もんぺを年間2万本売る「うなぎの寝床」、地域文化から経済循環を生む

福岡県八女(やめ)市を拠点とするうなぎの寝床は、「もんぺ」を年間約2万本販売する。文化や歴史をひも解いたブランディングとビジネス戦略が巧みだ。日本の農作業着「もんぺ」とアメリカのワークパンツ「ジーンズ」とを重ね、日本のジーンズ「MONPE」として販売を開始。物販の直営店は八女の2店舗に加えて、アクロス福岡やららぽーと福岡、愛媛・大洲、グループ会社と共同運営で下北沢と池袋・千川の7店舗を展開し、もんぺの卸先は100件を超える。グループの売上高は5億5000万円(2025年1月期)。「地域文化商社」と称し、地域文化の「つなぎ手」としてもんぺだけではなく地域のものづくりを紹介する店舗や宿泊施設「Craft Inn手[te]」の運営、ツーリズム事業など、地域文化を編集して伝えている。

うなぎの寝床が町屋を改装して店舗や宿泊施設として運営する八女福島の重要伝統的建造物群保存地区は2002年に指定された場所。これまで約70軒の町家がリノベーションされて新たな店舗や工房、住宅に活用された。そのうち約20人が県外からの移住者だ。うなぎの寝床創業者で現顧問の白水高広氏に地域文化から経済循環を生む方法について聞いた。

PROFILE: 白水高広/うなぎの寝床創業者・顧問

白水高広/うなぎの寝床創業者・顧問
PROFILE: (しらみず・たかひろ)1985年佐賀県小城市生まれ。大分大学工学部福祉環境工学科建築コース卒業。2009年8月厚生労働省の雇用創出事業「九州ちくご元気計画」に関わり2年半プロジェクトの主任推進員として動く。同事業は11年グッドデザイン賞商工会議所会頭賞を受賞。12年7月にアンテナショップうなぎの寝床を立ち上げる。24年、テイクオーバーと資本提携し代表職から外れ顧問に。現在はさまざまな企業のコンサルティングを行う他、2023年テキスタイルデザイナーの光井花と新会社hana material design laboratoryを立ち上げる

機能性を訴求した短期的に消費されないものづくり

WWD:なぜ「もんぺ」だったのか。

白水高広うなぎの寝床創業者・顧問(以下、白水):義母の実家が「久留米絣」の織元で、妻が八女市の伝統工芸館で働いていた時期に「久留米絣をどうにかしたい」と家族で考え始めたことがきっかけだった。物産館で「もんぺ」の展示を見て、日常着として提案してその歴史や機能性が伝われば履いてくれる人が増えるのではと考え、11年に「もんぺ博覧会」を開催した。3日で約1500人が集まり、地元のテレビ局や新聞社は取り上げてくれた。1回きりのつもりが依頼されて翌年も続けることになった。

WWD:それを機にもんぺの製造販売が始まった?

白水:「買いたい」よりも「箪笥の肥やしになっている久留米絣の生地で作りたい」という要望が多かったので、当初は型紙を販売した。型紙は反物幅の布を無駄にしないように設計すると細身になったので12年に「現代風もんぺ」の型紙として販売を始めた。すると現物が欲しいという要望が増え始め、13年に機屋が抱えている縫製の内職さんに頼んでもんぺを作り始めた。それがNHKの情報番組「あさイチ」で取り上げられ、在庫が一瞬でなくなった。内職さんでは追いつかないので織元から生地を買い縫製工場に依頼して作り始めた。全国の店から依頼が増えて卸すようになりファブレス(自社で工場を持たず製品の製造を外部に委託するビジネスモデル)のメーカーになった。

WWD:明確なコンセプトのもとでビジネスを始めたわけではなかった。

白水:思い付きのように聞こえたかもしれないが、物産館で見たときから「いける」感覚はあった。着心地がいいことに加えて「伝統工芸」「ある程度の量が確保できる」「文化的背景がある」など付加価値もあった。「もんぺ」は福岡県南部筑後地方の綿織物「久留米絣」を用いて作られ、戦時中の1943年には婦人標準服として厚生省が活動衣として指定し、「蛍の墓」でも描かれた。戦後も農作業着として着続けられて機能的に実証されている。こうした情報を整えれば価格が1~2万円程度と設定しても売れるのではと仮説を立てた。

WWD:情報を整えるとは?

白水:整える情報は「機能的要素」「文化的要素」「視覚的要素」だと考えた。

「機能的要素」の訴求は一般消費者のリピートや口コミにつながる。「綿100%」「腰ゴム」「膝当てがついている」など機能を分解した。

「文化的要素」は一般の人が興味を持たなくても、メディアが興味を示してくれる。戦時中の厚生省の文献や農業の歴史など古本を集めて歴史をひも解き「日本のジーンズを目指して」というコピーを打ち出すとメディアが取り上げてくれた。

最後に「視覚的要素」はコーディネイト提案をした。ファッション業界は視覚的要素がとても強く、半期や四半期でどれだけ集客できるかというアプローチだが、僕らが重視したのは機能性の訴求。ファッションアイテムではなく生活用品として売るので結果的に短期的に消費されない提案になった。

WWD:情報に複数のレイヤーがある。

白水:「もんぺ」はいろんな情報のタグがあり、見る人によって異なる。たとえば「テレビで見た」という無意識的なタグから「自分が知っている店の人から聞いた」「歴史的な背景」「伝統工芸」「日本製」「かわいい」などさまざまにあるが、重視するタグは人によって違う。人々がタグのどれかに主観的に接触できるように情報を仕組み、結果的に「人は着心地に依存する」という仮説のもと、「機能性」のタグに集約できると考えた。

地域に足りない事業を興して地域の人がやれないことを実現する

WWD:「久留米絣」だけではなく、全国の繊維産地の生地を用いたもんぺをそろえる。

白水:他の産地と比較することで「久留米絣」の特徴はもちろん、全国の繊維産地を知ってもらう機会にもなる。奄美大島の泥染めや福山のデニム、遠州のコーデュロイや会津の木綿、「有松鳴海絞り」など同じフォーマット(型紙)でいろんな産地のもんぺを履き比べることができると、消費者は価格の違いや産地や生地の特性に目が向く。

WWD:それがヒットにつながった。

白水:想い入れがなく淡々と取り組んだのが良かったのではないか。想い入れがあると「これが好きだからこれで作る」となるが、想い入れがないから「柄で作ると高いから、機能性で勝負するために無地で作る」「技術によって値段を分ける」といった判断ができる。「久留米絣」産地だけに興味があるとそういう判断にならない。とはいえ、僕らが博多産地の生地生産量の約1/4を買っていて、もんぺ立ち上げの目的である産地継続にも力を入れている。1年に約7000反を購入して製品化している。

WWD:「もんぺ」はうなぎの寝床のヒット製品だが、ツーリズムや宿泊、メディア、資源活用、特許庁の地域団体商標のPR動画制作までプロジェクトは多岐にわたる。「地域文化商社」として事業を興しているが、そもそも「地域文化商社」のコンセプトが生まれて定義するに至った経緯を教えてほしい。

白水:地域文化が伝わらない理由は、魅力があるのに知られていない、知らなければ消費者は買うことができないことにある。知らせる・買えるようにする地域商社的領域をどれだけやれるかの実験と実行に取り組むことにした。地域文化を研究・解釈して、活用方法を探り、それを商社機能を使って地域に還元することが大切だと考えて活動している。基本的には地域に足りない事業を興して地域の人がやれないことを実現する。

WWD:具体的にどのようなアプローチで事業を興すのか。

白水:地域文化がベースにあり、それを体感できる場所が宿であり、本屋はやめてしまったけれど、まちづくりの中で地域文化拠点を作ったりツーリズムで体感をつくったりする。価値の見立てを行い、当社の見立てと地域の人や世間が思っている価値のギャップを埋め、価値を高めることを目指している。

そのために当社は地域構造の中で「つなぎ手」の領域を目指している。

「つくり手」や「にない手」は自分が地域を担っている意識がないことが多いので、僕らは文脈をひも解いて解釈を一緒に考える。代わりに調査して企画書を作る感じで、それをテレビ局や新聞社などに送ると取り上げてくれる。すると「にない手」に自分たちが担っているという意識が生まれ、意識が育つとシビックプライドが育つ。これだけだとボランティアになるのでこの状況自体を「つかい手」に伝える事業を行う。「つかい手」がアクセスできる店舗やEC、宿やツーリズムというサービスを作っている。

WWD:23年7月に愛媛県・大洲に店を開いたが、八女の事業モデルを全国に広げていくのか。

白水:八女をコンセプトモデルに他地域で応用できるかに興味がある。産地の資源の見立てと商品の仕入れ、地域内での可視化する店を作り、ECや卸先を探す。

大洲は町屋を修繕することを目的にまちづくり会社のキタマネジメントが店舗開発などに取り組んでおり、同社から依頼があった。

WWD:「地域文化を纏った商品やサービスが現代生活において成立したら、地域文化は残って行くし、そうでなければ淘汰されていく」として、さまざまな製品やサービスを提供する。地域で取り組む意義は?

白水:機能性を突き詰めても大手の製品の方が優れているから、そこで戦っても仕方ない。僕らはその地域でしか見つけられない文脈や情報を掘り下げ、地域で行うことでその文脈を引き継ぐことができるし差別化できる。知ってもらう機会が増えれば残る可能性が広がる。ただし、体感的にもいい製品でないと難しい。例えば着物は、文化的要素は脈々とつながってはいるが日常的に着ることは難しい。カットソーなど着心地がいいものがある中で逆行するのは難しい。過去の文脈を踏みながら、現代生活や現代の情報や需要にフィットしていけているか、生き続けているかを模索している。

情報を逆手にフィットし続けないと残らないという点ではファッション的なのかもしれない。うなぎの寝床全体としては生活用品としてもまちづくりとしても提案する情報の設計が重要で、メディアをはじめいろんな人々が許容できるようにしている。

人は印象的な体験によって意識と行動が変わる

WWD:今の生活文化にフィットしないけど残したいものがあるときにはどう取り組むのか?

白水:それこそツーリズム事業を始めたきっかけだ。モノの需要はないが技術をリファレンスできる状態にしておくことが必要で、プロセスを見せることの価値を創出した。もちろんモノはある一定数は流通させる必要はあるが、多くの人に対しては情報として提案する方がいいので、工房見学などを行うことで収益を生むようにしている。

モノの売り買いだけをしているとモノの売り買いだけで終わる。人は印象的な体験によって意識と行動が変わる。だから、モノを通じた地域文化の伝達はうなぎの寝床で行い、体験を通した地域文化の伝達はUNAラボラトリーズが行っている。

「つくり手」は良いものを作ったら売れるという思考で取り組むことが多いが、実際は「つくり手」がどういう思考で取り組んでいるかということにも価値があり、それをサービスに変えることが重要だと考えている。

WWD:白水さんは「地域文化」をある一定の地域における文化「土地と人、人と人が関わりあい生まれる現象の総体」と定義しているが、“ある一定の地域”とは何を指すか。どのくらいの大きさで、都心部や歴史が浅いニュータウンも含むのか。

白水:地域文化は伸び縮みするととらえている。例えば八女ならまちづくりの観点では重要伝統的建造物群保存地区の範囲でとらえる人もいるし、ものづくりの町としてとらえている人もいる。海外からみると日本らしい町屋の街並みととらえる人もいる。どういう範囲やテーマで文化圏を捉えるかによる。行政区は行政区でしかない。

どこの地域でも文化はある。都市部は自然が失われているかもしれないが、人と人が混じりあって生まれる習慣や慣習は必ずある。そこには自然的背景、地理的背景、歴史的文脈がある。地域は都度設定して何の文化かを定義する必要がある。僕はひとつに絞らないような枠組みにして、あらゆることを許容できるようにあいまいな定義をしている。

「知恵は行動しまくったら生まれる」、知識とは別

WWD:「地域文化商社」として活動するときに大切なこととは。

白水:研究や調査をちゃんとして、商品の見立てをしてから行動してみること。売ったり話を聞いたり、流通させたり。うまくいくものいかないものがあるので、とりあえず行動してうまくいったものは仕組化して残し、うまくいかなかったものはやめる。

うまくいかなくてもどうしても残したいものは何かしら価値があるはずで、そのギャップを何かしらの事業で埋められるのではないかと知恵を絞り行動する。知恵は行動しまくったら生まれる。それは知識とは別の話だ。僕らはそんなに知識は深くはないけれど、地域で動いていたら何かしらの知恵が生まれる。

WWD:失敗したことは?

水:そもそも失敗や成功とは何か、から考える必要がある。会社としては、10年間赤字もなく、トライ&エラーをしながらも成長し続けている。例えば自転車事業や反毛(はんもう)事業に取り組んだがうまく回らず事業を畳んだが、今につながっているので失敗ではない。そういうのはたくさんある。

人に依存し続ける仕組みを作ることが必要

WWD: 後継者不足に対して優秀な人材を産地に送り込むのがいいという声もあるが、人に依存する産地経営は難しいのでは?

白水:基本的に人に依存しない会社や産業の仕組みをつくるべきだと考えているが、地域文化を深く理解して広げるために思考して行動できる人を獲得する仕組みをつくらないといけないとも思う。新しい思考や考えを生み出していくのは人だから、ある程度人に依存しつつ、その人がいなくなっても自走できるような仕組みをつくることは必要だ。いかに人を獲得し続け、許容できるか。その状況をどれだけ作れるかが重要だ。そこで僕は今、インキュベーションのようなことを事業化したいと考えている。能力を持った人の人生をずらし、産地にぶち込むのが重要だと思っている。

例えば、当社でツーリズム事業を取り組むのは東京出身でロンドン大学で人類学を学び、「物語を海外に伝えたい」とやって来た人。2年程度で大学に戻る予定だったが、地元の人と結婚して子どもが生まれた。そうすると八女に居続けるし、新たに人類学観点のあるツーリズムが生まれている。それで回る会社も増えている。

現代社会は「価値化は情報化」

WWD:無価値、無意味とされるような文化や歴史、地域から有価値、意味を引き出すには何に着目すべきか。

白水:無価値のものはほぼない。現代はネット上にないもの、つまり情報として拾い上げられないものは価値がないと特に都市部の人が思い込んでいる状態だと感じている。「無価値だけど価値があるもの」とは、知られてないことは無価値だとする情報としての価値の話が中心だ。現代においては、価値化は情報化でもある。地方の人はその流れを見ながら、情報を差し込んでいくための戦略が必要だが、それをひも解ける人が地方には多くいない。

情報化できる人が地域に入り地域がうまくいっているように見えるが、それが良い状態かというと必ずしもイコールではない。経済規模が大きければ豊かとは限らず、そうでなくても豊かな地域はある。経済、暮らし、ファッション、生活用品など、地域事業者はどの尺度に根差した価値創出を目指したいのかを考える必要がある。

WWD:一社だけではなく地域で連携していくために必要なこととは?

白水:みんなでやるとうまくいかないことが多い。これが面白いからやりたいと主観的に始めてそれが広がれば産地に貢献できて残せるものがあるのではないか。メディアが面白がるのは強い情報にひもづいた産地で、個の強い意志や理論がないと難しいし、その人が活動できるフィールドをどう作るかも重要だ。「これをやったらうまくいく」はないが、起点をどこにするかはビジネスのインキュベーションにおいて重要だ。

WWD:産地として、地域として何を目指すがのよいか。

白水:地域の活動で小規模事業者とある程度の規模の企業のレイヤーが交じり合っていないことが多いが、違うレイヤーの人たちがどう対話して議論を生んでいくかが重要だと思っている。それをつなげるのは行政なのかもしれない。地域資源や土地性、文化や歴史と地域産業をつなげるコーディネイト役が必要だが、それは市長であり、行政の役割なのかもしれない。「政治的にどうしていくか」も重要だと思う。

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大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

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大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

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大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

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「イソップ」の反逆的な花の香り“オルナー オードパルファム”調香師に聞く 「香水が芝居だとしたら私は役者」

PROFILE: セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師

セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師
PROFILE: フランス・グラース生まれ。幼少時から地元の工場で漂うベチバーやイランイラン、パチョリなどの香りに触れ、香水のミニボトルや香水の広告を集めて育つ。2001年から米香料大手メーカーIFFの調香師として活躍

「イソップ(AESOP)」から、新作フレグランス“オルナー オードパルファム(以下、オルナー)”が登場した。同ブランドは2月、都内で新作発表イベントを開催。フローラルフレグランスの概念を覆す“オルナー”の世界観を表現するインスタレーションやワークショップを開催した。“オルナー”という名前は、古代スカンジナビア語で「装飾される、花々で飾られる」という意味。マグノリアリーフ、ローマンカモミール、シダーハートを組み合わせ、フローラルのハートノートとスパイスやメタリック、ウッディノートが織りなす複雑な香りだ。みずみずしい花弁とたくましい幹、植物と金属、女性性と男性性といった相対する要素を融合している。調香を担当したのは長年「イソップ」と協業するセリーヌ・バレル(Celine Barel)。来日したバレルに、「イソップ」との出合いやクリエイションについて聞いた。

概念を覆す“折れない”フローラル

WWD:“オルナー”はどのような香りか?

セリーヌ・バレル(以下、バレル):静かで反逆的なフローラルの香り。思いがけないコントラストがあり、優美さと強靭さの間にある詩的な張力をテーマにしている。香りの中心はマグノリアで花弁ではなくマグノリアリーフが持つ複雑で繊細さを持つ香りが特徴だ。

WWD:調香の出発点は?

バレル:「イソップ」のクリエイティブチームからのブリーフィングからスタートした“オルナー”は、中国人の詩人である清照李と歌手ニーナ・シモン(Nina Simone)の歌「ライラックワイン」、そして、ヒスイの緑色が着想元になっている。反逆的な恋愛をしていた詩人と恋焦がれる気持ちと怒りを秘めた歌手2人の共通点は、たおやかさと強さ。強さを出すために、「イソップ」の特徴的な香であるウッディを盛り込む必要があると思った。ヒスイからインスパイアされたグリーンノートはマグノリアリーフのフレッシュさに反映している。

WWD:この香りを調香する上でこだわった点は?

バレル:反逆性。フローラルというと優しさや儚さといったものを想像するが、“折れない”フローラルを表現したいと思った。思いがけずエッジの効いた現代的なフローラル。大胆で堂々としている強さのある新しいフローラルを表現したつもりだ。

WWD:“オルナー”はどのように他のフローラルと違う?

バレル:フローラル、アロマティック、フレッシュな要素があり思いがけない香のコントラストが特徴。基本フローラルに分類されるため、 “ローズ”や “グローム”と並ぶ形だが、フローラルとフレッシュ両方の側面を持つ。

創業者との出合いから生まれた香り“タシット”

WWD:イソップと協業を始めたきっかけは?

バレル:2006年に創業者のデニス・パフィティス(Dennis Paphitis)と出会った。文学やアートが好きのデニスとは共通点が多く馬が合った。私は調香の学校を出たばかりで経験がなかったが、ずっと連絡を取り続けて12年に初めて“タシット”を調香した。私が経験を積むのを待ってくれたのだと思う。“タシット”は特別で大切な作品。デニスからのブリーフィングは、イタリア人画家ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の絵。キリコの絵はシュールだが、「イソップ」にも常に奇妙な要素があると思った。それで、バジルを大量に使ってエッセンスを作り、ベチバーハートを使用し、奇妙な要素を表現した。

WWD:あなたにとって「イソップ」はどのようなブランド?

バレル:オーストラリア生まれで、全てのクリエイションプロセス全てに意味がある。多種多様なインスピレーション源から始まる香りの創造は、抒情的であると同時に科学に根ざしたものでもある。製品には完璧さが宿っているが、同時に不完全な中の美を内包するブランド日本との親和性が高いと思う。

香水が芝居だとしたら私は役者のようなもの

WWD:クリエイションで最も大切にしていることは?

バレル:美しさをどのように見つけ、表現するかという点。自然から合成まで、全ての香料を知り抜き、組み合わせて新しいものを生み出すのが調香師の仕事。自然香料は混ぜ合わせるとお互いに溶け合って複雑になるが、合成香料は香りがブロック状に重なる。自然香料を太陽の光とすれば、合成香料は人工光という感じで感情に欠ける。自然香料も合成香料も的確な意図を持って配合するが、香料を組み合わせて、1+1=3になる場合もあり、コントロールが非常に難しい。香りのインパクトや持続性、残り香といったさまざまな香りの旅をどのようにデザインするかが難しい。

WWD:自身が調香するフレグランスにあるシグニチャーは?

バレル:シグニチャーは作らない。なぜなら、香りはブランドのもので、私はそれを形にする媒介役だから。香りを芝居に例えると、私は役者のようなもの。いろいろなブランドのために、自分は香りのストーリーの登場人物になるように心がけている。毎回、香りが完成したら、新しい役になりきるのが大切。いろいろな作品でいろいろな役を演じるのが私のモットーだ。

WWD:尊敬する調香師は?

バレル:故エドモンド・ラウドニツカ(Edmond Roudnitsuka)。元祖“ソヴァージュ”など「ディオール(DIOR)」のフレグランスを多く調香した人で、著書も多い。“グルマン”カテゴリーを生み出したオリヴィエ・クレスプ(Olivier Cresp)も革新的で素晴らしい。「フレデリック マル(FREDERIC MALLE)」の“ポートレイト オブ ア レディー”を手掛けた故ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)は、センシュアルな誘惑する香りを生み出し、尊敬している。

WWD:あなた自身にとってフレグランス=香りとは?

バレル:現実逃避。いろいろな可能性が広がる目に見えないスーパーパワー。香りを通して何かを思い出したり、自然界に訪れたり、魔法のような存在だと思う。

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「イソップ」の反逆的な花の香り“オルナー オードパルファム”調香師に聞く 「香水が芝居だとしたら私は役者」

PROFILE: セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師

セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師
PROFILE: フランス・グラース生まれ。幼少時から地元の工場で漂うベチバーやイランイラン、パチョリなどの香りに触れ、香水のミニボトルや香水の広告を集めて育つ。2001年から米香料大手メーカーIFFの調香師として活躍

「イソップ(AESOP)」から、新作フレグランス“オルナー オードパルファム(以下、オルナー)”が登場した。同ブランドは2月、都内で新作発表イベントを開催。フローラルフレグランスの概念を覆す“オルナー”の世界観を表現するインスタレーションやワークショップを開催した。“オルナー”という名前は、古代スカンジナビア語で「装飾される、花々で飾られる」という意味。マグノリアリーフ、ローマンカモミール、シダーハートを組み合わせ、フローラルのハートノートとスパイスやメタリック、ウッディノートが織りなす複雑な香りだ。みずみずしい花弁とたくましい幹、植物と金属、女性性と男性性といった相対する要素を融合している。調香を担当したのは長年「イソップ」と協業するセリーヌ・バレル(Celine Barel)。来日したバレルに、「イソップ」との出合いやクリエイションについて聞いた。

概念を覆す“折れない”フローラル

WWD:“オルナー”はどのような香りか?

セリーヌ・バレル(以下、バレル):静かで反逆的なフローラルの香り。思いがけないコントラストがあり、優美さと強靭さの間にある詩的な張力をテーマにしている。香りの中心はマグノリアで花弁ではなくマグノリアリーフが持つ複雑で繊細さを持つ香りが特徴だ。

WWD:調香の出発点は?

バレル:「イソップ」のクリエイティブチームからのブリーフィングからスタートした“オルナー”は、中国人の詩人である清照李と歌手ニーナ・シモン(Nina Simone)の歌「ライラックワイン」、そして、ヒスイの緑色が着想元になっている。反逆的な恋愛をしていた詩人と恋焦がれる気持ちと怒りを秘めた歌手2人の共通点は、たおやかさと強さ。強さを出すために、「イソップ」の特徴的な香であるウッディを盛り込む必要があると思った。ヒスイからインスパイアされたグリーンノートはマグノリアリーフのフレッシュさに反映している。

WWD:この香りを調香する上でこだわった点は?

バレル:反逆性。フローラルというと優しさや儚さといったものを想像するが、“折れない”フローラルを表現したいと思った。思いがけずエッジの効いた現代的なフローラル。大胆で堂々としている強さのある新しいフローラルを表現したつもりだ。

WWD:“オルナー”はどのように他のフローラルと違う?

バレル:フローラル、アロマティック、フレッシュな要素があり思いがけない香のコントラストが特徴。基本フローラルに分類されるため、 “ローズ”や “グローム”と並ぶ形だが、フローラルとフレッシュ両方の側面を持つ。

創業者との出合いから生まれた香り“タシット”

WWD:イソップと協業を始めたきっかけは?

バレル:2006年に創業者のデニス・パフィティス(Dennis Paphitis)と出会った。文学やアートが好きのデニスとは共通点が多く馬が合った。私は調香の学校を出たばかりで経験がなかったが、ずっと連絡を取り続けて12年に初めて“タシット”を調香した。私が経験を積むのを待ってくれたのだと思う。“タシット”は特別で大切な作品。デニスからのブリーフィングは、イタリア人画家ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の絵。キリコの絵はシュールだが、「イソップ」にも常に奇妙な要素があると思った。それで、バジルを大量に使ってエッセンスを作り、ベチバーハートを使用し、奇妙な要素を表現した。

WWD:あなたにとって「イソップ」はどのようなブランド?

バレル:オーストラリア生まれで、全てのクリエイションプロセス全てに意味がある。多種多様なインスピレーション源から始まる香りの創造は、抒情的であると同時に科学に根ざしたものでもある。製品には完璧さが宿っているが、同時に不完全な中の美を内包するブランド日本との親和性が高いと思う。

香水が芝居だとしたら私は役者のようなもの

WWD:クリエイションで最も大切にしていることは?

バレル:美しさをどのように見つけ、表現するかという点。自然から合成まで、全ての香料を知り抜き、組み合わせて新しいものを生み出すのが調香師の仕事。自然香料は混ぜ合わせるとお互いに溶け合って複雑になるが、合成香料は香りがブロック状に重なる。自然香料を太陽の光とすれば、合成香料は人工光という感じで感情に欠ける。自然香料も合成香料も的確な意図を持って配合するが、香料を組み合わせて、1+1=3になる場合もあり、コントロールが非常に難しい。香りのインパクトや持続性、残り香といったさまざまな香りの旅をどのようにデザインするかが難しい。

WWD:自身が調香するフレグランスにあるシグニチャーは?

バレル:シグニチャーは作らない。なぜなら、香りはブランドのもので、私はそれを形にする媒介役だから。香りを芝居に例えると、私は役者のようなもの。いろいろなブランドのために、自分は香りのストーリーの登場人物になるように心がけている。毎回、香りが完成したら、新しい役になりきるのが大切。いろいろな作品でいろいろな役を演じるのが私のモットーだ。

WWD:尊敬する調香師は?

バレル:故エドモンド・ラウドニツカ(Edmond Roudnitsuka)。元祖“ソヴァージュ”など「ディオール(DIOR)」のフレグランスを多く調香した人で、著書も多い。“グルマン”カテゴリーを生み出したオリヴィエ・クレスプ(Olivier Cresp)も革新的で素晴らしい。「フレデリック マル(FREDERIC MALLE)」の“ポートレイト オブ ア レディー”を手掛けた故ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)は、センシュアルな誘惑する香りを生み出し、尊敬している。

WWD:あなた自身にとってフレグランス=香りとは?

バレル:現実逃避。いろいろな可能性が広がる目に見えないスーパーパワー。香りを通して何かを思い出したり、自然界に訪れたり、魔法のような存在だと思う。

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「キス」大阪上陸の理由を創業者ロニー・ファイグが明かす 豊富な限定品についても

「キス(KITH)」の新たな旗艦店「キス オオサカ(KITH OSAKA)」が、3月21日にオープンする。「キス」は、2011年にアメリカ・ニューヨークでスニーカーショップとしてスタートし、現在はファッションからカルチャーまでをピックアップするセレクトショップおよび、同名のライフスタイルブランドも手掛けるまでになった。20年7月には、アメリカ国外初となる旗艦店「キス トウキョウ(KITH TOKYO)」を東京・渋谷のミヤシタパーク(MIYASHITA PARK)にオープンし、直近5年でフランスやイギリス、韓国など海外出店を加速させてきた。

「キス オオサカ」は、3月21日に開業する大阪駅直結の商業施設「うめきたグリーンプレイス」内1階に位置し、総売り場面積は「キス トウキョウ」よりも広い約394平方メートル。通路を挟んだ向かいにはシリアルアイスクリームバー「キス トリーツ(KITH TREATS)」も併設する。店内では、メンズ・ウィメンズからキッズまでを豊富にそろえ、オープンにあわせて同店限定のアイテムも数多く用意する力の入れようだ。

実は、「キス」がアメリカ国外で複数店舗を構えるのは日本が初めて。「キス トウキョウ」が変わらずにぎわう状況とはいえ、他ブランドやショップが日本以外のアジア圏で出店攻勢をかける中、なぜロニー・ファイグ(Ronnie Fieg)クリエイティブ・ディレクター兼最高経営責任者は「キス オオサカ」のオープンを決めたのか。その背景について話を聞いた。

大阪出店の決め手は信頼と愛

ーー「キス」は現在、世界に約20店舗を出店していますが、創業地アメリカ以外で複数店舗を構えるのは日本が初めてです。なぜ、日本に2店舗目となる「キス オオサカ」をオープンすることを決めたのでしょうか?

ロニー・ファイグ(以下ロニー):日本が、アメリカ国外で「キス」と最も深く共鳴している国だと感じているからだ。2017年に初めての海外店舗としてシリアルバー「キス トリーツ」を渋谷にオープンして以来(*現在は閉店し、20年にオープンした「キス トウキョウ」に移転)、「キス」は日本での存在感を示してきた。この間に日本の人々はわれわれの成長と進化を見守り、ある意味で共に歩んできた関係性と言える。そして、東京に限らず日本全国に「キス」を愛してくれているファンがいると実感したからこそ、より多くの人々にブランド体験を届けたいという思いが強くなり、大阪に新たな店舗を構えることを決めたんだ。

ーー「キス トウキョウ」は、オープンから5年が経った今も前を通るたびに行列を目にします。やはり、日本での好調な業績もオープン理由の一つですか?

ロニー:間違いない。日本で築き上げられた「キス」のコミュニティーは本当に素晴らしく、ファンは世界観を心から理解し愛してくれており、その気持ちはわれわれも同じ。日本は“第二の故郷”のような国なのさ。それに、日本チームへの信頼とサポートも「キス オオサカ」のオープンを決めた大きな理由の一つ。「キス トウキョウ」のディレクターであるジュンヤ(俣野純也)は長年の友人で、彼とチームスタッフの存在が、「キス」らしい形で大阪出店を実現できると確信させてくれたんだ。

ーーいつ頃から「キス オオサカ」の構想はあったのでしょうか?また、「うめきたグリーンプレイス」を選んだ理由も教えてください。

ロニー:2年以上前から構想していた。理想的な空間を探していたところ、「うめきたグリーンプレイス」をはじめとした大阪駅地上部開発を知り、「キス オオサカ」が都市に新しく誕生する魅力的なエリアの一部になれる絶好の機会だと感じたんだ。

新店でしか体験できないこと

ーー「キス」は、店舗を訪れた際の「“五感”を刺激する“エクスペリエンス(体験)”の提供」に力を入れています。「キス オオサカ」ではどのような“エクスペリエンス”を用意していますか?

ロニー:「“五感”を刺激する“エクスペリエンス”の提供」は全てのフラッグシップストアの共通哲学で、単なるショッピングの場ではなく、志を同じくする人々が集い、ブランドをより深く体験できる場所であるべきだと考えている。その中で「キス オオサカ」の特徴は、1つの中央エリアに3つの異なるスペースを用意している点だ。1つ目のスペースでメンズとウィメンズコレクションを、2つ目のスペースでキッズコレクションを並べ、3つ目のスペースで「キス トリーツ」が楽しめる。このレイアウトにより、それぞれのスペースが独自の雰囲気を持ちながら、全体としては共通した没入体験ができる、洗練された空間に仕上がっている。

ーーオープンにあたり、何か苦労した点はありますか?

ロニー:新しい店舗をオープンする時は、常に何かしらの課題はあるものさ。でも、それも含めてクリエイティブなプロセスとして楽しんでいる。私にとっての一番の喜びは、完成した店舗に初めて足を踏み入れる瞬間なんだ。

ーーオープンに合わせ、大阪らしい限定アイテムを数多く仕込んだそうですね。

ロニー:「キス オオサカ」でしか購入することができない限定アイテムを数多くそろえている。例えば、背面に大阪を象徴するアートワークと虎の刺しゅうを施したリバーシブルジャケットなどのアパレルコレクションや、「ニューエラ(NEW ERA)」とコラボレーションした阪神タイガースとオリックス・バファローズのキャップ、日本の皇室御用達ブランドとしても知られる茶筒の老舗「開化堂」とのキャニスター(フタ付きの円筒形の保存容器)などだ。また、「ニューバランス(NEW BALANCE)」を象徴するスニーカー“1300”のアイコニックなカラーリングを私なりに再解釈し、“メイド イン USA 992(MADE IN USA 992)”に落とし込んだ1足も用意した。これは「キス」の公式オンラインでも販売するが、実店舗で取り扱うのは「キス オオサカ」だけだ。

ーーここからは、少し話の間口を広げさせてください。「キス」は、もともとスニーカーショップとしてスタートしましたが、現在はセレクトショップやライフスタイルブランド、コラボレーターとしての側面なども強くなっています。これは創業当初から意図した業態だったのか、それとも時代に合わせた変化だったのでしょうか?

ロニー:現在の業態を最初から計画していたわけではない。ただ、立ち上げの段階から「キス」というブランドが持つ可能性を最大限に引き出し、市場に新たなインパクトを与えるビジョンは持っていた。それに、より多くを求めるファンに気付かされたのも事実だ。当初はコラボレーションを中心に展開し、次第にオリジナルのアパレルを少しづつリリースし始めると、即完売するようになっていった。どれだけ増産しても需要が続いたことで「『キス』には無限の可能性がある」と確信したんだ。それからというもの、われわれは振り返ることなく進化を続けている。

「キス」の今後はどうなる

ーーまた、最近の「キス」の動きといえば、初のパフォーマンスライン“ケーテック(K-TECH)”をローンチしていましたね。これまでスポーツブランドやアウトドアブランドとの協業を数多く重ねてきた中で、満を持しての販売だったのでしょうか。

ロニー:私たちは毎年、ブランドを新たなカテゴリーへと広げることを目指し、独自の視点を生かせる領域を模索してきた。“ケーテック”は、アクティブウエアにインスパイアされたラインであり、今後もシーズンごとに進化させていく予定だ。

ーー最後に、スニーカーからファッション、スポーツ、フード、カーまで、さまざまな業界で成功を収めている「キス」の今後を教えてください。

ロニー:どの業界に進出しようと、どんな店舗をオープンしようと、ビジョンは常に変わらないーーそれは“「キス」を戦力的に成長・進化させること”。わたしたちは誰かの作った成功モデルをなぞるのではなく、自分たち自身で道を切り拓き、常に自分たちの限界を越え、正しい理由に基づき、最高のモノを生み出し続けていく。

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「キス」大阪上陸の理由を創業者ロニー・ファイグが明かす 豊富な限定品についても

「キス(KITH)」の新たな旗艦店「キス オオサカ(KITH OSAKA)」が、3月21日にオープンする。「キス」は、2011年にアメリカ・ニューヨークでスニーカーショップとしてスタートし、現在はファッションからカルチャーまでをピックアップするセレクトショップおよび、同名のライフスタイルブランドも手掛けるまでになった。20年7月には、アメリカ国外初となる旗艦店「キス トウキョウ(KITH TOKYO)」を東京・渋谷のミヤシタパーク(MIYASHITA PARK)にオープンし、直近5年でフランスやイギリス、韓国など海外出店を加速させてきた。

「キス オオサカ」は、3月21日に開業する大阪駅直結の商業施設「うめきたグリーンプレイス」内1階に位置し、総売り場面積は「キス トウキョウ」よりも広い約394平方メートル。通路を挟んだ向かいにはシリアルアイスクリームバー「キス トリーツ(KITH TREATS)」も併設する。店内では、メンズ・ウィメンズからキッズまでを豊富にそろえ、オープンにあわせて同店限定のアイテムも数多く用意する力の入れようだ。

実は、「キス」がアメリカ国外で複数店舗を構えるのは日本が初めて。「キス トウキョウ」が変わらずにぎわう状況とはいえ、他ブランドやショップが日本以外のアジア圏で出店攻勢をかける中、なぜロニー・ファイグ(Ronnie Fieg)クリエイティブ・ディレクター兼最高経営責任者は「キス オオサカ」のオープンを決めたのか。その背景について話を聞いた。

大阪出店の決め手は信頼と愛

ーー「キス」は現在、世界に約20店舗を出店していますが、創業地アメリカ以外で複数店舗を構えるのは日本が初めてです。なぜ、日本に2店舗目となる「キス オオサカ」をオープンすることを決めたのでしょうか?

ロニー・ファイグ(以下ロニー):日本が、アメリカ国外で「キス」と最も深く共鳴している国だと感じているからだ。2017年に初めての海外店舗としてシリアルバー「キス トリーツ」を渋谷にオープンして以来(*現在は閉店し、20年にオープンした「キス トウキョウ」に移転)、「キス」は日本での存在感を示してきた。この間に日本の人々はわれわれの成長と進化を見守り、ある意味で共に歩んできた関係性と言える。そして、東京に限らず日本全国に「キス」を愛してくれているファンがいると実感したからこそ、より多くの人々にブランド体験を届けたいという思いが強くなり、大阪に新たな店舗を構えることを決めたんだ。

ーー「キス トウキョウ」は、オープンから5年が経った今も前を通るたびに行列を目にします。やはり、日本での好調な業績もオープン理由の一つですか?

ロニー:間違いない。日本で築き上げられた「キス」のコミュニティーは本当に素晴らしく、ファンは世界観を心から理解し愛してくれており、その気持ちはわれわれも同じ。日本は“第二の故郷”のような国なのさ。それに、日本チームへの信頼とサポートも「キス オオサカ」のオープンを決めた大きな理由の一つ。「キス トウキョウ」のディレクターであるジュンヤ(俣野純也)は長年の友人で、彼とチームスタッフの存在が、「キス」らしい形で大阪出店を実現できると確信させてくれたんだ。

ーーいつ頃から「キス オオサカ」の構想はあったのでしょうか?また、「うめきたグリーンプレイス」を選んだ理由も教えてください。

ロニー:2年以上前から構想していた。理想的な空間を探していたところ、「うめきたグリーンプレイス」をはじめとした大阪駅地上部開発を知り、「キス オオサカ」が都市に新しく誕生する魅力的なエリアの一部になれる絶好の機会だと感じたんだ。

新店でしか体験できないこと

ーー「キス」は、店舗を訪れた際の「“五感”を刺激する“エクスペリエンス(体験)”の提供」に力を入れています。「キス オオサカ」ではどのような“エクスペリエンス”を用意していますか?

ロニー:「“五感”を刺激する“エクスペリエンス”の提供」は全てのフラッグシップストアの共通哲学で、単なるショッピングの場ではなく、志を同じくする人々が集い、ブランドをより深く体験できる場所であるべきだと考えている。その中で「キス オオサカ」の特徴は、1つの中央エリアに3つの異なるスペースを用意している点だ。1つ目のスペースでメンズとウィメンズコレクションを、2つ目のスペースでキッズコレクションを並べ、3つ目のスペースで「キス トリーツ」が楽しめる。このレイアウトにより、それぞれのスペースが独自の雰囲気を持ちながら、全体としては共通した没入体験ができる、洗練された空間に仕上がっている。

ーーオープンにあたり、何か苦労した点はありますか?

ロニー:新しい店舗をオープンする時は、常に何かしらの課題はあるものさ。でも、それも含めてクリエイティブなプロセスとして楽しんでいる。私にとっての一番の喜びは、完成した店舗に初めて足を踏み入れる瞬間なんだ。

ーーオープンに合わせ、大阪らしい限定アイテムを数多く仕込んだそうですね。

ロニー:「キス オオサカ」でしか購入することができない限定アイテムを数多くそろえている。例えば、背面に大阪を象徴するアートワークと虎の刺しゅうを施したリバーシブルジャケットなどのアパレルコレクションや、「ニューエラ(NEW ERA)」とコラボレーションした阪神タイガースとオリックス・バファローズのキャップ、日本の皇室御用達ブランドとしても知られる茶筒の老舗「開化堂」とのキャニスター(フタ付きの円筒形の保存容器)などだ。また、「ニューバランス(NEW BALANCE)」を象徴するスニーカー“1300”のアイコニックなカラーリングを私なりに再解釈し、“メイド イン USA 992(MADE IN USA 992)”に落とし込んだ1足も用意した。これは「キス」の公式オンラインでも販売するが、実店舗で取り扱うのは「キス オオサカ」だけだ。

ーーここからは、少し話の間口を広げさせてください。「キス」は、もともとスニーカーショップとしてスタートしましたが、現在はセレクトショップやライフスタイルブランド、コラボレーターとしての側面なども強くなっています。これは創業当初から意図した業態だったのか、それとも時代に合わせた変化だったのでしょうか?

ロニー:現在の業態を最初から計画していたわけではない。ただ、立ち上げの段階から「キス」というブランドが持つ可能性を最大限に引き出し、市場に新たなインパクトを与えるビジョンは持っていた。それに、より多くを求めるファンに気付かされたのも事実だ。当初はコラボレーションを中心に展開し、次第にオリジナルのアパレルを少しづつリリースし始めると、即完売するようになっていった。どれだけ増産しても需要が続いたことで「『キス』には無限の可能性がある」と確信したんだ。それからというもの、われわれは振り返ることなく進化を続けている。

「キス」の今後はどうなる

ーーまた、最近の「キス」の動きといえば、初のパフォーマンスライン“ケーテック(K-TECH)”をローンチしていましたね。これまでスポーツブランドやアウトドアブランドとの協業を数多く重ねてきた中で、満を持しての販売だったのでしょうか。

ロニー:私たちは毎年、ブランドを新たなカテゴリーへと広げることを目指し、独自の視点を生かせる領域を模索してきた。“ケーテック”は、アクティブウエアにインスパイアされたラインであり、今後もシーズンごとに進化させていく予定だ。

ーー最後に、スニーカーからファッション、スポーツ、フード、カーまで、さまざまな業界で成功を収めている「キス」の今後を教えてください。

ロニー:どの業界に進出しようと、どんな店舗をオープンしようと、ビジョンは常に変わらないーーそれは“「キス」を戦力的に成長・進化させること”。わたしたちは誰かの作った成功モデルをなぞるのではなく、自分たち自身で道を切り拓き、常に自分たちの限界を越え、正しい理由に基づき、最高のモノを生み出し続けていく。

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カナダ発ラグジュアリーEC「エッセンス」バイヤーが語る、ファッションと雑貨のボーダーレス化

カナダ・モントリオール発のECサイト「エッセンス(SSENSE)」はエッジの効いた個性的なブランドの取り扱いや商品構成に定評がある。主軸のウィメンズ、メンズウェアに加えて、最近好調なのがコロナ禍の2020年にローンチした雑貨を取り扱うセクションの「物とモノ」だ。

昨年冬からはウィメンズファッションの買い付けを統括するブリジット・チャートランド氏 が「物とモノ」にのバイイング・ディレクターに就任。ファッションと雑貨の買い付けを一挙に引き受けることとなった。それによりウィメンズファッションと雑貨のバイイングの親和性が増し、雑貨の売り上げが伸長。しのぎを削るファッションEC市場で「エッセンス」は独自の強みをどのように見出しているのか、チャートランド氏に話を聞いた。

ーー今までウィメンズファッションの買い付けを担当されていましたが、雑貨の買い付けの基準は?

ブリジット・チャートランド(以下、チャートランド):雑貨カテゴリーの「物とモノ」の買い付けはウィメンズの買い付けに似ている部分が多いと思っています。私が「物とモノ」を統括するようになってから、平凡なものから離れ、大胆でユニークなデザインへと舵を切りました。とはいえ、目立ちすぎるものだけをそろえることはせず、データに基づいた手堅い商品も従来通り揃えています。要はバランスが重要なのです。

また、「ドリス ヴァン ノッテン(DRIES VAN NOTEN)」や「トム ブラウン(THOM BROWNE)」のように、ウィメンズで取り扱う一部のファッションブランドで、ホームプロダクトやセルフケア商品を提供しているブランドにも注目しました。デザイナーのラフ・シモンズ(Raf Simons)とデンマークのテキスタイルブランド「カヴァトラ(KVADRAT)」がコラボレーションしたホーム&ライフスタイル グッズ ブランド「カヴァトラ/ ラフ・シモンズ(KVADRAT/ RAF SIMONS)」のように、ウィメンズですでに関係構築のできているブランドやコミュニティーに焦点を当てています。

新たなブランドを発掘し、
シナジーを生み出す

チャートランド:シモーン・ロシャ(Simone Rocha)の友人でもあるレイラ・ゴハー(Laila Hohar)がローンチした「ゴハー・ワールド(GOHAR WORLD)」がいい例です。すでに関係を築いていたシモーンの友人ということがきっかけで知ることができたブランドです。「エッセンス」にはすでにシモーンのファンたちがいます。その友人やコミュニティーにアクセスすることで、新たなシナジーが生み出せるのです。私たちはこうしたコミュニティーとの結びつきを大切にしています。

「エッセンス」ではエディトリアルのプラットフォームを活用して、デザイナーや業界の重要な人たちと関係を築いていくことも、とても重要だと思っています。限定出版物、たとえばイザベラ・バーリー(Isabella Burley)による「CLIMAX BOOKS」のような希少な商品はエディトリアルでもその魅力を紹介しました。

さらに「エッセンス」が得意とするのは次世代の若手アーティストの発掘です。日本はもちろん、デンマークや韓国などの新興国やローカル市場に目を向けることも重要です。これらの様々な要素が絡み合ったものが「エッセンス」の戦略と言えるでしょう。

ーー2つのカテゴリーを買い付ける上での大きな違いは?

チャートランド:雑貨はファッションと違って、必ずしもシーズンカレンダーに従っているわけではありません。季節性が強いわけではないからこそ、どのタイミングで何をリリースするかなどは細心の注意を払っています。また、家具などはサイズや重量が重いため、配送料を気にしないといけなかったり、収益にもフォーカスしないといけません。ファッションと異なる点は試着をする必要がないので、「フィット感」は気にする必要はなくとも、ファッションと同様、魅力的なデザインが求められます。

ーーウィメンズと雑貨の買い付けを1人で統括することのメリットは?

チャートランド:「エッセンス」がすでに得意としているウィメンズファッションに、雑貨の世界観を一致させることができることです。前述したように既存のシナジーを活用しつつ、ウィメンズファッションのために築いてきたブランドアイデンティティーを強化し、繋がりを作ることもできます。

2024年にシモーン・ロシャとともにビューティーバッグの企画を行いました。ホリデーシーズン向けにシモーンがデザインしたバッグの中に「エッセンス」で取り扱うビューティ商品を詰め込みました。このバッグは即完売したのですが、私たちのウィメンズファッションで培ったコネクションを活用することが成果につながるということを実証できました。

ーーファッションEコマースサイトにおいて、雑貨の存在意義は?

チャートランド:今まで付き合いのあった顧客たちも日々進化し、ライフスタイルが変化をしたり、家を購入したりするようになり、雑貨や家具、美容などのカテゴリーが受け入れられるようになりました。

また、特にパンデミックは人々の視点を家の中に向けました。ファッションブランドもトータルコーディネートという観点から雑貨やホームプロダクトにも目を向けるようになりました。ブランドのアイデンティティーをファッション以外の形で表現したいというブランドが増えたため、パンデミックの時期は雑貨を始めるのに適した時期であり、私たちのサイトでも雑貨を立ち上げる意義が生まれました。

ーーファッションEコマース市場における「エッセンス」の強みは?

チャートランド:ユニークなブランドや商品を取りそれることで唯一無二の視点を維持していることです。ブランドに特別なコラボレーション商品を作ってもらうことでの希少性は私たちのコアバリューになっています。

ーー「物とモノ」の中で注目しているブランドは?

チャートランド:個人的には「ゴハー・ワールド」のデザインアプローチも好きですし、「テクラ(TEKLA)」と「オーラリー(AURALEE)」のコラボが大好きだったのですが、すぐに売り切れてしまいました。メルボルン発の「ゾウゾウ ラグス(ZOUZOU RUGS)」は美しいラグを作っていて、「フェラガモ(FERRAGAMO)」のブティックとも密接な関わりを持っているので、ファッションブランドとの親和性もあります。日本の家庭にも馴染むパターンなので、日本のお客さんにもおすすめしたいですね。ロサンゼルス拠点の韓国系アメリカ人アーティストのラミ・キム(RAMI KIM STUDIO)の花瓶やタンブラーも大好きです。

ーー最近拠点をLAに移したそうですが、ライフスタイルは変わりましたか?

チャートランド:大きく変わりましたね。ただ、年始に起きた山火事では避難を余儀なくされました。モントリオールにいた時は冬の間は移動以外ではほとんど外に出ることはありませんでしたが、今はほとんど外にいてアクティブに過ごしています。今ではフラワーアレンジメントが週末の趣味になっていて、韓国から来たアーティストとワークショップを開催しました。

ーー今年「物とモノ」で予定されているコラボレーションを教えてください。

チャートランド:「エッセンス」では特別な商品をお客さまに届けるための限定商品なども販売しています。今年はロンドンを拠点とするデザイナー、ジェームズ・ショウ(JAMES SHAW)の作品をエクスクルーシブで取り扱うほか、選りすぐりの新規ブランドも多数導入予定です。

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ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る

兄のブライアン・ダダリオ(Brian D'Addario)と弟のマイケル・ダダリオ(Michael D'Addario)による兄弟デュオとしてニューヨークで活動し、“バロック・ポップの金字塔”とも謳われた2016年のデビュー・アルバム「Do Hollywood」以来、音楽ファンの間で高い評価を受け続けているザ・レモン・ツイッグス(The Lemon Twigs)。バイオリンやチェロ、トランペット、マンドリンも含む多彩な楽器を操り彼らがこれまで披露してきたサウンドは、ソフト・ロックやパワー・ポップ、グラム・ロック、そしてドゥーワップからロック・オペラ、ミュージカル風まで実にバラエティー豊か。その根底には、とりわけ1960〜70年代のロックやポップ・ミュージックへの深い愛情と造詣があり、卓越したメロディー・センスと複雑に構築されたアレンジによって彼らは、華やかでファンタジックで独創的な音楽世界をつくり上げてきた。昨年リリースされた5枚目の最新アルバム「A Dream Is All We Know」は、“Mersey Beach”と彼らが呼ぶ架空の空間(※リヴァプールとローレル・キャニオンの間の音の橋)をコンセプトに、ビートルズやビーチ・ボーイズ、60年代のスウェディッシュ・ポップにインスピレーションを得たダイナミックな曲調と美しいハーモニーが魅力的な作品だった。

そんな彼らの音楽に貫かれた美意識は、作品のアートワークやMV、あるいはデビュー時から個性的なファッションスタイルにも感じられるものでもある。そして、そうしたビジュアル的な要素は、ミュージシャンにとって作品の世界やアーティスト像を構成する重要な一部であることはいうまでもない。ちなみに、過去にはエディ・スリマン(Hedi Sliman)の被写体を務めたこともあるダダリオ兄弟。今回、1月5日の「ロッキン・オン ソニック(rockin'on sonic)」への出演のため6年ぶりに来日した2人に、そのあたりの関心や話題についてざっくばらんに聞いてみた。

ザ・レモン・ツイッグスとファッション

——久しぶり(※2019年のサマーソニック出演以来)の日本はどうですか。街並みにも新年独特の空気(※取材は1月6日)が感じられると思いますけど。

マイケル・ダダリオ(以下、マイケル):行きたかった店が全部閉まっていて。休もうと思って早く来たのに、最悪のタイミングだった(笑)。着いたのが12月30日か31日で、1日目も2日目も、3日目もずっと閉まっていてね。でも「ぷあかう」ってすてきなバーで年越しを迎えることができてよかったよ。

——SNSに写真を上げていましたね。ツアー先で必ず巡るお店はあるんですか。

ブライアン・ダダリオ(以下、ブライアン):ビンテージショップに行くのが大好きなんだ。ツアー先でその土地ならではの個性的な店を見つけるのが楽しい。最高のアクティビティだよ。

マイケル:高円寺で一緒に服を見に行ったこともあったね。僕もブライアンも、バンドのメンバーもみんな服が大好きだから。好みもバラバラで面白いよ。

——2人はどんなテイストの服が好きなんですか。

マイケル:いろいろなテイストの服を着てきたけど、結局は1960年代——64年から66年ぐらいのスタイルに落ち着くことが多いかな。ハイネックのボタンダウン・シャツにネクタイを締めるとか、少し襟の高いデザインが個人的に好きなんだ。それと、70年代後半のパワー・ポップをイメージさせるみたいな服も好き。ジーンズはストンとしたシルエットが好みで、極端なシェイプのものは好きじゃなくて。

ブライアン:僕は逆に、極端に広がったフレアパンツや、すごくシェイプされたものが好きなんだ。マイケルは僕よりも僕の好みに詳しいんだよ(笑)。

マイケル:バンドのメンバーが気に入りそうなアイテムを探して買うこともあるしね。

ブライアン:マイケルがくれた中で唯一手を出していないのは、ドクロのリングかな(笑)。マイケルがロングヘアだった時によくはめていたんだよ。あと、僕のガールフレンドで、チョッチキ(Tchotchke)ってバンドをやっているアナスタシア(・サンチェス)もいろいろアドバイスをしてくれる。彼女はファッション・センスが抜群で、よく服をくれるんだ。彼女の母親もとてもスタイリッシュで、スタイリストをやっているんだよ。

——ちなみに、新作の「A Dream Is All We Know」のジャケットで着ている服はどんな感じで決めたんですか。かたや白シャツに黒タイ、かたやオレンジのカットソーに緑がかったデニムと、そのコントラストが印象的ですが。

ブライアン:そうだな……お互い違うスタイルだけど、うまく調和していると思うよ。2人とも少しプレッピー風というか。

マイケル:何かの影響ってわけじゃなくて、ただ、ジャケットはシンプルで、余計な要素を入れたくないというのがあった。ブライアンの服もすごくシンプルな感じ――リンゴのマークと無地のパンツ――だから、僕の服もシンプルで、背景もシンプルにしたかった。遠くから見ても「僕たちの作品」って分かるようなものにね。細かいことは考えず、ディティールよりも全体の質感にこだわった感じかな。

ダダリオ兄弟のファッション・アイコン

——例えば、2人にとって「ファッション・アイコン」と言えるミュージシャンって誰かいますか。

ブライアン:その時の気分にもよるけど、2人とも大好きなのはトッド・ラングレン。僕自身は、60年代後半の(ポール・)マッカートニーのスタイルが好きだね。あのセーターを合わせた、すごくプレッピーなスタイルとか。

マイケル:僕がステージ衣装を選ぶ時は、タイトなシャツやシルエットが際立つパンツ、そして大胆なグラフィックTシャツが多い。ステージで映えるしね。でも、「自分もあんな風になりたい」と思って服を着ることはない。ただ格好いいと思うからで。それに、自分が着ていて気持ちいい服ってあるでしょ? だから僕も、あくまで自分に合ったスタイルを楽しんでいるって感じかな。ロン・ウッドだってきっとそうなんじゃないかな。

——ロン・ウッドは新作のインスピレーションにも挙げていましたが、今名前が出たミュージシャンは、音楽的な部分でも2人にとって「アイコン」であるわけですよね?

マイケル:そうだね、みんな音楽も素晴らしい。でもさ、その人のつくる音楽が好きで、その人のファッション・スタイルは好きじゃないってことはあまりなくない? 音楽とファッションは深いつながりがあると思うし、ファッションも音楽の一部というか。例えばラズベリーズ(Raspberries)みたいにちょっとダサく見えても(笑)、僕は好きなんだ。彼らには合っているし、音楽とも合っている。

ブライアン:音楽が彼らの服装をクールに見せているところもあると思う。

マイケル:それにギルバート・オサリバンだって、あの奇抜なセーターを着ていて、みんな彼のファッション・センスを面白おかしく話したりしていたけど、でもあれこそが彼の一部なんだよね。あの複雑なコードを書き、あの素晴らしい歌詞を書いたのは、あのニュースボーイ・キャップみたいな、ちょっと変わった帽子をかぶった彼なんだ。誰かに言われてそうしたのではなく、自分自身の表現として選んだんだと思う。それに、後期の彼のファッションもかっこよかったと思うよ。シャツをはだけて胸毛を出してたり、あの大きく「G」ってロゴが入ったセーターとかさ。あれも彼の一部なんだ。

——ちなみに、身近のミュージシャンで着こなしがクールだなって思うのは?

マイケル:フォクシジェン(Foxygen)のサム(・フランス)はクールでスタイリッシュだと思う。それに、ユニ・ボーイズ(Uni Boys、アルバムをダダリオ兄弟がプロデュース)とか、チョッチキもみんなめちゃくちゃおしゃれでかっこいい。あと、ジ・アンブレラズ(The Umbrellas)も素晴らしいバンドで、メンバーのファッション・センスも抜群だよ。

——マイケルが「ファッションも音楽の一部」と話していましたが、例えば、作品ごとにサウンドとルックのすり合わせみたいなことってありますか。「このサウンドだからこのファッションでいこう」みたいな。

マイケル:まあ、なんとなく統一感を出したいとは思ってるけど、でも、そこはあくまで自然体がいいと思うんだ。つまり、あまりルールはない。見た目がよければいいってことでさ。それに、あのアルバム(「A Dream Is All We Know」)のジャケットで全身レザーとか着てたらおかしいでしょ?(笑)。

——確かに(笑)。そういえば、「Songs for the General Public」(2020年)のジャケットでは、グラムというかゴス風の変わったテイストのファッションでしたよね。

ブライアン:あの時の僕らはキッス(KISS)にハマっていたんだ(笑)。キッスってすごく大げさな衣装で、僕たちも自分たちをもっと派手に見せたかったんだと思う。でも、あの時着てた羽が付いた衣装は、今となってはちょっと後悔してるかも。あれはステージ衣装としてデザインされたものだったんだけど、小さなクラブでやったライブで着てみたら羽が大きく広がってしまい、かなり滑稽な感じになってしまって(笑)。

マイケル:でも面白いよね。そういうのもかっこいいというか、自分らしさが出てていいと思うんだ。少なくとも、まったくもって普通じゃないでしょ?(笑)。とても個性的なスタイルで、実際、あのアルバムの楽曲の世界観と僕たちのビジュアルイメージはとてもよく合っていたと思うしね。

MVなどのアートワークについて

——今回のアルバムでは、「How Can I Love Her More」と「A Dream Is All I Know」の2曲で2人がMVの監督を務めています。それぞれテイストが異なりますが、どんなコンセプトで制作されたのでしょうか。

ブライアン:面白いことに、どちらもほとんど同じ場所で撮影したものなんだ。学校にある講堂みたいな無料で使えるスペースを借りて、そこにはスポットライトもあってね。その場所の制約に合わせて、できることをやったって感じだった。それでジョージ・ハリソンの「Blow Away」のMVを参考に、グリーンバックを使った演出を取り入れようってことになってね。それでできたのが「A Dream Is All I Know」のMVだった。

マイケル:僕たちの考えとしては、2曲とも曲の雰囲気にマッチさせることが重要だった。「A Dream Is All We Know」って、ウィングス(※ポール・マッカートニーが70年代に妻のリンダらと結成したバンド)みたいな感じの曲なんだよね。シンセサイザーとギターの音がそう感じさせるのかな。それに、ブライアンの衣装は70年代のパイロットのようなレトロなスタイルというか(笑)。で、もう1曲(「How Can I Love Her More」)の方は、明らかに60年代っぽい、サンシャイン・ポップみたいな感じで。

ブライアン:エジソン・ライトハウスとラヴィン・スプーンフルみたいな感じというかね。その2つはまったく違うものだけど、マッシュアップされて、より親密で温かみのあるサウンドになっている。少し控えめで、リラックスしている感じ。だからMVもそんな雰囲気に仕上がっていると思うよ。逆に、「How Can I Love Her More」はスケールが大きくて、開放的なサウンドだった。だからセントラルパークで、あの大きなバンドシェル(※音を反響させる半円形の壁)があるところで撮影することにしたんだ。そこで曲を聴いてみて、どんな映像が合うか想像してね。

——そうした映像制作や、アートワークも含めたビジュアル的な部分に関して影響を受けたアーティストって誰かいますか。

マイケル:そうだな……たくさんいて絞りきれないけど(笑)、僕たちのアルバム・ジャケットはよくスパークスとよく比較されるよね。独特な雰囲気があるから。それ以外で言うと、僕たちのジャケット・デザインは僕のガールフレンドのエヴァ(・チェンバース、チョッチキのベース/キーボード)が手掛けていて、彼女はビンテージの家具店で働いているんだけど、そこで扱っている面白いジャケットのレコードを見つけると、音楽が良くなくても写真を撮ってくるんだ。その彼女のコレクションからインスピレーションを受けることもあるね。

——ちなみに、好きな映像作家、映画監督がいたら教えてください。

マイケル:MVに関しては、僕たちにはかなり基本的なルールがあるんだ。つまり、曲が主役で、映像は曲の内容に沿ったものにしたいし、曲とバンドをセットにして、全てが美しく見えるようにしたい。不快なものや余計なものは排除する。例えば、(ライナー・ヴェルナー・)ファスビンダーの映画とかさ、とても美しいよね。それに、ブライアンが大好きな(アンドレイ・)タルコフスキーの映画も無駄なものが一切なくて、映像美が際立っている。当時の時代背景もあると思うけど、フレーム内に余計なものを置かないようにしている。そこには監督の意志が貫かれていて、こうしたシンプルな美しさは絵画に通じるものがある。だから、僕たちのMVもそうした芸術作品を目指したいと思っているよ。

——例えば、レモン・ツイッグスとしての活動において、音楽とファッション、あるいはビジュアル表現の理想的な関係について2人がどう考えているのか、興味があります。

マイケル:それは解釈次第だから、答えるのはすごく難しいね。僕が大好きなアーティストの中には、服装とかまったく気にするそぶりを見せない人もいる。ブライアン・ウィルソンとか、アレックス・チルトンとか、そういうのはどうでもいいって感じだった——アレックス・チルトンは意図的だったのかもしれないけど。でも、みんなそれぞれに自分にとっての完璧なバランスというのを持っていると思うんだ。例えば、スパークスはビジュアルについてモチベーションが高いし、デヴィッド・ボウイは明らかに視覚的な表現を重要視していた。だから……。

ブライアン:僕たちの場合、極端にどちらかに偏りすぎると、居心地が悪くなってしまう。だから心地よく表現できる範囲内で、自分に合ったスタイルを見つけていくことが理想的だと思うよ。

——ありがとうございます。では最後に、最近のお気に入りのワードローブについて教えてください。

ブライアン:一番好きなのはミニーマウスが描かれたセーター。たまに着ると気分が上がるんだ。そういえば、マイケルのガールフレンドが「私も欲しい!」って言ってたよ。「私が着るべきだ!」って(笑)。

マイケル:分からないけど、このカットソーかな。「Love & Peace」「Peace & Love」ってたくさんプリントされていて(笑)。彼女からのクリスマス・プレゼントなんだ。

PHOTOS:MASASHI URA

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ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る

兄のブライアン・ダダリオ(Brian D'Addario)と弟のマイケル・ダダリオ(Michael D'Addario)による兄弟デュオとしてニューヨークで活動し、“バロック・ポップの金字塔”とも謳われた2016年のデビュー・アルバム「Do Hollywood」以来、音楽ファンの間で高い評価を受け続けているザ・レモン・ツイッグス(The Lemon Twigs)。バイオリンやチェロ、トランペット、マンドリンも含む多彩な楽器を操り彼らがこれまで披露してきたサウンドは、ソフト・ロックやパワー・ポップ、グラム・ロック、そしてドゥーワップからロック・オペラ、ミュージカル風まで実にバラエティー豊か。その根底には、とりわけ1960〜70年代のロックやポップ・ミュージックへの深い愛情と造詣があり、卓越したメロディー・センスと複雑に構築されたアレンジによって彼らは、華やかでファンタジックで独創的な音楽世界をつくり上げてきた。昨年リリースされた5枚目の最新アルバム「A Dream Is All We Know」は、“Mersey Beach”と彼らが呼ぶ架空の空間(※リヴァプールとローレル・キャニオンの間の音の橋)をコンセプトに、ビートルズやビーチ・ボーイズ、60年代のスウェディッシュ・ポップにインスピレーションを得たダイナミックな曲調と美しいハーモニーが魅力的な作品だった。

そんな彼らの音楽に貫かれた美意識は、作品のアートワークやMV、あるいはデビュー時から個性的なファッションスタイルにも感じられるものでもある。そして、そうしたビジュアル的な要素は、ミュージシャンにとって作品の世界やアーティスト像を構成する重要な一部であることはいうまでもない。ちなみに、過去にはエディ・スリマン(Hedi Sliman)の被写体を務めたこともあるダダリオ兄弟。今回、1月5日の「ロッキン・オン ソニック(rockin'on sonic)」への出演のため6年ぶりに来日した2人に、そのあたりの関心や話題についてざっくばらんに聞いてみた。

ザ・レモン・ツイッグスとファッション

——久しぶり(※2019年のサマーソニック出演以来)の日本はどうですか。街並みにも新年独特の空気(※取材は1月6日)が感じられると思いますけど。

マイケル・ダダリオ(以下、マイケル):行きたかった店が全部閉まっていて。休もうと思って早く来たのに、最悪のタイミングだった(笑)。着いたのが12月30日か31日で、1日目も2日目も、3日目もずっと閉まっていてね。でも「ぷあかう」ってすてきなバーで年越しを迎えることができてよかったよ。

——SNSに写真を上げていましたね。ツアー先で必ず巡るお店はあるんですか。

ブライアン・ダダリオ(以下、ブライアン):ビンテージショップに行くのが大好きなんだ。ツアー先でその土地ならではの個性的な店を見つけるのが楽しい。最高のアクティビティだよ。

マイケル:高円寺で一緒に服を見に行ったこともあったね。僕もブライアンも、バンドのメンバーもみんな服が大好きだから。好みもバラバラで面白いよ。

——2人はどんなテイストの服が好きなんですか。

マイケル:いろいろなテイストの服を着てきたけど、結局は1960年代——64年から66年ぐらいのスタイルに落ち着くことが多いかな。ハイネックのボタンダウン・シャツにネクタイを締めるとか、少し襟の高いデザインが個人的に好きなんだ。それと、70年代後半のパワー・ポップをイメージさせるみたいな服も好き。ジーンズはストンとしたシルエットが好みで、極端なシェイプのものは好きじゃなくて。

ブライアン:僕は逆に、極端に広がったフレアパンツや、すごくシェイプされたものが好きなんだ。マイケルは僕よりも僕の好みに詳しいんだよ(笑)。

マイケル:バンドのメンバーが気に入りそうなアイテムを探して買うこともあるしね。

ブライアン:マイケルがくれた中で唯一手を出していないのは、ドクロのリングかな(笑)。マイケルがロングヘアだった時によくはめていたんだよ。あと、僕のガールフレンドで、チョッチキ(Tchotchke)ってバンドをやっているアナスタシア(・サンチェス)もいろいろアドバイスをしてくれる。彼女はファッション・センスが抜群で、よく服をくれるんだ。彼女の母親もとてもスタイリッシュで、スタイリストをやっているんだよ。

——ちなみに、新作の「A Dream Is All We Know」のジャケットで着ている服はどんな感じで決めたんですか。かたや白シャツに黒タイ、かたやオレンジのカットソーに緑がかったデニムと、そのコントラストが印象的ですが。

ブライアン:そうだな……お互い違うスタイルだけど、うまく調和していると思うよ。2人とも少しプレッピー風というか。

マイケル:何かの影響ってわけじゃなくて、ただ、ジャケットはシンプルで、余計な要素を入れたくないというのがあった。ブライアンの服もすごくシンプルな感じ――リンゴのマークと無地のパンツ――だから、僕の服もシンプルで、背景もシンプルにしたかった。遠くから見ても「僕たちの作品」って分かるようなものにね。細かいことは考えず、ディティールよりも全体の質感にこだわった感じかな。

ダダリオ兄弟のファッション・アイコン

——例えば、2人にとって「ファッション・アイコン」と言えるミュージシャンって誰かいますか。

ブライアン:その時の気分にもよるけど、2人とも大好きなのはトッド・ラングレン。僕自身は、60年代後半の(ポール・)マッカートニーのスタイルが好きだね。あのセーターを合わせた、すごくプレッピーなスタイルとか。

マイケル:僕がステージ衣装を選ぶ時は、タイトなシャツやシルエットが際立つパンツ、そして大胆なグラフィックTシャツが多い。ステージで映えるしね。でも、「自分もあんな風になりたい」と思って服を着ることはない。ただ格好いいと思うからで。それに、自分が着ていて気持ちいい服ってあるでしょ? だから僕も、あくまで自分に合ったスタイルを楽しんでいるって感じかな。ロン・ウッドだってきっとそうなんじゃないかな。

——ロン・ウッドは新作のインスピレーションにも挙げていましたが、今名前が出たミュージシャンは、音楽的な部分でも2人にとって「アイコン」であるわけですよね?

マイケル:そうだね、みんな音楽も素晴らしい。でもさ、その人のつくる音楽が好きで、その人のファッション・スタイルは好きじゃないってことはあまりなくない? 音楽とファッションは深いつながりがあると思うし、ファッションも音楽の一部というか。例えばラズベリーズ(Raspberries)みたいにちょっとダサく見えても(笑)、僕は好きなんだ。彼らには合っているし、音楽とも合っている。

ブライアン:音楽が彼らの服装をクールに見せているところもあると思う。

マイケル:それにギルバート・オサリバンだって、あの奇抜なセーターを着ていて、みんな彼のファッション・センスを面白おかしく話したりしていたけど、でもあれこそが彼の一部なんだよね。あの複雑なコードを書き、あの素晴らしい歌詞を書いたのは、あのニュースボーイ・キャップみたいな、ちょっと変わった帽子をかぶった彼なんだ。誰かに言われてそうしたのではなく、自分自身の表現として選んだんだと思う。それに、後期の彼のファッションもかっこよかったと思うよ。シャツをはだけて胸毛を出してたり、あの大きく「G」ってロゴが入ったセーターとかさ。あれも彼の一部なんだ。

——ちなみに、身近のミュージシャンで着こなしがクールだなって思うのは?

マイケル:フォクシジェン(Foxygen)のサム(・フランス)はクールでスタイリッシュだと思う。それに、ユニ・ボーイズ(Uni Boys、アルバムをダダリオ兄弟がプロデュース)とか、チョッチキもみんなめちゃくちゃおしゃれでかっこいい。あと、ジ・アンブレラズ(The Umbrellas)も素晴らしいバンドで、メンバーのファッション・センスも抜群だよ。

——マイケルが「ファッションも音楽の一部」と話していましたが、例えば、作品ごとにサウンドとルックのすり合わせみたいなことってありますか。「このサウンドだからこのファッションでいこう」みたいな。

マイケル:まあ、なんとなく統一感を出したいとは思ってるけど、でも、そこはあくまで自然体がいいと思うんだ。つまり、あまりルールはない。見た目がよければいいってことでさ。それに、あのアルバム(「A Dream Is All We Know」)のジャケットで全身レザーとか着てたらおかしいでしょ?(笑)。

——確かに(笑)。そういえば、「Songs for the General Public」(2020年)のジャケットでは、グラムというかゴス風の変わったテイストのファッションでしたよね。

ブライアン:あの時の僕らはキッス(KISS)にハマっていたんだ(笑)。キッスってすごく大げさな衣装で、僕たちも自分たちをもっと派手に見せたかったんだと思う。でも、あの時着てた羽が付いた衣装は、今となってはちょっと後悔してるかも。あれはステージ衣装としてデザインされたものだったんだけど、小さなクラブでやったライブで着てみたら羽が大きく広がってしまい、かなり滑稽な感じになってしまって(笑)。

マイケル:でも面白いよね。そういうのもかっこいいというか、自分らしさが出てていいと思うんだ。少なくとも、まったくもって普通じゃないでしょ?(笑)。とても個性的なスタイルで、実際、あのアルバムの楽曲の世界観と僕たちのビジュアルイメージはとてもよく合っていたと思うしね。

MVなどのアートワークについて

——今回のアルバムでは、「How Can I Love Her More」と「A Dream Is All I Know」の2曲で2人がMVの監督を務めています。それぞれテイストが異なりますが、どんなコンセプトで制作されたのでしょうか。

ブライアン:面白いことに、どちらもほとんど同じ場所で撮影したものなんだ。学校にある講堂みたいな無料で使えるスペースを借りて、そこにはスポットライトもあってね。その場所の制約に合わせて、できることをやったって感じだった。それでジョージ・ハリソンの「Blow Away」のMVを参考に、グリーンバックを使った演出を取り入れようってことになってね。それでできたのが「A Dream Is All I Know」のMVだった。

マイケル:僕たちの考えとしては、2曲とも曲の雰囲気にマッチさせることが重要だった。「A Dream Is All We Know」って、ウィングス(※ポール・マッカートニーが70年代に妻のリンダらと結成したバンド)みたいな感じの曲なんだよね。シンセサイザーとギターの音がそう感じさせるのかな。それに、ブライアンの衣装は70年代のパイロットのようなレトロなスタイルというか(笑)。で、もう1曲(「How Can I Love Her More」)の方は、明らかに60年代っぽい、サンシャイン・ポップみたいな感じで。

ブライアン:エジソン・ライトハウスとラヴィン・スプーンフルみたいな感じというかね。その2つはまったく違うものだけど、マッシュアップされて、より親密で温かみのあるサウンドになっている。少し控えめで、リラックスしている感じ。だからMVもそんな雰囲気に仕上がっていると思うよ。逆に、「How Can I Love Her More」はスケールが大きくて、開放的なサウンドだった。だからセントラルパークで、あの大きなバンドシェル(※音を反響させる半円形の壁)があるところで撮影することにしたんだ。そこで曲を聴いてみて、どんな映像が合うか想像してね。

——そうした映像制作や、アートワークも含めたビジュアル的な部分に関して影響を受けたアーティストって誰かいますか。

マイケル:そうだな……たくさんいて絞りきれないけど(笑)、僕たちのアルバム・ジャケットはよくスパークスとよく比較されるよね。独特な雰囲気があるから。それ以外で言うと、僕たちのジャケット・デザインは僕のガールフレンドのエヴァ(・チェンバース、チョッチキのベース/キーボード)が手掛けていて、彼女はビンテージの家具店で働いているんだけど、そこで扱っている面白いジャケットのレコードを見つけると、音楽が良くなくても写真を撮ってくるんだ。その彼女のコレクションからインスピレーションを受けることもあるね。

——ちなみに、好きな映像作家、映画監督がいたら教えてください。

マイケル:MVに関しては、僕たちにはかなり基本的なルールがあるんだ。つまり、曲が主役で、映像は曲の内容に沿ったものにしたいし、曲とバンドをセットにして、全てが美しく見えるようにしたい。不快なものや余計なものは排除する。例えば、(ライナー・ヴェルナー・)ファスビンダーの映画とかさ、とても美しいよね。それに、ブライアンが大好きな(アンドレイ・)タルコフスキーの映画も無駄なものが一切なくて、映像美が際立っている。当時の時代背景もあると思うけど、フレーム内に余計なものを置かないようにしている。そこには監督の意志が貫かれていて、こうしたシンプルな美しさは絵画に通じるものがある。だから、僕たちのMVもそうした芸術作品を目指したいと思っているよ。

——例えば、レモン・ツイッグスとしての活動において、音楽とファッション、あるいはビジュアル表現の理想的な関係について2人がどう考えているのか、興味があります。

マイケル:それは解釈次第だから、答えるのはすごく難しいね。僕が大好きなアーティストの中には、服装とかまったく気にするそぶりを見せない人もいる。ブライアン・ウィルソンとか、アレックス・チルトンとか、そういうのはどうでもいいって感じだった——アレックス・チルトンは意図的だったのかもしれないけど。でも、みんなそれぞれに自分にとっての完璧なバランスというのを持っていると思うんだ。例えば、スパークスはビジュアルについてモチベーションが高いし、デヴィッド・ボウイは明らかに視覚的な表現を重要視していた。だから……。

ブライアン:僕たちの場合、極端にどちらかに偏りすぎると、居心地が悪くなってしまう。だから心地よく表現できる範囲内で、自分に合ったスタイルを見つけていくことが理想的だと思うよ。

——ありがとうございます。では最後に、最近のお気に入りのワードローブについて教えてください。

ブライアン:一番好きなのはミニーマウスが描かれたセーター。たまに着ると気分が上がるんだ。そういえば、マイケルのガールフレンドが「私も欲しい!」って言ってたよ。「私が着るべきだ!」って(笑)。

マイケル:分からないけど、このカットソーかな。「Love & Peace」「Peace & Love」ってたくさんプリントされていて(笑)。彼女からのクリスマス・プレゼントなんだ。

PHOTOS:MASASHI URA

The post ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る appeared first on WWDJAPAN.

ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る

兄のブライアン・ダダリオ(Brian D'Addario)と弟のマイケル・ダダリオ(Michael D'Addario)による兄弟デュオとしてニューヨークで活動し、“バロック・ポップの金字塔”とも謳われた2016年のデビュー・アルバム「Do Hollywood」以来、音楽ファンの間で高い評価を受け続けているザ・レモン・ツイッグス(The Lemon Twigs)。バイオリンやチェロ、トランペット、マンドリンも含む多彩な楽器を操り彼らがこれまで披露してきたサウンドは、ソフト・ロックやパワー・ポップ、グラム・ロック、そしてドゥーワップからロック・オペラ、ミュージカル風まで実にバラエティー豊か。その根底には、とりわけ1960〜70年代のロックやポップ・ミュージックへの深い愛情と造詣があり、卓越したメロディー・センスと複雑に構築されたアレンジによって彼らは、華やかでファンタジックで独創的な音楽世界をつくり上げてきた。昨年リリースされた5枚目の最新アルバム「A Dream Is All We Know」は、“Mersey Beach”と彼らが呼ぶ架空の空間(※リヴァプールとローレル・キャニオンの間の音の橋)をコンセプトに、ビートルズやビーチ・ボーイズ、60年代のスウェディッシュ・ポップにインスピレーションを得たダイナミックな曲調と美しいハーモニーが魅力的な作品だった。

そんな彼らの音楽に貫かれた美意識は、作品のアートワークやMV、あるいはデビュー時から個性的なファッションスタイルにも感じられるものでもある。そして、そうしたビジュアル的な要素は、ミュージシャンにとって作品の世界やアーティスト像を構成する重要な一部であることはいうまでもない。ちなみに、過去にはエディ・スリマン(Hedi Sliman)の被写体を務めたこともあるダダリオ兄弟。今回、1月5日の「ロッキン・オン ソニック(rockin'on sonic)」への出演のため6年ぶりに来日した2人に、そのあたりの関心や話題についてざっくばらんに聞いてみた。

ザ・レモン・ツイッグスとファッション

——久しぶり(※2019年のサマーソニック出演以来)の日本はどうですか。街並みにも新年独特の空気(※取材は1月6日)が感じられると思いますけど。

マイケル・ダダリオ(以下、マイケル):行きたかった店が全部閉まっていて。休もうと思って早く来たのに、最悪のタイミングだった(笑)。着いたのが12月30日か31日で、1日目も2日目も、3日目もずっと閉まっていてね。でも「ぷあかう」ってすてきなバーで年越しを迎えることができてよかったよ。

——SNSに写真を上げていましたね。ツアー先で必ず巡るお店はあるんですか。

ブライアン・ダダリオ(以下、ブライアン):ビンテージショップに行くのが大好きなんだ。ツアー先でその土地ならではの個性的な店を見つけるのが楽しい。最高のアクティビティだよ。

マイケル:高円寺で一緒に服を見に行ったこともあったね。僕もブライアンも、バンドのメンバーもみんな服が大好きだから。好みもバラバラで面白いよ。

——2人はどんなテイストの服が好きなんですか。

マイケル:いろいろなテイストの服を着てきたけど、結局は1960年代——64年から66年ぐらいのスタイルに落ち着くことが多いかな。ハイネックのボタンダウン・シャツにネクタイを締めるとか、少し襟の高いデザインが個人的に好きなんだ。それと、70年代後半のパワー・ポップをイメージさせるみたいな服も好き。ジーンズはストンとしたシルエットが好みで、極端なシェイプのものは好きじゃなくて。

ブライアン:僕は逆に、極端に広がったフレアパンツや、すごくシェイプされたものが好きなんだ。マイケルは僕よりも僕の好みに詳しいんだよ(笑)。

マイケル:バンドのメンバーが気に入りそうなアイテムを探して買うこともあるしね。

ブライアン:マイケルがくれた中で唯一手を出していないのは、ドクロのリングかな(笑)。マイケルがロングヘアだった時によくはめていたんだよ。あと、僕のガールフレンドで、チョッチキ(Tchotchke)ってバンドをやっているアナスタシア(・サンチェス)もいろいろアドバイスをしてくれる。彼女はファッション・センスが抜群で、よく服をくれるんだ。彼女の母親もとてもスタイリッシュで、スタイリストをやっているんだよ。

——ちなみに、新作の「A Dream Is All We Know」のジャケットで着ている服はどんな感じで決めたんですか。かたや白シャツに黒タイ、かたやオレンジのカットソーに緑がかったデニムと、そのコントラストが印象的ですが。

ブライアン:そうだな……お互い違うスタイルだけど、うまく調和していると思うよ。2人とも少しプレッピー風というか。

マイケル:何かの影響ってわけじゃなくて、ただ、ジャケットはシンプルで、余計な要素を入れたくないというのがあった。ブライアンの服もすごくシンプルな感じ――リンゴのマークと無地のパンツ――だから、僕の服もシンプルで、背景もシンプルにしたかった。遠くから見ても「僕たちの作品」って分かるようなものにね。細かいことは考えず、ディティールよりも全体の質感にこだわった感じかな。

ダダリオ兄弟のファッション・アイコン

——例えば、2人にとって「ファッション・アイコン」と言えるミュージシャンって誰かいますか。

ブライアン:その時の気分にもよるけど、2人とも大好きなのはトッド・ラングレン。僕自身は、60年代後半の(ポール・)マッカートニーのスタイルが好きだね。あのセーターを合わせた、すごくプレッピーなスタイルとか。

マイケル:僕がステージ衣装を選ぶ時は、タイトなシャツやシルエットが際立つパンツ、そして大胆なグラフィックTシャツが多い。ステージで映えるしね。でも、「自分もあんな風になりたい」と思って服を着ることはない。ただ格好いいと思うからで。それに、自分が着ていて気持ちいい服ってあるでしょ? だから僕も、あくまで自分に合ったスタイルを楽しんでいるって感じかな。ロン・ウッドだってきっとそうなんじゃないかな。

——ロン・ウッドは新作のインスピレーションにも挙げていましたが、今名前が出たミュージシャンは、音楽的な部分でも2人にとって「アイコン」であるわけですよね?

マイケル:そうだね、みんな音楽も素晴らしい。でもさ、その人のつくる音楽が好きで、その人のファッション・スタイルは好きじゃないってことはあまりなくない? 音楽とファッションは深いつながりがあると思うし、ファッションも音楽の一部というか。例えばラズベリーズ(Raspberries)みたいにちょっとダサく見えても(笑)、僕は好きなんだ。彼らには合っているし、音楽とも合っている。

ブライアン:音楽が彼らの服装をクールに見せているところもあると思う。

マイケル:それにギルバート・オサリバンだって、あの奇抜なセーターを着ていて、みんな彼のファッション・センスを面白おかしく話したりしていたけど、でもあれこそが彼の一部なんだよね。あの複雑なコードを書き、あの素晴らしい歌詞を書いたのは、あのニュースボーイ・キャップみたいな、ちょっと変わった帽子をかぶった彼なんだ。誰かに言われてそうしたのではなく、自分自身の表現として選んだんだと思う。それに、後期の彼のファッションもかっこよかったと思うよ。シャツをはだけて胸毛を出してたり、あの大きく「G」ってロゴが入ったセーターとかさ。あれも彼の一部なんだ。

——ちなみに、身近のミュージシャンで着こなしがクールだなって思うのは?

マイケル:フォクシジェン(Foxygen)のサム(・フランス)はクールでスタイリッシュだと思う。それに、ユニ・ボーイズ(Uni Boys、アルバムをダダリオ兄弟がプロデュース)とか、チョッチキもみんなめちゃくちゃおしゃれでかっこいい。あと、ジ・アンブレラズ(The Umbrellas)も素晴らしいバンドで、メンバーのファッション・センスも抜群だよ。

——マイケルが「ファッションも音楽の一部」と話していましたが、例えば、作品ごとにサウンドとルックのすり合わせみたいなことってありますか。「このサウンドだからこのファッションでいこう」みたいな。

マイケル:まあ、なんとなく統一感を出したいとは思ってるけど、でも、そこはあくまで自然体がいいと思うんだ。つまり、あまりルールはない。見た目がよければいいってことでさ。それに、あのアルバム(「A Dream Is All We Know」)のジャケットで全身レザーとか着てたらおかしいでしょ?(笑)。

——確かに(笑)。そういえば、「Songs for the General Public」(2020年)のジャケットでは、グラムというかゴス風の変わったテイストのファッションでしたよね。

ブライアン:あの時の僕らはキッス(KISS)にハマっていたんだ(笑)。キッスってすごく大げさな衣装で、僕たちも自分たちをもっと派手に見せたかったんだと思う。でも、あの時着てた羽が付いた衣装は、今となってはちょっと後悔してるかも。あれはステージ衣装としてデザインされたものだったんだけど、小さなクラブでやったライブで着てみたら羽が大きく広がってしまい、かなり滑稽な感じになってしまって(笑)。

マイケル:でも面白いよね。そういうのもかっこいいというか、自分らしさが出てていいと思うんだ。少なくとも、まったくもって普通じゃないでしょ?(笑)。とても個性的なスタイルで、実際、あのアルバムの楽曲の世界観と僕たちのビジュアルイメージはとてもよく合っていたと思うしね。

MVなどのアートワークについて

——今回のアルバムでは、「How Can I Love Her More」と「A Dream Is All I Know」の2曲で2人がMVの監督を務めています。それぞれテイストが異なりますが、どんなコンセプトで制作されたのでしょうか。

ブライアン:面白いことに、どちらもほとんど同じ場所で撮影したものなんだ。学校にある講堂みたいな無料で使えるスペースを借りて、そこにはスポットライトもあってね。その場所の制約に合わせて、できることをやったって感じだった。それでジョージ・ハリソンの「Blow Away」のMVを参考に、グリーンバックを使った演出を取り入れようってことになってね。それでできたのが「A Dream Is All I Know」のMVだった。

マイケル:僕たちの考えとしては、2曲とも曲の雰囲気にマッチさせることが重要だった。「A Dream Is All We Know」って、ウィングス(※ポール・マッカートニーが70年代に妻のリンダらと結成したバンド)みたいな感じの曲なんだよね。シンセサイザーとギターの音がそう感じさせるのかな。それに、ブライアンの衣装は70年代のパイロットのようなレトロなスタイルというか(笑)。で、もう1曲(「How Can I Love Her More」)の方は、明らかに60年代っぽい、サンシャイン・ポップみたいな感じで。

ブライアン:エジソン・ライトハウスとラヴィン・スプーンフルみたいな感じというかね。その2つはまったく違うものだけど、マッシュアップされて、より親密で温かみのあるサウンドになっている。少し控えめで、リラックスしている感じ。だからMVもそんな雰囲気に仕上がっていると思うよ。逆に、「How Can I Love Her More」はスケールが大きくて、開放的なサウンドだった。だからセントラルパークで、あの大きなバンドシェル(※音を反響させる半円形の壁)があるところで撮影することにしたんだ。そこで曲を聴いてみて、どんな映像が合うか想像してね。

——そうした映像制作や、アートワークも含めたビジュアル的な部分に関して影響を受けたアーティストって誰かいますか。

マイケル:そうだな……たくさんいて絞りきれないけど(笑)、僕たちのアルバム・ジャケットはよくスパークスとよく比較されるよね。独特な雰囲気があるから。それ以外で言うと、僕たちのジャケット・デザインは僕のガールフレンドのエヴァ(・チェンバース、チョッチキのベース/キーボード)が手掛けていて、彼女はビンテージの家具店で働いているんだけど、そこで扱っている面白いジャケットのレコードを見つけると、音楽が良くなくても写真を撮ってくるんだ。その彼女のコレクションからインスピレーションを受けることもあるね。

——ちなみに、好きな映像作家、映画監督がいたら教えてください。

マイケル:MVに関しては、僕たちにはかなり基本的なルールがあるんだ。つまり、曲が主役で、映像は曲の内容に沿ったものにしたいし、曲とバンドをセットにして、全てが美しく見えるようにしたい。不快なものや余計なものは排除する。例えば、(ライナー・ヴェルナー・)ファスビンダーの映画とかさ、とても美しいよね。それに、ブライアンが大好きな(アンドレイ・)タルコフスキーの映画も無駄なものが一切なくて、映像美が際立っている。当時の時代背景もあると思うけど、フレーム内に余計なものを置かないようにしている。そこには監督の意志が貫かれていて、こうしたシンプルな美しさは絵画に通じるものがある。だから、僕たちのMVもそうした芸術作品を目指したいと思っているよ。

——例えば、レモン・ツイッグスとしての活動において、音楽とファッション、あるいはビジュアル表現の理想的な関係について2人がどう考えているのか、興味があります。

マイケル:それは解釈次第だから、答えるのはすごく難しいね。僕が大好きなアーティストの中には、服装とかまったく気にするそぶりを見せない人もいる。ブライアン・ウィルソンとか、アレックス・チルトンとか、そういうのはどうでもいいって感じだった——アレックス・チルトンは意図的だったのかもしれないけど。でも、みんなそれぞれに自分にとっての完璧なバランスというのを持っていると思うんだ。例えば、スパークスはビジュアルについてモチベーションが高いし、デヴィッド・ボウイは明らかに視覚的な表現を重要視していた。だから……。

ブライアン:僕たちの場合、極端にどちらかに偏りすぎると、居心地が悪くなってしまう。だから心地よく表現できる範囲内で、自分に合ったスタイルを見つけていくことが理想的だと思うよ。

——ありがとうございます。では最後に、最近のお気に入りのワードローブについて教えてください。

ブライアン:一番好きなのはミニーマウスが描かれたセーター。たまに着ると気分が上がるんだ。そういえば、マイケルのガールフレンドが「私も欲しい!」って言ってたよ。「私が着るべきだ!」って(笑)。

マイケル:分からないけど、このカットソーかな。「Love & Peace」「Peace & Love」ってたくさんプリントされていて(笑)。彼女からのクリスマス・プレゼントなんだ。

PHOTOS:MASASHI URA

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アカデミー賞受賞作「ANORA アノーラ」のショーン・ベイカー 「誰かが気分を害することがあっても、リアルに語ることが大事」

PROFILE: ショーン・ベイカー/映画監督

PROFILE: この20年で八本のインディー長編映画を生み出したシナリオライター、監督、製作者、編集者。前作「レッド・ロケット」(21)は第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でプレミア上映。「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」(17)は第70回カンヌ国際映画祭監督週間でプレミア上映、国際的に高い評価を得た。「タンジェリン」(15)は第31回サンダンス国際映画祭でプレミア上映され、インディペンデント・スピリット賞で作品賞、監督賞を含む4部門にノミネート、2つのゴッサム・インディペンデント賞を受賞した。「チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密」(12)は第28回インディペンデント・スピリット賞ロバート・アルトマン賞を受賞、それに先立つ2作品「Take out」(04)、「Prince of Broadway」(08)は共にインディペンデント・スピリット賞のジョン・カサヴェテス賞を受賞している。

ショーン・ベイカー(Sean Baker)はインディペンデントの映画作家として、アメリカ社会に生きる弱者たちに光を当てて、物語を描き続けてきた。最新作「ANORA アノーラ」は、ニューヨークのブルックリンでストリップダンサーをしながら暮らすロシア系アメリカ人・アノーラ(マイキー・マディソン)のシンデレラストーリーと、その先を描く物語だ。2月28日の日本公開直後、第97回アカデミー賞で5部門受賞という最高のお土産を携えて3度目の来日を果たしたベイカー監督に、単独インタビューを行った。

※本インタビューでは物語の結末に触れています。未見の方はご注意ください。

アカデミー賞を受賞して今思うこと

アカデミー賞の数カ月前、「ANORA アノーラ」は第77回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した。「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」や「バービー」などの脚本・監督作でジェンダーロールについての価値観をアップデートし続けるグレタ・ガーウィグが審査委員長なので驚きはなかったが、高齢白人男性が多数を占める投票者たちが、ショーン・ベイカーにオスカーを与えたことはうれしいサプライズだった。こちらの勝手な戸惑いを踏まえて「オスカーを欲しいと思ったことはありますか?」と質問すると、ベイカー監督は「これは今まで一度も話したことがないのですが……」と切り出した。

「今、思い出しました。ニューヨーク大学の入学試験でエッセイの課題があり、私は自分がオスカーを受賞した設定でスピーチを書いて提出したんです。つまり質問に対する答えは『イエス』です。その後、私はインディーズの映画作家としてのキャリアを歩み始めたので、私が作っていたタイプの映画ではオスカー受賞は難しいのかなと思っていましたが、こうしてオスカーは私たちのところに来てくれました。あのエッセイ、探し出さなくては(笑)」(ショーン・ベイカー、以下同)。

やはり自分とは縁遠い賞として認識していたようだが、「ANORA アノーラ」は6部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演女優賞(マイキー・マディソン)、脚本賞、編集賞の5部門でオスカーを獲得した。逃した部門は助演男優賞(ユーリー・ボリソフ)のみという高打率だ。最多ノミネートの「エミリア・ペレス」が、主演女優のSNSにおける過去の発言が問題視されたことで賞レースから脱落したという見立てもあるが、ベイカー監督はアカデミー賞が「ANORA アノーラ」を歓迎したことをどう分析しているのだろうか。

「ここ数日間、私たちはそれを分析しています。そこに数式があるならば、また受賞を狙うために知っておきたいので(笑)。まだ分析は終わっていませんが、潮目が大きく変わったとは思います。ご存知の通りつい最近、投票権を持つアカデミー会員に多くの若い会員が加わりました。その影響もあるのかなと思います。そしておそらく昨今の観客が、映画に、エンターテインメントに求めるものが変わってきている。この作品にどのような要素があったのかというと、現代的なテーマを、今現在起きていることのように描いてはいますが、作り方としてはクラシカルな手法をとっている。それがひとつ功を奏したのかなと思います。特殊効果を使わず、フィルムで撮っている。1970〜80年代の映画に大きな影響とインスピレーションを受けている映画なので、観客に『ああ、こういう映画、昔あったな』と思い出させることができ、観客はこういう映画をもっと見たいと思うのだと思います」。

「お茶を濁すような描写はしたくなかった」

ベイカー監督は、70年代の映画からスタイルと感受性において影響を受けていると発言している。ハリウッドのニュー・シネマだけでなく、同時期のイタリアやスペイン、日本の映画にも。ベイカー監督が主演のマイキー・マディソンに、梶芽衣子主演の「女囚701号 さそり」を参考資料として渡したというエピソードから分かるように、本作における性描写やアクションシーンはストレートでパワフル、そしてエンターテイニングだ。今回の「ANORA アノーラ」にそのエッセンスを採用した理由とは。

「今回のテーマを描くにあたり、お茶を濁すような描写はしたくなかったので、70〜80年代のスタイルを採る必要がありました。『こんなふうに描いたらちょっと反感を買ってしまうだろうか?』という心配をすることなく、真正面から描きたかったんです。最近は映画、そしておそらくメディア自体がとても安全で穏やかになってしまっていて、『誰かのトリガーになりそうだからこういう表現は避けて、もっと優しくマイルドに描こう』という傾向がありますが、私はそういう流れに食傷気味です。いい意味で挑発的なストーリーテリングは、決してヘイトを込めたものではなく、誰かが気分を害することがあっても、リアルなストーリーをリアルに語ることが大事だと思っているので、今回のようなアプローチになりました。『G-rated(一般視聴者向け/全年齢対象)でいこう』というマインドセットにはもう飽き飽きです」。

セックスワーカーに関する映画を作る理由

「ANORA アノーラ」の主人公は、ロシアにルーツを持つアメリカ人女性のアノーラだ。ニューヨークのブルックリンに暮らす彼女は、ストリップダンサーを生業としている。ベイカー監督は、孤独な老婦人と交流する若いポルノ女優(「チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密」)、トランスジェンダーの娼婦(「タンジェリン」)、貧困に追い込まれて売春を始めるシングルマザー(「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」)、落ちぶれた元ポルノスター(「レッド・ロケット」)など、社会の片隅にいるセックスワーカーの人生にフォーカスを当てて物語を生み出してきた。この題材がフィルモグラフィーの半分を占めるとなると、個人的に相当強い思い入れがあるのではないか……? とどうしても思ってしまう。

「正直に言うと、セックスワーカーに関する映画を5本連続で制作することを望んでいたわけではありません。作品を撮っていく中で、彼らの世界をずいぶん時間をかけて広範囲にわたりリサーチしてきたので、1つの映画が有機的に次の映画につながっていった結果、5本の映画になりました。そうは言っても私の意図は、最初に『チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密』を作ったときから変わっていません。この職業に対する偏見はフェアではないという、私のリアクションが映画になっていると言えます。私の意図は、これらのキャラクターに人間味を持たせ、普遍的なテーマにおいて彼らに当てはまる物語を作ること。それを少しずつでも実現したいと思っています」。

「タンジェリン」で来日した際のインタビューで、ベイカー監督は筆者に「まだ語られていない物語を語りたい」とコメントした。今回彼は、ニューヨークの、ロシア系やウクライナ系の住民が多く住むリトル・オデッサと呼ばれるエリアを舞台に、ストリップダンサーのアノーラが孤軍奮闘する物語を生み出した。どんな目にあっても屈することなく、心身ともに強靭なアノーラの勇姿に「いいぞ!」と拍手喝采しながら見ていたら、ラストシーンで彼女が初めて子どものように泣きじゃくったときに、強くなければ生き抜けなかった彼女の半生が伝わってきて号泣せずにはいられなかった。だが筆者は、アノーラがロシア人男性・イゴール(「コンパートメントNo.6」のユーリー・ボリソフ!)の前でようやく自分の感情を解放できたという意味で、ラストシーンをハッピーエンドだと受け取った。片や、恋愛が成就しなかったという意味でアンハッピーエンドだと解釈したという人にも会った。ベイカー監督にそれを伝えた上で「どちらの意図で作りましたか?」と尋ねると、「そのように解釈が分かれたということが非常にうれしいです」とこの日一番の笑顔を見せた。

「なぜならば、オープンエンディング(解釈を観客に委ねる結末)にしたつもりだからです。私自身は、おそらくその中間にいると思います。彼女の人生は明らかに不当に扱われてきたという意味で悲劇的ですが、最後のシーンは一人の人間と人間が真につながった瞬間だと思っているので、私はそこに希望を見いだしています」。

本作のイゴールは、「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」でウィレム・デフォーが演じたモーテルの管理人・ボビーにも重なる、主人公である女性を利用も搾取もしない、守護天使のような存在だ。それはそのまま、世界の片隅にいる弱者に対するショーン・ベイカーのスタンスに重なって見えてくる。

「『あの2人を自分の分身だと思っているでしょ』というツイートはよく見かけました(笑)。私はまったくそんなつもりはなくて、あくまでもストーリーの中で観客が最も共感できる、ニュートラルで倫理基準となるキャラクターとして置きました。『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』や『ANORA アノーラ』を見て、『主人公は私だ』と思う人は決して多くないと思うんです。ボビーやイゴールは、そういう観客が物語に入り込むための入り口になってくれるキャラクターであり、彼らの主人公に対する感情を通して、観客は主人公とのつながりを感じると思っています」。

「配信のための作品は、絶対に作りません」

インディーズの映画作家として彼が作るものは、ストーリーやキャラクター、設定は変わっても、その根底に流れるものも、世界に対する彼の眼差しも一貫している。だが、カンヌとアカデミー賞を受賞したことで環境はどうしたって変わるだろう。まず、企画のオファーはたくさん届いているのか? そして、アカデミー賞のスピーチで映画館に対する愛を語っていたベイカー監督が、配信作品を手掛ける可能性は?

「最初の質問への答えとしては、意外とオファーは来ていません。私は自分がインディーズの映画作家であり、自分で脚本を書いて、企画して、プロデューサーも務める監督であるということを声高に言ってきたからか、オファーしても断られると思われているのかもしれません(笑)。もちろん少しはオファーをいただいていて、それはすごくうれしいオファーであったりもします。これからの映画作りの話をすると、パルムドールの受賞と『ANORA アノーラ』の成功により、我々は、我々が作りたい映画を、我々が作りたい方法で作り続けることができるんだ、という自信になりました。なので、今までのやり方を変えるつもりはありません。そして配信のための作品は、絶対に作りません。映画作家たちは劇場で観るための作品を作っているし、少なくとも私は劇場で観るという観賞の形態が、映画にとってベストだと思っています。その価値観は今後も変わりません。劇場公開から6カ月後に配信されて、ホームエンターテインメントとして観られるという副次的な楽しみ方はされても構いません。でも私は映画館で上映するための映画を作りたいし、劇場ならではの共同体験を提供したいと思っているので、その思いをリスペクトしてくれる配給会社とだけ組みたいと思っています」。

PHOTOS:TAKUROH TOYAMA

「ANORA アノーラ」

NYでストリップダンサーをしながら暮らす“アニー”ことアノーラは、職場のクラブでロシア人の御曹司、イヴァンと出会う。彼がロシアに帰るまでの7日間、1万5000ドルで“契約彼女”になったアニー。パーティーにショッピング、贅沢三昧の日々を過ごした2人は休暇の締めくくりにラスベガスの教会で衝動的に結婚。幸せ絶頂の2人だったが、息子が娼婦と結婚したと噂を聞いたロシアの両親は猛反対。結婚を阻止すべく、屈強な男たちを息子の邸宅へと送り込む。ほどなくして、イヴァンの両親がロシアから到着。空から舞い降りてきた厳しい現実を前に、アニーの物語の第2章が幕を開ける――。

■「ANORA アノーラ」
全国公開中
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー 
製作:ショーン・ベイカー、アレックス・ココ、サマンサ・クァン
出演:マイキー・マディソン、マーク・エイデルシュテイン、ユーリー・ボリソフ、カレン・カラグリアン、ヴァチェ・トヴマシアン
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
2024 年/アメリカ/カラー/シネスコ/5.1ch/139分/英語・ロシア語/R18+  
©2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. ©Universal Pictures
https://www.anora.jp

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始動から1年が経った「サシコギャルズ」 ブランドではなくプロジェクトとした真意

PROFILE: 藤原新/ムーンショット代表

藤原新/ムーンショット代表
PROFILE: (ふじわら・あらた)1978年8月16日、東京都新宿区生まれ。法政大学法学部卒業。法律に携わる仕事をしながら2010年に自身のブランド「イッシン(1sin)」をスタート。2012年4月に「デザインによる社会的課題の解決」を理念にムーンショット(MOONSHOT)を設立。16年に石橋真一郎をデザイナーとした「クオン(KUON)」を立ち上げ。ニューヨーク・ファッション・ウィークなどに参加。24年3月から「サシコギャルズ」を始動し、運営に携わる。

始動から1年が経った「サシコギャルズ(SASHIKO GALS)」は、日本だけでなく海外メディアにも注目され、ジャスティン・ティンバーレイク(Justin Timberlake)から刺し子スニーカーがオーダーされるまでになった。2024年3月11日、存続の危機に陥っていた復興支援事業「大槌刺し子(大槌復興刺し子プロジェクト)」は、「サシコギャルズ」として新たにスタートした。発起人は、「クオン(KUON)」を運営するムーンショット(MOONSHOT)代表の藤原新。クラウドファンディング開始直後にインタビューを行った際、藤原は「ブランド化することが大事」と語っていた。しかし、今は違う思いを抱いている。なぜ世界に認知されたのか、どのような事業がビジネスとして育ってきたのか。立ち上げから現在に至るまで「サシコギャルズ」に何が起きたのか、藤原に聞いた。

「サシコギャルズ」が海を超えて知られるようになった背景

――始動から1年を経て、現在「サシコギャルズ」は「ハイスノバイエティ(HIGHSNOBIETY)」や「エッセンス(SSENSE)」など海外のメディアや企業からも取材されています。海外から注目されるようになったきっかけは?

藤原新ムーンショット代表(以下、藤原):ニューヨークを拠点に、ストリートウエアを中心としたカルチャーを発信する「ヒドゥン ニューヨーク(HIDDEN NY)」が、インスタグラムで「サシコギャルズ」のポストを紹介したことがきっかけだと思います。「ヒドゥン ニューヨーク」からの注目を受け、昨年末から今年にかけて反応が急速に広がり、関心が高まったように感じます。

――海外にまで反響が広がった要因として、刺し子スニーカーのインパクトが大きかったのでしょうか?

藤原:スニーカーは多くの人たちが興味ある分野です。トレンドの写鏡ともいえるアイテムに、日本の伝統技術である刺し子でカスタムしたことは、やはりインパクトが大きかったのではないでしょうか。でも、まずはストーリーです。

――ストーリーとは?

藤原:海外の方たちは、刺し子のスニーカーに興味を持ち、その背景を知ると驚きます。震災を経験した40代から80代の女性たちが手がけていることを知ると、「こんなママたちが?」と驚くんです。ハイプなスニーカーに超絶技巧の刺し子が施され、それを作っているのが彼女たちという意外性が、強いストーリーとなって大きな反響を生んだのだと思います。

――現在、どのような人たちに支持されていますか?

藤原:普通はブランドの支持層は1つだと思いますが、「サシコギャルズ」に関しては、3つの人たちに支持されています。まずはスニーカーなどハイプが好きな人たち。この人たちがおそらく35から40%ほど。同じ割合で、クラフトを好きな人たちが関心を持ってくれています。

――残りの20%から30%は?

藤原:いわゆるソーシャルビジネスやサステナビリティ、SDGsに関心のある人たちが占めています。もちろん、それらがクロスオーバーする層も多くいます。支持母体とまでは言えませんが、多様な層に受け入れられたことが、広がりを生んだ背景の1つではないでしょうか。

――さまざまな人たちが関心を持ち、そこからさらに枝分わかれして広がっていったんですね。

藤原:もう1つの大きな要因は、日本文化へのリスペクトです。海外の人たちは純粋に日本文化が大好きで、刺し子という伝統技術がスニーカーやぬいぐるみに取り入れられたことに、おもしろさを感じているのは間違いありません。ただ、それ以上に日本をもっと知りたい、尊敬しているという気持ちが想像以上に強いです。

――国内ではNHKにも取材されましたが、国内外から注目されている今の状況に職人のみなさんはどんな反応を?

藤原:素直に喜んでいます。ただ、全員が自分たちの状況を完全に把握しているわけではなく、「インスタを見ていると、外国の方からたくさんのコメントがあるな」と感じる職人もいれば、「サシコギャルズ」のマネジメントを担う職人のように、そうした状況を把握している人もいます。職人それぞれが様々に感じながら、多くのメディアに取材される機会が増え、自分たちの仕事が多くの人に喜ばれていることを実感して嬉しく思っていますし、驚いていますね。

――インスタグラム以外で、認知を広げるために行ったアプローチがあれば教えてください。特に効果的だった方法はなんでしょうか?

藤原:現在の職人の人数では刺し子スニーカーをたくさん作ることができないという事情もあったのですが、「ヒドゥン ニューヨーク」などが取り上げてくれた以降は、必要以上に情報を開示しませんでした。これが正しいのかはかわかりませんが、みなさんが興味をもってもらえる状態に維持していた面はあるかもしれません。

――情報が少ないとなると、自分でもどんどん調べたくなります。

藤原:そこで、メディアのみなさんが制作した記事が重要でした。綺麗な写真を撮影し、記事にしていただいたことで、興味を持ってくれた人たちがもっと詳しく知ることができる。そして、震災から始まったストーリーが明らかになります。

――自ら調べて知ることで、さらに興味が強くなります。

藤原:そうだと思います。同時に、フィジカルで会った人に熱意を持って語る。これがやっぱり大事なんですよね。関心を持ってもらえると話題にしてくれて、人から人へとさらに広がっていきます。すごくシンプルなことですが、直接伝えることの大切さを実感しました。

これからの柱になっていく二つの事業

――これまで取り組んできた国内外のプロジェクトで、特に印象的なものやエピソードは?

藤原:「ザ・コンランショップ(THE CONRAN SHOP)」の日本上陸30周年を記念したプロジェクトがおもしろかったです。 「ザ・コンランショップ」は、イギリス発祥の素晴らしい家具やグッズを扱う、世界最高峰のライフスタイルショップだと僕は思っています。そのプロジェクトの一つとして、イタリアの名作ソファ「マレンコ(MARENCO)」に「サシコギャルズ」が刺し子を加え、数量限定の受注生産で展開しました。さらに、ツールで有名な「Yチェア」にも職人たちの刺し子を施し、「ザ・コンランショップ」各店舗で販売するプロジェクトも実施しました。どちらも非常に面白い取り組みでしたね。

――刺し子スニーカーを主役にしたプロジェクトはありましたか?

藤原:昨年10月に香港で、「ニューバランス(NEW BALANCE)」のサポートで開催したエキシビションも印象に残っています。初日に300〜400人ほどの人たちが来られて、みなさんが美術館のように展示された刺し子スニーカーを写真に撮ってくれ、オーダーが一瞬で埋まり抽選になったんです。その光景には、なにか熱狂のようなものを感じました。

――現在、「サシコギャルズ」の事業の柱は何でしょうか?やはりスニーカーのプロジェクトでしょうか?

藤原:「サシコギャルズ」を始めてからまだ1年しか経っていないので、ビジネスの観点から言ったらまだ先行投資の部類だと思います。プロダクト部門、もしくはサービス部門といったらいいのでしょうか、刺し子のカスタムサービスを通じた企業やブランドとのコラボレーション事業が一つの軸です。そしてもう一つの軸が文化発信事業と呼べるもので、刺し子というこの素晴らしい伝統技術を、企業やブランドと一緒にチームアップをして発信する事業になります。

――文化発信事業で現在取り組まれていることは?

藤原:詳細をまだお伝えすることはできないのですが、盛岡の歴史ある企業と、2026年に向けて東北を盛り上げるプロジェクトを進行中です。いわゆる「モノを作らない」という事業は、「サシコギャルズ」にとってこれから重要になってくるだろうと考えています。

――1年前に計画されたビジネスプランがあると思いますが、この1年で想定外だった出来事や驚いたことは?

藤原:もう驚きの連続ですよね。「想定の何倍ですか?」と聞かれたら「10倍」と答えます。現在、「サシコギャルズ」のインスタグラムはフォロワーが約6万7000人ですが、当初は5000人ぐらいになれば、すごいと考えていましたから。まさかジャスティン・ティンバーレイクさんから、刺し子スニーカーのオーダーが来るとは想像もしませんでした(笑)。

現在の課題を解決し、ブランドではなくプロジェクトに

――1年間進めてきた中で、現在課題と感じるものは何でしょうか?その課題に対してどんな解決策を考えていますか?

藤原:課題としては組織です。「サシコギャルズ」はもともと震災を契機に始まったもので、組織だって設立されたものではありません。今からビジネスとして担っていくには、組織運営に力を入れなくてはと考えています。特に大切なことは担い手のところです。

――人材の育成ということですか?

藤原:現在、職人は15人いますが、これがたとえば30人にまで増えれば実現できることも大きく変わってきます。担い手のところをちゃんと整備していきたいと考えていて、その一端が釜石商工高校との取り組みです。

――刺し子を体験した高校生たちはどんな反応を?

藤原:「就職が決まっていなかったら、やってみたかった」、「将来、刺し子をやりたい」と言う子たちもいましたし、学校からは来年以降も続けてほしいと言われています。「サシコギャルズ」に入りたいという人たちも多くて、担い手を育成しながら地場の人たちとも繋がっていきたいですね。今、全国の小学校で朝の5分間読書というものをやっていますが、たとえば朝の5分間に刺し子で手を動かす授業が実現できたら、すごく素敵なことなんじゃないかと思います。

――「サシコギャルズに入りたい」という声は、地元の大槌町から?

藤原:いえ、日本全国からです。ここで、「大槌刺し子」から「サシコギャルズ」に名前を変えたことが初めて活きてくるんです。僕らは大槌だけでやっているわけではありません。刺し子は大槌だけのものではないですし、隣町の釜石市の人たちも参加できるし、東京の人たちも「サシコギャルズ」には入れます。地域を限定しない「サシコギャルズ」という名前にしたことで、全国各地、様々な場所に組織として展開できます。

――広がりの可能性を考えたネーミングだったということですか?

藤原:やはり応援の幅を広げてもらうことは絶対大事だと思うんですよ。

――今後の新しいプロジェクト、新たに計画している刺し子アイテムは?

藤原:直近では、3月中に「東京クリエイティブサロン」でイベントを開催します。このイベントは、地域や民間企業と連携し、ファッションやアートなどのクリエイティブを発信するものです。今回は丸の内エリアで刺し子スニーカーの展示を行うほか、「サシコギャルズ」が実際に来場し、刺し子のワークショップも開催します。

――アイテム面での新プロジェクトはいかがですか?

藤原:当社のブランド「クオン」と「サシコギャルズ」初めての協業ライン「クオン アトリエ バイ エスジー(KUON Atelier by SG)」を3月15日に発表します。東日本大震災から14年間にわたり、「クオン」は大槌刺し子と共にモノづくりに取り組んできました。「サシコギャルズ」がスタートしてちょうど1年の節目になるこのタイミングで、「クオン」との正式な協業ラインを立ち上げられることは、1年間の活動が形になった証でもあり、感慨深いです。

――最後に、前回の取材と同じ質問をさせてください。常に新しさを求めるファッションと伝統技術の大槌刺し子を結びつけ、現代のプロダクトとして制作する際に重要視していることはなんですか?「サシコギャルズ」の始動から1年が経過し、この質問に対して今ならどう答えますか?

藤原:まだ1年しか経ってないという気持ちが正直あります。1年ぐらいで何かを成し遂げたことはないと思いますし、1年前とそんなに変わってないと思う一方で、僕らはやっぱり「モノを売るビジネス」ではないなと。

――1年前は「ブランド化することが大事」とおっしゃっていましたが、活動していく中で新しい発見があったのでしょうか?

藤原:ブランドといえば自分たちでモノを作る存在ですが、「サシコギャルズ」はやはり“人”が中心のプロジェクトだと思うようになりました。モノを作る人やブランドをリスペクトし、「サシコギャルズ」が持つ唯一無二のストーリーと、刺し子という素晴らしい伝統技術の力によって、依頼をくださった企業やブランド、個人の価値を高めていくこと。これこそが、僕たちの役割ではないかと。当社には、「クオン」のように服づくりを行うブランドもあり、モノづくりそのものを大切に思っています。「サシコギャルズ」は、そうしたブランドやクリエイターと共に、新しい価値を生み出していきたいです。

PHOTOS:DAIKI ENDO

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橋本愛、表現者としての覚悟——「自分のままで生きる」 現在地と未来への視線

PROFILE: 橋本愛/俳優

PROFILE: (はしもと・あい)1996年1月12日生まれ、熊本県出身。映画「告白」(2010)に出演し注目を浴び、映画「桐島、部活やめるってよ」(12)では、第36回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。連続テレビ小説「あまちゃん」(13)でも話題となる。主な出演作品は、映画「熱のあとに」(24)、映画「劇場版 アナウンサーたちの戦争」(24)、映画「私にふさわしいホテル」(24)など。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(25)にも出演。独自の感性を生かしてファッション、コラム、書評などの連載を持ち幅広く活躍中。

今回のフォトシューティングでカメラの前に立った橋本愛は、フォトグラファーがシャッターを1回切ると、小走りでモニターの前に移動して一度だけチェックした。彼女が知りたかったのはおそらく、フォトグラファーがどのような世界観を持っているか、どのようなライティングやフレーミングをするか。その後はカメラの前で次々とポージングと表情を変えて、我々ギャラリーを魅了した。続けて行われたインタビューでは、主演映画「早乙女カナコの場合は」について、のんが主演した「私にふさわしいホテル」とのコラボレーションについて、これまでの10年とこれからの10年について、筆者が投げる質問に対して最適な言葉を探りながら感情を乗せて答えてくれた。写真撮影における身体表現と、インタビューにおける言語表現の双方において、この日の彼女の仕事ぶりはまさしくプロフェッショナルな表現者だった。以下のインタビューを読んでいただければ、その原動力が何であるのかを、きっとお分かりいただけるだろう。

「男性社会に対して女性がどう立ち向かっていくか」

——映画「早乙女カナコの場合は」に出演した経緯をお聞かせください。

橋本愛(以下、橋本):オファーをいただいたのはもう5年くらい前になりますが、“女性らしさ”というジェンダーロールにとらわれない、むしろとらわれているからこそ、そこから脱却しようとするカナコの闘志にすごく共感したことを覚えています。(原作者の)柚木麻子さんのファンだったこともあり、やりたいなと思いました。

——カナコが大学に入学した18歳から28歳までの10年間を演じる上で、大切にしたものとは。

橋本:カナコが忌避する“女性らしさ”って何だろう? と考えました。そして、カナコが体現する“男性性を感じるような振る舞い”みたいなものを、あまりステレオタイプな表現にしたくないなという気持ちもどこかにありました。大人になってからは、服装や雰囲気などの見た目が自分の求めていた強い女性像に変化していっても、中身が全く変わらないというところを意識しました。未熟なまま、子どものまま大人になっているというか、大人の“ガワ”をかぶっている感じというか。

——その不器用さや、サイズの合わない服を着ている感じのカナコがすごく好人物でしたし、かわいかったです。

橋本:うれしいです。

——橋本さんのインタビューでの発言や、ご自分で書かれる文章からは、自分自身がこの社会、もっと大きく言うと世界の一員だという自覚と責任が伝わってきます。自分が参加する作品が、それに触れる人にとって何らかのポジティブな影響を及ぼしたらいいなという思いがあるように見えるのですが、今回はいかがでしたか?

橋本:今回私の中には、男社会に対して女性がどう立ち向かっていくか、というテーマがありました。同じように、男社会というものが男性全員にとって生きやすい社会じゃないよねというところを、ある男性キャラクターを通して可視化させることができてすごくうれしかったですし、私にとってはそこが肝でした。矢崎(仁司)監督はそれを作品のメインテーマのように押し出すわけではなく、あくまで自然に、とおっしゃっていたので、心の内にずっと忍ばせながら演じることが個人的なテーマでした。

中川大志やのんとの演技

——共演者の方から得たもの、感じたことをお聞きしたいです。

橋本:ご一緒することが多かった(長津田役の)中川大志さんは、監督と密なやりとりを現場でされていて、それに背中を押される気持ちになりました。私も作品に対して「ちゃんと意見を言おう」といつも思っているけれど、毎回勇気を振り絞らないとなかなか言葉にできなくて。中川さんは割と世間話をするかのような温度感で、「ここ、こう思うんですよねー」というやりとりをされていて、「自分ももっと気負わずにやっていってもいいのかな」と思わせてくれました。お芝居も、「時間をかけて準備してきたんだろうな」というのがすごく伝わってきて。私も時間をかけないと演じられないタイプなので、そういう意味でも同志のように感じられる、心強い存在でした。

——本作にはのんさんが売れっ子作家役で2シーン出演し、のんさん主演の「私にふさわしいホテル」には、橋本さんがカリスマ書店員役で1シーン出演しています。この連動についてどう取り組みましたか?

橋本:当初は、柚木さんの原作をのんちゃんと私(の主演)でそれぞれ映画化して、バトンを渡すようなリレー形式でやろうというお話でした。それは面白い企画だし、柚木さんの作品が大好きですし、(「あまちゃん」から)10年以上が経った今ものんちゃんとの関係性によって何かが生まれるということが本当に奇跡のようで、すごくありがたいなと思いました。その後、カメオ出演みたいな形でお互いの作品に出演することが決まった記憶があって。それは遊び心として捉えていたし、のんちゃんと現場で再会できることもとてもうれしかったです。

——現場はどんな雰囲気で、橋本さんはどんな気分でしたか?

橋本:不思議な気分になりました(笑)。普通に考えたら「何度か共演したことのある共演者」で終わるはずが、周りの目線によって「何か特別な関係なのかも私たち!」という感覚に陥るというか。常にどういう会話をするのか、どういう空気感なのかを見られている感じがしました(笑)。そんなことはないかもしれないけど、「そうかも」という自意識が働くというか。

——お二人が一緒にいたら観察せずにはいられなくなる気持ち、分かります……!

橋本:そんな人はのんちゃん以外にいないので。作品(「あまちゃん」)の影響が本当に大きかったし、そんな作品に出会えることも一生に一度あるかないかだから、面白いな、うれしいな、という気分です。でも本人たちは毎回恥ずかしいというか、照れるというか。お互い(手で額の汗を拭うしぐさで)「汗々(あせあせ)」みたいな(笑)。

——(笑)。お二人は10年以上の関係になりますが、のんさんのお芝居に変化は感じましたか?

橋本:「私にふさわしいホテル」の撮影からこの作品にかけて、すごく変化を感じました。うまく説明できないんですけど、1秒間の24コマ分の感情が見えるというか、すごく細かく、高い解像度で刻まれているような気がしました。のんちゃんとのお芝居は私にとって、大きな感情やパッションがダイレクトに伝わってくるような経験だったんですけど、それは変わらないままに感情の解像度が高まっている気がして、面白いなと思いました。

10年を振り返って

——この映画の中で、カナコの先輩の「10年後の自分を想像する」という台詞が印象的でした。橋本さんは、今の自分を10年前に想像していましたか?

橋本:19歳の頃ですか? 全然です(笑)。

——当時の自分が今の自分を見たらどう思うと思いますか?

橋本:10代の頃は本当にカオスだったので、今の私を見たら「あ、整ったんだな」「整理整頓されたんだな」と思うかもしれないですね。

——整えることができたのはなぜでしょうか。

橋本:言葉をどんどん知って、考えて、ちゃんと行動に移してきたというのはあると思います。あと、あの……ちょっと重い話になるかもしれないですけど、当時は「人を愛する」ということがうまくできなかったんです。だから「こんなに愛せるようになったんだね」と、自分を祝福してあげるべきことかなと思います。

——人をうまく愛せなかったというのは、愛し方を間違っていた?

橋本:そうです。愛情はあったんですけど、人の気持ちが分からなくて、自分の気持ちにばかりフォーカスしてしまっていたんです。それに対して割と無自覚だったので、大きく言うと自分のことをずっと「疫病神」だと思っていましたし、「なんで生まれてきたんだろう」とも思っていました。自分が愛されていなかったわけではないけれど、自分の求める愛が手に入っていない実感がありました。そこで「愛されていないから愛し方が分からない」のではなくて、「愛されていないからこそ、(相手が)何が欲しいかが分かる。それをやればいいんだ」と発想を転換させてから変わりました。

——発想を転換するきっかけはありましたか?

橋本:本や映画には本当に助けられましたが、「エンドレス・ポエトリー」(2016年/アレハンドロ・ホドロフスキー監督)で触れた「与えられなかったからこそ与えるべきものが分かる」という思想は青天の霹靂でした。(息を呑み)「すごい!」と。そこから発想を転換させる癖がついていって、苦境が訪れてもそこから何を得られるのかとポジティブに考えられるようになり、すごく生きやすくなった気がします。

——お仕事にもポジティブな影響がありそうです。

橋本:もちろんあります。ものすごく。このお仕事は全てがプライベートと地続きで切り分けられないので、仕事にいい働きしかしていないと思います。逆にちょっとポジティブになり過ぎて、世界を(俯瞰で)見渡せなくなった瞬間もあったから、今はそれすらコントロールするように頑張っている感じです。

——ドラスティックな変化をした一方で、この10年間、ぶれずに大切にしてきたものはありますか?

橋本:それこそ「愛すること」はずっとテーマにやってきたけれど、それ以外はぶれまくってます(笑)。

海外への意欲と覚悟

——橋本さんはこの映画に描かれている“青春”や“大人”という言葉に対してどんなイメージを持たれていますか? 

橋本:大人に関しては、“責任”と“自由”だと思っています。青春に対しては、私は割りと“喪失”というイメージがすごく強くて。幼い頃から仕事をしてきたことでそういう時間を存分に過ごせなかったことは、一生涯の損失だと思ってしまっているから、その痛みもあります。でもね、大人になっても青春ってできるんですよね。なので、5年くらい前から友人と、毎年一度は旅行に行くようにして、自分で青春を新しく作っていっています。

——旅行=冒険=青春ですか?

橋本:旅行じゃなくてもいいんですけど、非日常や、密度の高い時間を過ごしていれば、それは青春になると思います。 でも、そういう意識で密度の高い日々を過ごすと全部青春になってしまって、逆にちょっと輝きで重たくなる気がして(笑)。私は割と、日々は穏やかにスカスカに過ごしたい人だから(笑)、年に一度のその旅行がメリハリになっています。あえて過ぎ去ってほしくない時間を自分で作って、青春を一個一個手作りしていく感覚です。

——これからの10年に対しては、どんなイメージを持っていますか?

橋本:39歳まで……(と少し考えてから)、基本的にカナコと同じように、将来設計しないタイプなんです。計画的に生きることが本当に苦手で。それでも漠然と、「日本以外の国でお仕事をする」というイメージは抱いています。そこに照準を合わせたら、全てのことに対してスケールが大きくなっていくだろうなと感じてきています。最終的に世界に行けなくても、そういうふうに生きているだけで全てがその方向に向かって進んでいくから、それは利用していいと思いますし、「アカデミー賞で登壇する」くらいのことを考えながら生きると楽しいですよね(笑)。

——いいですね。海外に意識を向け始めたきっかけがあったのでしょうか。

橋本:(24年の第37回)東京国際映画祭で、トニー・レオンさん、キアラ・マストロヤンニさん、ジョニー・トーさん、エニェディ・イルディコーさんといった錚々たる方々と(コンペティション部門の審査委員として)ご一緒したり、海外でドラマの撮影をしたりといった経験がすごく増えてきて、「あ、これ、たぶんそのままいくな」と思いました。自分が嫌だと思ったら止まるけど、行きたいからたぶんこのまま進んでいくと思うので、そこに対してちゃんと準備しなければと思っています。一番(必要なもの)はもちろん語学ですけど、それ以外でも、世界の人たちとの共通言語としてたくさんの作品を知らないといけないし、人権の問題や、社会や世界情勢などいろいろな問題を常にキャッチして生きていかないと会話ができないので、そういうこともずっと意識しています。

——海外ドラマの撮影現場は、日本と違いましたか?

橋本:全く違いました。最高でした。朝食の時間が確実に確保されていて、全部温かいごはんが出てくるんです。1日の最大労働時間が決まっていて、それ以上働いたらちゃんとその対価がみんなに支払われますし。日本との差を感じてちょっと落ち込みながらも、現状を見据えて少しずつでも進んでいかないとな、と思うきっかけになりました。

——語学の勉強は楽しいですか?

橋本:楽しいです。暗記力は全然ないですけど(笑)、言葉が好きなので。発音も楽しいです。ただ、あまり英語を勉強してこなかったので、中学の教科書英語から勉強しています。まだまだなんですけど、まずはやり続けることが大事かなと。

——お芝居以外でやりたいことはありますか?

橋本:たくさんあります! 歌と、踊りと。踊りはコンテンポラリー、ヒップホップ、日本舞踊と、いろいろな習い事に手を出していて。基本的に体を使うことが好きなんです。歌も楽器として体を使うし。そういう身体表現がすごく好きで、それはお芝居にも生かされると思っています。他の表現方法としても、何かクリエイティブなことをやっていけたらいいなあと思います。

——私は橋本さんが小説を発表する日を勝手に待っております。

橋本:えー!? (周りからもそう)言われたことはありますが、自分から物語は……あ! でも、映画を作りたいなとは思っています。なぜかというと、「人が裸にならなくても、キスしなくても、ラブシーンって撮れるよね」ということをやりたいから。「子どもも大人も誰一人として尊厳を傷つけられずに作品って作れるよね」ということを、いつか体現したいと思っています。

——関わり方のイメージは? プロデューサー、監督、それとも主演として引っ張る?

橋本:イメージはプロデューサーです。監督は場合によってはやりたいなと思っていて、主演は考えていないです。

——仕事をする上で大切にしていることはありますか。

橋本:身の回りにいる人たち、現場でご一緒するスタッフさんたちも全員ですけど、皆さんが心地よくいられるように、自分が佇まいとしてそれを体現することは常に意識しています。自分は昔から誤解されやすくて、ただ真剣にやっているだけで怒っているように見えたり、「怖い人」「冷徹な人」と思われることが多かったんです。真剣にやるときはやるんですけど、気が緩む瞬間やみんなで楽しんで面白がれる瞬間を、意識的に作っていくことが大事だなとは、前より強く思っています。

——「誤解されやすい」にもつながるかと思うのですが、橋本さんはキャリアをスタートさせた頃、広義な意味での“おじさんたち”が抱くファンタジーの容れ物にさせられていたように思うんです。

橋本:そういう時期もありました。

——でもここ数年は、今回のようにリアルな女性キャラクターを演じることが増えてきていますし、インタビューや「私の読書日記」(週刊文春)では自分の言葉で、深い部分を発信しています。この変化の背景には、橋本さんのものすごく強い意志があったのではないかなと思うのですが。

橋本:カナコが男社会に迎合しようとして、自分の中の女性らしさを排除しようとして生きていったように、私も自分に求められている「こうあるべき」というイメージに迎合しようと努力していた時期がありました。すぐに気付けなかったから、だいぶ長かったです。男社会に「なじまなきゃ」って。言葉を選ばずに言うと、おじさんたちと会話できるように頑張りました(苦笑)。中学生でも大人として扱われてしまうし、対価をもらっている労働者だから、責任を持ってやらなければいけない。でも、その意識も欠如していたし、自分は未熟だと思っていたから、身の回りの世界観に迎合しようと頑張っていたんです。すると、途中で無理がきてしまったし、それによって失われたものがたくさんありました。それは一番自分の大事な部分、それこそ“尊厳”といっていいところが失われた経験でした。しかも自分でそれに気付けなかったんです。映画は自分の全てを捧げるものだと思っていたから、そのときは失って当然だと思っていたんです。だけど「そうじゃない」と気づかせてくれた出会いもあって、徐々に矯正していったというか。「あ、私は私のままで生きていい」というかむしろ、「私のままで生きないと駄目だ」ということをやってきました。

——お話ししてくれてありがとうございます。ちなみに、ここ数年の作品選びや演じたいものに、自分の意思は反映されていますか?

橋本:それは今、一番改めているところなんです。脚本が出来上がっていないときもあるし、企画書だけでは見えないところもたくさんあるので、以前よりも本当に慎重に考えるようにしています。

PHOTOS:TAKAHIRO OTSUJI
STYLING:NAOMI SHIMIZU
HAIR&MAKEUP:ERI AKAMATSU(ESPER)

映画「早乙女カナコの場合は」

映画「早乙女カナコの場合は」
3月14日から全国公開
出演:橋本愛 
中川大志 山田杏奈
根矢涼香 久保田紗友 平井亜門/吉岡睦雄 草野康太
臼田あさ美
中村蒼
監督:矢崎仁司
原作:柚木麻子「早稲女、女、男」(祥伝社文庫刊)
脚本:朝西真砂 知愛 
音楽:田中拓人 
企画・プロデューサー:登山里紗 
配給: 日活/KDDI 
制作:SS工房 
企画協力:祥伝社 
2024/日本/DCP/2:1/5.1ch/119min 映倫区分:G
(C)2015 柚木麻子/祥伝社 (C)2024「早乙女カナコの場合は」製作委員会
https://www.saotomekanako-movie.com/

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「グッチ」創業者のひ孫が作るバッグ&ジュエリー「AGCF」 “新時代のラグジュアリー”を掲げ堂々上陸

PROFILE: アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ/「AGCF」創業者

アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ/「AGCF」創業者
PROFILE: 英ロンドンのキャベンディッシュ・カレッジでアートとデザイン、米ロサンゼルスのオーティス・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインでファッションを学ぶ。2024年、「AGCF」を立ち上げるとともに、米・ロサンゼルス・ビバリーヒルズに1号店を出店した

バッグ&ジュエリーブランド「AGCF」が日本に上陸した。手掛けるのは、「グッチ(GUCCI)」の創業者であるグッチオ・グッチ(Guccio Gucci)のひ孫にあたる、アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ(Alexandra Gucci Zarini)。タイムレスなデザインを特徴に掲げつつ、“新時代のラグジュアリー”をうたう。

日本では、高島屋の自主編集売り場「サロンルシック」(日本橋店、玉川店、横浜店、大阪店、京都店)のみで取り扱う。小山剛史MD本部 化粧品・特選・宝飾品部バイヤーは、「『AGCF』は、私たちの求める“ネクスト・ラグジュアリーブランド”の可能性を秘めている。価格とクオリティのバランス、タイムレスなデザイン、社会的責任に対する取り組みは、日本のお客さまにも気に入ってもらえる」と期待する。ザリーニ「AGCF」創業者に、バッグやジュエリーへのこだわりやグッチ一族から受けた影響、“新時代のラグジュアリー”の本質、日本市場への洞察などを聞いた。

WWD:まずは、ブランドについて教えてほしい。

アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ(以下、ザリーニ):「AGCF」は、2024年春夏シーズンに始動し、同年、米・ロサンゼルス・ビバリーヒルズに1号店をオープンした。ビバリーヒルズに路面店を構えたのは、祖父アルド・グッチ(Aldo Gucci)の存在が大きい。祖父は1968年、「AGCF」からほど近い場所に「グッチ」を出店しており、私自身「この店を祖父に捧げられたら」という特別な思いを抱えている。バッグは15万〜45万円、ジュエリーは2万〜40万円台と幅広い価格レンジをそろえており、直近ではスカーフコレクションを発表した。今年中にはベルトやアイウエアも拡充する予定だ。

WWD:なぜバッグとアクセサリーなのか?

ザリーニ:バッグやアクセサリーは日常に溶け込むから。「希望を運ぶ」「ポジティブなメッセージを身に付ける」ものとして、女性の毎日に寄り添うブランドでありたい。

WWD:「グッチ」一族からどのような影響を受け、デザインに取り入れているか。

ザリーニ:祖父がうたっていた“時代を超越するエレガンス”は、私、そして「AGCF」の根源にある。クラシックなシルエットやニュートラルカラーなど、「AGCF」が打ち出すタイムレスなデザインは、一過性のトレンドに収まることなく、数十年後も愛され続けていることだろう。実は、祖父へのリスペクトは、ブランド名にも表れている。“AG”は、私のイニシャル、そして祖父のイニシャルから取った。“CF”は“クリエイティブ フレームワーク(Creative Framework)”の頭文字で、「AGCF」が単なるブランドではなく、“変革を推し進める組織”であることを表している。

WWD:変革とは?

ザリーニ:私たちは、パーパスドリブンなラグジュアリーブランドだと自負している。ラグジュアリーとは、単に美しいだけでなく、人を救う存在でもあるべきだ。そしてブランドは、売り上げを上げるだけでなく、社会貢献も果たすべき。現在私たちは、売り上げの20%を女性や子どもの支援に当てており、「希望」「思いやり」「団結」など前向きなメッセージを届けることに注力している。これこそが、今の時代に適応したラグジュアリーのあり方だと思う。

WWD:デザイン以外の特徴を教えてほしい。

ザリーニ:バッグは、伊・フィレンツェのタンナー、スペインの縫製工場と手を組み製作している。使用するレザーは、レザー・ワーキング・グループ(皮革業界の環境保護団体)の認定も取得済み。バッグの重さからストラップの長さ、ポケットの位置まで、とことん実用性に向き合ったモノ作りも特徴だ。ジュエリーもサステナブルな素材にこだわっており、リサイクルした貴金属とラボグロウンダイヤモンド(研究所で育てたダイヤモンド。鉱山で採掘する必要がないため環境へ与える影響が少ない)で製作している。

各アイテムにあしらった「AGCF」のシグネチャー“ユニタール・リンク(UNITA LINK)”は、団結とつながりを表している。祖父の「真のエレガンスは細部に宿る」という言葉を胸に、単に美しいだけでなく、身に付ける人にポジティブな影響を与えられるディテールにこだわっている。

WWD:日本市場をどう見ているか。

ザリーニ:日本は、伝統と革新のバランスが取れている国。タイムレスなデザインを打ち出しながら、変化を追求する「AGCF」とも相性が良いだろう。高島屋とともに、ラグジュアリー分野に革命をもたらすブランドとして地位を確立させたい。

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「グッチ」創業者のひ孫が作るバッグ&ジュエリー「AGCF」 “新時代のラグジュアリー”を掲げ堂々上陸

PROFILE: アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ/「AGCF」創業者

アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ/「AGCF」創業者
PROFILE: 英ロンドンのキャベンディッシュ・カレッジでアートとデザイン、米ロサンゼルスのオーティス・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインでファッションを学ぶ。2024年、「AGCF」を立ち上げるとともに、米・ロサンゼルス・ビバリーヒルズに1号店を出店した

バッグ&ジュエリーブランド「AGCF」が日本に上陸した。手掛けるのは、「グッチ(GUCCI)」の創業者であるグッチオ・グッチ(Guccio Gucci)のひ孫にあたる、アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ(Alexandra Gucci Zarini)。タイムレスなデザインを特徴に掲げつつ、“新時代のラグジュアリー”をうたう。

日本では、高島屋の自主編集売り場「サロンルシック」(日本橋店、玉川店、横浜店、大阪店、京都店)のみで取り扱う。小山剛史MD本部 化粧品・特選・宝飾品部バイヤーは、「『AGCF』は、私たちの求める“ネクスト・ラグジュアリーブランド”の可能性を秘めている。価格とクオリティのバランス、タイムレスなデザイン、社会的責任に対する取り組みは、日本のお客さまにも気に入ってもらえる」と期待する。ザリーニ「AGCF」創業者に、バッグやジュエリーへのこだわりやグッチ一族から受けた影響、“新時代のラグジュアリー”の本質、日本市場への洞察などを聞いた。

WWD:まずは、ブランドについて教えてほしい。

アレクサンドラ・グッチ・ザリーニ(以下、ザリーニ):「AGCF」は、2024年春夏シーズンに始動し、同年、米・ロサンゼルス・ビバリーヒルズに1号店をオープンした。ビバリーヒルズに路面店を構えたのは、祖父アルド・グッチ(Aldo Gucci)の存在が大きい。祖父は1968年、「AGCF」からほど近い場所に「グッチ」を出店しており、私自身「この店を祖父に捧げられたら」という特別な思いを抱えている。バッグは15万〜45万円、ジュエリーは2万〜40万円台と幅広い価格レンジをそろえており、直近ではスカーフコレクションを発表した。今年中にはベルトやアイウエアも拡充する予定だ。

WWD:なぜバッグとアクセサリーなのか?

ザリーニ:バッグやアクセサリーは日常に溶け込むから。「希望を運ぶ」「ポジティブなメッセージを身に付ける」ものとして、女性の毎日に寄り添うブランドでありたい。

WWD:「グッチ」一族からどのような影響を受け、デザインに取り入れているか。

ザリーニ:祖父がうたっていた“時代を超越するエレガンス”は、私、そして「AGCF」の根源にある。クラシックなシルエットやニュートラルカラーなど、「AGCF」が打ち出すタイムレスなデザインは、一過性のトレンドに収まることなく、数十年後も愛され続けていることだろう。実は、祖父へのリスペクトは、ブランド名にも表れている。“AG”は、私のイニシャル、そして祖父のイニシャルから取った。“CF”は“クリエイティブ フレームワーク(Creative Framework)”の頭文字で、「AGCF」が単なるブランドではなく、“変革を推し進める組織”であることを表している。

WWD:変革とは?

ザリーニ:私たちは、パーパスドリブンなラグジュアリーブランドだと自負している。ラグジュアリーとは、単に美しいだけでなく、人を救う存在でもあるべきだ。そしてブランドは、売り上げを上げるだけでなく、社会貢献も果たすべき。現在私たちは、売り上げの20%を女性や子どもの支援に当てており、「希望」「思いやり」「団結」など前向きなメッセージを届けることに注力している。これこそが、今の時代に適応したラグジュアリーのあり方だと思う。

WWD:デザイン以外の特徴を教えてほしい。

ザリーニ:バッグは、伊・フィレンツェのタンナー、スペインの縫製工場と手を組み製作している。使用するレザーは、レザー・ワーキング・グループ(皮革業界の環境保護団体)の認定も取得済み。バッグの重さからストラップの長さ、ポケットの位置まで、とことん実用性に向き合ったモノ作りも特徴だ。ジュエリーもサステナブルな素材にこだわっており、リサイクルした貴金属とラボグロウンダイヤモンド(研究所で育てたダイヤモンド。鉱山で採掘する必要がないため環境へ与える影響が少ない)で製作している。

各アイテムにあしらった「AGCF」のシグネチャー“ユニタール・リンク(UNITA LINK)”は、団結とつながりを表している。祖父の「真のエレガンスは細部に宿る」という言葉を胸に、単に美しいだけでなく、身に付ける人にポジティブな影響を与えられるディテールにこだわっている。

WWD:日本市場をどう見ているか。

ザリーニ:日本は、伝統と革新のバランスが取れている国。タイムレスなデザインを打ち出しながら、変化を追求する「AGCF」とも相性が良いだろう。高島屋とともに、ラグジュアリー分野に革命をもたらすブランドとして地位を確立させたい。

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クリスマス商戦が記録的売り上げのラゾーナ川崎 セレクトショップを筆頭にファッションが好調【ビジネスリポート2024年下半期】

ラゾーナ川崎は、JR川崎駅西口に直結するアクセスの良さと衣食住が充実した施設を備え、同エリアのランドマークになっている。施設中央のルーファ広場でのイベントも活況を呈している。三井不動産商業マネジメントの荻島正直ラゾーナ川崎プラザオペレーションセンター所長に商況を聞いた。(この記事は「WWDJAPAN」2025年2月24日号特別付録「ビジネスリポート2024年下半期」からの抜粋です。)

WWD:2024年下半期の商況は?

荻島正直ラゾーナ川崎プラザオペレーションセンター所長(以下、荻島):売上高は前年同月比も予算比もクリアして堅調に推移した。特にファッションが好調。お盆明けの秋物の立ち上がりが良かった。その後、9月から10月は気温が下がらずに苦戦したが、11月に冬物実需が一気に上がって復調。クリスマス商戦が好調だった12月は記録的な売り上げになった。

WWD:好調なショップやカテゴリーは?

荻島:メンズとウィメンズが両方そろうショップは軒並み良かった。「RHCロンハーマン(RHC RON HERMAN)」「ジャーナル スタンダード レリューム(JOURNAL STANDARD RELUME)」などセレクトショップの伸びが顕著。中でも良かったのは「ユナイテッドアローズ グリーンレーベル リラクシング(UNITED ARROWS GREEN LABEL RERAXING)」。店長が交代し、接客力が格段にアップした。接客力は重要なキーワードで、ファンをしっかりつかんでいる「ヒステリックグラマー(HYSTERIC GLAMOUR)」、秋に新規出店した「リーバイス(LEVI'S)」も接客が高評価で絶好調。「コーエン(COEN)」はVMDをテコ入れしたことで売り上げが急伸した。「アディダス(ADIDAS)」「ニューエラ(NEW ERA)」「アークテリクス(ARC’HTERYX)」などのスポーツ&ストリートカジュアルも継続人気。メガネショップも引き続き売れており、「ジンズ(JINS)」が突出した。

また、「タグ・ホイヤー(TAG HEUER)」は23年秋にリニューアルし、今季さらに内装を整えたことと、お客さまからも高評価される接客で2ケタ増。顧客がしっかりついている。7月に新規出店した「アグ」は、気温が下がった後に売り上げが急上昇した。館全体としても、この秋冬の傾向として高価格帯商品の動きが良い。上質化とグレード感を高めるブランディングを今後も続ける。

WWD:大型店舗は?

荻島:「ユニクロ(UNIQLO)」「ジーユー(GU)」は手堅く売れている。特に「ユニクロ」はコラボレーション商品が大ヒット。「アニヤ・ハインドマーチ(ANYA HINDMARCH)」コラボや「プラスジェイ」の再販初日は大行列を作った。ほかにも「ラコステ(LACOSTE)」と人気漫画「ワンピース」のコラボレーションが大盛況だった。コスメは「東京小町」がベースメイクを中心に伸ばしている。

WWD:訪日客需要は?

荻島:もともと比率は低いが、昨今の都心のホテル満室の影響で川崎に訪日客が流れ始めている。そこで、近隣の川崎日航ホテルとホテルメトロポリタン川崎に、訪日客限定の割引券付き館内案内パンフレットを配布し始めた。今後は春節に合わせた中国人客向け割引券も配る予定だ。

WWD:特に効果的だった施策は?

荻島:23年夏から紙のカタログを作っているが、館内配布はすぐなくなるし、顧客に送ると反響がある。ショップからも「載せてほしい」という要望が増えている。作るのは大変だが、効果を感じている。また、10月に初めて開催した「ジャパンクラフトフェス」が盛況。お酒と音楽がテーマのゆったり過ごせるイベントとして、ルーファ広場の空間をうまく活用できた。夜までにぎわいを見せていた。DA PUMPや原因は自分にある。といった音楽アーティストのイベントも反響が良く、今後も継続する。

WWD:クリスマス商戦は?

荻島:クリスマスイブが平日だったにもかかわらず土日と変わらない好実績。地下食料品専門店街のグランフードは、過去最高の売り上げを記録した。「新宿高野」と「アンテノール」のケーキが爆発的に売れ、ファッションの売り上げにも波及した。

WWD:今抱えている課題は?

荻島:前述の通り接客力が売り上げに大きく関係するため、さらに強化したい。今年度のSC接客ロールプレイングコンテストに、館のテナントから3人が出場した。関東甲信越地区エリアの優勝者が出たほか、審査員特別賞を受賞したスタッフもいて、かなり手応えを感じている。接客力の向上にますます磨きをかけていく。

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クリスマス商戦が記録的売り上げのラゾーナ川崎 セレクトショップを筆頭にファッションが好調【ビジネスリポート2024年下半期】

ラゾーナ川崎は、JR川崎駅西口に直結するアクセスの良さと衣食住が充実した施設を備え、同エリアのランドマークになっている。施設中央のルーファ広場でのイベントも活況を呈している。三井不動産商業マネジメントの荻島正直ラゾーナ川崎プラザオペレーションセンター所長に商況を聞いた。(この記事は「WWDJAPAN」2025年2月24日号特別付録「ビジネスリポート2024年下半期」からの抜粋です。)

WWD:2024年下半期の商況は?

荻島正直ラゾーナ川崎プラザオペレーションセンター所長(以下、荻島):売上高は前年同月比も予算比もクリアして堅調に推移した。特にファッションが好調。お盆明けの秋物の立ち上がりが良かった。その後、9月から10月は気温が下がらずに苦戦したが、11月に冬物実需が一気に上がって復調。クリスマス商戦が好調だった12月は記録的な売り上げになった。

WWD:好調なショップやカテゴリーは?

荻島:メンズとウィメンズが両方そろうショップは軒並み良かった。「RHCロンハーマン(RHC RON HERMAN)」「ジャーナル スタンダード レリューム(JOURNAL STANDARD RELUME)」などセレクトショップの伸びが顕著。中でも良かったのは「ユナイテッドアローズ グリーンレーベル リラクシング(UNITED ARROWS GREEN LABEL RERAXING)」。店長が交代し、接客力が格段にアップした。接客力は重要なキーワードで、ファンをしっかりつかんでいる「ヒステリックグラマー(HYSTERIC GLAMOUR)」、秋に新規出店した「リーバイス(LEVI'S)」も接客が高評価で絶好調。「コーエン(COEN)」はVMDをテコ入れしたことで売り上げが急伸した。「アディダス(ADIDAS)」「ニューエラ(NEW ERA)」「アークテリクス(ARC’HTERYX)」などのスポーツ&ストリートカジュアルも継続人気。メガネショップも引き続き売れており、「ジンズ(JINS)」が突出した。

また、「タグ・ホイヤー(TAG HEUER)」は23年秋にリニューアルし、今季さらに内装を整えたことと、お客さまからも高評価される接客で2ケタ増。顧客がしっかりついている。7月に新規出店した「アグ」は、気温が下がった後に売り上げが急上昇した。館全体としても、この秋冬の傾向として高価格帯商品の動きが良い。上質化とグレード感を高めるブランディングを今後も続ける。

WWD:大型店舗は?

荻島:「ユニクロ(UNIQLO)」「ジーユー(GU)」は手堅く売れている。特に「ユニクロ」はコラボレーション商品が大ヒット。「アニヤ・ハインドマーチ(ANYA HINDMARCH)」コラボや「プラスジェイ」の再販初日は大行列を作った。ほかにも「ラコステ(LACOSTE)」と人気漫画「ワンピース」のコラボレーションが大盛況だった。コスメは「東京小町」がベースメイクを中心に伸ばしている。

WWD:訪日客需要は?

荻島:もともと比率は低いが、昨今の都心のホテル満室の影響で川崎に訪日客が流れ始めている。そこで、近隣の川崎日航ホテルとホテルメトロポリタン川崎に、訪日客限定の割引券付き館内案内パンフレットを配布し始めた。今後は春節に合わせた中国人客向け割引券も配る予定だ。

WWD:特に効果的だった施策は?

荻島:23年夏から紙のカタログを作っているが、館内配布はすぐなくなるし、顧客に送ると反響がある。ショップからも「載せてほしい」という要望が増えている。作るのは大変だが、効果を感じている。また、10月に初めて開催した「ジャパンクラフトフェス」が盛況。お酒と音楽がテーマのゆったり過ごせるイベントとして、ルーファ広場の空間をうまく活用できた。夜までにぎわいを見せていた。DA PUMPや原因は自分にある。といった音楽アーティストのイベントも反響が良く、今後も継続する。

WWD:クリスマス商戦は?

荻島:クリスマスイブが平日だったにもかかわらず土日と変わらない好実績。地下食料品専門店街のグランフードは、過去最高の売り上げを記録した。「新宿高野」と「アンテノール」のケーキが爆発的に売れ、ファッションの売り上げにも波及した。

WWD:今抱えている課題は?

荻島:前述の通り接客力が売り上げに大きく関係するため、さらに強化したい。今年度のSC接客ロールプレイングコンテストに、館のテナントから3人が出場した。関東甲信越地区エリアの優勝者が出たほか、審査員特別賞を受賞したスタッフもいて、かなり手応えを感じている。接客力の向上にますます磨きをかけていく。

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米国拠点のシューズブランド「ビバイア」 61カ国で「日本が一番売れている」、そのワケ

米国に拠点を構えるグローバルシューズブランド「ビバイア(VIVAIA)」が日本で売れている。主にECで展開する61カ国のうち、日本の売り上げは全体の10%超え。国別で最も大きなシェア率を誇る。マリナ・チェン(Marina Chan)「ビバイア」共同創設者は、「ビバイア」と日本市場の相性の良さを指摘する。

WWD;まずは「ビバイア」について教えてほしい。

マリナ・チェン「ビバイア」共同創設者(以下、チェン):「ビバイア」は2020年に誕生した。「究極の快適さ」「環境に優しい素材」「タイムレスなデザイン」を商品の特徴に掲げる。日本市場に向けては、22年に公式WEBサイトを立ち上げ、同年7月に初のポップアップを開催した。現在、ハラカドと新宿マルイ本館に常設店を構え、3月21日にはグラングリーン大阪に3店舗目を出店する。

WWD:どのような経験を経て、「ビバイア」の創設に至ったのか?

チェン:私は、中国にある「ナイキ(NIKE)」の製造工場でキャリアをスタートさせた。その後、米シューズブランド「ケースイス(K・SWISS)」、「ナインウエスト(NINE WEST)」で商品開発を担当。「ナインウエスト」では、初めてヒール作りに携わった。もう20年以上シューズ業界に身を置いていることになる。

WWD:その経歴が「ビバイア」の商品開発に役立っている、と。

チェン:スニーカーの快適さとヒールの美しさを両立したい。これが「ビバイア」を立ち上げた理由、そして「ビバイア」の商品開発のコアだ。“ランニング シューズ”シリーズはその代表格で、アーチサポートに特化したインソールやつま先部分に入れたクッションパッド、安定感のあるブロックヒールを搭載し、「走れるパンプス」を体現している。

WWD:ビジネスシーンで重宝されそうな商品が目立つ。

チェン:「ビバイア」のメイン顧客は30〜50代の女性。WEBサイトを見ても、大人の女性に向けたシューズブランドだという印象を持つ人が多いと思う。しかし現在、顧客層が拡大している。日本はその傾向が最も顕著で、過去39回実施したポップアップに親子で来店する人が多かったこと、原宿や新宿といった若い世代が集まるエリアに出店したことが要因だと見ている。新たなデザインの必要性を感じている。

WWD:どのように若年層向けのデザインを生み出している?

チェン:常設店に足繁く通い、顧客の声に耳を傾けること。日本チームは、「どのようなデザインが人気か」「どのような素材を求めているのか」といった生の声を1日に何度も送ってくれる。中国のビジネスパーソンの間で、「日本での成功は世界での成功」という言葉がある。私たちも、日本チームからもらったフィードバックを、ブランド全体のモノ作りに生かしている。

WWD:日本で好調なのはなぜか?

チェン:「ビバイア」は、“快適”“スタイリッシュ”“サステナブル”という日本の消費者が求める3拍子がそろっている。常設店がある東京は、“歩く街”であることも理由の一つだろう。近年、履き心地はシューズ選びの大きなポイントになっており、歩きやすさはもはやスタンダードになっている。私は、これまでの経験を生かし、フラットシューズそしてヒールにも快適な履き心地をもたらしたい。たくさんのフィードバックをもらいながら、これからもブラッシュアップしていけたらと思う。

2025年春夏はバレエコアなフラットシューズがメイン

2025年春夏コレクションは、シルクのような肌触りの“ヌード サテン”シリーズ、「ビバイア」の定番“ウォーカー”シリーズをアップデートした“オールデー スタンディング”シリーズ、走れるパンプス“ランニング ヒールズ”シリーズ、デイリーユースにぴったりな“ウォーカー プロ”シリーズ、“ファッション フラット”シリーズで構成。中でも、“ヌード サテン”シリーズのフラットシューズ“クリスティーナ”(全4色、各1万9900円)は、若年層にアプローチするアイテムとして期待をかける。

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「オーバーコート」大丸隆平がNYで向き合い続ける、本当に“その人のもの”になる服作り

PROFILE: 大丸隆平/「オーバーコート」デザイナー

大丸隆平/「オーバーコート」デザイナー
PROFILE: (おおまる・りゅうへい)1977年生まれ。文化服装学院卒業後、日本のデザイナーのもとでキャリアを積み、2006年に渡米。08年に大丸製作所2を設立し、NYを拠点にデザイナーやブランドのクリエイティブコンサルタント、パターンメーカーとして活動。15年に「オーバーコート」を始動し、現在は日本に30の卸先があり、東京・青山とNYに直営店兼アトリエを構える PHOTO:KAZUSHI TOYOTA

メゾンで磨いたパターン技術で生み出される、構築的なシルエットのコート。袖を通したときのみならず、ハンガーに掛けられていても一つの“構造物”として完成された美しさを放つ。

ニューヨークを拠点に展開する大丸隆平「オーバーコート(OVERCOAT)」デザイナーが、ブランドを立ち上げて今年で10年。「僕のモノ作りは、日本の職人やその技術に支えられている」と大丸デザイナーは話す。それでもなお、地球の反対側にあるNYに拠点を置き、クリエイションを続ける理由とは何なのだろうか。(この記事は3月10日号「特集 NY&ロンドンコレ2025-26年秋冬」から抜粋し、加筆しています)

WWD:2月に日本で、2025-26年秋冬の受注会を実施した。反響はどうだったか。

大丸隆平「オーバーコート」デザイナー:特にこれといったPRをしているわけではないが、ブランドの認知がオーガニックに広がっている手応えがある。前回知った方が友達を連れてきて、その友達がまた次の人を連れてくるというふうに。(東京・青山の)ショールームも、キャパシティーがそろそろ限界に近くなっている。ブランドが知られていくことは、ありがたいことではあるが。

WWD: 立ち上げ当初は、日本市場はあまり意識していなかった?

大丸:そうかもしれない。まず、(百貨店の)ボン・マルシェや(セレクトショップの)ディエチ コルソコモ、トトカエロなどで展開を始めた。NYに直営店を作る計画もあったが、コロナの影響で延ばし延ばしになり、昨年末にようやくオープンにこぎつけた。ただ、こう言うと語弊があるかもしれないが、初めはNYに行きたくて行ったわけではない。仕事のオファーがあったから行っただけ、にすぎない。2008年か09年ごろの話だ。色々な事情が重なって、そのまま住むことになった。

WWD:どういった経緯で、NYを拠点にすることに?

大丸:ブルックリンの、アジア人4人くらいでシェアしているタコ部屋で暮らしながら、当時はとにかく、生活のために服を作っていた。偶然、ルームメイトにパーソンズ美術学校卒業生のデザイナー志望の子がいて、その繋がりで色々な仕事が舞い込んできた。

それまでにパリメゾンでがっつり仕事をしていたので、その子や周りの子が多少びっくりするような服が作れた。口コミで僕の存在がちょっとずつ広まって、そのうちに「アレキサンダー ワン(ALEXANDER WANG)」や「トム ブラウン(THOM BROWNE)」、「プロエンザスクーラー (PROENZA SCHOULER)」といったブランドとも関わるようになり、気づいたらニューヨークに根を張っていた。

WWD:日本で展開を広げたきっかけは。

大丸:コロナでそれまでの取引が全て中断し、ニューヨークの街が完全にロックダウンした。「これはまずい」と思い、作りかけのコレクションと定番を抱えて日本に戻った。

すると幸い、日本のギャラリストの知人がギャラリーのスペースを貸してくれることになった。1週間足らずくらいの会期だったが、ポップアップストアを開催したところ、思った以上に人が来てくれた。乃木坂駅からの徒歩11分の場所で炎天下、しかもコロナ第2波か第3波が来ているタイミングだったのに。すごく嬉しかった。今では日本でも徐々に取引先が広がって、今では30アカウントほどになった。

WWD:それでも、やはりNYの空気が合っていると?

大丸:そう思う。ただ僕の場合は「NYという街が好き」というより、「人」の部分が大きいのかもしれない。例えば、グラフィックデザイナーのピーター・マイルズ。彼は「オーバーコート」の名前をつけてくれた人だが、世界で5台限定で作ったテーブルを、「日本のオフィスに持っていけば?」と譲ってくれた。今回(2025-26年秋冬)のルックブックを撮影してくれたリチャード・カーンは、伝説的なフォトグラファーで、僕自身も子供の頃から憧れていた存在だ。そんな彼らと対等に仕事をし、刺激し合える環境があることがありがたいし、心地いい。

NYは、何かを作り続けていないと置いていかれる街。でも、それが逆に自分を奮い立たせてくれる環境でもある。サボり癖がある僕も、周りに優れたクリエイターがいることで、自分も手を動かしたくなる(笑)。突き動かされる感じがある。

日本のモノ作りがあるから
「オーバーコート」が成り立つ

WWD:「オーバーコート」は主に日本製。NYを拠点に、日本の工場や職人と仕事をするのは、非効率にも思える。

大丸:服作りのやり取りでは、もちろん余計に時間がかかってしまう部分はある。色の出し方ひとつとっても、サンプルを送ってもらって「もう少しこうして」と修正をお願いして……と面倒を掛けてしまう。でも、日本の生地メーカーはそういう細かいやりとりにも柔軟に対応してくれる。だから頼りたくなる。

WWD:海外を拠点にして、日本のモノ作りのよさを再確認するデザイナーも多いように思う。

大丸:日本は伝統的に「分業」が発展しているから、それが高品質なものづくりにつながっている。日本の産業は農耕民族的なマインドが強く、みんなで一緒に耕して、育てて、刈り取るという考え方が根底にある。一方で米国は元来、狩猟民族的というか、「獲物を見つけたら一気に仕留める」という発想になる。ビジネスの世界でも、M&Aで成功した会社をまるごと買ってしまうという考え方が主流だったりもする。

それゆえ、日本の職人は「少しでも失敗したら修正して完璧に仕上げる」ことにプライドを持っているし、米国では「とにかく早く作って、仕事が終わったらすぐ帰る」という意識が強い(笑)。真面目で、綿密で、高い技術を持つ日本の職人が作るからこそ、「オーバーコート」の服が成り立っている。

WWD:「オーバーコート」のコレクションは色使いが鮮やかで、NYらしいと感じる部分もある。

大丸:そういった捉えられ方は、僕にとっては意外かもしれない。色に関しては、かなり直感的に決めている。日本の生地を多く使っているから、染色技術の高さはが色選びにも影響していると思う。染色は、川の水質と密接に関係していて、日本の川が綺麗だからこそ、いい発色になる。そういう意味では、直感的に選んでいる色も、やっぱり日本の自然や技術に支えられている部分があるのかもしれない。インスタグラムアカウントは「@overcoat.nyc」だが(笑)。

WWD:“メード・イン・ジャパン”を前面に出さない理由はあるのか?

大丸:もちろん、日本のモノ作りは世界一だと思っている。ブランドネームで「ジャパンメイド」を強調するのではなく、服のシルエットや構造の中に自然に落とし込めるかどうかが、デザイナーである僕の腕の見せ所だ。例えば、「ゆとり」や「バランス」といった考え方は、日本のものづくりに根付いている概念。そういう要素をデザインに取り入れることで、日本らしさを感じさせることはできる。

日本人の服作りには、西洋にはない独自の視点がある。西洋では2000年以上の歴史の中で洋服文化が築かれてきたが、日本人が本格的に洋服を着るようになったのは、まだ100年にも満たない。プレタポルテ(既製服)に限れば、その歴史はせいぜい50~60年ほどだ。それまで日本では、2000年近く着物を着る文化が続いた。そのため、日本人は西洋のように「服はこうあるべき」といった既存のルールに縛られず、独自の解釈を加えている部分があると思う。

WWD:「独自の解釈」とは?

大丸:例えば、川久保玲さんや山本耀司さんがデザインした服には、西洋のファッションにはない視点と発想がある。既存の服のルールを再解釈し、時には大胆に崩す。僕自身も、服の基本構造である「肩」の部分にプリーツを入れたデザインを取り入れている。これは建築でいうと「大黒柱をいじる」ようなもので、通常なら避けるべきこと。でも、日本人の服作りは、そういう「セオリーを崩す」ことに対して比較的柔軟だ。

最近は、特に1980~2000年代に日本のハイブランドのデザイナーたちがやってきたことが、今のヨーロッパのハイブランドにも影響を与えていると感じる。日本人ならではのデザインアプローチは、世界のファッションの進歩に確実に貢献している。

瞬間的なひらめきと
「ちょっとズレた」面白さ

WWD: 「オーバーコート」のモノ作りで大切にしている考え方はあるか。

大丸:僕は16歳の頃から服作りを始めて30年近くになるが、やっていること自体はあまり変わっていないし、そうあり続けたいと思っている。知識や経験は当然増えたが、それにとらわれたくない。

まず、デザインをするときは「瞬間的なひらめき」を大事にしている。形や色もロジカルに考えすぎず、決める。もちろん、プレタポルテの世界では量産性を考えたロジカルなアプローチも必要だが、それとは別に、もっと感覚的な部分が重要だと思う。

もう一つは、「エンジニアの視点」。例えば、エンジンのパーツは、それ自体がオブジェとして美しい。僕はああいう「機能と美しさが共存しているもの」に惹かれる。服もそれと同じで、ただデザインが優れているだけではなく、作る人のプライドや技術が込められていることが大切。

一般的に「最高峰」とされるのは、(英国の)サヴィル・ロウのテーラリングやイタリアのクラシコといったクラシックな技術。確かにすばらしいものだが、僕はそれが唯一の頂点だとは思っていない。服の世界にはさまざまなアプローチがあって、それぞれに最高峰がある。僕が目指したいのは、テーラリングの完璧さだけでなく、もっと自由な発想や新しい技術を取り入れたモノ作りだ。

WWD:近年、物価上昇やコロナの影響もあり、日本人クリエイターが以前より渡米しづらくなっている。クリエイターにとって、NYで活動する意味とは?

大丸:確かに、最近は日本から来るクリエイターは減っているのかもしれない。NYにいることで見えてくる視点もある。一つは、日本という国のよさを、外から俯瞰で見ることができることが大きい。

NYはいろんな国の言語や文化が飛び交う場所。チャイナタウンを歩いていても、英語圏の人にとっては特別じゃないかもしれないが、僕のように第二言語の人種からすると、「あ、こういうカルチャーの混ざり方があるんだ」と面白がれる。かつそれを、ビジュアルとして直感的に捉えられる。日本だけにとどまっていると、どうしても同一の価値観の中に深く入り込みすぎることがある。

あと、NYは「本質とはちょっとズレた面白さ」もたくさん。ここにいると、「ちょっと間違えることの面白さ」とか、「勘違いから生まれるクリエイション」が新しい発見につながることがよくある。

WWD:例えば?

大丸:「オーバーコート」の今季の新作ニットは、遠くから見ると犬の模様に見えるけれど、近づいて見ると迷彩柄だったりする。デザインプロセスとしては、必ずしも意図的にそう作ったわけではなく、「結果的にそうなった」という方が正しい。こういう、偶然やズレが生み出すクリエイションって、日本ではあまり評価されにくい。けれど、NYだと「その不完全さがいい」となる。

日本は職人文化が強いので、「完璧に仕上げること」に価値を置きがちだ。それはすばらしいことだけど、一方で、もっと「ざっくり作る」みたいな感覚もクリエイションには大事なんだろう。さっきは「すぐ帰りたがるやつら」みたいに言ってしまったけれど(笑)。

今季のリチャード・カーンに撮影してもらったルックブックもそう。彼は撮影が終わったら「じゃあね」と言ってサッと帰る。日本の撮影現場だと、みんなで「ありがとうございました」ときっちり挨拶してから終わるけれど、NYではいい写真が撮れたら「じゃあねバイバイ」みたいにあっけなく終わる。それでいて、クオリティーは抜群に高い。

「なぜブランドをやるのか」
自分への問い掛けの答え

WWD:ニューヨークでは、クリエイターが自分のスタイルやリズムを貫くことができると。

大丸:日本では「こうすべき」に縛られがちだけど、NYでは「俺は俺、君は君」というスタンスがある。だから個人のクリエイションが尊重されるし、それがちゃんと認められる。だから、日本のクリエイターももっとニューヨークに来てみたらいい。もちろん物価や環境の問題はあるが、この街でしか得られない視点や経験があるはずだから。

WWD :これから挑戦していきたいこと、変わらずに続けていきたいことは?

大丸:自分のブランドを始めて、「なぜこの服を作るのか?」という自分自身への問い掛けが、より鋭くなったように思う。それで「着る人が自然に受け入れられるけれど、ちょっと意思のある服」を作りたいのだという答えを得た。先ほども言った「肩のプリーツ」のようなディテールは、動きや快適さを生み出すための工夫なんだけれど、知識と技術がないと奇妙な服ができあがってしまう、難度の高いアプローチだ。こうしたこだわりを理解して喜んでくれる人がいるなら、「オーバーコート」をやる意味がある。

それと結局、服はお客さまのクローゼットに収まるもの。作る側の主張が強すぎたら、「本当にその人のものになるのか? 」と考え、立ち止まるようにする。可能な限りお客さんと直接会いたいし、接客もしたい。それで「この人は、本当に気に入ってくれている」と感じられたら、作り手としてすごくうれしい。逆に「この服は合わないな」と思ったら、それも正直に伝える。売ることが目的ではなく、ちゃんと「その人に合うもの」を届けたいと思っている。

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「ビオトープ」事業開始15年で4店目の神戸店 厳選した立地で「オンリーワンの店」を作る秘訣

ジュンは、大型路面店「ビオトープ神戸(BIOTOP KOBE)」をきょう8日に開く。場所は近代建築が点在する旧居留地。歴史を感じさせる空間に、ファッション、コスメ、生活雑貨を豊富にそろえ、さらには飲食店を併設した複合型セレクトショップとなる。ジュンの佐々木進社長と、クリエイティブディレクターである迫村岳・常務取締役の2人の仕掛け人は、どんな店を目指しているのか。神戸で聞いた。

新規出店は「まず物件ありき」で決める

WWD:「ビオトープ」は東京・白金(2010年開店)、大阪・南堀江(14年開店)、福岡(19年開店)に続く4店舗目。神戸を選んだ理由は?

迫村岳クリエイティブディレクター(以下、迫村):「ビオトープ」に関しては物件ありきで決めている。通常の業態であれば、まず東京に数店舗、次に大阪、続いて名古屋となるだろう。これまでの3店舗はいずれも大勢の人が行き交うターミナル立地でもなく、商業施設のテナントでもない。ユニークな建物や空間、周辺環境を重視して厳選してきた。今回の神戸も1958年竣工のビルにたまたま空きが出たため、出店を決めた。

佐々木進社長(以下、佐々木):神戸港に近いこのビルは海運商社のオフィスビルとして建てられたと聞いている。港町らしい独特の匂いがある。これまでの3店舗とは異なる個性があって面白い。

WWD:神戸のマーケットをどう分析しているか?

佐々木:旧居留地で当社は古くは「アーペーセー(A.P.C.)」(現在の運営は別の会社)を運営してきたし、13年からは「サタデーズNYC(SATURDAYS NYC)」を出店しており、エリアの特性は深く理解している。目的意識を持って来店されるお客さまが多く、一度ファンになれば繰り返し来てくださる。商圏には芦屋をはじめ富裕層のお客さまもたくさんいる。「ビオトープ」の世界観に共感してくださるはずだ。

迫村:神戸はもちろん、中・四国を含めて広範囲からお客さんを呼びたい。落ち着いた空間で、じっくり買い物していだけるよう空間設計した。仮に同じ服であっても「ビオトープ」の店内で手に取ると他店よりも魅力的に映る。そんな工夫をこれまでの3店舗で磨いてきた。ていねいに接客して、商品の背景まで伝える。

「物販」と「飲食」を両立する手法

WWD:神戸にもカフェ&レストランを併設した。

迫村:この区画は市民の憩いの場である東遊園地にも近く、休日には家族連れも多い。旧居留地は意外にカフェが少ないので、そんな方たちにも気軽に立ち寄ってもらえる場所になるだろう。メニュー開発は東京・日本橋の「ネキ」や世田谷代田の「ソングブック」を手掛ける西恭平さんにお願いした。ワインも充実しており、昼も夜も楽しめる。

佐々木:同じ店で物販と飲食を両立させるのは、けっこう難しい。「服を買う」と「食事をする」はモチベーションが違うから、無理に一緒にすると失敗する。でも「ビオトープ」は既存の3店舗とも相乗効果を生んでいる。

WWD:コツはあるのか?

佐々木:「ビオトープ」の場合は物販と飲食のゾーニングを一体化しずぎるとダメ、明確に区切りすぎてもダメ。言葉で表現するのは難しいけど、適度なゾーニングの塩梅がある。「サタデーズNYC」や「サロン アダム エ ロペ(SALON ADAM ET ROPE)」、昨年12月に表参道に開いた「V.A.」など、当社は物販と飲食の併設店をいくつか運営しているが、それぞれ業態によってやり方は異なる。

迫村:飲食の併設は「ビオトープ」の強みだ。服だけが目的であれば、来店の頻度が限られてしまう。でも居心地の良い空間で食事をしたりお茶をしたりするため立ち寄れる店であれば、お客さまは頻繁に来店してくれる。ついでに服や生活雑貨を手に取る。

WWD:秋に出店予定の札幌はどんな店になる?

迫村:札幌の円山公園付近になる。広大な緑が広がる円山公園は札幌市民のオアシスであり、周辺は閑静な住宅街だ。ここもいわゆるショッピングエリアではない。既存の店舗とはまた違ったユニークな店になるだろう。

WWD:事業開始から15年で、神戸は4店目。現在の「ビオトープ」の売上高はどれくらいに成長しているのか?

佐々木:具体的には言えないが、神戸を含めた4店舗とEC(ネット通販)で30億円が見えてきた。中長期的には7〜8店舗とECで50億円は見込めるだろう。ただ、迫村が述べた通り「ビオトープ」の出店は物件ありき。性急な成長は求めない。厳選した立地とオンリーワンの店作りで、わざわざ訪れるに値する「ビオトープ」であり続ける。

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「ビオトープ」事業開始15年で4店目の神戸店 厳選した立地で「オンリーワンの店」を作る秘訣

ジュンは、大型路面店「ビオトープ神戸(BIOTOP KOBE)」をきょう8日に開く。場所は近代建築が点在する旧居留地。歴史を感じさせる空間に、ファッション、コスメ、生活雑貨を豊富にそろえ、さらには飲食店を併設した複合型セレクトショップとなる。ジュンの佐々木進社長と、クリエイティブディレクターである迫村岳・常務取締役の2人の仕掛け人は、どんな店を目指しているのか。神戸で聞いた。

新規出店は「まず物件ありき」で決める

WWD:「ビオトープ」は東京・白金(2010年開店)、大阪・南堀江(14年開店)、福岡(19年開店)に続く4店舗目。神戸を選んだ理由は?

迫村岳クリエイティブディレクター(以下、迫村):「ビオトープ」に関しては物件ありきで決めている。通常の業態であれば、まず東京に数店舗、次に大阪、続いて名古屋となるだろう。これまでの3店舗はいずれも大勢の人が行き交うターミナル立地でもなく、商業施設のテナントでもない。ユニークな建物や空間、周辺環境を重視して厳選してきた。今回の神戸も1958年竣工のビルにたまたま空きが出たため、出店を決めた。

佐々木進社長(以下、佐々木):神戸港に近いこのビルは海運商社のオフィスビルとして建てられたと聞いている。港町らしい独特の匂いがある。これまでの3店舗とは異なる個性があって面白い。

WWD:神戸のマーケットをどう分析しているか?

佐々木:旧居留地で当社は古くは「アーペーセー(A.P.C.)」(現在の運営は別の会社)を運営してきたし、13年からは「サタデーズNYC(SATURDAYS NYC)」を出店しており、エリアの特性は深く理解している。目的意識を持って来店されるお客さまが多く、一度ファンになれば繰り返し来てくださる。商圏には芦屋をはじめ富裕層のお客さまもたくさんいる。「ビオトープ」の世界観に共感してくださるはずだ。

迫村:神戸はもちろん、中・四国を含めて広範囲からお客さんを呼びたい。落ち着いた空間で、じっくり買い物していだけるよう空間設計した。仮に同じ服であっても「ビオトープ」の店内で手に取ると他店よりも魅力的に映る。そんな工夫をこれまでの3店舗で磨いてきた。ていねいに接客して、商品の背景まで伝える。

「物販」と「飲食」を両立する手法

WWD:神戸にもカフェ&レストランを併設した。

迫村:この区画は市民の憩いの場である東遊園地にも近く、休日には家族連れも多い。旧居留地は意外にカフェが少ないので、そんな方たちにも気軽に立ち寄ってもらえる場所になるだろう。メニュー開発は東京・日本橋の「ネキ」や世田谷代田の「ソングブック」を手掛ける西恭平さんにお願いした。ワインも充実しており、昼も夜も楽しめる。

佐々木:同じ店で物販と飲食を両立させるのは、けっこう難しい。「服を買う」と「食事をする」はモチベーションが違うから、無理に一緒にすると失敗する。でも「ビオトープ」は既存の3店舗とも相乗効果を生んでいる。

WWD:コツはあるのか?

佐々木:「ビオトープ」の場合は物販と飲食のゾーニングを一体化しずぎるとダメ、明確に区切りすぎてもダメ。言葉で表現するのは難しいけど、適度なゾーニングの塩梅がある。「サタデーズNYC」や「サロン アダム エ ロペ(SALON ADAM ET ROPE)」、昨年12月に表参道に開いた「V.A.」など、当社は物販と飲食の併設店をいくつか運営しているが、それぞれ業態によってやり方は異なる。

迫村:飲食の併設は「ビオトープ」の強みだ。服だけが目的であれば、来店の頻度が限られてしまう。でも居心地の良い空間で食事をしたりお茶をしたりするため立ち寄れる店であれば、お客さまは頻繁に来店してくれる。ついでに服や生活雑貨を手に取る。

WWD:秋に出店予定の札幌はどんな店になる?

迫村:札幌の円山公園付近になる。広大な緑が広がる円山公園は札幌市民のオアシスであり、周辺は閑静な住宅街だ。ここもいわゆるショッピングエリアではない。既存の店舗とはまた違ったユニークな店になるだろう。

WWD:事業開始から15年で、神戸は4店目。現在の「ビオトープ」の売上高はどれくらいに成長しているのか?

佐々木:具体的には言えないが、神戸を含めた4店舗とEC(ネット通販)で30億円が見えてきた。中長期的には7〜8店舗とECで50億円は見込めるだろう。ただ、迫村が述べた通り「ビオトープ」の出店は物件ありき。性急な成長は求めない。厳選した立地とオンリーワンの店作りで、わざわざ訪れるに値する「ビオトープ」であり続ける。

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韓国の“少しお節介”な習慣を届けたい IT企業社員がティーブランド「コーニー」を立ち上げた理由

ティーブランド「コーニー(CORNIE)」が2024年12月にローンチした。手がけるのは、韓国・ソウル生まれ、現在外資IT企業でCXコンサルタントとして勤務するリ・ユンジェ(Lee Younjae)だ。10歳の頃に東京に移住し、慶應義塾大学卒業後は韓国と上海でホテルや飲食店の企画を担当したのち、リクルートを経て現在の職に就いた。日韓の通訳としても活躍するなど、活動は幅広い。

そんな彼女が今回「コーニー」を立ち上げた理由を尋ねると「韓国と日本のバックグランドを持ちながら、スウェーデンに留学。その後上海での駐在生活を経て、あらためて日韓の文化の素晴らしさに気がついた。しかしながら、日本の市場には韓国文化の伸び代はまだある。私が上海にいる時に恋しくなったのは韓国の温かな“情”だったが、その情に価値を置いた発信がされていることはまだ少ないと感じた」とユンジェ。

日韓のルーツを持つ彼女だからこそできる方法で韓国文化を発信したいと考え、自らの韓国の原体験である韓国茶のブランドを手掛けることに。「子どもの頃に一緒に住んでいた祖母は、夏になればとうもろこし茶やオミザ茶を、冬には柚茶や生姜茶、デーツ茶を淹れてくれた。このように、季節や相手の体調に寄り添った、“少しお節介”な穀物茶や果実茶を飲む習慣が、私にとってはとても心地が良いものだった。そしてこの韓国のお節介さを、私は“情”と呼んでいる。ブランドを通じて、誰かを思いやり、お茶を淹れて分かち合う“少しお節介な気持ち=情”を届けていきたい」。

そんな気持ちから生まれた「コーニー」のファースト商品は最高品質のイェチョン産白とうもろこしの粒を100%使用した“粒コーン茶”。ユンジェは「コーン茶はむくみ改善にも効果的だといわれており、身体のコンディションを整えたい時にもおすすめだ。ノンカフェインのため、老若男女問わず生活にとりやすいだろう。日本で緑茶や麦茶を飲むように、韓国でも家庭でお茶を飲む習慣は根付いている」と続ける。

さらに「コーニー」の“粒コーン茶”には、低温真空ロースティング法が用いられ、香ばしさを増しながら栄養素を保つよう作られる。腸内環境を整える食物繊維や貧血予防に欠かせない鉄分、細胞の生成を助ける葉酸のほか、美肌づくりをサポートするビタミンB群、ビタミンC、Eを含む。「『コーニー』の“粒コーン茶”は一般的なティーパックのお茶とは異なり、そのままコーンの実を食べることもできるから、素材の栄養素を惜しみなく得られる。お茶を楽しんだ後のコーンを米と一緒に炊くのもおすすめだ」。

現在「コーニー」は公式サイトで販売しており、今後は粒コーン茶以外にもラインアップを拡充するほか、ギフトセットなどを提案。3月15〜16日には、目黒MEGURO MARCで開催されるマーケット“HAVE A GOOOD MARKET!!! at MEGURO MARC”に出展。試飲と商品の購入も可能だ。

◼︎HAVE A GOOOD MARKET!!! at MEGURO MARC
日程:3月15〜16日
時間:11:00〜17:00
会場:MEGURO MARC
住所:東京都品川区西五反田3-3-2

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ゆりやんレトリィバァがトレーニングウエア「YUR YUR(ユーユー)」をスタート——「あなたをつくるのはあなた自身」

PROFILE: ゆりやんレトリィバァ/芸人

PROFILE: 1990年11月1日生まれ。奈良県吉野郡出身。趣味は映画鑑賞(大学で映画研究をしていた)。特技は英語、ダンス。大学4年生の時に、大阪NSC35期生として入学し、お笑いを学ぶ。翌年行われた「NSC大ライブ2013」で優勝を果たし、NSCを首席で卒業。2017年、第47回NHK上方漫才コンテストで優勝。同年12月「女芸人No.1決定戦 THE W」に出場し、優勝。海外進出を目指し、19年6月には、アメリカのオーディション番組「アメリカズ・ゴット・タレント」にも出場。21年には「R-1グランプリ」で優勝。24年12月にアメリカ・ロサンゼルスに活動の拠点を移している。

昨年12月にアメリカ・ロサンゼルスへ活動拠点を移した芸人・ゆりやんレトリィバァ(以下、ゆりやん)がデザイナーを務めるトレーニングウエアブランド「ユーユー(YURYUR)」がスタートした。第1弾のコレクションは、トップス4型、レギンス5型、5本指ソックスやレッグウォーマーなどの雑貨類3型を含む計12型を展開する。同アイテムは、3月3〜16日の期間限定でECサイト「Re:Circulet(リサーキュレット)」にて受注販売が行われている。さらに、3月7〜13日には「JR京都伊勢丹オンラインストア」での販売と「ルクア大阪」でポップアップストアが展開される。

2018年からトレーニングを始めたゆりやん。日常的にトレーニングをする中で「こんなウエアが欲しい」と感じた細かいこだわりが本ブランドには込められている。一時帰国したゆりやんにその想いを聞いた。

「あなたをつくるのはあなた自身」

WWD:「ユーユー」は、いつ頃から考えていたんですか?

ゆりやんレトリィバァ(以下、ゆりやん):具体的に動き出したのは1年ほど前です。私自身、6年前からトレーニングを始めたんですけど、すごくはまって、それからはほぼ毎日トレーニングするほど、生活に欠かせないものになっていました。その中で「もっと快適な着心地のウエアが欲しい」「こんなデザインがあったらいいのに」と思い始めて、今回、繊維商社の豊島さんの協力を得て、実現することができました。

WWD:今回の第1弾商品のラインアップは?

ゆりやん:最初に考えたのはTバックでした。トレーニングしているとパンツの線が気になって、でも普通のTバックだと、履くのに少し抵抗があったり、フロントも小さくて、トレーニングしていると痛かったりもしたので、もう少しフロントが広いTバックがあったらいいなと思って作りました。

あと私が着ているタンクトップとアームウォーマーはサラサラとした肌触りと伸縮性が特徴です。履いているハイウエストのスパッツはフレアタイプで。トレーニングの時だけではなくて、家着でも使える。トレーニングウエアと言いつつ、トレーニングだけじゃなくて、ハードル低く、普段から履いてもらえるように考えました。

他にもブラトップや短いスパッツもありますし、レッグウォーマーとかリブ素材のトレーニングウエアもあったらいいなと思って。あとは、5本指靴下も実際に使ってみて良かったので、作ってもらいました。

最初はいろんな色のカラフルな展開ができたらいいなと勝手に思ってたんですけど、生地とか素材にこだわっていたら、「そんなにいろんな色を作れません」って言われて。それやったら逆に黒だけの方が使いやすいし、世界観も統一されるからいいかなと思って今回は黒だけで作りました。

WWD:ブランド名の「ユーユー」はどう決めたんですか?

ゆりやん:かわいくて、言いやすい名前がいいなと思って。私の本名がゆりで、自分のことを「ゆりん」って言っているんですよ。それで、最初は「YURIN(ユリン)」がいいかなと思ってたんですけど、英語で「urine(ユリン)」って尿って意味があるみたいで(笑)。だからそれはやめて。字面から考えて、YURYURで「ユーユー」にしました。

あと、これは後付けなんですけど(笑)。トレーニングする前は、好き放題食べて、「これが私です」みたいに言ってたし、当時はそう思ってたんですけど、トレーニングを始めたら、食事にもこだわるようになったし、「自分で自分を作れる」っていうのが分かってきて。そうすると自分のことがめっちゃ大事になってきたんです。それで「こうならないといけない」とか、「こういう体形じゃないといけない」とかにとらわれたらあかんなと思って。当たり前ですけど、自分って人とは違うじゃないですか。だから「自分にとって最高の状態になるだけでいいんや」って思ったんですよ。そこから「MAKE YOU HAPPY」みたいに、「MAKE YOU YOU」で、「あなたをつくるのはあなた自身」という意味を込めています。

WWD:どんな人に着てもらいたい?

ゆりやん:トレーニングが好きな方にはぜひたくさん着てもらいたいですね。もともとジムに行き始めるまで運動する=汚れていい服で行くなイメージだったんですけど、着てみて気持ちいいとか、かわいいからこれ着てちょっとジム行ってみたいとか、運動するきっかけになればうれしいです。家着とか普段使いもできるので、トレーニングしていない人も着てみてほしいです。結局みんなですね(笑)。

WWD:今後はどんなアイテムを考えている?

ゆりやん:今回は運動する時に着るアイテムが多いんですけど、トレーニング前後で着てもらえるような服とかもう少し日常生活でも着られる服とか作りたいですね。あとは男性も着られるものとかあると、多くの人に着てもらえるかなと思っています。

トレーニングは自分を大切にするきっかけ

WWD:ゆりやんさんはずっと岡部友さんとトレーニングを続けていますね。

ゆりやん:そうなんです。ラッキーなことに、2018年の秋にテレビ番組で芸能人がガチでトレーニングするみたいな企画があって、それぞれがいろんなトレーナーさんに振り分けられたんですが、私はたまたま友さんのところで。それがきっかけで、初めてパーソナルトレーニングを受けて、それからずっと友さんにしかパーソナルトレーニングはやってもらってないですね。

WWD:トレーニングって続かない人も多いと思うんですが、続けるコツは?

ゆりやん:性格的なところもあると思うんですけど、自分って一生自分じゃないですか。でも、昔の私もそうでしたけど、自分のことを後回しにするというかも、「自分なんて」とか言ったりするじゃないですか。それってめっちゃもったいないなと思って。自分って一生この体でいるのに、自分を大切にせずにボロボロにしていたらもったいないし、嫌じゃないですか。せっかくだったら、大切にして、かわいい状態にしときたいって思ったらやめる理由ないなって思って。

WWD:本当そうですね。でも、「今日は行くのしんどいな」と思うことはありませんか?

ゆりやん:私はトレーニングを始めてから1回もそう思ったことがなくて。多分運動がもともと好きなのもあると思うんですけど、逆にトレーニングに行けない日とか行けなくなりそうみたいな時は、めっちゃ腹立ってく、なんか対応も雑になってしまったりして。それぐらいトレーニングに行けないっていうのがストレスで。

好きな人と会う前の夜に、ニンニクとかめっちゃ食べて、歯も磨かずに寝て、朝も歯を磨かずに顔がくっつくくらいの距離で喋ってくださいって言われるぐらい(笑)。それぐらい嫌なんです。

WWD:めっちゃ嫌ですね(笑)。ちなみにLA行ってからもトレーニングは続けているんですか?

ゆりやん:パーソナルは受けてなくて、アパートにジムがついているんで、そこで自分でやってますね。最初は1人でできるかなって不安だったんですけど、習い事と一緒で、やっていくうちにどんどんできるようになって。「自分でもできるんや」っていう感動もあるし、やることで気持ちがフレッシュになるので、楽しんでやっています。

私の場合、細いスレンダーな体型になりたいっていうよりは、肉感のある塊みたいな、中にめっちゃ筋肉があるのが一番かっこいいなと思っていて。肉肉しい感じを目指しています。

WWD:LAの生活には慣れましたか?

ゆりやん:慣れた頃に戻ってきた。だからまた忘れちゃいました。どんなんやったかな、みたいな(笑)。

WWD:「ユーユー」の目標は?

ゆりやん:LAは「フィットネスの街」でジムも多く、みんなこういう楽なコージー(cozy)な服を着てる人が多いんですよ。なので、ぜひLAの人達にも着てもらえるようなブランドにしていきたいですね。

PHOTOS:TAMEKI OSHIRO

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リピーターが5割以上、人気の台湾発“茶香水”「ピーセブン」創業者に聞くブレイクまでの10年とこれから

PROFILE: パン・ユーチン(Pan Yu-Ching)/「ピーセブン」創業者

パン・ユーチン(Pan Yu-Ching)/「ピーセブン」創業者
PROFILE: 台湾・花蓮生まれ。幼少期から敏感な嗅覚を持っていたが、コミュニケーションは苦手。専門学校卒業後、台北で添乗員や貿易事務などさまざまな仕事に就くが長続きせず、配達員や調理員として働いたこともある。故郷に戻り茶師の仕事に出合う。お茶に囲まれ最低限のコミュニケーションですむ仕事に満足し、お茶の香りを閉じ込める商材はないかと独学で香水作りを始め、2012年に「ピーセブン」を創業

台湾発フレグランス「ピーセブン( P.SEVEN)」は2月末に都内で、新作フレグランス“府城香”の発表会を開催した。「ピーセブン」は、調香師であるパン・ユーチン(Pan Yu-Ching)創業者が2012年に設立。台湾の文化を香りで表現するブランドで、お茶をテーマにした“茶香水”のパイオニア的な存在だ。日本では、台湾を訪れた日本人の口コミにより徐々に広まり、19年に都内で台湾発文化を発信する「誠品生活日本橋」内に出店。23年秋伊勢丹新宿本店の「サロン ド パルファン(SALON DE PARFUM)」出展時は行列ができるほどの人気で、一気にブランドの認知度がアップした。日本で着実にファンを増やし、現在日本で販売する製品は、北海道の工場で生産。「日本は第二の故郷」と話すユーチン創業者に、ブランドやビジネスについて聞いた。

プロの方程式とは違う想像力が生み出す心地良い香り

WWD:「ピーセブン」を創業したきっかけは?

パン・ユーチン「ピー セブン」創業者(以下、ユーチン):茶師として働いていたときに青茶の香りを嗅ぐための茶杯“聞香杯”に残る淡いお茶の香りを永遠に閉じ込めたいと思った。そこで、独学で香水を作り始めた。当時はアジアの香水ブランドは珍しく、調香を学んだわけでもないので、大きなチャレンジだった。お茶の香水といえば、欧米ブランドによる紅茶の香水はあったが、香り自体にあまりお茶を感じられなかった。欧米とアジアのお茶の香りは違う。だから、自分が感じた香りを自分の方法で試行錯誤を重ねて台湾茶香水を作った。

WWD:調香を学んでいないが、なぜブランドを立ち上げた?

ユーチン:茶師という仕事は、コミュニケーションが苦手だった私にとって天職のようなもの。お茶とその香りが好きで、それをどうしたら表現できるかと考えた。香りは知覚を魂へ伝達する一つの方法だと強く感じてブランドを立ち上げた。多くのプロの調香師から批判の声もあり、数年間は戸惑いもあった。だが、自分が感じ取った香りをプロのやり方ではなく、想像力を働かせて試行錯誤で表現している。例えば、バラにはハチミツを、クローブにはウイスキーを感じる。私が嗅いで感じとったまま、パズルのように組み合わせて香りとして表現。22年に米の香水コンテストで受賞して自信が持てるようになり、もっと大胆に調香するようになった。

WWD:「ピーセブン」の名前はどこから?コンセプトは?

ユーチン:ピーは私の名前の頭文字からでルーツを忘れないという意味を込めている。セブンは、聖書では新しい始まり、仏教では円満を意味する数字。それらを組み合わせ、ブランドの円満な発展を願う名前にした。コンセプトは、台湾の土地、民族、文化を台湾にしかない素材などを用いて、香りで表現している。情景が浮かび上がるような香り、記憶に残る香りを提案したい。だが、妖精のように軽やかで、誰もが包まれて心地良い香りを目指している。

リピーターが5割以上、B to Bビジネスも展開

WWD:展開している香りは何種類?ベストセラーは?

ユーチン:フレグランスが16種類、ピロースプレーが7種類。ピロースプレーは、台湾の街の香りを表現したもの。コロナ禍に、夢でその街を訪れてもらえればと開発した。日本では、おもてなしのお茶を意味する“奉茶”シリーズの凍頂烏龍茶の香り“沁香”と東方美人茶の香り“玉香”がベストセラーだ。お茶そのものの香りなので、初めての香水として馴染みやすく、場所を問わずに着けられる。「ピーセブン」はアジアの優雅さや謙虚さを体現するブランドだ。だから、多くのアジア人に受け入れられているのだと思う。

WWD:現在何ヵ国で販売している?

ユーチン:台湾、日本、イタリア、ハンガリー、ベトナム。日本には法人、イタリアには事務所がある。韓国や香港から引き合いが来ているので、これから販売予定だ。

WWD:新作の“府城香”は台南市文化資産管理局とのコラボレーションだが?

ユーチン:台南の寺院や古い街並みを表現した。街中に漂う線香の香りや草木や煙など歴史ある台南の街歩きをしているような香りになっている。他にも、スターラックス航空や資生堂プロフェッショナル、台湾のファミリーマート、「ベスパ」などのブランドや動物保護のチャリティー活動の一環として台北動物園と作った香りがある。現在、日本企業と日本茶の香りのプロジェクトが進んでいる。今後は、もっとB to Bも強化していきたい。

WWD:「ピーセブン」とのビジネスの割合は?B to Bビジネスはどのように始まった?

ユーチン:「ピー セブン」が55%、B to Bが45%。ブランドを創業してから、企業向けに台湾の文化や香りを伝えるためのイベント「香り展」を開催してきた。そこで、他のブランドとは違うアプローチに共感してくれた企業と一緒にオリジナルの香りを開発している。

WWD:調香や生産はどこで行う?

ユーチン:調香は台湾。日本で販売する製品は、北海道で生産しているが、それ以外は台湾で生産している。

WWD:なぜ日本で生産するのか?

ユーチン:日本のお客さまの5〜6割がリピーターで、「サロン ド パルファン」に出展してから新規顧客も増えた。日本にはファンが多く、日本は私にとって第二の故郷のようなもの。だから、日本生産にすることで少しでも日本に還元できればと思う。今後、日本で路面店の出店も視野に入れている。

WWD :今後どのようにブランドを育てたいか?

ユーチン:アジアで香りの文化がもっと広まれば嬉しい。茶香水をどこか懐かしいクラシックな存在にできればと思う。

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「コンプレックスコン」日本開催の可能性も? 香港版の主催者に聞く展望

ストリートカルチャーとポップカルチャーの祭典「コンプレックスコン(ComplexCon)」が、3月21〜23日に香港で開催される。香港での開催は、昨年3月に続き2回目。

米国開催の「スニーカーの祭典」とは様相が異なり、香港版の主役はポップカルチャーと現代アートだ。昨年開催時は村上隆とBLACKPINKのコラボグッズなどが話題を呼んだが、今回の「コンプレックスコン香港 2025」でも現代アーティストのダニエル・アーシャム(Daniel Arsham)がグローバル・アーティスティック・ディレクターを務め、韓国の5人組ガールズグループNewJeans改め「NJZ」がライブイベントのヘッドライナーとして出演するなど、すでに期待の熱は高まっている。

香港版の運営を手がけるコンプレックスチャイナのボニー・チャン・ウーCEOに、前回の反響や今後の展望、日本開催の可能性について聞いた。

WWD:昨年初開催された「コンプレックスコン香港」。来場者数や収益は、計画や予想と比べてどうだった?

ボニー・チャン・ウーCEO:開催3日間で来場者は3万人以上にのぼり、収益も当初の想定を上回る結果でした。特に人気ブランドのブースの商品は、初日でソールドアウトするほどの反響でした。2日目に訪れた来場者の中には、希望の商品を手に入れられず、がっかりされた方もいたようです。

これは「グッドプロブレム」、つまり今後の課題として改善したいポイントでもあります。今年は、より多くの商品を用意し、より多くの来場者が満足できる体験を提供したいと考えています。

WWD:チケットは優先入場順に価格が決められ、最高額のものは日本円で10万円近かった。来場者の反応はどうだったか?

ボニー:高価格帯のチケットについては、私たちは決して「攻めすぎた価格」だとは考えていません。というのも、コンプレックスコンのコンセプトは「トップクオリティー」です。最高の体験を提供するために、ゲストのクオリティー、イベントの演出、コンテンツの質を徹底的に高めていたからです。

チケット価格は、「アジア開催」ということも考慮しています。例えば、ラスベガスでのコンプレックスコンに参加するとしたら、飛行機代やホテル代も含めてはるかに高くつくでしょう。それを考えれば、多くの人にとってより手の届きやすい、“お得”なイベントになっていたはずなんです。結果的に、来場者の満足度も高く、チケット価格に見合うだけの価値を提供できたと確信しています。

WWD:米国のコンプレックスコンは「スニーカーの祭典」の印象が強いが、香港版はアートが主役。改めて、その意図は?

ボニー:コンプレックスコンの中心にあるのは「若いエネルギー」です。そして、若い世代の自己表現は近年、スニーカーに限らず、さまざまな形で表れるようになっています。現代アートは、その一つの象徴でしょう。スニーカーもファッションも、映画、デジタルアートなどと密接に関わっています。つまり、コンプレックスコンは単なる「スニーカーフェス」ではなく、より広範なカルチャーの祭典へと進化しているのです。第2回はこのアートの側面を強化し、世界のクリエイターが集うハブとしての存在感をさらに高めていきたいと思っています。

日本開催の可能性は?

WWD:前回、アジアの若者文化について新たな発見や収穫はあった?

ボニー:アジアの若者たちは、やはり強い自己表現の欲求を持っていますね。ファッションや音楽を通じて、自分のスタイルを発信し、ネットワークを広げようとしているのです。

コンプレックスコンは、単なる消費の場ではなく、文化的なプラットフォームとなる可能性を秘めています。アジア各地に点在する、影響力のあるインフルエンサーやラッパー、デザイナーとリアルに対面できる機会は、香港のようなアジアの中心に位置する都市だからこそ実現できるもの。昨年は会場の各所でランダムに出現するKOLやアーティストたちが生み出す熱狂から、それが見て取れました。

今回は、新しい潮流として注目している東南アジアのクリエイターにもスポットを当て、アジア全体のユースカルチャーを盛り上げたいですね。

WWD:日本開催の可能性はあるか。

ボニー:まず、日本はコンプレックスコンにとって非常に重要な市場です。日本のファッション、アート、アニメ、音楽は世界中に影響を与えており、「日本発のカルチャー」はコンプレックスコンのDNAとも深く結びついています。

日本開催について、具体的な開催地や時期を明言することはできません。しかし開催するとしたら、日本のクリエイターやブランドをより多く巻き込み、蓄積してきたレガシーと新しい化学反応を世界に発信できる場にしたいと考えています。

アジア全体を巻き込むムーブメントへ

WWD:その先の展望は。

ボニー:先ほども少し触れた東南アジアは市場が急成長しており、マレーシア、インドネシア、タイ、フィリピンなどからも、「コンプレックスコン」の開催について強い関心が寄せられています。

コンプレックスコンは、単なるイベントではなく、「アジアのカルチャーを世界に発信するハブ」になることを目指しています。アジアの若者たちに「世界に通用する」という自信を持ってもらうためのプラットフォームを作りたいと考えています。

米国がヒップホップや音楽で世界をリードしてきたように、今やK-POPや日本のファッション、アニメが国際的に注目されています。コンプレックスコンが、アジアのクリエイティブな才能を世界に届けるきっかけになることを願っています。

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映画「ケナは韓国が嫌いで」が描く「韓国社会の生きづらさ」 チャン・ゴンジェ監督インタビュー 

韓国で2015年に刊行され、ベストセラーとなった小説「韓国が嫌いで」を原作に、現代の韓国社会を舞台に生まれ育った場所で生きづらさを抱える女性が、海外で人生を模索する姿を描いた映画「ケナは韓国が嫌いで」が3月7日から日本でも公開される。

ストーリーは、ソウル郊外の小さな団地で家族と暮らす28歳の会社員ケナは、生まれ育った韓国に嫌気がさし、一念発起して単身ニュージーランドへと移り住む。そこでかけがえのない友人と出会い、新しい生活を手にしたケナは自分の居場所を見つけていく……というもの。

監督は「第2のホン・サンス」や「韓国の是枝裕和」と称され、奈良県を舞台にした映画「ひと夏のファンタジア」(15年/プロデュース:河瀨直美)でも知られるチャン・ゴンジェが務める。主人公ケナを演じるのは、ポン・ジュノ監督「グエムル-漢江の怪物-」(06年)に中学生の娘役で出演し、天才子役として鮮烈な印象を残したコ・アソン。

今回チャン監督に本作を通して描いた韓国社会の生きづらさや日本と韓国の映画業界の違いについて、話を聞いた。

PROFILE: チャン・ゴンジェ(장건재、Jang Kun-jae)/映画監督

PROFILE: 1977年生まれ。韓国映画アカデミー撮影専攻卒業。長編デビュー作「十八才」(2009年)でバンクーバー国際映画祭、ペサロ国際映画祭、ソウル独立映画祭などで受賞し、その後「眠れぬ夜」(12年)は全州国際映画祭大賞および観客賞、エジンバラ映画祭、ナント三大陸映画祭などで受賞。日本の奈良を舞台に撮影した日韓合作映画「ひと夏のファンタジア」(14年)は、釜山国際映画祭、ムジュ山里映画祭、韓国評論家協会賞、イタリア・アジアティカ映画祭などで受賞し、韓国独立映画協会の「今年の独立映画」に選ばれる。濱口竜介監督の著書「カメラの前で演じること」(22年)の韓国語版出版も手掛ける。

「ケナは韓国が嫌いで」で描きたかったこと

——チャン・ガンミョンさんの「韓国が嫌いで」という小説を映画にしようと思ったきっかけについて教えてください。

チャン・ゴンジェ(以下、チャン):2015年くらいだったんですが、私自身が「こんな状態で仕事をしていたら、いつか死んでしまうのではないか」という思いを抱きながら暮らしていたことがあったんです。そんなとき、この小説を読んで、ここにも同じような人がいたんだと思って、それで映画化したいと思いました。

——映画化にあたって、実際に取材をされながら撮られたそうですが、取材で何を感じられましたか?

チャン:韓国というのは、女性が生きていくには疲れる国だなと感じました。そして、変化を望む人は冒険を試みるんですけれども、変化を望まない人は秩序を守ろうとしているんだなと思いました。

——シナリオを何度も書き直したとも聞きました。どのような部分を書き直したんでしょうか?

チャン:胸の痛む話なんですが、投資してもらうのに時間がかかってしまったんです。その結果、独立映画として制作をすることになり、公共機関に制作費の申請をしました。その審査に受かるために、シナリオを書き直すといった試みを行いました。長い時間がかかってしまいましたが、この作品を必ず作りたいという思いはありました。

——そんな中、ここは絶対に変えられないと思ったところはありますか?

チャン:ニュージーランドでの地震のシーン、キョンユンのシーン、幸せの伝道師チェ・ボクヒのシーン、そしてケナとインドネシアから来た男性との会話のシーンは必ず描きたいなと思いました。

——インドネシアの男性との会話は、各国のアジア人の留学の背景にも、格差があるということが見えて興味深かったです。ケナの友人で、大学を卒業してもまだ試験勉強を続けているキュンユン、「お金より幸せを集めろ」という考え方をメディアで広めている幸福の伝道師チェ・ボクヒ、ニュージーランドで出会う韓国からの移民の家族のシーンについては、どのような狙いがあったのでしょうか。

チャン:幸福の伝道師に関しては、韓国では、ここ数年の間にあの伝道師のように、大衆に向かってなんらかの講演をする市場が大きくなっているんです。あのシーンは、人々がオピニオンリーダーの言葉に従うというような心理を反映しているんですけれども、私はそのような構造について、批判的な姿勢を持っていまして、それでぜひ、このような人物を登場させたいなと思いました。

ニュージーランドでケナが出会う家族、特に父親のサンウに関しては、韓国では中年の男性もケナのように韓国を去る方が多いんですね。ほとんどの方は移民として韓国を出ていくんですけど、なかなか適応することができない。取材を通して、そのような人の存在を知ったことで、このキャラクターが出来上がりました。

いつまでも試験勉強をしているキョンユンなんですけれども、私自身、非常に感情移入をしている人物です。キョンユンという人物は、最後までやれば必ずかなうと思っている人なんですね。そして、現実でも、彼の信じているようなストーリーが韓国社会では支配的なんです。でも私はそのようにできなくてもいいと思っているんです。ケナとキョンユンも、そこまで親しい友人というわけではないんですね。でもときどき思い出すくらいの。

——ときどき思い出す彼は、韓国の競争社会の中で諦めきれず、でも実は疲弊してしまっている人を象徴しているわけですね。ある意味、ケナの次に重要な人物のようにも思えました。監督自身は今の韓国社会をどう見ていますか?

チャン:韓国というのは、多様性というものに対しての包容力が小さいと思います。性別、ジェンダー、性的志向、地域、学歴、人種、そういったものに対しての差別、嫌悪、排除がまん延していると思います。以前よりはおおっぴらに嫌悪することは減ってきているかもしれないけれど、隠密に巧みに今も続いていると思います。

——監督は、表現活動をする上で、ケナのように外に出て行こうという気持ちはありますか?

チャン:そういったものを主張するために作った映画ではないんですが、私もケナのように冒険したい、外に出て行きたいという憧れはあります。僕自身は、行動に移せない人間なので、今回ケナを通して表現したいと思いました。

日本と韓国の映画業界について

——監督は、日本映画や日本人監督がお好きということで、特に濱口竜介監督の映画がお好きだそうですね。

チャン:今、北東アジアにおいて一番重要な方だと思っています。私は彼の「寝ても覚めても」(韓国のタイトルは「아사코、アサコ」」が韓国で公開されてから見始めました。初期の作品も好きで、他の監督とは何かが違うなとずっと感じていました。監督の映画には、異物感や違和感のようなものがあって、あるときに予想もしなかったことが起こるんですけど、そういう要素が好きだなと感じています。最近は、山中瑶子監督のような日本の90年代生まれの監督にも関心を持っています。

――監督が日本映画に感じる特徴とはどんなところでしょうか?

チャン:独立映画については、制作費の調達に違いがあると感じます。韓国では独立映画は公共機関の支援によって作られますが、日本はもっと自主的につくられているなと思います。公共機関の支援なく、資金調達の多様化が存在しているように感じます。

——日本の側からすると、韓国で公共機関が資金を出すということは良い仕組みであるとも感じていたのですが、そうとも言えないところが、それ以外にもあるのでしょうか。

チャン:日本には、黒沢清監督、三宅唱監督、濱口竜介監督などが、同時代に存在していて、その上、新しい監督も次々と出てきているように感じています。韓国では、パク・チャヌク監督やポン・ジュノ監督の後続の世代が力を持っていない、そういう違いがあると思います。また、韓国の投資家が韓国の映画市場に魅力を感じていないと言うこともあると思います。というのも、韓国の観客が今、あまり映画館に足を運んでいなくて、コロナ禍以降の市場がまだ回復していないんです。

――日本からすると、「パラサイト 半地下の家族」が世界を席巻したり、近年も「ソウルの春」のような映画が1000万人を超えてヒットしたりと、韓国映画の発展をまぶしく見ているところはあるんですが、そこだけ見ていたのでは見えない部分があるということなのでしょうか。

チャン:そうなんです。大きくヒットした映画以外の収益はマイナスのものが多いんです。

——そんな中、監督はこれからの韓国映画界で、どのように活動していこうとお考えでしょうか。

チャン:私としては、映画の規模は重要ではなく、どのような映画を作りたいかが重要であると思っていて、今後も規模の大小に関わらず、自分の作りたい映画を作っていければと思います。

——現在、関心のあるテーマというのはありますか?

チャン:先ほども少し申し上げたんですけど、やっぱり多様化に対する包容力不足を感じるし、これが正しいあり方であり、これは正しくないあり方であるとすぐに分けるような社会について考える映画を作ってみたいと思っています。そういった話を、深刻に扱うのではなく、大衆性のある親しみの持てる雰囲気の中に描きたいという思いがあります。

——それは「ケナは韓国が嫌いで」でも感じました。監督は去年、映画祭で、菊地成孔さんとトークイベントをされていました。菊地さんは、監督のことをホン・サンス監督になぞらえらえて語られていましたが、それはどのように受け止められていますか?

チャン:偉大な監督なので、引き合いに出してもらうなんてとんでもないことだと思います。でも、そう言ってもらって、とてもうれしく思いました。先輩の映画を尊敬していますし、継承していかなくてはいけないと思っています。でも、同時に打ち壊してもいかないといけないとも思っています。先輩の映画を超えるものを作ると言うよりも、先輩が作っていないものを作ったり、別の道を模索したり、新しいものを作っていくべきだなと考えています。

——韓国や日本のようなアジアだけでなく、アメリカを見ても、多様性への許容力は弱まっているような気がしています。そんな今、この映画をどのような人に見てほしいと思われますか?

チャン:そういった特定の観客層のことを考えながら作った映画ではないんです。でも、大人世代に何かを感じてほしいとは思いました。私自身もそうなんですけど、大人の世代、中年の世代は、ケナのような若い世代と比べて、そこまで韓国社会に生きづらさを感じていないんじゃないかと思うんです。だから、大人の世代に対して、問いかけていかないといけないと思っています。若い人たちがなぜ韓国を去ろうとしているのかということについて、大人の世代の人たちにもう一度考えてほしいなと思っています。

映画「ケナは韓国が嫌いで」

■「ケナは韓国が嫌いで」
3月7日からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国公開
監督・脚本 :チャン・ゴンジェ
原作:チャン・ガンミョン著「韓国が嫌いで」
出演:コ・アソン、チュ・ジョンヒョク、キム・ウギョム、イ・サンヒ、オ・ミンエ、パク・スンヒョン他
韓国劇場公開日:2024年8月28日
配給:アニモプロデュース
2024年/韓国/韓国語・英語/107 分/カラー/DCP/
https://animoproduce.co.jp/bihk/
©︎2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

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映画「ケナは韓国が嫌いで」が描く「韓国社会の生きづらさ」 チャン・ゴンジェ監督インタビュー 

韓国で2015年に刊行され、ベストセラーとなった小説「韓国が嫌いで」を原作に、現代の韓国社会を舞台に生まれ育った場所で生きづらさを抱える女性が、海外で人生を模索する姿を描いた映画「ケナは韓国が嫌いで」が3月7日から日本でも公開される。

ストーリーは、ソウル郊外の小さな団地で家族と暮らす28歳の会社員ケナは、生まれ育った韓国に嫌気がさし、一念発起して単身ニュージーランドへと移り住む。そこでかけがえのない友人と出会い、新しい生活を手にしたケナは自分の居場所を見つけていく……というもの。

監督は「第2のホン・サンス」や「韓国の是枝裕和」と称され、奈良県を舞台にした映画「ひと夏のファンタジア」(15年/プロデュース:河瀨直美)でも知られるチャン・ゴンジェが務める。主人公ケナを演じるのは、ポン・ジュノ監督「グエムル-漢江の怪物-」(06年)に中学生の娘役で出演し、天才子役として鮮烈な印象を残したコ・アソン。

今回チャン監督に本作を通して描いた韓国社会の生きづらさや日本と韓国の映画業界の違いについて、話を聞いた。

PROFILE: チャン・ゴンジェ(장건재、Jang Kun-jae)/映画監督

PROFILE: 1977年生まれ。韓国映画アカデミー撮影専攻卒業。長編デビュー作「十八才」(2009年)でバンクーバー国際映画祭、ペサロ国際映画祭、ソウル独立映画祭などで受賞し、その後「眠れぬ夜」(12年)は全州国際映画祭大賞および観客賞、エジンバラ映画祭、ナント三大陸映画祭などで受賞。日本の奈良を舞台に撮影した日韓合作映画「ひと夏のファンタジア」(14年)は、釜山国際映画祭、ムジュ山里映画祭、韓国評論家協会賞、イタリア・アジアティカ映画祭などで受賞し、韓国独立映画協会の「今年の独立映画」に選ばれる。濱口竜介監督の著書「カメラの前で演じること」(22年)の韓国語版出版も手掛ける。

「ケナは韓国が嫌いで」で描きたかったこと

——チャン・ガンミョンさんの「韓国が嫌いで」という小説を映画にしようと思ったきっかけについて教えてください。

チャン・ゴンジェ(以下、チャン):2015年くらいだったんですが、私自身が「こんな状態で仕事をしていたら、いつか死んでしまうのではないか」という思いを抱きながら暮らしていたことがあったんです。そんなとき、この小説を読んで、ここにも同じような人がいたんだと思って、それで映画化したいと思いました。

——映画化にあたって、実際に取材をされながら撮られたそうですが、取材で何を感じられましたか?

チャン:韓国というのは、女性が生きていくには疲れる国だなと感じました。そして、変化を望む人は冒険を試みるんですけれども、変化を望まない人は秩序を守ろうとしているんだなと思いました。

——シナリオを何度も書き直したとも聞きました。どのような部分を書き直したんでしょうか?

チャン:胸の痛む話なんですが、投資してもらうのに時間がかかってしまったんです。その結果、独立映画として制作をすることになり、公共機関に制作費の申請をしました。その審査に受かるために、シナリオを書き直すといった試みを行いました。長い時間がかかってしまいましたが、この作品を必ず作りたいという思いはありました。

——そんな中、ここは絶対に変えられないと思ったところはありますか?

チャン:ニュージーランドでの地震のシーン、キョンユンのシーン、幸せの伝道師チェ・ボクヒのシーン、そしてケナとインドネシアから来た男性との会話のシーンは必ず描きたいなと思いました。

——インドネシアの男性との会話は、各国のアジア人の留学の背景にも、格差があるということが見えて興味深かったです。ケナの友人で、大学を卒業してもまだ試験勉強を続けているキュンユン、「お金より幸せを集めろ」という考え方をメディアで広めている幸福の伝道師チェ・ボクヒ、ニュージーランドで出会う韓国からの移民の家族のシーンについては、どのような狙いがあったのでしょうか。

チャン:幸福の伝道師に関しては、韓国では、ここ数年の間にあの伝道師のように、大衆に向かってなんらかの講演をする市場が大きくなっているんです。あのシーンは、人々がオピニオンリーダーの言葉に従うというような心理を反映しているんですけれども、私はそのような構造について、批判的な姿勢を持っていまして、それでぜひ、このような人物を登場させたいなと思いました。

ニュージーランドでケナが出会う家族、特に父親のサンウに関しては、韓国では中年の男性もケナのように韓国を去る方が多いんですね。ほとんどの方は移民として韓国を出ていくんですけど、なかなか適応することができない。取材を通して、そのような人の存在を知ったことで、このキャラクターが出来上がりました。

いつまでも試験勉強をしているキョンユンなんですけれども、私自身、非常に感情移入をしている人物です。キョンユンという人物は、最後までやれば必ずかなうと思っている人なんですね。そして、現実でも、彼の信じているようなストーリーが韓国社会では支配的なんです。でも私はそのようにできなくてもいいと思っているんです。ケナとキョンユンも、そこまで親しい友人というわけではないんですね。でもときどき思い出すくらいの。

——ときどき思い出す彼は、韓国の競争社会の中で諦めきれず、でも実は疲弊してしまっている人を象徴しているわけですね。ある意味、ケナの次に重要な人物のようにも思えました。監督自身は今の韓国社会をどう見ていますか?

チャン:韓国というのは、多様性というものに対しての包容力が小さいと思います。性別、ジェンダー、性的志向、地域、学歴、人種、そういったものに対しての差別、嫌悪、排除がまん延していると思います。以前よりはおおっぴらに嫌悪することは減ってきているかもしれないけれど、隠密に巧みに今も続いていると思います。

——監督は、表現活動をする上で、ケナのように外に出て行こうという気持ちはありますか?

チャン:そういったものを主張するために作った映画ではないんですが、私もケナのように冒険したい、外に出て行きたいという憧れはあります。僕自身は、行動に移せない人間なので、今回ケナを通して表現したいと思いました。

日本と韓国の映画業界について

——監督は、日本映画や日本人監督がお好きということで、特に濱口竜介監督の映画がお好きだそうですね。

チャン:今、北東アジアにおいて一番重要な方だと思っています。私は彼の「寝ても覚めても」(韓国のタイトルは「아사코、アサコ」」が韓国で公開されてから見始めました。初期の作品も好きで、他の監督とは何かが違うなとずっと感じていました。監督の映画には、異物感や違和感のようなものがあって、あるときに予想もしなかったことが起こるんですけど、そういう要素が好きだなと感じています。最近は、山中瑶子監督のような日本の90年代生まれの監督にも関心を持っています。

――監督が日本映画に感じる特徴とはどんなところでしょうか?

チャン:独立映画については、制作費の調達に違いがあると感じます。韓国では独立映画は公共機関の支援によって作られますが、日本はもっと自主的につくられているなと思います。公共機関の支援なく、資金調達の多様化が存在しているように感じます。

——日本の側からすると、韓国で公共機関が資金を出すということは良い仕組みであるとも感じていたのですが、そうとも言えないところが、それ以外にもあるのでしょうか。

チャン:日本には、黒沢清監督、三宅唱監督、濱口竜介監督などが、同時代に存在していて、その上、新しい監督も次々と出てきているように感じています。韓国では、パク・チャヌク監督やポン・ジュノ監督の後続の世代が力を持っていない、そういう違いがあると思います。また、韓国の投資家が韓国の映画市場に魅力を感じていないと言うこともあると思います。というのも、韓国の観客が今、あまり映画館に足を運んでいなくて、コロナ禍以降の市場がまだ回復していないんです。

――日本からすると、「パラサイト 半地下の家族」が世界を席巻したり、近年も「ソウルの春」のような映画が1000万人を超えてヒットしたりと、韓国映画の発展をまぶしく見ているところはあるんですが、そこだけ見ていたのでは見えない部分があるということなのでしょうか。

チャン:そうなんです。大きくヒットした映画以外の収益はマイナスのものが多いんです。

——そんな中、監督はこれからの韓国映画界で、どのように活動していこうとお考えでしょうか。

チャン:私としては、映画の規模は重要ではなく、どのような映画を作りたいかが重要であると思っていて、今後も規模の大小に関わらず、自分の作りたい映画を作っていければと思います。

——現在、関心のあるテーマというのはありますか?

チャン:先ほども少し申し上げたんですけど、やっぱり多様化に対する包容力不足を感じるし、これが正しいあり方であり、これは正しくないあり方であるとすぐに分けるような社会について考える映画を作ってみたいと思っています。そういった話を、深刻に扱うのではなく、大衆性のある親しみの持てる雰囲気の中に描きたいという思いがあります。

——それは「ケナは韓国が嫌いで」でも感じました。監督は去年、映画祭で、菊地成孔さんとトークイベントをされていました。菊地さんは、監督のことをホン・サンス監督になぞらえらえて語られていましたが、それはどのように受け止められていますか?

チャン:偉大な監督なので、引き合いに出してもらうなんてとんでもないことだと思います。でも、そう言ってもらって、とてもうれしく思いました。先輩の映画を尊敬していますし、継承していかなくてはいけないと思っています。でも、同時に打ち壊してもいかないといけないとも思っています。先輩の映画を超えるものを作ると言うよりも、先輩が作っていないものを作ったり、別の道を模索したり、新しいものを作っていくべきだなと考えています。

——韓国や日本のようなアジアだけでなく、アメリカを見ても、多様性への許容力は弱まっているような気がしています。そんな今、この映画をどのような人に見てほしいと思われますか?

チャン:そういった特定の観客層のことを考えながら作った映画ではないんです。でも、大人世代に何かを感じてほしいとは思いました。私自身もそうなんですけど、大人の世代、中年の世代は、ケナのような若い世代と比べて、そこまで韓国社会に生きづらさを感じていないんじゃないかと思うんです。だから、大人の世代に対して、問いかけていかないといけないと思っています。若い人たちがなぜ韓国を去ろうとしているのかということについて、大人の世代の人たちにもう一度考えてほしいなと思っています。

映画「ケナは韓国が嫌いで」

■「ケナは韓国が嫌いで」
3月7日からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国公開
監督・脚本 :チャン・ゴンジェ
原作:チャン・ガンミョン著「韓国が嫌いで」
出演:コ・アソン、チュ・ジョンヒョク、キム・ウギョム、イ・サンヒ、オ・ミンエ、パク・スンヒョン他
韓国劇場公開日:2024年8月28日
配給:アニモプロデュース
2024年/韓国/韓国語・英語/107 分/カラー/DCP/
https://animoproduce.co.jp/bihk/
©︎2024 NK CONTENTS AND MOCUSHURA INC. ALL RIGHTS RESERVED.

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現代を生きるパリジェンヌ「ビュリー」のブランドディレクターに聞く美容法と愛用品

フランス発「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー(OFFICINE UNIVERSELLE BULY)」(以下、ビュリー)は、ブランドディレクターをヴィクトワール・ドゥ・タイヤック(Victoire de Taillac)が夫のラムダン・トゥアミ(Ramdane Thuami)と2014年に復活させた老舗フランス総合美容専門店だ。フレグランスやスキンケア、ブラシ類まで幅広くそろえ、独特の世界観で人気が高い。ヴィクトワールはアレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)の「三銃士」の着想源となった王室衛兵の末裔。5人兄弟の末っ子で、長男のピエールは出版社を運営、長女のソフィーは鈴木陸三サザビーリーグ創業者の妻、3女のマリーエレーヌはジュエリーブランド「マリーエレーヌ ドゥ タイヤック(MARIE-HELLENE DU TAILLAC)」(以下、MHT)のデザイナー、次女ガブリエルは「MHT」のフランス社を運営している。ヴィクトワールは「ビュリー」のディレクターとして活躍する傍ら、3人の子どもの母親としての顔も持つ。「日本は、私にとって特別な場所」と語る彼女の素顔は、自然体でとても気さくな現代のパリジェンヌだ。新著「美しくある秘訣」の発表会で来日したヴィクトワールに、新著やビューティルーティンについて聞いた。

パリジェンヌの起源と19世紀の美容法を紐解く本

WWD:「ビュリー」が、19世紀のフランス文化や嗜みといったものを発信する理由は?

タイヤック:「ビュリー」のルーツは19世紀で、その美意識やアイデアが原動力。それを分かち合いたいと思い、当時の古書の美容法など面白いことをピックアップして書籍にしている。それは、現代女性にとっても魅力的なものだと思うし、小説を読む感覚でも楽しんでもらえると思う。

WWD:新著「美しくある秘訣」のベル・エポック時代におけるパリジェンヌの美容習慣は、現代にどのように生かせると思うか?

タイヤック:一般的に話されている“パリジェンヌ”という言葉はベルエポック時代に始まったと言われている。特定の人物がいるわけではないが、素敵な女性の代名詞のように使われる。「美しくある秘訣」は、パリジェンヌの始まりや当時のパリジェンヌ像を紐解く本。時代が違うから、当時のパリジェンヌの視点を通して、現代を見ることができるので面白いと思う。

美容用品は香りが大切、フレグランスも欠かせない

WWD:自身のビューティ・ルーティンは?

タイヤック:心地良さに気を配り、自分の状態を見ながら必要に応じてルーティンを変える。血行を良くするボディーブラッシングや舌のケアなども大切。スキンケアは、クレンジングは軽めで、水分補給をしっかり。化粧水の後にフェイスクリームを塗ることもあれば、オイルを使うこともある。長時間の移動の後は、シアバターでマスクする。特に、美容用品の香りには気をつかうし、気分を変えたり、アップしたりするのにフレグランスは欠かせない。気分に応じて水性香水やボディーミルクを使い分けている。

WWD:愛用している「ビュリー」の製品は?

タイヤック:化粧水はローズの香りの“オー・スゥーベルフィヌ”を愛用している。バラの蒸留水とアロエベラ配合で控えめなバラの香りが心地いい。この商品は、品切れになる店もあるほど人気だ。フェイスクリームは、“ポマード・ヴィジナル”を使用している。全てのスキンタイプに使えるベーシックなクリームだ。肌が乾燥気味だと感じるときは、“ラズベリーシードオイル”を使う。オイルは自然派美容には大切で、いつも持ち歩いている。長時間のフライトの後は、“シアバター”でマスクする。“シアバター”は水分と油分を補ってくれる万能のアイテムでリップクリームとしても使える。

WWD:香りには気を使うようだが、お気に入りの「ビュリー」の香りは?

タイヤック:水性香水“オー・トリプル”は、控えめで優しくベロアのように肌に馴染むので日本人にもぴったりだと思う。中でもお気に入りは“ミエル・ダングルテール”。ハチミツとシダーウッド、アンバーから構成されたパウダリーでウッディな香り。同じくウッディ系では、“セードル・デュ・リバン”もよく使う。バーベナとピンクペッパー、ベチバーが織りなす落ち着く香り。華やかな気分になりたいときは、“チュベローズ・デュ・メキシク”を選ぶ。チュベローズは白い花の女王と呼ばれ、クローブとバニラがミックスされたうっとりする香りだ。

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アパレルリサイクルのショーイチ、業界課題であるバッグやシューズのリサイクルにも注力

余剰在庫や顧客から回収した衣料品のリサイクルを目指すアパレルメーカーや小売企業は着実に増えているが、次の段階として、いま課題となっているのがバッグやシューズなどの服飾雑貨類のリサイクルだ。服飾雑貨は、レザーや合皮、ゴムなどを組み合わせて使用しているケースが多いため、繊維である服に比べてリサイクルが難しい。大阪を拠点に、アパレル関連のリサイクル事業を手掛けるショーイチ(山本昌一社長)は、まさにこの課題にも取り組んでいる。

2000万円かけて粉砕機を導入

ショーイチがリサイクル事業でタッグを組む、反毛・粉砕工場の同心工業(大阪・泉大津)。同社の工場の一角に、ショーイチが借りている専用の建屋がある。取材で訪ねた際はブーツやパンプスのアッパー、スニーカーやサンダルの厚底ソール、ハンドバッグ、麦わら帽子などをまさにリサイクルしているところだった。それらをまずは粗く裁断した後、粉砕機にかけていく。粉砕機の下からは、すぐに色付きの粒がところどころ混じったグレーのわたが出てきた。レザーも合皮もゴムも全て細かく砕かれて、わたの一部になっている。このわたを圧縮してフェルトにし、自動車用などの工業資材にするのだという。

「困っている人の役に立ちたい」

同心工業のショーイチ専用建屋に、この粉砕機が導入されたのは2024年11月のこと。「導入には2000万円ほどかけた」とショーイチの山本社長は話す。「余剰在庫や古着といった、服のリサイクルを手掛ける企業であっても、バッグやシューズのリサイクルは行っていないというケースは多い。服飾雑貨のリサイクルには、硬い素材にも対応できる粉砕機を導入することが必要で、その分ハードルが高いのだと思う。でも、服の次は必ず雑貨のリサイクルが求められるようになる。雑貨のリサイクルで、どうすればいいか困っている方たちのお役に立ちたい」と山本社長は話す。

化粧品容器のリサイクルも一部を担う

バッグやシューズと共に、化粧品のリサイクルも業界としては課題の一つだ。「化粧品の余剰在庫は基本的に量が多く、常に引き受けられるわけではない」(山本社長)が、ショーイチでは化粧品容器のリサイクル事業も一部を担うようになっている。具体的には、企業在庫である未使用品の回収、ラベルはがし、中身を出して簡易洗浄、素材ごとの分別の工程まで。舞台はショーイチグループで運営する就労支援施設だ。

同就労支援施設を訪れると、プラスチックの化粧水ボトルに貼られた商品名のパッケージやシールをブランドが毀損しないようにはがしてから、容器と中身を分け、容器を簡易洗浄する作業が行われていた。これらは手作業でしか行えないため、化粧品のリサイクルは進んでいないのが現状だ。ショーイチはこの手作業の部分を請け負って、業界の共通課題解決の一端を担い、同時に就労支援施設に仕事を作っている。

簡易洗浄したプラスチック容器は回収業者に渡し、業者のもとで再度ペレットからプラスチック製品に加工される。化粧水の中身は紙などに吸わせて、別途業者のもとでサーマルリサイクル処理を行っているという。

「中小企業だからこそ、
いち早く世の中の課題に対応」

「リサイクルの業界には、専業の大手企業もいくつかある。一方で、ショーイチはリサイクル専業ではないし、規模も中小だ。だからこそ、リサイクル大手がまだあまりやっていない分野にも挑戦して、いち早く世の中の課題に対応していくことが大切だと思っている」と山本社長。「ショーイチに頼めば、ブランドの毀損も防ぎつつ、服だけでなく服飾雑貨や化粧品のリサイクルも可能だということを広く伝えていきたい」。

問い合わせ先
ショーイチ
050-3151-5247

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「肌に気持ちよく、体は自由で、心は柔らかく」 年齢や体形を超えて楽しむ下着「ユンヌフィグ」代表に聞く

PROFILE: 山本千夏/ユンヌフィグ代表

山本千夏/ユンヌフィグ代表
PROFILE: (やまもと・ちなつ)埼玉県生まれ。両親が運営するギャラリーに入社し、ヨーロッパアンティークの家具などを販売する傍ら、展覧会やコンサートの企画運営に携わる。デザイナーの猿山修が主宰するギュメレイアウトスタジオ+さる山で、広報、企画運営などを担当。執筆も行う。2018年から現職 PHOTO:SHUHEI SHINE

ランジェリーを中心に展開する「ユンヌフィグ(UNEFIG.)」はシルクを始め、上質の天然素材を使用したランジェリーやウエアを提案するブランドだ。同ブランドは、ギャラリーに勤務していた山本千夏代表が2018年にスタート。デザインを勉強したことはないが、布帛のシルクを使用したシンプルな下着を約1年かけて開発した。ワイヤーもホックもなくかぶって着用するブラジャーは、パッドの代わりにバストトップに何枚もシルクを重ねている。パンティーも布帛を使用しながらもフィット感を考え抜いて制作した。素材選びから縫製までこだわり、丁寧に作られるランジェリーには、山本代表の「肌には気持ち良く、体は自由で、心は柔らかく」という思いが込められている。自社ECや東京・蔵前のアトリエで販売。現在では、インスタグラムで引き合いのあったセレクトショップを中心に国内外10店舗で販売している。山本代表に、「ユンヌフィグ」について聞いた。

年齢や体形で装う楽しみをあきらめないで

WWD:「ユンヌフィグ」を立ち上げたきっかけは?

山本千夏ユンヌフィグ代表(以下、山本):洋服は選択肢がたくさんあるが、下着は、自分が欲しいと思うものがなかった。友人も同じ意見。ワイヤー入りのブラジャーとなると専門的な知識や技術が必要だが、洋服の延長線にあるようなものであれば作れると思った。

WWD:ブランドのコンセプトは?

山本:下着は必ず身に着ける肌に近いもの。下着=ファンデーション。ファンデーションとは土台や基礎という意味だ。だから、着る人が何度も手に取り、その人の礎になるようなシンプルなランジェリーを提供したい。人が最も美しく見えるのは、何を着ているか忘れて自然体でいるとき。「着けていることを忘れる」くらい肌や体との一体感があり、締め付けない着心地にこだわっている。機能だけでなく着ける楽しみがあり、体も心も自由になれるようなランジェリーを提供したい。

WWD:ターゲットは?

山本:通常は「無印良品(MUJI)」や「ユニクロ(UNIQLO)」で下着を購入しているが、どこか物足りないと感じているお客さまが多い。シルクが好きな人やファッション好きも多い。リラックス用やナイトブラとして購入される場合もある。また、ミニマルなデザインなので、ファッションの一部として透ける洋服の下などに着用する目的で購入する人もいる。日本では、いつまでも若くいることがいいとされるが、そうではない美しさもある。若くないから、体形がこうだからと、装う楽しさをあきらめる必要はない。「ユンヌフィグ」を通して、年齢、体形に関係なく、自然体でいられる快適な着け心地と、下着を着ける楽しさを届けられればと思う。

WWD:商品構成や価格帯は?コレクションは年に何回?

山本:下着は季節感があまりないものなので、コレクションは1年に1回。定番はブラジャー、パンティーがそれぞれ3型、タンクトップが2型。キャミソールやスリップなどを作るときもある。黒、グレー、ベージュが定番色で、年に1回、差し色としてブラウンやホットピンクなどが登場する。価格は2万〜3万円程度。サイズ展開はS、M、L。好みのフィット感は人それぞれ。だから、お客さまにより選ぶサイズはまちまちだ。

WWD:ウエアもあるようだが?

山本:今年初めて本格的にウエアを出した。トレンドに左右されず、3シーズン着用できるものを6型作った。一部ユニセックスで、下着の延長のような感覚で、部屋と外の境がなくパジャマとしても、レストランに行くときにも着用できる。また、1枚でもあらゆる着方ができるデザインにしている。価格は4万〜8万円程度。

妥協ない素材選びと縫製、無駄なく丁寧に届ける

WWD:デザインやモノ作りへのこだわりは?

山本:身に着ける人がきれいに見え、洋服の邪魔をしないデザインを心掛けている。シルクやコットン、シルクカシミヤなど、素材は妥協せずに高くてもいいものを選ぶ。下着は洗濯頻度が多く、ストレッチ素材だとすぐに使用感が出る。だから、作るのは大変だが長持ちする布帛を使用している。また、縫製のクオリティーにもこだわり、職人とコミュニケーションを取りながら生産している。無駄を出したくないので、工場からの納品は個別包装ではなく畳んでまとめて大きなビニールに入れてもらっている。お客さまへ商品を渡すときは、ビニール袋ではなくハンカチに包んでいる。

WWD:伊勢丹新宿本店の下着セレクト売り場マランジェリーでもポップアップしたようだが?

山本:「アンドプレミアム(&PREMIUM)」内の特集でスタイリストの井伊百合子さんが“Yバックブラ”を紹介してくれたのがきっかけで、バイヤーから声が掛かり、百貨店では初のポップアップを開催した。3月末には三越日本橋本店のライフスタイルイベントにも参加する。

WWD:「ユンヌフィグ.」をどのように育てていきたいか?

山本:今まで、特に営業をしてきたわけではないが、地方のお店が継続的に仕入れてくれ、顧客がついている。ショップのオーナーと自分の感性がマッチするだいご味を感じている。それが、ECにつながったり、EC地方のお店につながったりする。そのような草の根的なやり方を続け、少しずつでも広がっていけばと思う。ECでは、夢がありつつも、商品やサイズ感をわかりやすくどのように表現していくかが課題。フォトグラファーと試行錯誤しながらよりよい表現にチャレンジしていくつもりだ。

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研修生としてキャリアをスタートしたクラランスCEOに聞く“ダブル セーラム”を刷新し続ける理由

PROFILE: ジョナサン・ズリエン/クラランス グループ 社長兼最高経営責任者

ジョナサン・ズリエン/クラランス グループ 社長兼最高経営責任者
PROFILE: フランス・トゥールーズ出身。2年ほどのインターンシップを経て1996年にエリアデイレクターとしてクラランスに入社し、オーストラリアに勤務。99年にシンガポールでアジアリージョナル社長に就任し、グローバル展開の強化を推進。2004年クラランス カナダで北米のジェネラルマネージャー、07年クラランス USAで全米リージョナル社長を経て15年2月から現職 PHOTO : SHUNICHI ODA

昨年ブランド設立70周年を迎えた「クラランス(CLARINS)」は、昨年7月にメイクフィックスミスト“フィックス メイクアップ N”(50mL、4950円)を6年ぶりに、8月にはアイコン美容液“ダブル セーラム ADC”(30mL、1万2100円/50mL、1万7380円/75mL、2万3650円)もリニューアルするなど、長い歴史を経てもなお大胆な進化を続けている。ジョナサン・ズリエン(Jonathan Zrihen)=クラランス グループ 社長兼最高経営責任者(CEO)に、同社でのキャリアやクラランスが追求するイノベーションについて聞いた。

WWD:今年で現職に就任して丸10年だ。

ジョナサン・ズリエン(Jonathan Zrihen)=クラランス グループ 社長兼CEO(以下、ズリエン):31年前に研修生としてマーケティング部に配属され、グローバル展開の強化に携わった。特にアジアの拡大を推進し、中国へは2005年に進出。我々の市場は、私が正式に採用された1996年の100カ国から現在は140カ国まで増えた。

WWD:プレステージビューティの世界では転職を繰り返してキャリアアップする人が多い中、「クラランス」一筋の人生を歩んでいる。長年勤め続ける「クラランス」の魅力とは?

ズリエン:70年間ブレない会社のフィロソフィー「女性の声に耳を傾け、そのニーズを理解し、厳選された植物成分を配合した肌に響く製品を開発すること」に共感する社員が集まっているため、勤続年数の長い社員が多い。同族会社で、クラランス一家が全社員への思いやりや尊敬を大事にしているのも特徴だ。また2つのチームが全く異なる2種のイノベーションを追求しており、社員がお客さまに提供する製品の質や効果を信じている。そうすると、仕事は運命になる。私も、毎朝出社するのが幸せだ。意義を見いだせた会社を、大抵の人は辞めようとは思わない。子会社のトップにも、販売員として当社でのキャリアをスタートした人材が多い。

「たゆまざる革新」と「断絶のイノベーション」

WWD:昨年は、“フィックス メイクアップ N”や“ダブル セーラム ADC”など基幹製品を刷新した。大胆に繰り返すイノベーションで追求することは?

ズリエン:「クラランス」は「たゆまざる革新」と「断絶のイノベーション」、2つのタイプのイノベーションを追求している。前者のチームは、新製品をローンチするたびに次の世代の構想を始める。毎月、全世界の30万人のお客さまの声を聞く。植物研究の新たな知見や、お客さまからのフィードバックを生かし、常にアップデートを試みている。

後者のチームはイノベーションのトレンドにアンテナを張り、白紙の状態から研究を始める。皮膚医学や植物学を研究する中で、「クラランス」専属の民族植物学者は世界中を旅して回り、その植物がそれぞれの文化で薬学的にどう用いられているかをひもとく。アマゾンやマダガスカルへ直接足を運んだり、日本の薬の歴史を研究したりする。そこで得た植物の新たな知見を、「クラランス」が目的とする皮膚状態の改善にどう活用できるかを考える。「断絶」とは、通念や通例、既存品からの進化を意味する。

WWD:“ダブル セーラム ADC”のリニューアルについて教えてほしい。

ズリエン:9代目となる“ダブル セーラム ADC”は、エピジェネティクス(後天遺伝学)に着目した。創設者の息子の一人であり、整形外科医のオリヴィエ・クルタン・クラランス(Olivier Courtin Clarins)博士が、規則正しい健康的な生活を送っている人の方が手術後の皮膚の回復が速く、傷跡も残らないと気付いたことが発端だ。そこで「クラランス」は同じ遺伝子を持つ30組60人の一卵性双生児の女性を集め、後天的要因が肌の老化と兆候にどのような影響を与えるのかを研究した。皮膚への影響は35%が遺伝子由来、65%がエピジェネティクスによるものだった。つまり環境や睡眠不足、食生活、タバコなどの生活習慣が皮膚に大きな影響を与えている。

加齢による肌の劣化が顕著だった双子の片方にだけ“ダブル セーラム ADC”を与えたところ、肌の状態がもう一方に近付いてきた。8代目までが対象としていたのは35%に当たる遺伝子の部分だったが、今回のリニューアルによって残りの65%にもアプローチできるようになった。「断絶のイノベーション」チームによりエピジェネティクスに着目できた。

「美しく歳を重ねるためのパートナーでありたい」

WWD:「クラランス」が大切にしていることは?

ズリエン:「クラランス」は3つの大きな誇りを持っている。1つ目は、独立した同族会社の立場を守り続けていること。1980年代には一度上場したが、自由を取り戻すため2008年に上場を廃止した。これにより長期的な視野に立ち運営できるようになり、即座に決断しアクションを起こせるようになった。2つ目は成長率だ。直近の7年間で売上高は倍増し、20億ユーロ(約3120億円)になった。イノベーションを追求した製品の質の高さや、ブランドの存在意義が全世界で高く評価されている。3つ目はジャック・クルタン・クラランス(Jacques Courtin Clarins)=創設者による、社会貢献の理念を継承していること。人生、そして世界をより美しくすることを企業のミッションとしている。

WWD:今後の展望は?

ズリエン:フランス製にこだわる当社は昨年10月に2軒目の工場を建設し、製造力を倍増させた。また4月には、南仏ニーム近郊の農地を新たに取得した。全ての植物を有機栽培し、リジェネラティブ農業(環境再生型農業)としての認定も受けている。新しい工場と農地により、最上質の植物原料の採取とトレーサビリティー(追跡可能性)の担保を実現する。30 年までに、製品に必要な植物原料の3分の1を同農地や、同じく16年に取得したオート・サヴォワの区域から調達する目標だ。トレーサビリティーに関しては、7年かけて開発した「トラスト(T.R.U.S.T.)」というシステムを23年8月に導入した。お客さまは製品の原料がいつどこで採取され、いつ工場で配合され、いつ日本に発送され店頭に並んだのかを確認することができる。カーボンフットプリントも開示できるようシステム開発を進めており、お客さまとの信頼関係をさらに深めていく。

WWD:最終的に、人々にはどうなってほしいのか?

ズリエン:私たちは、自分が美しいと感じるためには至福感が必要だと考えている。毎日肌の手入れをして、肌がきれいになっていく実感は至福感につながる。それは結果として、加齢に対する予防効果もある。自分を愛し、美しいと感じられ、「クラランス」の製品を使うことに喜びを見いだしていただきたい。「クラランス」は奇跡は約束しないが、美しく歳を重ねるためのパートナーでありたい。そして私には、当社に20年、30年勤続している女性たちをいつか広告に出したいという夢がある。皆驚くほど肌がきれいだから。

本文中の円換算レート:1ユーロ=156円

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河村康輔が語る「創作」と「仕事」——パンク・ハードコアからコラージュの世界へ

PROFILE: 河村康輔/アーティスト、グラフィックデザイナー

PROFILE: (かわむら・こうすけ)1979年広島県生まれ。コラージュアーティストとして多くのアーティストとの‬コラボレーションや国内外での個展、グループ展に多数参加。代表作に大友克洋の初の大規模原画展「大友克洋‬ GENGA展」(2012)メインビジュアル制作や「AKIRA」を使用したコラージュ作品「AKIRA ART WALL‬ PROJECT」(19)、個展「TRY SOMETHING BETTER」(21)など。現在もアパレルブランドへ‬のグラフィックワーク、ジャケット、書籍の装丁、広告デザイン、アートディレクションで活躍している。21‬年に「UT」のクリエイティブディレクターに就任。‬24年10月にはロックバンド「オアシス(OASIS)」の公式ロゴをシュレッダーアートの作品として発表した。

「UT」のクリエイティブディレクターやロックバンド、オアシスの公式ロゴを担当するなど、世界的な仕事を手掛けるアーティスト、グラフィックデザイナーの河村康輔。もともとはパンク・ハードコアが好きで、それをきっかけにコラージュでの作品制作を行うようになった。今回、河村の創作のルーツから多くのブランドとのコラボレーションについて、話を聞いた。

影響を受けたウィンストン・スミスと裏原文化

——河村さんの出身は広島ですが、10代の頃からパンク・ハードコアのライブを見るために上京していたとか。

河村康輔(以下、河村):中3から高1になる春休み、だから1994年ですかね、その頃に初めて東京へ行きました。パンク・ハードコアが専門だったので、新宿のライブハウス「アンチノック(ANTIKNOCK)」が多かったかな。お金が貯まると広島から高速バスに乗って、行ける限り行ってました。今ちょうど2月なので、よく覚えているのは、渋谷の「ギグアンティック(GIG-ANTIC)」で、「POGO77 RECORDS」というレーベルが主催する、バレンタインデーにチョコをもらえないパンクス集合みたいな企画があって、当時の彼女に嘘ついてそのライブに行ったら、のちのち嘘がバレてふられました。懐かしいなぁ。

——アメリカのハードコアバンド、デッド・ケネディーズ(DEAD KENNEDYS)のジャケットを手掛けたコラージュ・アーティストのウィンストン・スミス(WINSTON SMITH)との共作もありますが、コラージュとの出会いも、バンドのジャケットやフライヤーですか?

河村:そもそも最初にパンクを知ったのは14歳ぐらい、セックス・ピストルズ(SEX PISTOLS)ですね。今考えると、ピストルズのアートワークにもコラージュが使われていますけど、当時はそんなこと全然意識してなくて。デッド・ケネディーズも初めて先輩から教えてもらって聴いたのがファーストアルバムだったので、ファーストのジャケットはコラージュではないんですよ。なので、ジャケットで「うわ、なにこれ」と思ったのでいうと、ラード(LARD)の「LAST TEMPTATION OF REID」。あれでウィンストン・スミスのコラージュにやられた感じです。

——グラフィックデザインに興味を持ったのもその頃?

河村:僕が思春期だった1990年代の中盤は、いわゆる裏原文化が全盛期で。「バウンティーハンター(BOUNTY HUNTER)」のヒカルさんやデザイナーのSKATE THING(スケシン)さんが雑誌にめっちゃ出ていたんです。それで、スケシンさんの肩書きに「グラフィックデザイナー」と書いてあって、そういう仕事があるんだと知って、グラフィックデザイナーになりたいって思いました。具体的に何をしているかはよく分からないまま(笑)。

一方でヒカルさんの方は、パンク・ハードコアバンドのTシャツをよく着ていて、なのに本業はおもちゃ屋さんで、ポップなフィギュアとかを雑誌で紹介していたんです。ハードコアのダークでアンダーグラウンドな文化とポップな趣味が両立するんだっていうことに感銘を受けましたね。

——そこから、自分でも何か作ってみたいと?

河村:そういう流れでラードのジャケットを見た時に、まさにハードコアとポップが融合していたんです。しかも、初めて見た時はすっごい絵がうまいんだなと思っていたのが、実は切り貼りのコラージュだと分かって。僕はいまだに絵は全然描けないのですが、当時から手先だけは器用だったので、切り貼りならできるかもって。そこから一気に、見るだけじゃなく、自分がやってみたいこととして興味を持ちました。

ちょうどその頃、高校1年生くらいの時、地元でバンドをやっている友達からフライヤーのデザインを頼まれることが多くて。それこそ、ピストルズのアートワークを手掛けたジェイミー・リード(Jamie Reid)じゃないですけど、雑誌の文字を切り抜いたりして、フライヤーを作っていたんです。ただ、自分で絵は描けないので、メインのビジュアルは写真を切り貼りして。これを極めていけば、ラードのジャケットまでいくのかも、みたいなことは考えていました。

「絶対にこのシーンの一員になると誓った気持ちがいまだに残ってる」

——河村さんの初期の仕事としては、ホラーやスプラッター映画の日本版をリリースする「トラッシュマウンテンビデオ」のジャケットデザインがあります。

河村:ハードコア好きの人たちはトラッシュ系のB級映画好きも多いので、そこは自分が10代からやっていたバンドのフライヤーデザインとも自然とつながっていきました。趣味としては一貫している感じ。当時はそれで成功しようなんてまったく思ってなくて、そもそも「トラッシュマウンテンビデオ」の仕事はほぼノーギャラでしたから(笑)。バイトしないで好きなことをして、なんとか東京で生活できたらいいな、くらいに思ってましたね。

——仕事の幅が広がる転機となったのは?

河村:人との出会いでいうと、最初に大きかったのは根本敬さんですかね。アップリンクがまだ渋谷の消防署の近くのビルにあった頃に、自分で作ったフライヤーを勝手に置いてきたんですよ。そうしたら、次の日にアップリンクの人から電話がかかってきて、これは怒られるだろうなと思ったら、「面白いので一度会いませんか?」って。それで、アップリンクでイベントをやっていた根本敬さんを紹介してもらって、全然仕事がないこととかを話したら、根本さんが「ここに電話してみな」って、デザインの仕事をくれそうな会社を教えてくれたんです。それが、のちに「ERECT Magazine」を一緒に作ることになる福田(亮)の会社でした。

——「ERECT Magazine」は、創刊号からウィンストン・スミスの特集を組んで、本人に会いにサンフランシスコまで行ったり、気合いの入ったハードコア雑誌でした。

河村:もともと福田の会社が業界誌に広告を出す予算が60万円くらいあって、「この金があったら何したい?」って聞かれて、「雑誌作りたい」って言ったんです。そうしたら「じゃあやろう」って。でも僕は雑誌なんて作ったことなかったから、入稿のやり方も知らないし、今考えると、とんでもないデータを作ってましたよ。

——河村さんの対談集「1q7q LOVE AND PEACE」(東京キララ社)を読むと、先ほど名前の挙がった根本敬や、大友克洋、田名網敬一、伊藤桂司といった方々とコラボレーションするに至るまでの経緯が細かく語られていますが、人との出会いがきちんと作品や仕事につながっているのがすごいなと。

河村:僕が気をつかわないからじゃないですかね(笑)。有名とか無名とか興味ないし、どんなに大御所の人であっても、敬意を持って接してはいますが、最初に会った時には一緒に仕事しようとか、仲良くなっておこうとか、一切思ってないんですよ。好きな音楽の話とか趣味の話をしてるだけ。あ、でも、直感は超働くので、合わないなって感じた人とは全然しゃべらないです(笑)。

あと、出会いを大切にするという意味では、まだ広島に住んでいた頃、東京にライブを見に来るたびに、自分は帰らないといけないのに、パンクスのみんなは駅前の路上とかでずっと飲んでるんですよ。それが本当に悔しくて。悔しいというか、もうつらかった。それで、バチバチの鋲ジャン着て夜中に高速バスに乗りながら、絶対東京に来て、このシーンの一員になるんだって誓ったんです。その気持ちがいまだに残っているので、東京で面白い人と出会えるだけでうれしいんですよね。

大企業案件と友達のバンドのジャケットを同時進行で

——その頃と比べて、憧れだったウィンストン・スミスやジェイミー・リードとの共作をはじめ、ユニクロ「UT」のクリエイティブディレクターといった大企業の案件もたくさん手掛けるようになった現在の自分は、どう見えていますか?

河村:それが全然変わらないんですよ。テーマや題材が違うだけで、やってることは友達のバンドのフライヤーを作っている頃からずっと同じ。というか、今でもバンドのジャケットとかバンバン作ってますからね。まさに今も、超大企業とのコラボ案件を進めながら、三重のcontrast attitudeというハードコアバンドのジャケットを同時進行でやってます。テンションもやり方もまったく一緒で、題材が違うだけです。

——新作となる加熱式たばこ“プルーム(Ploom)”とのコラボレーションについても聞かせてください。

河村:商品とのコラボレーションは、当たり前ですが自分の作品ではないので、その商品を使う人のことを第一に考えます。僕は作家脳とは別にグラフィックデザイナー脳もあるので、そっちの脳を働かせているイメージ。特に“プルーム”は喫煙具という常に持ち歩くもので、デザインを乗せられる範囲も小さい。だったら写真や絵のコラージュではなく、かっこいい柄がいいかなと。その上で、僕の熱心なファンとかではない、幅広い層に喜んでもらうために、テイストは出すけど主張はし過ぎない、でもコレクションアイテムとして欲しくなるようなデザインを作りました。

——ご自身の原点にあるハードコアやパンクの作風とは別で、現在進行形のトレンドや人気の傾向は意識しますか?

河村:意識はしないですね。意識はしてないですけど、そういうものは自然と入ってくるじゃないですか。Tシャツでも前までMサイズだったのが、今はLとかXLの方がいいなとか。そういう感じで、無意識に入ってくる感覚はいつの間にか反映されていくと思うので、それ以上に前のめりでチェックしたりとかはしないです。

でも、流行の面白さも分かるので、どうせ乗るなら最先端の超細いところは狙っていきたい。でかい波が来た時に、その真ん中にいるのは二番煎じなんですよ。そうではなく、1年後には定番になるなっていうものを見つけて、流行る1年前には手をつける。そうすれば、表現としての完成度は低くても、最初だから誰も文句を言えないし、結果的にそれが一番目立つ。そもそもコラージュなんて100年前からある手法ですからね。絵画とかもそうですが、古い手法の中でどれだけ新しいことを発見して、続けていけるか。それだけだと思います。

「飽きないために、やりきった先で技術を磨く」

——コラージュという手法・表現を追求していく過程で、ご自身の中で、もうやり切ったとか飽きてきた、みたいなことはないですか。

河村:やり切った感は感じたことありますよ。大友克洋さんとコラボレーションした「大友克洋GENGA展」の時ですね。大友さんのことはずっと大好きだったし、そのご本人から「自分の作品として好きにやっていいよ」と言われていたので、本気出しまくったんです。1つの絵の中に、これ以上はもうどうやっても貼れないくらいの量をぶち込んで、やりたいことも全部やった。それで完成した作品は、大友さんも喜んでくれたし、自分的にも満足できたんです。そうしたら、めっちゃ飽きました。

——でも「大友克洋GENGA展」をきっかけに、仕事は急増したんじゃないですか?

河村:そうなんですよ。せっかく新しいクライアントからオファーをいただけるようになったのに、そのタイミングで飽きてるなんて、意味分かんないですよね。なので、どうにか新しいことをしようと思って発見した1つが、シュレッダーを使った切り貼りだったりします。

——シュレッダーで縦に裁断された紙を素材にコラージュする技法ですね。

河村:思いついたきっかけは、「2ND(ツー・エヌ・ディー)」という1冊目の作品集を作っている時に、もう今日中に全ページ入稿しないと間に合わないって日になって、載せる作品の数が足りないことが発覚したんです。それで、どうしようと焦っている時に、事務所にあったシュレッダーが目に入って、試しに裁断した紙を貼り付けたら、だいぶいい感じになって。時間も1作品20分くらいで完成したので、これで入稿できる、というのが最初でした。

——その場しのぎで思いついた手法が、今では1つの代名詞になり。

河村:ですね。しかも、そのギリギリ入稿した日に、たまたま大友克洋さんから連絡があって、一緒にご飯を食べることになったんですよ。で、持っていたシュレッダーの作品を見せたら、「面白いじゃん。もっと突き詰めた方がいいよ」と言ってくださって、大友さんが言うなら突き詰めてみようって。なので、初めてシュレッダーを使った作品を発表した「2ND」の帯は、大友さんが書いているんです。

——まさに「古い手法の中での新しい発見」ですね。

河村:そう。あと、飽きないためのもう一つは、技術を磨くことですね。技術ならいくらでも伸ばすことができるじゃないですか。それで、手で貼る精度を高めまくって、もはやデジタルとの差が分からないぐらいのところまでもっていくようにしました。で、アナログの手貼りを極めたら、あえてデジタルでもやってみる。そうすると、デジタルに見えるけどアナログだったり、逆に、手で貼ってるかと思えばデジタルだったりして、混乱させることで新鮮さが生まれました。

——企業案件となると、作品とは違い、制約があったり改変を求められたりもしますよね?

河村:オーダーを制約とは思ってないんですよ。お題をもらった、くらいの感覚。改変についても、完成させるまでは本気でやってますけど、作ったものを提出したあとのことについては、こだわりがまったくない。SNS用にリサイズしたいとか言われても、基本的には自由にやっていいですよっていう。でも、そこまでひどいことをされた経験はないので、皆さんの優しさのおかげです。

——コラボレーションする相手の見極めとかは?

河村:そもそも、この人とコラボレーションしたい、というのもないんです。好きなブランドや尊敬する作家はたくさんいますけど、それで一緒に仕事したいっていうふうにはならないんですよ。僕自身が超絶オープンなので、オファーがあればやりますっていう感じで。そもそも僕のコラージュとコラボするっていうのは、エフェクトみたいなもので、素材次第でいろんな方向にいけるし、見え方も変わってくる。なので、切り貼りする素材さえあれば、いくらでも自由自在にコラボができる。そこが一番の楽しみであり、コラージュの魅力だと思います。

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河村康輔が語る「創作」と「仕事」——パンク・ハードコアからコラージュの世界へ

PROFILE: 河村康輔/アーティスト、グラフィックデザイナー

PROFILE: (かわむら・こうすけ)1979年広島県生まれ。コラージュアーティストとして多くのアーティストとの‬コラボレーションや国内外での個展、グループ展に多数参加。代表作に大友克洋の初の大規模原画展「大友克洋‬ GENGA展」(2012)メインビジュアル制作や「AKIRA」を使用したコラージュ作品「AKIRA ART WALL‬ PROJECT」(19)、個展「TRY SOMETHING BETTER」(21)など。現在もアパレルブランドへ‬のグラフィックワーク、ジャケット、書籍の装丁、広告デザイン、アートディレクションで活躍している。21‬年に「UT」のクリエイティブディレクターに就任。‬24年10月にはロックバンド「オアシス(OASIS)」の公式ロゴをシュレッダーアートの作品として発表した。

「UT」のクリエイティブディレクターやロックバンド、オアシスの公式ロゴを担当するなど、世界的な仕事を手掛けるアーティスト、グラフィックデザイナーの河村康輔。もともとはパンク・ハードコアが好きで、それをきっかけにコラージュでの作品制作を行うようになった。今回、河村の創作のルーツから多くのブランドとのコラボレーションについて、話を聞いた。

影響を受けたウィンストン・スミスと裏原文化

——河村さんの出身は広島ですが、10代の頃からパンク・ハードコアのライブを見るために上京していたとか。

河村康輔(以下、河村):中3から高1になる春休み、だから1994年ですかね、その頃に初めて東京へ行きました。パンク・ハードコアが専門だったので、新宿のライブハウス「アンチノック(ANTIKNOCK)」が多かったかな。お金が貯まると広島から高速バスに乗って、行ける限り行ってました。今ちょうど2月なので、よく覚えているのは、渋谷の「ギグアンティック(GIG-ANTIC)」で、「POGO77 RECORDS」というレーベルが主催する、バレンタインデーにチョコをもらえないパンクス集合みたいな企画があって、当時の彼女に嘘ついてそのライブに行ったら、のちのち嘘がバレてふられました。懐かしいなぁ。

——アメリカのハードコアバンド、デッド・ケネディーズ(DEAD KENNEDYS)のジャケットを手掛けたコラージュ・アーティストのウィンストン・スミス(WINSTON SMITH)との共作もありますが、コラージュとの出会いも、バンドのジャケットやフライヤーですか?

河村:そもそも最初にパンクを知ったのは14歳ぐらい、セックス・ピストルズ(SEX PISTOLS)ですね。今考えると、ピストルズのアートワークにもコラージュが使われていますけど、当時はそんなこと全然意識してなくて。デッド・ケネディーズも初めて先輩から教えてもらって聴いたのがファーストアルバムだったので、ファーストのジャケットはコラージュではないんですよ。なので、ジャケットで「うわ、なにこれ」と思ったのでいうと、ラード(LARD)の「LAST TEMPTATION OF REID」。あれでウィンストン・スミスのコラージュにやられた感じです。

——グラフィックデザインに興味を持ったのもその頃?

河村:僕が思春期だった1990年代の中盤は、いわゆる裏原文化が全盛期で。「バウンティーハンター(BOUNTY HUNTER)」のヒカルさんやデザイナーのSKATE THING(スケシン)さんが雑誌にめっちゃ出ていたんです。それで、スケシンさんの肩書きに「グラフィックデザイナー」と書いてあって、そういう仕事があるんだと知って、グラフィックデザイナーになりたいって思いました。具体的に何をしているかはよく分からないまま(笑)。

一方でヒカルさんの方は、パンク・ハードコアバンドのTシャツをよく着ていて、なのに本業はおもちゃ屋さんで、ポップなフィギュアとかを雑誌で紹介していたんです。ハードコアのダークでアンダーグラウンドな文化とポップな趣味が両立するんだっていうことに感銘を受けましたね。

——そこから、自分でも何か作ってみたいと?

河村:そういう流れでラードのジャケットを見た時に、まさにハードコアとポップが融合していたんです。しかも、初めて見た時はすっごい絵がうまいんだなと思っていたのが、実は切り貼りのコラージュだと分かって。僕はいまだに絵は全然描けないのですが、当時から手先だけは器用だったので、切り貼りならできるかもって。そこから一気に、見るだけじゃなく、自分がやってみたいこととして興味を持ちました。

ちょうどその頃、高校1年生くらいの時、地元でバンドをやっている友達からフライヤーのデザインを頼まれることが多くて。それこそ、ピストルズのアートワークを手掛けたジェイミー・リード(Jamie Reid)じゃないですけど、雑誌の文字を切り抜いたりして、フライヤーを作っていたんです。ただ、自分で絵は描けないので、メインのビジュアルは写真を切り貼りして。これを極めていけば、ラードのジャケットまでいくのかも、みたいなことは考えていました。

「絶対にこのシーンの一員になると誓った気持ちがいまだに残ってる」

——河村さんの初期の仕事としては、ホラーやスプラッター映画の日本版をリリースする「トラッシュマウンテンビデオ」のジャケットデザインがあります。

河村:ハードコア好きの人たちはトラッシュ系のB級映画好きも多いので、そこは自分が10代からやっていたバンドのフライヤーデザインとも自然とつながっていきました。趣味としては一貫している感じ。当時はそれで成功しようなんてまったく思ってなくて、そもそも「トラッシュマウンテンビデオ」の仕事はほぼノーギャラでしたから(笑)。バイトしないで好きなことをして、なんとか東京で生活できたらいいな、くらいに思ってましたね。

——仕事の幅が広がる転機となったのは?

河村:人との出会いでいうと、最初に大きかったのは根本敬さんですかね。アップリンクがまだ渋谷の消防署の近くのビルにあった頃に、自分で作ったフライヤーを勝手に置いてきたんですよ。そうしたら、次の日にアップリンクの人から電話がかかってきて、これは怒られるだろうなと思ったら、「面白いので一度会いませんか?」って。それで、アップリンクでイベントをやっていた根本敬さんを紹介してもらって、全然仕事がないこととかを話したら、根本さんが「ここに電話してみな」って、デザインの仕事をくれそうな会社を教えてくれたんです。それが、のちに「ERECT Magazine」を一緒に作ることになる福田(亮)の会社でした。

——「ERECT Magazine」は、創刊号からウィンストン・スミスの特集を組んで、本人に会いにサンフランシスコまで行ったり、気合いの入ったハードコア雑誌でした。

河村:もともと福田の会社が業界誌に広告を出す予算が60万円くらいあって、「この金があったら何したい?」って聞かれて、「雑誌作りたい」って言ったんです。そうしたら「じゃあやろう」って。でも僕は雑誌なんて作ったことなかったから、入稿のやり方も知らないし、今考えると、とんでもないデータを作ってましたよ。

——河村さんの対談集「1q7q LOVE AND PEACE」(東京キララ社)を読むと、先ほど名前の挙がった根本敬や、大友克洋、田名網敬一、伊藤桂司といった方々とコラボレーションするに至るまでの経緯が細かく語られていますが、人との出会いがきちんと作品や仕事につながっているのがすごいなと。

河村:僕が気をつかわないからじゃないですかね(笑)。有名とか無名とか興味ないし、どんなに大御所の人であっても、敬意を持って接してはいますが、最初に会った時には一緒に仕事しようとか、仲良くなっておこうとか、一切思ってないんですよ。好きな音楽の話とか趣味の話をしてるだけ。あ、でも、直感は超働くので、合わないなって感じた人とは全然しゃべらないです(笑)。

あと、出会いを大切にするという意味では、まだ広島に住んでいた頃、東京にライブを見に来るたびに、自分は帰らないといけないのに、パンクスのみんなは駅前の路上とかでずっと飲んでるんですよ。それが本当に悔しくて。悔しいというか、もうつらかった。それで、バチバチの鋲ジャン着て夜中に高速バスに乗りながら、絶対東京に来て、このシーンの一員になるんだって誓ったんです。その気持ちがいまだに残っているので、東京で面白い人と出会えるだけでうれしいんですよね。

大企業案件と友達のバンドのジャケットを同時進行で

——その頃と比べて、憧れだったウィンストン・スミスやジェイミー・リードとの共作をはじめ、ユニクロ「UT」のクリエイティブディレクターといった大企業の案件もたくさん手掛けるようになった現在の自分は、どう見えていますか?

河村:それが全然変わらないんですよ。テーマや題材が違うだけで、やってることは友達のバンドのフライヤーを作っている頃からずっと同じ。というか、今でもバンドのジャケットとかバンバン作ってますからね。まさに今も、超大企業とのコラボ案件を進めながら、三重のcontrast attitudeというハードコアバンドのジャケットを同時進行でやってます。テンションもやり方もまったく一緒で、題材が違うだけです。

——新作となる加熱式たばこ“プルーム(Ploom)”とのコラボレーションについても聞かせてください。

河村:商品とのコラボレーションは、当たり前ですが自分の作品ではないので、その商品を使う人のことを第一に考えます。僕は作家脳とは別にグラフィックデザイナー脳もあるので、そっちの脳を働かせているイメージ。特に“プルーム”は喫煙具という常に持ち歩くもので、デザインを乗せられる範囲も小さい。だったら写真や絵のコラージュではなく、かっこいい柄がいいかなと。その上で、僕の熱心なファンとかではない、幅広い層に喜んでもらうために、テイストは出すけど主張はし過ぎない、でもコレクションアイテムとして欲しくなるようなデザインを作りました。

——ご自身の原点にあるハードコアやパンクの作風とは別で、現在進行形のトレンドや人気の傾向は意識しますか?

河村:意識はしないですね。意識はしてないですけど、そういうものは自然と入ってくるじゃないですか。Tシャツでも前までMサイズだったのが、今はLとかXLの方がいいなとか。そういう感じで、無意識に入ってくる感覚はいつの間にか反映されていくと思うので、それ以上に前のめりでチェックしたりとかはしないです。

でも、流行の面白さも分かるので、どうせ乗るなら最先端の超細いところは狙っていきたい。でかい波が来た時に、その真ん中にいるのは二番煎じなんですよ。そうではなく、1年後には定番になるなっていうものを見つけて、流行る1年前には手をつける。そうすれば、表現としての完成度は低くても、最初だから誰も文句を言えないし、結果的にそれが一番目立つ。そもそもコラージュなんて100年前からある手法ですからね。絵画とかもそうですが、古い手法の中でどれだけ新しいことを発見して、続けていけるか。それだけだと思います。

「飽きないために、やりきった先で技術を磨く」

——コラージュという手法・表現を追求していく過程で、ご自身の中で、もうやり切ったとか飽きてきた、みたいなことはないですか。

河村:やり切った感は感じたことありますよ。大友克洋さんとコラボレーションした「大友克洋GENGA展」の時ですね。大友さんのことはずっと大好きだったし、そのご本人から「自分の作品として好きにやっていいよ」と言われていたので、本気出しまくったんです。1つの絵の中に、これ以上はもうどうやっても貼れないくらいの量をぶち込んで、やりたいことも全部やった。それで完成した作品は、大友さんも喜んでくれたし、自分的にも満足できたんです。そうしたら、めっちゃ飽きました。

——でも「大友克洋GENGA展」をきっかけに、仕事は急増したんじゃないですか?

河村:そうなんですよ。せっかく新しいクライアントからオファーをいただけるようになったのに、そのタイミングで飽きてるなんて、意味分かんないですよね。なので、どうにか新しいことをしようと思って発見した1つが、シュレッダーを使った切り貼りだったりします。

——シュレッダーで縦に裁断された紙を素材にコラージュする技法ですね。

河村:思いついたきっかけは、「2ND(ツー・エヌ・ディー)」という1冊目の作品集を作っている時に、もう今日中に全ページ入稿しないと間に合わないって日になって、載せる作品の数が足りないことが発覚したんです。それで、どうしようと焦っている時に、事務所にあったシュレッダーが目に入って、試しに裁断した紙を貼り付けたら、だいぶいい感じになって。時間も1作品20分くらいで完成したので、これで入稿できる、というのが最初でした。

——その場しのぎで思いついた手法が、今では1つの代名詞になり。

河村:ですね。しかも、そのギリギリ入稿した日に、たまたま大友克洋さんから連絡があって、一緒にご飯を食べることになったんですよ。で、持っていたシュレッダーの作品を見せたら、「面白いじゃん。もっと突き詰めた方がいいよ」と言ってくださって、大友さんが言うなら突き詰めてみようって。なので、初めてシュレッダーを使った作品を発表した「2ND」の帯は、大友さんが書いているんです。

——まさに「古い手法の中での新しい発見」ですね。

河村:そう。あと、飽きないためのもう一つは、技術を磨くことですね。技術ならいくらでも伸ばすことができるじゃないですか。それで、手で貼る精度を高めまくって、もはやデジタルとの差が分からないぐらいのところまでもっていくようにしました。で、アナログの手貼りを極めたら、あえてデジタルでもやってみる。そうすると、デジタルに見えるけどアナログだったり、逆に、手で貼ってるかと思えばデジタルだったりして、混乱させることで新鮮さが生まれました。

——企業案件となると、作品とは違い、制約があったり改変を求められたりもしますよね?

河村:オーダーを制約とは思ってないんですよ。お題をもらった、くらいの感覚。改変についても、完成させるまでは本気でやってますけど、作ったものを提出したあとのことについては、こだわりがまったくない。SNS用にリサイズしたいとか言われても、基本的には自由にやっていいですよっていう。でも、そこまでひどいことをされた経験はないので、皆さんの優しさのおかげです。

——コラボレーションする相手の見極めとかは?

河村:そもそも、この人とコラボレーションしたい、というのもないんです。好きなブランドや尊敬する作家はたくさんいますけど、それで一緒に仕事したいっていうふうにはならないんですよ。僕自身が超絶オープンなので、オファーがあればやりますっていう感じで。そもそも僕のコラージュとコラボするっていうのは、エフェクトみたいなもので、素材次第でいろんな方向にいけるし、見え方も変わってくる。なので、切り貼りする素材さえあれば、いくらでも自由自在にコラボができる。そこが一番の楽しみであり、コラージュの魅力だと思います。

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スティル・ハウス・プランツ インタビュー 感性と相互研鑽が紡ぐボーダレスな音楽とは

昨年9月、実験音楽、オーディオビジュアルアート、パフォーミングアーツを紹介するプラットフォーム「モード(MODE)」は、実験音楽イベント「モード アット リキッドルーム(MODE AT LIQUIDROOM)」を、恵比寿リキッドルームで開催した。

今回は日野浩志郎率いる5 人編成のリズムアンサンブル、ゴート(goat)と、ロンドンを拠点に活動するエクスペリメンタル・ロックバンド、スティル・ハウス・プランツ(Still House Plants)のダブルビル公演が実現。

スティル・ハウス・プランツは、ボーカルのジェス・ヒッキー・カレンバッハ(Jess Hickie-Kallenbach)、ギターのフィンことフィンレイ・クラーク(Finlay Clark)、ドラムのデヴィッド・ケネディー(David Kennedy)から成るスリーピースバンド。2013 年にスコットランドのグラスゴー美術学校で出会った3人は、それぞれ視覚芸術を専攻するかたわらで音楽制作を始めた。ジャズやソウル、ポストロックのムードが漂うフレキシブルなサウンド、劇的でメロディアスな歌声、リスナーの自由な想像力を誘う詩など、独自の音楽性が世界的に注目を集めており、昨年4月に3作目となるアルバム「If I Don't Make It, I Love U」をリリースした。

多彩な感性のメンバーが織りなす楽曲は、制作からライブを経て何度も演奏するうち、各パートの役割や内包されるイメージ、言葉の意味が変容し進化していく。「モード」の公演のため来日した彼らに、音楽性やクリエイティビティーの背景について話を聞いた。

アートを学びながら自然な流れで始めた音楽活動
感覚的なプレイを生かした制作プロセス

ーーバンドの結成について。3人は同じグラスゴーのアートスクールで出会ったそうですが、それぞれ絵画や写真を専攻しながら、音楽の道へと進んだ経緯について教えてください。

フィンレイ・クラーク(以下、フィン):音楽学校に行きたくて、何校か見学しましたが、いずれもピンと来なかったんです。近い考えを持った人たちと過ごしたいと思っていましたが、音楽学校はそういう場所ではないと感じて、アートスクールに行って楽器をやろうと考えました。絵画コースは絵を描くことが必須ではなく、自由度が高いと聞いていたので、音楽も作れるんじゃないかと。結果的に最適な選択でした。そこでデヴィッドに出会ったんです。

ジェス・ヒッキー・カレンバッハ(以下、ジェス):私は写真や映像を専攻しましたが、フィンに出会って、すぐに一緒に音楽制作を始めました。最初は気軽なノリで自宅で音楽を作っていて、長時間の演奏を通して自分たちのサウンドを探求していました。

フィン:僕は、自宅のベッドルームで制作した音楽作品を、絵画コースの課題として提出していました。CD に録音した音楽の断片や、演奏している様子を撮影したビデオなど。自分にとってこれは絵画でもあると考えていました。

ジェス:ライブ活動を始めてから、演奏の度に次のライブの依頼をもらうようになりました。楽しみながら音楽活動を続けていただけで、音楽の道でキャリアを築こうと、あらためて決意したことは一度もないんです。信頼する友人やコラボレーターと一緒に音楽制作に取り組めて、気がつくと夢中になっていました。

フィン:グラスゴーの音楽シーンのコミュニティーはとても協力的です。僕らが拠点にしていたグリーン・ドア・スタジオには刺激的なミュージシャンが集まっていて、そこで出会った人たちと一緒にツアーをしたり、車でイギリス中を回ったりもしました。アートについて学ぶかたわらで、音楽活動にも意義を見出していました。

デヴィッド・ケネディー(以下、デヴィッド):僕は子供の頃からドラムを演奏していましたが、15 歳の時にドラムとの関わり方が分からなくなってやめたんです。その後アートスクールに進学しましたが、学校ではドラムを演奏するつもりはありませんでした。でもフィンたちと知り合ってからは、自然とまたドラムを叩くように。ここ数年で、自分は本当にドラムが好きなんだと気づきました。一度ドラムから離れて良かったと思います。多くの経験を経て、新しい視点を持ってドラムに戻ってくることができたので。

ーー初期のアルバムでは各人の演奏をサンプリングした音源を使ってコラージュのように制作した作品が印象的です。最新アルバムはどのように制作を進めたのでしょうか。

ジェス:以前はメンバー3人が離れた場所で生活していたので、各々の演奏を録音した音源を細切れに分割して、サンプリングのように切り貼りして作曲せざるを得ませんでした。卒業後、パンデミックの最中に全員別々のタイミングでロンドンに引っ越したんです。3人揃って演奏できるようになると、あらゆる方法での曲作りが可能になりました。ダンスミュージックから着想を得たり、ドラムとギターの関係性について探究したり、ヴォーカルループを使ったり。

以前の作品は過ごした時間の「レシート」のようなものでした。時間もお金もないし、スタジオで作業できるのは1日だけ。でも最新作はアルバム自体がアイデアの集積になっていると思います。

デヴィッド:今回のレコーディングでは、幾度となく演奏を重ねるうちに演奏したフレーズを忘れていってしまうので、あとで振り返って確認できるようにリハーサルをすべて録音していました。結果的にそれが作曲プロセスの一部になったんです。聴き返していると「ああ、ここに拍子の変化があったんだな」などの気付きがありました。

最新のアルバムはソリッドな構成になっていますが、当初から意図したわけではなく、自然に任せてできた音楽を洗練させ、最終的に全体をまとめあげたんです。

ジェス:自然で感覚的な作業方法が、プロセスの重要な一部になる。後になって初めてそのことに気付くんです。

フィン:このアルバムを作っていた時、スタジオの壁に「もう少し余白のある曲が必要か?」とか「もっとスローな曲が必要か?」など、自問自答のメモを大量に貼り付けていました。ギターのパートに関しては、自分が楽しく弾けることや、シンプルさと複雑さのバランスに重点を置いています。

自他の創造性を刺激する、余白を残した表現の探究

ーー詩で表現しようとしている内容について教えてください。

ジェス:歌詞で一番大切にしているのは、自由に解釈できるようオープンであること。詩的な発想や哲学的な概念というより、会話の中でふと口にするような内容が多いです。ストーリーを語ることにはあまり興味がありません。

言葉の断片を切り取り、サンプリングすることで何らかのイメージが構築されたり、同じ言葉を反復するうちに意味が変化していったりすることがあります。勝ち誇ったようなニュアンスの言葉でも、繰り返すことで悲しみや寛大さを帯びていくことも。ベーシックなダンスミュージックをサンプリングするとしても、ロマンティックなフレーズを繰り返すことで月並みな響きから誠実な響きに変化していったりします。サンプリングが好きなのはそのためです。

特定の友人や人間関係についての曲をオープンに書いてきたので、歌詞もロマンチックなものが多いかもしれません。ほかにも魂の探求をするような歌詞や、何気ない会話のような言葉など、あらゆる要素を織り交ぜています。

ーーサウンドからは、ミニマルで独特なリズムを基盤に、3人が調和を探っているような印象を受けます。影響を受けたアートや音楽があれば教えてください。

ジェス:それぞれが好きな音楽は多岐にわたっています。共通点も違いもあるのが面白いところです。楽曲にはドラムンベースの要素を取り入れていますが、デヴィッドは、ソースダイレクト(Source Direct)やオウテカ(Autechre)を引き合いに出し、音楽におけるドラムという要素や、ドラムンベースという音楽形態についてよく話をします。

デヴィッド:ジャングルやドラムンベースなどのUK ダンスミュージックの良さは、ドラムが、単にリズムを刻むだけにとどまらず、時に物語を語り、感情を表現し、ボーカルパートのような役割を果たすところ。私たちのバンドも、ドラム、ギター、ベース、ボーカルが固定的な役割を演じるのではなく、すべてが混ざり合い、入れ替わり立ち替わり異なる役割を演じていきます。

フィン:私たちのバンドは、自分たちが一旦作り上げた曲の形を、引き算のようなプロセスを経て、徐々に変化させていきます。その観点でアプローチが魅力的なのは“オープンな楽譜”を書いていた実験音楽家アンソニー・ブラクストン(Anthony Braxton)や、シンプルな構成の中に非対称の長いフレーズがあり、その上にループ音が重なるフランスの現代音楽作曲家オリヴィエ・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen)です。

ジェス:特定の楽曲に直接影響を受けるのではなく、インスパイアされるとしたらアーティストの独創的なアプローチや姿勢の部分ですね。

ーー即興的な要素はありますか?

ジェス:即興で曲を書くというよりは、ジャムセッションの要素の方が強いです。お互いの演奏を目の前で見られるのがジャムの良いところ。演奏をすべて録音し、各々のパートを学び、覚えていく。するとそこに存在するパターンや変化、注意すべきポイントが見えてきます。

また、お互いのパートに対して、各自がアイデアを加える余地を常に残しています。ミスや違い、変化を受け入れる余地を作るのは重要で、それが自ずと楽曲や作曲手法に反映されていくと考えています。

フィン:ジャムを何度も繰り返しながら、ライブ本番までに形になっていきます。ひとつの曲が次の曲へと移行するチェックポイントのような部分もフレキシブルにしているんです。

ジェス:セットリストは演奏のベクトルを示す"矢印"のようなものですね。

ーーこれまでにバイソンレコーズ(bison records)やロンドンのカフェ オト(Cafe OTO)、ニューヨークのブランク フォームズ(Blank Forms)など、実験的でインディペンデントな姿勢を貫くレーベルから作品をリリースしています。彼らに共鳴したポイントは?

ジェス:私たちにとって、インディペンデントな人たちと協働するのは重要なこと。一緒に仕事をする相手と対話してお互いをよく知ることができれば、共感性の高いアイデアを持ってきてくれて仕事につながるんです。

フィン:カフェ オトやブランク フォームズも僕らの活動を見て連絡をくれて、素晴らしいリリースの提案をしてくれた。最初に作品をリリースしたバイソンレコーズも良きパートナーです。

ジェス:大切なのは、アーティストとして自分の作品をコントロールできること。私たちは幸運にも、最初のカセットテープをリリースしてくれたグラーク(GLARC)を含むパートナーたちとの仕事を通して、自律性を保ちながらサポートを受けられる基盤を見つけられたんです。アート作品のような見開きジャケットの特別版LPなど、素晴らしい作品をリリースできたのは最高の経験でした。

音楽とファッションの関係性について

ーー「モード」は、「音楽、アート、ファッションが垣根を超えて自由に融合し、成長する」ことを理念のひとつとして掲げています。ジェスさんは「キコ コスタディノフ(KIKO KOSTADINOV)」×「リーバイス(LEVI’S)」のキャンペーンにもモデルとして登場されていますね。

ジェス:「キコ コスタディノフ」×「リーバイス」のキャンペーンは、私たち姉弟のように容姿が似ている2人に同じ服のスタイリングをして、着こなしにどんな違いが出るかを撮りたいというコンセプトで、私と弟にモデルとして声がかかったんです。バンドとは関係なく、あくまでモデルとして参加しただけなので、自分の音楽的なクリエイティビティーを発揮したわけではないですが、コラボコレクションのアイテムが魅力的だったので、関われて嬉しかったです。

人は、音楽やファッションを通してアイデンティティを追い求め、自分がこの世界でどうあるべきかを考え、その方法を築き上げていく。ファッションだけでなく、音楽やアートにおいても、自分の嗜好やスタイルに固執するという点では、ある意味“部族的”なものだと思います。でも「モード」が提唱するように、ファッション、音楽、アートをミックスすることによる相互作用や変化は、そこに新しい意味や発見をもたらすと思います。

ーーミュージシャンにとって、ファッションは自身のプレゼンスを表現する方法のひとつだと思います。ファッションに関する“信条”はありますか?

ジェス:今回のアルバムに「1日に1000回着替える」というニュアンスの歌詞の曲があります。着ているものが少し変わるだけで、自分が強くなったと感じたり、鎧を身にまとって守られているような気分になったりすることってあるなと思うんです。

フィン:以前はカラフルな服を着ていたこともあるけど、最近は基本的にシンプルで作りが良い、色味を抑えた控えめな印象の服を着まわすことが多いです。朝の時間は色々なことを考えずリラックスしたいので、食事も自分が好きなものを繰り返し食べることが多いです。

デヴィッド:ぼくは、自分に合うものを見つけようと努力したり悩んだりしてきましたが、結局、服はあくまで服であり、何を着てもいいんだと考えるようになりました。

ーー楽器についても、サウンドはもちろん、佇まいがそのミュージシャンの印象を左右するという意味で、ファッションの要素を含むように感じます。フィンさんのギターは特に色がユニークですね。

フィン:このギターはイーベイ(eBay)で買って、自分でパーツを探し集めて組み合わせたものです。シルバーの塗装の上にグリーンが塗られ、それをやすりで削ってあり、とても美しい。ペグの形も良いし、ネックの形も60年代のスタイルに近い感じで気に入っています。青と緑の中間の色味が好きで、以前もシーフォームグリーンのフェンダー・デュオソニックを使っていましたが、ネックが折れてしまって。その後に手にした、このトレモロアーム付きのフルサイズのデュオソニックが僕らの音楽を変えたんです。

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スティル・ハウス・プランツ インタビュー 感性と相互研鑽が紡ぐボーダレスな音楽とは

昨年9月、実験音楽、オーディオビジュアルアート、パフォーミングアーツを紹介するプラットフォーム「モード(MODE)」は、実験音楽イベント「モード アット リキッドルーム(MODE AT LIQUIDROOM)」を、恵比寿リキッドルームで開催した。

今回は日野浩志郎率いる5 人編成のリズムアンサンブル、ゴート(goat)と、ロンドンを拠点に活動するエクスペリメンタル・ロックバンド、スティル・ハウス・プランツ(Still House Plants)のダブルビル公演が実現。

スティル・ハウス・プランツは、ボーカルのジェス・ヒッキー・カレンバッハ(Jess Hickie-Kallenbach)、ギターのフィンことフィンレイ・クラーク(Finlay Clark)、ドラムのデヴィッド・ケネディー(David Kennedy)から成るスリーピースバンド。2013 年にスコットランドのグラスゴー美術学校で出会った3人は、それぞれ視覚芸術を専攻するかたわらで音楽制作を始めた。ジャズやソウル、ポストロックのムードが漂うフレキシブルなサウンド、劇的でメロディアスな歌声、リスナーの自由な想像力を誘う詩など、独自の音楽性が世界的に注目を集めており、昨年4月に3作目となるアルバム「If I Don't Make It, I Love U」をリリースした。

多彩な感性のメンバーが織りなす楽曲は、制作からライブを経て何度も演奏するうち、各パートの役割や内包されるイメージ、言葉の意味が変容し進化していく。「モード」の公演のため来日した彼らに、音楽性やクリエイティビティーの背景について話を聞いた。

アートを学びながら自然な流れで始めた音楽活動
感覚的なプレイを生かした制作プロセス

ーーバンドの結成について。3人は同じグラスゴーのアートスクールで出会ったそうですが、それぞれ絵画や写真を専攻しながら、音楽の道へと進んだ経緯について教えてください。

フィンレイ・クラーク(以下、フィン):音楽学校に行きたくて、何校か見学しましたが、いずれもピンと来なかったんです。近い考えを持った人たちと過ごしたいと思っていましたが、音楽学校はそういう場所ではないと感じて、アートスクールに行って楽器をやろうと考えました。絵画コースは絵を描くことが必須ではなく、自由度が高いと聞いていたので、音楽も作れるんじゃないかと。結果的に最適な選択でした。そこでデヴィッドに出会ったんです。

ジェス・ヒッキー・カレンバッハ(以下、ジェス):私は写真や映像を専攻しましたが、フィンに出会って、すぐに一緒に音楽制作を始めました。最初は気軽なノリで自宅で音楽を作っていて、長時間の演奏を通して自分たちのサウンドを探求していました。

フィン:僕は、自宅のベッドルームで制作した音楽作品を、絵画コースの課題として提出していました。CD に録音した音楽の断片や、演奏している様子を撮影したビデオなど。自分にとってこれは絵画でもあると考えていました。

ジェス:ライブ活動を始めてから、演奏の度に次のライブの依頼をもらうようになりました。楽しみながら音楽活動を続けていただけで、音楽の道でキャリアを築こうと、あらためて決意したことは一度もないんです。信頼する友人やコラボレーターと一緒に音楽制作に取り組めて、気がつくと夢中になっていました。

フィン:グラスゴーの音楽シーンのコミュニティーはとても協力的です。僕らが拠点にしていたグリーン・ドア・スタジオには刺激的なミュージシャンが集まっていて、そこで出会った人たちと一緒にツアーをしたり、車でイギリス中を回ったりもしました。アートについて学ぶかたわらで、音楽活動にも意義を見出していました。

デヴィッド・ケネディー(以下、デヴィッド):僕は子供の頃からドラムを演奏していましたが、15 歳の時にドラムとの関わり方が分からなくなってやめたんです。その後アートスクールに進学しましたが、学校ではドラムを演奏するつもりはありませんでした。でもフィンたちと知り合ってからは、自然とまたドラムを叩くように。ここ数年で、自分は本当にドラムが好きなんだと気づきました。一度ドラムから離れて良かったと思います。多くの経験を経て、新しい視点を持ってドラムに戻ってくることができたので。

ーー初期のアルバムでは各人の演奏をサンプリングした音源を使ってコラージュのように制作した作品が印象的です。最新アルバムはどのように制作を進めたのでしょうか。

ジェス:以前はメンバー3人が離れた場所で生活していたので、各々の演奏を録音した音源を細切れに分割して、サンプリングのように切り貼りして作曲せざるを得ませんでした。卒業後、パンデミックの最中に全員別々のタイミングでロンドンに引っ越したんです。3人揃って演奏できるようになると、あらゆる方法での曲作りが可能になりました。ダンスミュージックから着想を得たり、ドラムとギターの関係性について探究したり、ヴォーカルループを使ったり。

以前の作品は過ごした時間の「レシート」のようなものでした。時間もお金もないし、スタジオで作業できるのは1日だけ。でも最新作はアルバム自体がアイデアの集積になっていると思います。

デヴィッド:今回のレコーディングでは、幾度となく演奏を重ねるうちに演奏したフレーズを忘れていってしまうので、あとで振り返って確認できるようにリハーサルをすべて録音していました。結果的にそれが作曲プロセスの一部になったんです。聴き返していると「ああ、ここに拍子の変化があったんだな」などの気付きがありました。

最新のアルバムはソリッドな構成になっていますが、当初から意図したわけではなく、自然に任せてできた音楽を洗練させ、最終的に全体をまとめあげたんです。

ジェス:自然で感覚的な作業方法が、プロセスの重要な一部になる。後になって初めてそのことに気付くんです。

フィン:このアルバムを作っていた時、スタジオの壁に「もう少し余白のある曲が必要か?」とか「もっとスローな曲が必要か?」など、自問自答のメモを大量に貼り付けていました。ギターのパートに関しては、自分が楽しく弾けることや、シンプルさと複雑さのバランスに重点を置いています。

自他の創造性を刺激する、余白を残した表現の探究

ーー詩で表現しようとしている内容について教えてください。

ジェス:歌詞で一番大切にしているのは、自由に解釈できるようオープンであること。詩的な発想や哲学的な概念というより、会話の中でふと口にするような内容が多いです。ストーリーを語ることにはあまり興味がありません。

言葉の断片を切り取り、サンプリングすることで何らかのイメージが構築されたり、同じ言葉を反復するうちに意味が変化していったりすることがあります。勝ち誇ったようなニュアンスの言葉でも、繰り返すことで悲しみや寛大さを帯びていくことも。ベーシックなダンスミュージックをサンプリングするとしても、ロマンティックなフレーズを繰り返すことで月並みな響きから誠実な響きに変化していったりします。サンプリングが好きなのはそのためです。

特定の友人や人間関係についての曲をオープンに書いてきたので、歌詞もロマンチックなものが多いかもしれません。ほかにも魂の探求をするような歌詞や、何気ない会話のような言葉など、あらゆる要素を織り交ぜています。

ーーサウンドからは、ミニマルで独特なリズムを基盤に、3人が調和を探っているような印象を受けます。影響を受けたアートや音楽があれば教えてください。

ジェス:それぞれが好きな音楽は多岐にわたっています。共通点も違いもあるのが面白いところです。楽曲にはドラムンベースの要素を取り入れていますが、デヴィッドは、ソースダイレクト(Source Direct)やオウテカ(Autechre)を引き合いに出し、音楽におけるドラムという要素や、ドラムンベースという音楽形態についてよく話をします。

デヴィッド:ジャングルやドラムンベースなどのUK ダンスミュージックの良さは、ドラムが、単にリズムを刻むだけにとどまらず、時に物語を語り、感情を表現し、ボーカルパートのような役割を果たすところ。私たちのバンドも、ドラム、ギター、ベース、ボーカルが固定的な役割を演じるのではなく、すべてが混ざり合い、入れ替わり立ち替わり異なる役割を演じていきます。

フィン:私たちのバンドは、自分たちが一旦作り上げた曲の形を、引き算のようなプロセスを経て、徐々に変化させていきます。その観点でアプローチが魅力的なのは“オープンな楽譜”を書いていた実験音楽家アンソニー・ブラクストン(Anthony Braxton)や、シンプルな構成の中に非対称の長いフレーズがあり、その上にループ音が重なるフランスの現代音楽作曲家オリヴィエ・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen)です。

ジェス:特定の楽曲に直接影響を受けるのではなく、インスパイアされるとしたらアーティストの独創的なアプローチや姿勢の部分ですね。

ーー即興的な要素はありますか?

ジェス:即興で曲を書くというよりは、ジャムセッションの要素の方が強いです。お互いの演奏を目の前で見られるのがジャムの良いところ。演奏をすべて録音し、各々のパートを学び、覚えていく。するとそこに存在するパターンや変化、注意すべきポイントが見えてきます。

また、お互いのパートに対して、各自がアイデアを加える余地を常に残しています。ミスや違い、変化を受け入れる余地を作るのは重要で、それが自ずと楽曲や作曲手法に反映されていくと考えています。

フィン:ジャムを何度も繰り返しながら、ライブ本番までに形になっていきます。ひとつの曲が次の曲へと移行するチェックポイントのような部分もフレキシブルにしているんです。

ジェス:セットリストは演奏のベクトルを示す"矢印"のようなものですね。

ーーこれまでにバイソンレコーズ(bison records)やロンドンのカフェ オト(Cafe OTO)、ニューヨークのブランク フォームズ(Blank Forms)など、実験的でインディペンデントな姿勢を貫くレーベルから作品をリリースしています。彼らに共鳴したポイントは?

ジェス:私たちにとって、インディペンデントな人たちと協働するのは重要なこと。一緒に仕事をする相手と対話してお互いをよく知ることができれば、共感性の高いアイデアを持ってきてくれて仕事につながるんです。

フィン:カフェ オトやブランク フォームズも僕らの活動を見て連絡をくれて、素晴らしいリリースの提案をしてくれた。最初に作品をリリースしたバイソンレコーズも良きパートナーです。

ジェス:大切なのは、アーティストとして自分の作品をコントロールできること。私たちは幸運にも、最初のカセットテープをリリースしてくれたグラーク(GLARC)を含むパートナーたちとの仕事を通して、自律性を保ちながらサポートを受けられる基盤を見つけられたんです。アート作品のような見開きジャケットの特別版LPなど、素晴らしい作品をリリースできたのは最高の経験でした。

音楽とファッションの関係性について

ーー「モード」は、「音楽、アート、ファッションが垣根を超えて自由に融合し、成長する」ことを理念のひとつとして掲げています。ジェスさんは「キコ コスタディノフ(KIKO KOSTADINOV)」×「リーバイス(LEVI’S)」のキャンペーンにもモデルとして登場されていますね。

ジェス:「キコ コスタディノフ」×「リーバイス」のキャンペーンは、私たち姉弟のように容姿が似ている2人に同じ服のスタイリングをして、着こなしにどんな違いが出るかを撮りたいというコンセプトで、私と弟にモデルとして声がかかったんです。バンドとは関係なく、あくまでモデルとして参加しただけなので、自分の音楽的なクリエイティビティーを発揮したわけではないですが、コラボコレクションのアイテムが魅力的だったので、関われて嬉しかったです。

人は、音楽やファッションを通してアイデンティティを追い求め、自分がこの世界でどうあるべきかを考え、その方法を築き上げていく。ファッションだけでなく、音楽やアートにおいても、自分の嗜好やスタイルに固執するという点では、ある意味“部族的”なものだと思います。でも「モード」が提唱するように、ファッション、音楽、アートをミックスすることによる相互作用や変化は、そこに新しい意味や発見をもたらすと思います。

ーーミュージシャンにとって、ファッションは自身のプレゼンスを表現する方法のひとつだと思います。ファッションに関する“信条”はありますか?

ジェス:今回のアルバムに「1日に1000回着替える」というニュアンスの歌詞の曲があります。着ているものが少し変わるだけで、自分が強くなったと感じたり、鎧を身にまとって守られているような気分になったりすることってあるなと思うんです。

フィン:以前はカラフルな服を着ていたこともあるけど、最近は基本的にシンプルで作りが良い、色味を抑えた控えめな印象の服を着まわすことが多いです。朝の時間は色々なことを考えずリラックスしたいので、食事も自分が好きなものを繰り返し食べることが多いです。

デヴィッド:ぼくは、自分に合うものを見つけようと努力したり悩んだりしてきましたが、結局、服はあくまで服であり、何を着てもいいんだと考えるようになりました。

ーー楽器についても、サウンドはもちろん、佇まいがそのミュージシャンの印象を左右するという意味で、ファッションの要素を含むように感じます。フィンさんのギターは特に色がユニークですね。

フィン:このギターはイーベイ(eBay)で買って、自分でパーツを探し集めて組み合わせたものです。シルバーの塗装の上にグリーンが塗られ、それをやすりで削ってあり、とても美しい。ペグの形も良いし、ネックの形も60年代のスタイルに近い感じで気に入っています。青と緑の中間の色味が好きで、以前もシーフォームグリーンのフェンダー・デュオソニックを使っていましたが、ネックが折れてしまって。その後に手にした、このトレモロアーム付きのフルサイズのデュオソニックが僕らの音楽を変えたんです。

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渋谷109に凱旋、販売員出身の2人が手掛ける「エシオ」がポップアップ

「エシオ(ESIO)」は3月5日まで、渋谷109の1階でポップアップショップをオープンしている。同ブランドは渋谷109でともに「ムルーア(MURUA)」で販売員をしていた関本香里と才賀果歩の2人が2021年にスタート、24年8月からは再エネ事業者のGXフォースの傘下に入った。再エネ事業者が運営する異色のファッションブランドが目指す先とは?

PROFILE: 才賀果歩/「エシオ」プロデューサー兼デザイナー(右)、関本香里/「エシオ」プレス兼デザイナー

才賀果歩/「エシオ」プロデューサー兼デザイナー(右)、関本香里/「エシオ」プレス兼デザイナー
PROFILE: (さいが・かほ)1995年6月24日生まれ。「ムルーア(MURUA)」で約6年間ショップスタッフとして勤務。大手企業でのマーケティングとデザインを経て、21年に「エシオ」をスタート、(せきもと・かおり)1993年9月16日生まれ。高校卒業後、マークスタイラーの「ムルーア(MURUA)」でショップスタッフ、ディレクターアシスタント兼デザイナーを経て、2021年に「ESIÓ」をスタート。インスタグラム(@kaori_sekimoto_)のフォロワーは4.9万人

2人はともに渋谷109の「ムルーア」販売員

才賀プロデューサーと関本プレスはともに渋谷109の「ムルーア」で販売員をしていた。「渋谷109の『ムルーア』のオープニングスタッフで勤務したときに、ちょうど(関本)香里さんもいて。帰りの電車が一緒だったのが仲良くなったきっかけ(笑)」(才賀プロデューサー)という。才賀プロデューサーは販売員の後に「ムルーア」のプレスに異動。マークスタイラーを退職後は業務委託などでマーケティングやデザインなどを経験し、21年に関本プレスとともに「エシオ」をスタートした。「マークスタイラーを退職後に、ブランドを立ち上げるために必要なことをとにかく業務委託で引き受けた。服のデザインからウェブデザイン、SNSの運用、デジタルマーケティングまで、いろいろな仕事を受けた。場合によっては『できます』と言って引き受けてからいろいろ調べて勉強したことも(笑)」。

そのため「エシオ」は21年のスタート時に、デザイナー経験のある関谷さんがディレクター、才賀さんがプレスという役割だったが、GXフォース傘下に入った段階で役割を逆転させた。「ブランドを始めてみたら、向いている分野が逆だった(笑)」(関谷プレス)。関谷さんは個人のアカウントで4.9万人のフォロワーを抱える一方で、才賀さんは個人アカウントはほぼ放置状態の一方で「発信するよりも服作りが大好き。着て喜んでもらえる服、そのことばかりを考えている」。2人にお互いの印象を聞くと、「ポンコツだけど優しくて頼れるお兄ちゃん」(才賀さん)。「口うるさいしっかりものの妹」(関谷さん)。

とはいえ、ブランド運営に関してはほぼ2人が一体になって回している。「服のデザインや生産、ECとSNSの運営、ポップアップショップでの販売まで、文字通り2人で回しています。札幌の大丸百貨店のポップアップでは、店頭での販売も2人でやりました。販売員出身の2人ということもあって販売が好きだし、なによりも店頭でファンの方と触れ合えるし、ダイレクトにいろいろな情報を受け取れて、デザインにも生かせる。ポップアップではできるだけ店頭にいるようにしています」(才賀さん)。服の生産やデザイン、ECの運営もあるため、「スキマ時間にスマホでメールを返したり。さすがに大変ですが」。

親会社のGXフォースはブランドの実働は2人に完全に委託しているが、「(石破 周一)社長には、こちらが恐縮するほど多くの時間を割いてもらってアドバイスをもらっている。経営面から消費者目線でのアドバイスまで、本当に助かっている」(才賀さん)という。

特殊加工のスカジャンを先行販売

ポップアップでのイチオシは、先行販売のスカジャンのセットアップだ。職人と一緒に絶妙なエージング加工を施したスカジャンの価格は4万7900円。「『エシオ』の商品単価で考えると高くなってしまったけど、顧客は絶対に満足してもらえる自信がある。買った直後よりも、着用するたびに満足度が高まる、そんなブランドを目指している」(才賀さん)。

5日間のポップアップの売り上げ目標は1000万円。「凱旋なので過去最高の基準に設定した。抽選会やコスメサンプルの配布、別注カラーの先行受注など、これまでにやったことのないイベンにも実施する」(関谷さん)。

■「ESIO」POP-UP
場所:SHIBUYA109渋谷店1F Limited POPUP BRIDGE.
期間:2025年3月1-5日
所在地:〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂2丁目29-1
営業時間:10:00~21:00

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渋谷109に凱旋、販売員出身の2人が手掛ける「エシオ」がポップアップ

「エシオ(ESIO)」は3月5日まで、渋谷109の1階でポップアップショップをオープンしている。同ブランドは渋谷109でともに「ムルーア(MURUA)」で販売員をしていた関本香里と才賀果歩の2人が2021年にスタート、24年8月からは再エネ事業者のGXフォースの傘下に入った。再エネ事業者が運営する異色のファッションブランドが目指す先とは?

PROFILE: 才賀果歩/「エシオ」プロデューサー兼デザイナー(右)、関本香里/「エシオ」プレス兼デザイナー

才賀果歩/「エシオ」プロデューサー兼デザイナー(右)、関本香里/「エシオ」プレス兼デザイナー
PROFILE: (さいが・かほ)1995年6月24日生まれ。「ムルーア(MURUA)」で約6年間ショップスタッフとして勤務。大手企業でのマーケティングとデザインを経て、21年に「エシオ」をスタート、(せきもと・かおり)1993年9月16日生まれ。高校卒業後、マークスタイラーの「ムルーア(MURUA)」でショップスタッフ、ディレクターアシスタント兼デザイナーを経て、2021年に「ESIÓ」をスタート。インスタグラム(@kaori_sekimoto_)のフォロワーは4.9万人

2人はともに渋谷109の「ムルーア」販売員

才賀プロデューサーと関本プレスはともに渋谷109の「ムルーア」で販売員をしていた。「渋谷109の『ムルーア』のオープニングスタッフで勤務したときに、ちょうど(関本)香里さんもいて。帰りの電車が一緒だったのが仲良くなったきっかけ(笑)」(才賀プロデューサー)という。才賀プロデューサーは販売員の後に「ムルーア」のプレスに異動。マークスタイラーを退職後は業務委託などでマーケティングやデザインなどを経験し、21年に関本プレスとともに「エシオ」をスタートした。「マークスタイラーを退職後に、ブランドを立ち上げるために必要なことをとにかく業務委託で引き受けた。服のデザインからウェブデザイン、SNSの運用、デジタルマーケティングまで、いろいろな仕事を受けた。場合によっては『できます』と言って引き受けてからいろいろ調べて勉強したことも(笑)」。

そのため「エシオ」は21年のスタート時に、デザイナー経験のある関谷さんがディレクター、才賀さんがプレスという役割だったが、GXフォース傘下に入った段階で役割を逆転させた。「ブランドを始めてみたら、向いている分野が逆だった(笑)」(関谷プレス)。関谷さんは個人のアカウントで4.9万人のフォロワーを抱える一方で、才賀さんは個人アカウントはほぼ放置状態の一方で「発信するよりも服作りが大好き。着て喜んでもらえる服、そのことばかりを考えている」。2人にお互いの印象を聞くと、「ポンコツだけど優しくて頼れるお兄ちゃん」(才賀さん)。「口うるさいしっかりものの妹」(関谷さん)。

とはいえ、ブランド運営に関してはほぼ2人が一体になって回している。「服のデザインや生産、ECとSNSの運営、ポップアップショップでの販売まで、文字通り2人で回しています。札幌の大丸百貨店のポップアップでは、店頭での販売も2人でやりました。販売員出身の2人ということもあって販売が好きだし、なによりも店頭でファンの方と触れ合えるし、ダイレクトにいろいろな情報を受け取れて、デザインにも生かせる。ポップアップではできるだけ店頭にいるようにしています」(才賀さん)。服の生産やデザイン、ECの運営もあるため、「スキマ時間にスマホでメールを返したり。さすがに大変ですが」。

親会社のGXフォースはブランドの実働は2人に完全に委託しているが、「(石破 周一)社長には、こちらが恐縮するほど多くの時間を割いてもらってアドバイスをもらっている。経営面から消費者目線でのアドバイスまで、本当に助かっている」(才賀さん)という。

特殊加工のスカジャンを先行販売

ポップアップでのイチオシは、先行販売のスカジャンのセットアップだ。職人と一緒に絶妙なエージング加工を施したスカジャンの価格は4万7900円。「『エシオ』の商品単価で考えると高くなってしまったけど、顧客は絶対に満足してもらえる自信がある。買った直後よりも、着用するたびに満足度が高まる、そんなブランドを目指している」(才賀さん)。

5日間のポップアップの売り上げ目標は1000万円。「凱旋なので過去最高の基準に設定した。抽選会やコスメサンプルの配布、別注カラーの先行受注など、これまでにやったことのないイベンにも実施する」(関谷さん)。

■「ESIO」POP-UP
場所:SHIBUYA109渋谷店1F Limited POPUP BRIDGE.
期間:2025年3月1-5日
所在地:〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂2丁目29-1
営業時間:10:00~21:00

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主演 石井杏奈×本田響矢 話題のドラマ「私は整形美人」で出演して思うこと

PROFILE: (右)石井杏奈 (左)本田響矢

(右)石井杏奈<br />
(左)本田響矢
PROFILE: (いしい・あんな)1998年7月、東京都生まれ。映画「ガールズステップ」(主演)、映画「ソロモンの偽証」、アマゾンプライムドラマ「推しの子」、フジテレビ「ブルーモーメント」などに出演。@anna_ishii_official (ほんだ・きょうや)1999年6月、福井県生まれ。Netflixシリーズ「恋愛バトルロワイヤル」、NHK連続テレビ小説「虎に翼」、テレビ東京ドラマ25「風のふく島」などに出演。公式サイト https://honda-kyoya.com/ PHOTOS : YOHEI KICHIRAKU

1月からフジテレビで放送されていた話題のドラマ「私は整形美人」。現在FODにて独占見放題配信中、6月25日にはブルーレイがリリースされることが決定した。
原作はLINEマンガのオリジナルwebtoon作品「私は整形美人」で、日本では初実写化。韓国では2018年に「私のIDはカンナム美人」としてドラマ化され、韓国のみならず世界中の視聴者の心を鷲掴みにした。今回の「私は整形美人」で、容姿に強いコンプレックスを抱き、整形で美人女子大生に大変身した主人公・片桐美玲を好演したのは俳優の石井杏奈さん。そんなヒロインと“じれキュン”な恋を展開する、イケメンかつ超クールな同級生・坂口慧を本田響矢さんが演じた。ここでは2人に、作品の見所や撮影の舞台裏、役柄に寄せる思いを聞いた。

WWD:「私は整形美人」の出演依頼が来たときはどう感じた?

石井杏奈(以下、石井):原作を読んで、韓国版のドラマも見て、ルッキズムの今の時代に、すごく影響力を持った作品だと感じました。でもそれをネガティブ方向に寄らずに、ポップに描いている点がポイント。自分のパブリックイメージは“陰”で、「静かそう」と言われることが多いけれど、そのイメージを払拭する挑戦の意味も込めて「受けたい」と思いました。

本田響矢(以下、本田):原作が大ヒットして、韓国版のドラマも配信当時に周りが皆見ていたので、そこに対するプレッシャーはありました。でもそうしたことに惑わされず、自分なりに解釈して演じようと臨みました。

WWD:役作りは?

石井:自分のこれまでの人生に、ヒロイン・美玲を当てはめてみる役作りをしました。自分が辛かったことを思い出して、美玲だったらこう乗り越えるかな、これを選択するかな、などとよく考えましたね。私と美玲には、家族に愛されてきたことや、本当は友だちを大切にしたいと考えているところといった共通点もあるので、それを大切にしながら演じました。容姿に関しては、ヘアメイクさんと相談しながら決めていきました。

本田:慧は、僕とは真逆のキャラクター。寡黙でクール、感情が見えないので「どう思っているの?」などと言われがちなキャラで、自分とのギャップが新鮮でした。

WWD:撮影で大変だったことは?

石井:出演者の多くが同年代で、休み時間にお喋りなどして仲良くなりました。そのためか、撮影の終盤で1、2話のシーンを撮る際、「ちょっと仲良過ぎない?」などと言われてしまったことがあります。心の距離って画面に出てしまうものだなと思い、難しさを感じました。

本田:慧はかっこいいキャラクターなので、セリフの言い回しにもかっこよさが要求されました。自分の名前を聞かれたときにノールックで答えるシーンがあって、そこが余りにも恥ずかし過ぎて焦りました。

WWD:FODにて独占見放題配信中で6月にはブルーレイもリリースされますが、作品のどんな点に注目してほしい?

石井:自分のコンプレックスを受け入れた女の子が、整形によって変わって、人生を新たに歩み始める物語。心にコンプレックスを抱えながらも、理想の自分に近づきたいと日々過ごしている……。そういう人たちの背中を押してくれる作品になっていると思います。自分も演じていて強くなれましたし、自信を持てました。悩みや小さな違和感を、優しく包んでくれるはずです。

本田:ドラマの中に、キーアイテムとして香水が出てくるので、香水好きな人は注目してほしいですね。慧は、過去のトラウマから香水が好きではないのですが。

WWD:本田さん本人、香水は?

本田:大好きですし、匂いフェチです。プライベートでは、休日にお香をたいたり、キャンドルをつけたりしています。ウッディやアンバー、ムスクなど渋めの香りが好きですね。

WWD:石井さんは?

石井:私も好きで、撮影期間中、役に合った香水をつけることにはまっています。作品ごとに変えていて、「私は整形美人」の撮影中は、甘い香りをつけていました。美玲がつけている香水のモデルになった香水があったのですが、それが販売終了してしまったため、似ている甘くて爽やかな香りを、探してつけていました。

WWD:プライベートに関して、日頃の美容のお手入れは?

石井:ビタミンサプリを、朝と夜に飲んでいます。あとは、メイクしたまま寝ないことですかね。

本田:毎晩お風呂上がりに、化粧水をつけた後、パックをやっています。地元の友だちに元野球部の美容男子がいて、彼に影響されて始めました。

WWD:作品に関連して1つ質問。好きになった女性が、過去に大きな整形手術をしていたら?

本田:別に、揺さぶられないです。今好きでいることは、過去に囚われることはないと思います。

WWD:石井さんは、整形に対して思うことは?

石井:とても素敵だと思っています。変わることができて、心が前向きになれて、自分のことを好きになれるなら、絶対にした方がいい。その点は、主人公に共感できますね。この作品には、そうした前向きになれるメッセージが込められています。その一方でラブコメディであり、ポップ&リズミカルでキュンキュンする物語になっているので、明るい気持ちになりつつ、2人の恋愛模様も楽しんでほしいです。

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「ニート」西野大士、パンツ一筋の10年とこれから

西野大士デザイナーのパンツ専業ブランド「ニート(NEAT)」が2015年の立ち上げから10年を迎える。

トータルコーディネート提案が当たり前、他業種コラボも入り乱れる今のファッション業界において、シンプルなスラックスで愚直に勝負し生き残ってきた「ニート」は、ある意味で異質な存在だ。

業界人やインフルエンサーなどがこぞって買い求めたのが5〜6年ほど前。それから一時のブームに終わることもなく、ファッション好きの男性を中心に根強い支持を集めている。

人気が過熱する中でも「自分が欲しいものを作る」ことを貫いたからこそ、今の「ニート」があるのだろう。西野デザイナーにこれまでの歩みと展望を聞いた。

「穿きたいスラックスがない」
から作った2本のサンプル

WWD: ブランドを立ち上げた経緯は。

西野大士「ニート」デザイナー:今から10年前なので、「ニート」を立ち上げたのは31のとき。「ブルックス ブラザーズ」のプレスを辞め、当時はアイウエアブランドのPRをしていた。ブルックス時代は雑誌広告もまだまだ元気で、毎日夜遅くまで働いて、忙しかった。それが転職後はリースや取材対応をしつつも、夜6時には飲みに行けてしまうような生活に。楽しかったけれど、「このままでいいのか」とも思っていた。それで「いつかは自分の店やブランドをやりたい」と思っていたこともあって、とりあえず動き始めた。

WWD:最初から「パンツブランドをやろう」と?

西野: 僕は大の古着フリーク。新品は、インポートを時々買ってはいたものの、ドメスティックブランドにはほとんど縁がなかった。だから自分がブランドをやるとなった時に、「自分が着ないものは作らない」というのがまずあった。で、パンツだけは巷に欲しいものがないな、と。

WWD: どんなパンツが欲しかったのか。

西野:ブルックスをやめてから自転車通勤をするようになって、ライフスタイルが変わった。ネクタイをしなくなったり、革靴を履かなくなったり。でも、もともとクラシックな服が好きだったので、スラックスは穿きたいけれど、ブルックスの「いわゆる」なスラックスで自転車に乗るのは、なんか違う。しっくりくる1本を探したが、意外と選択肢がなかった。インポートブランドなら、コンフォートな着用感でかっこいいものもちょくちょくあったが、そもそも日本人体型の僕にはフィットしなかった。

そこで、「誰が穿いてもシルエットがキレイで、快適なスラックスを作ろう」と。日本人の骨格に合わせて、お尻回りや太ももにゆとりを持たせる。そのために、深いタックを入れる。170〜175cmくらいの人でも裾上げしたときに、1番キレイなシルエットに見える。これが僕の求める条件で、上はTシャツ、足元はスニーカーでも「きちんと見えるように」という意味を込めて、ブランド名は「ニート」に決めた。

WWD:その考えをどうやって形にした?

西野:そこが問題だった(笑)。今思えば、よくそれでブランドやろうと思ったなと。ブルックス時代にパターンができる知り合いがいたので、とりあえず頭を下げた。普通なら無理な頼みだけれど、「2型だけなら」と作ってもらえることになった。ただ空いた時間での作業だったから、修正をお願いすると、次のサンプルが上がってくるのは3カ月後だった。完成までに、1年くらいはかかった。

WWD:最初の展示会(15年秋冬)で反応はどうだったか。

西野:ラックにぽつんと掛けたスラックス2本に、奇跡的にも49本のオーダーが入った。バイヤーのつながりもないので、ほとんどが知り合いからだったが、嬉しかった。ただ、そんなに注文が入るとも思っていなかったから、今度は量産に困った。サンプル用の生地は文化(服装学院)の生協で調達していたが、それじゃダメじゃん!とこのタイミングで気づいたのもアホ。

でも救いの神はいるもので、たまたま同い年のアパレルの飲み友にOEM会社で働いている奴がいた。49本という小ロットだったが、友達のよしみということで特別にやってもらえることになった。マーベルト(腰裏ベルト)仕様にしたいという、個人的なワガママものんでくれて、ファーストシーズンはなんとか完納できた。

WWD:どうやって展開を広げた?

西野:次の16年春夏の展示会に「レショップ」の金子(恵治元バイヤー)さんが来てくれた。当時の「レショップ」の店長とはブルックス時代からの知り合いで、彼が「ブランドを始めたなら、うちのバイヤーに話してみるよ」と取り計らってくれた。

金子さんのオーダーが、ブランドの転機になった。「レショップ」の店頭では1日で完売したらしく、「在庫ないの?」「いや、ないです。作れないです」というやりとりは、今でも覚えている。取引先のアカウントは、2、7、14、25、30とシーズンを追うごとに増えていった。現在は40くらいで安定している。

WWD:パンツからのラインアップの拡大は考えなかった?

西野:もちろん、考えた。トップスに比べればパンツは地味だし、アイキャッチがない。スタイリングで見せることへのジレンマが出てきて、他のものも作りたくなった。一時期は「ドレス(DRESS)」という別ブランドでシャツなども作っていたが、結局「自分では着ないな」とやめてしまい、今はコットンのタートルネックだけ作っている。結局、自分で着たいと思うものしか、作り続けられない性なんだと思う。

WWD:浮き沈みはあった?

西野:最初はすごい勢いでオーダーが付いたし、巷のインフルエンサーもばんばん紹介してくれて、飛ぶように売れた。それが顕著だったのが19年ごろ。別注の依頼が来て、「こんな素材どう?」と提案し、工場に頼み、納品されればすぐ在庫がはける。「商売って簡単じゃん」と思いかけたし、今では天狗になってしまう人の気持ちも身にしみて分かる。

ただその分、人気が少し落ち着いたときに、途端に不安になった。一時期は、パソコンで卸先の売れ行きを四六時中チェックしていたことも。そういう自分が嫌だったこともあって、直営店の「ニート ハウス」を作った。卸先に依存するのではなく、自分たちで発信できる場所を持つことが大事だと考えた。価格が高いもの、攻めた色柄のものなど、なかなかオーダーがつきにくいアイテムも、自分たちの店で売ればいい。卸先の売り上げにも、過剰にこだわらなくなった。

WWD:いい意味で肩の力が抜けた、と。

西野:流行を追いかけている人を、自分たちも追いかけていると、どこかで疲れてしまう。「たまたま引っかかってくれた」ではなく、強いベースを作らないと、ビジネスとして息が長く続かない。最近は、数年前の「はやり」に乗ってうちのパンツ買った人が、「やっぱりいい」とまた買いにきてくれている。こういうファンを増やしていきたい。

全部「中途半端」
だから生き残れた

WWD:10年やってみて。

西野:皆さんが「パンツだけのブランド」をやらない理由が、本当によく分かった。通常、セットアップを作るとしたら、スラックスの販売価格はジャケットの半額か、それに毛が生えたくらいだろう。ただ実は、スラックスを作るのにかかるお金は、ジャケットとそんなに変わらない。スラックスは細かい工程がすごく多いし、使う生地の用尺もあまり変わらない。だから、売る側としてはコスパが悪い。「ニート」のスラックスはまず3万3000円で出したが、当時は「めちゃくちゃ高い」と言われた。今では他が値上げ、値上げなので、むしろ「安い」と言われるようになったけれど。

WWD:トップスに比べ、脇役に見られがちなパンツ。差別化も難しい。

西野: だからこそ、まずはちゃんと公式サイトを作る(笑)。ただそこで、見栄えをよくするつもりはない。あくまで穿き心地やシルエットで選んで欲しいから、オールドファッションかもしれないけれど、店で試着をしてから買っていただきたい。だからECではなく、ホームページ。それぞれの商品ページから、卸先を確認できる仕様を考えている。

WWD:改めて「ニート」の強みとは?

西野:1つはやっぱり、僕自身が欲しいものを作っていること。ブランドを続けているうち「売れるものを作ろう」という、商売人としては至極真っ当な思考に寄ってきてはいるものの、それでも「自分が穿きたいか」というジャッジは、必ずしている。パンツといえど、10年も経てば好みも変わる。最近は定番3型にも手を加えて、テーパードタイプをなくし、スタンダードタイプとワイドタイプをリニューアルした。特に男性は、自分の安心するパンツの形が見つかると、そこに安住しがちだ。だから新型は、最初あまり売れない。でも、焦らないこと。1年半ほど前に出したフレアシルエットは、ここにきて売れ出していて、この秋冬はワイドよりも売れているくらいになった。

2つ目に、「中途半端」なところ。モノ作りのプロでは決してない、プレス畑の人間が中途半端に始めて、「チャリに乗って穿けるスラックス」という、これまた中途半端なコンセプトのパンツを作った。だから、あまり敵がいないポジションなのかなと。直営店ではオーダースーツも売っているが、結婚式の披露宴にはギリギリ大丈夫だけれど、プロのテーラーからしたら「ふざけんな」と言われるくらいの仕様だ。でもこの中途半端なバランスも、若い子には受けていて、オーダーも結構入る。意外と、こういう空気感が求められているんだと感じる部分もある。

WWD:今後の目標は。

西野:まず社会貢献。僕の故郷は淡路島で、やはり震災の経験があるからか、地元の役に立ちたいという気持ちは人一倍強いんだと思う。実は過去に「ニート」の事業売却の持ちかけもあって、正直目が眩むような金額ではあった。ただ奥さんにも相談して、やっぱり僕には「ニート」でやりたいことがまだまだあると思った。

もちろん、「ユニクロ」のヒートテックと違って、被災したときに「ニート」のスラックスを配っても何の役に立たない。でも神戸では母子手帳をファミリアが作っていたりする。こういうことなら、何か貢献できることがあるんじゃないかと思う。淡路島のある市役所の制服を「ニート」にしたい、と市長にも相談したが、「一企業の宣伝になるからダメ」とあえなく頓挫した。でも、めげずにチャンスを探っていきたい。淡路島には「ニート」の直営店もあるが、この周りで飲食店や貸別荘をやれたら、盛り上げられるんじゃないかと思っている。

そして、海外展開。1月にパリで3回目の展示会をした。少しずつ卸売は増えていて、アカウントは現在10件くらい。日本のブランドの作りのよさは十分認知されていて、この円安だから「グッドプライス」と驚かれる。その先に、憧れのアメリカに店を出すことを夢見ている。とはいえビザを取るのはけっこう大変だから、まずは1ヶ月くらい現地で様子見してみようかなと。これもまた、「中途半端」なのかもしれないけれど(笑)。

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サロン発ブランドの世界進出には何が必要? 「ウカ」「ネジュ」の両トップが考える

PROFILE: (左)渡邉弘幸/ウカ代表取締役CEO (右)パク・ネジュ/ヘアスタイリスト・「ビット&ブート」共同創業者兼共同CEO

(左)渡邉弘幸/ウカ代表取締役CEO<br />
(右)パク・ネジュ/ヘアスタイリスト・「ビット&ブート」共同創業者兼共同CEO
PROFILE: 左:(わたなべ・ひろゆき):東京都出身。明治大学卒業後、博報堂に入社。2009年の退社後、夫人でありネイリストとして活躍する渡邉季穂(わたなべ・きほ)の祖父が創業した向原(現・ウカ)に副社長として入社。美容室「エクセル」からトータルビューティサロン「ウカ」へのリブランディングのほか、教育機関「ウカデミー」、オリジナルプロダクト・サロンメニューの開発を担うR&D、「ウカフェ」の立ち上げなどに尽力する。14年から現職 右:EXOやBTS、パク・ボゴムなどを担当するトップヘアスタイリスト。サロン勤務、アシスタントを経てフリーランスに転身し、名だたる芸能人のヘアスタイリングを約20年間手掛けている。 2018年に韓国・清潭洞で美容室「ビット&ブート」をオープンし、清潭洞で売上No.1になるまで成長させた。世界的に活躍する今も、常に新しい技術を研究・提案し、話題のヘアスタイルを作り出している。公式ユーチューブ登録者数は20万人(25年1月現在)

韓国ソウル・清潭洞(チョンダムドン)にある美容室「ビット&ブート(Bit & Boot)」のパク・ネジュ(Park Naejoo)共同創業者兼共同CEOは、BTSやルセラフィム(LE SSERAFIM)、パク・ボゴム(Park Bo-Gum)らのヘアを担当する韓国人ヘアスタイリストだ。2023年には自身のヘアケアブランド「ネジュ(NEJOO)」を立ち上げ、翌年日本で泡タイプのヘアトリートメントの取り扱いを開始すると、1週間で1万本を販売するなど勢いを増し、販路を拡大している。

一方で、日本のトータルビューティサロン発ブランドとして海外進出を本格的に目指すのがトータルビューティカンパニー「ウカ(UKA)」だ。バックグラウンドは違えど、“サロン発”という共通点を持つ両社は、ブランドの世界進出をどのように実現させるのだろうか。ネジュCEOと、渡邉弘幸「ウカ」代表取締役CEOが語り合った。

「ウカ」と「ネジュ」
互いの根底にある考え方

WWD:ネジュCEOが「ウカ」を知ったきっかけは?

パク・ネジュ「ビット&ブート」共同創業者兼共同CEO(以下、ネジュ):私がプロデュースするヘアケアブランド「ネジュ」で働く日本人スタッフが、「ウカ」の製品を紹介してくれた。出張で日本を訪れる機会が多く、百貨店などで見かけることも多々あり、日本的で素敵なブランドだと思っていた。ちなみに、「ウカ」という名前はどういう意味なのかすごく気になっている。

渡邉弘幸「ウカ」代表取締役CEO(以下、渡邉):サナギから蝶へと変わることを日本語では“羽化(うか)”という。一人一人がより美しく輝き、蝶が花から花へと受粉の手伝いをするように、世の中に美を広める存在になっていけたらという思いを込めた。ロゴも蝶をモチーフに、“Excellent Beauty”の頭文字“E”と“B”を一筆描きで表現した。

ネジュ:エコフレンドリーなブランドイメージを持っていたので、無限大のマークに由来するのかと思っていた。製品のことは知っていたが、サロンには今回初めて訪れた。ミニマルで美しいデザインが素敵だった。ヘアケアに留まらず、トータルビューティブランドとして存在価値を高めているのが伝わってくる。

渡邉:創業して79年になるが、理容室から始まり、現在ではヘア、ネイル、ヘッドスパ、アイラッシュ、エステティックを提供している。ビジョンは「うれしいことが、世界でいちばん多いお店」。「ウカ」ではお客さまに、美に関するさまざまなサービスを提案している。東京都港区でビジネスに励みながら、プライベートな時間も大切にするお客さまが、継続的に訪れやすいトータルビューティサロンを目指している。

ネジュ:韓国では、美にまつわるあらゆる機能が集まるサロンはまだない。あったとしても、美容室の片隅にネイルがあるぐらい。エステという肌にまつわる施術に関しては、なおさら別のカテゴリーになる。スカルプケアも同様だ。

WWD:理容室から始まった「ウカ」は、どのようにして今のブランド体系になっていったのか?

渡邉:結局のところ髪は頭皮から生えてくるし、爪も肌と結びついている。土台を整えることを重視する発想から、スカルプケアやスキンケアにまで至った。またお客さまと長く付き合い、美に関してトータルでプロデュースをしたいという気持ちをスタッフ全員が持っている。ホームケアが生まれたのも、サロンワークの中で耳にしたお客さまの要望をかなえ、必要なものを提供するためだった。

ネジュ:サロンを介してお客さまと接点が持てるのは素晴らしいことだ。私は7年ほどフリーランスで仕事をした経験から、ビジネスについては少し慎重な部分がある。「ウカ」を率いてアイデアを具現化する渡邉さんの実行力を見習いたい。

渡邉:サロンを経営しているおかげで、目の前のお客さまが何を求めているかが、技術者を通じてダイレクトに伝わってくる。同じ組織の中に美容師がいるからこそのビジネスモデル。技術者・サロンが「ウカ」のビジネスの源泉だ。

ネジュ:とても共感する。僕はサロンを運営する上で大切にしていることが2つある。1つ目は、お客さまに対して胸を張って製品をおすすめできる場所であること。2つ目は、アシスタント含め、仲間との共同体を作ることだ。

渡邉:その考えは私たちも同じだ。僕は技術者ではなく経営者なので、スタッフがアイデアを共有しやすい雰囲気作りや、やりたいことを実現できる環境作りに取り組むのが役目。皆の意見をできる限り早いスピードで具現化することが仕事の中心だ。僕が「ウカ」に携わるようになって15年経つが、僕を含む経営側と現場の技術者やサロンスタッフの歯車がようやくかみ合ってきた。だからこそ、次のステップとして今年は海外進出に取り掛かりたい。

WWD:まずはどこへ進出する?

渡邉:4月からアメリカでの展開をスタートする。アメリカの全人口のうち、非白人比率は急速に伸びており、中でも人口と所得が伸びているのはアジア人だという。人口が急増しているアジア人に対してアプローチすることはマーケティング的にも正しいと判断し、在米パートナーとともに進出を決めた。数々のスターを顧客に持つネジュさんは、K-POPを通じてそういった変化を目の当たりにしているのでは?

ネジュ:私がアメリカで成功できたのは個人の力ではなく、担当アーティストの人気と相関している。彼、彼女らと一緒に仕事をしながらアメリカを回っていると、有色人種のファンがかなり多いことに気付く。渡邉さんが話していることは一理あると思う。

WWD:韓国でも変化を感じる?

ネジュ:ソウルにある自分のサロン周辺にも、有色人種の観光客が多い。彼、彼女らが韓国に来る理由は主にファッションとビューティの2つ。20代前半〜30代前半の人が多く、ライフスタイルに重きを置き、自分にかける時間とお金に余裕がある、消費が活発な年齢層だ。彼らが旅土産として購入するものにも変化があり、最近はその国を代表するデザインのファッションやビューティアイテムが支持されている。

サロン発ブランドの
to Cアプローチ法

WWD:近年の韓国ビューティブランドの取り組みにはどのような傾向がある?

ネジュ:かつては成長のためにブランド同士がコラボレーションすることが多かったが、最近はポップアップが主流だ。大規模でなくても、短期間で集中的に開催している。バイラルになるようなインフルエンサーを起用したイベントを行うブランドも多い。

WWD:コラボからポップアップにシフトしている要因は?

ネジュ:近年はどのブランドも製品クオリティーが上がり、平均値が高くなっている。クオリティーを担保できているからこそ、その良さを消費者へと直接伝えることに焦点を当てるようになったのではないか。またチャネルが増え、オンラインで消費者と直接コミュニケーションを取る手段も多分にある。あえてコラボをせずとも、ブランドの世界観をしっかりと伝えることができる。

WWD:「ネジュ」のアイテムは、昨年春から日本での販売をスタートした。今後の戦略は?

ネジュ:現在はヘアトリートメント1種のみだが、7年間のサロン運営の経験を生かして、これからは製品開発も進めていきたい。今の販路はサロン向けのto Bがメインで、今後はto Cにも広げたい。

渡邉:日本ではサロン向けの商流が限られていて、販売代理店を介して取引されることがほとんど。さらに、to C向けの製品は美容室では販売したくないという珍しいマーケティング事例がある。そうなると、to Cで拡大しようと考えたときに、サロン流通のビジネスは諦めなければならなくなる。競合のサロン製品を扱うところも少ないため、サロン流通を貫くなら、自分のサロンを大きくするしかない。

当初は、僕もサロン向けの流通でビジネスが成功できると思いアプローチをかけたが、全く相手にされなかった。ならば、自分たちで独自のto C向けの流通を開拓しようとスタートしたのが15年前。サロンを構える港区の消費者が注目しているセレクトショップに卸したり、アーティストとコラボレーションしたり、消費者に興味を持ってもらえるような製品設計とPR活動を地道に積み重ねた。

WWD:「ウカ」がto C路線へとシフトする中で工夫したことは?

渡邉:ターニングポイントになったのは、技術者がお客さまに製品を“サロンで”ではなく、“自宅で”どのように使うかを説明したことだ。話法を変えたことで、消費者は次サロンに来店するまでのセルフケア法を知れるようになり、これが奏功した。それから10年ほど活動を続けていたところ、コロナ禍に直面し、卸していた百貨店やセレクトショップが軒並み休業していった。そこで、自社製品を直接伝えるためECの強化に着手した。ここ5年は直営店に注力している。

ネジュ:なるほど。日本市場で成功している「ウカ」の取り組みは納得することばかりだ。渡邉さんが「ウカ」を育てたように、僕も10年後の「ネジュ」を今より発展させ、さらに進化するであろう「ウカ」の背中を追いかけていきたい。

渡邉:近いうちに一緒に製品を作ったり、また仕事ができたら。

ネジュ:ぜひ!私が美容の道へ進んだ当時、周りは皆ライバルだと思っていた。しかしこうやってキャリアを築いてきて思うのは、ライバルだけではないということ。先輩であり、後輩であり、それぞれから見習うことがたくさんある。「ウカ」ともパートナーのような関係になれたらうれしい。

PHOTOS : YUTA KONO

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熱狂のライブで観客を魅了するバンド、ファット・ドッグ(Fat Dog) その「音楽哲学」とは?

近年、才気あふれる若手バンドが相次いで登場しているロンドンのロック・シーン。中でもとびきりの“個性派”が、このボーカル&ギターのジョー・ラヴ(Joe Love)をフロントマンに擁する5人組、ファット・ドッグ(Fat Dog)だ。

「1曲の中で13曲も盗めば、誰も気づかない」。そううそぶく彼らのサウンドを例えるなら、“ハードコア・パンクのポゴ・ダンスと非合法のレイヴ・パーティーのサイケデリックなミックス”だろうか。さらに、EDMやシンセウェイヴ、インダストリアル・ミュージック、東欧のジプシー音楽などの影響と相まって押し寄せる狂騒感や原始的なエネルギーは、シェイムやブラック・ミディらを送り出した地元のライブハウス「The Windmill」の同輩と比べても際立ってユニークだ。あるいは、彼らの旺盛なクロスオーバーや折衷感覚は、クラクソンズやハドーケン!が活躍したUKインディーのY2K=ニューレイヴの記憶を思い起こさせるかもしれない。

アークティック・モンキーズやザ・ラスト・ディナー・パーティーを手掛けるジェームス・フォードを共同プロデューサーに迎え、昨年9月にリリースされたデビュー・アルバム「WOOF.(ウーフ.)」を携え、昨年12月に初のジャパン・ツアーを行ったファット・ドッグ。フロアも巻き込んで混沌としたうねりを生み出した圧巻のライブ・ショー。そのステージの数時間前、会場となった恵比寿のリキッドルームでジョー・ラブに話を聞いた。

エレクトロニック・ミュージックの影響

——ファット・ドッグの結成は2020年ですが、始めるにあたってはどんなビジョンがあったのでしょうか。

ジョー・ラブ(以下、ジョー):最初はソロでやりたかったんだ。その前にピーピング・ドレクセルってバンドを仲間とやっていて、3年ぐらい続いたのかな? でも、だんだんマンネリを感じてきて、もっと新しい音楽をつくりたいと思って、バンドの練習に行かなくなった。そしたら、ちょうどいいタイミングでお尻を蹴っ飛ばして、僕を追い出してくれて(笑)。

ただ、何もない状態からのスタートだったから、自分で全てをやらなくちゃいけない。それでエレクトロニック・ミュージックをつくり始めたんだ。ちょうどコロナ禍だったのもあったし、エレクトロニック・ミュージックってラップトップさえあればどこでも制作できるから、とても魅力的に感じたんだ。最初は1人で完結できる音楽がやりたくて、「まあ、ドラマーがいたら助かるかな」ぐらいしか思っていなかったんだけど、だんだん人が集まってきて、学生時代の友達がベースを一緒にやるって言ってくれて。初めてのライブは僕1人でやる予定だったんだけど、でもやっぱり誰かと一緒にステージに立つのは楽しいなって思ったよ。だからパンデミックの期間中は、単に自分だけのプロジェクトとして音楽をつくっている感じだったんだ。

——当時のロンドン、それこそ「The Windmill」のバンド・シーンは、ブラック・ミディやスクイッドなど群雄割拠の状況だったと思うんですが、その中で自分たちのカラーを出すためにはどんなことを考えましたか。

ジョー:そういうことは考えなかったかな。特に最初につくる音楽って、自分の人生経験からインスピレーションを得るものだと思うし。それに「The Windmill」みたいなところならどんな実験的なサウンドだって挑戦できると思ったんだ。とんでもなくハードでヘヴィな音楽や、ミュージカルみたいに聴衆を翻弄するような音楽でも、何だってね。

それに、プロモーターのティム(・ペリー)は観客の心をつかむのが本当にうまくて、ステージからステージへとスムーズに流れをつくり出すのが得意なんだ。ブッキングが曲づくりのモチベーションになる。次のライブはこの前よりも長めの時間をもらえるから、「じゃあ、あと3曲くらい新しい曲をつくって、観客をもっと楽しませなくちゃ!」みたいな感じにね。

——そうした「The Windmill」のバンド・シーンでも、ファット・ドッグは特にエレクトロニック・ミュージックの要素が大きなキーになっていますよね。

ジョー:僕の前のバンドは、ポスト・パンクっていうか、ちょっと暗い感じの音楽をやっていて。でもファット・ドッグでは、エレクトロニック・ミュージックとポスト・パンクを融合させたかった——まだそれが完璧に成し遂げられたわけではないんだけどね。

個人的に大好きだったのは、プロディジーやケミカル・ブラザーズ。それにアイ・ヘイト・モデルズ(I Hate Models)。あと、ジェフ・ミルズだね。 ジェフ・ミルズは、リキッドルームでライブをやったアルバム(「Live at The Liquid Room-Tokyo」)を出していて、いつも聴いてたから、まさか自分が同じ場所でライブをやることになるとは思わなかったよ(笑)。

実は、僕がエレクトロニック・ミュージックをつくり始めたのは12歳くらいの時なんだ。自分でなんでもできるし、それを自分で聴いて楽しむのが好きで、Deadmau5(デッドマウス)みたいな人たちにも影響を受けていた。それがきっかけでテクノにハマっていったんだよ。ちなみに、僕の隣人はテクノが大好きで、よく遊びに行ってたんだけど、彼はデトロイト・テクノにハマっていてよくかけてた。ジェフ・ミルズやリッチー・ホゥティン、プラスティックマンみたいなね。だから、ファット・ドッグの音楽は、そういう硬質なテクノとはちょっと違う、もっと柔らかい感じなんだ。でも、どちらも面白い音楽だよね。

——プロディジーについては、他のメンバーもみんな大好きだって言いますよね。

ジョー:ああ、彼らの曲はイギリスではすごく人気で、象徴的な存在なんだ。熱狂的なファンがたくさんいて、まるで教祖のような扱いをされている感じというか。僕は、エレクトロニック・ミュージックにライブ・パフォーマンスを組み合わせるのが大好きなんだ。ライブは、音楽をよりダイナミックに楽しめるから。実は彼らのライブは見たことがないんだけど、YouTubeの動画を見た感じだとすごく楽しそうで、素晴らしかったよ。

——かたや、ジェフ・ミルズに代表されるデトロイト・テクノというと、プロディジーとは対照的にシリアスなイメージが強いですよね。

ジョー:彼らはとてもシリアスだよね。もともとエレクトロニック・ミュージックは好きだったんだけど、そういう超真面目な——ほら、ドイツのテクノ・シーンみたいな、すごく厳格な雰囲気の音楽は、僕にはちょっと合わないところも正直あって。いつも黒ずくめで、笑うことすら憚(はばか)られるような感じというか。確かに、音楽に対して真剣に取り組むことは大切だけど、音楽はもっと楽しむものだと思うんだ。ずっと深刻な顔をしてたら楽しくないだろ? 1年12カ月の間、ずっとツアーを回ってるんだから、ジョークを言ったりして、たまにはリラックスして、面白い視点を持つことも大切だと思う。じゃないとつまらないよ。

——その「楽しむ」という部分も含めて、ファット・ドッグのサウンドの狂騒感、“過剰さ”みたいなものはハイパーポップに通じるところもあるように思うのですが、どうですか。

ジョー:ハイパーポップというよりは、東欧のエレクトロニック・ミュージック、特にポーランドやロシアのもの——スラブ・エレクトロニック・ミュージックが好きなんだ。テンポが速くて、音もでかい。そういうのをやりたくてバンドを始めたんだ。だから、個人的にはハイパーポップのファンではない。好きな要素はたくさんあるし、将来的にハイパーポップに影響を受けた音楽をやるようになることもあるかもしれないけどね。

——ちなみに、100gecs(ワンハンドレッドゲックス)とかは聴きますか。

ジョー:100gecsは好きだよ。僕にとってはいい音。キャッチーで覚えやすく、盛り上がる雰囲気がすごく気に入ってる。でも実際、ハイパーポップがどんな音楽で、どんなふうに曲ができているのか、あまりよく分かっていないんだ(笑)。

ファッションのこだわりは?

——ファット・ドッグというと、特に初めのころは、空手着や犬のマスク、修道女の衣装といった奇抜なコスチュームで話題を集めたところもありましたが、そもそもライブでそうした格好をするようになったきっかけは何だったんですか。

ジョー:最初の頃は、ただ酔っ払いをからかいたいみたいな、そんな悪ノリな感じで始めたんだ。でも、やるうちにだんだん派手な衣装だけが目立つ感じになって、本質を見失ってしまった気がしてきて。今は、空手着にカウボーイハットって、一見すると奇抜な組み合わせだけど、そこには自分たちの“決意”があるというか、正面切ってやれば決して仮装のようには見えないと思うんだ。空手の練習から帰ってきたから空手着を着てる、みたいな単純な理由じゃなくて——そういうのも嫌いじゃないんだけど(笑)、もっと深い意味がある。CraigslistやGumtreeのような地域ごとの情報などが掲載されているコミュニティーサイトでたまたま出会った人たちが、今は強い絆で結ばれて一緒に音楽をつくり始めた、みたいな。

——バンドを始めた頃と今とでは、自分たちの中でコスチュームの意味合いが変わった?

ジョー:派手なステージ衣装を着ていると、それが自分の一部だって錯覚してしまうことがある。まるで、その衣装が自分自身を表す仮面であるみたいな。でも冷静に考えれば、それはあくまで演じているだけで、自分の中でつくり上げたペルソナに没頭し過ぎるのは問題だと思う。だからステージの上の自分は、普段の自分とは別の、ちょっとクレイジーでエキセントリックなキャラクターなんだ。それに衣装があれば、これは分身のようなもので、自分自身である必要はないんだと思える。もしステージの上の自分と同じようにいつも生きていたら、きっと精神的に参ってしまうだろうね(笑)。実際の僕はとても冷静なんだ。

——ちなみに、オフのファッション、ワードローブのこだわりは何かありますか。

ジョー:え!? ないよ。見ての通りって感じで(笑)。香港と中国をツアーで回って来たばかりだから、荷物はできるだけ軽くしたかったし。ギターのペダルやラップトップは全て一つのバッグに詰め込んで、着替えも最低限だけ。セブンイレブンで買った靴下もまだ履けるし――ちょっと汚れてしまったけど(笑)、あと1日くらいは大丈夫かな。だけど、もうちょっとおしゃれな服を持ってくればよかったって、少し後悔してるよ(笑)。

ビジュアルコンセプトについて

——ファット・ドッグは、MVやアートワーク周りのビジュアルもとてもユニークです。SFやゲームの影響、サイバーパンク的なセンスを感じますが、その辺りのコンセプトについて教えてください。

ジョー:正直言うと、今までやってきたことの中には、周囲の期待や流行、プレッシャーに振り回されて、自分のやりたいことを諦めてしまうこともあって。例えば、シングルのアートワークはもっとシンプルでよかったのに、クレイジーなことをやろうとし過ぎてしまったり。でも、MVのシナリオは歌詞のストーリーをそのまま表現したものになっていると思う。ファット・ドッグの曲は架空の世界を描いているから、現実の世界に縛られる必要はない。ロンドンのバンドだからといって、必ずしもロンドンの街並みを背景にする必要はない。例えばブルーマン・グループを見ても、アメリカのバンドだって誰も言わないだろ?(笑)。だから現実味のないものにしたかったし、それは音楽にも役立っていると思う。バカなことをやってもいいし、歌詞もいつも気取ったものである必要はない。どんな意味でもいいし、現実を超えた自由な世界を描きたい。そうすることで、もっと遊び心のあるものになるし、リスナーも自由に解釈できる。何か分かった気になるような、そんな鼻につくようなものは書きたくないんだ。

——例えば、新曲の「Peace Song」のMVには巨大化した「犬」が登場しますよね。あれは強迫観念の象徴みたいな?

ジョー:あれはアルバムのアートワークと同じ犬で、僕とキーボーディストのクリス(・ヒューズ)があのMVのストーリーを書いたんだ。僕らの念頭にあったのは、今回はちょっと高めの予算をもらえそうだってことで(笑)。巨大な犬が人間を襲うSFの世界なんて、ちょっとクレイジーだよね。でも、アイデアを膨らませるうちに、犬にこだわり過ぎるのもなんだかなって気がしてきて。僕たちが表現したいのは、犬そのものじゃなくて、もっと普遍的な何かなんだ。巨大な存在、あるいは未知なる力。そういう抽象的な概念を、犬という象徴を使って表現したかったんだ。

ライブ&レコーディング

——そういえば、ジョーさんはデビュー・アルバムの「WOOF.」のプレスリリースで「俺の頭の中にあるアイデアと比べたら洗練され過ぎてる。俺の想定では、もっとめちゃくちゃなサウンドになるはずだった」とコメントしてましたね。

ジョー:アルバムの制作中は、同じ曲を何度も繰り返し聴き込むことになる。特にライブで演奏してきた曲は、ライブならではの熱量や臨場感を再現するのが難しい。ライブは、観客との一体感やその場の空気感が重要だけど、レコードはあくまで録音された音源だからね。だから、ただ音だけを大きくすればいいってもんじゃない。曲の中にエネルギーがあっても、中身が伴わないことがある。そこに感情やストーリーが込められていないと、いくら音に力強さがあっても、空っぽに聞こえてしまうからね。

——つくり直したい箇所も正直ある?

ジョー:そのことは考えないようにしている(笑)。レコーディングではいつもギリギリまで追い込まれるんだけど、今回は特に完成度の高い作品を目指し過ぎて、かなりの部分で修正を繰り返した。で、締め切りが迫っていることに気づいたのは、あと1日しかないという時で。焦りながらもなんとか完成させたものの、A&Rから「あと1時間半で仕上げろ!」と言われた時は、さすがに心が折れそうになったよ(笑)。でも、おかげで無駄な部分を削ぎ落とすことができて、曲の本質が見えてきた。自分ではよいと思っていた部分も、客観的に見ると、ただの自己満足だったのかもしれない。自分が聴いているものが、“誰にも聴こえない”ことに気づいたんだ。もしあのまま制作を続けていたら、最後には気が狂っていたんじゃないかな。おかげで今の自分には心が残っているんだから(笑)、あれでよかったんだと思うよ。

——もしかしてジョーさんの中では、ライブでめちゃくちゃにされることであのアルバムは本当の意味で完成する、という部分があるのかな、と。

ジョー:そうだね(笑)。今回のアルバムでは、ライブの熱気をそのままスタジオに持ち込もうとしたんだ。僕たちはライブ・バンドとして知られているから、ライブでしか味わえないエネルギーを音源に詰め込みたかった。僕たちが初めて「The Windmill」で演奏した時のことを思い出させるような、生々しく、ダイナミックなサウンドを目指してね。だからこのアルバムは、僕たちの音楽を初めて聴く人にもライブ会場にいるような臨場感を感じてもらえると思う。あの時の200人のお客をイメージしてつくった、ある種の“スモール・アルバム”に仕上がったというか。

——ファット・ドッグの生のエネルギーが凝縮されたアルバム。

ジョー:ただ、ライブとレコーディング、どちらがいいかと言われると、一概にどちらとも言えない。ライブは、アドリブや観客の反応によって生まれる予測不能な瞬間が魅力で、会場全体が一つになって大きな呼吸をしているような感覚がある。バンドとしてエネルギーを得る場所でもあり、それが跳ね返ってきて、さらに曲に磨きがかかる。特にボーカルは、ライブで鍛えられた方がより感情を込めて歌えるようになると思う。一方、レコーディングは、細部までこだわってつくり上げることができる。ライブではどうしても拾えない、繊細なニュアンスや音色を表現できる。

だから次のアルバムでは、もっとじっくりと曲づくりに取り組んでみたい。今はメンバー同士お互いに会い過ぎていると思うから、2カ月ぐらい離れて、それからアルバムをつくろうと思っているんだ。メンバーそれぞれが自分の部屋でじっくりと楽曲制作を行い、完成したものを集めてアルバムをつくる。そうすることで、また違ったタイプのアルバムができると思うんだ。

——さっきのエレクトロニック・ミュージックや歌詞の話ともつながるところだと思いますが、メンバーのクリスさんはアルバムのプレスリリースで「今の多くの音楽は知性に訴え過ぎる。(略)僕たちの音楽は、考える音楽とは正反対だ」と発言していますよね。このコメントにジョーさんが補足することはありますか。

ジョー:まあ、彼が言いたいのは、音楽は単に“聴く”ものではなく、“感じる”ものだってことだと思う。歌詞を聴いて「何を意味するのか?」とか、そういうことをリスナーに考えさせる音楽が多いんじゃないか、っていう。ただ、そうしたくないバンドもたくさんいて、僕たちの音楽ではただ純粋に楽しんでほしい。だってプロディジーのライブに行って、「この歌詞にはどんな意味があるんだろう?」なんて真っ先に考えないだろ? 全身で音楽を感じて、踊り狂いたい。歌詞の意味なんてどうでもいい。僕はただ、1時間のパーティーのように、その場の雰囲気を楽しみ、みんなと一緒に最高の時間を過ごしたいんだ。だから僕たちの音楽は、考え込むような暗い曲ではなく、もっとポジティブでエネルギッシュな曲を目指している。エレクトロニック・ミュージックのように、リズムが身体を自然と動かしてしまうような、そんな音楽をつくりたいんだ。今回のアルバムは、まさにその方向性を追求した作品だと言えると思うよ。

音楽制作において、常に「正しいやり方」があるとは限らない

——ちなみに、「The Windmill」のバンド・シーンが脚光を浴び始めた当時、ブラック・ミディやブラック・カントリー・ニュー・ロードのような、音楽の専門的な教育を受けたミュージシャンが多く活躍していたのが印象的だった記憶があります。例えば、そうした彼らと自分たちは違う、みたいな意識や自負があったりしますか。

ジョー:実は、中学生の頃、ブリット・スクールを訪問したことがあるんだ。入学を検討していたんだけど、さまざまな事情で別の学校に進学することになって。その学校はブリット・スクールとは全く異なる雰囲気で、少し荒れていたけど、音楽科だけは素晴らしかった。先日、香港でその時の先生に偶然会ったんだ、昔を思い出して、とてもシュールな感覚だったよ。

その時、もしブリット・スクールで学んでいたら、今の自分はどうなっていたんだろうって、そんなことを考えさせられたよ。ブリット・スクールでは、どうすれば音楽業界で失敗しないかを教えてくれる。でも、僕は音楽理論よりも、実際に楽器を演奏することや曲をつくることが好きだった。音楽業界で成功するためには、莫大な資金が必要になる場合もある。例えば、ギルドホール(音楽演劇学校)のような名門音楽学校に通うには、かなりの学費がかかる。そして、お金持ちの人たちは時間がある。特に家柄の良い人たちはね。でも、多くの労働者階級の人たちは、バンドに参加して必要な時間をかけて、ギャラなしで延々とギグをするような余裕はない。何もかもがあまりに高過ぎるから。

——ええ。

ジョー:だから、僕は自分のペースで好きな音楽を楽しみながら、音楽活動を続けてきたんだ。音楽は、お金をかけなくても誰でも楽しむことができるものだと思う。ブリット・スクールのように、無料で音楽を学べる機会があれば、もっと多くの人が音楽に触れることができるだろうし。音楽を通してさまざまなバックグラウンドを持つ人々が集まり、交流できる。そんな音楽の世界にこれからも関わっていけたらなって思うよ。

それに、エレクトロニック・ミュージックやハイパーポップのようなジャンルでは、技術的なスキルが高くなくても、誰でも音楽制作を楽しむことができる。むしろ、既存のルールにとらわれず、自由に音楽をつくっている人がたくさんいる。だから、彼らは自分で学んでいるし、自分自身の感覚を信じて、ただそれがいい音だと思うからやっているんだ。音楽制作において、常に「正しいやり方」があるとは限らない。大切なのは、自分が心地よいと感じるサウンドを追求すること。周囲から否定的な意見を言われたとしても、自分の音楽を信じるべきだし、自分にとってそれがいい音なら、それでいいんだ。僕はそう思う。

——ところで、ジョーさんのスクール・ライフはどんな感じだったんですか。

ジョー:音楽の授業は僕にとって特別な場所だった。好きなだけ音楽をつくることができたし、先生たちもそれを応援してくれた。でも、イギリスの学校教育全体で見ると、音楽は重視されていないように思う。みんな数学や英語といった科目ばかりに目が向いていて、自分の才能や興味のあることに目を向けることが難しい。僕は昔から数学や英語が苦手だったから、学校ではいつも苦労していたよ。

僕は、一つのことだけを極めるのではなく、さまざまなことに興味を持つのが大切だと思う。音楽もその一つだ。音楽の才能は、必ずしもビジネスの世界で成功するために必要なものではないかもしれない。でも、音楽は僕の人生を豊かにし、心の支えになっている。音楽業界は厳しい世界かもしれないけれど、自分のペースで音楽をつくり続けたいと思っている。

——そういえば、ジョーさんは前にインタビューで「(自分たちの音楽において)盗みはその大部分を占めている。1曲の中で13曲も盗めば、誰も気づかない」って話していましたね。

ジョー:まあ、僕たちは正直者ってことなんだと思う(笑)。逆に、多くの人たちは正直じゃないって話でね。

いい曲に出会うと、「自分もこんな曲をつくりたい!」って心が揺さぶられる。それは自然なことで、とてもいいことだと思う。でも、いざ実際に自分でつくってみると、全然うまくいかないことが多い。そんなテクニックはないから当然だよね。特に、好きなアーティストの曲を意識し過ぎてしまうと、どうしてもオリジナルな作品をつくることが難しくなる。この前もデヴィッド・ボウイの曲を“盗んで”曲を書いたんだけど、聴き比べてみると「どこが?」って感じで(笑)、全然違う曲だってことに気づかされて。

音楽って、どこかで誰かの影響を受けているものだから、完全にオリジナルな作品なんてないのかもしれない。大切なのは、自分の心を動かした音楽からインスピレーションを得て、それを自分なりに表現することだと思う。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA

デビュー・アルバム「WOOF.」

TRACKLISTING:
01. Vigilante
02. Closer to God
03. Wither
04. Clowns
05. King of the Slugs
06. All the Same
07. I am the King
08. Running
09. And so it Came to Pass
10. Land Before Time *Bonus track
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=14050

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TOKYO BASE、原宿で超ドミナント出店の理由 グローバル旗艦店やスーベニアーショップがオープン

TOKYO BASEは、「グローバル旗艦店」と位置付けるインバウンド向け業態「ステュディオス トウキョウ(STUDIOS TOKYO)」の日本初となる店舗と、スーベニアショップの新業態「グッド エディッション(GOOD EDITION)」の1号店を、「ステュディオス(STUDIOUS)」原宿本店の向かいに3月1日にオープンする。

神宮前4丁目の一角には「ステュディオス」からカジュアルブランドを切り出した「ステュディオス セカンド(STUDIOS 2nd)」、ストリートブランドを集めた「ステュディオス サード(STUDIOS 3rd)」、ウィメンズ業態「ステュディオス ウィメンズ(STUDIOS WOMENS)」、昨年9月に始動した若年層に向け業態「コンズ(CONZ)」などの路面店が並ぶ。さらに今秋には「コンズ」のウィメンズ業態も出店する計画で、TOKYO BASE の計8店舗が数十メートルの範囲に集結する。谷正人最高経営責任者(CEO)に出店の狙いを聞いた。

「ステュディオス トウキョウ」はインバウンド比率70%を想定

WWD:「ステュディオス トウキョウ」はこれまで中国、香港、ニューヨークと海外での展開に力を入れてきた。今日本で出店する狙いは?

谷正人CEO(以下、谷):「ステュディオス トウキョウ」は、「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」や「アンダーカバー(UNDERCOVER)」など、日本が誇る老舗ブランドをセレクトしてきた。結果、海外での「ステュディオス トウキョウ」は30〜40代の富裕層に売れている。この層により響く商品を原宿でも強化しようと考えた。現在、原宿地域の店舗において、インバウンド比率は40〜50%程度。今回オープンする「ステュディオス トウキョウ」においては70%を想定する。

WWD:具体的にどのような商品ラインアップになる?

:世界で戦う日本ブランドのチャンピオンリーグのようなイメージ。「ヨウジヤマモト」や「アンダーカバー」「ホワイトマウンテニアリング(WHITE MOUNTAINEERING)」といった厳選した約10ブランドを並べる。バイイングは、海外の店舗を担当するチームに任せる。日本客向けの店舗は客層を思い浮かべながらセレクトする“マーケットイン“の考え方が軸だが、訪日客向けにはスタッフの見せたい商品に重きを置いた“プロダクトアウト型“で勝負する。店舗スタッフも中国語か英語が必ず話せる人員をそろえた。

WWD:TOKYO BASEはLINEを使った接客などをいち早く取り入れてきた。そうした接客で訪日客の顧客化も進んでいる?

:当社がLINEによる接客を始めた当時は、驚かれることもあったが、地方の店では当たり前に行われてきたこと。 そうしたスタッフとお客さまの強いつながりがあったからこそコロナ禍でも業績を大きく落とさずに済んだ。訪日客に対してもその接客スタイルは変わらず、ウィーチャット(微信、WeChat)などの海外アプリを使って顧客管理を徹底している。スタッフがお客さまのクローゼットの中身を把握した上で、より踏み込んだスタイリング提案などができている。

WWD:スーベニアショップ「グッドエディッション」の狙いは?

:日本ブランドのスニーカーやバッグ、アクセサリーといったファッション雑貨を中心にそろえる。大事にしているのは、東京らしさ。さまざまな年代や文化、テイストの入り混じったいい意味でカオスな品ぞろえにこだわる。仕入れブランドの中で小物が充実していても、服が主軸の既存の業態では扱えないことも多々あった。主な狙いは訪日客だが、東京に旅行に来た人や友人にプレゼントを探しに来た人などにも楽しんでもらえるはず。ターゲット層をあえて絞らず、間口を広げる役割もある。6月には京都にも出店予定だ。

創業地は売上高1億円から20億円稼ぐ場所に

WWD:「ステュディオス」原宿本店の通りには7店舗固めた理由は?

:参考にしているのは、地方の店。地方の面白い店は、普通の商店街にどんどんドミナント出店して、そこだけファッション好きが集まるような場所に変えてしまう。僕たちも世界の地方店のような感覚で、原宿でそれを体現したい。

WWD:路面店出店はリスクも大きい。

:自らの退路を断つ意味が大きい。それだけの意気込みを持って出店している。加えて僕たちが大事にしている、マニュアルではない人間味のある接客は路面店の方が生きてくる。社内的にもさまざまなメリットがある。路面店は離職率が圧倒的に低く、人材が育つ傾向にある。商業施設の中の店舗に比べて営業時間が短く、朝から晩まで同じチーム体制で運営できることも大きいだろう。近くに同じ条件で戦う同僚の店があることで、競争原理がうまく働いている。

WWD:原宿にこだわる理由は?

:僕は大学進学を機に静岡県の浜松から上京した。そのときの原宿の衝撃がやっぱり忘れない。藤原ヒロシさんやNIGO®さんたちが作っていた裏原のコミュニティーがファッションを好きになったきっかけで、ストリートから生まれるファッションのかっこよさに感化された。以来、僕にとって原宿は特別な場所。原宿で商売を始めて20年近く経つが、これからもファッションやカルチャーが生まれる街としての原宿の発信力は廃れないと信じている。

「ステュディオス」が今の場所に1号店を出したのは、2007年4月。当時自分はバイイングや店長も務めながら、看板を持って外に出て、汗だくになりながら客の呼び込みもやっていた。原宿店の営業が終わった後に、スタッフみんなに「この通りをうちの店舗で全部埋めてやるから」と冗談のつもりで話していた。当時の売り上げは頑張って年間1億円。それが今や原宿本店だけで4億円を売る店になった。周辺の店舗も合わせればこれから20億円を超えていく。もちろん本気で全部埋めるにはまだまだ時間がかかるが、あのときの言霊があるから、挑戦を続ける使命感がある。

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TOKYO BASE、原宿で超ドミナント出店の理由 グローバル旗艦店やスーベニアーショップがオープン

TOKYO BASEは、「グローバル旗艦店」と位置付けるインバウンド向け業態「ステュディオス トウキョウ(STUDIOS TOKYO)」の日本初となる店舗と、スーベニアショップの新業態「グッド エディッション(GOOD EDITION)」の1号店を、「ステュディオス(STUDIOUS)」原宿本店の向かいに3月1日にオープンする。

神宮前4丁目の一角には「ステュディオス」からカジュアルブランドを切り出した「ステュディオス セカンド(STUDIOS 2nd)」、ストリートブランドを集めた「ステュディオス サード(STUDIOS 3rd)」、ウィメンズ業態「ステュディオス ウィメンズ(STUDIOS WOMENS)」、昨年9月に始動した若年層に向け業態「コンズ(CONZ)」などの路面店が並ぶ。さらに今秋には「コンズ」のウィメンズ業態も出店する計画で、TOKYO BASE の計8店舗が数十メートルの範囲に集結する。谷正人最高経営責任者(CEO)に出店の狙いを聞いた。

「ステュディオス トウキョウ」はインバウンド比率70%を想定

WWD:「ステュディオス トウキョウ」はこれまで中国、香港、ニューヨークと海外での展開に力を入れてきた。今日本で出店する狙いは?

谷正人CEO(以下、谷):「ステュディオス トウキョウ」は、「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」や「アンダーカバー(UNDERCOVER)」など、日本が誇る老舗ブランドをセレクトしてきた。結果、海外での「ステュディオス トウキョウ」は30〜40代の富裕層に売れている。この層により響く商品を原宿でも強化しようと考えた。現在、原宿地域の店舗において、インバウンド比率は40〜50%程度。今回オープンする「ステュディオス トウキョウ」においては70%を想定する。

WWD:具体的にどのような商品ラインアップになる?

:世界で戦う日本ブランドのチャンピオンリーグのようなイメージ。「ヨウジヤマモト」や「アンダーカバー」「ホワイトマウンテニアリング(WHITE MOUNTAINEERING)」といった厳選した約10ブランドを並べる。バイイングは、海外の店舗を担当するチームに任せる。日本客向けの店舗は客層を思い浮かべながらセレクトする“マーケットイン“の考え方が軸だが、訪日客向けにはスタッフの見せたい商品に重きを置いた“プロダクトアウト型“で勝負する。店舗スタッフも中国語か英語が必ず話せる人員をそろえた。

WWD:TOKYO BASEはLINEを使った接客などをいち早く取り入れてきた。そうした接客で訪日客の顧客化も進んでいる?

:当社がLINEによる接客を始めた当時は、驚かれることもあったが、地方の店では当たり前に行われてきたこと。 そうしたスタッフとお客さまの強いつながりがあったからこそコロナ禍でも業績を大きく落とさずに済んだ。訪日客に対してもその接客スタイルは変わらず、ウィーチャット(微信、WeChat)などの海外アプリを使って顧客管理を徹底している。スタッフがお客さまのクローゼットの中身を把握した上で、より踏み込んだスタイリング提案などができている。

WWD:スーベニアショップ「グッドエディッション」の狙いは?

:日本ブランドのスニーカーやバッグ、アクセサリーといったファッション雑貨を中心にそろえる。大事にしているのは、東京らしさ。さまざまな年代や文化、テイストの入り混じったいい意味でカオスな品ぞろえにこだわる。仕入れブランドの中で小物が充実していても、服が主軸の既存の業態では扱えないことも多々あった。主な狙いは訪日客だが、東京に旅行に来た人や友人にプレゼントを探しに来た人などにも楽しんでもらえるはず。ターゲット層をあえて絞らず、間口を広げる役割もある。6月には京都にも出店予定だ。

創業地は売上高1億円から20億円稼ぐ場所に

WWD:「ステュディオス」原宿本店の通りには7店舗固めた理由は?

:参考にしているのは、地方の店。地方の面白い店は、普通の商店街にどんどんドミナント出店して、そこだけファッション好きが集まるような場所に変えてしまう。僕たちも世界の地方店のような感覚で、原宿でそれを体現したい。

WWD:路面店出店はリスクも大きい。

:自らの退路を断つ意味が大きい。それだけの意気込みを持って出店している。加えて僕たちが大事にしている、マニュアルではない人間味のある接客は路面店の方が生きてくる。社内的にもさまざまなメリットがある。路面店は離職率が圧倒的に低く、人材が育つ傾向にある。商業施設の中の店舗に比べて営業時間が短く、朝から晩まで同じチーム体制で運営できることも大きいだろう。近くに同じ条件で戦う同僚の店があることで、競争原理がうまく働いている。

WWD:原宿にこだわる理由は?

:僕は大学進学を機に静岡県の浜松から上京した。そのときの原宿の衝撃がやっぱり忘れない。藤原ヒロシさんやNIGO®さんたちが作っていた裏原のコミュニティーがファッションを好きになったきっかけで、ストリートから生まれるファッションのかっこよさに感化された。以来、僕にとって原宿は特別な場所。原宿で商売を始めて20年近く経つが、これからもファッションやカルチャーが生まれる街としての原宿の発信力は廃れないと信じている。

「ステュディオス」が今の場所に1号店を出したのは、2007年4月。当時自分はバイイングや店長も務めながら、看板を持って外に出て、汗だくになりながら客の呼び込みもやっていた。原宿店の営業が終わった後に、スタッフみんなに「この通りをうちの店舗で全部埋めてやるから」と冗談のつもりで話していた。当時の売り上げは頑張って年間1億円。それが今や原宿本店だけで4億円を売る店になった。周辺の店舗も合わせればこれから20億円を超えていく。もちろん本気で全部埋めるにはまだまだ時間がかかるが、あのときの言霊があるから、挑戦を続ける使命感がある。

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ラグジュアリーの真髄を追求したい 東京・あきる野の1日1組限定ヴィラ「風姿」

昨年末、東京・あきる野の自然に包まれたラグジュアリーヴィラ「風姿」が、建築アワード「ワールド・アーキテクチャー・フェスティバル(WAF)」スモール・プロジェクト部門の最高賞を受賞し、国内外で注目を集めている。

「風姿」の特徴は伝統技術と現代の建築構造を融合させたデザインと、自然と一体化するアウトドアリビングだ。窓や壁、柱をほぼ排した開放的な空間は、自然の中に溶け込むように設計され「内と外の境界が曖昧になる」感覚を生み出している。

地域文化を深く理解した里山料理や風土と革新が融合した体験を提供していることも魅力の1つで、物に頼らずに存在感を際立たせる空間デザインによって、「何も無いラグジュアリー」を五感で感じることができる。

髙水謙二「風姿」オーナーと建築家の手塚貴晴に建築デザインの背後にあるコンセプトと思想、ラグジュアリーやホスピタリティーの真髄について話を聞いた。

PROFILE: (右)髙水謙二/「風姿」オーナー (左)手塚貴晴

(右)髙水謙二/「風姿」オーナー (左)手塚貴晴
PROFILE: 右:東京都あきる野市で2024年3月にオープンした1日1組限定のラグジュアリーヴィラ「風姿(ふうし)」のオーナー。多摩で半世紀以上愛される里山料理「黒茶屋」、古民家を改装した懐石料理&ギャラリー「燈々庵(とうとうあん)」も運営。山の幸を活かした本格料理が自慢で、「風姿」では自然・風土・文化・食を五感で味わえる空間を提供。地域の歴史的建造物を活かし、未来へと受け継ぐことを使命としている 左:手塚建築研究所創設者。OECD(世界経済協力機構)とUNESCOにより世界で最も優れた学校に選ばれた 「ふじようちえん」を始めとして、子供の為の空間設計を多く手がける。 近年ではUNESCOより世界環境建築賞(Global Award for Sustainable Architecture)を受ける。手塚貴晴が行ったTEDトークの再生回数は2015年の世界7位を記録。 国内では日本建築学会賞、日本建築家協会賞、グッドデザイン金賞、子供環境学会賞などを受けている。手塚由比は文部科学省国立教育政策研究所において幼稚園の設計基準の制定に関わった。 現在は建築設計活動に軸足を置きながら、OECDより依頼を受け国内外各地にて子供の環境に関する講演会を行なっている。その子供の環境に関する理論はハーバード大学によりyellowbookとして出版されている

――「風姿」を手掛けるにあたって、どのような対話を重ねていったのでしょうか?

髙水謙二(以下、髙水):長年飲食業にいる中で形や思想を歴史に残したいと考えるようになり、「あきるので何かできないか?」と漠然と思い始めました。最初から綿密な計画があったわけではなく、感覚的に構想を練りあげ手塚さんにご相談しました。

自然と共生して風が吹き抜け、時間とともに美しく変化していく建物。伝統的な和風建築をそのまま再現するのではなく、かといって洋風にも寄らない。奇をてらっていないデザインの新しいかたちを模索しました。

私が自然との調和を常に意識しているのは、そこに人が心地よさを感じるからです。京都や奈良の建築には、経年変化を楽しむことができる素材が使われていて、それが人の心を落ち着かせ、美しさを感じさせます。

手塚貴晴(以下、手塚):和でも洋でもなく、古くも新しくもなく、自然に溶け込む風のような空間。しかし、壊れては困るので、とても難しいプロジェクトでした。核となる考えは「消えること」です。

能の「うつせみ(空蝉)」という概念は人間の存在は現世でも仮の姿であり、死後もまた本質ではないことを示しています。建築もまた、ただ存在するものではなく、人が去りゆく場としての意味を持ちます。

「風姿」は、建物の中にいても外の風を感じられる空間です。人は「内」と「外」のどちらかに留まるのではなく、その間を行き来しながら自分の居場所を探します。

この場で人がどう感じ、どう過ごすかを考えた結果、何度でも訪れたくなる場所を目指しました。

――「表」と「裏」はどのように定義されるでしょうか?

髙水:旅館へ行くと「うちの裏にはきれいな川が流れています」などとよく聞きますが、川のような美しい景観がある側こそ「表」です。

美しい景観の一部である川が多くの旅館では「裏」として扱われ、コンクリートむき出しの壁や時にはビールケースが無造作に置かれていることもあります。

ただ、本来のあり方はどちらが「表」か「裏」かにとらわれず、どの方向から訪れても心地よい空間が広がっていることだと思っています。

手塚:日本には「室礼(しつらい)」という言葉があります。例えば、茶室のように、最小限の仕切りや屏風だけで空間を作る。これは単なるシェルターではなく、人が自然とどう向き合うかを考える場です。快適な空間の高級ホテルは世界中にありますが、本当のぜいたくは、自分の居場所を自然の中で見つけられる場所です。

――「何も無いデザイン」とは、どのようなものでしょうか?

手塚:例えば、軒先を少し下げることでその先の風景が自然と目に入ってくる。多くの人は軒先の存在を意識せず、ある瞬間に気付くかもしれない。それが何も無いデザインの仕掛けの1つです。建築が主役になるのではなく、本来は「そこに存在しないように感じられること」が理想です。人や自然と調和し、場の魅力を引き立てることが大切です。

髙水:でき上がってみると、思いもよらないことが起こる場合があります。手塚さんの頭の中にはあったと思いますが、雨が降ると28mの軒先から一斉に水が滴り落ち、“雨のカーテン“がかかる。

軒先の高さは床面から1.5mなので、人の目線の高さで秋川渓谷を屏風絵のように切り取ることができます。ですので、ここでは雨や雪も風情になります。

――一番困難だったことは何ですか?

手塚:先程お話ししたように、見えないものを作ることはとても難しかったですね。それに、普段は建築基準法や道路の規制などがありますが、そういったことが一切ない。制限がないからこそ生まれる美しさを考えた時、まるで砂漠の真ん中に放り出されて、「さあ、何とかしろ」と言われるような難しさを感じました。

髙水:もし手塚さんが砂漠の真ん中に建物を作るとしたら、きっと砂漠そのものを見せるのではなく、一番美しく夕日が見える場所を切り取って、意図的に制約を作るでしょう。制約のない場所でも、あえて制約を設けてその中に美を作り出すことが大切です。

――ラグジュアリーをどのように定義されますか?

髙水:「ラグジュアリーとは何か?」をよく考えます。豪華なシャンデリアやインテリアのあるホテルは、確かにラグジュアリーかもしれませんが、私たちが目指すのは何百年、何千年前に作られた文化とは具体的になんでしょうか?と特注のベッドやソファを組み合わせ、特別な空間を生みだすこと。

便利さや効率ばかりを求める日常から少し離れ、風とともに歩き、自分のリズムを取り戻すことがラグジュアリーだと思っています。風は目に見えないけれど確かにそこに存在し、私たちの肌に触れ、木々を揺らし、空気を運んでいく。お金があれば何でも手に入る時代だからこそ「何もない」ことに価値がある。何もないからこそ、ここが自分に向き合える場所になるんです。

手塚:この建築は、関わったすべての人の心が込められた本当にぜいたくな場所です。普段の仕事では感じられない充実感から、完成した時に私のアシスタントが感動して涙を流したくらいです。私達のチームが書いた図面は3000枚にも及び、超高層ビルを設計するほど膨大なエネルギーを注ぎました。髙水社長の情熱が皆の心を動かして、誰もが夢中になって取り組んだ結果です。

――手塚さんが、多摩・あきる野に感じた魅力はなんでしょうか?

手塚:一番興味を持ったのは、髙水さんの存在です。何もないところに「黒茶屋」を作り、半世紀以上の歴史を築いてきた。髙水さんは文化を作ろうとしていますし、そういう「ゼロから何かを作る人」に惹かれます。私が仕事をしている「ふじようちえん」の園長先生、やホームレス支援をしている奥田知志さんにも共通するのは1人で始めたこと。そういう人たちは、何か特別な力を持っているんですよね。

私は、髙水さんを“多摩の魯山人“だと思っています。魯山人は、「黄金の茶碗は作ろうと思えば作れる。でも、それよりも土の風合いにこそ価値がある。どんなものにでも意味を持たせることができるかどうかが重要だ」と言っています。そういう視点を持つことが大事です。陶芸家であり、料理家でもあり、さまざまなことに関わった幅広い視野が、彼の作品の魅力につながったのではないかと思います。髙水さんと話していると、庭から建物、食の話まで、次から次へと話題が広がるので専門的に1つを突き詰めるだけではなく、広い視点で物事を見ていくことも重要です。

髙水:私は何の専門家でもありません。何もなかったから、デザインも建築も花もお茶も料理も自分でやるしかなかった。先生もいないから自然を見て学びました。なので、魯山人と呼ばれるのは恐れ多いですね。

いつも考えているのは、装飾を抑えた洗練された美です。お客さまがどんな服装で訪れるか、この空間でどう過ごすかなどを想像し、その上でおもてなしを考えること。例えば、料理では視覚的に余計な要素を取り除くことで、その存在がより引き立ちます。

手塚:あきる野の魅力は定番の観光ではなく、「人に会うこと」です。地元の人々とのつながりや温かさこそが価値であり、このそばにある古い神社も地元の人たちが大切にしてきたからこそ、場所そのものに意味が生まれるのです。

――ホスピタリティーに必要な心構えを次世代にどのように伝えますか?

髙水:ホスピタリティーというと「親切」「思いやり」といった言葉が浮かびますが、本当に大切なのは、もっと小さなこと。先日、風邪をひいてドラッグストアでトローチを買ったとき、店員さんが「喉が痛いんですか? 早く良くなるといいですね」と声をかけてくれて、外まで見送ってくれた。そんな小さな一言に人は感動するものです。

ホスピタリティの真髄は、大きな仕掛けや感動を生むものではなく、小さな心配り。私たちのお客様は一流のサービスを知っているので、さまざまな期待を持っています。その期待を超えて「ここは特別だ」と感じていただけるおもてなしを大切にしています。

――次世代に伝えるべき建築に欠かせない価値は何ですか?

手塚:私は大学教授でもあります。学生には建築をファッション誌を眺めるように見てはいけないと伝えています。なぜなら、建築は少なくとも完成する10年以上も前に建築家が考えたものであり、すでに“過去の姿“だからです。さらに、完成しても嫌なら壊されてしまう可能性もあります。本当の勝負は少なくとも50年後、100年後にどうなっているかです。それは、多くの人が「この建築は素晴らしい」と思い、大切に残されたものです。構造がしっかりしていても意味がなければ残りません。

ルイス・カーン(Louis Kahn)の建築は、今も住居として大切に使われています。彼の設計した家を訪れると、冷蔵庫にはベタベタとポストイットが貼られ、暮らしの気配が溢れている。それを見たとき、「こういう建築を作りたい」と思いました。自分が居なくなった後も、自分の作品が長く愛され続けるほど幸せなことはない。「風姿」は、そんな想いで作っています。建築は、お金をかければ残るものでもありません。それは、髙水さんの仰るホスピタリティーに通じるのかもしれませんね。

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トップモデルと敏腕編集者がアウターを通じて伝えたいこと 岡本多緒&テンジンの「アボード・オブ・スノー」

PROFILE: (左)テンジン・ワイルド/アボード・オブ・スノーCEO兼クリエイティブディレクター、プロデューサー (右)岡本多緒/俳優、モデル、映画監督、アボード・オブ・スノー共同クリエイティブディレクター兼サステナビリティアンバサダー

PROFILE: 左:(Tenzin Wild)スイス生まれ。「ヴィジョネア」や「Vマガジン」でのキャリアを経て、2008年に「ザ・ラスト・マガジン」を共同設立。「ナイキ」「ジバンシィ」「タサキ」「ユニクロ」など多くの著名ブランドの広告も手掛けてきた。2020年には、自身のルーツであるチベット及びヒマラヤにインスパイアされたアウターウエアブランド「アボード・オブ・スノー」を妻の岡本多緒と立ち上げる 右:(おかもと・たお)1985年5月22日生まれ、千葉県出身。14歳でモデルデビュー後、TAOとしてパリやミラノ、ニューヨークのファッション・ウイークで活躍した。2013年に映画「ウルヴァリン:SAMURAI」で俳優デビューを果たし、ハリウッド作品を中心に数々の話題作に出演。23年には映画監督としてこれまで3本の短編作品を手掛ける。多岐にわたる活動の傍ら、環境問題や動物の権利について発信するポッドキャスト番組「エメラルド プラクティシズ」のホストを務める他、「アボード・オブ・スノー」も手掛ける

「アボード・オブ・スノー(ABODE OF SNOW)」は、米ファッション誌「ザ・ラスト・マガジン(The Last Magazine)」の編集長だったテンジン・ワイルド(Tenzin Wild)と、同氏の妻であり、モデル、俳優として活動する岡本多緒が、2020年に立ち上げたアウターウエアブランドだ。ワイルドのルーツであるチベットとヒマラヤの文化や伝統を背景に、岡本がライフワークとして取り組む環境活動を融合したファッションアイテムを提案している。現在、ロンハーマンや伊勢丹新宿本店など20店舗以上で取り扱う。昨年から拠点を東京に移した2人に、モノ作りの哲学などを語ってもらった。

ルーツのチベットへの思い
“責任あるモノ作り”への挑戦

WWDJAPAN(以下、WWD):改めて、ブランドを立ち上げたきっかけを教えてください。

テンジン・ワイルド(以下、ワイルド):私はスイス人の父とチベット人の母の間に生まれました。母はチベットで生まれ、その後スイスに移住した最初の難民の一人です。私自身はスイスで生まれ育ちましたが、2005年に初めてチベットを訪れ、その土地や文化の美しさに深く感銘を受けました。チベットといえば政治的な話題にフォーカスされがちですが、編集者としての経験を生かし、ファッションを通じて私のルーツであるチベットやヒマラヤの文化・伝統を伝えたいと思いました。

※1950年代に中国がチベットを侵略し、多くのチベット人が弾圧を逃れるため、インドやネパール、スイス、アメリカなどに移住した

WWD:ブランド名の由来は?

テンジン:“ヒマラヤ”は古代サンスクリット語で“雪の棲家”という意味で、ヒマラヤ山脈の人々の暮らしを指します。それを英語にし、「アボード・オブ・スノー」と名付けました。

WWD:テンジンさんの思いを聞いて、多緒さんはどのように感じましたか?

岡本多緒(以下、岡本):私自身、環境問題への意識が高まる中で、ブランドを立ち上げることがモノを増やすことにつながるのではないかと悩むこともありました。しかし、チベットの人々や、テンジンのようにルーツを持つ人たちが、自らの文化を消失する危機にひんしていることを知り、それを政治的ではない視点から発信したいという彼の思いに共感するようになりました。一からブランドを立ち上げるのであれば、責任あるモノ作りを徹底したいと話し合い、コロナ禍での新しい挑戦に不安もありましたが、手探りで始めてみようと奮起しました。

素材への徹底したこだわり
ニット以外は全て日本産

WWD:アウターウエアからスタートした理由は?

岡本:チベットは平均標高約4500メートルで、富士山の頂上(3776メートル)にいるような寒冷地です。常に厚着をしている住人たちを見て、アウターウエアとの親和性を感じました。

WWD:生産背景は?

ワイルド:17年頃からリサーチを始め、最初にニューヨークでサンプルを作ってみたのですが、満足できる品質には至りませんでした。ちょうどその頃、私が手掛けていた雑誌「ザ・ラスト・マガジン」で、「マメ クロゴウチ(MAME KUROGOUCHI)」の取材をしていて、デザイナーの黒河内真衣子さんが岡山県の工場を紹介してくれました。その縁で、日本での生産を始めました。

岡本:現在、縫製は日本とネパールの家族経営工場2つにお願いしています。実際に足を運んでみたところ、どちらも一緒に仕事をしたいと思える環境が整っていました。

WWD:素材はどのように選んでいますか?

岡本:ニットにはヒマラヤ山脈に生息するヤクのウールを使用しています。ヤクは換毛期に自然に毛が抜け落ちるため、動物を傷つけることなくウールを収穫できます。また、ヤクは草を根こそぎ食べず、草原が蘇りやすいため、環境にも優しいと言われています。遊牧民の生産者からヤクウールを購入していますが、トレーサビリティーにはまだ課題があり、現状エリアの特定が完全にできていない点がもどかしいです。

ニット以外は日本の素材にこだわっています。リサイクル素材を選んでおり、今シーズン特に気に入っているのは、昆布のようなハリのある手触りが特徴の“コンブ”。私たちのブランドでは“100%再生でき、循環する素材”を選んでいます。

ワイルド:また、オーガニック素材も少しずつ取り入れています。デニムにはオーガニックコットンを使用し、今シーズンはリサイクルウールを使ったアイテムも企画しています。

WWD:リサイクルダウンも使用していますよね。

岡本:全てのダウンアイテムには、羽毛製品を回収し、洗浄・精製加工した日本の“グリーンダウン(Green Down)”を使用しています。従来のバージンダウンは一度しか洗浄していないことが多く、アレルゲンが残ることがありますが、“グリーンダウン”は二度洗浄することで、きれいで軽やかな仕上がりになります。また、ダウンを封入するダウンパックにも通気性のいい素材を使用しているので、クオリティーが非常に高いです。この技術は海外でも驚かれます。

互いのキャリアで得た豊富な人脈
強力メンバーがサポート

WWD:デザインについては?

ワイルド:例えば、アイコンの“チュバ(CHUBA)”シリーズは、チベットの民族衣装であるチュバから着想を得たもので、ベストやトレンチコート、ジャケットのディテールにも取り入れています。最初は「伝統的すぎる」という声もありましたが、実際に袖を通してもらうことで、着回しやすいデザインであることが伝わりました。現在は日本人のデザイナーも一緒に仕事をしているおかげで、商品ラインアップを広げることができています。

WWD:ワイルドさんは編集者、多緒さんはモデルや俳優として活動してきたキャリアがブランド運営にどう生かされていますか?

ワイルド:ファッション業界に広いコネクションがあることですね。幸運なことに、私たちには相談できるデザイナーやCEOが身近にいました。また、私自身アートディレクターとして、多くのブランドに携わってきた経験によって、マーケティングやブランディングを理解しており、現在のブランド運営に役立っていると感じます。

岡本:私もフォトグラファーやスタイリストなど、業界に知人が多くいたことが大きかったです。一方で、モデル時代には気付けなかった生産側の立場も理解できるようになりました。ブランドの大小関係なく、一着一着丁寧に作られていることに気付かされ、今改めてモノ作りに対する感謝の気持ちを大切にしています。

WWD:ブランドのアイコンキャラクター“イエティ”はどのように生まれた?

岡本:私がデザインしたんです。ブランド名にちなんで雪男のイラストをいろいろと描きながら要素をそぎ落としていき、シンプルな “イエティ”が完成しました。

“イエティ”をアニメーション化して、環境問題について伝えるビデオを制作

2人が描く未来のビジョン
モノを作ることへの矛盾を乗り越え

WWD:現在のビジネスについては?

ワイルド:セールスは、ウィメンズはショールーム リンクス(Showroom Links)と、メンズはランヴェール(L'envers)と契約してサポートを受けています。現在はロンハーマン(Ron Herman)やスーパー エー マーケット(SUPER A MARKET)、スティーブン アラン(Steven Alan)をはじめとする20店舗で販売しています。24-25年秋冬シーズンからは、伊勢丹新宿本店での取り扱いもスタートしました。ブランドの認知度を広げる機会をもっと増やしたいです。

WWD:今後挑戦したいことは?

ワイルド:いつか店舗を構えたいですね。「アボード・オブ・スノー」では、商品にとどまらず、チベットをはじめ、ブータンやネパールといったヒマラヤ周辺地域の美しい文化や伝統を伝えていきたいです。旅行や食、アート、レジャーといったエディトリアル的要素を取り入れ、それらが自然につながるようにしたい。構想としては、他社の素晴らしいブランドも店舗で紹介したいと考えています。

岡本:私は、環境問題についてもっと関心を広げてもらえるよう力を入れていきたいです。例えば、ヒマラヤ山脈から採水される水は、アジアの多くの人々にとって重要な水源です。しかし、気候変動の影響で雪が溶け出し、地域の人々の生活や自然環境に深刻な影響を与える恐れがあると言われています。今後は、こういったストーリーも伝えていきたい。商品を通して環境問題を伝えることには矛盾があるかもしれません。でも、衣食住は人間にとって欠かせないもの。より良い選択肢を提示できるように心掛けていたいです。

PHOTOS : IBUKI

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百貨店を食っちゃうぞ 大丸松坂屋の虎の子「アナザーアドレス」 牙磨き5年目

大丸松坂屋百貨店が運営するファッションレンタルのサブスクサービス「アナザーアドレス(ANOTHER ADDRESS)」が3月で5年目を迎える。サービススタート当初は、海外のデザイナーズブランドの服などがレンタルできる点に注目が集まったが、クリエイターに光を当てたり、業界のサステナビリティに一石を投じたりと、ファッションレンタルの枠を超えた広がりを見せている。

「アナザーアドレス」はこのほど、同サービス主催のファッションデザインコンテスト「ループアワード」の表彰式を東京・代々木第一体育館で実施した。レンタルを繰り返し、役目を終えた古着をリメイクした作品のできばえを、プロデザイナー部門と学生/アマチュア部門に分けて審査。総合グランプリと部門賞を表彰した。

表彰式の会場となった代々木第一体育館では、14〜16日にかけ、ファッションやアート、ライフスタイルなどの事業者やクリエイターなど約400組が出展する祭典「ニューエナジートウキョウ」が開催された。「アナザーアドレス」はブース出展も実施し、環境省に採択された衣類のアップサイクルプロジェクト「roop」やその成果のパネル展示、アパレル廃材を使用したアート作品の展示・制作体験コーナーなども設けた。

表彰式の前日、「これほど大掛かりのイベントは初めて。昨日は徹夜だった」と赤い目をこすっていた事業責任者の田端竜也氏。会場でサービスの展望を聞いた。

WWD:今回の取り組みの背景について。

田端竜也「アナザーアドレス」事業責任者(以下、田端):まず、このイベント自体で収益を上げるつもりは毛頭なく、あくまで「アナザーアドレス」の取り組み、その背景にあるパーパスの認知活動が目的です。

今回のイベントは、環境省によるカーボンニュートラルに向けた民間事業との連携プロジェクト「デコ活」の支援を受けています。“デコ活”はこれまでの“クールビズ”みたいにスーツを脱ぎなさい、エアコンの温度を下げなさい、とあれこれ指導するのではなく、「消費者が本当にいいと思って使った商品やサービスが、実は環境にもいいものだった」というような企業の取り組みを、国の補助金を使って支援するものです。

「アナザーアドレス」はその1号案件として採択されました。補助金のおかげで、今回のイベントは当社からの資金の持ち出しはなく開催できています。

WWD:なぜサステナビリティに力を入れるのか。

田端:サステナビリティは「アナザーアドレス」の後付けのコンセプトではなく、サービスの根幹です。僕たちの調査では、概算ではあるものの、「アナザーアドレス」の利用者は服を買う数が年間で13着減ったというデータがあります。もちろん、服の配送やクリーニングにはコストがかかりますが、それを差し引いても、1人あたり年間250kgのCO2排出抑制につながっている計算です。また数字には表れにくいですが、消費者の購買行動にもいい影響を与えているはず。安価な服を買ってすぐに捨てるのではなく、「長く使えるいい服を着る」という意識が広がっていると感じます。2年前には、レンタルで汚れた服を染め直したり、パッチワークしたりして販売する「リアドレス」というオリジナルブランドも始めましたが、お客さまからは非常にいい反応をいただけています。

ファッションレンタルの過渡期に
百貨店のバックボーンが生きる

WWD:ファッションレンタル市場も過渡期にある。

田端:市場の成熟につれ、サービスの選別・淘汰も進んでいるのは事実でしょう。有力レンタルサービスだった「エディスト クローゼット」も昨年サービスを終了してしまいました。その中で、改めて感じるわれわれの強みというのは、大丸松坂屋というバックボーンの存在です。

サービス立ち上げ当初は、ブランド側もファッションレンタルというサービスや仕組みに懐疑的で、「自分たちのブランドの価値が毀損するのでは」と及び腰でした。それでも、「大丸松坂屋さんなら」と信頼感から協力してくれたケースも多かったんです。それから、僕らはブランドから買い取った服をレンタルしているため、事業の拡大に伴う商品在庫・バリエーションの拡充には多額の資金が必要になります。百貨店の潤沢な資本力はすごく心強かったです。

正直、「百貨店のオールドファッションなイメージがサブスクサービスの足枷になるのでは」と懸念していました。「サブスクなんてやってどうなるんだ」と周りからあれこれ言わるだろうなとも。しかし今では会社が一番の理解者であり、応援者だと感じています。今回の「ループアワード」の審査員である宗森(耕ニ・大丸松坂屋百貨店社長)も、開催をとても楽しみにしてくれていました。

「助けられた」百貨店を
いつかは「助ける」存在に

WWD:課題は?

田端:イノベーター層やアーリーアダプター層、いわゆる時代の流れに敏感な人たちには、一定程度浸透してきたと実感しています。ただその先にあるキャズム(市場の溝)を超えて一般層に広げるには、まだまだ認知が足りない。オンライン完結型のサービスとして運営してきましたが、やはり画面越しだけでは伝わりきらない部分もあると感じています。だからこそ、今回のようなリアルイベントもそうですし、僕たち百貨店には「店舗」という強い武器があるのだから、オフラインでのアプローチにも積極的に取り組んでいきたいですね。

また、BtoBの領域にも可能性を感じています。ブライダル会社やイベントの企画会社などと提携し、結婚式場や客船のクルーズパーティなどで衣装のレンタルサービスが提供できれば、新たな利用シーン・顧客層の開拓につながると考えています。

WWD:展望は。

田端:現在の登録者数は25万人。実際の利用者数はこれより少ないですが、これまでに貸し出した服の総数はのべ430万着を超えています。ただ、事業としてはまだ赤字。この中期経営計画の期間(〜27年2月期)に、まずは単月黒字までもっていきたいと思っています。

2030年、あるいは2040年になるかもしれないですが、将来的に服を「買う」と「借りる」を使い分けるのが当たり前になった社会で、「アナザーアドレス」がファッションレンタルサービスの中で真っ先に思い浮かぶでありたい。大丸松坂屋の百貨店事業を「食っちゃうぞ」くらいの意気込みで事業を大きくする。さっきは「助けられた」と言っておいてなのですが(笑)。そしていつか、「アナザーアドレスがあってよかった」と言われるようになって、恩を返したいですね。

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俳優・毎熊克哉が語る「演技の本質」と「心を動かす演技」

PROFILE: 毎熊克哉/俳優

PROFILE: (まいぐま・かつや):1987年生まれ、広島県出身。2016年公開の主演映画「ケンとカズ」で第71回毎日映画コンクール スポニチグランプリ新人賞、おおさかシネマフェスティバル2017 新人男優賞、第31回高崎映画祭 最優秀新進男優賞を受賞。近年は大河ドラマ「どうする家康」(23)、「光る君へ」(24)に出演するほか、映画では、「孤狼の血 LEVEL2」(21)や「愛なのに」(21)、「猫は逃げた」(21)、「妖怪シェアハウス-白馬の王子様じゃないん怪-」(22)、「ビリーバーズ」(22)、「そして僕は途方に暮れる」(23)、「世界の終わりから」(23)などに出演。25年7月4日からは主演作「桐島です」も公開予定。

初主演作「ケンとカズ」(2016年)でさまざまな映画賞の主演男優賞を受賞して脚光を浴びた俳優の毎熊克哉。話題作への出演が続く中、最近では大河ドラマ「光る君」に出演。映画「東京ランドマーク」(24年)のプロデュースと配給を手掛けるなど幅広い分野で活動してきた。そんな中、最新主演作「初級演技レッスン」で演じるのは、廃工場で演技レッスンをする謎の男、蝶野穂積。蝶野からレッスンを受ける少年、野島一晟(岩田奏)。一晟の担任教師の平沢千歌子(大西礼芳)は、レッスンを通じて不思議な体験をする。初長編監督作「写真の女」(20年)が海外でも高い評価を受けた串田壮史監督が独特のタッチで登場人物たちの内面を浮かび上がらせていく。毎熊はこのユニークな作品にどんな風に挑んだのか。そして、演技に対する向き合い方について話を聞いた。

「初級演技レッスン」で蝶野を演じて

——「初級演技レッスン」は不思議な話ですね。現実と虚構、現在と過去、いろんな要素が複雑に絡み合いながら、3人の登場人物が抱えている葛藤を描き出していきます。

毎熊克哉(以下、毎熊):完成した映画を観るより、脚本で読んだ時の方が、もっと分からなかったかもしれません。脚本を読んだだけでは、一体、どういう映画になるのか予測不可能でした。でも、僕は串田監督の作品は前から拝見していて独自の映像表現に惹かれていたので、この物語の予測不可能なところに魅力を感じたんです。串田監督はどんな風に撮るんだろうってワクワクしていました。

——毎熊さんが演じた蝶野穂積は全身黒ずくめで、ロングコートを着て長髪という謎めいたキャラクターです。撮影に入る前に監督と役について何か話はされたのでしょうか。

毎熊:特にはしていないです。変に役作りはせずに謎の存在でいた方がいいと思いました。蝶野は死神かもしれないし、一晟や千歌子を導く存在なのかもしれない。謎があればあるほど観客が謎の部分を想像してくれると思いました。串田監督もそう思ったんじゃないでしょうか。

——蝶野は感情を外に出さず表情を変えません。そんな中で、毎熊さんのちょっとした仕草や歩き方、特に目の演技が印象的でした。

毎熊:隠せば隠すほど、隠しきれない一瞬が浮き立つ気がしていて。だから感情を極力出さない、というのは大事にしていました。僕は役者のくせに表情豊かなタイプではなくて、その代わりに目の変化だったりとか、そういった細かい演技が好きなんです。自分が映画を観ていて感動するのも、そういう一瞬を観た時なんですよね。だから、この作品に限らず、そういう演技は大事にしています。

呼吸の大切さ

——蝶野の演技レッスンを通じて、一晟や千歌子が抱いていた心のわだかまりがときほぐされていきます。まるで心理療法みたいだと思いました。

毎熊:確かにそうですね。「演じる」というのは、「役を作り上げる」というイメージが強いかもしれませんが、僕は自分の奥底に向かっていくことだと思っています。蝶野が2人に「ゆっくり呼吸をしなさい」と言いますが、呼吸というのはすごく大切なんです。日常会話をする時は呼吸が浅い。呼吸が浅いと動きも浅くなるし、集中力も弱い。だから演技をする前に呼吸を整えるのは重要で、発声の練習も滑舌よりも、まずは呼吸からなんです。身体をほぐすときもストレッチより先に呼吸を整える。呼吸を整えることで心と身体が繋がって演技も違ってくるんです。

——毎熊さんは役者をする前にダンスをされていたので、身体感覚に敏感なのかもしれないですね。

毎熊:ダンスでも呼吸のことは言われますね。呼吸がしっかりできていない状態で踊ると胃が痛くなる。身体が無理をしているんですね。ダンス以外の世界、例えば武道や音楽でも呼吸は大切なんじゃないかと思います。

——呼吸は全てに通じているんですね。蝶野、一晟、千歌子は、演技レッスンを通じて不思議な関係で結ばれていきます。そして、途中から素なのか演技なのか分からなくなっていく。そういう状態を毎熊さんをはじめ役者さんたちが実際に演じて、演技が何重にも重なっています。演じていていかがでした?

毎熊:僕以上に共演した2人の方が揺れ動いていたと思います。一晟は父親のことがあるし、千歌子も触れられたくないことがありますからね。特に千歌子とのシーンは難しかったです。映画の途中から蝶野と千歌子繋がりがあることが分かってくるじゃないですか。2人はお互いに自分を演じながらレッスンをしているんです。

——そんな3人が一緒に中華料理屋に入って食事をするシーンが心に残りました。3人それぞれが自分に欠けていたものを補い合っているようでもあり、家族のようにも見えました。

毎熊:僕もあのシーンは好きですね。気がついたら、3人はそれぞれ家族のように演じている。3人が一番いい演技をしている時なんだろうなって気がします。食事をした後、1人で去っていく蝶野の後ろ姿が寂しげなのも良いですよね。

人の心を動かす演技

——この映画は、演じることを通じて自分を発見する物語ですが、毎熊さん自身は、これまで受けた演技レッスンで印象に残っているものはありますか?

毎熊:演技の勉強を始めた時に千本ノック的な練習をやったんです。言われた演技をするんですけど、「違う。もう1回」って何度もやらされる。「こうしてみろ」という風に具体的なことは言ってくれないので、どうしたらいいのか分からなくなってパニックになるんですよ。頭が真っ白になって続けていると、突然、「それだ!」って言われるんです。その時に、これまでとは明らかに違うということが身体を通して分かりました。その経験は役者をやっていく上で大きかったですね。

——何が違ったのでしょうか?

毎熊:その違いを言葉にするのは難しいのですが、誰でも人に隠していること、見られたくないものがあると思うんですよ。それを人に見せるというのは裸になるより恥ずかしいことなんです。でも、演技を通じてそれを観た瞬間、人は感動する。要するに形で演技をするのではなく、心でやれということだと思います。方法を身につけるというか、心の扉を開けるということ。自分が役者を始めたばかりで技術がない時に、それが分かったのは良かったと思いますね。

——それにしても、人に見せたくないものを、毎回見せていくというのは大変なことだと思います。それでも役者を続けるというのは、得るものも大きいということなのでしょうか。

毎熊:そうですね。しんどいこともありますが、自分ではない誰かを演じることで、演技をしていなかったら出会えなかった自分の一面を発見できる。これまで目をそらしていたことにも向き合える。そうすることで自分が成長していくんです。それは演じることの豊かさだと思います。

——そういう話を伺うと、今回の映画のように役者ではない人たちも、演技を通じて自分が抱えていた問題と向き合えるかもしれませんね。

毎熊:演技はいろんなことに活用できると思います。子供たちとか会社勤めの方が演技のワークショップをやってみるのもいいんじゃないでしょうか。演技をというのは、役者に限らずみんな日頃からやっていることなんですよ。会社にいる時、家族といる時、恋人といる時、人はそれぞれ違う自分になっている。僕は役者を目指す人から演技について教えてほしいと頼まれても断っているんですよ。役者が役者に演技を教えるものではないと思うので。でも、別の仕事をしている人たちと一緒に、演技について深掘りしていくのは興味深いし、自分にも還元されるものが多い気がしますね。

——映画の中で思いがけないところでダンスシーンが出てきますが、ダンスを学んでいたことは、演技に何か影響を与えていますか?

毎熊:ダンサーは鏡をめちゃくちゃ見るんですよ。鏡で自分の動きを確認する。そこで大切なのは「フィルターをかけないこと」。人は勝手にフィルターで補正してしまうので、できている風に見えてしまうんですよね。でも、鏡をしっかり見て、そこに写っている自分を客観的に見るようにすることで、「あの人と同じ動きをしているのに、なぜ自分はかっこよくないんだろう」って気づく。それはちょっとした動きや、呼吸の置き方の違いなんですけど、そうやって客観的に自分の身体を見る訓練をしたのは、役者の仕事に役立っているかもしれませんね。

——これから役者を目指そうと思っている人、演技に興味を持った人に、こういうことを大切にした方がいい、というアドバイスはありますか?

毎熊:演技の仕方は人それぞれで、信じるものも違うし、全然違うタイプの演技でも感動する。演技に正解ってないと思うんです。だから、やり方を学ぶよりも、もっと本質的なものを大事にした方がいい。何に感動して、何にイライラして、何に笑うのか。自分の感情をしっかり知っておくことが大切だと思います。

——まず、自分自身としっかり向き合う。

毎熊:そうです。僕は役者をやる前、つまらない映画を何本か撮ったんです。なんで、こんなにつまらないんだろうと思ったら、全部自分が好きな映画のマネなんですよ。自分が本当に撮りたいものをカメラを通して見れていなかった。役者を目指すようになってからも、同じ壁にぶつかってしまって。自分がいいと思う「型」で映画を撮ったり、演技をしても面白いものはできないことに気づきました。「型」っていうのはいろいろとやっているうちに自然にできてくるものなんです。重要なのは自分にしっかり向き合うこと。自分を知ることが、一番感動するし、そうやってできたものが人の心を動かすんじゃないかと思います。

PHOTOS:MASASHI URA
STYLING:TAKAFUMI KAWASAKI
HAIR & MAKEUP:KANAKO HOSHINO

映画「初級演技レッスン」

■映画「初級演技レッスン」
2025年2月22日から渋谷ユーロスペース、MOVIX 川口ほか全国ロードショー
出演:毎熊克哉 大西礼芳 岩田奏
監督・脚本・編集:串田壮史
撮影監督:伴徹
音楽:MATTEO RUPERTO
制作プロダクション:Ippo/デジタル SKIP ステーション
制作協力:ピラミッドフィルム
製作:埼玉県/SKIP シティ彩の国ビジュアルプラザ
配給:インターフィルム
2024年/カラー/5.1ch/ビスタサイズ/90 分
© 2024 埼玉県/SKIP シティ彩の国ビジュアルプラザ
https://act-for-begi.com

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京都独自の藍染め「京藍」の復活と継承に挑む松﨑陸 「ヴァレクストラ」と協業も

偶然ニューヨークで出合った藍染めに惹かれ、染色の修業先で見つけた文献から「歴史をさかのぼると日本で最も品質の高い藍を作っていたのは京都で、その産地が偶然にも地元の洛西であることを知った」という松﨑陸。約100年前に滅びた京藍復活のため900坪の畑を借りて、当時の栽培方法で京都原種の藍の栽培から取り組む。アート作品の販売、工房でのワークショップ、Tシャツなどの製品の制作・販売で生計を立て、2024年には大丸松坂屋百貨店が掲げる地域共栄活動「think LOCAL」の一環として、「ヴァレクストラ(VALEXTRA)」の京都祇園店開店に合わせてコラボレーションを行うなど、活動の場を広げている。

PROFILE: 松﨑陸/京藍染師・アーティスト

松﨑陸/京藍染師・アーティスト
PROFILE: (まつざき・りく)1990年京都市洛西生まれ。大学で経営学を専攻。22歳の時にニューヨークで“ジャパンブルー”に出合い藍染作家を目指すことを決意。2015年野村シルク博物館で養蚕、手織り、和装を学ぶ。17年染司よしおか五代当主吉岡幸雄氏に師事。18年正倉院宝物復元に携わる。20年約900坪の畑を借りて京藍の栽培を開始。21年染司よしおか独立。22年京都市西京区大原野に工房を開く。23年妙心寺桂春院で個展を開催し、作品「京藍壁観図」を奉納。24年「ヴァレクストラ」や「カンサイヤマモト」とのコラボレーション製品を発表

古い文献から「京都の藍染めが最も優れていた」ことを知る

WWD:京都独自の藍染め「京藍」に出合ったきっかけは。

松﨑:染色工房「染司よしおか」で修業中に先生(吉岡幸雄氏)が、歴史を知ることや本物を見ることが大切だと言い続けてくれたことが大きい。工房にある文献を調べ始めると藍の栽培は安土・桃山時代に京都から兵庫、そして淡路、徳島に伝えられたと書かれていた。自分が取り組みたいと思っていた藍染めのルーツが地元京都にあることを知り胸が高鳴った。別の江戸後期の文献では、京都が質の高い藍を作り続けていたと書かれていた。さらに調べると、1700年に松尾芭蕉の弟子である服部嵐雪が江戸中期に江戸から京都へ上がったときの句に出合った。「嶋原の外も染るや藍畠」。京都の嶋原(洛中)の外は染まるほどに藍畑だらけだったという内容で、1712年発行の日本百科事典には「日本の藍は京都の洛外のものが最も優れていて、次に兵庫県の播磨が良い。次に徳島と淡路産」と記されていた。京都の藍が高品質だったことが歴史から読み解くことができた。

WWD:「京藍」の復活に取り組むに至った経緯は。

松﨑:松﨑家の家紋のルーツが岐阜の土岐氏にあり、土岐氏は水色の旗に家紋を入れて戦に出ていた。当時水色の藍を作れるのは京都だけだったことを考えるともしかしたら先祖は京藍を使っていたのではないか?と考え始めると胸が高鳴った。

また、236年前(1789年)に「京藍」を再興しようと命がけで活動した阿波屋宇兵衛の存在を知り、熱くなった。彼は当時徳島でさかんな藍の栽培方法(肥料に魚を使っていたこと)を口外すると処刑されると知っていたのに、京都に持ち帰り再興を目指してのちに処刑された人。京藍にまつわるさまざまな歴史を知り、復活させたいと強く思うようになった。

WWD:種は残っていたのか。

松﨑:日本の藍には10の品種があり、種は徳島県が保護していた。京都の原種を譲ってもらった。

WWD:「京藍」は他の藍と何が違うのか。

松﨑:栽培方法と色が違う。京都の藍はかつて「水藍」と呼ばれ水田で栽培していて、色も淡い。今の藍染めは紺色が主流だけど、当時の藍染めは淡い色が上品とされていてランクが高かった。淡い藍は染めむらが出やすいため難しいとされていたからではないか。

WWD:職人ではなくアーティストと名乗る理由は。

松﨑:僕の目的は「京藍」を復活させて次世代に残すこと。職人として活動をして「京藍」を残すことができるのか?「京藍」が残る可能性の一つが美術館や博物館に永久保存されること。アートとして京藍の痕跡を残すことができないか考えた。もちろん僕はクラフトマンだけど、職人よりもアーティストと名乗る方が強気で世界と戦えるんじゃないかと。かつては日本の職人の高い技術が安く買われるということもあったと思うから。日本が誇れるものは伝統工芸であり分かりやすいアイデンティティ、これを武器に日本人は世界と戦うべきだと思うし、伝統工芸の職人がこうなったらいいなという成功例になりたい。「わからせますよ」という気持ちだ。

WWD:「ヴァレクストラ」とのコラボはどのようにして始まったか。

松﨑:祇園の新店舗開店の際に京都の伝統工芸職人と協業した製品を作るために、京都の丹後ちりめんや提灯など何軒かの職人の工房を訪ねたうちの1軒だったと聞く。デザインチームが工房に来たときは、活動の説明をしたり「染めた生地が買えるのか」といった質問を受けつつ、その場で結論は出せないのでいったんイタリアに持ち帰るとなった。その時に「ダブルネームならやるスタンスだ」と伝えた。せっかく訪ねてきてくれたのだからと徒歩20分のところにある春日大社の第一の分社で784年に建立された大原野神社に行こうと誘い、境内にあるそば屋「そば切りこごろ」でそばを食べた。「そば切りこごろ」からは出汁がら(魚節)をいただいて藍畑の肥料に使っている。その一カ月後に「ぜひやりたい」とメールが届いた。僕のインスタグラムに公開している作品の中から希望がいくつか上がり、方向性を決めていった。

WWD:コラボ製品は「KYOAI」と発信されていた。

松﨑:実は当初は“ジャパンブルー”“インディゴ”など別の言葉を入れたいと話があったけれど、「KYOAI」にして欲しいとこちらから依頼した。僕は「京藍」を残したくて活動しているからそれがとても重要だった。

WWD:工房開設から3年。活動に広がりが出てきた。

松﨑:計算してやっていない。市場がどうではなく、発表した作品が当たれば市場にマッチしたのかと理解しているところだ。

WWD:現在の課題は。

松﨑:僕自身、お金に興味を持つことが必要だと感じている。その時々で作りたいものを作れたら個人的にはいいと思っているところがあるから。一方で工房が手狭になってきたし、今はアーティストのシェアギャラリー「大原野スタジオギャラリー」を活動拠点にしているが、作品を展示して藍染めができる単独の工房を構えたいと考えている。それには少なくとも3000万円が必要になる。水にこだわりたいから井戸も掘りたい。900坪の藍畑も一人で取り組んでいる。年を取ると畑仕事は難しくなるだろうし、人を雇わなければいけない時期に来たとも感じている。

WWD:洛西地区は京都市内にあっても少し町中から離れて、わざわざ立地でもある。地域文化として「京藍」を打ち出すような取り組みにも力を入れるのか。

松﨑:少しずつ巻き込み始めている。例えば、洛西高校の先生が新聞で紹介された僕の記事に共感してくれ、高校の生徒が「京藍」の畑の手伝いに来てくれるようになった。近所のネギ農家は今年から京藍を育て始める。まずは300坪から始めると聞いた。工房の候補地は近くでいい場所を見つけた。工房ができれば人に来てもらいやすくなるし、知ってもらえる機会が増える。

WWD:今、妙心寺塔頭養徳院の奉納する戸帳の制作に取り組んでいるとか。

松﨑:現在改修工事をしていて来年2月に完成する予定だ。戸帳を作りたいという話をいただき、これまでの養徳院の戸帳について調べた。すると直近では化学染料を使っていたが、260年前のものは藍染めや茜染めを用いた赤黄藍緑白の5色の織物でできていた。この先何百年も色褪せずに残る戸帳になるよう、700年前の藍染めを含め太古の方法を模索しているところだ。

WWD:今後取り組んでいくことは?

松﨑:1300年前の職人と戦いたい。日本で最古の藍染めは正倉院宝物館に所蔵されている縹縷(はなだのる)で、752年の大仏開眼会で用いられたものだった。これが1300年前に染められたのに色褪せていないんですよ。この時代の染色技術が最もすばらしかったのではないかと考えるようになった。江戸時代の技法は試したが色が褪せるし、さらに染色法を掘り下げると、蒅(すくも、藍の葉を乾燥させ発酵・熟成させてたい肥化したもの)が登場したのは約700年前の室町時代で、当時の技法は色がキレイで堅牢度が高かった。今室町からさらに奈良まで遡ろうと取り組んでいる。すると奈良時代はまだ蒅がなかった時代だとわかった。奈良時代の染色方法について仮説を立てて検証を繰り返しているところだ。世界に目を向けると約6500年前の藍染工房の遺跡が見つかっていたり、4000年前のエジプトのミイラには藍染めした布が巻かれていた。藍染めの歴史はとても長くて面白い。

WWD:奈良時代に奈良で藍染めが行われていたということ?

松﨑:飛鳥時代に中国から日本へ藍が運ばれたようで、647年に制定された日本の官位「七色十三階冠」が664年に改定されたときに月草が藍に変わっていた。ということは、藍の国内栽培に成功したのがこの時期なのではないか。であれば厳密には飛鳥、奈良を経てるので日本の藍の始まりは奈良となるが、僕が調べた中では奈良には藍の文献や記述が見当たらない。もちろんこの頃の史料は焼失していることが多いから本当のところはわからないが。また「源氏物語」を読むに色彩豊かな感性と技術が成熟したのは平安時代と予測している。なので僕は"藍の産業としての始まりは京都"と考えている。

藍染めから「京藍」復活に至るまで

WWD:そもそも藍に着目したきっかけは?

松﨑:やりたいことを探しに訪れたニューヨークで“ジャパンブルー”と呼ばれる青い服を見た。帰国後にテレビで見た藍染め特集で、世界では藍染めがジャパンブルーと呼ばれていることを知り、やってみようと思い立った。やるなら日本一のところでやりたいと考えた。京都で200年続く染色工房「染司よしおか」の五代当主の吉岡幸雄氏に弟子入りを志願したけど断られた。何度も足を運んでいるとある日、『愛媛にある野村シルク博物館で2年間学んでくれば考える』と言われて、やるしかないと思い愛媛に向かった。夜間はコンビニでアルバイトをしながら、養蚕から手織り和裁、藍や紅花の栽培までを学び染色の基礎を身に付けた。京都に帰ってくるたびに忘れ去られないように「弟子入りはまだか」と工房を訪ねたが、「2年はがんばれ」と言われ、とにかくがんばった。

2年が経ち『よしおか』での修業が始まるわけだけど、染色技術だけではなく、原稿校正や公演準備など幅広い業務に携わった。けれど、藍染めだけは触らせてもらえなかった。藍染めは藍を発酵させてから染めるので、発酵に失敗すると染められなくなるという理由は理解できるけど、どうしても藍染めがしたかった。だから自宅の風呂場にバケツを突っ込んで始めた。工房の番頭さんに聞いたことを試してみるけどこれがなかなか発酵しない。バケツ1つ分の藍を買うと給料の半分が飛び、発酵しないと捨てるしかないただの茶色い水。半年くらい経った頃、表面が青くなり布を入れたら青く染まった。微生物が働き発酵したら布が染まるというプロセスを目の当たりにしてここからはまった。工房で最初から教えてもらっていたらここまで興味が深くならなかったと思う。生活を賭けて身銭を切り続けたからこそここまではまったんだと思う。

WWD:「染司よしおか」を3年10カ月で辞めて独立した。

松﨑:先生がされていることの歴史の深さを学ぶには5年はかかると思っていたが、3年目に先生が亡くなった。このペースでやっていたら到底先生に追いつくことができないと思い、飛び出すべきだと考えてその一年後に辞めた。その頃には京都の藍を復活させようと決めていた。

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京都独自の藍染め「京藍」の復活と継承に挑む松﨑陸 「ヴァレクストラ」と協業も

偶然ニューヨークで出合った藍染めに惹かれ、染色の修業先で見つけた文献から「歴史をさかのぼると日本で最も品質の高い藍を作っていたのは京都で、その産地が偶然にも地元の洛西であることを知った」という松﨑陸。約100年前に滅びた京藍復活のため900坪の畑を借りて、当時の栽培方法で京都原種の藍の栽培から取り組む。アート作品の販売、工房でのワークショップ、Tシャツなどの製品の制作・販売で生計を立て、2024年には大丸松坂屋百貨店が掲げる地域共栄活動「think LOCAL」の一環として、「ヴァレクストラ(VALEXTRA)」の京都祇園店開店に合わせてコラボレーションを行うなど、活動の場を広げている。

PROFILE: 松﨑陸/京藍染師・アーティスト

松﨑陸/京藍染師・アーティスト
PROFILE: (まつざき・りく)1990年京都市洛西生まれ。大学で経営学を専攻。22歳の時にニューヨークで“ジャパンブルー”に出合い藍染作家を目指すことを決意。2015年野村シルク博物館で養蚕、手織り、和装を学ぶ。17年染司よしおか五代当主吉岡幸雄氏に師事。18年正倉院宝物復元に携わる。20年約900坪の畑を借りて京藍の栽培を開始。21年染司よしおか独立。22年京都市西京区大原野に工房を開く。23年妙心寺桂春院で個展を開催し、作品「京藍壁観図」を奉納。24年「ヴァレクストラ」や「カンサイヤマモト」とのコラボレーション製品を発表

古い文献から「京都の藍染めが最も優れていた」ことを知る

WWD:京都独自の藍染め「京藍」に出合ったきっかけは。

松﨑:染色工房「染司よしおか」で修業中に先生(吉岡幸雄氏)が、歴史を知ることや本物を見ることが大切だと言い続けてくれたことが大きい。工房にある文献を調べ始めると藍の栽培は安土・桃山時代に京都から兵庫、そして淡路、徳島に伝えられたと書かれていた。自分が取り組みたいと思っていた藍染めのルーツが地元京都にあることを知り胸が高鳴った。別の江戸後期の文献では、京都が質の高い藍を作り続けていたと書かれていた。さらに調べると、1700年に松尾芭蕉の弟子である服部嵐雪が江戸中期に江戸から京都へ上がったときの句に出合った。「嶋原の外も染るや藍畠」。京都の嶋原(洛中)の外は染まるほどに藍畑だらけだったという内容で、1712年発行の日本百科事典には「日本の藍は京都の洛外のものが最も優れていて、次に兵庫県の播磨が良い。次に徳島と淡路産」と記されていた。京都の藍が高品質だったことが歴史から読み解くことができた。

WWD:「京藍」の復活に取り組むに至った経緯は。

松﨑:松﨑家の家紋のルーツが岐阜の土岐氏にあり、土岐氏は水色の旗に家紋を入れて戦に出ていた。当時水色の藍を作れるのは京都だけだったことを考えるともしかしたら先祖は京藍を使っていたのではないか?と考え始めると胸が高鳴った。

また、236年前(1789年)に「京藍」を再興しようと命がけで活動した阿波屋宇兵衛の存在を知り、熱くなった。彼は当時徳島でさかんな藍の栽培方法(肥料に魚を使っていたこと)を口外すると処刑されると知っていたのに、京都に持ち帰り再興を目指してのちに処刑された人。京藍にまつわるさまざまな歴史を知り、復活させたいと強く思うようになった。

WWD:種は残っていたのか。

松﨑:日本の藍には10の品種があり、種は徳島県が保護していた。京都の原種を譲ってもらった。

WWD:「京藍」は他の藍と何が違うのか。

松﨑:栽培方法と色が違う。京都の藍はかつて「水藍」と呼ばれ水田で栽培していて、色も淡い。今の藍染めは紺色が主流だけど、当時の藍染めは淡い色が上品とされていてランクが高かった。淡い藍は染めむらが出やすいため難しいとされていたからではないか。

WWD:職人ではなくアーティストと名乗る理由は。

松﨑:僕の目的は「京藍」を復活させて次世代に残すこと。職人として活動をして「京藍」を残すことができるのか?「京藍」が残る可能性の一つが美術館や博物館に永久保存されること。アートとして京藍の痕跡を残すことができないか考えた。もちろん僕はクラフトマンだけど、職人よりもアーティストと名乗る方が強気で世界と戦えるんじゃないかと。かつては日本の職人の高い技術が安く買われるということもあったと思うから。日本が誇れるものは伝統工芸であり分かりやすいアイデンティティ、これを武器に日本人は世界と戦うべきだと思うし、伝統工芸の職人がこうなったらいいなという成功例になりたい。「わからせますよ」という気持ちだ。

WWD:「ヴァレクストラ」とのコラボはどのようにして始まったか。

松﨑:祇園の新店舗開店の際に京都の伝統工芸職人と協業した製品を作るために、京都の丹後ちりめんや提灯など何軒かの職人の工房を訪ねたうちの1軒だったと聞く。デザインチームが工房に来たときは、活動の説明をしたり「染めた生地が買えるのか」といった質問を受けつつ、その場で結論は出せないのでいったんイタリアに持ち帰るとなった。その時に「ダブルネームならやるスタンスだ」と伝えた。せっかく訪ねてきてくれたのだからと徒歩20分のところにある春日大社の第一の分社で784年に建立された大原野神社に行こうと誘い、境内にあるそば屋「そば切りこごろ」でそばを食べた。「そば切りこごろ」からは出汁がら(魚節)をいただいて藍畑の肥料に使っている。その一カ月後に「ぜひやりたい」とメールが届いた。僕のインスタグラムに公開している作品の中から希望がいくつか上がり、方向性を決めていった。

WWD:コラボ製品は「KYOAI」と発信されていた。

松﨑:実は当初は“ジャパンブルー”“インディゴ”など別の言葉を入れたいと話があったけれど、「KYOAI」にして欲しいとこちらから依頼した。僕は「京藍」を残したくて活動しているからそれがとても重要だった。

WWD:工房開設から3年。活動に広がりが出てきた。

松﨑:計算してやっていない。市場がどうではなく、発表した作品が当たれば市場にマッチしたのかと理解しているところだ。

WWD:現在の課題は。

松﨑:僕自身、お金に興味を持つことが必要だと感じている。その時々で作りたいものを作れたら個人的にはいいと思っているところがあるから。一方で工房が手狭になってきたし、今はアーティストのシェアギャラリー「大原野スタジオギャラリー」を活動拠点にしているが、作品を展示して藍染めができる単独の工房を構えたいと考えている。それには少なくとも3000万円が必要になる。水にこだわりたいから井戸も掘りたい。900坪の藍畑も一人で取り組んでいる。年を取ると畑仕事は難しくなるだろうし、人を雇わなければいけない時期に来たとも感じている。

WWD:洛西地区は京都市内にあっても少し町中から離れて、わざわざ立地でもある。地域文化として「京藍」を打ち出すような取り組みにも力を入れるのか。

松﨑:少しずつ巻き込み始めている。例えば、洛西高校の先生が新聞で紹介された僕の記事に共感してくれ、高校の生徒が「京藍」の畑の手伝いに来てくれるようになった。近所のネギ農家は今年から京藍を育て始める。まずは300坪から始めると聞いた。工房の候補地は近くでいい場所を見つけた。工房ができれば人に来てもらいやすくなるし、知ってもらえる機会が増える。

WWD:今、妙心寺塔頭養徳院の奉納する戸帳の制作に取り組んでいるとか。

松﨑:現在改修工事をしていて来年2月に完成する予定だ。戸帳を作りたいという話をいただき、これまでの養徳院の戸帳について調べた。すると直近では化学染料を使っていたが、260年前のものは藍染めや茜染めを用いた赤黄藍緑白の5色の織物でできていた。この先何百年も色褪せずに残る戸帳になるよう、700年前の藍染めを含め太古の方法を模索しているところだ。

WWD:今後取り組んでいくことは?

松﨑:1300年前の職人と戦いたい。日本で最古の藍染めは正倉院宝物館に所蔵されている縹縷(はなだのる)で、752年の大仏開眼会で用いられたものだった。これが1300年前に染められたのに色褪せていないんですよ。この時代の染色技術が最もすばらしかったのではないかと考えるようになった。江戸時代の技法は試したが色が褪せるし、さらに染色法を掘り下げると、蒅(すくも、藍の葉を乾燥させ発酵・熟成させてたい肥化したもの)が登場したのは約700年前の室町時代で、当時の技法は色がキレイで堅牢度が高かった。今室町からさらに奈良まで遡ろうと取り組んでいる。すると奈良時代はまだ蒅がなかった時代だとわかった。奈良時代の染色方法について仮説を立てて検証を繰り返しているところだ。世界に目を向けると約6500年前の藍染工房の遺跡が見つかっていたり、4000年前のエジプトのミイラには藍染めした布が巻かれていた。藍染めの歴史はとても長くて面白い。

WWD:奈良時代に奈良で藍染めが行われていたということ?

松﨑:飛鳥時代に中国から日本へ藍が運ばれたようで、647年に制定された日本の官位「七色十三階冠」が664年に改定されたときに月草が藍に変わっていた。ということは、藍の国内栽培に成功したのがこの時期なのではないか。であれば厳密には飛鳥、奈良を経てるので日本の藍の始まりは奈良となるが、僕が調べた中では奈良には藍の文献や記述が見当たらない。もちろんこの頃の史料は焼失していることが多いから本当のところはわからないが。また「源氏物語」を読むに色彩豊かな感性と技術が成熟したのは平安時代と予測している。なので僕は"藍の産業としての始まりは京都"と考えている。

藍染めから「京藍」復活に至るまで

WWD:そもそも藍に着目したきっかけは?

松﨑:やりたいことを探しに訪れたニューヨークで“ジャパンブルー”と呼ばれる青い服を見た。帰国後にテレビで見た藍染め特集で、世界では藍染めがジャパンブルーと呼ばれていることを知り、やってみようと思い立った。やるなら日本一のところでやりたいと考えた。京都で200年続く染色工房「染司よしおか」の五代当主の吉岡幸雄氏に弟子入りを志願したけど断られた。何度も足を運んでいるとある日、『愛媛にある野村シルク博物館で2年間学んでくれば考える』と言われて、やるしかないと思い愛媛に向かった。夜間はコンビニでアルバイトをしながら、養蚕から手織り和裁、藍や紅花の栽培までを学び染色の基礎を身に付けた。京都に帰ってくるたびに忘れ去られないように「弟子入りはまだか」と工房を訪ねたが、「2年はがんばれ」と言われ、とにかくがんばった。

2年が経ち『よしおか』での修業が始まるわけだけど、染色技術だけではなく、原稿校正や公演準備など幅広い業務に携わった。けれど、藍染めだけは触らせてもらえなかった。藍染めは藍を発酵させてから染めるので、発酵に失敗すると染められなくなるという理由は理解できるけど、どうしても藍染めがしたかった。だから自宅の風呂場にバケツを突っ込んで始めた。工房の番頭さんに聞いたことを試してみるけどこれがなかなか発酵しない。バケツ1つ分の藍を買うと給料の半分が飛び、発酵しないと捨てるしかないただの茶色い水。半年くらい経った頃、表面が青くなり布を入れたら青く染まった。微生物が働き発酵したら布が染まるというプロセスを目の当たりにしてここからはまった。工房で最初から教えてもらっていたらここまで興味が深くならなかったと思う。生活を賭けて身銭を切り続けたからこそここまではまったんだと思う。

WWD:「染司よしおか」を3年10カ月で辞めて独立した。

松﨑:先生がされていることの歴史の深さを学ぶには5年はかかると思っていたが、3年目に先生が亡くなった。このペースでやっていたら到底先生に追いつくことができないと思い、飛び出すべきだと考えてその一年後に辞めた。その頃には京都の藍を復活させようと決めていた。

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バレエの世界からファッションに転向 「体と筋肉の延長」として服をデザインするアラン・ポール【連載 注目若手デザイナーへの10の質問】

海外ファッション・ウイークを現地取材するWWDJAPANは毎シーズン、今後が楽しみな若手デザイナーに出会う。本連載では毎回、まだベールに包まれた新たな才能1組にフォーカス。10の質問を通して、ブランド設立の背景やクリエイションに対する考えから生い立ち、ファッションに目覚めたきっかけ、現在のライフスタイルといったパーソナルな部分までを掘り下げる。

今回フォーカスするのは、2023年に自身の名を冠したブランドを夫のルイス・フィリップ(Luis Philippe)と共に立ち上げたアラン・ポール(Alain Paul)だ。1989年に香港で生まれたアランは、97年に家族でフランスに移住した後、コンテンポラリーバレエの経験を積みながら育った。新たな自己表現の方法を探るため、18歳からはパリでファッションデザインを学び、2014年から「ヴェトモン(VETEMENTS)」に初期メンバーとして参画。18年から4年間は、ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)が率いていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」のメンズチームに在籍していた。

そして23年10月、パリ・ファッション・ウイーク期間中に歴史あるシャトレ座で「アランポール(ALAINPAUL)」として初のショーを開催。デビューシーズンから、米百貨店バーグドルフ グッドマン(BERGDORF GOODMAN)や香港のジョイス(JOYCE)など有力店が買い付けた。3シーズン目となる25年春夏にはパリコレの公式スケジュール入りを果たし、卸先も約25アカウントまで増加。今年度の「LVMHプライズ(LVMH PRIZE)」ではセミファイナリストにも残っており、着実な成長を見せている。そのクリエイションの核となるのは、バレエダンサーとしてのバックグラウンド。「服は体と筋肉の延長」という考えからダンサーの着こなしや自由な動きから得たアイデアを現代的なワードローブに落とし込むアランの素顔とは?

1:出身は?どんな幼少期や学生時代を過ごしましたか?

私が生まれたのは香港ですが、父はフランス人、母はデンマーク系ブラジル人。この文化の融合は、私のアイデンティティーとクリエイティブな感性を形成するに大きな影響を与えたと思います。8歳まで香港の活気あふれるカルチャーの中で過ごした後、1997年に家族で南フランスに移住し、著名なマルセイユ国立高等ダンス学校に入りました。そうして幼い頃の自分の原動力になったバレエは、自己表現のための方法をもたらし、そこから芸術的な感性や世界観を作り上げていきました。

幼い頃の私は好奇心旺盛かつクリエイティブで、視覚的あるいは身体的に自分を表現できるもの全てに強い関心を抱いていました。そして学生時代には、スケッチをしたり、想像上のパフォーマンスのために振り付けを考えたりという芸術と動きの相互作用への探求心が強まっていきました。それが、今のクリエイティブな仕事の核になっています。

2:ファッションに関心をもった原体験やデザイナーを志したきっかけは?

ファッションに関する最初の思い出は、バレエの練習に励んでいた学生時代まで遡ります。私が興味を惹かれたのは、衣装がどのようにパフォーマンスを変化させ、動きに深みと感情をもたらすかということ。友人たちとパフォーマンス用の衣装のスタイリングを試し始めたのがきっかけで、服がどのように感覚やムードを形作るかを理解するようになりました。そして、ファッションはアイデンティティーや動き、感情についてのストーリーを語るためのツールだと気づいたとき、私はファッションに夢中になったんです。

3:自分のブランドを立ち上げようと決めた理由は?

自分のブランドを立ち上げることは、パリでファッションを学んでいた頃からの夢でした。設立されたばかりの「ヴェトモン」でデムナ(Demna)と一緒に仕事をする機会に恵まれ、そこで独立系ブランドがどのように機能し、アイデンティティーを構築していくのかなど、多くのことを学びましたね。その後、「ルイ・ヴィトン」のヴァージル・アブローの下でラグジュアリーなコレクションへの理解を深めるとともに、デザイナーとしてどれほど自由かつオープンでいられるかということを目の当たりにしました。クリエイティブ・ディレクターとして自分が表現したいことを何年も考えていた私は、自分に大きな影響を与えた2つの経験を経て、2023年にコマーシャル・ディレクターと務める夫のルイスと一緒にブランドを立ち上げることを決意。「アランポール」は、私自身のバレエの経験とデザインへの情熱を融合させるクリエイティブな自由を与えてくれました。

4:学生時代から過去に働いたブランドまで、これまでの経験で一番心に残っている教えや今に生かされている学びは?

バレエの経験から体得したのは、規律とレジリエンス(困難をしなやかに乗り越え回復する力)の大切さ。デムナと過ごした時間の中では、脱構築の術とデザインを通したストーリーテリングの力を発見しました。そして、ヴァージルからはインクルーシビティー(包摂性)やクリエイションにおいて大胆不敵であること、そして限界を押し広げることの大切さを学びましたね。これら全ての経験が、自分の心の声に忠実でありながら、コンセプチュアルな革新性とウエアラビリティーとのバランスを取ることを教えてくれました。

5:デザイナーとしての自分の強みや、クリエイションにおいて大切にしていることは?

私のアプローチは、まるで人間の体の周りに服を振り付けるかのようにデザインに取り組み、服から感情を生み出すこと。着る人に服を通して自己表現のためのアティチュードを与えられるのが、自分の強みだと思っています。「アランポール」では、全てのアイテムにタイムレスな価値を持たせるとともに丁寧に仕上げることで、クラフツマンシップとサステナビリティを大切にしています。

6:活動拠点として、今暮らしている街は?その中でお気に入りのスポットは?

現在は、ブランドの拠点でもあるパリに住んでいます。歴史と現代性が融合したパリは、私にとって無限のインスピレーション源なんです。なかでもお気に入りの場所は、コンテンポラリーバレエやパフォーマンスアート、インスタレーションなどの素晴らしいプログラムが行われるシャトレ座とシャイヨー宮。落ち着いた庭園と彫刻があるロダン美術館も大好きです。

7:ファッション以外で興味のあることや趣味は?

ライブパフォーマンスを観たり、振り付けを探求したりと、私はダンスと舞台芸術に深いつながりを持っています。自由時間には、新しい展覧会や大好きな書店を訪れることも多いですね。また時間が許せば、異国への旅に出ます。新しい文化を体験することは、私にとっての真の情熱であり、クリエイティブな仕事に欠かせません。

8:理想の休日の過ごし方は?

パリでの休日であれば、朝は家で穏やかに過ごして自分自身を充電し、午後は街を歩き、ギャラリーや展覧会を訪れてインスピレーションを得ます。夜は、マース・カニングハム(Merce Cunningham)やピナ・バウシュ(Pina Bausch)のバレエなど、いつも私に安らぎを与えてくれる素晴らしいパフォーマンスを見るのが理想的。そして、私にとってエネルギーやインスピレーションの源である楽しいパーティーに参加して、最高の気分で1日を締めくくります。

9:自分にとっての1番の宝物は?

最も大切な宝物は、香港での幼少期とマルセイユ国立高等ダンス学校での思い出です。そんな形成期のおかげで、自分が歩む道を築くことができ、今でも毎日私を導き続けている規律を身につけることができたと感じています。

10:これから叶えたい夢は?

私の夢は、「アランポール」がコアバリューに忠実でありながら、グローバルかつサステナブルに発展すること。ファッションを単なる衣服としてだけでなく芸術表現やアイデンティティーの自由として捉えるためのきっかけを人々に与えるようなレガシーを確立することが目標です。

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サウンドアーティストのトモコ・ソヴァージュの人と空間に宿るエネルギーを増幅させる音楽表現 

PROFILE: トモコ・ソヴァージュ

PROFILE: 横浜市出身、2003年からパリ在住。06年以降、南インドの伝統的な楽器であるジャラタランガムからインスピレーションを得て、水という素材の流動性を生かした電子音響楽器、waterbowlsを考案。水と磁器の椀を調律し、それらを振動させ、通常は聞こえないに等しい小さな音を拡大し、水波が音を揺らす独自の手法を生み出す。自身のパフォーマーとしての役割は、制御可能な環境と偶然性との間で調和を探る庭師のようなものと捉えている。ヨーロッパを中心に世界各国でパフォーマンス、録音作品、インスタレーションを発表している

ファッションデザイナーで現代美術作家の髙橋大雅が立ち上げた「タイガタカハシ(TAIGA TAKAHASHI)」の後身である「T.T」は、2024年12月に「T.T I-A 02 遺物の声を聴く 応用考古学の庭」を東京・草月会館で開催した。同年4月京都祇園にオープンした総合芸術「T.T I-A(Taiga Takahashi Institute of Archeology)」に続くプロジェクトだ。

同展は髙橋が最も影響を受けた芸術家の一人であるイサム・ノグチ(Isamu Noguchi)の作品「天国」を主な展示空間とし、髙橋が収集した過去の遺物や約300点に及ぶビンテージの服飾資料と、それらから着想を得て制作した衣服や彫刻作品を公開した。ノグチが表現した抽象的な時間と空間の交錯や自然との調和を髙橋の視点で「応用考古学の庭」として再構築したものだ。

さらに今回、髙橋の作品の核を成す芸術の要素に“音の次元“を加えることの皮切りとして、水を使った音楽表現で知られるパリ在住のサウンドアーティスト、トモコ・ソヴァージュ(Tomoko Sauvage)のライブパフォーマンスが行われた。

インド音楽から着想を得たという彼女の音楽は、水を張った磁器やガラスのボウルを楽器とし、水中マイクやエフェクターなどを組み合わせ、演奏空間の特性を音響として取り入れ一体化。水や石など自然界の物質から胎内音のようなサウンドを引き出し、アンビエントや電子音楽などのジャンルを超えた新たな音楽表現を生み出した。

今回のイベントでは照明を落とした「天国」の石段をステージとし、「Lunar」シリーズからインスパイアされたという白妙の衣装で、石庭を流れる水の音やつくばい(蹲)内部の水音を増幅させ幻想的な音楽世界を展開した。

空間全体が一つの音響装置のような、静ひつながらも印象深いパフォーマンスを披露した彼女に、現在の音楽表現に至った背景や自身の創造性について、また「T.T」との共通項でもあるイサム・ノグチから受けた影響やクラフトマンシップに対する想いについて話を聞いた。

「インド音楽最古の技法とエレクトロニックを融合し、偶発的な音響効果を新しい次元の楽器へと昇華する」

――音楽活動をはじめた当初はジャズを演奏されていたそうですが、そこから現在の水を使って演奏するという音楽表現に辿り着いた経緯について教えてください。

トモコ・ソヴァージュ(以下、ソヴァージュ):パリに活動拠点を移す前はNYでジャズ・ピアノの勉強をしていたんですが、テリー・ライリー(Terry Riley)やアリス・コルトレーン(Alice Coltrane)など、アメリカの音楽家に大きな影響を与えたインド音楽に興味を持ったんです。ジャズは今でも好きですが、当初からジャズのフィールドでオリジナリティーを追求するのは難しいと感じていて、自分自身のサウンドや音楽と言えるものを模索していました。

パリに移住してからインド音楽の教室でヒンドゥスターニー音楽における即興演奏の勉強をはじめました。フランスはかつてインドに植民地を持っていたこともあり、アジア文化に非常に造詣の深い国で、インド音楽のコンサートも頻繁に行われています。

ある時パリの音楽博物館で、一晩中インド音楽が繰り広げられるイベント『インドの夜』が開催されました。最初の演者が現代音楽アンサンブルのICTUS(イクタス)で、そこにテリー・ライリーがキーボードで参加し「In C」を演奏したりと、非常にゴージャスな夜でしたね(笑)。

そのイベントで、“ジャルタラング“という南インドのカーナティック音楽で使われる古い伝統的な楽器が演奏されたんです。古代インドの性愛論書のカーマ・スートラにも記述があるインド音楽でも最古の楽器で、磁器のお椀に水を張り、その水嵩によって音程を調律しながらお椀のふちを竹の棒で叩くシンプルな打楽器です。この演奏に強いインスピレーションを受けて、次の日には自宅のキッチンで手持ちの器を使って、ジャルタラングの手法を試し始めたんです。

当時は電子音楽については全く頭になかったんですが、試行錯誤する中で偶然“水中マイク“の存在を知り、遊び心で水を張った器の中にマイクを入れてみたら、人生が変わるような衝撃を受けたんです。

――セッティングも色々なバリエーションを編み出せる印象を持ちましたが、楽器の構成なども徐々に発展していったのでしょうか?

ソヴァージュ:基本的なセッティングはオリジナルのジャルタラングに倣い、ピアノと同じように一番低い音を左側に設置します。今回のライブでは6つの器を使用しましたが、音数を増やしたい場合は器を増やすことで調整可能です。伝統的なジャルタラングの演奏では半月状に器をダブルやトリプルにセッティングすることもあります。

現在のセッティングのベースは2010年頃に完成して、基本的に変えません。水滴を使って演奏する時は、上から水滴が落ちるシステムを取り入れることもあります。

器については、最初はチャイナタウンで手に入れた安い磁器を使って演奏していましたが、2009年頃に磁器の産地として有名なリモージュという都市のセラミック研究所から、レジデンシーで磁器を作らないかというオファーがありました。

ヨーロッパにはアートを尊重する文化が根付いており、花瓶や食器など商業的な器の生産に限らず、新しい表現に挑戦しているアーティストとのコラボレーションを非常に重要だと考えているので、私の活動にも興味を持ってもらえたんです。

セラミック研究所は、基本的には著名なデザイナーとコラボレーションしてハイエンドな作品を作っているところで、私のプロジェクトにはあまり予算がつかなかったんですが、担当者のアイディアにより、ちょうど別の企画で制作されていた磁器のベルの型を半分に切り、私のボウルの型として制作を進めることができました。

しかもベルのプロジェクトは大きな予算がついていたので、音の響き方などのリサーチもされていました。それを利用できたのは本当に幸運で、今では私もベルの勉強をしていて、「ボウルは逆さまのべル」というテーマで今後の表現に繋げていきたいと考えています。

こうした経緯からセラミック研究所で様々なサイズのボウルを作ってもらい、現在のセットアップになりました。最近はそこにガラスのボウルを追加しています。

――トモコさんはご自身の楽器をエレクトロ・アコースティックと呼んでいますが、そこに込められた意味について教えてください。

ソヴァージュ:アコースティックの楽器を使っても、ショーでマイクを使った時点でアコースティックではなくなります。ですが私はマイクを楽器の一部と捉えて積極的に取り入れ、エレクトロ・アコースティックと定義しています。サンプリングした音は一切使用せず、その場で鳴らした音を増幅し、エフェクターなどで変容させるなどをして出力します。

音響の中に、スピーカーからの音をマイクが拾う瞬間に生じる“ハウリング“という現象があります。一般的にハウリングは音響上のトラブルと認識されますが、それを逆に効果として音楽に取りいれてしまおうと考えたんです。

私の演奏方法の場合、水中マイクを使用する時点でハウリングの問題がありました。ハウリングを避けるには音量を抑えなければならず、表現の限界を感じていた。ある時、このハウリングの音を美しいと感じる瞬間があり、それをきっかけに考え方を180度方向転換してみたところ、音楽表現の幅が完全に広がりました。

以前から水滴をマイクで拾ってパーカッションのように出力するなど工夫していましたが、フィードバックを取り入れるようにしてからは完全に別次元の楽器にすることができたと思っています。

フィードバックの世界は奥が深くて、部屋の音響やサウンドシステムによって完全に左右されます。演奏する環境によって音が変化するので包括的に考慮した演奏をしなければいけない。コントロールできない現象も多々あるので、逆にそれを活かす姿勢での音作りを大事にしていますね。

――コントロールできないものに対して、ライブや即興の場面で自分自身がいかに柔軟に反応できるかが重要だと感じます。

ソヴァージュ:音響のフィードバックは本番のサウンドシステムがあって初めて確認できるものです。最初は手探り状態で、ショーの最中に新たなテクニックを思いつくことが何度もありました。現在ではコントロールできる割合が高くなっていますが、それでも演奏のたびに発見があるので、やはり経験の積み重ねは大切ですね。

また、音響スタッフの方々から学ぶことも大きいです。私がやりたいことをよく理解してくれるので、アドバイスをもらいながら一緒に音響空間を作り上げていくことができます。

演奏を介し、人々と空間に宿るエネルギーを増幅させる音楽表現

――今回「T.T I-A 02」の会場となった草月会館は歴史的に日本の前衛芸術とゆかりが深い場所です。音響の観点からもインスピレーションの観点からも、演奏する空間が持つ歴史や空気感、建築特性などが重要だと思いますが、これまでショーを行ってきたなかで、特に印象深かったステージについて教えてください。

ソヴァージュ:これまで世界各地の工場跡や教会、図書館やミュージアム、フランスの市が運営するメディアテークなど、実に様々な場所でコンサートを重ねてきました。

中でも印象深かった場所は、ポルトガルのリスボンにある水博物館の一部「アモレイラスの貯水池(Reservatório da Mãe d’Água das Amoreiras)」です。ハンガリー人建築家の設計によるドーム状の天井に覆われた神殿のような建物で、内部は植物に覆われた祭壇から流れ出る水で満たされ、エメラルドグリーンの水面にステージが浮かぶ非常に美しい空間です。

また「Fischgeist」というアルバムをレコーディングしたベルリンのプレンツラウアー・ベルクにある旧地下貯水池も特別な場所です。19世紀に建てられた建物内部にはリング状のフロアが何層も重なる巨大な空間が広がっていて、中は夏でも寒いくらい。東ドイツ時代には魚を市場に卸す前の貯蔵庫として使用されていたようで、演奏している間も巨大な水槽のような建物を魚の幽霊が回遊するイメージが浮かんでいたので、アルバムを「Fischgeist(魚の幽霊)」というタイトルにしたんです。

私の演奏には室内の反響が必要なんですが、イベントのオーガナイザーがある意味クレイジーじゃないと実現できないようなフェスが好きで、何度かマニアックな屋外会場で演奏したこともあります。

イタリアのアルプス山中の廃村で公演したときは、道路が開通していないので車が使えず森を歩いて機材を運びましたし、ウガンダのナイル川源流で開催されたフェス「Nyege Nyege」も会場まで辿り着くのが至難の業でしたね(笑)。

――今回イサム・ノグチの作品「天国」をステージとして演奏されたことで、相互作用を感じたりインスピレーションを受けた要素はありますか?

ソヴァージュ:イサム・ノグチは個人的にも好きで、<彫刻作品や家具は人間と関わってこその存在であり、相関性がドラマを創出する。そのための空間を作りたい>というノグチの思想に共感しています。

私は音楽も空間と人との相関性のドラマではないかと考えていて、自分は演奏を通して空間とそこに存在する人と物を振動させ、エネルギーを循環させている。そう捉えると、私の音楽表現がノグチの考える空間に繋がるかもしれません。

2021年にバービカンセンターでノグチの回顧展が開催された際、キュレーターから依頼をいただいて「Barbican Sessions」に出演したことがあります。その時は金属の彫刻作品「Mountains Forming」と石で製作されたつくばいに直接マイクで触れて、対話するようなイメージで演奏しました。

今回の舞台となった「天国」は、上段から下段へと絶えず水が流れ落ちていく。ノグチが作ったこの水の流れを意識したパフォーマンスにしようと思いました。水路にいくつかマイクを設置し、水中にもマイクを入れる。すると通常は聞こえない隠れた音……つくばいの水たまりから泡が出る音などが増幅されて聞こえてきたんです。結果として今回もノグチの作品と対話できたのではないかと思います。

アート・音楽・ファッションを繋ぐ、伝統工芸や民藝のサスティナブル精神

――今回のショーで着用された曲線的で発光するような白い衣装は、トモコさんの水を用いた音楽表現やノグチの石庭に溶け込み、空間全体がインスタレーションのように一体化していた印象を持ちました。

ソヴァージュ:今回の衣装は「トミー・ジュスカス(Tommy Juskus)」というロンドンのデザイナーが作ってくれました。彼は「ジェイ ダブリュー アンダーソン(JW ANDERSON)」等のメゾンでキャリアを積んだ後、サステナブルなアプローチでの服作り等、自分が本当にやりたいことを模索していました。そして数年前「ミュージシャンの服を作る」というプロジェクトを立ち上げ、私に連絡をくれたんです。先ほどのバービカンセンターでのショーを控えていたタイミングで、彼とアイデアを出し合って、ノグチの世界観や作品にインスパイアされた衣装を制作してもらうことになりました。

私は貝殻等、自然界の流動的な素材を使って音を作っているので、衣装はそういうものを意識したフォルムであると同時に、ノグチの「Lunar」シリーズから着想を得たデザインになっています。

また、ファッションにおいていかにサステナブルであれるか、工芸や民藝、手仕事などの重要性についても議論を重ねました。私は常に自分の手を使って演奏しているので、自身の音作りの手法は、工芸や民藝、手仕事などと親和性がありますし、水や焼き物を使ったパフォーマンスは循環性が一つのテーマであるとも言えます。

今回のイベント「T. T」が“クラフト“というテーマを重視している点にも共感しています。“奄美の泥染“等、衰退しつつある伝統技術や産業に注目して新しい形で提示している。演奏する際に使った座布団も備長炭の墨染で、細部までデザインが行き届いていました。

私はもともと伝統工芸や民藝、クラフトマンシップに関心があって、音楽表現においても非常に影響を受けています。今回は「T. T」からインスパイアされた要素もありますし、ノグチの作品にも工芸の要素があるので、トミーがデザインした衣装をまとって「天国」を舞台に演奏できたのは素晴らしい経験でした。

PHOTOS:MASASHI URA

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岡田将生が語る「小林秀雄」と「映画への想い」 映画「ゆきてかへらぬ」インタビュー

PROFILE: 岡田将生/俳優

PROFILE: (おかだ・まさき):1989年8月15日生まれ、東京都出身。2006年デビュー。近年の主な出演作に、NHK連続テレビ小説「なつぞら」(19)、「ドライブ・マイ・カー」(21)、「大豆田とわ子と三人の元夫」(21)、「1秒先の彼」(23)、「ゆとりですがなにか インターナショナル」(23)、「ラストマイル」(24)、NHK連続テレビ小説「虎に翼」(24)、「ザ・トラベルナース」(24)、「アングリースクワッド 公務員と7人の詐欺師」(24)などがある。現在日曜劇場「御上先生」(TBS)が放送中。

さまざまな役柄を演じながら、そこに不思議な透明感と色気を感じさせる俳優、岡田将生。2月21日から公開される映画「ゆきてかへらぬ」で演じるのは実在の文芸評論家、小林秀雄だ。天才詩人といわれた中原中也、女優の長谷川泰子との濃密な三角関係を描いた本作は、名脚本家、田中陽造が40年以上前に書いた幻の脚本を、巨匠・根岸吉太郎監督が映画化したもの。中原中也を木戸大聖。長谷川泰子を広瀬すずが演じて火花散る競演に引き込まれる。岡田はどんな想いで作品に挑んだのか。そこに潜む映画への熱い想いを聞いた。

小林秀雄を演じて

——本作のどんなところに惹かれて出演を決めたのでしょうか。

岡田将生(以下、岡田):まず、脚本を読ませていただいた時に、読み物としてすごく面白かったんです。登場人物が少ない中で緻密に物語が描かれていて、この作品だったら自分が演じたい役、やりたい芝居ができるかもしれないと思ったのが、この作品に惹かれた理由の一つでした。

——いま岡田さんがやりたいこと、というのは?

岡田:例えば、小林秀雄という役は知的でありながら、どこか色気がある。そして、中原中也と長谷川泰子の間に入って三角関係になるじゃないですか。脚本を読んだ時に、三角関係において小林が受動的なのか能動的なのかが分からなかったんですよ。そこに惹かれるところがあって。自分が何かを求めていながらも、それを求める代わりに何かを失ってしまう、という状況が好きなんですよね。それがどうしてなんだろう、と思っていて。だから、小林を演じることで、自分が好きなこと、やりたいことを見つめ直すことができるのではないかと思ったんです。

——撮影に入る前に、小林秀雄という人物を知るために何か準備されたことはありますか?

岡田:脚本を読んでから撮影に入るまで時間があったので、根岸監督から頂いた資料に目を通したり、小林さんの本を読んだりしました。でも、小林さんがどんな人かは分からないまま撮影に入ったんです。分からないから演じるのが面白いんですよ。小林さんを演じていて大切にしていたことは、泰子を通じて中原を見るということでした。そして、泰子と中原の関係を、ある種、達観したような距離で見ることで小林秀雄というキャラクターが際立つのではないかと思いました。だから(広瀬すずさん、木戸大聖さんと)3人でリハーサルをする時は、自分はどういう立ち位置にいて、2人をどんな風に見ているのが正解なんだろう、ということを一番考えていました。

——広瀬すずさん、木戸大聖さんとの共演はいかがでした?

岡田:広瀬さんとは、以前、朝ドラ(「なつぞら」)で共演させて頂いたので、彼女の集中力や現場の雰囲気はよく分かっていました。だから、現場では必要以上の会話はしませんでしたし、そうなるだろうなと思っていました。大聖とは撮影の合間に話をしていましたけど、彼は無我夢中で中原中也になろうとしていましたね。今回の映画は3人それぞれが役に集中しないと成立しないので、毎日、撮影が終わるとすごい疲労感なんです。この映画は中也と泰子の物語なので、僕は2人を支える柱になれれば、と思っていました。その支えようとする気持ちが小林という役に通じると思ったんです。でも、それは僕が2人より年上だったのも関係あるかもしれないですね。僕は2人とは10歳くらい離れているんですけど、2人の喧嘩のシーンのエネルギーのぶつかり方の激しさを見たら入っていけそうにない。大丈夫? 疲れてない?って思ったりして(笑)。

——中原中也、長谷川泰子、小林秀雄が織りなす濃密な関係についてはどう思われました?

岡田:運命共同体になろうとしている人たち、という気がしました。特に泰子に関しては、そういう関係になろうとする気持ちが強いように思えましたね。それは僕が小林の目線で見ていたからかもしれませんが。最初、中也と泰子が付き合っていて、そこに小林が出てきて空気が変わるじゃないですか。2人だけだとグラグラした関係だけど、小林が入ると妙に安定するんですよね。それがこの映画の面白さだと思います。現場に入った時はどんな風に演じようか不安があったんですけど、3人で初めて本読みをやった時に、すっと腑に落ちたところがあったんです。映画の中で3人がボートに乗るシーンがあるんですけど、3人が座る位置が絶妙なんですよ。少しでも位置がずれるとボートは沈んでしまうかもしれない。3人の関係性が、あのボートのシーンに象徴されていたと思います。

中原中也と小林秀雄の関係

——三角関係で特に興味深いのは中也と小林の関係です。1人の女性をめぐって対立しながらも、相手に対するリスペクトは失われていないし、文学に対する情熱を共有していて絶交するようなことにはならない。

岡田:小林が中也と2人で話をしていて、付き合っている泰子の愚痴を言うシーンがあるんですけど、それが面白くて。これは僕が20代だったら分からなかった感覚でした。30代になったことで小林の人間臭さが分かるようになった気がします。あれは中也と小林の関係性がよく分かるシーンです。

——大正時代という背景も、この物語の重要な要素だと思いました。西洋の影響を受けて日本の文化が大きく変わろうとしている中で、小林と中也は詩人のランボーや海外の文学に刺激を受けていて、そういう開かれた感性や文学に対する一途な思いが2人を結びつけている。

岡田:大正時代は変化の時代で、それを受け入れられる人と受け入れられない人がいたと思います。小林や中也は変化を受け入れた上で、それを自分のものにしようとした。今はいろんな情報が溢れ返っていますけど、当時は情報が限られているぶん、一つのことに対する情熱の注ぎ方がすごいんですよ。ランボーという詩人がヤバい!ということになるとランボーの話ばかり。それって、小学生が学校の休み時間に好きなもの話をしているみたいな感じだなって、小林を演じていて思いました。そういえば、僕は初舞台でランボーの役を演じさせてもらったんですよ。その時にランボーの詩集を初めて読みました。だから、この映画で中也がランボーを読んで感動しているのを見て不思議な感覚になりました。あの舞台をやったことが、こんな形で活きてくるんだなって。

——不思議な縁ですね。岡田さんが根岸監督の作品に出演されるのは初めてでしたが、いかがでした?

岡田:根岸監督は撮影に入る前も入ってからもとても紳士的で、少年のようにまっすぐな眼差しで映画を撮っている姿が輝いて見えました。3人の主人公をとても愛でていることも伝わってきて、それにグッときたんです。小林秀雄は前髪を指でくるくる回す癖があるとか、そういう細かいことも教えてくださって、「このシーンだったら、それがやれるかもしれない」というのを自分で精査してやってみたりしました。そういうことが監督に伝わって僕のこと信頼してくださったのかもしれませんが、演技に関してはほぼ任せてくれましたね。そして、僕の方から監督に「このシーンでの動きは……」など、細かいことを尋ねるのはやめようと思ったんです。

——それはどうしてでしょう。

岡田:監督の視線が中也の視線だということが分かったからです。だから、僕が監督と密に話すより、監督の様子を離れたところから見ている方が小林っぽい気がしたんです。監督が中也に夢中だったので、木戸大聖という役者の底上げがとてつもなかった。監督は大聖に対して熱っぽく、時には厳しく接していて、撮影をしている間に大聖がどんどん中原中也になっていったんです。共演していて、木戸大聖なのか中原中也なのか分からない時が何度もありました。

映画への熱い想い

——この映画では大掛かりなセットも組まれていますが、そういった環境が演技に与えた影響も大きかったのではないでしょうか。

岡田:大きいですね。美術の完成度が高いと芝居がしやすくなるんです。役者は余計なことをしなくても、その場に立っているだけでシーンが成立するというか。今回の撮影では、映画だからこその素晴らしいセットに圧倒されました。この映画に参加したいと思ったのは、もっと映画の現場を体験したいという思いもあったんです。

——映画の現場は特別な何かがあるのでしょうか。

岡田:最近は映画もドラマも現場は変わらなくなってきたと言われますけど、まず時間のかけ方が違うんです。映画は時間をかけて撮影しているので、我々役者が役に向き合う時間も違ってくる。ワンショットワンショットの強度も違うと思います。だから、役者もすごく集中しなくてはいけなくて、そうした一つひとつの積み重ねが2時間前後の映画になっていく。それがすごく尊い作業に思えるんです。

——映画の現場だからこその緊張感があるんですね。

岡田:僕はいちばん最初の仕事が映画だったんです。しかも、フィルム撮影でした。こんな贅沢なことはないぞ、と当時、現場のスタッフさんから言われたんですけど、デビューしたばかりだったのでよく分かっていなかったんです。歳を重ねるにつれて、その大切さが分かるようになってきて。その時のスタッフさんと現場で会うこともあるんですけど、今ではほとんどデジタル撮影になっていて。フィルムはお金も時間もかかってしまうので。だから、自分はとても幸運なスタートを切れたんだなって思いますし、だからこそ映画という現場を大事にしたいと思っています。

——根岸監督が少年のような眼差しで映画を撮っていた、というお話でしたが、岡田さんにとっても映画の現場は初心に返る場所なんですね。

岡田:映画の撮影は時間がかかる分、体力も精神力も消耗しますし、日に日に自分が削られていくように感じますが、完成した作品を観た時に諦めずに撮ったカットが良かったりするとうれしいんです。また頑張ろうと思える。そういうことを経験しているから、どんなに撮影が大変でもワクワクするんです。撮影をしている時は35歳の身体ではなく、10代の身体になっているような気持ちがするんですよね(笑)。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLING:YUSUKE OISHI
HAIR & MAKEUP:REICO KOBAYASHI

ジャケット 5万5000円、カーディガン3万1900円、パンツ 2万9700円、シューズ 5万2800円/全てニードルズ(ネペンテス 03-3400-7227)、ネックレス 5万3350円/END(アルファPR 03-5413-3546)

映画「ゆきてかへらぬ」

■映画「ゆきてかへらぬ」
2月21日からTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開

京都。まだ芽の出ない女優、長谷川泰子(広瀬すず)は、まだ学生だった中原中也(木戸大聖)と出逢った。20歳の泰子と17歳の中也。どこか虚勢を張るふたりは、互いに惹かれ、一緒に暮らしはじめる。東京。泰子と中也が引っ越した家を、小林秀雄(岡田将生)がふいに訪れる。中也の詩人としての才能を誰よりも知る男。そして、中也も批評の達人である小林に一目置かれることを誇りに思っていた。男たちの仲睦まじい様子を目の当たりにして、泰子は複雑な気持ちになる。しかし、泰子と出逢ってしまった小林もまた彼女の魅力に気づく。本物を求める評論家は新進女優にも本物を見出した。そうして、複雑でシンプルな関係がはじまる。ひとりの女が、ふたりの男に愛されること。それはアーティストたちの青春でもあった。

監督:根岸吉太郎
脚本:田中陽造
出演:広瀬すず、木戸大聖、岡田将生
田中俊介、トータス松本、瀧内公美、草刈民代、カトウシンスケ、藤間爽子、柄本佑
配給:キノフィルムズ
©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会
https://www.yukitekaheranu.jp/

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BUMP OF CHICKEN・直井由文、「TRIGGER」、「GR8」、「GEEKS RULE」の豪華コラボによるアニメ「キルラキル」Tシャツ制作の裏側を語る

「ギークス ルール(GEEKS RULE)」の最新作として、アニメーション作品「キルラキル」とのTシャツ(3型)とシルクスクリーンポスター(100部限定)が、2月22日から「グレイト(GR8)」で、24日から「ギークス ルール」で販売される。

「キルラキル」は2013年にアニメーションスタジオ「TRIGGER(トリガー)」初のオリジナルTVアニメ作品として制作されたもので、今回放送時から大ファンで、いつかTシャツを作りたかったというBUMP OF CHICKENのベーシスト・直井由文の呼びかけにより、「TRIGGER」「グレイト」「ギークス ルール」がコラボレーションして、企画が実現した。

また、キービジュアルに直井と以前から親交があったというあのを起用し、「キルラキル」の主人公、纏流子(まとい・りゅうこ)の世界観を表現した。

本プロジェクトについて、発起人となったBUMP OF CHICKENの直井由文と、「TRIGGER」の若林広海(クリエイティブプロデューサー)、「グレイト」の高橋善将(スペシャルプロジェクトマネージャー)、「ギークス ルール」の畠中一樹の4人に話を聞いた。

「TRIGGER」「ギークス ルール」「グレイト」とのコラボの裏側

WWD:今回、チャマ(直井)さんが「キルラキル」のTシャツを作ろうと思った経緯から教えてもらえますか。

直井由文(以下、直井):知らない人からしたら、「何でこの組み合わせなの」っていうのがあると思うので、詳しく話しますね。

もともと僕は子どもの頃からアニメ全般が好きだったんですが、中でも「TRIGGER」が制作した「キルラキル」というアニメがすごい好きで、いつかはこの作品のTシャツを作りたいなとずっと思っていたんです。それで「作りたい」って友達に言っていたら、その内の1人から連絡が来て、「キルラキル」でキャラクターデザインを担当したアニメーターのすしおさんを紹介してくれて。実際にすしおさんとお会いした時に、「キルラキル」の話をしたら、「TRIGGER」の若林さんの連絡先を教えてくれて、すぐに連絡をしました。

WWD:それはどれぐらい前だったんですか?

若林広海(以下、若林):確か映画の「プロメア」を作っている時だから2018年ごろだったと思います。

直井:若林さんと最初に会った時に「キルラキル」のTシャツを作らせてほしいと伝えたら、すぐ「いいんじゃないですか」って返事をくれて。そこから「こんな絵柄を使って、できればビンテージみたいなかっこいいTシャツを作りたい」とずっと考えていました。自分もインディーズ時代からBUMP OF CHICKENのグッズ制作を担当していたので、物を作ることは好きだったんですけど、「キルラキル」のTシャツに関しては、満足のいくクオリティーのものは自分だけでは作れないなと思っていて。

そこで「グレイト」の高橋くんの登場で、彼とはかなり付き合いが長くて。最初に会ったのって、10年以上前だよね?

高橋善将(以下、高橋):多分2014年くらいでしたよね。

直井:だから10年以上の付き合いなんですが、その高橋くんが去年の4月に渋谷パルコでやっていた「ギークス ルール」の展示に連れて行ってくれて、(「ギークス ルール」の)畠中さんを紹介してくれたんです。そこからこのプロジェクトが本格的に始まって、今回ようやく念願のTシャツが完成した。

畠中一樹(以下、畠中):「ギークス ルール」は、これまでは1990年代〜2000年代初頭のアニメ作品がメインなので、「キルラキル」はそれらと比べると比較的新しめの作品なんです。だから、なんで今回「ギークス ルール」が「キルラキル」のTシャツを作るのかっていうと、それはチャマさんからのオファーがあったからなんです。

直井:そこは、僕としてもしっかりと伝えておきたいですね。その上で、デザインにもちゃんと「ギークス ルール」のルールを入れていて、ファーストビジュアルを選ぶとか、ファッションとしても楽しめるとかは、しっかりと考えて作りました。

WWD:もともとは5年前からずっと考えていた企画だったんですね。

直井:そうです。ただ自分が「キルラキル」を好きで、このTシャツが欲しかったからっていうだけで、今回3人に協力してもらって、ようやく実現できて、めちゃくちゃ嬉しいですね。だから仕事というよりも趣味に近くて、感覚としては“公式同人誌”を作るみたいなノリでやっているプロジェクトです。

WWD:若林さんは最初にチャマさんから話があって、すぐOKだったんですね。

若林:「キルラキル」は2013年に放送されたアニメなんですが、今このタイミングで、チャマさんがプロデュースしたTシャツを出すのって、意味分からないじゃないですか(笑)。でも、そこが逆に面白いなと思って。チャマさんくらい「キルラキル」愛が強い方が作ったTシャツなら、作品のファンの方々にも受け入れてもらえると思いました。

直井:自分が10代のころは、アニメTシャツを着ていたらすごくバカにされたんですよ。今はそれがビンテージで人気になったりもしていますが、それに大きく貢献してきたのが「グレイト」と「ギークス ルール」だと思っていて。高橋くんとはずっと一緒に何かやりたいねって話していて、それが10年越しくらいでかなう。「キルラキル」は洋服をテーマにしたアニメなんですけど、そのTシャツを今回このスタッフで作れたのは、自分的にはめちゃくちゃ感慨深いんですよね。

3パターンの絵柄について

WWD:チャマさんと「ギークス ルール」の畠中さんが去年の4月に出会って、すぐ制作に入ったんですか?

畠中:そうですね。渋谷パルコの会場でお会いして、すぐ今回のプロジェクトに関わる全員が集まる場をセッティングしてもらって、そこから動き出しました。

直井:みんな集合だって言って(笑)。僕は全員と面識がありましたけど、若林さんは畠中さんや高橋くんとは初対面だったりするので、最初はそれぞれを紹介してっていう感じで。

WWD:今回、3パターンの絵柄が発売されますが、どう決めたんですか?

若林:最初の会議に僕が「キルラキル」のイラストの全データが入っているハードディスクを持っていって、そのイラストを見ながら「どれを使いたいですか?」って聞いて、みんなで話し合いましたね。

直井:メイン(vol.1)となっているのは、「キルラキル」のファーストビジュアルのポスターのイラストなんですけど、これは絶対に作りたいって思っていたので、まずはこれを決めて。あとはみんなでいろんなイラストを見ながら、「これもいいよね」って言いながら楽しんで決めていきました。

直井:でも、この2つ目(vol.2)は確かここの4人が選んでないイラストだよね?

畠中:そうですね。これは雑誌用に描き下ろされたビジュアルなんですが、うちのデザイナーが、「これかっこいいんじゃないか」って選んで作ってきたデザインです。それで皆さんに見せたら、気に入っていただけて。

直井:今回、このTシャツだけバックプリントがあって、唯一日本語で「キルラキル」って書かれているんです。他のTシャツは「KILL la KILL」が英語になっているんですけど、それは海外で配信された時に使っていた英語ロゴで。この英語ロゴのTシャツは日本では見たことがなかったので、これを使いたいって若林さんに話して。でも、このロゴを使うのもまた別の許可が必要で大変だったんだよね。

若林:この英語ロゴは基本的には海外商品用に使用していたもので、国内の商品では日本語ロゴを使うルールになっていました。なので、ライツ担当の方へチャマさんのデザイン意図をお伝えして今回特別に許可を出してもらいました。

直井:英語ロゴを使いたかった理由の一つとして、「キルラキル」を知らない人にも「キルラキル」のTシャツを届けたいという想いがあって、だからファッション好きが着たいと思えるデザインにしたかった。日本語ロゴよりかは着やすいかなと思って。あと日本人の「キルラキル」ファンからすると、この英語ロゴのTシャツがようやく手に入るっていうのがめちゃくちゃ熱い。

若林:3つ目(vol.3)は「月刊ニュータイプ」というアニメ雑誌の表紙に使われたイラストですね。

畠中:確かすしおさんが大好きだった「アキラ(AKIRA)」をオマージュして描いたイラストなんですよね。あのよく見る金田のビジュアルをリスペクトを込めて描いたイラストで、そういう部分も含めていいなと思って。

WWD:なるほど。最初、そのハードディスクにはどれくらい絵柄があったんですか?

若林:多分世に出ている「キルラキル」の公式版権イラストは全て入っていたので、選びたい放題ではありました。でも、特に説明したわけではないですが、結果的に全部すしおさんが描いたイラストになったのが個人的に面白かったですね(笑)。他のアニメーターが描いたイラストもたくさんあったんですけど、やっぱりすしおさんのイラストを選ぶんだなって。

直井:やっぱり自然とすしおさんのイラストを選んでいましたね。

WWD:最近は、アニメのビンテージTシャツってかなり高騰していると思うんですが、「キルラキル」は特にそういうビンテージ市場でも人気なんですか?

直井:どうだろう。「キルラキル」はもともと公式のアパレル商品が少ないんですよね。ブート系も少ないですし。だからそういったビンテージとしての市場価値っていうところは一切考えてないです。最近は原作を知らなくても、アニメTシャツを着る若い人もいるじゃないですか。Tシャツを通して、もしかしたらアニメを見てくれるんじゃないかっていう想いもあるので、別に「キルラキル」を知らない人でも「かっこいい」と思って、着てほしいんです。

「ギークス ルール」初のシルクスクリーンポスター

WWD:今回シルクスクリーンのポスターも100部限定で販売します。「ギークス ルール」では初のシルクスクリーンポスターですよね。

直井:これも僕が作りたいって言ったんです。昔のアニメって意外とポスターがなくて。今回こんな素晴らしいスタッフと一緒に公式でやらせてもらえているので、絶対にポスターも残したいなと思って。

それで「モノクロのドット絵でシルクスクリーンのポスターを作りたい」って言ったら、全部畠中さんが用意してくれて。実物見たんですけど、めちゃくちゃかっこいいんで、ぜひ、「グレイト」で実際のポスターを見てほしいです。

畠中:これは、横尾(忠則)さんや田名網(敬一)さんなどの作品を手掛けてきた版画工房「360°GRAPHICS」で作ってもらったんですが、そこが独自に開発した技法のネオ・シルクスクリーンというシルクスクリーン印刷とジークレー印刷を組み合わせた手法でプリントしています。全部にシリアルナンバーが入っていて、サイズは部屋に飾りやすいB3(横364mm×縦515mm)ですね。

WWD:Tシャツやポスターのデザインが固まったのって大体いつごろでしたか?

畠中:去年の6月にはデザインが固まって。そこからイラストの許可取りやプリントの色の調整とかで時間がかかって。

直井:そんな前だっけ。すごくかかったよね。本当はもっと早く出す予定だったんです。

若林:ちょうど去年の7月から今年の2月17日まで「天元突破グレンラガン対キルラキル展」っていう原画展を、全国を回りながらやっていたんで、そのタイミングに出るといいよねみたいな話でしたよね。

直井:全然間に合わなかった(笑)。でも、それでも若林さんがチームにいてくれたから、実際にサンプルを見ながら「ここは少し違うんじゃないですか」とか話せたのは、本当に良かった。伝言ゲームにはならないし、そこの時間的ロスはなかったので。

畠中:色に関しては、本当に細かいところまでこだわっていて、制服の赤いリボンや「鮮血」の目の色とか、多分遠目で見たら分からないぐらいのところなんですけど、そこを微調整していって。やっぱり作品の根幹に関わるところなんで。

直井:みんなアニメーターさんのことをめっちゃリスペクトしているんで。当たり前の話ですけど、ここまでの絵を描くには、努力プラス才能、あと情熱が必要だと思うので。だから、僕らもそこは妥協できなかったし、自分にとってはこのTシャツ自体、値段がつけられないほど価値があって、アートだと思っています。

キービジュアルには、あのがモデルとして登場

WWD:キービジュアルにはモデルとしてあのさんが出ていますが、起用の理由は?

直井:今回は、すっごい真剣にふざけたくて。だから本当に仲がいい人だけでやりたいっていうのが大前提としてあって、昔から交友があるあのちゃんにお願いしました。そしたら、すぐOKの連絡がきて。あのちゃんからしたら、俺がなんで「キルラキル」のTシャツを作ってるのか意味が分かんなかったと思うけど、本当に忙しい中、1時間だけ撮影の時間をもらえて。あのちゃんは「キルラキル」を知らなかったと思うんですけど、メイクも主人公の纏流子に寄せてくれて、完璧でした。撮影もフォトグラファーはBUMP OF CHICKENでもお世話になっている太田好治(よしはる)さん、スタイリストも普段からBUMP OF CHICKENのスタイリングをやってくれている髙田勇人(はやと)さんにお願いして。みんなで楽しく撮影しました。

「キルラキル」の魅力

WWD:話を聞いているとチャマさんの「キルラキル」愛がすごく伝わってきますが、「キルラキル」のどこにハマったんですか。

直井:纏流子っていうキャラクターがめちゃくちゃ魅力的なのも大きいんですが、内容も「キルラキル」は当時リアルタイムで見ていて、「これをテレビで放送するんだ」っていう衝撃があって。テレビアニメって制作時間も短いだろうし、制限も多い中で、毎回驚きの連続で。なんだろう、大ふざけを真剣にやっている感じなんですが、それでいて、監督を今石(洋之)さん、シリーズ構成・脚本を中島(かずき)さん、キャラクターデザインをすしおさんが担当していて、アニメとしてのクオリティーがめちゃくちゃ高い。ストーリーもふざけた部分もありつつ、最終的に哲学なんです。「服を着るってどういうことなんだろう」っていう。だから今回は「グレイト」での販売は絶対にやりたかったんです。

WWD:販売方法としては、2月22日11時から「グレイト」の店頭で販売して、23日10時から「グレイト」のオンラインで販売、24日12時から「ギークス ルール」のオンラインで抽選販売を行うと?

直井:そうですね。ただ、この“Vol.3”のデザインのTシャツだけは「ギークス ルール」のオンライン限定で販売します。

若林:「キルラキル」は特に北米のファンが多いタイトルなので、海外のファンの方々にはオンラインで手に入れてほしいですね。

畠中:そういや何で北米でも人気があるんですかね?

若林:すごくマニアックな話になっちゃうんですけど、「TRIGGER」が立ち上がったのがちょうどアメリカで日本のアニメが本当に盛り上がり始めたタイミングだったんです。僕らが「GAINAX(ガイナックス)」を出て「TRIGGER」を作って、これから海外でもアニメを盛り上げるぞっていうタイミングで世に出したのがこの「キルラキル」でした。もともと同じ監督と脚本家のチームで制作した「天元突破グレンラガン」という作品が北米ですごく人気あって。それと同じチームが新しいスタジオで新しいアニメを作るっていうので、海外でも注目を浴びていました。今って基本的にアニメ制作はデジタルでの作業がメインなんですけど「キルラキル」はアニメーション作画も背景美術も手描きにこだわっていたんです。キャラクターやストーリーは昭和の少年漫画のカルチャーが入っていたりしてレトロな雰囲気がありつつ、映像自体は当時の最新技術でカッコいいアニメーションが見れる。だから、当時海外のアニメファンからは「これまで見たことないジャンルのアニメだ!」とよく言われてましたね。

「ギークス ルール」は“技術オタク”

WWD:「グレイト」で、アニメTを売る時のお客さんの反応はどんな感じなんですか。

高橋:「ギークス ルール」と一緒に仕事させていただくことで、普段うちで取り扱っているブランドを着ながら、アニメTも着るっていう感じで、ファッションとしてアニメTを着る人が増えましたね。「ギークス ルール」とは最初の「新世紀エヴァンゲリオン」の時から一緒に取り組みをさせてもらっていますが、やる度に反響があって、すごい人気です。

直井:本当にアニメTシャツって、イラストの破壊力がすごくて、それをかっこよく仕上げるって難しいんだよね。でも、それをやっているのが「ギークス ルール」で。「ギークス ルール」は90年代とかの海外のブートの雰囲気を、日本の技術で忠実に表現している。しかも15版も重ねていて、普通汗かいたらベタってなっちゃうんですけど、「ギークス ルール」は重くなくてベタってしないんですよ。それでいて、絶妙な色もしっかりと表現していて、人気の秘訣は技術力なんだと思う。

畠中:本当にチャマさんの言う通りで。「ギークス ルール」の「ギークス」ってみんな「アニメオタク」の意味だと思っているんですけど、実は「技術オタク」の意味でつけたんです。かなり技術にこだわっているので、そこに注目してもらえたのはめちゃくちゃありがたいです。

直井:いつも「ギークス ルール」のTシャツを見て、これはどうやって作ってるんだろう、とずっと思っていて。自分たちでもやろうとしたけど、元のグラフィックのデータを作る時点で印刷のことまで考えて作らないと同じようにはできなくて。それをするにはいろんなことを考慮しながらやらないといけなくて、簡単にはできない。だから実はめちゃくちゃすごいことをやっているんです。本当に今回のプロジェクトに関わっているのは全員、それぞれの業種のオタクなんですよ。まだ「ギークス ルール」のアイテムを見たことない人は、ぜひ「グレイト」の店頭でその技術力を見てみてほしい。

WWD:最後に、今後もこのプロジェクトは継続的にやっていくんですか?

直井:確約はできないんですけど、やりたいことはいろいろあるんで、楽しみにしておいてくださいって感じです。

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BUMP OF CHICKEN・直井由文、「TRIGGER」、「GR8」、「GEEKS RULE」の豪華コラボによるアニメ「キルラキル」Tシャツ制作の裏側を語る

「ギークス ルール(GEEKS RULE)」の最新作として、アニメーション作品「キルラキル」とのTシャツ(3型)とシルクスクリーンポスター(100部限定)が、2月22日から「グレイト(GR8)」で、24日から「ギークス ルール」で販売される。

「キルラキル」は2013年にアニメーションスタジオ「TRIGGER(トリガー)」初のオリジナルTVアニメ作品として制作されたもので、今回放送時から大ファンで、いつかTシャツを作りたかったというBUMP OF CHICKENのベーシスト・直井由文の呼びかけにより、「TRIGGER」「グレイト」「ギークス ルール」がコラボレーションして、企画が実現した。

また、キービジュアルに直井と以前から親交があったというあのを起用し、「キルラキル」の主人公、纏流子(まとい・りゅうこ)の世界観を表現した。

本プロジェクトについて、発起人となったBUMP OF CHICKENの直井由文と、「TRIGGER」の若林広海(クリエイティブプロデューサー)、「グレイト」の高橋善将(スペシャルプロジェクトマネージャー)、「ギークス ルール」の畠中一樹の4人に話を聞いた。

「TRIGGER」「ギークス ルール」「グレイト」とのコラボの裏側

WWD:今回、チャマ(直井)さんが「キルラキル」のTシャツを作ろうと思った経緯から教えてもらえますか。

直井由文(以下、直井):知らない人からしたら、「何でこの組み合わせなの」っていうのがあると思うので、詳しく話しますね。

もともと僕は子どもの頃からアニメ全般が好きだったんですが、中でも「TRIGGER」が制作した「キルラキル」というアニメがすごい好きで、いつかはこの作品のTシャツを作りたいなとずっと思っていたんです。それで「作りたい」って友達に言っていたら、その内の1人から連絡が来て、「キルラキル」でキャラクターデザインを担当したアニメーターのすしおさんを紹介してくれて。実際にすしおさんとお会いした時に、「キルラキル」の話をしたら、「TRIGGER」の若林さんの連絡先を教えてくれて、すぐに連絡をしました。

WWD:それはどれぐらい前だったんですか?

若林広海(以下、若林):確か映画の「プロメア」を作っている時だから2018年ごろだったと思います。

直井:若林さんと最初に会った時に「キルラキル」のTシャツを作らせてほしいと伝えたら、すぐ「いいんじゃないですか」って返事をくれて。そこから「こんな絵柄を使って、できればビンテージみたいなかっこいいTシャツを作りたい」とずっと考えていました。自分もインディーズ時代からBUMP OF CHICKENのグッズ制作を担当していたので、物を作ることは好きだったんですけど、「キルラキル」のTシャツに関しては、満足のいくクオリティーのものは自分だけでは作れないなと思っていて。

そこで「グレイト」の高橋くんの登場で、彼とはかなり付き合いが長くて。最初に会ったのって、10年以上前だよね?

高橋善将(以下、高橋):多分2014年くらいでしたよね。

直井:だから10年以上の付き合いなんですが、その高橋くんが去年の4月に渋谷パルコでやっていた「ギークス ルール」の展示に連れて行ってくれて、(「ギークス ルール」の)畠中さんを紹介してくれたんです。そこからこのプロジェクトが本格的に始まって、今回ようやく念願のTシャツが完成した。

畠中一樹(以下、畠中):「ギークス ルール」は、これまでは1990年代〜2000年代初頭のアニメ作品がメインなので、「キルラキル」はそれらと比べると比較的新しめの作品なんです。だから、なんで今回「ギークス ルール」が「キルラキル」のTシャツを作るのかっていうと、それはチャマさんからのオファーがあったからなんです。

直井:そこは、僕としてもしっかりと伝えておきたいですね。その上で、デザインにもちゃんと「ギークス ルール」のルールを入れていて、ファーストビジュアルを選ぶとか、ファッションとしても楽しめるとかは、しっかりと考えて作りました。

WWD:もともとは5年前からずっと考えていた企画だったんですね。

直井:そうです。ただ自分が「キルラキル」を好きで、このTシャツが欲しかったからっていうだけで、今回3人に協力してもらって、ようやく実現できて、めちゃくちゃ嬉しいですね。だから仕事というよりも趣味に近くて、感覚としては“公式同人誌”を作るみたいなノリでやっているプロジェクトです。

WWD:若林さんは最初にチャマさんから話があって、すぐOKだったんですね。

若林:「キルラキル」は2013年に放送されたアニメなんですが、今このタイミングで、チャマさんがプロデュースしたTシャツを出すのって、意味分からないじゃないですか(笑)。でも、そこが逆に面白いなと思って。チャマさんくらい「キルラキル」愛が強い方が作ったTシャツなら、作品のファンの方々にも受け入れてもらえると思いました。

直井:自分が10代のころは、アニメTシャツを着ていたらすごくバカにされたんですよ。今はそれがビンテージで人気になったりもしていますが、それに大きく貢献してきたのが「グレイト」と「ギークス ルール」だと思っていて。高橋くんとはずっと一緒に何かやりたいねって話していて、それが10年越しくらいでかなう。「キルラキル」は洋服をテーマにしたアニメなんですけど、そのTシャツを今回このスタッフで作れたのは、自分的にはめちゃくちゃ感慨深いんですよね。

3パターンの絵柄について

WWD:チャマさんと「ギークス ルール」の畠中さんが去年の4月に出会って、すぐ制作に入ったんですか?

畠中:そうですね。渋谷パルコの会場でお会いして、すぐ今回のプロジェクトに関わる全員が集まる場をセッティングしてもらって、そこから動き出しました。

直井:みんな集合だって言って(笑)。僕は全員と面識がありましたけど、若林さんは畠中さんや高橋くんとは初対面だったりするので、最初はそれぞれを紹介してっていう感じで。

WWD:今回、3パターンの絵柄が発売されますが、どう決めたんですか?

若林:最初の会議に僕が「キルラキル」のイラストの全データが入っているハードディスクを持っていって、そのイラストを見ながら「どれを使いたいですか?」って聞いて、みんなで話し合いましたね。

直井:メイン(vol.1)となっているのは、「キルラキル」のファーストビジュアルのポスターのイラストなんですけど、これは絶対に作りたいって思っていたので、まずはこれを決めて。あとはみんなでいろんなイラストを見ながら、「これもいいよね」って言いながら楽しんで決めていきました。

直井:でも、この2つ目(vol.2)は確かここの4人が選んでないイラストだよね?

畠中:そうですね。これは雑誌用に描き下ろされたビジュアルなんですが、うちのデザイナーが、「これかっこいいんじゃないか」って選んで作ってきたデザインです。それで皆さんに見せたら、気に入っていただけて。

直井:今回、このTシャツだけバックプリントがあって、唯一日本語で「キルラキル」って書かれているんです。他のTシャツは「KILL la KILL」が英語になっているんですけど、それは海外で配信された時に使っていた英語ロゴで。この英語ロゴのTシャツは日本では見たことがなかったので、これを使いたいって若林さんに話して。でも、このロゴを使うのもまた別の許可が必要で大変だったんだよね。

若林:この英語ロゴは基本的には海外商品用に使用していたもので、国内の商品では日本語ロゴを使うルールになっていました。なので、ライツ担当の方へチャマさんのデザイン意図をお伝えして今回特別に許可を出してもらいました。

直井:英語ロゴを使いたかった理由の一つとして、「キルラキル」を知らない人にも「キルラキル」のTシャツを届けたいという想いがあって、だからファッション好きが着たいと思えるデザインにしたかった。日本語ロゴよりかは着やすいかなと思って。あと日本人の「キルラキル」ファンからすると、この英語ロゴのTシャツがようやく手に入るっていうのがめちゃくちゃ熱い。

若林:3つ目(vol.3)は「月刊ニュータイプ」というアニメ雑誌の表紙に使われたイラストですね。

畠中:確かすしおさんが大好きだった「アキラ(AKIRA)」をオマージュして描いたイラストなんですよね。あのよく見る金田のビジュアルをリスペクトを込めて描いたイラストで、そういう部分も含めていいなと思って。

WWD:なるほど。最初、そのハードディスクにはどれくらい絵柄があったんですか?

若林:多分世に出ている「キルラキル」の公式版権イラストは全て入っていたので、選びたい放題ではありました。でも、特に説明したわけではないですが、結果的に全部すしおさんが描いたイラストになったのが個人的に面白かったですね(笑)。他のアニメーターが描いたイラストもたくさんあったんですけど、やっぱりすしおさんのイラストを選ぶんだなって。

直井:やっぱり自然とすしおさんのイラストを選んでいましたね。

WWD:最近は、アニメのビンテージTシャツってかなり高騰していると思うんですが、「キルラキル」は特にそういうビンテージ市場でも人気なんですか?

直井:どうだろう。「キルラキル」はもともと公式のアパレル商品が少ないんですよね。ブート系も少ないですし。だからそういったビンテージとしての市場価値っていうところは一切考えてないです。最近は原作を知らなくても、アニメTシャツを着る若い人もいるじゃないですか。Tシャツを通して、もしかしたらアニメを見てくれるんじゃないかっていう想いもあるので、別に「キルラキル」を知らない人でも「かっこいい」と思って、着てほしいんです。

「ギークス ルール」初のシルクスクリーンポスター

WWD:今回シルクスクリーンのポスターも100部限定で販売します。「ギークス ルール」では初のシルクスクリーンポスターですよね。

直井:これも僕が作りたいって言ったんです。昔のアニメって意外とポスターがなくて。今回こんな素晴らしいスタッフと一緒に公式でやらせてもらえているので、絶対にポスターも残したいなと思って。

それで「モノクロのドット絵でシルクスクリーンのポスターを作りたい」って言ったら、全部畠中さんが用意してくれて。実物見たんですけど、めちゃくちゃかっこいいんで、ぜひ、「グレイト」で実際のポスターを見てほしいです。

畠中:これは、横尾(忠則)さんや田名網(敬一)さんなどの作品を手掛けてきた版画工房「360°GRAPHICS」で作ってもらったんですが、そこが独自に開発した技法のネオ・シルクスクリーンというシルクスクリーン印刷とジークレー印刷を組み合わせた手法でプリントしています。全部にシリアルナンバーが入っていて、サイズは部屋に飾りやすいB3(横364mm×縦515mm)ですね。

WWD:Tシャツやポスターのデザインが固まったのって大体いつごろでしたか?

畠中:去年の6月にはデザインが固まって。そこからイラストの許可取りやプリントの色の調整とかで時間がかかって。

直井:そんな前だっけ。すごくかかったよね。本当はもっと早く出す予定だったんです。

若林:ちょうど去年の7月から今年の2月17日まで「天元突破グレンラガン対キルラキル展」っていう原画展を、全国を回りながらやっていたんで、そのタイミングに出るといいよねみたいな話でしたよね。

直井:全然間に合わなかった(笑)。でも、それでも若林さんがチームにいてくれたから、実際にサンプルを見ながら「ここは少し違うんじゃないですか」とか話せたのは、本当に良かった。伝言ゲームにはならないし、そこの時間的ロスはなかったので。

畠中:色に関しては、本当に細かいところまでこだわっていて、制服の赤いリボンや「鮮血」の目の色とか、多分遠目で見たら分からないぐらいのところなんですけど、そこを微調整していって。やっぱり作品の根幹に関わるところなんで。

直井:みんなアニメーターさんのことをめっちゃリスペクトしているんで。当たり前の話ですけど、ここまでの絵を描くには、努力プラス才能、あと情熱が必要だと思うので。だから、僕らもそこは妥協できなかったし、自分にとってはこのTシャツ自体、値段がつけられないほど価値があって、アートだと思っています。

キービジュアルには、あのがモデルとして登場

WWD:キービジュアルにはモデルとしてあのさんが出ていますが、起用の理由は?

直井:今回は、すっごい真剣にふざけたくて。だから本当に仲がいい人だけでやりたいっていうのが大前提としてあって、昔から交友があるあのちゃんにお願いしました。そしたら、すぐOKの連絡がきて。あのちゃんからしたら、俺がなんで「キルラキル」のTシャツを作ってるのか意味が分かんなかったと思うけど、本当に忙しい中、1時間だけ撮影の時間をもらえて。あのちゃんは「キルラキル」を知らなかったと思うんですけど、メイクも主人公の纏流子に寄せてくれて、完璧でした。撮影もフォトグラファーはBUMP OF CHICKENでもお世話になっている太田好治(よしはる)さん、スタイリストも普段からBUMP OF CHICKENのスタイリングをやってくれている髙田勇人(はやと)さんにお願いして。みんなで楽しく撮影しました。

「キルラキル」の魅力

WWD:話を聞いているとチャマさんの「キルラキル」愛がすごく伝わってきますが、「キルラキル」のどこにハマったんですか。

直井:纏流子っていうキャラクターがめちゃくちゃ魅力的なのも大きいんですが、内容も「キルラキル」は当時リアルタイムで見ていて、「これをテレビで放送するんだ」っていう衝撃があって。テレビアニメって制作時間も短いだろうし、制限も多い中で、毎回驚きの連続で。なんだろう、大ふざけを真剣にやっている感じなんですが、それでいて、監督を今石(洋之)さん、シリーズ構成・脚本を中島(かずき)さん、キャラクターデザインをすしおさんが担当していて、アニメとしてのクオリティーがめちゃくちゃ高い。ストーリーもふざけた部分もありつつ、最終的に哲学なんです。「服を着るってどういうことなんだろう」っていう。だから今回は「グレイト」での販売は絶対にやりたかったんです。

WWD:販売方法としては、2月22日11時から「グレイト」の店頭で販売して、23日10時から「グレイト」のオンラインで販売、24日12時から「ギークス ルール」のオンラインで抽選販売を行うと?

直井:そうですね。ただ、この“Vol.3”のデザインのTシャツだけは「ギークス ルール」のオンライン限定で販売します。

若林:「キルラキル」は特に北米のファンが多いタイトルなので、海外のファンの方々にはオンラインで手に入れてほしいですね。

畠中:そういや何で北米でも人気があるんですかね?

若林:すごくマニアックな話になっちゃうんですけど、「TRIGGER」が立ち上がったのがちょうどアメリカで日本のアニメが本当に盛り上がり始めたタイミングだったんです。僕らが「GAINAX(ガイナックス)」を出て「TRIGGER」を作って、これから海外でもアニメを盛り上げるぞっていうタイミングで世に出したのがこの「キルラキル」でした。もともと同じ監督と脚本家のチームで制作した「天元突破グレンラガン」という作品が北米ですごく人気あって。それと同じチームが新しいスタジオで新しいアニメを作るっていうので、海外でも注目を浴びていました。今って基本的にアニメ制作はデジタルでの作業がメインなんですけど「キルラキル」はアニメーション作画も背景美術も手描きにこだわっていたんです。キャラクターやストーリーは昭和の少年漫画のカルチャーが入っていたりしてレトロな雰囲気がありつつ、映像自体は当時の最新技術でカッコいいアニメーションが見れる。だから、当時海外のアニメファンからは「これまで見たことないジャンルのアニメだ!」とよく言われてましたね。

「ギークス ルール」は“技術オタク”

WWD:「グレイト」で、アニメTを売る時のお客さんの反応はどんな感じなんですか。

高橋:「ギークス ルール」と一緒に仕事させていただくことで、普段うちで取り扱っているブランドを着ながら、アニメTも着るっていう感じで、ファッションとしてアニメTを着る人が増えましたね。「ギークス ルール」とは最初の「新世紀エヴァンゲリオン」の時から一緒に取り組みをさせてもらっていますが、やる度に反響があって、すごい人気です。

直井:本当にアニメTシャツって、イラストの破壊力がすごくて、それをかっこよく仕上げるって難しいんだよね。でも、それをやっているのが「ギークス ルール」で。「ギークス ルール」は90年代とかの海外のブートの雰囲気を、日本の技術で忠実に表現している。しかも15版も重ねていて、普通汗かいたらベタってなっちゃうんですけど、「ギークス ルール」は重くなくてベタってしないんですよ。それでいて、絶妙な色もしっかりと表現していて、人気の秘訣は技術力なんだと思う。

畠中:本当にチャマさんの言う通りで。「ギークス ルール」の「ギークス」ってみんな「アニメオタク」の意味だと思っているんですけど、実は「技術オタク」の意味でつけたんです。かなり技術にこだわっているので、そこに注目してもらえたのはめちゃくちゃありがたいです。

直井:いつも「ギークス ルール」のTシャツを見て、これはどうやって作ってるんだろう、とずっと思っていて。自分たちでもやろうとしたけど、元のグラフィックのデータを作る時点で印刷のことまで考えて作らないと同じようにはできなくて。それをするにはいろんなことを考慮しながらやらないといけなくて、簡単にはできない。だから実はめちゃくちゃすごいことをやっているんです。本当に今回のプロジェクトに関わっているのは全員、それぞれの業種のオタクなんですよ。まだ「ギークス ルール」のアイテムを見たことない人は、ぜひ「グレイト」の店頭でその技術力を見てみてほしい。

WWD:最後に、今後もこのプロジェクトは継続的にやっていくんですか?

直井:確約はできないんですけど、やりたいことはいろいろあるんで、楽しみにしておいてくださいって感じです。

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EC拡大で注目度急上昇の「返品DX」、損保ジャパンが外資と組んで本格参入へ

顧客体験の向上により業績を伸ばそうとする企業が増える中、ECの返品にまつわる顧客体験の向上で売り上げ・収益の伸長を支援しようという新しい返品DXサービスが登場した。損保ジャパンが日本エマージェンシーアシスタンス(EAJ)と協業して提供する「リターンプラス(Return+)」だ。

「返品DX」が注目されるワケ

このサービスの最大の特徴は、EC事業者側が負担する返品送料のコストキャップ保証だ。返品をフリー(無料)にする場合、返品率の上昇に伴うコスト増が企業にとって重荷になりがちだ。「リターンプラス」では事前に返品率を予測し、万が一、予測を上回る返品送料負担が発生した場合でも、企業は安心して返品無料化策を導入できることになる。購入者にはECでの購入ハードルを下げ、サイズやイメージが合わなければ返品できるという安心感を、EC事業者にはコストの上振れリスクを回避しながら売り上げ向上や利用者拡大を目指せるという安心感を提供する。

2つ目の特徴は、米国発の返品プラットフォーム「ナーバー(Narvar)」との連携によるユーザーが直感的に操作できる専用の返品用ページと管理システムだ。返品ポリシーの事前設定により、カスタマーサポート部門による顧客対応や返品情報の記入が原則不要になり、売り上げ拡大に比例して増大しがちな人件費やコストを抑制することができるようになる。返品理由の項目を設定することで、マーケティングやモノ作りにも活用できることになる。

3つ目は物流会社と連携して静脈物流網を整備し、お客さまが自身の都合に応じて自宅引き取りやコンビニ持ち込みなど返品手段を選ぶことを可能にしている点だ。事業者は自社で手配する必要がなく、返品先も倉庫、オフィス、店舗などにカスタマイズ設定できるため、コストも時間も削減につなげることが可能になるという。

それにしてもなぜ異業種である損保ジャパンがファッションECを中心とした返品フリーのサービスを開発したのか。その背景や期待される効果などを、損保ジャパンの情報通信産業部開発課で新規事業を担当する曽我純也課長と川上美咲氏、山﨑貴弘氏の3人に聞いた。

3人の担当者が語る、損保ジャパンが「返品DX」に参入する理由

――なぜ損害保険会社がファッション業界のECに着目してサービスを開発することになったのか?

川上美咲(以下、川上):世界でEC市場が年々成長を続けるなかで、国内で特に右肩上がりの高い伸びで拡大しているマーケットがアパレル小売り市場だった。しかもアパレルECにおける物流費のシェアが大きいことに着目。発展を支援できるような商品・サービスの提供ができないかと4 年前から検討してきた。ECの最大の課題は購入前に商品を試すことができないこと。しかも返品の手続きが煩雑であることがECでの買い物を阻害する要因の一つになっていた。EC 化率の高いアメリカや英国ではすでに返品しやすいソリューションが普及し、返品周りの顧客体験の向上が業界や経営のテーマにも上がって来ていた。その流れを鑑みて、日本でも返品関連のソリューションのニーズが高まると考え、昨年8月に「リターンプラス」を発表した。

――損保ジャパンとNarvar、EAJの各々の役割は?

曽我純也課長(以下、曽我):カスタマーサポートに強みがあるEAJが、「リターンプラス」のサービス提供者、事業主体としてEC事業者に返品送料のコストキャップ保証を提供し、損保ジャパンは「リターンプラス」を運営する事業者のビジネスを支援する損害保険を提供する。商品購入後の顧客体験に焦点を当てたポストパーチェス改善のリーディングカンパニーである米国発のナーバーがシステム周り、返品のオンライン化、自動化を担当し、商品購入者が円滑に返品ができるインターフェイスを提供する。グローバルでの導入実績も豊富で、さまざまな環境でECサイトを構築され、システム連携などつなぎの部分でも柔軟に対応いただけ、日本でも安心して多くの事業者にサービスをお届けできることになる。EAJはこれらのナーバーが提供する返品UI、物流、返品送料のコストキャップ保証、カスタマーサポートまでワンパッケージで提供していくことになる。

返品をポジティブに
返品送料無料で顧客満足度を高める

――あらためて、「リターンプラス」のサービスの特徴と、導入した場合、どのようなメリットが創出されるのか?

川上:最大の特徴は「返品送料のコストキャップ保証」にある。返品フリーにした際に返品数や返品コストがどの程度増えるか予測しにくく、上振れするのが不安だという事業者も多い。予算超過のリスクを軽減するための保険サービスとして、企業やブランドごとに返品送料コストキャップ保証サービスを提供していく。

繰り返しになるが、ECの課題は試着できないこと。購入前に買ったり触ったりサイズを確認したことがないものは購入しずらい。とくに買ったことのないお店では躊躇しがちだ。そのうえ、返品に送料がかかる、返品手続きがわかりづらい、といったことがあればなおさらネックになる。返品をフリー(無料)にして、購入者が5ステップで返品の配送手配までシステムで完了できるようにして返品にまつわる顧客体験を改善することで、購入のハードルを下げ、コンバージョンレートを上げ、まとめ買いも誘発し、売り上げアップに寄与できる。平均単価が1万5000円前後のアパレルブランドと行った「返品フリー・自宅で試着キャンペーン」では、売上高が対前年同期比で23%増、コンバージョン率は16%増など、あらゆる指標で効果が確認できました。購入者へのインタビューやアンケートでも、80%のお客さまが返品無料が購買意欲向上につながったと回答。いつもより高い商品の購入や複数の商品購入につながったというコメントもあり、手応えを感じた。キャンペーンだけ、あるいは、優良顧客や会員ランクの上位の方向けのロイヤリティプログラムのメニューとしても活用いただき、LTV(ライフタイムバリュー)を高める施策としても有意義だと思う。

――「リターンプラス」を導入すると返品が増え、コストも上がりそうだが、コスト削減にもつながるという理由は?

山﨑貴弘(山﨑):返品ソリューションを導入する企業が増えつつあるが、今でも返品を電話で受けたり、問い合わせフォームに対応したり、商品に同封した返品用紙の内容を改めて手入力するなど、人手に頼っている企業が多いと聞く。これでは売り上げが上がれば上がるほどコストが増大し続けてしまう。返品をオンライン化・自動化するとともに迷いにくいUIにすることで、問い合わせを極力減し、省力化・省人化することで返品サポートコストが削減できる。また、オンライン化によるデータ連携で、いつ、どこに、どれくらい返品が戻ってくるのかを踏まえてタイムリーに検品・加工し、美品は再販し、それ以外はアウトレットに送るなど、返品在庫のスムーズな運用にもつながる。

――返品をマーケティングにどのように生かしていくことを提案しているのか?

山﨑:ここも非常に重要なポイントだ。商品購入後にお客さまがご意見やご不満などをお持ちだったとしても黙認されがちだ。ストレスのない返品体験によって返品理由を企業にフィードバックしやすくし、商品やサービスの改善に生かし、今後の成長に役立ててもらいたい。また、返品後の確認メールやメッセージの開封率は非常に高い。これをマーケティングや顧客接点の機会ととらえ、代替商品やオススメ商品を提案したり、新たな情報発信も行うことができる。返品先を店舗に設定することで、来店動機につなげることも可能だろう。

また、アパレルの大きな課題が廃棄の削減だ。返品理由を明確化してマーケティングやモノ作りに生かせたら、大量生産・大量消費から脱却して本当に必要なものだけを作ることや、自分たちのブランドを好きで愛してくれる人たちの期待に応え続けることで、ロイヤリティの向上やサステナビリティにもつなげてほしい。返品フリーにすることで、ニーズにフィットした愛着が持てる商品を長く着用してもらえたり、連携先のリバースロジスティクスを活用することでCO2の抑制などにもつながるはずだ。

――今後の導入予定や、推奨ジャンル等は?

曽我:百貨店やアパレル、郊外型チェーンストアやD2Cのインナー企業などと話を進めているところで、本格導入はこれからだ。サイズやフィット感、素材感、コーディネートなどを試着して確かめたいシューズや布帛のシャツやワンピース、ジャケット、コートやデザイン性の高いアイテム、D2Cブランド、価格帯で言うと中価格帯以上の単価の商品を扱うブランドやストアとの相性が良さそうだ。返品はコストという意識から、良い返品体験が売り上げ、収益、ロイヤリティ向上につながると認識が変わり、実感する企業やブランドが増えてほしい。とくに、店舗だけ、ECだけの利用ではなく、両方を利用いただくことで、1人の方の年間買上げ額が3倍近くなるというデータがあるように、OMO(オンラインとオフラインの融合)やユニファイドコマースを進める中で、返品体験は売上げ、ロイヤリティ、LTVなどを伸ばすうえで重要な役割を果たせると思う。

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10年で老舗薬局が世界的ブランドに LVMH傘下「ビュリー」ディレクターに聞くブランディングの極意

PROFILE: オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」ブランドディレクター

オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」ブランドディレクター
PROFILE: パリのセレクトショップ「コレット」でプレスを担当後、ビューティーマガジン「コルピュス」を創刊。夫ラムダン・トゥアミとパリ初のビューティーコンセプトショップ「パルフュムリー・ジェネラル」を創業。長年独学で研究してきた植物由来の美容に関する知見を活かし、2014年「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」を復活。ブランドディレクターとして活躍しながら、世界各地の美容の歴史のスペシャリストとして、世界の自然派美容法の研究に取り組む PHOTO:SHUHEI SHINE

フランス発「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー(OFFICINE UNIVERSELLE BULY)」(以下、ビュリー)のブランドディレクターを務めるヴィクトワール・ドゥ・タイヤック(Victoire de Taillac)が来日した。同ブランドは、1803年に調香師だったクロード・ビュリー(Claude Bully)と息子のジャン・ヴァンサン・ビュリー(Jean Vincent Bully)が“オフィシーヌ(総合美容専門店)”としてパリで創業。アートディレクターで夫であるラムダン・トゥアミ(Ramdan Touhami)とタイヤック2人で2014年に同ブランドを復活し、仏19世紀の世界観を反映したフレグランスやスキンケア、美容雑貨を販売している。21年にはLVMHグループ傘下に入り、世界12カ国、51店を展開。日本には17年、代官山に出店後、現在、直営店20店舗を運営している。独自の世界観が反映された商品や店舗、サービスで世界的に大成功を収めている。のパリジェンヌの19世紀の美容法を綴った新著「美しくある秘訣」の発表イベントのために来日したタイヤックに成功の極意について聞いた。

美意識を通して届ける“美と機能性”ある製品

WWD:「ビュリー」を復活する際、大切にしたことは?

ヴィクトワール・ドゥ・タイヤック「オフィシーヌ・ユニヴェルセル・ビュリー」ブランドディレクター(以下、タイヤック):夫のラムダンと19世紀のアーカイブや歴史を見て、“美と機能性”が融合した「ビュリー」こそ、私たちの暮らしにほしいブランドだと実感した。小さいチームでの復活は大変だったが、簡素化はせずに、製品展開から店舗作りまで一切妥協せずに世界観にこだわった。ラッピングやカリグラフィーなど、(接客に)時間がかかることにもこだわったのが成功の秘訣だと思う。

WWD:「ビュリー」のブランド哲学は?

タイヤック:歴史のあるライフスタイルブランドで、洗練され、調和に満ちた自然美容法の知識を分かち合うのが目的。製品をはじめ、店舗やスタッフの立ち振る舞い全てにブランドの美意識を反映している。ショップでも自宅で製品を手に取るときも、それを感じてほしいから。

新商品はアイデアから湧き出るものであるべき

WWD:「ビュリー」の商品開発は?どのように当時の処方を現代の製品に置き換えている?

タイヤック:商品数は800点以上。櫛だけでも200点以上ある。毎年新商品を出すわけではない。新商品はアイデアありき、ラムダンと2人で「これがあったらいいね、素敵だね」という日々の会話の中から湧き出るものだと考えている。それが結果として商品になる。「ビュリー」は19世紀にインスパイアされているが、当時の処方は使えない。だから、“レトロフューチャリズム”をキーワードに、昔からある処方と今の技術を掛け合わせた新しい製品を打ち出している。水性香水はその代表的な例。フレグランスマッチやカーフレグランスは、全く新しいアイデアから。

WWD:カリグラフィーのサービスが人気だが?

タイヤック:カリグラフィーは、古い手書きの領収書が着想源。資料で見つけてとても素敵だと思った。カリグラフィーは人によるが、習得するには3カ月〜上達に1年と時間がかかり、日々の練習が必要だ。サービスとしてカリグラフィーを採用するのはチャレンジングだと思ったが、今では、300人以上のスタッフ全てが習得。とても誇らしく思う。ショッピングをはじめ、全てが時間との戦いで効率が優先される時代だ。こんな時代だからこそ、ゆっくり時間が流れるカリグラフィーに専念することは販売員にとって大切なこと。その優雅な時間の流れをお客さまにも感じてもらえれば、嬉しい。カリグラフィーは販売員の大切なスキルの一つであり、お客さまとの関係性を築く鍵にもなっている。

自由なクリエイティビティーと最高のリテール体験の融合

WWD:「ビュリー」2014年に創業して21年にはLVMHの傘下に入った。その効果は?

タイヤック:他のブランドにはない特別の世界観がその大きな理由だ。全ての人に受け入れられるとは思っていないが、「ビュリー」の世界観を作り出すわれわれの熱量は相当なもので、全てを注ぎ込んでいる。ラムダンも私も会社を始めたときはフリーランスだったが、今は、ラグジュアリーを代表するLVMH傘下で、彼らの視点を通して「ビュリー」を知ることができ、学ぶことも多い。「ビュリー」の哲学を貫きつつ、LVMHの優れた点を取り入れながら、両者にとっていい方法を導き出している。自由なクリエイティビティーと最高のリテール体験の融合を可能にしている。

WWD:短期間でブランディングを成功させる秘訣は?

タイヤック:ブランディングは愛そのもの。美的感覚を大切にし、発想から生まれた製品を生み出すのが大切だ。アイデンティティーは製品や店舗をはじめ、スタッフのユニフォームや接客全てに現れるべきだと考える。

WWD:今後、どのように「ビュリー」を育てていきたいか?

タイヤック:パリに5店舗目をオープンするし、今後も出店は継続する。3年以内に、「ビュリー」としてウェルビーイングを体験する場を作りたい。「オテル・ドゥ・クリヨン(HOTEL DE CRILLON)」にアメニティーを提供しているし、オリエント急行とも協業している。日本の飲食店ともソープディスペンサーなどによりアメニティー事業を広げていきたい。

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藤原ヒロシが見たナイキの反骨精神 “エア ジョーダン 1”が40周年イベント開催

ナイキ(NIKE)の「ジョーダン ブランド(JORDAN BRAND)」は2月12日、“エア ジョーダン 1(AIR JORDAN 1)”の40周年を記念した関係者向けイベントを開催した。

テーマは「UNBANNABLE(禁止できない)」。この言葉は、1985年当時のNBAが定めた「白の面積が一定以上あるシューズを着用する」というルールに反し、マイケル・ジョーダン(Michael Jordan)が“エア ジョーダン 1”を履くたびに毎試合5000ドルの罰金を科された出来事に由来している。しかし、当時のナイキはこの状況を逆手に取り、「NBAはジョーダンにシューズの着用を禁止したが、君たちが履くことを禁止できない」という印象的なCMを放映。これが単なる広告ではなく、自由と個性を象徴するメッセージとして世界中のファンの心をつかむ。その背景から、この黒と赤のシューズは「BANNED(禁止された)」という愛称で知られるようになった。

東京・原宿の一角には、「ノーマリズムテキスタイル(NOMARHYTHM TEXTILE)」による布で覆われた特設会場が突如として姿を表した。左上には”ジャンプマン”のロゴ。赤、黒、白のテキスタイルは、「BANNED」のカラーリングだ。

当日は、ブランドと縁の深い藤原ヒロシに加え、イベントのパートナーである「ノーマリズムテキスタイル」の野口真彩子デザイナーと佐々木拓真デザイナーが登壇。「ジョーダン ブランド」が歩んできた歴史を振り返りながら語り合うパネルトークが行われた。パネルトークの一部を抜粋する。

──1985年当時の“ジョーダン1”のエピソード。

藤原ヒロシ(以下、藤原):僕が最初に“ジョーダン1”を知ったのは、LL・クール・J(LL Cool J)というラッパーがきっかけでした。その少し前にラン・ディーエムシー(Run-D.M.C.)がはやっていて、彼らは『マイ・アディダス』という楽曲でも知られるように、『アディダス(ADIDAS)』をメインに履いていましたよね。でも、LL・クール・Jが履いていたのは“ジョーダン1”だった。その頃、僕はスケートボードにハマっていて、周りのスケーターの子たちがみんな“ジョーダン1”を履いていたんですよ。スケシンとか、友人たちに教えてもらって、僕も履くようになりました。最初はアメ横で白ベースのものを買いました。白ベースしか売ってなかったんです。でも原宿のビームスには”青黒”が売っていて、それも買ったのを覚えています。

──当時のファッション、音楽、スポーツはどうリンクしていたか。

藤原:当時は音楽とスニーカーが、そこまでリンクしていなかったかもしれないですね。僕は中学のときバスケ部で、バスケットシューズを履いていたんですけど、バスケットシューズって、その前まで「コンバース」みたいな形ばかりでした。ちょうど(アディダスの)“スーパースター”が発売になって、それでも結構斬新な形だったんですが、“ジョーダン1”は全く違う形でした。

──“ジョーダン”シリーズが存在しなかった場合のスニーカーカルチャーとは。

藤原:わからないです。他の人が同じようなものを作っていたかもしれないし。

──「ナイキ」とのコラボレーションはどのように始まったか。

藤原:最初はおそらく、“エアマックス”が異常にはやっていて、ファッションにもリーチできるんじゃないかという流れになったんだと思います。僕はナイキジャパンの方から誘われて、ちょっと手伝ったりしていたんですけど、本社からマーク(・パーカー)たちが日本に来て、いろいろ話をしたのがきっかけだったと思います。でもその頃は、95年に発売されたモデルの色を変えて翌年出すとか、そういうことが中心でした。そこから徐々にコラボレーションという形になっていきました。90年代後半か2000年頃ですね。

──今履いている「フラグメントデザイン(FRAGMENT DESIGN)」とコラボした“ジョーダン1”のエピソード。

藤原:“ジョーダン1”だけは誰も触れないみたいな噂があったんです。それで「“ジョーダン1”ってできるの?」みたいな話から始まったのはなんとなく覚えています。デザイン案はいろいろあったんですが、この“ブラックトゥ”がミステリアスな靴だったんですよ。市販されていたのはレッドだったんですが、サンプルだったのか、(マイケル・)ジョーダンしか履いてなかったのか真実はわからない。それで、そのストーリーを真似して、“ブラックトゥ”にブルーも存在したっていう嘘のストーリーを作ろうとしたんです。ポスターのデザインもして、実は誰も知らないけど、ブルーがあったっていう都市伝説みたいなものを作って発売したかったんですけど、もちろん「ナイキ」からはNGが出て、スニーカーだけ発売になりました。

──「ノーマリズムテキスタイル」のコラボレーションについて。

野口真彩子「ノーマリズムテキスタイル」デザイナー(以下、野口):私たちがブランドをスタートしたときは、コラボレーションが非常に多く、まさに蔓延しているような状況でした。そんな中、佐々木(拓真デザイナー)と2人で「ブランドとしての基盤ができるまで、10年間はコラボレーションをしないで頑張ろう」と。しっかりと自立した上で、対等な立場でコラボレーションができるようになるのが理想だったんです。実際に初めてコラボレーションをしたのは、それから13年後のことでした。だから藤原さんが初めて事務所にいらした際に、洋服を見て「何年やられているんですか?」と聞かれ、「(当時)もうすぐ10年になります」と答えたら、「どこにいたんですか?」と驚かれたのを覚えています。

藤原:ベテランの感覚があるんだけど、無名だったので。

野口:それぐらいひっそりとやっていて、今20年目。最初に「ニードルズ(NEEDLES)」、次に「ステューシー(STUSSY)」、「エンジニアドガーメンツ(ENGINEERED GARMENTS)」と、少しずつコラボレーションさせていただいています。

──「フラグメントデザイン」のコラボレーションについて。

藤原:僕は1999年にお店をやめて、そのときに自分の会社で生産能力を持つのをやめようと思ったんです。在庫を持つことも大変だし、人が増えるのも大変だから。だから僕は一切作らないけど、人のところで作らせてもらうっていう、ローリスクローリターンです。

野口:それすごいですよね。ゲームチェンジャーっていうか、今までと違う考え方。今は、この考え方を真似しようとしている人たちがいっぱいいると思いますけど。

藤原:大きくなっていくのが怖かった。

──フラットな目線の養い方。

藤原:元からじゃないですか?そういう時代だったので。

野口:(今着ている)このTシャツ、ちょっと自慢なんですが、藤原さんが3歳の時の写真なんです。

藤原:ちょっと前に代官山 蔦屋書店でお茶をしているときに雑誌のバックナンバーを読んでいて、「ホットドッグプレス」に僕の幼少期の写真があったんです。それをTシャツにしたいと言われて、断りきれずつい「いいですよ」と言った結果……。何が言いたいかというと、こういう感じで育ったので、ハイエンドなんてない時代なんですよ。ラグジュアリーブランドなんてなかったし、普通に田舎で育ったので、駄菓子屋にもよく通っていました。だからそういうものが今でも好きなんじゃないですかね。

野口:Tシャツには藤原さんの名前が入っていないんです。だから言われないと絶対にわからない。でもそこがやっぱり藤原さんのすごく面白いところで、「言う必要ないよね」って。人づてに伝わっていって、数年後に“あれ”ってなるのが一番面白いって。これはまだサンプルで、近々発売します。

藤原:“ジョーダン”のリバイバルもそういう感じだと思うんですよね。発売して何年も経ってからみんなが欲しがるみたいな。いまだにファーストを探していたりするじゃないですか。

──藤原ヒロシから見た「ノーマリズムテキスタイル」のクリエイション。

藤原:あんまり見たことがない(笑)。

野口:そんなに私たちのコレクションを見たことはないと思うんですけど、コレクションの音楽をお願いしたときに私たちから一言だけテーマを伝えただけなのに、数日後には完璧なものが上がってきた。だから私の中では相当、相性がいいんだと思っています。

藤原:僕は与えられた情報の中でやるだけなので。だからどのブランドも追いかけているわけではなく、普段から展示会とかにも行かない。フラッと立ち寄った伊勢丹とか、海外のお店とかのラックにあるものを見る程度なんです。

──既成概念やルールを破る、チャレンジ精神について。

藤原:僕はめちゃめちゃルール内でやるタイプです。ルールがある中で、そのルールをちょっと超えるぐらいが好きなんです。僕らの年代だと、いわゆるヤンキー文化の全盛期なので、まだ中学生なのにもう車に乗っているみたいな。でも僕はそういうルールの破り方はしない。ちゃんとルールの中で、ここだけはやりたいというのがある。制服は決まっているけど、丈の長さをちょっと変えるとか裏地を変えるとか、そういう”抵抗”。でも多分、ジョーダンが黒いシューズを履いたっていうのもそういうことですよね。そのルールを破るのが面白い。

──85年と現在のファッションシーンで変わった点、変わっていない点。

藤原:めちゃめちゃ変わっていると思う。一番大きいのは、90年代以降にヨーロッパのカバン屋さん(今のラグジュアリーブランド)が洋服を作るようになったことじゃないですか。ラグジュアリーブランドなんてなかったから。それからファッションはすごく変わったと思う。当時は、“ストリート”というものもなかった。ちょうどヒップホップとスケボー文化みたいなのが融合し始めた頃ですかね。80年代は全体的にスケートボードをやっている人たちは、スラッシュメタルとかを聴いていて、ヒップホップは聴いていなかったから。東(海岸)と西(海岸)の違いもあるのかもしれないけど。

──ストリートファッションの未来。

藤原:みんなが想像していないような格好になっているんじゃないですか。すでに僕らが思うストリートみたいなものとは全然違う、フレアデニムみたいな、そういう感じになっているから。

野口:82年に初めてロンドンに行かれたときと、その後すぐにニューヨークに行かれたときは、街でファッションは違いました?

藤原:全く違いました。東京が一番おしゃれ。当時、海外から来た人たちは原宿や渋谷に来て、みんなびっくりしていたと思います。

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人気のジンジャー・ルート ビートルズから中森明菜まで、音楽遍歴を語る

PROFILE: ジンジャー・ルート(Ginger Root)

PROFILE: 南カリフォルニア出身のマルチインストゥルメンタリスト、プロデューサー、ソングライター、ビジュアル・アーティストであるキャメロン・ルーのプロジェクト。自らが「Aggressive Elevator Soul(アグレッシブ・エレベーター・ソウル)」と呼ぶ作品を2017年に初めてリリースして以来、ハンドメイドでありながら洗練されたシンセ・ポップ、オルタナティブ・ディスコ、ブギー、ソウルを作り続けている。24年9月にサード・アルバム「SHINBANGUMI」をリリース。25年1月には日本ツアーを開催した。

アメリカのオレンジ・カウンティ出身のジンジャー・ルート(Ginger Root)ことキャメロン・ルー(Cameron Lew)は、シティ・ポップをはじめとした日本の音楽に対する並々ならぬ造詣の深さを発揮した作品群で、ここ日本でも瞬く間に脚光を浴びた音楽家だ。しかも、彼の日本文化への愛情とこだわりはそのサウンドだけに留まらず、自ら制作/編集するミュージック・ビデオやアートワークに至るまで、あらゆる面で徹底的に突き詰められていることが人々を驚かせた。

シティポップへの愛情が詰まったEP「City Slicker」(2021年)、日本の歌謡曲やアイドルポップへのトリビュートでもあるEP「Nisemono」(22年)は、そんな彼の人気を決定づけた作品。そして2024年9月にリリースされた最新作「SHINBANGUMI」は、多様な日本の音楽からの影響と、日本の音楽を発見する以前から彼が聴いていたニューウェイヴやソウル・ミュージックなどの影響を統合し、初めてジンジャー・ルートというアーティストの全体像を浮かび上がらせてみせた会心作だ。

ただ日本でのインタビューでは、日本の音楽への愛情が詳しく語られることはあっても、それ以前から好きだった音楽について詳細に語られたものは少ない。そこで今回は、「SHINBANGUMI」をより深く理解するために、彼の人生に大きな影響を与えてきた音楽について、全方位的に話を聞いた。

なお、この取材は日本ツアーの最終日、ライブ開催直前の楽屋にて行われた。キャメロンは慌ただしい中でも快く、流暢な日本語でインタビューに応じてくれた。

初めて夢中になったのはビートルズ

——今日はジャパン・ツアーの最終日ですね。今回のツアーの手応えはいかがですか?

ジンジャー・ルート:大阪のステージでも言ったんですけど、2023年の初めての日本ツアーのときは緊張感とかプレッシャーもあって、あまりちゃんと楽しめなかった感じがするんです。でも今回は落ち着いてできたので、めちゃくちゃよかったですね。

——日本の都市を幾つかライブで回ってみて、特に印象深かった場所はありますか?

ジンジャー・ルート:多分、大阪と東京かな。それぞれのスタイルの違いか分からないですけど、大阪のお客さんはめちゃくちゃ盛り上がってて。でもなんか、東京の皆さんは雰囲気がとても良かったです。

——今晩のライブ、楽しみにしていますね。では、最新作の「SHINBANGUMI」についてはリリース時にたくさん取材を受けていると思うので、今回はこれまでのあなたの人生に重要な影響を与えてきた音楽やそれについてのエピソードを聞かせてもらいたいと思います。

ジンジャー・ルート:はい、分かりました。

——それでは、まずキャメロンさんが一番最初に夢中になった音楽を教えてもらえますか?

ジンジャー・ルート:高校時代に軽音楽部みたいなクラブがあったんです。そのクラブの先生たちが60'sとか70'sとかのアメリカの音楽を紹介してくれて。ビートルズとか、エレクトリック・ライト・オーケストラとか、XTCとか。そのときに、音楽を聴くこと、自分でソングライティングをすること、映像を作ること、その全部に興味を持ったんです。でも音楽で言ったら、やっぱり最初はビートルズかな。初めて夢中になったバンドですね。

——僕は「SHINBANGUMI」を聴いたとき、最初に思い浮かべたのがポール・マッカートニーでした。

ジンジャー・ルート:ありがとうございます。

——ビートルズ、もしくはビートルズ関連の作品で特に好きなもの、影響を受けたものを挙げるとすると?

ジンジャー・ルート:やっぱりポール・マッカートニーは一番好きなビートルズのメンバーで、特に「マッカートニーII」にはすごく影響されましたね。なんでかというと、「マッカートニーII」と「マッカートニーIII」は、ポール・マッカートニーさんが全部一人でやっているんですよね。ミックスとか、ソングライティングとか、楽器演奏とか。だから、ちょっと自分も似てるなと思ってて。彼の作品には遊び心が感じられますけど、それもジンジャー・ルートの作品には全部入っていると思いますし。影響を受けているんだなって思いますね。

——ジンジャー・ルートは、基本的にキャメロンさんが曲作りから演奏、映像制作まで全部1人でやっていますが、そういったスタイルはどのように確立されたのですか?

ジンジャー・ルート:僕が育った場所、カルフォニアのオレンジ・カウンティは音楽シーンがあまりなかったんです。軽音楽部ではいろんなミュージシャンの友達ができたんですけど、自分の曲を聴かせて、「ちょっとお願い、手伝ってくれない?」みたいなことを言うのが恥ずかしくて。だから、全部1人でやった方がいいんじゃないかなって。僕はプチ陰キャだから。

——(笑)。

ジンジャー・ルート:1人の方が好きだし、1人の方がめちゃくちゃ楽なんで。軽音楽部では、同級生と近所のバーとかでビートルズのカバーをしたりしていましたけどね。そのときも自分で音楽をちょっと書いていましたが、それはバンドっていう形じゃなかったんで。

ソウル・ミュージックからの影響

——ジンジャー・ルートの作品にはソウル・ミュージックの影響が通底していると思いますが、ソウルに夢中になるきっかけを与えてくれた音楽は?

ジンジャー・ルート:高校生のときに、アメリカ音楽史の授業っていうほどではないんですけど、先生たちが聴いている曲を「これいいから聴いてみなよ」っていう感じで勧めてくれる授業があって。ソウル・ミュージックでいえば、そのときに好きになったのがスティーヴィー・ワンダーです。

——どのアルバムが一番好きですか?

ジンジャー・ルート:いやあ……自分的にはスティーヴィー・ワンダーはアルバム・アーティストじゃなくて、個々の曲がめちゃくちゃ好きなんですよね。悪く言うつもりは全然ないんですけど、アルバムはダブル・アルバムだったりして、長いから(笑)。でも曲はめちゃくちゃいい。特に好きなのは「Do I Do」「Isn’t She Lovely」「Sir Duke」「As」とかで。やっぱりスティーヴィー・ワンダーの曲からは愛を感じますよね。どの曲もスティーヴィー・ワンダーの気持ちがちゃんと入っているっていうか。全力が注がれている感じがするんですよ。

——ビートルズとかソウル・ミュージック以外で、高校の先生から教えてもらったものってあるんですか?

ジンジャー・ルート:ディーヴォとかB-52’s(ビー・フィフティートゥーズ)みたいなニュー・ウェイヴとか、キャロル・キングとかのシンガーソングライターだったり、スティーリー・ダンなんかもそうですね。軽音楽部では、生徒たちがみんな、自分の好きな音楽を互いに持ち寄って、教え合ったりもしていたんです。だから、同級生の友達からも、いい音楽をいろいろ教えてもらっていましたね。

——今ツアーを一緒にやってるバンドのメンバーって、高校時代からの友達ですよね? それって、軽音楽部の友達っていうことですか?

ジンジャー・ルート:はい、軽音楽部の友達です。(今回の日本ツアーの)PAさんも、ビデオの担当も、みんなそうで。年齢はちょっと違ったりするんですけど。例えばドラムとベースは、僕とは先輩、後輩の関係でしたけど、バンドを組んで、今ではもう普通に友達になりました。映像の担当は先輩でしたが、やっぱりもう普通に友達になっていて。大切な仲間たちですね。

——そんな仲間に出会えたなんて、最高の軽音楽部ですね。

ジンジャー・ルート:めっちゃくちゃラッキーでした。こういうのって、なかなかないですよね。

もともとは映像作家になりたかった

——高校生のころから映像制作にも興味があったということでしたが、映像制作に興味を持ったきっかけというのは?

ジンジャー・ルート:中学生のとき、YouTubeがはやっていたんで、YouTuberになりたかったんですよ。その前も、お父さんのミニDVカメラでちょっと遊んでいたり。レゴとかトミカを使って、自分の映画を作っていて。それで、編集にも興味が湧いてきたので、自分のパソコンを買って、勉強したりして。高校生のときも、キッズ・ニュースみたいな映像を流す放送部があったんで、軽音楽部のほかに、それにも入って活動していました。

——影響を受けた映像作家とか映画監督を挙げるとすると?

ジンジャー・ルート:ウェス・アンダーソンが結構好きで。彼に関しても、やっぱり遊び心が感じられるところが好きですね。映像もカラフルだし。

——ウェス・アンダーソンの影響っていうのは、自分が作っているミュージック・ビデオとか、ジンジャー・ルート関連の映像にも影響を与えていると思いますか?

ジンジャー・ルート:そうですね、ウェス・アンダーソンの影響は多分ある気がします。でも僕の場合は少し変わっていて、映画監督とかってあまり詳しくないんです。なんでかというと、僕は大学生のときにフィルム・スクールで映像の勉強をしたんですが、それがめちゃくちゃ大変で、本当に時間がなかったんです。だから、自分の作品を作るのに手いっぱいで、他の人の映画はあまり観れなくて。

でも、映画じゃなくて、好きなバンドのミュージック・ビデオの影響はすごくあると思います。オーケーゴー(OK Go)とか、トロ・イ・モア(Toro y Moi)とか、テーム・インパラ(Tame Impala)とか。どれも面白いなって。そのバンドのメンバーがビデオの監督をしているわけじゃないですけど、ビデオを観ることで、もともと好きだったバンドがもっと好きになった感じがして。そういうのもあって、ジンジャー・ルートも音楽だけじゃなくて、映像とかビジュアル面にも力を入れると面白いんじゃないかなって思ったんですよ。

——大学で映像制作の学校に行っているときは、映像作家になりたかったのか、ミュージシャンになりたかったのか、どちらの気持ちが強かったんですか?

ジンジャー・ルート:最初は映像の編集者になりたかったんです。学校が結構大変だったから、音楽はストレス発散の場でした。いかにもアメリカっていう感じのホームパーティーで、リビングルームで演奏したこともありましたね。で、隣の家の人が「うるさい!」って警察を呼んだり。

——映画のワンシーンにありそうですね(笑)。

ジンジャー・ルート:そんなこともあったりして、音楽は自分にとっていい気分転換でした。ただやっぱり、音楽で食べていくのは大変で、フルタイムの仕事にはほぼならない。やっぱり映像の方が仕事になりそうだったので、大学在学中と卒業後のしばらくは、フリーランスで映像の編集の仕事をしていましたね。でも、大学を卒業してから1年後くらいに、一旦、音楽をフルタイムでやってみようって決めて。で、それが偶然うまくいったので、じゃあもうちょっと続けてみよう、ってなったんです。

——音楽をフルタイムでやっていけるという手応えを感じたのは、どんなときだったんですか?

ジンジャー・ルート:クルアンビンっていうバンドがいるんですけど、彼らのヨーロッパ・ツアーのオープニング・アクトとしてオファーが来たときですね。それは僕たちにとって初めてのちゃんとしたツアーで。自分の国じゃなくて、ヨーロッパに行って、5回もライブをやって。まだ僕たちも若かったので、今思えば何もできなかった感じですけど、すごく勉強になりました。ああ、バンドっていうのはこういうものなんだ、ライブっていうのはこういうものなんだ、って。

日本の音楽からの影響

——なるほど。初めて聴いた日本の音楽っていうのは、確かYMOですよね?

ジンジャー・ルート:そうですね。YouTubeで映像を見たのがきっかけで。「ソウルトレイン」っていうアメリカの番組で、彼らが「TIGHTEN UP」と「Fire cracker」を演奏している映像を見て、ハマりましたね。「何これ?!」って。

——では、YMO関連で一番好きな作品は?

ジンジャー・ルート:YMOは3人だけじゃなくてその周りのメンバーたち、矢野顕子さんとか、すごいミュージシャンがたくさんいますけど……でもやっぱり、(細野晴臣の)「HOSONO HOUSE」が一番好きなアルバムです。なんか日本のアーティストなのに、ちょっとアメリカっぽい雰囲気が感じられるところとか。「あ、その曲、聴いたことあるかも?」って思うけど、でも全然違う感じもあって。あのアルバムはめっちゃ好きで、本当に夢中になって、何回も何回も繰り返し聴きました。最高だなって。

——YMOにしろ、細野さんにしろ、もちろん山下達郎さんとかもそうですけど、みんなアメリカの音楽からすごく強い影響を受けつつ、独自の音楽を作っていますよね。アメリカ人のキャメロンさんからすると、彼らの音楽と、そのルーツのアメリカ音楽との一番の違いはどこに感じますか?

ジンジャー・ルート:初めて日本の音楽を聴いたときは、日本語が全然できなかったから、歌詞がまったく理解できなくて。でもメロディーがめっちゃ良くて、リズム感とかアレンジも素晴らしいし、声もひとつの楽器みたいな感じがして。ドラム、ベース、ギター、キーボード、声、みたいな感じで。歌詞の意味は分からなかったけど、声だけに集中して、いい響きだなって思ったんですよね。

——それは日本人が英語の曲を聴く感覚とかなり近いかもしれないですね。

ジンジャー・ルート:そうですよね。かもしれない。

——日本の音楽からの影響は、「Rikki」から少しずつ顕在化し始め、EPの「City Slicker」と「Nisemono」で全面的に開花した印象です。「City Slicker」ではいわゆるシティポップ、「Nisemono」では歌謡曲やアイドルポップを追求していましたが、それぞれのジャンルでもっともお気に入りの曲は?

ジンジャー・ルート:シティ・ポップで一番影響を受けた曲かあ。ちょっと定番なんですけど、海外でめちゃくちゃ人気の曲で、(秋元薫の)「Dress Down」と(竹内まりやの)「Plastic Love」、あと(中原めいこの)「Fantasy」とか。シティ・ポップはやっぱりアメリカやヨーロッパの音楽にめちゃくちゃ似てるから、それで好きになっちゃいました。

アイドルの曲だったら、(松田)聖子ちゃんの「青い珊瑚礁」か、(中森)明菜ちゃんの「スローモーション」。一番好きなアイドルの曲はその2曲ですね。アイドル文化っていうのはアメリカにはなかったので、それですごく興味が湧いて。「スローモーション」は、すごくパッションが込められていますよね。悲しさとかうれしさとか、全部の感情がそこにあることが明らかに感じられる。

歌謡曲だったら、一番好きなアーティストは岩崎宏美さんです。岩崎さんは、アレンジはちょっとだけアメリカの音楽に似ていて、ディスコとかファンクっぽさがある。だから好きなのかもしれないですね。

——僕なんかは、高校生のときにイギリスやアメリカの音楽を好きになったんですね。ただ当時は、自分の国の音楽より海の向こうの音楽の方が自分のものとして感じられることが悩ましくもあったんですよ。自分の生まれた国やルーツとは違うところに、よりアイデンティファイしてしまうから。そのような感覚っていうのは、キャメロンさんにはありましたか?

ジンジャー・ルート:それはちょっとだけ、あるかもしれない。でも僕は中国系のアメリカ人で、アメリカではアジア系はそれぞれの国ごとに見られるんじゃなくて、みんな一緒のアジア人みたいな扱いだったんです。日本人とか日系人とかも、みんな同じだった。だから、YMOとか日本人の音楽を聴いたとき、「アジア人でもそんな音楽ができるの?!」って共感したというか、自分もそういう音楽をやっていい、できるんだ、っていうアイデンティティーを見つけるきっかけになったんですよね。

——なるほど。

ジンジャー・ルート:やっぱり僕は日本人じゃないから、ちょっとだけ悩みというか、「僕って誰だっけ?」みたいな感じもあるんですけど。でもシティ・ポップを初めて聴いたとき、僕はまだ日本語ができなかったけど、そんなことは全然関係がなかった。「その音楽のことが好きなんだから、それで十分じゃない?」って自分に問いかけて、「確かにそうだよね、好きなものは好きだよね」って思えるようになって。

あと、オレンジ・カウンティにはアジア系の友達があんまりいなかったんです。だから、日本の音楽を聴いたときにすごく共感したというか、その世界に入りたいな、その音楽を作りたいなって思えて。で、僕の音楽的なルーツは70’sや80’sだし、YMOとか大貫(妙子)さんとか山下さんの曲もルーツはアメリカだから、「じゃあ、大体一緒じゃん。自分にもできるんだ」っていう感じでした。

「音楽をやっていけるんだ」って自信が持てた

——「SHINBANGUMI」は、日本の音楽からの影響と、それ以前から聴いていた音楽の影響を統合して、自分の音楽的アイデンティティーを改めて定義したアルバムですよね。この作品を出した今、自分らしさというものをどのように捉えていますか?

ジンジャー・ルート:細野さんとか、大貫さんとか、ポール・マッカートニーさんとか、ディーヴォとか、XTCとか、全部好きだから、それを全てミックスすることで自分らしさになると思うんです。自分が好きなもの全部に対する情熱を伝えたいっていうか。ジャンジャー・ルートの作品っていうのは楽しいものだから、その楽しさが(自分が作る音楽の中に)あったら信じると。

前に出したEPのときは、ジンジャー・ルートが何者なのか、自分でもまだよく分かっていなかったんです。シティ・ポップの曲を作りたいとは思っていましたけど、まだ100パーセント決められないっていうか。それでちょっと悩んでいて。ただEPはアルバムより短いから、あんまり幅の広さを伝えられなかったというのもあって。でもアルバムだと、この曲ではこれ、この曲ではこれ、とちょっとずつできる。それに、これは音楽だけの話じゃなくて、好きな映画とか、テレビ番組とか、服とか、食べ物とか、全部ミックスしたら、それが自分なんだ、って思えたんです。

——そういう意識が根底にあるからか、このアルバムはこれまで以上にキャメロンさんの自信が伝わってくるような感覚があります。

ジンジャー・ルート:自信っていうことでいうと、EPを出してからアルバムを作るまでの間に、いろんないい経験ができたので、多分その影響もあると思います。

——いい経験っていうのは、具体的には?

ジンジャー・ルート:ジンジャー・ルートで音楽をやっていけるんだ、自分が作る音楽を好きな人がいるんだ、って気づけたことですね。僕はいつも自分の部屋で音楽を作って、それをオンラインにアップしていた。でも、(ジンジャー・ルートの活動が本格化したのは)コロナの時期だったし、あまり目の前で反応を感じられる機会がなくて。ライブもできないし、ただSNSに投稿したりするだけで。SNSのコメントとかは読んでいましたけど、そこから温かみは感じられなくて。けど、だんだんツアーをする機会が増えて、人前に立って、(オーディエンスが)僕の歌詞を一緒に歌っている風景を見て、「この世界にジンジャー・ルートの音楽が好きな人がいるんだ!」って気づけて。それでどんどん自信がついてきました。「じゃあ、頑張るしかない」って。

——では、ちょっと違った質問です。もう日本には何度も来ていると思いますが、日本での思い出と強く結びついている音楽は何かありますか?

ジンジャー・ルート:初めての日本ツアーの後、友達のご家族とご飯を食べに行ったんですけど、電車に乗って一人で待ち合わせの場所まで行って。そのとき、大貫妙子さんの「SUNSHOWER」をイヤホンで聴きながら電車に乗っていたんです。イヤホンはノイズキャンセリングじゃなくて、外部の音が聴こえる設定だったので、周りの人たちの会話が聞こえたんですけど、何を言っているかちゃんと理解できたんです。まだコロナのときで、日本語を一生懸命勉強していた最中だったから、めちゃくちゃ感動して、泣いてしまったんですよね。子供たちの会話とか、近くのおばあちゃんの話も理解できて。そのとき、まるで大貫さんの「SUNSHOWER」が自分の出ている映画のサウンドトラックのように感じられて。すごく不思議だったし、本当に感動しましたね。

——すてきな体験ですね。では最後に、次の作品について、現時点で何か考えていることがあれば教えてください。

ジンジャー・ルート:ちょっとだけ考えていることがあって。まだしっかりは決めていないんですけど……ちょっとおかしい曲、エクスペリメタルな曲を作りたくて。なんかおかしい、なんかかわいい、なんか変な雰囲気だな、みたいな。でも それでもまだジンジャー・ルートだって分かるもの。もうちょっと遊んでみたいですね。やっぱり今って、アルバムでもシングルみたいな曲ばっかり求められるところがあって。「TikTokでバズろう!」みたいな感じだから。 でも今の自分にとっては、そんなことはどうでもよくて。だから、具体的にどんな曲になるかは分からないですけど、ちょっと変な曲を作ってみたいと思っていますね。

PHOTOS:MAYUMI HOSOKURA

■サードアルバム「SHINBANGUMI

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森川マサノリが「ダダ」「ベイシックス」を経て手に入れた“読解力” 「ヒュンメルオー」刷新に挑む

2025年春夏シーズンに始動した「ヒュンメルオー(HUMMEL 00)」の新クリエイティブ・ディレクターに、「ベイシックス(BASICKS)」の森川マサノリ創設者兼デザイナーが25-26年秋冬から就任する。「ヒュンメルオー」は、デンマーク発のスポーツメーカー「ヒュンメル」のデイリーウエアラインで、「ヒュンメル」の日本における商標権を保有する、大阪のスポーツ用品メーカー・エスエスケイ(SSK)による日本企画だ。同ラインのスタート時には、国内デザイナーズブランドの企画・生産などで経験を積んだ前野亮がディレクターを務めていた。そのバトンを引き継ぐ森川クリエイティブ・ディレクターは、「ヒュンメルオー」をどう解釈し、前に進めていくのか。

WWD:就任の経緯は?

森川マサノリ「ヒュンメルオー」新クリエイティブ・ディレクター(以下、森川):24年12月に「ヒュンメルオー」側から依頼を受けた。僕が21年に立ち上げた「ベイシックス」も最近はクリエイションにスポーツ要素を取り入れており、連関したモノ作りができるようになるという期待も込めて引き受けた。

WWD:自分に声が掛かった理由は何だと考える?

森川:僕の強みである“読解力”に期待してくれたからではないか。僕は、ブランドに自分のスタイルを持ち込むタイプのデザイナーではない。どちらかと言えば、ブランドが築いてきた世界観はそのままに、自分なりに解釈したレイヤーを重ねていくタイプだ。

WWD:新たなコンセプト“ニューヘリテージ(New Heritage)”の意図は?

森川:1923年に創設された「ヒュンメル」には、当時からアイキャッチーなモチーフがある。ブランド名の由来になったマルハナバチ(※ドイツ語で「ヒュンメル」)をかたどった“バンブルビー”と、V字模様の“シェブロン柄”だ。それらを現代風にアレンジして、新しい伝統(ヘリテージ)を作ろうという意図をコンセプトに込めている。刺しゅうやプリントでアイテムに落とし込むだけでなく、ビジューでデコレーションするなど、既存のスポーツブランドではあまり見られないアプローチを採用したい。

WWD:「ヒュンメル」にはどのようなイメージを抱いていた?

森川:学生時代にサッカー部に所属していたから、サッカー用品からスタートした「ヒュンメル」は競技用品のイメージしかなかった。女性でブランドに詳しい人も、ほとんどいなかった。だからこそ、スポーツブランドとしての「ヒュンメル」の歴史や技術、アイコンを、僕なりの解釈を通して、日本市場にもっと広めていきたい。

「ダダ」「ベイシックス」から学んだこと

WWD:「ヒュンメルオー」は「ヒュンメル」のファッション性を高めたラインだ。スポーツブランドをファッションマーケットに広げていくには、何が必要か?

森川:まずはスポーツブランドとしてのアイデンティティーを保つこと。その上で、ファッションのイメージをどう浸透させていくかを考えたい。マクドナルドでヘルシーなサラダを真っ先に食べたい人が少ないように、「ヒュンメル」もファッションに振り切りすぎず、スポーツの要素はしっかりと残していきたい。ボタンがサッカースパイクのポイントのような形だったり、編み地がサッカーボールのヘキサゴンだったりと、ブランドらしさを随所に散りばめ、スポーツブランドの延長上でファンとコミュニケーションしたいと考えている。マーケティングにも注力して、「ヒュンメル」ブランド全体をデザインする意識が必要だ。

WWD:「クリスチャン ダダ(CHRISTIAN DADA以下、ダダ)」と「ベイシックス」で積んだデザイン経験をどのように生かす?

森川:「ダダ」時代に比べて肩の力が抜け、ようやく自分の興味に素直に向き合えるようになった。「ヒュンメルオー」では、「スポーツブランドでこんなデザインをしてみたらどうなるか」という“実験”をしていきたい。「ダダ」の頃は人が驚くような、変わったことをしてやろうと力みすぎていた。そのせいで、自分でも着ない服を作るようになってしまっていた。「ダダ」休止後に「ベイシックス」を立ち上げ、等身大のクリエイションを始めてからは、“今の気分”の落とし込み方が分かってきた。だから、「ヒュンメルオー」では、特にスタイリングを意識したモノづくりをする。スポーツブランドはあまりスタイリング提案をしない印象がある。誰もが手に取りやすいアイテムで、色の組み合わせやシルエットに変化をつけて、新しさを追求したら面白い。

WWD:「ベイシックス」ではサステナビリティを考慮したモノ作りをしている。「ヒュンメルオー」でも同様に考えている?

森川:大事なことの一つだと考えている。まずは、長く使えるものを作りたい。サステナビリティの解釈はさまざまだが、個人的には見た目が好きではない再生ナイロンを使うよりも、シワになりづらく着やすい素材を使う方が、長い目で考えたらサステナブルだと思う。ただ、サステナビリティーに躍起になるあまり、結局何が伝えたかったのかが分からないコレクションを作っても意味がない。自分ができる範囲で、楽しみながら取り組むつもりだ。

WWD:販路のイメージは?

森川:「ヒュンメル」にはすでにカジュアルライフスタイルラインの「ヒュンメル プレイ(HUMMEL PLAY)」や「エイチエフシー(H.FC)」があるため、「ヒュンメルオー」は異なる立ち位置を築いていきたい。大手スポーツメーカーがしのぎを削る隙間を狙う意味で、販路も百貨店や大人が通う高感度セレクトのような、カジュアルさと品のよさを両立している販路を想定している。

3月の東コレに参加

WWD:ファッション業界歴が長い自身が「ヒュンメルオー」に貢献できる具体的なことは?

森川:間口の広いブランドに育てて、コラボレーションも積極的に行っていきたい。例えば「アンブロ(UMBRO)」が、イタリアのスラム ジャム(SLAM JAM)とコラボレーションしたように、幅広いジャンルのブランドと「ヒュンメルオー」の接点を作っていきたい。業界歴が長いからこそ、そういう点でも貢献できるはずだ。

WWD:3月の「楽天 ファッション ウィーク東京(Rakuten Fashion Week TOKYO以下、東コレ)」で就任後初となるランウエイショーを実施する。

森川:「ヒュンメルオー」の“序章”のようなコレクションを披露するつもりだ。今回は時間があまりなかったので、東コレまでにできることは限られている。だからこそ、まずは全体的な世界観とスタンスを見せたい。現時点では、アクセサリー含めて40型ほどを発表する予定だ。

WWD:ちなみに、「ベイシックス」も25-26年秋冬で東コレに参加する。2ブランドもショーを同時に手掛けるのは大変では?

森川:全然大丈夫。ジョン・ガリアーノ(John Galliano)のドキュメンタリー「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」を先日観て、12ブランドのディレクションを同時に手掛けていたと知り、とても驚いた。僕の2ブランドなんてかわいいもの(笑)。

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コンセプトは“地元のお土産屋さん” 人気のポップアップショップ「フッドマート」とは?

SNSで人気のポップアップショップ「フッドマート(Hoodmart)」。2023年から不定期でポップアップを行っており、徐々にインスタグラムを中心に話題となっている。扱うアイテムはアニメのフィギュアやキーホルダー、古着、オリジナルキャラクターのmacoちゃんアイテム。中でも特に人気なのが、異なるキャラクターをセットにしたキーホルダーで、ポップアップの初日には、オープン前から行列ができるほどだ。どのような経緯で「フッドマート」を始めたのか、店主の松坂生麻にアトリエで話を聞いた。

趣味が仕事に

WWD:「フッドマート」を始めた経緯は?

松坂生麻(以下、松坂):2023年1月に「フッドマート」を始めたんですが、それまでは12年ほどメンズブランドで働いていました。でもコロナがあって、一時的に店を閉める状況もあったりして、いろいろと考える時間が増えて。もともと高校生のころから趣味でアメコミや日本のアニメなどのフィギュアや雑貨などを集めていて、社会人になってからもずっと集め続けていました。それが家にも置けないくらいの数になってきて、「これを仕事にできないかな」と思ったのが「フッドマート」をスタートしたきっかけです。実際にポップアップを始めたのは23年4月からで最初はフィギュアの販売が中心で、翌月の5月から今のようなキーホルダーの販売も始めました。

WWD:「フッドマート」の名前の由来は?

松坂:「フッド(Hood)」は、地元という意味で、最初から店舗は持たず、全国でポップアップをやろうと思っていたので、「どこでやっても誰かの地元」という意味も込めて、「フッドマート」という名前にしました。コンセプトは“お土産屋さん”。扱うアイテムもお土産屋さんに置いてあるような、フィギュアやキーホルダー、雑貨、地名が書かれたスエットやTシャツをイメージしていました。

WWD:今はキーホルダーが人気ですよね。インスタグラムを見ていると、オープン前に行列もできていたりしています。

松坂:キーホルダーも最初は5セットぐらいから始めたので、正直驚いています。当時はガチャガチャで集めたキーホルダーや小さなフィギュアを透明のポーチに詰める「ガチャ詰め」が女性に流行っていて、それをカバンにつけたりしていました。ただサイズが結構大きかったので、これは男性はつけないだろうなと思ったんですけど、もしかしたらガチャガチャしたキーホルダーだったら男性もつけるかもと思い、それで3つのキーホルダーを1組にした3連キーホルダーを作ってみたら、ありがたいことにすごく人気が出てきて。

WWD:その3つの組み合わせのバランスが絶妙だなと思うのですが、どうやって選んでいるんですか?

松坂:フィギュア好きの人って、例えば「ONE PIECE」のフィギュアが好きな人は、「ONE PIECE」のフィギュアをバーって並べると思うんですけど、僕は普段隣り合わせにならないキャラクターが一緒になっている方が面白いなと思っていて。例えば、ドラミちゃんの横に、「HUNTER×HUNTER」のキャラがいるとか。キーホルダーも同じ感覚で、普段交わらない3つを1組にしています。

その上で、一番は色合いを重視していて、なるべく同じ色味で統一するようにしています。あとは、丸いフォルムのキャラには普通の8頭身のキャラを合わせたり、人間キャラと動物キャラ、海外のキャラと日本のキャラなど、基本的には全然違うもので組み合わせていきます。だから、キーホルダーの数もかなり必要なんです。例えば3つで1セットのものを、10セット作るとしたら最低30個あれば組めると思うんですけど、僕の場合はその3〜4倍はないと組めない。なので、基本的には毎日キーホルダー用のアイテムは探し続けています。

1990年代の裏原系のデザイナーの事務所が憧れ

WWD:このアトリエにもかなりの量のキーホルダーやフィギュアがありますが、今どんな種類がどれくらいあるのかって把握できているんですか?

松坂:フィギュアは分かりますが、キーホルダーは正直把握できてないものもあります。だから、キーホルダーのセットを組む場合は、一度全部を机に広げて、そこから組んでいくんです。一応、箱ごとに自分なりに1軍、2軍、3軍と分けていて、各セットで1軍、2軍、3軍から1つ選んでセットにしています。

WWD:「フッドマート」さんの影響なのか、キャラクターもののキーホルダーは結構人気が出てきていますが、探せばまだ良いものはあるんですか?

松坂:ありますけど、もうキーホルダーはとんでもなく高騰しています。半年前まで1000円以下で買えていたものが、高いものだと1万円以上になったりもしていて。「ONE PIECE」や「HUNTER×HUNTER」だと1つで2万円以上とかするので。今後はキーホルダーの数はあまり出せなくなっていくかもしれないです。

WWD:キーホルダーを買っていくお客さんは女性、男性どっちが多いですか?

松坂:キーホルダーに関しては女性の方がちょっと多いぐらいですかね。でも半々よりちょっと多いぐらいで、女性55%、男性45%くらいだと思います。最初は男性ばかりだったんですけど、女性が徐々に増えてきています。

WWD:フィギュアに関してはどうですか?

松坂:フィギュアは男性の方が圧倒的に多いですね。中でも「スター・ウォーズ」が人気です。ただフィギュアは、自分が好きなものを買い付けて売っているので、即完というよりかは徐々に売れるという感じですね。もともとフィギュアに関しては、デザイナーズ家具やビンテージ家具の端っこに、キャラクターのフィギュアがポンと置いてある、その抜け感みたいのを作りましょうとインテリア提案をしているので、1つ置いてあるだけでちょっと気分が上がるものを探しています。僕の一番の憧れというか、影響を受けたのがやっぱり1990年代の裏原系のデザイナーの事務所で、おしゃれなインテリアの中にフィギュアが置いてあったり、遊び心がありましたよね。

WWD:特にNIGO®さんとか。

松坂:そうですね。「仕事場なのにこんなことしていいんだ」みたいな。そういうカルチャーが東京らしいし、僕もそれを追っかけ続けているところはあります。

いろんな人が楽しめる工夫

WWD:たまにウェブでも販売していますが、基本的にポップアップで売るのは変わらず?

松坂:やっぱりフィジカルでやっていこうと基本的には考えています。お店に行った時に、フィギュアやキーホルダーが並んでいる雰囲気みたいのは現場でしか味わえないと思うので。それをぜひ見てほしいなっていう思いはあります。いろいろな地方の方から、「地元でやってほしい」と依頼はあるんですが、なかなか地方には行けないので、そういう人に買ってもらえる機会を作ろうと思って、ウェブでの販売はやっています。去年はあまりできなかったので、今年はもう少しウェブでの販売も増やしていきたいとは思っています。

WWD:ポップアップする場所はどう決めているんですか?

松坂:最初にやったのは「グッドシング(good thing)」という美容室で、そこは僕からやらせてほしいと声をかけさせていただきました。あとは基本的にお声がけいただいて、やらせてもらっています。今一番やってるのが「ユルク(jurk)」という美容室で、本当に仲間みたいに受け入れてくれるんで、「次はこんなことをやりましょう」と話をしています。「ユルク」は東京と名古屋に店舗があって、それぞれ2回ずつ、年に4回ポップアップをやらせていただいています。最初に2つだけ組んであって、最後に1つお客さんに選んでもらうというのも「ユルク」だけでやっています。

WWD:ポップアップで古着に「フッドマート」のロゴを印刷するサービスもやられてますよね?

松坂:あれは23年の9月ぐらいから始めました。最初は単純にオリジナルでアイテムを作るお金がなかったから(笑)。スタンプカードみたいな感覚で、古着を買っていただいたら、それにロゴを入れる。それはポップアップでしかできないことだし、お子さんも一緒にできて、喜んでくれるので、家族で遊びに来てもみんなが楽しんでくれたらっていう気持ちで始めました。やっぱりポップアップをやる時は老若男女、いろいろな人に楽しんでもらいたいので、「フッドマート」プラスお花屋さんや飲食店と組んでやるっていうのが自分のスタイルではあります。

オリジナルキャラクター、macoちゃん

WWD:オリジナルキャラクターのmacoちゃんも人気ですね。

松坂:24年4月に初めてmacoちゃんを使ったアイテムを販売したのですが、「『フッドマート』といえば」っていうキャラクターがいた方がいいかなと思って。その1年前くらいからずっとイラストレーターの方と相談しながら、海外でも人気になりそうなキャラクターというイメージで、macoちゃんのキャラクターを固めていきました。

macoちゃんもどんどんどん成長していく予定で。一番最初に出した「Hood(地元)のmacoちゃん」は14歳ぐらいの設定で、最近出した「おめかしmacoちゃん」は成長して16歳になっています。今日、僕が着ているパーカーは15歳の「不機嫌macoちゃん」。反抗期で怒っているという設定で。今年は特にこのmacoちゃんのキャラクターを海外も含めて、より多くの人に知ってもらいたいと思っています。

WWD:これからはmacoちゃんを中心にオリジナルも増やしていく?

松坂:そうですね。macoちゃんのグッズは今のところキーホルダーとスエット、Tシャツだけなんですけど。今日、僕が着ているスエットがすごく評判が良くて。macoちゃんというキャラクターができたので、やりたいことがたくさん増えて、できれば最終的にはフィギュアまで作れたら最高だなと思っています。

でも、もともとのコンセプトが「お土産屋さん」なので、シャツとかパンツとか、アイテムの種類を増やす予定はなくて、基本的にはキーホルダーとスエット、パーカー、Tシャツくらいで考えています。

ただ、例えばコラボでmacoちゃんを使って何か作りたいと言われたら、積極的にやっていこうとは思っています。個人的にはサンリオの企業理念がすごく好きで、キティちゃんってコラボはほとんど断らないらしくて、いろんな企業とコラボしているじゃないですか。さすがにmacoちゃんはあそこまでキャッチーな感じにはなれないかもしれないけど、ぜひいろんな企業とコラボはやってみたいです。

WWD:今後やりたいことは?

松坂:個人的には「パーソナルフィギュアコーディネーター」みたいに、その人のインテリアに合わせてフィギュアを買い付けて飾りますっていう仕事がやりたいなとは思っています。そんな需要があるのか分からないですけど(笑)。フィギュアやおもちゃに関して、少しアドバイスが欲しいとか、この辺のフィギュアが好きなんで集めて提案してくださいって言われたら、やってみたいですね。あとはやっぱりmacoちゃんというキャラクターを大きくしたいなと思っています。

もともと「フッドマート」を始める時に、地下アイドルっぽくしたいと考えていて、ポップアップに行けば見られるけど、あまりウェブとかで露出しないみたいな。そうやってお客さんと一緒に成長していきたいし、ぜひ「フッドマート」の成長を応援してほしいです。

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コンセプトは“地元のお土産屋さん” 人気のポップアップショップ「フッドマート」とは?

SNSで人気のポップアップショップ「フッドマート(Hoodmart)」。2023年から不定期でポップアップを行っており、徐々にインスタグラムを中心に話題となっている。扱うアイテムはアニメのフィギュアやキーホルダー、古着、オリジナルキャラクターのmacoちゃんアイテム。中でも特に人気なのが、異なるキャラクターをセットにしたキーホルダーで、ポップアップの初日には、オープン前から行列ができるほどだ。どのような経緯で「フッドマート」を始めたのか、店主の松坂生麻にアトリエで話を聞いた。

趣味が仕事に

WWD:「フッドマート」を始めた経緯は?

松坂生麻(以下、松坂):2023年1月に「フッドマート」を始めたんですが、それまでは12年ほどメンズブランドで働いていました。でもコロナがあって、一時的に店を閉める状況もあったりして、いろいろと考える時間が増えて。もともと高校生のころから趣味でアメコミや日本のアニメなどのフィギュアや雑貨などを集めていて、社会人になってからもずっと集め続けていました。それが家にも置けないくらいの数になってきて、「これを仕事にできないかな」と思ったのが「フッドマート」をスタートしたきっかけです。実際にポップアップを始めたのは23年4月からで最初はフィギュアの販売が中心で、翌月の5月から今のようなキーホルダーの販売も始めました。

WWD:「フッドマート」の名前の由来は?

松坂:「フッド(Hood)」は、地元という意味で、最初から店舗は持たず、全国でポップアップをやろうと思っていたので、「どこでやっても誰かの地元」という意味も込めて、「フッドマート」という名前にしました。コンセプトは“お土産屋さん”。扱うアイテムもお土産屋さんに置いてあるような、フィギュアやキーホルダー、雑貨、地名が書かれたスエットやTシャツをイメージしていました。

WWD:今はキーホルダーが人気ですよね。インスタグラムを見ていると、オープン前に行列もできていたりしています。

松坂:キーホルダーも最初は5セットぐらいから始めたので、正直驚いています。当時はガチャガチャで集めたキーホルダーや小さなフィギュアを透明のポーチに詰める「ガチャ詰め」が女性に流行っていて、それをカバンにつけたりしていました。ただサイズが結構大きかったので、これは男性はつけないだろうなと思ったんですけど、もしかしたらガチャガチャしたキーホルダーだったら男性もつけるかもと思い、それで3つのキーホルダーを1組にした3連キーホルダーを作ってみたら、ありがたいことにすごく人気が出てきて。

WWD:その3つの組み合わせのバランスが絶妙だなと思うのですが、どうやって選んでいるんですか?

松坂:フィギュア好きの人って、例えば「ONE PIECE」のフィギュアが好きな人は、「ONE PIECE」のフィギュアをバーって並べると思うんですけど、僕は普段隣り合わせにならないキャラクターが一緒になっている方が面白いなと思っていて。例えば、ドラミちゃんの横に、「HUNTER×HUNTER」のキャラがいるとか。キーホルダーも同じ感覚で、普段交わらない3つを1組にしています。

その上で、一番は色合いを重視していて、なるべく同じ色味で統一するようにしています。あとは、丸いフォルムのキャラには普通の8頭身のキャラを合わせたり、人間キャラと動物キャラ、海外のキャラと日本のキャラなど、基本的には全然違うもので組み合わせていきます。だから、キーホルダーの数もかなり必要なんです。例えば3つで1セットのものを、10セット作るとしたら最低30個あれば組めると思うんですけど、僕の場合はその3〜4倍はないと組めない。なので、基本的には毎日キーホルダー用のアイテムは探し続けています。

1990年代の裏原系のデザイナーの事務所が憧れ

WWD:このアトリエにもかなりの量のキーホルダーやフィギュアがありますが、今どんな種類がどれくらいあるのかって把握できているんですか?

松坂:フィギュアは分かりますが、キーホルダーは正直把握できてないものもあります。だから、キーホルダーのセットを組む場合は、一度全部を机に広げて、そこから組んでいくんです。一応、箱ごとに自分なりに1軍、2軍、3軍と分けていて、各セットで1軍、2軍、3軍から1つ選んでセットにしています。

WWD:「フッドマート」さんの影響なのか、キャラクターもののキーホルダーは結構人気が出てきていますが、探せばまだ良いものはあるんですか?

松坂:ありますけど、もうキーホルダーはとんでもなく高騰しています。半年前まで1000円以下で買えていたものが、高いものだと1万円以上になったりもしていて。「ONE PIECE」や「HUNTER×HUNTER」だと1つで2万円以上とかするので。今後はキーホルダーの数はあまり出せなくなっていくかもしれないです。

WWD:キーホルダーを買っていくお客さんは女性、男性どっちが多いですか?

松坂:キーホルダーに関しては女性の方がちょっと多いぐらいですかね。でも半々よりちょっと多いぐらいで、女性55%、男性45%くらいだと思います。最初は男性ばかりだったんですけど、女性が徐々に増えてきています。

WWD:フィギュアに関してはどうですか?

松坂:フィギュアは男性の方が圧倒的に多いですね。中でも「スター・ウォーズ」が人気です。ただフィギュアは、自分が好きなものを買い付けて売っているので、即完というよりかは徐々に売れるという感じですね。もともとフィギュアに関しては、デザイナーズ家具やビンテージ家具の端っこに、キャラクターのフィギュアがポンと置いてある、その抜け感みたいのを作りましょうとインテリア提案をしているので、1つ置いてあるだけでちょっと気分が上がるものを探しています。僕の一番の憧れというか、影響を受けたのがやっぱり1990年代の裏原系のデザイナーの事務所で、おしゃれなインテリアの中にフィギュアが置いてあったり、遊び心がありましたよね。

WWD:特にNIGO®さんとか。

松坂:そうですね。「仕事場なのにこんなことしていいんだ」みたいな。そういうカルチャーが東京らしいし、僕もそれを追っかけ続けているところはあります。

いろんな人が楽しめる工夫

WWD:たまにウェブでも販売していますが、基本的にポップアップで売るのは変わらず?

松坂:やっぱりフィジカルでやっていこうと基本的には考えています。お店に行った時に、フィギュアやキーホルダーが並んでいる雰囲気みたいのは現場でしか味わえないと思うので。それをぜひ見てほしいなっていう思いはあります。いろいろな地方の方から、「地元でやってほしい」と依頼はあるんですが、なかなか地方には行けないので、そういう人に買ってもらえる機会を作ろうと思って、ウェブでの販売はやっています。去年はあまりできなかったので、今年はもう少しウェブでの販売も増やしていきたいとは思っています。

WWD:ポップアップする場所はどう決めているんですか?

松坂:最初にやったのは「グッドシング(good thing)」という美容室で、そこは僕からやらせてほしいと声をかけさせていただきました。あとは基本的にお声がけいただいて、やらせてもらっています。今一番やってるのが「ユルク(jurk)」という美容室で、本当に仲間みたいに受け入れてくれるんで、「次はこんなことをやりましょう」と話をしています。「ユルク」は東京と名古屋に店舗があって、それぞれ2回ずつ、年に4回ポップアップをやらせていただいています。最初に2つだけ組んであって、最後に1つお客さんに選んでもらうというのも「ユルク」だけでやっています。

WWD:ポップアップで古着に「フッドマート」のロゴを印刷するサービスもやられてますよね?

松坂:あれは23年の9月ぐらいから始めました。最初は単純にオリジナルでアイテムを作るお金がなかったから(笑)。スタンプカードみたいな感覚で、古着を買っていただいたら、それにロゴを入れる。それはポップアップでしかできないことだし、お子さんも一緒にできて、喜んでくれるので、家族で遊びに来てもみんなが楽しんでくれたらっていう気持ちで始めました。やっぱりポップアップをやる時は老若男女、いろいろな人に楽しんでもらいたいので、「フッドマート」プラスお花屋さんや飲食店と組んでやるっていうのが自分のスタイルではあります。

オリジナルキャラクター、macoちゃん

WWD:オリジナルキャラクターのmacoちゃんも人気ですね。

松坂:24年4月に初めてmacoちゃんを使ったアイテムを販売したのですが、「『フッドマート』といえば」っていうキャラクターがいた方がいいかなと思って。その1年前くらいからずっとイラストレーターの方と相談しながら、海外でも人気になりそうなキャラクターというイメージで、macoちゃんのキャラクターを固めていきました。

macoちゃんもどんどんどん成長していく予定で。一番最初に出した「Hood(地元)のmacoちゃん」は14歳ぐらいの設定で、最近出した「おめかしmacoちゃん」は成長して16歳になっています。今日、僕が着ているパーカーは15歳の「不機嫌macoちゃん」。反抗期で怒っているという設定で。今年は特にこのmacoちゃんのキャラクターを海外も含めて、より多くの人に知ってもらいたいと思っています。

WWD:これからはmacoちゃんを中心にオリジナルも増やしていく?

松坂:そうですね。macoちゃんのグッズは今のところキーホルダーとスエット、Tシャツだけなんですけど。今日、僕が着ているスエットがすごく評判が良くて。macoちゃんというキャラクターができたので、やりたいことがたくさん増えて、できれば最終的にはフィギュアまで作れたら最高だなと思っています。

でも、もともとのコンセプトが「お土産屋さん」なので、シャツとかパンツとか、アイテムの種類を増やす予定はなくて、基本的にはキーホルダーとスエット、パーカー、Tシャツくらいで考えています。

ただ、例えばコラボでmacoちゃんを使って何か作りたいと言われたら、積極的にやっていこうとは思っています。個人的にはサンリオの企業理念がすごく好きで、キティちゃんってコラボはほとんど断らないらしくて、いろんな企業とコラボしているじゃないですか。さすがにmacoちゃんはあそこまでキャッチーな感じにはなれないかもしれないけど、ぜひいろんな企業とコラボはやってみたいです。

WWD:今後やりたいことは?

松坂:個人的には「パーソナルフィギュアコーディネーター」みたいに、その人のインテリアに合わせてフィギュアを買い付けて飾りますっていう仕事がやりたいなとは思っています。そんな需要があるのか分からないですけど(笑)。フィギュアやおもちゃに関して、少しアドバイスが欲しいとか、この辺のフィギュアが好きなんで集めて提案してくださいって言われたら、やってみたいですね。あとはやっぱりmacoちゃんというキャラクターを大きくしたいなと思っています。

もともと「フッドマート」を始める時に、地下アイドルっぽくしたいと考えていて、ポップアップに行けば見られるけど、あまりウェブとかで露出しないみたいな。そうやってお客さんと一緒に成長していきたいし、ぜひ「フッドマート」の成長を応援してほしいです。

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【パーフェクト 磯崎順信社長】「Beautiful AI」を軸に快適なユーザー体験を重視

PROFILE: 磯崎順信/社長

磯崎順信/社長
PROFILE: (いそざき・よりのぶ)高校卒業後、単身渡米し8年間を過ごす。米国に拠点を置くIT企業の日本法人のマネージメントを数社で経験し、2015年にPerfectCorp.の日本法人の立ち上げから現職として参画。マネージメントのゴールは自分を必要としないチーム作り。部下も自身も今後のキャリアに有利になる環境作りを重要視している PHOTO : YOHEI KICHIRAKU

2025年に創業10周年を迎えたパーフェクトは、ARビューティアプリ「ユーカム メイク」を筆頭に、累計10億ダウンロードを超える「ユーカム」アプリシリーズを展開する。昨年からスローガンに「Beautiful AI」を掲げ、世界60カ国以上・700超えのブランドパートナーと共にユーザーがストレスなく快適な購買体験を提供できる環境作りをサポートしている。

25年はBtoB領域において
AIサービスを強化

WWD:パーフェクトが一般ユーザー向けに配信している主力の「ユーカム」アプリシリーズは、全世界で10億ダウンロードを超えている。バーチャル試着サービスを提供するまでの経緯は。

磯崎順信社長(以下、磯崎):当社は台湾に本社を置くサイバーリンクを母体としている。サイバーリンクはマルチメディアソフトウエアとAI顔識別技術の世界トップクラスで、日本市場では動画再生ソフト「PowerDVD」や動画編集ソフト「PowerDirector」が多くのユーザーから支持されるなどPC向けの製品やサービスの提供を続けていたが、11年ごろからPCに代わり携帯電話が台頭するようになり、モバイル領域で何かできないかと模索していた。当時は写真にさまざまなデコレーションができるプリントシールアプリが出始めたタイミング。「AI顔識別技術を得意とするサイバーリンクならクオリティーの高いアプリが開発できる」と考え、14年夏にバーチャルメイクアプリ「ユーカム メイク」をローンチした。すぐに爆発的人気となり、これを新事業にしていこうと会社をスピンオフ。15年にパーフェクトを設立した。現在は事業がスタートして10年経ち、技術は目覚ましい発展を遂げている。

WWD:事業の成長はコロナ禍で非接触になった20年が大きかったのか。

磯崎:コロナ禍で急激にビジネスが増えたかというと実はそうではない。確かに20年4〜6月は通常の10倍以上の問い合わせがあった。しかし、17年からBtoB領域でSaaS型(インターネット経由でサービスを利用できるビジネスモデル)で提供し、さらに19年からブラウザ上でバーチャル試着ができるようにして収益化し、2ケタ成長が続いていた。また、コロナ禍が明けてバーチャル試着の必要がなくなったかというとそうではない。顧客との強く質の良いエンゲージメントを多く獲得でき、ECだけでなくリアル店舗の売り上げにも十分貢献できていることから、成長はスローダウンしていない。

WWD:ビューティ・ファッションメーカーから支持され続けるパーフェクトの強みとは。

磯崎:技術面では、リアルタイムで自然なバーチャル試着がかなうこと。テクスチャーやメイクパターンなどの表現力はどこにも負けない自信がある。そしてそのサービスのパッケージング方法としてSaaS化したことが大きい。製品の登録作業をブランド側が自由に納得いくまで調整できるシステムを構築。これにより、各ブランドがバーチャル試着を導入するインフラの立ち位置を確立。「ユーカム」は現在世界700ブランド以上が利用し、扱う製品数も80万SKU以上に拡大。これまで数多くの賞も受賞している。この領域では独占的にビジネスできている。

WWD:24年に特に注力したことは。

磯崎:「Beautiful AI」をスローガンに掲げ、AI肌解析アプリ「スキンケア プロ」やAI画像生成アプリ「ユーカム AI Pro」などをローンチした。「スキンケア プロ」は美容クリニックやエステサロンに向けた、サブスクリプション型iOS向け業務用アプリ。弊社のAI肌解析を月額3万円程度から利用いただけることから問い合わせが増えており、展開サービスの裾野を広げることにつながった。そして生成AIの中でけん引してきたものが“生成AIのバーチャルトライオン”だ。生成AIのみは簡単だが、バーチャルトライオンという点が非常に難しい。生成AIを使いながら、毎回同じヘアスタイルを生成させることができるのはわれわれのサービスの大きな特長だ。さらにロングヘアの人がショートヘアにしたときの背景も生成AIで作り、そのナチュラルな技術は一目瞭然だ。また24年12月には、靴やバッグなどのファッションアイテムのバーチャル試着サービスを提供する「Wannaby」をファーフェッチから買収。今後は、AR・AI 技術を駆使したバーチャル試着サービスにおいて、ラグジュアリーファッション分野での新たな展開を推し進めていく。

WWD:今年も引き続き「Beautiful AI」のもと、AR・AI 技術を活用したサービスを提供していくのか。

磯崎:25年は大手のBtoB領域においてLLM(人工知能の一種)を活用したAIサービスを強化していく。これはトップ美容部員や販売員の“デジタルツイン”を創造すること。そのブランドの製品や理念、セールストーク、言葉使いなどノウハウを全て学び、LLMを活用してブランドのウェブサイトにチャットボットのように配置する。ユーザーの顔の特徴や肌状態などを解析し最適な製品を提案したり、メイクレッスンを行ったりと“自分専用のデジタルコンシェルジュ”が可能になる。これら「Beautiful AI」の技術をもって、裾野を広げていくことに注力していく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『自分好みのワイン作り』

ワインが好きで、特にカリフォルニア州・ナパのカベルネ・ソーヴィニヨンを好んでいる。カリフォルニアの大学でワインメイキング講座を履修して自分好みのワインを作り、ナパに自身のブドウ畑を作りたい。

COMPANY DATA
パーフェクト

台湾に本社を置く日本法人として2015年に創業。ARビューティアプリ「ユーカム メイク」を筆頭に累計10億ダウンロードを超える一般ユーザー向けアプリシリーズを展開するほか、ビューティ・ファッションブランドおよび小売店などに向けてAI・AR技術を活用したバーチャル試着サービスや肌解析ツールなどを提供。台湾、日本、北米、欧州、中国、インドに拠点を構え、サービスを60カ国以上で展開している


問い合わせ先
パーフェクト
03-6809-1135

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【パーフェクト 磯崎順信社長】「Beautiful AI」を軸に快適なユーザー体験を重視

PROFILE: 磯崎順信/社長

磯崎順信/社長
PROFILE: (いそざき・よりのぶ)高校卒業後、単身渡米し8年間を過ごす。米国に拠点を置くIT企業の日本法人のマネージメントを数社で経験し、2015年にPerfectCorp.の日本法人の立ち上げから現職として参画。マネージメントのゴールは自分を必要としないチーム作り。部下も自身も今後のキャリアに有利になる環境作りを重要視している PHOTO : YOHEI KICHIRAKU

2025年に創業10周年を迎えたパーフェクトは、ARビューティアプリ「ユーカム メイク」を筆頭に、累計10億ダウンロードを超える「ユーカム」アプリシリーズを展開する。昨年からスローガンに「Beautiful AI」を掲げ、世界60カ国以上・700超えのブランドパートナーと共にユーザーがストレスなく快適な購買体験を提供できる環境作りをサポートしている。

25年はBtoB領域において
AIサービスを強化

WWD:パーフェクトが一般ユーザー向けに配信している主力の「ユーカム」アプリシリーズは、全世界で10億ダウンロードを超えている。バーチャル試着サービスを提供するまでの経緯は。

磯崎順信社長(以下、磯崎):当社は台湾に本社を置くサイバーリンクを母体としている。サイバーリンクはマルチメディアソフトウエアとAI顔識別技術の世界トップクラスで、日本市場では動画再生ソフト「PowerDVD」や動画編集ソフト「PowerDirector」が多くのユーザーから支持されるなどPC向けの製品やサービスの提供を続けていたが、11年ごろからPCに代わり携帯電話が台頭するようになり、モバイル領域で何かできないかと模索していた。当時は写真にさまざまなデコレーションができるプリントシールアプリが出始めたタイミング。「AI顔識別技術を得意とするサイバーリンクならクオリティーの高いアプリが開発できる」と考え、14年夏にバーチャルメイクアプリ「ユーカム メイク」をローンチした。すぐに爆発的人気となり、これを新事業にしていこうと会社をスピンオフ。15年にパーフェクトを設立した。現在は事業がスタートして10年経ち、技術は目覚ましい発展を遂げている。

WWD:事業の成長はコロナ禍で非接触になった20年が大きかったのか。

磯崎:コロナ禍で急激にビジネスが増えたかというと実はそうではない。確かに20年4〜6月は通常の10倍以上の問い合わせがあった。しかし、17年からBtoB領域でSaaS型(インターネット経由でサービスを利用できるビジネスモデル)で提供し、さらに19年からブラウザ上でバーチャル試着ができるようにして収益化し、2ケタ成長が続いていた。また、コロナ禍が明けてバーチャル試着の必要がなくなったかというとそうではない。顧客との強く質の良いエンゲージメントを多く獲得でき、ECだけでなくリアル店舗の売り上げにも十分貢献できていることから、成長はスローダウンしていない。

WWD:ビューティ・ファッションメーカーから支持され続けるパーフェクトの強みとは。

磯崎:技術面では、リアルタイムで自然なバーチャル試着がかなうこと。テクスチャーやメイクパターンなどの表現力はどこにも負けない自信がある。そしてそのサービスのパッケージング方法としてSaaS化したことが大きい。製品の登録作業をブランド側が自由に納得いくまで調整できるシステムを構築。これにより、各ブランドがバーチャル試着を導入するインフラの立ち位置を確立。「ユーカム」は現在世界700ブランド以上が利用し、扱う製品数も80万SKU以上に拡大。これまで数多くの賞も受賞している。この領域では独占的にビジネスできている。

WWD:24年に特に注力したことは。

磯崎:「Beautiful AI」をスローガンに掲げ、AI肌解析アプリ「スキンケア プロ」やAI画像生成アプリ「ユーカム AI Pro」などをローンチした。「スキンケア プロ」は美容クリニックやエステサロンに向けた、サブスクリプション型iOS向け業務用アプリ。弊社のAI肌解析を月額3万円程度から利用いただけることから問い合わせが増えており、展開サービスの裾野を広げることにつながった。そして生成AIの中でけん引してきたものが“生成AIのバーチャルトライオン”だ。生成AIのみは簡単だが、バーチャルトライオンという点が非常に難しい。生成AIを使いながら、毎回同じヘアスタイルを生成させることができるのはわれわれのサービスの大きな特長だ。さらにロングヘアの人がショートヘアにしたときの背景も生成AIで作り、そのナチュラルな技術は一目瞭然だ。また24年12月には、靴やバッグなどのファッションアイテムのバーチャル試着サービスを提供する「Wannaby」をファーフェッチから買収。今後は、AR・AI 技術を駆使したバーチャル試着サービスにおいて、ラグジュアリーファッション分野での新たな展開を推し進めていく。

WWD:今年も引き続き「Beautiful AI」のもと、AR・AI 技術を活用したサービスを提供していくのか。

磯崎:25年は大手のBtoB領域においてLLM(人工知能の一種)を活用したAIサービスを強化していく。これはトップ美容部員や販売員の“デジタルツイン”を創造すること。そのブランドの製品や理念、セールストーク、言葉使いなどノウハウを全て学び、LLMを活用してブランドのウェブサイトにチャットボットのように配置する。ユーザーの顔の特徴や肌状態などを解析し最適な製品を提案したり、メイクレッスンを行ったりと“自分専用のデジタルコンシェルジュ”が可能になる。これら「Beautiful AI」の技術をもって、裾野を広げていくことに注力していく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『自分好みのワイン作り』

ワインが好きで、特にカリフォルニア州・ナパのカベルネ・ソーヴィニヨンを好んでいる。カリフォルニアの大学でワインメイキング講座を履修して自分好みのワインを作り、ナパに自身のブドウ畑を作りたい。

COMPANY DATA
パーフェクト

台湾に本社を置く日本法人として2015年に創業。ARビューティアプリ「ユーカム メイク」を筆頭に累計10億ダウンロードを超える一般ユーザー向けアプリシリーズを展開するほか、ビューティ・ファッションブランドおよび小売店などに向けてAI・AR技術を活用したバーチャル試着サービスや肌解析ツールなどを提供。台湾、日本、北米、欧州、中国、インドに拠点を構え、サービスを60カ国以上で展開している


問い合わせ先
パーフェクト
03-6809-1135

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【レカルカ 梅田延稔 CEO】化粧品の枠を超えて、美しくなる“経験”を届けたい

PROFILE: 梅田延稔/CEO

梅田延稔/CEO
PROFILE: (うめだ・のぶとし)神奈川県出身。明治学院大学法学部在学中に、中国のジョイントベンチャー企業のインターンシップに参加。約1年間の中国駐在を経験する。2014年に大学を卒業し、IT系企業の経営企画部兼IPO準備室を経て、17年に起業。企業の新規事業立ち上げや医療機関のコンサルティングをしながら、梅田英姫会長とともに「レカルカ」を立ち上げ。18年に代表取締役CEOに就任 PHOTO : TAMEKI OSHIRO

「レカルカ」は2017年の立ち上げ以降、皮膚科学研究に基づいた良質なスキンケア製品を核に、美容高感度層から支持を拡大してきた美容サロン発の気鋭ビューティブランドだ。近年はEC、松屋銀座本店の直営店に加えて、美容クリニックでの販路拡大に力を入れている。「肌に悩む、あらゆる人を救うブランド」への飛躍へ向けて25年、梅田延稔レカルカCEOが考える次の一手とは。

美容サロン発の知見と
ユーザーとの関係値が武器に

WWD:「レカルカ」とはどのようなブランドか。

梅田延稔レカルカCEO(以下、梅田):ビジネスのスタート地点は、私の母であり、現会長の梅田英姫が20年前に創業したエステサロンだった。たちまち「結果の出る施術」と話題になってお客さまが全国から集まるようになり、肌に悩む女性の「駆け込み寺」のような存在になることができた。ただサロンの予約は常にいっぱいで、施術できる人はどうしても限られてしまっていた。よりたくさんの人の肌悩みを救いたいという彼女の思いもあり、18年に私が旗振り役となってスキンケアブランド「レカルカ」の開発に至った。

WWD:「レカルカ」の強みは?

梅田:年間数万人もの肌を施術する中で、たくさんの肌悩みやセルフケアについて知る機会に恵まれ、皮膚科学の専門家や医師の方々とセッションをする機会が多かった。エステで培った英姫会長の経験とお客さまのリアルな声、皮膚科学の専門知識を融合させることで、他にない化粧品が作れているという自負がある。悩みが深いほど、「レカルカ」を使うことで肌が劇的に変わり、その分得られる喜びは大きい。使用前と使用後の肌の変化を、写真とともにわざわざ報告してくれるユーザーもおり、インタラクティブで強固な関係が築けているのも当社ならではの特長。お客さまの声にじっくり傾けながら、肌悩みを解消し、人生をポジティブな方向に導いていく。そんな成功体験を積み上げながらユーザーの信頼を獲得してきた。

WWD:成長をけん引する要因は。

梅田:肌のターンオーバーを正常化することで、「肌荒れしにくくなった」と反響を多くいただいている化粧水“ラクトペプローション”(100mL、8800円)。そしてビタミンCを角層の奥まで届けることで、透明感とハリが実感できるという声が多い“CFセラムアドバンス”(30mL、1万3200円)、この2つが売れ筋製品だ。当初は直営のエステサロンとECのみで販売してきたが、20年に初のポップアップストアを松屋銀座本店で実施したことも認知拡大のきっかけとなり、同時に想像していた以上のお客さまの熱量、製品を試してみたいというモチベーションを感じた。21年には同店に常設店舗を出店し、客数、売り上げ共に順調に成長している。

また同年には美容クリニックの専売ライン“DREX”を立ち上げ、クリニックの販路開拓に特化した営業チームを発足した。アプローチを始めて3年ほどで、提携クリニックは900件超に達した。「レカルカ」のユーザーは美容クリニックに通っている人も多く、医師やナースにも愛用者がいらっしゃるため、商談がスムーズに進むことも多い。現在の売り上げ構成において、美容クリニックでの流通が4割ほどを占めるまでになっている。

WWD:25年はどのようなことに取り組むか。

梅田:コンシューマー向けの製品は、大胆にリブランディングを行う。クリニック専売品がきっかけとなって、ドクターズコスメとしてますます美容感度の高いコアな層を取り込めているからこそ、その価値を広く届けることに邁進していきたい。「レカルカ」は創業者の英姫会長がストーリーテラーとなって、エステサロン発の信頼のあるブランドというイメージを確立できてきた手応えがあるが、反面、「レカルカ」を知らない人にどう届けるかは、ずっと悩みどころだった。「レカルカ」を通じて肌が変われば人生まで変わる。それほどの可能性を持っているという確信が得られたからこそ、もっとたくさんの人たちに使ってもらいたいという思いがある。

年内に新たなコンセプト“Wake Your Beauty”のもと「その出会いは人生のターニングポイントになる」というメッセージと世界観を体現したポップアップストアを全国で実施する予定だ。また、販売チャネルを広げて、タッチポイントを増やすことも考えていきたい。価格帯が1万円台前半〜後半と比較的高額であるため、百貨店やそれに準ずる場所での販売に絞る。ポップアップでの反応を見ながら、松屋銀座本店に続く直営出店の機会もうかがっている。

WWD:さらなる躍進の年になりそうだ。

梅田:規模が大きくなろうと、一人一人のニーズに応えるためにプロダクトを改良し続ける、モノ作りの姿勢はブレることはない。もう少し先を見れば、われわれは“化粧品メーカー”に止まるつもりもない。化粧品メーカーの範疇を超えて、お客さまの人生を美しく変えていけるような存在を目指していく。化粧品以外の事業構想も検討しながら、ブランド設立当初からの目標である「売上高100億円」のマイルストーンに向かって全力で走り続けたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『映画をプロデュース!』

「レカルカ」は一部の顧客向けに周年施策を毎年実施している。これまでホテルやレストランを貸し切ってイベントをするなど趣向を凝らしてきた。記念すべき10周年は「レカルカ」プロデュースの映画作品を作って、映画館で上映したい!

COMPANY DATA
レカルカ

2005年に梅田英姫会長が東京・銀座にエステサロンを創業。多くの女性の肌に触れてきた知見と、最先端の皮膚科学研究を融合させて、スキンケアブランド「レカルカ」を17年に立ち上げ。21年には松屋銀座に出店し、各地の百貨店でポップアップを開催して人気を集めている。近年はエステサロンや美容クリニックでの展開を強化している


問い合わせ先
レカルカ
03-6432-4354

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【レカルカ 梅田延稔 CEO】化粧品の枠を超えて、美しくなる“経験”を届けたい

PROFILE: 梅田延稔/CEO

梅田延稔/CEO
PROFILE: (うめだ・のぶとし)神奈川県出身。明治学院大学法学部在学中に、中国のジョイントベンチャー企業のインターンシップに参加。約1年間の中国駐在を経験する。2014年に大学を卒業し、IT系企業の経営企画部兼IPO準備室を経て、17年に起業。企業の新規事業立ち上げや医療機関のコンサルティングをしながら、梅田英姫会長とともに「レカルカ」を立ち上げ。18年に代表取締役CEOに就任 PHOTO : TAMEKI OSHIRO

「レカルカ」は2017年の立ち上げ以降、皮膚科学研究に基づいた良質なスキンケア製品を核に、美容高感度層から支持を拡大してきた美容サロン発の気鋭ビューティブランドだ。近年はEC、松屋銀座本店の直営店に加えて、美容クリニックでの販路拡大に力を入れている。「肌に悩む、あらゆる人を救うブランド」への飛躍へ向けて25年、梅田延稔レカルカCEOが考える次の一手とは。

美容サロン発の知見と
ユーザーとの関係値が武器に

WWD:「レカルカ」とはどのようなブランドか。

梅田延稔レカルカCEO(以下、梅田):ビジネスのスタート地点は、私の母であり、現会長の梅田英姫が20年前に創業したエステサロンだった。たちまち「結果の出る施術」と話題になってお客さまが全国から集まるようになり、肌に悩む女性の「駆け込み寺」のような存在になることができた。ただサロンの予約は常にいっぱいで、施術できる人はどうしても限られてしまっていた。よりたくさんの人の肌悩みを救いたいという彼女の思いもあり、18年に私が旗振り役となってスキンケアブランド「レカルカ」の開発に至った。

WWD:「レカルカ」の強みは?

梅田:年間数万人もの肌を施術する中で、たくさんの肌悩みやセルフケアについて知る機会に恵まれ、皮膚科学の専門家や医師の方々とセッションをする機会が多かった。エステで培った英姫会長の経験とお客さまのリアルな声、皮膚科学の専門知識を融合させることで、他にない化粧品が作れているという自負がある。悩みが深いほど、「レカルカ」を使うことで肌が劇的に変わり、その分得られる喜びは大きい。使用前と使用後の肌の変化を、写真とともにわざわざ報告してくれるユーザーもおり、インタラクティブで強固な関係が築けているのも当社ならではの特長。お客さまの声にじっくり傾けながら、肌悩みを解消し、人生をポジティブな方向に導いていく。そんな成功体験を積み上げながらユーザーの信頼を獲得してきた。

WWD:成長をけん引する要因は。

梅田:肌のターンオーバーを正常化することで、「肌荒れしにくくなった」と反響を多くいただいている化粧水“ラクトペプローション”(100mL、8800円)。そしてビタミンCを角層の奥まで届けることで、透明感とハリが実感できるという声が多い“CFセラムアドバンス”(30mL、1万3200円)、この2つが売れ筋製品だ。当初は直営のエステサロンとECのみで販売してきたが、20年に初のポップアップストアを松屋銀座本店で実施したことも認知拡大のきっかけとなり、同時に想像していた以上のお客さまの熱量、製品を試してみたいというモチベーションを感じた。21年には同店に常設店舗を出店し、客数、売り上げ共に順調に成長している。

また同年には美容クリニックの専売ライン“DREX”を立ち上げ、クリニックの販路開拓に特化した営業チームを発足した。アプローチを始めて3年ほどで、提携クリニックは900件超に達した。「レカルカ」のユーザーは美容クリニックに通っている人も多く、医師やナースにも愛用者がいらっしゃるため、商談がスムーズに進むことも多い。現在の売り上げ構成において、美容クリニックでの流通が4割ほどを占めるまでになっている。

WWD:25年はどのようなことに取り組むか。

梅田:コンシューマー向けの製品は、大胆にリブランディングを行う。クリニック専売品がきっかけとなって、ドクターズコスメとしてますます美容感度の高いコアな層を取り込めているからこそ、その価値を広く届けることに邁進していきたい。「レカルカ」は創業者の英姫会長がストーリーテラーとなって、エステサロン発の信頼のあるブランドというイメージを確立できてきた手応えがあるが、反面、「レカルカ」を知らない人にどう届けるかは、ずっと悩みどころだった。「レカルカ」を通じて肌が変われば人生まで変わる。それほどの可能性を持っているという確信が得られたからこそ、もっとたくさんの人たちに使ってもらいたいという思いがある。

年内に新たなコンセプト“Wake Your Beauty”のもと「その出会いは人生のターニングポイントになる」というメッセージと世界観を体現したポップアップストアを全国で実施する予定だ。また、販売チャネルを広げて、タッチポイントを増やすことも考えていきたい。価格帯が1万円台前半〜後半と比較的高額であるため、百貨店やそれに準ずる場所での販売に絞る。ポップアップでの反応を見ながら、松屋銀座本店に続く直営出店の機会もうかがっている。

WWD:さらなる躍進の年になりそうだ。

梅田:規模が大きくなろうと、一人一人のニーズに応えるためにプロダクトを改良し続ける、モノ作りの姿勢はブレることはない。もう少し先を見れば、われわれは“化粧品メーカー”に止まるつもりもない。化粧品メーカーの範疇を超えて、お客さまの人生を美しく変えていけるような存在を目指していく。化粧品以外の事業構想も検討しながら、ブランド設立当初からの目標である「売上高100億円」のマイルストーンに向かって全力で走り続けたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『映画をプロデュース!』

「レカルカ」は一部の顧客向けに周年施策を毎年実施している。これまでホテルやレストランを貸し切ってイベントをするなど趣向を凝らしてきた。記念すべき10周年は「レカルカ」プロデュースの映画作品を作って、映画館で上映したい!

COMPANY DATA
レカルカ

2005年に梅田英姫会長が東京・銀座にエステサロンを創業。多くの女性の肌に触れてきた知見と、最先端の皮膚科学研究を融合させて、スキンケアブランド「レカルカ」を17年に立ち上げ。21年には松屋銀座に出店し、各地の百貨店でポップアップを開催して人気を集めている。近年はエステサロンや美容クリニックでの展開を強化している


問い合わせ先
レカルカ
03-6432-4354

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【エイペックスコマース 茂住昌子CEO】女性に寄り添う製品力と確固たる信念でシェア獲得

PROFILE: 茂住昌子/CEO

茂住昌子/CEO
PROFILE: (もずみ・まさこ)1977年、富山県生まれ。富山国立工業専門学校を卒業後、化粧品企業の品質管理課で勤務。その後プログラマーに転身。26歳でカナダに渡り、映画業界での経験を積みながらサロンを経営。心と体の健康が真の美しさに直結することを実感し、北米各地でセラピストの講義を受講。その後、ニューヨークに移住し、大学に編入して児童心理学を専攻。渡航から15年を経て、出産を機に日本へ帰国。海外生活で得た日本の強みと課題を生かし、次女出産後に起業を決意。現在に至る PHOTO : HIROYA KIZAWA

富山県に本社を構えるエイペックスコマースは、オーストラリア発の自然派スキンケアブランド「スノー フォックス スキンケア」の日本総代理店を務め、公式サイト立ち上げからわずか3年で売上高は初年度比750%増と驚異的な成長を遂げた。同社を率いる茂住昌子CEOは、ブランド創業者であるフィービー・ソング氏との二人三脚で、日本市場での地位を急速に拡大している。

“カッサブラシ”とともに
スキンケア認知拡大へ

WWD:2024年は大躍進を遂げたが、未来への可能性をどう感じている?

茂住昌子CEO(以下、茂住):すでに成熟している日本のスキンケア市場に海外ブランドで新規参入することは非常にチャレンジングだったが、短期間で並外れた成長率とリピーター率を実現することができ、全てにおいて可能性を感じた1年だった。これほど急速にブランドが成長するとは予想していなかったが、この勢いそのままにさらなる成長を確信している。

WWD:急成長できた理由は?

茂住:「スノー フォックス スキンケア」を日本で立ち上げたのは21年のコロナ禍だった。消費者がオンラインで買い物することが多かったからこそEC販売で勝負したことで不利な状況を追い風に変えることができた。現在の売り上げは自社EC、アマゾン、楽天を含むECサイトが9割を占める。市場に参入した当初はSNSマーケティングは一切せず、製品を本当に気に入ってくれた美容家やロイヤルカスタマーの口コミだけで認知が急速に拡大していったのは、創業者のフィービーが酒さ(慢性的な皮膚疾患)に長年悩まされてきた実体験から植物療法と先端の植物由来原料をハイブリットに取り入れて開発した製品力が本物であるからに他ならない。フィービーは自身が出産を経たことで、産後の肌荒れやメンタルの不調など複雑に絡んだ女性の深い悩みにも寄り添ったモノ作りを徹底している。そんなブランドの信念と肌変化が多くのお客さまの心に響いていると実感している。

WWD:“カッサブラシ”がゲームチェンジャーとなった。

茂住:1万円以上と高価格帯であるにもかかわらず大変な反響をいただいている。特にウッドバージョンが登場してからはその勢いが増し、常に300個ほど予約待ちをいただいている状況。台湾の職人が一つ一つ手作りしているため現在供給が追いついていないが、2月には製造体制が整い、安定供給できるようになる。“カッサブラシ”は全体売り上げの6割を占め、事業の柱となっている。今後もブラッシュアップとシリーズの多角化を繰り返しながら骨太に育てていく。

WWD:スキンケアカテゴリーのポテンシャルは。

茂住:“カッサブラシ”を入り口にスキンケアに移行されるお客さまが増えてきた。そして実際にスキンケアアイテムを使用いただいたお客さまはリピート率60%と非常に高い。特に好評な高濃度のセラミドと植物性EGFをフリーズドライした“ブースター ボール”はセラムと併用すると、とろとろに溶ける画期的な製品で、2月にはシカエクソソームやリコリスを配合したバージョンも登場する。日本にはあまり浸透していないこうしたスペシャルケアの重要性をさらに啓蒙していけば、まだまだ伸びる余地がある。ブラシブランドだと認識されることも多いが、スキンケアブランドであるという認知を拡大していくことが課題。5年以内にはブラシが3割、スキンケアが7割となる売り上げ構成比を目指す。

WWD:立ち上げ初期から3年間はアウトソーシングせず、カスタマー対応から各社ECサイトへの商品登録、広告運用、梱包まで全ての業務を1人でこなしていた。

茂住:だからこそ物流の流れ、一人一人の顧客データまで全てを把握することができ、ブランドを急成長させる上で強みとなった。通常輸入ブランドは日本市場での認知向上やローカライズが必要で、その回収に数年を要するものだが、当社のように適切なマーケティングと経営判断ができれば投資家を入れず3年未満で初期投資を回収、利益を生むことができることを実証できた。現在16カ国で展開する中、日本はアメリカ、香港に次ぐ3位まで売上高が一気に浮上しており、成熟した市場への参入にもかかわらず香港を凌ぐ勢いで成長していることは自分自身とブランドの自信になった。

WWD:25年に注力することは?

茂住:スキンケアの認知獲得に向け、お客さまとの接点をより増やしていく。23年冬に伊勢丹新宿本店地下2階のビューティアポセカリーで常設展開をスタートし、フェイシャルトリートメントサービスの提供も開始した。また第3フェーズとして今年中に直営店もオープンし、サロン展開とサプリメント販売を手掛けたい。私自身、北米で15年間暮らしていた間にサロン経営をしていたこと、そして薬の製造で知られる地元・富山に戻ってきた背景があり、メディカル事業が自分のルーツへの恩返しだと感じている。本国ではすでに完成しているサプリメントを日本で展開するためにも、まずは直営店を設け、薬剤師が常駐するサロン兼ドラッグストアでの展開にも取り組んでいく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『物流システムに革命を』

ブランド立ち上げ時に学んだ国内外の物流やロジスティックスのノウハウを生かし、日本の中小企業が導入できる低コストで無駄のない物流システムを構築したい。日本の製品の輸出を支援し、再び“世界に誇れる日本”にするのが私の夢。

COMPANY DATA
エイペックスコマース

2019年に設立。富山県に本社を構え、化粧品の製造・販売を手掛ける。肌悩みに寄り添い、肌の変化を追求するブランド「スノー フォックス スキンケア」の総代理店を務め、子育てをしながら女性が美しく活躍できる企業を目指す。徹底した内製化でコスト削減を図り、輸入、物流、広告運用、ECサイト運営、営業全てを最小限のスタッフで対応する。社内の英語化を推進し、輸出業や国内の医薬品製造業の取り扱いにも挑戦する


問い合わせ先
エイペックスコマース
076-413-8302

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【エイペックスコマース 茂住昌子CEO】女性に寄り添う製品力と確固たる信念でシェア獲得

PROFILE: 茂住昌子/CEO

茂住昌子/CEO
PROFILE: (もずみ・まさこ)1977年、富山県生まれ。富山国立工業専門学校を卒業後、化粧品企業の品質管理課で勤務。その後プログラマーに転身。26歳でカナダに渡り、映画業界での経験を積みながらサロンを経営。心と体の健康が真の美しさに直結することを実感し、北米各地でセラピストの講義を受講。その後、ニューヨークに移住し、大学に編入して児童心理学を専攻。渡航から15年を経て、出産を機に日本へ帰国。海外生活で得た日本の強みと課題を生かし、次女出産後に起業を決意。現在に至る PHOTO : HIROYA KIZAWA

富山県に本社を構えるエイペックスコマースは、オーストラリア発の自然派スキンケアブランド「スノー フォックス スキンケア」の日本総代理店を務め、公式サイト立ち上げからわずか3年で売上高は初年度比750%増と驚異的な成長を遂げた。同社を率いる茂住昌子CEOは、ブランド創業者であるフィービー・ソング氏との二人三脚で、日本市場での地位を急速に拡大している。

“カッサブラシ”とともに
スキンケア認知拡大へ

WWD:2024年は大躍進を遂げたが、未来への可能性をどう感じている?

茂住昌子CEO(以下、茂住):すでに成熟している日本のスキンケア市場に海外ブランドで新規参入することは非常にチャレンジングだったが、短期間で並外れた成長率とリピーター率を実現することができ、全てにおいて可能性を感じた1年だった。これほど急速にブランドが成長するとは予想していなかったが、この勢いそのままにさらなる成長を確信している。

WWD:急成長できた理由は?

茂住:「スノー フォックス スキンケア」を日本で立ち上げたのは21年のコロナ禍だった。消費者がオンラインで買い物することが多かったからこそEC販売で勝負したことで不利な状況を追い風に変えることができた。現在の売り上げは自社EC、アマゾン、楽天を含むECサイトが9割を占める。市場に参入した当初はSNSマーケティングは一切せず、製品を本当に気に入ってくれた美容家やロイヤルカスタマーの口コミだけで認知が急速に拡大していったのは、創業者のフィービーが酒さ(慢性的な皮膚疾患)に長年悩まされてきた実体験から植物療法と先端の植物由来原料をハイブリットに取り入れて開発した製品力が本物であるからに他ならない。フィービーは自身が出産を経たことで、産後の肌荒れやメンタルの不調など複雑に絡んだ女性の深い悩みにも寄り添ったモノ作りを徹底している。そんなブランドの信念と肌変化が多くのお客さまの心に響いていると実感している。

WWD:“カッサブラシ”がゲームチェンジャーとなった。

茂住:1万円以上と高価格帯であるにもかかわらず大変な反響をいただいている。特にウッドバージョンが登場してからはその勢いが増し、常に300個ほど予約待ちをいただいている状況。台湾の職人が一つ一つ手作りしているため現在供給が追いついていないが、2月には製造体制が整い、安定供給できるようになる。“カッサブラシ”は全体売り上げの6割を占め、事業の柱となっている。今後もブラッシュアップとシリーズの多角化を繰り返しながら骨太に育てていく。

WWD:スキンケアカテゴリーのポテンシャルは。

茂住:“カッサブラシ”を入り口にスキンケアに移行されるお客さまが増えてきた。そして実際にスキンケアアイテムを使用いただいたお客さまはリピート率60%と非常に高い。特に好評な高濃度のセラミドと植物性EGFをフリーズドライした“ブースター ボール”はセラムと併用すると、とろとろに溶ける画期的な製品で、2月にはシカエクソソームやリコリスを配合したバージョンも登場する。日本にはあまり浸透していないこうしたスペシャルケアの重要性をさらに啓蒙していけば、まだまだ伸びる余地がある。ブラシブランドだと認識されることも多いが、スキンケアブランドであるという認知を拡大していくことが課題。5年以内にはブラシが3割、スキンケアが7割となる売り上げ構成比を目指す。

WWD:立ち上げ初期から3年間はアウトソーシングせず、カスタマー対応から各社ECサイトへの商品登録、広告運用、梱包まで全ての業務を1人でこなしていた。

茂住:だからこそ物流の流れ、一人一人の顧客データまで全てを把握することができ、ブランドを急成長させる上で強みとなった。通常輸入ブランドは日本市場での認知向上やローカライズが必要で、その回収に数年を要するものだが、当社のように適切なマーケティングと経営判断ができれば投資家を入れず3年未満で初期投資を回収、利益を生むことができることを実証できた。現在16カ国で展開する中、日本はアメリカ、香港に次ぐ3位まで売上高が一気に浮上しており、成熟した市場への参入にもかかわらず香港を凌ぐ勢いで成長していることは自分自身とブランドの自信になった。

WWD:25年に注力することは?

茂住:スキンケアの認知獲得に向け、お客さまとの接点をより増やしていく。23年冬に伊勢丹新宿本店地下2階のビューティアポセカリーで常設展開をスタートし、フェイシャルトリートメントサービスの提供も開始した。また第3フェーズとして今年中に直営店もオープンし、サロン展開とサプリメント販売を手掛けたい。私自身、北米で15年間暮らしていた間にサロン経営をしていたこと、そして薬の製造で知られる地元・富山に戻ってきた背景があり、メディカル事業が自分のルーツへの恩返しだと感じている。本国ではすでに完成しているサプリメントを日本で展開するためにも、まずは直営店を設け、薬剤師が常駐するサロン兼ドラッグストアでの展開にも取り組んでいく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『物流システムに革命を』

ブランド立ち上げ時に学んだ国内外の物流やロジスティックスのノウハウを生かし、日本の中小企業が導入できる低コストで無駄のない物流システムを構築したい。日本の製品の輸出を支援し、再び“世界に誇れる日本”にするのが私の夢。

COMPANY DATA
エイペックスコマース

2019年に設立。富山県に本社を構え、化粧品の製造・販売を手掛ける。肌悩みに寄り添い、肌の変化を追求するブランド「スノー フォックス スキンケア」の総代理店を務め、子育てをしながら女性が美しく活躍できる企業を目指す。徹底した内製化でコスト削減を図り、輸入、物流、広告運用、ECサイト運営、営業全てを最小限のスタッフで対応する。社内の英語化を推進し、輸出業や国内の医薬品製造業の取り扱いにも挑戦する


問い合わせ先
エイペックスコマース
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【リノビューティー 田中誠太朗社長】美容領域から地方創生をハイブリッドに実現

PROFILE: 田中誠太朗/社長

田中誠太朗/社長
PROFILE: (たなか・せいたろう)原宿・青山・六本木のトップヘアサロンで経験を積み、俳優ら多くの著名人を担当する。サロンワークのほか、雑誌・CM・広告のヘアメイク、メディア出演や、大手化粧品メーカーでのセミナーなど多岐に渡って活動。2015年にリノビューティーを設立し、17年に会員制ビューティサロン「リノ801」を広尾にオープン。19年に「クロノシャルム」を発売し、ラグジュアリーホテルでのアメニティーにも採用。故郷である北海道を中心に地方創生に取り組む PHOTO : YOHEI KICHIRAKU

リノビューティーは、ライフスタイルブランド「クロノシャルム」を通じて地方創生に正面から取り組む注目の会社だ。宿泊施設との連携など化粧品にとらわれない新発想でさまざまなプロジェクトを仕掛ける。

将来的には海外外資系の
ホテルへの導入を目指す

WWD:まず会員制ビューティサロンの経緯は?

田中誠太朗社長(以下、田中):美容師として都内のトップサロンに勤務していた時は、多くの芸能人や経営者ら富裕層を担当させて頂いた。そこで感じたのが、そういったゲストは時間を無駄にしたくない、プライベートな空間が欲しいということ。それを受け2017年に完全個室でマンツーマンの会員制サロン「Reno 801(リノ801)」をオープンした。最高金額が「年間契約100万円」となっているが、ヘアサロンメニューだけでなくプロのメイクアップやスパも受けられ、プランによってはヘアスタイルに合わせてホームケア製品も提供する。「ゲストの時間を大切に守る」というのがサロンのコンセプトで、ゲストにはまるで自分の家にいるかのように使ってもらっている。ゲストの時間を大切に守るというのは、弊社の製品・サービス全てに通じる思想だ。

WWD:19年には「クロノシャルム」を発売した。

田中:サロンを立ち上げる時点でオリジナルブランドを作る構想はあり、製品開発に注力する計画だった。「Reno 801」のお客さまに自宅でもサロンのクオリティーを提供したい、来られない人にもそれを感じてほしいとの思いで作ったのが「クロノシャルム」。そのためサロンクオリティーとラグジュアリー感にこだわった。クロノ(chrono)は時間、シャルム(charme)は魅力を意味し、その人の時間に魅力を与えるというのがブランドメッセージだ。

WWD:原料には北海道余市町のブドウを採用している。

田中:「クロノシャルム」には「サステナビリティ」「地方創生」というコンセプトもある。僕の出身は北海道で、ラベンダー、ハッカ、昆布など良い原料があるにもかかわらず、お土産化粧品でしか使われていないことが多い。それをアップデートしたかった。同ブランドには余市町のワイナリーで醸造の際に廃棄されてしまう白ブドウの皮から抽出したクロノシャルディをコンセプト成分として採用している。人間には体内時計を動かす時計遺伝子が存在し、頭皮にも存在する。クロノシャルディはその時計遺伝子に表皮レベルで働きかけ、正常な状態へとサポートする働きがあることが期待されている。富裕層をターゲットにした製品としてワインは共通言語になり得るし、時間というコンセプトにもつながる。現在はその協力ワイナリーが生産する白ワインをブランドオリジナルの“クロシャルム ユメワイン”としてふるさと納税の返礼品にも出品している。

WWD:ホテルのアメニティーとしての採用も活発だ。

田中:ビューティ製品として販路を広げたりラインアップを拡大したりするのが成長のセオリーかもしれないが、われわれはライフスタイルブランドとしてラグジュアリーホテルのアメニティーを目標の一つとした。ブランドデビューから3カ月後にはニセコのラグジュアリーな宿泊施設「シグチ」でのアメニティー採用が決まった。また、23年には北海道日本ハムファイターズの本拠地となる北海道ボールパークFビレッジ内の「ヴィラ ブラマーレ」にも採用された。この2つはそれぞれ独自のフレグランスを「シグチコレクション」「ブラマーレコレクション」というホテルコレクションとして販売もしている。他にも全国8施設でオリジナルラインが採用されており(24年12月現在)、将来的には海外外資系ホテルへの導入を目指したい。

WWD:ブランドデビューから5年。売り上げの推移は?

田中:規模は大きくないが、毎年1.5倍のペースで伸びている。ただ、広告を打ったりインフルエンサーを起用したりして垂直立ち上げ型のビジネスモデルを作るつもりは全くなく、20年30年と続いていくブランドとなるよう価値を上げていきたい。もちろん製品の売り上げは伸ばしたいが、今後はブランドを体現するサービスにより注力したい。

WWD:ブランドを体現するサービスとは?

田中:第一歩として23年10月に「クロノシャルム リトリート ツーリズム」を開始した。弊社は宿泊施設に製品を卸して終わりではなく、そこに人を送り出すところまでが、美容領域からの地方創生への取り組みだと思っている。そのため、「クロノシャルム」のサイトから取引先のホテルの予約サイトにアクセスできる導線を設けている。また、宿泊施設とコラボレーションし、応募者の中から抽選で宿泊体験をプレゼントするキャンペーンを実施している。

WWD:25年の抱負は?

田中:「クロノシャルム リトリート ツーリズム」は単発のプレゼントキャンペーンではなく、それ自体で機能するべきだと考えている。今よりもさらに地域、宿泊施設との連携を強固なものとしていき、「クロノシャルム」というブランドを通じて旅に行きたいと思ってもらえるような仕組みを構築していきたい。僕の故郷は北海道ではあるが、地方創生は日本全国の話。“美容領域から地方創生”は弊社のミッションの一つなので、ブランドに関わっていただく全ての人たちに還元していくことを目指したい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『自社プロデュースのホテル開業』

サービスやインテリアの勉強も兼ねラグジュアリーホテルに宿泊することが増えた。その過程で、いつか「自分が理想とするホテルを開業したい」と夢を持つように。ビル一棟を、日本の自然や文化を感じられる場所として打ち出したい。

COMPANY DATA
リノビューティー

「だからあなたは美しい/so you’re beautiful」をコンセプトに掲げ、美容にまつわる事業を幅広い視野で考えるトータルビューティカンパニーとして2015年に設立。会員制ビューティサロン「リノ801」の運営をはじめ、ヘアメイクサービスの提供、オリジナルブランド「クロノシャルム」の製品開発や製品プロデュースを行う。地方自治体との取り組みに力を入れており、アップサイクルされた成分の使用や、宿泊施設やワイナリーとのコラボレーション、各自治体のふるさと納税への参加などを展開する


問い合わせ先
リノビューティー
info@renobeauty.jp

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【リノビューティー 田中誠太朗社長】美容領域から地方創生をハイブリッドに実現

PROFILE: 田中誠太朗/社長

田中誠太朗/社長
PROFILE: (たなか・せいたろう)原宿・青山・六本木のトップヘアサロンで経験を積み、俳優ら多くの著名人を担当する。サロンワークのほか、雑誌・CM・広告のヘアメイク、メディア出演や、大手化粧品メーカーでのセミナーなど多岐に渡って活動。2015年にリノビューティーを設立し、17年に会員制ビューティサロン「リノ801」を広尾にオープン。19年に「クロノシャルム」を発売し、ラグジュアリーホテルでのアメニティーにも採用。故郷である北海道を中心に地方創生に取り組む PHOTO : YOHEI KICHIRAKU

リノビューティーは、ライフスタイルブランド「クロノシャルム」を通じて地方創生に正面から取り組む注目の会社だ。宿泊施設との連携など化粧品にとらわれない新発想でさまざまなプロジェクトを仕掛ける。

将来的には海外外資系の
ホテルへの導入を目指す

WWD:まず会員制ビューティサロンの経緯は?

田中誠太朗社長(以下、田中):美容師として都内のトップサロンに勤務していた時は、多くの芸能人や経営者ら富裕層を担当させて頂いた。そこで感じたのが、そういったゲストは時間を無駄にしたくない、プライベートな空間が欲しいということ。それを受け2017年に完全個室でマンツーマンの会員制サロン「Reno 801(リノ801)」をオープンした。最高金額が「年間契約100万円」となっているが、ヘアサロンメニューだけでなくプロのメイクアップやスパも受けられ、プランによってはヘアスタイルに合わせてホームケア製品も提供する。「ゲストの時間を大切に守る」というのがサロンのコンセプトで、ゲストにはまるで自分の家にいるかのように使ってもらっている。ゲストの時間を大切に守るというのは、弊社の製品・サービス全てに通じる思想だ。

WWD:19年には「クロノシャルム」を発売した。

田中:サロンを立ち上げる時点でオリジナルブランドを作る構想はあり、製品開発に注力する計画だった。「Reno 801」のお客さまに自宅でもサロンのクオリティーを提供したい、来られない人にもそれを感じてほしいとの思いで作ったのが「クロノシャルム」。そのためサロンクオリティーとラグジュアリー感にこだわった。クロノ(chrono)は時間、シャルム(charme)は魅力を意味し、その人の時間に魅力を与えるというのがブランドメッセージだ。

WWD:原料には北海道余市町のブドウを採用している。

田中:「クロノシャルム」には「サステナビリティ」「地方創生」というコンセプトもある。僕の出身は北海道で、ラベンダー、ハッカ、昆布など良い原料があるにもかかわらず、お土産化粧品でしか使われていないことが多い。それをアップデートしたかった。同ブランドには余市町のワイナリーで醸造の際に廃棄されてしまう白ブドウの皮から抽出したクロノシャルディをコンセプト成分として採用している。人間には体内時計を動かす時計遺伝子が存在し、頭皮にも存在する。クロノシャルディはその時計遺伝子に表皮レベルで働きかけ、正常な状態へとサポートする働きがあることが期待されている。富裕層をターゲットにした製品としてワインは共通言語になり得るし、時間というコンセプトにもつながる。現在はその協力ワイナリーが生産する白ワインをブランドオリジナルの“クロシャルム ユメワイン”としてふるさと納税の返礼品にも出品している。

WWD:ホテルのアメニティーとしての採用も活発だ。

田中:ビューティ製品として販路を広げたりラインアップを拡大したりするのが成長のセオリーかもしれないが、われわれはライフスタイルブランドとしてラグジュアリーホテルのアメニティーを目標の一つとした。ブランドデビューから3カ月後にはニセコのラグジュアリーな宿泊施設「シグチ」でのアメニティー採用が決まった。また、23年には北海道日本ハムファイターズの本拠地となる北海道ボールパークFビレッジ内の「ヴィラ ブラマーレ」にも採用された。この2つはそれぞれ独自のフレグランスを「シグチコレクション」「ブラマーレコレクション」というホテルコレクションとして販売もしている。他にも全国8施設でオリジナルラインが採用されており(24年12月現在)、将来的には海外外資系ホテルへの導入を目指したい。

WWD:ブランドデビューから5年。売り上げの推移は?

田中:規模は大きくないが、毎年1.5倍のペースで伸びている。ただ、広告を打ったりインフルエンサーを起用したりして垂直立ち上げ型のビジネスモデルを作るつもりは全くなく、20年30年と続いていくブランドとなるよう価値を上げていきたい。もちろん製品の売り上げは伸ばしたいが、今後はブランドを体現するサービスにより注力したい。

WWD:ブランドを体現するサービスとは?

田中:第一歩として23年10月に「クロノシャルム リトリート ツーリズム」を開始した。弊社は宿泊施設に製品を卸して終わりではなく、そこに人を送り出すところまでが、美容領域からの地方創生への取り組みだと思っている。そのため、「クロノシャルム」のサイトから取引先のホテルの予約サイトにアクセスできる導線を設けている。また、宿泊施設とコラボレーションし、応募者の中から抽選で宿泊体験をプレゼントするキャンペーンを実施している。

WWD:25年の抱負は?

田中:「クロノシャルム リトリート ツーリズム」は単発のプレゼントキャンペーンではなく、それ自体で機能するべきだと考えている。今よりもさらに地域、宿泊施設との連携を強固なものとしていき、「クロノシャルム」というブランドを通じて旅に行きたいと思ってもらえるような仕組みを構築していきたい。僕の故郷は北海道ではあるが、地方創生は日本全国の話。“美容領域から地方創生”は弊社のミッションの一つなので、ブランドに関わっていただく全ての人たちに還元していくことを目指したい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『自社プロデュースのホテル開業』

サービスやインテリアの勉強も兼ねラグジュアリーホテルに宿泊することが増えた。その過程で、いつか「自分が理想とするホテルを開業したい」と夢を持つように。ビル一棟を、日本の自然や文化を感じられる場所として打ち出したい。

COMPANY DATA
リノビューティー

「だからあなたは美しい/so you’re beautiful」をコンセプトに掲げ、美容にまつわる事業を幅広い視野で考えるトータルビューティカンパニーとして2015年に設立。会員制ビューティサロン「リノ801」の運営をはじめ、ヘアメイクサービスの提供、オリジナルブランド「クロノシャルム」の製品開発や製品プロデュースを行う。地方自治体との取り組みに力を入れており、アップサイクルされた成分の使用や、宿泊施設やワイナリーとのコラボレーション、各自治体のふるさと納税への参加などを展開する


問い合わせ先
リノビューティー
info@renobeauty.jp

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【メディプラス 内田恭平 社長】「オゾン化グリセリン」を人々の暮らしに役立てたい

PROFILE: 内田恭平/社長

内田恭平/社長
PROFILE: (うちだ・きょうへい)1992年ポーラ化粧品本舗入社。営業、製品開発を経てポーラのBtoB事業部の西日本部長、11年にポーラ・オルビスホールディングス広報IR室長、12年にオルラーヌジャポン代表取締役に就任。退職後、17年ニッピコラーゲン化粧品に常務取締役として入社。23年9月から現職 PHOTO:SHUHEI SHINE

2024年は、ロングセラーの“メディプラスゲル”をはじめ、基幹製品群に独自技術による「オゾン化グリセリン※」を新配合してフルリニューアル。順調な滑り出しによって2期連続増収増益を達成した。内田恭平社長は、敏感肌悩みに寄り添ってきた経営理念、研究力、製品力をさらに光らせるべく、CRM(顧客関係強化)の磨き上げに力を入れる。 ※整肌成分

「肌悩みから解放してあげたい」
妥協なき品質へのこだわり

WWD:昨年を振り返って。

内田恭平社長(以下、内田):“オゾン化グリセリン”を配合した主力スキンケアのリニューアルが無事に滑り出し、まずはほっとしている。原価の兼ね合いでどうしても値上げせざるを得ず、多少の離反はあったものの、特に2300万本以上のシリーズ販売実績がある中でも主力のオールインワンゲル状美容液“メディプラスゲル”(180g、4400円)は長年ご愛用くださっているファンも多く、売り上げ動向に大きな影響はなかった。新客も獲得できたことで、差し引きでは伸長している。

WWD:「オゾン化グリセリン」とは。

内田:当社の特許技術「オゾネーション」でオゾンとグリセリンを化合させたもの。医療の現場でも使われるオゾンに着目し、安定性のあるグリセリンと組み合わせた保水力に優れた成分だ。これを洗顔料の“ウォッシュムース”、“クレンジングミルク”、日焼け止めの“UVミルキーゲル”にも配合し、オゾン化グリセリンを使ったトータルステップケアができるようになった。
さらに昨年末にはリップケアに特化した“リペアリップパック”、今年1月には“メディプラスゲル”の2.5倍量のオゾン化グリセリンを配合した“メディプラスゲルコンク”を発売した。これから投入を予定しているミスト化粧水も積極的にプロモーションしていく。

WWD:社長就任から1年4カ月。自社の強みをどう分析するか。

内田:創業者の恒吉(明美会長)から受け継がれている、妥協のない製品へのこだわり。恒吉自身が肌悩みを抱えており、同じような悩みを持つ人の心の浮き沈みを知っている。敏感肌の人は、肌が刺激を感じた時に「ちりちり」という音が肌から聞こえるという。恒吉は、この「ちりちり」から1人でも多くの人が解放されるように、という一心で製品を作り続けている。

そんな熱量が、スキンケアの魂である「官能評価」へのこだわりに表れている。つまりテクスチャーのことだ。“メディプラスゲルコンク”の開発過程では私も恒吉と一緒になって製品評価を行ったが、彼女はサンプルを手に取り、拭き取って、また手に取ってと、納得するまで何度もやり直していた。作ったサンプル数は60を超えた。私も長らく化粧品メーカーでのキャリアを積んできたが、これは一般的な化粧品開発ではあり得ない数だ。それでも徹底して、納得いくまでこだわり続ける姿勢こそが、このブランドの他にはない価値を作っているのだと思う。そんな創業者の姿を見れば、現場も本気になるに決まっている。

WWD:D2Cのビジネスモデルも特徴だ。

内田:「オゾン化グリセリン」をキーにさらなるブランドの認知拡大を図りながらも、顧客満足を追求することが私のミッション。CRM(顧客関係管理)が肝要だ。かつて当社は2007年に通販事業に参入すると、一気にシェアを広げ、10年足らずで売上高80億円まで拡大した。入社してから当時のデータを見てみたら、1年で25万人もの新客をとったが、リピートにつなげられず、翌年継続した方は半分だった。お客さまと距離が近いビジネスだからこそ、化粧品を作って売るだけではダメだ。お客さまにお届けする製品梱包に一筆添えたり、必要なときに必要な情報をパーソナライズされたメルマガでお届けしたりと、きめ細やかな心遣いや温度感のあるコミュニケーションが大事だと思っている。まずCRMをしっかりと支える社内制度、体制、ヒトがベースにあって、その上でマーケティングとブランディングを乗っけていく。でないと一過性のブームで終わってしまうし、売れ続ける組織にはなれない。

WWD:25年8月期の見通しは?

内田:前期比8%増の48億5000万円を計画している。トップライン(売上高)を狙っていくよりも、お客さまの満足度やリピート率といった“中身”のクオリティーを重視している。新規獲得率は順調に伸びているため、既存のユーザーがもっと満足するような制度や仕組み作りに注力したい。誰よりも、社員がメディプラスの製品の一番のファンであり、魅力の体現者でなければいけないと思っているから、社員一人一人の愛着心が滲み出るようなブランディング戦略を考えていく。

WWD:未来に向けた可能性は?

内田:今までは敏感肌や肌がゆらぎやすい人たちに寄り添うブランドを目指してきたが、「オゾン化グリセリン」の可能性はこれにとどまらない。これからはライフスタイルにも入り込んでいきたいし、肌だけではなく体のさまざまな部位やインナービューティにも業容を広げながら、人々のよりよい暮らしに貢献していきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『75歳までサーフィン』

サーフィンが趣味。お供はもちろん“UV ミルキーゲル”。来年は還暦を迎えるけれど、できれば75歳ぐらいまで続けたい。そのためには体力だけでなく精神も鍛えておかなければ。年々、冬の海の寒さが堪えるようになってきたので(笑)。

COMPANY DATA
メディプラス

2003年創業。幼少期より敏感肌に悩まされてきた創業者の恒吉明美氏が、自らの肌を実験台にスキンケア開発に着手。試行錯誤の末、エコー用のジェルに着想を得てゲル状スキンケア化粧品“メディプラスゲル”を完成させた。通販化粧品会社としてシェアを伸ばし、資金ゼロから売上高80億円を超えるブランドに成長させた。23年にはグループ会社のメディプラス製薬が特許を持つ独自成分「オゾン化グリセリン」を配合した製品を打ち出し、“悩みのない肌作り”を実現するブランドへ飛躍


問い合わせ先
メディプラス
0120-34-8748

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【メディプラス 内田恭平 社長】「オゾン化グリセリン」を人々の暮らしに役立てたい

PROFILE: 内田恭平/社長

内田恭平/社長
PROFILE: (うちだ・きょうへい)1992年ポーラ化粧品本舗入社。営業、製品開発を経てポーラのBtoB事業部の西日本部長、11年にポーラ・オルビスホールディングス広報IR室長、12年にオルラーヌジャポン代表取締役に就任。退職後、17年ニッピコラーゲン化粧品に常務取締役として入社。23年9月から現職 PHOTO:SHUHEI SHINE

2024年は、ロングセラーの“メディプラスゲル”をはじめ、基幹製品群に独自技術による「オゾン化グリセリン※」を新配合してフルリニューアル。順調な滑り出しによって2期連続増収増益を達成した。内田恭平社長は、敏感肌悩みに寄り添ってきた経営理念、研究力、製品力をさらに光らせるべく、CRM(顧客関係強化)の磨き上げに力を入れる。 ※整肌成分

「肌悩みから解放してあげたい」
妥協なき品質へのこだわり

WWD:昨年を振り返って。

内田恭平社長(以下、内田):“オゾン化グリセリン”を配合した主力スキンケアのリニューアルが無事に滑り出し、まずはほっとしている。原価の兼ね合いでどうしても値上げせざるを得ず、多少の離反はあったものの、特に2300万本以上のシリーズ販売実績がある中でも主力のオールインワンゲル状美容液“メディプラスゲル”(180g、4400円)は長年ご愛用くださっているファンも多く、売り上げ動向に大きな影響はなかった。新客も獲得できたことで、差し引きでは伸長している。

WWD:「オゾン化グリセリン」とは。

内田:当社の特許技術「オゾネーション」でオゾンとグリセリンを化合させたもの。医療の現場でも使われるオゾンに着目し、安定性のあるグリセリンと組み合わせた保水力に優れた成分だ。これを洗顔料の“ウォッシュムース”、“クレンジングミルク”、日焼け止めの“UVミルキーゲル”にも配合し、オゾン化グリセリンを使ったトータルステップケアができるようになった。
さらに昨年末にはリップケアに特化した“リペアリップパック”、今年1月には“メディプラスゲル”の2.5倍量のオゾン化グリセリンを配合した“メディプラスゲルコンク”を発売した。これから投入を予定しているミスト化粧水も積極的にプロモーションしていく。

WWD:社長就任から1年4カ月。自社の強みをどう分析するか。

内田:創業者の恒吉(明美会長)から受け継がれている、妥協のない製品へのこだわり。恒吉自身が肌悩みを抱えており、同じような悩みを持つ人の心の浮き沈みを知っている。敏感肌の人は、肌が刺激を感じた時に「ちりちり」という音が肌から聞こえるという。恒吉は、この「ちりちり」から1人でも多くの人が解放されるように、という一心で製品を作り続けている。

そんな熱量が、スキンケアの魂である「官能評価」へのこだわりに表れている。つまりテクスチャーのことだ。“メディプラスゲルコンク”の開発過程では私も恒吉と一緒になって製品評価を行ったが、彼女はサンプルを手に取り、拭き取って、また手に取ってと、納得するまで何度もやり直していた。作ったサンプル数は60を超えた。私も長らく化粧品メーカーでのキャリアを積んできたが、これは一般的な化粧品開発ではあり得ない数だ。それでも徹底して、納得いくまでこだわり続ける姿勢こそが、このブランドの他にはない価値を作っているのだと思う。そんな創業者の姿を見れば、現場も本気になるに決まっている。

WWD:D2Cのビジネスモデルも特徴だ。

内田:「オゾン化グリセリン」をキーにさらなるブランドの認知拡大を図りながらも、顧客満足を追求することが私のミッション。CRM(顧客関係管理)が肝要だ。かつて当社は2007年に通販事業に参入すると、一気にシェアを広げ、10年足らずで売上高80億円まで拡大した。入社してから当時のデータを見てみたら、1年で25万人もの新客をとったが、リピートにつなげられず、翌年継続した方は半分だった。お客さまと距離が近いビジネスだからこそ、化粧品を作って売るだけではダメだ。お客さまにお届けする製品梱包に一筆添えたり、必要なときに必要な情報をパーソナライズされたメルマガでお届けしたりと、きめ細やかな心遣いや温度感のあるコミュニケーションが大事だと思っている。まずCRMをしっかりと支える社内制度、体制、ヒトがベースにあって、その上でマーケティングとブランディングを乗っけていく。でないと一過性のブームで終わってしまうし、売れ続ける組織にはなれない。

WWD:25年8月期の見通しは?

内田:前期比8%増の48億5000万円を計画している。トップライン(売上高)を狙っていくよりも、お客さまの満足度やリピート率といった“中身”のクオリティーを重視している。新規獲得率は順調に伸びているため、既存のユーザーがもっと満足するような制度や仕組み作りに注力したい。誰よりも、社員がメディプラスの製品の一番のファンであり、魅力の体現者でなければいけないと思っているから、社員一人一人の愛着心が滲み出るようなブランディング戦略を考えていく。

WWD:未来に向けた可能性は?

内田:今までは敏感肌や肌がゆらぎやすい人たちに寄り添うブランドを目指してきたが、「オゾン化グリセリン」の可能性はこれにとどまらない。これからはライフスタイルにも入り込んでいきたいし、肌だけではなく体のさまざまな部位やインナービューティにも業容を広げながら、人々のよりよい暮らしに貢献していきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『75歳までサーフィン』

サーフィンが趣味。お供はもちろん“UV ミルキーゲル”。来年は還暦を迎えるけれど、できれば75歳ぐらいまで続けたい。そのためには体力だけでなく精神も鍛えておかなければ。年々、冬の海の寒さが堪えるようになってきたので(笑)。

COMPANY DATA
メディプラス

2003年創業。幼少期より敏感肌に悩まされてきた創業者の恒吉明美氏が、自らの肌を実験台にスキンケア開発に着手。試行錯誤の末、エコー用のジェルに着想を得てゲル状スキンケア化粧品“メディプラスゲル”を完成させた。通販化粧品会社としてシェアを伸ばし、資金ゼロから売上高80億円を超えるブランドに成長させた。23年にはグループ会社のメディプラス製薬が特許を持つ独自成分「オゾン化グリセリン」を配合した製品を打ち出し、“悩みのない肌作り”を実現するブランドへ飛躍


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【エスヴィータ 篠﨑祥子代表取締役】再生医療着想のメーカー事業で外商ブランドとしての地位確立へ

PROFILE: 篠﨑祥子/代表取締役

篠﨑祥子/代表取締役
PROFILE: (しのざき・しょうこ)2006年に大手外資系化粧品メーカーでキャリアをスタートし、国内化粧品メーカーなどで約16年にわたり広報やマーケティングを担当。16年7月から現職。単純なPR代行で終わらず、ブランド力アップにつながる戦略的なPRから製品作り、ブランド立ち上げ、販路拡大までサポート。リレーションにもしっかり時間をかけ結果につなげる手腕は業界内で高い評価を得ている PHOTO : TOYOTA KAZUSHI

エスヴィータはメーカーとコンサル・PR業務、美容医療クリニック経営の3つの顔を持つ。昨年ローンチした完全オーダーメードスキンケアや、プレミアムスキンケアブランドを発展させ、3事業のワンストップ型ビジネスモデルの確立を目指す。

3事業のワンストップ型ビジネスモデルを確立

WWD:2024年は、長年思い描いていた化粧品メーカーとしての夢が実現した。

篠﨑祥子代表取締役(以下、篠﨑):世界初となるiPS細胞を用いた完全オーダーメードスキンケア「イプシア(IPSYA)」とプレミアムスキンケアブランド「テウズ(TEUDU)」を展開した。24年11月発売の「テウズ」は高価格帯であることを踏まえ、製品特性やバックグラウンドをしっかり伝えるために、プレ販売会やお披露目会、メディア発表会、インフルエンサー向けのイベント、一般のお客さま向けのイベントなど、発売日まで毎月のように戦略的に施策を重ねた。富裕層向けのメディアを中心に数多く取り上げていただけたほか、三越日本橋本店では1週間のポップアップイベントを開催できた。「売り上げと新たな客層を獲得できた」とバイヤーからも高評価を得ることができ、順調な滑り出しだった。

WWD:ターゲット層にリーチできたか?

篠﨑:美容感度の高い人や、日常的に上質なものに触れている外商のお客さまからの反響が高く安堵した。外商ビジネスに長けた三越日本橋本店との相性がよかったことも勝因だったと考えている。

WWD:「イプシア」は完全オーダーメードスキンケアのため、一般的なスキンケアと比べ価格帯のケタも違う。購買層は限られるが、現段階での動きは?

篠﨑:7月に受注販売で提供を開始したが、すでに7人のお客さまからお申し込みをいただいている。単純にオーダーメードコスメに興味を持っているというよりは、根本から美や健やかさを目指したいというように先端医療への関心が高い人が多い印象だ。

WWD:両ブランドの店舗展開は?

篠﨑:まずは「外商ブランド」という位置付けに持っていきたい。9月から施策を重ねているが、徐々に広がりを見せてきている。外商部からの反応も上々だ。現状は三越日本橋本店と東急百貨店で展開しており、伊勢丹新宿本店でも5月から展開予定だ。関西も視野に入れている。価格帯的にECで大きな収益を上げるようなブランドではないため、情報発信基地のような機能を持つ場所の必要性も感じている。実際に製品に触れ、われわれの思いやストーリーを体験していただけるような旗艦店を2〜3年以内に作りたい。

WWD:海外での展開は?

篠﨑:「イプシア」は、海外のお客さまが見込めるサービスだと思っている。現状は日本でしか厳重な管理体制でiPS細胞を作成できないため、運営する椿クリニックを活用し医療ツーリズムという形での展開を考えている。

WWD:これまではコンサル・PR業務とクリニック運営を主軸にしてきた。このタイミングでメーカーとしての機能を持つようになった経緯は?

篠﨑:化粧品メーカーでキャリアをスタートしたが、肌にとってよいものを追求していくとプロモーションやトレンド成分の処方だけでは限界があると感じていた。そこに向き合い、真の美と健康を伝えたいという思いがずっとあり、水面下で研究や構想を重ねてきた。「これだ!」という確信と、それを実現するための技術と特許がクリアになり、ようやく動き出すことができた。クライアントには意思表明をした上でご理解があり、契約を継続していただいている。自社工場を持つクライアントからは「『テウズ』をうちで作らないか」と声をかけていただくなど、よい関係を保っている。

WWD:売り上げの構成比は?

篠﨑:コンサル事業の割合が最も大きく、PR事業と合わせて6割程度。ここでプールした収益を「イプシア」や「テウズ」の開発などに充てている。ブランド事業は市場としてはまだ小さい。今は投資段階だが、「テウズ」を入り口に「イプシア」につなげられるようなビジネスモデルを徐々に確立し、ブランド事業の割合が最大になるように注力する。また「イプシア」のお客さまは、共同経営している椿クリニックでの審査を通しているため、クリニックも巻き込んだワンストップ型のビジネスモデルも見据えている。

WWD:コンサル事業とPR事業の展望は?

篠﨑:積極的に新規の案件を取ったり、営業をかけたりすることはあまり考えていない。既存のクライアントとの関係性を深掘りし、より発展性のあるプランを提案していくことが重要だ。

WWD:未来に見据える可能性は?

篠﨑:これからさらに医療と美容の垣根がなくなっていくと感じており、「イプシア」はこうした潮流を受けて、ますます需要が増すのではないか。加えて、弊社が積み上げてきた地産地消のモノ作り、本当の意味での循環型という可能性が、ブランドをより発展させていくだろうと期待している。地元の岩手県一関市への地域貢献や雇用の創出、化粧品の量り売りなども実現に向けて考えていきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『猫と自給自足生活』

自然豊かな田園風景が広がる岩手県出身で、自給自足が珍しくない環境で育った。「いつか自分で食べるものを全て自分で作れたら」という思いがずっとある。猫と一緒にのんびりと、お米や野菜を育てながら暮らしてみたい!

COMPANY DATA
エスヴィータ

化粧品の戦略PR企画やEC事業、美容医療クリニック運営などを手掛けるワンストップ型の美容・健康コンサルティング会社。社名は「サステナビリティ・ファースト」と「サーキュラーエコノミー」の頭文字であるS、命や生き方という意味を持つVITAに由来し、サステナビリティや地域貢献にも力を注ぐ。昨年は完全オーダーメードスキンケア「イプシア」と、プレミアムスキンケアブランド「テウズ」を立ち上げ、化粧品メーカーとして事業を拡大

TEXT : NAOMI SAKAI
問い合わせ先
エスヴィータ
0120-623-722

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【エスヴィータ 篠﨑祥子代表取締役】再生医療着想のメーカー事業で外商ブランドとしての地位確立へ

PROFILE: 篠﨑祥子/代表取締役

篠﨑祥子/代表取締役
PROFILE: (しのざき・しょうこ)2006年に大手外資系化粧品メーカーでキャリアをスタートし、国内化粧品メーカーなどで約16年にわたり広報やマーケティングを担当。16年7月から現職。単純なPR代行で終わらず、ブランド力アップにつながる戦略的なPRから製品作り、ブランド立ち上げ、販路拡大までサポート。リレーションにもしっかり時間をかけ結果につなげる手腕は業界内で高い評価を得ている PHOTO : TOYOTA KAZUSHI

エスヴィータはメーカーとコンサル・PR業務、美容医療クリニック経営の3つの顔を持つ。昨年ローンチした完全オーダーメードスキンケアや、プレミアムスキンケアブランドを発展させ、3事業のワンストップ型ビジネスモデルの確立を目指す。

3事業のワンストップ型ビジネスモデルを確立

WWD:2024年は、長年思い描いていた化粧品メーカーとしての夢が実現した。

篠﨑祥子代表取締役(以下、篠﨑):世界初となるiPS細胞を用いた完全オーダーメードスキンケア「イプシア(IPSYA)」とプレミアムスキンケアブランド「テウズ(TEUDU)」を展開した。24年11月発売の「テウズ」は高価格帯であることを踏まえ、製品特性やバックグラウンドをしっかり伝えるために、プレ販売会やお披露目会、メディア発表会、インフルエンサー向けのイベント、一般のお客さま向けのイベントなど、発売日まで毎月のように戦略的に施策を重ねた。富裕層向けのメディアを中心に数多く取り上げていただけたほか、三越日本橋本店では1週間のポップアップイベントを開催できた。「売り上げと新たな客層を獲得できた」とバイヤーからも高評価を得ることができ、順調な滑り出しだった。

WWD:ターゲット層にリーチできたか?

篠﨑:美容感度の高い人や、日常的に上質なものに触れている外商のお客さまからの反響が高く安堵した。外商ビジネスに長けた三越日本橋本店との相性がよかったことも勝因だったと考えている。

WWD:「イプシア」は完全オーダーメードスキンケアのため、一般的なスキンケアと比べ価格帯のケタも違う。購買層は限られるが、現段階での動きは?

篠﨑:7月に受注販売で提供を開始したが、すでに7人のお客さまからお申し込みをいただいている。単純にオーダーメードコスメに興味を持っているというよりは、根本から美や健やかさを目指したいというように先端医療への関心が高い人が多い印象だ。

WWD:両ブランドの店舗展開は?

篠﨑:まずは「外商ブランド」という位置付けに持っていきたい。9月から施策を重ねているが、徐々に広がりを見せてきている。外商部からの反応も上々だ。現状は三越日本橋本店と東急百貨店で展開しており、伊勢丹新宿本店でも5月から展開予定だ。関西も視野に入れている。価格帯的にECで大きな収益を上げるようなブランドではないため、情報発信基地のような機能を持つ場所の必要性も感じている。実際に製品に触れ、われわれの思いやストーリーを体験していただけるような旗艦店を2〜3年以内に作りたい。

WWD:海外での展開は?

篠﨑:「イプシア」は、海外のお客さまが見込めるサービスだと思っている。現状は日本でしか厳重な管理体制でiPS細胞を作成できないため、運営する椿クリニックを活用し医療ツーリズムという形での展開を考えている。

WWD:これまではコンサル・PR業務とクリニック運営を主軸にしてきた。このタイミングでメーカーとしての機能を持つようになった経緯は?

篠﨑:化粧品メーカーでキャリアをスタートしたが、肌にとってよいものを追求していくとプロモーションやトレンド成分の処方だけでは限界があると感じていた。そこに向き合い、真の美と健康を伝えたいという思いがずっとあり、水面下で研究や構想を重ねてきた。「これだ!」という確信と、それを実現するための技術と特許がクリアになり、ようやく動き出すことができた。クライアントには意思表明をした上でご理解があり、契約を継続していただいている。自社工場を持つクライアントからは「『テウズ』をうちで作らないか」と声をかけていただくなど、よい関係を保っている。

WWD:売り上げの構成比は?

篠﨑:コンサル事業の割合が最も大きく、PR事業と合わせて6割程度。ここでプールした収益を「イプシア」や「テウズ」の開発などに充てている。ブランド事業は市場としてはまだ小さい。今は投資段階だが、「テウズ」を入り口に「イプシア」につなげられるようなビジネスモデルを徐々に確立し、ブランド事業の割合が最大になるように注力する。また「イプシア」のお客さまは、共同経営している椿クリニックでの審査を通しているため、クリニックも巻き込んだワンストップ型のビジネスモデルも見据えている。

WWD:コンサル事業とPR事業の展望は?

篠﨑:積極的に新規の案件を取ったり、営業をかけたりすることはあまり考えていない。既存のクライアントとの関係性を深掘りし、より発展性のあるプランを提案していくことが重要だ。

WWD:未来に見据える可能性は?

篠﨑:これからさらに医療と美容の垣根がなくなっていくと感じており、「イプシア」はこうした潮流を受けて、ますます需要が増すのではないか。加えて、弊社が積み上げてきた地産地消のモノ作り、本当の意味での循環型という可能性が、ブランドをより発展させていくだろうと期待している。地元の岩手県一関市への地域貢献や雇用の創出、化粧品の量り売りなども実現に向けて考えていきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『猫と自給自足生活』

自然豊かな田園風景が広がる岩手県出身で、自給自足が珍しくない環境で育った。「いつか自分で食べるものを全て自分で作れたら」という思いがずっとある。猫と一緒にのんびりと、お米や野菜を育てながら暮らしてみたい!

COMPANY DATA
エスヴィータ

化粧品の戦略PR企画やEC事業、美容医療クリニック運営などを手掛けるワンストップ型の美容・健康コンサルティング会社。社名は「サステナビリティ・ファースト」と「サーキュラーエコノミー」の頭文字であるS、命や生き方という意味を持つVITAに由来し、サステナビリティや地域貢献にも力を注ぐ。昨年は完全オーダーメードスキンケア「イプシア」と、プレミアムスキンケアブランド「テウズ」を立ち上げ、化粧品メーカーとして事業を拡大

TEXT : NAOMI SAKAI
問い合わせ先
エスヴィータ
0120-623-722

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【ココチコスメ 森本俊樹CEO】日本発ブランドを再構築 旗艦店を活用し世界に発信

PROFILE: 森本俊樹/CEO

森本俊樹/CEO
PROFILE: (もりもと・としき)1980年生まれ。2006年に大学卒業後、プロクター・アンド・ギャンブルに入社し「SK-II」を担当。消費者・市場インサイトの理解を基に、ブランドの戦略策定や商品ポートフォリオのリニューアルなどのプロジェクトに参画。LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトンやコンパニー フィナンシエール リシュモンでブランドマーケティング統括責任者を経験したのち、「日本発信のブランド創りに貢献したい」という思いの下で23年5月現職に着任。趣味はランニングと登山 PHOTO : SHUNICHI ODA

中国で人気に火がつき逆輸入という形で存在感を高めている「ココチ(COCOCHI)」は、日本発のブランドとしてポジショニングを再構築中だ。2023年にパーパスを「肌が、わたしを織りなしていく」と定め、ブランドが向かう先を明確にした。24年はそれを体現する旗艦店のオープンと主力商品のリニューアルでブランドの認知向上に努めた。25年は顧客との関係をさらに深め、次なるステージへと向かう。

日本発のブランドとして
さらなる認知拡大を目指す

WWD:ブランドの設立から中国市場での成功までをどのように振り返る?

森本俊樹CEO(以下、森本):日本のブランドの魅力を世界に届けたいという思いから、2017年に設立した。同志社大学と抗糖化の研究を行い、独自原料Orimos(オリモス)®を配合した製品を届けている。18〜19年ごろに来日した中国の美容家の目に留まったことが転機だった。中国ですでに注目されていた糖化にアプローチする素晴らしい日本の製品があるとSNSで発信してもらえたことで、中国を中心に爆発的な人気が出た。国別売上高構成比では約80%を中華圏が占める。次いで日本などだ。

WWD:コロナ禍に観光客が減少したことの影響は?

森本:訪日客率が高いブランドなので、コロナ禍を生き抜くのは大変だった。ただ中華圏ではスキンケアにこだわる傾向がより高まった時期でもあったため、SNSでのライブ配信やデジタル広告、ECでの販売を強化したことで、同地域の売上高は堅調に推移した。海外での根強い人気に支えられ、2ケタ成長を続けている。

WWD:ブランドの課題は?

森本:あらためて日本のブランドとしてのポジショニングを確立することだ。23年はデジタル広告を中心に認知拡大を図ったが、市場の競争は非常に激しく、成果を効率的に上げることが難しかった。一方で訪日客が戻ってくるにつれて、日本人の売り上げが伸び始めた。同年後半以降、羽田や成田、関西国際などの空港免税店で、売り場面積や製品を拡大・拡充することができた。

WWD:課題に対処するための取り組みは?

森本:23年に社員全員を巻き込んで、ブランドの世界観やDNAを見つめ直し、パーパスを再定義した。忙しい日常においても、スキンケアをするときには自分自身を慈しむ心地よい時間を大切にしてほしいと提案している。

WWD:24年はどのような年だったか?

森本:4月の旗艦店オープンは、ブランドとして大きな一歩だった。23年のデジタル広告施策の学びから、言葉やビジュアルだけでは伝わらない、実感を伴った体験を提供していきたいという思いが強まったことが発端だ。3階建ての空間を生かして、「抗糖化の館」を構想した。1階では黄金色の竹林をイメージした空間でスキンケア製品を販売し、外側から自身の肌と向き合ってもらう。2階のティーハウスでは、内側からのケアに着目したお茶と甘味を提供する。3階のリラクゼーションラウンジでは、五感を通して心をケアするプログラムを用意している。

WWD:旗艦店の反響は?

森本:来店客数は秋ごろから増加傾向にある。1階の売り場は既存顧客含め訪日客の割合が50%を超えるが、2階のティーハウスには「ココチ」を知らない日本人のお客さまも多く訪れており、ブランドを知ってもらうよいきっかけになっている。どのような形であれ「ココチ」に出合ってくれたお客さまに、ブランドのことをより知ってもらう施策を強化していく。

WWD:9月には人気の洗い流すタイプのクリームマスクをリニューアルし、“ココチ AG グローイング エッセンス クリーム マスク”(エッセンスクリーム20g、エッセンスマスク90g、6600円)を発売した。

森本:世界で累計740万個(2021年5月〜24年10月、ココチコスメ調べ)を出荷する主力商品だ。これまでで最大のリニューアルで、黄ぐすみにアプローチするオリモス®をアップグレードし、抗糖化をより強く感じられる設計に変更した。日本での導入はこれからだが、レフィル可能なパッケージを採用したほか、お客さまからの声を反映し、より使いやすい形状に改良した。リニューアルを機に、「アットコスメトーキョー(@cosme TOKYO)」と「アットコスメオーサカ(@cosme OSAKA)」でポップアップを開催したが、大阪では特設売り場で非常に好調な売り上げを記録するなど、ブランドの伸び代を感じた。

WWD:25年に注力することは?

森本:お客さまとの関係を深める一年にしたい。旗艦店を活用し、コミュニティー形成やメディア発信を強める計画だ。既存商品で高まる訪日客需要にアプローチしつつ、日本人に向けた新シリーズの展開も視野に入れるなど攻勢を続け、2ケタ成長を維持する。

WWD:未来に見据える可能性は?

森本:まずは旗艦店に足を運んでくださったお客さまに「ココチ」のことをより深く理解してもらい、好きになってもらえるよう取り組む。そして旗艦店の外でも「ココチ」を気にかけてもらい、再来店や発信につながる仕掛けやサービスを開発していく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『365日、“ここちいい”人生を送りたい』

“ここちいい”人生を送るためには自分を知り、多様な心地よさを体験してみるべきだと考えている。趣味の登山ではこれまで日本アルプスを堪能する機会が多かったので、海外のより高い山やまだ知らない山にも挑戦し、新しい心地よさを見つけたい。

COMPANY DATA
ココチコスメ

日本発のスキンケアブランド「ココチ」は、「スキンケアは信頼できる確かなサイエンスや効果とともに、“ここちいい”ものでありたい」をコンセプトに2017年に誕生。肌をこわばらせくすませるエイジングの原因の一つである糖化に着目し、使っていて“ここちいい”製品を開発する。来日した中国の美容家の目に留まったことで、日本市場に先んじて中国で「抗糖化」コスメのパイオニアとして市場に浸透し、業績を伸ばし続けている


問い合わせ先
ココチコスメ
0120-458-558

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【ココチコスメ 森本俊樹CEO】日本発ブランドを再構築 旗艦店を活用し世界に発信

PROFILE: 森本俊樹/CEO

森本俊樹/CEO
PROFILE: (もりもと・としき)1980年生まれ。2006年に大学卒業後、プロクター・アンド・ギャンブルに入社し「SK-II」を担当。消費者・市場インサイトの理解を基に、ブランドの戦略策定や商品ポートフォリオのリニューアルなどのプロジェクトに参画。LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトンやコンパニー フィナンシエール リシュモンでブランドマーケティング統括責任者を経験したのち、「日本発信のブランド創りに貢献したい」という思いの下で23年5月現職に着任。趣味はランニングと登山 PHOTO : SHUNICHI ODA

中国で人気に火がつき逆輸入という形で存在感を高めている「ココチ(COCOCHI)」は、日本発のブランドとしてポジショニングを再構築中だ。2023年にパーパスを「肌が、わたしを織りなしていく」と定め、ブランドが向かう先を明確にした。24年はそれを体現する旗艦店のオープンと主力商品のリニューアルでブランドの認知向上に努めた。25年は顧客との関係をさらに深め、次なるステージへと向かう。

日本発のブランドとして
さらなる認知拡大を目指す

WWD:ブランドの設立から中国市場での成功までをどのように振り返る?

森本俊樹CEO(以下、森本):日本のブランドの魅力を世界に届けたいという思いから、2017年に設立した。同志社大学と抗糖化の研究を行い、独自原料Orimos(オリモス)®を配合した製品を届けている。18〜19年ごろに来日した中国の美容家の目に留まったことが転機だった。中国ですでに注目されていた糖化にアプローチする素晴らしい日本の製品があるとSNSで発信してもらえたことで、中国を中心に爆発的な人気が出た。国別売上高構成比では約80%を中華圏が占める。次いで日本などだ。

WWD:コロナ禍に観光客が減少したことの影響は?

森本:訪日客率が高いブランドなので、コロナ禍を生き抜くのは大変だった。ただ中華圏ではスキンケアにこだわる傾向がより高まった時期でもあったため、SNSでのライブ配信やデジタル広告、ECでの販売を強化したことで、同地域の売上高は堅調に推移した。海外での根強い人気に支えられ、2ケタ成長を続けている。

WWD:ブランドの課題は?

森本:あらためて日本のブランドとしてのポジショニングを確立することだ。23年はデジタル広告を中心に認知拡大を図ったが、市場の競争は非常に激しく、成果を効率的に上げることが難しかった。一方で訪日客が戻ってくるにつれて、日本人の売り上げが伸び始めた。同年後半以降、羽田や成田、関西国際などの空港免税店で、売り場面積や製品を拡大・拡充することができた。

WWD:課題に対処するための取り組みは?

森本:23年に社員全員を巻き込んで、ブランドの世界観やDNAを見つめ直し、パーパスを再定義した。忙しい日常においても、スキンケアをするときには自分自身を慈しむ心地よい時間を大切にしてほしいと提案している。

WWD:24年はどのような年だったか?

森本:4月の旗艦店オープンは、ブランドとして大きな一歩だった。23年のデジタル広告施策の学びから、言葉やビジュアルだけでは伝わらない、実感を伴った体験を提供していきたいという思いが強まったことが発端だ。3階建ての空間を生かして、「抗糖化の館」を構想した。1階では黄金色の竹林をイメージした空間でスキンケア製品を販売し、外側から自身の肌と向き合ってもらう。2階のティーハウスでは、内側からのケアに着目したお茶と甘味を提供する。3階のリラクゼーションラウンジでは、五感を通して心をケアするプログラムを用意している。

WWD:旗艦店の反響は?

森本:来店客数は秋ごろから増加傾向にある。1階の売り場は既存顧客含め訪日客の割合が50%を超えるが、2階のティーハウスには「ココチ」を知らない日本人のお客さまも多く訪れており、ブランドを知ってもらうよいきっかけになっている。どのような形であれ「ココチ」に出合ってくれたお客さまに、ブランドのことをより知ってもらう施策を強化していく。

WWD:9月には人気の洗い流すタイプのクリームマスクをリニューアルし、“ココチ AG グローイング エッセンス クリーム マスク”(エッセンスクリーム20g、エッセンスマスク90g、6600円)を発売した。

森本:世界で累計740万個(2021年5月〜24年10月、ココチコスメ調べ)を出荷する主力商品だ。これまでで最大のリニューアルで、黄ぐすみにアプローチするオリモス®をアップグレードし、抗糖化をより強く感じられる設計に変更した。日本での導入はこれからだが、レフィル可能なパッケージを採用したほか、お客さまからの声を反映し、より使いやすい形状に改良した。リニューアルを機に、「アットコスメトーキョー(@cosme TOKYO)」と「アットコスメオーサカ(@cosme OSAKA)」でポップアップを開催したが、大阪では特設売り場で非常に好調な売り上げを記録するなど、ブランドの伸び代を感じた。

WWD:25年に注力することは?

森本:お客さまとの関係を深める一年にしたい。旗艦店を活用し、コミュニティー形成やメディア発信を強める計画だ。既存商品で高まる訪日客需要にアプローチしつつ、日本人に向けた新シリーズの展開も視野に入れるなど攻勢を続け、2ケタ成長を維持する。

WWD:未来に見据える可能性は?

森本:まずは旗艦店に足を運んでくださったお客さまに「ココチ」のことをより深く理解してもらい、好きになってもらえるよう取り組む。そして旗艦店の外でも「ココチ」を気にかけてもらい、再来店や発信につながる仕掛けやサービスを開発していく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『365日、“ここちいい”人生を送りたい』

“ここちいい”人生を送るためには自分を知り、多様な心地よさを体験してみるべきだと考えている。趣味の登山ではこれまで日本アルプスを堪能する機会が多かったので、海外のより高い山やまだ知らない山にも挑戦し、新しい心地よさを見つけたい。

COMPANY DATA
ココチコスメ

日本発のスキンケアブランド「ココチ」は、「スキンケアは信頼できる確かなサイエンスや効果とともに、“ここちいい”ものでありたい」をコンセプトに2017年に誕生。肌をこわばらせくすませるエイジングの原因の一つである糖化に着目し、使っていて“ここちいい”製品を開発する。来日した中国の美容家の目に留まったことで、日本市場に先んじて中国で「抗糖化」コスメのパイオニアとして市場に浸透し、業績を伸ばし続けている


問い合わせ先
ココチコスメ
0120-458-558

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【ココバイ 阿部聖樹社長】“PLAY ORGANIC”で「オーガニックの民主化」を目指す

PROFILE: 阿部聖樹/社長

阿部聖樹/社長
PROFILE: (あべ・まさき)1983年4月24日生まれ。立教大学を卒業後、2006年にオンワード樫山に入社。百貨店婦人服営業に11年間従事し、マーケティング部、内部監査、ビューティー戦略部などの部門を経験。20年にココバイに異動し、営業に従事。既存ビジネスの強化に加え、デジタル領域への参入や他社とのコラボ事業などの新規事業にも注力した。23年9月から現職 PHOTO : KAZUSHI TOYODA

ココバイは2011年から米発オーガニックヘアケアブランド「ザ・プロダクト(PRODUCT)」を製造販売している。24年7月にはリブランディングを実施し、ヘアサロンやバラエティーショップに加え、ドラッグストアへも販路を拡げた。ミッションである「オーガニックの民主化」の実現に向けて攻勢をかける。

オーガニックブランドの固定概念を覆す
“PLAY感”のあるブランドへ

WWD:24年7月にリブランディングした理由は。

阿部聖樹社長(以下、阿部):現在、国内にオーガニックブランドは200以上あり、おそらく消費者は「肌や環境に優しくて安心安全だけど、少し価格が高い」「クリーンで凛としている」といったイメージを持っている。その中で独自性を出すために、オーガニックで楽しさやワクワクを感じて、気軽に楽しんでもらいたいという思いから“PLAY ORGANIC”をブランドスローガンに掲げた。何気なく選んだ製品が、ふとしたきっかけでブランドや企業の背景を知ることで、愛着の湧く存在となる。そういう道筋が自然だと思い、今後はマーケットインの考えで進める。コアターゲットをZ世代に定め、彼らに“刺さる”製品開発からブランディング、プロモーションを実施する。

WWD:同時にドラッグストアでの正規販売もスタートした。

阿部:われわれのミッションは「オーガニックの民主化」だ。サロン専売から始め、バラエティーショップにも販路を拡げていったが、民主化には生活動線に入ることが不可欠と考えた。既存の卸先も、新規層やライト層の獲得に力を入れたいという思いに賛同してくれた。

WWD:現在、ドラッグストアは何店舗に展開しているか。

阿部:約1万8000店だ。ヘアスタイリング剤は単品置きが基本だが、24年8月の発売当時は「マツキヨココカラ」には什器を置いてプロモーションを実施した。よりマス層に届けるために初のブランドアンバサダーとして起用した女優の森七菜さんのビジュアルボードもフックとなり、好調に推移している。

WWD:他チャネルにもよい波及効果があった。

阿部:バラエティーショップでは、リブランディング後の第1弾として発売した“ラスティングシリーズ”が、メイン商品である青色パッケージの“ヘアワックス”と同等に稼働している。小売りの売り上げで“ヘアワックス”が占める割合は約7割のため、かなり好調だ。40歳以下の60%以上が髪を染めているという昨今の状況から、退色防止を付加価値とした“ラスティングオイル”と“ラスティングワックス”を発売した。市場に「退色防止でお気に入りの髪色が持続する」というコンセプトと似通ったアイテムがないこともあり、売れ行きがいい。

WWD:商品ラインアップも45から15まで絞り込んだ。

阿部:アウトバスカテゴリーに集中することでブランドの強みが社内で明確になり、SNS発信や営業活動によい影響があった。「国内のオーガニックヘアケアブランドといえば『ザ・プロダクト』」を目指しており、今後もヘアカテゴリーを拡充していく。これまで扱っていたシャンプーとコンディショナーの市場は大きいが、大手の主戦場でもあるため難しい。そのため、われわれは切り口の面白さや細かいニーズを吸い上げることに注力したい。毎年、フレッシュな取り組みを実施し、「面白いブランドだよね」という印象につなげたい。

WWD:サステナビリティーの進捗はどうか。

阿部:資材や原料を自分たちで探して調達しているため、過剰在庫にならないように調整できている。オイルやワックスはセンシティブで難しいところもあるが、レフィル対応にも挑戦したい。再利用できるガラスを採用する製品もあるため、容器回収から着手していきたい。

WWD:その他、「オーガニックの民主化」に向けて必要なことは。

阿部:オーガニックブランド市場では、ヘアケア製品の価格帯は3000〜4000円が標準だが、これを買い続けやすい価格帯に設定することが必要だと考えている。今後は、ブランドサイトをリニューアルし、オーガニックコスメに関する知識や製品の使い方などのコンテンツを充実させていく予定だ。民主化によってブランドもマスになることを目指すが、ヘアサロンやオーガニックコスメのセレクトショップでも支持し続けてもらえるブランドでいたい。ファッション業界における「コンバース」のような存在がベンチマークだ。セレクトショップにも地方のショッピングモールにも置いてあり、老若男女が履いている。そんな立ち位置のブランドを目指す。

WWD:25年に注力していくことは。

阿部:現状、“ヘアワックス”を扱っている店舗数の方が多いため、“ラスティングシリーズ”をそれと同数に展開していきたい。半年に2商品ほどのペースで新製品の発売を予定しており、その間にコラボ品や企画品にもチャレンジしていく。直近では、2、3月にキャッチーで話題性のあるSNS施策を計画している。公式のTikTokアカウントも作成する予定だ。真面目に製品の背景などを伝えるだけではなく、“プレイ感”のあるSNSコミュニケーションに取り組んでいきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『子どもとワールドカップを見る』

もうすぐ第4子が生まれる予定だ。サッカーがとても好きなので、26年のワールドカップを子ども4人とアメリカで観戦したい。「ザ・プロダクト」発祥の地はアメリカ・カリフォルニアなので、そのルーツも探ってみたい。

COMPANY DATA
ココバイ

「ザ・プロダクト」は、2007年にアメリカで美容師向けに天然成分を使ったヘアワックスからスタートしたオーガニックヘアケアブランド。11年にココバイが日本市場における製造販売を始めた。17年1月、オンワードホールディングスの傘下に。24年7月に「ザ・プロダクト」のリブランディングを実施し、ブランドパーパスやロゴを刷新。“PLAY ORGANIC”をスローガンに掲げている


問い合わせ先
ココバイ
info@kokobuy.co.jp

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【ココバイ 阿部聖樹社長】“PLAY ORGANIC”で「オーガニックの民主化」を目指す

PROFILE: 阿部聖樹/社長

阿部聖樹/社長
PROFILE: (あべ・まさき)1983年4月24日生まれ。立教大学を卒業後、2006年にオンワード樫山に入社。百貨店婦人服営業に11年間従事し、マーケティング部、内部監査、ビューティー戦略部などの部門を経験。20年にココバイに異動し、営業に従事。既存ビジネスの強化に加え、デジタル領域への参入や他社とのコラボ事業などの新規事業にも注力した。23年9月から現職 PHOTO : KAZUSHI TOYODA

ココバイは2011年から米発オーガニックヘアケアブランド「ザ・プロダクト(PRODUCT)」を製造販売している。24年7月にはリブランディングを実施し、ヘアサロンやバラエティーショップに加え、ドラッグストアへも販路を拡げた。ミッションである「オーガニックの民主化」の実現に向けて攻勢をかける。

オーガニックブランドの固定概念を覆す
“PLAY感”のあるブランドへ

WWD:24年7月にリブランディングした理由は。

阿部聖樹社長(以下、阿部):現在、国内にオーガニックブランドは200以上あり、おそらく消費者は「肌や環境に優しくて安心安全だけど、少し価格が高い」「クリーンで凛としている」といったイメージを持っている。その中で独自性を出すために、オーガニックで楽しさやワクワクを感じて、気軽に楽しんでもらいたいという思いから“PLAY ORGANIC”をブランドスローガンに掲げた。何気なく選んだ製品が、ふとしたきっかけでブランドや企業の背景を知ることで、愛着の湧く存在となる。そういう道筋が自然だと思い、今後はマーケットインの考えで進める。コアターゲットをZ世代に定め、彼らに“刺さる”製品開発からブランディング、プロモーションを実施する。

WWD:同時にドラッグストアでの正規販売もスタートした。

阿部:われわれのミッションは「オーガニックの民主化」だ。サロン専売から始め、バラエティーショップにも販路を拡げていったが、民主化には生活動線に入ることが不可欠と考えた。既存の卸先も、新規層やライト層の獲得に力を入れたいという思いに賛同してくれた。

WWD:現在、ドラッグストアは何店舗に展開しているか。

阿部:約1万8000店だ。ヘアスタイリング剤は単品置きが基本だが、24年8月の発売当時は「マツキヨココカラ」には什器を置いてプロモーションを実施した。よりマス層に届けるために初のブランドアンバサダーとして起用した女優の森七菜さんのビジュアルボードもフックとなり、好調に推移している。

WWD:他チャネルにもよい波及効果があった。

阿部:バラエティーショップでは、リブランディング後の第1弾として発売した“ラスティングシリーズ”が、メイン商品である青色パッケージの“ヘアワックス”と同等に稼働している。小売りの売り上げで“ヘアワックス”が占める割合は約7割のため、かなり好調だ。40歳以下の60%以上が髪を染めているという昨今の状況から、退色防止を付加価値とした“ラスティングオイル”と“ラスティングワックス”を発売した。市場に「退色防止でお気に入りの髪色が持続する」というコンセプトと似通ったアイテムがないこともあり、売れ行きがいい。

WWD:商品ラインアップも45から15まで絞り込んだ。

阿部:アウトバスカテゴリーに集中することでブランドの強みが社内で明確になり、SNS発信や営業活動によい影響があった。「国内のオーガニックヘアケアブランドといえば『ザ・プロダクト』」を目指しており、今後もヘアカテゴリーを拡充していく。これまで扱っていたシャンプーとコンディショナーの市場は大きいが、大手の主戦場でもあるため難しい。そのため、われわれは切り口の面白さや細かいニーズを吸い上げることに注力したい。毎年、フレッシュな取り組みを実施し、「面白いブランドだよね」という印象につなげたい。

WWD:サステナビリティーの進捗はどうか。

阿部:資材や原料を自分たちで探して調達しているため、過剰在庫にならないように調整できている。オイルやワックスはセンシティブで難しいところもあるが、レフィル対応にも挑戦したい。再利用できるガラスを採用する製品もあるため、容器回収から着手していきたい。

WWD:その他、「オーガニックの民主化」に向けて必要なことは。

阿部:オーガニックブランド市場では、ヘアケア製品の価格帯は3000〜4000円が標準だが、これを買い続けやすい価格帯に設定することが必要だと考えている。今後は、ブランドサイトをリニューアルし、オーガニックコスメに関する知識や製品の使い方などのコンテンツを充実させていく予定だ。民主化によってブランドもマスになることを目指すが、ヘアサロンやオーガニックコスメのセレクトショップでも支持し続けてもらえるブランドでいたい。ファッション業界における「コンバース」のような存在がベンチマークだ。セレクトショップにも地方のショッピングモールにも置いてあり、老若男女が履いている。そんな立ち位置のブランドを目指す。

WWD:25年に注力していくことは。

阿部:現状、“ヘアワックス”を扱っている店舗数の方が多いため、“ラスティングシリーズ”をそれと同数に展開していきたい。半年に2商品ほどのペースで新製品の発売を予定しており、その間にコラボ品や企画品にもチャレンジしていく。直近では、2、3月にキャッチーで話題性のあるSNS施策を計画している。公式のTikTokアカウントも作成する予定だ。真面目に製品の背景などを伝えるだけではなく、“プレイ感”のあるSNSコミュニケーションに取り組んでいきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『子どもとワールドカップを見る』

もうすぐ第4子が生まれる予定だ。サッカーがとても好きなので、26年のワールドカップを子ども4人とアメリカで観戦したい。「ザ・プロダクト」発祥の地はアメリカ・カリフォルニアなので、そのルーツも探ってみたい。

COMPANY DATA
ココバイ

「ザ・プロダクト」は、2007年にアメリカで美容師向けに天然成分を使ったヘアワックスからスタートしたオーガニックヘアケアブランド。11年にココバイが日本市場における製造販売を始めた。17年1月、オンワードホールディングスの傘下に。24年7月に「ザ・プロダクト」のリブランディングを実施し、ブランドパーパスやロゴを刷新。“PLAY ORGANIC”をスローガンに掲げている


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ココバイ
info@kokobuy.co.jp

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【イプサ 小田淳社長】肌・心・体への新領域 次世代の「イプサ」が始動

PROFILE: 小田淳/社長

小田淳/社長
PROFILE: (おだ・じゅん)1994年に資生堂に入社。97年にイプサの事業戦略本部で海外事業戦略の立案・オペレーション推進業務を担当。その後、2007年に資生堂に戻り経営企画部や国際事業企画部などを経て、15年にGPB事業本部事業戦略部兼グローバル事業推進部でSHISEIDO・CPBブランドの事業戦略の策定や事業マネジメントを担当。18年1月より現職 PHOTO : SHUNICHI ODA

独自理論に基づく先進的な肌測定で一人一人に最適な美容法(レシピ)を提案しているイプサは、“ザ・タイムR アクア”や“ME(エム・イー)”などが百貨店の売り上げ上位に常にランクインするロングセラー製品を有する。一方でイノベーションを取り入れた新製品開発も精力的に行う。2025年もその技術力で、「肌に良いだけのスキンケアブランド」からの脱却を目指す。

「美的生命力」を引き出す
取り組み強化

WWD:2024年も話題の製品を続々と投入した。

小田淳社長(以下、小田):24年の売り上げは日本やアジア、中国を含め計画通りに着地した。期間中の大きなトピックスは24年2月にブランド最高峰化粧水“エッセンスローション アルティメイト”を発売したこと。化粧水は、ブランド内で長年売り上げNo.1のポジションをキープし続けている“ザ・タイムR アクア”や、拭き取り化粧水の“リファイニングローションe”など人気製品が多く、スキンケアや化粧水=「イプサ(IPSA)」というイメージが定着している。そこから「ベスト・オブ・ベスト」の化粧水を投入することで、そのイメージをより強めていきたいという考えのもと開発した。発売後は幅広い層に受け入れられ、他製品に比べてリピート率も高い。月を追うごとに販売数量が伸びて売り上げをけん引している。

WWD:ブランドの強みである肌測定器「イプサライザー」による測定・分析もスキンケアの売り上げの後押しになっているのか。

小田:創業当時から人が美しくなろうとする力「美的生命力」を引き出すことを目指し、店頭では肌のスペシャリストであるレシピストによるヒアリングと、「イプサライザー」の測定・分析を基に、お客さまに合わせたお手入れ方法「レシピ」を提案している。より楽しみながら肌測定をしてほしいという思いもあり、昨年からは“心の状態”の可視化にもチャレンジ。新測定として心の状態やライフスタイルを数値化・分析し、ライフスタイルに寄り添うアドバイスを提供している。こうした測定・分析は、コロナ禍を経てますます大事だと実感している。来店者の3〜4割は「イプサライザー」を試し、男性の利用も増加している。この領域は今後も大切にしていく。

WWD:メイクカテゴリーの売れ筋は?

小田:9月にはファンデーションをリニューアルし、“クリーム ファウンデイションe”を発売したところリニューアル前と比べて3〜4倍の伸びを記録。それと共にリキッドファンデーションも高い支持を得ており、課題だったベースメイクカテゴリーが活性化できている。ポイントメイクは、フェイスカラー“デザイニング フェイスカラーパレット”やリップカラー“リップオイルe LE”の限定色を発売し好評だった。現在の売り上げ構成は、スキンケアが7割でメイク類が3割。割合は現状のままキープし、全体の売り上げを伸ばしたい。そのためにスキンケア以外のアイテムもさらに充実させていくことは今年のテーマでもある。

WWD:展開店舗が多い中国の状況については。

小田:この2年間は厳しいというのが本音だ。いくつか理由はあるが、中国の経済自体が減速していることや、需要が高価格帯と低価格帯の製品に集中して消費が二極化したこと、中国のローカルブランドが台頭してきたことなどが大きい。そんな状況下でも“ザ・タイムR アクア”は根強い人気があったほか、ハリ感の不均一性に着目したクリーム“バウンス インテンス クリーム”やリキッドファンデーションが寄与。24年後半はプラスに戻り、25年以降のベースが出来上がったという手応えを得ることができた。店舗は選択と集中の段階で、ピーク時の100店舗を現在は約40店舗にまで絞った。強みであるオフラインの体験強化により質を向上させ、1店舗あたりの生産性は上がっている。日本や香港、台湾ですでに好評を博している“エッセンスローション アルティメイト”を12月に中国でも発売したが、例えば、「朝は“ザ・タイムR アクア”、夜は“エッセンスローション アルティメイト”を」というような日本でも成功したマーケティングは中国でも通用する。そういった良い事例を国を超えて展開するといういい流れも生まれてきている。訪日客にどこでも「このブランド見たよね」という印象を残すことは大事だ。

WWD:25年に目指すことは。

小田:次世代の「イプサ」をスタートさせる、そんな重要な1年になる。「イプサ」は肌への安心感や着飾らないシンプルさ、肌測定などが評価されている。もちろんそこは進化させつつ、肌・心・体のバランスと調和がとれた状態に導いたり、気持ちが下がっている自分をも受け止めて寄り添えたりするブランドにならなければいけない。肌・心・体については長年研究してきたエビデンスの蓄積ができているため、そのサイエンスの視点を盛り込みながら、ただ肌を良くするだけのスキンケアブランドから1歩抜け出す。そこで、1年をかけて構想したビジョンを5月に発表する予定だ。「スキンケアにとどまらずその先にチャレンジ」する新領域として、インナーケアではない新しいアプローチをスタートさせるので期待してほしい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『ハーフマラソン出場』

23年に足をけがし、続けていたジョギングを長らく休んでいた。「運動と美肌の関係性」に着目した美容液“イプサ セラム アクティブ”の発売を機に、ジョギングを再開。今年の終わりにはハーフマラソンへの出場を目指す。

COMPANY DATA
イプサ

1986年に資生堂の子会社として設立。設立と同時に誕生したブランド「イプサ」は、スキンケア、ベースメイク、ポイントメイクを日本、アジアの6つの国と地域で展開する。ブランド名の由来はラテン語で「自ら」「自発的な」を意味し、スキンケアは独自の肌測定とカウンセリングによって、レシピスト(美容部員)と共に一人一人に合わせて最適な美容法「レシピ」を作り上げていくのが特徴。ロングセラーアイテムは“ザ・タイムR アクア”や“ME(エム・イー)”など

TEXT : WAKANA NAKADE


問い合わせ先
イプサ
03-3405-2432

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【イプサ 小田淳社長】肌・心・体への新領域 次世代の「イプサ」が始動

PROFILE: 小田淳/社長

小田淳/社長
PROFILE: (おだ・じゅん)1994年に資生堂に入社。97年にイプサの事業戦略本部で海外事業戦略の立案・オペレーション推進業務を担当。その後、2007年に資生堂に戻り経営企画部や国際事業企画部などを経て、15年にGPB事業本部事業戦略部兼グローバル事業推進部でSHISEIDO・CPBブランドの事業戦略の策定や事業マネジメントを担当。18年1月より現職 PHOTO : SHUNICHI ODA

独自理論に基づく先進的な肌測定で一人一人に最適な美容法(レシピ)を提案しているイプサは、“ザ・タイムR アクア”や“ME(エム・イー)”などが百貨店の売り上げ上位に常にランクインするロングセラー製品を有する。一方でイノベーションを取り入れた新製品開発も精力的に行う。2025年もその技術力で、「肌に良いだけのスキンケアブランド」からの脱却を目指す。

「美的生命力」を引き出す
取り組み強化

WWD:2024年も話題の製品を続々と投入した。

小田淳社長(以下、小田):24年の売り上げは日本やアジア、中国を含め計画通りに着地した。期間中の大きなトピックスは24年2月にブランド最高峰化粧水“エッセンスローション アルティメイト”を発売したこと。化粧水は、ブランド内で長年売り上げNo.1のポジションをキープし続けている“ザ・タイムR アクア”や、拭き取り化粧水の“リファイニングローションe”など人気製品が多く、スキンケアや化粧水=「イプサ(IPSA)」というイメージが定着している。そこから「ベスト・オブ・ベスト」の化粧水を投入することで、そのイメージをより強めていきたいという考えのもと開発した。発売後は幅広い層に受け入れられ、他製品に比べてリピート率も高い。月を追うごとに販売数量が伸びて売り上げをけん引している。

WWD:ブランドの強みである肌測定器「イプサライザー」による測定・分析もスキンケアの売り上げの後押しになっているのか。

小田:創業当時から人が美しくなろうとする力「美的生命力」を引き出すことを目指し、店頭では肌のスペシャリストであるレシピストによるヒアリングと、「イプサライザー」の測定・分析を基に、お客さまに合わせたお手入れ方法「レシピ」を提案している。より楽しみながら肌測定をしてほしいという思いもあり、昨年からは“心の状態”の可視化にもチャレンジ。新測定として心の状態やライフスタイルを数値化・分析し、ライフスタイルに寄り添うアドバイスを提供している。こうした測定・分析は、コロナ禍を経てますます大事だと実感している。来店者の3〜4割は「イプサライザー」を試し、男性の利用も増加している。この領域は今後も大切にしていく。

WWD:メイクカテゴリーの売れ筋は?

小田:9月にはファンデーションをリニューアルし、“クリーム ファウンデイションe”を発売したところリニューアル前と比べて3〜4倍の伸びを記録。それと共にリキッドファンデーションも高い支持を得ており、課題だったベースメイクカテゴリーが活性化できている。ポイントメイクは、フェイスカラー“デザイニング フェイスカラーパレット”やリップカラー“リップオイルe LE”の限定色を発売し好評だった。現在の売り上げ構成は、スキンケアが7割でメイク類が3割。割合は現状のままキープし、全体の売り上げを伸ばしたい。そのためにスキンケア以外のアイテムもさらに充実させていくことは今年のテーマでもある。

WWD:展開店舗が多い中国の状況については。

小田:この2年間は厳しいというのが本音だ。いくつか理由はあるが、中国の経済自体が減速していることや、需要が高価格帯と低価格帯の製品に集中して消費が二極化したこと、中国のローカルブランドが台頭してきたことなどが大きい。そんな状況下でも“ザ・タイムR アクア”は根強い人気があったほか、ハリ感の不均一性に着目したクリーム“バウンス インテンス クリーム”やリキッドファンデーションが寄与。24年後半はプラスに戻り、25年以降のベースが出来上がったという手応えを得ることができた。店舗は選択と集中の段階で、ピーク時の100店舗を現在は約40店舗にまで絞った。強みであるオフラインの体験強化により質を向上させ、1店舗あたりの生産性は上がっている。日本や香港、台湾ですでに好評を博している“エッセンスローション アルティメイト”を12月に中国でも発売したが、例えば、「朝は“ザ・タイムR アクア”、夜は“エッセンスローション アルティメイト”を」というような日本でも成功したマーケティングは中国でも通用する。そういった良い事例を国を超えて展開するといういい流れも生まれてきている。訪日客にどこでも「このブランド見たよね」という印象を残すことは大事だ。

WWD:25年に目指すことは。

小田:次世代の「イプサ」をスタートさせる、そんな重要な1年になる。「イプサ」は肌への安心感や着飾らないシンプルさ、肌測定などが評価されている。もちろんそこは進化させつつ、肌・心・体のバランスと調和がとれた状態に導いたり、気持ちが下がっている自分をも受け止めて寄り添えたりするブランドにならなければいけない。肌・心・体については長年研究してきたエビデンスの蓄積ができているため、そのサイエンスの視点を盛り込みながら、ただ肌を良くするだけのスキンケアブランドから1歩抜け出す。そこで、1年をかけて構想したビジョンを5月に発表する予定だ。「スキンケアにとどまらずその先にチャレンジ」する新領域として、インナーケアではない新しいアプローチをスタートさせるので期待してほしい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『ハーフマラソン出場』

23年に足をけがし、続けていたジョギングを長らく休んでいた。「運動と美肌の関係性」に着目した美容液“イプサ セラム アクティブ”の発売を機に、ジョギングを再開。今年の終わりにはハーフマラソンへの出場を目指す。

COMPANY DATA
イプサ

1986年に資生堂の子会社として設立。設立と同時に誕生したブランド「イプサ」は、スキンケア、ベースメイク、ポイントメイクを日本、アジアの6つの国と地域で展開する。ブランド名の由来はラテン語で「自ら」「自発的な」を意味し、スキンケアは独自の肌測定とカウンセリングによって、レシピスト(美容部員)と共に一人一人に合わせて最適な美容法「レシピ」を作り上げていくのが特徴。ロングセラーアイテムは“ザ・タイムR アクア”や“ME(エム・イー)”など

TEXT : WAKANA NAKADE


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イプサ
03-3405-2432

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【ジェイドジャパン 田村純一社長】香りにフォーカスした製品でサロンの価値を向上

PROFILE: 田村純一/社長

田村純一/社長
PROFILE: (たむら・じゅんいち)日本美容専門学校卒業後、美容師免許取得。約5年間のサロン勤務中に、製品やその売り方の工夫によってサロンの売り上げを上げることに興味を持ったことから、サロン専売品を扱うディーラーに転職。美容業界の仕組みを学ぶ。その後、大手美容総合メーカーや外資系美容メーカーに勤務し、美容師としての知見と技術を生かした営業力で好成績を残す。独立し、22年4月にジェイドジャパン設立。香りにフォーカスした製品で、サロン業界に新風を吹き込む PHOTO : YOHEI KICHIRAKU

ジェイドジャパンが主にヘアサロンで展開するヘアオイル「ロア ザ オイル」は2023年5月の発売以来、1年半で約81万本を売り上げた大ヒット製品だ。香りにとことんこだわる独創性のある製品で新たなカテゴリーを切り開き、サロンの価値向上を目指す。

サロンで香りを提供する
新しい文化を創造

WWD:「ロア ザ オイル」の快進撃が続いている。

田村純一社長(以下、田村):「ロア ザ オイル」と「ロア ザ オイル ケア」それぞれ6つの香りがあり、ありがたいことに10月に発売した“ネロリスモークティー”はすでに品切れし、“ミスティックウッド”も同様の勢いだ。20年間サロンビジネスに携わる中で、忙しい店は技術を提供しながら物販もやらなければならず、時間がない中でどう売っていくかが課題だった。説明しなくても、お客さまから「これ何ですか?」と聞かれる製品は何かと考えたとき、五感の中で直感的に感じる嗅覚だと思った。そこでフレグランスとしても通用するレベルの香りを目指して作ったのが「ロア ザ オイル」だ。3アイテムでローンチし、それぞれ香りは異なるが成分や質感は全て同じ。なぜなら、香りをレイヤードすることを前提としているからだ。美容師は造形(カット、パーマ)と色彩(カラーリング)を提供しているが、さらに香りを提供することで、サロンの奥行きと可能性を広げたいと思っている。

WWD:機能軸ではなく香りを打ち出す製品は新鮮だ。

田村:香りには、特定の香りを嗅ぐとそれに関連する記憶が呼び起こされるプルースト効果がある。「ロア ザ オイル」を購入してプライベートで使うと、サロンやスタイリングが思い出され、それが既存客の定着にもつながるのではないか。コロナ禍で香りに興味を持つ人が増え、フレグランス市場がそれ以降伸びている。そんな時代の流れにマッチしたプロダクトというのも後押ししている。

WWD:サロン専売品の中でも高価格帯だ。

田村:ヘアオイルの低価格から中価格帯はレッドオーシャン。競合の少ない高価格帯にして、それに相応しい価値ある製品にすることに注力している。香りはフランス、イタリア、日本の調香師と作り、オードパルファムレベルの6時間持続する。その香りのこだわりと持続性がなければ、既存製品との差別化は難しい。もう一つこだわったのはビジュアルで、アパレルブランドよりのイメージにした。一般的なヘアオイルは成分や効能ばかり書いてあるが、「ロア ザ オイル」は成分などの説明は必要最小限。もちろんクオリティーが高いのは大前提だが、ビジュアルとパッケージとパフュームのような上質な香り、その3つがそろって完成度が高ければ、まず興味を持っていただける。その効果もあり、公式インスタグラムは、1万7000人のフォロワー、293万回の閲覧回数(24年12月現在)となっている。

WWD:高価格帯にこだわる理由は?

田村:オイルは5500円、バームは4950円と確かに高価格だ。ただ、2000〜3000円の製品を売っても美容室の利益は数百円。それをいい方向に崩したい。弊社のように小さな会社の製品が売れれば、大手メーカーも「このくらいの価格帯でいける」となるだろうし、美容師やサロンの自信につながる。われわれはそのきっかけを作りたい。価値ある物販製品を適正な価格で販売して客単価を上げ、サロンの価値も高めるのが狙いだ。

WWD:海外ビジネスの進捗は?

田村:フィリピンは三越と富裕層をターゲットにしたサロンでの販売がスタートしている。現地では8000円程度で販売しているが、10本まとめて購入されるなどのケースもある。韓国と台湾はすでにサロンで導入されており、オファーが絶えない状況だ。今年はさらに中国とイタリアへの進出を予定している。イタリアはミラノ・ファッション・ウイークのバックステージで使用してもらったことがきっかけで、モデルが「この香りは何?」となり、ビジネスへとつながった。海外で商談していると、詳しく製品説明をしなくても香りを嗅いだだけで気に入ってもらい取り引きが決まることが多い。これが香りの強さだと実感した。

WWD:25年の新製品発売予定は?

田村:1月23日に全6種類の香りのトラベル用を発売し、3月には新たな3つの香り、5月には髪にも肌にも使えるUVスプレー、6月には昨年も好評だった夏限定の香り“ビーチクラブ”を発売予定だ。また、ビンの廃棄を減らすため、長く使う価値を感じてもらえるようなアーティストやブランドのコラボ限定ボトルやレフィルの販売にも取り掛かる。さらに秋にはハンドソープ、ディフューザー、香水など、より香りにフォーカスしたプロダクトの発売を予定している。サロンで売るものは、シャンプーやコンディショナー、スタイリング剤など髪に関わるものに限られているが、美容のプロから買うライフスタイルビューティとしてそれ以外の製品もあっていいと思っている。日本のギフト市場は10兆円と言われており、その一部をサロン業界に持ってきたら経営的にも潤うという発想だ。そのため、ギフトに選ばれるようパッケージにも徹底してこだわる。香り、クリエイティブ、ビジュアルに特化したプロダクトを通し、サロンで香りを提供するという新しい文化を創造したい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『行ったことのない10カ国への旅』

旅行が好きなので、今まで行ったことのない国、できれば10カ国を訪れたい。聞くのと体験するのでは大違いで、実際にその地に立ってインスピレーションを得たい。どこに行っても香りを感じたり考えたりするので、結局は仕事になってしまうが(笑)。

COMPANY DATA
ジェイドジャパン

2022年4月設立。サロンやショールームに設置するディフューザーの販売からスタートし、サロン製品などを手掛ける。23年5月に髪だけでなく全身に使用できる「ロア ザ オイル」が誕生。こだわったパフュームレベルの香りや香りのレイヤードの提案、スタイリッシュなパッケージなどが話題を集め、大ヒット製品に。「WWDBEAUTY」の24年ヘアサロン版ベストコスメでは2部門同時入賞した。24年3月に「ロア ザ オイル ケア」、同年12月に「ロア ザ バーム」を発売し、サロンにおける香り文化の創造にまい進する


問い合わせ先
ジェイドジャパン
03-6804-2743

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【ジェイドジャパン 田村純一社長】香りにフォーカスした製品でサロンの価値を向上

PROFILE: 田村純一/社長

田村純一/社長
PROFILE: (たむら・じゅんいち)日本美容専門学校卒業後、美容師免許取得。約5年間のサロン勤務中に、製品やその売り方の工夫によってサロンの売り上げを上げることに興味を持ったことから、サロン専売品を扱うディーラーに転職。美容業界の仕組みを学ぶ。その後、大手美容総合メーカーや外資系美容メーカーに勤務し、美容師としての知見と技術を生かした営業力で好成績を残す。独立し、22年4月にジェイドジャパン設立。香りにフォーカスした製品で、サロン業界に新風を吹き込む PHOTO : YOHEI KICHIRAKU

ジェイドジャパンが主にヘアサロンで展開するヘアオイル「ロア ザ オイル」は2023年5月の発売以来、1年半で約81万本を売り上げた大ヒット製品だ。香りにとことんこだわる独創性のある製品で新たなカテゴリーを切り開き、サロンの価値向上を目指す。

サロンで香りを提供する
新しい文化を創造

WWD:「ロア ザ オイル」の快進撃が続いている。

田村純一社長(以下、田村):「ロア ザ オイル」と「ロア ザ オイル ケア」それぞれ6つの香りがあり、ありがたいことに10月に発売した“ネロリスモークティー”はすでに品切れし、“ミスティックウッド”も同様の勢いだ。20年間サロンビジネスに携わる中で、忙しい店は技術を提供しながら物販もやらなければならず、時間がない中でどう売っていくかが課題だった。説明しなくても、お客さまから「これ何ですか?」と聞かれる製品は何かと考えたとき、五感の中で直感的に感じる嗅覚だと思った。そこでフレグランスとしても通用するレベルの香りを目指して作ったのが「ロア ザ オイル」だ。3アイテムでローンチし、それぞれ香りは異なるが成分や質感は全て同じ。なぜなら、香りをレイヤードすることを前提としているからだ。美容師は造形(カット、パーマ)と色彩(カラーリング)を提供しているが、さらに香りを提供することで、サロンの奥行きと可能性を広げたいと思っている。

WWD:機能軸ではなく香りを打ち出す製品は新鮮だ。

田村:香りには、特定の香りを嗅ぐとそれに関連する記憶が呼び起こされるプルースト効果がある。「ロア ザ オイル」を購入してプライベートで使うと、サロンやスタイリングが思い出され、それが既存客の定着にもつながるのではないか。コロナ禍で香りに興味を持つ人が増え、フレグランス市場がそれ以降伸びている。そんな時代の流れにマッチしたプロダクトというのも後押ししている。

WWD:サロン専売品の中でも高価格帯だ。

田村:ヘアオイルの低価格から中価格帯はレッドオーシャン。競合の少ない高価格帯にして、それに相応しい価値ある製品にすることに注力している。香りはフランス、イタリア、日本の調香師と作り、オードパルファムレベルの6時間持続する。その香りのこだわりと持続性がなければ、既存製品との差別化は難しい。もう一つこだわったのはビジュアルで、アパレルブランドよりのイメージにした。一般的なヘアオイルは成分や効能ばかり書いてあるが、「ロア ザ オイル」は成分などの説明は必要最小限。もちろんクオリティーが高いのは大前提だが、ビジュアルとパッケージとパフュームのような上質な香り、その3つがそろって完成度が高ければ、まず興味を持っていただける。その効果もあり、公式インスタグラムは、1万7000人のフォロワー、293万回の閲覧回数(24年12月現在)となっている。

WWD:高価格帯にこだわる理由は?

田村:オイルは5500円、バームは4950円と確かに高価格だ。ただ、2000〜3000円の製品を売っても美容室の利益は数百円。それをいい方向に崩したい。弊社のように小さな会社の製品が売れれば、大手メーカーも「このくらいの価格帯でいける」となるだろうし、美容師やサロンの自信につながる。われわれはそのきっかけを作りたい。価値ある物販製品を適正な価格で販売して客単価を上げ、サロンの価値も高めるのが狙いだ。

WWD:海外ビジネスの進捗は?

田村:フィリピンは三越と富裕層をターゲットにしたサロンでの販売がスタートしている。現地では8000円程度で販売しているが、10本まとめて購入されるなどのケースもある。韓国と台湾はすでにサロンで導入されており、オファーが絶えない状況だ。今年はさらに中国とイタリアへの進出を予定している。イタリアはミラノ・ファッション・ウイークのバックステージで使用してもらったことがきっかけで、モデルが「この香りは何?」となり、ビジネスへとつながった。海外で商談していると、詳しく製品説明をしなくても香りを嗅いだだけで気に入ってもらい取り引きが決まることが多い。これが香りの強さだと実感した。

WWD:25年の新製品発売予定は?

田村:1月23日に全6種類の香りのトラベル用を発売し、3月には新たな3つの香り、5月には髪にも肌にも使えるUVスプレー、6月には昨年も好評だった夏限定の香り“ビーチクラブ”を発売予定だ。また、ビンの廃棄を減らすため、長く使う価値を感じてもらえるようなアーティストやブランドのコラボ限定ボトルやレフィルの販売にも取り掛かる。さらに秋にはハンドソープ、ディフューザー、香水など、より香りにフォーカスしたプロダクトの発売を予定している。サロンで売るものは、シャンプーやコンディショナー、スタイリング剤など髪に関わるものに限られているが、美容のプロから買うライフスタイルビューティとしてそれ以外の製品もあっていいと思っている。日本のギフト市場は10兆円と言われており、その一部をサロン業界に持ってきたら経営的にも潤うという発想だ。そのため、ギフトに選ばれるようパッケージにも徹底してこだわる。香り、クリエイティブ、ビジュアルに特化したプロダクトを通し、サロンで香りを提供するという新しい文化を創造したい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『行ったことのない10カ国への旅』

旅行が好きなので、今まで行ったことのない国、できれば10カ国を訪れたい。聞くのと体験するのでは大違いで、実際にその地に立ってインスピレーションを得たい。どこに行っても香りを感じたり考えたりするので、結局は仕事になってしまうが(笑)。

COMPANY DATA
ジェイドジャパン

2022年4月設立。サロンやショールームに設置するディフューザーの販売からスタートし、サロン製品などを手掛ける。23年5月に髪だけでなく全身に使用できる「ロア ザ オイル」が誕生。こだわったパフュームレベルの香りや香りのレイヤードの提案、スタイリッシュなパッケージなどが話題を集め、大ヒット製品に。「WWDBEAUTY」の24年ヘアサロン版ベストコスメでは2部門同時入賞した。24年3月に「ロア ザ オイル ケア」、同年12月に「ロア ザ バーム」を発売し、サロンにおける香り文化の創造にまい進する


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【BCLカンパニー 大村和重カンパニーエグゼクティブプレジデント】主力ブランドの拡大と並行し、新領域に果敢に挑戦

PROFILE: 大村和重/カンパニーエグゼクティブプレジデント

大村和重/カンパニーエグゼクティブプレジデント
PROFILE: (おおむら・かずしげ)2007年、BCLカンパニーの前身であるB&Cラボラトリーズに入社。18年にBCLカンパニー国内事業部の事業部長に就任する。19年からカンパニーエグゼクティブを兼任し、21年6月にカンパニーエグゼクティブプレジデントに昇格。スタイリングライフ・ホールディングスの執行役員も務める PHOTO : KAZUSHI TOYOTA

スタイリングライフ・ホールディングスのビューティ&ウエルネス事業を担うBCLカンパニーは、主力ブランドの「サボリーノ」を筆頭に、生活者のライフスタイルに彩りを添えるコスメを提供している。2025年は「+1の発想で、美しさを塗り替え 毎日を彩る」という理念のもと、さらなる挑戦へ踏み出す。

「サボリーノ」を筆頭に
スキンケアカテゴリーが成熟

WWD:24年は主力製品の「サボリーノ」をリニューアルした。

大村和重カンパニーエグゼクティブプレジデント(以下、大村):「サボリーノ」は15年のデビュー以来、“朝用シートマスク”という新習慣を提案してきた。当時は、日本でシートマスク文化がどこまで浸透するか半信半疑だったが、若年層から年配層まで多くのお客さまに愛される製品となった。しかし、幅広い人に届けるチャンスはまだまだある。そこで、10年目を迎えるにあたり、お客さまのライフスタイルにさらに寄り添うべく、初のリニューアルを決断した。その一環として、ブランド認知度をさらに向上させることを目指し、テレビCM戦略を本格的に強化した。24年1月から秋にかけて3度放映したテレビCMでは、50~70代の新規顧客を開拓。「サボリーノ」の認知度が10%上昇しただけでなく、地方のドラッグストアでも売り上げが増加し、テレビの影響力を改めて実感した。まずは“知ってもらう”ことに注力した結果、売り上げの底上げにつながった。

WWD:第二の中核を担う「乾燥さん」も急成長している。

大村:21年に誕生した「乾燥さん」は、日本人特有の乾燥肌や敏感肌の悩みを、キャッチーなキャラクターで表現するなどして親しみやすさを強めたところ、乾燥に悩む人たちの共感を得られた。また、23年からインフルエンサーに取り上げてもらうなどして、急激に売り上げを伸ばしている。製品そのものの品質に対する信頼とともに、自然と口コミが拡散され、コアなファン層を生み出している。

WWD:この好調の波をどう次につなげていくか。

大村:スキンケア市場で安定した成長を続ける「サボリーノ」と「乾燥さん」という両ブランドが確固たる地位を築けたことは、当社にとって大きな成果だ。しかしここで安心しているわけではない。当社はチャレンジ精神が非常に強い会社だ。ニッチな市場を積極的に攻めていこうと考えている。24年はサプリ市場に参入し、4月に夜の美容プロテイン提案「オヤスミタンパク」を発売した。25年には美容機器の発売も予定している。化粧品だけではなく、ライフスタイル全体をトータルでサポートできる企業でありたい。まず日本の各市場でしっかり地盤を固めて、3年後には海外進出も見据えている。

WWD:海外戦略の現状と今後の方針は?

大村:中国、香港、台湾が厳しい中、EUや北米が好調だ。中でもドイツは50店舗で「サボリーノ」の取り扱いをスタートしたが好調に推移し、隣国のポーランドを含めると500店舗にまで広がっている。また、イタリアの見本市に出展した際も、ECや小売りのバイヤーからオファーが殺到した。EUなどでも韓国コスメが流行っているので、一巡してやや飽きが出たところにJビューティがうまく入り込めたと感じている。これを延ばすためには日本向けの製品を輸出するのではなく、ローカライズした製品が必要になってくる。チャンスのある市場なので、慎重に見定めたい。また、韓国コスメが席巻し、メード・イン・ジャパンの強みが薄れる中、“食”はまだまだ強い。インナービューティという分野は戦っていく価値や可能性を感じる。24年は世界的にビジネスとして戦っていくための戦略をスタートし、よい形で進みだすことができた。

WWD:競合の韓国コスメも勢いに乗っている。

大村:韓国ブランドに負けない“かわいい”ビジュアルとアイテム作りをする「カワイイプロジェクト」を立ち上げた。宣伝や営業などのメンバーも参加する。韓国では長期のブランド維持よりも3年程で大きな売り上げを狙う企業が多い。スピードで勝つために、現在1年半の開発期間を短縮し、3カ月から半年でトレンドに対応した製品開発を目指している。

WWD:未来にどんな可能性を見出しているか。

大村:BCLはアイデアの会社。これまで数々のアイデアを試し、その過程で多くの失敗も経験している。サプリや美容機器といった新領域においては、知見の不足を認識した上で、失敗を恐れず、その結果を次の改善へと結びつける作業を積み重ねていきたい。25年に限らず継続してチャレンジを続けていくが、それは根本に「人を笑顔にするものを総合的に提供できる会社になりたい」という思いがあるから。BCLが目指すのは、単に若さを追求するアンチエイジングではなく、年齢を重ねたその時々で、その年齢としてもっとも素敵でいられるライフスタイルを支えることだ。化粧品はもちろんのこと、健康をサポートできる製品にも注力していく。世代、ジェンダー、地域を問わず、全ての人が健康で笑顔になれるような製品を提供できる企業になることが理想だ。30、40年先を見据え、実現させるための基盤づくりに取り組んでいく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『自社製品を持って宇宙へ』

子どもの頃、宇宙飛行士になる夢を視力が基準に満たないため諦めた。でも、今なら別の形で宇宙に行くチャンスがあるのではと期待している。宇宙関連の製品を自社で作って、それを持って宇宙に行ってみたい。片道切符でもいいので(笑)。

COMPANY DATA
BCLカンパニー

1979年、ソニー・クリエイティブプロダクツの一事業部門として、フランス・スタンダール社との技術提携により、化粧品ビジネスに参入。96年、化粧品事業のさらなる拡大を目指し、ソニーシーピーラボラトリーズとして分社独立。親会社であるスタイリングライフ・ホールディングスと合併し、スタイリングライフ・ホールディングス BCL カンパニーを発足。「サボリーノ」をはじめ、「ベキュアハニー」や「ロアリブ」「乾燥さん」などのコスメブランドを擁する

TEXT : MIKI IRIMAJIRI
問い合わせ先
BCLカンパニー
0120-303-820

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【BCLカンパニー 大村和重カンパニーエグゼクティブプレジデント】主力ブランドの拡大と並行し、新領域に果敢に挑戦

PROFILE: 大村和重/カンパニーエグゼクティブプレジデント

大村和重/カンパニーエグゼクティブプレジデント
PROFILE: (おおむら・かずしげ)2007年、BCLカンパニーの前身であるB&Cラボラトリーズに入社。18年にBCLカンパニー国内事業部の事業部長に就任する。19年からカンパニーエグゼクティブを兼任し、21年6月にカンパニーエグゼクティブプレジデントに昇格。スタイリングライフ・ホールディングスの執行役員も務める PHOTO : KAZUSHI TOYOTA

スタイリングライフ・ホールディングスのビューティ&ウエルネス事業を担うBCLカンパニーは、主力ブランドの「サボリーノ」を筆頭に、生活者のライフスタイルに彩りを添えるコスメを提供している。2025年は「+1の発想で、美しさを塗り替え 毎日を彩る」という理念のもと、さらなる挑戦へ踏み出す。

「サボリーノ」を筆頭に
スキンケアカテゴリーが成熟

WWD:24年は主力製品の「サボリーノ」をリニューアルした。

大村和重カンパニーエグゼクティブプレジデント(以下、大村):「サボリーノ」は15年のデビュー以来、“朝用シートマスク”という新習慣を提案してきた。当時は、日本でシートマスク文化がどこまで浸透するか半信半疑だったが、若年層から年配層まで多くのお客さまに愛される製品となった。しかし、幅広い人に届けるチャンスはまだまだある。そこで、10年目を迎えるにあたり、お客さまのライフスタイルにさらに寄り添うべく、初のリニューアルを決断した。その一環として、ブランド認知度をさらに向上させることを目指し、テレビCM戦略を本格的に強化した。24年1月から秋にかけて3度放映したテレビCMでは、50~70代の新規顧客を開拓。「サボリーノ」の認知度が10%上昇しただけでなく、地方のドラッグストアでも売り上げが増加し、テレビの影響力を改めて実感した。まずは“知ってもらう”ことに注力した結果、売り上げの底上げにつながった。

WWD:第二の中核を担う「乾燥さん」も急成長している。

大村:21年に誕生した「乾燥さん」は、日本人特有の乾燥肌や敏感肌の悩みを、キャッチーなキャラクターで表現するなどして親しみやすさを強めたところ、乾燥に悩む人たちの共感を得られた。また、23年からインフルエンサーに取り上げてもらうなどして、急激に売り上げを伸ばしている。製品そのものの品質に対する信頼とともに、自然と口コミが拡散され、コアなファン層を生み出している。

WWD:この好調の波をどう次につなげていくか。

大村:スキンケア市場で安定した成長を続ける「サボリーノ」と「乾燥さん」という両ブランドが確固たる地位を築けたことは、当社にとって大きな成果だ。しかしここで安心しているわけではない。当社はチャレンジ精神が非常に強い会社だ。ニッチな市場を積極的に攻めていこうと考えている。24年はサプリ市場に参入し、4月に夜の美容プロテイン提案「オヤスミタンパク」を発売した。25年には美容機器の発売も予定している。化粧品だけではなく、ライフスタイル全体をトータルでサポートできる企業でありたい。まず日本の各市場でしっかり地盤を固めて、3年後には海外進出も見据えている。

WWD:海外戦略の現状と今後の方針は?

大村:中国、香港、台湾が厳しい中、EUや北米が好調だ。中でもドイツは50店舗で「サボリーノ」の取り扱いをスタートしたが好調に推移し、隣国のポーランドを含めると500店舗にまで広がっている。また、イタリアの見本市に出展した際も、ECや小売りのバイヤーからオファーが殺到した。EUなどでも韓国コスメが流行っているので、一巡してやや飽きが出たところにJビューティがうまく入り込めたと感じている。これを延ばすためには日本向けの製品を輸出するのではなく、ローカライズした製品が必要になってくる。チャンスのある市場なので、慎重に見定めたい。また、韓国コスメが席巻し、メード・イン・ジャパンの強みが薄れる中、“食”はまだまだ強い。インナービューティという分野は戦っていく価値や可能性を感じる。24年は世界的にビジネスとして戦っていくための戦略をスタートし、よい形で進みだすことができた。

WWD:競合の韓国コスメも勢いに乗っている。

大村:韓国ブランドに負けない“かわいい”ビジュアルとアイテム作りをする「カワイイプロジェクト」を立ち上げた。宣伝や営業などのメンバーも参加する。韓国では長期のブランド維持よりも3年程で大きな売り上げを狙う企業が多い。スピードで勝つために、現在1年半の開発期間を短縮し、3カ月から半年でトレンドに対応した製品開発を目指している。

WWD:未来にどんな可能性を見出しているか。

大村:BCLはアイデアの会社。これまで数々のアイデアを試し、その過程で多くの失敗も経験している。サプリや美容機器といった新領域においては、知見の不足を認識した上で、失敗を恐れず、その結果を次の改善へと結びつける作業を積み重ねていきたい。25年に限らず継続してチャレンジを続けていくが、それは根本に「人を笑顔にするものを総合的に提供できる会社になりたい」という思いがあるから。BCLが目指すのは、単に若さを追求するアンチエイジングではなく、年齢を重ねたその時々で、その年齢としてもっとも素敵でいられるライフスタイルを支えることだ。化粧品はもちろんのこと、健康をサポートできる製品にも注力していく。世代、ジェンダー、地域を問わず、全ての人が健康で笑顔になれるような製品を提供できる企業になることが理想だ。30、40年先を見据え、実現させるための基盤づくりに取り組んでいく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『自社製品を持って宇宙へ』

子どもの頃、宇宙飛行士になる夢を視力が基準に満たないため諦めた。でも、今なら別の形で宇宙に行くチャンスがあるのではと期待している。宇宙関連の製品を自社で作って、それを持って宇宙に行ってみたい。片道切符でもいいので(笑)。

COMPANY DATA
BCLカンパニー

1979年、ソニー・クリエイティブプロダクツの一事業部門として、フランス・スタンダール社との技術提携により、化粧品ビジネスに参入。96年、化粧品事業のさらなる拡大を目指し、ソニーシーピーラボラトリーズとして分社独立。親会社であるスタイリングライフ・ホールディングスと合併し、スタイリングライフ・ホールディングス BCL カンパニーを発足。「サボリーノ」をはじめ、「ベキュアハニー」や「ロアリブ」「乾燥さん」などのコスメブランドを擁する

TEXT : MIKI IRIMAJIRI
問い合わせ先
BCLカンパニー
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【リンワン 崔萌芽代表取締役】会社の可能性イコール、スタッフのポテンシャル

PROFILE: 崔萌芽/代表取締役

崔萌芽/代表取締役
PROFILE: (さい・ほうが)1981年、中国生まれ。2002年留学のため来日。06年名城大学国際経営学科卒業後、アパレルメーカーに勤務し、11年に出産とともに退職。翌年アパレルOEM会社、カラフルワールドを設立。14年「リップサービス」の事業譲受を機にリンワン設立。現在に至る PHOTO : TAMEKI OSHIRO

リンワン(RINONE)は、アパレルブランド「リップサービス」を2014年に取得。“衣食住からのエンタテイメント融合でいまを繋ぎ、未来を造る”をコンセプトに、飲食やコスメ、レンタルスペースなど、事業を増やしている。

ポジティブなエネルギーと共存できる
ファッションや空間を提供

WWD:2024年を振り返ると?

崔萌芽代表取締役(以下、崔):ブランド誕生から20年を超えた基幹ブランド「リップサービス(LIP SERVICE)」のアップデートを図るため、あらゆる取捨選択を行い、ブランドの使命を見つめ直す中で、さまざまな「好き」を全力で楽しむ女性たちのポジティブなエネルギーにふさわしいファッションを追求した1年だった。個々のスタイルや価値観を重視する多様性に富んだ社会の中で、特に“推し活”パワーの勢いを感じている。ライブやカフェ巡りなどのおでかけに「リップサービス」のアイテムを着用し楽しむ様子をSNSで投稿してくださるお客さまが増えていることを知り、そこに向けて提案を強化したところ、支持が広がっている。

WWD:“推し活”は消費の大きな原動力になっている。

崔:アイドル推しだけではなく、カフェ巡りやアート巡りも“推し活”の一種ととらえている。特に写真でもパッと目を引く華やかな印象の“美シルエット”ワンピースがヒットした。「リップサービス」を譲受してから10年。今後もスタッフのブランド愛を大事にしながら、時代に即してアップデートしていく。同時に重視したのは、“作りすぎない”こと。適量生産、適量供給の意識付けを徹底し、店頭では客注システムを活用したOMO取り組みを主要店舗で実施して、機会ロスを最小限に抑えた。その結果、売上高は前期比30%増で在庫消化率は90%と好調に推移した。

WWD:飲食事業は?

崔:お茶とスイーツの店「ナナティーアンドツツミ」を中心に4店舗展開。特に青山本店は、つやつやでピンク色のハート型ムースケーキから人気に火が付き、7種類のカラフルな展開でさらに好評を得ている。“推し”の写真やぬいぐるみと一緒に写真を撮ってSNSへアップすることも“推し活”イベントの1つとして、おしゃれをして楽しむ女性が多く、「リップサービス」のアイテム着用を見かけることも。“推し活”はとにかく「楽しむ」ことが大事。そのわくわく感やポジティブなエネルギーと共存できるファッションや空間を提供できるよう、各ブランドの使命を考えた。

WWD:24年で一番好調だった事業は?

崔:空間ビジネスの「ランド(Rand)」だ。表参道にカフェ併設のレンタルスペースと青山に2階建てのレンタルスペースを構えている。コロナ禍が明けオフライン開催のイベントが増えたこともあり非常に好調だ。スペース自体を空白のキャンバスととらえ、無限の可能性をもって自由なチャレンジが実現できる場所を目指しており、ファッションやビューティブランドのポップアップや展示会、新作発表会などさまざまなイベントで活用いただいている。「ランド」として運用するインスタグラムでは開催イベントの情報発信も行っている。さまざまな“おもしろいこと”が行われる場所としてコミュニティーを築いていきたい。

WWD:KOL(キー・オピニオン・リーダー)によるライブコマース事業については?

崔:「リンワンセレクトショップ」として、中国のSNS、REDBOOK(小紅書)を通じてライブコマースした商品を掛け率を決めて受注するケースもあれば、KOLが店頭から配信し、注文に応じて店頭の商品をこちらで購入して発送するケースもある。中国に住む30代女性がメインの顧客なので、ある程度体型をカバーしながら、品のある上質な日本のブランドが人気。ブランド側からの配信依頼も増えている。ブランドと顧客間はもちろん、KOLやタイミングとのマッチングも非常に重要だ。

WWD:25年に注力するのは?

崔:「ランド」をより多様で流動的な社会にフィットする空間にし、そこを介したコミュニティー作りで、衣食住のさまざまなブランドの後押しをしていきたい。ファッションやビューティが提供する物質的・精神的な幸福も大事にしつつ、アートや学びといった内面的な充実を提案できるコンテンツも誘致するなど、情報発信の場としてブランディングする。同時に、空間ビジネスとして、時代のニーズや移り行く気分に合わせて「5㎡」のパーソナル空間を生み出すサービスの開発も進行中だ。人生をより豊かなものにする暮らしと心の充実感や、良いものを大切にシェアする心地よさを届けていきたいと考えている。

WWD:未来に見据える可能性は?

崔:会社の可能性イコール、スタッフのポテンシャルだ。すでに衣食住の全事業を行っているので、この先どの部分をより強化していくのか、どんな展開をしていくのかは各責任者の采配にかかっている。私自身は新規事業の立ち上げと、経営者の育成に注力する。2年ごとに自薦または他薦で副社長を決める制度を導入し、今期から「ランド」事業の責任者が副社長として経営に携わっている。経営者視点を持つ幹部を複数育てるつもりだ。年収1000万円超えプレーヤーの輩出も目指している。社会に必要とされる企業として、長く継続できる体制を作りたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『ロスが出ないお花屋さん』

フレッシュからドライまでロスがなく、なおかつ常温で働ける小さなお花屋さんがやりたい。花のロス問題や働く環境の過酷さ、それらをクリアする方法を見つけたら絶対に始めたい!

COMPANY DATA
リンワン

2014年に設立。同年にヤングレディースブランド「リップサービス」、16年にウィメンズアパレル「レディメイド」の全事業を継承した。「リップサービス」は国内直営6店とFC4店とEC、「レディメイド」はECを運営する。飲食事業では「ナナティーアンドツツミ」を中心とした4店、オーガニックスキンケア「S.life」を展開するほか、「ランド」事業として青山と表参道にレンタルスペースを運営する。KOLを起用したライブコマース事業も行う


問い合わせ先
リンワン
03-6433-5771

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【リンワン 崔萌芽代表取締役】会社の可能性イコール、スタッフのポテンシャル

PROFILE: 崔萌芽/代表取締役

崔萌芽/代表取締役
PROFILE: (さい・ほうが)1981年、中国生まれ。2002年留学のため来日。06年名城大学国際経営学科卒業後、アパレルメーカーに勤務し、11年に出産とともに退職。翌年アパレルOEM会社、カラフルワールドを設立。14年「リップサービス」の事業譲受を機にリンワン設立。現在に至る PHOTO : TAMEKI OSHIRO

リンワン(RINONE)は、アパレルブランド「リップサービス」を2014年に取得。“衣食住からのエンタテイメント融合でいまを繋ぎ、未来を造る”をコンセプトに、飲食やコスメ、レンタルスペースなど、事業を増やしている。

ポジティブなエネルギーと共存できる
ファッションや空間を提供

WWD:2024年を振り返ると?

崔萌芽代表取締役(以下、崔):ブランド誕生から20年を超えた基幹ブランド「リップサービス(LIP SERVICE)」のアップデートを図るため、あらゆる取捨選択を行い、ブランドの使命を見つめ直す中で、さまざまな「好き」を全力で楽しむ女性たちのポジティブなエネルギーにふさわしいファッションを追求した1年だった。個々のスタイルや価値観を重視する多様性に富んだ社会の中で、特に“推し活”パワーの勢いを感じている。ライブやカフェ巡りなどのおでかけに「リップサービス」のアイテムを着用し楽しむ様子をSNSで投稿してくださるお客さまが増えていることを知り、そこに向けて提案を強化したところ、支持が広がっている。

WWD:“推し活”は消費の大きな原動力になっている。

崔:アイドル推しだけではなく、カフェ巡りやアート巡りも“推し活”の一種ととらえている。特に写真でもパッと目を引く華やかな印象の“美シルエット”ワンピースがヒットした。「リップサービス」を譲受してから10年。今後もスタッフのブランド愛を大事にしながら、時代に即してアップデートしていく。同時に重視したのは、“作りすぎない”こと。適量生産、適量供給の意識付けを徹底し、店頭では客注システムを活用したOMO取り組みを主要店舗で実施して、機会ロスを最小限に抑えた。その結果、売上高は前期比30%増で在庫消化率は90%と好調に推移した。

WWD:飲食事業は?

崔:お茶とスイーツの店「ナナティーアンドツツミ」を中心に4店舗展開。特に青山本店は、つやつやでピンク色のハート型ムースケーキから人気に火が付き、7種類のカラフルな展開でさらに好評を得ている。“推し”の写真やぬいぐるみと一緒に写真を撮ってSNSへアップすることも“推し活”イベントの1つとして、おしゃれをして楽しむ女性が多く、「リップサービス」のアイテム着用を見かけることも。“推し活”はとにかく「楽しむ」ことが大事。そのわくわく感やポジティブなエネルギーと共存できるファッションや空間を提供できるよう、各ブランドの使命を考えた。

WWD:24年で一番好調だった事業は?

崔:空間ビジネスの「ランド(Rand)」だ。表参道にカフェ併設のレンタルスペースと青山に2階建てのレンタルスペースを構えている。コロナ禍が明けオフライン開催のイベントが増えたこともあり非常に好調だ。スペース自体を空白のキャンバスととらえ、無限の可能性をもって自由なチャレンジが実現できる場所を目指しており、ファッションやビューティブランドのポップアップや展示会、新作発表会などさまざまなイベントで活用いただいている。「ランド」として運用するインスタグラムでは開催イベントの情報発信も行っている。さまざまな“おもしろいこと”が行われる場所としてコミュニティーを築いていきたい。

WWD:KOL(キー・オピニオン・リーダー)によるライブコマース事業については?

崔:「リンワンセレクトショップ」として、中国のSNS、REDBOOK(小紅書)を通じてライブコマースした商品を掛け率を決めて受注するケースもあれば、KOLが店頭から配信し、注文に応じて店頭の商品をこちらで購入して発送するケースもある。中国に住む30代女性がメインの顧客なので、ある程度体型をカバーしながら、品のある上質な日本のブランドが人気。ブランド側からの配信依頼も増えている。ブランドと顧客間はもちろん、KOLやタイミングとのマッチングも非常に重要だ。

WWD:25年に注力するのは?

崔:「ランド」をより多様で流動的な社会にフィットする空間にし、そこを介したコミュニティー作りで、衣食住のさまざまなブランドの後押しをしていきたい。ファッションやビューティが提供する物質的・精神的な幸福も大事にしつつ、アートや学びといった内面的な充実を提案できるコンテンツも誘致するなど、情報発信の場としてブランディングする。同時に、空間ビジネスとして、時代のニーズや移り行く気分に合わせて「5㎡」のパーソナル空間を生み出すサービスの開発も進行中だ。人生をより豊かなものにする暮らしと心の充実感や、良いものを大切にシェアする心地よさを届けていきたいと考えている。

WWD:未来に見据える可能性は?

崔:会社の可能性イコール、スタッフのポテンシャルだ。すでに衣食住の全事業を行っているので、この先どの部分をより強化していくのか、どんな展開をしていくのかは各責任者の采配にかかっている。私自身は新規事業の立ち上げと、経営者の育成に注力する。2年ごとに自薦または他薦で副社長を決める制度を導入し、今期から「ランド」事業の責任者が副社長として経営に携わっている。経営者視点を持つ幹部を複数育てるつもりだ。年収1000万円超えプレーヤーの輩出も目指している。社会に必要とされる企業として、長く継続できる体制を作りたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『ロスが出ないお花屋さん』

フレッシュからドライまでロスがなく、なおかつ常温で働ける小さなお花屋さんがやりたい。花のロス問題や働く環境の過酷さ、それらをクリアする方法を見つけたら絶対に始めたい!

COMPANY DATA
リンワン

2014年に設立。同年にヤングレディースブランド「リップサービス」、16年にウィメンズアパレル「レディメイド」の全事業を継承した。「リップサービス」は国内直営6店とFC4店とEC、「レディメイド」はECを運営する。飲食事業では「ナナティーアンドツツミ」を中心とした4店、オーガニックスキンケア「S.life」を展開するほか、「ランド」事業として青山と表参道にレンタルスペースを運営する。KOLを起用したライブコマース事業も行う


問い合わせ先
リンワン
03-6433-5771

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【クレイジー 森山和彦CEO】人生の節目に寄り添い、人や企業の未来を共創する

PROFILE: 森山和彦/CEO

森山和彦/CEO
PROFILE: (もりやま・かずひこ)1982年東京都生まれ。大学卒業後、人材コンサルティング会社で6年半勤務。2012年にCRAZY設立。組織づくりでは、全社員が入社時に自身の理想の生き方をプレゼンする“ライフプレゼンテーション”や人生を豊かに生きるために必要な休暇を1カ月取得できる制度“グレート ジャーニー”を導入するなど、ユニークな企業文化を育んでいる PHOTO:SHUHEI SHINE

“人生を祝う空間”を通じて新たな価値を創造する企業CRAZYが手掛けるのは、ウエディングからファッションやビューティの企業のイベントプロデュースまでさまざまだ。2025年は新たにさらなる事業拡大を図る。

イベント企画サービスなど
法人向けサービスで事業が飛躍

WWD:創業時からウエディングブランドの「クレイジー ウエディング(CRAZY WEDDING)」を手掛けているが、他の企業と異なる点は?

森山和彦CEO(以下、森山):その人の人生を祝うという独自の哲学をベースにしたウエディングを提供している。私たちが提案する結婚式では、従来見られる高砂も装飾もない。自社で運営する施設の「IWAI OMOTESANDO(以下、IWAI)」もグレーが基調の落ち着いた空間で、一般的な結婚式場とは異なる。オープン当初は疑問の声もあったが、今ではお客さまからの口コミ評価が高く、毎年予約枠が埋まる状況だ。追求したのは、主催者二人だけでなく、式場に集う全員が“祝う”ことのできる空間づくり。主催者から参列者に宛てた手紙を入れる“レターギャラリー”を設置したり、パネルには参列者の名前だけでなく紹介文を添えたりしている。“セレブレーションホール”は丸窓から外光が差し込むシンプルな空間で、花は一点、旬のものを飾るだけ。既成概念に捉われず、参列者が主催者二人の人生を知り、心から祝えるような空間づくりを重視した。

WWD:現在のブライダル市場をどのように分析するか?

森山:人口が減り、価値観が多様化している。結婚式を挙げない人が増え、間違いなく衰退産業の一つだ。ただ、その中における成長企業になれる余地はあると考える。

WWD:2024年を振り返ると?

森山:前年比130%増で過去最高の売上高だった。ブライダル事業に加えて始めた法人向けのサービス“クレイジー カルチャー エージェンシー”に注力。それが大きく伸長した。ビジネスの成功の一番の理由は社員。挙式するお客さまと同様に対法人であっても、一人の人間として深くつながり、企業やブランドの思想をくみ取りサービスを提供したからだ。

WWD:法人向けサービスとはどのようなものか?

森山:今までも、ブランドの展示会やイベントスペースとして「IWAI」を提供してきたが、イベントの企画段階から入るコンテンツづくりのサポートも増えている。重要なのは、商品の背後にあるメッセージやストーリーをユーザーが理解し、ファンになること。展示会やイベント用の空間は、「商品を美しく見せる」以上に「ブランド体験をどう届けるか」が大切だ。だからこそ、単なる会場提供ではなく、企業やブランドの未来を共に形づくるパートナーでありたい。ブランドを深く理解し、法人のお客さまと同じ目線で空間づくりをしている。

WWD:今後の課題は?

森山:23年にキャリアエージェント事業として“クレイジー キャリア”を始めた。法人向けサービスも、企業のカルチャーや組織まで踏み込んだプロデュース事業を拡大させる。また、「IWAI」に続く新たな婚礼会場を作るつもりだ。そのため、23年にブライダルと法人の運営を一体化した。今後、さらなる事業拡大に向けて、採用に注力する。

WWD:組織再編後の変化は?

森山:法人向けのサービスは23年春まで、社員やお客さまの紹介による受注の割合が5%程度だったが、24年には約6割まで伸長、8割を超えることもある。婚礼のお客さまがビジネスでも利用するなど、婚礼と法人事業の垣根を取り払ったことで、相乗効果が生まれている。

WWD:広告戦略は?

森山:創業時から大手結婚情報誌に出稿していない。体験価値を重視しており、口コミがビジネスに結びついている。昨年7月、表参道駅に「伝える勇気」をテーマにした交通広告を出した。「ごめんね」「ありがとう」「愛してる」という伝えることが難しい3つのワードに着目し、伝えたい人の気持ちを切り取って表現。シンプルな広告だったが、足を止めて眺めたり、携帯電話で撮影したりする人の姿が見られた。直接的ではないが、私たちらしいメッセージの伝え方で反響があった。

WWD:サステナビリティやダイバーシティーに関して注力していることは?

森山:20年からダイバーシティー&インクルージョン(D&I)に取り組む企業を認定・表彰する「D&I アワード」を複数回受賞している。23年からは、最高評価の「ベストワークプレイス」の認定を2年連続で取得。LGBTQや障害のある人の結婚式の支援はもちろん、多様性の感覚の共有やそれら人々の理解を深める研修などを実践してきた結果だと思う。

WWD:未来の可能性については?

森山:「IWAI」で挙式したお客さま向けに記念日のための宿泊サービス“クレイジー アニバーサリー”も提供している。結婚式がゴールではなく、節目節目でそれぞれの人生に寄り添ったサービスを提供したいという考えからだ。法人にとっても、そのような存在でありたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『大きな愛に包まれた大家族をつくること』

家族の概念を拡張して、孫まで含めたら100人くらいの大家族をつくりたい。そして、家族みんなで帰って来られる家が欲しい。

COMPANY DATA
クレイジー

2012年設立。ウエディングブランド「クレイジー ウエディング」を運営。19年には東京・表参道に自社の施設「IWAI OMOTESANDO」をオープン。21年以降、大手業界クチコミサイト「ウエディングパーク」で、東京エリア900会場中で1位を3年連続で獲得。24年には人材エージェント事業 “クレイジー キャリア”の提供を開始するなど、人の人生に寄り添う企業としてサービスを拡大している


問い合わせ先
CRAZY
0120-181-904

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【クレイジー 森山和彦CEO】人生の節目に寄り添い、人や企業の未来を共創する

PROFILE: 森山和彦/CEO

森山和彦/CEO
PROFILE: (もりやま・かずひこ)1982年東京都生まれ。大学卒業後、人材コンサルティング会社で6年半勤務。2012年にCRAZY設立。組織づくりでは、全社員が入社時に自身の理想の生き方をプレゼンする“ライフプレゼンテーション”や人生を豊かに生きるために必要な休暇を1カ月取得できる制度“グレート ジャーニー”を導入するなど、ユニークな企業文化を育んでいる PHOTO:SHUHEI SHINE

“人生を祝う空間”を通じて新たな価値を創造する企業CRAZYが手掛けるのは、ウエディングからファッションやビューティの企業のイベントプロデュースまでさまざまだ。2025年は新たにさらなる事業拡大を図る。

イベント企画サービスなど
法人向けサービスで事業が飛躍

WWD:創業時からウエディングブランドの「クレイジー ウエディング(CRAZY WEDDING)」を手掛けているが、他の企業と異なる点は?

森山和彦CEO(以下、森山):その人の人生を祝うという独自の哲学をベースにしたウエディングを提供している。私たちが提案する結婚式では、従来見られる高砂も装飾もない。自社で運営する施設の「IWAI OMOTESANDO(以下、IWAI)」もグレーが基調の落ち着いた空間で、一般的な結婚式場とは異なる。オープン当初は疑問の声もあったが、今ではお客さまからの口コミ評価が高く、毎年予約枠が埋まる状況だ。追求したのは、主催者二人だけでなく、式場に集う全員が“祝う”ことのできる空間づくり。主催者から参列者に宛てた手紙を入れる“レターギャラリー”を設置したり、パネルには参列者の名前だけでなく紹介文を添えたりしている。“セレブレーションホール”は丸窓から外光が差し込むシンプルな空間で、花は一点、旬のものを飾るだけ。既成概念に捉われず、参列者が主催者二人の人生を知り、心から祝えるような空間づくりを重視した。

WWD:現在のブライダル市場をどのように分析するか?

森山:人口が減り、価値観が多様化している。結婚式を挙げない人が増え、間違いなく衰退産業の一つだ。ただ、その中における成長企業になれる余地はあると考える。

WWD:2024年を振り返ると?

森山:前年比130%増で過去最高の売上高だった。ブライダル事業に加えて始めた法人向けのサービス“クレイジー カルチャー エージェンシー”に注力。それが大きく伸長した。ビジネスの成功の一番の理由は社員。挙式するお客さまと同様に対法人であっても、一人の人間として深くつながり、企業やブランドの思想をくみ取りサービスを提供したからだ。

WWD:法人向けサービスとはどのようなものか?

森山:今までも、ブランドの展示会やイベントスペースとして「IWAI」を提供してきたが、イベントの企画段階から入るコンテンツづくりのサポートも増えている。重要なのは、商品の背後にあるメッセージやストーリーをユーザーが理解し、ファンになること。展示会やイベント用の空間は、「商品を美しく見せる」以上に「ブランド体験をどう届けるか」が大切だ。だからこそ、単なる会場提供ではなく、企業やブランドの未来を共に形づくるパートナーでありたい。ブランドを深く理解し、法人のお客さまと同じ目線で空間づくりをしている。

WWD:今後の課題は?

森山:23年にキャリアエージェント事業として“クレイジー キャリア”を始めた。法人向けサービスも、企業のカルチャーや組織まで踏み込んだプロデュース事業を拡大させる。また、「IWAI」に続く新たな婚礼会場を作るつもりだ。そのため、23年にブライダルと法人の運営を一体化した。今後、さらなる事業拡大に向けて、採用に注力する。

WWD:組織再編後の変化は?

森山:法人向けのサービスは23年春まで、社員やお客さまの紹介による受注の割合が5%程度だったが、24年には約6割まで伸長、8割を超えることもある。婚礼のお客さまがビジネスでも利用するなど、婚礼と法人事業の垣根を取り払ったことで、相乗効果が生まれている。

WWD:広告戦略は?

森山:創業時から大手結婚情報誌に出稿していない。体験価値を重視しており、口コミがビジネスに結びついている。昨年7月、表参道駅に「伝える勇気」をテーマにした交通広告を出した。「ごめんね」「ありがとう」「愛してる」という伝えることが難しい3つのワードに着目し、伝えたい人の気持ちを切り取って表現。シンプルな広告だったが、足を止めて眺めたり、携帯電話で撮影したりする人の姿が見られた。直接的ではないが、私たちらしいメッセージの伝え方で反響があった。

WWD:サステナビリティやダイバーシティーに関して注力していることは?

森山:20年からダイバーシティー&インクルージョン(D&I)に取り組む企業を認定・表彰する「D&I アワード」を複数回受賞している。23年からは、最高評価の「ベストワークプレイス」の認定を2年連続で取得。LGBTQや障害のある人の結婚式の支援はもちろん、多様性の感覚の共有やそれら人々の理解を深める研修などを実践してきた結果だと思う。

WWD:未来の可能性については?

森山:「IWAI」で挙式したお客さま向けに記念日のための宿泊サービス“クレイジー アニバーサリー”も提供している。結婚式がゴールではなく、節目節目でそれぞれの人生に寄り添ったサービスを提供したいという考えからだ。法人にとっても、そのような存在でありたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『大きな愛に包まれた大家族をつくること』

家族の概念を拡張して、孫まで含めたら100人くらいの大家族をつくりたい。そして、家族みんなで帰って来られる家が欲しい。

COMPANY DATA
クレイジー

2012年設立。ウエディングブランド「クレイジー ウエディング」を運営。19年には東京・表参道に自社の施設「IWAI OMOTESANDO」をオープン。21年以降、大手業界クチコミサイト「ウエディングパーク」で、東京エリア900会場中で1位を3年連続で獲得。24年には人材エージェント事業 “クレイジー キャリア”の提供を開始するなど、人の人生に寄り添う企業としてサービスを拡大している


問い合わせ先
CRAZY
0120-181-904

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三陽商会・大江伸治社長が見据える「反転攻勢」の2025年

三陽商会が息を吹き返している。2025年2月期の通期連結営業利益は27億円の黒字で着地する見通し。20年、バーバリーショックの傷跡がまだ癒えぬ中で再建を託された大江伸治社長は、商品企画やコスト構造の抜本的見直しを進め、必達目標に掲げてきた「営業黒字化」を揺るがぬものにした。ただ、その表情に油断の色は見えない。25年を「反転攻勢の一年」と見据える大江社長に展望を聞いた。

WWD: 昨年を振り返ると。

大江伸治社長(以下、大江):第3四半期累計(3〜11月)は営業利益が前年同期比17.7%減の14億円。黒字は確保したが、一言で言い表すのであれば厳しい決算だった。春は、前年のコロナ明けのリベンジ消費の反動もあってやや数字を落とした。その後は盛り返したものの、鬼門となったのは10月。厳しい残暑は想定していたが、あれほどの高気温は誤算だった。

WWD:夏を「初夏・盛夏」と「猛暑」の2つのシーズンと捉えた“五季”のスローガンを掲げた。

大江:成果に結びついているかといえば、まだまだだ。夏物衣料品は「嗜好品」というより「実用品」に近づいている。「いいものなら多少値が張っても売れる」という思い込みを捨て、リアリスティックに考えなければダメだ。例えば上質できれいなドレスTシャツは、ジャケットインだけでなく1枚でもサマになり、夏場の需要が高い。昨夏は当社も多くのブランドがドレスTを企画し、1万2000円のものは売れたが高めのものは売れず、価格面の競争力が足りなかった。買い物のスタイルも、「必要なものを必要なときに買う」傾向が強まっている。確かな仮説に基づいたMDスケジュールは重要だが、それ以上に大事なのが期中の対応力だ。

WWD: 効果的な期中対応とは。

大江:この秋冬は、12月になって重衣料がようやく売れ出した。だいぶやきもきさせられたが、それだけ「考える猶予」があったということ。10月の段階で、アイテムごとの消化状況を細かく調べ、店頭の中身をかなり入れ替えた。動きのいいものは追加発注し、動きが鈍いものは早めにアウトレット店舗に流す。柔軟で機動的な店頭のフェイスチェンジが重要だ。12月の月次売上高は「マッキントッシュ ロンドン」が前年同月比11%増、「マッキントッシュ フィロソフィー」が同8%増と成果が出た。

WWD: 就任から5年。必達としてきた営業黒字化はすでに達成した。

大江:粗利率を上げて、販菅費率を下げる。当たり前のことをやって、利益を確実に出せる体質になった。山のように積み上がっていた在庫状況もだいぶ改善され、今はアウトレット店舗で販売する商品に困るくらいだ。セール品の値引き率もかなり改善できていて、一昔前のように数年前の型落ち商品を定価の半値や8割引で売るということはほとんどない。黒字化は達成したが、調達原価の抑制とインベントリー(在庫)コントロールは、今後の事業運営においても大前提になる。

WWD:25年、新しい動きはあるか。

大江:この春夏、「ザ・スコッチハウス」に代わり立ち上げる「ベイカー・ストリート」はポテンシャルが大きい。これまで「ザ・スコッチハウス」ではライセンス契約によって取引工場が限定され、商品価格が高止まりしていた。より値ごろ感のある価格やロゴTシャツなどキャッチーなアイテムで、若いお客さまを取り込む。また、23年9月に自社ブランドを統合して立ち上げた新たな自社EC「サンヨー オンラインストア」は、100%プロパーで売れるプラットフォームを目指す。EC専業ブランドの開発も検討したい。

WWD:中期的な展望は。

大江:25年3月に次の中期経営計画に入るが、基本方針はトップライン(売上高)をさらに引き上げ、会社の成長軌道を確かなものにすること。7つの基幹ブランドでそれぞれ売上高100億円を稼げる体制を早期に作り、「キャストコロン」「ラブレス」といったチャレンジ領域も採算ラインを確保する。その上で、さらなる伸び代は何か。まず一つは、三陽商会らしい“商品力”。21年に発足した社内プロジェクト「商品開発委員会」が中心となって、昨夏は「ポール・スチュアート」の中空糸を使ったジャケット、「マッキントッシュ フィロソフィー」のカラミ織のジャケットなど、猛暑に対応したヒット商品が生まれた。秋冬は漆黒にこだわって生地開発したブランド横断の「ブラック オブ ブラック」シリーズを発売し、ほとんどの在庫を早期に消化できた。昨年11〜12月は売れた商品の平均単価が前年同期比4%アップしたが、商品力のグレードアップが寄与しているのは間違いない。

そして“販売力”。当社の会員制度である「サンヨー・メンバーシップ」は176万人を抱え、その中の休眠会員をいかにアクティブ会員に引き上げるかを考えていく。会員向け施策についても、濃度の高いファンに向けたターゲティングを徹底して強化する。

WWD: 上顧客に向けた施策は。

大江:現在、当社の売り上げのうち6割が会員によるもの。プラチナ会員は年間100万円以上、最上位のダイヤモンド会員は200万円以上をご購入いただいている。当社の上位顧客リストに名を連ねる方々は1万3000人。昨年の8月と12月には、上顧客を招いた特別受注会を東京と大阪で実施した。各ブランドのトップ販売員がお客さまを1on1で接客し、中には一日で200万円ほど受注いただいたお客さまもいて、かなりのポテンシャルを感じられた。

問い合わせ先
三陽商会 カスタマーサポート

0120-340-460

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三陽商会・大江伸治社長が見据える「反転攻勢」の2025年

三陽商会が息を吹き返している。2025年2月期の通期連結営業利益は27億円の黒字で着地する見通し。20年、バーバリーショックの傷跡がまだ癒えぬ中で再建を託された大江伸治社長は、商品企画やコスト構造の抜本的見直しを進め、必達目標に掲げてきた「営業黒字化」を揺るがぬものにした。ただ、その表情に油断の色は見えない。25年を「反転攻勢の一年」と見据える大江社長に展望を聞いた。

WWD: 昨年を振り返ると。

大江伸治社長(以下、大江):第3四半期累計(3〜11月)は営業利益が前年同期比17.7%減の14億円。黒字は確保したが、一言で言い表すのであれば厳しい決算だった。春は、前年のコロナ明けのリベンジ消費の反動もあってやや数字を落とした。その後は盛り返したものの、鬼門となったのは10月。厳しい残暑は想定していたが、あれほどの高気温は誤算だった。

WWD:夏を「初夏・盛夏」と「猛暑」の2つのシーズンと捉えた“五季”のスローガンを掲げた。

大江:成果に結びついているかといえば、まだまだだ。夏物衣料品は「嗜好品」というより「実用品」に近づいている。「いいものなら多少値が張っても売れる」という思い込みを捨て、リアリスティックに考えなければダメだ。例えば上質できれいなドレスTシャツは、ジャケットインだけでなく1枚でもサマになり、夏場の需要が高い。昨夏は当社も多くのブランドがドレスTを企画し、1万2000円のものは売れたが高めのものは売れず、価格面の競争力が足りなかった。買い物のスタイルも、「必要なものを必要なときに買う」傾向が強まっている。確かな仮説に基づいたMDスケジュールは重要だが、それ以上に大事なのが期中の対応力だ。

WWD: 効果的な期中対応とは。

大江:この秋冬は、12月になって重衣料がようやく売れ出した。だいぶやきもきさせられたが、それだけ「考える猶予」があったということ。10月の段階で、アイテムごとの消化状況を細かく調べ、店頭の中身をかなり入れ替えた。動きのいいものは追加発注し、動きが鈍いものは早めにアウトレット店舗に流す。柔軟で機動的な店頭のフェイスチェンジが重要だ。12月の月次売上高は「マッキントッシュ ロンドン」が前年同月比11%増、「マッキントッシュ フィロソフィー」が同8%増と成果が出た。

WWD: 就任から5年。必達としてきた営業黒字化はすでに達成した。

大江:粗利率を上げて、販菅費率を下げる。当たり前のことをやって、利益を確実に出せる体質になった。山のように積み上がっていた在庫状況もだいぶ改善され、今はアウトレット店舗で販売する商品に困るくらいだ。セール品の値引き率もかなり改善できていて、一昔前のように数年前の型落ち商品を定価の半値や8割引で売るということはほとんどない。黒字化は達成したが、調達原価の抑制とインベントリー(在庫)コントロールは、今後の事業運営においても大前提になる。

WWD:25年、新しい動きはあるか。

大江:この春夏、「ザ・スコッチハウス」に代わり立ち上げる「ベイカー・ストリート」はポテンシャルが大きい。これまで「ザ・スコッチハウス」ではライセンス契約によって取引工場が限定され、商品価格が高止まりしていた。より値ごろ感のある価格やロゴTシャツなどキャッチーなアイテムで、若いお客さまを取り込む。また、23年9月に自社ブランドを統合して立ち上げた新たな自社EC「サンヨー オンラインストア」は、100%プロパーで売れるプラットフォームを目指す。EC専業ブランドの開発も検討したい。

WWD:中期的な展望は。

大江:25年3月に次の中期経営計画に入るが、基本方針はトップライン(売上高)をさらに引き上げ、会社の成長軌道を確かなものにすること。7つの基幹ブランドでそれぞれ売上高100億円を稼げる体制を早期に作り、「キャストコロン」「ラブレス」といったチャレンジ領域も採算ラインを確保する。その上で、さらなる伸び代は何か。まず一つは、三陽商会らしい“商品力”。21年に発足した社内プロジェクト「商品開発委員会」が中心となって、昨夏は「ポール・スチュアート」の中空糸を使ったジャケット、「マッキントッシュ フィロソフィー」のカラミ織のジャケットなど、猛暑に対応したヒット商品が生まれた。秋冬は漆黒にこだわって生地開発したブランド横断の「ブラック オブ ブラック」シリーズを発売し、ほとんどの在庫を早期に消化できた。昨年11〜12月は売れた商品の平均単価が前年同期比4%アップしたが、商品力のグレードアップが寄与しているのは間違いない。

そして“販売力”。当社の会員制度である「サンヨー・メンバーシップ」は176万人を抱え、その中の休眠会員をいかにアクティブ会員に引き上げるかを考えていく。会員向け施策についても、濃度の高いファンに向けたターゲティングを徹底して強化する。

WWD: 上顧客に向けた施策は。

大江:現在、当社の売り上げのうち6割が会員によるもの。プラチナ会員は年間100万円以上、最上位のダイヤモンド会員は200万円以上をご購入いただいている。当社の上位顧客リストに名を連ねる方々は1万3000人。昨年の8月と12月には、上顧客を招いた特別受注会を東京と大阪で実施した。各ブランドのトップ販売員がお客さまを1on1で接客し、中には一日で200万円ほど受注いただいたお客さまもいて、かなりのポテンシャルを感じられた。

問い合わせ先
三陽商会 カスタマーサポート

0120-340-460

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TaiTan × シューズアーティスト・戸田健太 「シュア」初のスニーカーはいかにして作られたのか? 制作秘話を語る

PROFILE: 左:TaiTan/ラッパー 右:戸田健太/シューズメイカー・アーティスト

PROFILE: (タイタン):Dos Monosのラッパー。ポッドキャスト「奇奇怪怪」のパーソナリティーも務める。クリエイティブディレクターとしてもテレビ東京停波帯ジャック番組「蓋」、音を出さなければ全商品を盗めるショップ「盗」を手がけるなど、多方面で活動。 (とだ・けんた):1996年生まれ。独学でスニーカーの制作技術を学び、形状、機能、素材、使用方法など、独自の視点で再解釈した社会的装置としてスニーカーの作品を制作している。現代美術の展示に加え、2024年には世界最大のポップカルチャーの祭典「ComplexCon」でも作品を発表。YOASOBIの衣装としても作品を提供するなど、多岐にわたって活動する。主な展覧会に、個展「HYPER SOLE」BLOCK HOUSE(東京/23)、「PROCESSED MEAT SHOP」CARV STORE(東京/24)など。

オーディオブランド「シュア(SHURE)」が、Dos Monosラッパーで、人気ポッドキャスト番組「奇奇怪怪」のパーソナリティーを務めるTaiTanとともに開発したオリジナルスニーカー“イグナイト ザ ポッドキャスターズ(IGNITE the Podcasters)”。

本スニーカーは、ポッドキャスターを目指す人専用のスニーカーで、専用の応募フォームに必要事項を記入して応募すると、抽選で5人にプレゼントされる(※応募期間は2月11日まで)。また、ソールには特殊加工が施されており、歩行を重ねとアウトソールからシリアルナンバーが出現し、そのシリアルナンバーは、「シュア」の高性能マイク“MV7i スマートマイクロホン&インターフェース”と引き換えられるという斬新な仕掛けとなっている。

“イグナイト ザ ポッドキャスターズ”のデザイン・設計・制作を手掛けたのはシューズアーティストの戸田健太。以前からTaiTanとは親交があったが、一緒に仕事をするのは今回が初めてだという。

オーディオブランドの「シュア」がなぜスニーカーを作ったのか。そしてそこに至るまでの制作背景について、TaiTanと戸田の2人に語ってもらった。

「とにかく動いてるやつの方が面白いに決まっている」

WWD:お2人が知り合った経緯から教えてもらえますか?

TaiTan:もともと共通の知り合いが何人かいたんですが、戸田くんが最初に原宿で個展をやった時に、僕と戸田くんをつないでくれたアーティストから「戸田くんの個展すごくいいよ」って言われて。それで遊びに行ったら、戸田くんも僕のことを知っていてくれて、そっから一緒に飯食ったりするようになって。彼が個展をやるたびに呼んでくれたり、僕も何か企画をやる時はイベントに誘ってみたいな感じですね。

WWD:最初に会ったのはいつごろだったんですか?

TaiTan: 2年前ぐらいだっけ?

戸田健太(以下、戸田):確か2023年の年末とかでしたね。

TaiTan:それから「何か一緒に仕事したいね」って話はずっとしていて。今回「シュア」から相談されて、「一緒にやろうよ」って感じで誘って。

WWD:昨年12月にTaiTanさんが「シュア」のポッドキャストのクリエイティブディレクターに就任したことが発表されましたが、そこに至るまで「シュア」とはどんなやりとりがあったんですか?

TaiTan:今回、僕はあくまでポッドキャストに関するプロジェクトのクリエイティブディレクターをやらせてもらった形ではあるんですけど、「シュア」はマイクも扱っているブランドなので、ポッドキャストを盛り上げるための企画を打ってくれないかと相談があって。最初、先方のチームからは「ボットキャスターを増やすために、『番組の作り方』みたいな番組を作ってほしい」と言われたんですけど、ちょっとそれだと色気がないし、 僕のファンしか聞かないよねと思って、「そういうのはあまりやりたくないです」と伝えて。逆にこちらから、もっと企画的に飛ばして、スニーカーを作る提案をしたら、面白がってくれて、じゃあクリエイティブディレクターとしてやってくれませんかっていう感じで話が進んでいきました。

WWD:最初はポッドキャストを広めるために何かやってくれって依頼だったんですね。

TaiTan:そうですね。「シュア」の人たちも、単純にマイクが売れれば、それでいいみたいな直線的な考え方ではなくて。当然売れるにこしたことはないんですが、それよりは、ポッドキャストシーンが盛り上がることとか、何か面白いことをやっているなっていう空気感を作る、みたいなことを求めていて、僕にはそのクリエイティブセクターを担ってほしいという感じのオファーでした。

WWD:そこからスニーカーを作ろうってアイデアはすぐ思いついたんですか?

TaiTan:コアなアイデア自体には割とすぐに直感でたどりつきました。あとは、そのロジックをどう組んでいくかみたいなところで、企画書ではミシュランがミシュランガイドを作った事例を引用しつつ提案しました。タイヤメーカーのミシュランがミシュランガイドを作ったのは、「人を移動させればタイヤが売れる。それなら世界のうまい店をマッピングしたら、人は移動するだろう」ってロジックで。それって極めてクリティカルでかっこいいし、普遍的な強さがあるなってずっと思っていて。僕の場合は、ポッドキャストを作る時のなんとなくの感覚として、「とにかく動いているやつの方が面白いに決まっている」っていうのがあったので、割とすぐポッドキャストとスニーカーがつながった。しかもマイクとスニーカーってプロダクトとしてはかなり距離があるので、マイクブランドのスニーカーが実現したら、ポッドキャスト関心領域の人たち以外にも企画が届くかもしれないなと思って。

WWD:実際にスニーカーを作るとなった時にはすぐ戸田さんに依頼しようと?

TaiTan:そうですね。戸田くんは結構、営業力が強くて。

戸田:いやいや(笑)。

TaiTan:僕はそこが好ましく思ってたんです。戸田くんにしても今回の「シュア」のプロジェクトはすごくいい機会だと思うからって声をかけさせてもらって。

戸田:ある日突然LINEがきて、「なんかソールが削れたら、数字が出てくる靴ってあんのかな」みたいな内容から始まりました。それで何回かやりとりがあって、「あれ? もしかして仕事ですか?」っていう感じでしたね。

TaiTan:「シュア」にこの企画を提案する時に、やっぱり事前の確認もある程度必要だったので、戸田くんに確認していて。「歩けば、歩くほどソールが削れるっていうことが良しとされるみたいな、そういう仕掛けってできるのかな」みたいなことを聞いていたって感じですね。

WWD:戸田さんは話を聞いて、すぐ「できますよ」って感じだったんですか?

戸田:どうにかなるとは思いました。ただ、「シュア」と「スニーカー」の掛け算までは企画としてできていたものの、最終的なギミックを削れるソールに担わせるかどうかはまだ議論の余地がある感じだったので、最初のころは少し半信半疑で話を聞いていたんですが、本当に作ることになって、裏取りに大体2カ月ぐらい費やしました。

ゴツくて重厚感のあるスニーカー

WWD:デザインの方向性については、TaiTanさんから何かリクエストをしたんですか?

TaiTan:今はフラットなデザインのスニーカーが人気だと思うんですけど、個人的には「バレンシアガ(BALENCIAGA)」の“トラック”とかがめちゃくちゃ好きなタイプで、そういう方向性で、とにかくゴツくて重厚感のあるやつを作りたいんだって言いました。戸田くんとは結構センスが似ているなと思っていて、最初に「こういうのどうですかね」ってイメージボードを組んでくれてたんですけど、 かなりそれがドンピシャで、すぐにこの感じでいこうってなりましたね。

WWD:TaiTanさんからの要望を聞いて、戸田さんは今のデザインに近い感じはすぐ思い浮かんだんですか?

戸田:そうですね。TaiTanさんが最初に展示に来た時に履いていたのがまさにその「バレンシアガ」の“トラック”で。過去のプロジェクトとかも見てはいたので、大体好きなトーンは分かっていました。「シュア」がもしスニーカーを出したらこうなるんだろうなというイメージもかなりしっかりとありましたし。でもそれだけだとあまり面白くないなっていうのがあったので、スニーカーとして新しい要素を取り入れつつデザインを考えました。

WWD:新しい要素とは具体的には?

戸田:最近はY2Kの流れでメッシュのランニングシューズが流行っているからというわけではないんですが、マイクの集音部分にもメッシュって使われていたりするので、今回も取り入れたいと思って。でも、メッシュだけだと普通なんで、そこに透明のエナメルを上からかぶせているんです。普通は通気性をよくするためにメッシュを使うのに、そこにわざわざ上から通気性ゼロの素材をかぶせるっていう。普通ブランドやメーカーがあんまりやらないようなことをやりました。

WWD:デザインが固まったのはいつごろですか?

戸田:最終的に固まったのはほんとに年末ぐらいでした。ソールの構造もありますけど、アッパーも全部生地から選んで0→1で作るので、結構その相性によって、デザインも若干変わったりするんですよね。それでいろいろと検証していって、結果デザインラフとしてはバージョン4まで作ったんですが、それができたのが年末ぐらい。だから実制作は年明けから始めて半月で仕上げたという感じです。普段だとありえないスケジュールですね(笑)。

WWD:「シュア」からはスニーカーに対しての要望はありましたか?

TaiTan:世界的なブランドなので、もしソールに不備があって事故が起きたらどうするんだとか、そういうリーガル的な部分のチェックはありましたが、クリエイティブに関しても、じゃあどのくらい「シュア」感を出すのか、その落としどころはポジティブに検討してもらって、かなりの部分を僕に委ねてくれました。

戸田:「シュア」感でいうと、「シュア」のイグニッショングリーンって呼ばれる緑色の部分をどう出すかみたいなのは、結構検証しました。シューズボックスでも使っている特色を生地にプリントしようとすると、莫大なロットとお金が必要で、完全に今回の企画にはハマらなくて。近い色の有り物で再現するという方向性になったんですけど、それでもやっぱり1枚だけだと、近くまでは寄せられるんですけど、少し違いが残るので、薄いメッシュと分厚いメッシュを2枚重ねにして、要は色を混ぜるみたいなことで、できるだけイグニッショングリーンを再現しました。

WWD:ソールが数カ月で削れていくそうですが、実際に試してみたんですか?

TaiTan:戸田くんがこのソールのギミックを開発してくれたんですけど、人力でやすりを使って結構な力で1200回こすったら数字が出てきた。おそらくそれは人が数カ月くらい歩いた圧に相当するだろうということで。いつ出てくるんだろうという、その曖昧さも楽しんでもらえたらと思います。

WWD:シューズボックスのデザインもこだわっていますね。

TaiTan:これはKumpei(Nakatake)さんっていうアートディレクターに急遽お願いして。展示会の内装のアートディレクションに関しても、僕が「魔改造された地面を作りたい」みたいな無茶振りをしたのですが、時間がない中でも頑張ってくれて、めちゃくちゃ仕事しやすかったです。

WWD:限定5足はどう決めたんですか?

TaiTan:このスニーカーは戸田くんが全部ハンドメイドで作ってくれていて、制作期間も限定されているので、そんなにたくさんは作れないだろうということもあって、感覚的に限定5足くらいかなと。あと、僕の周りの友達でポッドキャストを始めたり、シーンをリードしてほしいと思っている人たちにもプレゼントするので、厳密にはもう少し数は作っているんですけどね。

戸田:そもそも僕のアーティストとしての活動は、大量ロットで作ることに結構距離を置いている立場だったりするので、今回のように同じデザインのものを何足も作るっていうことは初めてでした。それをサイズ違いで作るので、パターンも一つ一つ微調整しないといけなくて、普通ならデザイナーとパタンナーと工場が分業でやっていることを全部1人でやっていたので、数はそこまで作れないんです。

WWD:結構応募は来ているんですか?

TaiTan:応募の管理は事務局がやっているんですが、すでに1500通以上の応募が来ているっていう報告は受けていて。下手したら3桁くらいかもなって思っていたので、安心しました。やっぱりこの応募数って「ポッドキャスト作り方番組」だといかなかったと思うし、それこそスニーカーを作ることで、カルチャーメディア、ファッションメディア、ガジェットメディアとか、幅広く掲載してくれていたのもあって、「シュア」的にもポジティブな印象持ってくれてると思います。

WWD:最終的な当選者はTaiTanさんが全部に目を通して決める?

TaiTan:そうですね。ちゃんと熱意に応えたいと思いますね。この人はこういう角度の話ができるんだとしたら、面白い番組に作れるかもって、そこはなんとなく体感値として分かるので、そういう人を選びたいとは思いますね。

WWD:TaiTanさんが思う、面白いポッドキャスターは?

TaiTan:やっぱりたくさん歩いている人です。本当にそう。だから、この間の「脳盗」(1月26日放送回)でしゃべったエピソードは、僕がずっと動き回ってるからこそ、最後の伏線回収までできた話だったりするので。やっぱり日々なんか面白いことないか、話のタネを探しながら、動き回っている人は、面白い話ができるんじゃないかなと思いますね。

クリエイティブディレクターの仕事

WWD:戸田さんから見たTaiTanさんってどんな人ですか?

戸田:紹介してもらう前から「奇奇怪怪」は聴いていて、Dos Monosのラッパーでありながらポッドキャストをやっているっていう異色の混合感もあって、カルチャーフィールドでめちゃくちゃ活躍している人っていう、漠然としたイメージを持っていて。あと、やたら企画の話好きだなとは思っていました。「企画至上主義」みたいな言葉もちらっと聞いたりしたんですけど、なんかラッパーにしてはちょっとそこに関心強すぎないかと。僕も主軸はスニーカーの作品制作ではあるんですけど、企画を考えたりすることもあって、実は近い考え方の人なのかなっていうのはありましたね。それで実際に会ってからどんどん「企画屋TaiTan」としての答え合わせができているイメージ。

TaiTan:現代において、何かものを作るってなると、そのコンセプトからスタートにすることが多い。そうなると基本的には言葉の練度を高めていく作業とか、世の中との接合点をどこに作るのかとか、その人がどう世の中を切り取るかって作業が必然になっていくので、多かれ少なかれアーティストやクリエイターはそういうタイプだとは僕は思っていたんですけど。意外とそうじゃない人たちもいるんだなっていうのも知って。そこにギャップは感じてますね。

WWD:今回一緒に仕事をしてみて、クリエイティブディレクターとしてのTaiTanさんのすごさはどこに感じましたか?

戸田:いわゆるクリエイティブディレクターと呼ばれているような人たちって、結構分業制の中でやる人が多いと思うんですよ。アイデアを考えてディレクションするけど、進行は誰かに任せがち。もちろんTaiTanさんも企画の鋭さがあるのは前提ですが、やっぱりプロデューサーでもあるんですよね。各クリエイターに仕事を依頼して、期限内にちゃんと全部納品させてるっていう、そこの仕切りを1人でちゃんとやる。そこは普段メディアでは伝わらない裏方としてのすごさだと思います。

TaiTan:今回はただ人が足りなくて、シンプルに僕が1人でやらざるを得ない状況になったっていう(笑)。だからいつもは全然プロデューサーをつけますよ。それでいうと、僕の特徴は、世の中に出るまでの「シュア」とのコミュニケーションの中に現れてるのかなと思ってますね。そもそも、なんで100年の歴史をもつマイクブランドである「シュア」が史上初めてスニーカーを作る必然性があるのか、そこのロジックをどう補強していくかみたいなことを考えたり、ブランドに提案するのを楽しめるタイプというか。そのプロセスの中では当然経済合理性的な話とかも言葉にできないといけないと思うし、かっこいいものを作るだけの話じゃないというか、そのものが出た後のブランドイメージにおけるインパクトの予測、PR効果など、その企画がどのように世の中と接点をつくるのか。そういう話にまで関心があるのは意外と珍しい存在なのかな、という気がしますね。

例えば今回「シュア」に提案する時も、企画書のイメージボードみたいなものを作るんですが、僕の場合、デザインや映像そのもののソースというより、ミシュランがミシュランガイドを作った例みたいに、過去のブランドの実践事例のソースを大量にストックしてあるんで、そういうところから引っ張ってきて、これの構造と手法を今回は応用してやりませんか、と提案する。そうやって共通の認識をもちやすい切り口を設定することで、突飛な企画だったとしても先方もちょっと安心してくれて、「こいつはただかっこいいものを作りたい、自己満野郎じゃないんだな」って思ってくれるのではないかなと想像してます。

戸田:今、「構造」って言葉が出たと思うんですけど、まさにそこがちょっと近しいなって勝手に思っていて。僕もTaiTanさんも、いわゆる見た目がかっこいいものだけを作って満足するタイプじゃないと思うんですよ。構造的に、それがどう社会の中で装置として機能していくのかというところに関心が強くて。僕はそのメディアとしてスニーカーを作っているという。だからデザインがかっこいいスニーカーは、レファレンスとしては全然使うこともあるんですが、それが本質的に持ってる価値に実はあんまり興味がないっていうところもあって。

WWD:TanTanさんのプレゼンの巧さはどこかで習ったんですか?

TaiTan:そもそもの性質として、僕の中にはポッドキャストもラップも似たようなもんだっていう感覚があって、「俺はこう思うんだけど、どうですか」っていうことしかやってない気がするのですよね、本質的には。プロジェクトを立ち上げる際も、その企画を承認する側の人たちに「これ 面白くないっすか」って提案して、面白いと思ってもらえたら自然と企画は通っていくものだろうし。あとは、ポッドキャストで言葉や伝え方をめっちゃ考えて毎週やっているんで、プレゼンはめっちゃ上手になったんだと思います(笑)。

WWD:同世代とかで、同じ思考に近い人っていますか?

TaiTan:PERIMETRONの佐々木集くんはほぼこの世代で唯一クリエイティブディレクターとしての存在感がすごくあるタイプだと思うので、彼としゃべってる時は迫力も感じるし面白いですね。本当に結構な領域にまたがって、プロジェクトを立ち上げていて、その規模もでかい。あとは、それこそ俺は戸田くんにはそういう系譜を継いでほしいっていう気持ちがすごくある。

戸田:なぜかずっと言われてるんですよね(笑)。ありがたいんですけど。

WWD:戸田さんは考え方が似ているって思う人はいますか?

戸田:考え方が近いというわけではないんですが、TaiTanさんと僕をつなげてくれたアーティストの岸裕真くんとはよく話します。僕が本格的に靴を作り始めた時期にいろいろと教えてくれて、今でも慕ってます。ディレクターやデザイナー、エンジニアなど、専業で突き詰めて活躍している同世代はもちろんたくさんいますが、それとは別軸で企画のディレクション業を意図的に他の領域にまたがってやっている人ってまだまだ少ないですよね。

スニーカー企画の第2弾は?

WWD:戸田さんは現在アーティストとして、アート作品としてスニーカーを作っていますが、そこにはどんな思いが込められているんですか。

戸田:もともとスニーカーが好きで、それこそ昔はスニーカーが何百万円で取引されたり、新しいモデルがリリースされるたびに夜通し店頭で並ぶような「スニーカーカルチャー」と呼ばれる文化圏を面白がっていたんですけど、ある時その「スニーカーカルチャー」の大半は大企業がマーケティングで作り出しているものでしかなくて、僕らに許されてるのが結局消費でしかないことに気づいて、1回絶望したのが大きなきっかけですね。そういう世界に対する反逆として独学でスニーカーを作り始めました。

それで、スニーカーというものに、現代アートという別の文脈を付与し、捉えなおして作品にすることで、今みんながスニーカーって呼んでいるものが、200年、300年後ぐらいに全く違うものとして世の中に存在しているような世界線が作れたらいいなと思ってやっています。だからブランドを作ってファッションのフィールドでシーズンごとに展開するような既存のやり方は今のところ考えてないです。

WWD:作品は全てハンドメイドで作られていますが、「作ってほしい」というオーダーも多いですか?

戸田:国内外問わずオーダーの依頼はたまにあります。制作した作品を衣装としてリースすることも。でも決められた与件の中で同じデザインのスニーカーをサイズ展開も含めて0→1で作るのは、ほとんどないので、今回の「シュア」のスニーカーは自分的にもめちゃめちゃでかい挑戦でした。今回に限らず、異業種のコラボレーションはこれからもどんどんやっていきたいと思います。

WWD:最後にスニーカー企画の第2弾の可能性はありますか?

TaiTan:「シュア」の人たちには、これは毎年できる企画フォーマットだと思うので、「毎年やりませんか」って話を軽くしてますね。せっかくなんで1回で終わらせたくないなと思っていて。僕のプレゼンがうまくいけば、第2弾はあると思います!

PHOTOS:MAYUMI HOSOKURA

応募方法

応募方法は、以下の応募フォームに必要事項を入力して応募完了となる。応募期間は1月20日〜2月11日まで。抽選で5人に「シュア」オリジナルスニーカー“イグナイト ザ ポッドキャスターズ”をプレゼントする。

https://btnb.f.msgs.jp/n/form/btnb/n6MSEXeskGwFkQbsa6JXh

※同スニーカーはハンドメイドのため、応募フォームに入力したサイズと一致するサイズの用意が難しい場合あり。その場合、入力したサイズに最も近いサイズのスニーカーをプレゼント。
※賞品の発送をもって当選発表。
※シリアルナンバー引き換え製品は“MV7i スマートマイクロホン&インターフェース”。
※スニーカー当選者に限りシリアルナンバー送付にて引き換え可能。
※シリアルナンバーの送付方法はスニーカーに同梱された案内書類を要確認。

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TaiTan × シューズアーティスト・戸田健太 「シュア」初のスニーカーはいかにして作られたのか? 制作秘話を語る

PROFILE: 左:TaiTan/ラッパー 右:戸田健太/シューズメイカー・アーティスト

PROFILE: (タイタン):Dos Monosのラッパー。ポッドキャスト「奇奇怪怪」のパーソナリティーも務める。クリエイティブディレクターとしてもテレビ東京停波帯ジャック番組「蓋」、音を出さなければ全商品を盗めるショップ「盗」を手がけるなど、多方面で活動。 (とだ・けんた):1996年生まれ。独学でスニーカーの制作技術を学び、形状、機能、素材、使用方法など、独自の視点で再解釈した社会的装置としてスニーカーの作品を制作している。現代美術の展示に加え、2024年には世界最大のポップカルチャーの祭典「ComplexCon」でも作品を発表。YOASOBIの衣装としても作品を提供するなど、多岐にわたって活動する。主な展覧会に、個展「HYPER SOLE」BLOCK HOUSE(東京/23)、「PROCESSED MEAT SHOP」CARV STORE(東京/24)など。

オーディオブランド「シュア(SHURE)」が、Dos Monosラッパーで、人気ポッドキャスト番組「奇奇怪怪」のパーソナリティーを務めるTaiTanとともに開発したオリジナルスニーカー“イグナイト ザ ポッドキャスターズ(IGNITE the Podcasters)”。

本スニーカーは、ポッドキャスターを目指す人専用のスニーカーで、専用の応募フォームに必要事項を記入して応募すると、抽選で5人にプレゼントされる(※応募期間は2月11日まで)。また、ソールには特殊加工が施されており、歩行を重ねとアウトソールからシリアルナンバーが出現し、そのシリアルナンバーは、「シュア」の高性能マイク“MV7i スマートマイクロホン&インターフェース”と引き換えられるという斬新な仕掛けとなっている。

“イグナイト ザ ポッドキャスターズ”のデザイン・設計・制作を手掛けたのはシューズアーティストの戸田健太。以前からTaiTanとは親交があったが、一緒に仕事をするのは今回が初めてだという。

オーディオブランドの「シュア」がなぜスニーカーを作ったのか。そしてそこに至るまでの制作背景について、TaiTanと戸田の2人に語ってもらった。

「とにかく動いてるやつの方が面白いに決まっている」

WWD:お2人が知り合った経緯から教えてもらえますか?

TaiTan:もともと共通の知り合いが何人かいたんですが、戸田くんが最初に原宿で個展をやった時に、僕と戸田くんをつないでくれたアーティストから「戸田くんの個展すごくいいよ」って言われて。それで遊びに行ったら、戸田くんも僕のことを知っていてくれて、そっから一緒に飯食ったりするようになって。彼が個展をやるたびに呼んでくれたり、僕も何か企画をやる時はイベントに誘ってみたいな感じですね。

WWD:最初に会ったのはいつごろだったんですか?

TaiTan: 2年前ぐらいだっけ?

戸田健太(以下、戸田):確か2023年の年末とかでしたね。

TaiTan:それから「何か一緒に仕事したいね」って話はずっとしていて。今回「シュア」から相談されて、「一緒にやろうよ」って感じで誘って。

WWD:昨年12月にTaiTanさんが「シュア」のポッドキャストのクリエイティブディレクターに就任したことが発表されましたが、そこに至るまで「シュア」とはどんなやりとりがあったんですか?

TaiTan:今回、僕はあくまでポッドキャストに関するプロジェクトのクリエイティブディレクターをやらせてもらった形ではあるんですけど、「シュア」はマイクも扱っているブランドなので、ポッドキャストを盛り上げるための企画を打ってくれないかと相談があって。最初、先方のチームからは「ボットキャスターを増やすために、『番組の作り方』みたいな番組を作ってほしい」と言われたんですけど、ちょっとそれだと色気がないし、 僕のファンしか聞かないよねと思って、「そういうのはあまりやりたくないです」と伝えて。逆にこちらから、もっと企画的に飛ばして、スニーカーを作る提案をしたら、面白がってくれて、じゃあクリエイティブディレクターとしてやってくれませんかっていう感じで話が進んでいきました。

WWD:最初はポッドキャストを広めるために何かやってくれって依頼だったんですね。

TaiTan:そうですね。「シュア」の人たちも、単純にマイクが売れれば、それでいいみたいな直線的な考え方ではなくて。当然売れるにこしたことはないんですが、それよりは、ポッドキャストシーンが盛り上がることとか、何か面白いことをやっているなっていう空気感を作る、みたいなことを求めていて、僕にはそのクリエイティブセクターを担ってほしいという感じのオファーでした。

WWD:そこからスニーカーを作ろうってアイデアはすぐ思いついたんですか?

TaiTan:コアなアイデア自体には割とすぐに直感でたどりつきました。あとは、そのロジックをどう組んでいくかみたいなところで、企画書ではミシュランがミシュランガイドを作った事例を引用しつつ提案しました。タイヤメーカーのミシュランがミシュランガイドを作ったのは、「人を移動させればタイヤが売れる。それなら世界のうまい店をマッピングしたら、人は移動するだろう」ってロジックで。それって極めてクリティカルでかっこいいし、普遍的な強さがあるなってずっと思っていて。僕の場合は、ポッドキャストを作る時のなんとなくの感覚として、「とにかく動いているやつの方が面白いに決まっている」っていうのがあったので、割とすぐポッドキャストとスニーカーがつながった。しかもマイクとスニーカーってプロダクトとしてはかなり距離があるので、マイクブランドのスニーカーが実現したら、ポッドキャスト関心領域の人たち以外にも企画が届くかもしれないなと思って。

WWD:実際にスニーカーを作るとなった時にはすぐ戸田さんに依頼しようと?

TaiTan:そうですね。戸田くんは結構、営業力が強くて。

戸田:いやいや(笑)。

TaiTan:僕はそこが好ましく思ってたんです。戸田くんにしても今回の「シュア」のプロジェクトはすごくいい機会だと思うからって声をかけさせてもらって。

戸田:ある日突然LINEがきて、「なんかソールが削れたら、数字が出てくる靴ってあんのかな」みたいな内容から始まりました。それで何回かやりとりがあって、「あれ? もしかして仕事ですか?」っていう感じでしたね。

TaiTan:「シュア」にこの企画を提案する時に、やっぱり事前の確認もある程度必要だったので、戸田くんに確認していて。「歩けば、歩くほどソールが削れるっていうことが良しとされるみたいな、そういう仕掛けってできるのかな」みたいなことを聞いていたって感じですね。

WWD:戸田さんは話を聞いて、すぐ「できますよ」って感じだったんですか?

戸田:どうにかなるとは思いました。ただ、「シュア」と「スニーカー」の掛け算までは企画としてできていたものの、最終的なギミックを削れるソールに担わせるかどうかはまだ議論の余地がある感じだったので、最初のころは少し半信半疑で話を聞いていたんですが、本当に作ることになって、裏取りに大体2カ月ぐらい費やしました。

ゴツくて重厚感のあるスニーカー

WWD:デザインの方向性については、TaiTanさんから何かリクエストをしたんですか?

TaiTan:今はフラットなデザインのスニーカーが人気だと思うんですけど、個人的には「バレンシアガ(BALENCIAGA)」の“トラック”とかがめちゃくちゃ好きなタイプで、そういう方向性で、とにかくゴツくて重厚感のあるやつを作りたいんだって言いました。戸田くんとは結構センスが似ているなと思っていて、最初に「こういうのどうですかね」ってイメージボードを組んでくれてたんですけど、 かなりそれがドンピシャで、すぐにこの感じでいこうってなりましたね。

WWD:TaiTanさんからの要望を聞いて、戸田さんは今のデザインに近い感じはすぐ思い浮かんだんですか?

戸田:そうですね。TaiTanさんが最初に展示に来た時に履いていたのがまさにその「バレンシアガ」の“トラック”で。過去のプロジェクトとかも見てはいたので、大体好きなトーンは分かっていました。「シュア」がもしスニーカーを出したらこうなるんだろうなというイメージもかなりしっかりとありましたし。でもそれだけだとあまり面白くないなっていうのがあったので、スニーカーとして新しい要素を取り入れつつデザインを考えました。

WWD:新しい要素とは具体的には?

戸田:最近はY2Kの流れでメッシュのランニングシューズが流行っているからというわけではないんですが、マイクの集音部分にもメッシュって使われていたりするので、今回も取り入れたいと思って。でも、メッシュだけだと普通なんで、そこに透明のエナメルを上からかぶせているんです。普通は通気性をよくするためにメッシュを使うのに、そこにわざわざ上から通気性ゼロの素材をかぶせるっていう。普通ブランドやメーカーがあんまりやらないようなことをやりました。

WWD:デザインが固まったのはいつごろですか?

戸田:最終的に固まったのはほんとに年末ぐらいでした。ソールの構造もありますけど、アッパーも全部生地から選んで0→1で作るので、結構その相性によって、デザインも若干変わったりするんですよね。それでいろいろと検証していって、結果デザインラフとしてはバージョン4まで作ったんですが、それができたのが年末ぐらい。だから実制作は年明けから始めて半月で仕上げたという感じです。普段だとありえないスケジュールですね(笑)。

WWD:「シュア」からはスニーカーに対しての要望はありましたか?

TaiTan:世界的なブランドなので、もしソールに不備があって事故が起きたらどうするんだとか、そういうリーガル的な部分のチェックはありましたが、クリエイティブに関しても、じゃあどのくらい「シュア」感を出すのか、その落としどころはポジティブに検討してもらって、かなりの部分を僕に委ねてくれました。

戸田:「シュア」感でいうと、「シュア」のイグニッショングリーンって呼ばれる緑色の部分をどう出すかみたいなのは、結構検証しました。シューズボックスでも使っている特色を生地にプリントしようとすると、莫大なロットとお金が必要で、完全に今回の企画にはハマらなくて。近い色の有り物で再現するという方向性になったんですけど、それでもやっぱり1枚だけだと、近くまでは寄せられるんですけど、少し違いが残るので、薄いメッシュと分厚いメッシュを2枚重ねにして、要は色を混ぜるみたいなことで、できるだけイグニッショングリーンを再現しました。

WWD:ソールが数カ月で削れていくそうですが、実際に試してみたんですか?

TaiTan:戸田くんがこのソールのギミックを開発してくれたんですけど、人力でやすりを使って結構な力で1200回こすったら数字が出てきた。おそらくそれは人が数カ月くらい歩いた圧に相当するだろうということで。いつ出てくるんだろうという、その曖昧さも楽しんでもらえたらと思います。

WWD:シューズボックスのデザインもこだわっていますね。

TaiTan:これはKumpei(Nakatake)さんっていうアートディレクターに急遽お願いして。展示会の内装のアートディレクションに関しても、僕が「魔改造された地面を作りたい」みたいな無茶振りをしたのですが、時間がない中でも頑張ってくれて、めちゃくちゃ仕事しやすかったです。

WWD:限定5足はどう決めたんですか?

TaiTan:このスニーカーは戸田くんが全部ハンドメイドで作ってくれていて、制作期間も限定されているので、そんなにたくさんは作れないだろうということもあって、感覚的に限定5足くらいかなと。あと、僕の周りの友達でポッドキャストを始めたり、シーンをリードしてほしいと思っている人たちにもプレゼントするので、厳密にはもう少し数は作っているんですけどね。

戸田:そもそも僕のアーティストとしての活動は、大量ロットで作ることに結構距離を置いている立場だったりするので、今回のように同じデザインのものを何足も作るっていうことは初めてでした。それをサイズ違いで作るので、パターンも一つ一つ微調整しないといけなくて、普通ならデザイナーとパタンナーと工場が分業でやっていることを全部1人でやっていたので、数はそこまで作れないんです。

WWD:結構応募は来ているんですか?

TaiTan:応募の管理は事務局がやっているんですが、すでに1500通以上の応募が来ているっていう報告は受けていて。下手したら3桁くらいかもなって思っていたので、安心しました。やっぱりこの応募数って「ポッドキャスト作り方番組」だといかなかったと思うし、それこそスニーカーを作ることで、カルチャーメディア、ファッションメディア、ガジェットメディアとか、幅広く掲載してくれていたのもあって、「シュア」的にもポジティブな印象持ってくれてると思います。

WWD:最終的な当選者はTaiTanさんが全部に目を通して決める?

TaiTan:そうですね。ちゃんと熱意に応えたいと思いますね。この人はこういう角度の話ができるんだとしたら、面白い番組に作れるかもって、そこはなんとなく体感値として分かるので、そういう人を選びたいとは思いますね。

WWD:TaiTanさんが思う、面白いポッドキャスターは?

TaiTan:やっぱりたくさん歩いている人です。本当にそう。だから、この間の「脳盗」(1月26日放送回)でしゃべったエピソードは、僕がずっと動き回ってるからこそ、最後の伏線回収までできた話だったりするので。やっぱり日々なんか面白いことないか、話のタネを探しながら、動き回っている人は、面白い話ができるんじゃないかなと思いますね。

クリエイティブディレクターの仕事

WWD:戸田さんから見たTaiTanさんってどんな人ですか?

戸田:紹介してもらう前から「奇奇怪怪」は聴いていて、Dos Monosのラッパーでありながらポッドキャストをやっているっていう異色の混合感もあって、カルチャーフィールドでめちゃくちゃ活躍している人っていう、漠然としたイメージを持っていて。あと、やたら企画の話好きだなとは思っていました。「企画至上主義」みたいな言葉もちらっと聞いたりしたんですけど、なんかラッパーにしてはちょっとそこに関心強すぎないかと。僕も主軸はスニーカーの作品制作ではあるんですけど、企画を考えたりすることもあって、実は近い考え方の人なのかなっていうのはありましたね。それで実際に会ってからどんどん「企画屋TaiTan」としての答え合わせができているイメージ。

TaiTan:現代において、何かものを作るってなると、そのコンセプトからスタートにすることが多い。そうなると基本的には言葉の練度を高めていく作業とか、世の中との接合点をどこに作るのかとか、その人がどう世の中を切り取るかって作業が必然になっていくので、多かれ少なかれアーティストやクリエイターはそういうタイプだとは僕は思っていたんですけど。意外とそうじゃない人たちもいるんだなっていうのも知って。そこにギャップは感じてますね。

WWD:今回一緒に仕事をしてみて、クリエイティブディレクターとしてのTaiTanさんのすごさはどこに感じましたか?

戸田:いわゆるクリエイティブディレクターと呼ばれているような人たちって、結構分業制の中でやる人が多いと思うんですよ。アイデアを考えてディレクションするけど、進行は誰かに任せがち。もちろんTaiTanさんも企画の鋭さがあるのは前提ですが、やっぱりプロデューサーでもあるんですよね。各クリエイターに仕事を依頼して、期限内にちゃんと全部納品させてるっていう、そこの仕切りを1人でちゃんとやる。そこは普段メディアでは伝わらない裏方としてのすごさだと思います。

TaiTan:今回はただ人が足りなくて、シンプルに僕が1人でやらざるを得ない状況になったっていう(笑)。だからいつもは全然プロデューサーをつけますよ。それでいうと、僕の特徴は、世の中に出るまでの「シュア」とのコミュニケーションの中に現れてるのかなと思ってますね。そもそも、なんで100年の歴史をもつマイクブランドである「シュア」が史上初めてスニーカーを作る必然性があるのか、そこのロジックをどう補強していくかみたいなことを考えたり、ブランドに提案するのを楽しめるタイプというか。そのプロセスの中では当然経済合理性的な話とかも言葉にできないといけないと思うし、かっこいいものを作るだけの話じゃないというか、そのものが出た後のブランドイメージにおけるインパクトの予測、PR効果など、その企画がどのように世の中と接点をつくるのか。そういう話にまで関心があるのは意外と珍しい存在なのかな、という気がしますね。

例えば今回「シュア」に提案する時も、企画書のイメージボードみたいなものを作るんですが、僕の場合、デザインや映像そのもののソースというより、ミシュランがミシュランガイドを作った例みたいに、過去のブランドの実践事例のソースを大量にストックしてあるんで、そういうところから引っ張ってきて、これの構造と手法を今回は応用してやりませんか、と提案する。そうやって共通の認識をもちやすい切り口を設定することで、突飛な企画だったとしても先方もちょっと安心してくれて、「こいつはただかっこいいものを作りたい、自己満野郎じゃないんだな」って思ってくれるのではないかなと想像してます。

戸田:今、「構造」って言葉が出たと思うんですけど、まさにそこがちょっと近しいなって勝手に思っていて。僕もTaiTanさんも、いわゆる見た目がかっこいいものだけを作って満足するタイプじゃないと思うんですよ。構造的に、それがどう社会の中で装置として機能していくのかというところに関心が強くて。僕はそのメディアとしてスニーカーを作っているという。だからデザインがかっこいいスニーカーは、レファレンスとしては全然使うこともあるんですが、それが本質的に持ってる価値に実はあんまり興味がないっていうところもあって。

WWD:TanTanさんのプレゼンの巧さはどこかで習ったんですか?

TaiTan:そもそもの性質として、僕の中にはポッドキャストもラップも似たようなもんだっていう感覚があって、「俺はこう思うんだけど、どうですか」っていうことしかやってない気がするのですよね、本質的には。プロジェクトを立ち上げる際も、その企画を承認する側の人たちに「これ 面白くないっすか」って提案して、面白いと思ってもらえたら自然と企画は通っていくものだろうし。あとは、ポッドキャストで言葉や伝え方をめっちゃ考えて毎週やっているんで、プレゼンはめっちゃ上手になったんだと思います(笑)。

WWD:同世代とかで、同じ思考に近い人っていますか?

TaiTan:PERIMETRONの佐々木集くんはほぼこの世代で唯一クリエイティブディレクターとしての存在感がすごくあるタイプだと思うので、彼としゃべってる時は迫力も感じるし面白いですね。本当に結構な領域にまたがって、プロジェクトを立ち上げていて、その規模もでかい。あとは、それこそ俺は戸田くんにはそういう系譜を継いでほしいっていう気持ちがすごくある。

戸田:なぜかずっと言われてるんですよね(笑)。ありがたいんですけど。

WWD:戸田さんは考え方が似ているって思う人はいますか?

戸田:考え方が近いというわけではないんですが、TaiTanさんと僕をつなげてくれたアーティストの岸裕真くんとはよく話します。僕が本格的に靴を作り始めた時期にいろいろと教えてくれて、今でも慕ってます。ディレクターやデザイナー、エンジニアなど、専業で突き詰めて活躍している同世代はもちろんたくさんいますが、それとは別軸で企画のディレクション業を意図的に他の領域にまたがってやっている人ってまだまだ少ないですよね。

スニーカー企画の第2弾は?

WWD:戸田さんは現在アーティストとして、アート作品としてスニーカーを作っていますが、そこにはどんな思いが込められているんですか。

戸田:もともとスニーカーが好きで、それこそ昔はスニーカーが何百万円で取引されたり、新しいモデルがリリースされるたびに夜通し店頭で並ぶような「スニーカーカルチャー」と呼ばれる文化圏を面白がっていたんですけど、ある時その「スニーカーカルチャー」の大半は大企業がマーケティングで作り出しているものでしかなくて、僕らに許されてるのが結局消費でしかないことに気づいて、1回絶望したのが大きなきっかけですね。そういう世界に対する反逆として独学でスニーカーを作り始めました。

それで、スニーカーというものに、現代アートという別の文脈を付与し、捉えなおして作品にすることで、今みんながスニーカーって呼んでいるものが、200年、300年後ぐらいに全く違うものとして世の中に存在しているような世界線が作れたらいいなと思ってやっています。だからブランドを作ってファッションのフィールドでシーズンごとに展開するような既存のやり方は今のところ考えてないです。

WWD:作品は全てハンドメイドで作られていますが、「作ってほしい」というオーダーも多いですか?

戸田:国内外問わずオーダーの依頼はたまにあります。制作した作品を衣装としてリースすることも。でも決められた与件の中で同じデザインのスニーカーをサイズ展開も含めて0→1で作るのは、ほとんどないので、今回の「シュア」のスニーカーは自分的にもめちゃめちゃでかい挑戦でした。今回に限らず、異業種のコラボレーションはこれからもどんどんやっていきたいと思います。

WWD:最後にスニーカー企画の第2弾の可能性はありますか?

TaiTan:「シュア」の人たちには、これは毎年できる企画フォーマットだと思うので、「毎年やりませんか」って話を軽くしてますね。せっかくなんで1回で終わらせたくないなと思っていて。僕のプレゼンがうまくいけば、第2弾はあると思います!

PHOTOS:MAYUMI HOSOKURA

応募方法

応募方法は、以下の応募フォームに必要事項を入力して応募完了となる。応募期間は1月20日〜2月11日まで。抽選で5人に「シュア」オリジナルスニーカー“イグナイト ザ ポッドキャスターズ”をプレゼントする。

https://btnb.f.msgs.jp/n/form/btnb/n6MSEXeskGwFkQbsa6JXh

※同スニーカーはハンドメイドのため、応募フォームに入力したサイズと一致するサイズの用意が難しい場合あり。その場合、入力したサイズに最も近いサイズのスニーカーをプレゼント。
※賞品の発送をもって当選発表。
※シリアルナンバー引き換え製品は“MV7i スマートマイクロホン&インターフェース”。
※スニーカー当選者に限りシリアルナンバー送付にて引き換え可能。
※シリアルナンバーの送付方法はスニーカーに同梱された案内書類を要確認。

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【シック・ジャパン 後藤秀夫社長】「シック」65周年の今年は過去最高の売り上げを宣言

PROFILE: 後藤秀夫/社長

後藤秀夫/社長
PROFILE: (ごとう・ひでお)MBA、米国サンダーバード国際経営大学院卒業後、1996年にジョンソン・エンド・ジョンソンでキャリアをスタート。営業・マーケティングを経験後、2005年から日本ロレアルで日本と台湾での事業部長の要職を歴任し、ターンアラウンドや事業拡大に貢献。17年にヘンケル ビューティーケアの日本兼韓国の代表としてコンシューマー及びプロフェッショナルの両事業を統括。22年8月から現職 PHOTO : TAMEKI OSHIRO

「日本で最も革新的なビューティーグルーミングカンパニー」を目指すシック・ジャパンは、2022年から社内環境整備しながら新市場を創造する製品開発など数多くのイノベーションを生み出している。「シック(SCHICK)」日本上陸65周年を迎える25年も、シェアNo.1※1ブランドとして市場拡大をけん引していく。

事業改革のテーマは
「ターンアラウンド」

WWD:“ビューティーグルーミングカンパニー”を目指す中期経営計画2年目の成果は。

後藤秀夫社長(以下、後藤):24年は「ターンアラウンド」をテーマに事業改革を行った。期待以上の成果で売り上げは2桁成長、利益率も予想を上回る結果で着地。社員のエンゲージメントスコアも前回の57%から大幅にアップし81%と満足度が高い結果だった。高いパフォーマンスを発揮しやすい環境作りが評価され、24年11月には、世界150カ国・年間1万社を超える企業の働きがい調査を行う調査機関が25年版「働きがい認定企業」に選出。社内外から評価される形で2年目を締めくくれた。

WWD:売り上げを大きく伸ばした要因は。

後藤:戦略ブランドを絞り投資する中で、24年は新市場を創造する新製品に注力した。女性用では当社初スティックタイプの顔剃り専用美容オイルバームや女性向けでは珍しい6枚刃のボディーシェーバー、角質ケアをサポートするボディーシェービング用エマルジョンを発売して新市場を創造。男性用ではシェービング剤不要で剃れるソープ付きシェーバーを登場させ、伸長するボディーシェービング市場をさらに加速することができた。

WWD:「シックファースト トーキョー(SCHICK FIRST TOKYO)」の反響は。

後藤:発売翌月にはメンズシェーバー市場※2の売り上げトップ10位にランクインした。メンズシェーバーは、 これまで深剃りを追い求める傾向にあり、やわらかい髭を持つ若年層向けの商品が市場に存在しなかった。若年層とシニア層では髭の硬さが異なる点に着目。はじめてシェービング体験をする若年層はシェービングに肌への安全性を求めているため日本のチームが日本で日本人の肌に合わせて、セーフティーワイヤーを搭載した製品を開発。「はじめてのシェービングにやさしさを。」というコンセプトで「シックファースト トーキョー」を発売した。美意識の高いZ世代にあわせて、ホルダーなどのデザインでもこれまでのカミソリから離れて、トレンドのニュアンスカラーやジェンダーレスなデザイン、サステナブルなパッケージにした。シェービングを安全でシンプル、かつファッショナブルに使えるビューティツールとして昇華させた。消費者起点のイノベーションが成功した要因だと考えている。ビューティアンバサダーのINIは、サバイバルオーディション番組の国民投票で誕生している背景から、ファンのエンゲージメントが非常に高い。ブランドとビューティアンバサダー、ファン、そして消費者と最終接点となる大切な店頭とが同じ目線でWIN-WIN-WIN-WIN-WINを形成し、一緒に日本のメンズビューティを盛り上げようとする新しいエンゲージメントモデルが生まれている。

WWD:目標としていたエンゲージメントスコアの8割超えを早々に達成できた理由は。

後藤:最初に設定したパーパスやビジョンが浸透し、共感が強まっているのが大きい。戦略ブランドを明確にし、28年までの新製品計画を立てているので社員が、「イノベーションを語れる新製品がいくつも控えている」と会社の未来にワクワクする状態でいられる。また、パーパスやビジョンと同時に、社員への行動指針として「ピープルファースト」「ムーブフォワード」「リッスンアップ、スピークアップ」「オウン イット トゥギャザー」という4つのバリューを定義し、社員が意識的に体現することで成果に結びつくリーダーシップ開発につなげている。3年目は新たなビジョンのもと、販売した製品を軸とした成長拡大を見込んでいる。行動規範が数字という形で見えると、それがまた新たな成功体験と結びつく。挑戦して失敗から学び成功体験が重なれば、その成功は正しい行動だという確信に変わり、それが組織の当然となり、やがて企業文化へと浸透していく。そんな環境下で社員が働けば必然的にポジティブスコアは高まっていく。

WWD:25年もイノベーションを控えている?

後藤:25年は「シック」が日本上陸65周年を迎える。2月には大人男性に向けて当社初のシェービングからスキンケアまでをワンストップで提案するトータル・グルーミングケアブランド「プロジスタ(PROGISTA)」が登場するほか、女性用「サロンプラス(SALON+)」からメイク直し感覚でうぶ毛やボディーの剃り残しをケアできるリップスティック型のコンパクトシェーバー、当社初の男性・女性用の除毛クリームなどを続々と発売する。65周年という節目の年に日本で過去最高の売り上げを作ることができれば象徴的な出来事になる。そして26年は売り上げ記録をさらに更新していく。実は26年こそ大規模イノベーションが控えており、全ての戦略ブランドからこれまでの市場にない新製品を投入する予定だ。来年はさらにもう1段階上のステージに行くことができると期待している。

※1 29年連続国内ウェットシェービング販売シェアNo.1:インテージSRI+カミソリ市場(ホルダー、ディスポーザブル、替刃)1995年11月~2024年10月各年メーカー別累計販売金額、
※2 インテージSRI+ カミソリ市場(ホルダー、ディスポーザブル、替刃)(2024年10月)メーカー別累計販売金額

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『世界中の人を美しく』

「美は人を変える」と信じて自身を含め日本人消費者を美しくすることを楽しんでいる。日本の枠を超えて世界中の人々を美しくして、ワクワク感と幸せを感じる毎日を届けていきたい。

COMPANY DATA
シック・ジャパン

世界50カ国以上でビジネスを展開しているエッジウェルパーソナルケアグループの一員で、「シック」は日本市場におけるウェットシェービング業界をけん引する存在。ビューティグルーミングを通して一人でも多くの顧客にワクワク感と幸せを感じてもらえる毎日を提供することをパーパスとし事業を推進している。主力製品は男性用の「ハイドロ5(HYDRO5)」「スタイリングパートナー(STYLING PARTNER)」「シックファースト トーキョー」、女性用の「サロンプラス」「ハイドロシルク(HYDROSILK)」「イントゥイション(INTUITION)」など

TEXT : WAKANA NAKADE


問い合わせ先
シック・ジャパンお客様相談室
03-5487-6801

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【シック・ジャパン 後藤秀夫社長】「シック」65周年の今年は過去最高の売り上げを宣言

PROFILE: 後藤秀夫/社長

後藤秀夫/社長
PROFILE: (ごとう・ひでお)MBA、米国サンダーバード国際経営大学院卒業後、1996年にジョンソン・エンド・ジョンソンでキャリアをスタート。営業・マーケティングを経験後、2005年から日本ロレアルで日本と台湾での事業部長の要職を歴任し、ターンアラウンドや事業拡大に貢献。17年にヘンケル ビューティーケアの日本兼韓国の代表としてコンシューマー及びプロフェッショナルの両事業を統括。22年8月から現職 PHOTO : TAMEKI OSHIRO

「日本で最も革新的なビューティーグルーミングカンパニー」を目指すシック・ジャパンは、2022年から社内環境整備しながら新市場を創造する製品開発など数多くのイノベーションを生み出している。「シック(SCHICK)」日本上陸65周年を迎える25年も、シェアNo.1※1ブランドとして市場拡大をけん引していく。

事業改革のテーマは
「ターンアラウンド」

WWD:“ビューティーグルーミングカンパニー”を目指す中期経営計画2年目の成果は。

後藤秀夫社長(以下、後藤):24年は「ターンアラウンド」をテーマに事業改革を行った。期待以上の成果で売り上げは2桁成長、利益率も予想を上回る結果で着地。社員のエンゲージメントスコアも前回の57%から大幅にアップし81%と満足度が高い結果だった。高いパフォーマンスを発揮しやすい環境作りが評価され、24年11月には、世界150カ国・年間1万社を超える企業の働きがい調査を行う調査機関が25年版「働きがい認定企業」に選出。社内外から評価される形で2年目を締めくくれた。

WWD:売り上げを大きく伸ばした要因は。

後藤:戦略ブランドを絞り投資する中で、24年は新市場を創造する新製品に注力した。女性用では当社初スティックタイプの顔剃り専用美容オイルバームや女性向けでは珍しい6枚刃のボディーシェーバー、角質ケアをサポートするボディーシェービング用エマルジョンを発売して新市場を創造。男性用ではシェービング剤不要で剃れるソープ付きシェーバーを登場させ、伸長するボディーシェービング市場をさらに加速することができた。

WWD:「シックファースト トーキョー(SCHICK FIRST TOKYO)」の反響は。

後藤:発売翌月にはメンズシェーバー市場※2の売り上げトップ10位にランクインした。メンズシェーバーは、 これまで深剃りを追い求める傾向にあり、やわらかい髭を持つ若年層向けの商品が市場に存在しなかった。若年層とシニア層では髭の硬さが異なる点に着目。はじめてシェービング体験をする若年層はシェービングに肌への安全性を求めているため日本のチームが日本で日本人の肌に合わせて、セーフティーワイヤーを搭載した製品を開発。「はじめてのシェービングにやさしさを。」というコンセプトで「シックファースト トーキョー」を発売した。美意識の高いZ世代にあわせて、ホルダーなどのデザインでもこれまでのカミソリから離れて、トレンドのニュアンスカラーやジェンダーレスなデザイン、サステナブルなパッケージにした。シェービングを安全でシンプル、かつファッショナブルに使えるビューティツールとして昇華させた。消費者起点のイノベーションが成功した要因だと考えている。ビューティアンバサダーのINIは、サバイバルオーディション番組の国民投票で誕生している背景から、ファンのエンゲージメントが非常に高い。ブランドとビューティアンバサダー、ファン、そして消費者と最終接点となる大切な店頭とが同じ目線でWIN-WIN-WIN-WIN-WINを形成し、一緒に日本のメンズビューティを盛り上げようとする新しいエンゲージメントモデルが生まれている。

WWD:目標としていたエンゲージメントスコアの8割超えを早々に達成できた理由は。

後藤:最初に設定したパーパスやビジョンが浸透し、共感が強まっているのが大きい。戦略ブランドを明確にし、28年までの新製品計画を立てているので社員が、「イノベーションを語れる新製品がいくつも控えている」と会社の未来にワクワクする状態でいられる。また、パーパスやビジョンと同時に、社員への行動指針として「ピープルファースト」「ムーブフォワード」「リッスンアップ、スピークアップ」「オウン イット トゥギャザー」という4つのバリューを定義し、社員が意識的に体現することで成果に結びつくリーダーシップ開発につなげている。3年目は新たなビジョンのもと、販売した製品を軸とした成長拡大を見込んでいる。行動規範が数字という形で見えると、それがまた新たな成功体験と結びつく。挑戦して失敗から学び成功体験が重なれば、その成功は正しい行動だという確信に変わり、それが組織の当然となり、やがて企業文化へと浸透していく。そんな環境下で社員が働けば必然的にポジティブスコアは高まっていく。

WWD:25年もイノベーションを控えている?

後藤:25年は「シック」が日本上陸65周年を迎える。2月には大人男性に向けて当社初のシェービングからスキンケアまでをワンストップで提案するトータル・グルーミングケアブランド「プロジスタ(PROGISTA)」が登場するほか、女性用「サロンプラス(SALON+)」からメイク直し感覚でうぶ毛やボディーの剃り残しをケアできるリップスティック型のコンパクトシェーバー、当社初の男性・女性用の除毛クリームなどを続々と発売する。65周年という節目の年に日本で過去最高の売り上げを作ることができれば象徴的な出来事になる。そして26年は売り上げ記録をさらに更新していく。実は26年こそ大規模イノベーションが控えており、全ての戦略ブランドからこれまでの市場にない新製品を投入する予定だ。来年はさらにもう1段階上のステージに行くことができると期待している。

※1 29年連続国内ウェットシェービング販売シェアNo.1:インテージSRI+カミソリ市場(ホルダー、ディスポーザブル、替刃)1995年11月~2024年10月各年メーカー別累計販売金額、
※2 インテージSRI+ カミソリ市場(ホルダー、ディスポーザブル、替刃)(2024年10月)メーカー別累計販売金額

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『世界中の人を美しく』

「美は人を変える」と信じて自身を含め日本人消費者を美しくすることを楽しんでいる。日本の枠を超えて世界中の人々を美しくして、ワクワク感と幸せを感じる毎日を届けていきたい。

COMPANY DATA
シック・ジャパン

世界50カ国以上でビジネスを展開しているエッジウェルパーソナルケアグループの一員で、「シック」は日本市場におけるウェットシェービング業界をけん引する存在。ビューティグルーミングを通して一人でも多くの顧客にワクワク感と幸せを感じてもらえる毎日を提供することをパーパスとし事業を推進している。主力製品は男性用の「ハイドロ5(HYDRO5)」「スタイリングパートナー(STYLING PARTNER)」「シックファースト トーキョー」、女性用の「サロンプラス」「ハイドロシルク(HYDROSILK)」「イントゥイション(INTUITION)」など

TEXT : WAKANA NAKADE


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03-5487-6801

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【プラザスタイル 鈴木努カンパニーエクゼクティブ プレジデント】日常の心拍数を上げ、ハーツアップさせる集団へ

PROFILE: 鈴木努/カンパニーエクゼクティブ プレジデント

鈴木努/カンパニーエクゼクティブ プレジデント
PROFILE: (すずき・つとむ)大手ファッション企業でブランド責任者や支店長、マッシュスタイルラボで執行役員を歴任。2022年8月にプラザスタイルカンパニーに入社し、23年6月から現職 PHOTO : TAMEKI OSHIRO

スタイリングライフ・ホールディングス プラザスタイル カンパニーが運営するライフスタイルストア「プラザ(PLAZA)」は、2024年2月にリブランディングし新たなスローガン「HEARTS UP!」を掲げた。26年の創業60周年に向けて、勢いをつける。

「プラザ」愛が強い社員とともに
さらなる可能性に突き進む

WWD:24年に最も注力したことは?

鈴木努カンパニーエグゼクティブプレジデント(以下、鈴木):2月に行ったリブランディングの浸透に注力した。26年に60周年を迎えるにあたり、もう一度、われわれの強み、存在意義、社会に対してやらなければならないことは何かを社員全員で考え、導き出したのが「HEARTS UP!」というスローガン。カンパニーステートメントを「日常の心拍数を上げる」とし、これを社内外の人にも伝えてきた。われわれはただモノを売るのではなく、製品や店舗を通してお客さまの心拍数を上げるお手伝いをする会社なんだ、という意識を共通して持つことを徹底した。

WWD:プライベートブランド(PB)の進捗は?

鈴木:8月に誕生したプラザ初となるスキンケアPBブランド「デュナミス」は、おおむね順調だ。今年はより一層販促・宣伝を強化し、売り上げを伸ばしていきたい。9月に発売したウエアブランド「レイジースタイルズ」も同様。シーンやジェンダーにとらわれず自分らしさを楽しむというコンセプトは今の時代に合っていて、こちらもプロモーションに力を入れ、将来的には単独出店や卸も考えている。

WWD:新規出店と売り場の改装が目立つ。

鈴木:24年度は新規8店と改装8店があり、どこも好調だ。既存店も売上高が前年比2ケタ増で伸び、全カテゴリー全エリアで前年を超えた。中でも福岡天神の地下街に10月にオープンした40坪ほどの店が絶好調だ。トラフィックの多い改札前という立地もあり、他店に比べて年齢層が幅広く、男性客比率も高い。これまでプラザは80〜100坪の店が多く、その規模での出店は新しい商業施設に限られていた。40坪程度であれば案件も増える。天神地下街の成功事例を参考に同様の立地に出店したい。

WWD:好調の要因は?

鈴木:それぞれの店舗に合わせたMDに組み直したことが大きい。渋谷109店は化粧品が強いので、それに特化した作りでポップでカラフルな内装にしたり、羽田空港店は旅行を意識したディスプレイにしたり。長年働いている店長やスタッフの声を吸い上げ、レジの位置や、ストックから店頭の陳列台までの導線を効率良くするなど、働きやすい環境を整えたことも大きい。お客さまに見える部分と見えない部分の両方の改善が功を奏した。「プラザ」愛が強いアルバイトや社員が多いのは大きな財産。その声に耳を傾けることはやる気になり、会社の成長につながる。

WWD:25年の計画は?

鈴木:昨年9月、大阪のりんくうプレミアム・アウトレット(以下、りんくう)に10年ぶりのアウトレット店を出店した。10年の間にアウトレットに対するお客さまの考えは、安いモノを買う場所からエンターテインメントプレイスへと変わった。実際、軽井沢プリンスショッピングプラザ店はプロパーがよく売れる。私たちはアウトレットを在庫処分の場ではなく新たなマーケットプレイスとして捉え、りんくう店も撮影スポットを作るなど、お客さまがワクワクする仕掛けを用意した。その成功を元に、今年はアウトレット売り上げ規模が大きい御殿場プレミアム店を改装する。

WWD:グループで「キャス キッドソン(CATH KIDSTON)」のビジネスもスタートした。

鈴木:輸入販売権とともにライセンス権も取得し、日本独自の企画商品にも力を入れる。1番強化するのはアパレルで、すでに販売するECでは手応えを感じている。他にもタオル・ハンカチ、食器、ファブリック、ペットグッズと幅広く展開する予定で、3割を直輸入、7割を日本企画商品で構成する計画だ。また、3月には路面店をオープンし、年内に3〜4店の出店を予定している。「キャス キッドソン」は年齢関係なく愛される世界観を持つ。その人たちのライフスタイルに寄り添うブランドにしていきたい。

WWD:25年は新プロジェクトがめじろ押しだ。

鈴木:24年11月にブランドサイトとECサイトを統合し、12月にはアプリをリニューアルした。引き続き利便性のいい場所に130店舗を構えることを生かしたOMOを強化し、お客さまの買い物の煩わしさを解消する。また、2月にはルミネエスト新宿で「ケアベア™」のポップアップイベントを開催する。これまでも製品を並べたボップアップはあったが、よりエンタメ性のあるショップになるので期待してほしい。「プラザ」はほかにも「バーバパパ」や「スポンジ・ボブ」など魅力的なキャラクターの国内ライセンスを持つ。これらのオフィシャルストアは今年中に挑戦したい。

WWD:業績が絶好調の中、見えてきた課題は?

鈴木:1番は人材の確保。中途でも採用していき、業績が好調なことから昨年はグループ全体で社員に還元した。社員からの海外出張申請に「NO」と言ったことはない。現地に行って何か持ち帰ろう、それを仕事や店に生かそうという気持ちと体験は何にも変えられない。そんな社員とともに、さらなる可能性に突き進んでいきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『映画・ドラマに役者として出演』

昔から人前に出るのは好きで、学生の頃はモデルになりたかった。アパレル勤務時代はファッションショーに出演したことも。役者も昔からの夢で、演技の経験はゼロだが、ぜひ挑戦したい。何でもジャンルは問わないし、もちろんノーギャラでOK!

COMPANY DATA
スタイリングライフ・ホールディングス プラザスタイル カンパニー

1966年創立。スタイリングライフ グループの雑貨小売事業を展開する。同年、米国スタイルのドラッグストアとして、東京・銀座のソニービルに日本初の輸入生活雑貨店「プラザ」(当時ソニープラザ)第1号店をオープン。2024年2月、創業60周年を前にリブランディングを実施し「HEARTS UP!」を新たなスローガンとし、日常の心拍数を上げる「ライフモチベートブランド」へとアップデートした。現在は直営店事業、フランチャイズ事業、ライセンス事業を展開する

TEXT : YOSHIE KAWAHARA
問い合わせ先
スタイリングライフ・ホールディングス プラザスタイル カンパニー
https://www.plazastyle.com/contents/company/contact/

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【プラザスタイル 鈴木努カンパニーエクゼクティブ プレジデント】日常の心拍数を上げ、ハーツアップさせる集団へ

PROFILE: 鈴木努/カンパニーエクゼクティブ プレジデント

鈴木努/カンパニーエクゼクティブ プレジデント
PROFILE: (すずき・つとむ)大手ファッション企業でブランド責任者や支店長、マッシュスタイルラボで執行役員を歴任。2022年8月にプラザスタイルカンパニーに入社し、23年6月から現職 PHOTO : TAMEKI OSHIRO

スタイリングライフ・ホールディングス プラザスタイル カンパニーが運営するライフスタイルストア「プラザ(PLAZA)」は、2024年2月にリブランディングし新たなスローガン「HEARTS UP!」を掲げた。26年の創業60周年に向けて、勢いをつける。

「プラザ」愛が強い社員とともに
さらなる可能性に突き進む

WWD:24年に最も注力したことは?

鈴木努カンパニーエグゼクティブプレジデント(以下、鈴木):2月に行ったリブランディングの浸透に注力した。26年に60周年を迎えるにあたり、もう一度、われわれの強み、存在意義、社会に対してやらなければならないことは何かを社員全員で考え、導き出したのが「HEARTS UP!」というスローガン。カンパニーステートメントを「日常の心拍数を上げる」とし、これを社内外の人にも伝えてきた。われわれはただモノを売るのではなく、製品や店舗を通してお客さまの心拍数を上げるお手伝いをする会社なんだ、という意識を共通して持つことを徹底した。

WWD:プライベートブランド(PB)の進捗は?

鈴木:8月に誕生したプラザ初となるスキンケアPBブランド「デュナミス」は、おおむね順調だ。今年はより一層販促・宣伝を強化し、売り上げを伸ばしていきたい。9月に発売したウエアブランド「レイジースタイルズ」も同様。シーンやジェンダーにとらわれず自分らしさを楽しむというコンセプトは今の時代に合っていて、こちらもプロモーションに力を入れ、将来的には単独出店や卸も考えている。

WWD:新規出店と売り場の改装が目立つ。

鈴木:24年度は新規8店と改装8店があり、どこも好調だ。既存店も売上高が前年比2ケタ増で伸び、全カテゴリー全エリアで前年を超えた。中でも福岡天神の地下街に10月にオープンした40坪ほどの店が絶好調だ。トラフィックの多い改札前という立地もあり、他店に比べて年齢層が幅広く、男性客比率も高い。これまでプラザは80〜100坪の店が多く、その規模での出店は新しい商業施設に限られていた。40坪程度であれば案件も増える。天神地下街の成功事例を参考に同様の立地に出店したい。

WWD:好調の要因は?

鈴木:それぞれの店舗に合わせたMDに組み直したことが大きい。渋谷109店は化粧品が強いので、それに特化した作りでポップでカラフルな内装にしたり、羽田空港店は旅行を意識したディスプレイにしたり。長年働いている店長やスタッフの声を吸い上げ、レジの位置や、ストックから店頭の陳列台までの導線を効率良くするなど、働きやすい環境を整えたことも大きい。お客さまに見える部分と見えない部分の両方の改善が功を奏した。「プラザ」愛が強いアルバイトや社員が多いのは大きな財産。その声に耳を傾けることはやる気になり、会社の成長につながる。

WWD:25年の計画は?

鈴木:昨年9月、大阪のりんくうプレミアム・アウトレット(以下、りんくう)に10年ぶりのアウトレット店を出店した。10年の間にアウトレットに対するお客さまの考えは、安いモノを買う場所からエンターテインメントプレイスへと変わった。実際、軽井沢プリンスショッピングプラザ店はプロパーがよく売れる。私たちはアウトレットを在庫処分の場ではなく新たなマーケットプレイスとして捉え、りんくう店も撮影スポットを作るなど、お客さまがワクワクする仕掛けを用意した。その成功を元に、今年はアウトレット売り上げ規模が大きい御殿場プレミアム店を改装する。

WWD:グループで「キャス キッドソン(CATH KIDSTON)」のビジネスもスタートした。

鈴木:輸入販売権とともにライセンス権も取得し、日本独自の企画商品にも力を入れる。1番強化するのはアパレルで、すでに販売するECでは手応えを感じている。他にもタオル・ハンカチ、食器、ファブリック、ペットグッズと幅広く展開する予定で、3割を直輸入、7割を日本企画商品で構成する計画だ。また、3月には路面店をオープンし、年内に3〜4店の出店を予定している。「キャス キッドソン」は年齢関係なく愛される世界観を持つ。その人たちのライフスタイルに寄り添うブランドにしていきたい。

WWD:25年は新プロジェクトがめじろ押しだ。

鈴木:24年11月にブランドサイトとECサイトを統合し、12月にはアプリをリニューアルした。引き続き利便性のいい場所に130店舗を構えることを生かしたOMOを強化し、お客さまの買い物の煩わしさを解消する。また、2月にはルミネエスト新宿で「ケアベア™」のポップアップイベントを開催する。これまでも製品を並べたボップアップはあったが、よりエンタメ性のあるショップになるので期待してほしい。「プラザ」はほかにも「バーバパパ」や「スポンジ・ボブ」など魅力的なキャラクターの国内ライセンスを持つ。これらのオフィシャルストアは今年中に挑戦したい。

WWD:業績が絶好調の中、見えてきた課題は?

鈴木:1番は人材の確保。中途でも採用していき、業績が好調なことから昨年はグループ全体で社員に還元した。社員からの海外出張申請に「NO」と言ったことはない。現地に行って何か持ち帰ろう、それを仕事や店に生かそうという気持ちと体験は何にも変えられない。そんな社員とともに、さらなる可能性に突き進んでいきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『映画・ドラマに役者として出演』

昔から人前に出るのは好きで、学生の頃はモデルになりたかった。アパレル勤務時代はファッションショーに出演したことも。役者も昔からの夢で、演技の経験はゼロだが、ぜひ挑戦したい。何でもジャンルは問わないし、もちろんノーギャラでOK!

COMPANY DATA
スタイリングライフ・ホールディングス プラザスタイル カンパニー

1966年創立。スタイリングライフ グループの雑貨小売事業を展開する。同年、米国スタイルのドラッグストアとして、東京・銀座のソニービルに日本初の輸入生活雑貨店「プラザ」(当時ソニープラザ)第1号店をオープン。2024年2月、創業60周年を前にリブランディングを実施し「HEARTS UP!」を新たなスローガンとし、日常の心拍数を上げる「ライフモチベートブランド」へとアップデートした。現在は直営店事業、フランチャイズ事業、ライセンス事業を展開する

TEXT : YOSHIE KAWAHARA
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【msh 藤田智美社長】「ラブ・ライナー」を世界で通用するブランドに

PROFILE: 藤田智美/社長

藤田智美/社長
PROFILE: (ふじた・ともみ)東京理科大学薬学部卒業後、1999年に住商リテイルストアーズ(現トモズ)に入社。調剤、店舗業務を経て化粧品バイヤーを務める。化粧品全般のMD業務に加え、プライベートブランドの企画開発、ラグジュアリーコスメセレクトショップ「インクローバー」などの新規業態開発・運営、マネジメントと幅広い経験を積む。2020年4月にmshに入社し、同年7月から現職 PHOTO : SHUNICHI ODA

mshは2024年、10周年を迎えたミネラルコスメブランド「タイムシークレット」の新施策が奏功し、好調な年となった。シリーズ累計2700万本(08年9月〜24年11月)を突破した主力アイメイクブランド「ラブ・ライナー」はフランス進出を果たしたほか、「アットコスメ ベストコスメアワード2024」で殿堂入りを果たすなど勢いが衰えず、売上高の更新に貢献している。

銭湯やVTuberとの
コラボレーションを果敢に挑戦

WWD:売上高と利益が過去最高を達成した23年に対し、24年の実績は?

藤田智美社長(以下、藤田):「ラブ・ライナー」は22年にリフィル対応の製品にリニューアルし、話題を喚起した。リフィルが定着したことから24年は楽観視できなかったが、「タイムシークレット」が10周年を迎え、さまざまな施策を実施したことで多くのお客さまから支持を得て過去最高を更新できた。

WWD:「タイムシークレット」ではどんな施策を行ったか。

藤田:同じく10周年を迎えた5人組男性アーティスト、Da-iCEとコラボレーションした。男性アーティストと本格的にコラボするのは初めてで、撮り下ろしビジュアルを使用したオリジナルディスプレイとオリジナルパッケージを店頭展開したほか、渋谷駅では広告を掲出、東京と大阪ではラッピングバスを走らせた。また、10月10日からのキャンペーン初日が「銭湯の日」であることにちなみ、西新井にある創業80年の老舗銭湯「堀田湯」とコラボレーションし、暖簾や内装を「タイムシークレット」仕様にしたり、製品を試せるスペースを設けたりするなどして、5日間で2717人に来場いただいた。公式Xやインスタグラムのフォロワー数も2000以上増え、見込み以上の反響を得ることができた。

WWD:VTuberともコラボレーションした。

藤田:VTuberユニット「エデン組」のファン層との親和性が高いことから、「タイムシークレット」のフェイスパウダーと「ラブ・ライナー」のリキッドアイライナーでコラボレーションした。渋谷ではポップアップイベントと先行販売を行い、公式オンラインサイトでは受注販売をした。当社は以前「あんさんぶるスターズ!!」のKnightsとコラボレーションを行っており、推し活と紐づいた企画がファンの熱量や購買意欲に与える大きな影響を実感していた。今回もファンに喜んでもらえる企画を大切にしたいと考え、ビジュアルは本コラボレーション用に全て描き下ろしてもらった。製品に合わせてアイライナーが引かれているなどデザインが微妙に異なるように描いていただき、ファンが細かな違いを発見して楽しんでくれたようだ。受注販売にした結果、注文から手元に届くまでに半年ほどを要する形となったが、「転売の心配がなく安心して購入できる」と多くの顧客に好評を得た。

WWD:コラボレーションの効果とは。

藤田:どのブランドも時間と共にユーザーの年齢が上がり、新客獲得が課題になる。こうした施策を通してティーン向けの雑誌で話題にあがったり、若年層向けのベストコスメで賞をいただいたりで新客が流入している。

WWD:「ラブ・ライナー」は24年4月にフランスのル・ボン・マルシェに出店した。

藤田:本格参入は26年の春を目指すが、テスト期間として製品を知ってもらうことから始めている。フランスではアイライナーを使わない人も多いが、製品の説明を受けると複数本を購入する人も多い。フランスでのニーズを探りながら本格ローンチまでに調整する。アメリカとフランスに拠点があるクリエイティブエージェンシーと契約し、マーケットに入り込む狙いだ。日本の職人が作った筆など評価されている品質は変えずに、パッケージをローカライズする準備を進めている。

WWD:24年12月には公式オンラインサイトのリニューアルも行った。

藤田:これまで大手ポータルサイトで非公式の出品が見られたが、23年後半から転売出品者を排除して公式出店をスタートした。また、若年層の利用が多いQoo10にも公式ショップをオープン。ただ、やはり自社の公式オンラインストアは得られる顧客情報も多い。公式オンラインストア開設から時間もたち、ブランド数も増えてきたので操作性の改善のため、初めてリニューアルを行った。お客さまと直接コミュニケーションが取れる場所なので大切にし、自社で販売網を持っていることを生かしていきたい。

WWD:25年に見据える可能性とは。

藤田:25年は売り上げのコアになっている「ラブ・ライナー」をさらに強化していきたい。今はアイライナーが一番売れているカテゴリーだが、マスカラやアイブロウなどの製品も独り立ちできるように注力する。また、今春には2年以上温めてきた大きなブランドがデビューするので期待してほしい。24年から欧米へのチャレンジを掲げているが、当社の製品に限らず日本の化粧品はメード・イン・ジャパンとして世界に発信できるものだと感じている。そうした中で「ラブ・ライナー」を世界で通用するブランドに育てていきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『健康と美容の相談ができる店』

健康あっての美容なので、正しい情報のもとに賢くエイジングできるように、ウェルビーイングとビューティを合体させた店を作りたい。日々の生活を快適にするためのサービスの提供や加齢の悩みなどを気軽に相談できる場所が理想だ。

COMPANY DATA
エムエスエイチ

2008年にアイメイクブランド「ラブ・ライナー」を立ち上げ、化粧品や雑貨の企画・販売、輸出入、海外ブランドの輸入代理を手掛ける。ミネラルコスメブランド「タイムシークレット」やニューヨーク発のスキンケアブランド「スーパーエッグ」など、現在8ブランドを展開。社名は「make someone happy(いつも誰かをハッピーに)」の頭文字から取り、幸せが循環する社会の実現を目指す

TEXT:MIKI IRIMAJIRI
問い合わせ先
msh
0120-131-370

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【msh 藤田智美社長】「ラブ・ライナー」を世界で通用するブランドに

PROFILE: 藤田智美/社長

藤田智美/社長
PROFILE: (ふじた・ともみ)東京理科大学薬学部卒業後、1999年に住商リテイルストアーズ(現トモズ)に入社。調剤、店舗業務を経て化粧品バイヤーを務める。化粧品全般のMD業務に加え、プライベートブランドの企画開発、ラグジュアリーコスメセレクトショップ「インクローバー」などの新規業態開発・運営、マネジメントと幅広い経験を積む。2020年4月にmshに入社し、同年7月から現職 PHOTO : SHUNICHI ODA

mshは2024年、10周年を迎えたミネラルコスメブランド「タイムシークレット」の新施策が奏功し、好調な年となった。シリーズ累計2700万本(08年9月〜24年11月)を突破した主力アイメイクブランド「ラブ・ライナー」はフランス進出を果たしたほか、「アットコスメ ベストコスメアワード2024」で殿堂入りを果たすなど勢いが衰えず、売上高の更新に貢献している。

銭湯やVTuberとの
コラボレーションを果敢に挑戦

WWD:売上高と利益が過去最高を達成した23年に対し、24年の実績は?

藤田智美社長(以下、藤田):「ラブ・ライナー」は22年にリフィル対応の製品にリニューアルし、話題を喚起した。リフィルが定着したことから24年は楽観視できなかったが、「タイムシークレット」が10周年を迎え、さまざまな施策を実施したことで多くのお客さまから支持を得て過去最高を更新できた。

WWD:「タイムシークレット」ではどんな施策を行ったか。

藤田:同じく10周年を迎えた5人組男性アーティスト、Da-iCEとコラボレーションした。男性アーティストと本格的にコラボするのは初めてで、撮り下ろしビジュアルを使用したオリジナルディスプレイとオリジナルパッケージを店頭展開したほか、渋谷駅では広告を掲出、東京と大阪ではラッピングバスを走らせた。また、10月10日からのキャンペーン初日が「銭湯の日」であることにちなみ、西新井にある創業80年の老舗銭湯「堀田湯」とコラボレーションし、暖簾や内装を「タイムシークレット」仕様にしたり、製品を試せるスペースを設けたりするなどして、5日間で2717人に来場いただいた。公式Xやインスタグラムのフォロワー数も2000以上増え、見込み以上の反響を得ることができた。

WWD:VTuberともコラボレーションした。

藤田:VTuberユニット「エデン組」のファン層との親和性が高いことから、「タイムシークレット」のフェイスパウダーと「ラブ・ライナー」のリキッドアイライナーでコラボレーションした。渋谷ではポップアップイベントと先行販売を行い、公式オンラインサイトでは受注販売をした。当社は以前「あんさんぶるスターズ!!」のKnightsとコラボレーションを行っており、推し活と紐づいた企画がファンの熱量や購買意欲に与える大きな影響を実感していた。今回もファンに喜んでもらえる企画を大切にしたいと考え、ビジュアルは本コラボレーション用に全て描き下ろしてもらった。製品に合わせてアイライナーが引かれているなどデザインが微妙に異なるように描いていただき、ファンが細かな違いを発見して楽しんでくれたようだ。受注販売にした結果、注文から手元に届くまでに半年ほどを要する形となったが、「転売の心配がなく安心して購入できる」と多くの顧客に好評を得た。

WWD:コラボレーションの効果とは。

藤田:どのブランドも時間と共にユーザーの年齢が上がり、新客獲得が課題になる。こうした施策を通してティーン向けの雑誌で話題にあがったり、若年層向けのベストコスメで賞をいただいたりで新客が流入している。

WWD:「ラブ・ライナー」は24年4月にフランスのル・ボン・マルシェに出店した。

藤田:本格参入は26年の春を目指すが、テスト期間として製品を知ってもらうことから始めている。フランスではアイライナーを使わない人も多いが、製品の説明を受けると複数本を購入する人も多い。フランスでのニーズを探りながら本格ローンチまでに調整する。アメリカとフランスに拠点があるクリエイティブエージェンシーと契約し、マーケットに入り込む狙いだ。日本の職人が作った筆など評価されている品質は変えずに、パッケージをローカライズする準備を進めている。

WWD:24年12月には公式オンラインサイトのリニューアルも行った。

藤田:これまで大手ポータルサイトで非公式の出品が見られたが、23年後半から転売出品者を排除して公式出店をスタートした。また、若年層の利用が多いQoo10にも公式ショップをオープン。ただ、やはり自社の公式オンラインストアは得られる顧客情報も多い。公式オンラインストア開設から時間もたち、ブランド数も増えてきたので操作性の改善のため、初めてリニューアルを行った。お客さまと直接コミュニケーションが取れる場所なので大切にし、自社で販売網を持っていることを生かしていきたい。

WWD:25年に見据える可能性とは。

藤田:25年は売り上げのコアになっている「ラブ・ライナー」をさらに強化していきたい。今はアイライナーが一番売れているカテゴリーだが、マスカラやアイブロウなどの製品も独り立ちできるように注力する。また、今春には2年以上温めてきた大きなブランドがデビューするので期待してほしい。24年から欧米へのチャレンジを掲げているが、当社の製品に限らず日本の化粧品はメード・イン・ジャパンとして世界に発信できるものだと感じている。そうした中で「ラブ・ライナー」を世界で通用するブランドに育てていきたい。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『健康と美容の相談ができる店』

健康あっての美容なので、正しい情報のもとに賢くエイジングできるように、ウェルビーイングとビューティを合体させた店を作りたい。日々の生活を快適にするためのサービスの提供や加齢の悩みなどを気軽に相談できる場所が理想だ。

COMPANY DATA
エムエスエイチ

2008年にアイメイクブランド「ラブ・ライナー」を立ち上げ、化粧品や雑貨の企画・販売、輸出入、海外ブランドの輸入代理を手掛ける。ミネラルコスメブランド「タイムシークレット」やニューヨーク発のスキンケアブランド「スーパーエッグ」など、現在8ブランドを展開。社名は「make someone happy(いつも誰かをハッピーに)」の頭文字から取り、幸せが循環する社会の実現を目指す

TEXT:MIKI IRIMAJIRI
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【GARDE 室賢治社長】40周年を記念、ニューヨークにアートギャラリー開設

PROFILE: 室賢治/社長

室賢治/社長
PROFILE: (むろ・けんじ)1965年生まれ、大阪府出身。武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科を卒業後、89年に三越に入社して店舗デザイン部に配属。2015年にGARDEに入社し、16年から香港駐在を経験。22年1月に現職に就任し、ラグジュアリーブランドの店舗やホテル、オフィスのデザイン、国内外の大型百貨店の全館デザインを手掛けるBtoBカンパニーGARDEの成長をけん引 PHOTO:SHUHEI SHINE

GARDE(ギャルド)はラグジュアリーブランドや百貨店、ホテル、オフィスなどの空間デザインとブランディングを手掛ける企業。特にラグジュアリーブランドの店舗設計においては国内トップシェアを誇り、世界11都市に事業拠点を構える。2025年に創業40周年を迎えた。

25年夏、西武池袋本店の
改装オープンも手掛ける

WWD:自社の強みをどう分析しているか。

室賢治社長(以下、室):世界の一流企業と数多く取引しており、信頼を得ている点が強みだ。ファッションでは、いわゆる3大コングロマリットを中心にインポートラグジュアリーブランドの店舗設計を80ブランド以上手掛けており、日本でトップシェアを誇っている。24年は新たな海外トップブランドとの新規契約もあり、可能性がより広がった。ほかにもGAFA系企業のオフィス、世界大手ホテルチェーン、レジデンスなどの内装設計を手掛けている。

WWD:シェアナンバーワンを維持する秘訣は。

室:ラグジュアリーブランドは、ジャパン社および本国のヘッドクオーターと信頼関係を築くこと。そのために常々意識していることが、顧客第一の姿勢とサービスのクオリティー向上だ。一流企業はジャンルを問わず、クオリティーを維持することが彼らのブランディング向上に何よりも直結する。当社は語学力と技術力に長けた少数精鋭のスタッフで、クオリティーを高めることを徹底している。

WWD:世界11都市に拠点があることも大きな特徴だ。

室:アジアから北米、欧州、中東まで主要都市にオフィスを構えている。24年11月には新たにインドネシアのジャカルタに拠点を作った。現地の建築事務所との提携で始動し、すでに依頼がかなり増えている。中国経済がここ1〜2年減速している一方で、コロナ禍以前から力を入れているASEANには大きな可能性を感じている。個人の消費意欲が高く、再開発投資案件も多い。

WWD:空間デザインにおいて重視していることは。

室:日本のミニマリズムの哲学だ。特に商業の空間においては、環境が語りすぎると本来の主役である商品が死んでしまう。ホテルも装飾過多は疲れるし、最近は長期滞在が主流なので、なおさら宿泊客の心を整えるミニマルな空間とホスピタリティーが求められている。機能性を残しながらミニマリズムを追求して削ぎ落とすアプローチは、技術力がないと安っぽくなってしまうため、難易度が高い。だからこそ、われわれの武器になっている。

WWD:24年の業績を振り返ると。

室:かなりの増収増益を達成した。多くのブランドが出店を加速し、さらにトップブランドは大型化と路面化が顕著だったことがその要因。売り上げ好調を背景に各社出店意欲が旺盛だったが、この傾向は日本に限られており、訪日客の恩恵に依る部分も大きい。日本人の購買が伴っていない状況を危惧しているブランドも少なくない。百貨店も本店や旗艦店の売り上げが絶好調のため、ブランド店舗の増床案件が続いた。25年も当社の業績は堅調が続くと見ているが、デベロッパーは建築コスト高騰で新規開業や改装を絞っている。楽観はしていない。

WWD:西武池袋本店の25年夏の改装オープンが業界内外で大きな話題だが、同店の設計も手掛ける。

室:西武池袋本店は内外装を担当している。私自身が百貨店の店舗デザイン部出身のため、百貨店の改装や出店は得意分野の1つ。これまで阪急うめだ本店の大規模改装や寧波阪急の立ち上げなどもご一緒してきた。VIPルームなど、顧客向けサロンの案件依頼も引き続き多い。

WWD:この1月には、新規事業としてニューヨークにアートギャラリーも開設した。その意図は。

室:創業40周年を記念する事業の一つとして、チェルシーに常設のギャラリーをオープンした。当社は空間デザインを本業としつつ、アーティスト支援にもこれまでも力を注いできた。09年には建築家やアーティストの社会的地位向上を目指した非営利団体ADF(青山デザインフォーラム)を設立し、創作活動をサポート。ホテルやレジデンスを設計する際、数多くのアートを施主に購入してもらうこともあり、現代アーティストとのネットワークが構築できている。ニューヨークに新設したギャラリーを通して、施主と作家をつなぐ場を提供したい。(観光名所でもある空中庭園の)ハイラインに直結する好立地で、240㎡のスペースにコンテンポラリーアートを展示する。このエリアはアジアの若手コンテンポラリーアーティストに限定したギャラリーが少なく、チャンスがあると期待する。ホテルやレジデンスだけでなく、ファッションブランドからも店内を飾るアートの問い合わせは多く、本業との親和性が高い事業だ。

WWD:改めて、25年の注力ポイントや戦略は。

室:空間デザインにおいては、長年仕込んできた大きなビジネスがいよいよお披露目できそうだ。ブランド店舗の大型化の流れは24年と同様に続くと見ている。取引先に対して顧客満足度を高め、ブランド価値向上に貢献して収益を上げていく。また、当社の認知度を上げる努力も強める。人材不足がますます深刻になる中で、人や働く環境に投資し、ここで働きたいとより強く思ってもらえる企業の姿を目指していく。

実現の可能性はゼロじゃない私の夢

『チベットで瞑想』

宗教文化が息づく建築空間に身を置いて、都市では味わえない体験がしたい。きっかけは、昔観た映画の「セブン・イヤーズ・イン・チベット」。高山病などのリスクを伴い簡単には行けないような場所で瞑想をしたら、価値観が変わりそうだ。

COMPANY DATA
GARDE

1985年にギャルド21として創業。97年にミラノオフィスを開設し、イタリアブランドの日本市場出店をサポート。その後、ニューヨークやロサンゼルス、パリ、シンガポールなどに順次オフィスを開設すると共に、現地で法人登録。現在、世界11都市に拠点を構える。2018年に社名をGARDEに変更。20年に不動産仲介・売買サービス事業部を開設、23年に観光・地方創生事業、メタバース事業開始、24年エコバディスのサステナビリティ審査でシルバー取得

TEXT:CHIKAKO ICHINOI


問い合わせ先
GARDE
03-3407-0007

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