”銭湯図解”で銭湯建築や人の営み描く。映画『湯道』看板娘モチーフになった塩谷歩波さん、「小杉湯」番頭経てホテルやサウナ等も図解する画家・文筆家に

塩谷歩波さんは、銭湯の建物内部を俯瞰図で描く「銭湯図解」シリーズがSNSで人気を博し、刊行した著書が話題沸騰! 銭湯図解とは、銭湯を観察しメジャーなどでさまざまな部分を測量、スケッチに落とし込んでいくもの。塩谷さんの半生はドラマ化(2022年『湯あがりスケッチ』)され、2023年2月23日に自身がモチーフになったキャラが登場する映画『湯道』(企画・脚本:小山薫堂、主演:生田斗真)が公開されます。学生時代、建築を専攻し、設計事務所、高円寺(東京都杉並区)の銭湯「小杉湯」の番頭兼イラストレーターを経て、画家・文筆家へ。建築を描くことで見えてきたものとは。図解イラストを解説しながらたっぷり話していただきました。

画家・文筆家の塩谷歩波さん。現在は、銭湯以外の絵の仕事も注目されている(写真撮影/三浦えり)

画家・文筆家の塩谷歩波さん。現在は、銭湯以外の絵の仕事も注目されている(写真撮影/三浦えり)

銭湯での人のふるまい、美しいと思った瞬間を伝えたい

――銭湯図解からは、建物の構造だけでなく、インテリアや小物までが細かく描かれています。銭湯を図解しようと思ったきっかけを教えてください。

塩谷歩波さん(以下、塩谷):「銭湯ってめっちゃいいじゃん」という純粋な気持ちですね。

銭湯に出合ったのは、当時勤めていた設計事務所を体調不良で休職していたころ。半分鬱のような状態で、同期の人と比べると自分が恥ずかしい人間であるように感じ、同世代の人と話すのがとても怖かったんです。ちょっと人間不信になっていました。

そういうときに銭湯で会う人たちは、自分の日常では絶対出会わない人が多くて。おばあちゃんと裸で知り合うことってないですよね。それが自分にとっては、いい非日常感で、日常から離れていたからこそ、違う人間になることができた。おばあちゃんに突然話しかけられても、ドラマや映画で見た番頭さんのように快活に話すことができました。自分が銭湯の一員になったように感じて、すごく癒やされたんですよね。まだ銭湯に行ったことのない友人に魅力を伝えるために描いたのが初めての銭湯図解でした。

初めて描いた銭湯図解には、友人に向けて寿湯のおすすめポイントが書かれている(画像提供/塩谷歩波さん)

初めて描いた銭湯図解には、友人に向けて寿湯のおすすめポイントが書かれている(画像提供/塩谷歩波さん)

高円寺にある小杉湯の銭湯図解。湯船に漬かる人、着替える人、昭和を感じるレトロなインテリアもいい(画像提供/塩谷歩波さん)

高円寺にある小杉湯の銭湯図解。湯船に漬かる人、着替える人、昭和を感じるレトロなインテリアもいい(画像提供/塩谷歩波さん)

洗い場で背中を流し合う人たち。湯けむりやほっとした息づかいまで聞こえてきそう!(画像提供/塩谷歩波さん)

洗い場で背中を流し合う人たち。湯けむりやほっとした息づかいまで聞こえてきそう!(画像提供/塩谷歩波さん)

『銭湯図解』(2019年2月刊行)は多数のメディアに取り上げられた。2022年には、エッセイ本も出版(画像提供/中央公論新社・双葉社)

『銭湯図解』(2019年2月刊行)は多数のメディアに取り上げられた。2022年には、エッセイ本も出版(画像提供/中央公論新社・双葉社)

――銭湯図解には、多くの人物も描かれていますね。銭湯でくつろぐ人物の絵を見ると、湯けむりや窓からの光、露天の風まで感じられます。

塩谷:銭湯でほっとして、目をほかに向けてみると、そこでの人の触れ合いがすごく愛おしく思えて。おばあちゃん同士が背中を流し合いながら話している姿はどこか癒やされるものがありました。当時、銭湯好きの方がブログやTwitterで銭湯について書いたものはありましたが、カラン(蛇口)の数や浴室の温度などデータ的な紹介が多かったんです。銭湯での人のふるまいや、私が美しいと思った瞬間が語られていないのはもったいないと思いました。

銭湯図解は緻密な表現が魅力(画像提供/塩谷歩波さん)

銭湯図解は緻密な表現が魅力(画像提供/塩谷歩波さん)

番台のある待合所、男女の脱衣所、浴室などが一望できる(画像提供/©2023映画「湯道」製作委員会)

番台のある待合所、男女の脱衣所、浴室などが一望できる(画像提供/©2023映画「湯道」製作委員会)

機能を兼ね備えたデザイン、地域性、文化性、銭湯建築は面白い

――Twitterなどではどのような反響がありますか?

塩谷:最初のころは、銭湯ファンの方から、「銭湯の良いところが描かれていてスゴイ」と再現性を言われることが多かったですね。建築ファンの人からは、「銭湯に建築的な面白さがあったんだ」という驚きの声が寄せられました。学校の授業でも、建築の本でも、建築の目線から銭湯が語られることってまずなかったんです。銭湯のような大衆的な建物を絵におこしてみることに、意外と価値があると気づいた人が多かったです。機能を兼ね備えたデザインで、時代や場所によって浴槽の形が違うなど、文化性、地域性があるところが面白いんですよ。

あとは、「すごく癒やされる」という声もありました。自分が同じような経験をしたので、心が疲れている人からのコメントがいちばん嬉しかったですね。私と同じようにあの風景に癒やされる人がいるんだなと。

――設計事務所から高円寺の銭湯「小杉湯」に「番頭兼イラストレーター」として転職した後、アトリエエンヤを立ち上げ、小杉湯を退職してから画家として独立されています。振り返って、銭湯図解はどのようなものだったと思いますか?

塩谷:自分が絵を仕事にする可能性をつかんでくれた、そういう絵だったと思います。まさか自分が絵を専門に描く仕事をするとは夢にも思ってみませんでした。銭湯図解によって私の人生は大きく変わりました。小杉湯にいたころは、運営する立場から銭湯を見ていましたが、今はいち銭湯ファン。銭湯に行くのは一週間に一回程度になりました。東京だけでなく旅先の銭湯もすごく面白いんです。これからもいい銭湯があれば、伝えていきたいと思っています。

小杉湯の浴室。湯気を抜くために天井が高くつくられている。これほど高い天井の建物は、今は建築するのが難しいという(画像提供/塩谷歩波さん)

小杉湯の浴室。湯気を抜くために天井が高くつくられている。これほど高い天井の建物は、今は建築するのが難しいという(画像提供/塩谷歩波さん)

銭湯でのイベントで講演をする塩谷さん。なんと小杉湯では、著書『銭湯図解』1000冊を完売。本を片手に銭湯巡りをする人も現れた(画像提供/塩谷歩波さん)

銭湯でのイベントで講演をする塩谷さん。なんと小杉湯では、著書『銭湯図解』1000冊を完売。本を片手に銭湯巡りをする人も現れた(画像提供/塩谷歩波さん)

制作に1枚1カ月かかることも。角度をつけて建物内部を俯瞰的に描く

――図解に用いられている図法について教えてください。どういう意図で用いられているのでしょうか。

塩谷:アイソメトリックという建築図法で、角度をつけて建物内部を俯瞰的に描いています。本来は三方の軸がそれぞれ等しい角度で見えるように立体を投影するものが多いのですが、「銭湯図解」では、それぞれの銭湯によって、「どこを見せたいか」を考えて、角度や断面の表現を調整しています。例えば、脱衣所の人物も番台も見せたい場合、間の壁を切り抜いて、両方を見せています。

要所で壁を切り抜いて、番台や待合所の雰囲気、脱衣所や浴室を1枚の絵で表現(画像提供/塩谷歩波さん)

要所で壁を切り抜いて、番台や待合所の雰囲気、脱衣所や浴室を1枚の絵で表現(画像提供/塩谷歩波さん)

映画『湯道』の銭湯「まるきん温泉」の下書き。映画では架空の銭湯なので、資料を参考にしたが、本来は、取材に行き、実測データを元に縮尺を決めて用紙に下書きする(画像提供/塩谷歩波さん)

映画『湯道』の銭湯「まるきん温泉」の下書き。映画では架空の銭湯なので、資料を参考にしたが、本来は、取材に行き、実測データを元に縮尺を決めて用紙に下書きする(画像提供/塩谷歩波さん)

人物の表情はペン入れの際、さらに細いペンで描き込む。銭湯図解ににぎわいが生まれる瞬間(画像提供/塩谷歩波さん)

人物の表情はペン入れの際、さらに細いペンで描き込む。銭湯図解ににぎわいが生まれる瞬間(画像提供/塩谷歩波さん)

透明水彩で着彩。玄関でお客さんに対応している『湯道』の主人公・三浦史朗(生田斗真)の姿も(画像提供/塩谷歩波さん)

透明水彩で着彩。玄関でお客さんに対応している『湯道』の主人公・三浦史朗(生田斗真)の姿も(画像提供/塩谷歩波さん)

建物には、人の行動がデザインされている

――最近では、高円寺や西荻窪にある店舗や全国のホテル、ゲストハウス、サウナなどの建築図解も描かれています。きっかけは?

塩谷:2019年に書籍『銭湯図解』を刊行した後、銭湯以外の建物を描きたいと思い、2020年にアトリエエンヤという屋号を掲げてお仕事でほかの建物も描くようになりました。高円寺の酒場兼古本屋の「コクテイル書房 図解」を描いたのは、書籍を出した直後ですね。当時、高円寺に住んでいて、街への愛情が高じた結果、高円寺の中で一番魅力的な建物であるコクテイル書房を描きたくなったんです。

建物は古く、オーナーがDIYしている箇所がたくさんあって、「これ何ですか?」って聞くとひとつひとつにストーリーがあるんです。絵を描くことで、そこの人たちの歴史を感じられるのがいいなと思いました。

高円寺にあるコクテイル書房の1階の図解。拾ってきた流木が天井に吊るされているなど、店主の趣味が反映された空間が面白い(画像提供/塩谷歩波さん)

高円寺にあるコクテイル書房の1階の図解。拾ってきた流木が天井に吊るされているなど、店主の趣味が反映された空間が面白い(画像提供/塩谷歩波さん)

――街や店舗を描くとき、銭湯を図解するときと違った発見はありましたか。

塩谷:人が服を着ていることですかね(笑)。また、街や建物によって人の動き方って全然違うんですよ。自分で建物を設計していたときに、建物によって、人のふるまいが変わることに一番興味があったんです。行動をデザインした建物が好きなんです。そういう建物は、描きながら、オーナーや設計者の意図が伝わってきて感動します。描いていて楽しい所ですね。

塩谷さんが愛する西荻窪の路地(画像提供/塩谷歩波さん)

塩谷さんが愛する西荻窪の路地(画像提供/塩谷歩波さん)

街歩きでふらっと入った西荻窪の居酒屋「しんこぺ」のホットケーキを描いた絵がTwitterでバズり、期間限定メニューが定番の人気メニューに(画像提供/塩谷歩波さん)

街歩きでふらっと入った西荻窪の居酒屋「しんこぺ」のホットケーキを描いた絵がTwitterでバズり、期間限定メニューが定番の人気メニューに(画像提供/塩谷歩波さん)

カウンターでホットケーキが出てきたときの塩谷さんの感動が絵から伝わってくる(画像提供/塩谷歩波さん)

カウンターでホットケーキが出て来た時の塩谷さんの感動が絵から伝わってくる(画像提供/塩谷歩波さん)

高円寺や西荻窪の建物を描くことで、人の動きが見えてくる

――描いていて面白いのはどんな街?

塩谷:ガイドブックに載っていない路地がある、歩いて楽しい街ですね。高円寺は、雑多な感じで「東京のインド」と言われたりするんですけど、全然整備されていない街全体のカオスな感じがいい。西荻窪は、趣味が高じてお店をやっている人が多くて、お店はオーナーの城。建物にオーナーの世界観があって、街全体よりひとつひとつが面白いんです。

西荻窪の日本茶スタンド「Saten」。現代的な建物に和の意匠を取り入れている(画像提供/塩谷歩波さん)

西荻窪の日本茶スタンド「Saten」。現代的な建物に和の意匠を取り入れている(画像提供/塩谷歩波さん)

緑色は抹茶をイメージした色。カウンターの奥にあるオレンジの壁は、「床の間」風コーナー。左のテラスにいるフレンチブルドッグを連れた人は実在する常連さん(画像提供/塩谷歩波さん)

緑色は抹茶をイメージした色。カウンターの奥にあるオレンジの壁は、「床の間」風コーナー。左のテラスにいるフレンチブルドッグを連れた人は実在する常連さん(画像提供/塩谷歩波さん)

描くことで、自分の好きなことをより深く理解できる

――2023年2月21日から、個展が開催され、23日から映画「湯道」が公開されます。見どころを教えてください。

塩谷:映画に登場する「まるきん温泉」は、形としては京都にありそうな銭湯です。企画・脚本の小山薫堂さんも温泉・銭湯好きなので、今までの記憶の中から、好きな銭湯を繋ぎ合わせたのでしょうね。監督や映画スタッフとつくりあげた理想の銭湯を感じてみてください。

『湯道』2月23日(木・祝)全国東宝系にて公開(画像提供/©2023映画「湯道」製作委員会)

『湯道』2月23日(木・祝)全国東宝系にて公開(画像提供/©2023映画「湯道」製作委員会)

撮影後に描いた「湯道」に登場する銭湯「まるきん温泉」(画像提供/©2023映画「湯道」製作委員会)

撮影後に描いた「湯道」に登場する銭湯「まるきん温泉」(画像提供/©2023映画「湯道」製作委員会)

塩谷:「まるきん温泉」の銭湯図解を描くのがとても面白かったんです。「まるきん温泉」は、セットでつくった架空の銭湯。資料から読み解く謎解きみたいで。実在しない建物も描けるんだなと気づきました。

個展では、実在しない建物の図解作品を展示します。テーマは、「家」。家はなじみ深いですが、隣の家って見たことありませんよね。同じ間取りなのに全然違う世界が広がっている。その人が考えていることが知らず知らず広がっている。面白さもあるけど怖さもある。そういうものが「家」じゃないかと思っています。

原画販売も初めて行う。5作品のひとつ、おばけの家。おばけには足がなく透けるので階段も扉もない(画像提供/塩谷歩波さん)

原画販売も初めて行う。5作品のひとつ、おばけの家。おばけには足がなく透けるので階段も扉もない(画像提供/塩谷歩波さん)

――街歩きや店舗を見るとき、どんな所に目を向けるとよいですか?

塩谷:アイソメトリックで描くことは建築の知識がないと難しいと思いますが、街や建物のどういう空間でどう人が動いているかよく見ると、さまざまな気づきがあります。建物の素敵な所をスマホで撮って終わりではなく、スケッチでも文章でもほかの表現に落とし込んでみると、何で好きと思ったのか、より深く理解できます。

――塩谷さんとって「描く」のはどういった意味をもつ行為でしょうか。

塩谷:描いていると、自分がなぜこの建物が好きなのか再確認できます。下書きしながら、この建物はこんなに面白く見えるんだなあって。色を塗ったり、人物を入れると、絵の中で世界ができていく。描けば描くほど豊かな世界になっていく。完成までワクワク感を抱えていますね。

絵は、自分をこの場所に連れてきてくれた大事なものであると同時に、描き続けるのが辛いときもある。好きとか嫌いとかを超えて、離れられない。表現をする人は同じことを言うと思います。寺社仏閣や教会、世界遺産の建物、民家、古いホテルや民宿、純喫茶、海外の建物……描いてみたいものがたくさんあるんです。これからも、人のふるまいや美しい瞬間を感じられる絵を描いていきたいです。

アトリエからは、試行錯誤を繰り返した創作の様子が伝わってくる。今年の秋口まで仕事はいっぱい(画像提供/塩谷歩波さん)

アトリエからは、試行錯誤を繰り返した創作の様子が伝わってくる。今年の秋口まで仕事はいっぱい(画像提供/塩谷歩波さん)

図解を描いた塩谷さんの思いを伺い、「なんかいいな」と感じていた建物がどういう思いでつくられているのか考えを巡らせたり、人の動きを観察するのが、面白く感じてきました。自分が住んでいる街や街歩きがもっと楽しくなりそうです。

●取材協力
塩谷歩波(Twitter)

●映画公開情報
『湯道』
2月23日(木・祝)全国東宝系にて公開
企画・脚本:小山薫堂(『おくりびと』)
監督:鈴木雅之(『HERO』シリーズ、『マスカレード』シリーズ)
音楽:佐藤直紀
出演:生田斗真、濱田岳、橋本環奈 ほか
©2023映画「湯道」製作委員会

Twitter

築50年の古アパートに入居希望殺到? 高円寺・小杉湯コラボの“銭湯付き物件”が話題 「湯パートやまざき」

若者に人気の街、高円寺(東京都杉並区)。この街に全国に名を馳せる銭湯、「小杉湯」がある。1日の利用者数は500人前後。電車を乗り継いでやってくる熱狂的ファンもいるのだ。

ミルク風呂やフルーツ風呂などの日替わり湯が人気で、さまざまなイベントも行っている。しかし、最新のホットニュースは、小杉湯が連携する築50年の空き家だったアパートを活用した「湯パートやまざき」のオープンだ。都内の銭湯で使える1カ月分の入浴券付きで家賃は5万円~6万円程度。

プロジェクトのきっかけは? 室内の雰囲気は? どんな人が住んでいる? さっそく取材に行ってきました。

「終電で帰ってきても利用できる」銭湯

JR新宿駅から中央線快速で2駅、6分で高円寺に着いた。北口には高円寺の代名詞ともいえる純情商店街のアーチ。「キングオブコント2021」で空気階段が優勝した際は、「高円寺芸人 鈴木もぐらさん おめでとう!!」という横断幕が掲げられた。

高円寺は芸人が多く住む街でもある(写真撮影/片山貴博)

高円寺は芸人が多く住む街でもある(写真撮影/片山貴博)

駅から歩くこと5分。昭和8年創業の老舗銭湯、小杉湯が見えてきた。玄関には社寺にみられる丸みを帯びた「唐破風(からはふ)」、屋根には三角形の「千鳥破風(ちどりはふ)」が施されている。

2021年1月には国の登録有形文化財(建造物)に登録された(写真撮影/篠原豪太)

2021年1月には国の登録有形文化財(建造物)に登録された(写真撮影/篠原豪太)

「終電で帰ってきても利用できるように」という思いから、営業時間は深夜1時45分まで。待合では漫画が読み放題で、壁にはアート作品や著名人の色紙も飾られていた。

風呂上がりにのんびりと過ごせるスペース(写真撮影/篠原豪太)

風呂上がりにのんびりと過ごせるスペース(写真撮影/篠原豪太)

ペンキ絵はいまや日本に3人しかいない銭湯絵師、中島盛夫氏によるもの。ペンキ絵は定期的に描き換えられ、現在の絵は2020年11月に上書きされた。

鮮やかな色使いで富士山と海辺の風景が描かれている(写真撮影/篠原豪太)

鮮やかな色使いで富士山と海辺の風景が描かれている(写真撮影/篠原豪太)

高円寺に新風を吹き込むシェアスペース

さらに、2020年3月にオープンしたのが「小杉湯となり」という会員制の銭湯付きシェアスペース。文字通り、小杉湯の隣で銭湯まで徒歩3秒という立地だ。

建て主は小杉湯、建築設計は東京を拠点に活動するT/Hが担当した(写真撮影/片山貴博)

建て主は小杉湯、建築設計は東京を拠点に活動するT/Hが担当した(写真撮影/片山貴博)

エントランスの脇には緑が映える中庭も(写真撮影/片山貴博)

エントランスの脇には緑が映える中庭も(写真撮影/片山貴博)

1階は食堂のような場所で、シェアキッチンとテーブル席を自由に使える(写真撮影/片山貴博)

1階は食堂のような場所で、シェアキッチンとテーブル席を自由に使える(写真撮影/片山貴博)

Tシャツやスウェットなどの小杉湯となりオリジナルグッズも販売中(写真撮影/片山貴博)

Tシャツやスウェットなどの小杉湯となりオリジナルグッズも販売中(写真撮影/片山貴博)

2階はWi-Fi、電源、プリンター完備のお座敷。ここで仕事をするもよし、ゴロゴロするもよし(写真撮影/片山貴博)

2階はWi-Fi、電源、プリンター完備のお座敷。ここで仕事をするもよし、ゴロゴロするもよし(写真撮影/片山貴博)

スタッフや会員が選書している大きな本棚もある(写真撮影/片山貴博)

スタッフや会員が選書している大きな本棚もある(写真撮影/片山貴博)

こちらは「1話だけ読んでも面白いエッセイ」という棚(写真撮影/片山貴博)

こちらは「1話だけ読んでも面白いエッセイ」という棚(写真撮影/片山貴博)

「湯パートやまざき」のキーパーソンたち

さて、ここからが本題だ。

3階の個室で「湯パートやまざき」についての話を聞かせてくれたのは、「小杉湯となり」発起人で株式会社銭湯ぐらし代表の加藤優一さん(34歳)、株式会社まめくらしに所属し、「高円寺アパートメント」の女将として住人や地域の人たちとの関係性を育む宮田サラさん(28歳)、そして、「湯パートやまざき」の住人1号となった勝野楓未さん(23歳)の3人。

加藤さんと勝野さんは定休日以外は毎日小杉湯に通う。宮田さんも週に1、2回は訪れるという小杉湯愛に満ちた面々だ。

右から加藤さん、宮田さん、勝野さん(写真撮影/片山貴博)

右から加藤さん、宮田さん、勝野さん(写真撮影/片山貴博)

旧国鉄の社宅を株式会社ジェイアール東日本都市開発がリノベーションした賃貸住宅、「高円寺アパートメント」(写真提供/株式会社まめくらし)

旧国鉄の社宅を株式会社ジェイアール東日本都市開発がリノベーションした賃貸住宅、「高円寺アパートメント」(写真提供/株式会社まめくらし)

「この『小杉湯となり』が立つ場所には、もともと風呂なしアパートがあったんですが、取り壊しが決まった後、1年間は空いた状態でした。そこで、僕を含めた多様なクリエイターで共同生活を始めることになったんです。その生活で気付いたのが、街全体を家のように楽しむ豊かさでした。風呂なしアパートが寝室で、銭湯が浴室、台所は近くのお店と考えると、暮らしの選択肢が広がります。その考え方を実現したのが『小杉湯となり』であり、『湯パートやまざき』もプロジェクトの一つです」(加藤さん)

(画像提供/加藤優一)

(画像提供/加藤優一)

「小杉湯となり」ができる前にあった、風呂なしアパート。当時、期間限定の新住人で外壁に絵も描いた(写真提供/加藤優一)

「小杉湯となり」ができる前にあった、風呂なしアパート。当時、期間限定の新住人で外壁に絵も描いた(写真提供/加藤優一)

きっかけは空き家活用のための勉強会

「湯パートやまざき」は、前述の「小杉湯となり」から徒歩7分ほど離れた場所にある。「湯パートやまざき」プロジェクト発足のきっかけは、空き家を活用して高円寺を盛り上げるための勉強会だった。対象は空き家を持っているが活用に悩んでいる大家さんたち。

「去年の6月に第一回の勉強会を開催したら、10人ぐらいの方が参加してくれました。みなさん、空き家のまま放置しておくのはもったいないし、街のために活用できたらと思っていらっしゃる方々でした」(宮田さん)

同年8月に開催した第二回勉強会の様子(写真提供/加藤優一)

同年8月に開催した第二回勉強会の様子(写真提供/加藤優一)

この勉強会には現「湯パートやまざき」の大家・山崎さんのご家族が参加しており、「10年ぐらい空き家になっているアパートを何とか活用できないか」という相談を受ける。そこで、「じゃあ、みんなで物件を見に行きましょう」となった。

現「湯パートやまざき」に向かう参加者たち(写真提供/加藤優一)

現「湯パートやまざき」に向かう参加者たち(写真提供/加藤優一)

住人募集の告知から3日間で応募が殺到

「最初に外観を見た感想は、『一般的な風呂なしアパートだなあ』というもの。でも、中に入るとレトロな家具の雰囲気が良くて、随所に大工さんの技巧も凝らしてある。ここに銭湯を組み合わせることで“湯パート”としてリブランディングしようと思いました」(加藤さん)

去年の11月ぐらいから「銭湯ぐらし」にかかわり始めた勝野さんは、東京大学大学院で建築を学んでいる学生。加藤さんと宮田さんが「湯パートやまざき」のリブランディングとなるコンセプトや企画を考え、彼女がより具体的なイメージ図を描いた。

現在、大家さんは住んでいないが部屋は残してある(イラスト/勝野楓未)

現在、大家さんは住んでいないが部屋は残してある(イラスト/勝野楓未)

勝野さんがnoteに描いたイメージ図とともに、住人募集の告知をTwitterにアップしたのが2022年1月30日。すると3日間で50人の応募があり、あわてて募集を締め切ったという。

「『シェアハウスほど近すぎず、普通のアパートほど遠くない、ほどよい関係』がみなさんに刺さったのでは」と加藤さんは振り返る。個室はあるが1階にシェアスペースもあり、価値観の近い人が入居することもイメージできる。また、「近所に小杉湯があることも大きかったと思います。ほかには、大家さんの顔が見えることや、DIYができること、そして、1人ではできないけど誰かとはやってみたいという“小さな暮らしが実現できる”という点に魅力を感じていただけたと思います」と話す。

以前は家賃3万円だったが、小杉湯を起点に「街を家と捉える」プロジェクトの一つとして生まれ変わらせるにあたり、家賃に入浴券1カ月分を組み込んだ家賃5~6万円の「銭湯付きアパート」へ(頭が出た分の金額は、大家さんと株式会社銭湯ぐらしで按分している)。入浴券は都内共通入浴券なので都内の銭湯ではどこでも使えるが、ご近所にある小杉湯のファンが集う結果となったようだ。

「応募してくれたのは20歳から30代後半の方で、6割ぐらいが女性でした。職業はいろいろ。高円寺に住んでいないけど、高円寺が好きという人もいれば、コロナ禍で1人で暮らすのが寂しいという人もいました。必ずしも小杉湯ファンだけではなかったですね」(勝野さん)

共有スペースには螺鈿細工のたんすやレトロなテーブル

内見会やオンラインでのヒアリングを経て、勝野さんを含む3名の住人が決まった。勝野さんは2月の半ばから、残りの2名も3月中旬から住み始めている。

コンセプトは「暮らしの要素をシェアする、懐かしくて新しい共同生活」。というわけで、さっそく物件を案内してもらった。

「ようこそ、『湯パートやまざき』へ!」(写真撮影/片山貴博)

「ようこそ、『湯パートやまざき』へ!」(写真撮影/片山貴博)

高円寺駅から徒歩9分、小杉湯から徒歩7分。防犯上の理由から詳しい場所は書けないが、閑静な住宅地にある木造2階建てのアパートだった。

まずは、1階の共有スペースを拝見。

螺鈿細工のたんすやレトロなテーブルが雰囲気たっぷり(写真撮影/片山貴博)

螺鈿細工のたんすやレトロなテーブルが雰囲気たっぷり(写真撮影/片山貴博)

ホワイトボードには住人らによる「今後やりたいこと」が貼ってあった(写真撮影/片山貴博)

ホワイトボードには住人らによる「今後やりたいこと」が貼ってあった(写真撮影/片山貴博)

このキッチンも共同で使用する(写真撮影/片山貴博)

このキッチンも共同で使用する(写真撮影/片山貴博)

「湯パートやまざき」での暮らしを選んだ理由

次に2階の勝野さんの部屋へ。

階段には収納用の隠し棚があった(写真撮影/片山貴博)

階段には収納用の隠し棚があった(写真撮影/片山貴博)

入口のドアの上には今やなかなかお目にかかれない電気メーターが(写真撮影/片山貴博)

入口のドアの上には今やなかなかお目にかかれない電気メーターが(写真撮影/片山貴博)

「ここが私の部屋です」と勝野さん(写真撮影/片山貴博)

「ここが私の部屋です」と勝野さん(写真撮影/片山貴博)

間取りは6畳プラス、ミニキッチン(写真撮影/片山貴博)

間取りは6畳プラス、ミニキッチン(写真撮影/片山貴博)

張り替えたばかりの青畳が香る。

「布団は押入れに入れてあって、寝るときに出します。日当たりが良いので外に干すとすぐに乾くんですよ。設計の勉強に使う金尺は置き場所がないので柱に掛けました」

実は勝野さん、ここに住む前は隣駅の阿佐ケ谷に住んでいた。風呂トイレ付きで床はフローリングというアパート。しかし、銭湯ぐらしやまめくらしの「街を大きな家と捉えて大きく暮らす」という考え方に共感したことと、コロナ禍で家に全部そろっている必要はないと考え方が変わったことから、「湯パートやまざき」への転居を決めたそうだ。

共同作業の第一歩はバルコニーのペンキ塗り

勝野さん以外の住人2名にもオンラインで話を聞いた。

そのうちの1人は転職で大阪から上京したばかりの27歳の女性。たまたま、加藤さんのツイートを目にし、応募した。東京に知り合いが1人もいない状態での共同生活は楽しく、初めて訪れた高円寺を徐々に開拓したいそうだ。

彼女の部屋はこんな感じ。裸電球がいい味を出している(写真撮影/本人)

彼女の部屋はこんな感じ。裸電球がいい味を出している(写真撮影/本人)

もう1人は建築設計事務所で働く28歳の男性。彼もまたTwitterでの告知を見てすぐに応募したという。多忙のため終電で帰ることが多い生活だが、会ったら「オッス」というぐらいの距離感がちょうどいいと言っていた。

現在入居者の住居となっている部屋には、図書館司書として働いている大家さんの親族がセレクトしたセンスあふれる本の数々が置いてあった。

住人も本好きな人たちなので、いずれは共有スペースをミニ図書館にする予定(写真撮影/宮田サラ)

住人も本好きな人たちなので、いずれは共有スペースをミニ図書館にする予定(写真撮影/宮田サラ)

そして、生活を豊かにしてくれそうなのが通りに面した広いバルコニー。勝野さんのイメージ図には望遠鏡のイラストとともに「流星群や満月を観察」と書かれていた。

机とテーブルを置けばコーヒータイムも楽しめる(写真撮影/片山貴博)

机とテーブルを置けばコーヒータイムも楽しめる(写真撮影/片山貴博)

「今度、みんなで柵にペンキを塗るんですよ。いずれは菜園もやりたいです」

取材後、3人の予定が合った日にペンキ塗りを実行(写真撮影/宮田サラ)

取材後、3人の予定が合った日にペンキ塗りを実行(写真撮影/宮田サラ)

大家さんの思いとともにそれぞれのスタイルで暮らす

築50年とはいえ、必要最低限の補修のみで大がかりなリノベーションはしていない。つまり、長く住んだ大家さんの思いを残した形だ。3人は今後、大家さんの思いとともに「暮らしの要素をシェアする、懐かしくて新しい共同生活」を送る。それぞれのスタイルで、街を取り込みながら。

老舗銭湯の「小杉湯」を軸に新しい風は吹き続ける。スタートしたばかりの「湯パートやまざき」の試みが軌道に乗れば、高円寺にまだまだたくさんあるという空き家アパートの活用が一層進むだろう。

●取材協力
小杉湯となり
銭湯ぐらし
まめくらし
湯パートやまざきSNSアカウント
Instagram:@yupart_yamazaki
Twitter:@yupart_yamazaki

自宅を銭湯にして、震災後のまちに集う場を 熊本市「神水公衆浴場」

熊本地震のあと、県庁そばの中心部一帯は、一時ゴーストタウン化した。地名でいうと熊本県熊本市中央区神水。神の水と書いて「くわみず」と読む。ここで生まれ育った黒岩裕樹さんは、まちに少しでも前向きな空気を生み出せたらと、自宅のお風呂を公衆浴場にすることを思い立つ。2020年8月、熊本市でおよそ20年ぶりに新しい銭湯「神水公衆浴場」が誕生した。

自宅のお風呂を銭湯に

まちづくりの世界では「人と人のつながり」や「コミュニティ」が大事といったことがよく言われる。だがコワーキングスペースなど交流施設としてつくられた場所が、いつまでたっても閑散としている…なんて話も多い。それはそうだ。場所だけ人工的に用意されても、そう都合よく人と人の関係が生まれるものではないからだ。

その点、銭湯は少し前提が違っている。誰でもお風呂には日常的に入るので、まず必然性がある。リピート性もある。常連さん同士、言葉を交わすうちに顔見知りになり、おのずと人間関係ができていく。そんな営みが自然に起こる。

東バイパスに面した、神水公衆浴場の入口(写真撮影/野田幸一)

東バイパスに面した、神水公衆浴場の入口(写真撮影/野田幸一)

熊本地震の後、まちが閉塞的な空気に覆われていたとき、新しい拠点としてお風呂をつくろうと考えたのが、構造設計士の黒岩さんだった。黒岩さんは、職業柄、神水の地盤下には、阿蘇の伏流水が流れていることを知っていたそうだ。

「何百年も前に阿蘇山が噴火して、溶岩がこの辺りまで飛んできているんです。その岩盤を貫通した下に阿蘇の水が流れています。地名が神水というだけあって、水質は温泉に近い。震災の後は、やっぱりこの辺りも人が減って閑散としていたので。空気を少しでも変えたかったんです」

黒岩さんが住んでいたマンションは、地震で大規模半壊の状態になった。子どもの校区を考えると遠くに離れない方がいいと、近くに新しい家を建てることにした。

「もともとうちは小さな子どもが4人いるので、子どもたちをお風呂に入れるのも一苦労。ユニットバスにはおさまらないので、どうせ広い風呂をつくるなら、周囲の友人家族も使えるような銭湯にしたらどうかと考えました。あとはこの土地の資源である水を活かして、まちに開放的な場をつくれたらと思ったんです」

神水公衆浴場を始めた、黒岩構造設計事ム所代表の黒岩裕樹さん(写真撮影/野田幸一)

神水公衆浴場を始めた、黒岩構造設計事ム所代表の黒岩裕樹さん(写真撮影/野田幸一)

どんなお客さんが?

神水公衆浴場は、交通量の多い東バイパスに面している。白木の木造の入り口にはまだ新しいのれんがかかっていた。

いまは本業に無理がかからないよう、週に4日、16時~20時の4時間のみ営業している。週末は黒岩夫妻が番台に座るが、平日は黒岩さんの両親が手伝ってくれている。お客さんの8割は常連さん。多くは歩いてか、自転車で通える範囲に暮らすご近所さんで、仕事帰りに立ち寄る人も多い。

「想像していたより若い人も来てくれます。20代の単身者や30代のファミリー層、それに高齢の方も。始めてみて驚いたのは、お客さんにありがとうって言われることです。客商売なので、本来こちらがありがとうございます、なんですけど。お年寄りは家のお風呂を洗うのも大変みたいで『助かるわ』と言われます」

この地域にもかつては2軒の銭湯があったが、震災後、廃業してしまった。20年ぶりに開業した銭湯だった。

(写真撮影/野田幸一)

(写真撮影/野田幸一)

開店の16時になると、さっそく常連さんらしい年配の女性が入ってきた。料金は350円。

「いまお湯、熱い? 私熱いのだめなんよね~」と、女性はのんびり言いながら、女風呂の方へゆっくり歩いていった。間を置かず、今度は若い男性の二人連れが入ってくる。日に15~20人。一週間に述べ100人ほどのお客さんが訪れる。

なぜ、銭湯だったのか?

直接的なきっかけは、やはり2016年の熊本地震だった。黒岩さん自身、2~3カ月の断水を経験したという。

「九州は温泉も多いので、車で20~30分も走れば温泉があるし、近くには健康ランドもあります。でも当時はどこもすごい行列で。洗い場までお湯があふれていたんです。それが数日ではなく数カ月続きました」

ここ数年の間に起きたほかの災害の現場でも、断水やお風呂に入れないことは、人びとを疲弊させる要因の一つだった。地下水を汲み上げるしくみがあれば、電力が復旧し次第、お風呂も提供できる。

そして、銭湯をつくろうと思った理由にはもうひとつ。黒岩さんは構造設計士として、多くの仮設住宅をつくる現場を目の当たりにしたのだった。

「できていく仮設住宅は窓が小さくて閉鎖的な空間で。窓の面積が少ない方がコストが抑えられるからそうなるんですが。余震が続いて、精神的にも落ち着かないのに、そんな仮設に住む人たちのことを考えると、やりきれなくて」

少しでもほっと落ち着ける開放的な場所を提供できたら。さらにまちの閉塞的な空気を前向きに変えられたら。そう願って始めた銭湯だった。

(写真撮影/野田幸一)

(写真撮影/野田幸一)

銭湯は、防災拠点にもなる

神水公衆浴場は、建物の1階部分が銭湯で、2階が黒岩さん家族の住居になっている。一階脇の木の螺旋階段をのぼると、居住空間であるドーム状の空間に出た。

細長いカウンターキッチンに広々としたリビング。子どもたちの遊び場でもある。右は妻のヒロ子さん(写真撮影/野田幸一)

細長いカウンターキッチンに広々としたリビング。子どもたちの遊び場でもある。右は妻のヒロ子さん(写真撮影/野田幸一)

1階の外は交通量の多い道路だが、2階の窓の外には街路樹の緑しか見えない(写真撮影/野田幸一)

1階の外は交通量の多い道路だが、2階の窓の外には街路樹の緑しか見えない(写真撮影/野田幸一)

天井の高い空間が仕切られていて、リビングの裏手が寝室。居住空間の真下が銭湯にあたるため、広い一間でもあたたかかった。

黒岩さん夫妻は二人とも、構造設計士。内装や意匠は手がけないため、設計はワークヴィジョンズの西村浩さんに依頼した。居住スペースの天井に用いたCLT同士の継ぎ手、バタフライ構造などは黒岩さんたちの提案によるものだ。

「自宅なので少しでもコストを抑えられたらと思って、金物を使わない施工法にして、自分も大工の一人になって一緒に工事しました。職人をやっている友人も多いので、幼稚園のころの同級生から大学時の友人たちまで総動員で手伝ってもらいました」

(写真撮影/野田幸一)

(写真撮影/野田幸一)

この建物の設計デザインは、2021年のグッドデザイン賞で、大賞に次ぐ金賞を取った。グッドデザイン賞のページにはこんな記載が掲載されている。設計士の西村さんによる解説だ。

「災害頻度が年々高まる状況に、行政頼みの防災対策には限界が見える。小さくても地域全体に数多く散らばる拠り所が必要で、住宅の基本機能を開く・シェアする災害支援住宅を目指した」

お風呂は人びとの憩いの場であると同時に、災害時にはよりどころにもなる。黒岩さんの妻、ヒロ子さんはこう話した。

「防災とまで言えるかはわからないですけど、結果的にそうなったらいいなと思っています。実際震災のときに不安だったのは、知らない人同士が、防災拠点である学校や体育館に集まって寝泊まりしなきゃいけなかったこと。そのなかに一人でも知り合いが居れば、ぜんぜん気持が違うと思うんです。

熊本市は比較的都会なので、田舎のような人づきあいがあるわけでもない。でも銭湯があることで、近所の方と挨拶したり、顔見知りができると、非常時に違ってくるのかなと思います」

黒岩さんも続けて言う。

「熊本の震災だけでなく、記憶にあるだけでも雲仙の噴火や、大雨による水害など、災害って数年に一度は起こっていますよね。だからそう稀(まれ)な話ではないのかなと思います」

ただ、いくら自宅の延長とはいえ、お風呂は家のなかでもっともプライベートな空間。一般開放することに抵抗はなかったのだろうか。そう聞くと、ヒロ子さんは言った。

「大賛成でもなかったですが、絶対反対ってほどでもなくて。私も建築をやってきたので、考え方としてはわかるなと。ただ、いまは子どもがまだ小さいので、正直それどころではなくて。反対もしなかったけど、いまはお風呂より子育てが大変(笑)。それが落ち着いたらもう少し日常生活のルーティンのなかに、銭湯の仕事も自然と組み込めるようになると思います」

結局、被災後の建設ラッシュに奔走するうちに自宅の建設は後回しになり、銭湯のオープンは地震から5年後の2020年8月になった。だが震災前に比べて店が減り、マンションなどの増えた街並に、銭湯は新しい風を入れた。

お風呂を共同で使うのはあたりまえの文化だった

取材で訪れた日、番台に座っていたのは黒岩さんのお父さん。当初は銭湯を始めることには大反対だったのだそうだ。

「突然風呂屋をやると言うもんだから。そりゃあもう家族どころか親戚一同びっくりでした。風呂屋といえばいまは厳しい産業でしょう。危ないんじゃないかと思ったけど、本人の意思がかたいもんだから。でもまぁオープンして1年半過ぎましたし、徐々にではありますが成果が出ているかなと。いいお風呂でしたと言って帰られるお客様の反応からそう思いますね」

黒岩さんのお父さん、重裕さん (写真撮影/野田幸一)

黒岩さんのお父さん、重裕さん (写真撮影/野田幸一)

黒岩さんは言った。

「もともと共同浴場って九州には普通にあった文化なんです。みんなで管理費を出し合って共同でお風呂を使っていた。いまも小国や鹿児島のほうには残っていますが、それと同じ話だと思えば、それほど特別なことではないのかなと」(黒岩さん)

帰りぎわ、肝心のお風呂に入らせてもらった。浴室は天井が高く広々としていて開放感があって気持いい。何といっても、お湯がよかった。温泉の水質に近いと黒岩さんが話していただけあって、骨の髄まで緩めてくれるようなお湯だった。

脱衣所のようす(写真撮影/野田幸一)

脱衣所のようす(写真撮影/野田幸一)

洗い場の壁には、グラフィックデザイナー・米村知倫さんに描いてもらった絵(写真撮影/野田幸一)

洗い場の壁には、グラフィックデザイナー・米村知倫さんに描いてもらった絵(写真撮影/野田幸一)

時間になって、お父さんと交代するためにお母さんもやってきた。お母さんはこんな話をしてくれた。

「いろんなお客さんが来られるけど、こちらもちゃんと目を見て話すから、変な人は来ないですよ。『ゆっくり入ってきてね~』とか『いま一人だから泳げるよ~』とか冗談を言ったりしてね。

最初は反対しましたけど、いまは楽しんでやらせてもらっています。歳を取ると人と出会うことも減って、世界が狭くなるでしょう。だからむしろこうして人と話す機会をくれてありがとうねって、今は息子たちに言っているんです」

(写真撮影/野田幸一)

(写真撮影/野田幸一)

●取材協力
神水公衆浴場

銭湯がつないだ地域の絆を受け継いで。名物賃貸「パルコカーサ」の子育てコミュニティ

万人に受け入れられることが優先される賃貸住宅でも、あえて他と一線を画す個性や付加価値のある物件が増えてきました。その一つが東京・足立区の「PARCO CASA(パルコカーサ)」。その特色はコミュニティにあります。オーナーが「地域共同体としての賃貸住宅」という考え方のもと、入居者同士の交流、地域活動への参加などを打ち出し、人気物件となりました。2015年2月に完成してから約6年が経った今、あらためてその魅力を探りました。
〈50年以上続いた銭湯跡地に立つ6棟の賃貸住宅〉

「PARCO CASA」は、日暮里舎人ライナーの江北(こうほく)駅から徒歩10分、東武鉄道大師線大師前駅からは徒歩8分という静かな住宅地にあります。
もともとここは、大家さんの田口さん三兄弟(昌宏さん、順功さん、宗孝さん)の祖父が1965年(昭和40年)に開業、50年以上にわたって地域に親しまれてきた銭湯「たちばな湯」があった場所。祖父の後を父が引き継いで続けてきましたが、時代とともに銭湯の利用者も減り、父も高齢になったことから、銭湯を廃業し、跡地に賃貸住宅を建てることにしました。

(写真提供/田口さん)

(写真提供/田口さん)

(写真提供/田口さん)

(写真提供/田口さん)

(写真提供/田口さん)

(写真提供/田口さん)

長男の田口昌宏さんは「賃貸住宅をつくるなら、周辺に新しい物件ができても負けない魅力のあるものにし、安定的に長期経営したいと考えました。それには差別化が必要です。そこに地域コミュニティが活性化してほしいという気持がつながりました」と振り返ります。
 
古来、銭湯は地域の人々の交流の場という機能を果たしていました。そうした環境の中で、田口さん兄弟は幼いころから、銭湯の常連客など地域の人々と関わりながら成長し、その良さを実感していました。一方で近年、どの都市でも人間関係は希薄化し、地域の行事や活動に参加する住民も減っています。そこで田口さんたちは、賃貸住宅が一つのコミュニティであると同時に、入居者一人ひとりが地域コミュニティの一員という姿をめざしたのです。

(写真提供/田口さん)

(写真提供/田口さん)

田口さん兄弟は三人ともサラリーマンで、賃貸住宅経営の経験がなく、立ち上げ段階からハウスメーカーと賃貸管理会社の協力を仰ぎました。賃貸管理会社のハウスメイトパートナーズ(東東京支店)の支店長 伊部尚子さん(現・ハウスメイトマネジメント ソリューション事業本部 課長)は「新築物件は時間の経過とともに価値が下がるもの。そうならないことをめざしたコミュニティ重視型の賃貸住宅が、わずかながら出始めたころ、田口さんに出会いました。そして、この大家さんとならそうした賃貸が可能だと感じたのです」と語ります。
こうして2015年、敷地に6棟からなる賃貸住宅「PARCO CASA」が完成しました。

オーナーの田口昌宏さん(左)は町会の〇〇役も務める。ハウスメイトマネジメントの伊部尚子さん(右)は、“コミュニティ賃貸”の名付け親でもある。お二人の協力がPARCO CASAに結実した(写真撮影/内海明啓)

オーナーの田口昌宏さん(左)は町会の〇〇役も務める。ハウスメイトマネジメントの伊部尚子さん(右)は、“コミュニティ賃貸”の名付け親でもある。お二人の協力がPARCO CASAに結実した(写真撮影/内海明啓)

〈大家さんがきっかけをつくり、入居者に意識が生まれる〉

PARCO CASAは、基本的に子育て世帯を対象にしています。審査にあたっては、町会に参加し、地域社会との関係づくりに前向きであることが条件。実際、子どもや地域活動に関心がないという入居希望者を断ったケースもあるそうです。

(写真撮影/内海明啓)

(写真撮影/内海明啓)

田口さんは、入居者同士の親交を深めるため、バーベキュー(春、秋の年2回開催)、子ども向けのビニールプール設置(夏)などを行っています。「入居者主導でないとコミュニティの活動は継続しないと思います。大家としてまずは、それを促すきっかけづくりに力を入れました」

田口さんの考え方は、町会費の集金の方法にも表れています。「PARCO CASAが完成してすぐ、入居者の皆さんの親睦を深めるためにバーベキューを開催しました。入居者の中には積極的にリーダーシップをとってくださる方がいます。その方に町会の集金を依頼し、以後、入居者が持ち回りで班長を務め、手渡しで集金してくださるようにお願いしました」(田口さん)

(写真提供/田口さん)

(写真提供/田口さん)

(写真提供/ハウスメイト)

(写真提供/ハウスメイト)

一般的に町会費は家賃(共益費)に含めますが、あえて家賃とは別に支払ってもらい、しかも手渡しという形を取ったのは、コミュニティへの当事者意識を持ってもらうねらいがあります。このやりかたは今も続いています。
町会費は月500円、一般的な町会費よりも高めです。それでも地域に参加し、また見守られていることに入居者は満足しています。

こうした試みが奏功し、PARCO CASAは入居者が長く住み続ける人気物件となりました。
「なかなか部屋が空かないうえ、空いてもすぐ次の方が決まるため、仲介店にいるのに内部を見る機会のない社員も多いほどです」と仲介のハウスメイトショップ北千住店店長の牟田優作さんは言います
また、管理面でも利点は多く、「滞納やクレームがなく、管理の楽な物件です。入居者様にとってはオーナー様(大家さん)の顔が見え、普段からコミュニケーションが取れているため、相談しやすいようです」と同社東東京支店 管理担当・田中雄二さんも続けます。

PARCO CASAに隣接するたちばな公園。夏祭りや餅つき大会に利用されるなど、地域の共有スペースになっている(写真撮影/内海明啓)

PARCO CASAに隣接するたちばな公園。夏祭りや餅つき大会に利用されるなど、地域の共有スペースになっている(写真撮影/内海明啓)

(写真提供/田口さん)

(写真提供/田口さん)

〈住んで初めてコミュニティを意識する〉

現在の入居者の方々はどのように感じているのでしょうか。
竣工間もない2015年5月に入居したKさんは4歳の娘さん、1歳の息子さんを持つ4人家族。「私も夫も都内の実家暮らしで、新居を持つとき、通勤のしやすさを考えて探しました。家賃も都内の他の地域より安いし、デザインにも引かれて直感的に決めました」(妻のM.Kさん)。
それまでコミュニティを意識することはなく、「面倒なのではないか」という思いも正直あったそうです。「しかし住んでみると、町会の方々が先導して地域の人々をつなげてくれる環境があり、ありがたいと感じましたね。オーナーの田口さんがバーベキュー、夏祭り、餅つき大会などを通じ、親子で地域に関われるようにしてくださったことにも、安心しました。お子さんのいる家族が近所にいるのでつながりは自然にできていきました」
以前住んでいて転居した人が、故郷を訪ねるかのように、バーベキューのときに来るといったこともあり、「自分が将来どこに住むにしても、ここが出発点と言える喜びがあります」(M.Kさん)

敷地内で遊ぶ娘さんとM.Kさん。公園が隣接していること、スーパーの近さも魅力だったと語る (写真撮影/内海明啓)

敷地内で遊ぶ娘さんとM.Kさん。公園が隣接していること、スーパーの近さも魅力だったと語る (写真撮影/内海明啓)

一方、最初から地域コミュニティとのつながりを知って、2018年7月に入居したのがCさんご一家。5歳の娘さんがいるほか、この4月に第二子の誕生予定です。夫は茨城、妻が群馬の出身。2011年に結婚してすぐ住んだのはPARCO CASAにほど近い1LDKのマンションでしたが、お子さんが成長するにつれ手狭になり、物件を探しました。
「子どもを育てる中で、地域やコミュニティへの意識が強まりました。自分も子どものころは地域の人々にかわいがってもらい、成長できたという思いがあり、自分の子どもたちにもそういう環境を与えたいと思いました。そこでネットで物件を探し、PARCO CASAを知りました。最初は空きがなく、諦めかけましたが、ちょうど空きが出たので翌日に申し込み、運良く入居できました」(夫のS.Cさん)

それまでごく近い場所に住んでいたにも関わらず、町会も、地域の祭もよく知らずに暮らしていたそうです。「若いころはコミュニティを意識できませんが、子どもを持ったことでそれが大きく変わりました。バーベキューやプールなどは子どもがすごく喜ぶだけでなく、親としては、いろいろな方が子どもの相手をしてくれることがうれしいですね」

Cさんのご家族。4月には家族が一人増える。夫のS.Cさんはリモートワークが増えたため、メゾネット形式を活かし、1階の一角を仕事スペースとし、家族との生活は主に2階にしている(写真撮影/内海明啓)

Cさんのご家族。4月には家族が一人増える。夫のS.Cさんはリモートワークが増えたため、メゾネット形式を活かし、1階の一角を仕事スペースとし、家族との生活は主に2階にしている(写真撮影/内海明啓)

夫婦二人とも地元(西新井)出身で、2020年の4月から入居しているのがSさんご夫妻。この4月に長男誕生の予定です。二人は結婚前から一緒に住む家を探していたのですが、縁あってPARCO CASAに入居でき、2020年9月に結婚しました。
「幼いころから町内の行事などにも参加していたので、町会の方々とも知り合いで、そのまま自然に溶けこんだ感じです」(妻のE.Sさん)。「私の場合は地域と深く関わってきたわけではないのですが、これから子どもを持つ身としては、周囲に見守ってもらえる安心感があります」(夫のH.Sさん)

2020年に入居したばかりのSさんご夫妻。4月に長男誕生の予定だ。地元出身の二人はコロナ禍ということもあり、知人・縁者の多い地域で暮らす安心感を重視した。PARCO CASAのフローリングはすべて無垢材製で、子育てに適した柔らかさと温もりが特色(写真撮影/内海明啓)

2020年に入居したばかりのSさんご夫妻。4月に長男誕生の予定だ。地元出身の二人はコロナ禍ということもあり、知人・縁者の多い地域で暮らす安心感を重視した。PARCO CASAのフローリングはすべて無垢材製で、子育てに適した柔らかさと温もりが特色(写真撮影/内海明啓)

PARCO CASAの1階洋間。E棟を除きメゾネット形式で、1階に洋間2部屋(4.5~6.5畳)が、2階にLDK(12.5畳~13.5畳)がある(写真撮影/内海明啓)

PARCO CASAの1階洋間。E棟を除きメゾネット形式で、1階に洋間2部屋(4.5~6.5畳)が、2階にLDK(12.5畳~13.5畳)がある(写真撮影/内海明啓)

広々とした浴室は、銭湯一家に育った大家さんのこだわり。親子で入浴しやすいように、賃貸住宅には珍しい一坪タイプを採用 (写真撮影/内海明啓)

広々とした浴室は、銭湯一家に育った大家さんのこだわり。親子で入浴しやすいように、賃貸住宅には珍しい一坪タイプを採用 (写真撮影/内海明啓)

〈災害に対し、強さを発揮するコミュニティ〉

新型コロナの影響はPARCO CASAにも及んでいます。入居者から好評のバーベキューはできず、集まること自体ができなくなっています。この夏はビニールプールを貸し出し、交代で利用するようにしましたが、大きなイベントはできないままです。それでも「自粛中も隣近所と会えば挨拶は交わしますし、そばに知り合いがいるのは心強い」(M.Kさん)とのことです。

田口さんは、コロナ禍に限らず、災害対策や防犯にコミュニティが果たす役割の大きさも感じています。信頼できる人間関係があり、人の目が多いことはセキュリティ向上につながります。ハードウェアの点でも、PARCO CASAの敷地内には監視カメラが3台設置され、「今後、災害時用の雨水貯水タンクを設置したい」(田口順功さん)など、拡充を計画しています。
「足立区の取り組みに『ながら見守り』があります。これは日常生活の中で不審な人物や車両がないか気にかけ、子どもや地域の安全を守ろうという活動で、有志が自由に申し込んで参加できるもの。こうした情報も入居者には提供しています」(田口さん)

もともと田口さんは、入居者のコミュニティを醸成するに当たり、「強制はせず、積極的に情報を提供し、自主性に任せる」という姿勢で取り組んできました。このことがコミュニティを、入居者にとって、より自由で、縛りの緩やかな、快適なものにしたと考えられます。
これは田口さんが大手メーカーに長く勤務してきたこととも関係があります。「30年以上、顧客満足を起点に仕事をしてきましたから、賃貸住宅経営にもその視点が活かされたと思います」(田口さん)。
かつての地縁社会の良さを残しつつ、現代の入居者が満足できるコミュニティ。それをつくり上げてきたからこそ、PARCO CASAは愛される物件になったと言えるでしょう。

●取材協力
パルコカーサ
株式会社ハウスメイト

仕事後にひとっ風呂!「小杉湯となり」で銭湯コミュニティを高円寺に

ワークスペースで根を詰めて仕事をしてから、30秒後には湯船でリフレッシュ――。そんな夢のような空間がある。舞台は若者に人気の街、東京・高円寺。昭和8年創業の人気銭湯、小杉湯の隣に誕生した「小杉湯となり」。

その狙いは? 利用料金は? 銭湯以外の売りは? ここを運営する株式会社銭湯ぐらしの代表・加藤優一さんに聞いた。
2階のワークスペースでガチの原稿を書く

小杉湯は高円寺駅北口から徒歩5分。

庚申通りを途中で左折します(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

庚申通りを途中で左折します(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

1日の平均利用客数は約300人。「終電で帰ってきた人にも利用してほしい」という思いから、営業時間は深夜1時45分までだ。

レトロな唐破風屋根が存在感を放つ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

レトロな唐破風屋根が存在感を放つ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

そして、その隣にあるのが一転モダンな外観の「小杉湯となり」。1階はカフェ、2階はワークスペース、3階は貸しスペースだ。2階の一角をちょいとお借りして、締め切りを過ぎたガチの原稿を書く。

建主は小杉湯、建築設計はT/Hが担当した(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

建主は小杉湯、建築設計はT/Hが担当した(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

2階では皆さん、黙々と仕事をしていらっしゃる。

これは……集中できるぞ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

これは……集中できるぞ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

原稿終了。合宿所のような雰囲気のおかげか、なかなかのものが出来上がった気がする。

番台の看板娘に470円を払って、いざ入浴

お次は、いよいよ銭湯タイムだ。下駄箱に靴を預けると、番台の看板娘に470円を払う。仕事道具以外は持ってきていないが、無料のレンタルタオルがあった。

「はーい、ごゆっくり」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「はーい、ごゆっくり」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小杉湯には名物のミルク風呂、週替わり風呂、日替わり風呂、水風呂と温度と香りの違う4つの浴槽があり、わざわざ電車やバスに乗って遠方から訪れる客も多い。

「温冷交互浴」は小杉湯の代名詞(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「温冷交互浴」は小杉湯の代名詞(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

入浴後はロビーでくつろぐ。風呂上がりといえばビールだろう。

クラフトビールの品ぞろえがすごい……(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

クラフトビールの品ぞろえがすごい……(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

迷った末に大森山王ブルワリーの小杉湯限定ボトルにした。代表の町田佳路さんが自ら醸造している。

最高やないか……(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

最高やないか……(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

物語はここに建っていた風呂なしアパートから始まる

さて、時計の針をちょっと戻して「小杉湯となり」の話に戻す。

物語はもともとこの場所に建っていた風呂なしアパートから始まる。老朽化のために取り壊しが決まり、住民は次々に退去。それを機に「銭湯ぐらし」というプロジェクトがスタートした。

発起人は現・株式会社銭湯ぐらし代表の加藤優一さん(33歳)。あの「東京R不動産」の発起人がつくった設計事務所Open Aの社員でもあり、そこでは空き家の活用や全国の衰退したまちの再生などの仕事に携わっている。

小杉湯が好きすぎて、いまだに近所にある家賃3万円の風呂なしアパートに住んでいる(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小杉湯が好きすぎて、いまだに近所にある家賃3万円の風呂なしアパートに住んでいる(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「取り壊しまで約1年。空き家にしておくのももったいないということで、小杉湯3代目の平松佑介さんに相談しました。最終的には、高円寺のクリエイターたちに声をかけることに。家賃0円で住める代わりに、銭湯に寄与する創作活動をしてもらうというプロジェクトを始めました」

こちらが在りし日の風呂なしアパート(写真提供/小杉湯となり)

こちらが在りし日の風呂なしアパート(写真提供/小杉湯となり)

「銭湯ぐらし」ではクリエイター同士による付かず離れずのコミュニティが生まれた。

共通点は「銭湯のある暮らし」を楽しんでいること(写真提供/小杉湯となり)

共通点は「銭湯のある暮らし」を楽しんでいること(写真提供/小杉湯となり)

コロナ禍の直前にプレオープンを果たすも……

アパート解体後も当時のメンバーらが中心になって、“銭湯込みでホッとできる開かれた場所づくり“を模索。その活動が2020年3月にプレオープンを果たした「小杉湯となり」として結実する。

1階はカフェ、2階はワークスペース、3階は貸しスペースになっている。
「スーパー銭湯はひとつの施設ですべてを完結させようとしています。でも、ここはあくまでも“拠点”。1日に1回、湯上りに小杉湯となりでリラックスしてそのあとちょっと飲みに行くとか。街に暮らすようなライフスタイルを定着させる場をつくりたいという思いがありました」

銭湯のような光が入る設計(写真提供/小杉湯となり)

銭湯のような光が入る設計(写真提供/小杉湯となり)

しかし、すぐにコロナ禍が到来。4月、5月は施設内営業をやめて、デリバリーとテイクアウトのみで対応した。

高円寺の飲食店とコラボした企画の一例(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

高円寺の飲食店とコラボした企画の一例(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

また、外出を控えている人たちのためにEC事業で「銭湯のあるくらし便」も始めた。「米ぬかやハーブなどの入浴セットで銭湯気分を味わってほしい」という試みだ。

捨ててしまう米ぬかなどを活用したお風呂のもとをお届け(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

捨ててしまう米ぬかなどを活用したお風呂のもとをお届け(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

自粛期間が終わったあとも、加藤さんはホッとできる場所をどうやって守っていくか悩んだ末、当面は会員制にして7月から再始動させることにした。月額2万円で各設備を使い放題というシステムだ(コロナが収束した後の運営方法や料金については、スタッフや会員と相談しながら決めていく予定)。

募集をかけると40名の枠はすぐに埋まった。現在は60名で運用している。1階はキッチン付きのカウンターとテーブル席、2階は畳を敷いた小上がりのワークスペース、3階はトイレ・シャワー完備の6畳間だ。

こちらは徐々に稼働を始めたころの1階の様子(写真提供/小杉湯となり)

こちらは徐々に稼働を始めたころの1階の様子(写真提供/小杉湯となり)

「最初は一人暮らしでフリーランスの人が集まるイメージ。でも、実際は夫婦ともにリモートワークになって家の中での居場所づくりが難しい方や、在宅育児等で息が詰まって気分転換をしたい女性などからも応募がありました」

男女比は半々ぐらい。純粋なコワーキングスペースというよりは、シェアキッチンでご飯をつくりに来る人や、風呂に入った後に昼寝して帰る人など、使い方は自由だ。加藤さんはここを「街の中にある、もう一つの家」と呼ぶ。

会員たちにも話を聞いてみよう。1階ではフリーランスデザイナーの男女が仕事をしていた。

スタバ感覚でコーヒーを飲みながら働いている(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

スタバ感覚でコーヒーを飲みながら働いている(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

男性(20代)が言う。

「ここを利用するのは気分転換ですね。拡張リビングというか。集中するときは2階、音を聞きながらの作業は1階と使い分けています。小杉湯ですか? 週に4、5回は入るかな。家にお風呂はありますけど(笑)」

会員の女性が手づくりのバスクチーズケーキを振る舞う

その時、キッチンから「バスクチーズケーキ食べたい人~?」という声。ほぼ全員が手を上げる。

スペインのバルが発祥のチーズケーキなんだそうですよ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

スペインのバルが発祥のチーズケーキなんだそうですよ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

彼女はイラストレーターのハラユキさんで、やはりここの会員。9月初旬から10月中旬にかけて小杉湯でスペインをテーマにしたイベントを開催するため、現地の料理を研究していた。

8月に『オラ!スペイン旅ごはん』を出版したばかり(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

8月に『オラ、スペイン旅ごはん』を出版したばかり(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

1階には駄菓子屋もあった。本当です。アルバイトのみずきさんが“経営”する「みずき屋」だ。

あ、伝説の「ペペロンチーノ」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

あ、伝説の「ペペロンチーノ」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「小杉湯に通っていたら、加藤さんに声をかけてもらって銭湯ぐらしに参加させてもらいました。駄菓子屋を開くのがずっと夢だったので、めっちゃ楽しい。今、大学3年生なんですが、コロナ禍で学科の実習ができないから、最近は主にここにいます(笑)」

今日は屋内のみだが、週末は軒下でマルシェを開催。ほかにもスタッフが自主開催するテイクアウトのカフェも人気だ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

今日は屋内のみだが、週末は軒下でマルシェを開催。ほかにもスタッフが自主開催するテイクアウトのカフェも人気だ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

掲示板で情報交換、ランチのおすすめマップも

さらに、屋内をもっと見て回ろう。加藤さんにあらためて案内してもらった。

掲示板では会員同士が情報交換(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

掲示板では会員同士が情報交換(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「平日ランチおすすめマップ」もうれしい(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「平日ランチおすすめマップ」もうれしい(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「2階には本棚を置きました。小杉湯関係者や高円寺の飲食店の人などが、それぞれの趣味のコーナーをつくっています」

中には銭湯ぐらしメンバーのお子さん「なっちゃん」の本棚も(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

中には銭湯ぐらしメンバーのお子さん「なっちゃん」の本棚も(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

銭湯のような“ゆるっ”としたコミュニティをつくりたい

最後に3階へ。ここは貸しスペースとして利用されている。

2階と比べて眺望が一段広がる(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

2階と比べて眺望が一段広がる(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

この辺りはそれほど高いビルがないので、抜け感が楽しめる。

「テラスにハンモックを入れたんですよ」とうれしそうな加藤さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「テラスにハンモックを入れたんですよ」とうれしそうな加藤さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小杉湯の屋根越しに高円寺駅方面を望む(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小杉湯の屋根越しに高円寺駅方面を望む(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「まずは会員制にして利用者にとって安心安全な場所をつくる。コロナが終息したら、どのように高円寺というまちに開いていくかをみんなで考えたいと思います」

芝生の養生が済んだら多目的に使える中庭(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

芝生の養生が済んだら多目的に使える中庭(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小杉湯に入って印象的だったのは、脱衣場でも、洗い場でも、そして浴槽でも、利用客同士が細やかな互いへの気遣いを見せていたこと。銭湯は年代を超えた人々が集まる学校のようなものなのかもしれない。

「そうなんですよ。銭湯は顔は見たことがあるけど名前は知らないという関係性がある場所。あれぐらいの距離感を目指して、“ゆるっ”としたつながりのある場所をつくりたいです」

ほどよい距離感が心地いい。しかも、すぐ隣に皆さんが大好きな銭湯。芝生の養生が終わるころには“いつもの日々”が戻っていてくれますように。

●取材協力
小杉湯
小杉湯となり

ランナー人気でも再注目!銀座や半蔵門、“超都心”の銭湯に行ってみた

世界有数のお風呂好きである日本人にとって、広く、快適な近隣の銭湯は、内風呂では味わえない癒しに満ちたリラックス空間といえます。

ただし、その数が年々減っているのはご存じの方も多いでしょう。東京都の情報サイト「東京くらすWEB」によると、2005年に1025軒あった都内の銭湯は、2017年には562軒と10年余りでほぼ半減しています。

しかし「一浴場当たりの平均入浴人員」の推移に目を移すと“逆転現象”が生じていることが分かります。2013年に119人だったのが、2017年には132人にまで回復しているのです(すべて各年12月末現在の数値)。

古き良き銭湯が、年とともに姿を消していくなか、なぜ利用者が増えているのか? ひとつの理由として考えられるのが“銭湯ランナー”の増加です。

特にアツいのはランナーの聖地・皇居に近い銭湯

“銭湯ランナー”達が特に支持するのは、ランニングコースが整備された場所に近い銭湯。脱衣所に荷物を置き、ウェアに着替えて出走。ランニング後、銭湯に戻って汗を流す。銭湯を拠点にランを楽しむ人=銭湯ランナーというわけです。最近では「銭湯ランナー歓迎」をアピールする銭湯も少なくありません。

都内でランニングコースが整備されている場所は多々ありますが、何といってもその代表格は「皇居」の外周路でしょう。一周約5キロと距離的にキリが良い、信号がなく走りやすい、皇居のお濠の豊富な水や緑、歴史ある城郭などを眺めながら走れる、一部には高低差約30mの場所もあって、それなりにタフなコースでもある…などなどの好条件がそろい、「ランナーの聖地」とも呼ばれています。

ただ、皇居のそばとなると、エリアとしては「超」がつく都心部です。働く人は多くても、住人は少なく銭湯なんてないのでは…?とイメージしてしまいがち。

ところが! そんな超都心でも元気に営業し、ランナーの人気を集める銭湯はちゃんと存在しています。今回は皇居を挟み、東西に位置する2つの銭湯を訪ねてみました。

アフターのごほうび美食も魅力!銀座の一角にたたずむ銭湯銀座のど真ん中にたたずむ「銀座湯」(写真撮影/保倉勝巳)

銀座のど真ん中にたたずむ「銀座湯」(写真撮影/保倉勝巳)

まずは皇居の東側、中央区銀座1丁目の、その名もズバリ「銀座湯」。銀座界隈の各駅が徒歩圏で、例えば、都営浅草線宝町駅徒歩約1分、有楽町線銀座一丁目駅、銀座線京橋駅ともに徒歩約5分のほか、東銀座、銀座、有楽町、日比谷、東京なども利用できる希少なロケーションが特徴です。

営業開始は1975年。お客さんは地元中央区をはじめとした幅広い世代の住人が中心です。利用されるお年寄りのなかには、浜町や八丁堀、新富町方面から都営線や都バス、無料バスなどの公共交通を使って銀座や日本橋を訪れ、その前後に湯につかってコミュニケーションを楽しむ方も。また、食事、飲み会の前にひと風呂浴びたいという方や近隣で働くビジネスマンや店員さん、都営浅草線で成田、羽田へ直通であることから、深夜のフライト前や帰国後にここに寄ってサッパリしていく方、さらには地方から上京した就活生など、実に多様な人たちが訪れるそうです。

1階にある女湯の脱衣所(写真撮影/保倉勝巳)

1階にある女湯の脱衣所(写真撮影/保倉勝巳)

1階女湯のタイル壁画は隅田川の花火大会を描かれている(写真撮影/保倉勝巳)

1階女湯のタイル壁画は隅田川の花火大会を描かれている(写真撮影/保倉勝巳)

2階男湯のタイル壁画は銀座4丁目交差点(写真撮影/保倉勝巳)

2階男湯のタイル壁画は銀座4丁目交差点(写真撮影/保倉勝巳)

銭湯ランナーが増え始めたのは、2007年に始まった東京マラソン前後。皇居外周路の二重橋前まではジョギングで10分少々の距離なので、ウォーミングアップにちょうど良いことに加え、日本有数の旨い店集積地帯である銀座、日本橋の近さもランナー人気の要因でしょう。ランニングでしっかりカロリーを消費し、銭湯で汗を流した後、ビールで喉を潤してから美食を楽しむ、というわけです。

「皇居方面だけでなく、きれいで広いジョグコースが川岸に整備されている隅田川もランで10分程。川風に吹かれながらスカイツリーや屋形船を眺めて走ったり、下町情緒に浸りながらランニングできるのも銀座湯の良いところです」(時々銀座湯を利用する銭湯ランナー)

ただし、ランニングで利用する際には注意も必要。利用者の中心は一般の住人やビジネスマン、観光客などです。そのため、ラン利用であることを申し出る、ロッカーのカギ預けの際に名前を言う、ランニングは最長でも2時間、銭湯内ではランニングシューズの泥が床に落ちないように袋に入れて持ち運ぶこと、などのルール、マナーをお忘れなく。

上記を守って快適なランニング&アフターを!

ランナーズコミュニティが醸成された、最も皇居に近い銭湯半蔵門駅から徒歩2~3分「バン・ドゥーシュ」(写真撮影/保倉勝巳)

半蔵門駅から徒歩2~3分「バン・ドゥーシュ」(写真撮影/保倉勝巳)

お次は皇居の西側、千代田区麹町1丁目の「バン・ドゥーシュ」。半蔵門線半蔵門駅徒歩1分、有楽町線麹町駅徒歩5分と、こちらもアクセスは抜群の上、皇居外周路の半蔵門までは約300m、走れば2~3分の距離。“最も皇居に近い銭湯”と呼ばれています。

界隈にはオフィスや大学、ホテルなどが集まる一方、千代田区番町を中心に古くから高級マンションが多く、表通りから一本裏に入れば閑静な住宅街も。実はバン・ドゥーシュも110戸超の大規模マンションの1階につくられており、ランナーだけでなく地元在住の常連さんも多いといいます。

取材に答えていただいた橋富和子さん。銭湯利用者には毎回、ドリンク、レトルトカレーやご飯、カップ焼きそばなどをサービスしている。取材当日はアルファベットチョコレートだった(番台右)(写真撮影/保倉勝巳)

取材に答えていただいた橋富和子さん。銭湯利用者には毎回、ドリンク、レトルトカレーやご飯、カップ焼きそばなどをサービスしている。取材当日はアルファベットチョコレートだった(番台右)(写真撮影/保倉勝巳)

銭湯・マンションのオーナーで、1982年の営業開始時から番台に座る橋富和子さんは「『バン・ドゥーシュ』というハイカラな名前は、フランス語で“ジャグジー”の意味。マンションを分譲する際、販売会社さんが“洗練されたイメージにしましょう”とアイデアを出されたことが由来です。ランナーで混雑するのは週半ば~後半の18時~22時頃。近所にお住まいの方はその時間帯を避けて来られます。うちとしてはランナーさんと地元の方ともにご利用いただいていて、ありがたく思っています」と説明してくれました。

銭湯ランの拠点としても人気が出始めたのは、やはり東京マラソンの開始によってランニングブームが起きた2007年ころ。以降、近隣にはシャワー&ロッカー施設が整った“ランニングステーション”も増えたのですが、バン・ドゥーシュを根強く支持するある銭湯ランナーは「普通の銭湯に比べたらコンパクトだけど、ジャグジー付きの湯舟はランステにはない魅力。15~20キロと走り込んだ後、マッサージ代わりに浸かるのが好きです。ランナー同士助け合う雰囲気も良いんですよ。“僕はもう出ますのでここのロッカー、お次にどうぞ”なんて親切に教えてくれたり、洗い場でもシャワーや泡が飛び散らないように周りに配慮しながら使っていたり。バン・ドゥーシュで知り合いになり、ランニング仲間を増やしたランナーも珍しくないですよ」と話します。

出走前には、番台に預けたロッカーキーの番号と名前をホワイドボードに書き込み、戻ってきたら消すルール(写真撮影/保倉勝巳)

出走前には、番台に預けたロッカーキーの番号と名前をホワイドボードに書き込み、戻ってきたら消すルール(写真撮影/保倉勝巳)

番台前にはシューズラックを設置(写真撮影/保倉勝巳)

番台前にはシューズラックを設置(写真撮影/保倉勝巳)

もうすぐ街に新緑が映える季節。暑くもなく寒くもなく、ランニングには一年で最も適したシーズンを迎えます。今回紹介した銭湯を拠点に皇居ランを楽しむも良し、あるいは自宅近所の銭湯に聞いてOKなら、そこをベースにジョギングするもまた良し。なくすには惜しいご近所の癒し空間「銭湯」を、ランニングという新たな視点で活用してみませんか。

ハイパー銭湯「BathHaus(バスハウス)」。仕事の後は風呂に浸かってビールをキュッ!

銭湯にコワーキングスペースとバーを取り込んだのがハイパー銭湯「BathHaus(バスハウス)」。仕掛けたのは株式会社chill & workの代表としてさまざまなプロジェクトを手がけている榊原綾香さん(29歳)だ。

小田急線の代々木八幡駅から歩いて10分弱。一見するとビルの1階にあるカフェのようなたたずまいだが、こここそが「BathHaus」だ。

仕事をしに来る人と地元民とのおもしろい交流を生み出したいもともとは日本茶販売店の自社ビル。地下にコワーキングスペース、1階に銭湯とバーがある(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

もともとは日本茶販売店の自社ビル。地下にコワーキングスペース、1階に銭湯とバーがある(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

せっかくなので、自慢のクラフトビールをいただきながら話を伺うことにした。

タップ(ビールサーバーの注ぎ口)を背に語り始める榊原さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

タップ(ビールサーバーの注ぎ口)を背に語り始める榊原さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

彼女は神戸大学を卒業後、GREEに入社し、ソーシャルゲームの開発に携わる。その後、何度かの転職を経て2017年に独立した。

「日常のなかで気軽に立ち寄れるような、仕事もできるしくつろぐこともできる理想の空間があるといいなと、かねてより考えていました。銭湯とクラフトビールバーというオープンなコミュニティを併設したコワーキングスペースなら、働きに来る人と地元民のおもしろい交流が生まれるのではないかと思いまして」(榊原さん、以下同)

内装イメージは1920年から40年ぐらいの海沿いのリゾート地男湯と女湯は1週間ごとに入れ替わる。もうひとつはタイル張りのお風呂(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

男湯と女湯は1週間ごとに入れ替わる。もうひとつはタイル張りのお風呂(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

ここで、気になっていたことを聞いた。「BathHaus」って20世紀初頭にドイツで創設された造形学校の「バウハウス」に掛けていますか?

「あ、そのとおりです。名付けは少し意識しました。バウハウスが目指していた、機能的ながら人間味のあるデザインの道具や家具などが元々好きであったことと、1920~40年代のどこか懐かしい雰囲気を目指すことで居心地のいい空間をつくりたかったこともあり、『BathHaus』という名前にしました。だから、ハウスはドイツ語の『Haus』にしています」

内装は1920~40年代のリゾートをベースに、レトロになりすぎないよう現代らしさも加えて仕上げた。

(写真提供/榊原さん)

(写真提供/榊原さん)

戸棚は近所のビンテージ家具を売っている店で、レトロな野球盤はのみの市で購入した(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

戸棚は近所のビンテージ家具を売っている店で、レトロな野球盤はのみの市で購入した(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「私はビンテージの家具も好きで、当時のつくり手が使いやすさとデザインにこだわったことが感じられる物と出合い、それをまた受け継いで使えるということにうれしさを感じるんです。言葉にできないかわいさや使い勝手のよさに惹かれます」

榊原さんの自宅リビングも好きなイメージ、好きなもので統一されている(写真提供/榊原さん)

榊原さんの自宅リビングも好きなイメージ、好きなもので統一されている(写真提供/榊原さん)

クラフトビール店とコラボして開発した「HINOKI BITTER」

クラフトビールに話を戻す。

5種類のクラフトビールは自身の舌で味を確認したのちに、東京、奈良、京都の醸造所から取り寄せている(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

5種類のクラフトビールは自身の舌で味を確認したのちに、東京、奈良、京都の醸造所から取り寄せている(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

勧められるまま、「HINOKI BITTER」のハーフ(700円)を注文。

2017年、高円寺にオープンした人気のクラフトビール店、「アンドビール」とコラボして開発したもの(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

2017年、高円寺にオープンした人気のクラフトビール店、「アンドビール」とコラボして開発したもの(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「カンナで削ったヒノキのチップを、ビールを煮沸する工程で一緒に煮出しています。使用するヒノキの量や煮沸時間などの掛け合わせで、風味を調整しているんですよ」

おお、最後にふわっとヒノキの香りが立ち上がってくる。これは、日を改めてほかのビールも飲まないと……。

気分転換でふらっと訪れた八幡湯がすごくよかった

さて、コトの経緯の続きだ。榊原さんが生まれ育ったのは大阪のベッドタウン、堺市。近所にいわゆる“街の銭湯”はなく、数カ月に一度ぐらいのペースで父親に連れられて国道沿いのスーパー銭湯に行く程度だった。

「神戸に住んでいたときは大学の近くに銭湯が2、3軒あって、そこで初めて銭湯を体験したんです。とはいえ、六甲山に登ったり、スポーツしたりした後に立ち寄るぐらいで日常には入り込んでいませんでした」

上京してから、街のあちこちに銭湯がある環境に驚く。東京で初めて行った銭湯は新卒で入社した会社の近く、黒湯で有名な麻布十番の「竹の湯」だ。

「頻繁に行くようになったのは2017年から。独立したタイミングで代々木公園エリアに引越したんですが、基本的に毎日家で一人で仕事をして、たまに打ち合わせのために外に出るという生活。気分転換に近所の『八幡湯』を訪れてみると、想像以上に気持ちを切り替えることができて驚きました」

のんびりとお湯に浸かって体はすっきりし、さまざまな人としゃべることで気分もほぐれた。地元の八幡湯は今でも一番好きな銭湯だという。

銭湯は江戸時代から庶民や下級武士たちの社交場

そんな榊原さんが今回のプロジェクトを始めるきっかけの一つとなったのは海外での体験だった。大学1年生のときに行ったニューヨークでは、現地の人に洋服を「それ、いいね。どこで買ったの?」と褒められた。日常生活で通りすがりの人に何かを褒められるという経験が初めてだったため、前向きでオープンなカルチャーに衝撃を受けながらも、とても心地よく感じたという。

物件の受け渡し時はスケルトン状態だった(写真提供/榊原さん)

物件の受け渡し時はスケルトン状態だった(写真提供/榊原さん)

「留学や就職を経て、しばらくして銭湯に通うようになり、銭湯でのコミュニケーションに海外で感じた心地よさに近いものがある気がしたんです。ジェットバスに浸かっているおばちゃんに『私、ジェットバス嫌いなのよ』と謎の告白をされたりと、気の抜けた感じがすごく楽(笑)。社会に出てから、満員電車に疲弊したり、固定された働き方に疲れている人が多いことに疑問を持ち続けていたのですが、銭湯のような寛容さが現代人の暮らしに広がればマイペースに気持ちよく日々を過ごせる人が増えるのではないか?と思ったんです」

12月2日に行われたプレオープンパーティーは多くの人々でにぎわった(写真提供/榊原さん)

12月2日に行われたプレオープンパーティーは多くの人々でにぎわった(写真提供/榊原さん)

確かに、SNSなどが発達した昨今は人付き合いも均質化してゆく。銭湯のような雑多な人たちが集まって何でもない会話を交わせる場所は貴重かもしれない。そもそも、銭湯は江戸時代から庶民や下級武士たちの社交場。時には落語会なども行われた。

そんな文化は現在にも受け継がれている。高円寺の「小杉湯」は2017年に隣接する空きアパートにさまざまなクリエイターが入居する「銭湯ぐらし」という試みを実施した。また、上野の「日の出湯」は今年10月、銭湯と音楽が融合するイベント「ダンス風呂屋」を開催している。

融資とクラウドファンディングで資金調達

「やる」と決めてからは一気にギアが上がり、金融機関からの融資を取り付けるとともにクラウドファンディングで資金を募り、初期費用を見事に調達。榊原さんの思いに共感した協力者やクリエイターも続々と集まってきた。

バーと銭湯は誰でも入れるエリアだが、地下のコワーキングスペースはメンバー(有料会員)のみ。全40席でWi-Fi完備。複合プリンター、冷蔵庫も自由に使える。

コワーキングスペースの利用時間は9時~23時(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

コワーキングスペースの利用時間は9時~23時(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

月額の利用料金はできるだけ安く抑えた。フリーデスクは5万円、週末のみ利用する場合は2万円、1日利用は3500円などを用意している。

モダンな内装デザインと懐かしいケロリンがマッチ

そして、いよいよ銭湯エリアをご紹介しよう。一般向けには、銭湯 700円(レンタルタオル別途200円)を用意しており、コワーキングスペースの利用者には月額9800円でパスポートならぬ「バスポート」を発行し、入り放題となる。

2018年12月9日にオープン。プレオープンは足湯のみで営業していた(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

2018年12月9日にオープン。プレオープンは足湯のみで営業していた(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

モダンな内装デザインと懐かしいケロリンが妙にマッチするから不思議だ。

のれんのイラストはもともと面識のあった白根ゆたんぽさんにお願いした(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

のれんのイラストはもともと面識のあった白根ゆたんぽさんにお願いした(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

泉州タオルの老舗「ふくろやタオル」のフェイスタオルと、「チル&ワーク」という刺繍入りのスウェットは購入も可(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

泉州タオルの老舗「ふくろやタオル」のフェイスタオルと、「チル&ワーク」という刺繍入りのスウェットは購入も可(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

バースペースで販売するコーラ(500円)は有機栽培の砂糖でつくられたオーガニックドリンク(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

バースペースで販売するコーラ(500円)は有機栽培の砂糖でつくられたオーガニックドリンク(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

ドリンクやフードは自分がいいと思ったものを出したいという。家具、タオル、スウェットもつくり手の思いが見えるものを厳選した。

仕事して、ひとっ風呂浴び、ビールを引っ掛けてから帰宅

そんな彼女にとって銭湯は多種多様な価値観に触れられる場所、心からくつろげる場所の一つである。

「独立して会社名をどうしようか考えているときに浮かんだのが『チル&ワーク』という単語。一生懸命集中した後は銭湯でのんびりくつろぐ。仕事場と銭湯が併設していれば、普段は面倒が理由で湯船に浸かることができない人でも気軽に安らげるのではないかと思います」

来年1月以降には、こんな光景が日常的に繰り広げられるはずだ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

来年1月以降には、こんな光景が日常的に繰り広げられるはずだ(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

コワーキングスペースでは「チル」と「ワーク」のタイミングを自分で設定できる。利用者がマイペースに過ごせる場所という意味では銭湯と同じだ。階段を上がれば銭湯。「仕事して、ひとっ風呂浴び、ビールを引っ掛けてから帰宅」という一連の流れが習慣化すれば、さぞやぐっすりと眠れることだろう。

榊原さんの思いが詰まったハイパー銭湯「BathHaus」。バウハウス創設から100年後の日本で、個々が新しいスタイルを“造形”する場が誕生した。

●店舗情報
「BathHaus」
東京都渋谷区西原1-50-8 1F • B1F
>HP