【福島県浪江町】失われかけた町が産業の先進地に! 世界課題のトップランナー続々、避難指示解除後の凄み

福島県沿岸部(浜通り)にある双葉郡・浪江町は、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故で町内全域が避難指示区域に指定され、一時町が失われかけました。けれども避難指示区域解除後、エネルギーの地産地消を目指す水素発電などの世界的な課題に挑み、その趣旨に共鳴する企業を誘致する産業団地が動き始め、全国的に注目されています。魅力ある産業・仕事づくりを通して人が集まり「住みたい、住み続けたいまち」づくりに挑戦している浪江町の今をレポートします。

避難指示が一部解除され「新生・浪江町」が動き出した

福島県浜通りに位置する浪江町は、2011年の東日本大震災で甚大な被害を受けた上、福島第一原子力発電所事故によって町全域が避難指示区域になり、全町民が避難を余儀なくされました。その後、除染工事や生活に必要なインフラの復旧を進め「夢と希望があふれ住んでいたいまち、住んでみたいまち」を理念に復興計画を一歩一歩進めてきました。

2017年3月31日、約6年ぶりに避難指示区域の一部が解除され、教育施設の開校、店舗・施設の開業など、生活環境が徐々に整ってきました。

買い物や食事、休憩ができる「道の駅なみえ」。無印良品が全国で初めて道の駅に出店(画像提供/浪江町役場産業振興課)

買い物や食事、休憩ができる「道の駅なみえ」。無印良品が全国で初めて道の駅に出店(画像提供/浪江町役場産業振興課)

そして、2022年度から、「浪江駅周辺グランドデザイン基本計画」が進行しています。浪江駅を中心に、国立競技場を設計した建築家・隅研吾さんの設計による未来的なデザインにより交流・商業・住宅機能をコンパクトに集約し、再生可能なエネルギーを活用した環境に配慮したまちづくりが行われる予定です。

けれども浪江町の人口を見ると、震災時が2万1542人(7,671世帯)、2023年8月末日時点で1万5,312人(世帯数6,679人)。避難指示区域一部解除後の居住人口は、2019年4月が193人、2023年8月時点には2,106人(居住世帯1,314世帯)で、Uターンや新規の移住者で多少回復していますが、震災前の10分の1にしか届いておりません。(居住人口と震災前の居住人口については、データがありません)

福島県浪江町内の居住人口の推移(福島県浪江町公式ホームページ「なみえ復興レポート(令和5年9月)」より抜粋)

福島県浪江町内の居住人口の推移(福島県浪江町公式ホームページ「なみえ復興レポート(令和5年9月)」より抜粋)

浪江町が目標としている人口は、2035年までに約8,000人。「福島県12市町村移住支援金」をはじめ、福島県外から浪江町に移住し就業または起業した場合など、複数の支援制度が用意されています。

スマートシティを目指すと同時に産業団地に企業を誘致

人口を増やすためには魅力的な仕事や雇用をつくることがカギになります。浪江町役場産業振興課の児山善文(こやま・よしふみ)さんは製鉄系プラントメーカー、JFEエンジニアリングからの出向で東京から浪江町役場へ赴任。「定年間近になり、これからの時間を大企業組織の一員として働くより、父祖の地(南会津郡下郷町)である福島県の復興に役立ちたい、未曾有の原子力災害という日本の代表的な社会問題解決の最前線でサラリーマン生活を終えたい」と、浪江町から請われたのをきっかけに自ら希望したとのこと。このように社員個人の意思を尊重して仕事を柔軟に選ばせてもらえる会社の自由な風土にも感謝しているそうです。

九転十起の人と呼ばれた京浜工業地帯の父でJFEエンジニアリングの源流である浅野造船所の創業者浅野総一郎像と記念撮影する児山さん(写真提供/ご本人)

九転十起の人と呼ばれた京浜工業地帯の父でJFEエンジニアリングの源流である浅野造船所の創業者浅野総一郎像と記念撮影する児山さん(写真提供/ご本人)

産業振興課には、再生可能エネルギーを推進する係、産業団地を整備し企業誘致して産業の振興と雇用創出を図る係、地場産業による商工・観光事業などを計画する係の3本の柱があります。

「再生可能エネルギーについては、国が推奨する『2050年までに二酸化炭素排出を実質ゼロにする』という「ゼロカーボンシティ」を宣言し、再生可能なエネルギーのまちづくりに取り組んでいます。さらに持続可能なまちづくりを行うために、自治体や地元企業などと協力しながら地域エネルギー会社を立ち上げる目標があります。

浪江町産業団地は『浪江町藤橋産業団地』『浪江町北産業団地』『浪江町棚塩産業団地』『浪江町南産業団地』の4つの団地があり、既に15社が契約し、10社が稼働し、現在建物建築中の企業もあり、募集中の敷地もあります。さらに、2年後に竣工する予定の14.5ヘクタールの『棚塩RE100産業団地』があり、地域エネルギー会社と受電契約を結んでいただくなど再生エネルギーを100%使っていただける会社を誘致するという大きな目標を掲げて取り組んでいるところです」(児山さん)

なみえ産業団地マップ(出典/産業団地のご案内パンフレット)

なみえ産業団地マップ(出典/産業団地のご案内パンフレット)

『浪江町藤橋産業団地』は、AIの技術開発に取り組む企業や、EVの蓄電池のリユース・リサイクルの普及を目指す企業など4社が稼働。『浪江町棚塩産業団地』にも、再エネルギーをキーワードとする企業、ロボットのテストにおいて世界に類を見ない施設などが稼働しています。

上空から見た浪江町の棚塩産業団地(画像提供/ウッドコア)

上空から見た浪江町の棚塩産業団地(画像提供/ウッドコア)

以降で紹介する『浪江町北産業団地』のバイオマスレジン福島、『浪江町南産業団地』の會澤高圧コンクリート、『浪江町棚塩産業団地』にある福島高度集成材製造センター(FLAM)も含めて、持続可能な社会を創る研究や技術開発を世界に先駆けて行っている企業が続々と集まっているのが特徴です。

「もともと住んでいた方はご家族でUターン、Iターンは単身の方が多いです。未来的な取り組みをしている企業が稼働し始めて、国が設立する研究機関『福島国際研究教育機構(F-REI(エフレイ)』の立地も決まり、これから研究者の方々が100人単位で集まってくることになります。人が増えるから施設が増えるのか、まちがにぎわって人が増えるのか、鶏と卵どちらが先かという議論もありますが、人口も施設も増えてにぎわうまちにしていきたいですし、ずっと住みたいと思っていただけるようなまちづくりを同時に進めていかなければならないと思います」と児山さんは話します。

環境にやさしいライスレジンで地域を支援する「バイオマスレジン」

福島県の相馬ガスグループとバイオマスレジングループが合弁で2021年7月に設立し、『浪江町北産業団地』で2022年よりライスレジンの製造をスタートしたバイオマスレジン福島の田上茂工場長に話を聞きました。

「ライスレジンとはお米由来のバイオマスプラスチックで、砕けたお米や粒の小さいお米など廃棄されるお米でつくったバイオマスプラスチックです。

弊社のライスレジンは石油系のプラスチックに国産のお米を50%または70%混ぜて、樹脂をつくっています。二酸化炭素を吸って酸素を吐く植物からつくっていますので、カーボンニュートラルの意味から言うと50%以上石油系プラスチックの含有量を減らしており、ごみ焼却などで排出される二酸化炭素を50%以上削減できる形になっています。

また、弊社のグループ会社が浪江地区の休耕田を活用して稲作を行い、農地や農業に従事する人を増やすことにも取り組んでいます。現状、ライスレジンを活用してお箸やストロー、弁当箱など約800アイテムほどを製造する原料として提供しています」

ライスレジンとライスレジンからつくられる製品(画像提供/バイオマスレジン福島)

ライスレジンとライスレジンからつくられる製品(画像提供/バイオマスレジン福島)

田上工場長も、農家に行って稲作のお手伝いをすることもあるそうです。

田上工場長のほか、9名の従業員が働く工場(画像提供/バイオマスレジン福島)

田上工場長のほか、9名の従業員が働く工場(画像提供/バイオマスレジン福島)

「私は茨城県筑西市より単身で来ています。地元に帰ったら被災地や原発事故の現実、地元の方のご苦労など、実際に暮らして見て感じたこと、ここで学んだことを発信していかなければと思っています」

田上工場長が撮影、会社から見た海(撮影/田上工場長)

田上工場長が撮影、会社から見た海(撮影/田上工場長)

一方、移住した従業員もいます。石田久留美さん(30代)は、「バイオマスエネルギーや再生可能資源などに非常に興味があり、転職の際に環境問題の改善に携われる仕事に就きたいという思いで転職先を探していました。偶然、福島県内にお米を使ったバイオマスレジンをつくる会社を知り、会社の経営理念などを調べたところ、私が抱えている思いと重なる部分が多く、転職を希望しました。子どもの頃から稲作のお手伝いをするなど田んぼが身近な存在で、休耕田が増えているのを見て淋しさも感じていたことも、ライスレジンに共感する大きな理由でした」と話します。

須賀川出身で、会社の面接を受けるとき初めて浪江町に足を運んだ石田さん。実家から車で片道2時間かかる浪江町で一人暮らしをしながら働くことにお母さんは心配したそうですが、強い意思がありました。

仕事中の石田久留美さん(画像提供/バイオマスレジン福島)

仕事中の石田久留美さん(画像提供/バイオマスレジン福島)

「新しく近代的で建物のデザインも含めてこの工場が大好き。入った瞬間食品工場のようないい香りがして癒やされますし、私は前職で有機溶剤使用していたため、防毒マスクを使用する環境にいましたが、今ではマスク無しで深呼吸しても身体に害がない環境で働けるのがうれしいです。人がしっかり関わって機械を動かしてモノづくりをしている工場だと感じます」

石田さんが好きな夕暮れの請戸川の風景(画像提供/石田 久留美)

石田さんが好きな夕暮れの請戸川の風景(画像提供/石田 久留美)

石田さんは会社から程近い浪江町にある社宅(マンション)住まい。「住居費は会社の補助がありますし、休憩時間に洗濯物を取り込みに家に帰れますし、すごくいい場所に暮らしていると思います。朝晩見る請戸川の景色にも癒やされています」

CO2の削減や石油資源の抑制に貢献する環境にやさしい新素材を製造しながら、フードロスの削減、農業や地域活性化も支援しているバイオマスレジン福島。「経験者や知識のある方はもとより、長い目で見て若い人が浪江町に来て、弊社のような会社で環境に配慮したプラスチックをつくっていることを誇りに思い働いてくれたらうれしい。始まったばかりの会社ですが、30年後、50年後に、会社が成長して『この会社の歴史の1ページを描いたのが私たちだ』と言えることはやはり魅力だと思います」と結んでくれました。

浪江町とイノベーションの共創に取り組む「會澤高圧コンクリート」

次に紹介する『會澤高圧コンクリート株式会社』(本社苫小牧市、社長:會澤祥弘)は国内に20の事業所、13の工場、海外6拠点を展開。浪江町の『南産業団地』に広大な研究開発型生産拠点『福島RDMセンター』を建設し、2023年6月30日にグランドオープンしました。

RDMとは、研究(Research)・開発(Development)・生産(Manufacturing)の3つの機能の略。「同一敷地内に生産棟と研究・開発棟が併存し、試験製造などの成果や課題を研究開発にすぐにフィードバックできるのが同社の特徴です。

低炭素型建築方法を実践したフルPC構造の研究開発棟(画像提供/會澤高圧コンクリート)

低炭素型建築方法を実践したフルPC構造の研究開発棟(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「弊社は、コンクリートマテリアルと先端テクノロジーを掛け算して新たな企業価値の創造に取り組む総合コンクリートメーカーです。」と話すのは、デジタル経営本部の佐藤一彦さん。

500cc・1000ccのエンジンドローンと佐藤一彦さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

500cc・1000ccのエンジンドローンと佐藤一彦さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

同社はコンクリートマテリアルの基礎研究に力を入れるとともに、MITやデルフト工科大学など欧米トップ理系大学との産学協力を幅広く展開、バクテリアの代謝機能を使った自己治癒コンクリートを世界で初めて実用量産化するなど、脱炭素スマートマテリアル分野、コンクリート3Dプリンター分野、水素における再生エネルギー分野、デジタルPC建築分野、防災支援インフラメンテ分野、スマート農業陸上養殖分野など6つの研究開発領域をカバーしています。

「コンクリート業界はCO2を多く排出する環境負荷の高い業界ですが、弊社は『脱炭素第一』を経営方針に掲げ、2035年までにサプライチェーンの温室効果ガス排出量を実質ゼロにする『NET ZERO 2035』をコミットメントしました」(佐藤さん)

同社はさらに、浪江町と防災支援協定を結び、同社が開発した1000ccハイブリッドガソリンエンジンを積んだドローンは、大きな地震や台風が来たときに格納庫から自動的に飛び立ち、気象衛星とリンクしながら海岸線や河川の映像をリアルタイムに住民のスマホに提供、命を守る統合システムとしての実装に取り組んでいます。

同社で働く約40名のうち、ほぼ半数が浪江町を含む福島県の相双地域に住む方だそうです。また、グループ全体では複数の女性役員や在宅勤務で育児と両立している女性社員も多く、SDGs への取り組み、SNS向上委員会など女性を中心としたプロジェクトも盛んに行われているとのこと。

女性社員の一人、後藤華蓮さん(22歳)は相双地域の大熊町出身、専門学校で3DCG(コンピューターグラフィックス)を学び、浪江町の新社屋がオープンするときに入社しました。

仕事中の後藤華蓮さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

仕事中の後藤華蓮さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「地元の大熊町は浪江町と同じく震災後に避難対象区域になりましたが、2022年に一部避難指示が解除されて家族で地元に戻ることができました。そんなときに、會澤高圧コンクリートの求人を見て、被災地の復興に携われたらと思い就職を希望しました。

総務部で工場の出荷製品の管理などを担当しています。初めてのことばかりで大変ですが、明るく雰囲気がいい会社で仕事がしやすいです。浪江町は私が小さいころに見てきた景色とはまた違ってしまいましたが、これからどんどんまちも発展していくと思いますし、自己治癒コンクリートなど、他社ではやっていないと自慢できるような商品をつくる、将来に向けて発展していく会社で長く働いていきたいです」と後藤さん。

遊歩道が整備された請戸川沿いの桜並木(画像提供/會澤高圧コンクリート)

遊歩道が整備された請戸川沿いの桜並木(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「浪江町の産業団地で事業を始めた企業は、それぞれに町の復興や脱炭素社会の実現に向けて高い志をお持ちです。浪江町は先進的な技術を持つ企業と建設が決定している福島国際研究教育機構(F-REI)とともに世界に名だたる研究都市になっていくと思います。福島RDMセンターは福島イノベーション構想や地域の構想を具現化する場所です。特に若い世代が共創を通じて刺激を受け、知見を深めていただけたらと思います」と佐藤一彦さんは話しています。

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北海道新冠町ディマシオ美術館敷地内にある、コンクリート3Dプリンタによるグランピング施設(画像提供/會澤高圧コンクリート)

北海道新冠町ディマシオ美術館敷地内にある、コンクリート3Dプリンタによるグランピング施設(画像提供/會澤高圧コンクリート)

大断面集成材を生産する国内最大級の工場を運営する「ウッドコア」

次に紹介するのは、『棚塩産業団地』に2021年10月に完成した「福島高度集成材製造センター(FLAM=エフラム事業)」は福島イノベーション・コースト構想に基づく農林水産プロジェクトで、浪江町が建設し、民間企業のウッドコアが管理・運営しています。

工場長の高増幹弥さんはこう話します。
「弊社は、大断面集成材という、住宅などより大きい中・大規模木造建築物をつくる部材を丸太から製材して集成材を生産しています。国内には、柱や梁などの大きな部材を供給する製造過程が少なく、全国でも珍しい業種です。浪江町に工場を建設したのは、木材資源が豊富な福島県に製造拠点をつくることが復興につながり、イノベーション・コースト構想とも合致したからです」

「福島高度集成材製造センター(FLAM)」工場長の高増幹弥さん(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

「福島高度集成材製造センター(FLAM)」工場長の高増幹弥さん(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

高増さんは、以前の会社で大規模な木造建築物の現場監督をしていましたが、ウッドコアの取り組みを知り、やりがいがある仕事に就きたいと転職し、単身赴任で来ています。

木造施設向けで原木の加工から最終製品加工まで一貫生産できる「福島高度集成材製造センター(FLAM)」は、敷地9ヘクタール、建物は東京ドーム2個分で国内最大級規模の集成材の工場です。

大断面集成材は、屋内運動施設や教育施設、道の駅などに使用され、2025年に大阪で開催される日本国際博覧会(大阪・関西万博)の会場の中心をぐるりと取り囲む大屋根(リング)に「福島高度集成材製造センター(FLAM)」で製造した大断面木造集成材が使われる予定もあり、全国の大型木造建築を手掛ける大手建築会社などが工場見学に訪れています。

日本国際博覧会の大屋根(リング)・完成予想パース(提供:2025年日本国際博覧会協会)

日本国際博覧会の大屋根(リング)・完成予想パース(提供:2025年日本国際博覧会協会)

「多くの建築会社さんや設計事務所さんからいろいろなビッグプロジェクトになるような物件の相談や打ち合わせ、部材を発注していただくなど、遠くから足を運んでいただいています。弊社工場だけではなく他の施設も、浪江町の可能性なども含めて注目されていると感じます。そして弊社は浪江町から委託を受けて管理・運営している形になり、町とも良好な協力関係を築いています」と話す高増さん。自然豊かな環境で、天気の良い休日は趣味のバイクで県内各地へツーリングに出掛けてリフレッシュしているそうです。

現在「福島高度集成材製造センター(FLAM=エフラム事業)」で働いているのは約50名、相双地域を中心に福島県内出身者がほとんどです。

「県外から浪江町(などの避難指示対象地域)に移住すると移住支援金や住宅補助など、いろいろな支援制度があることをホームページで知って、思いきって移住しようと思いました」と話すのは、光谷貴一さん。ホームページの動画でウッドコアを知り、「この仕事をしてみたい」と青森からIターンで浪江町の同社に転職しました。

丸太の検知を実施する高増工場長(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

丸太の検知を実施する高増工場長(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

「浪江町に来てまだ1カ月未満で全部を知るのはこれからですが、良い環境だと感じます。社宅は工場から車で約3分の所にあり、まだ新しく綺麗です。浪江町にはイオンや道の駅などもあり想像していたより施設が充実していました。車で10分も走れば南相馬市にホームセンターもあり、暮らしに不便は感じません。早く仕事を覚えて、会社の役に立ちたいと思います」と新天地での新しい生活を楽しみにしています。

公園・スポーツ施設の同社施工例(画像提供/ウッドコア)

公園・スポーツ施設の同社施工例(画像提供/ウッドコア)

「昔ながらの製材工場と違って、最新鋭の設備などを備えた近代的な工場です。何よりもこれから将来に向けて注目される建築物の部材をつくれる会社で働くのは非常にやりがいがあり、チャレンジしたい方にとって良い環境だと思います」と高増さんも話しています。

復興へ向けてインフラ設備を着実に整え、ゼロカーボンシティを宣言し、新たなまちづくりにチャレンジしている福島県浪江町。人を増やすには魅力的な産業、働く場所が必要と複数の産業団地を造成し、立地を希望する企業を募集したところ、復興への貢献、ゼロカーボン社会実現への意識が高い、将来性豊かな企業が集結しました。業界をリードする先端のテクノロジー、他にはない商品や研究を生み出す企業が町や企業同士で連携し、これから数年後、数十年後どう進化しているのか、楽しみな町です。

●取材協力
浪江町役場産業振興課
バイオマスレジン福島
會澤高圧コンクリート
ウッドコア

【福島県双葉町】帰還者・移住者で新しい街をつくる。軒下・軒先で共に食べ・踊り、交流を 東日本大震災から12年「えきにし住宅」

東日本大震災から12年が経過した福島県双葉町では、次の双葉町を描き、新たな暮らしを築いていくプロジェクトが盛んに動いています。その中心拠点を担うのが、今回の取材先である「えきにし住宅」。双葉駅の西口を降りてすぐ目の前に広がる住宅街ですが、ただの住宅街じゃない。知れば知るほど暮らしを豊かにする工夫が散りばめられていて、歩いているだけでワクワク感があふれる新しいまちです。今回は設計を担当したブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さんと、現在「えきにし住宅」に暮らしている入居者2名の方に、住まいの特徴や魅力、暮らしてみた感想などをお話しいただきました。

さあ双葉町の未来をはじめよう

標葉(しねは)の谷戸(やと)に抱かれた、かつての農村風景を思わせるデザインえきにし住宅の全体イメージ(画像提供/ブルースタジオ)

えきにし住宅の全体イメージ(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

えきにし住宅の集会所・軒下パティオ(写真/白石知香)

えきにし住宅の集会所・軒下パティオ(写真/白石知香)

福島県の浜通りエリア、双葉町の双葉駅西側地区に2022年10月~オープンした「えきにし住宅」。2022年8月30日に福島第一原子力発電所の事故に伴う避難指示区域が解除され(※)、再び居住が可能となった「特定復興再生拠点区域」に新しく建設された公営住宅です。災害公営住宅30戸、再生賃貸住宅56戸からなる全86戸を建設するプロジェクトで、第2期工事が完了した現在(2023年7月)は30代のファミリー層から80代まで、多様な人たちが暮らしています。

※特定復興再生拠点区域については、一部2020年3月に避難指示が解除(えきにし住宅がある場所は2022年8月に解除)

えきにし住宅のオープンをきっかけに双葉町に移住された大島さん(写真/白石知香)

えきにし住宅のオープンをきっかけに双葉町に移住された大島さん(写真/白石知香)

もともと双葉町の町民で、えきにし住宅のオープンにともない双葉町に帰還された猪狩(いがり)さん(写真/白石知香)

もともと双葉町の町民で、えきにし住宅のオープンにともない双葉町に帰還された猪狩(いがり)さん(写真/白石知香)

「えきにし住宅」を歩いていると、いい意味で「公営住宅」らしくない高いデザイン性や、のびのびと暮らせる風通しのよさを感じます。その秘密は……?設計を担当したブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さんに話をうかがいました。

「このまちを故郷とされる方にとって、何が双葉町らしさなんだろう。どんな要素が『えきにし住宅』に必要なんだろうかと、地元住民の方との座談会を重ねながら、リサーチを行いました。その過程でたくさんのまちづくりのヒントを得たのですが、『標葉(しねは)』というキーワードにたどりついたんです。

双葉町の『双葉』って比較的新しい単語でして、明治維新までは、双葉町は相馬氏の領土である『標葉郡』として位置付けられていたんですね。そして地形を見てみると、山と丘の間に谷筋があり、その先に田んぼが広がっている。まさに日本の原風景ともいえる『谷戸(やと)』が、双葉町の象徴的な風景だと考えました。

浜通りという名前に引っ張られて、海によって発展してきたように感じるんだけども、実は海ばかりでなく温暖な気候に恵まれた山側の農村集落が栄えてきた歴史もある。実際に、『えきにし住宅』がある駅の西側地区は、豊かな谷戸のせせらぎの風景と田んぼが広がっていた場所なんですよ。そうした背景からも、遠方のなだらかな阿武隈山地を借景に、農村集落の情景を思わせる屋根の形や建物の連なりを、建築的なエッセンスとして取り入れています」

ブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さん(写真/白石知香)

ブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さん(写真/白石知香)

平屋で設計された一戸建住宅。屋根の雰囲気や、木材の表情など、どこか農家建築を思わせるデザイン(写真/白石知香)

平屋で設計された一戸建住宅。屋根の雰囲気や、木材の表情など、どこか農家建築を思わせるデザイン(写真/白石知香)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

「タウンハウス」と呼ばれるスタイルの集合住宅。住民同士のあいさつや気軽な交流が生まれるよう玄関が向かい合い、緑が多く気持ちのいい空間(写真/白石知香)

「タウンハウス」と呼ばれるスタイルの集合住宅。住民同士のあいさつや気軽な交流が生まれるよう玄関が向かい合い、緑が多く気持ちのいい空間(写真/白石知香)

玄関前にある縁側では、ここに座ってひと休みしたり、ご近所さんとお話したりと、いろんな過ごし方ができる(写真/白石知香)

玄関前にある縁側では、ここに座ってひと休みしたり、ご近所さんとお話したりと、いろんな過ごし方ができる(写真/白石知香)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

「現在は工事中なのですが、敷地の北側を流れる戎川(えびすがわ)のせせらぎのほとりにあるテラスでほっとひと息ついたり、駅前広場ではピクニックや趣味を楽しんだり思い思いの時間を過ごしたりと、えきにし住宅全体がひとつのまち、あるいは公園のような過ごし方ができる工夫をあちこちに取り入れています」(大島さん)

川のせせらぎに癒やされながら、ゆったりと過ごせる環境(写真/白石知香)

川のせせらぎに癒やされながら、ゆったりと過ごせる環境(写真/白石知香)

双葉駅を降りてすぐ広がる芝生の駅前広場。車両の出入りもなく、ここに集まる人がのびのびと過ごせる場所(画像提供/ブルースタジオ)

双葉駅を降りてすぐ広がる芝生の駅前広場。車両の出入りもなく、ここに集まる人がのびのびと過ごせる場所(画像提供/ブルースタジオ)

暮らす人の「なりわい」をシェアする

「えきにし住宅」の大きな特徴ともいえるのが、「なりわい暮らし」です。これは何かというと、暮らす人それぞれの個性的な生き方をみんなで分かち合う暮らし。例えば、料理をふるまってみんなで味わったり、ワークショップを開いてみんなとの交流を育んだり、自分の趣味をみんなで楽しんだり。ここで暮らす人が主体となって、自分の暮らしをより豊かに、より楽しいものにできる空間づくりがなされています。

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

すべての家の玄関には土間があって、絵を描いたり、ものづくりをしたり、またはそれを通りかかった近所の人にお披露目してみたり。

玄関入ってすぐに土間があり、靴を脱がなくとも気軽に住民同士が交流できるようになっている(写真/白石知香)

玄関入ってすぐに土間があり、靴を脱がなくとも気軽に住民同士が交流できるようになっている(写真/白石知香)

「軒下パティオ」と呼ばれる中庭では、ベンチでひと休みしたり、天候に左右されずにワークショップや出店が開けたりするようなオープンなスペースが広がっていたり。

高い屋根があり、日差しや雨を気にすることなく広々と過ごせる「軒下パティオ」(写真/白石知香)

高い屋根があり、日差しや雨を気にすることなく広々と過ごせる「軒下パティオ」(写真/白石知香)

「軒下パティオ」の一つに隣接するかたちで集会所があり、ここにも土間があったり、他にもキッチンや畳スペースが配置されていたりと、ここに集まる人たちが和気あいあいと交流できる場所が開かれています。

集会所で取材させていただいた時の様子。「どこで話します? じゃあ集会所にしましょうか」と、ふらっと行ける気軽なスペースで、いろんな使い方ができる(写真/白石知香)

集会所で取材させていただいた時の様子。「どこで話します? じゃあ集会所にしましょうか」と、ふらっと行ける気軽なスペースで、いろんな使い方ができる(写真/白石知香)

カフェやイベントが開かれるなど、暮らしを豊かにする時間が育まれている(写真/白石知香)

カフェやイベントが開かれるなど、暮らしを豊かにする時間が育まれている(写真/白石知香)

大島さんはこう話します。

「双葉町は、震災からおよそ11年もの間、残念ながら人が住むことのできない地域でした。それだけの空白の時間を経過した今は、もともと双葉町に住んでいた方が帰還されるにあたっても、また新しく双葉町に移住される方にとっても、未来の双葉町の暮らしをゼロからつくっていくくらいの『フロンティア精神』が必要だと考えたんです。そこには、帰還者も移住者もバックグラウンドの違いに関係なく、対等な立場で、ここに住まう仲間として、共に双葉町の未来を描いていくことが重要。だからこそ、一人ひとりの個性や生き方を住民同士でシェアし、交流が生まれる工夫を、建築にも盛り込みました。ゆくゆくは、住民同士の交流だけでなく、外から遊びに来た人と住民同士で、境界線をゆるやかに溶かしていくようなコミュニケーションが生まれていけばいいなと期待しています」

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

実はこうした「なりわい暮らし」の集合住宅のスタイルは、ブルースタジオでは4プロジェクト目となる事例(お店を開けるものもあるなど、プロジェクトによって“なりわい”の内容は異なる)。この5年ほどで首都圏を中心に、広島の民間賃貸や大阪の公営住宅でも「なりわい暮らし」の集合住宅を展開し手応えを得て、被災地の公営住宅では「えきにし住宅」が初の事例だそうです。

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「これまで」の暮らしが、「これから」の暮らしに受け継がれていく

「えきにし住宅」の全体像をご紹介したところで、実際に暮らしている方はどんなきっかけで「えきにし住宅」に入居し、どんな住み心地なのか。かつて双葉町在住で帰還された方、新しく双葉町に引越しされた方の2名にお話をうかがいました。

お一人目は、浪江町出身でご結婚を機に隣町の双葉町に暮らすようになった猪狩(いがり)敬子さん。震災発生後、県内外を転々とされながも「いつかは家族の思い出が詰まった双葉町に帰る」と心に決めていたそうです。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

「この玄関の土間スペースが、使い勝手がいいんです。お友達が遊びに来てくれた時に、ここに腰掛けてみんなでおしゃべりして。靴を脱いでリビングにお通しするとなると、おもてなししなきゃ!ってなるけど、土間だったら気さくに肩肘張ることなく過ごせるでしょ。

夫が他界して、今は一人暮らしをしているんですが、近所の人たちとも顔が見える距離でお付き合いできるから安心。住んでいる人との交流もあってね。双葉町って、もともと盆踊りが町のお祭りとしてにぎわっていたんですけど、震災があってから町内で開催できていなかったんです。でもそれが今年、約13年ぶりに駅前で開催できることになって。だから集会所に集まって、わたしが踊りを住民の方に教えて、みんなで踊りの練習をしたりしていますよ。双葉町の伝統を、みなさんに伝えることができて嬉しく思いますね」(猪狩さん)

猪狩さんは「タウンハウス」プランの住まいに入居中。手前がリビング、奥が寝室になっている(写真/白石知香)

猪狩さんは「タウンハウス」プランの住まいに入居中。手前がリビング、奥が寝室になっている(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

盆踊りを通じて、双葉町の地元の方と新しく双葉町に引越してきた人を結んでいる猪狩さん。それが猪狩さんにとっての「なりわい暮らし」なのかもしれません。

お二人目は、福島県中通りエリアにある福島市出身で、東京にあるコンピューター関連の会社で勤めた後、うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)相双支援サテライトに勤務し、浜通りエリアの楢葉町、富岡町で働き暮らされていた大島さん。現在も富岡町にある「とみおかワインドメーヌ」でブドウの栽培をされたり、楢葉町の小学校で子どもたちの学習をサポートする活動をされたりと、「えきにし住宅」を暮らしの拠点に、新しいことへのチャレンジを楽しまれています。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

「東京で長年勤めて、地元の福島に帰って新しいことを始めてみたいと思い、浜通りに暮らし始めました。『えきにし住宅』に入居しようと思った決め手は、コミュニティになじめそうだと思ったから。双葉町には、町民主体のまちづくりを牽引する『ふたばプロジェクト』という団体があり、そのスタッフさんたちが入居の窓口となって、移住者でも町の暮らしに溶け込めるように住民同士の交流を育むサポートをしてくださるなど、細やかなケアがなされていることが安心だなと感じました。

初めて住む地域だと、なかなか地元の方との接点を持ちづらかったりしますが、ここはそんなこともなく、気軽にコミュニケーションをとれるのがいいなと思います。お向かいの猪狩さんには、盆踊りの踊りを教えてもらっていますし。盆踊り当日は、町民有志の『双葉郡未来会議』という任意団体があるんですけど、そのスタッフとしてお祭りを盛り上げたいと思っています。

暮らしの面では、双葉町にはスーパーやコンビニがないのですが、隣町に足を延ばせばいくつも商業施設があるので不便に感じたことはないです。車で出かけたり、趣味のバイクで近隣の市町村に遊びに行ったりすることもありますね。この辺りは山や川など自然がいっぱいありますから、のびのび過ごせて気持ちいいですよ」(大島さん)

暮らしのサポートをされている「ふたばプロジェクト」の事務局長を務める宇名根さん。双葉町と、ここで暮らしたい人をつなぐ架け橋のような存在(写真/白石知香)

暮らしのサポートをされている「ふたばプロジェクト」の事務局長を務める宇名根さん。双葉町と、ここで暮らしたい人をつなぐ架け橋のような存在(写真/白石知香)

玄関には、愛用されているバイクが。スタイリッシュでかっこいい!(写真/白石知香)

玄関には、愛用されているバイクが。スタイリッシュでかっこいい!(写真/白石知香)

心地よい自然光が差し込むリビングで、ゆったりと過ごす時間がお気に入りなんだそう(写真/白石知香)

心地よい自然光が差し込むリビングで、ゆったりと過ごす時間がお気に入りなんだそう(写真/白石知香)

可動式のスポットライトが、空間をおしゃれに演出。白とウッドを基調とした天井が高い空間で、お部屋が明るく広々とした印象に(写真/白石知香)

可動式のスポットライトが、空間をおしゃれに演出。白とウッドを基調とした天井が高い空間で、お部屋が明るく広々とした印象に(写真/白石知香)

この先も進化し続ける、「えきにし住宅」から広がる双葉町の暮らし

「えきにし住宅」の入居がスタートしてから、取材時(2023年7月)までおよそ8カ月間。その期間中にも、全86戸のうち47戸の入居(予定含む)が決定しており、その属性の割合は帰還された方が約4割、新しく住まわれた方が約6割を占めるそう。「えきにし住宅」の建設プロジェクトは現在も進行中で、住宅エリアが拡充されたり、駅前広場が新設されたり、まちには商業施設がオープンしたりと、まちの盛り上がりは今後さらにはずみをつけていきそうです。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

集会所の壁には、住民の方のものだと思われる似顔絵が(写真/白石知香)

集会所の壁には、住民の方のものだと思われる似顔絵が(写真/白石知香)

双葉町の町章と、江戸時代からダルマ市が開かれていた歴史がある双葉町で誕生した「双葉ダルマ」(写真/白石知香)

双葉町の町章と、江戸時代からダルマ市が開かれていた歴史がある双葉町で誕生した「双葉ダルマ」(写真/白石知香)

「外」と「中」の境界線がゆるやかに溶けていく暮らしのあり方や、「えきにし住宅」のリアルが気になる方はぜひ、双葉町を訪れてみてください。新しいはじまりを告げるワクワク感、みんなで一歩ずつ前進するあたたかなつながりの輪が、日常から感じられますよ。

●取材協力
えきにし住宅
ブルースタジオ
ふたばプロジェクト

●関連ページ
とみおかワインドメーヌ

月に一度、満月の日は大切な人に会いに。「コロナ禍で会えない」から始まった生活直売店 福島県いわき市

月に一度、満月の日にだけオープンする店がある。そう聞いたのは一年ほど前のことだ。運営するのは鈴木智子さん。ご主人の康人さんとともにomotoという名のユニットを組み、鉄と布を素材とする生活道具を製作して展示を行う布作家である。私自身、2人とは数年前に知り合い、度々お会いしてきた。その智子さんが2年ほど前から、いわき市の自宅を月に一度開放して生活用品のお店を開いているという。この日だけごく普通の民家の前にコーヒースタンドが立ち、まるで小さなマルシェが出現したかのようになる。それにしてもなぜお店を?しかも満月の日に。そんな話を伺うために、いわきを訪れた。

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

満月の日にだけ開く小さなお店に、女性たちが次々と

JRいわき駅から歩くこと約20分。周囲には大型スーパーやチェーン店が立ち並ぶ都市郊外の風景が続く。初めて訪れると「この近くにそんなお店が……?」と不安になるが、大通りから一歩奥まった位置に「生活直売店」の看板が見える。家の前にはテーブルが置かれ、コーヒースタンドも。そこだけ小さなマーケットのような空間が広がっている。

この家は、普段は智子さんと康人さん夫妻の住まいで、2人がつくる包丁やナイフなどの鍛冶道具や、布小物、衣服を製作するアトリエでもある。2人はomotoの名で全国のセレクトショップやクラフトマーケットなどに出展し作家活動を行っている。

その自宅兼アトリエが、月に一日だけ満月の日に「生活直売店」として様がわりする。

玄関入ってすぐ脇の棚には味噌や醤油などの調味料や食品。普段は作業場として使っている左手の部屋には食品や小物が陳列され、美味しそうな焼菓子やパンが並ぶショーケースも。奥の居間には衣服や雑貨などが販売されている。いずれも智子さん自身がセレクトした品で、「普段うちで使っているものか、使ってみて気に入ったもの」だという。もちろんomotoの品も置いてある。

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

いわき市内のお客さんもいれば、県外からわざわざ訪れる人も少なくない。月に一度、この日しか開いていない小さなお店に、次々に洗練された格好の女性が入ってくるのに驚いた。みな満月の日を把握しているのだろうか? そう疑問に思ったが、omotoのインスタグラムを見て訪れる人が多いのだそうだ。

数カ月ぶりに会う智子さんは、とても元気そうに見えた。

 omotoの2人、鈴木康人さんと智子さん(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

omotoの2人、鈴木康人さんと智子さん(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

日常的な場で、大切な人たちに会えるように

智子さんが「生活直売店」を初めてオープンしたのは、コロナ禍が本格化した2020年のことだ。なぜお店を始めたのだろう。そう問うと、こんな話をしてくれた。

「近所によく通っていた自然食品店があったんですが、その店の女性が亡くなって会えなくなったのが一つのきっかけでした。お店の娘さんだったんですが、年齢も近くて、お店に行くたびに話をして。一言か二言他愛ない話をするだけですが、時々深い話になることもあって。とても気の合う人だったんです。彼女の顔を見に行くようなところもあって、いつもその店で買い物して毎回元気をもらっていました」

女性はしばらく入院していたのだが、コロナ禍でお見舞いに行くことも叶わなかった。

「会いたい人に会えずにいるうちに、会えなくなってしまう。そんなことが本当に起こるんだなって」

コロナ禍で、私たちは嫌というほどそのことを教えられた。
さらに、日常の些細なやり取りに人はどれほど励まされ、元気をもらっているのか。気付くきっかけにもなった。

「だから定期的に会いたい人たちに会える機会をつくれたらいいなと思ったんです。買い物の場なら、日常的に周囲の人たちに会うことができる。彼女がやっていたようなお店なら友達も来れるし、全然知らない人と出会う可能性も広がると思ったんです」

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

実はお店を始める一年ほど前まで、鈴木夫妻は月に一度、やはり満月の夜に「満月講」という会を開いていた。この時は主にいわきの友人知人が一人一品、料理を持ち寄って楽しむ会で、メンバーは知り合い限定の親密な場だった。

満月の日なら、月によって休日にも平日にもなる。休日の異なる参加者全員に平等な日の選び方だったという。だが2019年秋の台風19号による水害で、休止を余儀なくされる。

「川の水が氾濫して約1.8メートルまで浸水したんです。いわき市の一部が水没して、うちも目の前まで水がきました。それでしばらく満月講をお休みにしていたら、翌年コロナが始まってそのまま再開できずで」

コロナ禍で、人と会う機会はぐっと減った。この期間、誰にも会えず不安を抱いた人は多かったのではないだろうか。静まり返ったまちを歩いて気付いたのは、たとえそれが見知らぬ誰かであっても、笑い声や話し声を耳にして得られる活力があるのだということ。誰にも会えない間、静かに心が蝕まれていくような、元気が失われていく感覚があった。

お店が開く日のみ、こうした看板が立てられる。室内の案内図(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

お店が開く日のみ、こうした看板が立てられる。室内の案内図(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

友人のおすすめ品を買える、小さな生協

そうして智子さんが始めた「生活直売店」では、その名のとおり、日用品や食品、衣服など日常生活で使う品を扱っている。お客さんにとって嬉しいのは、一般的なスーパーでは取り扱っていないような品も手に入ること。智子さんが実際に愛用している品が多いため、味噌も醤油も一種と種類は少ないが、乾物から下着まで品数は豊富。それも友人のおすすめを買えるといった安心感がある。

智子さん自身、2011年の東日本大震災以降、食べるものには気を遣ってきた。調味料や食材などできるだけ天然素材や無添加のもので美味しいものを選ぶ。衣類や生活雑貨も一度は使ってみたもの。日持ちのしない食品などは仕入れ前に事前予約を受け付ける。ちょっとした生協のようだ。

例えば、「これまでに出合ったなかで一番しっくりきた」と智子さんがお勧めしてくれたのが兵庫県の「薪火野」というベーカリーのパン。お客さんにも人気。中でも「パンデピス」は香辛料によるスパイシーな風味と蜂蜜の甘さがじんわり感じられる保存性に優れたパン菓子で、しっかりした硬さの生地と奥深い味で美味しい。そこらのパンとは違うぞという風格と味わいがあった。残念ながらパンデビスは今は新しいパンに変わっているが、スコーンやカンパーニュなどもあり、それぞれが限定品なので、予約する人も多い。

「薪火野」の「パンペイサージュ」(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

「薪火野」の「パンペイサージュ」(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

家の前のコーヒースタンドでは、毎回違う出店者がコーヒーやドリンク、サンドイッチなどの軽食をふるまう。規模は小さくても小さなマルシェのようで、お客さんが都度新しさを感じられる工夫がされている。

「いわきの人たちって新しいもの好きなんです。目新しいものに探究心があるというか。なのでいつも用意する定番品と、その月にしかない新しい企画や展示をするスタイルがいいかなと思って。飲食も違う出店者に出てもらえば、毎回違う味のコーヒーを飲めてお客さんの楽しみにもなりますし」

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

もともと鈴木夫妻の家は古い家具や生活道具が並ぶしっとりした内装で、落ち着いた雰囲気(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

もともと鈴木夫妻の家は古い家具や生活道具が並ぶしっとりした内装で、落ち着いた雰囲気(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

オンラインとは違った買い物を

智子さんと話している間にも、お客さんが次々に訪れる。
「こんにちは~」「ちょっと見ていいですか?」「どうぞ~」「もう一つ腕抜き買っちゃった」「ありがとうございます!」そんな言葉が交わされて、智子さんは心から嬉しそうな顔をしている。お客さんの中には常連さんも少しずつ増えている。

「コロナでどこにも行けなくなって、オンラインで買い物する機会が増えましたよね。でも店頭販売にはモノを売り買いするだけじゃない良さがあると思うんです。写真と実物を見るのとでは全然違うし、モノの見方や使い方を知ったり。そんな買い物ができる場所をつくりたいと思ったのも、お店を始めた理由の一つかもしれません」

もともとomotoの2人が刃物や衣服を製作する上で大事にしてきたのも「一生使える品」であること。対面で説明して気に入って買ってもらえたら、その後メンテナンスも請け負う。お客さんにはモノと長く付き合ってほしい。自分たちも長く付き合うつもりで品物を売っている。そんなスタンスでものづくりを行ってきた。

鍛冶職人の康人さんがつくるデザイン性のある包丁。その布カバーを智子さんがつくる(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

鍛冶職人の康人さんがつくるデザイン性のある包丁。その布カバーを智子さんがつくる(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

智子さんが手がけるomotoの衣服。染めも行っている(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

智子さんが手がけるomotoの衣服。染めも行っている(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

お客さんもスタッフも

そんな成り立ちの店だからか、生活直売店は買い物の場としてだけでなく、集まった人たちの束の間の憩いの場になる。

店は毎回お昼12時ごろにオープンして閉店は19時。昨年夏に訪れたときは、夕暮れ時になると、どこからともなく店の前に人が集まってきて、ベンチに腰かけて夕涼みしながら話が弾んだ。康人さんがもぎたてのキュウリをお皿に山盛り出してくれて、スタッフもお客さんも一緒になってみんなでかじった。蚊取り線香の匂い。夏休みの夜のような、懐かしく穏やかな空気が心地よかった。

昔はこんな夕涼みの光景があちこちにあったのだろう。今はそうした暮らしからどれだけ遠く離れてしまったのかと思う。

お客さんは、ご近所さんや県外からの方も。常連さんも多い(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

お客さんは、ご近所さんや県外からの方も。常連さんも多い(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

いま智子さんの知り合いの女性たちが数名入れ替わり立ち替わり、スタッフとして店を手伝ってくれている。それもお金を稼ぐためというより、友達の延長上で手伝いをしながら買い物客との交流を楽しんでいる。そんな風に見えた。

カメラマンで、普段omotoの活動写真を撮っている白石ちか(シロヤマ写真館)さんも、生活直売店の時は度々お手伝いをしている。

「お客さんと話すのもすごく楽しいんです。感覚を共有できるようないいお客さんばっかりなので。ほかのお店で展示会が減っていることもあって、月に一回ここで知人に会えるのは本当に嬉しい」

手伝って得たバイト代を、この生活直売店で買い物するのに使うと言うスタッフもいた。楽しく働いたお金でいい品物も手に入る。お客さんが少ない日もあるだろうけれど、omotoの2人と顔を合わせて楽しく時間を過ごせればそれで十分なのかもしれない。

私自身、智子さんや康人さんに会いに出かけて、話して帰ってくるとそれだけでいつも元気をもらう。そこに直売店のようなきっかけがあると、遠方からでも出かける後押しになる。

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

「私はお店を始めてから積極的に外に出るより、できるだけここに居て来てくれる方たちを迎え入れたいなと思うようになりました。外に出ることも自分にとって大事ではあるけれど、ここを充実させる方に気持ちが強くなっています」(智子さん)

智子さんは将来、お店を常設にすることも考え始めている。これから先、どういった形になるかはわからないけれど、この店が身近な人たちとの大切な接点であることは変わらないだろう。そしてその入口は、まちに開かれ、少しずつ広がっている。

お客さんにとっても、こうした小さくても信頼できる店が生活圏内にあることは心強い。店はいまも昔も、そこに集まる人たち同士が心を通わせ合える貴重な場所になるからだ。

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

(写真撮影/白石ちか(シロヤマ写真館))

●取材協力
omoto「生活直売店」

震災の記憶を次世代に。伝える取り組みや遺構が続々と

全国で大規模な自然災害が増えている。時間と共に関心が薄れてきている震災の記憶を風化させまいと、被災地では伝承施設の建設が相次いでいる。また、震災で失われたものをプラスに活かす取り組みも。各地で進められている「震災の記憶を残し、後世に確実に伝える取り組み」のうち、2020年度グッドデザイン・ベスト100を受賞した宮城県亘理郡山元町、福島県相馬郡飯舘村、熊本県熊本市の3つの事例を紹介する。
伝承が難しい状況でも震災を風化させない。復興へ向けた取り組み

東日本大震災からもうすぐ10年。震災を振り返るテレビ番組や報道は3月11日前後以外はあまり見なくなった。被災地では、子どもから高齢者までの震災経験者による語り部ガイドツアーは継続しているが、ガイド役の子どもたちが成長して忙しくなったり、高齢化で担い手が減少しつつあったりするという。また、震災を知らない子どもたちも増えた。

一方で、国土交通省が2017年に「震災を風化させないプロジェクト~震災の記録・記録の見える化への取り組み~」を発表し、震災情報の発信、震災遺構・追悼施設等のマップ化、震災メモリアル施設等の整備などに力を入れている。被災地では、震災の事実を伝える施設が続々と計画、誕生している。

被害状況を保存建築物にした「山元町立中浜小学校」

山元町立中浜小学校は、宮城県沿岸部、海から約400mに位置する。2011年3月11日、東日本大震災の大津波で校舎は2階天井近くまで浸水した。避難場所まで歩いて避難することは不可能と判断し、児童と教職員ら90人は、校舎屋上の倉庫で一夜を過ごし、翌朝自衛隊のヘリコプターで全員が無事救助された。

中浜小学校は2013年に内陸の小学校と統合されて閉校、沿岸部の自治体では被災した建築物を保存するか解体するか議論されたが、山元町は宮城県南地域で唯一残る被災建築物である校舎を防災教育施設として保存することを決めた。「大津波の痕跡をできるだけ残したまま整備し、教訓を風化させず、災害に対する備え、意識の大切さを伝承する震災遺構」として、2020年9月から一般公開している。整備を担当した山元町教育委員会生涯学習課の八鍬智浩(やくわ・ともひろ)さんに案内してもらった。

校舎南側の1階は窓がサッシごと失われた。2階は窓枠は残るが、窓枠は歪みガラスが破壊されている(写真撮影/佐藤由紀子)

校舎南側の1階は窓がサッシごと失われた。2階は窓枠は残るが、窓枠は歪みガラスが破壊されている(写真撮影/佐藤由紀子)

学校のシンボル的存在だった時計台は、根元から押し倒され、津波の甚大さを物語っている。校庭だった場所はメモリアル広場として整備され、救助のヘリが着陸した場所の近くには震災モニュメント「3月11日の日時計」が新たにつくられた。

文字盤に埋め込まれてた石は地震発生時刻の14時46分を指している。中央の方位盤には国内外で起きた大規模地震の発生時期と方位や距離が記されている。「東日本大震災だけではなく、繰り返し起きる災害に対してどう構え、どう備えるべきかを広い視点で捉えてほしい」と八鍬さんは話す。

メモリアル広場には、津波の高さと襲来した方角を示す国旗掲揚塔や、「地震があったら津波の用心」と刻まれた明治・昭和三陸地震津波の石碑も置かれている。県道沿いにたくさんあったクロマツのうち唯一残った1本は、周辺の道路工事で伐採される予定だったものを移植して残した。

校舎の児童玄関は窓枠ごと流され、下駄箱も流されていた。本来外側に開く教職員用の玄関の扉が内側に開いているのは、津波の引き波によるもの。それでも、校舎の西側に体育館があり、引き波の威力が弱められたという。盾となった体育館は引き波から校舎を守り、現在は取り壊されている。

校舎入口に建つ学校のシンボルだった時計台は津波で根元から倒され、そのまま残されている(写真提供/山元町教育委員会)

校舎入口に建つ学校のシンボルだった時計台は津波で根元から倒され、そのまま残されている(写真提供/山元町教育委員会)

震災の翌朝、自衛隊のヘリコプターが着陸した位置の近くに設けられた「日時計の丘」。3月11日に誤差なく時間を示すようにつくられているほか、さまざまな工夫が施されている(写真提供/山元町教育委員会)

震災の翌朝、自衛隊のヘリコプターが着陸した位置の近くに設けられた「日時計の丘」。3月11日に誤差なく時間を示すようにつくられているほか、さまざまな工夫が施されている(写真提供/山元町教育委員会)

「校舎1階は、被災したままの状態を保存し、津波の甚大さを知ってもらうための場所として整備しています。被災した状態の校舎の中をそのまま保存し見学できるようにすることは、本来、建物が守るべき建築基準法とは相反します。津波の被害状況をなるべくそのまま見てもらいたい、体感してもらいたいという思いがあり、山元町では新たに条例を制定したうえで、建築基準法の適用を除外する手続きをとりました。天井から落ちてきそうな部材や配管類はワイヤーや接着剤で固定したり、倒れ掛かっている壁は裏から鉄骨で支えるなど、安全に維持・見学するために必要な補修、保存手法を目立たないように施しています」(八鍬さん)

1階の多目的ホールのモニュメントは、津波により押し倒されている。曲がった机や椅子が積み重なり、防潮林だったクロマツが校舎内に流れついている(写真撮影/佐藤由紀子)

1階の多目的ホールのモニュメントは、津波により押し倒されている。曲がった机や椅子が積み重なり、防潮林だったクロマツが校舎内に流れついている(写真撮影/佐藤由紀子)

中庭に面した窓ガラスはほとんどが破壊されたが2階の窓ガラスやステンドグラスは一部が残っている(写真撮影/佐藤由紀子)

中庭に面した窓ガラスはほとんどが破壊されたが2階の窓ガラスやステンドグラスは一部が残っている(写真撮影/佐藤由紀子)

校舎の窓ガラスは破壊され、天井などは大きくはがれ落ち、配管類がむき出しになっている。窓枠のサッシはめくれ上がり、津波で運ばれた大量の瓦礫や木などが積み重なっている。遺構のさまざまな被害状況から、津波の威力や高さ、方向などをうかがい知ることができる。

教室と仕切りで区切られたワークスペース(廊下)も天井が剥がれ落ちている。木の床板は雨風が吹き込んで徐々に反り、剥がれていった(写真提供/山元町教育委員会)

教室と仕切りで区切られたワークスペース(廊下)も天井が剥がれ落ちている。木の床板は雨風が吹き込んで徐々に反り、剥がれていった(写真提供/山元町教育委員会)

柱に巻き付いている鉄骨は学校にあったものではなく、どこからか流されてきたもの。津波はいろいろなものを巻き込んで襲ってきた(写真撮影/佐藤由紀子)

柱に巻き付いている鉄骨は学校にあったものではなく、どこからか流されてきたもの。津波はいろいろなものを巻き込んで襲ってきた(写真撮影/佐藤由紀子)

90人が寒さと余震に耐え、いつくるか分からない救助を待ち続けた屋上倉庫。震災当時のまま残され、その状況を見学できる(写真提供/山元町教育委員会)

90人が寒さと余震に耐え、いつくるか分からない救助を待ち続けた屋上倉庫。震災当時のまま残され、その状況を見学できる(写真提供/山元町教育委員会)

90人が一夜を過ごした屋上の倉庫へは、狭く急な階段を昇る。明かりのないこの倉庫は、学習発表会の衣装や模造紙に書かれた絵などが当時のまま残されている。食べ物も飲み物もなく、氷点下の外気温の中、屋上倉庫の中にあるもので寒さをしのぎ、余震の恐怖に耐えながら一夜を過ごした。

災害を自分のこととして考える校舎の壁に見える青いプレートの高さまで津波が達した。津波が押し寄せて水没した校舎は「まるで船になって海に漕ぎ出したような感覚」だったという(写真提供/山元町教育委員会)

校舎の壁に見える青いプレートの高さまで津波が達した。津波が押し寄せて水没した校舎は「まるで船になって海に漕ぎ出したような感覚」だったという(写真提供/山元町教育委員会)

体育館により引き波から守られたことで被害が比較的少なかった2階の旧音楽室は当時の状況を色濃く残したまま映像室に改修され、当時の様子などを教職員や保護者のリアルな声と共に知ることができる。震災前は集落が見えていた旧音楽室の窓からは、黄色いハンカチが風にたなびくのが見える。被災地に対する支援への感謝や、全国から寄せられた復興を願うメッセージなどがハンカチに書かれている。地元で伝承活動を続ける「やまもと語りべの会」によるプロジェクトのひとつだ。

2階の旧図書室は展示室として改修され、ジオラマ、ドキュメントパネル、震災前の映像などを見ることができる。震災前の街並みを再現した模型は、地域住民らとのワークショップを通じて製作された「記憶をカタチに残す」取り組みだ。また、震災前の中浜小学校の模型は、縁が津波の高さに合わせてつくられており、同じ高さの視線で覗き込むといろいろなことが見えてくる。

「この震災遺構は、津波の被害状況や甚大さを知ってもらうだけではなく、災害を『自分のこと』として捉えることが大事だと考えて整備しました。例えば、展示物もただ模型を見るだけではなく、『津波はどの方向から襲ってきたのだろう』『たった一日で日常生活が変わってしまうのはどんな気持ちになるだろう』など問いかけのカードを多く用意しており、その問いかけを通じて、見学者自身にもし自分の生活環境で災害が起きたらどうするかについて考えさせるためのさまざまな工夫しています」と八鍬さんが話すように、答えを与えるのではなく、見て、考えて、想像できるような展示内容になっている。

震災前の町を再現したジオラマは住民も参加して製作され、地域住民の記憶回帰の場にもなっている(写真撮影/佐藤由紀子)

震災前の町を再現したジオラマは住民も参加して製作され、地域住民の記憶回帰の場にもなっている(写真撮影/佐藤由紀子)

児童ら90人の命が無事に守られたことには「事前の備え」がいくつもある。中浜小学校は震災前から津波や高潮の危険性があったことから、1989年の建て替え時に敷地全体が2m程度かさ上げされた。そのため、屋上は津波の被害を逃れた。また、地域住民が学校が開いていない時間帯でも校舎2階まで避難できるように設けられた3つの外階段のひとつが翌朝に脱出ルートとして利用できた。

「学校が海に近いため、先生方は津波の浸水域であるという危機感を常に持っていて、震災当日の2日前の3月9日に発生した津波注意報の発表を伴う地震(このとき山元町では津波は観測されていなかった)を受け、津波が発生した場合の防災・避難行動をしっかりと考え直しています。いろいろな偶然や幸運が重なりましたが、事前に避難マニュアルを確認し、児童には災害に対する意識の大切さを促していたので、パニックにならず落ち着いて行動ができました」(八鍬さん)

児童の心のケア、転入・転出の手続き、年度末の会計処理、支援物資の分配など、学校再開に向けた多岐にわたる取り組みを整理するため模造紙に書かれたマインドマップ。仕事や勉強などさまざまなものに応用できるという(写真撮影/佐藤由紀子)

児童の心のケア、転入・転出の手続き、年度末の会計処理、支援物資の分配など、学校再開に向けた多岐にわたる取り組みを整理するため模造紙に書かれたマインドマップ。仕事や勉強などさまざまなものに応用できるという(写真撮影/佐藤由紀子)

震災遺構として2020年9月に中浜小学校が公開され、約2カ月で来訪者は8000人を超えた。修学旅行の小・中学生も多く訪れており、展示室のノートには「津波の破壊力にびっくりした」「こんな災害が二度と起こらないように願う」「深く考えさせられ、多くの学びを得られる場所だった」などの感想が綴られている。

震災遺構中浜小学校は、被災したままの状態での公開を法的に可能とした手法や、住民らとの意見交換を重ねて整備したプロセス、時の流れを感じながら震災について考える日時計モニュメントなどによる統合的なデザインが評価され、「震災の脅威を示すにとどまらない学びの場を提供しており、柔軟な発想が出来上がった空間の質を格段に高めている。この種の施設を整備する際の、ひとつのモデルを提示したプロジェクトである」として、グッドデザイン・ベスト100のほか、特別賞に該当するグッドフォーカス賞(防災・復興デザイン)も受賞した。

福島県のログハウス型仮設住宅を再利用した「大師堂住宅団地」2020年度グッドデザイン賞を受賞した福島県相馬郡飯舘村の「大師堂住宅団地」(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

2020年度グッドデザイン賞を受賞した福島県相馬郡飯舘村の「大師堂住宅団地」(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

次に紹介するのは、仮設住宅にまつわる取り組み。

2011年、福島県は応急仮設住宅を、通常のプレハブ建築ではなく、木造住宅で約6000戸以上を建設・供給した。(過去記事)仮設住宅は一定期間を過ぎると役割を終えるが、撤去されると同時に大量のゴミが発生し、処分費用もかかる。そこで、福島県は資源を有効活用しようと2016年に応急仮設住宅の再利用を呼び掛けた。

「大師堂住宅団地」が生まれた背景を福島県飯舘村建設管理係に聞いた。「2017年3月に、福島県第1原発事故で全村が計画的避難区域指定が、一部を除いて解除されました。そこで、避難していた住民が戻ってきて住めるように災害公営住宅を新築したり、もともとの公営住宅を改修・改善して整備していましたが、当時、仮設住宅に住める期間終了が当時迫っていて、年内に住宅を供給するために工期を短縮する必要がありました。

そこで、福島県が提案する『仮設住宅の移築・再利用事業』とも相まって、県内で使われていたログハウス型の仮設住宅を移築・再利用しようという流れになりました。

そして、仮設住宅を解体・廃棄処分ではなく恒久住宅とし、一時的な仮設住宅を恒久住宅として再構築したのが『大師堂住宅団地』です。仮設住宅が集会所などに再利用された話は聞いていましたが、災害公営住宅に変わったのは福島県で初めてでした」

建築・設計は、福島県から委託された設計事務所「はりゅうウッドスタジオ」と打ち合わせて進めた。躯体、間取りの壁の位置などはそのまま、屋根や外壁、基礎外周部に断熱材を補強して断熱・気密性を高め、冬は床下のエアコンひとつで暖かく、夏は涼しく過ごせるようにした。外壁に鉄板サイディングを施し、屋根、サッシ、設備などは一新。また、南側を広くし、軒下に外部デッキ・軒下空間を加えて外とつながり、交流する場を設けた。

16戸の仮設住宅の間取りを広げて12戸として再利用した(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

16戸の仮設住宅の間取りを広げて12戸として再利用した(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

内部は木の温かみ、ぬくもりを活かしログ材を極力そのまま見せるデザインにした。「ログ材は積み上げた後に丸太の重量と収縮で下がる現象があるため、断熱材の連続と気密を連続させることが難しかった」と話す(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

内部は木の温かみ、ぬくもりを活かしログ材を極力そのまま見せるデザインにした。「ログ材は積み上げた後に丸太の重量と収縮で下がる現象があるため、断熱材の連続と気密を連続させることが難しかった」と話す(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

県産の木を使い、地元の工務店の職人が建てた、地域の財産ともいえるログハウス型仮設住宅に新しい可能性を示した「大師堂住宅団地」は、緻密で丁寧な設計と同時に、資材の循環という地球環境にやさしい社会的な意義が評価された。

被災した特別史跡の復旧工事を公開する新たな手法「熊本城特別見学通路」「熊本城特別見学通路」。やわらかな弧を描く通路は全長350m、高低差21m(画像提供/益永研司写真事務所)

「熊本城特別見学通路」。やわらかな弧を描く通路は全長350m、高低差21m(画像提供/益永研司写真事務所)

最後に紹介するのは、2016年4月の熊本地震により甚大な被害を受け、石垣が崩れ、復旧工事に約20年が必要になった熊本城の事例。

「一般的に復旧工事はクローズで行われますが、熊本市の観光のメインで市民のシンボルに20年も入れないことは観光経済に大きな打撃です。そこで、発想を転換して開かれた工事にしようと、被災した城内に入り復旧する過程を安全、間近に見られる観光資源をつくり出すことを熊本市に提案し、実現にいたりました」と話すのは、日本設計のアーキテクト、塚川譲さん。

国の特別史跡内に建築をつくって見学通路を設ける、という初の試みだが、厳しい条件が重なった。「地震などが起きれば石垣が崩落する危険がある。復旧中の現場に新築の建物をつくるという通常では考えられないプロセスを進める必要がありました。また、熊本城の敷地は文化財保護法で定められた特別史跡で、掘ったり削ったりができないため、地中に杭を打つことができず、コンクリートの塊を置いた基礎としました。文化財に配慮しながら建物を支える建築手法をとりました」

見学ルートとなる空中歩廊。基礎を置ける範囲が制限されるため、石垣を飛び越える約50mのロングスパンアーチ構造を採用した(画像提供/益永研司写真事務所)

見学ルートとなる空中歩廊。基礎を置ける範囲が制限されるため、石垣を飛び越える約50mのロングスパンアーチ構造を採用した(画像提供/益永研司写真事務所)

来場者の視線、熊本城の景観に配慮して構造躯体はできるだけ小さく見せるよう工夫。生い茂る木々や植物と一体になった熊本城の景観が楽しめる(画像提供/益永研司写真事務所)

来場者の視線、熊本城の景観に配慮して構造躯体はできるだけ小さく見せるよう工夫。生い茂る木々や植物と一体になった熊本城の景観が楽しめる(画像提供/益永研司写真事務所)

2019年10月から特別公開第1弾を開始。2020年6月に第2弾として見学通路が開通した。コロナ禍の影響もあったが、10月下旬には見学者が10万人を突破した。「近くで見ることができてうれしかった」「まだ震災の傷跡が残っていることに悲しみや驚きを感じた」などの感想が届いているという。以前は地面から熊本城を見ていたが、地上6mから見られるのも新鮮で、緑豊かな城内では行くたびに違った景色を見ることができる。

「通常であれば新築の建物を建てることが許されない場所に建物を建てているため、20年間のみの公開で、その後は解体するということで文化庁の許可を受けています。前例のない試みの建築が、今回初めて実現したことで、文化財と建築の在り方が大きく見直されたのではないかと思います。入れない場所に安全に入って修復過程を見学するといった手法は、震災遺構の見学でも応用できる可能性があると、建築の有識者から評価をいただきました」(塚川さん)。「熊本城特別見学通路」は、安全性、機能性とあわせて美しいデザインも高く評価されている。

2020年度グッドデザイン賞を受賞した3つの事例に共通するのはリアルに災害を肌で感じ、広い視点で考え、「学ぶ」「生かす」「考える」機会を与えているという点だ。地域の復興にも役立ち、未来の災害への備え、対応を強く訴えかける。

前例がない特殊な状況や環境だらけだった「震災を伝える取り組み」はまだ始まったばかりだが、未来に生きるすべての人のために、これからも進化させながら100年、200年先まで伝え続けていく必要がある。

●取材協力
震災遺構中浜小学校の一般公開について
熊本城
●グッドデザイン賞
震災遺構 [山元町震災遺構中浜小学校]
住宅団地 [大師堂住宅団地]
建築 [熊本城特別見学通路]

震災で無人になった南相馬市小高地区。ゼロからのまちおこしが実を結ぶ

福島第一原子力発電所から半径20km圏内のまち、福島県南相馬市小高区。一度ゴーストタウン化した街だが、2016年7月12日に帰還困難区域(1世帯のみ)を除き避難指示が解除5年以上が経過し、小高区には新たなプロジェクトや施設が次々と誕生した。小高地区の復興をけん引してきた小高ワーカーズベース代表取締役の和田智行さんや、街の人たちに話を聞いた。
避難指示解除後人が動き、小高駅など交流の拠点が生まれた

2011年3月11日の福島第一原発事故の影響により小高地区には避難指示が出て全区民が避難した。一時、街から人がいなくなったが、避難指示解除以降住民の帰還が徐々に進み、2020年10月31日現在で居住率は52.89%。「すぐに元どおりとはいかないが、本格的に戻り始める人が出てきた」と街の人が話すように、着実に動き始めている。そして、避難指示の解除後に、各地から小高区に移住した人は600人ほどいるという。

上は、避難指示解除後に小高地区に新たに誕生した代表的な店舗・施設だ。特に2019年以降は、復興の呼び水となる新施設のオープンが相次いでいるが、ほかにもJR小高駅から西へ真っすぐ伸びる小高駅前通り沿いを中心に、新しい施設や店が誕生している。いくつか紹介しよう。


JR常磐線の小高駅の西側、福島県道120号浪江鹿島線を中心とした地図(記事で触れている施設やお店はチェック付き)

復興の呼び水となった新施設が続々と

まず、まちの玄関口となる駅。JR小高駅の駅舎は東日本大震災による津波で浸水したが、流されずそのまま残った。震災後は営業を休止していたが、避難指示解除後の2016年7月に再開、2020年3月にJR常磐線が全線開通した。小高駅は無人駅になったが、駅舎は木をふんだんに使った明るい空間にリニューアルされ、Wi-fi環境やコンセントを備え、打ち合わせや仕事場として利用が可能だ。

駅員が利用していた事務室はコミュニティスペースとして活用し、開放時に常駐するコーディネーターは、駅をハブとした魅力的なまちづくりプロジェクトの核となる予定。

駅舎のリニューアルと同時に駅に新たな役割を持たせ、人材を発掘するこの試み。JR東日本スタートアップと一般社団法人Next Commons Labが協同で取り組む「Way- Wayプロジェクト」の第一弾で、全国に先駆けて実証実験が行われたものだ。

JR小高駅(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

JR小高駅(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

常磐線は1~2時間に1本。駅舎のコミュニティスペースでは下校途中の高校生が勉強しながら常磐線を待つ。利用者が多い時間帯(平日は16時~19時、土・日・祝は12時~16時30分)に開放(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

常磐線は1~2時間に1本。駅舎のコミュニティスペースでは下校途中の高校生が勉強しながら常磐線を待つ。利用者が多い時間帯(平日は16時~19時、土・日・祝は12時~16時30分)に開放(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

次は、JR小高駅から歩いて約3分のところにある、芥川賞作家・劇作家の柳美里さんが2018年にオープンした本屋「フルハウス」。この店を目当てに全国からファンが訪れている。柳さんは、震災後にスタートした臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」(2018年3月閉局)で2012年2月から番組「ふたりとひとり」のパーソナリティを担当し、番組のために週1回通っていた。2015年4月に鎌倉市から南相馬市に転居。2017年7月、下校途中の高校生や地元の人たちの居場所にもなる本屋を開きたいと、小高区の古屋を購入して引越した。旧警戒区域を「世界で一番美しい場所に」との思いで、クラウドファンディングで資金を募り、2018年4月、この自宅を改装してオープンさせた。

柳美里さんの小説にちなんで名づけたブックカフェ「フルハウス」。裏に倉庫をリノベーションしてつくった演劇アトリエ「La MaMa ODAKA」を併設し、柳さんが立ち上げた演劇ユニット「青春五月党」の復活公演を2018年9月に上演。福島県立ふたば未来高校演劇部の生徒が出演し、チケットは完売(写真撮影/佐藤由紀子)

柳美里さんの小説にちなんで名づけたブックカフェ「フルハウス」。裏に倉庫をリノベーションしてつくった演劇アトリエ「La MaMa ODAKA」を併設し、柳さんが立ち上げた演劇ユニット「青春五月党」の復活公演を2018年9月に上演。福島県立ふたば未来高校演劇部の生徒が出演し、チケットは完売(写真撮影/佐藤由紀子)

写真は副店長の村上朝晴(ともはる)さん。店内には約3000冊の本が並ぶ。作家の村山由佳さん、角田光代さん、歌人の俵万智さんらにそれぞれ20冊の本を選んでもらい、手書きのメッセージを添えて販売するコーナーも。小説家が営む本屋ならではの他に類を見ない企画だ(写真撮影/佐藤由紀子)

写真は副店長の村上朝晴(ともはる)さん。店内には約3000冊の本が並ぶ。作家の村山由佳さん、角田光代さん、歌人の俵万智さんらにそれぞれ20冊の本を選んでもらい、手書きのメッセージを添えて販売するコーナーも。小説家が営む本屋ならではの他に類を見ない企画だ(写真撮影/佐藤由紀子)

旧警戒区域に移住して本屋を開き、芝居を上演する柳さんに、友人・知人は「無謀過ぎる」と止めたそうだが「帰還者が3000人弱の、半数が65歳以上の住民のみでは立ち行くことはできない。他の地域の人と結合し呼応し共歓する場所と時間が必要。無謀な状況には無謀さを持って立ち向かう」と柳さん。「フルハウス」は、本や人、文化に触れ、若者の未来と夢が広がる、“こころ”の復興に欠かせない要地となっている。

南相馬市が復興拠点として整備し、2019年1月に誕生した「小高交流センター」には、多世代が健康づくりができる施設や、フリーWi-fiに対応する交流スペース、起業家向けのコワーキングスペース、飲食店などがそろう。こちらにも地元の人が多く訪れており、日常的な憩いの場になっていることがうかがえた。

小高交流センター(写真撮影/佐藤由紀子)

小高交流センター(写真撮影/佐藤由紀子)

小さな子ども向けの遊び場「子育てサロン」。授乳スペースやキッチンコーナーも併設。2人の子どもを連れた母親は「幼稚園の帰りに毎日寄って、子どもたちを遊ばせています」と話していた(写真撮影/佐藤由紀子)

小さな子ども向けの遊び場「子育てサロン」。授乳スペースやキッチンコーナーも併設。2人の子どもを連れた母親は「幼稚園の帰りに毎日寄って、子どもたちを遊ばせています」と話していた(写真撮影/佐藤由紀子)

農業を再開した方の新鮮な朝採り野菜など生産者の顔が見える安全・安心の野菜を中心に、地産のものを販売する「小高マルシェ」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

農業を再開した方の新鮮な朝採り野菜など生産者の顔が見える安全・安心の野菜を中心に、地産のものを販売する「小高マルシェ」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

ゼロから新しいことに挑戦する人たち。名産品のトウガラシも誕生

筆者は2019年3月以来の再訪だが、上記で紹介した施設以外にも、小高地区の駅前通りに新しい個人経営の店舗がぽつりぽつりと増えているのを発見した。話を聞くと、ほとんどが避難区域解除後に地元に帰還して、店を開き新たな分野に挑戦していた。

震災前にスーパーで働いていた鈴木一男さんは、2019年2月、同じ場所に家族とともに食事処「Diner Bonds(ダイナーボンズ)」を開いた。ランチは、カツカレー、かつ丼、生姜焼き定食など、どれもボリュームがありリーズナブル。お客が次々訪れ活気にあふれていた。「駅前の通りは車が増えて、にぎわっていると感じます」(写真撮影/佐藤由紀子)

震災前にスーパーで働いていた鈴木一男さんは、2019年2月、同じ場所に家族とともに食事処「Diner Bonds(ダイナーボンズ)」を開いた。ランチは、カツカレー、かつ丼、生姜焼き定食など、どれもボリュームがありリーズナブル。お客が次々訪れ活気にあふれていた。「駅前の通りは車が増えて、にぎわっていると感じます」(写真撮影/佐藤由紀子)

「小高工房」は、2017年3月オープン。畑でイノシシの被害がないトウガラシに着目、3人で栽培を始め、現在は80人以上の住民を巻き込んだプロジェクトに成長、新たな特産品に。写真はオーナーの廣畑裕子さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「小高工房」は、2017年3月オープン。畑でイノシシの被害がないトウガラシに着目、3人で栽培を始め、現在は80人以上の住民を巻き込んだプロジェクトに成長、新たな特産品に。写真はオーナーの廣畑裕子さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

2019年12月、ここで以前呉服屋を営んでいた鈴木さんが娘さんと開いた「コーヒーとたべもの 鈴木屋」。実家の秋田や青森の食材を使ったメニューが特徴で、淹れたてのドリップコーヒー、手づくりケーキなどを提供。「人は少しずつ戻ってきていますし、若い人が増えています」とオーナー(写真撮影/佐藤由紀子)

2019年12月、ここで以前呉服屋を営んでいた鈴木さんが娘さんと開いた「コーヒーとたべもの 鈴木屋」。実家の秋田や青森の食材を使ったメニューが特徴で、淹れたてのドリップコーヒー、手づくりケーキなどを提供。「人は少しずつ戻ってきていますし、若い人が増えています」とオーナー(写真撮影/佐藤由紀子)

「Odaka Micro Stand Bar(オダカマイクロスタンドバー)~オムスビ~」はスペシャリティコーヒーが看板。移住者やUターンした若者が「小高で地域と若い人が変わるきっかけをつくりたい」と、小高駅付近でキッチンカーから始めて2018年に開店(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「Odaka Micro Stand Bar(オダカマイクロスタンドバー)~オムスビ~」はスペシャリティコーヒーが看板。移住者やUターンした若者が「小高で地域と若い人が変わるきっかけをつくりたい」と、小高駅付近でキッチンカーから始めて2018年に開店(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

地域の課題を解決するための事業に取り組む起業家を支え育成する「小高パイオニアヴィレッジ」外観(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「小高パイオニアヴィレッジ」外観(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

復興の潮流をここまで見てきたが、なかでも大きな位置を占めるのが、2019年3月に誕生した「小高パイオニアヴィレッジ」(過去記事)と、その運営を担う一般社団法人パイオニズム代表理事の和田智行さんの存在だ。

「小高パイオニアヴィレッジ」は、起業家やクリエイターの活動・交流の拠点としても活用できるコワーキングスペースとゲストハウス(宿泊施設)、共同作業場(メイカーズスペース)を含む施設。和田さんは、このコワーキングスペースを拠点に、人と人、人と仕事を結びつけ、コミュニティやビジネスを創出する手助けをしている。

小高区(旧小高町)生まれの和田智行さん(写真撮影/佐藤由紀子)

小高区(旧小高町)生まれの和田智行さん(写真撮影/佐藤由紀子)

「小高パイオニアヴィレッジ」を立ち上げ運営を担う和田さんが代表取締役を務める小高ワーカーズベースは、地域の協力活動に取り組む「地域おこし協力隊」を活用して地域の課題の解決や資源の活用を目指すプロジェクトを進める「ネクストコモンズラボ(以下、NCL)」の事業を、南相馬市から受託している(NCL南相馬)。NCLは全国14カ所で行われている。

和田さんは「1000人を雇用する1社に暮らしを依存する社会ではなく、10人を雇用する多様な100社が躍動している自立した地域社会を目指す」ため、2017年から、南相馬市の職員と共に、NCL南相馬の事業をスタートさせた。

「私たちが地域の課題や資源を活用して案をつくり、実際に事業化したい人を募集し、企画書を提出してもらって採用を判断します。そして、起業家が自走できるように活動や広報をサポートし、地域や他企業とつないだりしながら、育成していきます。最終的には、経済効果が生まれ、関係人口が増えて、その人たちが定住することも目的のひとつです」(和田さん)

現在進めているプロジェクトは、先に説明した小高駅を活性化する「Way- Wayプロジェクト」、南相馬市で千年以上前から続いている伝統のお祭り「相馬野馬追」のために飼われている馬を活用した「ホースシェアリングサービス」、セラピストが高齢者の自宅や福祉施設、病院などを訪問してアロマセラピーで癒やしを届ける「移動アロマ」、地方では手薄になりがちな地域の事業者や商材に対して広報・販促支援などを行う「ローカルマーケティング」を含む7つ。以下、全国各地からプロジェクトの募集を見て移住したラボメンバーの3人を紹介。

横浜市生まれの水谷祐子さんは、英国IFA認定アロマセラピストの資格を持ち、アロマセラピストとして高齢者に施術をしてきた。「移動販売プロジェクト」に参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

横浜市生まれの水谷祐子さんは、英国IFA認定アロマセラピストの資格を持ち、アロマセラピストとして高齢者に施術をしてきた。「移動販売プロジェクト」に参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

東京都生まれ、馬の調教師・馬術選手だった神瑛一郎(じん・よういちろう)さん。年1回の相馬野馬追のために飼育されている馬の活躍の場をつくる「ホースシェアリング」に参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

東京都生まれ、馬の調教師・馬術選手だった神瑛一郎(じん・よういちろう)さん。年1回の相馬野馬追のために飼育されている馬の活躍の場をつくる「ホースシェアリング」に参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

南相馬市生まれ、仙台、北海道で旅行領域の営業職に就いた高田江美子さん。地元にUターン、前職を通じ広報・販売活動の重要さを感じて「自由提案プロジェクト」にローカルマーケッターとして参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

南相馬市生まれ、仙台、北海道で旅行領域の営業職に就いた高田江美子さん。地元にUターン、前職を通じ広報・販売活動の重要さを感じて「自由提案プロジェクト」にローカルマーケッターとして参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

2021年に本格的に始まる新たなプロジェクトでは、民家を改装した酒蔵で、日本酒にホップを用いた伝統製法や、ハーブや地元の果物などを使ってCraft Sakeをつくる「haccoba(ハッコウバ)」がある。2021年春には新しいコミュニティ、集いの場を目指し、酒蔵兼バーがオープンする予定で、地域住民の期待も高い。

「haccoba(ハッコウバ)」完成予想図((c)Puddle Inc.)

「haccoba(ハッコウバ)」完成予想図((c)Puddle Inc.)

酒瓶イメージ(写真提供/haccoba, Inc.)

酒瓶イメージ(写真提供/haccoba, Inc.)

「小高パイオニアヴィレッジ」は、移住してきた起業家の共同オフィスとして活用されているが、「知らないまちで起業することは意欲的な人でも難易度は高く、壁にぶつかることもあると思います。けれども、起業家が集まる場があれば、自然と連携ができて、情報交換を行い、協力し切磋琢磨し合える、そんなコミュニティが生まれるきっかけにもなっています」。地元出身の和田さんは、孤独になりがちな起業家を地域とつなげるハブのような役割も担っている。

小高パイオニアヴィレッジのコワーキングスペース。ひな壇にはコンセントや暖房も装備されている(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小高パイオニアヴィレッジのコワーキングスペース。ひな壇にはコンセントや暖房も装備されている(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小高パイオニアヴィレッジのゲストハウス。長期滞在者や仕事をしながら宿泊する人に便利(写真提供/小高ワーカーズベース)

小高パイオニアヴィレッジのゲストハウス。長期滞在者や仕事をしながら宿泊する人に便利(写真提供/小高ワーカーズベース)

パイオニアヴィレッジのメーカーズルームには、老舗の耐熱ガラスメーカーHARIOが職人技術継承のために立ち上げた「HARIOランプワークファクトリー」の生産拠点のひとつとしてスタート。2019年3月には、「HARIOランプワークファクトリー」の協力のもと、オリジナルのハンドメイドガラスブランド、iriser(イリゼ)をリリース。地元の自然などをモチーフにした他にないデザインが特徴だ。

5人の女性ガラス職人がアクセサリーを製作・販売する施設内の「アトリエiriser(イリゼ)」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

5人の女性ガラス職人がアクセサリーを製作・販売する施設内の「アトリエiriser(イリゼ)」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

老舗の耐熱ガラスメーカーHARIO の生産拠点としてスタートし、2019年3月にオリジナルのハンドメイドガラスブランドをリリース。地元の自然などをモチーフにしたものも(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

老舗の耐熱ガラスメーカーHARIO の生産拠点としてスタートし、2019年3月にオリジナルのハンドメイドガラスブランドをリリース。地元の自然などをモチーフにしたものも(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

起業することが当たり前の風土をつくりたい

2020年春のコロナウイルス感染拡大により、小高パイオニアヴィレッジでは、夏休みの地域留学プログラム、大学生や高校生、リモートワーカーの利用が増えたという。また、NCL南相馬の起業家を募集すると、オンライン説明会の参加者が増えた。

「どこでも仕事ができるようになったことで地方に目を向けたり、ライフスタイルが変わったことで自分のキャリアに不安を感じて一から地方で力試しをしたい、という考え方が出てきたのかもしれません。また、避難生活を経験して心機一転、もともとやりたかったことを始めたケースもあるのかもしれません。前向きな人たちが増えて街が面白くなっていくといいと思います。

便利で暮らしやすいまちではなくても、ここじゃないと味わえない、わざわざ訪れたくなるまちになるためには、地域の人たちが自ら事業を立ち上げてビジネスをやっていることが当たり前になっていることが重要。いろいろな分野でリーダーが出てくると、もっと多彩なプロジェクトが生まれるはずです。

それに、そういう風土をつくっていかないと、課題が発生したときに解決する人が地域に存在しないことになってしまう。行政や大きな企業に解決してもらうのは持続的ではない。100の企業をつくることで、さまざまな課題が解決できるようになる。私たちはこれからも事業をひたすらつくっていきます」と、和田さんの軸はぶれない。

今回、紹介した施設や店舗はあくまで一例。ほかにも長く地元の人に親しまれてきた個人商店の再開や、住民一人一人の努力の積み重ねや人と人のつながり、協力があるからこそ前に進んでいる。

5年以上のブランク期間があった小高区。新しくユニークな施設、店が誕生し、震災前の常識、既成概念がなくなり、人間関係が変わった。だからこそ、フロンティア精神にあふれるエネルギッシュで面白い人が集まる。目指すところが同じだから、自治体と住民の連携も良好だ。

2021年度、政府は地域の復興再生を目指し、福島第一原発の周辺12市町村に移住する人に最大200万円の支援金を出すこと、またさらに移住後5年以内に起業すると最大400万円を支給するなどの方針をかためたという。一から何かに挑戦したいと考える人の呼び水になるか。

「平凡な自分でも、何かできるかもしれない、やりたいことに挑戦してみたい」そんなチャレンジ精神が刺激され住んでみたいと思わせる小高区の変化を見に、また数年後も訪れたいと思う。

●取材協力
小高パイオニアヴィレッジ
小高ワーカーズベース
小高交流センター

無人駅で地域活性! グランピング施設、カフェ、クラフト工房などへ

今、JR東日本が無人駅を使って地域を活性化する取り組みを進めている。今年の2月には、上越線土合駅(群馬県みなかみ町)にサウナやグランピング施設などを設置した取り組みが話題になった。JR東日本グループはなぜ無人駅の活用に積極的に取り組んでいるのか? その狙いと効果について、JR東日本スタートアップの隈本伸一さんと佐々木純さんにお話を伺った。
4つの無人駅活用プロジェクトが進行中

JR東日本管内には約1600の駅があり、そのうちの約4割を無人駅が占める。JR東日本にとっては“遊休資産”とも呼べる無人駅。清掃や駅舎の修繕など維持管理費はかなりの額に上るが、JR東日本スタートアップの隈本さんによると、問題はコストだけではないそうだ。

「無人駅の周りには、往々にして地域のにぎわいがありません。せっかく空いているスペースや躯体があるので、これらを活用して地域のためになる活動をしたい思いは、以前からありました」

JR東日本グループが進行している無人駅活性化プロジェクトは現在、全部で4つ。それらは全て、オープンイノベーションの推進を目的とした「JR東日本スタートアッププログラム」から生まれたものだ。つまり、JR東日本グループの単体ではなく、ベンチャー企業などとのコラボレーションによって進められている。

「無人駅の活用に関しては、ベンチャー企業から提案を受けたり、逆に我々から提案することもありました。プロジェクトの選定基準は、『JR東日本グループとのシナジーが生み出せるか』『新規性があるか』『事業継続性があるか』の3点です。今取り組んでいる4つの事例はこれらを満たし、加えて地域のためにやるべきと判断されて実施にいたりました」

それでは4つの事例を順番に見ていこう。

1 山田線上米内駅(岩手県盛岡市)×漆

漆の産地として知られる盛岡市。地元の一般社団法人次世代漆協会と連携し、駅舎を漆をテーマにした施設にリニューアルした。カフェスペースや漆器の販売施設、作業のできる工房などを設置して今年の4月29日にオープン。資金はCAMPFIREと連携しクラウドファンディングより募った。

(写真提供/JR東日本スタートアップ

(写真提供/JR東日本スタートアップ)

同施設は地元メディアに大きく取り上げられ、4~5月は100人が訪れる日もあったそう。桜の名所の近さも幸いし、4~7月の3カ月間で約2865名もの人が来訪し、大きなにぎわいを見せた。現在も営業中だ。

リニューアル前(写真提供/JR東日本スタートアップ)

リニューアル前(写真提供/JR東日本スタートアップ)

リニューアル後(写真提供/JR東日本スタートアップ)

リニューアル後(写真提供/JR東日本スタートアップ)

一般社団法人次世代漆協会代表理事の細越確太さんによると、市内・市外問わず多くの方が訪れ、中には繰り返し訪れる方もいるという。

「この取り組みを始めてから、わざわざ上米内に来てくださる方が増えました。地域活性化を課題に感じている人のなかには、駅を利用した活動に共感してくださる方も多く、新たな連携の芽が生まれつつあると感じます」

本プロジェクトを担当した隈本さんは、「別の建物ではなく、駅でやることに意味があった」と振り返る。

「地元の方と話す中で、駅は地域の人にとって想像以上にシンボリックな存在だと分かりました。電車の乗り降りを繰り返し、思い入れのある場所になっていくのだと思います。地域活性化に無人駅を使うメリットは単なるコスト抑制だけではなく、自然と人が集まる点や、地域の人たちの協力を得やすい点にあると感じました」

上米内の漆器(写真提供/JR東日本スタートアップ))

上米内の漆器(写真提供/JR東日本スタートアップ)

こうした地域活性化のプロジェクトは、地元の人たちの理解が欠かせないと、隈本さんは続ける。

「今回のプロジェクトは、地域住民の方に『自分たちの住む地域は漆が有名』だと若い人たちに知ってもらう目的もありました。地域の人たちに働きかけるのに、駅という場所はぴったりです。地域活性化を大きな流れにするためにも、いかに地域住民の方にアピールするかが重要だと思います」

2 上越線土合駅(群馬県みなかみ町)×グランピング

上りホーム改札のある駅舎から下りホームまで、地下に462段の階段が続き、「日本一のモグラ駅」として知られる土合駅。グランピング施設の運営などを手がけるVILLAGE INC.と連携し、土合駅を地域の情報発信拠点にする試みを行った。

(写真/PIXTA)

(写真/PIXTA)

駅前の空きスペースにサウナやグランピング場、宿泊施設を設け、駅舎内には切符売り場を改装しカフェを設置。クラフトビールの提供や工芸品づくりワークショップ開催など、地元企業との連携も実現。今年の2~3月にかけて行った実証実験では宿泊予約が満席となり、現在は秋の正式オープンを目指して準備を進めている。

宿泊施設「モグラハウス」(写真提供/JR東日本スタートアップ)

宿泊施設「モグラハウス」(写真提供/JR東日本スタートアップ)

(写真提供/JR東日本スタートアップ)

(写真提供/JR東日本スタートアップ)

グランピング場(写真提供/JR東日本スタートアップ)

グランピング場(写真提供/JR東日本スタートアップ)

カフェは2020年8月8日に正式オープンした(写真提供/JR東日本スタートアップ)

カフェは2020年8月8日に正式オープンした(写真提供/JR東日本スタートアップ)

3 常磐線小高駅(福島県南相馬市)×地域コーディネーター

地方創生プロジェクトを数多く手がける一般社団法人Next Commons Lab(NCL)と協業し、小高駅舎を改装してコミュニティの場を創出するプロジェクト。地域の課題を解決する創造的人材を育成するとともに、旅をしながら地域で仕事ができるインフラや環境を構築して、関係人口の創出・拡大につなげるのが狙いだ。

駅員が使用していたスペースを改装し、都市と地域の起業家や起業をサポートする人が集まる場や、小高駅を利用する学生の交流の場をつくる予定。小高駅に駐在しコーディネーターとして活動する「民間駅長」を現在募集している。

常磐線小高駅の駅舎内の待合スペース(リニューアル後)(写真提供/JR東日本スタートアップ)

常磐線小高駅の駅舎内の待合スペース(リニューアル後)(写真提供/JR東日本スタートアップ)

4 信越本線帯織駅(新潟県三条市)×ものづくり

洋食器や金属加工など、ものづくりの街として知られる燕三条地域に位置する帯織駅を、ものづくり交流拠点「EkiLab(エキラボ)帯織」としてリニューアルするプロジェクト。町工場と連携して“ものづくりのアイディアを形にできる場所”を目指している。クラウドファンディングを手がけるベンチャー企業CAMPFIREとの連携により、この場をクリエイターとして利用する会員や資金を募るなどした。

駅舎横の駐車場に新設する工場には、CADを使えるパソコンや3Dプリンターなどを設置。会員は基本施設を自由に利用できるほか、デザイン・設計ソフトのオンラインセミナーやワークショップを受講できる。ものづくりの相談窓口として、燕三条地域の職人や企業の紹介・マッチングにも対応していく。今年10月開業を目標に現在準備中。

EkiLab帯織 施設(イメージ)(写真/CAMPFIREのプロジェクトページより)

EkiLab帯織 施設(イメージ)(写真/CAMPFIREのプロジェクトページより)

EkiLab帯織でできること(イメージ)(写真/CAMPFIREのプロジェクトページより)

EkiLab帯織でできること(イメージ)(写真/CAMPFIREのプロジェクトページより)

無人駅活用のバリエーションは無限大

グランピングからものづくり拠点まで、プロジェクトのバリエーションが富んでいるのは、ベンチャー企業や地元企業などの協業相手のおかげだと、佐々木さんは振り返る。

「無人駅活用の取り組みをJR東日本単体でやろうとすると、どうしてもアイデアが出てこなかったり、偏ったりすると思います。でも今回は、秘境地域を宿泊施設に変えるのが得意なVILLAGEさん、コミュニティづくりに長けたNCLさん、クラウドファンディングで働きかけるのが上手いCAMPFIREさん、地元の企業・団体の方々など、色々な得意分野のある方たちと組めたおかげで、これだけの多様性が生まれました。無人駅の活用バリエーションは、本当に無限だと思います」

面白いアイデアを実現するために大切なポイント。それは「協業先の良さを最大限に生かすこと」だと、隈本さんは言う。

「弊社の役割は、JR東日本側と協業先の橋渡しです。相手がベンチャー企業さんの場合にはできるだけ自由にやっていただきたいと思っています。JRと組む上でいろいろ我慢されてしまうと、せっかくの個性が消えてつまらないアイデアになってしまいますから」

JR東日本グループ内は、新たな取り組みを始めやすい空気になりつつあるという。

「当社ではスタートアッププログラムを開始して今年で4年目なので、ベンチャー企業との協業が社内にも浸透してきました。無人駅以外のプロジェクトも年間で20個ほど走っています。今後も無人駅が関わるものもそうでないものも含めて、新しい取り組みがどんどん生まれてくると思います」

最後に今後の方針について聞くと、2人とも「無人駅活用の事例を蓄積して、社内外に広めていきたい」と話してくれた。自分たちの事例を参考に、無人駅を活用して地域活性化をしようと考えるプレーヤーが増えてくれたら。そんな思いとともに、今も一つひとつのプロジェクトを丁寧に形にしている。

上米内駅の事例では、駅舎を使ったことで「地域で新たな連携の芽が生まれた」との声が聞かれたように、駅は単なる「電車を乗り降りする場所」以上の意味を持つようだ 。その価値に気づいたいま、これからも想像を超える地域活性化の取り組みが無人駅から生まれることを、期待せずにはいられない。

●取材協力
駅舎内喫茶「mogura」

老・病・死をタブーにしない。福島県いわき市のメディア『igoku(いごく)』の挑戦

『いごく(igoku)』とは、福島県いわき市役所の地域包括ケア推進課が手掛けているメディアで、「老・病・死」をテーマに、地元のクリテイターと手を組み、フリーペーパーとウェブで情報発信している。
これが、お堅いイメージのある行政が関わっているとは思えないほど、独特で、笑えて、“エモい”のだ。
さらに、2019年グッドデザイン賞の金賞を受賞したことも大きな話題に。
「縁起でもない」と敬遠されがちなことに「マジメに不真面目」に取り組んでいるつくり手たちに、『いごく』が始まった経緯、課題の背景、今後の展開などをお伺いするべく、福島まで足を運んでみた。

地域包括ケアとは何ぞや? 一人の職員の行動から始まった取り組み

「やっぱ家で死にてぇな!」「死んでみた!」「パパ、死んだらやだよ」「認知症解放宣言」――。ドキっとするけど、重くない。どこか、クスっと笑えるタイトルが並ぶ。フリーペーパーの「紙のいごく」の特集名だ。
グラビアは「老いの魅力」なる、おじいちゃん、おばあちゃんのポートレート。なんともいえない、いい表情がとらえられていて、「福祉」「介護」から連想する、生真面目なイメージからはほど遠い誌面だ。
ウェブマガジンでも、とにかく楽しそうなおじいちゃん、おばあちゃんの様子が臨場感ある写真とコピーでレポートされている。

ウェブマガジンで各地域のつどいの場をレポート。「いごく」はいわきの方言で「うごく(動く)」の意味。「いごく」人々や取り組みに焦点を当てている(画像/ウェブマガジンより)

ウェブマガジンで各地域のつどいの場をレポート。「いごく」はいわきの方言で「うごく(動く)」の意味。「いごく」人々や取り組みに焦点を当てている(画像/ウェブマガジンより)

コンセプトは、「死や老いをタブーにしないこと」。そして「面白がること」。
「人生の“最期”をどこで、どんなふうに迎えたいか、自分が考えたり、親子で会話するきっかけになったらと思っています」と、『いごく』の発起人であるいわき市役所の職員である猪狩僚さん。

いごく編集長(と、自分で勝手にネーミングしたそう)の猪狩さん。記事方針は明確に伝えるが、「あとはクリエイターたちにお任せ」だそう (写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

いごく編集長(と、自分で勝手にネーミングしたそう)の猪狩さん。記事方針は明確に伝えるが、「あとはクリエイターたちにお任せ」だそう (写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

そもそも『いごく』が生まれたのは、4年前、猪狩さんが新設の「地域包括ケア推進課」に配属されたことがきっかけ。「僕は福祉の領域は初めて。そもそも”地域包括ケアってなんだ?”というところからのスタートで、ミッションすらまだ定まっていない状態でした。具体的に何をすればいいのか手探りで、とりあえず医療や福祉の現場をのぞかせてもらったんです」(猪狩さん)。

そんななか、猪狩さんが衝撃を受けたのが、医療や福祉の現場スタッフによる勉強会に参加したときだった。
「みんな、仕事終わりですごく疲れているのに、自腹で参加費500円を払って参加しているんです。これにまず驚き。そして、涙ながらに“あのとき、患者さんにまた違ったアプローチをしていれば、利用者さんとそのご家族が幸せな最期を迎えられたんじゃないか”と反省している方がいて……。自分が当事者にならないと介護の現場に触れる機会がないから、多くの人は現場で働く方々の想いを知らない。『この現場の想いを、誰かが発信してもいいんじゃないかな』。それが僕のミッションだと考えたのがスタートでした」(猪狩さん)。

当事者以外に届けるなら、デザインの力が不可欠

そして、自分が望む場所で最期まで暮らせる「選択肢がある」社会にすることが、地域包括ケアの目的ではないかと考えるようになった猪狩さん。

「そのためには、まだ介護や老後、死がまだ身近にない人こそ、“何だろう”“面白そう”と思えるプロダクトや、デザインの力が必要だと思いました」
それからの猪狩さんの行動が驚きだ。
「たまたま、地元のかまぼこメーカーさんの商品“さんまのぽーぽー焼風蒲鉾”のデザインがすごく良くて、”ポスターをつくってほしい!”と押しかけました(笑)」(猪狩さん)
そのデザイナーが、現在「いごく」のメンバーの一人である高木市之助さん。最初は戸惑っていたものの、「だったら印刷も必要だ」と友人に声かけたり、「編集や書いたりできる人もいたほうがいいね」といったふうに、だんだん人が集まっていった。

「いごく」を支えるメンバーの面々。左から、郷土歴史家の江尻浩二郎さん、地域活動家として著作『新復興論』が大佛次郎論壇賞を受賞したエディターの小松理虔さん、猪狩さん、メディア全体のプロデューサーの渡邉陽一さん、いわき市の地域包括ケア推進課の瀬谷伸也さん。あの日、突然押しかけられたデザイナーの高木市之助さん、映像カメラマンの田村博之さんは残念ながらこの日は不在(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「いごく」を支えるメンバーの面々。左から、郷土歴史家の江尻浩二郎さん、地域活動家として著作『新復興論』が大佛次郎論壇賞を受賞したエディターの小松理虔さん、猪狩さん、メディア全体のプロデューサーの渡邉陽一さん、いわき市の地域包括ケア推進課の瀬谷伸也さん。あの日、突然押しかけられたデザイナーの高木市之助さん、映像カメラマンの田村博之さんは残念ながらこの日は不在(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

毎週木曜日はゆるやかな「編集会議」が。時にふざけつつ、脱線もしつつ、笑い声が絶えない。ノリはまるで男子校だ。「男ばっかりというのはちょっと問題アリだとは思っているんですけど(笑)」(猪狩さん) (写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

毎週木曜日はゆるやかな「編集会議」が。時にふざけつつ、脱線もしつつ、笑い声が絶えない。ノリはまるで男子校だ。「男ばっかりというのはちょっと問題アリだとは思っているんですけど(笑)」(猪狩さん) (写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

福祉の素人だからこそ書ける「ありのまま」の一人称メディア

創刊当時のことを、いごくメンバーの1人である小松理虔さんは振り返る。
「当時のメンバーで、おもしろいおじいちゃんやおばあちゃんがいると聞いたら、みんなで取材に行ってましたね。4人でカメラをかかえて、全員がインタビュアー。地元の洋品店の2階で、92歳のヨガの先生のおばあちゃんにヨガを教えてもらったり、シルバーリハビリの先生のおじいちゃんに話を聞きに行ったけど、若いころの話が面白すぎて40分たっても本題に入れなかったり。かなりカオス(笑)。でも面白かった。その驚きとか、面白かったこと、思ったことをそのまま書きました。そのうち、何を面白がるかという『いごく』のコンセプトっぽいものをメンバー全員で共有できた気がします」(小松さん)

ヨガの先生に会いにいった話は、「二ツ箭(ふたつや)と呼吸する日々」というタイトルの記事に。「この時は、まだウェブマガジンにしようとも、まだなんにも決めてなくて。とりあえず会いに行ってみた。そうしたら、とんでもなかった。そのままを小松くんに書いてもらいました」(猪狩さん)(写真提供/いごく編集部)

ヨガの先生に会いにいった話は、「二ツ箭(ふたつや)と呼吸する日々」というタイトルの記事に。「この時は、まだウェブマガジンにしようとも、まだなんにも決めてなくて。とりあえず会いに行ってみた。そうしたら、とんでもなかった。そのままを小松くんに書いてもらいました」(猪狩さん)(写真提供/いごく編集部)

いわき市シルバーリハビリ体操指導士会会長へのインタビュー「体操、中華、わたし」。「体操の話を聞きに行ったつもりが、話がホント面白くって、まったくまとめられなかった」と小松さん(写真提供/いごく編集部)

いわき市シルバーリハビリ体操指導士会会長へのインタビュー「体操、中華、わたし」。「体操の話を聞きに行ったつもりが、話がホント面白くって、まったくまとめられなかった」と小松さん(写真提供/いごく編集部)

以降も、基本的にはメンバー全員で取材に赴き、写真を撮るスタイル。一応、テーマは立てるけど、脱線してばかりいる。でも、その脱線のほうが面白いことも多い。出来上がった記事は、書き手の驚き、感動がそのまま現れる。猪狩さんいわく、私見だらけの「一人称のメディア」だ。(詳しくは、『いごく』のウェブマガジンをご覧ください!)

これは、行政が発信する媒体としては、かなり異質だ。
「チームには、誰も福祉の専門家がいないんです。 “高齢化と過疎化で大変! 協力してください”という媒体だと、もともと福祉に興味のある人しか響かない。だから、この人が面白かった、かっこよかった、この集まりがすごいことになってた!とか、素人の僕たちが感じたことをそのまま伝えたほうが、興味がない人にも届くんじゃないかと思っています」(猪狩さん)。

地元のお母さんたちが食で集う「北二区集会所」でのクリスマス会に、いごくメンバーも参加してレポート。とにかくやってみるがモットー (写真提供/いごく編集部)

地元のお母さんたちが食で集う「北二区集会所」でのクリスマス会に、いごくメンバーも参加してレポート。とにかくやってみるがモットー (写真提供/いごく編集部)

普遍的な課題だからこそ、全国から反響。グッドデザイン賞に

一番反響があったのは「認知症解放宣言」の特集。
「でも僕たちは認知症を知らない。じゃあ、僕と小松くんで介護施設に3、4日通ってみようと、一日中滞在していました。おばあちゃんやおじいちゃんとおしゃべりするだけで、特になにもしない(笑)。そこで毎回ごはんを食べたあとに音楽がかかると、いつも踊るおばあちゃんがいて。すごくいいな~と、ポスター仕様にしました。つい、認知症というと、意思疎通ができないシリアスな状況をイメージしてしまうけれど、認知症ってグラデーションなんですよね。周囲は面倒を見ようと思ってしまいがちだけど、認知症でも本人ができること、したいことを周囲にいる人間が取り上げる必要はないんじゃないか、認知症に対する偏見を外したいという想いが“認知症解放宣言”というコピーになりました。当然、”認知症はきれいごとじゃない”という意見もありましたが、興味を持ってくれる人が多く、病院や介護施設から送ってほしいという問い合わせがたくさんありました」(猪狩さん)。

長い間認識してもらいたい想いから、ポスター仕様に。今では、「紙のいごく」は、全国から”送ってほしい”と問い合わせがあり、いわき市外にも多数配布しているそう (写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

長い間認識してもらいたい想いから、ポスター仕様に。今では、「紙のいごく」は、全国から”送ってほしい”と問い合わせがあり、いわき市外にも多数配布しているそう(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

さらに2019年度のグッドデザイン賞を受賞。応募4772件のグッドデザイン賞のうち、金賞・ファイナリスト第5位という快挙につながった。老病死という重いテーマに対し、”縁起でもない”から”前向きかも”と感じられる取り組みが評価されたのだ。

東京で行われたグッドデザイン賞の授賞式はメンバー全員でおそろいのユニクロのジャケットで。人で埋め尽くされた会場で、猪狩さんが最終プレゼンを行った(写真提供/いごく編集部)

東京で行われたグッドデザイン賞の授賞式はメンバー全員でおそろいのユニクロのジャケットで。人で埋め尽くされた会場で、猪狩さんが最終プレゼンを行った(写真提供/いごく編集部)

今回取材が行われた場所は「みんなのお勝手~いつだれキッチン」(毎週木曜日のみ営業)。寄せられた食材を、客が自分で値段を決める”投げ銭制”の食堂だ。いつだれキッチンのお母さんたちと楽しそうにおしゃべりしている猪狩さん。ここでは食も悩みもシェア(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

今回取材が行われた場所は「みんなのお勝手~いつだれキッチン」(毎週木曜日のみ営業)。寄せられた食材を、客が自分で値段を決める”投げ銭制”の食堂だ。いつだれキッチンのお母さんたちと楽しそうにおしゃべりしている猪狩さん。ここでは食も悩みもシェア(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「先祖代々の土地を荒らさないために自分たちでは食べきれない野菜を捨ててしまうのはもったいない」ことからスタートした取り組みが、みんなが集う場所に(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「先祖代々の土地を荒らさないために自分たちでは食べきれない野菜を捨ててしまうのはもったいない」ことからスタートした取り組みが、みんなが集う場所に(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

野菜中心の家庭料理をビュッフェ形式で。取材日は特別に本格カレーも。これはいわき市の地域包括ケア推進課の鍛治さん作 (写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

野菜中心の家庭料理をビュッフェ形式で。取材日は特別に本格カレーも。これはいわき市の地域包括ケア推進課の鍛治さん作(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

看板はいごくメンバーの高木さんがデザイン (写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

看板はいごくメンバーの高木さんがデザイン(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

読者や地域を巻き込むリアルなイベントも開催

紙やウェブだけでなく、「情報発信だと頭で考えるだけだから、五感で訴えかけるリアルな体験も必要では」と考え、「いごくフェス」を開催。福祉ラップ、即興劇、葬儀屋さん協力による入棺体験会が行われるなど、型破りな活動をしている。

入棺体験の様子(写真提供/いごく編集部)

入棺体験の様子(写真提供/いごく編集部)

(写真提供/いごく編集部)

(写真提供/いごく編集部)

「いごくフェスって親子3代で参加するケースが多いんです。僕もそうですが、面と向かって自分の親に『人生の最期はどうしたいの』とかあれこれ聞くのってなかなかハードルが高いじゃないですか。でも、踊ったり、歌ったりするお祭りの高揚感の勢いで、孫から”おじいちゃんはどう思う? ”って聞いているのを子どもも一緒になって聞く。そんなきっかけになったらいいと思っています」(猪狩さん)

人と人を取り持つ。行政の強味を最大限活かす

そもそも『いごく』メディアの一番の特徴は、「行政」が行っているということ。そのメリットは大きい。
第一に、介護・医療の現場プレイヤーから「行政が自分たちの頑張りを情報発信をしている」というところに喜び、意義を感じてくれている。それが良いプレッシャーにもなっている。
第二に、「中立的」立場で、複数の企業、事業所が参画しやすいこと。民間企業の手掛けるメディアでは難しいだろう。
第三に、「役所」の立場を利用して、どこへでも誰にでも会いに行き、話を聞けること。
「確かに、役所って縦割りで、偉い人にハンコもらって通さないといけないなど、動きにくかったりもします。でも、すごく恵まれている部分も多いはずなんです」(猪狩さん)

ただし、媒体もフェスもなかなか個性的。役所ゆえに、上司の反対はなかったのだろうか?
「基本的に上司には聞いていません(笑)。当時の上司が、”どうせ反対しても猪狩はやるんだろうし、話を聞いちゃったら、こっちが板挟みになって胃が痛くなるから、報告しないでいい”というスタンスの人で(笑)、面倒なことにならなくてすみました」(猪狩さん)

さらに、現在、『いごく』のクリエイターチームは、介護施設のHPやパンフレット等の制作にも携わるなど、展開に広がりも。「福祉の現場も、自分たちでやるにはマンパワーが足りないけれど、地元のクリエイティブの力を借りることでPRがしやすくなる。いわば地産地消ですね。行政が人と人、企業と企業をつなげる、本来の役割だと思います」(猪狩さん)

医療・介護・福祉に無関係な人は誰一人いないし、高齢化に伴う諸問題は日本中のどの自治体でも抱える課題だ。つまり、どの自治体でも、”『いごく』っぽい”アプローチは可能ということ。最初は一職員の想いからスタートしたのだから。

「例えば、横断歩道でおばあちゃんがのんびり歩いている。前はそれにイライラしていたけど、”いごく”の記事を読んだことある人なら、”あのおばあちゃんのゆっくりした歩き方、かわいい”って思ってくれるかも。それだけでも、『いごく』の意味はあるのかなって思っています」(猪狩さん)

そして、この取材後、発起人だった猪狩さんが別部署へ異動することが判明。「いがりは死すとも、いごくは死なず、です」(猪狩さん)。
市役所の職員ゆえに異動はつきものだ。だからこそ、プレイヤーが変わっても、「いごく」がこれまで伝えてきたメッセージを今後、自治体として、どう維持、発展させていくか、いわき市の今後の挑戦に注目したい。

●取材協力
いわきの「いごき」を伝えるウェブマガジン

無人になった被災地に「小高パイオニアヴィレッジ」誕生。若手起業家が地域再生モデルへ挑む

福島第一原発事故に伴い避難指示区域に指定された福島県南相馬市小高区(旧小高町)。一時無人となった町に2018年1月、新たな営みを生み出す拠点「小高パイオニアヴィレッジ」が完成した。同施設を企画した一般社団法人パイオニズム代表の和田智行氏に話を聞いた。
たくさんのスモールビジネスに支えられた魅力的な町をつくる和田智行さん(写真撮影/佐藤由紀子)

和田智行さん(写真撮影/佐藤由紀子)

「復興拠点の計画が形としてできたことで、今後事業や活動が加速すると思うので、期待と責任が入り混じった気持ちです」と話す、和田智行さん。大学進学で上京し、卒業後はITベンチャー2社を起業、2005年に故郷の南相馬市小高区にUターンして仕事を続けた。

東日本大震災後、小高区の住民1万2842人全員が避難指示の対象となり、5年以上町への立ち入りを制限された。和田さんの自宅も警戒区域に指定され、会津若松市に避難し、起業や創業を志す人たちを支援するインキュベーションセンターに勤めた。そして、避難指示が解除される前の小高区に入り、食堂や仮設スーパー、ガラスアクセサリー工房を経営した。

2016年7月に避難指示が解除され2年半以上。病院や学校などが再開し、小高交流センターがオープンするなど、徐々に生活環境は整いつつあるものの、帰還者は約3000人で、住民のほとんどが65歳以上。人口の回復、若い人の帰還、人材育成など、課題は多い。

「10年、20年後、この町はどうなるのか、多くの人が漠然とした不安をかかえています。ここで事業を起こし、働く場所や住民の暮らしを支えるサービス、失われたコミュニティをつくることで、地域が消滅せず存続していく可能性を示していくことができたら」と和田さんは、南相馬市出身の起業家2人に声をかけ、日本財団の支援金やクラウドファンディングなど、活動を応援する方々の支援を受けて「小高パイオニアヴィレッジプロジェクト」をスタートさせた。

プロジェクトが目指すのは、1000人を雇用する1社に支えられる社会ではなく、10人を雇用する多様な100社が躍動する社会。「一つの大企業に支えられた町は、事業の継続が困難になったとき撤退して町は焼け野原になってしまいます。たくさんのスモールビジネスがあれば、一気に全滅することはなく、多様な商品や人がいて魅力的な町になる。そういう風土が出来上がれば、新しい世代も次々出てくるのではないかと思います」

起業やものづくりをする人が励まし合い成長していくコミュニティ小高パイオニアヴィレッジ北側外観(写真撮影/佐藤由紀子)

小高パイオニアヴィレッジ北側外観(写真撮影/佐藤由紀子)

小高パイオニアヴィレッジ外観。半透明の壁「ルメウォール」を通して、中の灯りが外に漏れる(写真撮影/佐藤由紀子)

小高パイオニアヴィレッジ外観。半透明の壁「ルメウォール」を通して、中の灯りが外に漏れる(写真撮影/佐藤由紀子)

建築中の小高パイオニアヴィレッジ。土地を確保することから始まった(画像提供/一般社団法人パイオニズム)

建築中の小高パイオニアヴィレッジ。土地を確保することから始まった(画像提供/一般社団法人パイオニズム)

約10カ月の工期を経て1月に完成した「小高パイオニアヴィレッジ」は、延べ床面積約280平米、鉄骨造りの2階建て。建築費用は日本財団の「東日本大震災復興支援 New Day 基金」の支援金をはじめ、自己資金、クラウドファンディングを活用した。内装はラワン合板をふんだんに使った最低限のシンプルな仕上げで、今後のニーズ、周囲の状況にあわせて柔軟に変えていく予定だという。

小高パイオニアヴィレッジ俯瞰図の構想スケッチ。「境界のあいまいな建築」がデザインコンセプトだ(画像提供/一般社団法人パイオニズム、設計:RFA)

小高パイオニアヴィレッジ俯瞰図の構想スケッチ。「境界のあいまいな建築」がデザインコンセプトだ(画像提供/一般社団法人パイオニズム、設計:RFA)

吹抜けのコワーキングスペース。ひな壇にはコンセントや暖房が装備されている(画像提供/一般社団法人パイオニズム)

吹抜けのコワーキングスペース。ひな壇にはコンセントや暖房が装備されている(画像提供/一般社団法人パイオニズム)

中心施設は、ひな段状で、吹抜けで2階とオープンにつながるコワーキングスペース。ここでさまざまな事業、業種の方々が自由に働き、アイデアを練る。また最大50人程度のイベントにも対応可能だ。「起業は孤独な闘いで、起業したい気持ちがあっても諦める人も多いと思いますが、隣に創業を目指す仲間がいれば、励まし合い、化学反応が生まれます」と和田さん。ここは、そんなコミュニティが活性化する場であり “ヴィレッジ”の広場のような存在だ。

2段ベッドが設置されたシンプルなゲストハウス(画像提供/一般社団法人パイオニズム)

2段ベッドが設置されたシンプルなゲストハウス(画像提供/一般社団法人パイオニズム)

2階にあるゲストハウスは、長期滞在する人、出張などでコワーキングスペースを活用したい人のための簡易的な宿泊施設で、5部屋用意されている。

メイカーズルームの「HARIOランプワークファクトリー小高」工房では地元の主婦4人が職人として働いている(写真撮影/佐藤由紀子)

メイカーズルームの「HARIOランプワークファクトリー小高」工房では地元の主婦4人が職人として働いている(写真撮影/佐藤由紀子)

1階には、ものづくりを生業とする人たちの共同作業場「メイカーズルーム」を設置。現在は老舗ガラスメーカーHARIOのガラスアクセサリーブランドの生産拠点として、2015年に設立された「HARIOランプワークファクトリー小高」が入所。今後はワークショップを行い、職人の発掘・育成を行う予定だ。

震災の避難生活を経験して気づいた大切なものと新たな価値観2019年1月20日に行われたオープニングセレモニー風景。関係者ら35人が訪れ開所を祝った(写真撮影/佐藤由紀子)

2019年1月20日に行われたオープニングセレモニー風景。関係者ら35人が訪れ開所を祝った(写真撮影/佐藤由紀子)

完成した「小高パイオニアヴィレッジ」に対する地域の反応はどうか。「20~40代の人がほとんど住んでいないので、若い人がいるだけで住民は歓迎してくれるし、喜んでくれているのを感じています」と和田さん。「いつから使えますか?行ってみたい」という利用の問い合わせは全国各地からあり、コワーキングスペースを運営する人から和田さんあてに「一緒に何かやりましょう」という声がけも多いという。

すでに、地元の農家と提携するクラフトビールづくりのプロジェクト、手づくりDJイベント、ガラスアクセサリーの新ブランドの発表といった企画も目白押し。10人の起業家を誘致し、サーフカルチャーや馬事文化など地域資源を活用した事業を起こす「Next Commons Lab南相馬」など、すでに生まれている起業家コミュニティの拠点にもなる。3月10日にグランドオープン、本格的にスタートする。

利用者は、働く場所にこだわらない、自営業のフリーランスやクリエイターを想定している。「旧避難指示区域に住むことに抵抗がある人、大きなスーパーやアメニティ施設がない町に暮らせない人は多いと思います。一方では、むしろ、こういう場所に興味があり、面白いと感じる感性の持ち主もいるはず。やりたいことがある人、今の社会を生きづらいと感じている人がここに滞在して、一緒にさまざまな活動や事業を起こしたりして、結果この町に住むようになれば」と和田さんは期待する。

オフィス機能をもつ2階のフリースペース。状況に応じて柔軟に変えられる設計になっている(写真撮影/筆者)

オフィス機能をもつ2階のフリースペース。状況に応じて柔軟に変えられる設計になっている(写真撮影/筆者)

ITベンチャー企業の役員として働いていた当時は、稼ぐために仕事をしていたという和田さん。「震災が起きて避難生活を余儀なくされ、お金があっても食べ物もガソリンも手に入らず、1歳と3歳だった私の子どもにもストレスを与えるのではないかと心配になりました。けれども、いろいろな人に助けられて生き延びることができて、自分を支える柱は収入ではなく、人との関係性をたくさんもつことだと感じ、価値観が変わりました」と話す。

今後については、「課題は山積みですが、見方を変えれば、ゼロベースで自由なチャレンジができるのが魅力です。真っ白いキャンバスに自由な絵を描くように、自分たち好みの町をつくっていける。将来、小高パイオニアヴィレッジで事業を始めた人が成長して、事業が拡大して施設が狭くなったら、近くの空き地を借りて新しく事業を始める。そうしてコミュニティが広がり、“ヴィレッジ”の“村人”がどんどん増えればと思います」と話す和田さんの表情から静かな自信が伝わってきた。

つくられた価値観のなかで暮らし、欲しいものが簡単に手に入る今。「小高パイオニアヴィレッジ」は、必要最小限のものしかないが、明るい笑顔、人と人の信頼関係、希望が感じられた。一時、無人、無になった町はパイオニアである若手起業家たちの手で、新しい価値観、新しい社会が生まれようとしている。また5年後、10年後の小高区を見てみたいと思わずにはいられない。

●プロフィール
和田智行
福島県南相馬市小高区(旧小高町)生まれ。2005年より故郷の南相馬市で東京のITベンチャーの役員として働く。東日本大震災後、避難生活を経て2014年に避難区域初のコワーキングスペース事業「小高ワーカーズベース」を開始。一般社団法人パイオニズム代表理事として住民帰還の呼び水となる事業の創出に取り組む。●取材協力
小高パイオニアヴィレッジ
Makuakeのプロジェクトページ

福島・いわき市に「イオンモールいわき小名浜」、6月15日グランドオープン

イオン(株)は6月15日(金)、福島県いわき市にショッピングモール「イオンモールいわき小名浜」をグランドオープンする。同施設は、「小名浜港背後地震災復興土地区画整理事業」地内に位置する。敷地面積は約44,000m2、延床面積は約93,000m2、鉄骨造5階建。いわき市の掲げる「復興のシンボル」として、防災モールとしての機能を担うとともに、「活気溢れる都市拠点づくり」に寄与するため、くらしに新たな価値を提案するライフスタイルモールをめざす。

核店舗「イオンスタイルいわき小名浜」、サブ核店舗に「H&M」「無印良品」「コジマ×ビックカメラ」「ソユーゲームフィールド」「ポレポレシネマズ」などがあり、東北初13店舗、福島県初44店舗を含む約130の専門店が集結する。

ニュース情報元:イオン(株)