東日本大震災の”復興建築”を巡る。宮城県南三陸町の隈研吾作品や石巻エリア、坂茂設計の駅舎など、今こそ見るべきスポットを建築ライターが紹介

2011年3月11日に発生した東日本大震災。津波によって多くの人命が失われ、街の主要な機能が流されてしまった東北の沿岸地域では、復興が急ピッチで進められました。同時に、惨劇を二度と繰り返さないために、地震が発生したときにどのようにふるまうべきか、教訓を語り継いでいくための取り組みが行われています。
紙媒体やインターネットを通じたアーカイブも充実していますが、やはり現地を訪れてこそ感じ取れることがあるのも確か。特に被害の実態や被災者の生の声を伝える資料をコンテンツとしていかに体験してもらうか、建築家やデザイナーが綿密な計画を練った復興建築を巡ることは、被災地から離れた地域に住む人にとって有効なツアーになるのではないでしょうか。

今回、各地の建築やまち歩きをライフワークにしてきた筆者が、都内からも比較的アクセスしやすい宮城県石巻市を中心に、宮城県の三陸海岸エリアの復興建築をレポートします。前編では三陸海岸の北側、岩手県沿岸部を紹介していますので、合わせてご覧ください。

東日本大震災の”復興建築”を巡る。今こそ見るべき内藤廣・乾久美子・ヨコミゾマコトなどを建築ライターが解説 岩手県陸前高田市・釜石市

海と川、2方向から津波が襲った石巻市

仙台市から電車で1時間、国内有数の水揚げ量を誇る漁港の町として知られる石巻市には、市街地の中心に旧北上川という河川が流れ、川が見える風景が長らく市民の生活とともにありました。しかし東日本大震災時にはこの旧北上川を逆流した津波が市内に流れ込んだことで大きな被害を生み、河岸部分に防潮堤を築くことになります。それでも少しでも川とともにある生活を受け継ぐことを意図してデザインされたのが、大きくゆとりをもたせ広い散歩道として整備された防潮堤でした。一段低い市街地から防潮堤に架け渡すように設計された建築も見られ、市民の憩いの場として川と街をつないでいます。
東日本大震災からの復興にあたっては、防災のために巨大な土木スケールの防潮堤を築くことに対し、古くからの町の風景が失われてしまう葛藤がどの地域にもありました。人命には替えられないと、防潮堤の建設は進められていきましたが、デザインの力によってその間を取り持つ可能性が示されているように感じます。

河岸に整備された散歩道(写真撮影/筆者)

河岸に整備された散歩道(写真撮影/筆者)

防潮堤に設置された東屋は、仮設的で華奢なデザイン。設計は萬代基介建築設計事務所による(写真撮影/筆者)

防潮堤に設置された東屋は、仮設的で華奢なデザイン。設計は萬代基介建築設計事務所による(写真撮影/筆者)

防潮堤と市街地をつなぐブリッジのように建つ、観光情報施設「かわべい」(写真撮影/筆者)

防潮堤と市街地をつなぐブリッジのように建つ、観光情報施設「かわべい」(写真撮影/筆者)

復興が進んだ中心部に対し、痛ましい被害の様子が伺えるのが南の沿岸部側。津波により被災した門脇小学校は、震災遺構として遺され見学ができるようになっています。震災時に発生した津波火災によって黒焦げに焼けた校舎は、見学用のルートが真横に新設され、間近で見ることができます。
少し小高い日和山を背に立つ門脇小学校では、発災時に校舎内にいた児童は迅速に山へ避難し津波を逃れることができました。一方で校庭に集まった住民の多くが津波の被害に合いました。少しの判断の差が生死を分けた現実は、悔やんでも悔やみきれません。その教訓を風化させまいという残された人々の想いが、校舎を取り壊すことなく保存する決断につながっています。ご遺族の言葉も、資料とともに展示されることで画面越しで見るのとは違う切実さを、訪れる人に与えているのではないでしょうか。

石巻市震災遺構門脇小学校の外観。右側に見えるボックス状の回廊が、新設された見学ルート(写真撮影/筆者)

石巻市震災遺構門脇小学校の外観。右側に見えるボックス状の回廊が、新設された見学ルート(写真撮影/筆者)

校舎1階部分。左手側の旧校舎は被災当時のまま残され、通路から見学することができる(写真撮影/筆者)

校舎1階部分。左手側の旧校舎は被災当時のまま残され、通路から見学することができる(写真撮影/筆者)

門脇小学校からさらに南へ向かうと、更地になった海岸部に整備された広大な復興祈念公園が見えてきます。中心に位置するのが「みやぎ東日本大震災大津波伝承館」です。こちらは語り部として活動している被災者のメッセージに加え、津波のメカニズムなど震災を科学的な視点から紹介するコーナーなど、より包括的に震災の記録がアーカイブされた施設となっています。市が運営し、石巻市にフォーカスした門脇小学校と、宮城県が運営する伝承館、さらにその中間には市民により運営されている「伝承施設MEET門脇」があり、それぞれの視点で伝承のための活動が行われています。さらに町の中心部では、津波被害に限定せず、石巻市の歴史や市民の生活そのものを知ってもらう展示がなされた場所も見られました。町の魅力を伝えることで興味をもってもらう、そのうえで津波被害について学ぶことは、ただ単に事実を見せられるのとは違う印象を与えるのだと思います。

復興祈念公園の遠景。防潮堤が海との境界になっている。左手前に見えるのが伝承館で、庇最上部の位置まで津波が達した(写真撮影/筆者)

復興祈念公園の遠景。防潮堤が海との境界になっている。左手前に見えるのが伝承館で、庇最上部の位置まで津波が達した(写真撮影/筆者)

石巻市に限らず、こうした伝承施設は特定のエリアに集中して建てられるケースが多く見受けられます。遠方から訪れた観光客は、そうした施設を順に見て回る人も多いでしょう。そのなかでいかにして被害の実態を記憶にのこるかたちで伝えていくか。官民それぞれの取り組みが重なり合いながら、相互に補い合って伝承している石巻は、町全体で展示デザインがなされているように感じるほど、震災にまつわる豊富な学びのある町でした。

中心部から離れた高台に新設された「マルホンまきあーとテラス」。大小のホールや市立博物館を備えた文化施設の設計は、藤本壮介建築設計事務所によるもの(写真撮影/筆者)

中心部から離れた高台に新設された「マルホンまきあーとテラス」。大小のホールや市立博物館を備えた文化施設の設計は、藤本壮介建築設計事務所によるもの(写真撮影/筆者)

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震災の記憶を次世代に。伝える取り組みや遺構が続々と

新しく整備されたプロムナードで海産物を楽しむ女川

石巻からさらに電車で30分、町の中心部全体が浸水し町の主要な機能が失われてしまった女川町では、中心市街地全体を盛土により嵩上げし、居住区域を高台に移す復興がなされました。これにより防潮堤の高さを制御し、町から海が見える風景が守られました。そして震災後の新たなシンボルとして、世界的建築家の坂茂氏設計による駅舎が建てられました。

長年、建築家としての設計活動と並行して、世界中の災害現場や難民キャンプで仮設住宅など避難用の建築のデザインや施工をボランティア活動として取り組んできた坂氏は、東日本大震災でも東北各地で復興支援活動にあたりました。避難所での生活にプライベートな空間を確保するためのダンボール間仕切りの提供のほか、ここ女川では輸送用コンテナを活用し短期間での施工を可能にした仮設住宅の設計を手掛けています。この仮設住宅設計後も継続的に女川に関わり、近隣の仮設住宅に住む住民への聞き取り調査を行っていた坂氏は、狭い仮設住宅のユニットバスでは望めない、ゆったりくつろげる銭湯が多くの方に望まれていることを知ります。その矢先に、女川駅の設計を依頼された坂氏は、駅舎と温浴施設を一体的にデザインする提案を行いました。災害復興への長年の取り組みあってこそのデザインだったと言えるでしょう。

女川駅全景。白い膜でつくられた大きな屋根が象徴的なデザイン(写真撮影/筆者)

女川駅全景。白い膜でつくられた大きな屋根が象徴的なデザイン(写真撮影/筆者)

女川駅の展望台から海方向を見る。海への見晴らしが維持された(写真撮影/筆者)

女川駅の展望台から海方向を見る。海への見晴らしが維持された(写真撮影/筆者)

「海が見える終着駅」として知られる女川駅からは、駅舎からまっすぐ海へと向かってプロムナードが延び、その両サイドに地産の食材が楽しめる料理屋や土産物屋が並びます。星野リゾートのホテルの設計などで知られる建築家の東利恵氏が手掛けた、シーパルピア女川です。漁港の町らしい木造の家屋が立ち並び、個性のある商店が店を構え、分棟形式の隙間には庭が整備されています。決して多くはない商店を、単純に横並びにするのではなく前後の奥行きをもたせて配置することで、散策しながら買い物を楽しむことができるよう計画されたデザインです。

観光客であふれるシーパルピア女川(写真撮影/筆者)

観光客であふれるシーパルピア女川(写真撮影/筆者)

中・小規模の建屋が雁行するように連なり、隙間の空間を散策できる(写真撮影/筆者)

中・小規模の建屋が雁行するように連なり、隙間の空間を散策できる(写真撮影/筆者)

女川にも、観光客が必ず目にするであろう場所、プロムナードの突き当りに、津波の猛威を示す震災遺構が遺されています。鉄筋コンクリート造の建物が基礎ごと引き抜かれ、横倒しにされた光景がメディアを通じて大きな衝撃を与えた旧女川交番です。被災当時のままの状態で保存され、その周囲を取り囲む回廊が新たに設置されました。回廊に掲げられたパネルには、女川町の震災被害や復興までの歩みが記されています。小さいながらも強いメッセージを発する震災遺構です。

横倒しになった旧女川交番。剥き出しになった杭が津波の威力を伝えている(写真撮影/筆者)

横倒しになった旧女川交番。剥き出しになった杭が津波の威力を伝えている(写真撮影/筆者)

隈研吾氏設計の建築が集まる南三陸町

石巻駅から電車とバスを乗り継ぎ2時間弱、南三陸町も復興建築が集中するエリアです。津波によって線路が流されてしまったため、中心部にある志津川駅はBRT(バス高速輸送システム)の停留所として使われています。

駅の目の前で一際目を引くのが、新国立競技場の設計などで知られる建築家・隈研吾氏設計による「南三陸ポータルセンターアムウェイハウス」。南三陸産の木材を用いたルーバーは平行ではなく放射状に配置され、建物内部に視線が引き込まれるようにデザインされています。アムウェイハウスは被災地の地域コミュニティの再生支援を行う施設として、ここ南三陸を含む東北3県7箇所に設置されています。

隈研吾氏は2013年から継続的に南三陸町の復興計画に携わり、一帯のマスタープランも手掛けています。地元の海産物を楽しめる商店街さんさん市場、駅とメモリアルパークを結ぶ中橋、そしてこのアムウェイハウスです。メモリアルパークには、津波襲来の直前まで避難を呼びかける様が大きく報じられた南三陸旧防災庁舎が震災遺構として遺されており、多くの観光客が日々訪れています。駅から市場へ、メモリアルパークから山方向にある神社へ、2つの軸線の中間に位置するアムウェイハウスには、人の流れを誘発するように穴が設けられています。マスタープランがあってこそ生まれたデザインです。

南三陸ポータルセンターアムウェイハウス。斜めに傾いたいくつもの立体が統合されたデザイン(写真撮影/筆者)

南三陸ポータルセンターアムウェイハウス。斜めに傾いたいくつもの立体が統合されたデザイン(写真撮影/筆者)

南三陸さんさん市場。シンプルな構成により、低コスト化と短納期化を図っている(写真撮影/筆者)

南三陸さんさん市場。シンプルな構成により、低コスト化と短納期化を図っている(写真撮影/筆者)

メモリアルパークから駅方向を見たところ。右手前に鉄骨フレームだけとなった旧防災庁舎が見える(写真撮影/筆者)

メモリアルパークから駅方向を見たところ。右手前に鉄骨フレームだけとなった旧防災庁舎が見える(写真撮影/筆者)

東日本大震災による被害の状況は、発災当時メディアを通じて視覚的なイメージとして発信されていました。その光景はどの町も同じように悲惨なものとして、記憶に焼きつけられているのではないでしょうか。しかし震災から10年以上が経ち、新しいコミュニティが築かれ新たな町として生まれ変わった被災地の現状は、町ごとに、エリアごとに異なる復興が行われ、それぞれの歩みを進めています。その土台としてデザインされた復興建築を巡ることは、東北の今を知るきっかけとして気軽にできる最初の一歩になるのではないかと思っています。

●取材協力
門脇小学校

【福島県浪江町】失われかけた町が産業の先進地に! 世界課題のトップランナー続々、避難指示解除後の凄み

福島県沿岸部(浜通り)にある双葉郡・浪江町は、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故で町内全域が避難指示区域に指定され、一時町が失われかけました。けれども避難指示区域解除後、エネルギーの地産地消を目指す水素発電などの世界的な課題に挑み、その趣旨に共鳴する企業を誘致する産業団地が動き始め、全国的に注目されています。魅力ある産業・仕事づくりを通して人が集まり「住みたい、住み続けたいまち」づくりに挑戦している浪江町の今をレポートします。

避難指示が一部解除され「新生・浪江町」が動き出した

福島県浜通りに位置する浪江町は、2011年の東日本大震災で甚大な被害を受けた上、福島第一原子力発電所事故によって町全域が避難指示区域になり、全町民が避難を余儀なくされました。その後、除染工事や生活に必要なインフラの復旧を進め「夢と希望があふれ住んでいたいまち、住んでみたいまち」を理念に復興計画を一歩一歩進めてきました。

2017年3月31日、約6年ぶりに避難指示区域の一部が解除され、教育施設の開校、店舗・施設の開業など、生活環境が徐々に整ってきました。

買い物や食事、休憩ができる「道の駅なみえ」。無印良品が全国で初めて道の駅に出店(画像提供/浪江町役場産業振興課)

買い物や食事、休憩ができる「道の駅なみえ」。無印良品が全国で初めて道の駅に出店(画像提供/浪江町役場産業振興課)

そして、2022年度から、「浪江駅周辺グランドデザイン基本計画」が進行しています。浪江駅を中心に、国立競技場を設計した建築家・隅研吾さんの設計による未来的なデザインにより交流・商業・住宅機能をコンパクトに集約し、再生可能なエネルギーを活用した環境に配慮したまちづくりが行われる予定です。

けれども浪江町の人口を見ると、震災時が2万1542人(7,671世帯)、2023年8月末日時点で1万5,312人(世帯数6,679人)。避難指示区域一部解除後の居住人口は、2019年4月が193人、2023年8月時点には2,106人(居住世帯1,314世帯)で、Uターンや新規の移住者で多少回復していますが、震災前の10分の1にしか届いておりません。(居住人口と震災前の居住人口については、データがありません)

福島県浪江町内の居住人口の推移(福島県浪江町公式ホームページ「なみえ復興レポート(令和5年9月)」より抜粋)

福島県浪江町内の居住人口の推移(福島県浪江町公式ホームページ「なみえ復興レポート(令和5年9月)」より抜粋)

浪江町が目標としている人口は、2035年までに約8,000人。「福島県12市町村移住支援金」をはじめ、福島県外から浪江町に移住し就業または起業した場合など、複数の支援制度が用意されています。

スマートシティを目指すと同時に産業団地に企業を誘致

人口を増やすためには魅力的な仕事や雇用をつくることがカギになります。浪江町役場産業振興課の児山善文(こやま・よしふみ)さんは製鉄系プラントメーカー、JFEエンジニアリングからの出向で東京から浪江町役場へ赴任。「定年間近になり、これからの時間を大企業組織の一員として働くより、父祖の地(南会津郡下郷町)である福島県の復興に役立ちたい、未曾有の原子力災害という日本の代表的な社会問題解決の最前線でサラリーマン生活を終えたい」と、浪江町から請われたのをきっかけに自ら希望したとのこと。このように社員個人の意思を尊重して仕事を柔軟に選ばせてもらえる会社の自由な風土にも感謝しているそうです。

九転十起の人と呼ばれた京浜工業地帯の父でJFEエンジニアリングの源流である浅野造船所の創業者浅野総一郎像と記念撮影する児山さん(写真提供/ご本人)

九転十起の人と呼ばれた京浜工業地帯の父でJFEエンジニアリングの源流である浅野造船所の創業者浅野総一郎像と記念撮影する児山さん(写真提供/ご本人)

産業振興課には、再生可能エネルギーを推進する係、産業団地を整備し企業誘致して産業の振興と雇用創出を図る係、地場産業による商工・観光事業などを計画する係の3本の柱があります。

「再生可能エネルギーについては、国が推奨する『2050年までに二酸化炭素排出を実質ゼロにする』という「ゼロカーボンシティ」を宣言し、再生可能なエネルギーのまちづくりに取り組んでいます。さらに持続可能なまちづくりを行うために、自治体や地元企業などと協力しながら地域エネルギー会社を立ち上げる目標があります。

浪江町産業団地は『浪江町藤橋産業団地』『浪江町北産業団地』『浪江町棚塩産業団地』『浪江町南産業団地』の4つの団地があり、既に15社が契約し、10社が稼働し、現在建物建築中の企業もあり、募集中の敷地もあります。さらに、2年後に竣工する予定の14.5ヘクタールの『棚塩RE100産業団地』があり、地域エネルギー会社と受電契約を結んでいただくなど再生エネルギーを100%使っていただける会社を誘致するという大きな目標を掲げて取り組んでいるところです」(児山さん)

なみえ産業団地マップ(出典/産業団地のご案内パンフレット)

なみえ産業団地マップ(出典/産業団地のご案内パンフレット)

『浪江町藤橋産業団地』は、AIの技術開発に取り組む企業や、EVの蓄電池のリユース・リサイクルの普及を目指す企業など4社が稼働。『浪江町棚塩産業団地』にも、再エネルギーをキーワードとする企業、ロボットのテストにおいて世界に類を見ない施設などが稼働しています。

上空から見た浪江町の棚塩産業団地(画像提供/ウッドコア)

上空から見た浪江町の棚塩産業団地(画像提供/ウッドコア)

以降で紹介する『浪江町北産業団地』のバイオマスレジン福島、『浪江町南産業団地』の會澤高圧コンクリート、『浪江町棚塩産業団地』にある福島高度集成材製造センター(FLAM)も含めて、持続可能な社会を創る研究や技術開発を世界に先駆けて行っている企業が続々と集まっているのが特徴です。

「もともと住んでいた方はご家族でUターン、Iターンは単身の方が多いです。未来的な取り組みをしている企業が稼働し始めて、国が設立する研究機関『福島国際研究教育機構(F-REI(エフレイ)』の立地も決まり、これから研究者の方々が100人単位で集まってくることになります。人が増えるから施設が増えるのか、まちがにぎわって人が増えるのか、鶏と卵どちらが先かという議論もありますが、人口も施設も増えてにぎわうまちにしていきたいですし、ずっと住みたいと思っていただけるようなまちづくりを同時に進めていかなければならないと思います」と児山さんは話します。

環境にやさしいライスレジンで地域を支援する「バイオマスレジン」

福島県の相馬ガスグループとバイオマスレジングループが合弁で2021年7月に設立し、『浪江町北産業団地』で2022年よりライスレジンの製造をスタートしたバイオマスレジン福島の田上茂工場長に話を聞きました。

「ライスレジンとはお米由来のバイオマスプラスチックで、砕けたお米や粒の小さいお米など廃棄されるお米でつくったバイオマスプラスチックです。

弊社のライスレジンは石油系のプラスチックに国産のお米を50%または70%混ぜて、樹脂をつくっています。二酸化炭素を吸って酸素を吐く植物からつくっていますので、カーボンニュートラルの意味から言うと50%以上石油系プラスチックの含有量を減らしており、ごみ焼却などで排出される二酸化炭素を50%以上削減できる形になっています。

また、弊社のグループ会社が浪江地区の休耕田を活用して稲作を行い、農地や農業に従事する人を増やすことにも取り組んでいます。現状、ライスレジンを活用してお箸やストロー、弁当箱など約800アイテムほどを製造する原料として提供しています」

ライスレジンとライスレジンからつくられる製品(画像提供/バイオマスレジン福島)

ライスレジンとライスレジンからつくられる製品(画像提供/バイオマスレジン福島)

田上工場長も、農家に行って稲作のお手伝いをすることもあるそうです。

田上工場長のほか、9名の従業員が働く工場(画像提供/バイオマスレジン福島)

田上工場長のほか、9名の従業員が働く工場(画像提供/バイオマスレジン福島)

「私は茨城県筑西市より単身で来ています。地元に帰ったら被災地や原発事故の現実、地元の方のご苦労など、実際に暮らして見て感じたこと、ここで学んだことを発信していかなければと思っています」

田上工場長が撮影、会社から見た海(撮影/田上工場長)

田上工場長が撮影、会社から見た海(撮影/田上工場長)

一方、移住した従業員もいます。石田久留美さん(30代)は、「バイオマスエネルギーや再生可能資源などに非常に興味があり、転職の際に環境問題の改善に携われる仕事に就きたいという思いで転職先を探していました。偶然、福島県内にお米を使ったバイオマスレジンをつくる会社を知り、会社の経営理念などを調べたところ、私が抱えている思いと重なる部分が多く、転職を希望しました。子どもの頃から稲作のお手伝いをするなど田んぼが身近な存在で、休耕田が増えているのを見て淋しさも感じていたことも、ライスレジンに共感する大きな理由でした」と話します。

須賀川出身で、会社の面接を受けるとき初めて浪江町に足を運んだ石田さん。実家から車で片道2時間かかる浪江町で一人暮らしをしながら働くことにお母さんは心配したそうですが、強い意思がありました。

仕事中の石田久留美さん(画像提供/バイオマスレジン福島)

仕事中の石田久留美さん(画像提供/バイオマスレジン福島)

「新しく近代的で建物のデザインも含めてこの工場が大好き。入った瞬間食品工場のようないい香りがして癒やされますし、私は前職で有機溶剤使用していたため、防毒マスクを使用する環境にいましたが、今ではマスク無しで深呼吸しても身体に害がない環境で働けるのがうれしいです。人がしっかり関わって機械を動かしてモノづくりをしている工場だと感じます」

石田さんが好きな夕暮れの請戸川の風景(画像提供/石田 久留美)

石田さんが好きな夕暮れの請戸川の風景(画像提供/石田 久留美)

石田さんは会社から程近い浪江町にある社宅(マンション)住まい。「住居費は会社の補助がありますし、休憩時間に洗濯物を取り込みに家に帰れますし、すごくいい場所に暮らしていると思います。朝晩見る請戸川の景色にも癒やされています」

CO2の削減や石油資源の抑制に貢献する環境にやさしい新素材を製造しながら、フードロスの削減、農業や地域活性化も支援しているバイオマスレジン福島。「経験者や知識のある方はもとより、長い目で見て若い人が浪江町に来て、弊社のような会社で環境に配慮したプラスチックをつくっていることを誇りに思い働いてくれたらうれしい。始まったばかりの会社ですが、30年後、50年後に、会社が成長して『この会社の歴史の1ページを描いたのが私たちだ』と言えることはやはり魅力だと思います」と結んでくれました。

浪江町とイノベーションの共創に取り組む「會澤高圧コンクリート」

次に紹介する『會澤高圧コンクリート株式会社』(本社苫小牧市、社長:會澤祥弘)は国内に20の事業所、13の工場、海外6拠点を展開。浪江町の『南産業団地』に広大な研究開発型生産拠点『福島RDMセンター』を建設し、2023年6月30日にグランドオープンしました。

RDMとは、研究(Research)・開発(Development)・生産(Manufacturing)の3つの機能の略。「同一敷地内に生産棟と研究・開発棟が併存し、試験製造などの成果や課題を研究開発にすぐにフィードバックできるのが同社の特徴です。

低炭素型建築方法を実践したフルPC構造の研究開発棟(画像提供/會澤高圧コンクリート)

低炭素型建築方法を実践したフルPC構造の研究開発棟(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「弊社は、コンクリートマテリアルと先端テクノロジーを掛け算して新たな企業価値の創造に取り組む総合コンクリートメーカーです。」と話すのは、デジタル経営本部の佐藤一彦さん。

500cc・1000ccのエンジンドローンと佐藤一彦さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

500cc・1000ccのエンジンドローンと佐藤一彦さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

同社はコンクリートマテリアルの基礎研究に力を入れるとともに、MITやデルフト工科大学など欧米トップ理系大学との産学協力を幅広く展開、バクテリアの代謝機能を使った自己治癒コンクリートを世界で初めて実用量産化するなど、脱炭素スマートマテリアル分野、コンクリート3Dプリンター分野、水素における再生エネルギー分野、デジタルPC建築分野、防災支援インフラメンテ分野、スマート農業陸上養殖分野など6つの研究開発領域をカバーしています。

「コンクリート業界はCO2を多く排出する環境負荷の高い業界ですが、弊社は『脱炭素第一』を経営方針に掲げ、2035年までにサプライチェーンの温室効果ガス排出量を実質ゼロにする『NET ZERO 2035』をコミットメントしました」(佐藤さん)

同社はさらに、浪江町と防災支援協定を結び、同社が開発した1000ccハイブリッドガソリンエンジンを積んだドローンは、大きな地震や台風が来たときに格納庫から自動的に飛び立ち、気象衛星とリンクしながら海岸線や河川の映像をリアルタイムに住民のスマホに提供、命を守る統合システムとしての実装に取り組んでいます。

同社で働く約40名のうち、ほぼ半数が浪江町を含む福島県の相双地域に住む方だそうです。また、グループ全体では複数の女性役員や在宅勤務で育児と両立している女性社員も多く、SDGs への取り組み、SNS向上委員会など女性を中心としたプロジェクトも盛んに行われているとのこと。

女性社員の一人、後藤華蓮さん(22歳)は相双地域の大熊町出身、専門学校で3DCG(コンピューターグラフィックス)を学び、浪江町の新社屋がオープンするときに入社しました。

仕事中の後藤華蓮さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

仕事中の後藤華蓮さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「地元の大熊町は浪江町と同じく震災後に避難対象区域になりましたが、2022年に一部避難指示が解除されて家族で地元に戻ることができました。そんなときに、會澤高圧コンクリートの求人を見て、被災地の復興に携われたらと思い就職を希望しました。

総務部で工場の出荷製品の管理などを担当しています。初めてのことばかりで大変ですが、明るく雰囲気がいい会社で仕事がしやすいです。浪江町は私が小さいころに見てきた景色とはまた違ってしまいましたが、これからどんどんまちも発展していくと思いますし、自己治癒コンクリートなど、他社ではやっていないと自慢できるような商品をつくる、将来に向けて発展していく会社で長く働いていきたいです」と後藤さん。

遊歩道が整備された請戸川沿いの桜並木(画像提供/會澤高圧コンクリート)

遊歩道が整備された請戸川沿いの桜並木(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「浪江町の産業団地で事業を始めた企業は、それぞれに町の復興や脱炭素社会の実現に向けて高い志をお持ちです。浪江町は先進的な技術を持つ企業と建設が決定している福島国際研究教育機構(F-REI)とともに世界に名だたる研究都市になっていくと思います。福島RDMセンターは福島イノベーション構想や地域の構想を具現化する場所です。特に若い世代が共創を通じて刺激を受け、知見を深めていただけたらと思います」と佐藤一彦さんは話しています。

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※會澤高圧コンクリート社が手掛けた3Dプリンター製グランピング施設

北海道新冠町ディマシオ美術館敷地内にある、コンクリート3Dプリンタによるグランピング施設(画像提供/會澤高圧コンクリート)

北海道新冠町ディマシオ美術館敷地内にある、コンクリート3Dプリンタによるグランピング施設(画像提供/會澤高圧コンクリート)

大断面集成材を生産する国内最大級の工場を運営する「ウッドコア」

次に紹介するのは、『棚塩産業団地』に2021年10月に完成した「福島高度集成材製造センター(FLAM=エフラム事業)」は福島イノベーション・コースト構想に基づく農林水産プロジェクトで、浪江町が建設し、民間企業のウッドコアが管理・運営しています。

工場長の高増幹弥さんはこう話します。
「弊社は、大断面集成材という、住宅などより大きい中・大規模木造建築物をつくる部材を丸太から製材して集成材を生産しています。国内には、柱や梁などの大きな部材を供給する製造過程が少なく、全国でも珍しい業種です。浪江町に工場を建設したのは、木材資源が豊富な福島県に製造拠点をつくることが復興につながり、イノベーション・コースト構想とも合致したからです」

「福島高度集成材製造センター(FLAM)」工場長の高増幹弥さん(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

「福島高度集成材製造センター(FLAM)」工場長の高増幹弥さん(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

高増さんは、以前の会社で大規模な木造建築物の現場監督をしていましたが、ウッドコアの取り組みを知り、やりがいがある仕事に就きたいと転職し、単身赴任で来ています。

木造施設向けで原木の加工から最終製品加工まで一貫生産できる「福島高度集成材製造センター(FLAM)」は、敷地9ヘクタール、建物は東京ドーム2個分で国内最大級規模の集成材の工場です。

大断面集成材は、屋内運動施設や教育施設、道の駅などに使用され、2025年に大阪で開催される日本国際博覧会(大阪・関西万博)の会場の中心をぐるりと取り囲む大屋根(リング)に「福島高度集成材製造センター(FLAM)」で製造した大断面木造集成材が使われる予定もあり、全国の大型木造建築を手掛ける大手建築会社などが工場見学に訪れています。

日本国際博覧会の大屋根(リング)・完成予想パース(提供:2025年日本国際博覧会協会)

日本国際博覧会の大屋根(リング)・完成予想パース(提供:2025年日本国際博覧会協会)

「多くの建築会社さんや設計事務所さんからいろいろなビッグプロジェクトになるような物件の相談や打ち合わせ、部材を発注していただくなど、遠くから足を運んでいただいています。弊社工場だけではなく他の施設も、浪江町の可能性なども含めて注目されていると感じます。そして弊社は浪江町から委託を受けて管理・運営している形になり、町とも良好な協力関係を築いています」と話す高増さん。自然豊かな環境で、天気の良い休日は趣味のバイクで県内各地へツーリングに出掛けてリフレッシュしているそうです。

現在「福島高度集成材製造センター(FLAM=エフラム事業)」で働いているのは約50名、相双地域を中心に福島県内出身者がほとんどです。

「県外から浪江町(などの避難指示対象地域)に移住すると移住支援金や住宅補助など、いろいろな支援制度があることをホームページで知って、思いきって移住しようと思いました」と話すのは、光谷貴一さん。ホームページの動画でウッドコアを知り、「この仕事をしてみたい」と青森からIターンで浪江町の同社に転職しました。

丸太の検知を実施する高増工場長(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

丸太の検知を実施する高増工場長(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

「浪江町に来てまだ1カ月未満で全部を知るのはこれからですが、良い環境だと感じます。社宅は工場から車で約3分の所にあり、まだ新しく綺麗です。浪江町にはイオンや道の駅などもあり想像していたより施設が充実していました。車で10分も走れば南相馬市にホームセンターもあり、暮らしに不便は感じません。早く仕事を覚えて、会社の役に立ちたいと思います」と新天地での新しい生活を楽しみにしています。

公園・スポーツ施設の同社施工例(画像提供/ウッドコア)

公園・スポーツ施設の同社施工例(画像提供/ウッドコア)

「昔ながらの製材工場と違って、最新鋭の設備などを備えた近代的な工場です。何よりもこれから将来に向けて注目される建築物の部材をつくれる会社で働くのは非常にやりがいがあり、チャレンジしたい方にとって良い環境だと思います」と高増さんも話しています。

復興へ向けてインフラ設備を着実に整え、ゼロカーボンシティを宣言し、新たなまちづくりにチャレンジしている福島県浪江町。人を増やすには魅力的な産業、働く場所が必要と複数の産業団地を造成し、立地を希望する企業を募集したところ、復興への貢献、ゼロカーボン社会実現への意識が高い、将来性豊かな企業が集結しました。業界をリードする先端のテクノロジー、他にはない商品や研究を生み出す企業が町や企業同士で連携し、これから数年後、数十年後どう進化しているのか、楽しみな町です。

●取材協力
浪江町役場産業振興課
バイオマスレジン福島
會澤高圧コンクリート
ウッドコア

【福島県双葉町】帰還者・移住者で新しい街をつくる。軒下・軒先で共に食べ・踊り、交流を 東日本大震災から12年「えきにし住宅」

東日本大震災から12年が経過した福島県双葉町では、次の双葉町を描き、新たな暮らしを築いていくプロジェクトが盛んに動いています。その中心拠点を担うのが、今回の取材先である「えきにし住宅」。双葉駅の西口を降りてすぐ目の前に広がる住宅街ですが、ただの住宅街じゃない。知れば知るほど暮らしを豊かにする工夫が散りばめられていて、歩いているだけでワクワク感があふれる新しいまちです。今回は設計を担当したブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さんと、現在「えきにし住宅」に暮らしている入居者2名の方に、住まいの特徴や魅力、暮らしてみた感想などをお話しいただきました。

さあ双葉町の未来をはじめよう

標葉(しねは)の谷戸(やと)に抱かれた、かつての農村風景を思わせるデザインえきにし住宅の全体イメージ(画像提供/ブルースタジオ)

えきにし住宅の全体イメージ(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

えきにし住宅の集会所・軒下パティオ(写真/白石知香)

えきにし住宅の集会所・軒下パティオ(写真/白石知香)

福島県の浜通りエリア、双葉町の双葉駅西側地区に2022年10月~オープンした「えきにし住宅」。2022年8月30日に福島第一原子力発電所の事故に伴う避難指示区域が解除され(※)、再び居住が可能となった「特定復興再生拠点区域」に新しく建設された公営住宅です。災害公営住宅30戸、再生賃貸住宅56戸からなる全86戸を建設するプロジェクトで、第2期工事が完了した現在(2023年7月)は30代のファミリー層から80代まで、多様な人たちが暮らしています。

※特定復興再生拠点区域については、一部2020年3月に避難指示が解除(えきにし住宅がある場所は2022年8月に解除)

えきにし住宅のオープンをきっかけに双葉町に移住された大島さん(写真/白石知香)

えきにし住宅のオープンをきっかけに双葉町に移住された大島さん(写真/白石知香)

もともと双葉町の町民で、えきにし住宅のオープンにともない双葉町に帰還された猪狩(いがり)さん(写真/白石知香)

もともと双葉町の町民で、えきにし住宅のオープンにともない双葉町に帰還された猪狩(いがり)さん(写真/白石知香)

「えきにし住宅」を歩いていると、いい意味で「公営住宅」らしくない高いデザイン性や、のびのびと暮らせる風通しのよさを感じます。その秘密は……?設計を担当したブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さんに話をうかがいました。

「このまちを故郷とされる方にとって、何が双葉町らしさなんだろう。どんな要素が『えきにし住宅』に必要なんだろうかと、地元住民の方との座談会を重ねながら、リサーチを行いました。その過程でたくさんのまちづくりのヒントを得たのですが、『標葉(しねは)』というキーワードにたどりついたんです。

双葉町の『双葉』って比較的新しい単語でして、明治維新までは、双葉町は相馬氏の領土である『標葉郡』として位置付けられていたんですね。そして地形を見てみると、山と丘の間に谷筋があり、その先に田んぼが広がっている。まさに日本の原風景ともいえる『谷戸(やと)』が、双葉町の象徴的な風景だと考えました。

浜通りという名前に引っ張られて、海によって発展してきたように感じるんだけども、実は海ばかりでなく温暖な気候に恵まれた山側の農村集落が栄えてきた歴史もある。実際に、『えきにし住宅』がある駅の西側地区は、豊かな谷戸のせせらぎの風景と田んぼが広がっていた場所なんですよ。そうした背景からも、遠方のなだらかな阿武隈山地を借景に、農村集落の情景を思わせる屋根の形や建物の連なりを、建築的なエッセンスとして取り入れています」

ブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さん(写真/白石知香)

ブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さん(写真/白石知香)

平屋で設計された一戸建住宅。屋根の雰囲気や、木材の表情など、どこか農家建築を思わせるデザイン(写真/白石知香)

平屋で設計された一戸建住宅。屋根の雰囲気や、木材の表情など、どこか農家建築を思わせるデザイン(写真/白石知香)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

「タウンハウス」と呼ばれるスタイルの集合住宅。住民同士のあいさつや気軽な交流が生まれるよう玄関が向かい合い、緑が多く気持ちのいい空間(写真/白石知香)

「タウンハウス」と呼ばれるスタイルの集合住宅。住民同士のあいさつや気軽な交流が生まれるよう玄関が向かい合い、緑が多く気持ちのいい空間(写真/白石知香)

玄関前にある縁側では、ここに座ってひと休みしたり、ご近所さんとお話したりと、いろんな過ごし方ができる(写真/白石知香)

玄関前にある縁側では、ここに座ってひと休みしたり、ご近所さんとお話したりと、いろんな過ごし方ができる(写真/白石知香)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

「現在は工事中なのですが、敷地の北側を流れる戎川(えびすがわ)のせせらぎのほとりにあるテラスでほっとひと息ついたり、駅前広場ではピクニックや趣味を楽しんだり思い思いの時間を過ごしたりと、えきにし住宅全体がひとつのまち、あるいは公園のような過ごし方ができる工夫をあちこちに取り入れています」(大島さん)

川のせせらぎに癒やされながら、ゆったりと過ごせる環境(写真/白石知香)

川のせせらぎに癒やされながら、ゆったりと過ごせる環境(写真/白石知香)

双葉駅を降りてすぐ広がる芝生の駅前広場。車両の出入りもなく、ここに集まる人がのびのびと過ごせる場所(画像提供/ブルースタジオ)

双葉駅を降りてすぐ広がる芝生の駅前広場。車両の出入りもなく、ここに集まる人がのびのびと過ごせる場所(画像提供/ブルースタジオ)

暮らす人の「なりわい」をシェアする

「えきにし住宅」の大きな特徴ともいえるのが、「なりわい暮らし」です。これは何かというと、暮らす人それぞれの個性的な生き方をみんなで分かち合う暮らし。例えば、料理をふるまってみんなで味わったり、ワークショップを開いてみんなとの交流を育んだり、自分の趣味をみんなで楽しんだり。ここで暮らす人が主体となって、自分の暮らしをより豊かに、より楽しいものにできる空間づくりがなされています。

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

すべての家の玄関には土間があって、絵を描いたり、ものづくりをしたり、またはそれを通りかかった近所の人にお披露目してみたり。

玄関入ってすぐに土間があり、靴を脱がなくとも気軽に住民同士が交流できるようになっている(写真/白石知香)

玄関入ってすぐに土間があり、靴を脱がなくとも気軽に住民同士が交流できるようになっている(写真/白石知香)

「軒下パティオ」と呼ばれる中庭では、ベンチでひと休みしたり、天候に左右されずにワークショップや出店が開けたりするようなオープンなスペースが広がっていたり。

高い屋根があり、日差しや雨を気にすることなく広々と過ごせる「軒下パティオ」(写真/白石知香)

高い屋根があり、日差しや雨を気にすることなく広々と過ごせる「軒下パティオ」(写真/白石知香)

「軒下パティオ」の一つに隣接するかたちで集会所があり、ここにも土間があったり、他にもキッチンや畳スペースが配置されていたりと、ここに集まる人たちが和気あいあいと交流できる場所が開かれています。

集会所で取材させていただいた時の様子。「どこで話します? じゃあ集会所にしましょうか」と、ふらっと行ける気軽なスペースで、いろんな使い方ができる(写真/白石知香)

集会所で取材させていただいた時の様子。「どこで話します? じゃあ集会所にしましょうか」と、ふらっと行ける気軽なスペースで、いろんな使い方ができる(写真/白石知香)

カフェやイベントが開かれるなど、暮らしを豊かにする時間が育まれている(写真/白石知香)

カフェやイベントが開かれるなど、暮らしを豊かにする時間が育まれている(写真/白石知香)

大島さんはこう話します。

「双葉町は、震災からおよそ11年もの間、残念ながら人が住むことのできない地域でした。それだけの空白の時間を経過した今は、もともと双葉町に住んでいた方が帰還されるにあたっても、また新しく双葉町に移住される方にとっても、未来の双葉町の暮らしをゼロからつくっていくくらいの『フロンティア精神』が必要だと考えたんです。そこには、帰還者も移住者もバックグラウンドの違いに関係なく、対等な立場で、ここに住まう仲間として、共に双葉町の未来を描いていくことが重要。だからこそ、一人ひとりの個性や生き方を住民同士でシェアし、交流が生まれる工夫を、建築にも盛り込みました。ゆくゆくは、住民同士の交流だけでなく、外から遊びに来た人と住民同士で、境界線をゆるやかに溶かしていくようなコミュニケーションが生まれていけばいいなと期待しています」

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

実はこうした「なりわい暮らし」の集合住宅のスタイルは、ブルースタジオでは4プロジェクト目となる事例(お店を開けるものもあるなど、プロジェクトによって“なりわい”の内容は異なる)。この5年ほどで首都圏を中心に、広島の民間賃貸や大阪の公営住宅でも「なりわい暮らし」の集合住宅を展開し手応えを得て、被災地の公営住宅では「えきにし住宅」が初の事例だそうです。

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「これまで」の暮らしが、「これから」の暮らしに受け継がれていく

「えきにし住宅」の全体像をご紹介したところで、実際に暮らしている方はどんなきっかけで「えきにし住宅」に入居し、どんな住み心地なのか。かつて双葉町在住で帰還された方、新しく双葉町に引越しされた方の2名にお話をうかがいました。

お一人目は、浪江町出身でご結婚を機に隣町の双葉町に暮らすようになった猪狩(いがり)敬子さん。震災発生後、県内外を転々とされながも「いつかは家族の思い出が詰まった双葉町に帰る」と心に決めていたそうです。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

「この玄関の土間スペースが、使い勝手がいいんです。お友達が遊びに来てくれた時に、ここに腰掛けてみんなでおしゃべりして。靴を脱いでリビングにお通しするとなると、おもてなししなきゃ!ってなるけど、土間だったら気さくに肩肘張ることなく過ごせるでしょ。

夫が他界して、今は一人暮らしをしているんですが、近所の人たちとも顔が見える距離でお付き合いできるから安心。住んでいる人との交流もあってね。双葉町って、もともと盆踊りが町のお祭りとしてにぎわっていたんですけど、震災があってから町内で開催できていなかったんです。でもそれが今年、約13年ぶりに駅前で開催できることになって。だから集会所に集まって、わたしが踊りを住民の方に教えて、みんなで踊りの練習をしたりしていますよ。双葉町の伝統を、みなさんに伝えることができて嬉しく思いますね」(猪狩さん)

猪狩さんは「タウンハウス」プランの住まいに入居中。手前がリビング、奥が寝室になっている(写真/白石知香)

猪狩さんは「タウンハウス」プランの住まいに入居中。手前がリビング、奥が寝室になっている(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

盆踊りを通じて、双葉町の地元の方と新しく双葉町に引越してきた人を結んでいる猪狩さん。それが猪狩さんにとっての「なりわい暮らし」なのかもしれません。

お二人目は、福島県中通りエリアにある福島市出身で、東京にあるコンピューター関連の会社で勤めた後、うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)相双支援サテライトに勤務し、浜通りエリアの楢葉町、富岡町で働き暮らされていた大島さん。現在も富岡町にある「とみおかワインドメーヌ」でブドウの栽培をされたり、楢葉町の小学校で子どもたちの学習をサポートする活動をされたりと、「えきにし住宅」を暮らしの拠点に、新しいことへのチャレンジを楽しまれています。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

「東京で長年勤めて、地元の福島に帰って新しいことを始めてみたいと思い、浜通りに暮らし始めました。『えきにし住宅』に入居しようと思った決め手は、コミュニティになじめそうだと思ったから。双葉町には、町民主体のまちづくりを牽引する『ふたばプロジェクト』という団体があり、そのスタッフさんたちが入居の窓口となって、移住者でも町の暮らしに溶け込めるように住民同士の交流を育むサポートをしてくださるなど、細やかなケアがなされていることが安心だなと感じました。

初めて住む地域だと、なかなか地元の方との接点を持ちづらかったりしますが、ここはそんなこともなく、気軽にコミュニケーションをとれるのがいいなと思います。お向かいの猪狩さんには、盆踊りの踊りを教えてもらっていますし。盆踊り当日は、町民有志の『双葉郡未来会議』という任意団体があるんですけど、そのスタッフとしてお祭りを盛り上げたいと思っています。

暮らしの面では、双葉町にはスーパーやコンビニがないのですが、隣町に足を延ばせばいくつも商業施設があるので不便に感じたことはないです。車で出かけたり、趣味のバイクで近隣の市町村に遊びに行ったりすることもありますね。この辺りは山や川など自然がいっぱいありますから、のびのび過ごせて気持ちいいですよ」(大島さん)

暮らしのサポートをされている「ふたばプロジェクト」の事務局長を務める宇名根さん。双葉町と、ここで暮らしたい人をつなぐ架け橋のような存在(写真/白石知香)

暮らしのサポートをされている「ふたばプロジェクト」の事務局長を務める宇名根さん。双葉町と、ここで暮らしたい人をつなぐ架け橋のような存在(写真/白石知香)

玄関には、愛用されているバイクが。スタイリッシュでかっこいい!(写真/白石知香)

玄関には、愛用されているバイクが。スタイリッシュでかっこいい!(写真/白石知香)

心地よい自然光が差し込むリビングで、ゆったりと過ごす時間がお気に入りなんだそう(写真/白石知香)

心地よい自然光が差し込むリビングで、ゆったりと過ごす時間がお気に入りなんだそう(写真/白石知香)

可動式のスポットライトが、空間をおしゃれに演出。白とウッドを基調とした天井が高い空間で、お部屋が明るく広々とした印象に(写真/白石知香)

可動式のスポットライトが、空間をおしゃれに演出。白とウッドを基調とした天井が高い空間で、お部屋が明るく広々とした印象に(写真/白石知香)

この先も進化し続ける、「えきにし住宅」から広がる双葉町の暮らし

「えきにし住宅」の入居がスタートしてから、取材時(2023年7月)までおよそ8カ月間。その期間中にも、全86戸のうち47戸の入居(予定含む)が決定しており、その属性の割合は帰還された方が約4割、新しく住まわれた方が約6割を占めるそう。「えきにし住宅」の建設プロジェクトは現在も進行中で、住宅エリアが拡充されたり、駅前広場が新設されたり、まちには商業施設がオープンしたりと、まちの盛り上がりは今後さらにはずみをつけていきそうです。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

集会所の壁には、住民の方のものだと思われる似顔絵が(写真/白石知香)

集会所の壁には、住民の方のものだと思われる似顔絵が(写真/白石知香)

双葉町の町章と、江戸時代からダルマ市が開かれていた歴史がある双葉町で誕生した「双葉ダルマ」(写真/白石知香)

双葉町の町章と、江戸時代からダルマ市が開かれていた歴史がある双葉町で誕生した「双葉ダルマ」(写真/白石知香)

「外」と「中」の境界線がゆるやかに溶けていく暮らしのあり方や、「えきにし住宅」のリアルが気になる方はぜひ、双葉町を訪れてみてください。新しいはじまりを告げるワクワク感、みんなで一歩ずつ前進するあたたかなつながりの輪が、日常から感じられますよ。

●取材協力
えきにし住宅
ブルースタジオ
ふたばプロジェクト

●関連ページ
とみおかワインドメーヌ

東日本大震災の”復興建築”を巡る。今こそ見るべき内藤廣・乾久美子・ヨコミゾマコトなどを建築ライターが解説 岩手県陸前高田市・釜石市

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、建築デザイン業界にも大きな衝撃を与えました。おびただしい数の建築物が津波によって流されたことで、街ごと新たにつくり直す必要に迫られただけではありません。建築の仕事に携わる人にとっては、これまで設計してきた建築を、復興が急務となる被災地において、そしてまたそうした地域を抱える日本において、同じような考え方で設計して良いものなのかと自問する契機にもなったのです。

そうは言っても急速に復興が推し進められるなか、建築家もさまざまなかたちで被災地の建築デザインに関わってきました。避難所の生活を改善するための取り組みや、仮設住宅の建設といった応急対応から、この先の長い街づくりの礎となるような恒久的な施設まで、震災復興をきっかけに初めて試みられたデザインも多岐にわたります。

そうした人類の新たな叡智を見て歩くことは、被災地に限らず日々の生活をより良くしていくための発見に満ちているはず。今回、各地の建築やまち歩きをライフワークにしてきた筆者が、被災から10年以上が経ち、大方の復興が完了した岩手県南東部の沿岸エリアで見学ができる震災復興建築をレポートします。

あらゆるタイプの復興建築がそろう陸前高田

震災復興のために建てられた建築といっても、その内実はさまざまです。街づくり全体の広域復興計画に位置づけられる、市民生活のインフラとなるもの。地域住民の多様な活動をサポートする拠点となるもの。地域産業、特に漁業や観光業のための施設として使われるもの。観光を目的に東北に訪れる人々、そしてまた現役の、未来の地域住民のために津波の教訓を伝えていくために設計された伝承施設や追悼祈念碑。さらに、実際に津波や地震の被害を被った震災遺構も、解体することなく遺し、見学するためのルートを整備したことを鑑みると広い意味でのデザインとして見ることができるでしょう。
以下では、それぞれの特徴をおさえつつ、実際の建築物をエリアごとに紹介していきたいと思います。

まずなんといっても被災地での復興建築デザインを見学するなら、陸前高田市は外せません。ここには建築家の内藤廣氏が全体計画を担った高田松原津波復興祈念公園があります。
津波によって流されてしまった防潮林のうち、ただ1本残された「奇跡の一本松」をご存じの方も多いのではないでしょうか。あの松林があったエリアに整備された公園です。

公園の整備にあたり、内藤氏は海に向かってまっすぐ延びる祈りの軸線を設けました。そこに直交するかたちでデザインされたのが、道の駅高田松原を併設した「東日本大震災津波伝承館」です。国と岩手県、陸前高田市が連携し、津波被害の実態を後世に伝えるために整備されたメモリアルパークでありながら、道の駅として地域住民にも日常の延長として使われる、風景と一体化した複合施設です。

高田松原津波復興祈念公園全景。左中央に見える直線状の白い建物が東日本大震災津波伝承館。右手の三角形は、震災遺構「タピック45」。津波の際、屋上を駆け上った避難者が助かった(写真/ロンロ・ボナペティ)

高田松原津波復興祈念公園全景。左中央に見える直線状の白い建物が東日本大震災津波伝承館。右手の三角形は、震災遺構「タピック45」。津波の際、屋上を駆け上った避難者が助かった(写真/ロンロ・ボナペティ)

伝承館の中央ゲートから祈りの軸線を見る。軸線の先に象徴的なモニュメントを設けるのではなく、海に向かって祈りを捧げるよう演出されている(写真/ロンロ・ボナペティ)

伝承館の中央ゲートから祈りの軸線を見る。軸線の先に象徴的なモニュメントを設けるのではなく、海に向かって祈りを捧げるよう演出されている(写真/ロンロ・ボナペティ)

防腐処理を施され、もともと立っていた場所に再設置された奇跡の一本松。津波が直撃し変形した「陸前高田ユースホステル」が被害の実態を伝えている(写真/ロンロ・ボナペティ)

防腐処理を施され、もともと立っていた場所に再設置された奇跡の一本松。津波が直撃し変形した「陸前高田ユースホステル」が被害の実態を伝えている(写真/ロンロ・ボナペティ)

海を強く意識させるデザインは、津波により亡くなった方への追悼を促すとともに、ここを訪れる人がその瞬間海の間近にいること、地震が発生したらすぐに避難しなければならないことを同時に印象付けます。伝承館でも繰り返し実例が示される、2011年の3月11日に生死を分けた人々の判断と行動。いざという時にどのような対応をすべきか、公園全体で訴えかけるようなデザインがなされていました。

さらに陸前高田市では、高台にも内藤氏が設計した建築をはじめ、復興後の市民生活を支える建築が集まっています。そのひとつ、陸前高田「みんなの家」は、日本を代表する建築家の伊東豊雄氏の呼びかけに応じ、名だたる建築家が集まり地域の方々とともにつくりあげた集会所。世界各国が建築の実践を展示し建築界のオリンピックとも称される第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展ではその建設プロセスを紹介し、最高栄誉の金獅子賞を受賞しました。応急的な復興が一段落したことで役目を果たし、一度解体されましたが、駅前に再建されました。併設の総菜屋さんは、みんなの家の設計に携わった平田晃久氏が手掛けており、建築家と被災地との継続的な関わりが伺えます。

伊東豊雄氏、平田晃久氏、藤本壮介氏、乾久美子氏らが協働した陸前高田「みんなの家」。右側に延びる低層の建物が新しく設計された総菜店(写真/ロンロ・ボナペティ)

伊東豊雄氏、平田晃久氏、藤本壮介氏、乾久美子氏らが協働した陸前高田「みんなの家」。右側に延びる低層の建物が新しく設計された総菜店(写真/ロンロ・ボナペティ)

内藤廣氏設計の「東日本大震災犠牲者刻銘碑」三陸特有の山々が入り組んで連なるリアス式海岸を見晴らす(写真/ロンロ・ボナペティ)

内藤廣氏設計の「東日本大震災犠牲者刻銘碑」。三陸特有の山々が入り組んで連なるリアス式海岸を見晴らす(写真/ロンロ・ボナペティ)

内藤廣氏設計の「陸前高田市立博物館」。屋上の展望台からは、防潮堤の先に広がる海の景色を望むことができる(写真/ロンロ・ボナペティ)

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生活に密着した復興建築が揃う釜石市

陸前高田から北上することおよそ50km、三陸海岸の中央に位置する釜石市も、震災後の建築デザインを知る上で重要なエリアです。

街の中心部が津波で流され、多くの住民が亡くなった鵜住居町(うのすまいちょう)では、市民生活の立て直しに必要なさまざまな施設が震災後に整備されました。駅前に整備された「うのすまい・トモス」には、「東日本大震災の記憶や教訓を将来に伝えるとともに、生きることの大切さや素晴らしさを感じられ、憩い親しめる場」として複数の公共施設が配置されました。追悼施設の釜石祈りのパークには、震災で亡くなった方の名板があしらわれた祈念碑が設置されています。離れた位置から見ると白い板にしか見えませんが、近づいていくと個人名が刻印されており、報道で知る客観的事実としての被害とその一人ひとりにそれぞれの人生があった、その対比が表されているよう。少し土が盛られた上段に設置されたモニュメントは上端のラインが津波浸水高さ(11m)となるように設計され、ここを訪れる人々に有事の際は一目散に高台へ避難する意識を植え付ける計らいがなされています。

「釜石祈りのパーク」上段の壁の上端ラインが津波到達地点を示す(写真/ロンロ・ボナペティ)

「釜石祈りのパーク」上段の壁の上端ラインが津波到達地点を示す(写真/ロンロ・ボナペティ)

「うのすまい・トモス」全景。奥に体育館、左手前が震災の資料展示を行う「いのちをつなぐ未来館」、右手前が土産物などを販売する「鵜の郷交流館」(写真/ロンロ・ボナペティ)

「うのすまい・トモス」全景。奥に体育館、左手前が震災の資料展示を行う「いのちをつなぐ未来館」、右手前が土産物などを販売する「鵜の郷交流館」(写真/ロンロ・ボナペティ)

駅前からすぐ目に入る高台には、小学校・中学校・児童館・幼稚園の、子どもたちのための4施設が新たに建設(設計:小嶋一浩+赤松佳珠子/CAt)されました。通学路となる階段は、津波到達地点で階段の色が塗り分けられており、市街地から見上げた際に一目でどの高さまで避難すれば良いのかがわかる指標になっています。子どもたちが毎日登下校する様子は市街地のどこにいても目に入り、その風景が復興のシンボルとなるように、という願いが込められているそうです。

また震災当時、沿岸部にあった小学校と中学校は被災後に取り壊され、跡地には「釜石鵜住居復興スタジアム」が建設されました。周囲から隔絶された専用施設とするのではなく、日常的に使用できる公園として周囲と一体的に整備することで、海から山へと連続する鵜住居町の風景の一部となっています。2019年のラグビーワールドカップでは会場の一つとして使用され、まさに復興のシンボルとして人々の生活とともにあるスタジアムとして愛されています。
「鵜住居小学校・釜石東中学校」、「釜石鵜住居復興スタジアム」、「釜石祈りのパーク」では、個々の施設の設計に建築から関わったほか、神戸芸術工科大学の長濱伸貴教授がランドスケープデザイン・監修に携わっています。

「釜石市立鵜住居小学校・釜石市立釜石東中学校・釜石市鵜住居児童館・釜石市立鵜住居幼稚園」敷地へ至る階段のオレンジのラインが津波到達地点(写真/ロンロ・ボナペティ)

「釜石市立鵜住居小学校・釜石市立釜石東中学校・釜石市鵜住居児童館・釜石市立鵜住居幼稚園」。敷地へ至る階段のオレンジのラインが津波到達地点(写真/ロンロ・ボナペティ)

梓設計による「釜石鵜住居復興スタジアム」グラウンドと周囲がフラットにつながり、風景の一部となっている(写真/ロンロ・ボナペティ)

梓設計による「釜石鵜住居復興スタジアム」。グラウンドと周囲がフラットにつながり、風景の一部となっている(写真/ロンロ・ボナペティ)

釜石市の中心部にも、ぜひとも訪れたい重要な建築プロジェクトがあります。

世界最大水深の防波堤としてギネスブックの世界記録にも登録されていた湾口防波堤が震災でも大きな減災効果を発揮した釜石市中心部は、リアス式海岸が連なる三陸沿岸エリアにおいては比較的津波の被害がおさえられたエリアでした。震災前から残る商店街「のんべい横丁」と連続する位置に計画されたのが、釜石市民のさまざまな活動の受け皿となる、「釜石市民ホールTETTO」でした。折しも街区をひとつ挟んで隣接するエリアに大型ショッピングセンターの建設が進んでいました。そのままでは既存の商店街とショッピングモールが断絶してしまうことを恐れた市は、市民ホールの建設にあわせて隣接する街区も取得し、ショッピングセンターと市民ホールをつなぐ広場を整備することを決定。ガラスの大屋根が架かる市民ホールの前面広場と接続させることで、のんべい横丁からショッピングセンターへと連なる一連の商業エリアを創出することに成功しました。

建築はaat+ヨコミゾマコト建築設計事務所による設計。施設内部での活動が街に滲み出すようデザインされました。展覧会の一部が外からでも鑑賞できるようになっていたり、スタジオで練習するバンドの様子がうかがえるなど、文化が日常のなかで育まれることが実感できる市民ホールになっています。前面広場に面するステージでは、コロナ禍において全国でも先駆けて屋外コンサートを開催するなど、TETTOでは市民による市民のための精力的な活動が展開されています。

ショッピングセンター側からTETTOを望む。4方向に出入口が設けられ、建物のどこにいても避難できる動線が考えられた。手前の広場が市が取得した「大町広場」(写真/ロンロ・ボナペティ)

ショッピングセンター側からTETTOを望む。4方向に出入口が設けられ、建物のどこにいても避難できる動線が考えられた。手前の広場が市が取得した「大町広場」(写真/ロンロ・ボナペティ)

TETTOの前面広場に架かるガラスの大屋根は、建設費高騰の折に建設中止も検討されたが、建築家のさまざまなコスト削減策により実現された(写真/ロンロ・ボナペティ)

TETTOの前面広場に架かるガラスの大屋根は、建設費高騰の折に建設中止も検討されたが、建築家のさまざまなコスト削減策により実現された(写真/ロンロ・ボナペティ)

前面広場を客席として披露された、市民によるブラスバンドの演奏(写真/ロンロ・ボナペティ)

前面広場を客席として披露された、市民によるブラスバンドの演奏(写真/ロンロ・ボナペティ)

釜石市南部の集落に立つ「唐丹小学校・唐丹中学校・唐丹児童館」斜面を活かして建てられた校舎は、建築家の乾久美子氏による設計(写真/ロンロ・ボナペティ)

釜石市南部の集落に立つ「唐丹小学校・唐丹中学校・唐丹児童館」。斜面を活かして建てられた校舎は、建築家の乾久美子氏による設計(写真/ロンロ・ボナペティ)

被災地に観光目的で訪れるのは不謹慎なのではないか、そんな想いをもたれる方もいらっしゃるかもしれません。筆者自身、現地を訪れるまでは住民の方からどのような目で見られるのだろうかと不安に思うところもありました。

しかし実際に現地の方とお話をすると、理由はどうあれ来てくれる事自体が喜ばれ、また震災の実態を知ってほしいと活動される方も多くいらっしゃいました。
ここで紹介したような施設も、伝承館はもちろんのこと、そうでない建築にも津波の悲劇を繰り返さないためのデザインが施されていました。それは被災地で日常を送る住民の方はもちろんのこと、被災地を訪れた人たちにも、自然災害の恐ろしさを伝え、やがて来る東北以外の地域での災害を防ぐ一助となることを見越したものでしょう。

災害大国である日本において、建築はどうあるべきか、これ以上ない模範事例が集まる東北、三陸海岸を訪れてみてはいかがでしょうか。

■施設リスト
東日本大震災犠牲者刻銘碑
陸前高田市立博物館
東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)
釜石市立唐丹小学校
釜石市民ホール TETTO
釜石市立鵜住居小学校
うのすまい・トモス
釜石鵜住居復興スタジアム

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