行いました。色々と調合して釉薬自体の色が上手くできても、釉薬を施した状態と、その後焼き上げて窯から出した状態とでは、製品の色合いは異なります。実際にどう仕上がるかは、焼き上げてみないと分からないんです。そのため、一色を完成させるのに、1グラム以下の微量な成分の配合を少しずつ変えては試し、変えては試し、といった具合で。途方もない作業に感じますが、本人は毎回『次はどんな風に出て来るかな?』と、意外と楽しみながら取り組んでいたようです(笑)」と、矢野氏は語ります。

繊細な作業を経て完成した釉薬は、正に唯一無二のもの。青、ピンク、アイボリー、ブランなど、カラフルなのに絶妙にくすんだ、華やかさと落ち着きの間を取ったようなバランス良い風合いのバリエーションは、『SUEKI CERAMICS』にしか成し得ないラインナップとなっています。

工房の一角にある調合室には、様々な材料や道具が。

しっくりくる風合いを求め、試行錯誤した軌跡。

微妙な差異を比較したことが分かるテストピースの一部。

徳島県鳴門市リニューアルで生まれた、次世代の『SUEKI CERAMICS』。

2018年5月より、生みの親である矢野耕市郎氏から妻の実穂氏へと、ブランド運営が受け継がれた『SUEKI CERAMICS』。この機会に、これまでのものづくりをベースにしつつ、さらなる進化を求めてリニューアルが図られました。

「主人から私に代わることで、これまでやや男性的だったプロダクトを、女性的なものに変化できないかと試みました。ぽってりとした印象の厚みを少し薄くしたり、重さをなるべく軽くしたり。色味も、くすんでいるけどやや明るめの、パステルカラーのようなものを採用しています。女性の視点で、日常使いのしやすさをポイントに改良しました」と実穂氏。おまけに、価格も求めやすい設定に見直されました。

ラインナップはこれまで通り、プレートやボウル、マグカップなど。カラー展開は、定番の5色「honey white」「sorbet blue」「misty pink」「chocolate brown」「lapis blue」に加え、オンラインショップ限定色も用意されています。釉薬はご主人が開発したものですが、色のセレクトや「honey white」など可愛らしいネーミングは実穂氏が考案したものも。ここにもさりげなく、女性らしさが伺えます。

また、釉薬の施し方にも変化が。これまでは一度に全面に施すことで、表面は均一でムラのない印象でした。対してリニューアル後は、半分ずつ施すスタイルに。こうすることで、一部重なる部分に模様のような釉薬のラインが入ることになります。これが良いアクセントとなり、これまでとは一味違う表情を見せるのです。

新たな釉薬の施し方。まずは半分だけつけます。

その後残り半分をつけることで、重なる部分に線が。

釉薬が施される前(左)と、施された直後(右)。

釉薬を施したら、最後はこのガス窯で焼き上げます。

成形は手作り感の出る機械ろくろを使って行われます。

実穂氏の感性が加わった、新バージョンのプロダクト。

徳島県鳴門市豊かなクラフト感が加わり、さらに進化し続けるものづくり。

今回の『SUEKI CERAMICS』のリニューアルですが、それは見た目だけに留まりません。実は、使う素材や製造工程にも変化が加えられました。

まず、これまで材料の大部分には硬い焼き締めが可能な磁気土を使っていたところを、リニューアル後は磁気土と大谷の赤土とをおよそ半々の割合で使用。また、成形型と機械を用いる圧力鋳込みから、機械ろくろを使っての成形にシフトしました。型の中に土を入れ、人の手で形作っていくのです。さらに、これまで電気窯で焼いていたところを、ガス窯に変更。刻々と移ろう炎がもたらす独特なニュアンスが、豊かな表情を生み出します。

こうして、女性らしさとともに手作り感も増した新たなプロダクト。従来のファンをより一層魅了するだけではなく、新たなユーザーも開拓し始めています。

次回の後編では、『SUEKI CERAMICS』が拠点とする徳島県鳴門市大麻町や、ルーツである『大谷焼』の歴史から、矢野氏の経歴、ブランド立ち上げの経緯とその道のりを辿ります。

Data
矢野陶苑/SUEKI CERAMICS

住所:〒779-0303 徳島県鳴門市大麻町大谷字久原71-1 MAP
電話: 088-660-2533
営業時間:9:00〜17:00
定休日:年末年始
http://sue-ki.com/

兵庫県出身。130年以上の歴史を持つ『大谷焼』の窯元、『矢野陶苑』の5代目・矢野耕市郎の妻となったことから、少しずつ作陶の道へ。当初は簡単なサポートのみだったが、2012年に耕市郎氏が『SUEKI CERAMICS』を立ち上げて以降、同ブランドの製造にも携わるようになった。そして2018年5月、耕市郎氏からブランド運営を継承。女性ならではの感性も加えながら、デザインから製造までトータルに携わり、新たなブランド構築を図っている。

皿の上に現れた国東の鬼。迫力あるビジュアルと豊かな味わいで魅了したスペシャリテ。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

「国東的良鬼」。この料理名に込められた思いが徐々に明らかになる。

大分県国東市見事なコースのなか、ひときわ存在感を放った一皿。

2018年5月26日、27日。開山1300年の節目を迎える「六郷満山」の地・国東を舞台にした「DINING OUT KUNISAKI with LEXUS」は、訪れたゲスト、参加したスタッフの双方に素晴らしい記憶を残しながら、盛大な拍手とともに閉幕しました。その成功の立役者のひとつは、やはり川田智也シェフが仕立てた料理の数々。「和魂漢才」のテーマのもと、地元の食材を中華の技法で調理する、その日、その場所でしか味わえない料理です。

全10品のコースは、どれも甲乙つけがたい完成度。すべてが主役といえるような見事な品々です。今回はそのなかでもビジュアル的にもコースの中でひときわの存在感を放った一皿、「和魂漢才」のテーマ、国東の食材の魅力、地域の歴史と文化、それらすべてを詰め込んだ象徴的な料理をご紹介します。「国東的良鬼」と名付けられた魚料理。そこに込められる川田智也シェフの思いを紐解きます。

自身の料理観や国東の文化を、すべて料理に注ぎ込んだ。

大分県国東市食材視察の合間を縫って訪れた寺社で、国東の文化に触れる。

『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』を2ヶ月後に控えた3月末。大分県国東市に、川田智也シェフの姿がありました。目的は食材の視察。多忙なスケジュールを押しての訪問でした。

ところで通常の視察は、食材生産者の元を訪れてその特徴や生産にかける思いを伺い、本番に向けて料理の構想を練ることが目的。もちろん今回の視察でも、分刻みのスケジュールでさまざまな生産者を訪問し、国東が誇る食材の数々に触れてきました。

しかしそればかりではありませんでした。川田シェフは視察の合間を縫って、寺社を訪れ、石仏を拝観し、険しい山道を登り、岩肌に直接掘られた磨崖仏を眺めます。そして同行して頂いた国東市観光課職員の説明にも、真剣に耳を傾けます。そこにはどんな狙いが潜んでいるのでしょうか。

川田シェフの料理の最重要テーマは「和魂漢才」。一義的には「日本の食材を、中華の技法で仕立てる料理」という解釈になります。しかしより突き詰めて見るならば「和魂」とはつまり「日本の心」。川田シェフが持てる中華の技法で表現するのは、生産者の思いや土地に受け継がれるストーリーを含めた、その「心」の部分なのかもしれません。だからこそ川田シェフは、一見料理とは無関係に思えるような寺社や石仏を、熱心に見つめていたのです。

古刹のご住職や観光課職員の話を、メモを取りながら熱心に聞く川田シェフ。古来よりこの地で親しまれていた山岳信仰に仏教が融合して生まれた独特の宗教観。古来より石への特別な思いを抱き、数多くの石仏が残されていること。そして六郷満山が今年開山1300周年を迎えること。どの話も、この土地の精神性を象徴する興味深い内容です。

とりわけシェフの興味を惹いたのが、鬼の話。「鬼の形相」「心を鬼にする」など、一般的に鬼は「怖いもの」として描かれがちですが、ここ国東の地では善なる存在として親しまれています。現在でも六郷満山の寺院に受け継がれる「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」という行事。これは僧侶が扮した鬼が松明を持って堂内を巡りますが、ここでも鬼は祖先が姿を変えた善なるものとされています。この話を聞いていたことが、後に生まれるシェフのインスピレーションに繋がります。

視察の合間を縫い、自らの足で険しい山道を登ることで、料理に繋がるヒントを探し続けた。

数々の寺社や山肌に直接掘られた磨崖仏を巡り、土地の歴史、文化への理解を深めた。

自然や石仏を前に、時折沈思黙考にひたる場面も。

国東に伝わる「修正鬼会」の一場面。僧侶が鬼に扮して堂内を練り歩く。

大分県国東市「一目惚れ」した、ある魚。そこから生まれる料理のインスピレーション。

翌早朝、国東市安岐町の魚市場。帰港してきた漁船から次々と魚が下ろされ、活気に包まれる市場に、川田シェフの姿がありました。横にいるのは、国東市で和食店『国東食彩zecco』を営む中園彰三氏。地元の食材に詳しい中園氏の案内で、次々と運び込まれる魚を熱心に眺めます。そんな中、川田シェフの目がある魚に止まりました。中園氏も目にしたことはあっても詳細は知らない様子。漁港関係者に尋ねて、ようやく正体が判明します。「これは三島フグ。漁師は誰も食べないけどね」そう、地元では食べられることのない雑魚の扱い。それでも川田シェフの目は、この魚から離れません。

後に聞くと「一目惚れでした」と川田シェフは笑いました。そしてこれも後にわかったことですが、実はこの時すでにシェフの頭の中には、料理の完成図までが浮かんでいたのです。「僕の料理へのアプローチは2種類。一から組み立てていくパターンと、完成品のイメージから巻き戻していくパターンです」そう話す川田シェフ。三島フグを使った今回の料理は「完全に後者」といいます。つまりまず味や盛り付けも含めた料理の完成図があり、その後、パズルのように構成要素を埋めていったのです。三島フグの料理が本番で果たした役割の大きさを思えば、この漁港での出合いは運命だったといえるかもしれません。

地元の食材に詳しい中園氏(写真左から2番目)や漁港関係者の話に熱心に耳を傾ける。

とりわけシェフの目を引いた三島フグ。これが晩餐のスペシャリテ誕生に繋がる。

川田シェフは「目が合ったんですよ」と冗談めかすが、この出合いが転機となった。

大分県国東市これ以外ないという調理法で、三島フグが生まれ変わる。

三島フグは、“フグ”の名がつきますが、カサゴの一種。カサゴ自体は川田シェフが日頃から使い慣れた食材です。しかし、試作の過程でさらなる驚きもありました。それは川田シェフが厨房で、三島フグを揚げたときのこと。高温で揚げた三島フグは鰓が立ち上がり、まるで鬼の角のように見えたのです。もともと鬼面との類似性からこの魚に興味を惹かれていた川田シェフ。国東の文化で重要な役割を果たす鬼。そのストーリーまでを、この魚で表現できるのではないか。

そして料理は完成しました。料理名は『国東的良鬼(三島フグ“国東の鬼” 四川名菜 干焼魚)』。調理法として最初から頭にあったのは、四川省の伝統料理である「干焼魚(ガンシャオユイ)」。四川省では川魚が使用されることが多いこの料理に、三島フグという地魚と、国東の鬼の文化を取り入れる。まさに「和魂漢才」を地で行く一品。無論、細やかな味の調整にも余念はありません。

まず250度という高温の油で揚げ、やや淡白な身に燻したような香りを加えます。揚げた魚は清湯で蒸した後、休ませて味を染み込ませます。ソースは挽肉、タケノコ、椎茸などに調味料と魚の漬け汁を加え、とろみをつけたもの。香ばしく揚がった皮目と、ゼラチン質が豊富でふっくらとした白身に少しだけ刺激のあるソースが絡む。そしてそれらが口中で一体となる。まさに至高の食体験といえる完成度の逸品です。

料理を目にした中園氏は「歴史まで踏まえてくれたドラマチックな料理に感動しました」と絶賛。さらにその料理の構造に触れ「国東の漁獲高は減少傾向ですが、地元の魚でこれだけの料理ができあがったという事実は地域の人々の自信にも繋がると思います」と感想を伝えてくれました。

もちろん、川田シェフにとっても自信作。「まず(三島フグの)ビジュアルから入り、中華の先人達が築いた名菜の調理法が加わり、地元のストーリーが潜む。“コレ以外考えられない”という料理になったと思います」そう振り返った言葉にも、この料理への自信と達成感が滲んでいました。

食材調達から当日のキッチンまで、地元のスタッフの中心として活躍してくれた中園氏(写真左)。

ゲストの目の前でソースをかける演出も、この料理の重要なポイント。

燻したような香りの福建省の紅茶「正山小種(ラプサンスーチョン)」と合わせて、さらに香りを引き立たせた。

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

ワインとスイーツのマリアージュでオンリーワンの世界観を魅せる。[WINE & SWEETS tsumons/福岡県福岡市]

福岡県福岡市OVERVIEW

お酒とスイーツのマリアージュを楽しめるお店は、東京をはじめ全国にいくつもあります。けれどその多くは、レストランメニューの一部としてや、あるいはカフェ利用がメインで、ピンポイントでお酒にも合うスイーツを提案している場合がほとんどです。

しかし、福岡県中央区高砂にある『WINE & SWEETS tsumons(つもん)』は、少し、いえ、全くと言っていいほど、それらの世界観とは一線を画します。なぜならこちらのスイーツは、ワインに合う、お酒に合う、ではなく、それら両者がひとつになって初めて、世界が完成するのです。

そんな独自の世界観を創り上げるのは、パティシエールでありソムリエールの香月友紀氏。『ONESTORY』では初の女性シェフのご紹介となります。

彼女が作るスイーツの中でとびきりのスペシャリテは、2014年3月のオープン以来、変わらず「スフレ」です。ふわふわでこんもりと膨らんだ、淡雪のように繊細な口どけの「スフレ」と、香月氏が選ぶワインは、口の中で溶け合い、鼻腔で混じり合い、蜜月を迎えます。

その甘美な世界を求めて、県内はもとより県外、時には噂を聞きつけたフーディーな海外ゲストが足を運ぶ『tsumons』。今回はその魅力と香月氏の素顔を、お伝えしたいと思います。

Data
WINE & SWEETS tsumons

住所:福岡県福岡市 中央区高砂1-21-3 MAP

電話:092-791-8511
http://wine-sweets.com/

ザッツ・エンターテインメント。ようこそ、『tsumons』のスフレ劇場へ。[WINE & SWEETS tsumons/福岡県福岡市]

スフレ登場の瞬間は、思わず感嘆の声を上げてしまうほど。圧倒的な膨らみは衝撃的。

福岡県福岡市一人ひとりのために、その都度時間をかけて焼き上げる。

『WINE & SWEETS tsumons』とその名が示すように、ここはスイーツとともにワインもしくはスピリッツを愉しむお店。紅茶やコーヒーの用意はなく、どちらかといえばバーに近い存在といえます。

供するスイーツは季節替わりで約10種(2018年5月現在)。そのうちの半数を占めるのが、この店のシグネチャースイーツであり、香月友紀氏を語る上で欠かすことのできない「スフレ」です。

全ての「スフレ」は「oven fresh(焼きたて)」で、オーダーを受けてから焼き上がりまでおよそ30分かかります。ゲストの目の前で卵白を泡立て、メレンゲを作るところからスタートするのですが、あまりに自然な流れで香月氏が泡立てを始めるので、カウンターに座る私たちはよほど覗き込まない限り、何かが始まったとは気が付かないほどです。

今回は改めて、その動きをじっくりと観察してみたところ、最初は右手で泡立て始め、次に左手に替えてまた泡立て、その後は約10秒毎に左右の手を替えながら、都合約2分半、ひたすら泡立て続けていました。途中、砂糖を加える時以外は、途切れることなくずっと、です。言葉で約2分半と言えば簡単ですが、一度でも卵白の泡立て経験がある人ならば、それがどれほどキツい作業かは想像がつくのではないでしょうか。

「でも私はですね、メレンゲを作るのが一番好きなんです。落ち着くっていうか……。昔から洗濯機がぐるぐる回っているのを見るのが好きだったので、もしかして攪拌(かくはん)作業は自分にとって精神安定剤みたいなものなのかも(笑)」と、ケラケラと笑いながら博多弁で話す香月氏。実際、泡立てている時は、手に余計な力や負荷はかかっていないのだそうです。ゲストと会話をしながらも、流れるような所作で泡立てを続けられるのも納得です。

彼女の作る「スフレ」は、砂糖の量が控えめ。これはワインやスピリッツなどとの相性を考えると、とてもバランスのいいことなのですが、実際のところ、メレンゲ作りに砂糖は不可欠なのです。多いほど早く泡立ち、膨らみのキープ力も高まります。けれど香月氏は、砂糖には頼りません。目指す味わいとマリアージュのためには、一つひとつ、そして一人ひとりのために、労力を惜しまないのが香月氏なのです。

カシャカシャカシャ……から次第にリズムと音が変化していく。その間約2分半は一瞬たりとも手を休めない。

メレンゲが潰れないようそっと器に移し、オーブンへ。この焼き時間はゲストにも香月氏にとっても、ドキドキの時間だ。

連続でスフレを作ることをなんら厭わない香月氏。「一番楽しいし、好きな時間ですね」と話す。

福岡県福岡市夢ならば醒めないで。まるで魔法にかけられたようなスフレたち。

「スフレ」は、ベーシックなものをはじめ、フレーバーやトッピング違いなど5種ほどの用意があります。この日は、「エクストラ チーズ スフレ」と「きょうのもやしスフレ」を作ってくれることに。

まずチーズは、鹿児島県鹿屋で、2018年の5月より始動したチーズ工房『Kotobuki CHEESE』のモッツァレラを使用。このチーズの開発には、香月氏も関わったといいます。そしてチーズの上には、フランスのスパイス専門店『イズラエル』で購入した、香り高いクミンがたっぷりと振りかけられます。

さて、「スフレ」作りの見せ場は、その焼き上がりです。初めて『tsumons』で「スフレ」を経験する人は皆、「こんなに膨らむの!?」と目を疑うほど。何しろ、ココット(陶製の容器)の倍の高さにまで膨らんで登場するのです。驚きなしには迎えられません。

差し出された柄の長いフォークの先で「ぷすっ」と真ん中を突けば、モッツァレラのミルキーな香りがふんわりと。思わずうっとりしていると……。
「チーズ、すくってみてください。びよ〜んと伸びるので。早く、早く!」と香月氏に急かされました。言われるまますくい上げてみれば、なんとまぁ伸びる伸びる。「スフレ」を食べるだけなのに、なんだか笑いが止まらなくなりました。これはまさに、tsumonsエンターテインメントです。

この「スフレ」に合わせたワインは、日本ワインのドメーヌ・ポンコツ「おやすみなさい」。山梨県産巨峰から造られる微発泡のこのワインと鹿屋のモッツァレラは、どちらも優しく穏やかで、日本人ならではのものづくりの繊細さに溢れています。「スフレ」とワインが、穏やかに抱擁し合うのです。

その次に登場したのは、森のように深い緑が迫り上がった抹茶の「スフレ」。これを、「もやし」にすると香月氏。メニューにも、「もやし」とあります。
「よくお客様に、もやしってあの“もやし”ですか? と目を丸くされるのですが、その反応が楽しくて。正解は“燃やし”、フランベにするんです」と香月氏。

話し切らないうちに、間髪入れずフランベにしたジンとシャルトリューズを、焼き上がった「スフレ」にさっと注ぎます。この瞬間、私たちゲストが「おぉ~」と声を上げるのは当然なのですが、実は香月氏自身が一番楽しそうなのです。まるで子供がいけない遊びをしているような、やんちゃな表情になっているのです。

香月氏は、抹茶という素材を草(=ハーブ)と捉えています。そしてフランベで使ったお酒も薬草香るリキュールとスピリッツ。そこへ合わせるのは、ほんのり青々しさを感じさせる、にごり系の白ワイン、ソーヴィニヨン・ブランです。
「もう、草草草! 草ワールドです」と香月氏。またしても彼女自身が誰よりも嬉々としているのが、印象的なのでした。

チーズの「スフレ」の中でも、モッツァレラを使ったものは特に面白いほど伸びる。日本のチーズと日本のワインは、そのまろやかな相性の虜となる。

フランベの用意をする香月氏。まるで子供が理科の実験室で遊んでいるような表情になっている。

「もやし」はただのパフォーマンスではない。「草」を思わせる八女(やめ)の抹茶の香りを、ハーブリキュールがこれでもかと引き立てる。

福岡県福岡市まじめにもほどがある。スイーツと向き合う姿勢は馬鹿正直。

「スフレ」以外のスイーツは「TODAY'S SWEETS」として、パフェやアイスクリーム、シャーベットなど4、5種の用意があります。しかしこれらも先ほどの「もやし」同様、ネーミングが少し、普通じゃありません。チョコレートアイスクリームのパフェは「ケンタウロス」、ラズベリーのメレンゲとアイスクリームのコンビネーションは「メレンゲ御殿」、スピリッツのジンが香るシャーベットには「ジンジン」……。どれもが実にユニークなのです。

けれど、そんなネーミングセンスとは裏腹に、素材と向き合う姿勢は、恐ろしいほどにまじめで真摯。例えば、アイスクリームに安定剤は不使用。使用する副材料もできる限り、作れるものは全て自分で作るといいます。
「スイーツを作り始めた時から、心の師匠はずっと『オーボンヴュータン』(東京都・尾山台)の河田勝彦シェフでした。パティシエールとして生きていくと決意するきっかけを与えてくれたのも、氏の本。副材料を自分で作ることと、職人である以上は白衣を着るということを、そこから学びました」

修業時代に応募したコンクールの中でも、「第4回 メープルスイーツコンテスト」では金賞を受賞した香月氏。その時の審査委員長が河田氏だったということで、コンクールの勝敗や結果よりも、自分のお菓子を河田氏に食べてもらえるということが、最大の喜びだったとか。思い出すたび、その時の興奮と熱が、全身を駆け巡るのだそうです。

コクと酸味が感じられるチョコレートのアイスクリームはなめらかで軽やか。オリーブを散らしたチップスやベリーが好対照。これに合わせるバニュルスは、フレンチでいうところのソースの感覚。

最近特に気に入りのラム『ドン・パパ』(中央)と、香月氏が愛して止まないドイツのスピリッツ『スティーレ・ミューレ』(左)。

ロックフォールのアイスクリームは『ドン・パパ』とともに(右)。シェーブルのアイスクリームには『スティーレ・ミューレ』のアブサンとブラッド・オレンジの蒸留酒をふりかけていただく。香月氏曰く、『tsumons』4年間の集大成のスイーツに仕上がっている。

Data
WINE & SWEETS tsumons

住所:福岡県福岡市 中央区高砂1-21-3 MAP
電話:092-791-8511
http://wine-sweets.com/

スイーツが持つ魔法に気付いて以来、自分の中の湧き水を止められない。[WINE & SWEETS tsumons/福岡県福岡市]

頭に思い描いたスイーツを形にする時、そしてそこに合わせるワインやスピリッツを考える時、興奮を伴うこともあるという香月氏。

福岡県福岡市『tsumons』の「つ」は、「つよし」の「つ」。

香月友紀氏の心の師匠は、『オーボンヴュータン』のシェフ・河田勝彦氏。では、実際の修業先はどこで、真の師匠はどなたなのでしょうか?

「つよしです。『tsumons』の“つ”は、“つよし”の“つ”、ですから」と、いきなり下の名前で説明されたその「つよし」氏とは、福岡・薬院で創業25年になるチーズケーキとパスタの店『プティ ジュール』を営む岸本 剛氏です。

『tsumons』のスペシャリテのスフレは、この岸本氏から教わったそうです。
「教えとらんったいね、盗んだったいね、香月は。技術職は、盗まんと。教えるもんじゃないけんね」と話す岸本氏。

香月氏など目じゃないほど、「バリバリの博多弁」で語る岸本氏は、この道約50年の大ベテラン。福岡で創業した某有名飲食企業で、長く商品開発や技術革新に携わり牽引してきた、職人の中の職人です。その岸本氏の店にアルバイトとして入った香月氏は、毎日泣きながら厨房で技を習得していったそうです。
「まずは全卵を、ハンドミキサーを使わずに手作業で泡立てることを、ひたすら叩き込まれました。『機械を使わずに全部できれば、どんな状況でもブレずに同じクオリティのものが作れる』と。その教えが今は本当に役立っていて、海外からお仕事を頂いた時に、どんな所でもホイッパーひとつあればスフレを作ることができます」と香月氏は話します。

不器用なのに負けず嫌いという香月氏ですが、この経験があるからこそ、今のクオリティとパフォーマンスが成り立っているのです。
「何人もうちに働きに来よった子はおるけど、続いたのは香月だけ。スフレも、あの味を出せるのはこの子だけ。この子にはあんまり言葉はいらんけん。まぁ、頑張り」と、素っ気ない岸本氏。けれど、「他にもう教えることがない」というひと言からは、ふたりの師弟関係の深さを感じ取れました。

師匠の岸本氏と『プティ ジュール』の店内で語らう香月氏。「あまりに自分の全てが出てしまうので、時々社長のことを“お母さん”と呼び間違ってしまうんです(笑)」と香月氏は言います。

香月氏が金賞を受賞した「第4回メープルスイーツコンテスト」の賞状には、岸本氏の愛犬「福ちゃん」の写真が貼られ、店内に飾られている。

福岡県福岡市クリエイティヴの源泉を掘り起こした、もうひとりの存在。

今の『WINE & SWEETS tsumons』を創り上げたのは、香月氏だけではありません。もうひとり、彼女の「世界観」を現実に引き出した立役者がいます。それは、お店の設計を担当した、現『micelle』主宰の片田友樹氏です。
「僕がまだ独立する前、デザイナーの二俣公一さんが主宰する『ケース・リアル』という設計事務所にちょうど入ったばかりの時、香月さんの担当になったんです。変態さんですよね、彼女(笑)」と、面白そうに語る片田氏。

お店を作るにあたり、香月氏からの注文は3つ。「黒×金、シャッター、窓」。これが絶対だったといいます。
「でも、黒×金のリクエストがどうしてもピンと来なくて。どんなことをイメージしているのかをよくよく話し合っていくと、彼女が本当に思い描いている世界は黒ではないなと。なので僕が方向転換をして、現状のグレーベースに落ち着きました。後は、シャッターも窓も、普通に考えるとヘンなことになりそうなパーツを、あえて面白がって形にしていきました。僕は彼女の思いを“翻訳”したまでです」と片田氏は話してくれました。

こうして出来上がった箱(店舗)は、とうとう香月ワールドを開花させたのです。開店中も半開きの金色のスライドシャッター、最小限に絞られたスポットライトに照らし出されるショーケース内の小さなアミューズ、壁面には少々のワインボトル。そして奥には一枚板のカウンターが延びていますが、表からはかろうじて見える程度です。実際のところは、お店に入ってみるまでよくわかりません。

どこから見てもスタイリッシュなのですが、そこで起こることはまるでおとぎの国の出来事のようです。この箱(店舗)は、香月氏の頭の中をリアルに再現した龍宮城であり、『WINE & SWEETS tsumons』の完全なるマリアージュを体感できる、大きな玉手箱なのです。

お店が位置する渡辺通エリアは、マンションが林立する住宅街の一角。店内から金色の光が漏れる『tsumons』は、ひと際異彩を放っている。

道路に面した金色のスライドシャッターは、香月氏の希望を片田氏が形にした。「プラモデルっぽく、遊んだ感じの仕上げにしました」と片田さん。

ショーケースに映し出されるスイーツの多くは、店内で頂くアミューズ。テイクアウトは焼き菓子とワイン(ボトル)のみ。

福岡県福岡市スイーツという魔法で、すべての人を幸福に導きたい。それが自分の使命。

スイーツとお酒の組み合わせ方も然り、そのビジュアルセンスやネーミングにも、なんとも独特な世界観をみせる香月氏。まさに空想の世界に生きる人だなと、話を聞いていると感じます。

幼い頃は人と話すのが苦手で、ほとんど喋らない子供だったといいます。ある時、湧き水の出る所で遊んでいたら、それがとても楽しくて刺激的だったとか。その感覚が、今も身体の奥に残っているのだそうです。
「何かを作ったり、組み合わせを考えたりするのがとにかく好きで。今も、頭の中でこれとこれを組み合わせたらこんな味であんな世界が広がって……! と、いても立ってもいられなくなるんですが、その感覚が、湧き水を見た時ととても近いんです」と香月氏。

ふわふわと浮世離れしているように受け取られがちな彼女の言動ですが、順調に今の職に就くことができたわけではありません。むしろ紆余曲折ばかりだったといいます。法学部に進んだ大学時代、ホームステイ先のテキサス州の家庭は弁護士夫妻で、ためになるだろうと毎日のように法廷に連れて行かれたのだとか。でもそこでの滞在中、ホストファミリーのためにたくさんのお菓子を作り好評を得たことが、「こんなにも喜ばれるんだ」という発見と嬉しさを、彼女にもたらします。

もうひとつ、お菓子以外ではフラワーコーディネイトにも興味を持ち、その道も考えていたそうです。けれど、コンクールでの受賞経験や「つよし」のもとでの修業が、お菓子は人を幸せにするという喜びと使命を、与えてくれたのだといいます。
「何より私自身、お菓子作りが好きですから。思い描いたものを形にするのは、楽しくて仕方がないですね」と香月氏は話します。

フラワーコーディネイトに携わっていたこともあり、壁面のグリーンアレンジメントは自分で仕上げた。水やりが彼女の日課だ。

カウンター正面に広がる大きな窓は、スフレが焼き上がるまでの時間をゲストに心地よく過ごしてもらうために設置。「そして私自身の(緊張の)逃げ場でもあります」と香月氏。

Data
WINE & SWEETS tsumons

住所:福岡県福岡市 中央区高砂1-21-3 MAP
電話:092-791-8511
http://wine-sweets.com/

常に職人であるという矜持を持ち続け、スイーツというフィールドで生きてゆく。[WINE & SWEETS tsumons/福岡県福岡市]

ケータリングやディレクションにも力を入れている香月氏。鹿児島県鹿屋の『Kotobuki CHEESE』ファクトリーのお披露目会場で。

福岡県福岡市<スイーツデザイナー>は、香月友紀氏のもうひとつの顔。

お店で供するスイーツ&ワインの他、香月氏は<スイーツデザイナー>という側面も持ち合わせています。
主な内容は、様々なイベント等におけるケータリングをはじめ、新しいフレーバーのプロデュース、スイーツとドリンクのディレクションなどです。

今回の取材で登場した「エクストラ チーズ スフレ」に使用した鹿児島県鹿屋の『Kotobuki CHEESE』もその一環で、こちらのチーズの開発にあたり、同社の社長とともにフランスのカマンベール村やイタリアのミラノにも、視察へ赴いたそうです。そしてそのファクトリーのお披露目会に立ち会える機会を得たため、私たち取材班も参加させて頂くことになりました。

この『Kotobuki CHEESE』を運営する寿商会は、畜産・水産飼料の販売を行う会社で、数々の飲食店経営も行っています。今回のチーズ工房設立の背景には、自社の飼料を卸している農家さんから、今度はその牛が作り出す牛乳を買い取り、製品にするという取り組みがありました。新しい仕事の仕組みです。

社長の竹中貴志氏は、もともと『tsumons』のお客様だったといいます。店の噂を知人から聞き、初めて足を運んだ時から、その味わいやマリアージュの虜になってしまったのだとか。
「最初は目も合わしてくれんかったですよ(笑)。でも2度、3度と通って、ようやく色々と話をしてくれるようになりまして。こんなに味覚が優れていて、ここまで素材を生かして、それにまた別の何かを合わせて新しいものが作れる人なんて、いないんじゃないですかね。尊敬しています」と竹中氏は、香月氏に心酔しきり。そこで香月氏にチーズ開発のご意見番となってもらい、今回のお披露目会では、チーズを主役にしたスイーツを考えてもらったのだそうです。

『Kotobuki CHEESE』のチーズ職人・景山淳平氏が作るフレッシュ感あふれるチーズの味わいを最大限に引き出したスイーツ。

会場内に香月氏が運んで来ると同時に、多くのゲストが殺到。なかでも写真は、この日一番の自信作『ニューサマーオレンジのゼリー』。リコッタチーズにミントやレモンバームを加えた、美しい大人のスイーツだった。

ワインも香月氏自らサービス。「よかったら合わせてみてください」と数々のスイーツとのマリアージュを多くのゲストに愉しんでいただいた。

福岡県福岡市人に合わせる、ワインに合わせる。デザインや、ソムリエという仕事。

「私にとって<スイーツデザイナー>というお仕事は、素材ありき、人ありきです。お店の仕事と比較すると、スイーツを考える時は普段と同じ感覚なんですが、より“人”に寄り添わせていくので、ソムリエのお仕事に近いですかね。どんな人、国、気候……など、様々な要素を踏まえて、味わいや形、食べやすさなんかも考えて。テーマとなる素材のいい所を見つけて引き出すこのお仕事は、楽しいし、大好きです」と香月氏。そしてこの鹿屋のチーズにも、その「いい所」を見つけられたのだそうです。

「正直、日本のチーズでどこまで美味しいものができるのかと、半信半疑だったんですよ。でも試作品を食べて、イメージが変わりました。いい意味での乳臭さがちゃんと出ていて、しかもフレッシュ感の中にしかない香りもあって。これって、逆に日本のチーズにしかできない繊細な表現かもって思ったら、アイデアがむくむくと湧いてきました」と香月氏は話してくれました。

ソムリエという仕事は、香月氏にとって後付けだったといいます。たまたま機会があってワインの勉強をし始めたら、面白くてハマってしまったのだとか。

今お店で扱うワインの多くは、自然派ワインと呼ばれるナチュラルな造りのものがほとんど。素材を生かすことを追求すれば、そこにたどりつくのはごく普通のことだったのでしょう。でも、理由はそれだけではないそうです。
「ナチュラルなワインはその時々で味わいに波があって、それが難しさでもあるんですが、私にはそれが面白くて。まだまだ飲み頃は先と思っていたものが急に開き始めることもあって。それをお客様にも感じてもらえるように、スイーツとの組み合わせを考えるのが楽しい。いつも同じではない所が魅力です」と、香月氏は言葉を続けます。

自称「ドM」という香月氏。しかし実際のところ、ワインに翻弄されているようでそれを御するスイーツとのマリアージュの瞬間が、最高の快感なのかもしれません。

『Kotobuki CHEESE』のチーズを作るための牛を育てている農家の図師氏(中央)と、寿商会・社長の竹中氏(左)。その乳牛の名前は香月氏が名づけたとか。

建築家の片田友樹氏(中央)もともに農場見学。この人なくしては、今の『tsumons』、そして今の香月氏は存在しなかったかもしれない。

ソムリエの資格取得は、あくまで仕事の流れから。品種云々を識別することよりも、そこから感じ取れる香りや味わい、変化を読み取ってスイーツに合わせていくのが香月氏にとって至福の悦びだ。

福岡県福岡市本物の職人として、愛を持って向き合う。

それにしても、あまたあるスイーツの中から、なぜ「スフレ」だったのでしょう。もちろん修業先の『プティ ジュール』の名物メニューのひとつだったというのもありますが、岸本 剛氏のお店では、チーズケーキだって看板メニューです。
「それはもう、決まっています。お客様が、絶対喜んでくれるからです」と、きっぱり即答してくれた香月氏。揺るぎない思いがあるようです。
「膨らむものって、喜ばれるし、本当に幸せを感じるじゃないですか。あの“スフレ”の膨らみは、もはや愛ですよね。LOVEですよ。それに、“スフレ”作りには本当にどんなささいなことも、全て出てしまうんです。その日の体調や気分など、驚くほどに。だからこそ私は職人として、常に同じクオリティのものを作れるようになりたいし、本当の職人でありたい。ここでしか味わえない最高のマリアージュと、楽しいという気持ちを、感じて頂きたいんです」と香月氏は語ります。

『tsumons』のカウンターで待つ、「スフレ」が焼き上がるまでのおよそ30分は、私たちを夢の国へとワープさせてくれる時間です。絵に描いたような幸福=ふんわりと膨らむ「スフレ」が、誰をも笑顔にしてくれます。でも、あまりに口どけのいい「スフレ」はあっという間に消えてしまうので、おとぎの魔法もすぐに解けてしまうのではないでしょうか……? 

いえ、大丈夫です。何しろここには、選りすぐりの魔法のワインやスピリッツたちが、手ぐすね引いて待っているのですから。

毎日毎日、何回でもメレンゲを立てることは苦ではない。ただひと言「好きですからね」と香月氏。日々是スフレなり。

小さな金色の光が、tsumonsフリークの夜光虫を呼び寄せる。静かな佇まいの中で、スイーツの甘い香りと媚薬のワインが待っている。

Data
WINE & SWEETS tsumons

住所:福岡県福岡市 中央区高砂1-21-3 MAP
電話:092-791-8511
http://wine-sweets.com/

手筒花火の翌日は盛大な打ち上げ花火大会。[豊橋祇園祭/愛知県豊橋市]

対岸の河原から打ち上がる色鮮やかなスターマイン。

愛知県豊橋市地元の男衆によって打ち上げられる華やかな花火たち。

2017年にこのコラムで愛知県豊橋市吉田神社にて開催される手筒花火を紹介しましたが、今回はその手筒花火の翌日に開催される打ち上げ花火大会を紹介したいと思います。
手筒花火が奉納される吉田神社の脇を流れる豊川河畔を会場として行われるこの花火大会は、手筒花火同様に吉田神社の氏子の男衆の手によって打ち上げられます。これは全国的にも類を見ないケースだと思います。打ち上げに従事する男衆は事前に講習を受け、火薬を扱い、花火を打ち上げるための資格を取得します。

川舞台で各町内の氏子が花火の準備をしています。

愛知県豊橋市日ごろの職業はまちまち、でもこの日だけは花火師になる。

打ち上げ場所は幅広く、ワイドスターマインは時に音楽とともに楽しく盛大に繰り広げられます。花火の打ち上げプログラムは町内ごとに進められます。吉田神社の氏子である八ヶ町と呼ばれる八つの町の男衆が、それぞれ自分たちの町内のプログラムにある花火を、自らの手で打ち上げ進行していきます。日ごろは会社員や商店の店主、あるいは役所の職員など様々な職業の男衆が一致団結し見事な花火を打ち上げます。少し離れた吉田城の方角からも単発花火がゆっくりゆっくりと常に打ち上げられています。地元豊橋市の豊橋煙火さんが大型プログラムの打ち上げと監督を務めます。

豊川の河川敷が打ち上げ花火会場です。

愛知県豊橋市なかなか見ることができない金魚花火。

もうひとつの大きな特徴は、川舞台と呼ばれ豊川に浮かべられる花火打上台船です。小型の台船が町内ごとに浮かべられており、時には町内ごとに、時には八ヶ町全体が力を合わせて一緒に打ち上げます。台船上では手筒花火の放揚(ほうよう)も行われ、前日の吉田神社境内での放揚とはまたひと味違った風情を感じさせてくれます。川舞台では、近年なかなか見ることができなくなった金魚花火も打ち上げられます。男衆が川舞台で点火した金魚花火を一つひとつ川に投げ入れると、花火は川面をチカチカと輝きながらあたかも金魚が泳いでいるかのように可愛らしくスイスイと動き回り、観客たちを楽しませます。最後は明るい火花を散らしながらパチンとはじけます。
豊橋市には「稲荷寿し」で有名な『壺屋』というお弁当屋さんがありますが、花火大会の日には手筒花火弁当もお勧めです。パッケージには手筒花火をあしらい、2段重ねのお弁当箱にはおかずの段と打ち上げ花火をイメージした海苔巻きの段があり、見た目も楽しいお弁当です。もちろん味も美味しいですよ。

八ヶ町の川舞台で打ち上がるワイドスターマイン。

川舞台での手筒花火。

川面で輝きながら本物の金魚のように泳ぐ金魚花火。

Data

豊橋祇園祭

日時:2018年7月21日(土)、7月22日(日)18:00〜
場所:吉田神社境内/豊川河畔 MAP
豊橋祇園祭HP:https://www.toyohashigion.org/%E8%B1%8A%E6%A9%8B%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%A5%AD/%E8%8A%B1%E7%81%AB%E5%A4%A7%E4%BC%9A-%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E6%B2%B3%E7%95%94/

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1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751

小さなボタンに夢幻の世界を描く。[薩摩ボタン絵付け師 室田志保氏/鹿児島県垂水市]

鹿児島の伝統工芸品である「白薩摩」を素地として、薩摩焼の技法を駆使して絵付け。

鹿児島県垂水市途絶えてしまった希少な工芸品を情熱と試行錯誤で復活。

わずか8mmのものや、5cmほどの陶製のボタン。その中に、花が咲き乱れ、草木が生い茂り、虫や鳥たちが遊ぶ夢幻の世界が広がっています。

この『薩摩ボタン』は、江戸時代末期に薩摩藩が倒幕運動の軍資金などを得るために作らせていたという伝説があります。職人たちが技術の粋(すい)をこらし、海外のジャポニスム愛好家や美術コレクター向けの逸品として名をはせていました。

当時の生活風景や花鳥風月を生き生きと描きながらも、緻密を極めた絵付け。その美しさと希少さで、おおいに珍重されたといいます。

しかし、そんな由緒正しい『薩摩ボタン』はあまりに細かく大変な工程のために、一度は途絶えてしまいました。それを現代に蘇らせたのは、偶然その存在を知って『薩摩ボタン』の魅力に惚れ込んだひとりの女性でした。

幻の『薩摩ボタン』を現代に復活させた室田氏。『薩摩ボタン』のただひとりの女性絵付け師として活躍する。

鹿児島県垂水市偶然の出会いがたぐいまれな美術遺産を復活させた。

『薩摩ボタン』のただひとりの女性絵付け師として、国内はもちろん海外にも多くのファンを持つ室田志保氏。ですが、初めからその道を志していたわけではなく、もとは鹿児島伝統の『薩摩焼』のお茶道具を作る窯元のお弟子さんでした。
「でも、時代が変わってお茶道具そのものの需要が減っていたんです。もともと『手に職をつけて独立したい』『独自の技術を身につけて職人としてひとり立ちしたい』という想いが強くあったところに、偶然『薩摩ボタン』の存在を知りました」と室田氏は振り返ります。

そのきっかけは、鹿児島のタウン誌に掲載されていた「薩摩ボタンの復刻」の記事でした。とあるアパレル会社の社長さんが作らせたものでしたが、「同じ『薩摩焼』の業界にいたのに存在すら知らなかった。昔の鹿児島にこんなに精緻で美しいものがあったなんて!」と大きな衝撃を受けたそうです。

ひと目見て『薩摩ボタン』の虜(とりこ)となった室田氏は、「この素晴らしい伝統工芸品を自分なりの方法で復活させたい!」と決意しました。

『薩摩ボタン』の独自の技法はなく、「白薩摩」の伝統的な技法を用いる。「大きく書くか小さく書くかの違い」と室田氏は語るが、その緻密さはやはり秀逸。「枝垂れ桜/直径40mm×厚み8mm」。

鹿児島県垂水市その時代の逸品に触れて、更に虜(とりこ)に。

室田氏は、早速その社長さんのもとを訪れて復刻した『薩摩ボタン』を見せてもらいました。ですが、「やはり『薩摩ボタン』が実際に隆盛を極めていた時代の品を見たい!」という想いがつのり、東京の日本橋にある『ボタンの博物館』にまで足を延ばすことに。
「それはもう、大変な感銘を受けました。手のひらにちょこんと乗るくらいの小さなボタンの上に、お茶道具のお師匠さんから教えてもらった美しい絵付けがふんだんに施されていたんです。“白薩摩”の温かみのある象牙色の素地と、鮮やかな絵付けとのコントラスト。『すごい!』『綺麗!』という感想しか浮かばず、とにかくその魅力に圧倒されました」と室田氏は振り返ります。
「なんとしても、この素晴らしい伝統工芸品を復活させたい!」と決意を新たにした室田氏。ですが、一度は途絶えてしまった技術だったため、絵付けにどんな道具を使っていたのか、どんな技法を用いていたのか、といった資料すら残っていませんでした。

そこで室田氏は、自身が10年間修業して身につけた『薩摩焼』の絵付けの技法で再現することに。ボタンの素地となる「白薩摩」を作ってくれる職人も自らの足で探し出し、ようやく復活にまでこぎつけたのです。

一筆一筆、絵付けに魂を込める。絵付け時の台座は水道管のパイプを切って作るなど、全て自ら工夫。

「オニヤンマ(白天猫)/直径50mm×厚み10mm」。室田氏が好むモチーフのひとつで、前にしか進まない習性から「勝ち虫」として戦国武将の鎧兜などの装飾に用いられた。

鹿児島県垂水市一つひとつに丹念に絵付け。鮮やかな色彩で小さな宇宙を描く。

室田氏が絵付けする『薩摩ボタン』は、8mmから5cmまでと様々な大きさがあります。ですが、絵付けにかかる時間は絵柄やその密度などによって異なるといいます。「とはいえ、一旦デザインが決まれば仕上げの焼入れで窯(かま)に出入りする時間も含めて、どれも2週間ほどで仕上げます。1日に1~2個、1ヵ月に30~50個程度のペースです」と室田氏。

一つひとつ丹精込めて仕上げられた『薩摩ボタン』には、それぞれに手書きで『永久番号』がつけられます。これは、全ての作品に銘打たれる「まぎれもなく手作りの『薩摩ボタン』である」という証明。現代に蘇った特別な逸品の価値を保証してくれます。

室田氏が得意とする緑青(ろくせい)と海碧(かいへき)の色が美しい 「うさぎつなぎ紋 (Pt)/縦40mm×横60 mm×厚み6 mm」。透明度が高く鮮やかな青系の2色と、対比となる赤とのコントラストが鮮やか。

テントウムシも室田氏が好むモチーフ。赤と黒のナナホシテントウが可愛らしい。直径8mm。

鹿児島県垂水市大隅半島の豊かな自然が創作意欲を育む。

室田氏が絵付けに使う道具は、京都の筆工房が作っているイタチ毛の面相筆(めんそうふで)。顔料は陶器用の絵の具で、自身で混色や調整を重ねて透明度やマットさをアレンジしています。室田氏曰く、「気に入った色は繰り返し使います。特に緑青(ろくしょう)という青みがかった緑色が好きで、同系色の海碧(かいへき)も好きですね。透明度が高く鮮やかな発色が特長で、これら引き立てるために、対比となる赤もよく使います」とのこと。

好きなモチーフは、トンボのオニヤンマだそうです。「生きている本物を主人が採ってきてくれたので、それを見ながら描きました。アトリエの周りは自然が溢れていて、動物もたくさん飼っているため、この環境が創作意欲の助けになっています」と室田氏は語ります。

室田氏のアトリエ「絵付舎・薩摩志史(えつけしゃ・さつましし)」。大隅半島(鹿児島県垂水(たるみず)市)の豊かな自然の中にある。

室田氏の作品が常設展示されている「磯工芸館」。作品はもちろん購入も可能で、鹿児島空港への経路にあるため交通も至便。メインの展示品の『薩摩切子』も必見。

鹿児島県垂水市時間も距離も気にせずファンが訪れる。

これだけ丹念に絵付けされた希少品だけに、熱心なファンとなる人も多いそうです。基本的に注文はホームページから受けつけていますが、アトリエまでタクシーで駆けつけてきた外国人もいたそうです。
「『仕事で中国に行く前に東京観光に来たけど、ボタン博物館であなたの話を聞いてたまらず会いに来ました』と言われました(笑)。事前にボタン博物館の館長さんからお電話もありましたが、てっきり社交辞令だと思っていたので驚きましたね。嬉しいことに、『帰りの飛行機代がなくなってしまったよ』と冗談を言われるくらいに作品もたくさん注文していってくださいました」と室田氏。

もうひとり、長崎に仕事で駐在していた外国人が車で5時間もかけてやって来たことも。「アトリエに3時間ほど滞在されて、また5時間かけてお帰りになりました。翌日が帰国日だったそうで、『ここで手持ちの日本円を全て使って帰る!』と言われてやはりたくさん注文してくださいました」と室田氏は話してくれました。

インターネット時代の現代、好事家には時間も距離も関係ありません。あまりに大人気で注文が殺到しているため、現在は仕上がりまでにかなりの時間がかかるそうです。
室田氏曰く、「今すぐ注文して頂いても、仕上がりまでに1年ほどかかってしまいます。すぐにご要望にお答えできず申し訳ありませんが、十分な余裕を持って注文をお願い致します」とのこと。

手書きならではのオリジナルの絵柄を注文できるのも魅力。価格の目安は1cmあたり1万円程度で、1cm大きくなるごとに+1万円(写真はアメリカでの実演の様子)。

記念品や贈答品としての注文が多い。「白薩摩」ならではの素地の彫りも美しい 「福禄寿宝尽くし透かし紋様 表/50mm×50mm×厚み20mm」。

鹿児島県垂水市愛する薩摩ボタンを自由な発想で広めていきたい。

『薩摩ボタン』は、もともと海外のコレクター向けに作られていたもの。その歴史と意義をも復活させて、再び海外の人々に珍重される存在にしていきたい――そう室田氏は考えているそうです。
「まずは多くの人々に『薩摩ボタン』の存在と歴史を知ってもらうために、コツコツと作り続けていきます。現在メインで製作しているのは花鳥風月をモチーフとした高価格帯のラインですが、今後は絵付けするベースを陶器以外の素材にも広げていきたいと考えています。まだリサーチ中ではありますが、『薩摩ボタン=陶器』と限定せずに絵付けの可能性を探っていきます」と室田氏は語ります。

かつて世界に愛された『薩摩ボタン』を、ひとりの女性が再び世界へ広める。室田氏が小さなボタンの上に描く世界は、現実の世界とリンクして広がっていきます。

絵付けのモチーフも時代に合わせて柔軟に変化。「女王蜂 ティアラ紋 帯留/35mm×35 mm×厚み8 mm」。

薩摩の伝統も大切に伝える。年ごとに選ばれる男子が神様となって行われる伝統行事をモチーフにした「流鏑馬 やぶさめ 幸せ願って射る奉納/直径50mm×厚み8mm」。

Data
薩摩ボタン絵付け師 室田志保氏

http://satsuma.cc/
写真提供:薩摩ボタン絵付け師 室田志保