1995年、東京・原宿の竹下通りを抜けた住宅街の奥に、のちに伝説となる1軒のショップが誕生する。アメリカントイを中心に扱うおもちゃ屋さんでありながら、オリジナルTシャツなどのアパレルやオリジナルのフィギュアも展開し、どのアイテムも即完する爆発的な人気を博した。それが当時若者だった2人、ヒカルとタカが立ち上げた「バウンティーハンター(BOUNTY HUNTER)」である。近くには93年にオープンしたJONIO(高橋盾)とNIGO®の店「NOWHERE」があり、やがて周辺に次々と新進気鋭のストリートブランドが店を構えるようになると、一帯は「裏原宿」と呼ばれ、そこから生まれるざまざまな文化が一世を風靡。特にヒカルは、90年代後半から「smart」や「warp」といった雑誌に連載を持ちながら、独特のファッションが毎号のように誌面で紹介され、若者のカリスマとして絶大な支持を集めた。そんな裏原宿文化の象徴的存在だった「バウンティーハンター」の30周年を記念するアート展「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」が東京・神保町の「New Gallery」で現在開催中だ。30年間、2人で「バウンティーハンター」を守り続けてきたヒカルとタカに、当時の様子やこれまでの歩みを聞いた。
家賃が安ければ場所は
どこでもよかった
——「バウンティーハンター」がオープンした当時(1995年)の裏原宿は、どんな様子でしたか。
ヒカル:人なんか全然いなかったよね?
タカ:住んでる人しかいない、ほんと住宅街でした。
ヒカル:周りに店なんかも全然ないし、地元の人がいるだけ。
——そんな場所に出店を決めたのは?
ヒカル:たまたま物件が空いて、人が来ない場所だから家賃も安かったし。ほんと安ければ場所はどこでもいいと思ってたの。俺だって欲しいものがあれば、どこへでも買いに行くから。場所は関係ない。
——おもちゃ屋さんをやろうと思ったのは?
ヒカル:それもたまたま。おもちゃは子供の頃から大好きで、タカに「おもちゃ屋やりませんか?」って言われたから「いいよ」って。
タカ:僕もずっとおもちゃは好きだったし、当時はおもちゃ屋をやってる人がほとんどいなかったんですよ。90年代だと、渋谷に「ZAAP!」と恵比寿に「FLIP FLOP」があったくらいで。
ヒカル:もちろん新品で現行のおもちゃを売ってる店はあったけど、古いものとかジャンクっぽいものを扱ってる店はなかったね。
——もともと、ヒカルさんは文化服装学院の出身ですよね。
ヒカル:そう。生まれは長崎の佐世保なんだけど、ずっとパンクが好きで、地元にはパンクの服を売ってる店なんかないから、自分でファスナー付けたりカスタムしてたの。その流れで、将来はパンクの洋服屋さんになりたいと思って、文化(服装学院)に入ったんです。
——その文化服装学院で、高橋盾(「アンダーカバー(UNDERCOVER)」デザイナー)さんと出会い、セックスピストルズのカバーバンド・東京セックスピストルズを結成したり。
ヒカル:文化の2年になったときに、1年にジョニー・ロットンそっくりなやつが入ってきて。「なんだこいつ!」と思ってたら、俺が手伝ってたロンドンナイト(音楽評論家の大貫憲章が主催するパンク・ロックDJイベント)で会うようになって、そこから毎日つるんでよく遊んでたの。そんな時に、大貫さんのイベントで、盾と一緒に六本木の「ピカソ」にいたら、THE MODSの森山(達也)さんが来て「お前らバンド組め」って。それで組んだのが東京セックスピストルズ。解散したのが91年だから、組んだのは89年くらいじゃないかな。
——東京セックスピストルズとしては、どんなライブに出ていたんですか。
ヒカル:鈴江の「インクスティック」で、TINY PANX(藤原ヒロシと高木完によって結成されたヒップホップユニット)のイベントがあって、初めはザ・タイマーズに出演のオファーを出したんだけどダメで。次にCOBRAにオファーしたけどダメで。さらにチェッカーズにオファーしてもダメだった。で、バンドに出てほしいのにどうしようってなってた時に、「ヒカル達バンドやってるよな」って言われて、最終的に東京セックスピストルズが出ることになったの。それが最初のライブです。
ブームの頃に金儲けに走っていたら、ここまで続いてない
——お2人は、どのように出会ったのでしょうか。
タカ:僕がスニーカーショップで働いてた頃に、知り合いの紹介ですね。
ヒカル:そうだ。当時ニューヨークの「ステューシー(STUSSY)」で、「カーハート(CARHARTT)」とコラボした限定のジャケットがリリースされたんだけど、それは買えなくて。次にニューヨークの「ステューシー(STUSSY)」限定で“M65ジャケット”が出るっていうので、それがどうしても欲しくて、誰かニューヨークに行くやついないか探してたら、スニーカーの買い付けで行くやつがいるって。それがタカだった。
タカ:それまで話したこともなかったのに、急にお願いされて。結果ちゃんと買ってきました。
ヒカル:それでタカに誘われておもちゃ屋やろうってことになっていくんだよね。
——裏原ブームが起きたことで、どんどんビジネスを広げていこう、みたいなことは考えなかった?
ヒカル:経営的なことは全てタカなので。タカ、どうなの?
タカ:オリジナルのアイテムを作ったりとか、多少は広がりましたけど、あんまり手広くやっていくのは自分のキャパ的にも無理なので、やれる範囲で、という感じですね。
ヒカル:いわゆるブームの頃は、楽しかった。ただそれだけですよ。
タカ:本当にそうですね。楽しかった、それに尽きる。
ヒカル:ど真ん中にいたから盛り上がりは当然感じてたけど、それでチャンスだ金儲けだ、とはならなかったね。それがよくなかったのかな(笑)。
タカ:いやいや、十分ですよ。
ヒカル:でも実際、金儲けに走っていたら、ここまで長くは続かなかったと思いますよ。分かんないけど。
タカ:短期的には儲かったとしても、30周年は迎えられなかったでしょうね。
——お2人の役割分担としては、タカさんが経営者で、ヒカルさんは?
ヒカル:かませ犬。はははは(笑)。
タカ:僕は人前に出るのも苦手だし、メディアに出てしゃべったりとかもできないので、この2人が組むのがちょうどいいバランスなんです。
ヒカル:店番もずっと2人でやってたもんね。
タカ:買い付けでどっちかがアメリカとかに行った時は、残った方が1人で店番してました。
ヒカル:そうなんだよ、1人で店番。でも、みんな遊びに来てくれた。
タカ:うちの店が1階にあって、上の階にいろんな事務所があったんです。ロゴのデザインもやってくれた7STARS DESIGNもそうだし、「ヘクティク(HECTIC)」や「ネイバーフッド(NEIGHBORHOOD)」の事務所も同じマンションでした。
——当時10代だった若者にとっては、「バウンティーハンター」は店の入り口に界隈の大人たちがたむろしていて、入りづらかったんですよね。
ヒカル:でもそれがいいでしょ(笑)。俺たちが若い時だって、パンクの店とか入りづらかった。同じ思いをしてきてるんですよ。で、それがカッコよかった。
——原宿の「ア ストア ロボット(A STORE ROBOT)」とかも入りづらかったです。
ヒカル:それそれ! 俺たちも「ア ストア ロボット」の影響だよ。
——当時の裏原宿シーンは、ブランドやショップは別だけれど、デザイナーも店員もみんな友達で、フックアップしたりされたり、全体としてのつながりがありましたよね。
ヒカル:ほんとにそう。「バウンティーハンター」もみんなのおかげ。周りの友達が全部やってくれた。それぞれが努力をした結果でもあるけど、みんなの力だよ。
タカ:今回30周年のコラボ作品も、まさに周りの人たちが快く参加してくれたおかげですから。
ヒカル:俺はずっと変わらずこんな感じだけど、周りの友達はどんどんビッグになっていったでしょう。なのに、いまだに変わらず付き合ってくれる。それがうれしい。いくらでも断れるのに、絶対に断らないからね。正直、俺としては周年とかあんまりやりたくないんですよ。だけど、みんながやってくれるから、それならやろうかっていう感じで。
俺はずっと変わってない、
好きなことをやるだけ
——ヒカルさんが雑誌に出まくっていた90年代後半、街に自分を真似した同じ格好の人たちがあふれていることは、どう感じていたのでしょうか。
ヒカル:気持ちわる、とは思いつつ、それよりも、びっくりしたかな。だって、全然流行ってもないし、むしろ誰も身につけてないから着てたものなのに、みんな着てるんだもん。
——一方で、ブームが落ち着いて、やがて去っていくのは、どう見ていましたか。
ヒカル:そりゃあそうでしょう、ってだけですよ。別に自分たちで仕掛けたわけでもないし、ただ勝手に盛り上がっていっただけだから。ブームだろうがなんだろうが、俺は変わらない。流行りでやってたわけじゃないからね。ずっと好きなことをやるだけ。だから、別に当時を否定する気持ちもないし、あの盛り上がりがあったから今でも続けていられることもあるし。
——本当に趣味がずっと変わらないんですね。
ヒカル:変わらないね。最初の衝撃が忘れられないです。子供の頃に見たアメリカのおもちゃとか、お菓子のおまけとか、そういうの全部が衝撃だったんですよ。同じように、パンクも衝撃だった。どっちも衝撃で、どっちも大好きになった。それが今も続いてる、それだけですよ。
——「バウンティーハンター」のデザインは、パンクやハードコアバンドをはじめとした、元ネタありきのオマージュもたくさんありましたけど、そういった元ネタを知ってほしい、みたいな気持ちは?
ヒカル:まったくないですね。かっこいい! 真似しよう! それだけ。人がどうとか関係ないですよ。好きなものは好き、好きだから真似したい。
タカ:ブートとかもそうで、好きじゃなかったらわざわざ金かけて作らないですよね。愛情があるかどうかは、真似されたりブートを作られた方にも伝わると思うので、怒られたこともないですし。1回だけかな、怒られたのは。プレイボーイのバニーを勝手に使った時は、とんでもなく分厚い書類が届いて、かなりビビりました。
ヒカル:映画「The Warriors」に出てくるフューリーズの3体セットを作った時も、監督が喜んでくれたよね。
タカ:そう、サンフランシスコでお店やってる友達がいて、店に「バウンティーハンター」で作ったフューリーズのフィギュアを置いてたら、「The Warriors」のウォルター・ヒル監督がたまたま店に来たようで、それを見て「スーパークール!」とかって言ってくれたみたいです。
30周年記念ビジュアルの元ネタに隠された、いい話
——30年たって、「バウンティーハンター」に影響を受けた世代が、今はクリエイターになり、今回のようにコラボレーションする、というのもいいですよね。
ヒカル:河村(康輔)君とかVERDYとかね。今回30周年のビジュアルは河村君がデザインしてくれたんだけど、これも元ネタがあって、いい話なのよ。
タカ:あれはしびれましたね。
ヒカル:97年か98年かな、ニューヨークに買い付けに行った時に、シリアルのマニアが勝手に作った「Freaky Magnet」っていうファンジンが売っていて、3冊買って帰って、1冊は自分用に、1冊はスケシン(SKATE THING)ちゃんにあげて、残り1冊は誰も買わないだろうと思いつつも店に置いたの。そうしたら、その1冊を買ったのが当時まだ10代だった河村君だったんです。それを河村君と初めて会った時に聞いたの。
タカ:ほんとはおもちゃが欲しかったけど、お金がなくて、店にある中で「Freaky Magnet」しか買えなかったって。
ヒカル:それで、今回の30周年のビジュアルは、その「Freaky Magnet」の表紙のオマージュになってるの! だからあえて当時の質感を出して!! 刻まずにデザインしてあります!!!
——いくらでも簡単に情報が手に入る今の状況は、どう見ていますか。
ヒカル:それはそれで便利でいいと思うよ。ただ、ワクワクする感じは減ったかな。だって昔はヤバいおもちゃを見つけても、それが何なのか分かんなかった。お菓子のおまけなのか、なんかのキャラクターなのか、何も分からない。だからこそ、宝探しだったんだよね。音楽もそう。音だけ聴いてヤバいと思っても、どこのバンドが分からなかったから、こっちは必死で探すしかない。
——ヒカルさんはバンドTシャツのコレクターでもありますが、昨今のバンドTシャツがビンテージとして高値になっていることについては?
ヒカル:意味分かんない。別にレアだから欲しいわけじゃなくて、そのバンドが好きだから着るもんでしょ、バンドTシャツって。だったら、現行のクオリティーが良い新品のバンドTシャツ買えば良いと思ってます。
——SST RECORDSとか、今でもちゃんとレコードもTシャツも出し続けてますからね。
ヒカル:マイナー・スレット(MINOR THREAT)とかもそうだよね。あれはプレミアがついて値段が高くならないように、レーベルがリリースを続けてるんですよ。素晴らしいです。この前、現行のマイナー・スレットの「Out Of Step」のTシャツ買いました。
PHOTOS:HIRONORI SAKUNAGA
「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」
■「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」
監修:Supervised by TAKA+HIKARU、BOUNTY HUNTER
会場:New Gallery
住所:東京都千代田区神田神保町1-28-1 mirio神保町 1階
会期:2025年4月3日〜5月6日
休日:月曜日(5月5日を除く)
時間:12:00〜20:00
入場料:無料
https://newgallery-tokyo.com/bountyhunter30th
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