「神山まるごと高専」企業70社以上の支援受け”奇跡の田舎”に開校。支援者や地元民「町のダイバーシティが拡大」「他校の生徒にも影響」など刺激に 徳島県神山町

「神山まるごと高専」(理事長・寺田親弘/Sansan(株))が、徳島県神山町に開校して1年が経った。「モノをつくる力で、コトを起こす人」の育成をミッションに掲げ、各界からも注目されている新設の高等専門学校だ。全寮制であるがゆえ、現在(2024年2月)一期生約40人が神山に暮らしながら学んでいる。さまざまなまちおこしの取り組みを経て「奇跡の田舎」と呼ばれる神山町に、この学校の存在と学生たちはどのような刺激を与え、まちにどのような変化を生み出しているのだろうか。学校に出資・寄付した起業家や街の人など、学校周辺の人々に話を聞いた。

海外との交流をベースに「よそもの」を受け入れる素地を醸成

徳島市西部と隣接しているとはいえ、ベッドタウンとは言い難い自然豊かなまち、徳島県神山町。2023年3月、このまちに「神山まるごと高専」が開校した。まちおこしの好モデルとして知られる地に、また新たな話題が生まれた背景には、これまでの取り組みで築き上げてきた、しっかりとした土台があるようだ。

神山まるごと高専の講義・研究棟「OFFICE」。町産材「神山杉」をふんだんに使用している(画像提供/神山まるごと高専)

神山まるごと高専の講義・研究棟「OFFICE」。町産材「神山杉」をふんだんに使用している(画像提供/神山まるごと高専)

大講義室(写真撮影/藤川満)

大講義室(写真撮影/藤川満)

1955(昭和30)年の市町村合併で生まれた神山町は、当時人口約2万人。その後全国の地方同様に人口が減り続け、現在は約4700人(2024年3月1日時点)。それでも2011(平成23)年度には町政始まって以来、転入者が転出者を上回る社会増となった。同町ホームページによると、その後高齢化による自然減は続いているものの、今でも年によっては社会増になり、町外との交流が活発であることが分かる。

その要因となったのは国内外のアーティストを招き町内で創作活動をしてもらう「神山アーティスト・イン・レジデンス(以下、KAIR)」と大都市にある企業のサテライトオフィス進出による起業家の転入の影響が大きい。

最大のきっかけは、1997(平成9年)に始まり、99年から恒例となったとは、毎年8月末から2カ月間、国内外3~5名のアーティストが神山に滞在。あくまで住民との交流や滞在して創作することに重点を置く。

今や全国各地で行われているアーティスト・イン・レジデンスだが、単に有名アーティストを招待するだけのものも少なくない。KAIRの場合、予算もなかったため、「お遍路の<お接待精神>でアーティストの満足度を高めること」に照準を合わせたのが功を奏した。

その後、2001年の招聘アーティスト2名が神山町に移住する。それ以外のアーティストもアンケートで「条件さえ整えば、自費でも神山に来たい」という意見があり、2004、2005年には試験的に自費滞在を実施。2009年には本格的に自費滞在プログラムを開始する。これにより「よそもの」が神山に足を運び、根付いていく流れが加速。そして2004(平成16)年、神山国際交流協会を母体に「NPOグリーンバレー」が誕生する。

神山アーティスト・イン・レジデンスの様子。Luz Peuscovich《The Cloud》KAIR2022作品展覧会アートツアー(画像提供/NPOグリーンバレー)

神山アーティスト・イン・レジデンスの様子。Luz Peuscovich《The Cloud》KAIR2022作品展覧会アートツアー(画像提供/NPOグリーンバレー)

アーティストから起業家の移住を後押ししたデジタル化

2005(平成17)年、神山町に光ファイバーの高速インターネット回線が整備され、その3年後にグリーンバレーが主体となりウェブサイト「イン神山」を開設。同サイトに「神山で暮らす」という空き家の物件情報を紹介するコンテンツを設けたことも大きかった。それは単なる物件紹介ではなく、「この物件は〇〇屋さん向き」など、神山町にこれから必要となる仕事と結びつけた移住者を募集したのだ。

この発信が見事に当たり、移住者が徐々に現れてきた。「神山に移住したいけど仕事がない」を逆手に取り「仕事やスキルを持っている人に神山へ移住してもらう」という考えを「ワーク・イン・レジデンス」と名付け、クリエイターが安価に滞在できるオフィス開設などにも着手していき、企業誘致の土壌も整えていった。

そして2010年(平成22年)、神山に名刺管理のクラウドサービスを行うSansan(株)が、サテライトオフィス第1号となる「Sansan神山ラボ」を開設する。その後も働き方改革やコロナ禍の影響もあり、神山町にサテライトオフィスを開設する企業が増え、現在16社が稼働している。

前置きが長くなったが、神山町がこれまで辿ってきた道を紹介した。まず海外との交流を経て、よそものアレルギーを緩和し、デジタル化の波に乗りターゲットを絞った移住の情報発信。移住者にも抵抗のない環境とデジタルインフラの存在は、サテライトオフィス進出を後押しした。その一連の流れの延長線上に高専開校が浮かび上がってきた。

元縫製工場をリノベーションし2013年にオープンした「神山バレー・サテライトオフィス・コンプレックス」。サテライトオフィスやコワーキングスペースとして利用できる(写真撮影/藤川満)

元縫製工場をリノベーションし2013年にオープンした「神山バレー・サテライトオフィス・コンプレックス」。サテライトオフィスやコワーキングスペースとして利用できる(写真撮影/藤川満)

高専により神山のダイバーシティが更に拡大している

「これまで神山には、移住したアーティストやクリエイターたちはたくさんいましたが、高専ができたことで、さらにこのまちのダイバーシティが広がっているように感じます」と語るのは、(株)プラットイーズのサテライトオフィス「えんがわオフィス」の代表・隅田徹さん。配信や放送に関わるシステムなどを提供する同社は、2013年に神山へ進出してきた。

隅田さんは町内にある築100年の古民家を改装しサテライトオフィスとしてリノベーションし活用している(写真撮影/藤川満)

隅田さんは町内にある築100年の古民家を改装しサテライトオフィスとしてリノベーションし活用している(写真撮影/藤川満)

神山にオフィスを開設するにあたって、決め手となったのは「地域のゆるさ」。他に候補となった自治体よりも神山町は補助金も少なく、経済的メリットはあまりなかった。とはいえ補助金は、いつかは打ち切られるもの。長期的な視野で見ると、働く若者が居心地よく過ごせる環境があるかが重要だった。

「開設を検討していた当時、例えば地域の行事への参加義務などを課した自治体もありました。神山町の場合、それらはすべて自由参加。びっくりするほど田舎の掟がゆるい。『ここに骨を埋めろ』というような、若者にプレシャーになることは言われなかった」

そんななか高専ができるという話を聞き、「大手スポンサーには及ぶまでもないが身の丈にあった」寄付をした。「私達の仕事からすれば、教育というのは最も縁遠い存在かも知れません。ただ中身より『なにか新しいことをやってやろう』というポジティブな人たちが、このまちには圧倒的に多い」。高専に強い期待を抱いていたわけではないものの、チャレンジを後押しする思いが寄付につながった。

開校を機に目に見えて起きた変化のひとつに、ダイバーシティの広がりを挙げた隅田さん。学生はもちろん、教員やスタッフなど県内外から新たな人たちが、このまちのメンバーになった。そして学生の親も少なくとも一度は神山を訪れる。「共同経営している宿の稼働率も上がりましたよ(笑)」と経済効果も実感しているようだ。

「全国から来た学生が神山で生活しているのを見ると、時代の変化を感じますね」。実際、学生たちと触れ合い、驚くことも多いという。「部活でロボットコンテストに出場する600万円の資金を、チーム一丸となって集めようとする姿勢はすごいと思いましたよ」

かつての部活は、学校からの予算や寄付の中でやりくりしてきた。その枠を越えた取り組みに、隅田さんは資金調達や組織運営のノウハウをアドバイスしているという。

一方では、「なにもない田舎なので、かつてのゲームセンターが不良のたまり場だったような、危険な場所や危ない人に触れることが少ない。危機察知能力も磨く必要があるのでは」と優秀で純粋な学生たちに危惧を抱くこともあるという。「そんな場所をあえてつくる必要はないけれど(笑)」と笑いながら語る姿から、この一年を概ね肯定的に捉えていることが感じられた。

神山まるごと高専の学生が主催する町民報告会で地元住民と意見を交換し合う(画像提供/神山まるごと高専)

神山まるごと高専の学生が主催する町民報告会で地元住民と意見を交換し合う(画像提供/神山まるごと高専)

他校にも影響を与え、「教育のまち」の横顔が加わりつつある実感

神山に生まれ育ち、町内で金物店を営む佐藤英雄さんは1991年以降、30年以上神山の活性化に取り組んできた一人だ。現在は金物店の経営と共にグリーンバレーの理事や地元商工会の会長を務める。そんな佐藤さんに、生粋の神山っ子としての一年を振り返ってもらった。

金物だけでなくプロパンガスの配達や日用雑貨まで扱う佐藤英雄さんは、神山町内の隅々まで知り尽くしている(写真撮影/藤川満)

金物だけでなくプロパンガスの配達や日用雑貨まで扱う佐藤英雄さんは、神山町内の隅々まで知り尽くしている(写真撮影/藤川満)

「高専ができる以前、神山にある徳島県立城西高校神山分校(旧徳島農業高校)の統合、路線バスの撤退の話が進んでいました。これは神山にとって大打撃になる。町として学校がなくなることは、なんとしても避けたかった」とかつての危機的状況を振り返る佐藤さん。町や町民の努力で幸いにして分校消滅は免れ、教育への関心が高まっていた前後に、新しい高専設立構想を耳にした。

「アートとテクノロジーの融合というコンセプトは、これまでのKAIRの経験から『できないことはない』と思いました。批判的な意見がなかったとは言えませんが、私は『神山のために面白いことをやろう』と考えがあったので」

その後、寮の改装や校舎建築が始まると、住宅設備などさまざまな備品を納品する業者としても関わった佐藤さん。しかも神山に精通するために、教員やスタッフの住居の確保や整備など、生活面での相談にのることも多かったという。

隅田さんと同じく、開校後のまちを若い人が闊歩する姿を喜ぶ佐藤さん。直接的な学生との交流はさほど多くないものの、自分よりも若い教員やスタッフとの交流は「楽しい」と微笑む。もちろん学生主催の報告会やイベントには足を運ぶようにしている。

高専だけでなく、佐藤さんにとっては城西高校神山校も大切な存在。「存続が決まってから、環境デザインや食農プロデュースなどが新設され、地域の人との交流などユニークな取り組みを始めました。それが評価され、今や町外から進学する学生が9割と聞きます」

高専開校と神山分校の影響により、教育に関心のある人の移住者が増えた印象を受ける佐藤さん。神山町はアートやサテライトオフィスだけでなく「教育のまち」という側面も加わりつつあるようだ。

もうひとつ佐藤さんが目を細めるのは、高専生と分校生の交流が生まれつつあるということ。「去年の地域のお祭では、両校の生徒が一緒になって参加しました。分校生も高専に刺激を受けて、パワーアップしているようですね」

神山で暮らす高専生はまだ一期生のみ。高専が注目を集めたことで、それが学生たちにプレッシャーとなっていないかを憂慮する佐藤さん。やや過熱気味だった周囲の環境が落ち着く2年目以降が、佐藤さんには気がかりだ。つまり神山が故郷である佐藤さんにとって、ここで5年間暮らして、その後どう神山と関わるのかが、関心事のひとつでもある。

「授業の内容は詳しくわかりませんが、アーティストやクリエイターだけではなく、神山には知られざる名人がたくさんいます。例えば魚捕りの名人とか。そんな人達との交流をもっと深めて、卒業後は神山を『第2の故郷』と言ってもらえるよう、大好きになってもらいたい」

移住者と地元を代表する二人の話を聞いた限りでは、高専開校は神山にとって好ましい影響を与えているようだ。しかし、背景の異なるさまざまな人が暮らしていくと、いろいろと問題が起こることもあるだろう。それを乗り越えることで、さらにより良き方向へ進むことに期待するべきと考えたい。そして卒業生が活躍し始める頃、神山町の存在感はどれほど大きくなっているのだろうか。

●取材協力
神山まるごと高専
NPO法人グリーンバレー
株式会社えんがわ

北海道移住は上士幌が最熱! 人口約5000人にV字回復。新しい人生見つけた3組のストーリー

北海道にある人口約5000人の町、上士幌町。2016年以降人口V字回復に成功し、半世紀ぶりの奇跡と話題になった十勝エリア北部に位置する小さな町です。
注目なのは「道外」からの転入者が多いこと。縁もゆかりもない地域で、仕事や住まいのあてはどうしたのか、決断の背景に何があるのか? 東京都、岡山県、静岡県と各地から同町へ移住した3組にインタビューしました。

道内移動が多いエリアで“道外”移住者が続々と集まる北海道・上士幌町(画像提供/渥美俊介さん)

北海道・上士幌町(画像提供/渥美俊介さん)

2023年の十勝全体の転入は、道内からが5294人に対し、道外からは2702人。道内の人口移動が倍近く多いことがわかります。(北海道人口ビジョン改訂版のオープンデータより)
一方、その十勝エリアにあって、上士幌町は道外からの移住者が道内からを上回る年があります。町勢要覧2022年版(取材時点で最新)では、道内転入者が138人に対し、道外転入者は148人でした。

上士幌では、これまでふるさと納税で確保した財源を「子育て」に集中して充てることで、子育て世帯に魅力あるまちづくりを推進しており、その施策が奏功したことは間違いありません。

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一方、今回インタビューした移住者のうち、子育て中の方は1組のみ。ほかの2組は移住した時点で子育て施策の恩恵を受けられるというわけではありません。なぜ、上士幌町に惹かれたのでしょうか。

妻子と移住した金澤さん。きっかけは、東京で偶然出会った「上士幌の人」だった

インタビュー1人目は、東京23区内から家族3人で移住した金澤一行(かなざわ・かずゆき)さん(43歳)。金澤さんは大学院を卒業後にシンクタンク、大手情報サービス企業を経て起業しています。

東京から移住した金澤さん(写真撮影/米田友紀)

東京から移住した金澤さん(写真撮影/米田友紀)

都内でシェアオフィスに入居していた際、2つ隣のブースを借りていて「ご近所さん」だったのが、上士幌町役場でした。都内で役場の職員と出会ったことが、上士幌へ足を運ぶきっかけになりました。

上士幌では地方創生プランの中で「人の都市・地方循環による地域活性化」を柱の一つに掲げ、都市と地元の人的交流による新しいつながりをつくることに積極的に取り組んでいます。金澤さんと役場職員の出会いは、上士幌が戦略的に設けた施策でもあったわけです。

町はNPO法人上士幌コンシェルジュと連携し移住総合案内窓口を開設。コンシェルジュが常駐し、いつでも相談ができる環境を整えるなど移住施策に10年以上取り組んできました。
さらに多くの地域で活用される地域おこし協力隊制度のほか、若者層には1カ月滞在型プログラム「MY MICHIプロジェクト」、都市部人材が働きながら宿泊し周辺地域と関わる「にっぽうの家」、地元企業と都市部人材をマッチングする「かみしほろ縁ハンスPROJECT」、ワーケーションで町に訪問した人の子どもも活用できる「保育園留学」など、幅広い世代が町との接点を持ち、人との出会いを生む仕組みをつくっています。

実際に町に訪れた金澤さんは、眼前に広がる十勝平野に魅了されます。

牛2000頭が放牧されるナイタイ高原牧場では大パノラマで十勝平野を見渡すことができます(画像提供/金澤一行さん)

牛2000頭が放牧されるナイタイ高原牧場では大パノラマで十勝平野を見渡すことができます(画像提供/金澤一行さん)

「十勝の風景は多くの人がイメージする北海道のイメージそのものです。それでいうと、移住先が絶対に上士幌でないとダメだったわけではなく、北海道のどの町でもよかったわけです。北海道で偶然に最初に足を踏み入れたのが上士幌だった。そこで農業や酪農をしている友達ができて、ここに住めたら最高だなと思うようになりました」(金澤さん)

金澤さんが移住したのは2022年。前述したようにその6年前ほどから町の地方創生戦略により移住者が増えていた上士幌では、新しい人を受け入れる風土が培われていました。過度に干渉されることはなく、和やかな人間関係が築けているといいます。

「北海道への憧れ」という道内全体のブランド力を上手に活用し、子育て世帯、若者、シニアなど北海道に関心があるさまざまな層と「北海道の上士幌」として接点をつくる。そして地域の自然の豊かさで心をわしづかみにし、交流や関係構築のチャレンジを続けることで地道に人を地域に呼び寄せています。

オフィスワークを中心とする仕事に従事する人が利用する、かみしほろシェアオフィス。畑に面した眺望は設備投資なくオフィス緑化効果が得られるようなもので、ストレスとは無縁に働けそうです(画像提供/金澤一行さん)

オフィスワークを中心とする仕事に従事する人が利用する、かみしほろシェアオフィス。畑に面した眺望は設備投資なくオフィス緑化効果が得られるようなもので、ストレスとは無縁に働けそうです(画像提供/金澤一行さん)

(画像提供/金澤一行さん)

(画像提供/金澤一行さん)

多様性は田舎にある

金澤さんが移住してきた当時、お子さんは小学5年生。都内で暮らしていれば中学受験の選択肢が挙がってくる年齢です。
「育児」に焦点をあてると、田舎のアドバンテージは幼少期にあると感じる人が多いです。7都府県・指定都市・中核市に比べて待機児童数が少なく保育園等が利用しやすい点、また自然豊かな地域でのびのびと子育てすることに魅力を感じるためです。

馬や牛と至近距離で暮らせる地域でもあります(画像提供/金澤一行さん)

馬や牛と至近距離で暮らせる地域でもあります(画像提供/金澤一行さん)

一方、育児から教育に保護者の関心事が移行してくるのが、小学校高学年を迎えるころ。進路を検討しはじめる時期になると、都市部での進路選択肢の多さが魅力に感じるようになってきます。
お子さんの教育環境が気になる時期にあえて地方へ向かった金澤さん。そこにはどのような理由があったのか聞きました。

「僕は田舎の環境の方が、多様性が育まれると感じているんです。都市部の学校では人数が多いクラスの中で仲が良い子ども同士で小さなグループができて、クラス替えがあればまた同じように気の合った者同士だけのグループができていくでしょう。さらに一定数は小、中学受験で別のグループに所属していく。保護者の所得などで格差が発生した結果であり、僕の経験上ではどうしても同質になりがちなのではないかと感じていました」(金澤さん)

地方では受験は高校からが一般的であり、小・中学受験で地元の公立学校を離れる人はごく少数です。しかも限られた児童数のため、さまざまな個性がチームとなる濃い人間関係が築かれやすいといえます。

「田舎は家庭環境や価値観が似てる似てない関係なく、まぜこぜで過ごさざるを得ない。やんちゃな子もいるし、大人しい子もいる。陰キャも陽キャも、学校に集まれば一緒に活動する。自分と個性が違う相手を尊重することが経験として積めるのではないでしょうか」(金澤さん)

上士幌では町に小学校が1校で1学年が40人前後。1学年2クラス編成が多くクラスメンバーが入れ替わりながら、教員や保護者の目が行き届く規模感で数十人の子どもたちが一緒に学んでいきます。

金澤さんのお子さんはやってみたかった乗馬など新しいチャレンジもしているそうです(画像提供/金澤一行さん)

金澤さんのお子さんはやってみたかった乗馬など新しいチャレンジもしているそうです(画像提供/金澤一行さん)

すみかの決め手はコスパじゃない

現在、上士幌は人口増加に伴い、住居が供給不足気味で賃貸物件の家賃が高めだといいます。金澤さんは移住を決めてからの物件探しが大変だったそう。SUUMOで毎日更新情報をチェックし、条件に合う空室が出たところで、ネットで即申し込んだといいます。どうやら田舎は住居費が安いというイメージは必ずしも当てはまらないようです。

「仕事上の合理性で考えたら新幹線で都内へアクセスしやすく、家賃も安い本州の地方エリアも選択肢でしょう。でも、暮らす場所とはコスパやスペックで解決するものではない気がしています。関わるうちに町が好きになり、自分にとって唯一無二の大切な町になっていきました」(金澤さん)

金澤さんは現在、小中学生向けの無料学習会を開催しています。偶然の縁から暮らすことになった上士幌で自分が役立てることは何かを考え、教育面で貢献したいと行動しています。
2年前に引越してきた金澤さんですが、上士幌を「わが町」と言い、町民としての意識が芽生えている姿が印象的です。

じゅうたんを敷きつめたような牧草地の風景。たしかに理屈ぬきに見惚れてしまいます(画像提供/金澤一行さん)

じゅうたんを敷きつめたような牧草地の風景。たしかに理屈ぬきに見惚れてしまいます(画像提供/金澤一行さん)

中野さんは「まず行ってみよう」と単身、岡山からやってきた

インタビュー2人目は岡山県倉敷市から移住してきた中野可南子(なかの・かなこ)さん(28歳)。
中野さんは岡山県で保育士をしていた25歳の時に転職を検討し、上士幌町の地域おこし協力隊としてやってきました。転職=移住と、住む場所を変えてみたいと考えていた中野さん。望んでいたのは自然豊かな場所だったそうで、瀬戸内地方の離島なども候補に挙げ、実際に訪れていました。
上士幌は姉が地域おこし協力隊として先に移住をしていたことで、何度か遊びに来ていて縁ができたそうです。

岡山から移住した中野さん(写真撮影/米田友紀)

岡山から移住した中野さん(写真撮影/米田友紀)

「北海道への憧れが強く、住んでみたい気持ちがありました。小学生のころにサマーキャンプで道内を訪れた原体験があり、ペンション、馬、景色とどれも印象に残っていたからです。転職するなら北海道がいいなというなんとなくの希望はありましたが、絶対に上士幌がいいと思っていたわけではなくて。でも地域おこし協力隊として移住すれば、住居面はサポートしてもらえるという点は大きかったです」(中野さん)

インタビュー1人目で金澤さんが住まい確保の難しさを語っていましたが、中野さんの場合は地域おこし協力隊として着任することで住居を紹介され、家賃補助があったそう。仕事が決まる=住まいが決まるという点で、スムーズに進んだようです。
中野さんは金澤さんと同じように、町に住む人との出会いが魅力だと話します。
「移住した人、元から住んでいた人にかかわらず、すぐに仲良くなってくれます。地域の飲み屋さんでも祭りでも、どんどん話しかけてくれて、打ち解けることができました」(中野さん)

移住者、ワーケーション中の人たちとの焼肉。北海道で「焼肉」というとバーベキューを指します(画像提供/中野可南子さん)

移住者、ワーケーション中の人たちとの焼肉。北海道で「焼肉」というとバーベキューを指します(画像提供/中野可南子さん)

20代の中野さんは仕事や住まいを変えるという面では身軽であるともいえます。それでも知り合いがほとんどいない北海道の田舎町に単身やってくることに不安はなかったのか。質問すると、こんなことを教えてくれました。
「海外へ飛び立つような感覚だったのかもしれません。国内ですが、北海道はまったくの異世界に来られる感覚がありました。温泉もサウナも、美味しい食べ物も。盛りだくさんに楽しめる新しい世界に、ワクワクしてやってきました。やってみたいと思う仕事がある、住まいもある。まずは行ってみようと、勢いで決めましたね」(中野さん)

マイナス20度にとまどう

岡山から上士幌へ引越して驚いたのは、「寒さ」。北海道の中でも雪が少ないエリアであり暮らしやすそうだと感じていたものの、冬にはマイナス20度まで気温が下がることがあります。

マイナス20度という数字だけを聞くと恐れおののきますが、足を踏み入れたら案外何とかなるもの。想像より体験してみると自分の世界が広がりそうです(画像提供/中野可南子さん)

マイナス20度という数字だけを聞くと恐れおののきますが、足を踏み入れたら案外何とかなるもの。想像より体験してみると自分の世界が広がりそうです(画像提供/中野可南子さん)

想像以上の極寒に初めの冬はとまどったものの、町で暮らして3年が経ち、中野さんは今年3月に地域おこし協力隊の任用期間を満了。4月から子どもや親子向けアクティビティ、キッチンカー営業など町内に住みながら起業する計画です。

異国へ足を踏み入れるような強い好奇心と勢いで町にやってきて3年。助けてくれる人が町の中に多くいるのでなんとかなっている、といいます。中野さんはこの町で次なる挑戦に踏み出しています。

気球に乗っているのは中野さん。冬に乗せてもらった貴重な体験だったそう(画像提供/中野可南子さん)

気球に乗っているのは中野さん。冬に乗せてもらった貴重な体験だったそう(画像提供/中野可南子さん)

県庁勤務だった渥美さん妻。夫は会社を辞めてやってきた

最後に話を聞いたのは2年前に静岡県浜松市から移住した渥美俊介(あつみ・しゅんすけ)さん(35歳)、緑(みどり)さん(35歳)夫妻です。夫の俊介さんは現在配送業に従事し、妻の緑さんは地域おこし協力隊としてまちづくり業務に携わっています。

静岡から移住した渥美さん夫妻(写真撮影/米田友紀)

静岡から移住した渥美さん夫妻(写真撮影/米田友紀)

静岡在住時、俊介さんは建築関連の仕事に従事し、緑さんは県庁に勤める公務員でした。二人にとって地元であった静岡での安定した仕事を辞め上士幌にやってきました。
もともと「移住してみたい」と話していたという二人。希望していた移住先は、似たような街並みが続く地方都市ではなく、自然豊かな土地でした。
金澤さん、中野さんと同様に、北海道に良いイメージを持っていたという渥美さん夫妻。転機となったのは2021年8月に初めて十勝エリアに旅行にいった時のことでした。

「宿泊した帯広のホテルのダイニングバーで地元の人が向こうから話しかけてくれて、心地よかったんです。当時はまだコロナ禍による制限を気にする時期だったので、“よそ者”であることに遠慮しながら旅していたのに、すごく気さくに話してくれて。十勝、いいな!と思っていたところで、オンラインで上士幌への移住セミナーがあり、参加したことが上士幌への入り口になりました」(緑さん)

(画像提供/渥美俊介さん)

(画像提供/渥美俊介さん)

県庁に勤めていたことからまちづくりに関心があったという緑さん。移住セミナーで紹介された地域おこし協力隊としてのミッションに強く惹かれました。しかも、協力隊ならば住む家もサポートされます。「いいじゃん、やってみよう」と、俊介さんも賛成し、2人で移住を決めました。

妻の緑さんは協力隊としての仕事が決まっていましたが、俊介さんは会社を辞めて次の仕事は決めずに上士幌へ。当時勤めていた建築会社からリモートワークで継続して業務にあたる提案もあったといいます。
「生計を立てる面で勤め先からの提案は大変ありがたかったのですが、一度リセットして自分のやりたいことを見つめ直したいと思いました。この町で自由に考えて、行動するなかで、これからの仕事で自分は何を軸にしたいのか、考えたかったんです」(俊介さん)

10年勤めた県庁を先に退職した緑さんを俊介さんが家計面で支えたこともある。二人で生きるからこそお互いやってみたいことに挑戦しながら、協力できる体制だといえます(画像提供/渥美俊介さん)

10年勤めた県庁を先に退職した緑さんを俊介さんが家計面で支えたこともある。二人で生きるからこそお互いやってみたいことに挑戦しながら、協力できる体制だといえます(画像提供/渥美俊介さん)

地元の友人たちは、今生の別れモード

俊介さんは上士幌でキャリアを見つめ直し、現在は惣菜店の開業を目指し今年度中に起業する準備を進めています。もともと好きだった料理やお菓子といった食分野の仕事をしたいと考えたことと、町には自分たちのように働く若い世代が増えているけれど、仕事帰りに気軽にお弁当や総菜が買える店があまりないことから地域の課題を解消したいという思いがありました。

「自然豊かな土地でもうちょっとゆったりとした生活になるのかとイメージしていましたけど、やりたいことをゼロから仕事にしていこうとすると、本当に毎日忙しいです。でも、大変でも苦痛ではないです。
仕事って合理性を考えて最短に突き進む方法が優先されがちですが、この町にはさまざまな可能性があるので合理性優先で最速で進めることは不向きです。自分たちが役立てることで試行錯誤しながら働いています」(緑さん)

配送業と掛け持ちで惣菜店開業に向けたイベント出店や限定カフェも営んでいる(画像提供/渥美俊介さん)

配送業と掛け持ちで惣菜店開業に向けたイベント出店や限定カフェも営んでいる(画像提供/渥美俊介さん)

2人は上士幌にきて2年。脂がのるように地域での仕事に力を注いでいる真っ最中です。
とはいえ、立ち上げようとしている事業に失敗したら……など不安がないのか聞いてみました。
「仕事は2足、3足とわらじを履くパラレルキャリアで進めています。また夫婦でそれぞれ仕事をしていれば、どちらか上手くいかなくても、どちらかが支えればいいという後ろ盾があります。あと、静岡を離れるときは友人たちが、もう会えなくなるけど……と今生の別れモードでしたが、自分たちは重い覚悟で移住を決めたわけではなくて。ちょっと住みにいってみます、というくらいな感覚でした。浜松も好きで、自分たちにとっては帰れる場所があると思っています」(俊介さん)

将来的には浜松との二拠点暮らしも視野に入れたいという二人。2足、3足のわらじでパラレルキャリアを積み、二人で暮らしを支え合い、帰れる場所もある。多くの後ろ盾、お守りのようなものが挑戦を後押ししています。

50年続くバルーンフェスティバル。気球が飛ぶ町というのもワクワクします(画像提供/渥美俊介さん)

50年続くバルーンフェスティバル。気球が飛ぶ町というのもワクワクします(画像提供/渥美俊介さん)

頭の中で勘定しすぎるより、心から願うことを

渥美さんたちに移住を検討している人に伝えたいことを聞きました。
「移住したとしても、しなかったとしても、自分で選択したならそれでいいのではないでしょうか。人に決めてもらうとだれかのせいにしてしまうでしょう」と緑さん。

何か困ったことがあっても十勝の景色を見れば、心満がたされるという(画像提供/渥美俊介さん)

何か困ったことがあっても十勝の景色を見れば、心が満たされるという(画像提供/渥美俊介さん)

「今がタイミングでないなら、整理できてからでもいい。人生は自分のものなのだから、何歳からでも何回だってやってみればいいと思うんです。心から願っていることというのは行動する上でとても大切なことです。頭でそろばん勘定して損得で考え過ぎなくても、案外どうとでもできるものではないでしょうか。直感でもいい、なんとでもなる。だってここは国内で日本語が通じるんで。働きながら、いかようにも暮らしはつくれます」(俊介さん)

ワクワク総数が増え続ける地域

インタビューした3組はさまざまなきっかけを経て上士幌へやってきました。
「きっかけ」は三者三様ですが漠然とした「北海道が好き」な人々を地域に呼び寄せるために、移住策に本腰を入れ、多様なチャレンジを続けてきた地域の必然ともいえる成果なのかもしれません。

上士幌では移住策で投じた取り組みから、ZEH型住宅建設支援や太陽光発電設備導入支援など再生可能エネルギーの普及促進、自動運転バス・ドローンなど次世代高度技術の活用など次なるチャレンジへとコマを進めています。
十勝平野を一望できる牧場「ナイタイテラス」に加え、「道の駅 かみしほろ」が北海道じゃらんの道の駅満足度ランキング2024で1位になるなど、観光分野でも魅力を増やしています。

先端技術や観光に直接関わりを持つ住民ばかりでなくても、ワクワクする取り組みの総数が多いことは、小さな町の誇れる魅力だと住む人たちが感じることができます。
北海道の中でも上士幌に移住者が続々と集まる背景には、こういう地域ぐるみでワクワクの総数を増やし続ける試みがされていることがあるのでしょう。

●参考サイト
北海道 上士幌町

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Z世代は地域社会とつながる旅を志向。調査で分かった地域貢献意識の高さや地方移住の動きを解説

宿やホテルを予約できる「じゃらん」のじゃらんリサーチセンターでは、宿泊旅行についての大型調査「じゃらん宿泊旅行調査」を定期的に行っている。今回、Z世代に焦点を当てて、Z世代の価値観や旅行への意識について再分析した結果を公表した。それによると、Z世代は「地域貢献意識」が高く、「地方への移住を考える旅」も実施しているという。地方移住の鍵になると見られるZ世代の意識について詳しく見ていこう。

【今週の住活トピック】
じゃらん宿泊旅行調査を再分析/リクルート じゃらんリサーチセンター

Z世代で多い「地域体験交流タイプ」、女性は「効率・欲張りタイプ」も

公表されたリリースでは、「Z世代」を調査対象の20代(18歳~29歳)として分析している。調査対象全体をクラスター分析すると、「1.地域体験交流」「2.地域訪問」「3.話題性重視」「4.効率・欲張り」「5.リピートなじみ」「6.計画」「7.こだわりなし」の7タイプに分類できる。

なかでも、「地域体験交流タイプ」は、Z世代男性で29.6%、女性で15.8%の出現率となり、他の世代よりも多いことが分かった。このタイプは、観光したら終わるといったものではなく、「地域や地元の文化や生活習慣を深く理解し、地域社会とのつながりを築くことに重点が置かれている」点に特徴があるという。

また、「地域体験交流タイプ」は男性が多いのに対して、「効率・欲張りタイプ」は女性が多く、なかでもZ世代の女性は22.6%と最多だった。効率・欲張りタイプの特徴は、効率よくできるだけ多くの場所を回り、新しい場所への好奇心が強いタイプだという。女性のほうが、友人や恋人との旅行比率が高いことも影響しているそうだ。

●宿泊旅行に対する意識 クラスター構成2023(性年代別)

宿泊旅行に対する意識 クラスター構成2023(性年代別)

出典:じゃらんリサーチセンター「じゃらん宿泊旅行調査再分析」より転載

Z世代の「地方への移住」を考える旅は実施フェーズに

じゃらんリサーチセンターによると、Z世代に多い「地域体験交流タイプ」で強く見られる因子が「地域志向性」だという。「地域志向性」と相関の強い6項目(ⅰ地域のためになること、貢献できることを選ぶ、ⅱ将来の移住やライフスタイルの参考になりそうな旅をする、ⅲ地元の人に積極的に話しかけて情報を聞いたり交流する、ⅳ旅行先の風土や生活習慣を体験する、v自ら主体的に参加する・体験する、ⅵ暮らすように旅をする)を可視化すると、次の画像のようになり、Z世代の地域志向性の高さが分かるという。

●Z世代の地域とのかかわりへの意識と実施(男女別)

Z世代の地域とのかかわりへの意識と実施(男女別)

出典:じゃらんリサーチセンター「じゃらん宿泊旅行調査再分析」より転載

また、コロナ禍を経てZ世代で最も変化した項目は、「地域のためになること、貢献できることを選ぶ」で、男女ともに「地域貢献意識」が大きく上昇したという。

ほかにも、「地方移住」はコロナ禍で注目度が一気に高まったキーワードだが、コロナ禍前後を比べると「将来の移住やライフスタイルの参考になりそうな旅をする」ことへの関心が高まり、実施ポイントも増加していることから、関心にとどまらず実施フェーズへの移行の兆しが見られるという。

増加が期待される「地方移住」について、Z世代が関心を持ち、動き出しているとは、なんとも頼もしい限りだ。

Z世代の価値観は、地域で活躍することがかっこいい!?

この分析を担当した同研究員の池内摩耶さんは、分析結果を「とーりまかし別冊 研究年鑑 2024」で詳しくまとめている。そこで池内さんは、「なぜZ世代は『地域とのかかわり』を求めるのか」についても考察している。

「①オンラインやリモートなど学び方、働き方が柔軟になったことで移住含め地域がより身近な存在となったこと。②Z世代の三大都市圏居住率は年々高まり約6割で地域を知る機会に乏しいこと。③地域に居を構え地域活性に向き合う若手への注目など、コロナによって「地域」というものを強く意識する機会が増えたこと。主にこれらの要因が、Z世代が地域とのかかわりを求める動機付けとなり、地域で活躍することへの憧れ・かっこよさのような志向性が表れていると考えられる」という考察だ。

Z世代がこれからの地方移住の核になりそうだ、という結果については頼もしいと思うが、一方で受け入れ側の体制の改善にも期待したい。地方自治体が予算を取って地方移住を呼び込むさまざまな対策を用意しているが、地域特性を生かした魅力的な対策でなければ、「選ばれる地方」にならない。また、受け入れる地元の住民が「よそもの」意識を持っていると、移住は進まない。

人口減少、急激な高齢化が進むなか、移住先としての地方の選別がなされるようになるだろう。こうした課題を解決していかないと、地域志向性の高いZ世代に注目されることが難しいかもしれない。

●関連サイト
じゃらんリサーチセンター「じゃらん宿泊旅行調査を再分析」
じゃらんリサーチセンター「とーりまかし別冊 研究年鑑 2024」

全国の自治体で初「ひとり親家庭の移住サポート」。住まい・仕事・教育など手厚い支援、地方移住ニーズに応える 静岡県川根本町

2022年に全国の自治体で初めて「ひとり親家庭」に特化した移住サポートプログラムを開始した静岡県の川根本町。このプログラムは、住まい探しが困難なひとり親世帯への有効な解決策となるのでしょうか。ひとり親家庭が安心して暮らすために川根本町が行う支援とは?川根本町 経営戦略課の植村紳吾さんと移住コーディネーターの神東(かんとう)美希さんに話を聞きました。

ひとり親家庭が抱える住まいの問題と「移住」との関係

川根本町は、静岡県の中央部に位置し、一級河川の大井川が流れ、全面積の約94%は山林という、自然に囲まれたのどかな町です。観光温泉地として知られる一方で、少子高齢化が進み、人口減少や働き手不足が課題となっています。

南アルプスの山々や大井川に囲まれた自然豊かな町(画像提供/川根本町)

南アルプスの山々や大井川に囲まれた自然豊かな町(画像提供/川根本町)

一方、秋田県にかほ市のアンケート結果によると、一都三県(東京、神奈川、埼玉、千葉)のシングルマザーの4割近くが「地方移住に興味がある」と答えており、ひとり親家庭に地方移住のニーズがあるようです。ひとり親家庭は、子育てと両立できる仕事や公的な支援・補助制度があることを重視して居住地を選択する傾向があるため、人口減少に悩む地方の自治体と住まい探しに困っているひとり親家庭をうまくマッチングできれば、win-winの関係を築けるかもしれません。

シングルマザーの約4割は、地方への移住に興味があるというアンケート結果も(画像提供/秋田県にかほ市)

シングルマザーの約4割は、地方への移住に興味があるというアンケート結果も(画像提供/秋田県にかほ市)

ひとり親家庭の移住を後押しする「マザーポート移住」とは

このような問題を解決するために川根本町が、2022年から取り組んでいるのが「マザーポート移住」です。
母子家庭のための不動産ポータルサイト「マザーポート」に移住専用ページを作成し、ひとり親家庭の移住を町ぐるみで積極的に受け入れようというもの。

前述したようにひとり親の移住への関心度は高い傾向にありますが、知り合いが誰もいない見ず知らずの土地に移住し生活していくのは、誰しも不安に違いありません。

ひとり親であればなおさら、生活のために仕事も探さなくてはならず、子どもと過ごす時間も必要です。
また、一般的な子育て世帯の平均世帯年収814万円に対して、母子家庭は373万円というデータ(厚生労働省「2021年度(令和3年度)全国ひとり親世帯等調査報告」「2021年国民生活基礎調査」)が示しているように、ひとり親家庭、特に母子家庭は貧困率が高く、オーナーや管理会社の家賃滞納への不安から借りられる物件が限られるなどの問題も。住所が定まらなければ行政のサービスを受けることも、仕事に就くこともできないという負のループに陥る恐れがあります。

ひとり親家庭では、安定した収入がないと入居を断られてしまうことがある。住所が決まらなければ、公共のサービスや支援を受けることができないという悪循環に……(画像提供/川根本町)

ひとり親家庭では、安定した収入がないと入居を断られてしまうことがある。住所が決まらなければ、公共のサービスや支援を受けることができないという悪循環に……(画像提供/川根本町)

「マザーポート移住では、住宅の確保が困難な可能性のあるひとり親家庭に対して、福祉、移住、教育それぞれの問い合わせを、経営戦略課が窓口になってワンストップで相談に乗るのが特徴です。他の自治体では、各課に相談しなければならず大変というお話も聞きますが、川根本町ではまとめて相談ができるので、安心してお問い合わせいただけると思います」(植村さん)

移住を考える人の事情はさまざまです。自然豊かな川根本町に魅せられた人もいれば、人間関係や仕事、家賃などで困っている人もいるでしょう。実際に移住した人のなかには、子どもが学校になじめず、新たな環境を整えるために移住して来たというケースも見られます。

川根本町では、移住後もひとり親と子どもたちがスムーズに地域になじむことができるよう、移住希望者と地元住民の橋渡し役である「移住コーディネーター」が中心になって地域との間を繋ぎ、暮らし面での相談にも乗っています。

「町の人たちがとても親切で、いち住民として私たちのことを気にかけて見守ってくださるので、働きながらも安心して子育てができる」というのは川根本町に移住してきたシングルマザーの声。移住コーディネーターの神東さんは、近所のおじいちゃんおばあちゃんたちにとっても、子どもがいることで地域が明るくなり、良い影響をもたらしていると感じています。

移住コーディネーターの神東さん。自身も10年以上前に他県からやって来た移住組。移住してくる人の不安も、住民の気持ちもわかるからこそ、双方の橋渡しをしたいという(画像提供/川根本町)

移住コーディネーターの神東さん。自身も10年以上前に他県からやって来た移住組。移住してくる人の不安も、住民の気持ちもわかるからこそ、双方の橋渡しをしたいという(画像提供/川根本町)

川根本町で、ひとり親家庭の住まい・仕事・教育環境はどうなる?

ひとり親家庭が移住するとなると、前述したように住居や仕事、育児や教育環境、さらには地域の人たちと上手に付き合っていけそうかなど、事前に確認しておくべき点はいろいろあります。川根本町の事情はどうでしょうか。

まず「住まい」については、ひとり親家庭が住むことのできる住宅として町営住宅、空き家バンク物件、そして民間アパート2棟があります。

ただ、空き家バンクは売買物件が多く、補修を必要とする場合もあって初期費用がかかるのと、すぐに住めないものもあるのが難点。町営住宅は比較的リーズナブルですが、空いている部屋が少なく、タイミングによっては、いつでも入れるというわけではないとのこと。希望通りの物件が必ずあるというわけではないので、なるべく希望に添えるものを町の担当者や移住コーディネーターが一緒に探します。

川根本町の町営住宅(画像提供/川根本町)

川根本町の町営住宅(画像提供/川根本町)

また、子どもの通う保育園や学校といった環境も気になります。

「川根本町には小学校が2校あり、そのうちの1校は1学年4~10名程度の小規模な学校で、もう一つの学校は1学年20名程度です(2024年度から小中一貫の義務教育学校2校となります)。実際に授業風景などを見てどちらの学校が良いか決めてもらい、その学区内で住まいを探すという流れになりますね」(神東さん)

町内には公立・私立あわせて1つの幼稚園と3つの保育園があり、待機児童ゼロ。親と幼児が一緒に遊べて保育士さんが子育てママの相談に乗ってくれる施設もあるなど、子育てや子どもの教育が充実しているのも嬉しいところ(画像提供/川根本町)

町内には公立・私立あわせて1つの幼稚園と3つの保育園があり、待機児童ゼロ。親と幼児が一緒に遊べて保育士さんが子育てママの相談に乗ってくれる施設もあるなど、子育てや子どもの教育が充実しているのも嬉しいところ(画像提供/川根本町)

さらに、移住先でどのような仕事があるのかということも重要です。マザーポート移住のホームページでも地元の企業がいくつか紹介されています。

「基本的に、常に求人はあり、働き口はありますが業種や職種は限られます。ひとり親家庭の場合は、お子さんがいるので土日が休みであることや、突然の病気や学校の行事などでは融通がきく仕事でないと厳しいですよね。女性だと土建業などの現場仕事は体力的に難しいことが多いですし。マザーポート移住には、そのような事情にも比較的理解のある会社を掲載しています」(神東さん)

KAWANEホールディングスはそのような会社の一つです。代表の迫洋一郎さんは、マザーポート移住を川根本町に提案した一人で、自身も数年前に地元で起業した移住者だそう。ほかにも、最近は農家民宿やゲストハウス、飲食店といった事業を自分で営む人も増えているそうです。

マザーポート移住の提案者でもあり、移住者の採用にも前向きなKAWANEホールディングスの迫さん。ほかにもひとり親に理解のある企業がマザーポートに掲載されている(画像提供/川根本町)

マザーポート移住の提案者でもあり、移住者の採用にも前向きなKAWANEホールディングスの迫さん。ほかにもひとり親に理解のある企業がマザーポートに掲載されている(画像提供/川根本町)

ひとり親家庭も活用できる制度を整備。移住者の増加で町が変わる

川根本町は2022年にマザーポート移住を始める前から、ひとり親に限らず、移住者を呼び込むためにさまざまな移住制度の充実を図ってきました。例えば、家賃や住宅購入費用(川根本町定住・移住促進住宅家賃購入補助金)、住宅改修(川根本町定住・移住促進住宅改修事業費補助金)のための補助金や「こども医療費助成制度」などの助成金を設置。移住してくる人に対してはまずはこの町の暮らしを体験してもらうための「お試し住宅」、移住や就業にかかる費用を助成する「移住・就業支援金」制度もあります。その甲斐あってか、ここ数年では、Uターンも含めて年間約40名ほどの人たちが川根本町に移住しているそうです。

近ごろでは、移住してきた人たちがSNSで町での暮らしを発信し、町でのイキイキとした暮らしぶりを見て新たに移住してくる人もいるのだとか。地元の人たちも新しいお店に出入りして、新たなネットワークができているといいます。

「若い移住者のエネルギーで新しいつながりが自然にできて町が活性化することは大歓迎です。町としても地元の人と移住してくる人の橋渡しを強化していくために、今まで1人だった移住コーディネーターを2人に増やして、移住を希望する人たちにより行き届いたサポート体制を整えています」(植村さん)

このようにひとり親家庭に限らず、移住者が入りやすい地域の雰囲気があることも、地域のサポートを期待したいひとり親家庭にとっては重要なポイントでしょう。

川根本町では町が移住促進に力を入れている。子育てや暮らしへのサポートが充実しているのも特徴だ(画像提供/川根本町)

川根本町では町が移住促進に力を入れている。子育てや暮らしへのサポートが充実しているのも特徴だ(画像提供/川根本町)

全ての人に移住が向くわけではない。親子が共に生活を楽しめる環境へ

しかし神東さんは「誰にでも移住をおすすめするわけではない」と言います。かつて親子で移住した人の中には、子どもは友達もできて楽しく暮らしても、お母さんが地域に馴染めず、転出した人もいたそうです。

「例えば、川根本町での暮らしに車は必須。運転免許や車のない人は、ここでの暮らしは向いていないでしょう。また、地域のコミュニティーに溶け込んでいくには、自分から心を開いてなじもうとする姿勢が必要だと思います。子どもたちは手厚い教育が受けられるし順応力もあるので、実は私たちもあまり心配していません。むしろひとり親のお母さん、お父さんが孤立しないかを常に気にかけています」(神東さん)

「ひとり親家庭への支援がきっかけになって川根本町に興味を持ってくれる方、住みたいと思ってくれる方が増えていくような制度になっていけばと思っています」(植村さん)

移住を検討するときには、子どもだけでなく親自身がいざというときには相談に乗ってもらえるような人間関係を構築して、移住先での生活を楽しむ姿勢が必要なようです。

地域みんなが一緒になってこれからの町をどうよくしていくかを話し合う。「移住者ともともと暮らしている住民が分断しないよう、町の活性化につなげていくことが大事」だと神東さんたちは考えている(画像提供/川根本町)

地域みんなが一緒になってこれからの町をどうよくしていくかを話し合う。「移住者ともともと暮らしている住民が分断しないよう、町の活性化につなげていくことが大事」だと神東さんたちは考えている(画像提供/川根本町)

今回話を聞いた川根本町では、マザーポート移住を開始して、2023年12月現在で問い合わせは4件。うち実際に移住したひとり親家庭は1件です。ひとり親の移住支援として実績だけを見ると、年間40名の移住者の中で、この制度の認知度はまだまだこれからの感があります。

しかし、住まい・仕事・教育、そして地元住民との交流など、複合的にサポートが整えられていることは、ひとり親家庭にとって魅力的で、認知が進めばもっとニーズは広がっていくのでは、と思いました。今後も、このような自治体の動きを注視しながら、ひとり親家庭がより良い暮らしを追求できるよう応援していきたいですね。

●取材協力
・川根本町
・マザーポート移住(川根本町)

7歳の目線で大人が学ぶ「熱中小学校」、運動会や部活動に再燃。移住、転職、脱サラ起業など人生の転機にも 北海道「とかち熱中小学校」

「もういちど7歳の目で世界を…」を合言葉に、大人が学ぶ社会塾「熱中小学校」。2024年2月までに日本全国のさまざまな地域、さらに米国シアトルを加えた計24カ所で開校した実績があり、現在も1,000人を超える生徒が学んでいる。今回筆者は、北海道初の熱中小学校として2017年に誕生した「とかち熱中小学校」(帯広市)の授業を体験。学びに来たはずが、なぜか雪原にダイブしたり、上空800mを飛ぶことに!? 年齢や地域の垣根を超えて生徒が集う、一風変わった「小学校」に潜入します。

熊本県と北海道の距離を超え、「共生」について考えた

チャイムが鳴り、「起立」の号令がかかると、さっきまでのガヤガヤした教室のムードは一瞬でピリッとした空気に変わった。どこにでもある小学校の授業前のワンシーン。でも、ちょっと違う。そこにいるのは下は24歳から上は73歳まで年齢もさまざまな大人たちだ。
この日の「とかち熱中小学校」の会場は北海道の帯広畜産大学。階段状の教室には約50人の生徒が詰めかけていた。

筆者が聴講したのは「共生」の授業。講師は、熊本県戸馳島(とばせじま)で洋ラン農園を営む宮川将人さんだ。
授業は宮川さんの自己紹介から始まった。花農家の3代目として生まれた宮川さんは「サイバー農家」の道を切り開くため、洋ラン業界では前例のなかったネットショップ開設に挑み、日本最大級のECサイトで売上1位の商品を生み出すまでに。ところが34歳のときに過労で倒れ、生死をさまよった経験から「今日が最後の一日だったら何をするか」を自問自答。地域愛が自分の軸としてあることを悟り、地域の活性化に力を注ぐことを決意する――と、かなりかけ足で書いてしまったが、失敗談も惜しみなく披露する宮川さんの講義に、会場は終始温かい笑いに包まれっぱなしだった。そうした中でも、宮川さんが半生を振り返る中で得た教訓「成功の反対は何もしないこと」は、生徒の皆さんの胸に届いたはずだ。

「農家は楽しすぎる」と話す宮川将人さん。前向きに自分らしく、が宮川流(撮影/岩崎量示)

「農家は楽しすぎる」と話す宮川将人さん。前向きに自分らしく、が宮川流(撮影/岩崎量示)

授業後半は、宮川さんのもうひとつの顔「くまもと☆農家ハンター」の話。
農作物のイノシシ被害に向き合い、「災害から地域を守る消防団」のように若手農家有志が取り組む農家ハンター事業が紹介された。捕獲したイノシシを恵みととらえて食肉などへの有効活用を探る中で、イノシシ対策を進めながら耕作放棄地再生や担い手育成につなげるという持続可能な地域づくりのヒントが語られた。人間と野生生物との共生は、エゾシカ被害に悩む北海道にとっても共通したテーマだ。「とかち熱中小学校」の生徒には農家も多く、授業後の質問の多さからも関心度の高さが伺えた。

宮川さんの話に引き込まれる生徒の皆さん(撮影/岩崎量示)

宮川さんの話に引き込まれる生徒の皆さん(撮影/岩崎量示)

1日の授業は2コマ。この日のもうひとコマは「社会」で、こちらはSUUMO編集長の池本洋一氏が先生として登壇した。

教壇に立つ池本編集長。「メディアが取り上げたくなる」をキーワードとしながら、全国のさまざまな街づくりの事例を紹介した。よく見ると傍らにはスーモの姿が(撮影/岩崎量示)

教壇に立つ池本編集長。「メディアが取り上げたくなる」をキーワードとしながら、全国のさまざまな街づくりの事例を紹介した。よく見ると傍らにはスーモの姿が(撮影/岩崎量示)

惜しみなく全力で教えてくれる先生と、7歳のままの好奇心を持ち続ける生徒と

「とかち熱中小学校」の授業は、主に週末の午後に開かれる。半年間を1期として、授業は全8回。生徒になるには申込みが必要で、授業料は1期15,000円(※)だ。「とかち熱中小学校」の運営は主に生徒の授業料でまかなわれている。ちなみに「とかち」を謳ってはいるが、「学区」は十勝エリアに限られているわけではなく、札幌や東京にも生徒はいる。授業はZOOMで配信され、オンラインで出席することも可能だ。
※自治体から助成が受けられる町村もある。なお授業料は各校で異なる

授業の内容は毎回変わり、さまざまな分野で活躍する先生を、地元を含む全国各地から招いて実施する。現在までにのべ344名の先生が教壇に立った(2024年3月時点、課外授業含む)。「世界最高齢」プログラマーとして知られる若宮正子さんや、日本の音楽を世界に発信するピーター・バラカンさんなど、そうそうたる面々だ。

さてその先生だが、全員がボランティアと聞いて驚いた。たっぷり1時間を超える授業に加え、ここは北海道十勝。移動を考えれば少なくとも丸2日間は拘束することになる。先生を引き受ける側もそれ相応の負担を強いられるわけで、熱中小学校への理解と想いがなければ務まらない。
そうした先生の選定や調整を担うのが、「とかち熱中小学校」を運営する一般社団法人北海道熱中開拓機構だ。理事長の木野村英明さんと業務執行理事の亀井秀樹さんに話を聞いた。

一般社団法人北海道熱中開拓機構の木野村さん(左)と亀井さん(撮影/岩崎量示)

一般社団法人北海道熱中開拓機構の木野村さん(左)と亀井さん(撮影/岩崎量示)

「私たちは全国の熱中小学校と連携して350名を超える講師陣リストを共有し、各地域の学校がカリキュラムに合わせて先生をお招きしています。リストとは別に、各校が独自に先生をスカウトする場合もあります。私がお声がけするときの基準は、ワクワクできるかどうか。生徒全員がビビッと来る必要はないけれど、一人でも二人でも、その生徒の人生を変えちゃうような先生を呼ぶことができたらいいなと思って依頼しています」(木野村さん)

そもそもどうして「とかち熱中小学校」はスタートしたのか?

「最初の熱中小学校が山形県高畠町に誕生したのは2015年です。日本IBMの常務を務めた堀田一芙さんが立ち上げました。木野村さんと僕は、設立前にある講演会で堀田さんからこのプロジェクトのことを聞き、都心ではなく地域からこういう動きが生まれるのはすごいなと思って注目していました。その後、熱中小学校を全国に展開することになり、僕たちに声をかけてくれたというのが始まりです」(亀井さん)

こうして2017年春に「とかち熱中小学校」は開校(当初は十勝さらべつ熱中小学校)。半年ごとに生徒を募り、13期目を迎えた。現在は10代~80代の134名が登録する。このうち新入生は2割ほどで、2割は首都圏など十勝以外の地域から受講。平均年齢は44.7歳で全国平均(53.8歳)よりも若い。生涯学習を目的に参加する人のほかにも、起業を目指して通う人、Uターンや2拠点生活を始める前に人脈づくりをしておきたい人など、動機はさまざま。過去には、授業のたびに横浜から飛行機で通学し、ついには夫妻で中札内村に移住した生徒もいる。ちなみにその方はその後、熱中小学校で知り合った映像作家とタッグを組み、現在は広大な雪原に足跡で作品を描くスノーアーティストとしても活躍しているそうだ。

「年齢も職業も異なるいろんな人たちが集まって、刺激を受け合い、お互いにできることを補完して新しいものが生まれています。中にはここでやりたいことを見つけて脱サラし、起業に向けた準備を進めている人もいます。熱中小学校の先生に感銘を受け、その会社に就職した人もいました。一緒に学ぶ仲間がいれば心強いし、新しい挑戦にも背中を押してもらえます。ここに集まるのは、好奇心を7歳のまま持ち続けている人たちなんです」(亀井さん)

授業の後に開かれた懇親会は酪農が盛んな十勝らしく牛乳で乾杯!(撮影/岩崎量示)

授業の後に開かれた懇親会は酪農が盛んな十勝らしく牛乳で乾杯!(撮影/岩崎量示)

授業は帯広畜産大学の教室を借りて行われるが、帯広畜産大学に通う学生にとっても良い影響があると語るのは、同大学の学長であり、「とかち熱中小学校」の校長を務める長澤秀行さんだ。
「うちの学生は約7割が道外からやってきます。何も知らずにこの土地に入ってくる。そうしたときに熱中小の先生や生徒とつながることはすごく大切です。学生にはできるだけ熱中小に参加してもらいたいので、学生は無料で授業が受けられるようにしています。そして一方で、十勝を代表するような企業や、十勝を拠点にがんばっている企業の社長さんにも先生として来てもらっています。最高のキャリア教育の場です。学生たちにはローカルの魅力にたくさんふれて、十勝、北海道が大好きになり、卒業後もここに残って暮らしたい、地域で活躍したいと思ってくれたらうれしいですね」

「十勝には前向きで好奇心旺盛な人が多い」という長澤さん(撮影/岩崎量示)

「十勝には前向きで好奇心旺盛な人が多い」という長澤さん(撮影/岩崎量示)

大人が本気で雪遊びを楽しむ熱中雪中運動会

「とかち熱中小学校」には、学校と同じく運動会もある。
授業の翌日、取材チームは雪中運動会に参加した。氷点下の雪原で行うクレイジーな運動会に。

雪の中の運動会とあって競技も極めてユニークだ。チームでひたすら雪玉をつくる「雪玉づくり競争」(十勝のパウダースノーはサラサラ過ぎて固まりづらい)、玉入れならぬ「雪玉入れ」、ビーチフラッグスをモチーフにした「スノーフラッグ」、ソリを引くスピードを競う「ソリリレー」といった具合に。ルールづくりをはじめ、運営は「とかち熱中小学校」の生徒が主体的に行う。そのねらいを木野村さんに聞くと、次のように話してくれた。

「テーマはチームビルディングとルールメイキングです。毎年、実行委員会を一から立ち上げて運営する。そして競技のルールを決める。自分たちがつくったルールに基づいて、意図したとおりにみんなが動いてくれるか。動いてくれないのか。チームビルディングとルールメイキングを学ぶ実践の場として、運動会は一番手っ取り早いんです」

足元の不安定な雪の上での雪中綱引き。応援にも熱が入る(撮影/岩崎量示)

足元の不安定な雪の上での雪中綱引き。応援にも熱が入る(撮影/岩崎量示)

クイズの答えが書かれた旗をもぎ取るスノーフラッグ。明日は筋肉痛確定(撮影/岩崎量示)

クイズの答えが書かれた旗をもぎ取るスノーフラッグ。明日は筋肉痛確定(撮影/岩崎量示)

ご近所さんも、初めましての人も、同じチームに。いつしか芽生える団結力(撮影/岩崎量示)

ご近所さんも、初めましての人も、同じチームに。いつしか芽生える団結力(撮影/岩崎量示)

実行委員長を務めた小谷文子さんに話を聞いた。小谷さんは更別村の大規模農家コタニアグリの奥さまで、「とかち熱中小学校」の立ち上げから関わる「コア生徒」の一人だ。
「この日のために3カ月前から準備を進めてきました。熱中小学校の生徒29名が今回の実行委員会に参加していますが、みんな仕事がある中で何度も会議を行い、協賛金を集め、広報活動をしてきました。それぞれ得意なことを役割分担して、みんなで知恵を出し合って、今日を迎えました。忙しくても協力を惜しまない、全力で楽しむというのは熱中小学校ならではですよね。今回、5年目にして初めて参加者が100名を超えました。雪中運動会が地域に受け入れられてきているのを実感しています。熱中小学校の関係者だけじゃなく、いろんな人を巻き込んで、つながって、楽しさを広げていくことが大事だと考えています」

実行委員長の小谷文子さんは、「いい天気で本当に良かった」と胸をなで下ろす(撮影/岩崎量示)

実行委員長の小谷文子さんは、「いい天気で本当に良かった」と胸をなで下ろす(撮影/岩崎量示)

……飛んでる?(撮影/岩崎量示)

……飛んでる?(撮影/岩崎量示)

参加者みんなで「ハイ、とかちー!」。子どもも大人もがんばった!(撮影/岩崎量示)

参加者みんなで「ハイ、とかちー!」。子どもも大人もがんばった!(撮影/岩崎量示)

こうした課外活動は雪中運動会にとどまらない。熱中小学校には生徒が自主的に取り組む部活動もある。これまでにピザ部、クレヨン部、豆研究会などさまざまな部活動が生まれた。今年度は新たに雪像部が結成された。

(提供/とかち熱中小学校雪像部)

(提供/とかち熱中小学校雪像部)

(提供/とかち熱中小学校雪像部)

(提供/とかち熱中小学校雪像部)

「おびひろ氷まつり」の会場にスーモ、スモミ、ドンスーモが! 雪像部の皆さん、ありがとうございました!!(提供/とかち熱中小学校雪像部)

「おびひろ氷まつり」の会場にスーモ、スモミ、ドンスーモが! 雪像部の皆さん、ありがとうございました!!(提供/とかち熱中小学校雪像部)

上空800mを新しい観光地に!

実は雪中運動会が行われた日の早朝、取材チームは亀井さんの勧めで熱気球フリーフライトを体験した。それというのも、熱中小学校の生徒さんがパイロットだからだ。

左から2番目が「十勝空旅団(そらたびだん)」代表の篠田博行さん(撮影/岩崎量示)

左から2番目が「十勝空旅団(そらたびだん)」代表の篠田博行さん(撮影/岩崎量示)

篠田さんはパイロット歴36年のベテラン操縦士。長年趣味で熱気球を楽しんでいたが、3年前から副業で観光フリーフライトを始め、2023年3月に32年間勤めた郵便局をすっぱり辞めて本格事業化した。熱気球のフリーフライトサービスを行う民間企業は、十勝でも2社しかないという。ほとんど前例がない中での船出(離陸?)だった。

「昔は競技に夢中になった時期もあったんです。ただ、競技用のバルーンはスムーズな上昇や下降が求められるので機体が小さく、基本は一人乗りなんですね。競技そのものは楽しいけど、空の上では一人きり。一人でボウリングをやって、ストライクを取っても振り向いたら誰もいない、みたいな。『空を共有したい』というのが、観光事業を始めたきっかけです」

球皮の中の空気を温めて浮力を得る熱気球。準備段階から体験できるのがうれしい(撮影/岩崎量示)

球皮の中の空気を温めて浮力を得る熱気球。準備段階から体験できるのがうれしい(撮影/岩崎量示)

球皮の中に特別に入れてもらって記念撮影。一番右は、今回の先生を務めた宮川さん。楽しんでます(撮影/岩崎量示)

球皮の中に特別に入れてもらって記念撮影。一番右は、今回の先生を務めた宮川さん。楽しんでます(撮影/岩崎量示)

事業を始めて気づいたことがある。「お客さんの9割は道外の方です。800mの上空に行くとみんな、だだっ広い畑やまっすぐの道を見て感動するんですね。『何もなくていい』。東京の人はそう言います。ここで育った僕にはその価値がわかっていなかったんです」

音更の街並みを眼下に上昇する熱気球。この日は日高山脈が美しかった(撮影/岩崎量示)

音更の街並みを眼下に上昇する熱気球。この日は日高山脈が美しかった(撮影/岩崎量示)

篠田さんは2023年秋、知人に誘われて「とかち熱中小学校」に入学した。
「自分が知らない世界、知らないキャリアの話を聞くのはびっくりの連続ですよね」

熱中小学校が縁で新しいプロジェクトもスタートした。
「熱中小でこれよりも大きな気球を持っている方がいて、共同で新しい熱気球ビジネスを開発中です。10人乗りの熱気球にシェフを乗せて空の上でレストランを開店したり、スノーアーティストと組んでサプライズプロポーズを演出したり。空の上から大地を見たら雪原に『WILL YOU MARRY ME?』なんて描いてあったら盛り上がるでしょ。空を飛ぶ楽しさをどんどん広げたいし、どんどんたくさんの人と共有したい」。篠田さんの夢も大きく膨らむ。

「とかち熱中小学校」の一日入学(+課外授業)を体験して印象的だったのは、先生も生徒もごちゃ混ぜになって心底、学校を楽しむ姿だった。年の差を超えて笑い合い、地域差を超えて共通の話題で盛り上がる。多様性という言葉がぴったりな同級生たちが磁場となって、これからも十勝管内はもとより、東京や札幌からも人を引き寄せていくのだろう。「十勝に熱中小学校があることが地域の強みになるように、こうした場を提供し続けることが大切」と亀井さんは言う。

2024年4月に7周年を迎える「とかち熱中小学校」。5月には初めての学校祭も計画している。「内容はこれから」とのことだが、ユニークで熱い学校祭になることだけは間違いない。

●取材協力
とかち熱中小学校

シャッター街、8年で「移住者が活躍する商店街」に! 20店舗オープンでにぎわう 六日町通り商店街・宮城県栗原市

シャッター街になりつつあった宮城県栗原市にある「六日町通り商店街」。しかし2016年ごろから、自治体や商店会、地域おこし協力隊らが連携し、移住者が開業しやすい環境づくりに努めてきた。その結果、個性的なお店が約20店舗オープンし、若手中心にイベントなどを企画、人が集まりにぎわいが生まれ注目されている。その「六日町通り商店街」再生の取り組みと現状を紹介する。

移住・定住を進める栗原市定住戦略室の取り組みと支援制度

宮城県北部にある栗原市は、人口6万3143人(2023年1月末時点)、地方への移住をテーマにした情報誌『「田舎暮らしの本』(宝島社)の2024年版「住みたい田舎ベストランキング」で、人口5万人以上10万人未満の市を対象にした全国の総合部門で1位になったまち。

栗原市企画部定住戦略室は、栗原市への移住・定住を希望する人に情報を提供し、相談に対応する総合的な窓口として、2013年7月に開設された。

「栗原市の移住者の数は2013年ごろから右肩上がりで伸びていましたが、新型コロナウイルス感染症が蔓延してからは対面の接触やイベントができないことで、かなり減ってしまいました。2023年になってようやく制限が緩和され、イベントも増やし、対面の相談や窓口にいらっしゃる方は多くなってきました」と話すのは、栗原市企画部定住戦略室の小関さん。

栗原市企画部定住戦略室の小関さん(写真撮影/難波明彦)

栗原市企画部定住戦略室の小関さん(写真撮影/難波明彦)

栗原市企画部定住戦略室は、首都圏からの移住相談、移住者の住まいや仕事の支援、子育てなどのサポートも整えている。

「『空き家バンク制度』といって、空き家の物件を移住検討者の方が購入できるよう、空き家の所有者と利用希望者をマッチングできる体制をつくっています(※)。希望があれば『お試し移住体験住宅』に宿泊し、暮らしを体験することもできます」(小関さん)
※栗原市は紹介のみで、交渉や契約は当事者間で行い、栗原市は関与しない(条件や補助金額など詳細はホームページ参照)

栗原市では、『お試し移住体験住宅』滞在中には、相談者の要望に応じて、移住して起業した人や希望職種に就いている人などを紹介したり、可能なアクティビティを紹介するオーダーメイド型アテンドや体験型プログラムも用意。また、空き家リフォームの助成制度や、若者、新婚生活を始める人の住まいに関する費用を助成し、若年層への支援にも取り組んでいる。また、移住検討者と移住者の交流会やイベントなども積極的に取り組んでいる。

地域おこし協力隊、移住定住コーディネーターらが道を拡げた

地方のシャッター商店街の増加が問題になる中、六日町通り商店街は、仙台圏や首都圏から移住して新規開業した店舗が2015年以降8年間で20店舗ほどと活況だ。中小企業庁が選定する「はばたく商店街30選 2021」にも選ばれた。

特筆すべきは、「移住者が開業しやすいまちづくり」をしている点だ。どのようにして、六日町通り商店街は復活を遂げたのだろう。

最初に六日町通り商店街を盛り上げたキーパーソンは、『cafe かいめんこや』の杉浦風ノ介(すぎうら かぜのすけ) さん。京都府京都市から栗原市に移住後、六日町通り商店街に明治中頃からあった建物を改装して2015年に『cafe かいめんこや』をオープン。

かいめんこや 外観(画像提供/杉浦風ノ介さん)

かいめんこや 外観(画像提供/杉浦風ノ介さん)

「六日町通りには、街の人が話をしたり、相談したりできる場所がなく、ハブになるような場所が必要だと思い、カフェを開きました」と話す。オープン後、少しずつカフェに集う人が増えてコミュニティの場になり、人がまばらだった商店街に変化が生まれた。

2023年4月には、同店の向かいに珈琲豆の焙煎と販売を行う『ムヨカ珈琲ロースタリー』を開業した、オーナーの杉浦風ノ介さん (画像提供/杉浦風ノ介さん)

2023年4月には、同店の向かいに珈琲豆の焙煎と販売を行う『ムヨカ珈琲ロースタリー』を開業した、オーナーの杉浦風ノ介さん (画像提供/杉浦風ノ介さん)

杉浦さんは、移住定住コーディネーターとして、栗原市の定住戦略室から紹介された移住検討者やカフェのお客さんに、移住しお店を開業した先輩、生活者の視点で相談にも応じている。さらには、2019年に地域おこし協力隊のメンバーと、まちづくり会社「六日町合同会社」を設立し、移住者が開業しやすいまちづくりに取り組んでいる。

毎月6日には、食べ物、飲み物を持ち寄りで集まり、ゲストスピーカーの話を聞くイベント『六日知らず』を主催。移住検討者の話を聞き、お店を始めたい人に、商店街の空き店舗を紹介している。

杉浦風ノ介さんは、アーティストが訪れやすい環境、アートに気軽に触れられる場所をつくりたいと考え、アーティスト・イン・レジデンスもスタート(画像提供/杉浦風ノ介さん)

杉浦風ノ介さんは、アーティストが訪れやすい環境、アートに気軽に触れられる場所をつくりたいと考え、アーティスト・イン・レジデンスもスタート(画像提供/杉浦風ノ介さん)

「地方の商店街がにぎわうために必要なものは、『何でもできそうだ』という思い込みや、自由な気質、『楽しそうなまちだな』と思わせるイリュージョンマジックのようなものかな。

商売を始めるなら稼げる首都圏でと考える人は多くても、地方で始めようと考える人は少ないかもしれません。私は画一化されていく世の中が好きじゃなくて、同じ考えの人は他にもいると思います。東京ほど稼げる場所ではないかもしれませんが、家族と暮らしていくには十分で、やり方次第ではもっと稼げると思います。

『自由に切り拓きたい、面白いことをやりたい』人たちが100人でも集まってきて、面白いまちになればいいですね。

キーパーソンだって、一人じゃなく、いろいろな人が何人もいることが大事。これからは次代を引っ張っていく若い世代の人たちが活躍しやすい環境をつくっていきたいと思っています」

六日町商店街(写真撮影/難波明彦)

六日町商店街(写真撮影/難波明彦)

地域おこし協力隊、「六日町通り商店街シャッター開ける人!」の三浦大樹さんも、六日町通り商店街のキーパーソンの一人だ。

三浦大樹さん。「生まれも育ちも栗原市で、高校卒業後は仙台市に出て働いてましたが、地元に貢献できることがしたい、という気持ちが生まれて栗原市にUターン。今はクラフトビール醸造所の立ち上げの準備中です」(写真撮影/難波明彦)

三浦大樹さん。「生まれも育ちも栗原市で、高校卒業後は仙台市に出て働いてましたが、地元に貢献できることがしたい、という気持ちが生まれて栗原市にUターン。今はクラフトビール醸造所の立ち上げの準備中です」(写真撮影/難波明彦)

三浦さんは2022年4月から、地域おこし協力隊、「六日町通り商店街シャッター開ける人!」として活動。六日町通り商店街に拠点を構え、地域協力活動を行いながら、商店街の空き店舗と店を開業したい人をマッチングする取り組みや、商店街に人を集め、にぎわいを創出するお祭りやイベントの企画・運営などを行い、一軒でも多くのシャッターを開けようとチャレンジしている。

「六日町通り商店街では6、7、8月の第2土曜日に六日町通り商店街を歩行者天国にして『くりこま夜市』を開催しています。1970年代から商店会が続けてきた伝統的なイベントですが、近年は六日町通り商店街と地域おこし協力隊が連携して、マルシェや音楽ライブを行い、外部から出店するマルシェ(キッチンカー)が50店舗ほど並びます。西馬音内盆踊りの輪踊りやDJイベントなども。2023年6月は、地域内外から約1万人が集まりました」(三浦さん)

近年開業した移住者たちと既存の店舗の若手後継者が中心となって、商店街の内部組織として「未来事業部」を発足、イラストマップの制作やスタンプラリーの開催、ギフトラッピングの開発など、新しい発想で商店街の魅力を発信している。

くりこま夜市風景(画像提供/三浦大樹さん)

くりこま夜市風景(画像提供/三浦大樹さん)

「商店街では古くからの人、若い後継者や若い移住者との間に、一般的には溝や隔たりがあったりしますが、六日町通り商店街は全くありません。年齢の高い人たちが、新しいチャレンジを歓迎してくれる環境があります。

それと、既存の店の店主さんたちが、状況が悪いときも足を止めずにイベントを続けてきたことが大きい。その土壌があって、2015年に『かいめんこや』ができて、若い人が集まるようになったという流れですね」(三浦さん)

まちの雰囲気はもちろん、地代が比較的安く、商店会が快くサポートしてくれる、また新たに小売店、飲食店などを開業する人に対して「ビジネスチャレンジサポート」という補助金もあって初期投資を軽減できるなど、比較的開業・起業しやすいまちといえそうだ。

思わぬきっかけで移住して、六日町通り商店街に新店を開業

六日町通り商店街に移住・開業した店主を、「六日町通り商店街シャッター開ける人!」の三浦大樹さんに紹介してもらった。

■ハンドメイド雑貨店「ねこの森雑貨店」
六日町通り商店街に移住・開業した店主を「六日町通り商店街シャッター開ける人!」の三浦大樹さんに紹介してもらったうちの一人が、「ねこの森雑貨店」の店主、髙橋千恵美さんだ。

店主の髙橋千恵美さん(写真撮影/難波明彦)

店主の髙橋千恵美さん(写真撮影/難波明彦)

髙橋さんは結婚後、仙台市に8年ほど暮らし、子どもが2歳くらいのときに、「自然豊かで、のびのびしたところで子育てがしたい」と夫妻で話し合い、移住を検討するように。

「宮城県内のいくつかの市町村を見て回ったときに、栗原市には豊かな自然があり、六日町通り商店街の雰囲気も気に入りました。そして、夏に訪れた夜市マーケットが楽しく、商店街を歩いたときも店主さんが気さくに声をかけてくれて、栗原市への移住を決めました。栗原市に知り合いも親戚もいませんが、定住戦略室の相談窓口など移住者のサポートが積極的で、お泊り体験で移住後の生活をイメージしやすかったのも良かったです」と髙橋さん。

ねこの森雑貨店 外観(写真撮影/難波明彦)

ねこの森雑貨店 外観(写真撮影/難波明彦)

その後『かいめんこや』の杉浦さんに、六日町通り商店街に住みながら店が開けるような空き物件を紹介され、2018年に移住、2019年に「ねこの森雑貨店」をオープンした。

「かなり傷んだ建物でしたが、近所の店主さんや移住して開業した先輩に分からないことを聞き、アドバイスをもらいながら開業の準備を進めました。商店街がとても歓迎ムードで、気軽に話しかけてくれたり、一聞いたら十以上教えてくれました」

店内には羊毛フェルトの一点もののブローチやイラスト、アート原画など、ここでしか買えないオリジナルキャラクターの作品が並ぶ。また、ペットの写真をもとにしたオーダーメイドの半立体顔ブローチや全身立体などは、大切なペットを亡くした方などに喜ばれているそう。

ねこの森雑貨店 店内(写真撮影/難波明彦)

ねこの森雑貨店 店内(写真撮影/難波明彦)

「手芸が得意な祖母の影響で、私も小学生のころから何かを手づくりして、作品をイベントに出したり、Webサイトで販売したりしていました。ここにお店を開いたのは、地域の方々にハンドメイド作品の素晴らしさを広めたいと思ったから。当時は、ハンドメイドが好きな人は多くてもあまり馴染みがない人、やり方が分からないという人が多く、相談を受けたりしましたが、この4、5年間でハンドメイド作家さんや作品を扱うお店が少しずつ増えて、とてもうれしいです」(髙橋さん)

■文具・雑貨の店「さるぶん」

さるぶん店内。可愛い雑貨は選ぶのが楽しい(写真撮影/難波明彦)

さるぶん店内。可愛い雑貨は選ぶのが楽しい(写真撮影/難波明彦)

「私は、この六日町通り商店街をショッピングモールと考えているんです。当店にいらした方にはできるだけ商店街マップを渡しています。六日町通りごと気に入ってもらって、他の店を見て歩いてどこかで買い物をしてくれたらうれしい」と話すのは、文具・雑貨「さるぶん」の佐藤陽子さん。県外出身で、結婚後宮城県に移住してきた。

「もともと文具や雑貨が好きだったのです。定年後は雑貨屋か本屋ができたらいいな、とぼんやりと思っていました。そこに六日町通りにオリジナル文具店の2号店ができること、そこの店長を募集していると知り、『やってみよう』と手を挙げたのがきっかけで店を構えることになりました」。開業にあたって前職を離れ、六日町に転居した。
「こんなところで出合えるなんて」をコンセプトに佐藤さんがアイテムをセレクト。レトロでかわいいものや海外の文具など少し変わったものを置いているのが特徴。開業に当たっては、栗原市の開業支援の助成金、改装時は県産木材を使うことでの補助金などを利用した。

「『さるぶん』は、文具と雑貨の店ですが、ひとつの建物に間借り店舗として、本屋、貸カフェ・貸ギャラリーの3店舗が入っているイメージです。貸カフェでは、月曜が近所のスープ屋さんの日、火曜がレトルトカレーの日と場所を貸して、ギャラリーは作家さんの作品の展示やイベントで使っていただいています。何か面白いことをやっている場所といった存在になれたらいいですね。

本棚には本がたくさん(写真撮影/難波明彦)

本棚には本がたくさん(写真撮影/難波明彦)

開業して一番良かったのは、好きなものに囲まれて暮らせること。自分の好きなものをお客さんに手に取って喜んでもらえることがうれしいです。ここはもともと鶴丸城の城下町でした。近くに細倉鉱山があった頃はかなりの繁華街だったそうです。昔からお住まいの地域の方、商店会の方はそういったプライドを持ってお仕事されており、そして新しく入った私たちがすることを温かく見守ってくれるので、居心地がいい。お客様にも『この地にルーツがなくてもどこか懐かしさを感じる。日常とは時間の流れが違ってほっとする』と言っていただいています。私自身もこの場所に癒やされています」(佐藤さん)

■工具の販売や各種家庭金物「佐々木金物店」
最後に紹介するのは、移住者ではなく、古くから六日町通り商店街で商売してきた老舗、佐々木金物店へ。ねこの森雑貨店の髙橋さんは、開業準備でお世話になったという。

佐々木金物店の佐々木桂子さん。東日本大震災で建物が壊れたままだったが、2022年10月に建物をリニューアルし、再オープンした(写真撮影/難波明彦)

佐々木金物店の佐々木桂子さん。東日本大震災で建物が壊れたままだったが、2022年10月に建物をリニューアルし、再オープンした(写真撮影/難波明彦)

佐々木金物店は、1926年に創業、馬の蹄鉄などを販売していたが、現在は、プロの電動工具、各種家庭金物からフライパンや包丁といったキッチン用品など豊富な商品を販売、サッシなどの各種取り付け工事の相談にも対応している。気軽に立ち寄りお茶飲み話をするお客さんも多いそう。

変化する商店街を見てきたが、「地域おこし協力隊やコーディネーターの方たちのおかげでIターンの移住者が増えて、六日町通り商店街は、古いお店と新しいお店が混在していますが、若い人たちのパワーはすごいと思います」と表情は明るい。

「うちも売るだけではなく、不定期でドライフラワーや花材キット体験会などのワークショップも開催して、新しいものも採り入れていきたい。今後もここで頑張っていきます」(佐々木さん)

地方への人の流れをつくる取り組みや、にぎわいを失った商店街の活性化は各地で行われている。栗原市では、移住・定住を単に推し進めるのではなく、「住まい、仕事(起業・開業)、子育て環境」のサポートを充実させ、相談に力を入れ、地域おこし協力隊、移住定住コーディネーターを依頼するなど、市民に協力を求めた。

活気を失いかけていた六日町通り商店街だが、商店会組織はイベントや販売促進の取り組みは地道に継続しており、若い人の新しい提案や移住者を歓迎する雰囲気もあった。そこで、コミュニティカフェがカギとなり、新たな店が出店し、人と人のつながりが生まれ、新旧の人、店が手をつなぎ商店街の魅力を育み、外に向けて発信を始めている。これまで守ってきた既存の店、店主を尊重しながら、新しいまちづくりを若い人のパワーに託す「信頼と感謝、〇〇のためという思いやり」。これがまちへの定着にもつながると感じた。

●取材協力
栗原市企画部企画課定住戦略室
cafe かいめんこや
六日町通り商店街
ねこの森雑貨店
さるぶん
佐々木金物店

●関連サイト
移住定住ハンドブック 第班(令和5年度発行)宮城県地域振興課
お試し移住体験生活事業
移住定住コンシェルジュ
六日町通り商店街

沖縄のホテルがゴミ拾いを始めた理由。宿泊客・地元民と共に人や街のつながりつくる、観光地のオーバーツーリズムの新たな解決策

人気の観光地、沖縄県。コロナ禍が収束し、本格的に観光需要が戻り始めています。そんな沖縄県・那覇市の観光エリア「国際通り」そばに、2023年6月、「サウスウエストグランドホテル(Southwest Grand Hotel)」が開業しました。運営するのはPlan・Do・See(東京都中央区)。「6th」(東京都・麻布台に移転)、任天堂本社社屋を活用した安藤忠雄氏設計監修の「丸福樓(MARUFUKURO)」など、全国各地で数々の人気ホテルを手掛けてきた同社ですが、今回は宿泊客だけでなく地元の人たちも巻き込んだ、ユニークな取り組みをしているといいます。エコツーリズム型ホテルとはどんなものなのか、取材しました。

地域住民と宿泊客で「ゴミ拾い」

2023年12月17日、少し肌寒い日曜日の朝8時。サウスウエストグランドホテルのエントランス前には、緑色のビブス着用した人々が集まっていました。総勢約25人。参加者は20~40代の男女で、ボランティア団体「グリーンバード沖縄チーム」のメンバーや、サウスウエストグランドホテルの従業員、沖縄県内の大学に通う大学生など、年齢も立場もさまざま。

ゴミ拾い出発前に気合いを入れます(写真撮影/島袋常貴)

ゴミ拾い出発前に気合いを入れます(写真撮影/島袋常貴)

ゴミを捨てるための袋。拾いながらきっちり分別します(写真撮影/島袋常貴)

ゴミを捨てるための袋。拾いながらきっちり分別します(写真撮影/島袋常貴)

彼らは、これからおよそ1時間にわたり、国際通り周辺のゴミ拾いに出発するといいます。「那覇 CLEAN GREEN MORNING(以下、那覇CGM)」と名付けられた、日曜朝のゴミ拾いは、今回が第2回目の開催で、今後は月に一度開催される定番イベントになるとのこと。11月18日に開催された第1回から、同ホテルの宿泊客も参加したといいます。
いったいなぜ、このようなツアーをホテルが開催しているのでしょうか。

ホテル前を出発し、国際通りへ(写真撮影/島袋常貴)

ホテル前を出発し、国際通りへ(写真撮影/島袋常貴)

「サウスウエストグランドホテルは、ここで出会った方々のハブになることを目指しています。那覇を旅して当ホテルを訪れたお客様だけでなく、ここで暮らしたり、働いたりしている全ての人々が交わりながら、街をより良くしていく。その活動の一環と捉えて毎月第3日曜日に開催しています」。同ホテルのキャスティング室・江口美沙さんはこう語ります。

近年、観光地で問題になっているのが「オーバーツーリズム」です。オーバーツーリズムとは、特定のエリアに観光客が集中することによって生まれる、さまざまな弊害のことを指します。例えば、騒音や交通渋滞、環境破壊などがその一例ですが、那覇の国際通りで近年、目につくのがそのゴミの多さだといいます。

那覇のメインストリート「国際通り」(写真撮影/島袋常貴)

那覇のメインストリート「国際通り」(写真撮影/島袋常貴)

歩道のそこかしこに見受けられるゴミたち(写真撮影/島袋常貴)

歩道のそこかしこに見受けられるゴミたち(写真撮影/島袋常貴)

確かに、観光客の多い国際通りでは、空き缶や何かが入ったコンビニ袋、空っぽになったお菓子の袋など、多種多様なゴミが目につきます。こうしたゴミを、集まったボランティアやホテルの従業員、宿泊客が一緒に拾うことで、街を綺麗にするとともに、新たな交流の場も生み出す仕組みです。海外ではクリーン活動に観光客が飛び入りすることも多く、今後は同じように、さらに参加者の輪を広げていきたいとのこと。

ホテルの従業員も参加し、率先してゴミ拾い(写真撮影/島袋常貴)

ホテルの従業員も参加し、率先してゴミ拾い(写真撮影/島袋常貴)

グリーンバード特製ゴミ袋(写真撮影/島袋常貴)

グリーンバード特製ゴミ袋(写真撮影/島袋常貴)

空き缶やフライパンなど、さまざまなゴミが見つかります(写真撮影/島袋常貴)

空き缶やフライパンなど、さまざまなゴミが見つかります(写真撮影/島袋常貴)

国際通り近くにある市場本通りや牧志公設市場などでもゴミ拾い(写真撮影/島袋常貴)

国際通り近くにある市場本通りや牧志公設市場などでもゴミ拾い(写真撮影/島袋常貴)

実際に活動に参加しながら、参加者の声を聞いてみました。

コロナ禍を機に沖縄県浦添市に移住したという女性は「ここで生まれるコミュニティに参加することが楽しみのひとつです」と笑顔を見せました。

21歳の男子大学生は、日曜日の早起きは苦にならないといいます。「この活動に参加することで、ゴミを拾いながら普段話せない社会人の方たちともいろいろな話をできる。僕はファッション関係に進みたいんですが、沖縄県外から参加されている方たちから、ファッションビジネスの話を聞けるのがとても勉強になります」と目を輝かせていました。

ホテルから数分歩くと、国際通りに突き当たります。そこからは2つのグループに分かれて、周辺のゴミを回収。たばこの吸い殻や割れたガラス瓶、はたまたフライパンなど、回収できたゴミは大型のゴミ袋7袋にものぼりました。

燃えるゴミ、燃えないゴミなどゴミの種類によって袋のデザインが異なる(写真撮影/島袋常貴)

燃えるゴミ、燃えないゴミなどゴミの種類によって袋のデザインが異なる(写真撮影/島袋常貴)

回収したゴミを整理するボランティアのメンバー(写真撮影/島袋常貴)

回収したゴミを整理するボランティアのメンバー(写真撮影/島袋常貴)

学生と社会人の交流の場にも

終了後、参加者には、ホテルのレストランで飲み物がふるまわれます。参加した人々が、笑顔で談笑する姿が印象的でした。

ゴミ拾いを終えて談笑中(写真撮影/島袋常貴)

ゴミ拾いを終えて談笑中(写真撮影/島袋常貴)

参加者にはホテルのオールデイダイニング「A LONG VACATION.」     でドリンクを1杯サービス。コーヒーや紅茶、フルーツジュースなどから選べる(写真撮影/島袋常貴)

参加者にはホテルのオールデイダイニング「A LONG VACATION.」 でドリンクを1杯サービス。コーヒーや紅茶、フルーツジュースなどから選べる(写真撮影/島袋常貴)

グリーンバード沖縄チームのリーダーは、沖縄県名護市にある公立大学、名桜大学4生の山下寛人さん。サッカー推薦で名桜大学に入学した山下さんですが、新型コロナウイルスの流行中は、サッカーに打ち込むのが難しい環境だったといいます。

グリーンバード沖縄     チームのリーダー山下寛人さん(写真撮影/島袋常貴)

グリーンバード沖縄 チームのリーダー山下寛人さん(写真撮影/島袋常貴)

「それでも、早朝に地元のビーチをランニングしていると、地元のおじいやおばあが、ビーチのゴミを拾っているんです。自分も沖縄に貢献したいと思って、2021年の6月ごろから少しずつ活動を始めました」

卒業後は、国際協力団体のJICAに就職し、ソロモン諸島のとある国のサッカー代表チームの助監督を務める予定です。

「次のリーダーも、なるべく大学生にバトンを渡したいですね。社会貢献は継続が大切。継続するためには、僕ら運営側が、ボランティアの参加メンバーにメリットを提供できるかどうかも大切なことです。今回のサウスウエストグランドホテルさんのように、地域の企業に認知していただくことで、参加する学生にとっても、キャリアや人生について大人の方に相談できるような場になっていけたらいいなと考えています」

ゴミ拾い後、ホテルでランチを楽しんでいく参加者も少なくないとか。写真はホテル名物のオリジナルビーフバーガー+フライドポテト2400円(税込)(写真撮影/島袋常貴)

ゴミ拾い後、ホテルでランチを楽しんでいく参加者も少なくないとか。写真はホテル名物のオリジナルビーフバーガー+フライドポテト2400円(税込)(写真撮影/島袋常貴)

ふわふわのオリジナルパンケーキも人気、「6th PANCAKE」1700円(税込)(写真撮影/島袋常貴)

ふわふわのオリジナルパンケーキも人気、「6th PANCAKE」1700円(税込)(写真撮影/島袋常貴)

至近距離で沖縄の三線を聞ける「ゆんたくSUNSET」

サウスウエストグランドホテルでは、もうひとつユニークな取り組みがあります。夕日を眺めながら、ホテルのバーで提供されるカクテル1杯を片手に、沖縄のカルチャー、エンタテインメント、スポーツなどを通じて宿泊客や地元住民が“ゆんたく(沖縄の方言でおしゃべりという意味)”を楽しむイベント「ゆんたくSUNSET」です。

翌18日の17時15分からは、同ホテル11階のダイニング&サンセットバー 「The Sailor’s Club」で三線のライブを開催。ホテルの宿泊者およそ20人が、1時間15分にわたって、三線とカチャーシーを楽しみました。三線とは、沖縄の伝統的な弦楽器、カチャーシーとは沖縄民謡に合わせて、両手を頭上で左右に振りながら踊る伝統的な踊りのこと。

当日は、三線奏者・波平宇宙さんの演奏に合わせて、参加者が沖縄の伝統音楽を味わいました。

三線奏者・波平宇宙さん(写真撮影/島袋常貴)

三線奏者・波平宇宙さん(写真撮影/島袋常貴)

演奏中の様子(写真撮影/島袋常貴)

演奏中の様子(写真撮影/島袋常貴)

ゆんたくSUNSETでふるまわれるドリンク、(左)グアバとマンゴーのトロピカルカクテル、(右)自家製レモネードとクランベリーをソーダで割った「ロングバケーション」(写真撮影/島袋常貴)

ゆんたくSUNSETでふるまわれるドリンク、(左)グアバとマンゴーのトロピカルカクテル、(右)自家製レモネードとクランベリーをソーダで割った「ロングバケーション」(写真撮影/島袋常貴)

イベントでは三線を触ってみる貴重な体験も(写真撮影/島袋常貴)

イベントでは三線を触ってみる貴重な体験も(写真撮影/島袋常貴)

沖縄の伝統的な楽器、三線(写真撮影/島袋常貴)

沖縄の伝統的な楽器、三線(写真撮影/島袋常貴)

東京都から旅行に来た50代の夫妻は「こんなにすぐそばで、三線を聞けたのは初めて。国際通りで民謡居酒屋を予約したことがあったんだけど、お客さんの声で良く聞こえなかったの」と笑顔に。

那覇市在住で、一家3人で宿泊しているという40代男性は「沖縄に住んでいても、こういった伝統芸能に触れる機会は多くありません。子供にも良い体験になったと思います」と話していました。

演奏終了後は、ゆんたくタイムに。演奏をした波平さんは、普段は沖縄芸術劇場などで演奏していますが「お客様とここまで近くで交流できる場は少ないです。伝統芸能の演者は年々減少していますが、自分もよい演奏をして頑張っていきたい」と意気込みを語っていました。

今後の「ゆんたく SUNSET」では、地域住民からもイベント企画を募集し、沖縄の文化や歴史の発信・共有を通じて、那覇で暮らす・旅する・働く全ての人々の“社交場”を目指していくといいます(那覇CGMやゆんたくSUNSETのイベント参加は、サウスウエストグランドホテルのInstagramで申し込み可能)。

ライブのシメは全員でカチャーシーを楽しんだ(写真撮影/島袋常貴)

ライブのシメは全員でカチャーシーを楽しんだ(写真撮影/島袋常貴)

沖縄の「目的地」になるホテルを目指す

サウスウエストグランドホテルで最も部屋数が多いグランドツインルームは45平米とぜいたくな造りです。ゆったりくつろげるソファから見える大型テレビは画面の角度を自由に動かすことができ、室内のミニバーも無料。ホテル内には全天候型の室内プールやジャグジー、最上階にはサウナも備え、ゆったりとホテルステイができます。

その反面、価格帯は1泊約5万円から。観光客はともかく、地元の人々が気軽に宿泊できる価格帯とは言えません。しかし、他の高価格帯ホテルとは一線を画した工夫で地元沖縄への貢献を試みています。それは従業員の雇用や、はたまたホテルのインテリアにも表れています。

グランドツインルーム(写真撮影/島袋常貴)

グランドツインルーム(写真撮影/島袋常貴)

洗面台には「女優ライト」が備え付けられメイクもしやすい(写真撮影/島袋常貴)

洗面台には「女優ライト」が備え付けられメイクもしやすい(写真撮影/島袋常貴)

館内には目に優しい暖色ライトが使用されている(写真撮影/島袋常貴)

館内には目に優しい暖色ライトが使用されている(写真撮影/島袋常貴)

沖縄県出身の同ホテルのゼネラルマネージャー・宮﨑健太さんはこう話します。

「これまで、富裕層のお客様は恩納村などの北部まで足を延ばして、ビーチやゴルフを楽しまれることがほとんどでした。でも、このホテルを目的地に『那覇でいいじゃん』と思っていただきたい。そして、地元・那覇の人たちにとっても気軽に来館していただける、街と繋がるホテルで在り続けたいですね」(宮﨑さん)

折しもクリスマスシーズンでしたが、サウスウエストグランドホテルのロビーはクリスマスの雰囲気はありつつも、クリスマスツリーが飾られていませんでした。

宮﨑さんいわく「沖縄には、もともとツリーを飾る習慣はなかったんですよ。これも沖縄らしさの一つです(笑)」とのこと。筆者には、その空間もとても居心地よく感じられました。

ホテルフロント(写真撮影/島袋常貴)

ホテルフロント(写真撮影/島袋常貴)

エコツーリズム型ホテルは、宿泊の場を提供するだけではなく、さまざまな場所に住む、老若男女の出会いを生み出します。早朝のゴミ拾いは参加した学生にとっては、社会勉強の場に。移住者や観光客にとっては、この場を通して沖縄のローカルな文化を感じたり、地元の参加者と交流したりすることができます。ホテルにとっても、地域に貢献することができ、結果的に那覇の街も綺麗になります。

沖縄の中でも、さまざまな人が行き交う街、那覇。観光で数日訪れるだけではなかなか体験できない「人とのつながり、街とのつながり」を生み出せるのが、エコツーリズム型ホテルの醍醐味といえるでしょう。

サウスウエストグランドホテルの外観(写真撮影/島袋常貴)

サウスウエストグランドホテルの外観(写真撮影/島袋常貴)

●取材協力
サウスウエストグランドホテル
HP
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グリーンバード沖縄チーム

関心高まる「移住・二地域居住」 、促進に向け専門委員会が中間とりまとめを公表 これから何が変わる?

空家の増加が懸念されるなか、東京圏の転入超過数はコロナ禍で一時的に減少したものの、現在は再び増加している。一方で、若者世代を含めた移住や二地域居住の希望者が増加している。こうした状況下で、地方への人の流れを創出・拡大させようと、国土交通省では移住・二地域居住等促進専門委員会を設けて「移住・二地域居住」などを促進するための施策について審議を続け、この度その中間とりまとめを公表した。

【今週の住活トピック】
移住・二地域居住等の促進に向けた対応の方向性等をとりまとめ/国土交通省

地方移住や二地域居住への関心は高い

政府は、移住や二地域居住を促進することは、東京一極集中の是正や地方創生という課題について効果があると見ている。また移住や二地域居住の促進は、「関係人口」の創出拡大を通じた魅力的な地域づくりにも有効な手段と考えている。

関係人口とは、移住した「定住人口」でもなく、観光に来た「交流人口」でもない、特定の地域に継続的に多様な形で関わる人のことで、「二地域居住等」を行う人も含んでいる。なお、政府では二地域居住を「主な生活拠点とは別の特定の地域に生活拠点(ホテル等も含む)を設ける暮らし方」と定義している。必ずしも2つの地域に住まいがあることに限定していない。

さて、専門委員会の中間とりまとめを見よう。内閣府や国土交通省の調査結果から、地方移住や二地域居住への関心が高まっていると指摘している。まず、内閣府が2023年3月に行った「新型コロナウイルス感染症の影響下における生活意識・行動の変化に関する調査」では、東京圏(東京都・埼玉県・千葉県・神奈川県)に居住する人の地方移住への関心は年々高まっている様子がうかがえる。

また、国土交通省が2023年8月~9月に行った「二地域居住に関するアンケート」で、二地域居住を行っていない人に二地域居住等を行いたいと思うか聞いたところ、27.9%が二地域居住を行いたい・行う予定があるなどの高い関心を示した。

地方移住への関心(東京圏)全年齢

出典/「国土審議会 推進部会移住・二地域居住等促進専門委員会中間とりまとめ」より

今後、居住地や通勤・通学先以外で、二地域居住等を行いたいと思いますか?

出典/「国土審議会 推進部会移住・二地域居住等促進専門委員会中間とりまとめ」の参考資料集より

このように関心が高まっている移住や二地域居住だが、実行するにはさまざまなハードルもある。

場所にしばられない働き方が可能になり、転職なき移住も

移住や二地域居住で最も高いハードルになるのが、「仕事や収入」といわれてきた。ところが、コロナ禍でテレワークが普及し、地方にいながらにして東京での仕事を続けることができるようになった。地方で希望の仕事が見つからない、地方での収入が都市部より低くて経済的に成り立たないといったハードルが低くなったことで、移住や二地域居住がしやすくなってきた。また、副業を禁止しない企業も増えているので、東京で本業を、地方で副業やボランティアを、といったスタイルが取りやすいことも追い風となっている。

パーソル総合研究所「地方移住に関する実態調査」(2022年3月作成)によると、移住した人の53.4%が「転職をしていない」と回答している。場所にしばられない働き方ができれば、「転職なき移住」も可能になるわけだ。もちろん、残りの半数近くは転職や独立・起業をしているので、それを支援する手立ても必要となる。

移住に伴う転職・職務変更

出典/「国土審議会 推進部会移住・二地域居住等促進専門委員会中間とりまとめ」の参考資料集より

「住まい」「なりわい(仕事)」「コミュニティ」の3本柱

次に、「地域コミュニティへの参加のしやすさ」というハードルもある。地域独特のルールに馴染めないといったことや、「よそ者」に対する寛容性が低い地域、性別や世代などによる偏見が残っている地域があったりして、移住や二地域居住の障害になる場合もある。

そこで、中間とりまとめでは「住まい」「なりわい(仕事)」「コミュニティ」を3つの柱に据えて、それぞれの課題や対応の方向性を提示している。

「住まい」「なりわい(仕事)」「コミュニティ」の課題

出典/「国土審議会 推進部会移住・二地域居住等促進専門委員会中間とりまとめ」より

移住や二地域居住の促進をするための施策についてのとりまとめなので、「中間とりまとめ」ではそれぞれの対応策について、地方自治体が取り組むべき内容や実際に取り組んでいる自治体の事例などを詳しく紹介している。さらに、受け入れる個々の地方自治体だけでなく、民間との連携や地域間、基礎自治体と広域の都道府県との連携も必要であり、区域外就学制度などの子どもの学びの環境づくりなど、横断的な対応も必要と指摘している。

筆者が取材した地方移住者の場合、空き家はあるのによそ者には売ったり貸したりしたくないという風潮があり、それが大きな課題となったという事例もあった。その事例では、移住者のサポートをする橋渡し役の人が地元住民に働きかけて意識を変えたことで、移住者向けの空き家が増え、新たなコミュニティが形成されて、今では多くの移住者や地元住民と良い関係が築けていた。

中間とりまとめは、かなり細かい点にまで言及した提言となっている。実際に行うのは難しい内容も多いが、新しい人材を求める自治体には積極的に取り組んでほしい。働き方や家族のライフスタイルなどが変化している今こそ、障害を減らして魅力を発信できる自治体が移住先・二地域居住先として選ばれていくだろう。

●関連サイト
国土交通省の報道発表:移住・二地域居住等の促進に向けた対応の方向性等をとりまとめ
「国土審議会 推進部会移住・二地域居住等促進専門委員会中間とりまとめ」
「国土審議会 推進部会移住・二地域居住等促進専門委員会中間とりまとめ」の参考資料集

勤務先への出社頻度は増加しても、郊外・地方への移住ニーズは減少しない?

野村総合研究所(以下NRI)は、2023年7月、東京都内の従業員300人以上の企業に勤務する20代~60代の男女3090人を対象に、働き方と郊外・地方移住に関するインターネット調査を実施した。2022年の調査に続き2回目。新型コロナウイルス感染症が2023年5月に5類に移行してからの調査になるので、前回より勤務先への出社頻度は増加しているが、移住ニーズはどう変化したのだろう。

【今週の住活トピック】
「働き方と移住」のテーマで2回目の調査を実施/野村総合研究所

勤務先に「毎日出社」する割合が53.1%まで回帰

まず、2023年7月時点の出社頻度を尋ねたところ、「毎日出社」が53.1%を占めた。前回調査時の2022年2月は、まだ東京都でまん延防止等重点措置の期間中だったため、「毎日出社」が38.3%だったのに対してかなり増えたことになる。出社回帰の傾向は強まっているものの、コロナ前ほどには戻っていないようだ。

■各時点での出社頻度(コロナ前・今回調査時:N(回答数)=3,090、前回調査時:N=3,207)

各時点での出社頻度

注)コロナ前の出社頻度は、今回の調査対象者に2020年1月以前の出社頻度を聴取した。
前回、今回調査時の出社頻度は、各回の調査対象者に調査時点の出社頻度を聴取した。
出所:NRI「働き方と生活に関するアンケート」(2023年7月)

出社頻度が増加した理由はなんだろう? 出社頻度が増加した人にその理由を聞いたところ、「勤務先の方針やルールが変わり、出社を求められるから」(39.0%)など企業側の要請という理由もあったが、「出社したほうがコミュニケーションを円滑に取れるため、自主的に出社を増やしたから」(28.2%)や「出社したほうが業務に集中できるため、自主的に出社を増やしたから」(23.7%)など、自らの意志によるものもあった。

出社頻度が増加しても、郊外・地方への移住意向は下がらない

次に、郊外・地方※への移住意向を聞いたところ、直近1年間に移住意向がある人は全体の15.3%、5年以内に意向がある人は全体の28.4%と、それぞれ前回調査から微増した。出社頻度が増加したとはいえ、郊外や地方への移住ニーズは下がっていないことが分かった。
※都心から公共交通機関で1時間程度の場所を「郊外」、2時間以上の場所を「地方」として調査

■郊外・地方への移住意向がある人の割合(前回調査N=3,207、今回調査N=3,090)

郊外・地方への移住意向がある人の割合

出所:NRI「働き方と生活に関するアンケート」(2023年7月)

NRIは、この理由として、「「都心よりも住宅費が抑えられる郊外・地方への関心が高まっている」、「テレワークの浸透によって、より広い居住面積を有する郊外の住宅ニーズが高まっている」などが推察される」としている。また、移住意向を年代別や現在の居住形態別に分析した結果、「郊外・地方への移住意向がある層は、現在は賃貸住宅に居住している若年層(25~34歳)で、かつ将来的には持家に居住したいと考えている層だと考えられる」と指摘している。

「理想の出社頻度」を聞いたうえで、出社頻度を現在の出社頻度よりも減らしたいと考えている人を分析したところ、「郊外・地方移住意向なしの人よりも、郊外・地方移住意向ありの人の方が多い結果となった」という。最も差が開いたのは、「週3日出社」の場合。「週3日出社」している人で理想の出社頻度を減らしたい回答だったのは、「郊外・地方移住意向なし」では49.3%なのに対して、「郊外・地方移住意向あり」では63.9%で、週3日以上の出社が移住のハードルとなっているようだ。

また、「転職の意向」と重ねて分析すると、「郊外・地方移住意向あり」のうち、「今後1年の間に転職を考えている」人は47.6%で、「郊外・地方移住意向なし」の23.9%に比べてかなり高い結果となった。さらに、転職の検討理由について分析すると、「郊外・地方移住意向あり」のうち、「テレワークの制限によって理想の働き方が実現できないこと」が理由だと回答した人は23.6%で、「郊外・地方移住意向なし」の14.8%に比べて高い結果になっていた。これらのことから、NRIは、「郊外・地方移住意向ありの人の中には、出社頻度を転職の判断軸のひとつとする人が一定数いると推察される」と分析している。

郊外・地方移住をする場合の注意点とは?

では、郊外・地方に移住する際に注意すべきことはなんだろう?

現役世代が勤務しながら「郊外・地方移住」をする場合、都心部から遠くても2~3時間程度までだろう。となると、都心部と気候が全く異なるとか、自然に囲まれた田舎暮らしになるとか、そこまでの注意点は不要だろう。

そうはいっても、都心部の暮らしとは違う点も多々あるはずだ。その場所に住むことのメリットとデメリットをしっかりと把握しておきたい。

たとえば、
・広い家を手に入れやすい
・都心から離れた分だけ自然が豊かになる
・生活するための物価が安い
などのメリットがあるかもしれないし、

・近隣との関係が都心部とは異なる
・車移動が増える。そのため、ガソリン代も増える
・都心より、商業施設や娯楽施設が少ない
などのデメリットがあるかもしれない。

なぜそこに移住したいかの「理由」を明確にしておくことも大切だ。メリットの優先度が高くなったりデメリットを許容できるようになったりと、検討したメリットとデメリットの優劣も変わってくる。家族で移住するなら、よく話し合って互いに共有できるようにしておきたい。

NRIでは、「賃貸住宅に居住している若年層(25~34歳)で、かつ将来的には持家に居住したい層で、郊外・地方移住意向が高いことから「家族が増える・住宅を購入するといったタイミングでの転居において、その安さや広さから郊外・地方への関心がより高まっている」と考えられる」と見ている。利便性一辺倒ではない住まいの選び方が、今後は広がっていくのかもしれない。

●関連サイト
「野村総合研究所、都内の会社員を対象に「働き方と移住」のテーマで2回目の調査」

仲間4人と”ノリで移住”から4年、「自分たちで町を面白く」新移住者を歓迎する交流スペース「ポルト」の歩み 北海道上川町

北海道の上川町は大雪山国立公園や層雲峡温泉などを有する自然豊かな町です。人口3000人ほどの町には元銀行の空き物件を活用した交流&コワーキングスペース「PORTO(ポルト)」があります。この場所では“元”移住者が“新”移住者をサポートするという循環が生まれています。
ポルトを運営する株式会社Earth Friends Camp代表取締役の絹張蝦夷丸(きぬばり・えぞまる)さん、同社コミュニティマネージャーの中川春奈(なかがわ・はるな)さんにお話を伺いました。

大雪山のふもとに位置する北海道上川町(画像提供/ポルト)

大雪山のふもとに位置する北海道上川町(画像提供/ポルト)

全ての人に開かれた、多様なバックグラウンドを持つ人たちが出会う場に

ポルトは町中心部の銀行跡地の空き物件を活用し、できるかぎり地域住民たちの手で改装を手掛け、2021年10月オープンしました。
現在はコミュニティマネージャー2人とパート勤務1人の3人体制で業務しています。誰もが気軽に入れる交流スペースのほか、移住・観光・暮らしの総合窓口、コワーキングスペース、ショップ、ギャラリーと5つの機能をあわせ持っています。

筆者が訪れた平日昼下がりには交流スペースでコーヒー片手に楽しそうに語らうシニアの方々、その後ろでパソコンとイヤホンでオンラインミーティング中の若いビジネスパーソンの姿がありました。コワーキングスペースも3名が活用していました。
放課後は学童帰りの子どもたちも立ち寄り、もっとにぎやかな時間があるそうです。マルシェなどイベントが開催され、町内外の人が入り混じる取り組みも盛んに行われています。土、日も開いているため、役場や市役所での移住窓口と異なり、休日に相談に乗れることも訪れる人の利点でもあります。
利用者数はひと月にのべ500人ほど。年間累計6000人に達し、町人口の倍近くの人がこの場を訪れていることになります。

明るい雰囲気の交流スペース。フローリングは銀行時代のままの素材を使用。奥の大きな金庫だったスペースはギャラリーとして活用されています(写真撮影/米田友紀)

明るい雰囲気の交流スペース。フローリングは銀行時代のままの素材を使用。奥の大きな金庫だったスペースはギャラリーとして活用されています(写真撮影/米田友紀)

実は、ポルトは一般的な公設民営施設ではありません。物件自体をEarth Friends Campが賃貸契約していることで、運営委託期間が終了しても自分たちで継続していくことができることが利点だといいます。
同社代表取締役の絹張さんは、2019年に仲間4人の“ノリ”で上川町へ移住した人物。ノリから始まって4年、どっぷりと地域に浸かりチャレンジを続けています。

ショップ機能の棚は大工としても活躍する地域おこし協力隊の一員が制作。町には道の駅がないため、地元土産が購入できる観光の拠点としても利用されています(写真撮影/米田友紀)

ショップ機能の棚は大工としても活躍する地域おこし協力隊の一員が制作。町には道の駅がないため、地元土産が購入できる観光の拠点としても利用されています(写真撮影/米田友紀)

仲間4人の勢いで移住。自分たちで町を面白くしたい

絹張さんは2019年3月、29歳の時に地域おこし協力隊として札幌市から上川町へ移住しました。
きっかけは移住前年の2018年秋に上川町の層雲峡で開催された紅葉イベントでした。当時移動式コーヒ―ショップを営んでいた絹張さんは、アウトドア仲間とともにイベントに参加。その際、層雲峡でホステルを経営していた友人から上川町の地域おこし協力隊「KAMIKAWORK」の募集が始まったことを偶然紹介されます。
当時、町ではフード、アウトドア、ランプワーク、コミュニティと4分野で人を募っていました。
「面白そう!」と盛り上がり、仲間同士で4分野にそれぞれ応募したところ、そろって採用されたのです。

「楽しそうだと思ったものの、上川に住みたかったわけでも、協力隊になりたかったわけでもありませんでした。まだ都心部から離れたくないなという気持ちもありましたし。
もしも当時、自分の故郷の町で同じような話があったなら、そちらに関心があったかもしれません。本当に偶然、上川町での働き方を知って、仲間と盛り上がって応募してみたら採用されちゃった、という感覚。採用が決まり、さてどうしようか、4人で行くんだから何とかなるか、という勢いの移住でした」

町での新しい活動を前向きに考えていたものの、移住から半年の間、絹張さんは想定外のしんどさを味わいます。地方出身で、地域のことに詳しく、アウトドア企画など提案力が問われる取り組みを得意としてきた絹張さん。ですが、町で自分がやりたい活動をしたいのに、思うように活動できない日々が続きました。

「今思えば恥ずかしいですが、自分の力を過信していたのだと思います。行政には行政の仕事の進め方があるのに、スピード感が合わない、正しいのに変えられない、と感じてイラ立ちを抱え続けていました。でも、周囲に相談していくうちに気づいたんです。相手が求めていないことを、自分の正しさで押し付けてはいけない。まず求められたことに対して、それ以上のことを届けていくことをめざしました」

町の人と話すために、町中にとにかく顔を出す。銭湯に通い、地元の話を聞く。絹張さんは自身の役割を考察し、地域おこし協力隊として任用された自分ができることを見出していきます。すると移住直後の軋轢(あつれき)が減り、業務も少しずつ歯車が噛み合うように。自分の行動で地域がより良くなる手応えが生まれ、「自分たちの力で町を楽しくできる」という実感が湧いてくるようになりました。

小さな町では「一票の重み」のように一人のチャレンジが大きな変化をもたらすことがあります。自分たちの取り組みが目に見えて身近な人の幸せにつながる感触。これは小さな地域ならではの面白さかもしれません。

絹張さんとともに移住した仲間3人も、地域おこし協力隊卒業後も上川町に関わり続けています。ポルトがある町の通り道。地方にありがちな静かな通りの様子に、著者は「この道で合ってる?」と一瞬不安になりましたが、ポルトや近くのカフェには若い世代もシニアも多くの人の姿がありました(写真撮影/米田友紀)

絹張さんとともに移住した仲間3人も、地域おこし協力隊卒業後も上川町に関わり続けています。ポルトがある町の通り道。地方にありがちな静かな通りの様子に、著者は「この道で合ってる?」と一瞬不安になりましたが、ポルトや近くのカフェには若い世代もシニアも多くの人の姿がありました(写真撮影/米田友紀)

地域で暮らす人が楽しそうな町には、自然と人が集まるはず

移住から1年後の2020年春、世界中がコロナ禍に陥ります。3つの温泉郷を有する上川町では観光産業が大きなダメージを受けました。
絹張さんらは温泉郷の安心宣言を設計し、広報活動をサポートする役割を担います。観光産業への打撃は自分と地域の関わりを見直す契機にもなりました。

「観光やレジャーの事業をやりたい。町でコーヒー屋もつくりたい。でも、事業があるだけではダメなんです。当然ですが町に来たいと思う人がいなくては成り立ちません。仲間と内輪で楽しくやっていても、その先が見えない。地域のことをもっともっと、考えないとダメかもしれない。そう考えるようになりました」

当時役場から偶然、声がかかったのが交流施設の立ち上げでした。ポルトの原案となる交流施設のコンセプトシートを見た絹張さんは「これだ!」と感じたといいます。
人口が多かった時代の町の過去と現在との比較や都市部と田舎を比べて勝ち負けを競うのではなく、今地域で暮らす人が楽しい町でありたい。そんな人たちが暮らす地域には自然と人が集まるはず。コンセプトシートには絹張さんがつくりたい地域の未来が広がっていました。
交流施設の輪郭を役場とともに手探りで描き、2021年にポルトがオープンを迎えます。

「ポルト」はイタリア語で港の意味。すべての人に開かれた港のような存在をめざしている(画像提供/ポルト)

「ポルト」はイタリア語で港の意味。すべての人に開かれた港のような存在をめざしている(画像提供/ポルト)

絹張さんが代表を務めるEarth Friends Campはアウトドアを軸としたプロデュース事業を行っています。
アウトドアと、移住相談に交流拠点。一見結びつかない事業にチャレンジするのには、「今地域で暮らす自分たちで行動を起こし、町を楽しくしていく」と決めた絹張さんと役場の熱量の共有がありました。

コロナ禍には「行き場を失う人が出てしまう」と出来る限りポルトの鍵は閉めずに、開店していたそう(写真撮影/米田友紀)

コロナ禍には「行き場を失う人が出てしまう」と出来る限りポルトの鍵は閉めずに、開店していたそう(写真撮影/米田友紀)

子どもの「やりたい」も応援 個々人の挑戦に伴走する

現在ポルトには「一緒にやりたい」「あげたい」「ほしい」など自由に記載できる伝言板があります。

そこにある日「みんなで鬼ごっこ大会をしたい」と書き残した小学生がいました。その紙を見たポルトスタッフは大会実施をサポートするために奔走。地域おこし協力隊の教育部門スタッフも巻き込み、小学生主催による鬼ごっこ大会が実現します。

たった一枚からはじまった大会実現に保護者から長文で感謝のメッセージをもらったそう。親が忙しい時期に親以外の誰かが向き合ってくれる、この町で育つ子どもは幸せ者だ、と伝えるメッセージでした。

絹張さんと中川さん。訪れる人の個々の思いに寄り添う姿勢が印象的です(写真撮影/米田友紀)

絹張さんと中川さん。訪れる人の個々の思いに寄り添う姿勢が印象的です(写真撮影/米田友紀)

家族以外の人、地域が自分たちを支えてくれるという原体験は、子どもの人生にプラスの力を及ぼすものではないでしょうか。無償の優しさを「与えてもらった」子どもたちが、彼らが大人になってまた「与えていく」。そんな優しさが継承される社会であってほしいです。

ポルトでは毎月マルシェも行われています。人と人、地域と人をつなぐ場とすることが目的で、町内外の店舗や農園オーナー、キッチンカーを招き、新しい出会いが生まれています。上川町の現役の地域おこし協力隊や別エリアの協力隊、卒業生も多くやってきて、小さな町で人的交流が活発に行われているのです。

「協力隊や上川町で事業をされている方はもちろん、上川町に関わってくれているすべての人のやりたいことをポルトの場を活用して実現してほしいです。やりたいことや暮らしの小さな悩みごとにも一緒に考えて伴走できる存在でありたいです」(中川さん)

コワーキングスペースは上川町の地域おこし協力隊の活動拠点としても活用されています(写真撮影/米田友紀)

コワーキングスペースは上川町の地域おこし協力隊の活動拠点としても活用されています(写真撮影/米田友紀)

中川さん自身も、2023年4月に札幌市から上川町へ移住した一人です。それまでは10年間看護師として従事していましたが、暮らしのすぐそばにある「誰でも来ていい場所」であるポルトが興味深く、何度も足を運ぶようになったそう。

上川町へ通い、町内外の人と会話をする中で、コミュニティマネージャーとして働くことを選びました。これからの人生を考えた時に「心地よさ」や「好き」をもう少し大切に暮らしたいと思っていたタイミングで上川町に出会い、自然がたくさんある環境や人のあたたかさに触れ、心地よさから移住することを決めたそうです。
地域で暮らす人が楽しそうにしていたら、人が集まる。ポルトの原案にあった風景が広がりつつあります。

2023年10月で3年目となったポルト。毎日必ず書く日報には、素敵な取り組みがあった日にスタッフ同士で「ナイスポルト!」とコメントするそうです。ポジティブに協力し合うコミュニティを築いています(写真撮影/米田友紀)

2023年10月で3年目となったポルト。毎日必ず書く日報には、素敵な取り組みがあった日にスタッフ同士で「ナイスポルト!」とコメントするそうです。ポジティブに協力し合うコミュニティを築いています(写真撮影/米田友紀)

偶発的な機会を受け入れ、自分起点で挑む

「自分たちで」は絹張さんたちからよく聞かれる言葉。自らがやりたいことに挑むことで、結果として身近な人たちが幸せになってくれたら、というアクションの取り方をしています。

仲間同士のノリと偶然から始まった小さな町への移住。自分たちの役割と、やりたいことをつなげながら、ポルトは新しい移住者を歓迎する循環を生み出しつつあります。
外からの風が吹く場所であり続けたい、とポルトの2人は語ってくれました。

自分たちが町の新しい風であったように、次の風が町に楽しい変化を巻き起こす。ポルトから始まる地域の変化が楽しみです。

●取材協力
ポルト

転出超過つづきの危機から一転、転入者が10倍以上に!「おしゃれ田舎プロジェクト」の勢い、長野県小諸市が移住者から熱視線

長野県東部に位置し、軽井沢にもほど近い小諸(こもろ)市。3年連続で転入者が転出者を上回り、2021年は16人増、2022年は一気に169人増、2023年は7月末時点で187人増と目覚ましい伸びを見せ、注目を集めています。その理由のひとつは、「小諸のまち歩きが楽しくなってきたから」。若い世代の人たちが出かけたくなるまちをめざしたプロジェクトの立役者のひとり、高野慎吾さんにお話をうかがいました。

小諸市役所の産業振興部商工観光課企業立地定住促進係に勤める高野慎吾さん(写真撮影/窪田真一)

小諸市役所の産業振興部商工観光課企業立地定住促進係に勤める高野慎吾さん(写真撮影/窪田真一)

小諸市は、雄大な浅間山を望む自然豊かなまち。古くは小諸城の城下町として、また北国街道の宿場町として栄え、明治~昭和初期には多くの人が集まる商都としてにぎわいました。しかしながら、時代の流れとともに人は減少。まちには空き店舗や空き家が目立つように。転出者が転入者を上回る社会減は、年間100人を超えるほどになりました。
そんな危機的状況が、ここ数年で一転。2020年からは転入者が転出者を上回る社会増が続き、今年度は200人増に近づく勢いを見せています。さまざまな要因が考えられるなか、高野慎吾さんたちが立ち上げた「おしゃれ田舎プロジェクト」の取り組みが、ひとつの鍵となっているようです。

長野県松本市出身の高野さんは、小諸市役所に勤めるいわゆる行政マン。以前は移住担当の仕事をしていたことがあり、当時移住相談に来た人に「小諸、いいところですよ」と口では言っていたものの、胸を張ってアピールできなかったと本心を明かします。「市役所の周辺にも空き店舗が多く、シャッター通り。地域に元気がないなと感じていました」
そこで2019年秋、市の職員有志で、まちを考える会を開きます。移住促進のその前に、まずは空き店舗を解消し、にぎわいのあるまちにすることが大切だと考えた高野さんたちは、「若い世代が出かけたくなるまち」をめざすことに。それが「おしゃれ田舎プロジェクト」の始まりでした。

「休みの日、小諸の人たちは上田や佐久、軽井沢に買い物に行っていたんですよね。小諸にもっと行きたくなるお店が増えれば、逆に上田や佐久、軽井沢から小諸に来てくれるようになる。車で30分の距離は、十分、商圏になり得ます」
そうしてまちに活気があふれれば、住みたいまちになるはずだ、と考えたのです。

しなの鉄道とJR小海線が利用できる小諸駅。駅前にはコンビニをはじめチェーン店は見当たらない(写真撮影/塚田真理子)

しなの鉄道とJR小海線が利用できる小諸駅。駅前にはコンビニをはじめチェーン店は見当たらない(写真撮影/塚田真理子)

メンバーは、「まちなかで商売をする商人たち」と「少数の行政マン」

「おしゃれ田舎プロジェクト」の具体的な活動内容は、田舎で開業したい人と、空き店舗をマッチングすること。高野さんはじめプロジェクトメンバーは、まちを歩いて物件情報を集めておき、開業希望者に事業内容や要望に合った物件を紹介します。

ただそれだけではありません。プロジェクトでは、お店同士、お店と地域といった横のつながりを最重視。「個」でがんばるのではなく、新規に開業する人と既に商売をしている人たちが「チーム」となって、ともに楽しみながらまちを盛り上げ、経営を軌道にのせて長く続けていく。そのためのサポートに取り組んでいます。

小諸宿が栄えた江戸、明治、大正時代の大きな商家が立ち並ぶ本町の通り(写真撮影/塚田真理子)

小諸宿が栄えた江戸、明治、大正時代の大きな商家が立ち並ぶ本町の通り(写真撮影/塚田真理子)

「おしゃれ田舎プロジェクト」のメンバーは現在18人。市役所職員は高野さんともう1人だけで、施工会社や飲食店経営者、地域おこし協力隊、地元テレビのキャスターなど、小諸で働く“まちのプレイヤー”が大半を占めます。「行政が主導でやると、つまらなく見えてしまうかなと。異動があれば引き継げなくなるし。それよりも、まちの中のプレイヤーたちに混じって課外活動的にやる方が、全力で盛り上げられると思いました」

とはいえ、市役所職員が関わっていると聞けば、開業希望者にとって安心感もあるものです。めぼしい空き店舗は所有者に電話したり、ときには呼び鈴を鳴らして賃貸のお願いをしたりするそうですが、そうした際の信頼度は行政マンの強みといえるでしょう。

新しいこと好きという小諸市長からも公認され、高野さんが「おしゃれ田舎プロジェクト」に関わることは職務の一部としてみなされています。週末に活動することも少なくないそうですが、をモットーに、「できる範囲でやる、おせっかい団体のようなものです」と高野さんは朗らかに笑います。

もちろん、高野さんらプロジェクトの仲間たちは物件をマッチングした際も手数料などは受け取らず、物件の契約は地元の不動産会社に引き継ぎ、そこで仲介業務をしてもらう形をとっています。

それでは、実際に「おしゃれ田舎プロジェクト」を通じて小諸でお店を始めた人たちに話を聞いてみましょう。

高品質な小諸の花を地域から発信したくて、花屋をオープン小諸の冬は寒いけれど、人は本当にあったかいと話す黒木さん夫妻(写真撮影/窪田真一)

小諸の冬は寒いけれど、人は本当にあったかいと話す黒木さん夫妻(写真撮影/窪田真一)

花屋「CAKES(ケイクス) ハナトコモノ」を営むのは、神奈川県から移住してきた黒木幸太さん、可奈さん夫妻。贈り物に、自分へのご褒美に、ケーキを買うように気軽に花を取り入れてほしい、という思いでつけた店名です。

花の専門学校で学び、長年花の仕事に携わってきた幸太さんは、信州の花は色のりが良く持ちがいいことを知り、現地からその魅力を発信できないかと考えました。「コロナ禍で、家で調べる時間がたくさんあって、オンラインで長野県の移住セミナーを受けたんです。その後、レンタカーで佐久市と上田市に行ってみた帰り、小諸市のことはなにも知らなかったんですけど、小諸駅を目的地にして立ち寄ってみたら、駅前に『停車場ガーデン』という緑いっぱいの素敵なガーデンがあって。まちを歩けば通りには古い家並みが残っていて、そのなかに新しいお店もできていて、肌感でおもしろそうなまちだな、と感じました」(幸太さん)

「おしゃれ田舎プロジェクト」のことはネットで知り、「どうせ移住するならおもしろい取り組みをやっているところがいいな」(可奈さん)と、小諸での開業を希望。連絡を取り、高野さんに物件を案内してもらったのです。

色とりどりの生花やドライフラワーが並ぶ。晴れの日が多く、坂があって風が抜ける小諸のまちは、ドライフラワーをつくるのにうってつけの環境だという(写真撮影/窪田真一)

色とりどりの生花やドライフラワーが並ぶ。晴れの日が多く、坂があって風が抜ける小諸のまちは、ドライフラワーをつくるのにうってつけの環境だという(写真撮影/窪田真一)

高野さんには本当によく面倒を見てもらった、と感謝するふたり(写真撮影/窪田真一)

高野さんには本当によく面倒を見てもらった、と感謝するふたり(写真撮影/窪田真一)

地域のつながりを大切に。「小諸に来てくれてありがとう」の言葉が支えに

2022年7月に小諸に移住し、9月に開業。旧北国街道沿いに立つ花屋の物件は、もともと酒屋だったところで、4年間ほど空き店舗になっていました。上下水道が使えて広さは18坪ほど。大きな植物を運ぶのに駐車場が付いているのが気に入った点です。

「高野さんは、物件をただ案内してくれるだけでなく、まちの人たちに『今度花屋を開く方たちです』と紹介してくれて。商工会議所の青年部にもつないでくださり、開業前に横のつながりができたのが本当にありがたかった」とふたりは話します。

特に「CAKES」のある与良(よら)地区は地域の結びつきが強く、古くから住む人も外から移住してきた人も、分け隔てなくお付き合いする文化があるのだそう。2~3カ月に1度開かれる「与良会」という意見交換会のような集まりにも、積極的に参加しているふたり。高野さんは物件を案内する際、そういったまちの輪に溶け込める人なのかどうかも、さりげなく見極めているといいます。

地元の花農家の規格外の花は、低価格で提供してくれる(写真撮影/窪田真一)

地元の花農家の規格外の花は、低価格で提供してくれる(写真撮影/窪田真一)

黒木さん夫妻がもうひとつ小諸でいいなと思ったのは、毎週のようにさまざまなイベントが行われていたこと。「CAKES」もマルシェなどへの出店を重ね、異業種との交流や販路の開拓につなげてきました。昨年12月には、開業3カ月にして、後述する「まちタネ広場」でクリスマスマーケットを初主催。「冬は寒さが厳しいので、どうしても人の流れが止まってしまうと聞いて。自分たちもクリスマスの雰囲気が大好きだし、冬の小諸を盛り上げたいなと企画したところ、1000人近くの方にご来場いただきました。もちろん今年も開催します。一過性のものでなく、恒例にしていけたら」と意気込みます。

「地元の人に、『小諸に来てくれてありがとう』と言われたことが、すごくうれしかった」と話すふたり。現在は「おしゃれ田舎プロジェクト」のメンバーとして名を連ね、地域の人々や新しく小諸で開業したい人たちとのつながりを深めています。

可奈さんと、山梨に住む可奈さんの兄がつくるアクセサリーも販売(写真撮影/窪田真一)

可奈さんと、山梨に住む可奈さんの兄がつくるアクセサリーも販売(写真撮影/窪田真一)

レンガ造りの建物。昔の酒屋の看板はそのまま残している(写真撮影/窪田真一)

レンガ造りの建物。昔の酒屋の看板はそのまま残している(写真撮影/窪田真一)

小諸のメインストリートに、夫婦で営むヘアサロンと量り売りショップが誕生オーガニックにこだわったヘアサロン「parte(パルテ)」と、量り売り専門店「giro by parte(ジーロ バイ パルテ)」(写真撮影/窪田真一)

オーガニックにこだわったヘアサロン「parte(パルテ)」と、量り売り専門店「giro by parte(ジーロ バイ パルテ)」(写真撮影/窪田真一)

「物件は有限だから、いい人に入ってもらいたい。まちの人たちに紹介したとき、福島さん夫妻は気が合いそうだなと感覚で思いました」と高野さんは言う(写真撮影/窪田真一)

「物件は有限だから、いい人に入ってもらいたい。まちの人たちに紹介したとき、福島さん夫妻は気が合いそうだなと感覚で思いました」と高野さんは言う(写真撮影/窪田真一)

小諸市役所の目の前に立つ3階建てビルの2階に、2022年5月、ヘアサロンとオーガニック食材の量り売りショップがオープンしました。店主は、埼玉県で9年間ヘアサロンを営んでいた福島史明さんと智恵美さんです。もともと長野県東信エリアで子どもの教育移住を検討していた福島さんは、山が近くのどかな雰囲気や、車で30分圏内に買い物施設や日帰り温泉がある小諸の住環境が気に入り、2021年、家族5人で移住。その後、サロンの物件を探す際に頼ったのが、智恵美さんがSNSで知った「おしゃれ田舎プロジェクト」でした。

「ここは小諸のメインストリート。最初は1階がいいと思っていたんですが、2階に上がってみたらスケルトンで広々、大きな窓から市役所前の公園の緑と花が見渡せて、開放的でいいなって」と智恵美さん。
リノベーションは「おしゃれ田舎プロジェクト」のメンバーである施工会社に依頼し、埼玉時代の店のテイストと同様、ぬくもりのある心地よい空間が誕生しました。

公園の緑が見える開放感が気に入って、2階を契約。一度量り売りショップを通ってヘアサロンへ(写真撮影/窪田真一)

公園の緑が見える開放感が気に入って、2階を契約。一度量り売りショップを通ってヘアサロンへ(写真撮影/窪田真一)

頭皮&ヘアケアに定評のあるサロン。ヘッドスパの個室も用意している(写真撮影/窪田真一)

頭皮&ヘアケアに定評のあるサロン。ヘッドスパの個室も用意している(写真撮影/窪田真一)

築50年ほどの3階建てビル、空いていた3フロアすべてに借り手が智恵美さんが手がけるバルクショップは、包装をなくしてできる限りゴミを出さない、量り売りの販売スタイル(写真撮影/窪田真一)

智恵美さんが手がけるバルクショップは、包装をなくしてできる限りゴミを出さない、量り売りの販売スタイル(写真撮影/窪田真一)

ドライフルーツや焼き菓子、パスタ、ハーブ、調味料など、オーガニック食材がずらり。必要な分だけ買えるから、フードロス対策にも(写真撮影/窪田真一)

ドライフルーツや焼き菓子、パスタ、ハーブ、調味料など、オーガニック食材がずらり。必要な分だけ買えるから、フードロス対策にも(写真撮影/窪田真一)

屋上部分にビニールカーテンのテントがあるのが、「parte」が入居するビル。1階は弁当屋、3階は別の人が住居として使用(写真撮影/塚田真理子)

屋上部分にビニールカーテンのテントがあるのが、「parte」が入居するビル。1階は弁当屋、3階は別の人が住居として使用(写真撮影/塚田真理子)

福島さん夫妻が内見した時はビルの3フロアとも空いていましたが、この2年で全フロア入居者が決まり、人の流れができました。その活気が後押しとなり、昨年、ビルのオーナーが屋上でビアガーデンをスタート。冬以外は営業を行い、オープンな雰囲気が楽しめるとあって、なかなか盛況のよう。静かだった空きビルが、新たに息を吹き返したのです。

風情ある建物をリノベーションした魅力的な店舗が続々

2020年以降「おしゃれ田舎プロジェクト」が関わって小諸で開業に至った店舗は、上で紹介した2件以外にも、パン屋、イタリアンレストラン、ビストロ、洋裁店、インテリアギャラリーなど30件に上ります。そのうち、プロジェクトが一から十まで携わったのは3年で約15件。第一号は、小諸駅舎内の電源が使えるカフェ「小諸駅のまど」。なんと、みどりの窓口だったスペースを活用したカフェだとか。

また個人経営の店以外にも、企業と空き物件をマッチングさせた例もあるそうです。

「CAKES」の近く、明治時代に旅館として使われていた建物は、コワーキングスペース「合間」に。取材時、1階ではカフェ「エトセトラ」がプレオープン中だった(写真撮影/窪田真一)

「CAKES」の近く、明治時代に旅館として使われていた建物は、コワーキングスペース「合間」に。取材時、1階ではカフェ「エトセトラ」がプレオープン中だった(写真撮影/窪田真一)

コーヒーのほか、日本茶もサイフォンで抽出する「彩本堂」。古民家の奥には移築した土蔵がつながっている(写真撮影/窪田真一)

コーヒーのほか、日本茶もサイフォンで抽出する「彩本堂」。古民家の奥には移築した土蔵がつながっている(写真撮影/窪田真一)

紅葉しかけた蔦が味わい深い、花屋とカフェ「FLORO cafe(フロロカフェ)」。以前の店「スナック夕子」の看板はあえてそのまま(写真撮影/窪田真一)

紅葉しかけた蔦が味わい深い、花屋とカフェ「FLORO cafe(フロロカフェ)」。以前の店「スナック夕子」の看板はあえてそのまま(写真撮影/窪田真一)

駅前の通りから小さなトンネルを抜けたところにある、という立地も、隠れ家感があって素敵すぎる(写真撮影/窪田真一)

駅前の通りから小さなトンネルを抜けたところにある、という立地も、隠れ家感があって素敵すぎる(写真撮影/窪田真一)

極め付けは、蔦の絡まるレトロな建物。これは新築では出せない味わいです。3階建てのビルにはかつてスナックや居酒屋9店が営業していたものの、10年以上空き店舗になっていました。2022年、軽井沢などで花屋とカフェを営む「FLOWER FIELD」が小諸に出店したいという話があり、高野さんが案内したところ、社長がここに一目惚れ。その日のうちに「購入したい」と申し込んだとか。その後、レトロな趣を残しながらセンスよくリノベーション。奥にはウッドデッキのテラス席もあるというギャップもまた魅力的です。

「FLORO cafe」に入ると、ドライフラワーに彩られた空間が広がる(写真提供/FLORO cafe)

「FLORO cafe」に入ると、ドライフラワーに彩られた空間が広がる(写真提供/FLORO cafe)

komoroと描かれたオリジナルドアの先には、開放的なテラス席が(写真提供/FLORO cafe)

komoroと描かれたオリジナルドアの先には、開放的なテラス席が(写真提供/FLORO cafe)

古民家カフェがリノベ中。オープン後は、蕎麦の実や蕎麦茶を使ったスイーツが楽しめるそう(写真撮影/窪田真一)

古民家カフェがリノベ中。オープン後は、蕎麦の実や蕎麦茶を使ったスイーツが楽しめるそう(写真撮影/窪田真一)

小諸城大手門隣の重厚な古民家は、小諸の老舗蕎麦店が手がける「CLOVE CAFE」として来春オープン予定。現在はリノベーション中で、「おしゃれ田舎プロジェクト」を通して市民参加の壁塗りイベントなどが行われています。みんなでこのお店をつくった、なんていい思い出になるに違いありません。

NG事項ナシ! みんなの想いが実現できる「まちタネ広場」が楽しい「おしゃれ田舎プロジェクト」メンバーでもある岡山千紗さんと、高野さん。左の葉っぱ(?)が「こもろ」とくり抜かれているのがわかるでしょうか?楽しい遊び心!(写真撮影/窪田真一)

「おしゃれ田舎プロジェクト」メンバーでもある岡山千紗さんと、高野さん。左の葉っぱ(?)が「こもろ」とくり抜かれているのがわかるでしょうか?楽しい遊び心!(写真撮影/窪田真一)

もうひとつ、小諸でにぎわいを創出しているのが、駅から歩いて3分、大手門公園エリアにある「まちタネ広場」です。まちの“タネ”をつくる広場とは、どんな経緯でできたのでしょうか?
「ここはもともと駐車場だったのですが、駅前という立地、大手門公園という観光資源をもっと有効活用した方がいいのではということで、自由広場のような場所を整備したのです」と高野さん。

でも、ただ遊具を置いただけでは、多くの人には使ってもらえない。どんな仕掛けがあれば市民みんなが楽しめるのか。市民参加の意見交換会やワークショップを重ね、「ルールをつくらないのが唯一のルール」という方針に。
小諸市地域おこし協力隊として横浜から移住し、まちづくりに関わる岡山千紗さんによると、「禁止事項ほぼナシ、ペット連れも、花火も、焚き火も、プロレスも、なんでもやってOKな、社会実験の場なんです」

芝生エリアを中心に、まわりには自転車やスケボーの練習ができる園路、工作などものづくり体験ができるガレージエリアが整備され、可動式のテーブルや日除けタープなども自由に使えます。近くに住んでいるなら、きっと通いたくなってしまうはず。

奥にはステージがあり、ふだんは自由に座ったり寝転んだりする場に。イベント時には、音楽やダンスのステージとしても使える(写真提供/まちタネ広場)

奥にはステージがあり、ふだんは自由に座ったり寝転んだりする場に。イベント時には、音楽やダンスのステージとしても使える(写真提供/まちタネ広場)

これからの楽しいことを伝える掲示板“お知らせウォール”(写真提供/まちタネ広場)

これからの楽しいことを伝える掲示板“お知らせウォール”(写真提供/まちタネ広場)

広場の運営は、総合建設コンサルタント「URリンケージ」と小諸市が共同で行っています。まちのにぎわいづくりの一環として行われているため、広場の占有使用料は受け取っていません。ゆえに、地域の方々のやりたいことの実現からイベントまで、週末を中心になにかしらの取り組みでにぎわいを見せています。
これまでに催されたのは演劇ワークショップ、まちタネシネマ、夕涼み会、焼き芋大会、クラシックカーミーティング、サウナイベントなどなど。規模もさまざまな催しが、年間に約60回も行われています。
「イベントの来訪者の内訳は、小諸が3割、佐久・上田が3割、東京3割。いろいろな方に来てもらえているのがうれしい」と岡山さん。

イベントの合間や帰りには、小諸のまちなかで食事したり、散策したりという人の流れができたそう。まさに、「おしゃれ田舎プロジェクト」がめざす、理想の形が見えてきました。

小諸ボンバイエ×信州プロレスリングによるパフォーマンスも大盛況(写真提供/まちタネ広場)

小諸ボンバイエ×信州プロレスリングによるパフォーマンスも大盛況(写真提供/まちタネ広場)

手持ち花火大会のイベントでは、サプライズでナイアガラの滝が!仕掛け花火が楽しめる広場なんて、なかなかない(写真提供/まちタネ広場)

手持ち花火大会のイベントでは、サプライズでナイアガラの滝が!仕掛け花火が楽しめる広場なんて、なかなかない(写真提供/まちタネ広場)

クラシックカーイベントは、小諸のまちなか回遊・散策を支援するスマートカー「egg」の運転手が主催(写真提供/まちタネ広場)

クラシックカーイベントは、小諸のまちなか回遊・散策を支援するスマートカー「egg」の運転手が主催(写真提供/まちタネ広場)

最後に、小諸のまちなかをぶらり歩いてみた駅近くにはスナック街も。空き店舗で若い世代がスナックを開いてくれたら楽しそう(写真撮影/塚田真理子)

駅近くにはスナック街も。空き店舗で若い世代がスナックを開いてくれたら楽しそう(写真撮影/塚田真理子)

駅から7~8分歩くと、本町・商家の町並みへ。明治時代、小諸銀行だった由緒ある建物も残っている(写真撮影/塚田真理子)

駅から7~8分歩くと、本町・商家の町並みへ。明治時代、小諸銀行だった由緒ある建物も残っている(写真撮影/塚田真理子)

市役所がある一帯に、医療センターや市立図書館、市民交流センターなどが集結(写真撮影/塚田真理子)

市役所がある一帯に、医療センターや市立図書館、市民交流センターなどが集結(写真撮影/塚田真理子)

大きなタンクがあるのは、老舗の味噌蔵。隣には味噌ラーメンの店がオープンし、連日行列だとか。お向かいにはデリカテッセンの店も(写真撮影/塚田真理子)

大きなタンクがあるのは、老舗の味噌蔵。隣には味噌ラーメンの店がオープンし、連日行列だとか。お向かいにはデリカテッセンの店も(写真撮影/塚田真理子)

花屋「CAKES」の黒木さんが、小諸に降り立って真っ先に気に入ったという駅前の「停車場ガーデン」。ライトアップイベントが行われていてきれい(写真撮影/塚田真理子)

花屋「CAKES」の黒木さんが、小諸に降り立って真っ先に気に入ったという駅前の「停車場ガーデン」。ライトアップイベントが行われていてきれい(写真撮影/塚田真理子)

小諸のまちなかを歩いてみると、駅から徒歩15分圏内でぐるりとめぐれて、ほどよいコンパクト感がありました。車を駅前に停めて、ぶらぶら歩いて、若い世代が開いたセンスのいいお店をホッピング。ちなみに、人気のご当地スーパー・ツルヤはここ小諸が創業の地なのだとか。自分がもし小諸に住んでいたら、友達をあちこち案内したくなるなぁ。

今回、高野さんと岡山さんの話で印象的だったのは、まちが元気になってきたことで、古くから地域に住む人の意見もポジティブに変わってきた、ということ。北陸新幹線の停車駅が佐久平に決まった当時は、どこか悔しい思いがあったようですが、いまでは「駅近くの古い家並みが壊されずにこうして残っているから、良かったよ」と話しているとか。地元の方の小諸愛が感じられるエピソードです。

そして現在60代、70代で商売をしている人たちに目を向けてみると、跡継ぎがいなければ、ここ10年ほどの間にいずれは店を閉めることになるでしょう。そのときに、いま「おしゃれ田舎プロジェクト」がまちの人たちとつながっていることで、安心して「店を貸したい」と相談しやすくなるはず。高齢化の波は避けては通れませんが、愛着のある店を、建物を、小諸のまちを、次世代につなげる未来があることは、とても幸せなことだなと感じた1日でした。

●取材協力
・おしゃれ田舎プロジェクト
・CAKES
・parte
・まちタネ広場

農作業ひたすら8時間のボランティアに10・20代が国内外から殺到! 住民より多い600人が関係人口に 北海道遠軽町白滝・えづらファーム

北海道の北東に位置する、遠軽町白滝エリア(旧白滝村)にある「えづらファーム」。地方の過疎化と人材難が深刻な社会課題になるなか、江面暁人(えづら・あきと)さん・陽子(ようこ)さん夫妻が営むこの農園では、農業や農家民宿事業を手助けしてくれるボランティアが次々とやってきます。10・20代を中心に、その数はなんと年間で70人にのぼります。農家民宿の観光客延べ人数を含めると、年間約600人もの人たちが関係人口として、住民500人ほどの地域と関わっていることに。決して便利ではない小さな田舎町へやってくる理由は何なのか?現地で話を聞きました。

農業の魅力・価値をパワフルに掘り起こし、「年に1つの新規事業」に

「えづらファーム」を経営する江面暁人(えづら・あきと)さん、陽子(ようこ)さん夫妻。もともと東京在住で会社員をしていた夫妻は、2010年に新規就農者として遠軽町白滝エリアへ移住。現在の農園にて農業経営継承制度を利用した研修を開始しました。2012年に独立し、新規就農からこの11年で、広大な土地をパワフルに耕すだけでなく、新しい価値を次々と掘り起こしてきました。

2012年の農場経営スタートとほぼ同時に農作物のネット通販を始めたことを皮切りに、2013年には住み込みボランティアを受け入れ始め、その翌年に観光事業の畑ツアー・収穫体験などを提供する農業アクティビティを開始。そのあとも、簡易宿泊所の認可を取得し、企業研修やインバウンドの受け入れ、空き家を活用した農家民宿のコテージ、レストランなど、「農業」を軸とした新規事業を立ち上げ続けています。

ちなみに新規事業は夫婦の経営会議で、毎年1つ、挑戦することを決めているそうです。なるほど、これは日々のアンテナの張り方もちょっと変わってきそうです。

空き家を活用した一棟貸し民泊コテージ。今夏は早々に予約が埋まるほどの人気ぶりです(画像提供/えづらファーム)

空き家を活用した一棟貸し民泊コテージ。今夏は早々に予約が埋まるほどの人気ぶりです(画像提供/えづらファーム)

その結果、人口500人の地域に「えづらファーム」を通じて年間で延べ600人もの人たちが訪れるまでになりました。特に住み込みボランティアは「えづらファーム」最大の特徴と言っていいでしょう。年間70名の、そのほとんどが、10・20代の若者たち。実働8時間、無償であるボランティアに、申込はその3倍近く年間200人から応募が集まるというから驚きです。

農業のやりがい、田舎の豊かさなど、見えない価値を伝えたい

「えづらファーム」は畑作農場を42ha保有しており、これは東京ドーム約9個分の広さに当たります。農業の生産性を示す収量は地域平均を上回っていて、農業だけでも十分な収益を得られるように思います。

広い農場はどこを切り取っても北海道らしい景観。主な栽培作物は、小麦、馬鈴薯、てんさい、スイートコーンなど(画像提供/えづらファーム)

広い農場はどこを切り取っても北海道らしい景観。主な栽培作物は、小麦、馬鈴薯、てんさい、スイートコーンなど(画像提供/えづらファーム)

ではなぜ、このような画期的な取り組みを次々と行っているのでしょうか。

「自分たちは、もともとよそから来たので、なんで農家なんかになるの、田舎つまんないでしょ、と言われることがありました。決して悪気があるわけではないのはわかっていますが、僕らは夢を描いて北海道へやってきたので、寂しいなと感じたことを覚えています。

農業のやりがい、田舎の豊かさ。この地で培われた文化の希少性。それには圧倒的な価値があると確信しています。見えていない価値を、どうしたら伝えることができるだろう。一人でも多くの人に、地域、農業に興味を持ってもらいたい。そして実際に、この地に訪れてもらいたい。そのためにはどうしたらいいかを常に考えて、農業体験、民宿、レストランと、毎年コツコツと挑戦しています。

経営面でみても、新規事業は必要な柱となります。例えば天候不順で農作物収量が計画通りにいかなかったとしても、多角的に事業を運営することで、他の事業でバランスを取りリスク分散ができるという利点があるんです」(暁人さん)

夫の暁人さんは北海道出身、ですが農業一家で育ったわけではありません。北広島市という北海道中部の都市部出身で、遠軽町とは250km以上離れてます。妻の陽子さんは京都市出身。同じく“非農家”の家で育ちました。

夫妻は東京での6年の会社員生活を経て、北海道北見市の畑作法人で農業研修に入る道を選択。遠軽町白滝の農場主で継承者を探していた先代さんと出会い、この縁から、移住することになったといいます。この地で生まれた娘さんは11歳になりました(画像提供/えづらファーム)

夫妻は東京での6年の会社員生活を経て、北海道北見市の畑作法人で農業研修に入る道を選択。遠軽町白滝の農場主で継承者を探していた先代さんと出会い、この縁から、移住することになったといいます。この地で生まれた娘さんは11歳になりました(画像提供/えづらファーム)

夫妻にとっては、移住後の暮らし方、働き方が大きな魅力でした。自然豊かな地域で私生活と仕事がくっついた暮らし。陽が沈んだら家路につき、当たり前のように毎日家族と食卓を囲む。夫妻のように、田舎暮らしに興味がある人は多いかもしれません。ですが、いざ縁もない地方へ仕事を求めていくかというと、やすやすとはいかないもの。

住み込みボランティアの受け入れ、農家民宿やレストランを提供することで、こうした暮らしを味わえるのは、他の地域の人にとって、得難い経験になるでしょう。地域と農業が本来持っているはずの「見えていない価値」に光を当てるため、夫妻は新規事業にチャレンジしています。
根底にあるのは、「人が集まる農場をつくりたい」という想い。だから、損得勘定や合理性だけではなく、「農」と馴染む人肌を感じるような新規事業が育っているのだと感じます。

8年前(2015年)の農家民宿スタート当時の写真。自宅2階を冬レジャー客用として開放したことがはじまりだったそう(画像提供/えづらファーム)

8年前(2015年)の農家民宿スタート当時の写真。自宅2階を冬レジャー客用として開放したことがはじまりだったそう(画像提供/えづらファーム)

21歳と25歳、外国人の住み込みボランティア。“Japan farmstay”で検索してやってきた

夫妻の取り組みの一つ、住み込みボランティアでは、若い世代がやってきて、平均2~3週間ほど滞在します。
ボランティアとはいえ、「ガチ」な農作業。実働8時間です。フルタイム勤務と変わらない時間、毎日汗を流します。筋肉痛で悲鳴を上げそうな農の仕事で、これは観光気分だけでは続かないと想像できます。
実際に6月にボランティアに来ていた2人に話を伺いました。

この時滞在していたのはアメリカから来たヤンセイジさん(21歳)、シンガポールから来たJJさん(25歳)の2人です。

ブロッコリー畑の雑草取り中のセイジさんとJJさん。2人はファームで出会って仲良くなりました(写真撮影/米田友紀)

ブロッコリー畑の雑草取り中のセイジさんとJJさん。2人はファームで出会って仲良くなりました(写真撮影/米田友紀)

筆者が現地に到着してすぐ、偶然2人にお会いし、ご挨拶。日に焼けた顔から白い歯で笑顔をみせてくれ、「お水いりますか?」とペットボトルのお水を差しだそうとしてくださり、初対面から好青年です。

2人はネット検索で“Japan farmstay”と2ワードを叩き、検索結果で表示されたえづらファームのウェブサイトからメールで問い合わせたそうです。

セイジさんはアメリカの大学に通う学生。昨年はアメリカのIT企業でエンジニアのインターンシップに参加し、今年は何か違うことをやってみたい、と日本へやってきました。世界的な食糧問題に関心があり、食の原点として農業を体験したいという想いがあったそうです。

JJさんはシンガポールの大学を卒業し、就職前の期間を利用して日本に滞在中。シンガポールの金融企業に就職予定で、サステナビリティ分野での投資に関心があり、農業を学びたいとえづらファームにやってきました。

「体力的には大変だけど、楽しくて貴重な経験をさせてもらっています。みんなでご飯を食べることが楽しいですし、特にポテトが美味しい。陽子さんがつくったポテトサラダが最高に美味しいです」(JJさん)
「来る前とのギャップは特にないですね。何をできるかなとワクワクしていましたし、イメージ通りです」(セイジさん)

ボランティアの2人は、陽子さんのまかないは最高に美味しい、と口をそろえます(画像提供/えづらファーム)

ボランティアの2人は、陽子さんのまかないは最高に美味しい、と口をそろえます(画像提供/えづらファーム)

セイジさんもJJさんも、ネット検索結果をきっかけに異国の田舎にある農場にポンとやってきてしまうのだから、行動力があります。

夫妻によると、同様の検索ワードでえづらファームのサイトを見つけて応募する人が多いとのこと。食や観光分野での起業、地方創生への関心など、2人のように目的が明確な若者が多いそうです。「未来はきっと明るいぞ」と、日々感じるのだとか。

単なる労働力ではなく、想いを実現する場に

ボランティアの皆さんは夫妻の自宅2階で同居しています。
常時2~4人ほどが住み込み、食事は家族とテーブルを囲みます。お風呂もトイレも共用で、洗濯も家族と一緒にガラガラと洗濯機を回します。さらに休日は、みんなでバーベキューや窯でピザを焼いたり、夜空を見たり。釣りやスキーなどレジャーを楽しみ、衣食住の全てを家族同然に生活しています。

夫妻には11歳になる娘さん、ののかさんがいます。ののかさんにとっては、生まれてからずっと家にボランティアのお兄さん、お姉さんがいることが当たり前の暮らし。世界中からやってくるボランティアさんたちから自然と多様性を学べる環境が、人口500人の地域の自宅にあるわけです。娘さんは逆にボランティアがいない生活を知らないので、もし家族だけになったら寂しいと話しているんだそう。

収穫レストランを手伝うののかさん。娘さんの気持ちに配慮しながら事業に取り組んでいます(画像提供/えづらファーム)

収穫レストランを手伝うののかさん。娘さんの気持ちに配慮しながら事業に取り組んでいます(画像提供/えづらファーム)

毎年来てくれたり、高校生の時にきて、今度は大学に入ってから、と2回、3回とやってくるボランティアさんも多いそうです。
ボランティアさんとは事前にオンライン面談を行います。その時点で必ず声掛けしていることがあります。
「ここにきて、何をしたいのか」
それはやりたいことを叶える場所として、えづらファームを活用してほしい、という想いがあるからだそうです。

「単純に労働力として来てもらえるのは農場にとってはありがたいですが、本人がやりたい何かを実現できる場所として、白滝へ来てもらいたいです。人生に役立てることに一つでも、ここで出会えてもらえたら」(暁人さん)

労働力として考えたら、農繁期に作業に慣れた人を雇う方が効率的だといえます。訪れるボランティアとの出会いを楽しみ、彼らにも「やってみたい」「楽しい」を感じてもらいたい。夫妻にはそんな願いがあります。

建築を学ぶボランティアさんが「つくってみたい!」と建てた小屋。立派すぎるDIYです(写真撮影/米田友紀)

建築を学ぶボランティアさんが「つくってみたい!」と建てた小屋。立派すぎるDIYです(写真撮影/米田友紀)

ドラム缶風呂は「入ってみたい!」を叶えるためにボランティアと一緒につくりました(画像提供/えづらファーム)

ドラム缶風呂は「入ってみたい!」を叶えるためにボランティアと一緒につくりました(画像提供/えづらファーム)

衣食住を共にして、ボランティアがやりたいことを叶えられるように努める。夫妻のおもてなしには舌を巻きます。ですが、ボランティアから自分たちに与えてもらっているものも大きい、と感じているそうです。

「農業って、人と接することが少ないんです。外から人が来てくれること、出会いが刺激になることに感謝しきりです。ここにきて10年経っても、ボランティアの子たちと星空を見て一緒に感動できる。田舎の贅沢さをいつまでも新鮮に感じることができるのは、彼らのおかげです」(暁人さん)

小さな一歩が、新事業のとっかかり

とはいえ、毎年一つの新規事業を始めるというのは労力も勇気も伴います。
失敗が怖くないのかと聞いてみると、陽子さんがこう語ってくれました。

「私たちの事業は始めの一歩が小さいんです。もし上手くいかなかったら撤退できるように、意識的に小さくしています。そして需要があることをかたちにするようにしています。農家民泊も最初はウィンタースポーツに訪れる人がいるのに『地域には宿泊できる場所がなくて困っている』という近所の人の声を聞いたことがきっかけでした。だったらうちの2階に部屋が余っているから宿泊所にしよう、と始めました。最初から何百人もの観光客を呼ぶ、なんて始めたわけではないんです」(陽子さん)

もちろん上手くいかなかったこともある、といいます。例えばボランティアの受け入れではせっかく来てくれると言っているのだから、と最初は面談をせず受け入れていたところ、リタイアする人がいたそうです。

「当時はこちらのケア不足もあると思いますし、想像してたのと違った、とギャップを話す子もいました。せっかく来てくれたのに、上手くいかないことはお互いにとって大変残念なことですので、今では必ず全ての人と事前面談をしています」(陽子さん)

なるほど、ボランティアのセイジさんが話していた「ギャップのなさ」は事前の丁寧な面談の賜物なのですね。
冬レジャーの困り事解決のために始まった民宿は、現在では空き家を活用したコテージに。地域の人による親戚の集まりや、離れて住む子どもや孫が帰省時に泊まるといった機会でも活用されているそうです。

小さな一歩からはじめることは、地域での暮らしでも大切だと陽子さんは言います。
「急に世界中から人を受け入れたいだなんてと宣言したら、きっと地域で理解してもらえないでしょう。大きな目標を立てるより、まずは身近な人にとって役立つことをしたいと思い、ここまでやってきました。小さな一歩をとっかかりに、そこから地道に広げていく。本当にちょっとずつかたちにしてきて、今に至ります」(陽子さん)

新規事業というと大がかりですが、イチかバチかの大勝負に打って出るというより、周りの地域の人たちの困り事や願いに耳を傾けて自分たちにできることは何か、とちょっとずつ軌道修正をしながら広げているようです。

広大な地で軽やかなチャレンジが進んでいます(画像提供/えづらファーム)

広大な地で軽やかなチャレンジが進んでいます(画像提供/えづらファーム)

若者が「やってみたい」を投じる場として

夫妻の昨年の年1チャレンジは、収穫レストラン「TORETATTE」(トレタッテ)オープンでした。レストランでは地元在来種の豆を扱ったティラミス、アイヌネギのキッシュやヨモギのコロッケ、ふきのマリネなど地域に根付く食文化を味わうメニューも期間限定で提供しています。

「きなこと抹茶の植木鉢ティラミス」在来種豆を提供する地元商店の豆を使用し、白滝の春景色の表した一品(画像提供/えづらファーム)

「きなこと抹茶の植木鉢ティラミス」
在来種豆を提供する地元商店の豆を使用し、白滝の春景色の表した一品(画像提供/えづらファーム)

また、地域に戻ってきたい人や新しいことに挑戦する人を後押しすべく、「間借りカフェ」としての活用もスタート。
今年6月と7月には地元出身の若者2人による一日カフェが開かれ、それぞれが得意とするコーヒーやスイーツがふるまわれました。

さまざまな人の挑戦の舞台となる収穫レストラン「TORETATTE」(画像提供/えづらファーム)

さまざまな人の挑戦の舞台となる収穫レストラン「TORETATTE」(画像提供/えづらファーム)

実際に夫妻との出会いをきっかけに遠軽町に移住したり、新規就農をめざしてやってきた人もいるそうです。

「毎年新しいことを立ち上げる」

言葉でいうほどカンタンではないのは、たゆみなく努力する夫妻をみるとよくわかります。ですが近くの困り事に耳を傾け、スモールスタートで自分のできることを進めれば、夫妻のようにワクワクする取り組みができるかもしれません。

新規事業を毎年立ち上げる2人は、農家であり、起業家です。「農」を起点に新しい価値を次々と創造しています。ボランティアや間借りカフェで訪れる次世代の若者にも、そのチャレンジスピリットが伝播しています。
2人はきっとこれからも、白滝から小さな一歩のチャレンジを踏み出していくのでしょう。

●取材協力
えづらファーム

育休中の夫婦、0歳双子と北海道プチ移住! 手厚い子育て施策、自動運転バスなどデジタル活用も最先端。上士幌町の実力とは?

長期の育児休業中に、移住体験の制度を活用して北海道へのプチ移住を果たした私たち夫婦&0歳双子男子。
約半年間の北海道暮らしでお世話になったのは、十勝エリアにある豊頃町(とよころちょう)、上士幌町(かみしほろちょう)という2つのまち。
実際に暮らしてみると、都会とは全然違うあんなことやこんなこと。田舎暮らしを検討されている方には必見⁉な、実際暮らした目線で、地方の豊かさとリアルな暮らしを実践レポートします! 今回は上士幌町&プチ移住してみてのまとめ編です。

上士幌町は北海道のちょうど真ん中。ふるさと納税と子育て支援が有名

9月上旬から1月末まで滞在した上士幌町は、十勝エリアの北部に位置する人口5,000人ほどの酪農・農業が盛んなまち。面積は東京23区より少し広い696平方km。なんと牛の数は4万頭と人口の8倍も飼育されています。そして、十勝エリアのなかでも何と言っても有名なのが、「ふるさと納税」。ふるさと納税の金額が北海道内でも上位ランクなんです。そのふるさと納税の寄付を子育て施策に充て、0歳~18歳までの子どもの教育・医療に関する費用は基本無料、ということをいち早く導入したまち。子育て層の移住がかなり増えたことで注目を集めています。
町の北側はほとんどが大雪山国立公園内にあり、携帯の電波も届かない国道273号線(通称ぬかびら国道)を北に走ると、三国峠があり、そこからさらに北上すると、有名な層雲峡(上川町)の方に抜けていきます。

上士幌町の北の端、三国峠付近の冬のとある日。凛とした空気が気持ちよく、手つかずの国立公園が広がります(写真撮影/小正茂樹)

上士幌町の北の端、三国峠付近の冬のとある日。凛とした空気が気持ちよく、手つかずの国立公園が広がります(写真撮影/小正茂樹)

上士幌町にある糠平湖では、この冬から、完全に凍った湖面でサイクリングを楽しめるようになりました(上士幌観光協会にて受付・許可が必要)。タウシュベツ川橋梁のすぐ近くまで自転車で行くことができ、厳寒期しか楽しめないアクティビティ&風景が体感できます(写真提供/鈴木宏)

上士幌町にある糠平湖では、この冬から、完全に凍った湖面でサイクリングを楽しめるようになりました(上士幌観光協会にて受付・許可が必要)。タウシュベツ川橋梁のすぐ近くまで自転車で行くことができ、厳寒期しか楽しめないアクティビティ&風景が体感できます(写真提供/鈴木宏)

糠平湖上に期間限定でオープンするアイスバブルカフェ「Sift Coffee」さん。国道から数百メートル歩いた湖のほとりにて営業。歩き疲れた体に美味しいコーヒーが沁みわたります(写真撮影/小正茂樹)

糠平湖上に期間限定でオープンするアイスバブルカフェ「Sift Coffee」さん。国道から数百メートル歩いた湖のほとりにて営業。歩き疲れた体に美味しいコーヒーが沁みわたります(写真撮影/小正茂樹)

上士幌町の暮らし。徒歩圏でなんでもそろうちょうどいい環境

上士幌町は人口5,000人のまちで、中心となる市街地は一つ。この中心地に人口の約8割、4,000人ほどが住んでいるそう。ここにはスーパーがコンビニサイズながら2つ、喫茶店や飲食店もたくさんあります。そして、コインランドリーに温泉に、バスターミナルに……と生活利便施設がきっちりそろっています。中心地から少し離れると、ナイタイテラス、十勝しんむら牧場のカフェ、小学校跡地を活用したハンバーグが絶品のトバチ、ほっこり空間がすっごくステキな豊岡ヴィレッジなどがあり、暮らすには不自由はほぼないと言ってもいいと思います。

そして、なんと、2022年12月から、自動運転の循環バスが本格稼働しているんです! ほかにも、ドローン配送の実験など、先進的な取組みがたくさんなされているまちでもあります。実は上士幌町さんには、デジタル推進課という課があります。ここが中心となって、高齢者にもタブレットを配布・スマホ相談窓口が設置されています。デジタル化に取り残されがちな高齢者へのサポート体制をしっかり取りながら、インターネット技術を十分活用し、まちのインフラ維持、サービス提供を進めていこうという町としての取組みは素直にすごいなと感じました。

カラフルな自動運転バスがまちの中心地をループする形で運行。雪道でも危なげなく動いていてすごかったです(写真撮影/小正茂樹)

カラフルな自動運転バスがまちの中心地をループする形で運行。雪道でも危なげなく動いていてすごかったです(写真撮影/小正茂樹)

十勝しんむら牧場さんにはミルクサウナが併設。広大な放牧地を望める立地のため、牛を眺めたり、少し遅い時間なら、満点の星空を望みながら整うことができます(写真撮影/荒井駆)

十勝しんむら牧場さんにはミルクサウナが併設。広大な放牧地を望める立地のため、牛を眺めたり、少し遅い時間なら、満点の星空を望みながら整うことができます(写真撮影/荒井駆)

ナイタイテラスからの眺めは壮観! ここで食べられるソフトクリームが美味しい。のんびり風景を楽しみながら、ゆっくり休憩がおすすめです(写真撮影/小正茂樹)

ナイタイテラスからの眺めは壮観! ここで食べられるソフトクリームが美味しい。のんびり風景を楽しみながら、ゆっくり休憩がおすすめです(写真撮影/小正茂樹)

我が家イチ押しの豊岡ヴィレッジは木のぬくもりが感じられる元小学校。子ども用品のおさがりが無料でいただけるコーナーがあり、双子育児中の我が家にとっては本当にありがたかったです(写真撮影/小正茂樹)

我が家イチ押しの豊岡ヴィレッジは木のぬくもりが感じられる元小学校。子ども用品のおさがりが無料でいただけるコーナーがあり、双子育児中の我が家にとっては本当にありがたかったです(写真撮影/小正茂樹)

誕生会やママのHOTステーションなどさまざまな出会いの場が

上士幌町では、移住された方、体験移住中の方などが集まる「誕生会」と呼ばれる持ち寄りのお食事会が月1回開催されています。毎回さまざまな方が来られるので、移住されている方がすごく多い、というのがよく分かります。移住して25年という方もいらして、移住者・まちの人、両方の視点を持っていらっしゃる先輩からの上士幌暮らしのお話は、すごく参考になることが多かったです。

毎月行われている移住者の集い、誕生会。12月はクリスマス会で、サンタさんから双子へもプレゼントが!(写真撮影/小正茂樹)

毎月行われている移住者の集い、誕生会。12月はクリスマス会で、サンタさんから双子へもプレゼントが!(写真撮影/小正茂樹)

また、上士幌町といえば、我々子育て世代にとって、すごくありがたい取組みが「ママのHOTステーション」。育児の集まりの場合、子どもたちが主役になり、「子育てサロン」として開催されることが多いのですが、この取組みの主役は“ママ”。ママが子どもたちを連れて、ゆっくりしたひと時を過ごすことができる場を元保育士の倉嶋さんを中心に企画・運営されていて、今や全国的にも注目される取組みになっています。

実は、上士幌町で移住体験がしたかった一番の目的は、この「ママのHOTステーション」を妻に体験してもらいたかったこと、倉嶋さんの取組みをしっかり体感したかったことにありました。ほぼ毎週のように参加させていただいた妻は本当に大満足で、ママ同士の交流も楽しんだようです。ここでは、〇〇くんのママではなく、きちんと名前でママたちも呼び合い、リラックスムード満点の雰囲気づくりも素晴らしいなと感じました。妻は、「ママのしんどい気持ちや育児悩みを共有してくれて、アドバイスをくれたりするのがすごくありがたいし、同じような立場のママが集ってゆっくり話せるのは嬉しい。子どもの面倒も見てくれるし、ここには毎週通いたい!」と言っていました。こういった同じ境遇のお友達ができるかどうかは、移住するときの大きなポイントだと感じました。もっといろいろな同世代、子育てファミリーに特化したような集まりがあってくれると、更に安心感が増すんだろうなと思います。

ママのHOTステーションの取組みとして面白いところは、「ベビチア」という制度。高齢者の方が登録されていて、子どもたちの世話のお手伝いをしてくださいます。コロナ禍になり、遠方にいるお孫さん・ひ孫さんと会えず寂しい思いをしている高齢の方々などが登録してくださっていて、週1回の触れ合いを楽しみにしてくださっている方も。「子育て」「小さな子ども」というのをキーワードに、多世代の方がのんびり時間を共有しているのはすごくいいなと感じました。

ママのHOTステーションが開催される建物は温浴施設などと入り口が一緒になるので、自然発生的に多世代のあいさつやたわいもない会話が生まれていて、ほっこりします(写真撮影/小正茂樹)

ママのHOTステーションが開催される建物は温浴施設などと入り口が一緒になるので、自然発生的に多世代のあいさつやたわいもない会話が生まれていて、ほっこりします(写真撮影/小正茂樹)

乳幼児救急救命講習会にも参加できました。ベビチアさんたちの大活躍のもと、子どもたちの面倒をみていただき、じっくりと救急救命講習に参加できたことはすごくありがたかったです(写真撮影/小正茂樹)

乳幼児救急救命講習会にも参加できました。ベビチアさんたちの大活躍のもと、子どもたちの面倒をみていただき、じっくりと救急救命講習に参加できたことはすごくありがたかったです(写真撮影/小正茂樹)

上士幌町の移住相談窓口は、NPO法人「上士幌コンシェルジュ」さんが担われています。こちらの名物スタッフの川村さん、井田さんを中心に移住体験者のサポートを行ってくださいました。私たちも入居する前から、いろいろと根掘り葉掘りお伺いして、妻の不安を取り除きつつ、入居後もご相談事項は迅速に対応いただきました。

移住体験住宅もたくさん!テレワークなどの働く環境も

私たち家族が暮らした移住体験住宅は、75平米の2LDKで、納屋・駐車スペース4台分付きという広さ。豊頃町の体験住宅に比べるとやや狭いものの、やはり都会では考えられない広さでゆったり暮らせました。住宅の種類としては、現役の教職員住宅(異動の多い学校の先生向けの公務員宿舎)でした。平成築の建物で、冬の寒さも全く問題なく、この住宅の家賃は月額3万6000円で水道・電気代込み。移住体験をさせていただくと考えると破格の条件かもしれません(暖房・給湯などの灯油代は実費負担)。今回お借りできた住宅以外にも、短期~中・長期用まで上士幌町では10戸程度の移住体験住宅が用意されています。ただ、本当に人気のため、夏季などの気候がいい時期については、かなりの倍率になるようです。ただし、豊頃町と同じく、上士幌町でもエアコンがないことは要注意。スポットクーラーはあるものの、夏の暑さはかなりのものなので、小さなお子さんがいらっしゃる場合は、ご注意ください。エアコンはもう北海道でも必須になりつつあるようなので、少し家賃が上がっても、ご準備いただけるといいなぁと思いました。また、ぜいたくな希望になりますが、食器類や家具などの調度品も比較的古くなってきていると思うので、一度全体コーディネートされると、移住体験の印象が大きく変わるのでは、と感じました。

関連記事:
・育休中の夫婦、0歳双子と北海道プチ移住! 移住体験住宅は畑付き、スーパー代わりの産直が充実。豊頃町の暮らしをレポート
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必要最低限の家具・家電付き。広めのお家やったので、めっちゃ助かりました(写真撮影/小正茂樹)

必要最低限の家具・家電付き。広めのお家やったので、めっちゃ助かりました(写真撮影/小正茂樹)

私たちの住まいになった住宅は、まちの中心からは徒歩10~15分ほど。ベビーカーを押して動ける季節には、何度も散歩がてら出かけましたが、ちょうどいい距離感でした。南側は開けた空き地になっていて、日当たりもすごくよくて、冬の寒い日も、晴天率が高いため、日光で室内はいつもぽかぽかになっていました。

一戸建てかつ納屋まで付いて、月額3万6000円とは思えない広々とした体験住宅。子育てファミリーにとっては、一戸建ては音の心配も少なく、すごく過ごしやすかったです(写真撮影/小正茂樹)

一戸建てかつ納屋まで付いて、月額3万6000円とは思えない広々とした体験住宅。子育てファミリーにとっては、一戸建ては音の心配も少なく、すごく過ごしやすかったです(写真撮影/小正茂樹)

体験住宅の南側は空き地が広がっていて、本当に日当たり・風通しも良く、都会では到底体感できないすがすがしい毎日を過ごせました(写真撮影/小正茂樹)

体験住宅の南側は空き地が広がっていて、本当に日当たり・風通しも良く、都会では到底体感できないすがすがしい毎日を過ごせました(写真撮影/小正茂樹)

また、私たちは育児休業中だったため使うことはなかったのですが、上士幌町さんはテレワークやワーケーションなどの取組みについてもすごく前向きに取り組まれています。
まず、テレワーク施設として「かみしほろシェアオフィス」があります。建設に当たっては、ここで働く都市部からのワーカーの方に向けて眺望がいいところ、ということで場所を選定されたそう。個室などもあり、2階建ての使い勝手の良いオフィスとなっています。

個人的に2階がお気に入り。作業で煮詰まったときに正面を見ると気持ち良い風景が広がり、リラックスできる環境(写真撮影/小正茂樹)

個人的に2階がお気に入り。作業で煮詰まったときに正面を見ると気持ち良い風景が広がり、リラックスできる環境(写真撮影/小正茂樹)

さらに2022年にオープンしたのが「にっぽうの家 かみしほろ」。この施設はまちの南側、道の駅のすぐ近くに位置しています。こちらは宿泊施設になりますが、1棟貸しを基本としていて、広々したリビングで交流や打ち合わせ、個室ではプライバシーをしっかり守りつつお仕事に没頭することなどが可能に。また、ワーケーション滞在の方のために、交通費・宿泊費などの助成制度も創設されたとのことで、これからさまざまな企業・団体の活用が期待されます。

にっぽうの家は2棟が廊下で繋がった形状。仕事・生活環境が整っていて、余暇活動もたくさん楽しめる場所で、スタートアップなどの合宿をしてみるのは面白いなと感じました(写真撮影/小正茂樹)

にっぽうの家は2棟が廊下で繋がった形状。仕事・生活環境が整っていて、余暇活動もたくさん楽しめる場所で、スタートアップなどの合宿をしてみるのは面白いなと感じました(写真撮影/小正茂樹)

子育て層にとって、子どもの教育環境というのが移住検討するに当たってはかなり重要な事項となります。上士幌町では、「上士幌Two-way留学プロジェクト」として、都市部で生活する児童・生徒が住民票を移動することなく、上士幌町の小・中学校に通うことができる制度が2022年度から始まりました。この制度を使えば、移住体験中や季節限定移住などの場合も、お子さんの教育環境が担保されることとなり、これまでなかなか移住検討までできなかった就学児がいるファミリーも懸念材料の一つがなくなったこととなります。

十勝には質の高いイベントがたくさん! 起業支援なども盛ん

半年ほど暮らしてみてわかったことはたくさんあったのですが、子育てファミリーとしてすごくいいなと思ったのが、「イベントの質が高く、数も多い」にもかかわらず、「どこに行ってもそこまで混まない」こと。子育てファミリーにとって、子どもを遊ばせる場所がそこここにあるというのはものすごく大きいなと感じました。

とよころ産業まつりでの鮭のつかみ取り競争のひとコマ(写真撮影/小正茂樹)

とよころ産業まつりでの鮭のつかみ取り競争のひとコマ(写真撮影/小正茂樹)

個人的にかなり気に入ったのが芽室公園で行われたかちフェス。広大な芝生広場を会場に、さまざまな飲食・物販ブースや、サウナ体験、ライブが行われていました。すごく心地よく長時間過ごしてしまいました(写真撮影/小正茂樹)

個人的にかなり気に入ったのが芽室公園で行われたかちフェス。広大な芝生広場を会場に、さまざまな飲食・物販ブースや、サウナ体験、ライブが行われていました。すごく心地よく長時間過ごしてしまいました(写真撮影/小正茂樹)

ママたちが企画・運営した「理想のみらいフェス」には3,000人を超える来場が。様々な飲食店やワークショップが並ぶなか、革小物のハンドメイド作家の妻も双子を引き連れて、ワークショップで出店していました(写真撮影/小正茂樹)

ママたちが企画・運営した「理想のみらいフェス」には3,000人を超える来場が。様々な飲食店やワークショップが並ぶなか、革小物のハンドメイド作家の妻も双子を引き連れて、ワークショップで出店していました(写真撮影/小正茂樹)

また、実際に移住して暮らすとなるとお金をどうやって稼ぐかというのもポイントになってくると思います。上士幌町では、「起業支援塾」が年1回開催され、グランプリには支援金も出されるなど、起業サポートも充実しています。また、帯広信用金庫さんが主催され、十勝19市町村が協賛している「TIP(とかち・イノベーション・プログラム)」というものも帯広市内で年1回開催されています。2022年は7月から11月まで。私も育児の隙間を縫って参加させていただきましたが、かなり本気度が高い。野村総研さんがコーディネートをされているのですが、実際5カ月でアイディア出しからチームビルディング、事業計画までを組み上げていきます。ここで起業を実際にするもよし、このTIPには多方面の面白い方々が参加されるため、横の繋がりが生まれたりし、仕事に繋がることもあると思います。

TIPでは、カーリングと美食倶楽部のビジネス化チームに参加しました。チームで体験会を実施して、カーリングの面白さを体感しました(写真撮影/小正茂樹)

TIPでは、カーリングと美食倶楽部のビジネス化チームに参加しました。チームで体験会を実施して、カーリングの面白さを体感しました(写真撮影/小正茂樹)

また、こちらは直接起業とは関連がありませんが、「とかち熱中小学校」というものもあります。これは、山形県発祥の社会人スクールのようなもので、「もういちど7歳の目で世界を……」というコンセプト。ゴリゴリの社会人スクールというよりは、本当に小学校に近い仲間づくりができるアットホームな雰囲気。とはいえ、テーマは先進的な事例に取り組むトップランナーさんの講義や、地元の産業など。こちらも講師はもちろん、開催地が十勝エリア全般にわたるため、参加者の方もさまざまで、人間関係づくりにはもってこい。こちらには家族全員で参加させていただいていました。

2023年1月は豊頃町での開催。当日の講師は金融のプロとお笑い芸人というすごく面白い取り合わせの2コマの授業。毎回、双子を連れ立って授業を聴講でき、育児のよい気分転換にもなりました(写真撮影/小正茂樹)

2023年1月は豊頃町での開催。当日の講師は金融のプロとお笑い芸人というすごく面白い取り合わせの2コマの授業。毎回、双子を連れ立って授業を聴講でき、育児のよい気分転換にもなりました(写真撮影/小正茂樹)

農業に興味がある方は、ひとまず農家でアルバイト、というのもあります。どこの農家さんも収穫の時期などは人手が足りないケースが多く、農業の体験を通じて、地元のことを知れるチャンスが生まれると思います。私も1日だけですが、友人が勤める農業法人さんにお願いして、お手伝いさせていただきました。作物によって時給単価が違うそうなのですが、夏前から秋まで色々な野菜などの収穫がずっと続くため、いろんな農家さんに出向いて、農業とのマッチングを考えてみる、というのもありだと思います。

かぼちゃの収穫はなかなかの重労働でした。農作物によって、アルバイトの時給も違うそうで、なかには都会で働くより時給がよい場合もあるそう(写真撮影/小正茂樹)

かぼちゃの収穫はなかなかの重労働でした。農作物によって、アルバイトの時給も違うそうで、なかには都会で働くより時給がよい場合もあるそう(写真撮影/小正茂樹)

今回、長期の育休を取得し、子育てを実践するとともに、自分のこれからの暮らし方を見つめなおせるいい機会が移住体験で得られました。2拠点居住は子どもができると難しいのではとか、地方で仕事はあるのかなどの漠然とした不安を抱えていましたが、「どこに行っても暮らしのバランスはとれる」ということも分かりました。
大阪の暮らしとは明らかに異なりますが、既に暮らされている方々に教えてもらえれば、その土地土地の暮らしのツボが分かってきます。個人的には、地方に行くほど、システムエンジニアやクリエイターさんたちの活躍の場が実はたくさんある気がしています。こういう方々が積極的に暮らせるような仕組みづくりが出来ると、自然発生的に面白いモノコトが生まれてきて、まちがどんどん便利に面白くなっていくのではないかなと感じました。

我々家族としては、今後2拠点居住を考えていくにあたって、我々1歳児双子を育てている立場として重視したいポイントもいくつか判明しました。それは、「近くにあるほっこり喫茶店」「歩いていける利便施設」があることです。双子育児をするに当たって、双子用のベビーカーって重たくて、小柄な妻は車に乗せたり降ろしたりすることはかなり大変。さらに双子もどんどん重たくなっていきます。そう考えると、私たち家族の現状では、ある程度歩いて行ける範囲に最低限の利便施設があったり、近所の人とおしゃべりができる喫茶店があったりするのはポイントが高いなと妻と話していました。

我々夫婦の趣味がもともと純喫茶巡りだったこともあり、気軽に歩いて行ける範囲に1軒は喫茶店が欲しいなぁと思いました(写真撮影/小正茂樹)

我々夫婦の趣味がもともと純喫茶巡りだったこともあり、気軽に歩いて行ける範囲に1軒は喫茶店が欲しいなぁと思いました(写真撮影/小正茂樹)

今回、長期育休×地方への移住体験という新しい暮らし方にトライしてみて、憧れの北海道に実際暮らすことができました。これまで漠然とした憧れだった北海道暮らしでしたが、憧れから、より具体的なものになりました。また、たくさんの友人・知人や役場の方との繋がりもでき、仕事関係についても可能性を感じられました。
子どもが生まれると、住むまちや家について考えるご家族は多いのではないでしょうか。育休を機会に、子育てしやすく、親たちにとっても心地よいまち・暮らしを探すべく、移住体験をしてみるのは、より楽しく豊かな人生を送るきっかけになると思います。10年後には男性の育休が今より当たり前になり、子育て期間に移住体験、という暮らし方をされる方がどんどん登場すると、地方はより面白くなっていくのではないかなと感じました。
家族みんなの、より心地よい場所、暮らしを移住体験を通じて探してみませんか? いろいろな検討をして、移住体験をすることで、暮らしの可能性は大きく広がると思います。

移住して1カ月ほど経過した時の写真。これからもこの子たちにとっても、楽しく、のびのび暮らせる環境で育ててあげたいなと思います(写真撮影/小正茂樹)

移住して1カ月ほど経過した時の写真。これからもこの子たちにとっても、楽しく、のびのび暮らせる環境で育ててあげたいなと思います(写真撮影/小正茂樹)

●関連サイト
上士幌町移住促進サイト
上士幌観光協会(糠平湖氷上サイクリング)
上士幌町Two-way留学プロジェクト 
十勝しんむら牧場ミルクサウナ
ママのHOTステーション
かみしほろシェアオフィス
にっぽうの家 かみしほろ
理想のみらいフェス
十勝イノベーションプログラム(TIP)
とかち熱中小学校
かちフェス

育休中の夫婦、0歳双子と北海道プチ移住! 移住体験住宅は畑付き、スーパー代わりの産直が充実。豊頃町の暮らしをレポート

長期の育児休業中に、移住体験の制度を活用して北海道へのプチ移住を果たした私たち夫婦&0歳双子男子。
約半年間の北海道暮らしでお世話になったのは、十勝エリアにある豊頃町(とよころちょう)、上士幌町(かみしほろちょう)という2つのまち。
人口がそれぞれ約3000人、5000人という規模が小さなまちですが、実際に暮らしてみると、都会とは全然違うあんなことやこんなこと。田舎暮らしを検討されている方には必見⁉な、実際暮らした目線で、地方の豊かさとリアルな暮らしをレポートします! 今回は、豊頃町編です。

写真撮影/小正茂樹

(写真撮影/小正茂樹)

関連記事育休中の双子パパ、家族で北海道プチ移住してみた! 半年暮らして見えてきた魅力と課題

北海道・十勝は大きい!そして雪は案外降らない!

みなさん、北海道と言えばどのようなことを思い浮かべるでしょうか。「のんびりした大平原」「夏は涼しく、冬は雪にまみれて身動きが取れない」「とにかく自然が多くて、温泉やグルメ三昧」などなど、さまざまなイメージがわくと思います。今回私が移住体験を行った北海道・十勝エリアの面積は約11,000平方kmで、東京都の約5倍。この広大な敷地におよそ35万人が暮らしていて、驚くのは、食料自給率。日本全体で約38%(カロリーベース)のなか、十勝エリアでは約1100%と言われています。およそ29倍です。まさに日本の食糧基地と言えるエリアとなります。

大平原地帯

十勝と言えば大平原地帯。大きな平野部を生かした大規模農業が盛んなエリアが多いです(写真撮影/小正茂樹)

一方で、誤解しがちなのが、気候。近年は北海道でも夏は最高気温が30度を超える日も珍しくなくなり、内陸部などでは35度を超えたり、日本の観測地点で1位の気温だったという日があったりするくらい。一方、冬については、「寒い」ことは間違いなく、1日中氷点下の日も少なくないのですが、実は、私たち家族が降り立った「十勝エリア」は、ほとんど雪が降らないエリア。雪への耐性がない都会暮らしの人にとっては過ごしやすいともいえると思います。
十勝エリアの気候の特徴としては、「晴天率が高い(いわゆる十勝晴れ)」「雪が少ない(年に数回ドカ雪が積もりますが……)」「寒暖の差が激しい」ということが挙げられます。晴れの確率が高く、雪が少ないのは、移住者からするとすごく助かる特徴かなと思います。ただし、路面凍結は当然ありますし、天気によっては地吹雪などで前が全く見えないホワイトアウトになることもあります。私も冬の凍結した道路を運転するのはあまり経験がなく、安全第一で移動していましたが、車を運転される方は、とにかく安全運転を心がけましょう。

真冬の十勝の夕暮れ時

真冬の十勝の夕暮れ時。辺り一面が真っ白で、空気が澄んでいて、とにかく凛としています。気温はすごく低いですが、晴れた日が多いため、心地よい風景を楽しめる日が多かったです(写真撮影/小正茂樹)

雪かきの様子

滞在中、2回だけドカ雪が降り、雪かきも。移住体験中に2回雪かきをする朝を体験出来たのはすごくテンションが上がると共に、冬の暮らしの厳しさを体感することが出来ました(写真撮影/小正茂樹)

また、田舎暮らしをするときに特に気になるのが、人間関係。私の個人的な感想としては、北海道、特に十勝エリアの方々は、明るく朗らかな方が多く、ご近所づきあいも付かず離れず、くらいの気持ち良い関係性になるのかな、と感じました。ゴミ出しの時のご挨拶、散歩のときの世間話、特にプライバシーに踏み込まれたと感じるようなこともなく、よくテレビなどで言われるご近所づきあいが大変、というようなことを感じることはない移住体験でした。
これには、十勝エリア特有の理由があるのかなとも思います。北海道は「屯田兵制」を活用した国主導の開拓の歴史がほとんど。しかし、実は十勝エリアだけは、当初民間の開拓から始まったと言われています。それが、今回私たちがお世話になった豊頃町の大津港エリアというところが起点になったそうです。開拓の歴史としては140年。十勝には、この「開拓者精神」というものが宿っているということで、「チャレンジ精神」に満ちあふれていると十勝にお住まいの方はよくおっしゃいます。新しいモノコトヒトに対しても、受け入れてくれる土壌があるんではないかと感じました。私の出身の大阪では、「やってみなはれ」文化という、とりあえずやってみたら、という考え方がありますが、根底の考え方は似ている気がします。これが、私が十勝エリアにウマが合う人が多い理由なのかもしれません。

豊頃町は十勝エリアの東側にある十勝開拓の祖のまち!

北海道に来て最初に滞在したのは、豊頃町(7月上旬~9月上旬)。豊頃町は、十勝エリアの東側に位置する人口約3000人ほどの小さなまち。北海道民でも、ここ!と指させる人はそこまで多くないかもしれません。とはいえ、海があり、汽水湖があり、十勝エリアを代表する河川「十勝川」の河口部分を有していて、森林面積は約6割。平地部には大規模農家さんが多く、100haを超える耕作面積を持つ農家さんも複数いらっしゃいます。また、海沿いの漁港もあるため、十勝では珍しく、農林水産業すべてがそろっており、十勝開拓の祖となる「大津港エリア」がある歴史あるまちでもあります。

大津港エリアにある開拓の記念碑。ここから十勝エリアの開拓140年の歴史が始まりました(写真撮影/小正茂樹)

大津港エリアにある開拓の記念碑。ここから十勝エリアの開拓140年の歴史が始まりました(写真撮影/小正茂樹)

観光資源としては、「ジュエリーアイス」と「ハルニレの木」という自然系のものが2つ。あと、グルメでは、「アメリカンドーナツ」が有名な「朝日堂」さんや、国道沿いの常連さんに愛されている「赤胴ラーメン」さん。暮らしてみると、面白いものはちょこちょこあるのですが、分かりやすい観光資源というのはそこまで多くないのが、あまり知られていない要因なのかもしれません。

十勝川河口部付近で見られるジュエリーアイス。真冬の一定期間しか見られないのですが、早朝から多くの観光客のみなさんが見学に来られています(写真撮影/小正茂樹)

十勝川河口部付近で見られるジュエリーアイス。真冬の一定期間しか見られないのですが、早朝から多くの観光客のみなさんが見学に来られています(写真撮影/小正茂樹)

移住体験住宅から1kmちょっとのところにあるハルニレの木。川沿いの抜け感のある景色のなか、大きな木が河川敷に。レストハウスでは写真家さんの四季折々のハルニレの木が展示されています(写真撮影/小正茂樹)

移住体験住宅から1kmちょっとのところにあるハルニレの木。川沿いの抜け感のある景色のなか、大きな木が河川敷に。レストハウスでは写真家さんの四季折々のハルニレの木が展示されています(写真撮影/小正茂樹)

また、私が暮らした移住体験住宅は、国道38号線から近く、JR豊頃駅も徒歩10分。そして、徒歩3分で北海道の生活インフラコンビニ「セイコーマート」があり、日常の生活は特に支障ありませんでした。また、色々と買い物に出かけるときは、車が必要なものの、渋滞が起こることはなく、買い物施設は車で20~30分、帯広空港にも30分程度、帯広市内のショッピングモールなどの大きな買い物施設にも40分程度で行くことができます。景色が良いところをドライブがてら行くことができたため、正直、そこまで不便を感じることはありませんでした。車の運転が好きな人なら、おすすめできる立地です。また、帯広空港から車で30分圏内というのは、首都圏との2拠点居住などを考えるうえでも大きなメリットになるのではないかなと感じました。

国道38号線沿いも気持ちいい風景が広がり、気持ち良いドライブを楽しめます(写真撮影/小正茂樹)

国道38号線沿いも気持ちいい風景が広がり、気持ち良いドライブを楽しめます(写真撮影/小正茂樹)

豊頃町での暮らし。家の居心地はもちろん、人があったかい!

豊頃町の移住担当窓口は、企画課さん。移動当日は2022年7月10日(日)で、選挙(我々は期日前投票してからフライト!)と重なっていたのですが、役場で到着をお待ちいただいて、無事鍵を受け取ることが出来ました。当日は日曜日ということもあり、対応いただけないかなと当初は近くで宿を取ろうと思っていましたが、宿泊代ももったいないからと休日対応をいただけました。幼い子ども達を連れての移動は極力ないほうがありがたく、すごくポイントが高かったです。

私たちは空路で北海道入りしましたが、大阪で使っていた車を会社の後輩たちが旅行がてらフェリーで北海道まで乗ってきてくれました。移動当日の夜、十勝の友人と共に記念撮影!(写真撮影/小正茂樹)

私たちは空路で北海道入りしましたが、大阪で使っていた車を会社の後輩たちが旅行がてらフェリーで北海道まで乗ってきてくれました。移動当日の夜、十勝の友人と共に記念撮影!(写真撮影/小正茂樹)

豊頃町役場のみなさんは、意見交換も兼ねて、歓迎会BBQを企画してくださいました。企画課のみなさん、本当にフレンドリーで、課長さん始め、フランクにお話が出来たのはありがたかったです。嬉しかったのは職員の方で双子の方がいらしたこと。双子の成長のあれこれを伺うことも出来て、まちのことはもちろん、豊頃町さんのあたたかさを存分に感じることができました!

豊頃町の高台にある茂岩山自然公園の一角にあるBBQハウスにて。大きさも複数あり、敷地内には宿泊できるバンガローと、友人を集めてのパーティなどにも使い勝手がよさそうでした(写真撮影/小正茂樹)

豊頃町の高台にある茂岩山自然公園の一角にあるBBQハウスにて。大きさも複数あり、敷地内には宿泊できるバンガローと、友人を集めてのパーティなどにも使い勝手がよさそうでした(写真撮影/小正茂樹)

そういえば、豊頃町に来て、まだ右往左往している頃、家に来てくださった方もいらっしゃいました。農家のKさんご家族。ちょうど僕が不在にしているタイミングだったのですが、お母さま、息子さんご夫婦&0歳児娘ちゃんがピンポーン! 豊頃町で地域おこし協力隊をされていた友人が気を利かせてくれて、我々家族を紹介してくださったのです。その後、改めて、お家の方にお招きいただき、焼肉(北海道で焼肉、というと屋外BBQのことを指すことが多い)パーティをしていただきました!!そこには、Kさんご家族4世代、お向かいの農家さんにイケメンエゾシカハンターまで、たくさんの方が集まってくださいました。ハンターさんにはその後、エゾシカ狩りに同行させていただいて、本当に人の繋がりには感謝です。

Kさん宅のガレージで。ガレージというか、ものすごく大きく天井の広いスペースで、音楽をかけながら、みんなでBBQ! Kさんは4世代が勢ぞろいして、にぎやかな食事を楽しめました(写真撮影/小正茂樹)

Kさん宅のガレージで。ガレージというか、ものすごく大きく天井の広いスペースで、音楽をかけながら、みんなでBBQ! Kさんは4世代が勢ぞろいして、にぎやかな食事を楽しめました(写真撮影/小正茂樹)

また、豊頃町の移住体験住宅は、とにかくキレイ! 築10年以上は経過しているものの、木のぬくもりがしっかり感じられると共に、1LDK100平米以上というすごく贅沢な一戸建てだったため、妻はもちろん、我が家に遊びに来てくれた友人・知人もみんなびっくりしていました。土間があり、暖炉があり、憧れののんびり郊外生活のイメージそのままで素晴らしい環境。大阪の狭い住宅で暮らしていた私たちは持て余すほどの状況でしたが、非常に気持ちよく生活することができました。また、夕方から夜にかけてはぐっと気温も下がり、寝苦しい夜とは全く無縁の生活が送れました。

吹き抜け空間で天井が高く、気持ちいい日差しが入ってきてくれるステキな移住体験住宅(写真撮影/小正茂樹)

吹き抜け空間で天井が高く、気持ちいい日差しが入ってきてくれるステキな移住体験住宅(写真撮影/小正茂樹)

ただし、要注意なのが、真夏の昼間。北海道もここ数年で一気に気温が高い日が増えてきているものの、まだ移住体験住宅の多くではエアコン設置ができていないのです。豊頃町も最高気温が30度を超える日も年間数日はあり、自由に外に出回りにくい0歳児双子を連れている我々は、結構困ったこともありました。町役場の方には、涼める場所をいくつもご紹介いただいて事なきを得ましたが、夏場の日中はどこか涼しい場所にお出かけした方がいい日もあるかと思います。それを差し引いたとしても、おしゃれですし、何せゆったりした空間が屋内外に広がっているので、妻とも、「こういう場所で暮らせるのはいいよねぇ」とよく話していました。夜になると涼しく過ごせて、窓を開けて寝ると寒いくらいで、ホンマに星がきれいでよく星空を眺めていました。

移住体験住宅2階にある寝室からの景色。朝起きると本当に気持ち良い景色が広がっていて、心地よく過ごせました(写真撮影/小正茂樹)

移住体験住宅2階にある寝室からの景色。朝起きると本当に気持ち良い景色が広がっていて、心地よく過ごせました(写真撮影/小正茂樹)

そして、屋外がのんびりしているだけではなく、なんと、この豊頃町の移住体験住宅は畑付き。それも、きちんとサポートもしてくださいます。サポートしてくださるおじさまが、すごく親切で、我が家の場合は、ほとんどおんぶに抱っこ。ほとんど収穫しかしてないので、偉そうなことは言えませんが、ジャガイモ、トウモロコシ、ズッキーニ、カボチャなどなど。とれたて新鮮な野菜たちが食卓に並んでいくのは本当に贅沢なひとときでした。

植え付けまでしてくださっていて、私の方は水やりと収穫だけで、畑仕事を満喫した良い気分を味わえました(笑)(写真撮影/小正茂樹)

植え付けまでしてくださっていて、私の方は水やりと収穫だけで、畑仕事を満喫した良い気分を味わえました(笑)(写真撮影/小正茂樹)

さらに、この住宅での思い出といえば、ホームパーティです。合計30名ほどの方にお越しいただいて、持ち寄りパーティをしました。遠くは東京、札幌から。近くは十勝エリアのあちこちや豊頃に住まわれている方々。お昼から夜まで、のんびりした空間で様々な人の交流ができて、楽しいひとときを共有できたのはすごくよかったです。十勝エリアにお住まいの方でも、豊頃町にはなかなか来ることがないという方も多かったのですが、このパーティでは、参加者の皆さん全員に、豊頃町の名物の切り干し大根をお土産に、地元でも人気の朝日堂のアメリカンドーナツなども準備して、豊頃町をしっかり楽しんでいただけるように工夫しました。

ホームパーティは基本屋外の広いお庭をメインに。友人が持ってきてくれたキャンプ用品が大活躍し、大人たちは飲み食べ、子どもたちはプールで遊んだり。心地よい空間で過ごせました(写真撮影/小正茂樹)

ホームパーティは基本屋外の広いお庭をメインに。友人が持ってきてくれたキャンプ用品が大活躍し、大人たちは飲み食べ、子どもたちはプールで遊んだり。心地よい空間で過ごせました(写真撮影/小正茂樹)

まちにスーパーがない! リアルな生活はどんな感じに?!

豊頃町には、実はスーパーがありません。と言われても、都会暮らしをしている人には徒歩圏内にスーパーがないということ自体あまりないでしょう。どこで買い物するんだろう。でも、その不安は行ってみてすぐに解消されました。その大きな理由としては、町内(移住体験住宅からは車で5分ほど)には「とよころ物産直売所」なる都会に住んでいる身としてはあり得ないたくさんの新鮮なお野菜が並んでいる産直市場があったこと。

国道38号線すぐ近くにある「とよころ物産直売所」。金・土・日の営業ですが、朝からどんどん車で買い物に来られるお客さんが。並びには、蕎麦屋さんや、アイスクリーム屋さんなども(写真撮影/小正茂樹)

国道38号線すぐ近くにある「とよころ物産直売所」。金・土・日の営業ですが、朝からどんどん車で買い物に来られるお客さんが。並びには、蕎麦屋さんや、アイスクリーム屋さんなども(写真撮影/小正茂樹)

豊頃町は大規模農家さんが多く、4大品目と呼ばれる、「小麦」「ジャガイモ」「豆類」「ビート」を大量につくられている農家さんがほとんど。そういった農家さんが家庭菜園(と都会の人が思うレベルではない広さのようですが)的につくったお野菜がいろいろ並んでいるのです。これがめっちゃおいしくて安い。金・土曜の品ぞろえがいいよ、とうわさで聞いたため、毎週、オープンすぐにお野菜を買いに行っていました。また、直売所がお休みのときや、お野菜以外のものは車で15~20分程度の隣町のスーパーに買い出しに行きます。

いろんなお野菜を毎週まとめてゲット! 季節限定(おおむね4月末~11月中旬の営業)の営業になりますが、イキイキとした採れたて野菜が並んでいて、選ぶのも楽しい(写真撮影/小正茂樹)

いろんなお野菜を毎週まとめてゲット! 季節限定(おおむね4月末~11月中旬の営業)の営業になりますが、イキイキとした採れたて野菜が並んでいて、選ぶのも楽しい(写真撮影/小正茂樹)

また、まちの中心部には、社会福祉協議会さんが経営されるカフェ「喫茶ふわり」もあり、すごくお世話になりました。スタッフの方々には双子のお世話もしてくださって、ゆっくりご飯&お茶ができる貴重な時間を過ごすこともできました。
更に、2022年8月下旬には、すっごいおしゃれなカフェ「B&B丘」さんもオープンし、10月には、地元ジビエ料理が楽しめる宿泊機能付きレストラン「エレゾエスプリ」もオープンしたそうで、どんどんおしゃれなお店もまちに生まれています。

豊頃町の中心地にある喫茶ふわり。のんびりした雰囲気でリーズナブルにご飯が食べられます(写真撮影/小正茂樹)

豊頃町の中心地にある喫茶ふわり。のんびりした雰囲気でリーズナブルにご飯が食べられます(写真撮影/小正茂樹)

B&B丘のガパオライス。お店の人がタイに長らくお住まいだっただけに本格的で美味!(写真撮影/小正茂樹)

B&B丘のガパオライス。お店の人がタイに長らくお住まいだっただけに本格的で美味!(写真撮影/小正茂樹)

すごくアットホーム感あるほっこり&手つかずの可能性がたくさんのまち!

2カ月の滞在となった豊頃町。空港からもほど近く、買い物施設は車で20分圏内にいくつもあり、車の運転をする方にとっては、まさに郊外ののんびり暮らし!が満喫できると感じました。
また、まだまだ6次産業化なども進んでおらず、まちにも、産業にも手つかずの可能性というのをたくさん感じました。豊頃団志なる男性の若手グループを農家さん、酪農家さん、役場職員などが集まってつくられていて、実は色々地域の活動をされる横のつながりもあったりします。町役場も若手の方が多くて、アットホーム感ある暮らしを楽しみながら、新しいモノコトづくりなどに興味がある方にはすごくお勧めなまちだと思います。
豊頃町に名残惜しさを感じながら、9月上旬からは同じ十勝エリアの北部にある上士幌町へ。果たして次なるまちの暮らしはどんなものになるのか。乞うご期待!

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●関連サイト
豊頃町移住計画ガイド
ジュエリーアイス
ハルニレの木
とよころ物産直売所
B&B丘

50代から始めた終活でコンパクト平屋を選択。家事ラク・地震対策・老後の充実が決め手、築42年がリフォームで大変身

70平米前後までのコンパクトな平屋が、新しいマイホームの選択肢として、じわじわと需要を伸ばしている。子どもが巣立ったあとのシニア世帯の住まいとして、多彩な価値観をもつファミリー世帯の成長の場として、趣味や余暇をたのしむ一人暮らしの個性を表現する場として……。住人の属性や選択の理由もさまざまだ。ここでは、6LDKの戸建てを売却し、県外の平屋に移り住んだシニア世帯を取材した。

両親の介護を経験し、老後を見据えて転居を計画

夫が50代半ば、妻は40代のころに、「自分たちの老後を見据えて終活を始めた」と話すSさん夫妻(夫60歳、妻52歳)。約2年前からコンパクトな平屋を検討していたという。

もともとの住まいがあったのは福島県中部の市。結婚当初に新築した2階建て6LDKの日本家屋に36年間住み、夫の両親と同居しながら、子どもを2人育てた。現在は子ども達が独立し、親は高齢者向け施設へ入居したので、夫妻と愛犬との生活。
「両親を自宅で介護していたころは、金銭面も体力面も大変でした」と振り返る。

「これまで両親の世話した苦労があるからこそ、自分たちは、県外で暮らしている息子や娘に面倒をかけないようにしようと決めました」

そんななか、まず平屋を検討した理由は、「年齢的に2階へ上がるのが億劫になり、コンパクトに暮らしたいと思ったから」。もとの家の2階には3部屋とクローゼットがあったが、子どもが巣立ち、どの部屋も物置同様となって、荷物がホコリをかぶっていたのが気になった。

第二の人生を歩む引越し先には、娘夫婦が住む栃木県那須塩原市を選んだ。「息子は東京に住んでいますが、自分たちは都会に住みたいとは思わなくて……。栃木なら、東京からでも、車や新幹線で来やすい距離ですから、親族が集まりやすいなと思いました」

和室4室と勝手口付きの食堂があった平屋を中古で購入。開放的なLDKがある現代的な住まいへリフォームした(写真撮影/masaru tsurumi)

和室4室と勝手口付きの食堂があった平屋を中古で購入。開放的なLDKがある現代的な住まいへリフォームした(写真撮影/masaru tsurumi)

リフォーム後はリビングに(写真はリフォーム前)(写真提供/カチタス)

リフォーム後はリビングに(写真はリフォーム前)(写真提供/カチタス)

30軒紹介されても、条件に合う平屋が見つからない

Sさん夫妻は平屋の中古物件に候補を絞り、現地のメーカーや不動産業者に依頼した。

「金額面で無理はしないでおこうと、価格は土地込みで1000万円から1500万円くらいを考えていました。今60歳で、平均寿命である80歳まで20年しか住まないのですから、そこで無理をしていい家に住んでも仕方がない。手元にもお金を残したかったので」とにこやかに話す。
並行して、住んでいた一戸建ての売却を地元の不動産業者に依頼した。

しかし、平屋の物件は思った以上に見つからなかったという。立地や価格面で候補となる家は約30軒見学したが、どれも2階建てだった。

「現地の不動産会社さんから、『実際には平屋の空き家もあるけれど、家庭の事情などで売りに出されていない』と聞きました。途中で1軒だけ平屋を紹介されたのですが、敷地が狭く、駐車場が1台分だけ。夫婦ともに通勤するためすでに車を2台持っているし、娘が車で遊びに来るので、3台分は欲しいと思って、断りました」

平屋探しを始めてから1年が経過した。
「あまりに見つからないので、2階建てに住んで、1階部分だけを平屋のように使おうか?」と考え始めていた。

日当たりのいい南側は、LDKに隣接した和室に。ゴロンとくつろげるのがいいところ(写真撮影/masaru tsurumi)

日当たりのいい南側は、LDKに隣接した和室に。ゴロンとくつろげるのがいいところ(写真撮影/masaru tsurumi)

リフォーム内容と金額の打ち合わせを経て、契約へ

現在の物件を紹介したのは、群馬県に本社を置き、全国120店舗以上ある拠点で中古住宅を買取り、リフォームして販売する会社だった。

「やっと出てきた平屋で、『やった!』と思いました。それも、娘夫婦の家と車で10分たらずの立地で、駐車場が4台分に部屋が4部屋。ほどよいサイズ感だと思いました。ただ、リフォーム前の段階で見学したので、内装が古く庭が荒れていて、『うわっ、汚いな』とも思いましたが(笑)」

(画像提供/カチタス)

(画像提供/カチタス)

この平屋は築42年、71.21平米の3LDKだった。空き家状態で同社が買い取ったので、中の家具などはそのままで、仏壇まで残っていたという。会社が買い取って荷物を整理した後に連絡があり、Sさんが見学した。

「その後会社からリフォームについての打ち合わせがあり、『だいたいこのようなリフォームをしてこれくらいの金額になりますが買いますか?』と。それを聞いて、ここに決めますと話しました」と夫。一昨年の10月に平屋購入の契約をした。

「2022年の2月か3月ごろに引き渡しの予定でしたが、昨今の世界情勢から建材の搬入が先延ばしになり、引き渡しは昨年の5月の連休明けでした。銀行でお金のやり取りをして、荷物を積んで、鍵を持ってすぐに入居しました」

慌しくなったのは、時を同じくして、福島県にある自宅の購入希望者が現れたからだった。

「急だったけれど、これを逃すといつ売れるか分からないので、夫婦2人で引越しの作業をしました。平屋の手付金を払ってから1週間で前の家が売れるというタイミングだったので、引越し会社も呼べず、すべて自分たちで行い、バタバタでした。ただ、家が売れる前から、終活として荷物の整理を少しずつ始めていたので、引き渡し時には何も残っていない状態にできました」

金額面は、元の家を売却した金額が平屋の値段とほぼ同じだったことから、そのままスライドして支払うことができた。

コンパクトな住まいなのでコミュニケーションが取りやすく、和やかな雰囲気(写真撮影/masaru tsurumi)

コンパクトな住まいなのでコミュニケーションが取りやすく、和やかな雰囲気(写真撮影/masaru tsurumi)

和室2室を日当たりのいいLDKへ大幅リフォーム

とはいえ、6人家族時代からある36年分の荷物を、軽トラックで何往復もして運ぶのは大変だったという。

「まだ着られる洋服はリサイクルショップへ。鉄屑は鉄の業者さんに持っていき、できるものは千円くらいだとしても換金しました。物を捨てるのにもお金がかかりますから」と、Sさん夫妻は合理的かつ行動的。

「昔の家なので、湯呑みなどの食器類や座布団、布団なども多かったですね。処分した布団だけで2tトラック1台分ありました。タンスは全部処分して、軽くて中身が見やすいプラスチックケースに変えました。持ち物は半分以下に減らして引越しましたが、こっちに来てから、やっぱりいらないと思って捨てたものもあります」。処分した荷物は軽トラック2台分になった。

購入した平屋は、畳の和室4つに食堂付きという造りだったが、間取りを変更して大幅にリフォーム。会社から提案されたプランをベースに、Sさん夫妻も意見を出した。

「大きな変更は、キッチンの形をI型からL型に変更してもらったことです。これによりキッチンの作業スペースが広がり、リビングに開放感が生まれました。壁になる予定だったリビングと和室の間を取っ払って、和室と一体型のLDKにしてもらったんです。この間取り変更は大正解。もともと設置してもらう予定だったI型のシステムキッチンですと私たちの生活動線では作業スペースが足りないと感じ、さらに出入りがしにくくなりそうでしたから。また、会社がもともと予定していたリフォームは、元食堂の勝手口を防犯面の観点から塞ぎ、そこにトイレをつくるというものでした。リフォーム後の間取りは、キッチンだけでなく玄関やトイレの位置までパーフェクトです」

新設したトイレに窓をつけることは妻が、浴室の壁の一面と洗面所にモダンなブラウンのシートを使用することなどは二人で提案した。

L字型のシステムキッチンに、ダイニングとの間仕切りと収納を兼ねてカラーボックスを設置(写真撮影/masaru tsurumi)

L字型のシステムキッチンに、ダイニングとの間仕切りと収納を兼ねてカラーボックスを設置(写真撮影/masaru tsurumi)

リフォーム前のキッチン(写真提供/カチタス)

リフォーム前のキッチン(写真提供/カチタス)

コンパクトな暮らしに加え、日当たりと静けさを手に入れた

生活が変わった部分は、「最近、階段を上っていないこと」と話す夫。2階に上がらなくていいのは本当にラクですね」と、平屋の良さをしみじみと話す。

「住まいがコンパクトなので動きやすく、足の運びがいいですね。家の真ん中に押入れを造ったので、その周りをぐるりと1周すれば、LDKも水回りも玄関もあり、動くことや片付けが億劫ではなくなりました。また以前は、地震の際に2階にいると、揺れを大きく感じることがありましたが、こちらに引越してからは、まだ感じたことがありません。これも平屋の良さかもしれません」

廊下沿いに押入れと物入れがあり、クローゼットとして使用。周囲をぐるりと回遊できる(写真撮影/masaru tsurumi)

廊下沿いに押入れと物入れがあり、クローゼットとして使用。周囲をぐるりと回遊できる(写真撮影/masaru tsurumi)

また、「ここは静かで日当たりがいい」と口をそろえる二人。
「以前の住まいは、建てたころは静かな場所でしたが、新興住宅地になってしまい、集合住宅が300棟くらい建ちました。庭の前にも家があり、私たちの暮らしにとっては騒がしかったんです。また、最近建てられた住宅は背が高いので、私たちの2階建てには、南側からの日が当たらなくなってしまって。今は一日中、日が当たりっぱなしで嬉しいです」
愛犬も家の中を走り回っている。

娘夫婦以外、知り合いがいない県に移り住んだが、近所付き合いもうまくいっているという。
「ご近所さんが自家製の野菜を分けてくれるなど、仲良くしてもらっていますね。ここでは、自分たちは若い方なんです」と笑う。
また、Sさん夫妻は引越してから共に転職し、自宅から車で15分ほどの職場にそれぞれ通い、地域に馴染んでいる。

娘夫婦も頻繁に遊びにくるという。
「いくら準備をしたって、歳を取れば少なからず身内に迷惑をかけることになるけれど、遠くで迷惑をかけるよりは、近い距離で迷惑をかけた方が、精神的にも金銭的にも楽ですね」

周辺には行楽地があり、今後も楽しみが増えたという。
「ここまで忙しかったので、まだあまり出かけていないけれど、温泉なども近いので、夫婦でこれからの生活を満喫したいですね。住まいの計画としては、庭をいじって変えていきたいと思います。愛犬のためのドッグランと、幅2mくらいのウッドデッキを造りたいという計画があります」

「こちらに移り住んでから、白髪を染めるのをやめました」と自然体な夫と、共に夫の両親を介護した盟友でもある妻。平屋で愛犬との静かな暮らしを楽しむ(写真撮影/masaru tsurumi)

「こちらに移り住んでから、白髪を染めるのをやめました」と自然体な夫と、共に夫の両親を介護した盟友でもある妻。平屋で愛犬との静かな暮らしを楽しむ(写真撮影/masaru tsurumi)

シニアが平屋ライフを楽しむには……

Sさん夫妻に、シニアが充実した平屋ライフを送るコツを聞いてみた。
「やはり、早くから『何歳でこうする』というプランを立てておくといいと思います。私たちは、次は墓地を買って自分たちのお墓を建てる計画があり、お葬式のことも話し合っています。また、『どちらかが1人になったらホームに入ろう』とも決めています。歳をとると、一日一日が速いもの。予定を立てずにダラダラと過ごしてしまうと、周りの人に迷惑をかけることになりかねません。何より、計画を立てておくことで、自分たちが安心して暮らすことができます」

コンパクトな平屋暮らしは、年配者2人などのシニア世帯にはピッタリだと話す夫。
「平屋は、シニア世帯にすごくおすすめです。いざ、火災や地震があった時も、足腰に負担をかけず、すぐに外に逃げ出せますから。また、病気などで万が一という状態のときに、救急車が家の前まで付けられることもいいですね。例えば、一分一秒を争う脳梗塞のように、体が動かせないような状況の時に、2階から大人を担架に乗せて降ろすのは、大変だと思います。私たちにとってはあらゆる面で、安心して暮らすことができるのが、コンパクトな平屋です」

4台分ある駐車場。度々遊びに来る娘夫婦をはじめ、来客がある時も安心。お手製のドッグランを造る計画もある(写真撮影/masaru tsurumi)

4台分ある駐車場。度々遊びに来る娘夫婦をはじめ、来客がある時も安心。お手製のドッグランを造る計画もある(写真撮影/masaru tsurumi)

まだまだ現役の50代前後で「終活」に取り掛かり、荷物を処分して一戸建てを売り、県外の平屋に住み替え、転職もしているSさん夫妻の鮮やかな人生設計に脱帽。

71.21平米の3LDKなら、マンション住まいとあまり変わらない。その上、生活音をあまり気にしなくてもよく、ドアを開けたらすぐ庭や駐車場という一戸建ての良さが付いてくるのは魅力的だと思う。

誰でも歳をとるのだから、なるべく暮らしをコンパクトにして、毎日を楽しみたい。それにはやはり事前の計画が大事……! 2人の若々しくスッキリとした表情に、考えさせられることが多かった。

●取材協力
株式会社カチタス

育休中の双子パパ、家族で北海道プチ移住してみた! 半年暮らして見えてきた魅力と課題

「地方への移住」=田舎暮らしは憧れだけど、仕事環境などなどハードルが高い。
「男性の育児休業」=まだまだ認知されていなくて、取得できる気がしない……。
一見ハードルが高そうで互いに関係がなさそうな、こんな二つのキーワードを組み合わせた暮らしを体験してみると、実はすごく豊かな暮らし方&働き方改革、そして新たな地方創生が実現できるかも?! 1歳双子男子の関西人新米パパが実践レポートします!

男性の長期育休取得→移住体験にいたるまで

2021年の春のこと。「双子やったわ~」妻からの報告に、嬉しかったり、ビックリしたり。以前から抱いていた「育児休業」という言葉が頭の中を飛び回りました。現実問題として、双子の子育てって、一人じゃ到底難しいよなぁ……育休取れるんやろか。でも、0歳の子どもって、日々成長して変わっていくと言いますし、何にも代えがたい経験が出来る気がする。よくあるワンオペ育児もホンマに大変そうやし、妻に頼りっきりで、妻が倒れてしまったら双子育児なんてどうにも立ち行かなくなるし、二人で育児をするために、なんとか育休取らねば。

とはいえ、男の育休が話題になっている今ですが、現実問題としては、突然いなくなるのも周りへの迷惑も気になるのも事実。社外のバリバリ働いている友人たちからは、その後の会社での処遇なども含めて心配もされました。まだまだ世の中の雰囲気は男性育休に対して意見がいろいろあるんやなぁと実感しました。

ただ幸いなことに、先輩女性職員さんをはじめ、社内のほとんどの同僚たちは大賛成してくれ、上長も「双子やしね~」と前向きな反応。その後、3カ月程にわたり会社との相談を重ね、長期育休を取る方向で話を進めていき、2021年10月、無事、双子男子の父となることができました。

無事産まれて、家に来てくれたばかりの双子。今改めて見ると、本当にちっちゃくてカワイイ!(写真撮影/小正茂樹)

無事産まれて、家に来てくれたばかりの双子。今改めて見ると、本当にちっちゃくてカワイイ!(写真撮影/小正茂樹)

単に“イクメン”として子育てするのも良かったものの、ふと、「育休中って会社に通勤せんでもいいし、育児を大好きな北海道で出来るんじゃ?!」と頭によぎりました。子どもたちの育児環境も、都会より、緑が多くて、空気が澄んでいて、のんびりした空間で出来たほうがいいんじゃなかろうか。記憶には残らないまだまだ小さい頃ですが、のんびりした温和な性格に育ってくれないかなぁ。周囲の先輩パパ・ママに聞いてみると、都会で泣き声とかで周囲への迷惑などにビクビクしながら育てるより、のんびりした空間で育てるほうが親にも子どもにもいいと思うなぁとのこと。

会社に確認すると、育休中の居住地は特に問わず、連絡さえつけばどこにいても問題ないとのこと。そこまで確認し、2021年度中はリモートワーク主体になりながらも、仕事をこなしつつ、2022年度には、長期の育休を取得させていただくことで、上司・人事にも仁義を切り、社内調整も完了しました。あとは、北海道で暮らす算段を立てるのみ!!

せっかく行くなら、できるだけ長く、半年くらいは北海道で暮らしてみたい。暮らす手段を考えてみると、やはりコストの問題が出てきます。ウィークリー/マンスリーマンション的なもの。エアビー(Airbnb)的なもの。長期で借りると安くなる可能性はあるとはいえ、やはり結構高額になってしまう。また、本州から北海道までの引越し代って、海を確実に渡るので、すっごい高いと友人からも聞いています……。うーん、難しい。

でも、すごくいい解決方法が見つかりました!「移住体験」という制度です。
地方都市のいろんなところで実施しているこの制度、これなら、「家具・家電付き」で、「家賃」もお値ごろの住宅が多い。そして、市町村が運営しているだけに、町のあれこれも教えていただけたりしそうで一石二鳥。「ちょっと暮らし」という北海道の体験移住WEBサイトも発見! このサイトなどを穴が開くほど見つめて、友人・知人の多く住んでいる北海道十勝エリア、日高エリアを中心に検討することにしました。また、私が住む大阪には、「大阪ふるさと暮らし情報センター」というところもあり、こちらでは、パンフレットをいただいて、より詳細に検討を行いました。

WEBでいろいろと調べるのもいいですが、調べ物はまずは紙派。いただいたパンフやこれまでストックしてあったさまざまな資料をチェックしながら、詳細をWEBで確認して、検討していきました(写真撮影/小正茂樹)

WEBでいろいろと調べるのもいいですが、調べ物はまずは紙派。いただいたパンフやこれまでストックしてあったさまざまな資料をチェックしながら、詳細をWEBで確認して、検討していきました(写真撮影/小正茂樹)

問い合わせてみると、申込条件としては、基本的に、「二拠点居住」「移住」などを検討していることになっています。私としては、以前から北海道が大好きで、仕事の調整が付けば、将来的に「二拠点居住」が出来ると嬉しいなぁと思っていたため、条件はクリア。

妻の説得、幼い子どもを連れて移住体験するために考えておくこととは

北海道に行く。この気持ちはもう揺るがないものになってきてはいるものの、当時の最重要タスクは、0歳児双子の育児&出産間もない妻の心身のケア。コロナ禍まっただ中ということもあり、都会の子育てサロン的なものはほぼすべて中止になり、なかなかママ友などもできない状況でした。「都会にいると息苦しいから、育児は田舎の方でやったほうがいいかなぁ」なんてことを小出しにしながら、妻の意向確認をするべく、18ページにわたる企画提案書を出してみました。この企画提案書では、暮らすことになる移住体験住宅のイメージはもちろん、大阪での育児と比べて、のんびりした育児環境となること、グルメや遊び情報などと合わせて、プチ移住するにあたっての子どもたちの予防接種などの課題などにも触れ、まずは妻の意見をしっかり聞けるように工夫しました。

妻にプレゼンした18ページの育休期間暮らし方提案書(写真撮影/小正茂樹)

妻にプレゼンした18ページの育休期間暮らし方提案書(写真撮影/小正茂樹)

妻からは楽しそう、美味しいものが食べられそう、などというポジティブな意見もあったものの、「医療機関など子育てに不安がない都会から、突然地方へ乳飲み子を抱えて移動するリスク」や、「最寄りの医療機関の情報」「日常の買い物施設の情報」「子連れウェルカムな施設」などの宿題をたくさんもらいました。プレゼン終了後、別資料で「最寄りの医療機関」「日常の買い物施設」については、地図にプロットし、どこに何があるか、口コミ情報なども調べて、しっかり共有しました。また、小さな子連れで過ごせる施設や、子育てサロン的な集まりなども事前に自治体さんに問い合わせするなどして、情報を集めていき、思ったよりいろいろなものがあることも分かり、無事課題クリア。

しかしながら、「乳飲み子を抱えて移動するリスク」については、難しい点がありました。子育てをご経験された方はご存じかと思いますが、産まれて満1歳ころまでは、数多くのワクチン接種などがあり、健診もたくさん。これらをどこで受診するのか、あれこれ考えることが結構ありました。実は、移住体験はあくまで扱いとしては、「体験」であるため、住民票の異動は認められていません。そのため、ワクチン接種や健診の主体はもともと暮らしている自治体で受診するのが原則になっています。ワクチン接種もできるだけもともと通っていた医院で受けたいという妻の意見をくみ取りつつ、健診がいったん落ち着く9カ月健診の終了後、2022年7月、移住体験をスタートできることになりました。

双子にとって初めての飛行機に乗り、帯広空港に到着。友人たちが荷物運びなどのために出迎えてくれました(写真撮影/小正茂樹)

双子にとって初めての飛行機に乗り、帯広空港に到着。友人たちが荷物運びなどのために出迎えてくれました(写真撮影/小正茂樹)

移住体験先の賢い選び方!

移住体験でお借りできる住宅は、家賃・築年・広さ・住宅内の設備や付属している家具・家電などなど、本当に千差万別。教員住宅だったものを利活用している(小中高校の教員さん向けの公務員住宅だが、地方では統廃合などで、教員住宅自体が余ってきている)ケースが多いですが、民間物件や、地元木材を使って新築で建てられた移住体験用住宅をお借りするケースもあります。個人的なおすすめとしては、移住体験用に建てられた住宅。家賃が他のものより高いことが多いですが、設備も新しく、妻を説得する私としては、「せっかく移住体験するなら、きれいなところ」というのは結構重要な点でした(笑)。

豊頃町(とよころちょう)でお世話になった移住体験住宅は、妻へのプレゼン資料で決め手に。築10年ほど経っていますが、地元木材がふんだんに使われ、お庭も広く、吹き抜けの気持ちいい空間が広がります(写真撮影/小正茂樹)

豊頃町(とよころちょう)でお世話になった移住体験住宅は、妻へのプレゼン資料で決め手に。築10年ほど経っていますが、地元木材がふんだんに使われ、お庭も広く、吹き抜けの気持ちいい空間が広がります(写真撮影/小正茂樹)

また、寝具は別途レンタルとなっていたり、水道光熱費は、灯油代(暖房代)は別途となっていることは多いものの、水道・電気代は込みになっていることが多いです。

■検討する際に忘れてはならない大事なポイント
・借りられる期間(これは市町村さんごとに2週間~1年程度まで、全く異なるので要注意!)
・申し込み締切り日(年に1回、まとめて募集があります。その締切りは概ね年末から2月中旬までが多いです。それ以降も、空きがある場合は、追加募集を行う市町村もあるため、要チェック)
・北海道の場合は、夏場の暑さ!北海道といえど、夏場は30度以上になったりして、暑く感じることもありますが、移住体験住宅はエアコン設備がないところがほとんど。逆に冬はストーブが付けていれば、本州の家とは比べ物にならないくらい暖かいです。移住体験する時期に注意!!

我が家としては、「半年間継続して暮らせる」ことが何より重要でした。乳飲み子を抱えて、ウロウロするのは結構大変。なので、基本的に、半年間を一つの町で暮らせるように考えました。ただ、半年間という長期で申し込める市町村はそこまで多くはなく、申込締切りに間に合い、かつ、楽しい暮らしが実現できそうな「豊頃町」「上士幌町(かみしほろちょう)」の2町に申込することにしました。そして、無事選定いただき、豊頃町で2カ月、上士幌町で4カ月、移住体験をさせていただくこととなりました。

【豊頃町の決め手】
・とにかく移住体験住宅がかっこいい!
・お庭があって、希望者は農作業ができる家庭菜園も。子どもたちに収穫した野菜を食べさせてあげられるかも(今回は2カ月の短期居住で収穫体験が出来るよう、特別に先に植え付けをしてくださっていました)
・農地に隣接していて、のんびり空間を満喫できそう。
・問い合わせした際の町の担当の方がすごく親切だった。
・十勝エリアのなかでも、あまり情報がない町なので、どういう町か暮らしてみたかった。

豊頃町の移住体験住宅からの眺め。都会では到底味わえない抜け感で心身ともにリフレッシュができました(写真撮影/小正茂樹)

豊頃町の移住体験住宅からの眺め。都会では到底味わえない抜け感で心身ともにリフレッシュができました(写真撮影/小正茂樹)

【上士幌町の決め手】
・「ママのHOTステーション」という子育てママが集える空間があった。
・糠平温泉郷や小学校をリノベしたカフェなど、楽しめそうな場所がたくさんあった。
・町がさまざまな斬新な取組みをされているので、肌でそれを感じたかった。
・移住者がすごく多い町という噂なので、移住されている方と仲良くなれるかも。
・移住対応窓口がNPO法人で、いろんな暮らしの情報をもらえそうだった。

「ママのHOTステーション」。実は、一昨年、仕事で上士幌町を視察をしたとき「これや!!」と直感して、上士幌町に移住体験して、妻に通ってほしい!と思ったのです。実際、すごく居心地よく素晴らしいものだったそうです(写真撮影/小正茂樹)

「ママのHOTステーション」。実は、一昨年、仕事で上士幌町を視察をしたとき「これや!!」と直感して、上士幌町に移住体験して、妻に通ってほしい!と思ったのです。実際、すごく居心地よく素晴らしいものだったそうです(写真撮影/小正茂樹)

まだまだ他の町にも! チェックすべき移住体験のオトク情報

移住体験住宅のセレクトで、つい目が行きがちなのが、「家賃」や「築年数」「広さ」など。もちろん、暮らすにあたって、すごく重要なポイントではありますが、実は、個性的な特徴を持っている移住体験住宅もたくさんあります。そんなおすすめポイントを、私が検討した日高・十勝エリアに絞り込んでご紹介します。

1、農園付き住宅!
私が暮らさせていただいた豊頃町の移住体験住宅は、2戸で800平米の敷地。えらい広いなぁと思っていたら、実は、農園付きの住宅でした。自由に植え付けることもできますが、私たちは短期滞在ということもあり、役場のOBのおじいちゃまが育ててくださって、収穫体験させていただく、というようなありがたいサプライズもありました!

また、士幌町には、その名も「もっと暮らし体験『農園付き住宅』」という農園をがっつり楽しみたい方のための1年以上の長期滞在向け体験住宅も用意されていて、本気度が高い方にはこちらもおすすめです。

豊頃町の移住体験住宅のお庭でジャガイモの収穫! 町役場OBのおじいちゃまが手伝ってくださいました。我が家はほとんど収穫体験のみ……。できたて野菜をたくさん双子に食べさせてあげられました(写真撮影/小正美奈)

豊頃町の移住体験住宅のお庭でジャガイモの収穫! 町役場OBのおじいちゃまが手伝ってくださいました。我が家はほとんど収穫体験のみ……。できたて野菜をたくさん双子に食べさせてあげられました(写真撮影/小正美奈)

2、ワーキングステイできる!
ロケット開発や宇宙港開発で有名になりつつある大樹町(たいきちょう)では、移住体験住宅の一つが、専門的な知識やスキルを持つ「クリエイティブ人材」のワーキングステイの場として提供されています。デザインやWEB等の知識がある方、ICTを活用し、都市部の仕事をテレワークで受注する企業や個人事業主の方向けということになっています。実は、このワーキングステイで大樹町にまちづくり提案をした場合、1カ月分の家賃相当の謝礼を受け取ることができます。まちづくりに興味がある方はもちろん、これから宇宙関係で盛り上がっていく大樹町に関われるチャンスが生まれるかもしれません。

大樹町と言えば、実業家の堀江貴文さんが創業し、ロケット開発をベースに宇宙の総合インフラ会社を目指しているインターステラテクノロジズ株式会社。大樹町の宇宙産業開発はこれからも大注目!(写真撮影/小正茂樹)

大樹町と言えば、実業家の堀江貴文さんが創業し、ロケット開発をベースに宇宙の総合インフラ会社を目指しているインターステラテクノロジズ株式会社。大樹町の宇宙産業開発はこれからも大注目!(写真撮影/小正茂樹)

3、オシャレ空間で暮らしたい!
私が暮らしていた豊頃町の移住体験住宅は2棟ともに木材がふんだんに使われていて、土間があったり吹き抜け空間があったりと、妻もオシャレとすごく喜んでいました。また、上士幌町でも、私が滞在した移住体験住宅とは別に、1カ月以内の短期居住向け住宅があり、ややお家賃の割高感はあるものの、新築のオシャレな住宅も用意されています。また、足寄町(あしょろちょう)の移住体験住宅も新築になりますので、快適な暮らしができるのではないでしょうか。

さらに、十勝清水町では、令和5年1月に無印良品さんとコラボし、リノベーション&家具・家電をコーディネートしたすっごいオシャレな住宅が完成しました。一般的な移住体験住宅でちょっと残念なのが、家具・家電のコーディネート力がやや弱いこと。しかしこちらの住宅は、内装に合わせて家具・家電もコーディネートされていました。

豊頃町の体験住宅は、土間・薪ストーブ付き。革小物のハンドメイド作家の妻は、土間で制作作業をしたり、デザインを考えたり。冬ならぜひ、都会の人の憧れ、薪ストーブも使ってみたかったです(写真撮影/小正茂樹)

豊頃町の体験住宅は、土間・薪ストーブ付き。革小物のハンドメイド作家の妻は、土間で制作作業をしたり、デザインを考えたり。冬ならぜひ、都会の人の憧れ、薪ストーブも使ってみたかったです(写真撮影/小正茂樹)

4、馬に囲まれて暮らせる!
また、日高エリアの浦河町では、民間の戸建て物件やホテルなどが移住体験住宅として提供されていますが、そのなかで、「うらかわ優駿ビレッジAERU」の和洋室のお部屋がミニキッチン付きで家族でも十分な広さがあります。ホテル内には大浴場もあり、敷地内にはお馬さんたちがたくさん繫養(けいよう)されていて、のんびりした空間が広がります。北海道発祥のスポーツ「パークゴルフ」や、乗馬も初心者から楽しめるコースも。私も今回の北海道プチ移住では1週間ほど滞在しましたが、ホテルライクにいろいろ体験しながら、のんびり暮らしたい方にはおすすめです。

うらかわ優駿ビレッジAERUの敷地内でのんびり草を食むお馬さん。浦河町は古くからサラブレッドの生産・育成が主な産業。のんびりした牧場空間でサラブレッドが過ごす光景は本当に癒やされます(写真撮影/小正茂樹)

うらかわ優駿ビレッジAERUの敷地内でのんびり草を食むお馬さん。浦河町は古くからサラブレッドの生産・育成が主な産業。のんびりした牧場空間でサラブレッドが過ごす光景は本当に癒やされます(写真撮影/小正茂樹)

長期育児休業×移住体験で新たな暮らし・生き方・住まいを探そう!

現在、日本では、異次元の少子化対策として、さまざまな検討がなされています。私は一足先に、男性ではまだまだ珍しい長期育児休業を取得し、さらに移住体験を通じて、地方で子育てをすることで、すごくポジティブに育児に取り組めました。

■長期育児休業×移住体験のいいところ
・移住先では、子どもをすごく大事にしてくださいました。子どもを抱っこしてくださった地域のおばあちゃまたちの笑顔にすごく癒やされます。
・会社員としての属性は残したまま、自分が気になっているエリアに中・長期で移住体験ができる。
・例えば、祖父母の近くの町などに移住体験できれば、祖父母孝行をしながら、育児ができる。
・中・長期で暮らすことによって、地域の住宅やお仕事情報などが手に入ったり、地元のお祭りに参加出来たり、新しい友人・知人が増え、人生が豊かになる。
・20・30代の方々が長期育休を取り、地方へ移住体験することで、地方の活力がアップしたり、二拠点・多拠点居住など新たな暮らし方を模索するきっかけに。地方の空き家対策などにもつながる可能性。関係人口という地域とのつながり方も注目されています。
・自分の暮らす町で育児をすると、どうしてもマンネリ感と、ストレスを感じがち。移住体験で子育てすることで、日々に変化が生まれ、リフレッシュできる環境で子育てができる。

喫茶店で私たちがランチを食べている間、お店の方とお客さんが双子と遊んでくれているようす。いろんなお店でいろんな方にすごくお世話になりました。おばあちゃまたちの子どもあやすスキルがすごい!(写真撮影/小正茂樹)

喫茶店で私たちがランチを食べている間、お店の方とお客さんが双子と遊んでくれているようす。いろんなお店でいろんな方にすごくお世話になりました。おばあちゃまたちの子どもあやすスキルがすごい!(写真撮影/小正茂樹)

数多くのローカルイベントにも参加でき、町の雰囲気などをいろいろな角度から体感できたのは大きな収穫でした(写真撮影/小正茂樹)

数多くのローカルイベントにも参加でき、町の雰囲気などをいろいろな角度から体感できたのは大きな収穫でした(写真撮影/小正茂樹)

私たちの子どもが双子だということもあるかもしれませんが、どこに出掛けても、いろんな方に声を掛けていただいて、子どもたちをあやしたり、抱っこしてくださったりしました。子どもたちをかまってくださるのは本当に助かりました。町の喫茶店や食堂では、お店の方とお客さんが双子の世話をしてくださり、その間に我々夫婦は食事をとったり、コーヒーを飲んだりも。おかげで、子どもたちは人見知りも、場所見知りもしなくなり、我々夫婦はゆっくり食事ができたりと、良いことずくめでした。そして、すごい副産物やな、と感じたのは、抱っこしてくださったおばあちゃまたちが笑顔で「ありがとう!小さい子に会うのもなかなかないからほんまに癒やされたわ~、また抱っこしたいから遊びに来てね!」と言ってくださったこと。こちらが助けていただいているのに、本当にありがたかったですし、多世代の交流が勝手に生まれていて、すごくほんわか空間ができていました。

また、旅行ではなかなか得られない地域の細かな住宅やお仕事事情、行政サービスのことなどなど、いろんなことを知ることができ、将来的な移住検討もより具体的に考えられるなと感じました。

お孫さんが使っていたというおもちゃを使って、双子とずっと遊んでくださった喫茶店のマスター(写真撮影/小正茂樹)

お孫さんが使っていたというおもちゃを使って、双子とずっと遊んでくださった喫茶店のマスター(写真撮影/小正茂樹)

一方、この新しい暮らし方にも課題があります。

■長期育児休業×移住体験のここに注意! 改善できればいいなというところ
・住民票が動かせないので、行政サービスが受けられないものが多い。
・育児休業中の収入は育児休業給付金のみ(雇用保険料を一定期間納めている方のみいただける制度)になるため、ある程度貯金を取り崩したりするなどしないとダメ。
・保育・幼稚園留学や小・中学校のデュアルスクールなど、教育環境が柔軟なエリアはまだまだ少ないので、兄弟がいる世帯は難しいケースも。

育児休業給付金の制度は、取得から当初180日間は直近6カ月の給料相当額の67%、その後、50%にまで減額されます。社会保険料などは免除されるため、当初180日間を概ね80%まで引き上げることができれば、働いているときとほぼ変わらない収入を確保でき、心配なく育児に専念できます。こうなれば、男性の半年間程度の長期育休は確実に増えると思います。また、私たちのように、地方への移住体験をしながら育児、といった新しい子育てのあり方もどんどん生まれてくるのではないでしょうか。

保育・幼稚園留学や小・中学校のデュアルスクールなどは、まだまだ数は少ないものの、私たちがお世話になった上士幌町では、「上士幌Two-way留学プロジェクト」という地方と都市の2つの学校の行き来を容易にし、双方で教育を受けることができる留学制度は既に始まっており、浦河町でもすごくステキなこども園が一時保育などを積極的に受け入れられています。子どもたちの教育環境としても、実は地方のほうが手厚く、都会では経験できないようなさまざまな体験ができるのではないかなと思います。

ぜひ、国や自治体さんには子育ての多様化、ポジティブな子育て環境をつくりだしていただいて、子どもを育てやすい、と思えるような環境整備や制度拡充ができてくればいいな、と思います。

浦河町滞在時に利用した「浦河フレンド森のようちえん」の子育て支援フレンドクラブ。絵本の読み聞かせなどをしてくださり、園舎内も自由に遊ばせてOK。ワーケーションなどで浦河町滞在時の一時預かりなどにも対応されています(写真撮影/小正茂樹)

浦河町滞在時に利用した「浦河フレンド森のようちえん」の子育て支援フレンドクラブ。絵本の読み聞かせなどをしてくださり、園舎内も自由に遊ばせてOK。ワーケーションなどで浦河町滞在時の一時預かりなどにも対応されています(写真撮影/小正茂樹)

妻の双子の妊娠が発覚してから、ぼんやり考えていた育児休業と真剣に向き合い、男性ではまだまだ珍しい長期の育児休業取得へ。さらに、単に育児休業を取って育児をするより、親のリフレッシュも兼ね、いつもと違った環境に移住体験しながら育児ができたことは、すごくいい刺激を受け、よい経験となりました。

今回、お伺いした2町以外にも移住体験住宅はたくさんありますし、都市部では絶対に経験できないような魅力的なコンテンツも盛りだくさん。旅行では味わえない、田舎暮らしを満喫して、育児も!暮らしも!しっかり人生を楽しみながら、育児に取り組む。こんな新しい育児休業はすごく可能性があるなと感じました。 

また、今回の長期育児休業×移住体験を行ったことにより、新しい友人・知人ができ、新しい地方の魅力を体感できました。もちろん、これからも今回伺った地域との関わりは続けていきたいなと思っています。地方創生の新たな仕組みにもなり得るのではないか、そんなことを感じる体験となりました。

2023年1月中旬、中札内村の道の駅内にある無料で遊べるキッズスペースにて。生後9カ月で北海道に来た双子も、1歳3カ月になり、しっかり歩き回り、自己主張も出てきて、のびのび成長してくれています(写真撮影/小正茂樹)

2023年1月中旬、中札内村の道の駅内にある無料で遊べるキッズスペースにて。生後9カ月で北海道に来た双子も、1歳3カ月になり、しっかり歩き回り、自己主張も出てきて、のびのび成長してくれています(写真撮影/小正茂樹)

移住体験ラストは、さよならパーティーを企画。総勢40名を超える方々にお越しいただけて、半年で本当にさまざまな友人・知人が新たに出来て、これからの人生がより豊かになると確信したひとときとなりました(写真提供/森山直人)

移住体験ラストは、さよならパーティーを企画。総勢40名を超える方々にお越しいただけて、半年で本当にさまざまな友人・知人が新たに出来て、これからの人生がより豊かになると確信したひとときとなりました(写真提供/森山直人)

●関連サイト
大阪ふるさと暮らし情報センター
豊頃町移住計画ガイド
上士幌町移住促進サイト
上士幌町Two-way留学プロジェクト

北海道の山あい300人の地域に移住者が集まるワケ。生計や人間関係、住み心地などリアルを聞いた 岩見沢市

筆者の住む北海道岩見沢市の山あいの美流渡とその周辺地区には、小さなお店を開いたり、木工や陶芸などを制作し販売したりといった、自分なりの生き方を模索する移住者が集まっている。
美流渡地区は人口わずか330人と過疎化が進むが、なぜこのエリアに移住者が集まってくるのだろう?
共通する価値観は大量生産社会への疑問、そして自給自足的な暮らし方だ。この小さな集落で、いったいどのようにして生計を立てているのだろう。つねに安定した収入があるわけではないが、それでもなんとかやりくりをして暮らす、移住者たちの3つのケースを紹介する。

駅からも遠い豪雪地帯に集まる移住者とは、どんな人たち?

岩見沢市は北海道有数の豪雪地帯。朝、扉を開けると、膝上まで雪が積もっているということはたびたび。筆者は、道外からの移住希望者の地域案内をこれまで何度かしたことがあるが、雪の多さを知って「ここには住めない」と語る人は多かった。最寄りの駅まで車で25分。4年前に小中学校も閉校しており、商店も数えるほどしかないことから、「便利さ」や「暮らしやすさ」を求める人にとっては厳しい環境だ。

岩見沢が全国ニュースで取り上げられるのは、大抵大雪のとき。降り始めからの降雪量が2メートルを超え、自衛隊に出動が要請されたこともある(撮影/來嶋路子)

岩見沢が全国ニュースで取り上げられるのは、大抵大雪のとき。降り始めからの降雪量が2メートルを超え、自衛隊に出動が要請されたこともある(撮影/來嶋路子)

けれども、ここ4、5年の間にポツポツと移住者がやってきている。年に1、2世帯(ときにはそれ以上の年も)と数としてはわずかだが、美流渡地区の人口が330人、その周辺地域も含めて500人ほどと考えると地域への影響は少なくない。
そして移住者に共通するのは、大量生産・大量消費という価値観とは異なる生き方をしようとしているところ。ほとんどの場合、空き家をDIYで改修するなど、できる限り自分の手で暮らしをつくっていこうという意識をもっている。

酒屋や食堂など商店は数店。車で20分ほどの市街のスーパーまで買い出しに行く家庭が多い(写真撮影/來嶋路子)

酒屋や食堂など商店は数店。車で20分ほどの市街のスーパーまで買い出しに行く家庭が多い(写真撮影/來嶋路子)

今回、こうした人々の中から3組に、いまの暮らし方と、経済活動をどうやって営んでいるのかについて話を聞いてみることにした。

旅行先で空き家を見つけ、電撃移住した一家。ハーブティブレンドのお店「麻の実堂」笠原麻実さん

「どうやって生きているのかと聞かれたら、自然に生かされているとしか言いようがない」。
そう語るのは、美流渡よりさらに山あいに入った万字地区で暮らす笠原麻実さんだ。笠原さんは、自宅の周りでオーガニックハーブを育て、ハーブティブレンドを販売する「麻の実堂」を営んでいる。
自宅の玄関先が小さなお店。このほかオンラインストアでも販売を行っている。

麻の実堂のハーブブレンド。もともとハーブティが苦手だったという笠原さん。そんな自分でも飲みやすいブレンドをつくりたいと日々研究を重ねている。滋味深い味わいが魅力(撮影/久保ヒデキ)

麻の実堂のハーブブレンド。もともとハーブティが苦手だったという笠原さん。そんな自分でも飲みやすいブレンドをつくりたいと日々研究を重ねている。滋味深い味わいが魅力(撮影/久保ヒデキ)

「自然に生かされている」という言葉は、ハーブという自然の恵みを活かしたものづくりを行うことはもちろん、暮らしのあらゆる部分に関係している。
暖房は薪ストーブ。夫の将広さんが、知り合いが所有している山で間伐を兼ねて丸太を切り出している。笠原さんは、時間を見つけてはそれを割って薪にする。
また春から秋にかけては山菜を採取し、食卓の一品に加えている。畑で野菜も育てていて、トマトピューレや味噌など保存食づくりにも精を出す。さらには、ヤギとニワトリを飼い、ミルクや卵も自給している。

5歳になる息子さんは、ニワトリやヤギと一緒に遊ぶ(撮影/佐々木育弥)

5歳になる息子さんは、ニワトリやヤギと一緒に遊ぶ(撮影/佐々木育弥)

笠原さんはヤギのミルクと採れたての卵を使ったケーキをつくることも(撮影/來嶋路子)

笠原さんはヤギのミルクと採れたての卵を使ったケーキをつくることも(撮影/來嶋路子)

笠原さんは、まるで何十年も前から農的暮らしを営んでいるように見えるが、実はそうではない。5年前までは、夫妻はともにショップの販売員として働きながら東京のマンションで暮らしていた。

移住のきっかけは突然訪れた。2018年、美流渡地区に移住した友人のもとを生まれたばかりの息子を連れて訪ねたときだった。
「2泊3日の旅でした。ここで過ごしているうちに私たちも田舎暮らしをしてみたいという気になって。そのときたまたま空き家を見せてもらったんです」(笠原さん)

紹介された空き家は2世帯がつながった炭鉱住宅だった。そのうちの1世帯に暮らしている(撮影/來嶋路子)

紹介された空き家は2世帯がつながった炭鉱住宅だった。そのうちの1世帯に暮らしている(撮影/來嶋路子)

友人を介して見に行った空き家は、万字地区にある元炭鉱住宅だった。築50年以上経過していて、床が沈んで直さなければ住めない状態だったという。
しかし、二人の心は動いた。都会の暮らしには先が見えない閉塞感を感じていた。そして、帰りの飛行機に乗ったときにはすでに移住を決めていたのだという。

話はとんとん拍子に進み、家は無償で譲り受けることになり、東京の住まいを3カ月で引き払った。
「全部、東京に置いてきましたね。本当にあの家があるのだろうかと不安を抱えながらやってきました(笑)」(笠原さん)
旅行で訪ねた以降は下見もせず、地域がどのような場所かもまったく知らないという、まさに電撃移住だった。

玄関先でハーブティブレンドを販売。じっくりと時間をかけて暮らしをつくる

移住後に、どうやって生活費を稼いでいく計画だったのかと尋ねると、「私はタイ古式マッサージができたので施術をしようと考えていました。それがうまくいかなくても、どこかでアルバイトしたっていいし、なんとかなると思っていました」(笠原さん)

夫が炭鉱住宅を改修。自宅でマッサージの施術も行っている(撮影/久保ヒデキ)

夫が炭鉱住宅を改修。自宅でマッサージの施術も行っている(撮影/久保ヒデキ)

試行錯誤の中での暮らしが始まった。炭鉱住宅は住みながら改修したため、最初はキャンプのような毎日。内装は将広さんが手がけた。父親が大工だったこともあり、見よう見まねでやっていったという。
また、畑にも挑戦しようと、とりあえず直売所に苗を買いに行った。
「お店の方に恐る恐る『畑をやりたいんですけど、どの苗を買ったらいいでしょうか?』と聞いて、何も分からなくて土地の真ん中にポツンと苗を植えたんですよ(笑)」(笠原さん)

手探りだった畑づくり。毎年経験を重ね、多種多様なハーブと野菜を育てられるようになった(撮影/來嶋路子)

手探りだった畑づくり。毎年経験を重ね、多種多様なハーブと野菜を育てられるようになった(撮影/來嶋路子)

近隣には果樹園が多く、人手が必要だということが分かった。果樹は機械化が難しく、手作業に頼る部分が多い。二人は繁忙期に農園で働くこともあった。笠原さんは、自宅でタイ古式マッサージの施術も行い、冬季は将広さんが運送会社や除雪のアルバイトに出かけたりも。
「経済的な太い柱があるわけではなく、何本もの細い柱があって、ようやく暮らしている感じです」(笠原さん)

ハーブの焙煎は薪ストーブの炎でじっくりと。まろやかな味わいに仕上がるという(撮影/久保ヒデキ)

ハーブの焙煎は薪ストーブの炎でじっくりと。まろやかな味わいに仕上がるという(撮影/久保ヒデキ)

こうした中で、一昨年よりハーブブレンドティーの販売を開始。地域の閉校した校舎を利用したイベントに出展しクチコミで広がるようになった。昨年からはハーブを利用したワークショップも開くようになり、固定ファンもつくようになった。

お湯を入れたら、焦らずにじっくり蒸らす。この蒸らしが美味しいお茶をいれるポイント(撮影/久保ヒデキ)

お湯を入れたら、焦らずにじっくり蒸らす。この蒸らしが美味しいお茶をいれるポイント(撮影/久保ヒデキ)

ハーブに目覚めたのは、移住当初、出産後の体調不良で受診したクリニックの処置で、命の危険にさらされるような経験があり、薬や医療の在り方に疑問を感じるようになったことから。昔の人々の知恵や身の回りのものを活かして、体のメンテナンスができないだろうかと考えたという。
そして、ハーブや民間療法などの本を大量に読み、また畑で植物をじっと観察し続ける中で独自のやり方を編み出していった。

この日は朴葉(ほおば)をお茶にしてみた。松や桑、桜などさまざまな植物のブレンドに挑戦している(撮影/久保ヒデキ)

この日は朴葉(ほおば)をお茶にしてみた。松や桑、桜などさまざまな植物のブレンドに挑戦している(撮影/久保ヒデキ)

コンビニでものを買わなくなった。お金に依存しない暮らしに目覚めて

現在、笠原一家の収入の約3分の1がハーブ関連とマッサージ。そのほかは、将広さんのアルバイトなどさまざまな仕事の積み重ねで成り立っているという。
東京時代よりも収入はかなり減っているそうだが、その分、余計な出費も少なくなった。
「家賃もかからないし、コンビニでお惣菜やお菓子を買ったりもしません」(笠原さん)

ただ、除雪機や車のメンテナンス代など、思いがけない出費がかさむときも。しかし、不思議にタイミングよくお金が回っているそうだ。こんな出来事の積み重ねからも、自分たちは「自然という大いなる力に生かされている」と感じずにはいられないのだという。

今後の目標は万字地区にごはんやを開くこと。万字地区の人口は80人で一軒も商店がない地域。だからこそ地元の人たちがいつでも立ち寄れる場所をつくりたいと、新たな空き家を取得して改修中だ。
「ハーブもごはんやも、しっかりとした形になるまでにはすごく時間のかかることだと思います。だから焦らずにやっていきたいですね」(笠原さん)

ワークショップ「魔女のお茶会」も開くようになった。参加者と一緒にガーデンで育てたハーブを収穫。それを使ってブレンドティーやボディクリームづくりをしている(撮影/佐々木育弥)

ワークショップ「魔女のお茶会」も開くようになった。参加者と一緒にガーデンで育てたハーブを収穫。それを使ってブレンドティーやボディクリームづくりをしている(撮影/佐々木育弥)

自分らしく、やりたいように進んでいけばいい。そう心から思えたのは、自然とともにある暮らしを始めたことが何より大きかったという。
「都会では、人と足並みをそろえなくてはならないと思ってとても窮屈な思いをしていました」(笠原さん)
家の裏につくったドラム缶風呂に入りながら、山あいの景色を眺めたり、タンポポやニセアカシアなど、山や野にある植物をサラダや天ぷらにしたり。その一つ一つが、生きているという実感をわきあがらせ、心を豊かに満たしていく。

ハーブはさまざまなところに生えている。「つんで匂いを確かめてみてください。すごくいい香りがしますよ!」と笠原さん(撮影/佐々木育弥)

ハーブはさまざまなところに生えている。「つんで匂いを確かめてみてください。すごくいい香りがしますよ!」と笠原さん(撮影/佐々木育弥)

各地を放浪後、木工作家として美流渡にアトリエを開いて。「アトリエ遊木童」木工作家・五十嵐茂さん

「やっと出稼ぎに行かなくても、暮らすことができるようになった」。
上美流渡地区で「アトリエ遊木童」という名で家具を制作する木工作家・五十嵐茂さんは、笑顔で語った。
この地に移住したのは、およそ20年前。新潟出身で10代のころに単身で上京し、ライブハウスで働いた。20代でインドを放浪。38歳になって帯広の職業訓練校で家具づくりを学び、その後、美流渡に落ち着いた。アトリエを開く決め手の一つは土地代の安さ。当時、市が所有していた土地の借用料は年間2500円だったという。
五十嵐さんは自宅をセルフビルドし、妻の恵美子さんとここで暮らすようになった。

五十嵐茂さん。10・20代はミュージシャンを目指して活動したこともあった(撮影/佐々木育弥)

五十嵐茂さん。10・20代はミュージシャンを目指して活動したこともあった(撮影/佐々木育弥)

移住して5年ほどは、木工作品の制作とともに介護の仕事なども行っていた。
その後、東京の青梅市にある共同アトリエに所属するようになり、東京のクラフト市や百貨店などでの販売も行ってきた。
「北海道だけでは作品の需要が少なくて、『出稼ぎ』に出ていたんだよね」(五十嵐さん)

座面にさまざまな樹種を組み合わせて、カラフルな色合いを出したスツール(撮影/佐々木育弥)

座面にさまざまな樹種を組み合わせて、カラフルな色合いを出したスツール(撮影/佐々木育弥)

こうした暮らしに変化がやってきたのは昨年。
笠原さんも出展した地域の旧校舎を利用したイベント「みる・とーぶ展」に参加したことだ。
このイベントは、地域でものづくりをする人々や、各地のミュージシャン、飲食店を営む人々など20組以上が集まって約2週間にわたって実施されている。
昨年は、春、夏、秋の3回開催され、合計で4300人が来場した。

「みる・とーぶ展」に出展。市内の「木工房ピヨモコ」との2人展を教室で開催した(写真撮影/來嶋路子)

「みる・とーぶ展」に出展。市内の「木工房ピヨモコ」との2人展を教室で開催した(写真撮影/來嶋路子)

このイベントで五十嵐さんは春に「おんがくしつ no 椅子展」を開催。
定番となっていたスツールをメインにした展示を行った。教室には時間が足りずに塗装まで仕上げられていなかったテーブルも置いた。購入希望者が現れたら、後日塗装をして届ける予定だった。
しかし、ここで思いがけない展開があった。
「テーブルの塗装を自分でやりたい。孫にじいちゃんがつくったテーブルだよと言ってプレゼントしたいんだ」という男性が現れた。
また、別の来場者からも、テーブルを一緒につくりたいので教えてほしいと頼まれたという。

無垢の板を使ったテーブル(撮影/佐々木育弥)

無垢の板を使ったテーブル(撮影/佐々木育弥)

みんなでつくり、交流することの大切さを知って

「これで分かったのが、完成品を売るんじゃなくて、みんなでつくるってことが大事なんだということ。時代は変わったんだね」(五十嵐さん)
夏のイベントでは「おんがくしつ no 椅子展」ともに、「組み木スツールワークショップ」も会場で常時行うこととした。
あらかじめ脚や座面のパーツはつくっておき、参加者は組み立てと仕上げを行い、4時間程度で完成するようにした。10名だった定員はすぐにいっぱいになった。

スツールづくりワークショップのチラシ。参加料は約2万円。通常の商品を買うよりもかなりリーズナブルな値段を設定した(画像提供/みる・とーぶプロジェクト)

スツールづくりワークショップのチラシ。参加料は約2万円。通常の商品を買うよりもかなりリーズナブルな値段を設定した(画像提供/みる・とーぶプロジェクト)

商品をたんに販売していたころよりも、売り上げは伸びた。年3回の「みる・とーぶ展」の収益と、その場で受けた注文によって、今年は暮らしを回すことができたそうだ。
組み木スツールワークショップの評判は上々。自分でつくったという物語によって、その人にとって何倍も思い出深い椅子となっていた。
「椅子をつくっている間に、みなさんの人生について聞かせてもらいました。深く話ができたことが本当によかった」(五十嵐さん)

この地域に移住した画家・MAYA MAXXさんとのコラボも行った。五十嵐さんが額をつくり、それに合う絵をMAYAさんが描いた(撮影/佐々木育弥)

この地域に移住した画家・MAYA MAXXさんとのコラボも行った。五十嵐さんが額をつくり、それに合う絵をMAYAさんが描いた(撮影/佐々木育弥)

人々の物語を共有すること。それは五十嵐さんの喜びにもなった。そして過疎地でも人が訪れ、そこで作品を売って暮らせる可能性が開けたことは、大きな希望につながった。

「ここは元炭鉱町で、廃れていく一方だと思っていたけれど、近年になってパワフルな移住者がやってきて、まちの風景が変わっていくのを感じるよ」(五十嵐さん)
今後の目標は、彫刻も制作すること。木の中から現れ出た精霊のような不可思議な作品をつくっていきたいのだという。

平日は札幌で働き、休日は美流渡で過ごす古本屋さん。「つきに文庫」寺林里紗さん

自分でものをつくって販売し、生計を立てようとする移住者がいる一方で、札幌と美流渡の二拠点暮らしを選択する人もいる。
「平日に会社員として働いて、週末にはやりたいことを自由に試してみたい」。
美流渡で月に2回、週末に玄関先で古本屋を開く「つきに文庫」を営み、アフリカンダンサーとしても活動をする寺林里紗さんは、そんな風に考えている。

「つきに文庫」を開く寺林里紗さん。冬季は休業、春から営業を再開する(撮影/佐々木育弥)

「つきに文庫」を開く寺林里紗さん。冬季は休業、春から営業を再開する(撮影/佐々木育弥)

札幌から車で1時間半ほどの美流渡を知るきっかけとなったのは、万字地区に移住したアフリカ太鼓の奏者の友人が、この地で定期的に太鼓教室を開催していたこと。参加者の中から「アフリカンダンスもやってみたい」という希望があって、その講師として寺林さんに声がかかった。

アフリカンダンサーとしてライブのステージに立つことも。美流渡地区でダンスワークショップも開催している(撮影/來嶋路子)

アフリカンダンサーとしてライブのステージに立つことも。美流渡地区でダンスワークショップも開催している(撮影/來嶋路子)

「美流渡は、山並みがまるで四国のようでいい場所だなあと思いました。それに、移住者のみなさんが、週末になるといろいろなイベントをやっていて、おもしろい人たちのいるところだと感じていました」(寺林さん)
以来、週末住めるような家を探すようになり、1年ほどして知人の紹介で空き家を見つけた。一部修繕も必要だったが地域の友人らの手を借りて整えていった。

2階の屋根裏から山々が見渡せる。その風景が気に入ったという(撮影/佐々木育弥)

2階の屋根裏から山々が見渡せる。その風景が気に入ったという(撮影/佐々木育弥)

寺林さんの家には、近所の子どもが遊びに来るようになった。子どもたちが楽しめるようにと、玄関先で古本屋を開いてはどうかとあるとき思った。絵本を用意し、地球環境や旅、暮らしのエッセイなど、これまで自分が読むためにと集めてきた本を並べた。

初めてお店を開けたのは2021年7月。友人が訪ねてきて本を手に取り「これください」と言ったとき、本の値段を決めていなくて戸惑ったという。

「まさか売れるとは思っていなくて(笑)」(寺林さん)

玄関先がお店。自分が読んだことのある本を並べている(撮影/佐々木育弥)

玄関先がお店。自分が読んだことのある本を並べている(撮影/佐々木育弥)

その後は値段をつけて販売するようになったが、商いをやっているという意識はあまりないという。玄関先がオープンスペースとなり、本を通じてコミュニケーションが生まれ、みんながのんびりと過ごせる場づくりを大切にしている。

「いま建築事務所で働いています。働くことは好きなんですが、ドジらないように、毎日すごく緊張していますね」(寺林さん)
寺林さんは社会人として働きつつ、週末の月に2回古本屋さんを開き、バンドやダンス活動も続けている。美流渡に拠点を設ける以前に、これまで2度、アフリカに2~3カ月滞在してダンスを学んだことがある。1回目は会社に長期の休みを取って行き、2回目は退職して向かったが、帰国後すぐに新しい就職先を探すことができたという。

古本屋を始めると、友人からさまざまな本が集まるようになったという。寺林さんは、それを一つ一つ読んでから、ラインナップに加えていく(撮影/佐々木育弥)

古本屋を始めると、友人からさまざまな本が集まるようになったという。寺林さんは、それを一つ一つ読んでから、ラインナップに加えていく(撮影/佐々木育弥)

「ここに住む移住者のみんなは、以前とは暮らしを大胆に変えていますが、私にはそんな勇気はないので二拠点暮らしをしています。でも、いずれは美流渡に移住したいという想いももっています」(寺林さん)

場所を変えることによって仕事とプライベートの切り替えができるそうで、週末、美流渡へと車を走らせていくと、気持ちがゆるみ、ワクワクした感覚があふれてくるのだという。
子どものころから自然の中で過ごすのが大好きで、木登りが得意中の得意だったという寺林さんにとって、山あいのこの場所は生きるエネルギーをチャージする重要な場所になっている。

「空が広くて、四季を通じた変化があった。ここに来ると本当に心が安らぐんですよ」(寺林さん)

美流渡で木に登って、ヤマブドウの実を採ることも(撮影/佐々木育弥)

美流渡で木に登って、ヤマブドウの実を採ることも(撮影/佐々木育弥)

お金をどう稼ぐかではなく、地域や自然と関わる中からできることを探して

今回紹介した3人のように、移住者たちは、地域の人々や自然と関わる中で、何ができるのかを探り、自分なりの活動を続けている。
笠原さんは、体調を崩したことがきっかけでハーブに目覚めた。寺林さんは、美流渡に本を置いてあるスペースがなく、子どもたちに喜んでもらえたらと古本屋を始めた。そして五十嵐さんは、この地で人々と触れ合う中で、完成品を売るのではなく、みんなでつくるという方法にシフトさせていった。

旧美流渡中学校で開催された「みる・とーぶ展」には「麻の実堂」、「アトリエ遊木童」、「つきに文庫」も参加。来場者の声から新たな工夫が生まれることもある(写真撮影/佐々木育弥)

旧美流渡中学校で開催された「みる・とーぶ展」には「麻の実堂」、「アトリエ遊木童」、「つきに文庫」も参加。来場者の声から新たな工夫が生まれることもある(写真撮影/佐々木育弥)

みんなそれぞれ、作品や本が売れるようにと日々試行錯誤を繰り返しているが、収入がそれほど見込めないからといって、現在の活動をやめるわけではない。
共通しているのは、「お金が儲かるから」とか「得をしそうだから」という尺度で物事を選択せず、自分が「心からやりたいことかどうか」で動いているところ。

「貯金をしておかないと、先行き不安では?」と思う人もいるかもしれない。当然、多少の不安はあるだろうが、お金がなければ畑で食べ物をつくったり、農家の手伝いに行けば「きっとなんとかなる」と考えている人は多い。

また、家も自分たちで修繕すればいいし、電気やガスに頼りすぎずに薪を燃料にすればいい。ここで暮らしていくうちに、生きていくための力が自然に備わってきているのではないかと思う。

今回紹介した移住者たちは、日々、協力しあって生きている。イベントを共同で開催したり、アフリカ太鼓のバンド活動もみんなで行っている(写真撮影/來嶋路子)

今回紹介した移住者たちは、日々、協力しあって生きている。イベントを共同で開催したり、アフリカ太鼓のバンド活動もみんなで行っている(写真撮影/來嶋路子)

「もう、都会のマンション暮らしには戻れない」と笠原さんは夫妻で語り合うことがあるという。地面の近くで暮らすことが、何より重要だと分かったそうだ。
都会で将来への安心を求めると貯蓄や投資、保険などという紙に頼る他はない。もちろん都会にいれば、公共施設や病院などが近くにあって利用しやすいという安心感もあるだろう。一方でこの地の移住者は、この大地とつながっていて、いつでもそこから恵みを受けることができるという安心感があるのだと思う。

●取材協力
麻の実堂
つきに文庫

画家MAYA MAXX(マヤマックス)さんが330人の集落に移住。北海道の豪雪地域に描いた”巨大クマ”が人々の心のよりどころに。岩見沢市美流渡

北海道有数の豪雪地帯、岩見沢市。その山あいにある330人の集落・美流渡(みると)地区に2020年夏、画家のMAYA MAXX(マヤマックス)さんが移住。MAYAさんはラフォーレ原宿での個展や子ども番組などへの出演を通じて人気を集め、絵本作家としても多くのファンを持つ。これまで都会で活動するイメージが強かったが、一転して過疎地での制作をスタートさせ、まちじゅうに絵を描く活動も展開。「絵を一目見てみたい」と美流渡を訪ねた人は5000人を超えた。同じ美流渡に住み、地域活動の運営を担当する筆者が、移住から2年半のMAYAさんの取り組みについてレポートする。

MAYA MAXXさんの絵本。読者の声により復刊したのが『トンちゃんてそういうネコ』(汐文社)。雑誌で発表した『ぱんだちゃん』(福音館書店)は1月に単行本化された(撮影/久保ヒデキ)

MAYA MAXXさんの絵本。読者の声により復刊したのが『トンちゃんてそういうネコ』(汐文社)。雑誌で発表した『ぱんだちゃん』(福音館書店)は1月に単行本化された(撮影/久保ヒデキ)

長屋の4世帯を利活用。美流渡にアトリエを開いて

美流渡地区は元炭鉱街。道道38号線のわずか2kmほどのエリアに、炭鉱が活況を呈した時代は1万人がひしめき合って暮らしていた。当時を知る人は、労働者の住宅が所狭しと建てられ「美流渡には緑がなかった」と語る。昭和40年代に炭鉱が閉山すると急激な人口流出がおこり、現在は330人が暮らす。住宅があった場所の多くは自然に返っており、いまでは緑豊かな山里の風景が広がっている。

MAYAさんのアトリエがある地区。民家はまばらで森に囲まれている(撮影/久保ヒデキ)301_0P8A7832.jpg

MAYAさんのアトリエがある地区。民家はまばらで森に囲まれている(撮影/久保ヒデキ)

人口減少がある一方で、1980年代からポツポツと移住者が集まるようになっていた。その中には陶芸家や木工作家、やがては薪窯のパン屋などがあった。移住したほとんどの人が、この地に縁のある友人に土地や空き家を勧められたことがきっかけ。
筆者自身も知人を介して5年前に美流渡の古家を取得。岩見沢市の街中から引越した。

MAYAさんの移住もケースは同じで、実は筆者が「空き家をアトリエとして改修してはどうか?」と声を掛けたことによる。MAYAさんとは取材をきっかけに20年来の友人だった。
この時期、個性的な移住者が多いまちとしてメディアなどでも紹介されることが増え、町会に「空き家はないか?」という問い合わせが入るようになっていた。そこで町会と市が連携し、取り壊し予定となっていた元教員住宅を移住者支援住宅として利活用することとした。住宅は4世帯が入った長屋。一棟すべてを借りれば、十分な広さのアトリエがつくれるのではないかと思った。

元教員住宅。1棟に4世帯が暮らしていた。窓だった部分や扉にMAYAさんは絵を描いた(撮影/久保ヒデキ)

元教員住宅。1棟に4世帯が暮らしていた。窓だった部分や扉にMAYAさんは絵を描いた(撮影/久保ヒデキ)

そのときMAYAさんは、10年間の京都での作品発表に区切りをつけ、東京に戻っていた。知人の住宅の一室をアトリエとして借りていたが、大作を何枚も同時に描けるほどの広さはなかった。そんなこともあって美流渡でアトリエをつくったらどうかという筆者の申し出に「それもいいかもね」と軽やかに答えた。以前から、イヌイットなどの北方民族に憧れを抱き、いずれは北に行ってみたいという思いもあった。

MAYA MAXXさん。1993年よりこの名で活動を開始。画家であり絵本も多数手掛ける(撮影/久保ヒデキ)

MAYA MAXXさん。1993年よりこの名で活動を開始。画家であり絵本も多数手掛ける(撮影/久保ヒデキ)

最初は東京との二拠点を考えていたが、新型コロナウイルスの感染が深刻化。展覧会開催予定なども延期となり、都道府県をまたぐ移動にも制限があったことから、東京を離れ美流渡に完全移住することを決めた。

改修は、長沼でリフォーム工事を手掛ける「yomogiya」に依頼。内壁の塗装はMAYAさんと友人らで行うこととした。アトリエは白いペンキを3層塗った。「絵よりも毎日見るものだから」とムラなく仕上げた(撮影/來嶋路子)

改修は、長沼でリフォーム工事を手掛ける「yomogiya」に依頼。内壁の塗装はMAYAさんと友人らで行うこととした。アトリエは白いペンキを3層塗った。「絵よりも毎日見るものだから」とムラなく仕上げた(撮影/來嶋路子)

長屋の2世帯分は境の壁の一部を壊してつなぎアトリエとした。1世帯は住居。残りの1世帯は、作品の収蔵庫にしようと考えていたが、内装の仕上がりが美しかったこともあり、現在はギャラリーとして使っている。

アトリエの一角。部屋を仕切っていた壁、トイレ、風呂場などもすべて取り外し、できる限りスペースを広く取った(撮影/久保ヒデキ)

アトリエの一角。部屋を仕切っていた壁、トイレ、風呂場などもすべて取り外し、できる限りスペースを広く取った(撮影/久保ヒデキ)

ギャラリーとして使われている空間。アトリエから絵を持ち出しここに展示すると客観的な目で見られるようになる(撮影/久保ヒデキ)

ギャラリーとして使われている空間。アトリエから絵を持ち出しここに展示すると客観的な目で見られるようになる(撮影/久保ヒデキ)

自然に身を置く中で、思っても見ない変化が起こって

真っ白なアトリエで、MAYAさんは制作を開始した。普段から構想をスケッチしたり下描きをしたりは一切しない。そのときの自分を介して出てきたものが画面に現れていく。美流渡で最初に描かれたのは、一面のグリーンで覆われた絵。それは、これまでほとんど使ったことがなかった色。
「緑というのは自然の色ですよね。いままでは理解できない、一番ぼんやりしている色として捉えていました」(MAYAさん)
京都や東京で描いていた絵は、黒や赤などコントラストの強い色を使い、線を多用していた。けれど、環境を変えたことによって、自分でも“思ってもみなかった”色彩による表現が生まれた。

緑は青味が強かったり黄色に傾いたりする曖昧さを持っているため、いままでは捉えどころのない色だったという。また緑を使うのが苦手という意識もあったそうだ(撮影/來嶋路子)

緑は青味が強かったり黄色に傾いたりする曖昧さを持っているため、いままでは捉えどころのない色だったという。また緑を使うのが苦手という意識もあったそうだ(撮影/來嶋路子)

絵画と同じように“思ってもみなかった”活動が広がっていった。それはまちに絵を描く取り組みだ。発端は、MAYAさんのアトリエの近くに4年前に閉校となった旧美流渡小中学校の校舎があったことだ。

小学校と中学校が隣り合って立っており同じ時期に閉校した(撮影/佐々木育弥)

小学校と中学校が隣り合って立っており同じ時期に閉校した(撮影/佐々木育弥)

閉校してから校舎の1階には、豪雪で窓が割れないようにと雪除けの板が張られていた。あるときMAYAさんは「あそこに絵を描いたらいいんじゃないか」と語った。雪除けの板は全部で40枚以上。大きいものは一辺が5mにもなった。筆者が市や教育委員会との交渉の窓口となり、2021年8月から「窓板ペインティングプロジェクト」が実施されることとなった。道内各地からサポートしてくれる人々が集まり、約3カ月かけて絵が描かれた。

MAYAさんが輪郭を塗り、その中をサポートしてくれる人たちが塗った(撮影/來嶋路子)

MAYAさんが輪郭を塗り、その中をサポートしてくれる人たちが塗った(撮影/來嶋路子)

メインとなる窓板は、MAYAさんが一人で描いた。雨の日も風の日も、一人、板に向かう姿は地域の人々の心を打った。そばで校舎の草刈りをする人や、まだ下地のペンキが塗られていない板を見つけ、「ここを白く塗っていいですか?」と声を掛けてくれる人が現れた。
「閉校した校舎を今後どう活用するかは行政が検討すること」と考える住民は多かったが、MAYAさんのアクションによって「自分たちも校舎に対して何かできることがあるのではないか」という意識が芽生えていった。

中学校側の一番大きな窓板はMAYAさんが一人で描いた。「We MIRUTO」という言葉には「仲間がいて私はその中にいる」というメッセージが込められた(撮影/來嶋路子)

中学校側の一番大きな窓板はMAYAさんが一人で描いた。「We MIRUTO」という言葉には「仲間がいて私はその中にいる」というメッセージが込められた(撮影/來嶋路子)

閉校して子ども達の声は聞こえなくなってしまったが、絵があることで新しいにぎわいが生まれた(撮影/久保ヒデキ)

閉校して子ども達の声は聞こえなくなってしまったが、絵があることで新しいにぎわいが生まれた(撮影/久保ヒデキ)

ここにも絵を描いてほしい。そんな声が広がって

このプロジェクトから、次の展開が生まれた。美流渡とその周辺地区は過疎化が進み、2021年度で路線バスが廃止となり、代替交通としてコミュニティバスが運行されることとなった。このバスのラッピングデザインをMAYAさんにお願いできないだろうかと、窓板を制作する様子をいつも見ていた町会のみなさんから声が挙がった。MAYAさんはこの依頼に「デザインをするのではなくて、車体に直接描きたい」と応えた。実際に車体を前にするからこそ浮かぶイメージがあるという。「ここには雪を降らせてみよう」や「もっと動物を増やしていこう」とまるでキャンバスと対話をするかのように描いていった。

倉庫で車体のペイントを行った。「バンパーにクマがたくさんいたらかわいいよね!」と正座で描き続けた(撮影/來嶋路子)

倉庫で車体のペイントを行った。「バンパーにクマがたくさんいたらかわいいよね!」と正座で描き続けた(撮影/來嶋路子)

路線バスの廃止は、まちに暗いニュースとして流れたが、MAYAさんが絵を描いている姿が新聞に掲載されると、一転して明るい話題となった。路線バスよりも運賃が安くなり、住民のニーズに合わせたルートとなったこともあり、平日の1日の乗降数はこれまでの倍。全国から視察が来るようになった。
また、停留所で止まっていると記念撮影する人も。美流渡に来るのにマイカーでなく「あえてバスで来ました」と語る旅行者に筆者も出会ったことがある。

「乗っているみなさんの気持ちが少しでも明るくなったら」と、車体には赤と青のシカが描かれ、その周りにクマやリスが散りばめられた(撮影/久保ヒデキ)

「乗っているみなさんの気持ちが少しでも明るくなったら」と、車体には赤と青のシカが描かれ、その周りにクマやリスが散りばめられた(撮影/久保ヒデキ)

もう一人、窓板に絵を描く様子をずっと見守っていた人がいた。食品加工メーカー・モリタンの平井章裕社長だった。モリタンは北海道の素材を使った業務用のコロッケなどの調理品や水産加工品などを製造する指折りの大手。志文地区と美流渡地区に加工工場を持っていて、そこを行き来する車中でMAYAさんの絵を知った。そして、加工工場にも看板となる絵を描いてほしいと依頼した。岩見沢市を拠点としながらも、これまで市民と接点が希薄だったことから、地域の画家に絵を描いてもらうことで、新たな交流の糸口ができるのではないかと考えたという。

打ち合わせの席でMAYAさんは「看板では目立たない。あの食品倉庫に大きなクマの顔を描きたい」と語った。
志文には高さ10m、奥行き100 mにもなる食品冷凍庫があった。その壁は白く「あそこに絵があったらいいな」と以前から思っていたのだという。

食品冷凍庫の壁にペイント。高所作業車のアームを少しずつ動かしながら描いていく(撮影/來嶋路子)

食品冷凍庫の壁にペイント。高所作業車のアームを少しずつ動かしながら描いていく(撮影/來嶋路子)

こうして「ビッグベアプロジェクト」が始まった。2022年8月、平井社長自らが高所作業車のオペレーションを行い、MAYAさんは下描きせずに目見当でクマを描いていった。制作期間は約5日。顔の直径はおよそ9 mあった。できあがって離れて見たとき、屈託のない表情で斜め上を見つめる顔がそこにはあった。「これはきっと右側からやってきた『希望』の光を見つけた喜びの顔なんじゃないか」とMAYAさんは思った。そして、自分自身が制作しているものはすべて、みなさんへの“贈り物”であったことに気付いたという。

クマはHOPEくんと名付けられた。食品冷凍庫の後ろには北海道グリーンランドの観覧車が見える(撮影/久保ヒデキ)

クマはHOPEくんと名付けられた。食品冷凍庫の後ろには北海道グリーンランドの観覧車が見える(撮影/久保ヒデキ)

絵を描くことは自己表現ではなく、贈り物

人は、心を込めた贈り物を受け取ったとき、気分が明るくなり、喜びの感情がわいてくるはずだ。MAYAさんの絵は、そうした気持ちを沸き立たせるもの。まちに絵を描く試みとともに、閉校した校舎を使って、これまで4回の「みんなとMAYA MAXX展」を開催してきた。移住してから身近になったシカ、リス、クマを描いた作品が発表された。会場のアンケートには「絵を見て癒やされました」や「元気が出ました」という声が多数あった。

旧校舎での展覧会は、2021年の秋と2022年春・夏・秋に各2週間開催された(撮影/佐々木育弥)

旧校舎での展覧会は、2021年の秋と2022年春・夏・秋に各2週間開催された(撮影/佐々木育弥)

「絵のコンセプトはどうでもいいんです。私が考えていることや自己表現といったものはそばに置いておいて、とにかくみんなが可愛いと思ってもらえるようなものを描きたい」(MAYAさん)

いま世界はさまざまな危機に直面している。コロナ禍、ウクライナへの軍事侵攻、気候変動。
心が休まるときがない状況にあって、絵と向かい合ういっときはせめて明るさを取り戻してもらいたいとMAYAさんは願っている。

「みんなとMAYA MAXX展」と同時開催で、地域のつくり手の作品を集めた「みる・とーぶ展」も開催。この会場でMAYAさんは手描きのサロペットを販売した。普段、こうしたファッションを身につけない人も、気持ちが明るくなるからと購入した(撮影/來嶋路子)

「みんなとMAYA MAXX展」と同時開催で、地域のつくり手の作品を集めた「みる・とーぶ展」も開催。この会場でMAYAさんは手描きのサロペットを販売した。普段、こうしたファッションを身につけない人も、気持ちが明るくなるからと購入した(撮影/來嶋路子)

4回の「みんなとMAYA MAXX」展を校舎で開催し、訪れたのは5000人以上。札幌から高速道路を利用して1時間強。岩見沢駅から車で25分という決してアクセスのよくない地域に、これだけの人が集まった理由は、どこにあるのだろうか。市や教育委員会、地元企業の協力のほか、運営はみな手弁当。企画にも広報にも戦略といったものはなかった。

来場者が日に日に増えていった理由に対して、「絵には人の気持ちが集まってくるんだよね」と、あるときMAYAさんは語った。
確かに、校舎の窓板やモリタンの絵の制作過程をSNSで公開すると、わざわざ札幌から見学に来る人も現れ、イベントのサポートスタッフになってくれるなど、人の輪が大きく広がっていった。

校舎でギャラリートークも開催。どうやって制作をしているのかや日々の暮らしについてが語られた(撮影/來嶋路子)

校舎でギャラリートークも開催。どうやって制作をしているのかや日々の暮らしについてが語られた(撮影/來嶋路子)

では、人の気持ちが集まってくる絵とは何かとMAYAさんに聞いてみたところ、こんな答えが返ってきた。
「モリタンのクマや校舎の窓板など公共の場所に描くときには、色数を絞って、輪郭をはっきりととって、絵の具を3度塗りして仕上げます」(MAYAさん)
曖昧な線でたくさんの色を混ぜたような絵だと、雨風に当たっていくうちに薄汚れて見えてしまうのだという。
いつどんなときでも、輝いて見えるような絵にするために、「時間に追われることもあるけれど、やっつけ仕事をしてはいけない。いつでも、いくらでも時間を使えると思って描きたい」と絵筆を動かしているそうだ。

旧校舎の庇にはクマの顔の立体が設置された。半年間かけて仲間と制作。Amiちゃんと名付けられた(撮影/來嶋路子)

旧校舎の庇にはクマの顔の立体が設置された。半年間かけて仲間と制作。Amiちゃんと名付けられた(撮影/來嶋路子)

描き方は人の気持ちを集めるフックにはなるが、もっと大切なことがあると日々MAYAさんと接していて思う。
それは「これをやったら得か損か」という考えを捨て、自分がやりたいという純粋な気持ちだけを持って、軽やかなステップで前へと進んでいくことだ。
「こんなことやって何になるの?という人もいますが、私は一切そうは思いません。あそこに、かわいいクマがいたら、どんなにいいだろうって。ないよりあったほうがいいよねって思います」(MAYAさん)

展覧会と並行してMAYAさんは、地域の商店の看板やシャッターにも絵を描いていった。これらも注文があったわけではない。すべてはMAYAさんの“贈り物”だった。

カフェに設置された看板。市街から山あいの地域に入っていくと、MAYAさんの絵をところどころで見つけることができる(撮影/來嶋路子)

カフェに設置された看板。市街から山あいの地域に入っていくと、MAYAさんの絵をところどころで見つけることができる(撮影/來嶋路子)

移住をして自然と人と近くなって

ときどきMAYAさんは「美流渡に移住して本当によかった」と語る。自分のつくるものが“贈り物”であるという心境に達したのは、この地に暮らしてからのこと。都会での生活は「すべてのことが上滑りで、表面的だった」と語る。

大きな変化は自然との向き合い方。自分がこの大地とそして森の木々とつながっているのだということに気付き、それらを見ることが作品にも大きな影響を与えることに気付いたという。「これまで都会で生きていて、自分が自然をよく知らないということが空虚さにつながっていました。いま61歳になって、土と自然にようやく間に合ったという気がしました。私は本当に美しいものは自然だと思います。毎日美しいものを見ることができる環境に身を置くことができてよかった」(MAYAさん)

立ち枯れた植物の種子や葉を集めて制作された立体作品(撮影/久保ヒデキ)

立ち枯れた植物の種子や葉を集めて制作された立体作品(撮影/久保ヒデキ)

また、人と人との距離が近くなったことも大きい。校舎での展覧会のときMAYAさんは、必ず会場の受付にいて人々を迎えている。これまで多数の美術館で個展をしてきたが、ファンの人たちは固有名詞では存在しなかったという。それが、会場で会話を交わす中で、リアルな存在となった。日々の暮らしの中でも同じ。灯油販売店や設備会社の人たちは、顔馴染みのご近所さん。自分はご近所さんに支えられて、こうして暮らしているということが実感を持って感じられたという。

仲間の存在も大きい。MAYAさんが行うプロジェクトには気心の知れた友人が集う。東京にいたころも、もちろん仲間はいたが、アポイントを入れて会うという、日常とは切り離された状態での付き合いだった。
「絵を描くことはたった一人でやるしかない孤独な時間です。その半面のような、仲間がいてみんなで協力してやる作業は、みんなでみんなのために贈り物をつくるような喜びがあります」(MAYAさん)

Amiちゃんの制作に集まった仲間。スタイロフォーム(住宅などの断熱材として使われるポリスチレン樹脂原料を押出し発泡加工したもの)を重ねて立方体をつくり、そこからクマの顔を削り出した(撮影/來嶋路子)

Amiちゃんの制作に集まった仲間。スタイロフォーム(住宅などの断熱材として使われるポリスチレン樹脂原料を押出し発泡加工したもの)を重ねて立方体をつくり、そこからクマの顔を削り出した(撮影/來嶋路子)

もちろん移住は、良いことばかりではない。とくに厳冬期には容赦なく雪が降り続け、それは時に災害をもたらす。一昨年は屋根雪の重さに耐えきれず、改修したばかりのアトリエの床が凹んだことも。雪道運転で危ない思いをしたことも数えきれない。しかし、それこそが自然と近くなることなのだとMAYAさんは、日々除雪や運転技術をスキルアップさせている。
そして、今年もすでに「あそこにあれがあったらいいよね!」と、新しいプロジェクトの計画が進行中だ。雪が解けたら、またMAYAさんはまちへと出ていく。一つ、また一つと贈り物が増えていくことで、夜道に街灯がどんどん灯っていくように、まちが明るくなっていく。

アトリエの一部は、コンクリートブロックの壁をあえて見せるつくりに(撮影/久保ヒデキ)

アトリエの一部は、コンクリートブロックの壁をあえて見せるつくりに(撮影/久保ヒデキ)

●取材協力
MAYA MAXXさん
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瀬戸内国際芸術祭の舞台、人口800人弱の”豊島”に移住者が増えている! 「余白のある」島暮らしの魅力とは?

瀬戸内海に「豊島」という島がある。豊島と書いて「てしま」と読む。小豆島の西に位置する、人口768人(2020年国勢調査による)の小さな島だ。「瀬戸内国際芸術祭」の舞台にもなるので、アート好きには知られた島でもある。この島に9日間ほど滞在することになった。住民の高齢化が進むなか、移住者が多い島でもあると聞いて、話をうかがうことにした。

瀬戸内国際芸術祭秋会期中に施設の“助っ人”として訪れて

この島を訪れた理由は、この秋に開業した宿泊兼研修・イベント施設の「豊島エスポワールパーク」を手伝うためだ。「瀬戸内国際芸術祭」2022年秋会期と同時にオープンしたので「助っ人が必要だ」と知人から聞き、手を挙げた。

宿泊棟の全室から海が見える「豊島エスポワールパーク」。ここに助っ人として8日間通った(筆者撮影)

宿泊棟の全室から海が見える「豊島エスポワールパーク」。ここに助っ人として8日間通った(筆者撮影)

「瀬戸内国際芸術祭」とは、2010年にスタート以降3年に1度開催される、瀬戸内海の12の島と2つの港を舞台とする現代アートの祭典。会期中は国内外から多くの観光客が訪れる。豊島にも、豊島美術館や豊島横尾館などの数多くの作品が見られる。

筆者は、豊島エスポワールパークの寮に滞在したのだが、都心と違って建物が少ないからか空が大きく感じられ、空の景色も日々天候によって変わった。夜空の星もきれいに見えた。自然豊かな島ではあるが、あらかじめ「コンビニやスーパーはないので、必要なものは宅配で送るなどしてほしい」と言われていた。

島の中央にそびえる標高約340mの檀山(筆者撮影)

島の中央にそびえる標高約340mの檀山(筆者撮影)

檀山からの景色。右下に見える集落は豊島美術館のある唐櫃(からと)地区(筆者撮影)

檀山からの景色。右下に見える集落は豊島美術館のある唐櫃(からと)地区(筆者撮影)

島に雑貨店はあるが、品数は少なく欲しいものがないときも多い。「観光客お断り」の掲示がしてあるのは、地元住民の買い物を優先したいからだろう。欲しいものがあれば、通販で宅配してもらうか、船で隣の小豆島や岡山県の宇野、香川県の高松に出て買い求めることになる。ただし、船の便の本数は限られる。

一方豊島では、温暖な瀬戸内の気候のもと、米と種類豊富な野菜や果物を育てている。オリーブやミカン、イチゴなどの農園はあるが、それぞれの田畑で育てたものの多くは販売するのではなく、自給自足や物々交換で消費されるものらしい。収穫したものを自宅で食べたり近所に配ったり、そのお返しをもらったりという形だ。

東京で生まれ育った筆者には、なじみのない暮らし方だが、この島には都市部から移住してきた人が多いと聞いて、その理由を知りたいと思った。

まったく変わらない島で、念願だったコーヒーの焙煎所を開業

そこで、豊島エスポワールパーク館長の三好洋子さんに、移住者を紹介してもらった。田中健太さんは単身の45歳。島でコーヒー焙煎の仕事をしている。

「豊島焙煎所」を営む田中さん(筆者撮影)

「豊島焙煎所」を営む田中さん(筆者撮影)

以前は千葉の舞浜に住み、近くのテーマパークに勤務していた。そこを退社後、コーヒーや日本茶の仕事をしたかったので勉強を始めていたが、地域に関わる仕事がしたいと思い、倉敷市玉島の地域おこし協力隊に応募した。協力隊に採用されて担当したのは、朝市(マルシェ)活性化のプロジェクト。

協力隊として商工会議所に所属し、地域の商店とのネットワークを築くことは、将来コーヒー関連の仕事をする際にも活かされるとの思いもあって、2年間働いた。プロジェクトの成果は上がったが、倉敷市は移住するには思っていたよりも大きな街だと分かり、もっと自然の豊かな所で働きたいという思いが強くなった。

そのとき思いついたのが、テーマパーク勤務時代から観光で通っていた、瀬戸内国際芸術祭が開催される島だ。何度も芸術祭で島々を訪れていたが、多くの島がその都度にぎやかになっていくのに対し、豊島は全く変わらなかった。「この島で暮らしたい」と思って仕事を探したところ、「海のレストラン」の新しい店長として採用された。こうして、2018年に豊島への移住が実現した。

店長としてレストランの物品の仕入れなどをするうちに、地域の人たちとのつながりをもつこともでき、レストランの仕事と並行して2年前から念願のコーヒー焙煎の仕事「豊島焙煎所」を始めた。その2年後には店長を辞めて焙煎所に専念し、地元の土産販売店や宿泊施設、飲食店に焙煎したコーヒーを提供している。また、イベントに呼ばれて、屋台でコーヒーの販売をすることも多いという。

「海のレストラン」入社当初は勤務先の寮で暮らしていたが、いまは甲生(こう)地区の一戸建てを借りて住んでいる。「ぼくたちは植松チルドレンと言われているんですよ(笑)」という。なぜかというと、民泊「植松さん家」を営む植松さんが、地元の人に声をかけて移住者が住むための家を探してくれたからだという。

田中さんによると、甲生地区は、豊島の自治会のある3つの集落(ほかに家浦地区、唐櫃(からと)地区)のうち、最も小さい集落だという。人口が減るなか、移住者が増えることは歓迎したい、家の明かりがついているほうが安心できる、といった考えから家探しに協力をする植松さんがいるおかげで、この地区には移住者が多いのだとか。

甲生地区の移住者は同世代が多く、地域ネットワークができている。移住者たちで頻繁に集まって、情報共有などもしている。

田中さんが借りている住まい

田中さんが借りている住まい(筆者撮影)

純和風のお宅で、コーヒーをご馳走になった

純和風のお宅で、コーヒーをご馳走になった(筆者撮影)

妻の条件をクリアして、夫婦で移住。住み続けたいと思える島にしたい

さて、田中さんの取材を終えて、車で安岐石油まで送ってもらった。安岐石油は筆者が通う施設から滞在する寮までの往復途中にあり、レンタカーとレンタサイクルも営んでいるので、自転車を借りようと思ったからだ。店主の安岐さんは、車や自転車を借りに来た人たちに観光ルートを案内したり、開業したばかりの豊島エスポワールパークの紹介もしてくれたりしていたので、顔見知りではあった。

到着すると安岐さんに「田中さんと知り合いだったのか?」と聞かれ、記事にするために取材をさせてもらったと答えると、「それならおっちゃんが移住してきた人を紹介しちゃる」と声をかけてくれた。渡りに船と紹介してもらったのが、川端拓也(43歳)さん、亜希(39歳)さん夫妻だ。

川端さんのマイホームの前で。川端さん夫妻の間にいるのは、民泊を営む植松さん

川端さんのマイホームの前で。川端さん夫妻の間にいるのは、民泊を営む植松さん(筆者撮影)

2人が豊島に移住したのは、2019年11月。豊島移住のきっかけは、やはり「瀬戸内国際芸術祭」だ。拓也さんが旅行で来て、豊島がすっかり気に入ってしまい、知り合いをつくろうと何度も訪れるようになった。檀山に上ったら、凧揚げをしている地元の人がいて仲良くなったりといった具合だ。そのうち、高校の恩師が定年後にUターンして豊島にいると分かったこともあって、真剣に移住を考えるようになった。

問題は当時付き合っていた亜希さんだ。旅行先として豊島に連れてきて、その魅力をアピールした後、仕事を辞めて豊島に移住したいと申し出た。そのとき亜希さんが出した条件が2つある。1つは「仕事を辞めずに続けること」、もう1つが「当面の生活に困らないだけの貯金をすること」。生活の基盤を整えてからなら、移住先についていってもよいということだろう。

その条件はクリアしたものの、移住で最も大変だったのは家探しだった。川端さんは家を買おうと探したが、不動産会社はないし、空き家バンクはあっても、小豆島の物件が中心で豊島の物件はほとんどなく、家探しは難航した。ようやく家浦地区に見つけて契約という段取りになったが、契約日当日にキャンセルになった。移住事態をあきらめかけていたところで、恩師が家探しをサポートしてくれ、いまの家が見つかった。浴室の改修中には、恩師の義理の兄である植松さんの民泊のお風呂をしばらく借りるなど、お世話になっている。

増築して浴室を設けたり浄化槽を設置したりなどの大幅な改修もしたが、拓也さんが床のフローリングを張り替えたり亜希さんが壁に色を塗ったり壁紙を張り替えたりといったDIYも行っている

増築して浴室を設けたり浄化槽を設置したりなどの大幅な改修もしたが、拓也さんが床のフローリングを張り替えたり亜希さんが壁に色を塗ったり壁紙を張り替えたりといったDIYも行っている(筆者撮影)

こうして、川端さん夫妻の豊島への移住が実現した。川端さんはIT関係の仕事をリモートワークで続けているが、亜希さんは東京でのアパレルの仕事を辞め、豊島に来てからは収穫期のイチゴ農家やオリーブ農園などでアルバイトをして生活を支えている。いずれは、自身でつくった食材や島の食材を元にお店をやろうかと計画しているという。

家に併設された倉庫を改造して、拓也さんの仕事場にしている。中では干し柿をつくっていた(筆者撮影)

家に併設された倉庫を改造して、拓也さんの仕事場にしている。中では干し柿をつくっていた(筆者撮影)

川端さん夫妻は、自治会に入り、地域のお祭りや定期的に地域で行う草刈りなどに参加して、地域の人たちとの交流を深めている。自宅の庭で畑をやり始めると、近隣の農家の人たちが寄ってたかって、何をどう育てたらよいかなど助言をしてくれる。川端さんのほうでも、訪ねてくるお年寄りに、スマホの使い方を教えたり車を出したりしている。地域の人たちとは、持ちつ持たれつの関係なのだ。

いま亜希さんは妊娠中だ。今住みたいと移住した島だが、子どもが生まれた後も住み続けたい場所であってほしいと考えている。そこで、川端さん夫妻は移住者たちのネットワークを使って、地域イベントなどを積極的に開いている。例えば、ソーメン屋をたたんだ人から中力粉がたくさんあると聞いて、それを使った「うどんを食べる会」を開いたり、音楽の演奏ができる人を集めて「小さな音楽会」を開いたりして、地域の住民とのつながりを強めているのだ。

島暮らしは不便だらけ、それでも移住する魅力は?

田中さんも川端さんも、島暮らしは不便なことだらけだと口をそろえる。最も不便だと思うのは「島に病院がないこと」というのも、同じ意見だ。島の診療所に週4日、小豆島から医療スタッフが来るが、夜間診療など緊急時に困るという。ただしそれ以外は何とかなる、というのも同じ意見だ。

田中さんは「島への移住は憧れだけではできません。不便だけど、不便を楽しめる人でないと」と、川端さんは「不便だらけだけど、困るほど知恵が沸く。なければつくればよいんです」と。どうやら、豊島の移住者にはこうしたツワモノが多いようだ。

では、島暮らしの魅力は何か? 田中さんは地域の人たちとのつながりのなかで、念願だったコーヒー焙煎の仕事に就けた。店ごとにコーヒーの焙煎を変えるなどしているが、「檀山」や「硯(黄昏)」「硯(彼誰=かわたれ)」などの豊島にちなんだ名前を付けることも多く、パッケージやラベルも手づくりで用意している。以前のレストランとは繁忙期に副業として働くなど、その関係は今も続いている。

ショップ「ナミノミ」で販売されている、田中さんが焙煎したコーヒー。豊島は、瀬戸内国際芸術祭の主要な島でもあるので、芸術祭会期中はもちろん、会期外でも観光客が多く訪れる(筆者撮影)

ショップ「ナミノミ」で販売されている、田中さんが焙煎したコーヒー。豊島は、瀬戸内国際芸術祭の主要な島でもあるので、芸術祭会期中はもちろん、会期外でも観光客が多く訪れる(筆者撮影)

島暮らしの魅力について、亜希さんは「家族感」を挙げた。小さな集落だけに、住民はみな顔見知りだ。緩やかに大きな家族としてつながっているのが心地よいという。逆に「プライバシーを損なわれるのではないか」が気になったが、家族なら生活ぶりを見られても恥ずかしく思わないというので、なるほどと納得した。

そういえば、取材で川端さんの家を訪れたその場に、うわさの植松さんが近所の漁師さんが釣った魚のおすそ分けだとやってきたり、取材中にうどんの会の中力粉を提供した住民が亜希さんに子どもの産着を持ってきたりしていた。川端さんを紹介してくれた安岐さんも、灯油の配達の際に亜希さんが好きなパンを持ってきてくれたりするという。取材時間は1~2時間のことだったので、いかに頻繁に住民との行き来があるかが分かる。

一方、拓也さんは、「東京での生活には手を加えるところがなかったが、豊島での暮らしには余白があるのが楽しい」と言う。移住してきた自分たちでも、集落がよりよくなるためにできることがある。だからこそ、積極的に地域住民と交流するためのイベントを開き、お祭りなどの地域の伝統を継承しようとしているわけだ。

移住者たちは、植松さんの指導の下で棚田で米をつくっている(筆者撮影)

移住者たちは、植松さんの指導の下で棚田で米をつくっている(筆者撮影)

空き家はあるけど、買ったり借りたりできない!?

土庄町(とのしょうちょう)は、香川県の町で、瀬戸内海で2番目に大きい島である小豆島の西北部(小豆島のそれ以外は小豆島町)と豊島で構成される。土庄町は移住に力を入れており、小豆2町(土庄町・小豆島町)で「小豆島移住・交流推進協議会」を運営し、NPO法人Totie(トティエ)と連携してさまざまな移住者の受け入れ支援を行っている。「空き家バンク」や空き家リフォームの補助金なども用意している。川端さんも補助金を利用して、改修費用の一部に充てた。

ただし、空き家バンクは小豆島の物件が多く、豊島の物件はほとんど出てこない。だから、田中さんも川端さんも、家探しに苦労した。もちろん、豊島に空き家がないわけではない。島を歩けば多くの空き家に遭遇する。それでも、買ったり借りたりする家が見つからないということに、筆者はとても驚いた。

空き家はあっても、先祖代々の家を売ったり貸したりしたくないといった所有者自身の意向もあれば、所有者本人が同意したとしても、親戚筋への確認や近所の人たちとの調整などで先に進めない場合も多い。川端さんが最初に契約しようとしていた家も、それが原因で白紙になった。

だからこそ川端さんは、豊島に移住者を増やすために、「空き家を移住者に提供できるような取り組み」(家を探しやすければ移住しやすい)と「地元の人と仲良くなる取り組み」(地元に受け入れられ楽しく過ごせれば移住しやすい)を行っている。空き家を掃除しますと声をかけて所有者を探したりしているが、家の所有者が島外に出てしまい、連絡先が分からない場合も多いという。そうしたときに、地域の事情に精通した植松さんのような人がいてくれることが、とても助かるのだという。

田中さん・川端さんたちが住む甲生地区の穏やかな集落。男木島(おぎじま)が大きく見える(筆者撮影)

田中さん・川端さんたちが住む甲生地区の穏やかな集落。男木島(おぎじま)が大きく見える(筆者撮影)

甲生地区の海岸「ドンドロ浜」。大きなベンチは瀬戸内国際芸術祭の作品「海を夢見る人々の場所」(筆者撮影)

甲生地区の海岸「ドンドロ浜」。大きなベンチは瀬戸内国際芸術祭の作品「海を夢見る人々の場所」(筆者撮影)

移住者の熱意と地元のお節介さんがカギ!?

こうして豊島に移住してきた人の話をうかがって、思ったことがある。島への移住が成功するかどうかは、まずは移住者側の熱意だ。島の暮らしや時間の流れ方に溶け込み、伝統の継承を担うといった気構えも必要だ。加えて、植松さんや安岐さんのような、移住者と地域住民の間を取り持つ“お節介焼き”の存在が欠かせない。

地域住民のなかには、よそ者を嫌う人もいるだろうし、本気で定住するかどうか疑う人もいるだろう。ある意味でお節介なキーマンが間に入って取り持ってくれることで、移住者が島の生活になじみ、それを楽しんでいることが分かって多くの地域住民が歓迎するようになり、持ちつ持たれつの関係になる、というように輪が広がっていくのだろう。

島には70代・80代のお年寄りが多く、人口は減少を続けている。子どもは少なく、小・中学校はあるが、中学校は2016年に小学校に併設となり、今は校舎が空いている。一方で、豊島に移住してきた人たちに子どもが誕生し、自分の子どもに同級生が欲しいと思っている移住者も多いという。こうした移住者のネットワークが、新しい移住者を受け入れる体制を整備し、さらに大きな輪を広げようとしている。

自然豊かな景観や暖かい人との交流は変わってほしくないが、子どもの声がどこにでも聞こえる島になってほしいと思う。

山形住みます芸人・ソラシド本坊元児さん「東京の8年間は罰ゲームみたいだった」。都会を捨て、農業や”まともな生活”で得た充足感

吉本興業の芸人さんが全国47都道府県に暮らす「あなたの街に”住みます”プロジェクト」。お笑いコンビ「ソラシド」の本坊元児さんは、指名を受けて2018年に山形県へ移住、テレビやラジオ出演のかたわら農業を営んでいます。本坊さんのように地方へ移住をしてみたいと願う人も最近は増えていますが、不安や迷いも多くて足踏みしてしまうことも。そんな迷える人に向けて教えてください。本坊さん、移住について本当のところはどう思っているんですか?

手探りで始めた農業は、ご近所の人から教わった

現在山形市内に居住しながら、西川町にある畑や竹林、平屋の古民家を借りて通いで農業に勤しむ本坊さん。日本テレビのTV番組「人生が変わる1分間の深イイ話」では、本坊さんの暮らしぶりに密着するコーナーもあり、注目をされています。実際に目にしたことがある人もいるのでは?芸人仲間で仲良しの「麒麟」川島明さんも、本坊さんの山形暮らしについて、メディアでたびたび話しています。2022年4月には、山形暮らしのことを綴った『脱・東京芸人 都会を捨てて見えてきたもの』(大和書房)を上梓しました。

山形での暮らしぶりを赤裸々に綴った、本坊さん二冊目の著書(画像提供/大和書房)

山形での暮らしぶりを赤裸々に綴った、本坊さん二冊目の著書(画像提供/大和書房)

それにしても、芸人さんが農業? 一体どんな生活をしているのでしょうか。私たちは東京から飛行機で1時間、さらに車に乗り換えて1時間ほどかけて、西川町に到着しました。

本坊さんの畑がある場所は、山々に囲まれた自然豊かな環境(写真撮影/土田 貴文)

本坊さんの畑がある場所は、山々に囲まれた自然豊かな環境(写真撮影/土田 貴文)

広大な畑をせっせと行き来する本坊さん。「こんにちは」と近くに行くと、10月上旬のこの日は大根の葉の間引きや、里芋の収穫作業をしていました。

大根の葉の間引き作業をする本坊さん(写真撮影/土田 貴文)

大根の葉の間引き作業をする本坊さん(写真撮影/土田 貴文)

(写真撮影/土田 貴文)

(写真撮影/土田 貴文)

作付けをしている畑は約400平米ほどの広さ。ここでは現在里芋、大根のほか、玉ねぎやジャンボニンニクなど1シーズンで8種類近くの農産物を育てています。

「実は、里芋の収穫は作付けしてから初めての作業なんですよね、一体どうやるのかなあ」と笑いながら手探りの作業が続きます。

ドキドキしながら里芋収穫の作業をする(写真撮影/土田 貴文)

ドキドキしながら里芋収穫の作業をする(写真撮影/土田 貴文)

掘り起こした根元を見てみると、たっぷり里芋が!(写真撮影/土田 貴文)

掘り起こした根元を見てみると、たっぷり里芋が!(写真撮影/土田 貴文)

「農作物の育て方も、農機具を使うことも、ここにきて初めて知ったこと。何も知らないことばかりで、試行錯誤です。あまりに何もわからないから、ご近所の人たちや、地主であるシゲルさんから教えてもらいながら育ててきましたよ」(本坊さん)

本坊さんの農業の先生、地主のシゲルさんとの出会いは、2020年のコロナ禍、趣味である沖縄三線を通じてだったそう。

家主シゲルさんとの共通の趣味、沖縄三線を楽しむ(画像提供/吉本興業株式会社)

家主シゲルさんとの共通の趣味、沖縄三線を楽しむ(画像提供/吉本興業株式会社)

「それまでは少しずつメディアの仕事が増えていってたのが、コロナになって全てパー。アルバイトすらままならなくなったんですよ。そこで、以前から思っていた”何かやりたい、ここでしかできないことをしたい”を実行に移す時だと、農業を始めることに。そのタイミングでシゲルさんとSNSを通じて知り合い、空き家になっていた古民家と竹林、畑を月100円で借りられることになったんです」(本坊さん)

借りている平屋には、家主シゲルさん一家の生活の名残が感じられます(写真撮影/土田 貴文)

借りている平屋には、家主シゲルさん一家の生活の名残が感じられます(写真撮影/土田 貴文)

右も左もわからない状態で始まった山形暮らしですが、現在は毎日が大忙し。作った農作物を道の駅などで販売するほか、今年は近隣の食品会社から400本の大根の注文を受けたのだとか。「社長が、『本坊くんの作っている大根をうちで買わせてくれないか』って言ってくれて。大根を使って、漬物を作ってくれるんですって。ありがたいですよね。だから期待に応えられるようにしっかり作らないと、と思っているんです」(本坊さん)

農作物の生産や販売だけではありません。この日は取材の前に、西川町の名産品であるさるなし・こくわの商品PRショーを行っていたそう。農業を経験したことで、農産物のPRや商品開発にも携わることへと広がり、本気で農業と向き合っているそうです。
一方芸人としての仕事に始まり、東北地方でのメディア出演も増えているとのこと。現在テレビ6本、ラジオ2本へのレギュラー出演と2本の連載、そのほか講演活動にも勤しんでいます。「先日は小学校から講演依頼があったんですけど、テーマが『SDGs』で依頼をもらって。むずいテーマだなって思いながらも、17のテーマの中から農業とゲームで結びつけて話しました。こういう形で、芸人と農業が生きています」(本坊さん)

東京にいることが苦しくて、移住を決意

今でこそ多忙な毎日を送っている本坊さんですが、「それまで僕は20年間、今よりもずっと売れてなくて、月に5日も芸人の仕事があればいいほうでした」と話します。
「それ以外の時間は、日雇いの工事現場での仕事をしていたわけで。明日の予定さえよくわからない毎日だったんです。でも、おかげさまで今はやりたいこと、やらなくてはならないことが常にタスクとしてたまっている日々。そんな日々を走っているってことが嬉しいですね。忙しいことは、暇なことよりもストレスにならないです」(本坊さん)

東京時代のことを振り返る本坊さん(写真撮影/土田 貴文)

東京時代のことを振り返る本坊さん(写真撮影/土田 貴文)

会社からの指令で山形へ移住することに抵抗はなかったのでしょうか。

「そりゃあ、抵抗はありましたよ。2011年にも一度移住の話を持ちかけられたんですが、その時は断っています。だって僕らは芸人になりたくて吉本に入っているんであって、地方を目指したいわけではない。大都会のてっぺんで頑張りたいって思うわけです。その時は即答で断りました」(本坊さん)

その後東京で芸人活動を続けますが、次第に本坊さんは都会での暮らしに疲弊していったのだと振り返ります。

イチから始めた山形の生活も、四の五の言わずに淡々と楽しんでいる(写真撮影/土田 貴文)

イチから始めた山形の生活も、四の五の言わずに淡々と楽しんでいる(写真撮影/土田 貴文)

「とにかくバイト生活から脱したかった。ほとんどずっと工事現場で働いていて、『この生活は何の罰ゲーム?東京におる意味ってあるんか?』と思いながら過ごしていました。僕にとっての暗黒の8年間。仕事も辛かったけれど、それ以上に人や街の空気に酔ってしまい疲れていたんだと思います。年齢も30過ぎてて、住めるわけでもない大都会の真ん中へ、仕事のためだけに毎日電車に揺られて通う。しんどい以外の何ものでもなかった。そう思っている大人、他にもいるんちゃうかな。だから2回目の移住指令に応じたのは、正直なところ都会の苦しさから逃げたくてラクを選んだところもありました」(本坊さん)

移住をするからって、ずっと住むわけではない

移住してから初めのころは仕事を介した地元の人との付き合いが中心だった本坊さん。その後「芸人じゃない友人」である宅配便配達員・ジンくんとの出会いがきっかけで、仕事以外の地元の友達がたくさんできたといいます。

仲良しの友達ジンくん一家と、馬場園梓さんとの一コマ(画像提供/吉本興業株式会社)

仲良しの友達ジンくん一家と、馬場園梓さんとの一コマ(画像提供/吉本興業株式会社)

「芸人じゃない人たちの生活がとにかく新鮮でしたね。起きて布団を干して、洗濯をする。きちんと靴もそろえられていて、献立表とかが冷蔵庫に貼ってあるんですよ! 何もかもがまともな生活。ああ!こういう生活が普通の生活なんやって、40年近く生きてきて今さら知ったという。遅いんだけど(笑)。そのことがいちいち面白かったです」(本坊さん)

山形の人にとって当たり前の風景や気候も、本坊さんには何もかもが新鮮だったという(写真撮影/土田 貴文)

山形の人にとって当たり前の風景や気候も、本坊さんには何もかもが新鮮だったという(写真撮影/土田 貴文)

休みの日ともなれば友人たちと釣りへ行き、麻雀をし、食事を共にしては時には友人宅に寝泊まりするほど本坊さんは山形の暮らしに馴染んでいきます。これほどに仲良くなれるって珍しいのではないでしょうか。

「”地元を盛り上げたくて”みたいな、なんかうわついたこと言って構えて移住してきても、”あんた何言ってんの?”みたいに思うじゃないですか。大そうなことをしようとなんて思っていないし、正直に嘘をつかないで過ごすことが大事だと思うんです」(本坊さん)
本坊さんが徐々に人脈を広げて、そして仕事へと広がりを見せていったのは、無理な姿をつくらないこと、そして高すぎる志を掲げなかったことが多くの人との距離感を縮めていたのかもしれません。

この地区では一番若いという本坊さん。元気な年長者たちに助けてもらいながら、過ごしているそう(写真撮影/土田 貴文)

この地区では一番若いという本坊さん。元気な年長者たちに助けてもらいながら、過ごしているそう(写真撮影/土田 貴文)

「だから移住の理由も本音を話すんです。本当は”山形に来たくて、移住しました”っていう方がみんな喜ぶでしょうし、それを期待しているんでしょうけれど。”住みます芸人で指名されたから来ました”が僕の本音。嘘は言わない。でも、住むからにはその土地で文句を言わずにできることを一生懸命やる。これが僕のできることです」(本坊さん)
これだけ仲の良い人間関係が出来上がると定住しそうにも思えますが……。

「でもね、住んでる家は賃貸ですしね。一生家を買わない方向を考えているから、またどこかに引越すことになるかもしれません。その時になってみないとわからない。今は今で楽しいけれど、先はもしかしたらまたどこかに移住するかもしれない。そういう話をすると、山形の人たち寂しそうな顔するんですけどね。移住したからといって、移住先に一生住み続けなければならない。ってことはないんですよね」(本坊さん)

迷っている人がいたら、自分が斜に構えないこと

「移住をしたら、ずっと住み続けなければならないってことはない」ーーその一言にハッと目を覚まさせられた気持ちになります。なぜならば、移住を願う人たちの多くは、その土地に住むならば「失敗したらどうしよう・人間関係がうまくいかなかったらどうしよう」と、先々ずっと続く心配をしがちだからです。移住を先に経験している本坊さんは、そこをさらに突いてきます。

「いや、不思議に思うんですけど……。皆なんでそんなにトラブルがありき前提で家や土地探しに行くんですかね。確かに隣の人たちの顔が見えないっていう状況が怖いのはわかるんですけれど。でも正直、自意識過剰な気がします。相手にだって相手の生活があり、彼らにとっても知らない人が移住してくるのは不安や未知がある。見えない情報に翻弄されず、斜に構えないで、目の前の人たちのことをしっかり見ることが大事なんじゃないですかね」(本坊さん)

工事現場での作業経験を活かしながら、廃材を利用してDIYでつくった農作業庫(写真撮影/土田 貴文)

工事現場での作業経験を活かしながら、廃材を利用してDIYでつくった農作業庫(写真撮影/土田 貴文)

確かにその通りですね。自分のことばかりではなく、相手の立場に立って考えることで、不安や心配は和らぐのかもしれません。誰だって未知なる世界に不安が膨らむのは当然のことなのですから。

「僕も移住前に、空き家バンクなんかをネットで調べたりしました。今は手軽に情報が調べられるけれど、こと移住となると、ネットはやっぱり嫌なことしか情報として出てこないんですよ。でもそれを自分の実生活に当てはめてみると、ネットに上がっている情報が全てではなくて。鵜呑みにしない方がいいなって思いますね。半分ゴシップだと思えばいいんです」と語る本坊さん。

移住に対しても一歩俯瞰的に見ているところに芸人さんらしさを感じます(写真撮影/土田 貴文)

移住に対しても一歩俯瞰的に見ているところに芸人さんらしさを感じます(写真撮影/土田 貴文)

本坊さんがおっしゃるように、SNSやインターネットでの情報が手軽に入るようになったからこそ、不安の面積が広がっているというのはあるのかもしれません。

「だって、世の中には嫌な奴もいるし、一方ではいい人もたくさんいる。それは東京でも山形でも同じでしょう? だからパソコンやスマホを指先だけでいじって調べてないで、嫌なことも楽しいことも変化を面白がる。そのくらいの気持ちを持って、体ごとぶつかっていけば、“住めば都”になるかもしれないですね」(本坊さん)

実直な気持ちで、いいも悪いも変化として面白がる。そして失敗したと思っても引き返せばいいし、移住した先に住み続けることが必須ではない。その気持ちと行動が、移住を実現するには何よりも大切なのかもしれません。

東京から遊びに来てくれた「おかずクラブ」と大根の収穫作業を楽しむ(画像提供/吉本興業株式会社)

東京から遊びに来てくれた「おかずクラブ」と大根の収穫作業を楽しむ(画像提供/吉本興業株式会社)

「本音を言うとまた東京にいる芸人さんたちと一緒に仕事をしたいですよ、特に昔の仲間たちと」とぽつりと語してくれた本坊さん。しかし「東京の暮らしをまたしたいとは思わない、なんだかんだ楽しんでいるんだと思う」とも続けてくれました。

最近は芸人仲間も、本坊さんの山形暮らしにとっても興味を持っている様子。実際に「天津」の木村卓寛さんや、「おかずクラブ」の二人などが、遊びに来てくれたそうです。東野幸治さんはなんと地方移住に興味を持っているのだとか。こうして芸人さんにも、山形や移住のことを自分ごととして感じてもらい、更には街の人たちとの交流が増えるという流れをつくること。それが本坊さんにとってのこれからやりたいことだそう。ますます関係人口が広がっていきそうで、とても楽しみですね。

泥臭く大変な作業ですが、楽しそうに話す姿が印象的でした(写真撮影/土田 貴文)

泥臭く大変な作業ですが、楽しそうに話す姿が印象的でした(写真撮影/土田 貴文)

●取材協力
・吉本興業株式会社
・よしもと住みます芸人
・ソラシド
・本坊元児

“まち医者”のようなデザイナーでありたい。長崎県五島へUターン、9割は島内の仕事を。「草草社」有川智子さんの、懐かしくも新しい働き方 

今でこそ“デザイン”の重要性は全国に浸透しつつあるけれど、10年前はまだ「デザインにお金を払う」感覚は、地方では一般的ではなかった。有川智子さんが、当時働いていた大阪から、生まれ育った長崎県五島に戻ったのはそんな時期だ。

有川さんは島の水産加工品や農産物、お酒や食品などのロゴやポスター、パッケージなどのデザインを手掛ける。仕事以外でも子どもを預ける学童施設を地域の人たちとつくり、自宅の横で一棟貸しの宿「菜を」も始めた。彼女の仕事と暮らしは溶け合うようにつながっていて、家族や周囲の人々とともに暮らしを育てている。まさにつみあげていく、暮らしだった。

「まちのかかりつけ医」のようなデザイナーでありたい

長崎港から五島の福江港まで高速船ジェットフォイルで1時間半。わずか1時間半だが、青い波と空しか見えない船からの眺めが続き、遠くへ来た感がある。

(写真撮影/松本治樹)

(写真撮影/松本治樹)

有川さんは約10年前の2011年、子どもと母親の和子さんとともに生まれ故郷の五島へ帰ってきた。

そこで始めたのがデザインの仕事。島の一次産業や加工品などの商品パッケージやロゴのデザイン、名刺、パンフレットなどをつくる。有川さんは、大学院卒業後、大阪で大手のハウスメーカーに勤め、ライフスタイル研究を行う「生活研究所」という部署に所属。デザインの仕事は初めてだったが、大学時代に学んでいたこともあり、好きなことでもあった。

「当時はまだ、五島のお土産品は、墨文字でばーんと『五島』!と入ったようなデザインのものが多くて。自分や同世代の人たちが欲しいと思える商品のパッケージや、紹介したい場所のマップやパンフレットなどをつくれたらいいなと思ったんです。見た人が買ってくれたり、島に遊びに来てくれたりするかもしれない。少しは島の役に立てるかなって」

草草社の有川智子さん。自宅の一角にある仕事場で(写真撮影/松本治樹)

草草社の有川智子さん。自宅の一角にある仕事場で(写真撮影/松本治樹)

「草草社」という名のデザイン事務所を立ち上げる。
それにしても、島にそれほどデザインの仕事はあったのだろうか。

「それが意外とあるんですよ。五島には水産業や農業、観光系の企業が多くて、パッケージやロゴのデザインが主ですが、細かなものだとポップの表記をmlからgに変えるとか、パッケージをビニール袋から紙に替えなきゃいけないとか、小さな仕事もたくさんあります。頼まれたことは基本断らないので、小さな仕事をコツコツ。一度デザインして終わりではなくて、長いところとはずーっとお付き合いが続きます」

「まちのかかりつけ医」のようなデザイナーになりたい。有川さんはそう思ってきたという。専門医も必要だけれど、まずは困ったら身近に駆け込んで相談できる、まち医者的なデザイナー。そう思って仕事をしていると、依頼は不思議と絶えなかった。

10年経った今も、9割は島内の仕事をしている。

「自分の半径数キロ圏内に暮らす、身近な人たちの役に立てたらいいなと思って、今の仕事をしています」

周りの人たちを幸せにできたら、最終的には自分にも還ってくる。
そう教えられたようだった。

地元にいなければできない仕事をする

以前、有川さんを訪ねたとき、「今朝急に連絡があって、かつおの生節をつくる工房へ撮影へ行くので、一緒に行かないか」と誘ってもらったことがあった。ついていった先は、昔ながらの直火原木燻し焼きでかつおの燻製をつくる工房。一つひとつ手でさばいた魚が、古い窯の中で原木と直火によりじっくりいぶされている最中だった。

(写真提供/草草社)

(写真提供/草草社)

(写真提供/草草社)

(写真提供/草草社)

地元の若手カメラマン松本さんが熱心に撮影する横で、有川さんは若社長らしき人にパッケージの提案をしている。とつとつと、こちらがいいのではと、デザインしたパッケージをお勧めしているのだけれど、決して強く主張はしない。少し話しては相手の出方を待つような話しぶりだった。

都会の感覚の“デザイン”が、必ずしも通用する相手ばかりではないことが想像できた。

でもそんな相手が、今までは印刷屋などが請け負ってくれるデザインは何度も直してもらっていたのに「有川さんに頼むようになってから、一発でこれというものが出てくる」と話していた。

それでも、初めは「デザイン」にお金を払ってもらうのが難しかったという。
そもそも島では印刷屋や包材屋のインハウスデザイナーがパッケージデザインまで手掛けることが多い。

「でも実際にモノができて、ちゃんと背景や思いまで踏まえてデザインされたものと、そうでないものの違いが見える形になると、島の人たちにも、ああデザインってものが必要なんだなと思ってもらえるようになって。パッケージ次第で新しい人の目にとまったり、選ばれる商品になる。そう少しずつ理解してくれるようになったのだと思います」

地元にいなければできないような仕事の仕方をする。

「五島の名物、かんころもち(サツマイモともち米でつくる五島の名物菓子)のパンフレットをつくった時は、サツマイモを植えて、収穫して、干して、かんころもちになるまでの過程を取材しました。島外のデザイナーさんに頼めば、1年がかりの仕事で何度も島に来るのにすごくコストがかかる。『今朝、魚があがったから今日来られる?』と電話があって5分で駆けつけられるのも、近くに居るからできることだなって」

長崎県五島列島・福江島の和菓子店「ル・モンド風月」のかんころもちのパンフレット。(写真提供/草草社)

長崎県五島列島・福江島の和菓子店「ル・モンド風月」のかんころもちのパンフレット。(写真提供/草草社)

仕事のヒエラルキーよりも大事なこと

独りよがりにデザインを重視するのではなく、取引先に寄り添いあくまで「売れるもの」を目指す。相手は常に目の前にいるわけで、売れないものをつくっても逃げることのできない厳しい仕事だとも言える。

オーガニックで緑茶を生産してきた(有)グリーンティ五島からは、新商品のレモングラスティのパッケージデザインを依頼された。

「まだうまくいくかわからない新商品に大きなコストはかけられないので、パッケージの袋は既存の同じものでも、ラベルだけフレーバーごとに色を変えて貼れば見栄えのするようにしました。檸檬草と漢字の表記にして、海外の漢字圏の人にもぱっと伝わるように」(有川さん)

(有)グリーンティ五島の「檸檬草」のシリーズ(写真撮影/松本治樹)

(有)グリーンティ五島の「檸檬草」のシリーズ(写真撮影/松本治樹)

このデザインが好評で注文は増え、発売から1年で各種を2000枚ずつ増刷し、その後も徐々に増えている。(有)グリーンティ五島の川渕義徳(かわふち・よしのり)さんはこう話す。

「有川さんにデザインしてもらったパッケージはバイヤーさんが持ち帰ると、女性の反応がよかったからとすぐに注文が決まっていくんです。法人向けにパッケージしない、量の多い取引を狙った商品だとしても、選ばれるためには、誰かがどこかで見つけてくれることが大事。その機会を得るために、やはりパッケージは大事です」

反応がいい時、地元の業者さんたちは電話をかけてきて「新しいデザイン、好評だよ」とか「大口の注文が入った」といった報告を逐一してくれる。いいも悪いも共有しながら、周囲の人たちに伴走する。役に立っているのを実感できるのが何より嬉しいと有川さんは言う。

仕事では依頼主の畑へ出向くことも多い。(有)グリーンティ五島のレモングラス畑(写真撮影/松本治樹)

仕事では依頼主の畑へ出向くことも多い。(有)グリーンティ五島のレモングラス畑(写真撮影/松本治樹)

仕事には目に見えないヒエラルキーのようなものがあると思う。より大きな仕事、お金が動く仕事、著名な人や会社が関わる仕事。社会的に「値打ちのある」とされるものさしがあって、その大きさにやりがいや喜びを感じる人も多い。

デザインの仕事に携わる人なら、賞やアワードなど、世間的な評価を気にする目もあるだろう。実際に有川さんの手がけた仕事も、長崎デザインアワードで大賞を受賞するなど評価され始めている。田尾フラットの「あまざけ」のパッケージデザインを手がけた際には、2019年の長崎デザインアワードで大賞を受賞した。だが有川さんは、そうした“都市部の人の目にとまる”ことより、地元の人に喜んでもらう方が嬉しいという。

福江教会の外壁の改修に伴い、9つのモチーフで壁面の石版のレリーフをデザインした。9つの図案を載せたカード(写真提供/草草社)

福江教会の外壁の改修に伴い、9つのモチーフで壁面の石版のレリーフをデザインした。9つの図案を載せたカード(写真提供/草草社)

「島で私に仕事をくれる人たちは、売りたいものがはっきりしているんです。ふわっとイメージを売っているわけじゃなくて、モノがある。売るために考えるから、デザインの仕事の足腰がしっかりする。そんな具体的なものづくりの積み重ねでしか土地の魅力ってつくれないと思うんです」

山や海などの大自然と、汗水垂らして働いた人たちの手から生まれるリアルなモノ。それを、若い人たちにも手に取ってもらえるように変換して伝えること。そこに醍醐味がある。

「五島には何百年という歴史の土台があって、その上に今がある。デザインする上でその歴史をもう一度汲みませんかと話すことはあります。遣唐使や椿、キリスト教など、五島の文化の象徴的なものにもう一度目を向ける。それがほかの土地にはない強みになると思うんです」

(写真撮影/松本治樹)

(写真撮影/松本治樹)

家族の居場所、暮らす環境を整えていく

五島へ戻って、積み上げてきたのはデザインの仕事だけではなかった。

2013年、有川さんはお母さんの和子さんとともに、本山エリアの自宅のそばに「コミュニティカフェ・ソトノマ(外の間)」という食堂を開く。もとは酒屋だった建物で、小学校の目の前。有川さん自身が子どものころは、文房具や生活雑貨も置いてある地区の大事なお店だった。

ソトノマは和子さんが手がける地元の野菜と愛情たっぷりの食事、居心地のよさが多くの人を惹きつけ、島へやってくる若い人たちや移住者、子育て中の女性が集まる場所になっていった。この店があったから五島へ移住したという人もいる。

コミュニティカフェ・ソトノマ。木で囲まれた雰囲気で、あたたかみがあって居心地がいい。食堂としてだけでなく、島の野菜を販売していたり、靴を脱いでくつろげる畳のスペースもあり、子どもたちが遊べるおもちゃ、漫画や本も並ぶ(写真撮影/松本治樹)

コミュニティカフェ・ソトノマ。木で囲まれた雰囲気で、あたたみがあって居心地がいい。食堂としてだけでなく、島の野菜を販売していたり、靴を脱いでくつろげる畳のスペースもあり、子どもたちが遊べるおもちゃ、漫画や本も並ぶ(写真撮影/松本治樹)

さらに、ソトノマから歩いて数百メートルの場所には「おうとうのいえ」と呼ばれる学童施設を有志とともに立ち上げた。2019年、地区の公民館長だった方や、移住者、子どものお母さんなどご近所さんを中心に10名ほどで集いNPO法人を設立。有川さん自身も積極的に協力した。

「おうとうの家」の中。子どもたちは自由に遊んだり勉強したりしている(写真撮影/松本治樹)

「おうとうの家」の中。子どもたちは自由に遊んだり勉強したりしている(写真撮影/松本治樹)

放課後、おうとうのいえの理事長である桑田隆介さんが「おうとうの家」へ案内してくれた。
子どもたちが伸び伸びと走りまわり、本を読んだり、宿題をしたりしている。女の子たちが「くわっちゃーん、見てみて~」と楽しそうに走り寄ってくる。

「働く親御さんも多いなかで、このエリアには学童がなくて、バスで隣の区の学童まで通っていた子が多かったんです。いまここへ来る子は小学校1年生から4年生くらいまでの22~23人。学校が終わるとすぐそこの小学校から歩いてきて、遅いときは19時くらいまで、地元のスタッフの皆さんが交代でみてくれています」(桑田さん)

「おうとうのいえ」。奥には桑田さんが運営する賃貸住宅「本山ヒルズ」(写真撮影/松本治樹)

「おうとうのいえ」。奥には桑田さんが運営する賃貸住宅「本山ヒルズ」(写真撮影/松本治樹)

有川さんの二人の子どもも、今は中学生と小学4年生になるが、低学年のころはこの学童に通い、有川さん自身仕事をする上でずいぶん助かったのだという。

桑田さんもソトノマカフェがきっかけで五島へ移住した一人。今は学童のすぐ隣に建つ移住者向けの賃貸住宅「本山ヒルズ」を運営するほか、ソトノマの店主を和子さんから引き継ぎお店の店主に。

「五島へ移住したい人は増えていますが、島には住むところが少ないんです。子育て世代がすぐに住めるよう、賃貸住宅を用意して、すぐそばに小学校もあって、学童もある。そんな環境を用意したかったんです。ありがたいことにもうずっと、空きがない状態です」

桑田さんは、港近くに「hotel sou」も運営していて、谷尻誠氏が設計したことで話題になり人気のホテルになっている。

そうして有川さんの周りには多くの人が出入りしながら、カフェや学童、住宅が整い、本山は新たに人を呼ぶ入り口になっている。彼女はずっとその中心にいた。

宿を始めたのも十年以上前から考えていたことの一つ

さらに今年の夏。有川さんは自宅横の古民家を改修し、一棟貸しの宿「菜を」を始めた。

有川さんの自宅横にあった古民家を改修して始めた宿「菜を」(写真撮影/松本治樹)

有川さんの自宅横にあった古民家を改修して始めた宿「菜を」(写真撮影/松本治樹)

部屋へ入ると、大きな窓からすっと風が通る。障子を通して部屋全体に染み渡るように入る光。天井が高く広い居間には、大きなテーブルやソファ、薪ストーブも。五島へ観光客が訪れるのは夏のみのイメージだが、冬も薪割りなどしながらゆっくりした時間の流れを感じられる滞在を楽しめるようにしたいと考えている。

宿の室内。リビング(撮影提供/草草社・撮影:繁延あづさ)

宿の室内。リビング(撮影提供/草草社・撮影:繁延あづさ)

宿の室内。寝室(写真撮影/松本治樹)

宿の室内。寝室(写真撮影/松本治樹)

居室と反対側にはカウンターの設置された空間があり、ゆくゆくはここで日用品を置くグロサリーストアも始めようと考えている。だから「菜を」の名前は「野菜」そのものや、ここへ泊まる人たちが畑で野菜を育てたり調理するなど「菜をどうする?」の問いかけでもある。

グロサリーストアを始めたいと考えているスペース、宿の一角(撮影提供/草草社・撮影:繁延あづさ)

グロサリーストアを始めたいと考えているスペース、宿の一角(撮影提供/草草社・撮影:繁延あづさ)

仕事も子育ても暮らしも。少しずつ環境を整えて、みごとに暮らしが積み上がってきている感じですね、と告げると、こっそり一冊のノートを見せてくれた。
表紙に「出店日誌」とある。

「出店日誌」と書かれた一冊のノート。1ページ目の日付は2008年(撮影/筆者)

「出店日誌」と書かれた一冊のノート。1ページ目の日付は2008年(撮影/筆者)

中は、有川さんが将来実現したいことを書き連ねた日記のようなもので、出したいお店のイメージやカフェにどんな珈琲を置くかなど細かいことがメモしてある。1ページ目の日付は、14年前の2008年。カフェ、子どもを育てる場所、宿、お店、家を整えること……と有川さんが実現してきたことの多くは、彼女が何年も前から妄想し、日記に描いてきたことだった。

「タイミングがまだのものもありますが。宿を始めたのも、デザイナーとして現役でいられる年齢には限界があると思って。宿を一つの生業にできたらと考えたのと、歳を取ってもいろんな方が遊びに来てくれたら嬉しいじゃないですか。学童にしても、自分の子どもが巣立って少し余裕ができたときに、よその子どもさんをみることができたらと思ったんです。結局全部、自分のためなんです」と言って笑う。

十年かけて少しずつ整えてきた暮らしは、有川さんが望む形に少しずつ近づいている。
これから先の十年は、庭を育てたいという。宿からの眺めがますます素敵なものになるだろう。

望む暮らしを時間をかけて積み上げていく。それ以上に大切なことはないと気付かされるようだった。

(写真撮影/松本治樹)

(写真撮影/松本治樹)

●取材協力
草草社

都市ではデザイナー、地方ではカフェ・宿オーナー。2つの人生を生きるという選択 「山ノ家」新潟県十日町市

空間のデザイン、状況と場のデザインを手掛けるデザインユニット「gift_」が、2012年に越後妻有(読み:えちごつまり 新潟県南部の十日町市、津南町の妻有郷と呼ばれる地域)につくった「山ノ家」は、空き家になった一軒家を1階はカフェ、2階をドミトリー(宿屋)にリノベーションしたもの。月半分ずつ東京と「山ノ家」で過ごしてきた「gift_」の後藤寿和さんと池田史子さんは、都心と田舎、それぞれになりわいを持ち、人々の交流を促す場づくりを行ってきました。「山ノ家」をオープンしてから10年。2拠点との関わり方を池田さんに伺いました。

1階にある「移民たちのカフェ」(画像提供/山ノ家)

1階にある「移民たちのカフェ」(画像提供/山ノ家)

都市と地方、「ダブルローカル」にそれぞれ別のなりわいを持つ

コロナ禍でテレワークが増え、オフィスだけでなくさまざまな場所で仕事をする人が増えました。20代・30代のビジネスパーソンやファミリーが地方に目を向けはじめ、二拠点生活への関心が高まっています。

「現在のいわゆる二拠点生活は、都心にメインとなる住まいや仕事を持ち、地方をサブとして空き家やシェアハウスに滞在しながら趣味や地域貢献をして過ごすスタイルが多いと思います。私たちが『山ノ家』を拠点に行っている二拠点生活はそれとは少し異なります。都心でデザインオフィスを経営しながら、『山ノ家』では、カフェやドミトリーなどの飲食店・宿屋の運営を月半々で行ってきました。2拠点目に都心とは全く別のなりわいと生活の場を持ち、地方をオフにするのではなく、生活という意味でも仕事という意味でも、どちらも『オン』として行き交うこと。それを私たちは『ダブルローカル』と名付けたのです」(池田さん)

旧街道筋に立つ一軒家をリノベーション。1階はカフェ、2階が素泊まりできるドミトリー(画像提供/山ノ家)

旧街道筋に立つ一軒家をリノベーション。1階はカフェ、2階が素泊まりできるドミトリー(画像提供/山ノ家)

越後妻有は、棚田や里山で知られる日本有数の豪雪地帯で、上越新幹線越後湯沢駅からローカル線で30分ほど、東京から約2時間の場所にあります。里山を舞台に2000年から3年に1度開催されている「大地の芸術祭」は、世界最大の国際芸術祭で多くの人が訪れます。前回2018年は約54万人の来場者数を記録しました。今年は「越後妻有 大地の芸術祭 2022」(4/29~11/13)が開催されています。

美しい棚田は越後妻有おなじみの風景(画像提供/山ノ家)

美しい棚田は越後妻有おなじみの風景(画像提供/山ノ家)

冬期は毎年4-5mを超える積雪があり、除雪は毎日、冬の間に数回にわたる屋根の雪下ろしも欠かせない(画像提供/山ノ家)

冬期は毎年4-5mを超える積雪があり、除雪は毎日、冬の間に数回にわたる屋根の雪下ろしも欠かせない(画像提供/山ノ家)

当時、東京の恵比寿・中目黒を拠点に事務所を構えていた「gift_」の池田さんと後藤さんが地方に目を向けるきっかけとなったのは、2011年の東日本大震災でした。

「電車や電気がとまり、店頭から商品が消えました。都市の脆弱さを思い知り、このまま消費するだけの場所にいていいんだろうかと思うようになったんです。震災から3カ月後、知人から、『新潟県十日町市の松代地区に空き家があって自由にリノベしていいから、空間づくりをするサポートをしてもらえないか』とお願いされて、とりあえず見に行こう! と現地へ向かいました」(池田さん)

豪雪地帯の一軒家をリノベーションしてカフェ&ドミトリーに

空き家のあった通りは、かつて宿場町として栄えた場所ですが、過疎高齢化が進んで、シャッター街に。そこで、外観を雪国の伝統的な古民家のように再生して、地域活性に繋げようという、当地に移住したドイツの建築家カール・ベンクスさんからの提案に十日町市が賛同して、外装工事の費用を補助していました。

街並み景観再生事業によって再生された街並み(画像提供/山ノ家)

街並み景観再生事業によって再生された街並み(画像提供/山ノ家)

「毎週末、3カ月くらい通いながら構想を練っていましたが、何だか担当者の方々の反応がおかしい。『もしかして、空き家のデザインだけでなく、その後も事業者としてここで何かやってほしいと考えていますか?』と改めて確認しましたら、『初めからそのつもりでした』と。私たちが関わる前からその空き家は街並み再生事業の第一号としてリノベされることが決定していながら事業者のいない空っぽの箱ではいけないということで、そもそもの事業者候補を探していたらしいのです。市の補助金の対象となるためには降雪が厳しくなり始める12月の中旬までには外装工事を終わらせなくてはならないことも告げられました。その時、すでに10月。あと2カ月あるかないか。たいへん厳しい状況。正直言って、私たちは積極的に「YES」と言ったわけではないのですが、「NO」と断る理由が見つけられませんでした。おそらくその時点ですでにそうした主体になることを何処かで感受していたのかもしれません」

とまどいながらも、「大地の芸術祭を受け入れているエリアなら、面白いことができるかもしれない」と考えた池田さんたちは、建物1階をカフェ、2階をドミトリーにリノベーションすることを決めました。しかし、市の補助金は外装工事の7割だけで、内装の予算はありません。当時、農業体験や地域活動をする人たちの移動手段として、十日町市が、東京まで往復するシャトルバスを無料で運行していたことを幸いに、大学生や社会人の皆さんにボランティアでリノベーションのサポートに通ってもらうことができ、「山ノ家」が完成しました。

全館Wi-Fi完備。短時間のオフィスとして使う人も(画像提供/山ノ家)

全館Wi-Fi完備。短時間のオフィスとして使う人も(画像提供/山ノ家)

「茶もっこ」「大地の芸術祭」のイベントで都心から人を呼び、地域の人と交流

「山ノ家」完成時には、東京で、200人のメディアを集めて、どんなことをしたくてどんなものをつくったのかの意思表明のプレス発表を行いました。「おそらくこれから先私たちのように単なる観光ではない”行き交う”人が増えていくだろう。そうした人たちにとって必要なものをつくってみたこと」を伝えたかったのです。

「リノベーションする間、泊まるところと食べるところに困っていました。普段のような食事ができて、コーヒーが飲めて、気軽に泊まれて、Wi-Fiが使える場所、それは私たちが最も欲しいものだったんです。10年前はゲストハウスのモデルケースが少なく、ドミトリーが成り立つのかは未知数。飲食店や宿の経営も初心者。お客さんを接待しながらベッドの準備をして家中の掃除をしてカフェ以外にも宿泊者の朝ご飯から晩ご飯も全部つくって。オープンしてからも手探りでした」(池田さん)

「gift_」は、空間デザイナーの後藤さんとクリエイティブディレクターの池田さんからなるデザインユニット(画像提供/山ノ家)

「gift_」は、空間デザイナーの後藤さんとクリエイティブディレクターの池田さんからなるデザインユニット(画像提供/山ノ家)

「大地の芸術祭」開催中にオープンした「山ノ家」の利用者は、海外からの観光客やアーティストがほとんどでした。お客さんでにぎわう状況ではじまりましたが、芸術祭が終わったとたん、「山ノ家」の前は、人通りが全くなくなってしまいました。

「本当の日常が現れたんですね。こんなにいなくなるのかと驚きました。地方にいるという現実に背筋を正して向き合うことになったんです。そこで、都市圏から人を呼ぶため、都市と地域、両ベクトルで楽しめるイベントを企画するようになりました。地元の人が先生になって都心の人が教わるイベントを行ったり、地元のお祭りに出店したりするうちに、必然的に私たちも地域活動に参加するようになっていきました」(池田さん)

地元の人に草餅のつくり方を教わるワークショップ(画像提供/山ノ家)

地元の人に草餅のつくり方を教わるワークショップ(画像提供/山ノ家)

春の山菜採り。コゴミやウド、フキノトウをてんぷらに(画像提供/山ノ家)

春の山菜採り。コゴミやウド、フキノトウをてんぷらに(画像提供/山ノ家)

地元との関わりが深くなったきっかけは、「茶もっこ」でした。軒先に旅人を招いてお茶をふるまう風習で、宿場町で行われていた文化です。かまくらでどぶろくを飲む「かまくら茶もっこ」を開催したのを皮切りに、山ノ家周辺の数軒が家開きをして、地元の人がそれぞれに地酒や得意の手料理でもてなすイベントに発展して大好評に。2013年からコロナ禍までの7年間、夏、秋、冬の3シーズン「茶もっこ」イベントを行いました。

「かまくら茶もっこ」の様子(画像提供/山ノ家)

「かまくら茶もっこ」の様子(画像提供/山ノ家)

(画像提供/山ノ家)

(画像提供/山ノ家)

「茶もっこ」に、周辺の住民も参加。もてなされるお客さんは首都圏から来る人、市内や近隣から来る人、アーティストたちなどさまざま(画像提供/山ノ家)

「茶もっこ」に、周辺の住民も参加。もてなされるお客さんは首都圏から来る人、市内や近隣から来る人、アーティストたちなどさまざま(画像提供/山ノ家)

2015年には、芸術祭チームから依頼を受けて、廃校になった奴奈川小学校を芸術祭の拠点施設「奴奈川キャンパス」として再生するプロジェクトに参加しました。給食室をカフェテリア「GAKUSYOKU」にリ・デザインして、立ち上げから3年間「山ノ家」が運営しました。メニューは、地元のお母さんたちによる「サトごはん」と、都市圏拠点の料理人たちによる「マチごはん」。地元名産の妻有豚や山菜など同じ食材を使いながら、全く異なる料理を、同時に一つのお盆で楽しめるカフェテリア形式で提供しました。

サトごはんとマチごはんが並ぶ(画像提供/山ノ家)

サトごはんとマチごはんが並ぶ(画像提供/山ノ家)

「東京でデザインの仕事をして、『山ノ家』に来たら、お皿を洗って野菜を刻んで料理をつくって、お客さんの寝床の準備をして隅々までお掃除して……ってことを延々とやっていました。ここでの仕事もなりわいとして成り立たせるため、きれいごとではなく生きるためにやる必要がありました。ただ、やるからには自分たちらしく本気でやりたかったんです」(池田さん)

よそ者の視点を持ち続ける「半移住」という選択

開業当時から「山ノ家」の利用者は、海外からの観光客が半分以上ですが、移住体験の人も訪れるようになりました。そうした来訪者だけではなく、カフェには農作業を終えたあとの地元のお父さんや女子会をするお母さんたちの姿もあります。

カフェメニューは、地元の食材を使ったキーマカレーやキッシュ、ガパオなどのアジアご飯や地中海料理です。郷土料理にこだわらず、インテリアデザインも都会的です。コロナ禍で自粛していましたが、2022年の夏、カフェを2年ぶりに再会。今後は、「山ノ家」のコンセプトに共感してくれる人を募って、メンバーズシェアハウスにするため、ドミトリー部分にシェアキッチンや共有のランドリースペースをつくる予定です。

「観光で単発に宿泊するというよりは、リピーターが利用しやすい形態にと。サブスクによって連泊がしやすくなったり、シェアハウスのようにもうひとつの生活の場として使っていただけるようにしたいと考えました」(池田さん)

棚田玄米とレンズ豆のサラダ仕立て。クルミやゴボウの素揚げをトッピング(画像提供/山ノ家)

棚田玄米とレンズ豆のサラダ仕立て。クルミやゴボウの素揚げをトッピング(画像提供/山ノ家)

「山ノ家」定番メニューの旬菜のキッシュ(画像提供/山ノ家)

「山ノ家」定番メニューの旬菜のキッシュ(画像提供/山ノ家)

都会の人、地元の人、年齢も職業もさまざまな人が交流(画像提供/山ノ家)

都会の人、地元の人、年齢も職業もさまざまな人が交流(画像提供/山ノ家)

当初、「完全移住はしないんですか?」と地元の人に聞かれることが多かったという池田さん。地域と交流を続けるなかで、まわりの見方も変わっていきました。象徴的だったのは、十日町市役所で作成している市報が「山ノ家」の姿勢をとりあげてくれたこと。タイトルは「半移住という選択」でした。

「私たちは、永遠のよそ者。知らないことがあって当たり前。合わせすぎなくていいと思うんです。例えば、商工会に属していても、飲み会が苦手なので参加できないと最初から言っています。無理なことは無理でいい。地方から都市を見た視点と都市から地方を見た視点、別々の、複数の視点を得たことがダブルローカルそのものなんです。いつまでも新鮮なよそ者としての視点を持ち続けたいです」(池田さん)

プレ移住のために十日町市を訪れた人も立ち寄り、「山ノ家のような場所があるなら、移住しても大丈夫かな」という声が寄せられているそうです。「ダブルローカル」を行き交いながら、2つの人生を生きる。山ノ家は、都市と地方が双方向から交わる場として、進化し続けています。

●取材協力
山ノ家

離島の高校で学ぶ「島留学」に日本中から熱視線! 大人版もスタートで移住者増 島根県隠岐

全国の離島では、本土より早いペースで人口減少が続いています。日本海の隠岐諸島にある西ノ島町、海士町、知夫村も過疎化が進んでいました。そこで、2008年から高校生を対象とした「島留学」制度を開始し、その後、大人の「島留学」制度も開始。現在、高校の生徒数や移住者が増加しています。「島留学」が島に与えた影響と、島留学生のその後を取材しました。

以前は住民の数が年々減少し、島で唯一の高校は廃校寸前だった雄大な景観が魅力で多くの観光客が訪れる隠岐国賀海岸(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

雄大な景観が魅力で多くの観光客が訪れる隠岐国賀海岸(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

絶景のなかに佇む校舎。現在、北は秋田から南は鹿児島まで、海外(インド)からも留学生を受け入れている(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

絶景のなかに佇む校舎。現在、北は秋田から南は鹿児島まで、海外(インド)からも留学生を受け入れている(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

隠岐の島は、島根・鳥取の県境から北方約60kmに位置し、「ユネスコ世界ジオパーク」に認定されている自然豊かな場所。そのうち、島前地区は、西ノ島町、海士町、知夫村から成る地域です。

今、島前地区が注目を集めていることの1つには、島の高校の島留学生や、移住者が増加していることがあります。高校生や大人を対象にした島留学制度がそのきっかけになっているのです。

もともと、移住対策の前に急務だったのは、人口減少や少子高齢化による過疎化により減少の一途をたどっていた島前高校の生徒数を確保することでした。2008年度の生徒数は1学年28人、全校でも90人しかいませんでした。そこで、始まったのが隠岐島前教育魅力化プロジェクトです。さらに、「このままでは廃校になってしまう」と危機感をつのらせた3町村が出資して、2015年に一般財団法人島前ふるさと魅力化財団が設立されました。教育魅力化事業部の宮野準也さんと地域魅力化事業部の青山達哉さんに島留学プロジェクトの経緯を伺いました。

「地元の高校がなくなれば、子どもたちは、進学のため本土に出てしまいます。保護者も一緒に移住してしまえば、過疎化はますます深刻になります。そこで、島前地区の魅力を全国にアピールし、高校への島留学生を呼び込む取組みがはじまりました」(青山さん)

海と山の景観に恵まれている島前地区(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

海と山の景観に恵まれている道前地区(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

全国に先駆けて始まった島前高校の「島留学」

島前高校の「島留学」は、島外の高校生が自然環境・文化・伝統が残る島前地区で寮生活をしながら高校へ通うプロジェクトです。鹿児島や秋田といった県外や、モンゴルやインドなど海外から留学してくる生徒もいます。現在は、全国で「離島留学」を実施する学校が増加。国土交通省では、離島活性化を図る島留学推進のため情報をホームページにとりまとめていますが、当時、島前高校の「島留学」は、全国にない取り組みでした。

「島留学」で来る生徒が通う隠岐島前高校のキャッチコピーは、「島まるごと学校。島民みんなが先生」。島留学生には、ひとりずつ、「島親さん」と呼ばれる島民がついて地域になじむのをサポート。生徒は、夕飯に呼ばれたり、夏祭りに一緒に行ったりするなかで地域の人とつながっていきます。

無形文化財に指定されている島前神楽。海外留学から帰国後、神楽を残そうと地元で活動をはじめた生徒もいる(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

無形文化財に指定されている島前神楽。海外留学から帰国後、神楽を残そうと地元で活動をはじめた生徒もいる(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

地域のお祭り「キンニャモニャ祭り」に参加した生徒たち。しゃもじを打ち鳴らしながら1時間踊る(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

地域のお祭り「キンニャモニャ祭り」に参加した生徒たち。しゃもじを打ち鳴らしながら1時間踊る(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

「心掛けているのは、学校の学びを校内に閉じないこと」と宮野さん。授業には毎日のように島の人が招かれ、文化や伝統を生徒に教えています。7月に行われた、隠岐諸島でかつて使われた木造船「かんこ舟」の操船体験も地域活動のひとつ。昨年9月にIターンした米国出身の冒険家ハワード・ライスさんと、生徒たちが船を修復し、かつての海の文化を体験しました。

「ほかには、数学の授業で、島にカラオケ店をつくる想定で、経営を考える課題がありました。数学的な視点で考える力を養えます。自分に何ができるのか、常に考えて地域のことにアンテナを張る。学校で学んだことが地域に、地域で学んだことが学校の勉強に役立ちます。地域活動が学びの基礎になっているのです」(宮野さん)

現在、全校生徒数は161名とかつての約2倍に増えています。

島暮らしの原体験を手に入れられる3つの制度「島体験」「大人の島留学」「複業島留学」シェアハウスでは、制度を利用してきた人が共同生活を行う。夕飯を一緒に食べたり、仕事や生活で大変なことを相談したり。「島に何ができるのか」熱い話題で盛り上がることも(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

シェアハウスでは、制度を利用してきた人が共同生活を行う。夕飯を一緒に食べたり、仕事や生活で大変なことを相談したり。「島に何ができるのか」熱い話題で盛り上がることも(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

現在、島前地区では、若者を対象とした就労型お試し移住制度も行っています。

制度をはじめるきっかけは、2019年に松江や東京で開催された隠岐島前高校卒業生等が集うイベントでした。参加した100名近い若者から、「隠岐島前へUターンしたいと考えているが、暮らしや仕事の情報がネット上では見えづらく、移住や定住のイメージが湧かない」という声が多く寄せられたのです。そこで、隠岐島前地域の地元出身者に限らず、「島で暮らしたい」という想いをもった全国各地の若者が活用できる大人のための島留学がスタートしました。

期間ややりたい仕事別に3つの制度「島体験」「大人の島留学」「複業島留学」から選べること、シェアハウスで共同生活することが特徴です。

「島体験」は、3カ月の滞在型インターンシップ制度。仕事や普段の暮らしを通して、島を知ることができます。「大人の島留学」は、プロジェクトに就労しながら、1年間お試し移住できる制度。「複業島留学」は、2年間、複数の産業を体験しながら島の新しい働き方を探求します。

仕事内容は、海士町役場人づくり特命担当課のサポート業務、ふるさと納税プロジェクト推進サポート業務、島食プロジェクト、こども基地プロジェクト、海士町役場外貨創出プロジェクトなどさまざまです。

島体験生の研修風景。「島体験」では一週間に一度、「大人の島留学」では、一月に一度の研修が行われる(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

島体験生の研修風景。「島体験」では一週間に一度、「大人の島留学」では、一月に一度の研修が行われる(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

岩ガキ、隠岐牛、農業などの一次産業にもチャレンジできる(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

岩ガキ、隠岐牛、農業などの一次産業にもチャレンジできる(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

2年間の複業島留学では、1年に3カ所(事業所)以上、観光業、農林水産業を中心とした島の基幹産業に携わる(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

2年間の複業島留学では、1年に3カ所(事業所)以上、観光業、農林水産業を中心とした島の基幹産業に携わる(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

報酬は、「島体験」は月額8万円、「大人の島留学」は月額15万円、「複業島留学」の年収は年間260日間(1日あたり8時間勤務した場合)で240~310万円です。

応募者をオンライン選考した上で合格した人は、興味ややりたいことと、町村が求めることとマッチングを行い、町が管理するシェアハウスで暮らしながら、島の仕事を体験します。

役場職員から、地域通貨「ハーン」の活用について学ぶ大人の島留学生(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

役場職員から、地域通貨「ハーン」の活用について学ぶ大人の島留学生(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

牛舎での仕事風景。掃除、餌やり、出荷の手伝いなどを手伝う(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

牛舎での仕事風景。掃除、餌やり、出荷などを手伝う(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

「大人の島留学生」の皆さん(画像提供/清瀬りほさん)

「大人の島留学生」の皆さん(画像提供/清瀬りほさん)

「3つの制度を利用した人は、200人ほど。そのうち、20名が就職して移住しています。チャレンジ精神のある若者は町のエネルギー。商店への経済貢献もあり、島前地区の活性化につながっています」(青山さん)

島に滞在して就労体験できる「大人の島留学」で移住者が増加中

清瀬りほさん(役場職員・23歳)は、「大人の島留学」を体験した後、2021年に島への移住を決めました。

「もともと離島出身で、大学時代に離島の教育をテーマに卒論を書いていました。島前高校の魅力化プロジェクトを知り、実際に行きたいと思っていたのですが、さまざまな理由で行くことができませんでした。そのまま就職することに悩んでいたとき、母に背中を押してもらい、『大人の島留学』に参加することにしました」(清瀬さん)

「大人の島留学」で従事する仕事について、清瀬さんは、「行政の中でさまざまな取り組みをしている攻めの部署」を希望。海士町役場の人づくり特命担当課に配属されました。

仕事内容は、大人の島留学事業の推進。シェアハウスにするための空き家清掃や、情報発信、大人の島留学島体験の研修サポートを行いました。

「大人の島留学」時代、大人の島留学・島体験事務局として、島体験生のサポートをする清瀬さん(画像提供/清瀬りほさん)

「大人の島留学」時代、大人の島留学・島体験事務局として、島体験生のサポートをする清瀬さん(画像提供/清瀬りほさん)

西ノ島には、ハイキングコースがあり、休日は、花や野鳥を観察しながら散策を楽しんだ(画像提供/清瀬りほさん)

西ノ島には、ハイキングコースがあり、休日は、花や野鳥を観察しながら散策を楽しんだ(画像提供/清瀬りほさん)

冬になれば雪遊び。ご近所さんから野菜のおすそ分けをいただくことも多い(画像提供/清瀬りほさん)

冬になれば雪遊び。ご近所さんから野菜のおすそ分けをいただくことも多い(画像提供/清瀬りほさん)

島での生活を振り返ると、「たくさんの島の人の顔が浮かんでくる」と言います。

「仕事でも暮らしでもたくさんの島の方と関わりながら生活しているんだなと感じます。学生時代から地域づくりに関わっていましたが、短期の活動ではわからなかった地域の地道な努力が見えてきました」(清瀬さん)

大人の島留学がはじまって半年後、清瀬さんは移住を決めます。

「来島した当初は、街づくりが進んでいる海士町から、出身地である離島の街づくりの参考になることを学ぼうという気持ちでした。でも、仕事を任されるうちに、それでは島の人に失礼だと感じるようになったんです。地元のことは一旦置いて、目の前にある島の課題に向き合い、頑張ってみたいと思いました」

留学生時代から引き続き人づくり特命担当に携わる清瀬さんは、メディアプラットフォームで、「離島のリアルを伝える」仕事をしています。清瀬さんが行った留学生へのインタビューには、「手を動かすことで学びが増えていく」「自分のためにも島のためにも」「自分の世界が広がりました」などの見出しが掲げられています。

島前に住む若者インタビュー、島前紹介、イベントレポなどを掲載(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

島前に住む若者インタビュー、島前紹介、イベントレポなどを掲載(画像提供/島前ふるさと魅力化財団)

清瀬さんが、島留学・移住を経て最も成長したことは、「自分の意見を持ち、言葉で表現できるようになったこと」。

地元の盆踊り大会を楽しむ清瀬さんと自宅の草刈りの様子。草刈り機の扱いにも慣れた(画像提供/清瀬りほさん)

地元の盆踊り大会を楽しむ清瀬さんと自宅の草刈りの様子。草刈り機の扱いにも慣れた(画像提供/清瀬りほさん)

「離島に移住するのはハードルが高く思えるかもしれませんが、実際島を体験すれば合うか合わないかがわかります。覚悟を決めなくていいので、気軽に島留学に来てほしいです」(清瀬さん)

留学時代から住んでいる海士町の多井地区は、最も人口が少なく、商店はもちろん自販機もないところです。ここで暮らすうちに、多井のことが大好きになった清瀬さん。自分が好きな場所に住める幸せを実感しています。

「大人の島留学」のホームページには、体験者の声がいっぱい。オンライン授業を受けたり、休学して、移住生活をする大学生も多く、「島体験」や「大人の島留学」をきっかけに移住を決める人も……。島での「こころを揺さぶる原体験」が、自分を成長させてくれます。

●取材協力
・隠岐島前教育魅力化プロジェクト
・大人の島留学
・島根県立隠岐島前高等学校

地域おこし協力隊・高知県佐川町の“その後”が話題。退任後も去らずに定住率が驚異の7割超の理由

2009年から総務省がスタートした「地域おこし協力隊」制度。これは主に都市部に住む人が、「地域おこし協力隊員」として、地方へ1~3年という一定期間移住し、同自治体の委託を受けて地域の発展や問題解決につながる活動を行うこと。任期終了後も同地に住み続けることで、過疎化が進む地方の活性化の起爆剤としても期待されている。

とはいえ任期終了後も同地に住み続けるかは本人次第。総務省によると2021年3月末までに任期を終了した隊員たちが、その後も同地に住み続けている定住率は全国平均65.3%。この全国平均を上回る77%という数字をはじき出しているのが高知県佐川町だ。なぜ定住率が高いのかが実際に住み続ける元隊員たちの話を通じて見えてきた。

協力隊で得たスキルである程度安定して生活ができること、協力隊のコミュニティの心地よさ、さらに協力隊員同士での結婚などがその理由のようだ。さらに詳しい内容をレポートしたい。

個人経営が難しい林業を、行政が働きやすいシステムに改変し定住につなげる

高知県中西部に位置する佐川町は人口12,306人(2022年8月現在)。高知市のベッドタウンとしての役割も担うが、他の地方自治体同様に少子高齢化が進む典型的な田舎町だ。この町には現在、任期を終えた地域おこし協力隊員たちの77%に当たる39人が暮らしている。これは高知県の自治体の中で、2位64%の四万十町を引き離してトップに立つ。

(写真提供/斉藤 光さん)

(写真提供/斉藤 光さん)

定住者で大きな割合を占めているのが、別記事でも紹介した「自伐型林業」をなりわいとする林業家の元隊員たちだ。2014年に自伐型林業の地域おこし協力隊として佐川町に移住し、任期終了後も妻と2人の子どもと共に暮らしているのが滝川景伍さん。「自伐型林業に興味があり、林業家を目指し移住してきましたが任期の3年間だけでは林業家としての経験が足りませんでした。しかも佐川町以外の地域で、移住者かつ初心者である私が個人経営で民営地を預かり、林業で食べていくことは非常にハードルが高いです」

山に入って仕事をするためには、その山主の許可が必要だ。各山主の所有地の境界線は複雑に張り巡らされている。「佐川町の場合、行政が中心となり山主と交渉を行い、林業家が仕事をできるように『山の集約化』を進めました。そのおかげで私のような新人林業家でも、安心して山で働ける環境が確保されていました」

他地域への参入が難しい林業ゆえに、行政のバックアップで引き続き林業家として働く場所を提供する。この取り組みが、林業をなりわいとしたい協力隊の定住率アップの要因となったことは間違いなさそうだ。「佐川町には元隊員や任期中の隊員も含めて約80人が住んでいます。面白い人たちが多いので、その人たちをつなげるワッカづくりをしていきたい」と滝川さんは意気込んでいる。

重機を使い森の中で作業を行う滝川さん(写真提供/斉藤光さん)

重機を使い森の中で作業を行う滝川さん(写真提供/斉藤光さん)

林業を核に新たな人材の移住を促していく

2016年、林業での地域おこし協力隊の募集に加え、佐川町は“林業の六次産業化”を目指し、その拠点として「さかわ発明ラボ」を開設した。林業の六次産業化とは、生産物である材木の価値を高め、従事者の収入増を目指すこと。同ラボには最新のレーザーカッターなどデジタル工作機械が導入され、それらを巧みに操るクリエーターやエンジニアを地域おこし協力隊として募った。

「大学卒業後の進路に悩んでいたとき、『さかわ発明ラボ』の人材募集を見つけました。デジタル工作機械のものづくりで地域を盛り上げる取り組みは、難易度は高そうですが、やりがいを感じたので応募しました」と語るのは、同ラボの地域おこし協力隊の一期生として移住してきた森川好美さん。

神奈川県横浜市生まれで東京育ちの森川さんは、大学でデジタル工作機械でのあらゆるものづくり、いわゆる「デジタルファブリケーション」を学んだ。時代の先端を行く学問を修めながら、できたばかりの拠点はあるものの、その真逆の環境ともいえる佐川町での生活が始まった。

「移住当初は、自分の取り組みを町民の皆さんに知ってもらうため、毎週ワークショップを開催しました。ものづくりやデザインが好きな町民の方に足を運んでもらいましたが、取り組みを理解してもらえた実感はありませんでした。どうして良いかわからず、毎晩町内の居酒屋を飲み歩いた時期もありました(笑)」と当時を振り返り、苦笑する森川さん。

任期終了後はNPO法人「MORILAB」を立ち上げ、デザイナーやエンジニアとして活躍する森川さん(写真提供/森川好美さん)

任期終了後はNPO法人「MORILAB」を立ち上げ、デザイナーやエンジニアとして活躍する森川さん(写真提供/森川好美さん)

町内にある廃業した歯科医院を活用して開設された「さかわ発明ラボ(写真提供/森川好美さん)

町内にある廃業した歯科医院を活用して開設された「さかわ発明ラボ(写真提供/森川好美さん)

ラボ内ではスタッフ指導のもとで子どもたちもデジタル工作機械の体験ができる(写真撮影/藤川満)

ラボ内ではスタッフ指導のもので子どもたちもデジタル工作機械の体験ができる(写真撮影/藤川満)

ラボを拠点に新たな仕事を生み出していく

森川さんはその後も試行錯誤を繰り返し、ワークショップの対象を子どもたちへと広げた。「子ども向けワークショップを開催することで、親も興味をもってもらえる。そして子どもたちにとっては、家庭と学校以外の『第三の場所』として利用してもらえるようになり、取り組みに光が差してきました」

とはいえ東京の大学を卒業したばかりで、社会人経験も少なかった森川さんに対して、一部の心ない町民から冷ややかな視線を感じることもあった。「当時は同世代の友達もいなくて、辞めたいと思うこともありました。けれど新たな協力隊が赴任した2年目からは、業務を分担することができ、仲間が増えて楽しくなってきました」

協力隊3年目となった森川さんは、同ラボの業務以外に、大学の先輩が営む会社からや、それ以外の個人で受ける仕事も増えてきた。「任期終了後は、佐川町の木材などの地域資源をプログラミングやデザイン・設計を通して活用するNPO法人を立ち上げました。デジタル工作機器の導入サポートや加工の窓口としての業務にも取り組んでいます」

現在同ラボは、「ものづくりの場」「企画/デザイン」「子どもたちの学びの場」という三つの機能をもつ施設として、佐川町民から親しまれ、大学や大都市の企業でデザインや建築を学んだ協力隊員、元隊員の活躍の場となっている。

植物学者・牧野富太郎ゆかりの公園「牧野公園」で開催されたワークショップの様子(写真提供/森川好美さん)

植物学者・牧野富太郎ゆかりの公園「牧野公園」で開催されたワークショップの様子(写真提供/森川好美さん)

同世代という仲間意識が居心地の良い環境をつくる

「森川さんの活躍は高知に来る前から知っていました」と語るのは、今年隊員としての任期を終えたばかりの伊藤啓太さん。茨城県生まれの伊藤さんは、宮城県仙台市の大学でデジタルファブリケーションを学んだ。佐川町の取り組みを知ったのは、とある移住フェア。「『さかわ発明ラボ』と『自伐型林業』の連携に興味をもちました。自分があえて林業へ進めば、ラボとの接着剤の役目を果たせるのではと考えました」

林業家として採用された伊藤さんは、仕事ができない雨の日にラボへ足を運び、椅子づくりなどのワークショップを開催し、まさに接着剤として活動の幅を広げていった。任期終了後の現在、自伐型林業家兼木工デザイナーとしての道を歩み始めている。「滝川さんをはじめとする先輩林業家の人たちが、佐川町に残り働く姿を見てきたので、当たり前のように任期終了後もここで暮らすと決めていました」と伊藤さん。

実は森川さんと伊藤さんは、仕事を通じた交流をきっかけに2022年5月に結婚し、新居を町内に構えた。「最近は若い同世代の隊員が増えてきたことで、年に2~3組はカップルが誕生していますよ」と森川さん。隊員同士のカップルもいれば、隊員×地元民のカップルもいる。住む場所の決め手として、パートナーの存在も大きな要因。同世代という垣根の低さが多くのカップル誕生に寄与しているのかもしれない。

「将来的には自分で製材した木材を使ってアイテムづくりをしたい」と語る伊藤さん(写真提供/伊藤啓太さん)

「将来的には自分で製材した木材を使ってアイテムづくりをしたい」と語る伊藤さん(写真提供/伊藤啓太さん)

同ラボ内で語らう森川さんと伊藤さん。伊藤さんは、デジタル工作機械の操作方法を森川さんから指導されることもあると話す(写真撮影/藤川満)

同ラボ内で語らう森川さんと伊藤さん。伊藤さんは、デジタル工作機械の操作方法を森川さんから指導されることもあると話す(写真撮影/藤川満)

移住者コミュニティの発展が町全体の活性化へつなげていく

「都会にいると、意外と同世代異業種の人と交流することがありません。佐川町の地域おこし協力隊は、『ものづくり』をキーワードに集まった20~30代の同世代が多く、得意分野は違いますがプライベートでも遊ぶほど仲が良いですね」と語るのは神奈川県生まれの大道剛さん。任期終了後は、町内外の学校でのプログラミング教室などの支援を主な業務とし、町内で暮らしている。

さかわ発明ラボ内で語り合う大道さん(右)と(左から)同じく元隊員で建築士の上川慎也さん、革職人の松田夕輝さん(写真撮影/藤川満)

さかわ発明ラボ内で語り合う大道さん(右)と(左から)同じく元隊員で建築士の上川慎也さん、革職人の松田夕輝さん(写真撮影/藤川満)

「任期終了後の定住者がある一定数いることで、移住者のコミュニティが存在しています。さらにその中で気の合う仲間が集う複数のユニットがあり、田舎でありながら自分が心地よい場所をすぐに見つけられるのが佐川町の良いところです」と今の佐川町の移住者コミュニティの状況を教えてくれる大道さん。

さらに「東京のほうが同世代の数は圧倒的に多い、でも仕事以外での仲間はつくりにくいです。佐川のほうが同世代は少ないけど、職業を超えたつながりがつくりやすい。特技の違う仲間で雑談、相談が仕事に生きるし、そういった仲間が心の安心、支えになってくれていますね」と大道さんは、定住率の高さにつながる要因を示してくれた。

2022年7月末の夜、佐川町内バー「貉藻(むじなも)」にて、大道さんが進行役を務め、林業家の滝川さんが登壇し、自らの仕事とこれからの課題を語るイベントが開催された。集まったのは佐川町内に住む元隊員たちを中心とした移住者およそ20人。参加者の中に生粋の佐川町民はわずか1人だけだった。

滝川さんと大道さんを中心に開催されたバー「貉藻(むじなも)」でのイベント(写真撮影/藤川満)

滝川さんと大道さんを中心に開催されたバー「貉藻(むじなも)」でのイベント(写真撮影/藤川満)

「これは始まったばかりの試みで、これからはもともと佐川町に住む人たちの参加も促していくつもりです。まだまだ第一段階の状態です」と大道さん。移住者たちの高い結束力を目の当たりしたイベントながら、これからどのように発展し、どのように佐川町に作用していくのか注視したい。

地域おこし協力隊を活用した佐川町の取り組みは、さまざまな要因が好影響を及ぼし、高い定住率へとつながっているようだ。しかしそれは、地域おこし協力隊黎明期に移住した先輩隊員の努力が礎となっているのも確かだ。定住者コミュニティだけでなく、町全体を巻き込んだ活性化につなげられるのかは、先輩からバトンを受けた後輩隊員たちの努力次第かもしれない。

●取材協力
さかわ発明ラボ

移住相談も課長募集もSlackで!? 長野県佐久市の「リモート市役所」が画期的と話題

移住に興味があるけれど、コロナ禍で情報収集できる機会が減ってしまった……。そんな状況を補うのが、ビジネスチャットツール「Slack」を活用した、長野県佐久市による移住のオンラインサロン「リモート市役所」。日本で初めて自治体が運営する、移住の共創型オープンプラットフォームです。
サービス開始は2021年1月。どんな背景でスタートしたのか、どんなコンテンツがあるのか、市民や移住希望者の反響は? リモート市役所を担当する佐久市役所広報広聴課の垣波さんと、移住交流推進課の森下さんにお話をうかがいました。

移住関心度の高い佐久市の新たなシティプロモーション

長野県の東部に位置する佐久市は、浅間山、蓼科山、八ヶ岳を望む自然豊かなまちです。標高約700mの佐久平駅を中心に市街地が広がり、憧れの避暑地として知られる軽井沢もご近所。東京から佐久平までは新幹線で約75分と、首都圏からのアクセスも良好です。

新幹線が停車する佐久平駅を中心に市街地を形成。山もすぐそこ(写真提供/佐久市役所)

新幹線が停車する佐久平駅を中心に市街地を形成。山もすぐそこ(写真提供/佐久市役所)

人口は10万人弱。日本の地方都市同様、高齢化が進み、2010年をピークに人口は減少に転じています。一方、ほかの地域からの転入者数は転出者数を上回っており、2021年の社会増減数(統計ステーションながの「毎月人口異動調査(2021年)年間人口増減 統計表」より)は長野県で第一位。住みやすい環境などから、移住への関心の高さもうかがえます。

そんな佐久市では、従来から市役所に移住相談窓口を設置していました。さらにリモート市役所を立ち上げたのは、どんな経緯があったのでしょうか。
「移住希望者に向けて、まずは佐久市を知ってもらおう、来てもらおうと活動してきましたが、2020年、コロナ禍に突入。佐久市を実際に訪問してもらうことは難しくなりました。そこで、移住に興味のある方が佐久市民とつながり、情報のやり取りができるコミュニケーションプラットフォームとして、『リモート市役所』を立ち上げました」と垣波さん。
実際に足を運ばずとも、佐久市のリアルな情報や魅力を届けたいと考えたのです。

Slackを活用してインタラクティブなメディアに

「Slack」とは、職場で採用していておなじみの人も多いですが、改めて紹介すると、アプリやWEB上で情報共有、グループチャット、ダイレクトメッセージ、通話などができる、いわゆるコミュニケーションツール。この現代的なツールを活用することで、ホームページのような自治体サイドからの一方的な発信ではなく、移住を考える方が暮らしにまつわる質問を投げかけ、実際に佐久市に住んでいる市民が答えるという、双方向のコミュニケーション環境が生まれました。
Slackは書き込みや閲覧に会員登録が必要で、ホームページと比べると閲覧者は限られる一方で、参加者同士がダイレクトにやり取りできるのがメリット。感じたことに対してすぐに反応が返ってくることや、答える側もかしこまったスタンスではなく、自分の本音を伝えることができるため、より現実味のある情報を交換することができます。
利用者の声を聞いてみても、「気軽に質問できる」「リアルな声を発信できる」と、楽しんで活用している様子。垣波さんたち職員も、いち市民の目線で参加し、質問に答えているそうです。

佐久市役所広報広聴課広報係の垣波竜太さんと、移住交流推進課移住推進係の森下慶汰さん

佐久市役所広報広聴課広報係の垣波竜太さんと、移住交流推進課移住推進係の森下慶汰さん

リモート市役所のトップ画面。のぞいてみたくなる、ワクワクするデザインです(写真提供/佐久市役所)

リモート市役所のトップ画面。のぞいてみたくなる、ワクワクするデザインです(写真提供/佐久市役所)

現在、リモート市役所にはおよそ10の課(チャンネル)が用意され、「写真課」「魅力はどこ課」「子育て課」など、それぞれのテーマごとに楽しげなやり取りが行われています。「佐久市の写真」チャンネルでは、市民が撮影した写真を気軽に投稿。ちなみに、昨冬の雪の写真はインパクト大でした。実は雪は滅多に降らないエリアのため、「浅間山が3回白くなると里に雪が降るといわれています」「風が吹くとかなり寒い。冬はマイナス10度を下回ることも」「移住を考えている方は、冬に一度訪れるのがおすすめ」など、話のタネになったとか。どんな気候なのかも、移住したい人には気になるところですよね。ちなみに、標高約700mの佐久市では、観測史上、熱帯夜(夕方から翌朝までの最低気温が25度を超える夜)を記録したことがないのだとか。晴天率は全国トップクラス。快適に過ごせそうです……!

雪の日の写真を市民がアップ。冬の寒さや雪の多さも事前に知っておきたいところ(写真提供/佐久市役所)

雪の日の写真を市民がアップ。冬の寒さや雪の多さも事前に知っておきたいところ(写真提供/佐久市役所)

5月の連休には県下最大級の熱気球大会「佐久バルーンフェスティバル」が行われます(写真提供/佐久市役所)

5月の連休には県下最大級の熱気球大会「佐久バルーンフェスティバル」が行われます(写真提供/佐久市役所)

「移住の質問部屋」では、「保育園の入りやすさはどう?」「4月に引越すのだけど、暖房器具は必要?」「自治会費っていくらくらい?」など、かなり具体的な質問が飛び交います。ときにはマイナスな情報も、隠さずに伝えているのが印象的です。
「たとえば、佐久市では家庭ゴミは有料の指定袋に入れ、しかも名前を書かなくてはならない。それが面倒だという市民の声も実際にあるのですが、移住を考えている方にはネガティブなことも含めて、ありのままを知ってほしい。あとで違った、こんなはずじゃなかったと後悔するよりも、わかって納得したうえで、それでもメリットの方が上回るから住みたい、と思ってもらえたら」と森下さんは言います。

「アイデア」チャンネルでは提言、提案も盛んです。「保育園の空き状況を調べるのに一件ずつ見ていくのが大変。今自分が住んでいる自治体のように一覧にしてほしい」など、こんなチャンネルがほしい、こんなアプリがあったら……といった声が上がります。「ここが使いづらい、もっとこうだったらいいのに、と思っても、わざわざ市役所にメールする方はなかなかいませんよね。思いついたら気軽に声が上げられるのも、リモート市役所ならではかな、と思っています」(垣波さん)

移住に興味のある人と市民が情報交換できる「移住の質問部屋」。スレッド機能があり追跡しやすいのもいい(写真提供/佐久市役所)

移住に興味のある人と市民が情報交換できる「移住の質問部屋」。スレッド機能があり追跡しやすいのもいい(写真提供/佐久市役所)

参加者は、開始2カ月半で約800人が登録。その後じわじわと増え続け、2022年7月現在、1900人強が参加しています。垣波さんによると、誰でも無料で参加できるので、特に発信はしない“見る専”の方も多いそう。匿名でも参加可能のため、本音でトークしやすく、ローカルネタで盛り上がることもあるようです。<拍手>や<いいね>といったリアクションスタンプが押せるのもとっても気楽! チャットを眺めているだけでも、佐久市への興味が高まってきます。

投稿をきっかけに始まった、新たな移住支援サービス

リモート市役所内の投稿をもとに、新たな取り組みも始まりました。佐久市への移住を検討している方向けの試住の支援サービス「Shijuly(シジュリー)」です。

試住をサポートするサイト「Shijuly」も生まれました(写真提供/佐久市役所)

試住をサポートするサイト「Shijuly」も生まれました(写真提供/佐久市役所)

「生活環境を確認したい、学校を見学したい、家を探したい、という方たちに、お試しで滞在する『試住』をおすすめしています。その際の宿泊先や、子どもの預け先はどうするか、コワーキングスペースはあるかなど、知りたい情報をまとめたサイトがShijulyです」と森下さん。
試住中の宿泊費や移動費などに最大50%補助金(上限あり)が出るのも魅力です。補助金の申請もオンラインで行えて便利。「補助金の利用上限日数は最大6日分ですが、2泊を2~3回に分けて、という方も結構いらっしゃいます。ぜひ、移住のシミュレーションをしてみてください」

稲荷山公園など、市内で子どもと遊べる公園も紹介しています(写真提供/佐久市役所)

稲荷山公園など、市内で子どもと遊べる公園も紹介しています(写真提供/佐久市役所)

業務はオンライン、副業OK、報酬ありの「リモート市役所課長」が誕生

さらに、リモート市役所の「課長」を広く募集したことも話題を呼びました。リモート市役所課長は原則オンラインでの業務で、月に1度の運用会議に参加するほか、Slack内の投稿やリアクションにも対応する、いわばリモート市役所の盛り上げ役。副業も歓迎、報酬もあります(今年度は、年間で固定給50万円、企画・運用費50万円)。

リモート市役所課長募集のお知らせも、わかりやすくてユニーク(写真提供/佐久市役所)

リモート市役所課長募集のお知らせも、わかりやすくてユニーク(写真提供/佐久市役所)

2021年度の初代課長には、実際にリモート市役所を活用して佐久市に移住した、伊藤侑果さんが選ばれました。伊藤さんは、子育てしながら起業家として働く女性。移住者視点、ママ視点を活かして、熱量をもってさまざまなプロジェクトに携わったそうです。
そして今年度、二代目課長に任命されたのは、FMヨコハマのラジオディレクター・やのてつさん。番組の企画で佐久市に訪れたのをきっかけに佐久市のファンになり、首都圏在住でありながら、佐久市への愛にあふれた方なのだそうです。

本年度のリモート市役所課長に選ばれたやのてつさん。任期は2023年3月末まで(写真提供/佐久市役所)

本年度のリモート市役所課長に選ばれたやのてつさん。任期は2023年3月末まで(写真提供/佐久市役所)

7月には、初のオンラインイベント「リモート市役所サミット」が開催されました。サミットでは、移住を検討するファミリーに向けて、佐久市の魅力を感じられる移住モデルコースづくりにチャレンジ。2チームに分かれてZOOMでワークショップを行いました。

リモート市役所サミットの風景。当初はオフラインを予定していましたが、新型コロナの感染者増加に伴いオンラインで実施(写真提供/佐久市役所)

リモート市役所サミットの風景。当初はオフラインを予定していましたが、新型コロナの感染者増加に伴いオンラインで実施(写真提供/佐久市役所)

課長のやのてつさんが審査員となり、優秀チームを決定。後日、やのてつさんがご家族とともに実際にそのモデルコースを訪問・取材し、FMリモート市役所でオンエアする予定です。
「リモート市役所は文字や写真での発信がメインですが、やのてつさんの課長就任を機に、ラジオコンテンツ『FMリモート市役所』を強化中。またポッドキャストなど、新たな音声コンテンツも発信していく予定なので、お楽しみに」(垣波さん)

FMリモート市役所では、Slackでの投稿から抽出した選りすぐりの情報などを音声でお届け(写真提供/佐久市役所)

FMリモート市役所では、Slackでの投稿から抽出した選りすぐりの情報などを音声でお届け(写真提供/佐久市役所)

こうした取り組みが評価され、リモート市役所は
「シティプロモーションアワード2021」金賞・未来創造賞
「PRアワードグランプリ2021」ブロンズ
「第14回日本マーケティング大賞」奨励賞
「PR Awards Asia 2022」2部門でゴールド
「Golden Worlds Awards 2022」パブリック・セクター部門最優秀賞
といった賞に輝いています。

また、全国の自治体から問い合わせやオンラインでの視察申し込みも相次ぎました。今年5月には、福岡県北九州市でもSlackを用いた移住のオンラインサロン「バーチャル北九州市」がオープン。佐久市のリモート市役所がお手本となって開設されたそうです。

PR Awards Asia 2022の盾が輝きます(写真提供/佐久市役所)

PR Awards Asia 2022の盾が輝きます(写真提供/佐久市役所)

市民同士の交流を深め、シビックプライドの向上をめざす

実際にリモート市役所への参加を機に佐久市へ移住したのは、わかっているだけで3人。ちょっと少ない数字に見えますが、Uターンや長野県内からの転入もあり、数の把握が難しいのだとか。「今年度より移住者の実情を把握するため、市民課の窓口に転入届を出す際に、自分の意思で移転したか、5年以上住み続ける意思があるか、というアンケートを取り始めました。その結果にも期待したいです」と森下さんは言います。

今後のリモート市役所は、どうなっていくのでしょう。
「参加者も増えてきていますし、イベントの開催など、もっと定期的にチェックしてもらえるような場にしていきたい。市民にとっても、市民同士の交流の場として使ってもらえることを期待しています。佐久市っていいところだなと、市民のみなさんに誇ってもらえるように」と垣波さん。
移住情報中心のプラットフォームとしてだけでなく、市民と市民、市民と行政をつなぐ場所としての役割も担うリモート市役所。市民が愛着を持てる、誇れるまちであることが、移住のその先、定住の促進へとつながっていくはずです。

●取材協力
佐久市役所
リモート市役所
Shijuly・シジュリー
FMリモート市役所

伊豆下田の絶景・名店6選で移住気分。地元写真家が推す“日常の贅沢”を追体験

5年前に東京から静岡県・下田に移住したカメラマンの津留崎徹花です。
私が住んでいる下田は美しい海や山、温泉にも恵まれているため観光地として人気の場所です。
もちろん旅行でもその魅力に触れていただけるのですが、住んでいるからこそ味わえることもたくさんあります。
たとえば温泉や海水浴、おいしい海の幸山の幸も特別なものではなく、ごく当たり前の日常となるのです。
なんてことない日常のなかで目にする夕暮れ時の海。
そうした自然の美しさに触れると「これが本当の贅沢なのではないか」と感じます。

今回「じゃらんニュース」と「SUUMOジャーナル」の合同で、
「じゃらんニュース」では下田観光をする場合のモデルコースを、「SUUMOジャーナル」では下田に住んだらこんな暮らし方ができるというおすすめ情報を掲載しています。
タイムスケジュールに沿ってご紹介していますので、参考にしていただけたらと思います(撮影は5月です)。

AM5:30 爪木崎自然公園(静岡県下田市須崎)

絶景スポットで、海から昇る朝日を拝む。

 駐車場のすぐ横にある芝生の広場から、こんな絶景を眺めることができます(写真撮影/津留崎徹花)

駐車場のすぐ横にある芝生の広場から、こんな絶景を眺めることができます(写真撮影/津留崎徹花)

下田に住んでいるとふとした時に、「あぁ、本当にきれいだ…」とため息が出るような景色に出会います。
快晴の日に車を運転していると、輝く海の美しさにハッとしたり。
買い物の帰りに、夕日を浴びて真っ赤に染まりゆく広々とした空を眺められたり。
そして、一日の始まりにちょっとだけ早起きをして、近くの海で朝日が上るのを見ることだってできるのです。

私のお気に入りの場所は、須崎半島の突端に位置する爪木崎。
水仙祭りや柱状節理で有名な景勝地なのですが、日の出もまた想像以上に素晴らしいのです。
わざわざ遠出をしなくても、日常のなかに絶景が広がっている。
これは下田で暮らしているからこその豊かさだと感じます。

爪木埼の灯台と朝日を眺める(写真撮影/津留崎徹花)

爪木崎の灯台と朝日を眺める(写真撮影/津留崎徹花)

早起きは三文の徳、ぜひこの景色を堪能してください(写真撮影/津留崎徹花)

早起きは三文の徳、ぜひこの景色を堪能してください(写真撮影/津留崎徹花)

晴れた日には、ハッとするような美しいブルーが広がります(写真撮影/津留崎徹花)

晴れた日には、ハッとするような美しいブルーが広がります(写真撮影/津留崎徹花)

AM10:00 農産物直売所・旬の里(静岡県下田市河内)

朝どれのみずみずしい地場野菜が並ぶ、おすすめ直売所!

柑橘天国、伊豆下田。なかでもこの「旬の里」は、一年を通して常に柑橘を購入できるお店です(写真撮影/津留崎徹花)

柑橘天国、伊豆下田。なかでもこの「旬の里」は、一年を通して常に柑橘を購入できるお店です(写真撮影/津留崎徹花)

下田といえばおいしい魚のイメージがあるかと思うのですが、実は海の幸だけではなく山の幸にも恵まれています。
「旬の里」はその名の通り、旬の山菜や野菜などがずらりと並ぶ人気の直売所です。
生産者さんがその日に採れたものを直接お店におろしているので、新鮮そのもの。
春になるとタケノコや山菜が並び、夏にはトマトが棚いっぱいに並びます。
秋にはツヤツヤのナスや栗、冬にはどっかりとした白菜や大根が鎮座。
朝採れたばかりの地物野菜を持ち帰り、その日のうちに味わう。
そうして「またこの季節が巡ってきたのか」と、四季の移ろいを感じるのは下田暮らしの楽しみのひとつです。

早朝、地元の生産者さんが次々と採れたばかりの野菜や果物を納品。みずみずしくおいしい地物をいただけるのは本当にありがたいです(写真撮影/津留崎徹花)

早朝、地元の生産者さんが次々と採れたばかりの野菜や果物を納品。みずみずしくおいしい地物をいただけるのは本当にありがたいです(写真撮影/津留崎徹花)

野菜だけではなく、地元の方が手作りしたパンやお惣菜、漬物などもそろっています(写真撮影/津留崎徹花)

野菜だけではなく、地元の方が手作りしたパンやお惣菜、漬物なども揃っています(写真撮影/津留崎徹花)

夏にはこんな立派なスイカもずらり、お値段もとてもリーズナブルです(写真撮影/津留崎徹花)

夏にはこんな立派なスイカもずらり、お値段もとてもリーズナブルです(写真撮影/津留崎徹花)

PM12:00 FermenCo.(静岡県下田市吉佐美)

注目店!海を見ながらピザを頬張る、極上のひととき。

キリッと冷えたナチュラルワインと香ばしいマルゲリータ、最高です(写真撮影/津留崎徹花)

キリッと冷えたナチュラルワインと香ばしいマルゲリータ、最高です(写真撮影/津留崎徹花)

白い砂浜と透明度抜群の美しい海が広がる入田浜は、地元でも人気のビーチ。
その入田浜の目の前に、昨年「FermenCo.」フェルメンコというピザ屋がオープンしました。
絶好のロケーションもさることながら、とにかくこちらのピザがとてもおいしいのです。
「FermenCo.」の大きな特徴でもあるのがピザの生地。
小麦粉と水だけで起こすサワードウという自家製発酵種を使い、長時間かけてじっくりと発酵させています。
さっぱりとしたなかに小麦本来の甘みが感じられるのが、サワードウならではの優しい味わい。
店内に響く心地のよい音楽、目の前には青い海、そしてナチュラルワインを傾けながらおいしいサワードウピザを楽しむ。
贅沢すぎる時間を、ぜひ。

入田浜がすぐ目の前に。シンプルで洗練された店内の雰囲気も心地よく、つい長居してしまいます(写真撮影/津留崎徹花)

入田浜がすぐ目の前に。シンプルで洗練された店内の雰囲気も心地よく、つい長居してしまいます(写真撮影/津留崎徹花)

イタリアから仕入れたこだわりのピザ窯。400度以上にもなる高温の窯で焼きあげたピザは、ふっくらとした食感と炭火の香ばしさが楽しめます(写真撮影/津留崎徹花)

イタリアから仕入れたこだわりのピザ窯。400度以上にもなる高温の窯で焼きあげたピザは、ふっくらとした食感と炭火の香ばしさが楽しめます(写真撮影/津留崎徹花)

モッツァレラチーズやマッシュルーム、卵などがトッピングされたビスマルクもおすすめです。トリュフオイルの香りが独特のアクセントに(写真撮影/津留崎徹花)

モッツァレラチーズやマッシュルーム、卵などがトッピングされたビスマルクもおすすめです。トリュフオイルの香りが独特のアクセントに(写真撮影/津留崎徹花)

PM15:00 鈴与鮮魚店(静岡県下田市一丁目)

キンメだけじゃない、下田のおいしい地魚を食べるなら迷わずこのお店へ!

夕方になると地元の常連さんがお刺身を買いにくるのをよく見かけます。わが家もお刺身を買うならここ、と決めているのです(写真撮影/津留崎徹花)

夕方になると地元の常連さんがお刺身を買いにくるのをよく見かけます。わが家もお刺身を買うならここ、と決めているのです(写真撮影/津留崎徹花)

下田といえば金目鯛が有名ですが、そのほかにも四季折々のおいしい地魚がたくさんあります。
鈴与鮮魚店さんの店先に並ぶ魚は、そのほとんどが地元であがった天然ものの良質な魚。
「売ればいいってもんじゃないんだよね、いいものを仕入れないと意味がないから」と話すのは店主の鈴木さん。
そうしたこだわりは、一口味わってみれば納得がいきます。
魚の臭みなどみじんなく、うま味だけがすっと身体に染み込んでいく感覚。
こだわりがあるからこそ、時には店先の魚が乏しくなることも。

「海が荒れれば魚は上がらない、自然相手だからいい日もあれば悪い日もあるんだよ。」とご主人。
冷凍や養殖ものを扱えば、天候に左右されずに商売ができます。
けれど、地元で上がった天然の魚を一番おいしい旬の時期に提供したいというのがご主人の姿勢。
魚の種類によっては仕入れてから一晩寝かせ、翌日身が緩んだらようやく骨を抜く。さらにもう一日寝かせてから店先で販売するのだそう。そうして一番おいしいタイミングでお客さんに提供するのです。

「今日はお魚が並んでいるかな?」そんな風に魚を買いにいくのも、下田暮らしの楽しみのひとつです。

仕入れた魚を丁寧に処理するご主人(写真撮影/津留崎徹花)

仕入れた魚を丁寧に処理するご主人(写真撮影/津留崎徹花)

店先に並んでいる魚は身が引き締まっていて、とにかく美しい。この日に並んでいたのは色鮮やかな地金目鯛や高級魚のオオモンハタ、芭蕉イカ(あおりイカ)など(写真撮影/津留崎徹花)

店先に並んでいる魚は身が引き締まっていて、とにかく美しい。この日に並んでいたのは色鮮やかな地金目鯛や高級魚のオオモンハタ、芭蕉イカ(あおりイカ)など(写真撮影/津留崎徹花)

お刺身の盛り合わせの一例(写真撮影/津留崎徹花)

お刺身の盛り合わせの一例(写真撮影/津留崎徹花)

PM17:00 下田ビューホテル(静岡県下田市柿崎)

外浦海岸を一望!日帰り入浴ができる絶景温泉。

ジャグジー付きの内風呂からも海が一望できます(写真撮影/津留崎徹花)

ジャグジー付きの内風呂からも海が一望できます(写真撮影/津留崎徹花)

東京で暮らしていた頃は、長期休暇を利用して温泉旅行へ出かけていました。
けれど今は、温泉地としても人気のある下田に住んでいます。
つまり、「あぁ、疲れた~」というときにすぐ温泉につかることができるのです。
家族で近くの温泉宿に宿泊することもあるのですが、ひとりでふらっと日帰り入浴に行くことも多々あります。
なかでもお気に入りの日帰り入浴が下田ビューホテル。
昭和47年に開業した下田ビューホテルは、クラシカルな雰囲気がとても素敵で、お風呂は内風呂と露天風呂があり、美しい外浦海岸を一望することができる絶景温泉なのです。
青い海を眺めながらゆっくり入浴していると、一日の疲れがしだいに解けていきます。
特別な旅行ではなく、日常に温泉があるという暮らし方はとても心地のよいものです。
(新型コロナウィルス拡大防止のため、現在下田市在住の方のみ日帰り入浴が可能です。)

お風呂は男女ともに露天風呂と内風呂があります(時間帯によって入れ替え制)(写真撮影/津留崎徹花)

お風呂は男女ともに露天風呂と内風呂があります(時間帯によって入れ替え制)(写真撮影/津留崎徹花)

ラウンジでのランチを予約すると無料で温泉が利用できます。メニューは和定食や海鮮丼などで2500円(税込)(ランチは要事前予約、2名様より予約可能)(写真撮影/津留崎徹花)

ラウンジでのランチを予約すると無料で温泉が利用できます。メニューは和定食や海鮮丼などで2500円(税込)(ランチは要事前予約、2名様より予約可能)(写真撮影/津留崎徹花)

こちらは客室からの眺め。日帰り入浴だけではなく、宿泊してのんびりするのもおすすめです(写真撮影/津留崎徹花)

こちらは客室からの眺め。日帰り入浴だけではなく、宿泊してのんびりするのもおすすめです(写真撮影/津留崎徹花)

PM18:00 外浦海水浴場(静岡県下田市外浦)

仕事が終わったら、さあビール片手に海へ行こう!

ふじのくに限定「静岡麦酒」で乾杯!(写真撮影/津留崎徹花)

ふじのくに限定「静岡麦酒」で乾杯!(写真撮影/津留崎徹花)

「今日もよく頑張った…という仕事終わり、飲みにいく?どこに?近所の海に!」
という贅沢なことができてしまうのが下田暮らしの良いところです。

私が夕暮れどきによく足を運ぶのは、外浦海水浴場。
下田には9つの海水浴場があるのですが、なかでも波が穏やかなのがこの外浦海水浴場です。
夏になると小さい子ども連れの海水浴客でひしめき合う人気のスポットなのですが、人けのなくなる夕方になると、ちょうど夕日が海の方向へ差し込みます。
波のない静かな海が真っ青に色づき、そして空はピンク色に染まっていく。
なんとも美しい色合いの景色を眺めながら、冷えた缶ビールで乾杯。
一日頑張った自分への最高のご褒美です。

こんな景色が家のすぐそばで見られるなんて、これほど贅沢なことはないです(写真撮影/津留崎徹花)

こんな景色が家のすぐそばで見られるなんて、これほど贅沢なことはないです(写真撮影/津留崎徹花)

晴れた日中もまた、素晴らしい景色が広がります(写真撮影/津留崎徹花)

晴れた日中もまた、素晴らしい景色が広がります(写真撮影/津留崎徹花)

下田で暮らし始めてから5年が経ちます。東京に住んでいたときには渋滞に巻き込まれながら旅行に出かけていました。けれど今はちょっと休息をしたければすぐ目の前に海や温泉がある、贅沢な環境だとつくづく思います。
そして、時が経てば経つほど下田の魅力を感じています。豊かで美しい自然、そうした自然を生かしながら寄り添って暮らしてきた地元の方々の知恵には、学ぶことがとても多いと感じる日々です。
今回の記事をきっかけに下田に興味を持ってくださったらとても嬉しいです。ぜひ一度、下田に足を運んでください。

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●紹介スポット
爪木崎自然公園
[住所]静岡県下田市須崎
[営業時間・定休日・料金]散策自由
[アクセス]伊豆急下田駅より約15分
伊豆急下田駅よりバス「爪木崎」行き 爪木崎下車
[駐車場]あり(500円)
「爪木崎自然公園」の詳細はこちら(爪木崎)

農産物直売所・旬の里
[電話] 0558-27-1488
[住所]静岡県下田市河内281-9
[営業時間]8:30~17:00
[定休日]なし/年末年始のみ休業(12/31~1/3)
[アクセス]【電車】伊豆急蓮台寺駅から徒歩5分
【車】伊豆急下田駅から国道414号松崎方面に向かい車で約5分
[駐車場]あり(無料)
「農産物直売所・旬の里」の詳細はこちら

FermenCo. フェルメンコ
[電話]0558-36-3643
[住所] 静岡県下田市吉佐美348-37
[営業時間11:00-14:30
[定休日]月・火曜日
[料金]ピザ1300円~
マルゲリータ1500円
ビスマルク1900円
ナチュラルハウスワイン グラス600円
[アクセス]【電車】伊豆急下田駅より車で10分
【車】(東京方面より)新東名長泉沼津ICより伊豆縦貫道を通り、下田方面へ約1時間半
[駐車場]入田浜海水浴場の駐車場を利用(夏季期間有料)
「FermenCo.」の詳細はこちら

鈴与鮮魚店
[TEL]0558-22-0458
[住所]静岡県下田市一丁目14−47
[営業時間]11:00~17:00
[定休日]毎週水曜日・月末だけ水・木曜日
[アクセス]伊豆急下田駅から徒歩約3分
[駐車場]なし

下田ビューホテル
[電話]0558-22-6600
[住所]静岡県下田市柿崎633
[営業時間]日帰り入浴 11:00-14:00
[定休日]繁忙期は日帰り入浴の受け入れなし
[料金]1500円(ランチ2500円)
[アクセス]
【電車】JR特急踊り子号で伊豆急行の伊豆急下田駅へ。 伊豆急下田駅より車で6分。送迎あり。
【車】
<東京方面から>
東名高速道路を名古屋方面~東名厚木IC~小田原厚木道路~石橋ICから国道135号で白浜へ
<名古屋方面から>
東名高速道路を東京方面~新東名・長泉沼津IC~〔東駿河湾環状道(有料)~伊豆中央道(有料)~修善寺道(有料)〕~国道136号、国道414号から国道135号で白浜へ
※新東名長泉沼津ICから約1時間35分
[駐車場]あり(80台無料)
「下田ビューホテル」の詳細はこちら

外浦海水浴場
[住所]下田市外浦
[営業時間・定休日・料金]散策自由
[アクセス] 伊豆急下田駅より約7分
[駐車場]あり(夏季期間有料)
「外浦海水浴場」の詳細はこちら

好きすぎて長野にサウナ移住。The Saunaをつくったら、聖地になり移住希望者も続々で人生が変わった話 野田クラクションべべーさん

サウナは今、空前のブーム。なかでも全国各地の自然や水質を活かしたアウトドアサウナは、その地域にしかない唯一無二であり、サウナーたちにとって欠かせない体験のひとつとなった。そのアウトドアサウナの先駆者である『The Sauna』支配人の野田クラクションべべーさんは、東京生まれの東京育ち。だが5年前、サウナをつくるために長野県信濃町に移住した。サウナに熱狂し、サウナをきっかけに移住したその後の暮らしはどうだろうか。サウナ移住のいきさつと、移住後の暮らしについて話を伺った。

誰に言うでもなかった密かな趣味、サウナを仕事にしようと思い立った

野田さんは、もともとWEBメディアの広告代理店・株式会社LIGを経営する社長のカバン持ちとしてインターンで就業(その後正社員に)。ブログコンテンツの企画のために社長の無茶ぶりに応え、タイで仕入れたTシャツを1ヶ月で200枚を売るために訪問販売したり、海外で野宿生活を送ったりなどもしていた。そんな日々のなか、1年間車中泊をしながら日本全国を回る企画で国内を放浪していた時にハマったのが、サウナ。開眼のきっかけは、高知県田野町にある入浴施設・たのたの温泉だと振り返る。

「その日は、お遍路で100km程度の道程を3日間かけて歩いてたんですよ。日差しの強い中、お風呂も入らずに歩き続けていたので、両手が日焼けでとっても痛かった。なのでまずは、と水風呂に入ったんですよね。で、体が冷たくなったから、そのままサウナへ。するとサウナ室内でのオルゴール調のBGM、夕方の外気浴、目の前で流れる小川の音と、グルービングがバチッとハマって、はー、気持ちいいなってふわっと体が軽くなった。さらに、その日はすごくよく眠れたんです。それがサウナに目覚めたきっかけですね」

それを機に、東京に戻った後もサウナに通うようになった。

お遍路巡りをする当時の野田さん。20kgの荷物を抱えて毎日30km歩いているなか、サウナのととのいに目覚めた(写真提供/野田さん)

お遍路巡りをする当時の野田さん。20kgの荷物を抱えて毎日30km歩いているなか、サウナのととのいに目覚めた(写真提供/野田さん)

その後、ラッパー活動(これも仕事)を通じて本気で音楽をやる人たちに出会ったことで、改めて「自分が本気になれることって何だろう」と考え始めた野田さん。誰に話すわけでもない、それでも通い続けていたサウナならやれる。サウナへの道を進む決断をした。

最初は、会社を辞めてサウナ施設へ転職するつもりだった野田さん。昔からお世話になっている編集者の先輩に相談したところ、社長の運営する長野の宿泊施設「LAMP」内でのサウナ建設をすすめられた。

「まだ湖に飛び込むようなサウナは日本にないから、やってみれば?」。その一言で、野田さんの人生は本格的にアウトドアサウナへと舵をきっていく。アウトドアサウナは、フィンランドが本場。それを知った野田さんは早速社長に旅費を借りて現地視察。自然の地形を活かしたサウナを見て、これを野尻湖でやろう!と決心し、その勢いのまま2018年11月に信濃町に移住した。

サウナ発祥の地・フィンランドでは、サウナはコミュニケーションツール。人々がサウナに入る風景があちこちで見られる(写真提供/野田さん)

サウナ発祥の地・フィンランドでは、サウナはコミュニケーションツール。人々がサウナに入る風景があちこちで見られる(写真提供/野田さん)

サウナ後、湖や池に飛び込む現地の人々(写真提供/野田さん)

サウナ後、湖や池に飛び込む現地の人々(写真提供/野田さん)

移住するやいなや、自身で損益分岐表をネットなどで調べながら作成。クラウドファンディングで約6カ月で264万円の建設費を集めることに成功した。

そして半年後、The Sauna 第1号棟の「ユクシ」が誕生する。

The Sauna全景。長野県・野尻湖のほとりにある宿泊施設LAMPの敷地内につくったThe Saunaは、全部で4棟のログハウス式サウナが並ぶ。手前が第1号棟の「ユクシ」(写真撮影/新井友樹)

The Sauna全景。長野県・野尻湖のほとりにある宿泊施設LAMPの敷地内につくったThe Saunaは、全部で4棟のログハウス式サウナが並ぶ。手前が第1号棟の「ユクシ」(写真撮影/新井友樹)

薪ストーブでサ室内は高温に。フィンランド式のセルフロウリュで、スタッフが用意したアロマ水をじゅわーとアツアツのサウナストーンにかける(写真撮影/新井友樹)

薪ストーブでサ室内は高温に。フィンランド式のセルフロウリュで、スタッフが用意したアロマ水をじゅわーとアツアツのサウナストーンにかける(写真撮影/新井友樹)

サウナ中に白樺の小枝を束ねた「ヴィヒタ」で体を叩く「セルフウィスキング」をするのがフィンランド流。フィンランドには「ヴィヒタ抜きのサウナは塩抜きの料理」という格言もあるとか。葉っぱは長野県の白樺、林檎の木の葉など長野県産のものを使用。ヴィヒタはオプションで購入可能(2500円~)(写真撮影/新井友樹)

サウナ中に白樺の小枝を束ねた「ヴィヒタ」で体を叩く「セルフウィスキング」をするのがフィンランド流。フィンランドには「ヴィヒタ抜きのサウナは塩抜きの料理」という格言もあるとか。葉っぱは長野県の白樺、林檎の木の葉など長野県産のものを使用。ヴィヒタはオプションで購入可能(2500円~)(写真撮影/新井友樹)

十分に体が温まったら水風呂タイム。サウナ小屋の隣の水風呂のほか、徒歩5分ほどと少し離れてはいるが、野尻湖へ“ドボン”もできる(写真撮影/新井友樹)

十分に体が温まったら水風呂タイム。サウナ小屋の隣の水風呂のほか、徒歩5分ほどと少し離れてはいるが、野尻湖へ“ドボン”もできる(写真撮影/新井友樹)

アウトドアサウナは体験がすべて。だから地元の誰とつくるかを大事にした

“ぜんぶ、しぜん。”をコンセプトにしたThe Saunaは、地元の資材を使うことはもちろん意識しながらも、最も大事にしたところは、地元の誰とつながるか、ということだという。

「利用者にストーリーを話せるサウナにしたい」。そう考えた野田さんが声をかけたのは地元のログハウス会社。「これまでつくったことがない」と言われながらも、一緒にサウナをつくりあげた。また、ヴィヒタを長野の白樺の生産者と共同開発したり、フードメニューに信濃町に移住してきた農家さんがつくった無農薬野菜を取り入れたりもした。

サウナ上がりのご飯、“サ飯”も楽しみの一つ。写真手前は、花山椒を効かせた名物の「ラムマーボーご飯」(1200円)。写真はプラス100円で野沢菜をトッピングしている。写真右上の「リーフサラダ」(ハーフサイズ500円)は地元の有機野菜を使用。移住者でもある地元農家のスペイン人・フリアンさんがクワも使わず育てた野菜は、肉厚で味が濃い。写真奥は手づくりシロップを加えた「本気のレモンスカッシュ」(500円)※すべて税込(写真撮影/新井友樹)

サウナ上がりのご飯、“サ飯”も楽しみの一つ。写真手前は、花山椒を効かせた名物の「ラムマーボーご飯」(1200円)。写真はプラス100円で野沢菜をトッピングしている。写真右上の「リーフサラダ」(ハーフサイズ400円)は地元の有機野菜を使用。移住者でもある地元農家のスペイン人・フリアンさんがクワも使わず育てた野菜は、肉厚で味が濃い。写真奥は手づくりシロップを加えた「本気のレモンスカッシュ」(500円)※すべて税込(写真撮影/新井友樹)

さらに、と、野田さんは続ける。

「アウトドアサウナって、やはり自然だから、天候によって体験が変わるんです。虫が多くて気持ちよくサウナに入れない日が10点だとしたら、雨上がりで水温が低くてむちゃくちゃ水風呂が綺麗な100点の日もある。同じ場所でも同じ体験ができるとは限らないところも醍醐味なんです。

だからこそ、アウトドアサウナにはスタッフのサービスがとても大事。お客さまにとって心地よいサービスができれば150点になる日もある。The Saunaはそこをすごく重要視してますね。うちは、サ室の温度を保つために薪の管理などをする担当者、いわゆる“サウナ番”がいるのですが、特に設けなくてもいいポジションかもしれない。でも、最高の体験になるように演出するためには必要なんです」

サウナ前にはワイン樽を切ってつくった水風呂が。黒姫山の伏流を引き込んだ、冷たい天然水がサウナでほてった体を急速に冷やす(写真撮影/新井友樹)

サウナ前にはワイン樽を切ってつくった水風呂が。黒姫山の伏流を引き込んだ、冷たい天然水がサウナでほてった体を急速に冷やす(写真撮影/新井友樹)

外気浴スペースは樹に囲まれたスペースなどいろんな場所にある。水風呂で体を冷やした後、ととのいイスに座れば訪れる、開放感。鳥のさえずりに木々の枝葉の揺れ、小川の音。すっかり五感が解き放たれ、まるで森と一体化したような感覚を味わえる(写真撮影/新井友樹)

外気浴スペースは樹に囲まれたスペースなどいろんな場所にある。水風呂で体を冷やした後、ととのいイスに座れば訪れる、開放感。鳥のさえずりに木枝の木々の枝葉の揺れ、小川の音。すっかり五感が解き放たれ、まるで森と一体化したような感覚を味わえる(写真撮影/新井友樹)

サウナから出ると、サウナ番のスタッフが準備してくれたお茶と塩飴が並べてある(写真撮影/新井友樹)

サウナから出ると、サウナ番のスタッフが準備してくれたお茶と塩飴が並べてある(写真撮影/新井友樹)

“やんわり、すっと”を心がけてほどよい距離感でのサービスを常に考えている。その後、ドラマの『サ道』(テレビ東京系)やととのえ親方の情報発信などのおかげでサウナへの認知度が上がり、The Saunaは今では人気のサウナスポットになった(写真撮影/新井友樹)

“やんわり、すっと”を心がけてほどよい距離感でのサービスを常に考えている。その後、ドラマの『サ道』(テレビ東京系)やととのえ親方の情報発信などのおかげでサウナへの認知度が上がり、The Saunaは今では人気のサウナスポットになった(写真撮影/新井友樹)

勢いで移住したが、コロナ禍で信濃町の魅力をかみしめた

とにかくサウナをつくりたい。その一心で長野県信濃町に移住し、最初の1年はただがむしゃらで、当初は楽しむ余裕もなかった。一人でも多くのお客さんを呼ぶことに夢中で、まちを楽しむどころではなかった。

ところが国内で新型コロナが蔓延し、約2カ月の休業を余儀なくされたとき、LAMPの宿で自身が提供していたサービスを経験してみた。その時に初めて信濃町の魅力に気がついたという。

「野尻湖のおかげで釣りが趣味になりました。起きて5分後には釣りができるんですよ。また春と秋には山菜狩りやきのこ狩りが、夏にはカヤックやSUP、冬にはクロスカントリーやスノーシューが楽しめます。新潟県の上越にもアクセスが良くて山へお出掛けもできる。信濃町は長野駅から車で30~40分程度なので、移動もそこまで苦じゃない――その環境の豊かさを初めて知った時に、『なんていい場所だろう』と改めてこの場所が好きになりました」

釣りを楽しむ野田さん(写真提供/野田さん)

釣りを楽しむ野田さん(写真提供/野田さん)

生活も早寝早起きにシフトチェンジし、東京では難しかった健康的な生活を送っているそうだ。

「何より、自然のことを考える機会が多くなりましたね。嫌でもアウトドアで自然に触れるので、SDGsは意識するようになった。以前はそこまで深く考えることはなかったんですけれどね。例えば、木を永続的に残していくためにはどうしたらいいかとか、自分がおじいちゃんになった後もこの環境をどう維持していくかといったことを考えるようになって、先進的なフィンランドの取り組みを積極的に学んだりするようになりました。今はフィンランドや他の国の人と直接対話がしたくて、人生で初めて英語を学びたいなと思うようになりました」

野尻湖では、カヤックボードの上に寝そべって日光浴を楽しむこともできる(写真撮影/新井友樹)

野尻湖では、カヤックボードの上に寝そべって日光浴を楽しむこともできる(写真撮影/新井友樹)

湖のほとりで森林浴とヨガを楽しむ人がいるのも日常的な光景(写真撮影/新井友樹)

湖のほとりで森林浴とヨガを楽しむ人がいるのも日常的な光景(写真撮影/新井友樹)

The Saunaは、アウトドアサウナ初心者の利用が多い。つまり、信濃町に初めて触れる機会にもなるというパブリックな一面もあることをとても意識しているという。だからこそ、信濃町の暮らしや観光などについての情報もシェアしているとのこと。

「そのためにも、信濃町の良さをどう多くの人たちと共有できるかを考えるようになりました。信濃町の魅力を知ってもらえれば、ゆくゆくは移住者も増えて、地域の活性化につながるかもしれない。そのためには地域の経済成長が大事です。なので、自分たちのサウナやサービスのクオリティを高めることで、もっと地域に人が来てくれるきっかけになればいいなと思いますね」と話す野田さん。

こうして、個人の“好き”からはじまった勢いまかせのサウナ移住は、徐々に地域をどう盛り上げていけるかという視点へと広がっていったのだ。

最近ではサウナビルダーとして全国のサウナの立ち上げにも関わる野田さんだが、野尻湖の風景が一番好きだと話す(写真撮影/新井友樹)

最近ではサウナビルダーとして全国のサウナの立ち上げにも関わる野田さんだが、野尻湖の風景が一番好きだと話す(写真撮影/新井友樹)

移住はデメリットもメリットもある。どこで判断するかがポイント

野田さんが移住して今年で5年。アウトドアサウナは、野田さんの活動をきっかけに今や他の地域でも増え、その地域でしか体験できないサウナに魅せられて移住する人が少しずつ出てくるまでになった。野田さんのたった一人の決断もまた、多くのサウナ移住検討者たちへ背中を見せる形となった。

「正直、勢いで移住を決めた僕のパターンはあまり参考にならないかもしれないですが、決めるってことが大事な気がします。信濃町でいえば冬は積雪量が多いので雪かきが必要です。田舎だと虫も多かったりするし、それ以外でも嫌なことだってある。でも都会だって嫌なことはある。その嫌な部分も含めて決断するってことが大事だと思うんですよね。

第三者から見た、住みやすさを条件にするのも、良いは良い。けれどどこの部分で移住を決めるかを自分で実際に通ってみて考えることが割と重要かなと思います」と真っ直ぐ前を見て野田さんは語る。

(写真撮影/新井友樹)

(写真撮影/新井友樹)

The Saunaには、全国から「サウナやアウトドアを楽しみたい、学びたい」という人が移住してきて、スタッフとして働いている。移住希望者には、まずはヘルパー制度という期間を設け、まちや季節感などを実際に体験してから判断してもらうそうだ。

「移住は合う人合わない人がいます。まずは自分にとってどうなのか、できれば、地域の春夏秋冬を見てもらった上で判断してもらえたらいいなと思いますね。住んだ後の人との関係も出てくるので、ローカルルールやまちの集会など理解しておくとスムーズかなと思います。役所などのオンライン移住相談で話を聞くなど、まずは自分の条件やイメージに合うかを一次情報で判断していけたらいいですね」

自分の生活の条件だけでなく、何が好きか、何が許容できて、何ができないのかといった、自分の価値観をどこに置くか。その点が決断するポイントの一つかもしれない。

勢いでしたサウナ移住だったが、価値観や人生観、ライフスタイルもガラッと変わったという野田さん。野田さんは今日もまたサウナを通じて、新たな地域の価値を探っていく。

(写真撮影/新井友樹)

(写真撮影/新井友樹)

●取材協力
LAMP野尻湖
The Sauna
野田クラクションべべ―さん

金物のまち・新潟県三条市が人気NO1移住地に! スノーピークなど若者が熱視線の4事例

新潟県三条市が、人気移住地域ランキング「SMOUT移住アワード2021上半期ランキング」(面白法人カヤック発表)でNo.1に輝いた。その評価ポイントは、「市内のエリア特性を見事に生かし、移住関心者の心を掴んだこと」。「移住関心者の心を掴む」として挙げられているのが、三条市に本社を構えるスノーピーク。敷地内にキャンプ場を併設している、アウトドア業界を牽引する企業だ。
そのほかにも、一大金物産地である燕三条地域を成す三条市には、人口比あたり日本一社長が多いと言われるほど多くの企業が存在している。人気の理由を深堀りするため、「スノーピーク」と、話題の金物づくり企業「庖丁工房タダフサ」と「諏訪田製作所」、そして工場と工場、クリエイターをつなぎ文化の継承を担う「三条ものづくり学校」を訪れてみた。

「スノーピーク」アウトドアは趣味かつ仕事!全国から集まる若者が永久保証品質の担い手

国内外でアウトドア関連事業を幅広く展開するスノーピークは、三条市を代表する企業だ。「人生に、野遊びを。」をスローガンとする同社の製品は、多くのキャンパーから支持されている。

本社の地下にあるスノーピークミュージアム。創業からの歴史とこれまでの製品が展示されている(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

本社の地下にあるスノーピークミュージアム。創業からの歴史とこれまでの製品が展示されている(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

創業は1958年。三条市で山井幸雄(やまい・ゆきお)さんが金物問屋を立ち上げ、趣味の登山用に本格的なギアをつくりだしたのが始まりだ。

幸雄さんが開発した、雪山登山時に靴に装着するアイゼンと、岩にボルトを打ち込むハンマー(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

幸雄さんが開発した、雪山登山時に靴に装着するアイゼンと、岩にボルトを打ち込むハンマー(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

その後、息子の太(とおる)さんが2代目社長に就任し、オートキャンプ領域を切り開いた(現在会長職)。
キャンプ用品はバックパッカーやクライマー向きのものが中心だった時代。欲しいものを自らつくり現場で試すという信念を父親から受け継ぎ、誰もが気軽にアウトドアを楽しめる上質な用品を、次々と産み出していった。

山井太さん(左)は三条市生まれ。東京の大学で学び、外資系商社を経て2代目社長に就任した。2020年に娘の梨沙さんが3代目となり、2021年4月より代表取締役会長。執行役員でもある妻の多香子さん(右)とは商社で同期入社だったそう(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

山井太さん(左)は三条市生まれ。東京の大学で学び、外資系商社を経て2代目社長に就任した。2020年に娘の梨沙さんが3代目となり、2021年4月より代表取締役会長。執行役員でもある妻の多香子さん(右)とは商社で同期入社だったそう(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

暴風雨にさらされてもテントを守る頑丈なペグ。焚火のような強い直火に耐えうる鍋。室内で使用する以上に堅牢さを求められるアウトドア製品づくりは、燕三条の職人の技術が支えている。
「たとえば鍋は、大きさによりコンマミリ単位で板厚を変えねばなりません。どのくらいの厚さがベストなのか職人の経験に頼りながら、試作を繰り返します。同時に使いやすさ、美しさを追求しますから『お前が持ってくる依頼はめんどくさいものばっかりだ』と言われながらも、『こんなの無理ですよね、できないですよね』と職人魂を焚き付ければ焚きつけるほど(笑)、こちらの要求を超えてくるのが燕三条の職人です。『試作品つくるために機械もつくっちゃったよ』なんて、びっくりさせられることもよくありました」(太さん)。
高品質を誇りに、「キャンプ製品に永久保証をつけたのは我々が世界初です」と太さんは胸を張る。そんなスノーピークは2011年に、本社をキャンプ場・店舗・工場・オフィスが一体となった「Headquarters」へと進化させ、三条市街地から山を身近に望む丘稜地帯に移転した。

取材当日は大雪。雪中テント泊を楽しみにするキャンパーが関東から訪れていた(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

取材当日は大雪。雪中テント泊を楽しみにするキャンパーが関東から訪れていた(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

「社員もみんなキャンパー、自然の中で過ごすのが大好きなことが入社の条件のひとつです」と語るのは、執行役員の吉野真紀夫(よしの・まきお)さん。自身も釣りとキャンプの愛好家だ。「山も川も海も近いこの場所は、アウトドア体験から製品をつくり試すのにふさわしい、素晴らしい場所です」

「これを眺めながら仕事だなんて、最高でしょ?」と雪景色にはしゃぐ吉野さん。晴れたときには広大なキャンプ場とその奥の山並みが本社屋から一望できる(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

「これを眺めながら仕事だなんて、最高でしょ?」と雪景色にはしゃぐ吉野さん。晴れたときには広大なキャンプ場とその奥の山並みが本社屋から一望できる(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

アウトドア愛好者の憧れの会社となったスノーピークには、全国から入社希望者が殺到する。「今や社員のほとんどは新潟県以外の出身。私も東京出身です」(吉野さん)
「社員たちのアイデアは、地元の工場の職人さんたちに、それこそ打たれ研磨されて世界に誇れる商品になっていきます。新人のうちは不勉強を嘆かれつつもモノづくりへの熱い気持ちは同じ。心に火をつけて最高のギアをつくっていくのです」(吉野さん)

キャンパーであることを優とするスノーピークの採用基準と、常にキャンパーでいられるフィールド、そして、そのフィールド体験をカタチにできる燕三条のモノづくり。そんな吸引力が、若者をスノーピークに惹き寄せているようだ。

社員が自由に使える打ち合わせスペースはまるでキャンプサイト。「これからは衣食住働遊の全領域で、自然と触れ合える生活を提供していきます」(山井太さん)(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

社員が自由に使える打ち合わせスペースはまるでキャンプサイト。「これからは衣食住働遊の全領域で、自然と触れ合える生活を提供していきます」(山井太さん)(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

「庖丁工房タダフサ」世界のバイヤーが認める鍛冶仕事は子どもたちの憧れ

庖丁工房タダフサは、世界中のバイヤーが注目する話題の企業だ。創業は1948年。現在は3代目となる曽根忠幸(そね・ただゆき)さんが経営を担う。
タダフサの主力製品はその名の通り包丁だ。手作業でつくられる鋼の包丁は極上の切れ味。例えば家庭用の万能三徳包丁は9000円(税別・取材当時)と高額だが、生産が間に合わないほどの人気を誇っている。

工場併設のショップ。鋼製包丁はオールステンレスに比べると手入れが必要だが、その重力だけで固い人参が切れる体験をすると、買わずにはいられない。研ぎ直しサービスもあるので安心(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

工場併設のショップ。鋼製包丁はオールステンレスに比べると手入れが必要だが、その重力だけで固い人参が切れる体験をすると、買わずにはいられない。研ぎ直しサービスもあるので安心(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

会社ロゴには、鋼材をつかむ、つかみ箸をデザインした。以前は鍛冶職人が最初に修行としてつくるならわしがあったそう(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

会社ロゴには、鋼材をつかむ、つかみ箸をデザインした。以前は鍛冶職人が最初に修行としてつくるならわしがあったそう(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

「祖父の寅三郎(とらさぶろう)が大工道具の曲尺づくりを始めたのが創業のきっかけです。腕利きが認められるようになって、農具や漁業用具などさまざまな刃物を手掛けました。家庭用の包丁も問屋から注文が入るようになり、その後父・忠一郎(ちゅういちろう)に工場を引き継ぎました。職人が全工程を手作業で行うのは、創業当時と同じです」と曽根さん。

曽根忠幸さん。東京の大学卒業後3年間の会社勤めを経験し、鍛冶職人に。2012年代表取締役に就任。会長職に就いた忠一郎さんは伝統工芸士に認定されている(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

曽根忠幸さん。東京の大学卒業後3年間の会社勤めを経験し、鍛冶職人に。2012年代表取締役に就任。会長職に就いた忠一郎さんは伝統工芸士に認定されている(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

職人の数も少しずつ増え、やがて時代のニーズとともにホームセンターからの注文も入るようになった。「ホームセンターは納期が厳しかったです。長時間労働を強いられ利益も薄いのですが、売上が大きいので断れませんでした」(曽根さん)。

2011年に中川政七商店の中川政七さんに工場経営を相談したことが転機となった。
当時の市長が三条市の活性策として「モノづくり」に道を求め、中川さんにコンサルティングを依頼。多くの金物工場の中からまず1社、タダフサが先鞭をつけるべく選抜されたのだ。

中川さんと打ち合わせを重ねて気がついたのは「自分たちで何をつくるべきか考えてこなかった」ということだった。ユーザーや問屋、ホームセンターのオーダーに応え続けた結果、当時は900種もの商品数があり、その材料や資材などの在庫を抱えていたのだそう。

検討の結果、ユーザーが選びやすい「基本の3本」包丁と、料理の腕が上がったときの「次の1本」に主力商品を整理。利益に見合わない大量発注は請け負わない決断をした。
「特殊な刃物は受注製造制にして、出来上がりまで少し待ってもらうことにしました。ウチの包丁はちゃんと研げば数十年使えますからね、買い替えも数十年に一度です」と曽根さん。

左から「基本の3本」パン切り、万能三徳、万能ペティ、「次の1本」牛刀、出刃、小出刃、刺身(写真提供/庖丁工房タダフサ)

左から「基本の3本」パン切り、万能三徳、万能ペティ、「次の1本」牛刀、出刃、小出刃、刺身(写真提供/庖丁工房タダフサ)

曽根さんは、工場見学者を受け入れて作業と技術を見てもらうことにもこだわっている。
「品質はむしろ海外から評価されていて、2021年の売り上げのうち3割以上が海外関連を占めています。こういった事実は、職人の励みにもなりますね」(曽根さん)

タダフサの包丁ができるまでは大まかに21行程。材料の切断、鋼材の鍛造、焼入、研磨、歪み取りといった工程を職人が1丁1丁作業していく。その様子を見学してもらうことで製品の確かさが伝わり、「この値段ならむしろ安い」と購入してくれる。「モノづくりの背景を知ってもらうことで、価値がより高まります」(曽根さん)

工場見学には、海外のバイヤーも多かった。新型コロナ拡大状況などによる見学可否はHPで確認を(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

工場見学には、海外のバイヤーも多かった。新型コロナ拡大状況などによる見学可否はHPで確認を(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

また、タダフサの“工房心得”には「三条の子どもたちの憧れとなるべき仕事にすること」が刻まれている。「自分も父の仕事をしている姿を見るのが大好きでした」と曽根さん。「鍛冶職人のカッコ良さを見てもらい、技巧の素晴らしさに触れてもらうことで三条が産地として継続するはずです」(曽根さん)

三条市の小学生は社会科見学で工場に訪れる。「息子が『鍛冶屋になる!』と言ってくれているのがものすごく嬉しい」(曽根さん)(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

三条市の小学生は社会科見学で工場に訪れる。「息子が『鍛冶屋になる!』と言ってくれているのがものすごく嬉しい」(曽根さん)(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

曽根さんは、燕三条の工場を一斉にオープンする「燕三条 工場(こうば)の祭典」を2013年初代委員長として開催した、立役者でもある。2020年はオンライン開催となったが、2019年には4日間で5万人の来場者があり、職人仕事に熱い視線が集まった。

「商品を絞り、高品質を伝えることで売り上げは倍以上、利益率も上がりました。憧れの職業となるよう働く環境も整えています。うちは週休二日制、勤務時間は8時間。残業も多少ありますが、残業代は当然支払います。月に1回、会社負担でマッサージも受けられるようにして、仕事の疲れも癒してもらっています」(曽根さん)

実際、タダフサには職人に憧れる若者の入社希望が増えている。2011年の社員数は12人だったが、2022年1月時点で33人。憧れの現場には、女性の職人も4名、オーストラリアから移住してきた若者も働いている。

「職人希望者が増えて嬉しいのですが、鋼を扱う作業は冬は寒いし夏は暑い。過酷な環境で作業に没頭して技巧を磨いていけるかどうかには、向き不向きがあります。ただ、三条の鍛冶職人は世界一。しっかりと家族を養うことができる収入も得られますし、手に職をつけることにより一生涯の仕事ともなります」(曽根さん)

世界基準の技術を持つ。プライベートも大切にできる収入を得る。若者がプライド高く励む鍛冶の現場が、庖丁工房タダフサにあった。

「諏訪田製作所」はオープンファクトリーの先駆者。進化を続ける創業95年企業

「工場の祭典」は職人の後継者不足と製品の低価格化を解決する一策として、燕三条エリアの工場が一斉に工場見学を開放し、一般見学者が地図を片手に思い思いの工場を巡る一大イベント。画期的な取り組みで、全国的にも話題を集めている。
開催の先駆けとなったのが、2011年に「オープンファクトリー」として工場を刷新し、見学者を迎え入れた諏訪田製作所だ。

諏訪田製作所は材料の仕入れから製造、修理まで一貫して自社で行っている。主力商品はニッパー型のつめ切り。「創業96年を迎えます。以前から地元の愛用者が、修理などの相談でフラッと工場に来ることが多かったそうですよ」と、諏訪田製作所の水沼樹(みずぬま・たつき)さん。

来場者の受け付け体制を整えたほうがお互いに良い、ということと、3代目代表取締役・小林知行(こばやし・ともゆき)さんが「生産工程を見せることで商品価値を上げたい、そして職人にプライドを持ってもらいたい」と決断したことが工場を公開する「オープンファクトリー」のきっかけだった。

のどかな田園地帯に建つ諏訪田製作所。2019年に新築された工場はひときわ異彩を放つ(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

のどかな田園地帯に建つ諏訪田製作所。2019年に新築された工場はひときわ異彩を放つ(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

正面ドアを入ると、つめ切りの端材を使ったアートが迎えてくれる(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

正面ドアを入ると、つめ切りの端材を使ったアートが迎えてくれる(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

インテリアにこだわったカフェレストランとショップも併設されていて、工場というより美術館を訪れたような感覚に陥る(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

インテリアにこだわったカフェレストランとショップも併設されていて、工場というより美術館を訪れたような感覚に陥る(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

黒と赤で統一された工場スペースでは、職人たちの様子を間近に見ることができる。オープン前は「見学者を受け入れるなんてとんでもない。集中できない」と反対の声があったそうだが、一流の職人こそ作業に没頭している。そんな心配は無用だった。
直接ユーザーから製品の良さを聞く機会が増え、精緻な技巧を誉められることで、職人たる誇りが醸成されることにも繋がった。

見学コースと作業場所は仕切られていて安全性も保たれている。集塵機がある工場は冷気が吸い込まれてしまうためエアコンをつけないことも一般的だそうだが、諏訪田製作所では倍の数のエアコンを設置して働きやすい環境を維持(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

見学コースと作業場所は仕切られていて安全性も保たれている。集塵機がある工場は冷気が吸い込まれてしまうためエアコンをつけないことも一般的だそうだが、諏訪田製作所では倍の数のエアコンを設置して働きやすい環境を維持(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

職人の家族もオープンファクトリーに訪れる。そのカッコいい姿に子どもたちは憧れて、また職人になることを目指す(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

職人の家族もオープンファクトリーに訪れる。そのカッコいい姿に子どもたちは憧れて、また職人になることを目指す(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

見学コースを抜けると、職人技に感動した逸品が並ぶショップに繋がる。1万円のつめ切りも、もはや高いとは感じない。自宅用に、大事な人へのプレゼント用にと、お買い物が進む。その後はスイーツが自慢のカフェレストランで休憩し、SNSで情報共有したくなる。そんな仕掛けも巧妙だ。

「刃と刃の境目がわからない」ことで高品質がわかる諏訪田製作所のつめ切り(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

「刃と刃の境目がわからない」ことで高品質がわかる諏訪田製作所のつめ切り(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

水沼さんは、第1回「工場の祭典」に参加して諏訪田製作所を見学し、入社を決めたうちのひとり。出身は山口県、東京の大学に進み中小企業経営を学んでいて、燕三条エリアには製造から販売まで一貫して行う工場・企業が多いことに魅力を感じていたのだそう。
「モノづくりって、人類が原始からやっていることですよね。石包丁とか土器とか。残念ながら自分は器用ではないので現場仕事には向いていないのですが、モノをつくる過程でデザインも必要だし、広報や営業も大切です。大企業とは違って職人にも経営者にも近い中小企業の工場で、いろいろなことを学びたいと考えていました」(水沼さん)

「三条に来たのは、諏訪田製作所があったから。妻は花屋を経営しています。彼女も大阪からの移住者で、燕三条で出会いました」と水沼さん(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

「三条に来たのは、諏訪田製作所があったから。妻は花屋を経営しています。彼女も大阪からの移住者で、燕三条で出会いました」と水沼さん(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

実は、水沼さんは代表取締役 小林さんの大学スキー部の後輩。「工場の祭典」の前にスキー部のOB会で出会っていた。小林さんはその時にロン毛で登場。「多くの先輩がいらっしゃる中で社長にはとても見えず、ナニモノ?と強く印象に残りました(笑)」(水沼さん)。
その後ゼミ仲間と「工場の祭典」に行くことになり、小林さんに再会。経営者としての手腕と諏訪田製作所のモノづくりに惚れ込んで入社を決めた。

取材の最後に小林さん(右)にお会いできた。この日は金髪。左は取材に同行したSUUMO編集長(写真撮影/池上香夜子)

取材の最後に小林さん(右)にお会いできた。この日は金髪。左は取材に同行したSUUMO編集長(写真撮影/池上香夜子)

諏訪田製作所の社員は約60人。熟練の職人も多いが、会社の成長にともない若者の入社が増えて、今は全体の半数が20代と30代。男女比はほぼ半々なのだそう。
その若い世代にも、モノづくりを極めたくて入社してきた人が多い。「他の工場と距離が近いのも燕三条エリアの特徴だと思います。自社製品以外に、お互いの得意技術を活かしたモノづくりができる近さは魅力的です。世界に誇れる技術がたくさんあり、販路も世界中。競争意識はありますよ。まさに切磋琢磨できる、理想のモノづくり環境です」(水沼さん)。

完璧な使い心地のつめ切り、芸術作品のようなその商品でさえ、時代に合わせてモデルチェンジを繰り返す諏訪田製作所。地域を超えて日本の工場を先導する諏訪田製作所には、未来を切り拓いていく若者の姿があった。

工場と工場、そしてクリエイターを繋ぐ「三条ものづくり学校」。職人技の継承と新たな繋がりを産み育てる

燕三条エリアの特筆すべきところは、各企業が優れた商品を生み出しているだけではなく、企業間の連携も図れている点だ。そのなかで、工場と工場、そしてクリエイターをつなぎ、文化の継承を担う役割を果たしているのが、閉校した小学校をリノベーションした「三条ものづくり学校」。東京都世田谷区のIID世田谷ものづくり学校を運営する株式会社ものづくり学校が三条市から委託を受けて2015年4月に開校した。

「燕三条エリアのモノづくりの技術やアイデアを育み、地域に貢献することが設立の目的です」と三条ものづくり学校の斎藤広幸(さいとう・ひろゆき)さん。「教室だったところを小規模のクリエイターなど事業者にオフィスとして貸し出すほか、一時的に利用可能なレンタルスペースもあります」(斎藤さん)

小学校当時そのままの外観(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

小学校当時そのままの外観(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

オフィス入居の応募条件は「ものづくりに関わる事業を行う法人もしくは個人事業主であること」。30室はほぼ満室状態だ(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

オフィス入居の応募条件は「ものづくりに関わる事業を行う法人もしくは個人事業主であること」。30室はほぼ満室状態だ(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

「三条市の工場は規模が小さいところがほとんど。組合も専門分野ごとにバラバラで、連携が乏しいという弱点がありました。職人の技術と伝統を絶やさぬよう光を当て、時代にあった商品開発に繋がる役目を果たしたい。そのため、最初はデザイナーやクリエイターに入居を促すことから始めました」(斎藤さん)

斎藤さんは開校以来200社を超える工場に出向いている。「工場、職人の技術や経営ノウハウについてインタビューして、他の工場で参考にしてもらえるようHPなどで紹介しています。直接相談を受けることも増えていて、それが新しい商品に結びつくこともあります」(斎藤さん)

例としてあげてくれたのが、「鉛筆切出(えんぴつきりだし)」。創業から60年、鍛造技術を親子二人で守り、大工道具である切出し小刀を専門につくっている増田切出工場と、ものづくり学校にオフィスを構えるカワコッチという任意団体のデザイナーが共同開発し、ステーショナリーに仕上げた。

従来の切出小刀に窪みを加えることで鉛筆が削りやすくなった。荷物の開梱など生活のちょっとした場面で幅広く使える。IDSデザインコンペ2019準大賞を受賞(写真提供/三条ものづくり学校)

従来の切出小刀に窪みを加えることで鉛筆が削りやすくなった。荷物の開梱など生活のちょっとした場面で幅広く使える。IDSデザインコンペ2019準大賞を受賞(写真提供/三条ものづくり学校)

三条ものづくり学校ではワークショップや交流会などがたびたび開催され、入居者同士のコミュニケーションも活発だ。「全て把握することはできませんが、大小のアイディアが飛び交っているようです」(斎藤さん)。

工場に眠っていた廃材や廃盤となった製品、クリエイターが廃材からつくった作品などを事業者自身が販売する「工場蚤の市」。2019年4月は2日間の開催で約2万人が訪れた。マニアックな部品が並ぶが、「地域の工場や技術が可視化できて、一般の人も出展者もいろんな発見があったと思います」(斉藤さん)

2019年「工場蚤の市」。職人による体験教室も大人気だった。2020年・2021年は「Factory Piece Market」と題し規模を縮小して開催(写真提供/三条ものづくり学校)

2019年「工場蚤の市」。職人による体験教室も大人気だった。2020年・2021年は「Factory Piece Market」と題し規模を縮小して開催(写真提供/三条ものづくり学校)

斉藤さん。自身も三条ものづくり学校での活動を事務局内に引き継ぎ中(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

斉藤さん。自身も三条ものづくり学校での活動を事務局内に引き継ぎ中(写真撮影/RIZMO-PHOTO小林和幸)

日本の多くの地方工業都市では、若者の流出が課題となることが多い。その流出を止めるには魅力的な働く場所・企業と、その環境の整備が有効なのではないだろうか。
三条市を訪れてみると、世界で戦えるモノづくりを基盤に、働きたくなるよう職場を洗練して勤務環境を整えた企業と、地元産業の職人に光を当てて繋ぐ自治体の取り組みが見えてきた。
今回訪問した企業の共通項は「高単価」「世界水準」。成し遂げていたのが、2代目・3代目だったことも共通点だった。創業者とは違う経験を通して、自社の発展と、地域・国・産業の発展とを地続きで見渡す視野の広さに感銘を受けた。

●取材協力
・スノーピーク
・庖丁工房タダフサ
・諏訪田製作所
・三条ものづくり学校
●関連リンク
・燕三条 工場の祭典

更地だらけの温泉街が再生! 移住者や二拠点生活者が集まる理由とは【旅と関係人口1/長門湯本温泉(山口県長門市)】

今、コロナ禍で帰省できない人や、都会で生まれ育った‘‘ふるさとを持たない‘‘人たちが多い。そんななか、従来の観光だけを目的にしていない、新しい旅のスタイルが生まれている。ふるさとに帰るように、何度も地域に通う「ふるさと旅」。その結果、地域と関わりを深める人が現れているのだ。それを裏付ける事例が、リピーターを巻き込んだ街づくりで温泉街を復活させた山口県長門市、長門湯本温泉だ。実際に観光などで訪れたことから、移住や二拠点生活で関わることになった人々の想いも紹介する。

川沿いの遊歩道を走る子どもたち。何度も訪れたくなる場所が第二のふるさとに(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社)

川沿いの遊歩道を走る子どもたち。何度も訪れたくなる場所が第二のふるさとに(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社)

新しい旅のスタイル。ふるさとに帰るように、何度も地域に通う「ふるさと旅」

働き方改革や新型コロナウイルス感染症の影響で人々の価値観が変わり、旅のニーズも変化している。都市部のふるさとを持たない人の中には、田舎に憧れを持ち、関わりを求める動きがある。求められているのは、従来の観光ではなく、現地の暮らしを体験し、滞在することを目的にした旅のかたち。その結果、地元の人や土地への愛着が生まれ、‘‘第二のふるさと‘‘ができる人が増えているという。

観光庁では、2022年度の概算要求で掲げた新規プロジェクト「第2のふるさとづくり」を始動させた。「何度も地域に通う旅、帰る旅」という新たなスタイルを定着させる取り組みだ。それぞれの地域も地域活性化を図るため、受け入れる体制を整えている。リピート型の新しい旅は、本格的な地域貢献につながる可能性があるのだ。

旅先のイベントに観光客として参加したのがきっかけで、そのイベントの出店者になる人もいる(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

旅先のイベントに観光客として参加したのがきっかけで、そのイベントの出店者になる人もいる(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

観光客が減り、老舗旅館廃業も……。苦境の温泉街を地元×リピーターで復活させた!

長門湯本の温泉街は、2020年3月にリニューアルオープンしたばかり。新設された高台の駐車場から竹林の中の階段を降りると音信川に出る。旅館が並ぶ川沿いには、おしゃれなカフェや雑貨屋をのぞきながらそぞろ歩く女子旅の人、川辺に張り出したテラスからは、川床や親水公園で遊ぶ子どもたちが見える。立ち寄り湯「恩湯(おんとう)」では、地元の人と一緒に観光客が入浴する様子も。ライトアップや季節ごとに行われるイベントを楽しみに何度も訪れる人も増えた。

ライトアップされた竹林の階段は旅情あふれる雰囲気。(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社、撮影/Shimomura Yasunori)

ライトアップされた竹林の階段は旅情あふれる雰囲気。(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社、撮影/Shimomura Yasunori)

音信川の飛び石で遊ぶ子どもたち(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社)

音信川の飛び石で遊ぶ子どもたち(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社)

地元の人も観光客も「おとずれ足湯」でほっこり(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社)

地元の人も観光客も「おとずれ足湯」でほっこり(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社)

(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社)

(画像提供/長門湯本温泉まち株式会社)

今の活況からは想像できないが、長門湯本の温泉街は、2014年に大きな危機に見舞われていた。当時の様子を、長門市役所に勤めたのち、現在は長門湯本温泉まち株式会社エリアマネージャーをしている木村隼斗さんに伺った。

「人口約3万3000人の長門市にある湯本の温泉街は、600年の歴史がある山口県最古の温泉です。昭和50年代のピーク時には、宿泊者数40万人もの歓楽街でした、しかし、その後は訪れる人が減り続け、ついに、2014年に150年続いていた老舗旅館が廃業になりました。温泉街の中心部には複数の老朽化した施設が残り、公費での解体が必要なまでに。すっかり更地が多くなった温泉街を見て、このままでは誰もいない街になってしまうと危機感を募らせていました」(木村さん)

2014年当時の長門湯本温泉街。老朽化や廃業による取り壊しで空き地が増えていた(画像提供/長門市役所)

2014年当時の長門湯本温泉街。老朽化や廃業による取り壊しで空き地が増えていた(画像提供/長門市役所)

長門市役所は、2016年に温泉街の再生計画をスタート。誘致したリゾートホテルと提携してマスタープランをつくり、街全体をリノベーションするプロジェクトが始まった。

「長門湯本に限らず、大型バスで宿泊施設に滞在し、施設内で飲食して帰る団体旅行から、個人旅行がトレンドになりました。川沿いの温泉街は全国で珍しくはありません。この土地にしかない魅力をつくり出すのはどうしたらいいか。箱となる施設をつくるのではなく、小さくても、個人的な思いや魅力が伝わる街にしたいと考えました」(木村さん)

プロジェクトの出発点は、長門湯本温泉の立ち寄り湯「恩湯」だった。施設の老朽化や利用客の減少により、2017年5月に公設公営での営業を終了していた温泉施設を民間で再建するプロジェクトが始まる。さらに、2017年8月から2019年にかけて、温泉街で3つの「社会実験」を実施。川床や置き座で「川を楽しむ」、道路の一部を出店ブースや休憩スペースに活用し「道を楽しむ」、湯本提灯やライトアップで「夜を楽しむ」ことをテーマとした。

立ち寄り湯「恩湯」では、岩盤から湧き出る温泉を見られる(画像提供/長門湯守株式会社)

立ち寄り湯「恩湯」では、岩盤から湧き出る温泉を見られる(画像提供/長門湯守株式会社)

「せせらぎ橋」の上に特設されたレストランでイタリアンを(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

「せせらぎ橋」の上に特設されたレストランでイタリアンを(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

社会実験イベントの様子。ベンチやフェンス、コンテナなどを仮設して、実際に人がどのように利用するのかを確かめた(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

社会実験イベントの様子。ベンチやフェンス、コンテナなどを仮設して、実際に人がどのように利用するのかを確かめた(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

解体する旧恩湯に感謝を込めて開催した「Thanks ONTO」。社会実験として、今ある橋梁にキャンドルライトを設置し、人が楽しめる夜間景観を灯りの改善で実現できるか検証した(画像提供/長門市役所)

解体する旧恩湯に感謝を込めて開催した「Thanks ONTO」。社会実験として、今ある橋梁にキャンドルライトを設置し、人が楽しめる夜間景観を灯りの改善で実現できるか検証した(画像提供/長門市役所)

「伝統ある立ち寄り湯を残したい! という思いで地域の若手有志が集まり、年配の旅館経営者も応援してくれました。いきなり理念や絵を見せるだけで『やります』と言っても、地元の賛同は得られません。『社会実験』イベントは、うまくできるかの実証実験で、将来目指すところを仮設で実現してみて課題を洗い出すために行いました。イメージや問題点を共有した上で、観光客の反応や地元の方々の受け止めを見て改善していったのです」(木村さん)

温泉街衰退の危機から6年が経った2020年3月に、リニューアルした「恩湯」と隣接する飲食施設「恩湯食」がオープン。冬季には、長門市出身の童謡詩人「金子みすゞ」の詩をテーマにしたライトアップ「音信川うたあかり」を行うなど季節ごとにさまざまなイベントを行っている。

「イベントを通じて、長門湯本で新しいことが始まっていると知り、山口県内や近県から訪れる人が増えました。宿泊者数はコロナの影響できびしいものの、宿泊費の単価がやや上がり、温泉街の満足度を高めることで宿泊事業にプラスの効果を生み出せる可能性を感じる兆しもあります。一人旅や女子旅で訪れる人が増え、温泉街に人が戻ってきていると実感しています」(木村さん)

川床でせせらぎを聞きながらくつろぐ(画像提供/大谷山荘)

川床でせせらぎを聞きながらくつろぐ(画像提供/大谷山荘)

地元の人や川への愛着が決め手。温泉通いから移住してカフェやバーを経営へ

イベントの出店者選びでは、ただ商売をするだけでなく、ものづくりや地域への思いがある出店者や、居心地のいい場所をつくるサービスを選んだ。結果として、イベントや長門湯本に出店する人は、長門湯本につながりがある人や何度も観光で訪れている人が多い。

「売れ行きだけじゃなくて、自分たちが楽しめるかどうかを大事に感じる出店者さんも多い。ここなら関わってもいいなと思える未来を共有して一緒に実現したいと思っています」と木村さん。イベント出店をきっかけに移住・二拠点生活を始めた人もいる。

音信川沿いにあるカフェギャラリー、cafe&pottery音の店長、横山和代さんもそのひとり。約400年続く萩焼・深川窯の若手作家の器と自家焙煎コーヒーのカフェが女性観光客に人気だ。横山さんが長門湯本に関わるようになったきっかけは、家族と訪れた温泉だった。静岡出身の横山さんは、岡山で家族と暮らしていたが、夫の転勤で山口県山口市に移住。釣りと温泉好きな夫と娘を連れて、山口市から毎週末、長門湯本の温泉に通うようになった。

「街の人がやさしくてあったかい」と横山さん(画像提供/横山和代さん)

「街の人がやさしくてあったかい」と横山さん(画像提供/横山和代さん)

「川沿いの温泉街がとても気に入りました。山口市内から車で1時間ほどかかりますが、月2、3回日帰り旅行で訪れるようになりました。当時入浴料が200円だった恩湯は地元の人が日常で使う温泉で、洗い場でおばあちゃんがまだ1歳だった娘を見てくれるなど、あたたかな交流をしてもらいました。仕事の都合でいったん山口を離れたのですが、あまりに居心地がよかったので、1年半後、また山口に戻ってきたんです」(横山さん)

そのころ、温泉街では、社会実験のイベント「おとずれリバーフェスタ2018」が催されていた。楽しそうな出店者の様子を見て、横山さんは、自分も出店してみることに。イベントに関わることで、木村さんをはじめとする街づくりに携わる人との出会いもあった。そして、イベント後に、長門湯本でカフェをしてみないかと誘われる。

「みなさん長門湯本をよくしようと熱い人たちで、いつも楽しそうに仕事をしているんです。いつの間にかいい意味で巻き込まれていました。旅館の方々や萩焼の若手作家さんからお声掛けいただき、とりあえず1年間だけやってみようとカフェを始めました。」(横山さん)

古民家の外装はできるだけ活かし、1階内装を中心にリノベーション(画像提供/横山和代さん)

古民家の外装はできるだけ活かし、1階内装を中心にリノベーション(画像提供/横山和代さん)

娘と一緒に山口市内から長門湯本に通う生活が始まった。本格的に移住を決めた理由は、娘の存在が大きい。

「私がカフェで忙しいと、木村さんや近所の人が娘の面倒をみてくれました。娘にとって、長門湯本がいちばん楽しい場所、大好きな場所になっていたんです。ついには、『長門の保育園に行きたい』と言い出して。長門市役所もとても協力的で、住まいの相談にも乗ってくれました。紹介してもらったのは、庭に果樹や栗の木がある古民家。2021年6月に移住することになりました」(横山さん)

川遊びを楽しむ子どもたち(画像提供/横山和代さん)

川遊びを楽しむ子どもたち(画像提供/横山和代さん)

「川沿いにある八百屋さん『荒川食品』が子どもたちを集めてスイカ割りをさせてくれたこともあります」(横山さん)(画像提供/横山和代さん)

「川沿いにある八百屋さん『荒川食品』が子どもたちを集めてスイカ割りをさせてくれたこともあります」(横山さん)(画像提供/横山和代さん)

カフェを訪れるのは、地元の人と観光客が半分ずつ。店内は、萩焼のギャラリーになっている。萩焼は、山口県萩市一帯でつくられている陶器で、長門市にも窯元がある。その窯元の作家の器を常設。地元の人でも「長門にこんないいものがあったのか」と驚く人もいるという。不定期に催される展示会目当てに訪れる人も増え、cafe&pottery音が地元と観光客をつなぐ場所になっている。

手づくりケーキが人気。長門産の果物「ゆずきち」を使ったジュースもある(画像提供/横山和代さん)

手づくりケーキが人気。長門産の果物「ゆずきち」を使ったジュースもある(画像提供/横山和代さん)

萩焼のギャラリーは、日常使いがイメージできるディスプレイを工夫(画像提供/横山和代さん)

萩焼のギャラリーは、日常使いがイメージできるディスプレイを工夫(画像提供/横山和代さん)

夕暮れの温泉街に浮かび上がる「THE BAR NAGATO」のマスター、黒田大介さんは、大阪との二拠点生活をしながら週末3日間経営するスタイルで、長門湯本と関わっている。バーテンダーとして30年の経験を持つ黒田さんは、長年大阪の北新地でバーを営んできた。

「居心地がいいからまた来たくなる街です」と黒田さん(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

「居心地がいいからまた来たくなる街です」と黒田さん(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

「もともと、温泉街のライトアップイベントのデザイナーと知り合いで、長門湯本でバーをやらないかと誘われたんです。それは無理だけど、イベントだけならと、2017年と2018年の『おとずれリバーフェスタ』に出店者として参加することに。ところが、地元の人ととても気が合って。人のつながりがどんどん増えていきました。街づくりに携わっている市役所の人、イベントのデザイナー、出店者がみんなプロフェッショナルで、自分も携わることに魅力を感じました」(黒田さん)

2回目のイベントに参加したとき、市役所から築70年の長屋を紹介された黒田さん。「改装したら、絶対いい場所になる」と夢が膨らんだ。長屋をリノベーションして2021年3月に「THE BAR NAGATO」をオープン。大阪から長門湯本へは新幹線を使いドアツードアで片道6時間ほどかかるが、毎週来るのが楽しみだという。

開業前、リフォームを手掛けた木村大吾さんたちと記念撮影をする黒田さん(写真提供/黒田大介さん)

開業前、リフォームを手掛けた木村大吾さんたちと記念撮影をする黒田さん(写真提供/黒田大介さん)

空き家だった長屋が非日常を感じさせるバーに生まれ変わった(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

空き家だった長屋が非日常を感じさせるバーに生まれ変わった(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

ライトアップイベント時には窓からきらめく川が見える(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

ライトアップイベント時には窓からきらめく川が見える(画像提供/長門市観光コンベンション協会)

長屋の2階にある「THE BAR NAGATO」の店内は、映画のセットのような空間にデザインされ、こだわりのウィスキーやカクテルが飲める。バーを訪れる人にリピーターも増えて来た。

「日帰りや旅館に素泊まりの人が来てくれますね。湯本を拠点にして長門市内へ足を伸ばしているようです。私がなぜここでバーを経営することになったか、聞かれることもあります。長屋のリノベーションを手がけたオーナーの木村大吾さんが店を訪れたとき、街づくりについてお客さんと盛り上がることもありました。『来るたびによくなるね』と驚くリピーターのお客さんも多いです」(黒田さん)

旅で訪れた人を引き付けているのは、温泉だけでなく、街全体に長門湯本をよくしたいという熱い想いが込められているから。地元の人と訪れた人で一緒につくる新しいふるさと。「これから始まる街にいるわくわく感があるんです」という横山さんの言葉がとても印象的だった。

●取材協力
・長門湯本温泉
・cafe&pottery音
・THE BAR NAGATO

音楽で生きていくため10代で移住。国立音楽院で学び、宮城県加美町が支援

田んぼに囲まれた宮城県加美町の国立音楽院宮城キャンパスで、他地域から移住してきた若者たちが演奏技術、楽器の製作・リペアや音楽療法などを学んでいる。
「好きな音楽を一生の仕事に活かす」を謳う国立音楽院の本校があるのは、話題のカフェが集まる都会、東京都世田谷区三宿エリア。音楽による地方創生を目指す加美町からの提案が、宮城分校のきっかけだった。

音楽資源を見直した町の創生キャンパス周辺に広がる田畑。冬には雪が降り積もり真っ白な光景となる(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

キャンパス周辺に広がる田畑。冬には雪が降り積もり真っ白な光景となる(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

「この町には、もともと暮らしに音楽が馴染んでいました」と教えてくれたのは加美町ひと・しごと推進課 菅原敏之さん。
東北新幹線仙台駅の隣駅の古川駅から車で20分ほどの加美町中心部には、1981年に開設された中新田バッハホールがある。パイプオルガンを備え、国内外から音響の素晴らしさが評価されている本格的クラシック専用ホールだ。市町村合併などの事情で利用が低迷していた時期もあったが、2011年に猪股洋文加美町長が就任し、中新田バッハホールを核とした音楽によるまちづくりに注力。無料コンサートが毎月開催され、小中学校の音楽活動も支えてきた。中新田バッハホールを拠点とする市民オーケストラも創設されている。

「上多田川小学校の廃校決定と合わせて、地域の方に利用の方法を検討していただきました。その中で教育施設としての提案があり、音楽関連の人材育成ができる機関を誘致して再利用する、という計画が作成されたのも自然な流れでした」(菅原さん)

国立音楽院は学校法人ではなく、音楽に関連する技術や資格への学びを提供する、いわば音楽関連職育成スクール。東京にある本校は50年以上の歴史があり、2021年度は360人ほどが学んでいる。
「国立音楽院はミュージシャン向けのカリキュラムも充実していますが、それ以上に楽器製作者や修繕をするリペアラー、育児教育につながる幼児リトミック指導員、介護を担う音楽療法士を育成している点が魅力でした。移住促進策としても、楽器製作者にふさわしい場所提供など必要な支援をイメージしやすく、また、音楽を用いた育児と介護は、住民の住み心地に直結します」(菅原さん)

町の中心部にある中新田バッハホール。加美町の音楽でのまちづくりは、2017年に地域創造大賞(総務大臣賞)を受賞している(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

町の中心部にある中新田バッハホール。加美町の音楽でのまちづくりは、2017年に地域創造大賞(総務大臣賞)を受賞している(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

国立音楽院東京本校。高校生は通信高校と提携して卒業資格を得られる。音楽大学に通いながらのダブルスクール生、社会人学生も多い。宮城キャンパスのほか鳥取県にも分校がある(写真提供/国立音楽院)

国立音楽院東京本校。高校生は通信高校と提携して卒業資格を得られる。音楽大学に通いながらのダブルスクール生、社会人学生も多い。宮城キャンパスのほか鳥取県にも分校がある(写真提供/国立音楽院)

若い移住者を支援する町と学校のセッション

加美町では、地域再生戦略交付金などを活用して旧校舎のリフォームと机などを準備。国立音楽院は加美町に使用料を支払う形で、2017年4月に宮城キャンパスが開校した。

町外からの移住者に対して、加美町では年間6万円(最長5年、30歳未満)の家賃補助を行なっている。希望者にはアルバイト先を紹介していて、「未成年の学生の代わりに、応募電話をすることもあります」(菅原さん)と、加美町の移住支援は親戚同様の温かさ。
その支援を軸に、国立音楽院も東京校以外の選択肢として宮城キャンパスへの移住を提示している。「音楽を学ぶうえで、生活コストが安いのはいいことです。また、当校はもとより不登校の生徒も受け入れています。都会より自然の中での学びの方が合う子どももいますから」(国立音楽院代表 新納智保さん)

学生の住まいは、町中心部の民間アパートを国立音楽院が紹介しているが、2022年度は中古で購入した社員寮を新たに学生寮としてオープンする予定だ。町の中心部からキャンパスまではバスで20分程度。学生は通学バスに加えて上多田川地区と市街地を結ぶ地域バスも利用できるようになっており、地域が学生の受け入れと応援に力を入れていることがわかる。

2021年度の生徒は61名。新型コロナ感染拡大の影響を受けて前年の80名より減少したが、次年度は増加を見込んでいる。
「生徒のうち約半数、29名は全国各地からの移住者です。国立音楽院のスタッフも含めて、町全体では2015年~2020年累計で244人が移住してくれました。人口減少傾向がすぐに増加に転じるわけではありませんが、移住者に10代が多いのは特筆すべき結果です」(菅原さん)

国立音楽院宮城キャンパス。草刈りなどを地元が協力してくれ、敷地内は綺麗に整備されている。学舎としてだけではなく、地域のコミュニティの場でもある(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

国立音楽院宮城キャンパス。草刈りなどを地元が協力してくれ、敷地内は綺麗に整備されている。学舎としてだけではなく、地域のコミュニティの場でもある(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

旧校舎をそのまま活用したキャンパスで伸びやかに学ぶ

旧上多田川小学校の校舎は1998年に建て替えられた。もともと児童数が少なく、複式学級(児童数が少ない学校で取り入れる2つ以上の学年を一つにした学級)を前提にした校舎だったため教室は3つのみだった。「柱、床、壁の状態はよく、ほとんどそのまま利用できました。学年別授業のための間仕切りも有効活用しています」(菅原さん)

エントランスホール。薪ストーブを設置した以外、建具は元の小学校のまま。エントランスホールで開く「月イチライブ」には地元の聴衆が駆けつける(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

エントランスホール。薪ストーブを設置した以外、建具は元の小学校のまま。エントランスホールで開く「月イチライブ」には地元の聴衆が駆けつける(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

国家資格であるピアノ調律技能士育成のための教室。防音ブースを置いただけだそう。東京本校には防音ブースがないが、宮城キャンパスでは他からの音に干渉されず繊細な音に没頭できる(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

国家資格であるピアノ調律技能士育成のための教室。防音ブースを置いただけだそう。東京本校には防音ブースがないが、宮城キャンパスでは他からの音に干渉されず繊細な音に没頭できる(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

ヴァイオリン製作科ではヴァイオリン、ヴィオラなど擦弦楽器(さつげんがっき)の製作・修理・調整を生徒たちが学んでいる。ヴァイオリン製作を本格的に教える学校は、日本では2校のみとのこと(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

ヴァイオリン製作科ではヴァイオリン、ヴィオラなど擦弦楽器(さつげんがっき)の製作・修理・調整を生徒たちが学んでいる。ヴァイオリン製作を本格的に教える学校は、日本では2校のみとのこと(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

ギターの製作室。各教室の窓外には豊かな自然が広がっている(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

ギターの製作室。各教室の窓外には豊かな自然が広がっている(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

管楽器のリペア室では授業が行われていた。この日はティンパニーが題材。あらゆる楽器をリペアできる人材の育成を目指している(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

管楽器のリペア室では授業が行われていた。この日はティンパニーが題材。あらゆる楽器をリペアできる人材の育成を目指している(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

音楽を身体で表現し感性や表現力を養う「幼児リトミック」の実習は、宮城キャンパス内や町内外の幼稚園・保育所・カルチャーセンターなどで行われている。福祉関係として、高齢者施設での音楽療法士を育成するコースもある(写真提供/国立音楽院)

音楽を身体で表現し感性や表現力を養う「幼児リトミック」の実習は、宮城キャンパス内や町内外の幼稚園・保育所・カルチャーセンターなどで行われている。福祉関係として、高齢者施設での音楽療法士を育成するコースもある(写真提供/国立音楽院)

スタッフも生徒も音楽演奏が大好き。バンド練習室は元校長室だった(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

スタッフも生徒も音楽演奏が大好き。バンド練習室は元校長室だった(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

21歳移住者「学んだ音楽の力で地域への貢献が実感できます」

北川日香里さん(21歳)は高校卒業後、国立音楽院東京校で管楽器のリペアを2年間学んだのち、2020年に加美町へ移住してきた。
「リペアを学び続けながら働きたいと考えていました。東京校で知った加美町の移住セミナーに参加してみて、地域の人と交流できる環境に興味を持ちました」と北川さん。加美町の地域おこし協力隊隊員に採用され、音楽による地域振興活動と、その活動の一環として宮城キャンパスでのリペア作業に携わる日々を送っている。

「地域おこし協力隊」は、国からの地域振興予算をもとに地域振興を担う人材を3年間登用し、給与を支払う制度。楽器の修理事業を根付かせたいという町の期待に対し、リペアラー修業を続けながら地域貢献を目指す北川さんは打ってつけの人材だった。

コロナ禍で苦戦した場面はあったが、北川さんは全世帯に配布される町内広報誌の作成や、「真夏の畑でライブ」を主催。地元の人から声を掛けられることも多いそう。「親しみを込めて話しかけてくれるのが嬉しいです。ライブ演奏も楽しんでもらえたし、自分の活動で音楽でのまちづくりが広がる実感が持てるのも、加美町の規模だからかも」(北川さん)

北川日香里さんは長崎県五島列島出身。中学校・高校の吹奏楽部時代に楽器修理が島内でできず、輸送費と待ち時間に悩まされたのがリペアラーになったきっかけ。ゆくゆくは地元の長崎で開業するのが夢(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

北川日香里さんは長崎県五島列島出身。中学校・高校の吹奏楽部時代に楽器修理が島内でできず、輸送費と待ち時間に悩まされたのがリペアラーになったきっかけ。ゆくゆくは地元の長崎で開業するのが夢(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

「宮城キャンパスでも、東京校と同じレベルの授業を提供しています」と宮城キャンパス長の宮内佳樹さん。「各学科の講師は、専門分野のプロフェッショナルです。東京校講師による出張講義もあり、オンライン授業の仕組みもコロナ禍以前から整備しています。都会では勉強以外の誘惑も多いので、学びに向き合う環境としてはこちらの方がまさっていると思います」(宮内さん)

宮城キャンパス長の宮内さん。さまざまなバンドやライブに参加するギタリストでもある。東京だけが音楽の場ではないと気づき、家族とともに東京から加美町に移住してきた(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

宮城キャンパス長の宮内さん。さまざまなバンドやライブに参加するギタリストでもある。東京だけが音楽の場ではないと気づき、家族とともに東京から加美町に移住してきた(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

「住まいのある町の中心地はスーパーもコンビニもあって、生活にはまったく支障がない」と話すのは管楽器リペア科講師の土生啓由さん。土生さんも東京校からの転勤組だ。「楽器店が身近にないのは残念な点です。高級品も含め完全に整備された楽器に触れる機会が少ないですから。ですが、生徒の数が東京校より少ない分、身近に生徒の成長を感じられるのが嬉しいです」

講師の土生さん。仕事に没頭すると昼食を抜くことも多いそうだが、「月に1回程度、地元の方が主宰してくれる交流ランチ会を生徒もスタッフも楽しみにしています。給食室で調理してくれる地元産の野菜が美味しいです」(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

講師の土生さん。仕事に没頭すると昼食を抜くことも多いそうだが、「月に1回程度、地元の方が主宰してくれる交流ランチ会を生徒もスタッフも楽しみにしています。給食室で調理してくれる地元産の野菜が美味しいです」(写真撮影/フォトスタジオクマ 熊谷寛之)

国立音楽院宮城キャンパスで定期的に行われている幼児リトミック教室は、親同士が子育ての悩みを相談できる大事な場。中高年を対象とした「若返りリトミック®」は楽しみながら運動イベントとして好評で、そのほか「地元とのランチ会」「月イチライブ」「クリスマスコンサート」は地域コミュニケーションの活性に繋がっている。

集客が制限されるなどコロナ禍の打撃は大きかったが、国立音楽院宮城キャンパス開校は、音楽による生き生きとした暮らしを実現しつつある。

加美町の菅原さんは、「これからは、卒業後の就労先を増やして移住を定着させていくことを頑張らなければなりません。楽器のリペア事業者の支援や、介護の音楽療法士・幼児リトミック指導員の活躍の場を広げていきたいです」と語る。

国立音楽院宮城キャンパスは2021年度で5年目を迎え、2022年3月で卒業する生徒(3年コース生)は3期生となる。
おうち時間に楽しむ楽器への需要が増え、2021年はショパンコンクールでの日本人上位入賞が話題となった。音楽に関連する仕事への気運が高まるなか、音楽での地域創生もますます期待していきたい。

●取材協力
・加美町
・国立音楽院宮城キャンパス

「失敗は学び、思いやりは通貨」離島に移住して知識ゼロからのDIYを楽しむ素潜り漁師マサルさんは語る

素潜り漁師マサルさんをご存じですか? 海に潜ってモリで魚を突く素潜り漁をなりわいとするかたわら、ちょっと変わった海の生き物を捌(さば)いて調理して食べる話題のYouTuber。メインチャンネルの「【素潜り漁師】マサル Masaru.」は、90万人以上の登録者を誇ります(2021年11月現在)。

マサルさんは、2017年に特技を活かした「魚突き&魚捌き」のYouTubeチャンネルを開設。東京海洋大学卒業を控えた2019年末には東京を離れて鹿児島の離島に移住し、就職する代わりに「素潜り漁師」として活動を始めます。2020年3月から島の大きな古民家を借りて住み、DIYの知識がほぼゼロの状態から古民家を大胆にリノベーションする様子を、サブチャンネルの>「【離島移住生活】マサル」で配信しています。

マサルさんはなぜ離島に住むことにしたのでしょうか? そして、古民家のリノベーションにはどんな苦労があってどういった楽しさがあるのでしょうか? 今回はリモートインタビューでお話を伺いました。

あのテレビ番組に憧れて魚突きがライフワークに

――本日はよろしくお願いします。最初に自己紹介をしていただけるでしょうか。

素潜り漁師としてのマサルさん(2021年2月6日配信の動画「カジキの角で錬成した『モリ』で魚を無双」より)

素潜り漁師としてのマサルさん(2021年2月6日配信の動画「カジキの角で錬成した『モリ』で魚を無双」より)

素潜り漁師のマサルです。YouTuberとして「魚突き」や「魚捌き(料理)」の動画を配信することを中心に活動しています。

――魚料理はまだしも「魚突き」をされる方はそういないと思いますが、どんなきっかけで始めたのでしょう?

『いきなり!黄金伝説。』(テレビ朝日系)というテレビ番組がありましたよね。濱口優(よゐこ)さんがモリを手に海に入って魚を獲っているのを見て、小さなころでしたがすごく憧れたんです。親に頼み込んで、子どもでも魚を突くことができるイベントに連れて行ってもらったり。

それからずっと魚突きをライフワークにしています。YouTuber名の「マサル」も濱口さんにあやかって付けましたし、大学では「魚突きサークル」で月に何度かどこかの離島に行っては魚を突く生活を送ってました。

海と人が好きで離島に移むことを決めた

――そもそもなんですが、離島に魚を突きに行くだけでなく、なぜわざわざ移住したのでしょう?

マサルさんが移住した沖永良部島にはこんな海がある

マサルさんが移住した沖永良部島にはこんな海がある

僕は海が好きなので、離島は東京に住んでいたときから好きでした。どっちの方向に行ってもすぐ海があるのはいいですね。魚突きをしてますから、いつでも海に入れるのもうれしいです。
あと移住したことには「YouTuberとして生きていく」という決意もあります。僕は大学在学中からYouTuberとして活動していましたが、卒業後の進路を考えたとき、普通に企業に就職する道もあったのですが、こちらにかけても面白いのかな、と思ったんです。

――マサルさんが移住した島はどんなところでしょう。

鹿児島にある沖永良部島ですが、沖縄の那覇からフェリーで7時間かけて来るのが一般的な交通手段ですね(編集注:費用はかかるが鹿児島などから飛行機もある)。

地理的にはかなり隔離されていて、人口は13,000人くらい。車で1時間もあれば1周できます。スーパーやホームセンターもありますから、DIYに必要な材料や道具もだいたいはそろいます。

――数ある離島のなかでもなぜ沖永良部島に?

学生のころにはいろいろな離島に行きました。お金がなくてSNSで知り合った現地の人に泊めてもらったりしていたんですが、そのつながりで沖永良部島に友達が何人かできてたんです。これが大きかったですね。
観光開発もほぼされていなくて、実際に(コロナ以前も)観光客がほとんど島にいないところも僕にとっては魅力です。何より住んでる人たちが良くって、のんびりしているようで仕事はきっちりとする。一緒に何かするのも気持ちがいいです。

不動産屋さんがないので住む場所は自分で見つける

――現在の拠点にされている古民家は、築50年の5LDK。人が住まなくなって20年にもなるそうですが、どうやって見つけたのでしょうか?

マサルさんが借りている古民家(家賃は月額2万円)

マサルさんが借りている古民家(家賃は月額2万円)

そもそも離島には、基本的に不動産屋さんがないんです。だから家を借りるとなると、まず現地を歩いて「空き家」を見つけるところからです。

空き家が見つかったら、今度は持ち主を探し出さなくてはいけません。知り合いの漁師に聞き込んだり、商店街の顔役に聞いたり。それでもわからなかったら、地番を割り出して謄本を取れば持ち主はわかります。いま住んでいる古民家はそこまでしなくてもよかったんですが、いずれにせよかなり大変ですね。

――不動産屋さんがないということは、持ち主が見つかっても個人間の交渉ということになりそうですが……。

マサルさんが借りている古民家の敷地には2棟の倉庫と牛小屋に馬小屋も

マサルさんが借りている古民家の敷地には2棟の倉庫と牛小屋に馬小屋も

そうなりますね。僕は知り合いにつないでもらいました。そう簡単に貸してくれるものかなと思っていたのですが、意外とすんなりいきました。島の地主は高齢者が多いのですが、若い世代の僕たちの話もちゃんと聞いてくれます。

地主といってもその土地でお金を稼がないといけないわけではないので、めちゃくちゃ仲良くなれたりしたらただで貸してくれるかもしれません。ただ、そうすると人間関係がちょっと濃厚になり過ぎるような気がして、僕はきちんと賃料を払ってます。

――実際に住んでみて、古民家はどうでした?

マサルさんが拠点としている古民家の大まかな間取図(リフォームの番号は下記の一覧表を参照)

マサルさんが拠点としている古民家の大まかな間取図(リフォームの番号は下記の一覧表を参照)

内装や家具もまとめて好きにしていいということだったんですが、想像以上に傷んでました。床も壁も天井も腐っていて、全部壊して張り替えなくてはいけないところもあります。

――古民家をDIYでリノベーションするサブチャンネル「【離島移住生活】マサル」でも、さまざまなプロジェクトに取り組んでますね。動画も30本近くになっています。

※マサルさんは古民家でこんなリノベーションを実施

リフォーム1. キッチン編(全12本)
以前からの什器をすべて廃棄し、壁や床も張り替えてリフォーム。水まわりも配管し直してアイランド型に。全長1メートル以上の大型魚にも対応できるキッチンスタジオとして、毒々しすぎる巨大魚、グロテスクすぎる巨大エビ、深海から上がってパンパンの魚(いずれも動画タイトルより)などの調理に大活躍。2020年3月から2カ月かけて完成した後、防音シートや、ワニを捌く設備の増設なども。

リフォーム2. 五右衛門風呂編(全11本)
屋外に放置されていたお風呂を生き返らせて露天風呂を楽しむ計画が、風呂釜そのものが朽ちているなどほぼ全面的なつくり直しとなり、薪をくべる炉の耐熱施工などで苦心も多く、10カ月かかる大プロジェクトとなった。なお、釜全体が鋳鉄製なので正しくは長州風呂と呼ばれるそう。

リフォーム3. 和室編(2本、進行中)
物置き状態だった6畳の和室を片付け、腐っていた床や壁もまるごとリフォームして、音楽の部屋に変貌させるプロジェクト。2021年7月から現在進行中のリノベ企画シーズン3。
当初はそこまでたくさん配信する予定はなくて、片付けの様子を1本か2本くらい配信すればいいかなと思ってたんですが、とてもそんな「片付け」程度では住めない状態でしたね。

――壁や床をはがす動画を見ました。白アリがたくさんいたのが衝撃的でした。

腐っている壁を張り替える(2020年3月26日配信の動画「キッチンが汚すぎるので破壊してみた」より)

腐っている壁を張り替える(2020年3月26日配信の動画「キッチンが汚すぎるので破壊してみた」より)

あそこまで白アリがいるとは、本当に予想外でした。倉庫の床に本を1カ月ほど置いておくと、食い破られてダメになっているんです。それに白アリは年に1度、羽が生えて飛ぶんです。光に向かう習性があって、家の照明にハリケーンのように群がって、終わると死骸だらけ(編集注:羽アリになった白アリは新しい住処を求めて移動する)。これは、しんどいですね。

今になって思えば、白アリは絶対に確認すべきでした。なんとか耐えましたけど、白アリがいる家に住むべきではないと思います。

――かなり辛い状況ですが、引越しは考えなかったんですか?

僕はもともとサバイバルが好きで、YouTubeでもサバイバル企画の動画を出してるように、屋外でも寝られるタイプではあるんです。ましてや古民家には屋根もあるし、一応は大丈夫だったんですが、ショックは大きかったですね。

ただ、3カ月ほど住んでみるとトイレやお風呂も使えなくなってきたので、寝るためだけの家を別に借りてます。築20年程度の2LDKで、デスクワークにも使えますし。

――それならもう最初に借りた古民家は解約してもいいような……。

古民家は物がたくさん置けるところもいいんですよね。漁師をやってるのでその荷物もありますし、車も3台は余裕で停められます。

それに、自分で好きなように何でもいじれる家ってなかなかないですから。リノベーションのために、借りた家の壁を壊すって普通はできないじゃないですか。

知識ゼロから始めたDIY。失敗も学びになる

――かなり本格的にDIYされていますが、そういった知識や技術はどこから得ているのでしょうか?

リノベーションにはインパクトドライバーも活躍(2021年3月20日配信の動画「遂に五右衛門風呂に『えんとつ』を装着!!」より)

リノベーションにはインパクトドライバーも活躍(2021年3月20日配信の動画「遂に五右衛門風呂に『えんとつ』を装着!!」より)

DIYの知識は本当にゼロだったんです。やったことあるのは家具量販店の組み立て家具くらいで、インパクトドライバー(電動ドライバーの一種)を使ったこともなかった。ただ、とりあえずやってみて、その様子を動画にして配信すると、視聴者の方がコメントで全部教えてくれるんです。みんなでつくり上げてるようなものですね。

とはいえ最初に動画を出したときは「素人にリノベーションなんかできるわけないだろ」「やめておけ」みたいなコメントはやっぱり多かったですね。

――DIY知識がない人が「自分でリノベーションをしてみよう」と発想すること自体がすごいと思います。

自己評価が高いのかもしれないですね。「失敗もするだろうけど、やれるだろ」って思っちゃうんです。大工さんも自分も同じ人間だし、調べれば、やれることにそこまで違いはないはず。もちろん、技術では相当劣ることにはなると思うんですが、大まかにならやれるはずだと。

――動画を見ていると、やり方を知らずに失敗して、作業が手戻りしている箇所がたくさんあるのが印象的でした。もっとやり方や技術について勉強してからDIYに取り組んだほうがよかった、とは思わなかったですか?

試行錯誤の繰り返しだった風呂の炉づくり(2021年1月30日配信の動画「五右衛門風呂をぶち壊して生き返らせたい」より)

試行錯誤の繰り返しだった風呂の炉づくり(2021年1月30日配信の動画「五右衛門風呂をぶち壊して生き返らせたい」より)

それはまったく思いません。うまくいかなくて手戻りしたとしても「失敗パターン」を学べているので、失敗ではないんです。だから、落ち込むことも後悔することもないですね。そういう気持ちさえもっていれば「やり続ければ作業はいつか終わる」ことになります。

――マサルさんのモチベーションのよりどころを見た思いです。動画では最初の2カ月で「キッチン」のリノベーションを済ませていましたが、気に入っているところはどこですか?

アイランドキッチンの全景

アイランドキッチンの全景

キッチンはアイランド型にしました。正面でコンロを使っていても、後ろを向けば壁側に作業台もあってまな板と包丁がすぐに使える。この動線はかなり気に入っています。

――リノベーションしたキッチンに自分で点数を付けるとしたら何点ですか?

※↑ 完成したアイランドキッチンでは巨大な魚も調理できる(2021年7月18日配信動画「40kg越えのアカマンボウを解体したら家が大惨事に。。。」)

かなりうまくいったと思っていて、80点ですね。アイランドキッチンなら調理風景を正面からも撮れますから、YouTubeの動画を撮影するときにかなり便利です。

欲を言えばキッチンの床板をはがして、コンクリートを流し込んで「土間」にできたら最高だったと思います。それならデッキブラシで掃除ができますから。実はキッチンのリノベーションを始めたときに考えたんですが、さすがにDIY未経験でそこまでするのは腰が引けてしまって。

あとは、フライヤーやオーブンを置くところをつくっておけばよかったとか、カーテンで隠してる古い窓を壁にリフォームしておけばよかったとか、そういうことは思いますね。

――キッチンの次に取り組んだのは、屋外の五右衛門風呂(編集注:動画でも説明されているが様式としては長州風呂)ですね。動画を見ると、かなり手戻りもあって1年近くかかったようでしたが、実感としてはどういったところが大変でした?

お風呂を覆うガジュマルの木(2020年7月24日配信の動画「五右衛門風呂を覆う巨木を伐採しました。」より)

お風呂を覆うガジュマルの木(2020年7月24日配信の動画「五右衛門風呂を覆う巨木を伐採しました。」より)

もう全部大変ではあるんですが……。まずお風呂のそばに生えているガジュマルの木が邪魔でしたね。あれを短く切っていくのがメチャクチャに面倒くさくて。

それから炉の耐熱に関して、耐火モルタルの扱いには苦労しました。どう使えばいいのか島の誰に聞いてもわからない。かなり試行錯誤しました。

――お風呂に点数を付けるとしたら?

完成した五右衛門風呂(長州風呂)の全景

完成した五右衛門風呂(長州風呂)の全景

あれは50点くらいですかね。入るのは最高なんですが、沸かすのが大変です。薪を入れる炉の容量が小さくなってしまってお湯がなかなか沸かないことと、その炉を掃除できるようにつくらなかったことが残念ですね。

あとは母屋からつながる屋根があれば本当にいいお風呂だと思います。つくりたいとは思っているんですが、ほかにもやることがいろいろあって優先順位は低めになっています。

――リノベーションをしてみて、どういうところに楽しさがあると思いましたか?

自分の思い通りの部屋が実現できるところですね。例えば、キッチンにかなり大きなシンクを取り付けました。これだけのシンクがある部屋を探すのは、なかなか大変だと思います。

それから家の構造がどうなっているかって、僕たちは全然知りませんよね。壁をはがして、床をはがして、こういうつくりになっているんだと初めて理解できる。それが何の役に立つかはちょっとわからないのですが、毎日住んでいる家ですから、構造も知っていたほうが健全だと思うんです。魚を食べるだけじゃなく、捌き方も知ってるように。

――ということは、みんな一度はDIYをやってみたほうがいいですね。

環境が許すならやってみたほうがいいと思います。僕もリノベーションをやる前と後では世界の見え方が変わりました。家や建物を見るときにも、細部に目が行くようになったり、「ちょっと雑かもな」なんてことがわかるようになったりします。

人とのコミュニケーションで生活が成り立っていく

――離島の暮らしについてもお伺いしたいです。以前に住んでいた東京とは違うなと感じたことなどあれば。

言い方が悪いかもしれませんが、東京だったら「お金があれば何でもできる」と思うんです。例えば、家事が面倒になったら家事代行サービスを呼んでみたり。

ところが、離島ではお金を持っていたとしても、まずサービスがないんですね。家事代行サービスなんてないですし、さっき話したように不動産屋さんもない。だから、お金じゃない価値が大切になってくるんです。

例えば「あの人にこれをしてもらったから、あの人にこれをしてあげよう」みたいに、人への思いやりが通貨のようになっているんです。こういうコミュニケーションは東京では味わえないですね。

――なるほど……。離島で暮らす上で必要になってくるものは何でしょうか?

やはりコミュニケーション能力でしょうね。野菜をつくっている人と仲良くなれば、野菜をもらえます。もっと仲良くなれば「晩ご飯食べていきなよ」なんて誘われるかもしれません。

島での暮らしに軽トラがあるととても便利

島での暮らしに軽トラがあるととても便利

僕も島の人から軽トラをかなり安く譲ってもらいました。これを島の外で購入して輸送してもらおうとしたら、輸送代だけでも相当高くつきます。島では逆に、お金はあまり必要ないかもしれませんね。

――ただ、都会から来た人は、そういったコミュニケーションがおっくうになってしまいそうです。

確かに、慣れないうちは大変かもしれません。でも多分、みんなが思っているほどではないですよ。僕も忙しいと思われているのか、飲み会は月に一度誘われるかどうかというくらいです。

――マサルさんはコミュニケーション能力ありそうです。

いや、実は全然そういうタイプじゃないんです。気合いでなんとかしている部分もありますね。ただ、離島で暮らす以上、基本的にそういったコミュニケーションは楽しむようにしたほうがいいです。いろいろな人とつながりをもつ世界を知ると、逆に以前の東京の暮らしの生きづらいところを感じるようにもなりました。

離島の人に恩返しをしていきたい

――これから離島でやってみたいことはありますか? 古民家のリフォームは「和室」編に突入してますね。

現在リノベーションしている和室は、ピアノを置けるようにしたいんです。そこまで得意というわけではないんですが、中学校のときに合唱コンクールで伴奏したこともありますし、置いてあったらきっと弾きたくなるはずです。そのため、部屋にどのくらいまで防音の機能をもたせられるかにもチャレンジしたいですね。

あとは、囲炉裏やバーベキュー場をつくりたい。友達が遊びに来たときに時間を共有できるような場所をつくっていきたいと思っています。

――島の人とのかかわりにおいてはどうでしょうか?

この島に来て、水産関係の人たちにものすごくお世話になりました。僕は漁協に入っていますが、それには漁師の保証人が必要なんです(編集注:条件は地域による)。だから「マサルを漁師にしてあげよう」という漁師さんがいなかったら、僕は今の活動ができていません。

それから、YouTubeで珍しい魚を捌く動画も上げていますが、全てが自分が突いたわけではなく、一般の人が買えないような魚もあります。それは仲買の人が僕に買ってきてくれるんですね。

でも、水産関係でお金を稼ぐのは今なかなか難しいんです。特に漁師を専業で続けていくのは厳しいです。さらに最近は新型コロナウイルスの流行で、魚の価格が大幅に下がってしまっています。

マサルさんが実施したクラウドファンディングでは1,000万円が集まった

マサルさんが実施したクラウドファンディングでは1,000万円が集まった

そこで、クラウドファンディングで資金を集めて、水産加工場を立ち上げるプロジェクトを立ち上げました。最終的には水産物の販路をつくって、離島の人たちに恩返しをしたいですね。

――最後に、このインタビューで離島に興味をもった人がいたら、どういったメッセージを送りますか?

興味があって悩んでいるのなら、やってみたらいいと思います。うまくいかないこともあるかもしれませんが、やってみてから考えたらいいんじゃないでしょうか。やらないで後悔するより、そのほうがずっといいと思います。

――マサルさんに言われると納得感がすごいです。本日はありがとうございました。

●取材協力
素潜り漁師マサル
●Twitter: @masarumoritsuki
●YouTube(メイン): 【素潜り漁師】マサル Masaru.
●YouTube(サブ): 【離島移住生活】マサル
●クラウドファンディング: 【素潜り漁師マサル】島の漁師たちが稼げるようにしたい!

徳島県神山町で最先端の田舎暮らし!子育て世代が主役の「大埜地の集合住宅」

徳島県徳島市から車で約40分。豊かな自然に囲まれた神山町は、アーティストが滞在し創作活動を行う「神山アーティスト・イン・レジデンス」や、”地産地食”を合い言葉に農業を育てる「フードハブ・プロジェクト」、また企業のサテライトオフィス誘致の成功など、先進的な取り組みで「奇跡の田舎」と呼ばれる。そんな神山町に、町内外から子育て世代が移り住むための住宅「大埜地(おのじ)の集合住宅」が誕生した。環境や地域産業にも寄与できるという最先端の技術を取り入れた住まいの今を探ってみた。

子育て世代が集える町営住宅を目指して山々に囲まれ清流・鮎喰川が町の中心を流れる神山町。写真中央にあるのが大埜地の集合住宅(写真提供/神山町)

山々に囲まれ清流・鮎喰川が町の中心を流れる神山町。写真中央にあるのが大埜地の集合住宅(写真提供/神山町)

大埜地の集合住宅がある大埜地地区は、神山町役場から徒歩約15分。小学校と中学校も徒歩圏内にあり、子育て世代が生活するには便利な文教エリアだ。ここにはかつて町内の遠方から中学校へ通う学生のための寄宿舎「青雲寮」があった。しかし少子化のあおりを受け2005年に閉寮。その場所の活用方法が長年議論されていた。

大埜地の集合住宅がある場所にあったかつての青雲寮(写真提供/神山町)

大埜地の集合住宅がある場所にあったかつての青雲寮(写真提供/神山町)

一方で町内に企業のサテライトオフィスの開設や東日本大震災の影響、加えてNPO法人グリーンバレーが運営する移住交流支援センターによる支援により、移住者が増えつつあった神山町にとって、住居の確保やその情報提供は手薄な状態だった。町内には不動産会社もなく、空き家となった古民家を紹介するとなっても、移住交流支援センターの取り組みだけでは、住みたいと思う人たちの希望に全て沿えるわけではない。家を建てる土地や借家を見つけるには困難が伴っていた。

また、既に町内の各所に住んでいる子育て世代にとっても、広い町域にゆえに、近所に同世代の子どもが少なく、普段の生活の中で互いに遊び、触れ合うことで、成長や学びに繋がる機会が損なわれつつあった。子育て世代が近所で暮らすことは、子どもだけでなく親同士が支え合えるメリットもある。

そんな状況を打開する方策のひとつとして浮かび上がってきたのが、新たな集合住宅の建設。そこで白羽の矢が立ったのが大埜地地区の青雲寮跡だった。

住居と駐車場が隔離された歩車分離の敷地では、子どもたちも安心して遊ぶことができる(写真提供/神山町)

住居と駐車場が隔離された歩車分離の敷地では、子どもたちも安心して遊ぶことができる(写真提供/神山町)

快適な住環境が地域に貢献する家づくり

2015年、入居者のための「大埜地住宅」と、広場や文化施設がある「鮎喰川コモン」からなる拠点づくりが決定。翌年から2021年までをめどに、工期を4期に分け、少しずつ開発を進めてきた。大埜地住宅は全20戸、子育て世代のための住宅18戸と単身者用シェアユニット2戸で構成。鮎喰川コモンは多世代の人が交流できる施設だ。

鮎喰川沿いに広がる大埜地住宅。住宅の周囲には神山町産の樹木が植栽されている(画像提供/神山町)

鮎喰川沿いに広がる大埜地住宅。住宅の周囲には神山町産の樹木が植栽されている(画像提供/神山町)

建築を担ったのは大工など町内のつくり手たち。工事が長期間に及んだのは、大工が小規模ゆえに、一度に大規模な工事はできないのもあった。その反面、この工事をきっかけに、担い手不足に悩まされていた町内の建築業に新陳代謝が起こり、若手大工の活躍の場が広がっていった。

住宅の建材には町内産の木材を使用。さらに給湯や暖房などの暮らしに必要なエネルギーとして、製材所から出るおがくずなどを原料にした木質ペレットを燃料とした、木質バイオマスボイラーを採用。ボイラーが設置されたエネルギー棟から各戸へ熱を送る。町内の森林資源を利用することで、経済を回し、間伐による健全な森づくりにも寄与できる。

また、冬は屋根で温めた空気で補助暖房。夏は夜間の冷気を取り込む仕組みを設置。これらの先端技術だけでなく、窓の位置や形状などの設計上での工夫も凝らし、エアコンやストーブなどに頼り切らない、快適な住環境を実現した。木質バイオマスボイラーを使用することで、毎月平均1万円の「熱料金」が発生するものの、ガスや電気を利用した一般住宅の光熱費より財布に優しい試算結果も出ている。

家族・夫婦用ユニットのメゾネットタイプとバリアフリー対応のフラットタイプ、そして単身用ユニットの3戸で一棟になっている集合住宅。2戸1タイプもある(写真撮影/生津 勝隆)

家族・夫婦用ユニットのメゾネットタイプとバリアフリー対応のフラットタイプ、そして単身用ユニットの3戸で一棟になっている集合住宅。2戸1タイプもある(写真撮影/生津 勝隆)

南向きのリビングダイニング。川沿いの涼しい風を取り入れる設計になっている。コンクリートタイル仕立ての床は、冬の昼間は太陽の熱を蓄熱。さらに温水式床下暖房で室内全体を温める(写真撮影/生津 勝隆)

南向きのリビングダイニング。川沿いの涼しい風を取り入れる設計になっている。コンクリートタイル仕立ての床は、冬の昼間は太陽の熱を蓄熱。さらに温水式床下暖房で室内全体を温める(写真撮影/生津 勝隆)

メゾネットタイプの2階の室内。室内の壁は調湿性能のある珪藻土や、健康に配慮した自然由来の塗装剤で仕上げている(写真撮影/生津 勝隆)

メゾネットタイプの2階の室内。室内の壁は調湿性能のある珪藻土や、健康に配慮した自然由来の塗装剤で仕上げている(写真撮影/生津 勝隆)

メゾネットタイプの間取り。1階は北にある玄関から南のダイニングまで、土間が段差なく続く。2階は子どもの成長に合わせて仕切りを設けることも可能(画像提供/神山町)

メゾネットタイプの間取り。1階は北にある玄関から南のダイニングまで、土間が段差なく続く。2階は子どもの成長に合わせて仕切りを設けることも可能(画像提供/神山町)

敷地内にあるエネルギー棟。木質バイオマスボイラーを使って、ここから各戸へ熱を供給する(写真撮影/生津 勝隆)

敷地内にあるエネルギー棟。木質バイオマスボイラーを使って、ここから各戸へ熱を供給する(写真撮影/生津 勝隆)

アフターコロナで期待される交流の活性化

2021年春、無事竣工を迎えた大埜地住宅は現在満室。入居者の数は総勢67人となり、約80人だった大埜地地区の本来の人口からほぼ倍増したわけだ。入居者は、町内出身者のUターン、町外からのIターン、あるいは町内からの引越しと顔ぶれはさまざま。仮に「都市部からの引越し」を「移住者」と定義するなら、移住者の割合が多い。

徳島市内への通勤者もいるが、リモート勤務も含め、入居者の大半が町内で働く。出身地は異なれど、同じ子育て世代で、普段から親同士、あるいは子ども同士の交流も活発だ。LINEグループでの情報交換、また月に一度の自治会の例会では、周辺の草刈りや敷地内での交通安全などの議題を話し合う。都市部からの移住者にとってこの交流は、新鮮であり、安心できる要素のようだ。

入居者の中には、もともと神山町出身者もいるため、近くに住む祖父母が孫を訪ね大埜地住宅に足を運ぶことも多い。現在はコロナ禍の影響もあり、なかなか地元との交流の場が設けられることがないものの、コロナ収束後は地域の祭りなど通じて、多世代の人たちとの交流の機会を設けていく。

これらの交流を通して、町民はもとより町外の人にも、地元の資源を使った家づくりの大切さや新しい木造住宅の素晴らしさを再認識してもらう狙いもあるようだ。

「地域の植生を活かしながら、楽しい原っぱを育ててゆくこと」を目標に、入居者や鮎喰川コモンの利用者である町内外の人たちと行う除草作業も大切な交流のひとつ(写真提供/神山町)

「地域の植生を活かしながら、楽しい原っぱを育ててゆくこと」を目標に、入居者や鮎喰川コモンの利用者である町内外の人たちと行う除草作業も大切な交流のひとつ(写真提供/神山町)

住み継ぐことで次世代が担っていくまちの将来像

順風満帆でスタートを切った大埜地住宅は、これからどのようにして維持・運用していくかがポイントとなってくる。主な入居条件が、50歳以下で高校生以下の子どもがいる家族、または今後子どもが生まれる可能性のある夫妻となっているため、子どもが高校を卒業し進学等で家を出ると、親も退去し新たな住まいを探す必要がある。

海外ではライフスタイルに合わせて、その都度家を住み替えていくことが一般的だが、日本人は親から引き継いだ家や自分が買った家を住み替えずに守っていくという思考の人が多く、大きな家に一人で高齢者が暮らすことも多い。そのため昨今問題が表面化してきているのが、同世代が一斉に入居し、その何十年後に高齢夫妻だけが残された「ニュータウンの限界集落化」だ。

神山町は大埜地住宅を軸にした「住み替え文化」の形成を目指す。課題は大埜地住宅を退去した親世代の生活に適した住居の確保だ。幸いにしてまだ時間が残されているため、現在は既存の町民を対象に空き家相談会など実施して、課題解決に向け取り組んでいる。

また、東京の工学院大学と提携し、大埜地住宅の各住居に内外の気温差、消費電力、換気状況などがモニタリングできるシステムを設置予定。木質バイオマスボイラーや環境に配慮した構造がどのような効果を上げているかをデータとして積み重ね、国内でも数少ない設備を持つ最新鋭の住宅を検証し、さらに快適な住環境の整備へと繋げていく。

自然豊かで快適な住環境を備えた大埜地住宅に、また新たな世代が入居し、親となり、その後も神山町に住み継いでいく……。そんな理想的なまちの姿が数十年後に見えてくるかもしれない。

●取材協力
神山町

神戸の洋館「旧グッゲンハイム邸」裏の長屋の暮らしが映画に! 塩屋をおもしろくする住人が集う理由

兵庫県神戸市の海辺に美しい姿を見せる古い洋館。その裏の長屋で共同生活を送る若者たちの日常を描いた映画『旧グッゲンハイム邸裏長屋』が神戸市内の映画館で公開され、話題を呼んでいる。主要な登場人物は当時の住人。たわいない会話のやりとりと古びた長屋、海と山が間近にせまる小さな街・塩屋の風景。いま、コンセプチュアルでおしゃれなシェアハウスが人気を呼ぶなか、このノスタルジックな共同生活に多くの人が心惹かれるのは何故なのか。リアルな姿を知りたいと、長屋を訪ねてみた。
共同リビングルームで何気ない会話を日々つむぐ

神戸の中心地、JR三ノ宮駅から普通電車で約20分。穏やかな瀬戸内海が車窓から見えてきたら塩屋駅に到着する。小さな改札口を抜け、細い路地を通り、踏切を越えて石段を上がると白壁の洋館「旧グッゲンハイム邸」が現れる。

線路のすぐそばまで山が迫る塩屋。明治の名建築・旧グッゲンハイム邸はこの街のランドマークだ(写真撮影/水野浩志)

線路のすぐそばまで山が迫る塩屋。明治の名建築・旧グッゲンハイム邸はこの街のランドマークだ(写真撮影/水野浩志)

明治41年に建てられたとされる「旧グッゲンハイム邸」は現在、イベントスペースとして使われており、黒沢清監督の映画『スパイの妻』のロケ地にもなったところ。そんな瀟洒(しょうしゃ)な洋館と対比するような質素な外観で裏庭に建っているのが、今回訪ねる長屋だ。

住人が集うリビングにはソファやテーブル、冷蔵庫、本、楽器などが所狭しと置かれる。映画の中で、日々の生活を記録するのが日課の“せぞちゃん”、裏山に登ることが好きな“としちゃん”、料理上手な“あきちゃん”、仕事に恋に忙しい“づっきー”たちが、食卓を囲み、時には恋愛のことや将来の悩みを打ち明け、セッションを楽しんだ場所だ。
「旧グッゲンハイム邸」の管理人、森本アリさんと、住人で映画の主人公の清造理英子(せぞちゃん)さん(※清は旧字体)、元住人で森本さんと共に塩屋の魅力を発信する「シオヤプロジェクト」を手掛ける小山直基さんの3人に、リビングでお話をうかがった。

取材は映画に登場する長屋のリビング、通称“グビング”で(写真撮影/水野浩志)

取材は映画に登場する長屋のリビング、通称“グビング”で(写真撮影/水野浩志)

ヨーロッパで見た「空き家リノベ×共同生活」スタイルを神戸に実現

そもそも森本さんが旧グッゲンハイム邸の管理人になったのは2007年のこと。老朽化し、解体の危機に立たされていた旧グッゲンハイム邸をなんとか存続させようと、森本さんの両親が同館を購入したことがきっかけだ。

旧グッゲンハイム邸の管理人、森本アリさん(写真撮影/水野浩志)

旧グッゲンハイム邸の管理人、森本アリさん(写真撮影/水野浩志)

洋館の裏に立つ長屋は、もとの所有者が寮として使っていた場所。洋館を多目的スペースとして使用することになり、裏の長屋を共同生活の場とした。
「僕が留学していたベルギーをはじめヨーロッパでは空き家を再利用して友だちと一緒に住むのはよくあること。共同で住むスタイルに違和感はありませんでした。ヨーロッパで見てきたことを、日本でも実現できないかと思ったんです。本音を言えば、『イベントスペース+長屋』として運営しながら、僕の音楽仲間が集まって活動ができる場にしたかった。自分自身が楽しみたかったんですね」

白壁に緑色のアクセントが美しい旧グッゲンハイム邸。その左奥に見える建物が、映画が撮影された長屋だ(写真撮影/水野浩志)

白壁に緑色のアクセントが美しい旧グッゲンハイム邸。その左奥に見える建物が、映画が撮影された長屋だ(写真撮影/水野浩志)

現在は同館の運営に携わっている小山さんは、2007年に長屋が始まった時から8年間住んでいた。まだシェアハウスという言葉もあまり浸透していなかったころだ。
「たまり場が欲しかったんです。高校時代から友だちの家に集まっては夜中までゲームしたり、音楽を聞いたり。ただただ仲間と同じ空間にいて時間を浪費しているだけ(笑)。でも私にとっては居心地がよかった。大人になっても、そんな場所が欲しかったし、自分でつくりたかった。でも、当時はワンルームのマンションやアパートが主流で、不動産屋を回っても全く分かってもらえなかったんです」

シオヤプロジェクトのメンバーで元住人の小山直基さん(写真撮影/水野浩志)

シオヤプロジェクトのメンバーで元住人の小山直基さん(写真撮影/水野浩志)

そんなときに塩屋が地元の高校時代の友人からこの長屋を紹介された。「たまり場にできる十分なスペースがあって、大音量で音楽を聞いても怒られない(大家のアリさんが一番音量を上げる)し、DIYもOK! 僕の希望を全部叶えてくれる場所でした」
入居後、小山さんはグビングに毎夜のように住人や友人を誘って一緒に食事をし、映画鑑賞会を開いたり、管理人の森本さんらと楽器演奏をして盛り上がったり。同じく住人だった女性と結婚した後も長屋を離れがたくて、しばらく2部屋で住んでいた。子どもが産まれる直前になってやっと引越したが、現在住んでいる家も長屋の近くだ。
映画の主人公を務めた清造さんは入居5年目。現在10人いる住人のうち最も古くからの入居者だ。音楽活動を通して森本さんと知り合い、長屋の存在を知った。

映画の主人公になった清造理英子さん(写真撮影/水野浩志)

映画の主人公になった清造理英子さん(写真撮影/水野浩志)

「(長屋に住まないかと聞かれたとき、)ここに住んだら楽しいだろうな、とは思っていましたが、既に同居している人たちの中に飛び込むことも、知らない人たちと共同生活を送ることにも多少の不安はありました。でも、シェアハウスに住む機会って人生で1回あるかないかだろうし、と思って。その結果、もう5年も住んでいますが(笑)」

清造さんが今も引越さない理由は「今のところはまだ、ここ以上の場所が見つからないから」
「夜中に誰かが突然テーブルに網を張って卓球大会を始めたり、プロジェクターを出して大画面でゲームをしたり、突発的に何かが起こるのも面白いです。気分が乗らないときは参加しないこともありますが、それで気まずくなったりはしないし、住人同士の付き合いは気楽です。他の人が料理をするのを見て知らなかったスパイスの使い方を覚え、キャンプにも一緒に行き、知らない世界を知ることができる。一人暮らしだったら経験していなかったであろうことがたくさんあります」

リビングの前のテラスで朝ご飯を食べたり、七輪で肉を焼いたり(写真撮影/水野浩志)

リビングの前のテラスで朝ご飯を食べたり、七輪で肉を焼いたり(写真撮影/水野浩志)

住人同士のクラブ活動も盛ん。トランペットバンドや手芸部、山登りクラブなども。「もちろん自由参加なので、大勢集まることもあれば、蓋を開けてみれば一人だけ、なんていうこともあります(笑)」(清造さん)(写真撮影/水野浩志)

住人同士のクラブ活動も盛ん。トランペットバンドや手芸部、山登りクラブなども。「もちろん自由参加なので、大勢集まることもあれば、蓋を開けてみれば一人だけ、なんていうこともあります(笑)」(清造さん)(写真撮影/水野浩志)

リビングの奧が共同キッチン。お皿や調理器具はシェアして使い、食事は各自でつくって食べている(写真撮影/水野浩志)

リビングの奧が共同キッチン。お皿や調理器具はシェアして使い、食事は各自でつくって食べている(写真撮影/水野浩志)

代々の住人たちが日々の思いや出来事、連絡事項などを書き綴ったノート(写真撮影/水野浩志)

代々の住人たちが日々の思いや出来事、連絡事項などを書き綴ったノート(写真撮影/水野浩志)

奧に個室が並ぶ。2階建てで現在10人が入居している(写真撮影/水野浩志)

奧に個室が並ぶ。2階建てで現在10人が入居している(写真撮影/水野浩志)

住人たちが塩屋に住み続ける理由

音楽を核とする居場所、仲間が集まる居場所。今から15年ほどまえに、森本さんらが自分の理想の暮らしを求め、“居場所”をつくった。
当初、森本さんは荒れた長屋を自分で改修しながらシェアハウス化しようと決め、居室を入居者が自らDIYすることを条件に募集。退去時も「原状回復」の必要なし。手のかかる改築作業を楽しみ、前の住人がつくった個性的な部屋に面白みを感じるクリエイティブな人が次々と住人になっていった。イラストレーターやレゲエ好きの料理人、街づくり担当の行政マン、地元の漁師までと、仕事はさまざまだが、クリエイティブな感覚を持ち合わせている人たちが口コミで集まる。
今回の映画『旧グッゲンハイム邸裏長屋』の監督・前田実香さんもこの長屋出身だ。
イベントスペースとして活用している旧グッゲンハイム邸本館の存在も大きい。

例えばシンガーソングライターの曽我部恵一氏の音楽会や、神戸関連の本を出版しているライター・平民金子氏らのトークショーなど、話題の人たちのイベントが開かれており、住人は身近に新しいアートや文化を感じることができる。
ほかにも、塩屋のリノベーションに特化したイベントや、無声コメディ映画の弁士と楽士付きの上映会(子どもの食いつきがすごい)や神戸ロケの映画を深く掘り下げるイベントなどもあり、実にバラエティー豊か。また、住人が自然発生的に始めた“グビング”でのクリスマス会や餅つき大会などの行事が発展して、本館でのイベントになったケースもある。

流しそうめんの様子(写真撮影/片岡杏子)

流しそうめんの様子(写真撮影/片岡杏子)

それにしても驚くのは、卒業した人の多くが塩屋にとどまり、クリエイティブな感覚を活かして、街の活性化の一端を担っていることだ。
それだけ、塩屋の街自体に大きな魅力があるのだと感じる。

海と山が間近に迫る塩屋は、街中に狭い道幅の坂道が走る。細い急な坂を登ると、眼下には塩屋の街の家々が広がる。建ち並ぶ住宅の中に古い洋館が点在する様子も、かつて多くの外国人がこの景色に惹かれて住んだ街らしい華やぎを添える。
「長屋の窓を開けると目の前に海が見えて、裏にすぐ登れる山があって。でも三宮まで電車で20分で行ける。私もそろそろ別の場所に引越そうかなと思うのですが、ここ以上に魅力的なロケーションはなかなかないんですよね」(清造さん)

目の前に海が広がり、時折船の汽笛が聞こえてくる。旧グッゲンハイム邸の2階から(写真撮影/森本アリ)

目の前に海が広がり、時折船の汽笛が聞こえてくる。旧グッゲンハイム邸の2階から(写真撮影/森本アリ)

大切なのは街のサイズ感。人との距離が近く街ごと自分の“居場所”に

阪神・淡路大震災以降、神戸の多くの街で復興事業と再開発が進んだ。そのなかで、比較的被害が少なく、昔ながらの街の姿が残ったことが塩屋の価値につながっていると森本さん。
「僕が留学先のベルギーから帰国したのは大震災の翌年でしたが、塩屋は区画整理がなされていなかった。他の街の駅前にロータリーができ、大きな商業施設や高いマンションが次々建つ様子に、薄っぺらさを感じました。塩屋は山にへばりつくように家が建つ狭い谷間の街。坂道がある、道が狭くて車が通れないなど、住むのにはややこしい。ややこしくても住みたいと思う人が住めばいいと思う」

駅前の商店街に昔ながらの豆腐店や魚屋が並ぶ。小さな個人商店が愛され続けているのも塩屋の魅力だ(写真撮影/水野浩志)

駅前の商店街に昔ながらの豆腐店や魚屋が並ぶ。小さな個人商店が愛され続けているのも塩屋の魅力だ(写真撮影/水野浩志)

では、「ややこしい街」にあえて住む理由は何か。
その答えとなる象徴的なエピソードを小山さんが教えてくれた。
小山さんの妻はニュータウンで育ち、20代で長屋の住人となった。塩屋の開発について住民の意見交換の場で、塩屋についての思いを伝えた。「私、思うんです。毎日魚屋さんで魚を買い、豆腐屋さんで豆腐を買う。そのたびに会話があります。道が狭いからいつの間にか知らない人と顔見知りになり、会話をするようにもなる。スーパーしか知らない私にとって、そういった日々の生活は新鮮で楽しい」と。
森本さんは「そのとき、再開発を進めるよう声を上げていた地元のお年寄りたちが、水を打ったようにシーンとなった。この言葉で話し合いの潮目が変わりました」と振り返る。
清造さんも同じ印象を持つ。「住み始めて1週間も経たないのに、商店街の人が『おかえり』と声をかけてくれたり、今日はみんなでごはんを食べることを伝えたら『これも持っていき!』とおまけをつけてくれたり。なんだか嬉しいですよね」
「清造が豆腐屋の作業場で昼飯食べているのを見たときは、笑った」と森本さん。

塩屋商店会と「シオヤプロジェクト」が協力して制作した塩屋のイラストマップ。「塩屋中を歩き回ったなぁ」と森本さんと小山さん(写真撮影/水野浩志)

塩屋商店会と「シオヤプロジェクト」が協力して制作した塩屋のイラストマップ。「塩屋中を歩き回ったなぁ」と森本さんと小山さん(写真撮影/水野浩志)

小さな街だから、同じ人と出会う回数も多く、出会えば声を掛け合うし仲良くもなる。人と人が繋がるハードルが都心部よりずっと低く、知り合いがいることで街に愛着が生まれる。街が丸ごとその人の“居場所”になる。それが「ややこしさ」ゆえの魅力であり、長屋の元住人が卒業しても塩屋に住み続ける理由ではないだろうか。

森本さんは、旧グッゲンハイム邸の管理人をしながら塩屋をテーマにした本『塩屋百年百景』等の出版や塩屋のイラストマップを制作するなど多彩な活動を継続的に行ってきた。2014年には「シオヤプロジェクト」を立ち上げ、アーティストたちとともに展覧会や街歩き、新しい地図を制作するワークショップを行うなどして、塩屋の魅力を発信している。

旧グッゲンハイム邸裏長屋の住人がキッチンでつくる個性あふれる料理をレシピ本に。映画のパンフレット代わりとしても販売され、好評。こういった共同作業が絆を深める(写真撮影/水野浩志)

旧グッゲンハイム邸裏長屋の住人がキッチンでつくる個性あふれる料理をレシピ本に。映画のパンフレット代わりとしても販売され、好評。こういった共同作業が絆を深める(写真撮影/水野浩志)

長屋の元住人が駅前の商店街にオープンしたカレーショップが「行列ができる店」になり、次第に古民家カフェやピザ店ができるなど、旧グッゲンハイム邸の復活をはじめとする森本さんたちの取り組みによって、塩屋は休日に人が散策を楽しみに訪れる街に生まれ変わっていった。
街に“新しい風”が吹き込まれたことで、次第に若い世代の流入が進み、車が入らない細い道は「ベビーカーを安心して押せる道」と考える、子育て世代のファミリーたちの姿も目に付くようになった。

コロナ禍で注目度高まり、移住者が増加

今、コロナ禍の塩屋で新たな動きが起こっていると森本さん。
「昨年から塩屋商店会の加盟店舗に10店舗が増えています。古着屋、台湾カフェ、おしゃれな花屋。人が少なく商売が難しい街なのに、そのリスクを覚悟してオープンしているのだから、気骨を感じる店ばかり」
遠方への外出が難しい中、生活が徒歩圏で日常も休日の楽しみも完結できる塩屋への注目度は高まり、移住者が増えているそうだ。
「とはいえ、あんまり人が多くならん方がええかな」と森本さんは本音もぽろり。

海と山の距離が神戸市内で最も近いと言われる塩屋。駅の北側はどこを歩いても坂道ばかり(写真撮影/水野浩志)

海と山の距離が神戸市内で最も近いと言われる塩屋。駅の北側はどこを歩いても坂道ばかり(写真撮影/水野浩志)

森本さんが「塩屋の尾道」と呼ぶ、洋館に導く細い階段(写真撮影/森本アリ)

森本さんが「塩屋の尾道」と呼ぶ、洋館に導く細い階段(写真撮影/森本アリ)

六甲山全山縦走の西側の起点でもある旗振山を望む(写真撮影/森本アリ)

六甲山全山縦走の西側の起点でもある旗振山を望む(写真撮影/森本アリ)

昔ながらの商店街は活気があり、おしゃれなカフェや個性的な専門店などで今の時代のクリエイティブな空気感にも浸れる。通勤も便利だし、在宅ワークに疲れたときにはふらりと外に出て山や海を眺めれば気分爽快だ。
「塩屋のようなポテンシャルの高い街は神戸にたくさんあります。例えば長田区や兵庫区など、神戸はどこも街が山に溶け込むその境目付近に、とても魅力的な住宅地があるんです。塩屋的な街の見つけ方ですか? 街が狭いこと、開発されていないこと、家賃が安いこと!」(森本さん)
実際、森本さんも若い世代や、フリーランスのクリエーターたちが誰でも住めるよう、長屋の家賃を3万円代から上げるつもりはない。
清造さんは、いずれは地元に戻る予定だという。「でも塩屋を離れても、長屋みたいに人と人とが関われる場をつくっていけたら」と話す。
「旧グッゲンハイム邸裏長屋」のように、住人たちが自分の住む街を気にかけて、街のためにできることを語り合って模索していく。ポストコロナの時代には、そんな動きが広がっていくかもしれない。

●取材協力
旧グッゲンハイム邸 
シオヤプロジェクト

●映画の公開情報
『旧グッゲンハイム邸裏長屋』

田舎暮らしは“異世界”? 漫画編集者が会社を辞めて「半農半X」に挑んだ結果

コロナの影響でテレワークが当たり前となり、「都会で暮らす意味ってなんだっけ……?」と思っていませんか? 現に、二拠点居住や移住を考える人も増えているようです。そんな人たちに参考になりそうなのが、都会生まれ都会育ちの漫画編集者が田舎という異世界で暮らす様子を赤裸々に描く実録マンガ『漫画編集者が会社を辞めて田舎暮らしをしたら異世界だった件』(講談社)です。原作者のクマガエさんに田んぼとお住まいで話を聞いてきました。
深夜も土日も仕事。朝まで新宿ゴールデン街で飲み歩いていた漫画編集者時代『漫画編集者が会社を辞めて田舎暮らしをしたら異世界だった件』(講談社 (c)クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

『漫画編集者が会社を辞めて田舎暮らしをしたら異世界だった件』(講談社 (c)クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

本作は、主人公・佐熊陽平が激務の漫画編集者時代を振り返るところから物語がはじまります。主人公のモデルはクマガエさん自身で、自身の移住体験をもとに話は展開していきます。

『漫画編集者が会社を辞めて田舎暮らしをしたら異世界だった件』の冒頭。明け方までの激務(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

『漫画編集者が会社を辞めて田舎暮らしをしたら異世界だった件』の冒頭。明け方までの激務(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

誰が言ったか、「田舎暮らしは異世界暮らし」(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

誰が言ったか、「田舎暮らしは異世界暮らし」(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

「編集者時代は終電後に飲みに行って、朝5~6時まで飲んで、さらにもう1軒……なんてこともざらでした。土日も関係なく働いていましたし、だいたい朝に寝てお昼に出社できればいい方という日々です」とクマガエさんは振り返ります。妻のルキノさんと出会ったのも新宿ゴールデン街がきっかけだといい、二人はかつての暮らしを「なぜあんなに飲んでいたのか分からない」と笑うほど。

その多忙な生活に疲れ、“異世界”である田舎で稲作をはじめたのは、今から6年前。コロナ禍のさなか、今年4月、『漫画編集者が会社を辞めて田舎暮らしをしたら異世界だった件』単行本1巻が発売となり、田舎暮らし・郊外暮らしを描いているということで注目を集め、メディアからの取材も続いているといいます。

クマガエさん(写真撮影/土屋比呂夫)

クマガエさん(写真撮影/土屋比呂夫)

「読者で多いのは、私がそうだったように30代前半から半ばでしょうか。多忙な都会の日々に限界を感じている、特に最近では仕事がテレワークになったことで移住や二拠点生活ができるのではないか、と考えはじめるようです。あとは、大学生なども読んでくれていて、働き方や生き方について考えさせられましたといった声が届いています」(クマガエさん)

給料は伸びなくても、都市部の家賃や住宅ローンの負担はずしりと重くのしかかります。日々、忙しく働いているのに、「手元にお金も残らず、家も狭いし、これって幸せなんだっけ?」と思う気持ち、よく分かります。

漫画編集者を辞めようと悩むものの……(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

漫画編集者を辞めようと悩むものの……(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

会社員を辞めて「田舎暮らし」という異世界へ踏み出します(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

会社員を辞めて「田舎暮らし」という異世界へ踏み出します(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

田舎+古民家ライフができるのはバーサーカー(狂戦士)だけ!?

現在、クマガエさんがしているのは、いわゆる「ど田舎にある古民家・自然派暮らし」ではありません。1話目冒頭で紹介されている通り、住まいは築浅の賃貸アパート、近くにはカフェもあり、東京にも電車で1時間半ほどでアクセスできるなど、都内に出社できないこともない、田舎と郊外の狭間での暮らしです。

「マンガで描いているように、私自身も米づくり体験→会社を辞めることを検討→田舎で空き家探し→移住の流れです。空き家探しは、会社を辞める前提で家賃を抑えられたらいいな~と、気楽に考えていたんですが、まさに異世界体験となりました。修繕しないですぐ住める家はないし、前の住人の荷物で ゴミ屋敷と化していたり。都会の賃貸物件を内見する感覚でいたので、めちゃくちゃびっくりしました。でも、地方や田舎出身の人に話を聞くと、よくある話みたいですよ(笑)」といいます。

異世界・田舎での家探しがスタート(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

異世界・田舎での家探しがスタート(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

しかし思ったようにいかず……(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

しかし思ったようにいかず……(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

家探しの前提条件が違うのは衝撃ですよね。同じ時代の同じ国、同じ言葉を話すのに「言葉や感覚が違う」というのはまさには、異世界転生。なんか……バグっていく感覚です。

妻のルキノさんは、もともと引越しが大好きで、賃貸の更新をせずに引越したいと思うタイプ。ただ、夫妻二人ともに都市部育ちということもあり、便利な東京23区外で暮らせるのかという不安はあったそう。

「結局、いい空き家が見つからず、知人の古民家に間借りというかたちで田舎暮らしが始まりました。実際に古民家で暮らしてみて、家の修繕を自分でできて、暑さ寒さや湿気、虫の多さも気にしない、過酷な環境にも対応できるバーサーカー(狂戦士)じゃないと、あの生活はできないだろうと痛感して。それで今の賃貸に落ち着きました。SUUMOで探した気がします(笑)。今の家は家賃7万円台、広さ60平米弱の2LDKで、駐車場1台付きです。東京時代は夫婦二人で渋谷区のワンルーム暮らしで30平米未満、家賃は10万円超でしたからねえ」としみじみと振り返ります。

夫妻が暮らす賃貸アパートのリビング。陽がたっぷりと入り、のびのびとした空間(写真撮影/土屋比呂夫)

夫妻が暮らす賃貸アパートのリビング。陽がたっぷりと入り、のびのびとした空間(写真撮影/土屋比呂夫)

ベランダでは収穫した玉ねぎを乾燥させています(写真撮影/土屋比呂夫)

ベランダでは収穫した玉ねぎを乾燥させています(写真撮影/土屋比呂夫)

デスクを並べて夫妻でお仕事。奥の壁は原状回復できる色付きの壁紙で明るくし、画の額縁も自作。DIYスキルも上がっています(写真撮影/土屋比呂夫)

デスクを並べて夫妻でお仕事。奥の壁は原状回復できる色付きの壁紙で明るくし、画の額縁も自作。DIYスキルも上がっています(写真撮影/土屋比呂夫)

稲作6年目、そろそろレベルアップ!? 海の近くへ引越しも検討中

「今は米づくりのほかに、畑で野菜を育てるほか、ぬか漬け、梅仕事、味噌づくりなど、田舎暮らしの経験値もぐっと溜まってきました。半農半X、つまり米づくりや畑や農作業のほか、今までもっているスキルをかけあわせて、農作業のほかに、フリーランスのマンガ編集者、漫画原作などを並行して暮らしています」

自宅でとれた稲の糠をつかってのぬか漬け(左)と梅干しづくり(右)にも挑戦中。手仕事って見ているだけでも楽しい(写真/土屋比呂夫)

自宅でとれた稲の糠をつかってのぬか漬け(左)と梅干しづくり(右)にも挑戦中。手仕事って見ているだけでも楽しい(写真/土屋比呂夫)

田んぼ作業がある日は朝6~7時ごろに起きてお弁当を持って田んぼへ行き、夜には自宅で食事。23時には就寝と、夫妻二人、東京にいたころに比べれば“人間らしい”暮らしを送っています。「田んぼ仕事って、年中、忙しいわけではなくて、5月半ばの田植えのあとは、週1回程度の草引きを2カ月ほどやれば大丈夫なんです。今の田んぼは4家族でシェアして使っていますが、去年は夫婦二人で食べきれないほどのお米(110kg程度)が収穫できました」(クマガエさん)

東京から電車で2時間弱。広い空と水田に心和みます。日本人の原風景なんでしょうね、きっと(写真/土屋比呂夫)

東京から電車で2時間弱。広い空と水田に心和みます。日本人の原風景なんでしょうね、きっと(写真/土屋比呂夫)

(写真撮影/土屋比呂夫)

(写真撮影/土屋比呂夫)

草取りは“ニルヴァーナ(涅槃)“だったのです。解脱も近い?(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

草取りは“ニルヴァーナ(涅槃)“だったのです。解脱も近い?(画像提供/講談社 (c) クマガエ/宮澤ひしを 講談社)

この生活をすることで、物欲も減り、飲み会も行かなくてもいいかな、と思うようになりました。友人と集まって一緒に味噌づくりをしたり、味噌の完成お披露目会をしたり、そんなことが楽しいですね。今はどこでも味噌が売っていて、買えますよね。一見、すごく便利なようだけど、実はみんなでわいわい味噌をつくるような楽しい機会を奪われているんじゃないか……って思うようにもなりました。あと家事の大切さ、家仕事の価値がすごく低く見積もられている気がします」(クマガエさん)

確かに家事って生きる日々の営みですものね。おろそかにしていいことではない気がします。今、二人は、賃貸で快適な暮らしをキープしつつ、農作業と仕事をする「ちょうどよい暮らし」をしているように見えますが、実はレベルアップ(?)も間近だとか。

「一度、東京都心の塀のなかから飛び出したことで、『あ、私たち、郊外でも暮らせるんだ』って、自信がついた感じでしょうか。もう都会暮らしは無理かもしれませんが、もうちょい不便でも暮らしていけるかも」とルキノさん。今、引越し先として考えているのは海の近くで、農作業ができるエリアだとか。

(写真撮影/土屋比呂夫)

(写真撮影/土屋比呂夫)

(写真撮影/土屋比呂夫)

(写真撮影/土屋比呂夫)

「こうやって取材を受けるなかで、そろそろ次のレベルにいってもいいかもな、と思うようになりました。今の場所を見て、『田舎じゃない』っていう人もいるんですけれど、田舎って言ってもグラデーションになっていて、いろんな人がいて、場所がある。もしハードルが高いと感じるなら、いきなり移住・引越ししなくたっていい。まずは農作業経験とかに参加してみたり、軽い気持ちでチャレンジしてもいいと思うんですよね」とクマガエさん。

コロナ禍を経て、私たちの働き方、暮らし方は大きく変わろうとしています。郊外や地方での暮らしのハードルはぐっと下がっている今、農作業と仕事を自分らしく楽しむ「半農半X」という方法で、無理せずやりたいことを実現するのは、決して夢物語ではありません。もしかしたらクマガエさんのように異世界に踏み出す勇者は、続々と現れるのではないでしょうか。

●取材協力
『漫画編集者が会社を辞めて田舎暮らしをしたら異世界だった件』公式Twitter
1話試し読み
作画担当 宮澤ひしを先生Twitter

コロナ禍で二拠点生活がブーム? “先駆け”千葉県南房総市の今と課題

コロナ禍で地方移住や二拠点生活の熱が高まるなか、首都圏からのアクセスがよく、里山と海、両方を楽しめる地域として人気が高まっている千葉県の南房総エリア。2018年12月に取材した南房総市を再訪し、ヤマナハウスの変化や当時は二拠点生活をしていた川鍋宏一郎さんのその後と、南房総市の二拠点生活者、移住支援に関わってきた市、民間団体に、現状や課題について伺いました。
二拠点生活から南房総市に家を建築、また一歩移住に近づく

2016年ごろから東京に本社のある外資系IT企業に勤めながら、家族で住む横浜市と南房総市で二拠点生活をしてきた川鍋宏一郎さん。以前、取材をした際には、二拠点生活や移住を支援するヤマナハウスに週末通いながら、DIYスキルを学んでいました。その後、ヤマナハウスの近くに借りていた家と土地を購入し、2020年に家を新築。横浜との二拠点生活は継続しているものの、自身の生活の比重は南房総市が大きくなっています。
「コロナによるテレワークで都内に出社するのは月1回程度になり、週末は南房総市で過ごすようになりました。金曜日に横浜市内の綱島から高速を使って車で約1時間20分ほどかけて来ますが、日曜日の夜に家族が帰った後に、1週間ひとりで生活することもあります。南房総市は光回線が整っているので、仕事に不便はありませんし、とても静かで集中できます」

1500~2000坪の敷地の母屋を壊して家を建てた。「30年先でも暮らせる家」をイメージしてBESSというブランドで建てた家。カタログから開放的なデザインのWONDER DEVICEのFRANKを選んだ(写真撮影/片山貴博)

1500~2000坪の敷地の母屋を壊して家を建てた。「30年先でも暮らせる家」をイメージしてBESSというブランドで建てた家。カタログから開放的なデザインのWONDER DEVICEのFRANKを選んだ(写真撮影/片山貴博)

川鍋さん一家。子どもたちは裏山を駆け回ったり、川辺で遊んだり、自然と触れ合って過ごしている(写真撮影/片山貴博)

川鍋さん一家。子どもたちは裏山を駆け回ったり、川辺で遊んだり、自然と触れ合って過ごしている(写真撮影/片山貴博)

当初から土地には母屋と納屋がふたつありました。週末に母屋をDIYで修理しようと考えていた川鍋さんでしたが、床を剥がして基礎を確認するなどした結果、自分ひとりで直すのは困難だと分かりました。二拠点目に家を建てることに不安はなかったのでしょうか。

「もともと移住を見据えて二拠点生活をしていますが、横浜の自宅と南房総の家の二重ローンになってしまうので、悩みました。古い母屋は住居として整っていなかったので、以前は家族があまり来たがらなくて。長女は現在10歳で、小学校高学年~中学生になると習い事が始まり、このままでは少ししか田舎暮らしを体験させてあげられない。DIYしている時間はないなと思いました。それに、子育てはあと10年ほど。10年後に引越さない理由がありません。いつか移住したいと思っていても、年を重ねてからDIYや農業の知識を習得するよりも、今から準備を進めた方が良い。多少コスパが悪くても36歳の今、建てようと決めました」

納屋の中は、DIYするときの作業場になっている。いずれ納屋をきれいにして友人と一緒にくつろげる場にする予定(写真撮影/片山貴博)

納屋の中は、DIYするときの作業場になっている。いずれ納屋をきれいにして友人と一緒にくつろげる場にする予定(写真撮影/片山貴博)

知人から譲り受けたパワーショベルで裏山の開墾にひとりで挑む(写真撮影/片山貴博)

知人から譲り受けたパワーショベルで裏山の開墾にひとりで挑む(写真撮影/片山貴博)

キャンプ場をつくろうとパワーショベルで傾斜をならし平地に(写真撮影/片山貴博)

キャンプ場をつくろうとパワーショベルで傾斜をならし平地に(写真撮影/片山貴博)

現在は、二拠点目に本格的に居住することで、自身や家族、周囲の理解が変化しました。

「週末にキャンプやバーベキューを楽しみに来る一時的な場所ではなく、10年後にはここに住むんだとはっきりイメージできるようになりました。よく別荘と勘違いされるんですが、私にとって、南房総市は生活の場所。子どもたちも喜んで来るようになり、妻も草刈りなどを手伝ってくれます。地元の人にも本気だと伝わり、より親切にしてもらっています。地区の賛助会員になり、共同作業をする機会も増えました」

5年間、南房総市に関わりながら、平日は仕事、週末は裏山の整備や地域の作業があり、休みがなく大変な面も。とはいえ、好きなことを思い切りできる環境が気に入っています。

「これから、伐採した木を丸太にしてウッドデッキをつくろうと思っているんです」と川鍋さんは笑顔で語っていました。

アイランドキッチンのあるリビング。経年変化が楽しめる木の床材や壁材をふんだんに使っている(写真撮影/片山貴博)

アイランドキッチンのあるリビング。経年変化が楽しめる木の床材や壁材をふんだんに使っている(写真撮影/片山貴博)

「金曜の夜に車で来て、薪ストーブをつけてビールを開けると、1週間が終わったなとほっとします」と川鍋さん(写真撮影/片山貴博)

「金曜の夜に車で来て、薪ストーブをつけてビールを開けると、1週間が終わったなとほっとします」と川鍋さん(写真撮影/片山貴博)

自然豊かな場所で暮らせる一方で、仕事や家探しに課題も

内房の東京湾、外房の太平洋に面した海岸エリアと里山のある丘陵エリアがある南房総市。豊かな自然に惹かれ、移住先として注目されていますが、二拠点生活や移住の状況はどうなっているのでしょうか。移住支援を行っている南房総市役所企画財政課の山口幸弘さんに伺いました。

「住民票で確認できない二拠点生活者の把握は難しいのですが、Uターン、Iターンの移住が増えています。なかでも30、40代のIターンが多い印象です。移住前に登録してもらっている空き家バンク協議会の希望者は昨年の2倍以上。興味のある人は確実に増えていると感じています」

市として、無料でお試し移住ができるトライアルステイを実施。海が見えるエリア、里山エリア、都心から好アクセスなエリアの3地区に分かれて滞在するなかで、南房総市を肌で感じてもらう取り組みです。例えば、農業に関心のある参加者の場合、地域おこし協力隊員が同行し、地元の農家で農作業が体験できます。昨年は20家族を受け入れました。

丘陵エリアにあるヤマナハウス。春を迎えて草木が動き出した里山(写真撮影/片山貴博)

丘陵エリアにあるヤマナハウス。春を迎えて草木が動き出した里山(写真撮影/片山貴博)

移住者を受け入れるなかで、南房総市が課題とするのが、就労と住宅についてです。

「移住するためには仕事が大事ですが、農業は最初に畑整備や農機具をそろえるなどの投資が必要ですし、自然災害のリスクもあります。南房総市は事務職の求人が少ないので、工事関係や介護、配送等に就職する場合が多いようです。場所を選ばず仕事ができるIT系のフリーランスの方など職業によっては、支障のない方もいますが、サラリーマンの方は、理想を描いて移住してきても現実の生活とのギャップを感じてしまう人もいます。市として起業をする人を支援する取り組みをしていますが、なかなか難しい面があります」

住宅については、賃貸アパートが少なく、中古住宅が人気ですが、実際に貸したり売ったりできる物件が少ない現状があります。持ち主の高齢化で片付けができない、家を継いだ人が都心にいて管理できないという問題があるのです。

「高齢化が進む南房総市は住民がお互いに支え合って成り立っています。若い世代には、海岸清掃・生活道路の草取りなどの維持管理等地域の共同作業に参加してほしいです。それは、早くコミュニティに馴染んで、楽しく長く暮らせるコツでもあります。地域の活動に参加する以外には、若い世代は子育て、年配の方は釣りや庭づくりなどの趣味を通じて、地元に溶け込んでいます」

二拠点生活者や移住希望者を受け入れてきたヤマナハウスの現在

南房総市と業務提携して、移住支援に取り組んでいるのが、シェアオフィス運営を手掛けるHAPON新宿の創始者の一人、永森昌志さんです。HAPON新宿では、南房総市と一緒にイベントを行うほか、移住について相談できる「南房総2拠点サロン」やオンラインカフェを運営してきました。
なかでも、二拠点生活者や移住希望者が集まる場となっているのが、南房総市三芳にあるヤマナハウスです。
永森さんが「シェア里山」と呼ぶヤマナハウスは、約3500坪の里山にある古民家を改修し、希望者で古民家改修や畑仕事、裏山の整備などを行う場所。2018年に取材に訪れた際には、週末に年齢も職業もさまざまな人が集まり、田舎暮らしを楽しんでいました。二拠点生活や移住に対する関心が高まるなか、ヤマナハウスはどのような変化をしているのでしょうか。新緑が芽吹き始めた4月はじめのヤマナハウスを訪ねました。

築300年以上のヤマナハウス。都心から訪れた参加者に、里山ツアーや狩猟体験など1泊2日のプログラムが行われた(写真撮影/片山貴博)

築300年以上のヤマナハウス。都心から訪れた参加者に、里山ツアーや狩猟体験など1泊2日のプログラムが行われた(写真撮影/片山貴博)

月数回の寄り合いや、地ビールやジビエを楽しむイベントも(写真撮影/片山貴博)

月数回の寄り合いや、地ビールやジビエを楽しむイベントも(写真撮影/片山貴博)

訪れた時は、希望者にヤマナハウスや周辺の里山を体験してもらう見学ツアーの真っ最中。プログラムには、狩猟の講習会やヤマナハウスの裏にある里山探検、イノシシの解体があり、東京から来た参加者は、バーベキューでヤマナハウスのメンバーとの交流を楽しんでいました。

土間にコンクリートを打ってコミュニケーションスペースに。使っていない梁でつくったロングテーブル。かまどもワークショップで自作(写真撮影/片山貴博)

土間にコンクリートを打ってコミュニケーションスペースに。使っていない梁でつくったロングテーブル。かまどもワークショップで自作(写真撮影/片山貴博)

裏山での狩猟体験で罠を仕掛けるヤマナハウス副代表の沖さん(写真撮影/片山貴博)

裏山での狩猟体験で罠を仕掛けるヤマナハウス副代表の沖さん(写真撮影/片山貴博)

里山の植物や生き物に参加者は興味津々。水辺にはトウキョウサンショウウオの卵も(写真撮影/片山貴博)

里山の植物や生き物に参加者は興味津々。水辺にはトウキョウサンショウウオの卵も(写真撮影/片山貴博)

「2018年の取材時から3年が経ち、問い合わせは3倍以上になりました。週末だけ来ていた人が、都心に部屋を借りたまま、南房総市に移住し、都心へ月に何回か通う逆二拠点生活を始める人も増えてきました。コロナ禍で都心での自由度が減り、ストレス発散やリフレッシュできる田舎暮らしに関心が高まっているのでしょう」

永森さん自身、2007年から東京と南房総市との二拠点生活を経て、移住を経験しています。永森さんが仲間との共同運営でヤマナハウスをスタートしたのは2015年。古民家を遊び場にして仲間とDIYでリノベーションをするうちに、メディアに取り上げられるようになり、問い合わせが来るようになりました。

車座になり、ヤマナハウスや南房総の地域の課題についての講演を受ける参加者(写真撮影/片山貴博)

車座になり、ヤマナハウスや南房総の地域の課題についての講演を受ける参加者(写真撮影/片山貴博)

「私が南房総市に通うようになった当時、二拠点生活という言葉すらなく、情報も支援もありませんでした。田舎暮らしはしたいと思っていても、いきなりひとりで始めるのはハードルが高いと思います。そこで、改修した古民家をシェアして、二拠点生活や移住希望者の拠点をつくろうと考えたのです。家を借りなくても、週末にヤマナハウスに通うことで、二拠点生活や移住の助走期間にしてもらえれば」

さらに、移住へのハードルを下げてもらおうと始めたのが、南房総市に3カ月通いながら、狩猟を学べる「南房総2拠点ハンターズハウス」です。趣味を入り口にして南房総市を知ってもらう取り組みのひとつで、6回の狩猟講座に参加しながら、民宿に30泊できて15万円。募集を開始したところ、10名の定員はあっという間に埋まり、最終的に15名が参加しました。

ヤマナハウスのメンバーによるイノシシの解体。狩猟講座で学び、皮なめしなどのスキルも身につけた(写真撮影/片山貴博)

ヤマナハウスのメンバーによるイノシシの解体。狩猟講座で学び、皮なめしなどのスキルも身につけた(写真撮影/片山貴博)

「自活力、自給自足力をつけ、自分でサバイバルしていきたい欲求が高まっていると感じています。お金で買うのと同等かそれ以上に、自分でつくったものやその過程に価値を置く人が増えているんです」

とはいえ、都心からの参加者が多いこともあり、緊急事態宣言下では、地域での活動に悩んだことがあったといいます。

「地元の方へ自粛した方がよいか相談に行ったのですが、むしろぜひ作業に参加してほしいとお願いをされました。地域は70、80代の高齢者が多く、作業の担い手が不足しています。野山を放置すれば、道が通れなくなったり、田んぼの水路が埋まったりしてしまいます。草刈りなどを行い、とても感謝されました。こういった地元の活動に一人で出るのは気後れしても、ヤマナハウスに参加しながら、自分のペースで出られる時に出る形で無理なく馴染んでいってほしいと思っています」

飲食店の営業許可をとるため改修中のキッチン(写真撮影/片山貴博)

飲食店の営業許可をとるため改修中のキッチン(写真撮影/片山貴博)

見はらしのよい高台にウッドデッキを制作中。デッキの上にゲル(円形テント)を置く予定(写真撮影/片山貴博)

見はらしのよい高台にウッドデッキを制作中。デッキの上にゲル(円形テント)を置く予定(写真撮影/片山貴博)

ハーブ園ではミント、パクチーが元気に育っていた。これから藍染に使う蓼(たで)も栽培する(写真撮影/片山貴博)

ハーブ園ではミント、パクチーが元気に育っていた。これから藍染に使う蓼(たで)も栽培する(写真撮影/片山貴博)

「二拠点生活は、けっこう大変ですよ」と笑顔で話す川鍋さんに、苦労とそれ以上の充実を感じました。二拠点生活や移住対策について、ほかの自治体では模索中のところも多いですが、南房総市のように成功事例もあります。コロナ禍での価値観の変化を経て高まる需要と、受け皿となる市やヤマナハウスの取り組み。川鍋さんのように充実した暮らしを手に入れるための道のりは険しいですが、さまざまな支援をうまく利用することで、最初の一歩を踏み出せそうです。

●関連記事(2018年取材時の記事)デュアルライフ・二拠点生活[1] 南房総に飛び込んで生まれた、新しい人間関係や価値観

●取材協力
HAPON新宿

人口1000人の限界集落に「未来コンビニ」! “世界一美しいコンビニ”が徳島・木頭を変える?

人口約1000人の山間地域の村、徳島県那賀町木頭地区に、昨年4月誕生した「未来コンビニ」。
「未来」といっても最新技術を駆使したコンビニ、という意味ではなく、「未来を担う子どもたちのために」という想いから名付けられたもの。過疎化が進み、買い物難民が社会問題とされている地方の試みとして注目されている。今回は、誕生した経緯とともに、新たなコミュニティの場として動き出した、その後についてインタビューした。

名前の由来は、未来を担う子どもたちのための場でありたい想いから

徳島県と高知県をつなぐ国道195号を車で走っていると、突如現れる、スタイリッシュな建物。それが「未来コンビニ」だ。その存在を知らない人は、夜の暗闇に突如現れる光り輝く近未来な建物に驚くことだろう。

“世界一美しいコンビニ”のキャッチフレーズに違わぬ外観。自然の中にたたずむモダンなコントラストが美しい。オープン後、訪れる人々の口コミやSNSの拡散で、徐々に知名度を上げている(写真提供/ワキ・タイラー)

“世界一美しいコンビニ”のキャッチフレーズに違わぬ外観。自然の中にたたずむモダンなコントラストが美しい。オープン後、訪れる人々の口コミやSNSの拡散で、徐々に知名度を上げている(写真提供/ワキ・タイラー)

誕生したのは1年前。最寄りのコンビニまで車で1時間もかかるという地域に暮らす人々の、利便性を向上させる目的で生まれたもの。

徳島市と高知市の市街地からそれぞれ車で2時間程度の木頭地区。剣山など標高1000mを超える山々に囲まれ、村の中心に那賀川の清流が流れる。 この神々しい日本の原風景の魅力は、いつしか“四国のチベット”とも表現されるようになった(写真提供/ワキ・タイラー)

徳島市と高知市の市街地からそれぞれ車で2時間程度の木頭地区。剣山など標高1000mを超える山々に囲まれ、村の中心に那賀川の清流が流れる。 この神々しい日本の原風景の魅力は、いつしか“四国のチベット”とも表現されるようになった(写真提供/ワキ・タイラー)

左/定番のソフトクリームにゆず塩をかけて。右/ご近所で育てているミントをカフェメニューに(写真提供/未来コンビニ)

左/定番のソフトクリームにゆず塩をかけて。右/ご近所で育てているミントをカフェメニューに(写真提供/未来コンビニ)

「単に買い物をするだけでなく、子どもたちが自然と集まり、何かしらの刺激を受け、自分の将来への気づきを与えられる場所がコンセプトなんです。子どもたちは未来を担う“宝”ですから」(KITO DESIGN HOLDINGS 経営企画室長 仁木基裕さん)
例えば、本棚では、過疎地では手に入りにくい雑誌、小説、漫画、アート本、小説などを取りそろえたり、大きなモニターで子ども向けのオンラインイベントをしたり、海を知らない子どもたちに、周辺の海辺の町との交流会を行ったり……。「木頭地区の小中学生は約30人。ともすれば、赤ちゃんの時からずっと同じ顔触れなんです。だけど、この場ができることで、さまざまな経験ができていると思います」

子どもや高齢者が商品を手に取りやすいよう、商品棚は低めに設定。木頭ゆずのオリジナル商品も販売(写真提供/ワキ・タイラー)

子どもや高齢者が商品を手に取りやすいよう、商品棚は低めに設定。木頭ゆずのオリジナル商品も販売(写真提供/ワキ・タイラー)

図書館のように自由に手に取ることができる、クリエイティブな本棚を設置。店内で絵本の読み聞かせもできる。これも“本との出会いは子どもたちの将来の道しるべのひとつになる”という考えから(写真提供/未来コンビニ)

図書館のように自由に手に取ることができる、クリエイティブな本棚を設置。店内で絵本の読み聞かせもできる。これも“本との出会いは子どもたちの将来の道しるべのひとつになる”という考えから(写真提供/未来コンビニ)

海沿いの徳島県牟岐町との交流イベント「木頭に海がやってきた!」。徳島県は海沿いと山間地域では環境もまったく違うので、お互いの地元を知ろうということから企画されたもの(写真提供/未来コンビニ)

海沿いの徳島県牟岐町との交流イベント「木頭に海がやってきた!」。徳島県は海沿いと山間地域では環境もまったく違うので、お互いの地元を知ろうということから企画されたもの(写真提供/未来コンビニ)

森の中のインパクトあるデザインで、日本中、世界中に拡散される

この未来コンビニは、地域住民の暮らしを支えると同時に、遠方からのゲストも楽しめる交流の場だ。
秋にはすぐ近くの紅葉の名所「高の瀬峡」を訪れる観光客でにぎわい、コンビニ利用者は1日最大400人に。人口約1000人の村に、だ。これまでは国道を素通りするだけだった木頭地区に、この未来コンビニができることで、足を止める観光客が増え、名産の木頭ゆずの知名度もアップ。大きな経済効果を生んでいる。

(写真提供/ワキ・タイラー)

(写真提供/ワキ・タイラー)

名産の木頭ゆず(写真提供/黄金の村)

名産の木頭ゆず(写真提供/黄金の村)

「誰もが足を止める。そのためにはデザインワークも大切でした。木頭ゆずを思わせるイエロー。Y字型の幾何学的なデザインの柱は、ゆずの果樹がモチーフです。山の中というロケーションもあいまって、SNSで発信をしてくださる方も多いんです」(仁木さん)

内装デザイン、店名のフォント、ロゴデザインすべてのデザインがモダンで洒落ている。一方、「自然との共生」をコンセプトに、建物の周りに土に還ることのできる樹皮チップが敷き詰められるなど、サステナブルな設計に(写真提供/未来コンビニ)

内装デザイン、店名のフォント、ロゴデザインすべてのデザインがモダンで洒落ている。一方、「自然との共生」をコンセプトに、建物の周りに土に還ることのできる樹皮チップが敷き詰められるなど、サステナブルな設計に(写真提供/未来コンビニ)

SNS投稿する人も多数(写真提供/未来コンビニ)

SNS投稿する人も多数(写真提供/未来コンビニ)

実業家の“故郷への恩返し”から始まったもの

そもそもこの未来コンビニは、“すべての人が笑顔になれる、奇跡の村を創る”、そのために“木頭を世界へ向けてデザイン・発信する”をミッションとするKITO DESIGN HOLDINGS株式会社の取り組みのひとつだ。ほかにも、3年前には元村営のキャンプ場をフルリノベーションして生まれ変わらせた「山の中のリゾート CAMP PARK KITO」や、名産品の木頭ゆずの生産加工・販売・店舗展開をする「黄金の村」事業など、さまざまなプロジェクトを手掛けている。
スタート地点は、IT会社、株式会社メディアドゥ代表の藤田恭嗣氏(KITO DESIGN HOLDINGSの代表も兼任)が、出身地である木頭地区に、恩返しをしようと始めたもの。
「寄付という形ではお金を出して終わり。地域が自立して、経済が循環していかないと意味はないんです。初期投資と最初のコンセプトワークをパッケージ化できれば、全国の同じように過疎化・高齢化に悩む地方でも、民間のチカラで同じように地方を盛り上げることが可能なんじゃないかと考えています。限界集落と呼ばれるこの小さな村に、そういった動きを導く場所があるんだという驚き、物語は、その証明になるはず。未来コンビニというフィールドを通して、ネットでもリアルでも世界とつながることができる、そこに存在意義があると思っています」(グループ執行役員 堀新さん)

未来コンビニを含む木頭プロジェクトで移住者も増加中

実際、木頭ではプロジェクトをきっかけに移住者も増えている。

現在、未来コンビニの店長である小畑賀史さん自身も、徳島県徳島市からの移住者。長年関西のカフェでバリスタとして働き、2年前に出身地である徳島市にUターン。「徳島でも、百貨店撤退など地方経済の落ち込みを目の当たりにしました。地元である徳島県が元気になるにはどうしたらいいかを考えたとき、徳島の中でも地方と呼ばれる地域の盛り上がりが不可欠だと感じました。神山や上勝をはじめ徳島の地方の取り組みを調べていく過程で木頭のプロジェクトを知り、他の地域よりもっとハンディのある場所だからこそ、ここを元気にすることが出来たら面白いと思い木頭にやってきました」(小畑さん)

小畑さん(写真提供/未来コンビニ)

小畑さん(写真提供/未来コンビニ)

カフェでの経験を活かし、小畑さんはカフェメニューも開発(写真提供/未来コンビニ)

カフェでの経験を活かし、小畑さんはカフェメニューも開発(写真提供/未来コンビニ)

一方、地元の特産品「木頭ゆず」の栽培・加工・販売を手掛ける関連会社、株式会社黄金の村で営業部長として働く岡田敬吾さんは、木頭地区出身のUターン者だ。
「私が子どものころは、将来は木頭を出ていくのが普通でした。私は、いつか地元に戻りたいと思っていたけれど、このKITO DESIGN HOLDINGSの取り組みがなければ、たぶん戻ってこれなかったと思います。その点、今の木頭の子どもたちは、違うんですよ。木頭での取り組みを通じて親以外のさまざまな職種の大人を目の当たりにすることで、とても刺激を受けているようです。それこそ代表の藤田のような木頭出身の上場企業の創業経営者という存在と触れ合って身近に感じることも、私の子ども時代ではまずないことでしたから」(岡田さん)

高校まで那賀町木頭で過ごした後、大阪や東京で音楽・IT関係の仕事をしていた岡田さん。2年前に木頭に家を建て家族で移住した(写真提供/黄金の村)

高校まで那賀町木頭で過ごした後、大阪や東京で音楽・IT関係の仕事をしていた岡田さん。2年前に木頭に家を建て家族で移住した(写真提供/黄金の村)

また、ノルウェー出身の音楽クリエイターのAlrik Fallet(アルリック・ファレット)さんは1年前に移り住み、木頭の村の美しさや文化に日々刺激を受けながら制作活動に打ち込んでいる。
アルリックさんは、未来コンビニへ朝コーヒーを飲みに行ったり、ワーキングスペースとして活用したりしている。「地元の人同士がおしゃべりしているのを見ているのが好きです。地元のおじいちゃんやおばあちゃんは、すごく気軽に話しかけてくれるのも素敵だと思っています。今後は自分自身もこのスペースを使って、子ども達になにかクリエイティブなことを教えたりできたらいいですね」(アルリックさん)

未来コンビニ内にある「YUZU CAFÉ」で仕事をすることも多いアルリックさん。友人のアメリカ人クリエイターに誘われた夏休みの日本旅行の途中で木頭を訪れたことが移住のきっかけ。また、未来コンビニのモニターで流れている映像の音楽は全てアルリックさんによるものだ(写真提供/未来コンビニ)

未来コンビニ内にある「YUZU CAFÉ」で仕事をすることも多いアルリックさん。友人のアメリカ人クリエイターに誘われた夏休みの日本旅行の途中で木頭を訪れたことが移住のきっかけ。また、未来コンビニのモニターで流れている映像の音楽は全てアルリックさんによるものだ(写真提供/未来コンビニ)

地域住民と創る。かけがえのない集いの場所へと発展

未来コンビニが誕生して1年。オープン当初こそ、地元の人も様子を見ながらという雰囲気だったが、徐々に毎朝来てくれるようになったり、休憩に顔を出してくれたりするように。
地元農家さんの野菜直売マルシェを設置し、毎週火曜日は鮮魚の日、金曜日は精肉の日と、通常のコンビニでは扱わない商品も展開し、今では地域住民にとってなくてはならない生活インフラや社交場になっている。

木頭の農家さんから商品を仕入れる「きとうマルシェ」も定期的に開催。山間にある村だけあり鮮魚は人気が高く、現在は予約制(写真提供/未来コンビニ)

木頭の農家さんから商品を仕入れる「きとうマルシェ」も定期的に開催。山間にある村だけあり鮮魚は人気が高く、現在は予約制(写真提供/未来コンビニ)

「驚いたのは、積雪の日に雪かきを地域の方々が手伝ってくれたこと。雪に不慣れな移住者のスタッフも多く、みなさんが助けてくれなかったら、大変なことになったでしょう。台風の日は看板が飛ばされないよう、ブロックを持ってきてくださいました。みなさん、自分たちの場所だと大切にしてくださっているんだなとうれしかったです」(仁木さん)

積雪の日の雪かきは大変。クリスマスのモミの木も地元の方が山から伐採してきてくれたもの(写真提供/未来コンビニ)

積雪の日の雪かきは大変。クリスマスのモミの木も地元の方が山から伐採してきてくれたもの(写真提供/未来コンビニ)

今後は、なかなか買い物が難しい高齢者のために移動販売や宅配事業を行ったり、子どもたちに向けてクリエイティブな学びの場をもっと提供するなど、新たなアイデアが次々と生まれているという、未来コンビニ。

今はお祭りや宴会の開催も難しく、一日誰とも会わない・話さないという高齢者は多いはず。木頭でも夏の風物詩「木頭杉一本乗り大会」や、八幡神社の秋祭りなど、毎年地域総出で行っていたイベントも昨年は中止となった。しかし、このような”場“があることで、昔馴染みに偶然出会っておしゃべりしたり、スタッフと笑いあったりする一日になる。この点でも、未来コンビニの存在感は大きいといえるだろう。

買い物ついでにおしゃべり。誰もが足を運ぶ場なら自然と交流の場に。家にいる時間が長い今だからこそ、こうした場は大切だ(写真提供/未来コンビニ)

買い物ついでにおしゃべり。誰もが足を運ぶ場なら自然と交流の場に。家にいる時間が長い今だからこそ、こうした場は大切だ(写真提供/未来コンビニ)

●取材協力
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東京都民が移住・二拠点居住したいエリアランキング発表!選ばれる場所のポイントは「身近さ」と「住むイメージのつきやすさ」

リクルート住まいカンパニーが「移住」「二拠点居住」に焦点を当てて、その大票田となる東京都在住者に対して、どのエリアに拠点を持ちたいかを聞いた。票を集めたエリアをランキングした結果、意外に近いエリアがトップになった。詳しく見ていこう。【今週の住活トピック】
「東京都民が移住・二拠点居住したいエリアランキング調査」を公表/リクルート住まいカンパニー【東京都】八王子・奥多摩エリア と【神奈川県】鎌倉・三浦エリアが2トップ

東京一極集中が指摘されるなか、新型コロナウイルスの影響で東京都からの転出超過が続いている。また、働き方の変革が急速に進み、テレワークを導入する企業が増えたことで、地方への「移住」や都心と地方の二地域に拠点を持って行き来する「二拠点居住」がしやすくなり、いま注目が集まっている。

リクルート住まいカンパニーの調査では、東京駅から50km以上離れたエリアを「地方」と定義して、東京都在住の20代~60代に居住したいエリアを聞き、希望する順位に応じた得点を算出して、ランキングした。その結果は次のようになった。

「移住したい」エリアランキング 上位10

「二拠点居住したい」エリアランキング 上位10

「移住したい」「二拠点居住したい」エリアランキング 上位10(出典:リクルート住まいカンパニー「東京都民が移住・二拠点居住したいエリアランキング調査」より転載)

「移住したい」「二拠点居住したい」ランキングでは、順位は異なるが、「【東京都】八王子・奥多摩エリア」 と「【神奈川県】鎌倉・三浦エリア」が1位と2位になった。いずれも首都圏のエリアだ。

3位以降は顔ぶれが少し変わり、「移住したい」ランキングでは、3位「【北海道】石狩エリア」、4位「【沖縄県】離島・諸島エリア」 、5位「【福岡県】福岡エリア」といずれも東京から離れたエリアとなった。

一方、「二拠点居住したい」ランキングでは、3位「【神奈川県】湘南エリア」、4位「【静岡県】伊豆エリア」と東京から行き来しやすい距離のエリアが続き 、5位の「【沖縄県】那覇エリア」以降に遠方のエリアが入る結果となった。移住と違って、二拠点居住のほうが東京と行き来する頻度が多くなるからだろう。

さて、移住支援などを行っている「ふるさと回帰支援センター」への窓口相談者が選んだ移住希望地ランキング(2021年3月5日公表)では、「1位:静岡県 2位:山梨県 3位:長野県」となっている。調査対象者が同センターを訪れて相談をした人なので、積極的に情報提供や窓口相談を行っている自治体が上位に挙がる傾向がある。

そのため、リクルート住まいカンパニーの調査と結果に違いはあるが、リクルート住まいカンパニーの調査でも、静岡県の伊豆エリアの人気が高いことに加え、「移住したい」ランキングで18位~20位は長野県のエリアが占め、「二拠点居住したい」ランキングで7位と18位に長野県と山梨県のエリアが入るなど、その人気ぶりがうかがえる。

都民に身近な八王子・奥多摩エリアが人気なのはなぜ?

さて、筆者は東京生まれ・東京育ちのバリバリの東京都民だ。「都民の日」の10月1日は全国どこでも学校が休みだと思っていて、大学に入学して休みじゃないことに驚いたほどだ(小中高が公立だったので休みなだけだった)。そんな筆者にとって「八王子・奥多摩エリア」は、通勤圏の範囲でもあり、遠足やキャンプに行く場所でもある。そんな身近な場所が、移住や二拠点居住の場所として上位になるのはなぜか、筆者は疑問に思った。

この疑問をSUUMO副編集長の笠松美香さんにぶつけたところ、その謎が解明された。
SUUMOでは、2019年のトレンド予測キーワードとして「デュアラー=デュアルライフ(二拠点生活)を楽しむ人」を挙げた。この際の調査で、全国を対象に二拠点居住したい場所を選んでもらったところ、おおむね6割~7割が自分の住む都道府県を挙げた。この結果を笠松さんは、「近くて愛着があり、イメージしやすい場所に二拠点目を持って行き来したいというニーズが強いのではないか」と分析したという。

また、今回の調査では、「地方移住または二拠点居住を検討している・強い関心がある」層と「関心あり」層が対象になるように調査対象者を絞っているため、なんとなくというより、具体的に移住先や二拠点目を考えてエリアを選択した人が多いという背景もある。

その結果、住むイメージがつきやすいエリア、家族が住んでいたりレジャーなどで何度も行ったりしたエリアが上位に挙がったというのだ。「八王子・奥多摩エリア」や「鎌倉・三浦エリア」、「湘南エリア」、「伊豆エリア」はまさにそうしたエリアなのだろう。

ほかにも、遠方でありながら、札幌を擁する「【北海道】 石狩エリア」や「【福岡県】 福岡エリア」などの地方の大都市や、「【沖縄県】 離島・諸島エリア」などの人気リゾートエリアが上位に入るのも理解できる結果だ。

レーダーチャートで分かる、エリアが人気な理由

さて、調査では地図を示すなどして具体的な自治体名を挙げているが、「八王子・多摩エリア」に含まれるのは「八王子市、青梅市、あきる野市、日の出町、奥多摩町、檜原村」だ。またリリースでは上位エリアのレーダーチャートを紹介している。これを見ると、そのエリアがどう見られたかがよく分かる。

「八王子・多摩エリア」では、車の移動がしやすく、住居費が安いこと、子育て環境が良いことが高く評価されている。高尾山や秋川渓谷、奥多摩湖などの豊かな自然が評価を上げる要因のようだ。都心部に行きやすい点も安心材料になっているのではないか。

【東京都】八王子・奥多摩エリア(八王子市、青梅市、あきる野市、日の出町、奥多摩町、檜原村)(出典:リクルート住まいカンパニー「東京都民が移住・二拠点居住したいエリアランキング調査」より転載)

【東京都】八王子・奥多摩エリア(八王子市、青梅市、あきる野市、日の出町、奥多摩町、檜原村)(出典:リクルート住まいカンパニー「東京都民が移住・二拠点居住したいエリアランキング調査」より転載)

一方、古都鎌倉や海のイメージが強い「鎌倉・三浦エリア」のレーダーチャートを見ると、「エリア内に賑わいがある街がある」点が特出して高い。エリアのイメージの良さや街に個性があることが人気を集めた要因だ。

【神奈川県】鎌倉・三浦エリア(鎌倉市、逗子市、横須賀市、三浦市、葉山町)(出典:リクルート住まいカンパニー「東京都民が移住・二拠点居住したいエリアランキング調査」より転載)

【神奈川県】鎌倉・三浦エリア(鎌倉市、逗子市、横須賀市、三浦市、葉山町)(出典:リクルート住まいカンパニー「東京都民が移住・二拠点居住したいエリアランキング調査」より転載)

さらに、「【沖縄県】 離島・諸島エリア」では、自然の豊かさが高く評価され、「【北海道】 石狩エリア(札幌市、江別市、千歳市、恵庭市、北広島市、石狩市、当別町、新篠津村)」では、医療施設の充実と食べ物がおいしいことなどが、「【静岡県】 伊豆エリア」では、気候の穏やかさやエリアの発展性などが、それぞれ高く評価されている。

60代の1位は「【静岡県】伊豆エリア」。リタイア後にはリゾート地が人気

次に、回答者の年代による違いを見ていこう。

20代、30代、40代、50代が「移住・二拠点居住したいエリアランキング」で1位と2位に「【東京都】八王子・奥多摩エリア」 と「【神奈川県】鎌倉・三浦エリア」を挙げたのに対して、60代では「【静岡県】伊豆エリア」、2位「【神奈川県】鎌倉・三浦エリア」、3位「【神奈川県】箱根・足柄エリア」と、静岡県・神奈川県のリゾート・温泉地が上位を占めた。リタイア後の生活を想定して選んだ場合、八王子・奥多摩ほど近くなくていいが、東京近郊でリラックスできる場所を選んだということだろう。

さて、笠松副編集長は、移住・二拠点居住の「子育て環境が良いから」ランキングにも注目していた。1位「【栃木県】宇都宮エリア」、2位「【香川県】高松エリア」など、適度に都市圏で生活と教育環境のバランスが取れている街が上位になったと言う。テレワークの普及で親たちの働く場所の自由度は広がったが、次は子どもの学ぶ場所の自由度が広がることを期待したい。

二拠点生活で小・中学校はどうする? コロナ禍で高まるニーズ受けて

コロナで2回目の緊急事態宣言が発令されて始まった2021年。今回は休校や休園などの事態は免れたものの、テレワークなどの新しい生活様式の推奨に伴って、郊外への引越しや地方移住、二拠点生活を検討する人が増えていると言います。

2019年から二拠点生活を始めて2年、小学校・中学校への進学を控える子ども2人を持つ筆者が、改めて二拠点生活の「学校どうするか」問題について考えます。

コロナで地方移住や二拠点生活の志向が高まっている!?

1月29日、総務省が2020年の住民基本台帳に基づく人口移動報告を発表し、東京都からの転出者が全国で唯一増加となったことが話題になりました。転出先は神奈川・埼玉・千葉の近隣3県が55%を占めることに。コロナの影響でリモートワークが普及し、都心から通勤圏内の郊外へ移り住む流れが進んでいると言われます。

また、リクルート住まいカンパニーが発表した調査でも同様の傾向が見られます。『SUUMO』の物件詳細閲覧数を2020年1月と8月で比較した伸び率をランキングすると、伸び率1位となったのは中古マンションでは神奈川県三浦市、中古一戸建てでは千葉県富津市でした。さらにいずれもトップ5は都心から100キロメートル圏内の郊外エリアだったのです。2拠点生活意向者も2018年11月と比べ、2020年7月時点では13.4ポイント増加し、二拠点生活を志向する人が約2倍に増えていることを示しています。

『デュアルライフ(2拠点生活)に関する意識・実態調査』と2020年7月実施調査の比較(左)。『SUUMO』の物件詳細閲覧数を、2020年1月と8月で比較した際の伸び率をランキング化。赤が中古マンション 青が中古一戸建て(右)(資料/SUUMO編集部)

『デュアルライフ(2拠点生活)に関する意識・実態調査』と2020年7月実施調査の比較(左)。『SUUMO』の物件詳細閲覧数を、2020年1月と8月で比較した際の伸び率をランキング化。赤が中古マンション 青が中古一戸建て(右)(資料/SUUMO編集部)

二拠点生活をするとき、学校の選択肢は?

これまで二拠点生活の実現を阻むと言われてきた二大要素が「仕事」と「子どもの就学」でした。そのうち、「仕事」については、WEB会議システムをはじめとしたテレワーク化の流れによって、地方に住みながら今の仕事を続けられるかも、と二拠点生活をイメージできる人が増えたのではないでしょうか。

そして、もう一つの困難が「子どもの就学」問題です。二拠点生活をするときの通学形態には、いくつかの選択肢があります。公立の小・中学校に通学する場合、大体次の3つに分けられるでしょう。

1)いずれか主となる住所地に住民票と学籍を置き、その学校にのみ通学する
・現在の学校に引き続き通学
・転校する(親子留学制度などを利用する場合も含む)

2)デュアルスクール制度のある自治体(徳島県、長野県塩尻市、秋田県など)で区域外就学制度(後述)を活用し、都心部に住民票と学籍を置いたまま、地方の学校にも通学する

3)主となる住所地に住民票と学籍を置き、別拠点に滞在中はフリースクールや家庭教師など任意の教育で補う

山梨県や長野県に移住した友人からは、それらの県の一部地域で募集されている「親子留学」制度が、コロナによって問い合わせが増えていると聞きます。この親子留学制度も上の1)の住民票と学籍を移す形になります。

テレワーク普及の影響か、親子留学制度を活用しようと考える人も増えている様子(写真/PIXTA)

テレワーク普及の影響か、親子留学制度を活用しようと考える人も増えている様子(写真/PIXTA)

「区域外就学制度」が使える? 自治体や教育委員会に問い合わせてみた!

古くから各地方自治体には「区域外就学」の制度があります。これは具体的な事情が相当と認められる場合に、住民票と学籍のない自治体の公立学校に通うことが可能となる制度です。

実は、地方移住や二拠点生活などのニーズを反映し、2017年7月に文部科学省からこの区域外通学に関する通達が出されました。この通達には、「相当と認めるとき」に「地方への一時的な移住や二地域に居住するといった理由」も含まれることが記載されています。二拠点でこの制度を活用することに文科省のお墨付きを得ている、とも言えるこの通達ですが、文部科学省教育制度改革室の松岡将さんによると「実際の運用と認められるかどうかの判断は、各地方自治体の教育委員会の判断に委ねられている」と言います。

2017年7月に各都道府県・指定都市の教育委員会就学事務担当課長宛に通知された「地方移住等に伴う区域外就学制度の活用について」(画像/文部科学省)

2017年7月に各都道府県・指定都市の教育委員会就学事務担当課長宛に通知された「地方移住等に伴う区域外就学制度の活用について」(画像/文部科学省)

そこで、筆者は現在、東京の拠点である品川区と住民票を置いている佐賀県佐賀市にこの制度が活用できるかを尋ねてみることにしました! それぞれの自治体のホームページには、学期の途中で転出した場合などに加え、「その他教育委員会が特に必要と認めた場合」に区域外就学制度を利用できる旨の記載があります。

「コロナ」という“特別な事情”が、加味される可能性も

ところが、実際に各自治体に相談してみると、筆者のように1回あたり数日~1週間程度の滞在では申請が認められることは難しく、一つの目安として「一定期間(2~3週間程度)以上、居住していること」が必要であることが判明しました。

また、自治体によっては、主に海外赴任で一時的に帰国している場合などに、住民票がなくとも一定期間居住していることを条件に「体験入学」できる制度を設けているところもあります。この制度を活用する場合においても、居住期間2~3週間以上の場合の申請が一般的ということでした。

自治体によっては、海外からの一時帰国者を主な対象に「体験入学」制度を設けているところも(写真/PIXTA)

自治体によっては、海外からの一時帰国者を主な対象に「体験入学」制度を設けているところも(写真/PIXTA)

ただ、品川区学務課の篠田英夫さんによると「コロナによって区内に住む人から、地方の祖父母宅など一時的に他のエリアで子どもを通学させることができないか、といった相談が出てきている」といいます。

「『コロナのような特別な事情』があれば、受け入れ側の自治体との調整によっては可能になる場合もあるかもしれません。個別事情によって判断することになるので、詳細は各自治体や教育委員会などの窓口に相談してほしいと思います」(篠田さん)

意外と「デュアルスクール」を望んでいない子どもも!?

子ども2人がそれぞれ小学校、中学校に進学するのにともない、筆者の中では改めて“学校どうしよう”問題が湧き上がりました。特に1カ月に1~2回、3~7日ほどの東京・佐賀の行き来が日常になっていた長男には、区域外就学制度が活用できたらよかったのにな……という思いも拭えません。

ところが、いざ息子にその話をしてみると「小学校は佐賀だけでいい。2つも学校行くのは面倒だから」と言います。中学校に進学する長女に聞いても同様の返答です。

リビングで宿題をする小学6年生の長女。佐賀市の指定区域内の中学校への進学を希望している(撮影/唐松奈津子)

リビングで宿題をする小学6年生の長女。佐賀市の指定区域内の中学校への進学を希望している(撮影/唐松奈津子)

実は、私たちの二拠点生活も最初から全てが順調だったわけではなく、佐賀に引越して最初の半年ほどの間は、よく保育園の園長先生から長男の様子について話がありました。息子が移動中のバスの中でお友達を叩いたり、体操の時間にみんなで走っているときに前の子を押したりすることが頻発したのです。

園長先生から聞いたのは息子が「怒っているように見える。お母さんが仕事で東京に行って不在のときは、特にイライラしている様子」だということ。半年ほど経って息子の様子が落ち着いてきたことを園長先生と話したとき、「生活に慣れて、いつもの安心できる環境になったんでしょうね」と言われて、気付かされた思いでした。子どもにとっては“いつもの安心できる環境”が第一なのだな、と。

4月から小学校に進学する長男。佐賀でお気に入りの場所の一つ、佐賀県立図書館と併設する「こころざしの森」にて(撮影/唐松奈津子)

4月から小学校に進学する長男。佐賀でお気に入りの場所の一つ、佐賀県立図書館と併設する「こころざしの森」にて(撮影/唐松奈津子)

国も自治体も、そして親も「子どもの教育環境」を第一に

松岡さんに話を聞いたときにも印象的だったのは「子どもの教育環境が大切」という言葉が繰り返し使われたことです。また、篠田さんは「学級運営や他の子どもたちの学習環境にも影響するので、区域外就学も安易には認められない」と言っていました。

親としては生活の選択肢を増やす意味で、また子どもの将来にとって良かれと思って、二拠点生活に活用できる就学制度があれば、と思わずにいられません。実際、都会育ちの子どもが、デュアルスクールを体験し、かけがえのない経験や、自分の居場所はどこにでもつくれるという強い自信を得た、といった素晴らしい話も聞きます。一方で、二拠点生活を考える際に子どもの学校をどうするのか、本当に子どもにとって2つの学校に通うことが必要なのかどうかは、それぞれの家庭の事情にあわせて慎重に検討する必要があると感じました。

有明海の干潟でカニ探しをして遊ぶ長男。子どもに自然体験を増やしたいと考える人も多いだろう(撮影/酒井皓司)

有明海の干潟でカニ探しをして遊ぶ長男。子どもに自然体験を増やしたいと考える人も多いだろう(撮影/酒井皓司)

二拠点生活を始めた当時、小学4年生だった長女が転校して現在の小学校にすんなり馴染めたのも、既に顔見知りの同級生がいたことが大きいと思っています。実は、娘は東京・品川区の小学校に入学した6歳のころから4年間、毎年冬休みには佐賀の祖父母宅に一人で2週間ほど滞在し、現在の住まいの近所に住む子どもたちと一緒に遊んできたのです。

デュアルスクール制度、区域外就学制度、体験入学制度、親子留学制度など、二拠点生活の広まりに応じて活用できそうな就学制度が出てきました。また、コロナの今だからこそ、活用できる可能性もありそうです。

“子どもの教育環境”という簡単には答えの出ない問題だからこそ、まずは親子で休暇を利用して一時的に滞在してみる、「子連れワーケーション」を実践してみるなど、“試しに”から始めて子どもの様子を見るのも一手かもしれませんね。

●取材協力
・文部科学省
・東京都品川区
・佐賀県佐賀市

二拠点生活で小・中学校はどうする? コロナ禍で高まるニーズ受けて

コロナで2回目の緊急事態宣言が発令されて始まった2021年。今回は休校や休園などの事態は免れたものの、テレワークなどの新しい生活様式の推奨に伴って、郊外への引越しや地方移住、二拠点生活を検討する人が増えていると言います。

2019年から二拠点生活を始めて2年、小学校・中学校への進学を控える子ども2人を持つ筆者が、改めて二拠点生活の「学校どうするか」問題について考えます。

コロナで地方移住や二拠点生活の志向が高まっている!?

1月29日、総務省が2020年の住民基本台帳に基づく人口移動報告を発表し、東京都からの転出者が全国で唯一増加となったことが話題になりました。転出先は神奈川・埼玉・千葉の近隣3県が55%を占めることに。コロナの影響でリモートワークが普及し、都心から通勤圏内の郊外へ移り住む流れが進んでいると言われます。

また、リクルート住まいカンパニーが発表した調査でも同様の傾向が見られます。『SUUMO』の物件詳細閲覧数を2020年1月と8月で比較した伸び率をランキングすると、伸び率1位となったのは中古マンションでは神奈川県三浦市、中古一戸建てでは千葉県富津市でした。さらにいずれもトップ5は都心から100キロメートル圏内の郊外エリアだったのです。2拠点生活意向者も2018年11月と比べ、2020年7月時点では13.4ポイント増加し、二拠点生活を志向する人が約2倍に増えていることを示しています。

『デュアルライフ(2拠点生活)に関する意識・実態調査』と2020年7月実施調査の比較(左)。『SUUMO』の物件詳細閲覧数を、2020年1月と8月で比較した際の伸び率をランキング化。赤が中古マンション 青が中古一戸建て(右)(資料/SUUMO編集部)

『デュアルライフ(2拠点生活)に関する意識・実態調査』と2020年7月実施調査の比較(左)。『SUUMO』の物件詳細閲覧数を、2020年1月と8月で比較した際の伸び率をランキング化。赤が中古マンション 青が中古一戸建て(右)(資料/SUUMO編集部)

二拠点生活をするとき、学校の選択肢は?

これまで二拠点生活の実現を阻むと言われてきた二大要素が「仕事」と「子どもの就学」でした。そのうち、「仕事」については、WEB会議システムをはじめとしたテレワーク化の流れによって、地方に住みながら今の仕事を続けられるかも、と二拠点生活をイメージできる人が増えたのではないでしょうか。

そして、もう一つの困難が「子どもの就学」問題です。二拠点生活をするときの通学形態には、いくつかの選択肢があります。公立の小・中学校に通学する場合、大体次の3つに分けられるでしょう。

1)いずれか主となる住所地に住民票と学籍を置き、その学校にのみ通学する
・現在の学校に引き続き通学
・転校する(親子留学制度などを利用する場合も含む)

2)デュアルスクール制度のある自治体(徳島県、長野県塩尻市、秋田県など)で区域外就学制度(後述)を活用し、都心部に住民票と学籍を置いたまま、地方の学校にも通学する

3)主となる住所地に住民票と学籍を置き、別拠点に滞在中はフリースクールや家庭教師など任意の教育で補う

山梨県や長野県に移住した友人からは、それらの県の一部地域で募集されている「親子留学」制度が、コロナによって問い合わせが増えていると聞きます。この親子留学制度も上の1)の住民票と学籍を移す形になります。

テレワーク普及の影響か、親子留学制度を活用しようと考える人も増えている様子(写真/PIXTA)

テレワーク普及の影響か、親子留学制度を活用しようと考える人も増えている様子(写真/PIXTA)

「区域外就学制度」が使える? 自治体や教育委員会に問い合わせてみた!

古くから各地方自治体には「区域外就学」の制度があります。これは具体的な事情が相当と認められる場合に、住民票と学籍のない自治体の公立学校に通うことが可能となる制度です。

実は、地方移住や二拠点生活などのニーズを反映し、2017年7月に文部科学省からこの区域外通学に関する通達が出されました。この通達には、「相当と認めるとき」に「地方への一時的な移住や二地域に居住するといった理由」も含まれることが記載されています。二拠点でこの制度を活用することに文科省のお墨付きを得ている、とも言えるこの通達ですが、文部科学省教育制度改革室の松岡将さんによると「実際の運用と認められるかどうかの判断は、各地方自治体の教育委員会の判断に委ねられている」と言います。

2017年7月に各都道府県・指定都市の教育委員会就学事務担当課長宛に通知された「地方移住等に伴う区域外就学制度の活用について」(画像/文部科学省)

2017年7月に各都道府県・指定都市の教育委員会就学事務担当課長宛に通知された「地方移住等に伴う区域外就学制度の活用について」(画像/文部科学省)

そこで、筆者は現在、東京の拠点である品川区と住民票を置いている佐賀県佐賀市にこの制度が活用できるかを尋ねてみることにしました! それぞれの自治体のホームページには、学期の途中で転出した場合などに加え、「その他教育委員会が特に必要と認めた場合」に区域外就学制度を利用できる旨の記載があります。

「コロナ」という“特別な事情”が、加味される可能性も

ところが、実際に各自治体に相談してみると、筆者のように1回あたり数日~1週間程度の滞在では申請が認められることは難しく、一つの目安として「一定期間(2~3週間程度)以上、居住していること」が必要であることが判明しました。

また、自治体によっては、主に海外赴任で一時的に帰国している場合などに、住民票がなくとも一定期間居住していることを条件に「体験入学」できる制度を設けているところもあります。この制度を活用する場合においても、居住期間2~3週間以上の場合の申請が一般的ということでした。

自治体によっては、海外からの一時帰国者を主な対象に「体験入学」制度を設けているところも(写真/PIXTA)

自治体によっては、海外からの一時帰国者を主な対象に「体験入学」制度を設けているところも(写真/PIXTA)

ただ、品川区学務課の篠田英夫さんによると「コロナによって区内に住む人から、地方の祖父母宅など一時的に他のエリアで子どもを通学させることができないか、といった相談が出てきている」といいます。

「『コロナのような特別な事情』があれば、受け入れ側の自治体との調整によっては可能になる場合もあるかもしれません。個別事情によって判断することになるので、詳細は各自治体や教育委員会などの窓口に相談してほしいと思います」(篠田さん)

意外と「デュアルスクール」を望んでいない子どもも!?

子ども2人がそれぞれ小学校、中学校に進学するのにともない、筆者の中では改めて“学校どうしよう”問題が湧き上がりました。特に1カ月に1~2回、3~7日ほどの東京・佐賀の行き来が日常になっていた長男には、区域外就学制度が活用できたらよかったのにな……という思いも拭えません。

ところが、いざ息子にその話をしてみると「小学校は佐賀だけでいい。2つも学校行くのは面倒だから」と言います。中学校に進学する長女に聞いても同様の返答です。

リビングで宿題をする小学6年生の長女。佐賀市の指定区域内の中学校への進学を希望している(撮影/唐松奈津子)

リビングで宿題をする小学6年生の長女。佐賀市の指定区域内の中学校への進学を希望している(撮影/唐松奈津子)

実は、私たちの二拠点生活も最初から全てが順調だったわけではなく、佐賀に引越して最初の半年ほどの間は、よく保育園の園長先生から長男の様子について話がありました。息子が移動中のバスの中でお友達を叩いたり、体操の時間にみんなで走っているときに前の子を押したりすることが頻発したのです。

園長先生から聞いたのは息子が「怒っているように見える。お母さんが仕事で東京に行って不在のときは、特にイライラしている様子」だということ。半年ほど経って息子の様子が落ち着いてきたことを園長先生と話したとき、「生活に慣れて、いつもの安心できる環境になったんでしょうね」と言われて、気付かされた思いでした。子どもにとっては“いつもの安心できる環境”が第一なのだな、と。

4月から小学校に進学する長男。佐賀でお気に入りの場所の一つ、佐賀県立図書館と併設する「こころざしの森」にて(撮影/唐松奈津子)

4月から小学校に進学する長男。佐賀でお気に入りの場所の一つ、佐賀県立図書館と併設する「こころざしの森」にて(撮影/唐松奈津子)

国も自治体も、そして親も「子どもの教育環境」を第一に

松岡さんに話を聞いたときにも印象的だったのは「子どもの教育環境が大切」という言葉が繰り返し使われたことです。また、篠田さんは「学級運営や他の子どもたちの学習環境にも影響するので、区域外就学も安易には認められない」と言っていました。

親としては生活の選択肢を増やす意味で、また子どもの将来にとって良かれと思って、二拠点生活に活用できる就学制度があれば、と思わずにいられません。実際、都会育ちの子どもが、デュアルスクールを体験し、かけがえのない経験や、自分の居場所はどこにでもつくれるという強い自信を得た、といった素晴らしい話も聞きます。一方で、二拠点生活を考える際に子どもの学校をどうするのか、本当に子どもにとって2つの学校に通うことが必要なのかどうかは、それぞれの家庭の事情にあわせて慎重に検討する必要があると感じました。

有明海の干潟でカニ探しをして遊ぶ長男。子どもに自然体験を増やしたいと考える人も多いだろう(撮影/酒井皓司)

有明海の干潟でカニ探しをして遊ぶ長男。子どもに自然体験を増やしたいと考える人も多いだろう(撮影/酒井皓司)

二拠点生活を始めた当時、小学4年生だった長女が転校して現在の小学校にすんなり馴染めたのも、既に顔見知りの同級生がいたことが大きいと思っています。実は、娘は東京・品川区の小学校に入学した6歳のころから4年間、毎年冬休みには佐賀の祖父母宅に一人で2週間ほど滞在し、現在の住まいの近所に住む子どもたちと一緒に遊んできたのです。

デュアルスクール制度、区域外就学制度、体験入学制度、親子留学制度など、二拠点生活の広まりに応じて活用できそうな就学制度が出てきました。また、コロナの今だからこそ、活用できる可能性もありそうです。

“子どもの教育環境”という簡単には答えの出ない問題だからこそ、まずは親子で休暇を利用して一時的に滞在してみる、「子連れワーケーション」を実践してみるなど、“試しに”から始めて子どもの様子を見るのも一手かもしれませんね。

●取材協力
・文部科学省
・東京都品川区
・佐賀県佐賀市

熱海をまるごと“家”に!? 高齢化と人口減少進む観光地で「まちごと居住」始まる

コロナ禍の影響で移住先として検討している人も多く、脚光を集めている静岡県熱海市。一方で、人口減少や空室率、中心部の空洞化など、日本の“課題先進地”でもあるのだとか。その熱海の不動産やまちづくりに携わり、「まちごと居住」を提唱する「マチモリ不動産」に話を聞きました。
空き家率50%以上。なのに借りられる物件がほとんどない!

東京から東海道新幹線で約40分、別荘地・旅行地としても定番の熱海。訪れるたびに「暮らせたらいいのに……」と思い描く人も多いのではないでしょうか。特にこの1年はコロナ禍でテレワークが普及したことを追い風に、熱海の不動産需要は高まっているといいます。とはいえ、「熱海で住まいを見つけることは容易ではないんですよ」と話すのは熱海の市街地を中心に不動産管理やリフォーム企画を手掛けるマチモリ不動産の三好明さん。

熱海の街並み(写真/PIXTA)

熱海の街並み(写真/PIXTA)

「熱海の空き家率は52.7%(2018年3月時点「平成30年住宅・土地統計調査結果」(総務省統計局)調べ)で、なんと建物の半分以上が空き家です。ところが、家を借りたいと思っても、物件も多くないのが現実です。試しにSUUMOで検索しても、たくさん選択肢があるとは言い難い状況なのでは」といいます。空き家があり、借りたいという人がいるのに、借りられないのはとても不思議ですが、なぜそんなことが起きるのでしょうか。

「事情はさまざまですが、不動産の所有者が、まったく知らない人には部屋を貸したくない、貯蓄や年金があり困っていないのでわざわざ賃貸にまわさなくてもいい、物件が古くて風呂なし・トイレ共同などで貸しにくい、といった理由があります。熱海で働く人にとって住みたい物件が少なく、お手ごろな物件が出回りにくく、近隣の市町村に暮らして出勤せざるをえない方も多いのです」と話します。

また、熱海の固有事情として昭和25年(1950年)に熱海大火が発生しているため、鉄筋コンクリート造の集合住宅が中心市街地に多数あり、経年劣化・権利関係の複雑化によって貸し出しにくくなっているのだとか。そのため、市街地の空洞化、建物と人の高齢化などが同時進行で、しかも急激に進んでいるのだといいます。日本の地方都市はどこも似た課題を抱えていると思いますが、まさに熱海はそうした課題を凝縮した「課題先進地」でもあるのです。

熱海でしかできない暮らしを提案する、「まちごと居住」

こうした熱海の不動産需給ギャップを解消しようと、三好さんがはじめたのが、「マチモリ不動産」です。不動産仲介会社が空き家のままで募集しても決まらず、熱海という街の再生・活性化にはつながりません。そこで掲げたのが「まちごと居住」という考え方で管理会社の立場での取り組みです。

「東京や大阪など、都市部のどこででもできる便利な暮らしではなく、熱海ならではの暮らし方、生活を提案しないと、人は集まらないし、熱海が盛り上がらない。そこで考えたのが、まちを1つの大きな家と見立てた『まちごと居住』というライフスタイル。海に山、温泉、スナック。熱海の環境をまるで自宅のリビングやダイニング、お風呂、ワークスペースといった家の延長のように住んでみようと提案しています」(三好さん)

ここ数年で再注目されている、どこかレトロな雰囲気が漂う熱海銀座商店街(写真提供/若月ひかる)

ここ数年で再注目されている、どこかレトロな雰囲気が漂う熱海銀座商店街(写真提供/若月ひかる)

(写真提供/若月ひかる)

(写真提供/若月ひかる)

ゲストハウスMARUYAには地元の人や観光客が集うカフェバールもある(写真提供/若月ひかる)

ゲストハウスMARUYAには地元の人や観光客が集うカフェバールもある(写真提供/若月ひかる)

1階の八百屋さんでは伊豆富士山麓の農薬不使用栽培野菜、加工品、雑貨などを販売。2階のREFS Kitchenでは1階の野菜や食材を使った料理を提供する「REFS熱海」(写真提供/若月ひかる)

1階の八百屋さんでは伊豆富士山麓の農薬不使用栽培野菜、加工品、雑貨などを販売。2階のREFS Kitchenでは1階の野菜や食材を使った料理を提供する「REFS熱海」(写真提供/若月ひかる)

熱海七湯「小沢の湯」は、蒸気で温泉卵をつくって食べることができる名所(写真提供/若月ひかる)

熱海七湯「小沢の湯」は、蒸気で温泉卵をつくって食べることができる名所(写真提供/若月ひかる)

熱海の市街地は非常にコンパクトで、駅から徒歩15分圏内で飲食店や温泉、スナック、コワーキングスペース、スーパーなどが集結しています。自室だけでなく、街ごと自分たちの暮らせる場所のようにしてしまおう、というのが三好さんの狙いだったのです。

では、そのまちごと居住の住み心地はいかがでしょうか。熱海に移住してきた石橋和夏子さんに聞いてみました。

まちなかに住めば車も不要。歩いて行ける範囲で暮らしが完結する

「2020年3月に埼玉県から引越してきました。もとは群馬県出身で、それまで熱海といえば観光地という印象が強く、住む街として考えたことはなかったのです。暮らしてみると、海や山が間近にあり、気候も温暖で、時間がゆったり流れている。普通に住めるじゃん!という印象です(笑)」(石橋さん)

コロナ禍の影響で、現在は週3日のリモートワーク、週2日は片道1時間30分ほどかけて、東京都内に出社しているそう。

(写真提供/若月ひかる)

(写真提供/若月ひかる)

「通勤時間ですが、実は埼玉にいたころと大きく変わっていません。新幹線を利用しているので、むしろ、現在のほうがラクになっています。大きな違いはテレワークでしょうか。以前の住まいは1Kで、テーブルのすぐ横にベッドがあるような小さい部屋だったので、自宅ではなかなか仕事に集中できなかったと思います。今は、住まいも広くなりましたし、何より、近所にコワーキングスペースがあるので、家の外でも仕事がしやすい。昼休みには、近所のカフェに行って他愛ない会話をしたり、仕事帰りに温泉へ立ち寄ったり。徒歩圏内にいくつも温泉があり、海を一望できる絶景露天風呂にも気軽に行け、本当に飽きないです」と夢の熱海生活を満喫しています。それは……いいなあ、本気で憧れます!

よく行くというコーヒーショップとジェラート店が併設しているスペースで(写真提供/若月ひかる)

よく行くというコーヒーショップとジェラート店が併設しているスペースで(写真提供/若月ひかる)

コワーキングスペースで仕事をすることも(写真提供/若月ひかる)

コワーキングスペースで仕事をすることも(写真提供/若月ひかる)

移住で気になるのが、地元の人との交流、コミュニケーションです。

「地元の商店で、買物がてらお店の人とお喋りして、まちの情報を教わることもしばしば。コワーキングスペースのメンバーと会話したり、地域のイベントに参加したりしているうちに、だんだんと顔見知りも増えました。熱海って自然を大切にする人も多くて、『チーム里庭(さとにわ)』『熱海キコリーズ』など、おもしろい活動をしている人が多いんですよ」(石橋さん)

「チーム里庭」の活動にて(写真提供/若月ひかる)

「チーム里庭」の活動にて(写真提供/チーム里庭)

ちなみに「チーム里庭」は耕作放棄地を活用して無農薬野菜を栽培し、週末農業体験ができる団体で、「熱海キコリーズ」は週末に複業で木こりとして活動したり、間伐材でワークショップを開催したりするNPO法人です。石橋さんはもともとトレイルランニングが趣味で、体を動かすのは大好き。そういった活動に参加して、多様な人とつながりができたら、と考えているそう。
もう一つ、熱海の魅力は「食」にもあるそう。

(写真提供/若月ひかる)

(写真提供/若月ひかる)

(写真提供/若月ひかる)

(写真提供/若月ひかる)

「熱海って、古き良き飲食店もいっぱいあって、キッチンが街の至るところにある感じですね。和菓子や洋菓子の店も充実してて、おやつにも困りません(笑)。ただ、意外と飲食店は閉店が早いんですよ。夜8時には閉店するお店も多いので、夕飯難民にならないよう注意しています(笑)」(石橋さん)

また、今住んでいるフロアで、料理が上手なパティシエの人とつながりができたことで、思わぬ「おいしい体験」ができているのだとか。

「スイーツの試食をさせてもらったり、たくさんつくったからと、ご飯をおすそ分けしてもらったり……。がっちり胃袋をつかまれています(笑)。今まで、平日は仕事、休日は山へ行ったりと、自分が住む街の外に出てばかりだったので、住まいは、寝に帰る場所としか思っていなかったのですが、こうやって同じ街に住む人とつながれることで、街自体にも愛着がわく感覚でしょうか」と満足げです。

引越してきて1年、気が向いたときに、気の合う人がそばにいる心強さ、気楽さは、かけがえのないものでしょう。人はもしかして、こうして徐々に街になじんでいくのかもしれません。

ちなみに、都心から離れて暮らすことに興味を持つ友人や同僚も増えたそうで「熱海の物件の相場は?」「通勤、大変じゃない?」などと聞かれるのだとか。そうですよね、気になる気持ち、よく分かります。熱海の市街地は、徒歩圏内にひと通りの商業施設、飲食店、温泉、コワーキングスペースなどがそろっているため、車は不要だそう。遠出をして山のアクティビティを楽しむときはレンタカーを手配しているといいます。

家具を入れる前の石橋さん宅。1LDK、築66年(写真提供/岡田良寛)

家具を入れる前の石橋さん宅。1LDK、築66年(写真提供/岡田良寛)

窓からはオーシャンビューが!(写真提供/若月ひかる)

窓からはオーシャンビューが!(写真提供/若月ひかる)

(写真提供/若月ひかる)

(写真提供/若月ひかる)

古い建物の良さを活かす。建物と街を再生し、自由度を高めたい

熱海の住まいは、築60年超のコンクリート造の建物が複数、点在しているといいます。日本のコンクリート造の集合住宅は、およそ50年で取り壊され、建て替えられることが多いものですが、この集合住宅をどうやって住み継いでいくか、寿命がどうなのか、気になる人は多いのではないでしょうか。

「確かに築年数は経過していますが、耐震診断をはじめ、適切なメンテナンスをすることで建物として活用できると思います。まだまだよいコンクリートの状態の建物も多くありますし、天井高があるため、リノベをすると開放的な空間ができます。これは現在の不動産にはない良さですよね。古いもの、街の特徴を活かして、再開発をする。これが再開発の生命線だと考えています」と三好さんは話します。

築年数が経過したビルは、独特の味わい・風合いがあります。リノベで室内が大きく化けるのも楽しみのひとつではないでしょうか(写真提供/若月ひかる)

築年数が経過したビルは、独特の味わい・風合いがあります。リノベで室内が大きく化けるのも楽しみのひとつではないでしょうか(写真提供/若月ひかる)

エレベーターがない、トイレが共同など、建物が現在のライフスタイルに合っていない部分も多々あるかもしれませんが、それはマチモリ不動産が不動産・建築の知見を活かして、最適化し、住み手と物件所有者に提案することで、解決できるといいます。

「マチモリ不動産では、単に空き家を埋めるのではなくて、住みたいという人と、住まいを結びつける、適切なリノベを行う、定期的な修繕計画を立てる、大家さんとの信頼関係を築くという意味で、不動産管理の本来の意味での仕事を果たせればと思っています。シェアハウス、週末2拠点、ゲストハウス、熱海住み放題など、住まい方はもっと自由でいいはず。その日の気分にあわせて、部屋を選ぶようにできれば自由度も高くなり、もっと豊かな暮らしができると思うのです」(三好さん)

空き家ツアーをして修繕前の建物を見学。原則的に入居希望者を先に見つけ、リノベーションプランを提示してから、改修工事を行う流れになるといいます(写真提供/若月ひかる)

空き家ツアーをして修繕前の建物を見学。原則的に入居希望者を先に見つけ、リノベーションプランを提示してから、改修工事を行う流れになるといいます(写真提供/若月ひかる)

毎月実施されている物件ツアーの様子(写真提供/熱海経済新聞)

毎月実施されている物件ツアーの様子(写真提供/熱海経済新聞)

現在、マチモリ不動産では部屋を希望する人が増えてきて、物件のリノベなどが間に合わないという状況が続いているそう。ただ、こうして若い世代が楽しそうに新しい試みを続けていることで、不動産を所有する世代の意識もきっと変わってくるはず。熱海での取り組みは、きっと日本中の都市で参考になるのではないでしょうか。いいなあ、熱海。できるなら私も……住んでみたいです!

●取材協力
マチモリ不動産

コロナ禍で高まる移住熱。『田舎暮らしの本』編集長が注目する地域と特徴って?

近年、地方移住に関心を持つ人が増えるなか、コロナ禍がさらにその後押しとなっている。地域の選択肢は多数あるが、どう選んでいくのがよいのだろうか。
「2021年版 第9回 住みたい田舎ベストランキング」を発表した情報誌『田舎暮らしの本』柳順一編集長に、上位にランクインしているまちの特徴や、移住先を考える際のポイントについて聞いてみた。あわせて、同ランキングで9年連続ベスト3入りし、移住・定住支援施策に力を入れる豊後高田市の担当者と、実際の移住者からも話を聞いた。

幅広い世代が「田舎暮らし」に関心を持つように

『田舎暮らしの本』は1987年に創刊。現在に至るまでの約34年で、「田舎暮らし」を志向する層、受け入れる自治体側ともに大きく変化してきたという。

「1990年代まで、『田舎暮らし』と言えば『老後に悠々自適の暮らしをしたい』シニアの方がほとんどでした。自治体側の受け入れ体制も整備されていませんでしたが、2000年代に入り、地域おこし協力隊や空き家バンクなどの制度が登場しています。同時に、2008年のリーマンショックの影響など、価値観の変化もあったのでしょう。若い方が『田舎暮らし』『地方移住』に反応し始め、今では幅広い世代の方が関心を持つようになっています。また、このコロナ禍で弊誌の反響も高まっており、その傾向が顕著になっていると感じています」(柳編集長)

『田舎暮らしの本』編集長 柳 順一氏(画像提供/宝島社)

『田舎暮らしの本』編集長 柳 順一氏(画像提供/宝島社)

コロナ禍で、具体的に行動を起こす人が増えた

『田舎暮らしの本』では毎年、全国の自治体を調査し、移住・定住に関する施策への取り組み状況を基に「住みたい田舎ベストランキング」を発表している。
2021年版の調査は645市町村を対象とし、「移住者歓迎度」「住宅支援」「交通」「日常生活」などさまざまな観点から、272項目に及ぶアンケートを実施。例えば「移住者歓迎度」は「首長が定住促進を公約にしている」「土日や祝日にも移住相談を受け付ける窓口を常設している」「区費やゴミ処理の方法など地域のルールを移住相談者に知らせて、トラブルを未然に防ぐよう努めている」など22項目で測る。

2013年から続くランキングだが、コロナ禍による変化はあったのだろうか。
「2021年版の調査は2020年4月~10月の実績を基に回答いただいており、まさにコロナの影響を大きく受けた期間。そのなかで、『前年に比べ移住者数が増えている』と回答した自治体が27%、『同程度』が43%、『減っている』が20%。移住相談件数に関しては『増えている』38%、『同程度』39%、『減っている』19%。
移住に関心を持ち、実際にアクションを起こす方が増えているようです。
『20代からの問い合わせ』『県外や遠方の検討者』『相談内容が具体的で、真剣に考えている検討者』が増えたという声もありました」と柳編集長は語る。

『田舎暮らしの本』2021年2月号(画像提供/宝島社)

『田舎暮らしの本』2021年2月号(画像提供/宝島社)

デジタルに強い自治体へ注目集まる

一方、コロナ禍で地域間の移動が難しくなるなか、移住支援施策にもオンライン化が求められている。
「今回の調査では、移住相談会や就職相談会など移住関連施策のオンライン対応実施有無もアンケート項目に追加しました。ランキング上位に入った自治体は、オンライン化にしっかり対応できているところがほとんどです。相談を受けるだけでなく、空き家見学などもオンラインでできるようにしている。こうした背景を受け、現地に行かずに移住を決定するケースも出てきています」(柳編集長)

デジタル活用で注目される自治体の筆頭が長崎県五島市だ。離島ということもあり、以前から遠隔医療・ドローン・IOTなど技術活用が進んでいる。近年、新たな事業や雇用が生まれ続けており、5年間で672人が移住、うち7割以上が30代以下だという。
現在、常設のオンライン移住相談を月3回開催しており、XRを活用した移住イベントも予定している。

長崎県五島市(画像提供/五島市)

長崎県五島市(画像提供/五島市)

「大きな市(人口10万人以上)」で1位を獲得した愛媛県西条市もデジタル活用が盛んなまちだ。児童数の少ない学校同士をつないでオンラインで共同ホームルームを行うなど、先進的な取り組みを実施してきた。シェアオフィス活用やローカルベンチャー育成にも積極的で、新たに移住検討を始めた働き盛りの世代からも支持される素地がある。2020年4月~10月の移住相談件数は前年同時期の5倍という。

西条市のコワーキングスペース「紺屋町dein」(画像提供/西条市)

西条市のコワーキングスペース「紺屋町dein」(画像提供/西条市)

「もともと上位の自治体は、新しいことにどんどん取り組むマインドがあります。
デジタルに強くて順位が上がった自治体もありますが、どちらかというと『移住・定住に真剣に取り組んできた自治体は、デジタルへの対応も早い』という印象です」(柳編集長)

「住みたい田舎」9年連続ベスト3、豊後高田市の取り組み

同ランキングで9年連続ベスト3入りし、今回は「小さな市(人口10万人未満)」で1位になった大分県豊後高田市を例に、移住対策が評価されている自治体の取り組みを具体的に見てみよう。

柳編集長は「自治体主導で『赤ちゃんから高齢者まで暮らしやすいまちづくり』に本気で取り組んでいる。施策を常に見直し、アップデートし続け、広く伝えることを怠らない」と評する。

豊後高田市では現在168項目におよぶ移住・定住支援策を準備しており、同ランキングでは「総合」「若者世代」「子育て世代」「シニア世代」の全4部門でトップに輝いた。
0~5歳児の保育料・幼稚園授業料、中学生までの給食費、高校生までの医療費は全て無料。さらに無料の市営塾「学びの21世紀塾」を開設するなど手厚い子育て支援のほか、シニア世代のニーズにあった商品販売やイベント開催・気軽に集える場の創出に取り組む「玉津プラチナ通り」など、シニア世代が楽しく暮らせるまちづくりにも力を入れている。

玉津プラチナ通りでおこなわれた寄席(画像提供/豊後高田市)

玉津プラチナ通りでおこなわれた寄席(画像提供/豊後高田市)

成功理由は「20年の積み重ね」

豊後高田市 地域活力創造課の大塚さんは9年連続高評価の要因を「20年ほど前から『暮らしやすいまちづくり』に取り組んできたこと」と分析する。
「例えば『学びの21世紀塾』は、学校が週5日制になった際、学力低下を懸念し始めたことがきっかけです。市内数カ所の拠点からスタートし、今は各小中学校で実施、対象年齢も広げていきました。
都市部に比べると個人年収が低いからこそ、共働きを前提に仕事と子育てを両立しやすい環境づくりにも早くから取り組んできました」(大塚さん)

市が運営する「学びの21世紀塾」(画像提供/豊後高田市)

市が運営する「学びの21世紀塾」(画像提供/豊後高田市)

今では全国に広がる「空き家バンク」への取り組みも早かった。しかし2006年の開始当初は登録数も利用も少なかったという。
「紹介できる空き家がなければ利用も増えません。大家さんの中には『荷物があるから』『リフォームが必要だから』などの理由で登録を躊躇されている方も多いです。そうした方々と対話を重ね、例えばリフォームの補助金を用意するなど、登録のハードルを下げていきました」(大塚さん)

結果、登録数は大幅に増え、今では多くの移住者が空き家バンクを活用している。さらに空き家活用だけでなく、新築という選択もしやすいよう、土地代無償の宅地の提供も開始した。

土地代無償の宅地を42区画用意(画像提供/豊後高田市)

土地代無償の宅地を42区画用意(画像提供/豊後高田市)

時勢を踏まえた新しい取り組みにも積極的だ。2020年には市が運営する「長崎鼻ビーチリゾート」で「ビーチ・ワーケーションプラン」の提供を開始した。ビーチに面した施設等で、景色を楽しみながら仕事ができる環境を整えている。

ワーケーション環境を整えた長崎鼻ビーチリゾート(画像提供/豊後高田市)

ワーケーション環境を整えた長崎鼻ビーチリゾート(画像提供/豊後高田市)

「最初から大きな成果が出たものはありません。20年間、トライ&エラーで少しずつ施策を改善・充実させていった結果、注目頂く機会が増えたと感じます」と大塚さん。
『田舎暮らしの本』の柳編集長も、「豊後高田市の成功理由は、仕事づくりや教育の充実など『既に暮らしている人にとって住みよい街づくり』という基盤をつくった上で、移住支援施策をはじめたこと」と語る。

最近では、IターンだけでなくUターンも増えているという。
「『学びの21世紀塾』に通っていた子どもたちが成長して戻ってきて、今は講師としてサポートしてくれたり、子育て支援施設を活用していた方々が今度はスタッフ側で働いてくれたりと、循環が生まれ始めています。今後は『子どもたちが残れる環境づくり』も考えていきたいですね」(大塚さん)

子育て支援施設「花っこルーム」。過去の利用者が今はスタッフとして参加(画像提供/豊後高田市)

子育て支援施設「花っこルーム」。過去の利用者が今はスタッフとして参加(画像提供/豊後高田市)

支援施策を活用し、「夢の暮らし」を手に入れた

2019年、福岡県から豊後高田市に移住した橋本早織さんは、7歳・5歳・2歳の子どもと夫の5人家族だ。漠然と「自然豊かなところで子育てがしたい」と考えていたなか、テレビ番組で豊後高田市の移住支援施策を知った。その後すぐに同市の空き家バンクツアーに参加。「憧れだけでなく、大変なことや不便なことも理解した上で判断しました」と語る。

他の自治体もいくつか比較検討したが、豊後高田市の支援策がとびぬけて魅力的に思えたという。
「保育料で給料が飛んでいく状況だったので、保育料や給食が無料というのはありがたかったです。空き家バンクの登録数が多く、住まいを選べることも大きかったですね」(橋本さん)

移住後、橋本さんは市内で転職、夫はしばらく福岡との二拠点生活を送っていたが、その後リモートワークができるようになり、完全移住。今は市内の会社に転職している。
現在の住まいは空き家バンクで見つけた物件だ。「大家さんは売却を希望されていましたが、市の担当者を通して相談し、まずは賃貸で住んでいます。気に入ったので、今後購入させていただく予定です」と橋本さん。
「こちらに来て、子どもの遊び場がビルやマンションに囲まれた公園から海や山、川、田んぼになりました。自然豊かな場所で子育てを、という夢が叶ったと同時に、親である私たちもその環境に癒やされています。今の暮らしにとても満足しています」(橋本さん)

豊後高田市での暮らしを楽しむ橋本さんご家族(画像提供/橋本早織さん)

豊後高田市での暮らしを楽しむ橋本さんご家族(画像提供/橋本早織さん)

心が動かなければ、住民票は動かない

柳編集長は、移住先の選び方についてこう語る。
「ランキングというある種の判断材料と矛盾するかもしれませんが、移住を決断できるかどうかは『心が動くかどうか』。心が動かなければ、住民票は動きません。
そして多くの移住者は、『人との出会い』に心を動かされたと話します。先輩移住者や役場担当者、地域の方など、『話が合う』『頼りになる』『落ち着く』と感じる方に出会えたら、そのまちが第一候補になりうると思います。

良いまちは全国にたくさんあります。私たちのランキングは『移住定住に熱心なまちは取り組み施策数も多い』前提で作成していますが、上位のまちはあくまで『いろんな方に薦められる』ということ。施策の『数が多い』ことが、必ずしも個々人にとって良い訳ではないですよね。

今は実際にまちを訪れることも難しいですが、逆にオンラインだからこそ、家族そろって気軽に自治体に相談することもできます。そのなかで、『話が合う人』を見つけられるかもしれません。

そうして興味を持ったまちがあれば、そこではじめて支援制度などを確認するのが良いと思います。
『こんな支援をしてくれるなら移住する』という『お客様気分』だと失敗しやすい。『移住大歓迎』なまちでも、『行ってやる』意識でいるのは間違いです。例えば特にこの時勢であれば、窓口を訪れる前にアポを入れる、オンラインで相談するなど先方への配慮も当然必要でしょう。
自治体は『自分たちの仲間になってくれる人』を探しています。そんな人なら、喜んでサポートしてくれると思いますよ」

オンラインの移住相談風景(画像提供/豊後高田市)

オンラインの移住相談風景(画像提供/豊後高田市)

まちと自分の「相性」を試し、良い選択を

都市圏一極集中への懸念が生まれ、働き方が変わり、暮らす場所の選択肢が広がった。まちにはそれぞれ特性があり、人とまちには相性がある。時勢を受け、オンラインでの相談対応等を行うまちも増えている。今は難しいかもしれないが、お試し移住やワーケーションなど、気軽に「相性」を試せる機会も増えている。地方移住に関心を持ったなら、まずはそうした場を利用することから始めてみてはいかがだろう。

●取材協力
『田舎暮らしの本』編集部
豊後高田市

大好きすぎて移住した! 『水曜どうでしょう』の札幌、ふなっしーの船橋へ

「○○が好きすぎて、○○のそばに引越したい」。そう考えたことがある人は少なくないだろう。ただ、家賃や職場へのアクセスなどさまざまな条件との兼ね合いで諦めた、という人も多いはず。しかし、実際にそれをやってのけた方はどのように引越して、どんな生活を送っているのか?

今回は、好きすぎて「好きなものがある街へ引越した、移住してしまった」人たちに、お話を伺った。

水曜どうでしょう&TEAM NACS好きで北海道へ移住

「水曜どうでしょう」や、出演する大泉洋を擁する演劇集団・TEAM NACSが大好きなあまりに、北海道へ引越してしまった夫婦がいる。竹岡和行さんと、竹岡紗希さんだ。

大泉洋らTEAM NACSが所属する事務所、CREATIVE OFFICE CUEが行うイベントのTシャツ(写真撮影/竹岡紗希さん)

大泉洋らTEAM NACSが所属する事務所、CREATIVE OFFICE CUEが行うイベントのTシャツ(写真撮影/竹岡紗希さん)

関西で生まれ育った2人は、京都建築大学校で知り合った。紗希さんが学校で北海道旅行のおみやげをついでに渡したのがきっかけだ。

「どうでしょうに出てきた『四国八十八箇所』の話になったとき、『水曜どうでしょう知ってる?』って聞かれて。人からそう聞かれたのが初めてだったので。そこから話すようになりました」

いま2人が住む部屋にある多数のグッズ(写真撮影/竹岡紗希さん)

いま2人が住む部屋にある多数のグッズ(写真撮影/竹岡紗希さん)

当時から紗希さんは水曜どうでしょうのDVDを全部持っている大ファンで、和行さんは「普通に好きで見たことがある」程度だったが、DVDの貸し借りから仲は深まった。

「(大泉洋らが出演する)『おにぎりあたためますか』も京都で放送していたので、彼らが行った全国のお店へ、2人で一緒に食べに行っていました」

(画像提供/竹岡紗希さん)

(画像提供/竹岡紗希さん)

紗希さんは専門学校時にも移住を考え、就活で札幌へ4度行ったが、内定をもらえずに関西で就職。国家資格である一級建築士を取ったことと、会社の業績悪化が重なり、入社4年目ごろには移住を本格的に考えた。

「つらい事があった時に、大泉洋さんの主演映画『しあわせのパン』を久しぶりに観たんです。そこで東京から洞爺湖に引越してパン屋を始めた夫婦の『好きな暮らしがしたいって思ったんです。好きな場所で。好きな人と。』ってセリフがあって。その言葉が移住の決め手ですかね」

移住後に訪れた洞爺湖の姿(画像提供/竹岡紗希さん)

移住後に訪れた洞爺湖の姿(画像提供/竹岡紗希さん)

紗希さんとともに彼らのファンになっていった和行さん。だいぶ前から一緒に移住する話をしていた。
「僕も水曜どうでしょうを見て、北海道に行きたい気持ちもありました」

お手製のマグカップ(写真撮影/竹岡紗希さん)

お手製のマグカップ(写真撮影/竹岡紗希さん)

もっと近くで彼らを追える生活

2人は北海道への引越しを決意。土日祝日にイベントへ行くための時間を確保できる仕事を探したが、大阪時代と同じ住宅業界への就職は厳しく、ビルなどを手掛ける設計事務所へ移った。

同じ理由で、和行さんは公務員として事務の仕事に勤めた。

場所は大泉洋たちが学生時代に住みイベントにも行きやすい札幌だった。

水曜どうでしょうの”ミスター”こと鈴井貴之の冠番組『ドラバラ鈴井の巣(HTB)』に札幌の白石区を守るヒーローがいたことから、白石区へ(写真撮影/竹岡紗希さん)

水曜どうでしょうの”ミスター”こと鈴井貴之の冠番組『ドラバラ鈴井の巣(HTB)』に札幌の白石区を守るヒーローがいたことから、白石区へ(写真撮影/竹岡紗希さん)

2018年の2月に内定をもらって、ちょうど予定していた北海道旅行の時間を現地での不動産探しに充てた。

「雪道に慣れない人は駅から5分以内がいいそうですが、条件面で難しくて、最終的には7分以内で探してもらいました」

まさに駅から7分ぐらいほどの2DKのマンションに決定。家賃は管理費込みで7万6000円で、寝室はもはやグッズ置き場になった。

当時の家のリビングダイニングで、この入居前の画像が唯一の写真。なお1室まるごとをグッズ部屋にしていた(写真撮影/竹岡紗希さん)

当時の家のリビングダイニングで、この入居前の画像が唯一の写真。なお1室まるごとをグッズ部屋にしていた(写真撮影/竹岡紗希さん)

北海道に移住したのは2018年4月下旬。そこからチェックできるテレビ・ラジオ番組が増えた。特にTEAM NACSが全員出演する『ハナタレナックス』が毎週見られるほか、水曜どうでしょうの新作もいち早く見られる。

夜の放送はできるだけ早く帰って見るが、難しい場合でも1週間全チャンネルを録画するレコーダーとSNSを駆使して、スポット出演ですら見逃さないようにする。

森崎博之のジャンジャンジャンプ!(HBC北海道放送)の収録風景(写真撮影/竹岡紗希さん)

森崎博之のジャンジャンジャンプ!(HBC北海道放送)の収録風景(写真撮影/竹岡紗希さん)

大泉洋主演でオール北海道ロケの映画『こんな夜更けにバナナかよ』や、TEAM NACSが出演するドラマ『チャンネルはそのまま!(HTB)』のエキストラに参加するなど、彼らと一緒に楽しめる場も広がった。

大泉洋主演映画「こんな夜更けにバナナかよ」を見に来た際の写真(写真撮影/竹岡紗希さん)

大泉洋主演映画「こんな夜更けにバナナかよ」を見に来た際の写真(写真撮影/竹岡紗希さん)

ちなみに、地元の北海道民に水曜どうでしょうや大泉洋らはどう受け止められているのか。

「同世代だと、『”水曜どうでしょう”ってタイトルは聞くけど、内容は知らない』って人が割といて。本当にリアルタイムだったのは40代以上の方なんです」

確かに今でも再放送が全国のUHF系列局で流れるから気づきにくいが、最盛期はレギュラー放送のあった1996~2002年だ。

「40代以上の人にとっては、大泉さんたちは親戚みたいな存在です。でも番組ファンにはおなじみの車やバイクの水曜どうでしょうステッカーは道外より見なくて、『ファンですアピール』は少ない。でも水曜どうでしょうの新作の占拠率(テレビをつけている人の中で、どれだけの人を集めているかという数字)は50%を超えてまでいるし、やっぱり道民に愛されていると思いますね」

(写真撮影/竹岡紗希さん)

(写真撮影/竹岡紗希さん)

「TEAM NACSは森崎リーダー以外はたぶん東京の方に住んでいるので、彼らの活動を『追いかけるなら東京じゃない?』っていう人もいるんですけど、やっぱり彼らのホームは北海道だと思うので。どれだけ東京の方で忙しくなっても、収録のたびに帰ってきてまでレギュラー番組を続けていますから」

雪まつりで、HTBの旧社屋をつくった

2019年2月にはさっぽろ雪まつりで、水曜どうでしょうでもおなじみだったHTBの旧社屋の雪像をつくった。建築の技術を活かしてCADで図面を書き、短い製作時間の中で2人だけでつくり上げた。

実質3日でつくり上げた、水曜どうでしょうの聖地(写真撮影/竹岡紗希さん)

実質3日でつくり上げた、水曜どうでしょうの聖地(写真撮影/竹岡紗希さん)

「本来は横長の建物ですけど、雪像は2×2×2メートルって決められているので、それでもHTBに見えるように工夫しました」

後ろの通用口は、水曜どうでしょうで企画発表などをやる、ある種の“聖地”なので丁寧につくり、ロケ車も置いた。

(写真撮影/竹岡紗希さん)

(写真撮影/竹岡紗希さん)

「気付く人は、『うわ、こんな所までつくってる』って思ってくれました」
それをHTBの記者が見つけて、夕方の情報番組で取り上げられた。TwitterではHTBのマスコットキャラクターonちゃんのアカウントも引用リツイートしてくれた。

大泉さんと同じところで、結婚式を挙げたい

いま大泉洋が披露宴をしたと公表する式場で、式を挙げようと準備をしている。披露宴をおこなったのは2010年8月29日。ふとその10年後である2020年の8月29日を調べると、土曜日で大安だった。

「運命だと思って決めました」
コロナ禍で延期になったが、新たな式の日付も来年の8月29日にしている。

(写真撮影/竹岡紗希さん)

(写真撮影/竹岡紗希さん)

現在は、水曜どうでしょうでも行われた「カントリーサインの旅」を決行中だ。

こういった市町村の境界線にあるカントリーサインで記念撮影していく旅(写真撮影/BATACHAN)

こういった市町村の境界線にあるカントリーサインで記念撮影していく旅(写真撮影/BATACHAN)

「さすがにどうでしょうみたいに、カードの出た順にまわるのは厳しいので(笑)、並んだ自治体を効率よくまわっています。3~4連休を使ってレンタカーで走りますね」

今は179市町村中の175を制覇し、奥尻町、礼文町と利尻町、利尻富士町の離島の自治体4つを行けばクリアだ。

住んで3年目の北海道。どう思っているのか。

「北海道で最初にびっくりしたのは、水道水がすごく美味しいんです。地域によって全然特産品が違うし、美味しいものが多すぎます」

スープカレーのマジックスパイス、ラマイ、ジンギスカンの成吉思汗 なまらなど、庶民的で通いやすいTEAM NACSゆかりのお店にもよく行く。

TEAM NACSのメンバーが大学時代から通い続ける、カリー軒(写真撮影/竹岡紗希さん)

TEAM NACSのメンバーが大学時代から通い続ける、カリー軒(写真撮影/竹岡紗希さん)

紗希さんに聞く。彼らを追って北海道に来て、今どう思いますか?

「日々充実して、移住して良かったと思います。住んでいると、たぶん悪いところも見えてくると思うんですけど、それを含めてもっと北海道を知っていきたい」

もし大泉洋さんやTEAM NACSに、今メッセージを送るとしたら。

「もうTEAM NACSと出会っていない人生が想像できない。人生楽しませてもらって感謝ですね」(紗希さん)

「嫁と一緒に来てすごく楽しいですし、見れば見るほどハマらせていただいています。NACSメンバーに言いたいのは……結婚式に来てください!(笑)」(和行さん)

2020年の雪まつりでつくった、「チャンネルはそのまま!」の主人公・雪丸花子の雪像と(写真撮影/竹岡紗希さん)

2020年の雪まつりでつくった、「チャンネルはそのまま!」の主人公・雪丸花子の雪像と(写真撮影/竹岡紗希さん)

ふなっしーが大好きで、船橋へ引越し。

ふなっしーが好きなあまりに、船橋への引越しを決めたのがりささん(@funafunarin)。長野から上京し、南砂町(東京都江東区)で過ごした後に船橋へ引越した。

イベントで記念撮影(写真撮影/りさ)

イベントで記念撮影(写真撮影/りさ)

それほどまでに、ふなっしーが好きになったのはなぜか。

「最初は『何だこれは』って思ったんですけど(笑)、どんどんかわいく見えてきたのと、一生懸命で人を笑顔にしたいエネルギーであふれているし、知れば知るほどすごく尊敬できるキャラだと思いました」

「船橋発、日本を元気に!」をテーマに、一生懸命に体を張ってアピールしつつ楽しませて、実は船橋の地域貢献につながるキャラ使用には版権料をもらわず、被災地には多額の寄付などもひそかに行うふなっしー。そんな彼の活動の源である船橋へ住みたい気持ちは日ごとに高まった。

だからこそ最初は船橋駅近くを希望していたが、予算オーバーでかなわず、津田沼駅から徒歩圏内の「ギリギリ船橋市」の地域に決めた。

(画像提供/りさ)

(画像提供/りさ)

「船橋市に必ず住みたい」。その思いが伝わったか、不動産会社は一生懸命にピッタリの部屋を探してくれた。1カ月ほどそうした末に見つかったのは、1Kで4万5000円のアパート。新京成線の線路沿いで、電車の走行音がする分安かった。

部屋は6畳、ロフト部分が別に3畳ある部屋だった。ロフトがある部屋にしたのは、ちょっとしたふなっしー部屋をつくるためだ。

たくさんのふなっしーで彩られたロフトの一角(写真撮影/りさ)

たくさんのふなっしーで彩られたロフトの一角(写真撮影/りさ)

「引越してから、ふなっしーを身近に感じられることがすごく増えました。転入届を出しに船橋市役所へ行ったら、地元のこどもたちがつくったふなっしー人形があったし、道行く人のかばんにもふなっしーのキーホルダーが付いていて」

ふなっしーが船橋の魅力を教えてくれた

船橋に溶け込めたのも、ふなっしーがきっかけだった。

「船橋にずっとお住まいの“梨友”(ふなっしーファンの愛称)の方と友だちになれて、地元ならではのお話を聞かせていただいたり、市民祭りへ一緒に参加してくれたり。とてもうれしかったです」

船橋のお店も、ふなっしーの景品がもらえるスタンプラリーなどが目当てで行ったおかげで、たくさんのお気に入りができた。

「ひとりなら絶対に入らなかったお店も、ふなっしーのどんぶりやコースターをもらうために入れたんです。ふなっしーを通じて、船橋とお店の開拓ができて本当に楽しかった」

船橋の飲食店・小売店30店舗でコースターがもらえる企画。ぜんぶ行った(画像提供/りさ)

船橋の飲食店・小売店30店舗でコースターがもらえる企画。ぜんぶ行った(画像提供/りさ)

新京成線沿線を飛び回り、2カ月でラーメンを24食。どんぶりとレンゲのセットを2つもらった(画像提供/りさ)

新京成線沿線を飛び回り、2カ月でラーメンを24食。どんぶりとレンゲのセットを2つもらった(画像提供/りさ)

「例えばふなっしーが紹介していた居酒屋の『フナバシ屋』さんも、ファンがイベントの後に集まるような場所ですが、私も大好きで行っていました」

ふなっしーのサインとともにお酒も飲んだ(画像提供/りさ)

ふなっしーのサインとともにお酒も飲んだ(画像提供/りさ)

ふなっしーグッズが買えるショップ、ふなっしーLANDへもよく行った。

「来ている方々はふなっしーが好きな人ですし、お店も手づくりのPOPから何から、ふなっしー愛にあふれているような、すごくあたたかい場所です」

そんな船橋の街を振りかえって。

「何よりふなっしーのホームタウンであるだけで魅力的だけど、純粋に街としても、ららぽーとやIKEAがある一方で梨園や畑もあるし、海で潮干狩もできるし。そのバランスが落ち着きましたね。地元のお野菜や貝を使ったおいしいお店もたくさんありました」

(画像提供/りさ)

(画像提供/りさ)

船橋を離れる日

船橋に住んで4年目の2019年、ふなっしーともうひとり大切な人ができた。

「彼とは福祉の仕事の関係で知り合いました。告白されて、付き合い始めた日がたまたま2月7日だったんです。2と7ってファンにとっては特別な数字で、「ふなの日」って。それってファンじゃない人ならささいなことですけど、彼は「すごい」って一緒に盛り上がってくれました」

彼とはふなっしーLANDへも行った。「俺もグッズが欲しい」とキーホルダーやマグカップを買ったという。代わりにこの年は彼が好きなラグビーのワールドカップがあり、一緒に見て熱くなった。

そうして愛を育んで、結婚を決めたときのこと。彼の親御さんの具合が悪く、実家の近くへ住むために船橋を離れざるを得なかった。

「私も彼の実家の近くに住んだ方が良いと思っていました。それでも彼は、ふなっしー好きの私の想いを汲んではじめに船橋で新居を探してくれたんです。彼にとっては何の縁もゆかりもないし、職場も船橋じゃ遠かったんですけど、その気持ちに感謝しています」

船橋を発つ日、津田沼駅で(画像提供/りさ)

船橋を発つ日、津田沼駅で(画像提供/りさ)

「船橋を発つとき、船橋の思い出の場所を回りたかったんですが、結婚式の準備もあってなかなか行けませんでした。でも海老川沿いは歩きました。ふなっしーが初期のころYoutubeで一人でおどっていた海老川にかかる鷹匠橋。そこがふなっしーのスタートの地でしたから」

(画像提供/りさ)

(画像提供/りさ)

そして2人は親御さんの家へ通いやすい、川崎へ住むことになった。そして結婚の日取りを考えているころの話。

「私たちは『いいふなの日で11月27日とかどうだろう』って冗談で言ってたら、ちょうどその日が大安だったんですよ。そこでまた盛り上がって、本当にいいふなの日(11月27日)にふなっしーの柄の婚姻届で、船橋市役所へ行って入籍しました」

船橋市役所で2人で婚姻届を提出(写真撮影/りさ)

船橋市役所で2人で婚姻届を提出(写真撮影/りさ)

「そして川崎市に住んでからも、よく船橋には行っています。ふなっしーLANDもイベントも行って、梨園で梨も2度買いました」

安くておいしい梨をたくさん持って帰る(画像提供/りさ)

安くておいしい梨をたくさん持って帰る(画像提供/りさ)

「ふなっしーが私の世界を広げてくれて、生活や心を彩ってくれました。いつも元気や癒やしをくれて、存在してくれて感謝です」

結婚式はコロナで延期になった(画像提供/りさ)

結婚式はコロナで延期になった(画像提供/りさ)

「船橋への愛から、生まれてきてくれたふなっしー。その愛ある街でふなっしーを身近に感じながら応援できて、4年弱でしたがとても幸せでした。ふなっしーと同じ市民だったことは一生の思い出だし、誇りです。
これからもずっとふなっしーのことが大好きだし、離れても船橋という街とも縁を持ち続けていきたいですね」

何よりも「好き」を優先して引越す。そうすれば、好きなものにもっと近くでふれ合えて、その過程で街をどんどん好きになれる。一生の思い出をつくれる、いい選択肢かも知れない。

“月に住む”が現実に!「月面都市ムーンバレー構想」って?

夜空を見上げればいつもそこにある月。古来より信仰の対象で、宇宙飛行士たちが探索に挑み続けてきた、人類にとって身近であり、“憧れ”の存在でもあります。しかし、人間を月面に着陸させることに成功したのは、2020年現在、1969年のNASAのアポロ計画のみで、それ以降、人類は月に立っていません。その月に、近い未来、人類の住める街をつくろうという壮大なプロジェクトが、「月面都市ムーンバレー構想」です。プロジェクトに取り組む宇宙スタートアップ企業、株式会社アイスペースに話を聞き、月に人が住む未来の世界と宇宙開発の最前線を伝えます。
住民1000人、訪問者1万人! ムーンバレー構想とは

ロケット打ち上げコストの大幅な低減を可能にしたテクノロジーの進歩や、宇宙船、着陸船、ロボット等の技術発展により、近年、世界各国の宇宙活動が活発になっています。
例えば、アメリカのNASA が、2024年には宇宙飛行士を月面に送り込もうと進めている有人月探査計画「アルテミス計画」で月面固定式住居を含む月面でのインフラについて明らかにしたほか、2019年にロケット打ち上げ数1位となった中国は、国際月面研究ステーションの構想を進めています。さらに、日本でも、JAXAとミサワホームが宇宙の極限環境下での住宅システム構築の実証実験を南極の昭和基地で行っています。スイスの銀行UBSは、現在約40兆円の宇宙産業規模が2030年には倍増すると試算しており、宇宙産業の中心として、宇宙資源開発が注目されているのです。

(写真/PIXTA)

(写真/PIXTA)

2023年に民間として日本初の月探査機を送り込もうと開発を進めているのが、アイスペースです。月資源開発の先に、月に人類が住める街をつくろうという壮大なビジョンを掲げています。月面都市ムーンバレー構想が生まれたきっかけを取締役COO中村貴裕さんに聞きました。

「そもそも、月資源開発が活発化しているのは、近年の研究で、月に貴重な鉱物資源だけでなく、およそ60億トンもの水が存在していると分かったためです。水は水素と酸素に分解できます。人類の活動に必要なのはもちろん、ロケットの燃料になるため、将来の宇宙開発に欠かせない資源として注目されています。当社で月面資源開発に取り組むにあたり、未来像を明確に持つことが重要であると考えました。2016年ごろ、社外の識者を集め、2040年に世界がどうなっているか、会議を重ねていたんです。月資源開発を進めれば、住民1000人、年間1万人が訪れる街を月につくることは可能だと考えました。まず、氷が地下にある可能性が高い月の南極に研究者らがムーンバレーをつくり、そこに新婚旅行などで地球から人々が往来する世界です」(中村さん)

(写真/PIXTA)

(写真/PIXTA)

月に実際に住むとしたら、どんな生活ができるのでしょうか。
「いちばんの魅力は、宇宙空間が近いので、星が大変美しく観測できることでしょう。とくに月から地球の眺めは素晴らしいはずです。実は、月は人類にとって、住むには過酷な環境なんです。放射線量は地球の数百倍、寒暖差は280度もあり、マイナス170度の極寒と110度の凄まじい暑さが交互に訪れます。マイクロメテオライトという隕石も降り注ぎます。そのため、未来の月面住居は、耐熱、断熱でつくられたドーム型になるかもしれませんね。月には地下に空洞があるので、放射線や隕石を避けられる地下都市になる可能性もあるでしょう」(中村さん)

「開発当初は、代表の袴田武史さんと二人だけだった」と話すCOOの中村さん(画像提供/アイスペース)

「開発当初は、代表の袴田武史さんと二人だけだった」と話すCOOの中村さん(画像提供/アイスペース)

2022年に派遣する月面探査機は宇宙資源開発への第一歩

中村さんは、月面都市実現に向けた月資源開発のためには、次の3つのステップがあるといいます。
1.ロケットを使って、地球から脱出する。
2.ロケットから切り離した月着陸船(ランダー)を降行させ、月面に着陸する。
3.月面探査機(ローバー)で探査する。

クレーターや縦孔など、将来、有人基地の候補となる探査を行う(画像提供/アイスペース)

クレーターや縦孔など、将来、有人基地の候補となる探査を行う(画像提供/アイスペース)

「ロケットについては、イーロン・マスク氏のスペースX等が安定供給されていますが、着陸船に関しては、民間による月面探査一番乗りを各チームが競い合っている状況です。当社では、月面着陸、月面探査の2つのミッションを行うプログラム『HAKUTO-R』を発表し、2022年月面着陸、2023年月面探査に向け、開発を進めています。2021年中にも、月着陸船の組み立てに着手する予定です」(中村さん)

アイスペースが運営していたチームHAKUTOは、月面探査レースGoogle Lunar XPRIZEに、日本から唯一参加していました。HAKUTOは、日本で古くから月を象徴する動物とされている白いうさぎ(白兔)という意味です。HAKUTO-RのR(Reboot)には、道半ばで終えたGoogle Lunar XPRIZEの挑戦を継承し、民間として初めての月面探査を「再起動」するという想いが込められています。

最終的な目標は、地球~月間の輸送サービス構築です。着陸船または探査機に顧客のペイロード(荷物)を搭載し、月へ輸送するほか、要望に応じて、月面のデータを取得する等のミッションを行っていく予定です。

現在、ペイロードを月へ輸送する商業サービスを民間企業などから公募するNASAのCLPS(クリプス)プログラムのコンペに日本で唯一参加しており、JAXAやルクセンブルク政府とも月資源開発で連携して、日本、ルクセンブルク、アメリカの3拠点で活動しています。

2020年7月に最終デザインが完成した月着陸船(ランダー)。着陸脚を広げた状態で、幅約2.6m、高さ約2.3m、重さは約340kg。ランダーの上部に約30kgの重さのペイロード(貨物)が搭載できる(画像提供/アイスペース)

2020年7月に最終デザインが完成した月着陸船(ランダー)。着陸脚を広げた状態で、幅約2.6m、高さ約2.3m、重さは約340kg。ランダーの上部に約30kgの重さのペイロード(貨物)が搭載できる(画像提供/アイスペース)

民間の参入で拡大する宇宙産業

アイスペースが、NASAのCLSPプログラムに採択された2018年末は、これまで国主導だった月探査が国際協力をベースに民間主導に切り替わる分岐点になりました。NASAが大きく舵を切ったことは、日本をはじめ各国に大きな影響を与えています。日本政府は、2020年6月に今後10年間の宇宙政策をまとめた新たな「宇宙基本計画」を閣議決定。現状で約1兆2000億円ある国内の宇宙産業の規模を2030年代早期に倍増させること、官主導だった宇宙開発への民間参入や宇宙ビジネスの拡大方針を打ち出しました。

高まる宇宙産業への期待が追い風となり、アイスペースでは、企業とのパートナーシップの締結が多くなっているそう。民間の力を活かした新しい宇宙ビジネスが注目を集めており、その背景を中村さんはこう語ります。
「官主導は、税金を使うため国民への説明責任があり、リスクを最小限にすることが優先されます。民間は、無駄を削いだ上で、制約なくルールをつくれますし、ビジネス的な観点から、企業に対してマーケティングやブランディングの提案ができます。今回のプロジェクトに、航空、通信、放送、自動車、建設、広告代理店、印刷などさまざまな業種の企業がパートナーシップにご賛同いただきました。これから20年の挑戦を共にしていだだきたいとの思いから、技術協力を積極的に行っています」(中村さん)

将来、月に住む未来が、夢物語ではなく、リアリティのある世界として近づいてきているのを感じます。

360度の視野を持つ高画質カメラを搭載した探査機(ローバー)。機体には、パートナーシップ企業名が記されている(画像提供/アイスペース)

360度の視野を持つ高画質カメラを搭載した探査機(ローバー)。機体には、パートナーシップ企業名が記されている(画像提供/アイスペース)

宇宙開発で広がる人類の生活圏

現在、地球での豊かな生活は、通信、農業、交通、金融、環境維持に至るまで、さまざまな産業が人工衛星を中心とした宇宙インフラにより、成り立っています。インターネットや自動運転が発展すれば、ますます、インフラの重要性は高まり、宇宙資源開発が今後の鍵となっていきます。ポテンシャルマーケットとして注目されている月面探査ですが、「月をゴールとは考えていない」と中村さん。
「住みやすさでいえば、月より、大気のある火星の方が良いとされています。しかし、地球から火星に直接行くには輸送コストが高い。月でロケット等の燃料である水素を補給すれば、10分の1のコストで済むのです。月は宇宙開発のハブ(中継地点)となり、人類の生活圏はますます広がっていくでしょう」(中村さん)

コロナ禍により、地球上がさまざまな困難に直面した2020年。一方で、宇宙をステージに、さまざまな企業が全く想像もつかない未来を描き、計画を進めています。これから人類の夢がかなっていくのか、注目していきたいです。

●取材協力
・株式会社アイスペース

タダ同然の空き家も引く手あまた!? 「家いちば」から空き家問題の新提案

立地が不便だし、ボロボロでタダ同然でも売れない、親類の空き家が重荷となっている……。
「空き家」が社会問題となってずいぶん経ちますが、売主さんの不安や負担、事情を聞くと、簡単には解決できないことが多くあります。そんな物件にストーリーを付与することで、売買を可能にしている企業があります。

空き家問題解決の新しい糸口を探るべく、不動産を売りたい人のための掲示板サイト「家いちば」を運営する藤木哲也さんにお話を聞きました。

住宅の売買に専門家はいらない!? 先入観を取り払うサービスお話を聞かせていただいた家いちばの代表取締役・藤木哲也さん(写真提供/藤木さん)

お話を聞かせていただいた家いちばの代表取締役・藤木哲也さん(写真提供/藤木さん)

家いちばでは、空き家などの不動産を「セルフセル方式」で売買しているとのこと。セルフセル方式とは一体どんな販売方式なのでしょうか。また、なぜそのような形態で不動産売買サービスを提供しようと考えたのでしょうか。

「セルフセル方式とは、不動産を売りたい人が自分で販売活動を行うスタイルのことです。通常、不動産の売買をするときには、仲介会社が販売活動や見学の調整を行いますが、家いちばでは、売主さんが自分で家いちばのサイトに物件画像や説明文を掲載します。その後も購入検討者の方と直接、見学日程の調整や条件交渉を行ってもらいます。僕たちは最終段階で本当にプロが入るべき業務のみ、例えば物件の調査や重要事項の説明など、契約のサポートを中心に行うようにしています」(藤木さん、以下同)

従来の不動産売買と異なり、家いちばでは売り手と買い手が直接交渉を行い、宅地建物取引士の手が入るのは最終段階が中心になる(撮影/唐松奈津子)

従来の不動産売買と異なり、家いちばでは売り手と買い手が直接交渉を行い、宅地建物取引士の手が入るのは最終段階が中心になる(撮影/唐松奈津子)

このスタイルに行き着くまでに最も大きな影響を与えたのが、日経BP社が国土交通省の補助を受けて実施した、「既存住宅流通市場活性化に関する実証実験」だそうです。

「売却希望者・購入希望者を集めてワーキンググループなどを行ったのですが、そこで僕が強く感じたことは『不動産を売りたい人、買いたい人は、国などが想定しているほど専門家の意見やサポートを必要としているわけではなかった』ということでした」

不動産の売買にはさまざまな法律や制度が絡みます。だから専門家の手が必要だ、という先入観を取り払い、売主さんが自分で調べたり、学んだりできるように促す、それがセルフセル方式なのですね。

不動産について「自分で調べる、学ぶ」という経験が価値になる

このように家いちばでは、専門家の知識と経験が絶対に必要になる”物件調査”と”契約”以外の過程は、できる限り売りたい人・買いたい人本人たちに任せているそうです。

「一般に、不動産を売却する人や、そのサポートをする不動産仲介会社は、いかに早く、高く売るかということを考えています。しかし、田舎の空き家や遊休不動産を扱っている中で多く出会ったのは、『売れるかどうかも分からない』『タダでもいいから安心できる人にもらってもらいたい』という売主さんたちの言葉で、決して早く・高くだけのニーズではないということでした。同じように買う人も『ボロボロの家屋は取り壊して、更地になったら買いたい』という人ばかりではなく、今あるものでこれからどうやって工夫して活用していこうかという発想を持っている人も多かったのです。

「家いちば」の掲示板の一例

「家いちば」の掲示板の一例

それらの取引を通じて僕が感じてきたのは『売りたい人も買いたい人も“賢い”』ということです。例えば、売主さんによっては、買主さんとコミュニケーションを取るなかでローンの選び方やどうすれば審査が通りやすいか、この物件にはどの商品がオススメか、といったことまでお話できる方がいます。それはそうですよね。購入されるときには、実際にご自身がさんざん真剣に悩んで、比較検討をしてローンを組んできたわけですから、情報収集や知識の習得に対する本気度が違います。

売主さんから質問をもらったときも、僕たちは自ら答えるのではなく例えば『役所の都市計画課に聞くと教えてくれますよ』などと話します。自分で調べたり学んだりすることでそれが知識となり、不動産売却の経験、自分で売ることの醍醐味になるんです」

「まるで面接かオーディション」。売り手が納得できる仕組み

売り手の本気度は、売りたい物件を掲載するとき、案内や交渉の過程でも見ることができます。

「森林や畑を含む1万平米近くの土地に、母屋や離れ、蔵、車庫などがある豪邸を相続した母娘がいました。広大な土地と建物の維持管理が大変なものであることを痛感していた母娘は、それを理解して永続的に管理ができる人を求めていました。多くの問い合わせや内見に対応するなかで、二人は『購入者に求める人物像』をまとめたのです。

物件ページには、『近所の方とうまくお付き合いのできる方』『長期的に山林などを保存、維持管理、活用が可能な方』『建物の大規模な改修をせず、天井の丸太の梁やふすまなど昭和の風情を残しながらお使いくださる方』などの項目を明記。応募フォームも自分でつくり、購入希望者が購入後の利用予定や森林等の維持管理計画まで書くものになりました。まるで面接かオーディションですよね」

売主さんが思いやストーリーを十分に記載することができ、購入希望者との直接のやり取りを通じて、心から納得して売却できることもセルフセル方式の魅力のひとつかもしれません。

「結果的に、こちらの物件は広い土地を有効に使って活動したいという法人へ売却が決まりました。住宅はもちろん、森や畑も有効に使う計画で、将来的にどんな状況になっても窓口となる役員が個人で引き継いでいくという強い意思を確認できたことで、二人は安心して売却されたのです」

「買ってから考える」もアリ! 不動産購入の可能性が広がる

一方、買主さんにとって家いちばで物件を購入することの最大の魅力は、その価格の手ごろさです。掲載されている空き家の中心価格帯は100万円前後、場合によっては0円物件もあります。当然、価格が安いからにはそれだけの理由、例えば通常の住居としては使いづらい、かなり手を入れる必要があるなどの難点があるものですが、そのような物件をお試しとして用途が未定のまま購入する人も多いといいます。

温泉が出るリゾートマンションの1室が80万円で売られているケースも。(管理費と温泉使用料は別途1万7800円/月)(写真提供/家いちば)

温泉が出るリゾートマンションの1室が80万円で売られているケースも。(管理費と温泉使用料は別途1万7800円/月)(写真提供/家いちば)

「別荘やセカンドハウス、あるいは『遊びの拠点』として比較的軽いノリで購入されますね。なかには『何に使うかまだ決まっていない』『買ってから考える』という人もいます」

購入された物件が何に使われるのかは、買主さんによって本当にさまざまな様子。藤木さんにとって印象的だった事例を聞くと「廃墟となったガソリンスタンドをバイク置き場として購入した人」だそうです。

「茨城県の霞ヶ浦湖畔で50年以上前に建てられたガソリンスタンドが廃業し、10年以上放置されていました。老朽化は激しく、地下タンクを処分するのに土壌汚染が懸念されるため、一般の不動産流通にも乗せられない。解体に数百万円はかかるといわれてお手上げ状態でした。そんな物件を購入され、お手持ちのバイクを数十台搬入されたときにはそんな使い方もあるんだ! と本当に驚きました」

廃業したガソリンスタンドを(写真提供/家いちば)

廃業したガソリンスタンドを(写真提供/家いちば)

バイク置き場に(写真提供/家いちば)

バイク置き場に(写真提供/家いちば)

売る人と買う人、双方が幸せになって社会問題も解決!

さらに藤木さんは「活用されない低利用不動産が新たな持ち主によって中利用不動産、高利用不動産となることは、地域の人や街にとってもいい影響を与える」と考えています。

そのまま民泊を始められるくらい、すでに整備された物件も(写真提供/家いちば)

そのまま民泊を始められるくらい、すでに整備された物件も(写真提供/家いちば)

「家いちばで物件を購入した人の中には、複数の物件を購入して、将来的には民泊を経営したり、その街の活性化に寄与したいと考えている人も少なくありません。安い物件を買えば、安い賃料で展開できるため、低所得層など、住宅の確保が難しい人にも賃貸できます。なかには一般の人でも運用のプロのような人もいますが、空き家問題をはじめとする社会問題をどうにか解決したい、という想いで購入する人もいるんです」

複数の物件を購入したり、社会問題の解決を目指したり、といったことが可能になるのは「低価格」の物件ならではでしょう。一方で「安かろう、悪かろう」の言葉のように、当然、安いからには何かしらの理由があってそこに不安を感じる人も多くいるのではないのでしょうか。

「だから、僕たちプロがいます。不動産売買をする人が求めているのは専門家ではない、と言いましたが、求めているのは『安心』です。物件調査を念入りに行い、物件のもつデメリットもしっかり納得したうえで売る人、買う人、そして社会全体が満たされたものになればと思います」

藤木さんの「売れる値段で売るという、市場の原理に任せればいい」の言葉の通り、いま、家いちばでは毎日1物件に数十件の問い合わせが入っており「掲載する空き家が足りない」状態だといいます。将来的にどんどん増え続けるといわれる空き家が、売主さんも買主さんも心から満足できる取引を経て活用され、社会問題の解決にもつながるとすれば、こんなに素晴らしいことはありません。そのために重要なことは「自分で売る」「自分で学ぶ」「自分で見極めて買う」覚悟なのかも……と、家いちばのセルフセル方式から垣間見たように思います。

記事では書ききれなかったユニークな活用事例の数々が家いちばの書籍『空き家幸福論』(11月20日発刊)には掲載されていました。自分がとことん納得できる形で不動産売買を実現した先輩たちの事例を知ることも、自分で学ぶことの一歩かもしれません。

『空き家幸福論』(日経BP)●取材協力
藤木哲也(ふじき・てつや)さん
家いちば株式会社代表取締役CEO。1993年、横浜国立大学建築学科卒。ゼネコンで現場監督、建築設計事務所で設計、住宅デベロッパーを経て、不動産ファンド会社にて不動産投資信託やオフィスビル、商業施設などの証券化不動産のアセットマネジメントに携わる。豪ボンド大学のビジネススクールにてMBA(経営学修士)を取得後、2011年に家いちばの前身となる不動産活用コンサルティング会社、エアリーフローを設立。15年に「家いちば」サイトをスタート、19年、家いちば設立
『空き家幸福論』(日経BP)
・家いちば

月収2万円で「山奥ニート」歴7年。自分の価値や感情を生まれて初めて知った

最寄駅から車で2時間という和歌山県の山奥に、廃校になった小学校を再利用して、全国からニートや引きこもりの若者14人が共同で生活するシェアハウス「NPO共生舎」がある。月額1人2万円で、ネット付きの居住スペースと食事代をまかなう。「自分自身がかつて引きこもりで、今は山奥ニート」と話すのは、同NPO理事で、この春に著書『「山奥ニート」やってます。』(光文社 刊)を上梓し、話題を呼んでいる石井あらたさんだ。その山奥生活について、詳しい話を聞いた。5月に発売された書籍『「山奥ニート」やってます。』は1万8000部(3刷)と売れ行き好調(写真提供/石井あらたさん)

5月に発売された書籍『「山奥ニート」やってます。』は1万8000部(3刷)と売れ行き好調(写真提供/石井あらたさん)

地域の人々との交流は大切な生活の一部

“山奥ニート”石井さんの生活は、朝はだいたい11時に起きてから今日は何をしようかと考え、焚き火をしたり、リビングで他の人とゲームをしたり、読書したりという、まさにその日暮らし。「自分も含めてニートは先のことを考えるのが苦手だと思う。『今』だけを考えて生きている」と話す石井さん。都会がコロナ禍でマスクや消毒に追われる緊張感ある生活なのと対照的に、コロナ禍でも生活は以前と全く変わりないと話す。

一方で共生舎は、これまで見学者や移住希望者の受け入れを行っていたが、この8月からは全面停止。再開のめどは立っていないという。「(感染症リスクを考えると)地域の方たちと交流しにくくなる」というのが理由だ。石井さんたちが暮らすのは、平均年齢80歳、山奥ニートの他に、徒歩圏内の住人はたった5人という集落。10代から40代の共生舎の住民たちは、キャンプ場の清掃や、梅農家のお手伝いなどをしながら、同じ村や近くの村に住む人たちと関わっている。また、スポーツを一緒に楽しんだり、祭りなどの村の行事にも積極的に関わっているので、こうした配慮は重要だ。

石井さんたちが住む五味集落までの道(写真提供/石井あらたさん)

石井さんたちが住む五味集落までの道(写真提供/石井あらたさん)

五味集落(写真提供/共生舎)

五味集落(写真提供/共生舎)

地元の年配者との交流は自然の流れ(写真提供/石井あらたさん)

地元の年配者との交流は自然の流れ(写真提供/石井あらたさん)

“山奥ニート”になったきっかけは福島でのボランティア

今は、好きなことをしたり、地元の人々のお手伝いをしながら、気ままに山奥ニートライフを送る石井さん。ブログのアフィリエイトで得る月2万円が主な収入だが、それでも家賃0円ということもあって、十分な生活を送れていると感じている。

そんな石井さんが山奥ニートになったきっかけは、2012年に東日本大震災のドブ掃除のボランティアとして出向いた福島での出来事に遡る。当時、すでにニート生活2年目。たまたま友人と旅をしていた広島で東北の被災状況を見て、改めて自分の人生を振り返り「好きなことをやって、死ぬ瞬間に後悔しないようにしたい」と思ったそうだ。そんな石井さんをさらに突き動かしたのが、NPO の人に言われた一言だった。

「ニートや引きこもりの人は、大きな力を溜め込んでいる。でもそれを活かせる機会がない。でもこういう非常時では、それが何より助かる」

以来、「誰かに必要とされたい」という思いを募らせ、同じ思いを持つニート仲間を探しはじめた。同時にニートが集まれば、何か起こるのではないかと漠然と考えるようになった。「同じ種類の人間が集まれば、互いに強化しあって、そこから何か文化のようなものが生まれるのではないか」と思ったのだ。

こうしたなかで出会ったのが、今も山奥で生活を共にする“ジョーくん”だ。彼の紹介で、2014年にNPO 共生舎のことを知り、「親の目を気にせず、思う存分引きこもる」ために山奥で生活することを決めた。

山奥の遊びの鉄板、焚き火。夏は河原で泳いだり、バーベキューも楽しめる(写真提供/石井あらたさん)

山奥の遊びの鉄板、焚き火。夏は河原で泳いだり、バーベキューも楽しめる(写真提供/石井あらたさん)

「こんな場所が近くにあるのは、ちょっと自慢」(石井さん)(写真提供/石井あらたさん)

「こんな場所が近くにあるのは、ちょっと自慢」(石井さん)(写真提供/石井あらたさん)

人がいること自体が希少な山奥だから感じる“人”の価値

アニメを観て、ゲームをして、SNSして、寝る。ある意味、今も「引きこもったまま」。それでも、都市部で暮らしていたときよりも人とのふれあいは圧倒的に増えた。村おこしやビジネスなどで能動的に集落に関わっているわけではない。「引きこもる範囲が自分の部屋から、集落に広がったんです」と石井さん。

山奥で暮らし始めてみて、こもることが目的でやってきたにもかかわらず、NPOの事務を一手に引き受け、その生活が楽しい故に、自然と集落の人や地域の人たちとの交流が増えていった。そんな中で石井さんが気付いたことは「便利なところには、便利な分、人が多い。人間が希少な分、山奥では一人の人間の力が非常に大きいので、価値が大きい」ということ。

お祭りのお手伝いも集落から感謝されている(写真提供/石井あらたさん)

お祭りのお手伝いも集落から感謝されている(写真提供/石井あらたさん)

「この山奥ぐらい不便な場所というのは、僕たち共生舎の住民がここからいなくなったら向こう100年人が住まなくなってもおかしくない。そのおかげで、(地域に住むほかの)みんなが優しくしてくれる。人間が希少なので、何よりも貴重な存在として扱ってくれる」と続ける。

つい先日、11月3日に行われた集落の祭りを共生舎の住人十数人で手伝った。毎年、山の上のお宮までお参りに行くのだが、そこまでたどり着ける地域の人は2人しかいない。「『あんたらがいなかったら、寂しい祭りになっただろうなぁ。来てくれてありがとう』と言われました。枯れ木も山のにぎわいじゃないですけど、一人ひとりは大して役に立ちませんが、頭数いるだけでも喜ばれるのが山奥です。お酒飲むのに付き合うだけで、すごく喜んでくれるんですよ」と、山奥生活で、改めて「人がいることの価値」を体感していると話す。

ニワトリも放し飼い(写真提供/石井あらたさん)

ニワトリも放し飼い(写真提供/石井あらたさん)

家でも人の気配を感じながら、心地よく生活している

石井さんが拠点にしている共生舎での住民たちのメインの交流場は、広いリビング。共生舎はいわゆるシェアハウスだが、廃校になった小学校を利用しているため、スペースは十分すぎるほどに広い。

シェアハウスといえば、都会だと音や臭いなどが問題になりがちだが、そういったトラブルは皆無。それぞれがソーシャルディスタンスを保ちながら生活しているという。

広々としたリビングでは、テレビの前を陣取ったり、本棚前で読書したりと、好きなことを悠々と楽しめる(写真提供/共生舎)

広々としたリビングでは、テレビの前を陣取ったり、本棚前で読書したりと、好きなことを悠々と楽しめる(写真提供/共生舎)

「40畳ぐらいあるリビングに、8~10人が常にいて、好きなことをしています。
リビングが広いと、部屋の隅と隅で別の話ができるんです。そうすると、あっちのほうで面白い話をしてるなと思ったら、そっちに席を移って話に加わることができる。狭いリビングだと、一つの話をしていたらその話に参加するしかない。別々の部屋だと、面白いことしているか分からない。広い一つのリビングだからこそ、自分が加わる話題を選ぶことができて、ある種Twitterのような、ゆるいコミュニケーションができます。実際、リビングにいるけどそれぞれで別のことで遊んでいる光景をよく見ますね。
上手に距離を保ちながら、一緒にゲームをしたり、映画を観たりする人もいれば、一人で読書する人もいます」

住居スペースの広さを確保しにくい都市部と比べ、山奥は家の中も、外も開放的なのだ。

(写真提供/石井あらたさん)

(写真提供/石井あらたさん)

山奥生活に向いているのは、自分で楽しいことが見つけられる人

石井さんが集落にやってきてから過去7年に、累計40人がこの共生舎で生活をしてきた。見学には200人が訪れた。「住みたいという人を選り好みしようとはしなくなった」が、いくら広い居住空間で生活しているとはいえ、血のつながりや、もともと知り合い同士でもない他人が共同生活を送るには、ルールが必要。

NPOの運営は現在石井さんを含む古参の3人が“独裁政治”で担っている。「ニートたちは概ね仲がいいのですが、何かを決めるときは3人で相談して決めています。そんなことは1年に1度あるかないかですが」と話す。「ほとんどの場合、この山奥が合う人は残って、合わないと思う人は自然と去っていく」

共生舎の住民でノリでつくったミニコミ誌。16Pのうち4Pの共生舎の概要のほかは、漫画やレシピ、映画の感想、ボードゲームの攻略記事などかなり自由な内容。Vol2も予定している(写真提供/石井あらたさん)

共生舎の住民でノリでつくったミニコミ誌。16Pのうち4Pの共生舎の概要のほかは、漫画やレシピ、映画の感想、ボードゲームの攻略記事などかなり自由な内容。Vol2も予定している(写真提供/石井あらたさん)

今年だけですでに4人が入れ替わった。「(山奥での生活は、)自分で楽しいことが見つけられる人が向いていると思う」と石井さん。都会のいいところである、思いもよらない出会いはなかなかないので、出会いなしには生きられないという人には、山奥は向かないのかもしれない。またお互いが好き勝手にやっていることを面白がれるかどうか、それが共同生活の秘訣だ。

ちなみに、住民全員がニートというわけではなくリモートワークで働く人がいたり、一時的な滞在組と永住組が混在したりしている。

(写真提供/石井あらたさん)

(写真提供/石井あらたさん)

「『(仕事をしていてもしていなくても、滞在でも永住でも)どちらでもいいよ』というスタンスは、ニート支援をする他のNPOなどの組織と比べて、とても珍しい立ち位置。誰にも先のことなんて分からないのに、どうするかなんて決められないから。だから『どちらでもいい』んです」と、いたってシンプルな理由で寛大な方向性が決められている。

過ごし方も、仕事をする・しないも、お互いとの関わり方も、「どちらでもいい」。時にNPOなどの取り組みの“●●しなければならない”に息苦しさを感じる人もいるように思う。

ただ、共同生活をする上で、それぞれが何らかの手伝いをすることはほぼ暗黙の了解で義務のようにはなっているとのこと。食事を用意する、掃除をする、ゴミ出しをするといったことを、住民は厳しい決め事をせずに自然と手を貸し合いながら生活している。

(写真提供/石井あらたさん)

(写真提供/石井あらたさん)

山奥ニートになって、“自分が知らなかった感情”を知った

著書で、生まれて初めて「マジギレした(マジで怒った)」事件について触れた石井さん。普段は温厚で、嫌なこともすぐに忘れる性格だが、山奥生活を始めて3年目に、どうしても人やモノに当たらずにはいられない日があった。それは「自分の知らなかった感情」だった。

“マジギレ”だなんて、ネガティブなイメージがあるかもしれないが、今では石井さんはポジティブに受け止めている。「“マジギレ”したというのは、それだけ僕が人と関わって生きているという証拠だと思う。人と関わったからこそ、自分を知ることができた。自分がムカっとする相手に会ったときにどんな反応をするのかを知るということは、逆に自分が何に心地よさを感じ、何に嫌悪するのかが分かるようになるということだから」(石井さん)

(写真提供/石井あらたさん)

(写真提供/石井あらたさん)

(写真提供/石井あらたさん)

(写真提供/石井あらたさん)

自分の感情を自然に発露できた山奥での生活のおかげで、怒り、心地よさ、嫌悪といった「感情」が自分の中に芽生えたと感じている。

それに、感情的であることは悪いことではないとも思っている。
「一人で生きていくということはかなり大変で、強い人でないと生きられない。弱い人は、弱い人同士が繋がって、生きていく方がいい。感情的になるということは、弱さも見せていくということ。だから、人と人の“しがらみ”もある程度必要だと思うんです」

コロナ禍で山奥生活を再確認

石井さんは、1カ月だけ共生舎に住んだことのある女性と3年前に結婚した。現在3カ月に1度、1カ月ほど名古屋に住む妻のところに滞在する“二拠点生活”を送っている。

山奥の生活はコロナ禍での変化がまったくない分、「マスクが必須になった都会は、以前以上に息苦しく映る」と石井さん。街中を歩くにもどこか罪悪感を抱かずにはいられず、何も考えずに歩ける山奥の暮らしがやはり好きだと再認識している。

とはいえ、都会の生活も嫌いではない様子。「山奥の生活の一番の魅力は生活費の安さ。都会の良さは、遊ぶ場所がある、新しい面白い人と出会える、食べ物の選択肢が多いということ。それぞれにいいところがある。都会のいいところを山奥に持っていけたら面白そうだと思うんですよね」

2020年2月10日(ニートの日)に登壇した「ニート祭り」の様子(写真提供/石井あらたさん)

2020年2月10日(ニートの日)に登壇した「ニート祭り」の様子(写真提供/石井あらたさん)

コロナ禍でオンラインでのコミュニケーションが一般的になり、石井さんは山奥にいながらにして地元の友達とのオンライン飲み会も頻繁に楽しむようになった。確かに、山奥での不便さも尊いものだが、都会の良いところも取り入れれば、より住みやすくなりそうだ。

「山奥にも住む人が増えたら最高」と話し、「共生舎に住むことは物理的に難しくても、周辺集落にもっと人が移り住んでくれたらうれしい」と続ける。「将来的には、妻も山奥生活することを考えているようです」

コロナ禍のこの半年、外出規制になったり、先の予定を全てキャンセルすることも余儀なくされた。予定やルーティンがベースにあった毎日が一変し、日々の過ごし方や、暮らしたい場所、仕事観など、価値観が大きく変わった人も多いだろう。それぞれが新しい生き方を模索するなかで、“山奥ニート”石井さんの「先を考えず、その時その時を思うままに暮らしているのに充実感を感じられている」生き方は、凝り固まった私たちの価値観にちょっと変化を与えてくれるように思う。

石井さんは、「就職して働いている人は、やっぱり立派です」と言いつつ、このウィズコロナ時代を「先のことを考えることが苦手な僕たちにとっては生きやすい時代」と話す。「働くこと以外なら、なんでもやる気があるんです」という石井さんは、山奥の暮らしをもっと楽しんでやろうと大きな野望を抱いている。

『「山奥ニート」やってます。』(石井あらた 著、光文社 刊)●取材協力
石井あらたさん
1988年生まれ、名古屋市出身。自称「山奥ニート」。浪人・留年・中退の末ひきこもり。2014年から和歌山県の山奥に移住。NPOの支援を受けるはずが、移住3日後に代表が亡くなり、理事として自主運営を開始。人口5人の限界集落の木造校舎に、ネットを通じて集まった男女14人と暮らしている。2017年に会社員の女性と結婚。現在は山奥と街の二拠点生活をしている。
Twitterアカウント:@banashi
ブログ:山奥ニートの日記
YouTube:山奥ニート葉梨はじめ
『「山奥ニート」やってます。』(石井あらた 著、光文社 刊)

テレワークが変えた暮らし【10】理想を求めて葉山へ。社会活動「スポーツを止めるな」もスタート

東京都新宿区から神奈川県葉山町に3年前に家族で引越した会社員の最上紘太さん。ライフシフトの見直しをきっかけに移住を決意。そして、このコロナ禍でテレワーク中心となり、生活スタイルにさらに変化が訪れた。コロナで苦しむ学生アスリートを支援するため、一般社団法人「スポーツを止めるな」を仲間と立ち上げるなど活動を広げている。移住、テレワークで最上さんの暮らしはどう変わったのだろうか。
葉山でネットと波を乗りこなすダブルサーフィン生活を手に入れた

「老後に葉山を拠点にして生活することは、学生時代から思い描いていました」と語る最上さん。最上さんの高祖父にあたる明治の文化人、陸 羯南(くが かつなん)氏が葉山に移り住んで以降、そこは最上さんや、親戚みんなの憧れの地となる。小さいころから訪れていた葉山は、中学時代からラグビーに打ち込んできたスポーツマンの最上さんにとって、都会から遠くないのに、自然の中でワークアウトをしたり、スポーツを楽しめたりする理想の場所という印象が強かった。

「東京での仕事が忙しくなる一方、世間では働き方の見直しが議論を呼び、“人生100年時代”が叫ばれるようになりました。都会のド真ん中に住んで、マンションと会社を往復する生活がベストな生き方なのか、4年ほど前から真剣に考え始めたんです」と話す。

幼少期からの憧れの地・葉山への移住を自然と考えるようになっていくうちに、富士山も海も見える今の家が立つ土地を見つけ、迷わず購入。地の利を最大限に活かし、環境にも配慮した理想の家を1年かけて建てた。以来、休みの日には海でスタンドアップパドル(SUP)を楽しんだり、家族で磯遊びをしたりと、海の側での生活を満喫しているという。

最上さん宅から望む富士山(画像撮影・提供/最上紘太)

最上さん宅から望む富士山(画像撮影・提供/最上紘太)

コロナ禍で、理想のテレワークのある暮らしを実現

家を建てたころは、仕事は都内のオフィス勤務がメインだった。勤務先では、テレワークは今ほど浸透していなかったというが、最上さんはすでに「将来的にはテレワークを基本とした暮らしをすること」を理想に、日当たりもいい、お気に入りのスポットに書斎をつくっていた。

そんな最上さんのテレワークが本格的に始まったのは、新型コロナウイルスによる自粛生活が始まったこの3月。毎日都内へ通勤する生活からフルリモート生活に一変した。

以前は休日の朝5時から海に走りに行っていたが、出勤時間がなくなった分、始業時間前を利用した毎日の習慣に。地元のランニングコースを開拓する余裕もでき、葉山は海だけでなく山々やハイキングコースが充実していることにも気がつけたという。

こうして毎日気分に合わせて海や山などさまざまなコースを走ることで、「コロナ禍でも気分転換と健康維持が可能になりました」と続ける。さらに、家族で山登りに行ったり、海で朝食や夕食をピクニックで楽しんだりと、バケーション気分を日常に取り入れられるようになった。このことで、仕事における集中力も格段に高まったという。

「地元で過ごす時間が圧倒的に増えたことで、これまで以上に家事に関わり、自分時間も確保できています。ご近所付き合いも増え、葉山への愛着が一層深まりました」

葉山に点在するハイキングコースは、うっそうと繁る木々に囲まれ、清々しい空気が漂う。早朝はほぼ人がいないので集中して走り込めるという(画像撮影・提供/寺町幸枝)

葉山に点在するハイキングコースは、うっそうと繁る木々に囲まれ、清々しい空気が漂う。早朝はほぼ人がいないので集中して走り込めるという(画像撮影・提供/寺町幸枝)

地産地消の食卓がかなうのが三浦半島の魅力

最上さんにとって、葉山生活の魅力の一つは食だ。「朝採れ野菜をはじめとする食が豊か」と最上さん。

特に「葉山しらす」は、初めて食べて以来、冷蔵庫に欠かせなくなった。朝に漁港にあがる釜揚げしらすは、新鮮かつ手ごろな値段で手に入れられる。佐島や横須賀などへ少し車を走らせればその日に水揚げされたばかりの旬の魚が手に入る。漁港まで行かなくても、地元の魚屋には朝獲れ鮮魚がたくさん並ぶ。

葉山しらすを使ったピザ(画像撮影・提供/最上紘太)

葉山しらすを使ったピザ(画像撮影・提供/最上紘太)

ほかにも、野菜や、養鶏場や養豚場で育てられた肉、ブランドの「葉山牛」など、三浦半島にいるだけで、豊かな食を手軽に得られるようになった。「都内に住んでいたころより、ずっと質の良い食材を手ごろに入手できるようになりました。おかげで、子どもに旬のものを感じて食事を楽しむことを教えられるし、これまで料理をしたことがなかった自分が庭でバーベキューするようになり、料理にも興味を持つようになりました」と話す。自粛期間で外食もしづらくなり、時間の余裕もできてからは、おいしいと耳にした調理法を試して、おつまみをつくり、オンライン飲み会で披露するということもできるようになったとのこと。

海では、バーベキューだけでなく、ホットサンドやホットドックをつくって朝食にしたり、近くのレストランのテイクアウトを利用して、海ディナーを楽しむこともあるという(画像撮影・提供/寺町幸枝)

海では、バーベキューだけでなく、ホットサンドやホットドックをつくって朝食にしたり、近くのレストランのテイクアウトを利用して、海ディナーを楽しむこともあるという(画像撮影・提供/寺町幸枝)

(画像撮影・提供/寺町幸枝)

(画像撮影・提供/寺町幸枝)

テレワークだからこそできた、スピード感ある動き

テレワークで生まれた時間は、ボランティア活動にも活かされている。最上さんが一般社団法人「スポーツを止めるな」の共同代表理事に就任したのも、コロナ禍の最中のことだ。大学卒業後も、学生時代のラグビー仲間たちと公私共に交流が深い最上さんは、本業で培ったスポーツ分野での広報活動への造詣の深さから、コミュニケーションプロデューサーとして、立ち上げから組織運営に関わってきた。

同組織は、新型コロナによるさまざまな自粛で進学や就職問題に直面している学生たちを、トップアスリートたちが協力して支援する活動だ。その活動は、社会貢献と期待され、多くのメディアや企業から注目を集めている。

引退試合を逃した中高生ラガーマンたちのために、日本ラグビーフットボール選手会に所属するトップアスリートによる過去の試合への「解説」をつけたビデオ制作を行う「青春の宝」プロジェクトはその一つの活動だ。プロジェクト運営に必要な人選や手配、重要となるメディアへのPRなど、代表理事の3人がスピード感を持って手分けしてこなす必要が求められているというこの活動。共同理事全員が本業を持つ中で、「テレワークなくしては、この組織運営は実現しなかったと思います」と最上さんは話す。

「以前なら、全国を視野に入れた活動となると、“東京”を拠点にせざるを得なかったと思いますし、専業である必要もあったでしょう。しかし多くの動きがリモートでこなせるようになった今、世界を飛び回るトップアスリートから、全国各地で活躍するスポーツ関係者たちとパッとオンラインで繋がり、必要に応じた動きをするというやり方で、十分に日本全国を巻き込む活動は可能だと感じています」と続ける。

グッズ活用で仕事の効率もアップ

本業に、ボランティアにと多忙極める最上さんが、仕事をこなす上で役立っているのが、テレワークのために購入したパソコン周辺機器やガジェットだ。

「毎日少なくとも、5、6本のオンラインミーティングをこなしているのですが、ノートパソコンとひたすら向き合っていると、思った以上に疲れることに気がつきました」と3月以来、少しずつテレワークグッズを取り入れるようになった。

例えば大型のパソコンワイドモニターとワイヤレスキーボード。オンラインミーティングで複数の資料を確認しながら打ち合わせを進めることも多く、ノートパソコンの画面ではとても管理しきれない。ノートパソコンと同期させた巨大モニターを持つことで、より効率的にミーティングをこなせるようになったという。長い日は1日10時間以上パソコンの前に座りっぱなしになる最上さんにとって、ノートパソコンスタンドやタブレットスタンド、グリーンスクリーンなどは、今や手放せないアイテムだ。

テレワークのお役立ちグッズが充実する、最上さんのデスク周り(画像撮影・提供/最上紘太)

テレワークのお役立ちグッズが充実する、最上さんのデスク周り(画像撮影・提供/最上紘太)

最上さんはテレワークが始まったことで、多くの地元の仲間との繋がりが強固になり、葉山生活が充実したと感じている。その様子は東京の仲間にも伝わり、都心から引越ししたいと相談を受けることも増えているのだとか。

「コロナ禍では、いろいろなものが分断されたと言われていますが、地域のまとまりや、新たな繋がりが生まれつつあると実感しています」(最上さん)

このコロナ禍を通じてテレワークが定着した人も多い。今後このような人たちがプライベートを充実させ、仕事でもさらに活躍することで、その魅力はどんどん波及していくに違いない。一瞬欲張りに映る生活だが、これからの「ニューノーマル」になる、取材を通じてそんな期待が思わず膨らんだ。

●取材協力
・一般社団法人スポーツを止めるな

移住や二拠点生活は“コワーキングスペース”がカギ! 地域コミュニティづくりの拠点に

新型コロナウイルス感染症拡大にともない、テレワークが急速に浸透した。地方移住への関心も高まっているなかで注目を集めているのが、全国で数を増やしている地方のコワーキングスペース。働く場所としてだけでなく、地域コミュニティの拠点や移住相談の場としての側面もあるようだ。
長野県富士見町にある「富士見 森のオフィス(以下「森のオフィス」)」運営者の津田賀央さんにお話を伺った。

移住者がいても、「つながり」がなければ何も生まれない

「富士見 森のオフィス」は、2015年12月、八ヶ岳の麓・長野県富士見町にオープンした複合施設だ。コワーキングスペースを中心に、個室型のオフィスや会議室、さらには食堂やキッチン、シャワールーム、森に囲まれた庭やBBQスペースも備える。2019年には宿泊棟「森のオフィスLiving」もオープン。サテライトオフィスやテレワーク拠点として、また地域住民の“公民館”的スペースとして、都市部と富士見を行き来する人・地域に暮らす人をつなぐ拠点になっている。

富士見町が進める移住促進施策「テレワークタウン計画」の一貫としてオープンした施設だが、当初、計画内にコワーキングスペースのオープン予定はなかったという。

一軒家を事業主へ安価に貸し出すなどの施策を中心としていた当初の計画に対し、「人と人のつながりを生む場」の必要性を主張し、具体的なプランを提案したのが、当時はまったく富士見町と無縁だった津田さんだ。

津田賀央さん Route Design合同会社代表。2015年、富士見町に家族で移住。週に3日は東京を拠点に活動する二拠点生活者。「森のオフィス」の運営をはじめ、コミュニティー・スペース立ち上げのコンサルティングや地域商品の企画開発などさまざまなプロジェクトに携わる(画像提供/津田賀央さん)

津田賀央さん
Route Design合同会社代表。2015年、富士見町に家族で移住。週に3日は東京を拠点に活動する二拠点生活者。「森のオフィス」の運営をはじめ、コミュニティー・スペース立ち上げのコンサルティングや地域商品の企画開発などさまざまなプロジェクトに携わる(画像提供/津田賀央さん)

「良い計画だけど、まだあまり本格化してなさそうだな、と思ったんです。せっかく移住してきた人がいても、その地域でつながりができなければ何も生まれないだろうなと」(津田さん)

津田さん自身は神奈川県横浜市の出身だ。都内の大手企業でオフィスワークをしていたが、リンダ・グラットンの著書『ワークシフト』を読んで「働き方」についての考えが変わった。「これからはどこにいても働ける時代が来る」と直感した。

移住を検討していた最中、富士見町のテレワークタウン計画を知り、その数十分後には担当者へ連絡。津田さんの提案は富士見町の担当者に歓迎され、プロジェクトリーダーとしての参画が決まった。

八ヶ岳の麓にある「森のオフィス」。元は大学の保養所だったそう(画像提供/津田賀央さん)

八ヶ岳の麓にある「森のオフィス」。元は大学の保養所だったそう(画像提供/津田賀央さん)

「森のオフィス」で「つながり」が生まれる理由

「森のオフィス」オープンから5年。当初はWEBデザイナーなどクリエイターが多かった利用者の層も、今はかなり多様になっているという。

「フリーランスの方だけでなく、会社員の方も増えていますね。プログラマー、エンジニア、デイトレーダー、事務、会計、プロジェクトマネージャー、大学の研究者やアウトドアのアクティビティスクール運営者などもいらっしゃいます」(津田さん)

単に作業場として活用している人もいるが、やはり「つながりを求めて」来る人が多いそう。
「漠然と“何かやりたい”“面白い人とつながれたら”という気持ちを持って来られている方、この場を利用して自分の人生に前向きな変化を生み出したい、というメンタリティを持った方が多い印象です」(津田さん)

実際に、この場からは3年間で120以上のプロジェクトが生まれている。
元マスコミ系企業に勤めていた人と動画クリエイターがつながって、八ヶ岳のローカルメディアをつくるチームが立ち上がったり、お弁当屋さんをやりたいという利用者がコワーキングスペース内のキッチンで営業をはじめたり。さらにその人と農家やデザイナーがつながってビジネスが広がっていったケースもあるとのこと。

利用者の変化に合わせ、津田さんは「つながり」のつくり方も日々考え続けている。
「会社員の中には副業が禁止されていて、プロジェクトへの参加が難しい方もいます。今後はライフワークや趣味をベースにつながれるような取り組みもしていきたいですね」(津田さん)

(画像提供/津田賀央さん)

(画像提供/津田賀央さん)

「森のオフィス」のアウトドアスペース。BBQやマルシェなどのイベントも催される(画像提供/津田賀央さん)

「森のオフィス」のアウトドアスペース。BBQやマルシェなどのイベントも催される(画像提供/津田賀央さん)

広告はほとんど利用しておらず、利用者は口コミで集まってくるという。

「“共感”がベースにあると思います。森のオフィスがはじまった2015年当時は、二拠点居住やリモートワークがまだまだ珍しいものでした。身近な例が無いから、想像もしづらかったと思います。なので、僕自身が森のオフィスを通じて実現したいワークスタイル、ライフスタイルを体現してきたつもりです。最初はそれに共感する人が集まってきてくれて、その人がまた新しい人を連れてきてくれた。

共感が共感を呼んで、人が人をつれてきた。結果、さまざまな知恵やスキルが集まって、プロジェクトを生み出せるようになった。そのプロジェクトを起点に、さらにつながりが広がって、深くなっていく。そんな風に、コミュニティが大きくなっていきました」(津田さん)

利用者同士をつなぐ仕掛けや仕組みがあるのだろうか。そう津田さんに尋ねると、「仕組みと言えるものはないんですよね」と笑う。

「森のオフィス」のコワーキングスペース(画像提供/山田智大さん)

「森のオフィス」のコワーキングスペース(画像提供/山田智大さん)

「かなり地道で属人的ですが、スタッフが意識して“仲人さん”をしているんです。移住促進を目的につくられた施設なので、『どこから来たんですか』とか『ご家族は?』とか、会話の中で利用者のプロフィールを聞いて、会員同士の共通点を見つけるようにしている。例えば『カレーが好き』と聞けば、『誰々さんもカレー好きって言っていましたよ』と伝えるとか、とにかくつながるきっかけをつくるようにしています」(津田さん)

もともとつながりを求めてやってくる人が多いが、なかでも縁を広げていける人に特徴があるとすれば、「特技と強い好奇心を持っている人」、特に後者が重要だと津田さんは語る。

「例えば、オフィスの利用者に元大手PCメーカーの修理エンジニアの方がいるんですが、すごい人気者なんですよ。PCやデジタル機器で何か困ったことがあるとみんな彼に聞くから。
でもそれだけじゃなくて、相談に乗るときに一緒にごはんを食べたり、修理するときに家に遊びに行ったり、逆に招いたり、その機会を活かしている。相手に対する興味を持って接しているんですよね。その方は移住して半年ほどで本当にいろんな方とつながって、今では森のオフィスにその方を訪ねて来る方もいらっしゃいます」(津田さん)

地方は「働く場と生活の場が同じ」。だから関係が育ちやすい

「森のオフィス」のように、個性的なコワーキングスペースは長野県内だけでも増えているという。津田さんがいくつかの例を教えてくれた。

まずは塩尻エリアにある『スナバ』。イノベーション創出を主目的とした施設で、『森のオフィス』より、「ビジネスを生み出す」という色が強い印象だ。長野県が進める移住支援制度「おためしナガノ」とも連携しており、実際に「スナバ」を利用してビジネスを進める移住者もいる。
「行政職員の方が運営しているコワーキングスぺ―スですが、いい意味で“行政っぽさ”を裏切る柔軟さがあって、素敵なコミュニティが生まれているようです」(津田さん)

「スナバ」のコワーキングスペース(画像提供/スナバ)

「スナバ」のコワーキングスペース(画像提供/スナバ)

続いて松本の『SWEET WORK』。「パンの香りのするコワーキング」というキャッチコピーの通り、老舗ベーカリーが運営している。会員はパン食べ放題、というこちらもユニークな施設だ。利用者は国籍も職業もさまざまだが、懇親会などのイベントもあり、会員同士の雑談からゆるやかなコミュニティが生まれている。

都内のコワーキングスペースづくりにも携わる津田さんは、地方と都市部それぞれのコワーキングスペースの違いを「働く場と生活の場の距離」だと話す。

「地方は働く場と生活の場がほぼ同じなんですよね。利用者同士の家も近い。外食の選択肢も限られるから、行った先で知り合いに会うし、誰かの家で食べることも多い。家をリフォームしたいとか、田んぼを探しているとか、利用者同士が生活の相談で仲良くなることも多いです。だから関係の育ち方に違いが出るんじゃないでしょうか。

都市部のコワーキングスペースで働いた後に一時間半かけて自宅に帰るのとは違う。地方のコワーキングスペースは“生活”そのもの。“生活の場”と“仕事の場”の“顔が同じ”なんです。

だからこそ、地方でつながりをつくりたいと思ったら、コワーキングスペースを使うことが突破口になるのかもしれないですね」(津田さん)

異なる背景やスキルを持つ仲間をつくり、自分を変化させる

新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、「森のオフィス」も一時休館せざるを得なくなった。その時は「今までつくった文化がなくなってしまうのではと不安になった」という津田さん。しかし5月の運営再開後、新規登録者や見学者、移住相談の問い合わせは増えているそう。結果的に“時代が追い付いた”ということなのかもしれない。

「“人生100年時代”と言われています。寿命が延び、働く期間が長くなるなかで、僕たちの世代は60代・70代になっても、新しいスキルを身に付けないといけない。そのためには、自分自身がこれまで持っていた慣習や常識を都度捨てて、“次”に向き合う必要がある。でも、ひとりだと難しいですよね。
そんなときに、同じ意思を持ちながらも自分とは違うバックグラウンドやスキルを持った仲間がいることで、自分を変化させやすくなると思うんです。

実際、富士見に移住してくる方も、ひと昔前みたいに“仕事をリタイアして余生を過ごす”みたいな方ばかりではないです。“人生100年時代”に、連続的に自分を変えていかないといけないなかで、刺激を求めてやってくる人が増えていると感じます。自分や周囲の既成概念から脱するという意味でも、移住は良い方法なんじゃないでしょうか。

僕自身も、仕事と生活を軸に、既成概念や慣習を疑って、変化を促す取り組みを続けることで、自分自身を変え続けたい。そんな思いで、『森のオフィス』の運営を続けていきたいと思っています」(津田さん)

「森のオフィス」の外庭を使った“アウトドアオフィス”での会議風景(画像提供/津田賀央さん)

「森のオフィス」の外庭を使った“アウトドアオフィス”での会議風景(画像提供/津田賀央さん)

地方コワーキングスペースを「きっかけ」に

地方では、「暮らし」と「仕事」が同じ空間にある。だからこそ、コワーキングスペースという存在が地域とつながる突破口になりうる。
少し前まで、「仕事の刺激(都会)」と「豊かな生活環境(地方)」はトレードオフの関係と捉えられていたように思う。だが、状況は変わってきた。「森のオフィス」のような場を活用することで、どちらも手に入れることは可能になりつつある。
気になる地域と関係を持ちたい、何か新しいことにチャレンジしてみたいという人は、こうした場を活用することから始めてみるのも良いかもしれない。

●取材協力
富士見 森のオフィス
スナバ

移住者をドラフト会議で指名!? 南九州の移住支援がおもしろい!

2014年、「地方創生」の掛け声のもと、日本全国で移住相談窓口やHP開設など移住支援施策が活発化した。それから5年が経過し、地域によって成果の明暗は分かれつつある。いまだ多くの人にとって「移住」のハードルは高く、地域の関心は「関係人口」を増やすことに移り始めた。そんな「関係人口」を考える上でヒントとなり得るプロジェクトが「南九州移住ドラフト会議」だ。
「真面目じゃないけど本気の移住支援施策」

宮崎県東臼杵郡美郷町、渡川地区。公共交通機関でたどり着くことは難しく、車で向かう道中には鹿やたぬきが頻出。山々に囲まれた人口約350名の「限界集落」廃校跡地に、この日各地から100名近い人々が集まった。そこで行われていたのが「南九州移住ドラフト会議 クライマックスシリーズ」だ。

「南九州移住ドラフト会議」とは、移住支援プログラムをプロ野球のドラフト会議に見立て、「球団=各地域」が「選手=移住志望者」を指名する、ユニークな取り組みだ。各地域がSNS上でPRを行う「オープン戦」、移住に関するハードルやリスクマネジメントの考えを地域側・移住志望者側双方が学ぶ「移住力強化キャンプ」を経て、各地域が移住志望者を指名する「ドラフト会議」が行われる。他地域と競合した場合は抽選を行い、当選地域が期限付きの「独占交渉権」を獲得するなど、徹底的にプロ野球の仕組みを模している。2015年に鹿児島(カ・リーグ)で始まった同プロジェクトは今年で4回目。2016年より宮崎(ミ・リーグ)、2019年より熊本(ク・リーグ)が加わり、現在は「3リーグ制」になっている。

ドラフト会議中にはオリジナルのスポーツ紙も配布(画像提供/南九州移住ドラフト会議事務局)

ドラフト会議中にはオリジナルのスポーツ紙も配布(画像提供/南九州移住ドラフト会議事務局)

ドラフト会議の様子。2019年は、3県から12地域が「球団」として参加した(画像提供/南九州移住ドラフト会議事務局)

ドラフト会議の様子。2019年は、3県から12地域が「球団」として参加した(画像提供/南九州移住ドラフト会議事務局)


約半年に渡り行われてきた同プロジェクト最後のイベントが、この日行われた「クライマックスシリーズ」だ。各地域は、10月に指名した選手とこの日までどのような交流を行ってきたか、思い思いの方法でプレゼンテーションを行った。

愛知県から参加し、宮崎県西臼杵地域から指名された「選手」のひとり、小仲さんは参加理由を次のように語った。
「地方での暮らしに興味があり、友人から誘われて参加しました。絶対に移住しなければいけないわけではなく、関係人口を増やす取り組みと聞いて。気軽さがいいですね。自分としては希望の地域などは無いので、指名してくれるところがあれば、という気持ちでした」

一方の「球団」側はどうか。地域側担当者のひとりは、移住ドラフト会議の魅力をこう語る。
「移住志望者との出会いの場であると同時に、他地域とつながる場、他地域の取り組みを知ることができる場にもなっていますね。まちづくりの取り組みって『県域』で情報が流通していて、立地的に近くても隣県の成功事例は案外知れなかったりするので」

また別の担当者は、主催者の「真面目じゃないけど本気の移住支援」という言葉に共感した、と語る。
「移住に関して、『真面目な制度』はたくさんあるし、関わっている方々もきちんと仕事をしている。でも、移住者の人生に本気で向き合えているか?というと疑問が残るものも多い。移住ドラフトは、『真面目』ではないですが、移住者の人生を最初に考えている。同時に、地域に必要な人、合う人とは?と自分たちの地域を見つめ直す機会にもなっています」

夫婦で参加した「選手」をそれぞれ別の地域が指名。結果、夫婦のために、指名した地域同士が「連携協定」を結ぶ一幕も(写真撮影/ゆげさおり)

夫婦で参加した「選手」をそれぞれ別の地域が指名。結果、夫婦のために、指名した地域同士が「連携協定」を結ぶ一幕も(写真撮影/ゆげさおり)

参加者が「関わりやすく、離れやすい」仕組みであること

プロジェクトの発起人であり、鹿児島リーグ「コミッショナー(責任者)」の永山さんはこう語る。

「地域側が『あなたが欲しい』と言える場が無かったんですよね。地域側は『誰でもいい』『みんなに来てほしい』と言ってしまいがちなのですが、移住ってある種結婚に近いと思うんです。『誰でもいいから結婚して』と言われて、結婚する人なんていない。『あなたと一緒に何かしたい』と言える場が必要だと思い、ドラフト会議という仕組みを考えました」

「南九州移住ドラフト会議」の発起人・永山由高さん。鹿児島を中心に、まちづくりのプロジェクトに広く携わる(写真撮影/ゆげさおり)

「南九州移住ドラフト会議」の発起人・永山由高さん。鹿児島を中心に、まちづくりのプロジェクトに広く携わる(写真撮影/ゆげさおり)

プロジェクトを通じて、全参加者の約1/4にあたる25組が実際に移住しているという。一方、残りの3/4も、地域とつながりを持ちながら活躍している。

「実際に移住された方ですと、地域のゲストハウスの女将になっていただいたり、地域の中心的な商社のNo.2になっていただいた事例もあります。

関東圏など他の地域に暮らしながら、南九州各地域をサポートしてくれている方もいます。例えばカメラが趣味の方に、お祭りのポスター写真を撮ってもらったり。プロジェクトのキャッチコピー考案や、マーケティングのサポート、商品パッケージのデザイン、新施設のロゴマークをつくっていただいた例もありますね。関東圏でイベントをする際に売り子をしてもらったり、商品開発時のモニターとして協力してもらうなど、もう少しライトな付き合い方もあります」

東京で行われた移住説明会をサポートした「指名選手(写真中央)」(画像提供/南九州移住ドラフト会議事務局)

東京で行われた移住説明会をサポートした「指名選手(写真中央)」(画像提供/南九州移住ドラフト会議事務局)

永山さんをはじめとする関係者はこのプロジェクトを「壮大なコント」と表現する。

「絶対に移住してほしいわけではなく、移住後『やっぱり違うな』と思ったらまた違うまちに行っていただいてもいいんです。参加者が『関わりやすく、離れやすい』仕組みであることが大切で、あまり大きなものを背負おうとしないこと。
参加者はそのまちの未来を背負っているわけではなく、自分たちの人生を少しでも楽しいものにするために集まっている。その感覚は、関係者間で共有できていると思います」(永山さん)

取り組みも4年目となり、周囲の反応も少しずつ変化してきているという。

「それぞれのやり方で移住施策に真面目に取り組んできた行政や企業の方々に、『ちょっと肩の力を抜くこと』の意味を感じていただけているのかなと思います。

例えばスポンサーとしてサポートしてくれているソラシドエアさんは、航空券等のサポートだけでなく社員さんや社長も積極的に関わってくれています。このプロジェクトに協賛したからといって、何百人何千人が飛行機を利用するわけではないと思うのですが、こういう関わりが大事だと考えてくださっている。

同様に、行政機関の方々にも、『遊び』を持つことの重要性は伝わってきていると感じます」(永山さん)

「地域のキーパーソン」とつながれることが一番の価値

2018年に参加し、2019年9月に宮崎県新富町へ移住、地域おこし協力隊として働きはじめた二川さんにお話を聞いた。

2018年、新富町に「1位指名」された二川智南美さん(画像提供/二川智南美)

2018年、新富町に「1位指名」された二川智南美さん(画像提供/二川智南美)

「地方創生がテーマの映画を見て、自身の“地方熱”が高まっていた時期だったんです。ずっと東京で編集の仕事をしていたのですが、今後は地方の魅力的な方々を発信したいという気持ちになって。そんなときに友人から誘われて、軽い気持ちで参加しました」

地方に関する情報収集を始めたばかりで、参加地域とは全く接点がなかったそう。

「いつか移住したいな、そのときのための判断材料や人脈ができたらいいな、くらいの気持ちでした。すぐ移住するとは思っていなかった」

新富町から“指名”を受けたのち、実際にまちを訪れ、4日間ほど滞在。しかしその1回で、すっかり新富町に惚れ込んでしまったそう。

「現地を案内していただくなかで、自分の思い描いていた“住みたいまち”のイメージにぴったりだなと思ったんです。地元と似ている、というのもあったかもしれません。立地や人口、人との距離感、よくも悪くも不便なところ。旅が好きで日本全国さまざまな場所を訪れましたが、ここまで強く住みたいと思ったことはなかった。特別な何かがあるわけではなくて、まちの雰囲気や暮らしている方々の印象が自分に“合っている”と感じたんです」

宮崎県児湯郡新富町(画像提供/PIXTA)

宮崎県児湯郡新富町(画像提供/PIXTA)

宮崎県のほぼ中心に位置する、自然豊かなまち(画像提供/二川智南美)

宮崎県のほぼ中心に位置する、自然豊かなまち(画像提供/二川智南美)

そう感じていたのは二川さんだけではなかった。指名した新富町の担当者も、彼女を選んだ理由について「このまちに合っていそうだから」と伝えたそうだ(もちろん、彼女の持つスキルが地域にとって必要だったという理由もあるだろう)。

「その後、ドラフト会議に参加していたいくつかの地域をまわりましたが、新富町のことが頭から離れなかった。東京に帰ってしばらく考えましたが、2019年の1月ごろには『行きたい』という意志を新富町の担当者へ伝えました」

そして地域おこし協力隊として2019年9月に移住に至った。現在は、編集のスキルを活かしてまちの広報誌改革を行っている。移住後の満足度は非常に高いようだ。

「人間として生きるためのものがちゃんとある、と感じています。安くて新鮮でおいしい食べ物や、地域のコミュニティ。道ですれ違うときに挨拶するようなまちに住みたい、という思いがずっとあったのですが、それもここで叶いました。

仕事を通じて、少しずつ知り合いも増えてきました。最近はまちの施設でやっているバドミントンに参加したりしています。いきなり溶け込もうと頑張りすぎず、焦らず、少しずつ関係を広げていけたらいいですね」

あらためて、移住ドラフト会議への参加について振り返り、こう語る。

「移住する・しないに関わらず、地域の人とつながれるというのは魅力的だと思います。地域で、外部の人を受け入れるために活動しているキーパーソンは誰なのかを知って、その場でつながれたことはすごく価値があった。その方々と会って話したからこそ、地域を訪れるハードルが下がりますよね。指名されたまち以外も含めて、『あの人に案内してもらおう』と顔が浮かぶ。それって観光で訪れるだけでは分からないことですよね。

南九州に限らず、まちづくりに関わっている方々は全国につながりがあるようなので、『どこかしらのまちとつながりを持ちたい』という気持ちがあるなら、参加して損はないんじゃないかなと思います」

2018年の参加者同士のコミュニティも、いまだ健在だという。
「東京にいたからかもしれませんが、『地方移住に興味がある』という人が周囲にほぼいなかったんですよね。移住ドラフトに参加したことで、同じ感覚を持った方に会えたのもうれしかったです」

新富町にて。まちの広報誌リニューアルに向けて、調整を重ねている(画像提供/二川智南美)

新富町にて。まちの広報誌リニューアルに向けて、調整を重ねている(画像提供/二川智南美)

「楽しんでいる」地域こそが、人を惹きつける

「これまでの移住施策は、地域側に悲壮感があった。『我々が困ってるから、どうか来てください』と」

地域側担当者のひとりが語ったそんな言葉にはっとさせられた。南九州移住ドラフト会議で最も印象的だったのは、地域側も移住志望者側も、一貫して「楽しそう」だったことだ。そこには、「この人たちと関わっていきたい」と思える、前向きなエネルギーがあった。

結果としてそれは、外からの移住者だけでなく、地域に暮らす住民側にも効果があるのかもしれない。参加者のひとりである鹿児島の大学生はこう語った。
「今までは、大学を出たら東京や海外で働きたいという気持ちが強かった。でも、移住ドラフトに参加して、面白い大人に出会って、九州で働くのも悪くない、という気持ちになりました」

本プロジェクトは来年以降も継続していく意向だという。次回対象地域についても検討中とのことだ。年々注目度が増し、進化し続けている取り組みだが、永山さんは「課題は山積み」と語る。

「事務局体制の強化、選手コミュニティ盛り上げ、参加地域同士のつながり強化など、まだまだやりたいこと、できていないことはたくさんあります。

地域において、人が採用できず営業停止している民間企業などもたくさんあるのですが、これからはその会社の魅力だけでなく、地域の魅力がきっと大事になってくる。鹿児島って、南九州って、九州って面白いねと言ってもらえるように、より楽しい、わくわくする環境をつくる必要があると思っています」

2020年、さらに進化するであろう本プロジェクトの行方に期待したい。

●取材協力
・南九州移住ドラフト会議

テレワークが変えた暮らし[2]千葉から石川県金沢市へ。移住先で始めた複業で新たな夢に挑戦

近年、テレワーク(リモートワーク)できる企業が増えつつある。ITを活用した場所にとらわれない働き方だが、遠隔で働くことが、自分たちの暮らしにいったいどんな作用をもたらすのだろうか。今回は4年前に千葉県から石川県金沢市の移住をきっかけにテレワークを始めた須田麻佑子さんに経験談とメリット・デメリットを語っていただいた。
子育て環境を求めて社内フルタイム・テレワーカー第1号に

2015年5月に長男を出産。産休を経て、翌年5月には東京都内の職場へ復帰を控えていた須田さんは、家族の住まいと生活について真剣に向き合いはじめる。当時は千葉県津田沼市のマンションに3人暮らし。待機児童問題も我が身に振りかかり、保育園入園のハードルの高さを肌身に感じた。それに加えて夫妻そろって東京都内のオフィスまで通勤時間が1時間近くかかる環境に、子育てと仕事の両立への不安は増すばかりだった。

自然があり教育環境も良く、夫妻の出会ったきっかけの場所でもある石川県金沢市で子育てがしたい。とりあえず長い目でと夫が転職活動を始めてみると、思いのほかトントン拍子で話が進み、移住を検討しはじめて2、3カ月で内定が出た。担っていた業務内容が対面業務だったこともあり、須田さんは復職後の面談で会社に退職の意を申し出た。

自宅近くの犀川。金沢は自然が身近に感じられる環境である(写真撮影/イマデラガク)

自宅近くの犀川。金沢は自然が身近に感じられる環境である(写真撮影/イマデラガク)

金沢移住が決まったのは育休から復帰する二週間前だったが、子育て環境を優先し、須田さんは一度、退職を会社に申し出る(写真撮影/イマデラガク)

金沢移住が決まったのは育休から復帰する二週間前だったが、子育て環境を優先し、須田さんは一度、退職を会社に申し出る(写真撮影/イマデラガク)

職場復帰して半年後の退職が決まった須田さんだったが、日々チーム内にはたくさんの業務があり、そのなかで自分一人分が抜けてしまう……という状況に、居ても立ってもいられなくなり、どうにかこのまま会社を続けるという選択がないかと、自らテレワークの提案をしたところ、「やってみよう!」とマネージャーからも賛同を得ることができ、社内初のフルタイム・テレワーカーとして働くこととなった。

須田さんの所属する「特定非営利活動法人フローレンス」は、待機児童問題など子育てにまつわる社会問題の解決に取り組むNPO団体。組織としての働き方に対しても意識を向けており、須田さんのこれまでの業務や仕事への姿勢を加味したときにテレワークでも業務上支障がないと判断。社内でも特例としてフルタイムのテレワーカーへ移行した。須田さんは本社にて保育者の面接を含むスタッフの採用業務を担っていたが、金沢移住後は面接以外の入社手続き業務や代表の秘書としてスケジュール調整などを兼任することになった。

須田さんのご自宅は、築80年以上の町家をリノベーション。階段下にワークスペースを構えて仕事をしている(写真撮影/イマデラガク)

須田さんのご自宅は、築80年以上の町家をリノベーション。階段下にワークスペースを構えて仕事をしている(写真撮影/イマデラガク)

WEB会議システムを通じてミーティングに参加する須田さん(写真撮影/イマデラガク)

WEB会議システムを通じてミーティングに参加する須田さん(写真撮影/イマデラガク)

仕事の効率が向上し、社内にも良い変化が

「テレワークを経て一番の変化は、仕事にかけられる時間です。通勤時間がないので、家から徒歩5分の保育園に子どもを送り出せば、すぐに仕事が始められます。業務のやり取りもチャットがメインになったので、オフィスだとどうしても発生してしまう電話や会議の時間が減った分、業務効率は上がりました」と話す須田さん。仕事への集中度合いが大きく変化したようだ。

また社内でもテレワーカーの誕生で良い変化がおきた。須田さんの移住をきっかけのひとつにしてどんな場所に居ても働けるよう、組織全体で体制を整えたのだ。社内でも業務に支障が出ないよう、WEB会議システム用のマニュアルを作成したり、スピーカーフォンをそろえたりと、テレワーク環境が急ピッチで整備された。おかげで須田さんもすんなりと業務に取り組むことができたそうだ。

ただ、もともと人と話すことに抵抗のない須田さんが一番感じたデメリットとしては「雑談」がテレワーカーにはないこと。同僚の旅行の思い出話を聞いたり、ふとしたときに話しかける相手がいなかったりするのは寂しく感じるそう。その分、チャットツールで本社にいる社員とやり取りしたり、WEB会議システムを使った飲み会を開催したりなどして、業務外に積極的にコミュニケーションをとっている。

不定期開催のリモート飲み会。WEBを通じてオフタイムの社員同士の会話にも参加。他愛もない会話はここで満喫。須田さんは子育ての近況報告や金沢移住の状況などを話す(写真提供/須田麻佑子さん)

不定期開催のリモート飲み会。WEBを通じてオフタイムの社員同士の会話にも参加。他愛もない会話はここで満喫。須田さんは子育ての近況報告や金沢移住の状況などを話す(写真提供/須田麻佑子さん)

また都会ではなかなかできなかった自然とともに暮らす子育てができるようになり、人との距離が近い地方で一軒家を構えて生活しはじめたことで、自分も家族も、近所との距離感が年々近くなり、心がよりオープンになっていったと満面の笑みで話してくれた。

4歳の息子さんとともに図書館で本棚をつくるワークショップに参加(写真提供/須田麻佑子さんご友人)

4歳の息子さんとともに図書館で本棚をつくるワークショップに参加(写真提供/須田麻佑子さんご友人)

 町内会のイベントの様子。自宅の近所に流れる犀川で消防車の放水体験(写真提供/須田麻佑子さん)

町内会のイベントの様子。自宅の近所に流れる犀川で消防車の放水体験(写真提供/須田麻佑子さん)

地元で仲良くなった家族を招いてホームパーティー。都会だと知り合いも埼玉、千葉、横浜……と点在していてなかなか自宅に招きづらいが、金沢だとエリアが狭いので家族同士での集まりも声をかけやすくなったそう。人づきあいがしやすくなったのも魅力のひとつだと語る(写真提供/須田麻佑子さん)

地元で仲良くなった家族を招いてホームパーティー。都会だと知り合いも埼玉、千葉、横浜……と点在していてなかなか自宅に招きづらいが、金沢だとエリアが狭いので家族同士での集まりも声をかけやすくなったそう。人づきあいがしやすくなったのも魅力のひとつだと語る(写真提供/須田麻佑子さん)

地域とつながりができても、本業を辞めない理由

テレワークとして働くことにより仕事も子育ても充実した須田さんだが、なんと現在は週に1日、金沢で簡易宿所を運営する地元企業でも複業をしている。いわゆるパラレルワーカーだ。

複業として働いている「こみんぐる」のオフィス。ここで地域のイベントも積極的に行っているという(写真撮影/イマデラガク)

複業として働いている「こみんぐる」のオフィス。ここで地域のイベントも積極的に行っているという(写真撮影/イマデラガク)

須田さんは、金沢で簡易宿所を運営する「株式会社こみんぐる」運営メンバーとして、フローレンスでも使用していた管理システムを宿泊予約管理に導入した。これに伴い、スタッフの手間が大幅に軽減されたという。

「地元企業で複業することで、これまでは知り得なかった人脈がどんどん広がっていきました」と、そう熱っぽく話すのにはわけがある。須田さんはもともと地域ぐるみでの暮らし・子育てに興味があり、地域の助け合いによって子育てができるまちづくりをすることが夢だったのだ。フローレンスへの就職もその想いが背景にあった。

そのため、地元に直接関わる会社で働けることもうれしいが、さらに複業をきっかけに福井県の在宅医療のクリニックと縁ができ、医療的ケアが必要な子どもたちとの関わりを持つようになったことは大きな変化だったという。現在は、医療的ケアの必要な子どもたちやその家族が安心して旅行に出かけられるように、医療的ケア児の旅行ガイドラインを作成中だ。テレワークと複業を通じて、さらに新しい挑戦へと駒を進めている。

地元の会社に勤めることで人脈が県を超えて広がり、この地域でやりたいことも見出せた(写真撮影/イマデラガク)

地元の会社に勤めることで人脈が県を超えて広がり、この地域でやりたいことも見出せた(写真撮影/イマデラガク)

地元とのつながりもでき、地域でやりたいことも見つかった須田さんだが、それでも本業を辞めない理由は何故なのか? ふと湧いた疑問に、須田さんはこう答えてくれた。

「もともとフローレンスの仕事が好きだという気持ちもありますが、本業にも複業にもどちらにもいい影響があるからです。フローレンスは東京のNPO団体ですが、北陸でも保育や社会福祉、医療の領域で働く人の間ではフローレンスの認知度は高いと感じています。子育て中であることや、NPO団体で働いているということから、有識者として市から子育てと教育を考える懇話会に呼ばれることもあります。市の子育てや保育の環境について意見を求められることもあり、私自身も良い経験が積めています。こうして金沢で得た人脈や地域の特性を本社に共有することによって、フローレンスのビジョンの達成に貢献できるのでは、と思っています」

なるほど。地域に社員がいれば、支社機能がなくても組織のビジョンや取り組みが広がる場合もあるのだ。

時にはリスクヘッジ対策にも

「これはあくまで個人的な意見ですが、都心が災害に遭ったときのことを考えると、全ての本社機能が1カ所に集中しているのはリスクだと思います。特に都内だとインフラが駄目になると会社機能がストップしてしまうことが考えられます。業種や事業内容にもよりますが、テレワーカーを増やし、業務を分散して一時的でも他地域で経営を回せるようにしておくのは、会社にとってリスクヘッジになるのではないでしょうか。そういった目線でも分散型にしておくのは、これからの時代に必要な働き方になっていくと思います」(須田さん)

会社としても個人としても金沢にいる価値をフローレンスや地元住民の方々にもたらしたいと須田さんは照れ臭そうに笑った(写真撮影/イマデラガク)

会社としても個人としても金沢にいる価値をフローレンスや地元住民の方々にもたらしたいと須田さんは照れ臭そうに笑った(写真撮影/イマデラガク)

働く場所や社員同士が物理的に離れていると、お互いの心理的な面や作業効率などが見えないことが懸念となり、テレワークの導入を踏みとどまっている会社や個人も少なくない。しかし長い目で見れば、視野が広がるきっかけにもなりうる。テレワークは、個人の働き方や暮らし方を変えるだけではなく、新たに拠点とする街に住まう人たちの文化を知り、新たなビジネスにもつなげるチャンスにもなる。須田さんの話を通じて、そんなことを感じた。

思い入れのある犀川にて(写真撮影/イマデラガク)

思い入れのある犀川にて(写真撮影/イマデラガク)

●取材協力
・特定非営利活動法人フローレンス
・株式会社こみんぐる

テレワークが変えた暮らし[1] 理想の子育てと移住が叶った! 東京から山梨県北杜市へ

今年1月から山梨県北杜市への移住とともに、 テレワーク(リモートワーク)を始めた山本さん夫妻。テレワークって実際どう? 暮らしは移住以前と以後ではどう変わった? 経緯や暮らしぶり、今後についてインタビューした。
最初のきっかけは、単純な住み替えのはずだった

現在、山本さん夫妻は、ともに正社員として東京・南青山にある企業(取材当時・現在は本社を宮崎県西都市に移転)に在籍しながら、山梨県北杜市にある自宅の1室をオフィスにしてフルリモートで働いている。
八ヶ岳、南アルプス、富士山に囲まれた自然豊かな環境、満員電車とは無縁な生活、のんびりとした子育て環境。東京生活では得られない生活を、移住と転職で手に入れた形だ。

2歳になったばかりの息子と。「山々に囲まれた環境は東京では得られなかったものです」(写真撮影/相馬ミナ)

2歳になったばかりの息子と。「山々に囲まれた環境は東京では得られなかったものです」(写真撮影/相馬ミナ)

そもそも移住を考えたきっかけは?
「最初はよくある部屋探しだったんですよね」と山本さん夫妻。1歳の息子が歩き始め、夫婦ふたりで暮らすための40平米の1Kでは手狭に。「もっと広いところに引越さなきゃね、という話になり、通勤は30分以内で、駅からは徒歩圏で、家賃は9万円前後で……と検索するわけです。でも、決断できるほど、希望に合う物件はありませんでした」(妻)。

部屋探しは長期化。「そんななか、『そもそもどうして東京で家を探しているんだっけ』って。『仕事がそこにあるから? じゃあ、仕事さえどうにかなったら、住む場所ってもっと自由になるんじゃない?』という話になったんです」(夫)。
そこで、考えたのが「移住」という選択だ。
もともとキャンプなどのアウトドアが好きで、休日には東京を離れていたふたり。「いつか田舎暮らししてみたいなぁ、移住もアリかもな~と漠然と思っていたんです。でも、それって、別に“いつか”じゃなくて、“今”でもいいんじゃないかなって思えました」(夫)。さらに、「当時、まだ子どもが1歳で、小学校入学前の転校うんぬんの話にならない今って、実は絶好のタイミングじゃないかと考えたんです」(妻)と、移住が現実味を帯びることに。

山梨県北杜市の「保育園が近くの賃貸住宅」と出会う

そこで候補に挙がったのが、移住者に人気の街として知られる「山梨県北杜市」。東京から車で2時間程度と近いこと、自治体が移住者を積極的に誘致していること、アウトドアのスポットが豊富なことに惹かれた。
「とりあえず、一回行ってみよう」と日帰りで北杜市に。twitterや検索サイトで見つけた、実際の移住者や、別荘地専門の不動産会社などにアポを取り、話を伺うことに。さらに、市役所内にある移住者定住相談窓口に電話もしてみた。
そして見つけたのが、保育園の近くにある賃貸住宅。偶然にも趣味のキャンプで訪れたことのある キャンプ地の裏手という縁も感じて、申し込むことに。
「このあたりは待機児童もなく、保活が不要な点も魅力でした」(妻)。
運よく入居審査が通り、契約に。「移住といえばハードルが高いと思っていましたが、“あ、東京都内の引越しとさほど変わらないんだな”と、不思議な感覚になりました」(妻)。

住まいは75平米の3LDK。トランクルームと駐車場付きで家賃4万8000円と、東京では考えられない安さ。グレーのアクセントウォールはもともとの仕様でオシャレ(写真撮影/相馬ミナ)

住まいは75平米の3LDK。トランクルームと駐車場付きで家賃4万8000円と、東京では考えられない安さ。グレーのアクセントウォールはもともとの仕様でオシャレ(写真撮影/相馬ミナ)

バルコニーからの眺めも緑にあふれている。ハンモックを置き、のんびりとくつろぐことも(写真撮影/相馬ミナ)

バルコニーからの眺めも緑にあふれている。ハンモックを置き、のんびりとくつろぐことも(写真撮影/相馬ミナ)

仕事をどうするか――一番大きなハードルを転職で打破

ただし、移住の前に、一番大きなハードルがある。「仕事をどうするか」だ。
まずは、お互い、当時勤めていた会社に相談してみた。テレワーク(リモートワーク)は制度としてないものの、ネットを通じた仕事が多いため、交渉の余地があるのでは、と考えていたからだ。
その結果、マーケティング職である夫は、週に1回出社の条件付きテレワークが可能だったが、人事職であった妻は、扱う情報がデリケートなため、テレワークは困難という結論に。
「何度も話し合いの場を設けてくださり、 業務委託でライターになるという選択肢もありました。ただ、今までの経験を活かせることと、安定を重視した正社員という形態にこだわりたく、退職することにしました」(妻)。
そんななか、Twitterでたまたま見つけたのが、「リモートワークを当たり前にする」というミッションを掲げ、働くメンバーのほとんどがテレワーカーという企業「キャスター」。 秘書、人事、経理、web運用に関するさまざまな業務をリモートで働くアシスタントに依頼できるサービスを提供している会社ゆえに、リモートが大前提の会社だ。「転職活動も独特で、面接もオンラインで受けました」(妻)。
一方、夫は普段は自宅で仕事をしながら、週に1回、朝6時の高速バスで東京へ通う生活を5カ月間続け、その後、妻の勤める企業に転職。100%テレワークとなった。
テレワークによって、家賃だけでなく、生活コストが格段に下がったことは大きなメリットだった。「東京にいたころは、週末ごとに2時間かけて郊外やアウトドアに遊びに行っていたので、その娯楽費がまず減りました。平日の外出もほぼ無くなり、洋服代やランチの外食費、飲み会代もなくなりました」(夫)。

車ですぐのキャンプ場PICA八ヶ岳明野へ友人たちと (写真提供/夫)

車ですぐのキャンプ場PICA八ヶ岳明野へ友人たちと (写真提供/夫)

移住によって、時間もコストも気持ちも余裕が生まれる

山本さん夫妻の現在の一日の過ごし方を教えてもらった。
夫は8時半~17時半、妻は8時~17時が勤務時間。2歳の息子を保育園へ、朝は夫が見送り、夕方のお迎えは妻が担当だ。
「通勤時間はゼロ。保育園もすぐ近くなので、時間に追われることがなくなりました。東京にいたころは時短勤務で16時半に会社は出るものの、通勤に1時間、保育園にお迎えに行って、家に帰って、夕食をつくって、食べさせて、お風呂に入れてと、毎日大変でした。夫も協力的でしたが、やはり帰ってくるのは20時ごろ。お迎えからのルーティンは1人だったので、いつも疲れていましたね」(妻)。
今は、時短勤務ではなく、フルタイムのテレワークに。それでも夕方18時には家族みんなで夕食をすませ、近所の温泉に出かけることもできる。突然の子どもの発熱も、夫婦で協力しあいながら看病できる。

暖房効率を考え、1部屋を夫婦共有の仕事部屋に。デスク、イス、PCモニターはテレワーク開始とともに購入したもの(写真撮影/相馬ミナ)

暖房効率を考え、1部屋を夫婦共有の仕事部屋に。デスク、イス、PCモニターはテレワーク開始とともに購入したもの(写真撮影/相馬ミナ)

テレワークはフリーランスと社員のイイトコ取り

同じ会社に在籍はしているが、職種やクライアントがそれぞれ異なるため、夫婦で会話することは少ない。自宅だが、仕事部屋を1室別に設けることで、自然と仕事モードに。「テレワーク=楽と思われるかもしれませんが、それは間違い。いわゆるプロセスが評価されることがなく、“何をやったか”という結果が重視されます。そういう意味では意外とシビア。フリーランスで働くのと同じかもしれません」(夫)。
ちなみにテレワークを推進する企業だけあって、「会わない」ことが大前提。毎日1度はある会議もWeb上で行う。「南青山のオフィスに行くことはないし、同僚はいますが、いわゆる職場の人間関係のストレスはありません。物足りない人もいるかもしれないけど、決して関係性が希薄なわけではないし、職場とは別のリアルなコミュニティもあるので十分です」(夫)。
さらに、オンとオフの切り替えを明確にするため、「18時以降は連絡してはダメ」というルールにしてある。申請すれば残業も可能だ。「ただ、残業をしなくても終えられる仕事量に調整してくれていると思います。こうした対応はフリーランスでは難しいとは思うので、“社員”としての業務形態にこだわったのは正解だったと思います」(夫)。

テレワークで新たに購入したのはコーヒーメーカー。仕事中の息抜きのための必需品となった(写真撮影/相馬ミナ)

テレワークで新たに購入したのはコーヒーメーカー。仕事中の息抜きのための必需品となった(写真撮影/相馬ミナ)

移住×テレワークは現在の自分の選択に過ぎないのかも

移住して良かったですか? と尋ねると、「もちろん。メリットしかないです」と答えたお二人。とはいうものの、当初は不安もあったそう。
例えば友人。それまでの東京での人間関係をゼロにすることに戸惑いがあったのも事実だ。「けれど、意外にも、私たちが田舎暮らしを始めたことで、それがきっかけで友人たちと遊ぶ機会が増えた気がします。離れていても会う人は会うし、近くに住んでいても縁が切れてしまう人もいる。それに、この北杜市は移住者が多く、似たような価値観の方が多いため、同じ年ごろの子どもをもつご近所さんなど、新たな友人が増えました」(妻)。

東京から遊びに来た友人たちと清里テラスへ。「私たちの友人らが来ると、いろんな観光地を訪れるきっかけにもなります」(妻、写真提供も)

東京から遊びに来た友人たちと清里テラスへ。「私たちの友人らが来ると、いろんな観光地を訪れるきっかけにもなります」(妻、写真提供も)

ただし、将来のことは未知数だというお二人。「もしかしたら、息子のよりよい教育環境を求めて、違う場所に暮らすかもしれないし、逆に、田舎ならではの仕事を始めるかもしれない。先のことは分かりません」(妻)というように、田舎暮らしもテレワークも、永続的な決断ではないそう。「ただ、いずれは田舎暮らしをしてみたかったし、子どもが小学生になって身動きが取れなくなったころに”あのとき移住してみればよかった”と後悔したくなかったんです。だから、”田舎暮らししてみたいけど、ハードルが高い”と尻込みしている人には、”案外、簡単だよ。単に引越しと変わらないよ”と言いたいですね。仕事は一番大きなハードルだけど、今後社会が変わっていくはず、変わっていってほしいと思っています」(夫)

四季の移り変わり、自然の不思議な力を目の当たりにする環境に魅了されているとか。「今の会社は副業OKなので、いつか地元のためになるような仕事にもチャレンジしたいです」(妻) (写真撮影/相馬ミナ)

四季の移り変わり、自然の不思議な力を目の当たりにする環境に魅了されているとか。「今の会社は副業OKなので、いつか地元のためになるような仕事にもチャレンジしたいです」(妻) (写真撮影/相馬ミナ)

●取材協力
山本さん夫妻
・夫のツイッター

デュアルライフ・二拠点生活[22] 東京と長野県松本市。温泉街の一軒家を家族でセルフリノベ

向井さんは、平日は東京で仕事をし、週末は妻と息子が住む長野県松本市にある浅間温泉で築50年の家をリノベしながら過ごすという、二拠点生活を送っている。その暮らしぶり、二拠点生活を始めた経緯や、始めてからの変化を聞いた。連載【デュアルライフ(二拠点生活)レポート】
これまで、豪華な別荘が持てる富裕層や、時間に余裕があるリタイヤ組が楽しむものだというイメージがあったデュアルライフ(二拠点生活)。最近は、空き家やシェアハウスなどのサービスをうまく活用することで、さまざまな世代がデュアルライフを楽しみ始めているようです。SUUMOでは二つ目の拠点で見つけた暮らしや、新しい価値観を楽しむ人たちを「デュアラー(二拠点居住者)」と名付け、その暮らしをシリーズで紹介していきます。「古い家を改装したい」という夢を実現

JR新宿駅から特急あずさで2時間半。長野県のほぼ中央に位置する松本市は、旧城下町らしい歴史的建造物が残る街並みが特徴だ。夏は過ごしやすいものの、冬は氷点下まで下がる厳しい気候だが、古くから温泉街も多く、とりわけ「浅間温泉」は1000年も続く歴史ある温泉街だ。

1000年の歴史を感じさせる浅間温泉の街並み(写真撮影/高木真)

1000年の歴史を感じさせる浅間温泉の街並み(写真撮影/高木真)

向井家の庭先には、干し柿や玉ねぎを保存。生活を大切にしている様子がうかがえる(写真撮影/高木真)

向井家の庭先には、干し柿や玉ねぎを保存。生活を大切にしている様子がうかがえる(写真撮影/高木真)

今から6年前、3年間の中国・大連での駐在生活を終え、日本に帰国した向井さん一家。帰国後に改めて拠点を考えたとき、もともとアウトドアが大好きな家族にとって「東京」は、それほど魅力的に映らなかったのだという。

「住みたい場所に住めばいい」と考え、スキーやキャンプで何度も訪れたことのある信州・松本が自然と候補に挙がったのだという。

信州は、温泉あり、山あり、観光地としても人気のあるエリアなので、東京に住む家族や友人たちが、喜んで足を運んでくれる。またネットショッピングを使えば、買い物にも不便を感じることはない。最近ではおしゃれなカフェやベーカリーも多くできているのだとか。さらに関西出身の向井さんと、東京に実家がある妻・Sさんにとっても、信州は便のよい場所だった。

2年ほど賃貸で生活した後、定住を考えたときに出合ったのが、この築50年の一軒家だった。「ワクワク感を、この家を見たときに感じた」とはSさんの言葉だ。

街角には、温泉水を飲めるスポットが存在する(写真撮影/高木真)

街角には、温泉水を飲めるスポットが存在する(写真撮影/高木真)

広い軒先は、庭と家のつなぎ役として、とても重宝しているそう(写真撮影/高木真)

広い軒先は、庭と家のつなぎ役として、とても重宝しているそう(写真撮影/高木真)

浅間温泉は、松本駅から約4km、車で20分ほどと便がよく、向井さんの家は100坪の土地に40坪ほどの大きさの家が建っている。家も、広すぎず狭すぎずちょうどいい大きさだった。こうして、立地ありきで中古物件を手に入れることになった。

大工だった祖父と、建築関係の仕事をしていた父をもつSさんにとって、古い家を改装して住むというのは昔からの夢だった。その夢を実現するチャンスを、この家を見たときに感じたのだそうだ。なお当時2年近く売りに出されていたにもかかわらず、買い手が付かなかったこの家は、向井さん一家が購入しなければ、2週間後に取り壊しになる運命だったとか。

この家の中心的存在である広いリビングダイニング(写真撮影/高木真)

この家の中心的存在である広いリビングダイニング(写真撮影/高木真)

閃きを実現するセルフリノベ

こうして、実際に購入した家をDIYでセルフリノベーションして住むことにした向井さん一家。夫妻と、当時小学2年生だった息子の3人に加え、Sさんの父に助けを借り、一気にリノベーションを始めたのが今から4年ほど前。

「こんな風にしたいけれど、どうしたらいいだろうか、と考えているうちに、パッとひらめくのです」と話すSさん。向井さんは週末しか松本にいない。そのため、平日はSさんが1人でできる作業だけ進め、週末に家族で大きな作業を行うサイクルが出来上がっていった。

「家づくりのプロが“普通に”考えたらやらないようなことに挑戦してきた」と話す一家。例えば息子の“砦”となっている2階のロフトは、あえて天井を壊し、客間の天井を20cm下げてつくり出したスペース。また、信州らしさが感じられる「漆喰」を取り入れるため、夜な夜なネットで研究した妻は、あちこちから必要な材料を集め、実際に漆喰の壁を見事につくりあげてしまった。

2階の中央の部屋は、押入れをなくして、息子の秘密基地につながる階段を設置(写真撮影/高木真)

2階の中央の部屋は、押入れをなくして、息子の秘密基地につながる階段を設置(写真撮影/高木真)

息子の砦となっているロフト部分は、8畳の客間と同じ広さのスペース(写真撮影/高木真)

息子の砦となっているロフト部分は、8畳の客間と同じ広さのスペース(写真撮影/高木真)

毎日がアウトドア

ところで向井家にはエアコンも暖房もない。あるのは薪ストーブと、客間に用意のある電気ストーブ1つ。冬の寒さには、この家の顔といってもいいこの「薪ストーブ」が活躍する。この薪ストーブのある生活が、一軒家を購入するきっかけになった最大の理由でもある。

この家の顔といえる信州発エイトノットの薪ストーブ(写真撮影/高木真)

この家の顔といえる信州発エイトノットの薪ストーブ(写真撮影/高木真)

薪ストーブのオーブンを利用してつくるメニューの定番はピザ(写真提供/向井さん)

薪ストーブのオーブンを利用してつくるメニューの定番はピザ(写真提供/向井さん)

まるで釜で焼いたような美味しさとのこと(写真提供/向井さん)

まるで釜で焼いたような美味しさとのこと(写真提供/向井さん)

「薪ストーブの生活は、すごく労働が求められる。毎年2~11月の間に、薪となる木材を求めてりんご園などへ出かけています。手伝いをした対価として、いらなくなった木をもらってくるんです」と話す向井さん。こうして集めた木材を、切断して庭の棚で乾燥させておき、冬の間、薪としてストーブに使うという。

すっかり薪割りの名人(写真撮影/高木真)

すっかり薪割りの名人(写真撮影/高木真)

2月から11月の間に、薪ストーブ用の薪を調達し冬に備える向井一家。これだけの薪が、ひと冬でなくなってしまうのだそう(写真撮影/高木真)

2月から11月の間に、薪ストーブ用の薪を調達し冬に備える向井一家。これだけの薪が、ひと冬でなくなってしまうのだそう(写真撮影/高木真)

またリビングの天井の角に通気口を開けたことで、2階にも薪ストーブの暖が伝わる仕組みになっている。これで寒い冬も薪ストーブの柔らかい暖かさが、家中に伝わる。「それでも密閉度が低いので、寒いときは寒いです」と笑う。そんなときは、暖かい温泉に浸かりに行けばいい。

1階の暖かいな空気は、この通気口を通して2階に渡る(写真撮影/高木真)

1階の暖かいな空気は、この通気口を通して2階に渡る(写真撮影/高木真)

「薪の火つけや火加減は息子の仕事」と話す向井さん。リノベ作業でも大活躍した息子は、家づくりから、日々の家のメンテナンスまで、積極的に自分の住む家とかかわっている。

今や薪ストーブの名人となった息子(写真撮影/高木真)

今や薪ストーブの名人となった息子(写真撮影/高木真)

「毎日がアウトドアみたいな生活なので、むしろアウトドアに出かける機会は減りました」とのこと。その代わり、引越しをしてから近所に住むアルピニストや山小屋のオーナーなどの登山にかかわる人と多く知り合い、家族で「登山」を楽しむようになったのだとか。

「入居したころは、周りの家の家主は、80代のおじいちゃんやおばあちゃんばかりでした。でも代替わりしてきて、東京から長野へ戻ってきた家族がいたり、市内から移り住んだ家族がいたり、息子の同級生も増えてきた。いろいろな世代が混ざっているこの街の雰囲気はとてもいいです」と向井さん。

ご近所付き合いも親密で、庭先で一緒にバーベキューを楽しんだり、息子は、近くのお寺でサッカーや野球、バドミントンなどをするようになったのだとか。最近では、近くに借りた小さな田んぼでもち米をつくり、年末には地域の人たちと餅つきを楽しむこともあるという。

家の近くに借りた畑では、もち米を育てている(写真提供/向井さん)

家の近くに借りた畑では、もち米を育てている(写真提供/向井さん)

中古物件の良さは、自由度が高いこと

「中古の家なので、気兼ねなく手を入れて変えられる」と話すSさん。大人3人と子ども1人だけで、梁を付け替え、壁を壊し、床を張り替えるといった作業を全てこなした向井さん家族にとって、引越してきた当初から2年間は、週末のほとんどをDIYに費やしたのだそうだ。プロの手は最低限しか借りず、家族だけで取り組んだプロジェクトゆえに、今ではすっかり愛着ある家が出来上がったという。

客間の上には息子の秘密基地が。天井を20cmほど下げてロフトスペースをつくった(写真撮影/高木真)

客間の上には息子の秘密基地が。天井を20cmほど下げてロフトスペースをつくった(写真撮影/高木真)

「まだ完成まで7割ほど」という向井邸。今は屋根瓦を塗り替えているところだという。今後は、中学生になる息子のための小屋を、庭先につくるつもりなのだとか。「どんな部屋にするか、今家族で相談しているところ」と向井さんはうれしそうに話す。

「日々の生活を大事にして生きているので、正直先のことを考えてはいません。松本の生活は、“別荘”で生活しているみたいな感覚なので、将来東京に戻りたくなったら東京に戻ればいいし、子どもの学校などで移動することになったら移動したらいい、そんな風に考えています」とはSさんの言葉だ。

住みたいところに住む「マルチハビテーション」を体現している向井家からは、日々の生活を大切にしながら、住む家のために、自分たちで考え、手を動かし、守っていることが伝わってくる。家族にとって心地いい場所が何なのか、探りながら行うリノベ作業が、家族の形をつくる上で、とても大切な時と場所なのだ。「“くたボロ”まで作業しても、かけ流しの温泉に入れるだけで生き返る」と話す向井さん。毎週末は温泉で英気を養い、平日は東京での仕事に精を出す二拠点生活は続く。

浅間温泉の街並みが見渡せるサンルームは、ゆったりとした時が流れる(写真撮影/高木真)

浅間温泉の街並みが見渡せるサンルームは、ゆったりとした時が流れる(写真撮影/高木真)

DIYセルフリノベについて書いたSさんのブログ

島でのリモートワークってどう?「ITアイランド」奄美大島と姫島に聞いてみた

ここ数年で「働き方改革」という言葉が浸透し、今後もリモートワークを導入する企業は増加する見込みだという。今は仕事によってはインターネットや移動手段・時間が確保できればどこでも仕事できる時代。Uターン・Iターン・移住・二拠点生活など、さまざまな形で仕事・生活の拠点を都市部から地方へ変更・検討している人もいるのでは。その中でも、交通面・仕事における環境面などでハードルが高いと思われているのが離島だろう。
しかし、現在はそんな離島でこそ、自治体を挙げて環境整備・リモートワークを推進しているところも多いようだ。今回は鹿児島県奄美大島と大分県姫島の話を聞いてみた。

鹿児島・奄美大島が目指すのは「フリーランスが最も働きやすい島」

東京から飛行機で2時間10分。鹿児島の南に位置する人口約6万1000人の島・奄美大島は、日本全国の離島の中でも3番目に大きな島。温暖な気候で、美しい海や原生林などを持つことから、観光地としても人気の島だ。

(写真提供/奄美市)

(写真提供/奄美市)

奄美市では、「2020年までに200名の フリーランスを育成すること、50名以上のフリーランス移住者を呼ぶこと」を目標に、2015年より「フリーランスが最も働きやすい島化計画」を推進。ランサーズ、GMOペパボ、Schoo、PIXTAなどの企業とも協業している。
「奄美大島に位置する奄美市は経済・産業のマーケットの規模は小さく、都会の巨大なマーケットまでは物理的な距離があるといった地理的不利性があります。その不利性を克服する産業として、情報通信産業の振興を重点分野に位置づけ、各施策に取り組んでいます。技術力をもったU・Iターン者が年々増えていることから、元々の住民も含めクラウドソーシングで都会の仕事をできる環境を整備する必要があると考えたためです」(奄美市商工観光部商工情報課 森永さん)

フリーランスの移住者を呼ぶための施策も積極的に行っている。
市内のインターネット環境の整備はもちろん、住民のフリーランス育成を推進するための奄美市オリジナルの教育プログラム「フリーランス寺子屋」などのイベント開催、住宅などの移住支援やコワーキングスペースの提供など、「フリーランスが最も働きやすい島」にするために必要な支援を、島のフリーランサーとともに検討・実行しているという。

イベント「2018観光フォトライター講座」の様子(写真提供/奄美市)

イベント「2018観光フォトライター講座」の様子(写真提供/奄美市)

奄美大島でドローン撮影・写真撮影・映像撮影・Webライター・予備校スタッフなどを行う田中良洋さんも、2017年に移住したフリーランサーだ。移住前も東京・大阪でフリーランスとして活動していたが、病気をきっかけに移住を考えはじめたという。

田中良洋さん(写真提供/田中良洋さん)

田中良洋さん(写真提供/田中良洋さん)

「ずっと都会で事業をしていましたが、体調を崩し、目の病気になりました。幸い完治はしましたが、スマホを見るのも太陽を見るのもつらく、寝てばかりの生活の中で『本当は何がしたいんだろう?』と思い悩んでいました。そのときふと浮かんだのが『島に住みたい』ということ。観光で与論島に行ったことはあり、もう一度行きたいと思っていたところ、たまたまネットで島おこしインターンシップというプログラムを見つけて参加。1カ月半与論島で生活しました。実際にやってみて、島の生活の魅力を改めて感じると同時に、奄美群島が面白いと感じました。その後、群島のいろんな地域を調べる中で奄美市はフリーランスの支援を行っていることを知ったのと、奄美市での予備校の仕事が見つかったのでここを選びました」

移住してまず心配なのが、家のことや今後の仕事のこと。田中さんは自治体の施策を利用し、コミュニティへの参加・事業の育成を行っている。
「家がなかなか見つからなかったり、生活費や家賃が思っていた以上にかかるのでどうやって仕事を広げていこうか不安はありました。けれど、奄美市が提供している『フリーランス寺子屋』という講座に参加し、フリーランスの知り合いができたり人づてに仕事をいただいたりして、不安は徐々に解消されていきました。現在もホームページ制作をしているフリーランスの人とよく一緒に仕事をさせてもらっています。仕事の打ち合わせをしたり、一緒に飲みに行ったり遊びに行ったりして情報交換をしています」

それでは、実際に移住して仕事や生活はどのように変わったのだろうか。
「もともといろいろなことをやりたがる性格だったので、島での働き方は合っていたと思います。都会では、ひとつの分野に絞って専門性を高めていかないといけないと思っていましたが、島では幅広くさまざまな仕事が求められます。驚きや不安もありますが、機会があることはありがたいですよね。ドローンでの撮影・素材映像の提供をしていますので、奄美ではどこを撮影しても絵になるのもメリットです。仕事で疲れたときや煮詰まったときに、すぐに海の見えるところでリフレッシュできるのはとてもいいと感じています。

ヒカゲヘゴ(写真提供/奄美市)

ヒカゲヘゴ(写真提供/奄美市)

笠利サトウキビ畑(写真提供/奄美市)

笠利サトウキビ畑(写真提供/奄美市)

生活面では、奄美市は思っていた以上に便利なので、普段の生活は大きく変わっていません。満員電車に乗らずにすむようになったことや、飲み会に無理矢理参加しなくてよくなったことは精神衛生上よかったと思います。休日の過ごし方は大きく変わりました。奄美大島の自然の中で遊べるので、今まで考えられなかった経験ができています。休日は友人の船に乗り、海に行ってマリンレジャーをしています」

大分県・姫島は2018年から本格化!「姫島ITアイランド構想」姫島(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

姫島(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

今年より新たな動きを見せる離島がこちら。
大分県北部。温暖な気候の瀬戸内海に浮かぶ人口約2000人の島・姫島。水産業が主要産業のこの島で、2018年1月から「姫島ITアイランド構想」が本格化した。水産業の低迷、若い世代を中心に村外への人口流出などによる人口減少が進む中での雇用創出、離島を舞台にした新しい雇用の形を創り地元の活力を高めたいという自治体の想いから生まれたプロジェクトだ。

お試しリモートワークの様子(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

お試しリモートワークの様子(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

この「ITアイランド構想」には、ふたつの取り組みがある。
ひとつは、IT企業や人材を呼び込むことで「離島×IT」の可能性を広げる取り組み。旧校舎を活用し、企業が入居できるオフィスやコワーキングスペースを設置した「姫島ITアイランドセンター」を整備。すでに2社が姫島にサテライトオフィスを設置し、稼働しているという。もちろん、都心と変わらない通信環境も整備済だ。始まったばかりのプロジェクトでフリーランサーの移住者はまだいないそうだが、「住居探しのサポートや広報活動も本格化していきたい」と姫島ITアイランド運営事務局の担当者は話す。

姫島ITアイランドセンター(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

姫島ITアイランドセンター(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

ふたつめは、未来のIT人材の育成・創出・定着を目指す取り組み。学生を対象としたプログラミング教室や住民のITに対する関心を高めるためのIT落語寄席などのイベントを開催したり、電気自動車を活用したカーシェアリングシステムや村営フェリーの運航状況通知システムを構築したりと、さまざまな取り組みを実際に行っている。

ITアイランドセミナーの様子(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

ITアイランドセミナーの様子(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

離島での暮らしは、生活にもうるおいが生まれそうだ。通勤時間のストレスはもちろんなし。島内には保育所(待機児童数ゼロ!)・幼稚園・小学校・中学校や病院はもちろんある。治安もいいので、家族での移住も安心だろう。海や山などの自然が近く、海産物や野菜なども豊富。平日は通勤ラッシュもなく夜遅くまで仕事をする文化もない。休日は海、キャンプ、温泉など、自然の恵みをふんだんに受けた暮らしができそうだ。

姫島のビーチ(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

姫島のビーチ(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

ジオクルーズの様子(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

ジオクルーズの様子(写真提供/姫島ITアイランド運営事務局)

離島でのリモートワークは、もちろん利便性の面では都市部のほうが上かもしれない。けれど、豊かな自然の残る島だからこそ得られることも多いだろう。ライフスタイルや目指すもの・求めるものによっては、離島への移住・二拠点生活は最良の選択肢になるかもしれない。場所によってはお試し体験を実施しているところもあるので、気になる人はチェックしてみては。

●取材協力
>奄美市「フリーランスが最も働きやすい島化計画」公式サイト
>ゆったり×最先端リモートワークのすすめ「姫島ITアイランド」

ローカルで長屋暮らし。福岡県八女市で賃貸住宅「里山ながや・星野川」を選んだ人たちに起きたこと

福岡の山どころとも呼ばれる八女市。お茶の産地として有名だが、特によい茶葉が取れるエリアとして人気の高い上陽町に2018年7月に誕生したのが、この賃貸住宅「里山ながや・星野川」だ。自然あふれるローカルエリアに突如できた長屋にどのような人たちが移り住み、生活しているのだろうか。現地の暮らしぶりをリサーチしてきた。
民間企業が運営。移住前のお試し居住として、長屋の暮らしを提供

上陽町久木原は近隣にスーパーなど日用品をそろえる施設がなく、八女の市街地からも車で20分と、ローカル中のローカル、という声が地元でもちらほら聞こえるエリアだ。

もともと小学校跡地のグラウンドを民間会社が土地を借り利活用、建築設計事務所アトリエ・ワンの塚本由晴氏が設計を手掛けている。施工は地元の若手大工が行い、全8戸がつながった長屋様式の建物は、ほぼ全てが八女産の木材を使用して造られている。

この場所に賃貸の長屋を構えることを決めたのは、この住宅の管理会社でもある八女里山賃貸株式会社。自然資源の活用と、無理のない移住生活へのステップを創出しようという想いから、あえてこの田舎で長屋建築を計画実行した。

地域おこし協力隊で八女移住。夢を形にする助走期間として住まう山内淳平さん(28歳)は、福岡県小郡市出身。新卒で大手家電メーカーに就職後、2018年9月から八女の地域おこし協力隊に就任。地元企業のIT指導や広報支援を行う(写真撮影/加藤淳史)

山内淳平さん(28歳)は、福岡県小郡市出身。新卒で大手家電メーカーに就職後、2018年9月から八女の地域おこし協力隊に就任。地元企業のIT指導や広報支援を行う(写真撮影/加藤淳史)

まずお話をお聞きしたのは、会社員時代は営業職を担当していたという山内淳平さん。東京、大阪、福岡と転勤を繰り返すなかで、今はローカルが時代の最先端だと感じ、地域おこし協力隊の求人を一年かけて探したという。全国的にも珍しい、商工会に配属されるという募集要項を見て、八女への移住を決めた。「この建物はSNSで見て一目惚れ。地域資源を使って地元の若手大工がつくったというコンセプトもとても良くて、絶対ここに住もうと思っていました」と、協力隊就任とともに入居を開始した。大学時代を含めると、ひとり暮らしは4拠点目になるが、今が最も心にゆとりがあるという。

部屋はメゾネットタイプの2階建て。天井、柱、家具、格子などは全て八女杉を使用。1階は土間空間で、ひんやりと涼しい空気が流れる。写真はモデルルーム。どの部屋も同じ間取りとなる(写真撮影/加藤淳史)

部屋はメゾネットタイプの2階建て。天井、柱、家具、格子などは全て八女杉を使用。1階は土間空間で、ひんやりと涼しい空気が流れる。写真はモデルルーム。どの部屋も同じ間取りとなる(写真撮影/加藤淳史)

同じく八女杉を使ったキッチン。通常、八女杉を素材に使ったキッチンはほぼないそう。木の良い香りが漂う(写真撮影/加藤淳史)

同じく八女杉を使ったキッチン。通常、八女杉を素材に使ったキッチンはほぼないそう。木の良い香りが漂う(写真撮影/加藤淳史)

キッチン裏は浴室とトイレ、ランドリースペースと水まわりが1カ所にまとめられている。小屋の先には元ランチルームがあり、それが程よい目隠しに。日光が差し込んで開放感あふれる空間が広がる(写真撮影/加藤淳史)

キッチン裏は浴室とトイレ、ランドリースペースと水まわりが1カ所にまとめられている。小屋の先には元ランチルームがあり、それが程よい目隠しに。日光が差し込んで開放感あふれる空間が広がる(写真撮影/加藤淳史)

「室内は木材がいっぱいで、玄関をくぐるたびにふわっと森林の香りがします。朝には鳥のさえずりが聴こえます。星野川は星が綺麗な地域なので、空を見上げると満天の星空が望めますし、目の前にある清流の音も心地いい。空間や家具に木が使われていることでおだやかな気持ちになり、料理や入浴の時間とかも、ひとつひとつを丁寧に過ごせるようになりましたね」と話すように、飲み会の多かった会社員時代と比べて自宅でゆっくりと過ごす時間が増えたそうだ。

当初は、八女でなくてもどこでも構わないと思っていたが、至るところに野菜の直売所があり、どれを食しても美味しいことや、長屋暮らしを通じて隣人や地元の人たちとも程よい交流ができたおかげで、暮らしを通じて、この土地に住む人のあたたかさや生活環境の良さが分かってきた山内さん。特に八女の星空と山の景色に魅せられ、地域おこし協力隊の任期を終えたあとは、この地形を活かし体験型のアクティビティをメインにした事業を起こそうと計画中だ。

「地域を盛り上げることを目標とするより、八女にいる自分がどう幸せになれるかを考えた方が地域にとって良くなりそうな気がするんです」と語る。自分の生活像も将来のことも八女に来た当初はぼんやりとしか持っていなかったが、自分の環境を変えたことで少しずつ考えがクリアになってきたそうだ。

「自身のステップの場としてこの環境があることに満足しています」と最後、爽やかに答えていただいた。

「長屋暮らしだからか周囲に人がいなくて寂しいと感じたことはないです。地域の方とは年に数回、近くの公民館で親睦会を開いてお酒を飲みながら交流するのが楽しいです」(写真撮影/加藤淳史)

「長屋暮らしだからか周囲に人がいなくて寂しいと感じたことはないです。地域の方とは年に数回、近くの公民館で親睦会を開いてお酒を飲みながら交流するのが楽しいです」(写真撮影/加藤淳史)

夫婦生活のはじまりの場として。職場は変わらずとも気持ちに変化が桜木愼也・有希子さんご夫妻。お互い理学療法士で、同じ病院に就職したことがきっかけで知り合い、昨年結婚。初めての同居生活をこの里山賃貸でスタートさせた。仕事は結婚後も継続中(写真撮影/加藤淳史)

桜木愼也・有希子さんご夫妻。お互い理学療法士で、同じ病院に就職したことがきっかけで知り合い、昨年結婚。初めての同居生活をこの里山賃貸でスタートさせた。仕事は結婚後も継続中(写真撮影/加藤淳史)

次にお話を聞いたのは、里山賃貸住宅の利用者第一号となった桜木愼也・有希子さんご夫妻。「八女のロマン」という地元の移住ポータルサイトを見て竣工式から完成まで何度も足を運び、入居開始と同時に二人暮らしを始めた。
お互いアウトドア好き、また、夫が柳川、妻が筑後から職場のある八女の中心街まで通っていたということもあり、もともと3,40分の通勤時間が発生していたことから、星野川から勤務地まで車で20分という距離もさほど気にならず、それよりも自然に囲まれた環境が良いということで、長屋生活を選んだ。

「最初は、キャンプのコテージに泊まっているような気分でしたね。春は家の窓から桜並木を眺めたり、夏は目の前にある川に足を浸して涼んだり、冬はストーブで暖をとったりと、四季を生活のなかで楽しんでいます」

そう話す愼也さんは、この物件に移り住んでからドライフラワーの制作に目覚めて、趣味でつくった花々を壁に吊るして飾っている。

ドライフラワーは愼也さんの趣味。「いつの間にか始めてましたね」とコメント。中には結婚式のブーケで使った花もあるそう(写真撮影/加藤淳史)

ドライフラワーは愼也さんの趣味。「いつの間にか始めてましたね」とコメント。中には結婚式のブーケで使った花もあるそう(写真撮影/加藤淳史)

日用品などの買い物については市街地の病院で働いていることもあり、仕事帰りに済ませているので田舎暮らしに不便は感じていない。むしろ、周囲に店が少ないことで、なるべく自宅にあるもので済ませるうちに、物を買うことへの意識が変わってきたとのこと。ひとつひとつを吟味して買うようになったので、無駄遣いがなくなり貯金ができるようになったそうだ。また、家庭菜園を始めたことで、病院に来るおじいちゃん、おばあちゃんと肥料の種類など、野菜の栽培についての話が盛り上がるようにったという。

「接客業という仕事柄、ストレスを溜めることもあります。しかし、夫への悩み相談は通勤中にするようになったので、家に帰ると自然とスイッチが切り替わって、全く仕事のことは考えなくなりますね」とにこやかに話す有希子さん。外出してもすぐに家に帰りたくなるくらい、自分の住まいが好きなんだそう。

(写真撮影/加藤淳史)

(写真撮影/加藤淳史)

(写真撮影/加藤淳史)

(写真撮影/加藤淳史)

「以前は、せかせかして時間にゆとりが持てていなかったんだろうな、と思うときがあります。自分たちは、職場は変わらず、ただ住環境を変えただけなのですが、木のお風呂に浸かったり、2階のスペースで横になって休んだり、そういう暮らしが手に入ったことで変わってきたような気がしますね」と有希子さん。場所の力をひしひしと感じているようだ。

長屋の住人たちとの軽い挨拶や日常会話は毎日。「さっきイタチを見たよ」など気軽に話せる相手が近くにいることが生活の安心・安定感にもつながっている(写真撮影/加藤淳史)

長屋の住人たちとの軽い挨拶や日常会話は毎日。「さっきイタチを見たよ」など気軽に話せる相手が近くにいることが生活の安心・安定感にもつながっている(写真撮影/加藤淳史)

愼也さんも「もともと意識下にあった自分の好きなことや物が引き出された感じがありますね」というように、住まいによってご夫婦それぞれの行動や心境にポジティブな変化が生まれたようだ。

「子どもが生まれても生活的に問題なければずっとここにいたいですね。それ位この自然環境と木の生活は気に入ってます」と話す桜木さんご夫婦は最後、顔を見合わせて穏やかに微笑みあっていた。

シンプルに心地よい暮らしを求めたら、たまたま移住につながった(写真撮影/加藤淳史)

(写真撮影/加藤淳史)

今回取材した山内さん、桜木さんはともに都市部からの移住。一般的にはそのように環境の大きく異なる地域への移住は、うまく生活していけるかなどの不安で、ハードルが高く感じるものだ。しかしこの2組の場合は、いきなり完成形を求めるのではなく、まずは里山賃貸住宅の暮らしに惹かれてコンパクトな長屋暮らしを始め、そこから少しずつ自分たちの好きなことや、やってみたいことに出会え、将来的にもここに住み続けるという「移住」という思いに至った。

全く違う環境に飛び込んでいく「移住」を大げさにとらえずに、こんな暮らしをしてみたいな、とか、単に住まい環境を変えたい、他者のコンセプトや物に惹かれた、という心のままにローカルでの暮らしを始めるのもいいのかもしれない。特にこの八女里山賃貸住宅では、同じ感覚で集まった人同士がつながることによって、それぞれが良い方向へと進んでいるようだった。

継続的な生産性は、無意識レベルでの「好き」から始まるのかもしれない。

取材当日に地域住民の有志で植えた芝生。今後はここでBBQや星空観察などを計画中だ(写真撮影/加藤淳史)

取材当日に地域住民の有志で植えた芝生。今後はここでBBQや星空観察などを計画中だ(写真撮影/加藤淳史)

●取材協力
>八女里山賃貸住宅ホームページ

別府温泉&NY、別府温泉&東京、二地域で暮らし働く魅力とは? 2人のフリーランスに聞いてみた

別府駅を降り立つと、そこにたなびくのはいく筋の湯けむり。
観光名所として知られるこの場所を、第二の生活の拠点として選ぶ人がいるという。今回、別府&NY、別府&東京に暮らす2人に話を伺うことができた。彼女たちはなぜ二地域居住の拠点として、あえて温泉地・別府を選んだのだろうか? 二拠点生活は、定住よりどんなメリットを公私ともにもたらすのだろうか? その魅力などを伺った。

別府&NY。移動距離1万1130Kmのデュアルライフ

ヤノユウコさんは現在、NYと大分県・別府を行き来して仕事を回している。パタンナーという仕事で独立して10年。昨年からNYと行き来を始め、その移動距離は片道約1万1130Kmにも及ぶ。「日本の精密なパターンが海外の方では需要があるみたい」と肌で実感したヤノさんは今後も海外に目を向けて仕事の幅を広げていこうと目論み中だ。

別府とNYを行き来するヤノさん。別府では主にパタンナーとしてCADデータでデザインを描き起こしている(写真撮影/フルカワカイ)

別府とNYを行き来するヤノさん。別府では主にパタンナーとしてCADデータでデザインを描き起こしている(写真撮影/フルカワカイ)

服づくりを学びたいと宮崎から上京して、都内のファッション専門学校に通学したのち、大手のアパレルブランドにパタンナーとして就職。当時、ファストファッションの先駆けブランドとして人気を集めていたときに唯一新卒枠で配属され、他の人から見ても羨むような、まさに時代の先端の部署で働くチャンスを得たのだった。

しかし、ファストファッションは通常よりも販売サイクルが早かった。「大量生産、大量廃棄」という方向性と自分の洋服づくりに対しての考えに違いを感じ、良好な職場環境よりも自分の服づくりと生き方を見直そうと2年半で退職。その後、パタンナーとして複数の国内ブランドで修行を積んだのちフリーランスとして独立する。フリーランスは場所や時間にとらわれず、自分のイメージした生活ができる。そう思って選んだ道だったが、いざ独立してみると全然違った現実がヤノさんを待ち受けていた。

仕事を失う怖さよりも、自分を消費されるほうが怖かった

独立当初は都内に通える辻堂(神奈川県)に生活拠点をおき、プライベートでは趣味のサーフィンなどに時間を費やしていた。しかし公私ともにバランスが取れていた時期は短く、あっという間に仕事が増え、自宅作業で一日中引きこもるような生活が続いた。

「パタンナーの単価が低いものも多く、量をこなさないといけなかったんですね。また都内に気軽にいけるので頻繁に打ち合わせに行ってましたが、それでも往復で3時間はかかってしまい、いつの間にか仕事だけの生活になってしまいました」

辻堂の後は、鎌倉の古民家で海から徒歩1分の立地に住んでいたヤノさん。一見、充実した暮らしを過ごしているような気もヤノさん自身していたが、当初イメージしていたフリーランスとしての働き方と目の前の現実は全く違っていた。「ファストファッションのように自分や自分がつくった洋服が消費されていくのは違う」。その原点の思いや東日本大震災をきっかけに、九州移住を考え始めたヤノさん。友人の紹介をつてに、1年ほど九州各地を見回った結果、思い切って別府を拠点にすることを選んだという。

「窓から見える湯けむりが毎日の気温や湿度によって違うので見ていて飽きないんです」と語るヤノさん(写真撮影/フルカワカイ)

「窓から見える湯けむりが毎日の気温や湿度によって違うので見ていて飽きないんです」と語るヤノさん(写真撮影/フルカワカイ)

温泉=早めの体力回復に。また観光地はクリエイターにとっては刺激の場に

「もともと多拠点をするつもりで移住先を選んだのですが、別府は友人の勧めもあり、温泉地のなかでもずば抜けて景観もよく人もオープンでいながら個性的で面白く優しい人が多いのが最大の魅力でした。多忙であっても温泉があれば心身の回復が早い。また源泉も豊富なので、さまざまなお湯を日替わりで楽しめるのがいいですね。別府は国際観光地なので、人が多国籍かつ流動的なんですよね。平日と週末でも歩いている人の年齢層も家族構成も全く違う。多くは県外から訪問してくるので、外部からの情報も入ってきやすいです。わりと一定の場所にいるようで、日々違った風景や人間関係が別府にはあるので新鮮な気持ちで日常を過ごしています」とヤノさん。当初心配していた仕事の量は、減らした分、自分の好きなやりかたで作業ができているという。

「別府に拠点を変えた分、都会で過ごす時間も貴重になりました。都会ではインプット、別府ではアウトプットと自然にスイッチが切り替わるようになり作業の質も効率も格段に上がりました。また拠点が離れていることで周囲のクライアントがスケジュールを調整してくれるようになったんですね。スケジュールに余裕がある仕事だけを相談してくれるようになった分、自分のやりたいことに時間を割けるようになれたので、オーダー服のデザインや製作、裁縫ワークショップの開催が定期的にできるようになったんです」

ワークショップのときの様子(写真提供/ヤノユウコ)

ワークショップのときの様子(写真提供/ヤノユウコ)

多拠点生活は「失敗はつきもの」と思えば怖くない

「今は別府を拠点としてNYには2カ月、そのほか不定期で東南アジアや東京へとあちこち行ってますが、別府以外の滞在は友人宅やAirbnb、ゲストハウスなど。移動はLCCを使えば生活コストは私の場合はそこまで甚大ではないです。別府は共同浴場が月1000円前後で利用でき、湧き水を汲む場所もあるので光熱費が安い。また飲食も観光地価格ではなく住民価格で利用できるお店がたくさんあるので他の温泉地よりも単価が安く済むんじゃないでしょうか。私は、人生において“後悔しないほう”と“どうなるか分からないほう”を選択する、ということだけは心がけてきました。30代後半での移住はもちろん不安になることもありましたが、もともと場所によってルールは違うもの、失敗はつきものと思えば、意外とあとから楽しめることが自然とついてきます」

そう語るヤノさんは今後、裁縫ワークショップを通じて知り合った地元の人たちとチームとなり、国内外で依頼された仕事を回していき、大分の雇用創出をしていくことが目標とのこと。消費されないものづくりの楽しさを大分に根付かせていきたい。そんな思いで今後はNYだけにとどまらずタイや発展途上国にも目を向け活動をスタートさせている。

二拠点居住者を中心とした交流会。別府では定期的に移住者交流会が開催されお互いの情報交換の場になっている(写真撮影/フルカワカイ)

二拠点居住者を中心とした交流会。別府では定期的に移住者交流会が開催されお互いの情報交換の場になっている(写真撮影/フルカワカイ)

東京&別府。自分の仕事の価値を見直す生活スタイル

別府駅前にある老舗映画館「別府ブルーバード劇場」で働く森田真帆(もりた・まほ)さん(37歳)は、東京では映画ライター、別府では映画の番組編成を担当している。居住場所により職業も変えている、珍しいパターンでの勤務だ。また私生活ではシングルマザーとして17歳の子とともに実家で暮らしつつ、別府との二拠点居住を実現させている。

森田さんは映画ライターのかたわら、映画館の上映番組の企画編成、およびイベント企画立案で映画監督や俳優陣のキャスティング、当日の司会進行、アテンドまで行っている(写真撮影/フルカワカイ)

森田さんは映画ライターのかたわら、映画館の上映番組の企画編成、およびイベント企画立案で映画監督や俳優陣のキャスティング、当日の司会進行、アテンドまで行っている(写真撮影/フルカワカイ)

もともと東京の杉並区出身の森田さん。現在は自分で企画した映画イベントごとに別府を行き来。大体1カ月に1週間位の滞在だが、多いときは月の半分は別府で過ごしている。別府はもとより九州にも地縁がないなかでこの生活を選んだのは、何より映画館の「ブルーバード」に心底惚れ込んだからだ。

大学時代から映画業界に興味をもち、大学を中退してハリウッドへ留学。現地で出会ったアメリカ人との間に子どもを授かり帰国。アメリカ在住時その当時から映画コラムを担当していた会社の編集部に就職。シングルマザーとして、子育てに毎日追われながら、海外の映画祭取材や、俳優、監督のインタビュー記事を書く日々が続いた。あまりに忙しい生活が続き、世界がだんだんとモノクロと化していくことを感じた森田さん。体調を崩し、失意の中にいたときに別府在住の親友に会いに行ったのが居住のきっかけとなった。

もともと移住希望ゼロだった森田さん。この映画館の外観に魅せられて人生が一変した(写真提供/森田真帆)

もともと移住希望ゼロだった森田さん。この映画館の外観に魅せられて人生が一変した(写真提供/森田真帆)

映画の専門家だったのに、初めての体験をしたのがこの映画館だった

「滞在中にふらりと寄ったのがこのブルーバード劇場でした。まず外観に惹かれてふらふらと中に入りました。階段を昇るとまるで昭和の時代の映画館にタイムスリップしたような劇場が目の前に広がっていて、すごく懐かしい匂いがしました。当時の私は、狭い試写室で映画を観ることが日常になっていたけれど、そのとき、母親と一緒にワクワクしながら観た映画体験を思い出したんです。その日は、お客さんが誰もいなくて、映画館でたった一人、自分ひとりだけ席につき、映画を鑑賞しました。映画が始まると、あの空間の中で映画の世界に没頭できて、ただただ胸を打たれて涙が止まらなかった。もう一度、心から映画が面白いと思えたんです」と森田さん。そして、映画館の館長である岡村照さんに会ったのが二拠点居住のきっかけとなった。「そもそも映画が始まる前、照館長がお煎餅をくれて(笑)。今の映画館は音を出さない!とか、喋らないとか、いろんな決まりごとの映像が予告編の前に流れる場所まであるのに、お煎餅って(笑)。おかしくてクスクス笑っちゃってましたね」

「この映画館に出会うまで、いつの間にか映画は『個』で観るものになっていました。試写室でも、都会の映画館でも『一人』で観て『一人』で帰る。それが当然だと思ってたんですが、帰りに照館長に「この映画面白かったやろ」って話しかけられて、おしゃべりしているうちにいつの間にか『一人ぼっち』という感覚が消えていた。その感覚が忘れられなくて、多くの人と一つの映画を見ることで生まれる映画体験の素晴らしさ、この映画館の良さをなんとか広めたいと、知り合いの映画監督や俳優にお願いしてイベントを定期的に開催しています」

映画館で俳優・青柳尊哉さんとのトークショーの様子。お互いにスニーカーでラフなスタイルでやるのが別府ブルーバード劇場流(写真提供/森田真帆)

映画館で俳優・青柳尊哉さんとのトークショーの様子。お互いにスニーカーでラフなスタイルでやるのが別府ブルーバード劇場流(写真提供/森田真帆)

別府で学んだのは、自分の仕事の価値と人との向き合い方

二拠点居住で仕事内容も異なるとなると一見とても忙しいように見えるが、森田さんにとってはむしろライターの仕事に良い変化があったという。「映画館で働くと、映画を観た直後のお客様の素直な感想が聞けるようになったので、観客の顔を想像しながら、どう作品の魅力を伝えるかをより具体的に文章に落とし込めるようになったんですね。どんな情報をお客様は求めているか、想像するよりははるかにクリアになりました」

また、別府は公衆浴場で24時間温泉に入れるところもあるので、どんなに遅い時間に仕事を終えても疲れを癒やすことができる。またまちが狭いのでみんなが「ひとつのまち」にいる感覚がある。都会は匿名性が高いですが、別府はその逆。だからこそ皆が腹を割って付き合える感覚が心地いいし、移動も都内よりはすぐできるので便利です。監督や役者の方々も、イベントが終わった後に美味しいご飯を食べて温泉に入ると取材だけでは見えなかった、その方自身の魅力をもっと知ることができるようになる。

公私を場所によって分けられ、自分にしかできない仕事ができる

都会との二拠点で一番ネックになるのが移動時間と生活コストだが、森田さんはそれ以上のメリットがあると強く語ってくれた。「別府は大分空港から1時間くらいですが実際移動するとそこまで大変な距離ではないです。むしろスイッチの切り替えをするにはフライトの時間を含めてちょうどいい感じ。それがないと都会とのスピード調整ができないですね。生活コストはLCCを使ったり、リサイクルショップで家具を購入したりするとそこまでかからなかった。食費も。別府にいるとおばちゃんたちがどんどん美味しいものを持ってきてくれるんで、毎回お金を使わず太って帰るくらいです(笑)。

それよりも、自分だけにしかできない仕事を実現していくことが何より人生を豊かにすると確実に言えます。なので、年々忙しくなりますがブルーバードに関わりたい気持ちは3年前よりも増しています」

温泉地という場所を選ぶことにより多拠点生活をする上でデメリットとなる移動疲れがクリアになり、湯けむりというどこにでもない風景を目の前にすることによって仕事の切り替えができる。また観光地の割に生活コストが高くないことが別府の魅力なのだと感じる。

「副業・複業」が注目されるなか、今回取材したお二人のようなフリーランス生活に興味をもつ方もいるかもしれません。1つの地域に限らず、二拠点、三拠点と複数の地域で暮らしたり、仕事したりする生き方も以前よりは増えてきているようです。自分は仕事に、生活のなかで最も大事にしたいものは何か。もし現状抱えている問題があれば生活スタイルの変化で打破できる可能性はないか。あらためて自分の働き方と生活スタイルについて見直しをしても良い時期がきているのかもしれません。

Uターン移住のきっかけは「ストレス」「親」「郷土愛」、電通調べ

(株)電通は、地方創生によるUターンが加速する中、実際にUターン移住を経験した20~60代の男女1,714人を対象に、「全国Uターン移住実態調査」を行った。Uターン移住のきっかけに「ストレス」「親」「郷土愛」の3要因が影響していることなどが分かった。
調査時期は2017年10月19日(木)~11月13日(月)。同調査でのUターン移住者とは、出身地を出て首都圏(東京都、千葉県、神奈川県、埼玉県)で生活をした後、現在は自らの意思で自分または配偶者の出身地およびその周辺で暮らしている人のことを指す。

Uターン移住者が首都圏に住み始めたきっかけは、「大学入学/通うため」(38.4%)、「初めての就職/就職先に通うため」(24.7%)という理由が上位で、進学や就職で首都圏に上京するケースが多い。元々首都圏に永住する意識はそれほど高くなく、「最終的には出身地に戻る予定で、その時期の目途なども考えていた」(26.1%)と、「いつかは出身地に戻る予定だが、時期等までは考えていなかった」(30.7%)を合わせると半数以上(56.9%)がいずれ戻るつもりで上京していたようだ。

Uターン移住のきっかけは、第1が「両親の近くに住みたくて」(24.5%)、「両親が高齢になって/病気になって」(24.4%)など親のこと。第2が「首都圏はずっと住める/住む場所ではない」(28.1%)、「せわしない首都圏での生活や、人間関係にストレスが募って」(20.7%)、「首都圏での生活を一通り堪能して/一段落して新鮮さを感じなくなって」(14.3%)、「このまま首都圏にいたままでいいのかと漠然と感じて」(14.0%)など、首都圏生活の魅力の低減とストレスがあげられる。そして第3は郷土愛。「離れてみて改めて地元の魅力を再認識して」(14.5%)、「郷土愛がつのってきて」(11.7%)などの意見があった。

Uターン移住者の不安材料としては「仕事」や「お金」に関することが挙がったが、移住後の具体化とともにその不安度が軽減されていた。「上京時」「移住前」「移住直後」「現在」の4つのフェーズでそれぞれの生活満足度を10点満点で聞いたところ、「上京時」は満足度8~10の「かなり満足度が高い人」が4割もいたのが、東京にいる間に27.7%まで下降。しかし、移住後の「現在」を見ると満足度の高い人は48.2%と、多くの人がUターン後に生活満足度が高まっていることがわかった。

ニュース情報元:(株)電通