すべては食で地域を感じてもらうために。タッグを組んだ能登の料理人たちの素顔。[N-Terra お披露目イベント/石川県能登半島]

『ラトリエ ドゥ ノト』のとある魚料理は、能登内浦の宇出津港に揚った寒ブリを熟成させてグリルに。ぶりの骨からエキスを抽出したブイヤベースのソース、色とりどりの根菜、サンゴケールなどと一緒にいただく。

N-Terra お披露目イベント「このままでは能登が……」。問題意識が原動力に。

料理人の力で能登の持続可能な地域社会を目指すネットワーク『N-Terra』。
発足メンバーは輪島市のフランス料理店『ラトリエ ドゥ ノト』のオーナーシェフ・池端隼也氏、七尾市のイタリア料理店『Villa della Pace』のオーナーシェフ・平田明珠氏、七尾市の洋食店『ブロッサム』のシェフ・黒川恭平氏、七尾市に割烹のお店の開店を控える料理人・川嶋享氏、能登町のジェラート店『MALGA GELATO』のジェラートマエストロ・柴野大造氏の5名。彼らの素顔に迫ってみました。

輪島市にあるフランス料理店『ラトリエ ドゥ ノト』のオーナーシェフ・池端隼也氏は『N-Terra』のリーダー的な存在です。輪島市に生まれ育ち、高校卒業後は大阪へ進学、就職し、フランスで修業を積みました。大阪で開業を予定していましたが、帰郷した際に、能登の素晴らしい魅力に気付き、急遽、開業地を能登に変更しました。その経緯は、こちらの記事をご覧ください。

池端氏は『ラトリエ ドゥ ノト』を人気店に成長させながらも、いつももどかしさを感じていたと話します。
「能登は北前船の恩恵で全国の優れたモノや技術を採り入れながらも、僻地として取り残されてきました。外部からの手が入らず、さまざまな魅力が保全されてきたのです。豊かな海山の自然があり、そこに素晴らしい文化が根付いた里山里海があります。料理人として心躍る食材や工芸があり、私はその魅力を伝えることがここでレストランを営む者の使命だと考えていました。ですが、私がひとりでいくら頑張っても伝える力には限界があります。能登の農業や工芸も例に漏れず深刻な後継者不足に陥っていて、人材確保に向けた収益の安定や労働環境の改善が喫緊の課題となっています。地元を愛する料理人はみんな、これに対する問題意識を持ってはいても行動できていませんでした。気のおけない仲間が増え、ふと話してみると、『自分も何かをしたいと思っていた』という反応が返ってきました。そしてごく自然にコラボイベントを開くようになったのです」

池端氏は、今後『N-Terra』のメンバーが増えていくことを望んでいます。そして、旗振り役は発足時だけで終わりとし、誰かがリーダーシップをとらなくても有機的なつながりが広がり、日常的にコラボレーションが生まれていくことを理想としています。
「田舎には、やる気のある料理人が多ければ多いほどいい。これからは競争の時代ではなく、共存共栄の時代です。暮らすように滞在して、店主がおすすめするレストランを巡り歩く。能登をそんな場所にしたい、いや、できると思っています」

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『ラトリエ ドゥ ノト』からすぐ、輪島朝市が立つ通りにて池端氏。朝市は最も近い仕入れ先として、毎日のように通っている。

楢木の原木の切り株で提供される『ラトリエ ドゥ ノト』のシグニチャー、原木しいたけ「のと115」のコンフィ。上にのった能登牛のテール赤ワイン煮込みとゴボウ、下に敷かれた菊芋などと一緒に、能登の山の味覚を味わえる。

『N-Terra』のムードメーカーとしても欠かせない池端氏。明るくテンポのいいコミュニケーションが、快活な空気をつくり出す。

N-Terra お披露目イベント食材を深く理解した先に、独自の価値観は生まれる。

七尾市のイタリア料理店『Villa della Pace』のオーナーシェフ・平田明珠氏は、5名の中で唯一のIターン者です。東京出身で、大学卒業後は営業マンとして就職したものの、「扱う商品が本当にいいものだとは思えず、売ることが嘘をついているようで嫌だった」ことから、ほどなく退職。学生時代にアルバイトをしていた飲食業に足を踏み入れました。当初は賃金が低くキツいといったネガティブなイメージがあったものの、次第におもしろさを見出すようになり、歴史や文化も盛り込めるイタリア料理で本格的な修業をスタートしました。
「初めの店はシェフがすべて自分で作業し、自家菜園で野菜を育て、ハムなども自家製という自分の仕事を徹底している店でした。そこに3年いて食材の背景まで深く関わる料理の魅力を学んだことが、自分の料理人としてのスタンスを決定付けました」と平田氏は話します。重視しているのは、日本の食材を大切にすること。全国の生産者を訪ねる中で能登に魅了され、移住開業を決意しました。食材がすぐそばにあることは、料理をする上での何よりも大きな魅力だったからです。しかし、平田氏は優れた食材が手に入るというだけでは満足しません。
「本当に美味しい料理は、シェフの世界観が皿の上に表現されているもの。世界観をつくり上げるためには、一つひとつの食材について、その歴史や生産の背景まで掘り下げていき、理解する必要があります。とても根気の要る作業です。食材のそばに来てわかってきたのは、新鮮だからすべてが良いというわけではないこと。旬ではないのに無理して栽培されるものも多く、そのような食材では本質的な価値を提供できないと思っています。今は保存食や野草なども多用するようになり、より能登の風土に合った料理が表現できるようになってきたと感じています」

秋には、七尾市の別所で1日1組限定のオーベルジュとしてリニューアル予定。宿泊と飲食の両面でスローツーリズムのフロンティアに立つことになります。

『Villa della Pace』にて平田氏。「移住者だから見える部分があるし、移住者だから攻められることもある。振り切ったチャレンジができる恵まれた環境かもしれません」と自分を見つめる。

本州鹿のグリル。根つきほうれん草、鹿のフォンで炊いた大根、ムカゴのポレンタ、ふきのとう味噌を添えて。どれも素材の味をしっかり噛みしめることができ、大地の恵みを体感できる一皿。

自然栽培の五百万石を使ったリオレ(ライスプディング)。野山で自ら手摘みした冬苺ををたっぷりとのせ、どぶろくをソース代わりにかけていただく。野性味あふれる苺とまろやかなプディング、辛口な微発泡のどぶろくの一体感が素晴らしい。

N-Terra お披露目イベント店を先代から受け継ぐ者だからこそ果たせる役目。

七尾市の洋食店『ブロッサム』のシェフ・黒川恭平氏は、幼い時からお父さんが始めた店を引き継ぐと決めていました。高校卒業後は京都の調理師専門学校でフランス料理を学び、フレンチ懐石の店に入りました。5年の修業の後、フランス・パリの伝統的なレストラン、大阪の斬新派のフランス料理店、カジュアルなビストロと渡り歩き、多彩な料理の技術を学び、経営のヒントを探りました。そして帰郷。現在は2代目シェフとして、フレンチの技法を使った新メニューを盛り込むと共に、ハンバーグやグラタンといった定番の洋食メニューもブラッシュアップさせています。
「祖父はこの場所で土産物店を営んでいましたが、旅館が大型化し館内に売店を併設するようになると低迷してしまい、父が洋食店に鞍替えしました。観光客も仕事を終えた仲居さんにも利用してもらおうと朝から夜遅くまで通し営業を長く頑張ってきましたが、時代と共にレストランの方向性も変えていく必要があります。元々ある店を受け継いだので、既存の地元客にも配慮し、自由が効かない面もあります。ですが、この視点は能登の持続的な発展には不可欠なもの。“承継”を実践する立場として『N-Terra』のプロジェクト推進に貢献していきたいです」

『ブロッサム』は黒川一家の4名が切り盛りしている。「地元の常連さんとの信頼関係ができ、新メニューも注文していただけるようになってきました」と黒川氏。

能登牛の脂包み焼き、『高農園』の人参ピュレ、ポルト酒のソース(手前)。タラの白子とカリフラワーのフラン。黒川氏がメニューに加えたポルト酒のソース、フラン(西洋茶碗蒸し)は『ブロッサム』の定番になりつつある。

海岸線を走る道路沿いに建つ瀟洒なレストランが『ブロッサム』。地元民と観光客を問わず、老若男女に愛される洋食店だ。

N-Terra お披露目イベント「食は楽しいものであるべき」という信念を胸に。

メンバー唯一、日本料理で腕を奮う川嶋享氏は七尾市和倉温泉に生まれ、旅館の総料理長を務めるお父さんのもとで育ちました。料理の道は考えていませんでしたが、短大で経営学を学んだ後、夢を与える仕事をしたいと、調理師学校で学び直すことにしました。
「結局親父の背中を見ていたんでしょうね。“食”って間口が広いうえに、大きな感動をもたらすこともできる万能なツールだと気づいたんです。自分で言うのもなんですが、本当に一生懸命修業して、かなりのスピードで腕を上げることができました。しかし今思えば、天狗になっていた部分もあって、それが料理に現れていたように思います」

学校卒業後に修業に入った大阪の有名割烹では7年以上、ひたすら賄い作りと整理整頓をやらされた川嶋氏でしたが、持ち前の努力とセンスで参加者が300人もエントリーする料理コンテスト『食の都・大阪グランプリ』で総合優勝を果たします。修業先を変えて経験を積み、脂が乗ってきた30歳手前、結婚して子どもが生まれたばかりの時に、交通事故に遭ってしまいます。料理人生命を断たれる危機に直面しました。
「リハビリ漬けの3カ月は復帰できるのだろうかと不安で苦しい日々でした。ですが、心から料理が好きだと確認できた貴重な機会になりました。自分は何のために料理をするのか? それは夢を与えるため。自分の技術に酔っているようでは到底実現できない。お客さんが楽しいと感じるものでなければ、という結論に至りました」

理想の自分の店を持つための修業の仕上げとして、日本一美味しい出汁を引くとの呼び声も高い割烹、星付きの名居酒屋でも腕を磨きました。そして現在、七尾市での開業に向けて準備の最終段階に入っています。割烹でありながらライブ感を重視し、カウンター内ですべての調理ができる店を計画しています。調理を見てもらうと同時に、客とのコミュニケーションを大切にするための仕掛けです。
「例えば30分前にもいだズッキーニを天ぷらにするとと、新鮮な素材をお見せできたら、美味しさに楽しさが加わった本当に豊かな料理となります。蕪の根っこに付いた赤土について説明して、能登の魅力を伝えることもできます。料理において料理人は裏方。スポットライトは生産者に、そして地域に当たればいい。地域の魅力がストレートに伝わる食を提供できれば、それは完成度の高い仕事です。料理人の腕の見せ所は、そこにあると思います」

古い街道の雰囲気を残す七尾市一本杉通りで割烹の開店を控える川嶋氏。関西の名店を渡り歩き、満を持しての独立開業となる。

引き締まった身に脂がよくのった寒ブリは、川嶋氏のお気に入りの素材のひとつ。もち米との相性を良くするために麹で4日間熟成させてから使う。

七尾市一本杉通りの昆布問屋『昆布海産物處しら井』の3年熟成の利尻昆布などを使って丁寧に引く出汁は、川嶋氏の真骨頂。「出汁の香り高い風味をさりげなく味わっていただける料理にしたい」と話す。

N-Terra お披露目イベント世界最先端「ガストロノミー・ジェラート」への挑戦。

『N-Terra』のユニークなメンバー構成に一役買っているのが、『MALGA GELATO』のジェラートマエストロ・柴野大造氏。近年、ジェラートの世界的コンテストで好成績を連発し、企業の商品開発監修などコンサルティング、音楽と光に合わせてジェラートを作り上げるエンターテインメント「ジェラートイリュージョン」でも活躍中の気鋭のジェラート職人です。今でこそ押しも押されもせぬ存在ですが、その歩みは平坦ではありませんでした。農大卒業後、家業である能登町の牧場に就農。生産する牛乳の6次産業化を目指して直営のジェラートショップをオープンさせます。その後、牧場は経営難のために手放してしまいます。

柴野氏はジェラートの研究を地道に続けることで着実に品質を上げ、野々市市に2号店出店を果たします。ブレークスルーは2015年頃。経験則に基づいて改良を重ねてきたレシピに、糖分・塩分・油分・温度などの構成要素の組み合わせ仮説が最適解として一致するようになってきたのです。
「研究を重ねてきた科学的なアプローチが確かなものになれば、どんな素材からでも美味しいジェラートを創り出せると確信していました。例えば今回お出ししたレタスのジェラートはレタスのフレッシュな香りが立ち、モッツァレラのそれはジェラートと思えない淡白な旨みがあります。バゲットは焼きたての香ばしさも感じられますよね。科学の裏付けを得てジェラート作りがより自由になり、料理とジェラートの調和を楽しむガストロノミー・ジェラートの完成度も大きく向上していると実感しています」

多忙を極める柴野氏だが、かつて牧場があった山を見上げる位置に建つ小さな店で過ごす時間を大切にしていると話します。美味しいものを作るために不可欠な「心の波長」を整えるためだとか。
「常に生まれ育った牧場の原風景が心にあります。牛の鼻息、虫のオーケストラ、星の瞬き……自然に生かされているという実感が、地域に育まれた素材一つひとつへの敬意となり、物事を追求する原動力になります。これからの料理人は、自分の仕事や提供する料理について分厚いストーリーを語れるようにならなければいけない。情報が蔓延し、小手先だけの美味しいものが行き渡っている今、実体験に基づきプロが語るストーリーこそが、本質的な美味しさを生み出せると信じています」

本店のすぐそばには廃校となった町立の小中学校校舎が佇んでいます。自身の母校でもあるこの学校を、職人を養成するジェラート・アカデミーとして再生するのが、柴野氏の夢です。「地域に愛される職人を創るのが最終目標」と話す姿には、地域に根差す『N-Terra』の精神もたぎっているように見えました。

ジェラート職人養成所としてリノベーションしたいという廃校の前で柴野氏。生徒と一緒に校庭で牛を飼い、搾った牛乳でジェラートを作るのが夢だ。

人気のパイン・セロリ・リンゴミックスと季節商品のふきのとうの盛り合わせ(右)とマスカルポーネとオレンジバニラ(左)。甘さは控えめで、フレーバー素材の味が驚くほどハッキリ感じられる。

田園に佇む『MALGA GELATO 能登本店』。冬場のこのロケーションでも客がひっきりなしに訪れ、その大半が男性客というから驚く。

イートインコーナーも備えた『MALGA GELATO 野々市店』。飾られたトロフィーや賞状の間にお祖父さんが描いた牧場の絵がある。いつか牧場を再生させたいという気持ちは変わらない。

「能登のために」という熱い思いと「楽しくなければ意味がない」という軽妙さがいいバランスで同居する『N-Terra』。彼らもまた能登が育んだ地域の宝だ。

住所:石川県輪島市河井町2-142 MAP
電話:0768-23-4488
https://atelier-noto.com/

住所:石川県七尾市白馬町36-4-2 MAP
電話:0767-58-3001
http://villadellapace-nanao.com/
(2020年秋に移転し、オーベルジュにリニューアルOPEN予定)

住所:石川県七尾市和倉町ヲ部22-2 MAP
電話:0767-62-2410
https://www.wakura-blossom.jp/

住所:石川県七尾市一本杉32-1
(2020年春にOPEN予定)

住所:石川県鳳珠郡能登町瑞穂163-1 MAP
電話:0768-67-1003

手つかずの自然の残された、美しき母なる島へ。[東京“真”宝島/東京都 小笠原諸島・母島]

東京"真"宝島OVERVIEW

東京には、人が暮らす島が11島あります。
飛行機で30分もかからずに行ける島。
思い立ったらその日でもすぐに行ける島。
かと思えば入島が制限され上陸するのも一苦労という島。

その中でも本州からもっとも遠く、もっとも時間を要するのが今回ご紹介する母島です。

まずは竹芝桟橋から父島まで定期船「おがさわら丸」で24時間。
父島に到着し、約1時間後に出港する「ははじま丸」に乗ること2時間。
24時間+乗り継ぎ1時間+2時間=合計27時間かかる島、それが東京の有人島最南端の母島なのです。

人口は450人。
お店は3軒、高校や大学もなく、バスや、タクシー、信号もない。
ですが、ここには驚くほどきれいな海があり、
世界自然遺産にも認定された動物や植物が豊富に生きる。
島では、誰もが当たり前にあいさつし、
子どもたちは野山を走り、海で泳ぎ、自然が遊び場。
元気なおじいちゃんやおばあちゃんは会えば、立ち話。
都会のように便利ではないけれど、大切なものがたくさんある。
島の名が示すとおり、大きな愛に包まれる“母なる島”こそが母島なのです。

【関連記事】東京"真"宝島/見たことのない11の東京の姿。その真実に迫る、島旅の記録。

(supported by 東京宝島)

古来の祈りの場を再生して“導き”の神社としてリファイン。[和布刈神社/福岡県北九州市]

潮の満ち引きを司る月の神様「瀬織津姫」を祭る神社が、中川政七商店のコンサルティングによって“在るべきすがた”へアップデート。(Photo Takumi Ota)

和布刈神社由緒正しい神社が、そのままの意義で現代に在り続けるために。

古来より人々が集い、敬虔な祈りを捧げ続けてきた神社。人々の悩みや苦しみに寄り添って、地域の絆をも育んできたそこは、しかし、近年は世情の変化によって賑わいを失いつつあります。

そんな神社を“導きの場”としてリファインしようというのがこのプロジェクト。創建1800年、九州の最北端で関門海峡を望む『和布刈神社(めかりじんじゃ)』が、奈良の老舗・中川政七商店のコンサルティングによって改まりました。

2019年12月に“導き”の神社としてコンセプトや神紋、授与所などを一新。(授与所の内観/Photo Takumi Ota)

本州と九州を繋ぐ大動脈・関門海峡を仰ぎ見る地で人々を導く。(Photo Takumi Ota)

神功皇后が瀬織津姫の教えのままに三韓の征伐に向かわれ、勝利した際に創建された、と伝わる。

和布刈神社迎合するのではなく、移り変わった世の中で存在感を示すために。

全国に8万社以上もある神社は、時代の変化とともにその役割が弱まり、維持や存続が難しくなりつつあります。そんな中コンサルティングを依頼された中川政七商店が『和布刈神社』とともに打ち出したのは、“和布刈神社を在るべきすがたへ”というビジョン。ただ注目を集めるためのリニューアルではない、ご祭神と創建の由緒が伝わるよう丁寧にコンセプトと伝える手法を整えました。

まずは潮の満ち引きを司る女神「瀬織津姫(せおりつひめ)」にちなみ、“導き(=道先を先導する)”というキーワードを創出。そして伝統ある八重桜の神紋をリファインして、御守やおみくじ・縁起物など参拝者の心を“導く”手助けをする授与品と、それらをお渡しする授与所の装いを一新しました。さらに人生の最後の“導き”をも担うために、関門海峡での海洋散骨供養を「海葬」に改めました。

授与品の一覧。再生や始まりを意味する「白」を基調とした御守・おみくじ・縁起物と、万物の源たる「陰陽五行」をモチーフとした御守などをリデザイン。

「一年幸ふくみくじ」。関門海峡の名物・ふぐに見立てた可愛らしいおみくじで、釣り竿で釣ることで神のお告げを頂く。

有史以前からの自然信仰にならって、御霊が海へと還るための供養「海葬」も執り行っている。海洋散骨ののちも、境内の遥拝所で故人を偲ぶことができる。

和布刈神社一気通貫した「コンサルティング」で、伝統の再興を支援。

これらを実現したのは、中川政七商店とそのプロジェクトメンバー達。中川政七商店は、日本の工芸をベースにした生活雑貨の企画製造・小売業として全国展開する直営店舗の印象が強いものの、実は自社の培ってきたノウハウを生かしたコンサルティング事業でも多くの実績を持っています。

まずはコンサルティング事業部の部長であり、「経営者とクリエイターの共通言語」を重んじるメソッドを確立してきた島田智子氏が、コンサルティングを担当。そしてグラフィックデザインは伊勢丹の包装紙のリニューアルや、パティスリーキハチのパッケージなどを手がけてきた岡本健デザイン事務所の岡本健氏と、山中港氏が担いました。さらに参拝者との交流スポットとなる授与所のデザインは、中川政七商店や茶道ブランド「茶論(さろん)」の直営店舗などを手掛けたABOUTの佛願忠洋(ぶつがん・ただひろ)氏が担当しました。
こうしてあまたの実績を誇る精鋭によって、『和布刈神社』は“在るべきすがた”へ改まったのです。

第32代神主・高瀨和信氏も、『和布刈神社』の再建に向けて精力的に活動。その意気を汲んで格調高くリファイン。

由緒や歴史、神領に縁(ゆかり)ある古道具や作家の器などを販売する「母屋」。連綿と続いてきた潮流に触れるひととき。

和布刈神社想いを形にして心を繋ぐ。

「今回のアップデートは、『和布刈神社』の由緒や歴史に紐づくストーリーを重視しつつ事業を整理いたしました」と島田智子氏は語ります。
「コンサルティング時はいつもそうなのですが、特に今回は『神社』からのご依頼ということで、私どもが経験していない領域での1からのスタートとなりました。神社や神道に関しては、長い歴史の中で様々な解釈や考え方があります。私どもでは到底判断がつかない部分も多く、そのため神主の高瀬さんの考えや想いをいかにしっかりと聞き出し、整理した上で表現できるかを大切にいたしました」

こうして『和布刈神社』の整理を進めていき、「なるべく分かりやすく、そぎ落とす」「開きすぎずに神聖さ、緊張感を担保する」、これら2つのバランスをとることを大切にしました。

「神社の創建の歴史などは、古事記や日本書紀といった文献から紐解いている記述が多くあります。ですが、文献によってそれもバラバラですし、難しい漢字が羅列されていて、一般の人々にとっては非常に難解な説明になりがちです。かつての『和布刈神社』様もそのような状態でしたので、“なるべく伝えたいことだけにそぎ落とす”ことに専念いたしました」

一方で、神社は一般的なビジネスとは全く違う領域です。“わかりやすくキャッチ―に伝える”マーケティングのみならず、古来より受け継がれてきた“神聖さ”や“緊張感”を保つことも欠かせません。
それらのバランスをとりながら、神主の高瀬氏や、デザイナーの岡本氏と打ち合わせながら、何度も調整を重ねていきました。

「影と光」というコンセプトでリニューアルされた授与所。(Photo Takumi Ota)

ご祭神の瀬織津姫は、もともと天照大神の荒魂(神の荒々しい側面、陰の部分)だった。そのいわれにちなんで授与所内にも影と光の陰影を表現。(Photo Takumi Ota)

授与所の中央に据えられた御神体の一部「受け岩」は、神社の象徴として授与所全体を見守るとともに、御守の授与の際に重ね合わせて、神職による鈴振りを行うことで、神様の御魂を御守ひとつひとつにお分けしている。

和布刈神社伝統を守りながら新たな歴史を刻む。

こうして『和布刈神社』は、新たな祈りと“導き”の場として再生しました。今後は「茶房」など、古来の日本人の在り方を伝える場の展開も予定しているそうです。

また2020年1月25日には、1800年以上の歴史をもつ祭事「和布刈神事(めかりしんじ)」が厳かに執り行われました。3人の神職が干潮によって現れた海底に降り、鎌でワカメを刈りとって神前に供えながら、航海の安全と豊漁を祈願する習わしです。

さらに3月15日には、人形(ひとがた)に身の罪穢れを移し、無病息災を祈る「上巳(じょうし)の祓い式」が執り行われます。そして北九州市の一大イベント「門司みなと祭」の開催時期に合わせて、5月23日(土)~24日(日)の2日間には、これまた毎年恒例の「例祭」が執り行われます。

新たな人々の拠り所として生まれ変わった『和布刈神社』。日本人のルーツを想い、人と人との絆を確かめ合う場として、どんな人々でも温かく迎え入れてくれます。

親しみやすくも神聖な場として、次の時代へと続いていく。(Photo Takumi Ota)

住所:福岡県北九州市門司区門司3492番地 MAP
電話:093-321-0749
受付時間:9:30~17:00(授与所)
https://www.mekarijinja.com/
(写真提供:中川政七商店)

世界最高峰のレストランのスーシェフと、人気店の寿司職人。ふたりの料理人が、冬の能登島を巡る。[能登島取材ツアー/石川県七尾市]

夜明け前の漁港に、次々と定置網漁の船が帰港する。ここから能登島の豊富な海産物が出荷される。

能登島取材ツアー七尾湾に浮かぶ小さな島へ、食材を探しに。

能登島は、能登半島の中ほどにある七尾湾に浮かぶ周囲約72kmの島。1982年に能登島大橋が開通するまでは、船が本土と行き来する唯一の交通手段でした。そのため島内よりもむしろ対岸にある都市との交流が盛んで、七尾市に面した島の西側と珠洲方面に近い東側では方言まで異なるとか。「話してみれば、島内のどの地区の出身だかわかる」と、島の方々は口を揃えます。

このように小さな島の中に多様性があり、さらに島特有の文化も育みながら歩んできた能登島。今回はそんな能登島の食を探し、ふたりの料理人が島を訪ねました。

ひとりは食材を追求し日本各地を歩き回る真摯な寿司職人・江戸川橋『酢飯屋』の岡田大介氏。ひとりは「World’s Best 50 Restaurants」で4度の1位に輝いたデンマーク『NOMA』でスーシェフ兼メニューを開発者として活躍する高橋惇一氏。ふたりは長年の友人同士。活躍の場は違えども、食材を見つめる目や、料理哲学には共通点もいろいろ。そんなふたりは能登島の食材をどう見つめ、そこから何を得たのでしょうか?

友人同士のふたり。ときにふざけ合い、ときに真剣な料理論を交わす。

能登島取材ツアー郷土寿司とハーブ。興味の先は異なれども、見つめる本質は同じ。

旅行にしては真剣な目的があり、しかし視察と呼ぶには自由すぎる。それはきっと“旅”と呼ぶにふさわしい数日間でした。

2月初旬。雪の舞う能登島。
ふたりが最初に訪れたのは、折しも開催されていた「まあそいマルシェ」の会場でした。“まあそい”とは“豊かな、肥えた、成長した”といった意味の、この地方の方言。地元の集会所で開かれている小さなマルシェですが、ふたりは真剣です。とくに岡田氏は、出店する地元のおばあちゃんに郷土寿司の作り方を真剣に尋ねています。岡田氏のスタンスはいつもこう。人懐こく、誰にでもフレンドリー。ふと気づくと、見知らぬ誰かとすっかり仲良くなっている。この持ち前の性格が、岡田氏の食材探しを有意義にしていることは想像に難くありません。

次いで訪れた『NOTO高農園』は、九州出身の高利充氏と奥様が、20年前にこの地に開いた農園です。方言が島内の東西で異なるのは先述の通りですが、実は土壌も東西で別。外海に面した東側は稲作に向いた砂地、西側は野菜づくりに適した赤土。『高農園』は西側の赤土と向き合いながら、有機野菜づくりに励んでいます。「来る前に土壌の特質がわかっていたわけではありませんが、やればやるほど面白い土です」と高氏。現在では各地の料理人のリクエストに応えながら、年間300種以上の作物を育てています。そしてその畑を前に、今度は高橋氏が目を奪われています。とくに惹きつけられているのはハーブ。「このレモンタイム、爽やかな香りでしょう? この葉だけを摘んでペーストにするんです」と話す高橋氏。優しい視点で、いつもスタッフにまで気を配り、場の雰囲気を和ませるのが高橋氏。岡田氏とは異なるスタイルですが、こちらもまた現地の方の心を溶かします。陽気で活発な岡田氏、穏やかで優しい高橋氏。見事なまでのコンビです。

「まあそいマルシェ」の会場で、メモを取りながら郷土料理の「花ちらし」について訪ねる岡田氏。

『NOTO高農園』では、『NOMA』でのハーブの使い方などを高橋氏が伝えた。

蕪と大根を中心に、土と向き合いながら多種の野菜を作り続ける。

『NOTO高農園』の高夫妻とともに。2月にしては雪が少ないという。

能登島取材ツアー生活の道具であること。器にも潜む、能登島らしさ。

次いでふたりは、能登島にある二箇所の工房を訪ねました。自身の店の一角をギャラリーにするほど器が好きな岡田氏と、器とのバランスも含めてメニューを考案する高橋氏。どちらも料理における器の大切さを実感しています。

そんなふたりを迎えた能登島を代表する工房。一軒目は元プロダクトデザイナーの藤井博文氏の『陶房 独歩炎』。藤井氏が手掛けるのは陶器のような磁器と、磁器のような陶器。土のあたたかみがありつつ、磁気のような滑らかさも併せ持つテクスチャは唯一無二の存在感ですが、藤井氏は「自分は作家というよりもデザイナー。日常的に使う道具であることを第一に考えています」といいます。その上で企業や飲食店から難しい依頼が入ると「燃える」のだと笑います。真っ平らな皿、独特な形のキャセロール、液垂れしない醤油差し。藤井氏の作品の多くは、そうした依頼から生まれています。

岡田氏はそんな藤井氏の言葉に深く頷きます。「えび専用皿とかイカ専用皿といった依頼をすることがあります。そういう課題がある方が、創作意欲が湧く人もいますから。そしてそこから思いもよらないものが生まれたりもするんです」
器の大切さを知っているからこそ、作家の創作意欲にまで心を配る。岡田大介という人物がまた少し見えてきました。

次いで訪れたのは能登島の小さなガラス工房『kota glass』。ガラス作家・有永浩太氏のアトリエで、ここから数々の賞に輝く独特なガラス作品が生まれます。ふたりの料理人を惹きつけた有永氏の作品の特徴は、色。とくに海外ではガラス作品に色が入るのは珍しいといいます。「海外の多くのレストランは白を中心にデザインされています。だから透明なガラスが映えます。一方、日本では木が主体のため、色を少し入れることで背景と馴染みやすくなるのです」そんな有永氏の解説を熱心に聞くふたり。

色がありながら、ガラスならではの清廉な透明感を失わない有永氏の作品ですが、その根本はやはり「生活の中にもっとガラスを取り入れて欲しい」との思い。

道具として日常に親しみ、使われてこそ価値がある。能登島で出会ったふたりの作家の思いは、能登島のものづくりに共通する哲学なのかもしれません。

『陶房 独歩炎』の藤井氏。自身を「デザイナー」と言いつつ、熱い職人魂も持つ人物。

金属を混ぜた釉薬で光沢を出す陶器など、独自の感性が光る作品が揃う。

藤井氏の作品は、東京・明治神宮前のギャラリー『一客』でも常設展示されている。

『kota glass』の有永氏。個人の工房だからこそできる個性ある色とデザインを目指す。

グレーやアンバーなどの色が入ることで、器自体の輪郭が際立つ。

2軒の工房で見た作品は、ふたりともその場で購入していた。

能登島取材ツアー早朝の漁港から醤油蔵まで、多様性に富んだ食をたどる。

翌朝、まだ夜も明ける前から起き出したふたりは、『えのめ漁港』に向かいます。
七尾湾、富山湾、そして日本海と豊かな漁場に近い能登島は、言うまでもなく魚介の産地。とくに定置網漁が盛んで、ブリ、タラ、サバなどの魚介が豊富に揚がります。
戻ってくる漁船を港で迎えるふたり。しかし考えてみれば、どんな魚が揚がるか知るだけならば、電話で尋ねるだけでも十分なはず。それでも、突き刺すような寒さの中、早朝の漁港に向かうのは、どのような魚がどのように扱われているか、自身の目で確かめたいから。それほどまでにふたりの料理人は、食材と真剣に向き合うのです。

揚がったばかりのイカを手渡され、その場でかじりつく。どのように選別、梱包されるかを真剣に見つめる。ふたりの漁港の見学は、夜がすっかり明けるまで続きました。

さらにふたりの興味は、この地特有の調味料にまで広がります。鉄製の釜で海水を煮詰めるという、一度は途絶えてしまった能登島独自の塩作り製法を蘇らせた源内伸秀氏を訪ねて話を伺う。日本三大魚醤に数えられる能登独自の魚醤“いしり”づくりの工場を見学し、その味を確かめる。岡田氏が惚れ込み、日頃から使用する手作りの醤油の『鳥居醤油』の蔵を訪れる。

どれも熟成などの長い時間がかかる仕込み作業であり、目の前で完成する様子が確認できるわけではありません。それでもふたりは足を運び、話しをするのです。それは造り手の思いや人柄が、ある食材や調味料の完成形に大きな影響を及ぼすことを知っているから。「たとえば寿司屋が必ず扱う醤油。鳥居さんは手で作って、自分で売っている。“昔は当たり前だった”なんて言いますけど、それを変えないことがすごい。自分で作って売る仕事をしているからには、こういうものを使いたいと思うんです」岡田氏はそう言います。

取材班が同行した能登島の2日以外にも数日間能登半島に滞在し、食材を見て回ったふたり。そこで見極めたのは、現地での食材の扱われ方、そして生産者の人間味でした。
「自分たちの居場所、身の回りのものを大切にされている、という印象」高橋氏は能登島をそんな言葉で語りました。「だから言い方が難しいのですが、もしも仮にここの食材がベストではなくても、使いたいなと思います。もちろん、おいしいんですよ。でもそれ以上に人間味の部分が印象的で。料理は、生産者のことも含めたストーリーを伝えられることが大切ですから」そう笑いながら付け加えます。「人と直接会って話すと、メールのやりとりでは起こり得ないミラクルが起きるんです」
岡田氏も今回の旅から得るものが多かった様子。以前に何度も能登半島を訪れている岡田氏ですが、能登島ははじめてでした。「能登というくくりにできないほど特徴的ですね」と印象を語ります。「僕は比較的産地を訪問する料理人だと思いますが、そこで見るのは“現地でどんな食材が大切にされているか”ということ。現地で大切にされていれば、大切に出荷されますからね。この能登島でとくに驚いたのは海藻。これは今後取り入れていこうと思う部分です」

約40種類が食用になり、“日本で一番海藻を食べる”と言われるこの海藻のほか、海を泳いで渡って原生林で繁殖し、いまでは島民以上の数になったイノシシ、牡蠣殻を肥料にする米など、まだまだ能登島には特産がいろいろ。この能登島での数々の出会いが、ふたりの料理人、そして2軒の名店の未来を、少し変えていくのかもしれません。

頂いたイカをその場で齧る岡田氏。まず自身の感覚で確かめることが寿司職人としての矜持。

次々と船が入り慌ただしい朝の漁港。それでも質問に答えて頂くなど、どこか穏やかな人の良さが垣間見えた。

立ち寄った道の駅では、能登島でつくられる地酒に興味を示した。

塩作りの源内氏にタコ捕りを習い、はしゃぐふたり。疲れなど感じさせない行動力。

鉄の釜で海水を煮詰めるかつての塩作りを復活させた源内氏。

『いしり工房』で、魚醤の製法を学ぶ。調味料には土地柄が表れやすいとか。

『いしり工房』直営の飲食店『いしり亭』では、自家製いしりを使った料理が楽しめる。

昔ながらの手仕込みを守る『鳥居醤油』。その頑固なまでの姿勢が岡田氏を魅了する。

『鳥居醤油』は手仕込み故に、味と香りに振れ幅があり、そこがまた魅力になっている。

住所:〒926-0224 石川県能登島百万石町27番3号
https://taka-farm.com/

http://www.doppo.jp/

https://www.kotaglass.com/

住所:〒926-0806 石川県七尾市一本杉町29
電話:0767-52-0368
http://www.toriishouyu.jp/

能登に根差す若手料理人トップチーム「N-Terra」結成。能登の地に芽吹く、美食旅の最新形。[N-Terra お披露目イベント/石川県能登半島]

『N-Terra』のメンバー。『ラトリエ ドゥ ノト』の池端隼也氏(写真中央)、ジェラート店『MALGA GELATO』 の柴野大造氏(左端)、イタリア料理店『Villa della Pace』の平田明珠氏(左から二人目)、日本料理の料理人・川嶋享氏(右から二人目)、『ブロッサム』のシェフ・黒川恭平氏(右端)。

N-Terra お披露目イベントジャンルを超えたコラボが生む「能登の里山里海」フルコース。

2月のある晩、石川県輪島市にあるフランス料理店『ラトリエ ドゥ ノト』は、静かな熱気に満ちあふれていました。旅や食関連のジャーナリスト、有名旅館のオーナー、伝統工芸の作家らが続々と集まってきています。迎えるのは、同店のオーナーシェフ・池端隼也氏を筆頭に、能登町のジェラート店『MALGA GELATO』のジェラートマエストロ・柴野大造氏、七尾市のイタリア料理店『Villa della Pace』のオーナーシェフ・平田明珠氏、七尾市で割烹を開店準備中の料理人・川嶋享氏、七尾市の洋食店『ブロッサム』のシェフ・黒川恭平氏の5名。彼らは、料理人の力で能登の持続可能な地域社会を目指すネットワーク『N-Terra(エヌテラ)』を結成。そのお披露目イベントとして、夕食会が開かれようとしているのです。

“能登”の「N」にイタリア語で“大地”を意味する「Terra」を組み合わせたチーム名には、能登の地に根差して活動していくことへの強い思いが込められています。本州から北へ細長く突き出る能登半島は、外浦は暖流と寒流がちょうどぶつかる荒々しい海、内浦は“天然の生簀”とも称される穏やかな海の恵みを受け、山、平地、川、湾が複雑に入り組んだ自然豊かな地。魚介、肉、米、野菜、果物、山菜、ジビエ、調味料に至るまで実にバラエティ豊かで良質な食材に彩られています。さらに、古来、北前船の中継地であったことから、日本全国や大陸との交流によって、各地の技術を取り入れた食文化を発展させてきました。また、輪島塗や珠洲焼といった伝統工芸においても技術の洗練が追求されてきたことも特徴的です。

2011年には、農林漁業を中心に自然と調和した暮らしが継承されてきた「能登の里山里海」は世界農業遺産に認定。能登の自然環境と文化を、食を通じて広く発信したいという思いをひとつにして結成されたのがこの『N-Terra』なのです。

能登の5人の料理人がタッグを組んだ渾身のコースがいよいよスタートしました。

一品一品に対して、使われている素材の背景とコンセプトなど、皿に込められているストーリーの説明が。すべてに能登のワインや日本酒をペアリング。器やグラスにも能登の作家のものが使われている。

池端氏の締め鯖のクレープ。緑の大地を連想させる小松菜のクレープで魚とハーブをくるりと巻き、里山里海の恵みをひと口で味わえる。器は輪島塗工房『キリモト』製。

お碗の出汁は直前に鰹節を削る。日本料理の命である出汁を引く工程では、川嶋氏はひときわ気持ちが入る。

川嶋氏による“手仕事”を表現したお碗。加工に大変な手間ひまを要するなまこの卵巣の塩辛このわたと、胡麻を煎り、あたり(擦る)、手で練り上げる胡麻豆腐に、削りたての鰹節と3年熟成の昆布でとった香り高い一番出汁を張る。塩味はこのわたの塩分のみ。胡麻と磯の上品な香りが鼻に抜ける。ペアリングは中能登町の純米酒『池月』。

池端氏のサラダ。ガス海老、イカ、バイ貝、中能登町の無農薬・自然栽培の農園『あんがとう農園』のハーブとエディブルフラワー。ガス海老もイカもすぐに身がだれ変色してしまうものだが、鮮度抜群のものをシンプルに堪能できる、能登ならではの一品。ペアリングは輪島市の白藤酒造の希少な酒『奥能登の白菊 自然栽培米 純米酒』。

N-Terra お披露目イベント信頼できる生産者、最高の食材はすぐそばに。

この日の昼、生産者の元へ行く平田氏に同行させてもらいました。向かったのは七尾市能登島で有機栽培で多様な有機野菜を作る『高農園』。『N-Terra』のメンバー全員が懇意にしている生産者のひとつです。

代表の高利充氏は脱サラで農業を始めた新規就農者です。金沢出身で、福岡で営業職のサラリーマンをしていましたが、鹿児島出身の奥さんと出会ってから「ふたりで農業をやろう」と場所を探し、能登島に出合いました。土作りから始めてアルバイトをしながらイモ類やキャベツを育てていましたが、食べていくまでの収入にはつながりません。限界を感じた高氏は、買い叩かれない付加価値の高い少量多品種の野菜作りへのシフトを図ると同時に、消費の最前線である飲食店への直販ルートの開拓に努めます。

著名な料理人に採用されたことが口火となり、東京を中心に販路は着実に増えていきました。現在、直販先は約200カ所にのぼり、耕作面積は約20ha、年間を通じて300種類を栽培するまでになりました。
「能登島は赤土なのでミネラル豊富で、しっかりした味の野菜が育ちます。大切にしているのは、農薬も化学肥料も極力使わず、大地がもともと持っている力を借りて自然のままに育てること。愛情は全力で注いでいますけど」と高氏は話します。
「畑の周りではノビルやハコベなども採れます。これはタラの芽ですよ。作物以外にもいろんな食材が身近なところにあることを地元の方々に教わっています。結局、その土地で無理なく育ったものがいちばん美味しいということを学びました」と平田氏。時間をつくっては高氏を訪ねて、旬の野菜やハーブの様子を確認したり、新しい品種の情報などを仕入れるようにしています。高氏も平田氏のように直接料理人と話す時間を大切にしています。野菜を実際に調理する人の感想や味わった人の反応をつぶさに知ることができ、また野菜作りにフィードバックすることができるからです。

出荷に追われる高氏を引き留めてはいけないと、平田氏は採れたてのサンゴケールやちりめんキャベツ、日野菜蕪などを仕入れて農園を後にします。午前中まで土の中にいたこれらの野菜たちは、この日のディナーに登場しました。優れた食材が目と鼻の先にあり、すぐに調理できるという状況は、なんと贅沢なことでしょうか。食材がなんでも手に入るという能登では、料理人と生産者とのこのようなネットワークがごく自然なものとして存在しているのです。

うっすらと雪をかぶった『高農園』の畑にて代表の高氏と平田氏。高氏にとって料理人と話す時間は現場のニーズを知る大切な機会。平田氏にとっても畑を訪れるのは料理のインスピレーションを得るために、なくてはならない時間だ。

平田氏の原木しいたけ「のと115」のコンフィ。肉厚な能登のブランドしいたけ「のと115」のオイル漬けを金柑とカワハギと共にいただく。表面にはフキノトウの香り、ソースからはイカ墨と海藻の風味がふわりと漂う。周りにはシェフ自ら山で積んできた野苺や野草が。ペアリングには10年以上前に瓶詰めされた二羽鶴酒造『能登 三年酒』。

『高農園』と『あんがとう農園』の野菜を使った黒川氏のサラダ。シーザードレッシングは液体窒素で急冷しパウダー状に。人参とほうれん草はそれぞれの調理法で甘みを引き出し、雪の下で糖度を上げる畑を表現している。柴野氏のレタスのジェラートと共にいただく。ペアリングは羽咋市の御祖酒造『遊穂 おりがらみ』。

普段は各自の店でリーダーシップをとるシェフたち。プロフェッショナル同士のコラボレーションは、細かな説明がなくても呼吸が合うから不思議だ。

川嶋氏の蒸しかぶら寿司。本来のかぶら寿司はかぶらとブリを使って発酵させるなれずしだが、麹に漬けて4日熟成させたブリを香ばしく焼き上げ、もち米と合わせて握り寿司状に。そこにかぶら餡をたっぷりとかけている。輪島の伝統菓子「柚餅子(ゆべし)」へのオマージュにもなっている。ペアリングは中能登町のどぶろく。

平田氏のイノシシの煮込み。能登のじろ飴を塗ったイノシシをイノシシの骨でとったスープでじっくりトロトロに。付け合わせは、イノシシの大好物であるサツマイモを入れて野草茶で炊いたリゾット、春の山の味覚であるノビルのピクルスとセリのタプナード。さらに穴水町で伝統的に栽培されているカラシナ種、唐川菜のジェラートが添えられる。ペアリングは数馬酒造がジビエ専用に開発した『竹葉 ジビエ純米』。

N-Terra お披露目イベント能登を「スローツーリズム」を実現する世界最先端の田舎に。

ひとつの料理ジャンルの研究や振興を目的にした料理人ネットワークはたくさんありますが、『N-Terra』のように特定地域でジャンルを超えて結びつくネットワークはあまり聞きません。そもそもどのような経緯で生まれたのでしょうか。
池端氏が旗振り役となってメンバーを募ったと勝手に想像していましたが、結局のところメンバーのみなさんに聞いてもはっきりしたことはわかりませんでした。共通した話としては、互いの店へ食べに行って知り合い、付き合いのある生産者が同じだったり、おすすめの生産者を紹介したりする中で交流を深めてきたということ。そして、能登には素晴らしい食材があり、その存在を伝えるのは料理人の役目だと感じていたこと。どうやら志を同じくする彼ら5名が自然に結びついてコラボレーションするようになり、そのグループにあらためて名前がついた、というのが事の真相。出会うべくして出会った仲間と言えるでしょう。

彼らの描く未来には石川県の「スローツーリズム」の考え方がベースにあります。“食”を切り口に、その地域ならではの新しい価値観を創造し、来訪者に新たなライフスタイルを提案する旅。イタリアのスローフードやスローシティのコンセプトにも通じる、物事の本質を見つめる目でゆったりと能登の魅力を味わってほしいという思いがあるのです。

料理はなによりも雄弁です。コースが進んでいくにつれ、次は皿の上で能登のどんなストーリーが語られるのだろうかと期待がさらに膨らんでいきます。メンバーは調理の合間にサーブを手伝い、ゲストたちとしばし語らいます。彼らも次第に緊張がほぐれ、達成感に満たされていくのが伝わってきます。

ゲストのひとり、日本におけるスローフード運動をリードする島村菜津氏の言葉が印象的でした。
「日本の観光地を見てもそうでしょう、世界中でマスツーリズムが浸透していくにつれ、それまで地域ならではの個性を持っていた田舎は壊され、均質化し、中央の資本に利益を吸い取られて魅力を失っていきました。その教訓から、マスツーリズムの進出を食い止め、地元民の手によって地域の自然と文化を守りながら唯一無二の個性を磨いていくのが、世界の潮流になっています。能登には世界に誇れる文化と自然がある。文化と自然を守り、魅力を発信できる人々がいる。ここには最先端のツーリズムがあると言っても過言ではないでしょう」

『N-Terra』の取り組みは、ローカルがローカルであり続けながら本質的な豊かさを未来へとつなげていけるか。その試金石としても注目を集めていくはずです。

池端氏の魚料理、マフグのミキュイ(半生)。春菊のソースと共にたっぷりと注がれているのは、さまざまな骨や野菜の切れ端を材料に丁寧に抽出したスープ。厨房においてフードロスは微塵も発生させないという決意が表現されている。その上品かつ複雑なスープをまとったフグは、噛むほどに旨味があふれ出る。ペアリングは輪島市にあるハイディワイナリーの『セイベル ブラン』。

黒川氏による能登牛のハンバーグ。先人からの知恵や技術を受け継ぐ“承継”をテーマにした一品。穴水町にある能登ワインの赤ワインを使って煮込み、やはり洋食の定番であるマカロニグラタンを添えている。同時に柴野氏によるバゲットのジェラートをパン代わりにサーブ。ジェラートだけど確かにバゲットという摩訶不思議な美味しさ。冷温の共演も楽しいメインディッシュだ。ペアリングは能登ワインの『クオネス ヤマソーヴィニョン』。

デザートは柴野氏のジェラート盛り合わせ。モッツァレラ、桜、能登大納言小豆、どぶろく、ビターチョコレートなど。どれも甘さ控えめで、素材のフレッシュな風味が心地いい。口溶けがやさしく、喉ごしとキレが秀逸。いくらでも食べられる。

最後にスタッフ全員でご挨拶。やり切ったというスタッフと幸せそうなゲストの笑顔にその場は包まれた。

人気パティスリーを切り盛りする、26歳の若社長。津軽スイーツ界のホープに会いに行く。[TSUGARU Le Bon Marché・アンジェリック/青森県弘前市]

現在は20名近いスタッフをまとめる『アンジェリック』代表・成田巧樹氏。開店中のほとんどの時間、ほかのスタッフと一緒に厨房で手を動かし続ける。

津軽ボンマルシェ午前中から人が絶えない、弘前の超人気パティスリー。

りんご生産量日本一を誇る津軽エリアでは、アップルパイがひとつの強力な観光コンテンツ。多くのスイーツ店やパン店がそれぞれに趣向を凝らしたアップルパイを販売する中、根強い人気を誇るのが、弘前市にあるパティスリー『アンジェリック』のアップルパイです。以前「津軽ボンマルシェ」で行ったりんごがテーマの対談企画でも、普段津軽をベースに活動している参加者全員が「本当に美味しい!」と大絶賛。しかも参加者のひとり・『パン屋 といとい』成田志乃さんが元々働いていた店という縁もあり、対談当日は代表の成田巧樹氏が飛び入り参加してくれる展開となりました(ちなみに、同じ苗字のふたりですが、血縁関係などはなし。『成田』は津軽に多い姓として知られています)。

生産者の高齢化や後継者不足など、津軽のりんご産業が直面する課題についての話も多く交わされた対談の中、大いに盛り上がったのが、弘前市内でも一、二を争う人気パティスリーを切り盛りする成田氏の、地元への強い想い。「弘前の街が活性化したら、自分たちの商売ももっと良くなるはず。色んな業種の人の独立を後押しするような活動ができればいいなと思って」。そう語る成田氏は、弱冠26歳の若さです。きっと成田氏のような存在が、これからの津軽を牽引していくに違いない。対談時に感じたそんな想いから取材を申し込み、後日改めて店舗を訪れました。

弘前駅から車で10分ほどの幹線道路沿い、真っ白でスタイリッシュな外観が目を引く建物が『アンジェリック』。中に入ると、圧倒されるのがその品数です。美しいケーキが鎮座する正面の冷蔵ケースの上には、タルトやパンがずらり。右にも左にも、クッキーなどの焼き菓子、カラフルなマカロン、贈答用の詰め合わせなどがぎっしりと陳列された什器が並びます。「生ケーキはいつも25種類前後、パンは2、30種類揃えています。そのほか焼き菓子やチョコレートが50から60種類くらいかな。改めて数えると、結構ありますね(笑)」と成田氏。開店時間を過ぎると次々とお客さんが訪れにぎわう店内の様子から、名実ともに弘前を代表するパティスリーであることが伝わってきます。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

いい意味でケーキ店のイメージを裏切る、白い箱のような独特の外観がユニーク。気付かずに通り過ぎてしまう人も多いとか。

ケース内には洗練されたデザインのケーキ類が並ぶ。季節ごとの新作も多く、「楽しみながら作りたいから、飽きてきたら変えるんです(笑)」と成田氏。

ショップからは、厨房の忙しそうな様子が見て取れる。遅い時間でも商品が売り切れることがないよう、毎日夕方4時頃まで製造を続けるそう。

津軽ボンマルシェ金髪だったやんちゃな青年が、数千万円の借金を背負って代表取締役に。

成田氏は弘前市の郊外出身。パティシエのキャリアのきっかけとなったのは、高校時代にケーキ店でアルバイトを始めたことでした。「共働き家庭のおばあちゃん子だったこともあり、成田氏にとってケーキは昔から“クリスマスや誕生日にしか食べられない特別なもの”。アルバイトを始め、初めて「ケーキって作れるものなんだ!」と知ったそう。勉強は嫌いでも何か作るのは好きだったこともあり、高校卒業後に紹介を受けて就職したのが、当時別のパティシエが経営していた『アンジェリック』だったのです」。想像以上に繊細な作業に苦労する一方、気付けばケーキ作りの魅力にどっぷりハマっていたという成田氏。失敗しても、理由を調べると「これはそういうことか、あれもそうなのか」とどんどん繋がっていくのが楽しく、日々「何でだろう、じゃあ調べよう」の繰り返しだったとか」。当時同僚だった『パン屋 といとい』成田志乃さんは、その頃の成田氏を振り返ってこう話します。「バッキバキの金髪でとがってたけど、根は真面目でした。“腕に貯金”っていうのが、当時の私たちの合言葉で。今学ぶ技術が後の自分への投資になるはずと信じて、よく遅くまで一緒に残って作業していました」。

当時の社長にも、そんな成田氏の様子が見えていたのでしょう。自身が経営から退くと決めたとき、『アンジェリック』の事業を引き継がないかと声を掛けたのが成田氏でした。「正直、なんでオレ?って。相当やんちゃで、理不尽な先輩にふきん投げつけるくらい生意気だったから(笑)。同僚の中にはケーキ屋の息子も多かったけど、自分はそうじゃない。帰るところがない分、応援してくれたのだと思います」。社長業を担うことを決心したのが24歳。銀行に融資を頼み込み、数千万円を借り入れて自らの会社を設立、『アンジェリック』を買い取り代表となったのはそれからわずか3カ月後のこと。

就任後にまず改革したのは、販売する商品より先に、スタッフの労働環境でした。それまでは固定残業で給金、休みともに十分ではないと感じていたうえ、ほかのスタッフの不満も耳にしていた成田氏は、最初に残業時間の管理を開始。好きなときに休みが取れるシステムに変更しました。「そもそもケーキ作りって、すごく効率が悪いんですよ。ひとつ作るのに、土台作ってジャムやクリーム炊いて、冷やしたり温めたり……。収益上げるには、もう自分が頭使うしかなくて」と成田氏。さまざまな施策に取り組みましたが、売り上げが落ちる夏場に行うホールケーキのセールもそのひとつ。予約が一台入るごとに、スタッフ全員に決められた金額のボーナスが入る制度にしたところ、現場のやる気がぐんと上がったそう。「『あと10台売れば3000円!』って、みんな自分からどんどん宣伝してくれて。普通そういうキャンペーンって働く側からしたら忙しくなるし、嫌なものじゃないですか。でも目に見える形で収入が上がると変わる。スタッフみんなと一緒に、自分たちでお金を作っていきたいんです」。

今も何でも調べたり、試したりするのは変わらないと成田氏。「新しい素材はすぐ試します。メーカーや商社の営業さんと話すのも勉強になるし、すごく楽しい」。

『アンジェリック』で一番の人気を誇る「アップルパイ」。パイ生地の上にりんごペースト、紅玉ジャム、スライスした生のりんごを乗せて焼き上げる。

前社長の時代に、弘前店・鶴田店・青森店の3店舗を展開していた『アンジェリック』。現在はそれぞれが独立し、経営母体は異なる。

津軽ボンマルシェスイーツを介し、生産者、お客さん、そして地域と繋がる店に。

既に確固たる人気を確立していた『アンジェリック』。特にアップルパイは、長年店の代名詞的存在でした。成田氏が代表となった2017年、最初に原材料を見直した商品がこのアップルパイ。それまで青果店から仕入れていたりんごを、すべて弘前市の契約農家のものに変更したのです。「ずっと誰が作ったか分からないりんごを使っていて、なんか気持ち悪いなって。一カ所の農家さんからたくさん買う代わり、シャキシャキした食感出したいから少し早く収穫してくれとか、美味しく加工するためのわがままは言わせてもらってます。品種も時期によってまちまち。一年中同じ味に作るのが一般的だと思うけど、うちでは品種が変わるから味も変わる。でも生ものなんだから、ブレてなんぼでしょ? 作ってる俺らも楽しいし、お客さんも『今日は何の品種?』とか『この品種初めて食べた』とか話してくれますよ」と成田氏。

ちなみにアップルパイはこの3年間で売り上げが倍増。多い日にはなんと900個も販売するそう。さらに成田氏は、アップルパイの新たな仕掛けを計画中とか。現在販売中のアップルパイの難点は、フレッシュな分賞味期限が1日と短く、遠方への手土産には向かないこと。ならば途中まで作った状態で冷凍し、最後にお客さん自身が焼き上げるアップルパイがあれば、持ち帰りも発送もできるうえ、美味しいタイミングで食べてもらえると考えています。「家で出来立てが味わえるの、おもしろいじゃないですか。それにこれが売れたら、津軽のりんごをもっとたくさんの人に知ってもらえる。りんごの食感をどう残すかとか課題も多くて、まだまだ計画段階ですが」と成田氏。

取材に訪れた時期は、タルトに使われた洋梨のル・レクチェやいちごなども地元・津軽産。地域の旬の農産物を積極的に使うようになった『アンジェリック』は、農家と消費者の橋渡し役を担います。パティシエとしてさまざまな食材に接するうち、「農家の仕事ってすげーなと思うようになった」という成田氏。「ここの農家さんの作物が好き、考え方が好きだと思ったら、傷ものでも何でも最高に美味しく加工して売るのが俺らの仕事」と語ります。

パティシエになってからは『アンジェリック』一本の成田氏。地方から東京や海外へ出向き経験を積む若手も多い中、特に他店での修業は考えなかったと言います。その理由は、今後もずっと大好きな地元・津軽をベースに商売を続けていきたいという想い。「県外で数年やるより弘前で数年やる方が、断然こっちのニーズも分かるし繋がりもできるでしょ。東京にも、最高の素材と最新の技術でめちゃくちゃ美味しいケーキを出すところがあれば、手頃な価格と食べやすい味でファミリー層に愛される店もあります。結局それぞれだし、地元と県外を天秤にかけて考えなくてもいいかなと。うちで目指すのは、幅広い年齢のお客さんに美味しいと思ってもらえるもの。マニア向きは作りません。でもその中にひとつかふたつ、自分がやりたいことだけ詰め込んだ攻めたケーキがある。なぜって、その方がやってて楽しいからですよ(笑)」。

ごく一部のイベント出店を除き、商品の販売を行うのはこちらの店舗のみ。「自分の目が届かないところで売られるのが気持ち悪いから」と成田氏。

取材時に使われていた地元産のフルーツ。成田氏が代表となってから、こうした食材の比率が増えた。津軽はほかにもぶどうや桃、さくらんぼ、メロンなどの名産地として知られる。

津軽らしさ全開のケーキは観光客にも人気。プライスカードには、中身の構造がひと目で分かるイラストが。成田氏曰く、「カッコつけた店より、分かりやすい店でありたい」。

津軽塗の漆器にそっくりなチョコレート菓子「津軽香々欧(つがるカカオ)」も手土産に最適。クッキーを包んだミルクチョコレートに、食用色素による模様をプリントしたもの。

津軽ボンマルシェ経験の浅さも長所に。独自の“放牧式”経営術で生まれる団結力。

次々語られる迷いのない言葉から、経営者としての技量が垣間見える成田氏。しかし意外や「店で一番足を引っ張っているのは俺ですよ」と笑いながら話します。曰く、自らの経営方針は“牧場経営”。その心は、「スタッフに割とのびのび動いてもらう、“放牧式”の経営です。自分が未熟な分、みんなに助けてもらわないと」とのこと。たとえば成田氏が思い付きで購入を決めてしまった陳列棚は、「下に在庫が入れば品出しが楽になる」というサービス担当者の意見により改造され、使いやすい焼き菓子用什器に変身。「各担当者がそれぞれ自発的に考えるようになったら、どんどん効率が上がって。最近は何かあると、スタッフ同士で解決してくれるようになりました(笑)」と成田氏。

さらに成田流のコミュニケーションも、チームの関係作りに大いに影響を及ぼしているようです。「自分は経験が浅い分プライドがないから、突っ走る前にブレーキをかけられるんです。周りに意見を言われても、普通の社長だったら『いや、ここはこうすべき』と通すところも、俺の場合は『え、何で? 理由教えて!』って。だから大きな失敗はそれほどないし、失敗するときはみんなも一緒(笑)。クセの強いメンバーが多いけど、何かやり残しがあれば全員で終わらせるのが今の共通のスタンスだし、人間関係はすごくいいと断言できる。スタッフこそがうちの店の強み、武器みたいなものだと思っています」。『アンジェリック』の経営元となる会社を設立する際、『グランメルシー』と命名した成田氏。「めっちゃ感謝!」(by成田氏)という意味のこの名には、お客さんへの感謝のほか、スタッフや業者・生産者の人々など、すべての工程に関わる人、物を大事にしたいという想いを込めたそう。

取材中、成田氏のいくつかの言葉が印象に残りました。スタッフの働き方改革について話したときには「体調がキツいから休みたいって言うのも結構勇気がいるはず。その気持ちをないがしろにしたくない」。チームワークの話題になったときには「失敗って、別にひとりのせいじゃない。普段からお互いに気に掛けていれば、誰かが気付いて止められるじゃないですか」。りんご対談の際は少し不敵な一匹狼タイプに見えた成田氏でしたが、今回じっくりと話を聞いて見えてきたのは、周囲へ細やかに気を配るリーダーの一面。『アンジェリック』の美味しいスイーツとにぎわいは、そんな成田氏率いるチームの団結力あってこそなのでしょう。

前社長から引き継いでから3年、「ありがたいことに、売り上げもよく人手も足りている。事業としては順調です」という『アンジェリック』。成田氏は現在、新たに『グランメルシー』の名前でブランドを作りたいと考え中とか。初めて立ち上げから手掛けるブランドに託すのは、人口減少が顕著な地方を盛り上げるため、自分たちのような若い世代が行動し、実績を作るべきという信念です。「刺激を受けた人が、何か始めるきっかけになれば」。そう語り、自ら地元の台風の目となるべく進み続ける成田氏。その視線の先には、スイーツ界に留まらない、津軽の未来が広がっていました。

一部商品ラインナップのほか、黒を基調にしたシックな内装やパッケージなどは、前社長時代からそのまま継続。「既に人気もブランド力もある店だったので、変えない方がいいところも多かった。一番変化したのは、スタッフの働き方ですね」と成田氏。

記念日需要の高さにも納得の、見目麗しいホールケーキ。卵や小麦粉、乳製品を使わないアレルギー対応ケーキのオーダーも受け付けている。

普段は愛煙家で塩辛い食べ物が大好きだが、「味に対する勘はいい方だと思う。人が作った食べものの改善点をあら探しするのが癖なんです」と笑う成田氏。インタビューを行ったのは、『アンジェリック』上階にあるコーヒー専門店『iro coffee』。元々『アンジェリック』スタッフだったバリスタ・千葉俊氏の独立を後押しし、二階のスペースでの営業を提案したのも成田氏だ。

住所:青森県弘前市野田1-3-16 MAP
電話:0172-35-9894
https://www.instagram.com/angelique_hirosaki/

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

厳しい自然環境にありながら、その豊かな恵みとともに生きる小さな島。[東京“真”宝島/東京都 利島]

東京"真"宝島OVERVIEW

周囲約8kmというとても小さな島ながら、海からも空からも必ず目に入る利島の唯一無二の存在感。それは、島そのものが美しい山だからではないでしょうか。宮塚山のなだらかな裾野は海へと広がり、洋上にぽっかりと浮かぶその愛らしい姿かたちがとても印象的です。東京都心から南に約140kmの位置にあり、その名を「としま」と呼びます。伊豆諸島最大にして最も都心に近い大島の南に位置し、伊豆諸島の中では2番目に近い島でありながら、その厳しい自然環境ゆえ、簡単にたどり着くことが困難な島でもあります。

中央に位置する宮塚山のなだらかな姿かたちからは想像もつかないほど、島の周辺は激しい波に削られた断崖絶壁に囲まれ、穏やかな湾も砂浜もなく、着岸が難しい桟橋があるのみ。特に波が荒れやすい冬の海では船の就航率はさらに悪くなり、欠航することもしばしば。島に降り立つと、平らな土地が一切なく、急な坂しかないことにすぐに気がつくでしょう。利島の人々は、御神体そのものである宮塚山のふもとに暮らしている、という表現のほうがしっくりきます。集落は比較的なだらかな島の北側に密集しており、いたるところから大海原をのぞむことができます。

そんな厳しい自然環境の中で暮らす島民の数は約320人ほど。ですが、近年は島暮らしを希望するI ターン者が徐々に増え、現在では島民の約半数を移住者が占めているのだといいます。まだまだ利島の存在を知る人は少なく、降り立つ観光客は決して多くはありませんが、この島で暮らしたいと希望する人々が増えているという事実は、利島という小さな島にある大いなる魅力に惹きつけられている証左でもあるでしょう。

利島を利島たらしめるもの。それは島の約8割を埋め尽くすという、約20万本ものヤブツバキの存在です。最盛期を迎える冬には、島じゅうを赤く染める椿の花が咲き誇り、どこを歩いても可憐な椿の花が目に入ってきます。利島では古くは江戸時代から椿とともに暮らし、椿油を生産してきました。日本で一、二を争う生産量を誇り、有機で栽培された良質なものとして、高く評価されています。さらに、冬にはイセエビ漁がさかんになり、軒先で椿の実を干す光景も利島ならではの風景です。ほかにも、宮塚山にはスダジイなどの巨樹が数多く残っており、初夏には世界最大ともいわれるサクユリの白く美しい大輪の花を目にすることができるでしょう。

険しい断崖絶壁に囲まれた島だからこそ、美しい自然とのどかな暮らしが守られてきました。暮らしの中にある厳しくも豊かな自然と、そこから得られる恵みとともに暮らしてきた利島の人々は “足るを知る”からこそ、来るものたちをやさしく、あたたかく迎えてくれるのです。

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人々が憧れ、集まり、文化を深めていく。コーヒーの聖地を津軽のこの土地へ。[TSUGARU Le Bon Marché・白神焙煎舎/青森県中津軽郡]

30kgのコーヒー豆を炭火で焼くことができるフジローヤル製の大型ロースター。焙煎中はコーヒーの豊かな香りが店内に漂います。工房はガラス張りでオープン。中の様子を自由に眺めることができます。

津軽ボンマルシェ世界自然遺産の玄関口で味わう、一杯のコーヒー。

津軽富士と呼ばれる岩木山の麓にあり、白神山地の玄関口である中津軽郡西目屋村。弘前の街中からは車で30分弱、約1500人という青森県でも最も人口の少ない村であり、世界自然遺産に認定された広大なブナの原生林はすぐ目の前。水源の里と謳われるほどにきれいな水が豊富に流れる、自然に恵まれた地域です。まわりはりんご畑も多く、まるで絵本の中にいるような里山の風景が続く車窓を眺めていると、町の中心ともいうべき施設「道の駅津軽白神 Beechにしめや」に到着しました。近くには村役場や郵便局などが点在し、住民の生活の拠点であると同時に、世界中から観光客が訪れ、エコツーリズムや各種アクティビティ体験ツアーの案内を行う観光情報施設として賑わっています。建物内には、以前「津軽ボンマルシェ」で紹介した『GARUTSU』の2ヵ所目の醸造所である『白神ワイナリー』や、屋上で養蜂を行なっている蜂蜜専門店『BeFavo(ビファーボ)』、ダムマニアに人気の「津軽ダムカレー」が食べられるレストラン『森のドア』などが入っており、道の駅としてはかなり個性的。そして『白神焙煎舎』も同じ建物内の一角にあります。

キリッと黒で統一された店内は、コーヒーの良い香りに包まれ、旅人から仕事の合間のビジネスマン、地元のおじいちゃんおばあちゃんまで、幅広い層の人々がコーヒーを買いに訪れます。店の奥には広い焙煎工房があり、若い男性が興味津々でガラス越しに作業の様子を覗いていることも。誰もが自然と吸い寄せられ、ほっと寛いだ空気に癒される、コーヒーには言葉にできない不思議な魔法が備わっていることは、すでにご承知の通りだと思いますが、この土地には何かそれ以上の神がかったような強い吸引力が感じられるのです。その秘密は一体何なのか?まずは津軽におけるコーヒーの歴史と文化を紐解いてみましょう。

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モダンで落ち着いた雰囲気の白神焙煎舎店内。賑やかで活気ある道の駅の建物内で、この一角だけが一味違うオーラを放っています。道の駅に焙煎施設があるというのも珍しいです。

店の入り口に設置された、ダッチコーヒー(水出しコーヒー)メーカー。白神山地のまろやかな水をポタポタと半日かけて落とす、この地ならではのコーヒーです。その場に立ち止まり、じっと様子を見つめているお客さんも多いとか。

コーヒーを入れるパッケージもユニーク。代表の成田志穂さんがアメリカ西海岸で見つけた、チャイニーズレストランのテイクアウト用パッケージをヒントにデザインしてもらったそうです。

津軽ボンマルシェ江戸時代から続く、津軽のコーヒー文化を受け継いで。

津軽のコーヒーの歴史は江戸時代まで遡ります。およそ200年前、幕府より命を受け、北方警備のため蝦夷地(北海道)へ赴いた津軽潘兵は、冬の厳しい寒さの中で栄養不足になり、当時は不治の病だった浮腫病にかかって多くの人が亡くなりました。そこで、予防薬として配給されたのがコーヒーだったのです。1803年(享和3年)に蘭学医の広川獬が著した「蘭療法」には、浮腫病に対してコーヒーに薬効があることが記されています。コーヒーが最初に伝わったのは長崎の出島といわれていますが、当時飲むことができたのは一部の特権階級のみ。津軽潘兵は農民や漁師の出身も多かったそうで、一般庶民として最初にコーヒーを飲んだのはおそらく津軽の人々だったのではないでしょうか。

現在、弘前の街中には個人経営の小さな喫茶店が多く、コーヒーの街と呼ばれています。津軽出身の文豪・太宰治がよく通っていたという歴史ある喫茶店も当時の面影を残しつつ、営業を続けています。街の人々と共に長い年月をかけて育まれてきたコーヒー文化。その担い手の一人ともいえるのが、1975年に創業した「弘前コーヒースクール」の代表、成田専蔵氏です。店舗・成田専蔵珈琲店を営む傍ら、コーヒーの歴史を自ら研究し、津軽潘兵が飲んでいたコーヒーを再現。弘前市内のいくつかの喫茶店で飲めるように働きかけ、広めました。同市内の喫茶店を巡るスタンプラリーを考案したり、コーヒーに携わる人々の知識や技術向上のためにスクールやライセンスを設けたりと、コーヒーを通じた地域振興に関わる活動を長年精力的に行ってきました。その功労を讃えて、2018年には日本コーヒー文化学会より、第1回文化学会賞を受賞しています。

白神焙煎舎は、成田専蔵氏の思いを受け継ぎ、さらに新しい一歩を踏み出した珈琲施設。代表を務めるのは娘である成田志穂さんです。子供の頃からコーヒーに親しんできたのかと思いきや、大きくなるまで、父親が何をして働いているのかよく知らなかったそうです。
「ある時は使えないクズ豆を大量に持って帰ってきて、家の裏にある畑に撒いていましたから、子供の頃は何か肥料を作る人だと思っていました(笑)。家に篭って文章を書いて、それが新聞に掲載されたり、講演や調査で全国を旅したり、いろんな人に先生って呼ばれていたり。不思議な仕事だなあと思っていて。父の仕事をちゃんと意識するようになったのは、もう少し大人になってからです。自宅の隣に店ができてアルバイトを始めて、だんだんと自分もコーヒーの勉強をするようになりました。大学は英文科でしたから、通訳として父に付いてブラジルやバリ島にコーヒーの視察に行ったりしました」
志穂さんがいつも見ていたのは、なにやら楽しそうな父の姿。コーヒーに携わっていると海外に行けて、いろんな人の繋がりができ、ワクワクするような面白い経験ができる。なんて魅力的な仕事なんだろう、と思っていたそうです。大学を卒業し、ワーキングホリデーでカナダ・バンクーバーに滞在すると、アメリカ西海岸はサードウェーブの新しいコーヒーカルチャーが盛り上がってきたときで、そこから近いバンクーバーもまさに影響を受けていました。エスプレッソ、ラテアートなどは、当時まだ日本でやっているところは少なく、志穂さんの目にはおしゃれな最先端の飲み方に映ったのです。コーヒーへの価値観もガラリと変わりました。その後は自然な流れで父の会社へ入社し、コーヒーに没頭する人生が始まりました。

世界各国からやってきた、コーヒーの生豆の入った麻袋が積み上がるバックヤード。ちなみにブルーマウンテンだけは木樽に詰めて送られて来るそうで、店内のディスプレイにも使われています。

普段は物腰柔らかな志穂さんですが、コーヒーと向き合う時の表情は真剣。ハリオのガラス製ドリッパーを使い、ハンドドリップで淹れています。

ドリップされた豆が膨らみ、ふわりと香りが広がる、至福のひととき。

定番の「白神焙煎炭焼珈琲」。香り豊かでまろやかな、すっきりとした味わい。志穂さんはこの土地のテロワールを大切にし、“西目屋らしい味”を常に意識しています。

津軽ボンマルシェ西目屋村の炭焼きを復活。りんごの剪定枝を炭にしてコーヒーを焙煎。

津軽のコーヒー文化を長らく牽引してきた成田親子。しかし、二人の兼ねてからの願いは、その歩みをさらに一歩深いところへ踏み込み、しっかりと根を張って広げて行けるような場を整えることでした。自分たちのやりたいこと、コーヒー文化の根源を表現できるような場所を、ずっと前から探していたそうです。縁あって巡り合った西目屋村は、彼らにとって理想郷ともいえる、驚くほど環境に恵まれた土地でした。
「コーヒーに最も大切な、きれいな水と空気が得られるこの環境は申し分ありません。この土地に誇りと愛情を持ち、大らかでオープンな西目屋の人々にも助けられました。さらにこの村はかつて炭を作っていた歴史があり、それはコーヒーの焙煎に適していたのです」と志穂さん。
西目屋村は「目屋炭」と呼ばれる、青森県内有数の炭の生産地として栄えた歴史があります。山間地域では昔は農作物を育てることが難しく、住民のほとんどは炭を焼いて生計を立てていました。白神山地の山の中には炭焼き小屋が点在し、できた炭は街へ運んで売られました。この地域の伝統工芸品である「目屋人形」は、ほっかむりをした野良着姿の女性が背中に炭俵を背負っており、当時の様子を窺い知ることができます。昭和の初め頃までは実際にそのような女性を見かけることも多く、彼らは車も通れない細く険しい山道を何時間も歩き、せっせと炭を運んでいたそうです。

2019年、白神焙煎舎は山の中に自社で運営する炭製造施設「白神炭工房 炭蔵」を設立しました。実際に現地を訪れると、山の斜面に赤い三角屋根の建物が建っています。中は学校の体育館かと思うほど広々としており、半年以上かけて作ったという大きな炭窯がどんと鎮座していました。窯で炭を焼く時は、専門の職人が一週間から10日、近くに寝泊まりしながらずっと火の番をするそうです。岩木山の周りにはりんご畑がたくさんあり、剪定などで不要になるりんごの木の枝が大量にありました。それらを有効活用し、炭として資源を甦らせています。
「りんごの木は硬質なため、炭にすると火持ちが良く、炎も熱量も安定します。欧米では昔から、お客様がいらしたときの特別な炭として、暖炉を焚くために使われていました。りんごの木炭の性質はコーヒーにも適しており、爆ぜにくいので豆が焦げることなく、柔らかな炎で芯までじわじわ火を通し、ふっくらと焼きあがります」
白神焙煎舎では、この道30年以上の熟練の職人が炭火を操って焙煎。その豆で淹れた「白神焙煎炭焼珈琲」は、この土地でなければ味わえない、唯一無二のコーヒーとなったのです。

白神焙煎舎から車でさらに10分ほど行った、山奥にある炭製造施設「白神炭工房 炭蔵」。冬はすっぽりと雪に覆われ、辿り着くのも困難。すぐ近くには津軽ダムがあります。

炭焼き小屋内部。1回で5トン焼けるという巨大な炭窯。窯を作れる職人は現在一人しかおらず、津軽の「やってまれ(やってしまえ)」精神で、作っているうちにどんどん大きくなってしまったそうです。

りんごの剪定枝で作られた炭。りんごの木炭はアウトドアやバーベキュー用などでも人気が高く、販売するとあっという間に売れてしまうそうです。

津軽ボンマルシェ津軽の風土を丸ごと味わえる、西目屋村をコーヒーの聖地に。

白神焙煎舎で特にやりたかったことの一つが「コーヒースタジオ」。専蔵氏の兼ねてからの念願でもありました。コーヒーの淹れ方のコツや焙煎の仕方を気軽に学べ、本物の味を知ることができる体験講座です。実際の講座ではプロが試作用に使う小型ロースターを1人1台使い、自分でりんごの炭を詰め、機械を操作して豆を焙煎するなど、かなり本格的。「弘前コーヒースクール」でコーヒーを学び、資格を取得した、専蔵氏の弟子といえる人々が講師を務めています。機械をパソコンに繋ぎ、データも残せるので、将来喫茶店をやりたい人が本気の姿勢で学びに来ることもあるそうです。海外から来た人が珍しがって動画撮影していることも。
「父曰く、コーヒーはそもそも欧米では、家庭に焙煎用の調理器具があって、自分で豆を焙煎することが普通だったようです。味噌汁みたいに各家庭の味があったのです。日本では、既に焙煎された豆を買うことが常識のようになっていますが、もっと根本のところからコーヒーに親しんでいないと、本当の文化は育たないというのです」

成田親子がこの先何十年後かに夢見ている壮大なプログラムは、西目屋村をコーヒーの聖地にすること。この村では家庭でも普通に美味しいコーヒーの淹れ方を心得ていたり、自分で焙煎ができたり、日常的なコーヒーの文化度が圧倒的に高い地域として、地元が誇りを持ち、コーヒー好きな人々が憧れ、各地から訪れ、多くの人が集まってくれるような場所に育てていきたい。そして、この土地の歴史と文化が溶け込み、醸成され、風土を丸ごと味わえるような独自のコーヒーの味が創られていくことを見届けたい。
「西目屋村に昔からあった炭作りに学び、津軽を代表する果物であるりんごの剪定枝で炭を作って豆を焙煎し、世界自然遺産として知られる白神山地の清らかな水で淹れる。どれもこの地でなければできないことであり、コーヒーに欠かせない要素であり、自信を持って語り伝えたいストーリーです。その価値が自然に地域に浸透し、『西目屋はどこで飲んでもコーヒーが美味しいな』とか、『ここに住んでいるおばあちゃんはコーヒー淹れるのがうまいよね』なんて言われるようになったら嬉しい」
いつもの日常の中に、上質なコーヒーが当たり前のようにあり、それがこの地で出会うみんなの幸せに繋がる。そんな世界を目指して一歩一歩進んでいきたい、と語る志穂さん。脈々と続く土地の歴史と豊かな大自然、そして西目屋村の人々の温かな郷土愛が丸ごと抽出された一杯のコーヒーは、きっと大切な贈り物をいただいたような、忘れられない味になることでしょう。

炭焼き焙煎体験用のロースターは3台。各機械には「SHIRAKAMI」、「KUMAGERA」、「ANMON」(暗門の滝から命名)と名前が付いており、それぞれ性格が違うといいます。志穂さんは「この子はね…」と我が子のように愛情と親しみを込めて話します。

住所:〒036-1411 青森県中津軽郡西目屋村大字田代神田219-1 MAP
https://shirakami-roast.jp

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冬のツアーは美味しい会津を体験!収穫し、食べて、学ぶ。[NEW GENARATION HOPPING AIZU/福島県会津若松市]

2月15、16日に行われたツアーの一幕。例年のこの時期の会津は雪景色だが、今年は100年に一度の暖冬らしく、遠くの山の頂にしか雪の姿はなかった。

ニュージェネレーションホッピング南会津調味料ひとつにも表れる会津の豊かな食卓。

南会津の四季を体感していただくONESTORYのツアーもひとまず最終回。今回の旅のガイドを務めてくださるのは、本格ナポリピッツァや会津の食材を使った料理が評判の『ピッツェリア&トラットリア フェリーチェ』を営むシェフの矢澤直之氏です。

冴え渡る青空の下、バスに乗り込んだ参加者が最初に向かったのは1834年創業の『満田屋』です。こちらは江戸末期から続くお味噌屋さんで、味噌蔵を改築した店内で味噌田楽をいただくことができます。先ほど顔を合わせたばかりの面子ですが、「この竹串、具材によって形が違うね」「お店の方が1本1本削っているみたいだよ」などと会話を交わすうちに打ち解けたムードに。まだ明るいうちからビールなどいただきつつ、2種類に焼き分けたこんにゃくは甘味噌と柚子味噌で、外はカリッと中はふわふわのおもちは甘味噌で。大豆のうま味がしっかり残る豆腐には山椒味噌。うるち米を使ったしんごろうは、荏胡麻を使ったじゅうねん味噌をたっぷり、と4種類の味噌を使い分けながら様々な具材を楽しみました。冬場の食卓に彩りを添える味噌に、会津の方の丁寧な暮らしが表れているようです。

次に向かったのは磐梯山系に囲まれた気持ちのいい畑。あぜ道を歩いていると、前方で満面の笑顔の矢澤氏が手を振っています。「会津の美味しい旅ということで、ここではネギの収穫体験を楽しんでいただけたらと思います」と矢澤氏。その隣で我々を出迎えてくれたのは、農家の佐藤忠保氏とトマト農家の大友佑樹氏です。「ここ一帯は冬になるとネギの頭が少し見えるぐらいまで雪が積もります。ネギを傷めないよう雪をほぐしてから1本1本手で抜くのですが、今年はその手間がない分ラクですね」と佐藤氏。鮮やかな手つきでネギを抜いてみせてくださったのを機に、参加者も次々に収穫を体験しました。試しに1本抜いてみると、ずっしりと重量があり、たっぷりと水分を蓄えていることが伺えます。「この辺りの土は水分を多く含んでいるので、1本あたりの重さは300g~400gほど。うちはこのネギを“とろねぎ”と名付けて独自にブランド化しています」。収穫したネギを軽トラで作業場に運び込み、切った根の先を見ると、蜜のような粘度のつゆがとろり。香りも力強く、食材を見る矢澤氏の目も真剣です。その様子から、このネギを使うという今宵のディナーへの期待が高まります。

農作業の後は松本養蜂総本場に立ち寄り、国産オーガニックはちみつを使ったレモネードをいただきました。稼業を継いで5代目という松本高明氏の蜂蜜は、樹種によって全く味が異なり、どれも天然由来のワイルドさを秘めています。矢澤氏もさまざまな料理に用いるのだそう。蕎麦や栗などレアなはちみつを試食させていただいた後は温泉タイムです。訪れた会津若松の奥座敷・東山温泉は、約1300年前に行基上人によって発見されたとされている、さらさらの硫酸塩泉。日帰り湯でお世話になった『くつろぎの宿 新滝』の露天風呂からは、渓流を見下ろすことができ、農作業による心地よい疲労感がするすると湯の中に溶け出していくようでした。

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江戸末期から会津若松の地で180余年続く『満田屋』。5代目が味噌蔵を改装した店内では味噌や醤油、油などの物販も行っている。

炭火でじっくり焼いた味噌田楽。4種類の味噌すべてのベースになっている田楽味噌は、会津赤味噌に砂糖を加え、独自に仕上げたシンプルな味わい。

飴色に磨きこまれたカウンターで食す身欠きにしんの香ばしさよ。ビールだけでは物足りず、昼から日本酒に手を伸ばす参加者も。

農家の佐藤氏(左から2番目)と大友氏(左)を紹介する矢澤氏。このネギ畑から年間20万本のネギを収穫するという。「この他、コメやトマト、アスパラなども手掛けています」と佐藤氏。

ネギの収穫体験。まっすぐ上に引き抜くのがポイントで、やってみると抜ける瞬間が気持ちいい。しかし、腰をかがめ続けるこの作業はなかなかの重労働だ。

下仁田ネギばりに太いとろねぎだが、「甘さもありつつ、しっかりとしたネギの味わいと香りがあるのが特徴です」と佐藤氏。

出荷前のネギにエアを当て、外側の薄皮を泥ごと飛ばす。その作業も体験させてもらった。専用の機械を購入するまでは自作の機械を使っていたという。

収穫体験のあと、松本養蜂総本場に立ち寄り、福島と新潟の県境にある日本最大のぶなの森で採れた有機はちみつのレモネードを振る舞っていただいた。

稼業を継いで5代目の松本氏。アカシアやレンゲといったメジャーどころから、栗や蕎麦、上澄桜など、レアなはちみつまで味見させていただく。

東山温泉『くつろぎの宿 新滝』の日帰り湯で旅先の疲れを癒す。館内には趣の違う源泉かけ流しの4種類の風呂があり、宿泊すればその全てを堪能できる。

ニュージェネレーションホッピング南会津イタリアン×日本酒=魅惑のコラボレーション。

街に夜の帳が下りる頃、お楽しみのディナータイムです。迎えてくださった矢澤氏とマダムの未来さん、ピザ職人の林添氏は満面の笑顔。宴には、今までの取材でお世話になった会津木綿の新しい価値を提案する「IIE Lab.」の谷津拓郎氏と千葉崇氏、先ほどお世話になった農家の佐藤氏と大友氏も参加してくださり、賑々しいスタートとなりました。そしてもうひとり、重要な役目を担ってくださったのは、酒舗『植木屋商店』十八代目の白井與平氏。今回のディナーは、矢澤氏の料理と白井氏セレクトの日本酒をペアリングさせたディナーになっているのです。

乾杯は大友氏が作ったトマトを使ったクラフトビール。春のツアーでお邪魔した会津田島『Taproom Beer Fridge』併設の醸造所『南会津マウンテンブルーイング』で醸造した冬場限定のトマトセゾンです。矢澤氏と白井氏から挨拶があり、一皿目の「イチゴのカプレーゼ」が供されました。詰めたバルサミコと松本氏の上澄桜のはちみつがいちごの甘みと酸味を増幅させ、ミルキーなモッツァレラと絡み合います。ここには福島県喜多方にある大和川酒造と植木屋で特別につくられた「爆発!やまヨ別品大和川おりざけ」自社田栽培喜多方産夢の香45%の純米大吟醸の直汲み無濾過にごり生酒を合わせました。2品目は「馬肉のタルタル」。雌の太もものみを使用したシルキーな舌触りのタルタルは、庄内の板麩と合わせることで触感の違いを楽しむことができます。ここで供されたのは蔵付き酵母のみで醸した生酛の「弥右衛門」。キレイな酸を輪郭とした酒からは米のうま味もしっかり感じられ、馬肉と好相性です。3番目は「会津地鶏の白レバーのペースト」。生のマスカルポーネとセミドライにした見知らず柿を合わせた一皿には、震災で福島県浪江町から山形県長井市に移転した磐城寿の「黄金蜜酒」を。こちらは上品な舌触りの本みりんで、全ての食材と酒が口中でトロリと溶け合うのを楽しみました。

ここで、東山温泉の置屋で芸妓をしている月乃さんと千代乃さんが登場するサプライズがありました。芸妓さんというと敷居が高いイメージですが、なかには年末の時代劇『白虎隊』の主題歌にもなった堀内孝雄さんの代表曲『愛しき日々』に合わせたオリジナルの舞もあり、伝統芸を身近に感じることができました。

このタイミングで運ばれてきたのは、収穫したばかりのとろねぎを使った「とれたてネギのアフォガード」。3種類の調理法のネギが複雑に重なり合いながらも上品に纏まった旨味が沁みる一皿。ここでの日本酒は、土産土法の酒造りをモットーとする高橋庄作酒造の「会津娘」雄町の純米吟醸。デキャンタージュを繰り返すことで広がりが生まれた一杯が、料理と共鳴しあいます。滲み出る甘みとかすかな苦みが春の訪れを告げる喜多方産の「ホワイトアスパラのロースト」は趣向を変えてシャトーメルシャンの白ワイン「新鶴シャルドネ2014」と共に。濃い旨味が口中に広がる会津地鶏の胸肉とモモを使った「会津地鶏の食べ比べ」は、ほまれ酒造の「からはし」山田錦純米吟醸無濾過生原酒と合わせていただきました。完熟したフルーツを思わせる吟醸香とイキイキした酸が、山ざんしょうなど調味料でメリハリを利かせた料理とぴったりです。締めのパスタは「会津地鶏と打ち豆のボロネーゼ」。打ち豆とは、青大豆を水で戻して臼で潰した後に乾燥させた会津の伝統的な半加工豆。「このお料理に関してはあえてペアリングをしません。今日、飲んで美味しかったお酒と合わせていただければ」と白井氏。ここでは先ほどのお酒だけでなく、「写楽」や「飛露喜」といった人気銘柄のレア酒も登場し、会場内が色めき立ちました。

会津の自然が育んだ食材、風土を背景に生まれた知恵、そこで育った人々が思いを込めた料理と日本酒……その全てに思いを馳せつつ、ペアリングディナーは大満足のままフィニッシュに。最後に「IIE Lab.」さんから酒袋やあずま袋のプレゼントがあり、カラフルな袋をぶら下げた参加者は、意気揚々と二次会へ繰り出しました。

大友さんが育てたトマトのビールで乾杯。酸味のある青いトマトと完熟したトマトのピューレを使った冬場限定のトマトセゾンは、含み香にも味わいにもトマトがしっかり。

今宵のディナーは日本酒とのペアリング。そのセレクトを担ってくださったのは、会津の地で400年余り商いを続けている『植木屋商店』の白井與平氏。

現代のライフスタイルにも取り入れやすい会津木綿の商品を提案する研究所『IIE Lab.』の代表・谷津氏。ストールはもちろん、IIE Lab.のもの。

一皿目の「いちごのカプレーゼ」。ナポリから空輸したモッツァレラといちごで食欲全開に。合わせた「爆発!やまヨ別品大和川おりざけ」はその名の通り開栓時に吹きこぼれるほど発泡してまるでスパークリングワインのよう。

2皿目「馬肉のタルタル」。庄内から取り寄せた板麩を揚げて、カナッペ風に仕立てたもの。贅沢に黒トリュフを散らして。

東山温泉の置屋から駆けつけてくださった月乃さんと千代乃さん。イタリアンな店内に伝統芸能という異色のコラボレーションに会場から歓声があがった。

マダムの未来さん。この日、ほとんどのサービスを担当。とてつもない作業量ながら、それを全く表情に出さないプロ意識に感動!

3皿目は「会津地鶏の白レバーのペースト」。生のマスカルポーネと会津名産の見知らず柿、滑らかな舌触りのペーストが同じ速度で溶け合っていく。至福。

「とれたてネギのアフォガード」。一番下にはシイタケや白子、牡蠣と合わせてムース状にしたネギ、2層目のネギには会津地鶏のネックからゆっくり取り出した油で蒸し焼きに。上段はネギの根を揚げたもの。

「ホワイトアスパラのロースト」。初物の喜多方産のホワイトアスパラ。「北海道産とは違う独特の苦みを味わって頂きたくて、何とか14本だけ確保しました」と矢澤氏。

オープンキッチンから次々にワンダーな料理が生み出される。調理中の矢澤氏の表情は真剣そのもの。時折、参加者にキッチンから声をかけ、サービスも忘れない。

「会津地鶏の食べ比べ」。昨日締めたばかりの地鶏の胸肉とモモは皮目を香ばしく焼いていただく。会津の山山椒の実の赤ワイン漬けとタスマニアのマスタードと共に。

「会津地鶏と打ち豆のボロネーゼ」。刻みいれたうどの爽やかな苦みと鼻を抜けるふきのとうの香りがパスタを通して会津に春が近づいていることを教えてくれる。

大友さんが作ったトマトのジュースと乾杯時に登場したトマトセゾン。ビール酵母がトマトの赤い色素を食べてしまうそうで、色味は普通ながら味はしっかりトマト。

現代的なストライプが目をひく「IIE Lab.」からのお土産。日本酒やワインを入れて友人宅を訪れたくなる酒袋か、バッグインバッグとしても使えるあずま袋から好きなものを選べる趣向。

ニュージェネレーションホッピング南会津ホッピングで酒処・会津の奥深さを知る。

エプロンを脱いだ矢澤氏に先導され、向かった先は『時さえ忘れて』です。雑居ビルの2階にある看板の無いこのバーは、店主の鈴木啓介氏偏愛のお酒が楽しめる場所。今日は特別に『Baku table』(2020年現在、イベント出店、ケータリングで活動中)のシェフであり、「南会津の秋のツアー」でスペシャルディナーを担当してくれた山門夢実さんが地元食材を使ったおばんざいなどをご用意してくださり、2次会のスタートです。アンダーな照明と肩の力を抜いてリラックスできるムード、心温まる料理と心づくしの酒によって場の空気は一層打ち解けたムードに。そこに『塗師一富』の3代目・冨樫孝男氏の下で研鑽を積んだ菊池遥香さんや、大内宿でカフェ兼雑貨屋を営む『茶房 やまだ屋』の諸岡康之氏も加わり、観光ガイドには載っていない会津の話や街の移り変わりなど話題は多岐に及んでいきます。あれだけ飲んで食べたのに、胃の深いところにすとんと落ちていくのですから、郷土料理って不思議です。ここでも食べて、飲んで、「オータムポエムとニシンの山椒漬けの玄米おむすび」で締めて。多くの方々のおもてなしで心に灯った温かなものを感じながら、楽しい夜を過ごしました。

大成功のディナーを終え、夜の会津若松を歩きながら2次会の会場へと向かう一行。矢澤氏の隣にいるのは、常連客の金井氏。

仕事帰りに矢澤氏も訪れるというバー『時さえ忘れて』の鈴木氏。クラフトビールや蒸し燗でいただく日本酒など、こだわりの酒を提供している。

『時さえ忘れて』のカウンターにしっとり馴染んでいる夢実さん。普段の営業時のおつまみは自家製パンとミックスナッツのみなのだとか。

この日のカウンターには、夢実さんが作る地元食材を使った「白菜と雪下にんじんの三五八漬け」や「長芋と蕗味噌の揚げ春巻き」が並んだ。

参加者が思い思いの酒を注文するなか、ひとつひとつを丁寧に提供してくださった鈴木氏。生産本数の少ない国内の気鋭の造り手によるリキュールなども頂き、楽しい夜となった。

右は『塗師 一富』で修業を積んだ女流塗師の菊池さん。次世代を担う彼女の存在は、後継問題にゆれる伝統産業業界においても明るいニュースに違いない。

2次会は、今回のツアー参加者とおもてなしをしてくださった地元の方々が垣根なく話し込むことができる貴重な時間となった。

ニュージェネレーションホッピング・南会津城下町に息づく老舗と和菓子と麦とろと。

翌朝は『植木屋商店』でお土産を物色しました。一同、DJブースのある店内に驚きつつ、昨晩美味しかった銘柄を思い出しながら、これはと思う日本酒を選びます。個人的に気になったのが、自社田のなかでも特に特徴的な7枚の田んぼを選び、1枚の田んぼごとに獲れた米で仕込んだ会津娘の純米吟醸「穣(じょう)」。ひとつひとつのお酒にストーリーがあり、気持ちを込めてそれを伝えてくださる白井氏の話や素敵な酒器で試飲させていただき、あれもこれもと目移りしてしまいました。その後、矢澤氏が幼少期から通っているお店『麦とろ』でランチとなりました。店内には既に、湯気を立てたおかずや炊き立ての麦飯がセットされています。「さぁさぁ」と促され、山で採ってきたという菜の花のお味噌汁や磐梯筍をいただきました。栽培ものと違って、味も香りも力強い天然もののうま味は身体に染み込むよう。働き者のオヤジさんによると、この味をお客さんに味わってもらうため、4月は毎日山に入るそう。それでも昨年休んだのは1日だけというから恐れ入ります。

本日の最終目的地・大内宿へ移動するバスのなかでは、『日本一本店』という不思議な店名の和菓子屋で買ったあわまんじゅうをいただきました。くちどけのよいあんを鮮やかな黄色い粟の実で包んだシンプルなまんじゅうは、淡雪のように口の中で溶けていきます。「このお店は、早い時間からご主人が丁寧にあんを練っているから口どけが違うんですよ」と矢澤氏もえびす顔。熱い緑茶を飲みながら、車窓から雪のない磐梯山を眺めます。茅葺屋根の商店が軒を連なる大内宿を歩き、最後は『茶房 やまだ屋』へ。店内には諸岡氏とお母さまの久美子さんのセンスでセレクトした会津や福島で研鑽を積む若いアーティストや職人の民芸品が並び、さながらギャラリーのよう。天井の高い店内はリラックスした空気が流れ、曳きたてのコーヒーの香りが漂っています。淀みない矢澤氏の話に耳を傾けながら、ゆったりした時を過ごし、お別れの時間がやってきてしまいました。バスが走り出しても、しばらく手を振り続けてくれた矢澤氏に会釈しつつ、会津の美味を満喫するツアーは終了となりました。

2日目の午前中は『植木屋商店』へ。ネオンサインの店名がお出迎え。この日は休業日だったにも関わらず、お店を開けていただいた。

店内は要冷蔵の酒と常温の酒の棚が左右で分かれている。気になる酒について質問をすれば、よりその酒への興味が喚起される応えが返ってくる。

酒の話になるとつい熱が入る矢澤氏と白井氏。地元を愛する2人だからこそ飛び出す会話に、周囲にいる参加者もつい耳をそばだててしまう。

帰り際に白井氏から参加者全員に特製手ぬぐいのプレゼントがあった。描かれている絵が何を表しているかをあてる江戸時代に流行った「判じ絵」を用いて、『植木屋』と読ませる。

矢澤氏の案内でもないと、一観光客では辿りつけそうにない『麦とろ』。味わい深い看板に期待が高まる。

完璧に整えられた昼食。分厚い卵焼きやにしんの山椒づけ、自然薯をすりおろして出汁を加えた滑らかな味わいのとろろ…毎日でも食べたいものばかり。

たまたまお昼を食べに来た夢実さんとばったり。オヤジさんは誰へだてなく親しみのある笑顔を向け、さまざまな話題を振ってくれる。

矢澤氏が「日本一旨い」と語る『日本一本店』のあわまんじゅう。持つと驚くほど柔らかい。「この状態で成形できるって本当のプロだよね」と矢澤氏。

会津若松から山道を2,30分ほどバスに揺られて大内宿へ。茅葺屋根の商店が並ぶ道をそぞろ歩く。

『茶房 やまだ屋』の諸岡氏。東京に出てから地元に戻り、カフェを営みながら若いアーティストや職人の活動を応援すべく物販も行っている。

ジャズが流れるなか、矢澤氏のトークと丁寧に淹れた美味しいコーヒーが穏やかな時間をもたらす。評判の出し巻きたまごのサンドイッチをつまむ参加者も。

植木屋のショッピングバッグを携え、帰りの特急リバティに乗り込む。帰り際、会津木綿のトートバッグに入った佐藤氏のネギが配られた。

住所:〒965-0042  福島県会津若松市大町1-2-55 MAP
電話:0242-36-7666
http://www.pizzeria-felice.jp/

(supported by 東武鉄道

豊かな水と無数の巨樹が描く原始の風景。イルカだけではない、美しき自然の島・御蔵島。[東京“真”宝島/東京都 御蔵島]

東京"真"宝島OVERVIEW

三宅島の南約19kmの洋上に浮かぶ、お椀を伏せたような形の丸い島。海辺からすぐに急峻な山が切り立つ独特の地形から、船の就航率は夏で8割、冬で3割強。そのアクセスの難しさから、かつては「月より遠い」とまで言われていました。

そんな御蔵島には近年、年間7000人から8000人の観光客が訪れます。その大半の目的は、イルカ。御蔵島の周辺には150頭ほどのミナミハンドウイルカが生息し、イルカウォッチングやイルカとともに泳ぐドルフィンスイムが楽しめます。だから御蔵島の存在を知る人にとっても、その印象はほぼ“イルカの島”となっています。

1990年代前半から突如始まったイルカブームは、島民の生活を変えました。観光客が増え、活気に包まれ、1970年代には200人以下まで減っていた人口も約320人まで増えました。島民も、基本的にはその状況を歓迎しています。しかし、好況に浮かれ、ただ無計画に観光客を受け入れないのが、御蔵島らしさなのです。
御蔵島にある宿は、村営バンガローを合わせて7軒。島を訪れるにはまず宿を抑えることが先決。ただし予約受付開始とともに満室となり、ようやく部屋を押さえても船が出ない可能性もある。不便な状況ではありますが、結果的にこの“行きにくさ”が自然を守ることに繋がったのも事実。現在は新たな桟橋が建設中で、やがて就航率の問題は改善されるかもしれませんが、この守られてきた自然は、今もこれからも御蔵島の財産です。

海はもちろん、山に目を向けてみても、自然の美しさは同様。あちこちから湧き出す清冽な水、しっとりと湿った森、圧倒的な存在感を誇る巨樹、無数のオオミズナギドリ。そのすべてが御蔵島の人々が守り、未来へと繋げようとする財産なのです。

幸運にも御蔵島に行くチャンスを掴んだ人は、ぜひ考えてみてください。樹齢1000年を越える木が、なぜこれほど生えているのか。オオミズナギドリが、有人島である御蔵島でなぜこれほど繁殖するのか。広い海を泳ぐイルカたちは、なぜ御蔵島周辺にとどまっているのか。その意味を感じ取れたとき、御蔵島の自然や文化はより深く心に刻まれることでしょう。

【関連記事】東京"真"宝島/見たことのない11の東京の姿。その真実に迫る、島旅の記録。

(supported by 東京宝島)

世界に目を向けて、改めて問う『DINING OUT』の意義。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』に関わった5人の対談が行われた。左から、『料理通信』編集主幹・君島佐和子氏、コラムニスト・中村孝則氏、ハレクラニ沖縄セールス&マーケティング部部長・市川明宏氏、レクサスグローバルブランディングマネージャー・関根美香氏、『DINING OUT』総合プロデューサー・大類知樹氏。

ダイニングアウト琉球うるま沖縄に残る「精神風土」をストーリーとして描く。

2020年1月中旬、通算18回目の開催となった『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』。『DINING OUT』としては初めての世界遺産・勝連城跡での開催、その舞台で腕を奮った世界から注目されるシェフユニット「GohGan」の圧巻のパフォーマンスなど、見どころも多かった今回。大いに盛り上がったプレミアムな二夜の模様を、5人の関係者で振り返りました。

大類:一昨年の11月に南城市で開催した『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』のときから、琉球神話になぞらえて、1回目はアマミキヨが降り立った「南城」で、今回はその後、アマミキヨとシネリキヨというふたりの神様が住んだと言われる「うるま」、と繋げていこうと。さらに今回は、中世の時代にうるまを統治していた「阿麻和利」という人に注目しました。かつては首里に反逆した悪党とされていましたが「おもろさうし」という沖縄の万葉集のような書物のなかで「肝高」(気高い、という意味)と表現されていることを後々発見されてヒーローになっていく。小国の中でポジションを得るのは大変だったはずですが、独自の文化圏をつくり、経済的に繁栄させた彼は相当レベルの高いプロデューサーだった。この人にスポットを当てることでこのエリアの精神性を表現できるんじゃないかと。

中村:一般的にはうるま市に世界遺産「勝連城跡」があるということがあまり知られていないですよね。知られていない魅力を発掘するのが『DINING OUT』の楽しみどころ。史跡としての価値、主人公のまわりを含めた歴史上の物語の面白さ。このふたつを紐解けるというのは、知的好奇心をくすぐられると思うし、あれ以上の場所もストーリー展開もなかったと思います。

君島:南城の『DINING OUT』が、私に対して与えた影響が大きかったんです。その時には沖縄に残る「精神風土」という書き方をしましたが、気候風土などと同時に、日常的に「拝む」という精神性が沖縄には確実に残っていて、非常に面白いと思いました。その後、仏教の影響が極めて希薄なのが沖縄の独自性だ、と何かに書かれているのを読み、だから神話が未だに生き続けていると理解したんです。

市川:(東京と沖縄とでは)全然人が違います。考え方も感じ方も、神話の世界やユタ信仰なんていうのも。実際カミンチューという方からお話を聞く機会もありましたが、驚くことが多いですね。

【関連記事】DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS

『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』ではアマミキヨが降臨したと伝わる久高島にてレセプションを開催。

『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』では、女性の神「アマミキヨ」にちなみ、伊勢志摩観光ホテルの総料理長、樋口宏江シェフが担当した。

『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』のレセプションが行われた浜比嘉島のシルミチュー霊場。なにもない“洞窟”こそが神聖な場所。

世界遺産・勝連城跡を舞台にした『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』。地元の中高生による『肝高の阿麻和利』の演目は、今回のテーマを直にゲストへ伝えた。

ダイニングアウト琉球うるま味覚を開発し、人を変える。それがレストランの役割。

中村:ガガンシェフって賛否はいろいろ分かれるんですが、4年連続でアジアベストレストラン1位です。なぜそんなに人々を惹き付けるのかというと、ある種原始的に戻ることを彼らはやる。いまフーディといわれている人たちはある種みんな“知識武装”をしていますが、ガガンはそれを壊すんです。皿をなめあげるなんてまさにそう。さっき君島さんが話されたように、沖縄にはまだ原始的な宗教観や自然信仰が残っています。生身の人間くささや食文化が残っていて、だから僕らはそれに感動する。それが「GohGan」にフィットしたんだと思います。本来のおいしさ、根源的な喜びや楽しさを体験したい、という動きの中で彼らは評価されている。

君島:以前孝則さんと、なぜ「傳」の料理長・長谷川さん(『DINNG OUT NIHONDAIRA with LEXUS』を担当)があんなに外国人に支持されるのか話したことがあります。日本料理が積み上げてしまった格式が日本料理を分かりにくくしていますが、それよりも長谷川さんのストレートな、ほら楽しんでよ、っていう方がよほど世界の人々にフィットしたんだと。ガガンもそれと同じことが言えると思います。固有の文化によって、共有している人同士じゃないと分からないものではなく、固有の文化を取り払って感覚で面白いと思うかどうか、というところで支持をされている。
もうひとつ、ガガンの料理をいただいたのは昨日が初めてだったのですが、情報量が多く、五味がぜんぶ詰まっていて削ぎ落すところがなくて、食べていて収容しきれなくなる。それはわたしにとってはあまり快感ではないのですが、一方昨年ずっと考えていたのが、新しい味覚領域の開拓が必要だということ。アートで言えば美しさとはなにか、と絶えず問いかけていくのが役割だと思うんですね。おいしさとはなにかを問いかける役割を担うのがガストロノミー。ガガンがやっているのは、おいしさってなに?と投げかけている行為であることに間違いはなくて、彼が果たしている役割はありますよね。

大類:2013年に徳島県祖谷で開催した『DINING OUT IYA with LEXUS』を担当してくれた米田肇シェフが「レストランの役割というのは味覚を変えること。それが未来の人間を変えることに繋がっている」とまじめに言っていて。口の中に入るものが人を作るから、人間の進化に関わっているんだ、という意識なんです。シェフって料理を提供するだけじゃなくて、もっと大きな存在として成立するんだなと思いました。

市川:ゲストの方とお話をして一番クリアに分かったのは、彼らが求めているのはおいしさだけじゃないということ。ホテルはどうしてもおいしさを追求してしまうのですが、そういうコメントは衝撃だった。味覚を変えることは人類の将来を変えること、とありましたが、そういう部分にホテルとしてどう踏み込んでいくかというのは、『DINING OUT』のようなイベントの存在意義なのかなと。

関根:クルマのデザインも同じで、お客様に支持されていることをレプリケートしていたら進化がない。デザインを大きく変える際には賛否両論、分かれたんですが、そこで新しい方へ行ってみないと進化はない。全然違うアプローチでやってみるというのは、どんなことにも通じますね。
 

ガガン・アナンド、福山剛両シェフによるユニット「GohGan」。ユニット名は二人の名前を組み合わせたもの。

「傳」料理長の長谷川在佑氏は「DINING OUT NIHONDAIRA with LEXUS」で腕を振るった。

『DINING OUT IYA with LEXUS』を担当した「HAJIME」オーナーシェフの米田肇氏。

ダイニングアウト琉球うるま多様化する“人”へ、いかにアプローチしていくのか。

大類:今回、ハレクラニ沖縄さんと組んで宿泊施設と一体化したラグジュアリーパッケージつくることができたのはよかったです。

君島:いままで何度も参加して、弱いな、と思うのは宿泊ですね。地方には眠っている宝はあるんだけど、宿泊がいまひとつという所が多くて、そこが日本の弱み。だから今回はハレクラニ沖縄から会場へ、レクサスで繋いでいただいたことで、完全にすべてがひとつになりましたね。

関根:地元のドライバーの皆さまにもご協力いただいて、お客様にはショーファー付きのレクサス車両での移動を楽しんでいただきましたが、こうするとロケーションからロケーションに移動すること自体がひとつの体験になりますよね。訪れた場所の余韻を残しながら、車窓からの景色の変化を楽しむことで、旅のクオリティは更に高まると思います。

市川:実はお客様にとって、空港からホテルへ辿り着くまで、が重要なんです。そこであまりいい経験をしないと、ネガティブな状態でチェックインされるので。今回はレクサスさんがスポンサーになられていて、会場までの移動が全てレクサス車であったことも、ぜひ参加したいと思った理由のひとつ。そしてわたしたちは「ハレクラニ沖縄 エスケープ」という、ハレクラニ沖縄に泊まらないと絶対に体験できないユニークなプログラムを提供していますが、まさに今回の『DINING OUT』のコンセプトがばっちりはまりました。特に今回のお客様はお金のことは全く気にしなくて、一体どういう体験ができるのか、というところがポイントでした。ハワイでもモルディブでもバリでもなく、沖縄を選んでいただくために必要なコンテンツです。

中村:「アジアベストレストラン50」でどうすれば選ばれますか、と日本の地方のレストランや自治体の方によく相談されますが、投票者は実際に行ったことのあるレストランにしか投票できない。つまり、レストランだけではなくトータルで動線を考えないとランキングは上がらないんです。海外からのお客さんの数は増えていても金額が伸びていないことが問題で、いかに高級化するかが日本の観光業の大きな課題。それぞれの領域で、ラグジュアリーってなんなのか、なにをもって贅沢とするかを考えなければならないんです。

大類:今回、初めて海外ゲストのみの開催日を設けてみて、これまでの『DINING OUT』でも表現してきた「日本のおもてなしの精神性」は、五感を通して伝えられたと思います。一方で、海外ゲストを相手にする際は言葉や文化的背景の違いなど、難しい問題がたくさんあって。前提条件が違う人にどう日本の地域を表現していくか、というのがこれからの新たな課題ですね。

関根:今回、イギリス人の同僚と参加させていただいたのですが、歴史的な説明は同時通訳で聞いて理解した上で、勝連城跡を舞台にした地元中高生の迫力のある歌と踊りや、地元スタッフによる心のこもったサービスなど、「驚き」や「感動」は、ユニバーサルに心に響くのだと改めて感じました。

大類:『DINING OUT』をプランニングするとき、僕は東京の人間だから常によそ者なんですね。そのギャップがプランニングの起点で、そこにテーマを求めていく。日本の中でもそれが基本なのですが、これが海外のゲストが対象となったとき、そのギャップはさらに大きくなる。世界はグローバルになっていっているけど、表現者としてはどこに起点を求めればいいのかと。

関根:レクサスは90カ国以上に展開するグローバルブランドですが、レクサス独自のテースト(味)やブランドの価値観といった、人で言うとパーソナルな部分を発信し、共感いただいた方がブランドを支持してくださる。そういったものは日本とか海外とか関係なく共感いただける方には伝わるので、レクサスブランドってどういうブランドなのかというメッセージを発信し続けていくことは非常に大事だと思っています。特に今のラグジュアリーのお客様は、どういう価値観をもったブランドなのかといったような部分にものすごく興味関心を持たれている。

大類:今の時代、国別でもなく、個人にダイレクトにネットで繋がってしまえる時代。個人の強い意志や思いが大事で、個を立てていくということがブランド戦略になっていくんでしょうか。

中村:シェフもやっぱりパーソナルな、誰が作っているのか顔が見えるというのは戦略として必要な時代かなと思います。発信する方も受け入れる方も、それぞれの人がどういう価値観を持っているのか、見定めなくてはいけないですよね。海外のお客様を迎えるときに金継の器を出すとすごく喜ばれるんです。経年変化に美を求めるのは日本独自かもしれず、まだ自分たちが気づいていなかった日本のブランド価値のようなものがあるかもしれませんね。

関根:レクサス車の細部に至るまでのこだわりは、海外のお客様からは日本的と捉えられるようです。レクサスではヒューマンセンタード(人間中心)、と言っていますが、車に近づいたらウェルカムライトが点灯するなど、人間にとっての心地よさを常に追求しています。

2019年7月に開業したばかりのハレクラニ沖縄が今回のゲストの宿泊先に。

レクサスに乗って海中道路からレセプション会場のシルミチューへ。同じ道を帰ってくるときには日が暮れて、異なる景色を楽しむことができた。

外国人ゲストのみで開催する日を設けるという初の試み。客席のみならず、厨房も国際色豊かな顔ぶれとなった。

ダイニングアウト琉球うるま“サステナブル”を超えた表現が人を刺激する。

君島:ヒューマンセンタードという話がありましたが、この間弊社でSDGsのカンファレンスをやったときに、登壇してくださる方にサステナブルな取り組みをしている人が何人もいまして。農業に取り組むとこの先どうすべきか、よりクリアに見えてくるからサステナブルな方向へ進む。どちらも農業に携わっていて、共にサステナブルを語っているとしても、自然を中心に考えるか、人間を中心に考えるかで求めるものが違ってくることに気付きました。自然を中心に考えると人間なんていない方がサステナブルと言える。一方人間を中心にすると、わたしたちが存続するために地球をどうしなくてはならないか、考えていくことになる。

関根:車も同じですね。自動運転を例にとると、ただ単に人がいなくなって車だけが走っていればいいということでもなく、疲れて運転を任せたいときには自動運転、自分が運転を楽しみたい時は安心して運転できるようサポートしてくれる、というように、新しいテクノロジーは考え方によって全然違う使い方ができる。いまのお話と共通するなと思いました。

大類:日本ではサステナブルという言葉がファッション化しているところがありますが、サステナブルって言葉を使うのは、本質的な意味においては重いことですよね。

君島:いまや原稿にサステナブルって書かない日はないくらいですが、サステナブルであればOK、という雰囲気にだんだん陥ってくる。ガストロノミーと名乗っている人たちでも、確かにサステナブルな生産者の素材をつかったサステナブルな料理だけれども、これってどこにクリエイティビティがあるの?と思うような料理を提供するケースも増えている。サステナブルであればあるほど、あなたの表現はどこにあるのよ、と思えてくる。だから昨日いただいた「GohGan」の料理は、サステナブルを超えた表現として人を刺激してきて、ああ、おいしいってなんだろう、これは好きかなきらいかな、という根源的な問いかけがあったと思うんです。

皿を舐めて食べる「3種芋のリキットアップ」は、おいしさや食べることの本質を問いかけてくる一皿。

沖縄の伝統食、サーターアンダギーをパリブレスト風に飾り付けたデザートの一品。「GohGan」最後のパフォーマンスを祝うかのよう。

2006年6月、クリエイティブフードマガジン『料理通信』を創刊。編集長を経て、17年から現職。「The Cuisine Press」(Web料理通信)では、時代に消費されない本質的な「食の知」を目指して様々なコンテンツを届ける。辻静雄食文化賞専門技術者賞の選考委員。

ホテルオークラ、ハイアット、フォーシーズンズにて国内外のホテル開業を経験し、 2018年ハレクラニ沖縄へ。非日常的な体験を提供する「ハレクラニ沖縄 エスケープ」の開発に従事。

ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。
http://www.dandy-nakamura.com/

2006年トヨタ自動車入社。商品企画、国内営業企画を経て、12年よりLexus International所属。グローバルブランドキャンペーンやデザインイベントなど、グローバルにレクサスを発信する施策に多数関わる。

1993年、博報堂入社。2012年に新事業として『DINING OUT』をスタート。2016年4月に設立された、地域の価値創造を実現する会社『ONESTORY』の代表取締役社長。

“普通”をやり続けて150年。津軽の四季と人の手が、唯一無二の味噌を生む。[TSUGARU Le Bon Marché・加藤味噌醤油醸造元/青森県弘前市]

5代目となる加藤裕人氏と諭絵さん。穏やかで飾らない雰囲気が共通点の素敵な夫婦だ。

津軽ボンマルシェシャープな塩味と深いコク。弘前唯一の味噌蔵が守り続ける「津軽味噌」との出合い。

弘前駅にも近い商業施設『ヒロロ』の中にある食材店『フレッシュファームFORET』。以前ご紹介した『ひろさきマーケット』が運営するこの店には、青森県中の名産品が集まっています。そこで発見したのが、初めて見る“津軽味噌”なる表記の味噌。津軽の食材ハンター・『ひろさきマーケット』代表の高橋信勝氏のおすすめということもあり早速購入して使ってみると、これがなんとも個性的な味噌なのです。色は濃い目の茶色で、少しふんわりしたテクスチャー。ひと舐めすると、キリリとした塩気、ほのかな酸味とともに豊かな香りと深いコクが口の中いっぱいにふくらみ、長い余韻を残します。八丁味噌にも似た味ですが、より渋みが控えめでなめらかな印象。味噌汁はもちろんのこと、野菜にそのまま付けても美味しいほか、マヨネーズと混ぜてディップにしたり、ホワイトソースの隠し味にしたりと大活躍してくれるのです。

この味噌を造っているのが、弘前市内で唯一の味噌蔵である『加藤味噌醤油醸造元』。100年以上前、明治初期頃に建てられたとされる街道沿いの店舗と蔵は今も現役で、レトロ建築好きなら大興奮間違いなしの堂々たる立ち姿を見せています。「こんな古くて汚い場所で、すみません」。そう謙遜して出迎えてくれたのは、蔵の5代目となる加藤裕人氏、諭絵さんのふたり。諭絵さんの父である現代表で4代目の加藤元昭氏に代わり、数年前からメインで製造を担っているのが裕人氏です。「まずはぜひ、麹作りから見てください。味噌造りにおいて一番大切な作業なので、何か感じてもらえると思います」と裕人氏。

麹作りが行われる麹室の内部は温度と湿度が高めに調整され、ミストサウナのよう。室の中にずらりと並ぶのは、麹蓋(こうじぶた)と呼ばれる道具です。「今は蒸した米に麹菌を振って、麹蓋に移し、最初40℃に設定した室内で少しづつ温度を下げながら一晩寝かせた状態。これを手でほぐして人肌くらいの温度に下げ、再度寝かせます。米麹が出来上がるのは3日の朝。最初パラパラしていた米がぼってりしてきたら、麹の菌糸がきちんと米の中心部まで入っている証拠なんですよ」。まだ完成途中の米麹ですが、噛みしめるとじんわりと甘みが出てくるのは、米のでんぷん質を麹菌の酵素が分解し、ぶどう糖に変えているから。静かな麹室の内部ですが、実は目に見えない菌たちがじゃんじゃん活動中なのです。まさに発酵の神秘!

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弘前市指定の「趣のある建物」にも登録されている建物。近所には日本酒蔵『カネタ玉田酒造店』もある。

創業は明治4年。古くから造る味噌のほか、昭和に入ってからはしょうゆ製造もスタート。味噌の仕込みがひと段落した2月から2ヵ月間は、しょうゆの醸造期間にあてる。

手前がベーシックなタイプの津軽味噌。奥は20年ほど前に顧客のリクエストに応えて作った白味噌タイプで、仕入れた味噌と自社の味噌のブレンド。

しっとりした空気と温かさが心地よい、麹室の内部。作業中の裕人氏の額には汗がにじむ。1シーズンに作る味噌用の米麹の量は700kgほど。

津軽ボンマルシェすべては手作業で。伝統の“寒仕込み”の現場は、驚きの連続。

蔵を訪れたのは1月下旬、仕込みの真っただ中。ここ『加藤味噌醤油醸造元』の味噌造りは、前年に収穫された米や大豆を使い、真冬の間に一気に作業を行ういわゆる“寒仕込み”です。冬場は雑菌の繁殖が抑えられること、気温が低いためゆっくりと発酵が進むことなどさまざまな理由から広まった伝統的な仕込み方ですが、特に寒さの厳しい津軽の冬はこの寒仕込み向きの気候。メインとなる作業期間は約2週間という短さですが、代わりにその期間、蔵には独特の緊張感が漂います。

麹の出来上がりとともに始まるのが、洗ってから一晩寝かせた大量の大豆を大釜で煮る作業。4時間以上かけ煮続け、柔らかくなった大豆を広げて冷ましてから、麹と塩を合わせた“塩切り麹”を混ぜていきます。さらに全体をミンチにかけ、熟成蔵にある木桶に詰めて、上から“踏み込み”を行って空気を抜き、作業はようやくひと段落。朝一番に大豆を煮始め、最後の桶詰めが終わる頃には午後4時過ぎになっていました。驚いたのが、とにかくほとんどの作業が蔵人の手で行われていること。たとえば大豆を運ぶのはバケツリレーで。塩切り麹と大豆を混ぜる作業も、スコップを使ってよいしょ、よいしょと行います。「この時期は雪かきとこの作業が被るから、腰が大変で。コルセットを着けて耐えています(笑)」と裕人氏。

しかし味噌はこれで完成ではありません。商品として出荷するまでに、木桶の中で自然熟成させること足掛け3年。四季がはっきりした津軽の気候の中、周囲の環境の変化が桶を通してゆっくり作用することで、味噌に複雑な風味が生まれるのです。そしてその際、裕人氏が頼りにしていると話すのが、桶や道具、建物の天井や柱など、蔵の至る所に住み着いた菌たち。「自分は味噌造りに携わってまだ数年。見よう見まねでやってきて、『なんとなくこんな感じ』と感覚に任せているところもあるんです。それでも毎回ちゃんと“加藤の味”になるのは、菌が活躍してくれるおかげ。多くの蔵の味噌が集まる鑑評会で商品名を隠して食べても、うちの味噌はすぐ分かる。個性の強さは良さだと思っています」と裕人氏。現在、仕込みは6人の小人数で行っていますが、菌は7人目のスタッフのような存在。津軽味噌のユニークな味わいは、津軽の気候と人の手、そして菌の力、そのどれが欠けても生まれないのです。

表面がふんわりと菌糸に覆われた完成形の麹。米は、なんと全量自家精米の「つがるロマン」。仕込み期間以外は、田んぼでの米栽培も蔵人の仕事となる。

大豆は津軽北部の五所川原市で生産される「おおすず」という品種を使用。親指と薬指で潰せるくらいの柔らかさが、煮上がりの目安。

煮終わった大豆は一度広げて粗熱を取り、バケツリレーで運ぶ。もうもうと湯気が立ち込め、煮豆のいい香りが一面に立ち込める。

坂の途中にある立地を生かし、高低差による重力を利用した構造。塩切り麹を混ぜた大豆はこの後下に落とされ、ミンチにかけられる。

津軽ボンマルシェ津軽の味噌蔵で育った妻と、群馬出身の夫。若夫婦の挑戦は二人三脚。

現在、製造工程の指揮を執る裕人氏ですが、諭絵さんと結婚し加藤家の一員となるまでは、まったく違う世界で活躍していたといいます。大学時代に東京で出会ったふたり。群馬県出身の裕人氏は、大学卒業後に建設系の企業に就職、諭絵さんと交際を続けながら、長野県松本市で営業職をしていたそうです。一方の諭絵さんは、家業のこともあり東京農業大学へ進学したものの、卒業後はアパレル会社に入社、東京で働いていました。転機が訪れたのは2009年のこと。父・元昭氏が体調を崩したことから諭絵さんは弘前へ帰郷します。「いつかは実家を手伝うことになると思っていました」という諭絵さんに対し、「自分は単純に彼女と一緒に暮らしたくて(笑)。元々環境が変わっても、全然気にしないタイプなんです」という裕人氏。ふたりは結婚し、裕人氏が加藤家に入るとともに、家業を継ぐことを決心します。

持ち前のポジティブさで「行ってみたら何とかなる」と弘前へやってきた裕人氏でしたが、当然ながら多くの困難に直面したそう。まずは家業ならではの悩み。「家庭も仕事場も一緒だから、いつ何時も諭絵さんが横にいる。結婚前はほとんど喧嘩をしませんでしたが、今は引きずるといいことがないから、逆にどんどん言い合うようになりました」と笑います。そしてこの地域特有の人々の気質にも、もどかしさを感じることが多かったとか。「外からは分からなかったしがらみや意地みたいなものが、思ったより強くて。それなのに、みんなはっきり本音を言わないんです!」。そう、その正体が、これまでも「津軽ボンマルシェ」で何度となく登場してきた津軽人の“じょっぱり”=頑固者気質です。

話が遡ること2年前。最初に取材を打診したとき、ふたりの返答はNGでした。「蔵の中をお見せできなくて」というのがその理由。それから1年半後、諦めきれず再度連絡すると、今度の返答は「お受けしたいのですが、NGかもしれない。父の了承を得られるかどうか、まだ分からなくて」というものでした。代表を務める父・元昭氏こそ、ふたりの身近にいるじょっぱり津軽人代表。「父は、家の仕事は人様に見せるようなものじゃないという考え方。これまで詳しい取材を受けたことはほとんどありませんでした」と諭絵さんが言えば、「でもうちの味噌は独特。きちんと説明しないと、食べ方が分からない人も多くて。僕らは今の時代、もっと発信力を付けるべきだと思っています。父を説得するので、もう少し時間をください」と裕人氏が続けました。

ミンチにかけた原料を、木桶が並ぶ敷地内の熟成蔵まで運ぶのも人力。今年の冬は雪が少なかったが、例年はなかなかハードな作業だ。

100年以上使い続けている木桶。大釜やミンチの機械なども年代物ばかり。大量生産の味噌とは違う個性的な味わいは、こうした設備で造られる。

“踏み込み”作業を終え、熟成を待つ味噌。6月から7月には桶を移し替え、熟成を均一にするための “天地返し”を行う。

売店から蔵へ続く廊下の入口には、屋号が染め抜かれたのれんが。弘前界隈では、屋号の「ヤマトウ」より「加藤の味噌」として親しまれている。

現在は4種のしょうゆを製造。「しょうゆはまだまだ勉強中。今は脱脂加工大豆が原料ですが、丸大豆しょうゆを造ってみたい」と裕人氏。

津軽ボンマルシェ変えないこと、変えるべきことを模索しながら、津軽の食文化を未来へ繋ぐ。

無事取材を受けてもらえることになった今回、ぜひ知りたかったのが元昭氏の話でした。伝統を守り、製法を変えないこと。そうした『加藤味噌醤油醸造元』のやり方は、元昭氏が長年目指してきたことだったそうです。どんな思いで味噌造りに取り組んできたのか。幸運なことに、元昭氏自身に聞くことができました。

明治期に雑穀卸業としてスタートした後、扱っていた豆や米から味噌やしょうゆの製造を始めた『加藤味噌醤油醸造元』。しかし元昭氏が生後9カ月のときに3代目の父を戦争で亡くし、当時の民法により、元昭氏が全遺産を相続、かつ家族を扶養する義務を負うことになったそうです。その際必死で家を守ったのは、元昭氏の母。戦後の原料不足のとき、「加藤の味噌は自家製でないと」と早くから自家精米を復活させ、昔の製法にこだわったのも母でした。「津軽味噌の看板を守るという気概でしょう。自分は中学から地域の試験場に出入りして農大へ進み、そんな母を助けようと一生懸命でした。冬は仕込み、夏になれば田んぼで米作り。ずっとやることがありました。でも“寒仕込み”も、かっこよく言えば雑菌の繁殖がどうのとこうのとなるけど、本当は冬になれば農作業が減って、やることがなくなるというのが理由でね。そもそもは生活の流れの中に、味噌やしょうゆ造りがあったんですよ」と元昭氏。

味噌造りは、暮らしの仕事が四季の移ろいの中にあった時代から続く、大切な食文化。元昭氏はこう続けました。「ただ、日本の食生活は大きく変わりました。蔵で大切に使い続けてきた道具も、限界が来ているものが多い。メーカーも時代に合わせ、変化すべきところもあるはずです。まあでも、津軽人は“じょっぱり”ですからね。自分もそう(笑)。なかなか意見を曲げない分、息子が県外から来てくれたことがありがたい。味噌造りはまだまだだけど、経験が浅いからこそ出てくる的確な意見もあって、期待しているんです。本人に直接は言ったことはありませんが(笑)」。

にこやかに取材に応じてくれた元昭氏の言葉から見えてきたのは、苦労して続けてきた家業への覚悟と未来への想い。一方、元昭氏への取材前、裕人氏と諭絵さんはこう話していました。「自分たちの代は過渡期。設備、働き方、発信の仕方……次の代、その次の代のことまで考え、改革するときだと思います。でも、造り方は変えません。これからも全部人の手で、うちならではの味噌を造りたい。こだわりというより、これしか出来なくて。普通のことをやっているだけなんです」。普段は意見が食い違うこともあるという元昭氏と若夫婦ですが、結局、向いている方向は同じ。津軽味噌の唯一無二の美味しさが、これからも受け継がれ、食べ続けられる。そんな津軽の将来が見えたようでした。

普段あまり話さないという生い立ちや味噌造りのこだわり、娘夫婦への想いについて、丁寧に答えてくれた元昭氏。これまでの取材の中でも、特に印象深いひとときとなった。

取材中にいただいた、津軽の郷土料理「けの汁」と和菓子のおもてなし。にぼし出汁を津軽味噌と合わせ、細かく刻んだ野菜を入れた「けの汁」は、冷えた身体に染みわたるとびきりの美味しさ。

仲が良く、雰囲気も似ているふたり。現在は2人の子どもの子育て中。老舗の伝統を受け継ぐという大役に、協力し合いながら取り組んでいるのが印象的だった。

住所:青森県弘前市新寺町153 MAP
電話:0172-32-0532
https://www.tsugaru-yamatou.com/

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

冴え冴えとした寒晴に深化する感覚。胎動する冬にTOKYOの本質を知る。[SIX SENSES TOKYO/東京都八王子市高尾]

シックスセンス東京OVERVIEW

冬はつとめて。
清少納言は『枕草子』で早朝に見る霜の白さに深い感銘を受けていますが、今年の高尾も冬は白く、美しい。都心とは全く異なる清冽な空気で満ちています。
頬を撫でる風は冷たく、身も引き締まるように感じられて、とても心地が良い。
ここが『京王線』で新宿からわずか1時間足らずとはにわかに信じられないほど、静かな朝を迎えています。

高尾山の頂に足を運べば、雪化粧した富士山が偉容を誇り、『髙尾山薬王院』では、「六根清浄」の精神に、「SIX SENCES」との驚くべき符合を感じます。

一方の『うかい鳥山』でも、冴え冴えとした空気の中、そびえる合掌造りに改めて日本人が大切に育んできた美意識の高さを感じ、文化まで移築せんと奔走した創業者の志に感銘を受けます。
共鳴した魂は連綿と受け継がれ、今の『うかい鳥山』にもしっかりと息づいている。
冬にしか出合えない鍋に舌鼓を打てば、身も心もほっこりと和みます。

冬の高尾も素晴らしい。
四季を通じて、TOKYOの四季を見つめてきたONESTORYの取材班は、新しい年を迎えた晩冬の高尾を目指しました。

【関連記事】SIX SENSES TOKYO/五感に響くことで研ぎ澄まされる第六感。都心から60分のTOKYOに顕在する本物の四季

(supported by うかい京王電鉄)

「日本最初期のリゾート地」に敬意をはらった建築界の巨匠によって、文人たちが通い、思索した天空のリゾートが再生![六甲山サイレンスリゾート/兵庫県神戸市]

阪神間モダニズム(明治~昭和初期にかけて六甲山麓を舞台に花開いた芸術文化)を代表する歴史的建築物・旧「六甲山ホテル」が、イタリアを代表する建築家ミケーレ・デ・ルッキ氏の手によってリニューアル。2025年までに宿泊棟、オードトリウム、チャーチなどを含めた複合施設として完成する予定。

六甲山サイレンスリゾート「昭和のモダニズム」を体感できる、現代に蘇った神戸の新名所。

六甲山。神戸市を見守るかのようにそびえるこの風光明媚な山は、明治時代より、神戸に居留する外国人たちによってリクリエーションの場として開発されてきました。
瀟洒な山荘が建ち並び、日本で最初のゴルフクラブ「神戸ゴルフ倶楽部」が拓かれるなど、リゾート地の先駆けとして発展。そして昭和に入った1934年には、九州の雲仙・霧島と共に日本初の国立公園「瀬戸内海国立公園」に指定されました。

そんな由緒正しいリゾート地に、1929年、名門「宝塚ホテル」の分館として創られたのが旧「六甲山ホテル」。2007年に国の“近代化産業遺産”に認定されたその貴重な建築は、令和の現代になって、イタリア建築界の巨匠ミケーレ・デ・ルッキ氏の手によって『六甲山サイレンスリゾート』として蘇りました。

約2年間に及ぶ修復工事の末に、開館当時の美しさのままに再生!(旧館2階のレセプションエリア)

四季折々の樹々や花々、鳥や動物たちが息づく表情豊かな六甲山の自然に溶け込む。

六甲山サイレンスリゾート緑の中に佇む、歴史ある文化遺産。

六甲山のリゾート地としての歴史を汲んで、「昭和のモダニズム」を現代に蘇らせた『六甲山サイレンスリゾート』。しかし、その実現は簡単なものではありませんでした。

この素体となった旧「六甲山ホテル」の近くにヴィラを所有していた八光カーグループの代表取締役・池田淳八氏夫妻は、閉ざされて久しい建物の前を通る度に、朽ちていく歴史的な建築を目にして日々悲しい思いを抱いていました。

1959年に創業し、アルファ ロメオ、フィアット、アバルト、マセラティ(イタリア車)とジャガー、ランドローバー、アストンマーティン、マクラーレン(イギリス車)といったそうそうたる高級欧州車の正規ディーラーとして知られる八光カーグループの代表として、神戸のシンボルとも言える六甲山と、そこを舞台に花開いた“阪神間モダニズム”の文化や歴史が失われつつある光景は、実に耐えがたいものだったといいます。

そこで、この類まれなる文化遺産を開業当時の姿に蘇らせて、次の時代に継承していくことを決意。そのため旧「六甲山ホテル」をかつての所有者より譲り受けました。こうして歴史への敬意でもあり、公共の福祉でもある壮大なプロジェクトが動き始めたのです。

そして旧「六甲山ホテル」の建築を往時のままに再生すべく、様々な有名建築家に相談したものの、「解体して新設する方が経済的です」という意見が大半。しかし、そんな中でミケーレ・デ・ルッキ氏が、唯一「素晴らしい文化遺産なのでぜひ修復して次の世代に遺しましょう」との回答を寄せてくれました。こうしてデ・ルッキ氏に設計と監修を依頼することとなり、旧「六甲山ホテル」の再生が始まったのです。

ミケーレ・デ・ルッキ氏の近影。1980年代に世界中にムーブメントを巻き起こしたデザイン集団「メンフィス」の主要メンバーで、新たなデザインの潮流を生み出した。

六甲山サイレンスリゾート化学素材から自然素材に回帰した世界的建築家が、日本の木造建築を見事に再生。

デ・ルッキ氏は、デザイン界に登場した当初はカラフルなプラスティック材のプロダクトを中心としたコレクションを発表し、ポストモダンの代表的な作家として一世を風靡していました。
しかし時代が彼らに追いつく前に、将来の社会情勢や環境保護を鑑みて、プラスティックを破棄することを明言。現在は「木を使わせたら世界一」との呼び声も高い、「環境を保護して共存する建築家」として、世界中から高い評価を受けています。

そんなデ・ルッキ氏の作風と見事に合致した『六甲山サイレンスリゾート』 は、「六甲山の自然との共存」をテーマにしています。そして、その中心となる旧「六甲山ホテル」の建築は、“近代化産業遺産”に認定された風格のままに、美しいステンドグラスや重厚な梁、格調高いメイン階段などを修復・保存し、開業当時の姿を蘇らせました。

「阪神間モダニズム」の空気を肌で感じられる、往時のままの空間。エントランスには旧「六甲山ホテル」の歴史を紹介するヒストリー・ギャラリーを備えている。

“近代建築の三大巨匠”の1人として知られるフランク・ロイド・ライト氏や、阪神に多くの近代商業建築を遺した渡辺節氏が大正後期~昭和初期にかけて設計した。

修復作業の様子。伝統建材と新建材を知り尽くしたデ・ルッキ氏によって、見事に再生した。

六甲山サイレンスリゾート六甲山の自然と共存する、魅惑的な建築。

こうして誕生した『六甲山サイレンスリゾート』で愉しめるのは、「文化遺産の中で遊ぶ」という贅沢この上ない体験です。
旧「六甲山ホテル」の2階には、開業当時のステンドグラスを天井に仰ぎ見られるカフェテリアがあり、パティシエが毎日焼き上げるスイーツやフレッシュ・パスタなどの小洒落た軽食、そしてイギリスと縁が深い神戸ならではのティーセレクションや、本格的なアフタヌーン・ティーなどが楽しめます。

さらに旧館と通りを挟んだ向かい側、神戸港を見おろしながら大阪湾や淡路島までも一望できる絶景スポットには、ゴージャスなグリルレストランを創設。神戸港に水揚げされた新鮮な瀬戸内海の幸や、但馬牛、淡路鶏などのご当地グルメをふんだんに味わえます。

カフェテリアの内観。ステンドグラス越しに降りそそぐ自然光に癒される。

本場・英国式のアフターヌーン・ティーは神戸ならではのお愉しみ。

グリルレストランの鉄板焼きコーナーでは、選び抜かれた食材と調理方法に合わせたワイン、シャンパンなどのドリンクリストを用意。

3段式の広大なテラス席からの眺望。阪神の街並みと歴史を俯瞰するひととき。

六甲山サイレンスリゾート六甲山の歴史を繋ぎながら、新時代のリゾートを目指す。

旧「六甲山ホテル」を基軸として蘇り、六甲山の自然に溶け込むラグジュアリー・リゾートとして再生した『六甲山サイレンスリゾート』。しかし、その歩みはまだ始まったばかりです。今後も雄大な円環を紡ぐように、様々な施設が続々とオープンする予定です。

まずは2020年中に、より六甲山の自然に親しめる森に佇むカフェテリアを新設。そして2021年には、輪のように連なる宿泊棟「サイレンス・リング」を築いて、その中心に周囲の森さながらの樹々を内包する予定です。

さらにオードトリウム(コンサートや劇を鑑賞できる観覧席)や、結婚式を行なえるチャーチなど、文化と芸術を育む複合施設を展開。2025年にすべての完成を目指して、鋭意建築を進めています。

豊かな六甲山の自然を舞台に、それらと調和しながら広がっていく新時代のリゾート。
神戸市内から車で約30分の地に、自然に溶け込む文化遺産と、真のイタリア建築デザイン、そして最上の眺望と美食を堪能できる至福のひとときが待っています。

森の中のカフェテリア。環境に配慮された、持続可能な歴史遺産を目指す。

「サイレンス・リング」の完成イメージ。客室は神戸港を望むオーシャンビューと、六甲山の自然に癒されるマウントビューから選べる。

六甲山の景色や音を体感できるプレイルーム。ファミリーで訪れるゲストにも安心。

夜は“1000万ドルの夜景”が広がるパノラマビューと、ダイナミックな六甲山の自然との共演は、訪れる人々を非日常のひとときにいざなってくれる。

住所: 兵庫県神戸市灘区六甲山町南六甲1034 MAP
電話: 078-891-0650
https://rokkosansilence-resort.com/
(写真提供:八光自動車工業株式会社)

求めるのは心の“スパーク”?津軽のヴィンテージファンから愛される、家具屋の名物店主に会いに行く。[TSUGARU Le Bon Marché・RandBEAN/青森県弘前市]

取材中、自らの性格やプライベートについて驚くほどオープンに話してくれた『RandBEAN』代表・佐藤孝充氏。多くの人に慕われる誠実な人柄が伝わってきた。

津軽ボンマルシェ岩木山を眺める高台に佇む、りんご畑に囲まれた家具店。

弘前の街を歩くと、こじゃれたヴィンテージショップをよく見かけます。以前ご紹介した『green』の姉妹店『green furniture』はじめ、古道具や古着を扱うさまざまなテイストの店が揃い、各店に馴染み客が付いている模様。古道具店が多いのは弘前市が戦争時に空襲をまぬがれ、古い蔵や建造物が多く残っているのも理由だそうですが、そこに藩政時代から培われた高い文化レベルと、元々おしゃれなものに敏感な津軽人の“えふりこき”=見栄っ張り気質が相まって、古いものに価値を見出し素敵に活用する土壌が育ったとも言われているそうです。そして数あるヴィンテージショップの中でも人気のひとつが、今回ご紹介する『RandBEAN』(ランドビーン)。弘前市郊外、津軽のシンボル・岩木山を真正面に眺める気持ちのいい高台に位置するショップと工房では、国内外から買い付けたヴィンテージや新品の家具を販売するほか、手頃な価格のオリジナルの家具も製造、古家具のリペアやリメークも受注しています。

『RandBEAN』の代表を務めるのが、地元出身の佐藤孝充氏。実は佐藤氏の話は津軽の色々な所で耳にしていました。例えば弘前市代官町のセレクトショップ『bambooforest』。パッと目を引くウッディなファサードや内装を手掛けたのは佐藤氏で、店主の竹森幹氏とは、互いの店舗がまだ小さかった頃からの旧知の仲だとか。また、『パン屋 といとい』の店主・成田志乃さんと佐藤氏は高校時代の同級生。卒業後、お互い独立を果たしてから偶然再会したことがきっかけで、今では佐藤氏自身が『といとい』の馴染み客になっているそう。そして何より印象的だったのが、佐藤氏のことを話すとき、誰もが表情を崩すこと。竹森曰く「豆さん(佐藤氏の愛称)はね、ほんとおもしろい人なんですよ(笑)」。そんなこともあり、高まる期待と共に訪れた工房。現れたのは穏やかな口調で話す、物腰柔らかな青年でした。

2012年に『RandBEAN』を立ち上げ、多い時には4店舗を展開していた佐藤氏。取材時にはここ弘前ショップ兼工房のほか、青森市内にもショップを運営していました。その躍進の原動力を探ろうと、まずは独立の経緯を聞けば「元々音楽をやっていて。最初はギター作りを勉強していたんです」との答えが。ちょっと意外な話題から、取材のスタートとなりました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

元々りんごの加工場だった場所に造られた木工所跡地を居抜きで購入、改修し、2019年にオープンさせた現弘前店。全体の敷地面積は600坪もある。

ヴィンテージ家具やセレクト雑貨、「カリモク60」「IDEE」などの人気ブランドの新品家具を扱うほか、オリジナルの家具のショールームも兼ねている。

ショップ部分の小窓からは、併設する工房の様子が伺える。「現場を見てもらうことで、自分の家具に愛着を持ってもらいたい」と佐藤氏。

津軽ボンマルシェひとりの音楽青年が、自分の家具店を立ち上げるまで。    

音楽少年だった佐藤氏は高校卒業後、「楽器が作りたい」と東京の音楽・芸能系の専門学校へ。そこで2年間、ギター制作を学んだそう。「木に触れながらものづくりをするのはいいなと思っていました。でも卒業したものの、職人になる気が起きなくて。東京にいる理由もないから、弘前に帰ったんです」と佐藤氏。帰郷後は、当時弘前にあった伝説的なライブハウス『萬燈籠』を拠点にアーティスト活動を行うかたわら、観光施設『津軽ねぷた村』で働き出します。ねぷた祭や津軽の伝統芸能、伝統工芸を紹介するこの施設で担当していたのは、木工芸品の制作や販売。曰く「やっぱり木に触れる仕事に惹かれたんでしょうね」。

昔から中古品好きで、東京在住時は高円寺で古着屋巡りをしていたという佐藤氏はその後、アンティーク家具の輸入販売業者へ就職。約9年間、家具の修理や制作、買い付けを手掛けていました。しかしその間に一度退職、さらに同じ会社への再就職を経験したという佐藤氏。退職の理由は、一社員の立場では、やりたいことがなかなかできないというフラストレーションだったといいます。「大鰐町にある木工房に入り、3カ月勉強させていただきました。でも、何か違うんですよ。そこでは県産の無垢材の家具を受注生産していて、技術も作品もすばらしいけれど、ひとつの家具が何十万円もする。僕は自分と近い年齢の人たちが、もっとリアルに生活に使えるもの、10万円あれば買えるようなものがやりたいんだと気付いたんです。それで工房を辞め、元いた会社に戻りました」と佐藤氏。

もうひとつ、10年ほど続けていた音楽活動にも転機が訪れます。自分がいいと思ったパフォーマンスとそれを観た周囲の反応の落差に、音楽は結局聴く人の好みがすべてなのだと感じたこと、そしてとあるアーティストとの対バンで、輝くばかりの才能を目の当たりにしたことがきっかけでした。そのアーティストとは、今や超が付く人気者となった竹原ピストル氏。「こりゃ敵わないと思ったし、自分はもうやりきったかなって。ザ・挫折ですよ」と佐藤氏は笑います。それまで自己実現の手段だった音楽をあきらめることで、次に踏み出した佐藤氏。自分が理想とする家具を、自分が思い描く方法で販売したい。そんな想いを胸に、リペアやリメイクの頭文字「R」に自身の愛称「豆」=BEANをくっつけた屋号『RandBEAN』を掲げ、ヴィンテージ家具の専門店としてスタートを切ったのでした。

座面の生地を張り替えたヴィンテージの椅子は、創業当初からの人気アイテム。生地の張替えのオーダーも多く受注する。

テーブルや椅子、シェルフなどのオリジナル家具の受注生産を始めたのは、独立から数年後。店舗やギャラリーの内装を丸ごと請け負うこともある。

扱う商品の中には、「津軽ボンマルシェ」で紹介してきた作家のものも。こちらは『YOAKE no AKARI』が手掛けたキャンドル。

津軽ボンマルシェ常に子どものような心で、物事と向かい合っていたい。

それは独立時の心境を聞いたときのこと。「今もそうだけど、僕はいつも“スパーク”していたんです」。佐藤氏はふと呟いてから、こう続けました。「誰かの言葉に『気付いたら夕日を背負っていた』みたいな表現が出てきて、すごくいいなって。子どもの頃って、夢中になって遊んでいたらあっという間に夕方だった。いつもそんな気持ちでいたいんですよ」。やってみたいという直感が弾ける瞬間が“スパーク”。そしてこれこそが『RandBEAN』の躍進の原動力です。

独立当初、親戚のりんご倉庫を借りて始めた店は、ほどなくして弘前市中心部にある商業施設に移転。3年目には市内のデパート『中三 弘前店』内に移転したほか、青森市内の『中三 青森店』に支店を出します。その後も弘前駅前の商業施設『ヒロロ』や五所川原市の『エルム』内に短期出店。拠点となる弘前の店ではヴィンテージやオリジナルの家具に力を入れ、青森店では新品の家具、ほかではリーズナブルなユーズド家具をメインに、エリアに合わせた商品展開を続けてきました。「創業してからの7年はずっと『やりたいことはやる、やってみないと分からない』という精神でした。思うように行かず泣いてばかりでしたが(笑)、自分のスパークに正直に、ブレずにやってきたと思います。でも最近会社が大きくなり過ぎて、スパークできているのか分からないときが続いて。拡大するより、10年、20年続けられる店にしたいという気持ちが出てきたんです」と佐藤氏。

昨年、長く営業していた『中三 弘前店』の店を閉め、次なる拠点を探して見つけたのが今の場所。岩木山の雄大な眺めに一目ぼれだったといいます。そして着手したのが、お客さんと作り手の距離が近い、工房併設のショップ作り。7年の経験を経てたどり着いた、佐藤氏の理想の店舗の形でした。資金調達にはクラウドファンディングも利用。店舗面積120坪の新たな『弘前店』が誕生します。「この物件の話が来たとき、この場所で経営者として、地に足をつけてやっていきたいと感じて。これも自分なりのスパークだと思っています」と佐藤氏。

現在、家具の制作やリペアを担当するスタッフは2人。どちらも佐藤氏がスカウトした、キャリアの長い腕利きの職人だ。

同世代でも手が届くアイテムを。佐藤氏のそんな想いが込められたさまざまなオリジナル家具を制作。定番は、古材を再利用したシリーズ。

セレクトショップ『bambooforest』のファサードは、店主の竹森幹氏のアイデアを佐藤氏が具現化したもの。木目のリズミカルな配色がユニーク。

津軽ボンマルシェ気付けば、最高のチームに囲まれて。“スパーク”探しの旅は続く。

かつて「やりたいことがやれない」と不満を抱えていた会社員時代のことを「結局、失敗の責任を負うのは自分自身。一社員の僕には、そんな覚悟もなかったんだと思います」と振り返る佐藤氏。『RandBEAN』を立ち上げてからは、「ひとりでできると意気込んだのに、デザインひとつ決めるのも不安で。何度も壁にぶつかりました」と話します。そんなとき救いとなったのが、周囲のスタッフの存在。「今いるスタッフは最高なんです。彼らにきちんと休みを取ってもらい、家族を養える給料を渡すのが、今の僕のモチベーションといってもいいくらい。地に足をつけるとか、安定を求めて守りに入るって、マイナスに捉えられがちだけどそうじゃない。大事なものが壊れないよう大切に扱いながら自分の人生を生きる“タフさ”、そこに夢があるなと思うんですよ」。佐藤氏は笑顔で付け加えました。「今は、次の“スパーク”待ちの期間かも。ていうかこの取材、こんなとりとめのない話ばかりで大丈夫ですか?(笑)」。

事実、佐藤氏と話した2時間のうち、家具や木工の話題はそれほど多くありませんでした。それより盛り上がったのは、影響を受けた本のことや、自身の家族のこと。ときには佐藤氏の悩み相談のような展開になった場面もありました。まだ会って間もない相手に対し、オープンに本音だけを話してくれた佐藤氏。取材中、『RandBEAN』を売り込むお決まりの宣伝文句のような発言は、ただのひとつも出なかったことが記憶に残っています。「木の質感や素材としての魅力は好きだけれど、それで自分の作品を作りたいわけではなくて。家具そのものより、それを使う人の暮らしがいいものになることが理想です」と佐藤氏。

個人ごとですが、担当ライターの住まいは東京郊外。「RandBEAN」のようにヴィンテージやオリジナルの家具を手掛ける店は、近所にも多数存在します。それでも話を聞くうち、いつか弘前のこの店で家具を誂えたいと思うようになったのは、佐藤氏の人柄に惚れ込んでしまったからにほかなりません。多くの人が顔をほころばせながら佐藤氏の話をする訳は、飾ることも強がることもなく、手探りで挑戦を続けるその生き方が魅力的だからでしょう。取材後しばらくして、佐藤氏からメールが届きました。
“青森店を閉め、弘前店の売り場を倍にすることにしました。今、弘前店の二階を改装中で、外には飲食スペースも作る予定です”。
どうやら新たな“スパーク”を見つけたらしい佐藤氏。きっと今頃は日が暮れるのも忘れ、夢中で改修作業に取り組んでいるはずです。今年4月に予定されているリニューアルオープンが、弘前の春に楽しい話題を運んでくれることは間違いないでしょう。

2018年青森市の中心街にオープンしたカフェレストラン『UGUISU』には、テーブルや椅子、スツールを納品。直線と曲線のコントラストが美しい。

「昔は中古品の安さやかっこよさに惹かれていたけれど、この仕事を始めてからは、物が持つストーリーに魅力を感じるようになりました」と佐藤氏。

古い窓枠を配したファサードが印象的な『RandBEAN』弘前店。スタッフの労働条件を考慮し、現在ショップの営業は週4日のみ。今後スタッフを増員し、この4月からは水曜定休のみに変更となる。

「若い頃から地元・青森が大好き。東京に比べたら田舎だけど、そんなところもいいんです」と佐藤氏。取材時の本音トークの端々に、愛されキャラの片鱗が見えた気がした。

住所:青森県弘前市小沢山崎83-4 MAP
電話:0172-55-9564
https://randbean.com/

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

和牛の原型と言われる、幻の純血種から生まれた奇跡のハンバーグ。[やまぐち三ツ星セレクション・ハンバーグ/山口県]

幻の純血種“見島牛”の血を受け継ぐ“見蘭牛”を100%使用した粗挽きハンバーグ。あふれ出る肉汁と肉本来の旨味を堪能できる。

やまぐち三ツ星セレクション希少な純血和牛「見島牛」を未来へ守る。

「見島牛(みしまうし)」という名を聞いたことはあるでしょうか。それは、山口県萩市の沖約44kmに浮かぶ離島、見島で飼育されている牛のこと。室町時代に朝鮮半島から渡来し、農耕用の役牛として飼育され、現代に至るまでその命が脈々と受け継がれてきました。西洋種の影響を受けていない、日本に残る純血和牛2種類のうちのひとつが見島牛。和牛の原型と言われる見島牛は、その文化遺産としての価値も高く評価されており、見島全域とともに「見島ウシ産地」として国の天然記念物に指定されています。

島人が育てる見島牛は、その数わずか約80頭。島内で見島牛を飼育する6戸のうちの一つであり、見島牛保存会会長を務める多田一馬氏を訪ねました。
「牛は家族の一員。物心ついた時から家に牛がおるのは当たり前で、子どもの頃には親父や爺さんが田んぼや畑で牛を使っていたのを覚えていますよ。専用の農耕具を引かせて土を起こしたり、整地したり。親父や爺さんは手綱1本で指示を出すとなんでも言うことを聞くんやけど、子どもの私やと全然だめでね。とても賢いんですよ、牛は」と笑います。

【関連記事】やまぐち三ツ星セレクション/山口県を身近に感じる逸品たち。そのふるさとを訪ねて。

▽見蘭牛 男の粗挽きハンバーグ
価格:1.620円

見島は人口約740人の小さな島。萩港から定期船で約70分。冬場は船が揺れることが多く、欠航率も高い。

成熟した見島牛。一般的な和牛に比べて体高は低く細身。しかしながら力は強く、ジャンプ力もある。

見島牛共同飼育場を多田氏に案内してもらう。見知らぬ取材班が訪れても、従順で性格が穏やかな見島牛はいたって静か。

見島牛共同飼育場の放牧地にて、対馬沖の漁師を辞めて地域おこし協力隊として見島牛飼育のために島に移住した花田康章氏。開放的な土地で、見島牛はストレスなく育つ。

やまぐち三ツ星セレクション働き者で、グルマンも唸らせる、見島牛こそ牛の鑑。

見島牛は一般的な黒毛和牛と比較すると体格が小さく、成熟まで5年、7〜8歳まで成長が続くように発育は遅いのが特徴です。しかし、性格は穏やかで、粗食に耐え、病気に強く、力も強いとあって、農耕の重要な担い手となってきました。「まず牛に食べさせて、残り物を人間たちが食べたものです」と多田氏が話すように、室町時代から代々、各家庭で家畜以上の存在として大切に飼われてきたのです。
昭和30年代、その伝統が大きく変わってしまいます。農機具の機械化と共に見島牛の役牛としての必要性が薄れ、働き手とならず飼育にお金と手間がかかる牛を手放す農家が続出。一時は600頭もいた見島牛は33頭にまで激減してしまいました。
天然記念物の行く末に危機感を覚えた地元青年たちが中心となり、昭和42年に見島牛保存会が設立。共用の運動場を開設し、運動や健康診断を推進するなど地道な保護増殖の努力により、現在は80頭余りまで回復してきました。

現在、見島牛は保護増殖に影響しない去勢牛や雌の廃用牛が年間数頭ほど島外に出され、食用として消費されています。気になるのはその味です。
味わった人は「いくらでも食べ続けられる美味しさ」と絶賛します。一般的な高級和牛よりも霜降り具合が落ち着いていて、肉のサクサクとした小気味よい食感と力強い赤身の旨味を楽しめるとあって、牛肉マニア垂涎のブランド牛となっています。

多田氏の牛舎で生まれたばかりの仔牛。「うちではメスばかりが産まれとる。メスは金にならんからつらい」と苦笑いするが、その目は母親候補の誕生にうれしそう。

放牧場から、宇津港を望む。豊穣な海と緑に覆われた大地が見島牛を育む。

正観音が祀られる観音崎は絶景スポットの1つ。島内には風光明媚な名所も数多く点在する。

自然環境に即した暮らしを大切にする見島。ゆったりとした“島時間”に合わせて心穏やかに過ごすことができる。

やまぐち三ツ星セレクション見島牛の肉質を受け継ぐ「見蘭牛」をハンバーグに。

絶品と称されながらも、あまりにも希少な見島牛。一人でも多くの人にその魅力を体感してもらうことが、島民の暮らしを支え、見島牛の種の保存にも繋がります。そんな中で今、脚光を浴びているのが「見蘭牛(けんらんぎゅう)」です。見島牛を父親に、オランダ原産のホルスタインを母親に持ち、24カ月をかけて育てられる、萩市が誇る銘柄牛です。

見蘭牛を飼育する『ミドリヤファーム』の代表・藤井照雄氏は見蘭牛の特徴について話します。
「ホルスタインは乳牛のイメージがあるかもしれませんが、ヨーロッパでは肉牛としても肥育されます。ホルスタインと見島牛を交配すると、見島牛ならではの濃醇な風味やすっきりとした後味といった優れた肉質が受け継がれながら、ホルスタインのように四角く大きな体に育ちます。肉質は見島牛に匹敵する美味しさ。肉そのものの圧倒的な旨味を楽しんでいただくために、ぜひ塩で味わっていただきたいです」

そんな見蘭牛の味を手軽に、そして存分に楽しめるのが「見蘭牛・男の粗挽きハンバーグ」です。つなぎを一切使用せず、見蘭牛を100%使用。ソースではなく、添付の藻塩と胡椒でいただくという、肉のポテンシャルに裏打ちされた、なんとも潔いスタイルです。
商品担当の藤井治雄氏は、開発の苦労を振り返ります。

「ソースを使わずに塩で美味しいハンバーグを、しかもレトルトで完成させるのは想像以上に難しいチャレンジでした。当初はいろいろなつなぎを試しましたが、最終的には複数の大きさに挽いた見蘭牛の粗挽き肉、脂の比率、混ぜ方の順番を突き詰めることで満足のいく仕上がりに到達することができました。口に広がる肉本来の旨味を堪能していただきたいです」
孤島で奇跡的に命が紡がれてきた純血和牛から生まれた奇跡のハンバーグ。格別な食体験となるのは、間違いありません。

萩市内の牧場で飼育されている見蘭牛。顔つきは見島牛に似ているが、体格はホルスタインのように立派だ。野生のウリボウの登場にも気にせず堂々と餌を食む。

『ミドリヤファーム』の加工施設に隣接する直営レストランと直売店。見島牛と見蘭牛を味わえるとあって、遠方から足繁く通う客も多い。

『ミドリヤファーム』の直売店『みどりや本店』では、見蘭牛の生肉のほか、ソーセージなどの加工品も販売。地元の常連客でにぎわう。

『ミドリヤファーム』の藤井照雄氏(左)、見島牛保存会会長の多田一馬氏(中)、地域おこし協力隊の花田康章氏。見島牛の保護に不可欠な3人だ。

「見蘭牛 男の粗挽きハンバーグ」¥1620。遊び心あふれるパッケージ。湯煎するだけで絶妙な焼き加減の極上ハンバーグを味わえる。

住所:〒750-0025 山口県下関市竹崎町4-2-36 MAP
電話:0120-414716
https://www.ymtc-webstore.jp

住所:〒758-0057 山口県萩市大字堀内89番地 MAP
電話:0838-25-1232
https://www.ym-tc.co.jp/list/

(supported by 地域商社やまぐち株式会社)

3人のキーマンが振り返る、世界遺産を舞台に躍動したシェフユニット「GohGan」幻の饗宴。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

ダイニングアウト琉球うるま

2020年1月中旬、沖縄県うるま市を舞台に開催された『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』。
舞台となったのは県南東部のうるま市に残る世界遺産・勝連城跡。古くから海運の要衝で、15世紀には琉球王朝と拮抗(きっこう)する栄華を誇った勝連。様々な国や地域の人々を受け入れ、文化に寄り沿うことで発展してきた土地には「気高さ、心の豊かさ」を意味する「肝高(きむたか)」の精神が今も根づいているといわれています。今回の『DINING OUT』のテーマは、この「肝高」、そして交易の地に伝わる「おもてなし」。

そんな壮大な舞台で料理を担当するのは、世界的なシェフ二人で構成されるポップアップユニット「GohGan」。2010年に開いた「Gaggan」で、エグゼクティブシェフを務め、世界から注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurants」では4位を獲得したインド人シェフのガガン・アナンド氏。そして、九州で唯一「Asia's 50 Best Restaurants」にランクインした「La Maison de la Nature Goh」の福山 剛氏。

そして、2人をよく知る「The World's 50 Best Restaurants」の日本評議委員長を務める中村孝則氏がディナーホストを努めました。

沖縄とインドの融合、サプライズによる彼らなりの「おもてなし」を実現させた驚きの二晩を、3人のキーマンが振り返ります。

【関連記事】DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS

1971年生まれ。福岡県出身。高校在学中、フレンチレストランの調理の研修を受け、料理人の道へ。1989年、フランス料理店『イル・ド・フランス』で研鑽を重ね、その後、1995年からワインレストラン『マーキュリーカフェ』でシェフを務めた。2002年10月、福岡市西中洲に『La Maison de la Nature Goh』を開店。2016年には、九州で初めて「Asia's 50 Best Restaurants 」に選出され、2019年には24位にランクインを果たす。

インド コルカタ出身。2007年にバンコクへ移住し、その後レストランの料理長を務める一方、エルブジで研修を積む。2010年に開いたレストラン「Gaggan」では、エグゼクティブシェフを務め、Progressive Indian Cuisine(進歩的インド料理)を打ち出す。世界的注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurant」では4位を獲得。同年8月新たなチャレンジに向けてお店をクローズし11月に再始動をする。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を授勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士の称号も授勲。(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称))2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。
http://www.dandy-nakamura.com/

一度味わうと忘れられない、甘鯛という滋味。真冬の海でその最前線を追う。[Fisherman’s Wharf Shimonoseki・甘鯛/山口県下関市]

フィッシャーマンズワーフ 下関OVERVIEW

若狭のぐじや京料理などでよくその名を目にする高級魚・甘鯛ですが、実は山口県は国内屈指の漁獲高を誇ります。というのも長年、漁獲高は山口県が全国一位を保持。足が早い魚でもあるため、都心にはなかなか出回らず、県内消費が多かったといいます。
しかし、そんな話は今や昔、冷凍保存の設備の向上や、漁師の船上での神経締めの技術の発達により、今や下関産の甘鯛も全国屈指のブランド魚の仲間入りを果たそうとしています。

淡白な味わいながら、火入れや下処理など丁寧な仕事を施せば施すほど、どんな料理にも適応するポテンシャルを持ち、滋味溢れる味わいは食通を唸らせます。なかでも脂を蓄える冬場の甘鯛は絶品と言われています。
下関沖、真冬の海での甘鯛漁から、フレンチの食材としても大活躍のレストラン、さらには高級魚・甘鯛の干物まで、一度味わうと虜になってしまう下関の甘鯛の現場を訪れました。

【関連記事】FIsherman's Wharf SHIMONOSEKI メインページ/豊かさの再発見。改めて知る海峡の街・下関へ

(supported by 下関市)

美しき藍色に染まる絶海の群島は、世界を震撼させた固有種の宝庫。[東京“真”宝島/東京都 父島]

東京"真"宝島OVERVIEW

竹芝桟橋から定期便の「おがさわら丸」に乗ること24時間。航路の途中は電波もほぼつながることがなく、旅の行きすがら、日常がいかに携帯電話に依存していたかを実感するところから小笠原諸島への旅路ははじまります。
午前11時の出港から、船内でランチを味わい、見渡す限り360度の海の青に染まる世界を貪り、さらには燃えるような夕日を眺め、それでも余りある時を過ごせる船の時間。レストランでの夕食の後、ほろ酔いで星空を観察する頃には、電波なんて気にしなくなっている自分に気がつきます。

日常とはかけ離れた時間旅行。小笠原諸島を目指す人は、そんな一瞬を求め、この島を目指すのかもしれません。

翌朝、朝日とともに身体が自然と目覚めると、島への上陸の準備は万端。小笠原の玄関口となる父島への旅が、いよいよ幕を開けるのです。

東京都に属しながらも、所在地は都心から南へ約1000kmの絶海の群島。かつて島を開拓したハワイや欧米系の人々が「無人(ぶにん)」を「ボニン」と発音したことからボニンアイランドの愛称で親しまれ、小笠原の象徴である息を呑むほどの美しい海の藍色は「ボニンブルー」と呼ばれてきました。

さらには島が歩んだ歴史も特筆。小笠原諸島は1543年にスペイン船により発見された後、日本人よりも先に欧米系やハワイ系の人々が定住していたと言われています。その後、日本では1593年(文禄2年)に、信州深志(松本)城主小笠原時長のひ孫、小笠原貞頼が発見したと伝えられています。

そして2011年には、その隔絶された環境により独自に進化を遂げた固有種の生態系が高く評価され、小笠原諸島は世界自然遺産に。生息する陸産貝類のうち約100種が固有種という驚異的な報告も世界を驚かせました。

行きづらい、だからこそ守られた自然と歴史に育まれた、固有種の宝庫。それこそが、美しい藍色に彩られたボニンブルーの島・父島なのです。

【関連記事】東京"真"宝島/見たことのない11の東京の姿。その真実に迫る、島旅の記録。

(supported by 東京宝島)

月と砂漠の先にある世界。僕は、まるで小惑星に降り立ったような錯覚を覚えた。[東京”真”宝島/東京都 大島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 音楽:木下伸司

東京"真"宝島

日本唯一の砂漠。そこにはSF映画のような風景が広がっていた。

なぜ日本唯一なのか? そう思う人も少なくないでしょう。
その理由は地図にあります。国土地理院が発行する地図に唯一「砂漠」と記された場所が大島にあるのです。その1つである「裏砂漠」のことを、映像作家の中野裕之監督はこう言います。
「SF映画の惑星のような場所」。

初めて訪れたのは、22年前。その後、公私ともに幾度となく訪れた大島は、数々のミュージックビデオを手がける中野監督にとっては、「音」を感じる島でもあります。
「子供が小さい頃、一緒に三原山を登りました。そこに吹く風の音が何か原始的で。そんな自然音が印象的でした。仕事では、映画の撮影や日本を代表するあるアーティストのミュージックビデオの撮影で訪れたのですが、そのロケーションが裏砂漠でした。東側一帯は黒い火山岩で覆われ、歩く度に聞こえてくる“ジャッジャッ”という音がリズムを刻んで。今回も、あの岩の前であれを撮って、これを撮って……など、当時の音楽や撮影シーンが走馬灯のように思い出されました。また、(時期により)朝夕に霧が出るのですが、それが映像としてはとても幻想的。裏砂漠は低層ですが起伏の表情も豊か。SF映画の惑星のような場所でした」。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

地球ではなく、まるで違う惑星の世界のような「裏砂漠」。

黒い火山で覆われた「三原山」の東側一帯に広がる「裏砂漠」。

夕刻の「三原山」もドラマティック。「ずっと眺めていると心まで浄化されるよう」。

島の面積は約91㎢。伊豆諸島北部に位置する最大の島であり、都心から最も近い島でもある。

東京"真"宝島「裏砂漠」へ向かう道。その美しい名に感じる浪漫。

「裏砂漠」へ向かう道は、大きく分けて3つ。東側の道から入って高台から向かう「月と砂漠ライン」、東側の道沿いにある入口からの道、そして北側から向かう「再生の一本道」です。
「今回、僕は『月と砂漠ライン』から裏砂漠へ向かいました。『月と砂漠ライン』は、208号線(大島一週道路)から入るのですが、看板がとにかく小さいです。そこから3kmほど山道を走り、行き止まりにある駐車場まで行き、更に徒歩で約10分かけてたどり着きます。裏砂漠自体の景色が良いのはもちろんですが、何が良いって、この道のネーミングが美しい」。
月と砂漠……。それはまるでバンド名のようでもあります。

そして、「再生の一本道」。この道は、「温泉ホテルルート」と呼ばれ、この温泉ホテルとは、「大島温泉ホテル」を指します。
「大島温泉ホテルは、何度も宿泊しました。ここの露天風呂は、目の前に原生林が広がり、その奥には三原山が望めるのですが、それが本当に絶景!遮るものが何もなく、温泉の癒しを感じながら大島を体中で体験できます!」。
その「温泉ホテルルート」は、約3km歩いて向かうハイキングコース。この道中では、この場所の過酷な自然環境を目にすることができるでしょう。溶岩の上から出す芽が、徐々に草原になる。その後、樹木が育ち、森を作る。裏砂漠への道は、風景ができるまでのプロセスを描く道でもあり、そんな「再生」の物語がここには形成されているのです。
「大地の上にゴツゴツとした溶岩石が転がっているので、植物が根を張るのはきっと困難な場所だと思います。しかし、そんな環境でも力強く、たくましく、何とか生きようとしている姿に心が打たれます。生命力のエネルギーがすごい。植物は偉大ですね」。

「裏砂漠」は、三原山のマグマのしぶきが大地を焼き、植物を燃やし、漆黒の世界を創造しています。強く吹く風も手伝い、植物が定着しにくい場所でもあるのです。「それでも所々、綺麗な緑がちゃんとあって。昔はもっと黒かったと思うのですが、ちょっとずつ、ちょっとずつ増え、きっと現在に至るのだと思います。また来た時には、もっと緑が増えているかもしれませんね」と、中野監督はしみじみ話します。
そんな希望も込めてなのか、「再生の一本道」の一部には、こんな名前も付けられています。
「いつか森になる道」。
通りの名前を見ているだけで浪漫を感じる島、それが大島なのです。

「裏砂漠」から見る「三原山」。黒く焼けた大地の中、自生する植物が少しずつその面積を広げる。

寒さの残る3月の早朝の「裏砂漠」では雪が積もり、白いベールを纏わせる。

漆黒の世界が広がる「裏砂漠」。左側にある細い道が、「月と砂漠ライン」。

長く続く一本の道は、「再生の道」。温泉ホテルルートと呼ばれるそれは、「三原山」まで約3km。

東京"真"宝島大島の神聖。耳を澄ませば聞こえてくる、自然のオーケストラ。

「大島でもうひとつ印象深かった場所、それは神社でした」と中野監督は話します。その場所は、「大宮神社」と「波知加麻(はじかま)神社」です。
「一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と、ゆっくり長い参道の階段を登り、その鳥居を潜る度に何か世界が開けた感じがしました。左右には巨木が幹を連ね、数百本はある椎の木は圧巻です。しかも、椎の木は神木でもあるので、その群生の画力たるや凄まじかったです」と、神社のことを振り返り、映像制作をする上で欠かせない音についても言葉を続けます。
「大宮神社は、まず風の流れが良かったです。風が流れれば音が生まれ、その風によって葉が擦れ、更に音が重なる。加えて、ここでは鳥もさえずり、心地良い音も奏でていました。鳥がいるということは、そこにはひとつの生態系ができている証拠だと思います。そんな環境もまた神々しい。それらが成す重層音は、まさに自然のオーケストラのようでした」。

そして、「波知加麻神社」。
「ここも印象的だったのは、参道です。大宮神社の椎の木に対して、波知加麻神社は杉。天高くそびえる杉の林立は、陽光を遮り、独特な隠の世界を作っています。その環境も手伝っているのだと思いますが、目線を下げれば生き生きと苔がむしています。それはまるで絨毯のように広がっていました」。

1939年(昭和14年)12月に東京都指定天然記念物に指定された「大宮神社」。

「大宮神社」の参道には、巨木が連なる。途中、手水舎や鎮座する狛犬もその姿を表す。

「波治加麻神社」は、三社ある大島の旧郷社の中のひとつ。残りのふたつは「大宮神社」と「波浮比咩命神社」。

波治加麻神社」の参道は、真っ直ぐに伸びる杉の古木に囲まれる。

東京"真"宝島切られた大島。1万5千年前と今をつなぐ、歴史の風景。

島の西側、208号線を元町港から波浮港へ走ると現れるのが「地層切断面」です。長さ約630m、高さ約24mのそれは、言葉を失うほど圧倒されます。
中野監督曰く、「大島最高のジオ」。

伊豆大島の火山は、世界的にも解明の進んだ火山として有名であり、噴火を表す木目のような単位層を辿ると約1万5千年前の年月を数えるものもあると言われています。
「そんな昔からこの断層はここにいたんだと思うと、今こうしてその歴史の一片を見ることができるのって奇跡ですよね」。
そして、この断面は島民からとても愛されてもいるのです。その証に最寄りのバス停には「地層切断面前」とあり、愛称はバームクーヘン!(バス停のサインもバームクーヘン型!)
もちろん、大切に保護管理もされています。

また、「切る」という意味では、「地層切断面」の真逆にある島の北側に位置する「泉津の切り通し」。まるで巨木がまっぷたつに切られたような道は、パワースポットとして知る人ぞ知る場所でもある。そして、数十万年前より太平洋の荒波に切り削られて現在のような形になったと言われる「筆島」も是非。「神の宿る岩」としても知られ、ここもまた神聖な場所として足を運ぶ人が多いと言います。

近くで見ると様々な表情を持つ地層が幾十にも重なっている。その数だけ時が経った証。

少し引いて見た「地層断面」。道路のサイズと比べれば分かるよう、巨大な地層がうねりを上げる。

「砂の浜」上空から見た「地層断面」。長い距離を保ってその断層が続いているのが分かる。

「三原山」の火口。この山の噴出物によって、「裏砂漠」の一面は黒く覆われている。

まるで異次元への誘いのような「泉津の切り通し」。両脇には根がむき出しになり、今にも動き出しそう。

手前にある突起した岩は、「筆島」。高さ30mほどのそれは、れっきとした島であり、小さな無人島。

「筆島」の裏手にある岩。一箇所だけ赤く焼け、まるでここだけ切り削られたような異彩を放つ。

東京"真"宝島都心から最も近い島へ。次の旅先の候補には是非、大島を!

高速船、フェリー、飛行機でのアクセスが可能な大島は、都心から最も近い島であり、例えば高速船であれば東京・竹芝から1時間45分で到着します。
「大島は都心から近いですし、まず島のビギナーの方にもお勧めです。是非、春には大島桜を見てもらいたいです。シーズンを迎える島内には、多くの大島桜が咲き誇ります。今回の映像や写真にも入れているのですが、大島桜はピンク寄りの色味ではなく、白に近く、それを再現するのがなかなか難しかったです。なので、是非、実際にその目で見てください!」。

島の御神火様であり、シンボルの「三原山」の登山をすれば、この島の鼓動を感じることもできます。
「標高は758mなので、登りやすい山だと思います。火口を周遊できる遊歩道も完備されていますし、散策コースとしても最適だと思います。もちろん景色も抜群!」。

また、海にも宇宙がありました。
「魚、ウミガメ、サンゴ……。どれも美しいですよね。世界に自慢できるようなサンゴに魚たち。海の中にも宇宙があるっていう感じですよね。僕は近頃はやっていないですがもう一度、本格的にダイビングを始めたくなってしまいました! 大島でダイビングにハマってしまうということをよく聞くのですが、その意味がわかりました。この水中撮影をした佐藤さんは若い頃に務めていた仕事を辞め、それを本業にまでしてしまいましたからね!」。

花と葉に香りがあることや花が大きいことが特徴とされる「大島桜」。例年、3月から4月が見頃。

開花時期を迎えると、島内には「大島桜」がそこかしこに点在している。

「三原山」の火口周辺には遊歩道が用意され、散策やハイキングも可能。

手付かずの自然が残る美しい海では、美しいサンゴを見ることができる。

ダイビングで更に潜れば、色とりどりの熱帯魚や魚群との出合いもあり、別世界が広がる。

優雅に泳ぐウミガメ。「都心から1時間45分でウミガメに会えるなんてすごくないですか!」と興奮する中野監督。

「三原山」周辺には、ほかの山も点在する。ここ「白石山」は、大島で2番目に高い山。ちなみに、中央の車が見えるところが「月と砂漠ライン」の駐車場。

「トウシキ遊泳場」は、溶岩に囲まれた自然のプールのよう。溶岩が波を遮り、穏やかではあるが深さがあるため、飛び込みも楽しめる。

島の最南端から臨む大島。黒潮の影響により、一年を通して温暖な気候に恵まれているため、オールシーズン心地が良い。

月と砂漠の先にある世界。僕は、まるで小惑星に降り立ったような錯覚を覚えた。[東京”真”宝島/東京都 大島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 音楽:木下伸司

東京"真"宝島

日本唯一の砂漠。そこにはSF映画のような風景が広がっていた。

なぜ日本唯一なのか? そう思う人も少なくないでしょう。
その理由は地図にあります。国土地理院が発行する地図に唯一「砂漠」と記された場所が大島にあるのです。その1つである「裏砂漠」のことを、映像作家の中野裕之監督はこう言います。
「SF映画の惑星のような場所」。

初めて訪れたのは、22年前。その後、公私ともに幾度となく訪れた大島は、数々のミュージックビデオを手がける中野監督にとっては、「音」を感じる島でもあります。
「子供が小さい頃、一緒に三原山を登りました。そこに吹く風の音が何か原始的で。そんな自然音が印象的でした。仕事では、映画の撮影や日本を代表するあるアーティストのミュージックビデオの撮影で訪れたのですが、そのロケーションが裏砂漠でした。東側一帯は黒い火山岩で覆われ、歩く度に聞こえてくる“ジャッジャッ”という音がリズムを刻んで。今回も、あの岩の前であれを撮って、これを撮って……など、当時の音楽や撮影シーンが走馬灯のように思い出されました。また、(時期により)朝夕に霧が出るのですが、それが映像としてはとても幻想的。裏砂漠は低層ですが起伏の表情も豊か。SF映画の惑星のような場所でした」。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

地球ではなく、まるで違う惑星の世界のような「裏砂漠」。

黒い火山で覆われた「三原山」の東側一帯に広がる「裏砂漠」。

夕刻の「三原山」もドラマティック。「ずっと眺めていると心まで浄化されるよう」。

島の面積は約91㎢。伊豆諸島北部に位置する最大の島であり、都心から最も近い島でもある。

東京"真"宝島「裏砂漠」へ向かう道。その美しい名に感じる浪漫。

「裏砂漠」へ向かう道は、大きく分けて3つ。東側の道から入って高台から向かう「月と砂漠ライン」、東側の道沿いにある入口からの道、そして北側から向かう「再生の一本道」です。
「今回、僕は『月と砂漠ライン』から裏砂漠へ向かいました。『月と砂漠ライン』は、208号線(大島一週道路)から入るのですが、看板がとにかく小さいです。そこから3kmほど山道を走り、行き止まりにある駐車場まで行き、更に徒歩で約10分かけてたどり着きます。裏砂漠自体の景色が良いのはもちろんですが、何が良いって、この道のネーミングが美しい」。
月と砂漠……。それはまるでバンド名のようでもあります。

そして、「再生の一本道」。この道は、「温泉ホテルルート」と呼ばれ、この温泉ホテルとは、「大島温泉ホテル」を指します。
「大島温泉ホテルは、何度も宿泊しました。ここの露天風呂は、目の前に原生林が広がり、その奥には三原山が望めるのですが、それが本当に絶景!遮るものが何もなく、温泉の癒しを感じながら大島を体中で体験できます!」。
その「温泉ホテルルート」は、約3km歩いて向かうハイキングコース。この道中では、この場所の過酷な自然環境を目にすることができるでしょう。溶岩の上から出す芽が、徐々に草原になる。その後、樹木が育ち、森を作る。裏砂漠への道は、風景ができるまでのプロセスを描く道でもあり、そんな「再生」の物語がここには形成されているのです。
「大地の上にゴツゴツとした溶岩石が転がっているので、植物が根を張るのはきっと困難な場所だと思います。しかし、そんな環境でも力強く、たくましく、何とか生きようとしている姿に心が打たれます。生命力のエネルギーがすごい。植物は偉大ですね」。

「裏砂漠」は、三原山のマグマのしぶきが大地を焼き、植物を燃やし、漆黒の世界を創造しています。強く吹く風も手伝い、植物が定着しにくい場所でもあるのです。「それでも所々、綺麗な緑がちゃんとあって。昔はもっと黒かったと思うのですが、ちょっとずつ、ちょっとずつ増え、きっと現在に至るのだと思います。また来た時には、もっと緑が増えているかもしれませんね」と、中野監督はしみじみ話します。
そんな希望も込めてなのか、「再生の一本道」の一部には、こんな名前も付けられています。
「いつか森になる道」。
通りの名前を見ているだけで浪漫を感じる島、それが大島なのです。

「裏砂漠」から見る「三原山」。黒く焼けた大地の中、自生する植物が少しずつその面積を広げる。

寒さの残る3月の早朝の「裏砂漠」では雪が積もり、白いベールを纏わせる。

漆黒の世界が広がる「裏砂漠」。左側にある細い道が、「月と砂漠ライン」。

長く続く一本の道は、「再生の道」。温泉ホテルルートと呼ばれるそれは、「三原山」まで約3km。

東京"真"宝島大島の神聖。耳を澄ませば聞こえてくる、自然のオーケストラ。

「大島でもうひとつ印象深かった場所、それは神社でした」と中野監督は話します。その場所は、「大宮神社」と「波知加麻(はじかま)神社」です。
「一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と、ゆっくり長い参道の階段を登り、その鳥居を潜る度に何か世界が開けた感じがしました。左右には巨木が幹を連ね、数百本はある椎の木は圧巻です。しかも、椎の木は神木でもあるので、その群生の画力たるや凄まじかったです」と、神社のことを振り返り、映像制作をする上で欠かせない音についても言葉を続けます。
「大宮神社は、まず風の流れが良かったです。風が流れれば音が生まれ、その風によって葉が擦れ、更に音が重なる。加えて、ここでは鳥もさえずり、心地良い音も奏でていました。鳥がいるということは、そこにはひとつの生態系ができている証拠だと思います。そんな環境もまた神々しい。それらが成す重層音は、まさに自然のオーケストラのようでした」。

そして、「波知加麻神社」。
「ここも印象的だったのは、参道です。大宮神社の椎の木に対して、波知加麻神社は杉。天高くそびえる杉の林立は、陽光を遮り、独特な隠の世界を作っています。その環境も手伝っているのだと思いますが、目線を下げれば生き生きと苔がむしています。それはまるで絨毯のように広がっていました」。

1939年(昭和14年)12月に東京都指定天然記念物に指定された「大宮神社」。

「大宮神社」の参道には、巨木が連なる。途中、手水舎や鎮座する狛犬もその姿を表す。

「波治加麻神社」は、三社ある大島の旧郷社の中のひとつ。残りのふたつは「大宮神社」と「波浮比咩命神社」。

波治加麻神社」の参道は、真っ直ぐに伸びる杉の古木に囲まれる。

東京"真"宝島切られた大島。1万5千年前と今をつなぐ、歴史の風景。

島の西側、208号線を元町港から波浮港へ走ると現れるのが「地層切断面」です。長さ約630m、高さ約24mのそれは、言葉を失うほど圧倒されます。
中野監督曰く、「大島最高のジオ」。

伊豆大島の火山は、世界的にも解明の進んだ火山として有名であり、噴火を表す木目のような単位層を辿ると約1万5千年前の年月を数えるものもあると言われています。
「そんな昔からこの断層はここにいたんだと思うと、今こうしてその歴史の一片を見ることができるのって奇跡ですよね」。
そして、この断面は島民からとても愛されてもいるのです。その証に最寄りのバス停には「地層切断面前」とあり、愛称はバームクーヘン!(バス停のサインもバームクーヘン型!)
もちろん、大切に保護管理もされています。

また、「切る」という意味では、「地層切断面」の真逆にある島の北側に位置する「泉津の切り通し」。まるで巨木がまっぷたつに切られたような道は、パワースポットとして知る人ぞ知る場所でもある。そして、数十万年前より太平洋の荒波に切り削られて現在のような形になったと言われる「筆島」も是非。「神の宿る岩」としても知られ、ここもまた神聖な場所として足を運ぶ人が多いと言います。

近くで見ると様々な表情を持つ地層が幾十にも重なっている。その数だけ時が経った証。

少し引いて見た「地層断面」。道路のサイズと比べれば分かるよう、巨大な地層がうねりを上げる。

「砂の浜」上空から見た「地層断面」。長い距離を保ってその断層が続いているのが分かる。

「三原山」の火口。この山の噴出物によって、「裏砂漠」の一面は黒く覆われている。

まるで異次元への誘いのような「泉津の切り通し」。両脇には根がむき出しになり、今にも動き出しそう。

手前にある突起した岩は、「筆島」。高さ30mほどのそれは、れっきとした島であり、小さな無人島。

「筆島」の裏手にある岩。一箇所だけ赤く焼け、まるでここだけ切り削られたような異彩を放つ。

東京"真"宝島都心から最も近い島へ。次の旅先の候補には是非、大島を!

高速船、フェリー、飛行機でのアクセスが可能な大島は、都心から最も近い島であり、例えば高速船であれば東京・竹芝から1時間45分で到着します。
「大島は都心から近いですし、まず島のビギナーの方にもお勧めです。是非、春には大島桜を見てもらいたいです。シーズンを迎える島内には、多くの大島桜が咲き誇ります。今回の映像や写真にも入れているのですが、大島桜はピンク寄りの色味ではなく、白に近く、それを再現するのがなかなか難しかったです。なので、是非、実際にその目で見てください!」。

島の御神火様であり、シンボルの「三原山」の登山をすれば、この島の鼓動を感じることもできます。
「標高は758mなので、登りやすい山だと思います。火口を周遊できる遊歩道も完備されていますし、散策コースとしても最適だと思います。もちろん景色も抜群!」。

また、海にも宇宙がありました。
「魚、ウミガメ、サンゴ……。どれも美しいですよね。世界に自慢できるようなサンゴに魚たち。海の中にも宇宙があるっていう感じですよね。僕は近頃はやっていないですがもう一度、本格的にダイビングを始めたくなってしまいました! 大島でダイビングにハマってしまうということをよく聞くのですが、その意味がわかりました。この水中撮影をした佐藤さんは若い頃に務めていた仕事を辞め、それを本業にまでしてしまいましたからね!」。

花と葉に香りがあることや花が大きいことが特徴とされる「大島桜」。例年、3月から4月が見頃。

開花時期を迎えると、島内には「大島桜」がそこかしこに点在している。

「三原山」の火口周辺には遊歩道が用意され、散策やハイキングも可能。

手付かずの自然が残る美しい海では、美しいサンゴを見ることができる。

ダイビングで更に潜れば、色とりどりの熱帯魚や魚群との出合いもあり、別世界が広がる。

優雅に泳ぐウミガメ。「都心から1時間45分でウミガメに会えるなんてすごくないですか!」と興奮する中野監督。

「三原山」周辺には、ほかの山も点在する。ここ「白石山」は、大島で2番目に高い山。ちなみに、中央の車が見えるところが「月と砂漠ライン」の駐車場。

「トウシキ遊泳場」は、溶岩に囲まれた自然のプールのよう。溶岩が波を遮り、穏やかではあるが深さがあるため、飛び込みも楽しめる。

島の最南端から臨む大島。黒潮の影響により、一年を通して温暖な気候に恵まれているため、オールシーズン心地が良い。

世界的シェフユニットが躍動した、サプライズ満載のディナーショー。『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』スペシャルムービー公開。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

ダイニングアウト琉球うるま

DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』(2020年1月開催)の感動を、スペシャルムービーとフォトギャラリーでお届けします。

『DINING OUT』第18弾となる舞台は、沖縄県うるま市が擁する世界遺産「勝連城跡」。世界遺産での開催は『DINING OUT』として初の試みとなりました。古くから海運の要衝で、15世紀には琉球王朝と拮抗(きっこう)する栄華を誇った勝連。様々な国や地域の人々を受け入れ、文化に寄り沿うことで発展してきた土地には「気高さ、心の豊かさ」を意味する「肝高(きむたか)」の精神が今も根づいているといわれています。今回の『DINING OUT』のテーマは、この「肝高」、そして交易の地に伝わる「おもてなし」でした。

その壮大な会場で腕を振るったのは、世界から注目を集めるシェフユニット「GohGan」です。2010年に開いた「Gaggan」で、エグゼクティブシェフを務め、世界から注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurants」では4位を獲得したガガン・アナンド氏。そして、九州で唯一「Asia's 50 Best Restaurants」にランクインした「La Maison de la Nature Goh」の福山 剛氏。

ポップアップとしての活動が最後になった「DINING OUT」で繰り出されたサプライズ満載の料理の数々をぜひ体感してみてください。

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想像を超える展示空間で、アートを見る。買う。[ARTISTS’ FAIR KYOTO 2020/京都府京都市]

モダンな重要文化財が「ARTISTS’ FAIR KYOTO 2020」の舞台に。

アーティストフェア京都 2020アーティストが自分だけでなく、若手作家まで売り込む斬新なイベント。

京都で3年前から開かれている「ARTISTS' FAIR KYOTO」は、他のアートフェアとは一線を画した、これまでのアートフェアの枠組みを超越するイベントです。

「アートフェア」とはバイヤーやコレクターが美術品の買い付けをする催しで、海外では「アートバーゼル」や「アーモリーショー」など大きなものから小規模なものまで頻繁に開催されています。近年は日本でも行われ、一般の人にも開かれた作品展のようなアートフェアも見られるようになりました。

ただ、通常のアートフェアはギャラリー単位で出展し、ギャラリストが作品を紹介しますが、「ARTISTS' FAIR KYOTO」は「アーティスト自身が企画、運営、出品、プレゼンする」という珍しいスタイル。

ただ単に作品を「商品」として並べるのではなく、作家の意思のもとに表現し、その空間を味わった上で来場者が購入する、展示会としての面白さを併せ持ったアートマーケットなのです。

普段は非公開の元印刷工場の地下空間を現代アートが彩る。

2019年の風景。左は南方熊楠の哲学思想を追った「まんだらぼ」プロジェクトで知られ、京都を中心に世界で活躍する前田耕平氏作。右は、第22回岡本太郎現代芸術賞で「岡本太郎賞」を受賞した檜皮一彦氏作。

2019年より。中央は油野愛子氏の作品。幼少期の記憶に起因するおもちゃや、愛着物に着想を得て表現する若手作家。

アーティストフェア京都 2020若手アーティストと企業、コレクターをつなぐ架け橋に。

ディレクターを務めるのは、自らもアーティストである椿昇氏。「世界のアートフェアがマンネリ化しつつある状況を変えたい」という想いから、この「ARTISTS' FAIR KYOTO」を作家が自分の作品をプロデュースするというスタイルに方向づけました。

国内外で活躍する旬なアーティストたちが自分自身の作品を出展するだけでなく、彼らが「アドバイザリーボード」となって若手アーティストを推薦。そこには、「アーティストを志す若者が生涯にわたって制作により生計を立てられるよう、個人コレクターや企業などと接続するためのブリッジとなり、制作を続けられる未来への一歩を踏み出したい」という願いが込められています。

地域再生のアートプロジェクトのディレクターも務める椿昇氏。

椿氏が推薦するアーティスト、前田紗希による作品『18_5』(キャンバス、油彩)。椿氏は「これだけナイフで絵の具を重ね削り取るという人為を加えながらもMの絵画には気になる所が何一つ存在しない」と評する。

アーティストフェア京都 2020国内外で活躍する第一線アーティストほか、過去最多の62組が参加。

今年は「Singularity of Art (シンギュラリティ オブ アート)」をテーマに、アドバイザリーボードとして名和晃平、塩田千春、加藤泉、ヤノベケンジらをはじめ、第一線で活躍するアーティスト19名が参加します。そして、彼ら独自の目線によるキュレーションと公募により選出された若手アーティスト49組が参加。過去最多となる合計60組以上のアーティストが、ペインディングからテクノロジーを駆使したインスタレーションまで多種多様な表現方法を披露し、新時代のアートマーケットを作り上げます。

京都を拠点に、国内外での展覧会や他ジャンルのクリエイターとのコラボレーションを展開する彫刻家・名和晃平氏。撮影:Nobutada OMOTE|SANDWICH

塩田千春氏と作品。頻繁に使われるモチーフのひとつである「舟」は、先の見えない未来を連想させる。撮影:Sunhi Mang  (C)2019 Chiharu Shiota

アーティストフェア京都 2020エキセントリックな地下空間と建造物が、多彩な表現に彩られる。

注目すべきは会場となる空間。まずは近代洋風建築の重要文化財である「京都文化博物館 別館」は、明治期築の重厚な建物です。そして、もう一つの舞台である「京都新聞ビル地下1階」は、かつて印刷工場として使われていた巨大な地下帝国のような空間。「趣のある京都の建物をエキセントリックな展示空間に変え、現代アートを鑑賞できるのも本フェアの見どころの一つ」と椿氏。

また今年は、市内のホテルや飲食店など身近な会場で行われるサテライトイベント「BLOWBALL」にも注目が集まっています。木崎公隆・山脇弘道からなる現代アートのユニットYottaが運営する本格石やきいも販売車「金時」や、若手ディレクター3名が手がける、市場をオルタナティブに思考するアートマーケット「スーパーマーケット“アルター”市場」など、街中のあちこちで斬新な表現が繰り広げられます。

1906年(明治39)築、元日本銀行京都支店である「京都文化博物館 別館」。

広大な地下神殿のよう。廃墟感たっぷりの「京都新聞ビル地下1階」。

アーティストフェア京都 2020「売れる、売れない」よりも「見られることが大事」。

一流アーティストの作品を直に見る・買うことができるだけではなく、彼らの審美眼で選んだ次世代を担うアーティストと出合えることがこのフェアの見どころ。
ベルリンを拠点に活躍し、糸を空間に張り巡らした大規模なインスタレーションで知られる塩田千春氏もこのアートフェアに初回から参加。
塩田氏は、ONESTORYストーリーの取材に対しこのようにコメントを寄せています。
「エネルギーのある20代につくった作品は、後々とっても貴重なものになるので、『売れる・売れない』関係なしに、大きな会場で人の目に触れることができるのはとてもいい環境だと思います。私が学生だった時は、作品発表の機会自体が少なく貸画廊へお金を払って個展をするということがよくありました。でも今の時代に生きる若いアーティスト達はARTIST’S  FAIR KYOTOのような機会があり、恵まれていると感じます。ぜひ多くのコレクターや美術関係者に自分の作品を見てもらい、飛躍のきっかけが得られることを願っています」。

「シンギュラリティ」とは「特異点」の意味。伝統から革新を生み出し続ける京都において、「ARTIST’S  FAIR KYOTO」により新たなマーケットが形作られ、アートが次元上昇する特異点が見出されるのではないでしょうか。

京都にある2つのユニークベニューにこの2日間、さまざまな感性が交差する。

開催期間:2020年2月29日(土)、3月1日(日)
開催場所:京都府京都文化博物館 別館 MAP/京都新聞ビル地下1階 MAP  
時間:11:00~18:00
入場料:1,000円(学生無料 要・学生証) ※京都新聞ビル地下1階は無料
https://artists-fair.kyoto/
(写真提供:ARTISTS' FAIR KYOTO実行委員会)

地域と共に作りたいのは、子供達の未来に繋がるチョコレート。[TSUGARU Le Bon Marché・浪漫須貯古齢糖(ロマンスチョコレート)/青森県弘前市]

店舗の奥にあるチョコレート工房にて。須藤氏の両サイドにあるのは、カカオを磨砕・コンチング(磨砕しながら撹拌してチョコレートの粒子を滑らかにし、摩擦熱による香りや風味を出す作業)するリファイナー。

津軽ボンマルシェ心を掴んで離さない、宝石のように美しいチョコレート。

扉を開ければ、部屋一面に漂うカカオの香り……。チョコレートとは、なぜこんなにも魅惑的で人をワクワクさせる食べ物なのでしょうか。
ショコラティエ・須藤銀雅氏の作るチョコレートは艶やかで繊細、まるで宝石のような輝きと優美さ、そこはかとない色気を感じさせます。もともとはバー専用チョコレート「アトリエAirgead(アールガッド)」としてブランドを立ち上げ、一般販売はせず、全国にある卸先のバーに行かなければ食べることのできない、幻のような存在のチョコレートでした。ふらりと入った薄暗いバーのカウンターで、須藤氏のチョコレートがあることを知ったときは喜びもひとしお。ドキドキしながら待っていると、いそいそと運ばれてくるアンティーク風の木箱。そっと蓋を開けると、そこにはキラキラとまばゆいばかりのボンボンショコラが静かに並んでいるのでした。

2018年、須藤氏の出身地である弘前市に、自身の初めての店舗「浪漫須貯古齢糖(ロマンスチョコレート)」がオープンしました。弘前城からもすぐ近くの静かな住宅街にポツンと佇んでいます。ここで作っているのはカカオ豆を独自に輸入して自家焙煎するところから行う、Bean to bar(ビーントゥーバー)のチョコレート。店を訪ねると、カカオを磨砕するための複数のリファイナーがビュンビュン回り、チョコレートの幸せな匂いに包まれる中で、須藤氏がテキパキと忙しそうに作業していました。店舗ができても「アトリエAirgead」の商品は相変わらずバー専用としてここでは販売はせず、二つのブランドは完全に切り分けています。須藤氏は以前からあった東京の工房と弘前を行き来し、月の1/4くらいを青森で過ごしています。

NHKの番組「美の壺」にも登場し、テレビや雑誌など各種メディアから注目される須藤氏。食べてみたいと思う人も多いと思いますが、彼の作ったチョコレートを一般客が買えるのは、今のところ弘前にあるこの店だけです。「津軽ボンマルシェ」に以前登場した『オステリアエノテカ ダ・サスィーノ』の笹森氏は、須藤氏のことを気にかけ、こちらのカカオを料理に使っているとか。すでに東京に拠点を持っているのに、地元に店を構えたのは、何か理由があってのことなのでしょうか。まずは須藤氏の生い立ちを探ってみることにします。

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ロマンスチョコレート店内の様子。アンティークの家具を什器に使い、洋館の多い弘前の街にイメージを重ね合わせています。

リファイナーの中を覗くと、石臼のように二つのローラーが縦に回転してカカオ豆がすり潰され、トロトロに溶けたチョコレートが撹拌されていました。およそ3日間もの回転を続けてチョコレートが出来上がります。

チョコレートの原料となるカカオ豆。コーヒーのように豆の状態で仕入れ、自分たちで焙煎しています。殻を剥いて焼きたての豆をぽりぽりと齧ると、ナッツのような香ばしさの中に酸味や苦味など複雑な風味があり、産地によっても味わいが違います。

津軽ボンマルシェお菓子への強い憧れと、チョコレートという素材の面白さが原動力に。

子供の頃から甘いものが大好きだったという須藤氏。お菓子への憧れが特に大きく募ったのは、高校時代にボクシング部へ所属していた時でした。きつい食事制限がある減量生活の中で、部活後の疲れた体を引きずりながら、学校から家への道を急いでいると、その途中に一軒のお菓子屋さんがありました。
「店のショーウィンドーを覗くと、そこにはたくさんのケーキが並び、きれいな艶がキラキラと輝いて見えました。自分もいつかこんなケーキを作ってみたい、とすっかり心を奪われてしまいました」

高校を卒業後は自分で学費を稼ぎながらお菓子の専門学校へ通い、神戸の洋菓子店へ就職。6年間みっちり働き、技術を習得した後、次は恵比寿のフレンチレストランへ。しかしそこで大きな挫折を味わい、辞職してしまいます。自分はもうこの業界で生きていくことはできないかもしれない、と思い詰めるまでだったそうですが、そんな須藤氏にもう一度チャレンジのきっかけを与えたのは、チョコレートでした。今まで様々なお菓子作りの腕を磨いてきましたが、チョコレートについてはまだ未開拓の分野だったのです。パティシエとは別に、ショコラティエという専門の職業があるくらい、特別な技術を必要とするジャンルです。これでダメなら本当に諦めようと覚悟を決めて門を叩いたのは、ベルギーの名門チョコレートブランド「ピエール・マルコリーニ」でした。

ピエール・マルコリーニのボンボンショコラはベルギー現地から空輸だったため、実際の仕事はチョコレートを使った洋菓子作りがメインだったそうですが、須藤氏はチョコレートという素材の面白さに次第にのめり込んでいきました。仕事が終わった後も自主練として、ボンボンショコラ作りに精を出していると、知り合いのバーテンダーから声がかかりました。
「うちのバーで出すチョコレートを作って欲しいと頼まれました。オーセンティックバーでは昔からチョコレートを出していましたが、本格的なものを出しているところはほとんどなかったのです。自分はバーが好きでバーテンダーになろうかと思っていたこともあったし、お酒とのペアリングを考えるのは勉強にもなると思い、引き受けました」
チョコレートは次第に好評を得て、やがて店舗を持たないバー専用の卸しを行う「アトリエAirgead」として独立。しかし、それは今までにない全く新しいジャンルのビジネスであり、最初の頃は赤字が続きました。須藤氏は自身でバーを一軒一軒回って営業していたそうです。誠実な人柄で努力家の須藤氏。ひたむきにコツコツと続けていくことで徐々に信頼を得て、取引先も増え、広まっていきました。「アトリエAirgead」は定期的な契約という形は取らず、毎回新規に注文をもらって取引するというスタイル。自分を厳しく律し、常に緊張感を持って対応したいという須藤氏のストイックな性格が反映されています。実際はリピーターが多いそうで、毎回注文をもらえることが、須藤氏にとって大きな自信とモチベーションに繋がっているといいます。

テンパリングしたチョコレートをモールド(型)に流す作業。テンパリングとはカカオバターの結晶構造を安定させるための温度調整で、チョコレートを扱う上でのキモとなります。須藤氏のキビキビとした動きには全く無駄がありません。

艶やかなチョコレートがとろりと流れる様子に、思わず生唾をごくり。

冷やし固めたモールドの上部をコンコンと軽く叩くと、ボンボンショコラが見事に外れました。きれいに外れるのはテンパリングが上手くいった証拠。

ボンボンショコラはビジュアルも重視。主にベルギー製のモールドは、種類豊富に揃えています。奥の赤い色は着色用のカカオバターで化粧を施したもの。刷毛やスプレーガンなどを使い、何層にも色付けすることもあります。

津軽ボンマルシェカカオを極めることをきっかけに、故郷への思いが深まる。

須藤氏のチョコレートへの飽くなき探求はさらに深まり、カカオをもっと極めたいと思うようになりました。バーに来る客の知識の深さ、知的好奇心の高さも、須藤氏に影響を与えました。客に鍛えられ、自然とクオリティが上がり、珍しいスパイスや日本の発酵食品など様々な素材を使い、ますます手の込んだチョコレートを生み出していく中で、最終的に行き着いたのが原料そのものであるカカオ豆。世の中はクラフトチョコレート(Bean to Bar)の全盛期で、異業種でも小さな個人店でも、カカオ豆を自ら輸入して自家焙煎し、自分でチョコレートを作れる時代が到来していました。世界中から好きな豆を選んで作ることで、チョコレートはより繊細で複雑な味わいを引き出すことができ、表現の幅も一層広がります。

「Bean to Barを本格的に始めるにあたり、東京の工房では手狭でした。もっと広い場所をと考えて、思い付いたのが故郷の弘前。最初はただ作業のための工房が欲しかったんです。そこで久しぶりに帰ってみると、ここはやはり自分の生まれた大切な場所であり、故郷のために何かできないだろうか、という思いが強まりました。青森ではまだBean to Barのチョコレートを作っているところは一軒もありませんでしたので、店舗を出せば街の活性化や雇用促進に繋がるのではないかと考えました。弘前は歴史文化の深い街で古い洋館が多い。その一方で若い人の新しい店も増えていました。美意識の高い人が多いせいか、美容院も多いんです。質の高いコーヒー店、洋菓子店も多い。そういうアカデミックな雰囲気を持つ街にきっとチョコレートはフィットする、と考えました」

「浪漫須貯古齢糖」という店名は、古き良きレトロな弘前の街をイメージし、あえて漢字表記にしたそうです。貯古齢糖という文字は、明治時代にチョコレートが初めて日本で売り出された頃の実際の表記です。タブレット(板チョコレート)の包み紙は、大正時代の東奥日報や弘前新聞など、地元の古い新聞からデザインを起こしています。ボンボンショコラの箱には、弘前の観光名所となる洋館を須藤氏が自ら撮影し、各所に許可を取ってセピアカラーでプリントしています。箱の写真を見て、弘前のことを思い出し、また観光に足を運んでもらえたら嬉しい、と須藤氏。青森産の食材も少しずつチョコレートに反映させており、つい最近完成したのがりんごのチョコレート。青森県だからりんご、というのはあまりに安易過ぎて最初は敬遠していたそうですが、フリーズドライのりんごを使うことで、一味違うチョコレートに仕上げることができました。ガーナとトーゴの豆をブレンドした自家焙煎チョコレートをコーティングし、カカオニブをまぶしています。ほのかなりんごの甘い香りとサクサクとした食感、ビターなカカオニブの香ばしさがアクセントになって、上品で大人っぽい味わいのチョコレートになりました。

古い地元の新聞をデザインしたパッケージ。タブレットはカカオの産地別に作り、ヴェネズエラ産は甜菜糖、ハイチ産はメープルシュガーなど、カカオの味の特徴に合わせて砂糖を変えています。店頭には常に10種類くらいのタブレットが並びます。

こちらのパッケージは地元の若いアーティストがデザインしたもの。チョコレートのパッケージは自由度が高いので、若い人の新しい表現を発表する場として活用できたら、と語る須藤氏。

弘前の店舗で購入できるボンボンショコラ。苺ハーブ、ナツメグシナモン、柚子紅茶など、親しみやすい素材ながら組み合わせにちょっとひねりが効いています。こちらはお酒とのペアリングは考えていないものの、徹底的に磨き上げた味と香りの構成です。

津軽ボンマルシェ地域を巻き込んで一緒に盛り上がれる仕組み作りを。

須藤氏のチョコレート作りの大きな特徴の一つは香りの分析。バー専用チョコレートを作るにあたって、香りはお酒とのペアリングを考えたときに欠かせない重要な要素です。カカオや合わせる素材の香気成分を分析し、お酒に含まれる成分と共通するものを見つけながら、味の構成を考えていきます。須藤氏は日本香料協会にも所属しており、毎月送られてくる分厚い専門誌の学術文献を読んで日夜勉強しています。弘前に拠点ができてからは、さらに一歩進み、弘前大学と共同で香りの研究を始めました。例えばカカオ豆の産地別はもちろん、焙煎でも120℃、150℃、170℃など、温度の違いで出てくる香気成分が変わってくるそうです。
「手仕事なので感覚的なことももちろん大事なんですが、人間だけでは感じ取れない部分もきっとあると思います。専門の研究機関で化学的な分析を行い、きちんとデータに表すことで説得力のある裏付けになります。研究結果は自分たちが利用するだけでなく、どんどん発信して共有していきたい。そんなに明かしちゃっていいのかともいわれますが、情報の使い方は人それぞれだし、お互いに交換することで幅が広がりブラッシュアップできる。自分たちだけで囲うより、シェアすることの方がメリットは大きいと感じています」

須藤氏はミラーレスのカメラを買い、YouTubeでの配信も始めました。チョコレート作りの技術や知識を、かなり専門的なところまで惜しげもなく動画で解説し、情報をシェアしています。YouTubeは第二の検索ツールとして活用を重視しており、これからも続けていきたいそう。また、2019年には地元の公民館などと連携して、親子で参加できるワークショップを開催。カカオを豆の状態から観察し、フライパンなどで煎り、すり鉢で砕いて潰し、チョコレートになるまでを一通り体験します。募集は開始後10分で埋まり、当日は大雪にも関わらず、誰も欠席することなく大盛況。須藤氏は大きな手応えを感じることができました。
「地域を巻き込んでみんなで盛り上げていくというのが、自分の本当にやりたかったことの一つ。チョコレートができるまでの工程は、実際には知らない人も多く、例えば手作り品と大量生産品の違いを教えることでも、食育に繋がっていくと思います。子供達の反応も良くて、思った以上に質問が多く飛び交いました。地域で育つ子供達ともっと関わり、彼らの未来に繋がることをやっていきたいと思っています」

探究心旺盛な研究者であり、明確な視野を持つビジネスマン、そしてアスリートのような熱血職人。物腰柔らかく、クールに淡々と話す須藤氏は、チョコレートが溶けそうなほど故郷への熱い思いに溢れていたのでした。

テンパリングしたチョコレートの状態を真剣に見極める須藤氏。

店に並ぶ須藤氏が作ったアートピースの数々。もちろん全てチョコレートでできています。最近は、自分で好きな型を作れる機械を購入し、さらに表現の自由度が増したとか。右下の手と心臓は、自分で型から起こしたオリジナル。

住所:〒036-8332 青森県弘前市亀甲町5番 MAP
電話:0172-88-9015
営業時間:11:00~19:00(商品が売切れ次第閉店)
休日:月曜(月曜が祝日の場合は火曜)
https://romance-cacao.shop-pro.jp

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

銘酒「東洋美人」を超える、蔵史上最高峰の1本、誕生。[やまぐち三ツ星セレクション 純米大吟醸 東洋の女神/山口県]

不動の人気を誇る『東洋美人』を超える、最新の旗艦商品『東洋の女神』が限定発売で、誕生。

やまぐち三ツ星セレクション“圧倒的な透明感”を目指す王道の酒造り。

島根県との県境に近い山間、萩市中小川地区には田畑がのどかに広がっています。真冬の朝、凛とした空気の中に湯気を上げる建物が見えてきました。日本酒「東洋美人」を醸す『澄川酒造場』です。仕込みの最盛期を迎えた酒造場では、蔵人たちがキビキビと麹造りの作業を進めています。

陣頭指揮を執るのは4代目当主・澄川宜史氏。蔵外から杜氏を迎える従来型の酒造りから、当主自らが杜氏として酒造りを手がけるスタイルに転換を図り、「東洋美人」の酒質を劇的に向上させ、その知名度を全国区に押し上げてきました。今や「東洋美人」は日本酒ファンの間で入手困難な銘柄となっています。

澄川氏は、人気銘柄「十四代」の蔵元でありカリスマ杜氏として知られる高木顕統氏の唯一の弟子と言われています。
「高木さんの真摯に酒造りに取り組む姿勢を目の当たりにし、奇をてらわずに王道の酒造りによって日本酒という作品を世に送り出すことの大切さを学びました。私は、たまたま美味しくできてしまう酒造りに進化はないと考えています。また、技術力の欠如によって生まれた味を個性として認めてしまう風潮も日本酒の未来にとってはマイナスだと感じています。日本酒は明確な意図のもと、化学、物理学、生物学、数学を駆使して造り出す作品でなければならない。なおかつ100%の再現性を実現し、去年よりは今年、今年よりは来年に少しずつでもより良くしなければいけません」

そんな澄川氏は、どのような日本酒を造りたいと考えているのでしょうか。
「詰まるところ、私が飲みたいお酒ですね。感覚的な表現になりますが、目指すのは“圧倒的な透明感”。華やかで味も香りもしっかりある。それでいて他の酒には負けない爽やかな喉越しやキレを備えたお酒を追求しています」

【関連記事】やまぐち三ツ星セレクション/山口県を身近に感じる逸品たち。そのふるさとを訪ねて。

▽純米大吟醸 東洋の女神
価格:5,500円 

萩市中心部からクルマで1時間ほど。美しい雑木林の山に抱かれるように、『澄川酒造場』は佇んでいる。

朝一番で行われている蒸米作業。大きな甑(こしき)から朦々と湯気が立ち上る。

蒸し上がった米は、即座に放冷へ。小分けにして手でかき混ぜながら冷ましていく。

麹室にて澄川氏。「奇をてらった酒造りはブームになっても、伝統になることはない」と王道の酒造りにこだわる。

やまぐち三ツ星セレクション壊滅的な豪雨被害を乗り越え、蔵はさらなる進化を遂げた。

着実な前進を見せていた『澄川酒造場』でしたが、2013年7月、思いもよらない悲運に見舞われます。山口・島根両県において観測史上最大の降雨量を記録する集中豪雨が襲い、『澄川酒造場』の前を流れる田万川が氾濫。蔵と自宅が濁流に飲まれ、酒造りの機材と在庫が泥に浸かり、すべてを失ってしまったのです。

「酒造りのことなど考えることはできなかった」という澄川氏でしたが、被災翌日から同業者、酒販店、飲食店、日本酒ファンら延べ3000人を超える支援者が全国からボランティアに駆けつけ、立ち止まる余裕もないまま蔵の再建へとつき動か出されます。例年の4カ月遅れとなったものの、その年の12月にはなんとか酒を仕込むことができました。

大きな設備投資を経て再建を果たすには、「東洋美人」をより多くのお客様に届けていくことが必要です。以前にも増して、酒質を上げ、さらに魅力的な日本酒の開発に邁進しました。

追い風が吹いたのは2016年。日露首脳会談の夕食会にて「東洋美人 壱番纏 純米大吟醸」がオフィシャル日本酒に採用されます。この時、プーチン大統領が絶賛したことが話題となり、「東洋美人」は一気にブレイクしました。
「東洋美人 壱番纏 純米大吟醸」は地元萩産の山田錦を40%まで磨いて醸した逸品。リンゴや洋ナシのような爽やかな香りが立ち上がり、芳醇な旨味の後に、上品な含み香が鼻に抜けます。サラリと清々しい口当たりは、まさに“圧倒的な透明感”を体現しています。

澄川宜史氏と「地域商社やまぐち」の代表取締役・坪倉昭雄氏。ふたりは高校の先輩後輩の間柄。山口の美味しい酒を全国に広めたいという思いは同じ。

『澄川酒造場』には、他の蔵元の子息らやる気にあふれる若い人材が酒造りに取り組んでいる。

放冷後の蒸米は高温の麹室へ。スピードが命とあって、米を担いで駆け足で運ぶ。

蔵の壁やドアには、支援に訪れた人たちのサインやメッセージが。元サッカー日本代表で日本酒通として知られる中田英寿氏の名前も見える。

やまぐち三ツ星セレクション記念碑的フラッグシップ商品を、さらなる高みへ。

2019年、この「東洋美人 壱番纏 純米大吟醸」を超える『澄川酒造場』史上最高峰の酒が誕生しました。それが「純米大吟醸 東洋の女神」。「美人」を超越し、神秘性を備えた気高い「女神」。出荷先限定のスペシャルなハイエンド商品です。契約栽培の萩市産の山田錦を極限の30%まで磨き上げ、「東洋美人」の華やかな香りと上品な味わいはさらなる高みへ至っています。天才杜氏がたどり着いた“透明感の極み”を、心ゆくまで味わえる1本と言えるでしょう。

至高の一杯。おすすめの飲み方、おすすめの肴が気になるところです。
「白身魚やフグなど山口の海の幸との相性がいいという話も聞きます。ですが、私はお好きな飲み方で、お好きなものと合わせていただければ、と思います。なにしろ、お酒は自由で楽しいものですから。ハレの日のお酒として、特別な時に、特別な人と一緒に楽しむために選んでいただければ、最高にうれしいですね」と澄川氏は笑いました。

麹菌を米に付着させ、米の中で菌を繁殖させる製麴(せいきく)作業。麹菌がふわりと舞い落ちる様はどこか神秘的。

タンクに酒母を入れ、麹、蒸米、水を加えて発酵が始まると、約30日間でお酒に。その後、圧搾、火入れ、ボトリング、冷蔵での貯蔵などを経てようやく商品となる。

生粋の酒好きである澄川氏。ビールやワインも飲むが、ほぼ毎晩、自社の酒も酌む。「今、うちの酒がどんな状態かが心配でたまりませんので、つい」。

「純米大吟醸 東洋の女神」¥5500。エレガントな円筒型の化粧箱、流麗なプリーツが印象的なボトルデザインも秀逸。味わいも優雅そのもの。

住所:〒750-0025 山口県下関市竹崎町4-2-36 MAP
電話:0120-414716
https://www.ymtc-webstore.jp

住所:〒759-3203 山口県萩市大字中小川611 MAP
電話:08387-4-0001

(supported by 地域商社やまぐち株式会社)

建築・家具ラバーの隠れた聖地である讃岐。アーティスト、家具好きがひきもきらずに訪れる、”木匠”が残した偉大な足跡。[ジョージナカシマ記念館&桜製作所/香川県高松市]

ジョージナカシマ記念館&桜製作所OVERVIEW

香川県高松市は、現在にも大きな足跡を残す建築家やアーティストを数多く輩出した街です。その流れを決定づけたのは、「デザイン知事」「建築知事」と呼ばれることになる金子正則氏です。金子氏は、1950年から6期24年に渡り知事を勤めましたが、1958年に竣工した香川県庁舎の設計を建築界の巨人・丹下健三氏に依頼しました。また、高松市近郊で芸術村を構想するなど、文化面での功績がとても大きかった人です。

その金子知事らを世話人に、彫刻家・流政之氏が1963年に発足させたのが「讃岐民具連」という運動です。讃岐の伝統である、漆や建具、金工、石、指物、竹細工といった「民具」を時代に合う形でリデザインし、日本中に、さらには世界のマーケットに向けて売り出すという、デザイン運動と商品開発をハイブリッドさせたプロジェクトでした。

その発足メンバーに名を連ねるのが、今回伺った「ジョージ ナカシマ記念館」を運営する桜製作所なのです。ナカシマは日本人の父母の元、米国ワシントン州で生まれました。ワシントン大学で建築を学び首席で卒業。その後ハーヴァードの大学院に進み、さらにマサチューセッツ工科大学に移籍。アメリカの超一流の高等教育を受けた人物です。戦前から祖国日本とは縁の深かった彼を、戦後の1964年に讃岐に招いたのが、流政之でした。この地を訪れたナカシマは、桜製作所の素晴らしい技術を持った職人に感銘を受け、一緒に家具を作ることになったのでした。

そんなナカシマの代表作のひとつに「コノイドチェア」があります。上記写真の椅子は、第1回「ジョージ ナカシマ展」出品した漆塗りの特別バージョン。「ミングレンデスク」は、貴重なローズウッドを高松に運んで作った逸品です。

そんな美しい出会いから幾年月、桜製作所設立60年を記念して、2008年に完成したのが「ジョージ ナカシマ記念館」なのです。ギャラリーショップを併設したこの場所から、讃岐のアーティストを巡る旅を始めましょう。

住所:香川県高松市牟礼町大町1132-1 MAP
電話:087-870-1020
時間:10:00~17:00(入場は16:30まで)
休館:日曜、祝祭日、年末年始、夏季休暇
入館料:一般550円 小・中学制220円
https://www.sakurashop.co.jp/memorial_hall/

住所:香川県高松市牟礼町大町1132-1 MAP
電話:087-845-2828
営業時間:8:30~17:00(日・祝・第2土曜は休み)

天上のカタルシス、無我の境地。苦難の分、神はその報酬を僕に授けてくれた。[東京”真”宝島/東京都 神津島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤宏 音楽:木下伸司・Lior Seker 

東京"真"宝島

一合目から登らなければ、出合えなかった風景がそこにはあった。

神津島のシンボル、「天上山」。登山ルートは白島登山道と黒島登山道の2種があり、今回、中野裕之監督は白島登山道から山頂を目指します。地上572mのそれは、6合目までは車で合流できるため、頂上の景色を見るためだけであれば、この選択が一般的です。しかし、中野監督が選んだ道は、一合目からの登山。

「実は、知らなかったんです……。6合目まで車で行けることを……」。
!?
そう、中野監督は知らなかったのです。ただ、知らなかっただけなのです。6合目まで車で行けることを。
「とにかく、1合目から3合目までは急斜面で人ひとりが通れるほどの狭い道幅。本当に辛かった。島の方に“天上山”のことを伺ったら、“幼稚園の年長さんも登りますよ”とおっしゃっていたので、それなら楽勝だ!と思って登ったら、大変なことになってしまいました(笑)。おそらく、6合目からの話だったのだと思います……」と、その時のことをかみしめるように話します。

「本当に辛かったなぁ」、「かなりキツかったなぁ」。そう、話す中野監督ですが、登山中に心を癒してくれたのは花の存在でした。
「僕が登った時にはキキョウが咲いていました。“天上山”は、花の百名山にも選ばれるほど、花の美しい山。そんな美しい花が僕に一歩一歩前へ足を運ぶ力を与えてくれました」。
春にはスミレやアジサイ、夏にはバラやラン、秋には中野監督も見たキキョウやキク、冬にはユリなど、四季を通して様々な花が咲き誇ります。そして、歩みを進める中、最も中野監督が感動した風景との出合いが訪れます。

それは、神域へ入る境界線ともいえる鳥居。
「“光”を“観”る。これが本来の観光だと思っています。この光を観た時、僕は神津島の真の観光に触れられたような気がしたのです。閉ざされた登山道で、こんなにも美しい景色と出合えるとは思いませんでした」。
それは、3合目から4合目に差し掛かる途中。つまり、1合目から登る選択をしなければ、この景色と出合うことはできなかったのです。
「神様からのご褒美だと思いました」。

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白島登山道の途中、3合目から4合目に差し掛かる時に出合った鳥居との邂逅。「この風景が僕の中では一番神々しく、神津島らしいと思った1枚でした」と中野裕之監督。

 2合目から3合目あたりの山道。左右の木が支えあうように重なり、まるでトンネルのよう。「この山道も好きな風景」。

島の北部に位置する「赤崎海岸」に作られた「赤崎遊歩道」。全長約500mのそれは、展望台もあり、伊豆諸島北部の島々や富士山、南アルプスなどを望むことができる。

台形のように山頂が広がる「天上山」。山頂からは、太平洋を一望できる。

「天上山」の山頂の景色。上記と角度を変えて見ると、目下には「前浜海岸」が広がる。

石が積み重なったような山頂付近。「乾いた土壌でも、そこに生きる植物があることに感動を覚えます」。

「登山中、キキョウの花を良く見かけました。本当はもっと撮るつもりだったのですが……。登るのに精一杯でした……」。

「天上山」の一部は崩れ、えぐられている山肌も。過酷な自然環境を物語る。

東京"真"宝島天上へ向かうまでのプロセスが生んだ、絶景の価値と深く刻まれた記憶。

「天上山」は、台形に近い形をしており、山頂が広がっている山です。島の名所でありながら、深山幽谷の趣きも漂う理由は、やはりその島名の通り、神々の力か。

「6合目から歩いていくと、徐々に景色が開けてきます。山の側面をギリギリに歩く道からは絶景が広がり、様々なスポットが点在しています。ハート形の“不動池”は古くから島の漁師の信仰の対象であり、今も池の中央には龍神を祀る社があります。荒涼とした砂地には、“表砂漠”と“裏砂漠”とあり、特に“裏砂漠”の鋭角的な形状は、どこか遠い惑星のクレーターのよう。また、“不入が沢(はいらないがさわ)”は、遥か昔、神代の時代にこの地で伊豆諸島の神々が集まり、水を分ける相談をしたと伝えられており、この島らしい逸話だと思いました。最高地点からは富士山や南アルプスを始め、眼下には、太平洋が広がります」。
神々しくも感動的なスポットであるも、中野監督は「この感動は6合目から登っていたら得られなかったかもしれない」と言います。

「山頂からの景色はもちろん重要だし、美しかったのですが、同じくらいプロセスも大切。僕の中では、あの1合目からの経験が全てに価値を纏わせたと思っています。景色の価値、登山の価値、島の価値。1合目から登って初めて見える景色があるんだなと思いました」。
この初めて見える景色とは、目に見える景色だけではありません。それは、心眼に見る目には見えない価値の景色なのです。

月面のような風景は「表砂漠」。砂は真っ白でサラサラ、規模は大きくないが、綺麗な砂漠。

荒涼とした風景が広がる「裏砂漠」。ここを抜けると、「天上山」の東側の崖地に面した「裏砂漠展望地」につながる。

雨の後だけ表れるという「不動池」。ハート型(写真の向きは逆さ)の池として知られ、「天上山」の名所として人気も高い。

「天上山」山頂の火口跡、「不入が沢(はいらないがさわ)」。神々が集まった場所とされ、立ち入りを禁じていることがその名の由来。

東京"真"宝島顔の見えない誰かのために、そして島のために。その身を尽くした情熱のテイクアクション。

「天上山」では、苦行!?とも言える登山と絶景以外にも、感動を得たと中野監督は言います。
「何度も言ってしまうのですが、1合目からの登山は本当に辛かったし、キツかったのです。その時に救われたのが、ベンチの存在でした。“天上山”には、所々、登山道にベンチがあります。景色を見てほしくて設置したのか、体を休めるために設置したのかは分かりませんが、確実に言えることは、この重たい木材を持って登山した人がいて、作った人がいるということです。素晴らしいと思いました。日本のベンチ特集の企画があったら、間違いなく1位取れますよ!」。また、その感動は地上でも体験したと言葉を続けます。その場所は、「赤崎遊歩道」です。

「島の北部に位置する“赤崎遊歩道”は、全長約500mの木造遊歩道です。展望台からは、伊豆諸島北部の島々や富士山、南アルプスなどを望むことができ、設置された飛び込み台も人気です。ここを見て思ったんです。遊歩道は、一番の観光につながると。先ほどの“天上山”のベンチではありませんが、これを作った人がいると思うと、本当にすごい。遊歩道がなければただの岩場ですが、ただの岩場を名所にした工夫と創造力が“赤崎遊歩道”だと思うのです。“天上山”のベンチにしても“赤崎遊歩道”にしても、誰かのために、島のために、という想いがあって生まれたもの。そのために身を尽くした情熱と行動力は、偉大だと思いました」。

その他にも、「前浜海岸」や「沢尻湾」、「多幸湾」など、神津島には名所がまだまだあります。自然と共存しながら生み出された観光資源は、島民の知恵と努力の賜物なのです。

「このベンチから見る景色は格別。そして、このベンチを作るために木材を運んで登山をした人は立派です」と中野監督。

自然の入り江を生かした海水浴場、「赤崎遊歩道」。展望台や飛び込み台、シュノーケルからダイビングまで楽しめる。

沈み行く夕日も神々しい。何でもない風景の全てが特別に映るのもまた、神の思し召しなのかもしれない。

 約10mの真っ白な十字架は、おたあジュリアを偲んで建てられた「ジュリアの墓」。

 「長浜海岸」の南側にあるぶっとおし岩。長年の波の侵食によって削られた穴は、自然が作り上げた驚愕の景観。

 島の西側に位置する「前浜海岸」。約800mの白砂が続くそこは、民宿が多い中心部から近く人気のスポット。

「沢尻湾海水浴場」。近くには、温泉保養センターや露天風呂なども用意され、便利に海水浴を楽しめる。

島の東側に位置する「多幸湾」。背景には雄大な景色が広がり、切り立った「天上山」がそびえ立つ。

東京"真"宝島再訪は元旦に初詣。初日の出も望みながら、もう一度、神津島の感動を享受したい。

「伝説、神話、言い伝え、風習。全てを取ってもこれだけ神々しい場所は稀有だと思います。僕が感動した“天上山”の鳥居もしかり、ひとつの島にこれほどまでに社寺や像、モニュメントがあるのも、ある種の別世界であり非日常。でも、この島にとっては、それが日常的風景として広がっていて。そんな島で、もう一度そのエネルギーを享受したいです」。
 
そして、その「もう一度」の時は、中野監督の中で心に決めているそうです。それは、元旦。
「是非、元旦に訪れてみたいと思いました。だって、神の島で初詣をして、初日の出を望むってすごくないですか! だから、いつかの元旦を夢見て、神津島にまた訪れたいです」。

3合目あたりの登山の映像シーン。大地を一歩一歩踏みしめる“ざっざっ”という音の演出は、臨場感が漂う。

「天上山」を登山する中野監督。「本当に辛かったですが、(強がりではなく)1合目から登って良かった! 達成感が違う!」。

「山頂や山道に鳥居があるのも珍しいと思いました。やはり神津島は、その名の通り、神が宿る島であり、その最高峰が“天上山”なのだと思います」と中野監督。

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白砂がどこまでも続くロングビーチにミルキーブルーの海。自然が生み出す圧巻の造形美から目が離せない。[東京“真”宝島/東京都 新島]

東京"真"宝島OVERVIEW

東京から南に約151km、新島は伊豆諸島のちょうど中ほどに位置しています。島は南北に細長く、島の北には若郷地区、南には本村地区の2つの集落がありますが、元は別々の島でした。その証拠に、若郷地区には玄武岩質の黒い砂浜が存在しており、886年の大きな海底噴火によって2つの島がひとつになり、今の島のかたちになったといわれています。つまり、今から約1100年ほど前にできた島だから「新島(あたらしま)」と名付けられたというのです。

新島に初めて訪れた人は、他の伊豆諸島の島々とは違う印象を持つことでしょう。島の印象を決定づける最大の理由。それは圧倒的な“白さ”でした。火山島である伊豆諸島は、そのほとんどが玄武岩質であり、真っ黒な火山岩が多いのですが、新島は流紋岩と呼ばれる白い火山岩で島全体が覆われています。そのため、ビーチの砂も白く、海の色は驚くほどのミルキーブルー! 他の島の海の色とはまったく異なり、目にするすべてのものが白く映るのでした。

この白い砂浜は、新島だけで採れる珍しい石「コーガ石」が浸食されて砂になり、堆積したもの。そのコーガ石を原料に美しいオリーブグリーンの「新島ガラス」が生まれたり、不思議な石像「モヤイ像」が彫られては島のあちこちに点在していたり……。他にも1970年代に巻き起こったという離島ブームの名残が島のそこかしこに感じられました。当時の若者たちは、非日常の世界を求めて、この美しい新島を目指したのでしょう。今では考えられないほどたくさんの人の波が押し寄せたといいます。

東京とは思えない圧巻のロングビーチ「羽伏浦海岸」は、島の代名詞的存在です。その絶え間ない波のパワーは、時に美しくサーファーたちを魅了し、時に激しくビーチのかたちをも変えてしまう、すさまじい力を持っていました。日本とは思えない絶景を目の当たりにした時、長い時間をかけて生まれた新島独特の圧倒的なまでの自然の造形美に、誰もがきっと息をのむことでしょう。


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古き良き日本が今に残る式根島の風景。穏やかな島の暮らしが静かに息づく。[東京“真”宝島/東京都 式根島]

東京"真"宝島OVERVIEW

東京にある11もの有人の島の中で最も小さい島。それが式根島です。島の面積は約3.7㎢、外周は約12kmとコンパクト。けれど、そんな数字では決してはかれない、さまざまな魅力が小さな島に凝縮されていました。

式根島は隣に位置する新島と二島合わせて同じ行政区分の新島村に属しています。新島からの距離は約5km、連絡船「にしき」で約10分の近さにありながら、まったく異なる景観を有しています。新島と同じく、白い流紋岩の溶岩に覆われた式根島ですが、その形はテーブルのように真っ平ら。しかしながら、島の周囲はリアス式海岸さながらの複雑な入り江で構成されており、穏やかな波が島を取り囲んでいます。

火山島である伊豆諸島の他の島々が織りなすダイナミックな景観とは裏腹に、式根島では、とても日本的かつ箱庭的な美しさを見てとることができます。島の北部には表情豊かなビーチがいくつも点在しており、夏ともなれば波の穏やかな白砂のビーチには海水浴客があふれます。南側の海岸沿いには大きな岩間からこんこんと湧く温泉が! なんとこの小さな島に2種もの源泉が豊富に湧き出ているのです。潮の満ち引きに合わせて入る海中温泉のため、「入るタイミングが肝心だよ」と島の人が教えてくれました。西には年中緑に覆われた森が広がり、1〜2時間ほどで回れる優しい遊歩道が整備されています。また、島の中心部にある集落には島民約500人が暮らしており、歩いて回れる範囲にほぼ集中しています。美しい海や絶景温泉へも歩いて行ける、そんなほどよいサイズ感が式根島の最大の魅力なのです。

小さな島だからこそ、出会えた風景がいくつもありました。道の真ん中で日向ぼっこする島猫に出会ったり、木漏れ日が心地いい遊歩道で深呼吸したり。はたまた、なんでもそろう島の商店をふらりと訪れ、島ならではのお弁当や焼きたてのパンを買ったり。車で足早に回ってしまっては決して出会えない島の風景にふと足を止めてしばし時を過ごす時、都心とは違う島ならではの時の流れを感じられるはずです。

島での暮らしは、自然との境目と人の暮らしとが途切れることなく、ひと続きになっています。式根島で出会った島の風景や人のあたたかさに触れるたび、かつてはどこにでもあった古き良き日本の豊かさと穏やかさが、この島では今なお息づいていることに気づかされることでしょう。


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気鋭のバーテンダー・阿部 央氏が巡る、カクテルを創造する能登旅。前編[Journey ~カクテルで旅する WAJIMA~/石川県輪島市]

数馬酒造で試飲する阿部氏。バラエティ豊かな味わいの一つひとつをじっくりと確かめる。

Journey ~カクテルで旅する WAJIMA~バーテンダーのトップランナーが見つめる世界とは?

今、日本で最も重要なバーテンダーのひとりと言えるでしょう。プリンスホテルの最上級ホテル、ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町の「The Bar illumiid」で腕を振るうバーテンダー阿部 央(あきら)氏は、世界の一流バーテンダーが卓越した技を競い合う「バカルディ レガシー カクテル コンペティション 2018」日本大会にて優勝。同年、メキシコで開催された世界大会に日本代表として出場し、世界トップ8に選出された逸材です。

阿部氏は日本各地の旅から得たインスピレーションによってカクテルを創造する試みを続けています。先日、彼は能登半島を旅しました。
訪問先は日本酒の蔵はもちろん、ワイナリー、醤油醸造所、農園、漆器工房など多岐に渡ります。この旅でどのような発見をし、何を感じ、そして、一体どのようなカクテルが生まれたのでしょうか?
能登の旅に密着しました。

輪島屋善仁のギャラリーにて。丹念に磨き上げられた輪島塗は、このとおり、テーブルも鏡面のような美しい仕上がりになる。

Journey ~カクテルで旅する WAJIMA~伝統と革新。若い力でクリエティブな酒造りを推進する注目の蔵。

能登空港からクルマで20分ほど。能登を巡る旅は、能登町で約150年続く数馬酒造から始まりました。迎えてくれたのは、5代目蔵元の数馬嘉一郎氏。蔵元としては33歳と今でもかなり若い方ですが、蔵元を受け継いだのは24歳の時だったというから驚きます。東京で住宅関連のサラリーマンとして働いていた数馬氏でしたが、先代が他の法人の代表に就任するのに伴い、急遽、蔵元の役目を引継ぎました。数馬氏は伝統の酒造りを学び、手探りで蔵を運営しながら、大きく舵を切ってきたと話します。
「奥能登には11の蔵があります。酒造りに適した環境だと言われ、全体的には米の味が強めに出ていて香りは落ち着いている旨口の傾向があります。当蔵は6年ほど前に外部の杜氏を起用する杜氏制から社員を醸造責任者に据えるスタイルに変更しました。社員の平均年齢は約30歳。5人いる醸造スタッフは一人1本のタンクを自由に仕込むことができるなど、若手が活躍できる柔軟な醸造環境を整えています。酒の味わいは、よりすっきりと飲みやすい、いわゆるキレイな酒にシフトしてきました」

使用する米も特徴的です。能登にある7つの農家の協力のもと、山田錦と五百万石などを契約栽培し、仕込みに必要な米は約90%を能登産でまかなっています。さらに2014年からは耕作放棄地を開墾し、“水田作りからの酒造り”に取り組むことで東京ドーム5個分の耕作放棄地の削減に貢献してきました。世界農業遺産に認定された能登の里山里海の景観維持にも一役買っていると言えるでしょう。
仕込み水は、能登町の山間の湧き水をタンクローリーで運んでいます。硬度1前後と全国トップレベルの軟水であるこの水は、『竹葉』に代表される数馬酒造の酒のやさしく柔らかな口当たりを生み出しています。

そのバラエティ豊かなラインアップを試飲させてもらいました。
阿部氏はさまざまな銘柄を試飲しながら「ソフトな口当たりでありながら米の旨味もしっかり感じられて、キレもいいですね」と話します。特に注目したのが、能登牛やジビエなど地域の食材とともに味わうために開発された特別醸造酒シリーズです。なかでも、『竹葉 いか純米』の味わいに阿部氏も唸ります。この酒は日本有数のイカ水揚げを誇る能登町小木地区の「小木イカ」を合う純米酒として開発されたもの。能登海洋深層水を仕込み水に使い、能登海藻由来酵母を使用して醸しています。
「とてもおもしろいですね。どこか海を想起するフレーバーも感じられる気がして、確かにイカの料理と味わってみたくなります」と阿部氏は話します。

数馬酒造では日本酒の他にも、使用されなくなったワイナリー施設を再活用してリキュール造りにも取り組んでいます。能登産の梅やゆずを使ったリキュールは女性を中心に高い人気を集めています。また、2019年からは廃園となった保育園を改装し、祖業である醤油醸造を再開しました。能登の耕作放棄地で栽培した大豆を使った醤油醸造の復活は、手作りへの思いを新たにする原点回帰の現れと言えます。
伝統を重んじながら革新へと迷いなく突き進むクリエイティブな酒造りの現場に大いに刺激を受け、能登町をあとにしました。

数馬酒造5代目・数馬嘉一郎氏。「はばたく中小企業・小規模事業者300社」や経済産業省の「地域未来牽引企業」に能登酒蔵で初めて選出されるなど、先駆的な経営者としても評価が高い。

蔵を案内してもらう。同行したザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町「The Bar illumiid」アシスタント・マネージャー・中西孝行氏(左)も説明に聞き入る。

名産のイカに合わせて開発された『竹葉 いか純米』は特に人気の高い1本。

Journey ~カクテルで旅する WAJIMA~500年以上連綿と続く塩作り。歴史に育まれた、そのまろやかな味わい。

一路、能登半島を北上し、外浦へ。美しい海岸線に整然と管理された砂地が見えてきました。揚浜塩田として日本に唯一残るとされる奥能登塩田村です。
日本において、海水を人力で汲み上げて塩を精製する揚浜式製塩は鎌倉時代には行われていたと言われ、能登の塩づくりの歴史は奈良時代以前から1,200年以上の歴史があり、珠洲では500年ほど前の江戸時代に一番盛んに行われていました。多大な人力と薪を必要とするこの製法は時代とともに廃れ、その技術を連綿と受け継ぐのは、今では、奥能登塩田村など数施設になってしまいました。

揚浜式製塩の責任者である浜士(はまじ)・登谷良一氏は、ここで作られる塩の特徴について話します。
「塩田村がある珠洲の海は暖流と寒流が混ざり合い、プランクトンがとても豊富です。そしてこの仁江海岸は潮の流れが速く海水がきれいな状態が保たれているのが特徴。これは今朝汲み上げた海水です。なめてみてください」
そう促された阿部氏は桶に入った海水をなめて「あ、まろやかですね」と目を丸くしています。
「海水はどこも塩分濃度3%ですが、場所によって味はまったく異なります。この仁江海岸の海水は、海で泳いだ時に感じる嫌なしょっぱさがないんです。そして、成分的にはミネラルが豊富でして、味にも深みがあるのが特徴となっています」(登谷氏)
茅葺屋根の釜屋では、海水から採ったかん水を煮詰める作業が行われていました。薄暗い室内では薪の煙と蒸気に圧倒されます。夏場は室温が60度にも達するほどの過酷な仕事場です。
大きな平釜に600Lのかん水を張り、14〜16時間炊き続けます。煮詰め方によって粒子の粗さが変わり、それによって味わいが変わるため、気を抜くことはできません。表面のふつふつという穴の出来具合など「釜の表情」を見ながら経験を頼りに仕上げていくことが大切だと登谷氏は話します。
「ガス焚きの方がブレなく作れるのではないか?という意見もあります。ですが、松、杉、柴を燃料にした昔ながらの方法にこだわっています。薪で沸かした風呂は不思議とお湯が柔らかく感じるように、薪で焚いた塩も不思議とまろやかな味わいに仕上がるんです。それに、これらの薪には能登の山の間伐材を使っているので、健全な森の育成に貢献し、里山里海の好循環の一翼を担う意味合いもあります。この塩作りを愚直に続けていきたいです」

「グラスの縁に塩が付けられるソルティドッグでよく知られているように、塩はカクテルには欠かせない素材です。こちらの塩でカクテルを作るとどうなるか、非常に興味が湧いています」と阿部氏。能登の里山里海の恵みが凝縮され、結晶化する塩にしばし見入りました。

塩作りのための海水を汲み上げる仁江海岸。近くに大きな川がないこともきれいな海水が保たれやすい条件となっている。

もうもうと湯気を上げる平釜。大量のかん水が煮詰められていく。

潮汲み3年、潮撒き10年と言われるほど修得に時間がかかる塩作り。浜士の登谷氏が潮撒きを実演してくれた。海水は美しい弧を描いて大きく広がる。

Journey ~カクテルで旅する WAJIMA~職人の思いを積み重ねて作る気高き漆器、輪島塗。

奥能登の中核となる街であり、高品質な漆器・輪島塗で知られる輪島市。その類まれな漆芸美にふれるべく、輪島塗の工房・輪島屋善仁を訪ねました。
輪島塗は、下塗りをした木地に布を貼る「布着せ」を行い、地元産の珪藻土を焼成した「地粉(じのこ)」を塗るなど何層も下地を作っていくのが特徴で、加飾まで含めた工程は120工程にも及ぶと言われています。その工程を中室耕二郎代表取締役社長に見せていただきました。
「漆器の中でも最高級と称される輪島塗の特徴は“堅牢優美”。丈夫であることと優雅な美しさの両立はとても難しいテーマですが、輪島塗はそれを高度に実現しています。輪島塗は各工程のプロフェッショナルがそれぞれの役目を果たし、工程をバトンタッチしていく完全分業制で成り立っています。布着せに代表されるように、手間のかかる作業一つひとつを高い技術を備えた職人たちが責任を持って丁寧に仕上げ、職人の思いを積み重ねていくことによって一つの作品が生まれます。器は長い使用にも耐え、また、破損や磨耗した場合にも、修理を施すことができます。漆器の中では高価ですが、それだけの価値はあると自負しております」

阿部氏は、輪島塗の堅牢かつ優美である特性に加え、その機能にも高い関心を抱きました。
「漆は殺菌効果が高く、さらに保温性・保冷性にも優れています。私はその機能美にも惹かれます。カクテルグラスとしては、中身の色を楽しめないという欠点はあるものの、それらの長所はガラスに負けない魅力となっています。バーのシーンをアップデートしていくには創意工夫が必要です。日本のいいものを柔軟に採り入れていくのは一つの方法。輪島塗など西洋の中に日本の設えを盛り込んでいくといったことにもチャレンジしてきたいと思います」

[開催概要]
場所:ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町 35F「The Bar illumiid」 (ザ・バー イルミード)
開催日: 2 月 15 日(土) ~ 4 月 15 日(水)
https://www.princehotels.co.jp/kioicho/
*同ホテル36F 「THE SHOP at KIOI」にて輪島塗製品を同時販売
(「DESIGNING OUT WAJIMA」も販売)

輪島塗の工程について解説していただきながら、その特徴について確認する。

金粉を定着させる作業。蒔絵や沈金など壮麗流美な加飾も輪島塗の特徴。

多角形の椀に漆を塗る作業。均一に塗るためには熟練の技を要する。

輪島善仁が保全管理する伝統的な塗師家(ぬしや)を見学する阿部氏。全国から集めた一流品に影響の受けながら、技を磨く学びの場として工房自体も洗練させていった。

1985年神奈川県生まれ。都内のバーやホテルバーを経て、2017年よりザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町「The Bar illumiid」バーテンダー。2018年、世界で最も権威があるとされる「バカルディ レガシー カクテル コンペティション 2018」日本大会にて優勝。同年、メキシコで開催された世界大会に日本代表として出場し、世界トップ8に選出された。

試飲イベントで登場した3種の温度、4種の酒器による加温熟成解脱酒。その際立った個性とポテンシャル。[AZUR et MASA UEKI /東京都港区]

日本海の食材が橋渡しとなり、日本酒とフランス料理を繋いだ。

加温熟成解脱酒フランス料理と『加温熟成解脱酒』の出合い。

熟成した酒の香りと色、フレッシュな酒の味わいを併せ持つ秋田酒類製造株式会社の『加温熟成解脱酒』。2019年はこの奇跡の酒のポテンシャルを証明すべく、日本各地で、さまざまなジャンルで活躍する3名のトップシェフたちが、ペアリング料理を考案しました。

そして2020年1月、その集大成としてコース仕立ての料理と『加温熟成解脱酒』を楽しむ試飲イベントが開かれました。料理を手掛けたのは「和魂洋才」をテーマに、伝統的フランス料理の手法で日本の食材や文化を表現する植木将仁シェフ、ペアリングの協力には日本最高峰のソムリエである大越氏が立ち上がりました。

当日、会場を埋め尽くしたのは、ソムリエや料理人などの料理関係者、名だたるフーディ、メディア関係者など。それぞれ味を知るゲストたちを前に、植木シェフと大越氏はどのようなサプライズを演出するのでしょうか。そしてフランス料理と日本酒にいったいどんなマリアージュが生まれたのでしょうか。当日の様子をレポートします。

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海外からのゲストも多数訪れ、注目を集める日本酒のポテンシャルを感じ取った。

日本の食材を伝統的フレンチに落とし込む植木シェフの技が未知のマリアージュを生んだ。

解説に立つ大越氏。その淀みないトークが、酒への理解をいっそう深めた。

加温熟成解脱酒日本酒特有の口内調味で、混ざり合う酒と料理。

「温度帯により大きく変える『加温熟成解脱酒』の個性を、それぞれの料理に寄り添わせる。今回はそこに加えて酒器の口当たりによるテクスチャの変化にも注目しました」大越氏は、今回のペアリングの狙いをそう話しました。そして金沢出身の植木シェフは、そこに「日本海の素材」というテーマを加え、秋田生まれの『加温熟成解脱酒』とのテロワールを作り上げました。料理人とソムリエというふたりの才能が、深く話し合いながら丁寧に積み上げた今回のペアリングコースのはじまりです。

一品目の料理は、金柑のコンポートと野菜を添えたあん肝。フォアグラと甘めのワインを合わせるフレンチの古典的な組み合わせを踏襲しています。合わせる『加温熟成解脱酒』は、ワイングラスで、温度は12度。
「12度は、旨みと酸味のバランスがベストで単体でも楽しめる温度。まずはこの酒自体の味を感じ、次いで柑橘の香りとの相性、滑らかなあん肝とのテクスチャの一貫性などをお楽しみください」大越氏の淀みない解説とともに料理がサーブされます。

料理を噛み締め、酒を傾け、その調和を真剣に楽しむゲストたち。『加温熟成解脱酒』のふかい香りは皿の上の料理全体に寄り添うようでいながら、その隙間に入り込むように構成する食材ひとつひとつともマッチします。さらに日本酒は、食べながら飲む、つまり口内調味ができる酒。「この組み合わせは今日の料理で唯一、口中での調和も楽しめます」という大越氏の言葉に従うと、口内で混ざり合う味の要素がいっそう深い味わいを生み出しました。「余市のあん肝は、脂が乗っています。柚子のドレッシングを絡めた野菜で、その油分を中和しました」という植木シェフの細やかな技術も、その調和をいっそう引き立てました。

まず製造部長の古木吉孝氏が挨拶に立ち、『加温熟成解脱酒』の製造秘話を語った。

まずはワイングラスで熟成した酒の香りを楽しむ。

金柑のコンポートと合わせたあん肝。滑らかな舌触りが、とろみのある日本酒とマッチ。

加温熟成解脱酒酒器の違いと温度の違いによって変わる『加温熟成解脱酒』の味わい。

二品目の料理の前に、猪口と平盃に入った35度の酒が配られました。同じ温度でも酒器の口当たりの違いにより異なる表情を見せる。そんな事実を追求するための工夫です。そして次に届いたのは、硝子の器に入ったソース。これはレフォールを加えた白ワインのクリームソース。本来は魚料理に添えられるソースですが、今回はこれのみでマリアージュを楽しみます。そしてこの采配が、ゲストを驚かせました。

「魚と日本酒という定型だったら、おいしいけれど驚きはなかったかもしれない。しかし今回はソースだけで、魚なしにこの調和を見せられた。本当に驚きました」とは会場を訪れていたコラムニストの中村孝則氏。レフォールの風味、クリームソースの口当たりと日本酒の出合い、平盃だからこそ感じられる華やかさとレフォールとの風味のハーモニー、魚の存在がないからこそ、いっそう繊細な酒との調和に集中できたのです。

続いて登場したメイン料理も、会場を沸かせました。皿の上に乗るのは、能登島の猪肉のロースとバラ肉。植木シェフはこれを昆布で締めた後、ゴボウのソースと合わせました。「肉は口中で何度も噛むため、酒にも飲みごたえが必要になる。そこで縁が立ったお猪口で飲むことで、飲みごたえを強く感じることを生かし、さらに温度を上げることで酸を目立たせ、温かい温度が脂質との調和をより演出します」と大越氏。

『銀座レカン』のシェフソムリエ・宇佐美晋也氏は「バラは脂質が強いので、酸でその脂を切りたい。そうなると平盃の方が酸が広がり合ってきます。一方ロースは旨みが強いので、旨みがしっかり感じられるお猪口が合う。非常に考え抜かれている、という印象です」と称賛を寄せました。

最後のデザートに登場したのはみかんや新生姜の香りを加えたスクレサレと、カマンベールチーズのテリーヌ。ここにも『加温熟成解脱酒』を合わせます。温度は7度、これ以上下げると香りが立たなくなるというギリギリの冷たさです。冷たいデザートと冷たい酒を合わせること。デザート✕日本酒の取り合わせは、今後広がっていくだろうと大越氏は予測します。
そんな言葉を証明するように、柑橘の酸味や生姜の風味と、キリッと冷えた酒の甘みと香りが絶妙に混ざり合いました。

魚介料理のソースだけを、35度に温めた『加温熟成解脱酒』とともに。

ワインに造詣が深いコラムニストの中村孝則氏をして、驚きの連続だったという今回の試飲イベント。

植木シェフの技が光った2つの部位の猪肉。土のニュアンスがあるゴボウのソースが決め手。

2種の部位の肉を、2種の酒器で味わう。その味の変化に会場は驚きに包まれた。

会場は終始なごやかな雰囲気。この雰囲気が生まれるのもまた日本酒の魅力。

冷やした『加温熟成解脱酒』とスクレサレのマリアージュ。冷たいデザートと日本酒の新たな出合い。

加温熟成解脱酒多彩なジャンルで活躍するゲストが、一様に見せた驚き。

終演後、感動冷めやらぬゲストたちに少しお話を伺いました。日本酒やワインに造詣が深く、美食を知るフーディや料理関係者たち。その表情には一様に、驚きが浮かんでいます。

酒類プロモーションの他、世界に向けて日本酒を教える場の教壇にも立つ鈴木更紗氏は言います。「海外で日本酒への興味が増していますが、やはり和食と合わせるのが基本スタンス。今日の解脱酒はまさしく新ジャンル、教科書の中にない酒でした。古酒だと強すぎるなかで、絶妙な酸味、ワインを飲み慣れている方にもフレッシュ感ありつつ、日本酒のダイバーシティを広げてくれるお酒だと思いました」

すでに自身の店舗で『加温熟成解脱酒』を取り入れているという中国料理『ShinoiS』のオーナーシェフ・篠原裕幸氏は「近年クリアになってきている中国料理のいろいろなシーン、コースのなかの上から下までで使える酒です。他の日本酒でやってもここまでにはなりません。もちろん紹興酒のニュアンス、熟成感があるからもとより中華には合いやすい。でも紹興酒よりも飲んでおいしいですけどね」と笑いました。

先の銀座レカンの宇佐美晋也氏は、ソムリエの立場で『加温熟成解脱酒』を見つめ「これから掘り下げていきたい」と言いました。「レカンでは現在はまだ日本酒がお客様に求められてはいません。しかしこれだけ味わいの幅が広いので、提案のひとつとして利用することは大いに考えられます。たとえば食後のデザートの前に個性の強くないチーズと合わせる、デザートに合わせてデザートワインではなくこれを出す、などでしょうか」とすでに頭の中に想定までできている様子でした。

「ジャンルによらず、世界的な傾向として料理がクリアに、より素材を重視した作りになっています。すると、この『加温熟成解脱酒』のアルコール度数やマイルドさがとても合ってくる。これからも注目していきたい」終演後の大越氏はそう話しました。
自身の世界観を生かした料理の中で、見事なマリアージュも実現した植木シェフも「もともと日本の良い食材を使用していましたから、日本酒に合わせるという今日のクリーションは普段の延長線上にありました。結果は想像以上。解脱酒のポテンシャルを非常に感じました。日本のみならず、世界でも勝負できるお酒です」と太鼓判を押します。

こうして温度、酒器による表情の違い、フランス料理とのマリアージュというサプライズを伝えたこの日の試飲イベント。参加したゲストのコメント、シェフやスタッフの表情は、『加温熟成解脱酒』のさらなる飛躍を予感させるものでした。

プロモーターの鈴木更紗氏。『加温熟成解脱酒』を通して日本酒のさらなる可能性を感じたという。

『ShinoiS』の篠原シェフは、すでに自身の店で『加温熟成解脱酒』を使用中。

イベントの締めには秋田酒類製造株式会社の平川順一社長が登壇し、会場に謝意を伝えた。

「制限があることで、料理が研ぎ澄まされる。良い経験をさせてもらいました」と振り返る植木シェフ。

1967年石川県金沢出身。1990年より渡仏し、南フランスの四ツ星ホテル『ホテル ル デュロス』をはじめ、フランスやイタリアで3年間に渡り料理の研鑽を積む。帰国後、1993年『代官山タブローズ』スーシェフを経て、1998年『白金ステラート』オープンと共にシェフに就任。2000年に独立後、青山に『RESTAURANT J』をオープンした。2007年からは軽井沢『MASAA’s』、銀座『RESTAURANT MASA UEKI』を経て、2017年には株式会社マッシュフーズとともに同店をオープン。日本の伝統的な食材や伝統文化を探求しながら自身の料理に落とし込み発信することで、オープンから間もなくして注目を集め、高い評価を得ている。2016年世界料理学会イン有田と函館にてスピーカーとして登壇もしている。
http://www.restaurant-azur.com/

2日限りの特別な夜。冬の新潟が教えてくれた「真のFarm to Table」の意味。[里山十帖/新潟県南魚沼市]

左から桑木野恵子さん、小林寛司氏、北崎裕氏。料理のジャンルも違う3人のシェフが、はたしてどんな融合を見せるのか。

里山十帖『villa aida』×『里山十帖』。料理哲学が共鳴する。

新潟県南魚沼市、当間山の山懐に抱かれるように佇む湯宿『里山十帖』。今回のONESTORYがこの地を訪れたのは、何も温泉宿を紹介するためではありません。その目的は、和歌山県で1日1組だけをもてなすレストラン『villa aida』と『里山十帖』による2日限りのディナーイベントを体験するためでした。

『villa aida』といえば、シェフの小林寛司氏が自ら畑を耕し、種を撒き、野菜を育て、収穫し、それらの野菜を使って料理をすることで知られるレストランです。その土地で、その時期に育てられ、そのタイミングにしか採れない食材を使い、ひと皿ひと皿にその土地の風土までを描き出す料理は、まさにその瞬間にしか出会うことができない味。そんな料理を目当てに、全国はもとより海外から多くのフーディが訪れるレストランなのです。
一方、『里山十帖』も雑誌『自遊人』が手掛ける「ライフスタイル提案型」の宿として、2014年のオープン以来、注目を集めてきました。築150年になる古民家を移築した建物、設えの異なる全13室の露天風呂付き客室、そこに配された北欧デザインのインテリア…。その魅力は枚挙に暇がありませんが、宿で供される料理もまた実に“らしさ”が光り、『里山十帖』を『里山十帖』たらしめる理由のひとつになっています。
メインダイニングのレストラン『早苗饗 - SANABURI - 』で供される料理の主役の多くは地場で栽培される野菜。そして、冬の間、長く雪に覆われる『里山十帖』一帯は、保存食や発酵食文化が根付いてきた土地でもあります。『早苗饗』で供される料理もまた、そんな土地を映し出した料理です。形は違えども、それは『villa aida』と『里山十帖』の料理に共通するひとつの哲学ともいえるでしょう。

今回のイベントのテーマは「真のFarm to Table」。
『villa aida』小林寛司氏×『里山十帖』×新潟の冬がどのような化学変化をもたらすのか。1月13日・14日に開催された、そのイベントをレポートします。

『里山十帖』の魅力のひとつである露天風呂。『里山十帖』代表の岩佐十良氏はここからの眺望に感動し、宿の開業を決意したという。

客室は全13室。30㎡〜84㎡まで、全ての部屋が異なる設えになっている。バルコニーには露天風呂も。

里山十帖食材は違えどもアプローチは同じ。だから料理に一切の不安はない。

ONESTORY取材班が「真のFarm to Table」に参加したのは、イベント初日の1月13日。この手のイベントでは当然ながら日を追うごとに、料理の完成度が高くなることはよく知られた話です。しかし、この日供された料理は、イベント初日とは思えないほどの、クオリティの高いものでした。しかも、話を聞けば、小林氏が中心となり、料理の構成を詰めていったのは当日の朝からだったというから驚きです。

イベント開催日のおよそ1週間前、小林氏は『里山十帖』を訪れ、食事をとったそうで、『早苗饗』で供される料理を一通り確認。そのうえで、後日、『里山十帖』料理長の桑木野恵子さんに、イベント当日に使える食材の写真をメールで送ってもらい、小林氏のなかで料理のイメージを膨らませ、『里山十帖』入りしたのだといいます。
「食材の写真を送ってもらったら、『里山十帖』の発酵室の写真が送られてきたんです。そこにあるのは、人参の花のピクルスとか、アンニンゴの砂糖漬けとか、またたびの酢漬けとか……。マニアックで、いろんなものがありすぎて、とにかく現場で味を見てみないとわからなかった」と小林氏は振り返ります。

しかし、そこに「不安はなかった」とも小林氏はいいます。それは、野菜が採れて、保存食があるという観点からみれば、『villa aida』も『里山十帖』も変わらないからでした。
「自分のところでも、野菜が多く収穫できたときは、それをソースにしたり、ピクルスにしたり、保存したものを料理に使う。それは『里山十帖』も同じで、雪が積もる前に収穫された野菜は、雪室で保存されたり、発酵食として保存されたり。そうしてできるビネガーや、発酵食を料理に使って味や香りを重ねていくのは、自分のところでやっていることと同じだから」
和歌山と雪国ではイメージは違っても、料理のアプローチの仕方は変わらない。だからこそ、小林氏は不安がなかったというのです。

発酵室で保存される野菜や果物の砂糖漬けや酢漬け。100種近くあるだろうか、瓶詰めされた保存食が棚にズラリと並んでいる。

イベント初日の仕込みも佳境を迎える時間帯。ピリピリとした雰囲気が漂うと思いきや現場は和やかな空気。

里山十帖雪室、発酵室の見学、トークショーで高まる期待。そしてディナーへ。

イベント当日、ゲストが『里山十帖』に集まったのは15時前。そこには全国から訪れたフーディをはじめ、新潟県内でレストランを営むシェフの顔も多数。小林氏の料理を味わおうと、また『里山十帖』とどのような化学変化を起こすのか楽しもうと、大きな期待が寄せられているのがひしひしと感じられます。
ディナーを前にまずは『里山十帖』を手がける「自遊人」の代表・岩佐十良氏からの挨拶があり、その後、小林氏、桑木野さん、『自遊人ホテルズ』の総料理長である北崎裕氏とともに、今回の料理の主役となる食材見学へ。

案内されたのは、宿の裏手にある雪室と発酵室。ただ、暖冬の影響があって、この時分なら3m以上の積雪があるこの地ですが、今年は数十センチの残雪があるのみ。雪に埋もれているはずの雪室も、藁葺きのその姿がむき出しになっていました。が、中には積雪の前に収穫された野菜が、しっかりと保存されていました。
「冬にだいたいあるのは大根や人参、ごぼう、蕪、キャベツなど。下に敷かれているのは杉の葉で、これはねずみよけのためのもの」と北崎氏が説明してくれます。

一方、発酵室の案内をしてくれたのは桑木野さん。ズラリと並んだ瓶と樽の数に、ゲストは歓声をあげるとともに、ゲストとして参加しているシェフたちも興味津々といった感じで、「これは何?」「どうやって使うの?」「これでどのくらい期間発酵しているの?」と質問攻撃。酢漬けにされていたり、米と一緒に発酵させていたりするだけでなく、豚や牛の脂まで大切に保存されています。それは、もはや発酵室という名のラボといった状態。これらがどのような形で、今宵の料理となるのか、ゲストは期待に胸をふくらませるのでした。

雪室と発酵室の見学の後は、岩佐氏と小林氏のトークイベントに。そこでは、小林氏の経歴や、料理に対する哲学などが岩佐氏のMCで紹介され、最後に小林氏への質問コーナーを交え、トークショーは進行。60分ほどの時間でしたが、雪室と発酵室の見学のあとに小林氏の魅力を紐解かれれば、ディナーへの期待は一段と膨らんでいきます。
そして、ゲストは各々の部屋へと戻り、温泉でゆっくり。18時から始まるディナーを心待ちにするのでした。

発酵室での解説にも熱が入る桑木野さん。ゲストとして参加した県内のシェフからもマニアックな質問が飛び交った。

こちらは雪室。例年でいえばこの時期の積雪は3m以上。すっぽり雪で埋もれているはずの室も、暖冬の影響があって今年はご覧の通り。

小林氏と岩佐氏のトークイベント。『villa aida』の歴史や環境、シェフの哲学などを岩佐氏が細かく説明。

里山十帖普段と異なる環境だからこそ、輝きを増した小林氏のひらめきと即興性。

シェフらの挨拶の後、18時に開演した『villa aida』小林寛司氏と『里山十帖』によるコラボディナーイベント「真のFarm to Table」。今宵は、全10品が供されました。その内容を掻い摘みながら紹介していくと、それは実に小林寛司氏らしく、実に『里山十帖』らしさに溢れた料理でした。
たとえば、安納芋ととち餅のアミューズに続いて登場したのは、「ズワイガニ もってのほか」。このひと皿で、早速小林氏の本領が発揮されます。ズワイガニを主役としながら、そこに重ねられた味わいが実に重層的なのです。リゾットのような米は、野菜パウダーをオイルで溶いて旨味を寄り添わせ、その上にはカニ味噌とカニ身。さらにゆべしをのせることで、独特の香りが加えられています。「保存食や雪国というと、どうしてもイメージが茶色っぽくなる。『それが嫌だね』という話になって、明るいイメージにしようと。それが、僕がここへ来て料理をつくる意味のひとつでもある」と、上には「もってのほか」という食用菊もあしらわれています。

また、小林氏らしさという意味でいえば、メインで登場した「鴨 梅干し」も特筆すべき皿でした。絶妙な火入れをくわえた鴨のもも肉の下に、梅とレバーと鴨の出汁を合わせたペーストを忍ばせた料理で、脇にはわさび菜の醤油漬け、穂紫蘇が添えられています。もも肉の美しいワインレッドとコントラストを描くのは、なんと玉露の茶葉の出がらし。実はこれ、「ノンアルコールペアリングに出す玉露を試飲していたときに、その出がらしが美味しそうだった」とのことから、小林氏は即興的に鴨肉と合わせることをひらめいたそう。

こうした小林氏のひらめきは、デザートに登場した「レクチェ つばき」にも同じようなエピソードがありました。それは、小林氏がイベント一週間前に『里山十帖』へ訪れたときのこと。今回のイベントで使う食材の生産者のもとを訪ねると、庭に椿の木が植わっていたのです。それを見た小林氏が「これいいじゃん」と言って大量にいただいたのだといいます。椿の葉と花をそれぞれ使って、強弱のある2種類のシロップを作り、それをル・レクチェのコンポートと合わせたのが、この日のデザートに。まさに、このひらめきこそ小林寛司氏という料理人のセンスなのでしょう。

ディナーイベント会場は『里山十帖』のレストラン『早苗饗 - SANABURI- 』。明かりが灯り、豪壮な古民家の雰囲気は温かさを増す。

料理は、地元の日本酒やワインなどのペアリングとともに。ピクルスのビネガーや煎茶といったユニークなノンアルコールのペアリングも。

アミューズとして登場した安納芋と栃餅はフィンガーフードで。雪国の冬らしい食材が改めてこのイベントのテーマを認識させた。

「ズワイガニ もってのほか」。野菜パウダーをオイルで溶かすなど、随所で小林氏らしさを思い知る一品となった。

イベント中の厨房。さすが緊張感はあるが、誰もがその場の雰囲気を楽しんでいるようだった。

里山十帖まるで魔法使い。出汁に油脂感をプラスするも着地点は抜群の安定感。

次は、京都『吉泉』を出自とする総料理長・北崎裕氏と、料理長の桑木野恵子さんの目線から料理を紐解いていきます。
小林氏と北崎氏のらしさが詰まった料理といえば、4品目に登場した「白菜 かぐらなんばん」でした。こちらは長岡地方の伝統野菜で、ピーマンの形にも似た「かぐらなんばん」を使った料理。夏に収穫して米と一緒に発酵させた「かぐらなんばん」を、日本料理の基本ともいえる北崎氏がひいた出汁をベースにしたつゆに合わせました。ただ、それをそのまま使わないのが小林氏。つゆにバターとクリームをあわせ油脂感をプラスし、さらにミョウガのピクルスでわずかな酸味を加え、干し大根を添えたのです。

「日本料理を専門とする僕からみると、小林氏はまるで魔法使い。キッチンの目の前に食材を並べている段階では、どんな料理ができるのか、その着地点が見えないんです。けれど、いざ調理が始まると、それがパズルのように組み合わせって答えが見えていく。センスの塊ですね(笑)」と舌を巻きます。

小林氏も「最近、自分のところでも出汁を使ったりするようになって。ただ、野菜だけだとどうしても旨みが足りなかったりするから、バターとクリームを少し」
それでいながら、料理としての味の着地点は、どっしりと安定感抜群なのです。

「白菜 かぐらなんばん」。ここ最近『villa aida』でも、よく和の出汁を使うようになったと小林氏は話す。

北崎氏(左)と右が小林氏の奥様である有巳さん。かつては料理人だった有巳さんもともに厨房で腕をふるった。

「れんこん 明日香さんの根菜」。出汁の優しい味わいのなかに感じる独特の風味は、カレーリーフ、クミンなどの香辛料によるもの。

里山十帖大根を引き立たせるためだけに使った希少なメープルシロップ。

一方で、『里山十帖』の料理長を務める桑木野恵子さんがもっとも感激したというのが、「大根 発酵」と名付けられた一品です。
こちらは雪室に保存した紅くるり大根とビタミン大根が主役となった料理。それぞれの大根は少量のバターとともに鍋で蒸し上げ、ピクルスのビネガーを使ったり、ドレッシングにも七味をアクセントにするなど、こちらもまた味ののせ方のバランスが秀逸。
「仕込みのとき、『大根は塩と甘みね』と小林さんに伝えられていたのですが、そのときは『なんのこっちゃ?』と思っていたんです。けれど、できた料理がこれ。自分なら大根は美味しく食べさせるために炊いたり、煮たりして味を含ませ、その味を引き出していく。けれど、寛司さんは潔く大根を蒸すだけで、大根そのもので勝負する。そこに塩をきかせ、甘みをのせ、酸味を合わせることで、大根そのものの味を押し上げるんです」


そして、何より桑木野さんを驚かせたのが、その甘みの使い方でした。というのもこのひと皿に使う甘みのもとは、桑木野さんが山に入り、楓の木からタンクに樹液を抽出、それを持ち帰り、煮詰めて、煮詰めて、わずかにつくることができたメープルシロップだったのです。
桑木野さんがもったいなくて使えなかったメープルシロップ。なにかに使うなら、「メープルシロップ自体を前面に押し出せる料理に」と思っていたそうですが、それを小林氏はサラリと大根を引き立てるだけのために使ったのです。
「苦労して山からタンクを運び、時間をかけて、ほんのわずかだけ作れたシロップですから、もったいなくて使えなかったんです。けれど、寛司さんは『それって料理人のエゴだよね』というんです。そのストーリーを知れば、お客さんは喜ぶかもしれないけど、料理のおいしさには関係ないと」

シンプルに蒸した大根の味を、引き立たせるための甘み。味わえば、その甘みに必要なのは砂糖ではなく、山のなかからとってきた、あの自然な甘みでないとダメなことは瞭然でした。

「大根 発酵」。大根は少しのバターと蒸し上げただけ。そこにピクルスのビネガーと七味をアクセントに使ったドレッシング。

「鴨 梅干し」。奈良漬けと煎茶の出がらしの使い方が絶妙。

里山十帖たった一晩の体験でも「真のFarm to Table」を実感。

一、料理を通じて、体験、発見、感動を提供する。
二、二十四節気、七十二候。日本の暦に逆らわない料理を作る。
三、新潟の風土、文化、歴史を学び、料理に表現する。
四、古来伝承の発酵・保存技術を学び、活かし、料理に取り入れる。
五、食材はできるだけ近くから。食材に旅をさせない。
六、山菜、伝統野菜、有機栽培の野菜など、生命力の強い食材を使う。
七、動物を無用に苦しめず、命に感謝していただく。
八、野菜は皮や根、茎まで、魚や肉は骨まで、余すところなく使い切る。
九、無添加、天然醸造の調味料を使い、化学調味料は一切使用しない。
十、美味しいこと、美しいこと、健康で幸せに生きる料理であること。

これは『里山十帖』で大切にされる「料理十条」だそう。
今回のイベントでは、さらに小林氏がプラス一条を加えてイベントに挑んだといいます。
それが

一、異文化を取り入れ現代の新しい視点で食べること。

その十一条目こそ、まさに小林シェフの感性そのものだったのではないでしょうか。
四季が移ろうなかで「Farm to Table」を暮らしの一部のようにごく自然に実施し、『villa aida』というレストランを全国に知らしめてきた小林寛司氏。しかし、舞台を新潟県南魚沼に移して挑んだ今回のイベントでも、小林寛司はやはり小林寛司でした。さらに言えば、だからこそ、小林氏の魅力も『里山十帖』の魅力も、それぞれが最大限に発揮されたイベントになりえたのです。

ONESTORY取材班が体験したのは、たった一晩のディナーだけ。
しかし、そこには確かに「真のFarm to Table」があったのでした。

住所:新潟県南魚沼市大沢1209-6 MAP
電話:025-783-6777
http://www.satoyama-jujo.com/

先人に誇れる本物の塩辛作りを通して、津軽の明るい未来を牽引する。[TSUGARU Le Bon Marché・赤羽屋 磯辺商店/青森県西津軽郡]

赤羽屋 磯辺商店代表取締役の磯辺角美氏。気さくな人柄ですが、仕事となると頑固な職人スイッチが入ります。

津軽ボンマルシェイカの町から生まれた、絶品の塩辛。

青森県の日本海沿岸、鯵ヶ沢町は通称「イカの町」。海岸沿いを走る国道101号線は「焼きイカ通り」と名付けられ、生干しのイカを焼いてくれる店が点々と佇んでいます。道を歩けば、炭火の上でジュージュー炙るイカの香ばしくおいしそうな匂いが、あちこちから容赦なく漂ってきます。建物の横には、ずらりと何列にも並んで干されたイカの姿。真っ白なイカが風にたなびく様子はまるでカーテンのようです(この地域では「イカのカーテン」と呼ばれ、町の風物詩として親しまれています)。「赤羽屋 磯辺商店」もそんな海沿いの一角にあります。

「道の駅わんど」へ行ったら必ず買ってください、と地元の人から熱烈に勧められたのが、ここの人気商品である「昭和の塩辛」でした。実は新幹線のJR新青森駅にある売店「あおもり北彩館」などでも冷蔵コーナーにさりげなく売られているのですが、渋いパッケージデザインのせいか、一見すると知る人ぞ知るツウ好みな一品です。しかし、一口食べたなら「うわっ」と叫び、一度その味を知ってしまうと、その後は何度も手を出さずにはいられない、無意識で夢中になって食べてしまうようなおいしさがあります。まろやかで複雑な旨味のあるイカの塩辛は、酒のつまみにも、ご飯のお供にも、延々箸を止めることができません。津軽ボンマルシェで以前紹介した「ひろさきマーケット」の高橋信勝氏もここの塩辛のファン。「無添加で塩辛を作る生産者さんは青森県内でもごく少数だと思います。しかもちゃんとおいしさにこだわって作っている。若手社長の磯辺角美さんが頑張って立ち上げた会社です。自分と同世代でもあり、応援したいですね」とのこと。そんなこだわりの塩辛を作る現場を知りたくて、はるばる海辺の町までやって来ました。

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海沿いに建つ、赤羽屋 磯辺商店の社屋。特に晴れた日は、海を望む眺めが絶景です。車で約15分のところには、隆起してできた広大な岩棚が続く「千畳敷海岸」という景勝地もあります。

この地域ではイカを干している様子をあちこちで見ることができます。ロープに干すところも多いですが、磯辺氏の干し場では使っていません。「すぐ焼く場合はロープでいいかもしれないのですが、うちは遠方にも出荷するため、縄跡が付かないよう、木材に干しています」

専用に建てたイカの干し場。虫除け、衛生に配慮し、目の細かい網で完全に囲っています。快晴で冷涼な風のある日は絶好のイカ干し日和。

津軽ボンマルシェ波乱万丈だった東京での暮らしから悟ったこと。

明るく元気な笑顔で迎えてくれたのは、代表の磯辺角美氏。生まれも育ちも鰺ヶ沢です。しかし話を聞くと、今の仕事を始めるまで、磯辺氏の人生はかなり波乱万丈だったようです。地元の高校を卒業後は東京の大学へ進学。カラオケ店でアルバイトをしたことをきっかけに、世間の表も裏も見るような経験をすることに。どこか人たらしなところのある磯辺氏は、自身の采配でサービス精神を発揮し、店のスタッフにも常連客にも気に入られ、お客さんからは直接名指しで連絡が来るほどの人気だったそうです。磯辺氏の活躍で店の売り上げは上がり、学生だというのに当時の磯辺氏には驚くほど収入がありました。大学を卒業後も就職をせずにそのままカラオケ店で働き続け、やがて誘われるままに社員なったそうです。
「あまりに稼いでいたので、普通の会社に就職する気にはなりませんでした。いずれは地元に帰らないといけないという思いもありましたし、起業したいという気持ちもありました」

しかし、磯辺氏は稼いだお金のまっとうな使い方を知りませんでした。夜な夜な街に繰り出しては飲み歩き、ありとあらゆる遊びに精を出して、気付けばお金を使い果たすどころか、借金の塊になってしまったのです。
「東京の夜なんて、若かった自分には誘惑だらけだったんです。お金があればあるだけ使ってしまっていました。若いくせに稼いでいたので、お金に関して完全に麻痺していましたね。全く自慢にはなりませんが、高いところに登りつめた分、落ちた穴は異様に深かったです。ただ、最終的に破産だけはしたくなかったので、弁護士さんに相談しながら、なんとかきっちり返済しました」

天国から地獄のような生活を経験した磯辺氏ですが、あの時の失敗のおかげで学ぶことは多かった、お金に関して感覚が鍛えられた、と今は前向きに語ります。人に真似しろとは決して言えない出来事ですが、若いうちに大きな痛手を受けておいたことで、現在は堅実にシビアな目線で仕事と向き合うことができているといいます。

東京での生活で底辺を味わった磯辺氏は、その後30歳を目前に区切りを付け、実家のある鰺ヶ沢町へ戻ってきました。

素早い手付きで次々とイカを捌くスタッフ。工房のガラス越しに作業の様子が伺えます。工房はわざと汚れが目立つような作りにしたそうで、床に水を流す構造にもしていません。いつもピカピカに掃除が行き届いていることも特徴的です。

捌かれたイカ。実は青森県はスルメイカの漁獲量が日本一だそうです。

新鮮でピカピカなイカのワタ。塩辛には必ずワタを入れます。「うちはワタが命。ワタを入れなければ厳密には塩辛じゃない」と断言する磯辺氏。ワタの酵素作用によって発酵が進み、旨味の素となるアミノ酸が形成されます。

津軽ボンマルシェ他にはない、唯一無二の塩辛を作る意気込み

磯辺氏の実家は40人程泊まれる、比較的大きな民宿で、母親が一人で切り盛りしています。子供の頃から民宿の一角で暮らしていた磯辺氏は、物心付いた時からいつも大勢の人が出入りし、知らない人と話すことも多い環境でした。バブルの時代は毎夜大きな宴会が繰り広げられていたこともあったそうです。飾らず人見知りせず、誰とでも気さくに話し、懐に飛び込める磯辺氏の性格は、そんな幼少時の経験からきているのかもしれません。また、自宅で食べる毎度の食事は民宿の料理の余り物が活用されていました。
「だから子供の頃から塩辛も普通に食べていましたね。特に強く印象に残っているというわけでもないのですが、抵抗もなかったです。宴会料理で余ったお刺身とか、焼き魚の切れっ端とか、とにかく海が近かったので良質な海産物は豊富でした。それなりに自分の舌も鍛えられていたのかもしれません。またイカの町というくらいですし、塩辛はいつも身近にある存在でした」
磯辺氏が自身の事業の主軸を塩辛としたことも、「そこに塩辛があったから」という自然な流れが大きいようです。

会社の設立にも苦労がありました。磯辺氏には「お金がないところからでも商売はスタートできる」という信念がありましたが、当初は母親が営む民宿に関わっていたことから、助成金の申請がなかなか通りませんでした。既に名のある民宿に、若手経営者の新規事業としての支援はできないと言われてしまったのです。東日本大震災の1年後というタイミングもあり、ダメージを受けた経営の借金の保証人になっていたこともネックになりました。それでも諦めずに新たな道を模索し、雇用促進を目的とした別の助成金を見つけました。しかしやはり民宿では申請が降りず、最終的に「もう自分で起業するしかない」というところまで追い込まれました。
「申請の期限も迫っていたので、とりあえず100円ショップで印鑑を買って、税務署に駆け込みすぐさま起業。新規事業者として再スタートしました」

面接官へのプレゼンでは、減塩、低コレステロールと言われる今の時代に、なぜ塩辛なのか?という厳しい突っ込みを受けましたが、磯辺氏は次のように答え、大きな覚悟を決めました。
「塩辛は全国各地で作られており、日本人にとって大変馴染みの深い食材です。自分たちの作る塩辛は、鰺ヶ沢という地域に根ざし、必ず人の手をかけ、しっかりとした本物を作っていきたい。他にはない、ここでしか作れない塩辛であれば、日本中の他の塩辛にも負けることなく、全国規模で広がっていくことを目指せます。それは雇用の促進にも繋がっていくのではないでしょうか」

たくさんの塩辛が熟成されている部屋。仕込み樽はラップでぴっちり閉められ、魚特有の匂いもなく、驚くほどにクリーンな状態が保たれています。

発酵・熟成を経て、いい色合いになってきた塩辛。塩辛作りの工程は必ずスタッフ二人で確認しながら行い、ミスをしないように心がけています。

津軽ボンマルシェ何事にも手をかけた祖母の姿を自身の鏡に。

磯辺氏の作る塩辛は、基本的に青森県産のスルメイカが原料。できるだけ地元で獲れるものにこだわっています。スルメイカは夏のイメージがありますが、俗に秋イカと呼ばれる秋から冬の産卵期の方が、寄生虫も少なく、体に栄養分を蓄えているので、身の質が良いそうです。磯辺氏はその時期には特に集中して仕入れているといいます。そして、今日は絶対に安全と思えるくらいに天候の優れた日を慎重に選び、朝から夕方まで一気に干します。風の強さや温度、湿度も大事で、干し場の柱には温度計と湿度計が設置されています。イカは生鮮食品であり、ちょっとの温度差が品質に影響することも多いため、常に細かくチェックして、干し時間を短くしたり、風の方向によって向きを変えたりしています。

イカスミ入りの塩辛を作るときは、一般的にイカスミペーストを別で購入して使うことが多いそうですが、磯辺氏はスルメイカが持っているイカスミを一本一本手作業で外し、そのまま利用しています。
「そんな風に作っているところは、他にないんじゃないかな。自分はイカスミペーストだとどうしても臭みが気になってしまうんです。食べた最後にふわりと香るくらいの上品な味わいを出したくて。イカ本来が持っている味を自然に引き出せればと思っています」

イカワタに関しても手間暇をかけています。完全に無添加の塩辛の場合、ワタを普通に混ぜるだけでは、数日経つとアンモニア臭が出てしまうそうです。そこでワタを塩漬けにし、何度も塩を取り替えながら、1ヶ月かけて丁寧に臭み抜きをします。時間と手をかけることで味わいは深まり、水分が減少して保存性も高まります。
「イカのワタを塩漬けしてしっかり熟成した塩辛って、食べると本当にうまいんですよ。それはもう、後で添加した味付けとは全然違います」

しかし独自の技術を編み出すまでには相当の労力がかかりました。百貨店の物産展で出会った先輩業者からヒントを教わったり、他社製品の成分表示をチェックしたり、自分でも思いつく限りにあれこれ試して地道な工夫を重ねた結果、少しずつ進化していったとのこと。現在でも改良は続けており、ここ数ヶ月でまた工程も少し変えてみたのだとか。疑問に思えば日々調整したいし、逆にそうじゃないといけないと思う、と話す磯辺氏の言葉には厳しい職人の姿がありました。

それだけ丁寧に手間と時間を惜しまない磯辺氏の仕事への姿勢の根底には、祖母の姿がありました。
「自分はおばあちゃん子でした。うちの祖母は、例えばだしをとるにしても、ひとつひとつ手をかけてしっかりおいしいものを作るような人でした。そんな姿を間近で見ていたことが、自分自身の行動や考え方のベースになっているように思います。もし祖父母が生きていたら、感動を与えられるような塩辛を自分は作っているか。常に問いかけて研鑽を続けています」。
「昭和の塩辛」という商品名も、昭和生まれで昭和の元号が大好きだという磯辺氏が感じる、どこか懐かしい時代の匂いと、祖母が作ってくれた料理への感謝の思いが込められているようです。

現在スタッフは5名。従業員には誇りを持って働ける場所にしたい、と今後への希望を語る磯辺氏。そのためには給料を始め、働く人の待遇を良くし、働く側も責任を持って気持ちよく働けて、技術を磨いていけるような仕組みを常に考えていきたいとのこと。鰺ヶ沢をアピールしながら、地域の雇用促進、地元の活性化に少しでも繋がっていけるよう、売り上げにも一層力を入れていきたいそうです。海辺の小さな町から、希望に満ちた熱い風が吹いてくるのを感じました。

赤羽屋 磯辺商店を代表する商品である塩辛。全て無添加で、イカの他に材料は食塩、味噌、清酒、唐辛子のみ。定番の「昭和の塩辛」と、コクのあるスルメイカの墨をふんだんに使用した「北の黒づくり」。

住所:青森県西津軽郡鰺ヶ沢町赤石町大和田39-43 MAP
電話:0173-82-0138
http://akabaneya.com

山口県を身近に感じる逸品たち。そのふるさとを訪ねて。[やまぐち三ツ星セレクション/山口県]

やまぐち三ツ星セレクションOVERVIEW

本州最西端に位置する山口県は、日本海、瀬戸内海、響灘と三方を海に開かれ、一年中、海山の幸に彩られています。
県内にあまたある名産品の中でも、地元の人も自信を持って推薦する本当に美味しいものを味わいたいという声が聞かれます。そんな中で注目されているのが「やまぐち三ツ星セレクション」です。

山口をもっと知ってほしい、もっと身近に感じてほしい。そんな思いから誕生した「やまぐち三ツ星セレクション」は、地元金融グループである山口銀行と地域事業者が連携して設立した、魅力的な山口県産品の販売・開発に取り組む「地域商社やまぐち」によるオリジナルブランドです。今回は、その厳選された商品リストのなかから、肉、日本酒、スイーツの3商品に注目し、ONESTORY取材班が生産の現場へ。各商品が逸品と評価される理由を解き明かしながら、作り手の秘めたる思いに迫りました。

生産者のこだわりが詰まったいずれの商品も「やまぐち三ツ星セレクション」のHPから購入できます。山口をもっと知り、もっと身近に感じられる。そんな出会いがにそこには待っているはずです。

知らないと損をする! 佐賀県が美食に包まれる1ヶ月がいよいよ開幕![佐賀ガストロノミー会議/佐賀県唐津市]

2016年に佐賀県有田市で開催された世界料理学会の模様。日本を代表するシェフ達が集結し、今後の料理界について討論した。佐賀県が食の世界に力を入れている事が伺える。

佐賀ガストロノミー会議大きなうねりの中で“美食”を紡ぐ佐賀という可能性。

みなさん、佐賀県と聞いて何を思い浮かべますか?

福岡県と長崎県に挟まれて、少し地味な県という印象を持つ人もいるかと思います。でも、それはまったくの誤解だということをここでは強く言いたいのです。長く日本の地域の魅力を伝えてきた我々ONESTORYは知っているのです。佐賀県の本当の実力を。世界に誇るべき地域資源の宝庫だということを。

有田焼や唐津焼を筆頭に国内屈指の陶磁器の産地であり、有明海と玄界灘という2つの海を擁する魚介パラダイスであり、日本酒、佐賀牛、米、農産物と、食材自給率の高さも国内屈指。さらには2020年3月には、世界中の美食家が佐賀県を目指すといいます。

そう、佐賀県は「器×食材×料理人」という地域の資源を活用し、2020年、美食の街として、新たな船出の時を迎えているのです。その先陣は、3月14日と15日の2日間で開催される『SAGAガストロノミー会議』。さらにその10日後の3月24日には『アジアベストレストラン50』。日本だけにとどまらず、世界中の美食家や料理人が注目する、美食の祭典が2020年の3月という短い期間の中で、佐賀という日本のローカルエリアで、なんと同時期に2つも開催されるというのです。

その潮流の源は、官民一体となった佐賀県の熱意にあると確信しています。世界一の美食の街“スペイン・サンセバスチャン”と並ぶ、食と器の文化創造圏を創出し、地域を活性化したい。数年前から始まった、そんな強い思いをもとに、今、美食の街への流れは結実の時を迎えようをしているのです。今まで佐賀県を訪れたことがない人、食べることがとにかく好きな人、海の資源や環境問題に少しでも興味がある人。

そのすべてを満たす1ヶ月がまもなく佐賀県に訪れます。我々ONESTORYもまた、この3月は、佐賀県を行った来たりするつもりです。『世界に誇れる佐賀』3月にこの地を訪れれば、そう思わざるを得ない、初春の美食イベントがまもなく始まります!

2020年3月24日には『アジアベストレストラン50』が開催され、世界各地のフーディーが佐賀へ集結。

佐賀ガストロノミー会議3つの美食プログラムで、多角的に食を楽しむ!

先陣を切る「SAGAガストロノミー会議」の詳細とは?これは唐津市を中心に、期間中3つの美食プログラムをマリアージュさせることで、美食を文化として捉えていこうという意欲的な試みです。

まずひとつめは「料理学会」。世界で活躍する気鋭の料理人や、食のプロフェッショナルが佐賀に集い、今、世界の潮流となっている美食の指針や、叫ばれている食の実情、未来の食などについて、トークセッションや発表を交えながら、検証していくといいます。

今回はそのトークセッションのプログラムを佐賀県庁から依頼を受けたONESTORYがプロデュース。当メディアでこれまで取材させていただいたシェフや、現在の食シーンが抱える様々なテーマを各界のトップランナーをお招きして、来場者にわかりやすくお伝えしていきます。

2つ目は「見本市」。佐賀県の食品・加工品・陶磁器などを、広く紹介するといいます。
ですが、単なる見本市と侮るなかれ。例えば陶磁器は、国内外のトップシェフが集うこの場で、器の創り手である有田焼や唐津焼の職人との交流を通じて、プロの料理人のニーズやウォンツを聞き、カスタムメイドで創りあげるという取り組みです。
そう、それは400年以上の歴史を紡いできた有田焼や唐津焼だからこその姿勢なのです。伝統を継承しながら時代や市場のニーズに対応し、変化を遂げてきた有田焼。その歩みをプロの一流料理人とともに紡いでいこうというのです。

3つ目は「バル」。3月14日の夕方から唐津商店街の飲食店では、回遊型の飲食イベント「バル」を開催。スターシェフや地元料理人のコラボ料理などを多数用意し、ここでしか味わえない期間限定の料理の数々を提供します。訪れたゲストは、5枚綴りのチケットを手に参加飲食店をはしご酒できる食イベントに。ほかにも食にまつわる映画上映や、プレミアムコラボディナー、カレーライブクッキングなど、盛り沢山な内容に。

ガストロノミーという言葉自体、料理と文化を科学的に考察するフランスを起源とした食文化に向き合う考え方であり、料理を中心として様々な文化的要素を取り込み科学的に土地と料理と文化を考察しようという考え方。佐賀で考える、料理と文化という新たなる可能性。

3月の佐賀。そのキーワードは美食とガストロノミー。
まずは3月14日と15日の2日間で開催される『SAGAガストロノミー会議』をお見逃しなく!

「料理学会」のイメージ。世界を代表するシェフ達が集結し、これからの食の未来について考えていきます。

「見本市」のイメージ。佐賀県のあらゆる物産を網羅でき、その場で生産者や職人と知り合える場です。

「バル」のイメージ。『アジアベストレストラン50』にも選出されているシェフ達が、この日限りのコラボ料理を提供し、はしごしながら楽しめます。

【実施概要】
開催日:2020年3月14日(土)、15日(日) 2日間
メイン会場「唐津市民会館/大ホール」
〒847-0014 佐賀県唐津市西城内6番33号
サテライト会場「KARAE/シアターENYA」
〒847-0045 佐賀県唐津市京町1783
料金:2日間通しチケット2,000円、1日チケット1,000円
※関連イベントは一部有料

<お問い合わせ先>
サガマリアージュ推進協議会(佐賀県産業労働部産業企画課内)
〒840-8570 佐賀県佐賀市城内1-1-59
電話: 0952-25-7585

その男の手にかかれば、おいしくならない肉はない。[サカエヤ/滋賀県草津市]

2017年9月21日、旧店舗からレストランを併設した新店舗に移転オープン。

サカエヤ決して便利ではない場所なのに、世界中から人が訪れる肉屋。

滋賀県草津市に、イタリアやアメリカなどからも美食家がわざわざ足を運ぶレストランがあります。それが、「セジール」。母体は肉の精肉屋「サカエヤ」です。セジールの話をする前に、まずサカエヤについて知っていただきましょう。
 
滋賀県で肉とくれば近江牛、のセオリーに反し、サカエヤでは近江牛を前面に打ち出していません。扱うのは、北海道のほぼ野生と言える牛肉や、三重の農業高校で育てられた豚肉など、何のブランド名もつけられていない肉ばかり。しかしどれも、店主の新保吉伸氏が、動物の命とそれを育てる生産者への尊厳を込め、世に送り出した唯一無二の銘柄です。

【関連記事】セジール/この店で誰もが知る、「肉は、エンターテインメントだ」。

新規のオーダーがあった場合は、その料理人の料理を食べ、どう使われるかを知ってから売るという。

サカエヤ何をしても続かない性格だから、これだけは本気でやろうと思った。

もともと父親が精肉店を営んでいましたが、新保氏が1987年に創業した「サカエヤ」はその跡を継いだわけではありません。父の背中を見て育った新保氏は「この仕事は絶対にやりたくなかった。朝は僕が起きればもういないし、寝る頃にはまだ帰ってきていない。何より肉の匂いが嫌いでした」と振り返ります。それが、高校卒業後に父と同じ仕事に就くに至ったのは、自分が起こした車の事故が原因。弁償するお金を払うため、父親の弟子が開いた店を手伝うことになった、というやや後ろ向きなきっかけでした。
 
それが今や業界では知らない人がいない、『肉の巨匠』と呼ばれる存在に。「僕は度がすぎるほどの不器用やったんです。途中から他の仕事なんてできないとわかっていたので、この仕事で一生懸命やろう、と観念したんです」と控えめに語りますが、新保氏の心にあったのは「人と同じことをやっていたら埋もれてしまう」という危機感。近江牛は400年の歴史があり、地元では100年や200年続いている肉屋も珍しくない世界。新参者が太刀打ちできるわけもなく、味での差別化も難しい。「極論ですが、少し特別な牛肉を作ったところで、目をつぶって食べれば和牛などどれも一緒。おいしいかおいしくないか、それだけです」。

「僕は独立して31、32年ぐらい。この業界で言えば新人もいいところ」。

サカエヤ「面倒な頼まれごと」から生まれた幻のポーク。

しばらく柱となる肉を見出せずに模索する中で、新保氏は知人からある相談をされます。それは、三重県にある愛農高校という農業高校に通う親からの、「自分の息子が学校で育てている豚肉がとにかくおいしいから一度食べて欲しい」という依頼。愛農高校は日本の私立では唯一、有機農法で農業を教える全寮制の高校でしたが、少子化や農業離れから入学者が定員割れをしている状況でした。

清潔な豚舎で、ノンストレス・投薬なしで育てられる愛農ナチュラルポーク。

サカエヤ「こんなにおいしい豚肉は食べたことがない」と誰もを言わしめた。

そうは聞いても豚肉には興味もなく二の足を踏んでいた新保氏ですが、「あまりにも熱心だから送ってもらって食べたところ、驚くほどのおいしさだったと言います。同校では「神・人・土を愛する」というキリスト教の基本精神のもと、50名ほどの生徒が「養豚」「酪農」など6部門に分かれ、化学肥料や農薬を用いない自然農法で野菜や乳牛、鶏などを育てています。ビジネスではなく授業の一環として、一頭一頭に愛情をかけ命に感謝し、年間わずか100頭ほどの豚を出荷しています。
 
その豚肉に惚れ込んだ新保氏は、なんとかこの豚肉のおいしさを多くの人に伝えたいと考えました。「豚肉がきっかけで1人でも興味を持ってこの学校に入ってくれれば」。そうして知り合いの料理人に試食してもらうと、誰もが「こんなにおいしい豚肉は食べたことがない」と称賛し、またたく間にメディアで話題に。新保氏が「愛農ナチュラルポーク」と名付けた豚肉は、今では使いたいという料理人が順番待ちをするほどで、たまにインターネット上で一般販売を行うと1頭分がたった5分で売り切れるそうです。もちろん愛農高校の知名度も上がり、入学希望者も増加。「少しは役に立ったのかなあ」と新保氏は手応えを語ります。

人との「つながり」を大切にする新保氏。誰に対しても物腰柔らかく、気さくだ。

サカエヤ全て、ひたむきな生産者の「SOS」に応えていった結果。

そんな「肉の魔術師」のもとへは、救済を求める畜肉の話が舞い込んできます。「愛農ポークは肉自体がおいしかったからまだ良かったものの、次に来たのは、本当にどうしようもない牛でした」。なんと、愛農高校の養豚部部長の母親が北海道で牛を育てており、今度はその牛肉を何とかして欲しいと頼まれたのです。牛は、北海道様似郡にある駒谷牧場で西川奈緒子氏がたった一人で育てているアンガス牛。山林で通年放牧、自然交配のほぼ野生牛で、脂身はほとんどなし。「和牛ならともかく外国牛……これは無理」と断ろうとしたものの、当時はまだ年間出荷が2〜3頭だったため、ポケットマネー程度で何とかできるかもしれないと考え、腰を上げました。
 
柵で囲って脂を蓄えさせる和牛と違い、放牧なので赤身が強く筋肉質、人間でいうとアスリート体型の駒谷牧場の牛。さらに水分量が非常に多く、焼くと半分が肉汁となって流れ出てしまう問題児でした。そこで、水分を抜くため熟成させることに。サカエヤでは温度と湿度を変えた4台の冷蔵庫を使い分けることによって、肉の様子を見ながら保存状態を徹底管理しています。「肉の住まいを変えてあげるんです」。新保氏のいう「熟成」とは一定の温度を保つ冷蔵庫で肉を「寝かせる」ことで、肉が持っている酵素によってたんぱく質が分解されアミノ酸へ変化する、生物学的でいうところの「自己消化」です。かれこれ5年ほどかけ、ようやくこの牛をドライエイジングによって水分調整し、香りと旨みのある肉質にすることに成功しました。究極の野生赤身肉、ジビエのようなビーフという意味で「ジビーフ」と名づけ、日本で数少ない有機JAS認定を取得。当然、脂っ気がまったくない赤身肉のため肉質は硬めですが、「それも含めて求められているのです。柔らかい肉が良い肉だという時代は終焉です」と新保氏は口調を強めます。

ドライエイジングによって新たな需要を生み出し、廃棄、加工品扱いとなる牛を少しでも減らしたいと願う。

「品種だ血統だというが、忘れてはいけないのは人が関与していること。誰が育てているのか。一番大事なのは人じゃないかな」と新保氏。(写真提供:世界文化社)

サカエヤチーズで有名でも、肉牛としては正当に評価されなかった。

次も厄介な牛が来ました。チーズで有名な岡山の吉田牧場で、健康な状態にもかかわらず子牛を産むことができなくなり、ペットフード用など加工用に安く売られる牛たちです。同牧場の吉田原野氏は「肉質が悪いわけではなく、乳肉兼用種なので適切に扱ってもらえればおいしいはず」と、新保氏に託しました。これも簡単な案件ではありませんでしたが、前回のジビーフを経験したおかげで、どう“手当て”すれば良いかを約3年かけて導くことができました。今では料理人が興味を持って使ってくれるようになったものの、「すべての部位がキレイに売れるわけじゃない」と新保氏は明かします。「バラやスネなど使いにくい部位は必ず余る。余れば自分で食べればいいだけのこと。僕は数字を追いかけるような仕事はしたくないので、いまのスタンスが性に合っているのかなと思っています」。

ショーケースは一般の肉屋よりワイドな高さと幅に設計。商品点数が多く、種類も細かい。

サカエヤうちは小さい肉屋だから、諦めています。

新保氏は、生産者から肉を「買う」のではなく「預かる」と表現します。生産者、料理人、食べる人。自分はその間を繋ぐ役割であると考えています。したがって、生産者から預かった肉を自分がどうにかしておいしい肉にし、料理人に引き継ぐ。どんなに手間がかかっても“手当て”をします。だから、取引先はマックスで40件ほど。「僕と若いスタッフ3人でやってますからこれが限界です」。新保氏が求めるのは利益より「面白いかどうか」。これがたくさんの従業員やその家族を抱えている大手肉屋なら経営が立ち行きません。「儲ける、というのはもう自分も従業員も諦めています。まずは自分たちが誇れるようなことやりたいなって。それだけですね」。
 
そうしてレストラン「セジール」を作ったのも、決して利益を求めたからではなく「実験室」が欲しかったからでした。それが、世界から食通が目指す一軒になってしまった理由は、後編でお伝えします。

2019年7月刊行の著書『どんな肉でも旨くする サカエヤ新保吉伸の全仕事』(世界文化社)好評発売中。https://www.sekaibunka.com/

「セジール」では黒毛和牛を熟成の好みに合わせて目の前でカット。肉料理に合うワインも揃える。(写真提供:世界文化社)

住所:滋賀県草津市追分南5-11-13 MAP
電話:077-563-7829
営業時間:10:00〜18:00
休日:水曜・最終火曜
http://www.omigyu.co.jp/
(写真提供:サカエヤ、世界文化社)

年齢も経歴もバラバラ。そんな津軽の“ONE TEAM”が醸す、今注目のシードル&ワインとは?[TSUGARU Le Bon Marché・GARUTSU/青森県弘前市]

弘前市代官町の醸造所を訪れた日は、ちょうどシードル造りの真っ最中。日々果汁の比重を測定し、発酵の進み具合を管理する。

津軽ボンマルシェここはりんご畑の中にあらず。街の中心地、気軽に通えるシードル醸造所。

日本一のりんご生産量を誇る青森県弘前市。りんごから造られるシードルもまた、弘前市と深い関係がある飲みものです。昭和28年、弘前の酒造メーカーの代表が欧州へ視察訪問、帰国後の翌年にシードル製造会社を設立し、昭和31年に発売されたのが日本で最初のシードルだったとか。平成26年には弘前市が「ハウスワイン・シードル特区」となり、現在では“シードルの街” として、大小さまざまなメーカーが独自の味を追求しています。市の郊外に広がるりんご畑周辺には、以前「津軽ボンマルシェ」で紹介した「弘前シードル工房kimori」など多くの醸造所が。そんな折、2017年に登場し注目を集めたのが『GARUTSU代官町醸造所』でした。

こちらのコンセプトはずばり“街なかの醸造所”。ほとんどの醸造所が郊外のりんご畑に近い場所に位置する中、『GARUTSU』がある代官町はJR弘前駅からも近い街の中心地。しかも近所には『bambooforest』や『green』といったこじゃれたセレクトショップが並ぶ、感度の高い情報発信地的エリアです。「これまでシードルは、造る場所と飲める場所が離れていたんです。街中に醸造所を作って出来立てのシードルを提供し、地元の人にも観光客の方々にも、シードルをもっと身近に感じてほしいという考えが発端でした」と語るのは、醸造責任者の白戸孝幸氏。「それにここ数年、東京近郊では料理とシードルを合わせる人が増えている。一方、産地である津軽には、料理とのマリアージュを楽しめたり色々な種類のシードルを飲めたりする店がまだなかったんです」と続けます。

工房の入り口はカウンターのあるカフェレストラン。メニューには、シードルとの相性を考えた料理が並びます。そして特筆すべきはドリンクメニュー。店のいちおし、店内奥の醸造所で造った自家製「樽生シードル」は、出来立てならではのフレッシュな味わいが楽しめます。さらに『GARUTSU』オリジナルのシードルやアップルワインを常時数種類揃えるほか、津軽をはじめ県内の主要メーカーの銘柄もずらり。ここへ来れば、今の青森の人気シードルを網羅することができるのです。シードル好きにとって、なんとたまらない場所ではありませんか!

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

JR弘前駅から徒歩10分ほど。代官町の一角にある『白神ワイナリー Cider Room GARUTSU』の店の奥に、シードル醸造所がある。この2月にリニューアル、店名も新たに営業をスタートする。

「うちの商品だけでなく、シードル自体に興味を持ってもらえる場にしたい」と白戸氏。レストラン店内から醸造所内が見える設計に。

レストランでは、シードルの食中酒としてのポテンシャルを感じられるメニューを提供。写真は五所川原市産の馬肉を100%使用した「桜ハンバーグ」。自社醸造酒の飲み比べセットも人気だ。

『GARUTSU』が手掛けるさまざまなタイプの酒。酒好きでも満足できる味にと、ドライで強炭酸、飲みごたえのあるタイプが揃う。(ラベルデザインは2019年12月の取材時のもの)

津軽ボンマルシェ日本初! 世界遺産の地で醸すシードル&ワインへの挑戦。

レストランからガラス越しに覗くことができる『GARUTSU代官町醸造所』内には、大きなタンクがふたつ。「9月から2月頃までがシードルの醸造期間。近隣の契約農家から、傷が付いたり色ムラがあったりする規格外の食用りんごが届きます」と語るのは、醸造と料理監修を担う今祥平氏です。「こちらの醸造所ではレストランで提供する樽生シードルのほか、よくビールに使われるエール酵母を使用した限定シードルなどを造っています。製造量は年間3000ℓほど。西目屋の方は、それよりさらに増やしていく予定です」と白戸氏。

西目屋村といえば市の中心地から車で20分ほど、世界遺産・白神山地の入口として知られる地区。実は昨年11月、この地に『GARUTSU』2ヵ所目となる醸造所『白神ワイナリー』が誕生しました。“街中”がコンセプトの代官町と違い、こちらの売りは西目屋産のりんごと白神山地で採取された酵母で造る地域密着型シードル。さらに施設名通り、西目屋産のぶどうからワインの醸造も行います。代官町で醸造を始めてからわずか2年での大幅な事業拡大。それを後押ししたのは、地元の人々のサポートに他なりません。「私たちのチームは、何より青森のことが好き。醸造所の増設に辺り、もっとたくさんの地元の方々に私たちのことを知ってもらいたいと考えました。最初にクラウドファンディングのアイデアを提案したのは取締役の相内英之。地元の人を巻き込もう! とプロジェクトが始まりました」。そう話す久保茜さんは、『GARUTSU』でブランディングや広報を務めるスタッフ。久保さんを中心に立ち上げたワイナリー新設のためのクラウドファンディングは県内で大きな反響を呼び、4週間で110万円を集めました。

『白神ワイナリー』があるのは、西目屋村のランドマーク『道の駅 津軽白神』内。代官町の醸造所の倍以上あるスペースには1000ℓの果汁が入る大型タンクが並び、道の駅の店内から醸造中の様子を見られるようになっています。オープンから2ヵ月後の今年1月には、初リリースとなる「しらかみピュアシードル」を発売。現在もタンクはフル稼働。今後、随時さまざまな商品を発売していく予定です。

『道の駅 津軽白神』の一角、イートインのカウンター席の向こうに、1000ℓ用タンク2本、500ℓ用タンク2本、さらに500ℓ用のプラスチック製容器2個が揃うワイナリーが。

日本で初めて誕生した、道の駅内にあるワイナリー。白戸氏曰く「世界遺産に登録された場所で造るお酒としても、おそらく日本初でしょう」。

80箱分のりんごの圧搾が終わった後に、大量の搾りかすが残された。これらは自社のぶどう農園のたい肥として活用する。

昨年リニューアルオープンした『道の駅 津軽白神』。店内の売店では、もちろん『GARUTSU』のシードルが販売されている。(ラベルデザインは2019年12月の取材時のもの)

白神山地目当ての観光客が立ち寄る観光スポットでもある。入口でポーズを取って写り込んでいるのは取締役の相内氏。「自分より、現場を動かすスタッフたちを一番に取り上げてほしい」との希望付きの取材だった。

津軽ボンマルシェメンバーの多様さ=GARUTSUらしさ!? 運命共同体のチーム。

『GARUTSU』の誕生には多くの人が関わっています。始まりは、弘前出身・東京在住で飲食店経営などを手掛けるオーナー・笹島雅彦氏の「地元・弘前で地域ならではの酒文化を発信したい」という想いでした。設立にあたりスタッフとして声を掛けられたのが、以前からの知人であり、現在取締役を務める相内秀之氏。オープン時には、都内初のワイナリーとして話題を呼んだ『東京ワイナリー』で指導を受けたほか、日本全国20ヵ所以上のワイナリーを巡り、醸造の知識を深めたそう。白戸氏と今氏、久保さんは相内氏に誘われ、昨年から入社。現在は相内氏を中心とした津軽在住メンバー6名で『GARUTSU』の運営を行いますが、実はほとんどのメンバーが醸造に関わるのはこれが初めてなのだとか。

例えば白戸氏は寿司職人歴25年の元料理人。小学校からの同級生という相内氏との縁がきっかけでチーム入りを決めたそう。「お酒も好きだし、話を聞いたとき、なんだかわくわくしたんです。新しいことに取り組むのはやっぱり楽しいですよ。43年生きてきて、まさかの展開ですが(笑)」と笑います。一方の今氏も、居酒屋やカフェ、イタリア料理店などさまざまな業態に10年以上携わってきた飲食業経験者。料理のほかワインやコーヒーの知識もあるため、醸造のかたわらレストランのメニューを監修、スタッフの育成も担当します。ほかのメンバーが弘前出身者なのに対し、久保さんは群馬県出身。弘前大学に進学後に津軽の魅力に開眼、首都圏で数年営業の仕事をしたのち、再び弘前へ戻ることを決意したという“津軽愛”あふれる20代です。

取材当初に感じたのは、登場人物の多さとスタッフの経歴の多彩さを記事の中でどうまとめるか……という悩み。しかし話を聞き進めるうち、それこそが『GARUSTU』らしさなのだと気付きました。「うちは何か決めるとき、大抵全員で話合いをします。経験者の集まりではない分、誰かがいないとできない仕事や職人じゃないとできない仕事を目指すのではなく、みんなで成長していきたい」と白戸氏。今氏が「うちのチームは石橋を叩いて渡るのではなく、とにかくみんなで『渡っちゃえ!』と進んでいる感じ。課題だらけですよ(笑)」といえば、久保さんが「誰かが想い余って暴走しそうなときは周りが全力で止めるし、本人もみんなの話を聞くし。誰が欠けてもだめなんです」と笑いながら続けます。

年齢も経歴もバラバラ、醸造は手探りのことも多いチーム『GARUTSU』ですが、「大好きな津軽のために何かしたい」という想いこそ、全員に共通する原動力。ちょっと前のめりだけれど勢いがあって、何より彼ら自身が一番楽しそう! そんな姿から、このチームの真の強さが伝わってきたのでした。

寿司職人としての経験を、レストランのメニューにも活かす白戸氏。醸造の魅力ついて「りんご果汁からどんなお酒ができるのか、漠然としたものが形になる楽しさですね」と話す。

学生時代から地域に根差したさまざまな活動を主宰してきた久保さん。弘前でも顔が広く、以前紹介した『おおわに自然村』三浦隆史氏などの若手生産者とも交流が。シードルアンバサダーの資格も持つ。

「醸造は生きものが相手。料理と違い、目分量や感覚だけでは造れない理系の世界で難しさもありますが、そこがおもしろい」と今氏。『白神ワイナリー Cider Room GARUTSU』では自ら料理を作り、サービスすることも。

津軽ボンマルシェ地域資源は宝物。津軽の酒が、世界を驚かす日を夢見て進む。

地域の資源を活用した商品作りを進める『GARUTSU』。代官町の工房で造るドライな味わいの「MIXシードル」は、どちらも津軽の名産品であるりんごのふじと、ぶどうのスチューベンを使用しています。スチューベンは岩木山のふもとの自社農園で減農薬栽培されたもの。前の畑の所有者が手放すことを聞き、引き継ぎを申し出た場所なのだそう。そして今『白神ワイナリー』の醸造タンク内で発酵中なのが、西目屋の山ぶどうを使ったワイン。遠方のワイナリーとの取り引きに負担を感じて廃業を考えていた地元生産者との偶然の出会いがきっかけとなり、今後も生産を継続してもらえることになったのだとか。「今後はワインにも力を入れたい。100%白神の素材だけで作った、地域を代表する土産品として売り出せたら」と白戸氏。春から秋にかけて水陸両用が運行し、見学ツアーが開催される津軽ダムは西目屋の人気観光スポットですが、ダム内にあるトンネルでワインを寝かせ、熟成させる計画も進行中。さらに地元産の生乳からチーズやアイスを作るなど、シードル&ワインと一緒に楽しめる新たな商品の開発にも意欲を燃やします。

チーム『GARUTSU』の視線は、地元津軽だけに向けられているわけではありません。この2月から始まるのが、海外でのシードル販売。既に台湾での展開が決まり、今後はタイやシンガポールへの進出も視野に入れています。現在取り組むのが、そうした海外の顧客が好む味わいのシードルを独自に製造すること。「海外へ視察を重ねる中実感したのが、日本人と外国人の味覚の好みの差。既に海外進出している津軽産のシードルはありますが、どれも国内向けに造ったものをそのまま販売しているため、売れずに棚落ちしているケースもありました」と白戸氏。『GARUTSU』のシードルは甘みを抑え、ドライでさっぱりしたアルコールが高めのものが主流でしたが、まずは台湾向けに、現地で好まれるりんごの甘さを前面に打ち出したシードルを醸造予定とか。昨今、ブランドりんごとしてアジア圏で大人気の津軽産りんご。これを機に、そのブランド力がさらにアップすることは間違いありません。

さて、みなさんはもうお気づきのことでしょう。社名の“GARUTSU”は“津軽”のアナグラムということを。あふれんばかりの地元愛と情熱を基盤にまい進するチーム『GARUTSU』。今後も新商品や新たな企画で、私たちを驚かせたり、楽しませたりしてくれるはず。その勢いが止まることは当分なさそうです。

静かに発酵が進む山ぶどうのワイン。味見をして「思ったより酸っぱい。大丈夫かなぁ(笑)」と苦笑いの白戸氏。初めての白神産ワインの完成が待たれる。

白ワイン酵母で造るアップルワイン「CITRINE」とビール酵母を使ったシードル「ALE」は、この冬発売の新商品。ラベルデザインは今氏が手掛けた。

津軽らしく酒好き集団だというチーム『GARUTSU』。しょっちゅうみんなで飲みに行くほど仲がいい。その証拠に、取締役である相内氏のSNSにはスタッフたちの楽しそうな姿の写真が頻繁にアップされる。

住所:青森県弘前市代官町13-1 MAP
電話:0172-55-6170
営業時間:18:00〜23:00
定休日:月曜日(月曜が祝日の場合翌火曜)
http://garutsu.co.jp/
※醸造所内の見学は応相談

住所:青森県中津軽郡西目屋村大字田代字神田219-1 道の駅 津軽白神内 MAP
電話:0172-85-2886
※醸造所内の見学は応相談

下関の知られざる名物。水揚げ日本一のあんこうの魅力を追って。[Fisherman’s Wharf Shimonoseki・あんこう/山口県下関市]

フィッシャーマンズワーフ 下関・あんこうOVERVIEW

冬の下関漁港市場でひときわ異彩を放つのが、旬を迎え丸々と太る、あんこう。
茨城県以北の太平洋沿岸が産地のイメージが強い高級魚ですが、実は下関は、漁港単位では日本一の水揚げ量を誇ります。

からだはぬめぬめ、顔は強面。鮮度の証は腹で見ると言われる通り、市場ではすべて白いお腹を丸出しにして仰向けに。
その巨体たるや1匹で箱から飛び出すものもいるほど。冬の市場内で大スペースを占め席巻する、日本一のあんこうの実力とはいかに?

日本一の水揚げを支える沖合底びき網漁業の漁師に、あんこう尽くしのフルコースレストラン、新たな商品であんこうに活路を見出す熱血社長まで、水揚げ日本一の高級魚の真実を追ってみました。

すると見えてきたのは、ふぐにも負けない多彩な魅力。捨てる部位がなく、とにかく旨い! 日本一の産地には、知られざるあんこうの魅力が詰まっていたのです!

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(supported by 下関市)

琉球王朝時代の“ロイヤルスピリッツ”を、交易の地・勝連城跡の夜に蘇らせる。600年の歴史を持つ日本最古の蒸留酒・泡盛のペアリング。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

「三種芋のリキットアップ」と「泡盛マティーニ」。『アルケミスト』自家製ベルモットはよもぎがベース。

ダイニングアウト琉球うるま交易の要衝を舞台に、王朝時代からの「おもてなし」の酒と料理を合わせて。

2020年1月18日、19日に開催された『DINING OUT RYUKYU URUMA with LEXUS』。回を重ねるごとにアップデートされていく『DINING OUT』ですが、18回目となる今回は、アジア発、世界を沸かせる2人のシェフのポップアップユニット『GohGan』が登場し、大きな話題を呼びます。『Asia's 50 Best Restaurants』において4年連続1位に輝き、現在はタイ・バンコク『Gaggan Anand』を率いるガガン・アナンドシェフと、九州で唯一、同アワードにランクインした福岡『La Maison de la Nature Goh』の福山剛シェフによる『GohGan』。ポップアップとしてはこれが最後の舞台ということで、さらなる注目を集めました。会場は沖縄本島中東部に位置するうるま市の世界遺産・勝連城跡。世界遺産がディナーの本会場になるのは、『DINING OUT』史上初めてのことです。

沖縄では南城市を舞台にした『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』に続く開催となりましたが、会場となる地域やテーマ、料理人の個性と土地へのアプローチで表現は、がらりと変わります。それは、たとえ山羊やマグブなど、同じ食材を使用したとしても。単なる野外レストランではない『DINING OUT』の魅力を改めて感じさせる勝連城跡の二夜でしたが、『GohGan』による15皿のコースをさらに特別なものにしたのが、泡盛を柱にしたドリンクペアリングでした。

15世紀、按司(首長)として地域を治めた阿麻和利の居城だった勝連城は、中国、東南アジア、日本本土と海外貿易を行い、繁栄を極めた土地です。異国の人々を受け入れ、文化に寄り沿うことで発展してきた土地には、「おもてなし」の心とともに「気高さ、心の豊かさ」を意味する「肝高」の精神が受け継がれおり、それはそのまま、今回の『DINING OUT』のテーマに掲げられます。「肝高」「おもてなし」の宴に寄り沿う泡盛ペアリングは、一体どんなものだったのか。そもそも泡盛とはどんな酒で、どのように受け継がれてきたのか。泡盛を語る上で外せない2人のキーマンの話を含め、お伝えします。

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ペアリングドリンクと料理のマリアージュを説明するサービススタッフ。ライトアップされた勝連城跡をバックに。

ダイニングアウト琉球うるまディナーの幕開けは、泡盛のイメージを覆す、秘蔵の古酒で乾杯。

ディナーは、特別な泡盛での乾杯からスタートします。2017年の泡盛鑑評会で沖縄県知事賞を受賞した泡盛の最高峰ともいうべき酒。那覇市の隣、豊見城市にある泡盛のトップメーカー『忠孝酒造』秘蔵の古酒(くーす)で、最短で17年、長いものでは30年以上熟成させた泡盛がブレンドされています。代表の大城勤氏自らが、ステージに用意された一斗の甕から、カラカラ(陶製の酒器)に酒を汲み分けてくれます。

そもそも泡盛というお酒にどんなイメージを抱いているでしょうか。沖縄の居酒屋や沖縄料理店で楽しむ「度数が高くて、クセの強い焼酎」。そんな風に考える人が多くても仕方ありません。酒を汲み分けながら、大城氏の簡単な解説が始まります。
「泡盛は、600年の歴史を持つ日本の蒸留酒のルーツで、沖縄の誇り。かつて海路で沖縄にやって来る多くの使節団を、宴席でもてなす際も、必ず泡盛が振る舞われました。そのときに用いられたのが、皆さんにお配りしているちぶぐゎーという酒器。これは世界最小の酒器といわれています。泡盛の古酒は大変希少なものなので、小さな酒器で大切に頂いたというわけです」

ちぶぐゎーは、小粒な栗の実ほどの、本当に小さな酒器。大城氏からカラカラを受け取ったサービススタッフたちが、テーブルを回り、その小さな小さな盃に希少な古酒を注いでいきます。ホストの中村孝則氏の声かけで乾杯し、ごく少量を舐めるようにちぶぐゎーから口へと運ぶゲストたち。馥郁たる香りととろりとしたテクスチャー、舌の上から後味までめくるめく変化を見せる味わいで、静かな感嘆のため息が会場を包み込みます。

『忠孝酒造』秘蔵の長期熟成古酒。自社の工房で焼く甕には美しい窯変が見られる。

大城氏自らもテーブルを回り、古酒をサーブ。高いところから泡を立てるように注ぐのが作法で、昔の人は泡の様子でアルコール度数を見たのだとか。

ダイニングアウト琉球うるま甕から自社製。品質のため、「祝い」と「絆」の古酒文化を未来へ繋げるため。

『忠孝酒造』は、沖縄県内に47社ある泡盛メーカーの中で、古酒を熟成する甕を自社で製造する唯一の蔵です。ディナーの冒頭で、大城氏が古酒を汲み分けた一斗の甕も、もちろん自社製。泡盛の文化や古酒の熟成について話を伺うべく、取材班は豊見城市の『忠孝酒造』を訪ねました。創業は昭和20(1945)年と、泡盛メーカーの中では後発ですが、今や業界をリードするメーカーに。そのひとつの要因が、代表の大城勤氏の父に当たる繁氏の、古酒甕製造への着手でした。

釉薬を使わずに高温で焼成する焼締めでつくられる甕には、炎と土で自然にできた窯変(模様)入りで、見た目にも美しいもの。叩くと金属音がするほど密度が高く、驚くほどの手間暇をかけてつくられています。土は、南部産島尻ジャーガルと中部産赤土のブレンド。前者は粘土質で乾燥させることでぎゅっと締まり、後者が強度を加えます。成形し、乾燥させて高温で焼成することで45%の大きさに。この時点で既に叩くと「キンキン」という音がするのですが、この金属音はミネラルやマグネシウムなどが凝縮することにより生まれるもの。窯は24時間稼働で、1日乾燥させて3日焼成し、という工程を2度繰り返し、ようやく完成します。

ウイスキーは樽、日本酒は桶、泡盛は甕というくらい、甕は泡盛文化を語る上で欠かせない、象徴ともいえるもの。上級酒や古酒を甕に詰めて販売するメーカーは数ありますが、その甕は業者に委託して造っています。膨大な設備投資と手間、そして時間がかかるにも関わらず『忠孝酒造』ではなぜ、甕の自社製にこだわるのか。品質に対する飽くなき追求はもちろんですが、もう一つ理由があります。自社で製造することで、ゲストが名入れなどオーダーメイドの甕をつくることができるからです。大城氏は言います。
「子供の誕生時に二十歳になった日の開栓を想って健やかな成長を祈る、結婚の記念に末永い円満を祈る、還暦の節目に今後十年、二十年の健康を祈る。泡盛は、喜びを分かち合い、絆を深める酒。琉球王朝時代から続いてきた古酒の文化を、家庭に、飲み手に伝え広げて行きたいという思いからです。

「泡盛文化の継承と創造」が、『忠孝酒造』のモットー。甕づくりから手掛け古酒文化の継承に務めながら、「伝統的」だけではくくれない酒づくりも、後発の蔵を躍進させてきました。その原動力となっているのが、三代目で現社長の大城勤氏にほかなりません。東京農業大学で醸造学を学んだ大城氏は、研究者肌の造り手で、これまでにない造りに挑戦し、個性豊かな泡盛を生み出しています。新しい製法だけでなく、醸造機器の近代化などで廃れたシー汁浸漬法(古式泡盛製法)を東京農大との共同研究で復活させるなど、まさに「泡盛文化の継承と創造」に尽力しています。通常の2倍の時間をかけて麹をつくる「よっかこうじ」仕込み、マンゴー酵母での発酵などバラエティ豊かな泡盛は、それぞれに際立つフレーバーがあり、古くて新しい、世界に発信すべきクラフトスピリッツとしての泡盛の可能性を十分に示してくれます。

『忠孝酒造』の試飲カウンター。大城社長自らがカウンターに立つことも。

平成15(2003)年に完成した『忠孝酒造』の貯蔵庫。沖縄では首里城の次に大きい木造建築で、一般見学もできる。

タイ米を黒麹で発酵させ、一段仕込みでつくる泡盛は香りや甘みが豊か。直売店に併設のミニファクトリーで、製造工程を見学・体験できる。

甕同様、焼き締めの製法でつくる瓶。名入れなどのサービスも行っている。

ダイニングアウト琉球うるまカクテルベースとして、食中酒として。泡盛のポテンシャルを示したペアリング。

『忠孝酒造』秘蔵の古酒が贅沢な幕開けを飾った『DINING OUT RYUKYU URUMA with LEXUS』。ここで泡盛ペアリングの一例をご紹介しましょう。

15皿に及ぶ『GohGan』のコースの前半は「Bite(バイト)」と呼ばれるカトラリーや箸を使わずに食べる料理が続きます。泡盛ペアリングは、その2皿目から。まずは『忠孝酒造』の「忠孝 よっかこうじ」と那覇市のバー『アルケミスト』自家製のベルモットでつくった「泡盛マティーニ」がサーブされ、続いてガガン・アナンドシェフのシグニチャーでもある「リキットアップ」がテーブルへと運ばれてきます。カラフルな野菜パウダーとスパイシーなチャツネでつくる「リキットアップ」は、皿を舐めて食べる料理。「泡盛マティーニ」の提供時に、あるサービススタッフがいい添えました。「皆さまの羞恥心を解き放つ一杯です」。

カクテルの中でもハイアルコールで知られるマティーニで勢いを付け、多くの人が初めての「皿を舐めて、味わう」食体験に弾みを付ける。なるほど、と思いますが、ペアリングはもちろん、景気付けに止まりません。「3種芋のリキットアップ」の『DINING OUT』バージョンには、沖縄の伝統料理、ドゥルワカシーが隠れていて、「忠孝 よっかこうじ」のフルーティーな甘みと自家製ベルモットのほろ苦さが効いた「泡盛マティーニ」が、田芋の甘みや出汁の旨み、スパイシーさが折り重なる一皿とマリアージュします。

以降、竹炭入りの衣で明太子ベシャメルを包んで揚げた「ブラックチャコール」に、ウイスキー樽熟成の泡盛とアルトビールのカクテル、ジーマミー豆腐とインドの伝統菓子を合わせた「ジーマミーゲイヴァ」と、和食との相性を考えて造られた「和乃春雨」と、泡盛の新しい世界へと誘うペアリングに、テーブルから都度、驚きの声が上がり続けました。

手で食べる「Bite」の一皿目は「ヨーグルトエクスプロージョン」。スタッフの解説に聞き入るゲストの方々。

那覇のブルワリー『ウォルフブロイ』のアルトとウイスキー樽熟成の「新里7年」を竹炭入り生地の「ブラックチャコール」と。

「ジーマミ―ゲイヴァ」。ジーマミ―豆腐と上に載るトリュフに合わせ、ねっとりとした豆腐の味を引き立てつトリュフの香りに寄り沿う「和乃春雨」が合わせられた。

ダイニングアウト琉球うるま平和を象徴し、世界へ羽ばたく可能性を秘めたロイヤルスピリッツに、沖縄の未来への祈りを重ねて。

泡盛の食中酒として、そしてカクテルベースとして驚くほどのポテンシャルを示した今回の『DINING OUT』のペアリング。その核心にもう一歩迫るべく、ディナーの翌日、泡盛ペアリングを監修した比嘉康二氏が営む那覇市内の『泡盛倉庫』を訪ねました。泡盛好きはもちろん、バーの愛好家やバーテンダー、泡盛をはじめとするスピリッツの造り手といった酒のプロにも愛される会員制のバーで、少量生産や長期熟成の希少なものも含め、常時800種以上の泡盛がそろいます。

「600年以上の歴史があり、現在も個性豊かな泡盛が生まれ続けている。24時間、365日、シチュエーションに応じてご提案できる泡盛、飲み方があります」と、比嘉氏。来店したゲストにまず尋ねるのは、泡盛を飲んだ経験の有無や味の好み、加えて最初の一杯か、食事をしながら飲むのか、あるいは締めなのか。「たくさんの泡盛に代わってお聞きする」というサービスは、カウンセリングのようで、会員制というシステムはその時間と場を整えるための装置なのだと話します。

一杯目であることを告げると、ハイボールを薦めてくれました。ベースとなる「暖流 古酒40度」の『神村酒造』は、初めてウイスキーに使うオーク樽で泡盛を熟成させた蔵として知られているとのこと。口当たりにはスモーキーな樽のフレーバーを感じ、すっきりとした味わいながら、フィニッシュに泡盛ならではの複雑な余韻が長く続きます。まさにアペリティフにぴったりの一杯です。

「泡盛がなぜ、アルコール度数が高いか。それは熟成を前提に造られていたお酒だからです。10年や20年、いや50年、100年と熟成させてもへたらないどころか、より味を深める。宮廷の人々を喜ばせ、外交品として重用されたロイヤルスピリッツだったわけです。ところが、戦争を機に妥協のない酒づくりができない時代に変わってしまいます。品質にこだわる余裕も熟成を待つ余裕もない中で、大衆化、量産化が進むうちに、30度前後の焼酎に近い泡盛がスタンダードになり、割って飲む文化が生まれた。今親しまれている水割りなどは、500年の泡盛の歴史の中でわずか70年余りの歴史しかないんです」

そんな低アルコールの飲み方の中からも、新しい泡盛が生まれているといいます。ペアリングにも登場した『宮里酒造』の「和乃春雨」。和食に合う泡盛としてつくられ、アルコール度数は日本酒と同等の15度。グラスに注いでそのまま食中酒として楽しめる泡盛です。
「日本酒をはじめとした醸造酒のよさは、糖と酸のバランスで料理との掛け算が成立すること。ですが、ずっと糖、つまり甘さが続くと飲み疲れる。そこに1杯、この「和乃春雨」のような酒を挟むと、料理の風味に寄り沿いながら食事の重さや甘さを切ってくれ、いいリズムになるんです」比嘉氏の話は、次第に熱を帯びていきます。

「琉球は、戦いではなく“おもてなし”の外交で400年の歴史を築いた国。食や酒は主役ではなく、相手ありき、人と人との関係性の中にあったものなんです。戦争で、一度分断された泡盛の古酒の歴史、それをかろうじて繋ぎ止めることができるのが今。高貴な酒として超長期熟成されたいにしえの時代と、未来を一本につないで行きたいんです。100年、200年の熟成が可能なのは、世が平和なことの証でもある。泡盛は平和の酒。平和な世の中であれば、泡盛の古酒の文化を、はるか未来まで繋げていけるのです」
『泡盛倉庫』の営業以外にも、比嘉氏は泡盛文化を継承するさまざまな活動に携わっています。その一つが、「誇酒プロジェクト」。訳あって廃業になってしまった宮古島『千代泉酒造所』の二機のタンクの泡盛を引き取り、ボトリングして販売しています。瓶内でも10年、20年と熟成する泡盛は、限りあるものが減りゆく様を可視化できるよう、また、世界中のどんなバーカウンターにも馴染むよう、クリアなボトルデザインにしたのだといいます。
『DINING OUT』のディナーを締めくくる一杯も、比嘉氏のプレゼンテーションの下、この泡盛が振る舞われました。

「ロイヤルスピリッツの価値を、未来につなげるお酒です」
泡盛は平和の酒。ちぶぐゎーを満たすクリアな液体に、100年、200年先の時代まで続く平和への祈りを込めて。海を渡って世界を旅するロイヤルスピリッツの新時代に思いを馳せて。泡盛に始まり、泡盛に終わる、勝連城跡での二夜は幕を閉じたのでした。

ペアリングカクテルの準備をするバースタッフたち。右が『泡盛倉庫』の比嘉氏。

2009年から『泡盛倉庫』店長を務める比嘉氏。国内外でプロ向けの泡盛セミナーやイベント開催などを行い、泡盛の普及、啓蒙に尽力する。

宮廷菓子を今に伝える『謝花きっぱん店』の冬瓜漬けとちぶぐゎーで味わう古酒。比嘉氏いわく「王様の楽しみ方で」。

那覇市『宮里酒造所』が脂ののった魚やしょう油、酢など和の調味料に合わせてつくったアルコール度数15度の「和乃春雨」。『DINING OUT』では白ワイン用グラスでサーブされた。

約800種の泡盛が壁一面にずらりとならぶ店内は圧巻の風景。

アテモヤとちんすこうのデザート「陰と陽」には、沖縄県民に親しまれているコーヒー泡盛を。

惜しまれつつ蔵をたたんだ『千代泉酒造所』の最後の泡盛「31/32」を、ペアリングの最後に。マンゴーチャツネを添えた「サーターアンダーギー」と。

インド・コルカタ出身。2007年にバンコクへ移住し、その後レストランの料理長を務める一方、『エルブジ』で研修を積む。2010年に開いたレストラン『Gaggan』では、エグゼクティブシェフを務め、Progressive Indian Cuisine(進歩的インド料理)を打ち出す。世界的に注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurant」では4位を獲得。同年8月に新たなチャレンジに向けてお店をクローズし、11月に『Gaggan Anand』を拠点として再始動した。

1971年生まれ。福岡県出身。高校在学中、フレンチレストランの調理の研修を受け、料理人の道へ。1989年にフランス料理店『イル・ド・フランス』で働き始め、そこで研鑽を重ねた。その後、1995年からワインレストラン『マーキュリーカフェ』でシェフを務めた。2002年10月、福岡市西中洲に『La Maison de la Nature Goh』を開店。2016年には、九州で初めて「Asia's 50 Best Restaurants」に選出され、2019年には24位にランクインを果たした。

地方からグローバルな潮流を生み出す! 岡山発のライフスタイルブランドを率いる実業家の挑戦。[実業家・石川康晴氏とストライププロジェクト/岡山県岡山市]

石川氏の近影。『一社一村運動』を提唱して岡山から世界を見据える。

石川康晴真の「地方創生」を目指す新たなムーブメント。

地域振興、地方創生。
今や全国各地で掲げられるようになったスローガンですが、真の意味で地域の文化や歴史を尊重しながら、それらの特色を生かした振興を実現できているのは、意外と少数派かもしれません。

ローカルの個性を生かしながらグローバルな潮流を生み出す――そんな理想的な「地方創生」を目指し、また、実現しつつあるのが、ライフスタイルブランド『koe (コエ)』などを展開する株式会社ストライプインターナショナルの代表取締役社長であり、公益財団法人石川文化振興財団の理事長でもある石川康晴氏が率いる「ストライププロジェクト」です。

自らが生まれ育った岡山という土地を愛し、その豊かな地域資源を地域の人々とともに未来に繋げていく――そんな壮大な理想を掲げる実業家の、一大プロジェクトに迫りました。

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2018年2月に渋谷にオープンした『hotel koe tokyo』。ステイ/ファッション/ミュージック&フードの3つのキーワードを軸に、日常と非日常を融合させた新たな文化を生み出している。(Photo:Kenta Hasegawa)

石川康晴「koe」ブランドと「hotel koe tokyo」を通じた世界戦略とは?

石川氏が率いる株式会社ストライプインターナショナルは、26年前の1994年に創業しました。以来、アパレルを主軸に事業を展開してきましたが、2015年にその事業領域を「ライフスタイル&テクロノジー」にまで拡張。飲食業やホテル業に至るまで、「人々のライフスタイル全体に寄り添いたい」という想いのもとに、様々な価値を提供し続けています。

そしてその中核を成しているのが、グローバルな戦略で立ち上げられたライフスタイルブランド『koe』。2014年にアパレルと雑貨を扱う1号店をオープンさせたのを皮切りに、2016年に飲食店を併設した“ライフスタイル型店舗”『KOE HOUSE』を自由が丘にオープン。そして2018年2月9日には、ブランドコンセプトである「new basic for new culture」を体現する場として、 「今」と「未来」、そして「日本」と「世界」を見据えたグローバルな視点でデザインされたホテル『hotel koe tokyo』を渋谷に立ち上げました。

間もなく2周年を迎えるこの「体験型店舗」は、ホテルという器にアパレル業や飲食業の機能を併せ持っており、“ショップの中に泊まる”という斬新なコンセプトで業界の内外から注目を浴びています。

ゲストルームは茶室をコンセプトに、「離れ」や「小上がり」の構造を取り入れ、現代アートやデジタルアートを展示。和とモダンの融合により“宿泊体験”の価値を高めている。(Photo:Kenta Hasegawa)

オープン以来 高い稼働率を誇る『hotel koe tokyo』。特にインバウンドに好評で、アジアや欧米にまでファンを獲得している。(Photo:Kenta Hasegawa)

石川康晴あらゆるシーンに寄り添って感動を演出。

そんな『hotel koe tokyo』の狙いは、主に2つあるそうです。
まずは「ライフスタイル全般への事業領域の拡張」。先に述べた複合的な構造と業態により、単なる宿泊施設ではない、あらゆる「ライフスタイル」を体感できる場となっています。

次に「お客様とブランドの関係性強化」。これは3階に分かれたフロアそれぞれに、多数の“エンタメ”を散りばめた構成によって実現されています。
1階にはブレッド&ダイニング、ホテルレセプション、DJスペース(週末のみ)、ライブイベントを配置。そして2階はアパレル販売店、3階はライフスタイル全般を体感できるホテルとして、それらが相乗効果を織り成しながら“宿泊体験”の価値を高めています。

例えば朝はベーカリーで朝食を楽しみ、夜はDJイベントに参加し、チェックアウト前にハイセンスな「koe」のアパレルを購入して旅立つ――そんないくつもの“エンタメ”を、縦横無尽な動線で味わえるのです。

「koe」ブランドを体感したゲストが気に入って、チェックアウト後にオンラインで商品を購入する、といった流れも期待しているそうです。ホテルを通じて提供された「衣・食・住・遊(エンタメ)」が、個別の機能やその場限りの娯楽のみで終わるのではなく、オンラインとオフラインを通じて有機的に繋がっていく――そうしてさらなる感動体験を生み出し続けていく、という循環を目指しています。
こういった好循環を織り成していく「koe」ブランドを、石川氏は将来的に世界中で展開していきたい、と構想しているそうです。

2階に配された「koe 渋谷店」。ゲストに「koe」ブランドを体感してもらうためのビジターセンター的な位置づけ。(Photo:Kenta Hasegawa)

1階の「koe lobby」。代官山の人気フレンチレストラン「Ata」を手がける掛川哲司シェフがプロデュースしたベーカリーレストラン。(Photo:Kenta Hasegawa)

石川康晴基盤はあくまで岡山。地方の文化と歴史こそが世界戦略の鍵。

こうした都市圏と世界で展開する戦略と並行して、その基盤となる「岡山」も重視。いえ、むしろこの石川氏の生まれ故郷こそが、「ストライププロジェクト」の主軸なのです。

「“東京への一極集中”と“地方の衰退”が国家的な課題となる中で、企業がそれぞれが根ざす“地方”を盛り上げていくことで、日本、ひいては世界が元気になっていく」と石川氏は考えているそうです。
こうして打ち出されたポリシーが『一社一村運動』というキーワード。石川氏が率いる株式会社ストライプインターナショナルと公益財団法人石川文化振興財団も、「ストライププロジェクト」も、ひとえにこの大きな目標のためにあるのです。

石川氏が掲げる「ストライププロジェクト」の舞台でも、『koe』1号店の拠点でもある岡山市。

石川康晴「ストライププロジェクト」を通じて、故郷・岡山を「住み続けられるまち」へ。

「ストライププロジェクト」は、以下の大きな3つのプロジェクトに分かれています。

まずは「CULTURE PROJECT(芸術文化・スポーツ文化による新たな賑わいの創出)」。
国際現代美術展として注目を集めている「岡山芸術交流」や、そのプレイベント「A&C」の開催、そしてアーティスト(芸術家)×アーキテクト(建築家)がコラボレーションして造り上げた建築作品である一棟建てプライベートタイプの宿泊施設を、岡山市の中心地にちりばめていく「A&Aプロジェクト」などが、その一例です。

その基盤にあるのは、「地域の人々が集い憩える場所を作りたい」という石川氏の想い。優れた現代アート作品や、そこから生まれる交流の場などを市街地に配置し、それらを通じて新たな文化や交流を生み出そうとしています。

「岡山芸術交流2019」は、年間を通じてアートシーンに貢献したアジアの団体やアーティスト・プログラム・展示会などに贈られる「ASIA ART PIONEERS / PUBLIC ART PROJECT OF THE YEAR」を受賞。岡山という「地方」が、世界に影響するムーブメントを生み出している。

食のイベント「ストライプマルシェ」は、2019年までに10回開催。地域社会と環境を持続させていくための新たな試み。

石川康晴世界的なカフェブランドを誘致して、地域の専門店とコラボレーション。

そして2つめのプロジェクトは、「ECONOMY PROJECT(地元経済の活性化)」です。
年に数回、岡山県内で「ストライプマルシェ」という県内外の魅力的な食や体験を集約したイベントを開催したり、独自の歴史と文化が息づく岡山市出石町エリアの活性化に取り組むなど、地域の魅力向上と交流推進に努めています。

中でも出石町エリアの開発はめざましく、『出石ギャラリー』にて世界レベルのヴィンテージ家具を販売したり、フランスのファッション・音楽レーベル『メゾン キツネ(MAISON KITSUNÉ)』が世界展開する『カフェ キツネ』の初のロースタリー(焙煎工場併設店)を出店するなど、熱い注目を集めています。

『カフェ キツネ ロースタリー』(右)と『出石ギャラリー』(左)。世界が認める食とインテリアが並ぶ。

『出石ギャラリー』の店内。世界的な建築家の家具などを展示。(Photo:Yoko Inoue)

石川康晴次代を担う人材を育て、継続的な「地方創生」を目指す。

最後の3つめのプロジェクトは、「EDUCATION PROJECT(世界に通用する人材の育成)」。2019年4月に岡山大学への寄付講座として、「SiEED」という育成プログラムを始めました。

こちらは起業家や組織内改革者のマインドを培うプログラムで、外部パートナーも含め、これまでにない実践的な講座となっています。次世代を担う子ども達の学び場を作り、さらに先述のプロジェクトとも連携して、岡山を舞台とした「交流人口」を増やす――こうして全方位的な「地域活性化」を目指しているのです。

「1つの県や1つの村から1つの世界的な企業が生まれるだけで、地方創生が起きる。その現象が幾重にも広がれば、すなわち日本が創生される」――これが石川氏が目指す究極的な目的であり、また、「ストライププロジェクト」を通じて実現されつつある岡山の未来像でもあります。

岡山という「地方」を世界に通じる、世界に影響を与える新たなムーブメントの発祥地に。故郷を愛する実業家の挑戦に、各界が注目しています。

『一社一村運動』という新たな概念が、岡山という地を新たなステージへと高める。(未来創造に向けた新たな学びの場・人材の創出を目指す「SiEED(シード)」のプレゼンテーションを行う石川氏)

住所:岡山県岡山市北区幸町2-8 MAP
電話:086-235-8020
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(写真提供:公益財団法人石川文化振興財団)

知るほど、触れるほど、その神秘に引き込まれる。神が宿る島の正体と出合う旅へ。[東京“真”宝島/東京都 神津島]

東京"真"宝島OVERVIEW

東京湾から南に向かって点々と連なる伊豆諸島のひとつ『神津島(こうづしま)』は、伊豆諸島の中心辺りに位置することから、各島の神々が集う会議場に定められたという伝説が残される地です。そして豊かな黒潮がもたらした漁業文化は、江戸時代にはすでにその栄華の記録がなされるなど、島民の営みの中心として連綿と受け継がれ、今もなお島の主要産業として発展し続けています。

太古より伝わる伝説、そして離島という環境が育んだ土着的な信仰の姿は、神津島の様々な文化と溶け合うことで形成され、それは島の個性となり、島民の生活に、心に、深く根を張っています。

東京からの距離約170km、面積18.87㎢、人口約1900人(令和元年10月時点)と、伊豆諸島全体で見ると、『神津島』はどれを見ても「中くらいの島」です。それは言い換えれば、程よく便利で、程よく包容力のある「良い塩梅」が凝縮されているということ。事実、島には癒しの絶景もアクティビティも選べる豊かな海山があり、レストランや店舗も困らない程度に各ジャンルが網羅されています。そして、島民の方々の観光者との距離感も程よく温かく、フランクで、こちらが望めばどうぞと門戸を開いてくれる、とても「良い塩梅」なのです。

島の自然に、文化に、人々に……。知るほど、触れるほどに引き込まれてしまう、その正体は一体何なのか。秘められた魅力を探る『神津島』の旅を、ぜひお楽しみください。


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南国の風薫る絶景の離島、八丈島。時代に寄り添い、変貌するその姿を見届ける。[東京“真”宝島/東京都 八丈島]

東京"真"宝島OVERVIEW

かつて「鳥も通わぬ」と歌に詠まれ、流人文化の歴史が色濃く残る八丈島。
しかしそこは、俗世から隔絶された"最果ての地"のイメージからは程遠い、美しい海に囲まれた暖かな常春の島でした。潮の香りが混じった柔らかな風が頬を撫で、どこまでも続く青空と南国の木々……。戦後には“東洋のハワイ”と呼ばれ人気を博しましたが、それももはや昔の話。

現在の八丈島は羽田空港から飛行機でわずか1時間足らず。東京宝島の中で、思い立ったらすぐに訪ねていける島なのです。

時代に寄り添いつつ、常に変化し続けてきた八丈島とそこに暮らす人々。先人から受け継いだ文化と、豊かな自然の恩恵を余すところなく享受し、それを新たな形で紡いでいく。その一翼を担っているのが、一度島を離れて戻ってきた島民や島外出身者たちだといいます。

島の外から流れてきた新たな息吹を取り込み進化する。
それが今も昔も変わらない、八丈島の宿命なのかもしれません。

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津軽のりんごに大きな価値を見出し、街の誇りと豊かな食文化を担う醸造酢に。[TSUGARU Le Bon Marché・カネショウ/青森県弘前市]

カネショウ株式会社の4代目・代表取締役社長の櫛引利貞氏。りんごの収穫期は猫の手も借りたいほどの忙しさ。

津軽ボンマルシェ桶屋から味噌醤油の醸造業、そしてりんご酢へ。

岩木山の麓、津軽平野は見渡す限り果てしなく、りんご畑が続きます。車で走っても走っても、広大な敷地に延々とりんごの木々が生い茂り、枝を広げています。カネショウの本社は、りんご畑からも程近い、弘前の郊外にあります。酢の醸造元としては本州最北端。ここで主に造られているのがりんご酢です。

以前「津軽ボンマルシェ」で紹介した「オステリア エノテカ ダ・サスィーノ」の笹森通彰氏は、ここのりんご酢を愛用しています。「お店でカネショウの『アップルヴィネガー』と『バルサミィアップル』を使っています。一般的なワインヴィネガーやバルサミコ酢と比べると少し価格は高いのですが、やはり品質がよいのです。何より顔の見える生産者さんと長く歩んでいきたいという思いがあり、好んで使っています」とのこと。「カネタ玉田酒造」の玉田宏造氏も「おすすめですよ。社長の櫛引さんとはとても仲良くさせてもらっています。人柄が良過ぎて怖いくらい」と笑いながら話します。津軽の食に携わる二人からも支持されるりんご酢とは、一体どんなお酢なのでしょう。

創業100年を超えるカネショウ尾上工場の玄関を上がると、まず目に付いたのが壁際にたくさん積み上げられた古い木桶。聞けば、カネショウの創業者、櫛引勝太郎はかつて桶屋を営んでいたそうです。職人を30人以上抱える大きな事業だったそうで、酒蔵などに木桶を収めていました。しかしやがて木桶産業にも曇りが見え始め、明治後期より醸造業に着目。1912(大正元)年に醸造所を構え、味噌・醤油の製造を開始しました。始めの頃は初代・勝太郎や2代目の長男・忠三が自らリアカーを引いて売り歩くなど、苦労して業績を伸ばしたようです。太平洋戦争後の1949(昭和24)年、櫛引食品工業株式会社を設立。高度経済成長に伴って、味噌、醤油は飛ぶように売れて行きましたが、忠三の長男である元三が3代目社長となった翌年の1973年、オイルショックが起こって売り上げが激減。スーパーマーケットの台頭などもあり、首都圏の大手企業が続々と地方に参入して、経営はさらに悪化しました。周りでも廃業や倒産が続く中、元三は「醤油味噌製造のみでの企業経営の範疇から脱却して、全食品界に眼を向け、そこに活路を見出すべく模索していた」(自著「元三のひとりごと」より)といいます。自分たちが長年培った発酵技術を使って、何か調味料が作れないだろうかと考えた末、津軽の産品といったらりんごであろう、と思い当たります。そこから試行錯誤を繰り返し、りんご酢を造るに至ったのでした。

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カネショウ尾上工場。収穫されたりんごの洗浄から発酵、できあがったりんご酢の充填などがこの工場内で行われています。

積み上げられた古い木桶。酒屋が配達用に使っていた通い樽というものだそうです。カネショウを表す「正」の焼印が歴史を物語ります。

津軽ボンマルシェ苦戦の上に完成したりんご酢は、津軽を丸ごと味わえる調味料に。

工場を訪ねた12月はりんごの収穫もそろそろ終わりの頃。最後の仕込みが行われていました。ベルトコンベアーからは大量のりんごが運ばれ、冷たい水の中で洗浄されながら次々と流れていきます。りんごは全て津軽で採れたもぎ取りの完熟りんご。品種を定めず様々な種類がミックスされており、その方が味に複雑味が出て良いのだそうです。
「この作業は年に一度、生のりんごが収穫された今の時期に一気に行います。仕込み方はお酒と一緒。りんごは洗ってすすいで、再度洗いにかけて。少しでも痛んだり、腐ったりしたりんごはスタッフがチェックして取り除きます。発酵にはそんなに影響がないかもしれませんが、腐敗につながるような要因はできる限り取り除くのがうちの方針です」と現社長の櫛引利貞氏。ひとつひとつ手をかけた丁寧な仕事は、カネショウらしさでもあります。

洗浄が終わったりんごは、大きな専用の機械で丸ごとすり下ろします。皮も芯も全て一緒に!
「生のりんごを全部すり下ろして、そのまま発酵させるなんていうやり方は、世界中探してもたぶんうちしかやっていないんじゃないかな」とちょっと誇らしげに話す櫛引氏。カネショウでもりんご酢の発売当初は、一般的な造り方である、りんごジュースを発酵させて造っていましたが、それでは他の大手企業と横並びになってしまい、勝負になりません。りんご酢を主力商品にしても、競合が増えるばかりで苦戦が続きました。この土地だからできること、カネショウの強みは、冷涼な気候の青森で、採れたてのフレッシュなりんごがすぐ手に入ることでした。そうであれば、りんごの新鮮さを活かしてそのまま丸ごと発酵させることはできないか、ジュースとは違うものにならないだろうか…と必死で考え、何度も試作しては失敗を繰り返し、ようやく独自の技術である「すりおろし醸造」にたどり着き、現在のりんご酢が誕生したのでした。

並行して青森県産業技術センターと、すりおろし醸造のりんご酢の効能について、共同研究を始めました。酢は美容と健康に良い、という漠然としたイメージはありましたが、この実験データにより、他のりんご酢と比べても抗腫瘍効果(がんなどを抑える)がとても高いことが分かったのです。
「すりおろしたりんごの皮と実の際の成分が、発酵過程で変化し、抗腫瘍効果のある成分になることが分かりました。1998年にフィンランドで行われた世界食品学会で発表し、大きな価値を得ることできました」

次々と運ばれてくるりんごを洗浄するスタッフ。たくさんのりんごが延々流れてくる様子はなかなか迫力があります。

すり下ろしたりんごはタンクに注いでじっくり低温発酵させます。カネショウのりんご酢は、まずアルコール発酵でりんごのお酒を造り、それをさらに酢酸発酵させて酢にする、昔ながらの天然醸造です。一冬に100トン造るそうです。

津軽ボンマルシェ木樽でじっくり熟成。手間と時間をかけても本物を作ること。

続いて訪ねたのは、まるでワイン蔵かと思うような、オークの木樽がずらりと並ぶ広い倉庫でした。倉庫の周りは田畑が広がり、冬は白鳥がたくさん飛来してくるそうです。カネショウで造られたりんご酢は全て、最終的にこの木樽に詰めて3ヶ月以上ゆっくりと熟成させます。すると木の香りがほのかに移り、ツンとすることがなく、まろやかで奥ゆかしい味わいになるのだそうです。木樽に最初に行き当たったのは、イタリアの醸造酢、バルサミコ酢でした。
「酢のメーカーとして、世界で一番素晴らしい果実酢は?と考えたら、やっぱりバルサミコ酢ではないかと思ったのです。造り方を調べてみると、煮詰めた果汁を樽に詰めて長期熟成していました。そこで、ものは試しと搾ったりんご果汁を濃縮して酢を造り、一つの樽で熟成してみました。数年経って味をみてみるととてもマイルドないい味になっていたのです。正直あまり期待していなかったのですが、ああ、これが正に『酢角が取れる』という味わいなのだなと実感しました。これならりんごでもバルサミコ酢に負けない品質のものが造れるのではないか、と自信が湧いたのです」。
そうして2年間の熟成を経てできあがったのがバルサミコ酢のように濃厚なりんご酢「バルサミィアップル」でした。実際に味見をしてみると、その上品な味わいに驚きます。バルサミコ酢よりやや繊細で柔らかく、ふくよかでまあるい甘みがあります。オリーブオイルと塩を混ぜてパンにつけたり、サラダに和えたりしてもいいし、焼きりんごに添えたアイスクリームにかけても最高ですよ、と櫛引氏は嬉しそうに教えてくれました。

バルサミィアップルはもちろん、そもそも一般的に木樽で数ヶ月も熟成しているりんご酢など前代未聞であり、手間も時間もかかります。しかし、それがカネショウのキモだと、櫛引氏は語ります。
「私たちは手間をかけることが非常に大事だと思っています。大企業にとっては割に合わないことかもしれません。でもそこが私たちの生きる道です。津軽のりんごという圧倒的存在がすぐ近くにある。そのおかげで、私たちは一歩も二歩も先に行ける。そして結果的に良いものづくりができる。今の時代の流れを見ても、世の中が本質的なものを求めていることを感じています。そういう意味でも私たちのやってきたことは間違っていなかったと確信しています」

熟成用の木樽がずらりと並ぶ姿は圧巻。元々はウイスキーに使っていた希少なオーク樽を酒造会社から譲り受け、再利用しています。

試験的に寝かしてあるという19年もののりんご酢。蓋を開けると樽の中からはふわりと甘い香りが漂ってきました。

社長の甥っ子であり、取締役副社長兼、工場長の櫛引英揮氏。製造部門を一手に引き受けています。ちなみに社長も副社長も東京農大の醸造科出身。

津軽ボンマルシェ弘前大学と共同研究し、微生物まで全て青森産を目指す。

津軽の風土に基づいた、この地だからできるものづくりを、という思いはカネショウの商品開発のベースになっています。りんご酢は、青森そのものを表した商品。全て津軽産のりんごを使うことはもちろん、実は酵母もこの土地のもので、弘前大学が青森県南西部にまたがる白神山地から採取した「弘前大学白神酵母」を使っています。白神山地といえば、世界的にも最大級のブナの原生林が広がり、多種多様の貴重な生態系が保たれる、ユネスコ世界自然遺産の認定地でもあります。
「弘前大学で酵母研究をしている先生を紹介してもらい、一緒に研究開発を始めました。実は白神酵母自体は何十種類もあり、白神山地の樹皮や腐葉土から採取・分離された天然酵母で、その中からうちの醸造に適したものを探しました。香りや味わいなどを何度も試作して見極め、青森県内で初めて実用化にこぎつくことができました。私たちの活動をきっかけに、白神酵母が青森の産業の一つとして広まり、津軽のイメージアップにも繋がればと思っています」と櫛引氏。現在は酢酸菌についても、白神山地から採取したもので研究が進んでいるそうです。まだ試作中とのことですが、オール青森にすることが目下の目標。
「ものづくりは楽しいですね。新しいアイデアを具現化して商品になって、その評判がよく、お客様が喜んでくれるのならば、やっぱり作り手としては嬉しい。私たちはメーカーで良かったなと思っているんですよ。いろんなものをゼロから創造できるのはメーカーだからこそ。そういう楽しさがありますよね」。

ちなみに弘前大学が開発した素材には、さらにプロテオグリカンがあります。コラーゲンやヒアルロン酸に続く美容健康素材として以前より注目されていましたが、これまで抽出が難しく、1gで3000万円という大変高価なものだったため、なかなか商品化が実現できませんでした。同大学では鮭の鼻軟骨に高濃度のプロテオグリカンが存在することを突き止め、本来は廃棄物だったその骨から、安価で安全に高純度のプロテオグリカンを抽出する技術を確立し、高付加価値を付けることに成功。「あおもりPG」としてブランド化し、今後の躍進が期待されています。カネショウではバルサミィアップルの技術をベースに、木樽熟成の濃縮した黒りんご酢とプロテオグリカンをたっぷり配合した「女神の林檎」という美容飲料を開発。あおもりPGの広まりを後押ししています。

最後に、熱心に製造現場を取り仕切る、副社長で工場長の櫛引英揮氏ともちらりと会話ができたので、カネショウの今後のビジョンについて伺ってみると、こんな答えが返ってきました。
「醸造業は可能性があり過ぎると思っています。未知の部分がたくさんあって、まだまだ行けるなって思う。私たちのベースはやはりこの青森という恵まれた土地で、地域資源を有効に活用しながら、発酵・醸造技術の研鑽をしっかりと積んでいきたいです。でもこれちょっとよそ行きのコメントですかね。本当のところは従業員がそれぞれアイデアを出し合ってお互いに成長し、みんなが幸せに暮らしていける会社になっていければいいなと。それが根本にあった上で、時代を読みながら決断していきたいです」。
ここが想像を超えるような発酵・醸造の未来を醸し出す現場になるかもしれない。年月をかけて熟成された青森愛が底辺を流れるカネショウの今後に、ワクワクせずにはいられないことでしょう。

商品開発や検査などを行う研究室。スタッフは特に理化学系の大学出身ばかりではなく、「料理が好きで調味料開発に興味がある」ことが募集条件だったとか。

弘前大学白神酵母の菌株は、マイナス70℃の冷凍庫で大切に保管されています。

商品は、右の3つが料理にも便利な定番のりんご酢(赤いラベルがプレーン、隣はハチミツ入り、右端は甘さ控えめのライト)。左から3番目の黄色いラベルはハチミツ、生姜入りで飲みやすい「青森スウィッチェル」。その隣が「バルサミィアップル」。一番左端は話題のプロテオグリカンをたっぷり配合した「女神の林檎」。

津軽の呑兵衛の集合場所ともいえる弘前の「かだれ横丁」には、カネショウの各種りんご酢を使ったハイボールを飲める屋台がありました。「くしびきハイボール」などと名付けられ、街の人々に親しまれています。

https://www.ringosu.com/

シェフが求めた最上の“RE”。沖縄県本部町のレストランで、1日1組のゲストをもてなすことの意味を知る。[Ristorante RE/沖縄県本部町]

レストラン アールイーOVERVIEW

「沖縄美ら海水族館」がある町といえば、ピンと来る人もいるのではないでしょうか。那覇空港から車で1時間30分ほど、沖縄本島の北部から東シナ海に突き出した半島にある沖縄県本部町。全国から観光客が訪れる町ではありますが、その一方で今なお古き良き沖縄の暮らしぶりが息づくのどかなエリアでもあります。今回ONESTORY取材班が訪れた『Ristorante RE』は、その本部町の北部、具志堅地区の高台にありました。途中、道標となる案内板もなく、国道505号線から脇道に入り、分かれ道を進んでいくと、白亜の建物の前でシェフの三沢 賢(まさる)氏が手をふって出迎えてくれました。

那覇からも遠く離れた本部という町で1日1組だけをもてなすレストラン。
そう聞けば、どんな料理で訪れる人を驚かせてくれるのか、期待せずにはいられないかもしれません。しかし、ここで待っているのは、奇をてらい、訪れた人を驚かせ、未知の食体験を楽しむような、いわゆるコンセプト先行型のガストロノミックな店とは一線を画します。

誤解を恐れずに言えば、決して華やかな店ではありません。味わい、くつろぎ、心を溶かす。
店名に込めたのは、RefreshのREであり、RelaxでREであり、ResortのRE。
本部という町で10年。1日1組のための最上の“RE”を提供し続けてきた店の本質に迫ります。

住所:沖縄県国頭郡本部町具志堅717 MAP
電話:0980-48-2558
http://www.fiori-rossi.com/

とにかく足が短くて、太い!少し不格好なそのフォルムに、旨味を宿す関門タコ![Fisherman’s Wharf SHIMONOSEKI・タコ/山口県下関市]

フィッシャーマンズワーフ 下関・タコOVERVIEW

タコの名産地として有名な兵庫県明石。言わずとしれた全国トップブランドのタコとして知られていますが、実はそんな明石に負けないと、通の間で評判のタコがあることをご存知ですか?

種類は明石と同じマダコながら、足が太くて短いのが特徴で、足の先まで吸盤があるのが、今回ご紹介する「関門タコ」。

最大の特徴の短くて太い足は、流れの速い関門海峡の潮流に踏ん張ることで成長するといわれ、貝やカニなど、漁場に餌が豊富にあることで旨味を蓄え、噛めば噛むほど旨味に溢れ、滲み出るような味わいを持つと言われています。

タウリン豊富で、その生命力も特筆モノ。漁港に水揚げされても、水槽から逃げ出してしまうほど元気な関門タコは、1匹1匹逃げ出さないようにネットに入れられ取引。現在、500g以下は海へリリースするなど資源管理され、その類まれなる味わいを絶やさぬよう、守られているのが「関門タコ」なのです。

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(supported by 下関市)

王朝時代の交易の要衝、世界遺産・勝連城跡を舞台に、世界を沸かせるシェフユニット、最後のポップアップ。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

ドラマティックにライトアップされた世界遺産、勝連城跡。傾斜を利用し積み上げられた城壁が特徴。

ダイニングアウト琉球うるま交易の地が育んだ「肝高」のスピリットを、国籍を超えた料理人ユニットと厨房チームが現代に蘇らせる。

1月18日(土)、19日(日)、通算18回目、昨年に引き続き沖縄で『DINING OUT RYUKYU URUMA with LEXUS』が開催されました。舞台となったのは県南東部のうるま市に残る世界遺産・勝連城跡。古くからの海運の要衝で、15世紀には琉球王朝と拮抗する栄華を誇った勝連。さまざまな国の人々を受け入れ、文化に寄り沿うことで発展をしてきた土地には「気高さ、心の豊かさ」を意味する「肝高(きむたか)」の精神が今も根付いているといわれています。今回の『DINING OUT』のテーマは、この「肝高(きむたか)」、そして交易の地に伝わる「おもてなし」。厨房を預かるのはそのテーマにこれ以上ないほど相応しいシェフユニット『GohGan』です。

『Asia's 50 Best Restaurants』において4年連続1位に輝いた、現在はタイ・バンコク『Gaggan Anand』を率いるガガン・アナンドシェフと、九州で唯一、同アワードにランクインした福岡『La Maison de la Nature Goh』の福山剛シェフによるポップアップユニット『GohGan』。2021年以降、福岡に共同でレストランをオープンすることも大きな話題を呼んでいます。料理がすべて決まるのは本番直前、ライブのグルーヴとサプライズな演出で知られる『GohGan』のパフォーマンスが、勝連の地でどのように花開くのか。関係者を含め、誰も予測ができぬまま本番を迎えた、二夜の様子をレポートします。

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今回の舞台は、沖縄県うるま市が擁する世界遺産「勝連城跡」。頂上の「一の曲輪(くるわ)」まで登ると5.2kmに及ぶ大橋「海中道路」の先に平安座島や浜比嘉島が見える。

ガガン・アナンドシェフ(右)と福山剛シェフ(左)。2015年から続けてきたポップアップユニット『GohGan』最後の舞台に。

ダイニングアウト琉球うるま琉球開闢の伝説に縁ある島がレセプション会場に。

沖縄には琉球王朝開闢にまつわる土地がいくつかありますが、そのひとつが沖縄南部・浜比嘉島。この島に降り立ったアマミキヨ(アマミチュー)とシネリキヨ(シルミチュー)、男女の祖神が居住したといわれる「シルミチュー」という場所は、今も霊場として祀られています。今回の『DINING OUT』では、この浜比嘉島がレセプション会場に。

到着後、浜辺でウェルカムシャンパーニュを楽しむゲストの前に、ホストを務める中村孝則氏が登場します。中村氏が身にまとっているのは15世紀に勝連を収めた武将「阿麻和利」の装束を再現した衣装。本番前に何度も開催地を訪れ、土地への理解を深めるとともに、歴史や風俗にまつわるさまざまなものを自ら取り入れて、ゲストをもてなすのが中村氏のスタイルです。自己紹介を簡単に済ませた中村氏は、勝連で行われる『DINING OUT』の成功を祝して乾杯の音頭を取ります。
「沖縄では今もたくさんの神話が言い伝えられていて、人々の生活に信仰が深く根付いている。そのあり方を皆さんに知って頂くため、今日はシルミチューへのお参りを行いたいと思います」

中村氏の声かけで、グラスを置いたゲストから順に、森へと続く石段に向かいます。一段、また一段と登るにつれ、神秘的な空気に包まれ、百段近くある石段の最上段に近づくと、鉄の柵に囲われた鍾乳洞が見えてきます。これが「シルミチュー」。通常は見学できない洞窟の内部を、この日は特別に見せてもらいました。ゲストは順番に洞窟の中に入り、しばし立ち止まり、厳粛な面持ちでそれぞれの祈りのときを過ごします。
単なる野外レストランではなく、土地の歴史と文化に触れ、食文化が育まれた背景に迫るのが『DINING OUT』の醍醐味。海を眺め、森に分け入ることで浜比嘉島、ひいては勝連の人々の祖を敬いながら、進取の精神で土地を発展させてきた、その歴史の一端と精神性に触れられる、貴重なひとときとなりました。

「シルミチュー」を参拝したゲストを乗せ、送迎のLEXUSは浜比嘉島を後にし、ディナーの本会場へ。経由する平安座島と勝連半島を結ぶ5.2キロの「海中道路」はうるま市を代表する名勝地。1月にしては肌寒い生憎の曇り空ながら、海の上を滑るようなドライブが、ディナーへの期待を高めます。

宿泊先の『ハレクラニ沖縄』からゲストを乗せてレセプション会場の浜比嘉島に向かうLEXUS。

「阿麻和利」の衣装でゲストを迎えるホストの中村孝則氏。シャンパーニュ「ニコラ・フィアット」で乾杯。

シルミチューへ続く約百段の石段は、神聖な空気に包まれている。

ダイニングアウト琉球うるま四方に展望が開けた勝連城跡の丘に現れたレストラン。

到着したのは、世界遺産・勝連城跡。15世紀、王権を強固なものにしつつあった琉球王国に最後まで抵抗した按司「阿麻和利」の居城で、沖縄の世界遺産の中で最古のグスクとして知られています。城は四方に展望が開けた丘を取り囲んで築かれており、防衛、交易の両面で良好な立地であったことがわかります。中国をはじめ、東南アジア、日本(本土)との海外貿易で栄華を極めた歴史があり、もっとも高い場所に築かれた「一の曲輪」から周囲を見渡せば、当時の情景が思い浮かぶかのようです。

闇の中に浮かび上がる白いテントが、この日のディナー会場。テーブルは、背後にフルオープンの厨房を従え、目の前に勝連城跡を望むという贅沢なレイアウトです。サービスの開始が近づくにつれ、キッチンが心地よい緊張感と活気に包まれていくのは『DINING OUT』の常ですが、この夜の熱量は格別。厨房そのものがふつふつと沸くかのような熱気がたぎっています。その渦の真ん中にいるのがガガン・アナンドシェフと福山剛シェフ。
2017年、『DINING OUT NISEKO with LEXUS』にゲストとして参加して以来、いつかは自分たちの手でと夢見た念願の舞台。同時に2015年から12回の開催を重ねてきたポップアップユニット『GohGan』としては最後のパフォーマンスとなります。この記念すべき夜を見届けたい。テーブルに着席したゲストの期待値が最高潮を迎えた頃、いよいよディナーがスタートします。

ディナーのはじまりに、中村氏の紹介で一人の男性がゲストの前に登場します。泡盛メーカー『忠孝酒造』の代表、大城勤氏。この日は2017年の泡盛鑑評会で沖縄県知事賞を受賞した『忠孝酒造』の貴重な長期熟成の泡盛が乾杯酒として振る舞われました。一斗の甕からカラカラ(陶製の酒器)に泡盛を汲みながら、大城氏が説明をします。
「甕の中の泡盛は、最短で17年、長いものでは30年以上熟成したものがブレンドされています。熟成した泡盛のことを古酒(くーす)といいますが、古酒は琉球王朝時代でも大変に貴重なもので、このちぶぐゎーと呼ばれる小さな酒器で少しずつ、大事に楽しまれていました」
ゲストの前ににちぶぐゎーが用意され、カラカラを持ったサービススタッフが、テーブルを回りサーブします。
「年月を刻む古酒は、子の誕生を祝ったりと、家族や親族、人と人との絆を深める酒でも。今宵、お集まりの皆様が絆で結ばれますように」
琉球王朝時代から泡盛が果たしてきた役割を告げる言葉が、乾杯の音頭に。そして同時に勝連城跡が幻想的にライトアップされました。

非売品の泡盛の長期熟成古酒をカラカラに移す大城氏。『忠孝酒造』は自社で泡盛を貯蔵する甕を造る唯一のメーカー。

乾杯と同時に勝連城跡がライトアップ。ゲストの間から「わっ」と歓声が上がる。

ダイニングアウト琉球うるま沖縄発アジアへ。一心同体の厨房から繰り出された15皿のコース。

「ようこそ、暑い沖縄へ」と、ガガンシェフが挨拶をすると、テーブルから笑い声が沸き上がります。日没後の気温は10度前後という肌寒さでしたが、会場のムードは一気に温まった様子。福山シェフが「今日がGohGanとしての最後の日。一緒に楽しみましょう!」と、さらにゲストを盛り上げます。

料理の準備をしに厨房に戻った2人に替わり、中村氏がコースの説明に入ります。手元に絵文字で綴られたメニューが用意されていること、最初の数品は「バイト」と呼ばれる手で食す料理が続くこと。全15皿のコースには、ガガンシェフの料理哲学ともいえる「5S」が散りばめられていること。
「5Sとは、Sweet (甘い)、 Salty(しょっぱい)、Spicy (スパイシー)、Sour(酸っぱい)、そして最後が「 Surprise(驚き)」です」
ちょうどその説明が終わる頃、一皿目がテーブルへと運ばれてきました。ガガンシェフのスペシャリテの一つ、「ヨーグルトエクスプロージョン」。球状のゼリーをハーブのチップと一緒に口に入れると、口の中でスパイシーなヨーグルトが弾けます。

二皿目は「3種のリキットアップ」。カラフルな野菜パウダーに隠れているのは、柚子やレーズンのスパイシーなチャツネと、田芋でつくる沖縄伝統料理「ドゥルワカシー」。カトラリーなどは使わず、皿を舐めて食べるガガンシェフのもう一つのスペシャリテです。会場は一瞬、どよめきに包まれますが、意を決したゲストたちがトライし始めると、一気に空気がほぐれたのを感じます。
「カルカッタに生まれ、スペインで料理を学び、バンコクで店を開いたガガン。さまざまな民族と文化の中で生きてきましたが、“食べる”ときは誰もが同じく、平等であるようにという想いが込められた一皿です」と、中村氏。
国ごとに違う食器の文化も、階級で異なるテーブルマナーも関係なし。体の一部である舌で、味わう。現代のパブリックなシーンでは“ありえない”プリミティブな食体験が、テーブルを囲む人々の垣根を取り払います。

パンチの効いた冒頭の2皿で、『GohGan』の何たるかを知ったゲストは、リラックスしてコースの流れに身を委ねます。ガガンシェフのカラーが全面に出た皿が続きますが、沖縄の食材や郷土料理をベースにした味づくりは、数回の事前視察を経て、食材選びなどの土台を固めた福山シェフの仕事あってこそ。「どの皿が誰の料理」ではなく「2人でつくる1皿」が淀みなく流れ、11回のポップアップイベントを重ねてきた『GohGan』の底力を鮮やかに披露し続けます。

インドの伝統菓子・ゲイヴァとジーマミー豆腐を合わせた「ジーマミーゲイヴァ」、福山シェフの鮑のスペシャリテをベースにした「蒸し夜行貝 肝のソース」。沖縄のスパイシークラブとハーブ山羊を使った2種のカレー。山羊のカレーは、ガガンシェフが父親のレシピでつくったものが、福山シェフによるジューシー風のビリヤニとともに供されます。厨房から「お代わり食べたい人、まだあるよ!」という声が飛んだのは、『DINING OUT』史上、初めてのことではないでしょうか。見たこともない形状、味わったことのない食感、やや派手めなプレゼンテーションで皿の数だけゲストを驚かせながら、過ぎゆく時間は、家族や親族、大切な仲間が絆を深める食卓の和やかさでした。

球状のヨーグルトゼリーをコリアンダー、ミント、青唐辛子を練り込んだチップに載せて食べる「ヨーグルトエクスプロージョン」。口の中で弾ける食感がサプライズ。

「3種芋のリキットアップ」は、インドのホーリー祭という祭からインスピレーションを受けた料理。

「チョコバナナ」。蕎麦粉とカカオマスのアイスクリーム、ココナッツカレーを加えたあん肝、シナモンやクローブを効かせたフローズンバナナチャツネが3層に。

うるま産の黄金芋を切って石垣島の米酢でピクルスにし、唐辛子とニンニクが効いたビンダルーソースでマリネした「スイートポテトビンダルー」。

沖縄の高級魚・マクブを使用した「パープルフィッシュ」。軽く昆布締めにして、海苔のソースやハンダマのお浸し、海ぶどうを重ねてタルト仕立てに。ハンダマの色素をアガーで固めたゼリーをのせて。

明太子を練り込んだベシャメルを竹炭入りのドーナツ生地で包んで揚げた「ブラックチャコール」。明太子は、福山シェフの拠点・博多にちなんで。

ジーマミー豆腐とマッシュルームが溶け合う「ジーマミーゲイヴァ」。トリュフが芳しい。

「甘長唐辛子 豚肉の詰め物」。豚の肩肉や豚足をスパイスと一緒に柔らかく煮込んだ後、甘長唐辛子に詰めて炭火焼きに。月桃の葉の香りを纏わせてある。

沖縄の柑橘で酸味と香りを加えた「車海老のソムタム」。日本でもポピュラーな青パパイヤのサラダに、レアに火を入れた車海老とその頭のフリットを添えた贅沢な一皿。

サザエと似た大型の巻貝・夜行貝を使った「蒸し夜行貝 肝ソース」。濃厚で滑かな肝のソースの隠し味は島唐辛子。赤トサカのピクルスとカレーリーフとともに。

玉ねぎ、ショウガ、トマト、ココナッツクリームに蟹の身をたっぷりと加えたカレースープ「スパイシークラブカレー」。

「GohGan山羊カレー」。南城市でハーブを飼料にして山羊を飼育する『株式会社大地』のハーブ山羊を使用。ビリヤニとともに。

「山羊カレー」は、お代わりもどうぞ、というスタイル。あらゆる意味で枠や型に収まらないのが『GohGan』のスタイル。

ダイニングアウト琉球うるま皿の上だけでなく、場が担う役割を過去から、未来へ。

ディナーの中盤に、ライトアップされた勝連城跡を舞台に現代版組踊「肝高の阿麻和利(あまわり)」が披露されました。演者は、地元の中高生たちです。
勝連城が海外交流で最も盛んだった今から約560年前の昔、その時代を創り上げた一人の英雄「阿麻和利」。勝連城の繁栄に大きな役割を担った10代目城主「阿麻和利がここ勝連城で見た景色と異文化との交流」という今回の『DINING OUT』のテーマを体現する演目でした。「肝高」の精神性が現代まで継承され、溌溂と歌と舞いを披露する姿に、惜しみない拍手が贈られます。

デザートまでサプライズは続きます。豆花やタピオカを浮かべたパイナップルのスープ、フレッシュのアテモヤを使った「陰と陽」、2皿のデザートを手掛けたのは台湾で活躍する日本人パティシエ・平塚牧人氏。スペインの『カンロカ』、シンガポールの『アンドレ』などの名店を経て、現在、台中のグランメゾン『ル・ムー』のシェフパティシエを務める平塚シェフは、2017年以来、『GohGan』のポップアップでデザートを担当していて、この日も沖縄に駆けつけてくれたのです。さらに、平塚シェフからとっておきのデザートが。
「『GohGan』ポップアップの最後の日は、新たな船出に向けてガガンシェフと福山シェフの結婚式を」と、「G」の文字をかたどったウェデイングケーキを用意してくれたのです。ケーキの前に並び、ファーストバイトを促す福山シェフを交わし、一人、先につまみ食いをするガガンシェフ。漫画のようなやりとりまで、阿吽の呼吸。2人のシェフの表情にも、安堵と達成感が見て取れます。

長くポップアップユニットとして活動してきたけれど、『DINING OUT』という舞台は「容易なものではなかった」。二夜を振り返り、2人のシェフは口をそろえます。「だからこそやってみたかった。その結果、得たものは大きい」と、ガガンシェフ。
「この7年で90回も日本に来ているけれど、沖縄は日本の他の地域とはまったく文化が違う。食材でいえば、良質なハーブやスパイスがたくさんあり、とりわけカレーリーフや唐辛子は素晴らしく、今回の料理の重要な素材となった。山羊の味も素晴らしく、本気でタイで飼育したいと考えたほど。山羊のカレーだけは、他のスタッフには触らせず、一人でつくりました。ここで生まれた料理、沖縄のスタッフと働いて得たものは、バンコクの店での、そして福岡に生まれる新しい『GoGan』での仕事に、必ず繋がっていくと思います」

福山シェフは「最後のポップアップ『GohGan』ということで、寂しい気持ちになったりするのかな、と思ったけれど、ガガンとの仕事は最後までただ、ただハッピーでした」と、清々しい表情で話します。
「最初は僕とガガン含め、4、5人で始めた『GohGan』が、沖縄のスタッフ、『DINING OUT』スタッフや関係者の方々、200人ものチームで一丸となれた。まずはこのことに感無量です。いつもはぱっと現場に入り、すぐ本番、ということが多いのですが(笑)、今回は、食材視察の時間も頂き、僕たちなりに感じて、2人で共有したストーリーをコースに盛り込むことができたんじゃないかなと。食材にしても、人の優しさにしても、沖縄から受けた刺激は大きく、アジアはだいたい回っているけれど、久しぶりにいいショックを与えてくれる土地でした。今回、サポートして下さった皆さんのためにも、これからも、沖縄と関わり続け、一緒に何かして行けたら、と思います」

地域の食材や食文化という価値を掘り起こす『DINING OUT』にとって、土地のどの素材を選び、どのような考えの下に調理をするかは、毎回、大きな課題となります。ですが今回、『GohGan』がこの二夜で叶えたものは、皿の上の表現にとどまりませんでした。国籍の異なる人々が集まり、泡盛の盃を交わして、食の場で、人種や国籍を超えた交流の場を共有すること。チーム・ガガンとチーム・福山に、地元沖縄のスタッフも加わった厨房スタッフも、実に国際色豊かな顔ぶれ。交易で栄え、異国の人々をもてなした、ありし日のように。勝連という土地が担った役割を、二夜に蘇らせたのです。

地元の中高生約50人により上演された、現代版組踊「肝高の阿麻和利」。一糸乱れぬパフォーマンスに拍手喝采。

中央に立つのが勝連城10代目城主「阿麻和利」。「気高さ、心の豊かさ」を意味する「肝高」の精神性が現代まで脈々と受け継がれている。

アジア諸国からのゲストを中心に外国人ゲストが多数来場した。厨房も客席も国際色豊か。

モネの『睡蓮』をイメージしたという「パイナップルのスープ」。スターパティシエ、平塚牧人シェフのデザートも会場を沸かせた。

沖縄産のトロピカルフルーツ・アテモヤを使った「陰と陽」。アテモヤの濃厚な甘さをシークワヮーサー果汁入りのアプリコットジャムが引き立てる。黒いパウダーは、チンスコウとホワイトチョコレート。

平塚シェフが用意した『GohGan』のウェディングケーキは、サーターアンダギー製クロカンブッシュ。

厨房、サービススタッフが揃ってゲストの前に。地元スタッフとの見事な連携にゲストから惜しみない拍手が。

ポップアップユニットとしての活動を終え、新しい目標に向けて動き出すガガンシェフと福山シェフ。

インド・コルカタ出身。2007年にバンコクへ移住し、その後レストランの料理長を務める一方、『エルブジ』で研修を積む。2010年に開いたレストラン『Gaggan』では、エグゼクティブシェフを務め、Progressive Indian Cuisine(進歩的インド料理)を打ち出す。世界的に注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurant」では4位を獲得。同年8月に新たなチャレンジに向けてお店をクローズし、11月に『Gaggan Anand』を拠点として再始動した。

1971年生まれ。福岡県出身。高校在学中、フレンチレストランの調理の研修を受け、料理人の道へ。1989年にフランス料理店『イル・ド・フランス』で働き始め、そこで研鑽を重ねた。その後、1995年からワインレストラン『マーキュリーカフェ』でシェフを務めた。2002年10月、福岡市西中洲に『La Maison de la Nature Goh』を開店。2016年には、九州で初めて「Asia's 50 Best Restaurants」に選出され、2019年には24位にランクインを果たした。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、テレビにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を受勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称)の称号も受勲。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。

http://www.dandy-nakamura.com/

岡山の「まち」に泊まり、その文化と空気を心身に染み渡らせる。[A&Aジョナサンハセガワ/岡山県岡山市]

岡山市の歴史文化ゾーンに現代美術アーティストと日本人建築家のコラボレーションによる宿泊施設を配置していくプロジェクト「A&A」。その第1弾となる2棟のうちのひとつ。(photo: Yoko Inoue)

A&A ジョナサンハセガワアートと建築が呼応し、相互作用して生まれた新たな存在。

世界に向けて開かれた瀬戸内の要衝であり、土地そのものにも深く長い歴史が息づいている岡山市。
そんな文化資源にあふれた地に、約20年もの歳月をかけて世界レベルの現代アート作家と建築家が協奏した宿泊施設を配置していく――そんな壮大な計画が、公益財団法人石川文化振興財団が進めるプロジェクト「A&A」です。
 
今回ご紹介するのは、その第1弾としてオープンした2軒のうちの1軒。アーティストとアーキテクト(建築家)の名を冠した『A&A ジョナサンハセガワ』です。
 
建物の世界観を演出するアーティストには、模倣という手法の中に創造性を見いだす作風で知られるジョナサン・モンク氏を。そして氏の「アートとは即ちアイデアそのものである」というポリシーと協奏するアーキテクト(建築家)には、ハーバード大学デザイン大学院・カルフォルニア大学ロサンゼルス校・メンドリジオ建築アカデミーの客員教授を歴任している長谷川 豪 (はせがわ ごう)氏が迎えられました。
 
2人のアーティストとアーキテクトの協奏が生み出した新たな「建築作品」の魅力を、たっぷりとお伝えします。

【関連記事】A&Aリアムフジ/アーティストとアーキテクト(建築家)の協奏がホテルを「作品」へと昇華。

1棟建てプライベートタイプの建物は、複合的な要素をはらみながら強烈な個性と存在感を放っている。(photo: Yoko Inoue)

A&A ジョナサンハセガワ岡山の「まちに泊まる」体験を経て、多くを知り、そして感じる。

『A&A ジョナサンハセガワ』のコンセプトは、岡山の「まち」を模倣して再解釈すること。その試みが、新たな「岡山のまち」の魅力を見つけ出せる空間となっています。
モンク氏の斬新な発想は、長谷川氏のハイレベルな技術と建築に見事に溶け込んで、相互作用を奏でつつ昇華。そうして織り成された構造の中でも目を惹くのは、全く異なる個性を持つ3つの空間がゆるやかに連携している点です。
 
天井が低く落ち着いた雰囲気が漂う寝室と、庭と一体化した縁側のようなエントランス。そして展望台のような爽快な高さと眺めを誇る浴室の3つのスペースが、異なる視座から岡山の街並みの存在感を際立たせ、街の隙間を駆け巡る光や風までをも体感させてくれます。
 
さらに美術館などの文化施設が集約し、「日本三大庭園」のひとつ『後楽園』を旭川越しに眺めることができるロケーションが、『A&Aジョナサンハセガワ』という建物をラグジュアリーな展望スポットとしています。

かつて敷地内にあった建物の形状を再現し、その間に新しい構造体を1つ挿入。全く異なる個性を持つ3つの空間を行き来することで、異なる視座から岡山市の街並みを鑑賞できる。(photo: Yoko Inoue)

個性的な浴室からは日本三大庭園のひとつである後楽園を旭川越しに眺めることができる。(photo: Yoko Inoue)

A&A ジョナサンハセガワプロジェクト「A&A」が広げる新たなムーブメント。

こうして『A&Aジョナサンハセガワ』は、単なるアーキテクト(建築家)の手を借りて立体化したアーティストの芸術でもなく、単にアーティストのセンスを組み込んだアーキテクトの建築でもない、新たな「建築作品」として結実しました。
そんな稀有(けう)な存在が、今後も公益財団法人石川文化振興財団が進めるプロジェクト「A&A」によって続々と生み出されていく予定です。
 
アーティストとアーキテクトの協奏によって、新たな作品=宿泊施設を生み出す。さらに、そこにゆったりじっくり滞在してもらうことで、岡山の文化と風土にインスパイアされたコンセプトを肌で感じながら、岡山そのものの魅力に浸ってもらう――そんな幾重にも感動を生み出す体験が、プロジェクト「A&A」を機軸に広がっていきます。
 
芸術家によるアートであると同時に、建築家による建築でもあり、鑑賞対象としても、体験可能な施設としても成り立つ新たな存在。そんな特別な「空間」の創出に、今後も期待を隠せません。

「完全なオリジナル」を制作することはほぼ不可能であるという考えのもとに、一貫して「模倣」という手法を制作に取り入れてきたモンク氏のコンセプトを、見て、泊まって体感する。(photo: Yoko Inoue)

あまたの建築賞を受賞してきた長谷川氏の造形の妙に、時を忘れて浸ろう。(photo: Yoko Inoue)

住所:岡山市北区出石町1丁目6番7-1号 MAP
電話:086-206-2600 (A&Aフロントデスク)
チェックイン: 10:00 (最終チェックイン:17:00) 
チェックアウト: 12:00 
宿泊者数:最大4名(1棟)
料金:97,500円~(税サ込)
https://a-and-a.org/jonathan-hasegawa/
写真提供:公益財団法人石川文化振興財団

アーティストとアーキテクト(建築家)の協奏がホテルを「作品」へと昇華。[A&Aリアムフジ/岡山県岡山市]

約20年かけて、岡山市内に世界レベルの現代アート作家と日本人建築家のコラボレーションによる宿泊施設を散りばめていく計画。その先陣をきる2軒のうちの1軒。(©MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO)

A&Aリアムフジ豊かな空間体験を通して芸術への理解を深める。

近年、日本各地に増えつつある土地ごとの歴史や文化を映しとったホテル。それを現代美術アーティストとアーキテクト(建築家)の協奏によって、さらにハイグレードな「作品」へと昇華した存在が、ここ岡山に誕生しました。

その名は『A&Aリアムフジ』。
岡山の芸術文化の振興と地域活性化を目指すプロジェクト「A&A」の第1弾で、グローバル戦略ブランド『koe (コエ)』などを展開する株式会社ストライプインターナショナルの代表取締役であり、『公益財団法人石川文化振興財団』の理事長でもある石川康晴氏がプロデュース。さらにディレクターにギャラリストの那須太郎氏、アドバイザーに建築家の青木淳氏を迎え、宿泊をアートとして体験してもらうことを目指しています。

アート作品として創られた宿泊施設に滞在し、その空間ごと「体験」してもらうことで、芸術への理解を深めながら岡山市を“滞在型都市”へと発展させていくことが目標。(©MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO)

贅沢な1棟建ての内部に座せば、アーティストとアーキテクトの想いと、岡山という土地が放つ空気感までをも体感できる。(©MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO)

A&Aリアムフジ土地・アーティスト・アーキテクトが織り成す新たな形の「建築」。

『A&A リアムフジ』を担当したのは、NYを拠点とするアーティストのリアム・ギリック氏と、日本の建築設計事務所『MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO』。
構造は主要なマテリアルとして用いた岡山産の巨大なヒノキ集成材「CLT」。これを田の字に組んで、構造フレームとしています。さらに「田」の字を微妙にずらしながら三段積み上げることで、立体的かつ複雑な経路網が折り畳まれた「迷いの空間体」を生み出しています。

この独特かつ様々な想像をもたらす建築家による構造は、グローバリゼーションやネオリベラルの合意性を枠組みとした場合の、抽象化と建築の視点におけるモダニズムの遺産の機能不全な側面を明るみにする、ギリック氏の精神性と共鳴するものです。

ギリック氏の創造の出発点は、地球温暖化の研究家としてあまたの功績を残した気象学者・真鍋淑郎(まなべしゅくろう)氏が導き出した気象学的方程式ですが、ともすれば政治的な議論の対象になりがちなこの問題を、純粋な科学的分析によって理解を促し続けた真鍋氏の活動に敬意を表して、『A&Aリアムフジ』という「作品」を氏へのオマージュとしています。

そしてアーキテクト(建築家)たる『MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO』の原田真宏(はらだ・まさひろ)氏と原田麻魚(はらだ・まお)氏は、こうしたギリック氏の想いを「社会の確信(盲信)を揺らがせ、再思考させる“迷い”のトリガー」と解釈し、建築デザインで受けとめました。

こうして生まれたシンプルでありながらも立体的で複雑な空間は、ほぼ全ての建築デザインが国内外の賞を受賞している『MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO』ならではの、「思想の立体化」とも言うべき快挙となっています。

アーティストによる芸術であると同時に、建築家による建築でもある「作品」。そして鑑賞対象としても、体験可能な機能としても成立している。(©MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO)

アートや彫刻を創り、並べるように、岡山市内に「A&A」の宿泊施設を点在させていく。(©MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO)

滔々アーキテクトとアーティストがつくり出した迷いの中で思索する。

「A&Aリアムフジ」の建築は、建築家とアーティストが互いのプロフェッショナルな領域を尊重しながらも、「パラレルプレイ(発達心理学で言う「平行遊び」)」的な手法によって立体化することを目指しています。それがさらに岡山という土地が持つ歴史的・文化的な文脈やグローバルな諸問題からのインスピレーションを得ることで、滞在する人々は多くの要素から構築された空間で「迷いながら思索する」という特別な時間を楽しむことができます。

岡山市は世界に通じる瀬戸内の玄関口であり、新進気鋭の芸術祭・『岡山芸術交流』の舞台でもあります。さらに日本の近代建築に多くの影響を与えた前川國男氏の設計による岡山県庁を擁(よう)し、“アートの島”として世界的な注目を集めている直島をはじめとする瀬戸内の島々にも近いなど、国内でもまれに見る文化資源に恵まれた地となっています。

そんな岡山市に滞在して、その魅力を深く知ることで、さらなる気づきと感動を広げていく――そんな新たなムーブメントが、この『A&A リアムフジ』とプロジェクト「A&A」を軸に生み出されようとしています。

「街の中に置かれたアート」としての宿泊施設が、その意味を問いながら「岡山」と共振していく(左:©MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO)(右:©Yoko Inoue)

住所:岡山市北区天神町9番2-1号 MAP
電話:086-206-2600(A&Aフロントデスク)
チェックイン: 10:00 (最終チェックイン:17:00) 
チェックアウト: 12:00 
宿泊者数:最大4名(1棟)
料金:95,700円~(税サ込)
https://a-and-a.org/liam-fuji/
写真提供:公益財団法人石川文化振興財団

耕作放棄地で放牧豚、廃校で国産生ハム。“できっこない”を美味しく実現する、津軽のじょっぱり親子。[TSUGARU Le Bon Marché・おおわに自然村/青森県南津軽郡]

廃校となった小学校の建物で生ハムの製造を行う三浦家。父の三浦浩氏(中央)、隆史氏(左)、その弟・石澤輝氏。

津軽ボンマルシェ山あいの元・りんご園の地に、豚が走り回り、子どもたちが集う。

以前「津軽ボンマルシェ」で紹介した鯵ヶ沢『長谷川自然牧場』は、豚や鶏がのびのびと過ごす姿が印象的な牧場でした。「人間も動物も自然体で過ごすのが一番」。牧場主の長谷川夫妻のそんな考え方に感銘を受け、夫妻の元で養豚を学んでから、南津軽郡大鰐町で養豚を行う若者がいます。津軽随一の温泉郷としても知られる大鰐町の中心地から、車で10分以上離れた森の中。出迎えてくれた『おおわに自然村』の三浦隆史氏は、物腰柔らかな好青年でした。現在20頭ほどの豚を飼育し、食肉用に出荷しているこちらの牧場では、約7ヘクタールという広大な敷地の一部を豚の放牧場に。太陽の下自由に走り回る豚たちは、森のどんぐりや栗、敷地内に植えられたプルーンなどの果実を食べ、泥遊びをしながら過ごします(※)。通常は6ヵ月ほどの飼育を経て出荷されるところ、ここでは8〜10ヵ月をかけてゆっくり飼育。上品なサシが入った「レトロポーク」として評判を得ています。

牧場になる前は、4、5年ほど放置されていた元・観光りんご園だったというこの場所。隆史氏の案内で敷地をぐるりと巡ると、津軽の豊かな自然を感じることができます。栗やプルーンの他にさくらんぼやクルミの樹があり、高台からは津軽のシンボル・岩木山を一望。池に繋がる水路にはニホンザリガニやホタル、珍しいイトトンボなどが生息します。「当初は養豚が目的でみつけた土地でしたが、この自然をそのまま生かそうということになって。地域の子どもたちを受け入れ、体験学習の場にもしています」と隆史氏。子どもたちの笑い声が響くここ「おおわに自然村」は、単なる養豚施設にとどまらないさまざまな側面を持っているようです。

弘前市の住宅街にある銀行員の家庭に生まれ育った隆史氏。農業に興味を持ったきっかけは、シュミレーションゲームの「牧場物語」! 北海道・江別にある酪農短大に進学して酪農を学び、卒業後は養豚の道を目指し『長谷川自然牧場』などで研修、『おおわに自然村』を立ち上げたのは2007年のことでした。「ここ『おおわに自然村』には母体となる会社があります。それが『(有)エコ・ネット』。いわゆる産業廃棄物の収集運搬業者です」と隆史氏。意外にも思える廃棄物と養豚の関係とは? 種明かしは、豚たちの食べている餌にありました。
※2020年現在、感染症予防のため、放牧を一時的に見合わせています。

のどかな里山の風景が広がる、南津軽郡大鰐町。こんな景色を横目に細い山道を上ると、目指す『おおわに自然村』がある。

遠くに見えるハウスが、外気を取り込む開放型豚舎。一昨年の豪雪の影響で一部が破損し現在飼育頭数は少ないが、ゆくゆくは300頭前後の豚の飼育を目指す。

放牧中以外は豚舎で過ごす豚たち。大学で乳牛の飼育も学んだ隆史氏は、「いつかは牛も飼ってみたい」と話す。

豚の放牧場は、切り株を掘り返すところから開墾。「春になると、敷地内はカエルの声だらけ。冬に雪が2メートル近く積もれば本当の無音になる。不思議な感覚になれる場所です」と隆史氏。

津軽ボンマルシェ廃棄物は宝物? 捨てられるものから、とびきりの美味しさが生まれる。

豚舎脇に停められた軽トラの荷台のビニールシートを隆史氏が外すと、豚たちがにわかに騒ぎ出します。「食べさせろって鳴いてますね(笑)」と隆史氏。荷台に積まれていたのは、規格外のりんごチップス、パン、ケーキのほか、廃棄される弁当やおから、ご飯、麩、野菜くずなどを混ぜた“エコ・フィード”と呼ばれる餌。どれも人間の食品残さ、つまり廃棄物として回収されたものばかり。豚たちは放牧で食べる草や木の実以外に、1日1回、これらの餌を与えられています。「ただ食品残さを与えるのではなく、栄養価を考えて作られた餌を与え、なるべくストレスをかけずにゆっくり育てることで、キメ細やかな脂が乗って美味しくなるんです」と隆史氏。原料の調達と製造は、経営母体である産廃業者『(有)エコ・ネット』が担当。隆史氏の父・三浦浩氏が代表を務める会社です。

実は『おおわに自然村』がスタートする前から、エコ・フィードの生産を行っていた『エコ・ネット』。隆史氏が養豚を始めたのも、「自社の餌を使えば、ちょうどいい」という浩氏の強い勧めがあってのことでした。しかし先ほど書いたように、隆史氏の実家は銀行員の家庭だったはず。銀行員から産廃業者へ―。食品残さと豚の繋がりには、浩氏の並々ならぬ情熱と行動力が秘められていました。

「元々は、こんなことやるつもりじゃなかったんですよ」。なぜ産廃業者へ転身したのか質問すると、浩氏はそう言って続けました。「今の日本は経済最優先。中央ばかりがどんどん豊かになり、地方の産業がないがしろにされている。おかしな話です」。信用金庫の職員として、地域の中小企業を担当していた浩氏。時代の流れとともに、これまで津軽の経済を支えてきた末端の個人商店がどんどんなくなっていくのを目の当たりにしたといいます。「パーティや会合をすれば、余った食べものや飲みものが捨てられる。山ほどですよ? そのゴミはどうなっているのか。何かおかしい、そう気づいたのが20年以上前のことです」。まだリサイクル法が制定される前、“ダイオキシン”などの単語も一般的ではない時代でした。

地域の企業から回収される食品残さの中には、美味しそうなケーキやパンも。育ち盛りの仔豚には、こうした炭水化物を多めに与えるそう。

エコ・フィードの臭いを嗅ぎ、「香りで『あ、今日はあの弁当が入ってるな』とか分かるんです(笑)」と隆史氏。「長谷川自然牧場」同様、餌には消臭効果や整腸作用のある燻炭が混ぜられる。

牧場のペット、馬のハナと羊のアキ。2頭は大の仲良し。「おおわに自然村では」、このように子どもたちが動物と触れ合える機会を作っている。

放牧場へ向かう豚たち。放牧場が大のお気に入りで、一度放すとなかなか豚舎に戻らないそう。放牧することで豚が土を耕し、糞が養分となり、土壌の質も改良される。(写真:おおわに自然村提供)

津軽ボンマルシェ津軽初の生ハム工房誕生! 地方の小さな廃校が、注目のスポットに。

生ゴミを、飼料や堆肥を製造するための資源に活用できないか。そんな考えから銀行を退職し『エコ・ネット』を創業した浩氏でしたが、当初、周囲の農家からの反応は冷ややかだったといいます。「使ってくれる農家もいなくて、ひとりだけ浮いてるような状況。でも輸入飼料や化学肥料に頼る他力本願な農業からは自立しないと、日本はだめになると考えていました。そんな時、息子が大学を出て帰ってきたから『お前、豚やれ』って。成功するかは分からない、綱渡りですよ(笑)。それでも食品残さと農業には、無限の可能性があると確信していました」と浩氏。

食品廃棄物をリサイクルして豚を肥育、精肉・販売するところまで駒を進めた三浦親子でしたが、新たな課題も出てきました。苦労して作った肉の価格は低く、ウデ肉やモモ肉などレストランで提供しづらい部位が売れ残るのです。そこで考えたのが、豚肉の6次産業化。「でも、小規模生産者がメーカーと勝負しても勝てるわけがない。そんなとき出会ったのが、東京でレストランを経営しながら、故郷の秋田で生ハムを作っている金子裕二さん。加工肉で秋田に産業を生み出したいという金子さんの考え方に共感し、何度も秋田に出向いて教えを乞いました。金子さんは僕の師匠なんです」と浩氏。『おおわに自然村』に設置したコンテナを熟成庫にして生ハム作りを始めたのが2010年のこと。まだ国産生ハムがほとんど出回っていない時代です。

さらに生ハム作りの大きな後押しとなったのは、それから5年後のこと。『おおわに自然村』から車で20分ほどの集落にある小学校が、過疎化により廃校となったのです。校舎は川沿いの高台にある木造建築。実はここ、生ハム作りにとってはこれ以上ないほどの好条件が揃った場所でした。「生ハムの熟成には風が必須ですが、ここは常に風が吹いています。夏場も教室内は涼しくエアコンいらず。しかも木は調湿効果があり、ちょうどいい湿度を保ってくれる。壊してしまえばゴミですが、これだけのものを新しく作ることはなかなかできません。それにここが残ることは、学校の歴史、たくさんの卒業生のルーツが残るということ。それこそお金で買えない、大切なものを残すことができるんです」と浩氏。

2016年、築50年以上の校舎は、青森県初となる生ハム工房として生まれ変わりました。職員室は肉の加工場と冷蔵室に、教室は生ハムの熟成庫に。製造量は年間300kgほど。毎年参加者を募集する「生ハム塾」では、自分で一から生ハムを作る体験もでき、人気を博しています。過疎の町に新たに生まれたユニークな名産品のニュースは、地域を明るく照らしました。現在、生ハム製造を担うのは、浩氏の三男で隆史氏の弟・石澤輝氏。三浦家のタッグも、ますます強固なものになっています。

1995年に閉校した「大鰐第三小学校」校舎。診療所として利用された後、21年間使われていなかった学び舎が、再び動き出した。

ずらりと生ハムの“原木”が吊り下げられた光景は圧巻! 教室内には芳しい香りが充満する。生ハムは2~3年の熟成期間を経てから出荷。

「廃校は宝物」と語る浩氏。校舎に使われた木材は、地元で切り出されたブナやヒバ。「一度壊したら二度とできない贅沢な建物なんです」。

元職員室の部屋で、肉の加工を行う隆史氏。肉を部位ごとに解体していく力のいる作業。こうした解体作業も自社で行うのは『おおわに自然村』の強みだ。

津軽ボンマルシェ国が動かぬなら、まずは地域の民間から。循環のモデルケースを目指して。

『おおわに自然村』の生ハムは今、主に首都圏へ出荷しています。主な顧客はそうそうたる顔ぶれの有名ホテルの数々。カットしない“原木”の状態で販売し、1本4万円からと高価であるため、一定量をコンスタントに消費でき資本力もあるホテルが購入しやすいという理由もありますが、当初から地元ではなく県外を販売対象に考えてきた浩氏には、こんな考えもあります。「餌の原料である食品残さは近隣で回収して地域内で循環させるけど、生ハムは“外貨”を回収する手段。行政を待っていたらだめ。民間が力を付けて、地域を回していかないと。まずは一歩ずつできることを進める。それが大事です」。

こういった地道な活動は、徐々に地域の意識を変えつつあります。廃棄せざるを得ない食材を「捨てるくらいなら有効に使ってほしい」と提供を申し出る人々も増えてきました。生ハム工房には、さまざまな企業からの視察の申し込みが。近隣エリアの大手コンビニエンスストアの店長から、問い合わせが入ることもありました。「そういうときは、『まずは飲もう』とBBQに誘うんです」と浩氏。「豚肉や生ハムを、みんな美味しい美味しいと食べてくれる。企業や個人レベルでは、共感してもらえていることを実感します」。

浩氏が、廃棄される食品残さを活用することを思いついてから20数年。その想いは今、豚肉に姿を変え、生ハムとなり、さらにさまざまな形で広がりを見せています。たとえば堆肥は、地元の農家と障がい者就労施設と連携し、ねぎの生産に活用。ねぎは埼玉県のねぎ問屋へ卸し、全国のラーメンチェーン店で使用されます。より多くの人に農業を身近に感じてもらえるよう、平川市の温泉施設のリニューアルを手掛け、津軽の自然と農業を一緒に体験できる“農泊”も始めました。その躍進の力の源を聞くと、浩氏は満面の笑みとともに、茶目っ気たっぷりの津軽弁でこう言いました。「だって、わくわくするっきゃ? どきどきするっきゃ? やってきたことは、無謀な冒険ばかりだったかもしれない。でも人がやってないことをする方が、面白いじゃないですか」。

津軽人らしく、一本気で頑固な“じょっぱり”気質が見え隠れする父・浩氏のことを「なかなか厳しくて。大変ですよ(笑)」と評する息子・隆史氏。しかし「自分もやりたいことは色々あるんです。まずは『おおわに自然村』を法人化したい。現在工房長をしている弟は元料理人ですから、ゆくゆくは直営のレストランも作りたいですね」と語り、県内の畜産業界の生産者を集めた「あおもり畜産部」を立ち上げるなど、父に負けじと地域を牽引します。まだ見ぬ“わくわく”や“どきどき”をモチベーションに邁進する三浦家。きっとこれからも、私たちに新たな驚きを与えてくれることでしょう。

空調を付けず、窓の開け閉めで風量を調整しながら作る方法は、本場イタリアと同様。5年を目安に輸出する計画もあるそう。津軽産の生ハムが、海外で評判となる日も近いかも。

住所:青森県南津軽郡大鰐町長峰字駒木沢420-200 MAP
電話:0172-47-6567

住所:青森県南津軽郡大鰐町早瀬野小金沢48-2 MAP
電話:0172-26-8692

世界を知り、日本を見る。根源を学び、表現する。本物の「エスプリ」だけが永遠を手に入れる。[TEORI/岡山県倉敷市]

ロサンゼルスはベニスビーチのアボット・キニーにある『Tamotsu Yagi Design』のオフィスにてインタビュー。Photograph:TAKUMI YAGI

八木 保×テオリスティーブ・ジョブズとともに時代を駆け抜けた、ひとりの日本人デザイナー・八木 保。

八木 保氏は『アップル』創業者のスティーブ・ジョブズとともに仕事をした数少ない日本人のひとりであり、現在もアメリカ西海岸を拠点に活躍し続けているグラフィックデザイナーです。

1984年に渡米し、『エスプリ』のアートディレクターを務めました。カタログやパッケージ、ストアグラフィックデザインなどのビジュアルを手がけ、1991年に『Tamotsu Yagi Design』を設立。数々の名作を世に送り出しますが、特筆すべきは『アップルストア』のコンセプトモデルの基礎となった1号店のデザインを手がけたことです。ここでいうデザインとは、目に見える内装やグラフィックはもちろん、コンセプトやコミュニケーションなど、目には見えないストアの核となるデザインも指します。
そんな八木氏の周辺は、その審美眼により長年集積された「もの」がひとつの風景を生み出しています。アート、インテリア、雑貨、本……。その「もの」は様々ですが、全てに共通していることは、「本物」だということです。

「本物でなければ意味がありません」。

その一つひとつには、作り手の「エスプリ(=精神)」が宿り、それを理解できる人のもとへ時空を超えてやって来たようにも見えます。つまり、間違った人の手にさえ渡らなければ、本物の「エスプリ」は永遠に生き続けるのです。世界を舞台に戦い続けている八木氏には、日本はどう映っているのでしょうか? 八木氏が考える日本のクリエイティブとは何でしょうか? その答えを自身が愛用する「made in japan」のものとの向き合い方とともに、紐解いていきたいと思います。

『Tamotsu Yagi Design』のオフィスの中は、まるでギャラリー。テーブルは、ジャン・プルーヴェ。八木氏は、ジャン・プルーヴェの愛好家としても知られる。Photograph:TAKUMI YAGI

八木 保×テオリマテリアルが重要。それは環境や社会と向き合うことを意味し、世界のスタンダードな思考。

「デザイナーだからといってデザインだけ一流でも世界では通用しません。ものを生み出すということは、ルーツを知り、学ぶところから始まります。それがもしプロダクトであれば、そこには素材があり、当然、その背景もある。起源までたどり、理解し、どう社会とつながるのかまで考え抜いた上で創造しなければ、価値は生まれないと思います。デザインが良いのか悪いのかは、こうしたことを前提として次に考えることです」。
海外を拠点に活動する八木氏は、「世界では今、環境問題や社会問題への意識が非常に高い」と言います。これは決して日本が低いという意味ではなく、世界的にみて専門家の意識も一般の人たちの意識も高い傾向にあることを指しています。逆に言えば、そういう意識を持たないクリエイターは、世界では通用しないということです。そんな八木氏が愛用する「made in japan」のもののストーリーも素材から入ります。

それは「竹」です。

「竹素材のものは、古いものから現代のものまで、自宅やスタジオでも色々と使っています。中でも岡山県倉敷市で生産されている『TEORI』は、自社で竹林を持ち、伐採から採取、加工まで、一貫して行っている自然環境と向き合ったブランドです。僕が使っている“BON”は、その名のとおり、竹のお盆。柾目(まさめ)の美しさはもちろんですが、手で持ちやすくするために縁の一部にカッティングを施したデザインには、使い手に対する心遣いを感じます。日本人ならではの発想であり、細やかな配慮だと思います」。

国内でも『TEORI』のように竹の栽培から自社で行う所は少ないそうです。『TEORI』には、竹を扱うことについて3つの特徴があるといいます。
「ひとつ目は、“硬くて丈夫”だということ。曲げ圧縮強度に優れ、長さに対しての狂いもほぼありません。例えば、昔あった竹の定規というのは、まさにその好例です。ふたつ目は、“人体に優しい”こと。抗菌性、殺菌性、脱臭性に優れ、テルペンと呼ばれる芳香物質を含む竹にはリラックス効果もあるそうです。そして3つ目は、“環境に優しい素材”。竹は成長が早く持続的生産が可能です。地下茎と呼ばれる茎を地中に持つため、地上に出てきたものだけを伐採すれば、新たに造林する必要がありません。出来上がったものは老朽化しにくく、生涯家具として使うことができるでしょう」。

竹は、古くから籠や日本家屋の材料にも利用されてきた、日本人が慣れ親しんできた素材。竹の歴史をたどれば、縄文時代の遺跡からも竹を素材とした製品が出土しているほど、日本の文化や生活を育んできました。しかし、「竹は古典だけではなく、表現の仕方次第で可能性が広がる素材」だと八木氏は言います。その例として、「’40年代、あるひとりの人物によって竹の可能性は開化し、創造されました」と言葉を続けます。その人物とは、フランス人の建築家兼デザイナーのシャルロット・ペリアンです。

愛用している『TEORI』のトレイ。「ガラスやステンレスのテーブルには、直接ものを置くよりも何かひとつ間に挟みたい。そうすることで、“見切り”の世界が生まれます」。

竹編みが美しい籠。「本来は、梅を干すための籠ですが、自分は大切なものを入れたりしています」。

「長い間愛用している押し寿司の樽です。下の部分の竹で締めた所が力強く美しいです」。

制作年代は不明の民具。「農家の人の金継ぎとは全く違う手法で修復されています。竹で締めつけ、リサイクルされた器です」。

八木 保×テオリシャルロット・ペリアンと日本の関係は、日本を世界に価値化する好例なのかもしれない。

シャルロット・ペリアンは、世界的に有名な建築家、ル・コルビュジエに師事した建築家兼デザイナーです。そのペリアンと日本にはどんな関係があったのでしょうか。
「1940年、シャルロット・ペリアンは、日本でデザインの指導にあたり、商工省(戦後に通商産業省に改組)から招聘を受けています。それが実現できたことは、同じくル・コルビュジエのアトリエで机を並べた日本人建築家・坂倉準三さんからの誘いであったことと、坂倉さんへの絶大な信頼があったからだと思います」。

当時、坂倉準三氏は神戸でシャルロット・ペリアンを出迎えたといわれており、そういったエピソードからもふたりの強い絆を感じます。奇しくも八木氏は神戸出身。偶然なのでしょうか、それとも必然なのでしょうか。
「シャルロット・ペリアンは、日本のデザインを知る上で、工芸を視察するために地方を精力的に回ります。その案内人は、柳 宗理さんでした。畳、障子、襖……。木、和紙、鋳物(いもの)……。様々な日本の文化や歴史、素材に影響を受ける中、そのひとつに竹もあったのです。竹を曲げる手法、“竹の砂糖ばさみ”と出合い、名作“シェーズ・ロング(寝椅子)”を竹で作るという発想を得たといわれています。民芸なども、それはそれで日本の文化としては良いと思いますが、日本が世界と肩を並べていくには、もう少し工夫も必要なのではないでしょうか。世界のシャルロット・ペリアンが日本の竹を認めたように、日本にはまだまだ知られていない資産価値があるのですから」。

そして、もうひとつ。シャルロット・ペリアンは、日本のあるものから発想を得て、名作を生み出しています。
「シャルロット・ペリアンが日本を巡る中、彼女に多大な影響を与えたものが他にもあります。それは、『修学院離宮』の“霞棚”です。名作、“ニュアージュ”や“クラウド”という互い違いの壁棚のデザインの原点は、この“霞棚”なのです」。

このストレージが生まれた場所は、シャルロット・ペリアンが’50年代に協働を始めたジャン・プルーヴェのアトリエだといわれています。ジャン・プルーヴェとシャルロット・ペリアンのコレクターとして知られる八木氏とここでもつながります。
「ちなみに、坂倉準三さんもまた、座面に竹を用いた椅子を発表しています。世界的に有名な建築家、ル・コルビュジエに師事したシャルロット・ペリアンと坂倉準三さんのふたりが愛するほど、日本の竹は魅力的なのです」と八木氏は言います。

そんなシャルロット・ペリアンは、2019年で没後20年になります。
「それを記念し、パリの『フォンダシオンルイ・ヴィトン』でシャルロット・ペリアンの回顧展(2020年2月24日まで)が開催されています。その内容はもちろんですが、ある1冊の本も注目を浴びています。それは、『Living with Charlotte Perriand』です。シャルロット・ペリアンが歩んできた人生をはじめ、そのオリジナルの家具と暮らすインテリアの写真や歴史などが集められ、世界中のシャルロット・ペリアンのコレクターから人気を博しています」。
八木氏所有のシャルロット・ペリアンの家具もまた、この本に紹介されており、ジャン・プルーヴェ同様、その愛好ぶりがうかがえます。日本の竹ブランド『TEORI』と日本の竹を愛したシャルロット・ペリアン、両者のインテリアに着眼する視点こそ、八木氏の感性なのです。

八木氏のオフィスの一角。ストレージは、シャルロット・ペリアン。棚に飾られているフラワーベースは、世界的に活躍する陶芸家、アダム・シルバーマンのもの。

ガラスとの相性も良い『TEORI』のトレイ。手で持ちやすいよう、縁にカッティングも施されている。テーブルと椅子は、ジャン・プルーヴェ。

SKIRA PARIS社より出版された『Living with Charlotte Perriand』。表紙のデザインには、先述した棚をモチーフにしたストレージを採用。誌面には、竹のシェーズ・ロングも紹介されている。

『Living with Charlotte Perriand』の中には、八木氏所有のシャルロット・ペリアンの家具も掲載されている。

八木 保×テオリ「made in japan」と「自然素材」。このふたつだけは、絶対にこだわりたいと思った。

2018年、八木氏は日本で新たなプロジェクトを遂行していました。それは、「made in japan」のベッドのデザインです。寝具を担うのは、180年以上の歴史を持つ京都の『IWATA』。フレームを担うのは、八木氏が愛用する「BON」のブランド、倉敷の『TEORI』です。いずれもその道のパイオニア的存在です。
「寝具も素材もデザインも、違う国同士を掛け合わせると不具合が起きます。例えば、竹を使用したプロダクトには中国産も多いですが、日本のものには日本のものを合わせたかった。もちろん品質も良い。耐久性においても日本の竹が一番優れていると思います。僕は“made in japan”にこだわりたかった」と、八木氏は話します。そして、「このプロジェクトのもうひとつの大きなポイント、それは“自然素材”にこだわることです」と続けます。

ほぼ全ての工程に自ら目を通す八木氏は、ロサンゼルス、京都、岡山を行き来する日々。フレームやパーツの試作、サスペンションやテンションの調整、きしみの有無、寝具との組み合わせ、マットレスのクッション性などを綿密にチェックします。マットレスに腰かけ、実際に寝てみて「『IWATA』のマットレスのクッション性、寝心地は抜群です」と言う八木氏。
なぜ抜群なのでしょうか。それは技術だけではなく研究にあります。
「マットレスの素材は、羽毛、麻、キャメル、ヤクなど、高品質な天然素材を中心に再利用・再資源化が可能なものを使用しています。いずれも自然に戻すことのできるものを選んでいるのです」と、八木氏は『IWATA』の環境への取り組みを話します。

更に、八木氏が「ぜひ、寝てみてください!」と勧めるのは、チンパンジーのベッドをヒントに作られた、人類進化ベッドです。
チンパンジーの平均寿命は40~50歳だといわれており、ほぼ毎日寝床を変えるそうです。そうなると、一生のうちに1万個以上ベッドを作ることになります。つまり、ベッドを作るプロフェッショナルであり、眠るプロフェッショナル。寝心地には「人」一倍もとい、「猿」一倍こだわるのがチンパンジーなのです。そのチンパンジーのベッドをもとに生まれたのが、この「人類進化ベッド」なのです。
「これはほんの一例にすぎません。『IWATA』のベッドは、睡眠科学を軸にした研究と開発があるからこそ、快適な眠りを提供できるのです」と八木氏は話します。

このベッドは、2020年夏に開業する東京は青山の『青山ベルコモンズ』跡地に建つ『AOYAMA GRAND HALL』の上層階に位置するホテル『AOYAMA GRAND HOTEL』にも採用される予定です。

サンプルを確認するため、京都の『IWATA』にてフレームと寝具の組み合わせをチェック。

ベッドを支える際にきしみや音が出ないか、サスペンションの調子も細かく確認。

環境への配慮のため、マットレスには高品質な天然素材を再利用し、再資源化が可能なものを使用。

ベッドのモデル名は「KAGUYA」。「made in japan」の高いクオリティが集結して制作された。

『TEORI』、『IWATA』、そして『Tamotsu Yagi Design』が一堂に会す。「プロジェクトはひとりでは成り立たない。特に日本が海外に向けて発信する場合は、その土地の人たちを“involve(巻き込む)”することが必要」と八木氏。

八木 保×テオリ八木 保が考える、「ジャパンクリエイティブ」とは。

「日本も然り、世界中のそれぞれの国や地域には歴史があり文化があります。新しいものやことを生み出すにしても、古きを知ることから始めなければいけないと思っています。直感的にもの作りをするのもいいですが、そこには説得力はない。形としても言葉としても、確固たる背景と物語がないと、そこには“本物のエスプリ”は宿らない。本物にこそ豊かさがあるのです」。
デザインに例えるならば、見える部分のパッケージに気を遣うことよりも、見えない部分のコンセプトの方が重要。全てをデザインしてこそ、グラフィックデザイナー。そして、全てをデザインするということは、全てを理解することでもあります。物事を行き止まりまで探求し、原点を学び、意味を知ることが大切なのです。同じグラフィックデザイナーでいえば、「田中一光さんや亀倉雄策さんは、それを成し得てきた方々だと思います」と話します。

「自分がグラフィックデザイナーを目指したきっかけは、『パンアメリカン航空』(通称「パンナム」)のロゴデザインを見た時でした。たったひとつのデザインだけでこんなにも行動意欲がかき立てられ、高揚感が溢れ出る。その感動を得た時に、こんな造形のグラフィックデザインをやってみたいと思ったのです。日本では、『浜野商品研究所』でデザインをしていました。その時に『エスプリ』のオーナーが来日し、日本人デザイナーを探していたのです。当時、倉俣史朗さんが手がける大きなプロジェクトがあって、そのためのプロジェクトメンバーでした。倉俣さんがいなければ、僕は渡米していなかったかもしれません。そのご縁があってアメリカを拠点にデザインをすることになり、後に『エスプリ』のアートディレクターを務めさせて頂きました。『エスプリ』は、とても大きな会社だったので、カタログを刷るだけでも“ワンミリオン”の世界。当然、その分だけ紙の原料となる木を伐採する行為も生まれてしまいます。創業者のダグラス・トンプキンスは、木を伐ってまでビジネスをすることに疑問を抱き、『エスプリ』を去ってしまいました。ダグラスは、もともと『ノースフェイス』を設立した人物なので、自然環境に対しての感度や問題意識が人一倍高かったのも手伝ったと思います。僕も同時期に『エスプリ』を辞め、日本に帰ろうと思いましたが、日本は色々な意味で社会が変わっていました。僕が生きる場所はそこになく、アメリカに残ってグラフィックデザイナーとして生きていくという選択をしました」と八木氏は振り返ります。

倉俣史朗氏やダグラス・トンプキンスとの出会いは、八木氏の人生に大きな影響を与えたことなのかもしれません。それはグラフィックデザイナーとしてはもちろん、人としての生き方そのものに対してといっても過言ではありません。
「デザイナーとしての生き方は、人としての生き方と同じ。人を敬う気持ちや誠意は、自ずとデザインにも反映されてきます。根源をたどることもその延長。先人たちの精神、文化、歴史に敬意を払うことは当然の行為。根源こそ創造のオリジンだと思います」。

八木氏の考える「ジャパンクリエイティブ」とは、「根源」。

永遠に値する本物、それを創造する原点が「根源」にあるのです。

1949年兵庫県神戸市生まれ。『浜野商品研究所』を経て、1984年に渡米。『エスプリ』のアートディレクターを務め、広告やカタログ、パッケージ、プロダクト、ストアサインなどのビジュアルコミュニケーションで世界的な評価を獲得する。1991年、サンフランシスコに『Tamotsu Yagi Design』を設立し、現在は、ロサンゼルスはベニスビーチのアボット・キニーに拠点を構える。受賞作は、1994年にクリオアワードに輝いた『ベネトン』の香水「TRIBÙ(トリブ)」など、多数。1995年には、アメリカ政府より芸術分野で活躍したアジア人に贈られる貢献賞を受ける。主なデザインに、『アップルストア』のコンセプトデザインのコンサルタント、『グランドハイアット東京』のデザインディレクション、『マル二木工』の「nextmaruni」チェアなど。近年ではナパバレーで生産されている『KENZO ESTATE』のワインラベルデザイン、「JAPAN HOUSE Los Angeles」のクリエイティブディレクションを担当。また、環境保護団体へのデザイン提供などを中心に各種ボランティア活動も積極的に行う。現在も世界中で様々なプロジェクトを展開中。近著に『八木保の選択眼』(APP)など、著書多数。ジャン・プルーヴェの家具の収集家としても世界的に知られている。http://www.yagidesign.com

南国のビーチリゾートで、南十字星が輝く夜空に出会えるグランピング体験![フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズ/沖縄県石垣市]

全長約1kmの天然ビーチの間近で、世界屈指の美しさと評される星空に酔う。

フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズ真冬でも温暖な南国で、この時季しか出会えない幻想的な星座を眺める。

真っ白なビーチ、どこまでも続くエメラルドグリーンの海、夜空に輝く満天の星々――そんな夏のレジャーと思われがちなビーチリゾートを、真冬でも楽しめるスポットがあります。
石垣島に広がる『フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズ』。ここで2020年3月12日まで、1日3組だけの「グランピング」プランが催されています。

石垣島を含む八重山諸島は、日本で唯一 南十字星が見られるエリア。そんなスターウォッチングのメッカでも1月~6月にしか現れない幻想的な星座は、一生の想い出となること間違いなし!
さらに「グラマラス(魅惑的な)」×「キャンピング」の掛け合わせである「グランピング」は、アウトドアの不便さを解消した充実の設備と、隅々まで行き届いたサービスの数々で、快適かつ極上の滞在を約束してくれます。

アウトドア×ビーチリゾートの両方を楽しめる欲張りプラン。

88ある星座のうち、84の星座を見ることができる石垣島の星空

広々としたベル型テントの中には、ソファ・スツール・ダイニングテーブルなどの家具を完備。冬でも温暖な南国で心ゆくまでくつろげる(ベッドは無し)。

宿泊はホテルの離れを思わせるコテージで。アウトドアに寄りすぎないリゾートステイがうれしい。

フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズゴージャスに、快適に。ビーチリゾートならではのアウトドア体験。

このグランピングプランの舞台となる『フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズ』は、石垣島では数少ないグランピング施設を備えたリゾート施設です。そこで叶えられるのは、すぐそばに広がる天然ビーチでの遊泳やアクティビティ、その広大なビーチを散策しながらのスターウォッチング、ラグジュアリーなグランピング・テントでくつろぐ至福のひととき、充実の沖縄食材によるゴージャスなBBQなど、優雅で快適な体験ばかりです。

さらに宿泊は、異国情緒あふれる琉球赤瓦のコテージをご用意。テント泊が苦手な方でも、アウトドアを楽しんだ上で存分にくつろげます。

そして敷地内には、地元のハーブガーデンとのコラボレーションによるオリジナル商品や、石垣島のクリエイター達の作品などを取り揃えたショップもあり。3月1日からはビーチの至近に位置する石垣島最大級のプールエリアもオープン。プールには入れない2月までも、好天の日はプールサイドでの日光浴が楽しめます。

2月や3月でも、天気が良ければ日中は半袖で過ごせる。冬なのに夏気分になれるビーチリゾート。

南国らしいサンセットに包まれる夕刻。心ほどける過ごし方を探ろう。

専用のファイヤーピット(焚き火台)による豪快なBBQディナー。

フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズ島の食文化をBBQで味わう。

そして石垣島ならではのグルメも、もちろん充実。夕食はグランピング・テントの側で味わう、専用グリルによる野趣あふれるBBQ ディナーです。TボーンまたはLボーンステーキをメインに、島豚ソーセージ、島魚の野草包みホイル焼き、紅芋冷製スープなどなど、厳選された食材による石垣島の食文化を満喫できます。

そして面倒な準備と後片付けは、至れり尽くせりのスタッフにおまかせ。「焼く」「食べる」というBBQの醍醐味だけを味わい尽くしましょう。スタッフに焼き方のコツを教わりながら自ら仕上げるディナーは、アウトドアでありながらも優雅でラグジュアリーな気分に浸れます。

※雨天時はホテル内のブッフェレストラン「ISHIGAKI BOLD KITCHEN」にて、シェフが調理するBBQ メニューと通常のブッフェメニューを提供。

夜は焚き火を囲んで語らいのひとときを。天上の星明りとのコントラストが美しい。

ホテル内のブッフェレストラン「ISHIGAKI BOLD KITCHEN」で供される朝食のブッフェメニュー。

フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズリゾートブッフェの朝食は、アーリーモーニングからブランチまで対応。

南十字星が輝く一夜が明けての朝食は、約100種類のメニューからなる豪華なブッフェスタイルとなります。
こちらも八重山そばやソーキの煮込み、ゆし豆腐などの島食材を織り交ぜつつ、世界の料理や南国フルーツなどをバラエティ豊かに取り揃えています。アウトドアから一転、南国リゾートらしいゴージャスな目覚めに浸りながら、体と心が求める栄養をチョイスしましょう。

そんなメニューの自由度に加えて、6:30~10:45(最終入店10:00)というブッフェタイムにも思いやりが。余裕あるステイにも、忙しい旅立ちにも十分に配慮されています。

早朝の人気(ひとけ)のないビーチを歩けば、体ごと島の空気に溶け込むような感覚に。

石垣島の西に位置し、市街地や川平湾などまでもほどよい距離。

フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズ春以降のプランにも注目! シーズンごとに新たな喜びが待つ。

グランピングプランが終了する3月12日以降も、『フサキビーチリゾート ホテル&ヴィラズ』は新たなプランを続々と企画しています。

直近の「リトリートYOGA」プランは、体と心のウェルネスに着目。“デトックス”や“良質な眠り”などをテーマに、南インドの伝統的なヨガスタイルを伝えるkSaNa(クシャナヨガ)とタイアップして、日常から開放された風景の中で心身のバランスを整えるヨガを学べます。

さらに5月には、インドアプール・スパ・ジム・大浴場・琉球中華レストランなどを備えた「エイトスターズヴィレッジ」がオープン。石垣島の気候とロケーションを生かしながら、より快適に、よりラグジュアリーに滞在できる極上のリゾート地として進化し続けます。

亜熱帯の大自然に包まれながら、身も心も満たされて、より豊かな人生へと導かれる滞在を。

【1日3組限定】石垣島で贅沢キャンプ「グランピング」&豪快BBQ ディナー・朝食ブッフェ付
住所: 沖縄県石垣市新川1625 MAP
電話: 0980-88-7000
料金: 14,740円~(2名1室1名料金朝食付・税込)
※グランピングプランの料金は 23,480円~(2名1室1名料金2食付・税込)
https://www.fusaki.com/
写真提供:FUSAKI BEACH RESORT 

雪国・上越に根ざす発酵文化と美食の相関関係。~大越基裕編~[Niigata Gastronomique Journey/新潟県]

新潟ガストロノミックジャーニーOVERVIEW

上越地方を旅するのは、4賢者の最後の一人、ワインテイスターの大越基裕氏。フランスでワイン醸造を学び、銀座のグランメゾンで長きに渡りシェフソムリエを務めた経験を持つ、日本のトップソムリエの一人。現在は、フリーランスのワインテイスターとしてレストランや飲料メニューの監修やプロデュース、商品開発などに携わりながら、自身でモダンベトナム料理とファインワインの店『アンディ』を経営し、ガストロノミーとワインの新しいスタイルを提案する、酒類とレストランサービスのプロフェッショナルです。

上越市、妙高市、糸魚川市からなる上越地方は、新潟県南西部に位置。全国屈指の豪雪地帯で、稲作とともに、雪国だからこそ生まれた伝統発酵食品や酒づくりの伝統など、独自の食文化が今も受け継がれています。数年前から日本酒にも力を入れ、日本のファインダイニングのドリンクペアリングに革新をもたらしてきた大越氏にとって、日本酒の蔵めぐりは、ライフワークのひとつ。その土地に根付く食を楽しむことはもちろん、マスト。今回、新たに出会うのは、どんな酒、人、味なのか。短かくも濃厚な旅を追います。

【関連記事】Niigata Gastronomique Journey/風土に根ざした独自の美食が花開く新潟へ。4名の食の賢者が各地を旅し、その全容を本気で斬る

1976年、北海道生まれ。国際ソムリエ協会  インターナショナルA.S.Iソムリエ・ディプロマ。2013年6月、ワインテイスター/ワインディレクターとして独立。世界各国を回りながら、最新情報をもとにコンサルタント、講師や講演、執筆などもこなしてワインの本質を伝え続けている。ワインだけでなく、日本酒、焼酎にも精通しており、ワインと日本酒を組み合わせた食事とのマリアージュにも定評がある。

(supported by 新潟県)

違う個性が寄り添い合って、ひとつの景色に。雪国で花開く陶芸家夫婦の自由な暮らし。[TSUGARU Le Bon Marché・陶工房ゆきふらし/青森県五所川原市]

工房で黙々と手を動かす猿田千帆さん。「ふっと思い浮かんだ形や色を作っているのが楽しい」というアイデア先行型。そんなところも、夫・壮也氏とは正反対とか。

津軽ボンマルシェ異なる作風のふたりが共に営む、雪の中の器工房。

以前「津軽ボンマルシェ」で紹介した「おぐら農園」は、対照的な性格ながら相性はぴったりの夫婦が営む弘前市のりんご農家でした。そんな「おぐら農園」のふたりの友人が、太宰治の生まれ故郷・五所川原市金木町に工房を構える「陶工房ゆきふらし」の陶芸家、猿田壮也氏と猿田千帆さん。長年一緒に作陶を続け、同じ土、同じ釉薬を使用するふたりですが、こちらも小倉家同様、対照的なタイプの夫婦。その作風は大きく異なります。

夫の壮也氏が手掛ける作品は、はっきりとしたフォルムの食器や陶製のランプ。「麻の葉」や「青海波(せいがいは)」といった日本の伝統柄をベースにした幾何学模様が目を引きます。「シャープな形が好みなんです。昔はもっと細かな絵付けもしていたのですが、描いても描いても納得できずに胃が痛くなっちゃって(笑)。描きながら無心になれる幾何学柄に落ち着きました」と壮也氏。一方、妻・千帆さんの作品の多くは、手作業の温かみを感じさせる食器や一輪挿し。草花をモチーフにしたしなやかな絵柄が描かれます。「私はかっちりさせるより、むしろ形を崩したい。轆轤(ろくろ)で作ると全部同じ形になるから、最終的な造形は手で行います」と語ります。

ふたりが口を揃えたのが、絵柄を入れる過程で下描きは不要なこと。意見が揃ったと思いきや、壮也氏が「こういう幾何学模様は、どこか1ミリでも下絵とずれるとすべてだめになる。描きながら調整して最後にかちっと決めたいから、下描きはしません」と話すのに対し、千帆さんは「下描きはしないというより、下描きがあっても意味がない」。よくよく見れば、千帆さんの手元の皿には下描きがあるようですが……「真っ白なところに描くのは緊張するけど、下描きがあると安心して自由に描ける。だから下描きと全然違う絵を、上から重ねて描くんです(笑)」。

作品作りへのアプローチが面白いほど真逆なふたり。「でも、だからこそ一緒に続けられるのかも。自分と同じだったら、相手が気になって仕方ないから」。そんな壮也氏の言葉に「うんうん」と頷く千帆さん。そう、ふたりの共通点はマイペースなこと。そして互いに「自分にはできないものを作る作家」として、相方をリスペクトしていることです。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

工房奥の一角が壮也氏のスペース。自由に筆を動かす千帆さんを見て「そういう“いい加減”さに憧れはあるんです。才能でしょうね」と壮也さん。

原料の土はさまざまな産地のものを混合する。それぞれが別の配合で練ることもあれば、どちらかが練ったものを拝借して使うことも。

釉薬の原料が並ぶ棚。調合した釉薬はオリジナルの名前で呼ばれる。さまざまな釉を洗い流した水から取り出し再利用する釉薬は、予想外の反応が出る通称“スペシャルMIX”。

千帆さんの性格が現れる、“意味のない下描き”がこちら。下絵を見事に無視して進む絵付けだが、「何も書かれていないと緊張してだめ」なのだとか。

津軽ボンマルシェアフリカの打楽器が結んだ縁が、青森へ、津軽へと繋がる。

それぞれ別の場所で生まれ育ち、陶芸の道へ進んだ壮也氏と千帆さん。両親共に彫刻家という芸術家一家の元、千葉県市川市で育った壮也氏は、幼い頃から何かを“作る”行為が身近だったそう。家族で見ていたテレビ番組をきっかけに陶芸教室に通い出した壮也さんでしたが、なんとそれを機に両親も作陶を始め、自宅が窯元に。瀬戸の窯業職業訓練校を出た後は、10年ほど名古屋で暮らし、埼玉県に転居した実家の「南川窯(なんせんがま)」で作陶を始めます。一方、千帆さんの出身は青森県むつ市。文化女子大学(現・文化学園大学)でデザインを学ぶ学生時代、授業で体験した陶芸に興味を持ち、茨城県笠間市の窯業指導所に通いながら、笠間焼の陶芸家に師事して技術を磨きました。

出会いは2000年、陶芸家や窯元が集結する一大陶器市、「益子の陶器市」でのこと。毎年出展を続けていた壮也氏が発見したのが、大量に展示された陶器製のアフリカの打楽器「ウドゥ」でした。根っからの打楽器好きの壮也氏は、マニアックなウドゥの存在に大感激。実はこのウドゥを制作したのが千帆さんだったのです。「何か大物で修了制作をと考えていましたが、ただの壺じゃつまらないなと思って。図書館に行ってネタを探し、見つけたのが『ウドゥ』だったんです」と千帆さん。

ちょっと不思議な打楽器が縁となり知り合ったふたり。その後、当時壮也氏が使っていた埼玉県日高市の工房で一緒に作陶を始めます。が、青森県出身の千帆さん曰く「暑いところが苦手で(笑)」、引越しを決意。一度むつ市へ移住した後、さらに条件のいい土地を求めて巡りついたのが金木町でした。「最初の移住先は、かなり探したけれどなかなか見つからなくて。でもここ金木町の物件は探し始めてすぐに見つかって、『ああ、そういう運命だったんだ』って納得したんです」と頷き合う夫婦。聞けば、その運命を証明するような出来事は、他にも色々あったようです。

母屋に横付けされた壁の黒い部分が工房。手前のハーブ畑の横にある棚状のものは、ニホンミツバチの巣箱。「おぐら農園」の小倉夫妻は、ここからミツバチを分けた“ミツバチ家族”だそう。

陶芸の話をしているつもりが、いつの間にか別のものづくりの話で盛り上がっていることもしばしば。何の話をしていても、とても楽しそうだった壮也氏と千帆さん。

日中降り出した雪は、撮影が終わる頃にはかなりの降雪に。この看板も、真っ白に雪化粧して見送ってくれた。

津軽ボンマルシェ雪降りしきる新たな故郷・金木町に根を下ろして。

元々、戦後に樺太から帰還した人々が住み始めたという金木町・川倉の集落は、ふたり曰く「よそから来た人にもすごく優しいところ」。周りの住人たちも夫婦の移住を喜び、すぐに地域の輪の中へ受け入れてくれたそう。また移り住んですぐには、自宅裏にホタルが飛び交う清流があることも発見。「自然環境も驚くほど豊かなんです」と壮也氏。さらに、かねてから養蜂に興味があったという千帆さんは、ある日家の前の林にニホンミツバチの“蜂球”(新たな住処が見つかるまで、女王蜂を守るために働き蜂が集まって塊状になる現象)を見つけ、簡易的に作った巣箱に保護したところ無事定住。今では猿田家のペット兼ハチミツ採取係として7年目の共同生活を迎えます。

そして、金木町に移住後は作品展示スペースを持っていなかったふたりに舞い込んだのが、町を代表する観光スポットのひとつ、太宰治ゆかりの私設ミュージアム「太宰治疎開の家・旧津島家新座敷」内に常設ギャラリーを作らないかという贅沢な誘い。偶然ふたりの作品を見て惚れ込んだというミュージアムのオーナーからの、直々の依頼でした。移住から7年が経った2015年、晴れて「太宰治疎開の家」の一角に常設ギャラリーが誕生。以来、ふたりは新たな地元・金木に根を張り活動する陶芸家として知られるようになりました。

工房を訪れたのは、冬の始まり。豪雪地帯として知られる金木はこの日、「ゆきふらし」への訪問を歓迎するかのように美しい雪が降りしきっていました。実は工房名の由来は、千帆さんが大好きだという軟体動物アメフラシ。青森への移住が決まった際に新たな工房名を考えたとき、壮也氏がふと「雨じゃなく、雪が降る土地に行くのだから『ユキフラシ』じゃない?」と思いついたのだとか。意外な生きものが由来ながら、これ以上ないくらいはまる、なんと素敵な工房名! ほかの季節の景色もきっときれいだろうけれど、やっぱりこの工房には雪景色が似合うなと、純白の世界を見ながら思ったのでした。

敷地内に「陶工房ゆきふらし」の常設ギャラリーがある「太宰治疎開の家・旧津島家新座敷」。太宰ファンからの支持も厚い私設ミュージアムだ。

夫婦の縁を結んだ楽器・ウドゥは今も、「ゆきふらし」の個展で象徴的な存在として展示される。側面の穴をふさぐように叩くと独特の低音が心地よく響く、原始的な打楽器。

幾何学模様が連なる壮也氏作の小皿を見て「私は飽きっぽいから、こういう細かい作業はできないんです。それを楽しみながらできる壮也さんはすごい」と千帆さん。

壮也氏の定番アイテムであるランプ。土台の木版は、百貨店の催事をきっかけに知り合った「イージーリビング」の葛西康人氏に発注している。

繊細なタッチで絵付けが施された千帆さんの器。さらりとした手触りのこうした器もあれば、無骨な土の塊のような質感の器もあって、見飽きない。

津軽ボンマルシェ陶芸以外のものづくりにも、マイペースに全力投球。

ふたりに共通するのはものづくりへの情熱。「元々何でも自分で作りたいんです」と壮也氏がいえば、千帆さんも「陶芸以外のこともやりたくなっちゃうんですよね」と笑います。本格的な発酵食品に挑戦してみたり、自宅の家具や小物類を自作してみたり。現在作陶する工房も、移住後に自分たちで増設した小屋だそう。そして今、敷地内には巨大な新居も建設中です。ものの大小に関わらず自ら手を動かしてみるというふたりの姿勢の理由は、単にものづくりの作業的なおもしろさだけにとどまりません。「以前業者の方に電気工事を頼んだら、結構無理な配線をされたことがあって。実は専門的な職業の人も、全員が全員その道のプロではないのかもと気付いたんです。だったら自分でやってみれば、後から手直しすることもできるし、なぜ修理代がこんなに高いのかも分かるでしょう? 世の中の色々なものの価値に対して、疑問を持てるっておもしろいじゃないですか」と壮也氏。

ちなみに、建設中の新居は着工から丸5年が経過。猿田家らしくいたってマイペースに進行中ですが、「近所の人が『まだ終わらないの!?』って心配してくれて、機械や建材を譲ってくれることもあるんです(笑)」と千帆さん。もちろんそれは、ふたりのまっすぐな人柄と、人生を楽しむ姿があってのことでしょう。

取材翌日、ちょうど開催中だった個展にお邪魔しました。所せましと並べられた器や花器、ランプは、ひと目で壮也氏の作品か、千帆さんの作品かが分かります。が、どちらも作品ごとに、ときにシックだったり素朴だったり、ときにダイナミックだったり繊細だったりと、ひとつのイメージにとらわれないさまざまな表情が。作品の向こうに、自由なライフスタイルを愛し色々なことに挑戦する、ふたりの楽しそうな顔が浮かんでくるようでした。

普段から「陶工房ゆきふらし」の器で料理を提供する五所川原市「ギャラリーカフェ ふゆめ堂」で、定期的に個展を開催。日本各地のギャラリーで展覧会を行うほか、イベント出店も多数。

今春には、建設中の新居に入居予定とか。現在は11歳の長女、3歳の次女との4人暮らし。「娘から、友達を招待しちゃったからいい加減早く作り終えてと急かされました(笑)」

陶芸で一番影響を受けたのは千帆さんの存在だと壮也氏。「時折驚くような提案をしてくるけど、だいたいそれが定番になるんです」。手作りの家具や雑貨に囲まれた自宅のリビングにて。

住所:青森県五所川原市金木町朝日山317-9 「太宰治疎開の家・旧津島家新座敷」内 MAP
電話:0173-52-3063
https://www.facebook.com/ykfrs/

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)

思い描いた特別な瞬間に向けて、徹底的に作り込む。『LEXUS』のDNAたる「CRAFTED」に込められた思い。[DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

オフィシャルパートナーとして参加する『DIING OUT』の1シーン。『LEXUS』の乗車体験も大切な要素となっている。

ダイニングアウト琉球うるま『LEXUS』の開発から販売にいたるまで貫かれる「CRAFTED」の精神。

1989年、日本発のラグジュアリーブランドとして誕生した『LEXUS』。フラッグシップのLSにはじまり、スポーツ、クーペ、SUV、そして先だって発表された初のEV車など、新型車を発表する度に世界を驚かせてきました。
そして同時に、さまざまな分野での活動も続けています。ただラグジュアリーなプロダクトを所有するだけではなく、豊かな経験や時間を得ることにニーズが移りつつある昨今。そこで車を軸にしつつも、『LEXUS』の理念と親和性の高い分野で積極的に活動することで、ラグジュアリーライフスタイルブランドとしての存在感も発揮しているのです。

2013年からオフィシャルパートナーとしてサポートし続ける『DINING OUT』もそのひとつ。史跡や景勝地を舞台に、気鋭のシェフを招き、その土地の食材を使ったその日限りのディナーを楽しむ。そんな豊かな食体験、唯一無二の時間こそ、『LEXUS』が思い描くラグジュアリーな体験にほかなりません。だからこそ『LEXUS』は長年に渡り『DINING OUT』をサポートし続けているのです。

そんな『LEXUS』の開発に通底するひとつの思想があります。その思想は「CRAFTED」という言葉で表現されます。これは“クラフト”の語感から想起される“手作り”“ものづくり”という意味ではありません。相手のことをとことん考え抜き、真に求めるものをその人以上の思いを巡らせ提供すること。この「CRAFTED」を紐解くことで、『LEXUS』の魅力が改めて見えてくることでしょう。

【関連記事】DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS

オフィシャルパートナーの『LEXUS』はドライビングプログラムや会場送迎などでゲストにラグジュアリーな体験を提供。

ダイニングアウト琉球うるま「CRAFTED」の思想で『LEXUS』が伝える本当の豊かさ。

「『LEXUS』のことを伝えるためにCRAFTEDという言葉があるのではなく、『LEXUS』の前提そのものがCRAFTEDなのです。それはすべてのレクサス車が持つ、いわばDNAのようなもの」『LEXUS』の国内マーケティングを率いる沖野和雄氏は言います。

そして似た思想を強いて挙げるならば、と「慮る(おもんぱかる)」という言葉を選びました。「停めてある車に近づく瞬間、ドアを開ける瞬間、エンジンをかける瞬間。それぞれの瞬間に思いを巡らせ、そのときに求められていることを追求すること」と続ける沖野氏。

たとえばさまざまな匠の技術が凝縮される『LEXUS』車における魅力のひとつであるボディの塗装。何層にも塗り重ねられ、最後は人の手で確認され仕上げられます。それはまるで、輪島の漆器職人が自らの手で作品を仕上げるような、手間や時間がかかるからこそ価値を持つもの。思い、願い、誇り、そして使用する人への慮りといった心そのものの表現。これにより、時間や天気や四季によりまったく異なる表情を見せる『LEXUS』だけの塗装が生まれるのです。流れ、移ろう時間、瞬間に価値を見出す、「CRAFTED」の象徴といえるでしょう。

瞬間を大事にしていると同時に調和も重要です。たとえば2019年11月に発表された『LEXUS』初のEV車「UX300e」を見てみましょう。一般的にEVは立ち上がりの力強いトルクが持ち味でした。しかし『LEXUS』は、よりジェントルなEVの在り方を追求します。そこで重視したのは、より洗練されたある種の“間”。その立ち上がりに潜む、数字では表現し切れない“間”の存在が、より調和した走りを生み出そうとしているのです。

「散る桜や移ろう紅葉のように、瞬間の美を大切にするのが日本人。その瞬間を徹底的に考え抜き、ラグジュアリーな体験を生むこと。それがレクサスの提供したい“豊かさ”です」と沖野氏。

『LEXUS』初のEV車である「UX300e」にも「CRAFTED」のDNAが脈々と息づいている。

ドライバーの快適さや操作性など「Human-Centered(人間中心)」の思想のもとで設計された内装も『LEXUS』の魅力。

昨年末行われた「第46回東京モーターショー2019」では、次世代の電動化自動車を象徴するEVのコンセプトカー「LF-30 Electrified」を世界初公開した。

ダイニングアウト琉球うるま『LEXUS』の思いを象徴する野外イベント「DINING OUT」。

『LEXUS』の思いを乗せ、限られた瞬間だけのラグジュアリーな食体験を伝える『DINING OUT』がまたやってきます。もちろん、今回もまた『LEXUS』がオフィシャルパートナーを務めます。

「DINING OUTはすべてがCRAFTEDと共通する世界観」と『LEXUS』のブランディングを担当する岡澤陽子氏は言います。
「日本人には独特のアニミズム的な感覚、自然に対する感謝や畏敬の念がありますよね。風や空気や匂いや夕陽に、ぐっと来るようなこと。それが移動の時間、食事、料理の世界観とすべて合致するように作り込まれているのが『DINING OUT』。結果として出てくる感想が“食事がおいしかった”という“点”ではなく、もっと広い面で、体全体で感じられるように設計されています。その背景も含めて、本当にすべてがCRAFTEDの体現だと思います」

沖野氏も同様に「CRAFTED」と「DINING OUT」の親和性を話します。「ただ外で食事をする、というイベントではありません。たとえば虫の声。欧米ではただの騒音と捉えられるこの音を、日本人は心地よいものと感じます。そんな虫の声まで演出に取り入れる。あらゆる瞬間を大切にしているわけです」。

そして沖野氏は2017年の「DINING OUT NISEKO with LEXUS」を例に挙げました。「ニセコアンヌプリにかかった羊蹄山の影が刻々と姿を変えたニセコのディナーなどは、まさに唯一無二の瞬間でした。もちろん料理もそう。土地の素材、伝統、ストーリーを取り入れ、ほんの数日のディナーだけにポイントを合わせて作り込む。作るという工程だけではなく、提供の仕方、サービスの間なども含め、『DINING OUT』はCRAFTEDそのものです」。

瞬間を思い描き、その一点に向けて徹底的に作り込む。そこで生まれる特別で、ラグジュアリーな体験こそが「DINING OUT」の醍醐味。目前に控えた今回の『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』。そこもまた「CRAFTED」の体験できる場となるでしょう。

『DINING OUT AOMORI-ASAMUSHI with LEXUS』の一幕。目的地へ向かう移動時間さえもラグジュアリーな体験に変える。

『DINING OUT NISEKO with LEXUS』では、山肌の影が刻々と形を変える大自然のショーが繰り広げられた。

季節、時間、天気。『LEXUS』の乗車体験は、その土地のその瞬間を切り取り、忘れ得ぬ体験としてデザインする。

2020年1月に開催される『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』でも、『LEXUS』と『DINING OUT』が共鳴する世界観に期待が集まる。

1989年、トヨタ自動車入社。商品企画部にてスポーツカー『TOYOTA86』の企画を担当。2012年より現職 。デザインやアート、レクサス関連をはじめ多数のイベントに携わる。

1999年、トヨタ自動車入社。調査部にて自動車市場分析、将来予測シナリオ策定を担当。2014年より現職。レクサスのグローバルブランド戦略や、デザイン関連などの体験型マーケティング施策に関わる。

東京から一番近い離れ島。近くて遠い伊豆大島の独自性の秘密。[東京“真”宝島/東京都 伊豆大島]

東京"真"宝島OVERVIEW

調布飛行場から離陸した飛行機は、景色を楽しむ間もなく着陸準備に入ります。所要時間はおよそ25分。首都圏の平均通勤時間が1時間を越えることを考えれば、伊豆大島の近さが実感できることでしょう。竹芝から高速ジェット船でも最短1時間45分、東京タワーや東京都庁からも島影が見える伊豆大島は、文字通り伊豆諸島の玄関口です。

しかしそれほど近くても、離島は離島。景色が、生活が、食事が、風習が、やはり都会とは異なります。港や空港から降り立った瞬間に感じる空気がすでに違うことに、きっと訪れる誰しもが気づくことでしょう。そして滞在するごとに伝わってくる大島特有の島民気質。
クラブのように盛り上がる盆踊りからみえる、若者たちの郷土愛。家族とともに働くという生き方。移住者をオープンに受け入れるおおらかさ。噴火の残した爪痕。火山と共に生きるということ。

通勤と変わらぬ移動時間で到着する、東京からもっとも近い田舎。海が隔てることで、都会に染まることなく独特の歴史を紡いだ島。知るほど行きたくなる近くて遠い島。伊豆大島の独自性の秘密と魅力を紐解きます。


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美味しい名産品、でもそれだけじゃない? 津軽人のリアルな“りんご感”に迫る。[TSUGARU Le Bon Marché・特別対談/青森県弘前市]

スタートから和気あいあい、始終にぎやかだった対談。参加者は左からパティスリー『アンジェリック』成田巧樹氏、カフェなどを展開する『青弘トラスト』米澤貴子さん、『パン屋 といとい』成田志乃さん、『おぐら農園』小倉加代子さん、『キープレイス』姥澤大氏。

津軽ボンマルシェ生産量、断トツ日本一! りんご王国・津軽のホンネ、アップルパイ片手に語ります。

津軽=りんご、そんなイメージの人も多いのでは? それもそのはず、青森県のりんごの生産量が全国の約6割を占めるうち、弘前市を中心とした津軽平野での生産量はその中の実に4割ほど。市内には広大なりんご畑が広がるだけでなく、りんごの乗ったポストにりんご模様のガードレール、果てはりんご型カーブミラーまで、あちこちにりんごのモチーフが点在しています。右も左もりんごだらけの、まさにりんご王国! しかし “日本一”という華々しい言葉の裏には、高齢化や後継者不足など、県外の消費者からは見えづらいさまざまな事情が存在するのも事実です。そこで今回のテーマは、気になる「りんご王国・津軽のホンネ」。参加メンバーは、りんご農家『おぐら農園』の小倉加代子さん、りんご用木箱などの資材を手掛ける『キープレイス』姥澤大氏、シードル工房併設の飲食店運営にも携わる『青弘トラスト』の米澤貴子さん、りんごをパン作りに活用する『パン屋 といとい』成田志乃さんです。せっかくだったら、“アップルパイの街”を謳う弘前らしく、それぞれのお気に入りアップルパイを持ち寄り対談を……と思ったら、急遽弘前を代表する人気パティスリー『アンジェリック』の成田巧樹氏にも参戦してもらえることに。美味しく楽しいりんご対談となりました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

弘前市の中心地から車で少し移動すれば、霊峰・岩木山を抱くように広がるりんご畑が。これぞ津軽の原風景。

市内の数か所にある“りんごポスト”。最近では、写真映えするりんごスポットも人気の観光コンテンツに。

今回登場するアップルパイは、成田氏が手掛ける『アンジェリック』、弘前駅近くのパン店『スリーブリッヂ』、焼き菓子が人気のカフェ『スミス』、シードルでも有名なりんご農家『タムラファーム』、店舗を持たずイベント出店などで菓子製造を行う『zilchstudio』のもの。

津軽ボンマルシェ・特別対談津軽人りんごあるある①:食べる・食べない、買う・買わない。意外と人それぞれ。

ONESTROY編集部(以下編集部):今日はアップルパイをつまみつつりんご談義ということで、事前にみなさんのお気に入りのアップルパイを伺いました。なんと姥澤さん、『といとい』成田さん、米澤さんの御三方が『アンジェリック』をご推薦。『アンジェリック』大人気です。

成田巧樹氏(以下巧樹):ありがとうございます!

成田志乃さん(以下志乃):早速つまんじゃっていいですか? 私、昔はアップルパイ苦手だったんですよ。パイのむにゃっとした食感がいまいちで。でも『アンジェリック』のものを食べて好きになりました。食感が色々あって、ほろ苦さも酸味もある。あと手頃な値段だし、いつ行っても買えるんですよね。それってすごく大事だなって思います。

姥澤大氏(以下姥澤):上に乗ったりんごの薄切りがしゃきしゃきしてるのがいいですよね。さっぱりしていて、生食のりんごに近い感じ。

米澤貴子さん(以下米澤):お店の雰囲気もかっこいいんですよね~。特別感があって。

小倉加代子さん(以下小倉):実は私も好きなんですけど、みなさんと被りそうだなと思って言わなかったの(笑)。今日私が持ってきたのは、うちの畑で採れた紅玉を1台2玉前後使って作った『zilchstudio』のアップルパイ。毎年秋にある朝市イベントの限定品で、いつもすぐ完売しちゃうものを、今回特別に作って欲しいとお願いました。砂糖もスパイスも使わないで『おぐら農園』の紅玉を最大限活かす、私の大好きなアップルパイです。

志乃:わ~、酸味がいい! 本当に加糖してないんですね。びっくり。

米澤:紅玉2個も使うなんて贅沢。私は『アンジェリック』も好きだけど、こっちの『スミス』のアップルパイも気になってて。周りで「パイ生地が美味しい」って評判なんです。

姥澤:お、ほんとだ。パイ部分いいですね。香ばしい。自分はこの『タムラファーム』のアップルパイが、人生で一番食べているアップルパイかも。仕事で取引があるので、昔からよくいただくんです。

志乃:アップルパイもシードルも美味しくて有名ですよね。『スリーブリッヂ』のものは、ハラハラと繊細なパイと中のりんごとのパランスがよくて、とても美味しいです。それぞれ全然味が違う! 個性がありますね……って、食べながら言うのもあれなんですけど、正直な話、アップルパイって普段から積極的に食べますか?

米澤:正直、あんまり食べない(笑)。うちの場合は実家がりんご農家で、親から「りんごを焼いたり煮たりするのは“かまど消し”だからよくない」って言われて育って。“かまど消し”は“ごくつぶし”みたいな意味の方言。焼いても煮ても怒られるし、なんなら家ではりんご自体あまり食べなかったかも。

一同:えー!

小倉:生産者だと、そういう人も多いのかもしれません。小倉家では時間が経って柔らかくなったりんごを母が甘く煮て、小分けにして冷凍します。アップルパイはそれこそ姥澤さんみたいに、差し入れでもらう感じ。

志乃:10年くらい前にアップルパイが食べられる店のマップが作られたじゃないですか。これを仕掛けた人すごい!ってびっくりしました。本当は採れたての美味しいりんごを食べてほしいけど、観光の方が増えるのは春から。アップルパイなら、このズレもあまり問題ない。

巧樹:うちの店も年々県外や海外から来る人が増えていて、アップルパイだけは売り上げが伸びているんです。

志乃:りんご自体、もらうから買わないって津軽人も多いですよね。小倉さんはりんご買いますか?

小倉:それが、うちはりんご農家なのに買うんですよ! どこかへ行けばその土地の産直品を買ったり、食べたことのない品種を試したり、探求心ですね。相馬村にある直売所『林檎の森』とか、結構おもしろい品種が出るんですよ。

姥澤:へ~、今度行ってみよう。うちは木箱の会社だけど、畑を買ってりんごも作っているんです。今年から冬のギフトは自社のりんごにしようと思っているんですが、去年まではお気に入りの農家さんのりんごを贈答用に買っていました。みんなそれぞれですね。

過去には『アンジェリック』でアップルパイ製造を担当し、独立後は『おぐら農園』のりんごをパン作りに活用する『といとい』成田さん。小倉さん、成田氏とは勝手知ったる仲だ。全員と初対面とは思えない打ち解けぶりだった米澤さんの実家はりんご農家。

小倉さんが持参してくれたアップルパイは青森市に工房を構える『zilchstudio』のもの。砂糖不使用ながら、ローストした紅玉とパイ生地に優しい甘さが。

津軽ボンマルシェ・特別対談津軽人りんごあるある②:県外に出て、地元のりんごのすごさを知る。

志乃:でもね、改めて“津軽人の真のりんご感”って恐ろしいテーマだなって(笑)。自分がりんご農家でなくても、知り合いがみんな何かしらのりんご産業に関わっていて、それぞれ思うところがあるじゃないですか。色んな人の気持ちを考えると、しゃべれなくなるというか……。

米澤:リアルな現実があるからね。私も、りんご農家の家に生まれたのが嫌で仕方なかったの。でも39歳まで東京で働いて、やりたい仕事やりつくしたなと思って実家に戻ったら、小さい頃見ていたりんご畑の風景が変わってて。東目屋という地区の「平山」っていう小さい集落なんですけど、19世帯のほとんどがりんご農家、その内跡取りがいるのが1世帯だけ。

小倉:東目屋なんですね。「目屋りんご」、締まってて美味しいですよね。

米澤:そう、昔は見たくもなかったりんごだけど、その美味しさは知ってるんですよ。それでりんごで何かできないかと思ったけど、自分が農業やるのも違うし、ネット販売もしてみたけどつまらない。直接農家と関わる以外の方法を考えているとき、今の会社の社長と出会って。目屋りんごで作ったスムージーをカフェで出したり、シードル作ったり、そのシードルを台湾に持っていて売ったりすることを始めて、自分がりんごを作っているわけじゃないけど、りんご産業の可能性を感じることができたんです。

姥澤:自分も、若い頃はりんごもりんご畑も目に入ってこなかった。東京から帰ってきて初めて、「りんごの花ってきれいだな」「田舎の風景っていいな」って、地元がすごく豊かなことに気付いたんですよね。「りんごって美味しいんだなぁ」って。

米澤:分かる~! 東京のスーパーのりんご、全然味違うもん。「実家の畑のすっごい美味しいりんご、どこ行ってんの!?」って思ってた。

小倉:東京だと「ふじ」がほとんどですしね。私は神奈川出身なんですが、弘前に来てからいろんな品種があることを知ったし、農家さんごとで味が違うのにも衝撃を受けました。

志乃:人によって好きな品種も違うし、もっといえば11月と12月じゃ選ぶ品種も変わるし。ちなみに私は昔から「金星」が好きで。

一同:渋~!!

志乃:少し地味というか、今の流行りとは真逆な品種だけど、香りと味のバランスや表皮の少しマットな感じがいい(笑)。うちも家業がりんご農家とまではいかないけど、畑で色んな品種を作っていて。母の実家はりんご農家なんですけど、農家ごとに作る品種も違うから、「じいちゃんのりんごなら金星か、『4の23』かな」とか。

編集部:「4の23」……? 知らない品種です。

志乃:色々な理由であまり流通してない品種ってたくさんあるんですよね、本当はきっと。これもじいちゃんの畑にあったからたまたま食べることができて、好きになったりんごです。みんな小さい頃は家に来たりんごを受動的に食べるから、どんな品種が好きかは結構バックボーンに寄る気がします。でも自分たちはりんごが身近だから旬や品種が分かるけど、西に行けば柑橘のことは分からないし、レモンだってこっちのスーパーで1年中手に入るじゃないですか。そんなもんなんだろうなって。

米澤:そういえば少し前、関西のお客さんにもぎたてのりんご送ったら、「熟す前に送ってくださったんですね~」って言われたの。しゃきしゃきで硬いから、「寝かせて食べた」って……(笑)。

姥澤:こっちは硬いりんごに価値がありますもんね(笑)。

姥澤氏の地元・北津軽郡板柳町は、全国唯一の専門市場があるりんごの一大産地。ちなみに『キープレイス』のグループ会社、『青森資材うばざわ』のりんご木箱は、津軽エリアでのシェア率No.1!

対談でも人気だった『アンジェリック』のアップルパイは、パイ生地の上にりんごのペースト、紅玉のジャム、スライスしたりんごが乗る3層構造。弘前土産におすすめ。

津軽ボンマルシェ・特別対談若社長に学ぶ! りんごを使った商品を、どう売り込むか。

志乃:子どもの頃は家にりんごがあることが当たり前。むしろ「頑張って消費しないと春まで残っちゃう」って存在で。仕事をし始めて能動的にりんごを消費するようになってから、「自分はりんごで何ができるんだろう」とすごく考えるようになりました。でも青森の人にりんごの商品を売るのって大変なんです。

米澤:“当たり前”なものだからね。

志乃:そう、その分お金を払う対象じゃないから。だから、アップルパイのマップを最初に見たときは衝撃でした。みんなアップルパイだと買うんですよ。どうやって欲しいと思ってもらえるものにするのか、それって大事なことだなと。

姥澤:うんうん。うちは最初りんご箱用にカットされた板材の商売から始めて、それが売れなくなったら、ダンボールなどの包装資材の販売に転向して。産地市場の台頭とともに、完成品のりんご箱を販売するようになったんです。時代時代で商売を変えてるんですよね。前に経営塾に行ったとき、先生から「経営理念は自分が勝手に作るものじゃない、自分たちの宝ものを探し当てるようなものだ」って言われて、本当にそうだなと。うちはあくまで裏方で、生産者と消費者の架け橋のような存在でありたいんです。地域産業として県外のお客さんにも発信できればと模索する中、建築家や家具職人とコラボした古いりんご木箱の家具「又幸」が生まれたりしました。ラッキーなことに、「ミラノサローネ」にも展示されて。

一同:おお~。ミラノ!

米澤:「又幸」っていい名前ですよね。ちなみに巧樹くんと志乃さんは『アンジェリック』で同僚だったんだっけ。

志乃:私が働いていたとき、高校卒業したてで入社してきたのが巧樹。ど金髪の頭だったけど(笑)、その頃からやる気すごかったよね。巧樹が去年25歳の若さで社長になったときは、周りがみんなざわざわした。

巧樹:前の社長に「やってみたら?」って言ってもらえたんで。まだ就任して2年弱ですけど……若いですかね。

一同:若いよ!(笑)

巧樹:社長になったら、売り上げが上がっても下がっても自分のせいになるじゃないですか。だったら人の真似じゃなく、自分なりのことをしようと最初にやり方を変えたのが、アップルパイだったんです。それまでは誰が作ったのか分からないりんごを使ってて、なんか気持ち悪いなあって。今は決まった農家さんにわがまま言わせてもらってます。「もっと早い段階でもいで」とか「大き過ぎて使いづらいから小さく」とか、品種もそのときどきで指定して。お客さんとは「今日何の品種なの」とか「あの品種はもうすぐ出るから、もうちょっと待って」って会話して、結構楽しいんですよ。食べて気に入った農家さんのりんごを注文できるように、店にパンフレットも置きました。

志乃:今どのくらいアップルパイ売ってるの?

巧樹:2年で倍の売り上げになりました。1日900個とか。りんごの木箱が積みあがってすごいことになりますよ。自分は弘前市岩木地区出身なんですけど、親父の実家も奥さんの実家もりんご農家、はとこもりんご農家。りんごはなくなれば勝手に補充されるものだったから、若い頃はそこに価値を見出せないじゃないですか。それを今、アップルパイ作るために毎日大量のりんご仕込むようになって、単純に「農家さんすげーな」、「こんだけの農家さんがいる弘前すげーな」って。育てて収穫してって、めちゃくちゃ大変ですもん。で、地産地消を謳うわけじゃないですけど、旬の果物は地元の農家さんから仕入れることにしました。今だといちごも梨も津軽の田舎舘村産です。いいなと思った農家さんの果物を、最高の状態で加工して売るのが俺らの仕事なんで。

米澤:すごいね。まだまだ弘前にもこういう若手がいるんだなあ。

小倉:いい話聞きました。巧樹さん、素晴らしいですね。

巧樹:単純ですけど、弘前の街が活性化したら、自分たちの商売ももっとよくなると思って。だから次は自分の名前でブランド作ることも考えてます。色んな業種の人の独立を後押しできたらいいですよね。自分はみなさんと違って県外に出たことないし、その予定もない。東京の有名店で修業しようって思わなかったのは、自分がどこで商売したいのか考えたからなんです。東京の5年と弘前の5年だったら、ニーズも分かるし繋がりもできるし、こっちの5年の方がいいよねって。それに「俺弘前大好きですよ! 弘前で頑張りましょうよ!」ってケーキ屋の方が、気持ちがいいじゃないですか(笑)。

対談場所となった弘前市「藤田記念庭園」内の『大正浪漫喫茶室』は、登録有形文化財の洋館建築と庭から望む日本庭園が美しい。市内で人気のアップルパイが数種揃い、食べ比べも楽しめる。

弘前市内のりんごの売店にて。「秋田ゴールド」「彩来」「星の金貨」など、県外のスーパーではあまり見かけない品種がずらりと揃う。りんごの時期の津軽を訪れたら、食べ比べるべし。

津軽ボンマルシェ・特別対談まだ見ぬりんごの新たな価値が、未来に繋がるバトン役。

巧樹:今、色々計画を考えてるんですよね。もっと外国人も受け入れられるような店にしようとか。ケーキ屋っていうより観光地みたいな、面白い店を作りたい。

姥澤:確かに、今の津軽のりんご産業を見るとあきらかに縮小しているんだけど、津軽全体の流通人口、移動人口を見ると増えているんですよね。外から人が来ると考えたら、どう発信して何を提供するのかが大事になってくる。うちの近所に気になるラーメン屋があるんですけど、すごく見つけづらい店って言われてて。一度Googleで調べて行ったら、本当に見つからなかった(笑)。でもあきらめきれないからまた行くじゃないですか。面白そうなもの、美味しそうなものがあれば行こうとするから、それと同じで、問題も解決できるんじゃないかなって。

志乃:あとは、加工用のりんごの価値がもっともっと上がるといいと思ってます。ジャムとジュース以外にも。それこそアップルパイとか。

姥澤:木箱ひと箱で6000円、7000円のりんごもあれば、加工りんごなんかはひと箱500円のものもあるもんね。

志乃:加工用のりんごは、売る方と買う方の両方の意識が変わるといいのになって思いますね。りんごは生食以外にも高い価値があるから。

米澤:特に昔の農家からすると、生食至上主義はあるかもしれない。きれいで硬いりんごがいい、加工は積極的にやることじゃないっていう。

志乃:私たち、今まではきっと贅沢だったんです。周りにいいりんごがいっぱいあるのが普通だから。でもこれからは違うと思う。

姥澤:にんにくも青森の名産品だけど、最初「黒にんにく」って規格外の安いにんにくでやり始めたんだって。そうしたら、今はブランドでしょ? 日本だと健康食品のイメージだけど、ヨーロッパだと高級珍味の扱い。それでにんにく農家の所得が上がって、今レクサス乗ってる人もいるらしいです(笑)。

米澤:そういうまだ知られていない価値観って、もっと世の中にあるのかも。台湾では甘いシードルが大人気なんですよ。パッケージも、日本と向こうではいいと言われるデザインが全然違うし。うちでも台湾向けのシードル作ろうってなってます。

一同:へ~。気になるね、台湾向けシードル。

米澤:津軽の文化にもっと違う価値観を入れることも必要なのかもね。私、一回地元を離れてみて、りんごは津軽のキラーコンテンツなんだなって実感したんです。今の継続じゃなくて、新しいバトンを次世代に繋いで、私が死んだ後もそれが続くといいなって。

小倉:私自身は農業のことも知らずに神奈川で育って、たまたま主人と出会って弘前で農家になりましたけど、今はりんごを通じて、色んなことを知る機会をいただいている感じ。今日もそうなんですけど、りんごが人を繋いでくれるんですよね。みなさんと話して、改めて自分たちはりんごを作り続けることが大事だなと思いました。厳しいことも多いけれど、楽しいこともいっぱいあるからやっていられる。若い人たち、観光で津軽に来る人たち、これから農業を目指す人たちにも、それが伝わるりんご作りができればいいかな。

米澤:今日はすごく勉強になりましたね。若者の考え方にも感動したし! これもりんごのおかげですもん。

小倉:りんごは商売道具ではあるけど、すごく愛情を感じる、ありがたい存在。りんご、ありがとうって感じですね。

頼んでいないのに、率先してアイドルユニット風のポーズを取ってくれた5人。初対面同士の参加者もいたものの、りんごという共通の話題がすぐに壁を取り払ってくれた。

津軽のシンボルとして観光客を歓迎してくれる、JR弘前駅の巨大りんごオブジェ。改札の目の前に鎮座する。

見つけるとちょっとうれしくなってしまう、おちゃめなりんご型バックミラー。さて、弘前市内のどこに隠れているのか。津軽訪問の際、ぜひ探してみて。

場所協力:大正浪漫喫茶室
住所:青森県弘前市上白銀町8-1 藤田記念庭園内 MAP
電話:0172-37-5690

フードキュレーターが発掘した全国の食材を、美しく味わい深いヴィーガンコースに。[FARO/東京都中央区]

写真はコース序盤でゲストの心を掴んだ「菊芋のミルフィーユ」。

フードキュレーションテーブル/ファロ食材のプロ・フードキュレーターと名店のヴィーガンコースの出会い。

フードキュレーターとは、全国津々浦々を歩き、その地の生産者と話し、自らの足と舌で食材を探す食材のプロフェッショナルのこと。
たとえば現在のガストロノミーなら、料理を管轄するシェフとワインを取り仕切るソムリエが支えるのが一般的。しかし食の多様化、グローバル化、持続可能な食材の追求などが進み、より広い視野で食を捉える必要がある昨今、このフードキュレーターが第三の主役として、ガストロノミーを支えることとなるかもしれません。

2019年12月、そんなフードキュレーターが見つけ出した食材に焦点を当てたディナーイベント『Food Curation Table with FARO』が開かれました。食材リサーチを担当したのは、過去17回開催されたプレミアムな野外レストランイベント『DINING OUT』を通し、日本各地の食材を見つめてきたフードキュレーター・宮内隼人。今回、第一弾としてタッグを組んだのは能田耕太郎シェフ率いるイノベーティブイタリアン『FARO』。コースは、能田シェフが追求するヴィーガンコース。日頃から日本各地の野菜や果物を探し歩き、そのポテンシャルをヴィーガンという世界で表現する能田シェフ。季節感、産地の個性、生産者の思いが如実に表れるこのヴィーガンで、フードキュレーションの意義と食材の素晴らしさを伝えることを目指しました。「通常のヴィーガンコースでも多くの食材を使用しますが、今回フードキュレーターに加わってもらうことで、100種以上の素晴らしい食材を使用できました」と話す能田シェフ。

『FARO』とフードキュレーターの出会いは、果たしてどんな料理に昇華されたのでしょうか。提供された料理の詳細やイベントの様子を余さずにお知らせします。

【関連記事】Food Curation Table with FARO/『DINING OUT』を支えた食材と名店『FARO』の出会い。この日、この場所だけでの至高のヴィーガンコース。

能田シェフはローマ『ビストロ64』のオーナーシェフとして3年連続ミシュラン一つ星を獲得した人物。

フードキュレーションテーブル/ファロ100種以上の食材を、ひとつのコースに集約する。

まず導かれたレセプションでは、フードキュレーター・宮内隼人が出迎えました。ゲストはウェルカムドリンクを傾けながら、フードキュレーションについてのスピーチに耳を傾けます。

フードキュレーターの役割は、全国各地の生産者のもとを訪ね、その食材について取材し、深く理解するのが一側面。そしてもうひとつの側面が、シェフ側のスタイル、理念を理解した上で、食材とシェフをつなぐこと。そうすることで食の新たなアウトプットを生み出すのが、フードキュレーターの役目だといいます。

「独自の基準で定めた各地の素晴らしい食材を私達は“ローカルファインフード”と呼んでいます。条件はいたってシンプルで、ひとつはその土地の風土に合っていること、もうひとつは取り扱う生産者の技術が卓越し、理にかなっていること。この2点を満たしたいわば“土地の資産”を広く体験していただくべく、今回このようなイベントを開きました」フードキュレーター・宮内は今回のイベント趣旨をそう話しました。

レセプションに続いて案内されて着いた席には、メニューではなく食材リストが置かれていました。あんがとう農園かぶ、鬼丸農園鬼丸りんご、黒木農園しろいし蓮根、柴田農園パースニップ……。そこにあるのは、フードキュレーターが全国各地から見つけ出した100種以上の食材名だけ。いまだ料理の全体像は想像さえもつきません。運ばれる料理への期待は、いっそう高まります。

まず登場したのは、いくつかのフィンガーフード。十五夜味噌と黒にんにくのディップで味わう根菜「ピンツィモーニオ」、シナモンの根に刺した「島バナナのフリット」、リンゴの香りをまとった「春菊と三福海苔の生春巻き」。カトラリーを使わず、手で触れて直接食材を感じることで、その力強い存在感が響きます。

続く「菊芋のミルフィーユ」は、菊芋のほのかな甘みにコーヒーの香りが奥行きを加え、「ビーツのカネデルリ」は、力強い酸味と濃厚な味わいが主張します。コースはまだ序盤。それでもゲストのほとんどが、従来のイメージを覆す『FARO』のヴィーガンの世界に心酔しはじめていました。

レセプションではフードキュレーター・宮内隼人がフードキュレーションについて解説した。

十五夜味噌と黒にんにくで味わう「ピンツィモーニオ」は、食材の味がダイレクトに伝わった。

「島バナナのフリット」と「春菊の三福海苔の生春巻き」。まずは手で直接触れて味わう。

貴重な国産シナモンの根は「誰もやっていないことに挑戦する」ことが理念の佐賀県・富田農園から。

酸味のある「ビーツのカネデルリ」は、ポルチーニが香る団子とともに。

ワインペアリングはイタリアワインの銘品を軸に、ノンアルコールはフードキュレーターが探したジュースや茶を合わせた。

フードキュレーションテーブル/ファロ食材にさまざまな角度で焦点を当てる多彩なアプローチ。

中盤から徐々に盛り上がりをみせるコース。続いての一品は、「じゃがいものスパゲティ」。低温で長期間熟成することで糖度を増した「倶知安じゃが五四○」を細切りにし、パスタのように味わう能田シェフの得意料理。トリュフの香りをまとった豆乳ベースのソースが、どっしりとした土の力を伝えます。続く「蓮根のラビオリ」は、海苔をあわせることで土の力強さと磯の風味が見事な調和を描き出します。
次なる料理は藻塩でカブを蒸し焼きにする「かぶの塩釜焼き」が登場しました。藻塩が浮き上がらせるカブの甘みとみずみずしさ。この料理を通して、カブの新たな魅力に気づいたゲストも多かったことでしょう。
そしてここで続いた三品は、すべて根菜。同じ根菜でありながら、異なるアプローチにすることで、それぞれがまったく別の魅力を放つ。能田シェフの技と食材への理解が改めて垣間見えた構成でした。

メインディッシュはステーキ。椎茸の名産地・大分県から届いた肉厚の原木椎茸を使う「原木椎茸のステーキ」です。絶妙な火入れにより、水分をしっかりと残しながら香ばしさもたたえたこの椎茸は、決して“肉の代用品”などではなく、この椎茸こそがこの構成の唯一解であると思わせる確かなおいしさを湛えていました。

「おいしいと思ってもらうこと。料理人として、まっすぐにそこだけを目指しました」と、能田シェフの信念はいたってシンプル。続く「干し柿とヴィーガンチーズ」の優しい甘さが椎茸の余韻を包みながら、能田シェフのパートは続く加藤峰子シェフパティシエへと受け継がれます。

味、香り、テクスチャ。さまざまな表情を見せるヴィーガン料理がゲストの心を捉えた。

「じゃがいものスパゲティ」は通常コースでも登場する能田シェフのシグネチャーディッシュ。さらに卓上で白トリュフを振りかけ、贅沢な味わいに。

「蓮根のラビオリ」。ねっとりした皮と歯ごたえのある餡という食感のコントラストも魅力。

「かぶの塩釜焼き」。ほのかな塩気により、カブ本来の甘みがいっそう際立った。

「原木椎茸のステーキ」。肉厚の大分県産椎茸のジューシーな旨みが光る一品。大分県でクヌギ原木栽培を続ける『山や』から自慢の一品が届いた。

フードキュレーションテーブル/ファロ伝統を再解釈して落とし込む美しきヴィーガンデセール。

エグゼクティブシェフ・能田耕太郎氏とともに『FARO』を支えるのは、シェフパティシエ・加藤峰子氏の存在。加藤氏が手がけるヴィーガンデセールで、コースはフィナーレへと向かいます。「伝統をヴィーガンに落とし込むには、かなりの実験が必要。簡単ではありません」加藤氏はそう話します。しかしその難しさは、加藤氏にとって楽しみでもあります。「スイーツという嗜好品からヴィーガンを考えるのもおもしろいですよね」そういって、新たな料理開発に挑みます。
そんな加藤氏が手がけたプレデセールは「パースニップのラビオリ」。上にはパースニップと生姜のクリームをしのばせ、じんわりとおだやかな甘みを作り出しました。バラやカルダモンのほのかな香りも、味の広がりを演出します。
デセールは日本で唯一のスペシャルティコーヒーとウワミズザクラが主役。コーヒーの薄い飴の下にコーヒーの果実であるカスカラのゼリー、その下にウワミズザクラの実を使ったアイスクリームとコーヒーを詰めたチョコレート。多重奏の味わいがありながら、そのすべてを上質なコーヒーが包み込み、全体の統一感も演出。加藤氏が他に代えがたいシェフパティシエであることが、この一皿から存分に伝わります。

「日頃は生産者の人を見た上で、食材ではなくその生産者自身とコラボレーションをしています。だから今回は(フードキュレーターの)宮内さんとコラボレーションしたつもり。宮内さんの目を通して見たものから、さまざまなアイデアをもらいました」加藤氏はそう振り返ります。

伝統のベースの上に独自の解釈を加えたクリエーションが加藤峰子シェフパティシエの真骨頂。

飴、ゼリー、アイス、チョコレート。複雑な味わいをひとつにまとめる加藤氏の技術が光る。

日本で唯一スペシャルティコーヒーの認証を受ける沖縄県『アダファーム』のコーヒーを使用。年間50kgしか収穫されない幻のコーヒーだ。

「プチフール」は22種ものハーブを使った爽やかなタルト。

フードキュレーションテーブル/ファロヴィーガンは制限ではなく、可能性の追求。

目に美しく、ボリュームもあり、バラエティ豊かに繰り広げられたヴィーガンコース。体験したゲストに共通するのは、ヴィーガンのイメージが根本から覆される思いだったかもしれません。
ヴィーガンが浸透しきれていない日本では、ときに精進料理のように「我慢するもの」として、あるいは肉や魚や乳製品の味に似た代用品を探すものとして受け取られることがあります。しかし、この日伝えられたのは、おいしさを大前提としたヴィーガンの魅力でした。

「動物性食材を使わないことを“制限”だと思ううちは、ヴィーガンをやるべきではありません。世の中には無数の食材がありますが、一度のディナーで使うのは多くても数百種類。それこそ使い切れないほどの食材があるわけですから」能田シェフはヴィーガンコースを手がけることについて、そう話しました。料理人として、おいしさを追求する上で、ヴィーガンは決して制限ではないのです。

そしてそんな能田シェフ、加藤シェフパティシエの期待に応えるだけの食材は、まだまだ日本に眠っているのです。そんな食材のポテンシャルにも改めて目が向く一夜でした。

大きな拍手とともに幕を閉じた第一回の「Food Curation Table」。まだ見ぬ日本の素晴らしい食材を掘り起こし、その魅力を伝えるフードキュレーター。その意義を伝えるべく、今後もさまざまなレストランとタッグを組み、食材のポテンシャルが輝く料理としてお届けする予定です。次回の開催にもぜひご期待ください。

フィナーレでは能田シェフ、加藤シェフパティシエが登場。シャイな能田シェフだが、ヴィーガンへの思いの丈を言葉にして伝えた。

会場には「アジアのベストレストラン50」のチェアマンを務める中村孝則氏の姿も。

1999年に渡伊。2007年までイタリアの名店で修業を積み、その後、現地でシェフとして活躍。2013年、「ノーマ」(コペンハーゲン)など最高峰の北欧料理店での研修を経て再びイタリアへ。自身が共同経営するローマの「bistrot64」では、ネオビストロのスタイルで人気を支える。2016年11月『ミシュランガイド・イタリア 2017』 にて二度目の一ツ星を獲得。イタリア料理のシェフとして二度の評価を得るに至った初の日本人となる。2017年には「テイスト・ザ・ワールド(アブダビ)」の最終コンペティションにローマ代表として出場し優勝。「ファロ」では、風情や旬を大切にする日本文化の中、イタリアで培ってきたことを東京・銀座で発揮し、自身の感性とチーム力で“お客さまが楽しむレストラン”を創り上げていく。

デザイン、美術、現代アートやモノづくりに興味を持ち、食の分野からパン・お菓子の道を選び進む。約10年間、「イル ルオゴ ディ アイモ エ ナディア」「イル・マルケジーノ」「マンダリンオリエンタルミラノ」(ミラノ)、「オステリア・フランチェスカーナ」(モデナ)など、イタリアの名立たるミシュラン星獲得店にてペイストリーシェフを勤める。「エノテカ・ピンキオーリ」(フィレンツェ)のチョコレート部門を経験。「ファロ」では、旅するように"特別な体験として脳裏に残るようなレストラン"を目指し、日本の自然や和のハーブをリスペクトしたデザートを提案。自家製酵母など原材料からこだわり、メニュー開発に取り組む。

住所: 東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル 10F MAP
電話:0120-862-150/03-3572-3911
※電話予約受付は11:00~22:00(営業日のみ)、2ヵ月先の月末分まで。
営業時間:ランチ/12:00~13:30(L.O.) , ディナー/18:00~20:30(L.O.)
定休日:日曜・月曜・祝日・夏季(8月中旬)・年末年始
https://faro.shiseido.co.jp/

津軽の老舗酒蔵発、北国の呑兵衛たちを温める“見習い杜氏”の情熱の酒。[TSUGARU Le Bon Marche・カネタ玉田酒造店/青森県弘前市]

酒造りで重要な工程のひとつ「精麹(せいきく)」は、蒸した米に麹菌を付着させ米麹を作る作業。「カネタ玉田酒造」玉田宏造氏の表情もおのずと真剣に。

津軽ボンマルシェお酒好きの県民をうならせる美酒が生まれる、弘前の日本酒蔵。

「青森県は短命県」。青森県に出向くとよく聞くのが、自虐と自戒を込めたそんな言葉です。平均寿命の全国最下位を長年独走中の青森県ですが、理由として挙げられるのが、塩分量の多い食生活や高い喫煙率、そして飲酒習慣者が多いこと。そう、青森県民は大のお酒好き。ゆえに、美味しいお酒が揃うのは当然かもしれません。美酒揃いのラインアップの中でも、昨今人気が上昇中なのが『カネタ玉田酒造店』の日本酒。10代目となる玉田宏造氏は、以前紹介した『弘前シードル工房 kimori』高橋哲史氏や『ビーイージーブルーイング』のギャレス・バーンズ氏らと並び、津軽の酒造りを牽引する期待の若手として語られることが多い存在です。

11月のある日、弘前城にほど近い蔵を訪ねると、中は仕込み作業の真っ最中。歴史を感じさせる立派な土蔵の内部にはほのかな日本酒の香りが漂い、心地よい緊張感が感じられます。レンガの外壁が印象的なのは、日本酒の質を決めるといっても過言ではない「米麹」を作るための部屋「麹室」。麹菌が元気に活動してくれる34℃にキープされた室内で、麹菌をまぶした米をほぐす「切返し」と呼ばれる作業が行われていました。

「米の水分が多いと麹菌の菌糸が中まで入りきらないから、うちでは最初から水分を飛ばして造るんです。今は県外から取り寄せた麹菌を使っていますが、来年青森県産の新品種の麹が開発されるらしいので、その内切り替えたいと思っています」。麹の話が止まらない宏造氏。「昔からあるのが『一麹、二酛、三造り』という言葉。まずはよい麹ありき、それくらい大切だということです。だから飲み会でも『今日麹の作業あるんで……』って言えば、最後までいなくて済むんですよ(笑)」とお茶目に笑います。そんな宏造氏がたった一度、ピリッとした表情を見せた瞬間が、9代目で社長の父・玉田陽造氏に話しかけられたときでした。曰く、「普段、父と会話することはあまりないんです」。多くを語らない職人肌の陽造氏と宏造氏、相反する個性が今の『カネタ玉田酒造店』を支えています。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

創業は330年以上前の江戸時代。津軽藩の藩士が藩主の命により酒造業を任され、お抱え酒屋となったのが始まりという歴史ある蔵だ。

蔵の一番奥まで進むと、存在感たっぷりに現れるレンガ作りの「麹室」。蒸した米に麹菌を付着、繁殖させる作業が行われる。

「切返し」後の米は製麹装置に。風を送って冷やしながら、麹菌の菌糸が米内部に伸びた「破精(はぜ)込み」という状態にする。

津軽ボンマルシェ学生時代の罰ゲームの体験が、日本酒造りの原点に。

宏造氏の名刺には、「カネタ玉田酒造店 取締役 見習い杜氏」の肩書が。杜氏とは、味の方向性から製造方法までを取り仕切る、いわゆる酒造りの責任者のこと。現在の杜氏は社長である陽造氏が務めますが、かつては他の多くの蔵がそうだったように、外部から杜氏を招いて酒造りを行っていたそうです。転機が訪れたのは1993年。大型の台風の影響で大打撃を受けたのが、津軽のりんご農家でした。当時は杜氏や蔵人の多くが、冬だけ酒造りの仕事に携わる兼業りんご農家。彼らの大多数が地方へ出稼ぎに出てしまったことで、急遽陽造氏が社長と杜氏を兼任することに。しかし、その後すぐに全国規模の日本酒の鑑評会で金賞を受賞するなど、陽造氏は大きな功績を残してきました。父のことを「昔ながらのザ・職人」と評する宏造氏ですが、そんな陽造氏の職人気質は、危機を乗り越えながら蔵を支えてきたプライドのあらわれなのでしょう。

一方、「子どもの頃から『いつかは家業を手伝うのかも』とは思っていましたが、本当に軽い気持ちで。その後も、特に将来の夢がなかったんです」と話す宏造氏。高校進学後の進路決めで「あれ? これって本格的に家を継ぐ状況なの?」と自分の運命を悟ったそう。とはいえ上京できるうれしさが先立ち、醸造の勉強のため東京農業大学へ進学。が、罰ゲームで飲まされた日本酒の味にショックを受けたといいます。「なんだか臭くて、自分から飲みたいとは思えない。自分の実家で造っているのもこういう酒なのかもしれないと思ったら、ショックでした」。宏造氏の酒造りの原点こそ、このときの体験。「自分が飲みたいと思える酒を造りたい」。取材中、宏造氏は自らの酒造りのスタンスを何度も繰り返し語りました。

大学卒業後は東京の食品関連の企業で働き、数年後に実家へ戻ってきた宏造氏。着手したのは、それまで陽造氏が手掛けてきた「津軽じょんから」、「津軽蔵人」などの人気銘柄に続く新たな銘柄、「華一風」の製造でした。

米麹の仕上がりを確認する宏造氏。数粒を口に含むと、優しい甘みが広がった。麹菌が米のデンプンを糖に変えている証拠。

麹菌が生み出す糖は、その後の工程で酵母菌に分解され、アルコールになる。目には見えない菌の力で美味しい日本酒が生まれる不思議。

向かって右側に並ぶのが、宏造氏が手掛ける「華一風」のシリーズ。味わいのイメージに合わせ、ラベルのデザインも一新した。

津軽ボンマルシェ飲むのも食べるのも大好き。だから造れる美味しさを求めて。

元々甘めの日本酒が好まれるとされる青森県。それまで『カネタ玉田酒造店』で造られてきた銘柄も、甘いタイプが主流だったそう。「いわゆるザ・地酒的な味わいの酒が多かったのですが、『華一風』はそれとは違うものにしたかった。名前の『華』は、原料の青森県産酒造好適米・華吹雪の頭文字。心地よい喉ごしを『一風』という言葉で表現しました」と宏造氏。さわやかな香りと豊かな旨みを湛え、飲んだ後にスパッと切れる酒。そんな自身の考えを父・陽造氏に伝えると、当初返ってきたのは案の定の大反対。しかし何とか説得して発売したところ、「華一風」は津軽の呑兵衛たちの心を鷲掴みに。今では『カネタ玉田酒造店』といえばこれといわれるまでの銘柄に成長しました。

普段から食べるのも飲むのも好きという宏造氏。「自分が飲みたいと思う酒造り」という信念の元で生まれる酒たちは、どれも食中に最適な味わいを持つのも納得です。そして食事に合う酒はまた、飲食店の店主たちからも大きく支持されてきました。ある日、東京にある人気居酒屋の店主から宏造氏に声が掛かります。「元々同い年で気が合う存在の人で、『一緒に何かやろう。お前が本当に造りたいのはどんな酒?』って聞いてくれて。『実はこういうのがやりたくて……』と提案したのが、この『斬(ざん)』なんです」と宏造氏。目指したのは、料理を極力邪魔しない、“地味”で目立たない究極の食中酒。元々その居酒屋のみで限定提供されていた「斬」は評判を呼び、年間5000ℓの少量生産ながら市販も開始することに。

「親父が造ってきた酒を変える必要はないと思うんです。ファンも付いているし。ただ食生活は変化してきている。それに合わせてニーズも変わります」。そう語る宏造氏のアイデアは、「華一風」しかり「斬」しかり、老舗蔵に新風を吹き込んできます。「昔はどんなことも、親父に相談しては反対されるの繰り返し。最近はゲリラ的にやってみるようにしています。まずは走ってしまえば、『やったぜ!』も『ごめんなさい!』も後から言えるから(笑)」と笑う宏造氏。きっと蔵に戻った頃の宏造青年が見たら、頼もしく成長した己の姿にびっくりするはずです。

現在は全体で約380石の日本酒を製造。一升瓶換算で38000本の量に値する。それでも蔵としては小規模。数名の蔵人と共に切り盛りする。

タンクに入った発酵中の醪(もろみ)からはぷちぷちとかわいらしい音が。菌が生きている証だ。「香りや泡から菌の状態を確認します」と宏造氏。

華吹雪に、同じく青森県産品種の米・まっしぐらを掛け合わせた「純米吟醸 華一風55」はあっさりした飲み口。ラベルデザインは地元のデザイナーに依頼。

控えめの香り、ほどよい酸味が特徴の「斬」は、宏造氏曰く「自分でも一番飲む酒」。ラベルは居酒屋『吉祥寺 魚秀』社長の満留秀人氏のデザインだ。

津軽ボンマルシェまだ道半ば。見習い杜氏、もとい10代目の挑戦はこれからも続く。

現在使われる酒造りの原料は、華吹雪や華想い、まっしぐらといった青森県産米、県内で開発されたまほろば華酵母、津軽富士と称される霊峰・岩木山の伏流水など、ほとんどが青森県のもの。さらに来年、予定通り麹菌を県産に切り替えれば、すべての原材料が青森県産に。「以前は代表的な酒造好適米の山田錦、それも特に質が高いとされる兵庫県産を使うこともあったんです。でも別の土地の米で作るなら、じゃあ“地酒”って何なの? と感じて。色々な考え方がありますが、やっぱり土地のものを使ってこそ地酒、それが一番自然なこと」と宏造氏。「しょっぱいものが好きでマイペース。自分も津軽人だなあと思います」。そう話す宏造氏が原点に立ち返って醸す正真正銘の地酒は、今後も津軽の人々から愛され続けることでしょう。

酒の味、原料の産地に続き、さらなる変革も起こるかもしれません。「たとえば玉田家は代々名前に『造』の文字が入ってきたけれど、僕は息子の名前に入れなかったんです。子どもたちには蔵を継がなくても、一回だけの人生、好きなことをして生きてほしい。それだけ酒造りは気持ちが大事で、情熱がいるもの。嫌々やるものじゃなく、楽しくやるべきものなんです。うちの蔵はこれまで社長がすべてを決めてきたけれど、これからは蔵人ひとりひとりが自分たちの名前で、プライドを持って楽しく仕事をできる環境を作りたい」。目指す味わいは譲らず、しかし醸造方法の工夫で仕込みの負担を減らすなど、「挑戦したいアイデアは色々あるんです」と力強く続ける宏造氏。

肩書は“見習い杜氏”、でも気概は10代目そのもの。宏造氏はこれからも、ときに父・陽造氏とぶつかりながら、アイデアを実現させていくに違いありません。「酒造りの道に進んでよかったとはまだ思えない。自分が思い描くようなチームで思い描くような酒が造れるようになったら、そう感じられるのかも」。真っすぐにそう語る表情から感じられたのは、酒造りへのひたむきな想い。津軽の酒は、まだまだこれから面白いことになっていきそうです。

理想は「毎日飲める価格で飲み疲れない酒」と宏造氏。同業者にも認められる酒蔵を目指す。

住所:青森県弘前市茂森町81 MAP
電話:0172-34-7506

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)

津軽の老舗酒蔵発、北国の呑兵衛たちを温める“見習い杜氏”の情熱の酒。[TSUGARU Le Bon Marche・カネタ玉田酒造店/青森県弘前市]

酒造りで重要な工程のひとつ「精麹(せいきく)」は、蒸した米に麹菌を付着させ米麹を作る作業。「カネタ玉田酒造」玉田宏造氏の表情もおのずと真剣に。

津軽ボンマルシェお酒好きの県民をうならせる美酒が生まれる、弘前の日本酒蔵。

「青森県は短命県」。青森県に出向くとよく聞くのが、自虐と自戒を込めたそんな言葉です。平均寿命の全国最下位を長年独走中の青森県ですが、理由として挙げられるのが、塩分量の多い食生活や高い喫煙率、そして飲酒習慣者が多いこと。そう、青森県民は大のお酒好き。ゆえに、美味しいお酒が揃うのは当然かもしれません。美酒揃いのラインアップの中でも、昨今人気が上昇中なのが『カネタ玉田酒造店』の日本酒。10代目となる玉田宏造氏は、以前紹介した『弘前シードル工房 kimori』高橋哲史氏や『ビーイージーブルーイング』のギャレス・バーンズ氏らと並び、津軽の酒造りを牽引する期待の若手として語られることが多い存在です。

11月のある日、弘前城にほど近い蔵を訪ねると、中は仕込み作業の真っ最中。歴史を感じさせる立派な土蔵の内部にはほのかな日本酒の香りが漂い、心地よい緊張感が感じられます。レンガの外壁が印象的なのは、日本酒の質を決めるといっても過言ではない「米麹」を作るための部屋「麹室」。麹菌が元気に活動してくれる34℃にキープされた室内で、麹菌をまぶした米をほぐす「切返し」と呼ばれる作業が行われていました。

「米の水分が多いと麹菌の菌糸が中まで入りきらないから、うちでは最初から水分を飛ばして造るんです。今は県外から取り寄せた麹菌を使っていますが、来年青森県産の新品種の麹が開発されるらしいので、その内切り替えたいと思っています」。麹の話が止まらない宏造氏。「昔からあるのが『一麹、二酛、三造り』という言葉。まずはよい麹ありき、それくらい大切だということです。だから飲み会でも『今日麹の作業あるんで……』って言えば、最後までいなくて済むんですよ(笑)」とお茶目に笑います。そんな宏造氏がたった一度、ピリッとした表情を見せた瞬間が、9代目で社長の父・玉田陽造氏に話しかけられたときでした。曰く、「普段、父と会話することはあまりないんです」。多くを語らない職人肌の陽造氏と宏造氏、相反する個性が今の『カネタ玉田酒造店』を支えています。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

創業は330年以上前の江戸時代。津軽藩の藩士が藩主の命により酒造業を任され、お抱え酒屋となったのが始まりという歴史ある蔵だ。

蔵の一番奥まで進むと、存在感たっぷりに現れるレンガ作りの「麹室」。蒸した米に麹菌を付着、繁殖させる作業が行われる。

「切返し」後の米は製麹装置に。風を送って冷やしながら、麹菌の菌糸が米内部に伸びた「破精(はぜ)込み」という状態にする。

津軽ボンマルシェ学生時代の罰ゲームの体験が、日本酒造りの原点に。

宏造氏の名刺には、「カネタ玉田酒造店 取締役 見習い杜氏」の肩書が。杜氏とは、味の方向性から製造方法までを取り仕切る、いわゆる酒造りの責任者のこと。現在の杜氏は社長である陽造氏が務めますが、かつては他の多くの蔵がそうだったように、外部から杜氏を招いて酒造りを行っていたそうです。転機が訪れたのは1993年。大型の台風の影響で大打撃を受けたのが、津軽のりんご農家でした。当時は杜氏や蔵人の多くが、冬だけ酒造りの仕事に携わる兼業りんご農家。彼らの大多数が地方へ出稼ぎに出てしまったことで、急遽陽造氏が社長と杜氏を兼任することに。しかし、その後すぐに全国規模の日本酒の鑑評会で金賞を受賞するなど、陽造氏は大きな功績を残してきました。父のことを「昔ながらのザ・職人」と評する宏造氏ですが、そんな陽造氏の職人気質は、危機を乗り越えながら蔵を支えてきたプライドのあらわれなのでしょう。

一方、「子どもの頃から『いつかは家業を手伝うのかも』とは思っていましたが、本当に軽い気持ちで。その後も、特に将来の夢がなかったんです」と話す宏造氏。高校進学後の進路決めで「あれ? これって本格的に家を継ぐ状況なの?」と自分の運命を悟ったそう。とはいえ上京できるうれしさが先立ち、醸造の勉強のため東京農業大学へ進学。が、罰ゲームで飲まされた日本酒の味にショックを受けたといいます。「なんだか臭くて、自分から飲みたいとは思えない。自分の実家で造っているのもこういう酒なのかもしれないと思ったら、ショックでした」。宏造氏の酒造りの原点こそ、このときの体験。「自分が飲みたいと思える酒を造りたい」。取材中、宏造氏は自らの酒造りのスタンスを何度も繰り返し語りました。

大学卒業後は東京の食品関連の企業で働き、数年後に実家へ戻ってきた宏造氏。着手したのは、それまで陽造氏が手掛けてきた「津軽じょんから」、「津軽蔵人」などの人気銘柄に続く新たな銘柄、「華一風」の製造でした。

米麹の仕上がりを確認する宏造氏。数粒を口に含むと、優しい甘みが広がった。麹菌が米のデンプンを糖に変えている証拠。

麹菌が生み出す糖は、その後の工程で酵母菌に分解され、アルコールになる。目には見えない菌の力で美味しい日本酒が生まれる不思議。

向かって右側に並ぶのが、宏造氏が手掛ける「華一風」のシリーズ。味わいのイメージに合わせ、ラベルのデザインも一新した。

津軽ボンマルシェ飲むのも食べるのも大好き。だから造れる美味しさを求めて。

元々甘めの日本酒が好まれるとされる青森県。それまで『カネタ玉田酒造店』で造られてきた銘柄も、甘いタイプが主流だったそう。「いわゆるザ・地酒的な味わいの酒が多かったのですが、『華一風』はそれとは違うものにしたかった。名前の『華』は、原料の青森県産酒造好適米・華吹雪の頭文字。心地よい喉ごしを『一風』という言葉で表現しました」と宏造氏。さわやかな香りと豊かな旨みを湛え、飲んだ後にスパッと切れる酒。そんな自身の考えを父・陽造氏に伝えると、当初返ってきたのは案の定の大反対。しかし何とか説得して発売したところ、「華一風」は津軽の呑兵衛たちの心を鷲掴みに。今では『カネタ玉田酒造店』といえばこれといわれるまでの銘柄に成長しました。

普段から食べるのも飲むのも好きという宏造氏。「自分が飲みたいと思う酒造り」という信念の元で生まれる酒たちは、どれも食中に最適な味わいを持つのも納得です。そして食事に合う酒はまた、飲食店の店主たちからも大きく支持されてきました。ある日、東京にある人気居酒屋の店主から宏造氏に声が掛かります。「元々同い年で気が合う存在の人で、『一緒に何かやろう。お前が本当に造りたいのはどんな酒?』って聞いてくれて。『実はこういうのがやりたくて……』と提案したのが、この『斬(ざん)』なんです」と宏造氏。目指したのは、料理を極力邪魔しない、“地味”で目立たない究極の食中酒。元々その居酒屋のみで限定提供されていた「斬」は評判を呼び、年間5000ℓの少量生産ながら市販も開始することに。

「親父が造ってきた酒を変える必要はないと思うんです。ファンも付いているし。ただ食生活は変化してきている。それに合わせてニーズも変わります」。そう語る宏造氏のアイデアは、「華一風」しかり「斬」しかり、老舗蔵に新風を吹き込んできます。「昔はどんなことも、親父に相談しては反対されるの繰り返し。最近はゲリラ的にやってみるようにしています。まずは走ってしまえば、『やったぜ!』も『ごめんなさい!』も後から言えるから(笑)」と笑う宏造氏。きっと蔵に戻った頃の宏造青年が見たら、頼もしく成長した己の姿にびっくりするはずです。

現在は全体で約380石の日本酒を製造。一升瓶換算で38000本の量に値する。それでも蔵としては小規模。数名の蔵人と共に切り盛りする。

タンクに入った発酵中の醪(もろみ)からはぷちぷちとかわいらしい音が。菌が生きている証だ。「香りや泡から菌の状態を確認します」と宏造氏。

華吹雪に、同じく青森県産品種の米・まっしぐらを掛け合わせた「純米吟醸 華一風55」はあっさりした飲み口。ラベルデザインは地元のデザイナーに依頼。

控えめの香り、ほどよい酸味が特徴の「斬」は、宏造氏曰く「自分でも一番飲む酒」。ラベルは居酒屋『吉祥寺 魚秀』社長の満留秀人氏のデザインだ。

津軽ボンマルシェまだ道半ば。見習い杜氏、もとい10代目の挑戦はこれからも続く。

現在使われる酒造りの原料は、華吹雪や華想い、まっしぐらといった青森県産米、県内で開発されたまほろば華酵母、津軽富士と称される霊峰・岩木山の伏流水など、ほとんどが青森県のもの。さらに来年、予定通り麹菌を県産に切り替えれば、すべての原材料が青森県産に。「以前は代表的な酒造好適米の山田錦、それも特に質が高いとされる兵庫県産を使うこともあったんです。でも別の土地の米で作るなら、じゃあ“地酒”って何なの? と感じて。色々な考え方がありますが、やっぱり土地のものを使ってこそ地酒、それが一番自然なこと」と宏造氏。「しょっぱいものが好きでマイペース。自分も津軽人だなあと思います」。そう話す宏造氏が原点に立ち返って醸す正真正銘の地酒は、今後も津軽の人々から愛され続けることでしょう。

酒の味、原料の産地に続き、さらなる変革も起こるかもしれません。「たとえば玉田家は代々名前に『造』の文字が入ってきたけれど、僕は息子の名前に入れなかったんです。子どもたちには蔵を継がなくても、一回だけの人生、好きなことをして生きてほしい。それだけ酒造りは気持ちが大事で、情熱がいるもの。嫌々やるものじゃなく、楽しくやるべきものなんです。うちの蔵はこれまで社長がすべてを決めてきたけれど、これからは蔵人ひとりひとりが自分たちの名前で、プライドを持って楽しく仕事をできる環境を作りたい」。目指す味わいは譲らず、しかし醸造方法の工夫で仕込みの負担を減らすなど、「挑戦したいアイデアは色々あるんです」と力強く続ける宏造氏。

肩書は“見習い杜氏”、でも気概は10代目そのもの。宏造氏はこれからも、ときに父・陽造氏とぶつかりながら、アイデアを実現させていくに違いありません。「酒造りの道に進んでよかったとはまだ思えない。自分が思い描くようなチームで思い描くような酒が造れるようになったら、そう感じられるのかも」。真っすぐにそう語る表情から感じられたのは、酒造りへのひたむきな想い。津軽の酒は、まだまだこれから面白いことになっていきそうです。

理想は「毎日飲める価格で飲み疲れない酒」と宏造氏。同業者にも認められる酒蔵を目指す。

住所:青森県弘前市茂森町81 MAP
電話:0172-34-7506

(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)

京都屈指の茶源郷へと誘う、一棟貸しの京町家宿。[季楽 京都 本町/京都府京都市]

伝統的な京町家の趣を生かしつつリノベーション。

季楽 京都 本町コンセプトは『Road to Wazuka 和束町に行きたくなる場所』。

京阪本線七条駅から徒歩4分、近くには三十三間堂や京都国立博物館などの観光名所が立ち並ぶ東山区本町に、2018年12月にオープンした「季楽 京都 本町」。築70年以上の京町家を改修した一棟貸しスタイルの宿として、国内旅行客はもちろん、訪日外国人観光客にも人気を博しています。

その理由は、何も京都観光に便利な立地や、京町家独特の雰囲気のみに留まりません。当宿は、京都有数のお茶処である和束町に行きたくなる場所『Road to Wazuka』というコンセプトを持って誕生。施設内には和束町を感じさせるさまざまな仕掛けが施され、他の京町家宿泊施設とは一線を画す、独特の存在感を放っているのです。

駅や名所の近くながら閑静な住宅街に佇む一軒。

季楽 京都 本町別名・茶源郷とも呼ばれる和束町に魅せられた人々がタッグを組んで。

京都市内中心部から南へ車で1時間程の場所に位置する和束町は、800年以上続く宇治茶の産地。現在も京都府のお茶の生産量の約半分を占める、宇治茶の最大生産地として名高い街です。

そして当宿のオーナーである喜多見すみ江氏は、町全体に茶畑が広がる美しい風景と豊かな自然に惹かれてこの地に移り住み20年以上という、正真正銘『和束の人』。3年程前には、当宿と同じ敷地内で空き家となっていた町家を改装し、和束町産のお茶とお菓子を楽しめるカフェ『きっさこ 和束』をオープンさせて和束町の魅力発信に努めてきました。

そんな中、カフェに隣接する町家も空き家になったことで、新たな活用法を模索。縁あって、町家をリノベーションした高級旅館・高級一棟貸し宿を運営する『株式会社NAZUNA』、古民家再生をファイナンス面で支える『Kiraku Japan合同会社』、不動産のクラウドファインディングを行う『株式会社クラウドリアルティ』、展示空間や商業空間、イベント空間の企画・デザインを手掛ける『株式会社乃村工藝社』がチームを組み、『Road to Wazuka』の旗印の下、クラウドファンディングで賛同者から資金調達を行う形で当宿が生まれました。

当宿の入口部分にあたるカフェ『きっさこ 和束』。

オーナーの喜多見氏と、空間プロデューサーの乃村工藝社・山野恭稔氏。

季楽 京都 本町和束町ならではの光景をオリジナリティ溢れるアートワークで大胆に再現。

入口の扉を開けると、目の前に広がるのは昔ながらの土間。2階まで吹き抜けの高い天井を見上げると、アーティスティックな照明が目に留まります。これは、和束町でかぶせ茶を生産する際に使用される遮光シートを活用して作られたもの。宿に一歩足を踏み入れたその瞬間から、和束町由来のおもてなしが始まっているのです。

そんな土間を抜けると、砂利敷きの枯山水庭園を模した空間にベッドを設えたユニークな主寝室がお目見え。その一角で圧倒的な存在感を醸し出す大きな岩のアートワークは、和束町で最も有名な石寺の風景をモチーフに作られたものです。ベッドに横になれば、まるで和束の大地で寝転がっているかのような感覚を味わうことができます。

かぶせ茶作りの道具を玄関照明にアレンジ。

和束町の空気を体感できる斬新な演出のベッドルーム。

季楽 京都 本町お茶処・和束の歴史を感じるインテリアに包まれながら一服を。

2階に広がるのは、茶室をイメージしたリビングルーム。フローリングながら床の間があり、ソファとテーブルが置かれた和洋折衷の空間です。そしてここには、かつて和束町のお茶農家が実際に使用していたという茶箱を譲り受け、リメイクしたティースタンドが鎮座しています。

壁面には、同じくかつて和束町のお茶農家がお茶を海外輸出する際、木箱に貼っていたという柄をモチーフに作られたグラフィックが。生地には京都の西陣織、中でも美しいプリントが叶うネクタイ生地が使用されており、空間に彩を添えています。
棚には清水焼の茶碗をはじめとした茶道具も揃っているので、ここで和束町の歴史に思いを馳せながら一服すれば、より一層和束町に行きたくなるモチベーションが醸成されることでしょう。

また、床の一部は透明なガラス張りになっており、真下に広がるベッドルームを一望。枯山水庭園を真上から見下ろす視点が新鮮です。

味わい深い茶箱もインテリアの一つとして映える床の間。

いくつもの茶箱を組み合わせたティースタンド。

輸出の際に使用されていた茶箱のラベルデザインを再生。

目を凝らすと美しい西陣織の生地であることがわかる。

茶道具も一式揃い、実際に使用してお茶を楽しむことも。

和束町を俯瞰するかの如くガラスの床越しに階下を眺める。

空間に込めた仕掛けを伝える説明書も用意。

季楽 京都 本町一棟貸しならではの完全プライベート空間を心行くまで満喫。

印象的なベッドルームとリビングルーム以外にも、1階と2階それぞれに和室を用意。い草が香る畳敷きの空間で、寛ぎのひと時を過ごせます。
さらに、屋外の坪庭には露天風呂を完備。好きな時間に好きなだけ、プライベートな湯浴みを楽しめます。
また、室内の至るところにさりげなく飾られた花器にもぜひ注目を。これらは、オーナーをはじめ、当宿のプロジェクトに関わったメンバーで近所にある清水焼の工房『豊仙窯』を訪れ制作した作品となっています。

どこまでもさりげなく、でも確実に和束町を感じられる空間演出が成された『季楽 京都 本町』。ここに滞在し、和束町のことをもっと知りたいと思ったら、是非現地に足を運んでみてください。

1階の和室。手足を伸ばしてのびのびと寛げる。

2階の和室はセカンドベッドルームとしても使用可能。

風情漂う坪庭の露天風呂。旅の疲れが癒される。

随所に見られる花器は、各スタッフお手製の清水焼。

チェックインは『きっさこ 和束』で抹茶接待と共に。

住所:京都市東山区本町5-187-1  MAP
電話:075-253-6776
料金:2名1室4万6,000円~
https://www.nazuna.co/ja/property/honmachi-gochome

ふるさとを想う気持ちが紡いだ島の歴史。東京の秘境、青ヶ島に息づく“還住”の精神。[東京“真”宝島/東京都 青ヶ島]

東京"真"宝島OVERVIEW

荒々しい黒潮が打ちつける断崖絶壁に囲まれた、まさに絶海の孤島。青ヶ島は、伊豆諸島の最南端に位置する有人島です。
都心から南下すること約360キロ、渡島手段は八丈島発1日9名限定のヘリコプターか連絡船のみ。さらに連絡船は高波で着岸できないことも多く、港への就航率は5割ほどということから旅行者の間で“選ばれし者だけが上陸できる島”と囁かれるようになったと言います。
その最大の特徴は、世界的にも珍しい二重式カルデラ火山が織りなす特異な地形。これは、度重なる噴火により形成された偶然の産物です。いつしかこの地に流れ着いた人々は、時に島のもたらす豊かな恩恵にあずかりつつ、また時に抗いがたい自然の脅威と対峙しながら島と歴史を共にしてきました。

この島を語る上で忘れてはならないのが、1785年に起きた「天明の大噴火」。噴き出す溶岩に全てが飲み込まれ、200人を超す島民たち皆が八丈島へ避難せざるを得なくなった未曾有の大災害に、島はその後長きにわたり無人となったのです。
そこから島民たちの、艱難辛苦の日々が始まりました。
遠く故郷を離れ、来る日も来る日も海の向こうへと想いを馳せるその胸中はいかばかりだったでしょう。幾度も島に船を向けては、荒波に上陸を阻まれてきました。

弛まない努力の末、島民が復興を果たし完全に青ヶ島へと戻れたのは、大噴火が起きてからなんと50年後のこと。彼らの帰還を後に民俗学者の柳田國男氏は、自身の著書で“還住(かんじゅう)”と称しました。一度居住地を去った者が、再び故郷に戻り住むことを意味するその言葉は、島民の心に深く刻まれることになったのです。
還住が成し遂げられたのは1835年。もはや当時を知る者は、誰もこの世に生き残ってはいません。それでも、還住の精神は現在島に暮らす人々に受け継がれています。

今、島の人口は約170人。
高校のない青ヶ島では、15歳になるとほとんどの子供たちが島外へと旅立っていきます。

そこから5年後に戻って来る者、20年後に戻ってくる者、あるいは二度と戻って来ない者。
いずれにしても、一人ひとりの中に望郷の念があり、還住の物語があるのです。

島を訪れるということは、単に美しいものを見たり観光名所を巡ったりすることではなく
脈々と継承されてきた人々の想いに共鳴するということなのでしょう。

自分はどこへ還ろうか──。

青ヶ島の真の姿に触れたなら、そんなことをふと考えずにはいられなくなるはずです。

【関連記事】東京"真"宝島/見たことのない11の東京の姿。その真実に迫る、島旅の記録。

(supported by 東京宝島)

名もなき岩上に生きる松と海のアンサンブル。日本三景にも引けを取らない粋な島。[東京”真”宝島/東京都 式根島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 空撮:田中道人 音楽:木下伸司

東京"真"宝島

伊豆諸島最小のアイランドには、日本の美学が凝縮されていた。

島の面積は約3.7㎢、外周は約12km。ゆえに、歩いて周ることも可能な式根島は、伊豆諸島の有人島の中でも最小の島です。
「上空からの映像でも島のディテールを一番良く撮れた島だと思います。起伏も少なく、一番高いところでも標高99mの神引山。すごくフラット。このサイズ感がとても心地良く感じました」。
中でも、式根島の印象は、「松」だったと話します。

「式根島では、色々なところで松に出合いました。例えば、石白川海水浴場にあった名もなき小さな岩に生えた松が僕はとても印象に残っていて、そこに日本の美の凝縮を感じたんです。その規模は違えど、海の青と松の緑、その対象の妙という意味では、松島、天橋立、宮島の日本三景にも引け取らない景色だったと思います。松は歴史的にも日本の景色を彩ってきた植物のひとつ。その単体の美しさはもちろんですが、風景としての美しさをより際立たせる立役者です。式根島は、松の似合う粋な島だと思います」。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

伊豆諸島の有人島で最小の式根島。島に人が住み始めたのは、紀元前6500年ころ(縄文時代の中期)とされている。

「海を舞台に岩に松。日本の美しさがそこにはある」と中野監督。

「石白川海水浴場にもいい松の岩があるんですが写真の小島は釜の下海岸です。」

今回の映像のトップビジュアルは、太陽の光に煌めく海と松のシルエットから始まる。

東京"真"宝島優しく奏でる波音。湾に守られた穏やかな海に心身が開放される。

「小さな島ですが、形は非常にアグレッシブ。芸術的な島のアウトラインには、湾が多くあり、静かにのんびりと海を楽しめるところが多いと思います。中の浦海水浴場、大浦海水浴場、泊海水浴場、石白川海水浴場……。こんなに穏やかな海水浴場がひとつの島に集まっているところは稀なのではないでしょうか。浅瀬には綺麗な魚も泳いでいます。シュノーケリングも楽しいと思いますよ。あとは、何より子供にとって安全な海。家族連れにも最適です」。
また、「大浦海水浴場」は夕日のスポットとしても知る人ぞ知る名所。水平線に陽が沈みゆく様もまた、絶景です」と勧めるも、「でも、個人的には釜の下の荒々しい感じも好きですよね」と笑みを浮かべて話します。式根松島とも呼ばれるその風光明媚な海岸に、中野監督は心惹かれるようです。

そして、中野監督は、式根島の海の色にも注目しています。
「式根島の海は多彩色だと思いました。他島では、概ねその島には海の色の特徴があって、それがエメラルドグリーンだったり、深いブルーだったり。ですが、式根島には、その両方はもちろん、波の色も白く濃くそれがアクセントになり、生き生きと豊かな海の色だという印象です」。

独特な形状の島。俯瞰してみることにより、湾が多くあるリアス海岸であることも視覚的に理解できる。

標高99メートルの低山「神引山」の展望台から見る景色。手前より、「神引浦湾」と「中の浦海水浴場」。

式根島の中でも人気のビーチ「中の浦海水浴場」。浅瀬でシュノーケリングも楽しめ、手前でもサンゴなどの生き物と遭遇できる。

波が穏やかなので、子供も安心して楽しめる「泊海水浴場」。白い砂浜が海の色彩をより美しく際立たせる。

 かつて海水から塩を取り出す釜があったことから「釜の下」と呼ばれる。海岸付近にはキャンプ場も用意。

砂浜と岩場があるため、海水浴と磯遊びの双方が楽しめる「大浦海水浴場」。その名は、平家の落ち武者大浦又次に由来されているとか。

「大浦海水浴場」は夕日が美しいスポットとしても有名。陽が沈みゆく時間をゆっくりと堪能するのもお勧め。

浅瀬に光が射し、透き通るほどクリアな海の中には悠々と魚が泳ぐ。

海のエメラルドブルーと白波のコントラストが海面に表情をもたらす。

東京"真"宝島島は小さくても歴史は深い。自然の力と人の力、その熱き想い。

島の側面の一部を白く形成する場所があります。「唐人津城」です。“城”と言っても、お城ではありません。
「こもれびの森という場所を抜けた先に唐人津城はあります。“津城”とは“ヅシロ”と読み、人や魚が集まる場所という昔の言葉だそうです。そこから見える景色も美しいのですが、僕がここで気になったのはそこに生息する植物の存在でした」。
月の地表のように荒涼とした砂地が広がるそこは、その大地がむき出しになる場所と木々が生い茂る場所が二極化されています。

「海沿いの岸壁には、強い潮風が吹いてしまい、植物は育たない環境にあります。雨になればその岸壁が削られてしまうこともあり、もし植物が育ったとしても根を張ることができない。頂上の日当たりが良い場所でも水がないと生きていけず、どうすれば生きていけるのか追い求めている姿に心を打たれてしまいました。中には5mmくらいの小さな植物もちらほら。でも、それって生きていける地に偶然たどり着けた奇跡なのだと思うんです。自然は予測不能なため、環境に合わせて生きていくしかありません。そこで生きる潔さと生命に自然の力を感じました」。

景色はもちろん、大地を通して島のビオトープを感じ、小さな植物が懸命に生きる尊さに着眼する中野監督のそれは、独特の視点です。
「そして、高森灯台。野伏港と小浜港の中間にある石油ランプ式のそこは、何がすごいかというと、ここに続く約200の石段を75歳のお婆さんが88歳になるまで積み上げ続けたという話を伺ったことです。驚愕です」。
そのお婆さんの名前は、宮川タンさん。1930年当時のことだそうです。そこには、高森観音も建立され、今なお、航海安全や家内安全、安産を祈願されています。
中野監督が感じ取った自然の力と人の力は、奇しくも大地にありました。目線を上げた景色ばかりの美しさではなく、目線を下げた大地にも島の物語は潜んでいるのです。

どこか違う星に彷徨ってしまったような錯覚すら覚える「唐人津城」。非日常の世界が広がる。

 宮川タンさんが積み上げてきた石段からなる「高森灯台」。完成後も杖と石油を持ち、毎日石段を登るタンさんの姿は多くの人に感銘を与えたと言われており、その逸話は児童文学書『小さな島の小さな星』として出版される。

東京"真"宝島かわいい猫と憎めない牛。余談ですが、微笑ましい出合いをほんの少し。

撮影中、中野監督は山頂や森、船や海岸ばかりにいるわけではありません。街を歩き、島民に触れ、街を感じています。
「式根島の街を散策していたら、可愛い猫に出会いました」という猫は、映像の冒頭に出演!
そして、猫の次は牛の話題に。
「島には牛乳せんべいをしばしば目にするのですが、島ごとに少し違いがあるんですよね。式根島の牛乳せんべいはパッケージのデザインが秀逸! この牛、可愛くないですか! 思わずお土産に買ってしまいました(笑)。撮影で疲れた心身に束の間の癒しを頂きました。こんな出合いもまた、島の醍醐味ですね」。

街を散策していたら、ひょっこり歩み寄ってきた猫たち。因みに、中野監督は猫派。

 思わず手に取ってしまった牛乳せんべい。「CDやレコードに例えるなら、完全にジャケ買い!」。

小さいながらも島が持つ特有の力強さはしっかりと感じる「式根島」。荒々しい地表は、古くから生きてきた証。

 ゆっくりと砂浜を散歩するように撮影する中野監督。「式根島にある海は全て静かでゆっくりとした時間が流れていた」。


(supported by 東京宝島)

「新しいのに完成度が高い酒」──『Florilege』川手寛康シェフが見た『加温熟成解脱酒』と、その魅力を引き出す料理の開発。[加温熟成解脱酒・Florilege/東京都港区]

緻密な計算と大胆な発想が同居することで、フランス料理でありながら他に類を見ない料理を生む川手シェフ。

フロリレージュ3名のトップシェフが挑んだペアリングメニュー開発の第三弾。

『加温熟成解脱酒』──その聞き慣れぬ名前の日本酒は、古酒の深い香りとフレッシュな味わいを併せ持つ奇跡の酒。『秋田酒類製造株式会社』の独自技術により生み出されるこの日本酒は、日本に先駆けて展開されたパリで、そして満を持して登場した日本各地で活躍する多くの料理人をも魅了してきました。

そして今回、さらに『加温熟成解脱酒』の魅力を引き出すべく、3名のトップシェフが立ち上がりました。一人目は中華料理からのアプローチで酒の香りに寄り添った大阪『AUBE』の東浩司シェフ。二人目は九州の力強い食材を使ったフレンチで酒のポテンシャルを引き出した『La Maison de la Nature Goh』の福山剛シェフ。そして最後の一人となる今回は、日本の食材や食文化をフランス料理の技法を通して伝える東京・青山の名店『Florilege』川手寛康シェフです。

古酒と新酒の魅力を併せ持つ『加温熟成解脱酒』は、いわば時間という概念を飛び越えた存在。そこにジャンルの枠を飛び越えて料理の広がりと奥行きを表現する川手シェフの料理がどう寄り添うのか。期待の尽きない未知のマリアージュ、その詳細をお知らせします。

【関連記事】加温熟成解脱酒/パリで話題! ベールを脱いだ『加温熟成解脱酒』という新たなる日本酒の挑戦。

『加温熟成解脱酒』は、酒に造詣が深い川手シェフをして「新しい酒」と言わしめた。

フロリレージュ『加温熟成解脱酒』を口にした川手シェフの印象。

「これまでにない、おもしろいラインの酒」
川手シェフは『加温熟成解脱酒』の第一印象をそう語りました。
「新しい酒なのに、完成度が高い。シェリーに似た部分はありますが、やはり少し違います。糖度も保ち、ボリューム感もあり、しかもすっきりしていますから」
酒そのものの質に手放しの称賛を寄せる川手シェフですが、「正直にいうと、クオリティを感じると同時に、“参ったな”とも思いました」と振り返ります。それは存在感があるがゆえの、コースの中での立ち位置について。
「糖度があるから、前半で行くと流れが切れてしまいます。ボリューム感ある味わいは、前半の軽い料理よりもメインの方が合う。しかしフレンチのメインにはやはりワインが必要。どこで出すか、という点だけは少し迷いました」

しかしもちろん、迷ったのは“少し”のこと。やがて照準を定めると、そこからはアイデアがあふれます。メインでないなら、合わせるのは魚。しかしただの白身では弱い。マグロでもない。ならばカツオかサーモン?香りを入り口にマリアージュを狙うならば、スモークが良い。フレンチにはスモークサーモンという基本がある……。トップシェフの脳内には、瞬間的にさまざまな選択肢が浮かびました。そしてスモークサーモンを軸にした料理の道筋が見えてきたのです。

滑らかなテクスチャと美しい琥珀色は古酒そのもの。

フロリレージュ

食材と生産者への敬意が、唯一無二の味を生む。

料理の完成像に迫る前に、川手シェフの背景を紐解いてみましょう。

「アジアのベストレストラン50」「ミシュランガイド東京」でも高い評価を得る『Florilege』は2009年、川手シェフ31歳の頃にオープンしました。東京の名店を経て渡仏し、帰国後は『Quintessence』のスーシェフを務めた川手シェフの独立店だけに、当初から期待値の高い店でした。

川手シェフの目指す場所は、学んできた料理の再構築だけでは終わりませんでした。日本の食材だけを使い、日本という地で、川手シェフにしか作り得ないフランス料理を作る。その答えも終わりもない道を歩み始めたのです。

その根源にあるのは、食材と生産者の敬意。「生産者の思いを伝えること」を命題にした料理は、古典的フランス料理とは一線を画すフリーダムなスタイル。それでも身につけた古典の技術と知識が土台を支え、まごうことなきフランス料理の枠に着地しているのです。
『Florilege』が“予約の取れない店”“東京を代表する名店”となるのに、そう時間はかかりませんでした。

2015年に移転した『Florilege』は、厨房をぐるりとカウンター席が囲むスタイル。“川手劇場“と呼ばれたこの形も、「この形が生産者さんの思いを伝えるのに一番だと思った」といいます。
現在、川手シェフが追求するサスティナビリティも、食材と生産者への敬意のあらわれ。今も川手シェフは、日本各地の食材を見つけ出し、自身の持てる技術を注ぎ込み、唯一無二の料理を生み出しています。

厨房を取り囲むカウンターがまるで劇場のような印象を与える『Florilege』。現在改装の予定もある。

「アジアのベストレストラン50」の栄誉は4年連続。おいしさだけではなく、ホスピタリティなども優れていることの証。

面倒見の良い兄貴肌でさまざまな若手料理人にも慕われている。

フロリレージュ香り、味、余韻。すべてにはまる酒と料理のマリアージュ。

さて、そんな川手シェフが『加温熟成解脱酒』✕スモークサーモンという図式で生み出した料理。その軌跡をたどってみましょう。

「料理で最初に入ってくるのは香りです。味を感じる以前にまずこの酒の香りが伝わると、ゲストは熟成感がある酒だと捉えます。だからキレイなままのサーモンではなく、マリネして燻製をかけました。味のバランスを取る意識ではなく、酒と料理が互いを認め合うイメージです」
歯切れが良い川手シェフの言葉は、料理の道筋を端的に伝えます。
「味わい自体は甘みもあるので、脂の乗った一般的なサーモンでは合いません。そこでマスとの掛け合わせで生まれた西米良のサーモンを選びました。このサーモンは脂がしつこくなく、スッと消えます。そしてアフターのトーンが『加温熟成解脱酒』と似ているんです」

緻密な計算は続きます。
「しかし『加温熟成解脱酒』の味のトーンはしっかりしているので、料理の味自体を軽くしようとは思いませんでした」と、スモークサーモンと柿、生姜のスライスのなかにはサーモンやハラミ、エシャロット、アサツキ、ピータンのタルタルを潜ませます。下には燻製にしたジャガイモのピューレ、上にはイクラとキャビア。複雑な構成要素が、器に張られたキノコの出汁のどっしりとした土っぽさに支えられます。
そして『加温熟成解脱酒』と合わせれば、入り口の香り、味わい、そして余韻まで、すべてにピタリとはまるのです。そのマリアージュはまさに圧巻。川手シェフの技と同時に『加温熟成解脱酒』のさまざまな魅力を一度に感じられる組み合わせです。

この料理と『加温熟成解脱酒』は、1月中旬までのペアリングコースで提供されます。『Florilege』の予約が取れた幸運な方は、ぜひこの背景を念頭に、この見事なマリアージュをお楽しみください。

香りとアフターの2点に着目し、組み立てられた料理。西米良サーモンは、川手シェフが古くから信頼を寄せる食材。

多彩な食材を使用しながら、明確な味の芯がある料理。香り、味、余韻と時間差で変わる『加温熟成解脱酒』の魅力と調和する。

「まずは熟成香と燻香という香りのマリアージュを楽しんでほしい」と川手シェフ。

住所:〒150-0001  東京都渋谷区神宮前2-5-4 SEIZAN外苑B1 MAP
電話:03‐6440‐0878

1978年東京生まれ。料理一族の家庭に育つ。高校卒業後、名立たる名店で修行を積み、2006 年に渡仏。モンペリエの「ジャルダン デ サンス」で修業。2007年帰国後、「カンテサンス」にてスーシェフとして活躍する。2009年に独立し、南青山にて「フロリレージュ」をオープン。どんな食材も無駄なく使うことで、料理からサスティナビリティーのメッセージを発信している。ASIA’S 50 BEST RESTAURANT 2016では、今「一番の注目店」である「One to Watch Award」を受賞。 続く2017年には14位、2018年には3位、2019年には5位にランクインし、日本を代表するレストランとして存在感を発揮している。


(supported by  秋田酒類製造株式会社)

例えばハワイ、タヒチ、マウイ。世界のビーチと比べても、それに負けない波と海の力が新島にはある。[東京”真”宝島/東京都 新島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:大沼和也・佐藤宏 音楽:木下伸司・Borrtex サーファー:富田桂介

東京"真"宝島

幾十もの波が重なる海の交差点。それはまるで美しいレースのようだった。

「僕は、世界中のプロサーファーを30年近く撮り続けており、色々なビーチに行きました。ですが、国内外を問わず、羽伏浦海岸のように長いビーチは珍しいと思います。ましてや波も良く海も島も美しい。サーファーに愛される理由も良くわかります。ハワイやタヒチ、マウイなどと比べても、十分価値のある海だと思います」。
そう語る中野裕之監督は、「新島ではひたすら海を撮っていた」と言います。

島の南北に広がる約7kmの「羽伏浦海岸」は、新島のシンボル的存在であり、サーフスポットとして有名な聖地。白亜のメインゲートを抜ければ、その先には波の絶景が広がります。
「新島の波は独特だと思います。例えば、陸に向かって真っ直ぐ来る波はもちろんですが、縦から横から斜めからと予測不能な波が行き交います。上空から見ると良く分かるのですが、まさに波の交差点のよう。幾十にも折り重なり、まるで美しいレース生地のようでした」。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

太平洋から打ち寄せる力強い波に魅了され、国内外からサーファーが集まる新島。中野監督曰く「波に愛された島」。

全長約7kmに伸びる「羽伏浦海岸」。プロサーファーも訪れるほど、サーファーのメッカであり、聖地。

まるで神殿のような「羽伏浦海岸」のメインゲート。サーフィンなどの大会が開催される時には、この建物の上が審査する場にもなると言う。

東京"真"宝島海ともうひとつ。新島を印象付ける白い絶壁を目の当たりにする。

新島は、縄文時代から人が住んでいたことが、本村や若郷の遺跡発掘物によって明らかにされていると言います。島は古代から自然の影響を多大に受け、886年の向山噴火では全島が真っ白になるほど、火山灰に覆われたそうです。
そんな火山灰の地層がむき出しになった巨大な絶壁、それこそが「白ママ断崖」です。
「“ママ”とは、崖を意味する新島の方言だとお聞きしました。そういう島特有の名称も、歴史や文化を継承していることだと思いました」。
高さ約30〜250mの崖が約7kmに渡り続くここは、波や雨風による侵食も激しく、日々刻々とその姿を変化させています。
「雨が流れる筋ができ、彫りも現れてきます。今日撮っても天候次第では明日には全く違う景色になってしまうのが、“白ママ断崖”。また、この崩れてしまった火山灰が砂浜に流れ、寄せては返す波の跡がくっきりと残るのもこの海岸の特徴なのだと思いました」。
「白ママ断崖」は、国立公園特別保護地区にも指定されているも、景色の変化が否めない稀有な場所でもあるのです。

断崖の白と海の青のコントラストが美しい風景を形成する「白ママ断崖」。

砂浜の波跡がここまでくっきり残るのも珍しいビーチ。海の色は火山灰が混じることも手伝い、ミルキーブルー。

東京"真"宝島波に始まり、海に終わる。似て非なる両者による映像の愛と力。

今回、この新島の映像作品に付けられたタイトルは、「波に愛された島」であり、最後には、「海の力を感じる島」というメッセージがあります。
つまり、今回、中野監督は、それほどまでにとにかく新島の波と海に魅了されたのです。
「新島の波は、ずっと見ていても飽きないんですよね。本当に動きと表情が豊かで。そんな様々な波を見て頂ければと思い、色々な側面から波を撮っています」。
陸から、海から、空から。多彩な角度で撮る波の映像美はもちろんだが、映像音に波音を重ねている効果も大きい。目と耳で感じる波は、静かに心を浄化していきます。そして、映像開始から約5分。音楽が切り替わり、より波にフォーカスした映像と朱色に染まりゆく夕刻への時の流れが、ゆっくりとクライマックスへと誘います。海の中に潜るようなラストシーンは、まるで自身も海とひとつになったような感覚すら覚えるでしょう。

波に始まり、海に終わる。
海から生まれた波が、また海に還る。当たり前の美しさこそが、自然の美しさなのです。

透明度が高く、海水浴にも人気なのが「間々下海岸」。近くに温泉もあり、観光としてもお勧め。中央の突起した島は「鳥ケ島」。

「間々下海岸」の海岸前には「鳥ケ島」がそびえる。潮の引いた時には陸続きになり、上陸も可能。

「淡井浦海岸」もサーフスポット。神聖な場所と言い伝えられているゆえ、漁業などは行われていない海としても知られる。

東京"真"宝島また新島へ訪れたい。そう語る中野監督のふたつの理由。

新島は大学生の時にも訪れたことがあった中野監督ですが、その時の印象と今回の印象はまるで異なると言います。
「学生のころに行った時の新島は、僕の中では山下達郎さんの音楽が鳴っていた。プリミティブなんだけど、どこか明るくて。でも今回は『ゴッドファーザー』の愛のテーマみたいな。マーロン・ブランドのように強固な印象でした。何でなんだろう……。僕が変わったのか……」。

それを確かめる意味でも再訪してみたいと言うも、ひとつ目の理由は波。
「冬の新島に訪れてみたいのです。なぜなら、その時期は、西からの風が強く吹き、波のサイズも良く、チューブやうねりを狙って来るサーファーも少なくないと聞きます。その時の波を見てみたくて」。
春夏秋冬、その季節によって景色や気温の変化がいわゆる四季の移ろいだが、新島では「波の変化を記録したい」というのが監督の視点です。

そして、ふたつ目の理由は食事。
「今回、色々な事情が重なり、新島で島のご飯を食べることができなかったのです。やっぱり旅と食事はセット。食事には、その島の文化や歴史が込められていると思います。その土地で採れた食材を島ならではの伝統的な調理法で作られた味は、きっとその旅を印象付けてくれるでしょう。だから、ご飯を食べないことには、本当の意味で新島へ訪れたとは言えませんからね!(笑)」。

(supported by 東京宝島)

『DINING OUT』で芽生えた地元への誇り、地元の絆。それが形となり、あの感動が蘇る。[DINING OUT TOTTORI-YAZU REVIVAL/鳥取県八頭町]

2019年11月に地元の力だけで2日間限り開催された「DINING OUT TOTTORI-YAZU RIVIVAL」。

ダイニングアウト鳥取八頭リバイバル地元スタッフが再び集結し、自らの手で『DINING OUT』を作り上げる。

2019年11月。鳥取県八頭町で『DINING OUT TOTTORI-YAZU REVIVAL』が開催されました。それは昨年の『DINING OUT TOTTORI-YAZU with LEXUS』で出会った地元スタッフが再び立ち上がり、手探りで一から作り上げたもうひとつの『DINING OUT』。地元鳥取の食材を使い、前回同様に鳥取出身の徳吉洋二シェフを招聘し、自分たちの力だけで運営する。そこに数々の困難があったことは、想像に難くありません。しかし、昨年の『DINING OUT』で雨の3日間を乗り越えたスタッフたちは、見事にこれを成し遂げたのです。

『DINING OUT』の意義は、現地の方が地元の価値に改めて気づき、それを誇りに思い、そして新たな挑戦へと繋がること。それを八頭のスタッフたちは、見事に体現してみせたのです。感動と笑顔に包まれた1年ぶりの『DINING OUT』。その詳細をレポートします。

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周りを山に囲まれた八頭は紅葉の盛り。食材も最も豊富になる季節。 

再び故郷・鳥取に戻り『DINING OUT』の舞台に立った徳吉シェフ。心踊る晩餐かいよいよ幕を開ける。

ダイニングアウト鳥取八頭リバイバルオレンジに染まる花御所柿畑が、レセプションの舞台。

バスの車窓から見えてきたレセプション会場は、オレンジ色に染まっていました。枝にたわわに実るのは、花御所柿。八頭町の特産であり、鳥取県の一部でしかおいしい実が育たないといわれる希少な甘柿です。『DINING OUT TOTTORI-YAZU REVIVAL』が、少し肌寒い11月初旬に開催されたのも、この花御所柿の実りを待ってのことだったのでしょう。

レセプションは、そんな花御所柿のお茶とフィンガーフードとともに幕を開けました。挨拶に立ったのは『大江ノ郷自然牧場』の小原利一郎氏。昨年の『DINING OUT』でも地元スタッフの中核を担い、今回の開催にも尽力した人物だけに、その言葉には万感の思いが込められています。「今回は地元主導で、地元チームで作り上げたもの。前回以上のものにするつもりで頑張ってきました。ぜひ楽しんでいかれてください」

ぱらつき始めた雨に、動じるスタッフはいません。何しろ昨年、豪雨の晩餐を経験しているのですから。「これぞ八頭ですよね」小原氏もそう笑っています。八頭を象徴する花御所柿農園で、柿の紅茶とフードを味わい、そして柿狩りも楽しんだゲストたちも、その顔に笑顔を浮かべています。こうしてレセプションは、和やかに、あたたかみある雰囲気に包まれて進みました。

実りの時期を迎えた花御所柿畑は、まさにオレンジ一色。訪れたゲストからも感嘆の声が漏れる。

柿農家の下田健一氏に教えてもらいながら、ひとつひとつ吟味しながら柿狩りを楽しむゲスト達。  

柿のアペリティフと柿を入れた紅茶でゲストをお出迎え。その後には、柿狩りを楽しむ時間も用意された。

挨拶に立つ小原利一郎氏。今回の開催にかける思いを、まっすぐな言葉で伝えた。

ダイニングアウト鳥取八頭リバイバルディナー会場は、廃校をリノベーションした『OOE VALLEY STAY』。

移動したディナー会場『OOE VALLEY STAY』は、廃校になった学校をリノベーションした宿泊施設。しかしそれは“廃校”という情報から想像する姿とはまるで異なる、スタイリッシュな佇まいでゲストを出迎えます。『OOE VALLEY STAY』の支配人でもある小原氏は言います。「この場所に長居しないで、次は別の場所に行ってほしい。そうして鳥取のすべてを楽しんでほしい。人と人、場所と場所が繋がる施設を目指して作りました」
それはまさに、地元チームが繋がり八頭の魅力を発信する『DINING OUT TOTTORI-YAZU REVIVAL』にふさわしいステージです。

ゲストが着席し、まずは八頭町長・吉田英人氏が挨拶。そして乾杯の音頭に、徳吉洋二シェフが登場しました。「食を通して鳥取をPRしたいという気持ちはもちろんですが、『DINING OUT』は僕たち自身が故郷を見つめ直すことができるイベント。今回戻ってきて、改めて気づいた鳥取の魅力を伝えられればと思います」徳吉シェフはそう言います。前回やり残したことがあるわけではないものの、あの『DINING OUT』を経験した今だからこそできる表現がある。それが徳吉シェフが、今年も鳥取に戻ってきたモチベーションなのでしょう。

そんな思いを象徴するように、最初に登場した“つかみ”の一品目は、実家でよく食べたというカレイの煮付けに着想を得た料理。カレイの形の最中のなかに、カレイの一夜干しを詰め、八頭『井尻農園』のドライトマト、グリーンオリーブ、いぶりがっこなどで仕立てたトンナートソースをあわせました。鳥取の家庭料理をイタリアンで表現した、徳吉シェフならではの一品です。

丁寧に作り込まれた会場。そこに「地元開催だから」という妥協は一切ない。

江戸時代からこの地に伝わる「大江手踊り」。講談による物語の伝達と男衆の舞が混じり合った希少な伝統芸能。

八頭町長・吉田英人氏の言葉にも、八頭を盛り上げるという強い熱意が込められていた。

「カレイのモナカ」。最初の一品は手づかみで食べられる料理を準備し、料理に直接触れてもらうことが徳吉シェフの流儀。

ダイニングアウト鳥取八頭リバイバル鳥取の伝統をイタリアの技術で。徳吉シェフだからできる、伝統の再解釈。

そこからのコース展開も、圧巻でした。
鳥取和牛とカンパチとキャビアを合わせ、大トロ以上の大トロの味を表現したという前菜「鳥取和牛+カンパチ+キャビア=大トロ炙り」、鳥取を代表する冬の味覚・ババア(タナカゲンゲ)をイタリアの手法であるオイル煮にした「ババアと鹿野地鶏」、鳥取の郷土料理である子まぶりを炭焼きにしたサワラと魚卵で再構成した「サワラの“いろんな子”まぶり」など、どれも鳥取の郷土料理や徳吉シェフの味の記憶を、現在持てる徳吉シェフの技術で再解釈、再構成した料理が続きます。

これらに一貫するテーマは、実は今回のイベントのために即席で考えたものではありません。徳吉シェフが拠点とするミラノで追求するのが、伝統の再解釈。「現在伝わっている“伝統”を自分のフィルターを通して“イノベーティブ”に変える。しかしそれがきちんとしたものならば、100年後にはそれがトラディショナルになります。100年後に伝統になっているイノベーティブを、どう組み立てるかを考えています」

聞けば徳吉シェフはイタリアで、各地の伝統的な郷土料理を知るおばあちゃんを訪ね歩いては料理を習って記録を残しているのだとか。「半分趣味みたいなもの」と徳吉シェフは笑いますが、“イノベーティブのためにまず伝統を知る”という姿勢、つまり伝統へのリスペクトがあるからこそ、人の心に響く料理が生み出されるのでしょう。

鳥取でもそれは同じ。自らが食べて育った鳥取の郷土料理だからこそ、それを大胆に壊し、再構築することができているのです。

すべて混ぜることで大トロ以上の“大トロ感”を演出した「鳥取和牛+カンパチ+キャビア=大トロ炙り」。

地元でよく食べられる魚をイタリア料理として再構成した「ババアと鹿野地鶏」。

徳吉シェフの願いは、地元に何かを伝えること。厨房でもただ料理を作るのではなく、細やかな指示を飛ばしながら協働した。

こちらも地元の郷土料理をベースにした「サワラの“いろんな子”まぶり」。

ダイニングアウト鳥取八頭リバイバル登場する料理すべてに潜むのは、鳥取への愛と、伝統へのリスペクト。

鳥取という土地と徳吉シェフだからこそ生み出せた料理の数々、“徳吉劇場”は続きます。

「親ガニのキタッラ 焼きガニの香り」は、子供の頃におやつに食べていたという親ガニに、『大江ノ郷自然牧場』の天美卵を合わせたパスタ、お茶と茶菓子を思わせるプレゼンテーションで供された「コンソメとパテ」は、徳吉シェフの出身地である鹿野町の鹿野地鶏と干し柿で仕立てました。

メインディッシュの「万葉牛 木 藁」は、鳥取が誇る最高品質の牛を炭で香ばしく焼き上げ、さらに藁の香りをまとわせた後、レンズ豆で作った自家製味噌を添えました。上質な脂の甘み、味噌のコク、藁の香ばしい風味が合わさり、極上の味わいを演出しました。

そして締めに登場したのは、若桜町の鹿ロース肉と骨からとったブロードで炊いた鳥取産・白兎米に、アルバ産の最高級白トリュフを贅沢にふりかけた「白トリュフのリゾ アッラ ピロータ 鹿とキノコ」。世界最高峰の高級食材・白トリュフを前にしても、なお存在感を失わない鳥取の食材。その高次元の融合は、誰しもが顔をほころばせるような余韻を残しました。

8時間ローストした花御所柿とピスタチオのジェラートを合わせたデザート「花御所柿とピスタチオ」を食べ終えてもまだ、ゲストは夢見心地。徳吉シェフの実力と、鳥取の食材の底力を徹底的に見せつけられたディナーはこうして幕を下ろしました。

カニの香ばしさとサフランの風味が際立つパスタ「親ガニのキタッラ 焼きガニの香り」。

急須に入ったコンソメとパンに添えたパテを同時に味わう「コンソメとパテ」。鹿野地鶏の旨味を凝縮。

芳醇な味噌を添えることで、牛肉本来の甘みをいっそう際立てた「万葉牛 木 藁」。

炊き上がった米にバターとパセリのソースを混ぜ、鹿ロースと白トリュフを添えた「白トリュフのリゾ アッラ ピロータ 鹿とキノコ」。

仕上げにはシェフ自らが卓上で白トリュフをスライス。贅沢な香りが広がった。

地元の牛乳で仕立てたピスタチオアイスとねっとりと焼き上げた花御所柿の「花御所柿とピスタチオ」。

ダイニングアウト鳥取八頭リバイバル革新は時代を経て、やがて伝統になる。八頭の地に残した確かな一歩。

鳥取の食材、鳥取の郷土料理を、イタリアの技法を通して再構築する。そんな徳吉洋二シェフの料理は、ゲストを唸らせ、笑わせ、感動させながら終了しました。

合間に挟まれたのは、江戸時代からこの地方に伝わる講談、歌、踊りの融合である「大江手踊り」や、昨年の『DINING OUT』でもゲストを魅了した「麒麟獅子舞」。ゲストはもちろん、参加するスタッフたちにも馴染みの薄かったその伝統芸能は、鳥取の魅力を会場にいるすべての人に改めて伝えました。

「お客さまには、満足して帰ってもらいたい。しかしスタッフはそれだけじゃだめです。地元に何を残せるか。今日のレシピも全部教えますし、技術的な部分もなんでも答えます。そうしてスタッフには、少しでもイタリアを感じてほしい。パテの技法、パスタの茹で方、あえて白トリュフを使用したのもそう。それでこの地に、イタリアンが少しでも根付いてほしいんです」徳吉シェフは終演後、そう話しました。

「一度の打ち上げ花火で終わらせてはいけない」前回の『DINING OUT』の際にそう話したスタッフの言葉はたしかに現実となり、2発目の花火は上がりました。しかしこれもまだゴールではありません。ハイクオリティな晩餐を通して、スタッフの気持ちが変わる。それを起点に、八頭町の意識が変わる。そうしていつか八頭町が美食の街となったとき、この『DINING OUT TOTTORI-YAZU REVIVAL』は本当の意味で成功といえるのかもしれません。

参加したスタッフは50名以上。それぞれが鳥取、八頭への思いを胸に働いた。

スタッフの大半は、前回の経験者。あの「DINING OUT」を通して大きく成長した姿を見せてくれた。

昨年に続き披露された『麒麟獅子舞』。その幽玄な姿をゲストたちは息を飲んで見守った。

「DINING OUT TOTTORI-YAZU RIVIVAL」の総合プロデューサー古田氏(写真右)は全体の進行管理やサービススタッフへの指示など影からイベントを支えた。

鳥取県出身。『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン2つ星、更には3つ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン1つ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。
http://www.ristorantetokuyoshi.com

伝統の和菓子をハイセンスにリブーティング![おはぎ専門店 OHAGI3/愛知県名古屋市]

時代を超えて愛されてきた和菓子の歴史と、新たな価値観との融合を目指す。

おはぎ専門店 OHAGI3和菓子の「粋」と「妙」をそのままに新たな「おやつ」に再生。

「和スイーツ」。すっかり定着したワードですが、その多くは和菓子の素材を洋菓子にアレンジしたり、一部の要素を限定的に取り入れたもの。和菓子を和菓子のままでモダンにアップデートしたメニューには、なかなかお目にかかれないかもしれません。
 
そんな「リブーティング」を華麗に果たしたのが、『おはぎ専門店 OHAGI3(おはぎさん)』です。「日本で古くから親しまれてきた伝統の和菓子を、世界中の人に食べてもらいたい」。そんな想いで名古屋のベンチャー企業『ホリデイズ株式会社』がプロデュースしました。現在 名古屋に3店舗、東京・浅草に1店舗、神奈川 南町田に1店舗の計5店舗を展開し、四季の恵みをとりどりに散りばめた彩り豊かな創作おはぎをラインナップしています。

和菓子を和菓子のままで、さらに愛される逸品に。

お米がメインの和菓子をハイセンスに一新! 「和菓子は古くて地味」というマイナスイメージを払拭した。

無添加の原料にこだわった甘さ控えめのテイストは、あらゆる世代の口に馴染む。

素材そのものが彩り豊かで美しい。和の魅力はここから始まる。

おはぎ専門店 OHAGI3「日本のおやつ」を可愛く、美味しく“再定義”。

『OHAGI3』の創始者は、『ホリデイズ株式会社』代表取締役の落合裕一氏。落合氏は元たこ焼きの世界チャンピオンという異色の経歴の持ち主で、テレビ愛知に入社後、出版業界の大手取次(書店と出版社の間を取り持つ流通業者)の日本出版販売株式会社に転職。さらに名古屋の総合IT企業エイチームに入社し、Webマーケティングのスペシャリストを経て、「社会に必要なもの」を追求したいと「くらしのすきまをあたためる」をテーマにした、食文化のリブーティング事業を行う『ホリデイズ株式会社』を立ち上げました。
 
そんな様々な経験を経た氏のこだわりは、「和菓子の粋や季節感を大切にしながら、いつでも、誰でも食べやすい味と食感に仕上げること」。さらに「おはぎ」を通じて「くらしのすきまをあたためる」ことを目指し、日常の充実をも提供しています。

とりどりの色と味が新たな和菓子の世界を拓く。

衣食住の中でも特に生きることに欠かせない、誰もが日々行わざるをえない「食」にフォーカスし、それを通じたアメージングな感動体験を提供。

「人を良くする食によって、くらしのすきまをあたためる」。それが“リブーティング企業”としての目標とモットー。

おはぎ専門店 OHAGI3体と心にやさしさとゆとりをもたらす「おやつ」。

『OHAGI3』の「おはぎ」の特徴は、日本の伝統的なおやつを食べやすい大きさと新しい味、そして国産かつ無添加の原材料で「リブーティング」していること。この「リブーティング」こそがすべての軸であり、また、『OHAGI3』そのもののポリシーでもあるそうです。
ゼロから新たに生み出すのではなく、「もともと価値がある、日本に存在していたもの」を現代の嗜好に合わせて“再定義”。こうして今の時代に合わせて再起動された「おはぎ」は、さらに3つのテーマを内包しています。
 
まずは「デザイン」。サイズ、色、味、梱包資材、内装、モダンに美しく、そして可愛く、「目にも美味しい」を体現したビジュアルとなっています。さらにサイズは絶妙な「2口サイズ」で、一人で複数のフレーバーを楽しむことも、数人で様々なフレーバーをシェアすることもできます。
 
2つ目のテーマは「安心・安全」。ターゲット層は30代の小さなお子さんのいるお母さん達で、「子どもに安心して食べさせられるおやつ」としています。『OHAGI3』の製造責任者にも小さなお子さんがいて、「自分の娘にも安心して食べさせられる、原材料にこだわったおやつを作りたい」という想いで取り組んでいるそう。
例えば一般的な白砂糖ではなく、ミネラルを含む粗糖を採用。糖度は普通のおはぎが約60度あるのに対して、ぐっと控えめな45度。一緒に食べるお母さんにもうれしいヘルシーさです。
 
そして3つ目のテーマは「ブランディング」。
国内だけでなく、海外にも「日本のおやつ」を広めるために、「くらしのすきまをあたためる」というモットーのもと、ゆったり、ほっこり、どんなシーンにも似合う「おやつ」を目指しています。
 
日本で古くから親しまれてきた伝統の和菓子を「てのひらご褒美」として世界のおやつに昇華。
親から子へさずける、掌(たなごころ)のように心の想いを手に込めて。

丁寧な手仕事によって、まるで伝統工芸品のような美しさと造形に。

四季を通じて味わえる定番フレーバーの6種。みたらし餡の「夕月(ゆうづき)」・つぶ餡の「暁月(あかつき)」・京きなこと黒糖くるみの「満月(まんげつ)」・黒ごまの「宵月(よいづき)」・白餡と赤餡に宇治抹茶をかけた「半月(はんげつ)」・有機ココナッツを贅沢にまぶした「新月(しんげつ)」がある。

おはぎ専門店 OHAGI3常に最良の味と食感を。 

こうして生まれた『OHAGI3』は、和菓子を敬遠しがちな若年層にも大好評。「おはぎ」をプレゼントや手土産の選択肢に入れていなかった20~30代の人々にも広がっています。
 
その秘密は、伝統的なおはぎの欠点を様々に改善している点。
全体の中心となるお米は、うるち米ともち米をブレンドして、時間が経っても固くなりにくいように工夫しています。もち米は現在は熊本県産の「ひよくもち米」を使っていますが、時季によって産地を変え、常に最適な食感になるように調整しています。
餡の原料の小豆も、国産の中から季節ごとに最も食味の良い産地を厳選。今後はカナダ産などの良質な海外産も取り入れ、最良のローテーションを目指していくそうです。
 
「普通のおはぎはサイズが大きくて、食べられてもひとつかふたつ程度ですが、『OHAGI3』のおはぎは多数選べて食べられるというセレクションの楽しみがあります」と落合氏。「2口サイズ」の絶妙なボリューム感が、ひとりでいくつもの味を選んだり、シェアして複数の味を楽しむ、という娯楽になっています。
 
現在のメニューは6種類の定番+月替わりの1種類。2019年8月にオープンした浅草店は、これに準定番の2種類を加え、常時9種類を並べています。
 
「開業から2年半経ちましたが、春の『さくら おはぎ』などシーズナブル化している人気アイテムもあります。今後も和の伝統を大切に、温故知新の美味しさを追求していきます」と落合氏は語ります。

季節限定の「カカオナッツおはぎ」。月替わりの個性的なフレーバーや定期的に登場する準定番フレーバーがさらなる魅力をプラス。

底にわらび餅を敷いて上におはぎをトッピングした「OHAGI3パフェ」。こうした新たな和スイーツもラインナップ。

あんことアイスがしっくり馴染む『OHAGI3』ならではの「もなかアイス」。これも和菓子の再定義。

本店限定商品の「OHAGI3の白わらび餅」。低カロリー・低糖質の豆乳で仕立て、白餡を隠し味に仕込んでいる。

おはぎ専門店 OHAGI3世界中の人々に「おはぎ」を届けたい。

こうしてどんどんそのシェアを広げている『OHAGI3』ですが、今後は世界にも舞台を広げていくそうです。
世界中から訪れるインバウンドの注目を集めつつある東京・浅草店を足がかりに、期間限定ショップを5月に出店して好評だったシンガポールに、9月にも再出店。そして2020年以降は、イタリアのミラノに常設店を計画しており、その後はアジア圏への進出も目指しています。
 
そして国内では、「ゆりかごから墓場まで、人生を体現する知識の蔵」である書店との連動を開始。ブック&カフェの形態で日本の文化である禅や「わびさび」を感じられるマインドフルネスな空間を創出しています。
『TSUTAYA』に併設された2号店『草叢BOOKS 新守山店』は、そんなコラボレーションのモデルケースとなっています。
 
そして「食でくらしのすきまをあたためる」さらなるバリエーションとして、『多国籍レストラン YOAKE』もオープン。現在、名古屋駅から徒歩8分の廃小学校をリノベーションした『なごのキャンパス』を舞台に、複数企業のインキュベーション施設の一員として取り組んでいます。
 
日本から海外へ、そして海外から日本へ。各地の“良いもの”を還流させて繋げていくフードテック事業。食と暮らしを「リブーティング」することで、世界中の人々の「くらしのすきま」を温めていきます。

『草叢BOOKS 新守山店』の内観。豊かな知識に食を添え、心もおなかも満たしていく。

手のひらに乗る「おはぎ」が心にぬくもりを灯す。

日々の暮らしに「おはぎ」を添えて、その充実感を世界中の人々へ。

OHAGI3 守山店
住所:愛知県名古屋市守山区長栄12-17
電話:052-793-0820
営業時間:10:00~17:00
休日:水曜・年末年始  ※新年年明けから定休日が火・水になります。
 
OHAGI3 草叢BOOKS 新守山店
住所:愛知県名古屋市守山区新守山2830 アピタ新守山店 2F
電話:052-758-6560
営業時間:10:00~18:00(月曜~土曜) / 9:00~18:00(日曜)
※一部テナントを除く 
休日:アピタの休業日に順ずる
 
OHAGI3 尼ヶ坂店
住所:愛知県名古屋市北区大杉1丁目19-10 
電話:052-898-2888
営業時間:10:00~18:00
休日:水曜・年末年始   ※新年年明けから定休日が火・水になります。
 
OHAGI3 TOKYO(浅草店)
住所:東京都台東区浅草1丁目31-4
電話:03-5830-3103
営業時間:10:00~18:00(不定休)
 
OHAGI3 南町田店 
住所:東京都町田市鶴間3-4-1  グランベリーパーク2F(D202)
電話:042-850-6856
営業時間:10:00〜20:00
休日:グランベリーパークの休業日に順ずる

https://ohagi3.com/
Instagram:https://www.instagram.com/ohagi3_official/
コーポレートサイト:https://ho-lidays.co.jp/
写真提供:ホリデイズ株式会社

世の中の“普通”に異を唱えて。岩木山麓の森の奥、きらりと光る宝石のようなりんご園。[TSUGARU Le Bon Marche・おぐら農園/青森県弘前市]

りんごの収穫も終盤を迎えたこの日、たわわに実った「ふじ」を丁寧にもいでいく「おぐら農園」小倉慎吾氏。農場の作業はすべて家族だけで行う。

津軽ボンマルシェ噂のりんご農家を訪ねて、粉雪舞う岩木山山麓へ。

津軽で取材を続けるうち、何度も名前を耳にするりんご農家がいました。たとえば弘前市のセレクトショップ『bambooforest』では、それはそれは甘い無添加のりんごジュースの生産者として。『パン屋といとい』では、酵母を起こすための果物の生産者として。鶴田町『澱と葉』では、料理のイマジネーションを刺激する植物の調達先として。さらにドライフラワーアーティスト『Flower Atelier Eika』やキャンドルアーティスト『YOAKE no AKARI』が使う花材も、一部はそのりんご農家で採取されているのだとか。みんなが口々に「面白い場所だよ」と話す農場とは、一体どんなところなのでしょう。向かったのは、津軽のシンボル・岩木山のふもと。「大森勝山遺跡」という縄文時代の大規模遺跡の近く、落葉樹の森に囲まれたりんご畑です。

最初の印象は“野趣あふれる畑”。りんごの樹がきれいに立ち並ぶほかの畑に比べ、さまざまな植物があちこちに点在し、のびのびと成長しています。「これはブルーベリー、こっちはぶどう。さくらんぼもありますよ」。ほかにも、栗にカシス、キウイにいちじく……果ては、なめこやヒラタケといったきのこまで! 農園主である小倉慎吾氏の案内で畑をめぐると、ワイルドに見えたこの場所が、豊かで美味しい宝の山に見えてきます。

標高160~190mの山麓に広がる1.2haほどの畑が、噂の農家「おぐら農園」の敷地。慎吾さんと妻・加代子さんがほぼ二人で切り盛りする小さな農園です。先ほどのフルーツ類やきのこはあくまで自家消費とごく少量の販売用で、メインで生産するのはりんごと桃。7年ほど前、慎吾氏の親戚のものだった畑を引き継いだ後、特別栽培認証を取得し、除草剤や化学肥料を使わない生産を続けてきました。

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枝先にぶらさがるのはサルナシの実。小さいけれど甘みたっぷり。こうしたツル科の植物は、よく『Flower Atelier Eika』英花さんが採取していくのだとか。

「最近の趣味はきのこ栽培」と慎吾氏。「本にりんごの枝は菌床に向かないと書いてあったけど、やってみたらできました」。大ぶりのなめこは、見るからに美味しそう。

収穫したりんごは大きさや見た目に応じて、贈答用、家庭用、ジュースなどの加工用に選別していく。最近は小学生の娘2人も、選別作業を手伝うようになってくれたとか。

津軽ボンマルシェ“普通”への静かな反発。独自の栽培方法が農園の味を作る。

除草剤は使わず、病気対策に慣行栽培時の1/2〜1/3程度の農薬を使う減農薬栽培。それはかつて「大量の農薬を使わないと栽培は不可能」ともいわれてきた現代のりんご栽培において、大きなチャレンジです。弘前市出身、実家もりんご農家である慎吾氏は「両親の栽培方法を見て『自分ならもっと農薬を減らせる』と思っていました」と話します。「市場でのりんごの売値は、見た目で判断される。だから普通のりんご農家は見た目をよくするため、農薬を過剰に使ってしまう現状があるんです」と慎吾氏。元々環境問題に関心があったこともあり、自身の畑を持つと同時に減農薬栽培をスタートしました。

「理想としては無農薬栽培なんです。『奇跡のりんご』の木村秋則さんみたいに、それを実現させたすごい方々もいますよ。でもりんごの味や収量、価格を考えると、実際に厳しいことも多いはず。自分たちは美味しいりんごを手の届く価格で、たくさんの人に食べてもらいたい」。そう語る慎吾氏は、長年独自の栽培方法を模索してきました。「うちで減農薬栽培ができるなら、誰にだってできる。ほかのりんご農家から栽培方法を教えてほしいといわれれば、どんどんオープンにしています」と語ります。農薬への言及に慎重な農家が多い中、「おぐら農園」の公式サイトやブログには、さらりと数年分の防除暦(どんな農薬を、いつどれだけ使ったかの情報)の掲載がありました。

「美味しさの基準は人それぞれ。それでも僕らが目指すのは、たくさんの人が“美味しい”と思ってくれるりんご」と慎吾氏。採れたてのりんごを糖度計で計測すると、15.7度の高スコアが! 毎年平均14度ほどというから、2019年は「おぐら農園」にとってかなりの当たり年。手元にあったりんごを輪切りにしてみるとさらにびっくり、全体に蜜が入り、照明にかざすと宝石のようにきらきらと輝きます。減農薬でもきちんと美味しく、質の高いりんごを。慎吾さんの長年の執念が着実に実を結んでいることが、その輝きから伝わってくるようでした。

密集した枝は潔く剪定することが、数年後の収量に繋がる。「大きな枝を切った年は一時的に収量が落ちるため、切るのをためらう農家も多いんです。」と慎吾氏。

一般的なりんご農家が一気に収穫作業を進めるのに対し、「おぐら農園」では状態のいい実だけを選んでもいでいく「すぐりもぎ」方式。粒揃いのりんごとなる。

「今年のりんごは出来がよくて」。灯りにかざすと蜜部分が透け、りんご全体が黄金色に輝く。品種は「こうとく」。蜜が入りやすい品種だが、それにしても蜜だらけ!

津軽ボンマルシェ身近なものの大事さに気付いたきっかけは、“時間どろぼう”との決別。

飄々とマイペースな慎吾氏ですが、聞けば経歴はかなりユニークです。地元・弘前大学で物理を学び、大学院まで進むも研究へのモチベーションが保てず退学、「自分探しのため」インドへ。帰国後、一度都会暮らしをしたくなり上京、「面白そうだから」という理由でなんと探偵の会社へ就職、養成学校へ通ったのち、探偵として活動していたのだとか。りんご農家である実家を継ぐことは考えていなかったという慎吾氏に転機が訪れたのは、そんな東京在住の頃。昔教科書で読みかじったミヒャエル・エンデ作の児童文学、『モモ』を再読したことでした。

『モモ』は、どんな人の心も開いてしまう不思議な少女が、人々の時間を奪っていく灰色のスーツ姿の男たち「時間どろぼう」から世界を救う物語。時間を節約し「時間貯蓄銀行」に預ければ、利子によって何十倍にも増やすことができると謳う時間どろぼうに誘導された街の人々は、しだいに時間に追い立てられる余裕のない人生を送ることになります。「読んでみて、東京の暮らしの中に自分にとって大事なものはないと気付いたんです。実家が農家なのは、実は恵まれているんじゃないかと。農業はやっただけお金になるし、一方で休みたいときに休める。自由なんですよ。それに、何かあったとき他人に頼らず自分の力で生きていける。実際、東日本大震災のときも3日ほど停電しましたが、家にある食材を食べ、裏の湧き水から水を汲み、薪で火を起こして、特に問題なく暮らしていました」と慎吾氏。

家業を数年手伝った後、親戚から畑を引き継ぎ、自分ならではの栽培方法を模索し出した慎吾氏は、同時にセルフビルドの家の建設にも挑戦します。「結婚式のパーティーのとき、いきなり『家を建てます』って宣言して(笑)。私もみんなも『えー!』ってびっくりしたけど、本当に建てちゃった。この人は有言実行なんです」と加代子さん。「お風呂も最近までなかったけれど、自分たちの価値観からしたら、いい生活をさせてもらってるなと思うんです」と笑います。

農業を志すきっかけを聞くと、おもむろに『モモ』の単行本を持ってきた慎吾氏。「若いうちはないものねだりで、身近にあるよさに気付けないものですね」。

家の壁の内側には、慎吾氏発案の断熱材代わりのペットボトルがずらり。かなりの効果があるそう。家作りの教科書は、『100万円の家づくり』という本。

加代子さんは神奈川県出身。弘前でアパレル関連の仕事をしているとき、慎吾氏主宰の映画『六ヶ所村ラプソディー』上映会の手伝いをしたのがふたりのなれそめ。

日常の営みの痕跡が美しい小倉家の家。2人の娘のうち、妹は将来りんご農家になるのが夢だとか。「よし! がんばろうと思えますよね」と加代子さん。

津軽ボンマルシェ正反対、でもぴったり。パズルのピースのようなふたり。

慎吾氏の次なる目標は、料理用りんごである“クッキングアップル”の栽培。慎吾氏が「これまでは自分が美味しいと感じられる味を追求してきたけれど、最近、加熱すると美味しくなるりんごを知って。今は、そういう面白いりんごがあったらとにかく作りたいんです」と話せば、「津軽だとりんごは生食するのが一般的。農家の中には、料理に使うなんてと嫌がる人もいます。でも付加価値を付けて売ることで、りんごの多様性を知ってもらいたい」と加代子さんが続けます。最近では、神戸在住のフランス菓子文化研究家で加代子さんが“りんご博士”と呼ぶ三久保美加さんやりんご農家仲間とともに、酸味が強く香り豊かなフランス原産品種「カルヴィル・ブラン」の勉強会を行うなど新たな活動にも積極的。日本ではほとんど生産されてこなかったものの、数年前、弘前大学内に遺伝資源として1本だけ残された木があることが判明したカルヴィル・ブラン。この場所が名産地として知られる日も近いかもしれません。

何を隠そう、慎吾氏がクッキングアップルを知ったきっかけは加代子さん。職人肌の慎吾氏と正反対で、「畑にずっといると飽きちゃう。人と話したいから、イベントに出店するのが好き」と話す加代子さんは、慎吾氏にアイデアを与え、人と繋げる媒体役です。話を聞けば聞くほど、出会うべくして出会ったのだと思わせるふたり。生産者の仲間はもちろん、ジャンルをまたいだたくさんの知り合いに囲まれているのも、彼らが私たちに「面白いから会ってみて!」と教えてくれたのも、互いのいいところを認めて受け入れ、共に新しいことに挑戦してきたふたりだからこそでしょう。

「農家をしていると、難しいことも色々あります。でも、とにかく今は彼のりんごを信じていこうかなって。自分に与えられたこの人生には、何か意味があるはずだって思ってるの。アパレル業界で働いていた頃は、まさか自分が生産者になるとは思いもよらなかったけれど、このロケーションでこういう暮らしができるって、すごいことでしょう?」。取材の最後、加代子さんは笑顔でそう話してくれました。岩木山の山麓、森の中の小さなりんご畑。一見地味にも見えるこの場所には、ナイフを入れて初めて分かるりんごの蜜のように、きらきら輝く魅力がぎっしり。取材終わり、真っ暗な山道を走る車の車内が、幸せな余韻に包まれていたのは言うまでもありません。

「ふじ」に「北斗」、「シナノゴールド」、「紅玉」、「スリムレッド」……メジャーからマイナーまで、さまざまな品種を栽培。のぞき見しているのは猫の「テン」。

りんごも桃も「こぢんまりやっていくのが合っている」と大型店舗などには卸さず、ウェブサイトを中心に販売を行う「おぐら農園」。イベント出店なども多く、口コミで全国に人気が広がった。九州のオーガニックレストランや東京のパン店などからも注文が入る。

Shop : http://oguringo.o.oo7.jp/
facebook:https://www.facebook.com/oguringo


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ポップアップで世界を沸かせるシェフユニットが遂に『DINING OUT』に。ガガン・アナンドシェフ×福山剛シェフの「GohGan」による二夜限りの宴。[DINING OUT RYUKYU URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

福山シェフとガガンシェフ。楽しいこと、人を喜ばせることが大好きな2人は互いへの信頼関係も厚い。

ダイニングアウト琉球うるま琉球王国の交易の要衝・勝連を舞台に、土地に伝わる「おもてなし」の精神を2人のシェフが表現。

2020年1月18日(土)、19日(日)に『DINING OUT RYUKYU URUMA with LEXUS』が開催されます。今回、舞台となるのは、沖縄県うるま市。那覇空港から車で約40分、沖縄らしい海景色をはじめとする豊かな自然と、深い歴史を持つ土地です。世界遺産・勝連城跡が古の栄華を伝える勝連は、琉球王国時代、中国や東南アジア、そして当時、外国であった日本などとの交易で大きく栄えた地域。異国と交わることで高尚な文化が育まれ、沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」で詠われた「気高さ、心の豊かさ」を意味する「肝高(きむたか)」が、美徳として人々の暮らしや精神に根付いています。さまざまな異文化が伝わる交易の要衝ゆえに育まれたおもてなしの姿勢もまた、土地の人々に受け継がれているもの。

『DINING OUT RYUKYU URUMA with LEXUS』の厨房を仕切るのは、そんなうるま、勝連という地を象徴するようなシェフユニット。タイ・バンコク『Gaggan Anand』のオーナーシェフ、ガガン・アナンドシェフと、福岡『La Maison de la Nature Goh』の福山剛シェフによる『GohGan』です。いわずと知れた世界的なシェフ2人。『Asia's 50 Best Restaurants』において4年連続1位に輝き、 Progressive Indian Cuisine(進歩的インド料理)を打ち出したガガンシェフと、九州で唯一、同アワードにランクインした福山シェフは、2021年、福岡に『GohGan』をオープンすることでもガストロノミー界の話題をさらっています。3年前、北海道虻田郡で開催された『DINING OUT NISEKO with LEXUS』を体験した2人が、満を持しての登場。うるまの地での二夜にかける想いを、それぞれの料理哲学とともに紐解きます。

【関連記事】DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS

人を楽しませることが大好きなガガンシェフ。厨房を離れても、その姿勢は変わらない。

ポジティブで誠実、そして大らかな福山シェフのオーラは、周囲をぱっと明るくするかのよう。

ダイニングアウト琉球うるま毎日満席になる、地域に愛される店を。原点を貫きながら、世界の舞台へ躍り出たガストロノミー界の異端児。

2016年、『Asia's 50 Best Restaurants』に選出された『La Maison de la Nature Goh』。九州地区のレストランとしては初。加えて、開業から14年目を迎える店のランクインは、大きな話題を呼びました。ランクインまでの道筋も、まったくもってユニーク。世界の舞台を目指す料理人たちにとっては登竜門的なアワード。ゆえに、そこに照準を定めたシェフたちはコースの価格設定から皿数、しつらえからプレゼンテーションに至るまで『50 Best Restaurants』スタンダードで店づくりを行います。が、福山剛シェフは違いました。2002年の開業以来14年、ただただ“地元に愛される店”として年月を重ねてきたのです。
「Best50の存在は知っていたけれど、まったく意識したことなどなかった。10年以上どうにか満席を続けて来られたご褒美かな、と思ったくらいで」
いたずらっぽく笑いながらそう話す福山シェフの表情には、おごりはもちろん、余分な気負いも一切ありません。

福岡県朝倉郡生まれ。物心ついた頃から料理に興味を持ち、高校時代にはアルバイトとしてフランス料理店『イル・ド・フランス』で働き始めます。今はなき福岡のクラシックフレンチの名店。そこで7年間、腕を磨いた後、ワインレストラン『マーキュリーカフェ』でさらに7年修業。開業したのは31歳のときでした。
「フランス料理は、リピーターがつきにくいジャンル。どうしたら“また来たい”と思って頂けるか。九州の食材や和の調味料も取り入れ試行錯誤していくうちに、いい意味で料理がボーダレス化していった気がします」
店舗での営業第一、「満席主義」を掲げる福山シェフは、他の料理人とのコラボレーション、ポップアップ等には、長い間、まったく興味がなかったといいます。
「むしろ否定的だった。イベントでつくる料理は、完成度でいったら店で100回つくっているものには叶わない。コストもかかるから、ゲストの負担も増える。いいことないな、と」

2015年、ガガン・アナンドシェフに出会い、その考えが大きく変わります。福山シェフは、店の10年来の常連客である中国人男性に招かれて出掛けた上海のある高級レストランでガガンシェフと初めて顔を合わせます。それから数か月後、『La Maison de la Nature Goh』で、その中国人男性のバースデーパーティが開かれることになり、ゲストとして招待されて来福していたガガンシェフと再会。「バースデーパーティは、サプライズで一緒に料理をつくろうよ」というガガンシェフの提案を「いいね」と受け入れます。福山シェフ、ガガンシェフがともに信頼を置く、大切なゲスト、たった一人を喜ばせるために即興で組まれた一夜限りのユニット。

「僕もガガンもすごく楽しかったんですよね。何よりそのゲストがとても喜んでくれたことが2人ともうれしくて。これはクローズドなイベントにしておいてはもったいないな、と」
これが『GohGan』のはじまり。世界中から注目を集めるシェフのユニットは、かくも偶発的に、かつビジネス抜きの「おもてなし」からスタートしたというのですから驚きです。
福山シェフは、ガガンシェフから、そして『GohGan』の活動から、大きな刺激を得たと話します。

「元々がきっちり、粗相なくやりたいという性格。料理や食材に対して“こうあるべき”みたいな考えが強くあったけれど、ガガンはまったく違う。一皿をどう楽しませるか。その方法に“べき論”はないんです。視野が開け、料理に自由を与えられたと感じました」
コラボレーションに対する考え方もまったく変わったといいます。
「他の料理人の仕事を、実際の作業の流れの中で間近で見られる。すると調理の技術だけでなく、スタッフの指導の仕方、ゲストとの向き合い方、すべてが見え、自分自身の仕事を客観的に見られるようになる。それが店のステップアップにつながれば、お客様に還元できますよね」

すべて「お客様を喜ばせるため」。これは、福山シェフの変わらぬ姿勢です。『Asia's 50 Best Restaurants』にランクインした後もコースは6,000円と8,000円のまま。県外、海外からのゲストは増えたものの、今も7割が、長く店に通う地元福岡のゲストだといいます。店であれ、ポップアップの会場であれ、目の前にいるゲストを喜ばせ、満足させたい。周囲の評価が変わっても、福山シェフの気持ちは変わらないのです。

西中洲の路地の奥にひっそりと佇む『La Maison de la Nature Goh』。周囲は小さなバーやスナックなどが軒を連ねる古い町並みが残る。

独立前に勤めたワインバーで、ゲストと向き合う楽しさを覚えたという福山シェフ。店のしつらえはカウンターが中心に。ほか、増築してつくった個室もある。

鯖 巨峰 水前寺菜。唐津のサバを軽く塩で締めてから炙り、皮ごと薄切りにした巨峰、水前寺菜のおひたしを合わせて。サバのねっとりとした食感と巨峰の果実味のフレッシュさ、淡い旨みをまとった粘り気のある水前寺菜が一体に。

椎茸と焦がしバターのエスプーマ。ふっくらとした蒸し鮑に、その肝とほうれん草のリゾットと、椎茸のエスプーマ、焦がしバターを添えて。リッチな旨みが重なり合う。

ダイニングアウト琉球うるまインドの食文化を再解釈し、バンコクから世界へ。「進歩的インド料理」で、世界の頂点に。

福山シェフが、「料理界きってのエンターティナー」と、話すガガン・アナンドシェフ。祖国・インドの食文化を再定義するイノヴェーティヴな料理をアジアの国際都市、タイ・バンコクから発信し、『Asia's 50 Best Restaurants』で4年連続1位を獲得。2019年の『The World’s 50 Best Restaurant』では4位にランクインした、文字通り、アジアを代表する世界的トップシェフです。ガガンシェフが2010年に『Gaggan』を開業して以来、取り組んできたのは、インド料理の革新です。ガストロノミー界の伝説ともいえるスペイン・バルセロナ郊外の『エルブジ』での修業経験を活かし、モダンな調理テクニックと驚きに満ちたプレゼンテーションでつくり上げる料理は繊細で、エネルギッシュで、クリエイティブ。「Progressive Indian Cuisine(進歩的インド料理)」という新たなジャンルを世に打ち出しました。

ガガンシェフに改めて自身の料理哲学について尋ねると「なんでも調理してみること」との答えが。
「インド料理の伝統に縛られず、その時期の旬の食材、地元の産物をすべて見渡し、垣根なく取り入れる。それが私のフィロソフィーともいえる“5S”を支えています」
「5S」とは、Sweet (甘い)、 Salty(しょっぱい)、Spicy (スパイシー)、Sour(酸っぱい)、そして最後に加えられるのが「 Surprise(驚き)」です。
「この“5S”の料理が、私のスタイル。大きなポーションではなく、小さなサイズで一口ずつ味わって頂くことで、まるで花火のように、口の中のあちこちで、さまざまな味わいが爆発するような感覚を感じていただけるはず。この感覚を、楽しさを、料理を通じて伝えること。それが僕の目指すすべて、そして『Gaggan』そのものなのです」

そんなガガンシェフも、『GohGan』での活動から受けた刺激は、計り知れないと話します。福山シェフは「自分にとって、とても大切な人」とも。
「剛さんは本当に面白い人で、剛さんに出会ってから多くのことが変わりました。きっと、剛さんも私に会って変わったことがあるはず。つまり私たちは、お互いに刺激し合って、対等に、真にコラボレーションできる関係なのです。料理人のコラボレーションは珍しくない時代ですが、私たちのような関係は唯一無二ではないかと。『GohGan』での活動を誇りに思います」

福山シェフの日本・福岡だから生まれたフレンチと、ガガンシェフのインドをベースにしたテクニカルでボーダレスな料理。自由度は高いけれど、2つの揺るぎない軸がある。それが『GohGan』の新しさであり、ユニークさにほかなりません。そして、国籍も食の背景もつくる料理も違う2人が共有しているものが、「おもてなし」の気持ち。
ガガンシェフは2019年『Gaggan』を離れ、11月にバンコクの中心に開いた『Gaggan Anand』を新たな拠点に活動しています。「ラボであり、オフィスでもある」と話す空間は、オープンキッチンをテーブルが囲む形で、ゲストとの距離は、より密接に。シェフであるアナンド氏のエネルギッシュなオーラも、プレゼンテーションの一部になっています。

2018年、『GhoGan』で開催した佐賀県佐賀市でのイベントの様子。ガガンシェフは、サーブの直前まで盛り付けをチェック。

『Gaggan Anand』の外観。しつらえからサービスまで「型にハマらず」がスタイルだ。

1階の厨房はフルオープンで、全席シェフズテーブルのよう。赤いライトが妖艶な雰囲気。

ダイニングアウト琉球うるまカジュアル? ファインダイニング? うるまの二夜で、『DINING OUT』の歴史を塗り替える。

福山シェフとガガンシェフの話から浮かび上がるのは、2人にとっていかにお互いの存在が、そして『GohGan』での活動が大切なものだったかということ。それだけに、ポップアップとしては最後となる『DINING OUT RYUKYU URUMA with LEXUS』に賭ける想いは、並々ならぬものがあります。

11月、ガガンシェフに先駆け沖縄に第一回目の視察に出掛けた福山シェフ。今年2度目の沖縄だったとのことですが、その前に行ったのは15年以上前。料理人として改めて旅をしたことで、「産地としてのポテンシャルが見えて来た」と、話します。
「地理的には比較的近い九州で仕事をしているけれど、自然も食材も食文化もまったく違う。アジア諸国に旅したときのような感覚を覚えました。肉に魚、フレッシュハーブやスパイス、フルーツと、素晴らしい食材が多い。きっとこれは使いたがるな、と、ガガンの顔を思い浮かべながらの旅でした」

視察から福岡に戻った福山シェフは、翌日、バンコクに向かいました。
「彼の新しい店で食事をした後、沖縄で見てきた食材の情報を一通りシェアしました。『GohGan』では最終的にメニューが決まるのは本番の2、3日前なんてこともザラでしたが、今回はそういうわけにはいかないよね、と。ガガンがどこまでいうことをきいてくれるかはわかりませんが(笑)」
話す様子から、2人がもうすでに『DINING OUT』を楽しんでいる様子が伝わってきます。
2017年『DINING OUT NISEKO with LEXUS』を経験して以来、『GohGan』での『DINING OUT』は夢だったと、2人は話します。
「徳吉洋二シェフの料理は文句なしに素晴らしかった。ニセコのローカルな食材をベストな形で調理し、表現は非常にクリエイティブだった。そのときから“僕らならどうやる?”と、剛さんと話していたんです」

そう話すガガンシェフ、実は沖縄は未訪の地なのだとか。取材の後に予定されてた視察の旅への期待を次のように話します。
「タイと似たイメージを抱いています。トロピカルフルーツ、野菜、ヤギと、食材にも共通点が多い。酒の文化もユニーク。例えば素晴らしいラムがありますよね。それからいい蟹があるとも! 早く行きたくて仕方ありません」
真剣に一皿に向き合う料理も好きだけれど、自分はハッピーで楽しい「時間」を提供したい。その想いこそが、『GohGan』という稀有なポップアップユニットを生み出した、2人のシェフに共通する姿勢です。

「ファインダイニングでいくか、カジュアルにするか。ガガンとさんざん話をして“祭をやろう”と」
福山シェフは笑いながら話します。2人の料理人でやる意味、その2人が『GohGan』である意味。『DINING OUT』の歴史に、これまでになかった新章を加える意欲は満々です。
『GohGan』では、双方のスタッフがチームに加わりますが、『DINING OUT』では、さらに地元スタッフ勢が加わることにも期待を寄せます。

「私たち2人のチームだけでなく、地元のシェフ、サービススタッフみんなが主役。彼らとコラボレーションをして『DINING OUT』を共に創り上げたい。私たちは沖縄という土地からいろんなことを学ぶはずですし、地元の方々にも何かを残したい」と、ガガンシェフ。
「沖縄のみなさん、ぜひ大いに狂っていきましょう! そうでないと、私も剛さんもクレイジーな人間ですから、一緒にやっていられないですよ。覚悟しておいてくださいね」
ファインダイニングかカジュアルかではなく、「祭」を。その全貌は、1月の沖縄うるまで明らかになります。

『La Maison de la Nature Goh』のダイニングのエントランスには、ガガンシェフと福山シェフのマスコットが飾られている。

ポップアップユニット「GohGan」が、沖縄の食材でどんな驚きと感動を与えてくれるのか期待が募ります。

1971年生まれ。福岡県出身。高校在学中、フレンチレストランの調理の研修を受け、料理人の道へ。1989年、フランス料理店『イル・ド・フランス』で研鑽を重ね、その後、1995年からワインレストラン『マーキュリーカフェ』でシェフを務めた。2002年10月、福岡市西中洲に『La Maison de la Nature Goh』を開店。2016年には、九州で初めて「Asia's 50 Best Restaurants 」に選出され、2019年には24位にランクインを果たす。

インド コルカタ出身。2007年にバンコクへ移住し、その後レストランの料理長を務める一方、エルブジで研修を積む。2010年に開いたレストラン「Gaggan」では、エグゼクティブシェフを務め、Progressive Indian Cuisine(進歩的インド料理)を打ち出す。世界的注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurant」では4位を獲得。同年8月新たなチャレンジに向けてお店をクローズし11月に再始動をする。

世界を舞台に地方創生を成し遂げる強い意志の元に開業。自然豊かな南木曽に生まれた看板一つない新しいホテルの形。[Zenagi/長野県木曽郡南木曽町]

ザエクスペディションホテル ゼナギ

OVERVIEW

長野県木曽郡南木曽町(なぎそまち)は、ほとんど岐阜との県境に位置する、奥深い山の中にあります。「日本で最も美しい村」連合にも認定されている、人口4000人あまりの小さな町です。南木曽には、中山道妻籠宿(つまごじゅく)という江戸時代の風情を色濃く残す古い宿場町もあります。じつはいまインバウンドの観光客が好んで訪れる穴場的存在になっています。伊勢神宮に納める木曽ヒノキの産地としても知られるこの町に、最高級ホテルが開業したのが、2019年の4月のこと。「Zenagi」と名付けられたホテルは、THE EXPEDITION HOTELという冠も戴いて、日本の田舎を探検するという意味が込められています。

このホテルを開業したのは、MENEXという企業。彼らは、地方創生のプロフェッショナルであるとともに、世界で最も古く、また過酷と呼ばれるアドベンチャーレースの「ドロミテマン」で完走し、オリンピックに参加した経験もあるプロフェッショナルなアドベンチャーたちです。2020年のオリンピックを前に、日本中でインバウンドによる観光収入の増加を目指す動きが活発ですが、「Zenagi」がターゲットにしているのは、世界中のあらゆる高級なものを経験している「富裕層」です。その価格は、3食とアドベンチャー体験を含めたオールインクルーシブで¥120000からというもの。

南木曽町田立(ただち)という、和紙の里でもある棚田の最上部に立つこのホテルは、部屋数はわずか3室。12名が宿泊人数の上限です。江戸時代後期から明治初期に建てられたという古民家を改装して開業しました。単なる古民家ではありません。材木取引などで大きな財を成した豪農が所有していた建物です。内部空間の梁を見るだけで、その贅を尽くした造りに圧倒されます。そこに、ガラス窓による明るい開口部を作り、木曽地方の木材や、漆器などの伝統工芸を取り入れたのが「Zenagi」です。MENEXのCEOである岡部統行(むねゆき)氏は、テレビドキュメンタリーの監督も務める、異色の経歴の持ち主です。開業までの山あり谷ありのプロセスと、このホテルの魅力について、存分に伺いました。

住所:長野県木曽郡南木曽町田立222  MAP
THE EXPEDITION HOTEL Zenagi  HP:https://zen-resorts.com/

南会津に生きる人、それぞれの内なる「時間」に映像表現で挑戦した、トリップムービー第3弾。[南会津ショートフィルム/福島県南会津郡]

南会津ショートフィルム美しい景色とともに紡がれる「人」と「時間」の物語。

四季折々の南会津の姿を、4人の映像作家の作品を通じて表現するプロジェクト「南会津ショートフィルム」。その3作目となる「パラレル タイム ジャーニー」は、南会津の山々が織りなす美しい紅葉の景色とともに紡がれる「時間」──過去・現在・未来──とともに歩む「人」にフォーカスした物語です。指揮を執るのは、子ども向けの番組からミュージックビデオ、ショートフィルムまで、様々な舞台で活躍中の映像作家・大金康平氏。栃木県北部に位置する大田原市で生まれ育ったという大金氏は隣接する福島県について、言葉訛りも近く身近な存在に思っていたといいます。

「今回のお話をいただいた時、元々感じていた親近感は持ち味としつつも、まだ訪れたことのなかった南会津ならではの日常や小さなドラマには敏感でいたいと思いました。敢えて下調べをし過ぎず、旅行のような気分のまま現地に飛び込みました」。取材のための3日間の滞在では、その中で一貫した何かが見つかるかどうかを気にしていたという大金氏。そうして見つけたテーマが「時間」でした。

「南会津には、過去・現在・未来という3軸の、もしくはそれ以上に細分化された沢山の時間が同時に流れていると感じました。例えばそれは、何億光年も昔から今に到達している星の光や、太古から伝わる会津田島の神話、長い年月をかけて育ってきた木々の存在といったものです。それらに敬意を払い、慈しみながら関わりを持つ南会津の人々の中には、それぞれの“時間”が流れていることに気がついたのです。会津田島の神話を表現した太鼓のパフォーマンスに取り組む「田島太鼓 龍巳会」の子供達や、南会津の木々や山々を次世代に伝えたいとする森の案内人、これから一斉に咲く花々の美しさを願い、桜を植える人々──そういった方達の営み、“時間”に立ち会うということは、まさに“パラレルタイムの旅”なのではないかと。この目に見えない時間感覚を映像で伝えられたら、これまでにない新たな南会津の魅力を提案できるのではないかと考えました」。

3作目の今回は南会津に流れる「時間」をテーマに、過去・現在・未来を自然と共に歩む人々にフォーカスしている。

会津田島の神話を表現した太鼓のパフォーマンス。大金氏が大切にしているフイルムのような質感や色彩で表現された映像が胸を打つ。

南会津ショートフィルム自然体な人の営みと向き合い見えた、理想の生き方。

大金氏が制作において大切にしていることは、モチーフは極力平凡で小さく、日常生活で手が届く範囲から面白いことや心動かされるものを探す、ということ。むやみな壮大さや非日常的な演出はとらず、誰もが感じたことがあるような、身近でささやかな体験や想いを具現化することを得意としています。「まだまだ模索中ではありますが、誰でも参加できる“あるある探し”といいますか、馴染みやすさという点はひとつの特徴かもしれません」と大金氏は語ります。

また視覚的に大きな特徴として挙げられるのが、フィルムのような質感や色彩です。フィルムが紡ぎ出す特有の世界観は、人の心の奥底に訴えかける力があると大金氏は考えています。「デジタルが主流の時代でフィルムに“近づける”というと退化的に聞こえるかもしれませんが、そこには数値では表せない色彩がありますし、唯一無二の“情緒”や“懐かしさ”を引き出せる重要なツールであると信じています。今や簡単に扱えないメディアであるからこそその魅力を再認識し、私なりの表現に挑戦していきたいと考えています」。

こうして撮影された「パラレル タイム ジャーニー」は、南会津の人々のありのままの姿や言葉を通じて、過去・現在・未来へと自由に行き来するかのような感覚へ、観る者を誘う作品となりました。
「撮影を通じてたくさんの地元の方にお会いしましたが、年代・性別を問わず共通して感じたのは“今を生き急いでいない”ということでした。“今持っているものに感謝をもって生きること”、“自然の時の流れに身を任せて”など、語る言葉は人により様々ですが、その地で与えられたものに順応する力と、その中で自分らしく生きる・表現する力が絶妙なバランスで両立している、理想の生き方だなと思います」。

作品の主役は当然、南会津の人々ですが、同時に南会津に流れる“時間たち”でもあります。皆が平等に与えられたはずの時間が、南会津ではこんなに色・形の違うものとして多数存在しているという事実は、観光名所として訪れるだけでは気づけないかもしれません。大金氏が表現する南会津の「時」が誘う旅。それを作品を通じて擬似体験すれば、南会津が、そこに生きる人々が、より身近で尊いものに感じられるはずです。

1992年生まれ。栃木県大田原市出身。日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業。中学生の時より短編映画づくりに取り組み、大学在学中は役者として演劇芝居も経験。微小なモチーフとノスタルジックな色彩表現を得意とし、NHK/Eテレ『シャキーン!』をはじめ、子ども番組やミュージックビデオ、ショートフィルムの演出・撮影等、幅広く手がける。「映像作家100人 2018 / 2019」選出。

監督・撮影・編集 大金 康平
ドローン 植田 城維

コピーライター 西垣 強司
MA 鈴木 泰憲
音響効果 徳永 綸

プロデューサー 植田 城維
制作 原田 大誠
スチール nasatam
南会津コーディネーター 瀬田 恒夫

<撮影協力>
じね〜んの森ガイド 星 義道
十文字星見台 岸 正一
田島太鼓 龍巳会 渡部 久留美、メンバーのみなさん
サイクルツアー 野田 雅之、藤原 純
福島県立田島高等学校のみなさん
南会津町立桧沢小学校のみなさん
まちなか交流サロン 芳賀沼 順一、ご近所のみなさん
佐藤造林のみなさん


(supported by 東武鉄道)

TOKYOで心に響く錦繍の秋と出合い、豊穣のときに深謝する。[SIX SENSES TOKYO/東京都八王子市高尾]

シックスセンス東京OVERVIEW

天高く馬肥ゆる秋。
『京王電鉄』で都心からわずか1時間足らずで辿り着く、高尾では紅葉が辺り一体を包み込むベストシーズンを迎えていました。

赤、黄、茶、深紅、緋色。
暖色系のグラデーションが眩しい、それは、錦繍の秋と呼ぶに相応しい、見事な情景。
そんな感動と出合いたくて、今日も多くのツーリストが高尾山の頂を目指していました。
一方の『うかい』でも、今が最高の時季といえるでしょう。
美しく染まった庭園に、心は洗われ、春や夏では味わえなかった感傷的な気分も沸き起こります。

里山の風情に、秋の装いはとてもよく似合う。
秋が素晴らしいのは、料理も同様で、山海の美味は充実のときを迎えていました。
今年も素晴らしい新米が育ったようです。
ONESTORYの取材班は、豊穣のときを迎えた秋の高尾に向かいました。

【関連記事】SIX SENSES TOKYO/五感に響くことで研ぎ澄まされる第六感。都心から60分のTOKYOに顕在する本物の四季



(supported by うかい京王電鉄)

キャンドル制作に情熱を傾け、炎が紡ぎ出す幻想の世界を旅するアーティスト。[TSUGARU Le Bon Marche・YOAKEnoAKARI(ヨアケノアカリ)/青森県南津軽郡]

陽の沈みかける僅かな時間、湖面に浮かび上がる森の情景とキャンドルの灯り。

津軽ボンマルシェキャンドルが持つ不思議な力を独自の世界観で表現。

優しく揺らめく炎に、人はしばし言葉を失います。しんと静まり返った森の中で、無数の小さな炎が囁くように瞬き、ただその場に無言で立ちすくんでしまう、一瞬が永遠のように感じる時間。キャンドルの灯りには、誰をも無限の幻想の世界へ引き込むような、不思議な力があります。『YOAKEnoAKARI』の安田真子さんも、そんなキャンドルに魅了され、独自の世界を表現している1人です。

安田さんの作ったキャンドルを初めて見たのは、以前紹介した竹森幹氏が営む店『bambooforest(バンブーフォレスト)』でした。そこに並ぶキャンドルは見れば見るほど精巧で、独特の風情をまといつつ、凛とした佇まいがありました。竹森氏もキャンドルの説明にはつい熱が篭るようです。
「うちでは初期から扱いがありますが、まずキャンドル自体のクオリティが日を追うごとにどんどん上がっているし、ラベルなどのパッケージデザイン、展示ディスプレイの技術など、トータルで『YOAKEnoAKARI』の世界観を表現している。その完成度がすごい」
そして毎年「Cidre night」でキャンドルのデコレーションを手がけている、『弘前シードル工房 kimori』代表の高橋哲史氏に至っては、「安田さんは考え方が面白く、すごい変態」と言わしめるほど。津軽を盛り上げるキーマンともいえる人々に何かと注目されている、期待のクリエイターなのです。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

並べられたキャンドルは、長さや間隔など、何度も細かくディスプレイの微調整を繰り返し、最大限に美しさを発揮できるよう最後まで手を尽くした。

炎が灯ると途端に、ふわりと別世界へ誘われたような気分になる。140本近く並んだ、手作りのキャンドル。相容れない火と水の共演に、自然がもたらす寛容な美しさを表現。

『YOAKEnoAKARI』安田真子さん。常にその先の美しい景色を探求し、地道な実験を繰り返すストイックな職人肌。

津軽ボンマルシェ探求すればするほど難しいから飽きることがない。

南津軽郡藤崎町に生まれた安田さんの実家はリンゴ農家。元々手先は器用な方だったと安田さんは自負しています。
「農家って結構なんでも自分で作ってしまうものなんです。機械を直したり、家を建てたり。父は5年くらいかけて家をリフォームしていましたし、子供の頃からものを作ることは見慣れていたんですね」。

それがキャンドルの場合は、全く分からなかったから引き込まれてしまった、という安田さん。納得のいく作り方を探求すればするほど、難しさが増し、どんどん深みにはまって行く…。気付いたらキャンドル作家になっていたというのです。

そのせいか、安田さんのキャンドル作りは、まるで科学者のようです。日々実験を繰り返し、材料も作り方も緻密に丁寧に調整していきます。例えば温度によってろうが固まった時の質感は微妙に変わってくるそうで、温度変化を慎重に見極めます。融点の違う3種類のろうを使い、キャンドルの部分によって配合を変えています。シンプルに見えるキャンドルでも、実は精密な式を頭に叩き込み、計算を重ねた上で試作を繰り返しているのです。
「色と質感、硬さ、溶け方、温度。私はぼんやりしているように見られるのだけど、キャンドルに関しては意外と真面目に考えて、日々研究しているんです。キャンドルを日常に使って欲しいから、炎の大きさやろうの溶け方、残り方など、美しく安全で実用的であることも配慮しています。そのままで綺麗なものをもっと綺麗にしたい、もっと何かできるんじゃないかと思う、常にその先へ進みたい。人間の本能的な欲求、探究心があります」
何事もとにかく経験値、と断言する安田さん。どれだけ経験を積むかで、見えてくるものがある、と。
「インスピレーションは降りてくるものだけれど、経験は自分でひとつひとつやって行き、自分のものにするしかない事ですよね」
と話しながら真剣な手付きでキャンドルに向かう安田さんの背中は、孤高の職人の佇まいでした。

安田さんのアトリエ。テーブルや棚、ディスプレイに使う什器も自分で作ってしまうという。

安田さんが特に力を入れているのは、自然の植物をドライにして詰め込んだ、森の風景の中に溶け込んでしまいそうなボタニカルキャンドル。(写真提供 YOAKEnoAKARI)

ボタニカルキャンドルは、ローズ、マリーゴールド、ラベンダー、オレンジ、桜、など各種ある。火を灯すと植物が影のようにほんのり透けて、幻想的な雰囲気に。(写真提供 YOAKEnoAKARI)

津軽ボンマルシェ出会い、風景、旅の記憶。それらは感性を豊かにしてくれるもの。

安田さんは、時間ができると、糸の切れた風船のようにふわっと自由気ままに旅に出てしまいます。大好きな音楽イベントは、歌を聞き、踊り、お酒を飲み、友と語り合う楽しみはもちろん、キャンドルやドライフラワーで空間演出を手掛けることも多い安田さんにとって、灯りのディスプレイや空間デコレーションにも大いに学びがあります。旅は安田さんにとって大きなエネルギー源。そこで見たもの、出会った人、感じたことが自身の創作のインスピレーションに少なからず影響を与えているようです。

「旅に出ることは自分にとってご褒美のようなものです。ずっとこっちにいると、やるべき仕事をこなすことでいっぱいいっぱいになってしまうから、一旦仕事から完全に切り離し、頭をクリアにさせる。ピンと来たら即動くので、電車が目の前に止まったらとりあえず乗ってみよう、という感じ。知らない土地で、新しいものを見て、初めましての人に会うと、そこに気づきや学びがたくさんあり、多くの刺激を受けます。ああ、こんな生き方もあるんだなって、他の人の人生に少しでも触れる時間を持てることは、自分のこれからにも様々な影響を与えてくれますし、とても貴重に感じます」
だから実は、あまり生まれた土地に執着はないのだけれど、それはこの取材の趣旨に合っているでしょうか、と心配そうに気遣いを見せつつも、故郷である津軽の自然の風景は好きで、時に感動をもらう、と素直に話してくれました。

「りんご畑の風景を見るの、好きですよ。一番好きなのは11月中旬くらいに…あ、中旬でもないかな。一番遅い“ふじ”(りんごの品種)の収穫があるんですけど、一回ぐっと気温が下がって霜が降りると、なんだか空気が澄んで全てが変化したような感じがするんです。りんご自身がぐっと糖度を上げて、凍らないようにする。それは何とも言えないたくましさと美しさで、私には色も空気も鮮やかに変わって見えます。霜が降りて、りんごの表面には水滴が付いていたりして、それに朝の光がキラキラと反射して。本当に美しい景色だなあと思います。あ、冬も好きですよ。全部葉っぱが落ちてしまった畑の木々。一面の雪景色の中に凛として立ち続ける姿は、偉大な自然の生命力でしかない、と感じます」。
大いなる津軽の自然の美しさへ静かに目を凝らし、そっと耳を澄ます、安田さんの純粋な感性は、作品の中にじわりと染み込み、醸成され、さらなる深みを与えているようです。

りんごのボタニカルキャンドルは、実家の農園で実った姫りんごの実、葉、枝をドライにして、キャンドルに詰め込む。竹串を使い、配置のバランスを丁寧に整える。

文字のフォントやテープの紙質など、ラベルのデザインも細部まで徹底的にこだわって作った。青森はもちろん、東京、関西など各地で展示を行なっている。(写真提供 YOAKEnoAKARI)

津軽ボンマルシェポンコツが日々拾い集める小恍惚。

「常に自分のことはポンコツだと思っている」という安田さん。
「宇宙規模でこの世の中を考えれば、全てが塵みたいなものって思うようにしています。じゃないと自分に自信がなさ過ぎて持ちません。世の中には素晴らしいものを作る人や表現する人がたくさんいます。もちろん今できる精一杯で自分なりに頑張っていますが、職人としても人間としても、本当にまだまだ。全く自信はないです。でもポンコツなりの強みもあって。本当に沢山の人に助けてもらってます。それは私が生まれ持った強みだと思いますし、日々のご縁にとても感謝しています。尊敬している知人の書いたとある文章の中に、“生活の中で小恍惚を見出せヤツこそ幸福な人間だと思ってる”っていう一文があって、それが私にとってはとても心に残る一文です。子供のころから遊び場は春先から秋まで絶え間なく花々が咲く祖母のお庭とりんご畑。わたしは自然の中でたくさんの事を学び、拾い集めました。日々の暮らしの中でコツコツとキャンドルをつくる仕事をして、少し手を止めて美しい景色を眺めて、耳を傾けて。自分はそんな風に生きて行きたいのです。マイペースなポンコツが恍惚を拾い集めるように。」

『YOAKEnoAKARI』という屋号の生まれた背景は、日本語の言葉の響きが美しいことと、安田さんが幼少時に感じた経験から来ています。子供の頃、青森の冬の朝、夜明け前は真っ暗で雪に覆われているのですが、家には昔から薪ストーブがあり、暗闇の中で、その薪の燃える炎がほっと心を和ませていました。火の持つ光の温かさ、夜明けの時間帯の儚い美しさに心惹かれたことが、この名前に由来しているといいます。津軽の暗く厳しい冬だからこそ、温かな光に救われる、祈りのような気持ちが生まれるのかもしれません。
「でも実は、音楽イベントなどでキャンドルの装飾をすると、そこで私が夜明けまで遊んでキャンドルは置きっ放し、自分は代行で帰る、みたいなことも昔あったので、ヨアケノアカリなのかも。その辺がやっぱりポンコツなんですよね」。
職人としてストイックに探求し、アーティストとして確固たるこだわりを持ちながらも、適度に肩の力の抜けた愛嬌を覗かせる、そんな安田さんの気取らないキャラクターが、キャンドルの魅力にもきっと繋がっているのでしょう。

展示準備は体力勝負。そして時間との戦い。安田さんはイベントやパーティーなどで空間装飾を手がける、デコレーターのような仕事もしている。家具屋で働いたこともある経験から、空間のスタイリングは得意。

取材時にインスタレーションを披露してくれたのは『国際芸術センター青森』の展示棟にある「水のテラス」。通りがかった誰もがしばし立ち止まり、息を飲んだ。

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本当のラグジュアリーとは何か? その考え方次第で、人生の豊かさは決まる。[HIRUME/福島県会津若松市]

「たとえ貴重な骨董品でも、私は暮らしの中でしっかり使います」と話す、冨永 愛さん。

冨永 愛×ヒルメ

豊かな生活には、身近に工芸品がある。

モデルとして日本人が世界で活躍する、大きな扉を開いた冨永 愛さん。17歳でニューヨークへ旅立ち、東洋人がランウェイを歩く地盤を築くまで、様々な試練と戦い続けてきました。国内外を飛び回る中で磨かれた審美眼は、古くから受け継がれ、あるいは発展されて、現存しているものに惹きつけられるといいます。

冨永さんが見せてくれたのは、継承した技術を駆使し進化させた「漆・蒔絵バングル」と作家の背景に想いを馳せるという「陶磁器」。こうした「Made in Japan」の本質の伴うものを、アクセサリーとして、食器として、生活に密着させ思い切り使うことに、豊かな気持ちになれる鍵がありました。

日本の伝統と革新を身につけられるバングル。「つけると、人生が豊かに感じられます」。

冨永 愛×ヒルメ伝統ある手仕事を身につけることこそ、本当のラグジュアリー。

冨永さんはある時に聞いた、「伝統芸能や工芸は、革新をしていかないと残らない」という野村萬斎氏の言葉に強く同感したといいます。「日本の素晴らしい文化、伝統、習慣はちゃんと継承していくべきだけど、ただ引き継いでいくだけでは残っていかないのだと、実感しています」と冨永さん。

もともと価値のある工芸を新しいモノとしていく、その信条の表れとして手に取ったのが、『HIRUME』の「漆・蒔絵バングル」です。古代、現代、未来を循環させる日本のものづくりの力を発信するブランドが、会津の伝統工芸士と一つひとつ丹精込めて生み出した逸品。機械には真似できない、漆を何層にも塗り重ね研ぎ出すことで表情が生まれる、このバングルを身につけることは、本質的な贅沢でもあります。「ラグジュアリーという言葉の本当の意味は、ファッションのひとつとしてちゃんと人の手の込んだ、伝統を受け継いだものを持つことで得られる、人生の豊かさでもあるのかなと今は思っていて。そういうモノを選べる生き方をしていきたいですね」と、冨永さんは話します。

漆ならではの深く上品な輝き、工芸士が研ぎ出した面が美しい。木製の土台のため、つけ心地も優しく軽い。

「1点1点、全て職人による手作り。人の手によって生み出されたものは、用途を超えた美しさがあります」と冨永さん。

冨永 愛×ヒルメ時を超えて、職人の手仕事を現代に生かす。そして受け継ぐ。

『HIRUME』のように、現代の技術を生かした工芸がある一方で、本当に古き良き匠の工芸も美しい。その両面から冨永さんは日本の工芸と向き合っています。
「海外へ出てから日本の文化が好きになって、最初は古い着物が欲しくて骨董市に行き始めたんです。でもそこで気に入ったのが、九谷焼の器でした。絵付けが手描きだったり、同じ柄でも作り手によって少しずつ違う。当時の職人はどうしてこの絵を描いたのかな?とその過程を考えながら、今にはないその人たちの時代の感性に想いを馳せるのが面白いんです」と、陶磁器を集め始めた理由を、冨永さんは話します。

冨永さんの器のコレクションは九谷焼に限らず、室町時代の漆器、李朝白磁の器、フランスで購入したカフェオレボウルなど、様々。年代物の貴重な品もありますが鑑賞用にはせず、漆器はお椀にしたり、日常で気前よく使っているのだといいます。重要なのは、自分にとって価値のある、背景のあるモノに囲まれた、ライフスタイルと生活空間を作ること。その中に身を置くと、ふとした時に心が和み、暮らしに彩りが生まれるのです。
「この九谷焼の皿の絵は、黒い頭で金色の羽のスズメなんです。全然そうは見えないんですけど、横に漢字で“雀”と書かれてあるから気付いて。作り手のユーモアを感じると、合わせる料理のイメージも広がりますね。蕎麦猪口やぐい呑みは飲み干した時に、底に描かれた絵を見るのも楽しいですよ」と冨永さん。

暮らしの中で道具を使えば、割れたり欠けたりしてしまうこともあります。そのたびに金継ぎをして、また味わい深い形に蘇らせるのが、冨永さんの器との付き合い方。先人もそうしてモノを慈しみ、古器は何人もの人の手に渡り、色々な時代をくぐり抜けてきました。時には人の寿命よりも長く現世にあり続けますが、持ち主が乱雑に扱えばすぐに消えてしまうモノでもあります。「長い歴史を経て、自分のところにやって来たっていうのが、可愛くもあるじゃないですか。それが骨董品に愛着を感じてしまう理由のひとつでもあります」と冨永さんは言います。

色合いも鮮やかな花鳥画が描かれた九谷焼。「ちょっとした副菜を入れるのにもぴったりです」。

内側の側面に斑点が見える蕎麦猪口。食すたびに柄が見えてくるのも楽しい。

どこか愛嬌のある絵付けを見ながら、「当時の職人さんの遊び心に和まされますね」。 

「どんな理由があって、子供より大きな壺を描いたんだろう?と気になります(笑)」。

冨永 愛×ヒルメ冨永 愛が考える、「ジャパンクリエイティブ」とは。

前述した野村氏の言葉の他に、冨永さんの視点に広がりを与えたのが、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』でした。西洋との本質的な相違に目を配り、便利さを求めたために失われた日本的な美の本質を問う本書。例えば、現代の蛍光灯の下で見る金蒔絵は柄が派手にも感じられますが、制作された江戸時代の明かりは蝋燭の灯火。その中で、ぬらっと美しく光る様子を美学としていたと知れば、ものの感じ方も変わってくるといいます。「こうした知識を自分の厚みにしていくと、若い頃とは違う感性が生まれて、歳を重ねた甲斐があると思いますよ。つるっとした綺麗な漆椀を開けて、四季が描かれていると、今はもう官能的にすら感じます(笑)」と冨永さん。

日本特有の四季を、伝来した器に表し独自の美しさを追求してみせるのは、日本人らしい表現ともいえます。日本発祥のモノを改良し存続させてきた一方で、古より日本は他国の文化を吸収し、国の風土や時代に合う様式を模索して、自分たちの形を残してきました。冨永さんは、「ジャパンクリエイティブ」とは、こうして発展され続けていくべきだと考えています。「繊細な技術と趣きをものに吹き込める、日本がすごくものづくりに長けている国だと思うからこそ、時代を超えて存在し続けるには、進化していかなければならない。それが今後の課題になるのではないかと思います」と冨永さんは語ります。

大事なことは、先人たちが続けてきたように、本質に忠実でありながら、その時代の日本に最適な創作をしていくこと。

冨永さんが考える「ジャパンクリエイティブ」とは、つまり「継承」。
継承することができなければ、革新することはできず、伝統は成し得ないのです。

17歳の時にNYコレクションでデビューし、一躍話題となる。以後約10年間にわたり、世界の第一線でトップモデルとして活躍。その後、拠点を東京に移し、モデルの他、テレビ、ラジオ、イベントのパーソナリティなど様々な分野にも精力的に挑戦。日本人として唯一無二のキャリアを持つスーパーモデルとして、チャリティ・社会貢献活動や日本の伝統文化を国内外に伝える活動など、その活躍の場を広げている。

風土と人の手がつくる「クラフトな美味」。佐渡島の食を通じて見た新潟の食の奥深さ。~平野紗季子編~[Niigata Gastronomique Journey/新潟県]

新潟ガストロノミックジャーニーOVERVIEW

4賢者の紅一点を飾るのは人気フードエッセイストの平野紗季子さん。トップガストロノミーから老舗の一品、スイーツ、ジャンクフードまでユニークな視点と語り口で斬りまくり、味わいや料理人の仕事を伝えるのみならず、その価値を、食のシーンまでもを再編集してしまう稀代のタレントです。現在は、執筆活動のみならず、スイーツやショップ、商業施設のプロデュースも手掛ける敏腕。

平野さんが訪れたのは、佐渡島。フレンチ、イタリアン、蕎麦ダイニング3軒の店を軸に、郷土色豊かな海産物加工品店から新スタイルのワインショップまで、気の赴くまま土地を味わう旅をします。実は初めての佐渡島。新潟県の中でもユニークな地形と気候、それらが育む自然と島ならではの独特な文化に触れるスポットにも足を運び、豊かな食の背景に触れるひとときも。平野さんの感性に、佐渡島とそこで生まれる味がどう響くのか。その旅に密着します。

【関連記事】Niigata Gastronomique Journey/風土に根ざした独自の美食が花開く新潟へ。4名の食の賢者が各地を旅し、その全容を本気で斬る

1991年福岡県生まれ。小学生から食日記をつけ続け、大学生時代に日常の食にまつわる発見と感動を綴ったブログが話題になり文筆活動をスタート。雑誌「Hanako」「POPEYE」などで多数連載を持つほか、イベントの企画運営・商品開発など、食を中心とした活動は多岐にわたる。著書『生まれた時からアルデンテ』(平凡社)。instagram: @sakikohirano


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学びを、表現の源流を足下の海川山に求め、自分の手でつくり上げた「里浜ガストロノミー」。[pesceco/長崎県島原市]

ペシコOVERVIEW

2018年8月。島原のレストラン『pesceco』は、大きく舵を切りました。町の繁華街で3年9カ月営んだカジュアルなイタリアンレストランを閉め、海沿いの一軒屋を新たな拠点として再スタートしたのです。完全予約制で、料理は昼夜ともおまかせのコースのみに。
「敷居が高くなった」と、足を遠ざけた地元客もいます。その一方で、「ここでしか食べられない料理がある」「店での食事を目的に島原へ旅する価値がある」と、県外から訪れるゲストが少しずつ増え始めています。

井上稔浩シェフは、島原生まれの島原育ち。県外に、いや世界に伝えたい島原の素晴らしいところも、他の地方都市同様に抱える少なくない地元の問題点についても、誰よりもよく知っています。そのうえで「島原が好きだから」と、この地に根を張る道を選びました。愛する故郷のために、料理人だからできることがある。店のあり方を大きく変えた移転リニューアルは、井上シェフの「覚悟」にほかなりません。町の外の人にとっては、ガストロノミー界に彗星のごとく現れたニューフェイス。そのユニークな歩みと、『pesceco』が示すローカル発のガストロノミーの可能性を追います。

住所:長崎県島原市新馬場町223-1 MAP
電話:0957-73-9014(完全予約制)
営業時間
 昼:12時入店
 夜:19時入店
定休日:不定休
pesceco HP:https://pesceco.com/

『DINING OUT』を通して発見した能登・輪島の魅力を3人のキーマンが語る。[DINING OUT WAJIMA with LEXUS/石川県輪島市]

ダイニングアウト輪島

2019年10月、石川県輪島市にて『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』が開催されました。
石川県輪島市は日本海に突き出した能登半島北部に位置し、門前町から続く美しい棚田や海岸線とのどかな里山や里海の景色には、誰もが懐かしさを感じずにはいられない、人と自然が共生する日本の原風景が大切に残されています。

そして、この地を代表する伝統工芸といえば、言わずと知れた「輪島塗」。日本の中でも輪島は、最も高度かつ広汎に漆文化が花開いた舞台なのです。なぜ輪島に最大の漆文化が花開いたのか?その答えを辿るべく設定された今回の『DINING OUT』のテーマは、「漆文化の地に根付く、真の豊かさを探る」。

この壮大なテーマに挑んだのは『DINING OUT』史上初のふたりのシェフでした。
ひとり目は、東京・西麻布「AZUR et MASA UEKI」の植木将仁シェフ。日本の優れた食材をフランス料理の技法で調理する「和魂洋才」をコンセプトにした、オリジナリティ溢れる料理で定評があります。石川県の出身であり、能登半島の食材の知識も豊富です。

ふたり目は、ジョシュア・スキーンズ氏。2009年 熾火料理を主としたスタイルの「Saison」をオープン。最高品質の食材への追求とその革新的な調理法で注目を浴び、アメリカ人として熾火料理で唯一ミシュランの3つ星を獲得。今世界が最も注目するシェフの一人です。

ディナーホストを務めたのは、『DINING OUT』ではおなじみのコラムニストの中村孝則氏が7回目の登場。

そして、今回は更なるサプライズをご用意。「輪島塗」に新たな息吹をもたらすプロジェクト『DESIGNING OUT Vol.2』も同時開催され。クリエイティブプロデューサーとして、新国立競技場のデザインを手がけたことも記憶に新しい、世界的な建築家である隈研吾氏を迎え、輪島塗職人と共にオリジナルの輪島塗を完成させました。

今だかつてない豪華メンバーを結集させた『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』。3人のキーマンが振り返ります。

【関連記事】DINING OUT WAJIMA with LEXUS

1967年石川県金沢出身。1990年より渡仏し、南フランスの四ツ星ホテル『ホテル ル デュロス』をはじめ、フランスやイタリアで3年間に渡り料理の研鑽を積む。帰国後、1993年『代官山タブローズ』スーシェフを経て、1998年『白金ステラート』オープンと共にシェフに就任。2000年に独立後、青山に『RESTAURANT J』をオープンした。2007年からは軽井沢『MASAA’s』、銀座『RESTAURANT MASA UEKI』を経て、2017年には株式会社マッシュフーズとともに同店をオープン。日本の伝統的な食材や伝統文化を探求しながら自身の料理に落とし込み発信することで、オープンから間もなくして注目を集め、高い評価を得ている。2016年世界料理学会イン有田と函館にてスピーカーとして登壇もしている。
AZUR et MASA UEKI HP:http://www.restaurant-azur.com/

2006年、『Saison』のコンセプトを産み出し、2009年にサンフランシスコにて1号店をオープン。
熾火料理を主とした料理スタイルで食材の自然のあるべき姿を尊重しながら、最高品質の食材への追求とその革新的な調理法で注目を浴び,アメリカ人として熾火料理で唯一ミシュランの3つ星を獲得。「the world’s 50 best restaurant」、「Food & Wine’s 」のベストニューシェフ、「Elite Traveler Magazine’s」の次の世代を担う最も影響力のあるシェフ15名にも選出される。2016年、更なるイノベーションの促進と成長のプラットフォームを提供するために、『Saison Hospitality』 を設立。2017年には想いをLaurent Gras氏に引き継ぎ『Saison』の現場から完全に身を引き、さらなる革新と研究のラボラトリーとして『Skenes Ranch』を設立。同年、サンフランシスコ沿岸に Skenesの海に馳せる想いを込めた『Angler』をオープンさせると、 2018年 Esquire Magazineにて全米のベストニューレストラン、GQにおいても全米ベストニューレストランに選出され、ミシュラン一つ星を獲得。2019年にはビバリーヒルズに『Angler』 の2号店をオープン。今、世界が最も注目する料理人の一人である。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、テレビにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を受勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称)の称号も受勲。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。
http://www.dandy-nakamura.com/

3人揃えば賑やかな笑い声が絶えない、日々を楽しみながら伝統を受け継ぐ、刺し子ユニット。[TSUGARU Le Bon Marche・三つ豆/青森県五所川原市]

左から一戸晶子さん、工藤夕子さん、一戸正子さん。集まればいつもお喋りが弾む。雑談しながらも、ひと針ひと針、仕事の手は止まらない。

津軽ボンマルシェ生活の必需品から、芸術作品を生む楽しみへ。

津軽を代表する伝統的手工芸「こぎん刺し」。その歴史は江戸時代からといわれます。当時、北国で暮らす農民にとって、綿は栽培することが難しいため、とても高価なもので、着ることすら制限されていました。日常に使われていたのは麻でしたが、寒さの厳しい冬に、風通しの良い麻の着物では凍えてしまいます。そこで、麻布に綿の糸を細かく刺すことで、布目が詰り、厚みが出て、防寒の役目を果たすという生活の知恵が生まれました。また、ほころんでしまった布の補強をする役目も担っていました。津軽地方の方言では、作業着のことをこぎん(小布)と呼び、藍染の麻布で作られた作業着に、白い糸で刺したことが、こぎん刺しの始まりだったといわれています。それがいつしか多様に美しい図案が生まれ、家仕事をする女性たちの楽しみに変わっていったのでした。

1942年にホームスパンとして設立され、民藝運動の柳宗悦らの勧めにより、こぎん刺しの研究機関となった『弘前こぎん研究所』は、津軽のこぎん刺しを研究・保存し、次の世代へと伝えている重要な機関です。ここでは「モドコ」と呼ばれる伝統的な図案を組み合わせ、布や糸の色は昔に比べてもっとカラフルで自由になり、今の暮らしに馴染むデザインのバッグや小物などが制作・販売されています。こぎん刺しは、その美しい連続的な幾何学模様に魅了された手芸好きな人たちの間で現在も静かに脈々と続けられており、祖母や親から教えてもらう人もいれば、弘前こぎん研究所の講座などで技法を学び、深みにはまっていく人も多いようです。『三つ豆』を立ち上げた工藤夕子さんもその1人でした。

工藤さんは、これまでに津軽ボンマルシェで紹介してきた『スノーハンドメイド』や『KOMO』など、気鋭の作家たちとも交流があり、『パン屋 といとい』の成田志乃さんからは「夕子さんのこぎん刺しには、夕子さん本人の持つ魅力が宿っている。そこに惹き込まれます」と一押しの声を頂きました。どうやら津軽には工藤ファンが多いようなのです。一体どんな人が作っているのでしょうか。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

津軽地方独特のこぎん刺しは、縦糸を1・3・5と奇数の目を拾って刺していくのが特徴。南部地方には偶数の目を拾って刺す「南部菱刺し」という工芸品がある。

津軽ボンマルシェ三つの「豆こ」が集まって紡ぎ出す美しい紋様。

刺し子やこぎん刺しで様々な作品を作り、津軽らしい暮らしの温もりを伝える、女性3人組のチーム『三つ豆』。五所川原にある工藤さんのアトリエを訪問すると、部屋の中からなんとも賑やかな笑い声が聞こえてきました。工藤さんの元に集まっていたのは、母である一戸晶子さんと、伯母の一戸正子さん。3人が仲良くテーブルを囲み、チクチクと針を動かしています。

「週に一回、月曜日は三つ豆の日って決めているの。最初は晶子さんが刺し子でちっちゃいのを作っていて、これいいねって。私も縫うのが好きだったから、じゃあ2人で何か作ろうかってね」。
と正子さん。
「正子さんは刺し子上手だったから、教えてもらったりして。そのうち夕子がこぎん刺しを始めて、それじゃあ3人で一緒にやりましょうよ、ってなったのよね」。
と晶子さん。お互いに教えあったり、色や柄を褒めあったり。ほのぼのとした雰囲気の中、時には娘や孫も加わって、他愛のないおしゃべりを楽しみながら、手はせっせと動かし、すいすい作業が進みます。

正子さんと晶子さんが作っているのは、主に刺し子の布作品。刺し子はそもそも日本に古くから伝わる伝統的刺繍で、全国各地で作られていますが、特に東北地方で作られたものが、広く知られているようです。藍染布や、白い晒し布に綿の糸で様々な模様を刺していくのが基本。刺し方に法則のようなものはありますが、こぎん刺しほど目は細かくなく、もっと大らかで大胆な色の組み合わせができることが特徴です。選ぶ色によって雰囲気もガラリと変ります。刺し方には様々な名前が付いており、「麻の葉」「矢羽根」「青海波」などの伝統模様があります。2人がよく作っているのは「紫陽花」というもので、たくさんの紫陽花が満開に咲いたような、可憐で華やかな印象の刺し子です。

そして刺し子の中でも「日本三大刺し子」と呼ばれる、より複雑な技法の一つがこぎん刺し。こぎん刺しの作品は主に工藤さんの担当です。こちらも伝統的な図案には名前が付いており、「花こ」「てこな(蝶々)」「猫の足」など、なかなかユニーク。生活に身近なものを表した名前が数多くあります。実は『三つ豆』というユニット名も、その基本的な図案の一つである「豆こ」に由来しています。豆ことは、ポツンとまあるい、シンプルな刺繍。3人が集まって、わいわい手仕事しているところを工藤さんの夫が見つけ、「まるで三つの豆こみたいだな」と冗談で言ったことが始まり。小さくてシンプルな3つの豆が、繋がることで驚くような美しい模様を生み出し、無限の広がりを見せる、そして親から子へ、家族から仲間へ、様々な人の繋がりも生み出していく、そんな可能性を感じさせてくれる、とても素敵な名前です。

工藤さんの母、一戸晶子さんが作った刺し子作品。布巾とのことですが、色の合わせ方が絶妙で、額に入れて飾りたくなるような美しさ。晶子さんは元数学教師で「私数字には強くて、刺し子にも役立つのよ」と笑う。

コースターとして使えるよう、小さく作られたものも。色の組み合わせを考えるのが何よりの楽しみ、という正子さん。孫がアイデアを出してくれることもあり、そんな時は新しい発見があるとか。

津軽ボンマルシェ人との出会いが道を作り、思わぬ方向へ広がっていく。

工藤さんは、子供の頃から手作りすることが大好きだったといいます。手芸好きな母の晶子さんに教わり、小学生の頃からクッションやバッグなどを作っていました。妊娠中は、生まれてくる子供のために服も作っていたそうです。そうこうするうちに自然な流れでフリマやハンドメイドイベントに参加して、自分で作ったものを少しずつ売るようになっていきました。

「母がこぎん刺しを好きでやっていましたし、自分も津軽の出身だから、いつかやってみたいなとは思っていました。ある時、とある刺繍作家さんのイベントで、こぎん刺しをやってみたい、と話していたら、一週間後に弘前こぎん研究所主催の教室がありますよ、と教えてもらって。そこで基礎を学んだことがきっかけです。以後、こぎん刺しの作品も少しずつ作って販売するようになりました。そうしたら、五所川原のコミュニティカフェで置いてくれるようになったり、金木に『駅舎』っていうカフェ(旧芦野公園駅。太宰治の小説「津軽」にも登場する)があるんですが、そこで展示をしませんかって声を掛けてもらったり。こぎん刺しについては、不思議なことにいいタイミングで誰かしらの導きがあるんですよね。震災後の2012年からは弘前の『集会所indriya』というカフェで教室を始めましたが、それもここの店主が作品を買ってくれたことがきっかけで、やってみたら?と背中を押してくれたんです」。

近年は津軽だけにとどまらず、東京を始め、全国各地で個展やワークショップを開催。パリやニューヨークにも出展するなど、活躍の場を広げています。どれも自分から売り込むというより、周りの人のご縁で緩やかに道が開けてきた、というのも工藤さんらしい人柄を表しているようです。
ここでちょっと余談ですが、そんな工藤さんのもう一つの特技はなんと陸上競技! 体育大学を卒業しているというのだから本物です。今でもマラソン大会に出ることもあるそうで、スポーツ好きで手芸好き、という異色のキャラクターの持ち主。高校時代はジャージを入れるバッグも自分で手作りしていたとか。工藤さん曰く、長時間刺繍をしていると、無性に運動したくなる時が来るのだそうです。

「静と動の融合と言いますか。私にとってはどちらも大好きで大切なこと。両方あるからバランスが取れているんだと思います。手芸に疲れたら走ることでいい気分転換になって、また手芸に集中できるし、肩こり解消にもなりますよ」。
まるで運動部と文化部を行き来するような工藤さんは、細やかな気遣いを見せながらも、さっぱり明るく元気に笑い、バランス感覚のある人。そんな工藤さんのところにきっと多くの人が集まってくるのでしょう。

「津軽の魅力は海も山もあること。何もないようでいっぱいある。ここから海までだって自転車でいけますよ。1時間くらいかな?」と工藤さん。いえいえ五所川原から海まではなかなか遠いですが……さすがスポーツ好き!

モダンで洗練された印象の中に温かみを感じる工藤さんの作品。こぎん刺しは伝統的な図案の他、工藤さんが考案したオリジナル図案を刺すこともある。コギンザシスト(こぎん刺し作家)は日々続々と新しい図案を生み出しているという。

青森ひばで作られた小さな升に入った針山。升は知的障害を持つ方の就労支援施設に依頼して制作してもらっている。

布のバッグや小物を作る弘前の作家・たにさわあいさんとコラボした作品。しっかりした厚手リネン素材に、こぎん刺しのワンポイントがピリリと良いアクセント。

津軽ボンマルシェ名もなき津軽の女性たちの思いを今に伝えたい。

こぎん刺しの魅力とは、まず、誰でもどこでもすぐにできること、という工藤さん。図案の見方さえ分かるようになれば、あとは根気で、どんなに大きなものでも作れますよ、と心強い一言。そして針と糸と布さえあれば、どこでもサッと取り出してチクチク。そこはたちまち自分だけの小さなアトリエに。工藤さんはいつも裁縫セットを持ち歩き、ちょっとの時間も有効に使っています。

「でも何より一番の魅力だと感じるのは、津軽に暮らす女性たちにとって、こぎん刺しは郷土の誇りであるということ。その歴史的背景も忘れてはならないと思います。厳しい生活環境の中から生まれたものですが、そんな中でも模様を作るという楽しみを見つけ、根気のいる作業を続けてきた津軽の名もなき女性たちのことを考えると、なんとも慎ましく、たくましいなあと胸が熱くなります。これは現代においても、女性たちに訴えるものがあるのではないでしょうか。数の法則によって生み出される模様の美しさは無限大、でも美しさだけじゃない部分も伝えていきたいと思っています」。

工藤さんの家系は代々もの作りが好きなようで、2人の娘も手芸好き。こぎん刺しは得意で、家庭科の授業では困っている友達に教えてあげているそうです。母のイベントを手伝ってくれることもある頼もしい存在。家にあるこぎん刺しの本をいつも目にし、作ることを楽しんでいるようなので、工藤さんは特に何も言わず、自然と娘達に引き継がれていくことを、静かに見守っているとのこと。でも娘側に言わせると、こぎん刺しの話になるとつい熱がこもってしまう母の姿があるようですが…。

工藤さんは最近、歴史をたどる面白さを知り、地元である金木地域発祥の「三縞こぎん」についても調べています。こぎん刺しは地域によって刺し方に特徴があり、岩木川を境に東側で作られた「東こぎん」、西側の「西こぎん」、そして岩木川下流地域、北津軽郡金木町を中心に作られた三縞こぎんの大きく3つに分けられます。三縞こぎんは現存するものが非常に少ないため分からないことが多く、大変貴重だといわれます。工藤さんは、ずっと作りたかったという三縞こぎんをつい最近、実際に自分の手で再現しました。古い麻布は硬くて針が刺しにくく難しかった、と話し、昔の人に寄り添って、思いを馳せます。三つ豆の作るこぎん刺しや刺し子に、言葉にならないような惹き込まれる魅力を感じる理由は、時代をしなやかに生きた昔の津軽の女性たちへの尊敬や憧れが、ひと針ひと針に静かに込められているからかもしれません。針と糸が紡ぎ出す優美な模様はたくさんの物語を秘め、手に取る人へ優しく語りかけてくれるようです。

木枠に入った作品は、希少な「三縞こぎん」を再現したもの。右脇は教室の生徒さんたちで1枠ずつ作ったこぎん刺しをコラージュのように繋ぎ合わせた合作。

工藤さんのこぎん刺し用裁縫セット。出かける時もいつも持ち歩き、空いた時間ができたら、さっと広げてチクチク作業する。

ちょっと一息、休憩のお茶タイム。「世間話やテレビの話、身内の話など、話題は尽きないわね」「喋っている時間の方が長いかもしれないわ」と笑い合う晶子さんと正子さん。

http://mitumame-aomori.com/


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完熟の『ル レクチエ』を使ったデザートがついに完成。藤木千夏シェフが出した答えとは? [ル レクチエ/新潟県新潟市]

2019年11月、惜しまれながら幕を下ろした名店『Umi』。最後のコースのデザートには『ル レクチエ』のパフェが選ばれた。

ル レクチエ想定をすべて覆す、完熟『ル レクチエ』の芳醇な香り。

2019年11月、『ル レクチエ』の産地である新潟を訪れ、『ヤマヨ果樹園』にてジュースやペーストを試食した藤木シェフは言っていました。「温めてみたらどうだろう? 果実を焼いてみたら? スープにしたら? いろいろと浮かんできます」その上質な甘みが、藤木シェフにさまざまなアイデアを届けたのでしょう。

そして数週間後、追熟が終わった食べ頃の『ル レクチエ』が段ボール箱に詰められて藤木シェフの元に届きました。その箱を開けた瞬間に広がる芳醇な香り! 「食べ頃の『ル レクチエ』は、こんなに素晴らしい匂いなんだ!」その香りは、またたく間に藤木シェフの心を捉えます。そして想定していた構想はすべて消え去りました。「あれこれせずに、この感動をそのまま伝えたい」そうして藤木シェフのメニューは、ほぼ迷うこともなく完成しました。

【関連記事】ル レクチエ/桃のような口溶けと上品な甘み。高級西洋なし『ル レクチエ』の魅力を、料理で表現するために。

『ル レクチエ』の産地・新潟を訪ねた藤木シェフは、その栽培や追熟の技術に熱心に耳を傾けた。

ル レクチエ果実そのものをダイレクトに味わう究極のデザート・パフェ。

『ル レクチエ』が届く前、藤木シェフは厨房でメニューを考案していました。シェフの目の前にあるのは、『ル レクチエ』ではない、一般に流通している洋梨。甘みはとても繊細。香りも柔らかく上質。そんな魅力を活かすため、藤木シェフは洋梨を温かいスープに仕立て、香り豊かなバジルのアイスを添えました。それはその段階で考えうる最上の洋梨の表現。メニューは早くも確定したかに思われました。

そして届いた『ル レクチエ』。まず生で試食した藤木シェフは衝撃を受けます。「繊細なのに味が濃い。果実はみっちり詰まっていて、でも滑らか。そして鼻に届く素晴らしい香り」それがはじめて『ル レクチエ』を味わった藤木シェフの第一印象。そして藤木シェフは考えます。「この素材に足し算は必要ない。このおいしさをそのまま伝えよう」と。そしてメニューを変更し、『ル レクチエ』をダイレクトに伝えるメニューに舵を切りました。そのメニューはシンプルに果実そのものを味わう「パフェ」でした。

喫茶店やファミリーレストランでもおなじみのパフェ。「この『ル レクチエ』と今の私でしかできないパフェを生み出したい」と考えた藤木シェフは、「香り」を全体の主軸に据えました。そう、段ボール箱を開けた瞬間、一気にシェフを虜にしたあの香りです。

これから追熟作業に入る、収穫直後の「ル レクチエ」。

まずは『ル レクチエ』の試食。「上品な甘み、滑らかな食感など、すべてが想像していた以上」という。

ル レクチエ重層的な香りが渾然一体となり、『ル レクチエ』の魅力を引き立てる。

まず決定した組み合わせは、バジルオイルでした。バジルの先端の葉の香りをグレープシードオイルに移した爽やかなオイルです。次に、バジルの茎の部分の香りを移したブランマンジェ。滑らかな食感とバジルの香りが、こちらも『ル レクチエ』に寄り添います。柚子の果汁で作ったジュレは、香りとともに酸味の広がりを演出しました。仕上げには柚子の皮とタイムを少々。一方、合わせる『ル レクチエ』は、生のまま、そのままの果実です。食感を楽しんでももらうため、あえてゴロゴロのサイズにカットしました。

途中まで入れていた生姜のクランブルは、滑らかな食感の邪魔をしてしまうため、外しました。パフェにつきもののアイスも、今回は無しにしました。あくまでも主役は『ル レクチエ』。そしてテーマは「香り」です。

グラスに盛られた複数の層。スプーンで下から掬って、一度にすべての要素を味わいます。『ル レクチエ』、バジル、柚子、タイム。香りは複雑なようでいて、「清涼感」という共通項があるため違和感なく調和します。『ル レクチエ』の絹のような食感は、ブランマンジェとともに頬ばっても一緒に滑らかに溶けていきます。全体を包む優しい甘みと、柚子のほのかな酸味、そして鼻から抜けていく香り。パフェの語源は、フランス語で「完全な」を意味する「parfait(パルフェ)」。そのまま食べても最高の『ル レクチエ』を、そのまま以上においしく味わう、完全なデザートの完成です。

追熱後の『ル レクチエ』。桃やマンゴーのようなきめ細かいテクスチャが自慢。

さまざまな香りの要素が絡み合い、『ル レクチエ』の持ち味を引き立てる。

多彩な要素が同居するだけに、全体のバランスが肝。盛り付けも含め、まさに“完璧な”パフェが誕生した。

ブランマンジェ、ジュレ、そして『ル レクチエ』の果実。それぞれの食感のバランスも絶妙。

ル レクチエ名店のフィナーレと新店の幕開けを飾る『ル レクチエ』のパフェ。

藤木千夏シェフは2020年、故郷である福岡に新店を開店予定。その準備のため、藤木シェフの店であった恵比寿『Umi』は、2019年11月で幕を下ろしました。その最後の10日間、『Umi』のコースのデザートには、このパフェが登場しました。数々の食通を唸らせてきた名店のフィナーレを、『ル レクチエ』のパフェが飾ったのです。

そして朗報がひとつ。2019年12月中旬(予定)までは、藤木シェフが監修するニューオープンのカフェ『À L'AUBE』にて「季節のパフェ」としてこのパフェが味わえます。

11月末に開店した『À L'AUBE』はインテリアショップ『Francfranc』が手掛ける新たなライフスタイルブランド。藤木シェフはこの店のカフェの料理全般を監修したほか、今後福岡に拠点を移した後も、季節メニューの監修などを続ける予定。「現在の自分にできることを、すべて出し切っています」というカフェだけに、『Umi』と変わらない、素材感が際立つ料理が楽しめることでしょう。

このパフェについても「『Umi』との違いはポーションだけ。コースのデザートと違い、カフェでは一品で満足できるサイズ感になっています」と藤木シェフ。そんな藤木シェフの思いが籠もった『ル レクチエ』の「季節のパフェ」は『À L'AUBE』にて12月中旬までの限定販売。ただし売り切れ次第終了となるためお早めに!

『À L'AUBE』では厨房の技術指導も藤木シェフの仕事。スタッフたちに持てる技術と知識を伝える。

『À L'AUBE』では、12月中旬まで限定の「季節のパフェ」として、やや大きめのポーションで提供。

『Francfranc』が手がけるカフェだけに、スタイリッシュに統一された『À L'AUBE』の店内。使用される食器などは店内で購入できる。

住所:〒108-0071 東京都港区白金台4-19-20 Barbizon白金台ビル MAP
電話:03-6456-2927
https://a-laube.com/

1984年生まれ、福岡県柳川市出身。高校卒業後に料理専門学校に入学し、在学中から『ホテル オークラ』に勤務、卒業後は同ホテルに就職し、5年間研鑽を積む。24歳で渡仏し、ビストロや星付きレストランで修業、帰国後に銀座『ロオジエ』などを経て、2014年に再びフランスへ渡り、パリの『Retaurant Sola』でスーシェフを務める。2017年に帰国後、恵比寿『Umi』のシェフやカフェの監修などを務める。


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渋谷という街から、改めて発信する伝統工芸の価値。[Discover Japan Lab.(ディスカバー・ジャパン ラボ)/東京都渋谷区]

リニューアルオープンした『渋谷PARCO』の1階に国内初出店となった「Discover Japan Lab.」。「Discover Japan」編集長の高橋俊宏氏に話を伺った。

ディスカバージャパンラボ『DESIGNING OUT Vol.2』のプロダクトが、東京に登場。

地域に眠る魅力を掘り下げ、その価値を発信する『ONESTORY』と月刊誌『Discover Japan(ディスカバー・ジャパン)』。そんな同じ思いを持つ両者が手掛ける『DESIGNING OUT(デザイニング アウト)』は、日本に眠る伝統的なデザインに最先端のクリエイションを加え、新しいプロダクトとして開発、発信するプロジェクトです。

2019年10月、石川県輪島市を舞台に行われた『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』の会場では、『DESIGNING OUT Vol.2』として、世界的建築家・隈研吾氏が手掛けた輪島塗の器が披露されました。
あの輪島の夜、ある人はうっとりと眺め、ある人は慈しむように手触りを確かめた美しい器。それがこの度、東京にやってきました。それも再開発に湧く渋谷の街に。

2019年11月にリニューアルオープンを果たした『渋谷PARCO』の1階、『Discover Japan Lab.(ディスカバー・ジャパン ラボ)』と名付けられたその店は、『DESIGNING OUT Vol.2』の器のみならず、日本の伝統工芸の美しさを追求するセレクトショップ。本誌の特集と連動して毎月の店頭商品も入れ替わる、まるで『Discover Japan』の誌面がそのまま形になったかのような店でした。

『Discover Japan Lab.』は、月刊誌『Discover Japan』が見つけ出した日本各地の伝統工芸をセレクトするショップ。

『DESIGNING OUT Vol.2』の器は『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』の晩餐で実際に使用された。

世界的建築家である隈研吾氏が、国指定重要無形文化財である輪島塗に新たな風を吹き込んだ。(写真は『DINING OUT WAJIMA』にて)

ディスカバージャパンラボ雑誌を編集するように、レイアウトされる店舗。

新生『渋谷PARCO』の正面玄関を入ってすぐ左手。施設の顔となるような位置に『Discover Japan Lab.』はあります。対面には誰もが知るハイブランドの店舗。しかし『Discover Japan Lab.』の店頭に並ぶ工芸品の数々は、どこにも負けぬ存在感を放ち、堂々と鎮座しています。

「日本のものづくりが、世界的に見ても素晴らしいものであることを、改めて伝える場」月刊誌『Discover Japan』の高橋俊宏編集長は、このラボの意味をそう話します。かつて最先端のカルチャーを生み出し、発信した『渋谷PARCO』という場所から、日本の伝統をもう一度送り出す。そこにこそ、日本のものづくりを見直すきっかけを見出したのです。

そんな店のオープニングのトップに『DESIGNING OUT Vol.2』を据えたのは、「隈さんは100以上ある輪島塗の工程をすべて読み込み、そのストーリーを6枚の皿で表現したのです。これにより現地の人も“輪島塗は途中でも使える”と気づいた。作家自身もそこに気づいた。変わり続ける宿命を持つ伝統工芸のなかで、その気付きを与えるストーリーを表現したのが、さすがは隈研吾さんという部分なのです」高橋編集長はそう話しました。この器は、「Discover Japan Lab.」と石川県輪島市にある「輪島塗会館」にて数量限定で販売します。

その他の商品も、もちろん伝えるだけではなく、どれも購入可能。「我々は雑誌を通して、作家について発信しています。しかし、ただ発信しているだけでは伝統はやがて先細りになってしまう。活動の出口の部分、作家の皆さんがやっていることを世に問う場としてこのラボがあるのです」高橋編集長の言葉には、日本の伝統工芸への誇りに満ちています。

『DESIGNING OUT Vol.2』の器は6枚セット、重ねる事で隈氏らしい建築美を表現する。45万円(税別)にて少数限定で販売中。

店長・守屋成美氏をはじめとしたスタッフが、雑誌をめくるように、すべての商品のストーリー、バックグラウンドを解説する。

この日は『嬉野茶時(うれしのちゃどき)』による、嬉野茶の試飲サービスも行われていた。

ディスカバージャパンラボ遠い未来を思い描く、若き陶芸家の夢。

もちろん『DESIGNING OUT Vol.2』のほかにも、素晴らしい作品が並びます。オープンの11月にメインスペースを飾っていたのは、陶芸家・青木良太氏の作品でした。
青木氏は陶芸という分野のなかでも、とくに釉薬について研究を続ける作家。今まで世の中になかった色や質感。それを釉薬で表現する研究者でもあるのです。
「21世紀にしか作れないもの、千年、二千年後にこの時代の代表作といわれるものを作りたい」青木氏の夢は壮大です。そして周囲に何を言われようとも、青木氏は挑み続け、そして掴み取っているのです。

たとえば、金を使わずに出す金色。かつて青木氏が黒い釉薬を使っていると、偶然ちらりと金の粒が見えました。青木氏は細い糸をたどるように、その金色ですべてを覆うことを目指しました。試しては失敗することを繰り返しながら、気づけば15年。そうして完成した『ブリンブリン』シリーズは、世界で唯一の金を使わない金色の陶器です。
スワロフスキー・クリスタルを全面に焼き付けた器も、陶器の脚付きワイングラスも、世界で唯一。「陶芸の長い歴史のなか、すべてやりつくされているはずなのに、なお新しい表現ができる。これこそが陶芸の可能性なのです」青木氏はそう話しました。

他にも土鍋、曲げ木、ガラス、衣料品など、日常に寄り添いながら新たな価値を伝える工芸品がいろいろ。若者たちが行き交う渋谷という街から、改めて見つめる伝統工芸。その世代に何かを伝えることができれば、それがこのラボが存在した意味となるのでしょう。

陶芸家・青木良太氏。釉薬を突き詰める独自の世界観に注目が集まっている。

青木氏の『ブリンブリン』シリーズ。『ブリンブリン』はヒップホップのスラングで「きらびやかなこと」を意味する。

青木氏の手掛ける杯。商品の価格は数百万円のものから、日常的に使えるものまで幅広い。

木工『まる工芸』の大澤昌史氏。「曲げ物というジャンルでどこまでチャレンジできるか。今はそれだけを考えています」

土鍋の新たな価値を発信する『土楽窯』の福森道歩氏。「料理からアプローチすることで、土鍋が冬のものという概念を覆したい」という。

住所:東京都渋谷区宇田川町15-1 渋谷PARCO 1F MAP
電話:03-6455-2380

東洋文化研究家 アレックス・カー インタビュー~南会津秋ツアーを終えて[NEW GENERATION HOPPING MINAMI AIZU/福島県南会津郡]

全国的に見て、これほど貴重な建物が残るエリアも珍しい、と語るアレックス氏。

ニュージェネレーションホッピング南会津風土に溶け込んだ「小塩の神楽」のよさ。

自然の恩恵も、厳しさも知る人々が暮らす南会津には、移りゆく時代を越えてきた古い街並みが今に受け継がれています。そこで山々が色づく秋、東洋文化研究家のアレックス・カー氏やツアー参加者の皆さんと共に、日本の原風景を彷徨うかのようにこのエリアを歩きました。2019年11月に開催された、「アレックス・カーと巡る南会津秋のツアー」にて1泊2日の行程を終えたアレックス氏は何を思うのでしょう? 

「ツアー初日に訪れた『大桃の舞台』の神楽は素晴らしかったですね。村の方々が座って神楽を見ているなか、そこにお邪魔するように入っていって。全国に神楽はあって、なかには完全に儀式化してしまったものもありますが、『小塩の神楽』は農村舞台の演目らしく風土に溶け込んでいました。ユーモアや遊びがあって、囃子方と観客のやりとりもあって、みな笑っている。客席にいた彼らもまた、神楽の一部だったと思います。舞台が3層構造になっているのも素晴らしい。僕はあちこちの農村舞台を見てきたけど、こんな造りの農村舞台は日本にひとつしか現存していないかもしれない。建具も入れられるようになっているし、歌舞伎で場面を替える時など、いろんな場面で活用されたんでしょうね」

【関連記事】NEW GENERATION HOPPING MINAMI AIZU/東洋文化研究家アレックス・カーと巡る南会津秋のツアー・レポート

2人獅子とひょっとこの絶妙な動きに老若男女が笑う「小塩の神楽」in「大桃の舞台」。

「小塩神楽保存会」の方々と共に。舞台にあがらせていただく貴重な機会に、中の構造や屋根をじっくり観察。

ニュージェネレーションホッピング南会津南会津の茅葺屋根に見る彫刻的な美しさ。

さらにアレックス氏が気になったのは、「大桃の舞台」の屋根の形。南会津の茅葺は冬場の豪雪に耐え、断熱材としての機能を果たす一方で、梅雨時や夏場は湿気で木を傷めないよう通気性が保たれています。そのため分厚くなった萱の庇部分を切って、屋根全体の形を整えているところが「彫刻っぽい」と言うのです。こういった立体感のある茅葺は、イギリスにもよく見られるそうで、遠く離れたイギリスと南会津にどのような接点があっては似るに至ったのか、その背景に想いを巡らせずにはいられません。離れた土地の共通点を建物に見る発見はもうひとつありました。それは、大内宿に行く前、人気蕎麦店の『三澤屋』のご主人・只浦氏が手掛ける貴重な古材の倉庫を見せていただいていた時のこと。山と積まれた弁柄色の瓦を見たアレックス氏が、「佐渡の瓦と似ているなあ」とつぶやいたのですが、それを聞き逃さなかった只浦氏が、「その昔、会津藩は佐渡を治めていましたから」とおっしゃったのです。

「あれは僕も嬉しくなっちゃってね。もともと瓦が好きで、『DINING OUT』で佐渡に行った時に独特の色や釉薬が特徴的だなと思って覚えていたんです。でも、まさかルーツが同じとは思いませんでした。会津藩というと当時の超エリート藩で、財政が潤っていただろうから、立派な茅葺屋根のお宅がたくさん残っているのも、その辺りと関係あるのかもしれないね。そうそう、今回は『大内宿』と『前沢曲家集落』の2カ所を見たけれど、大内宿は街道沿いに整然と家が並んでいて、前沢は普通の農村だから家が点在していて。それが一層、おとぎ話のなかの隠れ里といった雰囲気でしたね。ああいう村は日本のあちこちにあるんだけど、あれだけキレイに保存されているところは少ない。とても貴重だと思います。理想郷ですよ」

魅力的な茅葺といえば、2日目の午前中に立ち寄った「南泉寺」も夢のような空間でした。田んぼのなかにひっそり佇むお寺には苔蒸した石灯籠と立派な枝垂れ桜。そして、茅葺の楼門――。そこには美しき日本の残像がありました。
「『南泉寺』はたまたま走行中のクルマから見つけたんだけど、最初に見たときの嬉しさはずっと忘れない。『南泉寺』も『前沢』もそうだけど、普通の農村のなかにぽつりと残ったああいう雰囲気の場所が好きですね」

アレックス氏をして「理想郷」と言わせしめた前沢曲家集落。まさに隠れ里といった趣き。

集落の保存会の方にお話を伺いながら、集落のなかを散策。集落内には養蚕の名残か桑の木が植えられていた。

ニュージェネレーションホッピング南会津美しき日本の残像を未来に受け継ぐために――

「しかし、今回のツアーで回ったような場所は全国的に少なくなってきました。畦道のなかにガードレールを立てたり、看板だらけにしちゃったり、公共工事が景観を損ねていってしまって。とはいえ、今回の大内宿の賑わいをみて、美しい田舎には世界的ニーズがあるんだなとつくづく思いました。『観光客なんて来る訳ない』『田舎は交通が不便だから』はいい訳でしかない。せっかく南会津には観光資源になる茅葺の古民家がたくさんあるのですから、そちらを整備して、大内宿にくる観光客を分散させてはどうかと思います。大内宿は今後、入村料をとってもいいし、予約制にしてもいい。(合掌造りで有名な岐阜の)白川郷では秋のライトアップシーズンは予約制を取り入れたそうです。そろそろ、日本の観光はそういうことを考えていかないといけないね。それで、入村料はうんと高くすればいい。たとえそれで観光客が10分の1に減ったとしても、入村料を500円から5000円にすれば全体の売り上げは変わりません。そうすると、お金を持っている人しか観光できないことになってしまうので、学生は無料にするとか、抽選枠を設けてもいい」

打てる手はたくさんあるとアレックス氏。その根底には、貴重な建物は不可逆で、一度壊して古材を廃棄してしまえば、もう元には戻せないという切実な想いがありました。

「大内宿は大型ツーリズムの見学スタイルですが、前沢はこじんまりしているので、滞在型の観光スタイルを作るのもいいですね。宿泊施設を1,2軒作って、あとはアーティストレジデンスやアトリエにしてもらったらどうだろう? 観光客はゆったりと散策ができるし、そのなかでアーティストのアトリエに出入り出来たら楽しいよ。宿泊費に料理と地元に落ちる金額も大きくなりますし。経営する側にしても、旧来の日本の旅館のように上げ膳据え膳ではなく一棟貸しにすれば、スタッフを常駐させる必要もない。鍵を渡して設備の説明をしたら、あとは鍵を返すまで自由。食事は地元で買った食材をキッチンで調理するか、ケータリングを利用すれば無理がない。1日目の『南山荘』のディナーのように、予約制でシェフを呼ぶツアーも喜ばれるでしょう。『大桃の舞台』がある集落だって、ちょっと手を入れて何軒かを茅葺に戻せば、一気に元気になると思いますけどね。何も全てを茅葺にする必要はなくて、色や材木をある程度揃えれば、それだけで統一感は生まれると思います。それこそ、只浦さんが集めたツガやクリなどの古材を使った現代的な意匠の家があってもいい。そうしたら、僕が真っ先に泊まってみたいですね(笑)」

『三澤屋』のご主人・只浦氏は貴重な古材が散逸しないよう、解体された古民家の材木を引き取っている。

解体した家から瓦を引きとることもある。アレックス氏はこれを見て、佐渡と会津の瓦の類似点に気がついた。

只浦氏とアレックス氏。この時、貴重な古酒を2本もいただき、昼食時にふるまわれた。

ツアー2日目の大内宿。山の木も色付き、鮮やかなコントラストが楽しめたが、アレックス氏曰く「オーバーツーリズム気味だね」。

前沢曲家集落内にある切り妻と寄せ棟の要素をかけあわせた入母屋造りの茅葺屋根。

この世ならざる世界に入り込んだかのような雰囲気が漂う「南泉寺」。今度はしだれ桜の季節に訪れたい。

3メートル越えの苔蒸した石灯籠。それにしても、昔の人はどうやってこの石を運んだのだろう?

アレックス氏が料理とホスピタリティーを絶賛した「南山荘」でのディナー。「茅葺きの古民家をこのような形でどんどん利用すればいい」とも。

美味しい食事とそれによく合うお酒が触媒になり、ツアーの感想合戦に花が咲いた。雪見障子から見た1コマもいい思い出に。

1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の葺き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社を設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社刊)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

東洋文化研究家アレックス・カーと巡る南会津秋のツアー・レポート[NEW GENERATION HOPPING MINAMI AIZU/福島県南会津郡]

入母屋造り&萱葺の楼門をバックに。付近には満開を迎えたコスモスが揺れていた。

ニュージェネレーションホッピング南会津秋色の山に憩い、農村舞台で古人を思う。

自然と共存してきた古人の暮らしの面影を今に残す南会津。『ONESTORY』では時間をかけて、その魅力をお伝えしてきました。そして、今年は地元を知りつくした識者や写真家の小林紀晴氏と共に、南会津をより深く体感できるツアーを実施。第3回目となるツアーのナビゲーターは東洋文化研究家のアレックス・カーさんです。建物の細部を見るおもしろさ、集落全体の成り立ちをみるおもしろさなど、全国を旅してきたアレックスさんならではの視点に、このエリアの素晴らしさがより沁みるツアーとなりました。

浅草から特急「リバティ会津」に乗り、乗り換えなしで3時間。会津田島に降り立った一行は、バスに乗りこみました。折しも南会津をぐるりと囲む山の木々が赤や黄色に染まり始めた頃。この辺りの木は杉などの針葉樹が少なく、トチやクリ、ブナにナラといった落葉樹が占めています。車窓から見る景色に「この辺りの山はふんわりとした優しい形ですね」とアレックスさん。最初の目的地・会津田島祇園会館で「つゆじ」や「にしんの山椒漬け」など郷土料理のバイキングをいただき、旧伊南小学校へ向かいました。ここには県の天然記念物に指定された高さ35メートルを超える「古町の大イチョウ」があるのです。幹回りは10メートル以上あるでしょうか。見上げれば、ライムグリーンの葉と黄色く色付いた葉が重なり、幾本もの垂乳根がぶらさがっています。その姿は神々しくすらあり、古くは「乳の神」として地元住民に信仰されていたそうです。

バスを降り、駒嶽神社の境内にある農村舞台「大桃の舞台」に近づくと、太鼓や笛、鉦の音が。それに合わせ、獅子舞が舞台上を縦横無尽に舞います。次にほっかむりをした囃子方に合わせ、ひょっとこが登場。実はこれ、我々の到着に合わせた「小塩の神楽」の保存会の方々の粋な計らい。ひょっとこがユーモラスな動きをするたびに、神楽を見ようと集まった村の方々と我々一行がひとつになり、心の底から笑いました。高冷地にある南会津では、その昔、たびたび飢饉に見舞われたと言います。生きるには苦難の連続であったであろう時も、笑いで人心を軽くしたのがこの舞台上で行われた演芸だったのでは――?そんな考えが頭をよぎりました。分厚く、どっしりした茅葺屋根も、3段構えの立派な舞台も、村の方々の精神的支柱だったに違いありません。

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ツアー参加者は歴史深い建物や自然が好きなメンバーばかりですぐに打ち解けた。

南会津の山々の木々は紅葉を始め、赤や黄色に染まっていた。

昭和28年に県の天然記念物に指定された「古町の大イチョウ」。樹齢は800年以上と推定されている。

町指定重要無形民俗文化財「小塩の神楽」は伊南郷一の宮香取神社付属の獅子神楽。

獅子とひょっとこ、囃子方、鳴り物の息もぴったりな「小塩神楽保存会」の皆さん。

作業の手を止めて、神楽を見に来た村の方々により、境内は温かな笑いに包まれた。

「獅子舞に頭を噛まれると無病息災の言い伝えが」と聞き、早速、アレックスさんもガブリ。

ニュージェネレーションホッピング南会津おとぎ話から飛び出て来たような曲家の集落。

次に向かったのは「前沢曲家集落」です。最初に集落の向かいに設えられた展望台まであがり、「隠れ里」の名に相応しい長閑な光景に見惚れました。エメラルド色の舘岩川を渡ると、ゆったりと水車が回り、バッタリ小屋からは杵の音がします。ちなみに「曲家」とは居住スペースたる母屋と馬屋が一体になったL字型の住居のこと。集落内にある23棟のうち13棟はこの造りになっており、全体の調和が取れています。この街並みを維持するためには、住民同士の協力意識が不可欠でしょう。そんなことを思いながら歩いていると、県内から移住してきたという『えねいとうふ豆』のご主人に出会いました。「豪雪地帯なので冬は薪ストーブがかかせませんが、こちらにきてから夏場にクーラーをかけたことはありません。萱の水分で家の中が涼しいものですから」。かわいらしい姉妹の笑顔からも、集落の暮らしの豊かさが伝わってくるようでした。

展望台から見た「前沢曲家集落」。集落には山間の沢から引かれた水路と7つの水場がある。

前沢集落の曲家は周辺地域の曲家に比べて軒高、棟高が高い。豪雪地帯ならではの知恵だ。

曲家の間取りには「座敷」「上縁」「下縁」があり、それぞれ儀式や行事、寄り合いや冠婚葬祭、日常シーンで使われた。

蔵の壁に記されたマークは地名を意味する。この他、火事にあわないよう水に関する「水」や「亀」と書く家も。

「えねいとうふ店」の江井さん。早い時間に訪れたが、残念ながら豆腐は売り切れていた。

ニュージェネレーションホッピング南会津囲炉裏のある古民家で、地元食材に舌鼓。

お楽しみのディナーの開催地は、100年以上前に造られた古民家。実はここ、現在は使用されていないのですが、昔ながらの曲屋で食事ができるよう会津若松のオーガニックカフェ『Baku table』(現在、休業中)からこの日のために、シェフの夢実さんが来て下さったのです。地元野菜や地元食材をふんだんに使ったコースは、先ほどの「えねいとうふ」や栗かぼちゃのサモサ、里芋の一種・会津土垂(会津の伝統野菜)の胡麻味噌あえなど6種を盛り込んだプレートから始まりました。

会津酒造の酒「ロ万」や北海道タキザワワイナリーの白など、料理に合うお酒も6種ほど用意されており、選ぶ楽しさもひとしお。メインは会津地鶏のグリル。噛みしめる度、締まった筋繊維から凝縮された旨みが迸りました。お腹が膨れた所で囲炉裏を囲み、じっくり炭火で焼いた「玄米しんごろう」をいただきます。本来の「しんごろう」は、うるち米を半つきにして串にさし、すりつぶしたエゴマと味噌、砂糖を合わせた「じゅうねん味噌」を塗って焼いたものですが、「今回はうるち米の代わりに玄米を使いました」と夢実さん。一同、香ばしくも優しい一品を堪能しました。ちなみに、会津地方ではエゴマを食べると「10年長生きする」と言われていることから、エゴマを「じゅうねん」と呼ぶそうです。

身知らず柿が入った季節のサラダ、マイクロトマトとバジルソースなど6種の前菜盛り合わせ。

料理の説明をする夢実さんに、「本格的にここで店を開いてはどうか?」とアレックスさん。

会津酒造の「雪明り 特別純米」などしびれるラインナップのお酒をご用意してくださった夢実さんの夫の山門晃大氏。

会津地鶏のグリルは、三五八(さごはち/塩、米、糀で仕込んだ調味料)に漬けこんで。肉を保存するための古の知恵だ。

素朴な美味さに感じいる参加者。会津木綿のクロスや桜の木の箸置きなど、テーブルセッティングも素敵。

じゅうねん味噌をたっぷり塗って囲炉裏で焼いた「玄米しんごろう」。味はもちろん香りも最高!

囲炉裏傍で寛ぐ一同。晃大氏にお燗をつけてもらい、ディナー後のひと時を楽しんだ。

ニュージェネレーションホッピング・南会津南泉寺、湯野上温泉駅、大内宿で萱の魅力を再発見。

翌日、アレックスさんがこの地をリサーチしていた時、たまたま見つけたという「南泉寺」を訪れました。周囲を山に囲まれた田園風景のなかに佇むのは茅葺の楼門。赤い実をつけたオンコの生け垣が参道を彩り、その奥には立派なしだれ桜が鎮座しています。手入れの行き届いた古い佇まいに、地元の方々の信仰心を見る思いでした。昼前、湯野上温泉駅に到着しました。

辺りは大川峡谷に湧く閑静な温泉場ですが、この日の目的は駅舎。なんと、ここの駅舎は茅葺屋根に漆喰の壁で、構内に囲炉裏と足湯があるのです。去りゆく列車を見送り、大内宿へ。江戸時代の宿場の街並みを今に残すこの集落は、江戸初期に設けられたもの。明治に入り、日光街道の開通によって一時的に寂れましたが、それゆえに昔ながらの佇まいを今に残すに至ったのです。3層になった分厚い茅葺の屋根、切り妻造り……趣のある建物はそれぞれ食事処や土産物屋になっていて、歩いて回るのにちょうどいい規模感です。

よく動いたところで『三澤屋』に立ち寄り、ちょっぴり辛みのある大根おろしがたっぷり入った「高遠そば」をいただきました。ここの蕎麦は箸がわりに葱でたぐるのも特徴です。朝から三カ所で目にした茅葺。郷愁を誘うビジュアルと機能性から、「現在、ヨーロッパではエコ建材として萱が注目されているんですよ」とアレックスさん。はからずも今回のツアーは、温故知新の旅となりました。

逸る心を抑え、「南泉寺」の素晴らしい楼門に近づく。ここではみなシャッターを押しまくった。

枝垂れ桜の向こうに本殿が。境内には3メートルほどあろう立派な石灯篭もあった。

茅葺屋根の湯野上温泉駅。付近は断崖が連続する大川峡谷に湧いた閑静な温泉場。山菜とりや釣りも楽しめる。

人気の蕎麦店『三澤屋』の只浦さん。古民家を解体する際に出た貴重な古材を次世代に残すべく保存事業を展開。

赤や黄色に色付く山と茅葺のコントラストが美しい大内宿。一同、気持ちのいい散策タイムを楽しんだ。

名物「高遠そば」を満喫。只浦さんのご厚意で、日本酒や朝鮮人参の天ぷらも出していただいた。

1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の葺き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社を設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社刊)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

時間に対する独特の捉え方が豊かさをもたらす。[DINING OUT WAJIMA with LEXUS/石川県輪島市]

「DINING OUT WAJIMA with LEXUS」に関わった5人の対談が行われた。左から、『DINING OUT』総合プロデューサー大類知樹氏、レクサスグローバルブランディングマネージャー:岡澤陽子氏、輪島市副市長:坂口 茂氏、ジャーナリスト:清野由美氏、コラムニスト:中村孝則氏。

ダイニングアウト輪島かつてない豪華メンバーで繰り広げられた17回目の『DINING OUT』を振り返る。

2019年10月に石川県輪島市で開催された『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』。かつてない豪華メンバーで繰り広げられた二夜限りのプレミアムな野外レストランは大成功のうちに幕を降ろし、翌日に5名の関係者が会し、今回のイベントを振り返りました。

大類:通常の『DINING OUT』のプランニングではその地域に眠っている魅力の発掘作業に一番時間がかかってたんですが、輪島の場合、一級の資産がたくさんある。輪島で開催するのに、漆文化 は必然として横軸に持ってきた時に、縦軸にたくさんある魅力の何をもってく ると輪島の表現として成立するのか ? インビジブルな魅力も含めた輪島の魅力を伝えきるには、表現側にも才能のバ リエーションが必要でした。シェフも2人、ホストも2人にお願いし、器作りにも隈 研吾さんに入っていただいたのは、そういう理由からです。

中村:輪島塗と土地そのものという2つの魅力があり、何度も訪れることで感じたのが時間的な感覚が違うということ。輪島塗は経年変化で落ち着いた色へ変わっていくだけでなく、直すこともできるので長く愛用することができる。あと、なれずしに代表される発酵文化が根付いていて、何年も米糠に漬け込んでつくられるものもある。この時間的な感覚を共有できればいいのではと考えました。

岡澤:輪島塗は創りあげるのにも相当な時間を費やし職人の手で完成させます。この職人、匠の感性というのはレクサスも大事にしている部分。匠の手や目で確認し、やり直しをすることもあります。

大類:最後は職人が決めるというのは、LEXUSが日本のブランドであることの最も象徴的な部分かもしれませんね。

岡澤:LEXUSの匠の技術の中でも、個人的に最も好きなのが塗装です。何層も重ねた塗装は深みがあり、朝と昼、夜と時間の移ろいによって表情がまったく違うものへ変化します。輪島には、静かにゆっくりと〝輪島時間〞が流れています。不便だからこそ残っているも のが多くあり、日本昔話の世界に入り込んだような感覚を味わえました。

清野:輪島は陸の孤島のようなところがあるから、あれだけ深い文化が残っています。歴史学者の網野善彦さんが紹介した「逆さ地図」では、下に朝鮮半島と中国大陸が、上に日本列島があって、間に日本海が広がっています。この地図のど真ん中にあるのが能登なんです。日本海側は裏日本なんて呼ばれますが、実は世界の中心だったんだという発想が面白い。それが能登に凝縮されていて、興味が尽きない土地です。

坂口:私は職場まで30分のところに住んでいて、皆さんがおっしゃるように時々プレゼントのような美しい景色を見ることがあります。ディナー会場になった金蔵集落は、確かに寺や棚田があっていい感じなのですが、地元の人間としては嬉しいですね。

清野:何気ない日常の中で、あっと驚く美しい風景があるのは一番の宝物なのかな。金蔵集落は本当にそういう場所なのだと感じました。

中村:シェフを2人起用して、面白かったのは植木シェフがいろいろな要素をレイヤードして一つの味に組み立てる西洋料理で見られる手法だったのに対して、アメリカ人のジョシュアシェフは味のイメージをピンポイントに絞っていくという手法だったこと。

大類:バックグラウンドが異なる人のシェフでできたのは結果的に成功でした。全く能登を知らない、より外部視点のジョシュアシェフと、自分なりの発想で能登の食材を普段から使っている植木シェフが、輪島を背負って1つのコース料理に挑んだことで面白いバランスを生んだ。 ラグビー日本代表チームって、外国人も多いけど、全員で日の丸背負って、同じ目的に向かってますよね。そんな感覚とダブりました。もっと地域創生の現場に、積極的に海外の人の感覚を取り入れたい。その土地を背負う覚悟があることが唯一の必要な素養なんだと。


【関連記事】DINING OUT WAJIMA with LEXUS

10月5日、6日の二夜限定で開催された『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』。今回の舞台は輪島の世界農業遺産にも認定される棚田。

魅力の多い輪島を表現する為に『DINING OUT』史上初の日米ダブルシェフの競演となった。

7回目のホスト役を担った、コラムニストの中村孝則氏。

ディナー翌日は、東洋文化研究家のアレックス・カー氏をホストに、輪島塗の魅力を巡るツアーが開催された。

『DINING OUT』と同時開催となった『DESIGNING OUT Vol.2』、隈研吾氏がデザインした器をつかい、日米ダブルシェフが料理を盛り付け、かつてない豪華なフルコースが完成した。

100以上の工程を12名の輪島塗職人達で担いつくりあげた『DESIGNING OUT Vol.2』の器には、約500年の歴史と技術の結晶が込められている。

今回もゲストの送迎を担ったLEXUS。時間の移ろいで色々な表情を見せる美しい鏡面仕上げも、最後は職人の目で確かめられている。

ダイニングアウト輪島伝統工芸が生き残るには、 フレキシブルな対応も重要。

岡澤:外からの視点というと器をプロデュースしたのが建築家の隈 健吾さん。輪島塗も後継者不足などの課題を抱えていて、隈さんみたいな外の人が入ることで生じた刺激や気付きってとても大きなこと。輪島塗の工程を見せるという発想がユニークでした。

大類:すごく面白いのですが、いままでの輪島塗では絶対に出してはいけないものだったんですよ。

坂口:国の重要無形文化財で工程が細かく決まっているので、輪島漆器商工業協同組合としては守りたいんですよ。工程の途中のものを器にしてしまったら、分業制なので後の人たちの仕事もなくなってしまいます。

岡澤:厳密に決まっている定義を崩したことは、職人にとっても大きな一歩 だったと思います。『DINING OUT』は料理だけでなく、伝統工芸に対しても大きな刺激を与えることができたのではないでしょうか。

清野:伝統工芸は伝統技術を積み上げていく方法と、前衛的な方向に一気に飛ぶ方法があって、後者の革新を起こしたいというときに間違えることが多い。そこを隈さんにやっていただいたことで、一つのジャンルができたのではないでしょうか。輪島塗の工程をさらけ出すというのも、隈さんのような 人でないとできなかったと思います。

中村:輪島塗は地元の珪藻土からできる地の粉を漆に混ぜて下地塗をしていくのですが、最初に出てきた器は木の器で一切塗られていないものでした。

坂口:組合としても、これでは輪島塗といえないジレンマがあったみたいで す。最終的に過程も含めて皆さんに見ていただいて、それらを含めて輪島塗とすることに落ち着いたようです。

大類:組合としての判断も当然あるかと思いますが、『DINING OUT』の中で、今までにない発想で開発した器が、あの価格で売れたということが大事だと思うんです。輪島塗に関わる人達に対して、強いメッセージになったのではないかと思います。

隈研吾氏がコンセプトにしたのは、「職人の技」に光を当てる事。ゲストの前に登場する毎に出来上がっていく輪島塗の器は、これまで一切商品として世に出た事の無い。かつてないプレゼンテーションだった。

江戸時代初期に「地の粉」が発見されたことで輪島塗の技術が確立した。

ダイニングアウト輪島いまも残る振り売りは、 最先端の暮らし方の象徴。

清野:私は輪島のゆべしというお菓子が大好きで、1カ月以上スライスしながら大事にいただきます。なぜ 1カ月以上も保存できるのかというと、昔の輪島塗の行商人が行商する際に持ち歩くための食べ物だったからです。

岡澤:輪島塗も長い間使っていくものなので、時間の受け止め方が独特。金蔵集落全体が『DINING OUT』の舞台でしたが、本当に時間が流れているのを忘れることがありました。

大類:今回初の試みなんですが、翌日のツアーのホストをアレックス・カーさんにお願いしました。そのツアーに参加すると、リヤカーで魚や干物、野菜などを振り売りするおばちゃんに会えるんです。地域の皆さんは普通にそこで買い物をしています。

坂口:この時代に本当って思うでしょ。でも、皆さん担当しているエリアがあって、きちんと機能しています。

清野:昔は東京の総武線でも、野菜を積んだ籠を背負って千葉から運んでいた おばちゃんを見かけましたね。

大類:初めて見たときは、なんて豊かな暮らしなんだと衝撃でした。観光のための振り売りではなく、日常の中に暮らしを担うピースとして機能していることがすごいと思いました。

中村:集落は離れているし、移動も大変だから便利なんですね。でも振り売りが便利という捉え方が面白い。

清野:高齢化や人口減でスーパーも少なくなっているから、1周回って先端にいる感じがします。

大類:個人情報保護が当然の世の中ですが、振り売りのおばちゃんは、長い信頼関係の中で、お客さんの家族の好みまで分かったうえで、つまり個人情報を知り尽くした上で対面販売してる。一周回って、本当に先端の暮らし方です。横軸の漆文化や輪島塗に対する縦軸として、振り売りは、どうしても入れたかった文化的行為だったんです。

アレックス氏がホストを務める翌日のツアーは『DESIGNING OUT Vol.2』に携わった職人の工房を巡るところからスタート。

ランチでは輪島に残る「振り売り」文化を体験。重蔵神社の境内で、おばちゃん達が朝市さながらに食材を説明、選んだ魚や海鮮をその場で焼いて食事をした。

ダイニングアウト輪島能登半島は日本のノルウェー。自然を壊さないツーリングデザイン。

中村:僕は、ノルウェーの親善大使を5年やっていて、能登半島の風景を見ていて、ああノルウェーとよく似ているなと思いました。ノルウェーでは、いかにヨーロッパの中で観光客を誘致するかというのが大きな課題だったのですが、何も無かったんです。でも、何もないのが武器だ、何もないなら、観光をデザイン戦略しようという計画が90年代から始まりました。そこで「ナショナルツーリストルート」という道々、橋、それから堤防、それから観光スポット、千枚田にもあるような場所を全部デザイナー達にコンペしました。その時のコンセプトがいかに自然と観光客が近付けるか。その試みは大成功でした。幟やガードレールを作らない自然と一体化した道路をデザインするのは、ノルウェーと気候風土の似ている輪島にもおすすめしたいです。

岡澤:道のデザイン、自然と人がいかに一体となって感じられるかという発想はすごい大事ですよね。能登って車でないといけない場所がいっぱいあって、更にちょっと車を停めて歩くスピードで感じてほしい場所もたくさんありました。車で味わう風景、歩くスピードで味わう風景、そこの全部含めてデザインされて、もっと能登の奥まで体験できるとすごく素敵だなと思いました。今回の会場「金蔵」もなかなか普通の観光客の方は行かないと思うんです。

大類:観光地では無いですからね、田んぼですから、住所も細かくは無いのでナビでも出て来ない場所でした。

清野:実は金蔵には去年の夏アレックスさんと取材に来たんです。地元の人から教えてもらって立ち寄ったらあまりに美しいので彼の頭の中にバーっとインプットされたんです。そういう出会い方がいいと思うのです。世の中にいろいろ発信されている情報から自分が見つけるんじゃなくて、身近な友だちから教えてもらったり、信頼する人から教えてもらった、そうすれば自分もそこを大事にしようと思いますよね。そういったコミュニケーションってメディア、広告の非常に大きな課題になっていると思います。

大類:おっしゃる通りです。いま「人伝(ひとづて)」というところに結局戻ってきてますね。友人から紹介されたこととか、価値観が合う人から勧められたのが、いちばん行きたくなるっていう、その情報価値が一番高いですね。

本州から飛び出している能登半島は、ノルウェーに似ていると中村氏。

能登半島にはナビにも載っていない素晴らしいスポットが数多く残る。ディナー会場になったこの金蔵地区も地元の人達から教えてもらった。

ダイニングアウト輪島次の『DESIGNING OUT』は露天トイレ!? 本質的な地域創生のアイディア。

坂口:「DINING OUT」でいちばん気になったのはトイレだったんですよ。まさかあの普通の仮設みたいなものでは無いですよね?と。せっかくのプレミアムなレストランで、全部台無しになってしまう。しかしとても快適で、3回使わせていただきました笑

清野:トイレにも「用足し時の消音装置」がしっかり設置されていて感動しました。ここまでやるかって。でもまだまだ改良の余地はありそうですよね。隈研吾さんがスノーピークと作ったトレーラーハウス、一昨年に隈さんが持ってる神楽坂の土地でしばらく期間限定でビストロをやってらしたんですよ。トイレはどうするのかと思ったら、敷地にすごくきれいなお手洗いもつくっていて。トレーラーハウスの可能性っていうのをトイレによって感じることができたんですね。例えば『DESIGNING OUT」でトイレをつくるとか、すごい話題になると思いますよ。

大類:野外レストランで、トイレは昔から難題でした。なるほど、オリジナルで作っちゃうのは良いですね。素敵なアイディアです。

中村:フィリップ・スタルクがデザインしたトイレっていうのがありましたね。それはビルの男性用トイレが、全部ガラス張りになっていて、ビルから街に向かって用を足すっていうデザイン。

岡澤:他にも、建築家の藤本壮介さんが、自然の中で用を足す解放感みたいなトイレを作られていましたね。敷地が広く、庭の真ん中にあってガラス張りのトイレでした。

清野:もう露天風呂の時代じゃない! 露天トイレの時代だ!(笑)

大類:露天トイレ面白い!輪能登半島のいたる所に、様々なデザイナーがデザインした「露天トイレ」をつくるプロジェクトとか良いかも。景観は絶対崩さないように、自然と一体化させて。トライアスロンとか、サイクリングの人とかそのトイレ目当てで来る人も増える。

中村:まさに、「ツーリストルート」をデザインするプロジェクト。トイレがある場所がわかっていれば、ドライブしていても安心。ルートとしてはとても重要ですね。

清野:色々な地域を訪れる中で、田舎のトイレのデザインが残念なことは多いですからね。

大類:景観を崩さないトイレを作るプロジェクト、本気で考えます。

坂口:色々なアイディアをありがとうございます。トイレで締めるのもなんですから(笑)今回の『DINING OUT」は民間主導でやれた事が本当に良かったです。行政主導でやっても地元の方々はなかなかモチベーションがあがらない事も多いので。昨日、地元の方々と話している時に、「坂口さん、輪島を5年以内にバスク地方みたいな食の街にするんです!視察行きましょう!」と、早速盛り上がっていました。今後必ず、輪島の力になる芽が出たはずです。

千葉県を走る小湊鉄道の「飯給駅」の屋外トイレ。庭の中心に四方をガラス張りされたトイレが設置されていて、観光客が集まっている。

1999年、トヨタ自動車入社。調査部にて自動車市場分析、将来予測シナリオ策定を担当。2014年より現職。レクサスのグローバルブランド戦略や、デザイン関連などの体験型マーケティング施策にかかわる。

輪島市生まれ。民間 会社を経て輪島市役所 に。都市整備課長、企画課長、交流政策部長を経て、2013年に輪島市副市長に就任。この間、能登空港、街並みづくりなどのプロジェクトや観光交流政策などを担当。

慶應義塾大学大学院修了。ケンブリッジ大学客員研究員。出版社勤務を経て、92年にフリーランスに転じる。 国内外の都市再生、デザイン、ビジネス、ライフスタイルを取材する 一方で、時代の先端を行く各界の人物記事に力を注ぐ。

ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。

1993年博報堂入社。2012年に新事業としてダイニングアウトをスタート。16年4月に設立された、地域の価値創造を実現する会社『ONESTORY』の代表取締役社長。

伸び伸びと大らかに育った自由放牧の牛たちに囲まれて、本物の美味しさを探求し続ける酪農家。[TSUGARU Le Bon Marche・ABITANiA(アビタニア)ジャージーファーム/青森県西津軽郡]

とある秋の日。安原栄蔵氏と共に自由に動き回り、のんびり草を喰む牛たち。牧場にいるのは全てジャージー牛。

津軽ボンマルシェ心を打たれて即行動。未知の酪農の世界へ。

本当にこの道で合っているのだろうか……。地図の指し示す先にやや不安を募らせながら、車はどんどん森の奥へ奥へと進んで行きます。次第に緑の濃度が深くなり、引き返した方がいいかなぁ、という心の迷いが頭をもたげ始めた頃、ようやくパッと視界が開け、遠くにモォーとのどかな牛の鳴き声が聞こえてきました。

「ここは自分たちが暮らすには、理想的な環境でした」と話すのは『アビタニアジャージーファーム』を運営する、安原栄蔵氏。牧場があるのは鰺ケ沢町という町で、青森県の西南に位置しています。西へ行けばすぐ日本海、南は世界遺産である白神山地。
「緑に囲まれ、海も近く、自然環境には恵まれています。となりに分校があったので、子供達を安心して学校に通わせることもできました。水はきれいだし、新鮮でおいしい海山の幸がいくらでも手に入る、生活するにはとても良いところなんです」

安原氏は黒石市出身。普通のサラリーマン家庭に育ちましたが、大学を浪人中の19歳の時、たまたま見たテレビで、酪農家の奥さんの対談の様子が放映されていました。夫と同じ職場の同僚たちが東京での仕事を辞め、北海道へ渡り、共同で牧場を作ったという話でした。その内容に衝撃を受けた安原氏は、言葉では説明できないような強い思いが込み上げたといいます。早速テレビのディレクターに直接手紙を書き、紹介してもらってその牧場を訪問。一週間滞在して酪農の仕事を経験し、その後も何度か訪ねました。そしていよいよ心を決め、北海道へ移住。夏の間は牧場で実習を行い、冬は働きながら酪農学園大学の短大二部に通って学んだといいます。

「大学の在学生は親が酪農業の息子も多く、自分にとっては興味深い話を聞けて刺激を受けましたし、つながりも多くできました。その頃の自分は早く牧場が持ちたくて、ちょっと突っ張っていたんでしょうね。大学卒業間際で退学し、今度は群馬県の財団法人神津牧場で働き始めました」
神津牧場とは、福澤諭吉の元で学んでいた神津邦太郎が、日本人の食生活改善を唱え、明治20(1887)年に開設した日本最古の洋式牧場です。そこではジャージー牛が育てられていました。また、神津牧場は搾った牛乳をバターやチーズに加工していました。当時、酪農家が加工まで行うことはほとんどなく、安原氏の目には新鮮に映ったといいます。安原氏はこの牧場でジャージー牛と出会い、13年間働いて、牧場経営のあらゆることを習得しました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

ジャージー牛はイギリスのジャージー島原産。ホルスタインと比べると一回りほど小さく、褐色の毛色と人懐こい風貌も特徴的。

岩木山麓の標高約400mにある広大な牧場。遠くには津軽半島の突端を眺めることもできる。

牧場の横に建てられた乳製品の製造施設。建物内には、物販とイートインの店『Café MiluMu(カフェ ミルム)』がある。

津軽ボンマルシェ・アビタニアカナダで新たな経験を積み、酪農家として独立。

次の転機は、ジャージー種に関する世界的なイベントで、カナダ人のブリーダーに出会ったことでした。いずれ独立したいと思っていた安原氏は、自分で牧場を経営するためにも、カナダとつながりを持っていることは重要でした。安原氏はまたしても手紙を書き、今度はカナダへ飛ぶことに。一生の選択でしたよ、と隣で言葉を発したのは、妻の千苗さんです。千苗さんは14年間看護業務に従事し、看護専門学校の教員をしていました。

「私はそれまで酪農のことは知りませんでしたが、看護大学で教員になるか、一緒にカナダへ行くか、この時大きな岐路に立たされました。仕事は好きでしたし、自分の生活の大半を占めていましたから、辞めた時はぽっかりと心に穴が空いたようでした。子供達には、大学で働いていたら今頃教授だよ、なんて言ったりするけれど、自分で選択した道なので、そのことに後悔はありません。外国へ行くことにもあまり頓着がなく、行ってどうなるかはそれほど深く考えませんでした。酪農家として彼は私よりずっと経験があるし、私がどうこう言うことではないと思いました」。(千苗さん)

安原夫妻が暮らしたのはトロントから西へ100kmほど行った小さな町。築100年の石造りの古民家に住み、周りは全て酪農地帯でした。オーナーの息子と二人でおよそ150頭の牛を任され、仕事はハードワークで体重も10kg以上減少したそうですが、仕事の時間は集中して働き、余暇は家族と共に楽しむ、合理的でメリハリのあるカナダのライフスタイルに、日本とは違った本質的な豊かさを体感しました。2年の生活を経て日本へ戻り、1990年、この地で牧場を設立。6頭のジャージー牛からスタートし、家族経営で10年かけておよそ100頭を育てるまでになりました。

乳製品の加工は、主に千苗さんの仕事。カナダに住んでいた頃、よく作っていたというバナナケーキは、現地のレシピをベースに自社の乳製品を加えて作る。店の人気メニューの一つ。

津軽ボンマルシェ・アビタニア自由に動き、自由に食べる、ストレスフリーな牧場。

さっきまで牛舎でムシャムシャと無心に餌を食べていたかと思った牛たちは、いつの間にか遥か遠くの丘の上に散らばって、今度はのんびりと寛いでいます。通常の牧場では牛はチェーンに繋がれ、同じ位置にいることしかできないことも多いのですが、ここでは24時間、どこへ行こうと自由。それは牛の選択だから、と安原氏は穏やかに笑います。

「うちは完全に自由放牧ですし、餌は好きな時に好きなだけ、食べられるようにしています。牛はだいたい団体行動なので、一頭だけ取り残されるのが心配で、みんなくっついて同じ方向に動いていることが多いのですが、ずっと牛舎にいて食べている子もいますよ。牛舎にはアルファルファを常時たっぷり用意しています」。
安原氏がかつてカナダで飲んだ牛乳の香り高くコクのある美味しさ。その大きな理由の一つが、アルファルファでした。カナダでは雑草のようにあちこちに生えていたそうですが、日本の土壌は酸性なので育たず、ここではアメリカから輸入しています。牛乳を飲んだら、何の餌を与えているか大体わかる、という安原氏。牛乳は、牛の食べるものの影響を大きく受け、またその美味しさは無脂乳固形分(乳脂肪を除いた固形分)率の高さにも起因するといいます。アルファルファは普通の牧草に比べて、たんぱく質やミネラル、そしてカルシウムの含量がとりわけ多いことから、牧草の女王とも呼ばれ、牛乳にきれいでふくよかな奥行きのあるコクをもたらしてくれるのだそうです。

「基本は牛の体を作ること、その最高の粗飼料(牧草、乾草、サイレージなど)がアルファルファ。それがないとうちでは牛乳を搾れない」と安原氏。粗飼料を全量アルファルファにしているところは、日本ではなかなかないという。

ジャージーミルク。さらりとしてしつこくないのに深いコクがある。するすると体に染み込むような自然の味わい。

不動の人気!ソフトクリーム。青森三大ソフトクリームの一つと言われ、これを目当てに遠くからやってくる客も多い。写真は、ヨーグルトの上にソフトクリームを絞った「アビタニア・ソフグルト」。混ぜながら食べても美味しい。

とろーりとろけるモッツアレラチーズをのせたトースト。チーズは千苗さんが一人で作っているが、現在チーズ職人の働き手を募集中だそう。

焼き加減にこだわって、安原氏が自ら焼く「ジャージービーフ・ステーキオープンサンド」。奥は「自家製コンドビーフ・オープンサンド」。

津軽ボンマルシェ・アビタニアジャージービーフは毎日食べても飽きない肉。

アビタニアジャージーファームでは、実はジャージー牛の肉を食べることもできます。ジャージービーフのステーキをどーんと乗せた贅沢なオープンサンドは、塩胡椒だけのシンプルな味付けなのに、香り良く、噛みしめるほどに滋味深い肉の旨味がじわじわと口の中に広がります。肉食用の牛は通常、よくいわれる「霜降り肉」を作るために高タンパクの飼料を与えて育てるのですが、ここでは搾乳牛と同じものを食べて一緒に育てており、特別なことはほとんどしていません。赤身の肉本来の美味しさを重視しています。
「脂身の多い肉は、普段の食生活には馴染みにくい。私たちは仕事柄、日常的に朝からジャージービーフのステーキも食べますが、いい赤身肉は胃もたれすることがなく、体力が付いて仕事もはかどります」

そして肉や乳製品などの加工品に厳しい味のジャッジを下しているのは、安原氏と共に牛舎の仕事を手伝っている、息子の大陸さんです。優秀なベロメーターなんですよ、と千苗さんも断言します。
「息子は味や匂いに敏感。うちは普段から、料理に化学調味料などの添加物を使わないし、子供の頃から自然なものを食べさせていたので、舌が冴えているんでしょうね。調味料を少し変えただけで、すぐに『変えた?』って聞かれます。肉の味にもうるさいですね。ちょっとでもダメなものは分かってしまうんです」(千苗さん)
2017年よりオープンしたイートインでは、安原一家が日常的に食べて美味しいと思うメニューだけを手作りで提供しています。ジャージービーフの良さを広めたいと、毎年ホテルとコラボしたイベントも開催。250人で牛一頭を食べ尽くすという驚きのイベントですが、あっという間に枠が埋まってしまうそうです。同企画に登場した『澱と葉』の川口氏や、『オステリアエノテカ ダ・サスィーノ』の笹森氏も、ここの赤身肉の質の良さを高く評価しています。安原氏がいつも酪農に追い求めているのは本質。牛乳も牛肉も、本当の美味しさを自分たちのできる限りを尽くし、自信を持って届けたい、という思いがベースにあります。本物を伝え、未来に残したいと願う、ストイックな酪農職人でもあるのです。

さらに安原氏はジャージー牛と触れ合い、楽しみながら酪農についてもっと知って欲しいと、牧場開設当初から、乳搾りやブラッシング、餌やりなど、主に子供達への酪農体験を実施しています。大きなトラックに牛を乗せて、小学校などへの出張体験をすることも。東日本大震災後は毎年被災地へ出向き、牛と触れ合うことで、少しずつ子供達の表情が変わって来たことを安原氏は実感しました。
「被災した子供たちは、最初は笑顔がなかった。少しでも心をほぐしてもらえればと、牛のシャンプーを体験してもらったのですが、やっぱり牛の力はすごくて、そのうち瞬間的に笑顔が出てくるんです。一度笑顔になれたら、後はもう大丈夫。感情を押し込めた子供達の心にどれくらい効果があるかはまだ未知数ですが、難しいけれど、微力ながら何かのきっかけになればと思って続けています」
取材後、ふと牛たちに目をやると、澄んだ空気の中、広い野原を相変わらずゆったりと自由気ままに行き交っていました。安原夫妻の凛としたシンプルな佇まいと、牛たちののんびりと和む姿、そしてとびきり美味しい牛乳やジャージービーフ。帰る頃には日頃の疲れがすうっと癒され、晴れ晴れと満ち足りた気持ちになったのでした。

ジャージーミルクやヨーグルトは店で販売もしている。弘前市内にある『ひろさきマーケット』などでも取り扱いがある。

牧場の朝は早く、早朝5時から大忙し。餌の準備や掃除も朝の数時間に集中して行う。搾乳は朝と夕方の2回行われる。

牛の解体は安原氏が自ら行う。写真は5年飼育した牛の肩。一般的には2、3年で出荷されるため、5年はかなり長期である。

住所:青森県西津軽郡鰺ヶ沢町大字建石町大曲225−2 MAP
電話:0173-72-1618
ABITANiA HP:https://www.facebook.com/cafemilmu/


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堀木エリ子が体験する「食べるシャンパン。」料理とのマリアージュで確信した「居心地のよいシャンパーニュ」。[NEW PAIRING OF CHAMPAGNE・東京會舘 /東京都千代田区]

世界的な和紙作家である堀木エリ子さん(右)と2019年「ル・テタンジェ賞 国際シグネチャーキュイジーヌコンクール」日本大会優勝者の市川隆太シェフ(左)。  

東京會舘×堀木エリ子「食べるシャンパン。」時代を超えて受け継がれるガストロノミーへの敬意。

1932年の創業以来、ワインとガストロノミーに力を注いできたシャンパーニュメゾン、テタンジェ。1967年には2代目クロード・テタンジェが「ル・テタンジェ国際料理コンクール」を創設。フランス料理の高い技術が求められるコンクールは、ジョエル・ロブションをはじめ数々の名シェフが優勝を手にしてきました。高品質な料理に対する深い理解と情熱をもとに確立されたスタイルは、今日に至るまで継承され続けています。偉大なガストロノミーと歩みを共にするあり方は、料理とともに味わうことで、おいしさが膨らむ「食べるシャンパン。」という考えにも表れています。

2019年、半世紀以上の歴史を持つ同コンクールが「ル・テタンジェ賞 国際シグネチャーキュイジーヌコンクール」と名称を変え、審査方法も一新。名前や肩書などをあえて伏せ、レシピ等の書類で厳選なる審査が行われることに。9月に開催された日本大会では、『東京會舘』の市川隆太シェフがみごと優勝を手にしました。
市川シェフがテーマ食材であるホタテを使って作った一皿は、伝統料理のアンクルート。今回、この一皿と「コント・ド・シャンパーニュ」とのマリアージュを和紙作家の堀木エリ子さんに体験してもらいました。堀木さんは、和紙という伝統素材を通じ、これまでにない新しい空間を創り出す作家として国内外で注目を集めています。ものづくりにおける伝統と革新とは、挑戦を続ける意味とは。プロフェッショナル同士の話に華が咲きます。

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一流シェフが参加した2019年度の「ル・テタンジェ賞 国際シグネチャーキュイジーヌコンクール」日本大会。

映えある優勝に輝いた市川シェフが手にした賞状。「まさか自分が優勝するとは思っていませんでした」と話す。

2018年度の優勝者、『ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション』の関谷健一朗シェフも市川シェフを讃える。

「常に挑戦する気持ちを大事にしています。今回の受賞に満足せず、また新たな挑戦をしたいと思います」と、市川シェフ。

歴代の世界大会優勝者の名が刻まれるトロフィー。名だたる料理人たちがその歴史を飾っている。

東京會舘×堀木エリ子「故きをたずね、新しきを知る」、伝統的な技術と地域性を表現したひと皿。

市川シェフがコンクールに出品した料理は「ホタテのアンクルート」。ホタテをモンサンミッシェルのムール貝と生ハムとともにパイ包み焼きにし、フランス北部ノルマンディー地方の郷土料理「アンディーブのグラタン」と合わせた一皿です。
「フランスには地方ごとの豊かな食材があり、その食材をもとに土地の食文化が育まれている。ホタテの産地でもある北部の郷土料理を合わせることで、ホタテの味わいを深める一皿ができたらと考えました」。

ノルマンディーは、市川シェフのフランスでの研修先でも。当初は時代を意識した「よりモダンな表現」を考えていたとのことですが、フランスで師事したシェフの教えを思い、このクラシックな一皿を完成させたといいます。
「当時、シェフが繰り返し言われた言葉に“故きをたずね、新しきを知る”というものがあります。料理人としてキャリアを重ねるほど、重みを噛みしめる言葉。フランス料理の技術が詰まったアンクルートという伝統料理を、今の時代に合う繊細な仕立てで仕上げました。自分のベストは尽くしましたが、想像もしなかった評価を頂き、身が引き締まる思いです」。

『東京會舘』の調理・製菓部のチーフアシスタントとして、後進の指導にも力を入れる市川シェフ。月に一度は後輩たちと一緒にレストランに出掛け、シャンパーニュから始まる食事を楽しむといいます。
「テタンジェのシャンパーニュの魅力は、バランスの良さ。コント・ド・シャンパーニュのようなトップキュヴェでも、凝縮感だけでなく、フレッシュなフルーティさを併せ持っていると感じます。今回の料理には、シャンパーニュのソースを添えました。クラシックなソースですが、煮詰める加減で味わいが変わる。濃厚ながらキレのあるソースが、シャンパーニュと料理との相性を高める橋渡し役になればと思います」。

皿を彩ったセロリラブのピュレ。フランス料理の伝統的な付け合わせ。

料理の骨格はクラシックだが、仕立てはモダンで味わいは軽やかに。

手間暇かけたパーツをひとつずつ組み合わせて一皿を完成させるのも、伝統的なフランス料理ならではの技法だ。

「ホタテのアンクルート 山と海のマリアージュ シャンパーニュソースとともに」。右奥がアンディーブのグラタン、右手前がアスパラのフラン。異なる食感や香りを盛り込み、ホタテの味わいを際立たせた。

東京會舘×堀木エリ子衒いのない皿が叶えた文字通りの「幸福」なマリアージュ。

シャンパーニュは、自分にとって「くつろぎの合図」だと話す堀木さん。
「京都の宮津湾にセカンドハウスがあるのですが、そこで過ごす時間は必ずシャンパーニュとともにあります。太陽が輝く朝は、シャンパーニュから。海が見えるテーブルでシャンパーニュと味わう朝食は、小さなご褒美。時間に追われる日常を過ごす中で、心をリセットするひとときです」。
もちろん、ハレのシーンでもシャンパーニュだと話します。
「友人たちと食事に出掛けると、乾杯からデセールまでをシャンパーニュで通すことも。特別な日にもやっぱりなくてはならないもの。お祝いなどのときはやはり、コント・ド・シャンパーニュのような特別な一本を開けます」。
「コント・ド・シャンパーニュ」は、テタンジェのトップキュヴェ。フレッシュで洗練された果実味、熟した果実の香り。滑らかで、生き生きとした躍動感があり、グレープフルーツとスパイスのニュアンスを感じる洗練された味わいです。

グラスに「コント・ド・シャンパーニュ」が注がれ、市川シェフの料理が供されると「何とかわいらしいひと皿!」と、感嘆の声を上げる堀木さん。
「気取りや衒いがなくて、遊び心が感じられ、食べる前から楽しい気持ちになります」と、目を輝かせます。賛辞に恐縮する市川シェフを前に、まずはアンクルートから、次にアンディーブのグラタンと、一口ずつ、じっくりと味わいます。
「パイ生地にナイフを入れた瞬間、ホタテの香りがふわっと広がる。パイの香ばしさによって、ホタテの甘みがさらに引き立てられています。コクがあって、ほのかな酸味があるソースもとってもおいしい。“コント・ド・シャンパーニュ”とは、文字通りの“幸福”なマリアージュです」

自他ともに認める大のシャンパーニュ好きという堀木さん。コント・ド・シャンパーニュの味わいに笑顔がこぼれる。

まずは主役のホタテのアンクルートから。楽しみながらも、一皿全体を丁寧に味わう。

「食べるのがもったいないほど。料理をする楽しさが伝わってくる」と、試食の前から賛辞を贈る。

「コント・ド・シャンパーニュ」とのマリアージュの感想を語る堀木氏。言葉は明解で、造り手への敬意があふれている。

職業もキャリアも異なるが、伝統を受け継ぐプロフェッショナルとして大切なことを語り合う市川シェフと堀木さん。

東京會舘×堀木エリ子“うつろうもの”に寄り添う心地よさと、伝統と革新と。

今回、市川シェフの料理と「コント・ド・シャンパーニュ」を味わって、堀木さんは、ふと自身の仕事に想いを馳せる瞬間があったと話します。
「私が手掛ける和紙は、建築という空間の中にあります。空間における“快適さ”というのは、100人の人がいたら同じように感じるもの。例えば空調による室温管理や給湯の利便性、セキュリティの機能など。ところが“居心地の良さ”というのは、“快適さ”とは違い、100人100通りの感じ方がある。例えば光が生む陰影。こういうものは、1人の人でも年齢や経験、その日の気分によって受け取り方が変わる。変わる、移ろうものにきちんと寄り添う懐の深さを“居心地の良さ”だとするならば、“コント・ド・シャンパーニュ”はまさに“居心地のよい”シャンパーニュだな、と」。

堀木さんの言葉を聞いた市川シェフ、「自分の料理もそうありたい」と続けます。
「ホタテという食材ひとつを取っても、季節のうつろいの中で、その日の海の状況で、味が変わります。その味を最大限に活かすためには、食材への理解に加え、生産者や厨房まで届けて下さる業者の方々や、同じ方向を見て仕事をしてくれるスタッフへの敬意がなくてはと常々考えています」。

「そう考えると私たちの仕事は、シャンパーニュづくりとも、多くの共通点がありそうですね。自然を含め、うつろうものにどう寄り添うか。言い換えれば、自然と対面して、人ができることは何か。そこを突き詰めるところに、人間の英知があると考えます」と、堀木さん。
「加えて、“伝統を継承する”仕事でなくてはならないというところも、共通していると思います。伝統という財産を変わりゆくこれからの時代につなぐために、革新という挑戦は不可欠。市川シェフが大切にされている“故きをたずね、新しきを知る”という言葉の通り。伝統の上に立った革新こそが、未来の伝統をつくっていく。料理もシャンパーニュも、そして和紙のような伝統素材も」。

空間デザインにおける「居心地の良さ」と、料理とシャンパーニュの間にある共通点について話す。

2011年に渡仏。『レストラン ジル』等の星付きレストランで本場の味を学び、現在は東京會舘 本舘にて宴会調理を担当。

住所:東京都千代田区丸の内3-2-1 MAP
電話:03-3215-2111
営業時間:レストランにより異なる
※日曜営業
https://www.kaikan.co.jp/

1962年京都府生まれ。株式会社堀木エリ子アンドアソシエイツ代表。「建築空間に生きる和紙造形の創造」をテーマに、2700×2100mmを基本サイズとしたオリジナル和紙を制作。舞台美術や会場構成、インテリアデザインにおける和紙インテリアアートの企画、制作、施工を手掛ける。代表作に『成田国際空港第1ターミナル』到着ロビーのアートワークや、『東京ミッドタウン日比谷』エレベーター光壁などがある。『挑戦のススメ』など著書も多数。

お問い合わせ:サッポロビール(株)お客様センター 0120-207-800
受付時間:9:00~17:00(土日祝日除く)
※内容を正確に承るため、お客様に電話番号の通知をお願いしております。電話機が非通知設定の場合は、恐れ入りますが電話番号の最初に「186」をつけてお掛けください。
お客様からいただきましたお電話は、内容確認のため録音させていただいております。

TAITTINGER HP:http://www.sapporobeer.jp/wine/taittinger/


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ホスト アレックス・カーと巡る輪島塗ツアー。オリジナルの輪島塗に込めた想いを隈研吾が語る。[DINING OUT WAJIMA with LEXUS/石川県輪島市]

『DINING OUT WAJIMA』翌日の輪島塗ツアーのホストを務めた、東洋文化研究家アレックス・カー氏。

ダイニングアウト輪島

日本に眠る伝統的なデザインに最先端のクリエイションを加えて、新しいものづくりをするプロジェクトDESIGNING OUTONESTORYと、雑誌Discover Japan、そして地域に知見のあるクリエイターがチームを組み、地域の文化や自然、歴史などを積極的に取り入れた新しいプロダクトを開発しています。
今回DESIGNING OUT vol.2』の舞台となったのは、石川県輪島市。世界で活躍する建築家の隈研吾氏をプロデューサーに迎え、国の重要無形文化財に指定されている「輪島塗」に新たな風を吹き込むプロジェクトが進行しました。

1年以上の準備・製作期間をかけて、出来あがった6つのオリジナルの輪島塗は、2019105日、6日に開催された『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』でお披露目され、隈研吾氏だからできた輪島塗へのアプローチと、その意向をくみプロダクトに挑んだ輪島塗の職人たちの確かな技術に、惜しみない賛辞が贈られました。

さらに、ディナーの翌日には、東洋文化研究家で作家のアレックス・カー氏がツアーホストを務め、輪島塗ツアーを開催。ゲストたちは、江戸時代にその技術が確立した輪島塗の歴史と職人技に触れました。

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ディナー翌日、ゲストの宿の一つでもあった「能登の庄」にてオリエンテーションからツアーはスタート。

ダイニングアウト輪島輪島塗の製造工程を理解し、職人技に触れる。

ツアーは、アレックス・カー氏による輪島塗の説明からスタート。輪島塗の最大の特色は、木地づくりから塗り上げ、加飾までに100以上の工程があるといわれる丁寧な手仕事の積み重ねにあります。その製造過程は、高度に分業化が進んでおり、多くの職人の手から手へとめぐりながら商品が出来あがるわけです。ゲストたちは、パンフレットを見ながら説明を聞き、その流れについて理解を深めていきました。
説明の後は、三つの組に分かれ、それぞれさらに輪島塗を知るためのスポットまで移動しました。

その一つが、今回の「加飾の器」で「呂色」をほどこした輪島塗伝統工芸士の大橋清氏の工房です。「呂色は、多くの専門職人がいるなかで、最後の艶上げの作業です。マットな塗立仕上げに対して、凹凸をなくしてを出す呂色仕上げは、この後に『蒔絵』や『沈金』などの加飾の仕事で、漆と相性のよい金や銀を入れるためにも大切な仕事となってきます」と大橋氏。
呂色では、塗りあげで残った細かい刷毛目を、研ぎ炭を使って平滑にし、毛糸などを使って吹きあげていきます。さらに、最後は手を使って研いでいくのですが、大橋氏は呂色の仕事を実演してみせながら、「手は目の細かいペーパーのようなもの。漆は3050ミクロンの厚さなのですが、この薄い膜を手で感じながら仕事をしています。精密機械を扱うようなものですね。商品に傷をつけると売り物にならないため、とても神経を使います」と説明していました。

さらに、アレックス・カー氏も「呂色師は、艶上げ以外にも、梨地塗りや石目乾漆塗などの変わり塗も手がけます。漆塗りの商品に金、銀をいれて、さらに漆をかける技術は、日本人ならではの感性だと思います」と解説。ゲストたちは、興味深そうに大橋氏の作品を手にとって、熱心に説明に耳を傾けていました。

そしてゲストは、輪島塗の奥深さがわかるもう一つの場所へ。江戸後期から明治期にかけて建てられた「塗師の家」は、全国を行商してまわり、旅先で見聞きした文化や流行を輪島に持ち帰った“塗師文化”を伝えるためのスポット。間口に比べて奥ゆきが深く、シンプルな空間ながら木部には漆が施され、小粋な意匠が随所に盛り込まれています。ゲストたちは、展示されている歴代の漆塗の銘品を眺めたり、今回の『DESIGNING OUT Vol.2』で製作された器の説明を聞いたりしました。

パンフレットを見ながら、いかに輪島塗が多数の工程を経て作られるかを学んだゲスト達。

加飾の工程「呂色」を担当した大橋氏の工房では、ゲスト達の眼の前で一流の技を見せてもらった。

ダイニングアウト輪島輪島に残る「振り売り」の魚や地元米に舌鼓。

ゲスト一同が再び揃ったのは、創建1300年の歴史を持つ古社「重蔵神社」。同神社には、輪島市に現存する最古の漆工芸といわれる「本殿内陣の扉」があります。また、江戸時代初期、輪島塗に輪島の“地の粉”を使うようになった起源の場所であるとも伝えられています。
本殿で祈祷を受けたゲストたちは、境内の庭に出て、輪島の「振り売り」を体験しながらランチとなりました。

「振り売り」とは、江戸時代から輪島に伝わる行商文化で、女性たちが旬の魚介や日用品をリヤカーに積んで、地域に出向いて売り歩きます。「魚いらんかー」「今日はよかったわー(いらないわ)」などと声を掛け合う風景は、昔ながらの伝統。いまでも輪島には10軒の振り売りがあり、リヤカーで行商するところも3軒あるそうです。
この日、「振り売り」で用意されたのは、フグとノドグロの一夜干し、フグの湯引きとヒラマサの刺し身、そして、地元に伝わる米粉と寒天でつくった精進料理「すいぜん」。一夜干しは、ゲストが自らガスコンロを使ってその場で焼きます。輪島産の米を特別にブレンドしたごはんのおにぎりと、味噌汁は、焼きアゴのだしに、ダイコン菜、油揚げ、里芋。
地元感にあふれ、滋味豊かなメニューにゲストの晴れやかな笑顔が弾けました。

輪島の中心地に位置する「重蔵神社」には、最古の輪島塗と伝えられる朱色の扉が飾られている。

「振り売り」のおばちゃん達から魚の干物などの食材を受け取り、特別に作ってくれたみそ汁などと一緒にランチを楽しんだ。

「振り売り」でもらった食材は、卓上で焼きながら食した。

能登の加工品や、醤油など、朝市の雰囲気も味わってもらう為に特別に出店された。

ダイニングアウト輪島デザイニングアウトは第一歩。さらなる発展に期待。

DESIGNING OUT vol.2』のプロデューサーを務めた隈研吾氏に、『DESIGNING OUT vol.2』の感想を聞きました。

今回のDINING OUT WAJIMA with LEXUS』に、2日目に参加されたそうですね。まずは、全体のご感想を教えてください。
「日本の里山は、基本的に人間をすごくリラックスさせてくれる場所です。ですから、会場となった“金蔵の棚田”で食事ができたのは、とても素晴らしい経験でした。もともと日本の食べ物は里山の恵みですから、里山を感じながらの食事は理想的なことです。海外のリゾートホテルなどでは、上手に演出された屋外レストランで食事をしたこともありますが、日本の里山では初めてでした」。

『DESIGNING OUT vol.2』では、プロデューサーとして新たな6つの器を発表されました。
「もともと僕は漆が大好きなんです。日本の工芸はどこも同じなのですが、日本人は謙虚なためプロセスを自慢しません。僕はそれを歯がゆく思っていました。そこで、今回のプロジェクトでは、職人のプロセスの技を見せようと思いました。また、料理は最後の仕上がりだけでなく、食材や手順も大切です。同じように、輪島塗も製品にたどり着くまでのさまざまな“プロセス”が重要となります。普段は見えない輪島塗の出来あがる過程を、一連の食器としてデザインすることで、コースで出される食体験の時間軸と重ね合わせてプレゼンテーションすることができました」。

輪島の職人さんたちも、今回のプロジェクトには期待が大きかったと思います。「今までの輪島塗にはないデザイン、コンセプトだ」という職人さんたちからの声もありました。
「日本の伝統工芸は、とても丁寧な仕事をされているのだけど、ヘタをすると一本調子なところがあると思っています。そこで、絶えず新しい風を吹き入れることが必要なのです。たとえば、大正時代から昭和初期にかけて、柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らによって提唱された“民藝運動”によって、工芸に新しい風が吹き入れられました。『DESIGNING OUT vol.2』も、現代における同様の刺激になれば、と思いました」。

職人さんをはじめ、輪島の地域の人々へメッセージをお願いします。
「“職人技のプロセス”を見せるというコンセプトで、職人さんたちが、自分の手跡が見えるということを喜んでもらえたら何よりも嬉しいです。職人さんをはじめ輪島の地域の方々には、いまの伝統を保ちながらも、世界に通用する新しい力を備えてほしいと思っています。具体的には、コミュニケーション能力でしょうか。例えば、料理の世界では、世界に伍する人がすでに出てきています。それが、漆芸という職人の世界でも表れてほしいですし、輪島にはその芽が出はじめていると感じました。今回の『DESIGNING OUT vol.2』『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』は、そんな取り組みの第一歩だと思うので、これからも発展させてほしいです。僕もまた参加したいと思います」。

『DESIGNING OUT Vol.2』のクリエイティブプロデューサーを務めた隈研吾氏も、自身でデザインした器を確かめながら食事と共に体験した。

この日に購入希望された方には、その場で隈氏がサインを箱に入れてくれるサプライズも。

翌日ツアーのランチ後には、輪島が誇る漆の建築「塗師の家」も見学し、『DESIGNING OUT Vol.2』の器も展示された。

「輪島塗会館」では展示販売会が催され、購入者が続出した。今後もここで販売は継続する。

1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の葺き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社を設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社刊)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。

『DINING OUT』を支えた食材と名店『FARO』の出会い。この日、この場所だけでの至高のヴィーガンコース。[Food Curation Table with FARO/東京都中央区]

2018年、東京銀座資生堂ビルに誕生した『FARO』。そのラグジュアリーな空間が、今回の晩餐の舞台となる。

フードキュレーションテーブル/ファロスターシェフのクリエーションを支える素晴らしい食材たち。

日本のどこかにある日突然現れ、たった数日で消えてしまう幻の野外レストラン『DINING OUT』。これまでに全国17箇所で開催され、そのすべてが大盛況で幕を降ろしました。世界で活躍するトップシェフが指揮をとり、その土地に眠る魅力を掘り下げ、その土地の食材で表現をする唯一無二の料理。それこそが『DINING OUT』の真骨頂。そう、シェフや土地と同様に、食材、そして食材の生産者もまた『DINING OUT』の主役なのです。

そして今回、過去の『DINING OUT』を支えたそんなスーパー生産者たちにフォーカスするイベント「Food Curation Table with FARO」が12/13(⾦)、14(⼟)に開催されることが決定しました。タッグを組むのはイノベーティブイタリアン『FARO』。生産者たちに託された思いをエグゼクティブシェフ・能⽥耕太郎⽒はどう表現するのか。注目のイベントを目前に、その見どころをご紹介します。

『FARO』で使われる食材は150種以上。すべてスタッフ自らが探し、納得したものだけ。

フードキュレーションテーブル/ファロイノベーティブイタリアンの文法で伝える日本の食文化。

昨年10月、東京銀座資生堂ビルに誕生した『FARO』は、東京の美食シーンで大きな話題を集めました。エグゼクティブシェフに名だたる名店を渡り歩き、イタリアでも名を馳せた能田耕太郎氏を迎えたから。シェフパティシエに各界で注目を集める加藤峰子氏の名があったから。理由はそれだけではありません。シェフもスタッフも日々全国を飛び回り、食材の背景までを紐解いて生み出される料理、空間装飾やカトラリーにも⽇本の伝統⼯芸品を取り⼊れるなど、高次元で表現される⽇本の⾷⽂化、それらの在り方そのものが、他に例を見ない店だったからです。

とくに注目したいのは、コースのひとつとして用意されるヴィーガン料理。「日本の精進料理にも通じる」と能田シェフが捉えるヴィーガンは、単に動物性食材を使用しないという視点ではなく、食材選びから構成まで、ヴィーガンでしか表現できぬ世界を追求。味の多彩さと同時に、高い満足感も実現した渾身のコースです。ヴィーガンの方はもちろん、ヴィーガンでない方でも存分に楽しめる仕上がりになっています。

プレゼンテーションも含め、ヴィーガンの新たな可能性を提示する能田シェフの料理。

もちろんデザートもヴィーガン仕様。シェフパティシエ加藤峰子氏のセンスが光る。

和のエッセンスがちりばめられた食器や内装にも注目を。

食器に日本の伝統工芸品も取り入れることで、世界に向けて日本文化の価値を発信する。

フードキュレーションテーブル/ファロ料理界に確かな足跡を残す、食材と料理人の出会い。

DINING OUT』では、毎回指揮をとるシェフと共に数ヶ⽉におよぶ現地⾷材リサーチを⾏います。そんな日々を通し、これまで出会った生産者は200名近く。その素晴らしい食材はシェフの心を捉え、『DINING OUT』開催後も担当シェフの店舗で継続的に使⽤されることも多くなっています。

そうしたとっておきの⾷材と⽣産者をもっと幅広く知っていただきたいという思いから、「Food Curation Table with FARO」の実現に至りました。そしてそんな食材を託すなら、能田シェフをおいて他にないと確信したのです。今回、『DINING OUT』を通じて出会った全国の⽣産者の⾷材を『FARO』に託し、今回のための特別なヴィーガンコースを開発して頂きました。能田シェフのヴィーガンは既存の概念を覆す、まったく新たなジャンルの料理。そこに日本全国の至高の食材たちが出会う。きっとこの日、この場所でしか味わえない最高の料理体験が待っていることでしょう。皆様のご来場をお待ちしております!

昔も今も日本の食文化の発信地である東京銀座資生堂ビル。この場所からヴィーガンの新たな歴史が刻まれる。

エグゼクティブシェフの能田耕太郎氏。イタリアで培った技術で、日本の旬を表現する。

1999年に渡伊。2007年までイタリアの名店で修業を積み、その後、現地でシェフとして活躍。2013年、「ノーマ」(コペンハーゲン)など最高峰の北欧料理店での研修を経て再びイタリアへ。自身が共同経営するローマの「bistrot64」では、ネオビストロのスタイルで人気を支える。2016年11月『ミシュランガイド・イタリア 2017』 にて二度目の一ツ星を獲得。イタリア料理のシェフとして二度の評価を得るに至った初の日本人となる。2017年には「テイスト・ザ・ワールド(アブダビ)」の最終コンペティションにローマ代表として出場し優勝。「ファロ」では、風情や旬を大切にする日本文化の中、イタリアで培ってきたことを東京・銀座で発揮し、自身の感性とチーム力で“お客さまが楽しむレストラン”を創り上げていく。

開催⽇:12⽉13⽇(⾦)、14(⼟) 19:00〜(22:00終了予定)
席数:各⽇28席限定
参加費:¥35,000(税別) コース料理品
(アルコール/ノンアルコールペアリングを含む)
申込⽅法:https://foodcurationtable.peatix.com/
*2名1組様以上での申込となります
*Webページ上の留意事項をご確認の上、お申込みください

世界を見て、ようやくたどり着いた食の理想郷、能登。地場を愛し、地場に愛された料理人。[L’Atelier de NOTO/石川県輪島市]

ラトリエ ドゥ ノトOVERVIEW

漆工技術の粋を集めた輪島塗、日本三大朝市のひとつに数えられる輪島朝市などで知られる石川県輪島市は、能登空港から車で30分ほど。その市街の中心部に『ラトリエ ドゥ ノト』はあります。建物はかつて輪島塗の工房である塗師(ぬし)屋だったもの。入口に掲げられたナイフとフォークをあしらったロゴマークが、ここがレストランであることをかろうじて伝えてくれますが、その外観からフランス料理店であることは読み解ける人は少ないはずです。店名の『L’Atelier de NOTO』を直訳するなら「能登のアトリエ」。オーナーシェフの池端隼也氏が、能登の食材を材料に料理という作品を創作し続ける工房と言えるでしょう。

今、この店が全国はもちろん、海外のグルマンたちから熱い注目を集めています。羽田―能登間のフライトは1日2便。午前便で能登に降り立ち、ランチをゆっくりと楽しんで、夕方の便で帰京するというツワモノも少なくありません。一体、何が人々の心を惹きつけているのでしょうか?
ひとつは全国でも稀な優れた食材の宝庫である能登のポテンシャルの高さ。もうひとつは、それら能登の優れた食材のショーケースとなり、消費の最前線で食材の一つひとつを最良の状態で提供すべく全力を傾ける池端氏の情熱。このふたつのかけ算が唯一無二の食体験を生み出しています。

国内外の名うてのレストランで豊かな経験を積んだ池端氏は、能登の食材を「おいしいから使う」と言います。このシンプルな一言には、「地産地消」という言葉では片付けられない重みがあります。池端氏は能登で何を見つめ、何を思って厨房に立っているのか? 能登に魅了されたひとりの料理人の姿を追いました。

住所:石川県輪島市河井町4-142 MAP
電話: 0768-23-4488
定休日:月曜日
https://atelier-noto.com/

昆虫という食の選択肢。ネガティブな印象を変えようと活動を続ける若者がいる。[ANTCICADA/福島県二本松市]

渓流で川虫を探す地球少年こと篠原祐太氏。これまで世界中の野山を駆けめぐってきた。

アントシカダまったく新しい料理を創造するため。渓流のせせらぎに包まれ、いざ昆虫採集。

「やっぱり、いた。可愛い!」と、いきなり川底をあさって満面の笑顔をこぼす篠原祐太氏。まだ水が滴る手のひらの上で、体をよじらせるのはザザムシです。
いくつもの脚が胴の節々から伸び、じたばたと落ち着きなく動く様は、気持ち悪がられるのが常。それを子供のような眼差しで、愛くるしそうに眺めているのです。

ここは福島県二本松市へと続く山間の田舎道。突然、網を手に持ちクルマから飛び出し、急勾配の川岸を駆け下り、靴も脱がずそのまま渓流のなかに足を踏み入れ、昆虫採取をはじめた篠原氏を取材班は追いかけてきたところなのです。
「ザーザーと音が聞こえる、程よい勢いの川で捕れるからザザムシ。カワゲラやトビケラといった、食べると美味しい水生生物の総称です」と、キラキラと目を輝かせながら篠原氏は語ります。食用のためザザムシ漁を行う風習は、長野県にある天竜川上流の地域に今なお残り、かつては福島県などでも同様の食文化が形成されていたそうです。

ザザムシは佃煮にするのが基本ですが、素材の味を活かして「お吸い物や茶碗蒸し」にするのが篠原氏のお気に入り。丁寧に泥抜きをして茹でればアサリによく似た出汁が取れ、ほのかな磯の香りと力強い旨味が楽しめるそうです。

世界的にも少しずつ注目を浴びはじめてきている昆虫食の伝道師として、これまでに数々のグルメイベントを成功させてきた篠原氏。現在は昆虫を中心に、人目に止まらない野草や悪者とされる外来生物など、日の目を見なかった食材に目を向けるレストラン『ANTCICADA』の立ち上げ準備中です。昆虫=ゲテモノという世の中のイメージに一石を投じるため、クラウドファンディングも開始。

今回、取材班はレストラン開業に向けて活躍を続ける篠原氏の日常に密着。文字通り草の根を分けてまで、日夜、食材探しに奔走する氏の姿を追いました。

【関連記事】ANTCICADA/今の日本だから表現できる昆虫食の面白さ。概念を覆すことが最高のプレゼンテーション。

約30分かけ30匹ほどのザザムシを捕獲。茶碗蒸しに換算すると1.5杯分だという。

水質の良い川にしか生息しないヘビトンボの幼虫。ザザムシの中でも肉食で味が強い。

アントシカダ可愛いがゆえに昆虫を追いかける。そして、捕まえたら食べるのが自然の掟。

日本のみならず、世界中の昆虫を食べ続けてきた篠原氏は、実に昆虫食歴20年以上。東京都のなかでも自然に恵まれた高尾山のすぐ側で育ち、「森で遊びながら捕まえたものを食べるのは、動物としての本能でした」と、4歳のころから特別意識はせずに昆虫を食べはじめたと笑います。

やがて「理科の実験設備が充実していた」という理由で、名門の私立中高一貫校に進学。周囲に変わり者だと思われることを避けるため、いつしか昆虫好きである自分をひた隠すようになったそうです。

それでも篠原氏は持ち前の探究心の高さから参考書を読み漁り、全国模試1位を取るほど成績は優秀。父親から強い勧めを受け慶應義塾大学に進学すると、自分のスタイルを持った個性的な生き方をしている人たちの存在に驚きました。そこで「自分の昆虫好きをカミングアウトすることに決めた」と、篠原氏は当時を振り返ります。
どんな生き物でも命の重さに差はないことを伝えようと、昆虫を鍋に入れた画像をネット上で公開したところ「食べ物で遊ぶな」と批判殺到。そんななか「生き物に対するフラットな価値観に共感できる」と、名古屋在住の女性からメッセージが届いたことが、彼のターニングポイントとなったといいます。

さらに自体は急展開へ。「こんな女性は他にいない」と篠原氏が猛アタックを続けた結果、ふたりは恋人となり「はじめて本心をさらけ出せる相手に出会った」ことから、他人同士でも理解し合えると実感。「ありのままの自分をさらけ出せ、好きなことをして、言いたいことを話していたら、自然と周囲に理解者が集まりました」。こうして昆虫食の伝道者としての第一歩がはじまったのです。

ありのままの自然を感じたいと冬でもハーフパンツ姿で過ごす。公園などで野宿をするのも趣味だとか。

アントシカダゲテモノではなく、地球からの贈り物として昆虫食を提案。

昆虫料理の素材調達をはじめ、ワークショップやケータリング、記事執筆、講演活動など、あらゆる方向から昆虫食の面白さを提案し続けてきた篠原氏。なかでも大きな話題を集めたのが新宿にある『ラーメン凪』と共同開発したコオロギラーメンです。

「さまざまな昆虫でスープ作りを試したところ、乾燥させたコオロギが最もラーメンの出汁に適していました」と経験則から篠原氏が語るように、コオロギには昆布の旨味成分として知られるグルタミン酸などが含まれています。
またコオロギの味わいを存分に活かしたいと、スープ1杯につき100匹以上の成虫が必要で、食用としての養殖法が確立されつつあるコオロギは、仕入れの面から見ても魅力があったといいます。
実際にコオロギラーメンの販売イベントを行うと、その美味しさが口コミで評判を呼び、あっという間に大行列。開催のたびに完売御礼となり、テレビのニュース番組や国際的な報道メディアなどにも大々的に取り上げられることになりました。

「あらゆる食材は地球からの贈り物」と考えている篠原氏。昆虫をゲテモノ料理として扱うのではなく、地球の豊かさ、美しさを伝える食体験の主役に据えたいと語ります。
コオロギラーメンをはじめた当初は「ゲテモノ料理として紹介したい」という取材申し込みが9割だったそうですが、現在はほとんどのメディアが新しい可能性として昆虫食を紹介してくれるようになったそうです。

枯れ葉の下や朽ちた切り株にも、味が良い昆虫がいるという。

昆虫だけでなく地球上の全生物を愛する篠原氏。その総称として自らを地球少年と名乗る。

アントシカダ仲間とともにコオロギの養殖場へ。生産者と交流を深める。

今回、篠原氏が福島県二本松市を訪れた最大の目的。それはコオロギの養殖場を視察すること。場所は電子機器に欠かせない絶縁インキの分野で世界トップクラスのシェアを誇る総合化学企業『太陽ファインケミカル株式会社』。コオロギの経済的な可能性に目を向け、大規模養殖のための研究も行っています。

「コオロギは一般的な家畜と比べ飼育の手間がかからず、孵化から25日で体重が1000倍になる非常に生産効率の良い動物です。食品としての付加価値や味わいについて、ぜひ篠原さんのような専門家の意見を聞きたいと思っていました」と代表取締役社長の小林慶一氏が温かく氏を出迎えてくれました。

篠原氏に同行するのはシェフの関根賢人氏。慶應義塾大学卒業後、メガバンクに入社するも直ぐに退職し、六本木にあるミシュラン星付きのフレンチレストラン『ル スプートニク』で修業をしたという異色の経歴の持ち主です。篠原氏が考案したコオロギラーメンの美味しさに感銘を受け、氏の活動に合流。現在、ともに昆虫食レストラン『ANTCICADA』の立ち上げ準備をしながら、世界初となる昆虫ドレッシングも共に開発中です。まずはクラウドファンディングのリターンとして数量を限定して製造開始。良質なコオロギを大量に供給できるようになれば、本格的な商品化を進めるとのことですが、果たして、なぜ今、昆虫ドレッシングなのでしょうか!? そこには現在の昆虫食を取り巻く問題を解決する糸口が……篠原氏の活躍を中心に、日本の昆虫食文化は大きな転換期を迎えるのかもしれません。

養殖場のコオロギを試食。腹に卵が詰まったメスの美味しさに感動していた。

1994年、地球生まれ。慶應義塾大学卒。物心ついたころから自然をこよなく愛し、さまざまな野生の恵みを味わうように。なかでも、身近にいながら、未知な部分も多い昆虫への興味は強く、『ラーメ ン凪』やミシュラン一つ星『四谷 うえ村』で修行しながら、食材としての昆虫の魅力と可能性を探究。昆虫食伝道師として、昆虫料理の創作から、ポップアップ販売、ケータリング、ワークショップ、授業、執筆と幅広く手掛ける。なかでも世界初のコオロギラーメンは国内外で大反響を集めた。現在は、地球食レストラン『ANTCICADA(アントシカダ)』開業準備中。また、コオロギドレッシングや、虫のお菓子、タガメジンなどの商品開発にも注力し、順次販売開始予定。狩猟免許や森林ガイド資格保持。「食は作業ではない、冒険だ」をモットーに、日々地球上を駆け巡っている。

理屈ではない。また還りたいと思わせる故郷がここにはある。[東京”真”宝島/東京都 青ヶ島]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。
監督・撮影・編集:中野裕之
撮影:佐藤 宏 空撮:田中道人 音楽:木下伸司

東京"真"宝島

島のシンボルは活火山。生きる島と暮らす選択。

「思わず“うわぁ”と声が出ました。それくらい圧倒されました」。
青ヶ島は世界的にも珍しい二重式カルデラ火山の島です。断崖絶壁の島そのものが外輪山を形成しており、南側に広がる「池之沢」と呼ばれる大きなカルデラの凹地の中には、内輪山の「丸山」があります。中野裕之監督が唸ったのは、「丸山」に足を運んだ時のこと。
「空撮のビジュアルは見たことがありましたが、実際に足を踏み入れた地上からの目線でその景色を見ることはありませんでした。周囲にそびえ立つカルデラは、圧巻でした」。

青ヶ島は1785年(天明5年)に噴火を引き起こしました。のちに「天明の大噴火」と呼ばれるこの噴火によって「丸山」は誕生しました。山腹に植林された椿によって縞模様を纏った現在の「丸山」の姿は、青ヶ島の代名詞となる風景です。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

俯瞰して見れば、青ヶ島の特徴でもある二重カルデラがよくわかる。独特の形状の島。

「丸山」の縞模様を形成しているのは、植林された椿。一周できる遊歩道もあり、散策にも良い。

島を取り囲む外輪山。荒々しいその姿は、噴火当時の凄まじさを感じるも、現在は島を守る岸壁のよう。

東京"真"宝島上陸難易度は最高クラス。限られた人のみが体験できる島、それが青ヶ島。

都心から南へ約360km、東京都青ヶ島村無番地、日本一人口の少ない村、それが青ヶ島です。しかし、その島へ訪れることは、実に至難の技。至難の技とは、苦行を強いるような困難な道のりという意味ではなく、気象の影響を受けやすいため、上陸できる確率の問題として難易度が高いということです。基本的に東京からの直行便はなく、八丈島からヘリか定期船で渡ります。
「一度、八丈島に降り立ち、そこからヘリで上陸するのですが、それも1日1便9席のみ。予約を取るのもなかなか難しく、人気アーティストのコンサートさながらの争奪戦です。ただ、島民も少ないですし、たくさん観光客が訪れても、それを受け入れる許容や施設がないので、島が島らしくあるための秩序を守るには、きっと今のやり方がベストなのだと思います」。

夕日に染まる青ヶ島。高低差のある二重カルデラの地形が、島に優しく陰影を纏わせる。

地上から「丸山」を仰げば、その高さもしかり、外輪山に囲まれた環境と広大な自然に圧倒される。

東京"真"宝島ここは果たして観光地なのか。その広大な自然は、想像をはるかに超える。

「北側に位置する“大凸部(おおとんぶ)”からは島が一望でき、青ヶ島のシンボル、縞模様の“丸山”も望め、絶景が広がります。その先にある“尾山展望公園”も“大凸部”と同じように外輪山の稜線上にあり、ここもお勧めです」と、中野監督。

そして、この2ヶ所に関しては星も美しい場所でもあります。
「夏には天の川が望め、冬には一等星が輝き豪華絢爛です」。
さらに、「星を見るなら“ジョウマン”」と中野監督は言います。
「島の最北端、ジョウマンから見る星はとにかく綺麗です。標高200mのそこは、草原の中にあるため、集落の灯りもなく、絶好の場所だと思います」。

また、青ヶ島の特徴の1つに挙がる、「池之沢」の「ひんぎゃ」(ひんぎゃの語源は、火の際/ひのきわだと言われています)と呼ばれる水蒸気が噴出する穴がありますが、この周辺は地面もあたたかく、冬の寒さも安心です。「地熱と言えば、この地区にあるサウナもお勧めです!」。
そのほか、「丸山」ではハイキングも楽しめ、ゆっくりとその地形と向き合うことができます。

絶景ポイント、星空観測、ハイキング、サウナ……。もちろん、観光も体験できる島ですが、「迫力ある自然は想像以上!」と中野監督は言います。長い年月をかけて鬱蒼と茂る森を作り上げ、「まるで恐竜が出てきそう!」と、生命力がみなぎる島の力に驚愕します。また、前出の地熱というところでは、「例えば、地面が茶色くなってしまっている場所には大地が発熱しているところも多いため、緑が育たないのです。撮影中、三脚を立てても熱くなるくらいでした」。

やはり生きる島、青ヶ島。そんな地球の鼓動を感じる旅を、是非楽しみたい。

太平洋も望むことができる「尾山展望公園」。天気が良い日には、「八丈島」も望める。

島には急な坂や玉石の階段が多い。足を滑らせないように注意したい。

地面が発熱する箇所には自生する植物は少なく、茶色い大地がむき出しに。

地熱により、地面から水蒸気が噴出する「ひんぎゃ」。火山の島ならではの光景だ。島内では「ひんぎゃ」を利用したサウナや塩作りも行われている。

鬱蒼と茂る森は、太古の自然を彷彿させる。所々にそびえ立つ松には他の植物が共生し、不思議な造形に。

青ヶ島は星が美しい島としても有名。中でも集落から離れた「ジョウマン」は、中野監督お勧めのスポット。

主に池之沢地区に、島のシンボルとも言われている植物「オオタニワタリ」が生息する。写真の中央部にあるふたつがそれで、まるで花開くように葉を広げる。

東京"真"宝島歴史を振り返り、「還住」を知る。この島にはこの島の生き方がある。

黒潮の真ん中に浮かぶこの島は、いつ誕生し、いつ人が住むようになったのか、未だにはっきりとは分からないそうです。青ヶ島の存在は、15世紀(1401〜1500年)に歴史上に登場するも、その内容は船の遭難や海難事故の記録ばかり。当時の困難な海上交通を物語っています。中でも、青ヶ島を知る上で忘れてはいけない出来事が、先述の「天明の大噴火」です。当時、島民は隣島である八丈島への避難を余儀なくされ、一時は青ヶ島が無人島と化した時代もあったようです。そんな困難な生活を強いられた人々をまとめ上げ、50年余りの年月を費やし、島への帰還を果たしたのが江戸時代の名主と呼ばれた佐々木次郎太夫という人物でした。
「その時に思ったんです。帰るんだ、と。当たり前のことなのかもしれませんが、別の島で生きていく選択もある中、帰るんだ、と」。

火山噴火後、青ヶ島を離れ、再び青ヶ島での生活の復興を成し遂げることができた事実は、1933年(昭和8年)に日本の民俗学者でもある柳田國男氏が発表しています。「青ヶ島還住記」と題されたそれは、苦難の末に青ヶ島へ帰島を果たした事実を記しています。そして、タイトルにも用いられたこの「還住」という言葉は、徐々に島民に定着してゆき、八丈島と青ヶ島を結ぶ定期船の名にも起用され、「還住丸」としてその役目を果たしました(2014年より、定期船は「あおがしま丸」が就航)。 
「“還”って“住”む。それが何年経ってしまっても、還って住む。当時の人々にとって、やっぱり青ヶ島は“故郷”だったのだと思うのです。いつか還って住むという気持ちがずっとあったのではないでしょうか。そんな先人たちがいるからこそ、今の青ヶ島があって、島民がいて。滞在中、あるお店で食事をしている時、おそらく同級生の集まりのような会を隣でしていたんです。楽しそうにワイワイと。その方々も、島で生きる選択をして今もここにいるんだと思うと、歴史を振り返ったことも手伝い、なんだか感慨深くなりました。色々な生き方があるんだな、と。そして、この島にはこの島の生き方があるんだな、と。誰にでも故郷はあると思いますが、その場所は極論どこでもよくて。生まれた場所を愛せることは素晴らしいと、この島に訪れて感じました。青ヶ島は、そんな愛に溢れた島だと思います」。

今回、映像の冒頭は、太鼓の音から始まります。「還住太鼓」です。「還住」という言葉は、島民にとってはとても大切な言葉なのです。映像が終わっても、その残像と太鼓の余韻が、きっと心の中で静かに響き続けるでしょう。

400年以上前から伝わる伊豆諸島南部の郷土芸能。「還住」の思いを打ち鳴らす還住太鼓は、島唄や島踊りと並び、親しまれている。

ひとつの太鼓を台に横向きに乗せ、上打ちと下打ちと呼ばれるふたりの打ち手が両面から奏でるのが「還住太鼓」の特徴。


(supported by 東京宝島)

豪華布陣でつくり上げた輪島塗と能登食材のフルコース『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』スペシャルムービー公開。[DINING OUT WAJIMA with LEXUS/石川県輪島市]

ダイニングアウト輪島

DINING OUT WAJIMA with LEXUS』(2019年10月開催)の感動を、スペシャルムービーとフォトギャラリーでお届けします。

『DINING OUT』第17弾となる舞台は、能登半島北部に位置する、石川県輪島市。この地を代表する伝統工芸といえば、言わずと知れた「輪島塗」。日本の中でも輪島は、最も高度かつ広汎に漆文化が花開いた地であることから、テーマは「漆文化の地に根付く、真の豊かさを探る」。

今回は、日本の伝統工芸に新たな光を当てるプロジェクト『DESIGNING OUT Vol.2』を同時開催し、世界的な建築家、隈研吾氏と共にオリジナルの輪島塗を作り上げました。
そして料理人は、『DINING OUT』史上初の試みとして、ふたりのシェフのコラボレーションが実現しました。ひとり目は石川出身のフレンチ料理人、西麻布「AZUR et MASA UEKI」の植木将仁シェフ。ふたり目は、熾火料理を得意とし、三ツ星を獲得したジョシュア・スキーンズ氏。
今だかつてない豪華メンバーを結集させた「DINING OUT」、ぜひ体感してみてください。

【関連記事】DINING OUT WAJIMA with LEXUS

テレビレポーターでミュージシャン、多彩な顔で青森と農業の魅力と伝える、ユニークな農実業家[TSUGARU Le Bon Marche・アグリーンハート/青森県黒石市]

自然栽培の田んぼは収穫期が遅く、取材で訪ねた10月上旬はまさに一面黄金色だった。

津軽ボンマルシェ・アグリーンハート

愛嬌ある笑顔と歌声、熱意のトークに誰もが引き込まれる。

“たくろん” さんこと、佐藤拓郎氏といえば、青森県できっと知らない人はいないはず。地元でおなじみのテレビ番組「わっち」の水曜コーナー「農music農life」では、レポーターとして県内各地を駆け巡り、その土地のお宝食材や生産者を紹介しています。ミュージシャンとしても活動し、ギター片手に番組内でオリジナルの歌と演奏を披露することも。テレビでは「ゆるキャラ」的存在、陽気で穏やか、ほのぼのとした印象の佐藤氏ですが、いざ、農業の話になると、途端にカチッと情熱スイッチがオンモードに。「話、長くなってもいいですか?」という前置きが入り、日本の農家の未来にまつわるあれこれを、気づけば何時間でも熱心に話し込んでしまうのでした。そう、佐藤氏の本職は農業、米農家さんです。

取材チームが佐藤氏を知ったのは、以前に紹介した『サニタスガーデン』の山田さんからの紹介でした。「同じ黒石市で先進的な取り組みをしている農家さんがいる。多彩なアプローチが面白いし、一般的にイメージする自然栽培の農家とはキャラクターが違ってユニーク」との話。また、『ひろさきマーケット』でも商品の取り扱いがあり、「たくろん米」だなんてお茶目なネーミングは、目を引かずにはいられなかったのです。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

地元放送局である青森テレビの情報番組「わっち」での撮影の一コマ。ベージュのサスペンダーがトレードマーク。(佐藤拓郎氏写真提供)

津軽ボンマルシェ・アグリーンハート常に頭で考えて動く、子供の頃から実業家肌だった⁈

青森県黒石市出身。子供の頃は「ちょっと変わった子だった」と自己分析する佐藤氏。
「駄菓子屋さんでお菓子を買うにも、お金が足りなかったら普通は我慢するでしょう。でも自分は、どうしたら欲しいものを早く手に入れられるかを考える子供でした。店のおばちゃんに『これが欲しいんだけど、どうすればいい?』って聞いてみると、『ワラビを採って来てくれたら、買ってあげるよ』って言われて。山でたくさんワラビを採って、欲しかったお菓子と交換していました。中学生の時は、学校へ行く前にカブトムシやクワガタを採り、ペットショップに売って現金に変えていましたし。何かとビジネスライクなところがありましたね。高校に入るとバンドブームに押されて、バンド活動に明け暮れましたが、ライブをするためのホール代が賄えるよう集客やチケット代を考え、きっちり計算して売り上げを出していました(笑)」

マーケティング、リサーチ、ブランディング、などという言葉を当時は知らずとも、自然と自分でバンドの経営方針を考え、売り上げに繋がるよう行動を起こしていたというから驚きです。その頃の将来の夢はミュージシャンになることだったそうですが、そこでも自己をシビアに分析し、今のままの自分ではミュージシャンとして稼げないと冷静に判断します。高校を卒業すると、実家の家業だった農業を手伝い始めました。
「どこかで雇われるよりも、農業の方が自分の自由な時間を作れて、音楽活動を続けられるのでは、という軽い気持ちもありました。一方で、僕は6代目なんですが、祖父の代が大きな借金を抱え、父はそれを背負う形でもあったので、どうにかしなければという危機感がありました。でも、いざ就農してみると、農業はすごく難しくて、それが純粋に面白かった。夢中になって向き合えば向き合うほど、答えが見つからないんですよ。毎朝4時に起きて田んぼに出て、日々試行錯誤の連続。でもその難解さが面白い」

佐藤氏が育てる自然栽培の米。「雑味がなく、体にすっと染み込むような、透き通った優しい味なんですよ」と熱心に話してくれた。

自身のニックネームを使い、「たくろん米」と名付けて販売。米は新鮮さも重要であり、佐藤氏は籾摺りした当日中に真空パックにして届けている。

津軽ボンマルシェ・アグリーンハート自然栽培の米をオリンピックの選手村へ届けたい。

2017年1月、株式会社『アグリーンハート』が立ち上がりました。佐藤氏が現在力を入れているのは、農薬や肥料を使わない自然栽培ですが、いわゆるナチュラリストとは一味違います。親から引き継いだ農地を含めて57haのうち、9haが自然栽培。同時に敢行栽培も行なっています。法人化してから毎年スピーディーに農地を拡大しており、そのほとんどは山間の休耕地です。木が生えないよう持ち主によって手入れはされているけれど、何十年も耕作はしていない土地でした。黒石市にはそのような休耕地が約235haあり、それらが宝の山だ、と佐藤氏は言います。

「津軽地方は昔から、良質な農作物を比較的容易に収穫することができた土地なんです。八甲田山系の伏流水が豊富に湧き出ており、水がきれい。四季がはっきりしていて、寒暖差があることなど、良い条件が整っています。山間地には大型機械は入りにくいけれど、土壌が若くふわふわで良質。肥料や農薬を使っていた土地で有機JASを取得するとなると、それらが抜けるまで最低2年以上かかりますが、休耕地なら最初から何も入っていないので、その必要がありません。ここでしか作れないもの、そこに価値があるんです」
アグリーンハートでは、創立年にGLOBAL G.A.P(注1)を取得。自然栽培の圃場は全て有機JAS認証を取得しています。さらに農福連携(注2)に取り組み、2019年より制定されたノウフクJAS(注3)取得に向けても動いています。そこまで認証をクリアした農作物は日本ではまだまだ少ないそう。佐藤氏曰く、最も基準が厳しいといわれているオリンピック選手村に提供できる食材にも一番近いのでは、と目を輝かせます。


注1)GLOBAL G.A.P
世界基準の農業認証。安全で品質の良い食品・非食品の農作物であると世界的に認められ、農業経営の改善や効率化、品質の向上、グローバル市場への販路拡大などに繋がる。

注2)農福連携
農業と福祉の各分野の連携。障害者等の農業分野での就労を支援し、自信や生きがいを持った社会参画を実現するための取り組み。一方で農業の人手不足の解消などにも期待が持てる。

注3)ノウフクJAS
障害者が主体的に携わって生産した農林水産物及びこれらを原材料とした加工食品について、その生産方法及び表示の基準を規格化したもの。2019年3月より制定。

アグリーンハートの事務所から車で走ること20分以上。四方をぐるりと山に囲まれた、風光明媚な土地だ。

自然栽培の特徴は一見しただけでは分からないが、ギリギリまで光合成を行っているためか、葉の立ち方が野性的だといわれる。また、引っこ抜くと根の長さが敢行栽培の稲の3倍くらいあるという。

自然栽培で蕎麦も育てている。風味を大切にしたいため、自社で石臼を挽き、粉にして販売。青森初のだしソムリエ・奥村雅美さんが運営する『SOBA Cafe 雅』でも使われている。

津軽ボンマルシェ・アグリーンハート寿司に最も適しているという幻の米が復活。

2019年は青森県が推奨する県産米で、食味ランキングでは3年連続特Aを獲得している品種「青天の霹靂(せいてんのへきれき)」を栽培していますが、次年度以降、佐藤氏が本腰を入れて取り組んでいきたいのが「ムツニシキ」という品種。1971年にデビューし、かつては青森県の推奨品種でしたが、稲の背が高いため倒れやすく、収量も少なくて育てにくいなどの理由で、いつの間にか幻の米となってしまいました。ムツニシキは固定種であり、味の評価は高く、粘りが少なくパラっとした食感が寿司米に適しているそうで、北海道の寿司店では黒石米と呼ばれてもてはやされていました。黒石市では2015年よりそのムツニシキを復活させ、寿司専門の米としてブランド化推進に努めており、佐藤氏もその一端を担っています。自然栽培のムツニシキは、寿司ネタの邪魔をせずさっぱりとした味わいながら、ネタを包み込むように米の程よい甘みが後から追いかけるという、不思議な余韻をもたらすそうで、それがどんなにおいしい米か、佐藤氏の言葉には一層熱がこもっていました。

ムツニシキを使った寿司を出していると教えてもらった青森市内の『一八寿司』を訪問。大将が寿司職人になったばかりの頃も使っていたそうで、復活したと聞いてすぐに取り入れた。

津軽ボンマルシェ・アグリーンハート新しい取り組みに次々と挑戦、広く世の中に発信していく。

自然栽培は、雑草や虫捕りなどに相当な人の労力がかかります。せっかく身体に良いと思うものを作っていても、身体を酷使して壊してしまったら、元も子もありません。佐藤氏は、テクノロジーの力で補えるところは補おうと、ロボット技術や情報通信技術(ICT)を活用した「スマート農業」の導入を積極的に行なっています。
「将来は月で田んぼを耕したい、なんて話をしているんですよ。もちろん例え話ですが、決して実現できない話でもないんです。自分が現地にいなくても、田んぼの様子は遠隔でリアルタイムに確認できる。状況に応じて、ブラジルの従業員に東京から指示を出す、なんてことも可能になります。物理的な距離は関係ないんです」
自然栽培に正当な付加価値を付けることも怠りません。子供時代からビジネス視点を磨いてきたと言ってもいい佐藤氏ですから、「農業できちんと稼ぐこと」は常に視界にあります。未来を見据え、地球環境や和食文化の継承も考慮し、実業家として農業を経営していくことの重要さを肝に命じています。

「苦労が多く、儲けもない農業だったら、誰がやりたいのか?これからの世代が魅力的に感じる農業でありたい。だから価値あるものをまっとうな価格で売れるように経営戦略を立てますし、売るための発信力も必要です。自然栽培も事業として進めていかないと、時代のスピードに飲み込まれてしまいます」
多方面にわたる佐藤氏の取り組みは注目を浴びることも多く、農林水産省主催の「平成30年度未来につながる農業推進コンクール」の「有機農業・環境保全農業」の部では「生産局長賞」を受賞。自然栽培やスマート農業の取り組みはもちろん、農家でありながら、黒石市観光大使、学校教育サポーター、そしてテレビのリポーターなどを務め、多様な活動を通して有機農業を伝えていることが高く評価されました。
受賞後は各地で講演の機会が増え、他地域から田んぼの視察に来る人も多くなったそうです。そこで佐藤氏は最近、未来の農業への危機感を声高に訴えています。パーソル総合研究所と中央大学が発表した「労働市場の未来推計 2030」によると、2030年に農林漁業従事者は2万人余剰になってしまうというデータが出ています。

「現在人手不足と騒がれている農業が、たった10年後には大きく変わってしまう可能性があります。経営者はいつも最悪の未来を想定して動かなければいけないと思うのです。その時地域はどうなっていくべきなのか、考えることがたくさんあります。自身の取り組みを通して、もっと伝えていきたい」
そしてさらに佐藤氏が向かう新しい挑戦は、東京に青森の特産品を販売する店舗を出すこと。志ある農業仲間と協力し、2020年のオープンに向けてマーケティングリサーチを行い、夏には試験販売も試みました。

「自然栽培の農作物のおいしさを伝えたいのはもちろんですが、商品というより、売りたいのはこの土地が持つ唯一無二の価値。こだわりの農家のストーリーを届けたい」
経営者として脇を締めつつも、常に全力で楽しそうに取り組もうとする佐藤氏。目標は「50歳になったら、またバンドを再開すること」!それまでに、持続可能な有機農業の礎を築けるよう、まだまだ走り続けます。

ドローンを使った湛水直播(米の苗ではなく、直接種を蒔く)の試験栽培。ドローンはレンタルしているため、人手がかからずコストも削減できる。(佐藤拓郎氏
写真提供)

「自分と一緒にいたら、ワクワクしてもらえるような存在でありたい」という佐藤氏。自身で書いた理念・信念が会社の事務所に掲げられている。

住所:青森県黒石市馬場尻東61-15 MAP
電話: 0172-26-5015
株式会社アグリーンハート HP https://www.agreenheart.jp/


(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)

桃のような口溶けと上品な甘み。高級西洋なし『ル レクチエ』の魅力を、料理で表現するために。[ル レクチエ/新潟県新潟市]

『ル レクチエ』の産地を訪ねて新潟に飛んだ藤木千夏シェフ。そこで出会った生産者との話がメニュー開発の起点になる。

ル レクチエ『ル レクチエ』の魅力を伝えるべく、立ち上がったひとりの料理人。

『ル レクチエ』という品種の西洋なしをご存知でしょうか。
初冬の一時期、高級果物店の店頭でまるで宝石のように大切に陳列されている山吹色の西洋なしがあれば、きっとそれが『ル レクチエ』です。桃のようになめらかでとろける食感、高い糖度と爽やかな味わい、鼻孔をくすぐる芳醇な香り、そして大ぶりで見事な形。近年、お歳暮に贈るフルーツのトップに君臨する希少で貴重な西洋なし、それが『ル レクチエ』なのです。

その噂を聞きつけ、そして『ル レクチエ』の魅力をさらに広めるべく、今回ひとりの料理人が立ち上がりました。その名は藤木千夏さん。恵比寿の一軒家レストラン『Umi』でその名を轟かせ、インテリアショップ『Francfranc』が手掛ける新たなライフスタイルブランド・白金台『A L’AUBE』のカフェの監修を手掛け、そして今さらなる飛躍を目指す藤木シェフが、『ル レクチエ』のポテンシャルをすべて引き出す料理作りに挑むのです。
目指すのは、そのまま食べる以上の果実感。高い次元で完成された『ル レクチエ』という食材をどう捉え、どう表現するのか。さまざまな期待を背にした藤木シェフは、まず産地である新潟へ飛びました。

10月半ばの『ル レクチエ』の様子。ここから収穫して40日に及ぶ追熟に入る。

ル レクチエ素材ファーストを徹底する藤木シェフ。その思いの厳選をたどる。

素材を大切にする藤木シェフが料理を考案する工程は、まず食べることから始まります。それもただ取り寄せた食材を試食するのではありません。「いつもスタッフにも伝えているのは、モノをモノだと思わないこと。その食材が目の前にあるのが当たり前だと思わないこと。食材は自然といろんな人やコトが関わり、いろいろな思いが込められて、ようやくできあがったものですから」と藤木シェフ。味や食感だけでなく、そこに込められた気持ちまで探すように、大切に食材を味わうのです。そんなスタンスの根源を理解するために、藤木シェフのヒストリーを少し紐解いてみましょう。
福岡県柳川市という有明海沿いの町で生まれ育った藤木シェフは、幼少期に共働きの両親にかわり多くの時間を 祖父母と過ごしました。祖父母はお米やお野菜、養豚場を営む農家で、祖母はおやつも全部手作りする人。そんな祖父母との経験からか、幼い頃から「料理人か看護師、それか医者。命に携わる仕事に憧れたんです」といいます。

やがて家族の希望もあり医療関係の高校に進んだ藤木シェフ。しかし学ぶうちに料理への思いが膨らみます。そんな折にTV 番組や本で目にしたフランス料理。「人の手でこんなキレイなモノが作れるんだ!」と感動した藤木シェフは、高校卒業後に上京し、レストランでアルバイトをしながら調理師専門学校へ通いました。「遊ぶ時間は 一切なかった」という時代です。やがて藤木シェフはアルバイト先を『ホテルオークラ』に移し、卒業後は同ホテルに就職。東京、福岡5年の修業を経て、24歳でフランスに渡ります。それも「気になった店にひたすら手紙を送り働きたい旨を伝える」という力技の渡仏です。
記録的大雪の初日、森の中の道を通った日々、友達との出会いと別れなど「毎日がドラマだった」というフランス修業時代。しかしそれは得難い経験でした。帰国後『銀座ロオジエ』などでさらなる修業を積み、2014年、28歳で再び渡仏。『Restaurant Sola』でスーシェフを務め、帰国後は『Umi』のシェフに就任します。

そこで大切にしたのは、ひたすら走り抜けてきた修業時代に、あるいは大きな愛に包まれていた幼少期に育んだ食への思い。「小さい店だからこその伝え方で、おもてなしをさせていただきたい」。気になる食材があれば、確かめに産地へ 向かう。高級な食材でなくても、生産者の心が通ったものなら積極的に取り入れ料理する。それが今も昔も変わらぬ藤木シェフの思いなのです。
だから新潟に降り立った藤木シェフの目は真剣そのものでした。取材の数日前に襲った大型台風で手塩にかけた果実が数多く落ちてしまったと聞けば、なおさら。

「食材に込められた心やストーリーを忘れてはいけない」と繰り返す藤木シェフ。

農産物直売所などにふと立ち寄っても、気づけば真剣に食材探し。それが藤木シェフの日常。

ル レクチエ丹精込めて『ル レクチエ』を育てる新潟の若き生産者。

出迎えてくれた『ヤマヨ果樹園』の小柳和輝氏は、スマートな若者でした。聞けばかつて東京で美容師として働き、10年前、23歳で新潟に戻り家業を継いだのだといいます。「10年経っても、1年サイクルのそれぞれの作業は10回経験しただけ。今でも勉強と試行錯誤の日々です」という小柳氏。同じ東京を経験し歳も近い藤木シェフは、その言葉に真剣に耳を傾けます。
「そもそも『ル レクチエ』が高級であるのは、栽培が難しく市場に出回ることが少ないから。明治36年にフランスから『ル レクチエ』が伝わった新潟でも、栽培農家はそう多くありません。『ル レクチエ』の難しさは、実ったままでは完熟しないため、収穫してから一定期間熟成させる追熟が必要なことにあります。無論、熟成をかけたままでは腐ってしまいますし、樹に成ったままにしていても実が落ちてしまいます。そして追熟が終わり実が黄色くなったら賞味期限は1週間しかありません。つまり果樹園にある『ル レクチエ』をほぼ同じタイミングで収穫し、全体のバランスを見ながら追熟をかけ、一定の期間内に出荷しなくてはならないのです。その期間とは例年11月25日頃に出荷開始、12月15日には終わる3週間。その3週間のために1年かけて育て、いっときも気を抜くことなく追熟をかけるのです。もちろん追熟だけでなく、1月の剪定から春の摘蕾と花粉付け、初夏の袋掛け、晩秋の収穫まで、気を抜く間はありません。45アールの敷地に4万個成る実を、ほぼ手作業で愛情込めて育てるのです。」

小柳氏の思考はロジカルで、『ル レクチエ』栽培に必要な作業を合理的に判断します。しかし話を聞くにつれ、論理だけでは説明できない精神論、つまり『ル レクチエ』への誇りが垣間見えてくるのです。次々と質問を投げかける藤木シェフにも、きっとそんな思いは伝わっていたのでしょう。

高齢化が進む生産者のなかにあって若手の小柳氏。他の生産者と意見を交換しながらさらなる進化を目指す。

杉板と土壁で温度、湿度を調整する熟成蔵。最盛期にはこの蔵の中が満杯になる。

温度管理の方法や出荷の見極めなど、追熟のこだわりを熱心に聞く藤木シェフ。

ル レクチエ生産者との話を通し、藤木シェフに浮かんだ数々のアイデア。

収穫後約40日間の追熟作業が必要なため、取材時に果樹園の現場で生の『ル レクチエ』を試食はできませんでした。しかし藤木シェフは「来てよかった」といいます。食材そのものだけではなく、そこに潜む物語や生産者の心を見つめる藤木シェフ。小柳氏と話をしたことで、その思いをしっかりと受け止めたのでしょう。

小柳氏が用意してくれた『ル レクチエ』のジュースとペーストを試食しました。「キレイな優しい味がします」それがジュースを試飲した藤木シェフの第一声。「加糖なしでこの甘味はすごい。温めてみたらどうだろう? 果実を焼いてみたら? スープにしたら? いろいろと浮かんできます!」そう話す藤木シェフ。
この後、追熟が完了した『ル レクチエ』を送っていただき、試食してから実際の料理試作に入る予定ですが、すでにシェフの頭には複数のアイデアが浮かんだよう。「フレッシュなル レクチエを使って、それが付け合せではなく主役になる何かを考えてみたい」藤木シェフはそう語りました。

食材とそこに潜むストーリーを大切に料理を仕立てる藤木シェフ。そんなシェフが仕立てる『ル レクチエ』メニューがどうなるのか、その正体は未だわかりません。しかしきっとそれは誇りと愛情を持って『ル レクチエ』を育てた小柳氏も喜ぶ、心の籠もった料理になることでしょう。2019年11月末日までは『Umi』にて、12月中旬までは『À L'AUBE』で提供される、まだ見ぬ『ル レクチェ』のデザート。詳細の続報を楽しみにお待ち下さい。

大きなもので700g/玉になる『ル レクチエ』形の良さも贈答品に重宝される理由。

果汁100%のジュースは500mlあたり5~6個の『ル レクチエ』を使用。果実そのままの味が楽しめる。

加工しないフレッシュフルーツを取り入れつつ、他の食材と一緒に食べてベストになる料理を考えたいという藤木シェフ。

住所:〒950-1404 新潟県新潟市南区大郷2460 MAP
電話:025-362-5583
ヤマヨ果樹園 HP:www.niigata-yamayo.net

1984年生まれ、福岡県柳川市出身。高校卒業後に料理専門学校に入学し、在学中から『ホテル オークラ』に勤務、卒業後は同ホテルに就職し、5年間研鑽を積む。24歳で渡仏し、ビストロや星付きレストランで修業、帰国後に銀座『ロオジエ』などを経て、2014年に再びフランスへ渡り、パリの『Retaurant Sola』でスーシェフを務める。2017年に帰国後、恵比寿『Umi』のシェフやカフェの監修などを務める。

ホスト中村孝則が2人の料理人を紐解く。覚りの料理と語りの料理[DINING OUT WAJIMA with LEXUS/石川県輪島市]

8回目のホスト役を務めたコラムニストの中村孝則氏。

ダイニングアウト輪島覚(さと)りの料理。

今回の『DINING OUT WAJIMA with LEXUS』のジョシュア・スキーンズさんの料理を一言で表現するならば、「覚(さと)りの料理」だと思う。禅では「悟り」のことを、本性に目覚めるという意味で「覚り」という言葉を使うけれど、私はジョシュアさんが料理に向き合う姿勢を見てると、「覚り」を求める修行者と重なる何かを感じるのであった。

誤解があるといけないのだが、だからと言って私は彼の料理そのものが禅寺で食される精進料理的なもの、と感じたわけではない。彼が料理を生み出す過程を通して、禅でいうところの、公案を解くように料理を生み出してるように感じたのである。あくまで、私の個人的な見解なのであるが。のちに知ったのだが、ジョシュアさんはかつて、アメリカの寺で一年間に渡り修行をしたことがあるそうだ。マーシャルアーツの修行ということだったが、おそらくそこで仏教的な知見や禅の思想を身につけたのだろう。

ジョシュアさんと共に、食材探しからロケハン、料理の現場に至る工程まで長くご一緒した中で、彼は過去『DINING OUT』に参加したシェフたちが行うのと同じように、現地の能登半島や輪島の食材や食文化を旺盛な好奇心で持ってリサーチするのだが、ただ珍しい食材をハンティングするだけではなくて、何か別の眼差し、その食材の奥にある本質の一点にフォースを絞り込むような、静かな感性を働かせているように思え、それがあたかも、禅の修行者に通じると感じたのである。彼が今回の『DINING OUT』で作った「ブロス オブ グリルドボーンズ」に合わせたお米の料理などはまさに、そういった心の働きから生まれたのだと思う。

和紙職人の工房を訪ねた時のことであった。その工房の横には田んぼが広がり、小さな清流が水をたたえ、和紙はその川の水を使って作られていたのだけれど、その川をジョシュアさんと覗いた時に、沢山の鮎が泳いでいて、それを見た彼は「このへんの米は、ネイティブの鮎が泳ぐ水で育っているのか!」と呟いたのである。彼はそこに、米の旨さ云々と別次元の価値があると直感したようだった。地元の人にとっては日常の光景だろうから普段は田んぼの水のことなど無自覚だろし、釣りバカの私に至っては、群泳する鮎に目を奪われ、「釣り竿はどこかにないか」と心が騒めく始末なのであったが‥‥‥。

会場となった、金蔵地区の棚田を巡った時のこと。ちょうど本番前に稲刈りが終わるタイミングだったが、彼がことさら喜んだのは、稲の藁束である。「この藁こそ、宝物」と、嬉々として喜んでいるのは、とても印象的だった。今回、彼が作ったお米の料理は、炊いた米をその藁で包んで、藁ごと燻す料理法を用いたのだが、地元の人も私たちも、藁束を見て郷愁は感じても興奮はしないだろうが、藁がないサンフランシスコから来た彼にとって、藁は宝の山に見えたのだ。藁を客の目の前で燻したのは、熾火料理を得意とする彼らしい技法だが、彼は米を燻すことだけが目的はなく、「美味しいごはん」という公案に対して、「藁束」とか「川の水」といった答えを見出したのではないだろうか。

「美味しいごはん」でもう一つ、エピソードを加えよう。彼と食材探しに輪島の朝市に出向いた時のこと。朝市には、鮮魚や干物など、新鮮な魚介類やユニークな乾物も多かったのだが、彼が最も興奮してたのは、お婆さんが小さな台に載せて売っていた「梅汁漬ミョウガ」であった。そのお婆さんは、おそらく80歳くらいだと思うのだが、数十年同じ漬物を自分で作り、ここで売り続けているとのこと。紫蘇で漬けた梅干しの汁を使って漬けたミョウガの漬物は、美しい赤紫色をしているのだが、ジョシュアさんはその色が、まるでルビーが溶けた液体のように感じたようである。「この色はなんだ!このお婆さんはすごいね」と。結果的に、このミョウガの漬物は、先のお米の料理の付け合わせになったのである。

魚が泳ぐ渓流の水や藁の束、お婆さんの漬物の色。地元では無自覚になったその眠っていた豊かさに目覚めることは、『DINING OUT』的な感性の延長ではあるけれど、ジョシュアさんはその「目覚め」その感覚そのものを、今回の料理で表現した、という点で非凡であり、私が彼の料理をして「覚りの料理」という理由なのである。

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素材を活かす為に考えついた「熾火」という火入れの手法で、ミシュラン三ツ星を獲得したジョシュア・スキーンズシェフ。

ジョシュアシェフも訪れた、能登仁行和紙の工房は里山の中にぽつんと建ち、周りの草木を使った和紙を作っている。手漉き和紙に必要な水も目の前の川から引き上げる。

会場中から歓声が上がった「ブロス オブ グリルドボーンズ」。一汁三菜の主役はブロス。輪島の七面鳥と焼いたイノシシの骨、数種の海藻で取るブロスは、山海の滋味を凝縮したもの。ごはんは海南鶏飯に着想を得て、イノシシの出汁で炊いて藁で香り付けしたもの。

輪島で見つけたTシャツ「NO RICE NO LIFE」。仕込みでは、ジョシュアシェフ自らが、日本の炊飯ジャーで米を炊く姿も。

ダイニングアウト輪島語りの料理。

その一方で、植木将仁シェフの料理は、「語りの料理」ではないだろうか。語りとは、物語のこと。彼の今回の料理には、どれも彼が紡ぐ物語が詰まっていて、ある意味で文学的な表現の料理ともいえそうだ。例えば、植木さんが作った「海を渡ったイノシシ」という料理を紐解こう。能登半島の能登島に棲むイノシシを使ったこの料理。半島から海を泳いで島に渡ったというイノシシの逞しさに着想を得た植木さんは、その不思議な生態を一つの物語として料理に着地させていた。海の影響を受けたミネラル豊富なイノシシの肉を寓意的な主役に見立て、その肉を板昆布で二日間コブ締めした後に真空料理にかけ、最後に金蔵の藁で藁焼きにする。付け合わせには、イノシシたちが実際に食しただろう島のむかごや栗、あるいは原木椎茸「能登115」が添えらた。

「森から川、そして海」の料理では、能登の水の流れをめぐる、豊穣な生態系を一つの物語にしていた。くるみの入ったエスカルゴバターは森の表現に、ビスクソースには川と汽水域と海を行き来する藻屑ガニや、能登の美しい海岸線の岩場に生息する亀の手までを、川の表現として使っていた。そして海に生息するノドグロには地元のワカメのジェノベーゼで仕上げらた。今回の植木さんの料理はすべて、一皿ごとにストーリー仕立てに構成され、それぞれの素材やその仕立て方、組み合わせから盛り付けまでに意味や物語が仕込まれ、味覚的にも視覚的にも能登を表現する一つの作品として緻密に構成させていた。そこには、植木さんが郷里に込める郷愁や郷土愛、季節の移ろいまでが語られているのである。ロマンティストである植木さんらしい、ファンタジーや童話的な装飾、あるいは茶目っ気が盛り込まれていることも、ゲストたちを愉しませた。

しかし、ストーリー仕立ての料理というのは、ややもすると陳腐化する怖さもあるが、植木さんの料理が多くの要素を一皿に盛り込にながら物語として破綻しないのは、素材ごとに料理技術を追求するなど、徹底したディテールの詰め方にあるのだと思う。結局のところ、物語のある料理の完成度とは、映画やその他の芸術作品と同じで、細部のチリの詰め方に担保されるのだ。今回の植木さんの料理では、それが見事に実証されていた。

そして、植木さんにとって今回の『DINING OUT』はもう一つの、見えない挑戦があったはずだ。それは、植木さんにとって輪島や能登は自分自身の故郷であるという点だ。素材や文化や自然を熟知している土地だからこそ、逆説的な難しさが立ちはだかっていた。というのも、通常『DINING OUT』で登用されるシェフというのは、その土地とは縁のないことが定石だからである。知らない土地の食材は食文化と出会い格闘し、もがきながら料理を作り上げるというドラマが味わいどころであり、ある意味『DINING OUT』の演出上の楽しみどころである。ところが植木さんにとって、ホームグラウンドである土地で、新しい物語を紡ぐことは、難しい挑戦だったと思う。しかも、『DINING OUT』史上初の2シェフ体制というのも、アウエーのジョシュアには負けたくないという、ある種のプレッシャーになったことだろう。しかし、ジョシュアと共に作り上げることで、植木さん自身も新たな視点が開き、一皮むけたのではないか。それは、今後の『DINING OUT』の展開に少なからず影響を残した、という点においても評価されるべきことだろう。

地元石川県出身の西麻布「AZUR et MASA UEKI」植木シェフは、普段から能登半島の食材を料理を通して発信している。

「海を渡ったイノシシ」は、肉質にミネラル感を感じる能登島のイノシシを金蔵の稲藁で香ばしい藁焼きに。同じ土地のむかごや栗のピュレ、高級原木椎茸「のと115」を添え、野趣あふれる里山の景色を皿の上に再現した。

「森から川、そして海」では、甘エビやササエ、ノドグロの卵を詰めた小松菜のファルシに、ガストロパックで昆布の旨みを浸透させたノドグロを重ねた一皿。ノドグロはくるみ入りのエスカルゴバターでグラチネに。植木シェフが見た海と川、山が連なる輪島の秋の風景がここに。

地元のプライドをかけて、料理と向き合った植木シェフには少なからずプレッシャーがあっただろう。と中村氏。

ダイニングアウト輪島輪島塗を構築的に紐解く面白さ。

今回の『DINING OUT』では、二人のシェフ体制という新たな試みのほか、「輪島塗の魅力を紐解く」という『DESIGNING OUT Vol.2』の挑戦があったことも特筆に値するだろう。しかも、その監修に建築家の隈研吾さんが抜擢されたことは、個人的にも興味深かった。そもそも輪島塗の最大の特徴は、高度に専門化した、職人の分業システムにある。その工程は、「生地」作りから始まり、「布着」や「下地塗り」、「中塗」や「上塗」さらには、「沈金」や「蒔絵」などを加えると、優に100を超える。その工程を経て完成されたものだけが輪島塗となり、途中段階をはしょったり、ましては途中段階のものは、輪島塗にはならないという厳密なルールがある。しかし、今回はあえてその途中段階のものを、完成品の器として料理に用いられたのだった。

今回は、私自身も輪島塗の工程を見学し、それぞれの職人の技術力に驚かされたが、特に感銘を受けたのが、どの工程においても、美意識が宿っていることだった。おそらく隈さんも、輪島塗の魅力が職人たちの技術だけでなく、美意識が構築的に積み重なって完成されていることを見抜いたに違いない。だからこそ、本来は途中段階のものを、構築的に分解して完成形として見立て得たのだ。もっとも、どの工程を切り取り、どのような形状にすべきかカギになるが、そこは超一流の建築家らしい見立てが冴えて、どの器もゲストだけでなく、輪島塗の職人たちをも唸らせるものであった。それらの器は、実際に料理を盛り付けると、また別の潜在的な魅力を発揮し、しかも全ての器を積み重ねると一つの造形物になるという、ストーリーも私たちを驚かせるのだった。輪島塗の今後の可能性に光を当てたという意味においても、価値ある挑戦だったと思う。

国指定の無形文化遺産にも登録される伝統工芸「輪島塗」に挑んだ、建築家・隈研吾氏。文化遺産に登録されている事もあり、厳密に工程が決まっており、その途中段階を「輪島塗」だと言ってしまう事に関しては様々なハードルがあった。

自身の目で職人達の技を見て、その構想を固めていった隈氏。完成形の輪島塗では無く、そのプロセスにいる職人達に光を当てたコンセプトを考え出した。

6枚のうち、下2枚はなんと、漆を塗らないという英断までした輪島塗史上初めての取り組みに。この器に乗った料理のコースが進んでいく過程と、輪島塗が出来上がる過程が見事にリンクした。

ダイニングアウト輪島複雑な要素が一つの輪島の物語として結実した。

ジョシュアさんの「覚りの料理」と植木さんの「語りの料理」。表現のアプローチは全く違えども、ともに能登や輪島という土地を深く表現し切ったのだと思う。今回、あえてテーマとして表には出ていないが、私たちはともに、輪島市にある総持寺祖院に訪れている。この寺は、明治時代にでは曹洞宗の大本山であり、今でも祖院として地元にとって大きな存在である。

私たちはその寺を訪れ、僧侶から直接、修行者の典座の作法を見せていただいた。典座とは、禅寺の料理を作る担当者のことであるが、禅にとっては料理を作ることだけでなく、食すことそのものが修行である。それは、直接的ではないけれど、精神的な部分で今回のジョシュアさんや植木さんの料理にも反映されているのだと思う。しかも、この祖院の構造物には、輪島塗が随所に施されていた。今回の『DINING OUT』では、この総持寺祖院に象徴される、輪島という土地が持つ精神性という部分でも結びついていたことを最後にお伝えして、締めくくろうと思う。

鎌倉時代の1321年(元亨元年)、曹洞宗の本山・總持寺が創建。明治時代の大火の後、本山は横浜市へ移されましたが、移転するまでの約600年間、全国15,000寺の本山として発展。現在も『大本山總持寺祖院』として存在し、往時の繁栄を伝えている。

修行者の典座の作法を見せて頂いた。ここで使われている器も勿論輪島塗。

『大本山總持寺祖院』では、「食す」=「生命を頂く」という考え方を改めて学び、その心が輪島全土に根付いていることもシェフ2人が感じたからこその料理だったと中村氏は語った。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、テレビにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を受勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称)の称号も受勲。2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。

http://www.dandy-nakamura.com/

あまりにも豊かな中越地方の恵みに、「新潟の食とは何か」を理解する。~マッキー牧元編~[Niigata Gastronomique Journey/新潟県]

新潟ガストロノミックジャーニーOVERVIEW

旨さの極北である大衆食から、食の深奥を感じさせるガストロノミーまで、古今東西を問わずに様々な料理を食らい尽くしてきたマッキー牧元氏。その味覚の幅広さこそ、4賢者に相応しいのではないでしょうか。南魚沼市、三条市を要する中越地方が誇る大地の豊かさを巡る旅は、かの高名な「里山十帖」から始まります。

南魚沼市は山、川、畑の恵みに溢れ、力強い食材が一堂に揃う場所。米どころである新潟県の中でも、最高峰の米を作る地として知られており、今回の旅でのマッキー牧元氏の米摂取量は相当なものに。たとえ満腹でも「ああ、やっぱり旨い」と思わせてしまうのは他では体験できません。三条市では、新潟のトップシェフが食材への愛が故に作り得る食の驚きに出合いました。マッキー牧元氏の手にかかれば、ガストロノミーという概念もまた複雑な姿に進化していきます。そんな、中越の宝と邂逅する旅にご一緒しました。

【関連記事】Niigata Gastronomique Journey/風土に根ざした独自の美食が花開く新潟へ。4名の食の賢者が各地を旅し、その全容を本気で斬る

(株)味の手帖 取締役編集顧問 タベアルキスト。立ち食いそばから割烹、フレンチからエスニック、スィーツから居酒屋まで、年間600回外食をし、料理評論、紀行、雑誌寄稿、ラジオ、テレビ出演。「味の手帖」「料理王国」「食楽」他、連載多数。鍋奉行協会会長。著書に「東京 食のお作法」文芸春秋刊、「出世酒場」集英社刊ほか。


(supported by 新潟県)

記憶を手繰り寄せながら頂を目指す。八丈富士の夕日を眺め、僕はもう一度、再訪を誓った。[東京”真”宝島・八丈島/東京都]

高画質(4K Ultra HD)の映像は、こちらからご覧ください。

東京"真"宝島

初めて訪れた時は、大学生・中野裕之。そして今、約40年ぶりに映像作家・中野裕之として八丈島へ向かう。

「大学生の頃、何の予定も決めずに空港へ向かい、良さそうな便に飛び乗って旅をしたことがありました。その行き先が八丈島だったんです。あれから約40年、今こうして八丈島を撮影できるなんて、ご縁を感じます」。

八丈島は、大きく5つのエリアに分かれている。大賀郷、三根、樫立、中之郷、末吉がそれだ。「登龍峠」は三根に位置しており、客船が着く底土港のある三根地区に位置している。
「“登龍峠”には展望台があり、ここから望む“八丈富士”と“八丈小島”が本当に綺麗で。夕日が双方の間にゆっくりと落ちていく景色をじっと見ながら、再訪を心の中で誓いました」。
下方から望むと龍が登ってくるように見えることから「登龍峠」と名付けられたここは、八丈島を代表する景色であり、新東京百景にも選ばれる名所。太平洋を朱色に染めてゆく時間は、沈みきるその瞬間まで美しい。

【関連記事】東京”真”宝島/映像作家・映画監督、中野裕之が撮る11島の11作品。それは未来に残したい日本の記録。

太平洋に浮かぶひょうたん型の八丈島。「八丈富士」と「八丈小島」の間に沈みゆく夕日は、この島を代表する絶景のひとつ。

東京"真"宝島羽田から約1時間で別世界へ。八丈ブルーの中、ウミガメとランデブー。

日本屈指の透明度を誇る八丈島の海は、「八丈ブルー」と形容されるほど、美しい。そこをウミガメが悠々と泳ぐ。

「八丈島は、“カメの島”。そう呼ばれるほど、ウミガメとの遭遇率が高いです。サンゴも美しく、ふわふわとしたソフトコーラルも気持ち良さそうに揺らいでいました。海水浴場も多いですし、ダイビングやシュノーケルなどのガイドサービスも充実しています。ここに訪れたら、ぜひ海のアクティビティを体験することをお勧めします!」。

場所にもよるが、例え海中でなくとも、堤防からや浅瀬など、運が良ければウミガメと出合えるのが八丈島。この島が育んできた自然は、生き物も島民のひとり、もとい一匹。皆が心地良く共存し、暮らしているのだ。

冬場でも水温が20度以上はあるという八丈島。90%以上の確率でウミガメを見ることができる世界でも稀な島。

「ナズマド」はダイバーにも人気のスポット。水中にはソフトコーラルを始め、様々なサンゴも生息する。

ダイビングやシュノーケリングで美しい魚の観察が楽しめるのも八丈島の海ならでは。写真は、ツバメウオ。

澄み切ったクリアな海は、まさに「八丈ブルー」と呼ぶにふさわしい高い透明度を誇る。

東京"真"宝島刻々と表情を変える「雲」に心惹かれた。島の記憶が何度も「雲」の余韻を甦らせる。

「雲が湧き出す山、色彩豊かな海。」
これは、今回の映像に起用されているタイトルである。後者は上記の「八丈ブルー」を指すも、前者は独特の視点だ。

「八丈島はとにかく雲の表情が豊かだと思いました。見上げる雲はもちろん、目下の雲から手の届きそうな雲など、どんどん島から雲が湧き出てくるようでした。特に印象的だったのは、“八丈富士”の火口。縁に溜まった雲の中にふわっと入り込むと、1m先も見えない。時折、雲が割れた隙間から見せる景色もせいぜい5秒ほど。雲の世界に包まれ、雲の匂いを感じ、無音の境地の中、音も立てないほどの優しい風が頬を撫で……。あの雲の匂いは忘れられません」。
その匂いとはどんな匂いなのか?

「うーん、何て言ったら伝わるかなぁ……。難しい……。ほんの少しだけ、うっすらと焦げたような感じというか……。どうだろう……。違うかなぁ……」。
記憶を手繰り寄せ、その匂いを言い当てる言葉を探そうとするも、なかなか難しいようだ。だが、中野監督の中だけには確かなその匂いが残っている。
「八丈富士」は標高854.3m。登り続ける先には大きな火口が広がり、その縁を囲むように草原の道が続く。まるで絶景を歩くようなそこは、別名「天空の道」と呼ぶ人も少なくない。
見上げればどこにでもある雲は、見る場所や見る視点によって、特別な存在へと変化するのだ。

11島の有人の島の中で最も高い「八丈富士」。火口付近には雲がたまる。

「登龍峠展望台」から見る「八丈富士」。青い空と白い雲、そのコントラストが美しい。

「八丈富士」の中腹に位置する「ふれあい牧場」では、牛を間近で見ることができる。

重厚感のある雲。夕焼けが当たることにより、立体感が一層際立つ。

まるで光の射す方へ飛び立つ鳥のような形の雲がドラマチックな空を描く。

夕焼けの風景。縦に伸びる雲、横に伸びる雲、薄い雲、厚い雲、歪な雲……。様々な形の雲が空を彩る。

東京"真"宝島温泉巡りに植物観察、登山に海に、絶景まで。観光資源が豊かな島、それが八丈島。

「末吉にある“みはらしの湯”は、その名の通り太平洋が見晴らせて、気持ち良いですよ! それ以外にも中之郷にある“裏見ヶ滝温泉”もぜひお勧めしたいです。とにかく八丈島は観光資源が豊富だと思います。海水浴場もたくさんありますし、“八丈富士”のお鉢巡りや“ふれあい牧場”でアイスクリーム(GW・夏休み期間のみ提供)、“三原山”の登山、展望台や灯台からの景色、“八丈植物園”や“ヘゴの森”の散策など、色々楽しめます。週末にさっと行けるし、東京から一番近いリゾートだと思います」。

深く鮮やかな緑のシダ植物などが、美しい世界を形成する。島内には水と緑が絶妙に共存している場所も多い。

標高約700m。10万年以上も前に誕生したと言われる「三原山」。川や滝が多く、見晴らしも良い。

その名の通り、滝を裏から見ることができる「裏見ヶ滝」。近くには混浴温泉(水着着用でタオル持参)も。

八丈島のトレッキングスポットとして代表的な「硫黄沼」。水の中に硫黄が溶け込み、天気によって様々な色合いに変化する。

東京"真"宝島グッと心を掴まれる映像のクライマックスは、圧巻のタイムラプス。

島の豊かな表情が演出された映像美はもちろんだが、後半部分のタイムラプスの連続には、圧倒される。
「タイムラプスは、大体15分撮って1秒の動画になります。太陽、月、星、雲……。八丈島は空の表情が豊かなので、その動きと躍動感を出すような編集をしました」。
今回の尺でいうと、1スポットで約8時間、定点撮影をしている計算になる。空から、陸から、海から。様々な目線で見る八丈島を、是非体験していただきたい。

空気が澄んでいるため、スターウォッチングも楽しめる八丈島。映像のタイムラプスでは、星の動きが楽しめる。

ゆっくりと動く雲も刻々と形を変える雲も、瞬時にそれらが変化する。そのスピード感のある演出は、タイムラプスならでは。


(supported by 東京宝島)

山懐に抱かれた奥日田のサーキット場で、一夜限りの非日常体験を。[AUTOPOLIS×Snow Peak Glamping/大分県日田市]

お酒を片手に焚き火を囲み、吸い込まれそうな星空を仰ぎ見るゲストたち。

オートポリス × スノーピーク グランビングオートポリスの新たな挑戦。ファン待望のキャンプフィールドが誕生!

腹の底まで響くような音と共に、視界の端から端へと一瞬で走り抜けていくスーパーバイク。10月の晴れ渡った空の下、この白熱のレースを間近で体感するため大勢のファンが会場へと詰めかけました。

ここ「オートポリス」は阿蘇の玄関口、奥日田の最奥に位置する山々に囲まれた広大なサーキット場です。九州唯一のインターナショナルレーシングコースで、3万人もの観客を動員するビッグレースからママチャリレースや四輪・二輪走行会などの参加型イベントまで、モータースポーツファンのみならず多くの地元の人々から愛されてきました。そんなオートポリスが今秋、新たなチャレンジに乗り出したのです。

そのチャンレンジとは、敷地内にキャンプフィールドを開設すること。サーキットが位置する奥日田エリアは宿泊施設に限りがあるため、連日観戦したいファンが泊まる場所を確保しづらいというのが悩みの種でした。そこで、場内でのキャンプ泊が可能になれば、観客は興奮冷めやらぬまま翌日のレースも楽しめるようになります。

【関連記事】AUTOPOLIS×SnowPeak Glamping/一瞬で消えゆくものだから…多角的なアプローチで“食の記憶”を心に刻む。

自然との一体感に浸れる、森に抱かれたサーキット。

この日行われていたのは2019 MFJ全日本ロードレース選手権シリーズ。轟音が響き渡るホームストレートは迫力満点。

今回より開設された場内キャンプフィールドに宿泊、ベストポジションを確保して特等席で寛ぐ家族連れの姿も。

オートポリス × スノーピーク グランビングスノーピークとのコラボレーションで実現、贅を尽くしたグランピング。

そしてキャンプフィールドのオープンに合わせて、ある特別なイベントが開催されることになったのです。それが、“サーキットでキャンプする非日常体験”をテーマにしたオートポリスグランピング。360°のパノラマでレースが楽しめるインフィールドに5棟のテントを設営し、10名のゲストを招待。“グラマラス×キャンピング”の言葉どおり、ひと晩限りという贅沢な環境で、ここでしか味わえない“空間と食”を提供するというイベントです。

今回オートポリスがタッグを組んだのは、奥日田にキャンプ場と実店舗を構えるアウトドアブランドのスノーピーク。ゲストたちの宿泊エリアからダイニングスペース、キッチンまですべての設営を手掛けました。まるでホテルの一室のように広々としたテント内には、タオルや歯ブラシ、モバイルバッテリーなどのアメニティが揃っているのはもちろんのこと、冷蔵庫代わりのクーラーボックスに石油ストーブまでも。10月とはいえ、夜の奥日田はダウンジャケットが必要なほどの寒さです。しかしストーブをつけてふかふかのベッドに潜り込めば、朝まで心地よく暖か。

さらに暖を取りたい時には、テント内に用意してある湯浴み着で“サーキットの中の露天風呂”へ。こちらはなんと“出張する温泉”で、天ヶ瀬温泉の湯をそのまま運んできています。普段は足湯としてオートポリスのイベントやスポーツ大会のゴール後などに登場するとのことですが、今回は全身で浸かれる特別仕様。体の芯から温まりながら辺りを見回せば、夜半のレースコースと山並みの壮大なコントラストが眼前に広がります。

当日は遠く有明海や雲仙までが視界に。雄大な自然の中にあるサーキットとキャンプフィールドならではの温泉体験となった。

レースプログラム終了後の夕暮れ時。この日の出来事を語らいながら静かな時間が流れていく。

宿泊用テント内。夜の高原には昼のアクティブさとは対照的な落ち着いた空間が用意されていた。

夜の帳が下り、暗くなっていくキャンプ場に明かりが灯る。

オートポリス × スノーピーク グランビング出張料理人が織りなす食の魔法。

ゲストが1泊2日の間で口にする夜朝昼の3食。そのすべてのプロデュースを手掛けたのが、料理家であり食空間演出家でもある大塚瞳さんです。出張料理人として全国各地へ赴き、数日限りの食空間を演出するイベントプロデュースを10年以上続けてきたとのこと。今回もこの日のためだけに考案したオリジナルメニューを振る舞ってくれました。夜はスペイン、朝は台湾、昼はインド料理と、キャンプ場で作ったとは思えないほどバリエーション豊かな美食の数々にゲストたちも舌鼓。「同じことは二度とできないからこそ、みんなの記憶に残るような料理を作って思い出を共有できたら嬉しい」と語る大塚さん。その想いが端々にまで行き渡った、まさに一期一会の体験でした。

夕食後は、水郷・日田の酒蔵を中心にセレクトした銘柄を揃えたバーエリアへ。ビールはもちろんのこと、日本酒、焼酎、スパークリングなどから好みのお酒を手に、揺らめく焚き火を囲むベンチへと向かう人も。冴え渡る夜空と満天の星、圧倒的な自然に囲まれ美酒に酔うひとときは、しばし現実を忘れさせてくれます。

チェックインからチェックアウトまで、心尽くしのもてなしで10名を非日常の世界へといざなったグランピング。サーキットの臨場感と奥日田の大自然を肌で感じることができ、その上ラグジュアリーな気分も味わえるかつてない体験は、ゲストの心に深く刻まれたことでしょう。

最初の食事であるディナーの仕込みを行う大塚瞳さん。設備が整ったキッチンスペースは、スノーピークが設営した。

全9皿のコースを堪能するゲストたち。一品一品に込めた想いや、どんな食材を使ったかを語る大塚さん。

鴨と栗のパエリア。料理が引き立つ器で、と有田焼のプレートを多数持参。

『酒蔵バル』と銘打ったバーエリアでグラスを傾けながら夜は更けていく。

井上酒造、老松酒造、薫長酒造の酒蔵をはじめ、いいちこ日田蒸溜所、地域に工場を構えるサッポロビールまで。すべては自然と水の恵み。

住所:大分県日田市上津江町上野田1112-8 MAP
電話:0973-55-1111
AUTOPOLIS HP:https://autopolis.jp/ap/

一瞬で消えゆくものだから…多角的なアプローチで“食の記憶”を心に刻む。[AUTOPOLIS×Snow Peak Glamping /大分県日田市]

大塚 瞳さんと、井上圭一氏(右)を始め、スノーピークのメンバーたち。会場には事前に皆で1日通して泊まり、当日ゲストが快適に過ごせる空間作りを目指し、綿密に打ち合わせを重ねた。

オートポリス × スノーピーク グランビング至上の食体験を実現するため、一瞬一瞬に情熱を注ぐ。

「一度限り、二度と同じことはしないというのが好きです。あの日、あの時、あの場所で、あの人と、って。振り返った時に立体的に思い出せるような要素を、料理そのものだけではなく、過ごした空間全体に散りばめられたらと。その記憶のなかに料理のことも出てきたら嬉しいですね。」

そう語るのは、料理家・食空間演出家である大塚 瞳さん。世界中を旅しては様々な食文化に触れ、大学時代から料理を学んできました。自身の店は持たず、出張料理人として気に入った土地で期間限定の食空間をプロデュースするスタイルを10年以上続けてきたと言います。
今回の舞台は、サーキット場のインフィールド。スノーピーク社のハイスペックな特設キッチンで、この日のためだけに考えたメニューを作り上げていきます。

大分県日田市にある「オートポリス」。熊本県との県境にあり、阿蘇の大自然に囲まれたこのサーキットで、アウトドアブランド・スノーピークとのコラボレーションにより1日限定のグランピングイベントが開催されました。招待されたゲストは10名、1泊2日の間で口にする夜・朝・昼の3食を大塚さんがすべてプロデュースしたのです。

【関連記事】AUTOPOLIS×SnowPeak Glamping/山懐に抱かれた奥日田のサーキット場で、一夜限りの非日常体験を。

グランピングサイトからは、迫力満点のレースが360°どちらを向いても楽しめる。

19時スタートのディナーのため、早くから仕込みを行う。一見するとアウトドアとは思えないほど充実した設備。

「料理はそれに見合う器に盛られてこそ」と、その両方を大切にしている大塚さん。

ディナーの幕開けを飾るのは、「李荘窯業所」に特注したサーキットの頭文字“C”をモチーフにした有田焼。

オートポリス × スノーピーク グランビング唯一無二の器で、料理そのものをより深く印象付ける。

「“山の上のサーキット”という記憶を引き立ててくれるアイテムが欲しい。その想いから、特別な器を用意しました。」
普段から窯元との付き合いが多い大塚さん。彼女が今回製作をお願いしたのが、現代の有田焼を代表する「李荘窯業所」の四代目、寺内信二さんでした。出来上がったのは、なんとサーキットをイメージしたという、アルファベットの“C”の形をした陶器。斬新なデザインに無駄のない流麗なフォルムで、表面に薄っすらとサーキットの傾斜がついています。大塚さん自らが実際にドライバーの横に座り、サーキットでの走行を体感して閃いたことをすぐに寺内さんに相談。そのイメージを、寺内さんが見事に具現化してくれたのです。

“El banquete cielo estrellado”、スペイン語で“星空の晩餐会”と題された夕食のコンセプトは、この器から生まれたのだと言います。一体どんな料理を合わせたら素敵だろう? そう考えた時に思い浮かんだのが、スノーピークの新商品である「雪峰苑 たこ焼きプレート」。たこ焼きだけでなく、これでアヒージョを作って、“C”のプレートに盛り付けたら素敵ではないか。ならばスペイン料理にしよう! せっかくならたこ焼きもスペイン風に仕立てて…と、そこからは連想ゲームの如く次々とアイデアが湧いてきたそう。

アウトドアだから、グランピングだからといった外枠からではなく、食材や器、調理器具からインスピレーションを広げていく。即席の調理場、しかも屋外という制約のなかでも、大塚さんがクリエイティビティを発揮して伸び伸びと料理できたのは、スノーピークによる盤石のサポートがあったからだと感謝を滲ませました。
「自分の家みたいなキッチンを作ってもらいました。作業台も、ピッタリ背丈に合ったものを瞬時に測って組み立ててくれて…思うように作れたのは皆さまのおかげです。」

クロスの配色からカトラリーまで、行き届いたテーブルセッティング。

大塚さんのアシスタントと共に、スノーピークのスタッフも一丸となって調理や配膳を担当。

スノーピークから今年新発売された「雪峰苑 たこ焼きプレート」。すっぽんの出汁のたこ焼きと、白茄子のカポナータとグリーンオリーブのたこ焼きの2種類を用意。自家製マヨネーズとともに。同調理器具を用いて、鮑と帆立、零余子(むかご)と大分の椎茸をアヒージョに。

ダッチオーブンを使って魚の出汁で炊き上げたパエリアに、炭火で焼き上げた秋刀魚をのせて。

オートポリス × スノーピーク グランビング全国を訪ね歩き、巡り合った食材のみを使用。

器はもちろん、大塚さんの食材に対する熱意は並大抵のものではありません。使うのはすべて、自分の足で訪ねた生産者の旬のもの。1食の料理には数多くの生産者が関わっているそうです。野菜から肉や魚、調味料まで、これまで全国各地を巡った数は数千軒に及ぶと言います。

食事の際、手元に置かれたカードにはメニュー名ではなく、「和牛」「鴨」「真菰筍」「栗」などの食材名が書かれていました。
「文字で見る品書きは、私自身なかなか覚えていられないもの。一期一会だし、今日何を食べたかということではなく、また来年この季節になった時に、旬の食材が何だったかを思い出せる方がいい。ご自身で、また違う料理になって楽しめるように。私も生産者のことを食材で記憶していて、時が来たら連絡をするから。」
ここにもゲストの“食の記憶”へのアプローチと、巡り合った生産者への想いが感じられました。

ディナーのメニュー。表にはスペイン語で“星空の晩餐会”を意味する“El banquete cielo estrellado”の文字。

サラダにトッピングしたのは、サントモール・ド・トゥーレーヌという山羊のチーズ。

淡路の玉葱をスライスし焼いたコカ。生ハムと唐津の黒無花果をトッピング。

真菰筍のフリットミスト、自然薯の素揚げ、ビーツのコンフィチュール添え。

旬の栗が芳しい、鴨と栗のパエリア。徳島の酢橘を絞っていただく。

魚出汁と、長野のまいたけで炊き上げたパエリアには炭火焼の秋刀魚。宮崎の平兵衛酢とともに。

締めには濃厚ながらもさっぱりとした後味の佐賀牛のテールスープ。

デザートはスパイスパウンドケーキ。岡山のシャインマスカットコンポートをあわせて。

オートポリス × スノーピーク グランビング饗宴から一夜明け。胃に染み渡る、爽やかな朝餉。

山海のアヒージョとスペイン風たこ焼きを皮切りに、デザートまで全9種の美食と美酒に酔いしれた晩餐会。一夜明けて、朝食の席に用意されていたカードには“一日之計在於晨”の文字が。日本語の意味は“新しい一日の始まりに”、そしてまさにその言葉どおり、滋味あふれる台湾式の朝食がゲストの目覚めとともに供されました。

“早餐”は中国語で“朝食”の意味。

鉄観音茶葉と中国のスパイスで漬けた茶卵。

丸鷄に胡麻油やきび砂糖を擦り込み、1時間じっくり焼き上げる。

茶卵、丸鷄、鶏皮ナムル。台湾ご飯のお供として、鶏づくしで。

オートポリス × スノーピーク グランビング夜・朝・昼の3食を10人で共にしたという、かけがえのない思い出。

「旅先の宿泊って大体夜と翌朝の2食でしょう? それが、一人の人の1日、夜にはじまり、翌朝、そして昼。その3回の食事を作るということは初めての経験で、今回の醍醐味の1つでした。」と語る大塚さん。お昼時、チェックアウト後のゲストに最後に振る舞ったのは、なんとインド料理。スペイン、台湾、インドと大胆に毛色を変え、“アウトドアの食事”という概念を軽々と飛び越えてみせました。

「どんなに綿密に準備して頭の中で描いても、本番はいつも想像以上に美しい。今日、偶然にも一緒になった人達が1つの食卓を囲む。幕があけた途端に終わってしまう一瞬の出来事。見たかったのはこの景色だったなと。寂しいですが、ゲストやスタッフを含め24人で共有した今日という日を、私はいつまでも覚えていると思います。」

瞳を輝かせながら語る彼女の表情は、しかし寂しさよりも充足感に満ち満ちていました。次はどこで何をやるのか? の問いには「さあ、言葉も通じないような国にでも行ってみましょうか。」と飄々とした答え。突如現れては幻のように消えゆく食空間を創り出した大塚さん。その姿はまるで砂上を征くキャラバンのよう。でも、“食の記憶”は、彼女の料理を食した人々のなかで永遠に生き続けていくのです。

ランチのメニュー裏にはカレーの具材名がずらりと並ぶ。

友人であるミュージシャン、小宮山雄飛さんが渋谷で手掛けるレモンライス専門店『Lemon Rice TOKYO』直伝のレシピで作ったレモンライス。

ヨーグルトをたっぷり加え、見た目よりマイルドな味付けの足赤海老と丸オクラのカレー(右)と、ジャガイモとカリフラワーのカレー。

『奥日田獣肉店』の草野貴弘さん。地元で捕った猪をグリルで炒め、スナック感覚で食べられるサイズに切り分けて手渡してくれた。

住所:大分県日田市上津江町上野田1112-8 MAP
電話:0973-55-1111
AUTOPOLIS HP:https://autopolis.jp/ap/

1981年福岡生まれ。出張料理人として、気に入った土地に数日限りの食空間を演出するイベントプロデュースを10数年間行い、器と食材をつなぐ役割を果たしている。またケータリングをはじめ、店舗、旅館、県特産品のメニュー開発プロデュースなども行う。
http://www.hitomi-otsuka.com/

伝統をもっと身近な存在に。しなやかな感性で津軽系こけしの明日を紡ぐ、親子2代の物語。[TSUGARU Le Bon Marche・阿保こけしや/青森県黒石市]

津軽系こけしを作り続ける父・阿保六知秀氏と子・正文氏。木材を成型する行程は同じ一室で横に並んで取り組む。

津軽ボンマルシェ・阿保こけしや津軽でずっと愛されてきた、こけしを今日も作る。

たった一片の木材がまるで魔法にかけられたように生気を帯びていく──。
『阿保こけしや』の工房で目の当たりにした流れるような一連の作業がそれです。刃の幅や刃の反り返る角度が異なる7本のノミを巧みに使い分け、あるときは真っ直ぐ、あるときは斜めから器用に押し当てて、一気に頭と身体を形作っていく。辺りには、木を削る摩擦音と、轆轤のモーターが低く唸る振動音だけが響き、緊張感が漲っています。最後はヤスリで白く、すべすべの肌に。成形が終わると、一気に空気が弛緩しました。

「人間は八頭身が美人だけど、こけしは四頭身。このバランスが良いんだ」
作業の最中からは一変、同じ人とは思えないほど、クシャクシャな笑顔と柔らかいオーラを放って阿保六知秀(むちひで)氏が笑いました。六知秀氏は半世紀以上のキャリアを誇る「青森県伝統工芸士」。黒石の温湯(ぬるゆ)温泉で明治の頃から愛されてきた、「津軽系伝統こけし」を作り続けています。傍らで同じオーラをまとって微笑む子息の正文氏もこけしを作る“工人(こうにん)”。父の工房に入ってすでに15年が経っています。
「色を付けるトコはお客さんに人気だな」と六知秀氏。今度は轆轤線を入れる作業を始めるよう。昨今、こけしは“こけ女”に象徴される通り、人気を博しており、この工房へ見学に訪れる観光客も増えたとのこと。そんな愛好家たちに好評な行程なのでしょう。真顔に戻り、塗料と絵筆を用意しました。

紫・黄・緑・赤・墨。この5つが伝統的に使われてきた色。轆轤を再始動して、ツーッと線を引いていきます。津軽系は「意図的に赤をメイン」にしてきた伝統があり、ほかにも、一本の木から作る、津軽藩の牡丹を映す、「ねぶた」や「だるま」に範をとった文様も描く、といった特徴があります。おかっぱ頭に、裾広がりの足元も津軽系の個性。
 「『飽きないの?』ってよく聞かれるけど、同じ行程を同じように繰り返しているわけじゃないんだ。いつも『色をちょっと変えたら、もっと自分のカラーが出せるかも』『形をちょっとだけ変えてみたら、どうだろう?』って考えながら作ってきた。日々の積み重ねの中で、少しずつ変えていくことで、『もっと売れるこけしが作れないか?』。そういうことをずっとやってきたんだよ」
常に上を目指してきた? そう六知秀氏に尋ねるとニコッと微笑んで、小さく頷きました。

【関連記事】TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!

六知秀氏が作る津軽系伝統こけしのスタイルは基本的にこの5体。「このレギュラー5体は変えずに作っていくつもりです。やっぱり、伝統ものが一番のお薦めだから……」。

「マッコ」と呼ぶ棒状の道具を支点にノミを当てる。六知秀氏の轆轤は素足で踏んで回転数を調整するオールドスタイルだ。「踏むペダルはクラッチだね、車で言えば」。

父と同じようにマッコを支点にしてノミを当てる。正文氏の轆轤は「ツマミで回転数を調整する」タイプ。左右にペダルがあり、どちらを踏むかで回転する方向も変えられる。

粗く削る「あらい」のほか、反り返りの幅が狭く細い「仕上げ」、その中間、木材をカットする「切り落とし」など、作業内容によってノミを器用に使い分ける。

筆を当てて、一気に轆轤線を描く。「伝統的にはどのこけしも、同じ色が使われるけど、何色を多くするか、配色はどうするかでそれぞれの工人の個性が出る」と六知秀氏。

津軽ボンマルシェ・阿保こけしや伝統を守る一方で、創作にも果敢に挑戦。

もっと売れるこけしを。試行錯誤を繰り返す中で、六知秀氏はこれまで多くの「創作こけし」にも挑戦してきました。例えば、「似顔絵こけし」。依頼されれば、その人そっくりの顔で作るというこけしですが、元々は十数年前、知人の警察官から同僚の退官祝いに贈りたい旨のリクエストを受けて始めたものでした。団体旅行でフラガールの踊りを見た友人の要望に応えたのが「踊るこけし」。

「『地震が来ても倒れないこけしってないよね?』と言われたこともあって、何か、悔しくて。だったら、フラガールを映して、ユラユラと揺れるこけしを作っちゃえって(笑)」
御年69ですが、発想は驚くほど若々しく、柔軟。こけしと同様、伝統を守って作る工芸品に「だるま」がありますが、ビビッドな青で六知秀氏の代名詞ともなっている「阿保ブルー」のだるまは「日韓ワールドカップの年に『何か記念になるものを作ったらどうか?』と地元のサッカーファンに言われ」始めたものでした。虎柄のだるまは「阪神タイガースが優勝した年の記念」。このアイデアは以降、毎年の干支を移す「干支だるま」としてシリーズ化されていきます。
「青森は東北楽天イーグルスだから、いつ発注が来ても大丈夫なように、もう臙脂色は配合してあるんだ。今のところ、注文はないけど(笑)」
ニコニコしながら見せてくれた瓶には、あのクリムゾンレッドがありました。
創作する心は、正文氏にもしっかりと受け継がれています。弘前『green』で限定販売された月替わりのこけしは氏の代表作。今、正文氏は父よりも積極的に創作に取り組んでいます。

「元々は東日本大震災の後で客足が滞ったとき、何か、人目を引く方法はないかと始めたのがきっかけでした」と正文氏。その際、創り出したのが、りんごのこけし。津軽の特産品をベレー帽と足元にあしらった作品で、こけしの新しい魅力が表現されていると話題になり、今ではパンダやメロンなど、いろいろなモチーフを取り込むことで独自の世界観を築いています。
もの静かだけれど、芯の強さを感じる正文氏に「跡を継ぐ決心はいつから?」と聞くと、すぐに「小さい頃から」と答えました。それを聞いて六知秀氏も嬉しそう。しかし、「継がないかもって感じた頃もあったよ。ヤバいかもって(笑)」。そう振り返りました。

「創作だるま」も六知秀氏の若々しいセンスから生まれた大切な作品。右がサッカー日本代表のサムライブルーを表現したカラーで、左が阪神タイガースに因んだ虎柄。

正文氏が初めて手掛けた創作「りんごのこけし」。牡丹の花や文様など、伝統を活かしつつもりんごをあしらうことで現代的な雰囲気に。優しい顔は正文氏の性格を映すよう。

「パンダ」と「メロン」も正文氏が手掛ける。黒石『津軽こけし館』に月替わりで展示されるシリーズで、かなり大胆に遊んでいて、愛らしい。

津軽ボンマルシェ・阿保こけしや以心伝心。並んで黙々と作業する父子の強い絆。

「『継げ』って命じて、始めたあとで『言われたから継いだんだ』とは絶対に、言わせたくなかった」と六知秀氏。伝統を継承する親子2代の物語は六知秀氏が津軽系こけしの普及に生涯を捧げた故・佐藤善二氏の内弟子となった昭和41年に遡ります。12年の修行を終え、六知秀氏が自宅に工房を開いたのは昭和53年のこと。それから5年ほど経って正文氏は生まれました。

「小さい頃から絵を描くことは好きでしたし、父の仕事ぶりもずっと間近で見てきました」
早くから意志を固めていた正文氏でしたが、高校卒業後、「急に『大学に行きたい』と言い出した」ことで、六知秀氏は気を揉み始めます。
「入ったのが弘前大学ですよ。専攻した学問の実力を発揮したくなって、卒業後は東京に行きたいと言い出したら、どうしようって。回りにも、『何年かで必ず帰ってくる』と東京に行って、結局、戻って来ない長男もいるからね」
けれど、継ぐことは強要したくない。そこで、六知秀氏が講じた手段が「工人募集」の貼紙でした。

「卒業のタイミングであえて求人広告を出しちゃった(笑)」
六知秀氏は本当にチャーミングな人なのです。工人として一目置かれる存在でありながら、偉ぶることは少しもなく、笑顔でこけしの魅力を語り、楽しませるため、ジョークも発する。正文氏もきっと、そんな父の姿勢に共感し、敬愛の念を抱いてきたのでしょう。継ぐことは自然な流れでした。「三つ子の魂百まで」。そんな諺を思い出します。
ふたりが並んで轆轤を回し、ノミで削る、この工房はいわば第二段階の作業スペース。仕上げの第三段階は、個々で別の作業スペースを構えており、木を切り出す第一段階は、この工房の裏手にある作業所で主に正文氏が行っていますが、「仕事はいつも一緒にしている」意識をふたりで共有しています。「性格はよく似ていますよ」と父が言えば、息子も「父が何を言おうとしているのかは雰囲気でわかります」と答える。阿吽の呼吸とはまさにこのことで、今は父子が揃って始めて『阿保こけしや』なのだと実感しました。

成型する工房の裏手にストックされた原料は「イタヤカエデが最も多く、山桜もある」と正文氏。乾燥に最低1年はかかるそうで、すでに3年分ぐらいが保管されていた。

原料の木材を切り出して、保管するために一棟を設けている。この状態からさらに加工して、こけしを象る一片にする。「出た端材は薪ストーブ用にご近所に配っています」。

正文氏とのこれまでを楽しそうに語る六知秀氏。笑顔もチャーミングな工人だ。

津軽ボンマルシェ・阿保こけしや伝統の担い手として、父子で明日を見据える。

こけし作りもいよいよ最終段階。普段は「集中したいからあまり人に見せない」六知秀氏の仕上げを特別に見せてもらうことになりました。正文氏が絵付けを行うスペースは奥様やお子様と暮らす近所の自宅に設けていますが、六知秀氏の現場はこの工房の2階に。畳敷きの一室に専用の座卓が置かれています。
「目は今も一番、緊張する」
そう言って、真剣な面持ちになります。卓上には20本ほどの絵筆がズラリ。右手でおもむろに一本を取り上げて、筆先に軽く墨をつけたら、呼吸を整えます。スーッと小さく息を吸い、フーッと吐いてから息を止め、指先に神経を集中。静寂。まず目の輪郭を上、下と描きます。左ができたら右へ。今度は眉毛。同じように左から右へ流れるように筆を走らせたら、鼻と口。六知秀氏の眼光がますます鋭くなりました。最後は瞳。こけしに生命が宿る瞬間です。生まれた──漏れる、安堵の吐息。見ているこちらも思わず拳を握り締めていました。

「気分が乗っているときは、バーッと10体ぐらい、目を入れることもあるよ」
一変して、柔らかい笑顔。しかし、その目の奥で、揺るぎない誇りに似た何かが光っていました。
最初に木片を加工してから一週間。効率を図るため、成型する日と絵付けする日を別にして、計2日というワンセットを繰り返し、今は週に約70体を作っています。かなりの量産体制。すると、六知秀氏が言いました。
「『もったいぶるな』というのが私の師匠の教えなんですよ。2体で高価でなく、10体で安くが基本。そのために『8時間フル回転で作れ』。そう言われてきました。少しでも安くできれば、いろいろな人にこけしが買ってもらえる」

それが六知秀氏の根本的な思想でした。安く作り、できる限り多くの人にこけしに触れる機会を設け、こけしに慣れ親しんでもらう。創作に挑むのも、たくさん売りたいと願うのも、津軽系伝統こけしの底辺を広げたいから。それは正文氏も同じ。創作こけしに積極的であるだけでなく、もう10年も、黒石市が事業主体の『津軽こけし館』に出向き、館内で披露される製作実演を週に3、4回は手伝っているのです。すべては津軽系こけしの伝統のために。
「息子は伝統と創作を半々ぐらいの割合でやっているんじゃないかな。私は、ずっと作る伝統のスタイルが5体あって、その次の6体目に創作こけしという位置付け。創作こけしは6体目も買ってもらいたい一心で始めたこと」
ただ伝統を守るだけでなく、ずっと続く津軽系こけしの未来も見据えて。父子の物語はこれからも続きます。

右手に筆、左手にこけしを持ち、これから描く顔をイメージしながら、じっと凝視する。

躊躇うことなく、一気に顔を仕上げていく。最後に瞳。こけしに活き活きとした表情が生まれる。

黒石・温湯温泉の中心街。こけしは東北山間部の温泉地を中心に伝わるが、どこも湯治客を相手にした土産物として愛されてきた。

住所:青森県黒石市大字花巻字花巻34-3 MAP
電話: 0172-54-8865
営業時間:8:00〜16:00
定休日:無休


(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)

『加温熟成解脱酒』に着想を得たペアリングメニューの開発に、福岡フレンチの雄・福山剛シェフが挑む。[加温熟成解脱酒・La Maison de la Nature Goh/福岡県福岡市]

『フォアグラ 洋梨 八角をきかせたソース』。付け合せはビーツと赤タマネギのサラダ、奥は特製の干鴨。

ラ メゾン ドゥ ラ ナチュール ゴウ枠に囚われぬフレンチシェフが、未知なる日本酒とのペアリングに挑む。

古酒の香りとフレッシュな味わいを併せ持つ奇跡の酒『加温熟成解脱酒』。秋田の酒蔵『秋田酒類製造株式会社』が開発したその新たな酒にインスピレーションを得て、3名のシェフがペアリングメニューを考案してくれました。料理ジャンルも、歩んできた道も、活躍する地方も、そして料理へのアプローチも異なる3名。しかし確固たる独自の道を確立する3名。そんな料理人たちが、この『加温熟成解脱酒』からどんな着想を得て、どんな料理を組み立てたのでしょうか?

今回の登場は、九州で唯一2019年度の『アジアのベストレストラン50』に選ばれた福岡市『La Maison de la Nature Goh』の福山 剛シェフ。フランス料理を軸に据えつつ、枠に囚われない発想で自在な料理を生み出す九州の雄。そんな福山シェフは、『加温熟成解脱酒』をどう捉え、どんな料理と組み合わせるのでしょうか? 料理の至るまでの道筋とその胸の内に迫ります。

【関連記事】加温熟成解脱酒/パリで話題! ベールを脱いだ『加温熟成解脱酒』という新たなる日本酒の挑戦。

味はもちろん、器や盛り付け、遊び心あるプレゼンテーションにも定評がある福山シェフ。料理の全貌はいかに。

ラ メゾン ドゥ ラ ナチュール ゴウ福山剛という料理人が、もっとも大切にすること。

福山シェフの料理をより多角的に理解するために、まずはその人となりを紐解いてみましょう。物心がついた頃から料理が好きで、小学生の頃の誕生日プレゼントに調理道具をねだるような子供だったという福山シェフ。高校在学中から福岡市のフランス料理店に勤め始めたのも、いわば当然の流れでした。初めて目にするプロのフランス料理のクリエーションに感激した福山シェフは、その世界に没頭。7年にわたりその店で腕を磨きます。

心境に変化が訪れたのは、中洲にあった馴染みのワインバーで働き始めたときでした。それまでは最先端のフランス料理、まだ世の中にない料理を作り上げることを目指していましたが、カウンター主体のワインバーでゲストの表情を見ながら料理をすることで、自分の理想とゲストのニーズのギャップに気づいたのだといいます。「それまでの“難しい料理を作る”という熱意は、いわば自己満足。シンプルで、お客さんが喜ぶ料理、それこそ自分が目指す道だと気づきました」

福山シェフ自身が「もっとも大事な経験」と振り返るこのワインバーでの気づきを経て、2002年に開いた『La Maison de la Nature Goh』。そこでは「お客さんが安心できる店、一度来た人が誰かを連れてきたくなる店」を目指しました。振る舞われる料理は、フレンチの技法をベースにしつつ、九州の食材や日本の調味料も取り入れた、気取らないもの。「自分が作りたいものよりも、お客さんが喜ぶもの」という福山シェフの言葉を証明するように、オープンから17年、すべてのゲストが食べたもの、飲んだもののリストがあり、それを元にコースを構成するのだといいます。

九州男児らしい豪快で、陽気で、温かい福山シェフ。その人柄から地元料理人からも慕われている。

「アジアのベストレストラン50」には2018年、2019年と2年連続で選出。九州勢唯一の快挙だ。

福山シェフが自身の店を開いたのは西中洲というややディープなエリア。「こんな場所に来てくれるお客さんですから、なおさら喜ばせたい」。

ラ メゾン ドゥ ラ ナチュール ゴウ

栄光を捨てて挑むさらなる挑戦も、ゲストの期待に応えるため。

少し遠回りですが、もう少しだけ福山シェフのことを紐解いてみましょう。開店17年を過ぎ、グルメの街・福岡でもトップクラスの人気を誇る『La Maison de la Nature Goh』は、2020年いっぱいで閉じられる予定です。それは福山シェフの、新たな挑戦のためです。

福山シェフには、互いに信頼し合う料理のパートナーがいます。その人物の名は、ガガン・アナンド氏。「アジアのベストレストラン50」で4年連続1位に輝いたバンコク『Gaggan』のシェフその人です。2015年にひょんな縁から出会った福山シェフとガガン氏。意気投合した二人はコラボレーションプロジェクト『GohGan』として年に3回ほどポップアップレストランを開催してきました。そしてそのコラボの集大成として、2021年夏頃を目処に『GohGan』を常設店として再スタートを切ることが決定しているのです。

九州でカリスマ的人気を誇る名シェフと、アジアのレジェンドシェフによるコラボ店の誕生。それは料理界を揺るがすビッグニュースでした。もちろん、来年50歳を迎える福山シェフにとっても大きな決断だったに違いありません。しかし福山シェフはこともなげにいいます。「みなさんが期待していることをしたいだけ。お客さんを喜ばせたいという気持ちは変わりません」どこで、誰と、何をしようとも、その福山シェフの根本だけは決して揺らぐことはないのです。

2002年に開いた店はカウンター中心の店。その後、店を拡張して現在に至る。

ワインバーでの経験から、ドリンクにも造詣が深い福山シェフ。ペアリングコースには日本酒や焼酎も取り入れる。

アジアの美食を牽引する二人の夢のコラボレーション。2021年の開店が待ち遠しい。

ラ メゾン ドゥ ラ ナチュール ゴウ表面的にはシンプル、口にすると奥深い。福山シェフの料理が酒を輝かせる理由。

「まず感じたのは、シェリーや紹興酒のニュアンス。日本酒というジャンルですが、シチュエーションを飛び越えて幅広い料理に合うと思いました」
『加温熟成解脱酒』を試飲した福山シェフは、まずそう感じたといいます。とりわけシェフの興味を引いたのは、紹興酒を思わせる角のない甘み。福山シェフはそのファーストインプレッションを信じ、中華のニュアンスを持つアプローチに決めました。さらに甘さを引き立てるためにフルーツを取り入れ、少しずつ料理は形になります。そもそも福山シェフのクリエーションは、食材や自身の経験を起点として生まれたイメージに肉付けしていく手法。料理書を参考にしないため、従来の枠は重要ではありません。大切なことは「食べた人が驚き、喜ぶ」というイメージだけ。

そうして『フォアグラ 洋梨 八角をきかせたソース』は完成しました。フォアグラと赤ワイン煮にした洋梨の甘みが『加温熟成解脱酒』に寄り添い、八角が醸すオリエンタルな香りが融合しかけた酒と料理を再び衝突させ、鰹節状にした干した鴨の日本料理的な旨みが再び酒と料理を歩み寄らせる。ただしその変化が時間差なくやってくるため、味は横幅ではなく縦に、つまり味の奥行きとして刻まれるのです。そして味の余韻が残る間に『加温熟成解脱酒』を口に含めば、フォアグラとソースの重厚感と酒の熟成感、フルーツの甘みと酒のフレッシュ感がそれぞれ合わさり、抜群の相性となるのです。

さらに福山シェフは、もうひとつの仕掛けを用意していました。それは料理ではなく『加温熟成解脱酒』側のアレンジです。シェフとソムリエが生み出したのは、『加温熟成解脱酒』をルイボス、ハイビスカス、ローズヒップなどをブレンドしたオリジナルハーブティーで割り、炭酸を少々加えたカクテル。解脱酒の持ち味である甘みと熟成感はそのままに、さらなる軽さと、華やかな香りを加えたのです。このカクテルもまた、料理と見事なペアリングを見せました。

福山シェフの経験と技、そして“おもてなしの心”が形となった『フォアグラ 洋梨 八角をきかせたソース』は、2019年冬のおまかせペアリングコースの1品として登場予定。これはフィナーレに向けてさらなる盛り上がりをみせる『La Maison de la Nature Goh』で重要な役割を担うことでしょう。ぜひその見事なマリアージュをご自身の舌で試してみてください。

「甘さはくどくなく、香りには余韻がある。素晴らしいお酒です」と『加温熟成解脱酒』を評した福山シェフ。

本来の魅力を削がず、持ち味を引き出したハーブティと『加温熟成解脱酒』のカクテル。

住所:〒810-0002  福岡県福岡市中央区西中洲2-26 MAP
電話:092-724-0955

1971年生まれ。福岡県出身。高校在学中、フレンチレストランの調理の研修を受け、料理人の道へ。1989年、フランス料理店『イル・ド・フランス』で研鑽を重ね、その後、1995年からワインレストラン『マーキュリーカフェ』でシェフを務めた。2002年10月、福岡市西中洲に『La Maison de la Nature Goh』を開店。2016年には、九州で初めて「アジアのベストレストラン50」に選出された。西部ガスクッキングクラブ講師などを務める。

『DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS』販売開始! [DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS/沖縄県うるま市]

ダイニングアウト琉球うるま

来る2020年1月18日(土)、19日(日)に「DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS」を沖縄県うるま市にて開催します。

爽快なエメラルドブルーの海を渡る「海中道路」など、国内屈指の絶景を擁するうるま市。

ダイニングアウト琉球うるま琉球王朝時代よりこの地に根付く「肝高(きむたか)」の精神性を紐解く。

今回のDINING OUTの舞台は、沖縄本島の中部に位置し、歴史ロマンと豊かな自然があふれる、沖縄県うるま市。雄大な歴史と文化を感じる、沖縄最古の城である世界遺産「勝連城跡」や、4つの島々を繋ぎ、東洋一の長さを誇る「海中道路」から臨む果てしなく澄んだ蒼い海など、沖縄らしい景色が広がる場所です。

琉球王朝時代、勝連城があった勝連周辺は、貿易船が各国から着港しやすいという地の利を生かし、海外交易によって、多くの富と繁栄がもたらされました。特に、10代目城主「阿麻和利」の時代に、中国をはじめ、東南アジア・当時の日本との活発な交易によって最盛期を迎えたと言われています。沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」には、海外との交易によって育まれた高尚な生活文化が称えられ、「気高さ・心豊かさ」を意味する「肝高(きむたか)」が勝連の美称になっているほどです。

なぜ、勝連は小国でありながらも、海外交易によって発展することができたのか。それは、常に異国と向き合う環境下にあった彼らだからこそ、異国の文化に寄り添い、受け入れ、時に自国の文化に取り込んで、自らを進化させることに長けていたからではないでしょうか。そうした外交の姿勢が、異国と対峙するのでも、服従するのでもなく、対等に互いを認め合う関係を築き、発展につながったのでしょう。今回のDINING OUTを通して、この土地で育まれ、今この地に生きる人にも受け継がれている、気高さの精神「肝高」を感じていただければと思います。

「果報(かふう)バンタ」のバンタは沖縄の方言で「崖」という意味を持つ。その名の通り標高約120mの崖の上からはとてもきれいなエメラルドグリーンの海を見ることができる。

ダイニングアウト琉球うるま全世界が注目するポップアップユニットが、満を持して「DINING OUT」に登場。

そんな壮大な舞台で料理を担当するのは、世界的なシェフ二人で構成されるポップアップユニット「GohGan」。

2010年に開いた「Gaggan」で、エグゼクティブシェフを務め、世界から注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurants」では4位を獲得したガガン・アナンド氏。そして、九州で唯一「Asia's 50 Best Restaurants」にランクインした「La Maison de la Nature Goh」の福山 剛氏。この世界の注目を集める両トップシェフによるポップアップユニット「GohGan」は、これまで日本やアジアで計11回に渡り、その土地の食材や調理法を反映させた料理を提供してきましたが、今回の「DINING OUT」を最後に、その歴史にピリオドを打ち、2021年、改めて、福岡にレストラン「GohGan」として蘇ります。

ディナーホストは、「The World's 50 Best Restaurants」の日本評議委員長を務め、過去8回のDINING OUTに出演し、食やカルチャーなどをテーマに活躍するコラムニスト、中村孝則氏。

世界で活躍するポップアップユニット「GohGan」が、琉球を舞台に繰り広げる最後のパフォーマンスに、ご期待ください。

福山シェフとガガンシェフで構成される、世界から注目を集めているポップアップユニット「GohGan」。

 ディナーホストは『DINING OUT』ではおなじみ、コラムニストの中村孝則氏。

今回もLEXUSがゲストの送迎に登場する。

【DINING OUT RYUKYU-URUMA with LEXUS 詳細】
開催日程 : 2019年1月18日(土)、19日(日) 
※1/18(土)は、全コンテンツ英語対応の、海外ゲスト向け開催日です。
※1/19(日)は、全コンテンツ日本語対応の、国内ゲスト向け開催日です。
募集人数 : 各日程40名、計80名限定
開催地  : 沖縄県うるま市
出演 : 料理人 GohGan 福山 剛 (La Maison de la Nature Goh) × ガガン・アナンド
   ホスト 中村孝則 (コラムニスト)
オフィシャルパートナー : LEXUS (http://lexus.jp)
後援:沖縄県(平成31年度 沖縄観光コンテンツ支援事業)
協力:うるま市、ハレクラニ沖縄

国定公園として半世紀以上にわたり守られてきた沖縄・恩納村の美しい海岸線で、ラグジュアリーの新時代を切り拓くホテル「ハレクラニ沖縄」がゲストの宿として全面サポート。

1971年生まれ。福岡県出身。高校在学中、フレンチレストランの調理の研修を受け、料理人の道へ。1989年、フランス料理店『イル・ド・フランス』で研鑽を重ね、その後、1995年からワインレストラン『マーキュリーカフェ』でシェフを務めた。2002年10月、福岡市西中洲に『La Maison de la Nature Goh』を開店。2016年には、九州で初めて「Asia's 50 Best Restaurants 」に選出され、2019年には24位にランクインを果たす。

インド コルカタ出身。2007年にバンコクへ移住し、その後レストランの料理長を務める一方、エルブジで研修を積む。2010年に開いたレストラン「Gaggan」では、エグゼクティブシェフを務め、Progressive Indian Cuisine(進歩的インド料理)を打ち出す。世界的注目が集まる「Asia's 50 Best Restaurants」において4年連続1位に輝き、2019年の「The World's 50 Best Restaurant」では4位を獲得。同年8月新たなチャレンジに向けてお店をクローズし11月に再始動をする。

神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を授勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士の称号も授勲。(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称))2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。
http://www.dandy-nakamura.com/