築36年賃貸が大人気の理由は”大家さん”?! マンガ1000冊読み放題(定期入替)やコーヒー無料などホスピタリティ満載「百合ヶ丘池上マンション」神奈川県川崎市

毎年1月になると本格的な賃貸のお部屋探しシーズンに突入します。一般的には新築や築年数が浅い物件が好まれていますが、築36年、周辺エリアの家賃相場より高いというのにほぼ満室、空室が出てもすぐ埋まってしまう賃貸マンションが神奈川県川崎市麻生区にあるといいます。しかも大家(オーナー)の池上正芳さんはYouTuber。何がいったいどういうことなのでしょうか。人気の理由を探りました。

廊下もゴミ置き場、エントランスもきれい。設備は新築物件並みの充実ぶり

小田急線百合ヶ丘駅から徒歩6分、線路沿いに立つのが「百合ヶ丘池上マンション」です。築36年でありながら全42戸のうち、今、工事中の部屋をのぞくと満室という人気物件です。

最寄駅から徒歩6分、外観は一見よくある賃貸マンションですが、実は大人気物件「百合ヶ丘池上マンション」(撮影/片山貴博)

最寄駅から徒歩6分、外観は一見よくある賃貸マンションですが、実は大人気物件「百合ヶ丘池上マンション」(撮影/片山貴博)

パッと見ると普通の物件ですが、まず特筆すべきは、廊下やゴミ置き場がきれいに保たれている点です。通常、築20年を超えてくると個々の部屋の玄関まわりには傘などの私物が置かれていたり、ゴミ置き場のルールを守らない人がいたりするもの。不思議なことにゴミなどの生活のマナーが守られないと、生活音などの暮らしのトラブルも起こりやすくなりがちで、「築年数が古い物件はちょっと……」と敬遠される理由の一つとなってしまいます。

ところが、この百合ヶ丘池上マンションでは、玄関の郵便受けに投函されっぱなしのチラシはなく、共用のゴミ置き場もきれいに保たれており、住民のトラブルもほとんどないとか。注意喚起の看板はありますが、かわいらしくて、どことなくユーモラス。廊下にはアーティストの作品が掲げられていたり、エントランスまわりはクリスマスなど季節の装飾がされていて、愛着が湧くようになっています。

ゴミ置き場に貼られたポスターはやわらかなタッチで、きちんと分別して出そうという気持ちになります(撮影/片山貴博)

ゴミ置き場に貼られたポスターはやわらかなタッチで、きちんと分別して出そうという気持ちになります(撮影/片山貴博)

きれいに保たれた廊下。ワンコが描かれた作品が飾られ、これを朝晩見れば愛着が湧きますね(撮影/片山貴博)

きれいに保たれた廊下。ワンコが描かれた作品が飾られ、これを朝晩見れば愛着が湧きますね(撮影/片山貴博)

玄関はクリスマスの装飾が。宅配ロッカーなど嬉しい設備も備え付け(撮影/片山貴博)

玄関はクリスマスの装飾が。宅配ロッカーなど嬉しい設備も備え付け(撮影/片山貴博)

(撮影/片山貴博)

(撮影/片山貴博)

共用部分の玄関には、これから外に出るときにちょっと使える日焼け止めや虫よけ、さらに救急箱まで。物件側で置いているだけでなく、居住者も置くことでいつも充実しているとか。コレほどまでに「気が利いてる~!」と感じた賃貸物件があっただろうか、いやない(撮影/片山貴博)

共用部分の玄関には、これから外に出るときにちょっと使える日焼け止めや虫よけ、さらに救急箱まで。物件側で置いているだけでなく、居住者も置くことでいつも充実しているとか。コレほどまでに「気が利いてる~!」と感じた賃貸物件があっただろうか、いやない(撮影/片山貴博)

おまけに玄関には住民が利用できる、DIYツールや救急箱が置いてあったり、近隣のおすすめお店情報も告知されていたりと、「あったらうれしい」「ちょっとお出かけしようかな」という心づかいが至るところになされています。心憎いばかりの「おもてなし」ですが、このマンションの名物はこれだけではないのです。

シェアスペースにはマンガもズラリ。住民同士で交流を促すイベントも

このマンションには、1階に住人が利用できるシェアルーム「サードプレイス102」があり、朝7時~24時まで開いていて、365日利用可能で利用料も無料。
シェアスペース内には、4KTVやWi-Fi、無料のコーヒー、マンガ1000冊(しかも中身は3カ月ごとに入れ替えされるサブスク制)がそろえてあるので、仕事や勉強をしてもいいし、くつろぎの場にも最適。入居者同士でいっしょにスポーツ観戦したり、おしゃべりするのだって楽しそうです。コレ、絶対楽しいやつだ……!

1階にあるシェアルーム「サードプレイス102」の入口。この部屋だけでなく、全部屋電子キーになっています(撮影/片山貴博)

1階にあるシェアルーム「サードプレイス102」の入口。この部屋だけでなく、全部屋電子キーになっています(撮影/片山貴博)

中はカフェのような空間になっており、コーヒーを飲んだり、備え付けの漫画を読んで過ごすことができます(撮影/片山貴博)

中はカフェのような空間になっており、コーヒーを飲んだり、備え付けの漫画を読んで過ごすことができます(撮影/片山貴博)

壁に利用規約が書いてあります。住民同士が交流できるよう設置された掲示板には、住民が企画する「マンガ夜会」の案内が(撮影/片山貴博)

壁に利用規約が書いてあります。住民同士が交流できるよう設置された掲示板には、住民が企画する「マンガ夜会」の案内が(撮影/片山貴博)

ここまで「百合ヶ丘池上マンション」の共用部分の仕掛けや住みやすくなるさまざまな工夫を紹介してきましたが、実際の住心地はどうなのでしょうか。現在、暮らしている女性N.R.さん(30代)に話を聞いてみました。

「実は、初めて1人暮らしをした賃貸がこの物件なんです。10年間住み続けているので、正直なところ手狭になってきて、何度か引越しを検討し、住まいを探したこともあるんですが、家賃や広さ、設備を比較すると、どうしても今よりよい物件がなくて……。宅配ロッカーや電子キーなど、設備も年々、アップデートもされているし、私の暮らしにあわせて有孔ボード(※)を取り付けてもらったり、『サードプレイス102』のようなシェアスペースがあったり。他のお部屋の人とも『こんなに良いマンション、他にないよ』って話すんです」

※有孔ボード/小中学校の音楽室の壁にあったような穴の開いた壁材。穴を利用して、吊るしたり収納棚を取り付けたりなどでき、壁が有効利用できる

なるほど、家賃は同額なのに年々アップデートするのであれば、引越す理由はないですし、住み続けるほどに愛着が増す気もします。
「それに、大家の池上さんですね。池上さんがちょうど大家さんになったころに入居して、ご挨拶させていただいて。今では東京のお父さんというか(笑)。いっしょにYouTube動画を作成したり、ご一緒することが多くて、楽しいし、顔が見える分、安心して暮らせています」と魅力を解説します。

1人暮らしは自由で気楽な半面、防犯面や災害時、病気の時など心細いことがあるもの。こうした身近なつながりがあることで、安心して暮らせますよね。では、大家である池上さんはなぜこれほどまでに設備を更新したり、おもてなしをしたりするのでしょうか。話を聞いてみました。

祖母が建てた不動産を相続。空室と家賃低下のスパイラル

「この物件を建てたのは私の祖母で、今から10年ほど前、父から私が引き継ぎました。その時点では学生向けワンルームばかりで空室も多く、年々、家賃も下げていかないと部屋が埋まらない、そんな状況でした。管理は不動産会社任せ、さらにあまり部屋を大事に使ってもらえずにトラブルも多発、そんな状況だったんです」と当時を振り返ります。

大家の池上正芳さん(撮影/片山貴博)

大家の池上正芳さん(撮影/片山貴博)

このままでは「負動産」になってしまうと思った池上さんは、小さなことから物件を良くしていこうと工夫をはじめます。

「空いた部屋の玄関に全身が映る鏡をつける、荷物やコートがかけられるフックをつける、部屋に室内干しをつける、といったことをしていきました。予算は少額で、借りる人目線でちょっと手を加えたら、家賃を下げなくとも空室が埋まるようになって。入居者に喜んでもらえる楽しさに目覚めていったんです」(池上さん)

そのうち単なる工夫だけにとどまらず、デザイン性を重視したリノベーション、空間プロデュースを手掛けるように。建築士や施工会社ともつながりができ、空室が出る→空間のコンセプトを決める→リノベする→家賃を再設定して募集する→入居者が決まる、という「正のスパイラル」が生まれるようになりました。

現在、リノベ済みの部屋。1人暮らしはもちろん、2人暮らしもできる広さ(撮影/片山貴博)

現在、リノベ済みの部屋。1人暮らしはもちろん、2人暮らしもできる広さ(撮影/片山貴博)

有孔ボードがあるので収納場所やディスプレーする場所になる。Bluetoothスピーカーや椅子、照明も備え付けなので、初めての1人暮らしでもすぐに快適な生活ができる(撮影/片山貴博)

有孔ボードがあるので収納場所やディスプレーする場所になる。Bluetoothスピーカーや椅子、照明も備え付けなので、初めての1人暮らしでもすぐに快適な生活ができる(撮影/片山貴博)

キッチン側から見たところ。室内に段差があるので、空間に遊びあるのもうれしい(撮影/片山貴博)

キッチン側から見たところ。室内に段差があるので、空間に遊びあるのもうれしい(撮影/片山貴博)

もちろん、池上さんの取り組みのすべてが成功したわけではありません。リノベのコンセプトをつくり込みすぎてしまったり、ターゲットのほしい室内デザインとズレていたり。その度に修正して、柔軟に「部屋を借りる人がよろこぶデザイン・設備・サービスはなにか」と模索し続け、現在の「各部屋、コンセプトの異なる部屋」「電子キー」「Bluetoothスピーカー」「住民の共用スペース」「物件公式LINEアカウント」にたどりついたのです。

こちらもリノベ済みの部屋。ブルックリンの地下鉄をテーマにしたワンルームのキッチン。調理用に移動できる卓上のIHクッキングヒーターがついています。このキッチンカウンターで使うもよし、テーブルに運んで卓上で調理するもよし(撮影/片山貴博)

こちらもリノベ済みの部屋。ブルックリンの地下鉄をテーマにしたワンルームのキッチン。調理用に移動できる卓上のIHクッキングヒーターがついています。このキッチンカウンターで使うもよし、テーブルに運んで卓上で調理するもよし(撮影/片山貴博)

窓際のコーナーテーブルは、後付けしたことで一気に雰囲気アップ!ここにテレビやパソコンを置いて、くつろぎや作業をすることも。黒のブラインドもおしゃれ(撮影/片山貴博)

窓際のコーナーテーブルは、後付けしたことで一気に雰囲気アップ!ここにテレビやパソコンを置いて、くつろぎや作業をすることも。黒のブラインドもおしゃれ(撮影/片山貴博)

各部屋備え付けのBluetoothスピーカー。間接照明にもなります(撮影/片山貴博)

各部屋備え付けのBluetoothスピーカー。間接照明にもなります(撮影/片山貴博)

部屋の雰囲気を壊さない充電コーナー。奥には有孔ボードがあり、こちらもディスプレーが楽しくできそう(撮影/片山貴博)

部屋の雰囲気を壊さない充電コーナー。奥には有孔ボードがあり、こちらもディスプレーが楽しくできそう(撮影/片山貴博)

取材に同席し、以前から池上さんの大家業に注目していたという、ハウスメイトマネジメントソリューション事業本部の伊部尚子さんは「池上さんは、なんでも挑戦してみようという前向きな姿勢に加えていつも謙虚で偉ぶらず、ご自分よりはるかに若い入居者さんや業者さんからアイデアを教えてもらい、良いものはどんどん取り入れようという柔軟性をもっていらっしゃいます。相続した不動産が空室ばかりと悩んでいる人は多いですが、そんな悩める大家さんの希望の星です。こんなに楽しそうに賃貸経営をされている大家さんはあまりいらっしゃいません」と話す。不動産のプロとして日本全国のさまざまな賃貸物件の知見を持つ伊部さんからしても、ここまで細やかにサービスや工夫をしている賃貸物件は珍しいと証言します。

住む人に幸せになってもらうこと。それこそが大家の本懐

池上さんは今も入居者が決まる度に、「ごあいさつキットに入れたカギ」「百合ヶ丘の町ガイド」を手渡しします。また「ゴミの出し方」「傘を共用部に置かない」など、マンションのルールを、入居時に丁寧に伝え、LINEの公式アカウントに友達追加してもらっているといいます。

池上さんが入居者に渡しているハンドタオルとキーホルダーとカギのセット。キーホルダーのデザインはこれまでの大家業で関わってきた若いクリエイターによるオリジナル。これをもらったら大事にせずにはいられません(撮影/片山貴博)

池上さんが入居者に渡しているハンドタオルとキーフォルダーとカギのセット。キーホルダーのデザインはこれまでの大家業で関わってきた若いクリエイターによるオリジナル。これをもらったら大事にせずにはいられません(撮影/片山貴博)

「公式LINEアカウントを追加したあとに、例えば風邪をひいたとか、電子キーが開かないとか、ささいなこと、日常のお困りごとを連絡してくださいと伝えています。直接のグループLINEで大家や管理会社とつなげようとする方も多いのですが、それは入居者の方にはハードルが高くて。公式アカウントにした方が、入居者の方も直接会話ができて気軽なんです。これもいろんなケースを通じてわかってきたことです。入居者が困ったときにも即、対応できるし、反対に大家側からも一斉にお知らせができます。こうしたルール説明、対応方法を知らせておくと、みなさん気持ちよく暮らしてくれます」と池上さん。

建物での暮らしのルールはあいまいだったり、明文化されていないことが多いもの。入居時にしっかりと説明されるとガイドラインが明確になり、暮らしているほうも安心ですよね。

こうして手間と愛情をかけて物件や入居者と向き合うことで、思いもよらない副産物もあるのだそう。

「手間と費用をかけてリノベをし、借り手を募集すると、賃料ありきではなく、『したい暮らし』で物件を探してくれる人と出会えるんです。そうすると、新しい才能と出会えることがあって、入居者さんにデザインや動画を手伝ってもらえたりするんですよ。エントランスに貼った百合ヶ丘マップやアート作品はそのひとつなんです」と池上さん。物件が才能ある人を招いて、物件の魅力がさらに磨かれる、そんな好循環になっているんですね。

元入居者の作成した百合ヶ丘マップ。おすすめのお店情報を入居者同士で教えあえる工夫も(撮影/片山貴博)

元入居者の作成した百合ヶ丘マップ。おすすめのお店情報を入居者同士で教えあえる工夫も(撮影/片山貴博)

今、池上さんが取り組んでいるのが、この物件がある百合ヶ丘駅周辺の魅力の発信です。「百合ヶ丘駅」は各駅停車の小さな駅ですが、個人のお店が多く、あまり知られてない良さがあるのだとか。

「ターミナルであるお隣の新百合ヶ丘駅に目がいきがちですが、百合ヶ丘にもいいところがたくさんある。自分の物件でなく、この街の良さ、暮らしを知ってほしくて、YouTubeをはじめたんです。撮影して歩くと自分も知らなかった魅力に気付くんですよ」とYouTuberになったきっかけを明かしてくれます。(余談ですがこのチャンネル、ほのぼのしていて最高です……!)

まさか自分のためではなく、「人のため」ひいては「まちの魅力発信のため」にYouTuber大家さんになってしまうとは……。その行動力に感服以外の言葉がありません。ここまでする理由を、池上さんは、「大家をするなら、住んでもらう人に幸せになってもらいたいから」とさらりと言います。こうまで言われてしまうと、住み続けたくなる理由が大家さんというのも納得です。入居者も快適で幸せに暮らせ、大家さんも利益を得てまた幸せになる。「自他共栄」とは、まさにこういうことをいうのだな、としみじみ実感した取材となりました。

●取材協力
y-BROOKLYN
百合ヶ丘チャンネル

厳しすぎる世界基準の環境性能に挑む賃貸住宅「鈴森Village」。省エネは大前提、植栽は在来種、トレーサビリティの徹底など…住みごこちを聞いてみた 埼玉県和光市

ここ数年でますます環境問題への関心・意識が高まり、2024年度からは、省エネ性能や断熱性能を表示する新制度(建築物の販売・賃貸時の省エネ性能表示制度)がはじまる予定と、今、住まいの省エネ性能・環境性能が重視されつつあります。そんななか、埼玉県和光市で環境性能評価システムLEEDを取得する予定の賃貸住宅「鈴森Village」が誕生しました。どんな住まいなのでしょうか。入居者、開発を手掛けたオーナーの株式会社鈴森 社長・鈴木早苗さん、設計をした一級建築士事務所スターパイロッツ代表の三浦丈典さんに話を伺いました。

賃貸住宅「鈴森Village」は、木々に囲まれた“結界”。住まいが生活に与える影響の大きさを実感

LEED認証とは、建物と敷地利用の環境性能を評価する国際認証制度のこと。世界でもっとも多用されている評価システムで、環境性能を証明できることから、不動産の価値向上、環境を意識したテナントを誘致しやすくなり、主に商業ビル、倉庫、工場などで認証を受ける建物が増えています。今回、このLEED認証の取得を目指そうと建てられた賃貸住宅が「鈴森Village」です。

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建物は南側の4棟をつなぐデッキには階段が2カ所。エレベーターがあるのでベビーカーでの移動もラク(写真撮影/片山貴博)

建物は南側の4棟をつなぐデッキには階段が2カ所。エレベーターがあるのでベビーカーでの移動もラク(写真撮影/片山貴博)

「鈴森village」を語る上で欠かせないのが、LEED for Homesの基準に準拠した計画・設計・施工がなされていることです。LEEDはLeadership in Energy and Environmental Design(リーダーシップ・イン・エナジー・アンド・エンバイロンメンタル・デザイン)の略で、米国グリーンビルディング協会(USGBC)が開発・運用している国際認証制度。環境的視点から、敷地、水、エネルギー、資材、室内環境などを評価します。世界で広く用いられており、環境性能の高いプロジェクトを評価するため、認証を得るのが難しいのです。

LEED認証を目指して完成した鈴森village、どのような建物なのでしょうか。

まず建物そのものは、高断熱・高気密で、効率エアコンや節水トイレ・蛇口・シャワーといった省エネ設備を備えています。電気だけでなく水やガスなど、すべてのエネルギーに対して、省エネとなっているのが特色です。つまりここで暮らしていると、自然と光熱費が抑えられるうえに、夏涼しく冬暖かい快適な暮らしが自然と送れるようになっているのです。また、LEEDの要件である「交通利便性」「敷地内の豊かな緑を在来種や適合種(地域の環境に適した種類の植物)で構成していること」「植栽の灌水に雨水を利用し、節水に配慮していること」などにも合致しているため、建物だけでなく、より広く、周辺環境に配慮した建物となっているのです。

とはいえ、環境性能がよいといっても、やはり重要なのは住みごこち。従来の住まいとはどう異なるのでしょうか。今年4月、夫と妻、2人の娘とでともにこの建物に入居し、暮らしはじめたMさん一家に話を聞いてみました。

「前の住まいは築年数が古く、子どもの泣き声が響く、カビが発生する、など気になることばっかりだったんです。この住まいに引越してきて、本当に住居の性能の差に驚いていて。たとえば断熱性や気密性でいうと、外気温に比べて、驚くほど室温が一定してるんです。外気温と差があるので、外に出てびっくりすることもしばしばです。子どもの声もお隣に響くことはないですし。住宅がここまで生活の質、クオリティ・オブ・ライフをあげるのか、と。ストレスがないというか、人生がガラリと変わるというか。木々に囲まれていて、大げさにいうと結界があるというか、守られている感じがします」と夫は話します。

夫は現在、育休を取得しているため、平日の日中は夫妻と下の娘の家族3人で日中過ごしているそう。そのため、なおのこと、今の住まいの居心地の良さを痛感しているといいます。

夫はこの家に引越してきて、断熱や気密性に関心を持ち、室温・外気温を測るようになったとか(写真撮影/片山貴博)

夫はこの家に引越してきて、断熱や気密性に関心を持ち、室温・外気温を測るようになったとか(写真撮影/片山貴博)

「ベランダなど共用部に植物がたくさん植えられているので、毎日、いろんな鳥がやってくるんですね。鳥のさえずりも緑も心地よくて。日々、家族で鳥を観察しています。また、敷地内外の緑を手入れする職人さんや管理人さんも2~3日おきにいらっしゃって、丁寧にメンテナンスされていると感じます。収納も多く、動線なども考え抜かれていて『間取り決め、設備決定など、家造りの大変なプロセスを全部ふっとばして、『いちばんいいとこ取りした状態』で生活できるんですから、ぜいたくだなあと思いますね」と妻もうれしそうです。

プライベート感のあるルーフバルコニー。すぐ眼の前に草木があり、緑に囲まれているのがおわかりいただけるでしょうか(写真撮影/片山貴博)

プライベート感のあるルーフバルコニー。すぐ眼の前に草木があり、緑に囲まれているのがおわかりいただけるでしょうか(写真撮影/片山貴博)

2階の踊り場は、夫妻のワークスペースとして活用。自宅内に自由に使えるスペースがあるって魅力的ですよね(写真撮影/片山貴博)

2階の踊り場は、夫妻のワークスペースとして活用。自宅内に自由に使えるスペースがあるって魅力的ですよね(写真撮影/片山貴博)

夫妻の住まい探しのきっかけは夫の転勤。そのため、この物件が「環境性能」に配慮していたり、「LEED認証」取得を目指していることを知っていたわけではなく、本当に偶然の出会いだったといいます。

「通勤を考えて、和光市というエリアに住むことは決めていたんです。ただ、引越し期限も決まっていたし、良い物件がないかな~って、それこそ夫婦で毎日、SUUMOの新着物件をチェックして。ある日、妻が興奮しながらすごいのが出た!というので、見たんです。コレはよさそうだと思いましたね」(夫)

以前の住まいにあったシステムキッチンで使っていた家電を上手にコーディネート。買い足したものはないというが、すっきりとおさまり、居心地もよくなったという(写真撮影/片山貴博)

以前の住まいにあったシステムキッチンで使っていた家電を上手にコーディネート。買い足したものはないというが、すっきりとおさまり、居心地もよくなったという(写真撮影/片山貴博)

夫は仕事柄、一定期間、家を不在にすることもある。そのときに妻と子どもが安全・安心して過ごせるかが、決め手になったのだそう。

「妻が二人の子どもと過ごすことを考えたときに、高層物件は我が家向きではないと。また、引越してきたときに大家の鈴木さんがご挨拶に来てくださって。以前も賃貸物件に暮らしたことはありましたが、大家さんが挨拶にいらっしゃる経験は初めてで、すごく印象に残っていますね。安全や安心、快適、それと環境を大事にしたいという価値観が似ているからか、隣の住戸に住む家族とも仲良くなりました。人とのつながりという面でも安心できますね」と夫。

国際環境性能をクリアした建物の住み心地が「緑で建物が守られているよう」「結界のような安心感がある」というのはなんとも不思議ですが、実はオーナーが願っていた通りでもあるといいます。この「鈴森Village」のプロジェクトを牽引したオーナーの鈴木早苗さんにも話を聞きました。

“道路村長さん”のDNAがもたらす、100年先まで持つ「賃貸住宅」

鈴森Villageのプロジェクトを立ち上げたのは、株式会社「鈴森」の鈴木早苗社長です。鈴木家は400年以上、この和光市周辺の地主であり、現在の「和光市駅」の開設や郵便局の設置にも携わったそう。なかでも、無報酬で地元のために尽力してきた曾祖父(鈴木佐内氏)は、地元の人たちから尊敬を込めて通称“道路村長さん”と呼ばれていたとか。早苗さんにとって、「鈴森Village」のプロジェクトのきっかけとなったのは、「代替わり」を見据えたときのこと。鈴木社長のお母様、現社長の早苗さんと受け継いできましたが、将来のことを考えれば「どの土地を残すのか」「どの土地を整理するのか」は、避けて通れない課題です。

株式会社鈴森の社長・鈴木早苗さん。宅建とFP2級、美容師国家資格を所有するバイタリティの持ち主(写真撮影/片山貴博)

株式会社鈴森の社長・鈴木早苗さん。宅建とFP2級、美容師国家資格を所有するバイタリティの持ち主(写真撮影/片山貴博)

「ここは和光市駅から徒歩5分、2000平米の土地なので、土地活用の方法は多数あります。しかし、売却して分譲一戸建てが並ぶ、賃貸マンションを建てるなどすると、土地がバラバラになって風景が変わっていく。とにかくそれは避けたいなと。100年後も人が和やかに行き交う街であってほしい、100年後も残るものをと考えたとき、建築に造詣が深い夫から出てきたのが、これからは『LEED』のように国際環境規格に合致した建物でないとダメだということでした」と鈴木社長。

地域社会にとっても、地球にとっても持続可能であるというのは、慧眼です。とはいえ、いくら環境によいものといっても、LEED認証を取得するには、コンサルティング費用、建築費・資材費も含めてコストアップは避けられず、生半(なまなか)な覚悟でできることではありません。

「『鈴森Village』の話をしていたとき、ちょうど夫が大病を患っていたこともあり、厳命というか、約束のように思えて、必ずやり遂げるんだ、という思いはありました。また、大家にとって、住む人の安心安全は絶対であるという思いはあります。やはり災害、有事の発生時に家はそこに住む人たちの命と財産を守る砦になるもの。大家には、その責任と覚悟が必要だと思っています」といい、短期的な利益よりも、社会的責任を強く感じているのがわかります。

鈴森Villageは総戸数26戸。3階建ての建物。曾祖父である“道路村長さん”のシルエットがお出迎えしてくれます(写真撮影/片山貴博)

鈴森Villageは総戸数26戸。3階建ての建物。曾祖父である“道路村長さん”のシルエットがお出迎えしてくれます(写真撮影/片山貴博)

賃貸住宅だけでなく、美容室ほかベーカリーなどのテナントが入る予定。地域にひらかれた場所/設計を目指した(写真撮影/片山貴博)

賃貸住宅だけでなく、美容室ほかベーカリーなどのテナントが入る予定。地域にひらかれた場所/設計を目指した(写真撮影/片山貴博)

生い茂る緑の小径。通り抜ける風が心地よい。植栽の管理には気を抜かない(写真撮影/片山貴博)

生い茂る緑の小径。通り抜ける風が心地よい。植栽の管理には気を抜かない(写真撮影/片山貴博)

ただ、建設途中にはウッドショックが発生し、建築費も当初の想定よりも高くなっていくなど、プロジェクトには困難が次から次へと押し寄せます。
「とにかく認証の検査も厳しくて。『この状態だと認証はとれません』とまで言われたりして。建築士、コンサルティング会社、施工会社とも相当のやり取りをしました」と、やはり一筋縄ではいかなかったよう。

そんなさまざまな苦労を経て、実際に建物が竣工したときの鈴木さんの印象を聞いてみました。

「手前味噌ながら『こんな賃貸住宅、見たことない!!』ですね。よくある◯LDKの部屋とあまりにも違うので、一見すると、生活しているイメージがわかなかったんです(笑)。ただ、よくよく見ていくと、間取りや動線、収納などよく考えられているし、特に1階の住戸は自分でも住みたいと思うくらいです。ただ、ぱっと見て、その良さが伝わるかどうかは別。この建物の良さを、どうやって知ってもらうかが、成功のカギになるんだろうな、と思いました」と鈴木さん。

1階の部屋は、玄関のほか、小径側からも室内に入れる。内側と外側がゆるくつながった設計(写真撮影/片山貴博)

1階の部屋は、玄関のほか、小径側からも室内に入れる。内側と外側がゆるくつながった設計(写真撮影/片山貴博)

緑の手入れには費用がかかる、虫を殺すには殺虫剤を使わないように指導する、建物周辺の空間の清掃など、苦労はつきません。それでも、やり抜けたのは、「これから100年先のことを考えたら『LEED』のような建物を」という夫との約束があったからでしょう。

「今度ね、鈴森Villageで防災訓練をしようと思っています。自然災害は必ず来ますから。そのときに消火栓が使えません、何があるかわかりませんじゃ、困りますから。安全対策は忘れたくないですね。あと、思い描いているのは鈴森Villageに住んでいるみなさんと昔から近隣に住んでいる方々などを交えたコミュニティづくり。年齢を重ねて、長く住んでいただけたらうれしい」(鈴木さん)。

100年持続するというのは、建物だけでなく、そこに暮らす人たちの集いと思いが結実してこそでしょう。建物は完成しても、鈴木さんの挑戦はまだまだ続きそうです。

建築家も「材から考える」「持続可能」を説明する責任がある

鈴木さんの思いを形にした、設計を担当した一級建築士事務所スターパイロッツ代表の三浦丈典さんも重要な登場人物です。

「今まで道の駅や図書館など、公共施設を中心に設計してきましたが、入居者の顔が見えない賃貸住宅というのは初めてでしたので、重責だなと思いました。また、鈴木社長からは、とにかく『アフターコロナの時代を想像して設計してほしい』『100年持続可能』というオーダーでしたので、自分なりに仮説を立てて試行錯誤して設計をして。今、こうやってたくさんの方の住まいになって本当に幸せだなと思います」と今の心境をあかします。

設計を担当した一級建築士事務所スターパイロッツ代表の三浦丈典さん。賃貸住居プロジェクトは重責だったと話します(写真撮影/片山貴博)

設計を担当した一級建築士事務所スターパイロッツ代表の三浦丈典さん。賃貸住居プロジェクトは重責だったと話します(写真撮影/片山貴博)

「LEEDは、単なる建物の「設計基準」ではなく、建物と敷地利用に関わる環境性能を評価対象とします。そのため、建物の環境性能(高気密高断熱、節水など)というだけでなく、施工、建物、完成後の暮らし方まで、さまざまなことが細かく取り決められているそう。こういう「あいまい」を許さず、「細部まで徹底」するあたりが国際基準ですね。建築家としても、かつてない取り組みだっただけに、改めて発見・気付かされることもあったといいます。

「僕ら建築士は、建材を仕様やメーカーで選ぶことが多いんですけれど、建材ができるところ、例えば木材がどのように伐採されるのか、普段はそこまで想像力が働いてなかったんですよね。LEEDはとにかく細かく基準が決まっていて、違法に伐採されていないかなど、トレーサビリティ(※)のところまで問われるんです。施工時の現場でからでる濁水や粉塵を隣地に影響のないように管理するなどもチェック項目です。いわゆる使う責任、つくる責任ですね。基準が細かく定められていることで、改めて設計や建築・建設に携わる責任の重さを痛感しました」

※製品がいつ、どこで、だれによってつくられたかがわかるように、原材料の調達から生産、消費あるいは廃棄まで追跡ができるようにすること

一方で、これからは「環境性能が問われることが当たり前になっていくな」という手応えも感じたそう。

「若い世代にとっては、環境配慮は当たり前のことになってくるでしょう。また、少しずつですが、良い住まいの持つ、居心地よさというのは伝わっていくのではないでしょうか。今回、お住まいの方が『結界』と仰っていたように、環境性能の持つ心地よさを評価してくれる人が増えるし、そのための普及や情報発信も大切だなと思いました」と三浦さん。

日本の住宅、特に賃貸住宅では、賃料、駅からの距離、広さや間取りといった、わかりやすい「スペック」が重視されます。そのため、環境性能、温熱環境で、住まい、特に賃貸住宅を選ぶ人はまだまだ少ないことでしょう。「鈴森Village」の賃料設定は周囲の相場と比較すれば1割程度高めですが、それでも鈴木さんがかけた建設コストや維持管理費用を考えれば、「安い」とすら思えます。

鈴木さんは、自らを「逆境ラバー」と言っていました。鈴木家がなぜ地主として400年以上もその土地と周囲で愛されてきたのか、腑に落ちた気がします。

そんな思いを経て誕生した「鈴森Village」が、今後この地でどんな暮らしを育んでいくのか、楽しみでなりません。

●取材協力
鈴森Village
SUUMO物件ライブラリー 鈴森Village

相撲部屋付き賃貸を押尾川親方がプロデュース。朝稽古を見学、ちゃんこを力士と一緒に楽しめる生活って? 墨田区「クリエイティブハウス文花」

“1階が相撲部屋のシェアハウス”というユニークな形態の賃貸マンションが昨年2022年4月、墨田区に誕生しました。朝稽古の見学会やちゃんこ会など住民を招いてのイベントもあるというこのユニークな物件について、親方の思いのほか、管理会社、入居者に話を聞きました。

1階に相撲部屋がある賃貸マンションとは?

1階にコンビニなどの商業施設やクリニックが入っているマンションはよく目にします。「1階に自分の好きな店や、よく使う施設が入っていること」は、物件探しの際にも意外と重要な要素ともいえるでしょう。他にはなかなかない「1階に相撲部屋がある」物件に住んでいるというのは、ちょっと得難い体験ができるのでは?と、思うのですが、実際はどうなのでしょうか?

大都会のなかのローカル線、といった趣のある東武亀戸線小村井駅から歩いて5~10分ほどの住宅街のなかに、モダンなマンションがあります。よく見ると1階の入口に「押尾川部屋」の立派な看板が見えます。これが、相撲部屋のある賃貸マンション「クリエイティブハウス文花」です。

遠目には普通の現代的なマンションに見えるが……(写真撮影/片山貴博)

遠目には普通の現代的なマンションに見えるが……(写真撮影/片山貴博)

相撲部屋の看板が目を引く(写真撮影/片山貴博)

相撲部屋の看板が目を引く(写真撮影/片山貴博)

緊張感漂う相撲の朝稽古を見学

朝8時、朝稽古の様子を見学できるということなので、実際にお伺いしてみました。

この日の見学者は20名ほどいましたが、そのほとんどが外国人です。外国人に交じって稽古場がオープンするのを待ちます。

稽古場は、土俵がすっぽり入るのはもちろん、土俵の横にはすこし広めの板間もあります。力士は、稽古が終わると板間でちゃんこを食べるわけです。

土俵だけでなく、テッポウをするためのテッポウ柱(鏡の前の柱)なども備え付けされている(写真撮影/片山貴博)

土俵だけでなく、テッポウをするためのテッポウ柱(鏡の前の柱)なども備え付けされている(写真撮影/片山貴博)

稽古が始まると、力士はすり足、四股といった基礎練習を黙々とこなします……ふだんテレビで見るような取り組みとは違った迫力があり、力士の真剣さがダイレクトに伝わってきます。

四股を踏む力士たち(写真撮影/片山貴博)

四股を踏む力士たち(写真撮影/片山貴博)

驚嘆したのは、力士たちの股割りの角度です。股割りは、ケガを防止するための、いわゆるストレッチですが、どの力士もほぼ180度の信じられない角度で足を広げて床に突っ伏します。椅子から立ち上がるだけでも体がガクガクするほど運動不足の僕にとってはまさに異次元の世界です。さすが力士です。

基礎練習が終わると、ぶつかり稽古が始まります。真剣に稽古を行う力士の掛け声が真新しい稽古場に響きます。親方や先輩力士が後輩力士に対し、丁寧かつ真剣にアドバイスする様子など、見学者は身動きせず、固唾をのんでその様子を見守っています。

稽古と言えども、迫力はすごい(写真撮影/片山貴博)

稽古と言えども、迫力はすごい(写真撮影/片山貴博)

おそらく、外国人観光客の方には、どんなことがやりとりされているのかは、わからないかもしれません。しかし、その真剣な雰囲気は、十分に感じ取ることができたでしょう。

朝稽古の見学は、8時からスタートし、1時間半ほど見学することになります。誰でも無料で見学することは可能ですが、ふらりと行って見られるわけではなく、開催日と定員が決まっており、事前に申し込みが必要です。時間厳守の上で途中での入退場ができませんので、見る方も本気で見に行かなければいけません。

力士への真剣で丁寧なアドバイス(写真撮影/片山貴博)

力士への真剣で丁寧なアドバイス(写真撮影/片山貴博)

張り詰めた雰囲気の稽古が終わると、一挙に緊張がほぐれます。親方が海外からの見学者に「ウェアーアーユーフロム?」とフランクに声を掛けると、にこやかに「Hong Kong」だとか「France」という答えが。
そうこうするうちに、見学者たちと記念撮影の時間が和やかに始まります。本物の力士さんと写真が撮れるという機会、日本人でもなかなかありません。

ちなみに、昔から「お相撲さんに赤ちゃんをだっこしてもらうと健康で丈夫になる」という言い伝えがありますが、押尾川部屋では、力士に赤ちゃんをだっこしてもらって写真を撮影できる『赤ちゃんだっこ体験会』も開催しています。

戦災を受けずに残った町に相撲部屋が来た

押尾川部屋は、元関脇の豪風だった押尾川親方が2022年に独立し、17年ぶりに再興した相撲部屋です。そのため、稽古場を新しくつくることになり、墨田区の文花に、賃貸マンション付きの相撲部屋を新築しました。

押尾川親方がこの墨田区文花に相撲部屋をつくることを決断したのは、両国国技館からの近さもあるそうですが、地域との交流、地域に愛される相撲部屋を目指すためという目的もあったとのこと。
地域住民ファーストのため、朝稽古の見学は、近隣の方が最優先となっています。実際、取材の日も近隣からの見学者も何名かいらっしゃったようです。

クリエイティブハウス文花と道を挟んだ向かい側は、墨田区京島三丁目の趣のある町並みが広がります。京島二丁目と三丁目は、戦災での空襲を受けなかったため、大正時代の古い町並みが今でも残り、築100年を超えるような長屋もいくつかあります。

大正時代から続く古い住宅が残る趣ある町並み(写真撮影/片山貴博)

大正時代から続く古い住宅が残る趣ある町並み(写真撮影/片山貴博)

珍しい「1階に相撲部屋があるシェアハウス」

クリエイティブハウス文花を管理する不動産会社「エイゼン」は、墨田区のこの地域に物件をいくつか所有していますが、築年数の古い住宅や長屋をシェアハウスとして再生したり、創作活動を行うアーティストや美大生のための住居兼アトリエにリノベーションするなどの物件を、展開しています。

今、押尾川部屋のあるマンションも、数年前までは築90年以上の古い長屋建築でしたが、容積率の関係で、すこし大きめの建物が建てられることから、今回建て替えし、下層階に相撲部屋、上層階にワンルームとシェアハウスというちょっと珍しい形態のマンションとなりました。

元々、墨田区のこの地域に「相撲部屋をつくりたい」と考える親方は多かったようですが、今回はたまたま押尾川親方と、古い建物の建て替えを検討していたエイゼンを地元の銀行が仲介し、この「相撲部屋のある賃貸マンション」が誕生しました。
建物自体はエイゼンが管理し、そこに押尾川部屋が力士の住居も含めて家賃を払って入居する、という形ですが、相撲部屋部分の内装は特別仕様となっており、風呂場やトイレなどのサイズは力士仕様の大きいサイズのものが設置されているそうです。

なお、入居者はエイゼンが運営する近所のトレーニングジムが使い放題になります。もちろん、このジムは力士も使うため、力士用のサイズの大きなトレーニング装置を設置したとのこと。力士と一緒にジムで体を鍛えられるというのも、他にはない魅力のひとつでしょう。

シェアハウスの部屋は、ベッド、机、冷蔵庫などの家具はすでに備え付けされている(シェアハウス平米数:9.56~11.78平米 写真の部屋は9.72平米)(写真撮影/片山貴博)

シェアハウスの部屋は、ベッド、机、冷蔵庫などの家具はすでに備え付けされている(シェアハウス平米数:9.56~11.78平米 写真の部屋は9.72平米)(写真撮影/片山貴博)

シェアハウス部分の共用スペース。キッチン、ダイニングテーブルなど入居者は自由に使える(写真撮影/片山貴博)

シェアハウス部分の共用スペース。キッチン、ダイニングテーブルなど入居者は自由に使える(写真撮影/片山貴博)

窓も大きく、部屋が明るい(ワンルーム)(1K平米数:25.27~25.74平米 写真の部屋は25.27平米)(写真撮影/片山貴博)

窓も大きく、部屋が明るい(ワンルーム)(1K平米数:25.27~25.74平米 写真の部屋は25.27平米)(写真撮影/片山貴博)

賃貸部分の部屋が、普通のファミリータイプの部屋ではなく、ワンルームとシェアハウスという形になっているのは、このマンションのすぐ近くに、大学が2つもあるためです。ただし、実際に入居者を募集したところ、学生よりも相撲が好きな社会人からの問い合わせが多く、なかには、いわゆる“スー女”と呼ばれる相撲好きの女子や、かつて学生相撲などをやっていた会社員など、相撲に関心のある人が入居するなどし、これに関しては、「嬉しい誤算だった」とエイゼンの片桐社長はいいます。

学生だけでなく、相撲好きの人にも人気の物件となったのは結果としてはよかった(写真撮影/片山貴博)

学生だけでなく、相撲好きの人にも人気の物件となったのは結果としてはよかった(写真撮影/片山貴博)

実際に、入居されている島田(仮名)さんは、SNSで「1階が相撲部屋のマンションがある」という情報を知り「なんだか面白そう」ということで、入居しました。入居して間もないため、朝稽古の見学にはまだ行ったことがないそうですが、それよりも先に、押尾川部屋の後援会が主催するちゃんこ鍋食事会には参加されたそうです。

ちゃんこ鍋食事会の様子(写真提供/エイゼン)

ちゃんこ鍋食事会の様子(写真提供/エイゼン)

片桐社長は、「押尾川部屋の力士たちは、人数は少ないものの、健闘している力士たちばかりで、場所が始まると、エイゼンの事務所では相撲中継で押尾川部屋の力士を応援している」といいます。
大相撲の力士は、同じ県出身の力士というだけでも、なんだか気になったり、応援したくなる存在です。ましてや、自分の住んでいるマンションの1階で、いつも稽古をしている力士が、相撲をとっている、しかもその姿がテレビで中継されると思うと、マンション住人の応援の熱の入り方は、ただ事じゃないでしょう。
クリエイティブハウス文花は、住むだけで大相撲中継に対する見方がエキサイティングになるという。なかなかに面白い物件といえます。

マンション住人や地域との交流を促進人の人の繋がりは、力士にとっても力になると語る押尾川親方(写真撮影/片山貴博)

人の人の繋がりは、力士にとっても力になると語る押尾川親方(写真撮影/片山貴博)

押尾川親方によると、感染症対策のため、人の集まるようなイベントは控えていたということですが、今年より、マンション入居者同士や、近隣の住民などを招いた交流会はいくつか計画しているといいます。

マンションからは東京スカイツリーが目の前に大きく見えます。文花周辺は、あまり高い建物がないため、非常に見通しがよく、夜景などは実にきれいだそうです。「でもまあ、見慣れちゃうけどね」と、親方は謙遜しますが、夏には隅田川の花火が大変よく見える位置にあるそうです。
交流会の一環として、7月29日(土)には、押尾川部屋特製のちゃんこを食べたあと、4年ぶりに復活開催される隅田川花火大会をマンション屋上から観覧するイベントが開催されるそうです。

見晴らしが素晴らしいマンション屋上(写真撮影/片山貴博)

見晴らしが素晴らしいマンション屋上(写真撮影/片山貴博)

押尾川親方によると、できれば地域のお祭などへの参加も考えており、地域との交流に関しては可能な範囲で積極的に行っていきたい……とのこと。

当初、親方としては、クリエイティブハウス文花のすぐ近くにある2つの大学に通う学生が、シェアハウスに入居し、若い力士との交流を持ってくれればという思いもあったようです。
親元を離れ、相撲部屋に住み込み、相撲の世界で研鑽を積む若い力士は、どうしても人とのつながりが狭くなってしまいがちだといいます。同じマンションの住人として、境遇の全く異なる同年代の人たちと交流することができると、力士にとっても大変心強いことであり、また、マンションに住む人にとっても得難いものになる……というわけです。
ところが、コロナ禍による行動制限があったためそういった交流もままなりませんでした。
行動制限が解除された今年からは、入居している学生だけでなく、所属力士と住民との交流を積極的に行うことによって、地域に根差した相撲部屋を目指したいとしています。

近所に掲示されていた押尾川部屋のチラシ(写真撮影/片山貴博)

近所に掲示されていた押尾川部屋のチラシ(写真撮影/片山貴博)

ゆくゆくは、押尾川部屋の力士が活躍し、いつかは大関、そして横綱となる日が来ると、マンション住人はもちろん、地域住民も含めて歓喜することになるのは確実です。
マンション住人だけでなく、地域の人々も巻き込んだ相撲部屋の交流が活発になれば、地域全体の盛り上がりにも繋がるでしょう。

●取材協力
クリエイティブハウス文花
押尾川部屋

地主、居住者、行政の“三方良し”を実現する、これからの農園付き住宅

都市近郊の農業生産者が抱える大きな悩みは後継者不足。農地が耕作放棄地になることに加え、これまで「生産緑地」として税が優遇されてきた土地の多くが、2022年にその期限が切れ、宅地並みに課税されます。

その一方、自然、健康、食などに高い関心を持つ人たちは増え続け、市民農園が根強い人気を集めています。こうした動向をとらえて増木工業(埼玉県新座市)が送り出した農園付き分譲住宅が今、注目を集めています。現場を訪ね、その発想や魅力をレポートします。

農地という資産を守りつつ、住宅の魅力を創造する

JR新座駅から歩いて10分ほど、広い農地が残るエリアに、農園付き住宅「新農住コミュニティ野火止台」はあります。

ここを開発・販売する増木工業は、創業140年を越える長い歴史を持ち、地元の新座市を中心とする地域に密着して信頼を築いてきました。地元の地主から土地に関する相談を受けることも珍しくありません。

農園付き住宅の発想もそうした相談がきっかけで生まれました。同社の住宅事業部の大塚嘉孝(おおつか・よしたか)さんはこう振り返ります。
 
「先祖伝来の農地を持ち、お母さんが農業を続けているものの自分は公務員、後継者はいないという地主様から、農地を残す方法はないかと相談を受けました。社長(増田敏政氏)と私が対応する中で、定期借地権付きの一戸建ての賃貸住宅を建てる案が出てきました」。

定期借地権付き賃貸住宅なら、地主は土地の所有権を持ったまま、家賃に加えて地代も得ることができ、しかも固定資産税を大幅に減らすことができます(例えば東京都であれば課税標準は更地の6分の1)。この案は、土地売却より利益が少ないこと、定期借地権の期間が50年と長いことから、最終的には実現できませんでした。しかしこれを機に増田社長と大塚さんは構想を膨らませていきました。

「後継者がいなくても、先祖伝来の土地を失いたくないという農家さんは多いのです。そこで、定期借地権利用に限らず、住宅に農地を組み合わせることを考えました。これなら部分的に農地も残すことができます」。

増田社長はドイツのクラインガルテンを意識していたようです。 また大塚さん自身も、「単に不動産を細切れにして販売するだけではなく、地域に合った価値を付加した、わくわくするような街を作りたいという思いをずっと持っていました」。

埼玉県新座市は調整区域が多く、駅周辺には住宅と広い農地が混在した風景が広がっている(写真撮影/織田孝一)

埼玉県新座市は調整区域が多く、駅周辺には住宅と広い農地が混在した風景が広がっている(写真撮影/織田孝一)

そんなとき、800坪の農地を売却したいという農家からの依頼がありました。そこで、かねてから考えてきた農・住近接のアイデアを取り入れて開発したのが、「新農住コミュニティ野火止台」です。ここでは定期借地権ではなく、分譲住宅としました。

「地主様である農家さんが先祖伝来の土地を失うことを嫌うのは、土地と共に、手塩にかけて作ってきた肥沃な“土”を失うことも大きいと思います。農地付きの住宅なら、この土を活かせるのが、農家さんにとって大きな魅力なのだと思います」。

また、多くの都市近郊の農地が、「生産緑地」として受けてきた優遇税制が2022年には期限が切れることも、懸念材料となっているようです。「当社の農地付き住宅についての説明会には、多くの地主様が参加されています。土地を守り、活かす方法を模索されている背景には、この“2022年問題”もあるようです」。

敷地中央を通る散歩道が美しさと人間関係を生み出す

実際に「新農住コミュニティ野火止台」を歩いてみました。

志木街道に面した、細長い敷地に立つ住宅は15棟。敷地面積は一棟平均約35坪で、各棟に1坪サイズの家庭菜園が設置されています。

敷地の中央を、縁道(えんどう)と呼ばれるゆるやかに蛇行する散歩道が貫いているのが大きな特徴です。これは分譲地の景観を美しく演出するとともに、住まいと住まいの人間関係をつなぐ道でもあります。

「通常だと、中央に車の通れる広い道を通し、両側に住宅を配置するやりかたになりますが、それをせず、もっと自然と親しむ住宅地にしたいと思いました」。

中央部には共用畑を設けました。これは各棟の家庭菜園とは別に、入居者全員が共同利用できる畑です。畑の所有は増木工業。「もう一棟建てられるくらいの敷地(30坪強)をあえて共有の畑にしました。元地主の農家が農業アドバイザーとして農業のサポートをし、相談に乗ってくれるのも新しい試みです」。共用畑の向かいにある防災広場は、災害に備え煮炊きのできるカマドを設置する予定です。また、イベントスペースとして居住者同士のコミュニケーションを図る場として活用していきます。

地主にとってもただ土地を売っておしまいというのではなく、農を通じた土地との関係が続き、そこに住む人たちとの人間関係もできるという点が従来とは異なる魅力になっています。

植栽や畑と一体となったランドスケープデザインは、東京・世田谷区にある建築事務所ボスケデザインによるものです。約80種類もの植栽が、暮らしを彩ります。

整備中の共有畑の前で、住宅事業部の大塚嘉孝さん(営業)と、このプロジェクトの現場監督を務めた福田千尋さん(工事) (写真撮影/織田孝一)

整備中の共有畑の前で、住宅事業部の大塚嘉孝さん(営業)と、このプロジェクトの現場監督を務めた福田千尋さん(工事) (写真撮影/織田孝一)

もう一つ、「新農住コミュニティ野火止台」の大きな特徴は、果樹が数多く植えられていることです。

「果樹を植えた理由には、この『新農住プロジェクト』が、映画『人生フルーツ』に大きな影響を受けたためです。映画に出てきた津端御夫妻のような、“実りある暮らし”を実現する舞台にしたいと考えました」。

『人生フルーツ』(伏原健之監督)は、愛知県春日井市に住む建築家の津端修一・英子夫妻の日常を追ったドキュメンタリー。その自給自足的な生活や思想が多くの人の共感を呼び、隠れたヒット作となりました。「一般に広く上映していない映画なので、当社では何度も自主上映会を開催しました。この映画に共感されるお客様は、農住接近した生活に親和性が高いと考えたからです」。

果樹が数多く植えられていることを語る、住宅事業部営業リーダーの山口愛莉沙さん。そばにあるのはザクロがなっている木(写真撮影/織田孝一)

果樹が数多く植えられていることを語る、住宅事業部営業リーダーの山口愛莉沙さん。そばにあるのはザクロがなっている木(写真撮影/織田孝一)

雨水を利用した給水システムも用意されている(写真撮影/織田孝一)

雨水を利用した給水システムも用意されている(写真撮影/織田孝一)

15棟の内、10棟にはウッドデッキを設置した(写真撮影/織田孝一)

15棟の内、10棟にはウッドデッキを設置した(写真撮影/織田孝一)

住宅には無垢材を多用するなど、自然との調和を図っています。室内の温度ムラが少ない全館空調パッシブエアコンを採用したほか、家庭用燃料電池を使った給湯システム、太陽光発電システム、電気自動車用コンセントなど、環境保全型のしくみが数多く取り入れられています。

屋内は無垢の木を多用。年月が経過し、使い込むほどに美しくなる(写真撮影/織田孝一)

屋内は無垢の木を多用。年月が経過し、使い込むほどに美しくなる(写真撮影/織田孝一)

全棟に屋根裏収納スペースがあり、可動式梯子で上がれるようになっている(写真撮影/織田孝一)

全棟に屋根裏収納スペースがあり、可動式梯子で上がれるようになっている(写真撮影/織田孝一)

「新座でも貸し農園は人気がありますし、食育や自給自足への関心も今まで以上に高まっていると感じます。「新農住コミュニティ野火止台」はそんな時代にも合った分譲住宅でもあると思います」と大塚さんは自信を見せます。この11月3日、4日に開催された町開きでは、大勢の見学者を集め、盛況となりました。

農地を維持したい地主、健康的な生活を求める住民、人口流出をくい止め、景観を守りたい行政、三者いずれもが利益を得る、新しい住宅地の可能性が見えてくるようです。

●取材協力
増木工業株式会社

海外のコンドミニアム? 四半世紀以上を経てなお輝く「泰山館」【名物賃貸におじゃまします(3)】

日本のマンションはどうして似たようなデザイン、構造なんだろう。そう考えている人は案外多いのではないでしょうか。 しかし、よく探してみれば、日本にも、そんな先入観を吹き飛ばす個性的な集合住宅が見つかります。今回はドラマや雑誌の舞台などにも登場し、今やヴィンテージマンションの名作と呼ばれる東京・目黒の泰山館(たいさんかん)を訪ねました。【連載】名物賃貸におじゃまします
斬新なデザインや仕掛けをしている賃貸住宅=名物賃貸を毎月紹介する連載です。ドラマの舞台にも登場する美しさ

東京の駒沢公園周辺は、深沢、八雲などの閑静な住宅地が多いことで知られています。
その一つ、東が丘(目黒区)に泰山館は位置しています。門を入ると、緑豊かな中庭を囲んで三階建、全34戸が入居する建物が広がっています。そのたたずまいは、現代の高層マンションとは一線を画し、海外のリゾート地にあるコンドミニアムを思わせます。部屋をつなぐ通路は広く、ゆるやかな高低差があり、回廊状になっていて、そこを歩くだけでも、心地よさを感じます。

敷地は1000坪弱(オーナー自宅を含む)という広さ。木、石、漆喰などの自然素材を多用した建物ならではの落ち着いた雰囲気があり、周辺に高い建物や看板がないこともあって、雑誌、広告、映画などの関係者からも注目を集め、しばしば女性誌のグラビア、テレビドラマなどに利用されてきました。

回廊のような通路は幅が広く、緩やかな段差があり、歩いているだけで心地よい(写真撮影/織田孝一)

回廊のような通路は幅が広く、緩やかな段差があり、歩いているだけで心地よい(写真撮影/織田孝一)

オーナーと建築家との幸福な出会い

驚かされるのは、30年近く前の建物でありながら、まったく古さを感じさせないこと。時代の変化に左右されない普遍的な美があることが泰山館の大きな特色です。その最大の理由は、アメリカの建築家・都市計画家であるクリストファー・アレグザンダーの手法「パターン・ランゲージ」を用いたことでしょう。

泰山館がこの理論に基づいて建設された発端は、当時のオーナー、故・小杉勇(こすぎ・いさむ)さんと、建築家の泉幸甫(いずみ・こうすけ)さんの出会いにあります。小杉さんの息子さんで現・オーナーの小杉均(こすぎ・ひとし)さんはこう語ります。
 「この土地はもともと農地として近郊農家の方々に貸していたものです。父は会社員でしたが65歳で退職後、ここにマンションを建てようと考えました。しかしこの地域は第1種住専(低層住居専用地域)なので、高層建築は建てられません。どこにでもあるようなマンションでなく、他とは違うことをしたかったので、私の友人を通じて建築家を紹介してもらい、低層マンションを建築することにしました」

ときはバブル経済の時代。小杉勇さんは相続対策としてマンション建設を考えたのですが、ゼネコンなどに任せっぱなしにせず、一から建築の勉強をして取り組みました。詳しい理由は分かりませんが、東京の乱開発を目の当たりにして、それとは違うやりかたをめざしたのかもしれません。いずれにしても、「一つの賭ではあったと思います」(小杉さん)。

このとき、紹介された建築家が泉幸甫さんでした。

泉さんは30歳で建築家として独立、設計事務所を構えて約10年を経たころでした。しかしそれまで仕事は少なく、細々と一戸建て住宅を手がけるような状況だったそうです。世の中はバブル経済に突入していましたが、その恩恵も受けず、むしろ世の風潮に反発しながらこつこつと仕事を続けていました。そんなとき、紹介されたのが泰山館のプロジェクト。それは自分の建築家としての出発点となったと泉さんは考えています。

しかし土地の条件は良くありませんでした。泉さんは「北側斜面で、近くに川があり、低地で湿気が多く、どの駅からも遠い。正直、どうにもならない土地だったのです」と振り返ります。

ここに集合住宅を建設するに当たって泉さんは、パターン・ランゲージを導入しようと考えました。泰山館の仕事を依頼される5年ほど前、泉さんはパターン・ランゲージを実践した経験を持っていたからです。この手法の創始者クリストファー・アレグザンダーが埼玉県入間市に盈進学園(えいしんがくえん)東野高校の建設を手がけることになり、泉さんはそこに日本人スタッフの一人として参加したのです。

 「以前からアレグザンダーの理論に感銘を受けていましたが、このプロジェクトに参加して建築家として実際にどう動くべきかを学ぶことができました」(泉さん)。

誰もが共通言語で建築に参加できる手法

ではパターン・ランゲージとは、どのような手法なのでしょうか。

美しく快適な町や建築には、時代や場所を超えて共通する特徴がいくつもありますが、ほとんどの場合、これは言語化されていません。そこで、アレクザンダーはこれを抽出し、言語で記述し、これをパターンと呼びました。パターンには状況、問題、解決法がセットで書かれています。このパターンを基本要素にして組み合わせて共通言語をつくり、建築や都市の計画を進める手法が、パターン・ランゲージです。

近代建築では、建築家が最初に理想の完成形を描き、そこに向けて建設していくのが一般的なやりかたです。それに対しパターン・ランゲージでは共通言語を用い、住民が参加して建築や町のあるべき姿を探りながら計画を進めます。泰山館のプロジェクトでは、建築家の泉さん、弁護士、不動産仲介会社などからなるチームによる事業方式を取り、多くの知恵を集めました。

こうした手法を小杉勇さんが受け入れたのは、目先の収益に走らず、長期的な展望を持って空間づくりをしようとしていたからでしょう。

「小杉さんは、計画地の斜面のプレハブ小屋を建て、1、2週間に一度、約1年間に渡ってパターン・ランゲージの勉強会を実施するところから始めました」(泉さん)。

印象的だったのは、アレグザンダーが、2mくらいの棒を何本も立てて、実際の空間のアウトラインを示しながら、理想の形を探っていったこと。「こうすれば、玄関や廊下の配置、部屋や通路のサイズ、中庭の広さなどを誰もが感覚的に理解できるわけです」(泉さん)。

泉さんはそれに従い、各部屋を一戸建て住宅のように、その位置に最もふさわしい間取りで設計しました。そのため、泰山館には二つとして同じ間取りの部屋はありません。

中庭の様子(写真撮影/織田孝一)

中庭の様子(写真撮影/織田孝一)

柱に埋め込まれたモザイクガラスはイタリア製。一つひとつデザインが異なる(写真撮影/織田孝一)

柱に埋め込まれたモザイクガラスはイタリア製。一つひとつデザインが異なる(写真撮影/織田孝一)

ちょっとしたくつろぎの場がしつらえられているのも、パターン・ランゲージの成果なのかもしれない (写真撮影/織田孝一)

ちょっとしたくつろぎの場がしつらえられているのも、パターン・ランゲージの成果なのかもしれない (写真撮影/織田孝一)

この部屋では玄関から階段を上がってリビングに入る設計 (写真撮影/織田孝一)

この部屋では玄関から階段を上がってリビングに入る設計 (写真撮影/織田孝一)

窓際に作りつけのソファがあるのが目を引く(写真撮影/織田孝一)

窓際に作りつけのソファがあるのが目を引く(写真撮影/織田孝一)

さらに泰山館を特徴づけたのは中庭でした。シンボルツリーとなったタイサンボクをはじめ、モクレン、ハナミズキなど、植えた木々は100種類以上あります。「緑の効果は絶大だと思います。木は生長して大きくなるほどに建物を引き立ててくれました」(小杉さん)。

例えば中庭を駐車場にすれば、かなりの駐車場代を得られたかもしれません。しかしそれをせず、駐車場は地下に建設し、中庭を広く取りました。「それが豊かな住空間をつくり、結果的に賃料の維持にも役立ちました」(泉さん)。おかげで泰山館の家賃は竣工以来、四半世紀以上が過ぎてもほとんど下がらないまま、今日に至っています。

植栽は100種以上。四季折々に咲く花が目を楽しませてくれる(写真撮影/織田孝一)

植栽は100種以上。四季折々に咲く花が目を楽しませてくれる(写真撮影/織田孝一)

オーナーの意識が愛される集合住宅に反映

こうして泰山館は、1990年に竣工しました。部屋の面積は平均して60平米から70平米。前述したように間取りや広さは少しずつ違います。

 「入居者は40代から50代の方が多いですね。かつては単身者や夫婦二人世帯がほとんどでしたが、今はお子さんのいらっしゃるご家族も7、8世帯はいます。入居者の方々からは、ここに住んで良かったという声をよく聞きます。長い方では10年以上住まれていますね」(小杉さん)。

 小杉さんが今、気遣っているのはメンテナンス。「設備の老朽化に伴い、電気、空調、ガスなどはすべて更新しました。近々、屋根にも手を入れなくてはと思っています」(小杉さん)。こうした設備面の配慮も欠かさないことで、泰山館はこれからも長く、愛される住宅となるでしょう。

世には数多くの集合住宅がありますが、泰山館のように年月を経るにつれ、魅力を増すような物件は数少ないものです。しかしそうした物件が増えないと、本当の意味で成熟した豊かな社会にはなりません。

そのためにはオーナーの姿勢が非常に重要であることが分かります。収益だけでなく、美に対する意識の高いオーナーが増えれば、長く愛される集合住宅も増えるでしょう。それは町全体を魅力的にすることにもつながるはず。泰山館を取材して、そんなことを感じました。

●取材協力
泉 幸甫(泉幸甫建築研究所)
小杉 均(株式会社泰山館 代表取締役)

音楽好きなら見逃せない! 24時間演奏可能な賃貸マンション「ミュージション」の魅力【名物賃貸におじゃまします(2)】

マンションはどうして似たようなデザイン、構造のものが多いんだろう。そう考えている人は案外多いのではないでしょうか。しかし、よく探してみれば、日本にもそんな先入観を吹き飛ばす個性的な集合住宅が見つかります。

今回は、音楽愛好者のための賃貸マンション、「ミュージション」を訪ねました。

【連載】名物賃貸におじゃまします
斬新なデザインや仕掛けをしている賃貸住宅=名物賃貸を紹介する連載です。失敗を糧に技術を向上、収益の柱へと成長

歌を歌う人、楽器を演奏する人、オーディオ愛好家、音響エンジニア……。音楽を楽しみ、あるいは仕事としている人たちにとって防音は大きな課題です。一戸建てならまだしも、集合住宅となれば、気を使うことも多くなります。

そうしたなか、注目されているのが「ミュージション」。徹底して遮音性能を高め、すべての部屋を24時間演奏可能にした賃貸マンションです。現在、東京、埼玉、神奈川に現在13棟があり、どれも人気を集めています。

「実はミュージションは大失敗したところから始まったんです」と語るのは、株式会社リブランマインドのミュージション事業部で賃貸セクションの部長を務める山下大輔(やました・だいすけ)さん。

「30年ほど前、当社は東京・板橋区にマンションを建設、住居スペースのほかに半地下のスタジオを設置しました。しかし、防音を徹底したつもりが、いざ使ってみると、音が住居スペースに響き、結局スタジオは使えなくなりました。調べてみると下水管を通じて音が伝わっていたことが分かりました」(山下さん)

この反省をもとに技術レベルを高め、2000年に建設したのが、「ミュージション川越」です。全63 戸すべてを遮音仕様にし、24時間楽器演奏できるマンションにしたところ、予想以上の好評を得ました。これに励まされて2005年には「ミュージション志木」を建設。この2つの物件はデザイン面でも高く評価され、いずれもグッドデザイン賞を受賞しています。

やがてミュージションの魅力に気づいた地主から、土地を提供されての建設が増えていきます。なぜならミュージションの場合、音楽の環境に引かれて入居者が集まるため、土地の条件にあまり左右されない強みがあるからです。

例えば「ミュージション登戸」は、地主から北向きの建物しかつくれない土地の活用を相談され、建設に至りました。こうして次々にミュージションは数を増やし、現在、同社の収益の柱の一つにまで育ちました。

新築されたばかりの「ミュージション門前仲町」。初期のミュージションは1Kタイプの部屋だけだったが、新しい物件では1LDKも増やしている(写真撮影/織田孝一)

新築されたばかりの「ミュージション門前仲町」。初期のミュージションは1Kタイプの部屋だけだったが、新しい物件では1LDKも増やしている(写真撮影/織田孝一)

徹底的に音が漏れない工夫を重ねる

ミュージションの遮音性能は、特定の技術によるものではなく、さまざまな工夫を積み重ねた成果です。

「まずコンクリートの躯体自体を厚くしています。また部屋で出した音がコンクリートに伝わらないように、部屋の外周部分に10数センチの空気層を設けました。またサッシは二重、ドアはゴムで隙間をなくして音が漏れないようにしています」(山下さん)

ただ、遮音を徹底したため、非常ベルを普通のマンションのように共用廊下に設置すると聞こえません。そこで行ったのが「一部屋ごとに非常ベルを配置すること」だそう。

「また部屋が密閉されて空気が流れにくいため、各部屋に換気口を設け、換気口の空気が流れる先には消音器を付けました」(山下さん)

このほかにも小さな工夫が数多くあり、建設会社が使うミュージション仕様にするためのチェック項目は数百におよぶそうです。従って建設コストは一般の同規模のマンションに比べ、1割くらいは高くなります。それに伴い、家賃もやや高めに設定されるそう。

山下さんが指差す先には非常ベル。共用スペースではなく、各部屋に取り付けられている。山下さんはロックバンドのドラマーだった経験をもつ(写真撮影/織田孝一)

山下さんが指差す先には非常ベル。共用スペースではなく、各部屋に取り付けられている。山下さんはロックバンドのドラマーだった経験をもつ(写真撮影/織田孝一)

サッシは二重で音漏れを減らしている(写真撮影/織田孝一)

サッシは二重で音漏れを減らしている(写真撮影/織田孝一)

ドアの隙間もゴムの目張りを施し、防音性を高めている(写真撮影/織田孝一)

ドアの隙間もゴムの目張りを施し、防音性を高めている(写真撮影/織田孝一)

クローゼットの天井に見える換気口。密閉度の高い部屋であるため、換気口で空気の循環をつくっている (写真撮影/織田孝一)

クローゼットの天井に見える換気口。密閉度の高い部屋であるため、換気口で空気の循環をつくっている (写真撮影/織田孝一)

ミュージションに住み、人生が変わった人も

では、ミュージションの入居者はどんな人たちなのでしょうか。筆者は、音大生が多いのでは、と予想していたのですが、学生は学校で演奏や練習ができるからか、むしろ少ないとのことです。

「入居者層の中心は20代から30代の社会人層です。ピアノやブラスバンドの経験のある人、ロックバンドを組んでいた人、歌を歌っていた人などで、社会人で活動を続ける人はたくさんいます。また社会人になってから音楽を始める人も少なくない。

その人たちが趣味で音楽を楽しもうとしても、練習の場がない、仕事で帰宅が遅く、自宅で音を出せないといったことはよくあります。そこで、24時間演奏可能なミュージションに注目が集まったのでしょう」(山下さん)

珍しい例としては年配の男性で、妻に先立たれ、昔からやりたかったピアノをやろうと、自宅を人に貸してミュージションに引越してきた人がいるそうです。

パソコンなどで作曲、音楽制作をする人も増えています。また、PA(ライブなどで音の調整)、レコーディングなどの音響エンジニア、音楽教室の運営者、オーディオや映像の愛好家などもいます。

「100万円かけて自宅の部屋をホームシアター化したものの、木造家屋なので音量を上げられない、とミュージションに移られた方もいました」(山下さん)

また、ミュージションが、入居者の心に影響を与えた例もあったそう。

「『ミュージションに住んで人生が変わった』と言ったお客様がいました。歌うのが好きな方ですが、音楽以外の仕事をもち、好きなことにもう一歩踏み出せずにいたとのこと。それがミュージションに住み、好きな時間に歌を歌えるようになり、ボーカルレッスンにも通い始め、自信がもてるようになったというのです」

ミュージションに住んでいた方が、引越すことになり、転居した先が別のミュージションというケースも。「『ミュージション以外には住めない』、というんです。その方も歌を歌う方でしたが、一日の仕事が終わり、今晩は何を歌おう、と考えながら帰宅するのが楽しい、と」

仕事を求めて東京へ。それを機にミュージションに入居

実際の居住者に話を聞いてみました。音響エンジニアの久保浩巳(くぼ・ひろみ)さんは、現在「ミュージション東日本橋」に住んでいます。

長く実家のある大阪で仕事をしていましたが、圧倒的に市場の大きい東京で仕事をすることを決心し、2017年4月に東京に移りました。

久保さんはフリーランスなので、自宅での作業が多く、音を出しても問題のない住居が必要です。大阪では実家にいて、音を出すことについての問題はありませんでしたが、東京でもそれが可能な環境を獲得しなくてはなりませんでした。

「実はかなり前からミュージションの存在はネットで知っていました。それで東京で住むならミュージションと考えていました」(久保さん)

株式会社リブランマインドの須永輝毅(すなが・てるき)さんが久保さんの担当となり、2017年3月に竣工したばかりの「ミュージション東日本橋」に入居しました。「駅から近く、都心なので久保さんの仕事に関係する拠点に近いのも利点です」と須永さんは話します。

趣味のギターを手に、音響エンジニアの久保浩巳さん。自動車整備士だったが音楽好きが高じて音響エンジニアに転じた(写真撮影/織田孝一)

趣味のギターを手に、音響エンジニアの久保浩巳さん。自動車整備士だったが音楽好きが高じて音響エンジニアに転じた(写真撮影/織田孝一)

久保さんは実際の物件を見て、防音性能は間違いないと確信できたそうです。

「仕事の上では200ボルトの電源もうれしいですね。海外の機器では100ボルトでは足りない場合もありますから」(久保さん)

久保さんは今、アマチュアから一流の人気ミュージシャンまで、幅広いアーティストのレコーディングやミキシングをここで行い、順調に仕事量を増やしています。

室内に設置された久保さんの仕事用機材。スピーカー、D/Aコンバーター、レコーダーなど。ヘッドフォンでは低音が聞こえにくいなど、違って聞こえるので、ある程度大きな音を出さないとこの仕事はできないそうだ (写真撮影/織田孝一)

室内に設置された久保さんの仕事用機材。スピーカー、D/Aコンバーター、レコーダーなど。ヘッドフォンでは低音が聞こえにくいなど、違って聞こえるので、ある程度大きな音を出さないとこの仕事はできないそうだ (写真撮影/織田孝一)

久保さんの入居する「ミュージション東日本橋」のエントランスにて須永輝毅さん。須永さんも趣味でバンド活動の経験がある。このようにミュージション事業では社員の多くに音楽の経験があるのも強みになっている。(写真撮影/織田孝一)

久保さんの入居する「ミュージション東日本橋」のエントランスにて須永輝毅さん。須永さんも趣味でバンド活動の経験がある。このようにミュージション事業では社員の多くに音楽の経験があるのも強みになっている。(写真撮影/織田孝一)

ミュージションはコミュニティづくりにも熱心なのが大きな特徴です。「『ミュージションズクラブ』という組織をつくり、居住している方々を中心に親睦、交流をはかっています。カラオケ大会やセッションイベントを行い、毎年10月には上野野外音楽堂を貸し切って、『東京ヒマつぶし音楽祭』というイベントをしています。このほかフットサル大会や登山など、音楽とは異なる企画も開催しています」(山下さん)

家でも音楽を楽しみたいという需要に特化し、ハード面の強化によって実現したミュージション。それは今、人的交流や創造活動の促進といったソフト面の充実にもつながりつつあります。今後の集合住宅の一つの可能性を示しているようです。

●取材協力
・株式会社リブランマインド

まるでジブリの世界 「中庭アパルトメント」の美と機能【名物賃貸におじゃまします(1)】

日本のマンションはどうして似たようなデザイン、構造なんだろう。そう考えている人は案外多いのではないでしょうか。しかし、よく探してみれば日本にも、そんな先入観を吹き飛ばす個性的な集合住宅が見つかります。その一つが、中庭をデザインのカギにした集合住宅。今、静かな人気を集めています。【連載】名物賃貸におじゃまします
斬新なデザインや仕掛けをしている賃貸住宅=名物賃貸を毎月紹介する連載です。一見するだけでは分からない中庭の効果

東京・中央線の高円寺駅界隈(杉並区)は、商店街と静かな住宅地がほどよく混在する街。中央線沿線はもともと作家、漫画家、演劇関係者などが多く住むエリアと言われていますが、高円寺も例外ではなく、庶民的なにぎわいと文化の香りのする街です。

この街に中庭を特色とする集合住宅があると聞き、訪ねてみました。設計したのは、地元の建築家で、アトリエボーヌ(ATELIER BEAUNE/丸山保博建築研究所)を経営する丸山保博さん。丸山さんは「中庭アパルトメント」と名付けた中庭を配置した集合住宅をいくつも設計、2004年には、杉並「まち」デザイン賞を受賞しています。

代表的な作品の一つが、「カーサ・デ・アトリオ」。建物脇の通路を通って中へ進んでみましょう。

ありました! そう、これが中庭アパルトメント!

【画像1】「カーサ・デ・アトリオ」の中庭。上部からの光が明るく、開放感がある(写真撮影/織田孝一)

【画像1】「カーサ・デ・アトリオ」の中庭。上部からの光が明るく、開放感がある(写真撮影/織田孝一)

石畳の通路、その両側には植栽、そして全10部屋すべてがこの中庭に面しています。つまり住民が各部屋に出入りするときは、必ずこの中庭を通ることになります。

中庭の上部の屋根部分が円形に空けられ、光が十分に入るため、想像していたよりずっと明るく、開放的な感じです。円形の開口部、らせん階段、ゆるやかにカーブする通路など、曲線を用いたデザインがこの建物に優しい雰囲気を与えています。

基本的には南ヨーロッパの印象を受けますが、輸入してきたような違和感はまったくなく、とても自然。シンプルなデザイン、落ち着いた色彩、植栽、ディテールに取り入れた和のテイストなどがそう感じさせるのでしょう。

しかし丸山さんは、中庭は鑑賞のためのものだけではないと語ります。その機能として、次の3点を挙げます。

「まず、アプローチの機能。従来の日本の賃貸住宅は部屋を一列に並べ、入り口に沿って廊下が付くのが通常のパターンでした。この廊下は北側の場合が多く、暗いのが普通。この廊下を廃し、中庭から直接各部屋に入る方式にすれば、部屋は明るく、開放的になります。部屋を広くできますし、中庭はそれぞれの部屋の庭としても意識されるため、住民は気持ちの面でも広さを感じられます」(丸山さん)。中庭はまた、災害時の避難経路にもなります。

第2に、住民同士が中庭で自然に出会い、言葉を交わすといったコミュニティ機能。現代では、隣人がどんな人なのかまったく知らないほうがいいという人も多いでしょう。しかし、意外と人はゆるやかなつながりを求めることもあるもの。中庭はプライバシーを侵すほど近くなく、かといって完全な孤立にもならない、“ほどよい距離感”を、住む人々に与えてくれるようです。

また中庭という半公共スペースは、他者の目が適度にあるため防犯面でも役立ちます。「カーサ・デ・アトリオ」のオーナーである渡邊さんも、「ここは立地が三方を家に囲まれていたため、外側に部屋の出入りのための廊下や階段を付けるのは防犯上も良くないと思っていました」と振り返ります。

第3は主に、施主側に対するメリットです。「土地の形状にもよりますが、外廊下をつくらないことで建設費が下がります。また中庭が付加価値になり、賃料を高めに設定でき、利回りの点でも有利です」と丸山さんは話してくれました。

しかし、筆者は中庭アパルトメントの魅力は何より、中庭を核とした空間全体が、外界とはちょっと異なる雰囲気をもっていることだと思います。ある居住者は丸山さんに「(中に入ると)空気が変わりますね」と、感想をもらしたそうです。街の喧騒が入らず静かで、外部環境の変化の影響も受けにくい。そんなこともあって、日常生活の場であるのに、異世界に入るようなトキメキがあるのです。

また、建物に関しては素材の力も見逃せません。丸山さんは造形の魅力を最終的に伝えるのは素材だと考え、漆喰、石、土などの自然素材を駆使します(丸山さんは2008年、2009年と連続して、日本漆喰協会作品賞を受賞しています)。そのことで年月がたっても(むしろたつほどに)美しい建物を生み出しています。

【画像2】多くの場合、中庭から上階の部屋へはらせん階段などで入る。曲線や植栽のおかげで自然に抱かれて暮らす感覚もある(写真撮影/織田孝一)

【画像2】多くの場合、中庭から上階の部屋へはらせん階段などで入る。曲線や植栽のおかげで自然に抱かれて暮らす感覚もある(写真撮影/織田孝一)

ヨーロッパの「共同体を支える空間」に学ぶ

建築誌に取り上げられるなど、今は人気の中庭アパルトメントですが、最初はなかなか理解を得られませんでした。丸山さんが初めて中庭のある建築を提案したのは、やはり高円寺にある集合住宅「パラシオ・デ・ヒロ」ですが、当時、不動産会社の担当者からは、これではプライバシーが守れない、入居する人はいない、と反対されたそうです。

しかしオーナーの理解もあり、反対を押し切って建てた中庭付きの「パラシオ・デ・ヒロ」は、2000年に竣工するとすぐ満室に。以後、丸山さんの手法は評判を高めていきます。現在は、丸山さんの設計した集合住宅は高円寺エリアのほか、京都市北区、神奈川県逗子市などにも建てられ、いずれも人気物件となっています。

【画像3】初めて中庭を設けた「パラシオ・デ・ヒロ」。向かって左の通路を通って中庭に入る。外観も美しく、都市景観にも貢献している(写真撮影/織田孝一)

【画像3】初めて中庭を設けた「パラシオ・デ・ヒロ」。向かって左の通路を通って中庭に入る。外観も美しく、都市景観にも貢献している(写真撮影/織田孝一)

では、他に類を見ない丸山さんの発想はどこから生まれたのでしょうか。

丸山さんは高校生のとき、アンコールワットの本を見て建築に興味をもったそう。その後、日本大学理工学部建築学科に進み、卒業後は木村傳建築設計事務所に勤務します。しかし仕事のプレッシャーや人間関係に悩み、仕事ができなくなるような状態に。

「それを克服しようと哲学書を読むなど、試行錯誤しました。やがて、人間の感性や価値観の違いを理解するために、名建築と言われるものを片っ端から見ることを決意しました」

建築を巡る旅は、自分の建築事務所を持ってからも続き、海外へも足を運んだそう。そこで知ったのが、ヨーロッパの広場のある村や街であり、中庭のある建築でした。

「明治以降に日本に入ってきた西洋建築と言えば、駅や官庁など公共建築に多く見られるモニュメンタルなものを思い浮かべることが多いと思いますが、もう一つ、共同体から生まれ、その生活を支えてきた素朴な建築があります」

例えば、映画『ローマの休日』を観ると、グレゴリー・ペック演じる新聞記者が住む庶民的なアパートが出てきます。これがまさに中庭のある集合住宅で、あちらではごく普通に見られるものだそうです。

丸山さんが設計する集合住宅に影響を与えたのは、この共同体を支える建築でした。丸山さんの建築は、ヨーロッパ的な集合住宅を再現することによって、日本の共同体意識を再生しているという見方もできるでしょう。

【画像4】「中庭アパルトメント」という領域を切り開いた丸山保博さん。設計した逗子の集合住宅の模型を手に(写真撮影/織田孝一)

【画像4】「中庭アパルトメント」という領域を切り開いた丸山保博さん。設計した逗子の集合住宅の模型を手に(写真撮影/織田孝一)

生活そのものが楽しみになる空間

「カーサ・デ・アトリオ」のオーナーである渡邊さんは、「入居者さんが出入りに中庭を通る感じがとても良いと思いました。この中庭とデザインのおかげか、あまり空室になったことがありません」とのこと。

居住者の方々も、ここでの生活を楽しんでいるようです。「休日に中庭で歯を磨いている人がいたり、1階にお住まいの方が2階で中庭を眺めていたり……。特に女性の入居者さんには、『まるでジブリ(の作品に出てくる場所)みたいですよね』と言われたことがあります」(渡邊さん)。

確かにここは、『魔女の宅急便』を彷彿させる空間ですね。外界とはちょっと違う世界を感じ、それが日々の生活を楽しむことにもなっている。これが中庭のある建物のすばらしさなのかもしれません。

●取材協力
・アトリエボーヌ 丸山保博建築研究所
・「カーサ・デ・アトリオ」オーナー 渡邊さん