「いつか来る災害」そのとき役立つ備え4選。備蓄品サブスクやグッズ管理アプリ、大切なもの保管サービスなど「日常を取り戻す」ために一歩進んだ防災を

大規模災害を想定した、最低限の水や非常食の備蓄。しかし大地震により物流が途絶え、支援物資も届きづらい状況を思えば、防災リュックの中身だけでは心もとない。また、避難所や仮設住宅での生活が長引いた際には、嗜好品や思い出の品など「心を癒やすアイテム」も必要になる。

できれば最低限ではなく、最悪を想定した十分な備えをしておきたいところだが、自助で賄える備蓄や防災には限界がある。そこで、個人やマンション単位で導入できる最新の防災サービスの検討を含め、一歩進んだ対策について考えてみたい。

防災備蓄をスマホでまとめて管理「SAIBOU PARK」

その前に、多くの人は本当に「最低限」の備えができているのだろうか。防災リュックは、クローゼットの奥で埃をかぶっていないか。そもそも、中身を把握できていなかったり、非常食の消費期限が切れてしまっているケースもあるかもしれない。

そんな、怠りがちな防災備蓄の管理を、スマホで簡単に行えるのが「SAIBOU PARK」。自宅にあるアイテムの写真を撮り、数量や保管場所、消費期限を登録することで、防災備蓄をまとめて管理することができる。

物置に眠る防災用品を集めて撮影する

物置に眠る防災用品を集めて撮影する

アイテム名や個数、保管場所を登録していく

アイテム名や個数、保管場所を登録していく

非常食などは賞味期限や消費期限を設定。通知をONにしておくと、期限が切れる1カ月前と2週間前に、アプリから通知が届く

非常食などは賞味期限や消費期限を設定。通知をONにしておくと、期限が切れる1カ月前と2週間前に、アプリから通知が届く

サービスを運営しているのは、防災用品のセレクトショップも手がける株式会社サイボウ。「SAIBOU PARK」アプリを開発した背景には、防災備蓄にまつわるこんな課題感があったという。

「自宅の防災アイテムや備蓄品を『あったっけ?』『どこだっけ?』と探した経験がある人は多いと思います。防災備蓄を把握しづらい理由は主に3つあり、1つ目は『種類が多く、一つひとつが小さい』こと。2つ目は『購入後に収納すると、当面は気にかけない』こと。3つ目は『目の届かないところに収納したものは、時間の経過とともに忘れてしまう』こと。
防災用品はこうして存在自体を忘れられ、ひっそりと劣化が進んだり、期限が切れてしまいます。せっかく備えたアイテムも、これではいざというときに真価を発揮できません。その解決策として、防災備蓄の全体像をいつでも把握・管理できるように企画したのが、このアプリでした」

こう語るのは、自身も防災士の資格を持つ「SAIBOU PARK」の佐多大翼さん。

SAIBOU PARK

SAIBOU PARKでは防災アイテムの劣化や非常食の消費期限切れを防ぐため、アイテムごとに「期限」を設定し、期限が切れる1カ月前と2週間前にプッシュ通知でリマインドする機能を持たせた。

「非常食だけでなく、電池やガスボンベにも使用期限があります。SAIBOU PARKを使ってみて、そのことを初めて意識したというユーザーの方もいらっしゃいました」(佐多さん)

不足アイテムは、防災用品のセレクトショップ「SAIBOU PARK」で購入できる

不足アイテムは、防災用品のセレクトショップ「SAIBOU PARK」で購入できる

最低限の自助といえる防災備蓄。自分や家族にとって最適な備えを把握するためにも、まずはこうしたアプリを使い、現在の備蓄状況を俯瞰的にチェックしてみるといいかもしれない。

<サービス概要>
・SAIBOU PARK
自宅の備えがひと目でわかる「防災備蓄まとめて管理アプリ」。非常食や懐中電灯など、手元の防災用品をアプリに登録。賞味期限や使用期限を設定しておくと、期限が切れる前にプッシュ通知でお知らせしてくれる。足りないアイテムは、防災用品のセレクトショップ「SAIBOU PARK」から購入することも可能。

被災地で「本当に必要になるアイテム」をレコメンド「pasobo」

食糧の備蓄や日用品、簡易トイレといった防災アイテムは十分に備えていたとしても、避難生活では「意外なもの」が不足することがある。

例えば、乳幼児を連れて避難する場合、被災のストレスで一時的に母乳が出にくくなったり、哺乳瓶を消毒することができずに授乳に困るケースがあるという。
また、小さな子どもの不安やストレスをやわらげる遊び道具、高齢者のいる家庭なら避難所に持ち込める椅子、ペットがいる場合はケージなども用意しておきたい。

最低限の備蓄品以外に、避難所で必要になるものは人それぞれ。家族の属性だけでなく、住んでいる環境によっても必要な準備が異なる。そんな、一人ひとりに合わせた防災対策をパーソナライズして自宅に届けてくれるのが、「pasobo(パソボ)」だ。WEB上の防災診断で「住んでいる自宅の種類は?」「何人で暮らしていますか?」といった13の質問に回答すると、その世帯環境における災害リスクや、全国のハザードマップから見た立地リスクを分析したうえで、自分に必要な防災セットを提案してくれる。

SAIBOU PARK

1分程度の「オンライン診断」を回答

1分程度の「オンライン診断」を回答

自宅周辺の災害リスクや、ハザードマップ上から分析された立地リスクなどの診断結果を確認。パーソナライズされた防災セットのなかから、必要なものを注文する

自宅周辺の災害リスクや、ハザードマップ上から分析された立地リスクなどの診断結果を確認。パーソナライズされた防災セットのなかから、必要なものを注文する

サービスを手掛けるのは株式会社KOKUA。東日本大震災の被災地で出会い、全国各地の被災地支援を続けてきたメンバーたちで設立された防災ベンチャーだ。

「行政による支援は、どうしても『誰もが共通して使えるもの』の優先度が高くなりがちで、個人の属性に応じた物品を用意したり、それを各避難所へ配備することが難しいと聞きます。実際、私たちが避難所でボランティアをしているなかでも、必要なものが不足し不便な思いをしている方がたくさんいらっしゃいました。不便なだけならまだいいのですが、それがないことで体調が悪化してしまうこともある。被災してから『これを準備しておけばよかった』という事態を防ぐためにも、pasoboの防災診断をきっかけに自分や家族にとって『本当に必要な防災対策』を考えていただければと思います」(KOKUA共同代表の疋田裕二さん)

<サービス概要>
・パーソナル防災サービス「pasobo」
WEB上で、家族構成や立地、建物の耐震基準・階数、個人の災害に対する価値観といった、いくつかの質問に回答するだけで、自分に必要な防災対策が1分で見つかるサービス。サイト上に入力された情報をもとに、個人の世帯環境における災害リスクや、全国のハザードマップから見た立地リスクを分析し、最適な防災グッズを提案。提案された防災用品は、サイト上で購入することもできる。

マンション単位で導入できる備蓄品のサブスク「防災サステナ+」

災害の規模によっては、こうした自助の備えだけでは賄いきれない場合もある。そんなときに頼れるのは、地域やコミュニティのなかで助け合う「共助」の力だ。

特にマンションの場合、近年は「在宅避難」を見越した防災力の強化が叫ばれている。実際、管理組合が主体となり、マンション全体で備蓄の管理を含めた防災対策に取り組むケースも増えてきた。

最近では、防災備蓄品の選定や管理をアウトソーシングできるサービスも登場している。2023年10月に提供がスタートした「防災サステナ+」もその1つ。マンションの倉庫の容量や住人の数に応じた適正数量の防災備蓄品を提案・納品してくれるほか、期限切れの前に備蓄品を補充してくれる。

マンション引渡し~管理組合設立時まで(イメージ)

マンション引渡し~管理組合設立時まで(イメージ)

管理組合設立以降(イメージ)

管理組合設立以降(イメージ)

「有事の際に防災備蓄品の使用期限が切れて使用できなかったら、備蓄の意味がありません。実際、管理組合で消費期限や使用期限が切れていて問題になり、慌てて購入されるような事案もあるようです。通知だけでは現地にある備蓄品の期限切れが解消されるわけではないため、自動的に補充されるまでをサービスとしました」(サービスを運営する「つなぐネットコミュニケーションズ」の担当者)

現在は新築マンションを展開するデベロッパーや、既存マンションの管理会社を中心にサービスを提案中。同時に、マンションごとに異なる防災のニーズを聞き取りながらサービス内容をブラッシュアップしている。

ただ、いかに共助が大事といっても、あくまで最低限の「自助」があってこその「共助」。そのため、どこまでを自助とし、どこからを共助として管理組合で備えておくべきかは、住民同士で十分に話し合っておく必要があるという。

「発災当初、消防などの公的支援は被害が大きいところに集中するため、安全性の高いマンションへの支援が遅れる可能性があります。そのため、自分の命を守る『自助』、マンション内で助け合う『共助』が重要になります。『自助』では各住戸での安全対策や水食料等の備蓄をしておくこと、『共助』では救助活動や共用部の安全対策等のため活動ルールや備蓄品を備えておくことが必要です」(同)

<サービス概要>
・防災サステナ+
マンションでニーズの高い防災備蓄品の選定・納品(ハード)に加え、将来にわたる更新期限の管理を、月額利用料金で継続的に利用できる防災サービス。サービスの契約期間中は無料の防災相談サービスが受けられるほか、管理組合専用グループウェアも利用できる。平常時の管理組合による防災活動の活性化に加え、災害時の共助促進も期待できる。

「いつもの暮らし」を取り戻す“大切なもの”保管サービス「防災ゆうストレージ」

被災した際、何より欠かせないのは食糧や生活必需品。その次に必要になるのは、嗜好品や趣味の品、大切にしているものなど「心を癒やすアイテム」ではないだろうか。

2022年、日本郵便と寺田倉庫は防災サービス「防災ゆうストレージ」の提供を開始した。もしものときのために「必要なもの・大切なもの」を寺田倉庫が管理する安全な倉庫に預けておくことができ、地震や災害が起こった際には日本郵便の流通網で全国の被災地まで運んでくれる。

頑丈なポリプロピレン製の専用ボックスは「小」「大」の2種類。避難先ではテーブルや椅子などとしても活躍する(写真提供/日本郵便)

頑丈なポリプロピレン製の専用ボックスは「小」「大」の2種類。避難先ではテーブルや椅子などとしても活躍する(写真提供/日本郵便)

サービスの背景には、被災者たちの辛い経験談があるという。

「被災者の方々に話をお伺いすると、何よりも辛かったのは思い出の写真やアルバム、愛着のある品々をなくしてしまったことであると。家をなくすよりも悲しかったとおっしゃる方もたくさんいらっしゃいました。ふだんは嵩張るようなもの、ちょっと邪魔だなと思っているものでも、いざなくしてしまうと大きな喪失感につながってしまう。そこで、いったん遠くの場所へ思い出を移しておくことで自宅も整理できますし、有事の際の心の拠り所にもなるのではないかと考えました」(サービスを設計した日本郵便の担当者)

それらを預けておくだけでなく、有事の際には避難所まで届けてくれるのも大きい。なかなか自宅に戻れない状況下では、思い出の写真一枚、小さなぬいぐるみ1つが心の拠り所になることもある。

「思い出の品々だけでなく、好きな本や嗜好品もそうだと思います。これらは、命をつなぐために必要なものではありません。でも、避難生活が長引いたときに『いつもの暮らし』を取り戻させてくれます。例えば、避難所や仮設住宅での食事も、お気に入りの食器を使うだけで気持ちは変わる。ちょっとしたことですが、家族の日常を取り戻す第一歩になるのではないかと思います」(同)

「高齢者や子どもと暮らしている家庭」の利用イメージ(写真提供/日本郵便)

「高齢者や子どもと暮らしている家庭」の利用イメージ(写真提供/日本郵便)

災害の規模によっては、避難生活が長期化することもある。もとの暮らしを取り戻すまで日常をつなぎとめてくれるのは、じつは身の回りにあるちょっとしたアイテムなのかもしれない。

<サービス概要>
・防災ゆうストレージ
月額保管料275円~と、個人でも利用しやすい防災向け宅配型トランクルームサービス。専用ボックスに、思い出の品だけでなく、避難先での生活が長期化した場合に必要となる日用品を入れて発送するだけで「じぶん用支援物資」として預けておくこともできる。衣類や衛生品のほか、公的な支援物資だけでは不足しがちな紙おむつやコンタクトレンズ、使い慣れた生理用品、常備薬、ペット用品など、自宅に備えている防災リュックの「拡大版」のような形で利用することもできる。

最新サービスを活用して防災力の強化を

大規模な災害が頻発しているとはいえ、常日頃、高いレベルの防災意識を保ち続けることは難しい。重要なのは、普段は特別に意識しなくても、もしもの時に困らない体制をつくっておくこと。そのためにも、手軽に導入できるこれらの防災サービスをうまく活用し、防災力の強化に努めたい。

●関連リンク
・SAIBOU PARK
【iOS】
【Android】
・パーソナル防災サービス「pasobo」
・防災サステナ+
・防災ゆうストレージ

東日本大震災の”復興建築”を巡る。宮城県南三陸町の隈研吾作品や石巻エリア、坂茂設計の駅舎など、今こそ見るべきスポットを建築ライターが紹介

2011年3月11日に発生した東日本大震災。津波によって多くの人命が失われ、街の主要な機能が流されてしまった東北の沿岸地域では、復興が急ピッチで進められました。同時に、惨劇を二度と繰り返さないために、地震が発生したときにどのようにふるまうべきか、教訓を語り継いでいくための取り組みが行われています。
紙媒体やインターネットを通じたアーカイブも充実していますが、やはり現地を訪れてこそ感じ取れることがあるのも確か。特に被害の実態や被災者の生の声を伝える資料をコンテンツとしていかに体験してもらうか、建築家やデザイナーが綿密な計画を練った復興建築を巡ることは、被災地から離れた地域に住む人にとって有効なツアーになるのではないでしょうか。

今回、各地の建築やまち歩きをライフワークにしてきた筆者が、都内からも比較的アクセスしやすい宮城県石巻市を中心に、宮城県の三陸海岸エリアの復興建築をレポートします。前編では三陸海岸の北側、岩手県沿岸部を紹介していますので、合わせてご覧ください。

東日本大震災の”復興建築”を巡る。今こそ見るべき内藤廣・乾久美子・ヨコミゾマコトなどを建築ライターが解説 岩手県陸前高田市・釜石市

海と川、2方向から津波が襲った石巻市

仙台市から電車で1時間、国内有数の水揚げ量を誇る漁港の町として知られる石巻市には、市街地の中心に旧北上川という河川が流れ、川が見える風景が長らく市民の生活とともにありました。しかし東日本大震災時にはこの旧北上川を逆流した津波が市内に流れ込んだことで大きな被害を生み、河岸部分に防潮堤を築くことになります。それでも少しでも川とともにある生活を受け継ぐことを意図してデザインされたのが、大きくゆとりをもたせ広い散歩道として整備された防潮堤でした。一段低い市街地から防潮堤に架け渡すように設計された建築も見られ、市民の憩いの場として川と街をつないでいます。
東日本大震災からの復興にあたっては、防災のために巨大な土木スケールの防潮堤を築くことに対し、古くからの町の風景が失われてしまう葛藤がどの地域にもありました。人命には替えられないと、防潮堤の建設は進められていきましたが、デザインの力によってその間を取り持つ可能性が示されているように感じます。

河岸に整備された散歩道(写真撮影/筆者)

河岸に整備された散歩道(写真撮影/筆者)

防潮堤に設置された東屋は、仮設的で華奢なデザイン。設計は萬代基介建築設計事務所による(写真撮影/筆者)

防潮堤に設置された東屋は、仮設的で華奢なデザイン。設計は萬代基介建築設計事務所による(写真撮影/筆者)

防潮堤と市街地をつなぐブリッジのように建つ、観光情報施設「かわべい」(写真撮影/筆者)

防潮堤と市街地をつなぐブリッジのように建つ、観光情報施設「かわべい」(写真撮影/筆者)

復興が進んだ中心部に対し、痛ましい被害の様子が伺えるのが南の沿岸部側。津波により被災した門脇小学校は、震災遺構として遺され見学ができるようになっています。震災時に発生した津波火災によって黒焦げに焼けた校舎は、見学用のルートが真横に新設され、間近で見ることができます。
少し小高い日和山を背に立つ門脇小学校では、発災時に校舎内にいた児童は迅速に山へ避難し津波を逃れることができました。一方で校庭に集まった住民の多くが津波の被害に合いました。少しの判断の差が生死を分けた現実は、悔やんでも悔やみきれません。その教訓を風化させまいという残された人々の想いが、校舎を取り壊すことなく保存する決断につながっています。ご遺族の言葉も、資料とともに展示されることで画面越しで見るのとは違う切実さを、訪れる人に与えているのではないでしょうか。

石巻市震災遺構門脇小学校の外観。右側に見えるボックス状の回廊が、新設された見学ルート(写真撮影/筆者)

石巻市震災遺構門脇小学校の外観。右側に見えるボックス状の回廊が、新設された見学ルート(写真撮影/筆者)

校舎1階部分。左手側の旧校舎は被災当時のまま残され、通路から見学することができる(写真撮影/筆者)

校舎1階部分。左手側の旧校舎は被災当時のまま残され、通路から見学することができる(写真撮影/筆者)

門脇小学校からさらに南へ向かうと、更地になった海岸部に整備された広大な復興祈念公園が見えてきます。中心に位置するのが「みやぎ東日本大震災大津波伝承館」です。こちらは語り部として活動している被災者のメッセージに加え、津波のメカニズムなど震災を科学的な視点から紹介するコーナーなど、より包括的に震災の記録がアーカイブされた施設となっています。市が運営し、石巻市にフォーカスした門脇小学校と、宮城県が運営する伝承館、さらにその中間には市民により運営されている「伝承施設MEET門脇」があり、それぞれの視点で伝承のための活動が行われています。さらに町の中心部では、津波被害に限定せず、石巻市の歴史や市民の生活そのものを知ってもらう展示がなされた場所も見られました。町の魅力を伝えることで興味をもってもらう、そのうえで津波被害について学ぶことは、ただ単に事実を見せられるのとは違う印象を与えるのだと思います。

復興祈念公園の遠景。防潮堤が海との境界になっている。左手前に見えるのが伝承館で、庇最上部の位置まで津波が達した(写真撮影/筆者)

復興祈念公園の遠景。防潮堤が海との境界になっている。左手前に見えるのが伝承館で、庇最上部の位置まで津波が達した(写真撮影/筆者)

石巻市に限らず、こうした伝承施設は特定のエリアに集中して建てられるケースが多く見受けられます。遠方から訪れた観光客は、そうした施設を順に見て回る人も多いでしょう。そのなかでいかにして被害の実態を記憶にのこるかたちで伝えていくか。官民それぞれの取り組みが重なり合いながら、相互に補い合って伝承している石巻は、町全体で展示デザインがなされているように感じるほど、震災にまつわる豊富な学びのある町でした。

中心部から離れた高台に新設された「マルホンまきあーとテラス」。大小のホールや市立博物館を備えた文化施設の設計は、藤本壮介建築設計事務所によるもの(写真撮影/筆者)

中心部から離れた高台に新設された「マルホンまきあーとテラス」。大小のホールや市立博物館を備えた文化施設の設計は、藤本壮介建築設計事務所によるもの(写真撮影/筆者)

■関連記事:
震災の記憶を次世代に。伝える取り組みや遺構が続々と

新しく整備されたプロムナードで海産物を楽しむ女川

石巻からさらに電車で30分、町の中心部全体が浸水し町の主要な機能が失われてしまった女川町では、中心市街地全体を盛土により嵩上げし、居住区域を高台に移す復興がなされました。これにより防潮堤の高さを制御し、町から海が見える風景が守られました。そして震災後の新たなシンボルとして、世界的建築家の坂茂氏設計による駅舎が建てられました。

長年、建築家としての設計活動と並行して、世界中の災害現場や難民キャンプで仮設住宅など避難用の建築のデザインや施工をボランティア活動として取り組んできた坂氏は、東日本大震災でも東北各地で復興支援活動にあたりました。避難所での生活にプライベートな空間を確保するためのダンボール間仕切りの提供のほか、ここ女川では輸送用コンテナを活用し短期間での施工を可能にした仮設住宅の設計を手掛けています。この仮設住宅設計後も継続的に女川に関わり、近隣の仮設住宅に住む住民への聞き取り調査を行っていた坂氏は、狭い仮設住宅のユニットバスでは望めない、ゆったりくつろげる銭湯が多くの方に望まれていることを知ります。その矢先に、女川駅の設計を依頼された坂氏は、駅舎と温浴施設を一体的にデザインする提案を行いました。災害復興への長年の取り組みあってこそのデザインだったと言えるでしょう。

女川駅全景。白い膜でつくられた大きな屋根が象徴的なデザイン(写真撮影/筆者)

女川駅全景。白い膜でつくられた大きな屋根が象徴的なデザイン(写真撮影/筆者)

女川駅の展望台から海方向を見る。海への見晴らしが維持された(写真撮影/筆者)

女川駅の展望台から海方向を見る。海への見晴らしが維持された(写真撮影/筆者)

「海が見える終着駅」として知られる女川駅からは、駅舎からまっすぐ海へと向かってプロムナードが延び、その両サイドに地産の食材が楽しめる料理屋や土産物屋が並びます。星野リゾートのホテルの設計などで知られる建築家の東利恵氏が手掛けた、シーパルピア女川です。漁港の町らしい木造の家屋が立ち並び、個性のある商店が店を構え、分棟形式の隙間には庭が整備されています。決して多くはない商店を、単純に横並びにするのではなく前後の奥行きをもたせて配置することで、散策しながら買い物を楽しむことができるよう計画されたデザインです。

観光客であふれるシーパルピア女川(写真撮影/筆者)

観光客であふれるシーパルピア女川(写真撮影/筆者)

中・小規模の建屋が雁行するように連なり、隙間の空間を散策できる(写真撮影/筆者)

中・小規模の建屋が雁行するように連なり、隙間の空間を散策できる(写真撮影/筆者)

女川にも、観光客が必ず目にするであろう場所、プロムナードの突き当りに、津波の猛威を示す震災遺構が遺されています。鉄筋コンクリート造の建物が基礎ごと引き抜かれ、横倒しにされた光景がメディアを通じて大きな衝撃を与えた旧女川交番です。被災当時のままの状態で保存され、その周囲を取り囲む回廊が新たに設置されました。回廊に掲げられたパネルには、女川町の震災被害や復興までの歩みが記されています。小さいながらも強いメッセージを発する震災遺構です。

横倒しになった旧女川交番。剥き出しになった杭が津波の威力を伝えている(写真撮影/筆者)

横倒しになった旧女川交番。剥き出しになった杭が津波の威力を伝えている(写真撮影/筆者)

隈研吾氏設計の建築が集まる南三陸町

石巻駅から電車とバスを乗り継ぎ2時間弱、南三陸町も復興建築が集中するエリアです。津波によって線路が流されてしまったため、中心部にある志津川駅はBRT(バス高速輸送システム)の停留所として使われています。

駅の目の前で一際目を引くのが、新国立競技場の設計などで知られる建築家・隈研吾氏設計による「南三陸ポータルセンターアムウェイハウス」。南三陸産の木材を用いたルーバーは平行ではなく放射状に配置され、建物内部に視線が引き込まれるようにデザインされています。アムウェイハウスは被災地の地域コミュニティの再生支援を行う施設として、ここ南三陸を含む東北3県7箇所に設置されています。

隈研吾氏は2013年から継続的に南三陸町の復興計画に携わり、一帯のマスタープランも手掛けています。地元の海産物を楽しめる商店街さんさん市場、駅とメモリアルパークを結ぶ中橋、そしてこのアムウェイハウスです。メモリアルパークには、津波襲来の直前まで避難を呼びかける様が大きく報じられた南三陸旧防災庁舎が震災遺構として遺されており、多くの観光客が日々訪れています。駅から市場へ、メモリアルパークから山方向にある神社へ、2つの軸線の中間に位置するアムウェイハウスには、人の流れを誘発するように穴が設けられています。マスタープランがあってこそ生まれたデザインです。

南三陸ポータルセンターアムウェイハウス。斜めに傾いたいくつもの立体が統合されたデザイン(写真撮影/筆者)

南三陸ポータルセンターアムウェイハウス。斜めに傾いたいくつもの立体が統合されたデザイン(写真撮影/筆者)

南三陸さんさん市場。シンプルな構成により、低コスト化と短納期化を図っている(写真撮影/筆者)

南三陸さんさん市場。シンプルな構成により、低コスト化と短納期化を図っている(写真撮影/筆者)

メモリアルパークから駅方向を見たところ。右手前に鉄骨フレームだけとなった旧防災庁舎が見える(写真撮影/筆者)

メモリアルパークから駅方向を見たところ。右手前に鉄骨フレームだけとなった旧防災庁舎が見える(写真撮影/筆者)

東日本大震災による被害の状況は、発災当時メディアを通じて視覚的なイメージとして発信されていました。その光景はどの町も同じように悲惨なものとして、記憶に焼きつけられているのではないでしょうか。しかし震災から10年以上が経ち、新しいコミュニティが築かれ新たな町として生まれ変わった被災地の現状は、町ごとに、エリアごとに異なる復興が行われ、それぞれの歩みを進めています。その土台としてデザインされた復興建築を巡ることは、東北の今を知るきっかけとして気軽にできる最初の一歩になるのではないかと思っています。

●取材協力
門脇小学校

【福島県浪江町】失われかけた町が産業の先進地に! 世界課題のトップランナー続々、避難指示解除後の凄み

福島県沿岸部(浜通り)にある双葉郡・浪江町は、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故で町内全域が避難指示区域に指定され、一時町が失われかけました。けれども避難指示区域解除後、エネルギーの地産地消を目指す水素発電などの世界的な課題に挑み、その趣旨に共鳴する企業を誘致する産業団地が動き始め、全国的に注目されています。魅力ある産業・仕事づくりを通して人が集まり「住みたい、住み続けたいまち」づくりに挑戦している浪江町の今をレポートします。

避難指示が一部解除され「新生・浪江町」が動き出した

福島県浜通りに位置する浪江町は、2011年の東日本大震災で甚大な被害を受けた上、福島第一原子力発電所事故によって町全域が避難指示区域になり、全町民が避難を余儀なくされました。その後、除染工事や生活に必要なインフラの復旧を進め「夢と希望があふれ住んでいたいまち、住んでみたいまち」を理念に復興計画を一歩一歩進めてきました。

2017年3月31日、約6年ぶりに避難指示区域の一部が解除され、教育施設の開校、店舗・施設の開業など、生活環境が徐々に整ってきました。

買い物や食事、休憩ができる「道の駅なみえ」。無印良品が全国で初めて道の駅に出店(画像提供/浪江町役場産業振興課)

買い物や食事、休憩ができる「道の駅なみえ」。無印良品が全国で初めて道の駅に出店(画像提供/浪江町役場産業振興課)

そして、2022年度から、「浪江駅周辺グランドデザイン基本計画」が進行しています。浪江駅を中心に、国立競技場を設計した建築家・隅研吾さんの設計による未来的なデザインにより交流・商業・住宅機能をコンパクトに集約し、再生可能なエネルギーを活用した環境に配慮したまちづくりが行われる予定です。

けれども浪江町の人口を見ると、震災時が2万1542人(7,671世帯)、2023年8月末日時点で1万5,312人(世帯数6,679人)。避難指示区域一部解除後の居住人口は、2019年4月が193人、2023年8月時点には2,106人(居住世帯1,314世帯)で、Uターンや新規の移住者で多少回復していますが、震災前の10分の1にしか届いておりません。(居住人口と震災前の居住人口については、データがありません)

福島県浪江町内の居住人口の推移(福島県浪江町公式ホームページ「なみえ復興レポート(令和5年9月)」より抜粋)

福島県浪江町内の居住人口の推移(福島県浪江町公式ホームページ「なみえ復興レポート(令和5年9月)」より抜粋)

浪江町が目標としている人口は、2035年までに約8,000人。「福島県12市町村移住支援金」をはじめ、福島県外から浪江町に移住し就業または起業した場合など、複数の支援制度が用意されています。

スマートシティを目指すと同時に産業団地に企業を誘致

人口を増やすためには魅力的な仕事や雇用をつくることがカギになります。浪江町役場産業振興課の児山善文(こやま・よしふみ)さんは製鉄系プラントメーカー、JFEエンジニアリングからの出向で東京から浪江町役場へ赴任。「定年間近になり、これからの時間を大企業組織の一員として働くより、父祖の地(南会津郡下郷町)である福島県の復興に役立ちたい、未曾有の原子力災害という日本の代表的な社会問題解決の最前線でサラリーマン生活を終えたい」と、浪江町から請われたのをきっかけに自ら希望したとのこと。このように社員個人の意思を尊重して仕事を柔軟に選ばせてもらえる会社の自由な風土にも感謝しているそうです。

九転十起の人と呼ばれた京浜工業地帯の父でJFEエンジニアリングの源流である浅野造船所の創業者浅野総一郎像と記念撮影する児山さん(写真提供/ご本人)

九転十起の人と呼ばれた京浜工業地帯の父でJFEエンジニアリングの源流である浅野造船所の創業者浅野総一郎像と記念撮影する児山さん(写真提供/ご本人)

産業振興課には、再生可能エネルギーを推進する係、産業団地を整備し企業誘致して産業の振興と雇用創出を図る係、地場産業による商工・観光事業などを計画する係の3本の柱があります。

「再生可能エネルギーについては、国が推奨する『2050年までに二酸化炭素排出を実質ゼロにする』という「ゼロカーボンシティ」を宣言し、再生可能なエネルギーのまちづくりに取り組んでいます。さらに持続可能なまちづくりを行うために、自治体や地元企業などと協力しながら地域エネルギー会社を立ち上げる目標があります。

浪江町産業団地は『浪江町藤橋産業団地』『浪江町北産業団地』『浪江町棚塩産業団地』『浪江町南産業団地』の4つの団地があり、既に15社が契約し、10社が稼働し、現在建物建築中の企業もあり、募集中の敷地もあります。さらに、2年後に竣工する予定の14.5ヘクタールの『棚塩RE100産業団地』があり、地域エネルギー会社と受電契約を結んでいただくなど再生エネルギーを100%使っていただける会社を誘致するという大きな目標を掲げて取り組んでいるところです」(児山さん)

なみえ産業団地マップ(出典/産業団地のご案内パンフレット)

なみえ産業団地マップ(出典/産業団地のご案内パンフレット)

『浪江町藤橋産業団地』は、AIの技術開発に取り組む企業や、EVの蓄電池のリユース・リサイクルの普及を目指す企業など4社が稼働。『浪江町棚塩産業団地』にも、再エネルギーをキーワードとする企業、ロボットのテストにおいて世界に類を見ない施設などが稼働しています。

上空から見た浪江町の棚塩産業団地(画像提供/ウッドコア)

上空から見た浪江町の棚塩産業団地(画像提供/ウッドコア)

以降で紹介する『浪江町北産業団地』のバイオマスレジン福島、『浪江町南産業団地』の會澤高圧コンクリート、『浪江町棚塩産業団地』にある福島高度集成材製造センター(FLAM)も含めて、持続可能な社会を創る研究や技術開発を世界に先駆けて行っている企業が続々と集まっているのが特徴です。

「もともと住んでいた方はご家族でUターン、Iターンは単身の方が多いです。未来的な取り組みをしている企業が稼働し始めて、国が設立する研究機関『福島国際研究教育機構(F-REI(エフレイ)』の立地も決まり、これから研究者の方々が100人単位で集まってくることになります。人が増えるから施設が増えるのか、まちがにぎわって人が増えるのか、鶏と卵どちらが先かという議論もありますが、人口も施設も増えてにぎわうまちにしていきたいですし、ずっと住みたいと思っていただけるようなまちづくりを同時に進めていかなければならないと思います」と児山さんは話します。

環境にやさしいライスレジンで地域を支援する「バイオマスレジン」

福島県の相馬ガスグループとバイオマスレジングループが合弁で2021年7月に設立し、『浪江町北産業団地』で2022年よりライスレジンの製造をスタートしたバイオマスレジン福島の田上茂工場長に話を聞きました。

「ライスレジンとはお米由来のバイオマスプラスチックで、砕けたお米や粒の小さいお米など廃棄されるお米でつくったバイオマスプラスチックです。

弊社のライスレジンは石油系のプラスチックに国産のお米を50%または70%混ぜて、樹脂をつくっています。二酸化炭素を吸って酸素を吐く植物からつくっていますので、カーボンニュートラルの意味から言うと50%以上石油系プラスチックの含有量を減らしており、ごみ焼却などで排出される二酸化炭素を50%以上削減できる形になっています。

また、弊社のグループ会社が浪江地区の休耕田を活用して稲作を行い、農地や農業に従事する人を増やすことにも取り組んでいます。現状、ライスレジンを活用してお箸やストロー、弁当箱など約800アイテムほどを製造する原料として提供しています」

ライスレジンとライスレジンからつくられる製品(画像提供/バイオマスレジン福島)

ライスレジンとライスレジンからつくられる製品(画像提供/バイオマスレジン福島)

田上工場長も、農家に行って稲作のお手伝いをすることもあるそうです。

田上工場長のほか、9名の従業員が働く工場(画像提供/バイオマスレジン福島)

田上工場長のほか、9名の従業員が働く工場(画像提供/バイオマスレジン福島)

「私は茨城県筑西市より単身で来ています。地元に帰ったら被災地や原発事故の現実、地元の方のご苦労など、実際に暮らして見て感じたこと、ここで学んだことを発信していかなければと思っています」

田上工場長が撮影、会社から見た海(撮影/田上工場長)

田上工場長が撮影、会社から見た海(撮影/田上工場長)

一方、移住した従業員もいます。石田久留美さん(30代)は、「バイオマスエネルギーや再生可能資源などに非常に興味があり、転職の際に環境問題の改善に携われる仕事に就きたいという思いで転職先を探していました。偶然、福島県内にお米を使ったバイオマスレジンをつくる会社を知り、会社の経営理念などを調べたところ、私が抱えている思いと重なる部分が多く、転職を希望しました。子どもの頃から稲作のお手伝いをするなど田んぼが身近な存在で、休耕田が増えているのを見て淋しさも感じていたことも、ライスレジンに共感する大きな理由でした」と話します。

須賀川出身で、会社の面接を受けるとき初めて浪江町に足を運んだ石田さん。実家から車で片道2時間かかる浪江町で一人暮らしをしながら働くことにお母さんは心配したそうですが、強い意思がありました。

仕事中の石田久留美さん(画像提供/バイオマスレジン福島)

仕事中の石田久留美さん(画像提供/バイオマスレジン福島)

「新しく近代的で建物のデザインも含めてこの工場が大好き。入った瞬間食品工場のようないい香りがして癒やされますし、私は前職で有機溶剤使用していたため、防毒マスクを使用する環境にいましたが、今ではマスク無しで深呼吸しても身体に害がない環境で働けるのがうれしいです。人がしっかり関わって機械を動かしてモノづくりをしている工場だと感じます」

石田さんが好きな夕暮れの請戸川の風景(画像提供/石田 久留美)

石田さんが好きな夕暮れの請戸川の風景(画像提供/石田 久留美)

石田さんは会社から程近い浪江町にある社宅(マンション)住まい。「住居費は会社の補助がありますし、休憩時間に洗濯物を取り込みに家に帰れますし、すごくいい場所に暮らしていると思います。朝晩見る請戸川の景色にも癒やされています」

CO2の削減や石油資源の抑制に貢献する環境にやさしい新素材を製造しながら、フードロスの削減、農業や地域活性化も支援しているバイオマスレジン福島。「経験者や知識のある方はもとより、長い目で見て若い人が浪江町に来て、弊社のような会社で環境に配慮したプラスチックをつくっていることを誇りに思い働いてくれたらうれしい。始まったばかりの会社ですが、30年後、50年後に、会社が成長して『この会社の歴史の1ページを描いたのが私たちだ』と言えることはやはり魅力だと思います」と結んでくれました。

浪江町とイノベーションの共創に取り組む「會澤高圧コンクリート」

次に紹介する『會澤高圧コンクリート株式会社』(本社苫小牧市、社長:會澤祥弘)は国内に20の事業所、13の工場、海外6拠点を展開。浪江町の『南産業団地』に広大な研究開発型生産拠点『福島RDMセンター』を建設し、2023年6月30日にグランドオープンしました。

RDMとは、研究(Research)・開発(Development)・生産(Manufacturing)の3つの機能の略。「同一敷地内に生産棟と研究・開発棟が併存し、試験製造などの成果や課題を研究開発にすぐにフィードバックできるのが同社の特徴です。

低炭素型建築方法を実践したフルPC構造の研究開発棟(画像提供/會澤高圧コンクリート)

低炭素型建築方法を実践したフルPC構造の研究開発棟(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「弊社は、コンクリートマテリアルと先端テクノロジーを掛け算して新たな企業価値の創造に取り組む総合コンクリートメーカーです。」と話すのは、デジタル経営本部の佐藤一彦さん。

500cc・1000ccのエンジンドローンと佐藤一彦さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

500cc・1000ccのエンジンドローンと佐藤一彦さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

同社はコンクリートマテリアルの基礎研究に力を入れるとともに、MITやデルフト工科大学など欧米トップ理系大学との産学協力を幅広く展開、バクテリアの代謝機能を使った自己治癒コンクリートを世界で初めて実用量産化するなど、脱炭素スマートマテリアル分野、コンクリート3Dプリンター分野、水素における再生エネルギー分野、デジタルPC建築分野、防災支援インフラメンテ分野、スマート農業陸上養殖分野など6つの研究開発領域をカバーしています。

「コンクリート業界はCO2を多く排出する環境負荷の高い業界ですが、弊社は『脱炭素第一』を経営方針に掲げ、2035年までにサプライチェーンの温室効果ガス排出量を実質ゼロにする『NET ZERO 2035』をコミットメントしました」(佐藤さん)

同社はさらに、浪江町と防災支援協定を結び、同社が開発した1000ccハイブリッドガソリンエンジンを積んだドローンは、大きな地震や台風が来たときに格納庫から自動的に飛び立ち、気象衛星とリンクしながら海岸線や河川の映像をリアルタイムに住民のスマホに提供、命を守る統合システムとしての実装に取り組んでいます。

同社で働く約40名のうち、ほぼ半数が浪江町を含む福島県の相双地域に住む方だそうです。また、グループ全体では複数の女性役員や在宅勤務で育児と両立している女性社員も多く、SDGs への取り組み、SNS向上委員会など女性を中心としたプロジェクトも盛んに行われているとのこと。

女性社員の一人、後藤華蓮さん(22歳)は相双地域の大熊町出身、専門学校で3DCG(コンピューターグラフィックス)を学び、浪江町の新社屋がオープンするときに入社しました。

仕事中の後藤華蓮さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

仕事中の後藤華蓮さん(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「地元の大熊町は浪江町と同じく震災後に避難対象区域になりましたが、2022年に一部避難指示が解除されて家族で地元に戻ることができました。そんなときに、會澤高圧コンクリートの求人を見て、被災地の復興に携われたらと思い就職を希望しました。

総務部で工場の出荷製品の管理などを担当しています。初めてのことばかりで大変ですが、明るく雰囲気がいい会社で仕事がしやすいです。浪江町は私が小さいころに見てきた景色とはまた違ってしまいましたが、これからどんどんまちも発展していくと思いますし、自己治癒コンクリートなど、他社ではやっていないと自慢できるような商品をつくる、将来に向けて発展していく会社で長く働いていきたいです」と後藤さん。

遊歩道が整備された請戸川沿いの桜並木(画像提供/會澤高圧コンクリート)

遊歩道が整備された請戸川沿いの桜並木(画像提供/會澤高圧コンクリート)

「浪江町の産業団地で事業を始めた企業は、それぞれに町の復興や脱炭素社会の実現に向けて高い志をお持ちです。浪江町は先進的な技術を持つ企業と建設が決定している福島国際研究教育機構(F-REI)とともに世界に名だたる研究都市になっていくと思います。福島RDMセンターは福島イノベーション構想や地域の構想を具現化する場所です。特に若い世代が共創を通じて刺激を受け、知見を深めていただけたらと思います」と佐藤一彦さんは話しています。

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※會澤高圧コンクリート社が手掛けた3Dプリンター製グランピング施設

北海道新冠町ディマシオ美術館敷地内にある、コンクリート3Dプリンタによるグランピング施設(画像提供/會澤高圧コンクリート)

北海道新冠町ディマシオ美術館敷地内にある、コンクリート3Dプリンタによるグランピング施設(画像提供/會澤高圧コンクリート)

大断面集成材を生産する国内最大級の工場を運営する「ウッドコア」

次に紹介するのは、『棚塩産業団地』に2021年10月に完成した「福島高度集成材製造センター(FLAM=エフラム事業)」は福島イノベーション・コースト構想に基づく農林水産プロジェクトで、浪江町が建設し、民間企業のウッドコアが管理・運営しています。

工場長の高増幹弥さんはこう話します。
「弊社は、大断面集成材という、住宅などより大きい中・大規模木造建築物をつくる部材を丸太から製材して集成材を生産しています。国内には、柱や梁などの大きな部材を供給する製造過程が少なく、全国でも珍しい業種です。浪江町に工場を建設したのは、木材資源が豊富な福島県に製造拠点をつくることが復興につながり、イノベーション・コースト構想とも合致したからです」

「福島高度集成材製造センター(FLAM)」工場長の高増幹弥さん(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

「福島高度集成材製造センター(FLAM)」工場長の高増幹弥さん(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

高増さんは、以前の会社で大規模な木造建築物の現場監督をしていましたが、ウッドコアの取り組みを知り、やりがいがある仕事に就きたいと転職し、単身赴任で来ています。

木造施設向けで原木の加工から最終製品加工まで一貫生産できる「福島高度集成材製造センター(FLAM)」は、敷地9ヘクタール、建物は東京ドーム2個分で国内最大級規模の集成材の工場です。

大断面集成材は、屋内運動施設や教育施設、道の駅などに使用され、2025年に大阪で開催される日本国際博覧会(大阪・関西万博)の会場の中心をぐるりと取り囲む大屋根(リング)に「福島高度集成材製造センター(FLAM)」で製造した大断面木造集成材が使われる予定もあり、全国の大型木造建築を手掛ける大手建築会社などが工場見学に訪れています。

日本国際博覧会の大屋根(リング)・完成予想パース(提供:2025年日本国際博覧会協会)

日本国際博覧会の大屋根(リング)・完成予想パース(提供:2025年日本国際博覧会協会)

「多くの建築会社さんや設計事務所さんからいろいろなビッグプロジェクトになるような物件の相談や打ち合わせ、部材を発注していただくなど、遠くから足を運んでいただいています。弊社工場だけではなく他の施設も、浪江町の可能性なども含めて注目されていると感じます。そして弊社は浪江町から委託を受けて管理・運営している形になり、町とも良好な協力関係を築いています」と話す高増さん。自然豊かな環境で、天気の良い休日は趣味のバイクで県内各地へツーリングに出掛けてリフレッシュしているそうです。

現在「福島高度集成材製造センター(FLAM=エフラム事業)」で働いているのは約50名、相双地域を中心に福島県内出身者がほとんどです。

「県外から浪江町(などの避難指示対象地域)に移住すると移住支援金や住宅補助など、いろいろな支援制度があることをホームページで知って、思いきって移住しようと思いました」と話すのは、光谷貴一さん。ホームページの動画でウッドコアを知り、「この仕事をしてみたい」と青森からIターンで浪江町の同社に転職しました。

丸太の検知を実施する高増工場長(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

丸太の検知を実施する高増工場長(右)と光谷貴一さん(左)(画像提供/ウッドコア)

「浪江町に来てまだ1カ月未満で全部を知るのはこれからですが、良い環境だと感じます。社宅は工場から車で約3分の所にあり、まだ新しく綺麗です。浪江町にはイオンや道の駅などもあり想像していたより施設が充実していました。車で10分も走れば南相馬市にホームセンターもあり、暮らしに不便は感じません。早く仕事を覚えて、会社の役に立ちたいと思います」と新天地での新しい生活を楽しみにしています。

公園・スポーツ施設の同社施工例(画像提供/ウッドコア)

公園・スポーツ施設の同社施工例(画像提供/ウッドコア)

「昔ながらの製材工場と違って、最新鋭の設備などを備えた近代的な工場です。何よりもこれから将来に向けて注目される建築物の部材をつくれる会社で働くのは非常にやりがいがあり、チャレンジしたい方にとって良い環境だと思います」と高増さんも話しています。

復興へ向けてインフラ設備を着実に整え、ゼロカーボンシティを宣言し、新たなまちづくりにチャレンジしている福島県浪江町。人を増やすには魅力的な産業、働く場所が必要と複数の産業団地を造成し、立地を希望する企業を募集したところ、復興への貢献、ゼロカーボン社会実現への意識が高い、将来性豊かな企業が集結しました。業界をリードする先端のテクノロジー、他にはない商品や研究を生み出す企業が町や企業同士で連携し、これから数年後、数十年後どう進化しているのか、楽しみな町です。

●取材協力
浪江町役場産業振興課
バイオマスレジン福島
會澤高圧コンクリート
ウッドコア

【福島県双葉町】帰還者・移住者で新しい街をつくる。軒下・軒先で共に食べ・踊り、交流を 東日本大震災から12年「えきにし住宅」

東日本大震災から12年が経過した福島県双葉町では、次の双葉町を描き、新たな暮らしを築いていくプロジェクトが盛んに動いています。その中心拠点を担うのが、今回の取材先である「えきにし住宅」。双葉駅の西口を降りてすぐ目の前に広がる住宅街ですが、ただの住宅街じゃない。知れば知るほど暮らしを豊かにする工夫が散りばめられていて、歩いているだけでワクワク感があふれる新しいまちです。今回は設計を担当したブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さんと、現在「えきにし住宅」に暮らしている入居者2名の方に、住まいの特徴や魅力、暮らしてみた感想などをお話しいただきました。

さあ双葉町の未来をはじめよう

標葉(しねは)の谷戸(やと)に抱かれた、かつての農村風景を思わせるデザインえきにし住宅の全体イメージ(画像提供/ブルースタジオ)

えきにし住宅の全体イメージ(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

えきにし住宅の集会所・軒下パティオ(写真/白石知香)

えきにし住宅の集会所・軒下パティオ(写真/白石知香)

福島県の浜通りエリア、双葉町の双葉駅西側地区に2022年10月~オープンした「えきにし住宅」。2022年8月30日に福島第一原子力発電所の事故に伴う避難指示区域が解除され(※)、再び居住が可能となった「特定復興再生拠点区域」に新しく建設された公営住宅です。災害公営住宅30戸、再生賃貸住宅56戸からなる全86戸を建設するプロジェクトで、第2期工事が完了した現在(2023年7月)は30代のファミリー層から80代まで、多様な人たちが暮らしています。

※特定復興再生拠点区域については、一部2020年3月に避難指示が解除(えきにし住宅がある場所は2022年8月に解除)

えきにし住宅のオープンをきっかけに双葉町に移住された大島さん(写真/白石知香)

えきにし住宅のオープンをきっかけに双葉町に移住された大島さん(写真/白石知香)

もともと双葉町の町民で、えきにし住宅のオープンにともない双葉町に帰還された猪狩(いがり)さん(写真/白石知香)

もともと双葉町の町民で、えきにし住宅のオープンにともない双葉町に帰還された猪狩(いがり)さん(写真/白石知香)

「えきにし住宅」を歩いていると、いい意味で「公営住宅」らしくない高いデザイン性や、のびのびと暮らせる風通しのよさを感じます。その秘密は……?設計を担当したブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さんに話をうかがいました。

「このまちを故郷とされる方にとって、何が双葉町らしさなんだろう。どんな要素が『えきにし住宅』に必要なんだろうかと、地元住民の方との座談会を重ねながら、リサーチを行いました。その過程でたくさんのまちづくりのヒントを得たのですが、『標葉(しねは)』というキーワードにたどりついたんです。

双葉町の『双葉』って比較的新しい単語でして、明治維新までは、双葉町は相馬氏の領土である『標葉郡』として位置付けられていたんですね。そして地形を見てみると、山と丘の間に谷筋があり、その先に田んぼが広がっている。まさに日本の原風景ともいえる『谷戸(やと)』が、双葉町の象徴的な風景だと考えました。

浜通りという名前に引っ張られて、海によって発展してきたように感じるんだけども、実は海ばかりでなく温暖な気候に恵まれた山側の農村集落が栄えてきた歴史もある。実際に、『えきにし住宅』がある駅の西側地区は、豊かな谷戸のせせらぎの風景と田んぼが広がっていた場所なんですよ。そうした背景からも、遠方のなだらかな阿武隈山地を借景に、農村集落の情景を思わせる屋根の形や建物の連なりを、建築的なエッセンスとして取り入れています」

ブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さん(写真/白石知香)

ブルースタジオのクリエイティブディレクター・大島芳彦さん(写真/白石知香)

平屋で設計された一戸建住宅。屋根の雰囲気や、木材の表情など、どこか農家建築を思わせるデザイン(写真/白石知香)

平屋で設計された一戸建住宅。屋根の雰囲気や、木材の表情など、どこか農家建築を思わせるデザイン(写真/白石知香)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

「タウンハウス」と呼ばれるスタイルの集合住宅。住民同士のあいさつや気軽な交流が生まれるよう玄関が向かい合い、緑が多く気持ちのいい空間(写真/白石知香)

「タウンハウス」と呼ばれるスタイルの集合住宅。住民同士のあいさつや気軽な交流が生まれるよう玄関が向かい合い、緑が多く気持ちのいい空間(写真/白石知香)

玄関前にある縁側では、ここに座ってひと休みしたり、ご近所さんとお話したりと、いろんな過ごし方ができる(写真/白石知香)

玄関前にある縁側では、ここに座ってひと休みしたり、ご近所さんとお話したりと、いろんな過ごし方ができる(写真/白石知香)

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

「現在は工事中なのですが、敷地の北側を流れる戎川(えびすがわ)のせせらぎのほとりにあるテラスでほっとひと息ついたり、駅前広場ではピクニックや趣味を楽しんだり思い思いの時間を過ごしたりと、えきにし住宅全体がひとつのまち、あるいは公園のような過ごし方ができる工夫をあちこちに取り入れています」(大島さん)

川のせせらぎに癒やされながら、ゆったりと過ごせる環境(写真/白石知香)

川のせせらぎに癒やされながら、ゆったりと過ごせる環境(写真/白石知香)

双葉駅を降りてすぐ広がる芝生の駅前広場。車両の出入りもなく、ここに集まる人がのびのびと過ごせる場所(画像提供/ブルースタジオ)

双葉駅を降りてすぐ広がる芝生の駅前広場。車両の出入りもなく、ここに集まる人がのびのびと過ごせる場所(画像提供/ブルースタジオ)

暮らす人の「なりわい」をシェアする

「えきにし住宅」の大きな特徴ともいえるのが、「なりわい暮らし」です。これは何かというと、暮らす人それぞれの個性的な生き方をみんなで分かち合う暮らし。例えば、料理をふるまってみんなで味わったり、ワークショップを開いてみんなとの交流を育んだり、自分の趣味をみんなで楽しんだり。ここで暮らす人が主体となって、自分の暮らしをより豊かに、より楽しいものにできる空間づくりがなされています。

(画像提供/ブルースタジオ)

(画像提供/ブルースタジオ)

すべての家の玄関には土間があって、絵を描いたり、ものづくりをしたり、またはそれを通りかかった近所の人にお披露目してみたり。

玄関入ってすぐに土間があり、靴を脱がなくとも気軽に住民同士が交流できるようになっている(写真/白石知香)

玄関入ってすぐに土間があり、靴を脱がなくとも気軽に住民同士が交流できるようになっている(写真/白石知香)

「軒下パティオ」と呼ばれる中庭では、ベンチでひと休みしたり、天候に左右されずにワークショップや出店が開けたりするようなオープンなスペースが広がっていたり。

高い屋根があり、日差しや雨を気にすることなく広々と過ごせる「軒下パティオ」(写真/白石知香)

高い屋根があり、日差しや雨を気にすることなく広々と過ごせる「軒下パティオ」(写真/白石知香)

「軒下パティオ」の一つに隣接するかたちで集会所があり、ここにも土間があったり、他にもキッチンや畳スペースが配置されていたりと、ここに集まる人たちが和気あいあいと交流できる場所が開かれています。

集会所で取材させていただいた時の様子。「どこで話します? じゃあ集会所にしましょうか」と、ふらっと行ける気軽なスペースで、いろんな使い方ができる(写真/白石知香)

集会所で取材させていただいた時の様子。「どこで話します? じゃあ集会所にしましょうか」と、ふらっと行ける気軽なスペースで、いろんな使い方ができる(写真/白石知香)

カフェやイベントが開かれるなど、暮らしを豊かにする時間が育まれている(写真/白石知香)

カフェやイベントが開かれるなど、暮らしを豊かにする時間が育まれている(写真/白石知香)

大島さんはこう話します。

「双葉町は、震災からおよそ11年もの間、残念ながら人が住むことのできない地域でした。それだけの空白の時間を経過した今は、もともと双葉町に住んでいた方が帰還されるにあたっても、また新しく双葉町に移住される方にとっても、未来の双葉町の暮らしをゼロからつくっていくくらいの『フロンティア精神』が必要だと考えたんです。そこには、帰還者も移住者もバックグラウンドの違いに関係なく、対等な立場で、ここに住まう仲間として、共に双葉町の未来を描いていくことが重要。だからこそ、一人ひとりの個性や生き方を住民同士でシェアし、交流が生まれる工夫を、建築にも盛り込みました。ゆくゆくは、住民同士の交流だけでなく、外から遊びに来た人と住民同士で、境界線をゆるやかに溶かしていくようなコミュニケーションが生まれていけばいいなと期待しています」

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

実はこうした「なりわい暮らし」の集合住宅のスタイルは、ブルースタジオでは4プロジェクト目となる事例(お店を開けるものもあるなど、プロジェクトによって“なりわい”の内容は異なる)。この5年ほどで首都圏を中心に、広島の民間賃貸や大阪の公営住宅でも「なりわい暮らし」の集合住宅を展開し手応えを得て、被災地の公営住宅では「えきにし住宅」が初の事例だそうです。

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「これまで」の暮らしが、「これから」の暮らしに受け継がれていく

「えきにし住宅」の全体像をご紹介したところで、実際に暮らしている方はどんなきっかけで「えきにし住宅」に入居し、どんな住み心地なのか。かつて双葉町在住で帰還された方、新しく双葉町に引越しされた方の2名にお話をうかがいました。

お一人目は、浪江町出身でご結婚を機に隣町の双葉町に暮らすようになった猪狩(いがり)敬子さん。震災発生後、県内外を転々とされながも「いつかは家族の思い出が詰まった双葉町に帰る」と心に決めていたそうです。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

「この玄関の土間スペースが、使い勝手がいいんです。お友達が遊びに来てくれた時に、ここに腰掛けてみんなでおしゃべりして。靴を脱いでリビングにお通しするとなると、おもてなししなきゃ!ってなるけど、土間だったら気さくに肩肘張ることなく過ごせるでしょ。

夫が他界して、今は一人暮らしをしているんですが、近所の人たちとも顔が見える距離でお付き合いできるから安心。住んでいる人との交流もあってね。双葉町って、もともと盆踊りが町のお祭りとしてにぎわっていたんですけど、震災があってから町内で開催できていなかったんです。でもそれが今年、約13年ぶりに駅前で開催できることになって。だから集会所に集まって、わたしが踊りを住民の方に教えて、みんなで踊りの練習をしたりしていますよ。双葉町の伝統を、みなさんに伝えることができて嬉しく思いますね」(猪狩さん)

猪狩さんは「タウンハウス」プランの住まいに入居中。手前がリビング、奥が寝室になっている(写真/白石知香)

猪狩さんは「タウンハウス」プランの住まいに入居中。手前がリビング、奥が寝室になっている(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

盆踊りを通じて、双葉町の地元の方と新しく双葉町に引越してきた人を結んでいる猪狩さん。それが猪狩さんにとっての「なりわい暮らし」なのかもしれません。

お二人目は、福島県中通りエリアにある福島市出身で、東京にあるコンピューター関連の会社で勤めた後、うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)相双支援サテライトに勤務し、浜通りエリアの楢葉町、富岡町で働き暮らされていた大島さん。現在も富岡町にある「とみおかワインドメーヌ」でブドウの栽培をされたり、楢葉町の小学校で子どもたちの学習をサポートする活動をされたりと、「えきにし住宅」を暮らしの拠点に、新しいことへのチャレンジを楽しまれています。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

「東京で長年勤めて、地元の福島に帰って新しいことを始めてみたいと思い、浜通りに暮らし始めました。『えきにし住宅』に入居しようと思った決め手は、コミュニティになじめそうだと思ったから。双葉町には、町民主体のまちづくりを牽引する『ふたばプロジェクト』という団体があり、そのスタッフさんたちが入居の窓口となって、移住者でも町の暮らしに溶け込めるように住民同士の交流を育むサポートをしてくださるなど、細やかなケアがなされていることが安心だなと感じました。

初めて住む地域だと、なかなか地元の方との接点を持ちづらかったりしますが、ここはそんなこともなく、気軽にコミュニケーションをとれるのがいいなと思います。お向かいの猪狩さんには、盆踊りの踊りを教えてもらっていますし。盆踊り当日は、町民有志の『双葉郡未来会議』という任意団体があるんですけど、そのスタッフとしてお祭りを盛り上げたいと思っています。

暮らしの面では、双葉町にはスーパーやコンビニがないのですが、隣町に足を延ばせばいくつも商業施設があるので不便に感じたことはないです。車で出かけたり、趣味のバイクで近隣の市町村に遊びに行ったりすることもありますね。この辺りは山や川など自然がいっぱいありますから、のびのび過ごせて気持ちいいですよ」(大島さん)

暮らしのサポートをされている「ふたばプロジェクト」の事務局長を務める宇名根さん。双葉町と、ここで暮らしたい人をつなぐ架け橋のような存在(写真/白石知香)

暮らしのサポートをされている「ふたばプロジェクト」の事務局長を務める宇名根さん。双葉町と、ここで暮らしたい人をつなぐ架け橋のような存在(写真/白石知香)

玄関には、愛用されているバイクが。スタイリッシュでかっこいい!(写真/白石知香)

玄関には、愛用されているバイクが。スタイリッシュでかっこいい!(写真/白石知香)

心地よい自然光が差し込むリビングで、ゆったりと過ごす時間がお気に入りなんだそう(写真/白石知香)

心地よい自然光が差し込むリビングで、ゆったりと過ごす時間がお気に入りなんだそう(写真/白石知香)

可動式のスポットライトが、空間をおしゃれに演出。白とウッドを基調とした天井が高い空間で、お部屋が明るく広々とした印象に(写真/白石知香)

可動式のスポットライトが、空間をおしゃれに演出。白とウッドを基調とした天井が高い空間で、お部屋が明るく広々とした印象に(写真/白石知香)

この先も進化し続ける、「えきにし住宅」から広がる双葉町の暮らし

「えきにし住宅」の入居がスタートしてから、取材時(2023年7月)までおよそ8カ月間。その期間中にも、全86戸のうち47戸の入居(予定含む)が決定しており、その属性の割合は帰還された方が約4割、新しく住まわれた方が約6割を占めるそう。「えきにし住宅」の建設プロジェクトは現在も進行中で、住宅エリアが拡充されたり、駅前広場が新設されたり、まちには商業施設がオープンしたりと、まちの盛り上がりは今後さらにはずみをつけていきそうです。

(写真/白石知香)

(写真/白石知香)

集会所の壁には、住民の方のものだと思われる似顔絵が(写真/白石知香)

集会所の壁には、住民の方のものだと思われる似顔絵が(写真/白石知香)

双葉町の町章と、江戸時代からダルマ市が開かれていた歴史がある双葉町で誕生した「双葉ダルマ」(写真/白石知香)

双葉町の町章と、江戸時代からダルマ市が開かれていた歴史がある双葉町で誕生した「双葉ダルマ」(写真/白石知香)

「外」と「中」の境界線がゆるやかに溶けていく暮らしのあり方や、「えきにし住宅」のリアルが気になる方はぜひ、双葉町を訪れてみてください。新しいはじまりを告げるワクワク感、みんなで一歩ずつ前進するあたたかなつながりの輪が、日常から感じられますよ。

●取材協力
えきにし住宅
ブルースタジオ
ふたばプロジェクト

●関連ページ
とみおかワインドメーヌ

東日本大震災の”復興建築”を巡る。今こそ見るべき内藤廣・乾久美子・ヨコミゾマコトなどを建築ライターが解説 岩手県陸前高田市・釜石市

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、建築デザイン業界にも大きな衝撃を与えました。おびただしい数の建築物が津波によって流されたことで、街ごと新たにつくり直す必要に迫られただけではありません。建築の仕事に携わる人にとっては、これまで設計してきた建築を、復興が急務となる被災地において、そしてまたそうした地域を抱える日本において、同じような考え方で設計して良いものなのかと自問する契機にもなったのです。

そうは言っても急速に復興が推し進められるなか、建築家もさまざまなかたちで被災地の建築デザインに関わってきました。避難所の生活を改善するための取り組みや、仮設住宅の建設といった応急対応から、この先の長い街づくりの礎となるような恒久的な施設まで、震災復興をきっかけに初めて試みられたデザインも多岐にわたります。

そうした人類の新たな叡智を見て歩くことは、被災地に限らず日々の生活をより良くしていくための発見に満ちているはず。今回、各地の建築やまち歩きをライフワークにしてきた筆者が、被災から10年以上が経ち、大方の復興が完了した岩手県南東部の沿岸エリアで見学ができる震災復興建築をレポートします。

あらゆるタイプの復興建築がそろう陸前高田

震災復興のために建てられた建築といっても、その内実はさまざまです。街づくり全体の広域復興計画に位置づけられる、市民生活のインフラとなるもの。地域住民の多様な活動をサポートする拠点となるもの。地域産業、特に漁業や観光業のための施設として使われるもの。観光を目的に東北に訪れる人々、そしてまた現役の、未来の地域住民のために津波の教訓を伝えていくために設計された伝承施設や追悼祈念碑。さらに、実際に津波や地震の被害を被った震災遺構も、解体することなく遺し、見学するためのルートを整備したことを鑑みると広い意味でのデザインとして見ることができるでしょう。
以下では、それぞれの特徴をおさえつつ、実際の建築物をエリアごとに紹介していきたいと思います。

まずなんといっても被災地での復興建築デザインを見学するなら、陸前高田市は外せません。ここには建築家の内藤廣氏が全体計画を担った高田松原津波復興祈念公園があります。
津波によって流されてしまった防潮林のうち、ただ1本残された「奇跡の一本松」をご存じの方も多いのではないでしょうか。あの松林があったエリアに整備された公園です。

公園の整備にあたり、内藤氏は海に向かってまっすぐ延びる祈りの軸線を設けました。そこに直交するかたちでデザインされたのが、道の駅高田松原を併設した「東日本大震災津波伝承館」です。国と岩手県、陸前高田市が連携し、津波被害の実態を後世に伝えるために整備されたメモリアルパークでありながら、道の駅として地域住民にも日常の延長として使われる、風景と一体化した複合施設です。

高田松原津波復興祈念公園全景。左中央に見える直線状の白い建物が東日本大震災津波伝承館。右手の三角形は、震災遺構「タピック45」。津波の際、屋上を駆け上った避難者が助かった(写真/ロンロ・ボナペティ)

高田松原津波復興祈念公園全景。左中央に見える直線状の白い建物が東日本大震災津波伝承館。右手の三角形は、震災遺構「タピック45」。津波の際、屋上を駆け上った避難者が助かった(写真/ロンロ・ボナペティ)

伝承館の中央ゲートから祈りの軸線を見る。軸線の先に象徴的なモニュメントを設けるのではなく、海に向かって祈りを捧げるよう演出されている(写真/ロンロ・ボナペティ)

伝承館の中央ゲートから祈りの軸線を見る。軸線の先に象徴的なモニュメントを設けるのではなく、海に向かって祈りを捧げるよう演出されている(写真/ロンロ・ボナペティ)

防腐処理を施され、もともと立っていた場所に再設置された奇跡の一本松。津波が直撃し変形した「陸前高田ユースホステル」が被害の実態を伝えている(写真/ロンロ・ボナペティ)

防腐処理を施され、もともと立っていた場所に再設置された奇跡の一本松。津波が直撃し変形した「陸前高田ユースホステル」が被害の実態を伝えている(写真/ロンロ・ボナペティ)

海を強く意識させるデザインは、津波により亡くなった方への追悼を促すとともに、ここを訪れる人がその瞬間海の間近にいること、地震が発生したらすぐに避難しなければならないことを同時に印象付けます。伝承館でも繰り返し実例が示される、2011年の3月11日に生死を分けた人々の判断と行動。いざという時にどのような対応をすべきか、公園全体で訴えかけるようなデザインがなされていました。

さらに陸前高田市では、高台にも内藤氏が設計した建築をはじめ、復興後の市民生活を支える建築が集まっています。そのひとつ、陸前高田「みんなの家」は、日本を代表する建築家の伊東豊雄氏の呼びかけに応じ、名だたる建築家が集まり地域の方々とともにつくりあげた集会所。世界各国が建築の実践を展示し建築界のオリンピックとも称される第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展ではその建設プロセスを紹介し、最高栄誉の金獅子賞を受賞しました。応急的な復興が一段落したことで役目を果たし、一度解体されましたが、駅前に再建されました。併設の総菜屋さんは、みんなの家の設計に携わった平田晃久氏が手掛けており、建築家と被災地との継続的な関わりが伺えます。

伊東豊雄氏、平田晃久氏、藤本壮介氏、乾久美子氏らが協働した陸前高田「みんなの家」。右側に延びる低層の建物が新しく設計された総菜店(写真/ロンロ・ボナペティ)

伊東豊雄氏、平田晃久氏、藤本壮介氏、乾久美子氏らが協働した陸前高田「みんなの家」。右側に延びる低層の建物が新しく設計された総菜店(写真/ロンロ・ボナペティ)

内藤廣氏設計の「東日本大震災犠牲者刻銘碑」三陸特有の山々が入り組んで連なるリアス式海岸を見晴らす(写真/ロンロ・ボナペティ)

内藤廣氏設計の「東日本大震災犠牲者刻銘碑」。三陸特有の山々が入り組んで連なるリアス式海岸を見晴らす(写真/ロンロ・ボナペティ)

内藤廣氏設計の「陸前高田市立博物館」。屋上の展望台からは、防潮堤の先に広がる海の景色を望むことができる(写真/ロンロ・ボナペティ)

内藤廣氏設計の「陸前高田市立博物館」。屋上の展望台からは、防潮堤の先に広がる海の景色を望むことができる(写真/ロンロ・ボナペティ)

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生活に密着した復興建築が揃う釜石市

陸前高田から北上することおよそ50km、三陸海岸の中央に位置する釜石市も、震災後の建築デザインを知る上で重要なエリアです。

街の中心部が津波で流され、多くの住民が亡くなった鵜住居町(うのすまいちょう)では、市民生活の立て直しに必要なさまざまな施設が震災後に整備されました。駅前に整備された「うのすまい・トモス」には、「東日本大震災の記憶や教訓を将来に伝えるとともに、生きることの大切さや素晴らしさを感じられ、憩い親しめる場」として複数の公共施設が配置されました。追悼施設の釜石祈りのパークには、震災で亡くなった方の名板があしらわれた祈念碑が設置されています。離れた位置から見ると白い板にしか見えませんが、近づいていくと個人名が刻印されており、報道で知る客観的事実としての被害とその一人ひとりにそれぞれの人生があった、その対比が表されているよう。少し土が盛られた上段に設置されたモニュメントは上端のラインが津波浸水高さ(11m)となるように設計され、ここを訪れる人々に有事の際は一目散に高台へ避難する意識を植え付ける計らいがなされています。

「釜石祈りのパーク」上段の壁の上端ラインが津波到達地点を示す(写真/ロンロ・ボナペティ)

「釜石祈りのパーク」上段の壁の上端ラインが津波到達地点を示す(写真/ロンロ・ボナペティ)

「うのすまい・トモス」全景。奥に体育館、左手前が震災の資料展示を行う「いのちをつなぐ未来館」、右手前が土産物などを販売する「鵜の郷交流館」(写真/ロンロ・ボナペティ)

「うのすまい・トモス」全景。奥に体育館、左手前が震災の資料展示を行う「いのちをつなぐ未来館」、右手前が土産物などを販売する「鵜の郷交流館」(写真/ロンロ・ボナペティ)

駅前からすぐ目に入る高台には、小学校・中学校・児童館・幼稚園の、子どもたちのための4施設が新たに建設(設計:小嶋一浩+赤松佳珠子/CAt)されました。通学路となる階段は、津波到達地点で階段の色が塗り分けられており、市街地から見上げた際に一目でどの高さまで避難すれば良いのかがわかる指標になっています。子どもたちが毎日登下校する様子は市街地のどこにいても目に入り、その風景が復興のシンボルとなるように、という願いが込められているそうです。

また震災当時、沿岸部にあった小学校と中学校は被災後に取り壊され、跡地には「釜石鵜住居復興スタジアム」が建設されました。周囲から隔絶された専用施設とするのではなく、日常的に使用できる公園として周囲と一体的に整備することで、海から山へと連続する鵜住居町の風景の一部となっています。2019年のラグビーワールドカップでは会場の一つとして使用され、まさに復興のシンボルとして人々の生活とともにあるスタジアムとして愛されています。
「鵜住居小学校・釜石東中学校」、「釜石鵜住居復興スタジアム」、「釜石祈りのパーク」では、個々の施設の設計に建築から関わったほか、神戸芸術工科大学の長濱伸貴教授がランドスケープデザイン・監修に携わっています。

「釜石市立鵜住居小学校・釜石市立釜石東中学校・釜石市鵜住居児童館・釜石市立鵜住居幼稚園」敷地へ至る階段のオレンジのラインが津波到達地点(写真/ロンロ・ボナペティ)

「釜石市立鵜住居小学校・釜石市立釜石東中学校・釜石市鵜住居児童館・釜石市立鵜住居幼稚園」。敷地へ至る階段のオレンジのラインが津波到達地点(写真/ロンロ・ボナペティ)

梓設計による「釜石鵜住居復興スタジアム」グラウンドと周囲がフラットにつながり、風景の一部となっている(写真/ロンロ・ボナペティ)

梓設計による「釜石鵜住居復興スタジアム」。グラウンドと周囲がフラットにつながり、風景の一部となっている(写真/ロンロ・ボナペティ)

釜石市の中心部にも、ぜひとも訪れたい重要な建築プロジェクトがあります。

世界最大水深の防波堤としてギネスブックの世界記録にも登録されていた湾口防波堤が震災でも大きな減災効果を発揮した釜石市中心部は、リアス式海岸が連なる三陸沿岸エリアにおいては比較的津波の被害がおさえられたエリアでした。震災前から残る商店街「のんべい横丁」と連続する位置に計画されたのが、釜石市民のさまざまな活動の受け皿となる、「釜石市民ホールTETTO」でした。折しも街区をひとつ挟んで隣接するエリアに大型ショッピングセンターの建設が進んでいました。そのままでは既存の商店街とショッピングモールが断絶してしまうことを恐れた市は、市民ホールの建設にあわせて隣接する街区も取得し、ショッピングセンターと市民ホールをつなぐ広場を整備することを決定。ガラスの大屋根が架かる市民ホールの前面広場と接続させることで、のんべい横丁からショッピングセンターへと連なる一連の商業エリアを創出することに成功しました。

建築はaat+ヨコミゾマコト建築設計事務所による設計。施設内部での活動が街に滲み出すようデザインされました。展覧会の一部が外からでも鑑賞できるようになっていたり、スタジオで練習するバンドの様子がうかがえるなど、文化が日常のなかで育まれることが実感できる市民ホールになっています。前面広場に面するステージでは、コロナ禍において全国でも先駆けて屋外コンサートを開催するなど、TETTOでは市民による市民のための精力的な活動が展開されています。

ショッピングセンター側からTETTOを望む。4方向に出入口が設けられ、建物のどこにいても避難できる動線が考えられた。手前の広場が市が取得した「大町広場」(写真/ロンロ・ボナペティ)

ショッピングセンター側からTETTOを望む。4方向に出入口が設けられ、建物のどこにいても避難できる動線が考えられた。手前の広場が市が取得した「大町広場」(写真/ロンロ・ボナペティ)

TETTOの前面広場に架かるガラスの大屋根は、建設費高騰の折に建設中止も検討されたが、建築家のさまざまなコスト削減策により実現された(写真/ロンロ・ボナペティ)

TETTOの前面広場に架かるガラスの大屋根は、建設費高騰の折に建設中止も検討されたが、建築家のさまざまなコスト削減策により実現された(写真/ロンロ・ボナペティ)

前面広場を客席として披露された、市民によるブラスバンドの演奏(写真/ロンロ・ボナペティ)

前面広場を客席として披露された、市民によるブラスバンドの演奏(写真/ロンロ・ボナペティ)

釜石市南部の集落に立つ「唐丹小学校・唐丹中学校・唐丹児童館」斜面を活かして建てられた校舎は、建築家の乾久美子氏による設計(写真/ロンロ・ボナペティ)

釜石市南部の集落に立つ「唐丹小学校・唐丹中学校・唐丹児童館」。斜面を活かして建てられた校舎は、建築家の乾久美子氏による設計(写真/ロンロ・ボナペティ)

被災地に観光目的で訪れるのは不謹慎なのではないか、そんな想いをもたれる方もいらっしゃるかもしれません。筆者自身、現地を訪れるまでは住民の方からどのような目で見られるのだろうかと不安に思うところもありました。

しかし実際に現地の方とお話をすると、理由はどうあれ来てくれる事自体が喜ばれ、また震災の実態を知ってほしいと活動される方も多くいらっしゃいました。
ここで紹介したような施設も、伝承館はもちろんのこと、そうでない建築にも津波の悲劇を繰り返さないためのデザインが施されていました。それは被災地で日常を送る住民の方はもちろんのこと、被災地を訪れた人たちにも、自然災害の恐ろしさを伝え、やがて来る東北以外の地域での災害を防ぐ一助となることを見越したものでしょう。

災害大国である日本において、建築はどうあるべきか、これ以上ない模範事例が集まる東北、三陸海岸を訪れてみてはいかがでしょうか。

■施設リスト
東日本大震災犠牲者刻銘碑
陸前高田市立博物館
東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)
釜石市立唐丹小学校
釜石市民ホール TETTO
釜石市立鵜住居小学校
うのすまい・トモス
釜石鵜住居復興スタジアム

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震災の記憶を次世代に。伝える取り組みや遺構が続々と

全国で大規模な自然災害が増えている。時間と共に関心が薄れてきている震災の記憶を風化させまいと、被災地では伝承施設の建設が相次いでいる。また、震災で失われたものをプラスに活かす取り組みも。各地で進められている「震災の記憶を残し、後世に確実に伝える取り組み」のうち、2020年度グッドデザイン・ベスト100を受賞した宮城県亘理郡山元町、福島県相馬郡飯舘村、熊本県熊本市の3つの事例を紹介する。
伝承が難しい状況でも震災を風化させない。復興へ向けた取り組み

東日本大震災からもうすぐ10年。震災を振り返るテレビ番組や報道は3月11日前後以外はあまり見なくなった。被災地では、子どもから高齢者までの震災経験者による語り部ガイドツアーは継続しているが、ガイド役の子どもたちが成長して忙しくなったり、高齢化で担い手が減少しつつあったりするという。また、震災を知らない子どもたちも増えた。

一方で、国土交通省が2017年に「震災を風化させないプロジェクト~震災の記録・記録の見える化への取り組み~」を発表し、震災情報の発信、震災遺構・追悼施設等のマップ化、震災メモリアル施設等の整備などに力を入れている。被災地では、震災の事実を伝える施設が続々と計画、誕生している。

被害状況を保存建築物にした「山元町立中浜小学校」

山元町立中浜小学校は、宮城県沿岸部、海から約400mに位置する。2011年3月11日、東日本大震災の大津波で校舎は2階天井近くまで浸水した。避難場所まで歩いて避難することは不可能と判断し、児童と教職員ら90人は、校舎屋上の倉庫で一夜を過ごし、翌朝自衛隊のヘリコプターで全員が無事救助された。

中浜小学校は2013年に内陸の小学校と統合されて閉校、沿岸部の自治体では被災した建築物を保存するか解体するか議論されたが、山元町は宮城県南地域で唯一残る被災建築物である校舎を防災教育施設として保存することを決めた。「大津波の痕跡をできるだけ残したまま整備し、教訓を風化させず、災害に対する備え、意識の大切さを伝承する震災遺構」として、2020年9月から一般公開している。整備を担当した山元町教育委員会生涯学習課の八鍬智浩(やくわ・ともひろ)さんに案内してもらった。

校舎南側の1階は窓がサッシごと失われた。2階は窓枠は残るが、窓枠は歪みガラスが破壊されている(写真撮影/佐藤由紀子)

校舎南側の1階は窓がサッシごと失われた。2階は窓枠は残るが、窓枠は歪みガラスが破壊されている(写真撮影/佐藤由紀子)

学校のシンボル的存在だった時計台は、根元から押し倒され、津波の甚大さを物語っている。校庭だった場所はメモリアル広場として整備され、救助のヘリが着陸した場所の近くには震災モニュメント「3月11日の日時計」が新たにつくられた。

文字盤に埋め込まれてた石は地震発生時刻の14時46分を指している。中央の方位盤には国内外で起きた大規模地震の発生時期と方位や距離が記されている。「東日本大震災だけではなく、繰り返し起きる災害に対してどう構え、どう備えるべきかを広い視点で捉えてほしい」と八鍬さんは話す。

メモリアル広場には、津波の高さと襲来した方角を示す国旗掲揚塔や、「地震があったら津波の用心」と刻まれた明治・昭和三陸地震津波の石碑も置かれている。県道沿いにたくさんあったクロマツのうち唯一残った1本は、周辺の道路工事で伐採される予定だったものを移植して残した。

校舎の児童玄関は窓枠ごと流され、下駄箱も流されていた。本来外側に開く教職員用の玄関の扉が内側に開いているのは、津波の引き波によるもの。それでも、校舎の西側に体育館があり、引き波の威力が弱められたという。盾となった体育館は引き波から校舎を守り、現在は取り壊されている。

校舎入口に建つ学校のシンボルだった時計台は津波で根元から倒され、そのまま残されている(写真提供/山元町教育委員会)

校舎入口に建つ学校のシンボルだった時計台は津波で根元から倒され、そのまま残されている(写真提供/山元町教育委員会)

震災の翌朝、自衛隊のヘリコプターが着陸した位置の近くに設けられた「日時計の丘」。3月11日に誤差なく時間を示すようにつくられているほか、さまざまな工夫が施されている(写真提供/山元町教育委員会)

震災の翌朝、自衛隊のヘリコプターが着陸した位置の近くに設けられた「日時計の丘」。3月11日に誤差なく時間を示すようにつくられているほか、さまざまな工夫が施されている(写真提供/山元町教育委員会)

「校舎1階は、被災したままの状態を保存し、津波の甚大さを知ってもらうための場所として整備しています。被災した状態の校舎の中をそのまま保存し見学できるようにすることは、本来、建物が守るべき建築基準法とは相反します。津波の被害状況をなるべくそのまま見てもらいたい、体感してもらいたいという思いがあり、山元町では新たに条例を制定したうえで、建築基準法の適用を除外する手続きをとりました。天井から落ちてきそうな部材や配管類はワイヤーや接着剤で固定したり、倒れ掛かっている壁は裏から鉄骨で支えるなど、安全に維持・見学するために必要な補修、保存手法を目立たないように施しています」(八鍬さん)

1階の多目的ホールのモニュメントは、津波により押し倒されている。曲がった机や椅子が積み重なり、防潮林だったクロマツが校舎内に流れついている(写真撮影/佐藤由紀子)

1階の多目的ホールのモニュメントは、津波により押し倒されている。曲がった机や椅子が積み重なり、防潮林だったクロマツが校舎内に流れついている(写真撮影/佐藤由紀子)

中庭に面した窓ガラスはほとんどが破壊されたが2階の窓ガラスやステンドグラスは一部が残っている(写真撮影/佐藤由紀子)

中庭に面した窓ガラスはほとんどが破壊されたが2階の窓ガラスやステンドグラスは一部が残っている(写真撮影/佐藤由紀子)

校舎の窓ガラスは破壊され、天井などは大きくはがれ落ち、配管類がむき出しになっている。窓枠のサッシはめくれ上がり、津波で運ばれた大量の瓦礫や木などが積み重なっている。遺構のさまざまな被害状況から、津波の威力や高さ、方向などをうかがい知ることができる。

教室と仕切りで区切られたワークスペース(廊下)も天井が剥がれ落ちている。木の床板は雨風が吹き込んで徐々に反り、剥がれていった(写真提供/山元町教育委員会)

教室と仕切りで区切られたワークスペース(廊下)も天井が剥がれ落ちている。木の床板は雨風が吹き込んで徐々に反り、剥がれていった(写真提供/山元町教育委員会)

柱に巻き付いている鉄骨は学校にあったものではなく、どこからか流されてきたもの。津波はいろいろなものを巻き込んで襲ってきた(写真撮影/佐藤由紀子)

柱に巻き付いている鉄骨は学校にあったものではなく、どこからか流されてきたもの。津波はいろいろなものを巻き込んで襲ってきた(写真撮影/佐藤由紀子)

90人が寒さと余震に耐え、いつくるか分からない救助を待ち続けた屋上倉庫。震災当時のまま残され、その状況を見学できる(写真提供/山元町教育委員会)

90人が寒さと余震に耐え、いつくるか分からない救助を待ち続けた屋上倉庫。震災当時のまま残され、その状況を見学できる(写真提供/山元町教育委員会)

90人が一夜を過ごした屋上の倉庫へは、狭く急な階段を昇る。明かりのないこの倉庫は、学習発表会の衣装や模造紙に書かれた絵などが当時のまま残されている。食べ物も飲み物もなく、氷点下の外気温の中、屋上倉庫の中にあるもので寒さをしのぎ、余震の恐怖に耐えながら一夜を過ごした。

災害を自分のこととして考える校舎の壁に見える青いプレートの高さまで津波が達した。津波が押し寄せて水没した校舎は「まるで船になって海に漕ぎ出したような感覚」だったという(写真提供/山元町教育委員会)

校舎の壁に見える青いプレートの高さまで津波が達した。津波が押し寄せて水没した校舎は「まるで船になって海に漕ぎ出したような感覚」だったという(写真提供/山元町教育委員会)

体育館により引き波から守られたことで被害が比較的少なかった2階の旧音楽室は当時の状況を色濃く残したまま映像室に改修され、当時の様子などを教職員や保護者のリアルな声と共に知ることができる。震災前は集落が見えていた旧音楽室の窓からは、黄色いハンカチが風にたなびくのが見える。被災地に対する支援への感謝や、全国から寄せられた復興を願うメッセージなどがハンカチに書かれている。地元で伝承活動を続ける「やまもと語りべの会」によるプロジェクトのひとつだ。

2階の旧図書室は展示室として改修され、ジオラマ、ドキュメントパネル、震災前の映像などを見ることができる。震災前の街並みを再現した模型は、地域住民らとのワークショップを通じて製作された「記憶をカタチに残す」取り組みだ。また、震災前の中浜小学校の模型は、縁が津波の高さに合わせてつくられており、同じ高さの視線で覗き込むといろいろなことが見えてくる。

「この震災遺構は、津波の被害状況や甚大さを知ってもらうだけではなく、災害を『自分のこと』として捉えることが大事だと考えて整備しました。例えば、展示物もただ模型を見るだけではなく、『津波はどの方向から襲ってきたのだろう』『たった一日で日常生活が変わってしまうのはどんな気持ちになるだろう』など問いかけのカードを多く用意しており、その問いかけを通じて、見学者自身にもし自分の生活環境で災害が起きたらどうするかについて考えさせるためのさまざまな工夫しています」と八鍬さんが話すように、答えを与えるのではなく、見て、考えて、想像できるような展示内容になっている。

震災前の町を再現したジオラマは住民も参加して製作され、地域住民の記憶回帰の場にもなっている(写真撮影/佐藤由紀子)

震災前の町を再現したジオラマは住民も参加して製作され、地域住民の記憶回帰の場にもなっている(写真撮影/佐藤由紀子)

児童ら90人の命が無事に守られたことには「事前の備え」がいくつもある。中浜小学校は震災前から津波や高潮の危険性があったことから、1989年の建て替え時に敷地全体が2m程度かさ上げされた。そのため、屋上は津波の被害を逃れた。また、地域住民が学校が開いていない時間帯でも校舎2階まで避難できるように設けられた3つの外階段のひとつが翌朝に脱出ルートとして利用できた。

「学校が海に近いため、先生方は津波の浸水域であるという危機感を常に持っていて、震災当日の2日前の3月9日に発生した津波注意報の発表を伴う地震(このとき山元町では津波は観測されていなかった)を受け、津波が発生した場合の防災・避難行動をしっかりと考え直しています。いろいろな偶然や幸運が重なりましたが、事前に避難マニュアルを確認し、児童には災害に対する意識の大切さを促していたので、パニックにならず落ち着いて行動ができました」(八鍬さん)

児童の心のケア、転入・転出の手続き、年度末の会計処理、支援物資の分配など、学校再開に向けた多岐にわたる取り組みを整理するため模造紙に書かれたマインドマップ。仕事や勉強などさまざまなものに応用できるという(写真撮影/佐藤由紀子)

児童の心のケア、転入・転出の手続き、年度末の会計処理、支援物資の分配など、学校再開に向けた多岐にわたる取り組みを整理するため模造紙に書かれたマインドマップ。仕事や勉強などさまざまなものに応用できるという(写真撮影/佐藤由紀子)

震災遺構として2020年9月に中浜小学校が公開され、約2カ月で来訪者は8000人を超えた。修学旅行の小・中学生も多く訪れており、展示室のノートには「津波の破壊力にびっくりした」「こんな災害が二度と起こらないように願う」「深く考えさせられ、多くの学びを得られる場所だった」などの感想が綴られている。

震災遺構中浜小学校は、被災したままの状態での公開を法的に可能とした手法や、住民らとの意見交換を重ねて整備したプロセス、時の流れを感じながら震災について考える日時計モニュメントなどによる統合的なデザインが評価され、「震災の脅威を示すにとどまらない学びの場を提供しており、柔軟な発想が出来上がった空間の質を格段に高めている。この種の施設を整備する際の、ひとつのモデルを提示したプロジェクトである」として、グッドデザイン・ベスト100のほか、特別賞に該当するグッドフォーカス賞(防災・復興デザイン)も受賞した。

福島県のログハウス型仮設住宅を再利用した「大師堂住宅団地」2020年度グッドデザイン賞を受賞した福島県相馬郡飯舘村の「大師堂住宅団地」(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

2020年度グッドデザイン賞を受賞した福島県相馬郡飯舘村の「大師堂住宅団地」(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

次に紹介するのは、仮設住宅にまつわる取り組み。

2011年、福島県は応急仮設住宅を、通常のプレハブ建築ではなく、木造住宅で約6000戸以上を建設・供給した。(過去記事)仮設住宅は一定期間を過ぎると役割を終えるが、撤去されると同時に大量のゴミが発生し、処分費用もかかる。そこで、福島県は資源を有効活用しようと2016年に応急仮設住宅の再利用を呼び掛けた。

「大師堂住宅団地」が生まれた背景を福島県飯舘村建設管理係に聞いた。「2017年3月に、福島県第1原発事故で全村が計画的避難区域指定が、一部を除いて解除されました。そこで、避難していた住民が戻ってきて住めるように災害公営住宅を新築したり、もともとの公営住宅を改修・改善して整備していましたが、当時、仮設住宅に住める期間終了が当時迫っていて、年内に住宅を供給するために工期を短縮する必要がありました。

そこで、福島県が提案する『仮設住宅の移築・再利用事業』とも相まって、県内で使われていたログハウス型の仮設住宅を移築・再利用しようという流れになりました。

そして、仮設住宅を解体・廃棄処分ではなく恒久住宅とし、一時的な仮設住宅を恒久住宅として再構築したのが『大師堂住宅団地』です。仮設住宅が集会所などに再利用された話は聞いていましたが、災害公営住宅に変わったのは福島県で初めてでした」

建築・設計は、福島県から委託された設計事務所「はりゅうウッドスタジオ」と打ち合わせて進めた。躯体、間取りの壁の位置などはそのまま、屋根や外壁、基礎外周部に断熱材を補強して断熱・気密性を高め、冬は床下のエアコンひとつで暖かく、夏は涼しく過ごせるようにした。外壁に鉄板サイディングを施し、屋根、サッシ、設備などは一新。また、南側を広くし、軒下に外部デッキ・軒下空間を加えて外とつながり、交流する場を設けた。

16戸の仮設住宅の間取りを広げて12戸として再利用した(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

16戸の仮設住宅の間取りを広げて12戸として再利用した(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

内部は木の温かみ、ぬくもりを活かしログ材を極力そのまま見せるデザインにした。「ログ材は積み上げた後に丸太の重量と収縮で下がる現象があるため、断熱材の連続と気密を連続させることが難しかった」と話す(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

内部は木の温かみ、ぬくもりを活かしログ材を極力そのまま見せるデザインにした。「ログ材は積み上げた後に丸太の重量と収縮で下がる現象があるため、断熱材の連続と気密を連続させることが難しかった」と話す(画像提供/福島県飯舘村建設管理係)

県産の木を使い、地元の工務店の職人が建てた、地域の財産ともいえるログハウス型仮設住宅に新しい可能性を示した「大師堂住宅団地」は、緻密で丁寧な設計と同時に、資材の循環という地球環境にやさしい社会的な意義が評価された。

被災した特別史跡の復旧工事を公開する新たな手法「熊本城特別見学通路」「熊本城特別見学通路」。やわらかな弧を描く通路は全長350m、高低差21m(画像提供/益永研司写真事務所)

「熊本城特別見学通路」。やわらかな弧を描く通路は全長350m、高低差21m(画像提供/益永研司写真事務所)

最後に紹介するのは、2016年4月の熊本地震により甚大な被害を受け、石垣が崩れ、復旧工事に約20年が必要になった熊本城の事例。

「一般的に復旧工事はクローズで行われますが、熊本市の観光のメインで市民のシンボルに20年も入れないことは観光経済に大きな打撃です。そこで、発想を転換して開かれた工事にしようと、被災した城内に入り復旧する過程を安全、間近に見られる観光資源をつくり出すことを熊本市に提案し、実現にいたりました」と話すのは、日本設計のアーキテクト、塚川譲さん。

国の特別史跡内に建築をつくって見学通路を設ける、という初の試みだが、厳しい条件が重なった。「地震などが起きれば石垣が崩落する危険がある。復旧中の現場に新築の建物をつくるという通常では考えられないプロセスを進める必要がありました。また、熊本城の敷地は文化財保護法で定められた特別史跡で、掘ったり削ったりができないため、地中に杭を打つことができず、コンクリートの塊を置いた基礎としました。文化財に配慮しながら建物を支える建築手法をとりました」

見学ルートとなる空中歩廊。基礎を置ける範囲が制限されるため、石垣を飛び越える約50mのロングスパンアーチ構造を採用した(画像提供/益永研司写真事務所)

見学ルートとなる空中歩廊。基礎を置ける範囲が制限されるため、石垣を飛び越える約50mのロングスパンアーチ構造を採用した(画像提供/益永研司写真事務所)

来場者の視線、熊本城の景観に配慮して構造躯体はできるだけ小さく見せるよう工夫。生い茂る木々や植物と一体になった熊本城の景観が楽しめる(画像提供/益永研司写真事務所)

来場者の視線、熊本城の景観に配慮して構造躯体はできるだけ小さく見せるよう工夫。生い茂る木々や植物と一体になった熊本城の景観が楽しめる(画像提供/益永研司写真事務所)

2019年10月から特別公開第1弾を開始。2020年6月に第2弾として見学通路が開通した。コロナ禍の影響もあったが、10月下旬には見学者が10万人を突破した。「近くで見ることができてうれしかった」「まだ震災の傷跡が残っていることに悲しみや驚きを感じた」などの感想が届いているという。以前は地面から熊本城を見ていたが、地上6mから見られるのも新鮮で、緑豊かな城内では行くたびに違った景色を見ることができる。

「通常であれば新築の建物を建てることが許されない場所に建物を建てているため、20年間のみの公開で、その後は解体するということで文化庁の許可を受けています。前例のない試みの建築が、今回初めて実現したことで、文化財と建築の在り方が大きく見直されたのではないかと思います。入れない場所に安全に入って修復過程を見学するといった手法は、震災遺構の見学でも応用できる可能性があると、建築の有識者から評価をいただきました」(塚川さん)。「熊本城特別見学通路」は、安全性、機能性とあわせて美しいデザインも高く評価されている。

2020年度グッドデザイン賞を受賞した3つの事例に共通するのはリアルに災害を肌で感じ、広い視点で考え、「学ぶ」「生かす」「考える」機会を与えているという点だ。地域の復興にも役立ち、未来の災害への備え、対応を強く訴えかける。

前例がない特殊な状況や環境だらけだった「震災を伝える取り組み」はまだ始まったばかりだが、未来に生きるすべての人のために、これからも進化させながら100年、200年先まで伝え続けていく必要がある。

●取材協力
震災遺構中浜小学校の一般公開について
熊本城
●グッドデザイン賞
震災遺構 [山元町震災遺構中浜小学校]
住宅団地 [大師堂住宅団地]
建築 [熊本城特別見学通路]

震災で無人になった南相馬市小高地区。ゼロからのまちおこしが実を結ぶ

福島第一原子力発電所から半径20km圏内のまち、福島県南相馬市小高区。一度ゴーストタウン化した街だが、2016年7月12日に帰還困難区域(1世帯のみ)を除き避難指示が解除5年以上が経過し、小高区には新たなプロジェクトや施設が次々と誕生した。小高地区の復興をけん引してきた小高ワーカーズベース代表取締役の和田智行さんや、街の人たちに話を聞いた。
避難指示解除後人が動き、小高駅など交流の拠点が生まれた

2011年3月11日の福島第一原発事故の影響により小高地区には避難指示が出て全区民が避難した。一時、街から人がいなくなったが、避難指示解除以降住民の帰還が徐々に進み、2020年10月31日現在で居住率は52.89%。「すぐに元どおりとはいかないが、本格的に戻り始める人が出てきた」と街の人が話すように、着実に動き始めている。そして、避難指示の解除後に、各地から小高区に移住した人は600人ほどいるという。

上は、避難指示解除後に小高地区に新たに誕生した代表的な店舗・施設だ。特に2019年以降は、復興の呼び水となる新施設のオープンが相次いでいるが、ほかにもJR小高駅から西へ真っすぐ伸びる小高駅前通り沿いを中心に、新しい施設や店が誕生している。いくつか紹介しよう。


JR常磐線の小高駅の西側、福島県道120号浪江鹿島線を中心とした地図(記事で触れている施設やお店はチェック付き)

復興の呼び水となった新施設が続々と

まず、まちの玄関口となる駅。JR小高駅の駅舎は東日本大震災による津波で浸水したが、流されずそのまま残った。震災後は営業を休止していたが、避難指示解除後の2016年7月に再開、2020年3月にJR常磐線が全線開通した。小高駅は無人駅になったが、駅舎は木をふんだんに使った明るい空間にリニューアルされ、Wi-fi環境やコンセントを備え、打ち合わせや仕事場として利用が可能だ。

駅員が利用していた事務室はコミュニティスペースとして活用し、開放時に常駐するコーディネーターは、駅をハブとした魅力的なまちづくりプロジェクトの核となる予定。

駅舎のリニューアルと同時に駅に新たな役割を持たせ、人材を発掘するこの試み。JR東日本スタートアップと一般社団法人Next Commons Labが協同で取り組む「Way- Wayプロジェクト」の第一弾で、全国に先駆けて実証実験が行われたものだ。

JR小高駅(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

JR小高駅(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

常磐線は1~2時間に1本。駅舎のコミュニティスペースでは下校途中の高校生が勉強しながら常磐線を待つ。利用者が多い時間帯(平日は16時~19時、土・日・祝は12時~16時30分)に開放(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

常磐線は1~2時間に1本。駅舎のコミュニティスペースでは下校途中の高校生が勉強しながら常磐線を待つ。利用者が多い時間帯(平日は16時~19時、土・日・祝は12時~16時30分)に開放(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

次は、JR小高駅から歩いて約3分のところにある、芥川賞作家・劇作家の柳美里さんが2018年にオープンした本屋「フルハウス」。この店を目当てに全国からファンが訪れている。柳さんは、震災後にスタートした臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」(2018年3月閉局)で2012年2月から番組「ふたりとひとり」のパーソナリティを担当し、番組のために週1回通っていた。2015年4月に鎌倉市から南相馬市に転居。2017年7月、下校途中の高校生や地元の人たちの居場所にもなる本屋を開きたいと、小高区の古屋を購入して引越した。旧警戒区域を「世界で一番美しい場所に」との思いで、クラウドファンディングで資金を募り、2018年4月、この自宅を改装してオープンさせた。

柳美里さんの小説にちなんで名づけたブックカフェ「フルハウス」。裏に倉庫をリノベーションしてつくった演劇アトリエ「La MaMa ODAKA」を併設し、柳さんが立ち上げた演劇ユニット「青春五月党」の復活公演を2018年9月に上演。福島県立ふたば未来高校演劇部の生徒が出演し、チケットは完売(写真撮影/佐藤由紀子)

柳美里さんの小説にちなんで名づけたブックカフェ「フルハウス」。裏に倉庫をリノベーションしてつくった演劇アトリエ「La MaMa ODAKA」を併設し、柳さんが立ち上げた演劇ユニット「青春五月党」の復活公演を2018年9月に上演。福島県立ふたば未来高校演劇部の生徒が出演し、チケットは完売(写真撮影/佐藤由紀子)

写真は副店長の村上朝晴(ともはる)さん。店内には約3000冊の本が並ぶ。作家の村山由佳さん、角田光代さん、歌人の俵万智さんらにそれぞれ20冊の本を選んでもらい、手書きのメッセージを添えて販売するコーナーも。小説家が営む本屋ならではの他に類を見ない企画だ(写真撮影/佐藤由紀子)

写真は副店長の村上朝晴(ともはる)さん。店内には約3000冊の本が並ぶ。作家の村山由佳さん、角田光代さん、歌人の俵万智さんらにそれぞれ20冊の本を選んでもらい、手書きのメッセージを添えて販売するコーナーも。小説家が営む本屋ならではの他に類を見ない企画だ(写真撮影/佐藤由紀子)

旧警戒区域に移住して本屋を開き、芝居を上演する柳さんに、友人・知人は「無謀過ぎる」と止めたそうだが「帰還者が3000人弱の、半数が65歳以上の住民のみでは立ち行くことはできない。他の地域の人と結合し呼応し共歓する場所と時間が必要。無謀な状況には無謀さを持って立ち向かう」と柳さん。「フルハウス」は、本や人、文化に触れ、若者の未来と夢が広がる、“こころ”の復興に欠かせない要地となっている。

南相馬市が復興拠点として整備し、2019年1月に誕生した「小高交流センター」には、多世代が健康づくりができる施設や、フリーWi-fiに対応する交流スペース、起業家向けのコワーキングスペース、飲食店などがそろう。こちらにも地元の人が多く訪れており、日常的な憩いの場になっていることがうかがえた。

小高交流センター(写真撮影/佐藤由紀子)

小高交流センター(写真撮影/佐藤由紀子)

小さな子ども向けの遊び場「子育てサロン」。授乳スペースやキッチンコーナーも併設。2人の子どもを連れた母親は「幼稚園の帰りに毎日寄って、子どもたちを遊ばせています」と話していた(写真撮影/佐藤由紀子)

小さな子ども向けの遊び場「子育てサロン」。授乳スペースやキッチンコーナーも併設。2人の子どもを連れた母親は「幼稚園の帰りに毎日寄って、子どもたちを遊ばせています」と話していた(写真撮影/佐藤由紀子)

農業を再開した方の新鮮な朝採り野菜など生産者の顔が見える安全・安心の野菜を中心に、地産のものを販売する「小高マルシェ」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

農業を再開した方の新鮮な朝採り野菜など生産者の顔が見える安全・安心の野菜を中心に、地産のものを販売する「小高マルシェ」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

ゼロから新しいことに挑戦する人たち。名産品のトウガラシも誕生

筆者は2019年3月以来の再訪だが、上記で紹介した施設以外にも、小高地区の駅前通りに新しい個人経営の店舗がぽつりぽつりと増えているのを発見した。話を聞くと、ほとんどが避難区域解除後に地元に帰還して、店を開き新たな分野に挑戦していた。

震災前にスーパーで働いていた鈴木一男さんは、2019年2月、同じ場所に家族とともに食事処「Diner Bonds(ダイナーボンズ)」を開いた。ランチは、カツカレー、かつ丼、生姜焼き定食など、どれもボリュームがありリーズナブル。お客が次々訪れ活気にあふれていた。「駅前の通りは車が増えて、にぎわっていると感じます」(写真撮影/佐藤由紀子)

震災前にスーパーで働いていた鈴木一男さんは、2019年2月、同じ場所に家族とともに食事処「Diner Bonds(ダイナーボンズ)」を開いた。ランチは、カツカレー、かつ丼、生姜焼き定食など、どれもボリュームがありリーズナブル。お客が次々訪れ活気にあふれていた。「駅前の通りは車が増えて、にぎわっていると感じます」(写真撮影/佐藤由紀子)

「小高工房」は、2017年3月オープン。畑でイノシシの被害がないトウガラシに着目、3人で栽培を始め、現在は80人以上の住民を巻き込んだプロジェクトに成長、新たな特産品に。写真はオーナーの廣畑裕子さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「小高工房」は、2017年3月オープン。畑でイノシシの被害がないトウガラシに着目、3人で栽培を始め、現在は80人以上の住民を巻き込んだプロジェクトに成長、新たな特産品に。写真はオーナーの廣畑裕子さん(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

2019年12月、ここで以前呉服屋を営んでいた鈴木さんが娘さんと開いた「コーヒーとたべもの 鈴木屋」。実家の秋田や青森の食材を使ったメニューが特徴で、淹れたてのドリップコーヒー、手づくりケーキなどを提供。「人は少しずつ戻ってきていますし、若い人が増えています」とオーナー(写真撮影/佐藤由紀子)

2019年12月、ここで以前呉服屋を営んでいた鈴木さんが娘さんと開いた「コーヒーとたべもの 鈴木屋」。実家の秋田や青森の食材を使ったメニューが特徴で、淹れたてのドリップコーヒー、手づくりケーキなどを提供。「人は少しずつ戻ってきていますし、若い人が増えています」とオーナー(写真撮影/佐藤由紀子)

「Odaka Micro Stand Bar(オダカマイクロスタンドバー)~オムスビ~」はスペシャリティコーヒーが看板。移住者やUターンした若者が「小高で地域と若い人が変わるきっかけをつくりたい」と、小高駅付近でキッチンカーから始めて2018年に開店(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「Odaka Micro Stand Bar(オダカマイクロスタンドバー)~オムスビ~」はスペシャリティコーヒーが看板。移住者やUターンした若者が「小高で地域と若い人が変わるきっかけをつくりたい」と、小高駅付近でキッチンカーから始めて2018年に開店(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

地域の課題を解決するための事業に取り組む起業家を支え育成する「小高パイオニアヴィレッジ」外観(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

「小高パイオニアヴィレッジ」外観(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

復興の潮流をここまで見てきたが、なかでも大きな位置を占めるのが、2019年3月に誕生した「小高パイオニアヴィレッジ」(過去記事)と、その運営を担う一般社団法人パイオニズム代表理事の和田智行さんの存在だ。

「小高パイオニアヴィレッジ」は、起業家やクリエイターの活動・交流の拠点としても活用できるコワーキングスペースとゲストハウス(宿泊施設)、共同作業場(メイカーズスペース)を含む施設。和田さんは、このコワーキングスペースを拠点に、人と人、人と仕事を結びつけ、コミュニティやビジネスを創出する手助けをしている。

小高区(旧小高町)生まれの和田智行さん(写真撮影/佐藤由紀子)

小高区(旧小高町)生まれの和田智行さん(写真撮影/佐藤由紀子)

「小高パイオニアヴィレッジ」を立ち上げ運営を担う和田さんが代表取締役を務める小高ワーカーズベースは、地域の協力活動に取り組む「地域おこし協力隊」を活用して地域の課題の解決や資源の活用を目指すプロジェクトを進める「ネクストコモンズラボ(以下、NCL)」の事業を、南相馬市から受託している(NCL南相馬)。NCLは全国14カ所で行われている。

和田さんは「1000人を雇用する1社に暮らしを依存する社会ではなく、10人を雇用する多様な100社が躍動している自立した地域社会を目指す」ため、2017年から、南相馬市の職員と共に、NCL南相馬の事業をスタートさせた。

「私たちが地域の課題や資源を活用して案をつくり、実際に事業化したい人を募集し、企画書を提出してもらって採用を判断します。そして、起業家が自走できるように活動や広報をサポートし、地域や他企業とつないだりしながら、育成していきます。最終的には、経済効果が生まれ、関係人口が増えて、その人たちが定住することも目的のひとつです」(和田さん)

現在進めているプロジェクトは、先に説明した小高駅を活性化する「Way- Wayプロジェクト」、南相馬市で千年以上前から続いている伝統のお祭り「相馬野馬追」のために飼われている馬を活用した「ホースシェアリングサービス」、セラピストが高齢者の自宅や福祉施設、病院などを訪問してアロマセラピーで癒やしを届ける「移動アロマ」、地方では手薄になりがちな地域の事業者や商材に対して広報・販促支援などを行う「ローカルマーケティング」を含む7つ。以下、全国各地からプロジェクトの募集を見て移住したラボメンバーの3人を紹介。

横浜市生まれの水谷祐子さんは、英国IFA認定アロマセラピストの資格を持ち、アロマセラピストとして高齢者に施術をしてきた。「移動販売プロジェクト」に参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

横浜市生まれの水谷祐子さんは、英国IFA認定アロマセラピストの資格を持ち、アロマセラピストとして高齢者に施術をしてきた。「移動販売プロジェクト」に参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

東京都生まれ、馬の調教師・馬術選手だった神瑛一郎(じん・よういちろう)さん。年1回の相馬野馬追のために飼育されている馬の活躍の場をつくる「ホースシェアリング」に参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

東京都生まれ、馬の調教師・馬術選手だった神瑛一郎(じん・よういちろう)さん。年1回の相馬野馬追のために飼育されている馬の活躍の場をつくる「ホースシェアリング」に参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

南相馬市生まれ、仙台、北海道で旅行領域の営業職に就いた高田江美子さん。地元にUターン、前職を通じ広報・販売活動の重要さを感じて「自由提案プロジェクト」にローカルマーケッターとして参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

南相馬市生まれ、仙台、北海道で旅行領域の営業職に就いた高田江美子さん。地元にUターン、前職を通じ広報・販売活動の重要さを感じて「自由提案プロジェクト」にローカルマーケッターとして参加(写真提供/小高ワーカーズベース)

2021年に本格的に始まる新たなプロジェクトでは、民家を改装した酒蔵で、日本酒にホップを用いた伝統製法や、ハーブや地元の果物などを使ってCraft Sakeをつくる「haccoba(ハッコウバ)」がある。2021年春には新しいコミュニティ、集いの場を目指し、酒蔵兼バーがオープンする予定で、地域住民の期待も高い。

「haccoba(ハッコウバ)」完成予想図((c)Puddle Inc.)

「haccoba(ハッコウバ)」完成予想図((c)Puddle Inc.)

酒瓶イメージ(写真提供/haccoba, Inc.)

酒瓶イメージ(写真提供/haccoba, Inc.)

「小高パイオニアヴィレッジ」は、移住してきた起業家の共同オフィスとして活用されているが、「知らないまちで起業することは意欲的な人でも難易度は高く、壁にぶつかることもあると思います。けれども、起業家が集まる場があれば、自然と連携ができて、情報交換を行い、協力し切磋琢磨し合える、そんなコミュニティが生まれるきっかけにもなっています」。地元出身の和田さんは、孤独になりがちな起業家を地域とつなげるハブのような役割も担っている。

小高パイオニアヴィレッジのコワーキングスペース。ひな壇にはコンセントや暖房も装備されている(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小高パイオニアヴィレッジのコワーキングスペース。ひな壇にはコンセントや暖房も装備されている(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

小高パイオニアヴィレッジのゲストハウス。長期滞在者や仕事をしながら宿泊する人に便利(写真提供/小高ワーカーズベース)

小高パイオニアヴィレッジのゲストハウス。長期滞在者や仕事をしながら宿泊する人に便利(写真提供/小高ワーカーズベース)

パイオニアヴィレッジのメーカーズルームには、老舗の耐熱ガラスメーカーHARIOが職人技術継承のために立ち上げた「HARIOランプワークファクトリー」の生産拠点のひとつとしてスタート。2019年3月には、「HARIOランプワークファクトリー」の協力のもと、オリジナルのハンドメイドガラスブランド、iriser(イリゼ)をリリース。地元の自然などをモチーフにした他にないデザインが特徴だ。

5人の女性ガラス職人がアクセサリーを製作・販売する施設内の「アトリエiriser(イリゼ)」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

5人の女性ガラス職人がアクセサリーを製作・販売する施設内の「アトリエiriser(イリゼ)」(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

老舗の耐熱ガラスメーカーHARIO の生産拠点としてスタートし、2019年3月にオリジナルのハンドメイドガラスブランドをリリース。地元の自然などをモチーフにしたものも(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

老舗の耐熱ガラスメーカーHARIO の生産拠点としてスタートし、2019年3月にオリジナルのハンドメイドガラスブランドをリリース。地元の自然などをモチーフにしたものも(写真撮影/SUUMOジャーナル編集部)

起業することが当たり前の風土をつくりたい

2020年春のコロナウイルス感染拡大により、小高パイオニアヴィレッジでは、夏休みの地域留学プログラム、大学生や高校生、リモートワーカーの利用が増えたという。また、NCL南相馬の起業家を募集すると、オンライン説明会の参加者が増えた。

「どこでも仕事ができるようになったことで地方に目を向けたり、ライフスタイルが変わったことで自分のキャリアに不安を感じて一から地方で力試しをしたい、という考え方が出てきたのかもしれません。また、避難生活を経験して心機一転、もともとやりたかったことを始めたケースもあるのかもしれません。前向きな人たちが増えて街が面白くなっていくといいと思います。

便利で暮らしやすいまちではなくても、ここじゃないと味わえない、わざわざ訪れたくなるまちになるためには、地域の人たちが自ら事業を立ち上げてビジネスをやっていることが当たり前になっていることが重要。いろいろな分野でリーダーが出てくると、もっと多彩なプロジェクトが生まれるはずです。

それに、そういう風土をつくっていかないと、課題が発生したときに解決する人が地域に存在しないことになってしまう。行政や大きな企業に解決してもらうのは持続的ではない。100の企業をつくることで、さまざまな課題が解決できるようになる。私たちはこれからも事業をひたすらつくっていきます」と、和田さんの軸はぶれない。

今回、紹介した施設や店舗はあくまで一例。ほかにも長く地元の人に親しまれてきた個人商店の再開や、住民一人一人の努力の積み重ねや人と人のつながり、協力があるからこそ前に進んでいる。

5年以上のブランク期間があった小高区。新しくユニークな施設、店が誕生し、震災前の常識、既成概念がなくなり、人間関係が変わった。だからこそ、フロンティア精神にあふれるエネルギッシュで面白い人が集まる。目指すところが同じだから、自治体と住民の連携も良好だ。

2021年度、政府は地域の復興再生を目指し、福島第一原発の周辺12市町村に移住する人に最大200万円の支援金を出すこと、またさらに移住後5年以内に起業すると最大400万円を支給するなどの方針をかためたという。一から何かに挑戦したいと考える人の呼び水になるか。

「平凡な自分でも、何かできるかもしれない、やりたいことに挑戦してみたい」そんなチャレンジ精神が刺激され住んでみたいと思わせる小高区の変化を見に、また数年後も訪れたいと思う。

●取材協力
小高パイオニアヴィレッジ
小高ワーカーズベース
小高交流センター

東日本大震災の“復興は宮城県最遅”。2年でにぎわい生んだ閖上の軌跡

宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区は、東日本大震災で甚大な被害を受けたなかで、復興のスタートが遅れた地域。けれども、2018年以降、新しい公共施設、公園が完成し、商業施設「かわまちてらす閖上」がオープン。震災前とは違ったにぎわいが生まれている。住民や応援する人たちが、行政や専門家と協働して粘り強く検討し取り組んできた閖上地区のまちづくりについて話を聞いた。
2018年から復興が加速し2019年5月にまちびらき

仙台市の南に隣接する宮城県名取市の閖上地区は名取川市河口にある港町。東日本大震災前は約5700人、2100世帯が暮らしていたが、東日本大震災の大津波で700人以上の尊い命を失った。近くに高台が少なく、沿岸部の平野に住宅が密集していたため、多くの家や建物が流され広範囲で更地となった。ゼロからつくりなおすような、まちづくり。被害が甚大で、内陸・高台への移転か、現地で再建するか住民の意見がまとまらなかったり、区画整理に時間がかかり3、4年が過ぎ、復興のスピードは宮城県で最も遅いと言われた。

2019年に完成した、名取市震災メモリアル公園の祈りの広場の東日本大震災慰霊碑。空に伸びる「芽生えの塔」の高さは、閖上の津波の高さと同じ8.4メートル(「豊穣の大地」の高さを含む)(撮影/佐藤由紀子)

2019年に完成した、名取市震災メモリアル公園の祈りの広場の東日本大震災慰霊碑。空に伸びる「芽生えの塔」の高さは、閖上の津波の高さと同じ8.4メートル(「豊穣の大地」の高さを含む)(撮影/佐藤由紀子)

2020年3月11日に近い週末、閖上地区を訪ねた。

閖上地区は2018年(平成30年)4月、名取市初の小中一貫教育校の閖上小中学校が開校し、12月に災害公営住宅全655戸が完成。2019年(平成31年)春には名取トレイルセンター、閖上公民館・体育館、中央公園、中央緑道が完成。5月には閖上地区のまちびらきが行われた。

まだ更地や工事中の道路などもあるが、見通しが良く、新しい学校、新しい住宅や新しい施設が目につく。

移転・新築した閖上公民館は約150人収容可能。和室研修室、図書コーナー、じゅうたんを敷いたホールなどがあり、閖上体育館を併設している(撮影/佐藤由紀子)

移転・新築した閖上公民館は約150人収容可能。和室研修室、図書コーナー、じゅうたんを敷いたホールなどがあり、閖上体育館を併設している(撮影/佐藤由紀子)

閖上公民館の南に広がる広場が中央公園。隣接する中央緑道は、市街地を東西に走り、水辺へと通じ閖上小中学校への通学路としても利用されている(撮影/佐藤由紀子)

閖上公民館の南に広がる広場が中央公園。隣接する中央緑道は、市街地を東西に走り、水辺へと通じ閖上小中学校への通学路としても利用されている(撮影/佐藤由紀子)

震災前のイメージを一新、水辺と一体となった魅力ある商業施設

特ににぎわっているのが、閖上公民館の北、名取川沿いにある「かわまちてらす閖上」だ。国の「かわまちづくり計画」と連携して名取市が進める「閖上地区まちなか再生計画区域」の「にぎわい拠点(かわまちづくり地区内)」エリアに2019年4月にオープンした共同商業施設だ。

閖上名物の赤貝、国内北限のしらす、サバなど採れたての新鮮な魚介、地元で加工した笹かまぼこ、宮城県産の食材を使ったカレーやスイーツなど、あわせて26店舗が集まる。集いや飲食の場としてフードコートやにぎわい広場があり、屋外に椅子とテーブルが置かれ、外で食事もできる。

南側駐車場からすぐの「かわまちてらす閖上」。昼食どきとあって、店内から人があふれ、順番を待つ人の姿もあった(撮影/佐藤由紀子)

南側駐車場からすぐの「かわまちてらす閖上」。昼食どきとあって、店内から人があふれ、順番を待つ人の姿もあった(撮影/佐藤由紀子)

このように河口の堤防に建物が位置する商業施設は全国でも珍しいそうだ。閖上地区は、江戸時代から名取川や貞山運河を使って仙台城下に物資を運び、舟運事業の町として発展した街で、川沿いに商店があったという。
「名取市のまちづくり計画(閖上地区まちなか再生計画)の中で、ここににぎわいの拠点をつくろうということで、仙台市・名取市を支援していた私たちに声がかかりました」と話すのは、「かわまちてらす閖上」を運営する株式会社かわまちてらす閖上・常務取締役の松野水緒さん。

震災の翌年の2012年10月、「閖上地区まちなか再生計画」が策定され、閖上らしい商業地区整備の方針を検討するために「閖上地区商業エリア復興協議会」が設立された。そこに出店予定事業者等が加わり「にぎわいエリア検討部会」を設立。「閖上地区まちづくり会社設立準備会」を経て、2017年にまちづくり会社「かわまちてらす閖上」が設立された。

「いろいろなプランがありましたが、何度も話し合いを重ねて、河川堤防と一体となった閖上らしい場所に集まって拠点をつくることになりました。会社にしたのは、地域への貢献という任務も含め、行政ではなく完全に民間主体で運営したいと思ったから。自立して運営していかなければ発展はないと思ったからです」と話す。

株式会社かわまちてらす閖上の常務取締役・松野水緒さん。かわまちてらす閖上の「ももや」、ゆり唐揚げ「tobiume」を出店する株式会社飛梅の代表取締役でもある(撮影/佐藤由紀子)

株式会社かわまちてらす閖上の常務取締役・松野水緒さん。かわまちてらす閖上の「ももや」、ゆり唐揚げ「tobiume」を出店する株式会社飛梅の代表取締役でもある(撮影/佐藤由紀子)

株式会社かわまちてらす閖上を構成するのは、三分の一がもとからの閖上の住民で、三分の二は閖上出身以外(宮城県民と震災後福島県から宮城県に移住した方)で、閖上を応援しようという志を共通でもつ。土曜・日曜の天気がいい日は観光客を含め1日約1500人、イベント開催時は1日約5000人が訪れる。子ども連れや愛犬を連れた家族、カップルが多い。「ここに来るのが楽しみ」と、毎日通う地元住民もいて触れ合いの場になっているそう。川辺の憩いのテラスになるように、まちを“照らす”ようにとの思いを込めて名づけた「てらす」が、閖上地区ににぎわいを提供し始めている。

2つで500円(税込)の特別セール品の海鮮丼を購入し、味噌汁などを注文してフードコートで食べた。新鮮で美味しい地元産の魚介、この値段でこの満足感(撮影/佐藤由紀子)

2つで500円(税込)の特別セール品の海鮮丼を購入し、味噌汁などを注文してフードコートで食べた。新鮮で美味しい地元産の魚介、この値段でこの満足感(撮影/佐藤由紀子)

「会社の設立前から4,5年かけて計画を立てました。行政ができることも限られていて、途中で担当の変更もあり、みんなで試行錯誤しながらいろいろな問題を乗り越え、ようやくオープンしましたが、またたくさんの問題が出てきました。それでも、やはり商売人なので、目の前にお客様がいる環境ができたことが大切で、これ以上のものはない」と、松野さん。閖上の味、おしゃれなカフェ、目の前に広がる水辺の景色が自慢だ。

オープンして約1年、どのような変化があったのか。「オープン前は、震災前の閖上のイメージで期待値が低かった部分もありましたが、ふたを開けてみたら次から次とお客さんが訪れてくれる場所になって、最初はびっくりしました。オープンからしばらくは手が回らないほどの忙しさで、たくさんの方が応援、支持してくださっていることを本当にうれしく思います」(松野さん)。

震災から9年が経過し、3月末には「復興達成宣言」が行われ、ハード面の復興事業はひと区切りを迎える予定だ。「自分は支援させていただく側、支援していただく側の両方の立場になりますが、支援していただいて当然と思わないようにしています。今年度いっぱいで行政の支援が切れた後に続けていけるのか。オープンしたときに話題になっても、にぎわいが継続し、自立できなければ意味がない。100万都市の仙台の隣でアクセスもいいので、地の利を活かして自立可能なまちづくりをしていかなければならないと思います」と、松野さんは今後に向けて気を引き締める。

住民の声を本当に活かすための住民主体のまちづくり組織を設立

名取市閖上地区のまちづくりを進める核となったのが、住民主体の「閖上地区まちづくり協議会」だ。震災後は名取市(行政)が「まちづくり推進協議会」を立ち上げ、委員を集めて土地利用や公共施設について協議していた。しかし、行政が選んだ委員だけでは、住民の声が活かせないのではないかという課題感から「まちづくり推進協議会」はいったん解散。2014年5月に住民主体の組織「閖上地区まちづくり協議会」を設立した。

会の規約を決め、「どんな閖上にするか」というまちづくりのテーマを決め、週1回、18時半から2時間以上に渡る会議「世話役会」を開催。閖上で計画されていたハード面、公民館、公園、道路、学校、商業施設の位置などを話し合った。その「世話役会」は180回以上開催され、議事録をホームページで公開。ほとんどの施設ができた現在も、世話役会は月2回行われている。

閖上地区まちづくり協議会の代表世話役の針生勉さん。生まれも育ちも宮城県だが、閖上地区に住むようになったのは社会人になってから(撮影/佐藤由紀子)

閖上地区まちづくり協議会の代表世話役の針生勉さん。生まれも育ちも宮城県だが、閖上地区に住むようになったのは社会人になってから(撮影/佐藤由紀子)

世話役会は、住民だけでなく、行政の担当者、コンサルティング会社、仙台高等専門学校の教授・学生らによる専門家も一堂に会した。「普通は、まず住民だけで話し合い、まとめた内容を行政に提案書として提出して、却下されて意見が通らないという話を聞きます。閖上は他の被災地に比べて復興が遅れたので、遅れを取り戻すために、住民も行政も専門家もみんなで話をして一緒に決めていきました。そこで決まったことを、まちづくり協議会が提案書として行政に出すと、8~9割がスムーズに通り、徐々に遅れを取り戻していくことができました」と、閖上地区まちづくり協議会の代表世話役の針生勉さん。

「住民と自治体と専門家で一緒に協議を行うのは結論が早く、設立後2年後には災害復興住宅第一弾の完成もあって、復興が一気に進みました。行政には、できないことはできないとその場で言ってほしいとお願いしました。できる・できない・分からない、できないなら理由を教えてほしい、分からないなら調べてくださいと要望しました。住民はまちづくりの素人なので、コンサルタント会社、事務局が行政との間に入って話を整理したり、分かりやすく話してくれました」。

また、閖上地区まちづくり協議会は、周りの被災地域のまちづくりを視察し、いいところを採り入れた。また、仮設集会所などに足を運んで話し合う「移動会議キャラバン」や、提案箱やアンケートを行い、情報網を広げて住民の意見や声を吸い上げた。足を使って汗をかくことで世話役が増えたのも収穫だった。

ハード面が整い、これからは自立して住民が参加してつくるまちへ閖上まちびらきは地区内9つの会場で行われ、メイン会場、閖上公民館前広場でのステージ、開会式では希望を込めて青空にバルーンを飛ばした(画像提供/閖上地区まちづくり協議会)

閖上まちびらきは地区内9つの会場で行われ、メイン会場、閖上公民館前広場でのステージ、開会式では希望を込めて青空にバルーンを飛ばした(画像提供/閖上地区まちづくり協議会)

2019年5月の閖上まちびらきは名取市を主体に、約1年前から準備を行った。どんな催し物をしたいか、一般公募したアイディアをメインにイベントを開催し、2万人もの人が訪れた。施設や道路が整い、まちの顔となる商業施設が誕生し、2020年度はスーパーイトーチェーンの開業や、天然温泉浴場を備えたサイクルスポーツセンターの開業などが予定されている。

開校した閖上小中学校には転入する生徒が増え、かさ上げにより再建した市有地や建売住宅を売り出すと、市内外からの応募が殺到し、新しい住民が増え始めている。

「まちびらきは行政、住民、商売する人、商工会議所、自治会、学校など、みんなで考え、みんなで企画して実行しつくり上げました。まちづくり協議会では、閖上を良くしていく“TEAM閖上”をつくりたい、と話をしています。ハード的なものはだんだん整ってきたので、住民のコミュニケーションを深めて、自治活動を充実させていければ。そして、震災のときに支えたもらった方々にありがとう、ここまで来ましたというのを見てもらいたい」と針生さん。まちづくり協議会の取り組みはこれからも続く。

被害が大きく、被災した住民が多かった分、復興の大方針に合意するのに時間がかかった閖上地区は、住民主体の組織を立ち上げ、「住民・行政・専門家」が三位一体で話し合いを進めることで、課題に対し、スピードアップして結論を出していくことができた。かわまちてらす閖上、閖上まちづくり協議会ともに、行政だけに頼らない姿勢も奏功したのだろう。共通していたのは「何もしてくれない」といった他力本願な考えではなく「自ら取り組む」大切さ。未来のため、それは自分のためにも、自ら意識を変えていく必要があると感じた。

●取材協力
かわまちてらす閖上
閖上まちづくり協議会

非常食の備えは万全? おすすめを食べ比べてみた

新生活が始まる4月。この時期だからこそ、自宅の災害グッズを見直してみませんか? 震災直後に防災グッズをそろえたものの、定期的に更新しないと「いざというとき使えない」なんてことも。特に非常食は賞味期限がありますし、毎年新しい商品も開発されています。非常食を更新する場合、どんなものをそろえたらよいのでしょう? 実際に人気の非常食を食べ比べ、専門家にアドバイスをもらいました。防災用品というと、一般的には「最低3日分」はそろえるべきだといわれていますよね。あなたはどんな食材をストックしているでしょうか。7年前の東日本大震災の後に水や乾パン、カップラーメンやレトルト食品などをそろえた人も多いでしょう。でも、もしかしたらそれから一度も更新してない……なんてことはありませんか? 

災害用の非常食、いざというときの賞味期限切れを防ぐために提案したいのが、東日本大震災があった3月を定点として賞味期限1年以内のものを消費し、補充すること。

これから防災用品の更新をする方のために、今補充したい非常用食品を食べ比べてみました! まずは各種の防災ショップのランキングをチェック。売れ筋の商品と総合情報サイト All About「防災」ガイドである和田 隆昌(わだ たかまさ)さんにお聞きした災害食のポイントとあわせて、気になる非常食をいくつかピックアップしました。

これなら平時でも食べたい!?人気の非常用食品を実食!

非常時に役立つ食料のポイントは、和田さんによれば「調理が簡単で栄養が高いもの。加えて災害時には野菜が手に入りにくいのでビタミン・繊維質のとれるものもストックするとよい」とのこと。その観点から選んだのは次の6つの食品です!

井村屋 えいようかん(チョコ味)
55gx5本 600円(税抜)賞味期限3年3カ月(※以下、賞味期限は全て製造日から数える)

井村屋といえば肉まん、あんまんや、夏場の定番アイス「あずきバー」などでも有名ですよね。その井村屋がようかんを非常食に応用した食品を出しているんです。今回は子どもでも食べやすいチョコ味をチョイスしました。原材料にはカカオも入っていますが、メインは生あんの「チョコ味ようかん」です。

5本入りなので1本120円ですね。パッケージはコンパクト(写真撮影/蜂谷智子)

5本入りなので1本120円ですね。パッケージはコンパクト(写真撮影/蜂谷智子)

さっそく実食してみます! 今回は商品の一番のポイントである携帯性を確認するために、あえて外で歩きながら食べてみました。

片手で食べられるので、山登りの栄養補給なんかにもよさそう(写真撮影/蜂谷智子)

片手で食べられるので、山登りの栄養補給なんかにもよさそう(写真撮影/蜂谷智子)

確かに片手で持ちやすいですね。カロリーメイトと違ってボロボロ落ちないので歩きながらでも食べられちゃいます。被災時は長距離を歩いて避難しなければならないことも多いはずなので、これは助かりそうです。

味は、ようかんというよりもチョコに近く、あっさりした感じ。子ども時代に食べた「チョコベビー」や「アポロ」の味が近いかもしれません。これならようかんが苦手な人や子どもでも、食べやすいと感じました。食感は一般的なようかんよりも柔らかめでトロっとしています。水無しで食べられるようにする工夫なのでしょう。

これ1本で200キロカロリー。なかなかのカロリーですから、1本食べたらかなりお腹いっぱいになりました。いざというとき持ち出す食材は省スペースなことも大切。その観点からもオススメできます。

ボローニャ 缶deボローニャ
3缶セット 1,500円(税抜) 賞味期限3年3カ月

ボローニャは京都祇園発祥のデニッシュパンのお店。行列のできるパン屋・舞妓さんも並ぶパン屋として人気になり、全国区に。そのお店が非常食を出しているのだから、おいしくないはずがありません。今回はチョコ・メープル・プレーンの3つの味をパッケージしたタイプをチョイス。

まるで菓子折りみたいな高級感あふれるパッケージ。実際にプレゼントにしてもいいかもしれませんね。箱をあけると、これまた上品なデザインの缶が並んでいます。

まるで菓子折りのようなパッケージ(写真撮影/蜂谷智子)

まるで菓子折りのようなパッケージ(写真撮影/蜂谷智子)

缶の中身はパン。チョコ・メープル・プレーン3つの風味(写真撮影/蜂谷智子)

缶の中身はパン。チョコ・メープル・プレーン3つの風味(写真撮影/蜂谷智子)

メープル風味を試食。一般的に売られているボローニャの「デニッシュ食パン」に比べたらしっとり感は落ちますが、メープルの風味も豊かで非常食とは思えません。この味が3年も維持できるというのは、すごいですね。1缶500円と、お値段的にもラグジュアリーですが、災害時にこのパンが食べられたら、心の慰めになると思います。賞味期限が迫って家で食べることになっても、おいしくいただけると保証できます。

朝食やおやつにぴったり(写真撮影/蜂谷智子)

朝食やおやつにぴったり(写真撮影/蜂谷智子)

尾西食品 アルファ米「白飯」
100g 280円(税抜)賞味期限5年

ハウス食品「温めずにおいしい野菜カレー」
200g 280円(税抜・編集部調べ)賞味期限約5年

簡単に食べられる食事として定番のカレー。今回は、尾西食品のアルファ米にハウス食品の非常用カレーをあわせました。アルファ米は水でもつくれるのと、賞味期限が5年もある点が災害用として優秀。カレーは温めずに食べられるところがポイントです。

どちらも火を使わずに食べられる(写真撮影/蜂谷智子)

どちらも火を使わずに食べられる(写真撮影/蜂谷智子)

まずご飯をつくります。お湯でも水でもつくれるのですが、今回はあえて水を使いました。お米はフレーク状。レトルトと違ってかなり軽いので持ち出すのにも良さそう。まるでオートミールのようで、水を入れるとドロドロになってしまうのではないかと心配に。

フレーク状でカサカサしたお米が……(写真撮影/蜂谷智子)

フレーク状でカサカサしたお米が……(写真撮影/蜂谷智子)

水を入れてジップを閉め、1時間放置します(お湯なら15分でOK)。するとお米がむくむく膨らんでちゃんと粒が立っている状態に!

水を入れるとかなり膨らむ!(写真撮影/蜂谷智子)

水を入れるとかなり膨らむ!(写真撮影/蜂谷智子)

このお米をカレーと合わせれば即一食が完成。カレーは常温でも油が浮いてないところが良い感じ。ですが、個人的に味はちょっと薄めに感じました。カレーは人によって味の好みが分かれるところ。通常のレトルトカレーでも大体1年ぐらいは賞味期限があるので、毎日の生活で頻繁に消費するのであれば、代替できそうです。いつも食べているレトルトカレーを冷えた状態で食べてみて、味を確認しておくとよいかもしれませんね。

アルファ米は持ち出しによし、ストックするにも場所を取らないのが素晴らしい。製造会社である尾西のアルファ米は、味つきご飯やおにぎりなどのバリエーションもあります。

こんな感じで、夕食の一品にもなる(写真撮影/蜂谷智子)

こんな感じで、夕食の一品にもなる(写真撮影/蜂谷智子)

杉田エース IZAMESHI Deli(イザメシデリ) 名古屋コーチン入りつくねと野菜の和風煮
210g 500円(税抜) 賞味期限3年

次はオフィス防災EXPOで「第1回 日本災害食大賞」美味しさ部門のグランプリに選ばれた一品。杉田エースは保存食のラインナップが豊富で、今回食べた名古屋コーチンの他にも「トロトロねぎの塩麹チキン」「ごろごろ野菜のビーフシチュー」など、カフェ飯と見まごうようなラインナップ。さすが「IZAMESHI Deli(イザメシデリ)」。ブランドの名前からしておしゃれですね。

まるでおしゃれスーパーで売っていそうなパッケージ(写真撮影/蜂谷智子)

まるでおしゃれスーパーで売っていそうなパッケージ(写真撮影/蜂谷智子)

さっそく袋から出してみましょう。和田さんによると「災害時には野菜不足になりがち」とのことなので、根菜がゴロゴロと入っているのがうれしいですよね。化学調味料無添加で、優しい出汁の味がします。冷えたままでもおいしくいただけました。

「非常食」の概念から外れた味。気になるポイントがあるとすれば、価格が少しお高いのと、家族全員の分を備蓄すると場所をとりそうなことぐらいでしょうか。

だしの効いた薄味(写真撮影/蜂谷智子)

だしの効いた薄味(写真撮影/蜂谷智子)

カレーと同じアルファ米とあわせて(お惣菜は半量)(写真撮影/蜂谷智子)

カレーと同じアルファ米とあわせて(お惣菜は半量)(写真撮影/蜂谷智子)

戦闘糧食II型 あつあつ防災ミリメシ「牛丼」
210g 1400円(税抜・編集部調べ) 賞味期限3年

東日本大震災の洪水の被害にあった方のお話をうかがったとき「温かい食事ができたとき、やっとほっとできた」とおっしゃっていました。そこで火がなくても温かく食べられる加熱剤つき非常食をお試し! こちらは実際に航空自衛隊でも活用されている、いわゆる「ミリ飯」です。

パッケージが萌え絵(なぜ……笑)ですが、箱を開ければ真面目な仕様。食器も含め必要なものは全て入っています。

なぜか萌え絵のパッケージ(写真撮影/蜂谷智子)

なぜか萌え絵のパッケージ(写真撮影/蜂谷智子)

なかには具材と白飯、加熱剤や食器など(写真撮影/蜂谷智子)

なかには具材と白飯、加熱剤や食器など(写真撮影/蜂谷智子)

食べる前に加熱剤で温めます。加熱剤のパッケージを開けて、「サバイバルヒーター」という袋の底に入れ、上に白飯と具材を入れて水を入れます。すると「シュワー!!」と音がして、水から泡が! 「サバイバルヒーター」の穴から熱い湯気が出てきて、“今まさに温めている”ことを実感できます。

20分ぐらいで温めは終了。白飯と具材をお皿に入れたら温かい牛丼の完成! 具材は煮込んだネギがトロッとしていてお肉はホロホロ。少し甘めの味付けで元気がでそう! やはり、温かいご飯はおいしいですね。

水を加えると木炭っぽい匂いがします(写真撮影/蜂谷智子)

水を加えると木炭っぽい匂いがします(写真撮影/蜂谷智子)

屋外でも温かいご飯が食べられるので、ちょっと肌寒いお花見にも最適(写真撮影/蜂谷智子)

屋外でも温かいご飯が食べられるので、ちょっと肌寒いお花見にも最適(写真撮影/蜂谷智子)

非常用ではない調理済み食品も活用できる!

ここまで人気の非常食を食べ比べてみましたが、だんだん非常食と普通食との境目がなくなって来ている印象がしますよね。こういった非常食によって、いざというときにもおいしく食事ができるのはうれしいものです。

一方で、防災の専門家の和田さんによると、非常用ではない調理済み食品も非常食として上手に活用するのがおすすめだそう。

「特別なものをそのために用意する、ということではなくて“日常備蓄”あるいは“ローリングストック”と呼ばれる方法がおすすめです。日常使っている缶詰やレトルト食品を少し多めに用意して、日付の古い物から使って行き、常に補充します。これを習慣化した上で、災害時に特化した非常食を定期的に補充していけば、困ることはないでしょう」(和田さん)

なるほど。非常用の食料は正直いって少し高価ですし、普段食べ慣れているレトルト食品を非常用にも活用できれば無駄がなさそうです。一方で火がなくても調理できるものや、携帯に優れ栄養価の高い食品は非常食ならでは。技術が進化してより高機能なものが増えているので、いざというときのために備蓄しておきたいですね。

「また、保存方法としては“非常袋に入れる物”“と”自宅で避難生活を送るために必要な備蓄食料“にきちんと
わけて用意しておくことも大事です。非常持ち出し袋に大量の食糧を入れると避難の妨げになりますので、携帯性に優れ、簡易に調理できるもの、そして栄養豊富なものに絞りましょう。非常持ち出し袋は玄関付近の目の付くところに用意し、非常時にすぐ持ち出せるようにしておきます。自宅の備蓄食料は、普段でも食べたくなるようなものやレジャー・旅行にも使える物を選んでおき、定期的に入れ替える日を決めておくとよいですね」(和田さん)

最後に和田さんが強調するのは、食料以上に重要なのは水の備蓄だということ。1日1人3リットル(生活用水含む)最低でも3日分以上は準備しておいたほうがよいそうです。また非常用持ち出し袋には500mlのペットボトルを2本程度入れておくのが目安だそうです。

ひとことで非常食といっても、必要なシーンはひとつではありません。それぞれのケースを想定して備蓄用の食料を買いそろえることが必要なのですね。購入の際は、ぜひ今回の食べ比べを参考にしてみてください。

●取材協力
・総合情報サイト All About「防災」ガイド 和田 隆昌(わだ たかまさ)

被災後に平常時の生活に戻る期間、“地震被災あり”の55%が「10日超」、住環境研究所調べ

積水化学工業(株)住宅カンパニーの調査研究機関である(株)住環境研究所は、全国のセキスイハイムに住む方を対象に「暮らしと住まい調査」を行い、その中で、自然災害の被災経験や災害対策の実施状況などについてたずねた結果「自然災害編」を取りまとめた。調査時期は2017年12月。調査方法はインターネット。調査エリアは沖縄県を除く全国。有効回答数は4,369件。

それによると、自然災害に被災したあと、平常時の生活に戻るまでにかかった期間は、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震などの大規模地震を経験した層は、半数を上回る55%が「10日を超える期間」と回答した。他の自然災害後の38%と比べ、より日数がかかる割合が高かった。中でも「2週間超~1ヶ月」が23%と最多だった。

地震被災後に苦労したことは、1位「ガソリン・灯油の入手困難」(54%)、2位「水の入手困難」(48%)、3位「自宅で3日以上、入浴ができない」(43%)、4位「自宅の水洗トイレが使えない」(38%)と、エネルギー、水などのライフラインに関わることが上位を占めた。

また、現在行っている災害対策について、“地震被災あり”の方は全般的に対策実施率が高く、特に「風呂の水のためおき」の実施率は“被災経験なし”の方よりも18ポイント高い。被災後の水がないことによる苦労経験が、強く影響しているようだ。

現在できていないが取組むべきと思う災害対策については、「ガソリン・灯油の予備ストックをもつ」をあげた割合が“被災経験なし”11%に対し、“地震被災あり”は18%と、その必要性を感じる割合が高かった。水同様に被災後途絶による苦労経験の影響が考えられる。

ニュース情報元:(株)住環境研究所