コンビニが撤退危機だった人口減の町に、8年で25の店がオープン。「通るだけのまち」を「行きたいまち」に変えたものとは? 長崎県東彼杵町

自分の暮らすまちで「その地域は人が減っているから、あなたの仕事はもう続けていけないよ」と言われたら、いったいどうするだろう。場所を変える、仕事を変える、撤退する……などいろいろ選択肢はあるけれど、地域に訪れる人を増やそうとする人は、そう多くいないのではないだろうかと思う。

長崎県東彼杵(ひがしそのぎ)町は旧千綿(ちわた)村と彼杵町が合併してできた、人口約7700人の町。過疎の進む一方だったこのまちに、近年新しいお店が続々とオープンし、活気を取り戻している。8年間で新しいお店が約25店舗オープン。50人以上が移住し、交流拠点「Sorrisoriso(ソリッソリッソ)」は、年約2万7000人が訪れる場所に。
一体ここで何が起きているのだろう?現地を訪れて話を聞いてきた。

(写真撮影/藤本幸一郎)

(写真撮影/藤本幸一郎)

「まちづくりの鍵は自営業者にある」

東彼杵町は、大村湾を望む山に一面にお茶畑が広がる、海と山に囲まれた美しいまち。長崎から観光スポット、ハウステンボスへ向かう通過点にすぎないと言われてきたこのエリアに、近年、若い人たちが集う小さな店がいくつもできている。

その中心が、元JA(農業協同組合)の米倉庫を改修してできたまちの拠点「Sorrisoriso」だ。

まちの拠点「Sorrisoriso」外観。2013年には解体予定だった建物。今は県の「まちづくり景観資産」に登録されている(写真撮影/藤本幸一郎)

まちの拠点「Sorrisoriso」外観。2013年には解体予定だった建物。今は県の「まちづくり景観資産」に登録されている(写真撮影/藤本幸一郎)

Sorrisorisoの内観。中には珈琲店「ツバメコーヒー」と、お隣に地産品として有名なそのぎ茶の試飲ができる体験型のショップ「くじらの髭」が入っている(写真撮影/藤本幸一郎)

Sorrisorisoの内観。中には珈琲店「ツバメコーヒー」と、お隣に地産品として有名なそのぎ茶の試飲ができる体験型のショップ「くじらの髭」が入っている(写真撮影/藤本幸一郎)

今、Sorrisorisoの周囲にはフレンチレストラン「Little Leo(リトル・レオ)」、アンティークと古着の店「Gonuts(ゴーナッツ)」、障がい者がデザイン製作した雑貨やアート作品を販売する「=VOTE(イコールボート)」などの店ができている。

車で数分圏内には、オーガニック食の「海月(くらげ)食堂」、洋食料理人が作る鶏魚介ラーメン専門店「多々樂tatara(タタラ)」、雑貨屋「きょうりゅうと宇宙」などポップで楽しそうな店が、ここ数年の間に続けてオープン。県内外から若い人や、感度の高いお客さんが訪れるエリアになっている。
各店のオーナーはIターン者や地元の若手、Uターン者とさまざま。

元はコインランドリーだった建物に入る「=VOTE」(写真撮影/藤本幸一郎)

元はコインランドリーだった建物に入る「=VOTE」(写真撮影/藤本幸一郎)

アート作品やプロダクトが並ぶ「=VOTE」の店内。VOTE代表の坂井佳代さん(右)(写真撮影/藤本幸一郎)

アート作品やプロダクトが並ぶ「=VOTE」の店内。VOTE代表の坂井佳代さん(右)(写真撮影/藤本幸一郎)

とくに大きな資本が入って再開発が行われたわけではない。

Sorrisorisoを運営する、一般社団法人「東彼杵ひとこともの公社」代表理事の森一峻(もり・かずたか)さんは、地域の活動に取り組む中で、あることに気付いたという。

それは、「まちづくりの鍵は自営業者にある」というもの。

「自営業者にとって、まちに活気があるかどうかは自分の店の経営にダイレクトに影響します。だからまちのことも自分ごととして捉えることができる。同じベクトルをもてる自営業者同士がコミュニティをつくれば、まちの活動が盛んになると思ったのです」

森さん自身が旧千綿村に生まれ育ち、5年半ほど県外で働いた後、24歳でUターンして家業のコンビニエンスストアを継いだ地元の自営業者である。

森さんはLINEグループなどを使って、まちの自営業者同士が支え合うゆるやかなコミュニティをつくり、Sorrisorisoを中心に新しい店を増やす取り組みを始めていった。

フレンチレストラン「Little Leo」店内(筆者撮影)

フレンチレストラン「Little Leo」店内(筆者撮影)

鶏魚介ラーメン専門店「多々樂tatara」の「そのぎ茶つみれラーメン」(写真撮影/藤本幸一郎)

鶏魚介ラーメン専門店「多々樂tatara」の「そのぎ茶つみれラーメン」(写真撮影/藤本幸一郎)

雑貨屋「きょうりゅうと宇宙」、小玉一花さん(筆者撮影)

雑貨屋「きょうりゅうと宇宙」、小玉一花さん(筆者撮影)

新しい店を支援する「パッチワークプロジェクト」

まずはSorrisorisoで、起業したい人が小さく自営業を始めることのできるしくみ「パッチワークプロジェクト」をスタートさせる。

うまくいくかどうかわからない中で店を構えて商売を始めるのはハードルが高いもの。そこで、まずは試験的にSorrisoriso内のスペースを貸して商いを始めてもらい、お客さんがついたら独立してもらう。開業の養成所のような役割を果たす。

さまざまなカラーの店がSorrisorisoに集い、卒業した後もまちを彩る。その様を布のパッチワークに例えた。

「とくにIターンで外から入ってきた人たちには、新しい土地で商売を始めるのは難しいと思うんです。そこで僕たちが間に入って、このエリアへ出店する場合はすべて無償で移住を含めたサポートをします。空き物件を紹介したり、情報発信をしてお客さんとつないだり。名前やロゴを一緒に考えることもあります」(森さん)

一般社団法人東彼杵ひとこともの公社の代表理事、森さん(写真撮影/藤本幸一郎)

一般社団法人東彼杵ひとこともの公社の代表理事、森さん(写真撮影/藤本幸一郎)

筆者が初めてSorrisorisoを訪れたのは、2018年の夏だった。この時は「Tsubame coffee(ツバメコーヒー)」のほかに、古着やアンティークを置く店「Gonuts」がSorrisorisoで営業していた。その後「Gonuts」は独立して近くに店をオープン。

筆者が訪れる以前に、Sorrisorisoで営業していた「海月(くらげ)食堂」や「千綿食堂」はすでに独立していて、海月食堂は近くの元製麺工場を改装してオーガニックカフェレストランをオープン、千綿食堂は駅で営業していて人気があった。

そんなふうに、パッチワークプロジェクトを通して、新しい店がいくつも東彼杵町にできてきたのである。

勢いのあるエリアだという印象が広まると、佐世保市内で営業していた飲食店が、こちらへ移転してくるなどの動きも起こり始めた。

新しいお店ができる過程が自営業者のコミュニティ内で情報共有され、地元で応援する構図がSorrisorisoを中心にできていった。

例えば、フレンチレストラン「Little Leo」が千綿に移転してきた際には、みなで歓迎し、リノベーションを手伝ったのだそうだ。

フレンチレストラン「Little Leo」のリノベーション前、地域の方々や手伝ってくださる方に森さんやレストランオーナーの宮副(みやぞえ)シェフがSorrisorisoにて説明会および交流会を開催した時の様子(写真提供/くじらの髭)

フレンチレストラン「Little Leo」のリノベーション前、地域の方々や手伝ってくださる方に森さんやレストランオーナーの宮副(みやぞえ)シェフがSorrisorisoにて説明会および交流会を開催した時の様子(写真提供/くじらの髭)

地域のみなで空き家のリノベーションを手伝った(写真提供/くじらの髭)

地域のみなで空き家のリノベーションを手伝った(写真提供/くじらの髭)

「Little Leo」オープン前日のパーティー。お手伝いした人や知人を含め大勢が集まり、翌日からのオープンを祝った(写真提供/くじらの髭)

「Little Leo」オープン前日のパーティー。お手伝いした人や知人を含め大勢が集まり、翌日からのオープンを祝った(写真提供/くじらの髭)

地元の自営業者たちがサポートしてくれるとなれば、よそから移住してお店を始める人たちにとっても、どれほど心強いか。

「Iターン者の存在は、閉鎖的な町に刺激を与えてくれるなど、まちに新しい風を吹き込む意味で重要です。ただしそれを迎え入れて活躍する場を用意するUターン者や地元の人たちに関心をもってもらうのも大切。自営業者が集って楽しみながらまちの活動も進めていることで、お店だけでなく、ライターやカメラマンなどクリエイティブな仕事をする人たちも集まってきています」(森さん)

さらに地元の人がお店を新しくオープンするなど、相乗効果が生まれていった。

Sorrisorisoの裏手の道には、お店案内の看板も出ている。それほど店がありそうでない場所に店がある(筆者撮影)

Sorrisorisoの裏手の道には、お店案内の看板も出ている。それほど店がありそうでない場所に店がある(筆者撮影)

閉店勧告を受けた時、後退せずに「攻め」で進んだ

森さんがSorrisorisoを立ち上げたきっかけは、実家のコンビニエンスストア(八反田郷店)を父から引き継いだ翌年、本社から受けた勧告だった。2012年のことである。

「このままでは八反田郷店は閉めるか、ほかのエリアに移すしかない、と本社から宣告されたのです。普通なら店を閉じて後退するところなんでしょうけど、父が始めた地元店をなくすことは考えられなかった。借金背負ってでも前進しようと。翌年、八反田郷店をリニューアルした上に、資金繰りのためさらに新しい店舗を隣の川棚町でも始めて、同時にSorrisorisoをつくる動きを始めました」

この時、森さんが痛感したのは、「自分の店だけでなく、エリア全域が活気づかなければ店の継続は難しい」ということ。

コンビニは、地方ではもはやインフラである。宅配やATM、買い物など生活を支える機能は、それはそれでまちにとって大事。

それでも、森さんは、コンビニのもつ限界も同時に感じてきたと話す。デジタルマーケティングによって絞り切った商品のみを投下する、合理性の極みのようなビジネスと、Sorrisorisoで始めた、地域性や文化的な要素を大事にしながら自営業を支援する展開は、まるで方向性がちがう。

「コンビニも大事ですが、それを目指してよそからお客さんが来るというふうにはなりませんから」

地域性や人、文化を大事にする商いは、効率はよくないかもしれないけれど、持続的に地元の人たちに愛され、土地の個性を発揮する武器、キラーコンテンツにもなりえる。地域性のあるお店を大事にすることが、長い目でみれば、地域の大きな価値になる。

森さんのそうした考え方が、Sorrisorisoをはじめとする展開のベースにある。
Sorrisorisoでも、地元のそのぎ茶を試飲できたり、活版印刷機を展示していたり。地域性や文化を前面に打ち出した展開は、その後開発した「くじら焼き」にも広がっていった。

全国茶品評会で連続日本一となった地産品、そのぎ茶を店内で試飲できる。(写真撮影/藤本幸一郎)

全国茶品評会で連続日本一となった地産品、そのぎ茶を店内で試飲できる。(写真撮影/藤本幸一郎)

森さんには、生まれ育った旧千綿村の原風景がずっと頭にあった。

「昔、千綿の浜はいつも漁師さんたちでにぎわっていました。朝が早いので、昼には漁から戻った人たちが、漁港や浜でわいわい飲んでいて。

僕が8歳の時、浜でゴミを燃やしているところへスプレー缶を投げ入れて、爆発して大やけどしたことがあったんです。この時、浜にいた大人たちがすぐに僕を海に放り込んでくれたおかげで、一命をとりとめました。全身包帯でぐるぐる巻きにされて数カ月入院したのですが、危なかったと言われました。

つまり、浜に人が居たから助かったんです。あの浜の風景が自分にとっては大事。もう当時の方々は亡くなったりしているので、地域に恩送りしたい気持ちが強いんです」

元は浜だった場所が今は小さな魚港になっている(写真撮影/藤本幸一郎)

元は浜だった場所が今は小さな魚港になっている(写真撮影/藤本幸一郎)

コロナの状況下で目を向けた、地元の老舗店

2015年から2020年の5年間は、外から訪れる人の移住支援や、20~40代など若い人たちの新規起業を中心に、自営業者のコミュニティを育ててきた。だが2020年のコロナ禍によって、事態が変化。
地元に古くからある自営業者を応援しようという動きにシフトする。

森さんたちは、ひとこともの公社で運営する「くじらの髭」というウェブサイトで、地元企業30社近くを取材し、情報発信をしていった。取材の過程で、森さん自身も地元の店のことを改めて知ったのだと話す。

「例えば割烹懐石料理を楽しめる、創業96年の栄喜屋さん。美味しい店だとは思っていましたが、大将が若いころ、京都の老舗で修行されたと取材で初めて知って。鰻の炭火焼きのタレを、創業者でオーナーのおばあさんにあたる“おるい”さんが防空壕にまで持ち込んで守り抜いてきたタレであるってことも知ったんです」

そうした諸々を知って初めて「おるいさんのストーリーをアピールした方がいい」「この写真を活用するといいのでは」といったアドバイスをするような関係に。

創業96年の栄喜屋の歴史を感じさせる写真。創業者は、大将の祖母にあたる方で、森ルイさん、通称「おるい」さん(写真提供/くじらの髭)

創業96年の栄喜屋の歴史を感じさせる写真。創業者は、大将の祖母にあたる方で、森ルイさん、通称「おるい」さん(写真提供/くじらの髭)

もう一つ例を挙げると、同じく旅館兼老舗の料亭「若松屋」さん。コロナ禍でくじらカツ弁当を販売することになり、お弁当のパッケージデザインの制作に森さんが入り、地元のデザイナーとつないで、若い人にも訴求しそうなデザインに仕上げたのだそう。これが若松屋のリブランディングにもつながった。

くじらカツ弁当(写真提供/くじらの髭、撮影/小玉大介)

くじらカツ弁当(写真提供/くじらの髭、撮影/小玉大介)

森さんたちと話したのがきっかけで、お店の側でSNSも活用し始め、コロナ禍が落ち着き県外からもお客さんが訪れるようになり、すっかり繁盛しているのだとか。

この時期、こうした老舗料理屋のオーナー同士がSorrisorisoに集まった時のこと。「初めて会った」とお互いが言い合っているのを聞いて森さんは驚いたのだそう。

「何十年もこの小さなまちで同業でやってきて、組合に属していても、会ったことがないんだなって。そういう機会がないんですね。みんなその場で一緒に弁当食べたりして、さっそく仲良くなっていました」

Sorrisorisoのような「まちの拠点」があると、内外から人が集まってくる。外からふわっとやって来る人たちを、森さんたちが適材適所に導く。ただそれだけでなく、元々いたまちのプレイヤーもここを介して知り合い、新たな共同の動きを始めている。地元の民間事業者同士のつながりも強くなり、外の人を受け入れる土壌ができているのだ。

地域の文化に目を向ける さらなる展開の広がり

これまでの取り組みが評価され、2020年には九州電力との協業もスタート。2022年には新たに複合施設「uminoわ」がオープンした。

「uminoわ」外観。コインランドリーをはじめ、喫茶「CHANOKO」、服のお直しをしてくれる縫製場、子どもの遊び場、観光案内所といった機能が内包され、たい焼きならぬ「くじら焼き」を商品開発し、出張販売も行っている(写真撮影/藤本幸一郎)

「uminoわ」外観。コインランドリーをはじめ、喫茶「CHANOKO」、服のお直しをしてくれる縫製場、子どもの遊び場、観光案内所といった機能が内包され、たい焼きならぬ「くじら焼き」を商品開発し、出張販売も行っている(写真撮影/藤本幸一郎)

「くじらの髭」プランニングマネージャーの池田晃三さん(左)と、「CHANOKO(チャノコ)」のストアマネージャー兼ブランドマネージャーでありパティシエの中村雅史さん(右)(写真撮影/藤本幸一郎)

「くじらの髭」プランニングマネージャーの池田晃三さん(左)と、「CHANOKO(チャノコ)」のストアマネージャー兼ブランドマネージャーでありパティシエの中村雅史さん(右)(写真撮影/藤本幸一郎)

「uminoわ」内観(写真撮影/藤本幸一郎)

「uminoわ」内観(写真撮影/藤本幸一郎)

2022年秋には、ひとこともの公社が、「国土交通大臣賞 地域づくり部門」を受賞。

森さんは、今、さらに新たな会社を通して、人と人のつながりを東彼杵町の中だけでなく長崎県全域、ひいては九州に広げようとしている。各地に拠点をもつプレイヤーがつながり合うことで、お互いに協力し合ったり、情報交換したり刺激し合うことができる。

筆者が、全国で行われているさまざまなまちづくりの例を見てきて思うのは、地域に活気を取り戻そうとする行為は、とどのつまり、人と人のつながりを繋ぎ直すことに集約されるのではないかということ。

一度途切れてしまったつながりを地域内でつなぎ直すという意味もあるし、新しく入ってきた人と地元の人をつなぐ、地域をこえて外の人同士がつながり刺激し合う。
Sorrisorisoでの取り組みにはそのすべてが含まれていた。

東彼杵町の「ひとこともの」をつなぐ取り組みは、いまも続いている。

(写真撮影/藤本幸一郎)

(写真撮影/藤本幸一郎)

●取材協力
Sorrisoriso ひがしそのぎの情報サイト「くじらの髭」

【福島県双葉町】帰還者・移住者で新しい街をつくる。軒下・軒先で共に食べ・踊り、交流を 東日本大震災から12年「えきにし住宅」

東日本大震災から12年が経過した福島県双葉町では、次の双葉町を描き、新たな暮らしを築いていくプロジェクトが盛んに動いています。その中心拠点を担うのが、今回の取材先である「えきにし住宅」。双葉駅の西口を降りてすぐ目の前に広がる住宅街ですが、ただの住宅街じゃない。知れば知るほど暮らしを豊かにする工夫が散りばめられていて、歩いているだけでワクワク感があふれる新しいまちです。今回は設計を担当したブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さんと、現在「えきにし住宅」に暮らしている入居者2名の方に、住まいの特徴や魅力、暮らしてみた感想などをお話しいただきました。

さあ双葉町の未来をはじめよう

標葉(しねは)の谷戸(やと)に抱かれた、かつての農村風景を思わせるデザインえきにし住宅の全体イメージ(画像提供/ブルースタジオ)

えきにし住宅の全体イメージ(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

えきにし住宅の集会所・軒下パティオ(写真/白石知香)

えきにし住宅の集会所・軒下パティオ(写真/白石知香)

福島県の浜通りエリア、双葉町の双葉駅西側地区に2022年10月~オープンした「えきにし住宅」。2022年8月30日に福島第一原子力発電所の事故に伴う避難指示区域が解除され(※)、再び居住が可能となった「特定復興再生拠点区域」に新しく建設された公営住宅です。災害公営住宅30戸、再生賃貸住宅56戸からなる全86戸を建設するプロジェクトで、第2期工事が完了した現在(2023年7月)は30代のファミリー層から80代まで、多様な人たちが暮らしています。

※特定復興再生拠点区域については、一部2020年3月に避難指示が解除(えきにし住宅がある場所は2022年8月に解除)

えきにし住宅のオープンをきっかけに双葉町に移住された大島さん(写真/白石知香)

えきにし住宅のオープンをきっかけに双葉町に移住された大島さん(写真/白石知香)

もともと双葉町の町民で、えきにし住宅のオープンにともない双葉町に帰還された猪狩(いがり)さん(写真/白石知香)

もともと双葉町の町民で、えきにし住宅のオープンにともない双葉町に帰還された猪狩(いがり)さん(写真/白石知香)

「えきにし住宅」を歩いていると、いい意味で「公営住宅」らしくない高いデザイン性や、のびのびと暮らせる風通しのよさを感じます。その秘密は……?設計を担当したブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さんに話をうかがいました。

「このまちを故郷とされる方にとって、何が双葉町らしさなんだろう。どんな要素が『えきにし住宅』に必要なんだろうかと、地元住民の方との座談会を重ねながら、リサーチを行いました。その過程でたくさんのまちづくりのヒントを得たのですが、『標葉(しねは)』というキーワードにたどりついたんです。

双葉町の『双葉』って比較的新しい単語でして、明治維新までは、双葉町は相馬氏の領土である『標葉郡』として位置付けられていたんですね。そして地形を見てみると、山と丘の間に谷筋があり、その先に田んぼが広がっている。まさに日本の原風景ともいえる『谷戸(やと)』が、双葉町の象徴的な風景だと考えました。

浜通りという名前に引っ張られて、海によって発展してきたように感じるんだけども、実は海ばかりでなく温暖な気候に恵まれた山側の農村集落が栄えてきた歴史もある。実際に、『えきにし住宅』がある駅の西側地区は、豊かな谷戸のせせらぎの風景と田んぼが広がっていた場所なんですよ。そうした背景からも、遠方のなだらかな阿武隈山地を借景に、農村集落の情景を思わせる屋根の形や建物の連なりを、建築的なエッセンスとして取り入れています」

ブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さん(写真/白石知香)

ブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さん(写真/白石知香)

平屋で設計された一戸建住宅。屋根の雰囲気や、木材の表情など、どこか農家建築を思わせるデザイン(写真/白石知香)

平屋で設計された一戸建住宅。屋根の雰囲気や、木材の表情など、どこか農家建築を思わせるデザイン(写真/白石知香)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

「タウンハウス」と呼ばれるスタイルの集合住宅。住民同士のあいさつや気軽な交流が生まれるよう玄関が向かい合い、緑が多く気持ちのいい空間(写真/白石知香)

「タウンハウス」と呼ばれるスタイルの集合住宅。住民同士のあいさつや気軽な交流が生まれるよう玄関が向かい合い、緑が多く気持ちのいい空間(写真/白石知香)

玄関前にある縁側では、ここに座ってひと休みしたり、ご近所さんとお話したりと、いろんな過ごし方ができる(写真/白石知香)

玄関前にある縁側では、ここに座ってひと休みしたり、ご近所さんとお話したりと、いろんな過ごし方ができる(写真/白石知香)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

「現在は工事中なのですが、敷地の北側を流れる戎川(えびすがわ)のせせらぎのほとりにあるテラスでほっとひと息ついたり、駅前広場ではピクニックや趣味を楽しんだり思い思いの時間を過ごしたりと、えきにし住宅全体がひとつのまち、あるいは公園のような過ごし方ができる工夫をあちこちに取り入れています」(大島さん)

川のせせらぎに癒やされながら、ゆったりと過ごせる環境(写真/白石知香)

川のせせらぎに癒やされながら、ゆったりと過ごせる環境(写真/白石知香)

双葉駅を降りてすぐ広がる芝生の駅前広場。車両の出入りもなく、ここに集まる人がのびのびと過ごせる場所(画像提供/ブルースタジオ)

双葉駅を降りてすぐ広がる芝生の駅前広場。車両の出入りもなく、ここに集まる人がのびのびと過ごせる場所(画像提供/ブルースタジオ)

暮らす人の「なりわい」をシェアする

「えきにし住宅」の大きな特徴ともいえるのが、「なりわい暮らし」です。これは何かというと、暮らす人それぞれの個性的な生き方をみんなで分かち合う暮らし。例えば、料理をふるまってみんなで味わったり、ワークショップを開いてみんなとの交流を育んだり、自分の趣味をみんなで楽しんだり。ここで暮らす人が主体となって、自分の暮らしをより豊かに、より楽しいものにできる空間づくりがなされています。

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

すべての家の玄関には土間があって、絵を描いたり、ものづくりをしたり、またはそれを通りかかった近所の人にお披露目してみたり。

玄関入ってすぐに土間があり、靴を脱がなくとも気軽に住民同士が交流できるようになっている(写真/白石知香)

玄関入ってすぐに土間があり、靴を脱がなくとも気軽に住民同士が交流できるようになっている(写真/白石知香)

「軒下パティオ」と呼ばれる中庭では、ベンチでひと休みしたり、天候に左右されずにワークショップや出店が開けたりするようなオープンなスペースが広がっていたり。

高い屋根があり、日差しや雨を気にすることなく広々と過ごせる「軒下パティオ」(写真/白石知香)

高い屋根があり、日差しや雨を気にすることなく広々と過ごせる「軒下パティオ」(写真/白石知香)

「軒下パティオ」の一つに隣接するかたちで集会所があり、ここにも土間があったり、他にもキッチンや畳スペースが配置されていたりと、ここに集まる人たちが和気あいあいと交流できる場所が開かれています。

集会所で取材させていただいた時の様子。「どこで話します? じゃあ集会所にしましょうか」と、ふらっと行ける気軽なスペースで、いろんな使い方ができる(写真/白石知香)

集会所で取材させていただいた時の様子。「どこで話します? じゃあ集会所にしましょうか」と、ふらっと行ける気軽なスペースで、いろんな使い方ができる(写真/白石知香)

カフェやイベントが開かれるなど、暮らしを豊かにする時間が育まれている(写真/白石知香)

カフェやイベントが開かれるなど、暮らしを豊かにする時間が育まれている(写真/白石知香)

大島さんはこう話します。

「双葉町は、震災からおよそ11年もの間、残念ながら人が住むことのできない地域でした。それだけの空白の時間を経過した今は、もともと双葉町に住んでいた方が帰還されるにあたっても、また新しく双葉町に移住される方にとっても、未来の双葉町の暮らしをゼロからつくっていくくらいの『フロンティア精神』が必要だと考えたんです。そこには、帰還者も移住者もバックグラウンドの違いに関係なく、対等な立場で、ここに住まう仲間として、共に双葉町の未来を描いていくことが重要。だからこそ、一人ひとりの個性や生き方を住民同士でシェアし、交流が生まれる工夫を、建築にも盛り込みました。ゆくゆくは、住民同士の交流だけでなく、外から遊びに来た人と住民同士で、境界線をゆるやかに溶かしていくようなコミュニケーションが生まれていけばいいなと期待しています」

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

実はこうした「なりわい暮らし」の集合住宅のスタイルは、ブルースタジオでは4プロジェクト目となる事例(お店を開けるものもあるなど、プロジェクトによって“なりわい”の内容は異なる)。この5年ほどで首都圏を中心に、広島の民間賃貸や大阪の公営住宅でも「なりわい暮らし」の集合住宅を展開し手応えを得て、被災地の公営住宅では「えきにし住宅」が初の事例だそうです。

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「これまで」の暮らしが、「これから」の暮らしに受け継がれていく

「えきにし住宅」の全体像をご紹介したところで、実際に暮らしている方はどんなきっかけで「えきにし住宅」に入居し、どんな住み心地なのか。かつて双葉町在住で帰還された方、新しく双葉町に引越しされた方の2名にお話をうかがいました。

お一人目は、浪江町出身でご結婚を機に隣町の双葉町に暮らすようになった猪狩(いがり)敬子さん。震災発生後、県内外を転々とされながも「いつかは家族の思い出が詰まった双葉町に帰る」と心に決めていたそうです。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

「この玄関の土間スペースが、使い勝手がいいんです。お友達が遊びに来てくれた時に、ここに腰掛けてみんなでおしゃべりして。靴を脱いでリビングにお通しするとなると、おもてなししなきゃ!ってなるけど、土間だったら気さくに肩肘張ることなく過ごせるでしょ。

夫が他界して、今は一人暮らしをしているんですが、近所の人たちとも顔が見える距離でお付き合いできるから安心。住んでいる人との交流もあってね。双葉町って、もともと盆踊りが町のお祭りとしてにぎわっていたんですけど、震災があってから町内で開催できていなかったんです。でもそれが今年、約13年ぶりに駅前で開催できることになって。だから集会所に集まって、わたしが踊りを住民の方に教えて、みんなで踊りの練習をしたりしていますよ。双葉町の伝統を、みなさんに伝えることができて嬉しく思いますね」(猪狩さん)

猪狩さんは「タウンハウス」プランの住まいに入居中。手前がリビング、奥が寝室になっている(写真/白石知香)

猪狩さんは「タウンハウス」プランの住まいに入居中。手前がリビング、奥が寝室になっている(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

盆踊りを通じて、双葉町の地元の方と新しく双葉町に引越してきた人を結んでいる猪狩さん。それが猪狩さんにとっての「なりわい暮らし」なのかもしれません。

お二人目は、福島県中通りエリアにある福島市出身で、東京にあるコンピューター関連の会社で勤めた後、うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)相双支援サテライトに勤務し、浜通りエリアの楢葉町、富岡町で働き暮らされていた大島さん。現在も富岡町にある「とみおかワインドメーヌ」でブドウの栽培をされたり、楢葉町の小学校で子どもたちの学習をサポートする活動をされたりと、「えきにし住宅」を暮らしの拠点に、新しいことへのチャレンジを楽しまれています。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

「東京で長年勤めて、地元の福島に帰って新しいことを始めてみたいと思い、浜通りに暮らし始めました。『えきにし住宅』に入居しようと思った決め手は、コミュニティになじめそうだと思ったから。双葉町には、町民主体のまちづくりを牽引する『ふたばプロジェクト』という団体があり、そのスタッフさんたちが入居の窓口となって、移住者でも町の暮らしに溶け込めるように住民同士の交流を育むサポートをしてくださるなど、細やかなケアがなされていることが安心だなと感じました。

初めて住む地域だと、なかなか地元の方との接点を持ちづらかったりしますが、ここはそんなこともなく、気軽にコミュニケーションをとれるのがいいなと思います。お向かいの猪狩さんには、盆踊りの踊りを教えてもらっていますし。盆踊り当日は、町民有志の『双葉郡未来会議』という任意団体があるんですけど、そのスタッフとしてお祭りを盛り上げたいと思っています。

暮らしの面では、双葉町にはスーパーやコンビニがないのですが、隣町に足を延ばせばいくつも商業施設があるので不便に感じたことはないです。車で出かけたり、趣味のバイクで近隣の市町村に遊びに行ったりすることもありますね。この辺りは山や川など自然がいっぱいありますから、のびのび過ごせて気持ちいいですよ」(大島さん)

暮らしのサポートをされている「ふたばプロジェクト」の事務局長を務める宇名根さん。双葉町と、ここで暮らしたい人をつなぐ架け橋のような存在(写真/白石知香)

暮らしのサポートをされている「ふたばプロジェクト」の事務局長を務める宇名根さん。双葉町と、ここで暮らしたい人をつなぐ架け橋のような存在(写真/白石知香)

玄関には、愛用されているバイクが。スタイリッシュでかっこいい!(写真/白石知香)

玄関には、愛用されているバイクが。スタイリッシュでかっこいい!(写真/白石知香)

心地よい自然光が差し込むリビングで、ゆったりと過ごす時間がお気に入りなんだそう(写真/白石知香)

心地よい自然光が差し込むリビングで、ゆったりと過ごす時間がお気に入りなんだそう(写真/白石知香)

可動式のスポットライトが、空間をおしゃれに演出。白とウッドを基調とした天井が高い空間で、お部屋が明るく広々とした印象に(写真/白石知香)

可動式のスポットライトが、空間をおしゃれに演出。白とウッドを基調とした天井が高い空間で、お部屋が明るく広々とした印象に(写真/白石知香)

この先も進化し続ける、「えきにし住宅」から広がる双葉町の暮らし

「えきにし住宅」の入居がスタートしてから、取材時(2023年7月)までおよそ8カ月間。その期間中にも、全86戸のうち47戸の入居(予定含む)が決定しており、その属性の割合は帰還された方が約4割、新しく住まわれた方が約6割を占めるそう。「えきにし住宅」の建設プロジェクトは現在も進行中で、住宅エリアが拡充されたり、駅前広場が新設されたり、まちには商業施設がオープンしたりと、まちの盛り上がりは今後さらにはずみをつけていきそうです。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

集会所の壁には、住民の方のものだと思われる似顔絵が(写真/白石知香)

集会所の壁には、住民の方のものだと思われる似顔絵が(写真/白石知香)

双葉町の町章と、江戸時代からダルマ市が開かれていた歴史がある双葉町で誕生した「双葉ダルマ」(写真/白石知香)

双葉町の町章と、江戸時代からダルマ市が開かれていた歴史がある双葉町で誕生した「双葉ダルマ」(写真/白石知香)

「外」と「中」の境界線がゆるやかに溶けていく暮らしのあり方や、「えきにし住宅」のリアルが気になる方はぜひ、双葉町を訪れてみてください。新しいはじまりを告げるワクワク感、みんなで一歩ずつ前進するあたたかなつながりの輪が、日常から感じられますよ。

●取材協力
えきにし住宅
ブルースタジオ
ふたばプロジェクト

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とみおかワインドメーヌ

役目終えた造船の地・北加賀屋が「現代アートのまち」に。地元企業、手探りの10年 大阪市

「アートによるまちづくり」で大きな成果をあげている場所があります。それが大阪の北加賀屋(きたかがや)。かつては造船景気に沸いたウオーターフロントの街が、役目を終えて沈滞。この10年でアートという新たな航路へと舵を切り、再び浮上したのです。

アートで街全体を彩る大胆な構想を実践したのは、長く地元に根差してきた、「まちの大家さん」ともいえる不動産会社、千島土地株式会社。手探りでアートとまちづくりに向きあってきた10年を振り返っていただきました。

「造船所が去った街」から「アートの街」へと変身

「弊社は不動産会社で、過去にアートにたずさわった経験がなく、『アートでの街づくり』は手探りで進めてきました」

「千島土地株式会社」(以下、千島土地)地域創生・社会貢献事業部の宇野好美さん、福元貴美子さんは、口をそろえてそう語ります。

千島土地地域創生・社会貢献事業部の宇野好美さん、福元貴美子さんと(写真撮影/出合コウ介)

千島土地地域創生・社会貢献事業部の宇野好美さん、福元貴美子さんと(写真撮影/出合コウ介)

明治45年設立の千島土地は、大阪湾に近い木津川沿いの「北加賀屋」地区に約23万平米もの広大な経営地をいだく賃貸事業主。明治時代から昭和の高度成長期にかけて造船所や関連工場などに土地を賃貸し、日本の近代化を支えてきました。

しかし、1980年代に入って産業構造の変化に伴い造船所の転出が進み、北加賀屋は空き工場や空き家が増えていったのです。なかでもとりわけ大きな空き物件が、1988年に退出した「名村造船所大阪工場」の跡地でした。

かつて造船所でつくった船はここから旅立っていったが、船の大型化により浅瀬の木津川では船づくりが難しくなり、九州などに拠点が移っていったという(写真撮影/出合コウ介)

かつて造船所でつくった船はここから旅立っていったが、船の大型化により浅瀬の木津川では船づくりが難しくなり、九州などに拠点が移っていったという(写真撮影/出合コウ介)

宇野「不動産バブルの時代で、広大な土地が返還されるケースが稀だったこともあり、そのままの姿で返還を受けました。しばらくは個人様や企業が所有するボートなどを預かるドックとして機能していました。けれどもバブルが崩壊し、いよいよ使いみちがなくなってしまったんです」

名村造船所跡地(返還時の様子)(写真提供/千島土地株式会社)

名村造船所跡地(返還時の様子)(写真提供/千島土地株式会社)

そういった重工業の集積地である北加賀屋に「アート旋風」の第一陣が巻き起こったのが2004年。「造船所の跡地を表現の場として再活用しよう」という動きが芽吹き始めたのです。

福元「造船所の跡地をアートイベントにお貸ししたら、これがとても好評で。2005年には『クリエイティブセンター大阪(CCO)』として演劇や作品展などにお貸しするようになり、それに伴い弊社もアートに理解を示すようになっていったんです」

千島土地の代表取締役社長である芝川能一(しばかわ よしかず)さんは「アートには街を変える力がある」と確信。2009年に北加賀屋を創造的エリアへと変えていく「北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ(KCV)構想」を打ち立てました。

さらに2012年に株式会社設立100周年を迎えるにあたり、記念事業の一環として「一般財団法人おおさか創造千島財団」を創設。これらをきっかけに、千島土地の本格的なアート事業がいよいよ幕を開けたのです。

(写真撮影/出合コウ介)

(写真撮影/出合コウ介)

Ben Eineによるウォールアート(写真提供/千島土地株式会社 Photo by keiichi yamamura)

Ben Eineによるウォールアート(写真提供/千島土地株式会社 Photo by keiichi yamamura)

宇野「北加賀屋は、なんばから地下鉄で5駅。大阪の繁華街からめちゃめちゃ離れているわけじゃないんです。けれども以前は、『北加賀屋? それどこ?』と場所を認識してもらえませんでした。『精神的距離がある街』なんて呼ばれて(苦笑)。けれどもアートでの街づくりを始めてから、『北加賀屋、カッコいいよね』というお声をいただくようになったんです」

アートによって街の印象を大きく変えたという北加賀屋。では、造船の街だった北加賀屋は、アートによってどのようにイメージチェンジしたのか、宇野さんと福元さんに実際に街をガイドしていただくとしましょう。

アーティストのために「改装自由」で部屋を貸し出した

千島土地が手がける北加賀屋の「アートで街づくり」には、さまざまな事例があります。まず紹介するのが、2020年から貸し出しが始まった通称「半田文化住宅」。

工房「atelier and, so(アトリエ アンド ソー)」が入居する半田文化住宅外装はタイル貼り。1階部分は好みにペイントしたり飾ったり、2階は元のまま、レトロな雰囲気が残る(写真撮影/出合コウ介)

工房「atelier and, so(アトリエ アンド ソー)」が入居する半田文化住宅外装はタイル貼り。1階部分は好みにペイントしたり飾ったり、2階は元のまま、レトロな雰囲気が残る(写真撮影/出合コウ介)

「文化住宅」とは、主に1950年代~1960年代に建てられた2階建て集合住宅を指す関西の言葉、関東では「モクチン」と呼ばれる場合もあります。一般的にいう「木造アパート」で、それまでの時代は共同だった玄関やトイレなどが各住戸に独立してついており、「文化的」な印象からそう呼ばれるようになりました。イメージは「2階建ての長屋」です。

千島土地はこの半田文化住宅をアーティストやクリエイター向けに、なんと! 「改装自由」「原状回復不要」といった格別な条件で賃貸しているのです。

もともとの借家人の苗字からその名で呼ばれる半田文化住宅は、Osaka Metro四つ橋線「北加賀屋」駅から徒歩わずか1分の好立地にあります。1階に2戸、2階に2戸の風呂なし物件。陶芸家や生き物の標本作家など全戸にアーティストが入居し、ものづくりに励んでいるのです。

とりわけ見違えるほどの改装を施したのが、2020年5月にここへやってきた工房「atelier and, so(アトリエ アンド ソー)」の大浦沙智子さん。大浦さんは「撮影用の背景ボード」をつくるデザインペインター。SNSやフリーマーケットアプリの「映え」には欠かせぬ、今の時代にぴったりな仕事です。

専門であるペイントや、DIYのスキルを活かして、見違えるようにおしゃれな空間になった工房「atelier and, so(アトリエ アンド ソー)」(写真撮影/出合コウ介)

専門であるペイントや、DIYのスキルを活かして、見違えるようにおしゃれな空間になった工房「atelier and, so(アトリエ アンド ソー)」(写真撮影/出合コウ介)

居住はせず、アトリエとして部屋を借りている大浦さん。大きな作業台を必要とする仕事柄、壁を大胆にぶち抜き、広さを確保しました。シャビーシックに色変わりしたこの空間は「水まわりと床以外は建具も含め、ほぼ自分で改装した」というから驚き。さらに2階も借り、ワークショップの会場に使用しています。

ワークショップの会場にもなる2階の作業場(写真撮影/出合コウ介)

ワークショップの会場にもなる2階の作業場(写真撮影/出合コウ介)

宇野「私どもも『ここまで生まれ変わらせていただけるとは』と感動しました」

福元「見事なDIYです。『これがビフォーアフターか!』と見とれましたね」

大浦さんが半田文化住宅を選んだ理由は――。

大浦「隣が空き地だったのが決め手の一つです。空き地のおかげで窓から光が入るのが気に入りました。サンプルの写真がとても撮りやすいんです。この部屋を選ぶ以前は住之江区内のガレージを工房の代わりに使っていました。暗いし、冷暖房はない。夏や冬は大変だったんです。私にとって半田文化住宅は天国ですよ」

この仕事を始める前、塗料の会社で経験を重ねていた大浦さん。独立後、半田文化住宅で気に入ったアトリエを持てたことで、仕事が順調になったそう(写真撮影/出合コウ介)

この仕事を始める前、塗料の会社で経験を重ねていた大浦さん。独立後、半田文化住宅で気に入ったアトリエを持てたことで、仕事が順調になったそう(写真撮影/出合コウ介)

隣接する空き地は、以前は活用されていなかった場所だったのだそう。北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ構想に共鳴した大浦さんは、フェンスの塗装、芝生の水やりや育成などの空き地の管理にも協力しています。

大浦「部屋の改装はまだ終わってはいません。きっと、これからもずっとどこかをなおし続けていくでしょう。改装というより、『部屋を育てる』感覚なんです」

アーティストが部屋を育て、街の景観を育てる。アートの力で街が育ってゆく。それが北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ構想の本質なのだろうな、そう感じました。

「住宅そのものがアート作品」という驚きの賃貸物件

居住を可能とする事例なら、2016年に誕生した「APartMENT(アパートメント)」もあります。

(写真撮影/出合コウ介)

(写真撮影/出合コウ介)

「APartMENT」は、築古の集合住宅を8組のアーティストやクリエイターのプロデュースによってリノベーションし、再生させるプロジェクト。千島土地が、不動産から設計、工務までトータルでおこなう「Arts & Crafts(アートアンドクラフト)」とタッグを組んでおこなう、「住宅そのものがアート作品」という極めて意欲的な取り組みです。

福元「アーティストに限らず、アートに興味がある人々にも北加賀屋で暮らしてほしい。そのためにも住む場所の提供は弊社の課題でした。『北加賀屋らしい、アートに特化した、特徴のある集合住宅にしよう』と考えて始まったのが、このプロジェクトです。ネーミングとロゴにも『AP“art”MENT』と、アートという言葉が入っているんですよ」

「art(アート)」を内包する住宅、それはまさに北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ構想の所信表明といえるでしょう。

「APartMENT」には二つのタイプの部屋があります。一つ目は、北棟1階と南棟を使った「toolbox PROJECT(ツールボックス・プロジェクト)」による部屋。

「ツールボックス」とは、「自分らしい家づくり」に必要なアイテムを販売したり、実際にそれらを使用して施工したりするWebショップ。

福元「改装できるギリギリ寸止め状態まで弊社で施工しておいて、『あとの内装は自由にやっていいですよ』『ツールボックスの商品を使用した改装内容については原状回復もしなくていいですよ』という部屋なんです」

二つ目が、北棟の2階より上で展開する「8 ARTISTS PROJECT(エイトアーティスト・プロジェクト)」の部屋。モダンアート、照明作家、造園家、先鋭的なデザイン事務所などジャンルの垣根を越えた8組のアーティストが、オリジナリティあふれる「45平米のアート作品」を生みだしたのです。

なかでもインパクトが絶大なのが、現代美術作家の松延総司(まつのべそうし)さんがつくりあげた「やすりの部屋」。壁紙の代わりに使用しているのは、なな、なんと「紙やすり」! ざらりとした手触りは、住む人によってはクセになること請け合い。壁に貼られた紙やすりは部屋ごとに種類が異なり、「この部屋のやすりは刺激的だぞ」と、五感が研ぎ澄まされてゆきます。

現代美術作家の松延総司さんによる「やすりの部屋」。茶色く変化した部分は、家具が擦れて自然とついた色だそう(写真撮影/出合コウ介)

現代美術作家の松延総司さんによる「やすりの部屋」。茶色く変化した部分は、家具が擦れて自然とついた色だそう(写真撮影/出合コウ介)

宇野「以前の住民が使っていた掃除機のルンバと紙やすりが格闘した跡を、あえて現状のまま残しています。こういった生活の痕跡が引き継がれていくのがおもしろいと思うんです」

こちらは「スキーマ建築計画」による、「足す」のではなく「引く」デザインの部屋。中央奥の押入れは、引っこ抜いたかのように取り払い、収納スペースは畳の下にしまい込んで隠してしまう。「足しがち」な暮らしの固定観念を覆す、住む人の気持ちが反転していくような部屋(写真撮影/出合コウ介)

こちらは「スキーマ建築計画」による、「足す」のではなく「引く」デザインの部屋。中央奥の押入れは、引っこ抜いたかのように取り払い、収納スペースは畳の下にしまい込んで隠してしまう。「足しがち」な暮らしの固定観念を覆す、住む人の気持ちが反転していくような部屋(写真撮影/出合コウ介)

このように前衛的な部屋が並ぶ「APartMENT」は、アートとリノベーションの融合、住人の創造性の誘発といった点が評価され、2017年、大阪市が実施する顕彰事業「第30回 大阪市ハウジングデザイン賞」において「大阪市ハウジングデザイン賞特別賞」を受賞しました。

もとは1971年築の鉄工所社宅。鉄筋コンクリートによるがっしりした構造が、アーティストたちの自由な発想を受け入れています。その様子は、鉄でものづくりをしてきた先人たちが、次世代を築くアーティストたちを応援し、胸を貸しているように見えました。

「近寄りがたい」といわれていた集合住宅が交流の場として甦った

住宅を提供する場合があれば、かつて住宅だった物件を別のかたちに蘇らせたケースもあります。それが「千鳥(ちどり)文化」。

千鳥文化の外観。中央がメインとなるアトリウム。統一されていないごちゃごちゃ感もこの文化住宅ができ、育ってきた歴史を物語っている(写真撮影/出合コウ介)

千鳥文化の外観。中央がメインとなるアトリウム。統一されていないごちゃごちゃ感もこの文化住宅ができ、育ってきた歴史を物語っている(写真撮影/出合コウ介)

「千鳥文化」とは2017年にオープンした文化複合施設のこと。「クリエイターと地域の人々が緩やかに交流するプラットフォーム」をコンセプトに、食堂、商店、バー、ギャラリー・ホール、テナント区画が一堂に会しています。築60年ほどの文化住宅をリノベーションした話題のスポットなのです。

福元「アートイベントのためだけに訪れるのではなく、北加賀屋に滞在してほしい。そんな想いで始まったプロジェクトです。元々千鳥文化と呼ばれていた建物。名前もそのまま承継しました」

旧・千鳥文化は、現在の法律では住居としてありえないアバンギャルドな姿をしており、「近寄りがたい雰囲気だった」といわれています。

家の改造はお手の物だった船大工たちの作業の跡が残る室内(写真撮影/出合コウ介)

家の改造はお手の物だった船大工たちの作業の跡が残る室内(写真撮影/出合コウ介)

宇野「かつての千鳥文化は、造船業に従事していた住人たちが自らの手で増改築を繰り返していました。『もともと平屋だった建物に住民が2階を増築したのではないか』と推測されています。わかっているだけでも5回、大きな改築がなされていますね。どうやって建っているのかすらわからないほど不思議な構造だったんです」

増築に「船の素材が使われていた」など、住んでいた船大工の手によっていびつに表情を変えていったこの文化住宅は、ある意味でアートの街・北加賀屋にぴったり。とてもクリエイティブな文化遺産といえるでしょう。

旧・千鳥文化はのちに空き家となり、解体も検討されました。しかし、「迷路のように複雑化するほど人々の暮らしの痕跡が刻まれている貴重な建物だ。二度と再現できない。更地にしてしまうのはもったいない」と、北加賀屋を拠点に活動する建築家集団「dot architects(ドットアーキテクツ)」の手によって、A棟とB棟で二期に分けてリノベーションを実施。新時代の千鳥文化プロジェクトがスタートしたのです。

宇野「設計図が存在しない難物です。柱の1本1本を測りなおし、できる限り元の古材を残しながらも耐震対策は現行法に基づきしっかりやるという、気が遠くなるような作業から始まりました。完成するまでに3年もの年月がかかりましたね」

dot architectsは千鳥文化も含めた功績が認められ、2021年に建築のアワード「第2回 小嶋一浩賞」を受賞しました。

印象に残るレトロな「TEA ROOM まき」の装飾テントには手を加えず、玄関はガラス張りに改修。再生した施設内は「アトリウム」と呼ばれる吹き抜けの共有スペースがあり、誰でも出入りできます。1階部分はカフェや、展示などを行える空間として、2階部分にはアート作品が飾られており、自由に見学できるのです。

アトリウム奥のカフェ「千鳥文化」(写真撮影/出合コウ介)

アトリウム奥のカフェ「千鳥文化」(写真撮影/出合コウ介)

吹き抜けの2階部分。建物の構造を見るだけでもおもしろい(写真撮影/出合コウ介)

吹き抜けの2階部分。建物の構造を見るだけでもおもしろい(写真撮影/出合コウ介)

2階部分に常設されているのは金氏徹平「クリーミーな部屋プロジェクト」。手前と奥の部屋合わせて一人のアーティストの世界観でつくられている(写真撮影/出合コウ介)

2階部分に常設されているのは金氏徹平「クリーミーな部屋プロジェクト」。手前と奥の部屋合わせて一人のアーティストの世界観でつくられている(写真撮影/出合コウ介)

壁にあいた舟窓の穴からのぞくと隠れている奥の部屋にも現代アートがある遊び心あふれる空間(写真撮影/出合コウ介)

壁にあいた舟窓の穴からのぞくと隠れている奥の部屋にも現代アートがある遊び心あふれる空間(写真撮影/出合コウ介)

元居室の扉には、住民がいたころの紙をぺたっと貼っただけの表札が(写真撮影/出合コウ介)

元居室の扉には、住民がいたころの紙をぺたっと貼っただけの表札が(写真撮影/出合コウ介)

往時は「近寄りがたい」と言われていた建物に今や新鮮な空気が循環し、陽がさんさんと降り注ぐ。「千鳥文化というアート作品」が60年の時を経て、やっと正当に評価されたのでは。そんなふうに思えました。

現代美術作家の巨大作品がずらり並ぶ「生きている倉庫」

続いて案内されたのは、外観だけを見れば、単なる大きな倉庫。実はこの倉庫こそが、北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ構想が成し遂げた重要な功績の一つなのです。

MASK(マスク/MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA)(写真撮影/出合コウ介)

MASK(マスク/MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA)(写真撮影/出合コウ介)

扉を開けて、びっくりしない人はいないでしょう。目の前に並んでいるのは、世界に名だたる現代美術作家たちの、巨大な造形作品なのですから。

ヤノベケンジ 作品 左「ラッキードラゴン」、右「サン・チャイルド」(写真撮影/出合コウ介)

ヤノベケンジ 作品 左「ラッキードラゴン」、右「サン・チャイルド」(写真撮影/出合コウ介)

名和晃平 作品「N響スペクタクル・コンサート「Tale of the Phoenix」舞台セット」(写真撮影/出合コウ介)

名和晃平 作品「N響スペクタクル・コンサート「Tale of the Phoenix」舞台セット」(写真撮影/出合コウ介)

久保田弘成 作品「大阪廻船」(写真撮影/出合コウ介)

久保田弘成 作品「大阪廻船」(写真撮影/出合コウ介)

床面積 約1,030平米(52.5×19.5m)、高さ 9.25mというとてつもない広さを誇るスペースを使った驚異のプロジェクト、その名は「MASK(マスク/MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA)」。

収蔵するアーティストは、宇治野宗輝、金氏徹平、久保田弘成、名和晃平、持田敦子、やなぎみわ、ヤノベケンジといった、国際的に活躍する現代美術の人気作家ばかり。

宇野「近年、芸術祭等で大型作品を制作する機会が増えていますが、会期後の保管はアーティストにとって大きな課題となります。実際、多くの作品が解体されたりしているのです。そのため、弊社では無償で大型作品をお預かりすることにしました」

芸術祭の会期後、「作品をどう残すのか」は、アーティストにとって頭が痛い問題です。維持するにはお金がかかる。そもそも “メガ”(大変な規模の)サイズの作品を保管できる“ストレージ”(領域)がない。実際、置き場に困り、作品が廃棄される悲しい例も多いのです。

このような状況に一石を投じるべく、千島土地が管理する鋼材加工工場の倉庫跡を利用し、2012年からアーティストの大型作品を無償で預かるプロジェクト「MASK」を発起しました。作品の保管のみならず、2014年から、年に1回「Open Storage(オープン ストレージ)」と銘打ち、一般公開をしています。

2022年は10月に「Open Storage(オープン ストレージ)」を実施。鉄の柱が張り巡らされた倉庫でたくさんの現代アートを楽しめる。撮影も可能(写真撮影/出合コウ介)

2022年は10月に「Open Storage(オープン ストレージ)」を実施。鉄の柱が張り巡らされた倉庫でたくさんの現代アートを楽しめる。撮影も可能(写真撮影/出合コウ介)

福元「みなさん『北加賀屋にこんなすごいところがあったんだ』と、とても喜んでくださいます。全国を見渡しても、これほどの量の大型作品が並ぶ場所は他にはないと思います」

宇野「北加賀屋がアートで街づくりをしていると一般の方にも知っていただけた、大きなきっかけとなった場所です。よく『なぜ無償で預かっているの? 利益が出ないでしょう』と聞かれるのですが、弊社では『アラビア数字では表せない価値をもたらしてくれた』と考えています」

収蔵のみならず、持田敦子さんの手によるビッグサイズの回転扉『拓く』は、2021年にMASKで現地制作されました。
また、「大きな作品を預かる」という点では、他の倉庫で、オランダのアーティスト、フロレンティン.ホフマンの、膨らますと高さ9.5メートルにも及ぶパブリックアート『ラバー・ダック』を管理し、各地の水上で展示する拠点にもなっています。

「すみのえアート・ビート2021」開催風景(写真提供/千島土地株式会社)

「すみのえアート・ビート2021」開催風景(写真提供/千島土地株式会社)

千島土地は作品『ラバー・ダッグ』を保有する日本唯一の窓口という意外な一面も。水都大阪2020のイベントや、東日本大震災のチャリティイベントでもおなじみの姿が北加賀屋のまちのマンホールアートでも見られる(写真撮影/出合コウ介)

千島土地は作品『ラバー・ダッグ』を保有する日本唯一の窓口という意外な一面も。水都大阪2020のイベントや、東日本大震災のチャリティイベントでもおなじみの姿が北加賀屋のまちのマンホールアートでも見られる(写真撮影/出合コウ介)

倉庫が収蔵する目的を越え、作品を生み出し発信する場所として新たな命を宿している。脈を打ち始めている。ここはまさに「生きている倉庫」ではないでしょうか。2022年の秋も一般公開が予定されています。謎のヴェールに包まれた倉庫がマスクをはぎ取る瞬間に、ぜひ立ち会ってみてください。

2022年度の一般公開「Open Storage 2022 ―拡張する収蔵庫-」は、10月14日(金)~16日(日)、21日(金)~23日(日)と、「すみのえアート・ビート」に合わせて11月13日(日)に開催予定です。

広大な造船所の跡地が表現の場へと船出した

最後に案内していただいた場所、そこはフィナーレを飾るにふさわしい、素晴らしい別天地でした。それは2007年に、経済産業省「近代化産業遺産」に認定された、木津川河口に位置する「名村造船所大阪工場跡地」。そう、千島土地がアートを手掛ける第一歩となった記念すべき場所です。2005年に跡地の一部を「クリエイティブセンター大阪(Creative Center OSAKA/略称:CCO)」と名づけ、敷地面積が約4万平米という空前の広さを活かした一大アートパラダイスへと変貌を遂げたのです。

湾岸沿いで交通の便がいいとはいえない場所だがイベントでは大勢のファンが足を運ぶ(写真撮影/出合コウ介)

湾岸沿いで交通の便がいいとはいえない場所だがイベントでは大勢のファンが足を運ぶ(写真撮影/出合コウ介)

クリエイティブセンター大阪は、「廃墟のポテンシャル」を存分に楽しめる場所。「建物そのものを楽しみたい」という人のために参加無料の見学ツアーも行われています。

さらにライブや演劇、コスプレイベント、撮影会、映画・ドラマのロケ、サバイバルゲームの舞台としてもレンタルされ、なかには結婚式に使うツウなカップルまでいるのだそうです。

福元「一般に開放した当初は、コスプレイベントのためにカートを引いた若者たちが北加賀屋に集まってくるので、地元の方々は『なんだ? なんだ?』とけげんそうな目で見ていました。けれども現在は、集まる若者たちがこの街を盛り上げてくれているんだと、歓迎してくださっています」

刮目すべきは4階にある、船の製図室の遺構をそのまま活かした無柱の創造スペース。

右奥に人のサイズ感で伝わるだろうか。柱がないこれだけの空間は極めて珍しい。この反対側にもこれと同じくらいの広さがさらに広がる(写真撮影/出合コウ介)

右奥に人のサイズ感で伝わるだろうか。柱がないこれだけの空間は極めて珍しい。この反対側にもこれと同じくらいの広さがさらに広がる(写真撮影/出合コウ介)

宇野「この部屋では以前は、船や部品の原寸図を引いていたんです。床に敷いて這いながら書くため、天井には手元を照らすための蛍光灯がずらっと並んでいます。床を見てください。まだ図面の跡があるんですよ」

まるで幾何学模様のような傷は設計の痕跡(写真撮影/出合コウ介)

まるで幾何学模様のような傷は設計の痕跡(写真撮影/出合コウ介)

本当だ。広々とした床には船の図面の面影が遺っていました。往時の果てしない造船作業、職人さんたちの高い技量と苦労が想い起こされ、胸を打ちます。そしてこの部屋は現在、現代アートの展示やイベント、さらに地下アイドルのフェスであれば物販やチェキタイムなど、ファンとの交流にも利用されているのです。

こういった取り組みが評価され、2011年には文化庁が後援する企業メセナ(企業が芸術文化活動を支援すること)協議会「メセナアワード2011」にて「メセナ大賞」を受賞。千島土地がアートでの街づくりに拍車をかけるきっかけとなりました。

かつて2万人を超える造船労働者で盛況を博した北加賀屋。役目を終えた造船所が、北加賀屋のランドマークとなって眠りから覚めました。そうして可能性を秘めたアーティストの卵たちの船出を、あたたかく見守っているのです。その海は、世界へとつながっています。

アートの力で活性化した街の「次の一手」は

造船所が転出し、一時期は活気を失っていた北加賀屋。千島土地の尽力とアートのパワーにより今や世界からも注目される街となり、息を吹き返しています。タワーマンションの供給が始まるなど具体的な経済効果も表れはじめているようです。今後の展望は。

宇野「ギャラリーの誘致を目指す新しい拠点などを計画中です。アーティストが暮らし、作品をつくり、この街で発表する。その作品に注目が集まる。この流れを生みだしていけたらいいなと考えています」

福元「そして、長く暮らしたくなる、価値が高い街にしていきたいです。アートに触れながら、親子3代にわたって住む。そうやって文化を育んでいければ」

芸術の秋です。ウォールアートやパブリックアートの数々が迎えてくれる北加賀屋を散策してみませんか。なんばから、わずか5駅ですよ。

北加賀屋の街中ではさまざまなオブジェやウォールアートが出迎えてくれる(写真撮影/出合コウ介)

北加賀屋の街中ではさまざまなオブジェやウォールアートが出迎えてくれる(写真撮影/出合コウ介)

(写真撮影/出合コウ介)

(写真撮影/出合コウ介)

(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

●取材協力
「千島土地株式会社」Webサイト
「おおさか創造千島財団」Webサイト
「atelier and, so(アトリエ アンド ソー)」Webサイト
「APartMENT」(アパートメント) Webサイト
「千鳥文化」Instagram
「MASK」(MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA)Webサイト
「クリエイティブセンター大阪」Webサイト

昭和レトロの木造賃貸が上池袋で人気沸騰! 住民や子どもが立ち寄れる憩いの場、喫茶店やオフィスにも活用 豊島区

東武東上線の北池袋駅(東京都豊島区)から徒歩10分ほどの場所で活動する「かみいけ木賃文化ネットワーク」。活動の中心は昭和に建築された3つの木造賃貸建築物。コミュニティづくりやアートワーク、オフィス、住居などに利用し、訪れる人や住まう人たちがゆるやかに活動をする繋がりをつくり上げています。
そのようななか、2022年1月に新たなスペースとして「喫茶売店メリー」をオープン。まちなかに住む人々とのつながりが変化したそうです。一体どのように変わったのでしょうか。

木造賃貸アパートをもっと面白く活用したい

巨大ターミナル駅・池袋駅の1つ隣にある、東武東上線の北池袋駅。周辺には低層住宅が所せましと並び、大都会である豊島区・池袋とは思えぬ穏やかな時間が流れます。駅から住宅街を10分ほど歩いていくと、昔ながらの木造の建物「山田荘」「くすのき荘」「北村荘」が見えてきます。戦後、「木賃(もくちん)」と呼ばれる、狭い木造賃貸アパートが多く建築されたこのまちで、ネットワークをつくりながら”木賃文化”を盛り上げているのは、「かみいけ木賃文化ネットワーク」を運営する、山本直さん・山田絵美さん夫妻。

実家である「山田荘」について、思いを話す山田絵美さん(写真撮影/片山貴博)

実家である「山田荘」について、思いを話す山田絵美さん(写真撮影/片山貴博)

「かみいけ木賃文化ネットワーク」は木造賃貸アパートをどう面白く活用するかを徹底的に考える活動。活動のきっかけは、山田さんが両親から受け継いだ「山田荘」でした。

「『山田荘』は、もともと私の実家が、賃貸アパートとして運営していた建物です。とはいえ、狭くて古い建物を住まいとして貸し続けることには限界があると感じていて。私が受け継ぐ時に、この建物を『もっと良く活用ができないものか』と考え始めたんです」(山田さん)

1979年築の木造賃貸アパート「山田荘」は、昔ながらの風呂なし・トイレ共同で、4畳半の部屋が並ぶ6室構成。随所に古き良き面影を残しながらも、綺麗にリフォームされています。入口では愛らしい人形がお出迎えする(写真撮影/片山貴博)

1979年築の木造賃貸アパート「山田荘」は、昔ながらの風呂なし・トイレ共同で、4畳半の部屋が並ぶ6室構成。随所に古き良き面影を残しながらも、綺麗にリフォームされています。入口では愛らしい人形がお出迎えする(写真撮影/片山貴博)

「山田荘もそうですが、かなり築年数の進んだ木造アパートなどは、現代の建物と比べると機能も足りてないところが多いんですよね……。風呂なし、トイレ共同、洗濯機置き場がないというのがおおむねスタンダードです。でも暮らしの全てを、自分の住むスペースでまかなうのではなく、まち全体を1つの『家』に見立てれば、いろんな暮らし方ができるんじゃない?と思うのです。台所がないなら食堂へ。お風呂がないならば、銭湯へ。アトリエがないならばガレージへ。庭がないならば公園へ――古き良き木造建築物を楽しんで生かし、”足りないことはまちなかで補い、まちの人や暮らしとゆるく繋がろう”ということを目指しています」(山田さん)

アーティストの拠点として、木造賃貸アパートの居室を利活用

こうした活動に至ったのは、山田さん自身が、豊島区内で実施していたアートイベントとの出合いも影響していたようです。2011年ごろから、東京都や豊島区は「としまアートステーション構想」という、地域資源を活かした「アート」につながる活動をする場づくりをしていました。その一環で山田荘のアパートの一部を、美術家である中崎透さんの滞在制作場所として提供しました。

アーティストなどに賃貸している山田荘1階の入口部分(写真撮影/片山貴博)

アーティストなどに賃貸している山田荘1階の入口部分(写真撮影/片山貴博)

「山田荘をプロジェクトで活用してもらえることはうれしかったですね。この建物は、古い木造建築物で、当時の建築基準法に沿ってつくられており、現行法では既存不適格です。そのため、これを壊すことなく同じ形で、建物そのものが持つ良さを文化として残したいという思いもあったので、これはチャンスだと感じました」(山田さん)

3つの拠点を行き来することで、新たな出会いと交流が生まれる

「山田荘」の、居住する以外の活用方法を通じて、おもしろさを実感した山本さん・山田さん。

「そうしたら、自然と空き物件が目に入るようになったんです(笑)」(山田さん)

その後、2016年に「山田荘」から徒歩5分ほどの位置にある「くすのき荘」を借り、2020年には「北村荘」を借りることとなりました。

運送会社が使用していた建物を改修した「くすのき荘」。右横にはくすのき公園があり、まるで庭のよう(写真撮影/片山貴博)

運送会社が使用していた建物を改修した「くすのき荘」。右横にはくすのき公園があり、まるで庭のよう(写真撮影/片山貴博)

運送会社の名残を残す「くすのき荘」は、1975年築の2階建て事務所兼住居建物です。隣にはくすのき公園があり、あたりには気持ちの心地の良い穏やかな時間が流れています。

運送会社時代に倉庫として使用されていた天井の高い1階スペースは、メンバー制のシェアアトリエとして利用。2階は、山本さん・山田さん夫妻の居住スペースのほか、メンバーのシェアリビング、シェアキッチンとしても開放。時折開かれるイベントには、近所に住むメンバー外の人も訪れることもあり、まさに「まちのリビング」として、思い思いの時間を過ごしています。

1階にあるメンバー制のシェアアトリエ。大学生がアート作品の制作をしたり、アーティストがワークショップを開いたりと、それぞれの活動を繰り広げている(写真撮影/片山貴博)

1階にあるメンバー制のシェアアトリエ。大学生がアート作品の制作をしたり、アーティストがワークショップを開いたりと、それぞれの活動を繰り広げている(写真撮影/片山貴博)

2階のシェアスペースは、勉強に使ってよし、食事してよし、と使い道は自由自在。時折イベントやワークショップも実施されている(写真撮影/片山貴博)

2階のシェアスペースは、勉強に使ってよし、食事してよし、と使い道は自由自在。時折イベントやワークショップも実施されている(写真撮影/片山貴博)

看板猫がのんびりと同居中(写真撮影/片山貴博)

看板猫がのんびりと同居中(写真撮影/片山貴博)

一方、2020年に活動開始した「北村荘」は一見すると一軒家のようですが、1階・2階にそれぞれ玄関があり、スペースが区切られている2階建ての木造賃貸アパート。1階は住人たちのコミュニティスペース、2階はシェアハウスになっています。

「1964年築のこの建物は、山田荘と同じく、旧耐震基準の建物です。やはり一度壊したら同じ形での再建築は不可です。私たちが山田荘に対して感じていたことと同じように、不動産屋さんからも『この建物を壊すことなく活かす方法を探している』と相談をいただき、引き受けることにしました」(山田さん)

その後、耐震改修を加え、内装をDIYで改装し、「北村荘」は再生されたのです。

「北村荘」への入口は昔ながらの細路地(写真撮影/片山貴博)

「北村荘」への入口は昔ながらの細路地(写真撮影/片山貴博)

1階のコミュニティスペース、2階のシェアハウス(居住スペース)にはそれぞれに別の玄関がある(写真撮影/片山貴博)

1階のコミュニティスペース、2階のシェアハウス(居住スペース)にはそれぞれに別の玄関がある(写真撮影/片山貴博)

DIYのワークショップを行いながら改装した「北村荘」1階のコミュニティスペース。”日常生活の中で探求する場”として研究活動や、ワークショップなどが行われている(写真撮影/片山貴博)

DIYのワークショップを行いながら改装した「北村荘」1階のコミュニティスペース。”日常生活の中で探求する場”として研究活動や、ワークショップなどが行われている(写真撮影/片山貴博)

「3つの建物は、コンセプトも用途も異なりますが、利用者は居住者やご近所さんだけでなく、遠方から”何か楽しい集まり”や”出会い”を期待して足繁く通う人もいます。また、それぞれの拠点を行き来する使い方もあります。そうすることで新たな出会いや交流が生まれますね」(山田さん)

コロナ禍で、半径500m圏内のご近所付き合いを実感

「開けたまちのスペース・まちの人同士をつなぐ場でありたい」という願いがありながらも、「メンバーシップ制」のため、どうしても仲間うちの閉じた活動になりやすいことが悩みだったそうです。

「活動をするメンバーは、”アート”をきっかけに興味を持った人のほか、豊島区近郊ではなく、首都圏内広くから、さらにはそれより遠方から通うクリエイターさんもいて。特に『くすのき荘』はガレージの奥が深く、常にオープンしていたわけではないので、近所の人たちからは『一体あそこで何をやっているのだろう?』と思われがちだったんです」(山本さん)

子どもが気軽に楽しめるようにと、駄菓子やおもちゃも販売(写真撮影/片山貴博)

子どもが気軽に楽しめるようにと、駄菓子やおもちゃも販売(写真撮影/片山貴博)

隣にあるくすのき公園で遊ぶ人も(写真撮影/片山貴博)

隣にあるくすのき公園で遊ぶ人も(写真撮影/片山貴博)

そんななか、2020年からのコロナ禍で状況が大きく変化しました。

区外の離れた場所からコミュニティスペースに通えなくなる人が増加した一方で、人々の活動範囲が狭められ、半径500m圏内の生活濃度が上がったのを実感したそうです。

これを機に、『くすのき荘』を、地域の人たちと繋がるためのもっと”開けた場”にし直そうと決意。いつでも誰でもふらっと足を運び、気軽におしゃべりしたり、交流する” 半径500m圏内の憩いの場”にするべく、リニューアルすることにしたのです。

特別な店ではない 日常の延長にある「喫茶売店メリー」をオープン

山本さんは、リニューアルにあたって「喫茶売店メリー」を設けることを決めます。

「喫茶というよりも、イメージは『公園にある売店』といった感じのものを考えていました。ガレージを開放した状態だと、隣にあるくすのき公園と地続きになり、自由に行き来ができる。そういうつくりにして、『喫茶売店メリー』が”街の一角である”ことをイメージさせたかったのです」(山本さん)

(写真撮影/片山貴博)

(写真撮影/片山貴博)

正面の通りからも、ガレージ側からも購入ができる開放的なキッチンカウンター(写真撮影/片山貴博)

正面の通りからも、ガレージ側からも購入ができる開放的なキッチンカウンター(写真撮影/片山貴博)

やはり、まちの人にとって「こんな開放的な場所があるのね!」と知ってもらい、いつでも足を延ばしてほしい、という思いがあるゆえなのでしょう。

「このエリアにはお年を召した方も多く住んでいます。若い単身者や外国にルーツを持つ人も多く、まさに多種多様です。さまざまな人にとって魅力的に感じ、いつでも気軽に訪れることができるコンテンツは何か?と考えた結果、カフェという答えに行きつきました。でも僕自身は今までカフェなんてやったことなかったんですよ。だから本当にイチから勉強で、試行錯誤もいいところです(笑)。

最初はレシピやメニューをつくるにも、何からすればいいか分からなかったんです。なので、近所に住む台湾人の料理人のおじさんに教えてもらい、看板メニューであるルーローハンをつくったんですよ。おかげさまで彼はよく顔を出してくれます」(山本さん)

看板メニューのルーローハンとアイスコーヒー(写真撮影/片山貴博)

看板メニューのルーローハンとアイスコーヒー(写真撮影/片山貴博)

カフェを増築するにあたっては、山本さんと旧知の関係である建築事務所「チンドン」主宰、建築家の藤本綾さんが設計を担当しました。

設計を担当した藤本綾さん。施主である山本・山田さん夫妻の想いや願いを聞きながら一緒につくり上げていくことが新鮮かつ楽しかったそう(写真撮影/片山貴博)

設計を担当した藤本綾さん。施主である山本・山田さん夫妻の想いや願いを聞きながら一緒につくり上げていくことが新鮮かつ楽しかったそう(写真撮影/片山貴博)

「中をのぞけば楽しそうにしている方たちがたくさんいるのに、外部から中の様子が見えづらいことで、入りづらさを感じて。開放的な場所づくりを意識し、建物の大きな扉を開けるとコンパクトな売店が出現する設計にしました。テイクアウトで使えるような小さな窓口を設けることで、通りを歩く人との接点がつくりやすいようにしています」(藤本さん)

通りからフラッと入れる入口ゆえ、この日も台湾人のおじさんが顔を出す(写真撮影/片山貴博)

通りからフラッと入れる入口ゆえ、この日も台湾人のおじさんが顔を出す(写真撮影/片山貴博)

ゆるく交わるオープンスペースの連続性で、都心の街並みは変わる

2022年1月に「喫茶売店メリー」がオープンしてから、半年以上が経過。内輪感のある空気にひそかに頭を悩ませていた山田・山本さん夫妻は「顔ぶれに変化が生まれた」と話します。

開放的なガレージ部を利用した喫茶スペースに開店と同時に人が集う(写真撮影/片山貴博)

開放的なガレージ部を利用した喫茶スペースに開店と同時に人が集う(写真撮影/片山貴博)

「ワンちゃん連れのお客さんが散歩の途中でコーヒーを買ってくれたり、ベビーカーで赤ちゃんを連れたファミリーが公園に寄る途中で訪れてくれたりすることが増えましたね。あと、たまに小学生がフラっとガレージに紛れ込んでくるんです。何気なくベンチで休憩していて(笑)。そういうのが楽しいですよね。まちの居場所として思ってもらえているんだなと」(山本さん)

これまでに「かみいけ木賃文化ネットワーク」の活動にアドバイスしてきた、「まちを編集する出版社」千十一編集室の代表・編集者の影山裕樹さんは、今回「喫茶売店メリー」オープンに伴い、クラウドファンディングの立ち上げから、コピーライティング、コンセプトの考案などのディレクションに携わりました。その時のことを思い出しながら、こう話します。

まちのコミュニティについて研究を続ける影山さんは、「かみいけ木賃文化ネットワーク」を支える重要な存在の一人(写真撮影/片山貴博)

まちのコミュニティについて研究を続ける影山さんは、「かみいけ木賃文化ネットワーク」を支える重要な存在の一人(写真撮影/片山貴博)

「昔は、角のタバコ屋のようにちょっとした憩いの場ってありましたよね。いまでも都市公園にある、気の抜けた売店みたいな場所があり、そこに集う人々は飲食や休憩、遊具の購入などいろいろな目的を持って訪れています。ですが、現代の都市空間においては、経済合理性が優先され、お店の機能が限定されてしまっています。複数の機能を持ったゆるいスペースがなくなっているんです。そういう場所をつくりたかったので、今回のプロジェクトは渡りに船だなと感じました。また、東京の人たちは、自分の足元の半径500mのコミュニティとの繋がりがほとんどなく、せいぜいコンビニや居酒屋とかしか行かない。こうした狭い範囲で暮らす人が多様な人と関われる場所にもしたくて、”公園の売店のようなお店”だとか、”開けっぱなしの客席”というコンセプトにつながりました」(影山さん)

上池袋のまちを中心とした、「木賃文化」のことやご近所付き合いについても、続けてこう話します。

「このエリアは木造密集エリアとして知られ、火事などの災害に弱い反面、木貸アパートが持つゆるやかなご近所づきあいという、文化的遺伝子を持つエリアでもあります。都市開発において、木造賃貸アパートは次第に淘汰されていく運命ですが、高度成長期は地方都市からの上京組が、その時代を経て、日本へやってきた外国人や単身者が暮らし、家族とは違うコミュニティを形成してきました。こうしたご近所さんとのゆるやかなつながりを生み出す仕組みを、現代に引き継ぐというのが木賃アパートの価値だと思います。こうしたソフト面でのまちづくりは現代の東京に必要な視点だと思いますね」(影山さん)

くすのき荘オープン時に募ったクラウドファンディングのリターンの1つ、中崎透制作の看板たち。地域の応援でこの場所は支えられている(写真撮影/片山貴博)

くすのき荘オープン時に募ったクラウドファンディングのリターンの1つ、中崎透制作の看板たち。地域の応援でこの場所は支えられている(写真撮影/片山貴博)

「カフェができることによって、出入り自由のオープンな雰囲気がより強くなったと思います。こうした空気感のある中で生まれる小さなつながりが、徐々に広がっていくと、きっと住みやすい街になっていきそうですよね」(山本さん)

「かみいけ木賃文化ネットワーク」内にもたらされた、「喫茶売店メリー」オープンという変化は、都市のソーシャルな課題を解決するために多くの人に知ってほしい、”小さくも大きい出来事”だったのではないでしょうか。

●取材協力
・かみいけ木賃文化ネットワーク

高知の山里に若い移住者相次ぐ。「儲かる林業=自伐型」に熱視線 高知県佐川町

2023年春、日本の植物学の父・牧野富太郎博士を描いた朝ドラ(NHK連続テレビ小説)『らんまん』がスタートする。博士が生まれたのは、高知県の中西部にあり、高知市から車でおよそ40分の佐川(さかわ)町。同町はドラマの舞台として注目される一方で、「自伐型林業」というあまり聞き慣れない林業の先進地としても、実は熱い視線が注がれている。

安定収入が得られるうえに、空いた時間も副業などで有効活用できると言われる自伐型林業。今佐川町では、それに魅力を感じた若者たちが全国から移住してきているという。新しい林業で活気づきつつあるという町の実態を知るために、佐川町へ足を運んでみた。

町面積の7割を占める森を新たな産業の源に

84%という全国トップの森林率を誇る高知県。佐川町でも町面積の7割を森が占める。さらにその7割が人工林でありながら、同町で林業は産業としてほぼ成立していなかった。かつての一般的な林業は、山林の所有者が森林組合などの事業者に管理を委託し、対象となる木を全て伐採する「皆伐」、あるいは木々を間引く「間伐」を必要以上に行う大規模型林業。ところが高額な投資の割には利益が上げづらいといわれ、担い手は減るばかりだった。

人が入らなくなった放置林は、地表に日光が届かず、下層の植物が育たない。大雨時には直接雨水が地表を流れ、土砂災害を誘発する。また大規模な皆伐、さらに大型重機を通す広い作業道の敷設は、放置したままの山で起こる災害以上の被害を発生させる恐れがある。これまでの林業を取り巻く環境は、採算性に加え、環境面でも多くの問題を孕んでいた。

2013年、佐川町の森を産業の源のひとつと考え、「自伐型林業」による林業振興を公約に掲げた堀見和道町長が就任する。「小規模投資で参入しやすく、利益も上げやすい。しかも雇用を生み、環境にもいい」とされる自伐型林業。近年全国50以上の自治体が導入支援を行っているが、堀見町政以降の佐川町ほど手厚い支援を行う自治体は少なく「佐川型自伐林業」として知られるほどになった。

従来型林業と、自伐型林業の大きな違いは伐採のスパンと規模だ。これまでの林業は、約50年のスパンで大規模に皆伐し、また造林する、というのを、場所を変え繰り返していくため、その規模に見合った大型な機械や作業道などへの投資が必要で、採算性に問題があった。その不採算を高額の補助金で補填している側面もあった。

自伐型林業は、一つの場所を100年から150年以上の長いスパンでとらえ、皆伐はせず、少しずつ伐採し長く利益を得ていく。従来型に比べ、機械や作業道への投資規模は小さくて済み、小さな法人や個人なども参入でき、採算化もしやすいため、補助金の補填も最小限で済むといった特徴があり、近年、注目されているのだ。

佐川町の人工林は約5000haあるといわれている(写真提供/斉藤 光さん)

佐川町の人工林は約5000haあるといわれている(写真提供/斉藤 光さん)

メリット多き自伐型林業の魅力をさらに高める施策

現在佐川町の林業家は、やり方次第では自伐型林業だけで300万円以上の収入を得ることが可能だ。それは佐川町が林業家に対して行う支援によって実現した。例えば佐川町では従事者に対してショベルカーなどの重機は一日500円でレンタルできる補助を行う。極端なモデルケースでは「自立支援金で購入した軽トラとチェーンソーがあればできる」といわれるほど初期投資は少なく、参入もしやすくなった。

またこれまでの林業は、前述のように約50年単位で大規模な伐採をしていた。しかしスギやヒノキにとってこの年数はまだ若く、高価格な建材としては出荷できず加工用として安く取引されてしまうことが多い。しかも次の伐採は50年後だ。

自伐型林業では、混み合った木々を間引いていく間伐を、森全体の2割で留める。これは伐採しても木が自然に増えていく森林成長率に即した割合だという。これにより継続的に出荷できる上に、残った木も成長により価値が上がり、森の環境も維持できる。

間伐を進めるための補助金を支給していた高知県。その条件は森全体の3割を間伐すること。これを森林成長率に照らし合わせると、森を傷めることになりかねない。佐川町は高知県と協議の末、「2割間伐」での緊急間伐補助金の新設に成功。従事者には1haを間伐するごとに、12万2000円が支給されるようになった。

作業道の整備に対しても、1m開通に付き、県と町あわせて2000円を支給し、林業家のモチベーションを高めている。実は林業にとって作業道は、人間にとって血管のごとく重要な存在。作業道があって初めて森の中で仕事ができる。自伐型林業のために整備する作業道は、従来型に比べ狭く済み、土壌流出を最小限に留め、かつ法面の緑化を促す。つまり小規模な作業道の整備は、災害に強い森づくりと林業振興のダブル効果があるのだ。

自伐型林業では幅2~2.5m程度の作業道をつくる。これは重機が通れる最低限の道幅だ(写真提供/斉藤 光さん)

自伐型林業では幅2~2.5m程度の作業道をつくる。これは重機が通れる最低限の道幅だ(写真提供/斉藤 光さん)

担い手不足は全国から募った地域おこし協力隊が補う

このようにいいことずくめの自伐型林業だが、問題のひとつとしてあげられていたのが担い手不足。「佐川町内での林業家募集に望みは薄い」と考えた佐川町は、2014年に地域おこし協力隊の制度を活用し、全国から人材を募ることでこの問題に対応した。毎年5人を採用し、10年間続ける計画だ。

「森林率全国一位の林業県である高知で働くということは、私にとっては林業界のハリウッドで働くということです(笑)」と語るのがこの第一期生となった滝川景伍さん(38歳)。京都生まれの滝川さんは、一時は映画監督を目指すも挫折し、大学卒業後は出版社で編集者として活躍した。

ほぼ毎日終電帰りという多忙さと、子どもを授かったことによる心境の変化を機に、30歳の時に転職を決意。農業などの一次産業に魅力を感じていた時、偶然にも大学の先輩が自伐型林業推進協議会の事務局長をしていたことから、自伐型林業を知ることになった。

「単なる林業ではなく『自伐型』という響きに興味を持ちました。いろいろ調べてみると最小限の道具だけで始められる。しかも高知県は近代自伐型林業の発祥地であり最先端を行く場所。ちょうど佐川町で自伐型林業の地域おこし協力隊を募集していたのが決め手でした」

今や佐川町の自伐型林業のリーダー的存在となった滝川さん。メディアからも引っ張りだこだ(写真提供/斉藤 光さん)

今や佐川町の自伐型林業のリーダー的存在となった滝川さん。メディアからも引っ張りだこだ(写真提供/斉藤 光さん)

林業家の職場を確保するための山の集約化

地域おこし協力隊として赴任したばかりの滝川さんは、予想以上に重いチェーソーに四苦八苦しながらも、技術の習得に励んだ。「林業家として山主さんから安心して管理を任せてもらうためには、ヨソ者の私にとって、協力隊3年間の任期内での技術習得は絶対条件でした」と振り返る。

任期終了後、独立支援金としての100万円で、軽トラックと防護服など必要な備品を買い揃え、林業家としての道を歩み始めた滝川さん。とはいえ自由に森へ入って仕事ができるわけではない。森の中には、数多くの山主の所有地があり、その境界線が複雑に張り巡らされ、一箇所ずつ許可を得る必要がある。

そこで佐川町は、林業家の代わりとなって山主と交渉する「山の集約化」を推し進めた。それにより滝川さんもスムーズに山へ入っていくことができた。現在滝川さんが管理を任されている森は約35ha。自伐型林業を専業にして生活していくためには50ha、兼業で30haが必要とされている。

滝川さんによると、これまで佐川町が山主と管理契約を行った700haの森のうち、施業者に委託されたのは約100ha。道半ばの印象はあるが、「町が集約化を進めたことで、林業を行う仕事場が確保されたメリットは大きい」と滝川さんが語るように、行政のバックアップは新人林業家には頼もしい存在だ。

チェーンソーを使いこなす滝川さん。怪我と隣り合わせの仕事ゆえに、「精神的にゆとりを持って臨むことが大切」と語る(写真/斉藤 光さん)

チェーンソーを使いこなす滝川さん。怪我と隣り合わせの仕事ゆえに、「精神的にゆとりを持って臨むことが大切」と語る(写真/斉藤 光さん)

林業で食べていくための補助金は、安全な地域づくりの必要経費

新人林業家として、まずは作業道づくりに励んだ滝川さん。一日平均15mを作れば、1m2000円×15mで、その日の収入は30000円となる。経費は重機のレンタル代ワンコイン500円と燃料代の3000円程度。「最初の年は1.8kmの作業道をつくりました。ただ作業道の補修には労力がかかるので、壊れない道づくりも大切です」と滝川さん。

作業道づくりだけで年間300万円以上の収入に加え、間伐補助金、さらに木材の売上げで十分な年収を確保できた滝川さんだが、「木材の売上げは微々たるもので、補助金で生かされているのも事実。しかし、森を整備することで、山の資産価値を高め、災害防止にも繋がります。補助金は地域の公益性を高めるために必要な先行投資だと思っています」と語る。

長いスパンで仕事を進める林業。滝川さんは「どの木を切るかではなく、どの木を残していくかが大切です」と極意を語る。現時点では木材の売上げは少ないものの、それは高価値の木材を育てるための助走期間。補助金を活用しつつ、将来的には販売売上げの割合を上げていくことが理想だ。

ショベルカーを使いこなし作業道をつくる滝川さん。「天地返し」という工法で地中の砂利を路面に敷き、路面強化を図る(写真/斉藤 光さん)

ショベルカーを使いこなし作業道をつくる滝川さん。「天地返し」という工法で地中の砂利を路面に敷き、路面強化を図る(写真/斉藤 光さん)

林業の包容力が可能にした兼業が生む地域とのつながり

「毎日手がかかる農業と異なり、林業はとてものんびりしています。一度手入れすれば一年ほったらかしにしてもいいこともある。森に入れば自然に包まれ心が和らぐ。こんなストレスフリーな仕事はありませんよ」とその魅力を語る滝川さん。

佐川町で林業家として独立して5年が経った。毎日子どもを保育園へ送り届け、朝の家事をこなして9時ごろに森へ入る。7時間ほど働いたら17時には帰宅。土日や大雨の日は休みだ。2021年の場合、約150日を林業に従事し、それ以外は副業として郷土史の編集や地域の人たちを繋げる活動に取り組んだ。

「佐川町の自伐型林業は、まだまだ地元では実態が把握されていません。町民に山へ関心を持ってもらうことが、山に無関心だった山主へ波及すると考えています。山と地域を繋げることは、ある意味前職の編集に通じます。そんな思いで地域の人と関わる活動にも注力するようになりました」

時間にゆとりのある林業だからこそ、副業や地域活動に取り組める。それが林業家と地元民との新たな接点となり、山に視線を向けてもらう。そんな循環の新たな担い手として期待されているのが、2017年に地域おこし協力隊として赴任し、現在は林業家と町議会議員を兼業している斉藤 光さんだ。

森の中で滝川さんと談笑する斉藤さん(左)は人なつっこいキャラクターで人気者だ(写真/斉藤 光さん)

森の中で滝川さんと談笑する斉藤さん(左)は人なつっこいキャラクターで人気者だ(写真/斉藤 光さん)

モノゴトを「おかゆ化」することで林業の発信を目指す

東京生まれで鍼灸院を営んでいた斉藤さんが、佐川町へ移住するきっかけとなったのは、娘の待機児童問題に直面したこと。「知り合いの紹介もあって、のびのび子育てできる高知へ移住を考えました。当初、林業は仕事として思い入れもなく始めましたが、自己負担なしで林業に必要な免許をすべて取得でき、その技術で作業道をつくれることに興奮しました!」

滝川さんや斉藤さん以外にも、2022年までに39人の地域おこし協力隊が着任。さまざまな形で林業に携わり、「キコリンジャー」という愛称で、それなりに知られるようになった。彼らの家族も含め、そのほかの分野の協力隊など、移住者の存在は徐々に増しつつあった。

「当時の町長の堀見さんに『そろそろ君たち移住者の代表が町議会にいてもいいのでは?』と声をかけられた時には、本当に驚きました」と振り返る斉藤さん。それをきっかけに70代が大半を占める町議会の実体を知ることになり、若者の代表として立候補を決意。2021年10月、定員14人中13位で当選する。

「世の中は簡単なモノゴトをとても難しく伝えていることが多いです。だから私は、誰でも簡単にのみ込めるように『おかゆ化』して、政治の情報をSNSで発信してきたい」と斉藤さんは意気込む。今は林業家兼議員としてどのように林業を盛り上げていくか模索中だ。

時間にゆとりのある林業家だからこそ、議員活動にも力を入れることができる。さらに鍼灸師としての仕事も増え、三足のわらじを履きこなし地域と交流を深める斉藤さん。林業をベースに地方での働き方の新しいカタチを教えてくれているようだ。

「林業を楽しんでいます」と語る斉藤さんだが、作業中は常に真剣だ(写真/斉藤 光さん)

「林業を楽しんでいます」と語る斉藤さんだが、作業中は常に真剣だ(写真/斉藤 光さん)

六次産業化で価値を高め、さらに「食える林業へ」

豊富な補助金、山の集約化などの施策により、林業家の職場と収入は確保されつつある佐川町。さらに肝心要となる木材の売上げを伸ばし、収入増を目指すために林業の六次産業化を進めている。六次産業化とは、生産物の価値を高め、農林漁業などの一次産業従事者の収入を上げることだ。

その拠点となるのが2016年に町内に開設された「さかわ発明ラボ」。ここにはレーザーカッターなどのデジタル工作機器が導入され、林業家はもちろん町内の一般の人も自由に木材の加工ができる。またそれらを巧みに操るクリエーターやエンジニアが在籍し、佐川の木材を使った新たな商品の開発に取り組んでいる。

さらに2023年には「まきのさんの道の駅・佐川」が新たにオープンする。施設内には「おもちゃ美術館」が併設され、佐川町産の木材を使ったおもちゃ等を展示する。同町の林業を産業として発信するシンボリックな役割を果たしそうだ。

さまざまなスタイルの働き方が広がりつつある昨今、自伐型林業という新しい林業をベースに、自らの得意分野を活かした仕事や、新しい分野へのチャレンジを副業として取り入れている佐川町の若者たち。彼らの取り組みは地方移住者の働き方の良きモデルケースになるかもしれない。また産業振興と移住者獲得という2つの効果をもたらした佐川町の取り組みもまた、他の地方自治体にも大いに参考になるはずだ。

歯科医院跡の建物を利用した「さかわ発明ラボ」。地域の子どもたちの交流の場にもなっている(写真/森川好美さん)

歯科医院跡の建物を利用した「さかわ発明ラボ」。地域の子どもたちの交流の場にもなっている(写真/森川好美さん)

●取材協力
さかわ発明ラボ

人気の花火職人が山里で始めたカフェ兼宿。コロナ禍で気づいた豊かさや幸せの答え 「山の家」福岡県みやま市

コロナ禍によって人々の価値観が変わった。大切なことが明確になった、という人も多いかもしれない。今回紹介する筒井良太、今日子夫妻がカフェ兼宿「山の家」(福岡県みやま市)を始めたのも、コロナがきっかけだった。「足元に目を向ける」「地元のものを生かす」と口でいうのは簡単だが、誰かに提供するには形にしないとならない。お土産品、飲食店、カフェやゲストハウス……さまざまな形があるけれど、筒井夫妻が始めたのは、みやまの宝を集結した家だった。なぜ宿を?山の家を訪れて話を聞いた。

趣のある「山の家」

福岡県の南に位置するみやま市。福岡の繁華街からわずか車で1時間ほどだが、まるで風景が変わる。道脇には清流が流れ、小高い山々や田畑が広がる。今年3月、ここに「山の家」と呼ばれるカフェ兼宿がオープンした。築100年以上の屋敷を改修して店を始めたのは、同じみやま市で玩具花火をつくってきた「筒井時正玩具花火製造所」の筒井良太、今日子夫妻だ。

(写真撮影/藤本幸一郎)

(写真撮影/藤本幸一郎)

山の家に到着すると、お屋敷、といっていいような風格ある古民家が、緑の茂るなかに立っていた。山の家という名から、標高の高い場所にあるのかと想像していたが、思っていたより平地からすぐの場所にある。

中へ入ると思わず声が漏れた。「うわぁ素敵ですね」。
年月を経た家の重厚な空気感に、ラインの美しいカウンターや洗練された椅子とテーブル。ショーケースには美味しそうなケーキが並び、レジ向こうは座敷になっていて、女性スタッフが座って花火づくりの作業をしていた。

古い壁から出てきた竹格子はあえて残してある。窓際のカウンター上部には長崎の陶器ブランド「JICON」のオレンジ色の照明が存在感を放っている。(写真撮影/藤本幸一郎)

古い壁から出てきた竹格子はあえて残してある。窓際のカウンター上部には長崎の陶器ブランド「JICON」のオレンジ色の照明が存在感を放っている。(写真撮影/藤本幸一郎)

玄関から向かって左半分のスペースが「カフェ・フイユ」。右ののれんをくぐった先が宿「山の家」になる。

「カフェフイユ」のフイユとはフランス語で「葉っぱ」のこと。「葉っぱに「予約席」の文字(写真撮影/藤本幸一郎)

「カフェフイユ」のフイユとはフランス語で「葉っぱ」のこと。「葉っぱに「予約席」の文字(写真撮影/藤本幸一郎)

「じつはすごく贅沢な暮らしをしていた」

筒井夫妻は、ここから車で5分ほどの場所で「筒井時正玩具花火製造所」兼ギャラリーを営んできた。なぜ、宿を?

「コロナ禍で何がほんとうに贅沢で豊かなのか。幸せって何だろうって考え直した時、「みやま」ってなんていいところなんだろうって改めて思ったんです。

今まではお金を稼いでいいもの買って、というのが贅沢だったけど、明らかに以前とは考え方が変わった。ここでは採れたての野菜が食べられたり、週末には炭でパンを焼いて青空の下で食べたりして」

川はきれいで緑は豊か。夜には星も見える。子どもたちはのびのびと花火もできるし川遊びもできる。周囲には優しい地元の人たち。それまで当たり前に享受してきたあれこれが、いかに贅沢であるかに気づいた。

「この豊さを、都会から訪れる人たちにも楽しんでもえたらいいなと思ったんですね。地元のいいものを集めた場所がつくれたらいいなって」

そうして昨年2021年、導かれるように知人に紹介されたのがこの物件だった。

筒井今日子さん。夫の良太さんとともに「筒井時正玩具花火製造所」を営む(写真撮影/藤本幸一郎)

筒井今日子さん。夫の良太さんとともに「筒井時正玩具花火製造所」を営む(写真撮影/藤本幸一郎)

“ユミちゃんのケーキ”が食べられる店

今年の春には、まず「カフェ・フイユ」を先行してオープン。メニューには地元の美味しいものが詰まっている。切り盛りするのは、「ユミちゃん」の愛称で呼ばれる、パティシエの高巣由美(たかす・ゆみ)さん。もともと地元で「ランコントル」という予約制のケーキ屋を営んでいた。

カフェをやるなら、ユミちゃんにお願いできないかと今日子さんはまず思ったのだそうだ。

パティシエで、カフェフイユのオーナー、高巣由美さん(写真撮影/藤本幸一郎)

パティシエで、カフェフイユのオーナー、高巣由美さん(写真撮影/藤本幸一郎)

「ユミちゃんのケーキはほんとに人気で、でも予約して数日待たないと食べられない。それがこのカフェでいつでも食べられればみんな喜ぶだろうなと思ったんです。蓋を開けてみると、思ったとおりでした(笑)」(今日子さん)

ショーケースにはチーズケーキやガトーショコラなど美味しそうなケーキが並び、持ち帰りもできる。看板商品はレーズンサンド。クリームには近くの酒蔵の甘酒や酒粕を使用。それとは別に、酒粕パンも販売している。

ケーキの並ぶショーケースの横には、筒井時正玩具花火製造所の線香花火をはじめ、びわの葉茶や九州の工芸品も並ぶ(写真撮影/甲斐かおり)

ケーキの並ぶショーケースの横には、筒井時正玩具花火製造所の線香花火をはじめ、びわの葉茶や九州の工芸品も並ぶ(写真撮影/甲斐かおり)

ランチのスープセット。今は食事のメニューはホットサンドとスープセットのみだが、カレーも近く提供する予定(写真撮影/藤本幸一郎)

ランチのスープセット。今は食事のメニューはホットサンドとスープセットのみだが、カレーも近く提供する予定(写真撮影/藤本幸一郎)

11時の開店時間を過ぎると、カフェはお客さんでいっぱいになった。若者や女性が多いのだろうと想像していたのだが、年配者も多い。地元の人らしいお母さんたちが少しお洒落した装いで集まっている。「パン買いに来たよ~」とにこにこ声をかける女性もいる。

「お店をオープンする前に、地元の人たち先行でお披露目会をしたんです。そうじゃないとなかなか接点がもてないんじゃないかと思って。地元が元気になったらいいなと始める店でもあるから」(今日子さん)

「ユミちゃん、ユミちゃん」とお客さんが楽しげに声をかけているのが聞こえてきた。

おしゃべりに興じるご近所さん(写真撮影/藤本幸一郎)

おしゃべりに興じるご近所さん(写真撮影/藤本幸一郎)

長いこと、地域には背を向けてきた

もともと「筒井時正玩具花火製造所」は、少し変わった花火メーカーでもある。

花火の国産メーカーは、安い海外品におされて数が減っている。なかでも線香花火をつくる会社は、いま全国に4軒しかない。一時期は残り一社となった製造所が廃業し、絶滅寸前に陥った。このままでは線香花火は日本でつくられなくなってしまうぞという時に、筒井時正玩具花火製造所3代目の筒井良太さんが廃業前の製造所へ出向いて修行をし、技術を引き継いだのだった。

国産の線香花火は、海外産に比べて火花が大きく、長く火が落ちない。その質の良さを生かして、二人は自社の線香花火をギフトや雑貨として「一箱40本で1万円」の高価なオリジナル商品として発表した。

「そんな高い花火が売れるはずない」と周囲に反対されながらも、インテリアライフスタイル展などに出展し、販路を増やしてきた。花火を製造する工房横には、線香花火を試せるギャラリーも設けた。新しい花火のあり方を切り開いてきた10年間だった。

筒井時正玩具花火製造所の線香花火。火花が大きく長くもつ(提供/筒井時正玩具花火製造所)

筒井時正玩具花火製造所の線香花火。火花が大きく長くもつ(提供/筒井時正玩具花火製造所)

だからこそ、これまではほとんど地元に関心を向けてこられなかったのだという。

「花火を売れるようにするのに必死やったんで。どうしてもそっちが先になってしまって」と良太さん。

けれど、自社のギャラリーを訪れたお客さんにリピーターが少ないことに気付く。

「自分のところだけ頑張っていてもダメだなって。お客さんにとっては、ここへ来た後、あそこでお昼を食べて、最後ここに寄って帰ろうなどいくつか立ち寄れる場所があるといいですよね。だからみんなでまちを盛り上げていけたらいいなと思ったんです」(今日子さん)

筒井さんたちは山の家を始める前にもう一軒、「川の家」という宿を近くで運営している。花火をできる場所がどんどん限られていることも宿を始めるきっかけだった。

「今、3割の子どもたちは花火をしたくてもできないまま、大人になってしまうと知ったんです。それがショックで。公園も浜辺もどこも禁止、禁止でしょう。川沿いなど屋外であればいくらでも花火を楽しめますから」(今日子さん)

筒井時正玩具花火製造所の線香花火(写真撮影/藤本幸一郎)

筒井時正玩具花火製造所の線香花火(写真撮影/藤本幸一郎)

びわプロジェクト

山の家をオープンするに至るには、これまでに筒井さんが地元の人たちと進めてきたいくつもの活動が背景にあった。

そのひとつが、「びわプロジェクト」だ。

ある時、筒井さんたちに、びわ畑を引き取ってもらえないかと相談があった。広さ1500坪の畑は、そう簡単に「はい」と引き受けられる規模ではなかったが、調べてみると、びわにはさまざまな活用法があることがわかった。びわの葉を使ったお茶、お灸、びわ染め。

今日子さんは、すぐに営利目的で活用するのは難しいけれど、地域のみんなとびわ畑で新しいことを始めるのにはいいと考えた。

「山の家」宿側の縁側から見える庭(写真撮影/藤本幸一郎)

「山の家」宿側の縁側から見える庭(写真撮影/藤本幸一郎)

「びわプロジェクト」を立ち上げるのに造園家、農家、市役所の職員など有志約20名が集まり、みやま市の地域ブランドをつくろうと活動が始まったのが2020年6月。それから月に一度、みんなで楽しみながら作業を続けていて、現在は約50名のプロジェクトメンバーがいる。

昨年の6月には立派な実がたくさん収穫できて、道の駅などで販売した。

(提供/びわプロジェクト)

(提供/びわプロジェクト)

びわプロジェクトの活動の様子(提供/びわプロジェクト)

びわプロジェクトの活動の様子(提供/びわプロジェクト)

「ゆくゆくはびわを活用して商品化、ブランドにしてお金をまわしていくことも考えているんですけど、いま動いてくれる人たちはほとんどがボランティア。それじゃあ長続きしないと思って、びわコインという地域通貨を発行しています。でもベースはみなさんの地元がよくなるようにって気持ち、郷土愛によるものなんです。

みやまには、誰かが何かを始めるんやったら、よっしゃ一緒にやってやろうと関わってくれる人がたくさんいる。そんな人が50人もいるってすごいじゃないですか」(今日子さん)

このびわプロジェクトは、2年目からウコンも含めた「薬草研究会」として発展。びわゼリー、びわ大福、びわフローズンを試作したり、びわやウコンの効能、加工、商品開発に向けての意見交換をして、収穫から活用まで考えている。

その、地元の人たちと活動してきたひとつの出口として「山の家」がある。近々、ウコン(ターメリック)とびわ茶、みやまの特産品であるセロリを用いたカレーも新しいメニューとして、カフェで提供される予定。宿で出すお茶もびわ葉。部屋着やのれんもびわ染めした。

宿「山の家」は、人とのつながりで生まれた

年内には宿「山の家」もオープンする予定。全面に庭の緑が見える広々としたお座敷と、現代風にアレンジされた中の間の二部屋、屋敷の右半分が貸切で使用できる。

座敷(写真撮影/藤本幸一郎)

座敷(写真撮影/藤本幸一郎)

中の間(写真撮影/藤本幸一郎)

中の間(写真撮影/藤本幸一郎)

「初めは接客のプロを雇ってお任せしようと思っていたんです。でも知人に、老舗旅館と勝負しても勝てないのではと言われて、そうだなって。私たちはあくまで花火屋。サービスレベルなどで勝負しても、長年旅館をやっていらっしゃるところにはかないっこない。であれば、せめて私たち自身が直接お客さんと話したり、最大限のもてなしをする方が私たちらしいやり方なんじゃないかと思うようになりました」

泊まらなくても「山の家」を気軽に体験できるよう、カフェと宿の定休日である水曜限定の、ジビエ料理「Nuit」と「山の家鍼灸所」をオープンした。

「地元の人たちにも楽しんでもらえるといいなと思って。この家は格子から漏れる光がきれいで、夜の雰囲気がすごく素敵なんです」

(写真撮影/藤本幸一郎)

(写真撮影/藤本幸一郎)

さらに今年、筒井さんたちは「有明月」という名前の一般社団法人を設立した。地元の人たちとのつながりも増え、より機動力のある形で動けるようにとの思いから。お寺の住職さんと朝のお勤めを体験するツアーを実施したり、元商工会の職員さんと事業計画づくりのサポートをする仕事をしたり。

「行政にしかできないことはもちろんあると思いますが、小さくても自分たちでできることはどんどんやろうって気持ちなんです。役場の職員さんも、個人的に関わってくれていたりします」

山の家を始めるうえで協力してくれた人たちは数えきれない。今日子さんの話に登場する人たちはみんな、個性的で魅力的で聞いていて飽きない。ジビエ料理にしたのも、ハンティングから手がける若きシェフとの出会いがあったから。カフェの器を依頼したのは海外に暮らす作家さん。びわの栽培を教えてくれた佐賀のおじいさんの話。

「私たちがやっていることって、結局すべて人とのつながりから始まってるんです。ああ、この人と一緒に何かしたいなって思ったら一緒にやる。そうしてひとつひとつ、つながってきた結果が山の家かもしれない」(今日子さん)

そんな山の家の成り立ちを聞いていると、田舎の未来像が見えるようだった。

(写真撮影/藤本幸一郎)

(写真撮影/藤本幸一郎)

●取材協力
山の家
カフェ・フイユ

倉敷がいま若者に人気の理由。廃れない街並みの背景に地元建築家と名家・大原家の熱い郷土愛

江戸情緒あふれる町並みが魅力の観光地・岡山県倉敷。観光の中心地点となる美観地区を流れる倉敷川に沿って、江戸時代から残る木造の民家や蔵を改装したショップやカフェ、文化施設などが立ち並びます。空襲を免れたことで旧家が残り、観光資源として活用されている倉敷ですが、それだけではなく、印象派絵画のコレクションで知られる「大原美術館」や、工場跡をホテルにコンバージョンした「倉敷アイビースクエア」など、決して広くはないエリアに国内有数の観光施設が点在しています。
古い建物が残る地域は日本各地に見られる中で、倉敷にこれほど魅力的なスポットが集中する理由はどこにあるのでしょうか。
倉敷で生まれ育ち、すみずみまで知り尽くす建築家の楢村徹さんに、長年倉敷の古民家再生にかかわってきたからこそ見えてきたまちの魅力を伺いました。

倉敷の土台を築いた名士、大原家近世以来の細い街路が現代では観光にちょうど良い歩行路となっている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

近世以来の細い街路が現代では観光にちょうど良い歩行路となっている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

「倉敷はまちも人も恵まれた場所ですね。古いものが残っていて、常に新しいことを仕掛けていこうというエネルギーがある。一朝一夕ではない、時間をかけて育まれた文化が根付いています」
建築家として全国のまちを訪れてきた楢村さん。自身の出身地であることを差し引いても、倉敷は面白いまちだといいます。
伝統的な町並みの印象が強い倉敷のまちに対し「新しい」というワードも不思議な気がしましたが、確かに倉敷を代表する建造物は建設当時の最先端を行くものです。大原美術館に採用されているヨーロッパの古典建築を再現するデザインは、建築家の薬師寺主計がヨーロッパ各国の建築を学び設計したもの。文化の面でも欧米列強を追いかけていた当時の日本において、芸術の殿堂と古代ローマ建築をモチーフとするデザインとの組み合わせは、ここでしか見られないオリジナルなアイデアです。蔦で包まれた外壁が特徴のアイビースクエアも、産業遺産である工場をホテルに転用する、日本でも先駆け的なプロジェクトでした。

アイビースクエア外観。江戸時代の旧代官所跡地に建設された倉敷紡績の工場を再活用した(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

アイビースクエア外観。江戸時代の旧代官所跡地に建設された倉敷紡績の工場を再活用した(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

アイビースクエア中庭。柱と屋根を撤去し、元々工場の内部空間だった場所を外部空間へと変貌させた(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

アイビースクエア中庭。柱と屋根を撤去し、元々工場の内部空間だった場所を外部空間へと変貌させた(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

アイビースクエア内にある、ホテルのエントランスホール。工場建築の特徴であるノコギリ屋根が宿泊客を迎えるトップライトとして生まれ変わった(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

アイビースクエア内にある、ホテルのエントランスホール。工場建築の特徴であるノコギリ屋根が宿泊客を迎えるトップライトとして生まれ変わった(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

「いまの時代にやるべきことがはっきりしているのも、まちづくりにとっては良いことですね。まちの核となるような施設は先代の大原さんが、建築家の浦辺さんと一緒にひと通りそろえているんですよ。それを壊さずに使っていくことを大前提として、足りない部分を補っていけばいいわけですから。まちとしての基盤がしっかりしているから、私が手掛けているような小さな町家の再生であっても、ひとつ完成するごとにまち全体が整っていくことを実感しています」
大原家は倉敷きっての大地主。江戸時代中期に商人として名を成し、明治21年に大原孝四郎が創業した倉敷紡績、その息子孫三郎が創業した倉敷絹織(現クラレ)は現在も上場企業として日本の繊維産業を牽引しています。

現在、旧大原家住宅は一部一般公開されている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

現在、旧大原家住宅は一部一般公開されている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

旧大原家住宅の倉を改修した「語らい座」。大原家ゆかりの資料が保管され、イベント会場としても活用されている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

旧大原家住宅の倉を改修した「語らい座」。大原家ゆかりの資料が保管され、イベント会場としても活用されている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

「いまの時代にやるべきことがはっきりしているのも、まちづくりにとっては良いことですね。まちの核となるような施設は先代の大原さんが、建築家の浦辺さんと一緒にひと通りそろえているんですよ。それを壊さずに使っていくことを大前提として、足りない部分を補っていけばいいわけですから。まちとしての基盤がしっかりしているから、私が手掛けているような小さな町家の再生であっても、ひとつ完成するごとにまち全体が整っていくことを実感しています」
大原家は倉敷きっての大地主。江戸時代中期に商人として名を成し、明治21年に大原孝四郎が創業した倉敷紡績、その息子孫三郎が創業した倉敷絹織(現クラレ)は現在も上場企業として日本の繊維産業を牽引しています。

大原美術館と大原本邸(旧大原家住宅)とを結ぶ今橋。橋も薬師寺主計の設計(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

大原美術館と大原本邸(旧大原家住宅)とを結ぶ今橋。橋も薬師寺主計の設計(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

同じく薬師寺が設計した旧中国銀行倉敷本町出張所。孫三郎は中国銀行の頭取も務めていた(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

同じく薬師寺が設計した旧中国銀行倉敷本町出張所。孫三郎は中国銀行の頭取も務めていた(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

伝統を崩さず、新しさを採り入れる

さらに總一郎は、建築家の浦辺鎮太郎とともに市と連携して倉敷市民会館や倉敷市庁舎、倉敷公民館など市民の生活を支える施設を整備していきます。
大原美術館と並び倉敷観光の中心を成す倉敷アイビースクエアも、もともと倉敷紡績の工場だったものを浦辺の設計でコンバージョンして蘇らせた文化複合施設です。

「倉敷には江戸時代以来の商人のまちとしての歴史があって、時代ごとに築きあげてきたものが積み重なっていまの倉敷をつくっているんです。空襲にもあいませんでしたから。ドイツに中世につくられた道や建物がそのまま残っているローテンブルクというまちがあるんですが、總一郎さんが倉敷をドイツのローテンブルクのようなまちにしようと呼びかけた。そこからいろんな人たちが協力して古いまち並みを残してきた結果、一周遅れのトップランナーといった感じで注目されるようになってきた。いま我々がやっているのはそれを生かして新築ではできない魅力をさらに積み重ねていく、新しいエッセンスを加えて次の世代にわたしていくと、こういうことです」

浦辺の代表作のひとつ、倉敷ホテル。建物全体を取り巻く庇と瓦がリズムをつくり、伝統建築を参照しつつ現代的な印象を与える(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

浦辺の代表作のひとつ、倉敷ホテル。建物全体を取り巻く庇と瓦がリズムをつくり、伝統建築を参照しつつ現代的な印象を与える(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

「倉敷は町家造りの建物が並んでいて、広場になるような場所がないんです。だけど建物の正面から一歩奥に入ると、細い路地がポケットパーク的に点在しています。日常的に使わないから物置として放置されていたりもするんですが、大きなテーマとして、そういった本来裏の空間である路地空間を表の空間として皆が入ってこられる場所にすることと、それらをつないでいくことでまちに奥行きをつくりだして歩いて散策できるまちにすること、このふたつに取り組んでいます」

楢村さんが改修デザインをしたクラシキクラフトワークビレッジ。自然と奥へ誘導される(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

楢村さんが改修デザインをしたクラシキクラフトワークビレッジ。自然と奥へ誘導される(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

最奥部では複数の商店が中庭を取り囲むように並ぶ。思わず中に入ってみたくなる配置デザインだ(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

最奥部では複数の商店が中庭を取り囲むように並ぶ。思わず中に入ってみたくなる配置デザインだ(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

同じく楢村さん設計の林源十郎商店。複数の町家の通り庭をつなげ、自由に散策できる遊歩道が設えられている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

同じく楢村さん設計の林源十郎商店。複数の町家の通り庭をつなげ、自由に散策できる遊歩道が設えられている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

林源十郎商店の通り庭。倉敷のまちで見かける散策路の多くに、楢村さんはかかわってきた(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

林源十郎商店の通り庭。倉敷のまちで見かける散策路の多くに、楢村さんはかかわってきた(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

「もともと私は古民家が好きとか、古い建物が好きとかそういうわけでもないんです。新しいデザインを追求した結果、古民家がもっている歴史の積み重ねに新しい要素を加えることを考えました。若いころに読んでいたヨーロッパの建築雑誌には、石造りの古い建物をリノベーションした建築が載っていて、これが非常にモダンで格好良いんです。そういうものを見て、自分もやってやろうというモチベーションでしたから、一番新しいデザインだと思ってやっています。長い年月を朽ちることなく耐え抜いてきた古民家に使われているのは、選びぬかれた本物の材料です。いまでは手にはいらないような貴重な材料でつくられているから、時間が経っても古びない、むしろ味わいが増していく魅力があると思います」

いいものをつくることが、保存への近道

楢村さんは建築家として独立した30年以上前に同世代の建築家たちと「古民家再生工房」を立ち上げ、全国の古民家を改修する活動を続けてきました。当時はバブル真っ只中。建築業界では次々に建て変わる建物の更新スピードと並走するように、目まぐるしくデザインの傾向が変わっていきました。そんななか、地道に古民家の改修を続ける楢村さんたちの活動はどのように受け止められたのでしょうか。

「建築の設計に携わっている専門家ほど、『お前らそんな仕事しかないのか』と見向きもしない傾向はありました。でも建物を建てるのは一般の人なんだから、専門家からどう言われようが自分たちが信じたことをやっていけば良いとは思っていました。
地元のメディアに働きかけてテレビやラジオ、雑誌に取り上げてもらったり、講演会や展覧会を自分たちでずっと継続してきて、一般の人たちに建築デザインの魅力や古民家再生の良さを知ってもらおうと活動してきました。
それまでは古民家というと保存する対象で、古い建物を東京の偉い先生が見に来てこれは残すべきだとか、大切に使ってほしいとかそういうことを言ってきたわけです。でも建物の持ち主からすれば、歴史的な価値がどうとか言われてもよくわからないですよね。
それを我々はアカデミックな見方ではなくて、現代の目で見て良いデザインに生まれ変わらせようという視点で設計してきたから受け入れられたんだと思います。若い人たちがここに住みたいと思うようなものにしてしまえば、保存してほしいなんて言わなくても使い続けてもらえるわけですからね」

楢村さんが設計した施設のブティック。古くから使われてきた自然素材を用いつつ、古民家を現代的な建築にリノベーションした。(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

楢村さんが設計した施設のブティック。古くから使われてきた自然素材を用いつつ、古民家を現代的な建築にリノベーションした。(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

「そんなことを十年以上やっていたら、倉敷で中心市街地の活性化事業がスタートしたときに声をかけてもらって。もう十五年以上、倉敷の町家再生に携わっています。といっても単に建物を改修するだけではダメで、そこをどんな場所にするのか、お店をやるならどんな内容にするのかとか、どうしたらちゃんと事業として回っていくのかとか、中身のことも一緒に考えていくから設計の仕事は全体の3割位ですね。
なにかお店を入れようと思ったら周りとの調整も必要だし、1つの建物を生まれ変わらせるのに4、5年かかるのが普通です。その間はお金にもならないし、思うようにいかないことばかりで大変ですが、誰かがやらなくちゃいけないことですから。本当はなにも描いていないまっさらな白紙に、倉敷がこんなまちになったら良いななんてイメージを描いていくのが一番楽しいんですが、実現しないとなんの意味もない。思い描いたうちの8割でも7割でも、かたちにして次につないでいくことが、我々がいますべきことだと思っています」

楢村さん設計の「夢空間はしまや」。楢村さんが設計した建物にはどれも観光で疲れた足を休ませてくれる癒やしの空間が用意されている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

楢村さん設計の「夢空間はしまや」。楢村さんが設計した建物にはどれも観光で疲れた足を休ませてくれる癒やしの空間が用意されている(写真撮影/ロンロ・ボナペティ)

「理想は観光客に対してではなく、倉敷に住む人にとって良いまちにしていくこと、その結果、外の人が来ても楽しめるまちになるといいなと思ってやってきました。最近は若い人たちが倉敷のまちづくりに関わるようになってきています。私の事務所から独立して町家の改修をやっている人もいるし、頑張って新築をつくっている人も。
そうやって若い人たちが集まってきて、やりたいことを実現できる土壌があって、それがちゃんと経済的にも成り立つだけのポテンシャルがある。これまで倉敷が積み重ねてきた文化の地層に、新しい要素を付け加えながら、次の倉敷をつくっていってほしいですね」

●取材協力
楢村徹さん