漫画家・高橋陽一にとってのサッカー日本代表
パッと頭に浮かぶのは、あの木村和司さんの直接フリーキックですよね。メキシコワールドカップのアジア最終予選、ホームの韓国戦(1985年10月)。残念ながら負けてしまいましたけど、ワールドカップに近づいた瞬間でもありました。…
フォトグラファー今井恭司が撮った激闘の瞬間
Jリーグが始まる10年も前の時代、日本サッカー協会も予算がなく、職員も所属企業からの出向で、選手も基本的には無報酬でした。
長谷部誠にとって忘れられない4年間。
日本代表は、決戦の地・ロシアへと向かう“船”に乗り込んだ。キャプテンの長谷部にとって、集大成とも言える3度目の大舞台。4年間チームの舵を取り続けた男は、静かにその決意を語る。…
ジャーナリスト佐藤俊が目撃した激闘の記憶
今も思い出すのは試合後、宮本恒靖が握りしめた白いタオルに泥と芝生の欠片とともに赤い血が滲んでいたことだった。
フォトグラファー ヤナガワゴーッ!が撮った激闘の瞬間
ロペス(後の呂比須ワグナー)は、「わざわざ有難うございます。」と、両手でボクの手をそっと包み込むような握手で出迎えてくれた。静かにインタビューに答え、物腰もすごく穏やかなのが意外だった。…
岩本輝雄が語る代表デビュー戦秘話
日本代表は、僕にとって「雲の上のような存在」でした。フジタでJSLを優勝して、ベルマーレ平塚としてJリーグに昇格した1994年。
足立梨花にとってのサッカー日本代表
日本代表の試合をしっかりと見たのは、2010年4月にJリーグ特命PR部女子マネージャーの就任以降です。ちょうど就任直後にW杯南アフリカ大会が開催されたこともあって、南アフリカ大会の試合が記憶として一番残っているような気がします。…
ジャーナリスト木崎伸也が目撃した激闘の瞬間
歓喜から絶望に突き落とされたという意味でも、サッカーの奥深さを見せつけられたという意味でも、個人的に2006年6月12日のワールドカップF組初戦、日本対オーストラリアを上回る試合はない。…
植田朝日にとってのサッカー日本代表
日本サッカー界が一気に盛り上がった要因の1つとして、1993年に開幕した日本初のプロリーグ・Jリーグの存在は欠かせないと思いますが、そもそも、その前年の’92年に広島で行なわれたアジアカップで日本が初めてアジアチャンピオンにならなければ、Jリーグも盛り上がっていなかったはずです。…
<ドキュメント第1回キリンカップ>「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【後篇】
「三菱ダイヤモンドサッカー」の放映が始まったのは、日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得する約半年前、'68年4月のことだった。実況金子勝彦、解説岡野俊一郎の名コンビでスタートした番組は、午後5時から10時まで何度か放送開始時間を変えながら、20年間で994回も続くことになる。…
<ドキュメント第1回キリンカップ>「JAPAN CUP 1978」の衝撃 【前篇】
溜息が少しずつ静寂を破り、どよめきが生まれて来るまでだいぶ時間がかかった。ボルシア・メンヘングラードバッハ(以後ボルシアMG)のベンチに座った鈴木良平は、そう記憶している。
小柳ルミ子にとってのサッカー日本代表
私がサッカーを好きになったきっかけは、2002年のW杯、イングランド代表のデイビッド・ベッカムでした。
鈴木啓太が語る代表デビュー戦秘話
僕にとってのA代表デビュー戦は、2006年8月、キリンチャンジカップのトリニダード・トバゴ戦でした。イビチャ・オシムさんが日本代表の監督に就任して、最初の試合です。
堀池巧が語る代表デビュー戦秘話
“豪雨”と“重馬場”。順天堂大学3年生でまだ20歳だった僕が初めてA代表の試合に出場したのが1986年5月14日、キリンカップ第2戦のベルダー・ブレーメン(西ドイツ)戦。この大会を最後に帰国することになる奥寺康彦さんが相手側にいました。…
フォトグラファー清水和良が撮った激闘の瞬間
1978年、23歳のとき、初めてワールドカップの撮影をした。オズワルド・アルディレス、マリオ・ケンペスを擁したアルゼンチン代表が、母国開催であれよ、あれよと勝ち上がり、その都度、首都ブエノスアイレスの街角には勝利を祝う群衆が溢れ、決勝戦は7万人の大観衆がスタンドを埋め尽くした。…
EXILE USA にとってのサッカー日本代表
小学校の高学年からサッカーを始めて、中学、高校とサッカー部に所属していました。ウチは両親もサッカーが好きで、ワールドカップは必ず、テレビで観戦していました。
戸田和幸が語る代表デビュー戦秘話
2000年のシドニーオリンピック本大会メンバーから外れ、僕は2年後に控える日韓ワールドカップ行きの列車から脱落しました。アンダーの世代からずっと同じコンセプトで戦ってきて、そのメーンの世代であるシドニーオリンピックのメンバーから脱落したわけですから基本的にその先のワールドカップを望める状況ではありませんでした。…
ジャーナリスト金子達仁が目撃した激闘の記憶
思い出すのは、国立競技場が上越国際より寒かったということ。あのとき、わたしは大学1年生で、春休みだった。金欠だけれどもスキーはしたい小僧はスキー場でアルバイトすることを思いつき、後期の試験が終わるやいなや新潟県にある上越国際スキー場で住み込みのバイトを始めていたのだった。…
<放送席から見た日本代表の激闘>山本浩「初出場のフランスW杯前に体験した一体感」
日本代表との初めての接触は’83年1月27日。NHK松山局に勤務していた時で、翌年のロサンゼルス・オリンピックを目指していた代表の松山での道後合宿でした。
フォトグラファー近藤篤が撮った激闘の瞬間
負けているときは、結果なんだよ、と不平を言う。勝ち始めると、内容なんだよ、と不満を述べる。サッカーファンというのは基本的に自分勝手な生き物だ。
ジャーナリスト後藤健生が目撃した激闘の記憶
眼を瞠るような展開が繰り広げられていた。1980年12月末から翌81年初めにかけて香港で開かれたスペインW杯アジア一次予選でのことだった。
フォトグラファー高須力が撮った激闘の瞬間
雲ひとつない青空、肌を焼く強い日差し、スタジアムへと続く長い上り坂、決戦に向かう高揚感、そして、たった8分間の逆転劇。2006年6月12日、ワールドカップドイツ大会グループリーグ初戦、日本代表はオーストラリアに敗れた。…
ジャーナリスト大住良之が目撃した激闘の記憶
1991年、3年ぶりに開催されたキリンカップ。日本代表、タイ代表のほか、ブラジルのバスコ・ダ・ガマ、イングランドのトッテナム・ホットスパーの2クラブを迎え、総当たりで行われた。
ジャーナリスト田村修一が目撃した激闘の記憶
隣りの記者席に座ったイラク人記者は、スイス人の主審が日本びいきの判定を下すたびに、口から泡を飛ばし机を叩いて怒り狂っていた。
フォトグラファー佐貫直哉が撮った激闘の瞬間
日本中が注目していたから、この試合を覚えている人も多いと思う。日本は初戦のベルギー戦を2対2で引き分け、続くロシアには1対0で勝利。3戦目のチュニジア戦は、1点差で負けても、日本のベスト16進出が決まるという状況だった。…
フォトグラファー赤木真二が撮った激闘の瞬間
プロサッカーリーグ「Jリーグ」が開幕する前年、1992年秋のこと。サッカーの機運は高まれど、代表チームの実力を確信するには戦績が伴わなかった長ーく暗い歴史の、その終焉がようやく見えた時のお話です。…
ジャーナリスト二宮寿朗が目撃した激闘の記憶
あれほどのブーイングは、いまだかつて聞いたことがない。君が代が流れても、日本がボールを持っても、それは地鳴りのような響きでピッチの日本代表に向けられた。
フォトグラファー杉山拓也が撮った激闘の瞬間
ユーロやチャンピオンズリーグは何度も取材経験があったが、ワールドカップは2010年の南アフリカ大会が初めて。現地の治安の悪さが叫ばれていたが、実際に入ってみると、他の外国と同じように、危険な地区に行かなければそれほどでもなかった。…
ジャーナリスト戸塚啓が目撃した激闘の記憶
1997年当時の日本代表にとって、ウズベキスタンでのアウェイゲームは未知との遭遇だった。