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「秋の訪れを告げる秋季例祭」。[長野県の秋まつり/長野県]
長野県の秋まつり数百年の歴史を紡ぐ奉納煙火。
まだまだ残暑厳しい近年の9月ではありますが、この頃になると長野県内のあちらこちらでは秋祭りが行われます。旅の途中に号砲雷(昼間に上がるお知らせの花火)が聞こえたら夜には花火が観られるかも知れません。小さな神社で行われることが多いので、もし行ってみたいと思われたら地元の方に声をかけてみてください。そして、お祭りの状況を聞き、飛び入りでも観覧が出来るか確かめてから足を運んでいただきたいと思います。神社の境内いっぱいに花火が仕掛けられていることもあります。火祭りと言っても過言ではないと感じるお祭りも多数あります。中には地元の氏子さんのみが参加出来るお祭りもありますので、その場合はご配慮いただけますと幸いです。何百年もの歴史を紡いできた地元の方々にとってはかけがえのない大切なお祭りです。神様に捧げる奉納煙火です。これから先も末永く歴史を刻んでいけるよう各お祭りのルールを守ってご観覧いただけたらと思います。お祭りは時に深夜にまで及ぶこともあります。
長野県の秋まつり口伝を受け継ぐ伝承花火。
県内各地の秋季例祭は、神楽のお囃子や獅子舞、巫女舞、細工も見事な神輿など見どころも満載です。神社によって内容は様々ですが、どこも大切に守り継がれたお祭りということに変わりはありません。煙火業者さんの監督の下、住民の方々の手で行われる伝承花火も多く存在しています。昔から口伝で受け継がれてきた手づくり花火の製造が今もなお残っています。花火の原点とも言える伝承花火がそこにはあります。神社内での杜花火には大三国、車火、手筒、吹筒、立火、仕掛け、綱火、銀滝、清滝など、日本の花火の歴史を継承していく上でも貴重で重要な花火ばかりです。決して色鮮やかで華やかな近代的な花火ではないかも知れませんが、その雅な美しさは心にいつまでも残るものです。
長野県の秋まつり秋の夜長に遠花火。
秋季例祭での撮影は三脚も一脚もご使用になれないことが殆どです。狭い境内では危険が伴うからです。私自身は出来る限り小さなカメラを用意し手持ちで撮影するようにしています。もしくは少し離れた安全な場所での撮影を心掛けています。また、撮影場所が特定される様な地名の入った写真などの公表はしないよう気を付けています。多くの方に伝統花火を知っていただきたいと思う反面、地元に根付いた素晴らしい歴史をいつまでも守り続けていただきたい思いがあります。
秋季例祭では伝統的な花火とともに打ち上げ花火が行われることもあります。例え神社に辿り着けなくとも音の聞こえる方角の空を見上げれば優美な花火に出会えるかも知れません。秋の夜長に美しく夜空を染める大輪の華をゆっくりと愛でるのも風情があって良いのではないでしょうか。
※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。
1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751
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かつてない和紙アイテムで伝統に革新を。[FIVE/富山県南砺市]
ファイブ深山の合掌造りの里から伝統産業に新風を吹き込む。
鮮やかな蛍光色に染められた、メモ帳やブックカバーなどの使いやすいアイテム。「古くさい」「色が地味」「使いづらいアイテムが多い」といった和紙プロダクトのイメージを払拭するブランドです。
この『FIVE』を生み出したのは、富山県と岐阜県の県境にある“一般財団法人 五箇山和紙の里”。豊かな水と緑に恵まれた深山の里で育まれた手漉き和紙の技を、今の暮らしに馴染むアイテムとして展開しています。
『FIVE』をプロデュースした石本泉(いしもと・せん)氏は、富山県の出身でもなければ和紙職人でもありませんでした。一体どんな経緯で五箇山の地に根をおろして、伝統産業の再興に取り組むことになったのでしょうか?(後編はコチラ)
ファイブ数奇な運命で“理想の地”に移住。
約10年前。武蔵野美術大学の学生だった石本氏は、大学の合宿施設がある五箇山をふとした縁で訪れることになりました。「大学の木工科で家具を製作していたのですが、その自由課題で『家具以外のものも作ってみよう』と思い立ったんです。そして手漉き和紙を木から作る工程に着目したところ、教授から『越中和紙に数えられる五箇山和紙の発祥地に、大学の合宿施設(五箇山無名舎)があるから行ってみたらどうか?』と勧められ、五箇山を訪れることになったんです」とのこと。
夏休みのレジャー感覚で訪れた石本氏は、初めて見た五箇山の風景にはからずも圧倒されたそうです。
「深い山と谷が延々と連なる、雄大な風景。かつて旅したチベットを思わせる景観に、『日本にもこんな場所があったのか!』と感動しました。和紙を原料の楮(こうぞ)から作るという工程も、全国的に珍しいものでした。そして『ここに住んでみたい!』と強く思うようになり、ご縁を得て“五箇山和紙の里”に就職することになったんです」と振り返ります。
ファイブ好機を生かして“攻め”の姿勢でチャレンジ。
こうして五箇山に移住して、豊かな自然と理想の風景の中で暮らし始めた石本氏。そんな彼のもとに、ある依頼が舞い込んできました。
「2012年に五箇山がある南砺市から、『地場産業を生かした新商品を開発してください』と依頼されたんです。ですが、そうした補助金事業は成功事例が少ないことを聞いていましたし、ありがちなものを作って終わり、という結果にもしたくありませんでした」。せっかくの機会なのに、後に何も残せなかったらもったいない――そう思った石本氏は、同じ武蔵野美術大学の出身で友人でもあったデザインユニット『minna』に相談を持ちかけたのです。
長谷川哲士氏と角田真祐子氏が主催する『minna』は、伊勢丹・三越・FELLISIMOなどのプロジェクトで名をはせていました。さらに地域おこし関連のプロダクトやイベントまで手がけており、「みんなのために・みんなのことを・みんなでやっていきたい」をモットーにしていました。和紙にまつわるデザインの経験もあった『minna』は、石本氏の依頼を「面白いね」と快諾。そして五箇山までわざわざ足を運び、五箇山の風景や和紙づくりの様子を視察した上で、約1年もの時間をかけて構想を練ってくれました。
「せっかく取り組むのだから、五箇山の和紙を後世にまで残していけるブランドにしたい」――石本氏のそんな想いに応えて、『minna』の二人は検討を続けたのです。
ファイブ高い伝統技術はそのままに、時代に即したプロダクトに転換。
ブランド立ち上げの期日は、2013年冬の東京での発表会。それまでに、もともとあった和紙商品の経験を生かしながらも、全く別の新商品を生み出さなくてはなりませんでした。
その軸となるコンセプトが定まるまでには、石本氏も『minna』も非常に悩んだそうです。ですが、既存の和紙製品や和紙産業全体の課題を考慮した結果、「現代のセンスに即したオシャレなプロダクト」「伝統産業に興味のない若者にも魅力的なもの」「普段使いできるアイテム」といった方向性が定まったのです。
「『とにかく今までにない新しいものを!』と考えた末に、自然に囲まれた五箇山の風景の中にキラリと光る色――蛍光色をイメージすることにしました」と石本氏。「そのアイデアは『minna』が提供してくれましたが、『和紙と言えばナチュラル』『和紙アイテムの色と言えば渋い伝統色や中間色』といったイメージから抜け出して、『FIVE』ならではの個性を追求することにしたんです」と振り返ります。
ですが、実際に和紙を蛍光色で染めてみた先例はほとんどなく、実際に作ったという人もまた見当たりませんでした。そこで石本氏は、まずは手探りで試作を始めました。
ファイブ和紙×蛍光色の実現はいかに?
「最初はどうやって蛍光色に染めればいいのかすらわからずに、いろいろ試行錯誤してみたものの、全くうまくいきませんでした。蛍光色の特徴である鮮やかさが出ずに苦心していたところ、ふと『シルクスクリーンでやってみたらどうだろう』というアイデアが浮かんだんです。それを五箇山和紙の伝統である「手揉み」という製法に載せてみたところ、見事に美しい蛍光色に染まってくれました」と石本氏は語ります。
道が開ければ、あとはトントン拍子でした。『五箇山和紙の里』がもともと作っていたアイテムの中から、普段使いに適したものや、若者が手に取りやすいものを厳選。カードケース・ブックカバー・メモロール・封筒(ポチ袋・金封)の5種類の商品が、2013年冬の発表会までに完成しました。
「和紙の産地は全国各地にありますが、五箇山和紙ならではの特長は“強くしなやかなこと”です。標高が高くて寒暖の差が激しいため、原料の楮(こうぞ)の繊維が強く育つんです。それを昔ながらの製法で漉いて、対照的に斬新な蛍光色をのせました。さらに『揉み紙』という製法で強靭にしています。和紙の固定観念を打ち破る、型にはまらない、それでいて、和紙の伝統と可能性を生かした製品になったと自負しています」と石本氏。
長い歴史と高度な技術を誇る伝統工芸でありながら、地元の人々の認知度や、若い世代への訴求力が不足していた五箇山和紙。それを全く新しいプロダクトとして生まれ変わらせて、『FIVE』は完成したのです。
「特に若い世代に『古くさい』と敬遠されていため、若者を第一のターゲットに据えました」と石本氏。次回の後編では、こうして完成した『FIVE』の反響と、その後の展開をお伝えします。(後編はコチラ)
住所:富山県南砺市東中江215 MAP
電話:0763-66-2223
営業時間:9:00〜17:00
休日:年末年始
写真提供:一般財団法人 五箇山和紙の里
http://www.five-gokayama.jp/
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自然のエナジーを改めて感じさせた土砂降りのなかの晩餐。降りしきる雨が教えてくれた『DINING OUT』の原点。[DINING OUT TOTTORI-YAZU with LEXUS/鳥取県八頭町]
ダイニングアウト鳥取八頭『DINING OUT』を知る3人による万全の体制。
2018年9月8日、9日に鳥取県八頭町で『DINING OUT TOTTORI - YAZU with LEXUS』が開催されました。豊かな自然に囲まれ、大地の力強さを感じる古からのパワースポット、八頭町。担当したのは昨年の『DINING OUT NISEKO with LEXUS』を大成功に導いた徳吉洋二シェフです。さらにホストには6回目の登場となる東洋文化研究家のアレックス・カー氏、サービス統括に2016年『DINING OUT ONOMICHI with LEXUS』に参加した大橋直誉氏を迎えました。いずれも『DINING OUT』を知る3人による万全の体制でした。
地元・鳥取県出身の徳吉洋二シェフを迎えた“凱旋DINING OUT”であったこと、同一シェフによる二度目の担当など、14回目の『DINING OUT』にして、新たな挑戦が詰まった今回。しかし蓋を開けてみると、“史上初”はそれだけに留まりませんでした。
降りしきる雨の中でのディナー、そして直前の会場変更。数々のハプニングを乗り越え、どんな結末を迎え、ゲストと地元に何を伝えたのか? その全貌をお伝えします!
ダイニングアウト鳥取八頭ゲストを出迎えたのは、大地のパワーを凝縮した奇跡のような葡萄の木。
前日から降り続けたこの日も雨は弱まる気配がなく、むしろ夕方には雨脚が強まってきました。そんな雨に濡れながら、ゲストを乗せたLEXUSがレセプション会場である『オズガーデン』に続々と到着しました。出迎えたホストのアレックス・カー氏が、ゲストを屋内庭園に誘います。
この庭園に今回のダイニングアウトのテーマ「Energy Flow –古からの記憶を辿る-」を象徴する光景が広がります。頭上一面にたわわに実る500房以上の葡萄は、たった一本の木に実ったもの。大地の力を凝縮したような眺めに、ゲストはしばし見とれていました。
レセプション会場を後にして、ゲストが向かった先は和同2年(709年)開山と伝わる古刹・清徳寺。この寺の境内が、今回のディナーの会場でした。後醍醐天皇のお手植えと伝わる銀杏、重厚な存在感を放つ菩提樹など、巨樹銘木が雨に濡れて輝いています。頭上には雨よけのテントが張られ、足元はぬかるんでいますが、それさえも忘れるほどここは自然のパワーに満ちた場所なのです。
アペリティフは、鳥取県が国内1、2の漁獲量を誇るハタハタを皮切りにスタート。揚げたハタハタにらっきょう入りのサルサベルデを合わせる事でヱビスマイスターの研ぎ澄まされたコクと相性抜群のスナックで食欲を掻き立てた。さあ、いよいよディナーの幕開けです。
ダイニングアウト鳥取八頭幼い頃の記憶を、現在の技に乗せて料理で表現。
一品目の料理がサーブされると、会場には少し訝しげなざわめきが広がりました。テーブルの上には宅配ピザのような箱。料理名もそのまま「Pizza delivery」。しかし蓋を開くと、それは歓声に変わります。現れたのは八頭のブランド米「神兎」の米粉生地の上に紅ズワイガニやトマトソース、さらに色とりどりの花があしらわれた小ぶりな“ピザ”。いかにも徳吉シェフらしい遊び心と、同じくシェフらしいアーティスティックな盛り付け。
「子供の頃、デリバリーピザってワクワクしましたよね。あのボックスを開けるときの高揚感を思い出しながら、古の記憶を辿る旅をスタートして欲しい」そんな思いが詰まった一品でした。
続いての料理「水と魚」は八頭産の茄子に鳥取の高級魚アコウを合わせて刺身仕立てに。続く「ホワイトモノトーン」では、八頭に残る白兎伝説をヒントに白イカやイタリア産ラルド(豚の脂)で真っ白な一皿を演出しました。合わせるのはシェフが修業時代に慣れ親しんだイタリア風パンのティジェッレ。会場となった八頭の地域性と、シェフ自身の記憶が混じり合う、この日、この場所でしか楽しめない料理が卓を賑わせます。
次の料理はサラダ。徳吉シェフが仕立てるコースには、いつもサラダが登場します。それは「舌をリフレッシュしてもらう」という狙いからですが、今回のサラダの役割はそれだけではありません。「高木農園」の葉野菜や「井尻農園」のトマトといった20種ほどの八頭の野菜は、それぞれが自然の恵みを湛えた濃厚な味わい。そして全体をまとめるソースは、二十世紀梨の酢。「エナジー」と名付けられたこの料理は、大地のエネルギー、生命力をそのまま感じられるような力強いおいしさで、「Energy Flow」のテーマを伝えてくれたのです。
ダイニングアウト鳥取八頭地元食材に焦点を当てたシンプルな料理の数々。
依然、雨は降り続けています。ですが相変わらず、この雨にネガティブなイメージはありません。アレックス氏は言います。「今回の“Energy Flow”というテーマを、改めて説明する必要はありませんね。まさに皆さんはいま、その“エナジー”に包まれているのですから」降り続ける雨に囲まれたレストランは、どこか不思議な一体感に包まれながら続きます。
新鮮な牛乳からその場で作ったリコッタチーズと雲丹を合わせた「さっき作ったリコッタと雲丹」は、濃厚でコク深い味わいが印象的でした。肉質日本一の評価を受けている鳥取和牛を使った「骨と肉」は骨を手で持って齧り付く仕掛け。シェフの故郷の味・牛骨ラーメンをイタリア料理の手法で再現した「しじみと牛」、生命力の象徴である米と卵を使い「究極の卵かけご飯」といえる料理にした「Mantecando il risotto…」、そしてシェフにとってのソウルフードであるホルモンソバに着想を得た「タラ ヒラメ ホルモン」。徳吉シェフといえば思い起こされるアートな仕掛けやハッと目を引くビジュアルは抑えられ、逆に素材の滋味深さや力強さにフォーカスされた料理が続きます。
聞けば「馴染み深い地元の食材だからこそ、テーマの枠を考えすぎず、シンプルに表現できたのだと思います」と徳吉シェフ。八頭の名産品や鳥取の郷土料理が、世界の食通たちを虜にした徳吉シェフのフィルターを通して再構築される。そしてその根底には、郷土愛や幼少時の温かい記憶が宿る。シェフ自身の出身地で行う“凱旋DINING OUT”の本質は、こうして少しずつ表れてきました。
続いての料理は「鹿と鮎」。先程の「タラ ヒラメ ホルモン」と同様、この食材名だけを並べる料理名も、徳吉シェフの新たな一面。パワースポットである八頭の「大地の象徴・鹿」と「水の象徴・鮎」。それぞれのエネルギーを感じさせる一皿を考案したときに、これ以上の仕掛けは余計だと考えたのです。
しかし、シンプルなだけに難しさもありました。「鳥取の食材は本当に素晴らしいものばかり。そしてイタリアよりもずっと繊細ですね。だから塩加減には細心の注意を払いました」と、1日40人分の料理すべて、最後の塩はシェフ自らが振りました。繊細な食材を活かす、細やかな技。これが、ゲストの心に刻まれたおいしさの一因だったのです。
ダイニングアウト鳥取八頭圧倒的な自然の力が思い出させた、『DINING OUT』の原点。
デザートの一品目は「梨狩り」。豊穣のシンボルである二十世紀梨をくり抜いた器に、梨のゼリーとルバーブのマリネ、バジリコのグラニテを合わせた爽やかな一皿でした。そしてコースの〆に登場した「Milano collection」は、レセプションで訪れた「オズガーデン」の葡萄と花粉のジェラート、カカオのビスケットを合わせたプレート。皿に描かれた人体にアルケルメスで作ったシートのドレスをまとわせた、徳吉シェフらしいアーティスティックな一皿でした。
コースの終了後、シェフが登場すると、会場は雨音を打ち消すほどの歓声と拍手に包まれました。ゲストの顔には一様に、笑顔が浮かんでいます。考えてもみてください。野外で食事を楽しむ『DINING OUT』にとって、雨は決して恵まれた状況とはいえません。しかし“野外で食事をする”という意味にまで立ち返ってみるならば、つまり「五感すべてで自然に接することで動物の本能としての“食事”を思い出す」という意義から見つめ、この激しい雨はむしろプラスに働いたとさえいえるでしょう。「Energy Flow」。あふれる自然のエナジーに触れ、その偉大さを改めて思い出すこと。だからこそ、ゲストはこの状況を特別な体験として受け止め、大きな拍手で応えてくれたのです。「DINING OUTの原点に戻りましたね」アレックス氏は、そう語りました。
厳しい状況を乗り越えた末の成功。その影には、地元サービススタッフの力がありました。料理が雨に濡れないよう盆を重ねて配膳したこと、自ら濡れるのも厭わずに会場に目を配り続けたこと、できたての料理を客席に届けるようにぬかるみに足を取られながら動き回ったこと。どれも誰かの指示を聞いていたのでは間に合いません。それぞれのスタッフが随時判断を下し、適切な対応を取ってくれたこと。これが、豪雨という逆境にもかかわらず今回の『DINING OUT』を成功に導いた原動力でした。
ダイニングアウト鳥取八頭史上初の予備会場開催。そしてゲストとスタッフに刻まれたもの。
しかし試練はこれで終わりではありませんでした。翌日は前日以上の豪雨。大雨警報が発せられ、山間部では土砂崩れの危険も高まります。“DINING OUT”と銘打つイベントでの苦渋の決断でしたが、やはり安全が最優先。ディナーの舞台は予備の荒天時会場に変更されました。14回目を迎える『DINING OUT』で初の選択です。時刻は正午。18時開演のディナーまで、残り6時間しかありません。
しかし、前日の豪雨開催を乗り切ったスタッフたちは、この状況をも乗り越えました。会場は築120年の古民家で有形文化財に登録される「太田邸」。その日の午前中までは影も形もなかったこの空間に瞬く間にレストランができあがり、ゲストを笑顔でお迎えしたのです。そして場所を変えて行われた2日目もまた、ゲストの拍手に包まれ大成功で幕を下ろしたのです。
サービスを統括した大橋氏は、終演後のスタッフを見回して言います。「開始前と顔つきがぜんぜん違うでしょう? みんな誇らしげな顔をしていますよね」ある女性スタッフは少し顔を上気させて言いました。「サービスって料理を運ぶだけの仕事だと思っていました。でも本当はシェフの思いとか、大げさに言えば“感動”を運んでいるんですね。これからもっともっとサービスを勉強したいと思いました」
アレックス氏は終演後、しみじみと語りました。「雨も良かったね。知られざる町で、大自然に囲まれて、その土地の魅力を味わい、特別な体験をする。そんな「DINING OUT」の原点に戻りましたね」。14回目を迎え、ノウハウは蓄積され、ホスピタリティは洗練された。しかし大雨という今回の特別な状況が、改めて大自然の力強さと、それ自体を楽しむという特別感を伝えてくれたというのです。
徳吉シェフも感慨とともに振り返ります。「雨も含めて、本当に楽しかった。鳥取の良さをうまく伝えられたと思います」この一年、大病からの復帰、第一子の誕生など公私含めてさまざまな体験があった徳吉シェフ。「最近、僕が改めて実感するのは“諦めないこと”の大切さ。この「DINING OUT」を通して、伝えたこと、教えられたことは、やはりその部分でした」持ち前の陽気さで会場を笑わせた徳吉シェフ。その内側には、苦難を乗り越えることの難しさ、大切さが実感として宿っていたのです。だからこそ、雨の「DINING OUT」は、ゲストとスタッフに確かな記憶として刻まれたのです。
『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。
Ristorante TOKUYOSHI
http://www.ristorantetokuyoshi.com
1952年アメリカで生まれ、1964年に初来日。イエール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を専攻。1973年に徳島県東祖谷で茅葺き屋根の民家(屋号=ちいおり)を購入し、その後茅の吹き替え等を通して、地域の活性化に取り組む。1977年から京都府亀岡市に在住し、ちいおり有限会社設立。執筆、講演、コンサルティング等を開始。1993年、著書『美しき日本の残像』(新潮社刊)が外国人初の新潮学芸賞を受賞。2005年に徳島県三好市祖谷でNPO法人ちいおりトラストを共同で設立。2014年『ニッポン景観論』(集英社)を執筆。現在は、全国各地で地域活性化のコンサルティングを行っている。
調理師専門学校を卒業後、正統派グランメゾンで知られる『レストラン ひらまつ』に料理人として入社。翌年ソムリエ資格を取得後、サービス・ソムリエに転向。2011年に渡仏し、ボルドーの二つ星レストラン『シャトー コルデイヤン バージュ』でソムリエを経験し、帰国後は白金台『カンテサンス』へ。ミシュラン東京版で三つ星を獲得し続ける名店で研鑽を積む。その後、レストラン移転に伴い、店舗をそのまま受け継ぐ形で2013年9月に『ティルプス』を開業。オープンからわずか2ヵ月半という世界最速のスピードでミシュラン一つ星を獲得する快挙を成し遂げる。
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大自然の中での豊かな暮らしが、唯一無二の商品を生む。[tretre/高知県吾川郡仁淀川町]
トレトレ
その美しさから「奇跡の清流」と謳われる『仁淀川』の源流域に位置し、自然豊かな山間に広がる高知県吾川郡仁淀川町。この地に自生する草木を中心に、大地の恵みを独自の感性で配合した『摘み草ブレンドティー』を生み出しているのが、竹内太郎氏が代表を務める『tretre(トレトレ)』です。後編では、この土地の魅力や『tretre』の軌跡をたどります。(前編はコチラ)
トレトレ鮮やかな緑と眩しい青のコントラストが美しい、大自然に彩られた山間の町。
四国山地西部、西日本最高峰の『石鎚山』に発し、長さ124kmもの流れを経て太平洋へと注ぐ『仁淀川』。深い川底まで透き通るコバルトブルーの清流は、この地で美しい風景を撮り続けてきた写真家・高橋宣之氏によって「仁淀ブルー」と名づけられました。
『tretre』が拠点としているのは、そんな『仁淀川』の源流域に位置する仁淀川町。勾配のきつい山間の土地で気候条件が良く、昔から日本茶の名産地となっています。メジャーなのは、緑茶の葉っぱから作る、煎茶や釜炒り茶。お茶農家が自分たちの茶畑で栽培するのはもちろん、山の斜面にはちらほらと野生の自然茶も見られるような環境です。
トレトレ豊かな暮らしの営みを求め、京都のど真ん中から高知の山奥へ。
竹内氏が生まれ育ったのは、高知県の中心部である高知市内。高校卒業後は京都の大学に進学し、そのまま京都の老舗麺料理店に就職しました。店舗業務から外交販売などの本社業務まで多岐にわたり活躍した竹内氏。しかし、40歳を目前にした頃「もっと生活に根づいた仕事、実感のある暮らしの中から商品を生み出す仕事がしたい」という想いに駆られます。
「これから自分が欲しい商品って何だろう?と考えた時に、理屈ではなく、感覚に基づいた、手作り感のあるものが良いなと思って。それまでも、例えば器なら大量生産ではなく、産地の素材と作り手の感性が生きたものを好んで買っていましたし、書家や陶芸家などアーティストの友人も多く、彼らの仕事ぶりにも惹かれていました」と竹内氏は振り返ります。
そうなると、都会では思うような素材が見当たりません。しかし、自分のルーツをたどると、高知県は森林が県土の84%を占める天然素材の宝庫。森林の間を縫うように美しい川が流れ、三方が海に面しています。実家は団地の中にありましたが、少し離れれば豊かな自然に囲まれ、幼い頃はよく川や森で遊んでいました。
「でも、実は仁淀川町は訪れたことがなくて。京都時代に参加していた、高知県を拠点に活動するデザイナー・梅原 真さんが主宰する『84会議』の中で、この町のことを知りました。高知市在住の写真家・高橋宣之さんが撮影した『仁淀川』の美しさに、強く惹かれましたね」と竹内氏。
実際に訪れてみると、仁淀川町は高知市街地から車で1時間ほどの距離ながら、コンビニエンスストアは1軒だけ、大きな工場も水田もない町。民家が点在し、それぞれが庭の畑で自分たちが食べる分程度の作物を育てている、自給自足を楽しみで続けているような状態であり、「ここにはまだ昔ながらの暮らしが残っている」と思い、竹内氏は感動したといいます。そして「この町でなら、何か商品化できるかも」と可能性を感じ、移住を決意。2014年5月、奥様とともに京都を離れました。
トレトレお茶処の隠れた逸品、野草茶に大きな魅力と可能性を感じて。
「山の暮らしの中から生まれる商品で会社を興したい」という強い想いはあったものの、具体的なことは決めないまま、仁淀川町で暮らし始めた竹内氏。まずは、素材を探すことから始めました。
なんとなく「味に関わる仕事」をテーマにしつつ、大切にしたのは「変に飾りつけず、素材そのものが十分魅力的で、事実を並べただけで勝負できるもの」と「大都市や海外にも打って出られるもの」であること。「“田舎に引っ込んで細々”というような消極的なことではなく、“こんな田舎だからこそできる”という積極的なものづくりをしたいと思いました」と竹内氏は言います。
そして着目したのが、この土地で昔から飲まれてきたお茶。最盛期に比べ、お茶作りを生業として続けているお茶農家は格段に減っています。それでも、ここで暮らす人々にとって、お茶はとても身近な自然の恵み。野菜と同様に、家族分程度の量を自分たちで作り、大切に飲む習慣が残っているのです。
しかし、煎茶や釜炒り茶などスタンダードな日本茶では、すでに多くの人が取り組んでおりなかなか太刀打ちできません。そんな中で出合ったのが、自生する様々な山野草を摘み、乾燥させて作る野草茶。商品として確立されているポピュラーな煎茶や釜炒り茶に対して、こちらは大々的に売り出されているのではなく、各家庭で個人的に飲まれているようなお茶です。その存在を初めて知り、豊かな味わいに驚いた竹内氏。「マイナーでありながら美味しい野草茶の商品化こそ、取り組み甲斐のある仕事だ」と感じ、早速動き出しました。
あらゆる山野草を採集し、お茶にした時の味わいを、自らの舌でひとつずつ分析して記録。同じ山野草でも、標高や日当たりなどによって風味が変わるため、環境ごとの違いも事細かに記しました。更に、それらを正確に0.1g単位で配合。最適なブレンド具合を見つけていきました。
竹内氏曰く「ひとつの商品が出来上がるまでに、40~50回はブレンドを繰り返しました。風味はもちろん、山野草にはそれぞれ効能の違いもあって、ケンカしない組み合わせを考えることも大切でした」とのこと。気の遠くなるような作業は、半年以上にも及んだといいます。
そうして2015年6月に会社を立ち上げ、地道な研究の成果である『摘み草ブレンドティー』の販売を始めた竹内氏。ブランド名は、イタリア語で「3」を意味する「tre」を重ねて『tretre』。町を走っている国道33号線にちなみ、豊作(トレトレ )の願いも込められました。
トレトレ地域の素材と知恵の賜物、この土地でないと作れなかったお茶。
竹内氏の探究心と努力の結晶である『摘み草ブレンドティー』ですが、やはりひとりではここまでできなかったといいます。
「どこにどんな山野草が生えていて、それがどんな味で、摘み時はいつ、干し方はどうとか、地域の方には色々なことを教わりました。特に長年この地で生活する人生の先輩方からは、本当に学ぶことが多くて。暮らしの中から生まれたノウハウや、実体験に基づいたアドバイスは、何よりも貴重なものでした」と竹内氏。
また、竹内氏は「畑仕事をしている方からすると、場合によって山野草は作物の生育を邪魔する雑草であり、恵みどころか目の敵なんですよね(笑)。でも、自分のやりたいことを丁寧に説明することで、賛同を得られるようになりました。例えば、何々の葉を探していると相談すれば、『誰々さん家の裏に生えているよ』とか、『うちでちょっと育てているのがあるから持ってきてあげる』とか、自社農園で育てるために株分けしてくださった方もいて、有難かったです」とも話します。
こうした地域の方々のサポートは、『tretre』が軌道に乗った今現在も、変わらず続いています。日常の中でのやり取りもそうですが、主な交流の場となっているのが、定期的に行っている「ハッパカイギ」。地域に住み、『tretre』の活動に興味を持って協力しようという方々が参加しています。基本的にはお茶農家の集まりかと思いきや、むしろ逆。お茶農家の方はゼロで、専業農家の方もほぼおらず、小さな畑でちょっと作物を育てて暮らしているような方が大半です。
「ハッパカイギ」では、地域の山野草についての情報交換をしたり、色々な山野草をお茶にして試飲しては、より美味しく飲むための方法を思案したりします。「昔は切り傷ができたらヨモギの葉を薬代わりに使っていた」など、遠い記憶をたどって共有することもあります。「お茶にする以外の山野草の活用法も勉強になります。放っておくと誰にも受け継がれず、なくなっていくこうした知恵も、大切にしたいですね」と竹内氏は話します。そして、収穫の時期になれば、一部の摘み草集めを依頼。決して負担にならないよう、無理のない程度にお願いしているそうですが「皆さん、畑仕事のついでとかに、楽しみながら応じてくださっています」とのこと。こうして、竹内氏曰く「柔らかなつながり」でできたネットワークが、『tretre』のものづくりを支えているのです。
トレトレ自然の中で生まれる、心地よい暮らしのためのものづくりをこれからも。
仁淀川町で暮らし始めて5年目。移住当初こそ、都市暮らしとのギャップに若干とまどったものの「不便さも楽しめたので、特に困らずにここまできました」と竹内氏は振り返ります。『tretre』の活動以外でも、普段からご近所同士で作物を分け合うのは当たり前。更に、祭りなどのイベントや町内会の役割を通して住民同士で交流する機会も多いため、早い段階で自然と溶け込み、関係性が築けたのも大きかったようです。
思い切った決断ながら、望んでいた暮らしを実現した竹内氏。「京都では旬を追っていましたが、ここでは旬に追いかけられる。その感覚も新鮮です」と話します。そして、現在オリジナルの『摘み草ブレンドティー』については、東京からの依頼が多いそうです。「山奥に来たことで、逆に京都にいる頃よりも東京が近くなりました」と笑います。
また、竹内氏は日課として1日1点、町内の自然風景を撮影してSNSに投稿しているのですが、意外と地元の方がよく見ているのだとか。『摘み草ブレンドティー』や、前編で紹介した『によどヒノキウォーター』も、地元で人気商品となっています。『tretre』の取り組みが、地元の魅力を再発見し、自分の町を誇りに思うきっかけにもなっているようです。
今後も『摘み草ブレンドティー』を軸に、自然の心地よさを感じられるものづくりに勤しむ『tretre』。新商品の『によどヒノキウォーター』も、更にブラッシュアップしていくそうです。今後もまだまだ楽しみは広がります。
住所:〒781-1741 高知県吾川郡仁淀川町名野川27-1 MAP
電話:0889-36-0133
http://tretre-niyodo.jp/
高知県出身。高校卒業後は京都の大学に進学し、そのまま京都の老舗麺料理店へ就職。20年弱勤めた後、2014年3月に退職し、高知県吾川郡仁淀川町に移り住んだ。2015年6月には『トレトレ株式会社』を立ち上げ、『tretre』のブランド名で『摘み草ブレンドティー』の製造・販売をスタート。自生する草木やハーブを使う独自の味わいは、多方面から厚い支持を受けている。2017年8月には、『ヒノキの蒸留水』で作るルームミスト『によどヒノキウォーター』を発売。
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小林紀晴 夏の写真紀行「濃厚で濃密な季節」。
季節は巡って、夏。
短い梅雨があっという間に去ると、恐ろしいまでの猛暑がやってきた。おそらく今年の夏のことは、しばらくのあいだ語り継がれるだろう。
桜の頃と同じく、浅草から列車に乗った。あのときは進行方向に向かって右側の座席だったが今回は左側。隅田川を渡る瞬間、窓からスカイツリーが見えた。乗客はお父さんと男の子という組み合わせが多く、私の隣は男の子の二人兄弟の弟くんだった。小学一年生のようだ。お父さんとお兄ちゃんは通路を挟んだ向こう側に座っている。どこから来たのかと訊ねてみる。
「チョウフ、デス……」
消え入るような、それでも生真面目な声が返ってきた。蒸気機関車をこれから見に行くのだ、と教えてくれた。
降り立った会津田島の駅はもわんとした熱のある空気に満たされていた。それでも、東京とは明らかに質が違った。かなり暑さが和らいで感じられる。陽射しは強いが湿気は低く、時折心地よい風が吹く。
私は大桃をめざす。
春に来たときと同様に厳冬にこの地を訪れたことが頭に浮かぶ。冬の記憶に、春の記憶が、さらに夏が重なってゆく。冬はとにかくその雪深さに驚いた。埋もれるように無言で雪をかく人の姿を、いたるところで目にした。誰もがまさに黙々と雪をかいていた。土地に生きる人の気質はこんなところから形成されるに違いない。
ひまわりの花がときおり道端に揺れている。冬のあいだ、この花たちはどんなふうに雪の下にいたのだろうか。もちろん種子としてそこにあったはずだが、あの雪深さを頭に描けば、花を咲かせること自体が奇跡のように思えてくる。
小学二年生の夏。私はひまわりの研究をした。私が通っていた小学校には「一人一研究」というものがあって、いってみれば「自由研究」にあたるもので、私は夏休みのあいだ、ひまわりを観察し続けた。
日向と日陰。
それぞれの場所でひまわりを育て、成長の違いを調べるというものだ。小学二年生がみずからそんな研究を発想できるはずなどなく、母に言われてやったにすぎない。果たして母がみずから考えついたのか、それともどこかで読み聞きしてきたものなのかは知らないが、成長記録をつけた。
夏が過ぎ、枯れると花からタネを丁寧に取り出し、その数を数えた。日向と日陰で数は大きく違った。いずれにしても私はその「一人一研究」により、それなりの成果を得た。というのはクラスで一人だけ選抜され、諏訪地方全体の何かの賞をいただいたからだ。どんな賞だったのか。思い出せないが賞状をもらったのは確かだ。
ただ、子供心に小さな罪悪感があった。自分で考えついたわけではないことはもちろんだが、それ以上に育ちすぎたひまわりについて。
日向のひまわりは畑で育てた。もともと肥料がたっぷりだったのだろう、恐ろしいほどに巨大になった。高さ2メートルをはるかに超えたし、茎もたくましく太かった。それに対し日陰のひまわりは納屋の裏で育てた。もちろん肥料などまったくあげないのだから、日向、日陰という対比以上に肥料による差が生まれてしまった。「肥料あり、肥料なし」の対比の方が「日向、日陰」より高かったはずだ。そのことに私は薄々気がついていた。でも伏せたまま、あくまで日向と日陰の対比で「こんなも育ちが違う」という内容にしたのだ。
そのことを今でもひまわりを目にすると、思い出す。ひまわりと目が合った、と感じる瞬間に。
冬に訪れたときに「落雪注意」という看板をいくつも目にした。その多くは窒息寸前という感じになかば雪に埋まっていたのだが、雪のやみ間にそれらがあらわになって、誰かの忘れものように居心地悪くあちこちに佇んでいた。考えてみれば、季節の忘れものという言い方もできるかもしれない。
私はその文字を何度も「落雷注意」と誤って読み間違えた。どうしてこんなところに雷が落ちるのかな?と疑問に思った後で、雷ではなく雪だと気付くことを繰り返した。人の身体も季節に同調しているのかもしれない。雪深い地に立ち、雪を雷とは間違えるはずなどないのだから。
大桃の舞台は濃い緑に囲まれていた。
季節の一片としてある。そんな言葉が浮かんだ。植物や花、川だけでなく、すべてのものが同じ速度で新たな季節を迎える。同じ場所にあって、少し先に進んでいたり、遅れたりということはない。すべてのものは、すべて同じ速度で同じ時を刻んでいる。逆にいえば、例外は許されない。
そんなふうに感じたのはやはり、ここを冬に訪ねた記憶が深く関係しているはずだ。あの日、この大桃の舞台は完全に雪にとざされていた。除雪された細い道をなんとか進んだのだが、あるところからはまったく進めなくなった。舞台のあたりは当然ながら除雪されておらず、それ以前に、集落内を除雪した雪が舞台の手前に、あたかも壁のように積まれ、立ちはだかっていた。私は雪の塊の端に登り、舞台を望んだ。かすかに屋根が見えた。そこから下は完全に雪に埋まっていた。
いまはセミの鳴き声に包まれている。「大桃夢舞台」が行われる前日だ。見上げた大桃の舞台は茅葺屋根に草が茂っていて、その上は小さな庭のようだ。あるいは草原を連想させた。
ひとりの男性に会った。地区の区長であり、翌日開催される「大桃夢舞台」の実行委員長をされている星さん。この地で生まれ育った方だ。
舞台の前で幼い頃の話を伺った。印象的だったのは、かつてはこの地区の小学生は11キロ余りも離れた小学校まで通っていというのだが、冬はカンジキを履いた大人が必ず付き添っていたという。ただ1年生から3年生まで、冬のあいだは地区に開校される季節分校に通ったという。
「では4年生から6年生は?」
「冬のあいだも歩いて通い続けていました」
時に命の危険を感じながら、通った記憶があるという。ちなみに現在は季節分校は存在せず、一年を通してバスで通学しているようだ。
「冬は本当に命懸け。だからここの子供の気持ちはすごい。どこにも負けません」
対して、夏。
「夏休みは早朝のラジオ体操をして終わると川で泳ぎ、泳ぎ疲れるとそのままこの舞台に来て柱をよじ登りました。屋根裏までみんなで登って、あの格子のあいだから遠くを眺めていました。柱を一人で登れなければ一人前ではなかった」
そう言って星さんは目を細めた。思い出にも冬と夏のコントラストがあった。
翌日はハレ。
客席の向こうの舞台は昨日とは明らに違って映った。多くのお客さんに見つめられて舞台そのものが緊張し、目を見開いている。そんな印象を覚えた。この日のために向かって左側に花道が作られている。ここは標高800メートルほどある。だから陽射しは強いが湿気は低い。風が吹くと心地よく、汗が自然とひいていく。
最初の演目は青柳八木節笠踊り。八木節とは群馬、栃木を中心にした民謡だ。南会津は、尾瀬(群馬)を通してそれら地方との繋がりが古くから強い。そのこととおそらく関係があるはずだ。
青柳というのは大桃に隣接する地区で芸能の集落として知られている。この踊りは明治時代から途切れ途切れに続いてきた歴史をもつ。戦時中には出征する者のために踊られた。そのことを知ったうえで舞台を眺めていると、出征する若者たちの姿を考えずにはいられない。セピア色に染まった古い写真の中からこちらを見ている誰か。
十年ほど前に、古いアルバムのなかに祖父の出征の写真を見つけた。記憶にあるはずもない、それでも私に関係のある人たちに囲まれた若い頃の祖父。私が生まれる前に壊された実家の前に集まった一族。家族と親戚に囲まれた軍服姿の祖父が中心にいる。私の父がその脇にいる。父はおそらく2、3歳だろう。
私はこの写真を、みずからの『kemonomichi』と名付けた写真集のなかに収めた。拝借したといってもいい。撮影者は不明。庶民が手軽にカメラを持てる時代ではなかったはずだから、地元の写真館の方だろうか。
その写真集を観た私の母の姉である90歳近い伯母が、漏らした言葉がある。
「みんな切なえ顔をしてるじゃあ」
意外だった。
私にはどの顔ももちろん嬉しそうには見えないが、だからといって悲しそうには映らなかったからだ。伯母は戦時中、10代半ばだったはずで、その頃の記憶は自覚的なはずだ。当時のことをよく知っている人には、そんなふうに見えるのか。新たな発見だった。
22歳の青年に舞台の裏で会った。久川城太鼓を演奏する、男ばかり三人兄弟の一番下。現在、この太鼓は彼の父と兄二人、さらにもう一人の方しか演奏する者がいない。年を追うごとに次第に減って来ているという。
「保育所に通っている頃からやっていました」
思春期の頃に辞めたいとい思ったことはないのですか。
「そういうものはありませんでした。逆に自分だけやっているという特別感があったし、親父、兄貴たちもやっているので、あまり抵抗はなかった」
後継者となる若い人がなかなか見つからないという。
「これからも、自分はやり続けたい」
力強い言葉。
私は来た道を戻る。まだ通ったことがない道へ分け入ってみる。すると、不意に花を咲かせた蕎麦畑が目の前に広がった。
(supported by 東武鉄道)
1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。
小林紀晴 夏の写真紀行「濃厚で濃密な季節」。
季節は巡って、夏。
短い梅雨があっという間に去ると、恐ろしいまでの猛暑がやってきた。おそらく今年の夏のことは、しばらくのあいだ語り継がれるだろう。
桜の頃と同じく、浅草から列車に乗った。あのときは進行方向に向かって右側の座席だったが今回は左側。隅田川を渡る瞬間、窓からスカイツリーが見えた。乗客はお父さんと男の子という組み合わせが多く、私の隣は男の子の二人兄弟の弟くんだった。小学一年生のようだ。お父さんとお兄ちゃんは通路を挟んだ向こう側に座っている。どこから来たのかと訊ねてみる。
「チョウフ、デス……」
消え入るような、それでも生真面目な声が返ってきた。蒸気機関車をこれから見に行くのだ、と教えてくれた。
降り立った会津田島の駅はもわんとした熱のある空気に満たされていた。それでも、東京とは明らかに質が違った。かなり暑さが和らいで感じられる。陽射しは強いが湿気は低く、時折心地よい風が吹く。
私は大桃をめざす。
春に来たときと同様に厳冬にこの地を訪れたことが頭に浮かぶ。冬の記憶に、春の記憶が、さらに夏が重なってゆく。冬はとにかくその雪深さに驚いた。埋もれるように無言で雪をかく人の姿を、いたるところで目にした。誰もがまさに黙々と雪をかいていた。土地に生きる人の気質はこんなところから形成されるに違いない。
ひまわりの花がときおり道端に揺れている。冬のあいだ、この花たちはどんなふうに雪の下にいたのだろうか。もちろん種子としてそこにあったはずだが、あの雪深さを頭に描けば、花を咲かせること自体が奇跡のように思えてくる。
小学二年生の夏。私はひまわりの研究をした。私が通っていた小学校には「一人一研究」というものがあって、いってみれば「自由研究」にあたるもので、私は夏休みのあいだ、ひまわりを観察し続けた。
日向と日陰。
それぞれの場所でひまわりを育て、成長の違いを調べるというものだ。小学二年生がみずからそんな研究を発想できるはずなどなく、母に言われてやったにすぎない。果たして母がみずから考えついたのか、それともどこかで読み聞きしてきたものなのかは知らないが、成長記録をつけた。
夏が過ぎ、枯れると花からタネを丁寧に取り出し、その数を数えた。日向と日陰で数は大きく違った。いずれにしても私はその「一人一研究」により、それなりの成果を得た。というのはクラスで一人だけ選抜され、諏訪地方全体の何かの賞をいただいたからだ。どんな賞だったのか。思い出せないが賞状をもらったのは確かだ。
ただ、子供心に小さな罪悪感があった。自分で考えついたわけではないことはもちろんだが、それ以上に育ちすぎたひまわりについて。
日向のひまわりは畑で育てた。もともと肥料がたっぷりだったのだろう、恐ろしいほどに巨大になった。高さ2メートルをはるかに超えたし、茎もたくましく太かった。それに対し日陰のひまわりは納屋の裏で育てた。もちろん肥料などまったくあげないのだから、日向、日陰という対比以上に肥料による差が生まれてしまった。「肥料あり、肥料なし」の対比の方が「日向、日陰」より高かったはずだ。そのことに私は薄々気がついていた。でも伏せたまま、あくまで日向と日陰の対比で「こんなも育ちが違う」という内容にしたのだ。
そのことを今でもひまわりを目にすると、思い出す。ひまわりと目が合った、と感じる瞬間に。
冬に訪れたときに「落雪注意」という看板をいくつも目にした。その多くは窒息寸前という感じになかば雪に埋まっていたのだが、雪のやみ間にそれらがあらわになって、誰かの忘れものように居心地悪くあちこちに佇んでいた。考えてみれば、季節の忘れものという言い方もできるかもしれない。
私はその文字を何度も「落雷注意」と誤って読み間違えた。どうしてこんなところに雷が落ちるのかな?と疑問に思った後で、雷ではなく雪だと気付くことを繰り返した。人の身体も季節に同調しているのかもしれない。雪深い地に立ち、雪を雷とは間違えるはずなどないのだから。
大桃の舞台は濃い緑に囲まれていた。
季節の一片としてある。そんな言葉が浮かんだ。植物や花、川だけでなく、すべてのものが同じ速度で新たな季節を迎える。同じ場所にあって、少し先に進んでいたり、遅れたりということはない。すべてのものは、すべて同じ速度で同じ時を刻んでいる。逆にいえば、例外は許されない。
そんなふうに感じたのはやはり、ここを冬に訪ねた記憶が深く関係しているはずだ。あの日、この大桃の舞台は完全に雪にとざされていた。除雪された細い道をなんとか進んだのだが、あるところからはまったく進めなくなった。舞台のあたりは当然ながら除雪されておらず、それ以前に、集落内を除雪した雪が舞台の手前に、あたかも壁のように積まれ、立ちはだかっていた。私は雪の塊の端に登り、舞台を望んだ。かすかに屋根が見えた。そこから下は完全に雪に埋まっていた。
いまはセミの鳴き声に包まれている。「大桃夢舞台」が行われる前日だ。見上げた大桃の舞台は茅葺屋根に草が茂っていて、その上は小さな庭のようだ。あるいは草原を連想させた。
ひとりの男性に会った。地区の区長であり、翌日開催される「大桃夢舞台」の実行委員長をされている星さん。この地で生まれ育った方だ。
舞台の前で幼い頃の話を伺った。印象的だったのは、かつてはこの地区の小学生は11キロ余りも離れた小学校まで通っていというのだが、冬はカンジキを履いた大人が必ず付き添っていたという。ただ1年生から3年生まで、冬のあいだは地区に開校される季節分校に通ったという。
「では4年生から6年生は?」
「冬のあいだも歩いて通い続けていました」
時に命の危険を感じながら、通った記憶があるという。ちなみに現在は季節分校は存在せず、一年を通してバスで通学しているようだ。
「冬は本当に命懸け。だからここの子供の気持ちはすごい。どこにも負けません」
対して、夏。
「夏休みは早朝のラジオ体操をして終わると川で泳ぎ、泳ぎ疲れるとそのままこの舞台に来て柱をよじ登りました。屋根裏までみんなで登って、あの格子のあいだから遠くを眺めていました。柱を一人で登れなければ一人前ではなかった」
そう言って星さんは目を細めた。思い出にも冬と夏のコントラストがあった。
翌日はハレ。
客席の向こうの舞台は昨日とは明らに違って映った。多くのお客さんに見つめられて舞台そのものが緊張し、目を見開いている。そんな印象を覚えた。この日のために向かって左側に花道が作られている。ここは標高800メートルほどある。だから陽射しは強いが湿気は低い。風が吹くと心地よく、汗が自然とひいていく。
最初の演目は青柳八木節笠踊り。八木節とは群馬、栃木を中心にした民謡だ。南会津は、尾瀬(群馬)を通してそれら地方との繋がりが古くから強い。そのこととおそらく関係があるはずだ。
青柳というのは大桃に隣接する地区で芸能の集落として知られている。この踊りは明治時代から途切れ途切れに続いてきた歴史をもつ。戦時中には出征する者のために踊られた。そのことを知ったうえで舞台を眺めていると、出征する若者たちの姿を考えずにはいられない。セピア色に染まった古い写真の中からこちらを見ている誰か。
十年ほど前に、古いアルバムのなかに祖父の出征の写真を見つけた。記憶にあるはずもない、それでも私に関係のある人たちに囲まれた若い頃の祖父。私が生まれる前に壊された実家の前に集まった一族。家族と親戚に囲まれた軍服姿の祖父が中心にいる。私の父がその脇にいる。父はおそらく2、3歳だろう。
私はこの写真を、みずからの『kemonomichi』と名付けた写真集のなかに収めた。拝借したといってもいい。撮影者は不明。庶民が手軽にカメラを持てる時代ではなかったはずだから、地元の写真館の方だろうか。
その写真集を観た私の母の姉である90歳近い伯母が、漏らした言葉がある。
「みんな切なえ顔をしてるじゃあ」
意外だった。
私にはどの顔ももちろん嬉しそうには見えないが、だからといって悲しそうには映らなかったからだ。伯母は戦時中、10代半ばだったはずで、その頃の記憶は自覚的なはずだ。当時のことをよく知っている人には、そんなふうに見えるのか。新たな発見だった。
22歳の青年に舞台の裏で会った。久川城太鼓を演奏する、男ばかり三人兄弟の一番下。現在、この太鼓は彼の父と兄二人、さらにもう一人の方しか演奏する者がいない。年を追うごとに次第に減って来ているという。
「保育所に通っている頃からやっていました」
思春期の頃に辞めたいとい思ったことはないのですか。
「そういうものはありませんでした。逆に自分だけやっているという特別感があったし、親父、兄貴たちもやっているので、あまり抵抗はなかった」
後継者となる若い人がなかなか見つからないという。
「これからも、自分はやり続けたい」
力強い言葉。
私は来た道を戻る。まだ通ったことがない道へ分け入ってみる。すると、不意に花を咲かせた蕎麦畑が目の前に広がった。
(supported by 東武鉄道)
1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。
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手紙を書くことから始まる旅。「何もない宿」が教えてくれる心の豊かさ。[苫屋/岩手県九重郡]
苫屋OVERVIEW
何年振りでしょうか? こうして手紙を書くこと自体、最後がいつだったかさえ正確には思い出せません。
岩手県野田村にある辺境の宿『苫屋』。この宿を取材するにあたり、編集部が初めにしたことはペンを取ることでした。何せ『苫屋』には電話線が引かれていません。宿の人は携帯電話も持っていません。ましてやPCなど持っているはずがありません。
宿泊の予約はもちろん、取材を申し込むにはこうして手紙を書くしか手立てがないのです。
便箋に企画内容をびっしりと書き、返信用封筒と切手を入れ、大切に封をして投函。5日ほどして、待ちに待った返信が届きました。
企画書つきお手紙ありがとうございます。
URLのご案内もありがとうございます。
『苫屋』には電話がないので、インターネットで検索はできないのですが、お気持ちだけ頂きます。
私たちはスマートフォンも携帯電話も持っていません。
この状況で記事になりますか?
編集部のスタッフさんが「大丈夫です」と言われるのでしたら●月●日(金)、●日(火)のどちらかでお待ちしたいのですが如何でしょう?
(原文ママ)
取材班は『苫屋』へ向かうことにしました。
何ひとつラグジュアリーなものはありません。しかし、このデジタル社会において、26年前のオープンから変わらないスタイルで営む宿。オーナーである坂本 充氏、久美子氏夫妻がここで宿を営み続ける理由はどこにあるのでしょう。
野田村にある南部曲り家の茅葺き屋根の宿。手紙を出してまで宿泊する意味とは? 常連客が毎年のようにここを訪れるその魅力とは?
『ONESTORY』取材班が、そのありのままの姿をレポートします。
住所: 岩手県九戸郡野田村大字野田第5地割22 MAP
電話: なし
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集落の象徴を守ろうという人々の情熱が磨き上げた、神々しい舞台の輝き。[大桃の舞台/福島県南会津町]
大桃の舞台国の重要有形民俗文化財にも指定されている、農村舞台建築の美しい頂点。
大桃の舞台とは南会津町の深奥部、檜枝岐村との町村境に接する大桃地区に残る、農村歌舞伎の上演のための舞台です。南会津一帯が御蔵入地(天領)であった藩政期に起源を持ち、1895年(明治28年)に再建されたこの舞台を、人々は集落の象徴として守り続けてきました。その貴重さが認められて、現在では檜枝岐の舞台と並んで国の重要有形民俗文化財に登録されています。切妻造りの舞台建屋は正面の破風の前に庇がつけられ、そこから左右に連なる軒端の造形の力強い表情から「兜造り」とも呼ばれます。さらに舞台中央には二重二層機構が取り入れられてより立体的で奥行きを感じさせるよう工夫されているなど、農村舞台の一つの到達点を示すその建築の完成度は、緑の草に覆われた茅葺屋根の詩的なまでの美しさと相まって、訪れた人の胸に強い印象を残すはずです。
住所:福島県南会津郡南会津町大桃字居平164 MAP
(supported by 東武鉄道)
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行楽シーズン到来
皆様いかがお過ごしでしょうか??
この一週間ほどでグッと気温が下がってきた気がします![]()
というよりこの夏が暑すぎだぁ![]()
![]()
やっとこさ快適に過ごしやすくなって来たな~と思っております![]()
さてさて、皆様は秋と言えば何を思い浮かべますか??
食欲の秋・読書の秋・運動の秋ファッションの秋など色々ありますね![]()
秋は旬になる食べ物が多く、動きやすい季節ですので個人的には秋が大好きです![]()
夏は外に出るのも億劫だけど秋に少し遠出してみようかな~と考える方も多いのでは無いでしょうか??
そんな方々にお勧めの商品がこちら
行楽シーズンにオススメのお帽子でございます![]()
ちょっと遠出するときにも使えますし、その他にも
夏は日傘を使用していたけど日差しも弱くなってきたので~
と言う方や
ファッションの秋だからオシャレに決めたいぜ![]()
と言う方にもオススメの商品でございます![]()
少し肌寒いときにはストールもご用意しております
お帽子もストールも今後は新商品を入荷予定でございますので
行楽シーズンのお供にいかがでしょうか??
最初の方にも書きましたけどいきなりグッと冷え込んだり昼夜の寒暖差もかなり激しくなってきておりますので
皆様体調管理だけはお気を付け下さい![]()
PS:広島の新井選手の引退は凄く残念です。
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登山をしなければたどり着けない、九州最高所に湧く秘湯。[法華院温泉山荘/大分県竹田市]
法華院温泉山荘雄大な山々に囲まれた山小屋の温泉。
大分県玖珠郡九重町から竹田市の北部にまたがるくじゅう連山。「九州の屋根」とも呼ばれる山中に、九州一標高が高い所に湧く天然温泉があります。「法華院温泉山荘」は、久住山、大船山、平治岳、三俣山などの山々に囲まれた湿原「坊ガツル」に佇む山小屋。もちろん車で行くことはできず、たどり着くには歩くしか方法はありません。九州最高所の温泉から望む景色を楽しみにして、九重町の長者原・登山口をスタート。
法華院温泉山荘花や木、美しい山々を愛でながらトレッキング。
「法華院温泉山荘」までは、登山初心者にオススメの雨ヶ池越のコースで向かいます。歩き始めるとすぐ眼前に広がるのが「タデ原湿原」。「坊ガツル」とともにラムサール条約に登録された湿原は、木道が整備されており散策に最適です。初秋の風に気持ちよく揺れるヒゴタイを写真に収めながら、三俣山の山中へと入りました。木々が生い茂る登山道では山鳥の鳴き声が響き、柔らかな木漏れ日がルートを照らしてくれます。森林浴を楽しみつつ、時折岩場や石がゴロゴロと堆積した道も通り、息が上がりながら歩くこと90分。ノハナショウブやヤマラッキョウの群生地としても知られる、「雨ヶ池」に到着しました。雨が降ると池ができる湿地帯は視界が開かれ爽快感抜群。季節の花々を眺めながらのんびりと歩き、いよいよ目的地の「坊ガツル」へと向かいます。
法華院温泉山荘鎌倉時代から続くお寺が山小屋へ。
雄大な山々に囲まれた標高1230mの盆地にある「坊ガツル湿原」。中央には筑後川の水源でもある鳴子川が流れる数少ない高層湿原です。山の緑と空の青、美しいコントラストに感動しながらトレッキングを続けると、山の麓にロッジが見えてきました。川のせせらぎが聞こえる「法華院温泉山荘」は標高1250mにある山小屋。元は鎌倉時代を開基とする「九重山法華院白水寺」と呼ばれる修験道場を建立したことが始まりで、明治時代に入り信仰の山から登山の山へと変化する中で山小屋の運営を始めたのです。そんな歴史ある地に、登山客の疲れた体を癒す天然温泉が待っていました。
法華院温泉山荘最高のロケーションとともに入る爽快風呂。
登山口から2時間半をかけてたどり着いたのは、眼前に大船山、平治岳、立中山を望むことができる、源泉掛け流しの硫酸塩泉。乳白色のにごり湯だった温泉は約20年前の硫黄山の噴火によって泉質が変わってしまったそうで、現在は澄みきった透明の湯が溢れています。ふわりと湯の花が舞う温泉は適温に設定され、柔らかでさらりとした肌触り。汗をかいた体にはさっぱり感がちょうどよく、時折窓から山々を通り抜ける風と相まって気分は爽快。筋肉痛や関節痛、運動麻痺、疲労回復などに効果があると言われるだけあって、約5kmの登山を終えて疲れた体もすっかりリフレッシュできました。
1年を通じて山小屋を運営する支配人によると、大きな窓から望む景色は四季折々の表情を見せ、5月〜6月に見ることができるミヤマキリシマの時期や、辺り一面を真っ白に包む冬山の時期もまた趣があるのだと言います。春夏秋冬を通じて、訪れたものを楽しませてくれる温泉。簡単にはたどり着かないからこそ、入浴したときの感動と達成感は格別です。ここから先、山頂を目指すもよし、来た時とは違うルートで下山するもよし。まずは温泉を目掛けて山登りを楽しんでみませんか。
住所:〒878-0202 大分県竹田市久住町大字有氏1783 MAP
電話:0974-77-2810
http://www.hokkein.co.jp
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「泊まれる商店街」が、地域を救うかもしれない。 [商店街HOTEL 講/滋賀県大津市]
商店街HOTEL 講日本の古き良き「助け合い精神」を現代に。
かつての日本には、「講」という相互扶助組織がありました。誰かが困った時にみんなで手を差し伸べる制度で、参詣による「伊勢講」「熊野講」や、経済的に地域で支え合う「頼母子講」などが代表的です。戦後になって「講」は解体されましたが、最近滋賀県で、その日本人の支え合う精神のもと復活された「講」があります。それが、『商店街HOTEL 講 大津百町』です。
商店街HOTEL 講工務店と雑誌がタッグを組んだホテル。
大津はかつて「大津百町」と呼ばれ、東海道五十三次最大の宿場町として賑わった街です。しかし現在ではその面影もなく、駅に近いこのアーケード商店街も空き家が目立つように。築100年を超える町家の維持もできず、多くが取り壊しの危機にありました。その現状を何とかしようと動いたのが、滋賀県竜王町で谷口工務店を営む谷口弘和氏。雑誌「自遊人」を発行し新潟県南魚沼市で体感型宿泊施設「里山十帖」を運営する『株式会社自遊人』に相談を持ちかけ、メディア型ホテルにするというプロジェクトが生まれました。
商店街HOTEL 講観光地ではない普通の街に、観光客を呼び込む。
このプロジェクトが他のデベロッパーや大資本が行うホテル建設と異なるのは、「作る」という使命を根幹に持つ民間企業2社が始めたタウンマネジメントプロジェクトであるということ。地域に密着し「社内大工の技術力」に誇りを持つ谷口工務店と、メディアディレクターでありオペレーターとしても実績がある自遊人のタッグは、「ホテルという媒体を通じて商店街を観光資源化することにより、生活圏外の人々の消費を取り込む」という互いの強みを生かした新たな社会実験でもありました。そうして彼らが蘇らせたのは7軒の町家。デザイン面はもちろん、実用性と快適性を重視して、今後さらに100年使用できる“現代の町家”として誕生したホテルは、『講 大津百町』と名付けられました。「伊勢に詣でたように大津に来て欲しい」「古き良き日本を感じて欲しい」「旅する人々に街の活性化を担って欲しい」という想いからです。
商店街HOTEL 講町家にヤコブセン。居心地にはとことんこだわった。
『講 大津百町』は、「近江屋」「茶屋」「鍵屋」「丸屋」「萬屋」「鈴屋」「糀屋」の7棟で構成。ゲストハウスなどとは異なり、全室にバス・トイレを完備し、防音・断熱も最大限の工事を実施。できる限り元の梁や柱を生かしたり、土間の吹き抜けや中庭もそのままにしたりと、古来の町家の快適性や風情を損なわないよう工夫を凝らしています。家具はアルネ・ヤコブセンやフィン・ユールといった北欧デザインにこだわり、和モダンな空間に仕上げました。
商店街HOTEL 講一人旅からファミリーまであらゆるニーズに。
7棟すべて間取りやデザイン、家具も異なるのも魅力の一つです。例えば「近江屋」は、フロントとレストラン、宿泊者専用ラウンジ、客室3部屋を擁する大型の町家。部屋は定員2名のスーペリアツインで、一人旅やビジネスユースにも最適です。
「茶屋」も大きな町家で、デラックスツインやスーペリアツインなど5室を備えます。その一室は、風情溢れる庭に面した部屋。ここで茶会を開くこともできる風趣豊かな和室です。アルネ・ヤコブセンの「エッグチェア」や「スワンチェア」でくつろげるという点もポイントです。
「鍵屋」は、明治時代築の小ぢんまりした2階建ての長屋。一棟貸し切りタイプで、バスルームは檜の浴槽を設えた贅沢な造りです。「丸屋」「萬屋」「鈴屋」「糀屋」も一棟貸しスタイル。いずれもミニキッチンやダイニングキッチンを備えているため、自分たちで食材を購入して調理を楽しむことができます。
商店街HOTEL 講これからの観光は、より地域に根ざしていく。
ホテルは「丸屋町」「菱屋町」「長等」というアーケード商店街にあり、大津の中心部として庶民的な活気に包まれています。近くには本モロコやイサザをはじめ琵琶湖の淡水魚が何でも揃う鮮魚店や、宮内庁御用達だった漬物店、コロッケが40円という精肉店など地元密着の商店がたくさんあり、近所の人が集まる居酒屋やモーニングが人気の喫茶店など飲食店も充実しています。
「街に泊まって、食べて、飲んで、買って」をコンセプトにする新しい形のホテル。商店街の活性化や古民家再生といった街へのベネフィットだけでなく、旅行者もその土地の素顔にふれられ、ほかにはない体験を得ることができる―。この新たな価値を創造する宿泊のスタイルが、これからの旅のスタンダードになるかもしれません。
住所:滋賀県大津市中央1-2-6 MAP
アクセス:フロントのある「近江屋」へはJR大津駅から徒歩7分
電話:077-516-7475
料金:1泊素泊まり9,900円~(税別・サービス料込)
写真提供:商店街HOTEL 講 大津百町
http://hotel-koo.com/
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奇跡のような真夏の7日間、儚く消えたポップアップレストラン『tetxubarri』&シェフ・前田哲郎とは?[tetxubarri]
テチュバリ世界屈指の名店で働く日本人シェフが、この夏、謎のイベントを開催。
突然ですが皆様、『Asador Etxebarri(アサドール・エチェバリ)』という名のレストランをご存知でしょうか? その店はスペインバスク州の小さな小さな集落にある山奥の一軒家レストランなのですが、訪れるだけでも一苦労のこの場所に、この店を訪れるためにだけにバスクを目指す美食家が後をたたないと言われています。ちなみに2018年度の『世界ベストレストラン50』では10位にランクイン、数カ月先まで予約の埋まる、名実ともに世界屈指の名店でもあるのです。
そして現在、その『Etxebarri』でオーナーシェフ、ビクトル・アルギンソニスの右腕として活躍するのが今回の主役、前田哲郎氏。
2013年から同店で働き始め、今では店の2番手として焼き場を仕切る前田氏。ほぼすべての料理を、薪を熱源とする同店で、焼きを任されるこのポジションがいかにシェフの信頼を得ているかは推して知るべし。長く同地に暮らし、水と緑、景色に空気と隅々まで土地の環境を理解したことでビクトル氏の考えを体現できる、稀有な存在こそが前田氏というわけです。
さらに近年、前田氏が知人や友人をもてなす際にイベント名的に使用していたのがEtxebarriと自らの名前をもじった『tetxubarri(テチュバリ)』。自宅などに旧知の友を招き、『Etxebarri』では出せない希少食材や珍しい料理を振る舞ってくれるというイベントの噂は、食通の間で話題になるほど。そして今回、金沢から車で1時間の山奥に開かれた期間限定レストランの名も同じく『tetxubarri』だったのです。
そう、勘のいい読者であればすでにお気づきかもしれませんが、前田氏は今夏凱旋帰国。それに伴い金沢の山奥に突如姿を現し、儚く消えたポップアップレストランこそが『tetxubarri』! 世界中から称賛を集める『Etxebarri』のエスプリを感じさせ、さらに金沢という自らの故郷で『tetxubarri』を行った前田氏に、ONESTORYはイベント前とイベント中、二度に亘りインタビューをさせていただきました。
そして奇跡のような7日間を体験。世界で活躍するシェフ・前田哲郎は生まれ育ったこの地に何を思うか? じっくり話を伺いました。
日本ではなく、あえての金沢。そこには氏が料理を作る上でもっとも大切にする根源が静かに流れていたのです。
テチュバリ同郷というキーワードがイベント実現の原動力に。
まずは、tetxubarriの意味・内容について伺うと、シェフ・前田氏の心の内はすぐに見えてきました。
「個人的に料理をするのがtetxubarri。今までも舞台はさまざま、依頼や要望があった際、やりたいと心が動いた時に不定期で行ってきました」
バスク語で“エチェ”は家、“バリ”が新しいの意味を持ち、そこに自らの名前・哲郎の頭文字Tを付けたイベント名は、“新しい自分”という意味を持たせたそう。
「ビクトルシェフにもレストランを出すならtetxubarriにしたいと言ったら勝手にやれと言われた。だから、それからは自分の料理を振る舞うイベント名になっているんです」
そう屈託なく笑う前田氏ですが、今回のイベント前までは実はtetxubarriの開催自体を渋っていたと言います。
「『Etxebarri』というレストランがそうであるように、土地への理解がないと成立しないのが僕の料理。何度かやってみてわかったのですが、正直バスク以外でtetxubarriをやる意味が見えなくなっていました」
たぶんこの人はとても純粋な人なのでしょう。料理を作るにはまずは深い部分での土地への理解が必須であり、それはその地に長く暮らさないと見えてこない。その地で育つ野菜を知り、家畜を育て、土地の水を使い、自分の視野の中だけで完結する料理の世界。ビクトルシェフの教えはもちろんですが、だからバスク以外で料理を振る舞うこと自体に体も心も拒否反応を起こし始めていたのです。
「いろいろと考えている時に、後押ししてくれたのが稲本さん。バスク以外でできるとしたらスペインに来るまで暮らしていた金沢だけなんですよね」
前田氏が名前を挙げた“稲本さん”とは外食産業の風雲児と言われ数々の話題店を世に送り出してきた稲本健一氏。株式会社ゼットンの創業者であり、現在、株式会社DDホールディングス取締役兼海外統括CCOとして世界を駆け巡る氏が、前田氏の背中を後押しし、今回のtetxubarri開催のプロデュースを担っていたのです。
「僕は夏の1ヶ月間、身体を空けただけ。日本に来るまでの間に、山奥の小屋探しに始まり、サービスを担当してくれた『TIRPSE』大橋直誉さんのアサイン、小屋の修繕、地元スタッフの声がけまでいろいろと手を回してくれていました」
実は前田氏と稲本氏は隣の中学出身という同郷同士。世界で戦うふたりであり、同じ金沢の水で育ったふたりだからこそ、土地を理解するという意味と、金沢でのtetxubarri開催が自然と結びつき、幻のようなイベントは実現へと大きく舵を切ることになったのです。
テチュバリ魂が呼び起こされるような薪料理とは?
「日本でtetxubarriが味わえる!」
大それた宣伝はしなくとも、その噂はSNSを媒介にまたたく間に広がり、7日間のイベントは告知後、すぐに満員に。それほどまでに期待を集める前田氏の料理とは一体どんなものなのか?
ひとことで言えばプリミティブ(原始的)。薪を使い、肉を焼き、魚を焼く。イベント期間で提供された料理は、ジビエあり、能登の魚あり、能登牛あり、日の仕入れによって日々姿を変えていきました。
「地元で育った楢の木を使うから意味があるのだと思います。遠くアラブからタンカーで運ばれたガスを使っても意味がない。それが僕の料理なんです」
真夏の炎天下、炎と煙に包まれながら焼かれた鹿は赤々と土地の滋味を称え、優しく火入れしたのどぐろはどこまでも儚く消えたその後、しっかりと余韻を楽しませる。その都度、鼻孔をくすぐるような山の香りこそ、薪を使う意味なのでしょう。
「人類がはじめて食べ物に火入れした調理がたぶん薪。だからかな、哲郎の料理は人として魂を揺さぶられる気がする」とは稲本氏。
「やらなくてもいいことは、やっちゃいけないこと。それはシェフにさんざん言われてきました。やらなきゃいけないことに気づいていないだけだ、とも」とは前田氏。
廃墟のような山小屋を7日間のためだけに改修し、ミシュラン史上最速で1つ星に輝いた『TIRPSE』オーナーの大橋氏がサービスを務めた7日間。金沢は元より全国各地から前田氏を手伝いに集結したシェフも多数。地元の農家や漁師、生産者たちもこぞって協力を惜しまなかったといいます。いつしかメニュー表の裏に記しはじめた協力者の名前はびっしりと裏面を埋め尽くすことに。その想いの籠もったメニュー表すらも、ジャズのセッションのように日々変わる前田氏の料理の前では意味をなさなかったといいます。だからメニュー表は使わない。それこそが、やらなくてもいいことは、やっちゃいけないことなのでしょう。この幻のメニューこそが前田氏の料理そのもの。土地への理解から生まれる料理とは、日々土地を感じて変化するもの。すべての関わる人の想いを詰めこんだ料理でありつつも、食べ手は本能の赴くままに味わえる料理なのです。
「知らなかった金沢がたくさんありました。感謝したいです」
そう笑う前田氏の今後……、それもまた本能の赴くままに。
1984年生まれ、石川県金沢市出身。地元にある父が経営するおばんざいバーを数年間手伝う。その後、金沢のとある店で、バスクの一ツ星『アラメダ』のシェフと出会ったことをきっかけに、料理の修業未経験のまま食の都・バスクへ渡ることを決意。『アラメダ』で研鑽を積むと、『エチェバリ』で食べた料理の味に惚れ込み、修業を直談判。現在はオーナーシェフ、ビクトル・アルギンソニス氏の右腕を務める。
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自生する山野草を手摘みし、個性豊かなブレンドティーに。[tretre/高知県吾川郡仁淀川町]
トレトレ
その美しさから「奇跡の清流」と謳われる『仁淀川』の源流域に位置し、自然豊かな山間に広がる高知県吾川郡仁淀川町。この地に自生する草木を中心に、大地の恵みを独自の感性で配合した『摘み草ブレンドティー』を生み出しているのが、竹内太郎氏が代表を務める『tretre(トレトレ)』です。前編では、自然と寄り添う『tretre』のものづくりに迫ります。
トレトレそれは、山の味わいがたっぷり詰まった、和のハーブティー。
高知県と愛媛県の県境に広がり、水質日本一と謳われる『仁淀川』の源流に近い、高知県吾川郡仁淀川町。この地に暮らす竹内氏が率いるブランド『tretre』では、土地の恵みを生かしたお茶、『摘み草ブレンドティー』を製造・販売しています。
素材のベースとなるのは、その名のとおり摘み草。昔から山の暮らしの中で使われ、人々に親しまれてきた山野草です。この土地は気候条件がとても良く、交通量の多い幹線道路からも離れていて、空気が綺麗な場所。「例えば、ビワの葉は排気ガスを吸収することで苦味が出てしまうのですが、ここではその心配はありません。その辺に生えているヨモギも、安心して摘めますね」と竹内氏は話します。
また、勾配のきついこの土地では、同じ種類の山野草でも標高によって味わいが大きく変わるそうです。そんな気候条件や標高など、環境の違いによる風味の差を熟知している竹内氏は、ブレンドごとに摘む場所、摘み時を見極め、使い分けているといいます。
更に、町内の数ヵ所に自社園を設け、和ハッカなどのハーブ類を栽培。もちろん無農薬で、限りなく自然に近い状態で育てられています。これらを山野草と混ぜ合わせることで甘味や旨味が増幅され、よりいっそう豊かな味わいのお茶となるのです。この自社園も標高別に設けられているだけではなく「ハーブは株ごとに香りや味わいが微妙に違います。そのため、色々比べて気に入った株を、1株ずつ分けて育てているんです」と竹内氏。細かいこだわりが光ります。
こうして、季節ごとに徹底的に吟味された自生の山野草と自家栽培のハーブ類などを組み合わせて生み出される、オリジナルブレンドのお茶の数々。それは「日本のハーブティー」と称され、人気を呼んでいます。
トレトレ収穫からパッケージングまで全ての工程を手作業で行い、豊かな風味を実現。
『tretre』の工房があるのは、仁淀川町の集落の一角。工房らしからぬ佇まいや立地は、元保育園だった建物を活用しているためです。
お茶の主原料となる山野草を集める作業は、竹内氏を含めた『tretre』のスタッフ3名の手で行われるのはもちろん、その時々に応じて地域に住む人々も手伝ってくれています。各所から持ち寄られた山野草は、この工房で丁寧に洗い、干され、断裁されます。そして、ブレンドは0.1g単位で行われます。ほんの少しの誤差も見逃せないほど、『摘み草ブレンドティー』は繊細な味わいなのです。
驚くのは、この工程が手作業で行われていること。収穫から茶葉への加工、ブレンド、更にはティーバッグに詰めてパッケージングするところまで全てです。竹内氏曰く、「山野草から芳醇な風味を引き出すには、乾燥方法も都度工夫することが必要。葉っぱの断裁は機械に任せると画一的になり、味の出方が求めているものとは違うものになってしまいます。ブレンドは0.1g単位ですが、機械だと0.05~0.14gまで全て0.1gと認識されてしまう。数字で見るとわずかな差ですが、風味に与える影響は想像以上に大きいんです」と竹内氏は話します。理想を追い求めた結果、地道な手作業によるお茶づくりが確立されました。
トレトレ真骨頂は、飲まれるシーンに合わせたオーダーメイド。
和洋約50種類もの素材を組み合わせ、四季折々に多彩なバリエーションを展開している『摘み草ブレンドティー』。ヨモギと釜炒り茶、レモングラス、ペパーミントをブレンドした『mogi(モギ)』、ゆずの皮、しょうが、ほうじ茶、レモングラスをブレンドした『yellow(イエロー)』など、個性豊かなお茶が揃います。
こうした定番ブレンドは、自社のオンラインショップをはじめ、高知県内はもとより関西、関東地域の取扱店で購入できます。しかし、実は世に出ている『摘み草ブレンドティー』の大半はオーダーメイドとのこと。料亭や旅館が食事の席で出すお茶であったり、雑貨店や企業などがオリジナル商品として販売するお茶であったりするのだそうです。多方面から様々な依頼を受け、それぞれ独自のブレンドティーを提供しているのです。
特に料亭や旅館の場合、そのオーダーはかなり具体的かつ高度なものに。「濃い味わいの料理と繊細な味わいの料理の間に、一旦リセットするために飲むお茶」、「会席料理の食後に、胃にもたれないようさっぱりするために飲むお茶」など、コース料理のひとつとして楽しめる、存在感のあるお茶が求められます。「一歩も二歩も踏み込んで、料理との相性やそれぞれのシーンに応じた『この場面、この味』というオーダーに合わせてブレンドする作業は、お客様と一緒に作っているという感覚が強いです。時には仁淀川町で取れる素材だけではなく、お客様の地域の素材もブレンドしながら、ぴったりの味を追い求めます」と語る竹内氏。
こうして生まれた唯一無二の美味しさを誇るお茶が、人々の心を掴まないはずはありません。その評判は人づてにどんどん広まり、『tretre』には全国から依頼が寄せられています。
トレトレ新たに発見した自然の産物で作る、和のリネンウォーター。
2014年3月に京都から仁淀川町に移り住み、2015年6月から『摘み草ブレンドティー』を作り始めた竹内氏。しかし、この町の魅力、『tretre』の生み出す商品は、お茶だけではありません。この土地の暮らしになじみ、地域の人々との交流も深まった2016年、竹内氏は新たな天然の宝を見つけます。それが、『ヒノキ蒸留水』です。
『ヒノキ蒸留水』は、町内の木材生産・加工会社である池川木材工業が作る『ヒノキオイル』の副産物。まず、製材時に出るヒノキの端材を燃料に、大きな釜で仁淀川の水を沸騰させ、出てきた水蒸気でヒノキチップを蒸します。すると、その水蒸気には、ヒノキの成分がたっぷりと含まれるのです。それをまた仁淀川の水で冷却すると上下に分離し、上にはオイル分、下にはヒノキの香りや成分が入った蒸留水が生まれるのです。
様々な用途がある『ヒノキオイル』は製品化されているものの、『ヒノキ蒸留水』は需要がなく、そのまま流されていました。ところがある日、そんな現場を目の当たりにした竹内氏は、ヒノキならではの良い香りがするこの水に、新たな可能性を感じます。早速、自宅である古民家に持ち帰り、スプレーボトルに入れて家の中でシュッシュッ。すると、それまで悩まされていた古民家独特の臭いが和らいだのだそうです。
「それから、ヒノキの良い香りを生かしつつ、もっと良くならないかと、いろんな精油を混ぜてみました。特に、このあたりでは5月になると、清々しい森の香りの中にふと、穏やかなミカンの花の香りが漂うんです。その感じがすごく好きなので、最終的には柑橘系に絞って。高知県産の文旦や小夏も試しましたが、一番良い香りだなと思えたベルガモットに落ち着きました」と竹内氏。そうして、竹内氏が「朝もやのたちこめる森林で、フッと甘い柑橘の香りが鼻先をかすめてスッと引くような心地よさをイメージした」と言う、なんとも自然な芳香のルームミストが生まれました。
当初は自分たちで使用するに留めていたものの、周囲の後押しもあり商品化を決意。そこからは厳しいテストを何度も繰り返す日々が2年ほど続きましたが、高知県立大学の協力のもとで成分を分析、財団法人日本食品分析センターでその高い消臭効果を実証され、2017年8月に『によどヒノキウォーター』の名で発売されました。
トレトレ土地の恵みに新たな価値を見出し、地域に新風を吹き込む。
『によどヒノキウォーター』は正真正銘、『ヒノキ蒸留水』と香りづけの精油のみでできたもの。竹内氏のこだわりで、通常なら入れることの多い安定剤、アルコール、着色料、保存料、合成香料などはいっさい使用されていません。ケミカルフリー、エタノールフリーなので、化学物質特有の嫌な感じがなく、子供にもペットにも安心安全。部屋にも衣類にも車内にも気にせずシュッとかけられますし、肌に直接かかってしまっても心配はありません。にも関わらず、消臭力は抜群というから驚きです。
「多くの消臭剤は、科学的に嫌な臭いを香りや成分で包み込む『マスキング』という消臭方法が取られますが、時間が経つと臭いが戻る場合も。それに比べて『によどヒノキウォーター』は、臭い成分そのものを分解することで消臭するのです」と竹内氏。アンモニアやトリメチルアミンといった代表的な臭いに効くことが実証されており、暮らしのあらゆる場面で活躍してくれます。
地元では、個人の家庭はもちろん、飲食店や宿泊施設、介護施設、病院などで幅広く採用されているそうです。竹内氏が見出した新たな町の産物が、地域の人々の暮らしを豊かにしているのです。
次回の後編では、『tretre』が拠点とする高知県吾川郡仁淀川町の魅力や、竹内氏がこの地へ移住し『摘み草ブレンドティー』を開発するまでの経緯、地元の人々との交流について掘り下げます。
住所:〒781-1741 高知県吾川郡仁淀川町名野川27-1 MAP
電話:0889-36-0133
http://tretre-niyodo.jp/
高知県出身。高校卒業後は京都の大学に進学し、そのまま京都の老舗麺料理店へ就職。20年弱勤めた後、2014年3月に退職し、高知県吾川郡仁淀川町に移り住んだ。2015年6月には『トレトレ株式会社』を立ち上げ、『tretre』のブランド名で『摘み草ブレンドティー』の製造・販売をスタート。自生する草木やハーブを使う独自の味わいは、多方面から厚い支持を受けている。2017年8月には、ヒノキの蒸留水で作るルームミスト『によどヒノキウォーター』を発売。
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ロマン漂う廊下を巡らせた、極楽浄土へと続く名刹。[長谷寺/奈良県桜井市]
長谷寺日本の建築構造の最高峰であり、傑作。
真言宗豊山派の総本山である、奈良県桜井市の「長谷寺」。古くから多くの文化人が訪れる名所であり、有名な観光地として広く知られています。しかし、違った観点に立つと新たな魅力が見えてくる。その観点とは「登廊(のぼりろう)」です。日本は雨が多い気候から、壁や看板など何にでも屋根をつける特徴があります。柱を立てて屋根をつければ、東屋が出来る。中国から伝来した木造建築で、石造りの建築には見られない構造です。日本の建築構造の歴史には、廊下を巡らすというひとつの伝統があります。建物Aから建物Bを繋ぐ構造もあり、場合によってはジグザグしていることも。廊下は雨をしのぐことができ、周囲の景色も眺められ優雅。何よりロマンがあります。京都なら「大覚寺」の村雨の廊下、奈良「東大寺 二月堂」、岡山の「吉備津神社」の全長360mにも及ぶ廻廊も素晴らしい。しかし、傑作と言えるのがこの「長谷寺」。重要文化財にも指定されています。
長谷寺極楽浄土へ導く、美しき「登廊」。
重厚な「仁王門」をくぐると、「登廊」は百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれています。この「登廊」は長さ、大きさ、規模といい、造りといい、丁寧で実に美しいのです。階段を登りきると、そこには柱が見事な国宝の本堂が控えている。小初瀬山中腹の断崖絶壁に建つ、清水寺の舞台のような懸造りされた大殿堂で、遥か遠くの山の峰が見渡せます。本堂には高さ10mを超える国内最大級の本尊十一面観世音菩薩立像が安置されおり、威厳やパワーを感じさせます。例えば、「浄瑠璃寺」や「平等院」は「浄土」。「高野山」なら「須弥山」。「比叡山延暦寺」は「宇宙の中心」というように、寺や神社には色々な意味合いがあります。僕なりの解釈ですが、この「長谷寺」は古代の自然と深い信仰心とがひとつになった場所。登廊の長い階段を登り、本堂に立つと、観音様が待つ極楽浄土にたどり着いたように思える。外舞台から下界を見下ろすと、そこには完璧で純粋な世界が広がる。そう感じてならないのです。
住所:奈良県桜井市初瀬731-1 MAP
電話:0744-47-7001
入山時間:8:30〜17:00(4月〜9月)、9:00〜17:00(10月〜11月、3月)、9:00〜16:30(12月〜2月)
http://www.hasedera.or.jp
1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。
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生地そのものがデザインになる。伝統が最先端を奏でる。[小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA/福岡県北九州市]
小倉 縞縞一度は途絶えた伝統技術を、染織家の情熱が蘇らせた。
平面の写真からでもその風合いが伝わってくるかのような、なんとも繊細な縞模様の布地。
これは、江戸初期から豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)で袴(はかま)や帯などとして織られていた『小倉織(こくらおり)』を、現代のセンスと技術で復元・再生したブランド『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』です。
多用した経糸(たていと)が色のリズムを奏でるかのように、立体感あふれるたて縞を描く木綿布。その美しさと心地良さから、かつては日本全国で珍重されていました。
明治時代には、文明開化の波に乗って男子学生服の生地にも採用されました。ですが、非常に手間のかかる製法と熟練の職人技を必要とする工程のため、昭和初期の戦時下に一度は途絶えてしまいました。
それを甦らせたのが、染織家の築城則子(ついき・のりこ)氏です。数十年間忘れ去られていた『小倉織』を、偶然出会った布の断片から復元。2年近くも試行錯誤を繰り返し、その独特の美と製法を再生したのです。(後編はコチラ)
小倉 縞縞わずか10cm四方の端切れとの運命の出会い。
大学で文学を学んでいた築城氏は、能舞台に充ちている色と音の世界に惹かれて染織の道に入りました。そして大学を辞めて紬織(つむぎおり)を学び、勉強のためにと骨董店に通って世界中の布を見ていたところ、今まで見たことのない色合いと、触れたことのない感触の布と出会ったのです。
それは、わずか10cm四方の端切れでした。まさしく、途絶えてしまっていた『小倉織』だったのです。
「普通、織物は触れた時の感触から絹や木綿などといった素材がわかるのですが、それはなめし皮のような不思議な感触で、とても驚きました」と築城氏は振り返ります。
立体感のある縞模様と、それでいて、凹凸を感じさせないなめらかな手触り。普通の木綿はざらりとした素朴な感触ですが、その端切れは木綿とは思えないほどスムーズに肌の上を滑りました。
「しかも、私が生まれ育った小倉が産地だったんです。そこで350年以上も名を馳せながら、生産が途絶えてしまったことも初めて知りました」と築城氏。木綿でありながら絹と見まがうような底光りと、くっきりと冴えた縞。その全てに魅了された築城氏は、「自分の手で創ってみたい!」と一念発起して試作を始めました。
そして2年余りの試行錯誤を経て、1984年に見事に復元。ですが、築城氏が手がけていた草木染めの手織りでは、多くの人に愛用してもらうための量産は困難でした。「使い込んでこそ独特のなめらかな手触りになるのが小倉織の神髄。それを多くの人々に堪能してもらうには、機械化による量産しかない」――そう判断した築城氏は、汎用品としての機械織の研究を始めました。そして2007年に、ついに『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』を完成させたのです。
小倉 縞縞「美しい日常」を意識してもらうために、量産化できる機械織にした。
「小倉織を復元するにあたって、特に苦労は感じませんでした」と語る築城氏。小倉織の復元・再生に注ぐ熱い情熱ゆえかもしれませんが、やはりその過程は並大抵ではありませんでした。
まずは当時は誰も作っていなかった織物のため、製法の手がかりとなるのは残存する布だけでした。そこで組織分解などをして、小倉織の組成や工程を研究。中でも一番困難だったのが、経糸(たていと)の色だけが表れる小倉織の仕組みの解明でした。普通の織物は経糸と緯糸(よこいと)が組み合わさった色になりますが、小倉織はなぜか経糸の色だけが表れる。その仕組みを理解して、さらに、美しく織り上げる方法を確立することが大変だったそうです。
最初に出会った小さな端切れの中に凝縮されていた、凛とした縞の美しさ。とても丈夫なのになめらかという、かつて見たことのない特性。それらを量産できるように、築城氏は試行錯誤を重ねました。
そうして確立した製法のプロデュースを請け負ってくれたのは、築城氏の妹の渡部英子(わたなべ・ひでこ)氏が社長を務める有限会社小倉クリエーションでした。糸を先染めしてから織る。その糸による美しい縞のグラデーションと、複雑極まる織りを再現できる機屋(はたや)を探す。非常に困難だったこれらを実現すべく奔走しました。
小倉 縞縞伝統を受け継ぎながら、新しい時代の織物として復元。
『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』の美しい縞模様の秘密は、緯糸(よこいと)の3倍もの密度で使われている経糸(たていと)です。木綿らしからぬなめらかな手触りと、丈夫さとしなやかさも、この驚きの密度から生まれています。
普通の織物は経糸1:緯糸1の比率で織られていますが、『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』は経糸3:緯糸1の比率。60双(ろくまるそう)という細めの木綿糸を使い、1cm四方に経糸を60本も敷き詰めています。「糸の本数が多い生地はほかにもありますが、それらは糸が柔らかすぎたり、織りあがった生地があまり丈夫でなかったりします。丈夫でなめらかで、かつ、これだけの密度で糸を使用している織物は、あまりありません」と築城氏は語ります。
さらに糸を先染めしているので、美しい縞模様が両面に表れます。片面しか楽しめない織物が多いなか、これも『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』ならではの魅力となっています。
小倉 縞縞機械織とは言え簡単ではない。熟練の職人技がそのプロダクトを支える。
そんな『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』の実現には、熟練の職人技も欠かせませんでした。
約8,000本強もの糸を、なんと手作業で並べてから織ります。美しい縞を出すために、数本単位でグラデーションに並べていくという途方もなさ。一口に「機械化」と言っても1~2ヶ月かかる気の遠くなるような工程を経て、ようやく生地を織ることができるそうです。
さらに、いざ織り始めても糸が細いため、1時間に1本程度は切れてしまうそうです。これを手直しするのも熟練の職人技。この工程を担当できるようになるまでに、何年もかかるそうです。
また、機械織によって実現したのは量産化だけではありませんでした。手織りでは難しかった「広巾(ひろはば)」も作れるようになり、それをカーテン・クッション・椅子張りなど多彩な用途に拡大。国内外のインテリア業界から高い評価を受けただけでなく、ファッションの分野でも、ほかにはない特性を持った高品質な木綿という点から非常に注目されています。
「手でしかできないことがあり、機械だからこそできることがあり、その双方の結びついた着地点を志高く目指して制作をしていきたいと思っています」と築城氏は語ります。今の時代に即した新たな伝統として、『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』は生み出されたのです。
小倉 縞縞美しい縞模様に妥協はない。可能な限り自然な色合いを表現。
そして『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』の最大の魅力とも言える美しい縞のグラデーションにも、並々ならぬこだわりが秘められています。元となる築城氏の手織りは天然の染料で染められていますが、機械織りの色も、それに準じて染色職人が調合した染料を使用しています。「機械織りは自然の染料ではありませんが、可能な限り私の作品同様に自然の色に近づけてもらっています」と築城氏。機械化された量産品とはいえ、その色合いも風合いも、驚くほど手仕事の要素を再現しているのです。そうやって生み出された『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』は、多彩なグラデーションが独特の美を描いています。
小倉織の技法を継承しながらも、より現代的な汎用品として生まれ変わった『小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMA』。その評価は、意外なところから広がっていきます。次回の後編では、インテリアやファッションなどの多方面で注目されながら、世界のクリエイターたちとのコラボレーションを進めていく様を追います。
(後編はコチラ)
有限会社 小倉クリエーション
住所 : 福岡県北九州市小倉北区大手町3-1-107 MAP
電話 : 093-561-0700
営業時間 : 10:00~18:00 (本店)
定休日 : 水曜
http://shima-shima.jp/
写真提供 : 有限会社 小倉クリエーション
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眼前に広がる雄大な山々。おんせん県が誇る、国立公園内の絶景露天。[久住高原コテージ/大分県竹田市]
久住高原コテージ爽快感抜群! 鮮やかな緑のパノラマ。
温泉の源泉数・湧出量ともに日本一を誇る、おんせん県大分。県内には多種多様な温泉施設がありますが、中でも竹田市は日本一と名高い炭酸泉や広大なロケーションに心震える露天風呂、さらに登山をしないと辿り着けない温泉など、バリエーション豊か。四季折々の景色を交えながら、竹田市自慢の温泉施設を紹介します。
竹田市の中心部から車で走ること30分。山道を通り抜けた先に待っていたのは、どこまでも続く緑の草原でした。熊本県との県境にある竹田市久住町は、「阿蘇くじゅう国立公園」を有する自然豊かな地域。開放感のある絶景に感動しながらゆっくり車を走らせていると、放牧された牛たちがお出迎えをしてくれます。美しくのどかな風景に心癒されたら、車を停めてゆっくりと深呼吸。両手を広げ、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、目的地の宿へと向かいます。
久住高原コテージ訪れるものを楽しませてくれる自然の演出。
着いた先は日本百名山のくじゅう連山や阿蘇五岳に囲まれた場所にある「久住高原コテージ」です。360度の大パノラマを満喫できる贅沢な宿には、ここにしかないとっておきの露天風呂がありました。
大浴場の名前は、美しい眺望を想像させる「満天望温泉」。期待に胸を膨ませて中へ入ると、内湯の湯気で曇ったガラス窓の向こうにうっすらと緑の大草原が映っていました。露天風呂の扉を開けた瞬間、待っていたのは果てしなく続く大自然のパノラマビュー。褐色の湯には空の青が反射し、キラキラと輝きます。思わず感嘆の声を上げると、次々に露天風呂へと入ってくる人たちもまた同じように感嘆の声を上げるのでした。まさに絶景に浸かっているような贅沢なひととき。頰をかすめる心地よい風とぬるめのお湯は長湯にもってこいで、移ろいゆく景色をずっと眺めていられるのです。
どのくらい浸かっていたのか、そろそろ出ようとしていると「夕陽を見らんで出るなんかもったいない!」と地元のおばあちゃんが教えてくれました。夕刻に茜色に染まる空と山々を、湯に浸かりながら見ることこそが「満天望温泉」の醍醐味なのだそう。日が落ち始め、刻々と表情を変える空。幻想的な光景に時を忘れて浸かってしまいました。
久住高原コテージ九州屈指の星空露天。
「久住高原コテージ」の温泉をもっと楽しむならば、立ち寄りよりも宿泊がオススメなのだと支配人は話します。その理由は、深夜0時まで入浴ができる家族風呂があるからです。
大浴場に隣接する内湯と露天を備えた3つの家族湯。内湯と露天は続いていて、窓を開けるとひと続きで外に出ることができました。大浴場のにぎやかな雰囲気とは異なり、掛け流しのお湯が流れる音と虫たちの声しか聞こえない静かな空間。23時、夜の闇が深くなった久住の町には満天の星空がきらめいていました。
九州でも屈指の美しさと言われる星空の下で温泉に浸かる。これこそが宿泊した人だけが見ることができる特権なのです。時折流れる流れ星に歓喜しながら、あっという間の50分。記憶に残るひとときを過ごすことができました。
秋には紅葉とススキ、冬の早朝は雲海。季節はもちろん、朝昼晩と時間帯によっても様々な表情を見せてくれる久住の風景。訪れるたびに異なる景色を楽しめることから、「久住高原コテージ」には1万5000人ものリピーターがいるのだそう。その日その時間にしか出合えない、一期一会の入浴体験をぜひ。
住所:大分県竹田市久住町久住高原天空の丘820 MAP
電話:0974-64-3111
営業時間:9:00〜18:00
入浴料:大人600円、小人400円、家族風呂1,600円(50分)
宿泊料:9,971円〜、テントサイトは3,780円〜
https://www.kujukogen.com
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徳吉洋二シェフが、鳥取に凱旋。料理人の目で見た故郷、その胸に湧いた思いとは?[DINING OUT TOTTORI-YAZU with LEXUS/鳥取県八頭町]
ダイニングアウト鳥取八頭昨年の『DINING OUT』を成功に導いた徳吉洋二シェフが、再び登場。
2018年6月某日。イタリア・ミラノに店を構え名声を得た徳吉洋二シェフが、久しぶりに生まれ故郷の鳥取に帰ってきました。目的は『DINING OUT TOTTORI - YAZU with LEXUS』の食材視察のため。生産者の元を巡り、知られざる逸品を見つけ出し、それを元にアイデアを練り、自身の料理に落とし込む。その長い道のりの第一歩が、この視察なのです。
とはいうものの、やはり馴染みある地元だからでしょう。視察の旅は真剣ではあっても終始なごやか。馴染み深い地元で、徳吉シェフは何を見つけ、何を感じたのか。一度、距離を置いてから故郷を見つめることで、そこに新たな発見があったのか。その思いのほどを伺いました。
ダイニングアウト鳥取八頭方言まじりで交わされる会話に、温かい思いが宿る。
「たとえば郷土料理なら、表面的な素材やレシピではなく、なぜこれが生まれたのか、なぜこういう形になったのか、という起源や過程を考えます。そういったトラディショナルを理解した上で、そこから発展させた新しい料理を生み出していきたい」徳吉シェフの料理観はそんな言葉に集約されます。
徳吉シェフが目指す料理は「クチーナ・イタリアーナ・コンタミナータ(混成されたイタリア料理)」。それはイタリア料理と日本や他国の料理との表面的な“融合”ではなく、より根源的な、食文化や伝統までを踏まえた上での“混成”のこと。だからこそ徳吉シェフは、土地の伝統を紐解き、生産者の思いに耳を傾け、自身の足で野山を歩き、可能な限りの情報を仕入れるのです。
そして自身の生まれ故郷であるというアドバンテージは、この「土地を知る」ことに大きく役立ちました。記憶の中にある思い出、血肉となっている鳥取の水と空気。生産者の元を訪ねても
「僕、(鳥取市)鹿野の出身なんですよ」
「おお、そうか!」
という会話が度々交わされます。そしてその会話をいとぐちに「ならこれ知ってるか?」「これちょっと食べてみな」という話が広がるのです。地元の人にしかわらかないような方言で話し、笑い合うシェフと生産者の姿を見ることもしばしば。そうして生産者の思いを深く受け止めながら、シェフは熱意もいっそう高まります。
「鳥取ってすごいところなんだ!と、都会の方々だけではなく、地元の人にも改めて知ってほしい」徳吉シェフは本番への思いをそう語りました。
ダイニングアウト鳥取八頭料理人として歩く鳥取、新たな発見と湧き上がるアイデア。
生まれ故郷とは言っても、かつて子供時代や一人の青年として見た鳥取と、いま料理人として見る鳥取は、きっと異なることでしょう。今回の視察でもさまざまな新発見があったようでした。
たとえば鹿肉を扱う『わかさ29工房』を訪れたときのこと。鳥取県は鹿肉などのジビエ利用量で、北海道に次ぐ国内第2位。しかし加工されるジビエのほとんどは、首都圏などに出荷されて県内での利用は少ないといいます。
「北海道のエゾシカは冬を越えるために脂を蓄えますから冬が旬。一方こっちの鹿は食べたものがそのまま身になりますので、春先から徐々においしくなって夏から初秋がピーク」河戸健社長のそんな話に熱心に耳を傾けていました。
さらに実際に見せてもらった肉を前にすると「最高ですよこの肉。フィレなんてキレイな赤で鮪かと思うほど」と興奮気味。帰り際にはハンター歴50年の河戸社長に「今度狩りに連れて行ってください」と頼みこむほどの入れ込みようでした。
あるいは湖山池のシジミ漁師・邨上和男(ムラカミカズオ)氏の船に乗せてもらった際は、自ら籠の引き上げにも挑戦。同じ池の中でも場所によって色が異なるシジミを興味深そうに眺める徳吉シェフ。同郷の若者に冗談を交えながらシジミ漁をレクチャーする邨上氏。そのいかにも楽しそうな笑い声は、湖岸にまで届いていました。
『大江ノ郷自然牧場』では平飼いの鶏を見学し、その産みたての卵を試食。無農薬栽培にこだわる『田中農場』では、土の力を活かした米作りについて学びました。『陣構茶生産組合』では名人・橋井恭一氏から紅茶づくりの行程を学びました。『あおぞら農園』で採れたてビーツを味わえば「味にミネラルがあります。ぬか漬けにしたら最高」と評し、400年続く『日光生姜』を前にすればイタリアンへの取り入れ方を考える。新発見と再発見、そしてシェフ自身の中にある土地への愛着。それらがすべて混じり合いながら、さまざまなアイデアが徳吉シェフの中で浮かんだ様子でした。
懐かしい再会もありました。ペアリングの酒を探して訪れた『谷本酒店』は、若き日の徳吉シェフがアルバイトの道すがら頻繁に通った店。「フランスワインとドイツワインについて、この店で教えてもらいました」というシェフの言葉に応え、出迎えた谷本暢正氏も秘蔵の酒を惜しみなく試飲させてくれました。徳吉シェフも「この酒に何が合うか改めて考えたい。課題ができました」とさらに火がついたようでした。
ダイニングアウト鳥取八頭斬新な発想の源は、土地への深い理解と生産者への敬意。
徳吉洋二シェフは多くの場合「天才型」と評されます。ある種のひらめきにより料理の全体像が頭に浮かび、そこにパズルのように食材を当てはめる。確かにそういう側面はあることでしょう。しかしその“ひらめき”の裏には鋭い観察眼と生産者や食材へのリスペクトが潜んでもいるのです。その土台があるからこそ、ひらめきはただの空論ではなく、明確な輪郭と芯を持つアイデアとなるのです。
八頭町の『井尻農園』でバイケミ農業(竹肥料栽培)のトマトに出合ったときのこと。「イタリア料理にトマトは必須ですから、これは必ず使います。ただこんなに良いトマトを当たり前の使い方ではもったいない。もっと素材を感じる使い方を考えます」と徳吉シェフ。通常は捨ててしまう葉や脇芽の香りや食感まで確かめながら、その頭にはすでにアイデアが浮かんでいたことでしょう。
『オズガーデン』の葡萄の木も、徳吉シェフにインスピレーションを与えました。ここで目にしたのは、樹齢40年の一本の葡萄の木が見渡すかぎりに枝を伸ばす驚くべき光景。パワースポット・鳥取を象徴するようなこの眺めを前に、すでにシェフの頭には料理の輪郭ができあがっていたようでした。
「いろいろな生産者の元を訪れて思ったのは、皆さん条件づくりに真剣に取り組んでいること。条件がきちんとできていればおいしいものはできあがります。それはレストランも同じだと思います」徳吉シェフは今回の視察をそう振り返りました。生産者の思いをしっかりと受け止めたからこその言葉。その食材を使わせてもらうこと、おいしい料理でゲストに届けることが、徳吉シェフが常々語る「料理人の責任」なのです。
「僕がいた頃は東京までの飛行機が1日3便、新幹線はもちろん、高速道路もありませんでした。とくに八頭町は決して観光地ではありません。しかしだからこそ、土地の力、人の力がはっきりと見える場所でもあります。その魅力をどう伝えていくかが課題」と徳吉シェフ。真剣な言葉ではありますが、その顔には、まるで自分の宝物を誰かに見せる子供のような、明るい表情が浮かんでいます。「大好きな鳥取のPRですから。ワクワクした気持ちでいっぱいです」。
世界を沸かせるシェフの技と発想、そして地元愛が詰まった史上初の「凱旋ダイニングアウト」は、果たしてどんな驚きを届けてくれるのか。開催はいよいよ目の前です。
『Ristorante TOKUYOSHI』オーナーシェフ。鳥取県出身。2005年、イタリアの名店『オステリア・フランチェスカーナ』でスーシェフを務め、同店のミシュラン二ツ星、更には三ツ星獲得に大きく貢献し、NYで開催された『THE WORLD'S 50 BEST RESTAURANTS』では世界第1位を獲得。 2015年に独立し、ミラノで『Ristorante TOKUYOSHI』を開業。オープンからわずか10ヵ月で日本人初のイタリアのミシュラン一ツ星を獲得し、今、最も注目されているシェフのひとりである。
Ristorante TOKUYOSHI
http://www.ristorantetokuyoshi.com
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ハム、ハム、ハム、ハム…。これでもかと自家製ハムで攻め立てる。不器用シェフの特化型イタリアン。[IL COTECHINO/山形県山形市]
イルコテキーノOVERVIEW
「山形にウチのハムのお師匠がいる。絶対に行った方がいい」。そんなあるシェフの推薦から、取材のためにアプローチを開始したのが、今回ご紹介する『IL COTECHINO』です。
ちなみにご推薦頂いたシェフとは、山田宏巳氏です。そうです、'90年代イタ飯ブームを巻き起こし、冷たいトマトのカッペリーニや4代目徳次郎天然氷のかき氷など、型にはまらないスタイルで、今なお日本イタリア料理界を牽引(けんいん)する重鎮です。
『リストランテ ヒロ』や『ヒロソフィー』など、数々の名店を生み出してきた山田氏が2018年4月、自身の集大成という位置づけでオープンしたのが南青山にある『テストキッチンH』。連日連夜、盛況を極める同店にあってひとつの象徴的なメニューこそが、自家製のハムなのです。
『ONESTORY』編集部が同店でハムを味わい、感動し、話をうかがい、行きついたのが今回のお話。イタリア料理の巨匠がスタッフを弟子入りさせてまで扱いたかったハムの源へ。それこそが6年にも及ぶイタリア修業で独自のスタイルを開花させた『IL COTECHINO』の佐竹大志氏なのです。
今回はハム尽くし。ハムを味わうためだけに、訪れてほしい山形の1軒です。
住所:山形県山形市七日町4-1-32 松源ビル 1F MAP
電話:023-664-0765http://ilcotechino.com/






