子供たちの未来に少しでも多くの「しずく」を残すために。[SHIZQ(神山しずくプロジェクト)/徳島県神山町]

透明感と温かみがある『鶴 Tsuru』シリーズ。山と川を守るために木を使う。

徳島県神山町杉の欠点を美点に。デザインと職人技のコラボレーションでかつてない器が生まれた。

赤と白のコントラストが美しい木目と、手にも口にもしっくりなじむユニバーサルなデザイン。使う人の心までも豊かにしてくれるこの器は、木工業界では常識はずれの杉から作られたもの。柔らかく繊細な木質と鮮やかな木目は、材木としては無価値だと木工業界ではいわれてきました。ですが、この欠点ともいえる特徴が、食器としてはまれな魅力になったのです。

徳島県の山あいに位置する神山町から始まった、間伐材の活用プロジェクト。地域の重要な水源地である山の手入れから生まれた杉材を原料に、徳島の職人技を結集して、かつてない木の器が誕生しました。

杉にこだわり、その個性を磨き上げるデザインにもこだわる。木材の選定・乾燥・加工・塗装まで多くの職人とクリエイターが関わる。

徳島県神山町人工林を自然の姿に戻し、地域の水源を守る。

緑輝く初夏を迎えて、日本の山々はいっそうその美しさを増しています。ですが、一見豊かに見える山々が、実は自然な環境ではなく人工的に造り出されたものだとしたらどうでしょうか? しかも本来の自然のシステムを歪めていて、未来をおびやかすほどの影響を与えているとしたらどうなるでしょうか?

そんな矛盾と問題に気付き、里山を未来に残すために奮闘しているのが、キネトスコープ社代表の廣瀬圭治(ひろせ・きよはる)氏です。大阪でデザイナーとして活躍していた廣瀬氏は、2012年に神山町の自然に魅了され、サテライトオフィスを開設すると同時に、家族とともにこの地に移住してきました。

一歩一歩あゆむ等身大の取り組み。大規模な投資ができなくても未来は変えられる(自ら杉を伐採する廣瀬氏)。

徳島県神山町魅了された山は人工のものだった。それが里山の水源までおびやかしていた、という衝撃。

「ですが、魅力的に見えた神山町の自然が実は人工林だったと知ったんです。しかもかつて国が推奨していた林業の衰退に伴い、手入れが行き届かなくなって、密集した木々が日光をさえぎってしまっていた。そのため下草が生えなくなり、杉は常緑樹で落葉しないため腐葉土もできにくくなって、硬くなった土が雨を吸い込まなくなっていたんです。山の保水力が劇的に衰え、山から川に流れ込む水量が年々減っていると聞きました。これは大変な問題だ、と気付いたんです」と廣瀬氏は語ります。

神山町には年間2,000mmもの雨が降りますが、町を流れる鮎喰川の水量は、30年前と比べて3割にまで落ち込んでしまいました。そこで廣瀬氏は、密集した山の木々を間引くための『間伐』を進めるために、デザイナーとして杉を使う活動をプロデュースして啓蒙活動に取り組むことに。日光を山の地面に届かせ、下草を生い茂らせて、雨を吸い込む力を蘇らせる――そうすれば、山から川へと流れ込む水の量も増えるはずだと廣瀬氏は考えました。地域の基盤ともいえる水源地の再生を目指し、『神山しずくプロジェクト』が始まりました。

杉の『間伐』を進めるために、杉の新たな活用法を提案。「杉の製品を作る」「薪にして使う」の2本柱。

徳島県神山町斬新なアイデアは「素人考え」だと否定された。

不自然な人工の森を自然な姿に戻し、そこから得られた木材を資源として生かす。一挙両得かに思えた廣瀬氏のアイデアは、しかし、早々に行き詰まってしまいました。

その原因は、なんと言っても杉の加工の難しさでした。木の中でも目立って柔らかく、赤と白の木目がくっきりと出てしまうため、木工業界では「建材としても食器としてもゼロ価値だ」とまでいわれていたのです。杉の食器は枡や曲げわっぱなどの板加工の物しか無理、というのが今なお業界内での常識。しかし廣瀬氏は、普通は縦向きに加工する木目を横向きにしたいとも考えていました。このこだわりも、木工業界の常識からはずれていたのです。
「そんな鉄壁のような業界の固定観念を知らなかったため、どの職人さんを訪ねても『素人考えだ』と門前払いされてしまいました。既存の機械ではそもそも加工することすらできず、様々な相談を受けて試作品を作ってくれる職人さんにまで『こんなものは商売にならない』と言われてしまったんです」と廣瀬氏は振り返ります。

『神山しずくプロジェクト』を立ち上げて初めて知った、杉の個性と難しさ。たまに引き受けてくれる職人が見つかっても、廣瀬氏のデザインを再現できず、全く違うものになってしまうこともありました。しかし、「神山町の杉を活用する」「杉に付加価値をつけて新たな商品を生み出す」という課題は廣瀬氏にとって絶対のものでした。ただ間伐材を使うだけの製品は、今やありふれています。神山町ならではの商品を作るために、杉を魅力的にデザインしなくては――相談できる相手もいないまま、廣瀬氏は手探りでパートナーとなる職人を探し続けました。

廣瀬氏のデザインワークス。素材の価値を見出し、魅力を付加する。

柔らかく繊細な杉の加工はとても難しい。機械では到底かなわなかった商品を、手挽きロクロ歴45年以上の木工職人が実現した。

徳島県神山町ようやく巡り会えたパートナーと常識はずれの商品を作り出した。

そして半年あまりの探索の末に、ようやく巡り会えたのが『宮竹木工所』の宮竹氏でした。

宮竹氏は、昔ながらの手挽きロクロで御椀(おわん)などの木工品を作る、熟練の職人。木地師(きじし)とも呼ばれる匠でありながら、新たな挑戦にもひるまない真摯(しんし)な人物でした。かつては仏壇の装飾を行っていたものの、時代の変化に合わせて日用品にシフトしたという宮竹氏は、相談に訪れた廣瀬氏に「一緒に挑戦しよう」という心強い言葉を返してくれました。そして半年ほどの試行錯誤を経て、廣瀬氏が最初に目指していたものに限りなく近い試作品が完成したのです。

45年以上ロクロを引いている宮竹氏ですら、「ちゃんと扱ったことはなかった」という杉。それを削る「挽き刃」の開発からともに取り組み、ようやく実現したのです。モダンなデザインとプロダクトで神山町の未来を切り開く『神山しずくプロジェクト』は、強力なパートナーを得てようやく前に進み始めました。

廣瀬氏のデザインを見事に実現してくれた「宮竹木工所」の宮竹氏を囲んで。

地域に新たな産業を生み出し、伝統産業の後継者をも呼び込む。宮竹氏のもとにも大阪から移住してきた若者が弟子入りした。

徳島県神山町素のままの美しさと重厚な「拭き漆」の渋さ。

こうして生まれた『SHIZQ』の木製品は、2つのシリーズを軸にバラエティ豊かに展開しています。

まずは、クリアな透明感が目を引く『鶴 Tsuru』シリーズ。かつて欠点といわれていた独特の赤と白の木目は、他の木材にはない唯一無二の魅力になりました。廣瀬氏がこだわり抜いた横向きのカットもあいまって、技術面でもデザイン面でも他では真似できない商品となっています。水の波紋を思わせる美しいコントラストは、天然の杉材由来のため一つひとつ異なります。世界に唯一の器を手にする喜びが味わえます。

独特な木目の美しさを保つのは、やはり『SHIZQ』独自の特殊なコーティングである『セラウッド塗装』です。
普通の木製品にはウレタン塗装かオイル塗装が施されていますが、『SHIZQ』は紫外線や熱への対抗力を高めるために、ウレタンにセラミックを配合した特殊な塗料を施しています。更に、木の質感を残しながら、杉の柔らかさを補完するために薄塗りを5回。驚きの職人技で、『SHIZQ』は木目の美しさを長く保ったまま、お手入れも簡単という使いやすさを実現しました。

次は、伝統の「拭き漆」を施した『亀 Kame』シリーズ。漆を塗っては布で拭き取り、1日乾燥させては再び塗り、また1日乾燥させる――この工程を5回も繰り返して、木目と艶が際立つ重厚な色合いが生まれます。ケヤキの盆や茶櫃(ちゃびつ)などで有名な技法ですが、ここまで鮮やかに漆の色が入るのは杉ならでは。加工が難しく繊維の粗い素材だからこそ、漆が浸透しやすいのです。

「漆芸家さんには『杉に漆を塗るなんて』と止められましたが、やってみたら見たことのない漆器が出来上がりました。従来の漆器のイメージとは違うモダンな美しさが好評です」と廣瀬氏。

塗られた漆は時とともに木と一体化するので、歳月を経るほどに器自体を丈夫にします。使うたびに風合いの変化も楽しめ、大切に手入れすれば孫の代まで使えるそうです。

『亀 Kame』シリーズ。漆の伝統技法を杉に施したところ、かつてない美しさが生まれた。渋さを生かした重厚な雰囲気が魅力。

「しずくギャラリーショップ」。オフィスでもあるリノベーションされた古民家の軒先に、タンブラー・ボウル(椀)・プレート(皿)・ぐい呑みなど多彩な器が並ぶ。

徳島県神山町デザインの力と伝統技術のコラボレーションでかつてないオリジナリティを実現。

SHIZQの器を見た人がまず発するのは、「綺麗」「美しい」という感想だそうです。そして手にした時の軽さが、更なる驚きを呼びます。
「杉の特性として、木の中でも目立って軽いんです。横向きに生かした木目の効果もあって『こんな木の食器は初めて見た!』と驚かれることが多いですね」と廣瀬氏は語ります。軽く優しい手触りで、お年寄りや子供用としても好評だそうです。

加工が難しく、美しい木目もマイナスと思われていた杉だからこそ、『SHIZQ』の器はかつてないオリジナリティを持った商品となりました。他のどんなショップや地域にも存在しない『SHIZQ』と神山町ならではの器。そのためギフトとしても大好評で、贈った人自身が改めて自分用に購入することも多いそうです。

使いやすく、口当たりも良く、普段使いに最適なのに特別な贅沢感を得られる。

徳島県神山町ひとしずくの活動が波紋となる。新たなムーブメントが広がっていく。

単なる地域おこしに留まらず、森の存在意義とその危機をも訴える啓発事業。廣瀬氏は、『神山しずくプロジェクト』の取り組みを、「水源を守る」というコンセプトとともに多くの人々に認知してほしいそうです。
「木の商品がメインなのに『SHIZQ(しずく)』という名前をつけたのは、放置された人工林のせいで水が減っていることと、山と水の切っても切れない関係を知ってほしかったからです。地域の水源を守ることの必要性と意義を、多くの人々に広めていきたい。加えて、一般的なエコロジーのイメージとは真逆の人工林の手入れの方法も知ってほしかったんです。例えば、山に関するエコロジーな活動と聞けば『木を伐ってはいけない』というイメージを持つ人が多いと思います。ですが、杉林のような人工林は『間伐』=『木を伐る』ことが絶対に必要なんです」と廣瀬氏。

「社会にそのことを訴えるために、デザインの力で独自の商品を生み出しました。これらを販売することで山の手入れの費用も捻出していますが、我々だけで木を伐り続けるのは限界があります。そこで、できるだけ多くの人々に山と水の深い関係を知ってもらい、波紋のように活動を広げていければ。それぞれがしずくのように小さくても、いずれは新たなムーブメントになっていくはずです」と廣瀬氏は語ってくれました。

商品の購入者にも、山と水のエピソードを記したパンフレットを添えるなどして啓蒙活動を行っています。ですが、廣瀬氏はただ自らの想いを訴えるだけでなく、『SHIZQ』の活動を末永く続けていくための現実的な足固めも行っています。

2017年10月に木工所「SHIZQラボ」もオープン。宮竹氏の職人技を若者たちが受け継ぐ。

徳島県神山町未来のために「しずく」を注いで波紋を広げる。

「例えば欠かせないパートナーである木工職人の宮竹さんは、ご自身は高齢で、かつ後継ぎとなるお弟子さんもいない状態でした。そこで『SHIZQ』の活動を通じて若者を紹介し、貴重な技術を受け継いでもらえるようにしました。このように、我々の目指す将来に『参加したい』と思ってくれる人たちを増やすことが、何よりも大事だと考えています」と廣瀬氏は語ります。

神山町の人口は現在約5,000人。杉の木をはじめとする資源は溢れるほどありますが、それを生かせる産業がかつては存在しませんでした。廣瀬氏と『SHIZQ』が目指すのは、日本の中山間地全体が抱える問題へのアプローチです。地域の資源を生かす地場産業を生み出し、更に、それを都会のバイヤー頼みではなく、世界を相手に直接販路を広げる――多くのしずくが波紋を広げるように、様々な取り組みがゆっくりと広がっています。
「それぞれの取り組みが実現していけば、新たな地場産業も次々に生まれるでしょう。本当の意味での地方創生を目指し、都会の力を借りない独自のビジネスモデルに取り組んでいます」と話す廣瀬氏は、広い視野であらゆる方向を見据えています。しかし、その根底に流れるのは「美しい神山町の環境を未来に残したい」という揺るぎない想いです。
「私は神山町の自然に魅了されて移住してきましたが、その裏にある問題を今解決していかないと、将来的には人が住めなくなってしまうという危機感を抱いています。2人の息子たちの未来のためにも、神山町の住人としての責任を果たすためにも、同じ価値観を持ってくれる人たちとともに動き続けていきます」と廣瀬氏は語ります。

『神山しずくプロジェクト』のしずくとは、「最初の一滴」のこと。廣瀬氏が始めた取り組みは、これからも多くの波紋を広げていくことでしょう。

神山町の景色。美しい里山とそれを支える水源地を未来に残すために。

Data
SHIZQ(神山しずくプロジェクト)

住所:徳島県名西郡神山町神領字本上角90 MAP
電話:088-636-7292
メール:info@shizq.jp
営業時間:10:00~18:00
休日:月曜(祝日を除く)
写真提供:キネトスコープ社

土地の歴史や文化、生産者の思いまでを料理に込める、川田智也の料理の世界。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

「岩香蒸山海」。一見シンプルな料理に、さまざまな思いが込められる。

大分県国東市人の思いを形にする。川田智也シェフが、ひとつの料理を生みだすまで。

2018年5月26日、27日に開催された『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』。巨石に囲まれる神秘的な土地・国東を舞台にした幻のレストランは、盛大な拍手とともに大成功のうちに幕を下ろしました。国東の自然と歴史、開催を支えた約70名の地元スタッフの存在、そして南麻布『茶禅華』川田智也シェフの料理。どれひとつ欠けても、ここまでの成功には至らなかったことでしょう。

卓に並んだ川田シェフの料理は、そんな『DINING OUT』の象徴的存在。歴史や文化、地域住民の思いまで反映した見事なプレゼンテーションで、ゲストの心を掴みました。今回の記事では、そんな料理の詳細をお知らせします。川田シェフがどんなプロセスで料理を組み立て、どう調理し、当日どう提供したのか。そのすべてをお伝えします。

川田シェフの料理を形作るのは、食材への鋭い洞察眼と、土地や生産者への敬意。

大分県国東市発想の原点は、国東で出合ったひとつの乾し椎茸。

ご紹介するのは「岩香蒸山海」(国東山海の恵み岩の香り蒸し)と名付けられた料理。蒸籠に入れた国東の山海の幸を、熱した岩に中国茶をかけて立ち上がる蒸気で蒸し上げる一品です。素材感際立つシンプルな料理に、国東の魅力とそこに潜むストーリーまで込めたというこの料理。どんな過程を経て誕生したのでしょうか?
「国東で素晴らしい乾し椎茸に出合いました。これを使いたいと思ったのが最初です。ただしこの時点では、まだ料理の形はおぼろげでした」そう振り返る川田シェフ。実は大分県は国内の乾し椎茸生産量の約50%を占める椎茸王国。シェフが心を動かした乾し椎茸とは、この地で昔ながらのクヌギ原木栽培に取り組む『山や』のことです。

椎茸を栽培するホダ場を訪れ、代表・山口勝治氏の案内を受ける川田シェフ。その後は、山口氏の奥様・しのぶさんが、自慢の乾し椎茸を振る舞ってくれました。「肉厚で食感が良く、味はクリア。イメージが膨らみます。中華料理において乾物は、全体の味を左右する重要な食材ですから」とすでにこの乾し椎茸に惚れ込んでいた川田シェフ。この時点ですでに、料理の構想が生まれていたのかもしれません。

椎茸農家『山や』を訪れた川田シェフ。ホダ場の様子を熱心に見学した。

見学後は自慢の乾し椎茸を試食。ここから今回の料理の発想がスタート。

「DINING OUT」当日は山口ご夫妻2人ともスタッフとして参加した。写真は奥様のしのぶさん。

大分県国東市食材を活かすためのロジックをひとつずつ積み重ねる。

乾し椎茸が構想の起点になった食材なら、もうひとつ、料理の方向性を定めた食材がありました。それが食材視察で訪れた『ヤンマーマリンファーム』で出合った牡蠣・くにさきオイスターです。農業機械で知られるヤンマーが、その技術の粋を集めて生み出した海水ろ過システムにより、安心な生食用牡蠣として生まれたくにさきオイスター。牡蠣一筋30年、自身を「牡蠣バカ」と称する所長・加藤元一氏が「日本一」と胸を張るこの牡蠣。小ぶりな身の中に旨みが凝縮されたような味に、試食した川田シェフも「素晴らしい」と手放しの称賛を送りました。「完成された味という印象です。生でもひとつの料理になりますが、少しだけ火を入れることで、さらに甘みが増しそうです」

こうして乾し椎茸ではじまった料理の構想は、この牡蠣と出合い、「加熱する」という方向性が定められました。しかしこれでもまだ、役者は揃ったわけではありません。「乾し椎茸と牡蠣という個性のある食材ですから、同じ調理法にしても別々の料理になってしまいます。この両者を繋ぐ役割が必要でした」そう話す川田シェフ。そして答えは身近にありました。海と山を繋ぐのは平地。つまり畑の野菜です。

シェフが目をつけたのは『佐藤自然農園』という草木堆肥有機農業に取り組む農園と、『まるか三代目』という自然農法を実践する農園。どちらも手間と時間をかけて、心を込めて育てられた野菜。これこそが、牡蠣や椎茸に負けぬ存在感を放ちつつ、両者を繋ぐ役割を果たしてくれると考えたのです。「甘みがあるのはもちろんですが、野菜本来の味が本当に強い。これをシンプルに活かしたい」そう考えた川田シェフ。素材の味を残しつつ、適度に熱は加える。そこでシェフが行き着いたのが「蒸す」という調理法でした。

『ヤンマーマリンファーム』の加藤氏。人生を牡蠣に捧げた男の集大成が「くにさきオイスター」だ。

「くにさきオイスター」は1品目の料理「国東開胃菜」でも登場した。

『まるか三代目』では採れたての野菜を試食。ひとつひとつの出会いが、料理を徐々に形作る。

大分県国東市生産者の思いまで伝えるテロワールとストーリー。

さて、これで「海と山と畑の食材を蒸す」という料理の輪郭ができあがりました。しかしこれでもまだ完成ではありません。「生産者とお会いして、話を伺いました。料理人にはその思いまでを料理に反映する義務があります」と川田シェフ。ただ良い食材を集め、料理を仕立てるだけではないのです。作っている方の顔を思い浮かべて、野菜の切り方ひとつまで徹底的に考える。そうすることで、生産者たちの熱意までゲストに伝える。そんな料理だからこそ、川田智也シェフの料理は心に響くのでしょう。土地の気候や地理的条件を指すテロワール、川田シェフはそこに、人々の思いまで組み込むのです。

さらにもうひとつ、川田シェフの料理で欠かせない要素があります。それがシェフをして「一生かけて追求するテーマ」という「和魂漢才」の理念。中華料理の技法を用いて、和の心を表現する。言葉にするとシンプルですが、これは単に、日本の食材で中華料理を仕立てるだけではありません。その土地独自の歴史や文化を深く知り、それを持てる技術を活かして表現する。つまり土地と食材への深い理解と、それを形にする技術があってはじめて実現することなのです。

そして川田シェフは、国東の岩を集めました。この地は古くから独自の山岳信仰が花開いた土地。地域の各所に石仏が鎮座し、人々は石や岩に特別な思いを抱きながら生きているのです。そんな神聖で、身近な岩を料理に使用する。そしてその岩と中国福建省の山肌の岩に生えるお茶・岩茶が出合う。そんなストーリーを思い描いたのです。そうしてようやく、料理の完成図が姿を現しました。

まずは国東で集めた岩を熱する。岩に囲まれ、岩とともに生きる国東の歴史を形にした。

岩茶の香りで包み個性的な食材全体をまとめあげ、卓上で蒸し上げることで、立ち上る香りも含めて楽しませた。

蒸し時間は1分程度。食材の持ち味を残しつつ、甘みを引き出す。

大分県国東市個性的な食材たちを、中国茶の香りが結びつける。

ここに来て、冒頭にお伝えした「岩香蒸山海」という料理名も腑に落ちることでしょう。国東の山海の幸を、岩の香りで蒸し上げる料理、というわけです。

乾し椎茸は、中華料理の澄んだスープ・清湯であらかじめ蒸した後、醤油を塗って炭火で焼き上げ、それを野菜や牡蠣、同じく国東で採れたワカメとともに蒸籠に並べる。蒸籠の下に高温で熱した国東の岩を忍ばせ、そこに淹れておいた中国の岩茶をかけて発生する蒸気で、国東の食材たちを蒸し上げる。国東の岩と中国の岩茶の香りを纏うのは、生産者たちの思いが詰まった国東の食材。これが川田シェフの描いた「和魂漢才」の姿なのです。

牡蠣と椎茸は、牡蠣のエキスを加えた醤油で味わい、野菜はお好みで柚子胡椒とともに。牡蠣の甘み、椎茸の旨み、野菜の食感と力強い風味。すべてが明確な個性を放ちながら、それでいてすべてに共通する香りがあるため、全体に一体感があります。適度に食感を残す野菜は、牡蠣と椎茸をまとめあげ、さわやかな後味を残します。

この料理が登場したのは、乾杯の後のコースの3品目。力強い旨みをたたえつつ、どこか透明感のある味わいは、その後に登場する無数の国東の食材たちへの期待も高めました。同時に食材の本質の部分にある持ち味を、テロワールとストーリーとで表現する、という“川田ワールド”の縮図のような存在でもありました。

「大分と国東の情景を表現できたかなと思います」終演後、川田シェフはこの料理をそう振り返りました。その“情景”という言葉こそが、土地に根付く歴史や伝統であり、そこに生きる人々の思いでもあるのでしょう。

国東の山海の幸を中華の技法で仕立てる。「岩香蒸山海」は、まさに「和魂漢才」を象徴する料理となった。

石や岩に特別な思いを抱く国東。そんな神聖で身近な岩を料理に取り入れることで、国東の地域性を表現した。

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

のんびりした田島の町並みになじむ、どこかレトロな雰囲気のカフェ。[CAFE JI*MAMA/福島県南会津郡]

福島県南会津郡OVERVIEW

福島県南西部にある小さな町、南会津。そこで2010年から毎年開催されている「大宴会in南会津」をご存知でしょうか。町の有志がボランティアで企画、運営しているこのローカルフェスティバルは、音楽フェスティバルではあるのですが、同時に様々な形で南会津の暮らしの豊かさを実感できるものとして知られています。

このフェスティバルの発起人は、会津田島駅の近くの場所で小さな『CAFE JI*MAMA』を営む五十嵐大輔氏。カフェを訪れたひとりのお客様との出会いから始まった手作りのフェスティバルは、今では県外からお客さんを集めるまでに成長し、そこから派生した多様な動きは、何もないといえば何もなかったこの地域に、様々なものを生み出しています。

このような小さなカフェで何が起こったのでしょうか。たったひとりの力が、どうやって大きな力へと変わっていったのでしょうか。そこから見えてくる物語は、誰もがより所を失った時代にどうしたら幸せに生きられるのか、その答えが見つかるかもしれません。

Data
CAFE JI*MAMA

住所:〒967-0004 福島県南会津郡 南会津町田島上町甲4004 MAP
電話:0241-62-8001
http://ji-mama.com/

「大宴会in南会津」が教える、小さなコミュニティに生きる幸せ[CAFE JI*MAMA/福島県南会津郡]

「大宴会 in 南会津2017」その名の通り乾杯からはじまる。

福島県南会津郡ローカルフェスティバル「大宴会 in 南会津」。

2010年から毎年、福島県の南会津町で開かれているローカルの野外フェスティバル「大宴会in南会津」。フェスティバルだけど、大宴会……。それって、いったいどんなものなのでしょうか。発起人の五十嵐大輔氏は、「会場のオートキャンプ場は、1,000人入ればもういっぱい。このくらい小規模でやっている野外フェスティバルは、他にはほとんどないと思います。音楽のライヴはありますが、それで盛り上がるというよりは、芝生の上でのんびり過ごしながら楽しむ“地元の夏祭り”みたいなイメージに近い。フェスティバルだと思ってくると、拍子抜けするかもしれません」と言います。

数年前から使われているキャッチフレーズは「お盆、正月、大宴会」。誰もが故郷に戻るお盆やお正月に、おじいちゃんおばあちゃんや子供たち、お酒を飲む人も飲まない人も、みんなで集まってワイワイやる――つまりそんな宴会の拡大版が、「大宴会 in 南会津」なのです。「地元を盛り上げたい」という思いで集まったボランティアスタッフの、手作りのもてなしもまた、のんびりとした雰囲気にぴったりです。

2010年より始まった初回の大宴会の様子。何もわからない所から周囲の人たちに助けられて何とか形となった。

福島県南会津郡地域の人々がつながり始めた初回と、震災という試練。

発起人である五十嵐氏が、田島町で『CAFE JI*MAMA』をオープンさせたのは2007年、つまり初回の「大宴会 in 南会津」が開催される3年前です。営業が始まって危機感を覚えたのは、都会であれば町がにぎわうはずの土曜日や日曜日、祝日に、逆に町が静かになってしまうことでした。町に人の動きをつくるには、カフェを作るだけでは足りないのかもしれない。何かしらイベントを立ち上げたい、そのための横のつながりが欲しい――そう思っていた丁度その時、『CAFE JI*MAMA』に現れたのが、「大宴会 in 会津」のもうひとりの発起人、県職員の東海林氏です。「“地域を盛り上げたい”という彼のストレートな熱い思いに、まんまと焚きつけられた所はあります(笑)」と五十嵐氏。こうして「大宴会 in 会津」は動き始めることになります。

とはいうものの、イベントを企画したことも、企画しようと思ったこともなかった五十嵐氏。まずは周囲に声をかけ、次々とスタッフとして引き込んでいきました。奥会津の三島町に住む三澤真也氏も、そんなひとり。東海林氏から「田島に面白い人がいる」と引き合わせられた三澤氏は、「“寂しいからみんなで飲もうよ”みたいなことが書いてある、ものすごくチープなチラシを見て、“ホントにやるの?”と思っていましたね(笑)」と、当時を振り返りながら話してくれました。

「とにかくバカになってやってしまえ」という気持ちで動き始めた五十嵐氏は、当然ながら様々な困難に出くわすことに。でもそんな時に、なんとなく助けてくれる人、なんとなく「目から鱗が落ちる」ような言葉を言ってくれる人が現れたことも覚えているといいます。

例えば「漠然と動くのではなく、ある程度大きさを決めて」とアドバイスをくれたのは、『CAFE JI*MAMA』のお客様だった県の地域振興局の局長でした。出演を交渉するために芸能事務所に電話しては叱られてばかりの五十嵐氏に、どういうわけか飲み屋さんで知り合った人がアーティストを連れて来てくれたこともありました。「結局のところ人とのつながり」なのですが、それはきっと五十嵐氏が自ら動く者であったがゆえに与えられたに違いありません。

「初回の当日、目の前に広がっていたのは、見たこともない光景でした。人ってこんな風に集まってくれるんだなって。ずぶの素人でしたが、やろうと思えばできる。ずっと続けようとまでは思いませんでしたが、“来年も絶対にやろう”という気持ちにはなっていました」と五十嵐氏は話します。

当時の開催は9月。その半年後、あの震災がやってきます。
盛り上がり、つながり始めた地域の動き。でも震災後に起きた情報の錯綜(さくそう)と不安による分断の中で、それは危うい状況に追い込まれていきます。そんな中で迷いながらも、五十嵐氏が「大宴会 in 南会津」開催に踏み切ったのは、せっかく始まった動きが「失われてほしくない」と思ったからだといいます。

気持ちいいほど晴れ上がった「大宴会 in 会津」当日。自然の中で子供たちが笑顔で遊ぶ姿に、五十嵐氏は「ホッとした」と言います。地域はまだまだつながっている。つながっていける。そして2018年、大宴会は9年目を迎えます。

子供も大人も楽しめる、地元ならではのワークショップのおかげでファミリーで参加する人も多い。

三澤氏。現在は奥会津の三島町でゲストハウス「ソコカシコ」を営み、町の求心力となっている。

福島県南会津郡どこにも似ていない「南会津」を愛することに、地域の未来がある。

初回の「大宴会 in 南会津」が掲げたのは、「この地域らしい夢のある未来」です。言い換えれば、この地域で暮らす楽しさや豊かさを再発見すること。「フェスティバル」と名乗るからにはメインは音楽ですが、それ以外の部分には「南会津らしさ」が満載です。

例えば、奥会津に今も残る「熊撃ち猟師」(いわゆるマタギ)さんや、「サンショウウオ獲り」のおじいちゃんから聞く貴重な体験談。羊毛の糸つむぎや箒(ほうき)造り、伝統工芸の編み組細工などの体験、鶏を絞めて食べる「命をいただくワークショップ」を行ったことも。初回の開催からその部分に深く関わってきた三澤氏は、「かつてのように現金収入の手立てとしては成立しにくくなってはいるものの、“自然をうまく利用しながら生きる術”が、南会津、奥会津には残っています。別の言葉で言うとそれは“手間暇をかけること”なんですよね。雪国での山の暮らしは、食べ物ひとつ、例えば山菜のアクをぬく、塩漬けにするなどの手間がかかる。でもその手間暇こそが愛情であり、ずっと続いてきた尊い文化であり、豊かさだと思うんですよね」と言います。
「地域の魅力を最も知らないのは、そこに生まれ育った人」というのは、よくいわれる話です。三澤氏をはじめとする移住者のこの地域に対する思い入れは、五十嵐氏を中心とする地元の若い世代が知らなかった「地域の魅力」を喚起していきます。
「自分はその価値をわかっているつもりだけれど、他の地域の人がいいと思ってくれるかどうか。『大宴会in会津』を通じてそれを確認できた所はあります。例えば地元ではあまり食べない郷土料理を、他の地域から来た人は食べたいと言ってくれる。会場でお客さんに“地ビールはないんですか”なんて聞かれることも。そういう中で、実際に南会津の地ビールが生まれたのは、すごくいい流れで嬉しかった。あの時のお客さんが、また来てくれるといいなと思います」と五十嵐氏は言います。

「大宴会in南会津」の運営に初回から関わっている五十嵐氏と三澤氏。

福島県南会津郡地元のワクワクした雰囲気を、「大宴会 in 会津」を通じて伝えたい。

時に地方イベントでは、観光誘致を目論み、都会で活躍するイベントのプロフェッショナルを招き入れることがありますが、「大宴会in会津」の在り方はその対極にあるものと言っていいかもしれません。他の地域からのお客さんにだって、もちろん来てほしい。でも大切にしたいのは、自分が住む地域の人たちに楽しんでもらうこと。そこで築いた関係が地域の日常をつなげていき、巡り巡って、地域の魅力を発信することになるのではないか。そこにこそ南会津らしい未来があるのではないか。三澤氏は、「会津とひと口に言っても、南会津郡と、いわゆる奥会津といわれる地域は、それぞれ神奈川県くらいの広さがあります。これまでその二つの地域にはそれほど交流はなかったと聞いていますから、『大宴会in会津』を中心につながり始めたのは、すごく大きなことですよね。関係者の中で毎年のように結婚する人がいるし、新たな友情もたくさん生まれる、地域の文化祭みたいな感じでしょうか。でもそのワクワクした雰囲気は、きっと他の地域の人にも伝わっていくような気がします」と語ってくれました。

奥会津で三澤氏が営むゲストハウス「ソコカシコ」。金曜日と土曜日は居酒屋としても営業し、地元の人と旅人が交流する場となっている。

「大宴会in南会津」の発起人である五十嵐氏。たったひとりでも動き出すことで、地域が変わるきっかけになる。

福島県南会津郡「大宴会 in 会津」から生まれる、小さなコミュニティならではの幸せ。

更に注目に値することは、「大宴会 in 南会津」に関わる人たちが、それぞれの場所でそれぞれに新たな活動を始めていること。すでに五十嵐氏の話に出た、南会津発の地ビールを誕生させた「ビアフリッジ」、かつて運営側のボランティアとして参加していた人たちが、ワークショップや飲食の出店者として戻ってくることも少なくありません。三澤氏も昨年、奥会津の三島町で「人が集まりつながる場所」として、ゲストハウスをオープンさせています。五十嵐氏はいいます。
「1年に一度、それぞれに活動している人が一堂に会し、情報を共有し、楽しむ場所が『大宴会 in 南会津』。そういう形が定着してきていることを感じます。そこでつながった人を訪ねて、また人が動く。『大宴会 in 南会津』はそういう縁づくりの場所なんです」と言います。

誰かが動けば何かが変わり、それがまた別の人を動かしてゆく。南会津の小さな『CAFE JI*MAMA』から始まったその物語は、まだまだ続いていきそうです。小さなコミュニティだからこそ生まれる親密さ、そこに生きることの喜びと幸せ。「大宴会 in 南会津」に足を運ぶことは、その生き方に触れることなのです。あなたの幸せの在り方が、変わるきっかけになるかもしれません。

1年に一度、それぞれに活動をしている人が一堂に会し、情報を共有し、楽しむ場所が「大宴会 in 会津」

Data
CAFE JI*MAMA

住所:〒967-0004 福島県南会津郡 南会津町田島上町甲4004 MAP
電話: 0241-62-8001
http://ji-mama.com/

Data
「大宴会in南会津2018」

開催日:2018年6月16日
会場:会津山村道場うさぎの森オートキャンプ場
〒967-0014 福島県南会津郡南会津町糸沢字西沢山3692-20 MAP
http://daienkai.org/

小さなカフェで手に入れた、思い描いた理想の場所。[CAFE JI*MAMA/福島県南会津郡]

田島の町で生まれ育った五十嵐氏。一度は東京に出たUターン組。

福島県南会津郡会津田島の『CAFE JI*MAMA』、前代未聞のローカルフェスティバル「大宴会 in 南会津」の発信地。

南会津を訪れたのは4月末。まだ少しひんやりする空気の中、春の訪れを告げる桜が今を盛りに花開く季節です。これを皮切りにあらゆる花が一斉に咲き始める5月を経て、「会津の1年で、最も気持ちのいい季節」――6月がやってきます。
「『大宴会in南会津』は2018年から6月開催なんですが、一番喜んでいるのは僕ら主催者側かもしれません。長い冬が明けた喜びに胸を膨らませながら、フェスの準備ができるから」

そう語るのは、南会津ローカルの野外フェス「大宴会 in 南会津」の発起人である、五十嵐大輔氏。会津田島駅にほど近い『CAFE JI*MAMA』の「マスター」です。

2007年にオープンした『CAFE JI*MAMA』は、福島県南会津郡の中心の町、南会津町田島で、ゆったりと営業している居心地の良いカフェです。カフェがあるのは駅に続く大通り、地元の方からすれば「駅前」といっていいい場所ですが、忙しく混雑した都会の繁華街とはもちろん異なり、クルマも人通りも決して多くはない、のんびりとのどかな場所です。それでいて、平日の昼間から、『CAFE JI*MAMA』の美味しいコーヒーを求めて訪れるお客さんは少なくありません。

豆の計量、湯の温度、抽出量など、厳密なレシピは崩さず、丁寧にコーヒーを淹れる。

福島県南会津郡「昭和の喫茶店」のように、ただ美味しいコーヒーを追い求めて。

五十嵐氏がコーヒーを淹れ始めるのは、お客様からの注文が入ってから。その時点で初めて豆の分量を量り、丁寧に挽き始めます。挽いた豆から丁寧に微粉を除去し、ドリッパーの中で平らにならしてお湯を注ぎ入れるのですが、五十嵐氏が持つケトルの口から落ちるお湯は、ポタ、ポタ、ポタと1滴ずつ。やがてコーヒーの粉が、むく、むく、むく、と膨らみ始め――カウンターからは、あのなんとも香ばしい香りが漂い始めます。コーヒーが抽出されるまでの3分弱、一連の作業を見つめているだけで、心がゆったりと穏やかに凪いでゆきます。そして出されたコーヒーの深いコク、それでいて雑味のない美味しさ。
「小さい頃から“喫茶店”が好きだったんです」と五十嵐氏。金物店「田浦商店」の看板を残す古民家をリノベーションした店内は、今という時代の感覚で制御されながらも、どこかレトロな雰囲気。その価値観の中心として「昭和の喫茶店」の世界を彷彿させるのは、彼自身の「美味しいコーヒー」を追究する姿勢といえそうです。自身を「オーナー」でなく「マスター」と位置づけるのも、そういった意味があるのかもしれませんが、いわゆる「昭和のマスター」のように「こだわり」を押し出すことはありません。それが『CAFE JI*MAMA』を、今の時代の「カフェ」たらしめているようにも思えます。

夏場は水出しコーヒーも。漆黒の液体が一滴一滴落ちる音が、静かな店内にかすかに響く。

カフェ・ラテなどのメニューには、ラ・マルゾッコのマシンで抽出したエスプレッソを。

金物店「田浦商店」の看板を残す古民家をリノベーション。

福島県南会津郡「生きること」は、自分自身の身体で生活を実感すること。

市町村合併で「南会津町」と名前を変える以前、この場所は会津田島町と呼ばれていました。町に生まれ育った人にその魅力を尋ねると、帰ってくる言葉は「本当に近くに山を感じられる町であること」。そんな故郷を持つ普通の少年として、幼い頃の五十嵐氏は山に遊び、川と戯れる日々を元気いっぱいに過ごしていたといいます。そしてそんな故郷を持つ普通の少年として、都会に憧れました。
「大学で東京に出る時点では“いつか田島に戻ろう”と思ってはいませんでしたね。でもお盆やお正月に帰ってくると、そのたびに“なんかいいな”と思うようになっていって。特に呼び覚まされる子供時代の記憶が、すごくよくて」と五十嵐氏。

通っていたのは名の知れた大学の法学部でしたが、そこで学んでいたことにも妙な空虚さを覚えていました。かつての故郷での暮らしで感じていた、「日々を自分自身の身体で実感する」ような感覚は、大学生活ではなく実社会にあるのではないか。次第に大学に通う意味を見出せなくなった五十嵐氏は、漠然と「このままいたらダメになる」と思い、大学を中退します。

でも飛び込んだ実社会で、様々なアルバイトを転々としながらも、東京ではそうした実感をつかむことはできませんでした。そして5年の月日が流れ、五十嵐氏は故郷に戻ることになります。帰って何をするのか、特にあるわけでもなく。「都会に負けて帰ったというような感覚がありましたね」。五十嵐氏は、当時をそんな風に振り返ります。

肩の力が抜けた五十嵐氏のお人柄と笑顔も、このカフェの魅力。

福島県南会津郡そこを目的に「人が集まる場所」を作りたい。

五十嵐氏が『CAFE JI*MAMA』をオープンさせたのは、帰郷してから2年後。そのきっかけは「母が喫茶店をやりたいと言い出したので、そこに乗っかりました」と五十嵐氏は笑いますが、そのきっかけは、帰ってきた田島の町の変化を実感したこともあったようです。
「ちょっとしたイベント、お祭りのようなものでも人出が減っているし、商店街も“シャッター化”している。自分が子供の頃は、もっとたくさんの子供が遊んでいたのになあと。人の動きを作りたい、“ここを目的に集まってくる”といった場所を作りたいなと思っていました」と五十嵐氏は話します。

2017年の暮れにオープンから10年目を迎えた『CAFE JI*MAMA』は、当初、五十嵐氏が思い描いていた場所になっているようです。田島に来るたびに立ち寄ってくれる地域外のお客様も多いのですが、圧倒的に多いのはふらっと立ち寄る地元のおひとり様。そこに顔見知りの別の誰かが現れて言葉を交わし、同じテーブルで仲良くコーヒーを飲み始めるという光景も珍しくありません。

フランスの哲学者、モンテスキューは自著『ペルシャ人の手紙』の中で、カフェについてこんな風に語っています。
「会話がリアリティを創出し、雄大な計画やユートピア的な夢想やアナキスティックな謀反が生み出せる唯一の場所」

南会津における『CAFE JI*MAMA』が、そんな場所になっているのは言うまでもありません。そしてここから生まれた「雄大な計画」――前代未聞のローカルフェスティバル「大宴会 in 南会津」へと、Storyはつながってゆきます。

オープンから10年目を迎えた『CAFE JI*MAMA』は「ここを目的に集まってくる」会津田島の名所となっている。

Data
CAFE JI*MAMA

住所:〒967-0004 福島県南会津郡 南会津町田島上町甲4004 MAP
電話: 0241-62-8001
http://ji-mama.com/

人と人との出会いがつくる「理想のコーヒー」の味。[CAFE JI*MAMA/福島県南会津郡]

コーヒー豆は、コーヒーの栽培から製造、販売までを手がける茨城県の名店サザ・コーヒーから仕入れたもの。

福島県南会津郡どれも同じではないコーヒー、そのおいしさを伝えたい。

『CAFE JI*MAMA』が扱うコーヒー豆は、コーヒーの栽培から製造、販売までを手がける茨城県の名店「サザ・コーヒー」から仕入れたもの。店内の看板には、その日に飲めるコーヒーについて、原産国、味、焙煎方法などが細かく表示されています。それは毎回出すコーヒーが異なる個性と美味しさを持っていることを、お客様にちょっとだけ意識してもらいながら、体験してほしいから。仕入れた豆がなくなるたびに、異なる味わいの豆を仕入れることも、五十嵐大輔氏が心がけていることです。「いつも“本日のコーヒー”を注文する常連の方から、“あの時の、あのコーヒーが美味しかったね”と言われると、自分なりの美味しさを見出して頂いているんだなと、すごく嬉しくなります」と、五十嵐氏は顔をほころばせながら話します。

コーヒーのメニューは、五十嵐氏が好きな「深煎り」の豆を中心に取り揃えている。

黒板にはコーヒーの丁寧な説明書きが。知るほどにハマるもよし、まったく知らないままただ味わってもらうもよし。

福島県南会津郡コーヒーを極めたいと思わせた、運命的な出合い。

もともとコーヒーが大好きだった五十嵐氏。田島に帰ってきた後も、美味しいコーヒーを飲める店があると聞くと、時間を見つけては足を運んでいました。そして彼にとっての特別なコーヒーとの出合いは、『CAFE JI*MAMA』を開いたばかりの2008年。それは郡山市にあった伝説的なカフェ「プレイタイムカフェ」のマスター・丹治 徹氏が淹れるコーヒーでした。丹治氏は、思わずじーっと見入ってしまうほど、じっくりと時間をかけてコーヒーを淹れます。深煎りコーヒーの場合、抽出に時間をかけると苦みやえぐみが出てしまうのが普通ですが、そのコーヒーは、丹治氏の優しい人柄そのままに、まろやかな美味しさだったといいます。
「丹治さんはコーヒー人としても本当に大好きな方で、プレイタイムカフェのコーヒーは本当に特別でした。この出合いをきっかけに、自分が美味しいと思うコーヒーを自分なりに極めていこうと思うようになりました」と五十嵐氏は言います。

カフェで何の知識もこだわりもなく注文する私たちは、そこで出されるあらゆる漆黒の液体を「コーヒー」というひと言で片づけてしまいがちです。しかし豆の種類や原産国はもちろん、ローストの深さ、豆の挽き方、豆の分量、そして抽出の仕方――どのフィルターを使うか、どのドリッパーを使うか、お湯の温度はどれくらいか、どんな方法で、どんな手順で湯を注ぐのか――と、それらの何通りもの組み合わせによって、コーヒーの味は無限に広がってゆくのです。

だからこそ大切なのは、自分が美味しいと思うコーヒーをイメージすること。やがて明確になってきた五十嵐氏のそれは、「深煎りの豆を使った、奥行きのあるコクと、すっきりとした後味のコーヒー」というものでした。美味しいコーヒーを飲み歩いて研究し、知識と経験を積み重ね、豆の分量、湯の温度、ドリッパーの変更などの試行錯誤を繰り返した結果……。五十嵐氏は「10年かけてようやく形になってきた感じ」と語ります。

紆余曲折を経てたどりついた「コーノ式」のドリッパー。推奨する独特の抽出法は、雑味が出にくい。

福島県南会津郡コーヒーをまろやかに変える、厚口のカップ。

五十嵐氏の「ハマるととことん追究したくなってしまう性格」は、理想のコーヒーの味を求めて、さらなる別の方向に発想を広げてゆきます。それは、お客様にコーヒーを出すときのカップ。CAFE JI*MAMAのカップは、コーヒーには珍しい、飲み口がぽってりと厚手のものです。
「コーヒーカップは飲み口が薄手のものが多いのですが、僕が好きなあるカフェで厚手のカップで出していて。それで飲むと味がまろやかに感じるんです」

五十嵐氏の求めに応じてオリジナルの「ぽってりカップ」をデザインしたのは、陶芸家の田崎宏氏。会津若松にあった五十嵐氏の妻・史織氏のショップ「hitotsubu」で、最初の個展を開いた白磁の作家さんです。「地元の会津本郷焼の作家さんだったこともありますが、何より田崎さんの人柄が好きで」と五十嵐氏。ところが当の田崎氏はこの発注に、ご本人史上最高に頭を悩ませることになります。

「カップのぽってりと厚手の飲み口は、コーヒーの味がよろまろやかに感じられる」というのが、五十嵐氏のこだわり。

福島県南会津郡“モノづくり”への思いが完成させたコーヒーカップ。

会津本郷焼は全国的にも珍しい陶器と磁器の両方を有する産地。その窯元が軒を連ねる会津美里町に、田崎氏の「工房・爽」はあります。父親の代から窯を開き、田崎氏は二代目ですが、「後を継いだ」というのとは少し異なるかもしれません。機械いじりが好きで自動車メーカーに勤めていた田崎氏は、6年前に脱サラしこの工房を開きました。そして主に絵付けの磁器を作っていた父親とは180度異なる作品を、田崎氏は作り続けています。白さを追求したシャープな「白磁」です。
「民芸の持つ“ほっこり”とした雰囲気を好きになれなかった。単純に、自分が“カッコいい”と思えるものを作ることで、自信を持って世の中に出したかったんです」と田崎氏は話します。

自身で「決め技」と語るのは、ろくろで引いた素地から優雅な稜線を削り出す「しのぎ」と呼ばれる技法。ひねりを加えた田崎氏の繊細な「しのぎ」は、きりりとしていながらどこか有機的な柔らかさがあり、女性の美しいボディラインにも似た艶っぽさも感じさせます。日差しに青く光る雪を想起させる青みがかった釉薬「会津の白」も、そのシャープさを引き立たせるために、田崎氏自身が開発したものです。

会津本郷焼の工房が軒を連ねる美里町に、田崎氏が構える「工房 爽」。

ろくろを回す田崎氏。純度の高い白い土を使用する白磁では、埃やゴミが入れば作品が台無しになってしまうので、工房の出入りには気を遣う。

「しのぎ」とは、へらで削り出したくぼみとくぼみの間に生まれるラインのこと。斜めに入れたしのぎは、器をひねったような優雅な動きを生み出す。

福島県南会津郡悩みに悩んだ末に、見つけた小さな糸口

ところが。五十嵐氏からの発注は、そうした田崎氏らしさをすべて封印したもの――“しのぎ”なしで、ぽってりと厚い飲み口のカップでした。「民芸に先祖返りするように思えてしまって……」。困惑しながらも引き受けたのは、商売用に使う価格とは言えない自分の作品を選んでくれた、作り手として信用し、必要としてくれたことが嬉しかったから。

かつて自動車会社に勤めていた時、1台を数分で完成させる工場で感じたのは「これが自分が好きだった“モノづくり”だろうか」という疑問でした。
「自分の手でちゃんと作ったものを、お客さんが気に入り、買ってくれる。そのやり取りをして初めて、自分が仕事をしたと思えるんじゃないかと。実感が欲しかったのかもしれません」
五十嵐氏の信頼には、そうした実感があったことは言うまでもありません。

そして。ひと月以上も悩み続けた末に見つけた糸口は、とあるカフェで出されたコーヒーのカップ――ファイヤーキングのDハンドルマグ。
「これだ、と思いました。こういうイメージで落とし込めば、飲み口の部分が厚くてもシャープな印象が成立するなと」。

CAFE JI*MAMAの「ぽってりカップ」は、そうして完成しました。

右手が五十嵐氏発注の「ぽってりカップ」(3,000円)。左と比べるとその厚口ぶりがわかる。

福島県南会津郡白磁に注がれたコーヒー、それは飲む人の思いが作る物語。

白磁の飽きの来ない魅力は「周囲の環境によってその表情を微妙に変えてゆくこと」だと、田崎氏は言います。白熱灯の光、蛍光灯の光、昼と夜、晴天と曇天で異なる太陽光。藍染めや漆の上に置けば、その青や赤を反射します。あらゆるイメージを受け止める白磁は、もしかしたらその器を使う人の気持ちによっても、いかようにも表情を変えるのかもしれません。

田崎氏が作り上げたこだわりの白磁、それが際立てる五十嵐氏の思いがこもったコーヒー。それは飲む人の思いによって展開してゆく、一杯の物語。今日もいい香りをたてながら、人と人の新たな出会いを生み出しています。

磁器は光を透過するため、赤ワインなどを注げば“しのぎ”の薄い部分はピンク色に染まる。

Data
CAFE JI*MAMA

住所:〒967-0004 福島県南会津郡 南会津町田島上町甲4004 MAP
電話: 0241-62-8001
http://ji-mama.com/

Data
工房 爽

住所:〒969-6116  福島県大沼郡会津美里町字瀬戸町甲3175 MAP
電話: 0242-56-3732

人と人の距離を縮め、「じまま」に過ごせるカフェ。[CAFE JI*MAMA/福島県南会津郡]

会津田島の駅にほど近い場所で、マスターの五十嵐大輔氏が営む『CAFE JI*MAMA』。

福島県南会津郡カフェの魅力は、思い思いにリラックスできること。

その空間には様々な「本」がさりげなく置かれています。店内の一番奥に並ぶのは五十嵐氏が幼い頃に読んでいた文学全集。カウンターの先には映画やインテリア、旅やコーヒーなどに関する、ちょっとマニアックなカルチャー本やコミックなど。よく見れば店内のパーテーションも、最初から本を立てる用に作られています。「本があると落ち着くし、暇な時にちょっと手に取ってもらえたらいいなと」と、五十嵐氏。最近では持参した本を「置いて行っていい?」と、そのパーテーションに、ポン、と残していくお客様もいるようです。

テーブルにはそれぞれにランプが設置されています。コーヒーを飲む、本を読む、ものを書く、ランチを食べる、目の前を過ぎてゆく時間をただ眺める……その時々の過ごし方によってお客様が自由に点け消しできるよう、それぞれにスイッチもついています。それだけでなく、椅子とテーブルの高さも絶妙です。もちろんそれも「何をやっても疲れないバランスを」と、五十嵐氏自身が入念に吟味して決めたもの。

「田島」という地名の音にもかけた店名は、沖縄の方言で「自由気まま」の意味。会津田島で、自由気ままに。そんなリラックス感があるからこそ、このカフェでは人と人との距離が縮まっていくのかもしれません。

お客様が自由に点け消しできるよう、それぞれにスイッチもついています。

お店の売りは珈琲。

水を使わず、会津若松・平出油屋の菜種油をぜいたくに使い、丸二日煮込んだ「オリジナルチキンカレー」(900円)。チキンはほろほろと崩れるほど柔らかい。

地元の野菜などを使った週替わりのランチ「今週のパスタ」(900円)。この週は名産のアスパラを使用したトマトソース。

「スコーンとケーキ」(650円)。国産小麦と全粒粉、キビ砂糖を使った甘さ控えめのスコーンと、本日のケーキから選んだセット。写真は会津地鶏の卵をふんだんに使ったシフォンケーキ。

福島県南会津郡地域を知りたいという思いから始まった「まねぶ会」。

そうしたコミュニティの中で、ローカルフェス「大宴会 in 南会津」が誕生してゆくのですが――これは後に譲るとして。『CAFE JI*MAMA』ではそれと同時進行しながら、もうひとつの企画が育っています。それが「まねぶ会」。“地元・南会津で暮らす楽しさを発見すること”という、「大宴会 in 南会津」と同じコンセプトで始まった勉強会です。
「『大宴会 in 南会津』を始めてみて、地元の文化や歴史、生活について、まだまだ知らないことがたくさんあるんだなと感じました。そういうことを勉強する場を作れば、これまでとは別の人とつながるきっかけにもなり、参加した方がお友達を連れてきてくれることで、輪もどんどん広がってゆきますよね」

そのテーマは、「南会津に仕事を増やすには?」「イベントを仕掛けるには?」という地域活性化から、「会津祇園祭の起源」「現在に復活した南郷刺し子」など地域の歴史文化、はたまた地元畜産業者による「ソーセージ作り」まで、テーマは多岐にわたります。

中でも、神事で集まった人達が楽しむために生まれたという「会津の農民歌舞伎」には、自身の活動に共通する思いを感じたといいます。楽しむことこそが人を動かす。それはどの時代にも変わらない真理に違いありません。

会津の歴史、文化、生活を学ぶ「会津学」も、さりげなく店内に。

福島県南会津郡震災以降意識するようになった“会津のもの”。

そして人が動けば、何かが変わっていくのも必定のことです。

実は4年前に結婚した五十嵐氏。ここ数年は子育てする妻・史織氏の都合を優先し、彼女がギャラリーひと粒を営む会津若松で暮らしていました。

一家が揃って田島に居を移したのは2017年のこと。そしてこの5月からは『CAFE JI*MAMA』と店を共有しながら、史織氏が取り扱う作家モノの雑貨の販売を開始しています。そこで目を引くのは「会津木綿」の雑貨たちです。史織氏はいいます。
「“会津のもの”を意識するようになったのは、震災からですね。当時、私は会津若松で店をやっていて、親類を頼って関西に避難する際、とにかく店にあるものを車に詰め込みました。震災の風評被害は作家さんにも及んでいましたし、“会津のものを持っていかなければ”と集め始めて。それが今につながっています」

五十嵐氏の妻・史織氏。2009年から作家モノの雑貨を販売する「ギャラリーひと粒」を営んでいる。

会津木綿を使った動物たちのぬいぐるみは、滋賀の作家さんの作品。大胆な布使いと愛嬌のある表情がいい。

ステッチをきかせた会津木綿のブローチ。この他、帆布と合わせたセミオーダーのトートバッグなど、会津木綿の取り扱いは多い。

福島県南会津郡「外からの風」を取り込むことで、新しいことが始まる。

史織氏が言うところの「会津のもの」は、「会津の生粋のもの」かと言えば必ずしもそうではありません。例えば「会津木綿」を使った大胆な動物のぬいぐるみは、滋賀の作家さんが作ったものだし、それ以外にも「“会津のもの”でないもの」も多く揃えています。それは史織さんが意識的にやっていることでもあります。
「その場所にある土と、外から吹き込む風が“風土”を作る――そう言っている人がいて、なるほどなと思いました。私自身、郡山生まれの“外”の人間です。会津の人は頑固だなあと思うこともあるのですが(笑)、そんな場所でも外からの風が入ることで、何か新しいことが始まるんじゃないかなと思うんです」と史織氏。

そう考えると、五十嵐氏が言うところの「地元の人が普通に使ってくれる店。それでいて外から訪れる人も、心地よく過ごせる店」としての『CAFE JI*MAMA』は、「外からの風が入る場所」そのもの。だからこそこの場所から、次々と新しいことが起こっているのかもしれません。

五十嵐氏をはじめ、お客様から持ち込まれた本の数々。この店とつながる人たちの姿が、そこから浮かび上がる。

Data
CAFE JI*MAMA

住所:〒967-0004 福島県南会津郡 南会津町田島上町甲4004 MAP
電話: 0241-62-8001
http://ji-mama.com/

『傳』長谷川在佑氏が、ドイツの最新器具ブランドとコラボした夢のイベントが実現。[WMF Special Moments produced by DINING OUT / 東京都渋谷区]

トークを交えながら料理を実演した長谷川在佑氏。

東京都渋谷区いま最注目の料理人の手で繰り広げられた饗宴。

もしも最高のシェフと最新の調理器具が出合ったら、どんな料理が生まれるのか――。そんな夢を思い描いたことはありませんか? 去る5月某日、代々木『code kurkku』で、その夢が実現しました。

厨房に立つのは外苑前『傳』の長谷川在佑氏。ミシュランの2つ星獲得、2018年度のアジアのベストレストラン50では2位にランクインなど、その勢いはとどまるところを知りません。2015年には「DINING OUT NIHONDAIRA」を大成功に導いたことも記憶に新しいところ。いま世界がもっとも注目する日本料理の料理人といっても過言ではないでしょう。

対して調理器具は、ドイツNo.1のキッチン&テーブルウェアブランド『WMF(ヴェーエムエフ)』。165年の歴史を持ち、世界中で愛されるWMFからの新シリーズ「Function 4(ファンクション フォー)」が今回の主役です。これは蓋を回すことで「水切り」「湯切り」「注ぎ口」「密閉」という4つの機能を持つ鍋として使える新発想のシリーズ。高品質ステンレスによる熱伝導性と保温性に優れた底面三層構造の採用など、WMFの技術が惜しみなく詰め込まれています。

この「Function 4」を使い、長谷川氏がデモンストレーションを交えて料理を提供するというのが今回の企画。つまり世界を魅了する料理人と、世界で愛される調理器具の、夢のコラボレーションが実現したのです。

『WMF Special Moments produced by DINING OUT』と題されたイベントが、いよいよ幕を開けます。

次々と登場する料理に、会場からは感嘆の声が上がった。

東京都渋谷区外苑前『傅』おなじみの一品から料理がスタート

ホストを務めたコラムニスト・中村孝則氏の挨拶により始まったイベント。長谷川氏が最初に出してくれたのは、『傅』ではおなじみの「傅 モナカ」でした。「Function 4」のソースパンで仕立てたプラムのコンフィチュールを、フォアグラ、柴漬けとともに最中に挟んだ逸品。サクッと香ばしい最中、ねっとりと濃厚なフォアグラ、柴漬けの軽快な食感、そして保温性に優れた底面三層構造のパンが引き出したコンフィチュールの爽やかな酸味が一体となった味に、会場からは早くも驚きの声が上がります。

しかし驚くのはまだこれから。2品目に登場した「蛤のスープ」を、まずは味わってみましょう。口に広がるのは凝縮された貝の旨みと、ほどよい塩味。クリアでありながら濃厚な味わい、どれほど高度なテクニックによりこの繊細な味が引き出されたのでしょうか? その秘密を聞いて驚いてください。実はこのスープのレシピは、蛤と水を「Function 4」の鍋に入れて火にかけただけ。熱の伝わりが良く保温性の高い鍋が蛤の旨みを引き出し、蓋の密閉機能がその旨みを逃さず、スープのなかに閉じ込めたのです。

「鍋のサンプルが届いたとき、新しいおもちゃをもらった子供のようにずっといじり続けていました」と笑う長谷川氏ですが、器具のポテンシャルを見極め、シンプルな工程で素材感を引き出すこの技こそが、氏の真骨頂といえるでしょう。

また「注ぎ口があるので、卓上でサーブすることもできます。料理の幅が広がりますね」とも語る長谷川氏。「準備する」「調理する」「味わう」「語らう」という4つのモーメントを提案するWMFの考えとピタリと一致する一品でした。

「DINING OUT」のホストとしてもおなじみの中村孝則氏が司会を務めた。

重層的な味わいと食感で楽しませる「傅 モナカ」。

鍋のポテンシャルを最大限に発揮した濃厚な味の「蛤のスープ」。

ディスプレイされたWMFの商品にゲストの視線が集まった。

東京都渋谷区スチーマーに圧力鍋。最新機器で仕立てる日本料理。

続いての料理は「蒸し魚と野菜のフリット」。『DINING OUT NIHONDAIRA』以来縁の深い静岡県駿河湾産の鰆を「Function 4」のハイキャセロール(両手鍋)に専用スチーマーをセットして蒸し上げ、静岡県産コシアブラの素揚げを添えます。保温性の高いハイキャセロールとスチーマーのコンビネーションで魚の旨みを逃さずに留め、油の温度を均一に保つソースパンは野菜をカラッと香ばしく仕上げます。味自体はあっさりとしていつつ、噛むごとに広がるふくよかな味わいは、まさに素材本来の味です。

「店では雪平鍋でやっているので、この使い勝手は感動です」という長谷川氏。そもそも現代的な器具を導入することについても前向きな人物だけに、新たなアイデアも次々と浮かぶのでしょう。「当たり前ですが、便利であることは良いことですから」との言葉も、本心からの声でしょう。

続いての料理は、WMFのパーフェクトプロという圧力鍋を使った「和牛頬肉の煮物」。箸でほぐれるその柔らかさに、試食したゲストたちからも「おいしい!」の声が上がります。そもそもWMFは世界で初めて圧力鍋の生産を開始した会社。高温調理を可能にする熱伝導はもちろん、使いやすさの面でも世界をリードするクオリティです。「いつもは丸一日煮込むものが、この鍋では1時間程度で仕上がりました」と長谷川氏。ちなみにいつもはペーパーで濾す鰹出汁も、湯切り口がついている「Function 4」で手軽に仕上げられたといいます。

蒸す、揚げる、煮ると多彩な方法で鍋の魅力を引き出す。

ふっくらとした食感が印象的な「蒸し魚と野菜のフリット」。

圧力鍋で仕上げた牛肉は、わずか1時間でこの柔らかさに。

鰹出汁の風味で和牛の旨みを引き出した「和牛頬肉の煮物」。

東京都渋谷区ゲストの心を掴んだドリンクとデザート。

手際の良い長谷川氏の調理に目を奪われてしまいましたが、イベントにはドリンクも登場。料理との相性を考えて準備された「山廃純米 石橋ヲ叩イテ渡ル」と「ディープブルー ピノ」の白ワイン、『傅』オリジナルのブレンド茶が料理を引き立てました。また、ウェルカムドリンクに登場した「ナイアガラ スパークリング」は、2017年の『DINING OUT NISEKO』で中村孝則氏が惚れ込んだワイン。料理に使われた静岡県産の食材とともに、かつての『DINING OUT』を彩った名品たちが会場を盛り上げたのです。

さて、イベントはそろそろ大詰め。最後に登場したメニューは、「Function 4」の鍋と専用スチーマーで作った「柑橘プリン」でした。きめ細かく滑らかな舌触りは「蒸気がしっかり循環するWMFならでは」と長谷川氏。「Function 4」のソースパンで仕上げたほろ苦いカラメルは、グレープフルーツジュースの酸味をまとわせることで、軽やかな後味を実現。こうして実演の料理とは思えぬハイクオリティメニューが5品、ゲストの舌を楽しませてくれました。

訪れたゲストはドリンクを手に、思い思いの時間を楽しんだ。

絹のように滑らかな仕上がりは、蒸気を効率良く循環する鍋のおかげ。

鍋だけではなく、食のあらゆるシーンを彩るWMFのラインナップ。

東京都渋谷区

良い調理器具はアイデアの源となり、作る楽しみを演出する。

すべての料理に共通していたのは、家庭でも真似できそうなシンプルな工程だったこと。素材を知り、その本質を引き出す長谷川氏ならではのアイデアはもちろんおいしさの源泉。しかし特別な技術を必要としない調理でこれだけの味が実現できることにこそ、訪れたゲストは驚かされていました。

WMFというブランドが打ち出す、最新機器を料理に取り入れることに関しても、長谷川氏は積極的です。「日本料理はただ伝統を守るだけのものではありません。数々の革新があり、現在の形になっているのですから。千利休がいま生きていたら、液体窒素を使ったかもしれませんよ」とユーモラスな言葉で語りますが、この言葉にこそ日本料理の魅力が凝縮されているのかもしれません。

「野菜の水切り、米とぎだけでなく、密閉性が高いので燻製などもできるでしょうね。いろいろと考える楽しみがある鍋です」イベントを振り返りつつ、今回の調理の相棒である「Function 4」をそう評した長谷川氏。こうして最高のシェフと最新器具の夢のコラボレーションは、想像以上の驚きと感動を残して幕を閉じました。

(supported by WMF

WMFを展開するグループセブ ジャパンの代表取締役アンドリュー・ブバラ氏、中村孝則氏とともに。

さまざまなシーンを想定して作られた「Function 4」を使いこなす長谷川氏。

Data
code kurkku

住所:東京都渋谷区代々木1-28-9 MAP
電話:03-6300-5231
http://www.kurkku.jp/codekurkku/

人と地域に「移動」でエモーションを生み出す。[レストランバス]

「そこにしかない日本を食べよう!」をコンセプトに、土地ごとの絶景を楽しみながら、地域の旬の食材をふんだんに使ったグルメを堪能できる「走るレストラン」。オープントップバスならではの絶景を楽しみながら、その土地の生産者や料理人との交流を楽しむこともできる。

各地の食・観光・人をつなげる「走るレストラン」。

名所やグルメスポットを効率良く巡ることができる手段として、大いに人気を博している「観光バス」。ですが、ありふれた観光地やグルメスポットをただ巡るだけ、といったツアーが大半を占めており、「独自の体験や食にはなかなか出会えない」「余裕のない座席やスケジュールでエコノミーな旅になってしまう」といった不満を持っている方もいるかもしれません。

そんなありきたりな観光バスのイメージを払拭(ふっしょく)すべく、独創的でラグジュアリーな旅を生み出し続けている観光バスがあります。その名は『レストランバス』。ゆったりした対面式の座席を眺望抜群の2階にしつらえ、1階のキッチンで調理された新鮮な地元食材による創作料理を、刻々と変化する風景とともに堪能することができます。

この『レストランバス』を開発したのは、「移動ソリューションを提供する」 WILLER株式会社。その土地ならではのグルメと絶景はもちろんのこと、それらの背後に秘められたストーリーを語ってくれる人々との出会いまで用意して、一期一会のかけがえのない体験と巡り会わせてくれます。

日本初の『レストランバス』は2階建てのオープントップバス。対面式のテーブルを備え、高い視点で景色を見渡せる2階席が自慢。天井は透明かつ開閉式で開放感も抜群。

1階は調理用のキッチンになっており、地元の食材を知り尽くしたシェフが旬の食材を使った創作料理を提供する。

土地ごとの旬と絶景を味わい尽くす。

『レストランバス』の醍醐味は、食をテーマとするバスツアーの概念を覆してあらゆる面でグレードアップさせた点です。既存のグルメをただ食べ歩くのではなく、独自に見出した食材と調理人によるオリジナルのグルメを味わわせてくれます。

農園で自ら採取した取れたての食材を調理してもらったり、生産者に食材のストーリーや文化を聞いてその歴史までをも噛みしめたり。「移動と食の融合」をテーマに、土地と土地だけでなく、地域の人々とゲストをも結びつけています。

点在する地域の魅力をつなげる、という「エモーション(感動)の多重化」がその主眼。旅の大きな楽しみとなる「食」と「景色」を『レストランバス』がつなぎ、旬に出会いながら地域の魅力を満喫させてくれます。

そして客席を対面式とすることで、ゲストとゲストとの出会いまでをもコーディネイト。まったく知らなかった人とも「食」と「景色」を通じて会話を弾ませ、新たな感動と体験が生み出されていきます。

加えて、その土地に住む人達にも新たな魅力を提供する、という効果も。『レストランバス』自慢の2階席は、高い視野から斬新な眺望を楽しめるため、「私達が住む土地はこんなに綺麗だったんだ!」といった驚きの声も上がるそう。そのため地元からのゲストやリピーターも多く、新潟エリアのツアーはなんと6割が地元客で占められたそう。もちろん知られざる食材との出会いも用意されており、あらゆる面から地域の魅力を再発見させてくれます。

地域の魅力的なスポットを結ぶ「交通」と、人と人との交流を生み出す「食」とを掛け合わせた移動サービス。

人と人との出会いもエモーション(感動)を生み出す。人生を豊かにしてくれる体験が満載。

1台のバスから出会いと感動が広がる。

『レストランバス』には、もうひとつ重要なコンセプトがあります。
それは、車両の開発はWILLER株式会社が行なっているものの、実際の各地での運行は現地で1から企画を考えていること。その理由は、「その土地ごとの想いを乗せて走ってもらうため」だと言います。郷土への愛着、食材への思い入れ、地域に住まう人々とそこを目指して訪れてくれるゲスト達へのおもてなしの心、などなど――なによりも大切な土地と人々への想いを示すため、その土地に住まう人々の手を借りているのです。
たとえば、熊本では震災の復興にも寄与したといいます。「地域活性化のための種まき」のツールとして、それぞれの地域に適した方法で活性化やPRの一助としてもらいたい――そんな願いがこめられているそうです。

その土地ごとの想いも乗せて走る。

『レストランバス』を舞台に地域の人々も活躍。

さらに、「地域活性化を担う人材の育成」という側面も持たせています。地域や食材の魅力を乗客に解説してもらうナビゲーターとして、地域の人々に積極的に協力を依頼しているのです。

『レストランバス』自体が地域の魅力を発信したい人々のためのステージとなるだけでなく、彼ら自身にも、地域の魅力を再発見してもらうきっかけとなっているそう。『レストランバス』に同乗してとっておきの秘話を披露してもらったり、それぞれの創意工夫を生かして地域や食材の良さをPRしてもらったり。この取り組みによって、調理のために同乗してもらうシェフも含め農家・生産者・若いクリエイターなどの横断的なコミュニティが形成されていくそうです。

『レストランバス』がその土地を去っても、たとえ再びその土地を走ることがなくても、『レストランバス』をきっかけに生み出された繋がりは続いていきます。単なるバスツアーでは生み出せないムーブメントが、そこには残るのです。

地域の人々との出会いも『レストランバス』の醍醐味。食材の生産者とのふれあい。

レストランバス京都(3号車)。その土地の文化に合わせた車体や内装も見どころのひとつ。

個性豊かな3台が全国各地を駆ける。

現在国内で合計3台ある『レストランバス』は、それぞれが特別な造りになっています。

まずは『レストランバス』のメインテーマである「そこにしかない日本を食べよう」を体現した1号車。
1階は調理用のキッチン、2階は25人が着席できるゆったりした対面式のテーブル席となっており、天井は開閉式の透明な屋根となっています。暖かく天気の良い日にはオープントップで開放感を味わえ、寒い日や天気がすぐれない日でも、透明な屋根越しに景色を楽しみながら快適に食事を味わえます。

次に、『祭り』をテーマとした2号車。
日本ならではの文化をインバウンド(訪日外国人旅行客)にわかりやすく伝えるため、祭りをイメージした提灯や暖簾などの和の内装を採用しています。そこに畳調のシートや花火を模したデザインなども加わって、まるでバスに乗りながらお祭りに参加しているような気分になれます。提供される食事も和食中心で、移動中でも日本酒を楽しめるように、徳利とお猪口が置けるテーブルをしつらえています。

最後は、京都を活躍の舞台とする3号車。
京都ならではの「おもてなし」と「安心」をテーマにして、老舗料亭をモチーフとした石造り風の入口や行燈などなど、ラグジュアリーな和のデザインをふんだんにあしらっています。二階席の高い視点から眺める京都は、普通の京都観光では出会えない特別な体験。様々な人気観光スポットも斬新に見えます。

これら3台の『レストランバス』が今まで走ってきたのは、新潟・佐渡島・沖縄・東京・熊本・北海道・京都・島根県(石見エリア)など。今後も様々な土地に感動体験を広げていきます。

「祭り」をテーマとした2号車。提灯や暖簾で飾られた内装と花火をモチーフとした車両ラッピングが楽しい。

より多くの人々に楽しいひとときを提供したい。

個性豊かな車体と企画でその土地ならではの魅力を満喫させてくれるレストランバスは、今後も全国各地に展開していくそうです。

現在実施しているのは、「レストランバス IN 北海道(2018年4月28日~9月30日)」と「新潟レストランバス(2018年4月20日~6月30日)」の2つのツアー群。ランチ・フルコース・スイーツなどの様々なコースを用意して、イタリアン・フレンチ・創作和食などの多彩なグルメを堪能させてくれます。ワインをテーマとしたワイナリー巡りや、日本酒をテーマとした酒蔵訪問などもあり。ゲストの興味と好みに合わせて多様なツアーを選択できます(各ツアーの料金や詳細はホームページを参照)。

そして7~8月には、「日本海レストランバス」も実施。 金沢市を出発地に加賀・能登・南砺(なんと)方面をそれぞれ巡るツアー群は、大陸との交流や北前船の拠点として育まれた北陸の魅力を存分に味あわせてくれます。日本海の海の幸をはじめとする豊かな食文化を楽しみながら、北陸の文化や歴史的背景まで学ぶことができ、個人やファミリーでは難しい縦断的な北陸観光をも可能にします。

現在3台あるレストランバスも、今後は台数を増やしていく予定だそう。現在は期間限定となっている運行も、数年後には一定の地域での定期運行を計画。期間限定ツアー+定期運行のコンビネーションで全国各地の魅力を発信していきます。

土地ごとに異なる食材と、それらを生み出した文化や歴史を味わい尽くす。

単なるバスツアーではなく、地域に息づくエピソードを地域の人々と共に提供。

Data
レストランバス

電話:0570-666-447 (レストランバスの車体に関するお問い合わせ)
※各ツアーの料金およびお問い合わせ先は各走行地域のホームページを参照
※レストランバスのご予約・ご乗車に関するお問い合わせと、その他のご質問やご意見、ご感想などはこちらから:http://travel.willer.co.jp/contact/
http://sp.willer.co.jp/restaurantbus/
写真提供: WILLER株式会社

舞台は開山1300年を迎える神仏習合の地。静謐で神秘的な地に降り立った13回目の『DINING OUT』。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

心地よい新緑に包まれる国東に、2夜限りのレストランが出現した。

大分県国東市悠久の歴史のなか、独特の宗教観が育まれた緑深い国東の地。

2018年5月26日、27日、『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』が開催されました。13回目となる今回の舞台は神仏習合の地・大分県国東市。折しも2018年は、この地特有の山岳宗教「六郷満山」開山1300年という節目の年です。刻まれてきた悠久の歴史と、地域に眠る食材や文化。それらをどう表現し、どう伝えるのか。多くの人が今回の『DINING OUT』を、固唾を飲んで見守っていたことでしょう。

開演当日まで、その詳細はいつも以上に謎のベールに包まれていました。わかっていたのは、大分県国東市のどこかが会場になること、コラムニスト中村孝則氏がゲストをお出迎えすること、「ROCK SANCTUARY—異界との対話」という不思議なテーマが設定されたこと、そして「和魂漢才」をテーマに日本食材と中華料理の融合を追求する南麻布『茶禅華』の川田智也シェフが担当すること。限られた情報から浮かんだであろう皆様のイメージは、きっと裏切られることになるはずです。さまざまなことが予想外。それが『DINING OUT』なのですから。

さあお待たせしました。国東半島で行われた第13回『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』。その全貌を速報でお届けします!

川田智也シェフは地域の素材だけではなく、歴史や文化、人の思いまでを、料理に落とし込んだ。

料理や酒から歴史に至るまで多岐にわたる深い知識と、ユーモアで会場を盛り上げた中村孝則氏。

大分県国東市快適な送迎から、過酷な石段登り。その落差さえも感動への序幕。

緑萌える初夏。天気は晴れ。爽快な空気に包まれる大分空港。到着したゲストを迎えたのは、ドライバーつきのLEXUSでした。そのラグジュアリーなシートに揺られながら、各々のゲストは会場の様子を思い描いたことでしょう。ところがLEXUSが到着したのは、とある寺院の前。墨痕鮮やかな「峨眉山 文殊仙寺」の額の先には、延々と続くかのような石段が伸びています。ラグジュアリーなLEXUSのリアシートから一転、擦り減り苔むした330段もの石段を、ゲストは一歩ずつ登り始めます。

息は切れ、額から汗が流れ落ちる頃、ようやく山門が見えてきます。山門脇では修験者の白装束に身を包んだホスト・中村孝則氏がゲストを出迎えます。「ようこそいらっしゃいました。どうぞ奥の院へお進みください」
導かれるままに向かった奥の院で待っていたのは、文殊仙寺副住職による護摩焚き供養です。燃え盛る炎が、一切の煩悩を焼き尽くすといわれるこの護摩焚き。天井まで上がる激しい炎、朗々たる読経。石段を上がるという苦行と合わせ、まるで修験道のような静謐で厳かな雰囲気がゲストを包みます。

奥の院を出たゲストたちは、もう少しだけ石段を上ります。「次はどこへ?」といった表情はしかし、すぐに驚きに取って代わりました。石段を上ったゲストの目の前に、ダイニングが広がっていたのです。そう、今回の『DINING OUT』の舞台は、こちら。六郷満山文化随一の歴史を持つ古刹・文殊仙寺。その境内の一角の切り開かれた場所に、客席とオープンキッチンが設えられたのです。

空港では20台のLEXUSがゲストを待ち構え、会場へと運んだ。

快適なドライブから一転、目の前には330段の石段。ここを上がる行程も『DINING OUT』の醍醐味。

修験者の装いでゲストを出迎える中村氏。不思議で神秘的な雰囲気があたりを包む。

一切の煩悩を焼き尽くす護摩焚き。その激しい炎と副住職の迫力に目を奪われる。

大分県国東市乾杯は、一杯のお茶で。静寂に包まれるディナーの幕開け。

片側は急峻な山、片側は切り立った崖、頭上には鬱蒼と茂る木々、すぐ目の前には重厚な文殊仙寺の奥の院。厳かな鐘の音が響き、時折、鹿の鳴き声が届く静謐な境内に、突如現れたレストラン。そのギャップにゲストからは銘々、感嘆の声が上がりました。そう、石段も護摩焚きも、すべてはこの席に着くまでの助走だったのです。

やがて会場に中村氏が登場し、乾杯のドリンクが配られます。シャンパンではありません。最初の一杯は、文殊仙寺の山号にちなんだ中国茶「峨眉雪芽(がびゆきめ)」を、境内に湧くありがたい名水「知恵の水」で淹れたお茶、つまり中国と国東の融合からディナーのスタートです。

続いて登場したのは川田シェフを「味が完成されている」と驚かせた国東の牡蠣「くにさきオイスター」。単体でも完成された味わいを活かすため、中国と日本の30年物の古酒で香りを添える程度に調味し、本来の味を引き立てました。ここにもまた、中国と国東の融合という背景がみえてきます。

その後の国東半島の泥鰌(どじょう)を紹興酒で酔わせて揚げた一品は、文殊仙寺の岩を器にして提供。続く国東の牡蠣とわかめ、地元産野菜は、熱した国東の岩と中国の岩茶で蒸し上げました。国東の青竹を器にしたスープは、烏骨鶏ガラの澄んだ味わいと青竹のフレッシュな香りが調和します。

すべての根底に、国東と中国両方の要素が潜んでいることは明らかです。
「中国の霊峰・峨眉山の山号を持つお寺と、私が追い求める和魂漢才というテーマの符合。それをゲストの皆様にお伝えしたかったんです」

メニュー名はすべて五文字の言葉。魂の籠もった言葉が、ゲストの想像を掻き立てる。

乾杯のドリンクはお茶。この土地の水と中国のお茶で、川田シェフの思いを伝えた。

国東開胃菜」。小ぶりで味わい深い「くにさきオイスター」に、日本と中国の30年物の古酒の香りをプラス。

爆米炸泥鰌」。紹興酒の香りをまとった泥鰌のおこげ揚げ。器は文殊仙寺の境内の石を焼いたもの。

地元の野菜や牡蠣を中国茶で蒸した「岩香蒸山海」。和魂漢才というシェフのテーマを象徴する一品。

「竹筒烏骨鶏」。烏骨鶏の澄んだスープに、青竹の香りとクレソンの清涼感を添えた優しい味。

大分県国東市徐々に盛り上がりを見せるコースは川田シェフの真骨頂。

滋味深いお茶で幕を開けたディナーは、どちらかといえば静かな立ち上がり。少しずつ、しかし確実に、ゲストは川田シェフの世界観に惹き込まれていきます。傾き始めた日が、会場をいっそう幻想的なムードに彩ります。眼の前のオープンキッチンからは、中華料理特有の活気が伝わります。静と動、陰と陽、そして日本と中国。さまざまな対比が、徐々にその輪郭を現しはじめます。ディナーは中盤に差し掛かります。

ひと抱えはある大皿の上に山と盛られた唐辛子。これは峨眉山イメージし、その山の下には国東市の名品・桜王豚のスペアリブが隠されていました。刺激的な見た目の料理ですが、その味わいはクリアで爽やか。唐辛子と山椒の香りが、透明感ある豚の脂に寄り添います。この料理に限らず、川田シェフの料理の基本はピュアでクリアな印象。
「中華料理というとパワフルでパンチがある味の印象を持たれがちですが、本場の最高峰は本当にクリアな味なんです」という川田シェフの信条の表れでしょう。

やがて日も暮れかかり、山から夜露を含んだ涼しい風が降りてくる頃、静謐な印象を醸していた白い照明が、炎を思わせる真紅に切り替えられました。時を同じくして、オープンキッチンからは、激しく鍋を振る金属音が響きます。まるで静かに伏せていた獣が頭をもたげたような、緊張感。続く料理は、その象徴的存在でした。

まるで鬼のような形相をした魚。三島フグと呼ばれるオコゼの一種で、揚げることで鰓が上がり、鬼の角のように見えるのです。そもそも国東で鬼は、さまざまな祭りに登場するほど重要な存在。川田シェフの心を動かしたのは、そんな鬼の神聖さでした。赤い照明が光り、緊張感と鬼気迫る雰囲気に包まれた会場で、この鬼のような魚を提供することで、国東に根付く精神性まで伝えたのです。その後、副住職が寺に代々伝わる鬼面を持って登場し、その由縁をご紹介したことで、ゲストにも国東の地とこの魚料理の関連性が伝わりました。

このように、川田シェフの料理の根底には、いつも土地の歴史や文化がありました。おいしさは最重視した上で、そこに流れる思いを汲み取る。技術だけではない、地域への敬意があるからこその料理なのでしょう。

オープンキッチンから伝わる音や香りも大切な要素。まさに五感で味わう料理だ。

峨眉山排骨」。唐辛子と山椒が目を引くが、口にすると桜王豚の透明感ある脂の旨みが広がる。

トマトと八角を合わせた「八角煮蕃茄」。スペアリブの辛さと痺れをリフレッシュする口直しとして登場。

静寂とともに始まったディナーから一転、照明が変わり、周囲には激しさと緊張感が漂った。文殊仙寺の副住職が、国東に伝わる火祭り「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」と、そこで使われる鬼面について解説した。

鬼の形相を見せる三島フグを使った「国東的良鬼」。地元で採れたこだわりの白米とともに。

大分県国東市ひとつの食材を、異なる手法で魅せる川田流メインディッシュ。

メインの食材には、大分県が誇る地鶏「おおいた冠地どり」が選ばれました。それも、ある食材の異なる部位を異なる調理法で提供する、川田シェフらしい料理です。

胸肉はその柔らかさを活かすために蒸し鶏にし、カボスと合わせてさっぱりと。手羽先にはスッポンを詰めて香ばしく、かつコク深く仕上げます。脂身の少ないもも肉は、国東のバジルの香りをまとわせて「三杯鶏(サンベイジー)」という台湾の伝統料理に、そして最後に残ったガラは澄んだスープをとってシンプルな麺に仕立てました。まさに余すところなく素材を味わい尽くすメニュー。部位ごとの個性も際立ち、「おおいた冠地どり」という素材そのものへの興味を誘引するような見事なプレゼンテーションです。

最後は青梅の翡翠煮と温かい杏仁豆腐で、しめやかにコースは終了。緩急を付けつつゆっくりと加速し、息をもつかせぬ盛り上がりをみせた後、余韻を残して終了する。どこか日本の懐石料理を思わせる展開でありながら、それぞれを見るとやはり中華料理そのもの。

”融合”という表面的技術の話ではなく、もっと深い部分、たとえば信念や生き方という部分で、日本と中国が深く結びついた料理。川田智也という稀有なるシェフのすべてが表現されたようなコースでした。

「冠地鶏四囍」は4種の料理で部位ごとの魅力を際立てた川田シェフらしい逸品。

冠地鶏四囍」のひとつである麺には、国東の食材をふんだんに使ったオリジナルのXO醤が添えられた。

「清湯(ちんたん)」という澄んだスープのなかに、奥深い味わいが潜んでいた。

シェフが修行時代から毎年作っているという初夏の時期のデザート「爽口凍青梅」。

この日のために自らの法螺貝を仕立て、練習を積んだ中村氏。会場ではその腕前を披露した。

大分県国東市大勢のスタッフの力が結集し、大きな感動を演出。

今回の『DINING OUT』が成功の裡に終了したことは疑いありません。ゲストを感動の渦に巻き込んだ川田シェフの料理。しかし、成功の理由は料理ばかりではありません。

実は今回の『DINING OUT』は、ひとりの地元料理人の声により実現に至りました。国東市の発展を願って『DINING OUT』の開催を切望し、その声が市長の耳に届いたことで、今回の開催となったのです。集った地元スタッフは70人以上。そのひとりひとりが国東市を愛し、国東市のために尽力したからこそ、この大きな感動が生まれたのでしょう。

終演の余韻が残る会場には、渡部建氏の姿もありました。『茶禅華』にはオープン当初から幾度も足を運んでいるという渡部氏。そんな渡部氏をして、まず飛び出した感想は「想像以上でした」という言葉でした。「店とイベントとを比べれば、店の方がクオリティが高いというのが定説。しかし川田シェフは、お店ではできないことを、この地で実践されました。今後は『茶禅華』と川田シェフを語るとき、まず今日の日を思い出す気がします」と語る渡部氏。「シェフの思いや背後に流れるストーリーが、はっきりと味覚に繋がっていた。味も、雰囲気も、すべてを含めて大満足です」と、手放しの称賛を寄せてくれました。

渡部氏ばかりではありません。あるゲストは「一生忘れないと思います」と興奮気味に語りました。またあるゲストは余韻をかみしめるように、ただ「最高でした」と呟きました。それぞれのゲストが、それぞれのやり方で、今日のディナーを振り返ります。

「素晴らしい体験でした」終演後の川田シェフは、開口一番そう言いました。「和魂漢才は、私が人生をかけて追い求めるテーマ。そのヒントとなるものに、この地でたくさん出会えた気がします」それからこの地で出合った食材や地元スタッフへの感謝の言葉を饒舌に語りました。いつも寡黙な川田シェフが、少しだけ頬を上気させて、熱く感想を述べる。言葉そのものだけでなく、そんな光景もまた、今回の『DINING OUT』の成功を物語っていました。

「お楽しみ頂けましたか?」最後にマイクを握ったシェフは控え目にそう訪ねました。会場は割れるほどの拍手で、それに応えました。その拍手こそが、今回の『DINING OUT』の成功を、何よりも雄弁に語っていました。

70名に及ぶ地元スタッフの力が、成功の源。大勢の力が結集し、大きな感動を生み出した。

仕事終わりに飛んできたという渡部氏も、その感動をストレートに伝えてくれた。

岩と石に囲まれ、共に生きる国東。「Rock Sanctuary」をテーマにした『DINING OUT』が伝えたのは、その豊かな精神性だ。

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を授勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士の称号も授勲。(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称) 2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。

http://www.dandy-nakamura.com/

飛騨が誇る2つの宿。宿をひとつの“場”として考え、新たな文化をつくる。 [飛騨/岐阜県]

飛騨高山にある『オーベルジュ飛騨の森』を営む中安俊之氏。高山に移住して3年。料理、農業、コミュニティなど様々なアプローチで、飛騨に新たな文化をつくる立役者のひとりだ。

岐阜県外国人からも注目を集める飛騨の魅力を発信する、2つの宿。

岐阜県の県北に位置する飛騨エリア。古い町並みに老舗の商家が軒を連ねる高山市、白壁の土蔵が今も残る一方で、手つかずの自然も多い飛騨市、日本三名泉のひとつを有する下呂市、合掌造りの集落など日本の原風景が広がる白川村の4市村で成り立っています。

最近は外国人を含めた観光客が増え、年々注目を集める飛騨。ここに、2つの特徴的な宿があります。明治3年創業、150年近い歴史を持ち飛騨古川の迎賓館と呼ばれる『蕪水亭(ぶすいてい)』。15年以上、海外で活躍した料理人が先代から引き継ぎリニューアルオープンさせた『オーベルジュ飛騨の森』。一見対照的に見える2つの宿ですが、飛騨というエリアに様々なアプローチで新たな風を送り込んでいます。

単にその土地を訪れるだけでなく「宿泊する」という体験は、その土地やそこに住む人たちのことをより深く知り、新たな魅力を発見する近道です。宿泊してみてこそ分かる飛騨の魅力———。2つの宿を通してお届けします。

飛騨古川にある『蕪水亭』。母屋は2004(平成16)年に水害に遭い水没したため、1835(天保6)年の古民家を移築した。元家主の親戚が訪れた時に、昔話に花が咲いたことが嬉しかったとオーナーは話す。

飛騨高山にある『オーベルジュ飛騨の森』。高山といえば古いまち並みが人気だが、中心地から車を15分も走らせればこれほどまでに眩い緑に出会える。

岐阜県ピンチをチャンスと捉え、災害から見事に再生。

どこか懐かしく、情緒あふれる雰囲気を持つJR高山本線・飛騨古川駅。5分ほど歩くと古い家々や白壁の土蔵が続く町並み、大きな鯉がゆったりと泳ぐ瀬戸川へ。観光地としての側面を持ちながらも、地元の人たちの普段の暮らしが垣間見える飛騨古川独特の景色が広がります。

今回訪ねた『蕪水亭』は、町並みを抜けた先、荒城川と宮川が合流する川岸にあります。荒城川は別名で蕪(かぶら)川ともいわれ、蕪水亭の名前はそこから付けられたそう。館内にもところどころに蕪をモチーフにした装飾が施されています。

ロビーに入ると、英国製の「デッカデコラ」から美しく響き渡るオペラの歌声。「まぁ、1杯どうぞ」と、手際よくドリップしたコーヒーで出迎えてくれたのは、音楽好きでコーヒーマイスターの資格も持つという料理人でありオーナーの北平嗣笥氏。お客様をもてなしたい、という素直な思いが伝わってきます。

蕪水亭は、母屋と全3室の客室から成る小さな宿。火災、水害と2度に渡る災害に見舞われたこともあり、母屋は築180年以上の古民家を移築したもの。また、客室のひとつも築110年の板蔵を移築したものだそう。建物を現代風に建て替えるのではなく、明治から続く蕪水亭の歴史に見合った建物を移築する。蕪水亭はそれまで、今よりも客室が多い一般的な旅館でしたが、移築を機に客室と寝室を完全に分ける空間設計に。お客様に、より快適に過ごしてもらえる環境づくりに努めたのです。

「一水の間」は北平氏の祖父が設計。窓から臨む外の景色が見事だ。作家の若山牧水、池波正太郎、遠藤周作ら多くの文化人や、皇族の方たちも利用されたそう。

「一水の間」のベッドルーム。客室と寝室を分けたつくりは客からの評判も高い。中部、関東、関西圏からはもちろん、毎年海外から訪れるリピーターもいるそう。

離れにある2階建ての「はごろもの間」。築110年の板蔵は総檜づくり。家具は職人技が光る飛騨家具を設える。テーブルは飛騨の一枚板を北平氏自ら磨いて仕上げた。

のれん、引き戸、柱など、蕪の装飾をあちらこちらで見かける。

岐阜県“薬草”というここにしかない地域の宝で、宿もまちも元気になる。

客室のリニューアルとともに、北平氏がこだわったのが宿で提供する料理。和食の料理人として35年、厨房に立ち続けてきた北平氏が注目したのが薬草を使った料理でした。きかっけは、薬草研究の第一人者である故・村上光太郎氏と出会ったことだと言います。村上氏は、飛騨古川には250種類を超える薬草が自生することを発見。飛騨市は薬草を活用したまちづくりを開始し、『薬草で飛騨を元気にする会』を設立。北平氏は、その会の理事長も務めています。
「薬草を摂取することは健康につながりますが、『苦い、渋い、えぐい』というイメージの薬草をおいしく、かつ見栄えよく調理するのは簡単なことではありませんでした」と北平氏。和食はアクや苦みを取り除き出汁で食べさせる文化である一方、薬草料理はアクや苦みが薬効の元であるゆえ、取り除くことができない。薬草料理をつくることは、長年やってきた和食の技術を根本から覆す必要があったのです。

試行錯誤の末、薬草料理は今では蕪水亭の看板メニューのひとつ。ここ数年は地域の人たちと協力をして栽培も始めているのだとか。自分たちで収穫や栽培をすることで薬草に詳しくなり、食するようにも。住民が元気になれば他の地域から人が来るようになり、まちも活性化するのではないかと考えているのです。

料理人でありオーナーの北平氏。『薬草で飛騨を元気にする会』の活動では、薬草についての講座や薬草茶のワークショップなども開催。若い世代にも薬草を取り入れてもらえるような活動を考えている。

薬草料理コースの一例。こしあぶら入り出し巻き玉子、あずき菜とえごま、うつぼぐさのお浸し、たんぽぽの豚肉巻きなど薬草があらゆる料理に使われている。食べにくさは全くなく、おいしい。

薬草の収穫や栽培をしている農家の田中良昭氏。子どもの頃、薬草を取った経験はあるが本格的に始めて14年ほど。知識が増え、新しい品種を発見することや育てることが楽しいと言う。

岐阜県東京が世界の一番ではなかった! イタリアで気がついた暮らしの価値観。

鬱蒼たる木立に取り囲まれるように建つ、緑色の屋根がかわいらしい『オーベルジュ飛騨の森』。オーナー兼シェフを務める中安俊之氏はオーストラリア、イタリアで15年以上に渡り研鑽を積んだ料理人で、3年前に帰国。ペンションを経営していた奥様の実家がある高山に移住し、先代から引き継ぐ形で2016年、宿をリニューアルオープンしました。

東京出身の中安氏ですが、「今は高山がおもしろくて、ここでやれることがたくさんある」と楽しそうに語ります。若い頃は東京が世界で一番だと思っていたそうで、イタリアに渡り、その思いはあっけなく崩れ去ったと言います。
「イタリアのある田舎に行った時、『うちのトマトが一番!』と家でも外でも毎日トマトソースを食べるのです。最初はそれほどでもと思っていたのですが、一緒に毎日食べるうちにおいしさが増していく。自分の土地を愛して、自分たちが作るものに誇りを持っているからこそのおいしさではないかと思いました」。

その土地で暮らす人の気持ちひとつで、いつものトマトがぐんと魅力的になる。そのできごとは中安氏の心を動かし、東京が一番だと思っていた思いはどこかへ。地方での暮らしに自然と目が向いていったのです。

「東京にずっといたら価値観は変わっていなかったと思う。価値観の多様性を理解できない東京は文化的に遅れている。高山は自然と共存し、自分たちらしい働き方や暮らし方を選択できる。それはみんなが幸せになれることだと思う」。

イタリアやオーストラリアのオーガニックワインを取り揃える。オーストラリアでは近年、オーガニックやエアルーム野菜の価値が高まっている。「日本もそうなれるよう、次の世代につなぐことが僕の役目」と中安氏。

ゲストルームは全7室。リニューアルの際、客室も改装。華美過ぎないシンプルでモダンなインテリアは、海外仕込みのオーナー夫妻のセンスが伺える。海外からのゲストが全体の9割を占めるのだとか。

岐阜県地元の良さを再確認してもらうことは、外から来たものの宿命なのか。

自分の土地に誇りを持ち、地元だからこそ忘れがちなその土地の良さに気がついてもらうことは、飛騨高山で中安氏が目指すことのひとつ。エアルーム野菜の栽培は、その活動の一端ともいえます。

エアルーム野菜とは50年継続して種を取り続けた野菜のこと。日本では在来種や伝統品種などと呼ばれることもあります。宿ではエアルーム野菜を使った料理を提供しようと考えましたが、周りは誰も知らず、それどころかネギやカブなど伝統野菜の栽培をする人が減少している現実を知ります。
「トマトやほうれん草の方が売れるから、伝統野菜をつくらなくなる。伝統野菜をつくることはお金だけでなく、文化を形成すること。エアルーム野菜が今はないとしても、これから50年つくり続ければそこに文化が生まれ、次の世代にもつながる。飛騨の若手農家を中心にエアルーム野菜の重要性を訴え、現在は仲間10人と情報を共有しながら飛騨ならではの野菜づくりに励んでいます」と、中安氏は嬉しそうに話してくれます。若い頃、イタリアで衝撃を受けたトマトとの出会いをまるで思い出すかのように……。

夕食時には飛騨の野菜(時期により異なる)を使ったイタリアンのフルコース、朝食では自家製パンや野菜たっぷりのサラダなどが提供される。飛騨トマトが一番おいしい時期は秋ごろ。

冬が長い飛騨では作物の収穫時期が限られ、春先はほとんど収穫をすることができない。今の時期は夏や収穫の全盛期を迎える秋に向けて土づくりに精を出す時だそう。

山があり水が豊かな高山は全国的にみても良い堆肥がつくれる土壌があると言う。エアルーム野菜は、たいていは化学肥料を使わず育てられるため生命力の強いものが多い。化学肥料なし育てられた野菜は根が真っ白!

「宿にとって一番重要なのはホスピタリティ。料理はコンテンツのひとつでしかなく、コミュニティや場をつくることが大切なこと。相手を幸せにすることは、結局自分に返ってくる」と中安氏は話す。

Data
オーベルジュ飛騨の森

住所:〒506-0035 岐阜県高山市新宮町3349-1 MAP
電話:0577-34-6575

蕪水亭

住所:〒509-4241 岐阜県飛騨市古川町向町3丁目8−1 MAP
電話:0577-73-2531

大切な「人」と忘れられない「物語」と共に「宝物」と出合えた僕は、本当に幸運だった。[山葡萄蔓の籠/山形県西村山郡]

「ものとの付き合い方は、出合い方も大切」と松浦氏。だからこそ、自分だけの物語が生まれる。

山形県西村山郡「伊丹十三さんに憧れた」。ものとの付き合い方は、出合い方次第で宝物になる。

「愛用品や身の回りの接し方など、どうしたらうまく自分のライフスタイルへ取り込めるのか。それに触発されたのは、伊丹十三さんでした。伊丹さんは憧れの存在です」。

そう話すのは、エッセイストであり、Webメディア『くらしのきほん』の主宰も務める松浦弥太郎氏です。そんな松浦氏のものの選び方の「きほん」のひとつに、伊丹十三氏のエッセイ処女作、『ヨーロッパ退屈日記』があります。

「伊丹さんは、どんなものを使っていたのだろう。長く愛用していたものとは何だったのだろう」。松浦氏は、そんな思いを巡らせます。
「伊丹さんは、単なるこだわりではなく、対話できるものを選んでいました。その中のひとつが、“山葡萄蔓の籠”。ブランド品ではなく、日本のクラフトを選んでいたのです。しかも民藝を。写真で見たり、映像で観たり、本を読んだり。度々登場するこの“山葡萄蔓の籠”を伊丹さんは日常的に持ち歩いていたそうです」と、松浦氏は話し、「いつかは自分も“山葡萄蔓の籠”を使いたいと思いました」と言葉を続けます。

ここから松浦氏が「山葡萄蔓の籠」を求める出合いの旅が始まります。
旅の途中、一見、それに出合ったかのように思える場面もありますが、そう甘くはありません。「本物」と出合うまでの道のりは、遥か遠く、長い。しかし、一方でその時間の分だけ、心を育んでくれました。

当時の思い出をゆっくりと語り出す松浦氏。この「山葡萄蔓の籠」は、ただ希少なものだけではない特別なもの。

山形県西村山郡どこへ行っても心のどこかで「山葡萄蔓の籠」を探している自分がいた。

その後、松浦氏はあてどのない旅を続けます。
「旅をしながら、どこへ行っても心のどこかで“山葡萄蔓の籠”を探している自分がいました」と、松浦氏は当時の自分を振り返ります。

その旅の中で、大分県は湯布院の小さな民藝店で、ある籠と出合います。
「“山葡萄蔓”ではなかったのですが、そこにあった“アケビ”の籠が素晴らしく、それを手に入れました。そのアケビの籠も長年愛用していたのですが、それでもいつかは、“山葡萄蔓の籠”を使いたいと思う気持ちをずっと持っていました」。松浦氏にとっての籠第一号です。しかし、長年愛用していたはずなのに何かが違う。「山葡萄蔓」ではなく「アケビ」だからなのか? そんな時、岩手で「山葡萄蔓の籠」を受注生産している方と出会います。
「これはチャンスだと思い、すぐにその職人の方に注文しました」。

それから半年以上後、待ちわびていた「山葡萄蔓の籠」は、松浦氏の手元に届きます。ようやく手に入れた待望の「山葡萄蔓の籠」です。それは今(2018年)から遡ること、約14年前(2004年)のことでした。
「やっと手に入れた!そう思いました」と松浦氏は話します。

とはいえ、「山葡萄蔓の籠」を持っている男性は珍しく、「色々な人にからかわれました」と松浦氏は言います。しかし、やっとの思いで手に入れた「山葡萄蔓の籠」との生活は、身も心も満たされ、周囲の目は全く気にはなりません。
「『暮しの手帖』の編集長時代もずっと使っていました。何を着る時も、どこへ行く時も、誰と会う時も」。それはまるで、松浦氏のトレードマークのように。

ものには命が宿っている。この「山葡萄蔓の籠」のどこに職人の魂が込められているのか。それを見極めることが大切。

山形県西村山郡本物とは何か。民藝とは何か。「久野恵一さんという人物が僕を変えた」。

当時、今ほど民藝はまだ注目されていませんでした。
いや、厳密にいえば「本当の民藝」という意味では、今尚、知られてはいないのかもしれません。語弊を恐れずに言えば、民藝「風」の商品は、世の中には広まっていますが、本物、本質、文化までを継承する民藝は、まだ認知度が低いのかもしれません。
そこに松浦氏は、「疑問を抱いていた」と話します。
「僕は、民俗学者の宮本常一さんや思想家の柳 宗悦さんの本を愛読していたので、民藝に対するそんな風潮に違和感を感じていました。この違和感を僕自身が感じているのならば、“本当の民藝”とは何かを伝えたいと思い、『暮しの手帖』で民藝を紐解くための連載を始めることにしたのです」。
「民藝のルーツを知らない人へ、“本当の民藝”を伝えたい」という思いはあるが、では誰にその連載を託せばよいか。「日本で一番民藝に詳しい人は誰か」松浦氏は悩みます。
「民藝が一番リアルな時代に生きた人にお願いしたいと思いました。そんな時に出会った人が、鎌倉の『もやい工藝』の店主、久野恵一さんでした」。

久野恵一氏とは、武蔵野美術大学在学中に、宮本常一氏と出会い、宮本氏が日本全国の道具をリサーチする旅に同行した経験を持つ人物です。更に、柳 宗悦氏の民藝運動にも感銘を受け、その後、「日本民藝協会」の理事(1987年)も務めます。鎌倉の『もやい工藝』の店主になったのは、その後のことです。

そんな久野氏との出会いをきっかけに「本当の民藝」を知らない人にも分かる言葉で綴る久野氏の連載がスタートしたのです。
もちろん、この連載を久野氏へ依頼する時にも「山葡萄蔓の籠」を持って。

ある時、久野氏は松浦氏の「山葡萄蔓の籠」を見てこう言うのです。
「今すぐ捨てるか、作った人へ送り返しなさい」と。
それを聞いた松浦氏は、言葉を疑いました。
久野氏は続けてこうも言います。
「籠の命とは、何かわかりますか?」。
松浦氏は答えられませんでした。
「籠の命も分からないのであれば、籠を使ってはいけません。どんなものにも命はあります。職人がどこに命を注いで、どこに愛情を込めているのかを見極めなければいけません」と久野氏。
その時、松浦氏は「イチから勉強しなければならない」と思ったそうです。
「憧れや願望で曇ってしまった自分の目が、私欲に負けてしまったのです」と、松浦氏はその時の自分のことを話します。

では、なぜ松浦氏の持っている「山葡萄蔓の籠」には命が宿っていなかったのか。
「編み方が甘い、形が良くない、縁や持ち手が緩い。これのどこに命が宿っているのでしょうか? これは商売として作っているもので、民藝ではありません」と久野氏は、松浦氏に言います。
「こんな風に自分を正してくれる人は大切だと思いました。ここから僕は、久野さんに民藝のことを徹底的に教わりました。器のこと、家具のこと、染めのこと、織りのこと……。ものの何を見れば良いのか。どこに着目すれば良いのか。ものを見る目は、久野さんとのお付き合いの中で訓練されました」。

当時、松浦氏は40歳。ある時、そんな松浦氏に久野氏は、「これが本物だ」と、自身が持つ「山葡萄蔓の籠」を見せてくれたそうです。
「その籠は、僕が今まで物色してきた籠でもなければ、使ってきた籠とも全く違いました」と、松浦氏は話します。

「きほん」を大切に生きる松浦氏の「きほん」は、いつの時代にも「学び」があったのです。

「フォルムが人間味を醸し出す。今の時代に“本当の民藝”とは何かを伝えたかった」と松浦氏。

山形県西村山郡その出合いは突然やってきた。僕は本物の「山葡萄蔓の籠」を手に入れた。

この「山葡萄蔓の籠」を語る上で、もうひとり欠かせない人物がいます。
それは、佐藤栄吉氏です。佐藤氏こそ、「本当の民藝」と呼べる「山葡萄蔓の籠」を作った人です。
「久野さんが日本全国の民藝品をリサーチしている時に出会った方が佐藤栄吉さんです。山形県西村山郡西川町大井沢の更に奥、見附という集落が佐藤さんの拠点なのですが、“こんなところに人が住んでいるのか!?”というくらい、僻地。そこで農業をやっている人たちに籠を作っている知る人ぞ知る名工が佐藤さんなのです」と、松浦氏は話します。

この地方では、籠のことを「はけご」と総称し、肩に背負う籠を「しょいはけご」、腰に下げる籠を「腰はけご」、そして山葡萄の皮のことを「ブドッカワ」と呼ぶそうです。
「久野さんは、“佐藤さんの仕事は丁寧で上手だということは眺めていて分かった”とおっしゃっていました。“他の人が作る籠は、網目もスカスカで縁作りも締めが弱いように見えた”とも。ですが、そんな佐藤さんが作った籠も“もっとこうすれば良くなる”と思い、それを遠慮なくどんどん言ったそうです。
ゆえに、ふたりは喧嘩状態に。しかも、人里離れた山の中で。ですが、不思議と佐藤さんは久野さんの言うことが信じられたのです。そして、久野さんの意見を取り入れ、“山葡萄蔓の籠”を作ってみたのです」。

その時に作った試作品がいくつかある。前出の「これが本物だ」と、久野氏が松浦氏に見せてくれたのが、そのうちのひとつです。
ここで改めてお伝えしたいのが、今回、あえて「山葡萄蔓の籠」と表現していますが、「山葡萄蔓の籠“バッグ”」では? と思う人も少なくないでしょう。しかし、実際には、「籠バッグ」というものは世の中には存在しないのです。
「そもそも民藝品とは道具です。現地では、山葡萄蔓の皮で編んだ大きな背負い籠にキノコを入れて歩いたりしています。ですから、本来は持ち手もありません」。ではなぜ?
「この持ち手も“もっとこうすれば良くなる”と久野さんが言ったアイデアのひとつだったのです」と松浦氏は話します。つまり、現在、普通に呼ばれている「籠バッグ」の原型はここから始まったと言っても過言ではないでしょう。そして、そのアイデアの中でもうひとつ特筆したいことが「フォルム」です。
「籠を編むには木型が必要で、当初、佐藤さんの籠は寸胴に近い形でした。ですが久野さんは、籠の中心部が少し太った曲線を描く形を提案したのです。佐藤さんは、“中心部が太っていたら完成した時に木型が抜けないから無理だ”と言ったのですが、久野さんは木型を縦に三分割すれば実現できることを再度提案し、この“山葡萄蔓の籠”が完成していくのです」と松浦氏。

奇跡的だったことは、佐藤さんの息子さんが大工だったこと。この木型を誰が作ったかとことは言うまでもありません。

曲線とは、機械では出せないフォルム。ゆえに民藝には曲線が必要であり、そのフォルムが人間味を醸し出すのです。この「山葡萄蔓の籠」は、久野氏のアイデアとある種のデザイン、そして佐藤氏の技術が結実した民藝美なのです。

そんな本物を習う学校もとい、連載が続く中、久野氏が「倉庫を整理していたらこんなものが出てきました。よかったら使ってみませんか」と松浦氏に差し出したものが、試作品で作ったうちのひとつの「山葡萄蔓の籠」だったのです。

同じ太さの山葡萄蔓、均一かつ目の詰まった網目。これこそ一流の職人がなせる技。

縁と持ち手の丈夫さこそ、籠の命。ここが弱かったら籠として成立しないそれは、まるで建築のよう。

所々、美しく黒光りする「山葡萄蔓の籠」。それは、よく触れる部分だからこその経年変化。

山形県西村山郡「僕からもらったと言わないように」。それが「山葡萄蔓の籠」を受け継ぐ条件。

この言葉と一緒に、松浦氏は久野氏から「山葡萄蔓の籠」を譲り受けたと言います。
「ずっと言わないでいましたが、もう時効かなと思って」。そう、松浦氏は話します。

なぜ久野氏は「僕からもらったと言わないように」と言ったのか。それは、この「山葡萄蔓の籠」が技術的にも歴史的にも価値あるものであり、貴重な文化遺産だからです。
「山葡萄蔓は、一年のうちでもほんのわずかしか取れない希少な素材です。年々材料も減り、職人もいなくなってきています。それに、そもそも本業は農家。ごく短い時期のみ籠を作っているため、量産もできません。“山葡萄蔓の籠”は、ある特殊な人たちから見たら憧れの逸品。買いたくても買えない長い順番待ちのものなのです。それを僕が横入りして譲ってもらったなんて、やっぱり言えないですよね。しかもその譲ってもらったものが、現役だった佐藤さんが一番良い時代に作った一級品だなんて」。

この「山葡萄蔓の籠」の素材は、約30年かけて育った太く幹のように直線立ちした山葡萄蔓を用いているそうです。直線立ちした蔓が育つ環境は、沢沿いのブナの原生林で陽の当たらない場所。そこのなるべく上の方から鎌を引っ掛け採取し、蔓はその場ですぐに剥ぐ。剥ぐのに適した時期は、6月半ばから7月半ばの一ヶ月のみ。梅雨時には蔓の中の水気が上がり、皮を増やすため、皮が剥ぎやすくなるのです。その一番内側の幹の芯にくっ付いた皮が、この籠の素材となるのです。

そうやって取った皮を集めて自宅に持って帰って干す。そして、編む時に編む分だけの量を沢の冷たい水に漬け込み柔らかくして戻し、更にそれを乾かしてから型にはめ込んで編んでいく……。壮絶な手仕事です。

そんな「山葡萄蔓の籠」が松浦氏の手元にやってきてから約10年。経年変化を帯びた黒光りもまた、色気を感じます。
「みんなこの黒光りをさせたいんです。僕が以前使っていた籠は、新品が恥ずかしいのでくるみの実を砕いてその油で磨いて黒光りさせていました。ですが、その行為も久野さんに怒られました。“そんな恥ずかしいことをやってはいけません”と」。

10年経ったその黒光りは、本物の黒光り。持ち手や縁、体に触れる部分などが特に年季を感じ、圧倒的な存在感を放ちます。松浦氏は、そんな「山葡萄蔓の籠」と自分の関係を「人間関係に似ている」と話します。
「僕は、この“山葡萄蔓の籠”を10年前からずっと見続けているのですが、今改めて見ても本当に綺麗だと思います。むしろ10年前よりも今の方が美しい。僕はものを選ぶ基準のひとつに手で作られたものかどうかを大切にします。手で作ったものは手で直すことができます。壊れてもまた修復して使うことができれば、ものとの絆はより深くなるでしょう。これは人間関係にも似ていると思います」と松浦氏は話します。

壊れても修復できる。修復することによって更にその関係は強くなる。10年前に知り合った友人はいつしかかけがいのない存在になっていきます。そう考えれば納得です。

「山葡萄蔓の籠」と松浦氏の関係は、10年経った今、ようやく友人から親友になれたのかもしれません。だからからでしょうか。「この“山葡萄蔓の籠”を見ていると、僕に語りかけてくる気がするのです。“豊かさって何だ”って聞いてくるような……」。そんなものとの対話を楽しみながら思い出すのは、やはり「久野さんのこと」だと松浦氏は言います。「出会った時のことや一緒に旅したこと、怒られたこと、連載以外でも色々な活動を共にしました。その全てがフラッシュバックします。だから僕は、この“山葡萄蔓の籠”と何時間だって対話できるんです」。松浦氏が、憧れの伊丹十三氏に一歩近づいた瞬間かもしれません。

「山葡萄蔓の籠」を通して松浦氏が出会った久野恵一氏と佐藤栄吉氏。この両人は、今は亡き人です。
本物を手に入れることは、ある意味伝える役目も担っているのかもしれません。それはまるで久野氏が松浦氏に「本当の民藝」とは何かを伝え、「山葡萄蔓の籠」を託したように。
「ものの寿命は長く、僕が死んでもそのものは残ります。ですが、ものの価値がわからない人の手に渡ってしまったら、捨てられてしまうかもしれません。そうやって世の中からなくなっている貴重なものもたくさんあります」と松浦氏は話します。
「大切な“人”と何度でも思い返したい“物語”と共に、この“山葡萄蔓の籠”と出合えた僕は、本当に幸運でした」。

「僕が持っている日本の手仕事が成されたものの中で、圧倒的に美しいのがこの“山葡萄蔓の籠”です」と、松浦氏。

山形県西村山郡松浦弥太郎氏が考える、「ジャパンクリエイティヴ」とは。

「日本のクリエイティヴの根源は、その精神性にあると思います」と松浦氏。

それを、今回の「山葡萄蔓の籠」を例に、こう話します。
「この“山葡萄蔓の籠”も、“もっとこうすれば良くなる”、“もっとこうすれば使いやすくなる”、“もっとこうすれば便利になる”という、使い手のことを思うホスピタリティから成り立っています」と松浦氏。では、その成り立っているものとは何か。それは「工夫」だと松浦氏は言います。

だからこそ、その「工夫」を経て形成されたものには「命」が宿り、作り手の「生き様」も込められているのかもしれません。更には、「ただ“使いやすくする”という機能だけに止まらないところも日本のクリエイティヴだと思います。その先には、“美”の追求もしています」と松浦氏は言葉を続けます。
「全ての日本のクリエイティヴは、“工夫”だと思います。相手を思う気持ちが技術も向上させるのではないでしょうか。そして、その“工夫”は、“親切”と“真心”で成り立っているのです」。

松浦氏が考えるジャパン クリエイティヴとは、日本が世界に誇る日本人の精神性から創造される「工夫」なのです。

「相手を思う気持ちがあるからこそ、良いもの作りができる。“親切”、“真心”、“工夫”。この3つが大切だと思います」と松浦氏。

2005年から「暮しの手帖」編集長を9年間務め、2015年7月にウェブメディア「くらしのきほん」を立ち上げる。2017年、(株)おいしい健康・共同CEOに就任。「正直、親切、笑顔、今日もていねいに」を信条とし、暮らしや仕事における、楽しさや豊かさ、学びについての執筆や活動を続ける。著書多数。雑誌連載、ラジオ出演、講演会を行う。中目黒のセレクトブックストア「COW BOOKS」代表でもある。

週末の朝ご飯を、森の中で。[HÜTTE muumuu/長野県大町市]

自家製酵母のパン、平飼いの卵、自家製スモークのベーコン。完璧な朝食。

長野県大町市北アルプス山麓にある、休日だけのカフェ。

「朝ご飯」って大事だと思いませんか? 特に休日。美味しいコーヒーとパン、いい感じに焼けた目玉焼き。それが、木に囲まれた自然の中で楽しめるなんてこれ以上ない幸せかもしれません。長野県大町市の森の中に、そんなハッピーな時間を過ごせる「朝ご飯だけのカフェ」があります。

リスやキツネ、たまにカモシカも遊びに来る静かな森の中にある。

長野県大町市メニューはひとつだけ。でも全てが手作り。

紅葉で有名な高瀬渓谷の入り口。別荘地・高瀬ハイランド内の小道を上っていくと、茶色の平屋が現れます。看板には、赤い旗のマークに黄色い「muumuu」の文字。ここ『ヒュッテムームー』は、春から秋の週末の朝だけオープンするカフェです。メニューは朝ご飯のみ。天然酵母も自分で起こし、もっちりと焼き上げた丸いパン、平飼いの卵を使った完璧なフォルムの目玉焼き、モカ・イルガチェフの豆をハンドロースターで焙煎したコーヒー。ベーコンもここで燻製しています。「自分が食べたい朝ご飯を出したい」とカフェを始めたのは、オーナーの村岡利恵氏です。

築45年の別荘のインテリアを、半年かけてDIYした。

長野県大町市スキーがしたくて移住し、山小屋を住まい&カフェに。

『ヒュッテムームー』にはこんな肩書きがついています。「編集デザイン室&朝食カフェ」。村岡氏はもともとは神奈川・湘南に暮らしながら、東京で雑誌などの編集に携わっており、2016年、ここに移住してきました。週末のカフェだけでなく企業PRのサポートやメディアへの取材執筆なども手がけています。縁もゆかりもないこの地に来た理由は「スキーがしたかったから」だそうです。自分がスキーにはまったきっかけを作ってくれた知人がいたこともあり、1年間の小谷村での地域おこし協力隊への参加を経て今の場所に居住しました。以前は金曜日にスキー用具を担いで都内の編集部に向かい、そのまま長野県に滑りに出かけたというほどのスキー好き。「スキー三昧の生活やカフェができそうなチャーミングな山小屋」に出会って購入し、2017年にカフェをオープンしました。

店名の「ムームー」の由来は会社員時代の上司からの呼び名。

長野県大町市「移住は人生の岐路」ではないと思う。

関東では『フィガロヴォヤージュ』などライフスタイル誌の編集も手がけていた村岡氏。「華やかな生活から離れて森の中に移住なんて、随分思い切ったことをしましたね」と驚かれることも多いといいます。ですが、村岡氏は「どうしてそんなに覚悟がいると思われるんでしょう」と逆に問いかけます。スキー三昧の生活も、森の中の山小屋で素敵なインテリアに囲まれて暮らすのも、全部自分の好きなライフスタイルを実現させたかったから選んだこと。積み重ねてきたキャリアはなくなるわけではないし、友人も訪ねて来られる距離です。もしもまた引っ越したくなったら移ればいい。また、今の暮らしにも次の暮らしにも、良いことと悪いことは必ずあります。「私の場合は仕事の時間が減った分、やりたいことができる時間が増えた。そこに価値を置くかどうかです」と村岡氏。とにかく深刻に考えないこと。「どこかに定住する必要ってないと思うんです。いろんな場所に住んで、興味があることをやってみて、それが経験値になる。そうして自分の理想のライフスタイルを見つけていきたいと思っています」と村岡氏は話します。

カフェで使用するのは、イタリアのカステルメルリーノ社のアウトドア用家具だ。

長野県大町市まず自分がハッピーになることをやれば、周りも良くなる。

「この地域を盛り上げようとか活性化しようとか、そういう大きなことを自分ができるとは思っていません」と村岡氏。ただ、これまで編集者として物事をシンプルに伝えたり、デザインで魅力を引き出す表現を形にしてきたりした経験を生かして、「知られていないものの魅力をうまく発信していくことはできるかも」と話します。「商品のパッケージでも、パンフレットでも、もう少しこうすれば良くなるかもと思うスタイルを提案して、クリエイティヴに関することで役に立てることはある。まずは自分の身の回りのことを『もっと楽しく、ハッピーにしたい』と思ってやっていくと、自然と地域が良くなるのかもしれません」と村岡氏は言います。

ケータリングも行う。「外国人観光客向けのベジタリアン料理なども提供したい」と村岡氏。

長野県大町市いつでも帰れる場所は、離れることもできる場所。

カフェには移住相談に来る人もいるといいます。あくまで村岡氏が自分自身に即してアドバイスをするのは、「今いる場所が好きで戻りたいと思えるかどうか、一度考えてみることが大事」ということ。移住先のコミュニティにどうしてもなじまなくてはいけない、という気負いもあまり持たない方が良いといいます。合う人は合うし、無理に合わせる必要もない。それは都会でも地方でも、どこにいても同じ。村岡氏は湘南を離れる時に大好きな人たちに見送られ、「ここはいつでも帰れる場所だ」と安心できたのが、長野移住の決め手にもなったのだそうです。最初から「長野に定住しよう!」と決めていたわけではなく、「ちょっと来てみたけど、気持ちいい町だから少し滞在しようかな」という、長い旅の延長のようなスタンスでした。ですがいつの間にか、もう春は3度目。最近では連休に白馬にいる友達と会ったり、湘南に遊びに行ったり、別の地方の友達が遊びに来てくれたり……と住む場所に関係なく人とのつながりは続いています。「場所にとらわれないコミュニティ」を持っていれば、いつでもそこに帰れるし、そこから会いに来てくれる人もいる。また、移住先で良いコミュニティに出会えることだってある。旅した先々で友達が増えるように、「どこかに住むこと」は人生の中でコミュニティをひとつずつ増やすことといえるのではないでしょうか。

休日の朝ご飯、ちょっと遠出して森の中に味わいに行ってみてください。もしあなたが「違う場所に住みたい」「生活を変えたい」と考えているとしたら、今の暮らしにあるものとないものが少しはっきり見えてくるかもしれません。

コーヒーのテイクアウトも始める予定。モカ・イルガチェフを自分で手焙煎。

丸パンの予約販売も行う。写真はイベントに出店した時の夏野菜のフォカッチャ。

柿の白和えや舞茸の菊花和えなど、季節感たっぷりのお弁当も相談可(写真は秋)。

Data
HÜTTE muumuu

住所:長野県大町市平高瀬入2112-370(高瀬ハイランド内) MAP
電話:050-5215-1116
営業時間:春〜秋の土日祝8:00〜12:00 売り切れ次第閉店
※できれば予約の上来店を。臨時休業の場合はInstagramとFacebookでお知らせ
料金:森の朝ごはん1,000円 手焙煎コーヒー(テイクアウト)400円 森の丸パン 100円
写真提供:HÜTTE muumuu

地域の生産者と密接な関係性を築くフードキュレーター。メイドイン国東の究極のおつまみのカタチが見えてきた。[LOCAL MEISTER PROJECT/大分県国東市]

『上野水産』の代表・上野幸一氏と。加工場のすぐ裏が漁港になっており、水揚げされた魚介がそのまま工場内へと運び込まれる。

大分県国東市鹿肉のジャーキー、ブランド豚の生ハムに続き、注目したのは海の幸と大古酒。

『DINING OUT』と『YEBISU MEISTER』が一緒に立ち上げた、ビールに合う究極のおつまみを創り出す『LOCAL MEISTER PROJECT』。

『ONESTORY』と『YesMAGAZINE』でそのプロセスを発信していく事で、人知れず埋もれた食材の魅力を伝え、さらに完成したおつまみを販売する事で、その地域を多くの人に知ってもらう為のプロジェクトです。

前回の生産者を巡る旅では、鹿肉と、国東半島で育てられた豚肉を使った生ハムに強く興味を惹かれた、『DINING OUT』食材調達チームリーダー兼フードキュレーターの宮内隼人。

今回は国東半島の付け根にある宇佐市豊洲漁港から、生産者の想い、地域の食文化まで汲み取る食材探しの旅を始めます。

最初に訪れたのは、宇佐市長洲漁港に加工場、直営店を構える『(有)上野水産』。

宇佐地区では昔から保存食として干しエビや貝の干物をつくり、地元でそのほとんどを消費してきた。

大分県国東市宇佐地方の暮らしに昔から根付く保存食。それは豊かな海の象徴であり、海とともに生きてきたこの土地ならではの食文化。

国東半島中央部にそびえる山を一つ、二つと越えて足を伸ばしたのは、宇佐市長洲漁港に加工場、直営店を構える『(有)上野水産』。
DINING OUT KUNISAKIを担当する川田氏が中華の料理人ということもあり、食材探しをしている段階で、干物類は絶対に必要になるなと思い探しておりました。これから考えるビールに合う究極のおつまみにも、上野水産さんで作られている、干しむきエビ、バカガイ(アオヤギ)の干物は欠かせません」と宮内。

宮内が興味を持っている干しむきエビは、地元では『カチ海老』の名で親しまれる乾物で、さらにバカガイの干物は、原料の貝の名称とは裏腹に可憐に『姫貝』と名付けられています。

ともに、宇佐地区では昔から食べられている海鮮×保存食のソウルフードで、ほとんどが地元で消費されています。代表の上野幸一氏は「遠浅の海岸線が続く豊洲は、昔から多種多様な魚介類が穫れる良港です。とくにエビや貝類の水揚げ量が多い。先人たちは純粋に保存のために干しエビや貝の干物を作ったんでしょう」と話します。

「ただ」と一言付け加えた上で、「カチ海老の原料となる赤エビは、まだまだ豊洲の海で豊富に獲れますが、バカガイはほとんど獲れなくなってね。現在は全国から原料を仕入れなくてはいけない状態。それでも、この土地の人々にとって、姫貝は暮らしに馴染んだ食べ物なんです。だから、私達もバカガイの干物を作り続けます」と教えてくれました。

それだけ、この土地に根付いた『カチ海老』と『姫貝』。宮内は食材の歴史や土地との繋がりを知り、よりこの2つの食材を『LOCAL MEISTER PROJECT』に使用する意義を見出したようです。

カチ海老。そのままおつまみとして食べてもいいし、炊き込みご飯などに入れてもおいしい。水揚げされた赤エビを塩水でボイルし、熱風を当てながら乾かすだけ。味付けしないのはもちろん、保存料や着色料などは一切使わない。

加工場のすぐ裏にある豊洲漁港。「干物にするといっても鮮度が一番大切。その点、ここは漁師が獲ってきた魚介を直で買い付けできる。文字通り、海直送だよ」と笑う上野氏。

生きたまま仕入れた魚介類は加工場内にある巨大な生け簀へ。

バカガイを干した『姫貝』の形状は細長い。貝殻から出した貝をそのまま干すのだが、その時点で貝が生きていないと、細長く伸びることはないそうだ。

大分県国東市国東で30年にわたり眠り続けてきた大古酒を、『LOCAL MEISTER PROJECT』の最後の食材に。

食材探しの旅で、最後に訪れたのは国東市が誇る地酒『西の関』を手がける『萱島酒造(有)』。『DINING OUT KUNISAKI』の開催が決まり、現地のさまざまな生産者、食材に直接会ってきた宮内が、ディナーでも川田シェフの料理のペアリングに欠かせないと感じた日本酒を醸す老舗の酒蔵です。

なかでも今回のプロジェクトで宮内が注目したのが、1988年に醸造し、30年もの間、寝かされてきた大古酒『西の関 30年貯蔵超辛口酒』。「辛口がトレンドだった昭和60年代に、旨口が得意分野の当社も辛口酒に挑戦したんです。キレイで線の細いスッキリとしたお酒ができあがったんですが、当時は味わいに奥行きがないという理由で販売を見送ったんです。それから20数年、毎年、貯蔵酒のきき酒チェックを行っているのですが、7年前に飲んだ印象が新酒の時とはまったく違った。23年という月日を経て、甘い香り、ソフトで円熟した味わいに変化していて。これは面白いということで大古酒として販売に至りました」と大古酒誕生の経緯を説明してくれた『萱島酒造(有)』の常務取締役・萱島徳氏。

その大古酒は長年の熟成により、水色は琥珀色に変化し、一見すると紹興酒を思わせるよう。宮内も「最初に飲ませていただいたときは、かなり驚きました。ずっしりとした腰の強さを感じつつも、超辛口と謳うだけに、飲み口はすっきり」と話します。

味わいに独特な面白さもある『西の関 30年貯蔵超辛口酒』。

『萱島酒造(有)』に併設する酒ギャラリー『東西』にて、大古酒『西の関 30年貯蔵超辛口酒』の説明をする常務取締役・萱島徳氏。大古酒は同ギャラリーで購入可。

大古酒のボトルデザインにも使われた酒蔵のシンボルでもあるレンガ造りの煙突。1914年に建てられたもので、高さは約18mあるそうだ。

萱島酒造(有)の代表銘柄『西の関』は大分県民にとっては馴染みのある日本酒の一つ。

大分県国東市『DINING OUT KUNISAKI』で腕を振るう川田シェフが『LOCAL MEISTER PROJECT』までサポート。

『LOCAL MEISTER PROJECT』は『DINING OUT』と連動したプロジェクトだけに、5月に行われる『DINING OUT KUNISAKI』とのリンクも必須です。そこで宮内は『DINING OUT KUNISAKI』で腕を振るう『茶禅華』の川田智也シェフに同プロジェクトへの協力を依頼。
宮内が考えるビールに合う究極のおつまみのイメージ、今回の旅で出会った国東半島の素晴らしい食材、そして生産者の想いまで川田シェフにしっかり伝えました。

話しを聞いた川田シェフは、『LOCAL MEISTER PROJECT』でも商品開発に協力してくれることを快諾。これは究極のおつまみ完成に向けて、大きな前進です。
自身も国東半島でさまざまな生産者に直接会い、国東という歴史ある土地や文化に、たくさんの感銘を受けたことが一番の理由かもしれません。

国東半島の野生の鹿肉、ブランド豚『桜王』の生ハム、宇佐市の郷土食『カチ海老』『姫貝』、そして老舗酒蔵で30年にわたり寝かされた大古酒。これらの食材を使い、どんなおつまみができるのか。お披露目まで、もう少し。ご期待ください。

(supported by YEBISU MEISTER

「DINING OUT KUNISAKI」で料理を担当する川田智也氏がプロジェクトに参加する事で、究極のおつまみづくりは躍進した。

1977年東京都生まれ。18歳の時、海外経験のために訪れたカナダの日本料理店でのアルバイトで料理に目覚める。半年後帰国し、居酒屋で働きながら調理師免許を取得。系列のフランス料理店に異動。その後都内のカフェで働いた後、2001年から3年間「ラ・ビュット・ボワゼ」で本格的なフランス料理に触れる。株式会社HUGEの「ダズル」の立ち上げを手伝うなどした後に、2010年「HAJIME」に入り、5年半の経験を積む。生鮮食材の物流に関する知識習得のため大阪の特殊青果卸「野木屋」を経て、2015年より現職。 

祖母の死、3.11、将来の在り方……。複雑な思いが絡み合い、徳島で一からのスタートを決意。[nagaya./徳島県徳島市]

祖父母が残してくれた長屋。右手が『nagaya.』。左手の長屋では様々なショップが営業している。

徳島県徳島市面白さを見出すとともに葛藤もあった東京での社会人生活。

『nagaya.』のオーナー・吉田絵美氏は徳島県徳島市の出身。18歳の時に大学へ通うために上京し、卒業後の社会人生活も含め東京と神奈川では13年を過ごしました。大学卒業後は夜間学校へ通ってデザインを学び、有名スニーカーメーカーに就職して、デザイナーとして社会人のキャリアをスタートさせた吉田氏。しかしその1年後、マーチャンダイザーとなり、2年半で転職することになりました。
「デザインはずっとやりたかったのですが、商品開発も楽しかったんです。ただ、色変えとかコラボレーション商品とか、『パッと出してすぐに終了』という企画ばかりで。もっと、ものに深く関わって普遍的なことがしたいという思いが強くなって」と吉田氏は話します。

転職先に選んだのは、人々の生活により密接に関わるインテリア商品を販売する会社でした。そこでバイヤーとして全国を飛び回ったという吉田氏は、インハウスな仕事からより外の世界と多く関わるようになりました。
「結局、そこには4年半いたんです。激務でしたが、面白さも感じていましたし、直営店舗にも時々立たせてもらいました。この『nagaya.』をオープンするにあたっても、すごく勉強になりました」と吉田氏。

ただ、そんな中でもやはり求めていた「普遍的な仕事」への葛藤がありました。人々の生活により密接に関わるインテリアであれば、自分の求めるものが見つかると思っていたものの、どこかに違和感を覚えていました。
「東京の仕事はやはり新しいものをずっと追い続けているんです。それがインテリアでもやっぱりトレンドがあって、自分の中にある『普遍』との違いを少なからず感じ始めていたんです」と吉田氏は言います。
吉田氏にある知らせが届いたのはそんなタイミングでした。

『nagaya.』の店内。器をはじめとした生活雑貨を販売する一方、カフェスペースも備える。

外壁のトタンも、借家として使われていた当時のまま。入口に生けた花が素朴な雰囲気を醸し出す。

吉田氏がお気に入りだという、勝手口はガラス張りに。ドライフラワーが飾られている。

徳島県徳島市祖母の死と3.11。仕事の在り方や将来と向き合い、帰郷を決意。

それは祖母の訃報でした。そして、帰郷するために徳島へと向かう羽田空港で、あの3.11の東日本大震災が起こりました。
「15時の飛行機でしたから、その時はちょうど羽田空港にいました。その便は2時間遅れぐらいで運良く飛びましたが、翌日は全て欠航でしたね」と吉田氏は振り返ります。

3.11が決定的な出来事ではないにしろ、祖母の死と震災、そして仕事への思いが重なったことは、吉田氏が自分の将来と改めて向き合うには十分なきっかけとなったのです。

吉田氏はバイヤーの仕事で全国各地を飛び回り、生産者や職人の話を聞くうちに、「東京でなくても意外と面白いことってできるのかな!?」と思うようになっていました。そう、吉田氏に帰郷を決意させるには十分すぎるほどの条件が揃っていたのです。
そして、「地域おこし協力隊」への応募が通ったことも、帰郷を決意させる条件のひとつでした。
「今では全国各地で公募していますけど、当時はまだ少なくて。徳島県では3ヵ所くらいで募集があって、応募したら運良く受かったんです」と吉田氏。

吉田氏は、仕事もなしに徳島へ帰るのでは大学まで通わせてもらった両親に顔向けできないと考え、「地域おこし協力隊」という仕事だけはなんとか見つけて、帰郷をするにいたったのだといいます。場所も、すぐに実家のある徳島市に戻るのではなく、車で1時間ほどの所にある三好市という点も吉田氏には都合が良かったそうです。
「東京で10年以上を過ごし、『いきなり実家』というのには抵抗がありまして(笑)。ちょうど良い距離感だったんです」と吉田氏は話します。

店内を案内しながら建物や作家の作品である焼き物について説明してくれる吉田氏。ゆったりとした時間が流れる。

店内に飾られているドライフラワー。これは裏手の長屋で営業する専門店の商品だとか。

徳島県徳島市地域おこし協力隊として、三好市の一大人気イベントを企画・発案。

そうして三好市で「地域おこし協力隊」として活動を開始した吉田氏。そこで始めた大きなプロジェクトのひとつが、吉田氏が立ち上げた「うだつマルシェ」だったのです。
「きっかけは三好市で住み始めた家の近所のおばあちゃんが、『地場産品や手作り品を売る場を設けるためにイベントをやりたい』とおっしゃったこと。けれど、おじいちゃん、おばあちゃんだけでなく、『若い人にも来てもらいたい』というので始めたのがこのマルシェでした」と吉田氏は言います。

2011年の秋に初めて開催された時は、出店数はわずかに10店ほどでした。そこから徐々に出店数が増えるとともに、そのファンなどを取り込み、イベント参加者の数も増加。今では150店以上の応募が集まるようになり、年に2回開催されるように。地元酒造の酒祭りと同日開催の際には、三好市の人口とほぼ同じ3万人が訪れるビッグイベントとなっています。

そして、「地域おこし協力隊」の任期を終える1年ほど前から、『nagaya.』の構想は膨らんでいきました。そして、ここでも吉田氏を徳島市へと戻ることを決意させるいくつかのきっかけが重なるのでした。
「自分がどうやって食べていくかという切実な問題もありましたし、“うだつマルシェ”で関わった人とのつながりをどうやったら生かせるか。更に、ちょうどこの頃に結婚し、父も定年退職を迎えて歳になってきたこともありました。色々な要素が絡み合って徳島市へ戻ることを決意したんです。もちろん、そこで後押しをしてくれたのが、祖父母の持つ長屋の存在だったんです。『ここをどうにかすればうまく使えるんじゃないか?』って思えたので」と吉田氏。

店内は築50年の長屋とは思えない雰囲気。できるだけ手を加えず、当時の生活感が出るようにリノベーションした。

二児の母でもある吉田氏。その笑顔には人柄がにじみ出ている。

Data
nagaya.

住所:徳島県徳島市沖浜町大木247番地 MAP
電話:088-635-8393
http://nagayaproject.com/

面白いことをしたい。多彩な店と人が集まり、新たなつながりが生まれる「ナガヤプロジェクト」。[nagaya./徳島県徳島市]

錆びたトタンの壁もそのまま。看板がなければショップだとは気付かない店構え。

徳島県徳島市およそ10年間誰も住んでいなかった長屋を改装。自らの個性として打ち出す。

今では東京でもほとんど目にすることがなくなった長屋。住宅が不足していた時代、高度成長期の日本の家屋のひとつの象徴でもあり、かつては隣人同士が助け合うようにひとつの長屋で暮らす生活がそこにはありました。『nagaya.』のある長屋もまさにその古き良き時代を経てきた建物なのです。かつてはオーナー・吉田絵美氏の祖父母が借家として貸し出していましたが、2014年に『nagaya.』がオープンするまでのおよそ10年間は、誰も住んでいない空き家になっていたといいます。

「この店のオープンに踏み切れたのもこの長屋があったからなんです。お店を始める前はこの敷地内に全部で5棟の長屋があったんですが、もちろんここを更地にするにもとてもお金がかかる。かといって、そのままにしていたらもったいない。自分としても“地域おこし協力隊”の任期を終えた後の仕事を見つけなければいけない状況で、“うだつマルシェ”で広がった人脈をなんとか生かしたいと思っていました」と吉田氏は言います。

家賃はかからない、固定資産税だけ払えば済む、かつ自分らしさも出せる。となれば、吉田氏がこの長屋をうまく活用しようと考えるのは自然な流れでした。

昔懐かしい形のブロック塀に看板がかかる。駐車場をはさみ、奥に見えるのが『nagaya.』。

細工の施されたガラス窓も当時から使われていたもの。趣のある空間に素朴な器がよく似合う。

徳島県徳島市住居として使われていた当時の名残をそのままにした店内。

店の目の前にある駐車スペースはもともと2棟の長屋が立っていた所。そこを更地にして駐車場にしています。店として改装する際も建築士と相談し、なるべくこの長屋の雰囲気をそのまま残す方向で話がまとまったのだそうです。

「本当は壁も白く塗り直したり、色々と手を加えたりしたい所もあったんです。けれど、『色々やりすぎると費用もかさむし、それなら新しい建物を建てた方が安く済む。かつての長屋の雰囲気をそのまま残した方がいいと思うけどな』と建築士さんに促されて」と吉田氏は話します。

結局大きく手を加えたのは、コンクリートを流し固めて耐震補強した床と、フル改装したカフェのキッチン部分ぐらいだそうです。壁や柱、使えるガラス戸などは当時のまま。そればかりか、ガス会社のシールが貼られたままの柱など、かつてここに人が住んでいたことを思わせる痕跡が店内のそこかしこに見られます。

「私が小さい頃、実はこの長屋がすごく怖かったんです。当時ですでに古さが際立つ建物でしたし、住んでいた人もちょっとガラが悪くて(笑)。自分の家はすぐそこなんですが、前を通る時は逃げるように走っていたのを覚えています。それがこうやって使ってみると、『味があるな』って思いますね」と吉田氏。

『nagaya.』の裏手にある2棟の長屋に6つのショップや工房、事務所などが入っている。

こちらはフラワーショップ。留守にしていることも多く、『nagaya.』の店内にも商品をディスプレイ。

長屋と長屋の間。タイムスリップしたかのような懐かしさを覚える。

徳島県徳島市ジャンルも様々。個性豊かな6つのショップや工房が入居。

そして『nagaya.』の裏手にはもう2棟の長屋が並んで立っています。こちらは『nagaya.』の建物に比べれば、築年数は2年ほど浅いそうですが、それでも住居としての使い道はもうありません。吉田氏は取り壊すことも考えたそうですが、「めちゃくちゃ古いから住むには難がある。破格の値段で面白いことをしたい人に貸したらどうだろう?」と思い直したそうです。それが「ナガヤプロジェクト」だったのです。

そして、その狙いはズバリと当たります。まず、この長屋を初めて借りた人が、失礼ながら実にぶっ飛んでいる方で面白いのです。『おとなり3』という店名で、1階はご自身が買い集めた本などを並べた図書館、2階は子供を対象にしたプログラミング教室として開放しているのです。

「図書館、プログラミング教室なんていっていますが、なんでもいいから面白いことができればいいんです。例えば、スラックと連携して、ここをオートロックにして、店に来る人が電話をくれたらカギを開ける。そういう形にすれば24時間365日営業の図書館になる。たたけばすぐ壊れるような長屋で、そんなことをやっていたら面白いじゃないですか」と言って、『おとなり3』の店主は笑います。

他にも、古本屋の『you are…』、皮作家が工房として使う『トリトヒツジ』、ネイルサロン『四ツ葉』、フラワーショップ『Bilton Flower Design』、ウエディングプランナーが事務所として使う『Beaucoup de bonheur』などがテナントとして入り、独自に活動を展開しています。

かつての長屋暮らしのように隣人が助け合う間柄とは少し違うかもしれませんが、新たな感性を持った色々なショップが集まり、人と人がつながっていく。大きなプロジェクトを企てているわけはありませんが、ここはそんな古くて新しい人と人との出会いの場となっているのです。

トタンの切れ端を使った道しるべ。砂利の上に無造作に置かれていた。

窓を開けて取材していると『おとなり3』の店主がご挨拶。こうした会話も日常茶飯事。

Data
nagaya.

住所:徳島県徳島市沖浜町大木247番地 MAP
電話:088-635-8393
http://nagayaproject.com/

人とつながり発信していく生活雑貨店。それが求めてきた普遍の形。[nagaya./徳島県徳島市]

商品を手に取り、想いを絞り出すように言葉を紡ぐ吉田氏。取材班全員が器を購入して帰った。

徳島県徳島市ただ並べて売ればいいだけではない。作家と吉田氏の想いを伝える。

吉田絵美氏の『nagaya.』とは、簡単に言うと生活雑貨を扱う店です。その中でも特に扱うものが多いのが、焼き物を中心とした食器類です。吉田氏が「普遍的」な仕事の在り方を求め、東京で転職し、そして帰郷したことを考えれば、暮らしと密接に関係し、人間の営みと切っても切れない関係にある食器にフォーカスしているのは、ある意味では当然のことかもしれません。そして、東京でバイヤーを経験し、地方の作り手と間近に接してきたからこそ、作家との関係性を大切にし、それを販売して、発信し続けることに大きな喜びを感じているようにも思えます。

だから、取材班が「これはどんな作家さんの焼き物ですか?」とたずねれば、吉田氏は「佐々木智也さんといって、実家が妙楽寺というお寺なんですよ。だから名前は妙楽窯。住職として後を継ぐ一方で、作家さんとしても活動しているんです。境内の横にある自宅の庭に窯があって、土も自分で持ってきて作品に使うなど、チャレンジ精神旺盛な方ですね。最近はモダンな形の作品が増えている気がします」と、しっかりと解説をしてくれます。


また、違う作家さんの作品については、「この作品を作ったのは女性の作家さんなんですが、イギリスの美術大学に通っていた方で、もともとはセラミックを使ったアートを創作していました。今では生活用品も作るようになって、細部にこだわりが感じられる作品が多いですね」と解説してくれました。

そうして吉田氏の話を聞いて器を手にすれば、ビジュアルや手触りなどからは伝わってこない情報が、その作品のまた違った魅力を見せてくれるのです。

佐々木氏の作品。伝統的な器の形である輪花や八角が人気。釉薬の種類が豊富で色違いも。

入口を入って正面が焼き物のコーナー。常時20名ほどの作家の作品が並んでいる。

裏手のフラワーショップで取り扱うドライフラワーもディスプレイされる。

徳島県徳島市使って改めて気付く器の魅力を併設のカフェで体感。

そして、『nagaya.』でのもうひとつの楽しみといえば、併設されたカフェ。築50年の長屋空間で寛ぎながらコーヒーを楽しむ時間は、店へ足を運ぶゲストに小さな幸せを与えてくれます。

というのも、ここで出されるメニューには、実際に店内でも販売されている器が使われるからです。
例えば、この日出された季節のパフェには、『おとなり3』の店主の奥様の実家で採れるイチゴを使用し、透明なイッタラのビンテージグラスに、イチゴジャム、ミルクアイス、イチゴが綺麗な層をつくる見た目にも美しいひと品です。もちろん、その味わいも素晴らしいのですが、驚いたのはそのソーサーの淡くも深い紫色の陶器の使い方。棚にディスプレイされていただけでは、その色合いばかりが目立ち、お皿としてどう使えばいいかわからなかったものの、こうして出されるとイチゴの赤に映えてその美しさが際立つのです。

「実際に使うと、やっぱりイメージの膨らみ方も違いますよね。こちらは石川県在住の作家さんの作品。グラデーションのある釉薬が特徴的で、食卓のアクセントになりそうですよね」と吉田氏は言います。
高知県本山町にある『JOKI COFFEE』が焙煎する豆で淹れるコーヒーのカップは、先ほど紹介した佐々木氏の作品です。こうして見ると和にも洋にも寄り添う、懐の深さを秘めていることがわかります。

もちろん、店内に並ぶのは器だけではありません。今治タオルに、コーヒー豆、靴下、焼き菓子など、四国を中心とした作り手の顔が見える商品が並んでいます。
端的に言ってしまえば、生活雑貨店。しかし、そこに感じるのはやはり人の縁。一朝一夕ではできない、人とのつながりから生まれる仕事にこそ、もしかしたら吉田氏が求めていた「普遍」の形があるのかもしれません。

純粋にカフェとして楽しんでも、長屋をリノベーションした空間はやはり絵になる。

「季節のパフェ」500円と「ホットコーヒー」500円。器の魅力を改めて教えてくれる。

作家の話になると思わず笑顔になる吉田氏。自身もやはり焼き物が好きなのだという。

Data
nagaya.

住所:徳島県徳島市沖浜町大木247番地 MAP
電話:088-635-8393
http://nagayaproject.com/

生活雑貨ショップに図書館に皮工房、古本屋…。築50年の長屋に新たな息吹が吹き込まれる。[nagaya./徳島県徳島市]

徳島県徳島市OVERVIEW

徳島県徳島市沖浜町。JR徳島駅から2つ目の二軒屋駅より歩いて10分ほどの何の変哲もない住宅街に、今回『ONESTORY』取材班が向かった『nagaya.』はあります。その舞台となるのが、築50年になるまさに「長屋」です。オーナーの吉田絵美氏の祖父母が借家として長年使っていという長屋は、およそ10年間誰も住んでおらず、まもなくその役目を終えようとしていました。そんな時に、吉田氏がここをショップとして蘇らせようとしたのです。

東京から故郷の徳島へ戻り、三好市では「地域おこし協力隊」として3年の任期を全うしようとしていた吉田氏。三好市で2010年より始まった「うだつマルシェ」の発起人としても知られる彼女が、そのイベントで知り合った人とのつながりを「どうにかして生かせないものか」と考えてオープンしたショップでした。
そして現在、「ここで何か面白いことをしたい!」という人たちのために、裏手に立っているもう2棟の長屋も安価で貸し出し、その長屋を借りたクリエイティヴな人たちがショップなどを展開しています。

図書館に古本屋に皮工房、そしてドライフラワーショップができ、築50年の長屋に新しい息吹を吹き込んでいます。
古くて新しい『nagaya.』の全貌を、オーナーの吉田氏の想いとともに取材してきました。

Data
nagaya.

住所:徳島県徳島市沖浜町大木247番地 MAP
電話:088-635-8393
http://nagayaproject.com/

お経のように刻まれた磨崖仏が佇む、日本の「敦煌」。[大野寺の弥勒磨崖仏/奈良県宇陀市]

切り立った岩壁に彫り窪められた『大野寺の弥勒磨崖仏』。左下の一角には梵字(ぼんじ)で曼荼羅が描かれている。

奈良県宇陀市規模が大きく、佇まいはエレガント。

仏教の歴史の中で、寺が創建されるずっと前。その時代には山肌に仏像を刻む伝統がありました。古い例では、アフガニスタンのバーミヤン渓谷などがあります。こうした山肌や岩壁に刻まれた仏像は「磨崖仏」と呼ばれており、人間の手が加わってはいるけれども、自然の中で雨風にさらされ、信仰も根強く残っています。そして「磨崖仏」は遠くシルクロードを経て、日本にも伝わってきたのです。ほとんどのものは規模としてはさほど大きなものではありませんでしたが、奈良県宇陀市にある『大野寺の弥勒磨崖仏』は別格といえます。以前、この連載で「室生寺」を取り上げた際にも少し触れましたが、宇田川の対岸の高さ約30mの大岸壁に13.8mもの「磨崖仏」が彫り窪められており、規模が大きく、実にエレガントです。道路沿いにあるとはいえ目立つ場所でもなく、山の中なので観光客もわずか。当時はもっと山深く、周囲に何もなかったはずです。何かの霊験によって導かれたのか、当時でもそうした見方がされ、京都からわざわざ天皇がお見えになったほどです。

宇陀川の対岸の自然岩に刻まれている。1207年から制作が開始され、3年ののちに後鳥羽上皇ご臨席の元、開眼供養が行われた。

奈良県宇陀市線のような筋で彫り込まれたお経のよう。

周囲には木々が生い茂り、苔むしています。そうした風景の中に『大野寺の弥勒磨崖仏』は、ふわっと現れるのです。その大きさもさることながら、最大の特徴は立体的ではなく、平面的であること。ある種、日本や中国の書物にある挿絵のようでもあり、版画や印刷物のように線のような筋で仏像が刻まれています。これはあくまで私の推測ですが、紺地の紙に金の文字で記されたお経をイメージして彫ったのではないかと思うのです。仏像がある岸壁左下の一角には梵字(ぼんじ)で曼荼羅も描かれています。他に類を見ない、壮麗なこの『大野寺の弥勒磨崖仏』は、私にとっての日本の「敦煌」です。ぜひ訪れてほしい一景です。

Data
大野寺の弥勒磨崖仏

住所:奈良県宇陀市室生大野1680 MAP
電話:0745-92-2220
拝観時間:8:00〜17:00
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/03east_area/onodera/

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

酒造りの神様に試練。杜氏(とうじ)歴58年目にして、初めての「1年目の重圧」。[農口尚彦研究所/石川県小松市]

大雪に見舞われた2017年の冬。春を迎え、ようやく緑を取り戻しつつある『農口尚彦研究所』の裏手にある田圃で2019年の意気込みを語る農口氏。

石川県小松市およそ半年に及ぶ酒造りをほぼ終え、蔵にリラックスムードが漂う。

初めて訪れた2017年の12月上旬は、しとしとと降る雨の中での取材。年が明けて向かった2月上旬は大雪の後での取材。そして4月上旬、3度目にして最後の取材のために小松を訪れると、雲ひとつない晴天が我々取材班を迎えてくれました。『農口尚彦研究所』のある小松市観音下町(かながそまち)は、東京よりもひと足遅く、桜が満開。半年間続いた酒造りを間もなく終えようとしている『農口尚彦研究所』を祝福するような美しい景色が広がっていました。

4月上旬、蔵はすでに今シーズンの最後の蒸米を終えたことを意味する「甑(こしき)倒し」という行事を執り行った後でした。そんなこともあり、蔵は、前回訪れた酒造りの最盛期の緊迫感とはかけ離れた、リラックスした雰囲気に包まれていました。少しはしゃぎながら事務スタッフと冗談を言い合って笑う人、訪れた取材陣に気兼ねなく話しかけてくれる人、休憩時間に気持ちよさそうに日光浴をする人。そればかりか農口尚彦氏の少し緩んだ表情からも、半年間を戦い抜いたという充足感が伝わってきます。

今回、取材班が蔵へと向かった理由は、今年の酒造りを総括するため。半年間の酒造りで、農口氏が感じたこと、蔵人の働きぶり、そして取材班が改めて感じた農口氏についてレポートします。

貯蔵タンクが並ぶ部屋をせっせとデッキブラシで清掃。約半年の酒造りを間もなく終えようとしている。

蒸したての米に風を送りながら冷却、乾燥させる放冷機。ビニールが被せられ、今年の稼働を終えた。

「00:00」で止まったままのタイマーは、浸漬(しんせき)に費やした時間を計るもの。

石川県小松市2年間のブランクと「初めてづくし」の酒造りの中、農口氏が背負ったプレッシャー。

およそ半年に及ぶ酒造りの率直な感想をうかがうと、「いや〜、とにかく大変でした」と言って農口氏は相好を崩しました。

前回、前々回と、酒造りの話になると眼光が鋭くなる農口氏を知っているだけに、その表情からは緊張感溢れる仕込みの時期が終わったことが見て取れます。

では、これまで酒造りに関わって70年近く、杜氏(とうじ)になってからもすでに60年近くのキャリアを持つ農口氏をして、「大変でした」と言わしめる要因は、いったい何だったのでしょうか?
「まず、初めての蔵で色々な環境が違う中、2年間のブランクもあって、なんとか自分のカラーを出さなきゃならん、という緊張感が本当にあったんです」と農口氏は言います。

ただ、それは酒造りを始める前からわかっていたことでもありました。農口氏は更に、「それよりもやたらと宣伝されるでしょう(笑)。酒造りの神様が復活する、伝説の杜氏(とうじ)が新たな挑戦に出る、また旨い酒ができる、と言われ、こっちとしては自分のカラーをしっかり出せるか、出せないかわからない状態なのに宣伝ばかり先行されてね。それはもう今までにないプレッシャーでしたよ。最後は神様にすがりたいくらいの(笑)。そんな簡単なもんじゃないですから、酒造りはね」​​と言葉を続けます。

この日の農口氏は終始リラックスした面持ち。酒造りの話に及んでも、仕込みの真っ最中のような鬼気迫る表情にはならなかった。

前回の取材では大雪に埋もれ、その存在に気付かなかった路線バスのバス停。待合所にも『農口尚彦研究所』のロゴマークが。

仕込みを終えた蔵人たちの仕事も変わった。蔵人以外のスタッフとともに瓶詰めやラベル貼りを手伝うことも。

石川県小松市仕込み水の想定外の水温。すぐさま対策案を立てるも難題が…。

そして、農口氏を苦しめたことがもうひとつありました。それは、酒造りに使う仕込み水でした。

仕込み水は酒造りの様々な工程で使われます。洗米、蒸米、酒母造り、醪(もろみ)造りなど、そのほとんどの工程で必要になってくるものです。とはいえ、問題は水質にあったかといえばそうではなく、その水温にありました。

水温は浸漬(しんせき)、つまり米を水に浸け、吸水させる工程に大きな影響を与えます。そして、その浸漬(しんせき)の出来、不出来は、蒸米後の米の仕上がりをも左右します。つまり、蒸米の先に待ち受ける、農口氏が酒造りにおいて最も重要とする麹造りにも大きな影響を及ぼす工程といえるのです。

『農口尚彦研究所』の仕込み水は、18℃と非常に高いものでした。浸漬(しんせき)にそのまま使えば、よい蒸米とはなりません。一般的に浸漬(しんせき)に使う水温は10℃前後が理想といわれていますから、いかに18℃という温度が高いかがわかります。

「米の吸水率は、水の温度と時間で決まるんです。その時間はある程度目星をつけることもできますが、水温が一定であることが条件。それで蒸米が良ければ、それをひとつの基準にできますけど、水温がころころと変わるから、毎日時間を変えなきゃならん。もちろん、毎日蒸す米も違うから、神経をすり減らさないといけないんです」と農口氏は話します。

2017年12月に取材にうかがった時の1枚。米の吸水作業にストップウォッチを使う意味を、3回目の取材でようやく理解した。

麹造りと酒母造りの責任者が、浸漬(しんせき)を終えた米の前で何やら意見を交わす。

石川県小松市麹菌が心白の全体に、そして芯深くまで発育する「総破精(そうはぜ)」を目指す。

浸漬(しんせき)という作業は、はたから見ればさほど重要な工程には思えないでしょう。しかし、その工程は、麹の良し悪しに決定打を与えるものといっても大げさではありません。例えば、浸漬(しんせき)が不十分で米の芯まで水分が行き渡っていなければ、蒸米の中心には固く芯が残り、麹造りにおいて麹菌が米の中心にまで行き届きません。逆に浸漬(しんせき)が過剰だと、蒸米が柔らかすぎて酵素力の弱い麹となってしまう恐れがあります。麹は「総破精(そうはぜ)」といって、麹菌の胞子が米の中心深くに向かい、かつ米全体を覆うように繁殖した状態が理想といわれており、これが良い酒を造るには欠かせないポイントでもあるのです。

そのような大事な工程で、こんな自体が起ころうとは、農口氏自身思いもよらなかったはずです。

思えば、初めて取材に訪れた際、浸漬(しんせき)の工程でストップウォッチとにらめっこし、鬼の形相で米と向き合っていた農口氏がいました。あの鋭い眼差しは、今になって浸漬(しんせき)の重要性、難しさを取材班に知らしめていたのでした。

初めての蔵での新たな酒造り。杜氏(とうじ)として60年近いキャリアがあっても「初めてづくし」の仕込み、そして「酒造りの神様が復活!」と各メディアで騒がれる中での挑戦、仕込み水の問題……。期待とプレッシャー、不安など、様々な想いが交錯する中で、『農口尚彦研究所』は1年目を間もなく終えようとしています。

「いや〜、とにかく大変でした」という冒頭の言葉と表情からは、戦いを終えての苦労と充足感が見て取れました。

蔵の裏手にある田圃には水が張られ、次なる稲作の準備が始まっていた。

Data
農口尚彦研究所

住所:石川県小松市観音下町ワ1番1 MAP
https://noguchi-naohiko.co.jp/

フードキュレーターとその土地の食材生産者が創り出す、メイドイン国東の究極のおつまみとは。[LOCAL MEISTER PROJECT/大分県国東市]

大分県国東市シェフにその土地の食材の魅力を伝えるフードキュレーターだからこその発想を、『YEBISU MEISTER』とのペアリングに注ぎ込む。

一流の料理人がその土地の食材を新しい感覚で切り取った料理を、その土地を最も魅力的に表現する場所と演出とともに、五感全てで味わっていただくことをテーマとした野外レストラン『DINING OUT』。
5月26日(土)、27日(日)に開催が決定している『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』の舞台となるのは大分県国東半島です。

両子山という岩山を中心に6つの山稜に分かれている国東半島は、日本のひとつの宗教観である神仏習合の考え方が生まれた地とされ、同地にある寺院群を総称して「六郷満山(ろくごうまんざん)」と呼んでいます。2018年はその「六郷満山」開山1300年の節目の年。

そんな1300年の歴史や国東独自の文化に触れ、料理の腕を振るうのはオープンからわずか9ヶ月でミシュランガイド2つ星を獲得したことでも話題を集める『茶禅華』のシェフ川田智也氏。

シェフ自ら、国東半島の料理や農家を訪ね歩き、汲み取った生産者の想いまで昇華させ、感動的な料理を供するのが『DINING OUT』の醍醐味である一方、開催の半年前からリサーチを開始し、数百という食材を見つけ出している人物が『DINING OUT』の裏側を支えています。それが、『DINING OUT』食材調達チームリーダーであり、フードキュレーターの宮内隼人。

今回、ONESTORYではフードキュレーターの宮内が探しだした、その土地を知り尽くす生産者「地域のMEISTER(匠)」と共に、地場の食材をふんだんに使ったビールに合う究極のおつまみを創り上げる新たなプロジェクト『LOCAL MEISTER PROJECT』を立ち上げます。一緒にこのプロジェクトを進めていくのは『DINING OUT』のオフィシャルビールである『YEBISU MEISTER』。

そのプロセスの裏側を、『ONESTORY』と『YesMAGAZINE』で発信していく事で、世の中にまだ知られていない、その土地の上質な食材の魅力を伝えるとともに、開発された究極のおつまみは新たな特産品として商品化。様々な場所で販売する事で、その地域を多くの人に知ってもらう為のプロジェクトです。

全国各地のさまざまな食材を知り尽くす宮内と、国東の生産者が一体となって創り上げる、究極のおつまみとは。その全貌に少しずつ迫っていきます。

鹿の狩猟から加工まで一貫して行う田口幸子氏。元々、東京で映像関係の仕事をしていたが、故郷である国東に数年前にUターンしたそう。

大分県国東市害獣として駆除される鹿を無駄にしない。人と野生動物がともに生きていく上で最良の手段を考える。

まず、宮内が向かったのは、農作物を荒らすなど深刻な農業被害を生んでいる鹿を自ら狩猟し、解体、加工まで一貫する『TAG−KNIGHT』代表の田口幸子氏の加工場。

加工場に到着早々、「鹿が罠にかかったと連絡が入ったので、一緒に行きましょう」と田口氏。連れて行ってもらった場所は山間にあるミカン畑です。
「鹿も生きていくために一生懸命。果樹の新芽や野菜、植栽した杉の木の皮など、食べやすくて栄養豊富なエサを求めて、畑や人家が建つ地区に足を踏み入れてきます。そうなると人と野生動物が共存するためにどうしても駆除が必要で、そんな駆除された鹿を有効活用できないかという考えから、鹿肉の加工を始めました」と話す田口氏。

現在、鹿肉は無添加、無着色、無香料のジャーキーに主に加工され、大型犬などペット用として全国各地に販売されています。ただ、数年前に許可を取り、地元民向けにバーベキュー用などとしても販売しているという田口氏。鹿やイノシシなど野生動物の肉は独特の匂いがあると思われがちですが、田口氏は血抜きなど下処理を素早く終わらせることで、臭みのない鹿肉を提供されています。

そんな田口氏の加工場で宮内の興味を惹いたのが、一頭からわずかしか取れないロース肉。「本当に肉の色がキレイですね。匂いもほとんどない」と、肉質の良さを間近に見て実感した宮内。熱風で乾燥させるジャーキーの作り方や骨の活用法なども熱心に聞いていました。

駆除された鹿を廃棄するのではなく、活かす手段について田口氏から説明を受ける。

解体作業をしっかりと目に焼き付ける宮内。命の尊さ、大切さを改めて考えるきっかけにもなったと話す。

冷凍されたロース肉を手に取り、重さを量る。鹿肉は脂が少なく、タンパク質が豊富だ。

田口氏が製造しているのはペット用の鹿肉ジャーキーだが、どのくらい乾燥させているかなど、じっくり確認していた。

大分県国東市国東育ちの豚を原料とした生ハム。シンプルに“おいしい”と感じたからこそ、その理由を知りたい。

次に向かったのは国東半島を離れ、大分市。それだけ聞くと、国東半島で生まれ育った食材という、『LOCAL MEISTER PROJECT』のテーマからそれる気がしますが、「ここでは原料に注目してほしい」と宮内は話します。

そう、ハム、ソーセージを製造する『(株)ゆふいん牧場』まで足を伸ばした理由は、国東半島で飼育されたブランド豚『桜王』にあります。『桜王』とは国東市安岐町で飼育される安心安全なSPF豚のことで、『(株)ゆふいん牧場』では、この豚肉を使ったハムやソーセージを製造。大分県下でも『桜王』を加工しているのは唯一だそうです。

なかでも今回、宮内が実際に製造工程を見てみたいと強く熱望したのが、『桜王』を使った生ハムです。東京銀座にある大分県のフラッグショップ『坐来大分』で偶然食べた『桜王』の生ハム。宮内は「しっとりとしていて、旨みもしっかり閉じ込められていた。この生ハムは『LOCAL MEISTER PROJECT』にも活用できるんじゃないかと感じました」と話します。

実際にハムソーセージ課製造担当の江頭幸治氏に話を聞いてみると、原料以外にもおいしさの秘密が隠されていました。
それは熟成庫を活用し、2〜3週間と生ハムとしては短期間で作り上げる点がまず一つ。そして、宮崎県産のヤマザクラのチップで、華やかな燻の香りをほのかにまとわせる点も特徴です。「冷燻には香り、風味を高めるより良くするという狙い以外に、防腐の意味もあります」と江頭氏は話します。防腐剤や着色料など余計な添加物を使わないだけに、昔ながらの考え方も取り入れているのが印象的でした。

そんな一工夫を凝らした生ハムですが、食品加工事業部部長の小野晃正氏は、「実は当社の商品のなかでも生産量が極めて少ない商品で、販売しているのも直営2店舗のみ。『坐来大分』にも常時卸しているわけではなく、本当に極稀になんです。国東半島で『DINING OUT』を行うタイミングで、宮内さんが食べられたのは本当に奇跡ですね」と笑います。

『DINING OUT』から生まれたスピンオフプロジェクト『LOCAL MEISTER PROJECT』。今回初となる同プロジェクトで出合ったのは、“国東の野生の鹿肉”と“ブランド豚の桜王”。まだまだ、国東半島における宮内の食材探しは続きます。

(supported by YEBISU MEISTER

宮崎県産のヤマザクラのスモークチップの香りを嗅ぐ宮内。「生ハムは確かにほのかにスモークの香りがありますね。ただ、言われないと気付かないほど繊細」とコメント。その言葉に対し、製造担当の江頭氏は「よく分かられていますね。そうなんです。香りをつけるというよりも防腐の意味合いが強いんです」と返します。

生ハムの生産量は年間100kgにも満たない上、『坐来大分』に卸すのは極稀という小野氏の話しを聞き、驚き、偶然の出合いに思わず笑みがこぼれる宮内。

生ハムを販売しているのは大分市内にある老舗百貨店『トキハ本店』にある直営店をはじめ、大分駅構内のみやげ店のみ。

1977年東京都生まれ。18歳の時、海外経験のために訪れたカナダの日本料理店でのアルバイトで料理に目覚める。半年後帰国し、居酒屋で働きながら調理師免許を取得。系列のフランス料理店に異動。その後都内のカフェで働いた後、2001年から3年間「ラ・ビュット・ボワゼ」で本格的なフランス料理に触れる。株式会社HUGEの「ダズル」の立ち上げを手伝うなどした後に、2010年「HAJIME」に入り、5年半の経験を積む。生鮮食材の物流に関する知識習得のため大阪の特殊青果卸「野木屋」を経て、2015年より現職。 

若かりし頃の料理長時代、『麻布長江』時代があってたどりついた料理の境地。[長江SORAE/香川県高松市]

忙しい時こそ平常心を。調理場があわただしくなった時に思わず歌を口ずさむのは、修業時代からの長坂氏の癖なのだとか。

香川県高松市剛速球ではない、打たせてあげる料理こそお客様を安心させられる。

今の長坂松夫氏が料理を作る上で最も大切にしていること。それは、味というよりも哲学的な部分が大きいといった方がいいかもしれません。それは、食べ手をリードするのではなく、一歩引いた料理。それを長坂氏は、野球になぞらえて、「剛速球でコースにズバズバ投げ分ける。あるいは、変化球を交えて食べ手にこちらの手の内を読ませない。そういう料理を作ってばかりいると、肩も壊すし、肘も壊してしまう。私が実践するのは、お客様が安心できる料理。100kmくらいの直球を、お客様の打ちやすい所へ投げるんです」と教えてくれました。

つまり、剛速球は、30代そこそこの脂がのっているシェフがやればいいもの。奇をてらい、食材の魅力に様々な角度からフォーカスし、見た目も斬新なひと皿を作る。まさに、『麻布長江』時代の長坂氏自身がそうだったのかもしれません。

メディアに追われ、取材を受け、読者や視聴者が望む、新しい料理を考案する。つい先日新しいひと皿が完成したかと思えば、すぐさま次なる新作へ。しかしそれでは、料理に大切な「深み」が出ないのだと長坂氏は実感したのです。

その深みのない薄っぺらな料理では、お客様を安心させるような味にはなりません。作り続けることで、その料理は洗練されていき、奥行きのある味わいへと深化していくのです。

掃除の行き届いた店内の美しさに、長坂氏の性格の一面が見え隠れする。

サヨリとイイダコとアスパラガスのトリオ。その味を優しく優しくまとめ上げるのが貝柱のスープだ。

サヨリとイイダコとアスパラガスのトリオ。その味を優しく優しくまとめ上げるのが貝柱のスープだ。

香川県高松市奇をてらわずとも食べれば思わず笑みがこぼれる、優しく幸せな味。

そんな長坂氏の作る料理はどんなものかといえば、確かに奇をてらった料理ではありません。春に旬を迎えたサヨリは、背骨と腹骨を除き、塩、胡椒、醤油を振って片栗粉をまぶし、頭部から身を切り離さないように捌いてから、身をくるくると巻き上げます。そのサヨリをからりと揚げ、そこに合わせるのは、長坂氏が懇意にしている生産者から仕入れたホワイトアスパラガスです。蒸し器を使って10分ほど戻し貝柱のスープで過熱することで、じっくりとホワイトアスパラガスに貝柱の旨味を吸わせていきます。一方でホワイトアスパラガスとともに並ぶのは、グリーンアスパラガス。こちらも戻し貝柱のスープに加えて火入れすることで、その味わいの違いを楽しませてくれます。

貝柱のソースの優しい旨味がサヨリに寄り添い、それが更に春らしさを強調。何が出しゃばるでもなく、その秀でたバランスは、長坂氏のいうまさに「お客様に打たせてあげる料理」の真骨頂ではないでしょうか?

そんな中にも長坂氏ならではのちょっとした緩急も。香川県産のオリーブ牛を四川風のタレで味わわせる料理も登場しました。
「広東料理は、どちらかといえばコースの中で波打たない料理が出てくる。一方、四川料理は香辛料を使った波のある料理が特徴だからね。私は四川料理の出身だし、そこはやっぱり大切にしていきたい部分のひとつだね」と長坂氏は言います。

味わえば、片栗粉と卵がまぶされた牛肉は、外はカリッと中はジューシー。甘辛のソースながら、何かが突出しすぎるわけでもないその味わいには、やはり長坂氏らしさが感じられます。

豆鼓辣醤にニンニク、老酒、スープ、中国黒酢で仕立てたソース。牛の甘みを包み込む。

白ではなく、赤いユニフォームにバンダナという姿は、今や長坂氏のトレードマークに。

生からでもナマコは戻せることを実証した料理。オイスターソースの深い味がナマコに寄り添う。

香川県高松市生から戻したナマコの料理に、長坂氏の神髄を見る。

そして、この日最も驚いたのが次の料理でした。登場したのは、そう、教え子である『茶禅華』のオーナー・林 亮治氏が考案したという「生から戻す」やり方のナマコの料理。1日2回以上、90℃の湯で加熱しては冷ましを繰り返すこと1週間、手間と時間をかけて完成したナマコは、老酒や豆板醤、醤油などで味つけし、蒸し器で過熱します。そこへ、むき海老をペースト状にして、背脂、ピーマン、パプリカなどを加えてナマコに詰め、更に蒸し上げます。仕上げにオイスターソースベースの餡をたっぷりとかけたひと品は、宮廷料理を発祥とする料理ということです。

「これが林君の編み出したナマコを生から戻す方法。手間は確かにかかるけど、原価自体は抑えられる。これにはほんと驚いたし、こうして使わせてもらっているから、林君にはフィーを払わないと(笑)」と長坂氏。

これが長坂松夫という料理人なのです。
教え子から教わったことに悔しがるでもなく、むしろ50年もの間、ナマコは「干したものを戻す」が当然だった長坂氏の概念を打ち破ってくれたことに対しての、喜びを素直に表す方なのです。

「そうやってみんなで学びながらやってこられたから今の自分がある。もし、若かりし頃でなく、修業と年齢を重ねてから料理長になっていたら、上から頭ごなしにどなって、おさえつけてしまう大ばか野郎な料理人になっていたかもね」と長坂氏は話します。

調理場には特段変わったものは見当たらない。シンプルなまでに潔い。

Data
長江SORAE

住所:香川県高松市屋島東町32-12 MAP
電話:087-843-2567
http://www.choko-sorae.com/

自然の中に身を置き大切な人と過ごせるレストランに勝るものはなし。[長江SORAE/香川県高松市]

対岸は最高級御影石の産地として知られる庵治(あじ)の町。瀬戸内ならではの穏やかな風景が心に染みる。

香川県高松市風光明媚な檀ノ浦の海辺に佇む絶好のロケーション。

香川県高松市の北東、瀬戸内海に突き出る半島のように広がる屋島地区。古くは源平の古戦場ともなった檀ノ浦(「壇」ノ浦は山口県下関市にある源平の古戦場)で知られ、溶岩台地で屋根の形をした屋島が海べりまで迫る独特の地形が広がっています。市内からもアクセスしやすい西岸は住宅地が広がる一方、東岸は一部に別荘が点在するなど、美しい景観が広がっています。

その東岸のちょうど真ん中あたり、屋島をぐるりと囲む道路から脇道を下っていくと、これぞ絶好のロケーションともいうべき場所に『長江SORAE』はありました。
道路沿いにも、店先にも看板はなく、事前情報がなければ飲食店とも思えない、別荘地に溶け込んだ外観。唯一、軒先に植栽されたハクモクレンの木だけが手がかりです。

そして、店内に入ると噂どおりの景色が目に飛び込んできます。一面ガラス張りの窓から見えるのは、瀬戸内海。水平線までくっきりと映るパノラミックな景観とは異なりますが、対岸に最高級御影石の採石地として知られる庵治(あじ)の町を望み、左手には大島や豊島、小豆島(しょうどしま)など、これぞ瀬戸内といった多島美です。穏やかなその景色に心が浄化されていくのがわかります。
そうしてしばし見とれていると、奥様の康子氏が「あちらにテラスがありますので、よろしければどうぞ」と声をかけてくれました。促されるままテラスへと出れば、浜辺で静かに打ち寄せる波の音が届き、心地よい風が肌を撫で、取材時にちょうど満開を迎えた桜が風にそよいでいます。
レストランというよりは、まるでどこかの絶景宿にでも訪れたかのような気分です。もはや心は旅人のように寛いでいるのでした。

この土地にレストランを構えるのに、多くを費やしたという建物。その本気度がうかがえる。

店内に入ったらまずはテラスへ出る人が大半。波の音を聞き、風を感じ、心をリセットする。

店内には黄色いクロスが敷かれたテーブルが4卓あり、奥には個室も用意されている。

香川県高松市順風満帆とはいかなかった店探し。たどりついた理想の地。

前置きが長くなりましたが、これが『長江SORAE』の率直な第一印象。素晴らしいロケーションの中、料理を味わう前から何だか心が癒されていくのがわかります。

そう、それこそがシェフの長坂松夫氏が、この高松に求めたものだったのです。

聞けば、長坂氏が移転を決意するきっかけとなったのは、東京の第一線でスターシェフとして活躍していた最中に、ふと自らの頭の中に浮かんできた「麻布で48歳から『麻布長江』を始め、60歳までの12年間東京でやってきた。ちょうど55歳を過ぎたあたりから、思い始めたのかな? “最高のレストランって、どんなレストランだろう?”って」という疑問でした。


当時は、テレビや雑誌など、様々なメディアからの取材が続く日々。レストラン業以外にこなさねばならない仕事に追われる生活でした。その一方で、「60歳を過ぎてこれをやっていたら、料理と向き合うことができなくなる」との思いが長坂氏の中で日に日に増していったのだといいます。そんな時にふと思い浮かんだのが、先ほどの疑問だったのです。

あれこれと考えた末に、長坂氏は、「自然の中でその美しさ、心地よさを感じる。それを大切な人と共有しながら、食べる料理とその時間。それに勝るものはない」という答えにたどりついたのでした。

しかし、順風満帆といきません。修業時代から知っていた高松なら、「美しい海があるし、必ずそれが実現できる」と信じた長坂氏。月に一度ほどの頻度で高松へ戻り、地元の海岸線を車でくまなく走り、ここでもない、あそこでもないと、物件探しに奔走しました。およそ3年間を費やすも、いい建物があっても借りられず、惚れ込んだ土地があっても売ってもらえずという状況が続き、自分が望む物件にはなかなか出合えませんでした。そうして、高松という土地をあきらめかけていた時に、今、店が立っている土地と出合ったのです。

奥様とテラス席でのツーショット。お客様同様のその笑顔はこの土地の素晴らしさがそうさせるのか。

昼間とは異なり、夜は一転してムーディーに。テラスへ出ると聞こえてくる波の音までもが昼間とは違う印象だ。

屋島の頂上にある展望台からの眺め。手前が屋島の東岸、奥に見えるのは庵治(あじ)町。砕石工場が点在する。

香川県高松市『麻布長江』時代にも言われたことがない、長坂氏の心を打ったひと言。

そのような経緯からこの屋島に店を構えて8年。長坂氏にとって忘れられない、お客様から贈られた言葉があります。それが帰り際に言われた「この店は本当に去りがたい」というひと言でした。

長坂氏の心を打った言葉は、「本当に美味しかった」でもなく、「楽しい時間だった」でもありません。長坂氏が東京の『麻布長江』で12年間を費やしても聞くことができなかった、の「去りがたい」の5文字に長坂氏は胸を震わせたといいます。

「人間の食べるという行為は、ひとつの感情だと思うんだよね。自分の中でレストランって『=料理』ではない。もっと総合的なものだと思っている。料理はその一環でしかなくて、そこに食べ手と作り手がいて、食事をする環境があって、もてなしがある。それが調和して、いかにお客様に心地よいと思ってもらえるか。料理でなくその時間に対価としてのお金を支払う。それが、私が求める最高のレストランのあり方だよ」と長坂氏は語ります。

だからこそ、「美味しかった」ではないのです。微妙なニュアンスですが「楽しかった」ともまた違います。「去りがたい」の5文字には、「レストラン側のもてなしと、お客様が求めるもの、レストランを形作る要素の全てがピタリと当てはまった時にしか出ない言葉」と長坂氏は考えるのです。

「また、『去りがたい』という言葉をさらりと言える感性を持った人から贈られた言葉だということにも、嬉しさを感じた。これはレストランの境地だと思うよ」と長坂氏。
奥様の康子氏も、「遠い所までわざわざ来て頂くのですから、お客様にはこの時間を本当に楽しんで頂きたいんです。だから、気は遣うのですが、それを気付かせないサービス。料理と景色を楽しんで頂いて、心地よさを感じて頂いた上で、“あ、いたのね”くらいの存在感があればいいですね」と言います。

長坂氏夫妻こそが自然体でゲストをもてなせる。それは『長江SORAE』がここでやりたいことを突き進めていることの何よりの証拠でもあると感じます。

自らこの場所を楽しんでいるように見える長坂氏。夕暮れが迫る瀬戸内海を見て何を思うのか。

Data
長江SORAE

住所:香川県高松市屋島東町32-12 MAP
電話:087-843-2567
http://www.choko-sorae.com/

中華のスターシェフを移転に踏み切らせた「最高のレストランとは!?」。[長江SORAE/香川県高松市]

香川県高松市OVERVIEW

長坂松夫氏。東京『麻布長江』で一時代を築き上げた、言わずと知れた中国料理界の重鎮です。過去に多くの名シェフを輩出してきたことでも知られ、調理師学校の講師時代にはあの『龍吟』の山本征治氏も授業後に教えを請いに足繁く店へと通い、5月26・27日の2日にわたり大分県国東半島で開催予定の『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』にて腕を振るう『茶禅華』のシェフ・川田智也氏が今も師と仰ぐ料理人でもあります。

そんな長坂氏が、自らの店『麻布長江』を弟子に譲り、香川県高松市に『長江SORAE』をオープンしたのは、2010年のことでした。まさに、東京でスターシェフへと上り詰め、テレビ・雑誌などのメディアからも引っ張りだこだった時分。順風満帆な時を過ごしていた真っ只中のことでした。

では、なぜ長坂氏は高松へ移転してきたのでしょうか? 東京での約束された未来を投げ捨てようと決意させたものは何だったのでしょうか? 移転当時、長坂氏はすでに60歳を過ぎていました。もしかしたらセカンドキャリアをゆっくりと楽しむための決意だったのでしょうか?

高松市の北東、かつての源平の古戦場として知られる檀ノ浦の海辺。『ONESTORY』取材班は、対岸に庵治(あじ)の町を望む風光明媚なロケーションに店を構える長坂氏のもとへと駆けつけました。
そこで長坂氏が表現していたのは、料理人の哲学、美学を貫いたレストランと料理のあり方でした。

Data
長江SORAE

住所:香川県高松市屋島東町32-12 MAP

電話:087-843-2567
http://www.choko-sorae.com/

人間的な個性が強くても、付き合う生産者は考え方、生き方が好きな人。[長江SORAE/香川県高松市]

高松のホテルでの料理長時代から、かれこれ40年ほどの付き合いがある鮮魚店『魚信』。

香川県高松市えぐみがないからそのまま調理できるホワイトアスパラガス。

料理にも、レストランづくりにも己の哲学を行き渡らせる長坂松夫氏。生産者もやはり長坂氏のお眼鏡にかなった人かと聞けば、長坂氏は笑って「僕がこの高松で付き合っている人たちは奇人変人ばかりだからね。己の信じたものにこだわって、己の道を突き進んでいる人しかいない。人間的なクセというか、強い個性がある人ばかりだけど、そこはどうでもいい。大切なのは生産者としての本質であり、人生をかけてやっていることを我々がどう受け入れて、どう吸収するかだよね」と答えてくれました。

そんな中、長坂氏が「事前にロケーション・ハンティングを済ませておいたから」と言って連れて行ってくれたのは、アスパラガスの農家の植村隆昭氏のもとでした。

ビニールハウスの中に並ぶのは、何やら袋が被せられたアスパラガスがにょきにょき。実はこれ、陽に当たると緑になってしまうホワイトアスパラガス。光を遮断して栽培しているのだそうです。

「ここのホワイトアスパラガスはえぐみが本当にないんだよ。そして太くて甘い。えぐみが出るアスパラガスだとどうしても酸味を足したり、甘みを足したりするから、素材本来の味が出せない。ここのものはそれがないから、戻し貝柱の旨味を吸わせて調理するのが定番だね」と長坂氏が言えば、植村氏も「よく使って頂いているシェフにも、なぜこんなにえぐみがないのか聞かれるんですけど、科学的検証をしたわけではないのでなんとも言えない……。ただひとつ言えるのは、除草剤は使わず、有機質の肥料を半分以上使っているということ。農薬については、安全な農薬であることが理由のひとつかもしれません。素材自体の安全もそうですが、生産者にとって安全な農法であることも大切だと思っていますから」と返します。

植村氏の奥様と談笑。小屋の中ではトマトや生のアスパラガスにそのままかぶりついた。

アスパラガスを前にした長坂氏と植村氏。互いに意見を言い合えるほどの信頼関係を築いている。

収穫されたばかりのこの日のホワイトアスパラガスはやや小さめ。噛みしめると瑞々しさと甘さが口の中に広がる。

香川県高松市探求心と本気度が伝わる長坂氏がいう奇人変人たちはこれ以上ない褒め言葉。

一流の生産者とは何かと長坂氏にたずねたところ、「いいものを作っている人は、それを更に良いものにしたいから、いい料理人に使ってもらいたいと思うんだよ。自分の能力を更に高めるために、色々なアドバイスをもらいたいから、生産者は様々な食材を料理人の所に持ってくる。その向上心が一流になるための条件だよね。その探究心をプライドが上回ってはダメ。こうして高松でやっているけど、やっぱりそういう人たちがまだまだ少ない」と、長坂氏ならではの答えが返ってきました。
実は、植村氏もそうして『長江SORAE』と付き合いが始まった生産者のひとりだとか。長坂氏のもとへ直々に食材を持ってきて、「使ってください」と頭を下げたといいます。それから長坂氏との付き合いが始まったのだそうです。

長坂氏が次に連れて行ってくれたのは、『魚信』という地元のプロフェッショナル御用達の鮮魚店。ここにもまた長坂氏が「奇人変人」という人がいます。店主の北岡重信氏は、365日のうち360日をここへ来て働いている人です。何がすごいかといえば、「自分がもし休めば、香川の飲食店が止まってしまう」と本気で思ってやっていること。実際、北岡氏はほぼ休みがないため旅行にすら行ったことがなく、更に取引先の関係者が亡くなった時も仕事着でそのまま来て、焼香だけを済ませて帰ることもあったとか。魚に、商売に、とんでもない情熱をかける職人だといっていいでしょう。やはり、奇人変人でも確かな芯があるようです。長坂氏が一目置くのも納得です。

やはり店の雰囲気からして、一般人を相手にする鮮魚店とは異なる。そこら中に発泡スチロールが置かれている。

長坂氏がホテルで料理長時代に使いたかったのはまさしくこうした小魚なのかもしれない。

一般人は買えないこともないが、料理人たちが買いに来て殺気立つ午前中は避けるべし。

香川県高松市40年来の付き合いがある鮮魚店。今では高松に欠かせない店に。

そもそも長坂氏と北岡氏の付き合いが始まったのは、長坂氏が高松のホテルで料理長を務めていた時でした。

「ホテルのレストランで小魚を使いたくてね。でも、ホテル専用の魚屋さんに頼むと、そういった小魚は手間もかかるし、相手にされなかった。そんな時、知り合ったのが北岡氏。そこで『実は店でこういうことをやろうと思うんや』と言って少しずつ仕入れてもらうようにしてね。当時はプロフェッショナル専用の魚を出していたわけではないけど、徐々にそうした魚が増えていったんだよね」と長坂氏。

それから40年ほどの月日が流れ、今では高松中のレストランがこぞってやって来る店になった『魚信』。北岡氏になぜそれほど働くのかと聞くと、「なんだろうね、ただ商売が好きなんだろうね」との答え。そっけないが、その言葉の奥に隠れている思いは2代目である明彦氏が次のように代弁してくれました。「地元の飲食店さんが良くなればな~と思って、色々なものを仕入れてきているだけですよ。『都会と比べてどうしても……』と言われないように、できるだけいいものを揃える、それだけです。やっぱり注文分だけの仕入れじゃ面白くないと思いますし、こっちの方が売る側も買う側も楽しいし、やりがいがあるじゃないですか」。

14時過ぎに店を訪れた時には買いつけにやって来る人もまばらで、店は少し和やかなムードに。これがオープン前だと殺気立って声もかけられないほどというから、想像もつきません。
長坂氏が連れて行ってくれた農家と鮮魚店。タイプは違えども、まぎれもなく、東京でも通用する「奇人変人」でした。

生産者のもとへ車で案内してくれる長坂氏。車中では生産者たちへの想いをじっくりと語ってくれた。

Data
長江SORAE

住所:香川県高松市屋島東町32-12 MAP
電話:087-843-2567
http://www.choko-sorae.com/

知られざる日本の味力を届ける、孤高のシェフが挑んだ一夜の饗宴。[CUISINE SAGA VOL.03/佐賀県佐賀市]

国籍を越え、ジョエル・ロブション氏の厚い信頼を得た須賀洋介氏。

佐賀県佐賀市フレンチの寵児、同志に導かれて佐賀の地へ。

明治維新150年事業として、国内外で活躍するトップシェフを招き一夜限りで開くプレミアムなディナー「CUISINE SAGA」。VOL.03となる今回は、フレンチのみならずガストロノミー界の巨人として知られるジョエル・ロブション氏に若くして見出され、長年右腕として活躍してきた須賀洋介氏が招聘されました。

現在は東京に自身のラボラトリー「SUGALABO」を構える須賀氏。その須賀氏と佐賀との関わりは、フランス時代に出会った佐賀出身のシェフ・吉武広樹氏が縁をとりもったのがはじまり。「年齢も近く、ともに異国でフレンチに向き合う吉武氏は同志ともいえる存在。そんな彼が故郷である佐賀の食材の魅力、器の素晴らしさを話してくれ、帰国したらすぐに行った方がいいと勧めてくれたんです」(須賀氏)。

そして2016年に有田で行われた「世界料理学会 in ARITA」への登壇などを経て、佐賀との結びつきが次第に強まっていったといいます。
「帰国してからは日本全国の食材や生産者を探し、訪ねることをライフワークとしているんですが、そのなかでも佐賀は欠かせない場所のひとつ。多分今までで一番通った県じゃないかな」と須賀氏。この日のディナーでも、その言葉を裏付けるような食材への深い眼差しや、生産者との信頼関係が垣間見える瞬間がありました。

「CUISINE SAGA」の舞台となるさがレトロ館。佐賀の県木、楠の緑も濃く繁る季節になってきた。

須賀氏の皿を味わう希少な機会を求め、多くのゲストが訪れた。

茶摘みの合間をぬって、今回も松尾俊一氏がビバレッジ担当として参加。今年摘んだばかりの新茶も提供された。

アミューズとともに提供された冷たい白茶。

佐賀県佐賀市継続的な信頼関係が新たな味を生む。

自身の「SUGALABO」やイベントでも有田をはじめとする窯元の器を多用しているという須賀氏。この日最初の皿となるアミューズは、ショープレートに4つの豆皿を載せて提供するというスタイル。この豆皿は手塩皿(おてしょざら)と呼ばれるもので、古くは京都・朝廷の時代には食卓で手元に塩を盛る器として使われていたものです。江戸期の有田でも多くの手塩皿が作られましたが、それを現代の技術で復活させたのが今宵のテーブルに並んだ豆皿たち。明治維新以前の器の技術や情緒をそのまま再現するために、当時の名品を3Dスキャンで立体的に取り込んで鋳込型を作成し、そこから釉薬の風合いなども計算して細部の彫りなどを修正。それに有田の20社の窯元それぞれが得意とする絵付けを施した苦心の作です。

その小さな万華鏡ともいうべき皿に載るのが、須賀氏が自ら訪ね歩いた九州、佐賀の食材の持ち味にスポットを当てたアミューズ。白石町産新玉ねぎの独特の甘さを最大限引き出すためによく火入れをして餡状にし、その中にブルーチーズを忍ばせるなど、食材を熟知しているからこそのアイデアがゲストたちを唸らせます。

実はこの日、佐賀と縁が深い須賀氏ならではの嬉しい誤算が。1月に牡蠣の養殖現場を訪ねた太良の梅津聡氏に連絡を入れたところ、「佐賀でイベントするなら牡蠣を持っていくよ」という流れに。梅津氏の育てた牡蠣に惚れ込んでいたということもあり、急遽前菜の一つを入れ替えてゲストの元へと届けたのでした。

長崎の松倉商店の生カラスミを京都・末富の最中で挟んだもの(右)など、メインとなる食材はほとんどが旧知の生産者の手によるもの。

有田の瑞峯窯のボンボニエールに盛られた「愛知 とり貝、佐賀 とり貝、北海道 つぶ貝、ホワイトアスパラガス 鳥取 関金わさび」。土佐酢のジュレをかけてさっぱりと。

かたときも食材の状態から目を離さない須賀氏が印象的だった。

全国を飛び回る須賀氏が、この時期旬だと思う貝類を一皿に集めて。

2皿目の器は本来菓子器として使われるボンボニエール。お菓子箱を開けるときのようなワクワクとした気持ちも演出。

佐賀県佐賀市自我を離れ、本質とは何かを探し求める。

全国津々浦々、良い食材があると聞けば足を運ぶことを惜しまない須賀氏ですが「取引をしてもらうまでに随分時間がかかった」と言うのが、岐阜の多田昌豊が作るペルシュウ(生ハム)。多田氏は日本唯一のパルマハム職人の称号を持つ達人で、トップシェフたちの間ではよく知られた存在です。ただ有名シェフであろうと店で提供するまでには関門が多く、料理に対する考え方を深く話し合い、そして高度なスライスの技術を身につけないと取引をしてもらえないのです。日本全国でもそのペルシュウを提供できているレストランは10軒ほど。まさに幻のような存在です。3皿目では、そのペルシュウを贅沢に使い、その下に雪下で6か月間寝かせて甘さを増した北海道のキタアカリを添えました。向こう側が透けて見えるほど極薄にカットされたペルシュウは、口の中でシュワシュワと溶けていくような極上の口当たり。ゲストの間で「こんな生ハム初めて食べた」という声が次々とあがるのも納得の、飛び抜けた美味しさでした。

また、今回のディナーで特徴的だったのは須賀氏の器のセレクト。この日に至る4回の「CUISINE SAGA」に登場したシェフたちが使ってきたのは、モダンな器たち。それに対し、須賀氏は明治期の柄や形状を復刻した器を多く選んできたのです。これらの器は呉須の替わりに赤絵を使い、その上に金彩を施した赤濃(あかだみ)金彩唐草紋と呼ばれるもので、「USEUM SAGA」のレギュラーメニューでも使われているもの。
「スペインのエルブジを契機として、料理だけでなく器も白磁でリムがあるという定形にはまらない、今風のものが台頭してきました。僕も普段はそういう器を使っているんですが、このさがレトロ館に来てそして明治期の器を見たときに素直に素敵だなと思ったんです。自分の料理で大切にしたいのはオリジナルなひと皿になるようにどう演出するかではなくて、素材を大切にしたシンプルな料理。その考え方と、明治期の洋食器の姿が重なったんでしょうかね」

今の時代にあえてクラシカルな器に料理を盛り付ける。それが新鮮だったようで、ほかの機会にもチャレンジしてみたいと語っていました。

3皿目の「北海道 函館 雪下ジャガイモ 岐阜 関“ペルシュウ”」。赤濃(あかだみ)金彩唐草紋は明治維新以降、西洋への憧れから流行した柄といわれる。

4皿目「山口 下関漁港 赤むつ 佐賀 さがひのひかり 蕗の薹」。甘い脂ののったのどぐろを軽く西京味噌に漬けて焼き上げ、蕗の薹のリゾットとともに。

5皿目「佐賀 黒毛和牛 京都 乙訓 小野農園 筍 花山椒」。旨味の濃い佐賀牛のハラミ肉をたっぷりの花山椒、高知県の地鶏・土佐ジローの目玉焼きにからめていただく。

クラシックな空間に明治期の柄を復刻した器が調和する。

良い食材の持ち味を生かしたシンプルな料理だけに、細心の注意を払いながら火入を行う。

旬の筍や名残の花山椒など、ひと皿で季節が伝わる。

佐賀県佐賀市アジアNo.1のパティシエとの夢の共演。

この日、気鋭のフレンチシェフ、須賀氏の料理を楽しみに訪れたゲストたち。そのゲストたちがさらに喜ぶサプライズが会場で待っていました。

それは、ミシュラン2つ星に輝く銀座「ESqUISSE」のシェフパティシエ成田一世氏がデザートを担当するというアナウンスです。

須賀氏と成田氏はロブション時代、パリや台湾、ニューヨークなど世界各国の厨房でともにクリエイティブなコースを作り上げた旧知の間柄。2017年には「アジアのベストレストラン50」でベストパティシエに選ばれるという栄に浴した、いま最も注目されるパティシエです。

3品で構成されたデセールのなかでも白眉はブラッドオレンジのスフレ。焼き立てでどこまでも軽い食感のスフレに中に、オレンジのソルベと果肉、ソースを流し込み、その温度差も含めて楽しむ一皿。「オーセンティックなコースのデザートとしてふさわしいと思った」と須賀氏が言うように、高い技術で作られたデゼールならではの気品すら感じました。

40人分のスフレを焼くという難題も、丁寧に淡々とこなしていく成田氏。

スフレの生地が立ち上がり、周りは甘い香りに包まれる。

6皿目「佐賀 いちご“咲姫”」。ルバーブといちごを使いガスパッチョ風に。器は明治〜大正にかけて作られていた、鍋島家の家紋“杏葉紋(ぎょうようもん)”を図案化した絵柄を復刻。

7皿目「佐賀 ブラッド 佐賀 いちご“咲姫”」。ビールを蒸留し熟成させた「フルール・ド・ピエール」を隠し味に。フルーツを入れた器は李荘窯の鎬シリーズ。

コースの最後を飾るのは香り豊かな焼き立てのマドレーヌ。

佐賀県佐賀市食材、そしてゲストへの真摯な眼差しが料理を特別なものにする。

ディナーの幕開けからフィナーレまで、厨房とゲストのテーブルを幾度となく行き来し、料理の説明やゲストへの目配りを絶やさなかった須賀氏。温かい料理は温かい状態で、冷たい料理は冷たいままで、そんな料理の基本となる部分にも常に心を砕く姿に、巨匠の信頼を得た理由の一端を見た気がしました。

日本にはまだまだ素晴らしい食材がたくさんある。須賀氏の匠の技とこだわりによって、その幸せを再確認できた一夜でした。

各卓をまわり、食材や生産者のことを熱く語る須賀氏。

「厨房の環境に影響されがちな焼き菓子もチャレンジできた」と笑顔を見せる成田氏。

佐賀県佐賀市次回の「CUISINE SAGA」は6月30日に予定。

次なる夢の饗宴は、6月30日に予定されています。
果たしてどのようなスターシェフが招聘され、佐賀の食材や器とのコラボレーションを果たすのかご期待ください。

Data
さがレトロ館

住所:佐賀県佐賀市城内2丁目8−8 MAP
電話:0952-97-9300
https://useumsaga.jp/

1976年愛知県名古屋市生まれ。料理人になることを見据えてフランス・リヨン留学後、フランスと日本で経験を積み、21歳から16年間、世界一星を持つフレンチの巨匠ジョエル・ロブションに師事。2003年、ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション 六本木ヒルズ店にて、26歳でエグゼクティブシェフに抜擢される。その後、ラスベガス、ニューヨーク、台湾、パリでの新店舗立ち上げの総料理長として陣頭指揮を振るい、巨匠の右腕として、レストランビジネスの研鑽を重ねた希有な経験を持つ料理人となる。2015年独立のため帰国し、自身のラボラトリー兼オフィス「SUGALABO Inc.」を東京・神谷町に設立。様々な地域・分野でのクリエーション活動を行う傍ら、限られた時間のみ会員制レストランとして世界の美食家に料理を提供している。

1年中花火。2018年は18回も開催。[熱海海上花火大会/静岡県熱海市]

熱海の夜景と花火。

静岡県熱海市ゆったりと温泉を楽しんだ後のお楽しみ。

熱海といえば日本有数の温泉地です。そしてもうひとつ、近年特に注目され定番になりつつあるのが『熱海海上花火大会』です。実は熱海の花火の歴史は古く、1952年より始まり2018年で66年目となります。この花火大会はほぼ毎月、年間を通して開催されています。2018年は実に18回もの開催が予定されているのです。担当は地元静岡県の煙火業者イケブンさん。熱海の花火の開始時間は少し遅めの20時20分からです。この開始時間は年間通して変わりません。夏も冬も同じです。その大きな理由は、この花火大会が熱海温泉に宿泊するお客様に楽しんで頂くための花火だからです。温泉にゆっくり浸かって温まり、美味しい夕食を済ませた後、就寝までの寛ぎのひと時に花火を楽しんで頂こうという趣向になっているからです。最近は『熱海海上花火大会』を目的に宿泊される方も多いとうかがいます。

『熱海海上花火大会』の見所のひとつデジタルスターマイン。

静岡県熱海市会場全体が劇場のような立地。

熱海湾の海岸線沿いにはリゾートホテルや旅館、民宿などが立ち並びます。それら宿泊施設の正面に見える沖合の堤防が花火打上場所となります。巨大な劇場を想像して頂けたらわかりやすいかもしれません。花火開始が近づくと各ホテルの看板のネオンサインや客室の灯りが消えてゆきます。メイン会場となる親水公園のヨットハーバーの灯りも花火開始のカウントダウンとともに消され、真っ暗になった夜空にオープニングの錦冠菊のスターマインが華やかに打ち上がります。宿泊施設の窓から観覧するのも良いですが、花火を間近に体感したいのなら親水公園での観覧をお勧めします。

打上場所に近い親水公園で観覧すれば大迫力の花火が楽しめます。

静岡県熱海市息もつかせぬデジタルスターマインから大空中ナイアガラへ。

緩急をつけながら進行してゆく『熱海海上花火大会』ですが、中盤では瞬き厳禁の瞬間が訪れます。それがデジタルスターマイン。イケブンさんの真骨頂です。目まぐるしく打ち上がる花火は必見です。他にも注目してほしい花火があります。『熱海海上花火大会』では毎回見られますが他ではなかなか見られない花火、それが連星です。落下傘に吊り下げられた連星は滞空時間が長く、いつまでも夜空にとどまります。『熱海海上花火大会』では約5mのロウソクをイメージしたような連星を見ることができます。このような花火を吊り物といいます。
エンディングは「大空中ナイアガラ」と名づけられた銀冠菊のワイドスターマインが夜空いっぱいに広がります。

連星を写真に撮るとこうなります。

エンディングに打ち上がる「大空中ナイアガラ」は銀冠菊のワイドスターマインです。

Data

熱海海上花火大会

日時:2018年7/27(金)・7/31(火)・8/5(日)・8/8(水)・8/19(日)・8/24(金)・8/30(木) 20:20~20:50 
場所:〒413-0014 静岡県熱海市渚町地先 親水公園 MAP
熱海市観光協会ホームページ
https://www.ataminews.gr.jp/event/8/

※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。

1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751

移住者ならではの視点や発想で、ここをもっと魅力的な街に。[TSUGI/福井県鯖江市]

鯖江市に移住し、事務所を構えた『TSUGI(ツギ)』の新山氏。

福井県鯖江市

眼鏡をはじめ、越前漆器や繊維などの産地として名高い福井県鯖江市。その中心部から約10kmの東部に位置する河和田地区を拠点に活動するのが、デザインディレクターの新山直広氏が率いるクリエイティヴカンパニー『TSUGI(ツギ)』です。後編では、河和田地区の魅力や、新山氏がこの地へ移住した理由、『TSUGI(ツギ)』の軌跡と今後のビジョンなどについてお話をうかがいました。(前編はコチラ

鯖江市で唯一、中山間地の指定を受けている河和田地区。

福井県鯖江市伝統を受け継ぎながら、変化し続けるものづくりの街。

鯖江市は福井県内で最も小さな市。しかし、約1500年の歴史を持つ越前漆器をはじめ、繊維などものづくりの街として栄え、近年は国内唯一の眼鏡づくりの産地としても全国に知られています。そんな鯖江市の一角にある河和田地区は、三方を山に囲まれた中山間地。約4,200人が暮らすこの小さな集落です。

この地には、かつて全国の半数を占めたと言われるほど多くの漆掻き職人が居住。彼らは漆の樹液を求めて行脚する中、各地で得たさまざまな文化や最先端の情報も持ち帰りました。それらを巧みに取り入れることで、河和田は独自の文化を醸成してきたと言われています。
「そういった歴史からか、河和田地区を含め鯖江市は、比較的チャレンジへの抵抗が少ない街だと感じます。いつの時代でも、世の中の流れや生活様式の変化に合わせたものづくりを工夫して、アップデートすることで残り続けてきた街なんですよね。編集力だとか粘り強さだとかはこの街の誇りであり、今度もっと伸ばしていくべきところだと感じています」と新山氏。

例えば、伝統的な漆器の分野においては、美術品ではなく日用品として需要の高い、安くて軽くて丈夫な器づくりにシフト。OEM産地としてシェアを拡大してきました。ところが、近年は伝統産業全体が衰退し、今までのやり方では通用しなくなりつつある……。すると、今後は新たな一手として、漆器の技術を応用した木製雑貨ブランドも誕生するなど、少しずつ新たな動きが起こり始めています。

また、ものづくりにおいてだけではなく、最近は街づくり全体で新しい取り組みに積極的。経済誌『Forbes Japan』(2017年6月号)が選ぶ『日本のイノベ―ティブシティ』では、全国4位にランクインしています。のどかな風景が広がる一方、昔から根付く精神に基づき、現在進行形で変わり続けようとする動きが、ここ数年で特に活発化しているのです。

豊かな自然と共生し、今も多くの職人が暮らします。

変化を恐れず、移住者の受け入れにも積極的。

福井県鯖江市大学時代の多彩な経験を通して切り拓かれた未来とは。

新山氏は、大阪府吹田市生まれ。鯖江市とは真逆の、新興住宅地で育ちました。高校卒業後は京都精華大学へ進学し、建築を専攻。「純粋な建物の建築だけではなく、プロダクトデザインから、まちづくりや都市計画、ファッションデザインまで、とにかく色々学びました。様々な考え方に触れアイデアの幅を広げられたことが、今につながっています」と新山氏は振り返ります。

そして大学4年生となった2008年、所属するゼミの片木孝治准教授が主催する『河和田アートキャンプ』に参加したことが、新山氏の転機になります。『河和田アートキャンプ』とは、夏休みの1ヵ月間、県内外から集まった大学生たちが河和田地区に住み込みで行うプロジェクト。職人をはじめとした地元住民と交流しながら、豊かな地域資源である地場産業や自然環境を有効活用したアート的事業を展開します。

この時に初めて河和田を訪れた新山氏は、大きなカルチャーショックを受けたと言います。「いわゆるニュータウンで生まれ育ったので、田舎ならではのコミュニティに身を置くのが面白かったですね。活動拠点の古民家に地元の小学生たちも集まってきて一緒に寝泊まりしたり、夜になると職人たちと一緒にお酒を飲んだり。職人は怖い人という自分の中の偏見もすっかりなくなりました」と新山氏。

また、当時は建築家を目指していたものの、新山氏曰く「全国の有名な建築物を見に行くと、閑散としている場所も多くて。どんなに素晴らしい建築でも、活用されないと意味が無いなと感じました。と同時に、リーマンショックの煽りで不景気真っ只中の今、建築家として社会に出て新しい建物を作ったところで、果たして意味があるのだろうかと。正直迷っていました」。

そんな中『河和田アートキャンプ』に参加し、新しい場を作るのではなく、そこにあるものを使って、新たな価値を創造していくというものづくりを経験。そこで考えが変化し、新しく建物を生み出すことよりも、今ある地域のものをどう活用していくかを考える、コミュニティデザインに興味が移りました。

その後、ゼミの准教授が新しく鯖江市で地域デザインの会社を立ち上げることに。一緒にやらないかと誘われた新山氏はその話を受け、大学卒業と同時に鯖江市へと移住することになったのです。

『河和田アートキャンプ』の活動拠点となる古民家。

毎年、京阪神を中心に約60名の大学生が参加。

学生たちは、地域住民と共に様々な活動を行います。

若い感性で、様々なアート作品が生まれています。

福井県鯖江市移住者第一号として暮らし始めた鯖江市で待ち受けていたもの。

大学を卒業した2009年の春、ゼミの准教授が設立した『株式会社応用芸術研究所』に就職し、立ち上げメンバーとしてひとりで鯖江市へと移住した新山氏。「鯖江市は今でこそ移住者の多い街になりましたが、当時は誰もいなくて。築120年の古民家での一人暮らしは想像以上に孤独で辛く、1ヵ月で心が折れました(笑)。でも、早く地域に馴染むために壮年会に入れてもらって。街の神事の手伝いなど、地域活動に積極的に参加する中で、次第に溶け込んでいきました」と新山氏は話します。

当時の新山氏の主な仕事は、漆器産業の市場調査。職人の工房や問屋を回って産地の現状を、県外の百貨店やセレクトショップを回って市場動向を調査しました。「職人たちは熱意と誇りを持ってものづくりをしているものの、やはり年々業績は悪化し、後継者もいないなど、ネガティブな話ばかりが目立ちましたね。それに、実際漆器の売り場を見に行っても、全然取り扱われていなくて。この現状をなんとかしたい!と強く思いました」と新山氏。そこで思案した結果、正しく魅力的な伝え方、見せ方で職人の声を代弁すると共に、最終的にきちんと商品を売ることまで考えられる、産地特化型のデザイナーになることを決意したのです。

それからは、仕事が終わった後に独学でデザインの勉強を続けた新山氏。2年が経過し、本格的にデザイナーとして転職を考え始めた頃、行政のデザイン業務を担当する嘱託職員にならないかと声がかかります。当時はちょうど、鯖江市を眼鏡の街として盛り上げていこう!と市が動き出したタイミング。市長の「行政は最大のサービス業であり、今までデザイナーがいなかったのはおかしい。行政こそデザインが必要だ」という考えの下、新山氏に白羽の矢が刺さり、市役所の商工観光課で、デザイナーとして働くことになったのです。

壮年会のメンバーとなり、次第に溶け込んでいきました。

河和田地区の夏祭りの実行委員も務めています。

移住者を含めた強固なコミュニティも河和田地区の魅力。

福井県鯖江市若手移住者たちのユニットとして始まった『TSUGI(ツギ)』の躍進。

市役所では、眼鏡職人のPRサイトや、イベントのチラシ制作などを行っていた新山氏。そんな折、河和田地区にも徐々に移住者が増加。新山氏と同じく大阪府出身、京都精華大学の在学中に『河和田アートキャンプ』に参加し、この街の魅力に惚れた後輩たちが、後を追うようにやって来たのです。それぞれ、木工職人や眼鏡職人に弟子入り。ものづくりに携わる同世代が増えてきました。

ところが活気づく反面、皆が持っていたのが、地場産業が低迷する中で、10年後も自分たちが携わる産業は残っているのかという不安。同時に、この地に暮らす若者として、今から未来に向けてできることがあるのではないかという思いでした。そこで、「10年後、産地の担い手となれるように」と、2013年6月に『TSUGI(ツギ)』を設立。皆本業を持ちながら、ユニットとして活動を始めました。

1年目のテーマは、拠点作りと仲間作り。まずは錦古里漆器店に提供してもらった1階スペースを4カ月かけてセルフビルドで改装し、現事務所となる『TSUGI Lab.』を構えました。この空間で、ワークショップやトークイベントを開催。すると、福井県中から、新山氏らと志を同じくする若者たちが集まったと言います。

土台が出来て2年目は、1年目に出会った作家のプロダクトを各地の展示会やマーケットへ出品したり、コラボレーションイベントを開催したりと、福井県のものづくりを伝え広める活動を展開。特に、2014年6月に福井新聞と協同で開催した『FUKUI FOOD CARAVAN』は、『TSUGI(ツギ)』の方向性やスタイルを確立するきっかけになりました。福井の食を再発見するというテーマの下、企画・演出から空間構成まで総合的にプロデュース。参加者は漆器の器や木彫りのスプーン作りを体験した後、使われていなかった温室を利用したレストラン空間で伝承料理を味わえるという催しでした。

こうした、地元に根付きつつ型にはまらない、斬新なアプローチは大好評。参加者の多くが福井県民だったものの、会場には地元の魅力を再発見できたという驚きと感動の声が響きました。その反応を見て、「地域の資源を見出し、独自の表現や魅力的な伝え方を考え、実行していくことこそ、自分たちのやるべきことだと確信が持てました」と新山氏。そして3年目となる2015年に、新山氏は市役所を退職。『TSUGI(ツギ)』を法人化して本格的に活動し始め、現在に至ります。

設立と共に場所作りも開始。4ヶ月かけてセルフビルド。

『FUKUI FOOD CARAVAN』の実行メンバー。

空き温室をレストランに見立てて活用しました。

器作りを体験し、伝統食材を使った料理を堪能。

福井県鯖江市受け入れることと発信することを強化し、さらに魅力的な街へ。

新山氏の活躍もあって、現在鯖江市河和田地区への移住者は70人程に増加。移住第一世代が農業に携わる人だとすると、第二世代は職人やデザイナー。そして今、第三世代として、農家でも職人でもない、いずれにも属さない人が増えていると言います。「今までとは違う目的で移住する人が増えるということは、街の武器が増えるということ。ものづくりを軸にしながら、こうした“じゃない人”をどう増やすかが、今後の課題だと思います」と新山氏は語ります。

また、新山氏には「『RENEW』の拡張版として、県外からの訪問者を通年で受け入れられる土壌、例えば宿のような施設を作りたい」という思いも。並行して、「『SAVA!STORE(サヴァ!ストア)』の拡張版として、ショップ兼観光案内所のような場所も作りたい」と話します。

魅力溢れる創造的な産地づくりを目指して。未来を見据えた『TSUGI(ツギ)』の挑戦は、まだまだ続きます。

Data
TSUGI

住所:〒916-1222 福井県鯖江市河和田町19-8 MAP
電話: 0778-65-0048
営業時間:9:00〜18:00
定休日:土曜・日曜
http://tsugilab.com/

1985年大阪府生まれ。京都精華大学デザイン学科建築分野卒業後、2009年に福井県鯖江市へ移住。株式会社応用芸術研究所にて越前漆器の産業調査を担当した後、鯖江市役所に入庁。デザイナーとして地場産業の広報・販促物の制作を担当しながら、在職中の2013年に『TSUGI』を設立。2015年に法人化し、以降は代表兼デザインディレクターとして、地域や地場産業のブランディング、コンサルティングなどを幅広く手がける。

蒸留所は只今工事中! その間に始まった新たなプロジェクト。[mitosaya 薬草園蒸留所/千葉県夷隅郡]

夢が着々と形になっていく。新たな挑戦は、まだ始まったばかりだ。

千葉県夷隅郡今だからできた、今だからやりたかった。それが『苗目』。

まだまだ蒸留所は工事中。
しかし、江口宏志氏の活動は、常に前へ進んでいます。
そして今回、江口氏が案内してくれたのは『mitosaya 薬草園蒸留所』ではありませんでした。
新たにスタートした、「ナーサリー」です。
このプロジェクトもまた、出会いやご縁、タイミングなど、様々な偶然が重なり、形成された場所だったのです。

「ここは、『GRAND ROYAL green』の井上隆太郎さんと始めました」と、江口氏。
井上氏とは、千葉県鴨川市大山千枚田を拠点にハーブやエディブルフラワーを生産するボタニカルの作り手。東京の一流レストランからホテル、バーなどにそれらを提供し、注目を集めている人物です。『mitosaya 薬草園蒸留所』の植物をケアしているのも、実は井上氏なのです。
このプロジェクトの名は、『苗目』。今回設立した農業生産法人(農地所有適格法人)の名前でもあります。
「苗」を「目」覚めさせるような美しいネーミングと思いきや、「目の前にあったバス停の名前からつけました」とシンプルな応え。それもまた江口氏らしいです。

大枠が見えてきたものの、蒸留所はまだまだ工事中。これからどうなるか!

「これはこんな味、これはこんな香り」など、植物の話が尽きないふたり。

ビニールハウスを行き来する江口氏。その背中は、蒸留家なのか農家なのか!?

ビニールハウスに植えるために用意した苗。この苗が立派に育つ日が待ち遠しい。

この地域を示したサインもとい、バス停。プロジェクト名は、この地名から。

千葉県夷隅郡全て植物がつないでくれた。夢と未来を語れる友との出会い。

『苗目』の驚くべき点は、その規模と面積です。約1,500坪の敷地に8棟のビニールハウス。ここは、今まさにまだスタートしたばかりのそこは、まさにこれからスタートする「ゼロ」の場所。
土を耕すところから始める作業は、重労働かつ同じ作業の繰り返し。ですが、そこには、このハウスいっぱいに花を咲かせるということに夢を膨らませる笑顔に溢れていました。
「未来のことばかり話している」と、江口氏と井上氏は笑いながら話します。

江口氏と井上氏の出会いは、江口氏のドイツ帰国後にまで遡ります。
「ドイツから帰ってきて、西新宿のバー「Bar Benfiddich」でテイスティングイベントをやっていました。開催した時に井上さんが来てくださって。最初の出会いはそこでした。以前より、植物でおもしろいことをやっている人(井上さん)がいるという噂は聞いていて、いつかお会いしてみたいという気持ちがあったので良いご縁でした」と江口氏。
その後、井上氏の畑を見せてもらうために、江口氏は鴨川を訪れます。
「畑を見た後、勝手に家に泊まっていきました(笑)」と冗談交じりに話す井上氏。
「勝手に泊まっていませんから(笑)。その時、実は物件に悩んでいて。今の大多喜の場所にするか別の場所にするか。確かその日も大多喜の下見の後に井上さんのところへ足を運んだことを覚えています」と江口氏。「今の大多喜の場所にした理由はいくつかありますが、そのうちのひとつは井上さんの存在。井上さんとの出会いは大きかったです」と言葉を続けます。

ハウスの中では「これも香ってみてください。これも食べてみてください」と花や葉を取材班に差し出してくれました。そのどれもが豊かな香りを放ち、味も美味しいのです。
ナスタチウム、ミント、ボリジ、ソサエティガーリック、マロウ、コリアンダー、レモンバーム、コーンフラワー、カモミール……。
まだまだ土の面積が多いそこは、まさにこれからの場所。しかし、それでも咲いている花々は、ふたりに希望を与えてくれます。

「近い将来は、土が見えなくなるくらい緑いっぱいにして、もっと花が咲いて……」とふたりは話します。
これらがボタニカルブランデーと相性が良いのは言うまでもありません。『苗目』で育った植物が『mitosaya 薬草蒸留所』に起用される日は、そう遠くない未来かもしれません。

どんな植物を育てていくかをパートナーの井上氏と話す江口氏。夢のハウスまであとわずか!?

荒れた土をイチから耕してふかふかの土に。それを手で確かめる江口氏。

敷地面積は約1,500坪! ビニールハウスは全部で8棟! これからの『苗目』に期待が高まる!

千葉県夷隅郡まだある!? 増えた拠点はひとつだけではなかった。

今回、新たにスタートした『苗目』のプロジェクト。
前出のとおり、約1,500坪、8棟のビニールハウスを有する規模も圧巻だが、驚くべきはこれだけではありませんでした。
「実は、もう1ヵ所ご案内したい場所があるんです」と江口氏。案内された場所は、なんと山!
その面積は「正直よくわからない(笑)」。
取材班のなぜ?という問いに「山が好きだから!」と答える井上氏に対して、苦笑いの江口氏。ふたりの息はピッタリ!?のようです。

「目的は、植物採取です。ビニールハウスでは人工的に育て、供給も安定できます。天災に左右されることも少ないですが、やはり自然の中で育った植物は美しい。杉ばかりの山が多い中、この山はたくさんの植物が生えており、中でも梅は100本もあるんです。それだけでも自然の価値は高いと思いました」とふたりは話します。

山を登りながら江口氏がすることは、やはりいつもの行動。
葉をちぎっては匂いを嗅ぎ、口にし、植物を確かめ、自然と対峙します。
今後巻き起こる『mitosaya 薬草園蒸留所』と『苗目』のパラレルワールドはいかに!
乞うご期待です。

山に自生する植物を採取し、香りや味を確かめる江口氏。

周囲には何もない。広大な山の敷地には、数多くの植物が生えている。

例え山奥でも気になる植物がある方へ、無意識に足が向く江口氏。

山から採取した植物の数々。やはり特徴的なのは、一つひとつ異なる豊かな香り。

千葉県夷隅郡番外編! 取材時に触れた、江口家の温かさと美味しい時間。

今回、我々取材班が訪れたのは某日の午前中。お昼を挟む時間帯だったのですが、江口氏の奥様の祐布子氏が手料理を振る舞ってくれたのです。

その日はちょうど、建築チームも現場入りしており、皆で手料理を頂くことに。
「ついたくさん作りすぎちゃうんです(笑)」と言う祐布子氏の手料理は絶品!
パスタはもちろん、自家製のお漬物やポテトサラダも美味しく、圧力鍋で調理したというイワシのアンチョビオイル漬けは骨まで食べられる柔らかさです!

しばし仕事を忘れ、和気藹々と世間話も交えながら、和やかな時間を過ごしました。
手料理はあっという間に完食。本当に美味しかったです。

大きなプロジェクトを成功させるには、ひとりの力ではできません。

今回、建築に携わる方々、植物に携わる方々、そしてもちろん家族の方々にも触れることができましたが、きっともっと多くの方々の力があって『mitosaya 薬草園蒸留所』は成り立っているのだと思います。

ランチ中は、しばし仕事を忘れて団欒のひと時を過ごし、会話も盛り上がった。

お皿いっぱいにあったトマトパスタも完食! 美味しいものはチームの結束を強くする!

お漬物やポテトサラダも自家製。もちろん食後は、仕事にも熱が入る!

骨まで柔らかいイワシのアンチョビオイル漬け。レストラン顔負けの味。

Data
mitosaya

住所:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜486 MAP
http://mitosaya.com
info@mitosaya.com

美術館に飾るような器で食事を楽しむ、“予約の取れないレストラン”が復活。[USEUM SAGA/佐賀県佐賀市]

人間国宝の青磁作家・中島宏氏の器に盛られた和魂洋才五膳のメイン。

佐賀県佐賀市名品が食卓に並ぶ、型破りな企画が実現。

明治維新150年を記念して、佐賀県内各地で開催されている「肥前さが幕末維新博覧会」。そのなかでも、「美術館(MUSEUM)」に飾るような器を使って(USE)佐賀の食材をふんだんに使った料理を楽しむ維新(これあたら)なるレストラン」をコンセプトとした「USEUM SAGA」は、佐賀の文化や食を余すところなく体験できる企画として人気を集めています。

その企画の象徴ともいえるのが、「CUISINE SAGA」。国内外のトップシェフを招き一夜限りで開催するクリエイティブなディナーは、その希少性も相まって毎回プレミアムチケットと化しています。

そのプレミアムなディナーと同じく、実は「USEUM SAGA」 のデイリーメニューも、〝陶磁器王国・佐賀〟の名に違わぬ注目すべき存在です。

もともと、「USEUM SAGA」のルーツは、2016年、有田焼創業400年事業として、期間限定で開催されたポップアップレストランにあります。
発案者は佐賀県立九州陶磁文化館の鈴田由紀夫館長。
鈴田氏の「普段はガラス越しでしか見られないような名品で食事ができたら面白いよね」という一言から生まれた企画。鈴田氏はそのレストランで、県内で活躍する人間国宝の作家や、「三右衛門」と呼ばれる名門窯の器を使い、料理を提供しようと発案します。

これは普段、伝統工芸品を保存・管理している立場の人間が発案したとは思えない型破りなアイデア。学芸員時代からユニークな企画展を数多く発案してきた鈴田氏ならではの名陶を五感で味わう企画は大きな話題となり、〝予約の取れないレストラン〟とまで呼ばれたのでした。

そのレストランが今回、「CUISINE SAGA」の舞台でもある「さがレトロ館」にて復活。この場所でしか出会えない名品とともに、佐賀の食材をふんだんに使った料理が、2019年1月14日まで楽しめます。

さがレトロ館のエントランスに設置されたサイン。ロゴマークは美術館と器をモチーフとしている。

アーチ型の大きな窓や高い天井など、モダンな様式が当時を偲ばせる。

4月、「アジアのベストレストラン50」にて4連覇を達成したガガン・アナンド氏、同リストにランキングの福山剛氏を招き開催された「CUISINE SAGA VOL.02」。フードプロデューサーの大塚瞳氏、ファッションデザイナーの森永邦彦氏を交え、料理、空間、ファッションで〝桜〟を表現した。

普段はウェディング式場やレストランとしても利用されている、さがレトロ館。給仕もクラシックスタイルで。

佐賀県佐賀市人間国宝から三右衛門まで、佐賀の器を味わい尽くす。

「USEUM SAGA」では、器と料理それぞれで趣向の異なる4つのメニューを用意しています。なかでも、佐賀県立九州陶磁文化館で行われたレストランのコンセプトをそのまま受け継ぐフラッグシップといえるのが「和魂洋才五膳」です。5つの膳に使われる器は、人間国宝の井上萬二氏、中島宏氏、そして人間国宝で佐賀の歴史ある名窯で「三右衛門」と呼ばれる今右衛門窯の十四代今泉今右衛門氏の作品に加え、「三右衛門」の有田の柿右衛門窯、唐津の中里太郎衛門陶房とまさに名品揃い。

そしてその器に盛る料理を監修するのは、佐賀県白石町で「農家の厨 野々香」を営む小野智史氏です。小野氏の実家は代々農業を営む家系。日本を代表する料亭での修行を経て〝野菜の香りを感じる料理〟をコンセプトとした料理屋を開きました。店があるのは、家族らが野菜や米を栽培する田園地帯の真ん中。まさに料理界の潮流である〝farm to table〟そのもの。4月に行われた「世界料理学会in HAKODATE」でも登壇するなどいま注目の気鋭の料理人です。

普段から野菜本来の美味しさを引き出すために心を砕いている小野氏。「和魂洋才五膳」でも、「味が濃厚でこれを食べたらほかのトマトが食べられない」と惚れ込む佐賀市川副町の「光樹トマト」を三杯酢のジュレとともに提供したり、さがレトロ館の館長の藤瀬仁郎氏の畑で栽培した採れたての野菜に、白石町産玉ねぎをたっぷりと使ったフレンチドレッシングをかけたりと、野菜の滋味がしっかり楽しめます。

「和魂洋才」には洋のコース「和魂洋才コース」も設けられ、こちらの料理はさがレトロ館の人気のコースを「USEUM SAGA」仕様にアレンジ。そして器は五膳とは一転、統一感のある洋皿となっています。これは明治期の社交の華ともいえる「鹿鳴館」の饗宴を彩った「精磁会社」の器を完全復刻したものです。「精磁会社」は、わずか10数年の活動期間のなかで、卓越した伝統技術と欧米の最先端技術を融合させた器を作り出し国内外で人気を博しました。その驚くほど精緻な線描きを蘇られるのは至難の技で、「アリタポーセリンラボ」の腕利きの職人たちが何年もの歳月をかけてようやく形にすることができた逸品です。

「農家の厨 野々香」の小野智史氏。世界料理学会へ参加したことで、佐賀の食材や生産者への興味がいっそう高まったという。

和魂洋才五膳(3,500円)。「佐賀の食材の美味しさを出来るだけダイレクトに楽しめるように心がけました」(小野氏)

佐賀産のパプリカやナスを敷き野菜にしたサーモンのアーモンド揚げ。器は人間国宝・井上萬二氏の白磁青海波文。

佐賀牛を出汁とともに低温で2時間かけて調理したローストビーフ。佐賀鍋島藩の武士道〝葉隠〟をほうれん草のチップで表現した。器は人間国宝・中島宏氏のやわらかな色味の青磁。

和魂洋才コース(3,500円)。器はすべて「精磁会社」復刻の色絵竹文シリーズで統一。

色絵竹文豆型皿に盛られた呼子イカのムースと旬の野菜添え。

佐賀牛を真空調理し、その柔らかく豊かな旨みを閉じ込めた。

佐賀県佐賀市明治期の食の光景を器で追体験する。

「USEUM SAGA」では有田の窯元に特注した、明治を感じるオリジナルの器を使ったメニューも用意されています。

まず、鍋島家のお膝元、佐賀らしさを感じるのが「はがくれコース」の杏葉紋の器。〝杏葉紋(ぎょうようもん)〟は佐賀を治めていた鍋島家の家紋のこと。明治から大正にかけて香蘭社にその家紋を図案化した器を作らせていた歴史があり、その図案を鍋島家15代当主の承諾を得て、今回新たに誂えたのでした。

また、志士リアンライス、そして偉人カレーには赤濃金彩唐草紋の洋食器を使用。この赤濃金彩唐草紋は明治期に流行した、文化の移行期ならではの絵柄。それまでの有田焼では呉須と呼ばれる青い顔料で線を描くのが主流だったのが、維新以降は西洋への憧憬もあいまって、呉須の替わりに赤絵を使いその上に金彩を施した豪華で気品のある絵柄がもてはやされたのでした。その絵柄を現代風にアレンジし、この特別なコースのために用意したのです。

その器に盛られるのは佐賀らしさを感じる2つの軽食メニュー。

そのひとつが佐賀のご当地グルメ、シシリアンライス。約40年ほど前に佐賀のイタリアンのシェフがまかない用として作り出したといわれ、ご飯の上に肉とサラダをのせマヨネーズをかけたワンプレートスタイル。さがレトロ館の通常のメニューでも1、2位を争う人気があり、今回のイベントにあわせ食材やアレンジを見直し〝志士リアンライス〟として提供しています。

そして実は、玉ねぎの産地として有名な佐賀はカレールウ消費量日本一にもなったことのある〝カレー県〟。デイリーメニューでは「CUISINE SAGA」で訪れたトップシェフなどが監修する〝偉人カレー〟もメニューに加えています。

内容は月替りで、現在は佐賀出身で「CUISINE SAGA VOL.01」に登場した吉武広樹氏監修の「ありた鶏と赤パプリカのココナツカレー」を提供中。カレーのキモとなる赤パプリカやトマト、前菜で使う根菜までほとんどを佐賀県産でまかなうなど、佐賀出身の吉武氏ならではの郷土愛溢れる一皿となっています。

また、各コースや料理にプラス500円で付けられるデザートと嬉野茶のセットも見逃せない内容。お茶は人間国宝や三右衛門窯のいずれかの湯呑に注がれ食後のひとときをいっそう優雅なものに。お茶自体も国内外から注目される嬉野の茶師・松尾俊一氏が手がける5つの茶葉から選べるのも嬉しいところです。

はがくれコース(3,000円)。メニューは食材によっても変動。この日のメインはさくらポークのヒレ肉のカツとサーモンのムース。パンは自家製の米粉パン。

志士リアンライス(1500円)。〝サラダボール〟と称されるほど栄養豊富で種類豊富な野菜の産地・佐賀を感じる一品。

吉武広樹氏監修の「ありた鶏と赤パプリカのココナツカレー」(2,000円)。水を一滴も使わず、赤パプリカとトマトの水分のみで甘く、まろやかなカレーに仕上げた。佐賀県武雄の江口農園のパクチーをお好みで。

パリの「Restaurant Sola」でのミシュラン1つ星獲得をはじめ、若き才能を発掘する日本最大級料理人コンペティション「RED U-35」グランプリ獲得など、世界から注目される吉武広樹氏が〝佐賀らしいカレー〟を考案。

「偉人カレー」の第一弾として提供されていた、「シェ・イノ」の古賀純二氏監修の金星佐賀豚のカツカレー。

和のデザートは約5種類の国産豆をほんのりとした甘さに煮込み、寒天を散らしたもの。

洋のデザートは、黒米の古代米を粉末状にし、生地とクリームに練りこんだ風味豊かなロールケーキ。

佐賀県佐賀市佐賀の陶磁器の歴史を凝縮したようなダイニング。

和魂洋才五膳をはじめ、「USEUM SAGA」のデイリーメニューで感じるのは、陶磁器の郷・佐賀の底力。長い歴史に育まれ技術を磨かれてきたからこそ、時代ごとに食まわりのシーンで必要とされ、名品を生み出すことできたんだなと思います。

「肥前さが幕末維新博覧会」を訪れた際はぜひさがレトロ館にも立ち寄って、佐賀の器、そして食の豊かさを体験してみてください。

さがレトロ館を舞台とした「USEUM SAGA」は2019年1月14日まで開催される。

Data
さがレトロ館

住所:佐賀県佐賀市城内2丁目8−8 MAP
電話:0952-97-9300
https://useumsaga.jp/

「新しい日本文化の創造」をコンセプトに、デザインの力で伝統を復興。[SOU・SOU/京都府京都市]

企画・デザイン・スタイリングまで全て自社で行ない、染・縫製・製造も日本の伝統を受け継ぐ職人や工場と提携。

京都府京都市昔ながらの技術を活かしたモダンなアイテム。

カラフルでハイセンスなスニーカー? それともブーツ? そう思いきや、これはなんと地下足袋(じかたび)なのです!
「大工さんの仕事靴」というイメージが強い質実剛健なアイテムを、ポップなテキスタイルデザインでモダンなシューズにアレンジ。若者から海外の人々にまで大人気で、伝統×ファッションの可能性を広げています。
この『SOU・SOU足袋』を生み出したのは、日本の四季や風情をポップに表現したテキスタイルデザインを製作する京都のブランド『SOU・SOU(そう・そう)』。「新しい日本文化の創造」をコンセプトに、伝統的な素材や技法を積極的に用いながらも、現代のライフスタイルに寄り添うものづくりを展開。地下足袋のほかにも和服・和菓子・家具など、多岐にわたるアイテムを製作・販売しています。

ラインナップの1つである「高砂足袋いろは底」。日本の履物の最高傑作とも言える地下足袋を、現代のセンスで生まれ変わらせた。ソールには“いろは”が刻まれている。

ルコックスポルティフやパナソニック、カルビーなど、様々な分野の企業ともコラボレーション。日本のテキスタイルデザインの可能性を広げている。

京都府京都市日本のアパレルとテキスタイルに真のオリジナルの風を。

SOU・SOUの始まりは、コム・サ・デモード等で知られる株式会社ファイブフォックスを経て独立した代表の若林剛之氏と、建築家の辻村久信氏、テキスタイルデザイナーの脇阪克二氏との出会いがきっかけでした。
流行に流されないものを作ることに意欲を持っていた若林氏は、ベーシックな形のものに、モダンで普遍的なテキスタイルデザインを施せば長く愛用してもらえる商品が生み出せると考えており、志を同じくしたこの三者でインテリアや小物をメインにしたショップを立ち上げました。そのショップがSOU・SOUの前身となります。

左から若林剛之氏、脇阪克二氏、辻村久信氏。それぞれの職能を生かしてブランドを立ち上げる。

「SOU・SOU」の名の由来は、日本人がよく使う相槌「そうそう」。相手を肯定して良さを見出す姿勢は、ブランドコンセプトにも通じる。

京都府京都市伝統の素材や技術を大切に、機能や形は現代のライフスタイルに合わせて。

SOU・SOUのこだわりは「全て日本製であること」。企画やデザインはもちろんのこと、染・織・縫製に至るまで、全て国内で完結させています。日本のアパレルは企画・デザインは国内で行なっていても、製造は海外に委託していることがほとんどですが、SOU・SOUは技術と質を極めたMADE IN JAPANのファブリックを活かしたものづくりにこそ、価値があると考えました。

伝統織物である、『伊勢木綿』や『高島縮』などの日本の気候・風土に合う優れた生地。それらを積極的に取り入れ、デザインとテキスタイルの力で現代のライフスタイルにマッチさせています。

「SOU・SOU着衣(女性衣類)」。合わせ衿や小袖など着物の風情はそのままに、楽に着られて走ったり自転車に乗ったりもできるデザインと素材に。

地下足袋も伊勢木綿もSOU・SOUとのコラボで出荷量が増加。産地や工場に活気が戻った。

京都府京都市使う人には喜びをもたらし、産地や職人には新たな仕事をもたらす。

SOU・SOUのファブリックに幅広く用いられているのが『伊勢木綿』。『弱撚糸(じゃくねんし/よりが弱い糸)』を使い、織り機にかける際にデンプン糊(のり)をかけて織るため、洗濯するたびに糊が溶けて糸が綿(わた)に戻ろうとします。そのため、この『伊勢木綿』から作られた生地は、肌触りが良く、吸水性と速乾性に優れた大変心地良いものとなります。

この江戸時代から250年以上も受け継がれている伝統の技術は、現在では三重県の『臼井織布(うすいしょくふ)』ただ一軒が守り伝えているもの。それを手ぬぐい・衣類として商品展開したSOU・SOUによって、今は幅広い世代に親しまれるようになりました。

着付けが不要な進化した和装が楽しめる。

やさしい肌触りと優れた吸湿速乾性はこども服にも最適。こども衣類ブランド「SOU・SOUわらべぎ」。

京都府京都市「全てに目と手を行き届かせる」というポリシー。

SOU・SOUのオリジナリティの徹底は、写真撮影やそのモデルにまで及んでいます。
メジャーファッション誌のグラビアにもひけをとらないハイセンスなイメージフォトの数々は、なんと、全て自社内で撮影。カメラマンやモデルをはじめとして、スタイリストまでもが全てSOU・SOUのスタッフなのです。もちろんイメージコンセプトなどの企画やデザインも、全て自社で行なっています。

外部の力を借りることなく、誰よりもブランドを理解しているスタッフ達が全てをプロデュースする、というポリシー。SOU・SOUを愛し、心から誇りに想っているスタッフ達だからこそ可能なオールマイティな取り組みです。

さらにスタッフ自身がモデルをつとめることで、思わぬメリットも生まれたといいます。店舗に訪れたお客様が『ホームページやブログで見たことのある人がいる!』と親しみを持ってくれ、ネットに掲載したスタイリングについて積極的にスタッフに話しかけてくれるとのこと。そこから新たなコミュニケーションが生まれ、さらに愛されるブランドとなっているのです。「本当に良いものを自らの手でプロデュースして届けたい」というSOU・SOUスタッフの想いは、そのブランドコンセプトと共に確実に伝わっています。

プロのモデルより等身大のスタッフが着用する方がより説得力がある。

傾く(かぶく)ための紳士和服「SOU・SOU傾衣」。他人と違った身なりや自由奔放なふるまいを指す古語を体現。

京都府京都市伝統を継承しながら新たな日本文化の潮流を生み出す。

確たるコンセプトとポリシーを持つSOU・SOUは、今後もそのスタイルを貫いていくといいます。
日本の京都に根ざし、伝統を現代の暮らしにマッチさせ、スタッフ自身が愛せて、お客様にも愛される商品を作り続ける――モダンで風雅なテキスタイルの根底に流れるのは、決して変わることのない昔ながらの堅実な手仕事。時代がいくら変化しても変わらないものを大切に、手と心が行き届いた商品を発信していきます。

伸びやかな遊び心とポップな色彩の中に、日本のものづくりの精神が息づく。

京都の地から、新たな日本文化の潮流を発信。

Data
SOU・SOU

電話:075-212-8244
店舗情報:http://sousounetshop.jp/?mode=f94
※住所・営業時間・定休日は各店舗の項目を参照
http://sousounetshop.jp/

多様なプロジェクトを通して目指すのは、未来へ続く創造的な産地。[TSUGI/福井県鯖江市]

『TSUGI』の代表兼デザインディレクターの新山氏。

福井県鯖江市

眼鏡をはじめ、越前漆器や繊維などの産地として名高い福井県鯖江市。その中心部から約10km東部に位置する河和田地区を拠点に活動するのが、デザインディレクターの新山直広氏が率いるクリエイティヴカンパニー『TSUGI(ツギ)』です。前編では、『TSUGI』が手がける幅広い事業と、多彩な取り組みが地域にもたらした変化について話を聞きました。

新山氏のあらゆる想いが込められた『TSUGI』。

福井県鯖江市若き移住者たちによる、産地特化型のマルチクリエイティヴカンパニー。

鯖江駅から車で15分程走った先に広がる集落、河和田地区。ここは伝統的工芸品の指定を受けた越前漆器の産地であり、いくつもの工房が点在しています。そんな街の一角で2013年6月に結成、2015年5月に法人化されたのが、産地に特化したクリエイティヴカンパニー『TSUGI(ツギ)』です。

新山氏を筆頭に4名のデザイナーと、職人やコンサルタントといった異業種のパートナースタッフ4名で構成。メンバー全員が20代後半~30代前半であり、ものづくりの街・鯖江に魅せられて福井県外からやって来た移住者という、若きクリエイター集団となっています。

彼らが掲げるテーマは、「“次”の時代に向けて、その土地の文化や技術を“継ぎ”、新たな視点を“注ぐ”ことで、新たな関係性を“接ぐ”」こと。産地の未来を醸成すべく、デザイン事業から商品開発事業、イベント事業まで、多岐にわたり活動しています。

事務所は『錦古里漆器店』の1階に間借りしています。

メンバーは、新山氏と同世代の若手スタッフで構成。

事務所の一角にはオリジナルプロダクトが並びます。

福井県鯖江市表向きのデザインだけではなく、売ることを徹底追及したブランディング。

『TSUGI』の事務所から半径10km圏内は、越前漆器をはじめ、眼鏡や越前和紙、越前焼、越前箪笥などの伝統工芸品作りが営まれている、日本屈指の地場産業集積地。業務のベースとなるデザイン事業におけるクライアントの多くは、こうした地場産業に関わるメーカーになります。

「鯖江だけではなく全国的に見ても伝統産業は衰退していますが、まだまだ元気な会社はあります。その理由を探ってみると、やはり見せ方の違いは大きくて。どこも技術は同じく素晴らしいのに、見せ方の良し悪しで、業績に差が出てしまっているんですよね」と新山氏。デザイナーとして、そういったメーカーに寄り添いながら、見せ方の提案を行っているのです。「分離発注だと、どうしてもひずみが出てしまうから」と、ロゴからパッケージ、WEBサイト、カタログ、フライヤー、店舗であれば空間デザインまで、トータルで携わることを大切にしています。

さらに、デザインのみならず、ブランディングやコンサルティングまでも一括して請け負うのが『TSUGI』のスタイル。「産地に生きるデザイナーは、最終的にクライアントの商品やサービスをきちんと売ることまで考える必要があると思っていて。デザインとしてかっこ良ければOKではなく、価値を高め、売り上げにつながる取り組みを徹底的に考えるようにしています」と新山氏は話します。

そのため、単純に商品のパッケージデザインのみの依頼であっても、追求した結果、値段設定から提案し、販路の設計まで行うことも。OEMだけでは経営が厳しいからと、自社商品の開発を提案し、共に作り上げて成功したケースも少なくありません。見せ方から売り方までトータルプランニングする、デザイン事務所の領域に留まらないクリエイティヴで、地元メーカーを支えているのです。

これまでの制作物の一例。約95%が福井県内の仕事。

新山氏のアドバイスで生まれた『ろくろ舎』の自社商品。

福井県鯖江市自社ブランドの運営で得た売るためのノウハウを、地域に還元。

『TSUGI』はデザイン事務所としては珍しく、自社のブランド運営も行っています。新山氏曰く、「『TSUGI』を結成して早々に、自分たちは売ることまで考えられるデザイナーにならなければ!と気付いたのは良かったのですが、そのノウハウがまるでなくて(笑)。商品を作って販売する、時間をかけてブランドを構築するということがどういうことなのか、まずは自分たちでやってみて、やりながら学ぼうと思ったのがきっかけです」。

そして2013年12月に立ち上げたのが、アクセサリーブランドの『Sur(サー)』。眼鏡の素材であるアセテートやチタンを使い、ピアスやブレスレット、チョーカーなどを作っています。『TSUGI』のデザイナーが企画・デザインを行い、パートナースタッフが勤める地元の眼鏡工場で製造。「始めの頃はとにかく手探りでしたね。デザインしたものを形にしてもらうだけではなく、その後の価格設定だったり、販路開拓だったり……。周りの大人たちにやり方を教えてもらいながら、一つずつ学んでいきました」と新山氏は振り返ります。

肌にやさしく、軽さと透明度の高さに優れた眼鏡素材は、アクセサリーにするには好条件。シンプルながらも個性が光るデザインも相まって、今ではオンラインショップの他、全国のセレクトショップなど約30店舗で販売され人気を呼んでいます。さらに、現在は海外での販路を開拓している最中。「こうして自社のブランド運営で得た知識や経験を、今度はクライアントに向けて、自分たちの言葉で伝えていければ」と語る新山氏。売ることまでに向き合い、実践し続けている新山氏だからこそ、地域のメーカーからの信頼も厚いのです。

また、2017年11月には、漆の可能性を探るべく誕生した新ブランド『TOOWN(トーン)』を発表。天然塗料の漆は、樹液の精製作業によって異なる色合いが生まれ、時間を重ねるごとに透明度が増します。そういった特性に着目し、地元の漆器職人に協力を依頼。従来の伝統工芸品に捉われない技法と素材を掛け合わせた、新しいプロダクトを開発しています。第一弾は、色とりどりのブローチ。オンラインショップでの販売に加え、近いうちに美術館のミュージアムショップなどでも取り扱いが始まる予定です。

こうして、地場産業である眼鏡や漆器の素材が持つ新たな魅力を引き出し、今までにない価値を見出したことも、『TSUGI』の功績のひとつ。さまざまな角度から、産地の盛り上げに一役買っています。

『Sur』のプロダクトの材料となる眼鏡の端材。

個性が光る『Sur』のピアスやイヤリングなど。

実験的なブランド『TOOWN』第一弾商品のブローチ。

福井県鯖江市売りに行く&買いに来てもらう活動を通し、持続可能な産地へ。

『TSUGI』結成以来、デザインや商品開発事業と並び、もうひとつの柱となっているのが、イベント事業。これには、明治から戦後にかけて河和田地区には約1,500人もの漆掻き職人が暮らしており、街づくりに影響を与えていたという歴史がヒントになっています。「彼らは、和紙や刃物など地元の工芸品を売り歩きながら東方へ向かい、山で漆を採取して持ち帰っていた。同時に、道中で触れた文化や情報も地元に還元したと言われています。その話を聞いて、自分たちも同じようなことができないかな?と考えて。現代版の行商人になりたい!と思い『SAVA!STORE(サヴァ!ストア)』の運営を始めました」と新山氏は言います。

『SAVA!STORE』とは、『TSUGI』が選りすぐった鯖江市のプロダクトを中心に、福井県のこれからを担う作り手たちの逸品を販売するポップアップストア。2015年10月に東京・品川駅の『ecute(エキュート)品川』で第1回目を開催して以降、全国の商業施設で展開しています。開催後は、出品者の一人ひとりに、現場の雰囲気や客層、購入者の感想、開催地となった商業施設スタッフの意見などを細かくまとめたレポートを作成して提供。丁寧なフィードバックは、以降のものづくりや販売戦略に生かされています。

また、「売りに行くだけではなく、買いに来てもらうことも目指した」新山氏は、同時期に『RENEW』という産業観光イベントの運営もスタート。年に一度、漆器や眼鏡など、河和田地区にある様々な工房を開放し、作り手の仕事場を見て、ものづくりを体感しながら商品を購入したり、ワークショップの体験ができたりするという催しです。

「河和田で生み出される素晴らしいプロダクトを知り、買ってもらうには、実際に産地に足を運び、ものづくりの背景を知ってもらうことが何よりだと思い、こうした体験型マーケットを企画しました。当日は来場者の方々だけではなく、迎える側の職人さんたちも楽しそうで。自分たちにとっては当たり前のことでも、お客様に『すごい技術ですね!』と声をかけられると、自信につながるんですよね。外からの刺激を受けて、河和田地区内のテンションがグッと上がっているのを感じるのはとても嬉しいことです」と新山氏は話します。

2015年10月に第1回目を開催し、2016年10月に第2回目、2017年10月には『株式会社中川政七商店』と協同し『RENEW×大日本市鯖江博覧会』として第3回目を開催。小さくても良いから続けられるイベントになれば……との思いで始めたものの、初年度の1,200人をスタートに、2年目は2,000人、3年目は42,000人を動員する一大イベントへと成長しました。参加メーカーも年々増えています。

新山氏曰く、「売りに行くことと来てもらうことを両輪で捉えることが、持続可能な産地づくりには不可欠」。実際、『SAVA!STORE』や『RENEW』などのイベントを通して、鯖江市や河和田地区の認知度は向上し、地場産業は潤い、訪問者だけではなく移住者も増えました。また、『RENEW』をきっかけに、参加メーカーの内6社が直営店を開設するといった動きも。売ることや来てもらうということへの意識が芽生え、意欲が高まったことのひとつの表れとなっています。

全国各地の商業施設で展開される『SAVA!STORE』。

『ecute品川』で開催された『SAVA!STORE』は大盛況。

『RENEW』では、職人の手仕事を間近に見学可能。

職人と来場者、互いに会話を楽しむ姿があちこちに。

多彩なワークショップも開催され好評でした。

福井県鯖江市全てのプロジェクトは、創造的な産地をつくるために。

多彩な事業を展開している『TSUGI』ですが、全てにつながるコンセプトは「創造的な産地をつくる」ということ。それは、「地域の原石を見つけ、価値を見える化することで、地域の内と外に気付きを生み出すこと」であり、「時代の変化に向き合い、考え、行動できる人を増やすこと」でもあります。

「伝統産業が衰退し、ただ単にものを作れば良い時代ではなくなりました。だからこそ今、伝統を大切にしつつもそれだけに頼らず、それぞれが知恵を絞って考え、魅力あるものづくりを行い発信できる、そんな産地を創りたいんです」と新山氏は言います。そのために、共に産地に暮らすデザイナーとしてできること、やるべきことは何か? これからももっと河和田を、鯖江を、日本一魅力的な産地にするべく、新山氏の挑戦は続きます。

次回の後編では、河和田地区の魅力や、新山氏がこの地へ移住した理由、『TSUGI』の軌跡と今後のビジョンについて紹介します。

Data
TSUGI

住所:〒916-1222 福井県鯖江市河和田町19-8 MAP
電話: 0778-65-0048
営業時間:9:00〜18:00
定休日:土曜・日曜
http://tsugilab.com/

1985年大阪府生まれ。京都精華大学デザイン学科建築分野卒業後、2009年に福井県鯖江市へ移住。株式会社応用芸術研究所にて越前漆器の産業調査を担当した後、鯖江市役所に入庁。デザイナーとして地場産業の広報・販促物の制作を担当しながら、在職中の2013年に『TSUGI』を設立。2015年に法人化し、以降は代表兼デザインディレクターとして、地域や地場産業のブランディング、コンサルティングなどを幅広く手がける。

豊かな漁場と深い山を擁する食材の宝庫。国東半島を巡って出合った逸品たち。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

メモを取りながら熱心に生産者の話を聞く川田シェフ。その姿勢は地元の人々の心も動かした。

大分県国東市

2018年5月26日(土)、27日(日)に開催される『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』。開催に先立ったある春の日、川田智也シェフが国東の地に降り立ちました。目的のひとつは、本番に使用する食材探し。「直接生産者の元を訪れて話を聞き、その思いを汲み取ることで、はじめてその食材を本当に活かしきることができる」――そんな思いが滞在中の川田シェフから溢れていました。

しかし今回の訪問の目的は食材探しだけではありません。その土地の空気に触れ、歴史を学び、そこに生きる人を知る。それこそが川田シェフのクリエーションの原動力なのです。大分県を初めて訪れたという川田シェフ。そこでどんな人に出会い、どんな思いを感じ取ったのでしょうか。

海と山の距離が近く、山海の幸に恵まれる国東半島。

大分県国東市国内に名を轟かせる漁場・伊予灘の魚が市場に集まる。

「本当に素晴らしい食材です。来てよかった」滞在中の川田シェフからは、度々そんな言葉が聞こえました。
もともと川田シェフは中華料理の道を志す過程において「日本の食材を使うからには、日本料理の技法を知らなくてはいけない」との思いで日本料理を学んだ人物。食材ひとつひとつと語り合い、その魅力を持てる技術を使って引き出す。そんな「和魂漢才」の精神の元、日本的な精神と中華の技術を融合した料理を信条としています。つまり食材探求への熱意は並々ならぬものがあるのです。そんな川田シェフが言う「素晴らしい食材」という言葉には、ずっしりと重みが感じられます。

たとえば早朝に訪れた日出町と安岐町の魚市場。ここでアテンドを引き受けてくれたのは、地元国東の人気店『国東食彩ZECCO』の中園彰三氏。自身も毎日通う勝手知ったる市場へ、川田シェフを案内します。

漁場から戻った船から下ろされたばかりの、まだセリにかけられる前の魚を、真剣な目で吟味する川田シェフ。盛んにメモを取りながら、中園氏や市場関係者にも積極的に質問を飛ばします。「気になったのはこの“ミシマフグ”という魚。フグという名前ですが、オコゼの仲間のようですね。オコゼ自体は頻繁に使用する魚ですので、これをどう料理できるか挑戦してみたい」そう決意を見せる川田シェフ。日頃物静かなシェフですが、このときばかりは「未知の魚も色々ありますね」と、子供のように目を輝かせていました。

漁船から揚がったばかりの魚を品定め。ケースごとに仲買人が競り落とし、その場で販売される。

地元の魚に詳しい料理人・中園氏からレクチャーを受ける川田シェフ。

川田シェフを驚かせたのは、この地の魚種の豊富さ。豊かな海であることを物語っている。

大分県国東市自然の恵みと人の営み。両者が融合することで、食材の幅はより厚く、深く。

名だたる漁場に囲まれた国東半島。川田シェフがふと「うらやましい」と呟くほど上質な海の幸に恵まれています。そんな自然の恵みが豊富なエリアですが、人間の努力と執念が生んだ極上の海産物にも出会いました。それが『ヤンマーマリンファーム』が手がける“くにさきOYSTER”です。

訪れた一団を、所長の加藤元一氏はウェットスーツ姿で出迎えてくれました。ダイバーやサーファーのようなその出で立ちですが、話すごとに加藤氏の“牡蠣愛”が伝わります。加藤氏は牡蠣養殖に携わって30年。自らを「牡蠣バカ」と称するほどの人物。そんな氏の経験と勘に、農業機械などで知られるヤンマーの技術の結晶である海水ろ過システムが加わり、生食のための牡蠣・くにさきOYSTERが誕生したのです。

小ぶりな身のなかに旨み、甘みが凝縮され、しかし独特の臭みはない。そして徹底した水質浄化により安心して生で食べられる。「これ以上の牡蠣は、どこ探したってないと思いますよ」と加藤氏が胸を張る極上の逸品に、川田シェフもかなり心惹かれた様子。生の牡蠣を試食すると即「いろいろとインスピレーションが湧いてきます」と不敵な笑みを浮かべます。生食用の牡蠣を、どんな形で楽しませてくれるのか。本番への期待は高まります。

『ヤンマーマリンファーム』所長の加藤氏の牡蠣講義に耳を傾ける川田シェフ。

形が整っていることがおいしさの証というくにさきoyster。

大分県国東市採れたて野菜の香りからインスピレーションが広がる。

海に近く、山にも距離が近い。それが国東半島の地理的特徴です。つまりこの地は、海の幸ばかりでなく、山にも無数の恵みが隠されているのです。ならば続いての食材探しは、畑に向かってみましょう。

国東で唯一の自然栽培を実践する『まるか三代目』の上平将義氏は東京からの移住組。4年前にこの地に移り、植物性の堆肥だけを使う完全自然栽培に乗り出しました。開始当初は試行錯誤の連続だったという仕事も少しずつ軌道に乗り、現在では60品目ほどの野菜を栽培しているのだとか。「土壌が良く、気候が良い。自然に助けられています」という畑の脇で、摘んだばかりの青菜を齧る川田シェフは、「味が濃いですね。そして何より香りが良いです」との感想。

食材探しの旅の途中で何度も目にしたのは、川田シェフがまず食材の香りを嗅ぐ姿。「僕の料理で、香りはとても大切な要素です。そこからイメージを膨らませてメニューになることも多いんです」

メモを取りながら生産者の話を真剣に聞き、香りを嗅ぎ、しっかりと噛みしめるように試食をする。そんな姿を見ているだけでも、川田シェフがどれほど食材を大切にしているかが伝わってきます。そしてその思いは生産者にも届くのでしょう。気づけば国東で出会った生産者の多くが、少々の無理を聞き入れ、本番には最高の食材を届けることを約束してくれたのです。

『まるか三代目』では採ったばかりの野菜を試食。その味と香りを確かめた。

新規就農から手探りで自然栽培に取り組んだ上平氏。『まるか』の屋号は奥様の実家である青果店に由来。

大分県国東市国内生産量の約50%を占める、日本一の椎茸産地。

国東半島で忘れてはならないのが椎茸。実はこの地は国内の乾し椎茸生産量の約50%を占める日本一の椎茸生産地なのです。

そんな国東で昔ながらのクヌギ原木栽培に取り組む『山や』。その自慢の逸品は、大ぶりかつ肉厚でありながら、ズームで見るとシルクのようにきめ細かい椎茸を見せてもらいました。ホダ場を案内する代表・山口勝治氏の言葉にも、原木椎茸への熱い想いが見え隠れします。「もちろん乾物は中華料理の重要な食材。全体の味を左右するものです」と、川田シェフの目線も真剣です。

ホダ場の見学後は、山口氏の奥様のしのぶさんが乾し椎茸料理を振る舞ってくれました。椎茸のみで取ったのに複雑で奥深い味の出汁、シンプルに焼いただけで味わえる弾力と甘み。「椎茸が品種によりこれほどの違いがあることも知りませんでした。勉強になることばかりです」勉強熱心な川田シェフは、ここでも何かの糸口を掴んだ様子です。

続いて訪れた国東の地で145年続く老舗酒蔵『萱島酒造』でも、熱心に話を聞き、酒を試飲する川田シェフ。料理の香りを大切にするからこそ、ペアリングのドリンクも細心の注意を払ってセレクトするのでしょう。とくに本醸造や古酒の味わい豊かな酒が印象に残ったようです。

「東京の『茶禅華』ではお茶とのペアリングも提供しています。これは DINING OUTでも、何らかの形で試したいと思っていること。香り豊かなドリンクは、料理をより引き立てる重要な存在。本番でどのようなものをお出しするか、楽しみにしていてください」そう笑う川田シェフの頭には、すでにいくつかのプランができあがっているのでしょう。

まず香りを確かめるのが、川田シェフの食材探しのスタイル。

原木椎茸について熱く語る『山や』の山口氏。その妥協なき職人気質が極上の椎茸を生む。

『萱島酒造』の酒蔵を巡り、その酒造りへの思いまでを汲み取る川田シェフ。

『萱島酒造』での試飲風景。酒造りの背後に潜む歴史や物語まで聞き出す川田シェフ。

大分県国東市食材だけでなく、土地の歴史や精神性も料理構築の足がかりに。

駆け足で食材巡りをした国東の旅。しかしそれだけではありません。生産者を訪ねる傍ら、国東の寺社を訪れ、歴史に触れ、土地の精神性までを深く感じ取った川田シェフ。そしてそれらもまた、シェフのインスピレーションの源となったのです。

両子寺で飲んだ岩肌から滲み出る清冽な水。文殊仙寺で受けた護摩焚き祈願。自らの足で岩山に登頂し、長い石段を踏みしめる。それらの経験のひとつひとつが、川田シェフの心に確かな印象を刻みます。
「すごい場所であることは想像していました。でもその想像を軽々と越えてきました」国東の旅を終えた川田シェフは、そう話しました。
「中国と日本を行き来してきた中で生まれた疑問や葛藤。この土地を訪れてクリアになったこともあります。古来から大切に守られた日本独自の価値観と、大陸伝来の仏教との融合というこの土地の精神性は、日本の食材を中華料理の技術で調理する僕の料理と一致する部分が多い。とにかく縁を感じる場所です」川田シェフは国東の視察をそう振り返りました。

そして頭の中で漠然と考えていた料理構成は、国東を訪れたことで若干の軌道修正に入るといいます。「たとえば火と水、あるいは岩。この土地を訪れて感動したことを、料理に落とし込みたい」
土地の食材を使い、その精神性までを踏まえた料理。それがどんな姿で卓に並ぶのか、今から期待は尽きません。

自ら山に登り体験したことで、この土地の精神性を体感したという。

心静かに祈り、その静寂に身を置くことで、新たな料理のアイデアに繋げる。

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

豊かな漁場と深い山を擁する食材の宝庫。国東半島を巡って出合った逸品たち。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

メモを取りながら熱心に生産者の話を聞く川田シェフ。その姿勢は地元の人々の心も動かした。

大分県国東市

2018年5月26日(土)、27日(日)に開催される『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』。開催に先立ったある春の日、川田智也シェフが国東の地に降り立ちました。目的のひとつは、本番に使用する食材探し。「直接生産者の元を訪れて話を聞き、その思いを汲み取ることで、はじめてその食材を本当に活かしきることができる」――そんな思いが滞在中の川田シェフから溢れていました。

しかし今回の訪問の目的は食材探しだけではありません。その土地の空気に触れ、歴史を学び、そこに生きる人を知る。それこそが川田シェフのクリエーションの原動力なのです。大分県を初めて訪れたという川田シェフ。そこでどんな人に出会い、どんな思いを感じ取ったのでしょうか。

海と山の距離が近く、山海の幸に恵まれる国東半島。

大分県国東市国内に名を轟かせる漁場・伊予灘の魚が市場に集まる。

「本当に素晴らしい食材です。来てよかった」滞在中の川田シェフからは、度々そんな言葉が聞こえました。
もともと川田シェフは中華料理の道を志す過程において「日本の食材を使うからには、日本料理の技法を知らなくてはいけない」との思いで日本料理を学んだ人物。食材ひとつひとつと語り合い、その魅力を持てる技術を使って引き出す。そんな「和魂漢才」の精神の元、日本的な精神と中華の技術を融合した料理を信条としています。つまり食材探求への熱意は並々ならぬものがあるのです。そんな川田シェフが言う「素晴らしい食材」という言葉には、ずっしりと重みが感じられます。

たとえば早朝に訪れた日出町と安岐町の魚市場。ここでアテンドを引き受けてくれたのは、地元国東の人気店『国東食彩ZECCO』の中園彰三氏。自身も毎日通う勝手知ったる市場へ、川田シェフを案内します。

漁場から戻った船から下ろされたばかりの、まだセリにかけられる前の魚を、真剣な目で吟味する川田シェフ。盛んにメモを取りながら、中園氏や市場関係者にも積極的に質問を飛ばします。「気になったのはこの“ミシマフグ”という魚。フグという名前ですが、オコゼの仲間のようですね。オコゼ自体は頻繁に使用する魚ですので、これをどう料理できるか挑戦してみたい」そう決意を見せる川田シェフ。日頃物静かなシェフですが、このときばかりは「未知の魚も色々ありますね」と、子供のように目を輝かせていました。

漁船から揚がったばかりの魚を品定め。ケースごとに仲買人が競り落とし、その場で販売される。

地元の魚に詳しい料理人・中園氏からレクチャーを受ける川田シェフ。

川田シェフを驚かせたのは、この地の魚種の豊富さ。豊かな海であることを物語っている。

大分県国東市自然の恵みと人の営み。両者が融合することで、食材の幅はより厚く、深く。

名だたる漁場に囲まれた国東半島。川田シェフがふと「うらやましい」と呟くほど上質な海の幸に恵まれています。そんな自然の恵みが豊富なエリアですが、人間の努力と執念が生んだ極上の海産物にも出会いました。それが『ヤンマーマリンファーム』が手がける“くにさきOYSTER”です。

訪れた一団を、所長の加藤元一氏はウェットスーツ姿で出迎えてくれました。ダイバーやサーファーのようなその出で立ちですが、話すごとに加藤氏の“牡蠣愛”が伝わります。加藤氏は牡蠣養殖に携わって30年。自らを「牡蠣バカ」と称するほどの人物。そんな氏の経験と勘に、農業機械などで知られるヤンマーの技術の結晶である海水ろ過システムが加わり、生食のための牡蠣・くにさきOYSTERが誕生したのです。

小ぶりな身のなかに旨み、甘みが凝縮され、しかし独特の臭みはない。そして徹底した水質浄化により安心して生で食べられる。「これ以上の牡蠣は、どこ探したってないと思いますよ」と加藤氏が胸を張る極上の逸品に、川田シェフもかなり心惹かれた様子。生の牡蠣を試食すると即「いろいろとインスピレーションが湧いてきます」と不敵な笑みを浮かべます。生食用の牡蠣を、どんな形で楽しませてくれるのか。本番への期待は高まります。

『ヤンマーマリンファーム』所長の加藤氏の牡蠣講義に耳を傾ける川田シェフ。

形が整っていることがおいしさの証というくにさきoyster。

大分県国東市採れたて野菜の香りからインスピレーションが広がる。

海に近く、山にも距離が近い。それが国東半島の地理的特徴です。つまりこの地は、海の幸ばかりでなく、山にも無数の恵みが隠されているのです。ならば続いての食材探しは、畑に向かってみましょう。

国東で唯一の自然栽培を実践する『まるか三代目』の上平将義氏は東京からの移住組。4年前にこの地に移り、植物性の堆肥だけを使う完全自然栽培に乗り出しました。開始当初は試行錯誤の連続だったという仕事も少しずつ軌道に乗り、現在では60品目ほどの野菜を栽培しているのだとか。「土壌が良く、気候が良い。自然に助けられています」という畑の脇で、摘んだばかりの青菜を齧る川田シェフは、「味が濃いですね。そして何より香りが良いです」との感想。

食材探しの旅の途中で何度も目にしたのは、川田シェフがまず食材の香りを嗅ぐ姿。「僕の料理で、香りはとても大切な要素です。そこからイメージを膨らませてメニューになることも多いんです」

メモを取りながら生産者の話を真剣に聞き、香りを嗅ぎ、しっかりと噛みしめるように試食をする。そんな姿を見ているだけでも、川田シェフがどれほど食材を大切にしているかが伝わってきます。そしてその思いは生産者にも届くのでしょう。気づけば国東で出会った生産者の多くが、少々の無理を聞き入れ、本番には最高の食材を届けることを約束してくれたのです。

『まるか三代目』では採ったばかりの野菜を試食。その味と香りを確かめた。

新規就農から手探りで自然栽培に取り組んだ上平氏。『まるか』の屋号は奥様の実家である青果店に由来。

大分県国東市国内生産量の約50%を占める、日本一の椎茸産地。

国東半島で忘れてはならないのが椎茸。実はこの地は国内の乾し椎茸生産量の約50%を占める日本一の椎茸生産地なのです。

そんな国東で昔ながらのクヌギ原木栽培に取り組む『山や』。その自慢の逸品は、大ぶりかつ肉厚でありながら、ズームで見るとシルクのようにきめ細かい椎茸を見せてもらいました。ホダ場を案内する代表・山口勝治氏の言葉にも、原木椎茸への熱い想いが見え隠れします。「もちろん乾物は中華料理の重要な食材。全体の味を左右するものです」と、川田シェフの目線も真剣です。

ホダ場の見学後は、山口氏の奥様のしのぶさんが乾し椎茸料理を振る舞ってくれました。椎茸のみで取ったのに複雑で奥深い味の出汁、シンプルに焼いただけで味わえる弾力と甘み。「椎茸が品種によりこれほどの違いがあることも知りませんでした。勉強になることばかりです」勉強熱心な川田シェフは、ここでも何かの糸口を掴んだ様子です。

続いて訪れた国東の地で145年続く老舗酒蔵『萱島酒造』でも、熱心に話を聞き、酒を試飲する川田シェフ。料理の香りを大切にするからこそ、ペアリングのドリンクも細心の注意を払ってセレクトするのでしょう。とくに本醸造や古酒の味わい豊かな酒が印象に残ったようです。

「東京の『茶禅華』ではお茶とのペアリングも提供しています。これは DINING OUTでも、何らかの形で試したいと思っていること。香り豊かなドリンクは、料理をより引き立てる重要な存在。本番でどのようなものをお出しするか、楽しみにしていてください」そう笑う川田シェフの頭には、すでにいくつかのプランができあがっているのでしょう。

まず香りを確かめるのが、川田シェフの食材探しのスタイル。

原木椎茸について熱く語る『山や』の山口氏。その妥協なき職人気質が極上の椎茸を生む。

『萱島酒造』の酒蔵を巡り、その酒造りへの思いまでを汲み取る川田シェフ。

『萱島酒造』での試飲風景。酒造りの背後に潜む歴史や物語まで聞き出す川田シェフ。

大分県国東市食材だけでなく、土地の歴史や精神性も料理構築の足がかりに。

駆け足で食材巡りをした国東の旅。しかしそれだけではありません。生産者を訪ねる傍ら、国東の寺社を訪れ、歴史に触れ、土地の精神性までを深く感じ取った川田シェフ。そしてそれらもまた、シェフのインスピレーションの源となったのです。

両子寺で飲んだ岩肌から滲み出る清冽な水。文殊仙寺で受けた護摩焚き祈願。自らの足で岩山に登頂し、長い石段を踏みしめる。それらの経験のひとつひとつが、川田シェフの心に確かな印象を刻みます。
「すごい場所であることは想像していました。でもその想像を軽々と越えてきました」国東の旅を終えた川田シェフは、そう話しました。
「中国と日本を行き来してきた中で生まれた疑問や葛藤。この土地を訪れてクリアになったこともあります。古来から大切に守られた日本独自の価値観と、大陸伝来の仏教との融合というこの土地の精神性は、日本の食材を中華料理の技術で調理する僕の料理と一致する部分が多い。とにかく縁を感じる場所です」川田シェフは国東の視察をそう振り返りました。

そして頭の中で漠然と考えていた料理構成は、国東を訪れたことで若干の軌道修正に入るといいます。「たとえば火と水、あるいは岩。この土地を訪れて感動したことを、料理に落とし込みたい」
土地の食材を使い、その精神性までを踏まえた料理。それがどんな姿で卓に並ぶのか、今から期待は尽きません。

自ら山に登り体験したことで、この土地の精神性を体感したという。

心静かに祈り、その静寂に身を置くことで、新たな料理のアイデアに繋げる。

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

「同価格クラスなら“良い宿”であることは当然。その中でいかに突出した宿になれるか」。[瀬戸内リトリート 青凪/愛媛県松山市]

吉成氏は、『瀬戸内リトリート 青凪』のスタッフから総支配人へと上り詰めた人物。

愛媛県松山市ホスピタリティとおもてなしは似て非なるもの。

『瀬戸内リトリート 青凪』の魅力が、その贅沢な空間だけかといえばそうではありません。海外からも多くのゲストが訪れる人気の宿であるゆえんは、そのホスピタリティの高さにもあります。空間が贅沢すぎるゆえ、ひとつでも欠陥や不備があれば、それが余計目立ってしまうことも事実。「そこには細心の注意を払わなくてはなりません」と総支配人の吉成太一氏は話します。
「よくホスピタリティとサービスを混同する人がいますが、私は違う見解です。“おもてなし”をホスピタリティと考えている方は多いと思うのですが、おもてなしを受けたくない人たちからしたらそれはただの迷惑でしかありません。ほうっておいてほしい方をちゃんとほうっておけるおもてなしもあると思っています。そして、お客様が望まれた時には、すぐに対応し、しっかりとおもてなしができる。それがうちのサービススタンダードなんです。これだけの宿泊料を取るのに、『その程度!?』と思われたら、私たちにとって致命傷になりかねませんから」と吉成氏は続けます。

だからこそ、準備をしっかりすることがとても重要です。そして、確実に準備が整ったなら、実行に移します。更に、実行後、つまりお客様が帰った後の片付けまで行うのです。この3点を確実にしっかり行うことが、吉成氏が掲げるホテル業で最も重要なサイクルなのだそうです。それをプロフェッショナルの仕事としていかに完遂し、日々の業務の中で繰り返し実行することができるかが、大切なのです。

ウェルカムドリンクには、愛媛県産の高級柑橘として知られる「紅まどんな」を使ったジュースが登場。

本館2階にあるラウンジルーム。デザイン書や愛媛に関わる書物が置かれている。フリードリンクとして炭酸水などが用意されている。

愛媛県松山市贅沢な空間がゆえマニュアルどおりは通用しない。DIYのオペレーション。

とはいうものの、この宿のサービス、ホスピタリティに、一般的なホテルのマニュアルは通用しません。マニュアルを採用しようにも、その贅沢すぎる空間と総支配人の価値観ゆえ、当てはめることはできないのです。

空間が広大すぎるため、より多くのスタッフが必要になりますが、そもそも利益を出すことを目的としていないゲストハウスとして造られた建物ですから、それに合わせたスタッフ数を確保すると採算が合わなくなります。事実、吉成氏が2017年8月に総支配人に就任してからはシステムを変え、サービスというプロフェッショナルの仕事をスタッフに徹底させ、少しずつですが宿を変えてきたのだといいます。
「オペレーションなどはほとんどオリジナルですね。例えば、今はSNSなどを駆使しながら、スタッフ間でお客様の情報を瞬時に共有しているんです。リピートで来て下さるお客様の過去の情報は当然だとして、初めてのお客様の情報もそうして行き渡らせます。お客様に満足して頂けるかどうかは、お客様が到着してから帰られるまでのおよそ20時間で、そのお客様のことをどれほど知ることができるかにかかっていますから」と吉成氏。

続けて吉成氏は、「独自のオペレーションをつくらなければ、採算の合わない宿ですから」と話してくれました。

「独自のオペレーションをつくらなければ、採算の合わないホテルですから」と吉成氏は話す。

取材当日は晴天とはいかなかったものの、それでも安藤忠雄建築の美しさは際立っていた。

標高が高いがゆえの靄(もや)。市内で雨が降っていても、ここでは晴れていることも少なくない。

愛媛県松山市「安藤忠雄建築だけではダメ。僕たちは安藤先生に勝ちたい」。

「1泊6万円の宿泊料の宿はどこもスペシャルなんです。その宿に悪い所なんてあってはいけないんです。けれど、そのスペシャルな中でもいかに選ばれる宿になれるかを日々模索しています」と吉成氏は言います。

吉成氏が言うには、実際のところ、やはり安藤忠雄建築を入り口として泊まりに来るゲストがほとんど。しかし大事なことは、その中でサービスがずば抜けている、あるいは料理が抜群に美味しいという理由でお客様にリピートしてもらうこと。安藤忠雄建築というウリ文句にあぐらをかいていては、決して「スペシャル」にはなり得ないのです。
「だから、また来てくださるお客様がいると本当に嬉しいんです。そういったお客様はすでに安藤忠雄建築が目的ではなく、ここでの居心地の良さに魅力を感じて頂いていると思うんです。リピートしてくださるお客様の中にこんな方がいまして、初めてお越し頂いた時はご主人と奥様のおふたりだったんです。奥様は妊娠されていました。その次に来てくださったのは奥様が臨月の時、3回目はお子様が生まれて3人となり、4回目にはそのお子様がよちよち歩きになっていて……。なんだか、お子様の成長とともに、私たちも成長しているような気がしました。節目節目で泊まって頂けることに、ホテルマンとしての喜びを感じるんです」と吉成氏は話します。

スコンと澄み渡るような青空は見られなかったが、それでも十分すぎるほど美しい景色が広がっていた。

Data
瀬戸内リトリート 青凪

住所: 〒799-2641 愛媛県松山市柳谷町794-1 MAP
電話: 089-977-9500
http://setouchi-aonagi.jp/

圧倒的スケールと感嘆の建築美。日常を逸脱する安藤忠雄建築のスモールラグジュアリー。[瀬戸内リトリート 青凪/愛媛県松山市]

愛媛県松山市OVERVIEW

ホテルや旅館だけに限った話ではありませんが、メディアに登場するものが、その美しい部分だけを切り取られることは、少なからずあることです。例えば、雑誌に美しい写真が載っていた客室。しかし実際に訪れてみると、「なるほど、うまく撮っているな~」と、半分ガッカリ、半分合点がいったなどという経験もあることでしょう。

しかし、『瀬戸内リトリート 青凪』がゲストを落胆させることはありません。この宿ほど、工夫を凝らして撮影した写真を、目の前の現実が凌駕する宿は少ないのです。

かつて『エリエール美術館』として使用されていた建物は、言わずと知れた日本を代表する世界的な建築家・安藤忠雄氏が手がけ、隣接するゴルフ場などを所有する大王製紙が贅を尽くして造り上げたものです。そのそもそもの目的は「ホテル」ではなく、利益には目もくれず、言わば訪れたゲストをもてなすためのゲストハウスとして建てられました。そのため総床面積3500㎡という広さに対し、わずか7部屋のスイートルームをレイアウトしているだけ。そんな宿なのですから、その贅沢な空間を他の宿が真似しようにもできるはずがありません。

憧れの安藤忠雄建築で寛げる宿。世界中の人々がここに泊まるためにやって来ます。その魅力を『ONESTORY』取材班が目の当たりにしてきました。

Data
瀬戸内リトリート 青凪

住所: 〒799-2641 愛媛県松山市柳谷町794-1 MAP
電話: 089-977-9500
http://setouchi-aonagi.jp/

安藤忠雄建築だけとは言わせない。ゲストの記憶に刻む「瀬戸内のショーケース」を具現化する料理。[瀬戸内リトリート 青凪/愛媛県松山市]

フランク・ステラ氏の絵画が飾られているダイニングカウンター。目の前は吹き抜けで、その一面がガラス張りに。

愛媛県松山市地下1階、滝が流れ落ちる庭を眺めるダイニング空間。

吉成太一氏がサービスに注力する一方、安藤忠雄建築だけではない、この宿の大きな魅力のひとつとなるのが、やはり料理でしょう。それを味わう舞台となるのが、「DINING MINAGI」。建物の地下1階、目の前の一面がガラス張りになったダイニングカウンターからは、滝が流れ落ちる庭「Sunken Garden」を眺めることができます。サンクンとは建築用語で地下道を意味し、和訳では「沈んだ庭」の意味。無機質な空間に、流れる水の音が広がり、滝がライトアップされるディナータイムは、幻想的な雰囲気が漂います。対照的に朝食の時間は明るい陽光が差し込み、開放感溢れる雰囲気に。夜と朝で趣がガラリと変わるその姿も、安藤忠雄建築のマジックなのでしょうか。朝のんびりと朝食をとっていると、いつまでもこの空間に浸っていたいと思える心地よい空気に包まれるのです。

ただし、それは決して安藤忠雄建築の空間だけがそうさせるのではありません。
それは、料理長の伊藤公一氏が作る料理に対しての、ゲストの満足感の表れでもあります。
「瀬戸内のショーケース」は『瀬戸内リトリート 青凪』のコンセプトのひとつ。ゲストの舌から脳へと喜びを訴えかけるのです。

昼間とは異なり、ライトアップされた「Sunkun Garden」は幻想的な雰囲気に包まれる。

人数によってはカウンターではなくテーブル席も用意。カウンター同様、一面がガラス張りになった空間だ。

愛媛県松山市自分の仕事を最大限に引き出すことができる地の最高級の食材。

料理長の伊藤氏は、日本料理ひと筋40年以上になる職人。大阪、京都などで修業、そしてかつて白金台にあった高級料亭『般若苑』では4年半を過ごし、愛媛に帰郷。松山市内の老舗割烹で13年、更に道後温泉の高級旅館では10年以上料理長を務めてきました。そんな伊藤氏は、ここで料理を作れることに大きな喜びを感じているようで、「土地柄なのでしょう、松山は東京の価格感とは異なるので、料亭でやっていても、高級旅館でやっていても、価格面を考えると最高級の食材はなかなか使えないことが多かったんです。けれど、ここではそれができるんです。地の最高の食材が使えますから、自分のやりたい料理が作れるんです」と話してくれます。

例えば、「瀬戸内のショーケース」を謳うこの宿では、魚は地元瀬戸内で揚がった食材がふんだんに使われます。とりわけ今治市出身の伊藤氏にとって来島海峡の魚には強い思い入れもあるのだとか。
「タイは有名ですけど、オコゼだって美味しいし、これからの夏の季節は、高級魚のアコウ(キジハタ)が最高ですね。刺身はもちろんですが、あらいや、煮つけにしたって抜群なんです」と伊藤氏。

それだけでなく、松山市の西、佐田岬半島にある伊方町の三崎港からは、アジにサバ、伊勢海老など、伊藤氏が惚れ込む食材を仕入れます。
「水揚げされる港が違うためブランド名も当然違う。関サバ、関アジは名乗れませんが、正真正銘の豊予海峡でとれる魚ですから旨いのは当然です(笑)」と伊藤氏は話します。

この日の刺身は、サヨリ、来島ダイ、釣りアジ、赤貝。氷鉢で出されキュッと身が締まった切り身は、噛みしめると来島の急流のように押し寄せる旨味。瀬戸内の恵みの一端が垣間見えます。

もちろん、刺し身としてそのまま出すだけではなく、アブラメ(アイナメ)は骨切りにし、刻んだ木の芽とともに葛打ちにして椀種として使うなど、その食材に職人の仕事を施すこともこの道40年以上の伊藤氏の真骨頂。ディナーではそんな料理が緩急をつけて、時にちょっとした遊びも持たせてゲストの舌を楽しませてくれるのです。

この日のお造りには釣りアジ、赤貝。タイやタコのイメージが強い瀬戸内だが、豊穣の海であることを再認識。

「収穫祭」と名付けられた前菜。筍寿司、そら豆白和え、イイダコうま煮、海老水晶など瀬戸内の山海の幸をひと皿に表現。

吉成氏が総支配人へと就任したと同時に新たな料理長となった伊藤公一氏。和食ひと筋40年のベテラン職人。

愛媛県松山市和の真髄を大切にしながら攻めの姿勢も忘れない。

「瀬戸内のショーケース」は魚に限った話ではありません。例えば、伊予牛は伊藤氏が必ずといっていいほどコースの一品に取り入れる食材だといいます。
「2月は3人にひとりほどが海外ゲストだったくらい、国外からいらっしゃるお客様も多いので、肉はどうしても取り入れざるを得ないところもあるんです。宿の料理は、レストランのようにお客様がそれだけを目指してくるわけではありませんから、とがった料理ばかりは出せません。ですが、懐石料理といっても、そのあたりは柔軟に、アレンジも加えたりして献立は考えています」と伊藤氏は言います。

では、この日の肉料理はどのように出されたのでしょうか。伊藤氏は、「旬を迎えたばかりの焼いた新タケノコと相性が抜群ですから」と、中がミディアムレアになるよう伊予牛のロース肉をじっくりと火入れ。しかし、味つけは和食ゆえにシンプルに塩かと思えば、松山の名物である麦味噌を出汁でややのばしてソース代わりにしました。
「伊予牛は肉質が非常にきめ細かながら、黒毛和牛ならではの濃厚なサシも多い肉なんです。これが他の国産牛を使うと、どうしても麦味噌の味に肉が負けてしまうからできないんです」と伊藤氏。

麦味噌のソースが瀬戸内らしさを更に打ち出すととともに、伊予牛独特の肉の甘みを引き立ててくれるのです。伊予牛とタケノコ、麦味噌の三重奏。バランスを取りながらも、通り一遍の料理では終わりません。

地元のお客様もいれば、東京からも海外からも訪れるゲストがいる。更には宿の料理という立場もある。どこまで自分の色を出すか、その上でバランスも取らないといけない。「安藤忠雄建築の宿」がゲストにとって大きなウェイトを占める中で、伊藤氏の料理はゲストの心に確かな記憶を植えつけるに違いありません。

松山で味噌といえば麦味噌。麦ならではの甘みのある味わいが、肉の旨味や上品な脂と絡み合う。

地元ではアブラメと呼ばれるアイナメの椀物。春らしさを打ち出すため、タケノコをすり流した。

朝食ももちろん和の膳。サワラの焼き魚、海苔を巻いただし巻き、じゃこ天、ひじき丹、刺し身など海の幸が主役となった。

Data
瀬戸内リトリート 青凪

住所: 〒799-2641 愛媛県松山市柳谷町794-1 MAP
電話: 089-977-9500
http://setouchi-aonagi.jp/

総床面積3500㎡に対しわずか7部屋。本物の贅沢と非日常が潜む安藤忠雄建築の空間。[瀬戸内リトリート 青凪/愛媛県松山市]

本館「THE AONAGIスイート」からの眺望。取材時は瀬戸内ならではの春霞がかかっていたが、晴天時には松山の町並みと青い海が広がる。

愛媛県松山市標高450mの山の頂、森の中に突如現れた安藤忠雄建築。

松山市の中心地から車を走らせること、およそ30分。市街地を抜け、山間のワインディングロードを進んでいると、「果たしてこの道であっているのか?」と不安になる人もいるかもしれません。

取材当日は、陽が落ちきった夜に到着したこともあり、あたりは真っ暗で、その不安はいっそう大きなものになりました。道幅は徐々に狭くなり、街灯もまばらに。不安が募り始めた頃、道端に『エリエールゴルフ場』の案内看板を見つけることができました。ここまで来れば、目指す『瀬戸内リトリート 青凪』は、もうひと息。やがて街灯がいっさいなくなり、更に道を進むと、真っ暗な森の中に、ポワッと明かりが灯る建物が見えてきました。

駐車場に車を停め、入口へと向かうと、打ちっ放しのコンクリートの外壁に、ローマ字で『AONAGI』の文字が。自動扉が開き、奥へと続く無機質な回廊を進めば、夜の到着ということもあってか、どこか宇宙船のような雰囲気が漂います。その時点で、ここが現実世界から離れて非日常を味わう宿だということはすぐにわかりました。そして、その思いは宿の全貌が見えてくるほどに強くなり、やがて心も現実世界から離れていくのでした。

一帯には民家も街灯もない山の頂き。暗闇にポワッと浮かぶ、『瀬戸内リトリート 青凪』の明かり。

エントランスを抜けた先にある、『エリエール美術館』時代からの中庭は、愛媛県出身の庭師・小野 豊氏が作庭。

森に突き出すように延びる『瀬戸内リトリート 青凪』の象徴的なデッキプール「THE BLUE」。時間帯により様々な表情を見せる。

愛媛県松山市ゲストをもてなすゲストハウス用に造られた贅を尽くした空間。

安藤忠雄建築に宿泊できる。建築ファンならずとも一度は泊まってみたいと思うのではないでしょうか? しかも、この宿はただの「安藤忠雄建築のホテル」ではないのです。ここは愛媛に本社を持つ大王製紙が金に糸目をつけずに、訪れるゲストをもてなすために造られたゲストハウス。予算の上限は設けず、「この土地で一番の建物を造るから、日本一の建築家に頼む」と言って安藤忠雄氏に設計・建築を依頼したという建物なのです。

何せ本館、別館合わせて、総床面積は3500㎡。そこに7部屋のスイートルームが贅沢に配置されているだけというのですから、その数字からして桁違い。「スモールラグジュアリー」という謳い文句以上に、圧倒的な空間がゲストを魅了するのです。

その最たる部屋が、本館の最上階にある「THE AONAGIスイート」でしょう。天井高約8mのこの部屋は、リビング部分が吹き抜けになり、部屋の一面がガラス張りになっています。視線の先には、標高450mのロケーションから一望する瀬戸内のパノラミックな海が息を呑むほどの圧倒的なスケールでゲストを出迎えるのです。方角としては北西に窓があるため、その夕景を想像しただけで、心が満たされていくようです。しかも、スイッチひとつでそのガラス窓が開閉し、テラスで外の空気を吸い込むことができるので、身も心も瀬戸内の自然に溶け込んでいきます。

そして、リビングの階段を上った先にはシャワールームとベッドルームがあります。本館客室には温泉はありませんが、この宿には温泉に浸かっている時間すらもったいない、と思わせる魅力が息づいています。

天井高約8m、広さ約170㎡を誇る『瀬戸内リトリート 青凪』最上級の客室「THE AONAGIスイート」。

「THE AONAGIスイート」はメゾネットタイプ。階段を上がった先にベッドルームとジャグジー付きのシャワールームがある。

「THE AONAGIスイート」のベッドルーム。壁の一部が曇りガラスになっており、採光にも工夫を凝らした。

愛媛県松山市天然温泉を引き湯した、オリジナル寝湯を備えた別館の浴室。

本館の2室が瀬戸内の眺望を楽しむスイートルームであるのに対し、別館はフォレストビューとパノラマビューを楽しめる5室のスイートルーム。眺望こそ本館にはかなわないものの、本館にない楽しみが別館にはあります。それがゲストの温泉欲を満たしてくれる浴室です。そう、別館には、隣接する『エリエールゴルフ場』に湧き出る温泉を引き湯しているのです。湯は無色透明、サラリとした湯触りの単純弱放射能冷鉱泉。浴室はゆっくりと湯浴みを楽しめるよう、オリジナルのフルフラットスタイルの寝湯が備えられ、窓を開ければ半露天のような開放感も楽しめます。安藤忠雄建築という魅力に、湯浴みという癒しが加わり、本館にはない寛ぎのひと時を満喫することができます。

本館の最上階「THE AONAGIスイート」の広さが170㎡に対して、別館は、面積こそ狭くなるものの、それでも全5室が100㎡以上という十分すぎるスペースを確保しています。本館客室と同様、自動開閉式のガラス窓の向こうには森や庭園などの景色が広がり、緑に囲まれた癒しの時間を過ごすことができます。とりわけ、これからの時期は多くの野鳥が森を飛び交うシーズン。テラスに出て、野鳥のさえずりに耳を傾けるひと時も、また格別なのです。

『瀬戸内リトリート 青凪』オリジナルの寝湯が備わる浴室。湯には天然温泉が引き湯される。

フォレストビューが楽しめる別館の客室。高層階とは異なる開けた眺望ではないが、森に包まれるような心地よさ。

柔らかく肌触りと着心地の良いパジャマは、岡山産ベビーデニム製。

愛媛県松山市広大だからミニマル。充実したファシリティがホテルステイを贅沢に。

そして、ファシリティも特筆すべき点でしょう。「スモールラグジュアリー」を謳う宿ですが、実際に訪れてみると、この広い空間だからこそ「ミニマル」だと感じる部分が多々あります。

例えば、「THE AONAGIスイート」にはBluetooth対応のスピーカー、客室専用のタブレットが設置されています。それだけでなく、ソファやダイニングテーブルがあり、そこにはさり気なく置かれたデザイン書や写真集などアート関係の書物が。更にはフリードリンクの入った冷蔵庫があり、棚には自ら手で挽いて楽しめる地元松山の専門店が焙煎したコーヒー豆が用意され、ナイトウェアには岡山県産ベビーデニム製のパジャマ、室内履きには職人が1足1足丁寧に作った特注のオリジナルサンダルまであります。とにかく、その1点1点にこだわったアイテムからは、「ラグジュアリー」「瀬戸内」というこの宿のコンセプトの部分をしっかりと感じることができます。

客室が広いからこそ、一見「ミニマル」に思えますが、仮に50㎡の客室にこれらが揃っていると想像してみてください。それはもはや十分すぎる贅沢だといえるのではないでしょうか?

ライトアップの光を受けて、無機質なコンクリートに映し出される木々の影も安藤忠雄建築による演出のひとつか。

山道から見える宿の姿。暗闇に浮かぶ建物は、自然の中でその建築美が際立つ。

Data
瀬戸内リトリート 青凪

住所: 〒799-2641 愛媛県松山市柳谷町794-1 MAP
電話: 089-977-9500
http://setouchi-aonagi.jp/

東海道の難所で歴史街道の面影を残す、美しき宿場町。[宇津ノ谷/静岡県静岡市]

深い山の谷間にある宇津ノ谷集落。江戸時代の町の造りや建物など、貴重な景観が今も残されている。

静岡県静岡市当時のままの形で残された、歴史ある隠れ里。

静岡県の西端に位置し、「鞠子宿(丸子宿)」と「岡部宿」の中間にある『宇津ノ谷』は、旧東海道の難所。深い山には6本の道が通っており、平安時代から室町時代まで「宇津の山越え」に使用された官道「蔦の細道」は在原業平の「伊勢物語」や歌、芝居にも登場するほど歴史があります。周りを茶畑に囲まれた山間には20軒ほどの小さな集落が残り、かつては宿場町として栄えたそうです。その昔、豊臣秀吉が北条征伐の際に立ち寄り、陣羽織を与えたという「御羽織屋」など、歴史を物語る古い町並みが残されています。「駿河湾100景」にも選ばれているように、独特の景色が当時のままの形で残る、私にとっての「隠れ里」のひとつです。

『宇津ノ谷』は東海道五十三次の20番目の宿場で、とろろ汁の元祖「丁子屋」がある「鞠子宿(丸子宿)」と「岡部宿」との中間に位置する。

石畳をイメージした舗装整備や「宇津ノ谷地区美しいまちづくり協議会」を設立するなど景観への意識も高い。

静岡県静岡市日本の道路交通の歴史をたどる貴重な場所。

『宇津ノ谷』の特徴であり、集落と並ぶ見所は「トンネル」です。宇津ノ谷峠には藤枝市岡部町との間に全長203m、赤レンガ造りで国の登録有形文化財に指定された「明治トンネル」の他、「大正トンネル」、「昭和トンネル」、「平成トンネル」の計4つのトンネルが造られ、現在も通行が可能です。日本の道路交通の発展と歴史が学べる貴重な場所といえるでしょう。時代とともに開発が進み、こうした歴史的な景観が全国的に失われつつありますが、『宇津ノ谷』はまだ望みがあります。歴史街道の面影や町並みを保存するため、自治体でも積極的なまちづくり活動を行っているようです。ありのままの美しい景観が後世に残ることを願っています。

1904(明治37)年に完成した「明治のトンネル」。難所だった宇津ノ谷峠の道路交通は発展し、馬車や人力車が行き交った。

Data
宇津ノ谷

住所:〒421-0105 静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷 MAP

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

町に、人々の心に、癒しの灯りをともす。[たんころりんの夕涼み/愛知県豊田市]

8月の夜、足助(あすけ)の町は「たんころりん」の灯りで彩られる。

愛知県豊田市足助(あすけ)の夏の夜は、道行く先々に「たんころりん」。

「たんころりん」。なんだか可愛らしい、不思議な響きの言葉です。愛知県豊田市にある足助(あすけ)という町では、8月の夜、たくさんのたんころりんが道々を照らし、人々は外に出て夕涼みを楽しみます。たんころりんとは、いったい何なのでしょう。また、たんころりんの灯りが映し出す足助(あすけ)の町の魅力についても、ちょっと覗いてみましょう。

足助川沿いに塗籠(ぬりごめ)造りの町家が立ち並ぶ。

愛知県豊田市塩や物資を運んだ街道とともに栄えた町。

足助(あすけ)は人口1万人弱の小さな町で、物資や塩を信州に運んだ飯田街道とともに栄えました。現在も約2㎞ にわたって土蔵造りの塩問屋や商家が残り、愛知県初の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。3月には雛人形や土雛を玄関先や店内に飾る「中馬のおひなさん」が行われます。「中馬」とは江戸時代の信州の馬稼ぎ人たちがつくった同業者組合のことで、この「中馬」と呼ばれる人たちが行き来したことから飯田街道は「中馬街道」とも呼ばれているのだそうです。

足助(あすけ)には小路がたくさんある。中でも一番美しい「マンリン小路」。

愛知県豊田市「たんころりん」の不思議な語源は三河弁?

毎年8月上旬の日没~夜9時まで、宮町から田町の街道沿いで、『たんころりんの夕涼み』が行われます。たんころりんとは、竹かごと和紙で作った円筒形の行灯(あんどん)のこと。なぜこんな名前なのかというと、灯りのもとになる「油壺」が昔から「ひょうそく」と呼ばれ、この「ひょうそく」がひょうたんの形に似ていることから「ひょうたんころりん」「たんころ」→「たんころりん」に転じたそうです。ちなみにこの地方では「やりん」(やりなさい)「食べりん」(食べなさい)など、「りん」が語尾につく三河弁が使われています。

町には伊那・飯田街道と呼ばれた街道が通る。

愛知県豊田市飾ることよりも、作ることに意義がある。

たんころりん、一体誰が作っているのか? 実はそれがこのイベントの鍵となる部分です。これは住民たちが自分で作って、自分の家の前に置くというルールなのだそう。その理由を、「たんころりんの会」の河合康夫氏はこう話します。「誰かが作ったものをただ並べるだけでは意味がないんです。自分で一生懸命作るから愛着が湧くでしょう」。「たんころりんの会」では、5月から毎日、町内の公共施設でたんころりん作製講習会を開いています。竹を裂いた竹ひごを円筒状に編み、和紙を貼り、絵や文字を描き……。素人にはなかなか難しい作業です。しかし会のスタッフによる丁寧な手ほどきで、住人はおしゃべりしながら楽しく作ります。話に夢中になって今どこを編んでいるのか分からなくなることもしばしば。「あらやだ」と大笑い……。こうして町内の人が集まって語らうことが、たんころりんのイベントの本当の目的。「うちでエアコンつけてこもっているじゃなく、みんなでガヤガヤ喋っとりゃいいで」。今はあまり見られなくなった井戸端会議のような交流が生まれれば、というのが河合氏の願いなのです。

期間中、街角のあちこちでバンドや楽器演奏が。

愛知県豊田市見たい、来たい、出たい、たんころりん。

そうして作った約700基のたんころりんが並べられた中馬街道は、家々の格子窓から漏れる橙色の光も相まって、いっそう幻想的な風景を浮かび上がらせます。街角のあちこちから聴こえる三味線、歌謡、ギター、ハープなどの音色。『たんころりんの夕涼み』では、毎回20組ほどの演者による歌や音楽が道行く人々の心を癒します。河合氏は「せっかく見に来てくれるんやで、素人の発表会ではいけん」と、セミプロ、プロのミュージシャンに声をかけて集め、地元だけでなく遠方からも演奏者を招いているのだとか。今では、足助(あすけ)の町のノスタルジックな雰囲気に魅せられ、出演者の方から毎年「たんころりんに出たい」とラブコールがあるそう。また、いつも夜はひっそりしていた店々もこの日は明かりをつけ、昔の旅籠屋では外でビールを出したり、菓子屋では冷たい葛餅を売っていたりと、夜の足助(あすけ)に賑わいが生まれます。

祭囃子(まつりばやし)や三河相撲甚句などジャンルは多彩。

愛知県豊田市日本全国に、たんころりんを。

2002(平成14)年に町内有志が立ち上げたこのイベント、今では毎年恒例の風物詩となり、期間中は豊田市内外から1万5000~2万人もの見物客を集めているそうです。全国の町内会などからたんころりんを参考にしたいという声も多く、秋田など他の県にたんころりん作りを教えに行ったこともあるのだとか。足助(あすけ)のたんころりんは足助産の真竹と、地元の和紙など地域のものを有効活用して作られています。他の地域でも地元の素材を使って、町のカラーを出した「ご当地たんころりん」が街角を彩るーそんな風景が今後あちこちで見られるかもしれませんね。

たんころりんがきっかけで足助(あすけ)の虜になる人も多いという。

Data
たんころりんの夕涼み

開催期間:8月4日(土)~15日(水) 日没後から21:00まで
開催場所:足助重伝建の町並み周辺 
アクセス:
<公共交通機関>
●名鉄豊田線浄水駅下車、とよたおいでんバス「百年草」行き「香嵐渓」下車徒歩3分
●名鉄豊田線豊田市駅下車、名鉄バス矢並線「足助」行き「香嵐渓」下車徒歩3分
●名鉄東岡崎駅下車、名鉄バス「足助」行き「香嵐渓」下車徒歩3分(東岡崎駅までのお帰りのバスの便は18時50分以降はありませんので、ご注意ください)
<車>
■東海環状線豊田勘八IC下車、国道153号飯田方面へ15km(香嵐渓へ)
もしくは、
■猿投グリーンロード力石IC下車、国道153号飯田方面へ10km(香嵐渓へ)
香嵐渓周辺駐車場をご利用下さい
http://asuke.info/event/aug/entry-701.html
写真提供:足助観光協会

全て手作業で作る、幻のピーナッツバター。[杉山ナッツ製造工場/静岡県浜松市]

入荷後すぐに売り切れてしまうという『杉山ナッツ』。

静岡県浜松市浜松から生まれる、ピーナッツバターのストーリー。

世間では、「ピーナッツバター=アメリカの食べ物」というイメージがあります。しかし日本に、ピーナッツバターを専門に作っている工房があることをご存知ですか? しかも使うのは「幻の落花生」といわれる静岡産の『遠州小落花』。今回は、落花生の栽培から商品化まで全てひとりで行う、ひたむきなピーナッツバターの作り手の物語をお届けします。

アメリカではどこの食卓にもあるというピーナッツバター。(イメージ)。

静岡県浜松市元公認会計士という異色の経歴。

『杉山ナッツ製造工場』があるのは静岡県浜松市。JR東海道線の「舞阪」駅に近く、新幹線から浜名湖に浮かぶ弁天島の鳥居が見えるあたりです。ここで杉山孝尚氏は落花生を育てるところから、加工、商品化まで全て自分の手で行い、ピーナッツバターだけを作り続けています。

ユニークなのは杉山氏の経歴。父親の転勤で日本各地を転々とし、中学から浜松(舞阪)に在住。地元の高校を卒業後、ダンサーになりたいという夢を追いかけニューヨークへ。それだけでは生計を立てられないため、レコード店でアルバイトを始めたところ、ひょんなことから本社の著作権担当の部署で勤務することに。そこでの事務作業の中で「間違わずに計算したら『ハカセ』って褒められて」、もっと知識を身につけようと大学で本格的に学び、なんと公認会計士の資格を取得。その後は大手監査法人で会計士として働いていました。
「仕事は好きだったし、何ひとつ不自由もなかった」と杉山氏。しかし、ワーキングビザの更新のタイミングで、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の記事がたまたま目に入りました。それはピーナッツバターに関する記事で、「1904年のセントルイス万博で、遠州の落花生が世界一に輝いた」ということが書かれていました。普段の生活で「JAPAN」の文字すらあまり目にする機会がない中、静岡の、それも地元「ENSHU」が新聞記事に取り上げられていたのです。「その時、故郷に対する気持ちがブワッと溢れ出してきたんです」と杉山氏は当時を振り返って話します。

並々ならぬ苦労も、挫折した経験も、屈託のない笑顔で語る杉山氏。

静岡県浜松市それは全ての人に「平等」な食べ物だった。

しかもピーナッツバターは杉山氏にとって特別な食べ物。アメリカに来たばかりの頃、どのスーパーマーケットにも落花生のグラインダーがあり、挽きたての美味しいピーナッツバターが買えることに「アメリカンカルチャーらしさを感じた」と杉山氏は言います。そして経済格差が激しいアメリカにおいて、裕福な家庭にも貧しい家庭にも、ピーナッツバターは食の風景に溶け込んでいました。まるで日本の「MISO」のように。そんなピーナッツバターを支える落花生が、故郷で作られ、それが昔、世界一に輝いた――。「世界一の落花生で、アメリカに負けないピーナッツバターを作ってみたい」。杉山氏のその思いが、『杉山ナッツ』の出発点でした。

2013年、杉山氏は日本に帰国。遠州小落花が地元で作られていたとはいえ、現在は栽培されていない幻の品種でした。農業経験もない若者が、その品種を探し、再び育て、加工可能な量を生産するなどまさに無謀でした。それでも「調べることが好き」という根っからの勉強家である杉山氏は、来る日も来る日も図書館を巡って文献にあたり、得た手がかりが「遠州小落花を作っていた組合が存在した」ということ。その組合員の家を1軒1軒訪ね歩き、ついに、当時の畑をそのまま残している農家に出会いました。その畑に足を運んだ杉山氏が目にしたのは、自生している遠州小落花の姿でした。ようやく出会えた幻の落花生を手にした時、胸を満たしたのは、嬉しさや感動よりも「責任感」だったと言います。「世界一にまでなった遠州小落花を、自分がまた蘇らせることができるんだろうか」。そんな思いを胸に、素人農家の果てなき挑戦はスタートしました。

遠州小落花は「遠州半立ち」とも呼ばれる。半立ちとは高級品種の落花生のこと。

静岡県浜松市自分でやるしかない。ないなら作るしかない。

まずは荒れた耕作放棄地を約100坪借りて、農家から分けてもらった2kgの種をもとに栽培をスタート。落花生は春に種を蒔き、秋に収穫します。一般的にはビニールシートをかけて土の温度を上げ、早く肥大させて収穫しますが、「早くても、遅くても駄目」と杉山氏。遠州小落花は、11月の「遠州のからっ風」が吹く前のタイミングで収穫しなくてはなりません。その理由は、からっ風で天日干しすることで、甘みが凝縮し、味が濃くなるからです。また化学肥料は使わず地元の海で採れる海藻、貝殻を肥料にするため、虫も出ず、農薬も必要ありません。この理にかなった栽培方法は、遠州小落花が賞を取った時の文献に記され、漢文で書かれた内容を読み解いたと杉山氏は話します。

3年かけて、ようやく加工できるぐらいの量を収穫できましたが、問題はピーナッツバターにする技術です。ピーナッツバターの味は、「落花生の煎り方」「渋皮を取るか取らないか」「グラインダーの歯の回転数」など様々な要因に左右されます。杉山氏は栽培の傍ら、焙煎機やグラインダーについて研究し、果ては遠州小落花に合った機械を特注し、自分で改造したり、自作したりするまでに。こうした気の遠くなるような研究や試行錯誤を経て、ようやく「落花生」が「バター」になる時を迎えます。

地元の肥料と気候が作る落花生。全てメイド・イン・遠州だ。

静岡県浜松市人の手でしかできない、何十ものプロセスを経て。

ひと口に「焙煎して挽く」と言っても、そのプロセス全てに然るべきやり方があります。酸化による味の劣化を防ぐため、落花生の殻は注文が入ってから剥きます。また、落花生は「一番花」「二番花」「三番花」の順に大きさが違い、それぞれ煎り方も渋皮の取り方も変わるのだそうです。3種をブレンドさせて味のバランスを取り、一気に全量をペーストするのではなく、1瓶ずつ挽いてから詰めます。1瓶あたり100粒の落花生を使いますが、挽く時は粒を残し、新鮮なナッツのカリカリ感が楽しめるようにペーストします。

種類は、ピーナッツだけの甘みを味わえる無糖の「プレーン」と、浜松にある『内山養蜂所』のオーガニック蜂蜜を加えた「ハニー」の2種。1日100瓶作るのが限界ですが、料理人からの引き合いも多く、中華料理やフレンチ、鮨店などの料理店への卸しもしています。その店の料理に合わせて煎り方や配合なども変えているという徹底ぶりで、例えば鮨店では「京野菜の巻き寿司」の野菜の味を引き立てるために、浅煎りに仕上げるそうです。『杉山ナッツ』は主役となる素材の魅力を引き出す名脇役にもなるのです。

落花生は小粒ほど味が濃い。遠州小落花は甘みも旨味も強い。

静岡県浜松市ピーナッツバター作りは、地域への還元でもある。

地元の酪農家とコラボレーションしてホワイトチョコレート入りの限定品を出したり、ピーナッツバターと農家が作ったジャムとを組み合わせたサンドウィッチ作りのワークショップを行ったりと、地元のアピールも兼ねた商品作りにも積極的です。「農業はものづくりであり、社会との共同体。誰かが買ってくれるから作れるし、作るためにお互い助け合い、支え合う。自分のものづくりで町を良くしていくことができればいいなと思います」と杉山氏は話します。杉山氏にとってピーナッツバター作りは、自分を支えてくれる人たちへの恩返しでもあるのです。

『杉山ナッツ』、今年の販売はまだまだ先の冬ですが、今は、種蒔きを終えた遠州小落花が芽を出すのを想像しながら美味しいピーナッツバターの完成を待ちましょう。

「これから『杉山ナッツ』が出て来るね、と冬の楽しみにしてもらえれば」と杉山氏。

Data
杉山ナッツ製造工場

住所:静岡県浜松市西区雄踏町宇布見4863−40 MAP
電話:090-9802-4747
料金:プレーン100g 1,350円 ハニー100g 1,530円
※工場での販売は行っていません。販売店はホームページを参照してください。
http://www.sugiyamanuts.com/

石を敬い、石とともに生きる。国東半島で育まれた特別な精神。[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

石仏を前に何か心動かされた様子の川田シェフ。

大分県国東市

未だ知られぬ地域の魅力を伝え、そこから新たな価値を創出する『DINING OUT』。第13弾となる今回の舞台には、大分県国東市が選ばれました。ここは1300年の歴史を持つ神仏習合の宗教観「六郷満山文化」に代表される、独特な宗教観を持つ神秘的な土地。そんな神秘性を料理で伝えるという挑戦的な試みです。

そして静寂の中に凛と佇む石仏や巨岩、その裏に潜む神秘的で不可視の“何か”。そんな不思議な空気感を「ROCK SANCTUARY―異世界との対話」というテーマで表現しました。

国東を巡るごとに、心に去来する不思議な穏やかさ。造形そのものよりも、その裏にある精神性に圧倒される石造仁王像や磨崖仏。見えないけれど感じられるその“何か”は、どのように醸成され、どのように受け継がれてきたのでしょうか。

『DINING OUT』本番を前に、土地の背景と歴史を紐解いてみましょう。

両子山を中心に広がる山深い国東半島が今回の舞台。

大分県国東市原始宗教と神道、そして仏教が融合した独特な宗教観が誕生。

悠久の歴史を越え苔むした石が、ただ黙ってそこに在る。ときに人は、日々の疑問や鬱憤を、その石に問いかける。しかしその問いさえもやがて石に吸い込まれ、後には澄んだ湖面のような静かな心持ちが残される――
ここは大分県国東半島。ここを訪れ、その静謐の中に身を置くと、山岳信仰という独特な宗教観をすんなりと受け入れることができるでしょう。その深く澄みきった文化を、少しだけ紐解いてみましょう。

国東半島の最高峰は標高720.6mの両子山(ふたごやま)。古くから信仰の対象となったこの霊峰を中心に、奈良時代から平安時代にかけて数々の寺院が築かれたことから、山岳信仰と仏教が複雑に融合した特異な宗教観が生まれたといわれています。

自然を崇める原始宗教、近隣の宇佐神宮から広がった八幡信仰、そして仏教。その後、全国的に広まる神仏習合の流れは、ここ国東半島から生まれたといえるかもしれません。そしてその特異な文化は、半島内に開かれた6つの郷、それぞれに点在する寺院群を「満山」と称したことから、「六郷満山文化」と呼ばれました。当時は広さ900平方キロメートルに満たず、さらに大半を深い山々に囲まれたこの国東半島だけで1000を越える伽藍があったともいわれています。

伝説によると、六郷満山の起源は養老2年(718年)に仁聞菩薩が半島内各地に28の寺院を創設したことに遡るとか。つまり2018年は、六郷満山開山1300年の節目の年。文化財の特別公開や各種イベントなど、半島をあげての盛り上がりを見せています。

鳥居の内側に石仏が鎮座する神仏習合を象徴する景色。

巨岩、奇岩が半島内に随所に見られる。岩山そのものも信仰の対象に。

大分県国東市独自の宗教観を描き出す石と岩の世界。

さて話は戻り、「六郷満山文化」について。神仏習合の宗教観はみえてきましたが、実際に目に見える形としてはどのような特色があるのでしょうか。

その答えのひとつが、冒頭の石です。

たとえば仁王像(金剛力士像)。有名な東大寺南大門の仁王像は木造ですが、全国には石で造られた仁王像も200基程度あるといわれています。そして、その内の実に約8割もが、この国東半島に安置されているのです。
国東半島を歩くと、いたるところに残された石造仁王像を目にします。猛々しいもの、苔むしたもの、どこかユーモラスな表情をしたものなど、さまざまな姿を見せる仁王像。そのすべてに、この地域独特の、石への畏敬の念が込められているのです。

たとえば両子寺の参道前に佇むのは、2メートルを越える阿吽一対の仁王像。風雨にさらされ苔むしてもなお、その力強い存在感は褪せることはありません。江戸時代中後期の作と伝えられ、国東半島のシンボル的存在として知られています。あるいは六郷満山寺院の最初の寺といわれる千燈寺の跡地。本堂こそ喪われていますが、現在もその本堂後には石造りの仁王像がひっそりと佇んでいます。石段の横、参道の前、さらには国道の脇にまで。随所に佇む仁王像は、この地域の生活に溶け込んでさえいるのです。

また、仁王像以外では、豊後高田市にある熊野磨崖仏も象徴的です。岩肌に直接彫られた巨大な大日如来と不動明王は、平安時代末期の作。岩への信仰と仏教思想が融合した文化財といえるでしょう。磨崖仏に至る石段には「鬼が一晩で築いた」という伝説が残り、ここにも石への特別な思いが垣間見えます。

石への畏敬、石への信仰心。そんな国東の人々の思いは、石像という形で具現化しているのです。

両子寺の仁王像。その堂々たる姿は国東を代表するシンボル。

千燈寺跡の仁王様。同じモチーフでもそれぞれ造形や技法が異なる。

石段、石碑、仏塔など、仁王像以外にも石にまつわる文化財が多い。

大分県国東市静寂のなかに垣間見える何者かの存在とは。

さて、そろそろ『DINING OUT』のテーマである「ROCK SANCTUARY―異界との対話」の意図がおぼろげながら見えてきた頃でしょう。そう、“おぼろげ”であることが大切なのです。

国東を訪れれば、石や岩は必然的に目に入ります。滞在するうちに、いつしかそこに石や岩があることが当たり前と思えてくるはずです。そして静寂に浸り、その“当たり前に”あるそれらを前にすると、やがて不思議な、神聖な気分がやってくるのです。それは古代の人々が岩山に神を見た気持ちと似ているのかもしれません。あるいはもっと曖昧な、未知なるものへの畏怖なのかもしれません。

「ROCK SANCTUARY」、つまり「岩の聖地」。これは言葉にできない、けれどもきっと誰しもが心のどこかで感じ取る神秘的な何かを、言葉で表した結果。おぼろげでも、何か心を揺さぶる存在がここに在ると仮定し、その何かとの対話を通して、より深く国東を知ることが、今回の『DINING OUT』の無謀とも思える挑戦なのです。

もちろん、幾枚かの写真と文章だけでは、その意味を完全に感じ取ることは難しいことでしょう。しかしこの地に足を運び、その静寂に身を置いた時、誰しもがこの言葉を思い出し、深く理解できることは間違いないのです。

神々しい岩山の姿に、信仰を集めた理由も腑に落ちる。

石と岩が織りなす静謐。その空気感を伝えることが今回のテーマの意図。

大分県国東市言葉にできない心の在りようを料理で表現する稀有な料理人。

受け継がれる文化と、それを育んだ歴史、そしてその根幹を支える精神性。今回の『DINING OUT』のテーマは、いわば誰にも見ることができない心の奥の概念に則したものです。この難しいテーマに「料理」という形を与え、ゲストの眼の前に提示してくれるシェフは果たしているのでしょうか。

心の奥深くを、具現化する。そんな深遠なるアプローチで料理に臨む料理人が、ひとり居ました。それこそが今回の担当シェフである川田智也氏です。2017年に開いた『茶禅華』がまたたく間に確固たる地位を築いたからではありません。開店わずか9ヶ月でミシュランの二つ星を獲得したという快挙も、いまは重要ではありません。

それよりも川田シェフが、心の在りようや土地の歴史という深い部分から料理を作り上げる稀有なる人物であることが重要なのです。

「和魂漢才」、つまり日本固有の精神と、中国伝来の技術を融合することを信条とする川田シェフ。日本古来の山岳信仰や神道と、中国から伝わった仏教を融合するこの地に、これほどピタリとはまる料理人はいないでしょう。

国東の寺院群を巡った川田シェフは、驚くほど長時間、ただ黙って石仏や岩山を見つめていました。具体的な料理のアイデアを練るよりもまず、この地の中に入り込み、その精神性を理解しようとするように。

「国東に来た感想は、“感動”の一言に尽きます。静かな寺社、深い山、岩山や石仏、火と水。その感動の理由をまずは深く考えなおし、それを料理に落とし込みたい」静かにそう語る川田シェフ。その穏やかな口ぶりからは、本番を飾る料理の輪郭は未だ見えてきません。しかしこの修行僧のような川田シェフの手により、「ROCK SANCTUARY」は思わぬ姿で私たちの前にその姿を表してくれることでしょう。

誰よりも長く手を合わせ、心静かに祈る川田シェフ。

山に登り、石に触れ、五感すべてで土地の空気を感じた。

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

前人未到、アジア4連覇達成のガガン氏と九州の雄・福山氏がコラボ。五感を拡張する春の饗宴。[CUISINE SAGA VOL.02/佐賀県佐賀市]

森永邦彦氏による桜のシェフコートに身を包む、ガガン・アナンド氏(左)、大塚瞳氏(中)、福山剛氏。

佐賀県佐賀市4つの個性が重なり予想不可能な饗宴に。

明治維新150年事業として、佐賀の食材や器、そして所縁のあるプロフェッショナルを集めて一夜限りで開く饗宴「CUISINE SAGA」も3回目の開催。今回はいよいよ、アジアのみならず世界からも注目されるシェフの登場です。

シェフの名は、ガガン・アナンド。
タイのバンコクでオーナーを務める「Gaggan」は、「アジアのベストレストラン50」において2015年から3年連続で1位にランクイン。そして4月8日に開かれたこのイベントの直前には2018年度のランキングが発表され、そのなかでもトップに輝き見事4連覇を達成。名実ともにアジアのレストランシーンを牽引する稀代のシェフです。今回、そのパートナーとして腕を振るうのは、同ランキングにおいて九州で初めてランクインした「La Maison de la Nature Goh」の福山剛氏。2人は「GohGan」というユニットとして国内外の食のイベントでクリエイティブな料理を共に作る間柄でもあり、2021年には本格的に手を組み、日本で店舗を構えることを目指している同志なのです。

そしてその強力なシェフ2トップが活躍する舞台を整えるのが、徹底した食の空間づくりに定評のある、フードコーディネーターの大塚瞳氏。そこにパリコレでも活躍するファッションデザイナーの森永邦彦氏も加わるという、なんとも豪華かつ、先の展開が読めない布陣。

この4つの才能が共鳴することで一体どのような化学反応が起こるのか。その驚きの始終をお伝えします。

ともにアジアを代表する2人のシェフ。料理以外のシーンでも根っからのエンターテナーだ。

メニューはシンボルとなる食材のイラストを描き、イマジネーションを膨らませる、ガガン氏流のプレゼンテーション。

今回もビバレッジは嬉野の茶師・松尾俊一氏が担当。嬉野茶のほか台湾茶、ギリシャのハーブティまで世界中の茶葉から、ガガン氏の料理に合うお茶をセレクトした。

窓際でゆっくり抽出される氷出しの嬉野釜炒り茶。土地の味を感じる濃厚で鮮烈な茶葉作りは松尾氏ならでは。

佐賀県佐賀市長く心に刻まれる、一夜だけの〝景色〟をつくりだす。

日頃、コーディネーターとしてだけでなく自らも料理人として腕を振るう大塚氏ですが、今回は食空間全体のプロデュースに専念。そのテーマを「桜」と定めます。
「さまざまな美味しいものが溢れているこの時代。私はただ美味しいだけの料理には多くの価値を置いていないんです。それより、『こんな面白い体験をしたよね』とか、『あの人と一緒に楽しいひと時を過ごしたね』ということの方が、長く記憶に刻まれているもの。だからガガン氏をはじめさまざまな才能が結集しているのだから、ほかのどこにもない一夜、ここでしか見られない〝景色〟をつくりたいと考えたんです」と大塚氏は語ります。

そして料理や器、科学にファッションなどさまざまな要素を絡めることで、立体的に春を感じられる空間にすることに心血を注いだといいます。

今回、ダイニングには饗宴のシンボルともいえる桜が生けられていましたが、この生花ひとつをとっても大塚氏のこだわりが見られます。例年以上に桜の開花が早かった今年。桜前線の先頭をゆく九州・佐賀も例外ではなく、イベント当日の4月8日に開花のピークを合わせるために、旧知の生花店に頼みこみ、ぎりぎりまで開花調整を行いました。

普段、自分が主催する食イベントでは料理や器だけでなく、身にまとうものも含めトータルで調和を考えるという大塚氏。今回も、この春の一夜を象徴するような唯一無二のコスチュームが制作できないか、頭を悩ませたといいます。そして向かったのは、パリコレをはじめとして国内外で活躍する気鋭のファッションデザイナー・森永邦彦氏のもとでした。
「最新鋭の料理メソッドを駆使するガガン氏の料理に合わせるには、同じくテクノロジーや新技術を積極的に服作りに落とし込むスタイルの、森永氏以外にいないとアタックしました」(大塚氏)

ガガン氏の最新の分子料理などを服に落とし込むにはどうすればいいか。森永氏は答えとして2つの服を用意します。その一つが桜吹雪をモチーフとしたTシャツ。
「今回のイベントは明治維新から150年ということで、当時の日本人が着ていたものにフォーカスしました。その頃の人々の間では洋服を脱いだ時の心許なさを解消するために、体に和彫の刺青を彫ることが流行していたそうです。なかでも桜吹雪は人気の絵柄だったそう。それをできるだけ抽象化して現代のファッションで使われることの多い、水玉模様とストライプ柄で表現しました」(森永氏)。

そしてもう一つは、洋服にテクノロジーを融合させる森永氏らしいシェフコート。一見、白衣に桜模様のパッチワークを散りばめた変哲のない服に見えますが、これにストロボや携帯の光などを当てると一変。桜が桃色や黄色、緑色など鮮やかに輝いて見えます。これは光の角度によって異なる色を発色させる特殊な素材を用いているため。

桜の花の移ろいを服の上で表した驚きの趣向に、ゲストからは感嘆の声があがりました。

テーブルコーディネートの細部まで確認する大塚氏。

この日、もうひとつの主役だった「桜」。ぎりぎりまで開花調整をすることで、最も見頃の状態でゲストを迎えた。

「ガガン氏の実験的な手法を視覚の面から表現した」と話す森永氏。

桜吹雪を抽象化したTシャツは、シェフのほかサポートメンバーたちにも好評だった。

照明を落とし、iPhoneのフラッシュを焚いて撮影するとこの通り。

わずかな光の入射角度でも発光する色が違う。動画で撮影するとその変化は一層鮮明に。

佐賀県佐賀市五感を刺激し拡張させるような、未知の料理の連続。

七色に光るユニフォームに目を奪われたあと、いよいよガガン氏と福山氏のユニット「GohGan」による料理が運ばれて来ました。「GohGan」としてはどちらがイニシアチブをとるわけでなく、2人、そしてチームでアイデアを出し合い料理を構築していきます。そして、その土台となる食材は隣県・福岡の自店でも普段から佐賀の食材を積極的に使っているという福山氏が中心となり、セレクトしました。

最初に供されたのは、ハーブなどを散らしたオレンジ。ストローから吸い込むと口の中に広がるのは紫蘇の香りとピリッと舌を刺激するチリの味。これはハーブや紫蘇、梅干しや赤カブなどを一緒に味わうことで、カクテルのブラッディメアリーのような味わいを、口の中で完成させるという一皿。視覚からくる情報からは想像もつかないような味覚のカウンターパンチ。「GohGan」の創り出す料理は終始この連続。全部で15品にも及ぶコースの最中、ゲストの脳は心地良い裏切りにフル回転状態となり、次なる料理の到着を待ち遠しく感じていました。

通常、「GohGan」がイベントで提供するときは、その土地ならではの食材とインスピレーションまかせ。決まったメニューはありません。ただ、インドに出自を持つガガン氏らしく、カニを使った温かいカレーそばと、ガガンカレーと呼ばれるスパイス料理だけは外せないシグニチャーディッシュです。

今回はそばではピンク色の桜そばを用い、ココナッツ風味のカニのカレーヌードルを提供。そして料理を締めくくるカレーでは、この佐賀の地でならではの佐賀牛のホホ肉をセレクト。これは牛を神聖な存在とみなすインドでは当然提供されることのないメニューで、ガガン氏自身「牛を使ったカレーを作ったのは今回が初めてだと思う」と言うように、日本有数の銘柄牛の産地に敬意を払った幻の一品でした。

1皿目は「UME BLOODY MARY」。紫蘇や梅、赤カブなどのジュースが、通常のブラッディメアリーにはない複雑さを作り出す。器は李荘窯の寺内信二氏の鎬シリーズ。

2皿目の「WHITE ASPARAGUS SAKURA」。マッシュ状のサツマイモでアスパラガスを直立させている。周囲の土はカカオクッキーを砕いたもの。

5皿目の「TEA-RA-MISO」。マスカルポーネチーズと白味噌を使った一品。インドのスタイルを踏襲し、白毫烏龍茶とともに提供。器は葉桜をイメージした李荘窯の青磁を使用。

7皿目の「TUNA TARTAR ONIGIRI」。ベトナムミント&ハーブのピリリとした辛味を効かせたトロのタルタルを、ライスペーパーで巻いて桜餅風に。器はクリスチャン・メンデルツマがデザインした「2016/」の白磁のプレート。

8皿目の「CHAWANMUSI OF TOMATO」。セミドライトマトやマイクロトマト、バジルのペーストなどを閉じ込め茶碗蒸し風に提供。器は「ARITA PORCELAIN LAB」の蕎麦猪口と薬味皿をマット調の白磁に仕上げた特注品。

9皿目の「GOHGAN CURRY VERSION 8」。そばとココナッツ風味のカレーアイスをよく混ぜ、箸でいただく。李荘窯の半球体の器を桜色で仕上げ、春らしさを演出。

12皿目の「GOHGAN BAMBOO SHOOT BEEF FRY」。スパイスの華やかな香りが引き立つように煮込まず15分ほどで仕上げたカレー。ガガン氏が牛肉を使った希少な一皿。器は李荘窯の銀彩。

13皿目の「STRAWBERRY CHEESECAKE MONAKA」。チーズケーキを一度作りそれを粉砕してクリーム状にし、最中でサンド。器は、トマス・アロンソがデザインした使い手によって様々な用途で使用できる「2016/」の白磁のトレイ。

14皿目の「SAKURA BONSAI」。よもぎのアイスの下には春菊のソースを忍ばせる。器は、テーマである「桜」の花弁をイメージした李荘窯の手ロクロの作品。

盛り付けもチームでアイデアを出し合い、ユニークなビジュアルに仕上げた。

佐賀県佐賀市器を起点に、料理をクリエイトする醍醐味。

器と料理のマリアージュを掲げる「CUISINE SAGA」のこと。今回も印象的な器づかいが数多く見られました。その中でも器を起点に、その特徴的な形状をどう生かすかに心を砕いてクリエイトされた料理があります。

そのひとつが有田の職人の高度な技術と世界各国の16組のデザイナーの感性を融合させて作り上げた「2016/」のおろし器。これにフォアグラのアイスクリームにぶつ切りしただけのフルーツキャロットを添えて提供しました。そしてゲストは皿を使って自ら人参をすりおろし、その瑞々しい食感とクリーミーなムースのハーモニーを楽しみます。そうした自分で完成させる料理の要素として器が重要な役割を担ったのです。

ほかにも、森永氏が1年間のうち桜が開花する時期を円グラフにして表現した平皿の上に、グリーンとホワイトの2種類のアスパラガスのソースを使って色合いを重ね合わせたり、無数の小さな穴がある陶器製のコーヒーフィルターを使って、煎った米の香りを移したコンソメスープなど、器から着想を得て料理を生み出す作業も今回の楽しみだったと福山氏は振り返ります。

また、食の空間づくりの一部として、大塚氏も3つの器づくりに参加。それは彼女が料理の道を歩み始めたばかりのころ、師から伝えられた3つの調理の基本をモチーフとしたもの。「その先生はすべての調理は〝切る〟〝ちぎる〟〝たたく〟という3つのうちのどれかであると。だからその1つ1つの工程を大切にしなさいと教えてくださいました」。その行為をヒントにし、有田の吉右ヱ門窯の原田吉泰氏とともに協働。とくに、大塚氏が国内外で収集したアンティークのナイフで皿の表面を切り裂いたような器は、シェフたちも「クレージーだね」と最大級の賛辞を惜しみませんでした。

3皿目の「FOIEGRAS ORANGE CARROT」。フォアグラの冷たいムースに液体窒素でフレーク状にしたフォアグラをトッピング。器は有田の赤絵にインスパイアされた藤城成貴氏がデザインした「2016/」のおろし器。

提供の直前にも、自ら器で人参を摩り下ろし味や食感を確かめるガガン氏。

10皿目の「SAKURADAI GREEN WHITE ASPARAGUS」。ガガン氏が皿を見て2色のアスパラガスソースを使うことを発案。身厚な桜鯛の火入れもパーフェクト。

森永氏が李荘窯に依頼し作り上げた桜のプレート。一年を360度の円に見立て、3月中旬から4月上旬までのわずかな開花期間をピンクで表した。

11皿目の「MOUNTAIN VEGGIES CHICKEN SOUP」。ガガン氏が印象的だった佐賀の食材としてあげた、5種類の山菜を使った一品。冬の名残のフランス産トリュフとともに。

器は、ビッグゲームがデザインした「2016/」の耐火度の高い土で作られたコーヒーカップと多孔質の磁器で作られたコーヒーフィルター。陶磁器とは思えないほど水分を透過させ、香ばしい米の焙煎香をコンソメスープに移した。

4皿目は「SAKE LEES NANO HANA BUN」。ガガン氏の店でも出している定番メニューで、今回は春野菜を包み込み、上に炙ったウニとアオサパウダーをのせた。器は〝切る〟をテーマに大塚氏が吉右ヱ門窯とともに作ったもので、切り目を入れて焼いたプレートに、あとからアンティークナイフを接着したもの。

6皿目は「FIREFLY SQUID PAKODA」。ホタルイカをイーストを配合した衣をつけて揚げ、サクッ&フワッ感を出したもの。佐賀県産の赤と黄色の柚子ごしょうをピーマンでのばしたソースを添えて。器は〝ちぎる〟がテーマで、樹脂製のサンプルを実際にちぎって、そのままの形を石膏型に鋳込んで成形。

15皿目の「CHURRO WITH CITRUS MARMALADE」。温かいチュロスに桜シュガーをまぶし、柚子ごしょう入りのガナッシュと、玄界灘に浮かぶ馬渡島固有の柑橘・元寇のママレードを添えて。器は〝たたく〟をテーマに底面をハンマーで丁寧にたたいたテクスチャー感のある一皿。

佐賀県佐賀市世界トップのホスピタリティが、忘れがたい一夜を演出。

ガガン氏と福山氏による、クリエイティブでアメージングな料理が15品。
そのひと皿ひと皿に詰め込まれた想いや情報量のあまりの多さに、終了時にはゲストも充足感に浸っているような状態に。

ただ、会を通して一番印象に残ったのは、ゲストを盛り上げ自らもハッピーなオーラを振りまくガガン氏と、何時も太陽のような笑顔を絶やさない福山氏。

この日の準備中、2016年に有田焼創業400年事業にも参加していた大塚氏は、「佐賀は何百年も前から豊かな食材と器に恵まれ、華やかな食卓があった場所。だから400年目以降の佐賀でも、こんなにも楽しい食のシーンがありますよってことを示したいんです」と話していましたが、まさにそれを体現するような饗宴だったと思います。

会場のいたるところで、メインキャストとゲストの会話が広がった。

ゲストたちは一皿ずつ確かめるように、その味や仕掛けを楽しんでいた。

全国から集まった俊英のシェフたちのサポートに謝辞をのべるガガン氏。

佐賀県佐賀市次回は〝世界一のシェフ〟の元で研鑽を積んだ、フレンチの寵児が登場。

そして4月30日(祝日)には、フレンチの巨匠ジョエル・ロブションの右腕として、世界各国でミシュランの星と名声を支えてきたSUGALABOの須賀洋介シェフが登場。佐賀の食材をふんだんに使った、ここでしか味わえない特別なコース料理に期待したいと思います。

Data
さがレトロ館

住所:佐賀県佐賀市城内2丁目8−8 MAP
電話:0952-97-9300
https://useumsaga.jp/

インド・コルカタ出身。2007年にバンコクへ移住し、その後レストランの料理長を務める一方、エルブジで研修を積む。2010年に開いたレストラン「Gaggan」では、オーナー兼エグゼクティブシェフを務め、Progressive Indian Cusine(進歩的インド料理)を打ち出す。世界的注目が集まる「アジアのベストレストラン50」において4年連続1位に輝き、2017年には「世界のベストレストラン50」でも7位を獲得。将来的に福岡に小規模店の開業も見据えている。

1971年2月26日生まれ。福岡県出身。高校生在学中、フレンチレストランの研修を受けた。1989年フランス料理店「イルドフランス」に就職。その後、1995年からワインレストラン「マーキュリーカフェ」でシェフを務めた。2002年10月、福岡市西中洲に「La Maison de la Nature Goh」を開店。2016年には、九州で初めて「アジアのベストレストラン50」に選ばれた。西部ガスクッキングクラブ講師などを務める。

1981年福岡生まれ。料理上手でおもてなしを大切にする祖母や母の影響で、幼い頃から料理や室礼に興味をもつ。食べることが大好きで、世界中をめぐって様々な味に親しみ、また料理研究家のもとで学ぶ。料理会で使う食材は全て自ら生産者を巡り探し求めたもの。その数は数千件に及ぶ。窯元との付き合いも多く、出張料理人として、気に入った土地に数日限りの食空間を演出するイベントプロデュースを10数年間行い、器と食材をつなぐ役割を果たしている。

1980年東京都生まれ。早稲田大学社会科学部、バンタンデザイン研究所卒業。2003年、「アンリアレイジ」として活動を開始。「神は細部に宿る」という信念のもと作られた色鮮やかで細かいパッチワークや、人間の身体にとらわれない独創的なかたちの洋服、テクノロジーや新技術を積極的に用いた洋服が特徴。2005年、ニューヨークの新人デザイナーコンテスト「GEN ART 2005」でアバンギャルド大賞を受賞。2005年より東京コレクションに参加。2014年よりパリコレクションに進出し、国内外50店舗で販売されている。

火に感謝を込めて。水と火と味の祭典。[多摩源流まつり/山梨県北都留郡]

齊木煙火本店さんの色鮮やかな花火が打ち上がります。

山梨県北都留郡「水と火と味の祭典」。

山梨県北都留郡小菅村は多摩川の源流にあたります。この地で毎年5月4日に行われているのが『多摩源流まつり』で、2018年は第31回目となります。清らかな多摩川の清流、お松焼きと花火、地元の食文化を融合させたこの祭りは「水と火と味の祭典」ともいわれ、1万人を超える人出で活気づきます。祭りの会場では小菅村をはじめ多摩川流域の郷土芸能が舞台上で披露され、屋台では山菜ご飯、源流そば、大福餅、きびおこわ、ヤマメの塩焼きなどの郷土料理を堪能することができます。鱒のつかみ取り大会も開催されます。更に、会場近くには全長約200mにわたり鯉のぼりが泳いでいます。

観客たちは川の両岸の石段に座って火の祭りが始まるのを待ちます。

山梨県北都留郡夕暮れ時に燃え上がる迫力あるお松焼き。

川の両岸の石段に観客が座り、日が落ちてくるといよいよ火の祭りの始まりです。川の上に設えられた舞台では勇壮な太鼓の演奏が観客の気持ちを盛り上げます。また、近年話題のパフォーマンスプロジェクト雷光炎舞「かぐづち」による炎や光をダイナミックかつ自由自在に操る圧巻のショーも楽しめます。いつの間にか山間は漆黒の闇に包まれ、炎の揺らぎがあたりを幻想的に浮かび上がらせます。そして高さ約5mのお松焼きに火が入ると、お松焼きは一気に燃え上がります。人々が無病息災を願う中、大きな炎が空高く立ち上ります。そして夜になるとかがり火が幻想的に会場を照らします。

高さ約10mのお松焼き。(2016年)

山梨県北都留郡火に感謝、北斗妙見大菩薩に火を返すと同時に打ち上がる花火は音楽とともに。

多摩川源流の小菅川を遡ると北斗妙見大菩薩に至ります。火の祭りには、この北斗妙見大菩薩に日頃使用する火への感謝を込めてお松焼きを行い、その火を北斗妙見大菩薩にお返しするという意味があるそうです。幻想的で迫力のあるお松焼きの後ろに花火が上がります。大きな花火は上がりませんが、全編が音楽とともに打ち上がるスターマインで構成されており、お松焼きのオレンジの炎が色とりどりの花火をよりいっそう鮮やかに引き立たせます。音楽とともに打ち上がる花火には大きく分けて2種類あります。音楽と花火を1音1音ぴったりと合わせて打ち上げる方法と、音楽をBGMとして打ち上げる方法です。ここでは後者の方法を使用しています。1曲1曲の音楽に合わせた色やイメージの花火をスターマインで表現します。打ち上げを担当されているのは地元山梨県の齊木煙火本店さん。色鮮やかで繊細な花火に定評があります。特にパステルカラーの花火はうっとりするほどの美しさと気品のある色合いです。

BGMとともに花火が楽しめます。

Data

多摩源流まつり

日時:2018年5月4日(金)11:00〜
場所:〒409-0211 山梨県北都留郡小菅村 MAP
小菅村ホームページ

http://www.vill.kosuge.yamanashi.jp/tourism/event/2013/12/post-6.php

※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。

1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751

泊まって、笑って、「旨味が増す」宿!?[Hostel&Bar CAMOSIBA/秋田県横手市]

お茶屋さんだった蔵がある建物。夜な夜な楽しそうな声や音楽が響く。

秋田県横手市「ホステル」と「発酵」? 秋田に誕生した新たな宿とは。

ホステル×カフェ、ホステル×本屋など、様々な業態とコラボレーションするゲストハウスやホステルが増えています。そんな中、秋田県にちょっと変わったホステルが誕生しました。それは「発酵バル×ホステル」。発酵バルっていったい何?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。オーナーの阿部円香氏の想いとともに、どんなホステルかご紹介します。

レンタサイクルもあり、地元を巡って日常を体験できる。

秋田県横手市ふるさとへ帰ることを、先延ばしにする理由はない。

阿部氏は秋田県横手市で100年続く味噌屋さんに生まれました。家業を継ぐ予定はなく、東京の大学に進学。国際文化関係の学部に在籍していましたが、若いうちに世界を見てみたいと休学し、中東や東南アジア、ヨーロッパなど30ヵ国以上を旅行。そして帰国後に将来のことを考え、就職活動を始めました。そんな中でも、地元や家業のことが気になっていたといいます。「いつかは帰ろうと思っていた。でもそれは今でもいいのかもしれない。一度秋田を、日本を出て、様々な価値観に触れてきた自分が戻ることで、ちょっと停滞気味の地元に息を吹き込めるかもしれない」。そんな想いを抱いていたのに加えて恩師の助言もあり、2015年にUターンしました。

「現存するものを引き継ぎ、そこに新たな価値を与えたい」と阿部氏。

秋田県横手市横手を国際観光都市に! その一歩を踏み出す。

海外をひとりで旅した時に阿部氏が思ったのは「ホテルとは違った距離感の宿っていいな」ということでした。横手市にもこれから海外の旅行客が増えるに違いない。そうなれば、日本人も外国人も交流できるような宿が必要になる。それがホステルという形だったのです。しかし、当時の横手市にはまだホステルやゲストハウスは1軒もありませんでした。

日本中から駆けつけてくれた仲間とDIYに励んだ。

秋田県横手市日本が誇る食文化が、秋田にあった。

しかし、単に宿だけではつまらないと阿部氏は考えました。阿部氏は大学生の時に、実家の味噌を友達が食べて「美味しい」と喜んでいたことを覚えていました。「小さい頃から触れていた秋田独自の発酵食品という文化は、外の人にとって魅力的なのかもしれない。『何もない』と地元の人が卑下する秋田には、美味しい米も水もある。そんな土地の資源もまるごと発信できるようなホステルを開こう」と一念発起し、クラウドファンディングで資金を集め、2017年4月に『Hostel&Bar CAMOSIBA』をオープンしました。建物は運命的に出合った元お茶屋さん。蔵の部分は発酵バルに、母屋はゲストハウスに、仲間とのDIYによって華麗に変身させました。

宿の1階はドミトリータイプの2段ベッドがある。

2階には個室が2部屋。写真は3-4名用個室。

秋田県横手市醸されて旨くなるのは、食べ物だけではありません。

発酵バルで頂けるのは、「甘糀チキンのトマト煮」「クリームチーズの味噌漬け」など、シンプルながらも発酵食でアレンジを利かせたおつまみやおかずが中心。宿泊者以外でも利用でき、最近ではワークショップや音楽イベントなど人々の交流の場としても活用されています。阿部氏は「近所には魅力的なお店が多いので、外で食べてきて発酵バルで飲み直してもいいし、発酵バルの後に外で飲み歩いてもいい」と提案します。「お勧めのマタギ料理屋さんにラーメン屋さんにスナックバーと、地元の日常にどっぷり浸かってもらって、街に入り込んでほしい。秋田を訪れる人と秋田で暮らす人が出会って、いろんな化学反応が起こる場になれば」と阿部氏。「人も街もいい感じに『醸され』ていく場になりたい。そんな願いからの『CAMOSIBA』です」と、阿部氏は名前の由来を明かします。

「甘糀チキンのトマト煮」。阿部氏自身がお酒好きなので日本酒にもこだわる。

『天の戸』の酒香寿(さけかす)を隠し味に使った、お酒に合うピッツァ。

秋田県横手市「自分が楽しい」が一番。楽しさは伝染するものだから。

「実のところ、地域活性化のためにホステルを開いたというよりは、自分の周りが楽しくなっていけばいいなと思った」と阿部氏は言います。もうすぐ『CAMOSIBA』は1歳を迎えます。こうした場ができたことにより、横手の街は人と人がつながって、じわじわと「旨味」が増している様子。「人も文化も発酵させて美味しくするホステル」が、今後どんな味わいを街にもたらしてくれるか、楽しみです。

共有キッチン。宿泊者には簡単な朝食も用意(500円)。

Data
Hostel&Bar CAMOSIBA

住所:秋田県横手市十文字町曙町7-3 MAP
アクセス:JR十文字駅徒歩3分
電話: 0182-23-5336
料金:男女混合ドミトリー(6ベッド)1人 3,200円、女性専用ドミトリー(4ベッド)1人3,500円、個室(3-4名用)1部屋12,000円~、個室(2-3名用)1部屋9,000円~
http://camosiba.com
写真提供:Hostel&Bar CAMOSIBA

土地の息吹まで汲み取り、自身の技とする料理人・川田智也。その高潔な精神が生む和魂漢才の料理とは?[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

常に自然体を崩さぬ川田智也シェフ。その瞳は常に、物事の奥深くの本質を見つめる。

大分県国東市

2018年5月26日(土)、27日(日)の2日間限定で開催される『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』。今回の舞台は、山岳信仰と神仏習合の宗教観を育んだ緑深き場所、大分県国東半島です。そしてこの静謐な土地、巨岩と石仏に囲まれる独特な空気感に触れるべく設定されたテーマは「ROCK SANCTUARY―異界との対話」。この地に棲む“何者か”との対話を通し、未知なる精神体験を生むこと。形はなくとも心に残る、深遠なるテーマと言えるでしょう。

そんなテーマに挑む料理人は、いま食通の間で話題に上らぬ日はないシェフ・川田智也氏。2017年2月に開いた『茶禅華』は開店わずか9ヶ月でミシュラン2つ星獲得。しかしそんな偉業ばかりではなく、この場所、このテーマにピタリとはまる数々の符合が、『DINIG OUT』の成功を予感させてなりません。まるで惹かれ合うように、国東を訪れた川田シェフ。そこで目にしたもの、体感したことが、川田シェフにどのような思いを運んだのでしょうか。穏やかで誠実で、けれども決して折れない芯を持つ川田シェフの言葉から、その心の裡が少しだけ見えてきました。

「食材と話をする」それが川田シェフの料理の根幹。

大分県国東市わずか5歳で料理人を夢見た少年が、師と出会い才能を開花する。

川田智也シェフの人物像には、”深い”という形容がふさわしいでしょう。決して圧倒してくる迫力があるわけではありません。むしろ物腰やわらかく、親しみやすい人柄の人物です。

旅先で出会う一人ひとりの目を見つめてしっかりと話を聞き、別れ際には深く頭を垂れてお辞儀をする。食材を前にすれば宝物のように丁寧に扱い、その本質を全身で読み取ろうとする。寺を訪れれば誰よりも長く手を合わせ、あるいは心を込めて鐘を撞く。

それはまるで修行僧のような、真摯で誠実で偽りのない姿でした。そしてそんな人柄の内側に、決して揺らぐことのない芯があることも同時に垣間見えるのです。どこまでも穏やかで、かつ”深い”人物。そんな川田シェフの現在までに至るその足跡を辿りながら、世に轟く独自の料理観を紐解いてみましょう。

1982年、栃木県に生まれた川田シェフ。外食が好きな両親の影響からか、物心つく頃には料理に関心を示し、5歳ですでに料理人になる夢を持っていたといいます。そんな川田シェフがまず選んだのは、中国四川料理の道。料理学校在学中の2000年に「修業するならここしかない」と思い定めた『麻布長江』の門を叩き、まずはアルバイトを開始。卒業後も同店で腕を磨き、2008年には副料理長まで務めました。

当時は中国本土志向、つまり本場の中華料理への思いが強かったという川田シェフ。その思いに変化を生んだのは、師である長坂松夫氏に言われた「食材と話をしなさい」という言葉でした。「日本の食材に中国語で話しかけても通じませんよね。日本の食材を使うからには日本語、つまり日本料理が必要だと感じたのです」人生の岐路に立った川田シェフは、日本料理を学ぶという決断を下しました。

『茶禅華』の厨房。開店1年を越え、少しずつ形を変えながら進化を続ける。

『茶禅華』の店内もまた、和漢の趣を取り混ぜた穏やかな空間。

大分県国東市日本料理の名店で学んだことは、食材に語りかける言葉。

やるからには半端ではいけない。川田シェフが日本料理の修業先として定めたのは日本最高峰の名店『日本料理 龍吟』でした。もちろん入店希望者も多い狭き門。簡単に入れるわけではありません。川田シェフは「とにかく通う」という愚直な方法を選びました。

価格も一流の名店に、毎月のように通うまだ20代の川田シェフ。1年も過ぎる頃、店主・山本征治氏にその熱意が伝わり、ようやく入店が叶います。川田シェフ28歳の頃でした。

「繊細さの中に力強さがある料理。とくに下処理のレベルはずば抜けています。食材に語りかけるためにも『龍吟』での経験は他に代えがたいものでした」

それからときは流れ2013年。『龍吟』の厨房に立ち腕を磨く川田シェフに、もうひとつの転機が訪れました。それは台湾に開かれる『祥雲龍吟』立ち上げへの参加。「台湾という場所で、台湾の食材で、日本料理を作る。その考え方に大きな気付きがありました」

これは「日本で、日本の食材で、中華料理を作る」という現在の川田シェフの鏡写しのような試み。川田シェフは『祥雲龍吟』で副料理長も務め、2年後に帰国すると自身の店の開店準備に取り掛かりました。

一番出汁のイメージという雉のスープ。お湯のように澄んだスープは、味わいにも透明感がある。

お茶のペアリングも店の名物のひとつ。中国茶ばかりではなく、日本茶も登場する。

大分県国東市和魂漢才。根底にいつも日本の心が流れる独自の料理。

2017年2月に誕生した川田シェフの店『茶禅華』は、オープンわずか9ヶ月でミシュラン2つ星を獲得という快挙を成し遂げます。その原動力は、長い修業と数々の転機の末に到達した「和魂漢才」の思想。日本の心と中国の技。その両者の融合こそが、『茶禅華』の料理を唯一無二の味として輝かせているのです。

食材への敬意、日本料理の繊細さ、滋味深さ、そして中華料理の大胆さ。そのどれが欠けても生まれ得ない『茶禅華』の味。加えて川田シェフが大切にするのは、日本料理に由来する「温度感」です。たとえば名物の叉焼は、醤油、砂糖、スパイスに3時間漬け込んだ後、ゲストが着席してから焼き上げます。「時を捉えること。どんなに良い料理でも、その一瞬を外れると魅力が半減します」

季節感ある付け合せ、お茶のペアリングに登場する玉露など、直接的な日本だけではなく、より深い精神的な部分にも、このような日本らしさが潜んでいるのです。

あるいは懐石料理での椀物の位置付けにある澄んだスープ、炭火を使った焼き物、無駄がなく凛とした佇まいの盛り付け。「中心部に日本らしさが残る料理」とシェフ自らが評する料理の数々は、中華料理でも日本料理でもなく、かといって表面的な“フュージョン”というわけでもなく、ただ”川田智也の料理”として独特の存在感を放っているのです。「調理が主役の中華料理、下処理を重視する日本料理。良いとこ取りというわけではありませんが、互いに補い合うことで、さらなる高みを目指したいと思います」

名物の叉焼。クラゲにはスダチの香りと酸味を添えて。ウドと大豆には和の技法が活かされる。

2種の調理で楽しむ鳩。胸肉は藁で燻製にした後、炭火焼きに。もも肉は中国スタイルの揚げ物に。

調理場に炭火を入れたのも、日本らしい技法を取り入れる川田シェフのこだわり。

大分県国東市国東で出会った数々の符合、そして生まれるインスピレーション。

はじめて大分県に、そして国東半島に降り立った川田シェフは、この地に心惹かれている様子でした。あれこれ騒ぎ立てるタイプではありませんが、その言葉の端々に、土地や人に接する態度に、その思いが溢れ出ていました。

そして思わぬ符合も、数多くありました。たとえばこの地が神仏習合の宗教観に縁の深い場所であること。寺院の境内に鳥居があり、鳥居の内側に仏教建築がある。そんな歴史ある混在は、日本料理と中華料理を融合する川田シェフの思いと共鳴するのでしょう。

あるいは山号を峨眉山とする寺の存在。峨眉山は四川省にある霊山であり、四川料理をベースとする川田シェフも足を運んだことがある場所。これも国東と四川省との思わぬ共通点でした。また、護摩焚きに代表される炎と、清冽な湧き水の両者が集う土地であることも、ひとつの符合でした。「中華料理は火の力、日本料理は水の力。その両方の力が強いこの土地は、さまざまなインスピレーションが浮かびます」川田シェフは少しだけ声を弾ませながら、そう語りました。
「現在メニューは6割くらい完成しています。でもここに足を運んで、さまざまなことに感銘を受けて、新たな思いも浮かびました。東京に戻って、もう一度考え直してみます」それから川田シェフは、いたずらっぽい笑顔を浮かべて少しだけメニューのヒントを教えてくれました。「この地で信仰を集める岩を、料理で表現してみます」

岩を使う料理とは想像できませんが、土地の歴史や文化に思いを馳せ、その精神を汲み取り昇華する川田シェフの手で、きっと思いもよらぬ料理となることでしょう。

巨岩が連なる国東の自然を前に、さまざまなアイデアが生まれたという。

はじめて訪れた国東の自然に触れ、感動の面持ちを見せる場面も。

生産者の話を聞きながら必ずメモを取る川田シェフ。その真剣な姿が多くの生産者の心を動かした。

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』[DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

大分県国東市OVERVIEW

『DINING OUT』第13弾となる今回の舞台は、山岳信仰と神仏習合の地として知られる大分県国東半島です。

両子山という岩山を中心に6つの山稜に分かれた国東半島には、総称して「六郷満山」と呼ばれる無数の寺院が点在。日本古来の宗教観である神仏習合もこの地で生まれたといわれ、土地に根付いた山岳信仰と混淆し、この地独自の六郷満山文化として発展しました。目を奪う奇岩が聳え、寺社の山門には苔むした石造仁王像が立つ。その静謐で神秘的な空気は、宗教という枠組みを抜きにしても、誰しもの心に響くことでしょう。

そんな印象的な空気感を伝えるべく、今回設定されたテーマは『ROCK SANCTUARY―異界との対話』。耳に沁みるような静寂の裏に、ふと感じられる人知を超えた何者かの存在。それは近現代の神仏のように、明確なイメージを伴うものではなく、より得体の知れない何か。その何者かに問いかけているのか、それとも自分自身に語りかけているのか。この半島に足を踏み入れた人は、きっとそんな思いにとらわれるに違いありません。そしてそんな独特な空気感を、『ROCK SANCTUARY(岩の聖地)』という言葉に込めたのです。

捉えどころのない、難しいテーマです。しかし今回の料理人である川田智也シェフなら、それを形にして私たちに提示してくれるはずです。「和魂漢才」をポリシーに掲げ、中華料理の大胆さに、日本料理の精緻さ、滋味深さを加え独自の料理を生み出す気鋭のシェフ。その実力は、2017年に開いた『茶禅華』が、オープンわずか9ヶ月でミシュラン2つ星を獲得したことからも明らかです。

そしてホスト役には、「世界のベストレストラン50」の評議委員長を務める中村孝則氏が登場。過去5回にわたり『DINING OUT』に出演した経験と、多岐にわたる深い知識で、国東らしい不思議な体験へとゲストを誘ってくれることでしょう。

静謐で神秘的で、それでいてどこか懐かしい。そんな国東半島の『DINING OUT』。どうぞご期待ください。

Data
DINING OUT KUNISAKI with LEXUS

開催日程:①2018年5月26日 (土)~ 27日(日) / ②2018年5月27日 (日)~ 28日(月) ※2日間限定
開催地:大分県国東市
出演 : 料理人  川田 智也(「茶禅華」 )/ホスト  中村孝則(コラムニスト)
オフィシャルパートナー:LEXUS http://lexus.jp)、YEBISU(http://www.sapporobeer.jp/yebisu/
オフィシャルサポーター : 大分県国東市

敵わないものと出合いたい。そんなものを傍に置きたい。[硯箱/京都府京都市]

今回、原氏が用意してくれた愛用品は、「蒔絵硯箱」。「長く付き合うことによって、古いモノのエッセンスが自分に染み込んでいく」と話す。

京都市京都府日本の工芸は、世界的に見ても突出している。

「僕は“印”つまりクラシックなハンコが好きで色々な意匠の篆刻(てんこく)を持っているのですが、印や印泥を入れる“箱”として使っています」。

そう話すのは、日本を代表するグラフィックデザイナー、『日本デザインセンター原デザイン研究所』の原 研哉氏です。
「桃山時代に作られた“蒔絵硯箱”です。愛用している日本製といえばこのあたり」と言う原氏は、この蒔絵硯箱を普段の道具として使い、身近な存在として常に見える場所に置いています。そして、この「硯箱」を例に挙げながら「日本の工芸は、世界的に見ても本当に緻密で繊細。これを作り上げる感性を誇らしいと感じる」と話します。そして、「世界にはもの作りに長けた国が多々ありますが、そういう国々と比べても日本の技術や感性は格別」と言葉を続けます。

一方で「自分は骨董マニアでもなければコレクターでもないし、専門家でもない」と言います。この原氏の姿勢にはむしろ独特の審美眼を感じます。

つまり、時代がつているからいいとか、評価の定まった仕事だからいいというような目線でものの善し悪しを決めていないのです。では、何を基準にモノと付き合っているのか。

それは、「自分が敵わないもの」かどうかということ。

丁寧に描かれた蒔絵、絶妙な三次曲面。時間をかけて丁寧に作られた職人の仕事。

「この“硯箱”とは、京都の新門前の古美術店で出合いました。骨董品選びには、馴染みのお店を持つことや店主との関係も大事だと思います」と話す原氏。

京都市京都府時間をかけないとできない手仕事。その作品が手元にある豊かさ。

「蒔絵で描かれた植物の精緻で優雅な造形。かなりの技術を持った人が、安定していい仕事をした時の成果というか、相応の時間をかけないとできない仕事。それが時を経て大事にされ続けて、今に残ってきているという事実にまず感動します」と、原氏は話します。

現在の精密機器をもってしても追いつかない。手間をかけ、培った技を伸びやかに発揮しつつ、丹精を込める。だからこの「硯箱」はずっと尊重され、結果として今ここに残っている。つまり、モノを納める箱という役目を果たすだけではなく、伝統や技術の無言の代弁者でもあるのです。それが今、ひとりのデザイナーの手に渡ったのも運命だったといえます。
「仕事柄、世界を旅することが多いのですが、ついふらふらとアンティークの集まる一角へと吸い寄せられてしまう。例えば、パリならクリニアンクール、フィレンツェならベッキオ橋周辺、香港ならハリウッドロード……。いずれも由緒正しい骨董品店ではなく、偽物だらけのいかがわしい文化ウイルスが湧き出している場所です。しかしなぜか心が潤ってくる。古い時代のものに触れると、かつての才能たちが、もの作りを通してせめぎ合った痕跡を感じます。あざといものでも真っ当なものでも、作られてそこに集まってきたものたちのさざめきを、懸命に受け止めつつ漂っているのが楽しくて、疲れていてもなぜか足が向いてしまいます」と原氏は話します。

疲れていても招き寄せられる。それは、古いものたちとの一期一会が「自分のエネルギーを知らず満たしてくれる」からです。
「大半の店は怪しい品を扱っているわけですが、保証されているものを買うものも、混沌の中から何かを探し出す方が楽しい。本物かどうかも大事ですが、それよりも自分が“敵わない”と思える対象と出合いたい」。

滑らかな曲線を描く角の丸みや寸分の狂いもなくぴたりと収まる蓋と箱。この手触りは数百年前のもので、現代の工芸ではなかなか味わえない。

緻密に描かれた蒔絵は、経年変化によって味わいを増している。

「実際に手で触れることが大切。この“硯箱”に毎日叱られている」と、原氏。

京都市京都府古いモノは未来の資源。美術品は自分の寿命より圧倒的に長い。

「本当にきちんとした美術品は、美術館にあります。美術館に展示されているものは確かに格別に素晴らしい。だからこそ美術館へ行くのは楽しい。ただ、この硯箱はそういう美術品として扱ってはいません」と、「硯箱」について話す原氏。
「僕らがおののくようなもの作りをしていた時期は、日本では平安、鎌倉あたり。室町、桃山と徐々におおらかになってきて、江戸ではどかんと大衆化し、現代はもうかなり堕落しているかもしれません。しかし、当然のことながら、その時代に戻ることはできません。僕は、この“硯箱”が傍にいてくれることによって、かすかながら昔のもの作りの消息とつながっている気がするのです。日々使うことによって、“硯箱“からたしなめられているように感じますし、発見もあります」と、原氏は話します。

「硯箱」は400年ほど前のもの。時空を超えて原氏の手元にやってきたという偶然は、作り手はもちろん、誰も想像できなかったことです。
「これを眺めていると、“お前はほんとに最低だな”“デザインなんてどうしようもないな”“価値というものがわかっているのか”と叱られているような気がします」と原氏。

ここで原氏が言う「眺めている」とは「対話」をすることです。この感覚は、「使う美術」だからこそ。
「美術品は人(自分)の寿命より圧倒的に長い」と言う原氏は、「僕の人生という、ほんのわずかな時間、道具として付き合ってもらっている」と、自分と硯箱との関係について話します。
「未来永劫、自分のものとして残したいというような気持ちはありません。やがては歴史の文脈に勝手に戻っていくでしょうし、そうなればいい」と原氏は言います。

そして、そう考える理由として、「古いものは未来資源だからです」とも話します。
古いモノといえば、伝統や歴史など、過去を振り返るという印象を抱きますが、「未来」という言葉の選択と視点は原氏ならでは。
「現代アートやキレのいいキュレーション、洗練されたデザインも好きですが、古いモノや美術品は“別腹”かも。日本の美術は、平安、鎌倉、そして室町、桃山と時代を経て形成されてきたわけです。日本の感受性は、そこから現代に流れてきたもの。ですから古い時代のものに触れることで、日本人としてのもの作りの血が騒ぐというか、意欲を掻き立てられるのです。数百年の時を生き続けるクリエイティヴへの野心のようなものかもしれません」。

「国は小さい方が格好良い。大国はなんだか醜いし恥ずかしい。日本は大きくなりすぎたかもしれない。世界は経済大国になる前の日本を知らないし、日本人もそれには疎い」と話す原氏。「だからこそ、これから少しずつ勉強しなくてはいけない」と言葉を続ける。

京都市京都府原 研哉氏が考える、「ジャパン クリエイティヴ」とは。

原氏は「これからは世界中から日本を訪れる人がどんどん増えていきます。従来の観光という言葉では表現できない新たなツーリズムの時代がくると思います」と話す一方で「世界はまだ日本を知らない」とも。
「グローバル化が進んできていますが、“グローバル”という文化はありません。文化の本質は常に“ローカル”なものにあります。そういう意味ではグローバルとローカルは一対の概念かもしれません。グローバルになればなるほど、ローカルの価値が際立つのです。例えば、世界のインフルエンサーに共通しているのは、“常に旅をしている”こと。グローバルに動き回っているからこそ、ローカルの価値に敏感になれるのです」と原氏。

では、何をどうしなければならないのか。それは、「日本に昔からあるものを未来資源として活用して行くことが大切」と、原氏は話します。
「地方創生は本当にできるか。これは今、かなり重要な課題だと思います。しかし、闇雲にお国自慢をしたり、例えば『ミラノサローネ』に戦略もなく出展したり。これらはあまり効果を生まないと思います。ひと時の花火として終わってしまい、持続していく糧にはならないでしょう。どうしたら世界の人々に“日本の価値”を理解してもらえるかの仕組みを、入念に、したたかに考えることが必要だと思うのです」とも話します。

更に原氏は、ツーリズムの主要な要素のひとつは「移動の拠点」にあると言葉を続けます。
「可能性を感じているもののひとつは日本の国際空港です。海外から訪れる人がそこを通過しなければ出入国できないこの場所を、ただの通過点に留めておくのはもったいない。日本のショーケースとして、地域の価値を表現する場として活用できるならここに大きな可能性がある。

例えば、“さしこ”や“かすり”などの織物は、当時は庶民が極めた技術であり美です、それが今でもまだ残っている。陶磁器も、昔の品質を再現しながら今の時代の陶磁技術を深めようとする若い世代も出始めています。指物師の技術もまだ冴えている。そんな現代日本の工芸の販路を世界に広げてみたい。

戦後数十年、日本は製造業でやってきた。いわゆる原料を輸入して工業製品として輸出を行う「加工貿易」が主流でした。しかし、状況は刻々と変わっていきます。「ラジカセ」が3,500円ほどで売られていた現実を目の当たりにして愕然としたことがあります。こういうものをこの値段で売らなきゃいけないなら製造業はもう末期に来ているわけです。同じ金額の飲食サービスなら“うな重の上”あたりでしょうか。うな重なら、気に入ってもらえば、次の週にまた食べるかもしれない。 フランス人が日本に来てうな重を食べれば輸出です! テクノロジーは大事にしないといけないですが、優位のある文化との組み合わせが大事なのです。

自分の中に育ちつつある構想として面白いのは、日本列島の半島の先をつないで行く移動インフラ、“半島空港”。かつて半島は、海からやってくる情報をキャッチするアンテナだった。しかし今は最も行きにくい場所。しかし三方を海に囲まれた場所は、素晴らしい異界。そういう異界に、見たこともないようなホテル空間や充実したもてなし、そして食のサービスを展開してみたい……。いつ実るか実るかはわかりませんが、そういう方向を今は見ている」。

もはや、デザインの領域を超えたデザイン。工業化時代のデザインが「モノ」のデザインだとしたら、ツーリズムの時代は「コト」のデザインかもしれません。
「基本的にはグラフィックデザインが主な仕事でしたが、グラフィックデザインが必要とされるのは、プロジェクトの最後の最後。自分の仕事を生き生きとさせるには、その下地から作らないといけない。畑に例えるならば、土を耕し、種を蒔き、作物を育てる……。そんなことを考えるうちに“コト”のデザインの方が、自分の仕事になってきました。依頼された仕事だけデザインをしていたら未来は作れない。未来を結実させるような構想の力を持ったデザイン、したたかな根っこのデザインをやっていかなければならないと思っています」と原氏は話します。

「瀬戸内海は島々が程よい距離で点在し、それらはフェリーで巡るには格好の距離感である。景観も、島を吹き抜ける風も本当に心地良い、日本の国立公園第一号。列島というと世界の人はエーゲ海を想像するらしいが、エーゲ海とは全く違う繊細さを持っている」と言う原氏は、岡山県出身。

京都市京都府千数百年、ひとつの国として在り続けた日本の「蓄積」こそ、ジャパン クリエイティヴ。

日本の歴史は世界の中でも稀に見る古さです。千数百年もひとつの国であり続けたことによる文化的蓄積は半端ではない。フランスのブルボン王朝ができたのは室町時代。日本の方がずっと古い」と原氏。更に「東西南北に広がる列島は自然や季節の変化に富んでいて、いたる所に温泉が湧き出し、和食は今や世界に注目され、高度なホスピタリティも熟成されている」と言葉を続けます。
「例えば、中国4,000年の歴史と言いますが、それは様々な国々が存亡を繰り返し、文化が分断され続けてきた歴史。掘れば何か出てくるかもしれないけれど、継続的に蓄積された文化という意味で日本はやはり特別なのです。文化、伝統、自然、技術、風土など、その全てが日本の未来資源です。世界はそういう日本をまだ知らないし、実は日本人がまずそれを自覚していない。日本の資源や地域の本当の価値を表現していく方法を探さないといけないと思います」と話す原氏は、もはや何屋なのか!?
「デザインは好きですが、デザイナーになるとは思っていませんでした。強いて言うなら“デザインを携えて生きる人”ですかね。でも今は、デザイナーという職能の意味を拡張したいと思っています」。

そして今、資源は現代に生きる我々に託されています。原 研哉氏が考えるジャパン クリエイティヴとは、先人たちが絶やさなかったからこそ、今なお積み重ね続けられている日本の「蓄積」なのです。

言葉の一つひとつをじっくりと丁寧に紡ぎ出しているのが印象的だった原氏(右)。「モノ」のデザインと同様に「コト」のデザインも重視する。

1958年岡山県生まれ。『日本デザインセンター』代表取締役社長。武蔵野美術大学教授。 日本グラフィックデザイナー協会副会長。外務省「JAPAN HOUSE」総合プロデューサー。主な活動は、2000年「RE-DESIGN─日常の21世紀」開催、2004年「HAPTIC─五感の覚醒」開催。2002年より無印良品のアドバイザリーボードのメンバーとなりアートディレクションを担当。2005年「愛知万博」の公式ポスターを制作。2007年、2009年にはパリ/ミラノ/東京にて「TOKYO FIBER ─ SENSEWARE展」開催、 2008〜2009年にはパリ/ロンドンにて「JAPAN CAR展」開催。2011年「HOUSE VISION」の活動を開始し、2013年、2016年に東京展を開催。2012年「犬のための建築展」開催、2014年「TAKEO PAPER SHOW 2014 SUBTLE」開催。2011〜2012年には北京を皮切りに「DESIGNING DESIN 原研哉 中国展」を巡回。2016年にミラノトリエンナーレにて、 アンドレア・ブランツィと「新先史時代-100の動詞展」を開催。また、蔦屋書店やGSIX、羽田空港等のブランドデザインや、地域のアイデンティティに関わる仕事をしている。主著に、「デザインのデザイン(岩波書店)」「日本のデザイン(岩波新書)」「白(中央公論新社)」「白百(中央公論新社)」などがある。
https://www.ndc.co.jp/hara/

『DINING OUT』シェフたちのBEST 50、彼らは今、何を想う?[Asia’s 50 Best Restaurants 2018/マカオ]

発表直後、壇上で喜びを表現する『傳』長谷川在佑氏。

マカオ一夜限りの祭典を楽しみつつも、自らの立ち位置を冷静に分析。

2018年3月27日、マカオのリゾートホテル・ウィンパレスで行われた食の祭典「アジアのベストレストラン50」授賞式。当日、現地で取材を行ったONESTORY取材班が感じた、アジアの潮流レポート。3回目であり連載のラストを飾るのは『DINING OUT with LEXUS』参加シェフ4名による、授賞式後のインタビューをお届けます。

DINING OUT NIHONDAIRA』担当シェフ・神宮前『傳』長谷川在佑氏、『DINING OUT MIYAZAKI』担当シェフ・神宮前『フロリレージュ』川手寛康氏、『DINING OUT UCHIKO』担当シェフ・大阪・本町『ラシーム』高田裕介氏、『DINING OUT IYA』担当シェフ・大阪・肥後橋『HAJIME』米田肇氏。

彼らは現在、日本のレストランシーンを牽引するシェフたちであり、次世代へと食のバトンを繋ぐ使命を担ったキーマンであるとONESTORYは考えています。今回、マカオで行われた食の祭典でも、会場を沸かせ、日本勢躍進の立役者になったといって過言ではないでしょう。

そんな彼らの現在の率直な想い、ONESTORYや『DINING OUT with LEXUS』について、さらには視線の先、今後の日本のレストランシーンについてまで、食の最前線で戦うシェフたちの熱き想いをお届けできればと思います。

会場にはロゴ入りのリンゴなど、イベントを盛り上げる工夫が。

「アジアのベストレストラン50」の日本評議委員長を務める中村孝則氏。

授賞式後のパーティ会場はプールサイドを貸し切りに。

マカオ僕的には“チーム・アジア”がしっくりくる。

まずは、今大会、昨年の11位から堂々2位へとジャンプアップした東京・神宮前『傳』長谷川在佑氏(『DINING OUT NIHONDAIRA』担当シェフ)。

興奮覚めやらぬ帰国数日後に、今大会を振り返っていただきました。

(長谷川)ーー個人的には、この大会で受賞されるレストランって、『TOCTOC』のキムさん、『La Cime』の高田さん、『ラ メゾン ドゥ ラ ナチュール ゴウ』の剛さん、台湾の『RAW』のアランさんに『MUME』のリッチーさん、本当に皆がBEST 50に入る前から交流があって、情報共有もしている仲なんですよ。僕らの世代って隠し事もなく、変な線を引くでもなく、今回日本人シェフが過去最多でランクインしていて“チーム・ジャパン”という風になっていますが、僕的には“チーム・アジア”って言った方がしっくりくる。アジア全体がよくならないと「WORLD’S  BEST 50」では太刀打ちできないですからね。ガガンとも会えばいつもそんな話ばかりしていました。だから、4位で『シューリング』が呼ばれてチキショウ『フロリ』に負けたと悔しがり、『フロリレージュ』が3位で呼ばれると、何だよまた『傳』が邪魔してと笑い、僕が呼ばれた時は『ガガン』、あのやろ〜早く店閉めろよ。そんな冗談が言えるメンバーなんです。誰が一位かは正直あまり気にしていない。それくらい皆が皆を認めている。一年に一度皆で会えることが最大の楽しみなんです。


Q.今回の大躍進について、上位を狙うように自ら考え動いていたのですか?

ーー色々な見解はあると思いますが、実際そこまで考えられてないですね。上位に入るための答えって、活動とかではなくて、日々目の前のお客さんたちをいかに満足させるかだけだと思うんです。店や自分を認知されるには海外に出ていかないといけないと思いますが、認知と人気はまったく違う。まずは局地的に爆発的な人気が起こって認知に変わると思うんです。例えばAKBはその最たるものですね。海外に行く、コラボする、学会に行くとか色々活動はあると思うんですけど、それをやれば上位になれるわけではない。僕は人が好きだから人間味を持って付き合っていく、結局はお店に来てもらったお客様にまた来たいと思ってもらうしかないと思うんです。


Q.2位を獲得し、今後何を目指していきますか?

ーーもともと日本料理が大好きだからこそ危機感があったんです。だから店を始めた時に同年代の人が入りやすい店にしたかった。若い人も気軽に入れる店がないと、日本料理という文化が無くなっていってしまうと思って。だからこそ日本人としてBEST 50に選ばれるよう頑張ってきたのは事実。そのシェフが親しみやすい人だったら、お客様もすごくリラックスして楽しめると思うんですよね。威厳や真面目にの姿勢が大切という人もいるけど、じゃあ、それだけで世界に発信できるの? ファンを増やすために、知ってもらう努力はいくらでもできるんじゃない? 自分はそういう風にやっていきたいと思ったんです。日本を世界に伝えるならば、出汁や旬も大切ですが、相手を思いやるという精神をもっと伝えていきたいと思うんです。


Q.最後にONESTORYについて思うことがあれば教えてください。

ーー『DINING OUT』を中心にONESTORYがやっていることは大好きですし、すごく意義のあることだと思います。さらに言えば「アジアのベストレストラン50」をいつか日本でできたら最高に嬉しい。その時こそ、ONESTORYに力になって欲しいと思います。会場は東京でなくていいんじゃないのかな、いや地方がいい、やるなら島一個を使うとかも面白いですね。日本各地のシェフとBEST 50のシェフが各地で料理するイベントがたくさんあって、地域の食材を使って、地域が活性化する。やりませんか? 僕は協力惜しみません。それが『DINING OUT』であり、ONESTORYが進むべき道な気がする。そのためにONESTORYはできたんじゃないのかな。やりましょうよ!

授賞式での2位という快挙の際もそうでしたが、いつでも気さく、そして子供のように目を輝かせる長谷川氏。氏と話していると、「ああ、この人の作る料理は、絶対に楽しいだろうな」、そう思わせ、いつかアジアを、いや世界をもその楽しさを認めることになるのだろうなと確信するのでした。

アジアのシェフたちと仲良く記念撮影。

壇上に登壇する際、愛犬のお面で登場の長谷川氏。

アジアのシェフと多くの友人関係を築く長谷川氏と川手氏。

マカオBEST 50というの流れがあり、つくづく生き物だと痛感。

続いて登場は、『傳』長谷川在佑氏と常に競い、共に励み、新境地へと進んだフレンチの雄。昨年の14位であり、こちらも大躍進の3位を獲得した東京・神宮前『フロリレージュ』川手寛康氏(『DINING OUT MIYAZAKI』担当シェフ)。

帰国後、すでに日常に戻った川手氏に今大会を振り返ってもらいました。

(川手)ーー結果を見た時の感想と自分の想像していたことにズレがあって、順位とかランキングとか本当に今回の大会は良い意味でも悪い意味でも予想外の結果でした。


Q.それは今まで上位だった人との世代交代を感じるものだったということでしょうか?

ーー世代交代というよりBEST 50というのは、つくづく生き物だなと。本当に今まで僕たちはレジェンドと呼ばれる人達に勝つことができなかったんですよ。今回はたまたま流れがよかっただけだと思います。また来年は大きく変わっているだろうし、BEST 50の質自体が、ミシュランなどとは全く異なり色々な人たちが多くの基準を考えて、決めていると思うんです。どれだけ人々を幸せにできたかが個人的に一番の審査基準なのかなと思いました。おいしいっていうのは一つの基準でしかないと思うんですよね、このBEST 50の場合は。ですから今回は自分もレストランを通して色々な人たちを少しは幸せにできたんではないかと思います。


Q.昨年の14位から、今年一気に3位にランクアップ。心の有り様はどんな感じでした?

ーー常にバクバクですよ。『ナリサワ』成澤さんと『龍吟』山本さんが呼ばれた時はドキッとしましたね。成澤さんには本当にお世話になっていて、山本さんのところでも研修を受けさせていただいたことがあり、おふたりとも若いときから知ってくれているんですよ。成澤さんは、僕が初めてBEST 50に参加したきっかけのような存在。ランキングにあがる全然前から僕の店を色々な人に推薦してくれていたり本当に感謝しています。そういうことがなければいまの自分はこの場に居ないし、BEST 50には参加すらできなかったと思います。今回、自分がこの順位に入れたことは、そういう意味で恩返しであり、何か意味があったのかなと思います。


Q.次も上位入賞を狙うんですか?

ーー狙ってとれるもんじゃないと思うんですけど、可能性はあるかなって思います。とりあえず、来年は長谷川さんに勝ちたいですね。


Q.良い関係ですよね?

ーーリスペクトしています。自分にはできないことを長谷川さんはコツコツ学んでいたり、敵わないところはたくさんあります。でも自分のできることで彼とは今後も勝負していきたいですね。


Q.最後にONESTORYについてはどのように感じていますか?

ーー宮崎の回で参加させていただいた『DINING OUT』は自分を試したいっていうのが第一にあって、その先に現地のシェフやスタッフ、地元の人を通してその地域や食材を知れるいい機会になりました。イベント後も、掴んだ感覚や人脈を自分なりにどう試し、新たな扉を開けるか。そんな気づきを与えてくれるイベントだと思いましたね。もちろん大変ですが、チャンスがあれば多くのシェフにチャレンジして欲しいと思います。

笑顔を絶やさず、紳士的。それでも料理や将来について話し始めると言葉の端々に熱を持つ川手氏。常に挑戦を続ける氏の姿勢は、これからもやりたいことで溢れているし、次世代のシェフたちに向けて貪欲に前を向くと語ってくれたようでした。

『フロリレージュ』のスタッフでの記念撮影。

ランキング発表後の川手氏。この後。思わず涙するシーンも。

各国のメディアなどからコメントを求められる川手氏。

マカオ今大会、最も会場を沸かせたのは初登場17位のあの人!

昨年、愛媛内子での『DINING OUT UCHIKO』も記憶に新しい『ラシーム』高田裕介シェフは、なんと初登場のランクインにも関わらず17位、さらには「最上位の新規入賞レストラン賞」という快挙に輝きました。

授賞式後のパーティで短い時間でしたが、初の授賞式参加の感想をいただきました。

(高田)ーー今回、初ランクインで素直に本当にうれしいです。いつも遊んでもらっている川手さんや長谷川さんを見ながら、いいな、いいなと思っていた自分もいて、ようやくこの場に立つことできました。大阪も含め、地方で頑張っているレストランに向けて自分なりに何ができるのかと思っていたんです。そういう意味でこういうランキングに入りたいという気持ちが常にあって、海外でのイベントなどもかなりやってきました。インバウンドで訪日外国人観光客の来店などの影響もあったと思います。さらに長谷川さんや川手さん、剛さんなど、多くの仲間達が沢山のお客様を紹介してくれた事も感謝したいです。なりたくてもなれないし、食べに来てくれたから17位になったかと言うと、それはわからない。誰が投票してるのかもわからない。実直に仕事をやってきた結果が今回のタイミングで繋がったのかな?と思うだけです。本当に地方都市なので、これをきっかけに世界中の人がうちの店だけではなく、大阪に来てくれたらと思います。」


Q.昨年の『DINING OUT』はいかがでしたでしょう?

ーーオファーを頂いた時は、今回の授賞式同様、すごく緊張したのを覚えています。僕もど田舎の出身で、ああいう地方の田舎に眠る素晴らしさを、改めて料理を通して知れたいい機会でした。モチベーションの高い、内子という小さな町の人々の熱も、とても刺激になりました。終わってみると自然と地域と食が結ばれ、皆が仲間になれた、そんな素敵な記憶です。

今回の「アジアのベストレストラン 50」授賞式は、初参加で右も左も分からず、ただ参加しただけと高田氏。今後の目標を聞けば、「順位を上げるとかではなくて、もっと皆が大阪に来てくれたらいいな、家族とか両親とか周りを幸せにしたい」と、謙虚であり、どこまでも穏やかなコメント。そんな高田氏の魅力は、アジアが認めた17位で証明したのだと思います。

ラシーム高田氏とスーシェフの藤尾康浩氏。

「最上位の新規入賞レストラン賞」にも輝き壇上へのぼる高田氏。

マカオ冷静かつ情熱的、クレバーなシェフが見たBEST 50。

最後は常に大阪のダイニングシーンを牽引し続ける『HAJIME』米田肇氏。『DINING OUT IYA』の担当シェフであり、2018年度の「アジアのベストレストラン50」では2017年度同様に34位に。

受賞後の祭り気分のパーティの中でも、冷静な洞察でこのイベント、さらには自身の店の方向性を的確に分析している解析力が印象的でした。

(米田)ーー今年の流行はシェフ同士のコラボだったり、海外で何をやったかだったり。そういう店が順当にランキングされた印象です。逆に自分の店でしっかりやっているだけでは、評価はそれほどされなかった。それはアジアのレストランシーンの現代性だと思います。ですが、流行に思い切り舵を切るだけでは『コラボやるなんてダサいよね』となった時、舵を切ったシェフたちはどうなるのか? 要は流されず、自分の軸をぶらさないことが、私と私のお店の考え方なんです。レストランは時代時代で流行がありますが、それは世の中の流れはバネのように一周回れば同じ位置でも高さが違う。この高さが進化です。なので、自分自身の軸を大切にしながら、次に流行が回って来た時に進化をした形を提供できるように準備をしておきたいクラシカルが見直される時代、クオリティ重視の時代、いろいろと巡ってくると思うのですが、自分が大切にしているものを崩さないこと。そんなシンプルな答えに行き着きました。

鍛えた身体でタキシードを着こなす米田氏。

川手氏と米田氏のツーショット。

マカオシェフたちの飽くなき挑戦は止まることなく続いていく。

『DINING OUT』というイベントを通し、関わり合ったシェフたち。その勇姿とアジアの食の潮流を感じてみようと参加した「アジアのベストレストラン 50」でしたが、終わってみればひとつの明確な答えが出てきました。

そう、シェフたちはすでに次の目的へと歩きだしているのです。立ち止まらずに、ビジョンを持って次へと突き進む。そんな姿勢にこそ、世界中に散らばる審査員は心を打たれ、またあの店に行きたいと投票するのではないでしょうか?

我々ONESTORYは今後も日本各地に眠る魅力を探し続け、シェフたちの飽くなき挑戦に寄り添い続ける、そして長谷川在佑氏も言っていた日本開催を応援したいと思います。そう、日出国の魅力は、まだまだ尽きることがなく、世界を驚かせ、感動とともに魅了できると思っているのですから。

チームジャパンの面々での記念撮影。皆が笑顔に。

持続可能なアートイベントの原点を見る。[葉山芸術祭/神奈川県三浦郡]

新緑の葉山がアートと賑わいに包まれるフェスティバル。

神奈川県三浦郡「地域発信」、今や当たり前に聞く言葉だけれど。

「地域発信のアートイベント」が各地で見られるようになった昨今。中には数年で終了したり、自治体の予算次第で打ち切りになったりするものも見られますが、地域内外の人に支えられ、2018年で27年目を迎える芸術祭があります。
それが『葉山芸術祭』。毎年参加者も来場者も増え、更に盛り上がりを見せる芸術祭の魅力と見所に迫ってみました。

参加企画では個人宅やショップ、ギャラリーなどがオープンハウスに。

神奈川県三浦郡全国においても先駆的だった“オープンスタイル”。

『葉山芸術祭』は葉山・逗子・横須賀・鎌倉にまたがるエリア内で、プロフェッショナル・アマチュア問わず個人や団体が自宅やアトリエを会場に作品展示を行うのがメインイベントです。

始まったのは1991年。文化団体「一葉会」が地域の文化環境を高めようとスタートさせ、今では葉山芸術祭実行委員会が主催しています。

普段見慣れている場所もアートの出現で違った表情になる。

神奈川県三浦郡新陳代謝が活発だから、芸術祭にも新しい風が入る。

立ち上げ当時から運営に携わっている『海の家 OASIS』代表の朝山正和氏は、長年続いている背景について「葉山という地が芸術祭を定着させやすい素質を持っていたのでは」と語ります。

葉山・逗子は都会から移住してくる若者が多く、新陳代謝が活発な土地。芸術などものづくりや表現に関わる活動以外にも、オーガニックや自然の中での暮らしなど「クオリティオブライフ」を重視する人が集まる場所です。

芸術祭がプロフェッショナル限定のクローズドなイベントではなく「誰でも」「何でも」出展できることが、こういった人々の「発信したい」という気持ちを汲み取るきっかけになったのでしょう。「無理に続けようと意気込むよりも、自然と続いていくことがイベントにとって重要」と朝山氏は話します。

築90年の古民家でのボディセラピーなど様々な企画が催される。

神奈川県三浦郡2018年も約80の多様な表現、企画に出合える。

『葉山芸術祭』が開かれるのはゴールデンウィークの前後3週間、湘南が最も清々しい空気に包まれる時期です。

主なイベントは冒頭で説明した「オープンハウス」での展示と、「青空アート市」です。「オープンハウス」は、工芸作品から木工、写真、建築、絵画、食、アクセサリー、ファッション、庭の草にいたるまで実に多彩。ですが、どんな展示内容でも良いわけではなく、芸術祭の趣旨を理解し、何らかの表現であることが参加の条件です。

毎年多くの応募の中から選ばれ、2018年も約80企画が出展予定です。『大久保家倉庫解放!!!』『築200年の古民家での【ひょうたんらんぷ展】』『ゆる中医学と旬の色を食べる会&マルシェ』など、タイトルを聞くだけでもワクワクするような企画がスタンバイしています。

過去の「アフリカンリズム」ワークショップ風景。体験型イベントも豊富。

神奈川県三浦郡グルメと買い物。神社をのんびり歩きながら。

また、「青空アート市」は住宅街の森山神社境内で開かれる芸術祭のハイライト的イベントで、出店希望者が多いため4月28日の「PART-1」と5月12-13日の「PART-2」に分けて開催されます。

特に「PART-2」は約80のブースが出店するボリューム。革製品にガラスに織物、草木染めなど全国から集まった個性豊かな作品を、作り手と触れ合いながら買うことができます。更に葉山ローカルのフード屋台も出店し、参道や境内での散策とともにグルメも楽しめます。

森山神社での「青空アート市」は最も人気のイベント。

神奈川県三浦郡庭園に浮かび上がるあかりの中で、幻想的な茶会を。

見逃せないのが、葉山しおさい公園で行われる「竹あかり」と「葉山アート茶会」です。

夕暮れ時、一景庵茶室を囲む池の周りにワークショップで制作した竹のあかりが灯り、日本庭園を美しく彩ります。
そこに、東京ミッドタウンアートワークなどを手がけるアートキュレーターの清水敏男氏が「宙」(そら)をテーマに現代アートを道具に見立てた茶室が登場。竹あかりとのコラボレーションで幻想的かつ芸術的な葉山ならではの茶会を楽しめます。

葉山しおさい公園の池の周りを幻想的に彩る「竹あかり」。

神奈川県三浦郡「やりたい」が内部から湧き起これば、自然と続く。

『葉山芸術祭』はもともと堀内・一色エリアのアート展示からスタートしましたが、今では湘南一帯の大規模なイベントに拡大し、年々出展希望者も増えています。

一般的にアートイベントが持続できなくなる理由は「お金」か「人」が止まることにあるといわれています。自治体の予算が打ち切りになったり、主催者の高齢化によりイベントを維持する力がなくなったり。しかし、始めから自分たちの力で運営し、地域から発信する土壌ができていれば、外的要因によって立ち行かなくなることは少ないのかもしれません。

住む人が「発信したい」、来る人も「見たい」、更には「自分も出てみたい」という思いが同じ方向を向き、次の年、また次の年へとつながるのです。
 
「持続可能なアートイベント」の真のあり方――。『葉山芸術祭』は、参加者や来場者が楽しむだけでなく、これから地域を盛り上げていきたいという人にとってもヒントや学びがあるイベントといえるのではないでしょうか。

「青空アート市」、「葉山アート茶会」、「深川バロン倶楽部 ライブ」など目玉イベントがいっぱい。

Data
葉山芸術祭

開催期間:2018年4月21日(土)~5月13日(日)
開場時間:各企画が会期中に独自で、開催日程と開催時間を設定
開催場所:葉山・逗子・横須賀エリアの個人宅、店舗、展示場、屋外、他
主 催:葉山芸術祭実行委員会
〈主催イベント〉
◆竹あかり×葉山しおさい公園
会 期:ワークショップ4月29日(日)~30日(月)10:00~16:00 
    竹あかり展示:5月5日(土)~6日(日) 18:30~20:30
会 場:葉山しおさい公園(神奈川県三浦郡葉山町一色2123-1)
入 場:入園料300円/ワークショップ1,000円

◆森山神社・青空アート市
会 期:PART-1:4月28日(土) 10:00~17:00 ※一部店舗はライブ終了まで
    PART-2:5月12日(土)~13日(日) 10:00~17:00
会 場:森山神社境内(神奈川県三浦郡葉山町一色2167)
入 場:無料

◆森山神社・あかりのイベント:深川バロン倶楽部 ライブ
会 期:4月28日(土)18:30~20:30(予定)
会 場:森山神社境内の一色会館(神奈川県三浦郡葉山町一色2167)
入 場:投げ銭方式のドネーション

◆葉山アート茶会
会 期:5月5日(土)~6日(日)
会 場:葉山しおさい公園内 一景庵
アートキュレーター:清水敏男(学習院女子大学教授、美術評論家)
茶会テーマ:「宙」(そら)
アーティスト:イワタルリ、金 理有、佐藤正治、真砂秀朗、真砂三千代、Mariaはるな、三輪華子、村瀬治兵衛(五十音順)
茶席・協力:村瀬治兵衛(現代工芸家)、高橋伸吾(茶道家)、鈴木佳歩(茶道家)、若江栄戽(カスヤの森現代美術館館長)
花:大出真里子(葉山文化園、ギャラリー蓮 REN)
菓子:鳥海 勝(ラ・ターブル ド トリウミ)
入場:予約制 料金1,500円(お抹茶1服、お茶菓子つき、公園入園料含む)
申し込み方法については葉山芸術祭ホームページを参照
https://www.hayama-artfes.org/
写真提供:葉山芸術祭実行委員会

「宿泊&ものづくり」のコンビネーションで職人を表舞台に。[BED AND CRAFT/富山県南砺市]

職人は作品を表現でき、ゲストは気に入った作品が手に入り、宿は常に新鮮なしつらえを保てるという『三方良し』のシステム。(Photo @前 康輔)。

富山県南砺市ものづくりの歴史が息づく町に、職人とゲストをつなぐ宿が登場。

富山県南砺(なんと)市。富山市と金沢市に挟まれ、世界遺産に登録された五箇山(ごかやま)の合掌造り集落などを擁する、歴史と緑に溢れた地域です。中でも手仕事と職人の文化が色濃く残り、日々の暮らしや家屋の中にまで彫刻が息づいているのが南砺(なんと)市井波地域。そこに、「職人に弟子入りできる宿」として賑わっているゲストハウス群があります。

その名は『BED AND CRAFT』。「宿泊」を意味するBEDと、「職人から直に学べるワークショップ」を意味するCRAFTを併せ持った宿として、新たな滞在スタイルを提案しています。更に、地域の飲食店やカフェ、ショップ、ギャラリー、温泉などとも提携し、「地域全体がひとつの宿泊施設」というコンセプトでつながっています。井波が誇る「井波彫刻」の職人はもちろんのこと、地域の人々や旅行者たちとも交流できるコミュニティワールド。宿泊客だけに配られる地域マップには、このマップを持つ人だけが鑑賞できる作品や訪れることができる名所などが多数紹介されており、各所で発見の喜びを味わうことができます。

人口約8,000人のうち約200人が彫刻師という驚異の比率。1390年に建立された古刹・瑞泉寺の再建のために、多数の大工たちが集った歴史を持つ。

『KIRAKU-KAN』のキッチンラウンジ。「旧横山一夢美術館」をフルリノベーションした、木のぬくもり溢れる空間。

富山県南砺市観光客と地域の職人を結ぶ独自のシステム。

『BED AND CRAFT』の名を冠する宿は、井波の中に3軒あります。

まずは『KIRAKU-KAN(きらくかん)』。広々とした空間に世界中の銘木がふんだんに使われており、「木の博物館」とでも呼ぶべき趣が漂っています。まるで森林浴をしているかのような居心地の良さが魅力。更に4階と5階にある横山一夢(よこやま・いちむ)氏作の欄間(らんま)は、圧巻の眺めです。

次は『TATEGU-YA(たてぐや)』。
その名のとおり、築50年の建具店のエッセンスを生かした「職人のための宿」です。梁(はり)や柱、階段などの基本構造を引き立てた空間は、そこからインスピレーションを受けた彫刻家・田中孝明氏の作品で彩られています。ここに泊まらないと見られない作品もあり、職人との特別な絆を結んでくれます。また、屋内の各所に溶け込むように配された田中氏の作品を探す楽しみもあります。

最後は『TAË(たえ)』。養蚕業で栄えた豪商・藤澤家の邸宅をリノベーションした宿で、こぢんまりとした平屋ながらも長く滞在したくなる住み心地の良さを実現しています。太い梁(はり)を見上げる開放感あるダイニングをはじめ、かつて蚕を育てていた屋根裏部屋を改装した主寝室にまで、漆芸家(しつげいか)の田中早苗氏の作品がアクセントを添えています。

『TATEGU-YA』のラウンジ。地域に根ざした本や、お勧めスポットのマップなどが閲覧できる。(Photo @前 康輔)。

『TAË』の内装。窓を額縁のように配するなど、フォトジェニックなしつらえ。

富山県南砺市宿を「職人のギャラリー」にしてゲストとの縁をつなぐ。

3軒全てに共通するのは、ギャラリーの機能を持った宿として、職人と観光客とをつなげていることです。ゲストが気に入れば展示されている作品を購入することも可能で、さらに最後にオープンした『TAË(たえ)』では、宿泊料の一部を作品のリース料として職人に還元する試みも行なっています。職人の継続的な活動を支えるだけでなく、新たな顧客をも掘り起こすシステムなのです。

そして出色なのが、「職人に弟子入りできる」ワークショップの開催です。約630年の歴史を誇る「井波彫刻」の職人の工房に赴き、漆の箸、木彫りのスプーン、木彫りの豆皿といったクラフトを製作できます。更に、出来上がった作品はそのまま持ち帰ることができます。漆の箸づくりは、塗るための色漆を練り上げるところから始めるなど、いずれのワークショップも本格的なもの。まさに井波でしかできない体験が溢れています。

ワークショップは漆の箸、木彫りのスプーン、木彫りの豆皿の3種。宿泊と合わせて申し込める。(Photo @前 康輔)。

故郷の富山の過疎化や空き家問題を知った建築家の山川氏が、帰郷してプロデュース。(Photo @前 康輔)。

富山県南砺市世界を体感した建築家が新たなまちづくりに挑んだ。

『BED AND CRAFT』をプロデュースしたのは、建築家として「トモヤマカワデザイン」を主催し、職人やクリエイターたちがフラットな関係で協力し合う「株式会社コラレアルチザンジャパン」を立ち上げた、建築家の山川智嗣(やまかわ・ともつぐ)氏でした。カナダへの留学を経て上海の設計事務所に入社し、発展めざましいアジアの大都市で、チーフデザイナーとして大規模な建築に多数関わってきました。
「上海の建築現場は近未来都市というイメージとは裏腹に、昔ながらの手仕事に支えられていました。地方から出てきた人たちが、正式な建築の教育も受けずに手探りでものづくりをしていて、丁寧に図面を引いて持参しても、『読めないから口で説明してくれ』と言われるような状況でした。非常に面食らいましたが、そうしたアナログな現場には、人と人とのつながりと、ものづくりをしている確かな実感があったんです」と山川氏は語ります。

その空気に魅了されて6年半ほど上海に滞在するうちに、クライアントだった日本法人の担当者たちが次々と帰国。日本国内の仕事も依頼してくれるようになりました。そこで、仕事の拠点を日本に移すべく山川氏も帰国したのです。

しかし、新たな活躍のステージとなるはずだった日本の建築現場は、山川氏にとっては無味乾燥なものでした。「非常に成熟していて技術的にも高い水準にあるのに、既存のパーツをプラモデルのように組み合わせる建築方法。そして、分業が進み、人と人とのつながりが希薄になってしまい、なんとも寂しく感じました」と山川氏。
「人の血が通っている現場で、職人と一対一で向き合いたい」――そんな欲求にかられた山川氏は、親戚がいて、幼少期によく通っていた井波に居を定めることにしました。ですが、実際に住んで知った井波の現状は、やはり寂しいものでした。

由緒正しい「井波彫刻」の発祥地だが、全国的な知名度は低かった。「仕事を失いつつある職人をどうPRすればいいのか?」と模索。(Photo @前 康輔)。

富山県南砺市慣れ親しんだ想い出の地が寂れていた衝撃。職人の手仕事の価値を取り戻すために。

「昔は様々な職人が身近にいて、日常的に仕事をお願いしていました。住まいの建築や建具、下駄やザルなどの小道具など――職人は生活のあらゆる場面で仕事を頼まれ、作り、地域の人々と語り合いながら共生していたんです。でも生活の近代化や、住宅の規格化などによって手仕事の需要は激減してしまいました。そのため他の地域よりもはるかに職人と密接だった井波でも、職人の暮らしが立ち行かなくなりつつあったんです。近代的な暮らしは一見便利ですが、作った人の顔が見えません。それに、そもそも手仕事ですらないしつらえが多い。これは非常に寂しく、また、味気ないことだと思います。そういった現代のライフスタイルを、職人の手仕事とつなげて復活させていきたい――『そのためにはどうすればいいのか?』と模索し始めました」と山川氏は言います。

模索の結果、山川氏は発想を転換して、「欲しがる人が見つからないのなら、欲しがる人自身に井波に来てもらえばいい」という答えにたどりつきました。職人に会いに来られるシステムをつくり、職人もゲストもWin - Winの関係になればいい――こうして、「職人に弟子入りできる宿」のコンセプトが固まったのです。

「世界中の人に井波にマイ職人を持ってもらいたい」と山川氏。職人との新しい関係性を構築。

富山県南砺市予期せぬ客層が活路を開いた。

最初にメインターゲットに据えたのは、20~30代の首都圏の女性たち。金銭的な余裕があり、インターネットでの発信力が強く、『女子旅』というトレンドにも恵まれているからです。ですが、いざ宿をオープンしてみると、押し寄せて来たのはほとんどが外国人でした。8割以上にもなったというその内訳は、日本にほど近いアジア系の人々ではなく、ほぼ欧米系の人々だったそうです。

「オープン当初に訪れてくれたカナダ人に、『こんな所で宿をやるなんてクレイジーだ』と言われてしまいました(笑)。でも、日本を何度も訪れていたその人から見ても、井波に息づく手仕事の文化と町並みは新鮮だったようです。『自分だけが知っている、見つけた!』という特別感を持ってもらえる古き良きジャパン。宣伝は今にいたるまでほぼ行っていませんが、こうした通なゲストの方々が口コミで広げてくださっています。旅の情報交換サイトやSNSに何十行もの熱い口コミを書いてくれる人も多く、とても嬉しく思っています」と山川氏は話してくれました。交通の便が不便な井波への行き方を解説してくれたり、映像作家が無償で動画をYouTubeに上げてくれたりと、多くのファンに盛り立てられています。

堅実な職人が築いた木彫りの産業地だからこそ、アレンジされていない素の魅力が残る。(Photo @前 康輔)。

富山県南砺市長く海外にいたからこそ見出せた、井波の価値。

山川氏が外からの視点でディレクションした『BED AND CRAFT』が、宿を訪れた外国人たちの琴線に触れたのは必然だったのかもしれません。
「ホームページに載せているような綺麗な風景だけでなく、路地裏に入ると細い路地が迷路のように入り組んでいたり、それを抜けて行ける秘密基地のような場所があったりと、けっこう面白い町なんですよ。昔ながらの門構えの家や、レトロな時代物の看板なども珍しくありません。そこが他の所から来てくださった方々には新鮮なんでしょうね。そういった素の魅力を、建築家かつデザイナーとして広報していければと思います」と山川氏は言います。

瑞泉寺の門。欄間(らんま)・獅子頭・龍といった精巧なモチーフを生み出す技術は、若き職人たちに受け継がれてモダンなスタイルにも生かされている。(Photo @前 康輔)。

富山県南砺市『ONEゲストハウス・ONE職人』。新たな職人との関係を築く。

「『BED AND CRAFT』は“バケーションレンタル”というコンセプトで造りました。これは、中~長期間滞在して地域を存分に巡ってもらうための拠点、という意味です。ゆったり寛いで頂ける造りはもちろんのこと、『TAË』と『KIRAKU-KAN』には自炊できるキッチンもあります。また、職人たちの行きつけの飲食店も紹介できるので、それぞれの好みによって暮らすように滞在して頂きたいですね」と山川氏。

更に重要なコンセプトとしたのは、『ONEゲストハウス・ONE職人』だそうです。
「設計の段階から対になる職人を定め、建物の造りやしつらえをはじめ、室内に置く作品までも構想してもらいました。職人とともに創り上げた空間なので、後づけのインテリアにはない効果や感動が生まれたと思います」と山川氏は語ります。

「井波彫刻」の売り上げは減り続けているものの、それでも作り続けなければ職人の技術は途絶えてしまいます。でも、一般的な販売方法であるギャラリーへの委託は、委託料などの負担が大きいという難点が。そこで、展示するだけでインセンティブが入り、更に販売のきっかけともなる「マイギャラリー制度」を導入。この制度はゲストだけでなく職人にも好評だそうです。

設置された作品は、配置場所から光の効果にいたるまで計算し尽くされている。

富山県南砺市連綿と受け継がれてきた職人技を、守り、広めるために。

「『BED AND CRAFT』で築き上げてきたものは、ひとつの社会システムだと思っています。これを井波だけでなく、他の様々な地方にも広げていくことが目標です」と山川氏は言います。
山川氏は続けて、「日本には、優れた職人技や魅力を持ちながらも、知られないまま衰退している地域が多数あります。そうした地域を盛り立てて、その価値を知ってもらえれば……。このまま地方の経済を地方だけで回していくのは、今後ますます厳しくなるでしょう。人口の減少やライフスタイルの変化など、努力だけではどうにもならない要因がありますから。『ここに訪れてお金を落としたい』と思ってもらえるようなサポートを、『BED AND CRAFT』の試みをもとに行っていきたいですね」と言います。

今も息づく職人技を、いかに多くの人々に伝えていくか――未来に向けた関係性の構築のために、山川氏の活動は広がっていきます。

職人が何よりのメイン。注目され、作品を見てもらえるシステムを全国に広げたい。

Data
BED AND CRAFT

【KIRAKU-KAN】
住所:富山県南砺市山斐184 MAP
宿泊費:基本料金 1名様まで16,000円(税込)〜 
以降、1名追加ごとに4,000円(税込)〜
最大宿泊人数:10名
【TATEGU-YA】
住所:富山県南砺市井波1896 MAP
宿泊費:基本料金 1名様まで10,000円(税込)〜 
以降、1名追加ごとに4,000円(税込)〜
最大宿泊人数:5名
【TAË】
住所:富山県南砺市藤橋31番地 MAP
宿泊費:基本料金 1名様まで12,000円(税込)〜 
以降、1名追加ごとに4,000円(税込)〜
最大宿泊人数:5名
電話:0763-77-4544(代表)
info@corare.net
https://www.bedandcraft.com/home

「みちのくの小京都」と称される街並みと桜。歴史を重ねた情緒溢れる風景。[角館 武家屋敷群/秋田県仙北市]

見頃は4月下旬から5月上旬。毎年4月20日から5月5日(予定)に行われる「角館の桜まつり」では、町内で様々なイベントが開催されます。

秋田県仙北市趣ある武家屋敷の門や生垣から枝垂れ咲く、圧巻のシダレザクラ。

『玉川』と『桧木内川(ひのきないがわ)』沿いに市街地が広がり、山々に囲まれた秋田県仙北市角館(かくのだて)町は、江戸時代初期に蘆名(あしな)氏により都市計画が進められ、その後佐竹北家のもとで栄えた、当時の城下町の面影を残す県内屈指の観光地です。『火除(ひよけ)』と呼ばれる広場を中心に、武家屋敷が立ち並ぶ『内町(うちまち)』と、町人や商人が住む『外町(とまち)』とに区分され、400年以上が経った現在も、その街並みを残しています。町内には約450本もの「シダレザクラ」があり、そのうちの162本は国の天然記念物に指定されるなど、「桜のまち」としても有名です。その始まりは約350年前、角館佐竹家2代目・佐竹義明の妻の輿入れの際に、京都より嫁入り道具のひとつとして3本の桜の苗木を持ち込んだことにあり、それが受け継がれ、町内に広まったと伝えられています。しなやかな枝に小さな花を付けるシダレザクラは「エドヒガンザクラ」の変種とされ、樹齢は約300年。可憐に咲き誇る白と淡紅色の桜の花と趣ある武家屋敷の共演は、訪れる人の心に深く刻み込まれることでしょう。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

角館 武家屋敷群

住所:秋田県仙北市角館町表町下丁1(石黒家) MAP
アクセス:JR東日本・秋田内陸縦貫鉄道角館駅より徒歩約25分

春限定の美しさ。希少な星形要塞を桜色で彩る、約1,600本ものソメイヨシノ。[五稜郭公園/北海道函館市]

五稜郭タワーの展望台から見下ろした五稜郭公園。夜間には桜の時季限定でライトアップが実施され、美しい夜景も楽しめます。

北海道函館市散策、食事、展望台と、様々な角度から楽しめる、函館ならではのお花見。

北方防備を目的に1866年に建造された星形要塞の城郭で、江戸時代末期、旧幕府勢力と新政府軍との最後の戦いであった「箱館戦争」の舞台となったことでも知られる『五稜郭』。その跡地の約25.2haを整備し開園した『五稜郭公園』は、1952年に「国の特別史跡」に指定された、北海道・函館を代表する観光地です。機能性と美しさを兼ね備えたフランス築城方式を採用し、日本で初めて造られたという星形要塞は、四季を通じて多彩な表情を見せてくれますが、中でも土塁に沿って植えられた約1,600本の「ソメイヨシノ」が開花する4月下旬から5月上旬には、春限定の景色を見ようと多くの人が足を運びます。園内にはゆったりとお花見できる散策路の他、手ぶらでジンギスカンが楽しめる専用席(予約制・要確認)の用意などもありますが、せっかく訪れるのならば、桜色で埋め尽くされた公園の全体を見渡したいもの。五稜郭の南側に位置する『五稜郭タワー』の展望台は約90mの高さがあり、緻密に建造された星形の堀に沿って咲き連なる桜が、園内を染める様を眺めることができます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data
五稜郭公園

住所:北海道函館市五稜郭町44 MAP
アクセス:道央自動車道大沼公園ICより車で約45分/函館市電五稜郭公園前停留所より徒歩約15分

儚いカスミザクラと残雪の岩手山がつくる、優しい、絵画のような景色。[上坊牧野の一本桜/岩手県八幡平市]

地元では有名な一本桜。ほんのりと桜色に染まる花弁と残雪の岩手山が、大自然の中で優しい存在感を放ちます。

岩手県八幡平市岩手県に数多ある一本桜の中でも、知る人ぞ知る名勝。

ただそこで生き、花を咲かせる、それだけのことなのに不思議と人々の心を掴んで離さない一本桜。雄大な自然を背景にした、美しい一本桜が数多く存在する岩手県にあって、隠れた名勝として地元の人を中心に愛されているのが、『上坊牧野(うわぼうぼくや)の一本桜』です。花弁が比較的白っぽく、遠くから見るとぼんやりと霞(かすみ)がかかっているように見えることからその名がつけられたという「カスミザクラ」は、例年、5月上旬から中旬にかけて開花します。樹齢は不明ながら、整った樹形は美しく、まだ雪が残る春の『岩手山』と、青々と茂る牧草との共演により、まるで絵画のように素晴らしい風景を見ることができます。牧草地は私有地により入ることができないため、近隣の道路から観賞を。車は決められたスペースに駐車するなど、マナーを守って楽しんでください。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data
上坊牧野の一本桜

住所:岩手県八幡平市松尾寄木 MAP
アクセス:東北自動車道西根ICより車で約15分/JR東日本花輪線大更駅より車で約15分

日本最古のソメイヨシノや堀の水面を埋め尽くす花筏。圧巻の見所が揃う。[弘前公園/青森県弘前市]

2018年は4月21日から5月6日まで「弘前さくらまつり」を開催。100周年を迎える記念の年に、ぜひ足をお運びください。

青森県弘前市52種、約2,600本。弘前城一帯が桜色に染まる、絢爛な景色に感動。

東北の春に鮮やかな絶景をもたらす、52種、約2,600本もの桜が揃う『弘前(ひろさき)公園』。日本一と称される手厚い管理のもと開花する樹齢100年超の「ソメイヨシノ」の他、「シダレザクラ」や「ヤエザクラ」など、多種多様な桜の花が楽しめ、「日本さくら名所100選」にも選定されています。『弘前城(ひろさきじょう)』の天守を望む『二の丸』には、青森におけるリンゴ栽培のパイオニアとして知られた、旧藩士の菊池楯衛(きくちたてえ)が寄贈したとされるソメイヨシノがあり、現存するソメイヨシノの中では日本最古といわれています。植樹より130年以上を経てもなお、堂々と花開く姿に、自然の大いなる力を感じることができます。更に、弘前公園を桜の名所たらしめるのが、桜の花びらが水面を埋め尽くす「花筏」です。城内には7つの堀があり、中でも城の外堀の水面には、沿道や土塁の上に数多く植えられた桜の花びらが降り注ぎ、桜の海のような景色を作り出します。2018年の開花予想は4月20日、満開は4月25日となっており、例年どおり絢爛なお花見を楽しめそうです。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data
弘前公園

住所:青森県弘前市下白銀町1 MAP
アクセス:東北自動車道大鰐弘前ICより車で約25分/JR東日本・弘南鉄道弘前駅より弘南バス乗車、バス停・市役所前下車、乗車時間約15分、バス停より徒歩約5分

アジアを牽引し続けるTOPシェフ。ガガン&アンドレ・チャン、スペシャルインタビュー。[Asia’s 50 Best Restaurants 2018/マカオ]

授賞式前の貴重な時間でアジアを代表するシェフの夢のインタビューが実現。

マカオふたりが思うアジアのレストランの今とこれから。

2018年3月27日に行われた食の祭典「アジアのベストレストラン50」授賞式。当日、マカオでの現地取材を行ったONESTORY取材班が感じた、今のアジアの潮流レポート。連載第2回目は、アジアの食シーンを牽引し続ける2人のキーマンへのスペシャルインタビューをお届けします。

タイ・バンコク『ガガン』のガガン・アナンドシェフと、シンガポール『レストラン・アンドレ』のアンドレ・チャンシェフ。二人は「アジアのベストレストラン50」アワードがスタートした2013年以来、5年間にわたり最上位を争ってきた――つまり、アジアのダイニングシーンを最前線でリードしてきた存在です。2018年2月に『レストラン・アンドレ』をクローズし、アジアでの新たな挑戦の発表が待たれるアンドレシェフと、4回目の首位が期待される(※)ガガンシェフが見る、アジアのレストランの今とこれから。2018年3月27日、ランキング発表を数時間後に控えた会場で、二人にそれぞれじっくりと話を聞けました。

アジアのシェフたちが世界で戦うために必要な素質とは?、2人が思う日本人シェフの強みとは?、さらにはDINING OUTというイベントの意義についてまで、今、アジアで巻き起こっている食の流れとともに、2人の目線で感じた“今”を検証できればと思います。

※この直後のランキング発表で、ガガンシェフは見事4回目の首位を受賞しました。

それぞれのインタビューの間に重なる時間が生まれ、久々の再会にくつろいだ表情で。

マカオ流れが早く、揺れが大きい分、新たなヒーローが生まれるイベント。

3年連続アジアチャンピオンを獲得し、2018年BEST50への想いは?
――2015年から連続3年間、「アジアのベストレストラン50」で一位をいただきました。自分でも信じられませんが、投票してくださった方々には心から感謝しています。4回目の発表がある今日はというと、これまでを振り返ってみても一番ストレスが少ないですね(笑)。ランキング発表直前でもリラックスできています。やりきったというか…。実は来年以降、私はこのランキングを辞退しようと思っているんですよ。今晩のセレモニーが終わったら、「来年はガガンに投票しないでくださいね」とみなさんにお伝えするつもり。もう後進に道を譲りたいんです。

この「ベストレストラン50」は、毎年のように内容が大きく変わるランキングです。とても揺れが大きい分、毎年新しいヒーローが生まれる。各国の才能を発掘し、プロモートするという意味でも、とても意義の大きいランキングシステムだと思います。

常に大きな身振り手振り、たっぷりのユーモアとはじける笑顔を交えながらが、ガガン流。

マカオ西洋の真似事ではなく、ディスカバー・アジアの視点を。

アジアのレストランが、世界で戦うために必要なことは何ですか?
――何より、自分の料理を信じて貫くことだと思います。私は昨年、「世界のベストレストラン50」ランキングで7位に選んでいただきましたが、それは私が自分のルーツを大切に勝負したからこその結果だと思うんです。西洋の真似をして世界と同じ土俵で戦おうとしても、必ず限界が見えてきます。もっともっと自分たちの足元を探り、それぞれの伝統料理を学び、磨いてみる。たまたま別ジャンル、たとえばフランス料理の道を選んだとしても、そこに素材であれテクニックであれプレゼンテーションであれ、我々なりのアレンジや個性を明確に持たせてみる。アジアに生きるシェフとして、「ディスカバー・アジア」の視点が絶対に必要だと思っています。

考えるときは空を仰ぐ。オーバーアクションも、ガガンシェフの手にかかればエンターテインメント。

マカオ言葉の壁の打開と、言葉に限らないコミュニケーションを。

日本人シェフの強み、弱みをお教えください。
――日本のシェフはみな、プロフェッショナルとしての姿勢がすごいし、もちろんテクニックもすばらしい。私はこれまで、日本のレストランでネガティブな印象を受けたことが一度もないんですよ。全員が完璧主義者だと思います。日本そのものの印象も、もちろんとてもいい。特に素材の品質は最高です。

ただ、日本人シェフの弱点はなんといっても言葉です。英語を話さないのは本当に致命的。日本の料理人を取りまとめる協会があるなら、今後真剣に英語教育を考えた方がいいと思います。ただ言葉に限らないコミュニケーションという意味では、できる人がかなり増えていますよね。たとえばザイユー(『傳』の長谷川在佑氏)などはすごく上手です。

「来年はもう、後進に道を譲りたいと思っています」とガガン氏。

マカオ力強いストーリーと、地域との密接な関係性。それこそが醍醐味。

DINING OUTはいかがでしたか?
――『DINING OUT』には、2017年夏の『DINING OUT NISEKO』に、客の一人として参加させていただきましたが、ロケーションもコンセプトもすばらしかった。実はそれまで、僕は野外でのダイニングイベントに感動したことがなくて、いい印象を持てなかったんです。だって料理人にとっての環境がパーフェクトではないのだから、普通はいいものが生まれるわけがないじゃないですか。でも、『DINING OUT』は違いました。クオリティがすばらしかったのはもちろん、全体に力強いストーリーがあり、地元との密接な関係性が育まれていました。

ディナーの最後に、すべてのライトを消して真っ暗にする演出があったんです。その瞬間に見えた美しい星空、鳥の声、野生動物の気配を感じたことなども忘れられません。アメージングな経験でしたね。

2017年夏『DINING OUT NISEKO』にゲストとして参加、『DINING OUT』を体験したガガン氏。

マカオシェフ同士がキャッチアップできる得難い機会。

Best50に対する想い、また今後の展望を教えてください。
――Bes50は今の私にとって、仲のよかったクラスメートと一年に一回顔を合わせ、キャッチアップする機会といった感覚です。正直なところ順位については、自身気にしていないシェフが多いですよね(笑)。ただ顔を合わせて「久しぶり、どうしてた?」と肩をたたき合い、近況や思いをシェアし、お互いの一年の苦労をねぎらう得難い機会という…だからこの場に来られるのは本当にうれしいし、ありがたいことです。「レストラン・アンドレ」は閉めましたが、新しいレストランを背負ってまたここに戻ってきたいですね。

今後も、どんどん大きなイベントに育っていってほしいと思います。内容については、観客と私たちシェフが近しく意見を交換できるようなセッションがあればもっと楽しいと思いませんか? 現在の「プレゼンテーション(50 Best Talks)+セレモニー」という2日構成に加え、あと1〜2日あれば最高ですね。

いつも穏やかでスマート。ロジカルで分かりやすい話ぶりには、誰しもつい引き込まれてしまう。

セレモニー後のアフターパーティー。『レストラン・アンドレ』でサービスを担当されていたマダムと。

マカオ世界に通用する言葉や舌、それこそが武器に。

アジアのレストランが、世界で戦うために必要なことは何ですか?
――世界の中で他にはない、唯一無二のレストランになる、ということだと思います。そのためには、「インターナショナルな言葉」を身につけなければならない。ここで言う言葉とは実際の「言葉」、つまり英語だけを指すのでなく、たとえば世界に通用する「舌」――料理の味、色、盛り付け、トレンドなど――も含みます。

概して、アジアのレストランは、客層を特定の国籍やカテゴリーに絞り込んだ料理や店を作りがちです。たとえば「うちのお客さんは、ほとんどがこういう国籍のこういう人だから、こんな料理でこんなサービスをする」という風に。それはそれで優れた戦略なのですが、もし世界を意識するのであればこのままでは難しい。もっと広い射程で店を作る必要がありますね。

「次につくるレストランにも期待していてくださいね」と笑顔のアンドレ。

マカオ素材への理解と、季節感の取り入れ方は他の国を凌駕。

日本人シェフの強み、弱みをお教えください。
――日本人のシェフは、それぞれ独自の優れたスタイルを持っていますよね。素材の理解、季節感の取り入れ方についても、アジアの他地域のシェフに比べて圧倒的に深いものがあります。これらは料理人として本当に大きな強みだと思います。

一方で、いやだからこそ、残念だなと思う時もあります。先の質問への答えの繰り返しになってしまうかもしれませんが、まず言葉の問題。コミュニケーションのためには、英語の必要性は絶対です。次にフレキシビリティ。料理の味わいやプレゼンテーションなど自分とは違ったアプローチのアイディアを認めること、また世界の流れを見極めて柔軟に動くことなど、一般に苦手な人が多いのではないでしょうか。

授賞式前日、「50 Best Talks」にスピーカーとして登場し今後について語ったアンドレ氏。

マカオ好奇心のタネを生み出す、冒険ともいえる、わくわくするイベント。

――DINING OUTはいかがでしたか?
『DINING OUT』には、2015年の『DINING OUT ARITA』にゲストシェフとして参加させていただきました。『DINING OUT』、つまり 「そとで食べる」という狭義の語意にとどまらず、各地の文化や自然にどんどん入り込んでいって冒険させるというような、わくわくするイベントだと思いました。

料理する側のシェフにとっては間違いなく新しいクリエーション、新たな好奇心の種を生み出す好機ですし、食べ手にとってはそのシェフの新たな一面を見ることができ、体験できる。この先も、ずっと続いていってほしいですね。日本だけでなく、各国が自国のすばらしさを再発見するためにも、このような取り組みをするべきだとすら思いました。

料理はもちろん、器もアンドレシェフの料理哲学で構想された2015年の『DINING OUT ARITA

マカオ自らの暮らす地域を深く掘り下げる、そこに世界と戦うヒントが。

いかがでしたでしょう?
授賞式直前、忙しい合間を縫ってお願いした2人のTOPシェフのスペシャルインタビュー。
長年、アジア代表として世界と戦ってきた2人だからこそ思う、アジアでの日本人シェフの立ち位置が浮き彫りになったのではないでしょうか? 

さらには今後、アジアのシェフたちが世界で戦うために必要なヒントも。
「世界で戦うからこそ、アジアに生きるシェフとして、ディスカバー・アジアの視点が絶対に必要だ」と唱えるガガン・アナンド氏。
「世界の中で他にはない、唯一無二のレストランを作って欲しい」と願ったアンドレ・チャン氏。
インタビュー中、我々ONESTORYが目指している方向性やDINING OUTというイベントのテーマとも重ねる言葉は幾度となく飛び出しました。自らの暮らす地域を深く掘り下げ、まだ見ぬそのエリアの楽しみを探していく。それこそが、アジアはもちろん世界で戦うシェフたちのワールドスタンダードになりえるのではないでしょうか?

短い時間ながら2人の言葉には、そんな重みと愛が溢れていたのです。

インドのカルカッタ出身。インド料理を刷新することを目標に2010年にタイ・バンコクに自身の店『Gaggan』をオープン。2015年~2018年「アジアベストレストラン50」においては4年連続で1位を獲得。名実ともにアジアのTOPシェフとして活躍。
http://eatatgaggan.com/

1976年、台湾生まれ。2010年の開店以来、世界のレストランシーンに鮮烈な印象を与え続けた『レストラン・アンドレ』は、昨年閉店。台湾『RAW』のほか、新たなプロジェクトが始動中。 2017年の「アジアのベストレストラン50」では2位にランクイン。
http://www.raw.com.tw/

独学だから型やぶり。手仕事が生きた古家具に新しい命を創造する。[pejite/栃木県芳賀郡]

栃木県芳賀郡OVERVIEW

150年以上も前に生まれた益子焼をはじめ、様々な分野の作家が活動する栃木県芳賀郡益子町。東京から車で2時間ほどの田舎町ですが、年2回行われている陶器市や個性のあるショップ、カフェが話題となり、県外からも高感度な人たちが多く集まってきます。そんな益子を代表するお店のひとつ『pejite』は、『仁平古家具店』を運営する仁平 透氏が2014年にオープンしたセレクトショップ。築60年以上の大きな石蔵を舞台に、リペアした古家具の他、陶器やアパレル、雑貨などが並んでいます。

仁平氏の独学によるリペアが施された古家具は、精巧な美しさがありながらも使いやすさを重視。色を落とし白木に仕上げているからこそ現代のライフスタイルにフィットする、ナチュラルな魅力があります。そして、もうひとつ注目したいのが、仁平氏自らが選んだ、こだわりのある作り手やブランドのアイテムです。そこに共通しているのは、手仕事による素朴な温かみ。そんな『pejite』のアイテムを紐解いていくと、仁平氏が「もの」に込めた思いが見えてきました。

Data
pejite

住所:栃木県芳賀郡益子町益子973-6 MAP
電話:0285-81-5494
http://www.pejite-mashiko.com

独学だから型やぶり。手仕事が生きた古家具に新しい命を創造する。[pejite/栃木県芳賀郡]

栃木県芳賀郡OVERVIEW

150年以上も前に生まれた益子焼をはじめ、様々な分野の作家が活動する栃木県芳賀郡益子町。東京から車で2時間ほどの田舎町ですが、年2回行われている陶器市や個性のあるショップ、カフェが話題となり、県外からも高感度な人たちが多く集まってきます。そんな益子を代表するお店のひとつ『pejite』は、『仁平古家具店』を運営する仁平 透氏が2014年にオープンしたセレクトショップ。築60年以上の大きな石蔵を舞台に、リペアした古家具の他、陶器やアパレル、雑貨などが並んでいます。

仁平氏の独学によるリペアが施された古家具は、精巧な美しさがありながらも使いやすさを重視。色を落とし白木に仕上げているからこそ現代のライフスタイルにフィットする、ナチュラルな魅力があります。そして、もうひとつ注目したいのが、仁平氏自らが選んだ、こだわりのある作り手やブランドのアイテムです。そこに共通しているのは、手仕事による素朴な温かみ。そんな『pejite』のアイテムを紐解いていくと、仁平氏が「もの」に込めた思いが見えてきました。

Data
pejite

住所:栃木県芳賀郡益子町益子973-6 MAP
電話:0285-81-5494
http://www.pejite-mashiko.com

精巧な美しさとナチュラルさが同居する、色のついていない古家具。[pejite/栃木県芳賀郡]

仁平氏(中央)と工房スタッフたち。主に4人のスタッフがリペアやオーダー家具の製作を行う。

栃木県芳賀郡独学でやってきたからこそ、自分の色が生まれた。

『pejite』では、壊れた部分をただ直すだけでなく、色を落として白木に戻すことで古家具に新しい価値を生み出しています。もともとの古家具は濃い色で仕上げられているものが多く、現代のナチュラルな空間やライフスタイルにはなかなかなじみません。しかし、仁平 透氏のリペアが施されることで、現代の暮らしにもピタリとはまるものになるのです。仁平氏の家具の魅力は、スタイリッシュながらも、ずっとそうであったかのように思わせる自然な風合い。例えるなら洗いざらして身体になじんだデニムや、何度か履いてトーンが落ち着いた白いスニーカーのような、どこかしっくりくるものがあると感じます。

仁平氏は、色を落とすリペアについて「軽やかな印象になって『新鮮だ』と感じました」と語ります。そんなセンスが、感度の高いカフェやショップのオーナーからの評判を呼び、店舗でも使用されるようになったのでしょう。そんな仁平氏の家具ですが、実は仕入れからリペアにいたるまで、全て独学で自身のスタイルを築いてきたというから驚きです。
「骨董市に出入りするようになった時も、まず知り合いのツテで詳しい人にやり方を聞いて仕入れに行っていました。家具の目利きはひたすら経験を積むことで自分のものにしてきましたし、リペアに関してもそうでした」と仁平氏は言います。

20年ほど前は、廃業した商店などの横に古家具が置いてあり、それをもらって、自分で洗い、オイルを入れ、リペアを楽しんでいた仁平氏。そのうちにリペアのやり方を覚えていきましたが、誰かのもとで修業をせずに自分でノウハウを習得するには、非常に時間がかかり多くの苦労もあったといいます。その反面、ずっと独学でやってきたからこその良さもありました。
「リペアのやり方に関しての先入観がなかったので、それが自分らしさにつながったと思っています。教えてもらうとどうしても師匠の色がついてしまいがちですから」と仁平氏は話します。

誰かと同じリペアをするだけでは生み出せなかった「新しい価値」。試行錯誤を繰り返し習得した技術があったからこそ、『pejite』の古家具には仁平氏らしさが表れているのでしょう。

理髪店で使われていたと思われる大きな鏡台。よく見ると和の趣のある模様が描かれている。

古材を使ったプレート作りの様子。木の種類や使う部分によって異なる風合いが面白い。

栃木県芳賀郡今の仁平氏を形づくる、自然発生した古いものへの愛着。

自力でリペアを習得できるほどに思い入れを持って扱ってきた古家具。仁平氏は「新品は一度でも使えば価値が下がった中古品になってしまう。でも、古家具の価値は、使った後でも変わりません」と、その魅力について話します。

しかし、古いもの自体に興味を持ったことに、特別なきっかけはありませんでした。
「よく古家具を好きになったきっかけを聞かれるんですが、いつのまにか自然と好きになっていました。思い返すと、幼少期は決して裕福な家庭ではなく、親の顔色をうかがうような子供でした。そのため、新しく買ってもらったおもちゃよりも捨てられている自転車のハンドルやミシンの頭部を拾ってきては『カッコいいなぁ』と、思っていました。子供たちの間で流行っているものにも興味がなかったですね」と仁平氏。

中学生の頃には古着にはまり、その後は古いレコードを収集したりもしていたそうです。そして、20代前半になると、今度は自然と部屋作りに興味が湧き、古家具を集めるようになっていきました。

そうやって、自然と生まれ、続いてきた古いものへの興味。それは『カフェ ラ ファミーユ』のオーナー・奥澤裕之氏から感じた、ありのままののかっこよさに通ずるものがあるのかもしれません。そして、あくまでも「自然」だからこそ、ナチュラルで日常に溶け込むリペアができているのでしょう。

加工できない廃材はストーブの薪として使う。古いものを大切にする気持ちがここからうかがえる。

『仁平古家具店』にはないこの大型の什器は、たばこ店にあったショーケース。凝ったディテールが美しい。

栃木県芳賀郡「古家具の面白さを伝えたい」。そんな思いが実った工房。

仕入れてきた古家具にリペアを施す工房は、『pejite』から15分ほどの所にあります。工具の音だけが鳴り響く空間には、椅子や棚などの純粋な家具だけでなく、古い点滴スタンドや碁盤、木製のお弁当箱など、材料となる様々なものが置いてあります。これらをリペアするスタッフは、「ものづくりをしたい」と移り住んできた人たちが中心。店舗のスタッフ募集の際に入社し工房で働くようになった人、以前から『仁平古家具店』のファンだった人……。彼らの話を聞いていると、「古家具を通してその楽しさを伝えたい」という仁平氏の思いに共感した人たちが集まっているのだと感じます。

かつては趣味だったリペアが仕事となり、今やたくさんのファンやスタッフを抱えるまでになった仁平氏。更なる発展や挑戦が気になりますが、「今後についてのビジョンは持っていない」と言います。思い返せば『pejite』も明確なビジョンをもとにスタートしたわけではなく、物件との出合いをきっかけとして自然発生的に生まれたものでした。
「建物から丸ごとリノベーションして、自分たちがリペアした家具を置いて、貸したり売ったりできるかもしれない。そういうことを考えはするんですが、“妄想”のレベルです。はっきりとしたビジョンは持っていません。あくまでも遊ぶように仕事をしていきたいと思っているので。ただ、これからも自分たちのできる範囲で、ものや人との出会いを通じて『面白い』と感じることをやっていきたいですね」と仁平氏は話します。

「好き勝手にやりたい」という思いから古家具の価値を広めてきた『仁平古家具店』、そして『pejite』。かつて『STARNET』や『SHOZO CAFE』がそうであったように、人やものとの出会いを通して、街をもリペアし、新たな魅力を発信する存在となっていくのではないでしょうか。

工房の敷地内にある事務所は自分たちでリノベーション。もちろんリペアした家具が揃う。

リペアされた家具は、インターネットでも販売されているが、ぜひ直接見て、触り、その風合いの良さを感じてほしい。

Data
pejite

住所:栃木県芳賀郡益子町益子937-6 MAP
電話:0285-81-5494
http://www.pejite-mashiko.com

精巧な美しさとナチュラルさが同居する、色のついていない古家具。[pejite/栃木県芳賀郡]

仁平氏(中央)と工房スタッフたち。主に4人のスタッフがリペアやオーダー家具の製作を行う。

栃木県芳賀郡独学でやってきたからこそ、自分の色が生まれた。

『pejite』では、壊れた部分をただ直すだけでなく、色を落として白木に戻すことで古家具に新しい価値を生み出しています。もともとの古家具は濃い色で仕上げられているものが多く、現代のナチュラルな空間やライフスタイルにはなかなかなじみません。しかし、仁平 透氏のリペアが施されることで、現代の暮らしにもピタリとはまるものになるのです。仁平氏の家具の魅力は、スタイリッシュながらも、ずっとそうであったかのように思わせる自然な風合い。例えるなら洗いざらして身体になじんだデニムや、何度か履いてトーンが落ち着いた白いスニーカーのような、どこかしっくりくるものがあると感じます。

仁平氏は、色を落とすリペアについて「軽やかな印象になって『新鮮だ』と感じました」と語ります。そんなセンスが、感度の高いカフェやショップのオーナーからの評判を呼び、店舗でも使用されるようになったのでしょう。そんな仁平氏の家具ですが、実は仕入れからリペアにいたるまで、全て独学で自身のスタイルを築いてきたというから驚きです。
「骨董市に出入りするようになった時も、まず知り合いのツテで詳しい人にやり方を聞いて仕入れに行っていました。家具の目利きはひたすら経験を積むことで自分のものにしてきましたし、リペアに関してもそうでした」と仁平氏は言います。

20年ほど前は、廃業した商店などの横に古家具が置いてあり、それをもらって、自分で洗い、オイルを入れ、リペアを楽しんでいた仁平氏。そのうちにリペアのやり方を覚えていきましたが、誰かのもとで修業をせずに自分でノウハウを習得するには、非常に時間がかかり多くの苦労もあったといいます。その反面、ずっと独学でやってきたからこその良さもありました。
「リペアのやり方に関しての先入観がなかったので、それが自分らしさにつながったと思っています。教えてもらうとどうしても師匠の色がついてしまいがちですから」と仁平氏は話します。

誰かと同じリペアをするだけでは生み出せなかった「新しい価値」。試行錯誤を繰り返し習得した技術があったからこそ、『pejite』の古家具には仁平氏らしさが表れているのでしょう。

理髪店で使われていたと思われる大きな鏡台。よく見ると和の趣のある模様が描かれている。

古材を使ったプレート作りの様子。木の種類や使う部分によって異なる風合いが面白い。

栃木県芳賀郡今の仁平氏を形づくる、自然発生した古いものへの愛着。

自力でリペアを習得できるほどに思い入れを持って扱ってきた古家具。仁平氏は「新品は一度でも使えば価値が下がった中古品になってしまう。でも、古家具の価値は、使った後でも変わりません」と、その魅力について話します。

しかし、古いもの自体に興味を持ったことに、特別なきっかけはありませんでした。
「よく古家具を好きになったきっかけを聞かれるんですが、いつのまにか自然と好きになっていました。思い返すと、幼少期は決して裕福な家庭ではなく、親の顔色をうかがうような子供でした。そのため、新しく買ってもらったおもちゃよりも捨てられている自転車のハンドルやミシンの頭部を拾ってきては『カッコいいなぁ』と、思っていました。子供たちの間で流行っているものにも興味がなかったですね」と仁平氏。

中学生の頃には古着にはまり、その後は古いレコードを収集したりもしていたそうです。そして、20代前半になると、今度は自然と部屋作りに興味が湧き、古家具を集めるようになっていきました。

そうやって、自然と生まれ、続いてきた古いものへの興味。それは『カフェ ラ ファミーユ』のオーナー・奥澤裕之氏から感じた、ありのままののかっこよさに通ずるものがあるのかもしれません。そして、あくまでも「自然」だからこそ、ナチュラルで日常に溶け込むリペアができているのでしょう。

加工できない廃材はストーブの薪として使う。古いものを大切にする気持ちがここからうかがえる。

『仁平古家具店』にはないこの大型の什器は、たばこ店にあったショーケース。凝ったディテールが美しい。

栃木県芳賀郡「古家具の面白さを伝えたい」。そんな思いが実った工房。

仕入れてきた古家具にリペアを施す工房は、『pejite』から15分ほどの所にあります。工具の音だけが鳴り響く空間には、椅子や棚などの純粋な家具だけでなく、古い点滴スタンドや碁盤、木製のお弁当箱など、材料となる様々なものが置いてあります。これらをリペアするスタッフは、「ものづくりをしたい」と移り住んできた人たちが中心。店舗のスタッフ募集の際に入社し工房で働くようになった人、以前から『仁平古家具店』のファンだった人……。彼らの話を聞いていると、「古家具を通してその楽しさを伝えたい」という仁平氏の思いに共感した人たちが集まっているのだと感じます。

かつては趣味だったリペアが仕事となり、今やたくさんのファンやスタッフを抱えるまでになった仁平氏。更なる発展や挑戦が気になりますが、「今後についてのビジョンは持っていない」と言います。思い返せば『pejite』も明確なビジョンをもとにスタートしたわけではなく、物件との出合いをきっかけとして自然発生的に生まれたものでした。
「建物から丸ごとリノベーションして、自分たちがリペアした家具を置いて、貸したり売ったりできるかもしれない。そういうことを考えはするんですが、“妄想”のレベルです。はっきりとしたビジョンは持っていません。あくまでも遊ぶように仕事をしていきたいと思っているので。ただ、これからも自分たちのできる範囲で、ものや人との出会いを通じて『面白い』と感じることをやっていきたいですね」と仁平氏は話します。

「好き勝手にやりたい」という思いから古家具の価値を広めてきた『仁平古家具店』、そして『pejite』。かつて『STARNET』や『SHOZO CAFE』がそうであったように、人やものとの出会いを通して、街をもリペアし、新たな魅力を発信する存在となっていくのではないでしょうか。

工房の敷地内にある事務所は自分たちでリノベーション。もちろんリペアした家具が揃う。

リペアされた家具は、インターネットでも販売されているが、ぜひ直接見て、触り、その風合いの良さを感じてほしい。

Data
pejite

住所:栃木県芳賀郡益子町益子937-6 MAP
電話:0285-81-5494
http://www.pejite-mashiko.com

ある実業家が故郷を思い植樹した桜が、時代を超えて地域を豊かに彩る。[白石川一目千本桜/宮城県柴田郡]

桜並木と白石川、蔵王連峰が絶妙に調和した韮神堰付近の風景。豊かな自然を感じられる爽快な景色が広がります。

宮城県柴田郡約8kmにわたる桜のトンネルと清流、残雪の山々が、東北に春を告げる。

残雪の『蔵王(ざおう)連峰』を背景に、町内の中心部を流れる一級河川『白石川(しろいしがわ)』の堤、約8kmにわたって桜並木が続く、まさに「一目千本桜」の名のとおりの景色。それは1923年、当時、東京で成功を収めていた大河原町出身の実業家、高山開治郎氏が故郷のためにと、約1,000本の桜の苗木を植え込んだことが始まりとされています。その時に植樹された桜は樹齢90年となった今も開花し、新たに植えられたものも含め、現在は約1,200本の桜を見ることができます。品種は約90%が「ソメイヨシノ」、その他はほとんどが「シロヤマザクラ」で、見頃は4月上旬から中旬です。堤には道が整備されており、ピンク色に染まる桜のトンネルの中を散歩するだけでなく、調和のとれた絶景と名高い『韮神堰(にらがみぜき)』まで足を運ぶのもお勧めです。白石川沿岸に位置する『白石川右岸河川敷公園』では、2018年の4月5日から19日まで(予定)「おおがわら桜まつり」が開催され、期間中は屋形船の運航やライトアップが実施されます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

白石川一目千本桜

住所:宮城県柴田郡大河原町大谷(白石川右岸河川敷公園) MAP
アクセス:東北自動車道村田ICより車で約20分/JR東日本東北本線大河原駅より徒歩約3分(※ともに白石川右岸河川敷公園まで)

滝のように堂々とした壮大な姿が心を打つ。樹齢1000年超のベニシダレザクラ。[三春滝桜/福島県田村郡]

江戸時代には三春藩主のご用木として保護されていた三春滝桜。歌人の加茂季鷹(かものすえたか)をはじめ、多くの人がその美しさに魅了されました。

福島県田村郡藩主や歌人、画家など、多くの人を魅了し続ける「日本三大桜」のひとつ。

岐阜県の『淡墨桜(うすずみざくら)』、山梨県の『山高神代桜』とともに「日本三大桜」に数えられ、1922年に日本初の国の天然記念物に指定された『三春滝桜』。樹高約13.5m、根回り約11.3m、樹齢は推定1000年以上といわれ、品種は「エドヒガン」系の「ベニシダレザクラ」です。四方に大きく伸ばした枝には薄紅色の花を咲かせ、その様がダイナミックに流れ落ちる滝のように見えることから、「滝桜」と呼ばれるようになったともいわれています。古木が持つ独特の風情と、生命力に満ち溢れ、堂々とした姿は多くの人の心を掴み、画家の橋本明治氏や千住 博氏の作品のモデルにもなるなど、数多ある桜の中でも特別な存在です。気象庁による2018年の予想は、開花は4月7日、満開は4月13日です。三春町内には他にも約10,000本の桜の木があり、そのうち約2,000本はシダレザクラで、樹齢100年を超える木が町のいたる所に植えられています。約2,300本の桜を有する『さくらの公園』や『三春ダム』も名所として知られ、開花期間中には町中が桜色に染まります。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

三春滝桜

住所:福島県田村郡三春町大字滝字桜久保 MAP
アクセス:磐越自動車道郡山東ICより車で約15分/JR東日本磐越東線三春駅より臨時バス(開花期間中のみ運行)滝桜号乗車、滝桜下車、乗車時間約20分

四方を堀で囲まれた城跡ならではの水辺を、約200本の桜が鮮やかに染め上げる。[松が岬公園/山形県米沢市]

かつては上杉家の城主のみが渡ることを許されていたという菱門橋の赤い欄干が、桜の季節にはよりいっそう印象的に映ります。

山形県米沢市伊達、上杉など5氏の居城として米沢の地を見守り、現代では人々の憩いの場に。

1238年の築城以来、長井、伊達、蒲生(がもう)、直江、上杉と、5氏が居城した『米沢城(別名松ヶ岬城・舞鶴城)』は、伊達氏17代当主・伊達政宗の生誕の地としても知られ、上杉氏領の時代には、直江兼続や上杉景勝らが城主となりました。財政難により石垣や天守のない慎ましい造りで、主に住居としての役割でしたが、明治時代初期に取り壊され、1874年、その城址(じょうし)を公園として整備した『松が岬公園』が一般開放されました。四方を囲む延長約800mの堀には約200本もの「ソメイヨシノ」が植樹されており、時を経て古木となった桜の木は、春になると公園を華やかに彩ります。見頃は4月中旬から下旬で、赤い欄干が印象的な『菱門橋』の周辺や、開花期間限定のライトアップによって、花弁の桜色が堀の水面に映り込む夜桜は、被写体としても人気です。園内には上杉謙信を祀る『上杉神社』や、上杉家伝来の刀や甲冑、宝物を収蔵・展示する『稽照殿(けいしょうでん)』もあり、米沢の地と人が歩んだ歴史に触れられます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所 : 山形県米沢市丸の内1 MAP
アクセス : 東北中央自動車道米沢中央ICより車で約10分/JR東日本米沢駅より米沢市コミュニティバス乗車、バス停・上杉神社前下車、乗車時間約10分、バス停より徒歩約2分

熱狂と感動に包まれた食の祭典「2018年アジアのベストレストラン50」。[Asia’s 50 Best Restaurants 2018/マカオ]

授賞式直後、舞台上でのシェフたちの記念撮影。

マカオあのシェフも、このシェフ、まさかの大躍進!

「Best17、『La Cime』Yusuke Takada〜!」、「Best3『Florilege』Hiroyasu Kawate〜!」「Best2『DEN』、Zaiyu Hasegawa〜!」。

この春、我々ONESTORY取材班は、『DINING OUT with LEXUS』ゆかりのシェフたちが、予想をはるかに超える結果とともに、次々と食の檜舞台でスターダムにのぼっていく瞬間に、幸運にも立ち会うことができました。

場所は、今なお好景気に沸く、貿易都市・マカオ。
イベントの名は食の祭典「2018年アジアのベストレストラン50」!

そう、アジアを代表するシェフが一堂に会する食の祭典の授賞式で、日本各地で感動を呼んだ『DINING OUT with Lexus』のシェフたちが、躍動したのです。それはある意味、レストランという枠組みを超えたシェフたちの活動がひとつの形として認められた瞬間でもあるように思え、今後、我々のイベント『DININGOUT with Lexus』が担うべき社会貢献の責任すら感じた瞬間でした。おこがましいのは承知の上で、それほどにイベント当日、シェフたちの授賞式は輝き、感動を呼び、心を揺さぶるものだったのです。

ONESTORYでは、全3回に亘り『アジアのベストレストラン50イベントレポート』、『DINING OUT シェフたちのBest50』、『ガガン&アンドレ・チャンのスペシャルインタビュー』をお届け。今、アジアの食の最前線で何が巻き起こっているのかを検証します。

日々の厨房でも、様々な催しでも、世界に目を向け、挑み続ける。そんなシェフたちが、次々と予想以上の順位で呼ばれた瞬間、それは日本の食が、そして日本のシェフたちが、アジアで認められた瞬間でした。
記念すべき第一回は『アジアのベストレストラン50イベントレポート』。
この春、最も熱かった一夜限りの食の祭典の様子をご紹介していきます。

授賞式前のランチではチェアマン中村孝則さん主催でチームジャパンの壮行会を開催。

マカオアジアの食の最前線へ。今年の食のトレンドやいかに。

東京ではいよいよ桜が満開を迎えた2018年3月27日、マカオのリゾートホテル・ウィンパレスで執り行われたのが食の祭典「アジアのベストレストラン50」の授賞式。サンペレグリノとアクアパンナがメインスポンサーを務める同祭典は、味への追求はもちろん、時代のトレンド、シェフの発信力、料理のストーリー性までもが評価されるとあって、フーディーからは絶大な支持を集めるグルメランキング。過去、『DINING OUT with LEXUS』に関わってもらった多くのシェフたちも選出されるとあって、我々ONESTORY取材班も食の祭典の現場に立ち会ってきました。そして、今巻き起こるアジアの食のトレンドの最前線を見届けてきたのです。

今年のBest50ランキング。日本人シェフの大躍進が話題に。

マカオまずは、大注目のランキング結果より。

アジアのNo.1の座に輝いたのは4年連続で首位を保持したタイ・バンコクの『ガガン』。揺るぎない地位と絶対的な人気は、もはや誰もが認めるアジア王者の貫禄といったところでしょう。

そして、今大会の最も大きなサプライズは以下2人。なんと2位は東京・外苑前『傅』長谷川在佑氏(『DINING OUT NIHONDAIRA』担当シェフ)と、3位東京・外苑前『フロリレージュ』川手寛康氏(『DINING OUT MIYAZAKI』担当シェフ)。昨年の11位と13位の若き日本人シェフたちがガガン・アナンド氏に次ぐ順位に輝くという大躍進を遂げたのです。

さらに『ガガン』を含む9軒がリスト入りしたタイを抑え、日本からは国別最多となる、計11軒のレストランがトップ50入り。
日本人シェフ順位は以下より。

2位『傳』(東京・神宮前)
3位『フロリレージュ』(東京・神宮前)
6位『NARISAWA』(東京・南青山)
9位『日本料理 龍吟』(東京・六本木)
17位『ラシーム』(大阪・本町)
20位『レフェルヴェソンス』(東京・西麻布)
27位『鮨 さいとう』(東京・六本木)
28位『イル・リストランテ ルカ・ファンティン』(東京・銀座)
34位『HAJIME』(大阪・肥後橋)
38位『カンテサンス』(東京・品川)
48位『ラ メゾン ドゥ ラ ナチュール ゴウ』(福岡・西中州)

2位の順位発表直後、ガッツポーズで応える『傅』長谷川氏。

表彰後のパーティ会場で柔和な笑顔を見せる『フロリレージュ』川手氏。

マカオアジアで確固たる立ち位置を形成する日本人勢。

世代交代や若手の躍進が顕著であった今大会ですが、これまで5年連続で日本の首位を保持してきた『NARISAWA』や日本料理の可能性を世界に伝えてきた『日本料理 龍吟』がともにベスト10入り、あらためて日本の食レベルの高さと人気を知らしめる結果に。

さらに会場を湧かせたのが、大阪・本町の『ラシーム』。そう昨年、愛媛内子での『DINING OUT UCHIKO』も記憶に新しい高田裕介シェフが、初のランクインであるにも関わらず、いきなりの17位、さらには「最上位の新規入賞レストラン賞」という快挙に輝いたのです!
「自分の名前がなかなか呼ばれないので忘れられているのかと不安でした。信じられないほど嬉しいです」
と表彰式直後の高田シェフはシャイなコメントともに笑顔。

『NARISAWA』のオーナーシェフである成澤由浩氏が、過去20年間に渡っての姿勢がシェフ達から評価された「シェフズ・チョイス賞」を受賞。さらに、今年20位にランクインした東京・西麻布の『レフェルヴェソンス』生江史伸シェフは、 環境と社会的責任に関して最も高い評価を獲得したレストランに授与される、「アジアのサステナブル・レストラン賞」、昨年のランク外から見事に返り咲いた『ラ メゾン ドゥ ラ ナチュール ゴウ』福山剛シェフなど、さまざまな賞や順位で、賞賛の歓声と拍手に迎えられる日本人シェフたちが、授賞式を盛り上げてくれたのです。

初のランキング者の中で「最上位の新規入賞レストラン賞」を獲得した『ラ・シーム』高田氏。

同イベントを牽引し続ける『NARISAWA』成澤氏は「シェフズ・チョイス賞」の栄冠が。

「アジアのサステナブル・レストラン賞」を獲得した『レフェルヴェソンス』生江氏。

マカオ世界を見据えるシェフたちはチームアジアとして一丸に。

授賞式後の長谷川在佑氏曰く
「結局、この中の誰よりもお店に来てくれたお客様を楽しませたのが、ガガンだったということ。料理人は毎日、目の前のお客様に全力ですから。僕は順位は気にしていない、でもガガンかぁ〜笑」

そうなのです。華々しい受賞もさることながら、この授賞式で印象的だったのは、ランクインしたシェフたちの互いへのリスペクトの深さ。さらには、互いに冗談が言えるほどの仲の良さ。舞台最前列の席で発表までを待機するシェフたちは、それぞれのシェフが順位を発表されると、すぐに授賞シェフにかけ寄り、自分のことのように喜ぶのです。

それも国や年齢、性別関係なく、互いを敬い、自分のことのように喜ぶ姿が印象的でした。
授賞式後のパーティーを含め、本当にシェフ同士のコミュニケーションは深いものを感じました、それはもはやチームアジアと言ってもいいほどの結束が感じられる光景。

そう、これこそが今のアジアの食最前線だったのです。世界を見据えるシェフたちの意識の高さは、自国を愛するナショナリズムや、自らの料理を大切にしながらも、余りある情熱は国境を超え、チームアジアとして世界を見据えていたのです。

授賞式の前後にマカオや香港の各地で行われた受賞シェフを中心にしたコラボレーションランチやディナーも、その最たるもの。打ち上げ花火のように華々しい授賞式を楽しみながらも、シェフたちは意欲的に活動。また新たなチャレンジへと歩を進めていたのが印象的でした。

『日本料理 龍吟』山本氏と『ガガン』ガガン氏。パーティ会場にて。

大阪からのエントリーで34位を獲得『HAJIME』米田肇氏。(『DINING OUT IYA』担当シェフ

LEXUS “INSTINCT”by DINING OUT』でシェフを務めたシンガポール『Burnt Ends』のデイビット・ピント氏は12位。

23位にはオーストラリアに渡って『Tetsuya’s』で成功した和久田哲也さんの『Waku Ghin』が。

『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』販売開始! [DINING OUT KUNISAKI with LEXUS/大分県国東市]

大分県国東市

来る2018年5月26日(土)、27日(日)、『DINING OUT』第13回となる『DINING OUT KUNISAKI with LEXUS』を大分県国東市にて開催します。

国東半島の「六郷満山」は、神仏習合の始まりの地である。今年開山1300年を迎える。

大分県国東市「神仏習合」が生まれた、神秘的な岩の聖域を舞台に、2夜限定で幻の饗宴を開催。

日本のどこかで数日間だけオープンするプレミアムな野外レストラン『DINING OUT』。一流の料理人がその土地の食材を新しい感覚で切り取った料理を、その土地を最も魅力的に表現する場所と演出とともに、五感全てで味わって頂きます。

今回で13回目の開催を迎える『DINING OUT』の舞台は、大分県国東半島。「国の東」と書いて「くにさき」と読む場所です。国東半島は両子山という岩山を中心に6つの山稜に分かれており、そこにある寺院群を総称して「六郷満山(ろくごうまんざん)」と呼びます。日本のひとつの宗教観である神仏習合の考え方はここで生まれ、もともとあった山岳信仰と混淆してこの土地独特の六郷満山文化として発展、今年、開山1300年という大きな節目を迎えます。

1300年、それ以上の悠久の時間の流れを感じさせるのは、寺社の山門に佇む苔むした石造仁王像や石仏、遠く中国の水墨画を思わせるような不思議な形の岩山に由来するのかもしれません。また、日本に仁王像の数は200基以上存在し、その8割がこの国東にあると言われています。そうした岩や石の作り出す独特の空気感が、国東に足を踏み入れると異世界に紛れ込んだ気持ちにさせるのかもしれません。大きな岩の上に乗っているような、しんとした静寂と空気感。この不思議な岩の聖域、国東は、人知を超えた何者かが棲んでいるような雰囲気を漂わせています。

この地に棲む"何者か"との対話を通して、この国東の独特の空気感を感じていただくために設定された今回のテーマは、『ROCK SANCTUARY—異界との対話』。

神仏習合が生まれた岩の聖域を舞台に、二夜限定で幻の饗宴を開催します。

「茶禅華」オープン後、わずか9ヶ月でミシュラン2つ星を獲得した川田智也氏は、今、最も業界で注目を集めている。

大分県国東市「和魂漢才」をポリシーに掲げた、料理界で最注目のシェフが表現するROCK SANCTUARY—異界との対話』。

そして、このテーマに挑む料理人は、「麻布長江」「龍吟」で食材の味を最大限に引き出す技を研鑽後、2017年2月、東京南麻布に「茶禅華」をオープンさせたシェフ、川田智也氏。

和魂漢才をポリシーに掲げ、中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さを加えた独自の表現によって料理を生み出し、オープンからわずか9ヶ月でミシュラン2つ星を獲得しました。彗星のごとく料理界に現れた、今一番の注目のシェフです。

ホスト役には、「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長を務め、過去5回の『DINING OUT』に出演し、食やカルチャーなどをテーマに活躍するコラムニスト、中村孝則氏。

この土地に棲む"何者か"との対話を重ねることで、神秘的な岩の聖域、国東半島を五感で味わう究極のダイニングにどうぞご期待ください。

ホストは、過去5回の『DINING OUT』に出演し、各会を成功に導いたコラムニストの中村孝則氏。

Data

開催日程:①2018年5月26日 (土)~ 27日(日) / ②2018年5月27日 (日)~ 28日(月) ※2日間限定
開催地:大分県国東市
出演 : 料理人  川田 智也(「茶禅華」 )/ホスト  中村孝則(コラムニスト)
オフィシャルパートナー:LEXUS http://lexus.jp)、YEBISU(http://www.sapporobeer.jp/yebisu/
オフィシャルサポーター : 大分県国東市

1982年栃木県生まれ。東京調理師専門学校卒。物心ついた頃から麻婆豆腐等の四川料理が好きで、幼稚園を卒園する頃には既に料理人になる夢を抱く。2000年~2010年麻布長江にて基礎となる技術を身につけ、2008年には副料理長を務める。その後日本食材を活かす技術を学ぶべく「日本料理龍吟」に入社。2011年~2013年の間研鑚を積んだ後、台湾の「祥雲龍吟」の立ち上げに参加、副料理長に就任し2016年に帰国。中国料理の大胆さに、日本料理の滋味や繊細さの表現が加わった独自の技術を習得する。2017年2月「茶禅華」オープン。わずか9カ月でミシュランガイド2つ星を獲得すると言う快挙を成し遂げる。和魂漢才という思想の元、日本の食材を活かした料理の本質を追求し続けている。

http://sazenka.com/

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を授勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士の称号も授勲。(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称) 2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。

http://www.dandy-nakamura.com/

国産漆を次世代に伝えていくために。[浄法寺漆産業/岩手県盛岡市]

天然の樹脂でありながら、最新のマテリアルにも勝る卓越した性能を誇る。

岩手県盛岡市「国産漆の最後の砦」を自負。その存続と普及とを目指す。

日本人が古くより有益性を見出し、漆器や建築物などの塗料として重宝してきた漆(うるし)。
縄文時代初期から愛され、その美しいツヤと風合いはもちろん、耐水性・防腐性・酸やアルカリへの耐腐食性といった優れた性質は、暮らしの中に幅広く生かされてきました。

ですが、そんな希少かつ有益な国産漆は、今や失われる寸前となっています。現在、国内で使われている漆の約98%は安価な中国産。永く愛されてきた国産のシェアは、わずか2%にまで落ち込んでしまいました。

この現状に危機感を抱いて立ち上がったのが、『株式会社 浄法寺漆産業』を起業した松沢卓生氏です。起業する前は岩手県庁の職員でしたが、その際に岩手の名産品である漆と関わる機会を得て、この貴重な存在が風前の灯であることを知りました。そして一念発起して岩手県庁を退職。自ら起業して、国産漆の存続のための活動を始めたのです。

製品には100%浄法寺産の国産漆のみを使用。伝統の「巖手椀(いわてわん)」。

岩手県は国産漆の約7割を産出する漆のメッカ。そして二戸市(にのへし)浄法寺町には、日本で最も多く漆掻き職人が住む。

岩手県盛岡市優れた天然資源と、そこから生まれる文化を絶やさないために。

松沢氏が目指すのは、単なる漆製品のプロデュースだけでなく、漆産業自体の存続と発展です。
その軸となるのは、確かな基盤を築くための発想とブランディング。まずは確かな技術と品質を保証するために、地元の岩手県や二戸市(にのへし)と連携。国産漆では初の認証マークを創設しました。その基準は、漆を採取する職人の技術、漆を採取する場所、不純物をいっさい加えない優れた品質の3点。いずれも細部にいたるまで、詳しく、厳しく定められています。

漆の品質を厳しくも優しいまなざしでチェックする松沢氏。自ら現場に入って奮闘している。

漆掻き職人の道具。上から順に、漆の樹の皮をはぐ「カマ」、樹液を掻き取る「ヘラ」、樹に傷をつける羽根と、樹液を出やすくするための切り込みを入れる刃がついている「漆カンナ」。

岩手県盛岡市危機感から始めたものの、いつしかその魅力の虜に。

「漆は貴重な山の恵みで、かつサステナブルな自然素材です。『漆の一滴は血の一滴』ともいわれており、漆掻き職人は山と樹に感謝しながら漆を採取しています。山の手入れを丁寧にすれば、漆の樹は何度でも新たに育つからです。有限な石油資源とは対極にある、エコロジーで永続的な資源なんです」と松沢氏。

最初は危機感を持って漆の世界に飛び込んだものの、その魅力と奥深い文化に触れるうちに、どんどん漆に魅了されていったといいます。
「まさに『漆にかぶれた』といえるでしょうね」と笑う松沢氏が心がけているのは、自身がこれまでに身につけてきたスキルを、漆産業を支えるために生かすことだそうです。「漆の世界は樹から採取する『漆掻き職人』をはじめ、器を作る『木地師(きじし)』、漆を塗る『塗師(ぬし)』など、実直な職人の皆さんが支えています。職人さんは表立って情報を発信することが不得手な人も多いので、間に入って広報の役割を担えればと思いました。過去にはなかなかそういう人材がいなかったそうなので、少しでも力になれれば」と、松沢氏は続けます。

漆の性質や魅力を人間が生かして使いこなしている。日本人の精神性や文化にも通じる共生。

漆と人間との関係によって生まれた文化は、世界的にもまれなもの。「それを途絶えさせたくない」という松沢氏の想い。

岩手県盛岡市稀有な天然資源を守って、盛り立てていきたい。

「現在の漆市場は、あまりにも中国産に頼りすぎている現状があります。和のイメージが強く実際に古くから親しまれてきた素材ではありますが、現在はほとんどが輸入品になってしまいました。でも、そんな中で少しでも国産を広めていければ。やはり国産の漆製品は、国産の漆で作って頂きたいですから。中国産の漆が特に劣るわけではありませんが、国産の漆には、それ以上に優れた点が多々ありますので」と松沢氏。

国産漆の優れた点を具体的に挙げるなら、まずは透明感があって仕上がりが綺麗であること。更に耐久性も高く、特に文化財の補修などでは中国産で塗った箇所と比べて明らかに差が出るそうです。その秘密は、樹そのものやそれが生えている環境の違いというよりも、漆掻き職人の採取方法の違いだといいます。他にも、漆を採取して加工する様々な工程によって、質の違いが出てくるそうです。

また、昔ながらの漆器はもちろんのこと、金属や最新のマテリアルにもなじむ柔軟さも魅力です。「いろんな物に塗れて優れた特性を付加してくれるので、様々な分野に生かしていきたいですね」と松沢氏は語ります。

「浄法寺漆蒔絵ステアリング」。国宝の「片輪車蒔絵螺鈿手箱」の意匠がモチーフ。

トヨタ自動車『アクア』とのコラボレーション。フロントスポイラー、サイドスカート、リアスポイラー部分に使用。

岩手県盛岡市日本人の文化を形づくってきた漆が、最新のプロダクトを彩る。

松沢氏のプロデュースによって、浄法寺産の漆は更なる檜舞台に立っています。数々の有名企業とコラボレーションして、漆の美と機能性をPR。JR東日本の豪華寝台列車『TRAIN SUITE 四季島』の客室内装や、トヨタ自動車『アクア』の塗装など、あまたの一流企業と共演しています。

他にも様々な漆製品を生み出し、それらが2011年、2013年、2016年とグッドデザイン賞を受賞。高い技術を極めながらも朴訥(ぼくとつ)な職人たちを、多彩なコーディネイトで支援しています。

『TRAIN SUITE 四季島』の客室内装に採用された漆塗りパネル。漆の美と機能性を幅広くPR。(画像提供:JR東日本)。

岩手県盛岡市未来のために、大胆な転換をも見据えて。

「現在、国産の漆は全く足りていません。浄法寺の周辺で採るだけでは到底追いつかなくて、他産地の漆もあるにはありますが、更に漆の生産量を増やしていきたいと考えています。値段の面では全く問題はなく、需要は多数あります。職人たちからは『ここぞという仕上げはやっぱり国産でないと』と言われますから」と松沢氏は話します。

国産漆は漆器などの生活道具だけでなく、文化財の補修にも使われています。例えば日光東照宮を代表格として、金閣寺、中尊寺などが挙げられます。それらを後世に伝えていくためには、国産漆は絶対に必要な存在だそうです。
「国産漆を守って発展させていくためには、多くの地域で漆を採取できるようにすることが重要です。つまり、樹を植えていく活動が欠かせないんです。更に『漆掻き』という伝統的な採取方法も、今後は変えていく必要があるかもしれません。『漆掻き』は10年以上育てた樹からたった1回、コップ1杯分だけを採取したら切り倒して終わりです。果たしてそれが、本当にベストな方法なのかどうか。そういった疑問から現在研究を進め、別の採取方法を模索しています。漆の樹と永く共存できる方法を見つけて、漆も漆の文化も後世に伝えていきたいんです」と松沢氏は話してくれました。

ただ在るものを守るだけでなく、将来の存続をも見据えて。松沢氏の取り組みは、更に続いていきます。

10年以上かけて育てた漆の樹から採れるのは、わずかコップ1杯分。『漆の一滴は血の一滴』の言葉どおり、1滴1滴が血のような重み。

漆は単なる塗料ではなく、日本人と自然との共生の象徴でもある。植樹も行って漆産業の存続を目指す。

Data

住所:岩手県盛岡市本町通3-6-1 MAP
電話:019-656-7829
写真提供:株式会社 浄法寺漆産業
http://www.japanjoboji.com/
info@japanjoboji.com

山形は寒河江の地から、世界レベルの「一流」を発信。[GEA/山形県寒河江市]

「衣・食・住」の3つのセクションからなる多彩な文化空間。

山形県寒河江市地方と世界をつなげる新たな試み。ものづくりの場を生かしたスペシャリティストア。

山形県のほぼ中央。霊峰・月山(がっさん)の懐に抱かれ、四季折々の美しい景観と豊かな自然に恵まれた寒河江市(さがえし)に、趣のある石造りの蔵が立ち並ぶ光景があります。
ここは『GEA(ギア)』。店の名前は糸作りに欠かせない歯車と、「次のステージに進むこと」を意味するデジタル用語に由来し、築100年余りの石蔵の中に山形の魅力と世界レベルの「一流」とを共存させています。

歯車はひとつ欠けても動かない。「全てが重要である」というポリシーを山形の文化と人々のつながりに反映させて。

山形県寒河江市古き良きものづくりの現場を、モダンなクリエイションで満たした空間。

『GEA(ギア)』を運営するのは、世界の一流メゾンと多数コラボレーションしている佐藤繊維。1932年に創業した紡績ニットメーカーで、かつて工場や倉庫としていた大谷石製の石蔵を、山形の文化の発信地とすべく移築及び改装しました。

2015年の春にオープンしたその店の取り扱い商品は、実にバラエティ豊か。国内外の新鋭デザイナーや世界のハイブランドまで、多彩なニットファッションを取り揃えた『GEA1』。そして、山形のクリエイターによる家具や伝統工芸品と、専門のバイヤーが世界各地から買いつけてきたプロダクトが並ぶ『GEA2』。更に、レストランとグローサリーの両輪によって山形の食の粋を味わえる『GEA3』から構成されています。

いずれも内装・什器・照明・BGMにいたるまでこだわり抜いて、店舗やフロアごとにストーリーを持たせています。

『GEA1』の1階。「ものづくりの工房」をイメージした重厚な内装に、最先端のトレンド商品が並ぶ。

『GEA2』。暮らしのあらゆるツールを取り揃えたライフスタイルショップとして家具からインテリア・食器・雑貨にいたるまでを販売。

『GEA3』。山形の豊かな食材を世界レベルのシェフが供するレストランと、山形の食材を自ら購入できるグローサリーを併設。

山形県寒河江市佐藤繊維だからこそ作れた・仕入れられたプロダクトが並ぶ。

『GEA(ギア)』を企画したのは、母体となった佐藤繊維の4代目で、かつ糸作家の佐藤正樹氏。
自社ブランドを立ち上げ、フランスなど海外の展示会にも出展していた佐藤氏は「なぜ自分は海外へ来たのだろう?」と模索。その結果、「誰も作ったことのないような糸を作りたい」「世界の有名ショップで扱ってもらえるような糸や製品を作りたい」という目標に行き着き、「本当に作りたい洋服の店を作ろう」と決意し山形に戻りました。そして25年前に佐藤繊維を継いで、2015年に『GEA(ギア)』を立ち上げたのです。

当初は明確なコンセプトが定まっておらず、世界中のファッションアイテムを仕入れながら世界観を模索していったそうです。東京やロサンゼルスのセレクトショップに匹敵する品揃えを実現しながらも、「これは都会のトレンドの後追いではないか?」と疑問を持つように。その後、「地方にしかない強みを打ち出した、佐藤繊維だからこそできるものづくり」に行き着いて、地方から都会へ、更に世界へとトレンドを発信する『GEA(ギア)』のコンセプトが確定したのです。

佐藤繊維は手紡ぎから糸作りを始めた会社。独自の技術を多数有しており、それらを生かした糸やブランドを実現している。

積み重ねてきた歴史と確かな技術が根底に流れる。古い紡績の機械をリユースしたラックやディスプレイも必見。

山形県寒河江市山形の知られざる歴史や物語を背景に据えて。

そもそも佐藤繊維の糸は、世界の多くのハイブランドに採用されていました。原料となるウール等を輸入し、それを独自の技術によって他では類を見ない糸に加工。そして世界のハイブランドに提供された糸は、多種多様なファッションに生まれ変わって、巡り巡って山形の『GEA(ギア)』に戻ってきます。伝統産業の紡績から生まれた糸が、世界を巡って帰って来るというストーリー。佐藤氏の先代が日本で初めて羊を飼い始め、糸を紡ぎ出したという山形の地で、その歴史と物語を背景に持つ『GEA(ギア)』が、新たなプロダクトと物語を発信しています。

ほとんどのトレンド商品がインターネットで買える時代だが、それでも入手が困難な商品を取り扱っていることが自慢。

寒河江の風景。ここに足を運んでくれた人々に、「ここにしかない楽しみ」を提供。

山形県寒河江市山形という地方に在って、世界と渡り合う。

山形の寒河江という地方に在りながら、『GEA(ギア)』には最先端のトレンドや独自のプロダクトが溢れています。佐藤繊維はもちろん、佐藤氏個人の人脈や情報感度によるコネクションがその秘密。東京でも見られないようなブランドやデザイナーズアイテムを、ふんだんに仕入れています。

「これが単にトレンドを追いかけているだけのショップとは違うところです」と佐藤氏。更に、『GEA(ギア)』だけにフルアイテムが陳列されている自社ブランドもあります。メンズのハイエンドニットを実現した「991」。親子で楽しめるエイジレスなデザインが支持されている「M.&KYOKO」。一般的なニットはデザイン・コンセプト・糸の品質などをヨーロッパのブランドにならったものがほとんどですが、紡績メーカーならではの独自の技術力を存分に発揮しています。有害な塩素を使わずに、カシミアよりも細く柔らかく仕上げたウール糸『Sultan(サルタン)』。既存のニットにはない布帛(ふはく)のパターンを採用した様々なアイテムなど、ここにしかないプロダクトが溢れています。

『GEA3』で供されるのは、京野菜よりも種類が多いといわれる山形の伝統野菜。地元の「お日さま農園」が丹精込めて育てた大地の恵みを、世界レベルのシェフが真剣勝負でアレンジ。

シェフの磯野将大(まさひろ)氏は、「Asia's 50 Best Restaurants」に選ばれた店で料理長を務めたほどの人物。山形ならではの食材に魅了されて移住した。

山形県寒河江市「地方の一流」に魅了された都会の若者たちが集う。

都会のトレンドの後追いをするのではなく、自ら魅力とトレンドを創出している。そのオリジナリティとポリシーに惹かれて、顧客のみならず、人材も集っています。
「『GEA(ギア)』ならではのポリシーと感度に、若者やクリエイターたちが共感してくれるようです。“地方の過疎化と都会への人の流出”が声高に叫ばれる中で、『GEA(ギア)』と寒河江においては逆転現象が起きているんです。地方は都会の下請けではなく、独自の文化やトレンドを発信できるポテンシャルがある。こうした事実や取り組みを、ぜひ知って頂きたいですね」と佐藤氏。

更に、都会から『GEA(ギア)』に集まった人材が、ここにしかないものを知ることで、地方が活性化していくという手応えもあるといいます。

店や物だけでなく、サービスやファッションまでも提供している『GEA(ギア)』は、過疎化をも食い止める可能性を秘めています。

地域の伝統技術を学んだ若きクリエイターたちが生み出すプロダクトは、都会の人々をも引きつける感度を持つ。天童木工の家具や、米沢織を用いた雑貨など。

店舗の音響にもこだわりが。メインのBGMの他に、壁面のガラススピーカーからミシンや縫製する機械の音をアレンジした「ものづくりの音」も響かせている。

山形県寒河江市人と文化を地方に呼び戻し、都会に向けて再発信するという理想。 

地方にも多くの一流が存在しており、最先端のトレンドに匹敵する訴求力を持つという事実。それを体現した『GEA(ギア)』は、更なる未来図を描いています。
「訪れた都会の人々に楽しんで頂くだけでなく、地域の人々にも魅力を再発見して頂ければ。それをきっかけとして面白いことを始めてくれる人がどんどん集まれば、新たな潮流が生まれていくでしょう。我々の取り組みを見て『山形や寒河江に住んでみたい』と思って頂くことで、地方でやりたいことがある人たちが集まるスポットにしたいですね」と佐藤氏は話します。

都会を追いかけるのではなく、都会から人々が集う場所へ――かつてない「人とトレンドの還流」を生み出しつつある『GEA(ギア)』は、今後もその理想を追求していきます。

「地方のセレクトショップ」が都会のトレンドや感度を追い抜く。

Data

住所:山形県寒河江市元町 1-19-1 MAP
電話:0237-86-7730 ※レストラン予約:0237-86-3930
営業時間:11:00~19:00
休日:火曜/年末年始
レストランの営業日時はこちらをご参照ください
http://www.gea.yamagata.jp/
写真提供:YASUYUKI TAKAKI/Copyright :Sato Sent Co., Ltd

桜と菜の花、青空が三位一体となった、春爛漫の大パノラマ。[幸手権現堂桜堤/埼玉県幸手市]

ソメイヨシノと菜の花、そして澄み渡る青空。3つの色彩が織り成す景色は、絵画のような美しさです。

埼玉県幸手市古くより愛され、地域の人々によって守られてきた、歴史ある花見の名所。

記録によれば、1576年頃にはすでに造成されていたという『幸手(さって)権現堂桜堤』。暴れ川として恐れられた『中川』の氾濫など、たび重なる水害を乗り越えて現在の姿となったのは明治時代で、1920年に桜が植えられてからは、桜の名所として多くの人が集まり、お花見を楽しんだといいます。その桜は戦後、燃料として一度全て伐採されたものの、1949年に地域住民の協力のもと再び植栽がなされ、約1kmの間に約1,000本の「ソメイヨシノ」が並ぶ、美しい景観を作り出しました。堤の手前に広がる約19,000㎡の農地には菜の花が作付けされ、見頃となる3月下旬から4月上旬にかけて、桜の薄紅色と菜の花の黄色とのコントラストが見事な、春爛漫の大パノラマが完成します。堤の周辺は『県営権現堂公園』となっており、広大な芝生の広場ではピクニックが楽しめる他、「展望の丘」からは、爽快な風景を望むこともできます。桜の開花期間中、園内では「幸手桜まつり」が開催され(2018年は3月26日から4月10日を予定)、約100軒の露店出店や様々なイベントが催されます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data
幸手権現堂桜堤

住所:埼玉県幸手市内国府間887−3(県営権現堂公園) MAP
アクセス : 首都圏中央連絡自動車道幸手ICより車で約15分/東武日光線幸手駅より朝日バス五霞町役場行き乗車、バス停・権現堂下車すぐ

時代を超えて人々の琴線に触れ、記憶に残る、柳と桜が織り成す美の共演。[遊行柳と桜/栃木県那須郡]

松尾芭蕉が「おくのほそ道」に記述したことで有名に。周辺は「栃木県緑地環境保全地域」に指定されています。

栃木県那須郡歌人に俳人、多くの人が心を寄せる、「遊行柳」がもたらす情緒ある景色。

奥州街道の宿駅として栄えた那須町大字芦野に位置する『鏡山温泉神社(上の宮)』の参道脇に、ひっそりと佇む柳の木があります。名前を「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」といい、室町時代、時宗19代尊酷(そんこく)上人(=遊行上人)がこの地を訪れた際、柳の精の老翁を念仏で成仏させたという伝説から、能楽や謡曲の題材に使われるなど、古くより文化人の間で知られてきました。謡曲の「遊行柳」は西行が詠んだ和歌「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ(新古今集、山家集)」を主題に創作されたといい、他にも与謝蕪村や松尾芭蕉らが心を寄せ、作品を残しています。参道にある2本の柳の木のうち、玉垣に囲まれている方が遊行柳で、何代にもわたって植え継がれ、大切に育てられています。周辺には西行の歌碑や与謝蕪村、松尾芭蕉の句碑が立てられている他、桜の木が植えられており、桜は例年4月中旬から下旬に開花し、柳の葉の新緑や周囲の田んぼの風景と相まって、いっそう情緒ある雰囲気を醸し出します。時代を超えて多くの人々の琴線に触れ、記憶に残り、愛されてきた原風景を、一度は見ておきたいものです。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data
遊行柳と桜

住所 : 栃木県那須郡那須町大字芦野2503 MAP
アクセス : 東北自動車道那須ICまたは那須高原SAより車で約30分/JR東日本東北本線黒田原駅より東野バス伊王野行き乗車、バス停・芦野支所前下車すぐ

濃い桜色のベニシダレザクラが視界を埋め尽くす、感動的な桜のトンネル。[常陸風土記の丘/茨城県石岡市]

頭上を埋め尽くすように咲き誇り、見る者を圧倒するベニシダレザクラは、例年4月中旬頃に満開を迎えます。

茨城県石岡市約1ヵ月かけて、3種の桜による開花リレーを楽しむ。

旧石器時代から古墳時代までの遺跡が数多く遺され、奈良時代には常陸国の国府が置かれるなど、茨城県内最古の歴史を持つとされる石岡市。中でも『常陸風土記の丘』は、そうした歴史的財産の伝承と活用を目的に、学習やスポーツを楽しめる施設が整備された緑地公園です。桜の名所としても知られ、4月上旬から下旬にかけて、「ソメイヨシノ」、「ベニシダレザクラ」、「ボタンザクラ」の3種の桜が順に花開き、約1ヵ月にわたって開花リレーを繰り広げます。特に訪れる人々を魅了してやまないのが、濃い桜色に染まる花びらが視界を埋め尽くすベニシダレザクラ。桜のトンネルと化した散策路は言葉にならないほど美しく、色鮮やかです。園内では開花期間中、「常陸風土記の丘 さくらまつり」が開催され、夜間には桜のライトアップを実施。のどかな昼間とはまた異なる、幻想的な夜桜が楽しめます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:茨城県石岡市染谷1646 MAP
アクセス:常磐自動車道千代田石岡ICより車で約15分/常磐自動車道石岡小美玉スマートICより車で約10分/JR東日本常磐線石岡駅より関鉄グリーンバス乗車、バス停・村上下車、乗車時間約15分、バス停より徒歩約15分

6,000匹以上の掲揚数が世界記録に認定された、鯉のぼりと桜並木の華麗なる共演。[鶴生田川/群馬県館林市]

手作業で掲揚される鯉のぼりが春風に揺れる……地域の人々の情熱が形となり、鮮やかな春の風景を作り上げています。

群馬県館林市目で見て楽しく、体験して嬉しい。桜の開花時季にふたつの祭りが開催。

群馬県館林市西部の水田地帯を源流に、『城沼(じょうぬま)』を経て『谷田川』へと合流する長さ約9.5kmの一級河川『鶴生田川(つるうだがわ)』。付近の両岸には約300本の「ソメイヨシノ」が植えられており、4月上旬に見頃を迎えます。ここの桜景色を強く印象づけているのが、川の上にたなびく大量の鯉のぼり。2005年に掲揚数で世界記録に認定され、現在では6,000匹以上が桜の開花時期に合わせて出現します。薄紅色の桜並木を背景に、朱色、青色、紫色、黒色など、カラフルな鯉のぼりがパタパタと風にそよぐ様は、他では見られない光景です。例年、桜の開花に合わせて「館林さくらまつり」(2018年は3月25日〜4月8日を予定)と「こいのぼりの里まつり」(2018年は3月25日〜5月6日を予定)のふたつの祭りが開催され、各種イベントやライトアップも行われます。特に3月31日・4月1日は、屋台や物販ブース、音楽ステージ、凧揚げなど、様々な催しを予定。季節を感じられる日本ならではのモチーフの華麗な共演と楽しいお祭りが、川辺を賑やかに彩ります。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:群馬県館林市城町 MAP
アクセス : 東北自動車道館林ICより車で約15分/東武鉄道東武線館林駅より車で約10分

幻の地鶏「土佐ジロー」で限界集落の再生に挑む。[はたやま憩の家/高知県安芸市]

一番人気の「土佐ジロー大満足コース」。効率性を度外視して育てた地鶏は、まるでジビエのような味わい。

高知県安芸市愛する故郷で人が暮らせる産業を生み出したい。

高知県は安芸市の山奥。険しい山道をたどった先に、のどかながらも活気にあふれた宿があります。ここは『はたやま憩の家』。高級地鶏として名をはせる「土佐ジロー」を看板に、その多彩なグルメが味わえる食事処と、ゆったり滞在して里山の空気に浸れる宿として、「土佐ジロー」の生産販売を手掛ける有限会社『はたやま夢楽(むら)』が営んでいます。

1987年に会長の小松靖一(せいいち)氏が育て始めた「土佐ジロー」は、野趣あふれるジビエのような味わい。天然記念物の「土佐地鶏」から採卵用として掛け合わされた銘柄を、独自の育て方で食肉用へと転換しました。脂質が低いのに旨味成分は多く、現代の健康志向ともマッチ。その美味しさが大評判となり、人口40人ほどの集落に年間3,000人もの観光客が訪れています。

そのきっかけとなったのは、靖一氏に嫁いだ元新聞記者の圭子(けいこ)氏でした。靖一氏と二人三脚で、限界集落の再生に挑んでいます。

「土佐ジロー」を軸に、新たな田舎型産業として展開。山村の自立と自律を実践。

靖一氏と圭子氏。愛情こめて育てた地鶏が多くの人々を魅了する。

高知県安芸市過疎化が進む故郷を憂いて、田舎暮らしの道を模索。

今でこそ高級地鶏として名をはせ、グルメ雑誌や有名レストランなどの引き合いも絶えない「土佐ジロー」ですが、そこに至るまでの道のりは苦難の連続でした。独身時代の靖一氏が最初は卵から売り出したものの、知名度の低さや産卵率の低さなどによって、規模の拡大は無理と判断。一転、肉用として育て始めたものの、小柄で肉の歩留まりが悪かったため、やはり採算率はいまいひとつでした。それでも諦めずに奮闘し続けた靖一氏に、奇跡のような出会いが待っていました。

それはもちろん、靖一氏よりも25歳も年下の圭子氏でした。

当時は学生だったという圭子氏は、やはり過疎化が進む漁村だった故郷の未来を憂いていました。「なぜ若者が故郷を出て行かなくてはならないの?」「大好きな故郷には価値はないの?」と悩みながら、田舎で暮らす道を模索。多くのシンポジウムや講演会などに参加して、地域活性化や町並み保存のプロフェッショナル達に師事していました。

そして大学3年生の秋、国道交通省が主催する田舎体験のモニターツアーに参加。畑山も、小松靖一氏の名も、「土佐ジロー」の存在すら知らないままで運命の出会いを果たしたのです。

学生から新聞記者に、そして地鶏を供する宿の女将に。社長として経営と広報にもいそしんでいる。

かつて栄えた林業の衰退によって過疎化が進む畑山。しかしそこには人間らしい喜びがあふれている。

高知県安芸市朴訥(ぼくとつ)で真っ直ぐな人と、宝のような地鶏に魅せられて。

安芸市の各所を巡る1週間のモニターツアーのうち、圭子氏が靖一氏のもとにいたのは、わずか1泊でした。しかし、限界集落で独自の事業を起こし、生きる道と覚悟を固めていたその姿に、強い感銘を受けたといいます。その後、いったんは愛媛新聞の記者として就職したものの、「田舎に住んで一次産業で働きたい」という想いを捨てきれずに学生時代からの模索を継続。年に一回は畑山にも訪れ、「土佐ジロー」の味に感動するお客さん達の声や、『はたやま憩の家』がどんどん居心地良くなっていくさまを目の当たりにしていました。

圭子氏の畑山と靖一氏への想いは、募っていくばかり。もちろん限界集落で生きる厳しさは知り尽くしており、「そこで自分が何ができるのだろうか」という不安もありました。しかし、ある日訪ねて行った際に「今なら来てもいいよ」という言葉を得ました。「従業員としてなのか、嫁としてなのか」という問いに返ってきたのは、「仕事が嫌で来るのなら歓迎はしない」という厳しい言葉。でも、「自分の給料くらいは稼ぎ出してみせる!」と奮起して押しかけていきました。

2010年の6月に決意して、7月には入籍。9月に移住して、9月末には新聞社を退職しました。
「まさに怒涛のような押しかけでした」と圭子氏は振り返りますが、決して勢いや陶酔ではなく、田舎暮らしの厳しさを知り尽くした上での決断。靖一氏の母は「世界中で誰か一人でも靖一のことを理解してくれる人がいると思っていた」と感激し、宇和島の離島に住む圭子氏の祖父母も祝福してくれました。こうして夫婦二人三脚の取り組みが始まったのです。

田舎に対する想いも価値観も、すべてがピタリと一致。「これほど相性が合う人もいない」と確信し、その後、二人の子どもにも恵まれた。

高知県安芸市ぶしつけな好奇心や無理解に翻弄されたこともあった。

身近な人々からは祝福されたものの、「限界集落の年の差婚」という話題にぶしつけな興味を持つ人達もいたそうです。「土佐ジロー」の生産者として知られる靖一氏の知名度から、二人の結婚は地方紙の一面で報道されることに。テレビの取材も多々訪れるなど、大々的に報道されました。それは「土佐ジロー」とお店の周知にもつながりましたが、ただ好奇心で圭子氏を見たいと押しかける人や、「新婚さんの番組に出ないか」と強引にすすめる人まで。「それはもう、人間不信になりそうなくらい色々とありました」と圭子氏は振り返ります。

当時は会社の経営状態も芳しくありませんでした。それなのに、「金があるから若い嫁が来た」と吹聴する人まで。ほどなく東日本大震災が起こり、都市部の取引先が激減するなどして、会社はさらに苦境に陥ってしまいました。

靖一氏が長らく試行錯誤を重ねた「土佐ジロー」の味には絶対の自信があった。なのに売れない、という苦悩が続いた。

高知県安芸市軌道に乗るまでは苦難の連続。それでも挑戦し続けた熱意の果てに。

「“土佐ジロー”はこんなに美味しいのに、どうして売れないのか」。新聞記者として記事を書いてきた経験や、独自に地域おこしの研究をしてきた自負から、「私ならできる」と思い込んでいたことを圭子氏は反省したそうです。新聞の記事と売る記事は全く違いました。でも、圭子氏の目標はただの売らんかなの広告ではなく、「自分達がどんな想いで“土佐ジロー”を育てているのか」という背景の周知。その想いがあったからこそ、「土佐ジロー」は美味しく育つのです。

田舎には素晴らしい価値があり、こんなにも美味しいものを生み出せる。ただ食べ物として消費するのではなく、育つ過程や背景にまで思いをはせてもらいたい。田舎にも楽しい暮らしがあって、宝物のような経験があふれている。だから都会の人達も、帰って来るような気持ちで訪れてもらいたい――そんな様々な想いを知ってもらうためにも、「土佐ジロー」と『はたやま憩の家』を軌道に乗せなくては――千年続いてきた畑山を未来につなげていくために、気持ちを新たにしました。

緑の中にも多彩な色がある。何もないが全てがある。

高知県安芸市一から学び直す決意を人の輪が支援。

生産と経営に関しては、圭子氏は全くの素人でした。「今までの勉強はなんだったのか、と嘆くほどに無知でした」と語ります。「土佐ジロー」を売るための課題はなんなのか、一体何が間違っているのか――それすら分からないままに、手当たり次第に調べ、取り組み、教えてくれそうな人達と会うようにしました。

まずは安芸商工会議所の指導員に、経営や数字のことを教わりました。さらに専門家を派遣してくれる制度を利用して、DMの書き方などを学びました。商工会議所の女性会にも参加し、同じ経営者の女性達に相談。こうして築き上げていった人脈は、苦境にあった際に「土佐ジロー」をお遣い物にしてくれたり、宿を交流の場として利用してくれたりと、善意で支えてくれたそうです。

「土佐ジロー」の美味しさと物語を、元新聞記者のスキルを生かして発信。

高知県安芸市スキルを生かして限界集落のリアルを広める。

嫁いだ直後から依頼のあった執筆の仕事も、徐々に広報の効果を上げていきました。元新聞記者としてのスキルは、やはり無駄ではなかったのです。限界集落の現状を現場から発信する圭子氏は、メディアにとっても貴重な存在でした。様々に寄稿し、連載を持つなどするうちに、講師の依頼まで来るように。ついには地元で圧倒的な購読率を誇る高知新聞にも連載を得ました。

『畑山じゃ! 山奥じゃ 限界集落・若嫁奮闘記』というタイトルで、写真を交えたフルカラーの記事を2年間に渡って執筆。畑山にかける想いや訪れる人々との交流の様子、子ども達との過ごし方など、月に1度のペースで綴り続けました。さらに地元テレビのコメンテーターや、NHKラジオのリポーター、日本農業新聞の連載などもこなすように。それらを目にした人々や自治体から、講演や視察の依頼も増えていきました。

こうした活動を経て、嫁いだ当時は「靖一さんの嫁」と認識されていた圭子氏は、「小松圭子」という個人として認められるように。理解と応援に加え、「土佐ジロー」の知名度をも広げていきました。

畑山に来て食べれば誰もが笑顔に。Webサイトや電話、FAXによる通信販売も受けつけている。

高知県安芸市不機嫌な人までも笑顔にする「土佐ジロー」の魅力。

こうして「土佐ジロー」は徐々に知名度を上げ、『はたやま憩の家』にも多くの人々が訪れるようになりました。現在、畑山を訪れるお客さんには2つのパターンがあるといいます。ひとつは圭子氏の記事や発信した内容を見て、熱い想いと期待を持って訪ねてくる人。こうした人々は喜んで「土佐ジロー」を味わい、その多くが熱心なリピーターになってくれるといいます。

もうひとつは、嫌々来た人。何らかのきっかけで知り、誰かに連れられて来てはみたものの、道の険しさやお店までの遠さに明らかに不機嫌。「なんでこんな所で営業してるの?」などと言われたり、「鶏料理は嫌いです」と言われたりすることまで。ですが、そんな人たちもひと口「土佐ジロー」を食べれば見る見るうちに態度を豹変させるそうです。コース料理の場合は、まずはたたきから。「えっ、これが鶏肉なの!?」という素直な驚きの声が上がり、お次の炭火焼が目の前で供されると、顔つきまでもが変わっていきます。ひととおり給仕を終えたら、後はおまかせ。その頃には、最初は不機嫌だったお客様も「次はいつ来ようか?」と話しながら盛り上がっているそうです。更にすき焼き、親子丼とコースは続きますが、それに加えてサイドメニューの唐揚げやラーメンの注文が入ることもあるそうです。

メニューやコースは、その由来や背景も感じてもらえるように工夫している。追加の注文を自然にしたくなる仕組み。

食事処にも宿にも、長く滞在して楽しんでもらうための気遣いが溢れる。

高知県安芸市「土佐ジロー」で産業と雇用を創出しながら、畑山そのものを楽しめる環境づくりを。

圭子氏と靖一氏の今後の目標は、「土佐ジロー」を軸とした産業を創出しながら、畑山自体を楽しめる環境づくりを進めていくことだそうです。「現在も保育園の子ども達が時々、来てくれ、“土佐ジロー”を食べてもらったり、一緒に川や山で遊ぶなどしています。遊具も何もない田舎ですが、自然の中から見出して工夫する喜びは、何よりの学びになります。美しい田畑や山、星が降るような夜空、漆黒の闇夜なども絶好の環境学習の場です」と圭子氏。
「“土佐ジロー”の生産量を増やしたり、売り方を工夫すれば、住むための仕事に繋げられます。畑山で暮らせる人を増やして、そうした人達にさらに別の生業を生み出してもらいたい。限界集落ゆえのインフラの不備もありますが、そういったマニアックで万人受けしない世界があっても良いと思うんです。畑山の素晴らしさを“土佐ジロー”を通じて知ってもらうことで、田舎暮らしの基盤作りに繋げていきたいですね」。

限界集落に産業を創出し、生きる道を切り拓く――圭子氏も靖一氏も、その理想と共に歩み続けます。

小松家の人々と『はたやま夢楽(むら)』のメンバーたち。畑山の地で生きるために力を合わせる。

Data
はたやま憩の家

住所:高知県安芸市畑山甲982-1 MAP
電話:0887-34-8141
営業時間:ランチ11:00~15:00(L.O.15:00)
休日:毎週水曜日/12月27日~翌年1月1日
料金:
【食事】
土佐ジロー欲張りコース 5,000円/1人前
土佐ジロー大満足コース 6,000円/1人前
炭火焼き堪能コース 8,000円(+野菜500円)
※コースは要予約(3日前まで)
※通常メニュー約20種類は予約不要
【宿泊】
3部屋限り。1室1~4人利用。最大定員12人。
11,000円(1室3〜4人/平日1人あたり)~
http://tosajiro.com/
写真提供:有限会社はたやま夢楽

「酸っぱい」を見つめ直す!? 老舗造酢所が手がけたお酢イタリアン[aceto/京都府宮津市]

京都府宮津市OVERVIEW

日本三景のひとつ「天橋立」を擁する京都府宮津市に、2017年、0031軒のイタリアンレストランが誕生しました。店の名は『aceto』。イタリア語で「酢」を意味する店名のとおり、根底にあるテーマはお酢。ここは丹後の地で5代続く老舗醸造所『富士酢 飯尾醸造』が、更なる酢の可能性を追求すべく生み出したレストランなのです。

305Dの試みは挑戦的ではありますが、決して無謀な賭けではありません。近年、西洋料理の話題においてたびたび注目を集める「酸味」。その本質を掘り下げ、イタリアンというジャンルでより重層的に表現する。酢のポテンシャルと可能性を知る専門家だからこそ、十分に勝算はあったのです。

厨房に立つシェフの顔にも、見覚えがありました。神泉の『アルキメーデ』で、あるいは神楽坂の『ラストリカート』で、シチリアの味を伝え続けた重 康彦氏その人です。「シチリア料理はビネガーを多く使います。それが日本の酢であれば、違う表現ができるはず」と重氏。そんな思いを胸に秘め、身ひとつで京丹後へやって来ました。

日本の醸造酢とシチリア料理が出合い、そこから生まれる未知なる化学反応。京丹後でイタリアンレストランを開くということ。そして酢の可能性とこれからの広がり。重氏の言葉を足がかりに、ここ『aceto』の魅力と存在意義を紐解いてみましょう。

Data

住所:京都府宮津市新浜1968 MAP

電話:0772-25-1010
https://aceto.therestaurant.jp/

「酸っぱい」を見つめ直す!? 老舗造酢所が手がけたお酢イタリアン[aceto/京都府宮津市]

京都府宮津市OVERVIEW

日本三景のひとつ「天橋立」を擁する京都府宮津市に、2017年、0031軒のイタリアンレストランが誕生しました。店の名は『aceto』。イタリア語で「酢」を意味する店名のとおり、根底にあるテーマはお酢。ここは丹後の地で5代続く老舗醸造所『富士酢 飯尾醸造』が、更なる酢の可能性を追求すべく生み出したレストランなのです。

305Dの試みは挑戦的ではありますが、決して無謀な賭けではありません。近年、西洋料理の話題においてたびたび注目を集める「酸味」。その本質を掘り下げ、イタリアンというジャンルでより重層的に表現する。酢のポテンシャルと可能性を知る専門家だからこそ、十分に勝算はあったのです。

厨房に立つシェフの顔にも、見覚えがありました。神泉の『アルキメーデ』で、あるいは神楽坂の『ラストリカート』で、シチリアの味を伝え続けた重 康彦氏その人です。「シチリア料理はビネガーを多く使います。それが日本の酢であれば、違う表現ができるはず」と重氏。そんな思いを胸に秘め、身ひとつで京丹後へやって来ました。

日本の醸造酢とシチリア料理が出合い、そこから生まれる未知なる化学反応。京丹後でイタリアンレストランを開くということ。そして酢の可能性とこれからの広がり。重氏の言葉を足がかりに、ここ『aceto』の魅力と存在意義を紐解いてみましょう。

Data

住所:京都府宮津市新浜1968 MAP

電話:0772-25-1010
https://aceto.therestaurant.jp/

脳に突き刺さる力強い味の源泉は、塩気ではなく、凝縮された旨味。[aceto/京都府宮津市]

ある日のメインディッシュは、丹後の山で捕れたイノシシ。米麹に漬け込んで柔らかさと香ばしさをプラス。

京都府宮津市「煮詰める」という工程で、素材の旨みを一点に集中させる。

重 康彦氏は自身の料理のテーマを一貫して「凝縮感」という言葉で表しました。煮詰めたビネガーを多用するシチリアの料理の再現、という直接的な意味合いの「凝縮」もありますが、それだけではありません。「フワッと調理するのではなく、ワインをここまで煮詰める、野菜の甘さをここまで出す、という明確なラインがあって、それをひとつずつ丁寧に“潰していく”わけです。そうやってできたものが、今の僕の料理なんです」と重氏は言います。

食材のポテンシャル、旬、調味料との相性、技法。そういった料理の要素を一つひとつクリアにし、その結果として出来上がる自らの料理。それをもって「凝縮」という言葉を使う。つまり、過去の経験も含めた現在の重康彦という人物の全てを凝縮したものが、「凝縮感」のあるひとつの料理になるというわけなのです。「だから僕の料理は特徴的だと思います。好き嫌いが分かれますね」と重氏は言います。

『飯尾醸造』の酢を使うことに関しても、単にワインビネガーと置き換えるわけではありません。「(飯尾醸造の)富士酢は、煮詰める前からしっかりとしている。完結している酢というイメージです。だから煮詰めるのには向かないですね。煮詰めるならイチジク酢を使います。魚介にはリンゴ酢が合いますね。紅芋酢はクセがなく、綺麗な色が出る。色々と使い分けています」と重氏は教えてくれました。

鋭い酸味、まろやかな酸味、気付くか気付かないかというほどのほのかな酸味。酢ひとつにも重氏の技が光る。

ふんだんに酢を使える環境により、重氏の料理の幅も広がりつつあるという。

京都府宮津市酢を生かすもの、素材を生かすもの。メリハリをつけたコース展開。

現在のコースは、前菜、玄米リゾット、パスタ、メインディッシュ、デザートという構成。酢のイタリアンと銘打ってはいますが、実際に酢を使う料理は1/3程度だといいます。「僕の料理は塩をあまり使わずに、“凝縮感”で濃さを出すという発想。だから全部に酢を使うと強くなりすぎて、塩辛く感じてしまうわけです。旨味を際立たせるものと柔らかく表現するもの、そのメリハリでコースを構成しています」と重氏。

この日の前菜は、リンゴ酢で仕上げたへしことキノコのマリネ、イチジク酢のカポナータ、グリーンソースを添えたゼッポリーネなど。酢がはっきりとした味の輪郭を描く料理で、コースは幕を開けます。しかもただ「酸っぱい」わけではありません。甘み、香り、存在感。重層的な酢の魅力を、見事に料理に反映させているのです。「『飯尾醸造』の酢は高級ですからね。普通なら仕上げの風味づけに使うようなお酢。それをマリネにもなんにでも贅沢に使える。これは料理人としては嬉しいですよ」と重氏は話します。

そうかと思えば次の玄米リゾットでは、素材そのものの味わいで引き込みます。主役は魚です。「魚のアラをグワーッと煮詰めます。バットにいっぱいの魚でも1リットルもとれないくらい、焦げも内部に入れ込みながらギュッと凝縮するんです。それを魚の出汁で炊いた玄米にかける。煮魚のタレをご飯にかけて味わうイメージです」と重氏は説明してくれました。宮津漁港に漁船から直接水揚げされるのは、市場に並ぶ前の新鮮な魚介。それを直接買いつけ、店に持ち帰るからこそ、種類豊富な魚介を贅沢に使用することができるのです。産地ならではのアドバンテージを生かしたメニューというわけです。

重氏が「最も酢を使った表現がしやすい」という前菜。魚を中心に6~7種が盛り込まれる。

スペシャリテの玄米リゾット。魚の旨味がギュッと凝縮された味わい深いソースが決め手。

京都府宮津市丹後の食材でシチリアらしさを演出。そんな難しいテーマに挑む重氏。

パスタを挟んでメインディッシュは、肉か魚を選択。ここでも地元食材が主役となります。この日の肉料理は、丹後の山で捕れたイノシシ。シンプルにローストにしますが、ここにも重氏の技と発想が潜みます。いかに低温で火入れしてもある程度は硬くなってしまうジビエ。重氏は、米麹に漬け込むという調理法を選びました。「米麹がついているので、焦げますよね。その香ばしさも、美味しさになるわけです。香りも出る、柔らかくもなる。ベストの調理法だと思います」と重氏。ちなみに米麹は、醸造所に併設される酒蔵から届いたもの。発酵のプロフェッショナルが味方についているだけに、麹作りもお手の物です。ソースは紅芋酢を煮詰めたものです。イノシシの力強い味に、濃厚な酢の風味が深みを加えています。

魚料理は、身の引き締まった高級魚アコウ。これも地元の漁港に水揚げされたものです。「身が引き締まった魚なので、ソースとトマトで水分を戻すイメージ。ソースは魚のブロード。オリーブとケッパーでシチリアっぽさを出しています」と重氏は言います。こちらも主役は地元の魚。地元の食材で、いかにイタリアを表現するか。そんな重氏の思いが形となったような料理。煮詰めたブロードの醸す「凝縮感」もまた見事に表現されたひと品です。

デザートも、パティシエの経験もある重氏の自信作。焼きチョコのムースにヨーグルトソース、そして紅芋酢のソースを添えて彩りと風味の奥行きを表現しました。重氏が「レストランらしいデザートを心がけています。コースの〆なので、華やかさも大切な要素」と言う目にも美しいデザートにも、重氏のこだわりが凝縮されています。

全体としてボリュームはたっぷり。場所柄、ゲストの年齢層も高めですが、それでも多くの方がぺろりと平らげてしまうのだといいます。「それもお酢の効果かもしれませんね。塩が少なくても旨味があり、さっぱりと味わえる。そういうコースになっていると思います」と重氏は言います。

今後はコースの中で、更に酢の存在感を高めていくことも考えているという重氏。試行錯誤を繰り返しながら、更なる高みを目指す丹後の酢イタリアン、これからも目が離せない店となりそうです。

ある日のメインディッシュは、高級魚であるアコウのグリル。トマトとケッパーの風味にシチリアを感じる。

あえて焦げ目をつけ香ばしさを出すジビエ。重氏の料理は豪快なようで、細やかな気遣いが潜む。

趣ある町に佇む古民家イタリアン。その存在は少しずつ町の人々に認知されつつある。

Data

住所:京都府宮津市新浜1968 MAP
電話:0772-25-1010
https://aceto.therestaurant.jp/

佐賀が誇る4人のシェフが共演。「CUISINE SAGA」が正式にオープン。[CUISINE SAGA VOL.01/佐賀県佐賀市]

佐賀が誇る小岸明寛氏(左)、古賀純二氏(左から2人目)、弓削啓太氏(左から3人目)、吉武広樹氏(右)という4人のシェフが共演し、一つのコースを作り上げた。

佐賀県佐賀市名陶で料理を味わう〝予約の取れないレストラン〟が復活。

3月17日、明治維新から150年を記念した「肥前さが幕末維新博覧会」が開幕。博覧会では日本の近代化をリードした佐賀の歴史を振り返り、文化やアート、食を通してその魅力を10ヶ月にわたり発信していきます。
かつて維新の中核を担った「薩長土肥」の4県知事たちが佐賀城跡にて相見えたその夜、城跡のお膝元に建つ明治の洋館でプレミアムなレストランが華々しく幕を開けました。
そのレストランの名前は「USEUM SAGA」。

「美術館(MUSEUM)に飾るような器を使って(USE)佐賀の食材をふんだんに使った料理を楽しむ維新(これあらた)なるレストラン」がコンセプト。

このイベントのルーツは、2016年の有田焼創業400年事業のひとつとして開催された「USEUM ARITA」にあります。普段は美術館に展示されているような人間国宝や名門窯・三右衛門の器で食事を楽しめることが話題となり、〝予約の取れないレストラン〟とまでいわれた人気企画。今回、博覧会を開催するにあたり、山口祥義佐賀県知事が「今回は維新の舞台である佐賀市で開催したい」と熱望したこともあり復活することとなったのでした。

佐賀城跡に建つ佐賀藩10代藩主・鍋島直正公銅像。佐賀の七賢人の一人で、佐賀を日本でもいち早く近代化へと導いた。

「USEUM SAGA」の開幕にあわせ、その会場となるさがレトロ館の前には新たにサインが設置された。ロゴマークは美術館と器がモチーフ。

佐賀の七賢人の一人、大隈重信に扮した山口知事が乾杯の音頭をとりイベントは封切られた。

佐賀県佐賀市郷土愛に溢れる4人のスターシェフたちが、一期一会の饗宴を演出。

「USEUM SAGA」のなかでももっともクリエイティブでプレミアムな存在が、国内外で活躍する気鋭の料理人が月替わりで登場し、佐賀の食材をふんだんに使った創作料理を提供する「CUISINE SAGA」です。 2月にはパリから渥美創太シェフを招聘し、VOL.00と位置付けたキックオフを行いましたが、今回が正式なグランドオープン。

VOL.01で登場したのは、佐賀出身の古賀純二氏、小岸明寛氏、吉武広樹氏、弓削啓太氏の4人のシェフ。それぞれが国内外での研鑽、活躍を経ていまやフレンチ・イタリアン界を牽引する存在といってもいいほどのスターシェフたちですが、それが4人も集う豪華な布陣。それぞれの個性を融合させた2夜限りの特別なコース料理が提供されました。

実はこの4人が共演するのは初めてではありません。2016年、〝器と料理のマリアージュ〟を掲げ、料理と器の可能性をさまざまな角度から探ったイベント「世界料理学会 in ARITA」での共演を皮切りに、今回が3回目となります。そうした経緯もあり、厨房での仕込みの段階から和気あいあいとした雰囲気そのもの。最年長の古賀氏を長男に見立て「4人兄弟」と称するほど、チームとして一体感があります。

VOL.01では、アミューズ5種類からはじまり、全10品を4人のシェフが分担して担当したのですが、考えてみれば複数のシェフがフレンチ・イタリアンの垣根を越えて、一つのコースを完成させるのは一筋縄ではいきません。

しかし結論を先に言ってしまえば、各シェフの個性を感じつつも高度に調和がとれ、しかもメリハリも効いたコースへと昇華されていました。

その4人のカリスマシェフたちの共演、そして器とのマリアージュをひとつずつ紐解いていきたいと思います。

年齢やキャリア、得意とする料理もさまざまな4人がどんなコースを作るのか。メニュー名からも想像が膨らむ。

東京の老舗グランドメゾン「シェ・イノ」の料理長を務める古賀純二氏。2016年、卓越した技能者(現代の名工)も受賞した同氏は、「兄弟の〝長男〟として4人をまとめたい」と話していた。

今回、最多となる4品を担当した小岸明寛。その緻密で膨大な仕込みの量にほかのシェフたちも感嘆の声をあげていた。

チームの中では最年少となる弓削啓太氏はパスタとデセールを担当。グルメサイトの「イタリアン部門」では全国一の評価を得るほど、ゲストの心を掴む料理に長けている。

パリで開いた「Restaurant Sola」では、開店から1年3ヶ月というスピードでミシュラン1つ星を獲得した吉武広樹氏。現在は日本でのレストラン開業に向け準備中。

佐賀県佐賀市ミュージアム級の器に、土地の豊かさを盛り付ける。

ウェルカムホールで提供されたアミューズは5種類。いずれもフィンガーフードで、すべて小岸氏が担当しました。それぞれ主役とした食材は有明海、玄界灘という2つの海に面した佐賀ならではの魚介類。

日本一の干満差を誇り、栄養分が豊富で〝豊穣の海〟とも称される有明海からは、アゲマキガイやムツゴロウといった希少な食材をチョイス。なかには、地元で「ワケノシンノス」と呼ばれ珍重されるイソギンチャクを使った料理も披露。一方、玄界灘側からは甘みがあって春先までが旬とされる、アオリイカを使ったコロッケが供されました。

それらのアミューズが盛られた器は、佐賀の歴史ある名窯で「三右衛門」と呼ばれる窯のうち有田の今右衛門窯と柿右衛門窯、そして人間国宝の中島宏氏の器などが選ばれました。これらの器はまさに美術館に飾られていてもおかしくない名品中の名品。「USEUM SAGA」というイベントを象徴するような料理と器のマリアージュに、ゲストたちからも歓声があがりました。

なかでも注目を集めたのは、アオリイカのコロッケが盛られた人間国宝・中島宏氏の青磁。実は中島氏はイベントが開催された3月上旬に逝去されたばかり。「器は使われてなんぼ」と「USEUM ARITA」の開催のときから、快く貴重な作品を提供してくれた氏は間違いなく今回の「USEUM SAGA」開催の立役者のひとり。その人柄を偲び、会場には深い青とも緑とも見える独創的な釉調で〝中島ブルー〟と呼ばれた器の数々が展示されていました。

有明産アゲマキガイのオンデュレ(小岸氏)。アゲマキガイとは有明海で採れる二枚貝の一種で、それをバタークリームで炒め波状のブリックでサンド。器は有田の瑞峯窯の原田耕三郎氏が手がけた飴色の長皿を使用。

ムツゴロウと有明海苔のパイ(小岸氏)。有明海産の焼き海苔に佐賀産玉ねぎと太良町産の生ハムを加えてパイ生地に仕立て、ムツゴロウの赤ワイン煮をトッピング。器は三右衛門の一角、柿右衛門窯のもの。

イソギンチャクのパピヨット(小岸氏)。イソギンチャクをオリーブオイルでコンフィにし、佐賀産レモンの塩漬けとともに揚げ餃子スタイルで提供。器は人間国宝の十四代今泉今右衛門氏によるもので〝墨はじき〟と呼ばれる技法を使った幻想的な作品です。

アオリイカのコロッケ(小岸氏)。唐津産のアオリイカと佐賀産米をリゾットのようにしてコロッケに。周りの黒い衣は竹炭とパン粉をブレンドしたもの。器は人間国宝の青磁作家・故中島宏氏のもので、独創的な釉調で〝中島ブルー〟を表現。

竹崎カニと新玉ねぎのファルシ 父親の山葵(小岸氏)。瑞峯窯の原田耕三郎の長皿に並べられたのは有明海のワタリガニと玉ねぎを包んで、金柑のコンポートを散らしたさっぱりとしたアミューズ。

趣向を凝らしたアミューズと、名工たちの器に目を奪われるゲストたち。

佐賀県佐賀市伝統と革新がせめぎ合うコース序盤。

メインルームに場所を移し最初に提供されたのは、古賀氏による伝統的なフレンチの代表格・コンソメスープ。佐賀牛という全国屈指のブランド牛を100%使ってコンソメを作るのは古賀氏にとってもはじめてのチャレンジだったといいます。料理はクラシカルながらも、古賀氏は器選びに遊び心を忍ばせます。「カトラリーを使わず、ゲストに手に持ってもらってスープを飲んで欲しい」という想いから、有田焼のショットグラスに注いだのです。そうした趣向もあり、ゲストは芳醇で澄み切ったコンソメの香りまでしっかりと楽しむことができました。

クラッシックなフレンチから一転、2皿目に小岸氏がオードブルとして選んだのはソースも合わせると120種類にもなる野菜や野草、ハーブや花を散らしたシグニチャーディッシュです。その姿はまさに百花繚乱。春の野のような一皿にゲストの熱気も一気に高まります。

さらに小岸氏の意表を突いた一手は続きます。3皿目に運ばれてきたのは、フレンチで使われることは稀な蓋物。小岸氏が「蓋を開ける瞬間の驚きを味わって欲しい」とこの器をセレクトしました。開けるとまさにびっくり! 銀彩のなかに美しいエメラルドグリーンのスープが注がれています。「バタフライピー」というハーブを使った着色の技術は、ゲストのみならずシェフたちも唸らせた一品でした。

4皿目は再び古賀氏の伝統的なフレンチに回帰。「平目のソース・アルベール」は、師匠である井上旭氏がフランスの名店「マキシム・ド・パリ」から受け継いだ一品を古賀流に佐賀の食材を使って再現したものです。ソースはシャンピニョンとエシャロットを炒めた中にベルモットやハーブに加え50分の1の量になるまで煮詰め、そこにフォン・ド・ヴォーを加えて濃厚さを出すなど、「現代の名工」に選ばれた氏の真骨頂といえます。

佐賀牛のコンソメスープ(古賀氏)。3日間かけてじっくりと煮込んだスープは古賀氏が〝飲む肉〟と呼ぶほど、牛の旨味が凝縮された逸品。器は有田「李荘窯」の寺内信二氏が手がける「鎬(しのぎ)シリーズ」のショットグラスを使用。

〝大地の息吹〟〜太良町産「森のアスパラ」と生ハムの蒸し煮〜(小岸氏)。野菜の特徴に合わせて味付けや調理法を変えるという、膨大な手間をかけたもの。その下には「森のアスパラ」のアスパラと太良町産の生ハムが隠れる。器は李荘窯・寺内氏と書道家の中塚翠涛氏による、書が浮かび上がる白磁。

〝ひかり〟〜唐津産アワビのひのひかり〜(小岸氏)。唐津産カサゴのブイヤベースに豆科の花「バタフライピー」とトマトを加えることで神秘的な色に。85℃で6時間火を入れた唐津産アワビの食感も秀逸。器は李荘窯・寺内氏の銀彩の蓋物碗。

平目のソース・アルベール(古賀氏)。唐津で獲れた平目を3日間寝かせ、旨味を熟成。濃厚なソースと繊細な味わいの平目がハーモニーを奏でる。一見、和食器にも見える皿は寺内氏のもの。磁器らしい艶や光沢感を消して、使い込まれた漆器のような印象を与える。

佐賀県佐賀市イタリアンとフレンチの両雄が、現在の到達点を披露。

5皿目はイタリアンの旗手・弓削啓太氏の一品です。このパスタは2017年にイタリアで〝パスタ料理のW 杯〟と呼ばれる「バリラ・パスタ・ワールドチャレンピオンシップ」で準優勝を獲得した思い入れのある一品。料理名に〝トマトソーススパゲティ〟とあるものの、器の中にトマトソースは見当たりません。しかし食べるとトマトのフレッシュな酸味や甘みが口いっぱいに広がります。弓削氏が種明かしした”トマト水”を使った仕掛けは、この日、もっとも多くのゲストの驚きを呼んだサプライズかもしれません。

6品目は新時代の若き才能を発掘する日本最大級の料理人コンペティション「RED U-35」でグランプリも獲得した吉武広樹氏によるメインです。パリ時代を経ておよそ10年ぶりに日本の食材と向き合ったという吉武氏。最初は戸惑いもあったそうですが、そんな中、目に止まったのが、太良町で育てられた「金星佐賀豚」。この旨味の濃い肩ロースをじっくりと火入れし、炭焼にした玉ねぎのドレッシングをアクセントに。さらに白石町特産のレンコンと玉ねぎをサラダ仕立てにして添えました。

スパゲティ アル ポモドーロ〝トマトソーススパゲティ〟(弓削氏)。2日間分で24Kgにも及ぶ大量のトマトを茹でて撹拌し、トマトのエキスだけを抽出した〝トマト水〟で麺を茹でている。器はモダンな雰囲気でシェフの間でも愛用者が多い、寺内氏の「鎬シリーズ」。

豚肩 レンコン サラダ玉葱(吉武氏)。佐賀県白石町の「黒木農園」のレンコンと新玉ねぎの食感が心地よい。器は伊万里市大川内山の「畑萬陶苑」の畑石修嗣氏が手がけたフラットプレート。淡いパステル調で、まだら状に模様が浮かび上がる。

佐賀県佐賀市美味しさを最大化させる、驚きのプレゼンテーション。

そして7品目は、「シェ・イノ」時代にはシェフパティシエも担当した弓削氏のデセール。そこで作っていたココナッツのブラマンジェをベースに、フランスの3つ星レストラン「ギ・サヴォア」で学んだココナッツのデザートにライムやバナナを合わせる組み合わせ、さらに大阪の「QUINTOCANTO」 時代に学んだホワイトアスパラガスをデザートに使うアイデアをミックスさせた、弓削氏のキャリアの集大成のような一品です。

8皿目は「Restaurant Sola」からシェフパティシエとして吉武氏の右腕を務める勝俣孝一氏によるデセールです。このデセールで目を引いたのは、そのプレゼンテーション。器のリムに水分が触れるとピンクに発色する水飴の粉を配し、ゲストの目の前でさくら茶のスプレーを吹きかけることで、皿の上に桜を咲かせるという趣向。このパフォーマンスは饗宴のわずか2時間前に思いついたといい、そのギリギリまでアイデアを絞る探究心と柔軟性には、古賀氏も唸らせました。

コースの最後を飾るのは、小岸氏のミニャルディーズ。李荘窯の銀彩が輝く半球体の器にチョコレートのチップや嬉野のナカシマファームのフロマージュブランのムースなどを盛り合わせました。そして今回、器の面で八面六腑の活躍をみせたのが、有田・李荘窯の寺内信二氏。第一線を走るシェフたちから依頼を受け制作した器も多く、その発想力とイメージをカタチにする技術力は他の追随を許さない、確固たる存在であることを感じました。

ココナッツのパンナコッタとホワイトアスパラガス(弓削氏)。食感と複雑な酸味がユニークなデセール。器は有田の徳幸窯の徳永氏が制作。岩や石がモチーフで、あえて陶器用の釉薬をかけてぽってりとした質感を出し、貫入と呼ばれるヒビに赤色の顔料を染み込ませて趣のある表情を出した。

桜苺(吉武氏)。唐津産の高級イチゴ”白い宝石”を贅沢に使い、中に佐賀の銘柄イチゴ”さがほのか”と煉乳だけで作ったアイスが隠れている。李荘窯の大きくリムをとった白い器は部分的に金箔を張ったものもあり、ヨーロッパの器のような佇まい。

ミニャルディーズ5種類(小岸氏)。隠し味として太良町産クレメンティン 温州みかんを使ったジャムを忍ばせて。寺内氏の器は見込みはマットな黒、側面には銀彩を施した半球体の前衛的な器。

佐賀県佐賀市個性を主張することで、互いの料理を引き立て合う。

コース全体を振り返ったとき、印象的だったのが古賀氏が担当した「佐賀牛のコンソメスープ」と、「平目のソース・アルベール」というオーセンティックなフレンチの2品。古賀氏も自身の店ではヌーベルな料理も提供していますが、この日はクラシックなメニューを選択。

その真意を尋ねてみると「まずは、佐賀の人にクラシックで正統派のフランス料理を味わって欲しかったというのが第一」。そして、「この方が若いみんなが作る斬新で創造的な料理が引き立つかなと。だってあの王道のコンソメスープのあとに来るのが、あの彩でしょう。そのコントラストがコースにメリハリを与えて、全体としてハーモニーを生むんじゃないかなと思ったんです」と話してくれました。

4人のシェフが揃ってチームで料理を作るのが3回目ということもあり、お互いの手の内はある程度把握しているそうですが、やはり毎回発見も多いといいます。

今回では、小岸氏のバタフライピーを使ったコンソメスープや弓削氏のトマト水を使ったパスタ、吉武氏のメインの付け合わせやデセールのプレゼンテーションなどは刺激を受けた一皿として名前があがりました。

また一方、古賀シェフの料理に対しても「〝ソースの神様〟はこういう風にベースを作っているんだ」(吉武氏)と、原点の凄みを感じたといいます。

佐賀には幕末から明治にかけて、藩や日本のことを考えて奮闘した「佐賀の七賢人」と呼ばれる偉人がいますが、郷土のために自分の積み上げてきた経験と感性を注ぎ込んだ4人のシェフたちも、その姿に重なるものがありました。

料理が提供されるごとに器の特徴やバックストーリーが紹介されると、ゲストも自ずと器を手に取り、その美しさや技法に見とれていた。

抽選で選ばれたゲストに加え、器職人や農産物の生産者なども参加。

「CUISINE SAGA」ではゲストに対し佐賀の食材の魅力を発信しただけではなく、シェフたちにとってもそれぞれのルーツである郷土のポテンシャルを再発見する機会となった。

「このチームはすごく楽しいしやりやすい」と言う吉武氏の気持ちが表れた一コマ。

佐賀県佐賀市次回はアジアを代表する料理人が登場。

そして4月8日(日)には、「アジアのベストレストラン50」で4年連続1位を獲得したガガン・アナンド氏、同じく同ガイドに選出された福山剛氏、そして料理家の大塚瞳氏とファッションデザイナーの森永邦彦氏が登場。どのようなクリエイティブなディナーとなるのか注目です。

Data

住所:佐賀県佐賀市城内2丁目8−8 MAP
電話:0952-97-9300
https://useumsaga.jp/

1964年、佐賀県武雄市生まれ。中学生の頃より、フランス料理を志す。福岡の調理師専門学校を卒業後、1984年、「シェ・イノ」のオープンと同時に入社。日本フランス料理界の第一人者、井上旭氏のもとで修行を積む。2004年に料理長に就任。繊細な感性で、ヌーベルな料理と共にクラシックな味を伝承している。後輩を多く育てるほか、震災復興を支援する「東京グランメゾンチャリティカレー」など、ボランティア活動にも積極的に参加している。トック・ブランシュ国際倶楽部日本支部理事。2016年11月、卓越した技能者(現代の名工)受賞。

1979年、佐賀県太良町生まれ。ラムロワーズ(フランス)、シャトーレストランタイユヴァン ロブション(東京)、アラン・デュカス・オ・プラザ・アテネ(フランス)、ピエール・ガニェール(フランス)、ピエール・ガニェール・ア・東京(東京)、ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン(北海道)、その他、スイス、スペイン、モナコ、ニューヨークで研修し、現在は福岡に拠点を置いている。2013年に幕を開けた、新時代の若き才能を発掘する日本最大級の料理人コンペティション「RED U-35」で、〝準グランプリ〟ゴールドエッグ受賞。

1980年8月佐賀県伊万里市生まれ。幼いころにテレビで見た「料理の鉄人」の坂井宏行シェフに魅了され料理の世界を志す。中村調理製菓専門学校を卒業後、念願だった坂井シェフの「ラ・ロシェル」でフランス料理の基礎を学ぶ。2007年さらに広い視野で見聞を広げるため、現地で料理を作りながら世界40カ国を巡る。2008年渡仏。「アストランス」などを経て、2010年12月に「Restaurant Sola」をオープン。2012年3月、開店から1年3ヶ月でミシュラン1つ星を獲得。若き才能を発掘する日本最大級料理人コンペティション「RED U-35」に参加。2014年の第二回大会でグランプリに輝く。

1985年、佐賀県鳥栖市生まれ。高校までは野球一筋で甲子園出場経験もあり。高校卒業後、語学留学で訪れたバンクーバーで料理学校へ入学。帰国後、「シェ・イノ」でデセールを担当し、シェフパティシエを務めるまでに。さらに腕を磨くため、パリに渡る。帰国後、「イル・テアトリーノ・ダ・サローネ」でスーシェフを務め、2013年に「QUINTOCANTO」でシェフに就任。2017年9月にイタリアで「パスタ料理のW杯」と呼ばれている「バリラ・パスタ・ワールドチャンピオンシップ」で準優勝。2018年「SALONE2007」のシェフに就任。

風情ある水辺の桜。命の息吹に包まれた都心で愛でる春。[千鳥ヶ淵/東京都千代田区]

水上ボートで風情あるお花見を。頭上の桜はもちろん、水面に映る桜色や浮かぶ花びらを愛でながら、ゆったりとお過ごしください。

東京都千代田区緑道で、公園で、お堀の上で。多彩な角度から桜を楽しむ。

『皇居』の北西側に位置する『千鳥ヶ淵』は、江戸時代、『江戸城』拡張の際に川を堰き止めて造られたというお堀です。都心にありながらも水鳥や昆虫など多様な生物が生息し、近隣の『千鳥ヶ淵緑道』や『千鳥ヶ淵公園(半蔵門公園)』と併せて、近隣住民や観光客の憩いの場として、年中賑わっています。中でも緑道と公園合わせて約430本もの「ソメイヨシノ」や「ヤマザクラ」が開花する春の季節は、見事な桜のアーチを通り抜けたり、お堀に浮かぶボートの中からお花見を楽しんだりすることができます。見頃は3月下旬から4月上旬で、期間中には「千代田のさくらまつり」も開催(2018年は3月24日から4月8日までを予定)。とりわけ夜間には千鳥ヶ淵近隣で約700mにわたる桜のライトアップや、水上ボートの夜間営業、無料シャトルバスの運行などが実施され、昼間働く人にも嬉しい、夜桜を楽しむことができます。シーズン中の人出は、なんと約100万人。皇居の新緑と淡い桜色に包まれながら、都心ならではの賑やかなお花見となりそうです。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:東京都千代田区九段南2丁目から三番町先 MAP
アクセス : 東京メトロ東西線・半蔵門線・都営地下鉄新宿線九段下駅より徒歩約5分/東京メトロ半蔵門線半蔵門駅より徒歩約5分

武家源氏の守護神らしさに満ちた、栄華極まる花道を散策する。[鶴岡八幡宮 段葛/神奈川県鎌倉市]

見頃は例年3月中旬から4月上旬。かつて源頼朝が妻子のためにと造った道は、時を経てこの時季、多くの人を楽しませています。

神奈川県鎌倉市2016年に大改修された桜の名所。177本の若い桜が新たな歴史を紡ぐ。

鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝(みなもとのよりとも)ゆかりの神社である『鶴岡八幡宮』。上下両宮の本殿に、本殿と『由比ヶ浜』を一直線につなぐ『若宮大路』を有し、葛石(かずらいし)を積み周囲より一段高くなったその参詣道は、「段葛(だんかずら)」とも呼ばれています。その起源は1182年、頼朝が妻の安産を祈念して自ら指揮をとり建設したものとされ、現代では若宮大路の『二の鳥居』から『三の鳥居』までの約500mの間を指し、国の史跡に指定されています。1918年頃には段葛の両脇に桜の木が植えられ始め、以来桜の名所として人々に愛されてきましたが、桜の老朽化が進んだため、2014年から2016年まで整備工事が実施されました。もともと248本あった桜の木は別の場所への移植や処分がなされ、新たに樹齢5年程度の若木177本を植樹。周辺には貯留槽や基盤材、特殊舗装などが施され、装いも新たに生まれ変わりました。桜のトンネルと呼ばれたかつての面影はなくなってしまったものの、若木が放つ生命力に満ちた可憐な花もまた、新たな魅力に溢れています。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 MAP
アクセス : 横浜横須賀道路朝比奈ICより車で約20分/JR東日本鎌倉駅または江ノ島電鉄鎌倉駅より徒歩約10分

満開の状態はたった2、3日。のどかな田園風景に立つ、孤高のヤマザクラ。[吉高の大桜/千葉県印西市]

シーズン中の土日には「桜まつり」を開催。お餅や雑煮、漬物など地域の美味も販売され、多くの人で賑わいます。

千葉県印西市美しい樹形に溢れる生命力。圧倒的な存在感で300年、時代を重ねる。

関東で人気のベッドタウン「千葉ニュータウン」があり、三方を『利根川』、『印旛沼(いんばぬま)』、『手賀沼』に囲まれた、穏やかで自然豊かな千葉県印西市。その田園地帯にあるのが、堂々とした姿が孤高の一本桜と名高い、『吉高の大桜』です。樹齢300年ともいわれる「ヤマザクラ」で、樹高は約10.6m、小山のように整った樹形も美しく、市の天然記念物に指定されています。見頃は4月上旬から中旬で、「ソメイヨシノ」より1週間程度遅れて開花し、満開の状態はなんと2、3日のみ。運良く満開の際に訪れることができたなら奇跡だというところから、「奇跡の桜」とも呼ばれ、足繁く通う人もいるのだそうです。美しいドーム型に広がった枝から無数の花が咲く大桜の前に立てば、強い生命力がひしひしと感じられ、その存在感に圧倒されます。周辺はのどかな田園風景が広がり、最寄りの駐車場やバス停からは徒歩約20分前後と距離があることから、同じ時期に咲く菜の花やチューリップ、花桃に大根の花など、多彩な花々を楽しみながら、ピクニック気分でお花見するのもお勧めです。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:千葉県印西市吉高930 MAP
アクセス : 東関東自動車道四街道ICより印旛中央公園駐車場(最寄り)まで車で約30分、駐車場から徒歩約25分/北総鉄道北総線印旛日本医大駅より都市交通バスJR小林駅行き乗車、バス停・教習場前下車、バス停より徒歩約15分

無人島に広がる赤土のサバンナと天主堂。祈りに満ちた巡礼の地。[野崎島/長崎県小値賀町]

日本では珍しい赤土の大地が広がる、野崎島。野生のニホンジカが生息し、サバンナのよう。

長崎県小値賀町野生のニホンジカが生息する無人島。

徳島県祖谷(いや)にある茅葺き屋根の古民家「篪庵(ちいおり)」でボランティア活動をしていた大学生が卒業後、地元の長崎県小値賀町に戻り、「アレックスに見せたい所がある」と言って連れて行ってくれたのが、野崎島でした。

この野崎島は小値賀町を形成する17の島々のうちのひとつで、小値賀島からは東に2km離れた所にあります。この島にはかつて3つの集落があり、多い時には650人ほどが暮らしていました。しかし、住人が生活していた当時からニホンジカは繁殖し、集落全体に柵を巡らせるなど対策を取っても効果がなく、急峻な地形という厳しい環境も要因となり、人々は便利な暮らしを求めて、時代の流れとともに島を離れてしまいました。現在は無人の島となり、島内全域には野生のニホンジカが400頭以上生息しています。

小値賀島からモーターボートで野崎島の埠頭(ふとう)に到着した時、エンジンを止めて1~2分ほど停泊しました。港には当時の住居だけが取り残されていて、廃墟となっています。その様はまるで映画のセットのようです。住居は見えるのに人影はなく、音もしません。ふと何かが動いたように感じると、それはニホンジカでした。無人の野崎島には、とても不思議な風景が広がっていたのです。

野崎島は手つかずの自然が残る無人島のため、『おぢかアイランドツーリズム』を通じて来島したい。

「鹿の国」と表現する、アレックス氏。野生のニホンジカが400頭以上生息し、自然のままの姿を見ることができる。

長崎県小値賀町清らかな空気が漂う、祈りに満ちた「聖地」。

野崎島の中心に当たる野首(のくび)の小高い丘の上には、小さな天主堂「旧野首教会」が今も佇んでいます。教会が立つ野首集落は、隠れキリシタンが移り住んだ集落で、特に信仰が深い地域だったそうです。1989(平成元)年には長崎県指定の有形文化財に指定され、2016年より「野崎島の集落跡」及び、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」としてユネスコの世界遺産暫定リストに追加されています。

この「旧野首教会」の周辺や高台も、草木は鹿に食い荒らされ、わずかに残っている木々も海からの強風が吹きつけて奇妙に曲がっています。侵食が進み、その光景は荒野のようです。また、このあたりは日本ではなかなか見られない赤土があるため、サバンナを思わせます。近くには劇的な断崖絶壁があり、そこもまた美しく、大変見応えがあります。

長い年月を経てせっかく「鹿の国」になったのですから、リゾート開発や観光地化して人の手を入れてほしくはありません。リゾートになった途端、野崎島を訪れる価値はなくなります。野崎島を訪れたことがきっかけとなり、小値賀町で8軒の古民家を修復し、7軒は古民家ステイができる宿泊施設に、1軒はレストランに改装する大プロジェクトを手がけました。本土・小値賀町の古民家に宿泊しながら、野崎島を案内してもらうツアーもあります。

廃墟と赤土の大地、信仰の精神が守り抜いた「旧野首教会」が残された野崎島は、清らかな空気が漂う「聖地」。巡礼の思いで訪ねてほしい100景のひとつです。

草木が侵食された荒野。海から吹きつける強い風によって、木々は曲がり奇妙な姿に。

野首集落の小高い丘の上に立つ教会。現在は「小値賀諸島の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定されている。

1908年(明治41年)、教会建築の名工・鉄川与助の設計施工により、本格的な煉瓦造りの教会が完成。

Data

住所:長崎県北松浦郡小値賀町笛吹郷2791-13 小値賀港ターミナル内 MAP
電話:0959-56-2646(9:00~18:00 年末年始を除き無休)
おぢかアイランドツーリズム
http://ojikajima.jp/nozaki

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

うどんを軸に、地域に新しい「モノ」や「コト」を創り出す会社。[瀬戸内うどんカンパニー/香川県三豊市]

うどんを食べるために香川を訪れる人もいる。うどんはビジネスになる。

香川県三豊市実在します、「うどんビジネス専門商社」。

「うどんが主役の会社です。」とは、斬新な謳い文句です。しかしうどん店でも、製麺所でもありません。言うなれば「うどん」をはじめ地域の様々な資源を発掘し、新たな商品やサービスを発信していくプロデュース会社。いったいどのような展開を目論んでいるのか、探ってみましょう。

香川県三豊(みとよ)市は、愛媛県や高知県にも近い県西部にある瀬戸内海に面した地域です。創業100年以上を誇る製麺機メーカー「さぬき麺機」や、その関連施設「さぬきうどん技術研修センター」「さぬきうどん情報プラザ」があり、2006年公開の映画『UDON』のモデルとなったうどん店にファンが「巡礼」するなど、うどんの聖地としてブームを支えてきました。

七宝山から瀬戸内海を望む。ハンググライダーやパラグライダーの飛び場として有名。

香川県三豊市三豊(みとよ)を「うどん止まり」で終わらせない。

ただ、うどんはもちろんですが、農産物や自然、食など、まだまだ三豊(みとよ)には発信されていない魅力がいっぱいあります。瀬戸内海に突き出た半島の独特な地形を生かしたサイクリングコースやマリンレジャー、浦島太郎伝説が残る紫雲出山(しうでやま)、夕陽が美しい父母ヶ浜、仁尾(にお)の朝獲れ朝市……。市場に認知されず、眠ったままになっているこれらの観光資源を、県内外の人に知ってもらうきっかけをつくろうというのが今回のプロジェクト。認知度の高い「うどん」をフックに、観光や地域の産品と連携させ、地域活性化を図る――その目的で設立されたのが、地域商社『瀬戸内うどんカンパニー』です。

年に2日間、夏季大祭の日しか渡ることができない津島神社。夕焼けが見事だ。

香川県三豊市チーフ・うどん・オフィサーに選ばれたのは32歳のキレ者。

地域商社とは、地域に眠る産品やサービスを掘り起こし、マーケティングや販路開拓・流通・プロデュースなどを行う会社。香川県三豊(みとよ)市と地域商社協議会などの構想から2017年に設立されましたが、100%民間の手による会社です。そのCUO(チーフ・うどん・オフィサー、最高うどんビジネス責任者)兼社長は、民間からの公募によって2017年9月に選ばれました。その人物とは、高知県出身、32歳の若きベンチャー企業経営者・北川智博氏です。

「縮小していく地域を自分たちの力でなんとかしたい」と北川氏。

香川県三豊市高知はガンガン、三豊(みとよ)はおだやか。だから一緒に未来を考えたい。

北川氏は2016年、地域創生に乗り出す第一歩となる「株式会社MISO SOUP」(東京)を起業。1次産業者が作った産品をブランド化する6次産業化(産品企画〜開発〜販売)の重要性を見出し、ITなどを駆使した独自のノウハウに基づいて、地域産業においての価値創出に取り組んできました。うどんビジネスに関しては、「うどん経験値」は高い方ではありませんでしたが、出身が高知ということで、三豊(みとよ)市には親近感を持っていたといいます。「実家から三豊(みとよ)まで車で1時間ほどと近距離なのですが、人の気性が全く違うんです」と北川氏。高知は坂本龍馬の人柄からもイメージできるように、攻めの姿勢でガンガン行く性格の人が多いのに対して、三豊(みとよ)は温かく穏やかな性格の人が多い一方、自ら売り込むことが苦手な印象があるそうです。「だからこそ三豊(みとよ)の魅力発信をお手伝いできたらと思いました。自分自身も、三豊(みとよ)の人たちと相性がいいと感じています」と北川氏は話します。

うどんだけではなく柑橘も生産。三豊(みとよ)には食の資源がいっぱいある。

香川県三豊市たかがうどん、されどうどん。コシを入れて地域活性化。

『瀬戸内うどんカンパニー』で北川氏が目指すのは、「地域外への価値の発信」と「地域内での交流の創出」。漠然としているように聞こえますが、会社の事業の柱はしっかり定まっています。それは、「商品開発事業」「『UDON HOUSE』事業」「ツーリズム事業」です。

浦島太郎が亀を助けたという伝説が残る浜・鴨之越。マリンスポーツで有名。

香川県三豊市ストーリー性がある商品を。第1弾は『さぬきうどん英才教育キット』。

「商品開発事業」とは、単に新しい商品を作るだけではありません。『瀬戸内うどんカンパニー』では「モノ」だけではなく「コト」も含めて価値化し、既存の商品をデザインしていくことを目指しています。そんな商品第1弾は、『さぬきうどん英才教育キット』。麺棒や小麦粉、打ち粉、だしなどが入ったセットで、子供が家庭で麺作りから行う工程を通じて、さぬきうどんを「知って」「体験して」「五感で感じられる」キットです。「うどんは美味しいだけでなく、日本の食文化を学べる食育ツールにもなるんです」と北川氏。近日中(2018年春)に発売予定だそうです。

『さぬきうどん英才教育キット』。祖父母と子、孫の3世代で「うどん体験」を。

「食べた」だけよりも、「自分で打って食べた」という『体験』を伴った記憶の方が深く心に刻まれる。

香川県三豊市打って、食べて、うどんの夢を見ながら眠る宿(!?)を開館予定。

面白いのは「『UDON HOUSE』事業」。三豊(みとよ)には「うどん」を目当てに来る観光客が多いにも関わらず、「うどん屋さんでうどんを食べたらおしまい」で、その先につながるものがありませんでした。また、増え続ける外国人観光客に対し、食文化としてのうどんを伝えられるようなコンテンツが不足しています。そこで考えたのが、うどんをテーマにした宿泊・観光施設を造ること。それが『UDON HOUSE』です。目指すのは「24時間どっぷりうどんのことを考え、語り、学び、文化を体験する場」。チェックインすると、まず麺棒とエプロンを渡され、
①うどん文化についての座学         
②専門講師の指導によるうどん打ち体験     
③業務用の製麺機の体験
④出汁の取り方
⑤天ぷらの揚げ方
みんなでうどんパーティ……と、ディープにうどんの文化と体験を楽しみます。
うどんの生地を寝かせている間には周辺の観光スポットを案内し、翌朝には「うどんホッピング」として地域のうどん屋をはしご。施設内には専用の薬味畑も設置されるとか。『UDON HOUSE』は四国八十八ヶ所の第70番札所である本山寺から徒歩15分ほどの空き家をリノベーションし、現在クラウドファンディングで一部資金を集め、5月末のオープンを目指して計画進行中です。

JR本山駅から徒歩約1分の好立地に立つ空き家をリノベーション予定。

「うどんをフックにこの地域に長く滞在してもらえる場にしたい」と北川氏。

香川県三豊市うどんとマリンスポーツ、「点」を「線」でつなぐ。

そして「ツーリズム=旅行事業」ですが、これまで三豊(みとよ)ではシーカヤックやオリーブ観光農園など、魅力的な体験コンテンツはあるものの、各事業者が別々に発信し、別々に営んでいるため、有機的な連携ができているとはいえませんでした。これを『瀬戸内うどんカンパニー』がハブとなって事業者同士をつなぎ、情報発信や予約システムを集約させることで、需要と商品をうまくマッチングさせることができるようになります。今までは「点」だったものを「線」にすることで、うどん・体験・宿泊といったコース提案ができるなど新たな動線をいくつも作り出すことができるのです。

うどんから始まる三豊(みとよ)の旅。メジャーな観光地になる日も近いかもしれない。

香川県三豊市よそ者だからいい。知らない街だからできる。

まだ『瀬戸内うどんカンパニー』は走り出したばかりで、プランが形になるのはもう少し先のこと。ですが北川氏は地域と一体となり、商品の企画や試作、様々な交渉などプランを具現化している最中です。ここで、地元出身者ではない人物が地域おこしをすることで、住民とのハレーションはないのか?との問いに、北川氏からは「よそ者だからいいのかもしれません」と意外な答えが返ってきました。更に北川氏は「地元だと、土地の先輩への畏敬や遠慮が先に立って正直に自分の意見を出せないこともあります。よそ者だからまず自分から地域の仲間に入れてもらって、みんなで進めていこうという気持ちになります」と続けます。地域のために行うビジネスは、引っ張っていく・教える・指導するなど「上に立つ」のではなく、「一緒にやる」姿勢が大切なのでしょう。
「うどん県。それだけじゃない香川県」をコンセプトとして掲げる香川県。三豊(みとよ)から、「うどんプラスアルファ」のコンテンツが次々と発信されれば、香川での旅がより面白くなりそうです。

「瀬戸内うどん文化」を地域内外に発信していく。

Data

住所:香川県三豊市高瀬町下勝間2373番地1 MAP

この世で使える限りの色で、日本の美を表現。[だるま商店/京都府京都市]

小野小町の一生と平安時代の華やかさを描いた『極彩色梅匂小町絵図』。

京都府京都市絢爛豪華なCG画。なぜ京都の厳粛な仏閣に?

蛍光色に近いピンクに青、鮮やかすぎる色の洪水。印刷用語を使うと「“特色”のオンパレード」です。描かれているのは極楽浄土を思わせるような宮中や花街の世界。「影絵」のような人物は、じっくり見ると一人ひとりに人間味があり、妖艶かつ具象的です。気が遠くなるほど緻密なデジタルアートのようなこの作品が、京都の有名な寺に奉納されていると聞いてミスマッチに感じる人もいるかもしれません。ですが、実際に飾られている空間を見ると、まるで仏教画のように――そして曼荼羅のように場になじんでいるから不思議です。

『極彩色梅匂小町絵図』は襖絵として随心院に奉納された。

京都府京都市絵師とディレクターという完全分業の作者。

作者は『だるま商店』。絵師の安西 智氏と、ディレクターの島 直也氏からなる2人組です。彼らの絵は、京都の六道珍皇寺や妙心寺、随心院など名だたる寺社に飾られています。なぜ厳格な京都の寺に超現代的なCG画が平然と飾られているのでしょうか。その理由は後にして、まずは『だるま商店』の成り立ちについてお話しします。

安西氏(左)と島氏(右)。「男前絵描きユニット」の異名も。

京都府京都市「運命の人に会える運」を使い切ったかも。

島氏は兵庫県、安西氏は埼玉県出身。大阪の大学で建築や都市計画について学んだ島氏は、デザイン会社に就職しCM関係の仕事をしていました。東京に転勤になったのち、独立を考えていた時にデザインのイベントで出会ったのが安西氏の絵でした。描かれていたのは、宇宙人の胎児。「めっちゃ気持ち悪い絵や。美しい色使いなのにここまで気分が悪くなる絵があるなんて!」と、島氏はその奇妙なエネルギーに惹かれたといいます。なんとなく気に入って絵を壁に飾ったものの、特に連絡先も聞いていなかったため安西氏とはそれきり。2001年のことです。それから2年間、二人は会う機会がありませんでした。

2003年、ある飲み会に参加した島氏は、たまたま目の前に座った初対面の男性が泥酔したため、家に泊めることに。「ほんま迷惑な男や」とぼやきながら家に連れて帰った時、泥酔した男性が壁の絵を見て言った言葉は「これ、俺の絵だ」。なんと2年前に興味を持ったあの絵を描いたのがこの迷惑男――安西氏だったのです。

時にはライヴペインティングで力強い筆さばきを披露することも。

京都府京都市京都・花街の「あじき路地」を拠点に活動。

安西氏は小さい頃から絵画が好きで、絵描きになりたいと上京。当時は大学生で、島氏に一緒に絵を制作しようと誘われて遊び程度に描き始めました。それが『だるま商店』のスタート。東京在住は3年だけと決めていた島氏は、2004年に関西に戻ることに。安西氏も島氏からの、絵の題材が近くにある京都への移住の提案を受け入れました。それから二人は、宮川町の花街に近いクリエイターが集まる長屋(通称「あじき路地」)の一室を住居兼アトリエにして活動することになります。

人物を「影絵」のように表現するのは、背景や衣装を際立たせるためだという。

京都府京都市「安西には、俺が見えてない色が見えてるねん」。

ディレクターと絵師という珍しい分業制ですが、主にクライアントから仕事を受けるのは島氏で、描くのは安西氏。島氏は小学校の頃から「お笑い」に憧れ、かつ日本史に詳しく、更には超論理的思考を持つ多角的な人物。マーケティングの仕事経験もあり、知識欲も旺盛なため政治から経済、地域の風習、文化やアートまで膨大な情報の持ち主です。一方、安西氏は文系で江戸文学に強く読書好き。日本文化や着物など興味があることにとことん打ち込むタイプです。島氏は『だるま商店』の分業について「安西が持つ感性を軸に、自分がディレクターとして論理的に構成して、その世界観を拡げていく手法」であると話します。安西氏の描く世界は絢爛豪華な極彩色ですが、「安西にはこう見えてるらしいんです」と島氏。「あの雲黄色い」と安西氏に言われ、集中して見てみると本当にそんな色をしている。物事の奥底にある本質のようなものが、安西氏には見えているのかもしれません。「この世界で使える限りの色を持ってる奴」――そう島氏は安西氏を評します。

祇園の春の風物詩「都をどり」を描いた『極彩色艶舞祭礼絵図』。

京都府京都市ファンタジーではなく、実は徹底したリアリズム。

彼らが名前を知られるようになったきっかけは『極彩色熊野古道曼荼羅』です。熊野古道巡礼の旅を1枚の絵におさめたもので、世界遺産登録記念のコンペティションにおいて最優秀賞作品となりました。徹底的に現地調査を行い、追体験し、そこで出会ったものや見知ったことを事細かに描く。その時代に使われていた、流行した色、着物の柄なども調べ、史実にも忠実に。更に昔の物事だけでなく、「特急くろしお」が走っていたり、三脚を立てて撮影する人がいたり……。現代の風景も取り混ぜているのは、「今、生きている世界」を描かなければ意味がないからです。なおかつ、どこかクスッと笑えるストーリーで、見る人のハードルを一気に下げる。これが『だるま商店』の「小ワザ」なのです。

出世作『極彩色熊野古道曼荼羅』。巡礼の旅をコミカルに描いた。

京都府京都市「楽しいもの、面白いもの」ならみんな見るでしょ。

それは核心をついた問いでもある「どうしてこのような活動をしているのか?」の答えにもつながります。島氏は「もっと楽して生きたらええやん、って言いたいんです」と笑います。楽しいこと、笑えること。今の日本人が当たり前、古い、つまらないと見向きもしなくなった文化や歴史は、改めて見るととても理にかなっていたり、面白いものだったりする。また「陽」の部分だけではなく、赤線や芸者といった「陰」の文化にも素晴らしい美意識や芸術性があり、こうしたタブーが孕む「艶やかさ」や「すごみ」は、日本が世界に誇るべき財産といえるかもしれません。『だるま商店』は「笑い」をフックにして作品へ入り込んでもらい、その背景にある文化へ誘うのです。

太秦(うずまさ)での「きゃばれえ竜宮城」と題したイベント。「立体浮世絵」として空間をつくり上げた。

京都府京都市アバンギャルドな手法で、古人の精神を伝える。

活動は絵だけではなくイベントにまで及びます。例えば貴船神社の「新嘗祭(にいなめさい)」。収穫の恵みに感謝する祭りですが、『だるま商店』が企画したのはドラァグクイーン(女装した男性)のミセス・オリーヴが巫女姿で田植えをし、神事を務めるという「新嘗祭(にいなめさい)」です。傍で宮司が真剣に祝詞(のりと)をあげ、直会(なおらい)では料亭『吉兆』の総料理長・徳岡邦夫氏が料理を振る舞い……と冗談のような光景ですが、そこにはこんなメッセージが込められています。「これから日本はよりコンパクトな消費で生きていく時代になると思う。まずはお米を美味しく食べるという“基本”に立ち戻ってみては」。女装した男性が巫女役なのは、「だって面白いから。みんな見に来るでしょ」。――一本取られたという感じです。

自然や食への感謝を表し行われる新嘗祭(にいなめさい)。

京都府京都市芸術家ではなく、伝達する役目でありたい。

『だるま商店』はアーティストではなく、「コンバーター」(変換器)といえるのかもしれません。日本文化の意味を信号のように解釈し、それを笑いやユーモアを交えたモチーフに変換して伝える。寺社の住職が『だるま商店』の作品を受け入れるのは、彼らが伝えたいものをきちんと汲み取っているからなのです。その作品が決して「神様への冒涜」「茶化し」などではないことがわかっているのです。

2018年から東京にも拠点を作り、活動の幅を広げました。2020年の東京オリンピックに向け、様々なイベントに参加予定です。日本中の人そして世界中から来る人に「日本には、こんなに美しく面白い文化がある」ということを再発見させてくれることでしょう。

南蛮の遺品が残る妙心寺には菓子にちなんだ『極彩色菓子来迎安楽浄土絵図』を奉納。 

日本、更に世界で活躍。今後彼らの作品を目にする機会が増えることだろう。

Data

整然と美しい桜並木に加え、自然がもたらす鮮やかな色彩が目を楽しませる。[舟川/富山県下新川郡]

残雪の山々を仰ぎ、足元に花々のキャンバスが広がる絶景は、「この世の楽園」とも称されています。

富山県下新川郡残雪の山々と桜、チューリップ、菜の花が共演する「あさひ舟川・春の四重奏」。

『朝日岳』や『白馬岳』といった北アルプスの山々を背景に、清流『舟川』沿いの堤防に丁寧に手入れされた「ソメイヨシノ」が咲く、富山県朝日町の春の風景。舟川の両岸約1.2kmにわたって咲く約280本の桜並木は、1957年に舟川の河川改修を行った際に地域の人々によって植えられたものだといわれており、見頃となる4月中旬には、見事な桜のアーチを作ります。チューリップの名産地でもあるという朝日町では、桜と同じ時期に開花する極早生(ごくわせ)の品種を栽培。また菜の花も一緒に植えたことで、色彩豊かな花のキャンバスを楽しめるようになりました。残雪の山々と桜並木、鮮やかなチューリップ、可憐な菜の花の4つの色彩が織りなす風景は、通称「あさひ舟川・春の四重奏」と呼ばれ、この美しい景色をひと目見ようと、毎年多くの人で賑わいます。開花時季には「あさひ桜まつり」も開催され、屋台や伝統芸能のステージが楽しめる他、夜にはかがり火がたかれ、炎とライトアップによる幻想的な夜桜を満喫できます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:富山県下新川郡朝日町舟川新 MAP
アクセス:北陸自動車道朝日ICより車で約3分/北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅より車で約15分/あいの風とやま鉄道泊駅より、桜づつみ・チューリップ畑往復臨時バス(4月7日から18日まで・予定)乗車、所要時間約10分

潜伏キリシタンが移り住んだ離島。黒島天主堂は信者の心の拠り所であり続ける。[黒島天主堂/長崎県佐世保市]

霧に包まれた黒島天主堂。1902(明治35)年に完成した教会で、一帯は2018年夏の世界遺産登録を目指す『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産の一つになっている。

長崎県佐世保市九十九島最大の有人島・黒島に息づく信仰の文化。

208の島々からなる九十九島で一番大きな島、黒島。現在の人口は430人足らずですが、かつてこの島には多いときで2400人程度の人が暮らしていたといいます。

それは黒島が「潜伏キリシタンの島」だった歴史が大きく関係しています。江戸時代、幕府の禁教令による厳しい弾圧から逃れるため多くのキリシタンがこの島に渡り、現在も島民の約8割がカトリック信者だという、まさに“祈りの島”。

島のシンボルである黒島天主堂を含む“黒島集落”が『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産の一つとして、世界遺産登録が間近ということで注目を集めていますが、それはこの島が歩んできた歴史を深く知れば、特別なことではないと分かるはず。

島の宝、黒島天主堂をテーマに島民たちの想いをめぐる黒島の旅へ。

九十九島に4つある有人島のなかでも、一番大きく、人口も最多の黒島。産業のメインは漁業と農業。かつては御影石の採石も盛んだった。

長崎県佐世保市潜伏キリシタンの当時の暮らしぶりを島内の様子からうかがい知る。

佐世保市相浦港を発着するフェリーで、片道約50分で到着する黒島。黒島の名前の由来は、島が木々に覆われ黒いから、江戸時代のキリシタン弾圧で“苦労”したから、など諸説ありますが、明確な由来はわからないそうです。

江戸時代、平戸藩の領地だった黒島は、軍馬の飼育を主とする島でしたが、平戸藩から移住してきた人々が開墾を進め、人が住める島へと発展しました。1815年ごろには佐世保と大村湾の間にある針尾島、平戸の生月島、長崎市北部の外海などから多くの潜伏キリシタンが移り住んだそうです。

黒島港から上がった高台には仏教徒が形成した集落があり、潜伏キリシタンたちが所属した興禅寺もあります。この集落は家屋が集まる一般的な姿といえます。しかし、島の南側の集落などは、2〜3軒がポツポツと集まる程度の集落が点在する形で、禁教令が出されていた当時、潜伏キリシタンの人々がひっそりと暮らしていたことがうかがえます。

島民たちの心の拠り所になっている黒島天主堂。建造に使われたレンガの総数は40万個で、ほとんどが島外から仕入れたもの。なかには島民たちが焼いたものも使われているそうだ。

長崎県佐世保市1世紀の時を超えて、今なお誇り。先祖たちが築き上げた唯一無二の天主堂。

島中心部の名切地区に入ると、佐世保市役所黒島支所や商店などが並び、現在の島民の暮らしが見えてきます。そのなかでも、ひときわ存在感を放つレンガ造りの教会が黒島天主堂。この島のシンボルです。

フランス人のマルマン神父の設計と指導のもと、1902(明治35)年に2年の歳月をかけて完成した天主堂。建設費用は現在の価値にして3億円にも及んだそうで、その費用は島のカトリック信者たちからの献金だけでは到底足りませんでした。ただ、島の男たちは自らが労働に従事することで、人件費を削減。使用された40万個のレンガや礎石に使った御影石、重たい木材などを人力で運び、わずか2年でこんなにも立派な天主堂を築き上げたというから驚きを隠せません。長い潜伏の時代を乗り越えて、信仰の自由を得た人々の喜びがいかに大きなものだったかが分かります。

外観意匠はロマネスク様式の簡素な構成である一方、三層構造の天井が高い堂内は圧倒的な美しさを放っています。一つ一つ木目を手描きしたこうもり天井や束ね柱、祭壇の床に貼られた有田焼のタイルなど、細部にまでマルマン神父や島のカトリック信徒たちのこだわりを感じられます。

もちろん現在も毎日行われるミサで、島民たちが日常的に祈りを捧げる場所として親しまれる黒島天主堂。島の先祖たちがマルマン神父らとともに造り上げ、守ってきた、いわば島の信者たちの誇りともいえる建造物なのです。

天主堂正面にはバラ窓以外、窓がない。窓のように見えるアーチ型のものは、ブラインド・アーチと呼ばれる装飾。細かな部分にまで意匠を凝らしたことがわかる。

荘厳な雰囲気を醸し出すこうもり天井が印象的な天主堂内。マルマン神父が自ら作ったという説教壇、当時のままのステンドグラスなど、どこも保存状態が良い。これこそ、島の信者たちが黒島天主堂を大切に守ってきた証だ。

長崎県佐世保市黒島天主堂が守ってきた島の暮らしを味わい、体感する。

潜伏キリシタン関連の見どころ以外にも、黒島ならではの楽しみはまだまだあります。その一つが島めし。近海で獲れた鮮魚を惜しみなく使う家庭的な料理で、島に3軒ある民宿と1軒あるお食事処で前日までに予約すれば日帰りでも味わうことができます。

島めしを提供し、島民が居酒屋として利用することも多い、『民宿つるさき』を営む鶴﨑浩司さんは黒島で生まれ、一度は神父を目指したほど信心深いカトリック信者。神学校で学ぶために、小学校卒業後、島を離れ、それから10数年にわたり、島外で暮らしたそうです。そんな鶴﨑さんは「29歳で島に戻ってきて、改めて黒島天主堂の大切さを感じました。私たち島民にとって、この天主堂は宝であり、自慢です」と話します。

昔から行事やお祝いなど人が多く集まるときに、必ず作っていた黒島ふくれまんじゅうも隠れた島の名物。港そばのインフォメーション兼直売所『黒島ウェルカムハウス』で不定期で販売しているほか、予約すればまんじゅう作り体験を楽しむこともできます。体験を受け入れている一人、藤村スミ子さんは、生まれも育ちも黒島という生粋の島人。「赤ん坊のときから、毎週ミサに行くのが当たり前やったけん、すごいとかは感じんとよ。だけど、この教会は私や家族をずっと守ってくれとる大切な場所。黒島が世界遺産に登録されるのは名誉なことやけど、だからこそ今まで通りの場所であってほしかね」と藤村さん。

島の人々にとっては身近な存在の黒島天主堂。カトリック信者以外の見学も快く受け入れてくれる教会だからこそ、畏敬の念を持って見学してほしいと感じました。

『民宿つるさき』のある日の島めし。イサキの塩煮、アラカブの味噌汁、お造りなど魚づくし。海水をにがり代りに作る、島とうふも素朴な味わいでウマイ。全7品で1300円、アワビ付きで2000円とコストパフォーマンスも良い。

『民宿つるさき』で調理を担当する鶴﨑浩司さん。島の人々が普段当たり前に食べている料理だが、島外から訪れた人にとっては逆に新鮮に感じられるのが島めしの魅力。「蕨(わらべ)展望所など、黒島ならではの絶景も楽しんでほしいですね」と鶴﨑さん。

小麦粉とふくらし粉だけで作る、黒島ふくれまんじゅう。中には手作りの黒餡が入っており、素朴な味わい。サツマサンキライの葉を巻くのが特徴だ。まんじゅう作り体験は1人2000円。7日前までに要予約。

黒島ふくれまんじゅう作り体験を受け入れる、笑顔がステキな藤村スミ子さん。普段は食料品や雑貨を販売する『ストアー藤村』を切り盛りしている。「ふくれまんじゅうはとにかくシンプル。黒餡を手作りするのが大変とよ〜」と笑う。

長崎県佐世保市次の100年へ、黒島天主堂を繋いでいく。

黒島で生まれ、20代からシスターとして生きてきた馬込光子さんにもお話をうかがいました。異動になる33歳まで黒島天主堂でカトリックの教えを広めていた馬込さんは「40年ほど前は堂内がいっぱいになるほどのカトリック信者がおりましたが、今は島の人口が減ったこともあり、大勢の人が集まることはなくなりましたね」と当時を振り返ります。教会学校と呼ばれる教会での学びの場にくる子どもたちにとってシスターはお姉さんのような存在だったそうで、「教会は子どもたちの学びの場であり、地域コミュニティでした。年上のお兄さんやお姉さんが小さな子どもたちの面倒を見ながら一緒に遊ぶ。それが当たり前だったんですが、今は島に暮らす子どもたちも減ったこともあり、そういったことに触れられる機会が少なくなったのは少し残念ですね」と馬込さん。

島民の高齢化も進み、自分の足で教会に通えなくなるというケースも増えているそうで、そんなカトリック信者のために、神父さんが聖体を持って各家庭を回る取り組みも行われています。
「時代の流れとともに黒島の環境はどんどん変わっています。ただ、先人たちが築いてくれた黒島天主堂は次世代へと引き継いでいかなければいけません。今年の秋からは保存修理が始まります。黒島が世界遺産に登録されれば、今よりもっと注目を集めるでしょうが、長い目で黒島天主堂を見守っていきたい」と力強く話してくれました。

シスターの馬込光子さん。現在、『黒島こども園』の施設長兼保育士として5名の子どもたちの成長を温かく見守っている。

一見すると100年以上が経過した建物には見えない立派な佇まいだが、やはり年月による劣化はあるという。2018年11月から長期間の保存修理に入る予定だ。

Data

住所:〒857-3271 長崎県佐世保市 黒島町3333 MAP
電話:095-823-7650(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター)
※黒島天守堂の見学は事前予約が必要です。

海の上で興じる桜見物。半島に春を告げる淡紅色のヤマザクラ。[神子のヤマザクラ/福井県三方上中郡]

穏やかな若狭湾が眼前に迫る新緑の山肌を、約300本のヤマザクラが淡い紅色に咲き染めます。

福井県三方上中郡桜と海が織り成す色彩のコントラスト。千本桜とも称される港町の景勝地。

福井県から京都府にかけて広がる『若狭湾国定公園』の一部であり、『三方五湖』などの観光地が点在する『常神(つねがみ)半島』に春の訪れを告げる『神子(みこ)のヤマザクラ』。若狭湾に面した神子地区の小高い山、東西約1km、南北約200mの区域に植えられ、4月上旬に満開となる「ヤマザクラ」は、地元では「千本桜」と称され、県の名勝に指定されています。その始まりは1742年頃、小浜藩の推奨により集落にアブラギリの木を植えるために開墾した際、土地の境界をわかりやすくするために植えられたといわれ、その数は約300本。3月下旬より山肌の新緑にぽつりぽつりと淡紅色が広がってゆき、満開時には山全体が鮮やかに色づきます。近隣の海岸からその景色を楽しむのも良いですが、神子地区の一部の民宿が実施している漁船での桜見物(要問合せ)も、趣がありお勧めです。ヤマザクラと若狭湾の美しいコントラスト、そして潮の香りが出合う、港町ならではの春がそこにはあります。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:福井県三方上中郡若狭町神子 MAP
アクセス:北陸自動車道敦賀ICより車で約1時間/舞鶴若狭自動車道小浜ICより車で約1時間/JR西日本小浜線三方駅より常神行きバス乗車、バス停・神子下車すぐ

豊潤な水辺に咲き誇る桜のアーチと、「分水おいらん道中」の艶やかな共演。[大河津分水/新潟県燕市]

約10kmにわたって広がる桜並木は日本屈指の長さで、「日本さくら名所100選」にも選ばれています。

新潟県燕市自然の脅威を乗り越えて。人の叡智を結集した分水堤防に咲く約3,000本の桜並木。

日本で最も長い川である『信濃川』は、その昔、洪水のたびに氾濫を繰り返す暴れ川として恐れられ、越後平野に甚大な水害をもたらしていました。そんな信濃川の流量をコントロールするべく、当時の最新技術を駆使して1922年に完成した『大河津分水』は、地域住民のたび重なる請願が結実した賜物で、完成した時の喜びは計り知れないものだったといいます。そんな大事業の完成を記念して桜を植えたのが、大河津分水の桜並木の始まりとされ、現在では分水堤防沿い約10kmにわたり約3,000本の「ソメイヨシノ」が並び、迫力ある桜並木を見ることができます。開花の時季には「つばめ桜まつり 分水おいらん道中」(2018年4月7日〜4月22日)が開催されますが、中でも毎年4月の第3日曜日に行われる「分水おいらん道中」は、「信濃」「桜」「分水」の3名のおいらん役が豪華な衣裳を身にまとい、総勢60名もの付き人を従えて練り歩くイベントです。このイベントは大正時代、花見客のために行われた仮装行列が起源といわれ、艶やかな時代絵巻と桜の共演が楽しめます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:新潟県燕市五千石地内 MAP
アクセス:北陸自動車道中之島見附ICまたは三条燕ICより車で約25分/JR越後線分水駅より車で約5分

神話の時代より時を重ね、今年も花開く。生命力と存在感に満ちた国内最古の桜。[山高神代桜/山梨県北杜市]

悠久の時間を生きてもなお生命力に溢れる姿は尊く、思わず手を合わせる人も。圧倒的な風格を備えた、日本有数の桜です。

山梨県北杜市樹齢、根回りともに日本最大級。誇り高くたくましい姿が多くの感動を呼ぶ。

推定樹齢は1800年から2000年と、気が遠くなるほどの時間を生き続け、毎年欠かさず花をつけてきた『実相寺』の『山高神代桜(やまたかじんだいざくら)』。その始まりは神話の時代、武将・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折にお手植えになり、それが名前の由来であると伝えられています。時代は移り、この地を訪れた日蓮聖人が衰えた桜の木と出会い、その回復を祈ったところ、見事に再生したという伝説から、別名「妙法桜」とも呼ばれるようになりました。品種は日本の野生種である「エドヒガン」で、樹高は約10.3m、根回りは約13.5mと、ともに国内最大級の大きさです。1922年に日本で初めて国の天然記念物に、1990年に「新日本名木百選」に選定された他、「日本三大桜」のひとつとしても有名です。早咲きとして知られるエドヒガンの開花は3月下旬、見頃は4月初旬から約10日間で、実相寺の境内には、山高神代桜の他にも「ソメイヨシノ」やラッパ水仙が咲き、屋台も出るなど、春爛漫の賑やかな雰囲気に包まれます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:山梨県北杜市武川町山高2763 MAP
アクセス:中央自動車道須玉ICより車で約15分/中央自動車道小淵沢ICより車で約30分/JR東日本中央本線日野春駅より車で約15分/JR東日本中央本線韮崎駅より山交タウンコーチバス下教来石行き乗車、バス停・牧の原下車、乗車時間約40分、バス停より徒歩約30分

重厚な史跡に満開の桜が映える。加賀藩の栄華を彷彿とさせる艶やかな風景。[金沢城公園/石川県金沢市]

1788年に再建された『石川門』は櫓と櫓を長屋でつないだ造りが特徴。重厚な雰囲気に桜が華やかさを添えます。

石川県金沢市城跡ならではの開放的なロケーションに、賑やかな春の息吹が訪れる。

1546年に築城され、江戸時代には加賀藩主前田氏の居城として使われた『金沢城』。長い歴史の中で落雷や大火などたび重なる災害に見舞われ、建造物は櫓(やぐら)や門など数ヵ所を残すのみとなっていましたが、明治時代以降は陸軍や大学の施設として活用され、1999年より公園の整備が進められました。2001年に一部の建造物が完全復元され、『金沢城公園』と改称、現在も継続して整備事業が進められています。広大な敷地には広場やお堀など多種多様な憩いの場があり、開放感溢れるロケーションでゆったりと過ごすことができます。敷地内には約350本の桜があり、4月上旬から中旬にかけて見頃を迎えますが、中でも国の重要文化財に指定されている『石川門』付近が特に景色が良いことで知られ、櫓や石垣、お堀や桜の共演は、かつて栄華を極めた加賀藩の姿を彷彿とさせます。また2003年に新たに誕生した『桜の園』では、「ソメイヨシノ」を中心に、「コシノヒガン」、「シダレザクラ」など、開花時期の異なる桜が植えられており、長く桜の花を楽しむことができます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:石川県金沢市丸の内1-1 MAP
アクセス:北陸自動車道金沢西ICまたは金沢東ICより車で約30分/JR西日本北陸本線金沢駅より車で約10分/JR西日本北陸本線金沢駅下車、金沢駅東口6番乗り場より兼六園シャトルバス乗車、兼六園下・金沢城(石川門向かい)8番停留所で下車、そこから徒歩すぐ、所要時間約20分

美しい九十九島に暮らす作り手たちの想い、裏側に流れる物語に触れる。[九十九島(くじゅうくしま)/長崎県佐世保市]

石岳展望台から見た九十九島。夕暮れ時がとくに美しい場所として知られる。

長崎県佐世保市神秘さえ感じる208の島々からなる九十九島(くじゅうくしま)。美しさの裏側に流れる、海と人との繋がりを知る。

明治時代に日本海軍の鎮守府が設置されるまでは、小さな村にすぎなかった長崎県・佐世保市。現代では明治時代からの歴史や文化が受け継がれ、自衛隊や在日米軍の基地がある、九州有数の港町として知られています。

そんな佐世保市で、全国的にみても珍しい風景が広がるエリアが今回訪れた九十九島。名前の通り、無数の島々と複雑に入り組んだリアス海岸からなる多島海で、佐世保湾から北へ約25㎞の海域には、208の島があるといわれています。

市内に8ヶ所ある展望台から見下ろすのはもちろん、観光施設『九十九島パールシーリゾート』を発着する遊覧船に乗り、間近で島々を見ても絶景の九十九島。今回は絶景だけじゃない、九十九島に息づく人々の暮らしや、美しい海を舞台にした“食”の物語にもフォーカスを当ててみます。

『展海峰』からパノラマビューで九十九島を望む。春は菜の花、秋は15万本のコスモスと、花の名所としても知られる。

長崎県佐世保市海賊、平家の落人伝説...さまざまな言い伝えが残る、自然が生んだ良港。

九十九島は複雑な地形かつ島々が多いこともあり、一年を通じて比較的波が穏やかだといいます。展望台から遠望してもそれは感じられますが、せっかくなら近くで島々や豊かな海を見てみたい。そんなときに活躍するのが定期的に運航している遊覧船です。展望台から見た景色とは一変して、自然が残る無人島群を目の前に冒険心がくすぐられます。

さらに間近で見る海の美しさにも驚かされるはず。南国の海とは違い、深い緑色をたたえた海ですが、透明度が高く、海底まで見える場所もあります。

208ある島のうち、有人島の4島を除いて、204島が無人島。その昔、海賊船が停泊していたといわれる『牧の島』、平家の落人伝説が残る『松浦(まつら)島』など、各島に残る言い伝えや名前の由来を知ると、より九十九島という場所がおもしろいものに感じられるはずです。

『九十九島パールシーリゾート』を代表する大型遊覧船『パールクィーン』。白い船体がエメラルドグリーンの海によく映える。

複雑な形で、九十九島南部のシンボルともいえる『松浦(まつら)島』の入江にも大型遊覧船は入っていく。その昔、海賊船が停泊していたという逸話も納得の奥地的な雰囲気。

『九十九島パールシーリゾート』を発着する小型遊覧船『リラクルーズ』。大型の遊覧船では行けない場所も巡ることができる。

長崎県佐世保市九十九島の豊かな海が育む養殖鯖。生産者の想いと日々の仕事が、長崎が誇るブランド鯖を生んだ。

九十九島の海を見ていて、海上にイカダが多く点在していることに気づきます。実は波が穏やかでありながら、干満の差が大きい九十九島一帯は魚介類の養殖が盛んな場所。冬に旬を迎える『九十九島とらふぐ』、『九十九島かき』が有名ですが、九十九島北部の海域で育つ『長崎ハーブ鯖』が今回の旅の大きな目的でした。

佐世保市で2軒、隣りの松浦市で1軒、計3軒の生産者が10年前から始めた取り組みで、今や年間20万尾を出荷するまでに人気を得ています。その理由が、一年を通じて旬時期の天然ものに引けを取らないクオリティの高い鯖を出荷できる点が一つ。さらに、名前の由来にもなっている飼料にも注目です。ナツメグ、オレガノ、シナモン、ジンジャーなどのハーブを配合した飼料を与えることで、臭みがなく、血合いが変色しにくい鯖が育ちます。

佐世保市小佐々町で『長崎ハーブ鯖』の養殖に取り組む(有)リョウセイの専務・浜田孝男さん、(株)金政水産の代表・金子博幸さんは「養殖鯖は飼料で身質が変わるけんね。一般的な飼料と嗅ぎ比べてん。ハーブ飼料はにおいがいいやろ?これが鯖の身の匂いにも影響するとばい。ハーブ飼料やと脂ののり方もちょうどいいっちゃん」と口を揃えます。

左から(有)リョウセイの専務・浜田孝男さん、(株)金政水産の代表・金子博幸さん。2人とも『長崎ハーブ鯖』の生産者だ。「こいとは(この人とは)仲良おなかけん(仲良くないから)、一緒に写真に写りたくなかと〜」と冗談を飛ばし合うほど仲良し。

「最初は鯛に与える飼料で鯖の養殖を始めたとよ。脂質の量が多いけん、よく太るけど、脂がのり過ぎて身がギトギトになってしもうてね。それでハーブ飼料に変えたとばい。飼料を変えてからはまったく違う鯖になったね」と話す浜田さん。

「九十九島の海は波が穏やかやし、干満の差も大きかけん、魚介類の養殖には向いとる。ただ海水温が上がる夏場は鯖も弱ってしまうけん大変やね。海水温ばっかりはどうしようもなかけん」と金子さん。

自然の海を利用した養殖イカダの中を元気に泳ぎ回る『長崎ハーブ鯖』。100〜200gほどの天然の稚魚を仕入れ、育てていく。出荷できる400〜500g以上のサイズになるまで、7ヶ月〜1年半を要するそうだ。

通常の飼料に比べ、1袋あたり2000円程度高いというハーブ鯖専用の飼料。2日に1回程度のエサやりで1つのイカダに4袋ほどを与えるというから、エサ代だけでも相当額必要なのが分かる。

長崎県佐世保市育て方や生産者の想いを聞いた上でいただく。最高の贅沢は、やはりその地でリアルタイムで味わうこと。

佐世保市内でも浜田さんらが育てた『長崎ハーブ鯖』が味わえる店がいくつかあるという話しを聞き、そのうちの1店に早速コンタクト。2018年で創業100周年を迎える地場発の老舗居酒屋『ささいずみ』にお邪魔しました。

料理長として腕を振るう豊村竜也さんは地元出身で、幼少期から鯖は食していたそう。ただ、そんな地元民の豊村さんでさえ最初に『長崎ハーブ鯖』を食べたときは、その質の高さに驚いたと語ります。
「臭みがほぼなくて、血合いがキレイなことにまず驚きました。さらに脂はのっているんですが、脂質がサラッとしているので、しつこくなくて。鯖に苦手意識がある人にこそ、ぜひ食べていただきたいと思っています」と豊村さん。

地元民にも人気だという『長崎ハーブ鯖の活造り』は1尾余すところなく味わえて、3240円と圧巻のコストパフォーマンス。4〜5人で食べても十分なボリュームです。その味わいは、生産者、料理人の言葉通り、一切臭みを感じることなく、身質もプリップリ。とくに腹身の脂のりは絶妙で、口に入れ、一口噛むと、あとは溶けていくような味わいです。

生産者の話しを直接聞き、養殖イカダまで見学させてもらったことで、よりその味わい、感動が増したのはいうまでもありません。

『ささいずみ』では活魚で仕入れ、注文後に生け簀から揚げてさばくスタイルを一貫。『長崎ハーブ鯖』はとくに鮮度を重視しているそう。

『ささいずみ』の料理長・豊村竜也さん。「『長崎ハーブ鯖』は刺身もおいしいですが、しめ鯖もおすすめです。最近はお土産用の冷凍しめ鯖『サバタベンバ』の販売も始めました」と話す。

「脂はほどよくのっているのですが、手が脂でギットリしないんです。サラッとした脂質も、『長崎ハーブ鯖』の魅力の一つ」と豊村さん。

『ささいずみ』で味わえる『長崎ハーブ鯖の活造り』(3240円)。1尾400g程度あり、ボリュームも文句なし。残ったアラは味噌汁(1杯+190円)に調理してもらうことも可能。

長崎県佐世保市風土や歴史が育んだ伝統工芸品に共通点を見出す。ジャンルレスに存在する、この地だからこそ生まれ育つもの。

10年前から生産が始まった注目のブランド鯖がある一方、明治時代から100年以上にわたり、佐世保市民に親しまれ、今なお一つ一つ手作りされている郷土玩具があるのも同エリアの面白さの一つ。それが、『佐世保独楽』です。手がけているのは『佐世保独楽本舗』の三代目・山本貞右衛門さん。
「明治期になり、海軍の鎮守府が置かれるまでは、小さな村だった佐世保。この小さな村が一気に大きな町へと発展していくなかで、玩具にお金を払うことができるような土地となったのが佐世保独楽の隆盛の歴史です。いわば、佐世保独楽はこの町と一緒に成長してきた、昔ながらの佐世保の文化を象徴するものの一つ」と山本さんは話します。

その特徴はラッキョウ型と呼ばれる独特な形状と、中国の陰陽五行説に影響を受けた5色で構成された色彩。さらに剣先を上に向けた状態で、一般的なコマとは逆さに持ったまま投げるスタイルも佐世保独楽ならではです。

マテバシイと呼ばれる広葉樹を原料とし、丸太の状態から一つ一つ削っていきます。海軍や在日米軍で知られる港町としての顔、庶民の暮らしに裏打ちされたものづくり。一見すると関係性を見いだせないもの同士ですが、やはりこの土地における暮らし、風土、文化がどこかでリンクしていることを感じずにいられません。

荒削りした原料のマテバシイを、長年の経験に裏打ちされた勘で削っていく。次世代に残したい素晴らしい技術だ。

陰陽五行説の考えに沿った、赤・黒・黄・緑(青)・白(素材の色)で着色された伝統的な佐世保独楽。

『佐世保独楽本舗』の三代目・山本貞右衛門さん。コマ作りの技術はもちろんだが、玩具の歴史や成り立ちなどにも造詣が深い。

現在使用している道具は、ほぼすべて山本さんの自作。「先代が早くに他界し、一番困ったのは道具でした。ただ、先代が築いてきた職人同士の繋がりに助けられました。今があるのは、右も左もわからなかったときを支えてくれた、周りの方々のおかげです」と山本さん。

ここ数年、注目を集めているのが、節句人形やお雛様、干支などのイラストが描かれた縁起物の佐世保独楽。米軍関係者から記念コインを埋め込んだ一点ものの製作依頼も多いそうだ。

ふたりの旅人が巡る「南会津」。世界が誇る原風景の街を若い力が鼓する。[福島県南会津郡]

「冬、山」_こんな風景を目にすると、モノクロームで撮りたくなる。©小林紀晴

福島県南会津郡OVERVIEW

会津はいわば、“分水嶺の向こう側の里”です。

分水嶺とは川の水の流れ下る方向を分かつ地点のこと。会津への旅とはつまり、私たちがふだん身を置いている流れとは異なる表情を見せる時間に、出会いに出かける機会なのです。

いにしえの街道をいだいてうずくまる茅葺の集落。森に囲まれた屋外舞台に満ちる祭りのさざめき……。そうしたものの多くは、他の土地であれば時の流れに洗われ、とうに消え去っていたかもしれません。会津に息づくものはみな、穏やかでゆったりとした、この山あいの地に独特な時間に守られ、育まれたものなのです。だからここにしかない。ここでしか、その声を聞くことはできません。

そして会津はまた、旅とはその目的地だけではなく、行程を味わうことが大切なのだと教えてくれる場所でもあります。例えば東京から会津若松を訪ねるとき、人は新幹線を利用することもできます。しかしそれは分水嶺のこちら側、私たちの日常の時間を通っていく道でしかないでしょう。あえて分水嶺を越え、会津の山々を縫うように走る鉄道の車両の中で線路の揺れに身をゆだねるとき、街の中では見ることができなかった花の色が、山肌のそこここに見いだされることになるはずです。
だからONESTORYは、会津への旅を提案します。ただ古く懐かしいものとの再会を期してではありません。

この土地を流れる特別な時間に生きる若い人々はいま、カフェでもレストランでも、そしてアートでも、次々に新しい花を咲かせているのです。その花の色を心に映すための旅。茅葺集落の中に隠れた居心地いいカフェでシングルオリジンの香り高いコーヒーを口にするとき、人はいままでとは違う時間の味わい方を楽しんでいる自分の姿を発見することになると思うからです。伝統と創造の愉快なギャップに心弾ませることができるのも、会津を流れる時間が与えてくれる旅の魔法です。

今年、ONESTORYでは二人の旅人が会津へと、そんな心の分水嶺を越える旅に赴きます。一人は青年時代にイギリスから日本を訪れて日本文化の繊細さにうたれ、その美点を守り続けるために日本各地の田舎で空き家を再生した旅荘を開く、東洋文化研究家のアレックス・カー氏。そしてもう一人は逆に青年時代に日本を後にアジア放浪の旅に出て、そこで出会った人々の姿を活写したフォトルポルタージュで旅する若者たちに絶大な影響を与えた、写真家で作家の小林紀晴氏。この対照的な二人の旅の達人の目は、それぞれ会津で何を見つけ出すのか。そして二人の旅の航跡は、会津でどのように交わるのか……。

それを追いかけるONESTORYの旅。ぜひご期待ください。

日本人の内なる故郷への道のりを、写真家・作家の小林紀晴氏と辿る会津の旅。[福島県南会津郡]

福島県南会津郡冬の南会津。写真家であり作家の小林紀晴氏の目に、この街はどう映るか。 

まず雪、降りしきり、降り積もる雪の声を聞いてみたい……。今回、ONESTORYとともに会津への旅に出てくれるのが、写真家であり作家としても知られる小林紀晴(こばやし・きせい)さんです。会津という土地の魅力を再発見するというその旅の第一歩は、江戸時代の宿場町の佇まいをそのまま残すかつての会津西街道沿いの集落、大内宿をおおった純白の雪の上に記されました。

白銀の世界に包まれた「大内宿」。立ち止まってはまた歩き、歩いてはまた立ち止まり、表現したい1枚を探す。

福島県南会津郡旅することの意味を表現し続ける作家・小林紀晴。

紀晴さんは生来の旅人です。新聞社の社員カメラマンという安定した生活から自ら離れ、使い慣れたカメラを携えてアジア放浪の旅に出たのは23歳のとき。その旅の途上で出会った日本人バックパッカーたちの肖像を、エッジの利いた写真と文体で描き出したデビュー作『ASIAN JAPANESE』(1995年)は、これまでになかった旅行ルポルタージュとして圧倒的な支持を集め、アジアを旅する若者のバイブル的存在となりました。以後、紀晴さんはさらに多くの国へと旅を続け、その記憶はいくつもの美しい写真集に結実しています。独特の視点で切り取られた写真の数々は新たな発見に満ち、訪れた土地のこれまでに知られていなかった魅力を読者に伝え続けてきました。

今回訪れたのは、冬。今後、春、夏、秋と再訪し、1年を通して南会津という街と向き合い、表現してく。

訪れた日は、相当な積雪量。まるで永遠に続くかのように広がる白の世界に興奮気味の小林紀晴氏。

「大内宿」の特徴でもある茅葺き屋根には雪が覆いかぶさり、氷柱が自然美を形成する。そんな撮影ができるのも冬だからこそ。

福島県南会津郡物語の気配がいまもいろ濃くたちこめる、会津という土地。

そんな旅のカリスマにとっても、会津とは特別な興味をかき立てられる地であるといいます。紀晴さんは長野県の出身ですが、長野の地名である高遠の名を冠した“高遠そば”が会津の郷土料理として長く伝えられていることも、その理由の一つ。「ごく個人的な理由ですが」と、大内宿の集落にある一軒の茅葺の蕎麦店で高遠そばをすすりながら本人は笑いながら話してくれましたが、もとより個人的な動機に基づいていない旅など、旅の名に値しないでしょう。さらに作家として写真集以外に多くの小説を上梓している紀晴さんは、その世界観を表現するため自主映画の製作にも意欲を燃やしていますが、現在製作を進めているタイに生きた一人の日本人男性の数奇な人生をテーマにしたフィルムにおいても、偶然にも会津は重要なキーとなる土地でした。やはり会津は物語の気配に満ちた土地なのでしょう。そしてその物語性がクリエーターの琴線をそっと揺り動かすのでしょう。

「会津酒造」へ訪れた小林紀晴氏。「米文化にも興味があります」と話しながら、一本一本、じっくりと酒を眺める紀晴氏は、まるで何かを回想しているよう。

冬の「塔のへつり」へ訪れる人は、ほぼいない。しかし、「誰もいない場所、誰も来ない時期にこそ、街の本質と向き合える」と紀晴氏。

「湯野上温泉駅」で列車を待つ紀晴氏。「旅には目的地も大切ですが、そこへ向かうプロセスこそ旅の醍醐味。予想しなかった出来事を楽しみたい」。

「冬の南会津は美しかった」。そう語る、紀晴氏。「これほどまでに色の変化がある街は、日本中探してもそうはない」と言葉を続ける。

福島県南会津郡その道のりの記憶は、そのまま新しい旅への里程標になる。

もしかしたら会津は紀晴さんにとって、新しい旅の扉を開く地となるかもしれません。雪で白く染まった会津を歩いて、「故郷の風景と似ている」と紀晴さんはつぶやきました。これまで外へ外へと旅を続けてきた紀晴さんですが、今回は自らの内なる故郷への道をたどる旅になります。その途上で撮られる写真と紡がれる言葉は、新しい旅を発見していくマイルストーンとなるでしょう。そしてそれは私たちにとっても、会津という土地の見方を、さらには旅の時間のあり方までを変えてくれる大切な契機になるのではないかと思います。会津はおそらく私たちにとっても新しい旅のあり方を教えてくれる土地となる。そう、そんな予感を人に与える力を、会津は宿しているのです。「季節ごとに訪れて、四季それぞれを彩る会津の色彩を見つめてみたい」と紀晴さんは語ります。これから一年を通しての会津の旅が始まります。紀晴さんの写真と言葉に現れる会津の時間を、皆さんもぜひ一緒にお感じになってください。

「冬、山」_こんな風景を目にすると、モノクロームで撮りたくなる。©小林紀晴

「雪そら」_雪に意思があるとしたら、それはどんなかたちをしているのか。©小林紀晴

「カフェ、天井、珈琲、」_天井を見上げるとドライフラワー。ふと、ここだけ季節が違って感じられた。©小林紀晴

「鎮座」_造り酒屋の土間は底冷えがして、誰が吐く息も白い。©小林紀晴

「まちびと」_待合室の団子刺し。ここだけ春が来たような。©小林紀晴

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。

これぞ日本の春。まるで絵画のような印象の、完璧な構図。[潤井川 龍巌淵/静岡県富士市]

龍巌橋からの景色。富士山は午前中の方が見えやすいのだとか。橋は一般道のため、マナーを守って観賞を。

静岡県富士市冠雪の富士山に清流、ソメイヨシノが三位一体となった絶景に酔いしれる。

『富士山』の真西側にある「大沢崩れ」付近を源流に、複数の湧水や河川が流入することで豊潤な水を湛える一級河川『潤井川(うるいがわ)』。季節ごとにヤマメやマスなどが放流される渓流釣りの名所であり、その清らかな水は人々の生活にも多くの恵みをもたらしています。延長約25.5kmの流域では様々な表情を見ることができますが、富士山と清流、桜が三位一体となった絶景を望むことができるのは、下流域にあたる静岡県富士市に位置する『龍巌淵(りゅうがんぶち)』です。地元の人を中心に隠れた桜の名所として知られており、富士山の雄大な姿を背景に、川沿いに並ぶ約50本の「ソメイヨシノ」が満開に咲き誇る姿は圧巻のひと言です。桜が見頃を迎える3月下旬から4月上旬には、多くの人がその景色を求めて足を運びます。対岸の土手には遊歩道が整備され、川辺から観賞することもできますが、お勧めは近隣の『龍巌橋』から眺める風景。まるで絵画のように洗練された構図は、まさにここにしかない風景です。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所 : 静岡県富士市久沢 MAP
アクセス : 東名高速道路富士ICより車で約10分/JR東海身延線入山瀬駅より徒歩約10分

散り際の花びらに淡い墨色が滲む。日本三大巨桜の圧倒的な存在感。[根尾谷淡墨桜/岐阜県本巣市]

樹高約16m、幹回約9.9m。「日本三大巨桜」及び「日本五大桜」に認定され、国の天然記念物にも指定されています。

岐阜県本巣市力強さと儚さ。相対する趣が邂逅する、不思議な魅力が宿る。

つぼみは薄い桜色、開花すると白色に変わり、散り際には独特な薄い墨色を帯びることから名づけられたという『根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら)』。品種は桜の野生種として知られる「エドヒガン」とされ、日本でも指折りの古木です。古墳時代中期に継体(けいたい)天皇がお手植えになったという伝承が残されており、樹齢は約1500年です。近年は幹の老化が激しく存亡が心配されていますが、専門家たちの手厚い保護により、毎年力強く花を咲かせています。その美しさに魅了された作家の宇野千代氏が保護を求めて活動したことも有名で、根尾谷淡墨桜を中心に整備された『淡墨公園』には、宇野氏の歌碑が建てられている他、4,500㎡もの広さを誇る芝生広場や、野外ステージも整備され、桜が見頃を迎える4月上旬には多くの人が訪れます。朽ちてゆく古木に咲く花は儚く、そこに宿る悠久を思う人間の存在もまた、儚いもの。眺めるほどに命の尊さについて思いを馳せてしまう、不思議な魅力が宿っています。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:岐阜県本巣市根尾板所995 MAP
アクセス : 名神高速道路岐阜羽島ICまたは大垣ICより車で約1時間20分/東海北陸自動車道岐阜各務原ICより車で約1時間20分/樽見鉄道樽見線樽見駅から徒歩約15分

多様性を育む広葉樹林の山々と可能性を秘めた茅葺屋根の民家群を訪ねて。[福島県南会津郡]

福島県南会津郡東洋文化研究家、アレックス・カー氏が語る、日本の資産、南会津。

今回ONESTORYは、東洋文化研究家であり茅葺き古民家活用の実践者としても知られるアレックス・カー氏とともに、南会津地方のいまだ顕在化されていない魅力を発見する旅に出掛けました。かつて江戸〜今市〜会津城下を結んだ下野街道は、今も山あいに数多くの茅葺き集落や古蹟が点在し、色濃く歴史の面影を残す道。街道に沿っての旅から見つけた、南会津の秘められた魅力を探ります。

「茅葺き民家ファンの聖地」とも呼ぶべき、大内宿の集落を一望にできる高台にて。

600 年の伝統がある会津田島祇園祭。山車の舞台では、祭り当日に演じられる子供歌舞伎を再現。

豪雪地帯の春の訪れは遅く、大量の雪は夏に田を潤し、秋の実りを約束する。

郷土料理の「棒たら煮」。海の幸の乾物を用いた山国ならではの味だ。

福島県南会津郡落葉広葉樹林の明るい山々が出迎える、「みちのく」もうひとつの玄関口。

日光の北、2000m級の険しい山々をはさんだ山間部に位置する南会津地方は、豪雪の地でもあり、古くからおもに山の恵みをなりわいとしてきた地です。福島県 の西半分を占める「会津」とひとくくりにできない事情のひとつに、江戸期 300 年の間にいくたびも幕府が直轄する御蔵入領であったこともあり、関東より直に 文化がもたらされ、独特の文化として育んできた矜持がみられるから。日光方面から山間を縫うように北上すると、やがて日本海へと流れ込む阿賀川の 源流と出会います。春まだ浅い雪国の3月は里にも山にもたっぷりと雪が残り、これらが夏に田を潤す水となるのです。山々を貯水源にするのはブナなどの落葉広葉樹林。アレックス氏の目には萌えを待つモノクロームの山肌に明るい緑を思い浮かべることができるのか、豊かな植生に感嘆しきり。南会津は会津漆器の素地となる木地や漆の供給地でもあったことから、古くより山の木々の多様性を大切にしてきたことに理由が求められるのかもしれません。

「茅葺き民家こそ全国にありますが、このように整然と並ぶのはここだけのはず。奇跡的な眺めです」 とアレックス氏。

天然木の姿をそのまま生かした神社の鳥居にも集落の景観への姿勢が窺える。

旧宿場町の通りには茶屋が並び、昔ながらのおやつも味わえる。

福島県南会津郡大内宿に代表される茅屋根民家は日本の原風景。

「古い街道絵図からそのまま抜け出してきたような場所。見事です」とため息をもらすアレックス氏。下郷町の大内宿は、いまの国道の基礎を形づくった明治期の道路整備からコースがはずれ、高度成長期の開発の波からも辛うじて逃れ残ってきた奇跡の集落。誰もが知るような武将たちが旅し、参勤交代にも使われた下野街道の一宿場は整然と同じ規格の家々が 300年を閲し、歴史を肌で感じられる スポットとして年間 80万人が訪れる屈指の観光地となっています。 代々人の営みがある“生きている建物”を一概に「古民家」と呼べない気はします。それほど大内宿のなにげない風景は濃密に、連綿と続いてきた暮らしの中の一部となっているのでしょう。もちろん、ここまで「時を巻き戻す」ために費やしたさまざま取り組みも、並大抵ではなかったはず。集落が一つになって屋根の材料を採取する茅場を保全し、保管庫を作り、茅葺き技術継承のために伝習場を設け、助け合って自分たちの手で屋根の茅葺を行い、修景をすすめてきました。

茅葺きの湯野上温泉駅舎内。煙で茅屋根を保護するため、毎日囲炉裏に火が熾されている。

建築からまだ30年程度とは思えない風格の駅舎外観。

山を後背にした前沢集落は、雪国特有の間取りを持つ「曲家」がまとまって残る。

福島県南会津郡今も数多く残る、茅葺き古民家集落の持つ可能性。

会津で国重要伝統的建造物保存地区に指定されているのは大内宿だけではありません。街道筋でこそないものの、南会津町にも前沢曲家集落と呼ばれる場所があります。明治 40 年に全戸焼失する大火に見舞われてすぐ、ほぼ同時期に建てられ た茅葺き民家群がまとまった景観を今に残しています。曲家と呼ばれる特徴的な L 字型の間取りは、大切な馬と共に雪国で生きる暮らしの知恵。さらに湯ノ花温泉郷の奥、水引集落には小規模ながら姿の良い曲家が点在しています。会津全域 には、今でこそ保護のためトタンを被せてはいますが、茅葺きの民家が至るところで散見されるのです。これらの価値に多くの人が思い至ればさらなる魅力をつくりだせるはずと、自身の経験からアレックス氏は語ります。「日本は基本的に山 が険しくて、茅はそういう場所に多く自生します。つまり、“何も無い”と嘆く地 域にこそ茅場が豊かで、それは一つの産業の可能性といってもいいと思います。温故知新の建材として見直されるべき時代なのではないでしょうか。」

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

清水の川面にゆらゆらと浮かぶ、桜の花びらと色鮮やかな鯉のぼり。[五条川/愛知県岩倉市]

「日本のさくら名所100選」にも選定。桜のアーチと花筏、鯉のぼりの共演による景色には、日本の美が凝縮されています。

愛知県岩倉市桜のアーチに花筏。自然と伝統工芸が織り成すノスタルジックな風景。

約400年間受け継がれてきた伝統工芸の鯉のぼりが、桜散る川面にゆらゆらと浮かぶ……。愛知県犬山市の『入鹿池(いるかいけ)』から西にかけて約28.2kmにわたり流れる『五条川』で、1月下旬の大寒から桜の季節にかけて見ることができる「のんぼり洗い」。伝統技法で染め上げた鯉のぼりの糊を落とすためのもので、五条川近隣の初春の風物詩として知られています。川が街の中心部を流れる愛知県岩倉市で盛んに行われており、川沿いの約7.6kmに設けられた堤防道路『尾北(びぼく)自然歩道』の両岸に植えられた約1,400本もの「ソメイヨシノ」の開花と時を同じくして、色とりどりの鯉のぼりが川面を鮮やかに彩ります。両岸から川を覆うように咲く桜のアーチや、散り際に花びらが川面を埋め尽くし、ゆったりと流れゆく花筏(はないかだ)と鯉のぼりが織り成す風景は、どこかノスタルジックで、心に残る美しさです。見頃となる3月下旬から4月初旬には「岩倉桜まつり」が開催され、のんぼり洗いの実演や山車(だし)の巡行など、春の訪れを盛大に祝うイベントも行われます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:愛知県岩倉市中本町中市場 MAP
アクセス : 東名高速道路小牧ICより車で約15分/名神高速道路一宮ICより車で約15分/名古屋鉄道犬山線岩倉駅より徒歩約5分

淡い紅色の桜が視界を埋め尽くす。「天下第一の桜」と称される絶景がここに。[高遠城址公園/長野県伊那市]

桜雲橋の眼下に広がるタカトオコヒガンザクラ。小振りで淡く赤みを帯びた花弁は愛らしく上品な佇まいです。

長野県伊那市旧藩士たちが思いを込めて移植した桜が成した、栄華の再来。

戦国時代には壮絶な戦いの舞台となり、明治初期に取り壊しとなった『高遠城(たかとおじょう)』の跡地に整備された『高遠城址(たかとおじょうし)公園』。地域の固有種である「タカトオコヒガンザクラ」を見ることができる桜の名所として知られ、見頃となる4月上旬から中旬にかけて、約1,500本が花を咲かせます。1875年、荒れ果てた城跡をなんとかしたいと考えた旧藩士たちが、高遠藩が管理していた「桜の馬場」より桜の木を移植したのが始まりといわれ、以来、その美しさから「天下第一の桜」と称され、「日本三大桜名所」や「日本さくら名所100選」、長野県の天然記念物にも選定されました。雪解けを待つ中央アルプスや南アルプスを背景に見る桜も素敵ですが、もうひとつのビューポイントは、城跡内に架かる『桜雲橋(おううんきょう)』。風情ある木製橋から見下ろす桜は、橋の名のとおり、桜色の雲海のようです。その他、有形文化財の『高遠閣(たかとおかく)』をはじめ、門や櫓(やぐら)、碑文といった史跡も点在しています。長く守られ続けてきた桜とともに、歴史に思いを馳せるひと時をお過ごしください。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:長野県伊那市高遠町西高遠 MAP
アクセス:中央自動車道諏訪ICより車で約50分/中央自動車道伊那ICより車で約30分/JR東海飯田線伊那市駅または伊那北駅より、JRバス乗車、バス停・高遠下車、乗車時間約25分、バス停より徒歩約30分

紺碧の湖水がしぶきを上げる奥琵琶湖の湖岸を、可憐なソメイヨシノが埋め尽くす。[海津大崎/滋賀県高島市]

1934年に台風により倒壊しましたが、’37年に再建。平安時代より受け継がれてきた趣ある風情は健在です。

滋賀県高島市湖岸散策やドライブ、神の島への参拝と、多彩なロケーションで桜を観賞。

優美で穏やかな湖南とは対照的に、荒々しい岩礁や紺碧の湖水が勇壮な雰囲気を醸し出す湖北、奥琵琶湖の『海津大崎』は、日本一の大きさを誇る『琵琶湖』の中でも指折りの景勝地として知られています。湖面へと落ち込む急な斜面の山裾から、琵琶湖の厳しい一面がうかがえる景色は「琵琶湖八景」のひとつ(暁霧・海津大崎の岩礁)に選定されており、とりわけ春はごつごつとした岩肌の風景に桜の花が彩りを添え、絢爛豪華な雰囲気に包まれます。付近の湖岸約4kmにわたって続く桜並木は、近畿圏では遅咲きの時季にあたる4月10日頃、老桜から若木まで約800本もの「ソメイヨシノ」が見頃を迎え、桜の花で埋め尽くされます。

周辺には朱塗りの本堂や絶景が望める展望台で有名な『大崎寺』や、古くより人々の信仰を集める『竹生島(ちくぶしま)』、海津大崎から約23kmの間には約3,800本の桜並木が続く『奥琵琶湖パークウェイ』があるなど、桜の名所が多数あり、様々なロケーションで、春の琵琶湖を満喫できます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:滋賀県高島市マキノ町海津 MAP
アクセス:名神高速道路京都東ICより車で約1時間/北陸自動車道木之本ICより車で約1時間/JR西日本湖西線マキノ駅からコミュニティバス乗車、バス停・海津大崎口または海津1区下車、乗車時間約30分

ヤマザクラと棚田の共演がもたらす、温かさに満ちた懐かしい日本の姿。[三多気の桜/三重県津市]

毎年「三多気の桜まつり」を開催(2018年は4月14・15日)。真福院境内や広場にてイベントや桜のライトアップが行われます。

三重県津市小振りで可憐な花を付ける、古木の桜並木が霊場の参道を彩る。迷いの世界と悟りの世界、相対する心の境地を表現。

奈良から伊勢への最短コースとなる約129kmを結ぶ『伊勢本街道』が通り、日本古来の山里の風景が色濃く残る美杉町三多気(みたけ)地区。在原業平や平 清盛らが参籠した霊場として知られる『真福院(しんぷくいん)』を有し、その参道約1.5kmにわたって広がる、真福院を開山した理源大師が桜を植樹したことに端を発する『三多気の桜』は、国の名勝であり、「日本さくら名所100選」や「美しい日本の村景観コンテスト」農林水産大臣賞などにも選ばれています。

約500本を数える桜は、歴史を感じさせる古木の「ヤマザクラ」を中心に、濃い桃色の花をつける「シダレザクラ」なども見ることができ、そこかしこにある水の張られた棚田や、茅葺き屋根が特徴の国の有形文化財『田中家母屋』とともに、温かさに満ちた懐かしい日本の姿を感じさせる風景が広がります。「ソメイヨシノ」よりも遅咲きというヤマザクラは、白っぽく小振りな花弁が愛らしく、可憐な印象を与えます。標高の低い所から高い所へと順に開花していくため、見頃は4月上旬から中旬と比較的長く楽しむことができます。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:三重県津市美杉町三多気204 MAP
アクセス:伊勢自動車道久居ICより車で約60分/名阪国道上野ICより車で約1時間10分/(桜まつり開催期間のみ運行)JR東海名松線伊勢奥津駅から臨時バス乗車、バス停・杉平下車、乗車時間約10分、バス停より徒歩約5分

遅咲きの桜が京都の春を締めくくる。仁和寺の歴史とともに歩んできた「御室桜」。[仁和寺/京都府京都市]

高台から望む桜林。『五重塔』に沿って視線を下へと移せば、桜色で埋め尽くされた雲海のような風景が広がります。

京都府京都市低い幹枝に半八重の花。独特の風情を見せる御室有明を中心に200本が開花。

数多の京都の桜の名所の中でも、特に遅咲きとして知られている『仁和寺(にんなじ)』の「御室桜(おむろざくら)」。樹高が約2mから4mと比較的低く、花(=鼻)が低いということから、「お多福桜」とも呼ばれ、4月上旬から中旬にかけて、中門内の西側一帯に広がる桜林に約200本が開花します。江戸時代、庭師の名跡・佐野藤右衛門が増殖した「御室有明」という品種が中心で、花弁の数が5枚から10枚までの「半八重」の花は、華やかで品格ある佇まいです。その中でも1本だけ特に開花が遅く、他の御室桜が散る頃に咲き始める桜があり、桜林の一般開放が終了すると人の目に触れなくなることから、通称「泣き桜」と呼ばれています。京都の春を締めくくるように咲く花はぜひ一度見ておきたいものです。

仁和寺は888年に創建され、2度の焼失と再建を経て、現在は真言宗御室派の総本山としてユネスコの世界遺産に登録されています。苦境を超えて紡いだ歴史とともに歩みながら、今も昔も変わらずに花開く、ここだけにしかない桜の姿をお楽しみください。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所:京都府京都市右京区御室大内33 MAP
アクセス:名神高速道路京都南ICまたは京都東ICより車で約40分/JR西日本山陰本線(嵯峨野線)花園駅より車で約5分、徒歩約15分/JR西日本山陰本線円町駅より市バス26番乗車、バス停・仁和寺下車、乗車時間約10分/京福電気鉄道(嵐電)御室仁和寺駅より徒歩約3分

約200種類、3万本。世界でも類を見ない「一目千本」の絶景。[吉野山/奈良県吉野郡]

鮮やかな桜色が埋め尽くす下千本展望所の景色は「一目千本」そのもの。かつては豊臣秀吉も5千人ものお供とともに花見をしたとか。

奈良県吉野郡日本古来のシロヤマザクラを中心に、4つのエリアで次々に開花。

まさに春爛漫、見渡す限り山肌を埋め尽くす桜色に、「一目千本(ひと目で千本見ることができるという意味)」と形容される『吉野山』の桜。その始まりは今から約1300年前、修験道の開祖・役小角(えんのおづの)が、修験道の本尊である蔵王権現(ざおうごんげん)を感得し、尊像を桜の木から切り出して奈良の『山上ヶ岳(さんじょうがたけ)』と『吉野山』に祀ったという伝説から、桜こそ御神木にふさわしいと、多くの桜の木が植えられたといわれています。その数は「シロヤマザクラ」などの古来種を中心に約200種、3万本にも及び、世界的にも類を見ないスケールです。

吉野山は『吉野川(紀の川)』の南岸から『大峰山脈』へと南北に続く山稜を指し、「下千本」、「中千本」、「上千本」、「奥千本」の4つに分けられます。それぞれのエリアには社寺や展望台が点在しており、「勝手桜」といった名桜や、「長嶺の桜」、「布引の桜(上千本)」といった桜の群生など、多彩な桜が楽しめます。見頃は4月初旬から4月末。山麓から山上へと開花し、長く見頃が続く点も魅力です。(文中には諸説ある中の一節もございます)

Data

住所 : 奈良県吉野郡吉野町吉野山 MAP
アクセス : 南阪奈道路葛城ICより車で約50分(※下千本駐車場(奈良県吉野郡吉野町吉野山24-1・吉野山観光駐車場)まで)/近畿日本鉄道吉野線吉野駅からロープウェイ乗車、吉野山駅下車、乗車時間約3分(※下千本展望所まで)