日本橋を人と街の交流拠点へ。三井不動産が手掛けるオープンスペース、自然と会話が生まれるイベントは想像以上の多彩さだった!

三井不動産が東京・日本橋に、「好奇心を動かし探求と活動を生み出すオープンスペース 」を開設させた。なぜ、日本橋に交流拠点を開設したのかが気になるところだが、多彩なイベントを連日開催していると聞いて、参加してみた。その様子をレポートしよう。

【今週の住活トピック】
「+NARU NIHONBASHI by MITSUI FUDOSAN」をオープン/三井不動産

交流拠点「+NARU NIHONBASHI by MITSUI FUDOSAN」とはどんな施設?

オープンスペースの名称は「+NARU NIHONBASHI by MITSUI FUDOSAN(以下、「+NARU NIHONBASHI」)」。NARU(ナル)は「成る」「為る」「鳴る」「生る」といった複数の意味が込められており、人や街に変化や動きを生み出すことを目指しているのだとか。

現地を訪れてみると、ガラス張りなので中の様子が見えて、開放的な印象を受けた。(記事冒頭のエントランス写真参照)目に入るのがコーヒースタンド(ドリンクは有料)で、カフェと間違える人もいるかもしれない。中に入るとコミュニティマネージャーが声をかけてくる。取材で訪れた旨を伝えると、三井不動産から委託され+NARU NIHONBASHIを運営している株式会社 GoldilocksのCEO川路武さんが施設を案内してくれた。

+NARU NIHONBASHIのコーヒースタンド(筆者撮影)

+NARU NIHONBASHIのコーヒースタンド(筆者撮影)

+NARU NIHONBASHIは、LINEで会員登録をすれば利用できる。実は、ラウンジが利用できるならと、筆者は既に登録していた。筆者のように日本橋には住んでも勤めてもいないけれど、日本橋のお蕎麦屋さんが定期的に開く落語会や三越劇場が主催する三越落語会など、趣味で日本橋をよく訪れるという場合でも登録はウエルカムだ。登録特典のLINEのコーヒークーポンがあったので、さっそく利用した。

このラウンジは、施設がオープン中であればいつでも利用できる。ラウンジ内にはいくつかのテーブル・椅子が置かれており、ノートパソコンを持ち込んでいる人がいた。よく見ると、テーブルごとにお勧めの本が置かれていたりボードゲームが置かれていたりして、本を読んだりゲームをしたりすることもできるようになっていた。滞在時間はどのくらいなのかを聞くと、短い人で1時間程度、長い人では半日ほどいるという。

+NARU NIHONBASHIのラウンジ(オープンスペース)(筆者撮影)

+NARU NIHONBASHIのラウンジ(オープンスペース)(筆者撮影)

テーブルごとにテーマが設定されていることも(筆者撮影)

テーブルごとにテーマが設定されていることも(筆者撮影)

ほかにも登録会員であれば、ラウンジを区切った約10席のミーティングスペース(1000円/時間)を予約することもできる。また、ラウンジスペースはイベントスペース(10000円/時間)として誰でもレンタルすることができるが、登録会員が主体となった、日本橋に資する内容であると認められるイベントの場合には、メンバー価格(3000円/時間)で利用できるといった特典もある。日本橋で新しいチャレンジが生まれることを応援したいからだという。

+NARU NIHONBASHIにはミーティングスペースが2つある(筆者撮影)

+NARU NIHONBASHIにはミーティングスペースが2つある(筆者撮影)

コミュニティマネージャーが常駐しているのも特徴だ。利用者に声をかけて、コミュニケーションを取っているだけでなく、それぞれの持ち味を生かした多彩なイベントを開催している。その内容も、参加しやすい出会いの場づくりのものから、深掘りしたり自分磨きをしたりする手の込んだものまで、実にさまざまだ。

参加費用は、無料であったり、有料でも1000円程度だったりとリーズナブル。実費相当額程度なので、イベントで利益を得る構図ではないようだ。

いざ、ホットサンド作りに挑戦

そうこうしているうちに、参加するイベントの開催時間となった。この日の朝には、すでにバリスタが教えてくれる「美味しいコーヒーの淹れ方講座」(会員参加費1000円|定員4名)が開催され、4名がいずれも通勤前に参加したという。互いに入れたコーヒーの飲み比べをして、味の違いを体感して盛り上がったそうだ。

筆者が参加した12:00~13:30の時間帯は、「コミュナルランチ~ホットサンドPress~」(参加費600円)が開催された。テーブルには、定番のレタスとハム・チーズから、和風のサバ缶と大葉・コーン、フルーツを中心としたスイーツ系までさまざまな具材が並べられ、自分がセットしたものを順番に焼いていくスタイルだ。筆者は、チョコレートソースにフルーツとマシュマロという甘々のセットにしたが、マシュマロが溶けてプレス機にこぼれ出し、大変迷惑をかけてしまった。

さて、参加者に話を聞いてみた。日本橋に勤務している50代の男性は今回のイベントが2回目の参加だ。どうせランチを食べるのならと、今回のホットサンドイベントに参加したという。サバ缶サンドが、あまりにおいしそうだったので、筆者の甘々サンドと半分交換してもらった。こうした交流ができるのもイベントならではだろう。

桐葉恵さん(20代)は、友達から面白いことをやっている場所があると聞いて、今回初めて参加した。この日は自宅でリモートワーク中だったので、ランチ代わりに寄ってみたという。スタッフも交えてワイワイ食事をするのは、知らない者同士でも気づまりすることがない。桐葉さんは、次は朝のラジオ体操に参加しようかと検討していた。

「コミュナルランチ~ホットサンドPress~」の様子(筆者撮影)

「コミュナルランチ~ホットサンドPress~」の様子(筆者撮影)

人気のイベントは「詳しくない趣味をシャベル会」!?

多彩なイベントの中でも、参加者が多い人気企画の一つが「詳しくない趣味をシャベル会」。これまで4回開催して50名以上が参加したという。担当のダバンテス・ジャンウィルさんに詳しく聞いてみた。

趣味は何かと問われると趣味と言えるほどではないと躊躇してしまうが、「詳しくない趣味」なら気楽に好きなことやいつもしていることを話せるもの。「シャベル」としたのは話すことに加えて“掘る”という意味もあるそう。

では、これまでどんな「詳しくない趣味」が登場したのか。シュウマイやピザトースト、左官(実演付き)、無課金漫画を楽しむ、寝る前に怖い話を聞く、願望リストをいつも作る、といった趣味と言えるのかよくわからないものまで実にさまざま。なんでもありと言ってよいだろう。

会の具体的な展開はこうだ。初めにゲストプレゼンター数人が詳しくない趣味について説明する。それを聞いて、参加者はそれぞれ紙に自分の趣味(あるいは趣味のタネ)を書く。3人1組になってそれぞれが書いた趣味について語り合い、終わると別の3人で組んで同じように趣味を語り合う。そのときのルールは、相手の趣味の話を聞いて、通常より割り増しで感情を表現すること。最後に、誰の趣味が面白かったかのアンケートを取り、上位になった人には次のゲストプレゼンターになってもらう。こうして、参加者から次のプレゼンターが誕生するというユニークな仕掛けになっている。

この日の「+NARU NIHONBASHI」のスタッフたち(筆者撮影)

この日の「+NARU NIHONBASHI」のスタッフたち(筆者撮影)

この他にも、施設を利用したり、イベントに参加した人たちのリレーションを活用したイベントが開催されている。その一つが「街中に屋台を出してみたい」という学生会員の声から生まれた「夜読書時間~ときどき屋台~」。軽食やドリンクを提供するお手製の屋台が登場し、読書イベントに花を添える。このような会員が発案するイベントも増やしたいということだ。

日本橋の街づくりにコミュニティの力を活かす

さて、無料で会員登録ができ、会員になるとオープンスペースが利用でき、さらにミーティングルームやイベントスペースが低額で利用できる。そればかりではなく、筆者が体験したような気軽なイベントや「詳しくない趣味をシャベル会」のようなイベントまで、多彩なイベントが用意されている。会員には至れり尽くせりの交流拠点であることが分かった。

でも、場所を提供し、やりたいことをアシストしてくれるコミュニティマネージャーを常駐させることまでして、日本橋に交流拠点を置く理由はなんだろう。そこで、三井不動産 日本橋街づくり推進部 北村聡さんに話を聞くことにした。

日本橋の川沿いでは、他社も含め今後5つの再開発が予定されている。三井不動産は、歴史も文化もある日本橋の街づくりだからこそ、「共感・共創・共発」の考えのもとで、オープンな街づくりをしたいと考えているという。

この拠点に集まる人たちが、日本橋を好きになってアクションを起こすアシストをすることで、その人たちが将来的に、この街の課題を見つけたりそれを解決したりする人材となっていく。それは街づくりのプロでは思いつかないアイディアや手法だったりする可能性もあり、そうしたことを期待して、長期的にこの施設を運営していくということだ。

また、施設オープンから3週間で数百名が会員登録をしており、立ち寄った会員の7割近くが、日本橋徒歩20分圏内に勤務先や自宅がある人たちだという。今は個人会員を募集しているが、団体や企業登録などの選択肢も視野に入れている。地元の企業とのコラボレーション企画や日本橋を知るための地元研修の実施など、多くの可能性があるからだ。日本橋という立地とコミュニティ形成のノウハウを持つこの拠点なら、面白いことができそうだ。

●関連サイト
三井不動産ニュースリリース:コミュニティラボ「+NARU NIHONBASHI by MITSUI FUDOSAN」をオープン
公式WEBサイト

“さいたま都民”の地元愛に火を付ける「サーキュレーションさいたま」【全国に広がるサードコミュニティ11】

都内へのアクセスがよく、暮らしやすいこともあって毎年1万人ほど人口が増加している埼玉県さいたま市。しかし、東京に通うばかりで地元を顧みない「埼玉都民」も多く暮らしています。そんなさいたま市民向けに、地元の魅力を掘り起こし発信するワークショップが開催されました。
 

連載名:全国に広がるサードコミュニティ
自宅や学校、職場でもなく、はたまた自治会や青年会など地域にもともとある団体でもない。加入も退会もしやすくて、地域のしがらみが比較的少ない「第三のコミュニティ」のありかを、『ローカルメディアのつくりかた』などの著書で知られる編集者の影山裕樹さんが探ります。

埼玉―東京の縦の移動だけでなく、市内の“横”の循環を

JR京浜東北線、JR埼京線、JR宇都宮線、埼玉高速鉄道線などが乗り入れ、東京都心部へのアクセスが良く、転入超過数で毎年上位にランクインする埼玉県さいたま市。特にファミリー層の転入が多く、浦和や大宮などには商業施設が集積し、暮らしやすいイメージがあります。

しかし実際のところ、平日は都内へ通勤・通学のため通い、休みの日も都内で遊び、地元には寝に帰るだけ、な人も多いです。そんな人々のことを「埼玉都民」と呼ぶこともあります。実際、遊びに出かけようとしても、東京―さいたまの“縦”の移動はたやすいけれど、さいたま市内の“横”のアクセスは難しく、バスか車、自転車など移動手段が限られているのが現状です。緑豊かな見沼エリアや全長2kmもある大宮氷川参道など、さいたま市内には数多くの観光スポットがあるにもかかわらず、そのことを知らない人も多いのではないでしょうか。

大宮氷川参道の鳥居(写真提供/サーキュレーションさいたま)

大宮氷川参道の鳥居(写真提供/サーキュレーションさいたま)

見沼区の自然あふれる風景(写真提供/サーキュレーションさいたま)

見沼区の自然あふれる風景(写真提供/サーキュレーションさいたま)

まさに、こうしたさいたま市内の“横の回遊”を促進するコミュニティや市民活動を生み出す、一般市民向けのワークショップ「サーキュレーションさいたま」が2019年にスタートしました。「サーキュレーション」とは聞き慣れない言葉ですが、「循環」という意味で、さいたま市の内側でぐるぐる人が循環するような状況を生み出したいという思いで名づけられました。

地域の文化的遺伝子を掘り当てることで、その地域らしい活動が生まれる

2019年9月のキックオフを経て、建築家、会社員、公務員から学生まで、世代も職業も異なる約30人の市民が集まり、市内の公共空間を活用したイベントなどを考える「公共空間」、市内の新しい人の流路を生み出す「モビリティ」、排除のない関係を生み出す「ソーシャルインクルージョン」の三つのテーマに分かれ、今年11月の最終プレゼンテーションに至るまで、実に1年以上にわたって活動を続けてきました。

サーキュレーションさいたまメインビジュアル

サーキュレーションさいたまメインビジュアル

僕はこのプロジェクトのディレクターとして全体の企画・運営に携わりました。また、神戸で介護付きシェアハウス「はっぴーの家」を運営する首藤義敬さん、日本最大級のクラウドファンディングプラットフォームmotion gallery代表の大高健志さんをはじめ、多彩なゲストを招聘し月に2回ほどレクチャーを開催するほか、レンタサイクリングサービスHELLO CYCLINGさん、浦和美園駅始発の埼玉高速鉄道さんなど企業のメンターの協力のもと、グループごとに自主的に集まってもらい、プレゼンテーションに向けたプランを構想していきました。

ワークショップの流れとしてはまず、さいたま“らしさ”を見つけるところから始まります。地域で部活を立ち上げたり事業を生み出したりするのに、どこにでもあるカフェやゲストハウスをつくっても面白くない。そこで、その地域ならではの「文化的遺伝子」を見つけるレクチャーを行いました。

グループごとに分かれてワークショップを進めていく(写真提供/サーキュレーションさいたま)

グループごとに分かれてワークショップを進めていく(写真提供/サーキュレーションさいたま)

その中で、例えば公共空間を考えるチームは、さいたまには江戸時代「農民師匠」と呼ばれる人がたくさん存在していたことを突き止めました。お坊さんだけでなく農民自身が、土地を読み自ら考え行動する、「生きるための力」を授ける寺子屋が広く存在していたそうなのです。メンバーの一人・福田さんはこう語ります。

「今のさいたまをみてみると、子どもたちはみな受験戦争に駆られ、週末の大宮図書館には場所取りのための行列ができるんです。学ぶ目的も学ぶ場も画一化されてしまった現代のさいたまで、のびのびと生きた学びを受け取れる場をつくりたい。農民師匠ならぬ『市民師匠』を集め、市内の公共空間のさまざまな場所でイベントを開催していきたいと考え、Learned-Scape Saightamaというチームを立ち上げました」(「Learned-Scape Saightama」チーム・福田さん)

自習する場所取りのための行列ができる図書館(写真提供/「Learned-Scape Saightama」チーム)

自習する場所取りのための行列ができる図書館(写真提供/「Learned-Scape Saightama」チーム)

地元企業の後押しを受けて社会実装を目指す

2019年12月には、一般の市民に開かれた公開プレゼンテーションを行いました。そこでもう一つの公共空間チームが、埼玉スタジアム2002でのサッカーの試合の日以外、主に混雑時緩和のため使用される埼玉高速鉄道の浦和美園駅の3番ホームを開放し、マルシェを開催するプランを発表。名づけて「タツノコ商店街」。「2020年春に実際に開催します!」と発表された際は大きな歓声が上がりました。

サーキュレーションさいたま公開プレゼンテーションの様子(photo:Mika Kitamura)

サーキュレーションさいたま公開プレゼンテーションの様子(photo:Mika Kitamura)

しかし、折しも新型コロナウイルスの影響で中止に。「タツノコ商店街」チームに埼玉高速鉄道の社員として参加していた大川さんは、当時を振り返りこう語ります。

「開催のせまった2020年春の段階はみんな熱量があったのですが、その後コロナで中止、チームの雰囲気も停滞。でも、メンターを務めてくださった公・民・学連携拠点であるアーバンデザインセンターみそのさんの計らいで、浦和美園の住人の方々との縁をつないでいただきました。依然コロナの影響はありますが、2021年の開催に向けて、浦和美園の人たちとの関係を育んでいきたいと考えています」(「タツノコ商店街」チーム、大川さん)

(画像提供/「タツノコ商店街」チーム)

(画像提供/「タツノコ商店街」チーム)

自発的な市民の構想が公共政策に影響を与える可能性

しかし、立ちはだかるのはコロナだけではありませんでした。ソーシャルインクルージョンがテーマのチームは、大宮氷川参道にかつてあった闇市「参道仲見世」をリサーチし、そこには混沌としながらも排除のない「おたがいさま」の精神があったことを突き止めました。しかし、そんな社会包摂をテーマとするチームにもかかわらず、メンバー間で軋轢がおこり、一時期は不穏な空気もながれました。

それもそのはず、2001年に浦和市、大宮市、与野市、岩槻市の4市が合併した比較的新しい行政区分である「さいたま市」には、地域ごとの特色が微妙に異なります。例えば、浦和と大宮にそれぞれあるサッカーチームを応援する人が同じチームに投げ込まれ、一年以上も一緒にいる。その中で、普通に生活していたら意識することのない地域間の文化や暮らしの違いが可視化され、その違いを乗り越え融和する「時間」もワークショップの醍醐味でした。

2019年の夏にキックオフしたサーキュレーションさいたま(写真提供/サーキュレーションさいたま)

2019年の夏にキックオフしたサーキュレーションさいたま(写真提供/サーキュレーションさいたま)

普段出会わない人々が同じ空間に存在し、互いに理解を示し合う機会をつくることは市民活動を続けるうえでとても重要です。結果として、チームの結束は強まり、現在も活動を続けています。さきほど紹介した「Learned-Scape Sightama」チームは2020年夏、発酵ジンジャーエールの事業化を目指す株式会社しょうがのむし代表の周東さんを「市民師匠」に見立て、発酵ジンジャエールをつくるワークショップを開催。また、12月には「たつのこ商店街」チームが、一般社団法人うらわclipが主催するイベント「うらわLOOP」に参加。それぞれ仕事や学業で忙しいなか、無理をせず仲間同士で自主的に集まって、さいたまらしい文化をつくっていく。とても頼もしいメンバーたちです。

うらわLOOPに出展した「たつのこ商店街」チーム(写真提供/「Learned-Scape Saightama」チーム)

うらわLOOPに出展した「たつのこ商店街」チーム(写真提供/「Learned-Scape Saightama」チーム)

また、モビリティをテーマにしたチームは、シェアサイクリングのアプリ上にツアーコンテンツを仕込み、自転車とセットで予約してもらうシステムを考案し社会実装を目指す「ヌゥリズム」というプランを発表しました。

アプリ上で乗り物とツアーコンテンツを同時に予約(画像提供/「ヌゥリズム」チーム)

アプリ上で乗り物とツアーコンテンツを同時に予約(画像提供/「ヌゥリズム」チーム)

コロナウイルスの影響で、電車通勤に抵抗を感じ、シェアサイクルをいつもより長距離利用する人が増えたというデータもあります。いまこそ、子育て世代の親御さんが、休日に近隣のスポットにシェアサイクルを利用して行きたくなるようなコンテンツが必要だと言えるでしょう。例えば、芋掘り体験だったり、紅葉ツアーだったり。このチームでメンターを務めてくださった、HELLO CYCLINGの工藤智彰さんはこう語ります。

「弊社はさいたま市スマートシティ推進コンソーシアムに参画しており、シェア型マルチモビリティのサービスを企画しております。このモビリティの用途の一つとしてこのプランを紹介したところ、関係者からとても良い反応を得られました。大宮・さいたま新都心地区でのスマートシティ推進事業は国交省の先行プロジェクトとして採択されており、今後『ヌゥリズム』を実現するインフラも実現できそうです。利害関係のない市民の自発的な構想には、行政を動かす説得力があるのだと気付かされたワークショップでした」(工藤さん)

(画像提供/「ヌゥリズム」チーム)

(画像提供/「ヌゥリズム」チーム)

地域振興にはコミュニティの持続可能性が問われている

サーキュレーションさいたまは、2020年に開催された「さいたま国際芸術祭2020」のプログラムの一つとして生まれました。「さいたま国際芸術祭2020」キュレーターの一人で、さいたま市でまちづくりNPOを運営する三浦匡史さんは、サーキュレーションさいたまを開催した目的についてこう話します。

「2016年の『さいたまトリエンナーレ2016』で、さいたまスタディーズというプログラムを開催しました。外部の研究者による連続講座を開催し、さいたま市がもともと海だったことなど、普通に暮らしていては意識されない歴史を掘り起こしました。第二回目の今回の芸術祭では、識者やアーティストの話を受け身で聞くのではなく、市民自身が表現し発信するプログラムを入れたかったんです」(三浦さん)

多額の予算を計上し大規模に開催される行政主導の芸術祭が2000年ごろより全国各地で開催されることが増えてきました。そうした芸術祭に関わってきた僕自身、作家が作品を発表し、期間が終わると街に何も残らないことに問題意識を持ってきました。やはりそこに暮らす市民が、アーティストに触発され自らクリエイティブな活動を起こす、そんな機会をつくり、会期後も継続的なコミュニティや事業として残っていくこと。そこにアートを活用した地域振興の可能性があるのではないか。そんな思いで、サーキュレーションさいたまというプログラムを考案したのです。

さいたま国際芸術祭2020での展示風景(写真提供/サーキュレーションさいたま)

さいたま国際芸術祭2020での展示風景(写真提供/サーキュレーションさいたま)

地域を元気にするのは、必ずしも経済的な面だけではないと思います。地元を愛し、地元を楽しめる市民を増やすこと。そのための仲間たちを増やすこと。いわば、“サードコミュニティ”を生み出すことが大事でしょう。東京に通い、埼玉には寝に帰るだけ。そんな「埼玉都民」が地元を好きになり、鉄道網がないエリアも自転車や車に乗って縦横無尽に循環し、互いに親睦を深めること。その地道な交流が5年後10年後の地域を形づくっていくのだと思います。

LOCAL MEME Projectsのロゴ

LOCAL MEME Projectsのロゴ

僕は今、全国各地で同様のワークショップを開催しており、それらはLOCAL MEME Projectsというサイトにまとまっています。MEME(ミーム)とはちなみに、「文化的遺伝子」という意味です。地域ならではの文化的遺伝子を掘り起こし、未来へと引き継ぐ、がコンセプト。このサイトではサーキュレーションさいたまを含む、過去のプログラムから生まれた活動や、公開プレゼンテーションの動画リンクもまとまっておりますので、興味のある方はぜひご覧ください。

●参考
CIRCULATION SAITAMA
LOCAL MEME Projects

韓国文学好きの“仲間”が集う出版社「クオン」とカフェ「チェッコリ」【全国に広がるサードコミュニティ10】

近年、日本でも人気の韓国文学の翻訳書を多数発行する出版社・クオンは、カフェの運営や翻訳コンクールの開催など、出版にとどまらない取り組みで韓国文学好きのコミュニティを育んでいます。連載名:全国に広がるサードコミュニティ
自宅や学校、職場でもなく、はたまた自治会や青年会など地域にもともとある団体でもない。加入も退会もしやすくて、地域のしがらみが比較的少ない「第三のコミュニティ」のありかを、『ローカルメディアのつくりかた』などの著書で知られる編集者の影山裕樹さんが探ります。韓国語圏の本、文化を日本に紹介する出版社・クオン

映画化もされ、韓国国内で130万部の大ヒットとなった小説『82年生まれ、キム・ジヨン』が日本でも話題をさらったのは記憶に新しいですが、2010年ごろから、韓国の小説を積極的に紹介してきた出版社が神保町にある“クオン”です。名作から気鋭の作家の短編小説、コロナ禍に立ち向かった市民や医療関係者の声を集めた本など、韓国の文化にまつわる本を出版するほか、ブックカフェ「チェッコリ」には、連日韓国文学好きが訪れます。(現在カフェは休止し、書籍のみ販売)

コロナ禍にあってリアルイベントの開催は難しくなっていますが、文学のみならず映画やドラマなど、韓国コンテンツ好きの仲間たちが集まるイベントや、翻訳者を養成する翻訳スクールも人気です。またクオンではリアル店舗の運営以外にも翻訳コンクールを主催するなど、韓国文学ファンや韓国文学を紹介する人々の裾野を広げる活動を続けています。

クオンの刊行物「新しい韓国の文学」シリーズ第一弾として出版された、イギリスのブッカー賞を受賞したハン・ガンの『菜食主義者』(中央)など(写真撮影/影山裕樹)

クオンの刊行物「新しい韓国の文学」シリーズ第一弾として出版された、イギリスのブッカー賞を受賞したハン・ガンの『菜食主義者』(中央)など(写真撮影/影山裕樹)

ホ・ヨンソン詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳、新泉社刊行)の刊行記念イベント(画像提供/クオン)

ホ・ヨンソン詩集『海女たち』(姜信子・趙倫子訳、新泉社刊行)の刊行記念イベント(画像提供/クオン)

広告代理店を経て出版業界に参入

クオンを立ち上げた金承福(キム・スンボク)さんは、韓国・全羅南道霊光出身。ソウル芸術大学卒業後に留学生として来日し、日本大学を卒業後、日本のインターネット関連の広告代理店に就職します。当時、金さんは『韓国.com』という、韓国の芸能、スポーツ、文化を紹介するポータルサイトを担当。そのうち、海外の取引先とやりとりしながら多言語対応のウェブサイトを制作するなど、さまざまな仕事を受けるようになっていました。

「3年くらい仕事をした後、その会社が韓国部門の仕事を辞めることになって。でもクライアントからは辞めないで欲しいと言われ、結局私がその部門を引継いで別会社を立ち上げることになったんです。不思議なことに、同じ会社の中に机もあるんだけど、別会社。当時、2000年ごろの日本はインターネット関連の仕事がどんどん増えていく時代だったので寝る暇もないほど忙しかったですね。とても儲かりましたけど(笑)」(金さん)

金承福さん(画像提供/クオン)

金承福さん(画像提供/クオン)

次第にウェブだけでなくイベントや展示会、ショールームのデザインなど大規模な仕事が増えていきました。そんな働き詰めだった2008年、リーマンショックが起こります。

「今考えれば、(本のように)在庫も抱えず返品もないわけですから、その分心配することも少ないし仕事は楽しくて仕方なかった。けれどリーマンショックで仕事が激減して、外的な要因に左右されるクライアントありきの仕事に疑問を持ち始めました。景気に翻弄されず、自分の努力次第で経営が成り立つ仕事がしたい。そこで、ウェブの会社をたたんで出版社を立ち上げました。実はずっと出版に関わる仕事がしたかったんです」(金さん)

出版社が書店を経営する理由とは?

そんな中、未経験で飛び込んだ出版業界に、金さんは戸惑いを覚えました。それまでは主に外国の取引先との仕事が多かったのですが、出版業界は印刷会社も、取次会社も書店もみんな日本人。「そのとき初めて、自分は日本にいる」と金さんは感じたそうです。そこで、いきなり出版物を刊行し始めるよりも、まずは業界との関係づくりからスタートしました。

「韓国コンテンツはどんどん盛り上がっていたので、当初は翻訳エージェントの仕事をメインで活動を続けていました。前の仕事も言ってみればウェブエージェンシーだったわけで、編集プロダクションに近いんですよ。仕事を引き受けて、校正して、翻訳をして、ウェブに載せるという仕事。私の中では繋がっているんです」(金さん)

全羅南道 羅州市にある東新大学漢医学部教授キム・ソンミン先生による3回講座「韓方的な生き方」(画像提供/クオン)

全羅南道 羅州市にある東新大学漢医学部教授キム・ソンミン先生による3回講座「韓方的な生き方」(画像提供/クオン)

2010年に入って、「新しい文学シリーズ」の刊行をスタート。当時は折しも、2002年の日韓ワールドカップ、2003年の「冬のソナタ」の大ヒット、K-POP……韓流コンテンツは追い風になっていました。でも、文学はまだちゃんと紹介されてなかった。良い作品を紹介すればきっと受け入れられると金さんは信じていました。

「韓国では有名な作家でも日本ではほとんど知られてない。読者に興味を持ってもらうため、本を出すだけではなく、日本の著名作家との対談を行ったり、読書会もたくさん開きました。でも常にスペースの問題にぶち当たるんです。そこで2015年に神保町に引越してブックカフェを開きました。書店を自分たちでやれば、好きな時にイベントができるし、読者の顔も見えるじゃないですか」(金さん)

翻訳コンクールの開催と書店のシナジー

チェッコリでは自社の本を売るだけでなく、他の出版社の本も販売しています。運営元がクオンだと知らずに来店するお客様も多いそうです。

また、チェッコリの棚の大多数は韓国の本で占められています。その数約4000冊! 文学だけでなく、絵本、漫画、人文、実用書まで幅広く扱っています。

お坊さんに学ぶ韓国の茶道―そして茶談(画像提供/クオン)

お坊さんに学ぶ韓国の茶道―そして茶談(画像提供/クオン)

「最初チェッコリを始めようと思ったとき、『誰が韓国語の本を読むんだ』って言われました。でもチェッコリでは韓国語の本が売れます。しかも、日本の本と違って海外の本は売り値を自分たちで付けられる。出版というよりは輸入販売業に近い。話題になっている本だけでなく、自分たちが紹介したいものを選んで仕入れる楽しさもあります」(金さん)

韓国関連の書籍の棚を広げたかった

ほかにも金さんは、韓国書籍が日本国内で広く翻訳されることを目指す「K-BOOK振興会」という団体を立ち上げ、おすすめ本に関する情報発信をしたり、韓国文学翻訳院との共催で翻訳コンクールを毎年開催しています。この翻訳コンクールでは、毎回2本の短編が課題として出されます。それにしても、短編2本とはなかなかハードルが高い。

「翻訳者の発掘も大切なので始めたのですが、第一回目で200人以上の応募があったんですよ。短編2本って結構なボリュームなのに、これだけチャレンジしてくれる人がいるのはすごいことです。潜在的なニーズを感じました。私たちの翻訳コンクールでは最優秀賞作はクオンで出版することにしています。課題となる短編の原書を書店で販売し、優れた翻訳を出版し販売する、出版、書店、コンクールの関係がうまく機能しています」(金さん)

第2回日本語で読みたい韓国の本―翻訳コンクールの受賞式(審査員と受賞者のトーク)(画像提供/クオン)

第2回日本語で読みたい韓国の本―翻訳コンクールの受賞式(審査員と受賞者のトーク)(画像提供/クオン)

そのうち、翻訳コンクールに応募した人たちがツイッター上で情報交換を始めます。「これ。みんなどういうふうに訳している?」などなど。この様子を見た金さんは、翻訳スクールの開講を思いつきます。

「世の中に韓国語会話のスクールはいっぱいありますが、翻訳専門のスクールってあまりないな、と閃いたんです。私たちのお客さんには韓国語教室の先生が多くいますが、翻訳専門の教室であれば先生たちと競合することもないじゃないですか」(金さん)

翻訳スクールの優れた生徒やコンクールの受賞者を、他社に紹介することもします。
金さんは繰り返し、「ニーズをつくることが大事」と語っていました。書店で「海外文学」の棚に少し紹介されるだけだった韓国文学を、それだけで棚ができるようにしたい、だから韓国語の本を翻訳する仲間を増やしたいんだ、と金さんは語ります。

文学ツアーで“仲間たち”との親睦をさらに深める

他にも、今年はコロナの影響で行けませんでしたが、金さんは「文学で旅する韓国」というツアーを毎年開催しています。30人ほどのメンバーで小説に出てくる舞台を訪れたり、作家に会いに行ったりなど、3泊4日にわたる贅沢なツアーです。

「半数くらいはリピーターで、もはやクオンや韓国文学のファンというよりは仲間ですね。そのなかのお一人は写真が趣味でいつも素敵なツアー写真を撮ってくれるのですが、韓国で写真展を開くのが夢だったそうなんです。私たちのツアーに参加した際、現地のギャラリーのオーナーと話をつけて、写真展を開くことができました」(金さん)

第一回目の「文学で旅する韓国」統営編―大河小説『土地』の作家パク・キョン二記念館の前で(画像提供/クオン)

第一回目の「文学で旅する韓国」統営編―大河小説『土地』の作家パク・キョン二記念館の前で(画像提供/クオン)

この話はもちろん、チェッコリで報告会というかたちで話してもらいました。他にも、最近ではソウル大学に留学された方が、オンラインで大学生活について話してくれたり。このように、チェッコリで開催するイベントでは “仲間”たちがホストを務めることも多いそうです。

「心がけていることがひとつあって、偉い人を呼んで聞いてもらうだけのイベントにはしない。“お客様”扱いはしない。その代わり、みなさんにも韓国にまつわる得意なことをイベントでシェアしてもらう。当日は椅子を並べるのを手伝ってもらったり、飲み物を運んだりという作業を手伝ってもらうこともあります。みなさん喜んでやりますよ。“仲間”ですから」(金さん)

今回の取材で、金さんが、「誰も損しない、みんなが幸せになる仕組みをつくるのが好き」とおっしゃっていたのがとても印象に残りました。出版社と読者、作家とファンという非対称な関係ではなく、みんなが等しく韓国の文化を盛り上げようとする“仲間”であるという感覚は、コミュニティを資産とした事業運営を考えている人にはとても大事なポイントだと思います。クオンの場合、ひとりひとりのお客さんだけでなく、書店、他の出版社、韓国の政府機関など、さまざまなステークホルダーと競合することなく協働するところにその姿勢が見て取れます。

クオンやチェッコリは、韓国と日本の文化交流を促進するうえで貴重な場だと思いますし、そこに集う“仲間”たちの結びつきは今後もさらに強まっていくことでしょう。韓国ドラマやK-POPから韓国カルチャーに興味を持った人はぜひ、一度チェッコリに訪れて文学にもハマってみませんか?

●取材協力
CUON

瀬戸内を“かわいい”で広める。瀬戸内デニムでつなぐ地元愛【全国に広がるサードコミュニティ9】

瀬戸内の魅力を発信しようと、岡山在住の有志の声がけからスタートした「瀬戸内かわいい部」。岡山名物であるデニムのB反(生産過程でついたわずかな傷やほつれが原因で市場に流通されない生地) を使ったピクニックシートの開発・販売など、瀬戸内をキーワードに、部活的な活動の枠を超えた広がりを見せています。連載名:全国に広がるサードコミュニティ
自宅や学校、職場でもなく、はたまた自治会や町内会など地域にもともとある団体でもない。加入も退会もしやすくて、地域のしがらみが比較的少ない「第三のコミュニティ」のありかを、『ローカルメディアのつくりかた』などの著書で知られる編集者の影山裕樹さんが探ります。瀬戸内かわいい部とは?

瀬戸内の魅力的な風景やお店、出来事を発信し、内外に瀬戸内のファンを生み出そうとSNS上で始まった瀬戸内かわいい部という活動があります。「かわいい」という切り口を立てることで主に女性から共感を集め、現在 #瀬戸内かわいい部 が付けられたInstagramの投稿は1000を超えます。2年間で開催したリアルイベントで出会った約300名のうち50人程度は県外の人で、瀬戸内かわいい部のイベント目当てに今も頻繁に瀬戸内にやってきます。

特に明確なメンバーの条件があるわけではなく、主にSNS上でハッシュタグ#瀬戸内かわいい部をつけて写真を投稿する参加者もいれば、Slack上のコミュニティ運営やイベントの企画を行うコアメンバーまでその関わり方はさまざまです。

きっかけは2018年の西日本豪雨により、被災地に近い観光地・倉敷美観地区(倉敷市内の町並保存地区・観光地区)への観光客が激減したことにショックを受けた地元在住のデザイナー・やすかさんが、美観地区の魅力を発信する動画を制作し、SNSに投稿したことから。それを見て「観光地の復興支援になれば」と訪ねてきてくれた人たちに、岡山のおすすめスポットを案内して回ったのが、そもそもの始まりでした。

「その時までは正直、地元が好きじゃなかったんですが、外から訪れる人が岡山の桃のジュースの美味しさや、岡山のカフェのゆったりした雰囲気を率直に褒めてくれたのがうれしくて。もっと地元の魅力を発信したいと思って、まずは個人のSNSでハッシュタグをつけて写真をアップしようと考えました。でも、岡山だけだと狭いから、#瀬戸内かわいい部にしようと」(やすかさん)

瀬戸内かわいい部メンバーでシーグラスを探しに(画像提供/瀬戸内かわいい部)

瀬戸内かわいい部メンバーでシーグラスを探しに(画像提供/瀬戸内かわいい部)

SNS発信、リアルイベント、そしてプロジェクト

最初はハッシュタグだけの活動でしたが、次第に仲間どうしでカメラを持って尾道に行ったりとワンデーイベントを不定期で開催するようになります。そんななか、岡山出身で東京在住、現在はフリーランスでPRの仕事をしているみなみさんが参画し、瀬戸内かわいい部のホームページを立ち上げようと提案しました。

瀬戸内かわいい部のメンバー(画像提供/瀬戸内かわいい部)

瀬戸内かわいい部のメンバー(画像提供/瀬戸内かわいい部)

「ホームページをつくるにあたって、活動の柱を三つつくりました。一つはSNS発信。もう一つが撮影会や交流会などリアルイベントの開催。三つ目がプロジェクトです。単発ではなく、長期的に進められるプロジェクトがあったほうがいいんじゃないかと。私が東京にいて、なかなかイベントに参加できないので幽霊部員になっちゃうな……という思いもありました。デザインだったり記事を書いたりなど、離れているメンバーの関わりシロのある場所にしたかった」(みなみさん)

2019年4月開催/和菓子さんぽin倉敷美観地区(画像提供/瀬戸内かわいい部)

2019年4月開催/和菓子さんぽin倉敷美観地区(画像提供/瀬戸内かわいい部)

2019年4月開催/和菓子さんぽin倉敷美観地区(画像提供/瀬戸内かわいい部)

EVERY DENIMとの出会い

その後しばらくして、やすかさんは瀬戸内発・兄弟デニムブランドEVERY DENIMの島田舜介さんに出会います。そこで島田さんから「デニムの生地を生産する過程でわずかな傷が入り廃棄されるB反のデニムがある。そういうB反デニムから小物なんかつくったら面白いかもしれない」と言われ、メンバーに報告。するとメンバーから「だったらそれをプロジェクトにしませんか」と提案されます。こうして、瀬戸内かわいい部としてデニム生地を使った小物を企画開発するプロジェクトを立ち上げることがきまりました。

ホームページをつくるため、一度自分たちの活動の方向性を整理したのが功を奏し、第三の柱であるプロジェクトが動き始めます。最初は、瀬戸内が好きな人たちで気軽にハッシュタグを共有するゆるやかなコミュニティだったのが、より積極的な活動を行う集団として踏み出した瞬間でした。

ちなみに、プロジェクトで企画開発した商品は「ピクニックシート」。紆余曲折のうえピクニックシートに落ち着いた理由について、やすかさんはこう語ります。

「まず、瀬戸内と言えば青だよね、と。波の穏やかな海の青さ。次に、どこにでも連れていけて、使えば使うほど自分の色に馴染んでいくデニムの“相棒感”みたいなものを伝えたい。そして、出来上がった商品を持っている人同士が繋がって、瀬戸内好きな人の輪が広がってほしいな、という思い。これらを総合してピクニックシートに落ち着いたんです」(やすかさん)

(画像提供/瀬戸内かわいい部)

(画像提供/瀬戸内かわいい部)

離れたメンバー同士のやりがいをつくるには?

ところが、ここからが大変でした。離れたメンバーもいるコミュニティ内で意思疎通を図るために、主にSlackを使って交流していたのですが、いざ商品を開発しようとなると、納期や定価、販売方法など決めなければいけないことが盛りだくさん。ただ瀬戸内かわいい部は企業じゃなくてコミュニティ。「企業の商品開発ならまず納期や予算から逆算して考えるけれど、そういう条件や制約はいったん抜きにして、まずは自分たちが本当につくりたいものを考えてみてほしい」とスタートしたつもりでしたが、商売となるとメンバーからシビアな長文のコメントがバンバン投稿されて、やすかさんたちが驚くことも。

それもそのはず、瀬戸内かわいい部自体が実社会でそれぞれのスキルを持って活動するフリーランスや仕事人の集まりです。自分が関わるプロジェクトであるならばなおさら、妥協したくないという思いがみんなにあったことに気づかされました。こうしてオンラインのコミュニケーションの限界に気づいた運営メンバーは、可能な限りメンバーに直接会いに行って話すことにしました。

「個人的な話は目的が決まっているオンライングループ上では言い出しづらい。ある日、東京に住む同じ世代の女性メンバーと一回会って話してみたら、瀬戸内に関わりもなく、ものづくりのスキルもないので……と引っ込みがちだったんだけれど、保育士の仕事をされていて、アクティブラーニングに強い関心があり、熱心にお話ししてくれたのが印象的で。この熱量を発揮できるきっかけさえあればもっとおもしろくなる、そのために個人の関心やスキルをもっと活かしてもらえばいいんじゃないか、とその時思ったんです」(みなみさん)

商品のリリースに先立って、一泊二日の合宿を敢行。ここで普段出会えないメンバーの意見をすり合わせたそう(画像提供/瀬戸内かわいい部)

商品のリリースに先立って、一泊二日の合宿を敢行。ここで普段出会えないメンバーの意見をすり合わせたそう(画像提供/瀬戸内かわいい部)

メンバーそれぞれの想いが乗ったデニムプロジェクト。ピクニックシートを複数つなげるというコンセプトはみんなで共有していたけれど、デザイン一つとっても、例えばフリンジをつけたいとか、中綿を入れたいとか、角にはハトメかリボンか……などさまざまな意見がありました。そこで、サンプルお披露目会の直前に一泊二日の合宿を敢行。バチバチとした空気も流れたそうですが、徹底的に話し合うことで方向性が一つにまとまり、ようやく販売に踏み切ることができました。

スキルを活かしたギルド的集団に

2019年に香川県高松市に家族でUターンしてきたまみこさんは現在、瀬戸内かわいい部の「スポ根」担当。お二人のお子さんを抱えながら、フリーランスでWebコンテンツのディレクションやデザインをしています。ちょうど移住したころに瀬戸内かわいい部に参画しました。

「もともと、つまらないと思って地元を離れた自分が瀬戸内を知れる場所を探していたんです。入ってみれば、結婚しても、子どもがいても、仕事があっても、挑戦していいんだと思える場所でした。絶対的に強いパワーを持った人がいなくて、みんな平等という感覚が共有されていたのも大きくて。私にも協力できることがある、それを認めて受け入れてくれるのはとてもうれしかったです」(まみこさん)

まみこさんはピクニックシートをつくるにあたって広報スケジュールを設定したり、ターゲットは誰なのか?を決めるペルソナ会議をファシリテートしたりとプロジェクトが前進するためにご自身の経験やスキルを存分に活かすことができたと言います。デザイナーなので、急遽つくらなければならないWEB用バナー広告などのデザインも担当しました。

(画像提供/瀬戸内かわいい部)

(画像提供/瀬戸内かわいい部)

一方、やすかさんも本業はデザイナーなのでオンラインイベント用の動画 の制作はやすかさんが。他にもアパレルの仕事をしていて工場とのやりとり経験のあるメンバーがいて、仕様書をつくったり、実際の発注作業はその人が担当することに。情報発信が得意なメンバーは、瀬戸内かわいい部のnote担当、LINE @担当と、それぞれの役割が増えていき、さながらギルドのような集団になってきました。ただ、瀬戸内かわいい部はあくまで部活。商品をつくるのが目的ではなく、みんなで合宿したり、お互いのことを知ったり、瀬戸内を好きになっていくプロセスこそが重要、とやすかさんは語ります。

「みんなの居心地のいい場所にしたい、というのが一番。利益を追求するような活動でもないし、商品を完売させなければというミッションもない。一緒につくる過程そのものが楽しい時間であってほしいし、コミュニティに参加していることが誇りになるような、そんな場所にしていきたいです」(やすかさん)

移住フェアの様子(画像提供/瀬戸内かわいい部)

移住フェアの様子(画像提供/瀬戸内かわいい部)

(画像提供/瀬戸内かわいい部)

(画像提供/瀬戸内かわいい部)

瀬戸内かわいい部は、大人の文化祭

仕事とプライベートの中間に、部活的な活動が一つある生活ってわくわくしませんか? 三人が口をそろえて言うのが「文化祭」というキーワード。デニムプロジェクトは瀬戸内かわいい部にとって、いわば「大人の文化祭」でした。年に一度ガッと集中してものづくりに打ち込む。メンバーそれぞれがそれぞれの道のプロであるからこそ、つくるもののクオリティに妥協はしません。

「でも、最初に疲れちゃったらダメだよってアドバイスされて。その人は別のコミュニティを運営していて、デザインも頑張って、noteでの発信も頑張って、すごくクオリティ高いコミュニティだったんだけれど、疲れて辞めちゃったそうです。みんなお仕事や家庭がある中で、毎日大量のSlackが続くとさすがに辛い。楽しい気持ちを維持しながら全力を注げるようにしたいです」(みなみさん)

そこで、デニムプロジェクトが1年間の活動期間を終えてひと段落したことを機に、少しのあいだ充電期間をとることにしました。デニムプロジェクトの広まりを受けて、自治体が主催する移住フェアにも呼ばれるようになった瀬戸内かわいい部。瀬戸内内外のメンバーがいるコミュニティ自体に興味を持ってもらい、コミュニティ運営に関するトークショーに呼ばれることも増えてきました。しかし、周囲の期待に過度に応えすぎないことも重要です。次のプロジェクトに全力で取り掛かるため、休めるときはしっかり休む。それくらい緩急があったほうが、コミュニティは持続しやすいのかもしれません。

(画像提供/瀬戸内かわいい部)

(画像提供/瀬戸内かわいい部)

地域の魅力を発信するためのコミュニティというと、コミュニティビジネスとはどう違うの? という疑問も湧いてきます。NPO法人コミュニティビジネスサポートセンターのホームページによると、コミュニティビジネスとは「市民が主体となって、地域が抱える課題をビジネスの手法により解決する事業」と定義づけられています。コミュニティビジネスはあくまでビジネスであって、地域の経済的課題を解決することに重点が置かれています。

瀬戸内かわいい部はビジネスというよりは親睦団体であり、メンバー各々の自己実現、楽しいことをしたいという自発性が最も大事なポイントです。でも、地域を元気にしたり、盛り上げるのは必ずしもお金だけではないと思うんですよね。楽しそうにしている人たちのところには自然とモノ・コト・人が集まってくる。スタートして3年、まだまだ始まったばかりのコミュニティですが、瀬戸内かわいい部から地域の課題をあっと驚く方法で解決するアイデアや商品が生まれるのも、そんなに遠い未来の話ではないかもしれません。

●取材協力
瀬戸内かわいい部

棚田をレンタル!? 気軽な農業体験で地域に根ざした交流を【全国に広がるサードコミュニティ8】

全国各地に、気軽に田んぼを借りて、通年で通いながら農業体験ができる「棚田オーナー制度」を設けている地域があります。岐阜県恵那市にある坂折棚田もその一つ。家族や友人同士で借りることができて、地元の方との交流もできると人気です。連載名:全国に広がるサードコミュニティ
自宅や学校、職場でもなく、はたまた自治会や青年会など地域にもともとある団体でもない。加入も退会もしやすくて、地域のしがらみが比較的少ない「第三のコミュニティ」のありかを、『ローカルメディアのつくりかた』などの著書で知られる編集者の影山裕樹さんが探ります。棚田オーナー制度とは?

みなさん、「棚田オーナー制度」ってご存じですか? 主に都会に暮らす人に田んぼのオーナーとなってもらい、耕作のお手伝いをしてもらいながら棚田の風景を保全していこうという制度です。普段、自然に囲まれた生活をしていない都会のファミリーが、子どもに自然に触れてもらう機会をつくるために参加したり、サークルの仲間同士で田んぼを借りて、定期的に通いながら地元の農家さんとのふれあいを楽しむ、そんな参加者側のメリットもあります。

1992年に高知県の檮原町で初めて取り組みがスタートし、いまや全国に広がっています。なかには一つの地域で100以上のオーナーを受け入れているところもあるそうで、今流行りの“二拠点居住”までは踏み切れないものの、「一度きりの観光では物足りない、もっとローカルと深く関わる体験をしてみたい」という方にはちょうどいい制度ではないでしょうか。

(画像提供/坂折棚田保存会)

(画像提供/坂折棚田保存会)

棚田オーナーになるためには?

今回は、名古屋から車で1時間ほどの距離にあり、東京からもアクセスしやすい岐阜県恵那市にある坂折棚田保存会・理事長の田口譲さんにお話を伺い、「オーナーになるにはどうすればいいの?」「農業体験だけでなく農泊や地元の人との交流はできるの?」など、棚田オーナー制度の仕組みや魅力について教えてもらいました。

「オーナーの方には年間4回来てもらう機会があります。5月に田植えをして、6月下旬に草取り。それから9月の終わりに稲刈りをして、最後にお米をお渡しする収穫祭があります。玄米を30kgお土産として渡します。草刈りの日の後、希望者には近隣を案内したりもしています」(田口さん)

募集は一年中行っているので、これから行われる収穫祭から参加することも可能。一区画で年間3万5000円が基本料金。グループでシェアするプランなどもあり、人数が多ければ多いほど一人当たりの金額が少なくなるので気軽に参加できます。田植えや稲刈りなどの農作業は保存会のメンバーや地元の農家さんの指導を受けて行うので、誰でもすぐに始められます。現在、坂折棚田では50ほどのオーナーさんがいらっしゃるそうですが、「将来的には100くらいに増やしたい」と田口さんは言います。

保存会理事長の田口譲さん(画像提供/坂折棚田保存会)

保存会理事長の田口譲さん(画像提供/坂折棚田保存会)

つながりを重視するオーナーたち

恵那市は名古屋からのアクセスがいいので、愛知県のオーナーさんが一番多く、また、オーナーの傾向としては定年退職した方か、子ども連れのファミリーの方が多いそうです。基本的に農業体験は日帰りになりますが、何年も継続してここへ通っている方は、来るたびに近くの宿泊施設に泊まって帰ったり、地元の農家さんと親戚付き合いのようになるまで仲良くなるなど、農業体験以外でも地域に深く関わっているそうです。

棚田オーナー制度はある意味、最近の言葉でいうと「関係人口」を生み出す仕組みと言えるのかもしれません。アンケートをとると、「とてもよかった」「継続してほしい」という意見が大半。でもなかには「もっと、来た人どうしで交流する機会をつくってほしい」という要望もあるそうで、農業体験だけではなく、普通に暮らしていては出会えない農家さんや、ここでしか出会えない人との交流を求めている人は多いのかもしれません。

坂折棚田保存会のホームページではこうした農業体験のみならず、里山・森林体験や味噌づくり体験のお知らせ、周辺の宿泊や飲食のお店紹介ページなども充実していますので、興味のある方はぜひチェックしてみてください。

保存会のホームページ

保存会のホームページ

棚田周辺の観光資源に目を向けてもらうために

約400年前に生まれた石積みの棚田は、日本の棚田百選にも選ばれており、フラッと観光で恵那市に訪れることがあるなら、一度は車を降りてこの光景を体験してほしいです。実は僕も一度、坂折棚田に訪れたことがあるのですが、扇状に広がる風景が壮大でとても気持ちがよかったのを覚えています。

「棚田の中を流れる坂折川上流部には、希少な植物が生育する湿地があり、農業文化の遺産である水車小屋など観光資源がたくさんあります。そういった所を散策してもらって、理解してもらうウォーキングコースも整備しています」(田口さん)

水田や棚田は放っておくと荒れていってしまうので、雑草を刈ったり、昔水田だったけれど、荒廃して林に戻ってしまった荒廃湿地を復活させる活動もしているそう。2003年には「第9回全国棚田サミット」の開催地となり、全国的にも知られつつある坂折棚田ですが、まだまだ関わる人を増やしていきたい理由はここにあります。

「生物文化多様性」という言葉がありますが、農村の自然や生態系は、そこに暮らし手を入れてきた人々の文化を育んでいきます。自然の豊かさに触発されるかたちで、多様で複雑な文化が生まれる。単に目の前にある風景を残していくだけでなく、そこで生まれた文化の多様性を保存することも大切なことだと感じます。そのためには、若い世代に文化を継承してもらう必要があります。

毎年6月には棚田の縁に灯籠を灯して、田の神様に田植えの報告と豊作を願う幻想的な「灯祭り」が開催されています。こうしたイベントも、まさに自然と人間がともに育んできた大切な文化の一つであり、守るべきものであると思います。そういう意味でも、一度きりの観光で訪れるのではなく、何度も通い、保存会の方々のお話しを聞いて、景観が守られてきた背景や歴史、そこから生まれた文化を深く知り、“他人事から自分ごと”にしてくれる関係人口を増やすことができる棚田オーナー制度は、双方にメリットがある有意義な活動だと言えるでしょう。

収穫の様子(画像提供/坂折棚田保存会)

収穫の様子(画像提供/坂折棚田保存会)

石積みの保存・修復もまた有志の手を借りて

400年の歴史を持つ坂折棚田の景観は、明治時代初期にはほぼ現在のかたちになりました。特に石積みの技術が高く、名古屋城の石垣を築いた石工集団「黒鍬(くろくわ)」の職人たちの手による美しい石積みもまた魅力の一つです。

「最初のころは、とにかく水田をはやくつくろうということで、適当に石を積んだので崩れるんですね。崩れると、直さにゃいかんということで、築城の技術を持った石積みの人たちが江戸時代に入ってやってきた。その後、昭和ごろになると相当プロの職人が育ってきた。それが今は失われてしまったので、“田直し”も私どもの重要な活動の一つです」(田口さん)

“田直し”の歴史は古く、1700年代ごろから盛んに行われていたようで、絶え間ない地元の人のメンテナンスを経て現在の風景ができているんですね。保存会では、こうした棚田の修復・保存の技術を継承する石積みを修復し保存する「石積み塾」という活動も行っています。石積み塾は棚田オーナー制度とは別に行っている活動で、自分で田んぼを直して使いたいという塾生が毎年全国から参加しにやってきます。本格的に石積みを学びたいというかたはぜひ応募してみてはいかがでしょうか?

(画像提供/坂折棚田保存会)

(画像提供/坂折棚田保存会)

国が推進する“都市と農村の交流事業”は全国各地で行われていますが、いわゆる一度きりの農泊体験などではなく、継続的によそ者と地元の人のつながりを生み出し、関わる人を増やしていくような活動がもっとたくさん生まれるといいなと思います。

僕たちはどうしても、広告やメディアが喧伝する「地方」イメージをすんなり受け入れて、地方を観光地として客体化し“消費する場所”と考えてしまいがちです。でも本当は観光客として関わるよりも、一つの地域に継続的に関わり“ここで暮らすこと”を想像できるくらいになったほうが、より深く、存分に地域の魅力を堪能することができると思うんです。その先に、“他人事から自分ごと”になる人が増えていくのだと僕は考えています。

故郷と暮らす場所以外で、近くに第三の居場所をつくりたい、友人とお金を出し合って農業体験コミュニティをつくりたいという方は、棚田オーナー制度を取り入れている地域の情報を取りまとめている「棚田百貨堂」というウェブサイトがありますので、そちらもチェックしてみてください。地域別の参加費や参加方法なども一覧でまとめられているのでオススメですよ。

●取材協力
恵那市坂折棚田保存会

カレー好きの集まりがビジネスと暮らしのつながりへ。6curryの仕組みがおもしろい!【全国に広がるサードコミュニティ7】

カレーを食べながら交流する、会員限定の“コミュニティキッチン”があるって知っていますか?職業や肩書きにとらわれず、さまざまなメンバーがMIXされるユニークなイベントが、リアル店舗とオンライン上で日夜繰り広げられています。連載名:全国に広がるサードコミュニティ
自宅や学校、職場でもなく、はたまた自治会や青年会など地域にもともとある団体でもない。加入も退会もしやすくて、地域のしがらみが比較的少ない「第三のコミュニティ」のありかを、『ローカルメディアのつくりかた』などの著書で知られる編集者の影山裕樹さんが探ります。6curryとは?

恵比寿と渋谷に、カレーを食べながら会員同士で交流する、招待制・会員制のコミュニティキッチン「6curry」があります。月額3980円で、1日1杯のカレーが無料で食べられるほか、キッチンを使って1日店長になれる権利が与えられたり、日々、キッチンで開催される会員限定イベントに参加することができます。コロナの影響もあり、6curryのウェブショップで買えるレトルトカレーをお得にもらえる、キッチンに行けない人向けのホームデリバリープランも最近スタートしました。

カレーというのはあくまで人が集まるための口実に過ぎず、6curryでは会員がはじめたさまざまな“部活”が繰り広げられています。カレーをみんなでつくって競い合うカレーバトルや、コロナ以降は週に1度オンライン上で集まって、喋りながらパンを焼くパン部も生まれました。会員が企業ブランドとコラボして商品を開発する、なんてことも。現在、会員は約400名。飲食店ともコワーキングスペースともちょっと違う、不思議なコミュニティスペースに成長しています。

6curry恵比寿店(写真提供/6curry)

6curry恵比寿店(写真提供/6curry)

6curryが生まれたのは、SNS上での何気ないやりとりからでした。現在の株式会社6curry代表の高木新平さんが「カレーを使って何か面白いことはじめませんか?」と自身のFacebookでつぶやいたのをきっかけに、ただただカレーが好きな人たちがゆるく集まって議論を交わす日々が続きました。

店舗を持たないゴーストレストランとしてスタート

そんななか、ある女性が、「カロリーを気にせず、またスパイスの香りが服につくのを気にせず食べられるカレーがほしい」と提案したことをきっかけに、カップ入りのカレーの開発をスタート。野菜がたくさん乗っていて糖質的にも安心なカレーが生まれました。こうして出来上がった商品をUberEATSで販売するゴーストレストランをオープン。店舗を持たないカレー屋さんとして、オープン当時は各種メディアに取り上げられるなど話題となり、事業として上々のスタートを切ることができました。

6curryがプロデュースしたカップカレー(写真提供/6curry)

6curryがプロデュースしたカップカレー(写真提供/6curry)

その後、リアル店舗のオープンを目指しクラウドファンディングをスタート。無事に資金が集まり、1店舗目の恵比寿店をオープン。こうして現在の会員制コミュニティキッチンのかたちが出来上がります。現在、6curryブランドプロデューサーを務めるもりゆかさんは、当時を振り返りこう語ります。

「カレーを考案する6curryLAB(ラボ)というのを立ち上げて、みんなで議論しながらカップカレーを開発したのですが、数を販売することよりも、カレー好きな人たちがラボというかたちでゆるく集まり、ああでもないこうでもないと試行錯誤しながらつくる“プロセス”のほうが楽しかったと気づいたんです。そこでUberEATSでの販売を停止して、カレーをきっかけにみんなで語り合える場所をつくろうと実店舗のオープンに踏み切りました」(もりゆかさん)

カレーを開発するプロセスこそが重要だと気づいた

もりゆかさん自身、クラウドファンディングの時期から関わり始め、プロジェクトページのテキストの編集だけでなく、運営の仕組みづくりなどにも関わるようになって、いつの間にかコアメンバーになってしまったそうです。「6curryをつくっていく過程が私自身、すごく楽しかった」ともりゆかさんは語ります。

6curryブランドプロデューサーのもりゆかさん(写真提供/6curry)

6curryブランドプロデューサーのもりゆかさん(写真提供/6curry)

それもそのはず、6curryは会員と運営という関係がシームレスで、ともに6curryというプロジェクトをつくり上げる“メンバー”なのです。実際、6curryのnoteの記事を書いたり、キッチンのコミュニケーションをどうするかという、実質的な運営会議でもある「6curryLAB」に参加して「ソフトドリンクを普及させるにはどうしたらいいだろう」と議論したり、「ノンアル派向けのラインナップを増やすにはどうすればいいだろう」ということを考えるラボに参加したりなど、より深く運営サイドにコミットする会員もいます。ある意味、“生徒会”のような場所が用意されているのです。

6curryの現在の社員は代表の高木さんを除いてたった4名。恵比寿と渋谷のそれぞれの店舗に、コミュニティメンバーとフロントで関係づくりを行う「コミュニティクリエイター」と、6curryのカレーを全てプロデュースする「カレープロデューサー」、ブランドのクリエイティブ全般に関わる「ブランドデザイナー」、そしてコミュニティ運営周りを一手に担う「ブランドプロデューサー」のもりゆかさんです。「会員の方が主体的に関わってくださるので、4人で運営している感覚はないですね」ともりゆかさん。

「カウンターのはしっこ」が生み出すコミュニティ

コロナの影響もあってか、現在はオンラインでの交流がメインの活動になっています。しかし、オンラインでのコミュニティ運営には難しさもあります。対面で積極的に話したいメンバーと、顔を見せたくない、発言もしたくないメンバーと、ニーズに濃淡があります。そこで6curryではDiscordというアプリを導入しています。

「もともとはZoomでオンラインキッチンを試したんですが、Zoomだと全員がおしゃべりの最前線に出ちゃうじゃないですか。“自分の関わりたい関わり方”を提供するにはどうすればいいかという課題があって。Discordなら音声だけ、テキストだけで参加します、ということもできる。参加の仕方を選べるのがいいなと思っています」(もりゆかさん)

カウンターのはしっこがつながりを促進する※画像はDiscordの様子(写真提供/6curry)

カウンターのはしっこがつながりを促進する※画像はDiscordの様子(写真提供/6curry)

6curryのDiscordには複数のチャンネルがあって、「カウンターのはしっこ」というチャンネルがあります。これは実店舗でもそうなのですが、イベントに顔を出して積極的に人と話すことは苦手だけど、カウンターのはしっこに座ってたまたま隣になった人となら話せる人もいる。そういう場所をつくりたいという思いからスタートしたそうです。すると実店舗で一度も会ったことのない人たちが毎晩22時ごろに10人くらいで集まって、恋話の進捗報告をするなど、密かな盛り上がりを見せているそうです。

複数の職を掛け持ちする“スラッシャー”がかき混ぜる

実店舗自体も、カレーを食べにくるだけの場所ではありません。カレーは10分や20分で食べ切ることができるので、食べるだけではコミュニティは生まれません。そこで6curryでは、初めての人がひとりぼっちにならないために、招待制を取っています。すでにコミュニティに馴染んだメンバーに連れられていけば、既存の会員と溶け込みやすいからです。招待制を取ることで、場を乱す「クラッシャー」もやってこないというメリットもあるそうです。当然、会員の中には、コミュニケーションが得意な人と不得意な人がいます。また、恵比寿・渋谷という場所柄か複数の職業を掛け持ちしている会員が多いのが6curryコミュニティの特徴です。

「肩書きにスラッシュ(/)が入るという意味で私たちは『スラッシャー』と呼んでいます。会社員かつダンサー、デザイナー兼イラストレーターとか。そういう人たちは会員同士のスキルをつなげるのも得意。今度お店をオープンするという人がいたら、ウェブサイトをつくれる人がいますよ、と紹介したり。実際、そのお店がオープンすると、私たちの会員でいっぱいになったということもありました」(もりゆかさん)

ファッションブランド「LEBECCA boutique」と6curryのコラボ企画(写真提供/6curry)

ファッションブランド「LEBECCA boutique」と6curryのコラボ企画(写真提供/6curry)

そんなカレーを通じたコミュニティづくりをミッションにする6curryでは、企業に出向いてカレーをつくるイベントなども請け負っています。最近では、6curryのメンバーと「LEBECCA boutique」がコラボし、オリジナルのワンピースを販売したのをきっかけに、ファッションブランド「LEBECCA boutique」のスタッフと一緒にカレーワークショップを開いたことも。これも、「スラッシャー」が多い6curryコミュニティの強みなのかもしれません。

離脱率0パーセントは正解じゃない

スラッシャーの人たちは、「自分の生き方を自分で選んでいる人」でもあると言えます。渋谷や恵比寿周辺で仕事をしている会社員の方が6curryの会員になって、「普通の会社で普通に生きてきたけど、ここで色んな生き方の人たちに会って、もっと自分の人生を生きてみたいと思いました」と言われたことが、いままでで一番うれしかった、ともりゆかさんは話します。

「代表の高木の言葉ですが、『新しい生き方を選んだ人が、孤独にならなくて済む場所をつくりたい』と。そういうコミュニティをつくりたくて6curryがスタートしたところもあります。リアルな場や集まりよりも、人と人の関係性にフォーカスしているのが私たちの事業の特徴だと思います」(もりゆかさん)

6curry渋谷店(写真提供/6curry)

6curry渋谷店(写真提供/6curry)

6curryは渋谷・恵比寿という実店舗を持つ関係から、さいたまなど少し離れた会員はどうしてもリアルでの交流が難しい面もあります。現在はコロナの影響もあって、実店舗でも一日20名限定にしているということもあり、リアル・オンラインを併用したコミュニティ運営は重要な課題です。また、最近、オンラインサロンやサブスクモデルのシェアサービスが増えつつありますが、会員の離脱率も事業を成り立たせるうえで死活問題だと言えます。

「とはいえ、離脱率が0%なのもよくないと思います。『皆で、皆が主人公になる場をつくる』というビジョンを掲げているので、最終的に、自分の人生の主人公として一歩踏み出すことができたら、卒業するのもありなんじゃないかと。むしろ居心地良すぎて、ずっと同じところで停滞するほうが良くない。もちろん皆さんにいていただきたい気持ちはありますけど、流動性は生み出していきたいです」(もりゆかさん)

コミュニティ運営には、その拠点がある地域との関係性は重要なファクターの一つだと思います。6curryも渋谷・恵比寿に店舗を構えていることもあって、今後は、周辺の地域に暮らす人々に開かれたサービスも展開したいと考えているそうです。

僕自身、自社で運営しているWEBマガジン「EDIT LOCAL」の新サービスとして、「EDIT LOCAL LABORATORY」というオンラインコミュニティを昨年から始めたのですが、テーマが「ローカル」というのもあって、結局は顔を合わせてのリアルなコミュニケーションが、コミュニティを推進する重要なポイントだということを日々感じています。コロナウイルスの影響で、リアルでの交流が難しい現在、場に縛られないコミュニティ運営のノウハウは、新しく事業を始める人や企業にとって、重要なテーマだと思います。コロナを経ても活発に会員同士の交流から活動を生み出す6curryから、私たちが学べることは多いのではないでしょうか。

●取材協力
6curry

石巻発。車で地域をつなぐコミュニティ・カーシェアリング【全国に広がるサードコミュニティ6】

買い物や病院など、公共インフラではカバーしきれない住民の移動をサポートするだけでなく、利用を通じて住民同志のつながりを育む「コミュニティ・カーシェアリング」という取り組みがあります。もともとは石巻の仮設住宅に届いた一台の車からはじまりました。連載名:全国に広がるサードコミュニティ
自宅や学校、職場でもなく、はたまた自治会や青年会など地域にもともとある団体でもない。加入も退会もしやすくて、地域のしがらみが比較的少ない「第三のコミュニティ」のありかを、『ローカルメディアのつくりかた』などの著書で知られる編集者の影山裕樹さんが探ります。コミュニティ・カーシェアリングとは?

東日本大震災で約6万台の車が被災した石巻では、被災者の多くが仮設住宅で不便な暮らしを余儀なくされていました。そんななか、全国から寄付された車を活用し、住民の生活を支える仕組みをつくろうと2011年7月に立ち上がったのが「⼀般社団法⼈ ⽇本カーシェアリング協会」です。この団体は主に三つの事業に取り組んでいます。一つが、寄付された車を地域コミュニティに貸し与え、住民同志で管理・運営する「コミュニティ・カーシェアリング」、二つ目が被災地などに無償で車を貸し出す「モビリティ・レジリエンス」、三つ目が困っている地域や人向けのレンタカー、カーリースのサービス「ソーシャル・カーサポート」です。

代表の吉澤武彦さんはもともと関西出身。阪神淡路大震災の経験もあって、当時は関西から多くの人が東北の支援に来ていましたが、吉澤さんもそのうちの一人。被災地のために何かしたいと考え、自宅のある兵庫から石巻に移住してまで、復興支援に尽力していました。

被災地は車が足りなくなる(写真提供/日本カーシェアリング協会)

被災地は車が足りなくなる(写真提供/日本カーシェアリング協会)

「当時、阪神淡路のときに活躍した神戸元気村という団体があって、そこの代表だった山田和尚さん(通称:バウさん)に付いて仕事をしていたんです。そのバウさんから、震災から1カ月ぐらい経ったときに連絡があって『今、避難所にいる人がこれから仮設住宅に移っていく。すると行政の主導で自治会が形成されるはず。そこにカーシェアリングを提案していくようなことをやったらどうや』って提案してくれて。もともと僕自身、そんなに車に詳しかったわけじゃないんですけれど」(吉澤さん)

京都から石巻まで、たった一人で車を運ぶ

実際、被災地では車は至る所で横転し、使い物にならないので被災者の方々はとても困っていました。そこで、車を誰かから提供してもらって、仮設住宅に持って行ったら喜ばれるはず。バウさんに促されつつも、吉澤さん自身、実際の復興支援活動の中で痛感していたことでもありました。

「当時はまだ大阪市内に住んでいたので、自転車で行ける範囲に大企業がいっぱいあった。かたっぱしから電話して秘書の方につないでもらい、社長にこれ、渡してください! って資料を渡すなどの飛び込み営業みたいなことをしました。大概断られるんですけれど、頑張って続けていたらだんだん興味持ってくれる人が増えてきて。5月にようやく京都の企業から一台手に入れることができました」(吉澤さん)

見ず知らずの社長に直談判する方もする方ですが、実際に貸してくれる人が出てくるのも、阪神淡路を経験して助け合いの精神が根付いている関西ならでは、という気がします。しかし、そこからが大変でした。

「もともとペーパードライバーだったんですが、石巻に車を運ばないといけなくて。一人で高速乗って京都から石巻まで運転していくんですよ。生きた心地がしませんでした(笑)。でも、今となればいい思い出です。それで、仮設住宅に車を入れて、掲示板に『この日カーシェアリングやります』ってチラシを貼ったら、いきなり全国放送の生中継番組で取り上げられちゃったんですよ。まだこれからやねん(笑)って思いましたけど」(吉澤さん)

吉澤さん(写真提供/日本カーシェアリング協会)

吉澤さん(写真提供/日本カーシェアリング協会)

自治会形成に寄与したカーシェアリング

ひと通り役所や陸運局、警察には話を通しておいたのですが、メディアに取り上げられたことで「もう一度確認させてくれ」と言われ、7月に届けてから実際に運用を本格的にスタートするまでさらに3カ月かかってしまったそうです。ともあれ、構想から半年、仮設住宅の住民が待ちわびていたカーシェアリングの取り組みが、いよいよ本格的にスタートします。

「仮設住宅の人って抽選で入っているから見ず知らずの人たちなんですよね。だから自己紹介から始めて、鍵をどうしよう、予約はどうしようってルールを決めていった。また、『ゴミみんなでかたし(片付け)に行こうか』とかお茶飲みながら話し合ったりしていた。そのうちに、仲間意識が芽生えるようになったんです」(吉澤さん)

当時、仮設住宅はどこも自治会をつくるのにものすごく苦労していたそうです。見ず知らずの人同士で、高齢者が孤立しがちな仮設住宅の状況。そこにカーシェアの輪が少しずつ広がっていき、ゆるやかなコミュニティを形成していくようになりました。

「石巻には134の仮設住宅が設置されたんだけれど、2011年中に自治会ができたのは10もなかった。でもカーシェアを導入した仮設住宅はスムーズに自治会ができていった。これには役所の人も驚いて、これは一緒にやらなあかんな、ということで、市が『カーシェアリング・コミュニティ・サポートセンター』を設置してくれて、その委託を受けて、僕らがどんどん車を導入していくっていうのを、2012年からやり始めるようになったんです」(吉澤さん)

乗り合いで旅行に行くことも(写真提供/日本カーシェアリング協会)

乗り合いで旅行に行くことも(写真提供/日本カーシェアリング協会)

“おちゃっこ”を通じて交流が活発になる

車を使うには維持費も掛かるし、誰がいつ利用するかをきっちり管理しなければなりません。そこで、コミュニティ・カーシェアリングを導入している地域では、そんな車の運用方針などを話し合う会が定期的に行われています。それが「おちゃっこ」と呼ばれる会です。

「みんなで来月どこ行こうか、とかね。本当に、お茶を飲みながら。するとただの移動支援とかツアーの話し合いの場ではなく、みんなの“居場所”になっていったんです。アンケートを取ったんですけど、高齢の方になればなるほど“居心地がいい”と答える人が多かった」(吉澤さん)

車の利用方法から世間話まで“おちゃっこ”で語らう(写真提供/日本カーシェアリング協会)

車の利用方法から世間話まで“おちゃっこ”で語らう(写真提供/日本カーシェアリング協会)

利便性よりも居心地の良さが重要、というお話にとても感銘を受けました。確かに買い物とか不便なのは困りますけれど、それよりも人と触れ合うことのできる自然な居場所があることが、人々の暮らしにとって欠かせないものなんです。

「しかも、みんな絶対参加しなくちゃいけないっていうルールがない。集まりたい人が集まればいい。でも、ただ世間話をするよりルールを決めるのが好きなおじさんとかがたまに来て、毎月いくら積み立てたほうがいい、となって、ちゃっちゃと決めてくれたりね。本当に参加する目的もさまざまな“サロン”と化しています」(吉澤さん)

地域ごとに運用ルールをカスタマイズ

こうして、コミュニティ・カーシェアリングを導入する仮設住宅が増えていきます。人々が仮設住宅から復興住宅へ移り住むようになってからも、コミュニティ・カーシェアリングを導入する地域はどんどん増えていきました。そこで重要になってくるのは、トラブルなく運用できて、コミュニティ活動の助けにもなるルールの策定です。

「復興住宅ってもう、終の住処になるわけだから、今度は会則などもしっかりつくって、役員もつくってもらって、きちんと運用できるようにしようと。そこで、雛形をつくって、他の地域で導入したい地域がいてもスムーズに行くようにしました。みんなITが得意じゃないのでアナログで運転日誌をつけて、予約は予約係がカレンダーにつけるとか。役割分担するようにしています」(吉澤さん)

現在石巻で10のコミュニティ・カーシェアリングの団体があります。平均年齢75歳。だからアナログなんです(笑)。基本的には地域のサークルなので、吉野町カーシェア会、三ツ股カーシェア会などの名前がついていて、運用ルールもさまざま。チラシをつくることが得意だったり、旅行の企画が得意な人もいます。そうした住民の特性に合わせて、自由にルールと役割を決めていいそうです。ただし、基本的なところは一緒。

「僕らの取り組みは、基本『運送行為ではない』ところがポイントです。ドライバーはボランティアで、料金も基本経費を賄うために積み立てる。事業性がないので許可申請も必要ない。法律面もクリアなので行政も安心して勧められるから、どこでも始められる。実は高齢化とかって被災地だけの問題じゃないんですよね。なので今では九州支部ができるほど、全国にカーシェア団体を広げることができています」(吉澤さん)

地域での新しい生きがいを見出すドライバーたち

カーシェア団体はどこもご高齢の方は多いですが、なかには比較的若いメンバーもいます。例えば、会社を定年退職した60代くらいの若手のメンバーは積極的にドライバー役を引き受けます。吉澤さんはこんなエピソードを教えてくれました。

「通院のお手伝いをしているうちに、みなさんがとても喜んでくれるので、生きがいになったというドライバーもいます。運転中、黙っててもいいんです。ただ話を聞いてくれるだけで、お年寄りは『あの人優しいな』と感じるので、どんどん人気になって、最終的に自治会長まで上り詰めた方が3人いるからね(笑)」(吉澤さん)

参加しないと怒られたり、地域のしがらみに縛られてしまうのが嫌で、定年退職後も自治会に入らず、地域で孤立する方も多いと思います。このように、カーシェアを通じて他世代が関わり合い、“おちゃっこ”で親睦を深め、自然とコミュニティに溶け込める場があるのって素敵じゃないですか? まさにコミュニティ・カーシェアリングは、自治会という既存の地域団体のあり方を補完しつつ、漏れてしまう住人を救い上げる“サードコミュニティ”になっているなと感じました。

全国の被災地に車を届ける架け橋ドライバー(写真提供/日本カーシェアリング協会)

全国の被災地に車を届ける架け橋ドライバー(写真提供/日本カーシェアリング協会)

また、日本カーシェアリング協会は他にも、被災地などに無償で車を貸し出す「モビリティ・レジリエンス」という事業を行っています。東北の震災以降も日本各地で起きた災害に際して、寄付してもらった車を被災地に届けるという活動です。ここでも、有志のドライバーが活躍します。

「車を寄付することはできるけれど、被災地まで運ぶのが難しいという方が多いんです。そこで、僕らは“架け橋ドライバー”というボランティアを募って、現地まで届けてもらっています。本当に全国から、長い距離を運んでくれる人がやってきてくれるので助かります」(吉澤さん)

地域の困っている人を助けるソーシャル・カーリース

全国の被災地に車を届けると、本当に喜ばれます。ただ、あくまで一時の対症療法的な支援なので、もっと継続的に、それぞれの地域のニーズに合った継続的な寄付車を活用したサービスを定着したいと吉澤さんたちは考えており、それが第三の事業である「ソーシャル・カーサポート」です。

「車は生活や活動の必需品になっている場合が多いのですが、維持のためにお金がかかります。そこで車を安く貸し出す仕組みをつくることで困っている人を助けたり、地域の応援になることを見つけて実践しています。例えば自立支援センターと連携して生活困窮者に車を一定期間格安で貸出すことで生活の再建に役立てて頂いたり、普通のレンタカー会社では採算面で営業しにくい離島でレンタカーを借りられる環境を島民と協力してつくったりもします」(吉澤さん)

災害時返却カーリースの被災地支援イメージ(写真提供/日本カーシェアリング協会)

災害時返却カーリースの被災地支援イメージ(写真提供/日本カーシェアリング協会)

他にも石巻の被害の大きかった半島沿岸部のお店で買い物をすると、一部キャッシュバックされるレンタカーサービスや、大川小学校や門脇小学校などの震災遺構にレンタカーを借りて行って、震災のことを学んでくれれば3割引になります、などのユニークな取り組みも行っています。地域振興、震災伝承、生活困窮者支援など、吉澤さんたちが何かしら意味のあると感じる取り組みならば積極的に寄付車を活用した支援をしていきたいとのことです。

「結局、どの事業も寄付車を活用して支え合いの仕組みをつくる点で一貫しています。あと、僕らは“石巻発”というのを重視していて。僕らのスタッフも地元出身が多いです。車も全部貰い物で、いろんな支援を受けて生まれた仕組みを、今度は支援してくれた地域に返したい。支援を受けるのではなく支援する側になって始めて、本当の復興なんじゃないか。僕らにとって、復興とは恩返し。それをこれからもっと実現していきたいです」(吉澤さん)

ちなみに、吉澤さんにコロナ後の状況はどうですか? と聞いてみたところ、こんな答えが返ってきました。

「コミュニティ・カーシェアリングを導入している地域は基本、みなさん自粛していますが、高齢の方が心配だからと電話をかけたり、手芸が得意な方は手づくりのマスクを他の会員に配ったりと、もともと培われてきたつながりが活かされているエピソードを聞くと、本当にこれまでやってきたことが実現されているなと感じます。僕らがこのコミュニティ・カーシェアリングを始めたのも、支え合う地域をつくるのが目的であって、ただ車を動かしたいわけではなかったんですよね」(吉澤さん)

沖縄の模合についての記事でも感じましたが、目に見えないつながりが、困ったときの助けになるんだなと本当に感じます。日本カーシェアリング協会の取り組みは、決して被災地だけで役に立つものではありません。車がそれほど必要でなかったとしても、あると意外に便利だったりしますし、なにより、これまでなかった思いもよらない“つながり”を育むことができるかもしれません。ぜひとも興味のある方は導入を検討してみてはいかがでしょうか?

●取材協力
・日本カーシェアリング協会
・令和2年7月豪雨災害 日本カーシェアリング協会緊急支援 総合ページ

“奇跡の舞台”「現代版組踊」って? 大人と子どもがタッグを組み、地域に誇りを【全国に広がるサードコミュニティ5】

沖縄の伝統芸能「組踊(くみおどり)」を現代的にアレンジした「現代版組踊」は、地域の中高生が主役になれる舞台。演者も観客も地元に誇りを持てるようになる「現代版組踊」は、まちづくりの方法としても注目を集めており、沖縄から全国へと広がっています。連載名:全国に広がるサードコミュニティ
自宅や学校、職場でもなく、はたまた自治会や青年会など地域にもともとある団体でもない。加入も退会もしやすくて、地域のしがらみが比較的少ない「第三のコミュニティ」のありかを、『ローカルメディアのつくりかた』などの著書で知られる編集者の影山裕樹さんが探ります。現代版組踊とは?

沖縄の伝統芸能「組踊」の様式をベースに、現代的な音楽や振付、セリフでアレンジした、まったく新しい演劇形式「現代版組踊」。エイサーやヒップホップのテイストも入る、まるでミュージカルのようなエンターテインメント作品なのですが、特徴はなんといっても中高生が演じているということです。若いエネルギーに満ちた現代版組踊を演じる中高生を親御さんやOB・OGといった大人世代が支えています。

代表的な作品「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」はこれまで、のべ20万人の観客を動員。沖縄県内のみならず、東京国立劇場やハワイでの公演も成功させており、「子どもを主役にする舞台」の手法に、県外からも大きな注目が集まっています。

「現代版組踊」が誕生したのは比較的最近のことで、2000年に、現在の沖縄県うるま市(旧勝連町)で、当時の勝連町の教育長・上江洲(うえず)安吉さんの依頼を受けた演出家の平田大一さんが、「肝高の阿麻和利」を上演したのが始まり。

当時は、町が誇る勝連城跡が世界遺産に登録が決まったばかり。15世紀に勝連城の按司(あじ・王様のような存在)だった阿麻和利は、歴史上、悪者扱いされてきました。世界遺産登録を良い機会とし、阿麻和利の名誉挽回のためにも、阿麻和利が悪者にされてきた「組踊」の形式を借りて新しい演劇をつくりたい、と上江洲さんは考えていました。

演出家がまちおこしをする理由

上江洲さんから声をかけられた平田さんはもともと、演劇の専門家ではなく、しまおこし・まちづくりの活動をしていました。そんな平田さんが気をつけたのは、若い世代が演じやすく、のめり込みやすい作品にすること。こうしてプロの演出家ではない平田さんの「演出」がスタートします。

「最初に上江洲さんから原作の台本をいただいた際、子どもじゃ読めないくらい難しかったんです(笑)。いわゆる『歴史劇』ですから。そこで僕が子どもたちにも馴染めるように脚色しました。だから当初は組踊の先生方から『沖縄版ミュージカルだろ』『組踊を名乗るな』とお叱りを受けることもありました」(平田さん)

平田大一さん

平田大一さん

そもそも現代版組踊をスタートさせる目的は、地域に誇りを持てるような子どもたちを育てることだったはず。伝統芸能のセオリーに則って、業界で評価されるような作品をつくるのではなく、地元の人、誰もが分かりやすく感動できる作品へと昇華する必要がありました。この後説明していくように、まちづくりを信条とする平田さんが関わったことで、現代版組踊は沖縄を飛び出していつしか“奇跡の舞台”と呼ばれるようになります。

アレンジする力

サードコミュニティというテーマで現代版組踊を取り上げた理由は、それが演劇の枠を超えて、さまざまな世代を巻き込んだコミュニティとなっていることにあります。演じる地元の若者の勇姿を地域の大人たちがバックアップする体制がしっかりとできていることが現代版組踊の大きな特徴です。

「肝高の阿麻和利を上演しようとしていたころ、不登校や長期欠席している子とか、家庭が片親の子とか、演じる中学生の中の三分の一くらいが悩みを抱えていました。それが阿麻和利の舞台をきっかけに、他の学校の子と出会ったり、ボランティアスタッフの大人たちに支えられてどんどんタフになっていったんです」(平田さん)

現代版組踊は町を挙げたプロジェクトなので、当然、町内のさまざまな中学校から若者が集まってきます。ある意味学校を超えた部活みたいなもの。さらに、彼らを支えるのが親御さんなどから構成された「あわまり浪漫の会」という団体。主に公演時のドアマンやチケットの売り子や、車で送り迎えしたりなど、影で子どもたちをサポートする有志からなる団体です。

「僕は“肩車の法則”と呼んでいます。もちろん、肩車の上に乗るのは子どもたち、持ち上げるのは大人たちです。ローアングルの子どもを高い目線にして見える未来を、大人が支えるわけです。で、子どもって成長するんですね。すると当然、持ち上げる大人の方も成長しなくては肩車は出来なくなってしまいます。すると子どもの半歩先を行く大人たちや、先輩世代の振る舞いにも変化がでてきます。お互いが対等な関係でありながら、お互いを信頼し合う“肩車の関係”。子どもたちを大人の都合で動かすのではなく、主体的に行動するような雰囲気をつくり出すことこそ大切なことでした」(平田さん)

(写真提供/あまわり浪漫の会)

(写真提供/あまわり浪漫の会)

肝高の阿麻和利の舞台にはキッズリーダーズと呼ばれる人たちがいるそう。キッズリーダーは、高校の年長組が下の世代を教えるお兄さんお姉さん的存在の人たちです。

「下の子どもたちからするとリーダーズに入るのが憧れになり、リーダーズからすると音響や照明のプロの人たちと対等に話すことができて成長があり、それを見ている大人の浪漫の会が支えるという関係性。演出家である僕がそれらを横断して調整して、舞台をつくっていく。僕はそういう意味で、自分のことを演出家というより“ジョイントリーダー”だと思っています」(平田さん)

そもそも、町を挙げた、大人が仕掛けたプロジェクトって、子どもたちからするとひょっとしたら「ダサい」と思われがちですよね。しかも、情操教育的な雰囲気が漂うと、一気に冷めてしまう子どもも多いと思います。しかし、平田さんは子どもたちを本気にする手腕に長けています。それを平田さんは「アレンジする力」と話します。

「当初は、稽古をしてもやる気ゼロ(笑)。ある子が休憩時間に安室ちゃんとかMAXとかかけて踊り出したんですね。舞台に出ている子たちって、小さいころからエイサーとかヒップホップのダンスを踊っていた子が多かった。『こういう踊りが踊りたいのか』と聞いたら、そうだと言う。じゃあ、そのダンスで良いからテーマソングに合った振り付けを創作しようと。そうして主題歌『肝高の詩』に合わせたダンスとエイサーと琉舞が混在する躍動感あるフィナーレが出来上がった。それまでは、ヒップホップとかってお年寄りからすると『騒がしい踊り』、でもいざ伝統芸能と組み合わせると、みんな喜んでくれて拍手するんですよ。古くて新しいと言うのか、ミスマッチなものが面白いと言うか……これはいける、と思いました」(平田さん)

東京公演、ハワイ公演を成功させる

こうして、音楽、演劇、伝統芸能、民俗芸能、ヒップホップなど、さまざまな要素が混淆された唯一無二のエンターテインメント「現代版組踊」が誕生しました。記念すべき初公演は、2000年の3月、まさに世界遺産に登録されることに決まった勝連城跡に設置された野外の特設舞台で行われました。

「うちの子に演劇なんて無理だ、と思っていた親御さんも多かったなか、約3時間にも及ぶ舞台が終わってみると、大勢の観客が泣きながらスタンディングオーベーションしている。演じた子どもたちも泣いている。拍手と指笛と大歓声を浴びて、これはすごい! となって、当初は一回で終わらせる予定だったのですが、子どもたちの強い希望で、継続して公演していくことになったんです」(平田さん)

最終的に集った出演者の数は150名。観劇者数は2日間公演で4200名。子どもたちも大人たちも、想像を超える反響を得ました。やがて、子どもたちが「感想文」と言う名の署名を独自に集め、教育長に提出。2回目以降も開催されることが決まりました。地元の悪者をヒーローに仕立てる。しかも面白い。子どもたちは「かっこいい」と思って一生懸命演じる。その過程の中で、学校では得られない貴重な人生経験を積むこともできたでしょう。観客からしたら、地元の歴史上の人物に誇りを持てるようになったことでしょう。単に観るだけではなく、地域のあらゆる世代にとって大切なコンテンツに仕上がったのです。肝高の阿麻和利が“奇跡の舞台”と呼ばれるようになるのは、このころからです。

「3年目には、肝高の阿麻和利を上演するきむたかホールが開館して、僕は32歳で館長に就任。それ機に劇場型の舞台演出にして、継続的に上演することになった。丁度そのタイミングで、関東の地域おこしをしている友人たちに声を掛けて、観に来てもらったらみんな感動してくれて。それで、2003年の5年目に関東公演が実現したんです」(平田さん)

2008年のハワイ公演が初の海外遠征、2009年には新宿厚生年金会館ホールで再演6000人を動員、全国へと公演が巡回していきました。もちろん、演じるのは常に沖縄の現役中学・高校生の子どもたち。学業との両立を図りながら、また毎年の世代交代を繰り返しながら、宮沢和史さんや東儀秀樹さん(雅楽師)とのコラボも実現しました。2019年には、念願の東京の国立劇場公演が実現しました。

東京国立劇場での公演チラシ

東京国立劇場での公演チラシ

その後は、この「現代版組踊」の手法を取り入れたいという人が全国各地から現れました。地元の歴史に誇りを持つことができ、かつ子どもたちの自己実現の場としても成立する「現代版組踊」の仕組みは沖縄だけでなく日本全国、さまざまな地域でも役に立つはずです。そこで平田さんは2014年に「現代版組踊推進協議会」を立ち上げ、現在は沖縄だけでなく、北海道、福島、大阪など16団体が加盟するまでに成長しました。

「あわまり浪漫の会も定期的にグスク(勝連城跡)の清掃活動をしているのですが、福島の南会津とか鹿児島の伊佐市の団体は、地域の人でも忘れているような人の関所とか名所とかを清掃しているそうです。それによって町の人も見る目も変わる。大事なのは物語とうまく結びつけて取り組みをさせてあげること。単なるボランティアとか社会貢献的活動ではなく、舞台の深みを知るための入り口として清掃活動をやっているんです」(平田さん)

聖なる難儀をみんなでやろう

肝高の阿麻和利の成功をきっかけとして、平田さんは2011年から2年間、沖縄県文化観光スポーツ部の初代部長を務め、2013年から4年間は(公財)沖縄県文化振興会の理事長を歴任しました。子どもたちを輝かせることに費やした10年を経て、今度は大人たちを成長させる10年を。そう考えて推進協議会を立ち上げたり、現代版組踊を地元の名物にしていくためにうるま市が手掛ける「(仮称)あわまりミュージアム」建設に関わるなど、インフラづくりにも取り組んでいます。これは、舞台で育んだ卒業生たちの働く場をつくる意味合いもあります。

「これまでも、僕が『演出』してきたのは“舞台”だけではありません“全て”なんです。その意味でも、県の文化行政での経験は大きな学びと気づきがありました。舞台演出を手掛けるのと地域施策に取り組むのは基本的には一緒なんだと実感する日々でした。その上で、文化・芸術の感性と地域行政の感性をジョイントする、子どもの感性と大人の感性をジョイントする、ハードとハートをジョイントする……対立しそうな“全て”を結び付けていく、そしてあらゆる“全て”が一丸となって“感動”を生み出していくシゴトをつくる。“感動産業”をこの地に根付かせるのが僕の目標になったのです」(平田さん)

あわまり浪漫の会の集合写真(画像提供/あまわり浪漫の会)

あわまり浪漫の会の集合写真(画像提供/あまわり浪漫の会)

平田さんは最後に、地域の大人が子どもを支えるための秘訣を、沖縄の島に伝わる古い言葉を使って教えてくれました。

「みなさん、『聖なる難儀』をしてください。これは僕のまちづくりの仕事における信念なんですけれど、島の言葉で『ぴとぅるぴき、むーるぴき』、一人が立ち上がればみんなも立ち上がるという言葉があるんです。あの森も山も海も、木一本、水一滴から始まっているわけで、誰か一人が立ち上がって行動すれば、二人目三人目が出てきて初めて事を成し遂げることができる。新しいことをやるときはあなたが、その一人目になりなさいという意味なんです。誰もがやりたくない『難儀』を嬉々と笑顔で始める一人目に自分がなるんだと自覚する主体者が『先駆者』なんだと、僕は思います」(平田さん)

大人を成長させるというのが平田さんらしいなと思いました。通常、演出家と呼ばれるような人は、舞台上のさまざまな人をコントロールして最良の舞台をつくり上げるのが仕事だと思います。でも、平田さんのような演出家は、舞台を支える大人たち、観客すべてを巻き込みます。コンテンツだけでなく人材育成まで考えているところが、まちづくりのプロである平田さんならでは、とも思います。

既存の学校や地域団体に縛られず、物語を軸に多世代を巻き込みコンテンツ産業を生み出していく。なかなか真似することは難しいかもしれませんが、現代版組踊のようにフィクションの力を借りながら、緩やかに世代やエリアに開かれたコミュニティをつくっていくことは、今後まちづくりを志す人々にとって大きなヒントになるに違いありません。

●取材協力
現代版組踊推進協議会