フランス版人間国宝、日爪ノブキが作りたい帽子とは 「消費されないクリエイション」の裏側

PROFILE: 日爪ノブキ(ひづめ・のぶき)

日爪ノブキ(ひづめ・のぶき)
PROFILE: 1979年生まれ、滋賀県出身。2004年に文化服装学院を主席で卒業後、イタリアでアンダーウエアデザイナーとして自身のブランドを運営。帰国後にミュージカル「ボーイ・フロム・オズ」でヘッドピースや装身具のデザインを手掛けたことから、帽子デザイナーの道を歩み始めた。これまで数多くのオートクチュールメゾンの帽子制作を担当し、2019年5月、日本人として初めて帽子職人部門で「MEILLEUR OUVRIER DE FRANC(フランス国家最優秀職人章)を受賞した。22年春夏シーズンに「ヒヅメ」をスタート

2019年、フランスの「国家最優秀職人章(M.O.F.)」を、日本人として初めて帽子職人の分野で受章した男がいる。この称号はある道の技能を極めた職人に贈られ、フランス版“人間国宝”とも呼ばれる存在だ。

その男の名は、日爪ノブキ。庭、ワイルドフラワー、お盆、包む、折る、カビ、発酵……自然や構造物、人の所作など、縦横無尽なモチーフから生み出される彼の帽子は、さながら頭の上に載せる小宇宙。「最高の料理には、最高の技術が要る。僕はその感覚でやっている」。分業が当たり前のファッションの世界で、デザインから仕上げまで、自らの手で行うことにこだわり続けている。

日爪の技を求めるラブコールは後を絶たない。これまでに「ロエベ」など数々のラグジュアリーブランドのプロトタイプを手がけ、「コム・デ・ギャルソン・オム プリュス(COMME DES GARÇONS HOMME PLUS)」「キディル(KIDILL)」といったブランドとのコラボレーションも実現してきた。「M.O.F.」を獲得して以降、名声はさらに広がり、オーダーメードの依頼もひっきりなしに舞い込む。

ファッションデザイナーを目指した過去
なぜ帽子を選んだか?

キャリアの初めから帽子作りを志していたわけではない。文化服装学院に入学後、ファッションデザイナーを目指して、デザインコンテストへの応募活動を続けていた。巨大な革のコルセットで人間をブーケのように包んだ作品「人間花束」で「装苑賞」にノミネートされるなど実績を積む中で、イタリアのアンダーウエアメーカーから声がかかり、現地で自身のブランドを始める。念願叶ったのも束の間、ビザの都合で帰国を余儀なくされた。心機一転し、「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」や「イッセイミヤケ(ISSEY MIYAKE)」など日本のデザイナーズブランドに就職を試みたが、個性が強すぎることを理由に不採用通告を受けてしまう。日爪は当時を振り返り、「企業ではチームワークが大事。確かに、俺が経営者でも同じ判断をするかもしれないと思った」と話す。

そんな折に、ミュージカル「ボーイ・フロム・オズ(原題:THE BOY FROM OZ)」のプロデューサーからヘッドピースをはじめとする装身具の制作を依頼された。日爪は「文化服装学院1年生の時に、モダンコンテンポラリーダンスカンパニーの衣装を制作していたし、色んなデザインコンテストで入賞してきたから、僕の変遷を追いかけていてくれたんじゃないか」と推測する。これまでウエア以外のアイテムを手掛けたことはなかったが、何の気なしに快諾したところ、日爪の作品は関係者らから絶賛されることになった。「なぜだか分からないけど、学んだこともないのに帽子の作り方が自然に頭に浮かんできて、作ってみたら周囲が喜んでくれた。ファッションデザイナーを目指していた頃とは異なり、自分が作りたいものと予算の関係で悩むことも少なく、帽子なら“三方よし”を叶えられると思った」。これが日爪の帽子デザイナーとしての道を切り開く転機となった。

帽子という小さなプラットフォームに込める
クリエイションの大きな可能性

冒頭で述べた通り、日爪の帽子は異彩を放っている。自身のブランド「ヒヅメ(HIZUME)」には、縫い目を作らずドレープだけでフォルムを構築するキャップや、ベルクロで自在に折り畳んでシルエットを歪ませられるストローハット、キノコのひだのように内側にファーでボリュームを持たせたバケットハットなど、「こんな帽子見たことない」と思わせる作品が並ぶ。そこに、男らしさや女らしさといった既成概念を彷彿させる余地はない。人の想像力を掻き立てるクリエイションの秘訣を尋ねると、「いつも中庸を目指して作っているからかも」と一言。「例えば、カビをテーマにした2023-24年秋冬コレクションは、一般的に嫌われているものも角度を変えてみたら美しく見えるのでは?という思いから始まった。マイナスをゼロに、ゼロをプラスにできるのがクリエイションの力だから」。デザイン案は描くが、ゴールを決めないのも日爪に特有のスタイルだ。「制作途中で得た気づきを元に、次々とデザインを発展させていけば、唯一無二な帽子に仕上がる」。

人間には寿命がある一方で、作品は生き長らえることができるからこそ、消費されないモノづくりをしたい、と日爪は言う。「〜〜っぽい」と言葉で表現可能な分かりやすいものは、瞬間風速的に人気を生むかもしれないが、対抗馬が登場すれば淘汰されかねない。「自分の作品には、必ず“違和感”や“揺らぎ”、“間”といった未完成の要素を含めている。時代が進んでも、その時々で人が余白を補い、新たな意味を見出してくれるはず」。そう言いながら、ロイヤルブルーのバケットハットのエッジを指し、「これは、あえて生地を断ち落としたままで完成品とした。一般的な職人であれば、きれいに見せようと端を包む処理をするが、僕はデザイナーだから別の角度から美しさを提案したかった」。

世界に出た日本人として
帽子で戦う“人間国宝”の人間味

ファッション業界には、デザイン哲学を口に出さない寡黙なデザイナーも少なくないが、日爪は滋賀県出身ならではの関西弁と軽妙なトークで、惜しげもなく自身の考えを語ってくれる人物だ。「僕の話を聞いて、皆がもっと帽子のことを考えるようになってほしいし、世界を目指す服飾学生のロールモデルになりたいから」と温かい。取材中、話題は数学者のラマヌジャンから、自身の身体で生物の毒性を試す実験系YouTuber、モータースポーツへと次々と切り替わり、筆者はこれが人間国宝である「M.O.F.」の取材だと忘れてしまう瞬間もあったほどだ。「自分の固定観念がフラットになるような雑学を知れると、まっさらな状態でクリエイションに臨める気がする。『ヒヅメ』の帽子も、手に取る人にとってそんな存在になってほしい」。一つの道を突き詰めるため、相当な努力を積んできた者だからこそ、何気ない話の隅々にまで哲学が満ちていた。

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「ザ・ノース・フェイス」が気候変動に新提案 アウトドアの技術で“暑く長い夏”を快適に

ゴールドウインの「ザ・ノース・フェイス(THE NORTH FACE)」は2025年春夏、山岳アウトドア領域でつちかった機能性を生かし、気候変動の中でもより快適に過ごせることを追求したウエア群“Climate Adaptation Products(クライメット アダプテーション プロダクツ)”を始動した。パフォーマンスウエアだけでなく、ライフスタイル、キッズとカテゴリー横断で春夏製品型数の3割以上を企画。その背景や狙いを聞いた。

「環境変化へ
プロダクトとしての解決策」

WWD:気候変動による“暑く長い夏”は、世の中全体の課題となっている。

西野美加ザ・ノース・フェイス アパレル事業部長(以下、西野):年間365日のうち、150日近くが25度以上だといった話もある。こうした、“暑く長い夏”という環境変化に、「ザ・ノース・フェイス」のプロダクトとして解決できることはないかと考えたのが、“Climate Adaptation Products”の原点だ。「ザ・ノース・フェイス」では、トレッキングやトレイルランニングなど、さまざまなアクティビティーに向けた製品を開発している。アスリート用製品を企画する中で生まれた機能性を日常生活の普段着にまで落とし込めば、多くの人がより快適に、楽しく過ごせるようになると考えた。「ザ・ノース・フェイス」はダウンアウターがアイコンになっていることもあって、秋冬向けのブランドというイメージが強い。“Climate Adaptation Products”を確立すれば、春夏もお客さまの暮らしにもっと寄り添うことができ、それによってブランドとしてもさらに成長できるはずだ。

WWD:具体的に“Climate Adaptation Products”ではどのような機能性を持つ製品をそろえるのか。

西野:“FLASHDRY(フラッシュドライ)”“BREEZERANGE(ブリーズレンジ)”という2つの機能性を、パフォーマンスウエア、ライフスタイルウエア、キッズウエアのカテゴリー横断で打ち出す。“FLASHDRY”は吸汗速乾性で肌をドライに保つ機能であり、これまでも一部はブランドの中で展開してきた。“FLASHDRY”の中に4つの基準を設けており、特に注目してほしいのは、今季初登場の“FLASHDRY NATURE(フラッシュドライ ネイチャー)”のカテゴリー。天然繊維100%ながら、合繊並みの速乾性を追求している。見た目や肌触り、厚みは一般的なコットンTシャツなのに、洗濯後の乾きが早いというのは、日常生活や旅行時にも便利だと感じていただけるはずだ。また、“FLASHDRY PRO(フラッシュドライ プロ)”では、凹凸のある生地が発汗量の多いランニングシーンで高い吸汗速乾性を発揮し、肌をドライに保つことができる。

「暑さにためらわず、外で遊んでほしい」

“Climate Adaptation Products”のキャンペーンムービーから

WWD:もう1つの“BREEZERANGE”は、それ自体が今季初登場となる。

西野:“BREEZERANGE”では、高通気性とUVカットといった相反する機能が両立している。日傘を差しているのと同じくらいのUVカットを服として実現できないか、と考えて企画しており、サブカテゴリーの“BREEZERANGE PRO(ブリーズレンジ プロ)”では、遮熱性も備えた。キャンプやフェス、子どもの野外活動などに適している。高通気性のためにメッシュなどの組織を採用しているが、日常着としては素材が透けすぎても着用しづらい。日常着としても着こなせて、同時に機能性も備えているという点にはこだわった。

WWD:メンズ、ウィメンズアイテムだけでなく、キッズも企画している意図は。

西野:背丈の低いお子さんは、真夏に高温となる地面からの距離も近く、通気性、遮熱性などの機能が生きてくる。ブランドとして、アウトドアから日常着に広がり、キッズウエアにも領域を広げてきた「ザ・ノース・フェイス」だからこそできる提案だ。暑すぎると外出を控えようと考える親御さんもいるだろうが、われわれはアウトドアが原点であるブランドとして、“Climate Adaptation Products”のウエアを着ることでためらわずに外に遊びに出てもらいたい。大人と子どもとでリンクしたコーディネートも可能だ。

WWD:“Climate Adaptation Products”製品群の今後の展開予定は。

西野:7〜8月といった秋の立ち上がり時期は、今後はカットソーアイテムが中心となる。“FLASHDRY”“BREEZERANGE”製品の構成を通年で高めていくが、カットソーばかり売るというのでは商売として難しくなる部分もある。MDカレンダーの刷新も進めるし、われわれが得意とするアクティビティーと紐づけながら、事業としてどういった提案ができるかを今再考している。冬は冬として、インサレーションアイテムを組み合わせてどう温度調整に対応するかといった、冬の“Climate Adaptation Products”に挑戦していく。

吸汗速乾の“FLASHDRY”

“FLASHDRY”は、高水準で汗をすばやく吸い上げ、発散し、肌をドライに保つ「ザ・ノース・フェイス」独自基準の吸汗速乾素材。糸や風合いはさまざまながら、それぞれのシーンにおける最適な吸汗速乾性を発揮する4つの基準を設定。多様な活動を快適に行うことをサポートする。

高通気&UVカットの
“BREEZERANGE”

“BREEZERANGEジ”は「ザ・ノース・フェイス」独自基準の高通気、UVカット素材。特殊な生地組織や加工で両立が難しいとされる高い。通気性とUPF値(紫外線保護指数)を確保。気温や太陽光からの紫外線などで、過酷な気候となっている今日の外でのアクティビティーをサポートする。

問い合わせ先
ゴールドウイン カスタマーサービスセンター
0120-307-560

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「ヴァジック」が10周年 クリエイティブ・ディレクターがメディアに初めて語るブランドの軌跡

PROFILE: カノコ・ミズオ/「ヴァジック」クリエイティブ・ディレクター

カノコ・ミズオ/「ヴァジック」クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: 東京都出身。2000年に渡仏し、世界的ヘアアーティストのジュリアン・ディスに師事。05年、ニューヨークへ移住。ヘアスタイリストとして活躍する傍ら、09年にキャンドルブランド「ランドバイランド」、15年にバッグブランド「ヴァジック」を立ち上げる。21年、上質な素材にこだわったプレミアムライン「メゾン ヴァジック」も始動 PHOTO:DAISUKE TAKEDA
NY発のバッグブランド「ヴァジック(VASIC)」が10周年を迎えた。カノコ・ミズオ=クリエイティブ・ディレクターは10年間、「ヴァジック」ほか、プライベートヘアサロン、キャンドルブランド「ランド バイ ランド(LAND BY LAND)」の運営と活動の幅を広く保ちながらも、歩みを止めることはなかった。メディアから初めてインタビューを受けるというミズオ=クリエイティブ・ディレクターに、「ヴァジック」のこれまでを振り返ってもらった。

WWD:ヘアスタイリストからキャリアをスタートさせたと聞いた。

カノコ・ミズオ「ヴァジック」クリエイティブ・ディレクター(以下、ミズオ):私はもともと、パリでジュリアン・ディス(Julien D’ys)に師事していた。彼は、「ディオール(DIOR)」や「サンローラン(SAINT LAURENT)」、「コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)」など、名だたるブランドに関わってきた世界的なヘアアーティストだ。私の妥協を許さないモノ作りは、彼からの譲り受けだと言って良い。ニューヨークに移住した後も、しばらくはヘアスタイリスト1本で活動していた。

WWD:そこから、なぜバッグブランドのクリエイティブ・ディレクターに?

ミズオ:顧客と「バッグブランドを立ち上げよう」と意気投合したのがきっかけ。ニューヨーク時代のお客さまは、ファッションに関わる仕事をしている人が多かった。ブランドを作ることにハードルの高さを感じる環境ではなかったように思う。

WWD:これまでどのようなバッグに引かれてきた?

ミズオ:大きめのサイズが好き。ブランドにこだわるタイプではないが、分かりやすいところだと「エルメス(HERMES)」の“バーキン”とか。私はもともと無類のハンドバッグ好きで、「買い漁っていた」という表現が正しいくらい、お金の使いどころはいつもバッグだった。

WWD:一方、「ヴァジック」の主力商品は小さめのバッグだ。

ミズオ:私は、ヘアもバッグも、自分の「なりたい」や「欲しい」をもとに作ることはない。ヘアはお客さまのご要望が第一。バッグも、「トレンドを作りたい」より「ファンが欲しいものを作りたい」という気持ちが強い。「お客さまは神様」は行き過ぎだと思うが、「お客さまありき」のクリエイションからはぶれずにいたいと思う。

WWD:ヘアとバッグ、クリエイション面で異なるところはあるか?

ミズオ:ヘアは1対1の商売。顧客の喜ぶ姿を見る度に、ヘアスタイリストとしての冥利に尽きる。実は、今も1年間の半分以上はニューヨークで過ごし、馴染みの客の髪を切っている。顧客を第一に置く私にとって、なくてはならない時間だ。

一方、バッグは1対大勢の商売。「ヴァジック」の顧客といえど、私とバッグを結び付ける人は多くはない。だからその分、「伝え方」にこだわりたい。展示会に合わせて年に4回来日しているが、それも自分の言葉でコレクションを説明するため。顧客と会えない分、顧客と関わる社員や卸先とのコミュニケーションを大切にしている。

10周年を迎えて

WWD:改めて、「ヴァジック」とは?

ミズオ:ベーシックを打ち出すブランドだ。私たちが考えるベーシックは2通りある。1つは、どんな人のスタイルにも合うこと。もう1つは、その人のどのような服にも合うこと。私たちはこれを“Various Basis”と呼んでいる。

WWD:10年を振り返って印象に残る出来事は?

ミズオ:やはり、“ボンド”がアイコンに育ったこと。と言いつつ、出来上がったときに売れるという確信があった。“ボンド”と言えば特徴的なノット(紐の結び目)だが、これはロサンゼルスで偶然見かけた、紐をベルトの代わりに身に付けていた人に着想している。見た瞬間に「これだ!」と思った。

WWD:10周年の“ボンド”はそのノットがリボンになっている。

ミズオ:ノットをアレンジしたのは、今回が初めて。結び目を立たせ、10周年をお祝いしているようなデザインにした。ずっと見ていると、ノットが手を挙げて喜んでいるように見えてくるだろう。

WWD:バッグだけでなくチャームも登場した。

ミズオ:10周年を盛り上げるため、キッチュでプレイフルなチャームを用意した。でも、どれも大人も身に付けやすい程度の遊び心。同時に発売した新型バッグ“ビビ”(3万3000円)と“ループ ミニミニ”(3万3000円)とのセット買いもおすすめだ。シンプルなデザインと手が届きやすい価格帯にこだわり、チャームとの合わせを前提にしている。

WWD:東京ミッドタウンにはエクスクルーシブライン「メゾン ヴァジック(MAISON VASIC)」の初の店舗をオープンし、10周年に華を添えた。

ミズオ:広々としたスペースに緩やかな曲線を描くインテリアを配置し、リラックスしたムードを演出している。来店した際は、店内奥のブランド初のアパレルとなるホワイトシャツに注目してほしい。シャツを選んだのは、バッグを引き立たせるシンプルなアイテムだから。「メゾン ヴァジック」は、このシャツを含め、一部のハンドバッグやジュエリーも日本で作っている。今後もメ―ドインジャパンにこだわりながら、ブランドのモノ作りを発展させていきたい。

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“ガラスのおもちゃ”へのときめきを閉じ込めた宝石 「アメリ・チバ」が提案する心が動くジュエリー

PROFILE: (ちば・あめり)「アメリ・チバ」デザイナー

(ちば・あめり)「アメリ・チバ」デザイナー
PROFILE: ベルギー人の父親と日本人の母の間に生まれる。日本で育ち、ベルギーへ渡り、ラ・カンブルでファッションデザインを専攻。フランスモード研究所でラグジュアリービジネスについて学ぶ。「バレンシアガ」「ニナ リッチ」「スワロフスキー」などで、コスチュームジュエリーのデザイナーとして活躍。帰国後、自身のジュエリースタジオを立ち上げ、国内外のブランドのジュエリーデザインを手掛ける。2025年に自身のブランドをスタート PHOTO:TSUKASA NAKAGAWA

パリのファッションメゾンでデザイナーとして活動した千葉愛芽里が自身のジュエリーブランドをスタートした。「アメリ・チバ(AMELIE CHIBA)」のファーストコレクションは、合成クオーツと染色アゲートを張り合わせた模造石“エコー”が主役。アゲートとはメノウのことで、カラフルに染められたものがアクセサリーやコースターなどとして販売されている。“エコー”は、高価な宝石にみせるために素材を貼り合わせるダブレットやトリプレットの技法を応用したものだが、一般的にイミテーションと呼ばれるそれらとは違う。本物に見せかけたり、本来の素材の色や輝きを高めたりするのではなく、光学的な意図によりデザインされたものだ。“エコー(共鳴)”は、その名の通り、透明なクオーツのファセットに鮮やかなカラーのアゲートが響き合い、ちょっとしたモダンアートのよう。不思議なカラーニュアンスが生まれ、ついつい見入ってしまう。“エコー”の誕生について千葉に話を聞いた。

純粋に“創る喜び”を見出したオリジナルの宝石

千葉は、ベルギーのラ・カンブル(La Cambre)でファッションを学んだ後、パリのメゾンでコスチュームジュエリーのデザインを担当。「バレンシアガ(BALENCIAGA)」では、シャルロット・シェネ(Charlotte Chesnais)のアシスタントとして、「ニナ リッチ(NINA RICCI)」では、当時のクリエイティブ・ディレクター、ピーター・コッピング(Peter Copping)の指揮の下、ショーピースからライセンスのジュエリーデザインまで手掛けた。「スワロフスキー(SWAROVSKI)」でもデザイナーとして活躍。だが、次々と新作が出て過去のものになっていくファッション業界のペースの速さに疑問を抱くようになる。彼女は、「作り手として、一つ一つのジュエリーに心を込めて制作していたが、作って、消費され、忘れさられてしまうサイクルに違和感を感じ、クリエイションが苦痛になった」と話す。

そして、仕事を辞め、夫と2019年に帰国。「一度でいいから、できる限りの時間とお金を使って純粋に“創る喜び”を思い出したい」と挑戦したのが“エコー”の開発だった。「スワロフスキー」では、クリスタルという素材を突き詰めてデザインしていたという千葉。クリスタルのファセットに色を塗って、色がどのように反射するか試すうちに、輝きや色を高める張り合わせの技法に興味を持つようになった。「宝石は光の芸術。光が入って反射して輝く。張り合わせの技法を使って自分でも宝石を作ってみたいと思った」。クリスタルを使って試行錯誤を重ね、光の通り道を可視化したのが“エコー”だ。

“エコー”は“美しい”と思う素直な気持ちの結晶

宝石とは、ダイヤモンドやトルマリンなどの貴石や半貴石のことだが、千葉にとって、“宝石”とは物質的な価値はなくても“美しい”と心が動くものだ。「ガラスのおもちゃが大好きだった。デザイナーになってからもラインストーンを集めている。人は、美に対する追求心からさまざまな方法で美しいと思うものを作り続けてきた」と千葉。子どものころには誰もが、キラキラ輝くガラスに心を奪われたり、海辺で拾った貝殻を持ち帰ってみたりした経験があるはずだ。その素直な気持ちを込めたのが“エコー”だった。

千葉は、「道端の石であっても、触れる人の思いがあればモノに命が宿る。そのモノに支えられ、導かれることだってあるかもしれない」と話す。モノの価値を決めるのはモノ自体ではなく“人”というのが、彼女の考えだ。“エコー”は模造石だが、枠に彼女が選んだのはシルバーではなく18金だ。「シルバーが妥当という人もいるだろう。だが、コスチュームジュエリーでは表現が不可能なディテールにこだわりたかった。また、職人と一緒に作りあげる“エコー”にも採掘された宝石と同様の価値があるので金がふさわしいと考えた」。

“心のオブジェ”としてのジュエリー

「アメリ・チバ」のコンセプトは、“ジュエリーを通して人とモノの関係を考える”。ジュエリーは、人類の歴史の中で富の象徴であり、愛や絆といった人々の思いと深く結びつくものだ。千葉は、単なる装飾品以上の意味を持ち続けるジュエリーを“心のオブジェ”と捉えている。「デザイナー、職人、鑑賞者、持ち主とそれを引き継ぐ人、それぞれの思いや記憶が積み重なることでジュエリーは“心のオブジェ”になる」。彼女が提案するジュエリーは、“所有するもの”ではなく、“関係を築くもの”だという。ジュエリーの価値は、素材の希少性や市場価値だけでは測れない。持ち主との間に特別な意味がなければ“単なるモノ”でしかない。「“エコー”は、持ち主と共に光を受けて変化し続けるジュエリーであってほしい」。

ジュエリーが持つ精神性にフォーカスし、独自で作り上げた“エコー”を使用した「アメリ・チバ」のジュエリー。アート作品のような佇まいと斬新な色の反射や輝き、ファインとコスチュームのハイブリッドなど、いろいろな意味での新しさがある。今後は、サロン形式で発表会を開き、自社ECなどでも注文を受け付けるという。

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“ガラスのおもちゃ”へのときめきを閉じ込めた宝石 「アメリ・チバ」が提案する心が動くジュエリー

PROFILE: (ちば・あめり)「アメリ・チバ」デザイナー

(ちば・あめり)「アメリ・チバ」デザイナー
PROFILE: ベルギー人の父親と日本人の母の間に生まれる。日本で育ち、ベルギーへ渡り、ラ・カンブルでファッションデザインを専攻。フランスモード研究所でラグジュアリービジネスについて学ぶ。「バレンシアガ」「ニナ リッチ」「スワロフスキー」などで、コスチュームジュエリーのデザイナーとして活躍。帰国後、自身のジュエリースタジオを立ち上げ、国内外のブランドのジュエリーデザインを手掛ける。2025年に自身のブランドをスタート PHOTO:TSUKASA NAKAGAWA

パリのファッションメゾンでデザイナーとして活動した千葉愛芽里が自身のジュエリーブランドをスタートした。「アメリ・チバ(AMELIE CHIBA)」のファーストコレクションは、合成クオーツと染色アゲートを張り合わせた模造石“エコー”が主役。アゲートとはメノウのことで、カラフルに染められたものがアクセサリーやコースターなどとして販売されている。“エコー”は、高価な宝石にみせるために素材を貼り合わせるダブレットやトリプレットの技法を応用したものだが、一般的にイミテーションと呼ばれるそれらとは違う。本物に見せかけたり、本来の素材の色や輝きを高めたりするのではなく、光学的な意図によりデザインされたものだ。“エコー(共鳴)”は、その名の通り、透明なクオーツのファセットに鮮やかなカラーのアゲートが響き合い、ちょっとしたモダンアートのよう。不思議なカラーニュアンスが生まれ、ついつい見入ってしまう。“エコー”の誕生について千葉に話を聞いた。

純粋に“創る喜び”を見出したオリジナルの宝石

千葉は、ベルギーのラ・カンブル(La Cambre)でファッションを学んだ後、パリのメゾンでコスチュームジュエリーのデザインを担当。「バレンシアガ(BALENCIAGA)」では、シャルロット・シェネ(Charlotte Chesnais)のアシスタントとして、「ニナ リッチ(NINA RICCI)」では、当時のクリエイティブ・ディレクター、ピーター・コッピング(Peter Copping)の指揮の下、ショーピースからライセンスのジュエリーデザインまで手掛けた。「スワロフスキー(SWAROVSKI)」でもデザイナーとして活躍。だが、次々と新作が出て過去のものになっていくファッション業界のペースの速さに疑問を抱くようになる。彼女は、「作り手として、一つ一つのジュエリーに心を込めて制作していたが、作って、消費され、忘れさられてしまうサイクルに違和感を感じ、クリエイションが苦痛になった」と話す。

そして、仕事を辞め、夫と2019年に帰国。「一度でいいから、できる限りの時間とお金を使って純粋に“創る喜び”を思い出したい」と挑戦したのが“エコー”の開発だった。「スワロフスキー」では、クリスタルという素材を突き詰めてデザインしていたという千葉。クリスタルのファセットに色を塗って、色がどのように反射するか試すうちに、輝きや色を高める張り合わせの技法に興味を持つようになった。「宝石は光の芸術。光が入って反射して輝く。張り合わせの技法を使って自分でも宝石を作ってみたいと思った」。クリスタルを使って試行錯誤を重ね、光の通り道を可視化したのが“エコー”だ。

“エコー”は“美しい”と思う素直な気持ちの結晶

宝石とは、ダイヤモンドやトルマリンなどの貴石や半貴石のことだが、千葉にとって、“宝石”とは物質的な価値はなくても“美しい”と心が動くものだ。「ガラスのおもちゃが大好きだった。デザイナーになってからもラインストーンを集めている。人は、美に対する追求心からさまざまな方法で美しいと思うものを作り続けてきた」と千葉。子どものころには誰もが、キラキラ輝くガラスに心を奪われたり、海辺で拾った貝殻を持ち帰ってみたりした経験があるはずだ。その素直な気持ちを込めたのが“エコー”だった。

千葉は、「道端の石であっても、触れる人の思いがあればモノに命が宿る。そのモノに支えられ、導かれることだってあるかもしれない」と話す。モノの価値を決めるのはモノ自体ではなく“人”というのが、彼女の考えだ。“エコー”は模造石だが、枠に彼女が選んだのはシルバーではなく18金だ。「シルバーが妥当という人もいるだろう。だが、コスチュームジュエリーでは表現が不可能なディテールにこだわりたかった。また、職人と一緒に作りあげる“エコー”にも採掘された宝石と同様の価値があるので金がふさわしいと考えた」。

“心のオブジェ”としてのジュエリー

「アメリ・チバ」のコンセプトは、“ジュエリーを通して人とモノの関係を考える”。ジュエリーは、人類の歴史の中で富の象徴であり、愛や絆といった人々の思いと深く結びつくものだ。千葉は、単なる装飾品以上の意味を持ち続けるジュエリーを“心のオブジェ”と捉えている。「デザイナー、職人、鑑賞者、持ち主とそれを引き継ぐ人、それぞれの思いや記憶が積み重なることでジュエリーは“心のオブジェ”になる」。彼女が提案するジュエリーは、“所有するもの”ではなく、“関係を築くもの”だという。ジュエリーの価値は、素材の希少性や市場価値だけでは測れない。持ち主との間に特別な意味がなければ“単なるモノ”でしかない。「“エコー”は、持ち主と共に光を受けて変化し続けるジュエリーであってほしい」。

ジュエリーが持つ精神性にフォーカスし、独自で作り上げた“エコー”を使用した「アメリ・チバ」のジュエリー。アート作品のような佇まいと斬新な色の反射や輝き、ファインとコスチュームのハイブリッドなど、いろいろな意味での新しさがある。今後は、サロン形式で発表会を開き、自社ECなどでも注文を受け付けるという。

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メンズクロージングの哲人、鴨志田康人の「現代紳士カバン考」

伊バッグブランド「フェリージ(FELISI)」は、ファッションディレクターの鴨志田康人と協業した新ライン“フェラレージ(FERRARESI)”をこのほどスタートした。

同ブランドが正式にコラボレーションを実施するのは、創業以来これが初めてだ。日本のドレスクロージングに精通し、ユナイテッドアローズ時代はバイヤーとして数多くのバッグを見てきた鴨志田氏。「フェリージ」も、そんな同氏の経験と審美眼に信頼を寄せたのだろう。

「フェリージ」は2000年代に日本に上陸。当時の野暮ったいビジネスバッグとは一線を画す、軽やかなナイロン素材のブリーフバッグで、おしゃれなビジネスマンたちを虜にした。

ただ20年が経ち、働く男性の価値観も装いも大きく様変わりした。現代の男性がバッグに求める条件とは何か。“フェラレージ”のプレス展で鴨志田氏に話を聞いた。

スタイリングを引き立てるバッグを

WWD:“フェラレージ”について教えてほしい。

鴨志田康人(以下、鴨志田):フェリージが本社を構えるイタリア・フェラーラの街並みや人々からインスパイアされたレザーバッグを作った。実は本社を訪れるのは今回が初めてだったが、街の温かみやこじんまりとした美しさ、石やレンガの色味などに惹かれ、ナチュラルでモダンなカラーリングのバッグを作ろうと思った。構想から完成まで2年ほど要したが、いいバッグができたと思っている。

WWD:「フェリージ」はこれまで、他のブランドや人物とはコラボしてこなかった。初めての協業のプロセスはどうだったか。

鴨志田:確かにフェリージはファミリー企業で、保守的な一面もある。でも今回は「新しいフェリージを作って欲しい」という言葉をもらったし、前向きな意思をすごく感じた。都度こちらの意見を柔軟に受け入れてくれ、スムーズでいいコラボができた。僕自身、バイヤーとしてバッグを見てきた経験はあるけれど、バッグを作るのは初めて。そこをプロの彼らがしっかり形にしてくれた。

WWD:「フェリージ」の既存商品とは、何が違うのか。

鴨志田:「フェリージ」はすでにバッグカテゴリーでは“オーセンティック”なイメージかもしれないが、自分たちが使い始めた2000年代初頭は、むしろ革新的なブランドだった。革の重たいブリーフケースが主流だったところに、ナイロン素材でカラーバリエーションも豊富な「フェリージ」が登場し、若いビジネスマンの装いにぴったりとはまった。

“フェラレージ”では、そうしたブランドの過去の文脈を踏まえつつ、今の時代のライフスタイルに合わせてアップデートした。今の人たちはワードローブにあまり色を使わず、黒やベージュ、グレーなどが主流。そこに少しだけ色を足すことで、全体のスタイリングが一気に引き立つ。そんな「さりげない主張」ができるバッグを目指した。

WWD:実用の面では、どうか。

鴨志田:今はデジタル化で書類もずいぶん減った。20年前と比べても、求められるバッグ像が変わっている。ポーチ1つで出勤する人も増えた。僕自身も仕事の必需品はiPadと生地のスワッチくらい。昔のような「いかにもビジネスマン」なバッグは、今はむしろ敬遠される。

一方で、用途によっていくつもバッグを持つのは、今の若い人にとってはリーズナブルじゃない。オフの日に旅行に行くときも使えたり、何でも放り込めるような使い勝手のよさがあったりと、自由度の高さも求められる。余計なコンパートメントを廃したのもそのためだ。

飽きずに愛用できるものが
自分だけのクラシックになる

WWD:「フェリージ」といえばナイロン素材だが、“フェラレージ”はレザー素材を採用している。その理由は?

鴨志田:いま街には機能性を前面に押し出したバッグがあふれているが、そこに少しだけエレガンスを加えたいと思った。たとえばTシャツ姿が少しかっこよく見えるような、そんなバッグだ。クラシック好きやモード好き、あらゆるジャンルの人に似合うバッグを意識した結果、やはり使いたいのはレザーだった。

“フェラレージ”のバッグはとても軽い。芯材を使わず、カッティングと組み立てでフォルムを作っている。素材そのものはしっかりとした厚みのあるバケッタレザーだから、形状を保ちつつ、耐久性も十分。美しさと実用が共存するバッグに仕上がった。

WWD:インポートのレザーバッグの価格が軒並み高騰する今、“フェラレージの”20万円を切る価格は“お値打ち”に映る。

鴨志田:ハイブランドのバッグが100万円を超える中で、この品質とデザイン、耐久性を考えれば、むしろ投資価値があると思う。長く使えば味が出てくるし、実際に1年使った僕のバッグは、とても良い雰囲気になってきている。そうやって「飽きずに愛用できるもの」は、やがて自分だけの“クラシック”になっていく。

WWD:バイヤーたちの反応はどうか。

鴨志田:すでにアジア圏のセレクトショップなどが高い関心を寄せてくれている。特に香港やバンコクなどでは、昔からの知人のバイヤーたちが「これはいい」と即決でオーダーを入れてくれた。

個人的に、メンズファッションにおいて、東南アジア市場はますます重要になるエリア。ファッションへの関心が高まっていて、モノの良さを理解する若い世代も増えてきている。彼らは東京にも頻繁に来ていて、感度が高いし購買力もある。だからこそ、クラフトマンシップに裏打ちされたプロダクトにはいいリアクションを示してくれる。

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メンズクロージングの哲人、鴨志田康人の「現代紳士カバン考」

伊バッグブランド「フェリージ(FELISI)」は、ファッションディレクターの鴨志田康人と協業した新ライン“フェラレージ(FERRARESI)”をこのほどスタートした。

同ブランドが正式にコラボレーションを実施するのは、創業以来これが初めてだ。日本のドレスクロージングに精通し、ユナイテッドアローズ時代はバイヤーとして数多くのバッグを見てきた鴨志田氏。「フェリージ」も、そんな同氏の経験と審美眼に信頼を寄せたのだろう。

「フェリージ」は2000年代に日本に上陸。当時の野暮ったいビジネスバッグとは一線を画す、軽やかなナイロン素材のブリーフバッグで、おしゃれなビジネスマンたちを虜にした。

ただ20年が経ち、働く男性の価値観も装いも大きく様変わりした。現代の男性がバッグに求める条件とは何か。“フェラレージ”のプレス展で鴨志田氏に話を聞いた。

スタイリングを引き立てるバッグを

WWD:“フェラレージ”について教えてほしい。

鴨志田康人(以下、鴨志田):フェリージが本社を構えるイタリア・フェラーラの街並みや人々からインスパイアされたレザーバッグを作った。実は本社を訪れるのは今回が初めてだったが、街の温かみやこじんまりとした美しさ、石やレンガの色味などに惹かれ、ナチュラルでモダンなカラーリングのバッグを作ろうと思った。構想から完成まで2年ほど要したが、いいバッグができたと思っている。

WWD:「フェリージ」はこれまで、他のブランドや人物とはコラボしてこなかった。初めての協業のプロセスはどうだったか。

鴨志田:確かにフェリージはファミリー企業で、保守的な一面もある。でも今回は「新しいフェリージを作って欲しい」という言葉をもらったし、前向きな意思をすごく感じた。都度こちらの意見を柔軟に受け入れてくれ、スムーズでいいコラボができた。僕自身、バイヤーとしてバッグを見てきた経験はあるけれど、バッグを作るのは初めて。そこをプロの彼らがしっかり形にしてくれた。

WWD:「フェリージ」の既存商品とは、何が違うのか。

鴨志田:「フェリージ」はすでにバッグカテゴリーでは“オーセンティック”なイメージかもしれないが、自分たちが使い始めた2000年代初頭は、むしろ革新的なブランドだった。革の重たいブリーフケースが主流だったところに、ナイロン素材でカラーバリエーションも豊富な「フェリージ」が登場し、若いビジネスマンの装いにぴったりとはまった。

“フェラレージ”では、そうしたブランドの過去の文脈を踏まえつつ、今の時代のライフスタイルに合わせてアップデートした。今の人たちはワードローブにあまり色を使わず、黒やベージュ、グレーなどが主流。そこに少しだけ色を足すことで、全体のスタイリングが一気に引き立つ。そんな「さりげない主張」ができるバッグを目指した。

WWD:実用の面では、どうか。

鴨志田:今はデジタル化で書類もずいぶん減った。20年前と比べても、求められるバッグ像が変わっている。ポーチ1つで出勤する人も増えた。僕自身も仕事の必需品はiPadと生地のスワッチくらい。昔のような「いかにもビジネスマン」なバッグは、今はむしろ敬遠される。

一方で、用途によっていくつもバッグを持つのは、今の若い人にとってはリーズナブルじゃない。オフの日に旅行に行くときも使えたり、何でも放り込めるような使い勝手のよさがあったりと、自由度の高さも求められる。余計なコンパートメントを廃したのもそのためだ。

飽きずに愛用できるものが
自分だけのクラシックになる

WWD:「フェリージ」といえばナイロン素材だが、“フェラレージ”はレザー素材を採用している。その理由は?

鴨志田:いま街には機能性を前面に押し出したバッグがあふれているが、そこに少しだけエレガンスを加えたいと思った。たとえばTシャツ姿が少しかっこよく見えるような、そんなバッグだ。クラシック好きやモード好き、あらゆるジャンルの人に似合うバッグを意識した結果、やはり使いたいのはレザーだった。

“フェラレージ”のバッグはとても軽い。芯材を使わず、カッティングと組み立てでフォルムを作っている。素材そのものはしっかりとした厚みのあるバケッタレザーだから、形状を保ちつつ、耐久性も十分。美しさと実用が共存するバッグに仕上がった。

WWD:インポートのレザーバッグの価格が軒並み高騰する今、“フェラレージの”20万円を切る価格は“お値打ち”に映る。

鴨志田:ハイブランドのバッグが100万円を超える中で、この品質とデザイン、耐久性を考えれば、むしろ投資価値があると思う。長く使えば味が出てくるし、実際に1年使った僕のバッグは、とても良い雰囲気になってきている。そうやって「飽きずに愛用できるもの」は、やがて自分だけの“クラシック”になっていく。

WWD:バイヤーたちの反応はどうか。

鴨志田:すでにアジア圏のセレクトショップなどが高い関心を寄せてくれている。特に香港やバンコクなどでは、昔からの知人のバイヤーたちが「これはいい」と即決でオーダーを入れてくれた。

個人的に、メンズファッションにおいて、東南アジア市場はますます重要になるエリア。ファッションへの関心が高まっていて、モノの良さを理解する若い世代も増えてきている。彼らは東京にも頻繁に来ていて、感度が高いし購買力もある。だからこそ、クラフトマンシップに裏打ちされたプロダクトにはいいリアクションを示してくれる。

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ガブリエラ・ハーストが語る、自然と社会を見据えたサステナブルデザイナーとしての哲学

PROFILE: ガブリエラ・ハースト

ガブリエラ・ハースト
PROFILE: ウルグアイにある家族経営の牧場で育つ。2015年秋に自身の名を冠した「ガブリエラ ハースト」を設立。「長年愛用できること」と「サステナビリティ」の価値観をコアに持つ。20年春夏コレクションでは、史上初のカーボンニュートラルなランウェイショーを実施。 16/17年のインターナショナル・ウールマーク・プライズのレディースウェア部門ほか、20年にはCFDAの「アメリカン・ウィメンズウェア・ デザイナー・オブ・ザ・イヤー」など多数のアワードを受賞。20年12月、「クロエ」のクリエイティブ・ディレクターに就任し、24年春夏シーズンをもって同職を退任。現在は「ガブリエラ ハースト」に専念 PHOTO:YOW TAKAHASHI

サステナビリティは、現代のデザイナーにとって大きなテーマのひとつだ。しかし、どの視点から持続可能性を語り、どのようにデザインに落とし込むかは人それぞれであり、その難しさゆえに語ること自体を避けるデザイナーも少なくない。そんな中、ガブリエラ・ハースト(Gabriela Hearst)は自らを「サステナブルデザイナー」と呼び、ウルグアイの田舎の牧場で育ったルーツから生まれた、自然との共生という揺るぎない信念を貫いてきた。ブランド設立10周年の節目を迎えた彼女に、そのデザイン哲学を聞いた。

WWD:「サステナビリティ」という言葉は、現在さまざまに解釈されている。あなた自身はどう定義している?

ガブリエラ・ハースト(以下、ガブリエラ):サステナビリティとは、その言葉が示す通り、「持続可能であること」。つまり、命を支え、製品を支え、長く存続するためのもので、人工的なものとは対局に位置する言葉だと理解している。私の考え方の根底には、「人間は自然の一部であり、自然を支配するものではない」という信念が深く刻まれている。これは牧場で育った幼少期に培った大事な価値観で、「ガブリエラ ハースト(GABRIELA HEARST)」を立ち上げた時から今に至るまで変わらない、ブランドのコアバリューでもある。一方、取り組み方に目を向ければ、私たちがブランドを始めた頃と比べて確実に進化し多様になった。私が関心を寄せている核融合エネルギーなど、気候危機を乗り越えるための頼もしい技術も多く誕生している。世界は混沌としているように見えるかもしれないが、私の見方はポジティブだ。

WWD:最近は多くのデザイナーが、現代を不安や混沌の時代と語る。あなたは今の時代をどう捉えている?

ガブリエラ:私のビジョンはいつも希望に溢れているし、デザイナーとしてそうでなければいけないと思う。母親でもある自分にとって、世界を今より少しでも良い場所にして次世代に渡す責任を感じているからだ。もちろん現状は厳しい側面もあるが、それでも私は未来に希望を持ち続けている。

人類の歴史の原点に持続可能性の解はある

WWD:“サステナブル素材“とされるものの基準も変化している。「ガブリエラ ハースト」では現在どのような基準で素材を採用している?

ガブリエラ:私は常に人類の服飾史に立ち返り、基本的に天然繊維100%の素材を優先している。もしその中でも「最もサステナブルな素材は何か」と聞かれたら、迷わずウールと答えるだろう。ウールは最も古くから使われてきた素材の一つで、温度調整など天然の機能性にも優れ、耐久性も高い。抗菌性もあり、結果長く着られる。

WWD:市場ではレザーに代わる代替素材も多く出てきている。

ガブリエラ:私はサステナブルデザイナーであって、ビーガンデザイナーとは違う。食肉の副産物である動物の革は使うのが基本的な考え方だ。ポリエステル製の人工皮革と天然レザーがあれば、必ず天然レザーを選択する。イタリアのタンナーは、水の使用量など環境対策にも非常に優れており、適切な水処理や認証取得も進んでいるため、安心して使用している。一方、新しいサステナブル素材にも挑戦している。最近注目している革新素材は、「インヴェルサ(INVERSA)」。これは、フロリダなどで繁殖しすぎて生態系を脅かしている外来種の蛇などから作られる革で、前回のパリで発表したショーにも採用した。とても機能的で素材としての美しさにも惹かれた。

WWD:そうしたサステナビリティへの考え方は顧客にはどの程度伝わっていると感じる?

ガブリエラ:これまではとにかく製品作りに集中していて、サステナブルにまつわる部分を積極的に発信することはしていなかった。顧客もサステナブルな背景よりもデザインに惹かれて購入していると考えていたから。でもブランド設立から10年経った今、環境に配慮したものであることがお客さまの重要な購入動機の1つになっていると感じる。先日うれしかったのは、あるお客さまが店で商品を購入した時のこと。スタッフが用意したパッケージングを見てお客さまは、「ガビー(ガブリエラ)は望まないと思う」とそれを断ったそう。ブランドの哲学が浸透しているんだと思った瞬間だった。最近では「この製品はどのように作られているのか」といった質問をするお客さまも増えてきた。それに応えられるスタッフが店にいてくれていることで実現できたことね。

WWD:2025-26年秋冬コレクションに込めたメッセージは?

ガブリエラ:コレクションは毎回、歴史の中で見過ごされてきた女性の物語からインスパイアされている。私の創造活動は、それらを掘り起こす意義もある。多くの場合、アイコンとなる女性たちとの出会いはとても偶然で、スピリチュアルと言っていいくらい。私がたまたま描いた絵とある作品がリンクしたりね。

今回はリトアニア出身の考古学者マリヤ・ギンブタス(Marija Gimbutas)の研究にインスパイアされた。彼女はヨーロッパの遺跡で数多くの女性を象った土偶を発掘し、そこから母性や女性神の文化を読み解いた人物。多くの女性の偶像が発見された当時の祭祀の場では、武器も要塞も見つからなかったそう。つまり、数千年前の人々は女性を崇拝し、自然と調和して平和に暮らしていた。長い歴史の中でそうした感覚は忘れ去られ、女性は抑圧されている。今回のコレクションでは、この母性の力や自然のサイクルを敬う文化をテーマにして、特に「蛇の女神」という生命創造を象徴する存在をモチーフとして取り入れた。スネークスキンは、カシミアのジャカードニットや「インヴェルサ」、レザーを編み込んで表現した。3つのビンテージのミンクコートを650枚のパーツにカットし、ヘリンボーン柄のコートに仕立て直したピースや、ビンテージバッグと合わせたレザージャケットのルックもお気に入り。洗練されているけど、生々しい。この「洗練された生々しさ」に、自然美を敬愛する私たちの感覚がよく表現されていると思う。

「クロエ」での学びは、サステナブルとビジネスは両立すること

WWD:「クロエ(CHLOE)」での経験を経て、現在は自身のブランドに専念しているが、デザインアプローチに変化はあったか。

ガブリエラ:大きな変化はない。ただ私が100%ブランドに集中するようになった分、チームのみんなは仕事が大変になったんじゃないかしら(笑)。「クロエ」での経験は本当に素晴らしいもので、今はそこで学んだことを活かしてブランド全体の成長につなげることができている。よくサステナビリティはコストがかかると言うけど、それは違う。実際に20年以降私たちのブランドの売り上げは倍増しているし、「クロエ」も短期間で大きく成長した。サステナブルとビジネスが両立することを「クロエ」でも実感できたのは大きい。

WWD:今後のブランドの展望は?

ガブリエラ:日本ではいまショップ・イン・ショップがメインだけど、将来的には直営店を出してブランドの世界観をより強く表現していきたい。ヨーロッパでも出店を進めると同時に、オンラインも強化していく。私たちは、一時期のロゴブームのような難しい時期もたくさん乗り越えてきた。今も社会は混沌としているけれど、私たちが貫いてきたことの価値は間違っていないと確信しているし、成長の道筋は明確に見えている。サステナビリティの面では、循環型のビジネスモデルにしていくための青写真を描いているところ。「より良い選択は何か」を追求することが、私自身のクリエイティビティーの発揮どころ。ラグジュアリーファッションを求める顧客の要望に応えつつ、よりサステナブルな商品を提供していきたい。

WWD:サステナブルデザイナーとして挑戦を続ける理由は?

ガブリエラ:私が常日頃自分に問いかけているのは、「自分は他者のために何ができるか」。非営利団体との協業であれ、別の形であれ、私の仕事には必ず社会的な要素が含まれてきた。なぜ私は人の役に立つことを続けるのか、続けなければいけないのか――。行き着いた答えは、この世界に存在する苦しみや痛みを認識せずに作るものは、「本物」にはなり得ないということ。デザイナーとして、創造する喜びを享受できることは大きな特権だと思う。だからこそ、創造の中に、他者のためになる要素を組み込むことで、より本質的なデザインになり得るのだと思う。

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韓国の人気バッグ「オソイ」は「あえてコンセプトを作らない」 狙いを創業者に聞く

PROFILE: ヒージン・カン/「オソイ」創業者兼CEO兼クリエイティブ・ディレクター

ヒージン・カン/「オソイ」創業者兼CEO兼クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: 1982年生まれ、韓国・ソウル出身。2016年、バッグ&シューズブランド「オソイ」を創業する。現在は、CEOを務めつつ、デザインとクリエイティブを監修している PHOTO:DAISUKE TAKEDA
韓国発のバッグ&シューズブランド「オソイ(OSOI)」が、昨年同ブランドの国内独占販売権を取得したユナイテッドアローズとともに、日本での事業を拡大している。ブランド名は、日本語の「遅い」に由来。「自分たちのペースでモノ作りをしたい」というヒージン・カン(Hee Jin Kang)創業者兼CEO兼クリエイティブ・ディレクターの思いが込もるが、それとは裏腹に、ブランドの人気は急速な高まりを見せている。このほど来日したヒージン=クリエイティブ・ディレクターに、「オソイ」のブランド作りについて聞いた。

WWD:改めて、「オソイ」について教えてほしい。

ヒージン・カン「オソイ」創業者兼CEO兼クリエイティブ・ディレクター(以下、カン):「オソイ」は2016年、ウィメンズバッグ&シューズブランドとしてスタートした。当時は、30〜40代の女性がメインターゲットだったが、現在は20代まで裾野が広がっている。海外展開も進めている。日本ではユナイテッドアローズ、その他の国はタイのセントラル・グループが流通のパートナーだ。聖水(ソンス)の本店を拠点に、アジアから欧米まで全世界30ヵ所以上に卸している。

WWD:ブランドコンセプトは?

カン:あえて作らない。クリエイションの限界を定めたくないから。むしろさまざまなコンセプトを取り入れながら、ブランドを育てていきたい。その集積こそが、私たちのブランドコンセプトだと言い換えられる。

WWD:それだと、ブランドイメージを構築しにくくないか?

カン:私たちには、特徴的なシルエットがある。「オソイ」にとって、コンセプト以上にブランドを物語る存在だ。

WWD:「オソイ」のシルエットとは?

カン:曲線で描かれた、ボリューミーで遊び心のあるシルエット。ハイブランドのバッグで目が肥えてきた人の目にも留まることだろう。

WWD:代表的なバッグは?

カン:あえて選ぶなら、16年に発売した“ブロート”シリーズ。着想源は、古典映画の主人公が使っていたドクターズバッグだ。ローンチ時からあるバッグだが、今も売り上げのトップ5に入るほど継続的な人気を誇る。ちなみに、“ブロート”はドイツ語でパンを意味する。ずっと見ていると、ふっくらとしたシルエットが焼きたてのパンに見えてくるだろう。

WWD:カラーリングへのこだわりは?

カン:私たちが作っているのは、服ではなくバッグ。クリームやブラウンなど、服に合わせやすいカラーを意識している。

WWD:洗練されたビジュアルも印象的だ。

カン:バッグは、スタイルを作るものではなく、スタイルに溶け込むもの。だからこそ、ビジュアルで「どのようにスタイリングすべきか?」まで丁寧に伝える必要がある。20代までファンが広がっているのも、ビジュアル作りにこだわっているから。感度の高い見せ方が、新客流入のフックになっている。

ユナイテッドアローズと目指すもの

WWD:ユナイテッドアローズと組んだのはなぜか?

カン:私たちにとって、日本は最も重要なマーケット。23年の時点で、日本の売り上げは全体の20%を超え、旗艦店のソンス店も日本人の顧客が一番多い。それゆえ、日本でのパートナー選びは慎重にすべきと考えていた。ユナイテッドアローズは、卸先の中でも特段売れ行きが良かった。中には、立ち上がりから1カ月で売り切れるコレクションもあったほどだ。反応の良さは相性の良さ。私たちが日本で事業を広げていくにあたり、ユナイテッドアローズほど頼りになる企業はない。そう思い、力を貸してもらうことにした。

WWD:日本での戦略は?

カン:日本でしっかりと根を張り、ブランドを育てていきたい。2月中旬には、公式ブランドサイトを「ユナイテッドアローズ オンライン」内に開設し、「ユナイテッドアローズ」の一部店舗に常設コーナーを構えた。今年中には、東京に単独店もオープンする予定だ。内装にこだわり、「オソイ」の世界観をより立体的に伝えられる場所に仕上げたい。

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「インバウンド富裕層のスペシャリスト」を名乗るWIZって一体、何者!?

 

海外からのインバウンド富裕層の存在感が増す昨今は、彼らならではのニーズを掴み、商品をアレンジしたり新しいサービスを開発したりが必要だ。そんな中、WIZと名乗る金髪の男性は、自らを「インバウンド富裕層のスペシャリスト」と名乗り、こと中華圏の富裕層とのコミュニティーを拡大しながら、そこで得た知識や人脈を活かし、インバウンド富裕層向けのプロモーションやイベント企画、ブランディングに取り組んでいるという。この男は何者で、日本のファッション業界や富裕層ビジネスに何をもたらしてくれるのか?彼のレジデンスで話を聞いた。

WWDJAPAN:そもそも、あなたは一体何者?

WIZ:台湾で芸能活動をした後、ダンスのインストラクターや振付師、そして男性グループのプロデュースなどを手掛けた。その頃から日本語を学んで2015年、25歳の時に来日。今はアジアの芸能人が日本で、逆に日本の芸能人がアジアで活躍するサポートを行いながら、顧問としてインバウンド富裕層向けのプロモーションや、彼らに向けたブランディング活動などに参画しています。

WWDJAPAN:「インバウンド富裕層のスペシャリスト」としての活動は、どのように始まった?

WIZ:来日後はまず、ナイトクラブで働き始めました。そこで来日したVIPの対応や彼らに向けたプロモーションの必要性を感じたんです。当時は、中国人の“爆買い”が騒がれていた頃。中華圏の人たちは買い物だけではなくナイトライフも楽しみたいと思っていたけれど、「中国語が通じない」や「騙されないか不安」などの問題があり、安心して遊べてはいなかった。彼らに向けたプロモーションやサービス開発は大成功して、クチコミで広がるようになりました。そこで「同じことが、ファッションの世界でも通用するのではないか?」と思ったんです。まずは日本のセレクトショップと一緒に、中華圏からのインバウンド富裕層の来店促進施策をスタート。今は都内のラグジュアリー・レジデンスのプライベートセールスにも携わっています。

WWDJAPAN:今は、どのくらいのインバウンド富裕層と繋がっている?

WIZ:例えば中国ではビザの発給が厳しくなっているなどの理由で、各国から来日する人の流れにはトレンドがあります。だから具体的な数字を言うことは難しいけれど、「数千」と言うところでしょうか?いずれにしても、日本はやっぱり人気の国。これまでの円安はもちろんですが、日本には四季があり、夏の花火や冬のイルミネーションなど、それぞれの季節にイベントが存在しています。食事は、間違いなくアジアで一番。ホテルも都内からリゾートまで、5つ星が多いですよね?安全だから、買い物も楽しい。もちろん政治や訪日施策、各国の状況により流動的ですが、私がアプローチする人や繋がっているコミュニティーはますます増えています。

WWDJAPAN:インバウンド富裕層と繋がる秘訣は?

WIZ:インバウンドへのプロモーションなら、デジタル・マーケティングだと思います。でもインバウンド富裕層へのプロモーションなら、古臭いかもしれないけれど汗をかくことが大事。直接話を聞いて、センスとアイデア、コミュニティの力で楽しんでいただくことを繰り返すのが重要です。

WWDJAPAN:ケースバイケースだと思うが、繋がっているインバウンド富裕層は、日本で何を楽しんで、どのくらいのお金を落としていく?

WIZ:ニセコで雪を見て、京都を楽しんでから羽田や成田から帰国する2〜3週間の間に、宿泊や食事とは別に数百万円の買い物を楽しまれる方は、決して珍しい存在ではありません。確かに中国の経済状況は芳しくはありませんが、それでも大きな国だから富裕層の数は多く、お金を持っている人は今もたくさん持っています。

WWDJAPAN:そんな人たちは、日本での買い物をどう楽しみたいと思っている?販売する側が気をつけるべきポイントは?

WIZ:好みはそれぞれですが、共通するのは、「皆、時間を気にしている」。例えば、もちろんみんな高額品を買ったら素敵にラッピングして欲しいとは思っているけれど、免税手続きも含めて5分なら待てるけれど、20分なら省いてほしい人は大勢います。「ラッピングは?」「免税は?」と、先に聞いておくのがベター。売る側も、買う側もハッピーになれますからね。日本のサービスは丁寧な一方、特に時間がかかり、逆にストレスを感じる人もいるように思います。

WWDJAPAN:今は、セレクトショップのヌビアンと共に、インバウンド富裕層も興味を持ちそうな商品やイベントを企画している。例えば、インバウンド富裕層に向けたヌビアンのブランディングは、日本のファンや潜在顧客に向けたブランディングと何が違う?

WIZ:日本の業界やファンと、インバウンド富裕層では、そもそもヌビアンの捉え方や見方が根本的に異なっています。おそらく日本人は、ヌビアンを「ストリートで、ヒップホップなカンジのセレクトショップ」と捉えているのではないでしょうか?そして「ヒップホップなカンジだから、少し敷居が高い」と思っている人もいるでしょう。でも、インバウンド富裕層にとってのヌビアンは、「ジャストクール(ただカッコいい)」。「ヒップホップだから入りづらい」などの感覚もありません。こうした微妙な感覚、見方や捉え方の違いを把握することが重要です。

WWDJAPAN:そこで2月には、台湾のアーティスト羅志祥(ショウ・ルオ)が手掛ける「ゴットノーフィアーズ(GOTNOFEARS)」のポップアップストアを原宿店で開催した。正直、「ストリート」なヌビアンで芸能人イベントは意外な印象だった。

WIZ:来日コンサートの翌日、当初はインバウンド向けのイベントとして企画しました。インバウンド富裕層にとってのヌビアンは「ジャストクール」だから、同じく「ジャストクール」なアーティストとブランドを招待したカンジ。確かにヌビアンでは前例のないイベントでしたが、オープン前から大勢のファンに並んでいただき、商品は2時間で完売。ミート&グリート含め、大盛況でした。イベントとしては決して珍しいものではないかもしれないけれど、誰を思い浮かべ、実際コラボ商品を企画した上で来店してもらえるか?については、肌感覚やコミュニティが大事。ネットやAIでも調べられるけれど、言語が違えばニュアンスも違う。そこに私の価値があると思っています。

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「インバウンド富裕層のスペシャリスト」を名乗るWIZって一体、何者!?

 

海外からのインバウンド富裕層の存在感が増す昨今は、彼らならではのニーズを掴み、商品をアレンジしたり新しいサービスを開発したりが必要だ。そんな中、WIZと名乗る金髪の男性は、自らを「インバウンド富裕層のスペシャリスト」と名乗り、こと中華圏の富裕層とのコミュニティーを拡大しながら、そこで得た知識や人脈を活かし、インバウンド富裕層向けのプロモーションやイベント企画、ブランディングに取り組んでいるという。この男は何者で、日本のファッション業界や富裕層ビジネスに何をもたらしてくれるのか?彼のレジデンスで話を聞いた。

WWDJAPAN:そもそも、あなたは一体何者?

WIZ:台湾で芸能活動をした後、ダンスのインストラクターや振付師、そして男性グループのプロデュースなどを手掛けた。その頃から日本語を学んで2015年、25歳の時に来日。今はアジアの芸能人が日本で、逆に日本の芸能人がアジアで活躍するサポートを行いながら、顧問としてインバウンド富裕層向けのプロモーションや、彼らに向けたブランディング活動などに参画しています。

WWDJAPAN:「インバウンド富裕層のスペシャリスト」としての活動は、どのように始まった?

WIZ:来日後はまず、ナイトクラブで働き始めました。そこで来日したVIPの対応や彼らに向けたプロモーションの必要性を感じたんです。当時は、中国人の“爆買い”が騒がれていた頃。中華圏の人たちは買い物だけではなくナイトライフも楽しみたいと思っていたけれど、「中国語が通じない」や「騙されないか不安」などの問題があり、安心して遊べてはいなかった。彼らに向けたプロモーションやサービス開発は大成功して、クチコミで広がるようになりました。そこで「同じことが、ファッションの世界でも通用するのではないか?」と思ったんです。まずは日本のセレクトショップと一緒に、中華圏からのインバウンド富裕層の来店促進施策をスタート。今は都内のラグジュアリー・レジデンスのプライベートセールスにも携わっています。

WWDJAPAN:今は、どのくらいのインバウンド富裕層と繋がっている?

WIZ:例えば中国ではビザの発給が厳しくなっているなどの理由で、各国から来日する人の流れにはトレンドがあります。だから具体的な数字を言うことは難しいけれど、「数千」と言うところでしょうか?いずれにしても、日本はやっぱり人気の国。これまでの円安はもちろんですが、日本には四季があり、夏の花火や冬のイルミネーションなど、それぞれの季節にイベントが存在しています。食事は、間違いなくアジアで一番。ホテルも都内からリゾートまで、5つ星が多いですよね?安全だから、買い物も楽しい。もちろん政治や訪日施策、各国の状況により流動的ですが、私がアプローチする人や繋がっているコミュニティーはますます増えています。

WWDJAPAN:インバウンド富裕層と繋がる秘訣は?

WIZ:インバウンドへのプロモーションなら、デジタル・マーケティングだと思います。でもインバウンド富裕層へのプロモーションなら、古臭いかもしれないけれど汗をかくことが大事。直接話を聞いて、センスとアイデア、コミュニティの力で楽しんでいただくことを繰り返すのが重要です。

WWDJAPAN:ケースバイケースだと思うが、繋がっているインバウンド富裕層は、日本で何を楽しんで、どのくらいのお金を落としていく?

WIZ:ニセコで雪を見て、京都を楽しんでから羽田や成田から帰国する2〜3週間の間に、宿泊や食事とは別に数百万円の買い物を楽しまれる方は、決して珍しい存在ではありません。確かに中国の経済状況は芳しくはありませんが、それでも大きな国だから富裕層の数は多く、お金を持っている人は今もたくさん持っています。

WWDJAPAN:そんな人たちは、日本での買い物をどう楽しみたいと思っている?販売する側が気をつけるべきポイントは?

WIZ:好みはそれぞれですが、共通するのは、「皆、時間を気にしている」。例えば、もちろんみんな高額品を買ったら素敵にラッピングして欲しいとは思っているけれど、免税手続きも含めて5分なら待てるけれど、20分なら省いてほしい人は大勢います。「ラッピングは?」「免税は?」と、先に聞いておくのがベター。売る側も、買う側もハッピーになれますからね。日本のサービスは丁寧な一方、特に時間がかかり、逆にストレスを感じる人もいるように思います。

WWDJAPAN:今は、セレクトショップのヌビアンと共に、インバウンド富裕層も興味を持ちそうな商品やイベントを企画している。例えば、インバウンド富裕層に向けたヌビアンのブランディングは、日本のファンや潜在顧客に向けたブランディングと何が違う?

WIZ:日本の業界やファンと、インバウンド富裕層では、そもそもヌビアンの捉え方や見方が根本的に異なっています。おそらく日本人は、ヌビアンを「ストリートで、ヒップホップなカンジのセレクトショップ」と捉えているのではないでしょうか?そして「ヒップホップなカンジだから、少し敷居が高い」と思っている人もいるでしょう。でも、インバウンド富裕層にとってのヌビアンは、「ジャストクール(ただカッコいい)」。「ヒップホップだから入りづらい」などの感覚もありません。こうした微妙な感覚、見方や捉え方の違いを把握することが重要です。

WWDJAPAN:そこで2月には、台湾のアーティスト羅志祥(ショウ・ルオ)が手掛ける「ゴットノーフィアーズ(GOTNOFEARS)」のポップアップストアを原宿店で開催した。正直、「ストリート」なヌビアンで芸能人イベントは意外な印象だった。

WIZ:来日コンサートの翌日、当初はインバウンド向けのイベントとして企画しました。インバウンド富裕層にとってのヌビアンは「ジャストクール」だから、同じく「ジャストクール」なアーティストとブランドを招待したカンジ。確かにヌビアンでは前例のないイベントでしたが、オープン前から大勢のファンに並んでいただき、商品は2時間で完売。ミート&グリート含め、大盛況でした。イベントとしては決して珍しいものではないかもしれないけれど、誰を思い浮かべ、実際コラボ商品を企画した上で来店してもらえるか?については、肌感覚やコミュニティが大事。ネットやAIでも調べられるけれど、言語が違えばニュアンスも違う。そこに私の価値があると思っています。

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沖縄コスメLIST.5 「ヴィランジェ」 亜熱帯地域・特有のカイコから採れる‟美肌シルク“を化粧品に応用

県内外で定評のある“沖縄コスメブランド”を紹介する企画の第5弾。今回取り上げるブランドは、亜熱帯地域に生息する野生種の蚕、エリ蚕(さん)から採れる、しなやかで吸湿性に富んだシルクを用いたコスメブランド「ヴィランジェ(VIRANJE)」。岡松滋美「ヴィランジェ」ブランドディレクターに取材した。

――:ブランドを立ち上げたきっかけを教えてください。

岡松滋美「ヴィランジェ」ブランドディレクター(以下、岡松):弊社の代表は沖縄出身で、「シルク」が主力事業であるカネボウに在籍していたのですが、ある時、野蚕(やさん・天然の蚕のこと)学会の会長から、沖縄で基幹産業になりうる素材がある、それは亜熱帯地域に生息している“エリ蚕”だ、と教えていただいたことがありました。しかも、エリ蚕はキャッサバを餌とするのですが、キャッサバの露地栽培が沖縄では可能だったこともわかり、カネボウから独立した後、沖縄産エリ蚕を使ったシルク事業を立ち上げました。当初は繊維会社としてスタートしたのですが、エリ蚕は化粧品の素材としても非常に適していることがわかり、2018年にコスメブランド「ヴィランジェ」を設立しました。

――:どんな点が化粧品に適しているのでしょうか?

岡松:エリ蚕由来のシルクを私たちは「エリシルク」と称しているのですが、「エリシルク」は一般のシルクとは異なり、スポンジのような細かな穴をもつ多孔質形状が特徴です。肌に負担をかけずに汚れを落せたり、肌の保湿バランスを快適な状態に保ったりするといった機能性があることから、この特性を生かすべく、まずは象徴的な2品を開発しました。

――:それが“プレミアム シルクスポンジ”と“シルクパウダー”ですね。

岡松:はい。“プレミアム シルクスポンジ”は、デリケートな肌に負担をかけず、赤ちゃんや敏感肌のかたでもお使いいただけるスポンジです。こちらは繭の毛羽を活用して、肌あたりを考慮してハンドメイドで成型しています。敏感肌の人の中には、洗浄料を使わずに、こちらを肌に滑らせて顔やボディーを洗うかたもいらっしゃるほどでロングセラーの製品です。

もうひとつ、“シルクパウダー”は18種のアミノ酸が含まれるシルクなのでスキンケア効果に優れているのはもちろん、「エリシルク」特有の多孔質形状が肌のべたつきを吸着してくれるので肌のさらさら感が持続します。メイクのお仕上げはもちろん、就寝前、保湿ケアを施した後、肌にべたつきが残るときにこちらのパウダーを重ねていただくと、さらさらで快適な肌状態でお休みいただけます。100%天然素材なので、このようにスキンケアパウダーとしてお使いいただくことも可能です。

――:“シルクパウダー”は湿度の高いときも重宝しそうですね。沖縄産シルクだけあり、湿度が高く、肌がべたつきがちな沖縄にぴったり。身土不二のスキンケア版と言いますか(笑)。気候温暖化の影響で、全国的に湿度が高い日が増えていることから、多くの人に使っていただきたいアイテムといえますね。

岡松:ありがとうございます。こちらのパウダーは肌を覆う感じがしない、という声もあり、ファンデーションが苦手な人にも人気です。さまざまなシーンで活用いただけると考えています。

――:そのほか、シートマスクや保湿クリーム、固形ソープがラインナップされていますが、特に、固形ソープはキャラメルのような小さいサイズでかわいらしいですね。100円均一ショップで買えるイヤホンケースなどに入れれば携帯できますし、外出先で手洗いする時に重宝しそうです。

岡松:ぜひおすすめしたい使い方ですね! 固形ソープは湿度の高いバスルームなどに置くと、形状が崩れてしまうことがあり、このような小さいサイズに加工しました。保湿成分として食品グレードのオリーブ果実オイル、ヤシオイル、カカオ脂などを配合していまして、手肌はもちろん、顔もボディーもしっとり柔らかに洗い上げてくれます。

――:では、最後に「ヴィランジェ」の今後についてお聞かせください。

岡松:繭は紫外線から蚕の身体を守るために、天然の“UV効果”があります。なので、日焼け止めをはじめとするUVケアを充実させたいと考えています。また、“プレミアム シルクスポンジ”は天然素材への注目からフランスで大きな反響があったこともあり、さまざまなブランドとコラボすることで、世界発信もしていきたいと考えています。

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三宅健が写真集「THE iDOL」で見せた“虚像とリアルの狭間”“——制作背景を語る

PROFILE: 三宅健/アイドル

PROFILE: (みやけ・けん)1979年7月2日生まれ。神奈川県出身。2023年7月、表現者として、新たなエンターテインメントの形に挑戦していくこと、そして新たな「アイドル像」を描いていくことを表明した。24年6月5日にリリースしたアルバム「THE iDOL」は豪華アーティストによる提供楽曲と進化し続ける三宅健の表現力をKEN MIYAKEの表現力を詰め込んだ表情豊かなアルバムとなっている。

デビューから30年。常に“アイドル”という存在を体現し続けてきた三宅健が、自身の原点をテーマに掲げ、自らクリエイティブディレクションを手がけた写真集「THE iDOL 三宅 健 写真集」(パルコ出版)が発売された。さらに写真集の刊行を記念して、渋谷パルコの「PARCO MUSEUM TOKYO」で、写真展「KEN MIYAKE PHOTO EXHIBITION “THE iDOL”」が開催中だ。

写真集は、写真家・小見山峻と草野庸子、スタイリスト・TEPPEIとともに、「虚像とリアルの狭間」をテーマに制作。展示では、写真集未収録のカットや展示限定のコラージュ作品、オリジナルグッズの販売なども展開する。

“被写体・三宅健”が浮かび上がらせる、新しいアイドル像。その裏側にある想いや制作背景を、三宅とスタイリングを手掛けたTEPPEIにじっくり語ってもらった。

「虚像とリアルの狭間」を捉える

WWD:今回の写真集は、いつ頃から構想していたのでしょうか?

三宅健(以下、三宅):写真集については、2年ほど前から考えていました。ちょうど「三宅健」として、新たな活動を始めるタイミングでもあって。長年、親交のあるスタイリストのTEPPEI君とお寿司屋さんで食事をしているとき、「自分自身を作品にできたらいいな」って話をしていて。その中で「虚像とリアルの狭間」をテーマにしたいと伝えたら、TEPPEI君が「やりましょう」と即答してくれて。そこから、今回撮影をしてくれた小見山さんの名前がTEPPEI君から挙がりました。

TEPPEI:お寿司屋さんで健さんと話していて、僕が知っている健さんはここにはいるんだけど、皆さんが知っているのは表に出ている三宅健さん。それで、この方どこの世界線で生きてるんだろうっていうのは常にあって。実際に彼が常にアイドルとして人生を歩み続ける中で、本当の健さんっていうのはどこにいるのか。そんな話からこの「虚像とリアルの狭間」というワードが出てきたんです。それで、実際に現実世界を少しファンタジックに撮影できる写真家として、小見山さんを提案しました。

WWD:それまで、三宅さんは小見山さんとはお仕事をされたことは?

三宅:僕自身は仕事をしたことはありませんでした。TEPPEI君から、「虚像とリアルの狭間」を捉えられる写真家として紹介を受け、「それならお願いしてみよう」という流れになりました。

WWD:もう1人、草野庸子さんも撮影を担当されていますよね?

三宅:草野さんは小見山さんからの提案でした。小見山さんが“虚像”を撮影し、草野さんが“リアル”、つまり撮影の裏側を記録するという形で進めました。本当は最初にTEEPI君と話してすぐに撮影を始めたかったのですが、準備や各所の調整などもあって、実際に撮影を開始したのは昨年7月でした。

TEPPEI:理想を言えば、本当は毎月とか毎週とか、定期的に撮影できるのがベストだったんですよね。でも、現実的にはなかなか難しくて……。このプロジェクトが始まった時は、ちょうど健さんの誕生日(7月2日)を起点に、1年かけて撮影する構想もあったんです。

三宅:もともとは、7月2日の僕の誕生日から日付を入れて撮影していくというアイデアがあって。でも、いろいろな事情があってスケジュール通りにはいかなくて。それでもようやく、去年の夏にプロジェクトが動き出した感じです。

WWD:小見山さんに撮影をお願いする際、何かリクエストはしたんですか?

三宅:タイトルは最初からアルバムと同タイトルである「THE iDOL」と決めていて、30年間アイドルをやってきた自分が、改めて “被写体”になることに意義を話しました。その上で、「虚像とリアルの狭間」というコンセプトも共有しつつ、これは僕の楽曲「悲しいほどにアイドル」の一節ともリンクしているテーマであることや、写真集のタイトルが過去にリリースした同名のアルバムとも一緒で、それとも繋がっているとか、そういう話はしましたね。

WWD:写真展の構想は、写真集の企画段階からあったのでしょうか?

三宅:いえ、最初はまったく予定していませんでした。当初は自社出版でオンライン販売だけで完結させるつもりでした。でも、アートディレクターのYARの横山さんという方が「三宅さんが普段話していることや考えていることは、もっと多くの人に知ってもらうべき」と言ってくださって。

それで、自社だけで完結せず、もっと広く展開できる方法を探る中で、パルコ出版さんから出版のお話をいただいて。それで横山さんが「写真展という形で多くの人に見てもらった方がいい」と背中を押してくれて、写真展も開催することになりました。

WWD:写真展で展示される作品は、三宅さんご自身でセレクトされたんですか?

三宅:全体の監修は僕がしていますが、2人の写真家の作品でもあるので、写真のセレクトは小見山さんと草野さんが中心にやっています。もともと写真集は148ページで構成する予定でしたが、最終的に128ページに落ち着いたので、掲載しきれなかった未公開写真も展示しています。

あと、このコラージュ作品は展示限定です。写真集は写真集で完結しているものなので、違う形で、より広がりを感じられる見せ方ができないかと考えて、このような展示構成にしました。

コンセプチュアルなスタイリング

WWD:TEPPEIさんは、今回の写真集のスタイリングで特に意識したことはありますか?

TEPPEI:写真集とは言っていますが、僕らの感覚としては「作品集」に近いです。健さんが“被写体”であることはもちろん、彼の生き方そのものを映し出す作品だと捉えていましたし、健さんが細いところまでディレクションをしている。そこに写真家の2人の考えもあって。その中で、ファッションがどういう役割を果たすかっていうことを考えてスタイリングは構成しました。

それで、普段のファッション撮影とは違って、かなりコンセプチュアルにスタイリングしました。皆さんが知っている“アイドル三宅健”というイメージを少し超えて、彼のあり方そのものが見えるようなスタイリングを目指しました。

この写真集では、彼がどこに存在しているか、ロケーションも結構重要なんです。例えば、あのカット(三宅さんの後ろのカット)は、渋谷パルコの下で突発的に撮影したものなんですが、健さんが寝起きのようなラフな雰囲気で行列に並んでいるんです。ちょっとファンタジーっぽさもありつつ、実際に起きているリアルな状況なんです。

三宅:そう、これは本当に偶然のショットでした。撮影時にたまたま人がたくさん並んでいて、皆さん他の目的があるから僕の存在には一切気づかない。ほとんどの人が前を向いている中で撮影することは、なかなか貴重なんです。だから「今しかない」と思って、そのまま列に並んで撮影しました。

TEPPEI:他にも、広場で寝転がっているカットなんかもあるんですが、そんなこと実際にはあり得ない。でも、あえて架空のストーリーをリアルに落とし込んで、小見山さんがその世界観を切り取っている。そういう“虚構と現実の狭間”をどう表現するかは、今回すごく大事なテーマでした。

三宅:現実をちょっとだけファンタジックに演出する。非現実をどうリアルに捉えるか。そういうことを、みんなで試行錯誤しながら撮影していました。

WWD:ちなみに、この場面(渋谷パルコの下)で撮影していても気づかれなかったんですか?

三宅:まったく気づかれなかったですね。

TEPPEI:周囲の人たちは完全に別のことに集中していて(笑)。だからこそ、ファッションの存在感が立っていないと意味がない。今回はいろんなブランドさんにもご協力いただいて、一部は僕の持っているアーカイブなどもミックスして、成立させています。

写真展の見どころは?

WWD:今回の展示で、三宅さんのお気に入りのカットはありますか?

三宅:一番は難しいですね……。でも、さっきも話したコラージュ作品はすごく気に入っています。なので、展示でも奥のスペースに配置しています。

TEPPEI:あのコラージュは、小見山さんと草野さん、2人の写真を組み合わせて作られているんですよ。モノクロ部分が草野さん、カラー部分が小見山さんという構成です。

三宅:今回の展示は、僕の写真展であると同時に、小見山さんと草野さん、そしてTEPPEI君の写真展でもある。そういう意味を込めて、コラボレーション感のある構成にしました。

WWD:小見山さんや草野さんと実際に一緒にお仕事をしてみてどうでしたか?

三宅:2人ともフィルムで撮っているので、現場ではどんな写真が撮れているのか全然分からないんですよね。それが逆に面白くて。仕上がりを見るまでドキドキしてました。実際に大きく出力された2人の写真はとても素敵でした。

TEPPEI:当たり前ですけど、同じ空間にいて、同じ時間に撮影しているのに、2人が撮る写真の“切り取り方”がまったく違っていたのも興味深かったですね。

三宅:当初考えていた小見山さんが“虚像”、草野さんが“リアル”を撮影するという構想の通りの仕上がりになりました。だからこそ、写真集では写真の並べ方のバランスをすごく考えました、何度も並びを変えてみて、やっと今の形になった感じです。実際は、2冊分くらいの写真のレイアウトが存在して。本当はもう1冊出してもいいくらいのボリュームなんです。

それで写真集の表紙も両A面のような作りにしています。表側が小見山さん、裏側が草野さんの作品。どちらから読んでもいいし、どちらも“表紙”っていう感覚で作っています。

WWD:今回のグッズもかなり充実している印象ですが、おすすめは?

三宅:アクリルキーホルダーのガチャガチャですね。全10種類あるので、集めてみてほしいです。あと、今回初めて展示作品の写真販売もしています。僕の写真が販売されるのは初めてなので、かなり貴重な機会だと思います。

TEPPEI:三宅さんの写真が販売されるって、本当に特別ですよね。ファンにとっては絶対に見逃せないと思います。

「アイドル」として活動する

WWD:タイトルに「アイドル」と入っている今回の写真集。昨年のアルバムと同じタイトルですが、三宅さんが考える“理想のアイドル”とは?

三宅:アルバムのリリース時にもお話ししましたが、グループを離れた時点で、アイドルとしての活動を終えるという選択肢もありました。でも僕は、もう一度“アイドル”と向き合おうと思ったんです。活動を再開する前に、「アイドルってそもそも何だろう」と考えて、辞書で調べたんです。そしたら、出てきた言葉が“幻想”と“偶像”でした。その時、僕はその言葉を「アイドルは、何者でなく、何者にでもなれる存在だ」と解釈しました。「アイドルって、何にでもなれる存在だな」って。

“幻想”や“偶像”って、何層にもイメージが重なっていくものですよね。それってまさに、アイドルという存在を象徴していると思います。だから僕は、「表現者」や「アーティスト」としてではなく、あえて「アイドル」でいたいと思った。その言葉が、僕にとって一番しっくりくるんです。

WWD:今後、やってみたいことはありますか?

三宅:「アイドル」という題材は、一つのコンセプトとしてまだまだ掘り下げられると思っています。だから、もう少し探求していきたいですね。アイドルという存在が持つ奥行きや可能性を、もっと表現してみたいんです。

WWD:三宅さんはアートがお好きですよね。ご自身がアーティストとして作品を発表したいという思いはありますか?

三宅:今回の写真展は、ある意味“アート作品”だと思っています。なので、そういった活動につながっていけたら面白いなと思っています。もちろん興味はありますよ。

WWD:ご自身で写真を撮ったり、絵を描いたり、そういった創作活動も視野に?

三宅:写真も好きですし、絵を描くのも好きです。でも、まだ具体的に「自分が手を動かし作品を発表する」とまでは考えていません。僕が撮った写真なんて、世の中に出せるレベルじゃないですし(笑)。

TEPPEI:でも、三宅さんの写真、きっと面白いと思いますよ。僕はぜひ見てみたいです。

PHOTOS:MIKAKO KOZAI(L MANAGEMENT)

「KEN MIYAKE PHOTO EXHIBITION “THE iDOL”」

■「KEN MIYAKE PHOTO EXHIBITION “THE iDOL”」
会期:2025年4月11日〜5月6日
会場:パルコミュージアム トーキョー
住所:東京都渋谷区宇田川町15-1 渋谷パルコ4F
入場料:1000円(入場特典付)
時間: 11:00〜21:00 (最終日は11:00〜18:00)
※入場は閉場時間の30分まで(20:30に入場締切。最終日は17:30に入場締切)
※事前予約・日時指定制。詳細は「入場券情報」で要確認。未就学児入場無料。大人1人につき未就学児1人まで無料入場可能。小学生以下の子どもは必ず保護者同伴(18歳以上)で入場(同伴の保護者有料)。
https://art.parco.jp/museumtokyo/detail/?id=1678

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「産地はひとつ」 補助金に頼らない「ひつじサミット尾州」の仕掛け人が描く道筋

PROFILE: 岩田真吾/三星グループ代表

岩田真吾/三星グループ代表
PROFILE: 1887年創業の素材メーカー「三星グループ」の五代目アトツギ。慶應大学を卒業後、三菱商事、ボストンコンサルティング グループ(BCG)を経て2010年より現職。欧州展開や自社ブランド立ち上げ、ウール再生循環プロジェクトReBirth WOOL、産業観光イベント「ひつじサミット尾州」、アトツギ×スタートアップ共創基地「タキビコ(TAKIBI & Co. )」などを進める。2019年ジャパン・テキスタイル・コンテスト経済産業大臣賞(グランプリ)を、2022年「フォーブス ジャパン」 起業家ランキング特別賞をそれぞれ受賞。個人としてAB&Company(東証GRT9251)社外取締役、認定NPO法人Homedoor理事、神山まるごと高専起業家講師、フィンランド政府公認サウナ・アンバサダー等も務める。PHOTO:KANA KURATA

「ひつじサミット尾州」立ち上げのきっかけと背景

WWD:オープンファクトリーを軸とした産業観光イベント「ひつじサミット尾州」を企画した背景は?

岩田:きっかけはコロナ禍です。それまでも「産地のみんなが協力した方がいい」ということは頭では理解していましたが、心の奥では、それぞれの企業が自己責任で経営し、自社の収益最大化を目指すものだと考えていたため、産地全体ではバラバラな状態でした。僕自身も例外ではありません。ただ、コロナ禍で産地全体の売り上げが半減し、危機感が現実のものになりました。たとえ自社が生き残っても、糸屋がなくなればモノづくりはできない。染工所がなくなれば、やはり製品は作れない。他の機屋(はたや)が減れば、糸屋や染工所の仕事も減って共倒れしてしまう。産地全体がつながっていることを、初めて心理的にも実感しました。

しかし、百年以上別々に存在してきた会社同士が、いきなり合併して共同事業を始めるのは現実的ではありません。だからこそ、まずはお互いをもっとよく知る機会を作ろうと考えました。せっかくなら内輪だけで終わらせず、実際に生地を使ってくださるお客様、つまり「使い手」と「作り手」がつながる場にしたいと考え、「オープンファクトリーを開こう」という話に至りました。

WWD:関係を取り戻す、“ほぐし”の感覚があったのでしょうか?

岩田:それは非常に重要だったと考えています。遠回りに見えるかもしれませんが、産地を一つにまとめ、DX(デジタルトランスフォーメーション)を進めるうえでも不可欠なプロセスでした。振り返れば、この取り組みが最短ルートだったと思います。

WWD:なぜそう思えたのですか?

岩田:2015年に自社ブランドを始めたことがきっかけです。海外のラグジュアリーブランドに生地を使ってもらう中で、「自分たちの生地には価値がある」と手応えを感じていましたが、同時に「使い手はどんな思いで使っているのか」を知りたくなり、工場を案内するようになりました。すると、自社工場だけを見てもらうのはもったいないと感じ、協力してくれている糸屋にも声をかけるようになりました。

点ではなく面で見てもらう方が使い手にとって良いと気がつき、お客さんを自社に囲い込むのではなく、「他の機屋に行ったとしても三星のファンが減るわけではない」、「産地全体への関心が広がるはずだ」と考えが変わりました。そのタイミングで、コロナの直撃です。

三星毛糸の生産体制、元食堂で社内での織りを再開

WWD:オープンファクトリーにより提供できる価値がある、とまずは自社のビジネスを通じて実感があったのですね。その三星毛糸のモノづくりについて教えてください。

岩田:三星毛糸はその名の通り、もともと紡績の会社でした。そこから織りに進出し、自社で全量を織るようになりましたが、時代とともに専属の協力工場に織ってもらうスタイルに移行し、企画に特化する体制を築きました。僕が社長に就いた2010年頃には、すでに100%が業界用語で言うところの出機(でばた)さん、つまり協力工場での生産となっており、高齢化が進み、小規模なところが多いため自社で若手を採用・育成するのは難しい状況でした。

弊社で雇用した社員を協力工場に派遣して支援する取り組みも行いましたが、コロナ禍で一段と厳しくなり、協力工場だけに頼るのは限界が見え始めました。この状況を受け、空いていた元食堂スペースを活用して社内での織りを再開する決断をしました。最初はサンプル工場程度の規模で考えていました。織れるか不安だったので、試しに織機を3台だけ導入しましたが、生産計画を見直し、現場でコミュニケーションを密に取ることで、意外と量産が可能だという手応えを得ました。

たった3台から始めた取り組みが、今では主力工場の一つとなり、欧州ラグジュアリー向けの生地も織るレベルに成長しています。今後はこの社内工場をさらに強化していく方針です。

WWD:スタッフはどのように採用したのでしょうか。

岩田:協力工場から来てもらう場合もあれば、自社採用して育てる場合もあります。

WWD:使用しているレピア織機は高速織りが可能ですが、作業風景からは職人による手作業のように見えました。

岩田:レピア織機はションヘルやシャトルに比べれば高速ですが、実際はほとんど手織りに近いスピードで織っています。ウールの糸はそのくらい丁寧に織った方が風合いが良くなる。尾州にはションヘルのイメージを持つ方も多いですが、レピアを丁寧に使って生地を織るのも非常に良いやり方だと考えています。

WWD:製品の何パーセントを自社内で織っていますか?

岩田:今は生地の3割ほどと、増えてきました。これは現場のメンバーが機械の知識を熱心に学び、生産効率向上に精力的に取り組んでくれた結果です。さらに、長年支えてくれた協力工場の方々も協力してくれていて、工場を辞めた方が技術を教えに来てくれるなど、支え合いによって自社生産比率がここまで伸びています。

「ひつじサミット尾州」の成果

WWD:持続可能な産地をめざして2021年にスタートした「ひつじサミット尾州」ですが、昨年の成果を振り返ると?

岩田:集客人数は少し減り、約1万2000人でしたが、売り上げは2000万円近くまで伸びました。人数が減ったのは天候不良で駅前イベントが中止になった影響ですが、各工場を訪れた人の数は増え、本気で生地や糸、製品を求めてくれる方が確実に増えました。ファンが着実に増えていると実感しています。4年続けてきて本当に良かったです。

WWD:YouTubeで公開している振り返りムービーが印象的でした。参加企業の言葉をつなぐ中、岩田さんは登場していませんでしたね。そこがまた良かったです。

岩田:成果物を通して消費者に親近感を持ってもらうことが大切です。同時に、当初から掲げていた「産地内をつなぐ」という目標にも確実に貢献できたと思っています。

WWD:「つないだ」成果はどこに出ていますか?

岩田:たとえば今年の「ひつじサミット尾州」の実行委員長を務める伴染工の伴昌宗社長とは、これまで取り引きがありませんでしたが、今回新たに取り引きが始まりました。

WWD:今までなかったことが、外から見ると意外です。

岩田:産地内でも全員が知り合いというわけではなく、名前は知っていても話したことがない相手は多くいますよ。競合関係というより、互いに話しかけるきっかけがなかっただけで、心理的なハードルがあったのが実情。「ひつじサミット尾州」のような場があることで、雑談ベースで「実はこんなことを考えている」と気軽に相談できるようになり、そこから具体的なビジネスの話が生まれやすくなっています。

また、経済的な効果に加えて、最近は企業が社会課題に向き合うこともますます重要になっていますが、産地でもこうした動きが進んでいます。今年6月6日には「ひつじサミット尾州」として産地全体の勉強会を開催する予定です。テーマはサステナビリティ認証で、オーガニック繊維の国際基準であるGOTSや、ウールのRWS(レスポンシブル・ウール・スタンダード)などについて、認証取得の窓口担当者を招き、学び合います。これらの認証は機屋だけでは取得できず、糸屋や染屋との連携が不可欠なため、産地全体で取り組む意義があります。イベントを賑やかに開催するだけではなく、こうした実践的なアクションを積み重ねることで、経済的な価値にも確実につなげています。

WWD:勉強会の対象は?

岩田:「ひつじサミット尾州」参加企業が中心ですが、産地に関わる人なら誰でも参加できるようにします。他地域の参加も歓迎です。カジグループの梶政隆社長とは、北陸と尾州で連携して総合的な勉強会をやろうと話しています。こうして産地間のつながりが広がってきているのを実感しています。

WWD:産地の課題である後継者不足にもイベントは生かせそうですか?

岩田:最近は採用にも各社で少しずつ効果が出てきています。ただ、3年経つと入社した若手が辞めてしまうケースも出てきており、産地全体で課題意識が高まっています。一社で採れる人数が少ないため、同期がいないことで孤立感が生まれやすく、また小規模なため十分な研修制度も整えにくい状況です。そこで、たとえば繊維品質管理士の資格取得を目指し、産地内で横断的に教え合う仕組みを作ろうとしています。

また、実際の製品づくりだけでなく、働き方の面でも総務や人事といった管理部門の強化にも力を入れ、勉強会を開くなど地道な取り組みを続けています。まだ土曜日勤務が多い現状を見直し、TOYOTAカレンダーのような土日休みを基本とする形に近づけようとしています。今年のひつじサミット実行委員会を務めている企業とも、そうした取り組みを共有しながら進めています。

補助金に頼らない運営による自由度と課題

WWD:補助金はどのように活用していますか?

岩田:「ひつじサミット尾州」はボランティア組織でして、初年度の一宮市100周年の補助金をのぞき、現在は補助金に頼らず運営しています。僕らが“マジックタイム”を使っていて時々「これ、部活かな?」みたいな冗談を言っています。

毎年予算500万円の規模で開催していますが、同規模のイベントは通常800万〜1000万円ほどの補助金を受けて運営しているものが多い中で、僕たちは参加企業からの参加費と、一部企業からの協賛金だけでやりくりしています。参加費は企業規模に応じて5万〜15万円で、協賛は豊島、瀧定名古屋、モリリン、今年はタキヒヨーも加わり、さらに地銀からも支援を受け、ようやく成り立っている状態です。

WWD:地域活性は補助金ありき、と思い込んでいました。

岩田:普通、そう考えますよね。最初に立ち上げた時は、コロナ禍で「お金をかけずにつながろう」という想いが強く、プロジェクトを通して産地内の仲間をつなぐことを重視したので、代理店に依頼する形にはしたくありませんでした。最初のプレ開催のときは経産省や愛知県、岐阜県、一宮市から後援は受けていて、それは公式な後ろ盾があることで参加者や工場側が安心できるだろうと考えたためです。

もし補助金をもらっていたら、コロナの緊急事態宣言下で開催を中止せざるを得なかったかもしれませんし、今のようにオープンファクトリーからデジタル支援や認証取得支援などに自由に発展させることも難しかったと思います。自由度の高い現在の運営形式は、結果的に良かったと考えています。ただ、回を重ねるごとに運営メンバーの疲労も見えてきており、今後サステナブルな形にするにはどうすべきかをみんなで議論しているところです。

WWD:福井県鯖江市で15年に始まったオープンファクトリーイベント「RENEW(リニュー)」は、実行委員会形式から社団法人化する流れがありますよね。

岩田:そういった形も参考にしながら検討していく必要があります。

WWD:官と民の連携についてどう考えますか?

岩田:行政との連携も重要だと考えています。例えば富士吉田市の成功事例を見ると、官の側にもメリットを作り出し、自然に巻き込んでいくことが必要です。僕たちも、たとえばFDC(ファッションデザインセンター)との連携を通じて、一宮市、羽島市から参加費を、地銀からも協賛金をいただくなど、少しずつ官側との関係を築いてきました。ただ、全体を運営する補助金はもらっていないので、自由度の高い活動ができています。

これからも無理に税金を使うのではなく、地域にとって本当にメリットがあると認められるような活動を続けることが大切だと考えています。

WWD:山梨県富士吉田市の「ハタオリマチフェスティバル」は観光課である富士山課がリードしています。産業観光としての可能性は?

岩田:特に尾州の場合は観光誘致よりも、地域産業の活性化と雇用創出の方が重要で、働く人口を増やし、地域の税収に貢献することが本質的な目標だと思っています。強い地域産業があることはシビックプライドにもつながる。だからこそ、今後は観光だけでなく、地域産業全体を巻き込む総合連携をさらに強めていきたい。

アトツギとして。コンサルでの経験が生かされる

WWD:岩田さんご自身のリーダーシップについて伺います。三菱商事やボストンコンサルティンググループでの経験は、今回の地域プロジェクトにどう生きていますか?

岩田:コンサルやビジネスの現場で培ったスキルは確実に役立っています。たとえば、資料作成やプレゼンテーション、プロジェクトマネジメント、目標設定、タスク割り振り、定例ミーティングの運営、議事録作成といった基本スキルです。「ひつじサミット尾州」の初年度はコロナ禍で時間もあったため、しっかりと運営の「型」を作ることができました。これらは過去の経験を活かした結果です。

「ひつじサミット尾州」を立ち上げるにあたって、富士吉田「ハタオリマチフェスティバル」や鯖江「リニュー」や新潟・燕三条「工場の祭典」、大阪・八尾「ファクトリズム」、京都・五条坂など、他地域のオープンファクトリー事例を事前に徹底的に調査しました。各地でどのくらいの人数を動員し、どのくらいコストをかけ、どんな運営体制を敷いているかをインタビューし、情報を整理してから立ち上げに臨みました。何もないところから始めたわけではなく、成功事例をベンチマークしたうえで、自分たちに合ったやり方を抽出して進めたプロジェクトです。

跡継ぎとしての覚悟と物語の継承

WWD:「アトツギ」について、どのように考えていますか?三星の跡継ぎとしての覚悟や希望を教えてください。

岩田:僕がカタカナで「アトツギ」と書くのは意図的です。昔ながらの「跡継ぎ」というと、親の七光りやボンボンというイメージ、あるいは借金を引き継ぐかわいそうな存在というネガティブな印象がありました。でも今、カタカナの跡継ぎは、積極的に家業や地域の資産を新しい視点で再編集し、新たな価値を生み出していく存在だと思っています。偶然この立場にいるなら、それをポジティブに捉え、明るく堂々と発信していきたい。

正直、悩みながらやってきました。僕は社長になって15年になりますが、その間に事業の一部撤退も経験しました。いろいろなことがありましたが、仲間たちと話していると、事業が変わること自体はむしろ正しいアクションだと思うようになりました。時代の変化に応じて事業を変えていかなければ、逆に生き残ることはできない。例えばトヨタも、もともとは織機の会社だったのが、自動車産業に進出し、今ではまちづくりにも取り組もうとしています。僕たちも、繊維という軸そのものは変わらないかもしれませんが、大量生産・大量消費型のものづくりから、適時適量のものづくりへとシフトしていく必要があります。事業とは変わり続けるものだと考えています。

僕は、事業や社員、資本そのものではなく、「物語」を継ぐことが跡継ぎの本質だと考えています。事業は時代に合わせて変わるし、社員も変わる。会社の名前や株主も変わるかもしれない。でも、創業から続く精神や価値観、積み重ねてきた歴史や文化こそが継ぐべきものです。1887年創業の三星毛糸の場合、創業者が女性だったことは、今でいうダイバーシティの精神につながっているし、上皇陛下が来訪されたことは、開かれた姿勢を象徴しています。そうした物語を未来につなぎ、さらに豊かにしていくことが、跡継ぎとしての自分の役割だと考えています。もちろん、残せるものは残したいですが、変わること自体を恐れるべきではない。

業界の若い世代がプライベートで行きたくなるイベントに

WWD:業界関係者の多くが週末にプライベートで参加していたのが印象的でした。

岩田:「ひつじサミット尾州」はアパレル業界の人たちにまだまだその存在を知られていません。BtoBの産地なので、商売につなげたい気持ちは当然ありますが、それ以上にまずは見て欲しい。昔は尾州にも多くのアパレル関係者が訪れていました。父親の時代には、頻繁に足を運んでいたと聞きますが、消費の縮小とともに来訪者が減ってしまいました。

しかし、実際に来てもらうと違います。例えば、テキスタイル展示会に行っても生地サンプルは数百点しか触れませんが、三星毛糸のテキスタイルライブラリーには6000点以上もの生地が揃っていて、じっくり話をしながらアイデアを広げることができる。染色工場に行けば「こんな加工ができるならこうしてみよう」という新たな発想も生まれます。

出張費を増やすのは難しいかもしれません。それもありアパレル業界の若い世代がプライベートでも行きたくなるようなイベントを目指しています。BtoCで評価されるなら、アパレルの人にも自然と足を運んでもらえるはず。そういう時の方が、学びも深くなると感じています。

WWD:産地に足を運んだことがないアパレル関係者の方が今は多い。

岩田:そもそも普段から国内の生地を使っていなければ、わざわざ見に行こうとはならない。だからこそ、国内生地への関心そのものを増やしていかないといけない。現状、多くのアパレルは商社や卸を通して尾州の生地を仕入れていますが、アパレルの担当者が直接工場を見に来て、現場で指名買いする流れが生まれれば、尾州の地位はもっと上がっていくはずです。

潜在的には「尾州の生地を使ってみたい」と思っているアパレルやデザイナーはかなりいる感触です。ただしアポを取って工場訪問するのは心理的なハードルが高い。だからこそ、公式ホームページなどを見て直感的に「ここに行ってみたい」と思ってもらい、気軽に見学できるような仕組みを用意するべきです。

名刺交換ができる場も設ければ、初めての人でも自然に関係を築ける。そもそも尾州の生地を使っていない人たちにとって、そうしたカジュアルなきっかけをつくることが重要です。

WWD:潜在的なニーズは感じている?

岩田:はい。「オーラリー(AURALEE)」のようなブランドが海外バイヤーからも評価されていることで、尾州の認知度も着実に高まっています。まだまだ尾州が役立てる余地は多い。とはいえ、普通にしているだけではメーカーが急に生地を買ってくれるわけではないので、きっかけづくりを意図的に設計することが必要です。

WWD:若い人たちが働き場所として尾州に来て得られることとは?

岩田:ウールの生地を作りたいなら、尾州ほど環境が整った場所はありません。もちろん、シルクなら桐生ほか、コットンなら遠州や泉州、デニムなら福山など、それぞれ適した産地はありますが、ウールへの愛着があるなら尾州は最適です。アクセスも良く、日本のほぼ中央に位置しているので、全国の産地とのつながりも作りやすい。もちろん東京に住んでいれば情報量は多いかもしれませんが、さまざまな地域とつながる拠点として、尾州はとても有利な立地で産地の結節点になりつつあります。繊維の道を志す若い人たちにとって、尾州はキャリアを築くうえで非常に良い場所です。

まず日にちを決めてイベント実施を宣言してしまおう

WWD:これから同じような取り組みを目指したいと思っている他の産地に向けたアドバイスは?

岩田:まずは現状を正しく把握して理解すること。そして、もう一つ必要なのは強いリーダーシップです。この二つは欠かせません。そのうえで、僕はとにかく一度やってみることが大事だと思う。難しいことは考えず、まず日にちを決めて「この日にオープンファクトリーをやります」と宣言してしまうのがいい。ホームページを一つ作るだけでもいいし、インスタグラムでアカウントを立ち上げるだけでもいい。工場は一つよりも複数で参加した方が来場者にとっても魅力的になるので、できれば何工場かで連携してオープンにすると効果的です。

動いてみて初めて「何が足りなかったのか」「何を整えればよかったのか」が具体的に見えてきます。もしもう一歩踏み込むなら、既存のオープンファクトリーイベントを一度訪れてみることを勧めます。異業種の事例でも十分学びがあります。とにかく一度、実際に足を運んでみること。そして、一度やってみること。コロナ禍は、そうした行動のハードルを一段下げてくれたと思っています。

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敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 Vol.2 【イマドキの“ラグジュアリーマーケティング”】

PROFILE: 南奈未

南奈未
PROFILE: (みなみ・なみ)アメリカの大学でマーケティングを専攻し卒業。米国や日本にて外資系企業などを経て、クリスチャン・ディオールに入社。その後ダミアーニ、ドルチェ&ガッバーナに転職。2004年に「ルイ・ヴィトン」で、ウィメンズとメンズのPRを担当。12年、マイケル・コースのコミュニケーション・ジェネラルマネージャーに就任。17年、ドルチェ&ガッバーナに復職し、PR&コミュニケーション ディレクターに就く。24年10月退職 PHOTO:MAKOTO NAKAGAWA(magNese) HAIR&MAKE UP:KIKKU(Chrysanthemum)
ファッション業界において、花形職とされるPR。そのトップに就くPRディレクターは、ブランドの“縁の下の力持ち”や“影の立役者”として認識されるほど、目立たずともブランドの大きな役割と責任を担っている。特にラグジュアリーブランドにおいては、常にVIP顧客やメディア、デザイナーやチームの中核的存在だ。交渉術やコミュニケーション能力も必要とされる。南奈未さんは約20年間、ファッションシーンをリードする数々の海外ブランドの日本法人のPRを統括。日本はもちろん、グローバルでその手腕を発揮してきた言わずと知れた人物だ。この10年でデジタルやマーケティングの概念が多様化する中、ファッションラグジュアリーの世界は大きく様変わりしているという。この連載では数回に分けて、南さんが培ってきたファッションPRの仕事そしてその裏側について語る。2回目は、時代とともに変化する“ラグジュアリーマーケティング”について。

ラグジュアリーを伝えるPRのあり方

南奈未:ファッション業界に長く携わってきましたが、デジタルファーストの現代におけて、ラグジュアリーファッションのマーケティングの考え方は大きく変化しています。そもそも“マーケティング”とは、消費者のニーズをブランドの商品やサービスに反映させ、自然に売れる流れを設計すること。ですが、これがラグジュアリーファッションだと顧客のニーズだけではなく、デザイナーのクリエイションが土台にあるので、一般的な量産型商品とは異なります。すべてではないですが、矢印がボトムアップというよりトップダウンの時もよくあります。例えば、ファッション・ウイーク中に発表されるものはデザイナーの個性やメッセージ性が色濃く表れていることが多く(昨今は消費者の顔色を伺ったコマーシャル寄りのものを発表しているコレクションも多くなりましたが)、そこから時代やトレンドを創造していき、消費者にぶつけていく。また、メディアがさまざまな切り取りをしていますね。

商品が店頭に並ぶ約半年前に行われるファッションショーは、最新コレクションを初披露する重要な場。20年前は主に百貨店バイヤーやモード誌編集長、VIP顧客など、世界中の限られた人数だけを招待するものでした。彼らの反応や意見を聞いては実際に販売するもの、しないものを取捨選択する場合もありました。だから、発表まで情報解禁されることはタブー。今のように、会場からのSNSを通じたリアルタイムの配信や投稿なんて全く想像もしなかったですよね。われわれPRもコンセプトなんて直前までまったく共有なんてされないから、よくショー終了後のバックステージに入り込んで、ジャーナリストたちのインタビューに応えるデザイナーの言葉をこっそり聞いて理解を深めたものです。思えばスッと気配を消す術を習得したのはそのころから(笑)。目立たなければ摘み出されることもないでしょ?

“ラグジュアリーファッションのマーケティング”は別格の概念

最近は、猫も杓子も「マーケティング」。果たして本来の意味を理解している人がどれほどいるのかと疑問に思うことがあります。商品もサービスもラグジュアリーブランドにおいては、仕組みや概念も別ものです。デザイナーがアーティスティック・ディレクターやクリエイティブ・ディレクターと呼ばれるようになったこの20年。ファッションだけじゃなく、アートやカルチャーに精通した多才なデザイナーがクリエイティブチームのトップとして、広告ビジュアルやショーの見せ方、コラボレーションなどを指揮することが主流になってきました。ブランドの世界観を伝えるには、洋服やバッグをデザインするだけでは不十分なのでしょう。ブランド間の競争が激化するほど、より多くの引き出しを獲得してどう魅せるのかがポイントになってきています。ラグジュアリーブランドは売り物が商品だけではありません。クリエイティブ・ディレクターはメゾンの歴史やアーカイブ、熟練の職人技を理解し、モダンに再解釈していきます。今のライフスタイルには、何が必要なのか。どんなウエアやバッグがスタイルを輝かせるか。それらのクリエイティビティーに見合う価格やサービスは、やはり従来のマーケティングとは違う特別な考えだと思います。常に変化する時代に沿って2歩、3歩先を行かなければならないので大変ですね。今は2歩、3歩じゃ足りないかも!

ただし、その“ラグジュアリーマーケティング”もまた変化を遂げています。ソーシャルメディアが普及してからは、世代を問わず、消費者の審美眼はどんどん鍛えられています。ここ5年ほどはラグジュアリーブランドもその世界に消費者を誘おうと、展覧会やポップアップストアといった一般の方も入れる間口の広い体験型イベントでブランドの新しい価値観や魅力を提供してきました。ただ、選択肢やSNS上のトレンドがあまりに多様化した今、従来の手法では物足りなさを感じる人も出てきているかもしれませんね。5月11日まで開催中の「ロエベ(LOEWE)」初の大展覧会(“ロエベ クラフテッド・ワールド展 クラフトが紡ぐ世界”)は、ブランドのヘリテージやクラフツマンシップを今っぽくモダンに仕上げていて一見の価値あり。ジブリファンの心も鷲掴みです!

最近はクリエイティブ・ディレクターの交代劇が盛んですね。ブランドの次なる価値を示す新しいマーケティングへの転換期に差し掛かっているかもしれません。

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BeReal CEOエメリック・ロフェが来日 関西コレクションのメディアパートナーとして参加

2020年にフランスで生まれたBeReal(ビーリアル)は、ユーザーの8割以上がZ世代であり、昨年6月にゲーム会社Voodooに買収された。現在CEOとして舵を切るのは、VoodooでSNS関連サービスをけん引してきたエメリック・ロフェ(Aymeric Roffe)だ。3月にファッションイベント、KANSAI COLLECTION 2025 SPRING & SUMMERとのパートナーシップを結び、更なる日本市場での強化を目的に初の来日を果たしたエメリックCEOに話を聞いた。

PROFILE: エメリック・ロフェ/BeReal CEO

エメリック・ロフェ/BeReal CEO
PROFILE: 幼少期からテクノロジーに関心を持ち、14才の時にプログラミングを学び始める。Voodooの子会社Wizzを立ち上げた。2024年6月にVoodooが買収したBeRealの新CEOに就任

WWD:昨年CEOに就任して以来、ユーザー数や広告機能についてどのような変化が見られたか

エメリック・ロフェCEO(以下、エメリック):昨年は日本でのユーザー数が40%増と大きく伸びた。また、昨年7月に新たに追加した広告機能は、予想を超えるほどの需要があった。特に良い広告パフォーマンスが得られたのは、Z世代向けにリーチしたいという広告主だ。ファッションやコスメ、そしてゲームなどのエンタメ、アルバイト募集なども含まれる。現在のユーザーの83%はZ世代だが、徐々にユーザーの年齢幅は広がっている。美容やスポーツアパレル、エンターテインメント分野は、グローバルとして今後も特に注力したい分野だ。

特にランダムな時間に通知が届き投稿するBeRealでは、時にすっぴんの姿やおしゃれをしていないタイミングに投稿をしなければいけないことも多い。その点において、昨今のファッションやビューティー業界では、“ありのままの美しさ”に注目していることを考えると、非常に相性が良いと考えている。

WWD:今回の市場調査ではどのような収穫が得られたか。

エメリック:今回は主に高校生、大学生のユーザーに話を聞いた。大前提として、日本のユーザーはエンゲージメントがとても高い。通知の時に写真を撮るだけではなく、その時以外でもたくさん撮影をしていることが分かっている。そして世界的に見てセルフィーを撮影する人はすごく多いが、特に日本のユーザーは友達などとグループショットを撮っている印象を受けた。またメモリー機能を使用し、これまでに自分が投稿した写真をよく見返している。また印象的だったのは、日本のユーザーがすごくクリエイティブにBeRealを使用している点だ。フロントカメラとバックカメラ、それぞれが起動する間には1秒ほどの時間があるが、その1秒の間に色々な工夫を加えていることがわかった。

WWD:3月には、KANSAI COLLECTION 2025 SPRING & SUMMERとBeRealのパートナーシップを発表した

エメリック:グローバル全体で見て、BeRealとイベントのコラボレーションは非常に相性が良いと考えている。KANSAI COLLECTIONではイベント中に12分間のBeRealステージを作り、Z世代に支持されるインフルエンサーらがランウエイを歩いた。彼女達には、BeRealらしく“ありのまま”の姿を見せるため、私服を着用してもらった。そしてアジア領域一体でBeRealの通知は同時に行われているが、ランウエイ中にBeRealの通知が届いたのだ。その瞬間、たくさんの来場者がBeRealで撮影をし、投稿を行った。とてつもない熱狂が起きた瞬間だった。こんなにも多くのユーザーが同時に撮影をしているのを目の当たりにでき、これまでにない手応えを感じられた。今後もKANSAI COLLECTIONとのパートナーシップは継続していく予定だ。

WWD:今後、Voodoo傘下のゲームとBeRealでの直接的な連携を行う予定はあるのか?

エメリック:現時点では予定していない。Voodooのサービスとの直接的な連携を行うというよりも、Voodooが10 年以上培ってきた開発やスケール、マネタイズなどの知見をシェアしていきたいと考えている。

WWD:今後の目標とは?

エメリック:主に3つある。1つはプロダクトの改良、改善。それによってユーザーのエンゲージメントを高め、ユーザーがBeRealをもっと楽しめるように注力したい。2つ目はユーザーの更なるグロース。一般ユーザーだけではなく、ブランドや著名人などの公式アカウントを増やし、彼らのファンコミュニティー層をBeRealに引き込んでいきたいと考えている。そして3つ目は広告機能。より使いやすく、手が届きやすい広告システムへと改善していけるよう努めていく。

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「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言Vol.2  「海外コスメブランド短観」

PROFILE: 小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント

小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント
PROFILE: (おぎ・みつる)1997年伊勢丹入社、2000年にオープンしたBPQC(現、伊勢丹新宿本店ビューティアポセカリー)の立ち上げに参画。10年よりマッシュビューティーラボの副社長/クリエイティブディレクターとして「コスメキッチン」の運営や自社製品の開発に注力。21年末に退社し独立、ビューティ・ファッション企業のコンサルティングを行う。23年8月ナチュラル&オーガニックスキンケアブランド「ニュースケープ」を開始

空前の訪日客消費に沸いているのは化粧品業界も同様。とはいえ市場を見てみると、相変わらず元気がいいのはハイファッションコスメと韓国コスメ。日本のコスメブランドには何が足りていない? ビューティ・ジャーナリストの木津由美子が今回話を伺うのは、小売りの現場に長らく携わってきた小木充氏。現在はニュースケープ代表も務めるその独自目線から、5回にわたって提言をいただく。

――:3月、東京・代官山に「ノンフィクション(NONFICTION)」が日本初の路面店をオープンしましたが、まさかあの場所にあの規模感で出してくるとは思っていなかったので驚きました。

小木充(以下、小木):「タンバリンズ(TAMBURINS)」と同じ発想ですよね。「ジェントルモンスター(GENTLE MONSTER)」というアイウエアブランドを元金融マンのCEOが2011年に立ち上げ、売り上げが3桁ぐらいに乗ってきた時に「タンバリンズ」を17年にスタート。そしてハンドクリーム、フェイスクリーム、化粧水、フレグランスの4アイテムで韓国のカロスキル(新沙洞街路樹通り)に2階建ての旗艦店をオープン。CEOによると、既存の化粧品業界は製品は頑張っているけれど、世界観を表現できているブランドが少ないので、まだまだ商機はあると思っていたそうです。

――:韓国発フレグランスブランド「ボーン トゥ スタンドアウト(BORNTOSTANDOUT)」の創業者にインタビューした時も同様の印象を受けました。フレグランスコレクターの元金融マンは、ラグジュアリーフレグランスの自国ブランド立ち上げと自国の現代アーティスト支援にこだわっていて、漢南洞(ハンナムドン)にまるでアートギャラリーのような旗艦店をオープンしました。

小木:「タンバリンズ」青山店ができた時も行列でしたが、それは世界観への共感だと思いますね。あれが欲しいこれが欲しいというよりも、そこの世界観で何か欲しいと思わせる買い方になっている。ただこれらのブランドが “デパコス”として旗艦店のような面積で展開できるかといったら、百貨店の常識からはかけ離れているので難しいでしょう。

――:百貨店の常識は坪効率だから。

小木:そう、そこには余白がない。今は円安だからいいけれど、金利が当然上がり、日本での買い物のメリットがなくなったときには、訪日客にしてみれば自国に全てあるわけで。インバウンド需要減少の対応策は必須です。3月に上海を視察してきたんですが、あらゆる店舗に人が本当にいない。定点観測してもいない。10店舗回って6人ほどの来店客がいたのが唯一「エルメス(HERMES)」のみ。“バーキン”しかり“ケリー”しかり、本当に欲しいものがあるから。中国は24年上半期で百貨店13店舗を閉鎖しています。バブル崩壊のうえ、7〜8割がEC購入という背景からですね。

――:打開策として考えられることは?

小木:一つは、3月に大規模改装した「アットコスメトーキョー(@COSME TOKYO)」のようにドラッグ〜バラエティ〜デパコスを横断して買い物体験ができる業態。もう一つは、現在世界で約3000店舗と言われる「セフォラ(SEPHORA)」。1999年に日本に上陸した当時は、消費者がセルフ業態に慣れていなかったのでなかなかフィットせず、わずか2年で撤退しましたが、今の時代だったらうまくいく可能性もあるかと。

――:同時期にオープンして撤退した英国の「ブーツ(BOOTS)」も併せて、今こそ入ってきてほしいですね。百貨店とドラッグストアの間を埋めてくれるショップとして若者のニーズは高いように思います。

小木:当時の日本への参入障壁とはだいぶ変わっているだろうし。セフォラが入ることで、ラグジュアリーが中心にはなるけれど、化粧品業界が盛り上がりますよね。3000店舗あるということは日本にあってもおかしくない。ところでセフォラに入っているクリーンビューティブランドで、個人的にずっと注目しているのが「タタハーパー(TATA HERPER)」と「イリア(ILIA)」。前者はコロンビア出身の夫婦が米国バーモント州に移り住んで2010年に創業し、22年にアモーレパシフィックが買収。後者はカナダ・バンクーバー出身の女性が11年に創業し、クラランス創業家が22年に買収しています。どちらも高価格帯だけど、欧米で人気。しかも資本がついたので、日本の百貨店売り場の一角をこういうインディーズから始まったブランドが担っていったら面白いと思う。

――:今後も増えていくクチュールコスメは服飾品と一緒に派手に展開してもらって、こういうニューフェイスはニューフェイスで固めてくれればすごく楽しい売り場になると思いますね。秋にはいよいよ「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」のコスメも誕生するので、ぜひそれを機に。

小木:僕もそう思っていて、新たに目が出てきそうな資本がついたブランドを入れるというのが僕の予想図。アメリカのベンチャー系ブランドにとって、セフォラで成功するというのが一つのルート。ここで失敗すると返品・買収・民事再生などブランドがスクラップされるというのがこの10年の流れですが、この2つはそれを乗り切った。こういうブランドがさらに資本をつけて日本に上陸するというのは、いろんな意味で業界を活性化すると思う。日本でも信念を持って、哲学を持って、いろんな業界のバックグラウンドがあって、化粧品業界を俯瞰した際に、自社ならではの特徴やAI的な発想で新たなマーケット開拓にチャレンジするブランドが出てきて欲しいですね。

――:そのためには小売り業界の変化も必要です。今はどこもこじんまりした感じが拭えません。

小木:僕が伊勢丹に勤めていた時代は2カ月に1回くらいのペースで海外出張に行かせてもらっていたけれど、今は百貨店の部長もバイヤーもほとんど行っていないようです。首脳陣から見たら、化粧品は全て効率だけの話。何が売れてどうするのが効率がいいのか? 僕の時代もそういう節はあったけれど、例えば1〜2店舗くらいしかなかった「ロクシタン(L'OCCITANE)」や「ラッシュ(LUSH)」に火をつけたのはBPQC(現ビューティアポセカリー)だったと思っています。お客さまの本音を具現化したいと思ってやっていたので。とはいえ、今の効率重視の売り場作りをドラスティックに変えるのは難しい。変えられないまま円高に振れてくると訪日客分がマイナスになる。そうなると増えたものがシュリンクし始めるので、余計に今のブランドでせめぎ合いが起こり始め、参入障壁はより高くなるでしょうね。遠い先は分からないけれど。今、ファッションのハイブランド品がかなり高額になっていて売れにくくなってきている。中国では前年比2桁マイナスと言われていて、これが化粧品にもくるんじゃないかと思う。訪日客を除いた売り上げは落ちているだろうし、この3年で内外価格差はなくなると想定されるから、3年後を見据えて日本の消費者に対してどうするか、今から考えておくことが喫緊の課題ですね。

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「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言Vol.2  「海外コスメブランド短観」

PROFILE: 小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント

小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント
PROFILE: (おぎ・みつる)1997年伊勢丹入社、2000年にオープンしたBPQC(現、伊勢丹新宿本店ビューティアポセカリー)の立ち上げに参画。10年よりマッシュビューティーラボの副社長/クリエイティブディレクターとして「コスメキッチン」の運営や自社製品の開発に注力。21年末に退社し独立、ビューティ・ファッション企業のコンサルティングを行う。23年8月ナチュラル&オーガニックスキンケアブランド「ニュースケープ」を開始

空前の訪日客消費に沸いているのは化粧品業界も同様。とはいえ市場を見てみると、相変わらず元気がいいのはハイファッションコスメと韓国コスメ。日本のコスメブランドには何が足りていない? ビューティ・ジャーナリストの木津由美子が今回話を伺うのは、小売りの現場に長らく携わってきた小木充氏。現在はニュースケープ代表も務めるその独自目線から、5回にわたって提言をいただく。

――:3月、東京・代官山に「ノンフィクション(NONFICTION)」が日本初の路面店をオープンしましたが、まさかあの場所にあの規模感で出してくるとは思っていなかったので驚きました。

小木充(以下、小木):「タンバリンズ(TAMBURINS)」と同じ発想ですよね。「ジェントルモンスター(GENTLE MONSTER)」というアイウエアブランドを元金融マンのCEOが2011年に立ち上げ、売り上げが3桁ぐらいに乗ってきた時に「タンバリンズ」を17年にスタート。そしてハンドクリーム、フェイスクリーム、化粧水、フレグランスの4アイテムで韓国のカロスキル(新沙洞街路樹通り)に2階建ての旗艦店をオープン。CEOによると、既存の化粧品業界は製品は頑張っているけれど、世界観を表現できているブランドが少ないので、まだまだ商機はあると思っていたそうです。

――:韓国発フレグランスブランド「ボーン トゥ スタンドアウト(BORNTOSTANDOUT)」の創業者にインタビューした時も同様の印象を受けました。フレグランスコレクターの元金融マンは、ラグジュアリーフレグランスの自国ブランド立ち上げと自国の現代アーティスト支援にこだわっていて、漢南洞(ハンナムドン)にまるでアートギャラリーのような旗艦店をオープンしました。

小木:「タンバリンズ」青山店ができた時も行列でしたが、それは世界観への共感だと思いますね。あれが欲しいこれが欲しいというよりも、そこの世界観で何か欲しいと思わせる買い方になっている。ただこれらのブランドが “デパコス”として旗艦店のような面積で展開できるかといったら、百貨店の常識からはかけ離れているので難しいでしょう。

――:百貨店の常識は坪効率だから。

小木:そう、そこには余白がない。今は円安だからいいけれど、金利が当然上がり、日本での買い物のメリットがなくなったときには、訪日客にしてみれば自国に全てあるわけで。インバウンド需要減少の対応策は必須です。3月に上海を視察してきたんですが、あらゆる店舗に人が本当にいない。定点観測してもいない。10店舗回って6人ほどの来店客がいたのが唯一「エルメス(HERMES)」のみ。“バーキン”しかり“ケリー”しかり、本当に欲しいものがあるから。中国は24年上半期で百貨店13店舗を閉鎖しています。バブル崩壊のうえ、7〜8割がEC購入という背景からですね。

――:打開策として考えられることは?

小木:一つは、3月に大規模改装した「アットコスメトーキョー(@COSME TOKYO)」のようにドラッグ〜バラエティ〜デパコスを横断して買い物体験ができる業態。もう一つは、現在世界で約3000店舗と言われる「セフォラ(SEPHORA)」。1999年に日本に上陸した当時は、消費者がセルフ業態に慣れていなかったのでなかなかフィットせず、わずか2年で撤退しましたが、今の時代だったらうまくいく可能性もあるかと。

――:同時期にオープンして撤退した英国の「ブーツ(BOOTS)」も併せて、今こそ入ってきてほしいですね。百貨店とドラッグストアの間を埋めてくれるショップとして若者のニーズは高いように思います。

小木:当時の日本への参入障壁とはだいぶ変わっているだろうし。セフォラが入ることで、ラグジュアリーが中心にはなるけれど、化粧品業界が盛り上がりますよね。3000店舗あるということは日本にあってもおかしくない。ところでセフォラに入っているクリーンビューティブランドで、個人的にずっと注目しているのが「タタハーパー(TATA HERPER)」と「イリア(ILIA)」。前者はコロンビア出身の夫婦が米国バーモント州に移り住んで2010年に創業し、22年にアモーレパシフィックが買収。後者はカナダ・バンクーバー出身の女性が11年に創業し、クラランス創業家が22年に買収しています。どちらも高価格帯だけど、欧米で人気。しかも資本がついたので、日本の百貨店売り場の一角をこういうインディーズから始まったブランドが担っていったら面白いと思う。

――:今後も増えていくクチュールコスメは服飾品と一緒に派手に展開してもらって、こういうニューフェイスはニューフェイスで固めてくれればすごく楽しい売り場になると思いますね。秋にはいよいよ「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」のコスメも誕生するので、ぜひそれを機に。

小木:僕もそう思っていて、新たに目が出てきそうな資本がついたブランドを入れるというのが僕の予想図。アメリカのベンチャー系ブランドにとって、セフォラで成功するというのが一つのルート。ここで失敗すると返品・買収・民事再生などブランドがスクラップされるというのがこの10年の流れですが、この2つはそれを乗り切った。こういうブランドがさらに資本をつけて日本に上陸するというのは、いろんな意味で業界を活性化すると思う。日本でも信念を持って、哲学を持って、いろんな業界のバックグラウンドがあって、化粧品業界を俯瞰した際に、自社ならではの特徴やAI的な発想で新たなマーケット開拓にチャレンジするブランドが出てきて欲しいですね。

――:そのためには小売り業界の変化も必要です。今はどこもこじんまりした感じが拭えません。

小木:僕が伊勢丹に勤めていた時代は2カ月に1回くらいのペースで海外出張に行かせてもらっていたけれど、今は百貨店の部長もバイヤーもほとんど行っていないようです。首脳陣から見たら、化粧品は全て効率だけの話。何が売れてどうするのが効率がいいのか? 僕の時代もそういう節はあったけれど、例えば1〜2店舗くらいしかなかった「ロクシタン(L'OCCITANE)」や「ラッシュ(LUSH)」に火をつけたのはBPQC(現ビューティアポセカリー)だったと思っています。お客さまの本音を具現化したいと思ってやっていたので。とはいえ、今の効率重視の売り場作りをドラスティックに変えるのは難しい。変えられないまま円高に振れてくると訪日客分がマイナスになる。そうなると増えたものがシュリンクし始めるので、余計に今のブランドでせめぎ合いが起こり始め、参入障壁はより高くなるでしょうね。遠い先は分からないけれど。今、ファッションのハイブランド品がかなり高額になっていて売れにくくなってきている。中国では前年比2桁マイナスと言われていて、これが化粧品にもくるんじゃないかと思う。訪日客を除いた売り上げは落ちているだろうし、この3年で内外価格差はなくなると想定されるから、3年後を見据えて日本の消費者に対してどうするか、今から考えておくことが喫緊の課題ですね。

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UKバンド、アイドルズ(IDLES)が語る最新アルバム「Tangk」 LCDサウンドシステムやコールドプレイとの関係性も

PROFILE: アイドルズ(IDLES)

PROFILE: 英ブリストルで結成。メンバーはジョー・タルボット(vocals)、ダム・デヴォンシャー(bass)、マーク・ボーウェン(guitars)、リー・キアナン(guitars)、ジョン・ビーヴィス(drums)の5人で、2017年にデビュー・アルバム「Brutalism」をリリース。18年にはセカンド・アルバム「Joy As An Act Of Resistance」を、20年にはサード・アルバム「Ultra Mono」をリリース。サードアルバムはUKチャートの1位を獲得した。21年には、ケニー・ビーツとギタリスト、マーク・ボーウェンの共同プロデュースによる4枚目のアルバム「Crawler」を、24年2月に5枚目のアルバム「Tangk」をリリースした。

昨年2月にリリースした最新アルバム「Tangk」が、先日のグラミー賞で「Best Rock Album」にノミネートされたアイドルズ(IDLES)。かれらのアルバムが同賞の候補に選ばれるのは前作「Crawler」(2021年)に続いて2作連続で、英国出身でこれほど世界的な評価を獲得しているバンドは、近年では稀有な存在と言えるだろう。2000年代の終わりにブリストルで結成され、硬質なパンク・サウンドでインパクトを残したデビュー・アルバム「Brutalism」(17年)から8年。フロントマンのジョー・タルボット(Joe Talbot)が率いるこの5人組は、聴く者の感情に深く訴えかける音楽をつくり続けることで支持を広げ、フー・ファイターズやメタリカからも一目置かれるワールド・クラスのバンドへと飛躍を遂げた。そして、レディオヘッドやベックを手がけるナイジェル・ゴドリッチを共同プロデューサーに迎えた5作目の「Tangk」は、これまで以上に多様な音楽的要素が交錯する、アイドルズの新たな局面を示した作品だった。

アイドルズを始める前はDJとして活動し、熱心なヒップホップ・ヘッズだったというジョー。前作、前々作「Ultra Mono」(20年)に続いてケニー・ビーツ(ヴィンス・ステイプルズ、リコ・ナスティ)がプロダクションに関わる「Tangk」は、そんなジョーが近年のヒップホップやグライムに寄せる共感が色濃く投影された作品でもある。昨年末には、ラッパーのダニー・ブラウンをフィーチャーしたシングルも大きな話題を呼んだ。「イギリスの白人中流階級のガキだった僕に、ヒップホップは真の目的意識を与えてくれた」——そう語るジョーに、1月に行われた来日公演の後日、そのヒップホップとの出会いや「Tangk」の制作の裏側、そして彼が貫く「スタイル」の核心を聞いた。

アルバム「Tangk」について

——新作「Tangk」でプロデュースを依頼したナイジェル・ゴドリッチとの作業はどうでしたか。

ジョー・タルボット(以下、ジョー):本当に素晴らしかったよ。特にレコーディングのプロセスがね。彼は事前に用意されたものではなく、その瞬間に生まれるものを捉えようとしていた。瞬間のマジック――意図しないミスやグリッチ(不具合)、いろんな偶然をテープ・ループで取り込んでいくことで、楽曲そのものより演奏することに集中できた。それは僕たちにとってかなり異例なアプローチだったよ。

普通なら、曲をしっかりつくり込んで、ヴァース、コーラス、ブリッジといった構成を練り上げるんだけど、ナイジェルはそんなことに興味がなかった。彼は僕たちがその瞬間に集中し、目の前の音にまるで瞑想するみたいに意識を向けることを大切にした。だからすごく斬新で、一緒にやるのはかなりチャレンジングだったよ。

——「Tangk」はダンス・フィールにあふれたアルバムで、特にLCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーとナンシー・ワンが参加した「Dancer」は象徴的なナンバーだと思います。これはどういう経緯で実現したコラボレーションだったのでしょうか。

ジョー:あれは確か(ギタリストのマーク・)ボーエンが書いた曲だったと思う。このアルバムで僕が目指していたのは、人々を踊らせて、心から音楽を感じてもらい、何か普遍的な感情を呼び起こすような音楽をつくることだった。幻滅の時代だからこそ、聴く人の感情に寄り添って、頭で考えるよりも人間の根源的な感覚を呼び覚まし、自分自身の存在を肯定できるような音楽が必要だと思ったんだ。それで曲を書いて、レコーディングして、アメリカでLCDサウンドシステムと一緒にツアーを始めた時に、ナイジェルから電話がかかってきたんだ。「バッキング・ボーカルがこの曲に合ってない」って。

バッキング・ボーカルは僕が書いたんだけど、メロディとハーモニーはジェームスとナンシーをイメージして書いたものだった。男性の力強いファルセットと、女性の物憂げなハーモニーの組み合わせをね。ちょうど一緒にツアー中だったからお願いしてみたら、ニューヨークにある彼らのスタジオに連れて行ってくれて、そこで一日一緒に過ごすことができた。本当にクレイジーで最高な体験だったよ。

——ジェームスはどんな人でした?

ジョー:ジェームスはとてもミステリアスな人だよ。知的で、強い意志を持っていて、仕事にも家族にも友だちにも全力で全てを捧げるタイプなんだ。そんな献身的な男だからこそ、周りのみんなも自然と彼に惹きつけられて、同じくらい献身的に動くんだと思う。ツアー・チームも、バンドも、クルーも、彼に関わる人たちみんなが素晴らしい人間ばっかりでさ。お互いのために一生懸命やっていて、自分の仕事に誇りを持っている。それがツアー・バンドとして参加している僕らにとってもすごく刺激的だった。それに、ジェームスってとても的確なんだ。彼のスタジオは信じられないくらい素晴らしくて、機材もすべて揃ってる。彼って本当に全てを捧げる人なんだよ。

——エレクトロニック・ミュージックの影響を反映した現代的なロック・ミュージックの先駆であるLCDサウンドシステム、そしてDJとしての顔を持ちハードコア・パンクをルーツとするジェームス・マーフィーは、アイドルズというバンドやあなた自身にとってもロールモデルと言える存在であり、共感を寄せる対象だったのではないかと思います。

ジョー:つまりさ、僕たちの共通点って結局、音楽が大好きってことだと思うんだ。僕もジェームスも、心の底から良いと思える音楽や芸術でなければ本気でやろうとは思わない。自分たちの音楽やアート、ライブに情熱と生命力を求めていて、そのエネルギーってソウル・ミュージックやパンク、ハードコア、そしてテクノみたいなジャンルから湧き上がってくるものなんだ。そのエネルギーこそが僕たちが追い求めるもので、そのために懸命に努力している。僕らは2人とも、くだらないことには絶対に手を出さないよ。

——コラボレーションといえば、昨年末にリリースされた「Pop Pop Pop」のリミックスでダニー・ブラウンがフィーチャーされていたのもサプライズでした。

ジョー:ラッパーとコラボしたいと思っていて、それでグラストンベリーのステージで「Pop Pop Pop」をやるときにラッパーをフィーチャーするアイデアが浮かんだんだ。ダニー・ブラウンは僕が大好きなラッパーの一人で、彼はすでにグラストンベリーでパフォーマンスした経験もあったからさ。それで彼と知り合いのケニー・ビーツを通じてお願いしたら、すごく乗り気でね。本当に最高だったよ。そこからダニーと意気投合して、ボーエンと僕でケニーや他のラッパーたちと一緒に何か新しい音楽をつくろうって動き出したんだ。

それでダニーと話してたら、グラストンベリーの後で「Pop Pop Pop」に彼がヴァースを入れてくれることになった。本当に嬉しかったよ。これからもダニーと一緒に仕事ができるのが楽しみで仕方ないね。

ジョーが見るヒッピホップ・シーン

——今名前の出たケニー・ビーツは、ヴィンス・テイプルズやリコ・ナスティのプロダクションを手がけるなど今のヒップホップ・シーンと関わりの深い人物ですが(※「Tangk」にはナイジェル・ゴドリッチと共に共同プロデューサーとして参加)、ジョー自身は最近のヒップホップ・シーンをどう見ていますか。

ジョー:2013年頃から、エイサップ(・ロッキー)やケンドリック(・ラマー)、ダニー・ブラウンみたいな新しいラッパーが出てきて、デンゼル・カリーのような新しいスタイルも加わって、ヒップホップは大きく進化したと思う。僕がその頃、ヒップホップのDJをやっていて、リリックや姿勢に新しい息吹を感じて、限界を押し広げようとする勢いがすごかったんだ。それで、90年代初頭を振り返ってみたんだけど、あの頃って音楽に対する熱意と倫理観があって、情熱のためにやってるって感覚が強かったと思うんだ。

でも、90年代半ばから2010年ぐらいにかけては、資本主義のグロテスクな美学——金、女、車とか、大衆向けの退屈なクソみたいな音楽が溢れていた時期もあった。そんな中から、本物のカルチャーを求める新しいラッパーたちが現れてきたんだ。だから、今のヒップホップは本当に素晴らしいと思うよ。

——そもそものヒップホップとの出会いはどんな感じだったんですか。

ジョー:僕がヒップホップと出会ったのは10歳くらいの時で、ファーサイドの「Bizarre Ride II the Pharcyde」ってアルバムを聴いたんだ。いい曲がたくさん入っていて、次の「Labcabincalifornia」ってアルバムも最高だった。ミュージック・ビデオもすごくて、特にスパイク・ジョーンズが監督した「Drop」は逆再生とか斬新な演出で本当にヤバかった。とにかく、それまで聴いたことのない斬新なサウンドで、ヒップホップは僕にある種の“目標”を与えてくれたんだ。夢中だったよ。もっとも、イギリスの白人中流階級のガキにとっては完全に異質な文化だったけど、そこには真の“目的意識”があった。僕は昔から、そういう本物の目的意識を持った人や物事に惹かれるタイプでさ。で、それまで長い間ギター・ミュージックばかり聴いてたんだけど、ヒップホップと出会って、再びギター・ミュージックとの繋がりを発見した――そんな感じだね。

——ちなみに、バンドを始める前にDJをしていた頃は、どんな音楽をかけていたんですか。

ジョー:ロンドンのゴス・ナイトにちなんで「バット・ケイブ」って自分のイベントをやっていたんだ。最初はポスト・パンクやインディー・パンク、クラウト・ロックなんかをかけてたんだけど、そこからハウス・ミュージックやテクノ、ヒップホップにも手を出して、だんだん幅が広がっていった。それから7年間はヒップホップ中心のイベントもやってて、グライム、ガラージ、ジャングルとか、いろんなジャンルをかけていたよ。

——先ほど話に出た「Pop Pop Pop」は、グライムなどUKのクラブ・ミュージックを吸収したダンス・ロック・ナンバーでしたが、最近のグライムについてはどうですか。

ジョー:いいMCはたくさんいるよ。今はドリルの方が人気だけど、地球上で最高のMCたちは何人か現役で活躍している。イギリスだとスケプタは今でもすごいし、ディー ダブル イー(D Double E)はずっと最高だよ。いいものがどんどん出てきてるね。フリスコってやつがいて、彼は昔からやってるんだけど、音楽のクオリティがずっと一貫している。本当にいいよ。もっとたくさんの人に聴いてほしいけど、UKってとても小さな場所で、文化的に不安定だから流行が目まぐるしく変わるんだ。特定の都市に人口が集中してる小さな国だから、常に物事が動いてて、みんなある週末にはある方向を見て、次の週末には違う服を着ているー―そんなふうに何かが始まったり終わったりを繰り返している。でも、グライムはいつだって最高だよ。

ブリストルの音楽シーン

——地元のブリストルの音楽シーンはどうですか。

ジョー:ブリストルの音楽シーンってほんと独特で、イギリスで一番、人口あたりのミュージシャンが多い街なんじゃないかな。でも、ブリストル特有のサウンドってのがなくて、最後に「ブリストル・サウンド」って呼ばれたのはトリップホップの時代くらいだね。それ以来、ブリストルは多様性を尊重して、みんなが好きなことを自由にやっている。本当の意味でのコミュニティはあるけど、特定のシーンやそれを象徴する音はないんだ。ただみんなが楽しんで、音楽をつくってるだけで。

それってある意味、流動性や危機感がないっていうか、ミュージシャンに前に進もうっていう野心が薄いということなのかもしれないね。ブリストルはパーティーの街だから、みんな居心地がいいんだろう。でも、ほんといい街だよ。

——最近のブリストルは? 

ジョー:ここ一年くらいブリストルには行ってなくてさ。世界中をツアーで飛び回ってたから。実は、スクイッドは僕らの隣の部屋で練習してたんだよ。だから彼らに聞けば今のブリストルのことがわかるんじゃないかな(笑)。ブリストルには僕が大好きなヘヴィー・ラングスっていう素晴らしいバンドがいて、今も最高だよ。ただ、もうしばらくブリストルの音楽をちゃんと聴けてなくて。最近、家にいるときは娘を追いかけ回したり(笑)、サイクリングしたり、ボクシングしたりして過ごしてるからね。

アイドルズとファッション

——ところで、今回の「Tangk」のアーティスト写真でギタリストのマークがドレスを着ていたのが目を引きました。

ジョー:(ドレスを着た理由は)分からない。ただ、その方が快適だからドレスを着るようになったんじゃないかな。以前はいつもパンツ一丁で演奏してたから(笑)、自分を表現できるような服装にしたかったんだと思う。彼にとってはドレスを着て演奏する方がずっと快適なんだ。それだけのことだよ。彼に直接聞いたわけじゃないけどね。

——マークはいつもあんな感じで自由なんですか。

ジョー:時々ドレスを着るんだ。メンバーみんなそれぞれのスタイルがあるけど、まあ、確かに彼の感性が独特だね(笑)。

——例えば、作品をリリースするごとにアーティスト写真も刷新されると思いますが、そうしたビジュアル的な部分も含めてバンドのプレゼンスをどのように打ち出していくかについて、何か考えられていることはありますか。

ジョー:まあ、ステージでは、ファッションで自分を表現することはないんだ。観客には服じゃなくて、僕の目をじっと見てほしい。僕の痛み、美しさ、愛、喜びを感じてほしい。これは劇場だけど、本物の劇場だから。僕が感じていることをそのまま伝えるために、できるだけ真っ白なキャンバスでいたいと思っている。そうすれば、観客も僕が感じていることを感じることができるからね。

でも、普段の生活ではファッションが大好きだし、服で自分を表現するのは楽しいよ。素敵な服を着られる余裕があることは、人生を楽しく豊かにしてくれると思う。今は日本にいるから、日本のファッションにも興味があるよ。実は、ボーエンのお気に入りのドレスはミヤケ(「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」)のものなんだ。僕もそのドレスが大好きだよ。でも、ボーエンと僕はファッションにすごく興味があるけど、他の3人はそうでもなくて。アルバムとは関係ない話だけど、僕とボーエンにとっては大事なことなんだ。だからできれば、他の3人にも素敵な服を着せてあげたいくらいだよ。力づくでね(笑)。

——最近買ったお気に入りのワードローブを教えてください。

ジョー:コートを買ったばかりなんだ。ブランドは……「スティル・バイ・ハンド(STILL BY HAND」だね。僕はビンテージの服を集めるのが好きで、靴は「ジャック・ソロヴィエール(Jacques Solovière)」がお気に入り。履き心地がいいし、美しいからね。僕の理想のスタイルは、折衷的(eclectic)で、いかにも「分かってる」感じに見せつつ、普通のスタイルの枠を壊すこと。でも、クラシックなセンスは絶対に忘れない。だから、クレイジーに見せるんじゃなくて、例えば「ラングラー(WRANGLER)」のジーンズに「ラコステ(LACOSTE)」のベストを合わせるみたいな感じで、普通に快適に見えるようしてる。

音楽も同じで、折衷的な自分を表現するのが大好きだよ。アルバムにはグライムの曲もあれば、バラードもハードロックもある。僕はただ、美しいものすべてから借りたり盗んだりしたいだけなんだ。いつもそうとは限らないけれど、それがしっくりくるんだ。

——ちなみに、今回の日本滞在で何か素敵な出会いはありましたか。

ジョー:昨夜は本当に特別な夜だったよ。ビートカフェのKatomanのところに遊びに行って、彼のお気に入りの居酒屋に連れてってもらったんだ。その後、ゴールデン街の「ナイチンゲール」っていうノイズ・ミュージック・バーに行ったんだけど、74歳のおじいさんがサバの頭を料理してくれたりして、日本文化の美しいコントラストが最高だった。こじんまりとした静かで落ち着いた居酒屋から、一気にノイズ・ミュージックと刺激的なビジュアルが溢れるバーに移動するっていうギャップがね(笑)。街に活気があって、ほんと最高だったよ。

この1年を振り返って

——前回(2023年の「フジロック」出演時)インタビューした際※に、制作中だった「Tangk」について「僕たちが大事にしているものを祝福するようなアルバムをつくりたい」と話していたのが印象に残っています。そうした作品を携えてツアーで世界中を旅してきたこの1年間は、振り返ってどんな時間でしたか。
※前回のインタビューはこちら

ジョー:とても濃密で実りの多い時間だったと思う。僕がこのアルバムに求めていたのは、祝福の感覚と一体感、そして愛を感じられるシンプルなものだった。僕たちはこのアルバムを持って世界中をツアーで回るつもりでいた。日本、ヨーロッパ、ギリシャ、イギリス、アメリカ――どこもかしこも政治的に不安定な状況が続いているのは明らかだよ。この先に何が起こるか考えると、不安になるし、時には恐ろしくもある。でも、僕は愛と情熱を持ってこの時代に立ち向かいたかった。それが一番大切なことだと思う。人と人とのつながりって本来とてもシンプルなものなのに、強欲や恐怖が複雑に絡み合って難しくしてしまっている。

アーティストとして大事なのは、人々が自分自身と再びつながる手助けをすることだと思う。自分自身とのつながりを感じられれば、他者に心を開くことも自然とできるからね。音楽や芸術は、そのために僕たちが提供できるものだと思う。政治やお金、成功は与えられないけど、つながりや表現する場——それが鏡であれ、何かの枠組みであれ——そういう意図を提供したいんだ。

——先日のライブでは「Viva Palestina!」と叫ぶ場面もありました。

ジョー:世界はますます混沌としてきてる。でも、僕はそのことを深く考えすぎないようにしてる。ただ、僕には発言できるプラットフォームがあって、何か考えたときはすぐにその場で発信するんだ。パレスチナで起こったこと、そして今も続いてること――それは戦争犯罪だよ。ボスニアやルワンダで起きたことと同じだ。イギリスが残虐行為に目を背けたのはこれが初めてじゃない。もしボスニア紛争のときに僕が今くらい大人だったら、立ち上がっていたと思う。イラク戦争のときは16歳で、街頭に出て抗議したよ。足があって、自分が信じるモラルがある限り、行進するし、ステージからも発言する。それは僕にとって難しいことじゃない。ただ、それで大きな変化が起こせるとは思ってないよ。

ちょっとした祈りとか、捧げ物みたいなものなんだ。神様がいるわけじゃない。それは信仰心みたいなもので、自分が信じたことをやるしかない。そうでないなら、やるべきじゃないよ。すべてのミュージシャンが「これをやめろ、あれをやれ」って言う必要はないと思う。そういうことじゃない。ただ、これが僕のやり方というだけでね。自分が誰かより優れてるとも劣ってるとも思わない。音楽家としての義務というよりも、人としての義務だと思うんだ。自分がされたいように人を扱う――それが大事なんだ。だから、僕はステージに立っている。

——最後に、あのミュージック・ビデオについて教えてください。AIでコールドプレイのクリス・マーティンが歌っているかのように加工した、「Grace」のミュージック・ビデオについて。

ジョー:(日本語で)ハイ(笑)。レコーディングの前にロンドンのナイジェルのスタジオでその曲を書いたんだけど、彼がすごく気に入ってくれて。ただ、僕にはちょっとコールドプレイっぽく感じられて、面白いなって思ったけど、僕自身も気に入ったんだ。僕は特に初期のコールドプレイが大好きでさ。それで、スタジオにいる時にすぐにそのアイデアが浮かんだんだ。「A Iでクリス・マーティンに僕の歌詞を歌ってもらえたら最高だな」って。すぐにクリエイティブ・カンパニーに依頼したよ。時間がかかるのは分かってたからね。クリス・マーティンかコールドプレイのマネージメントの許可が必要だったから、僕のマネージャーがクリスを知ってる人に電話してくれて、そしたらクリス本人から僕に電話がかかってきたんだ。

彼はそのことを僕と話したかったみたいで、とても親切でいい人だったよ。「面白そうだね、全然OKだよ」って言ってくれて。それで、出来たものを彼に送ったんだけど、彼はそれに満足してなかったみたいでさ。そしたら、実際にクリスが僕の歌詞を歌っているビデオ録画して送ってくれて、僕たちを助けてくれたんだ。本当に素晴らしかったよ。とても親切で、いい人だね。

——コールドプレイのファンに怒られなかった?

ジョー:大丈夫だったよ(笑)。彼には自分の文化的な背景と僕たちの文化的な背景がちゃんと理解できている。それで、「どうぞからかって、楽しんでくれ」って言ってくれたんだ。

——ちなみに、首からも覗いているタトゥーにまつわるエピソードについて、何か教えてもらえますか。

ジョー:パパは首のタトゥーが嫌いだから、「ポップス」って入れてやったんだよ、パパって意味さ。いろいろあるけど……これって、間違った決断のタペストリーみたいなもんだね。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA

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UKバンド、アイドルズ(IDLES)が語る最新アルバム「Tangk」 LCDサウンドシステムやコールドプレイとの関係性も

PROFILE: アイドルズ(IDLES)

PROFILE: 英ブリストルで結成。メンバーはジョー・タルボット(vocals)、ダム・デヴォンシャー(bass)、マーク・ボーウェン(guitars)、リー・キアナン(guitars)、ジョン・ビーヴィス(drums)の5人で、2017年にデビュー・アルバム「Brutalism」をリリース。18年にはセカンド・アルバム「Joy As An Act Of Resistance」を、20年にはサード・アルバム「Ultra Mono」をリリース。サードアルバムはUKチャートの1位を獲得した。21年には、ケニー・ビーツとギタリスト、マーク・ボーウェンの共同プロデュースによる4枚目のアルバム「Crawler」を、24年2月に5枚目のアルバム「Tangk」をリリースした。

昨年2月にリリースした最新アルバム「Tangk」が、先日のグラミー賞で「Best Rock Album」にノミネートされたアイドルズ(IDLES)。かれらのアルバムが同賞の候補に選ばれるのは前作「Crawler」(2021年)に続いて2作連続で、英国出身でこれほど世界的な評価を獲得しているバンドは、近年では稀有な存在と言えるだろう。2000年代の終わりにブリストルで結成され、硬質なパンク・サウンドでインパクトを残したデビュー・アルバム「Brutalism」(17年)から8年。フロントマンのジョー・タルボット(Joe Talbot)が率いるこの5人組は、聴く者の感情に深く訴えかける音楽をつくり続けることで支持を広げ、フー・ファイターズやメタリカからも一目置かれるワールド・クラスのバンドへと飛躍を遂げた。そして、レディオヘッドやベックを手がけるナイジェル・ゴドリッチを共同プロデューサーに迎えた5作目の「Tangk」は、これまで以上に多様な音楽的要素が交錯する、アイドルズの新たな局面を示した作品だった。

アイドルズを始める前はDJとして活動し、熱心なヒップホップ・ヘッズだったというジョー。前作、前々作「Ultra Mono」(20年)に続いてケニー・ビーツ(ヴィンス・ステイプルズ、リコ・ナスティ)がプロダクションに関わる「Tangk」は、そんなジョーが近年のヒップホップやグライムに寄せる共感が色濃く投影された作品でもある。昨年末には、ラッパーのダニー・ブラウンをフィーチャーしたシングルも大きな話題を呼んだ。「イギリスの白人中流階級のガキだった僕に、ヒップホップは真の目的意識を与えてくれた」——そう語るジョーに、1月に行われた来日公演の後日、そのヒップホップとの出会いや「Tangk」の制作の裏側、そして彼が貫く「スタイル」の核心を聞いた。

アルバム「Tangk」について

——新作「Tangk」でプロデュースを依頼したナイジェル・ゴドリッチとの作業はどうでしたか。

ジョー・タルボット(以下、ジョー):本当に素晴らしかったよ。特にレコーディングのプロセスがね。彼は事前に用意されたものではなく、その瞬間に生まれるものを捉えようとしていた。瞬間のマジック――意図しないミスやグリッチ(不具合)、いろんな偶然をテープ・ループで取り込んでいくことで、楽曲そのものより演奏することに集中できた。それは僕たちにとってかなり異例なアプローチだったよ。

普通なら、曲をしっかりつくり込んで、ヴァース、コーラス、ブリッジといった構成を練り上げるんだけど、ナイジェルはそんなことに興味がなかった。彼は僕たちがその瞬間に集中し、目の前の音にまるで瞑想するみたいに意識を向けることを大切にした。だからすごく斬新で、一緒にやるのはかなりチャレンジングだったよ。

——「Tangk」はダンス・フィールにあふれたアルバムで、特にLCDサウンドシステムのジェームス・マーフィーとナンシー・ワンが参加した「Dancer」は象徴的なナンバーだと思います。これはどういう経緯で実現したコラボレーションだったのでしょうか。

ジョー:あれは確か(ギタリストのマーク・)ボーエンが書いた曲だったと思う。このアルバムで僕が目指していたのは、人々を踊らせて、心から音楽を感じてもらい、何か普遍的な感情を呼び起こすような音楽をつくることだった。幻滅の時代だからこそ、聴く人の感情に寄り添って、頭で考えるよりも人間の根源的な感覚を呼び覚まし、自分自身の存在を肯定できるような音楽が必要だと思ったんだ。それで曲を書いて、レコーディングして、アメリカでLCDサウンドシステムと一緒にツアーを始めた時に、ナイジェルから電話がかかってきたんだ。「バッキング・ボーカルがこの曲に合ってない」って。

バッキング・ボーカルは僕が書いたんだけど、メロディとハーモニーはジェームスとナンシーをイメージして書いたものだった。男性の力強いファルセットと、女性の物憂げなハーモニーの組み合わせをね。ちょうど一緒にツアー中だったからお願いしてみたら、ニューヨークにある彼らのスタジオに連れて行ってくれて、そこで一日一緒に過ごすことができた。本当にクレイジーで最高な体験だったよ。

——ジェームスはどんな人でした?

ジョー:ジェームスはとてもミステリアスな人だよ。知的で、強い意志を持っていて、仕事にも家族にも友だちにも全力で全てを捧げるタイプなんだ。そんな献身的な男だからこそ、周りのみんなも自然と彼に惹きつけられて、同じくらい献身的に動くんだと思う。ツアー・チームも、バンドも、クルーも、彼に関わる人たちみんなが素晴らしい人間ばっかりでさ。お互いのために一生懸命やっていて、自分の仕事に誇りを持っている。それがツアー・バンドとして参加している僕らにとってもすごく刺激的だった。それに、ジェームスってとても的確なんだ。彼のスタジオは信じられないくらい素晴らしくて、機材もすべて揃ってる。彼って本当に全てを捧げる人なんだよ。

——エレクトロニック・ミュージックの影響を反映した現代的なロック・ミュージックの先駆であるLCDサウンドシステム、そしてDJとしての顔を持ちハードコア・パンクをルーツとするジェームス・マーフィーは、アイドルズというバンドやあなた自身にとってもロールモデルと言える存在であり、共感を寄せる対象だったのではないかと思います。

ジョー:つまりさ、僕たちの共通点って結局、音楽が大好きってことだと思うんだ。僕もジェームスも、心の底から良いと思える音楽や芸術でなければ本気でやろうとは思わない。自分たちの音楽やアート、ライブに情熱と生命力を求めていて、そのエネルギーってソウル・ミュージックやパンク、ハードコア、そしてテクノみたいなジャンルから湧き上がってくるものなんだ。そのエネルギーこそが僕たちが追い求めるもので、そのために懸命に努力している。僕らは2人とも、くだらないことには絶対に手を出さないよ。

——コラボレーションといえば、昨年末にリリースされた「Pop Pop Pop」のリミックスでダニー・ブラウンがフィーチャーされていたのもサプライズでした。

ジョー:ラッパーとコラボしたいと思っていて、それでグラストンベリーのステージで「Pop Pop Pop」をやるときにラッパーをフィーチャーするアイデアが浮かんだんだ。ダニー・ブラウンは僕が大好きなラッパーの一人で、彼はすでにグラストンベリーでパフォーマンスした経験もあったからさ。それで彼と知り合いのケニー・ビーツを通じてお願いしたら、すごく乗り気でね。本当に最高だったよ。そこからダニーと意気投合して、ボーエンと僕でケニーや他のラッパーたちと一緒に何か新しい音楽をつくろうって動き出したんだ。

それでダニーと話してたら、グラストンベリーの後で「Pop Pop Pop」に彼がヴァースを入れてくれることになった。本当に嬉しかったよ。これからもダニーと一緒に仕事ができるのが楽しみで仕方ないね。

ジョーが見るヒッピホップ・シーン

——今名前の出たケニー・ビーツは、ヴィンス・テイプルズやリコ・ナスティのプロダクションを手がけるなど今のヒップホップ・シーンと関わりの深い人物ですが(※「Tangk」にはナイジェル・ゴドリッチと共に共同プロデューサーとして参加)、ジョー自身は最近のヒップホップ・シーンをどう見ていますか。

ジョー:2013年頃から、エイサップ(・ロッキー)やケンドリック(・ラマー)、ダニー・ブラウンみたいな新しいラッパーが出てきて、デンゼル・カリーのような新しいスタイルも加わって、ヒップホップは大きく進化したと思う。僕がその頃、ヒップホップのDJをやっていて、リリックや姿勢に新しい息吹を感じて、限界を押し広げようとする勢いがすごかったんだ。それで、90年代初頭を振り返ってみたんだけど、あの頃って音楽に対する熱意と倫理観があって、情熱のためにやってるって感覚が強かったと思うんだ。

でも、90年代半ばから2010年ぐらいにかけては、資本主義のグロテスクな美学——金、女、車とか、大衆向けの退屈なクソみたいな音楽が溢れていた時期もあった。そんな中から、本物のカルチャーを求める新しいラッパーたちが現れてきたんだ。だから、今のヒップホップは本当に素晴らしいと思うよ。

——そもそものヒップホップとの出会いはどんな感じだったんですか。

ジョー:僕がヒップホップと出会ったのは10歳くらいの時で、ファーサイドの「Bizarre Ride II the Pharcyde」ってアルバムを聴いたんだ。いい曲がたくさん入っていて、次の「Labcabincalifornia」ってアルバムも最高だった。ミュージック・ビデオもすごくて、特にスパイク・ジョーンズが監督した「Drop」は逆再生とか斬新な演出で本当にヤバかった。とにかく、それまで聴いたことのない斬新なサウンドで、ヒップホップは僕にある種の“目標”を与えてくれたんだ。夢中だったよ。もっとも、イギリスの白人中流階級のガキにとっては完全に異質な文化だったけど、そこには真の“目的意識”があった。僕は昔から、そういう本物の目的意識を持った人や物事に惹かれるタイプでさ。で、それまで長い間ギター・ミュージックばかり聴いてたんだけど、ヒップホップと出会って、再びギター・ミュージックとの繋がりを発見した――そんな感じだね。

——ちなみに、バンドを始める前にDJをしていた頃は、どんな音楽をかけていたんですか。

ジョー:ロンドンのゴス・ナイトにちなんで「バット・ケイブ」って自分のイベントをやっていたんだ。最初はポスト・パンクやインディー・パンク、クラウト・ロックなんかをかけてたんだけど、そこからハウス・ミュージックやテクノ、ヒップホップにも手を出して、だんだん幅が広がっていった。それから7年間はヒップホップ中心のイベントもやってて、グライム、ガラージ、ジャングルとか、いろんなジャンルをかけていたよ。

——先ほど話に出た「Pop Pop Pop」は、グライムなどUKのクラブ・ミュージックを吸収したダンス・ロック・ナンバーでしたが、最近のグライムについてはどうですか。

ジョー:いいMCはたくさんいるよ。今はドリルの方が人気だけど、地球上で最高のMCたちは何人か現役で活躍している。イギリスだとスケプタは今でもすごいし、ディー ダブル イー(D Double E)はずっと最高だよ。いいものがどんどん出てきてるね。フリスコってやつがいて、彼は昔からやってるんだけど、音楽のクオリティがずっと一貫している。本当にいいよ。もっとたくさんの人に聴いてほしいけど、UKってとても小さな場所で、文化的に不安定だから流行が目まぐるしく変わるんだ。特定の都市に人口が集中してる小さな国だから、常に物事が動いてて、みんなある週末にはある方向を見て、次の週末には違う服を着ているー―そんなふうに何かが始まったり終わったりを繰り返している。でも、グライムはいつだって最高だよ。

ブリストルの音楽シーン

——地元のブリストルの音楽シーンはどうですか。

ジョー:ブリストルの音楽シーンってほんと独特で、イギリスで一番、人口あたりのミュージシャンが多い街なんじゃないかな。でも、ブリストル特有のサウンドってのがなくて、最後に「ブリストル・サウンド」って呼ばれたのはトリップホップの時代くらいだね。それ以来、ブリストルは多様性を尊重して、みんなが好きなことを自由にやっている。本当の意味でのコミュニティはあるけど、特定のシーンやそれを象徴する音はないんだ。ただみんなが楽しんで、音楽をつくってるだけで。

それってある意味、流動性や危機感がないっていうか、ミュージシャンに前に進もうっていう野心が薄いということなのかもしれないね。ブリストルはパーティーの街だから、みんな居心地がいいんだろう。でも、ほんといい街だよ。

——最近のブリストルは? 

ジョー:ここ一年くらいブリストルには行ってなくてさ。世界中をツアーで飛び回ってたから。実は、スクイッドは僕らの隣の部屋で練習してたんだよ。だから彼らに聞けば今のブリストルのことがわかるんじゃないかな(笑)。ブリストルには僕が大好きなヘヴィー・ラングスっていう素晴らしいバンドがいて、今も最高だよ。ただ、もうしばらくブリストルの音楽をちゃんと聴けてなくて。最近、家にいるときは娘を追いかけ回したり(笑)、サイクリングしたり、ボクシングしたりして過ごしてるからね。

アイドルズとファッション

——ところで、今回の「Tangk」のアーティスト写真でギタリストのマークがドレスを着ていたのが目を引きました。

ジョー:(ドレスを着た理由は)分からない。ただ、その方が快適だからドレスを着るようになったんじゃないかな。以前はいつもパンツ一丁で演奏してたから(笑)、自分を表現できるような服装にしたかったんだと思う。彼にとってはドレスを着て演奏する方がずっと快適なんだ。それだけのことだよ。彼に直接聞いたわけじゃないけどね。

——マークはいつもあんな感じで自由なんですか。

ジョー:時々ドレスを着るんだ。メンバーみんなそれぞれのスタイルがあるけど、まあ、確かに彼の感性が独特だね(笑)。

——例えば、作品をリリースするごとにアーティスト写真も刷新されると思いますが、そうしたビジュアル的な部分も含めてバンドのプレゼンスをどのように打ち出していくかについて、何か考えられていることはありますか。

ジョー:まあ、ステージでは、ファッションで自分を表現することはないんだ。観客には服じゃなくて、僕の目をじっと見てほしい。僕の痛み、美しさ、愛、喜びを感じてほしい。これは劇場だけど、本物の劇場だから。僕が感じていることをそのまま伝えるために、できるだけ真っ白なキャンバスでいたいと思っている。そうすれば、観客も僕が感じていることを感じることができるからね。

でも、普段の生活ではファッションが大好きだし、服で自分を表現するのは楽しいよ。素敵な服を着られる余裕があることは、人生を楽しく豊かにしてくれると思う。今は日本にいるから、日本のファッションにも興味があるよ。実は、ボーエンのお気に入りのドレスはミヤケ(「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」)のものなんだ。僕もそのドレスが大好きだよ。でも、ボーエンと僕はファッションにすごく興味があるけど、他の3人はそうでもなくて。アルバムとは関係ない話だけど、僕とボーエンにとっては大事なことなんだ。だからできれば、他の3人にも素敵な服を着せてあげたいくらいだよ。力づくでね(笑)。

——最近買ったお気に入りのワードローブを教えてください。

ジョー:コートを買ったばかりなんだ。ブランドは……「スティル・バイ・ハンド(STILL BY HAND」だね。僕はビンテージの服を集めるのが好きで、靴は「ジャック・ソロヴィエール(Jacques Solovière)」がお気に入り。履き心地がいいし、美しいからね。僕の理想のスタイルは、折衷的(eclectic)で、いかにも「分かってる」感じに見せつつ、普通のスタイルの枠を壊すこと。でも、クラシックなセンスは絶対に忘れない。だから、クレイジーに見せるんじゃなくて、例えば「ラングラー(WRANGLER)」のジーンズに「ラコステ(LACOSTE)」のベストを合わせるみたいな感じで、普通に快適に見えるようしてる。

音楽も同じで、折衷的な自分を表現するのが大好きだよ。アルバムにはグライムの曲もあれば、バラードもハードロックもある。僕はただ、美しいものすべてから借りたり盗んだりしたいだけなんだ。いつもそうとは限らないけれど、それがしっくりくるんだ。

——ちなみに、今回の日本滞在で何か素敵な出会いはありましたか。

ジョー:昨夜は本当に特別な夜だったよ。ビートカフェのKatomanのところに遊びに行って、彼のお気に入りの居酒屋に連れてってもらったんだ。その後、ゴールデン街の「ナイチンゲール」っていうノイズ・ミュージック・バーに行ったんだけど、74歳のおじいさんがサバの頭を料理してくれたりして、日本文化の美しいコントラストが最高だった。こじんまりとした静かで落ち着いた居酒屋から、一気にノイズ・ミュージックと刺激的なビジュアルが溢れるバーに移動するっていうギャップがね(笑)。街に活気があって、ほんと最高だったよ。

この1年を振り返って

——前回(2023年の「フジロック」出演時)インタビューした際※に、制作中だった「Tangk」について「僕たちが大事にしているものを祝福するようなアルバムをつくりたい」と話していたのが印象に残っています。そうした作品を携えてツアーで世界中を旅してきたこの1年間は、振り返ってどんな時間でしたか。
※前回のインタビューはこちら

ジョー:とても濃密で実りの多い時間だったと思う。僕がこのアルバムに求めていたのは、祝福の感覚と一体感、そして愛を感じられるシンプルなものだった。僕たちはこのアルバムを持って世界中をツアーで回るつもりでいた。日本、ヨーロッパ、ギリシャ、イギリス、アメリカ――どこもかしこも政治的に不安定な状況が続いているのは明らかだよ。この先に何が起こるか考えると、不安になるし、時には恐ろしくもある。でも、僕は愛と情熱を持ってこの時代に立ち向かいたかった。それが一番大切なことだと思う。人と人とのつながりって本来とてもシンプルなものなのに、強欲や恐怖が複雑に絡み合って難しくしてしまっている。

アーティストとして大事なのは、人々が自分自身と再びつながる手助けをすることだと思う。自分自身とのつながりを感じられれば、他者に心を開くことも自然とできるからね。音楽や芸術は、そのために僕たちが提供できるものだと思う。政治やお金、成功は与えられないけど、つながりや表現する場——それが鏡であれ、何かの枠組みであれ——そういう意図を提供したいんだ。

——先日のライブでは「Viva Palestina!」と叫ぶ場面もありました。

ジョー:世界はますます混沌としてきてる。でも、僕はそのことを深く考えすぎないようにしてる。ただ、僕には発言できるプラットフォームがあって、何か考えたときはすぐにその場で発信するんだ。パレスチナで起こったこと、そして今も続いてること――それは戦争犯罪だよ。ボスニアやルワンダで起きたことと同じだ。イギリスが残虐行為に目を背けたのはこれが初めてじゃない。もしボスニア紛争のときに僕が今くらい大人だったら、立ち上がっていたと思う。イラク戦争のときは16歳で、街頭に出て抗議したよ。足があって、自分が信じるモラルがある限り、行進するし、ステージからも発言する。それは僕にとって難しいことじゃない。ただ、それで大きな変化が起こせるとは思ってないよ。

ちょっとした祈りとか、捧げ物みたいなものなんだ。神様がいるわけじゃない。それは信仰心みたいなもので、自分が信じたことをやるしかない。そうでないなら、やるべきじゃないよ。すべてのミュージシャンが「これをやめろ、あれをやれ」って言う必要はないと思う。そういうことじゃない。ただ、これが僕のやり方というだけでね。自分が誰かより優れてるとも劣ってるとも思わない。音楽家としての義務というよりも、人としての義務だと思うんだ。自分がされたいように人を扱う――それが大事なんだ。だから、僕はステージに立っている。

——最後に、あのミュージック・ビデオについて教えてください。AIでコールドプレイのクリス・マーティンが歌っているかのように加工した、「Grace」のミュージック・ビデオについて。

ジョー:(日本語で)ハイ(笑)。レコーディングの前にロンドンのナイジェルのスタジオでその曲を書いたんだけど、彼がすごく気に入ってくれて。ただ、僕にはちょっとコールドプレイっぽく感じられて、面白いなって思ったけど、僕自身も気に入ったんだ。僕は特に初期のコールドプレイが大好きでさ。それで、スタジオにいる時にすぐにそのアイデアが浮かんだんだ。「A Iでクリス・マーティンに僕の歌詞を歌ってもらえたら最高だな」って。すぐにクリエイティブ・カンパニーに依頼したよ。時間がかかるのは分かってたからね。クリス・マーティンかコールドプレイのマネージメントの許可が必要だったから、僕のマネージャーがクリスを知ってる人に電話してくれて、そしたらクリス本人から僕に電話がかかってきたんだ。

彼はそのことを僕と話したかったみたいで、とても親切でいい人だったよ。「面白そうだね、全然OKだよ」って言ってくれて。それで、出来たものを彼に送ったんだけど、彼はそれに満足してなかったみたいでさ。そしたら、実際にクリスが僕の歌詞を歌っているビデオ録画して送ってくれて、僕たちを助けてくれたんだ。本当に素晴らしかったよ。とても親切で、いい人だね。

——コールドプレイのファンに怒られなかった?

ジョー:大丈夫だったよ(笑)。彼には自分の文化的な背景と僕たちの文化的な背景がちゃんと理解できている。それで、「どうぞからかって、楽しんでくれ」って言ってくれたんだ。

——ちなみに、首からも覗いているタトゥーにまつわるエピソードについて、何か教えてもらえますか。

ジョー:パパは首のタトゥーが嫌いだから、「ポップス」って入れてやったんだよ、パパって意味さ。いろいろあるけど……これって、間違った決断のタペストリーみたいなもんだね。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA

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萩原利久 × 福徳秀介 × 大九明子 3人が語る映画「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」の舞台裏

PROFILE: (中央)萩原利久/俳優、(右)福徳秀介/ジャルジャル、(左)大九明子/映画監督

PROFILE: (はぎわら・りく)1999年2月28日生まれ、埼玉県出身。2008年にデビュー。ドラマ「美しい彼」(21/MBS)で注目を浴び、以降、映画・ドラマに多数出演。近年の主な出演作に、映画「ミステリと言う勿れ」(23)、「朽ちないサクラ」(24)、「キングダム 大将軍の帰還」(24)、「世界征服やめた」(25)、連続テレビ小説「おむすび」(24-25/NHK)、「リラの花咲くけものみち」(25/NHK)など。待機作に「花緑青が明ける日に」(声の出演)がある。 (ふくとく・しゅうすけ)1983年生まれ、兵庫県出身。関西大学文学部卒。同じ高校の後藤淳平と2003年にお笑いコンビ「ジャルジャル」を結成。TV・ラジオ・舞台・YouTubeなどで活躍。キングオブコント2020優勝。著書に、絵本「まくらのまーくん」(タリーズピクチャーブックアワード大賞受賞)、絵本「なかよしっぱな」、長編小説「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」、短編小説集「しっぽの殻破り」、最新作に恋愛短編小説「耳たぷ」がある。 (おおく・あきこ)横浜市出身。1997年に映画美学校第1期生となり、「恋するマドリ」(07)で長編映画監督デビュー。2017年「勝手にふるえてろ」で第30回東京国際映画祭コンペティション部門・観客賞、第27回日本映画プロフェッショナル大賞・作品賞を受賞。「私をくいとめて」(20)が第33回東京国際映画祭・TOKYOプレミア2020にて史上初2度目の観客賞、第30回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

お笑いコンビ、ジャルジャルの福徳秀介の小説家デビュー作「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」が映画化され、4月25日から公開された。監督は「勝手にふるえてろ」「私をくいとめて」などで個性的なヒロインを描いてきた大九明子(おおく・あきこ)。主人公の小西徹を演じるのはドラマ「美しい彼」で注目を集めた萩原利久。そして、小西をめぐる女性たち、桜田花を河合優美、さっちゃんを伊東蒼が演じている。大阪の大学でさえない日々を送っている小西。友達といえば、バイトで知り合ったさっちゃんと同じ大学に通う山根くらい。特に何かに熱中することもなく、淡々とした日々を送る小西は、いつも一人で飄々と学校に通っている桜田のことが気になり始める、というラブストーリーだ。自意識過剰でナイーブ、そんな若者たちの恋愛模様をみずみずしいタッチで描いた本作について、萩原、福徳、大九の3人に話を聞いた。

大九監督が惹かれた、映画化の決め手

——小説「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」は芸人とは違った福徳さんの一面を知ることができました。福徳さんはなぜ恋愛小説を書こうと思われたのでしょうか。

福徳秀介(以下、福徳):恋愛小説が好きだったので、恋愛ものしか書くつもりはなかったんです。なんやかんや言って、ほとんどの人が恋愛をしているわけで、そこら辺にいるおじさんも好きな人を想って寝る前に胸を痛めたりしてるよな、と思ったら面白くて仕方ないんですよ。

——きっと、ここにいるほとんどの人が恋愛体験してますもんね。大九監督は福徳さんの小説を読んで、どんなところに映画化の魅力を感じられたのでしょうか。

大九明子(以下、大九):プロデューサーから「これを映画化したい」と言われて小説を受け取って読み始めたんです。そして、さっちゃんの長台詞が出たあたりで「自分だったら、ここをどう撮るかな」って、映画を撮る目線で本にのめり込みました。

——小説を読まれて、福徳さんらしさを感じた箇所はありますか?

大九:やっぱりセリフですね。あと、小説を読んでいて、この人何か隠しているな、と思いました。

——というと?

大九:服装や街並みやいろんなことが丁寧に書かれているんですけど、急に端折ったような感じがするところがあるんです。そういうところに、何か言いたいけど隠しているんじゃないか、という気がして。シナハン(シナリオ・ハンティング)で関大(関西大学)にお邪魔した時に、小説に書かれている「プーケ」という店が「ケープ・コッド」として実在してたり、小説に書かれていることの中にリアルなものが隠されていることを知ったんです。シナハンをしながら、今誰も知らない福徳さんのことを発見しているんだ!と思うとジャルジャルの一ファンとしてゾクゾクしました。それで全部暴いてやれ!と思って、映画ではシナハンで発見した実在の店名や地名を使うことにしたんです。

福徳:最初は架空の大学を舞台にして書いていたんですけど、編集の人に「どこまでキャンパスを想像できてるの?」って言われたんです。「どこに何があるのか全部わかってないとダメだよ」って。それで関大を舞台にしようと思いました。

——それで舞台が母校になったんですね。主人公の小西にはご自分が投影されていたりするのでしょうか。

福徳:小西というより、桜田のほうに自分を注入したところがありますね。

——桜田のどんなところに?

福徳:佇まいというか。強いふりをする感じが、学生時代の自分みたいなところがあるな、と思います。

大九:知らなかった!

萩原利久が語る、小西というキャラクター

——意外ですね! 萩原さんが演じた小西は、ひとことでは言い表せないような複雑な内面を持ったキャラクターでした。萩原さんは小西という人物について、どんな風に感じていましたか?

萩原利久(以下、萩原):確かにひとことで言い表すのは難しいキャラクターでした。雨が降っていないのに傘をさして学校を歩いている、という外見上の特徴から変わったやつだということがわかるんですけど、そのイメージが先行してしまうと桜田やさっちゃんとの感情のやりとりが見えなくなってしまうような気がして。だから、一人の人間として小西に向き合いました。

——監督とは役について撮影前に話をされたりはしたのでしょうか。

萩原:撮影をしながら現場で作っていった部分が多かった気がします。脚本の段階でいろんな情報はありましたが、小西って自分主動で何かをやるというより、いろんな人との関わりの結果、それが行動に繋がっていく。小西を取り巻くキャラクターはみんな個性的で素敵なので、そういうキャラクターとのやりとりを通じて小西の芝居が生まれるんじゃないかと思ったんです。もちろん、自分なりにイメージはしていくんですけど、現場で感じること。関大のキャンパスの空気や共演者の方々のお芝居を受けることを大切にしようと思っていました。関大でロケできたのも大きかったです。撮影しながら関大生の声が聞こえてきたり、目の前の風景とか匂いからも刺激を受けました。

大九:今の萩原さんの話を聞いて思い出したんですけど、最初もうちょっと弱いというか、繊細で怯えた感じの小西を1回見せてくれたんです。そこに私がちょっとずつずるさみたいなものを足していきました。というのは、この映画は被害者が加害者に変わることがあることを描いている。だから小西が弱いだけではなく、その弱さゆえに人を傷つけてしまうところを匂わせるようにズルさみたいなものを出したかったんです。だからちょっと卑屈に笑ってもらったりして、萩原さんと一緒に小西を作っていきました。

萩原:監督は段取り(リハーサル)で自由に演技をさせてくれるんです。そのうえで、ここはもう少しこうしましょうか、とか、こういう要素を入れましょうか、とかいろいろと提案をしてくれる。それは細かく芝居を見てくれているということなんです。だから段取りでいろいろやってみたくなるんですよね。段取りの時って、大勢のスタッフの前で演技を見せる発表会みたいな場なんです。だから結構、緊張したりもする。でも、今回の現場では段取りが怖くなかった。それは監督をはじめすべてのスタッフが、作品をより良いものにしよう、という気持ちを共有しているからだと思います。すごく素敵な現場でした。

——映画を見ると役者の演技が皆さん活き活きしていますね。福徳さんは映画をご覧になって、どんな感想を持たれました?

福徳:映画の後半、桜田が一人で喋り出すシーンで急にアップになるじゃないですか。しかも、くそドアップ。あれはびっくりしましたね。しかも、それに耐えうる芝居が続いているのがすごい。映画を観ているうちに桜田の頭の中に入っていくような気がしました。あと、山根と小西が喧嘩するシーン。ケンカしなれてない奴らのケンカの感じがよく出てた(笑)。

——いろいろあって落ち込んだ小西が山根に八つ当たりするところですね。

福徳:小西が「ミキちゃん(山根が付き合っているという恋人)なんて本当はいないんじゃないの?」って言うじゃないですか。小説にはないセリフなんですけど、「うわあ、たまらんなあ」と思って観てました。小西はペットボトルいじりながら話してるし(笑)

大九:山根が買ってきてくれたのを飲まずに、自分の冷蔵庫から出してきたのを飲むんですよね(笑)。

萩原:そして、ラベルの水の原産地をずーっと見てる(笑)。

大九:こんな話どうでもいい、ということを表現するために、ラベルでも読みましょうかって萩原さんに伝えたんです。「ミキちゃんなんて本当はいないんじゃないの?」というセリフは、最初、荻原さんは怒った感じでやってくださったんですけど、本番では半笑いでやってもらいました。その方がイラつくので。そうやって、誰もが持っているズルさを小西にしっかり出したかったんです。きっと、この2人は初めて喧嘩したんだと思うんですよね。お互いに心を許しているから本音も吐ける。この喧嘩は、もう一段仲良くなるための儀式だったんじゃないかなって思います。

映画で描かれた“さっちゃん”の告白

——喧嘩のシーンや告白のシーンなど、登場人物の感情がマックスになるシーンは生々しい痛みを感じて胸に刺さりました。中でも、監督が小説で惹かれたさっちゃんの告白シーンは圧巻です。

萩原:今回、あのシーンのことを聞かれることが多いんですよ。「萩原さんはあのシーンについてどう思われますか?」って。

大九:「小西はどういうつもりなんだ」って?(笑)

萩原:そうです(苦笑)。取材で話をしているうちに、だんだん、僕だけでも小西の味方になってあげたいと思うようになってきました。小西は決して悪いやつじゃない。ただ、さっちゃんの告白を聞いて、その内容をしっかり理解しながらも、それに対して自分がどう返していいのかわからなくて頭の中がバグった状態になっていたんだと思うんです。小西なりに向き合おうとするだけど、どうしたらいいかわからないし、返せるだけのエネルギーもない。人としてすごく難しい局面だったと思います。

大九:今の萩原さんの話を聞いて、しめしめと思いました(笑)。この小説を読ませていただいた時に、完全なるボーイ・ミーツ・ガールの作品だと思ったんです。少年の視点を通じて女性たちが描かれていたので、これを私がお預かりして映画にする場合は、女性側の視点が盛り込めるところはどんどんやっていこうと思いました。そして、小西が見えてないところのさっちゃんや桜田の生き生きとした様を描いて、映画を観ている人がみんなさっちゃんの虜になるようにする。そして、最後は小西をギッタギタに泣かしてやる!っていうつもりでシナリオを書かせて頂いたんです。

——男性が書いた恋愛小説を女性の視線で映画化する、という構図が面白いですね。福徳さんは映画で描かれたさっちゃんや桜田に関しては、どんな感想を持たれました?

福徳:可愛らしいな、というのが第一印象でした。こんなに可愛らしく描くんやって思いました。だから、どんどんさっちゃんに感情移入していくし、「小西、何してんねん!」と思うんですよね。

——小説でさっちゃんの告白シーンを書いている時は、どんな気持ちだったのでしょうか。

福徳:「さっちゃん、早く言い終わってくれ!」という小西の気持ちになりつつ、ペンが止まりませんでした。でも、さっちゃんも悪いんですよ。あんなに長いこと喋ったらあかん。

大九:あははは

福徳:小西が100パーセント悪いように見えるけど、さっちゃんも悪い。つまり、2人の相性があかんかった、というのを、あのシーンで書きたかったんです。

不器用な若者たちが紡ぐ、等身大の青春

——クライマックスには小西が渾身の告白をするシーンがありますが、あのシーンはいかがでした?

萩原:あれだけの長台詞はこれまで経験したことがなかったんです。対話のシーンだったら日常の延長のようにお芝居ができるんですけど、あれだけの長台詞になると最終的には気合でやるしかない。現場の空気も緊迫感がありましたし、ここは俺がなんとかしないといけない!という覚悟で撮影に挑みました。

福徳:あのシーンは観ててすごく気持ちよかったです。小西がさっちゃんを見習って頑張った! でも冷静に考えたら、小西は自分の気持ちをぶつけてるだけなんですけどね。小西が変わってない感じが良いな、と思いました。この映画に出てくる人たちはみんな好きですね。

——そうですね。みんな不器用で、傷ついたり傷つけられたりしながら一生懸命生きている。恋愛映画としてはもちろん、青春映画としても魅力的な作品だと思いました。

大九:登場人物全員が未熟な若者であるっていうことを丁寧に撮りたいなと思ったんです。だから一人一人が壊れ物みたいなつもりで繊細に撮るようにしました。物語をドライブさせるためだけに人が傷ついたりすることがないようにして生の痛みを描きたいと思ったんです。

萩原:登場人物、一人一人が真面目に生きていて、相手と真剣に会話している。だからいろんな想いがぶつかって、傷ついたり傷つけられたりするんです。だからエンターテイメントとしての面白さもありつつ、心の底からいろんな感情が湧いてくる作品だと思います。同じシーンを観ていても人によって感想は違うと思うので、映画をご覧になった方々の感想を早く伺いたいです。

PHOTOS:RIE AMANO
STYLING:[RIKU HAGIWARA]TOKITA
HAIR&MAKEUP:[RIKU HAGIWARA]Emiy(Three Gateee LLC.)

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映画「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」

■映画「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」
4月25日からテアトル新宿ほか、全国ロードショー
原作:福徳秀介(「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」小学館刊)
監督・脚本:大九明子
出演:萩原利久 
河合優実 伊東蒼 黒崎煌代
安齋肇 浅香航大 松本穂香/古田 新太
製作:吉本興業 NTTドコモ・スタジオ&ライブ 日活 ザフール プロジェクトドーン
製作幹事:吉本興業 
制作プロダクション:ザフール 
配給:日活
©️2025「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」製作委員会
https://kyosora-movie.jp/

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「スタジオニコルソン」創業者、「POTR」とのコラボは「ただ一言、完璧」

PROFILE: ニック・ウェイクマン/「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター

ニック・ウェイクマン/「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: イギリス・ノッティンガム生まれ。ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツでテキスタイルの学士号を取得する。その後20年間、数多くの英国ブランドで経験を積み、2010年に「スタジオニコルソン」を創業。メンズウエアやテーラードからインスパイアした、ジェンダーフリーなデザインを得意とする PHOTO:DAISUKE TAKEDA
吉田カバンは、コラボ相手が“吉田カバンのファン”であることが多い。5月1日に発売する「ピー・オー・ティー・アール(POTR)」の最新コラボも例に漏れず、「スタジオニコルソン(STUDIO NICHOLSON)」のニック・ウェイクマン(Nick Wakeman)創業者兼クリエイティブ・ディレクターは、開口一番で吉田カバンへの愛を語った。同氏に、コラボコレクションへのこだわりを聞いた。

WWD:吉田カバンとは個人的な思い出があるとか。

ニック・ウェイクマン「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター(以下、ウェイクマン):1999年に初めて東京を訪れた際、街ですれ違う吉田カバンのバッグを持つ人たちに目が釘付けだったことを覚えている。自然と足先が東急ハンズに向き、代表作“タンカー”シリーズのヘルメットバッグを買っていた。その後も熱は冷めず、何度か購入している。

WWD:どのようにしてコラボが実現した?

ウェイクマン:「スタジオニコルソン」のコラボ担当者が、「POTR」を提案してきた。正直胸が高鳴った。前述した通り、私は吉田カバンのファンだから。加えて、吉田カバンと「スタジオニコルソン」のモノ作りには共通点が多い。これまでさまざまなブランドとコラボしてきたが、特別なものになると確認があった。

WWD:共通点とは?

ウェイクマン:機能性の追求や素材へのこだわり、汎用性あるデザインなど、枚挙にいとまがない。しかもお互い、それらに同じ熱量で取り組んでいる。(コラボとなるとブランドのこだわりがぶつかることもあるが、)スムーズに発売までもっていけた。

出来は「完璧」

WWD:コラボアイテムを初めて見たときの感想は?

ウェイクマン:ただ一言、「完璧」だと思った。

WWD:コラボコレクションを改めて説明してほしい。

ウェイクマン:“ボンサック”、ショルダーバッグ、キーウォレットの3型を用意した。中でもお気に入りは、“ボンサック”。数年前にこの型を「ポーター(PORTER)」の表参道店で購入して以来、平面に置いたときと実際に身に付けたときで変わるシルエットに夢中だ。

どのバッグも、マットな質感の100%リサイクルナイロン生地を使い、「スタジオニコルソン」のシグネチャーカラー“ダーケスト ネイビー”で染めた。ステッチを表に出さないようにしたのも、この色合いを存分に楽しんでもらうため。

「スタジオニコルソン」らしさは随所に散りばめた。例えば、ファスナーは、「スタジオニコルソン」のパンツのサイドファスナーを模したもの。ナイロンテープや付属のレザー部分には、通常の“四角バッテン”の代わりに、「スタジオニコルソン」のイニシャル“N”をあしらった。

WWD:一緒に働いたこそ気付いた吉田カバンの一面はあるか?

ウェイクマン:さまざまな装飾をあしらっても、ごちゃごちゃ感が一切ないこと。私も昨年からバッグコレクションを発表しており、作り手として学びが多かった。

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「スタジオニコルソン」創業者、「POTR」とのコラボは「ただ一言、完璧」

PROFILE: ニック・ウェイクマン/「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター

ニック・ウェイクマン/「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: イギリス・ノッティンガム生まれ。ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツでテキスタイルの学士号を取得する。その後20年間、数多くの英国ブランドで経験を積み、2010年に「スタジオニコルソン」を創業。メンズウエアやテーラードからインスパイアした、ジェンダーフリーなデザインを得意とする PHOTO:DAISUKE TAKEDA
吉田カバンは、コラボ相手が“吉田カバンのファン”であることが多い。5月1日に発売する「ピー・オー・ティー・アール(POTR)」の最新コラボも例に漏れず、「スタジオニコルソン(STUDIO NICHOLSON)」のニック・ウェイクマン(Nick Wakeman)創業者兼クリエイティブ・ディレクターは、開口一番で吉田カバンへの愛を語った。同氏に、コラボコレクションへのこだわりを聞いた。

WWD:吉田カバンとは個人的な思い出があるとか。

ニック・ウェイクマン「スタジオニコルソン」創業者兼クリエイティブ・ディレクター(以下、ウェイクマン):1999年に初めて東京を訪れた際、街ですれ違う吉田カバンのバッグを持つ人たちに目が釘付けだったことを覚えている。自然と足先が東急ハンズに向き、代表作“タンカー”シリーズのヘルメットバッグを買っていた。その後も熱は冷めず、何度か購入している。

WWD:どのようにしてコラボが実現した?

ウェイクマン:「スタジオニコルソン」のコラボ担当者が、「POTR」を提案してきた。正直胸が高鳴った。前述した通り、私は吉田カバンのファンだから。加えて、吉田カバンと「スタジオニコルソン」のモノ作りには共通点が多い。これまでさまざまなブランドとコラボしてきたが、特別なものになると確認があった。

WWD:共通点とは?

ウェイクマン:機能性の追求や素材へのこだわり、汎用性あるデザインなど、枚挙にいとまがない。しかもお互い、それらに同じ熱量で取り組んでいる。(コラボとなるとブランドのこだわりがぶつかることもあるが、)スムーズに発売までもっていけた。

出来は「完璧」

WWD:コラボアイテムを初めて見たときの感想は?

ウェイクマン:ただ一言、「完璧」だと思った。

WWD:コラボコレクションを改めて説明してほしい。

ウェイクマン:“ボンサック”、ショルダーバッグ、キーウォレットの3型を用意した。中でもお気に入りは、“ボンサック”。数年前にこの型を「ポーター(PORTER)」の表参道店で購入して以来、平面に置いたときと実際に身に付けたときで変わるシルエットに夢中だ。

どのバッグも、マットな質感の100%リサイクルナイロン生地を使い、「スタジオニコルソン」のシグネチャーカラー“ダーケスト ネイビー”で染めた。ステッチを表に出さないようにしたのも、この色合いを存分に楽しんでもらうため。

「スタジオニコルソン」らしさは随所に散りばめた。例えば、ファスナーは、「スタジオニコルソン」のパンツのサイドファスナーを模したもの。ナイロンテープや付属のレザー部分には、通常の“四角バッテン”の代わりに、「スタジオニコルソン」のイニシャル“N”をあしらった。

WWD:一緒に働いたこそ気付いた吉田カバンの一面はあるか?

ウェイクマン:さまざまな装飾をあしらっても、ごちゃごちゃ感が一切ないこと。私も昨年からバッグコレクションを発表しており、作り手として学びが多かった。

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お酒と香りのペアリングで東京のモンマルトルを盛り上げろ  神楽坂に登場した日本発香水「エディット」旗艦店の誕生秘話

日本発フレグランス「エディット(EDIT(H))」初の旗艦店が東京・神楽坂にオープンした。「エディット」は2018年に誕生。1905年創業の煉朱肉「日光印」6代目である葛和健太郎モリヤマ社長が、朱肉をルーツにした香水ブランドとしてスタートした。フランスのインテリア見本市「メゾン エ オブジェ(MAISON ET OBJET)」でデビューした当時は、日本発香水は少なかったが、ヨーロッパで認められ、現在10カ国で展開。日本国内では伊勢丹新宿本店や阪急メンズ東京など約20店舗で販売している。4月に初の旗艦店をバー併設で神楽坂に出店。葛和社長に、バー併設および神楽坂を選んだ理由を聞いた。

ハンコも香りもアイデンティティー

WWD:「エディット」を立ち上げた理由は?

葛和健太郎モリヤマ社長(以下、葛和):「日光印」6代目として、朱肉の技術を他の商品にどう反映するか考えた。ハンコは日本におけるアイデンティティーを示すもの、香水も同じく個人のアイデンティティーだと思う。朱肉には香りがある。粉末の香料を使うのだが、それをフレグランスにできないかと調香師と一緒に制作した。

WWD:ターゲットは?

葛和:自分らしい個性を意識する 20~40代のファッション感度の高い層に支持されている。

WWD:旗艦店では「エディット」以外も販売するようだが?

葛和:香港発「トバ(TOBBA)」やリトアニア発「ファム(FEMME)」を販売する。海外出張で色々なニッチフレグランスを制作している人々と出合う。輸入代理店は主要業務ではないが、業界の仲間の中からヨーロッパで注目されているが未上陸で日本市場に合いそうなものをピックアップして紹介している。

香りとお酒で神楽坂に新しいムーブメントを

WWD:神楽坂を初の旗艦店の場所に選んだ理由は?

葛和:表参道や銀座は、海外フレグランスのビッグネームの店がたくさんある。埋もれてしまうと思った。背伸びしてそのような場所に出店しなくても、日本発のブランドとして、思想に合う神楽坂に決めた。神楽坂は、皇居が近く伝統があり、日仏学院やフレンチのお店も多く、東京のモンマルトルと言われる街。和洋がうまくミックスされ「エディット」にぴったりだと思った。地元なので、ブランドを始めたときから、不動産屋を回って物件を探していてこの物件に出合った。ただ、神楽坂はミシュラン星付きの店が多い飲食の街。物販の街ではないが、ファーストペンギンとしてフレグランスの旗艦店を出店することで、新しいムーブメントを生み出せたらと考えた。そこで、香りだけでなく、お酒やお茶のペアリングができる店にした。ランチの後に紅茶が楽しめるし、夕食の前後にバーとしても楽しめる。街の人と共存しながら運営できればと思っている。

WWD:お茶とお酒のペアリングを考えたのは?

葛和:最初のコレクションで、ユニセックスなローズの香りを作りたいと思った。そこでできたのが“ローズモヒート”。それをリミックスさせて発展した香りが“カクテルレーン”だ。このようにしてお酒の香りが生まれた。それと同じように、お茶の香り“アールグレイ”が“スーチョンジャーニー”に発展。そして、これら香りの紅茶も作った。香水の香りを元にした紅茶やお酒が楽しめたら面白いと考えた。バーでは、バーテンダーが、香水のイメージのカクテルを即興で作って提供するし、日本のフレグランス市場は、まだ小さい。もっと、香水の楽しさを知ってもらう活動の一環として、香水とは違う入り口を作った。お茶やバーを飲みにきて、香りに出合う場になれば。だから、旗艦店限定の7.5mLのサイズをそろえて、気に入れば購入してもらえるようにしている。

WWD:フレグランス市場の盛り上がりについては?

葛和:香りは皆、関心があるものだと思う。香りの情報や提案が増えて、興味を持つ人が増えているが、楽しみ方を知るのが大切だ。ちゃんとした知識がないとブームで終わるので、香水の付け方などをちゃんと伝えていきたい。香りを文化的に育むような楽しみ方を発信していく。

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創業130周年「スワロフスキー」がグローバル成長する理由 CEOに聞く唯一無二のブランディングとリーダーシップ

PROFILE: アレクシ・ナザール(Alexis Nazare)スワロフスキーCEO

アレクシ・ナザール(Alexis Nazare)スワロフスキーCEO
PROFILE: レバノン生まれ。カリフォルニア大学バークレー校でMBAを取得。プロクター・アンド・ギャンブルやハイネケンなどで活躍。約30年、消費財・小売業界でさまざまな要職を歴任後、22年7月から現職

オーストリア発「スワロフスキー(SWAROVSKI)」は今年、130周年を迎えた。同ブランドは、ダニエル・スワロフスキーが1895年に“誰もが手にできるダイヤモンド”というビジョンを元に創業。革新的な研磨技術でカットしたクリスタルを開発し、高品質のクリスタルジュエリーやクリスタルパーツで世界的なリーダーになった。創業一族が長年ブランドを率いてきたが2022年に体制を一新。一時期厳しい時期もあったが、近年に黒字化し、グローバルで業績を伸ばしている。22年からスワロフスキーを率いるアレクシ・ナザール最高経営責任者(CEO)にビジネスについて聞いた。

WWD:リブランディングの具体的な内容は?

アレクシ・ナザール=スワロフスキーCEO(以下、ナザール): 初の一族ではないCEOとして革新をスタートした。「スワロフスキー」には、ヘリテージ、クリエイティビティー、クラフツマンシップ、クオリティーというラグジュアリー・ブランドが必要とする基盤がある。私の役目は、ブランドのDNAを理解して明確に全社員に伝えることだった。 “ジョイフル・エウストラバガンス(楽しい贅沢)”をテーマに、商品を手に取った全ての人が笑顔になるトレンドに左右されない独自のポジショニングを築いている。

WWD:業界で独自のポジショニングとは?

ナザール:時代が求めるラグジュアリーは、必要以上に高額であることでも、希少性でもない。「スワロフスキー」の一番の強みは、あらゆる消費者が手にすることのできるラグジュアリーを提案できる点。価格や商品レンジの広さでは唯一無二だ。1万円台〜4000万円台という幅広い価格帯において、複雑で精緻なジュエリーを提供している。カラフルでキラキラ輝くジュエリーは、高揚感や喜びをもたらすもの。ワクワクするジュエリーを、あらゆる消費者の予算やテイストに合わせてスケール感を持って展開している。誰もが欲しいと思うものがあるはずだ。

WWD:リブランディングで掲げる“ポップ・ラグジュアリー”とは?

ナザール:あらゆる消費者にアピールするブランドであると同時に、メットガラやウィーン・オペラ座舞踏会への協賛をはじめ、ラグジュアリー・ブランドに欠かせない文化的な活動に力を入れている。また、グローバル・ブランドアンバサダーにアリアナ・グランデ(Ariana Grande)を起用したコラボレーションジュエリーを発売し、話題になっている。

地道な戦略実践でジュエリー市場の成長率の3倍に

WWD:リブランディングしてからの業績の変化は?

ナザール:コロナ禍、インフレなど不安要素が多かったが、改革をスタートして3年連続で、ジュエリー市場の3倍の成長率を記録し、グローバルで成長している。

WWD:成長の理由をどのように分析する?

ナザール:予算、ターゲット、ガバナンス、リーダーシップアドあらゆる戦略が噛み合った結果だ。そのために、全てのスタッフに戦略を浸透させる努力をした。また、継続的に成長するには、謙虚に学ぶ姿勢が大事だ。日々の分析や学びをきちんと実践していけば結果は出る。

WWD:今後のグローバル戦略や強化点は?

ナザール:ジュエリー市場はまだ成長の余地があるので、数年、この戦略を継続する。コレクションをはじめ、店舗やコラボレーション、コミュニケーションなど全方位で具体性を持って強化していくつもりだ。

WWD:日本市場については?

ナザール:24年度の売上高、利益共に2ケタ成長している。訪日客よりも日本人客による売上高が大きい。グローバル戦略はもちろんだが、ローカル戦略が奏功している。日本は、われわれにとって重要な市場。規模だけでなく、文化的影響を与えるプラットフォームとしての役割を持つ。

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「バウンティーハンター」30周年 ヒカル × タカ 「90年代裏原ブーム」と「変わらない気持ち」

1995年、東京・原宿の竹下通りを抜けた住宅街の奥に、のちに伝説となる1軒のショップが誕生する。アメリカントイを中心に扱うおもちゃ屋さんでありながら、オリジナルTシャツなどのアパレルやオリジナルのフィギュアも展開し、どのアイテムも即完する爆発的な人気を博した。それが当時若者だった2人、ヒカルとタカが立ち上げた「バウンティーハンター(BOUNTY HUNTER)」である。近くには93年にオープンしたJONIO(高橋盾)とNIGO®の店「NOWHERE」があり、やがて周辺に次々と新進気鋭のストリートブランドが店を構えるようになると、一帯は「裏原宿」と呼ばれ、そこから生まれるざまざまな文化が一世を風靡。特にヒカルは、90年代後半から「smart」や「warp」といった雑誌に連載を持ちながら、独特のファッションが毎号のように誌面で紹介され、若者のカリスマとして絶大な支持を集めた。そんな裏原宿文化の象徴的存在だった「バウンティーハンター」の30周年を記念するアート展「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」が東京・神保町の「New Gallery」で現在開催中だ。30年間、2人で「バウンティーハンター」を守り続けてきたヒカルとタカに、当時の様子やこれまでの歩みを聞いた。

家賃が安ければ場所は
どこでもよかった

——「バウンティーハンター」がオープンした当時(1995年)の裏原宿は、どんな様子でしたか。

ヒカル:人なんか全然いなかったよね?

タカ:住んでる人しかいない、ほんと住宅街でした。

ヒカル:周りに店なんかも全然ないし、地元の人がいるだけ。

——そんな場所に出店を決めたのは?

ヒカル:たまたま物件が空いて、人が来ない場所だから家賃も安かったし。ほんと安ければ場所はどこでもいいと思ってたの。俺だって欲しいものがあれば、どこへでも買いに行くから。場所は関係ない。

——おもちゃ屋さんをやろうと思ったのは?

ヒカル:それもたまたま。おもちゃは子供の頃から大好きで、タカに「おもちゃ屋やりませんか?」って言われたから「いいよ」って。

タカ:僕もずっとおもちゃは好きだったし、当時はおもちゃ屋をやってる人がほとんどいなかったんですよ。90年代だと、渋谷に「ZAAP!」と恵比寿に「FLIP FLOP」があったくらいで。

ヒカル:もちろん新品で現行のおもちゃを売ってる店はあったけど、古いものとかジャンクっぽいものを扱ってる店はなかったね。

——もともと、ヒカルさんは文化服装学院の出身ですよね。

ヒカル:そう。生まれは長崎の佐世保なんだけど、ずっとパンクが好きで、地元にはパンクの服を売ってる店なんかないから、自分でファスナー付けたりカスタムしてたの。その流れで、将来はパンクの洋服屋さんになりたいと思って、文化(服装学院)に入ったんです。

——その文化服装学院で、高橋盾(「アンダーカバー(UNDERCOVER)」デザイナー)さんと出会い、セックスピストルズのカバーバンド・東京セックスピストルズを結成したり。

ヒカル:文化の2年になったときに、1年にジョニー・ロットンそっくりなやつが入ってきて。「なんだこいつ!」と思ってたら、俺が手伝ってたロンドンナイト(音楽評論家の大貫憲章が主催するパンク・ロックDJイベント)で会うようになって、そこから毎日つるんでよく遊んでたの。そんな時に、大貫さんのイベントで、盾と一緒に六本木の「ピカソ」にいたら、THE MODSの森山(達也)さんが来て「お前らバンド組め」って。それで組んだのが東京セックスピストルズ。解散したのが91年だから、組んだのは89年くらいじゃないかな。

——東京セックスピストルズとしては、どんなライブに出ていたんですか。

ヒカル:鈴江の「インクスティック」で、TINY PANX(藤原ヒロシと高木完によって結成されたヒップホップユニット)のイベントがあって、初めはザ・タイマーズに出演のオファーを出したんだけどダメで。次にCOBRAにオファーしたけどダメで。さらにチェッカーズにオファーしてもダメだった。で、バンドに出てほしいのにどうしようってなってた時に、「ヒカル達バンドやってるよな」って言われて、最終的に東京セックスピストルズが出ることになったの。それが最初のライブです。

ブームの頃に金儲けに走っていたら、ここまで続いてない

——お2人は、どのように出会ったのでしょうか。

タカ:僕がスニーカーショップで働いてた頃に、知り合いの紹介ですね。

ヒカル:そうだ。当時ニューヨークの「ステューシー(STUSSY)」で、「カーハート(CARHARTT)」とコラボした限定のジャケットがリリースされたんだけど、それは買えなくて。次にニューヨークの「ステューシー(STUSSY)」限定で“M65ジャケット”が出るっていうので、それがどうしても欲しくて、誰かニューヨークに行くやついないか探してたら、スニーカーの買い付けで行くやつがいるって。それがタカだった。

タカ:それまで話したこともなかったのに、急にお願いされて。結果ちゃんと買ってきました。

ヒカル:それでタカに誘われておもちゃ屋やろうってことになっていくんだよね。

——裏原ブームが起きたことで、どんどんビジネスを広げていこう、みたいなことは考えなかった?

ヒカル:経営的なことは全てタカなので。タカ、どうなの?

タカ:オリジナルのアイテムを作ったりとか、多少は広がりましたけど、あんまり手広くやっていくのは自分のキャパ的にも無理なので、やれる範囲で、という感じですね。

ヒカル:いわゆるブームの頃は、楽しかった。ただそれだけですよ。

タカ:本当にそうですね。楽しかった、それに尽きる。

ヒカル:ど真ん中にいたから盛り上がりは当然感じてたけど、それでチャンスだ金儲けだ、とはならなかったね。それがよくなかったのかな(笑)。

タカ:いやいや、十分ですよ。

ヒカル:でも実際、金儲けに走っていたら、ここまで長くは続かなかったと思いますよ。分かんないけど。

タカ:短期的には儲かったとしても、30周年は迎えられなかったでしょうね。

——お2人の役割分担としては、タカさんが経営者で、ヒカルさんは?

ヒカル:かませ犬。はははは(笑)。

タカ:僕は人前に出るのも苦手だし、メディアに出てしゃべったりとかもできないので、この2人が組むのがちょうどいいバランスなんです。

ヒカル:店番もずっと2人でやってたもんね。

タカ:買い付けでどっちかがアメリカとかに行った時は、残った方が1人で店番してました。

ヒカル:そうなんだよ、1人で店番。でも、みんな遊びに来てくれた。

タカ:うちの店が1階にあって、上の階にいろんな事務所があったんです。ロゴのデザインもやってくれた7STARS DESIGNもそうだし、「ヘクティク(HECTIC)」や「ネイバーフッド(NEIGHBORHOOD)」の事務所も同じマンションでした。

——当時10代だった若者にとっては、「バウンティーハンター」は店の入り口に界隈の大人たちがたむろしていて、入りづらかったんですよね。

ヒカル:でもそれがいいでしょ(笑)。俺たちが若い時だって、パンクの店とか入りづらかった。同じ思いをしてきてるんですよ。で、それがカッコよかった。

——原宿の「ア ストア ロボット(A STORE ROBOT)」とかも入りづらかったです。

ヒカル:それそれ! 俺たちも「ア ストア ロボット」の影響だよ。

——当時の裏原宿シーンは、ブランドやショップは別だけれど、デザイナーも店員もみんな友達で、フックアップしたりされたり、全体としてのつながりがありましたよね。

ヒカル:ほんとにそう。「バウンティーハンター」もみんなのおかげ。周りの友達が全部やってくれた。それぞれが努力をした結果でもあるけど、みんなの力だよ。

タカ:今回30周年のコラボ作品も、まさに周りの人たちが快く参加してくれたおかげですから。

ヒカル:俺はずっと変わらずこんな感じだけど、周りの友達はどんどんビッグになっていったでしょう。なのに、いまだに変わらず付き合ってくれる。それがうれしい。いくらでも断れるのに、絶対に断らないからね。正直、俺としては周年とかあんまりやりたくないんですよ。だけど、みんながやってくれるから、それならやろうかっていう感じで。

俺はずっと変わってない、
好きなことをやるだけ

——ヒカルさんが雑誌に出まくっていた90年代後半、街に自分を真似した同じ格好の人たちがあふれていることは、どう感じていたのでしょうか。

ヒカル:気持ちわる、とは思いつつ、それよりも、びっくりしたかな。だって、全然流行ってもないし、むしろ誰も身につけてないから着てたものなのに、みんな着てるんだもん。

——一方で、ブームが落ち着いて、やがて去っていくのは、どう見ていましたか。

ヒカル:そりゃあそうでしょう、ってだけですよ。別に自分たちで仕掛けたわけでもないし、ただ勝手に盛り上がっていっただけだから。ブームだろうがなんだろうが、俺は変わらない。流行りでやってたわけじゃないからね。ずっと好きなことをやるだけ。だから、別に当時を否定する気持ちもないし、あの盛り上がりがあったから今でも続けていられることもあるし。

——本当に趣味がずっと変わらないんですね。

ヒカル:変わらないね。最初の衝撃が忘れられないです。子供の頃に見たアメリカのおもちゃとか、お菓子のおまけとか、そういうの全部が衝撃だったんですよ。同じように、パンクも衝撃だった。どっちも衝撃で、どっちも大好きになった。それが今も続いてる、それだけですよ。

——「バウンティーハンター」のデザインは、パンクやハードコアバンドをはじめとした、元ネタありきのオマージュもたくさんありましたけど、そういった元ネタを知ってほしい、みたいな気持ちは?

ヒカル:まったくないですね。かっこいい! 真似しよう! それだけ。人がどうとか関係ないですよ。好きなものは好き、好きだから真似したい。

タカ:ブートとかもそうで、好きじゃなかったらわざわざ金かけて作らないですよね。愛情があるかどうかは、真似されたりブートを作られた方にも伝わると思うので、怒られたこともないですし。1回だけかな、怒られたのは。プレイボーイのバニーを勝手に使った時は、とんでもなく分厚い書類が届いて、かなりビビりました。

ヒカル:映画「The Warriors」に出てくるフューリーズの3体セットを作った時も、監督が喜んでくれたよね。

タカ:そう、サンフランシスコでお店やってる友達がいて、店に「バウンティーハンター」で作ったフューリーズのフィギュアを置いてたら、「The Warriors」のウォルター・ヒル監督がたまたま店に来たようで、それを見て「スーパークール!」とかって言ってくれたみたいです。

30周年記念ビジュアルの元ネタに隠された、いい話

——30年たって、「バウンティーハンター」に影響を受けた世代が、今はクリエイターになり、今回のようにコラボレーションする、というのもいいですよね。

ヒカル:河村(康輔)君とかVERDYとかね。今回30周年のビジュアルは河村君がデザインしてくれたんだけど、これも元ネタがあって、いい話なのよ。

タカ:あれはしびれましたね。

ヒカル:97年か98年かな、ニューヨークに買い付けに行った時に、シリアルのマニアが勝手に作った「Freaky Magnet」っていうファンジンが売っていて、3冊買って帰って、1冊は自分用に、1冊はスケシン(SKATE THING)ちゃんにあげて、残り1冊は誰も買わないだろうと思いつつも店に置いたの。そうしたら、その1冊を買ったのが当時まだ10代だった河村君だったんです。それを河村君と初めて会った時に聞いたの。

タカ:ほんとはおもちゃが欲しかったけど、お金がなくて、店にある中で「Freaky Magnet」しか買えなかったって。

ヒカル:それで、今回の30周年のビジュアルは、その「Freaky Magnet」の表紙のオマージュになってるの! だからあえて当時の質感を出して!! 刻まずにデザインしてあります!!!

——いくらでも簡単に情報が手に入る今の状況は、どう見ていますか。

ヒカル:それはそれで便利でいいと思うよ。ただ、ワクワクする感じは減ったかな。だって昔はヤバいおもちゃを見つけても、それが何なのか分かんなかった。お菓子のおまけなのか、なんかのキャラクターなのか、何も分からない。だからこそ、宝探しだったんだよね。音楽もそう。音だけ聴いてヤバいと思っても、どこのバンドが分からなかったから、こっちは必死で探すしかない。

——ヒカルさんはバンドTシャツのコレクターでもありますが、昨今のバンドTシャツがビンテージとして高値になっていることについては?

ヒカル:意味分かんない。別にレアだから欲しいわけじゃなくて、そのバンドが好きだから着るもんでしょ、バンドTシャツって。だったら、現行のクオリティーが良い新品のバンドTシャツ買えば良いと思ってます。

——SST RECORDSとか、今でもちゃんとレコードもTシャツも出し続けてますからね。

ヒカル:マイナー・スレット(MINOR THREAT)とかもそうだよね。あれはプレミアがついて値段が高くならないように、レーベルがリリースを続けてるんですよ。素晴らしいです。この前、現行のマイナー・スレットの「Out Of Step」のTシャツ買いました。

PHOTOS:HIRONORI SAKUNAGA

「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」

■「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」
監修:Supervised by TAKA+HIKARU、BOUNTY HUNTER
会場:New Gallery
住所:東京都千代田区神田神保町1-28-1 mirio神保町 1階
会期:2025年4月3日〜5月6日
休日:月曜日(5月5日を除く)
時間:12:00〜20:00
入場料:無料
https://newgallery-tokyo.com/bountyhunter30th

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「バウンティーハンター」30周年 ヒカル × タカ 「90年代裏原ブーム」と「変わらない気持ち」

1995年、東京・原宿の竹下通りを抜けた住宅街の奥に、のちに伝説となる1軒のショップが誕生する。アメリカントイを中心に扱うおもちゃ屋さんでありながら、オリジナルTシャツなどのアパレルやオリジナルのフィギュアも展開し、どのアイテムも即完する爆発的な人気を博した。それが当時若者だった2人、ヒカルとタカが立ち上げた「バウンティーハンター(BOUNTY HUNTER)」である。近くには93年にオープンしたJONIO(高橋盾)とNIGO®の店「NOWHERE」があり、やがて周辺に次々と新進気鋭のストリートブランドが店を構えるようになると、一帯は「裏原宿」と呼ばれ、そこから生まれるざまざまな文化が一世を風靡。特にヒカルは、90年代後半から「smart」や「warp」といった雑誌に連載を持ちながら、独特のファッションが毎号のように誌面で紹介され、若者のカリスマとして絶大な支持を集めた。そんな裏原宿文化の象徴的存在だった「バウンティーハンター」の30周年を記念するアート展「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」が東京・神保町の「New Gallery」で現在開催中だ。30年間、2人で「バウンティーハンター」を守り続けてきたヒカルとタカに、当時の様子やこれまでの歩みを聞いた。

家賃が安ければ場所は
どこでもよかった

——「バウンティーハンター」がオープンした当時(1995年)の裏原宿は、どんな様子でしたか。

ヒカル:人なんか全然いなかったよね?

タカ:住んでる人しかいない、ほんと住宅街でした。

ヒカル:周りに店なんかも全然ないし、地元の人がいるだけ。

——そんな場所に出店を決めたのは?

ヒカル:たまたま物件が空いて、人が来ない場所だから家賃も安かったし。ほんと安ければ場所はどこでもいいと思ってたの。俺だって欲しいものがあれば、どこへでも買いに行くから。場所は関係ない。

——おもちゃ屋さんをやろうと思ったのは?

ヒカル:それもたまたま。おもちゃは子供の頃から大好きで、タカに「おもちゃ屋やりませんか?」って言われたから「いいよ」って。

タカ:僕もずっとおもちゃは好きだったし、当時はおもちゃ屋をやってる人がほとんどいなかったんですよ。90年代だと、渋谷に「ZAAP!」と恵比寿に「FLIP FLOP」があったくらいで。

ヒカル:もちろん新品で現行のおもちゃを売ってる店はあったけど、古いものとかジャンクっぽいものを扱ってる店はなかったね。

——もともと、ヒカルさんは文化服装学院の出身ですよね。

ヒカル:そう。生まれは長崎の佐世保なんだけど、ずっとパンクが好きで、地元にはパンクの服を売ってる店なんかないから、自分でファスナー付けたりカスタムしてたの。その流れで、将来はパンクの洋服屋さんになりたいと思って、文化(服装学院)に入ったんです。

——その文化服装学院で、高橋盾(「アンダーカバー(UNDERCOVER)」デザイナー)さんと出会い、セックスピストルズのカバーバンド・東京セックスピストルズを結成したり。

ヒカル:文化の2年になったときに、1年にジョニー・ロットンそっくりなやつが入ってきて。「なんだこいつ!」と思ってたら、俺が手伝ってたロンドンナイト(音楽評論家の大貫憲章が主催するパンク・ロックDJイベント)で会うようになって、そこから毎日つるんでよく遊んでたの。そんな時に、大貫さんのイベントで、盾と一緒に六本木の「ピカソ」にいたら、THE MODSの森山(達也)さんが来て「お前らバンド組め」って。それで組んだのが東京セックスピストルズ。解散したのが91年だから、組んだのは89年くらいじゃないかな。

——東京セックスピストルズとしては、どんなライブに出ていたんですか。

ヒカル:鈴江の「インクスティック」で、TINY PANX(藤原ヒロシと高木完によって結成されたヒップホップユニット)のイベントがあって、初めはザ・タイマーズに出演のオファーを出したんだけどダメで。次にCOBRAにオファーしたけどダメで。さらにチェッカーズにオファーしてもダメだった。で、バンドに出てほしいのにどうしようってなってた時に、「ヒカル達バンドやってるよな」って言われて、最終的に東京セックスピストルズが出ることになったの。それが最初のライブです。

ブームの頃に金儲けに走っていたら、ここまで続いてない

——お2人は、どのように出会ったのでしょうか。

タカ:僕がスニーカーショップで働いてた頃に、知り合いの紹介ですね。

ヒカル:そうだ。当時ニューヨークの「ステューシー(STUSSY)」で、「カーハート(CARHARTT)」とコラボした限定のジャケットがリリースされたんだけど、それは買えなくて。次にニューヨークの「ステューシー(STUSSY)」限定で“M65ジャケット”が出るっていうので、それがどうしても欲しくて、誰かニューヨークに行くやついないか探してたら、スニーカーの買い付けで行くやつがいるって。それがタカだった。

タカ:それまで話したこともなかったのに、急にお願いされて。結果ちゃんと買ってきました。

ヒカル:それでタカに誘われておもちゃ屋やろうってことになっていくんだよね。

——裏原ブームが起きたことで、どんどんビジネスを広げていこう、みたいなことは考えなかった?

ヒカル:経営的なことは全てタカなので。タカ、どうなの?

タカ:オリジナルのアイテムを作ったりとか、多少は広がりましたけど、あんまり手広くやっていくのは自分のキャパ的にも無理なので、やれる範囲で、という感じですね。

ヒカル:いわゆるブームの頃は、楽しかった。ただそれだけですよ。

タカ:本当にそうですね。楽しかった、それに尽きる。

ヒカル:ど真ん中にいたから盛り上がりは当然感じてたけど、それでチャンスだ金儲けだ、とはならなかったね。それがよくなかったのかな(笑)。

タカ:いやいや、十分ですよ。

ヒカル:でも実際、金儲けに走っていたら、ここまで長くは続かなかったと思いますよ。分かんないけど。

タカ:短期的には儲かったとしても、30周年は迎えられなかったでしょうね。

——お2人の役割分担としては、タカさんが経営者で、ヒカルさんは?

ヒカル:かませ犬。はははは(笑)。

タカ:僕は人前に出るのも苦手だし、メディアに出てしゃべったりとかもできないので、この2人が組むのがちょうどいいバランスなんです。

ヒカル:店番もずっと2人でやってたもんね。

タカ:買い付けでどっちかがアメリカとかに行った時は、残った方が1人で店番してました。

ヒカル:そうなんだよ、1人で店番。でも、みんな遊びに来てくれた。

タカ:うちの店が1階にあって、上の階にいろんな事務所があったんです。ロゴのデザインもやってくれた7STARS DESIGNもそうだし、「ヘクティク(HECTIC)」や「ネイバーフッド(NEIGHBORHOOD)」の事務所も同じマンションでした。

——当時10代だった若者にとっては、「バウンティーハンター」は店の入り口に界隈の大人たちがたむろしていて、入りづらかったんですよね。

ヒカル:でもそれがいいでしょ(笑)。俺たちが若い時だって、パンクの店とか入りづらかった。同じ思いをしてきてるんですよ。で、それがカッコよかった。

——原宿の「ア ストア ロボット(A STORE ROBOT)」とかも入りづらかったです。

ヒカル:それそれ! 俺たちも「ア ストア ロボット」の影響だよ。

——当時の裏原宿シーンは、ブランドやショップは別だけれど、デザイナーも店員もみんな友達で、フックアップしたりされたり、全体としてのつながりがありましたよね。

ヒカル:ほんとにそう。「バウンティーハンター」もみんなのおかげ。周りの友達が全部やってくれた。それぞれが努力をした結果でもあるけど、みんなの力だよ。

タカ:今回30周年のコラボ作品も、まさに周りの人たちが快く参加してくれたおかげですから。

ヒカル:俺はずっと変わらずこんな感じだけど、周りの友達はどんどんビッグになっていったでしょう。なのに、いまだに変わらず付き合ってくれる。それがうれしい。いくらでも断れるのに、絶対に断らないからね。正直、俺としては周年とかあんまりやりたくないんですよ。だけど、みんながやってくれるから、それならやろうかっていう感じで。

俺はずっと変わってない、
好きなことをやるだけ

——ヒカルさんが雑誌に出まくっていた90年代後半、街に自分を真似した同じ格好の人たちがあふれていることは、どう感じていたのでしょうか。

ヒカル:気持ちわる、とは思いつつ、それよりも、びっくりしたかな。だって、全然流行ってもないし、むしろ誰も身につけてないから着てたものなのに、みんな着てるんだもん。

——一方で、ブームが落ち着いて、やがて去っていくのは、どう見ていましたか。

ヒカル:そりゃあそうでしょう、ってだけですよ。別に自分たちで仕掛けたわけでもないし、ただ勝手に盛り上がっていっただけだから。ブームだろうがなんだろうが、俺は変わらない。流行りでやってたわけじゃないからね。ずっと好きなことをやるだけ。だから、別に当時を否定する気持ちもないし、あの盛り上がりがあったから今でも続けていられることもあるし。

——本当に趣味がずっと変わらないんですね。

ヒカル:変わらないね。最初の衝撃が忘れられないです。子供の頃に見たアメリカのおもちゃとか、お菓子のおまけとか、そういうの全部が衝撃だったんですよ。同じように、パンクも衝撃だった。どっちも衝撃で、どっちも大好きになった。それが今も続いてる、それだけですよ。

——「バウンティーハンター」のデザインは、パンクやハードコアバンドをはじめとした、元ネタありきのオマージュもたくさんありましたけど、そういった元ネタを知ってほしい、みたいな気持ちは?

ヒカル:まったくないですね。かっこいい! 真似しよう! それだけ。人がどうとか関係ないですよ。好きなものは好き、好きだから真似したい。

タカ:ブートとかもそうで、好きじゃなかったらわざわざ金かけて作らないですよね。愛情があるかどうかは、真似されたりブートを作られた方にも伝わると思うので、怒られたこともないですし。1回だけかな、怒られたのは。プレイボーイのバニーを勝手に使った時は、とんでもなく分厚い書類が届いて、かなりビビりました。

ヒカル:映画「The Warriors」に出てくるフューリーズの3体セットを作った時も、監督が喜んでくれたよね。

タカ:そう、サンフランシスコでお店やってる友達がいて、店に「バウンティーハンター」で作ったフューリーズのフィギュアを置いてたら、「The Warriors」のウォルター・ヒル監督がたまたま店に来たようで、それを見て「スーパークール!」とかって言ってくれたみたいです。

30周年記念ビジュアルの元ネタに隠された、いい話

——30年たって、「バウンティーハンター」に影響を受けた世代が、今はクリエイターになり、今回のようにコラボレーションする、というのもいいですよね。

ヒカル:河村(康輔)君とかVERDYとかね。今回30周年のビジュアルは河村君がデザインしてくれたんだけど、これも元ネタがあって、いい話なのよ。

タカ:あれはしびれましたね。

ヒカル:97年か98年かな、ニューヨークに買い付けに行った時に、シリアルのマニアが勝手に作った「Freaky Magnet」っていうファンジンが売っていて、3冊買って帰って、1冊は自分用に、1冊はスケシン(SKATE THING)ちゃんにあげて、残り1冊は誰も買わないだろうと思いつつも店に置いたの。そうしたら、その1冊を買ったのが当時まだ10代だった河村君だったんです。それを河村君と初めて会った時に聞いたの。

タカ:ほんとはおもちゃが欲しかったけど、お金がなくて、店にある中で「Freaky Magnet」しか買えなかったって。

ヒカル:それで、今回の30周年のビジュアルは、その「Freaky Magnet」の表紙のオマージュになってるの! だからあえて当時の質感を出して!! 刻まずにデザインしてあります!!!

——いくらでも簡単に情報が手に入る今の状況は、どう見ていますか。

ヒカル:それはそれで便利でいいと思うよ。ただ、ワクワクする感じは減ったかな。だって昔はヤバいおもちゃを見つけても、それが何なのか分かんなかった。お菓子のおまけなのか、なんかのキャラクターなのか、何も分からない。だからこそ、宝探しだったんだよね。音楽もそう。音だけ聴いてヤバいと思っても、どこのバンドが分からなかったから、こっちは必死で探すしかない。

——ヒカルさんはバンドTシャツのコレクターでもありますが、昨今のバンドTシャツがビンテージとして高値になっていることについては?

ヒカル:意味分かんない。別にレアだから欲しいわけじゃなくて、そのバンドが好きだから着るもんでしょ、バンドTシャツって。だったら、現行のクオリティーが良い新品のバンドTシャツ買えば良いと思ってます。

——SST RECORDSとか、今でもちゃんとレコードもTシャツも出し続けてますからね。

ヒカル:マイナー・スレット(MINOR THREAT)とかもそうだよね。あれはプレミアがついて値段が高くならないように、レーベルがリリースを続けてるんですよ。素晴らしいです。この前、現行のマイナー・スレットの「Out Of Step」のTシャツ買いました。

PHOTOS:HIRONORI SAKUNAGA

「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」

■「BH30| BOUNTY HUNTER 30TH ART EXHIBITION」
監修:Supervised by TAKA+HIKARU、BOUNTY HUNTER
会場:New Gallery
住所:東京都千代田区神田神保町1-28-1 mirio神保町 1階
会期:2025年4月3日〜5月6日
休日:月曜日(5月5日を除く)
時間:12:00〜20:00
入場料:無料
https://newgallery-tokyo.com/bountyhunter30th

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俳優・草彅剛が語るNetflix映画「新幹線大爆破」の制作秘話 「これは草彅剛の代表作です」

PROFILE: 草彅剛/俳優

PROFILE: (くさなぎ・つよし)1974年7月9日生まれ、埼玉県出身。91年、CDデビュー。俳優として、「黄泉がえり」(塩田明彦監督/2003年)、「あなたへ」(降旗康男監督/12年)、NHK大河ドラマ「青天を衝け」(21年)、NHK連続テレビ小説「ブギウギ」(23~24年)など多数の作品に出演。17年には「新しい地図」を立ち上げ、20年公開の「ミッドナイトスワン」(内田英治監督)では第44回日本アカデミー賞最優秀作品賞・最優秀主演男優賞に輝いた。近年の主な作品に、「サバカン SABAKAN」(金沢知樹監督/22年)、「碁盤斬り」(白石和彌監督/24年)など。樋口真嗣監督とは「日本沈没」(06年)でタッグを組み、「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド」(15年)にも出演している。

一定のスピードを下回ると作動する爆弾が新幹線に仕掛けられた——。爆発を回避するため新幹線が走り続ける中、犯人グループと警察、国鉄職員と乗客、それぞれの奮闘を描いた1975年公開の映画「新幹線大爆破」。国内外で高く評価され、のちに世界中で大ヒットしたキアヌ・リーブス主演の「スピード」(1994年)のインスパイア元となったとされる歴史的傑作が、50年の時を経てNetflix映画としてリブートされる。メガホンをとるのは原作の大ファンで、「ローレライ」(2005年)や「シン・ゴジラ」(16年)を手掛けてきた名匠・樋口真嗣。今作の企画も樋口の情熱によって走り出したという。

主演を務めるのは「日本沈没」(06年)でも樋口監督とタッグを組んだ草彅剛。乗客の安全を守るため苦難に立ち向かう車掌・高市を繊細な演技で表現する。また脇を固めるのはのん、要潤、尾野真千子、豊嶋花、斎藤工ら錚々たる実力派キャストたち。JR東日本の特別協力のもと実際に駅や新幹線内で撮影が敢行されたことに加え、破格の特撮とVFXによりかつてない映像の一大スペクタクルが誕生。4月23日から配信開始となった本作の見どころについて「これが自分の代表作」とか語る草彅剛に話を聞いた。

樋口監督と18年ぶりの本格タッグ

——「新幹線大爆破」を一足先に拝見しましたが、仰天するほどに面白かったです。一級のパニック&特撮映画であり、プロフェッショナルが一致団結し作戦遂行に挑むお仕事映画であり、思わぬ展開で心揺さぶる人間ドラマでもあり…。原作からのアレンジもとんでもない。Netflix配信ですが、映画館で観たいなと思いました。

草彅剛(以下、草彅):ありがとうございます。僕もすごく自信があるので言いますが、これは草彅剛と樋口監督の代表作です。監督いないのに代表作を勝手に決めちゃった(笑)。

——それくらい自信作ということですね。

草彅:できあがった作品を監督と一緒に観たときに、あまりにテンションが上がって「監督は『新幹線大爆破』を撮るためにやってきたんだよ」って一方的に言いましたからね。

——樋口監督との本格的なタッグは映画「日本沈没」以来ですね。監督はそれ以降、草彅さんが他の監督の作品で活躍する姿にジェラシーを感じていたと2月に行われたNetflixラインナップイベント「Next on Netflix」でお話しされていました。

草彅:監督を嫉妬させるなんて役者冥利に尽きますよ。

——だからこそ今回は監督も相当燃えていたと思うのですが、久々のタッグはいかがでしたか?

草彅:約18年ぶりですから、本当にメラメラと燃えてましたよ。ただ実のところ監督はこの18年間ずっとメラメラと燃えていて、新作があるたび僕にも情報を教えてくれるんですよ。「それ言ったらだめでしょ」って思いながら聞いてると、いつもキャスト候補に僕の名前があるわけ。監督も「良い役だからね」とか言ってくれるんだけど、いざ情報が解禁されると僕ではなく、斎藤工くんとかになってる(笑)。だからこの18年間、僕は監督から出演詐欺を受け続けてきたんですよ(笑)。

——そんなことあります⁉︎

草彅:本当だよ!それで監督に「僕のところに全然話がこないじゃん」って文句を言ったらようやく仕事が来たんだけど、ふたを開けたら「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド・オブ・ザ・ワールド」(15年)の数分間のカメオ出演だったし。だから今回もやるやる詐欺だと思ってたんです。そしたら台本も送られてきて「本当なの⁉︎」って(笑)。

——本格的な共演は18年ぶりですが、関係性はその後も続いていたんですね。

草彅:こうやって18年間も関係が途切れず、連絡を取り合っている監督って樋口さんだけなんですよ。「日本沈没」のときにめちゃくちゃ息が合って、失礼ながら僕は友達みたいな感じで接しちゃったんです。本当は監督と俳優というポジションの違いもあるから、あまり馴れ馴れしくしちゃいけないんですけどね。でもそこから友達のような関係が続いてて、18年間やるやる詐欺とおすすめの映画についてマメに連絡をくれるんです。

—樋口監督から映画をおすすめされるって羨ましいですね。

草彅:やっぱり樋口監督は映画が大好きなんですよ。素直な人だから映画を観て興奮するとすぐ「この映画を観た方がいい」って送ってきて。ほとんど観てないんですけどね(笑)。僕も監督が好きだからそのやりとりも楽しくて、18年間仕事はほぼしていないけど付かず離れずの関係が続いていました。

その間に監督も僕も別の場所でキャリアを重ねて実力をつけてきたわけですよ。ただ18年間も「一緒にやろう」と言い合って助走をしてたら普通どこかで沈没しちゃうじゃないですか。周りからはただの馴れ合いにも見えるだろうし。でもその「一緒にやろう」という思いのままめげずにやってきた結果、ようやく「新幹線大爆破」という最高のかたちで実現して。これは本当に奇跡だと思うし、監督にも「今死んでも悔いがない」って言いましたもん。もちろんまだまだ生きますけどね。

——「今死んでも悔いがない」って言えるのはすごいですね……!

草彅:俳優をしてきて、初めてそう思いました。出来上がった作品を監督と観終わったときも、2人で抱き合ってずっと「最高だったね」って言い合ったり。まだお客さんに届けてもいないのに早くも前のめりになりすぎて、ここ数日ずっと地に足がついてないから、さすがに冷静にならないと……と思ってるんですが、プロデューサーも「この映画はNetflixの日本チーム制作で今、一番の期待作になっているかも」とか言うから落ち着かなくて(笑)。

——でもこの映画は期待をあげても、それをさらに超えてくる作品だと思います。

JR東日本の特別協力の下、撮影

—樋口監督は原作となる「新幹線大爆破」(1975年)を人生で3本の指に入る映画に挙げていて、さらに大の鉄道ファンということで、映像から愛と情熱、そして説得力が溢れていましたよね。驚いたのが「列車が大爆破する」映画なのにJR東日本の特別協力が得られたということ。実際に駅や新幹線車内で撮影するのはもちろん初めてだったと思いますが、その体験はいかがでしたか?

草彅:痺れましたよ。ただうれしくもあると同時に、大変でもありました。朝6時過ぎに上野発の新幹線に乗って青森まで行き、夜の19時とかに帰ってくる。そうやって12時間かけて往復するのを7回くらいしたかな。でも12時間新幹線に乗っているのに、僕が出てくる場面で使われたのは女子高生に水を渡すカットだけだったり(笑)。ただ大勢参加されている方々の準備や撮影もあるので、それだけしか使われないというのも俳優あるあるではあるんですけどね。

貴重な経験をさせていただく中で実感したのは、新幹線の管理技術というのはすごいなということ。撮影するにあたって12両くらいある一編成を丸々貸し切って走らせていたのに、通常運行もしているんです。劇中で描かれているように運行がすごく細かく管理されていて、僕らの乗る新幹線はそれを邪魔しないように調整しながら動いていました。

あと新幹線のセットも実寸大の2車両分つくって撮影したんです。樋口監督は特撮になると子どものようにはしゃいでいるんですが、こだわりがあるからなかなかOKがでないこともあって。そういう意味では体力も使ったし大変ではあったんですが、撮り終えた今思うと本当に楽しい現場だったなと思いますね。

——運転士と比べるとどうしても光が当たりにくい車掌が主役というのが面白いですよね。今回草彅さんが車掌を演じるにあたり、本職の方からのサポートはあったのでしょうか?

草彅:ありましたね。JR東日本さんが僕とのんさんのために講習を開いてくれて、お客さまへのおもてなしの気持ちや時間に対する意識、身だしなみの話から新幹線の車種や特徴まで、とても丁寧に教えてくれたんです。その上で通常入れない場所に入らせてくれて、新幹線を見ながら勉強したりとか。その時間がすごく役作りの役にたちましたね。

——仕草も本物の車掌のようでとてもリアルでした。

草彅:うれしいな。本職の方が毎回現場にも来てくれて、敬礼の仕方や手の動きなど本当に細かく指導してくれたおかげだと思います。

——JR東日本のバックアップのもと車掌という仕事を学ぶと同時に、高市というキャラクターをどのような人物と捉えて役作りしていったのでしょうか?

草彅:今回の高市という人物はあまり特徴がないんですよね。役回りを考えるとあまり個性や感情を出しすぎるのもどうかなと思うし。そういうことを踏まえると、車掌っぽさは別に意識しないで、むしろ普段の僕みたいな感じで演じるのが良いのかなと最終的には考えて役作りしていきました。ただ「お客さまを目的地まで真心を持ってお連れする」という気持ちは常に持つようにはしていましたね。

——車掌としてプロに徹する高市ですが、草彅さんが「特徴がない」と仰ったとおりそのバックボーンやプライベートな部分は見えないキャラクターですよね。その部分は頭のなかで補完されたのでしょうか

草彅:「バックボーンが出せないから大変な役だと思う」ということは樋口監督も言っていて。だからそこは妄想で補いました。僕が想像した高市は、鉄道と同じくらい古着が大好きという設定。

——ほぼ草彅さんじゃないですか。

草彅:小さい頃からオタク気味で、将来を考えるときに古着の道に行くか鉄道の道に行くか悩んだけど、その当時青森の女性と遠距離恋愛していたから最終的に鉄道員を選んだんです。半分は今考えたんですけど(笑)。

監督からの無茶振りアクション

——樋口監督がお話していましたが、台本にないアクションを現場で無茶振りされたそうですね。

草彅:僕は台本をあまり読み込むことをしないから、現場ではそれが無茶振りか分からないんですよね。そういうもんかと思って後で台本を見たら「ないじゃないか!」って部分がたくさんあって(笑)。でも騙されたというよりかは出番が増えてうれしいと思いますよね。僕は樋口監督に絶大な信頼を置いてるので、そこは「見せ場をつくってくれたんだな」って思いますよ。

——その場面って、離れていく列車の間をジャンプするシーンですよね?

草彅:そう!最近はCGがよくできてるから何でもCGでやってると思われがちだけど、あの部分はリアリティーを出すために実際に離れていく列車のあいだを飛び越えてるんですよ。簡単にやってるように見えるけど大変なんですから!もちろん下にはマットも敷いているし安全もしっかり考慮されてはいますけど、新幹線の部分は鉄製じゃないですか。そう考えるとやっぱり怖いし、「スタントだったらなぁ…」とは内心思いましたよね。やりきりましたけど。

——そこでやりきるのはやはりプロフェッショナル。

草彅:昔なんてあるドラマで5メートルも落下するシーンを撮影したことがあって。スタントの人が指導してくれるんですけど、その人はちゃんとパーンって受け身を取るんですよ。でも僕は芝居で腕を上げとかなきゃいけないから受け身が取れないの!受け身取るのと取れないのでは大違いですからね。それもやりきりましたけど。役者の鑑ですよ(笑)。

——先ほどお話しされた「事前に台本をあまり読み込まない」というのはニュースで聞いたことがありましたが、事前に台詞だけ覚えていくんですよね。それであの演技を披露するのだから驚きです。

草彅:集中力も落ちてきて、細かく読むと疲れちゃうんですよ。台詞を覚えていれば撮影は滞らないし、現場に入ってから頑張るので。35歳くらいからはそういう方法でやってきました。

——個人的に魅力的に感じた人物が、のんさん演じる運転士・松本千花でした。車掌の高市とそれほど言葉は多く交わさないけど、固く信頼し合っているあの関係性がたまらなかったです。現場での信頼関係が演技にも出ているのかなと思ったのですが、撮影中はどんな会話をされたんですか?

草彅:のんさんはすごく素敵な人で、とても気が合いましたよ。彼女はギターが好きでYouTubeでも演奏しているから、今度ギターでコラボしようよとか話しましたね。あと斉藤和義さんが好きという共通点もあったりで、もっぱら音楽の話で仲を深めていきました。

——実際に新幹線の運転士として活躍されている女性は増えてきている一方で、どうしてもジェンダーバイアスが抜けきらない運転士役にのんさんをキャスティングをしたのはすごく良いなと思いました。

草彅:原作では目力全開の千葉真一さんでしたからね。のんさんをキャスティングするというのも監督のアイデアなんです。そこも見事ですよね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以下ネタバレを含みます 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「命の重み」というテーマについて

——本作は物語が展開していくにつれ、「命の重み」というテーマが立ち上がってきますよね。命の大切さを全身で伝える草彅さんの姿を見ていると、まったく別ジャンルですが、昔大好きだったドラマ「僕の生きる道」(03年)を思い出しました。20年以上経って改めてこの「命の重み」というテーマに向き合って感じたことはありますか?

草彅:思ってもいなかった質問ですが、うれしいですね。確かに樋口監督は優しい人だから、「命の大切さ」に対する眼差しはいつも根底にあるのかもしれない。「日本沈没」でも終盤にはそういうメッセージがあるしね。今作の重要な場面で高市はある選択を迫られますが、彼はそうせずにその人物を抱きしめますよね。そのとき僕は生まれたばかりの赤ん坊を抱きしめているような感覚が少しあったんです。そんな「人が生きる中で芽生える光のようなもの」を描いたことが、もしかすると本作を単純なパニック映画ではない作品にしているのかもしれない。

——これまでNetflixで仕事をされた監督や俳優に話を聞くと、やはり他のドラマや映画の撮影現場とは全然違うということをよく仰られます。草彅さんはNetflixに限らず、動画配信プラットフォームでお仕事をされるのは今回が初だと思いますが、実際にNetflixの現場で撮影された感想はいかがでしたか?

草彅:最高でしたね。Netflixグルーヴって愛に溢れていて、人に優しい環境だし食事も温かくておいしいんですよ。これまでお芝居を続けてきた先に、こんな最高の現場で芝居ができているっていうのは本当に幸せだなって本心から思いました。

——本作に限らず、草彅さんが演技をする上で大切にしていることを教えてもらえますか?

草彅:一番は睡眠ですね。元気があれば何でもできる、という猪木イズムですよ。現場は本当にハードで、今回も巨大な扇風機をガンガンに回して、尋常じゃない風を浴びながら演じるわけです。そんな中寝不足だととても踏ん張れない。30分でも多く睡眠をとることが後々自分を救うことになるんです。技術ももちろん大事ですが、睡眠に比べたら二の次ですよ。

——草彅さんはこれまでもたくさんの優れた作品に出演されていますが、映画やドラマのオファーを受ける際に何を重視しているのでしょうか?

草彅:もしかすると僕のところに依頼が来るまでに事務所が選別しているかもしれませんが、僕はオファーを断ったことがないんですよ。頂いたものは全て全力でやる。家賃とか携帯代とか払わないといけないし、愛犬のクルミちゃんも守らなきゃいけないので。それでも良い作品ばかりやらせてもらえているのは本当にラッキーですよね。僕に仕事をくれた監督たちには感謝しかないし、足を向けて寝られないです。だって今回の高市も超良い役じゃないですか!本当に良い役!だからどんな役でも全力で挑むのが僕のこだわりです。やってみないと結果は分からないから。

——本作は破格の特撮とVFXで撮られた映像や、JR東日本特別協力により生まれたリアリティー、先ほど仰られたドラマ性など注目ポイントが盛りだくさんですが、改めて草彅さんの思う本作の見どころはなんでしょうか?

草彅:まずは映像の見事さですよね。これはNetflixじゃないとできない!(笑)。本当に本作のVFXと特撮は樋口監督の真骨頂ですし、パニック映画としての面白さも抜群なんですが、そこに血の通った物語と説得力のあるキャラクター造形が相まって唯一無二のエンターテインメント作品となっている、そのバランス感覚も本当にすごい。最初から退屈なしでドキドキハラハラさせてくれますしね。鉄道ファンに喜んでもらえるのはもちろん、鉄道に詳しくなくとも日本の文化である新幹線には馴染みがある人が多いだろうから、物語にもスッと入っていけると思うし。本当に良い作品だと思います。そんな素晴らしい作品に出られている僕は最高にラッキーボーイ‼︎

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLING:YASUOMI KURITA
HAIR & MAKEUP:EISUKE ARAKAWA

Netflix映画「新幹線大爆破」

■Netflix映画「新幹線大爆破」
独占配信中
出演:草彅剛 細田佳央太 のん 要潤 尾野真千子 豊嶋花 黒田大輔 松尾諭 大後寿々花 ・ 尾上松也 六平直政 ピエール瀧 坂東彌十郎 /斎藤工
監督:樋口真嗣
原作:東映映画「新幹線大爆破」(監督:佐藤純彌、脚本:小野竜之助/佐藤純彌、1975 年作品)
脚本:中川和博 大庭功睦
特別協力:東日本旅客鉄道 ジェイアール東日本企画
制作プロダクション:エピスコープ
製作:Netflix

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米「コトパクシ」が福岡に新店 国内販売代理店の降幡社長が語るブランドの現在地と期待

米発のアウトドアブランド「コトパクシ(COTOPAXI)」は、4月24日に天神ビックバンエリアで開業する大型複合ビル「ワン・フクオカ・ビルディング(ONE FUKUOKA BLDG.)」に、九州圏内唯一となる直営店「コトパクシ テンジン」をオープンする。

ワン・フクオカ・ビルディング内の商業フロアは、グローバルブランドなどの最新のファッション、カルチャー、書籍、カフェなど多様な店舗がそろう、新たなトレンドの発信拠点だ。そんなフロアにオープンする同店は、大量生産の残材を使用してフィリピンの工場で製作され、自由な配色が人気のバッグコレクション“Del Diaコレクション”を中心に販売する。オンラインストアではアソート販売だが、店頭は実際にモノを見て、好きな色合わせの商品を購入できるのが魅力だ。

同店は3月の大阪出店に続く、国内4店舗目の直営店。「コトパクシ」の独占輸入販売権を持つアルコインターナショナルの降幡昌弘社長は、「大阪店は過去最高の初日売上高を記録し、その後も安定した売り上げを維持している。大阪店と同様に交通の便が良く、購買意欲の高い顧客やインバウンド客も見込める福岡店にも期待している」と語る。福岡店の初年度売上高目標は京都店と同程度の1億2000万円を目指すという。過去のポップアップでは予想を上回る実績を出しており、京都店の売り上げも目標を上回っているため、ブランドが新店舗に寄せる期待は大きい。

「『コトパクシ』はアウトドアアイテムとしてだけでなく、カラフルでユニークなデザインが認知され、ファッションの一部として受け入れられている。使いやすく機能的であることも支持されている」と、降幡社長は自信をにじませる。売上高の内訳は「バッグが8割、アパレルが2割」。中でも前述の“Del Diaコレクション”の人気が高く、カラフルな色使いは「コトパクシ」のブランドアイデンティティーでもある。「色彩豊かで気分を明るくする商品が求められていると感じる」と語り、このアイデンティティーを今後も打ち出す方針だ。

またBコープ認証を受けている「コトパクシ」のサステナブルな活動への共感が商品の購入につながるケースも増えており、「日本市場におけるサステナビリティーへの意識変化を感じる」という。「コトパクシ」は、今後も名古屋や札幌、東京の新たなエリアなど、注目エリアに戦略的に店舗をオープンしていく予定だ。

問い合わせ先
アルコインターナショナル
pr-info@alco-group.com

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米「コトパクシ」が福岡に新店 国内販売代理店の降幡社長が語るブランドの現在地と期待

米発のアウトドアブランド「コトパクシ(COTOPAXI)」は、4月24日に天神ビックバンエリアで開業する大型複合ビル「ワン・フクオカ・ビルディング(ONE FUKUOKA BLDG.)」に、九州圏内唯一となる直営店「コトパクシ テンジン」をオープンする。

ワン・フクオカ・ビルディング内の商業フロアは、グローバルブランドなどの最新のファッション、カルチャー、書籍、カフェなど多様な店舗がそろう、新たなトレンドの発信拠点だ。そんなフロアにオープンする同店は、大量生産の残材を使用してフィリピンの工場で製作され、自由な配色が人気のバッグコレクション“Del Diaコレクション”を中心に販売する。オンラインストアではアソート販売だが、店頭は実際にモノを見て、好きな色合わせの商品を購入できるのが魅力だ。

同店は3月の大阪出店に続く、国内4店舗目の直営店。「コトパクシ」の独占輸入販売権を持つアルコインターナショナルの降幡昌弘社長は、「大阪店は過去最高の初日売上高を記録し、その後も安定した売り上げを維持している。大阪店と同様に交通の便が良く、購買意欲の高い顧客やインバウンド客も見込める福岡店にも期待している」と語る。福岡店の初年度売上高目標は京都店と同程度の1億2000万円を目指すという。過去のポップアップでは予想を上回る実績を出しており、京都店の売り上げも目標を上回っているため、ブランドが新店舗に寄せる期待は大きい。

「『コトパクシ』はアウトドアアイテムとしてだけでなく、カラフルでユニークなデザインが認知され、ファッションの一部として受け入れられている。使いやすく機能的であることも支持されている」と、降幡社長は自信をにじませる。売上高の内訳は「バッグが8割、アパレルが2割」。中でも前述の“Del Diaコレクション”の人気が高く、カラフルな色使いは「コトパクシ」のブランドアイデンティティーでもある。「色彩豊かで気分を明るくする商品が求められていると感じる」と語り、このアイデンティティーを今後も打ち出す方針だ。

またBコープ認証を受けている「コトパクシ」のサステナブルな活動への共感が商品の購入につながるケースも増えており、「日本市場におけるサステナビリティーへの意識変化を感じる」という。「コトパクシ」は、今後も名古屋や札幌、東京の新たなエリアなど、注目エリアに戦略的に店舗をオープンしていく予定だ。

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森を守るゴムと、土を育てる綿 「ヴェジャ」共同創業者が語る、素材と思想のあいだ

サステナビリティは矛盾だらけ。環境に配慮された素材も見方によってはそうでなくなる。そんなとき、実践者たちはどう考えるのか?来日したサステナビリティの先駆者であるフランスのスニーカーブランド「ヴェジャ(VEJA)」のフランソワ・ギラン・モリィヨン(Francois Ghislain Morillion)共同創業者に彼らが考える“正義”について聞いた。場所は、東京・原宿。ヴィンテージのサッカーシューズをベースにした最新モデル「パネンカ(Panenka)」のお披露目をするスペースだ。

重要なのは、ブランドの社会的意義をしっかり伝えること

WWD:最初に「パネンカ(Panenka)」のコンセプトを教えてください。

フランソワ:・ギラン・モリィヨン(Francois Ghislain Morillion)ヴェジャ共同創業者(以下、フランソワ):私たちは、「ヴェジャ」の思想や世界観を伝えるために、新しいスタイルやモデルを開発しています。その背景には、ブランドの世界観を体現する“言い訳”となる要素を探しているという想いがあります。今回はサッカーシューズの世界観を取り入れ、「パネンカ」という名のモデルをつくりました。これは、サッカーのペナルティーキック技術の名前にもなっているもので、その世界観を借りる形で新しいラインを展開しています。

重要なのは、ブランドの存在意義、つまり社会的意義をしっかりと主張することです。そのために、素材選びにもこだわっており、ラバー、コットン、ペットボトル由来のリサイクルポリエステルを積極的に使っています。これらをスポーティーなサッカーというイメージと結び付けて、新しいスタイルとして打ち出しています。

WWD::「言い訳」とは、どういう意味ですか?

フランソワ::ポルトガル語で“ヴェジャ”は「見る」という意味があります。つまり、デザインの裏にあるすべてのストーリーを見てほしいという意図があります。「こういう背景があるんだよ」と伝えるための“きっかけ”のようなものです。

「神様が植えた」と言われるゴムの木から採取

WWD::新作で採用した素材について教えてください。

フランソワ:::4つの主要な素材を使用しています。まず一つ目はアウトソールの天然ラバーです。これはブラジルのアマゾン地域に自生している、人工的に植えられたものではない「神様が植えた」と言われるゴムの木から採取しています。

WWD:「神様が植えた木」を採取して問題ないのですか?

フランソワ::逆です。アマゾンの森林破壊が大きな問題となっている今、この天然ゴムの使用は森林保全にもつながっています。各家庭が約300ヘクタールの森林を守りながらゴムを採取しており、現在約2000家族と契約しています。つまり、60万ヘクタールもの森を私たちの購買活動で保護していることになります。

WWD:なるほど、ゴムは木を切るのではなく、樹皮に切れ目を入れて樹液を収穫するから、木を枯らさず「ゴムを採るから森を残す」という構造が成立するのですね。現地とのやり取りはどのように行っていますか?

フランソワ:アマゾンには「ヴェジャ」のオフィスがあり、常駐のスタッフ6人が地元の方々と連携しています。ブラジルの生産者たちは小さなグループに分かれ、さらにそれを統括する協同組合のような団体が存在します。私たちはそういった組織と直接契約を結んでいます。

WWD:彼らは元々ゴム生産に関わっていたのですか?

フランソワ:はい、元々ゴムの生産技術は持っていましたが、価格が非常に低かったため生計の主軸にはしていませんでした。収入の約30%がゴムからで、残りはナッツの収穫や農業、畜産などで得ています。「ヴェジャ」が適正価格で買い取るようになったことで、ゴム生産への関心が高まり、生産量も増えています。

WWD:コットンも持続可能な方法で生産していると伺いました。

フランソワ:はい。私たちは約2000家族と「アグロエコロジー」方式で契約しています。これは、単一作物の栽培を禁止し、最低3種類以上の作物を同じ畑で育てるというルールです。例えば、コットンのほかにトウモロコシや豆などを育てることで、土壌の多様性と肥沃さを保っています。生産地は主にブラジルで、一部はペルーにもあります。2005年からこの方式で栽培されたコットンを継続的に使用しています。

WWD:新作の「パネンカ」では革素材も使っていますね?

フランソワウルグアイ産で、完全な自然放牧によるものです。森林を切り開くことなく、広大な自然草原で、1ヘクタールに1頭という贅沢な飼育環境で育てられています。飼料や飼育方法にも自然に配慮しており、「コンパ」と呼ばれる場所で自由に放牧されています。

WWD::リサイクルポリエステの仕組みは?

フランソワ:私たちは15年以上前から再生ポリエステルを使っています。ただし、私たちは「どこから来たペットボトルなのか?」という点まで重視しています。ブラジルの産廃業者と協力し、現地で回収されたペットボトルを洗浄・分類し、小さなチップ状にしてから再生糸にしています。特に「ヴェジャ」では、これらを持ち込む回収者(多くは女性)に対し、通常の2倍の価格で買い取ることで、独自のサプライチェーンを築いています。

WWD:マイクロプラスチック問題にはどう対応していますか?

フランソワ:マイクロプラスチックが問題であることは認識しています。衣類のように頻繁に洗濯されるものに比べ、靴は洗濯されにくいため、発生量は少ないと考えています。とはいえ、内側のライニングにリサイクルペット素材を使っており、これはコットンよりも耐用年数が長く、結果として環境負荷が少ないと考えています。

理想は、20〜30年後にはペットボトル自体の使用がなくなることですが、現状では使い終わったペットボトルを有効に循環させることが大切だと考えています。

私たちは常に自問自答を繰り返しています。以前、リサイクルポリエステルでスウェットを作ったこともありましたが、マイクロプラスチックの懸念から制作を中止したこともあります。完璧ではないからこそ、疑問を持ち、間違いを修正する柔軟さが必要だと考えています。

WWD:グローバル基準についての意見をお聞かせください。

フランソワ:グローバル基準の整備には賛成ですが、懸念もあります。基準を作る側(主に北半球の国々)が、基準を守るよう求める一方で、そのために必要なコストを十分に支払っていないという問題があります。

たとえば、発展途上国や小規模生産者に「この基準を守れ」と求めるだけでは不公平です。使用する側、つまり私たち消費国がそのコストを負担するべきだと考えます。私たちはブラジルの生産者に対しても、その理念に基づいて適正価格での取引を行っています。本来、サステナブルな基準とは、生産者に押し付けるものではなく、それを使用する企業や消費者が共に支えるべきものです。

売り上げよりも、共感を広げるために

WWD:ブランド設立から20年となり、日本ではこのほど、Seiya Nakamura 2.24と日本総代理店契約を結ぶなど、ビジネスの新展開にも意欲的です。現在の売上高は?

フランソワ:2024年は約2億4,500万ユーロ(約395億円)でほぼ横ばいで安定しています。

WWD:その売り上げに満足されていますか?

フランソワ:私たちは売上至上主義ではありません。共同創業者のセバスチャン・コップ(Sebastien Kopp)と私の二人が会社の株式を100%保有しており、外部の株主はいません。だから「もっと売り上げを上げろ」といったプレッシャーもありませんし、自分たちがやりたいことに集中できています。

特に今は、日本に来て、日本市場に私たちの考え方を知ってもらうこと、そして日本の文化を学ぶことの方がずっと大切です。売上数字よりも、価値観を共有できることの方が重要だと考えています。

WWD::買収や投資の話も多いのでは?

フランソワ:たくさんあります。でも私たちはそこを目指していません。投資の話は多く来ますが、「それは私たちの目標ではない」と断っています。

WWD:米国のトランプ政権の施策はビジネスに影響していますか?

フランソワ:弊社の生産はブラジルで行っており、アメリカに輸出する際は関税が10%かかります(2025年4月11日時点)。1足あたり約5ドル程度の影響ですので、特に大きな打撃は受けていません。それに政策が日々変わるので、深刻に受け止めすぎないようにしています。

WWD:地産地消に関しての考えを聞かせてください。

フランソワ:私たちはパリを拠点にしつつ、生産はブラジルで行っています。そして世界中に商品を届けていますが、空輸ではなく船便を使用しています。そのため、物流が排出するCO₂は全体のわずか3%にとどまっています。

一部ポルトガルで生産している商品もあり、それはパリまでトラック輸送しています。実は、ブラジルからの輸送の方が環境負荷が少ないケースもあるのです。「遠くで生産しているからサステナブルではない」というのは誤解で、実際にはより環境に配慮した仕組みで生産・輸送しています。

WWD:迷いなく、明確ですね。

フランソワ:ありがとうございます。私たちは完璧ではありませんし、間違えることもあります。でもその都度立ち止まり、考え直し、変化を受け入れる姿勢を大切にしています。科学技術も日々進化していますから、時には立場を変える必要もあります。それは当たり前のことであり、恐れることではありません。

銀行員時代、「自分はこれをやりたくない」と思った

WWD:創業時から広告に頼らないビジネス方針を掲げていることが広く知られています。改めて、現代ではチャレンジングな戦略では?

フランソワ:広告を使わないという方針は、「ヴェジャ」にとって不可欠です。なぜなら、私たちはラバーやコットンなどの原材料を、生産者が生活できるだけの適正価格で購入しており、競合の約2倍のコストがかかることもあります。それでも大手ブランドと同じくらいの価格で商品を販売できるのは、広告費を一切かけていないからです。もちろん、広告を使えばブランドがもっと大きくなる可能性もあります。しかし、それによって商品の価格が上がったり、素材にかける予算が減ったりすることは、私たちの信念に反します。だから、最初から一貫して広告を使わない方針を続けています。

WWD:経営学を学び、最初のキャリアは銀行だそうですが、それらの経験は役立っていますか?

フランソワ:大学では経営学を学びましたが、金融の実務経験は半年ほどしかなく、それを“キャリア”と呼べるかは疑問です。ただ、その短い経験から、「自分はこれをやりたくない」という気持ちを明確に持てたのは大きかったです。銀行で働いていたとき、上司たちの姿を見て「自分もこうなりたい」とはどうしても思えませんでした。

卒業前に共同創業者のセバスチャンと一緒に旅をして、多くの場所を訪れました。その中で「サステナビリティは非常に重要だ」と感じ、学校にその学びの機会を求めたのですが、校長先生には「そんなの誰も興味を持たない」と一蹴されました。でもその2年後、普通にサステナビリティの授業が始まっていて、「僕たちは少し早すぎたのかもしれない」と感じました。

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森を守るゴムと、土を育てる綿 「ヴェジャ」共同創業者が語る、素材と思想のあいだ

サステナビリティは矛盾だらけ。環境に配慮された素材も見方によってはそうでなくなる。そんなとき、実践者たちはどう考えるのか?来日したサステナビリティの先駆者であるフランスのスニーカーブランド「ヴェジャ(VEJA)」のフランソワ・ギラン・モリィヨン(Francois Ghislain Morillion)共同創業者に彼らが考える“正義”について聞いた。場所は、東京・原宿。ヴィンテージのサッカーシューズをベースにした最新モデル「パネンカ(Panenka)」のお披露目をするスペースだ。

重要なのは、ブランドの社会的意義をしっかり伝えること

WWD:最初に「パネンカ(Panenka)」のコンセプトを教えてください。

フランソワ:・ギラン・モリィヨン(Francois Ghislain Morillion)ヴェジャ共同創業者(以下、フランソワ):私たちは、「ヴェジャ」の思想や世界観を伝えるために、新しいスタイルやモデルを開発しています。その背景には、ブランドの世界観を体現する“言い訳”となる要素を探しているという想いがあります。今回はサッカーシューズの世界観を取り入れ、「パネンカ」という名のモデルをつくりました。これは、サッカーのペナルティーキック技術の名前にもなっているもので、その世界観を借りる形で新しいラインを展開しています。

重要なのは、ブランドの存在意義、つまり社会的意義をしっかりと主張することです。そのために、素材選びにもこだわっており、ラバー、コットン、ペットボトル由来のリサイクルポリエステルを積極的に使っています。これらをスポーティーなサッカーというイメージと結び付けて、新しいスタイルとして打ち出しています。

WWD::「言い訳」とは、どういう意味ですか?

フランソワ::ポルトガル語で“ヴェジャ”は「見る」という意味があります。つまり、デザインの裏にあるすべてのストーリーを見てほしいという意図があります。「こういう背景があるんだよ」と伝えるための“きっかけ”のようなものです。

「神様が植えた」と言われるゴムの木から採取

WWD::新作で採用した素材について教えてください。

フランソワ:::4つの主要な素材を使用しています。まず一つ目はアウトソールの天然ラバーです。これはブラジルのアマゾン地域に自生している、人工的に植えられたものではない「神様が植えた」と言われるゴムの木から採取しています。

WWD:「神様が植えた木」を採取して問題ないのですか?

フランソワ::逆です。アマゾンの森林破壊が大きな問題となっている今、この天然ゴムの使用は森林保全にもつながっています。各家庭が約300ヘクタールの森林を守りながらゴムを採取しており、現在約2000家族と契約しています。つまり、60万ヘクタールもの森を私たちの購買活動で保護していることになります。

WWD:なるほど、ゴムは木を切るのではなく、樹皮に切れ目を入れて樹液を収穫するから、木を枯らさず「ゴムを採るから森を残す」という構造が成立するのですね。現地とのやり取りはどのように行っていますか?

フランソワ:アマゾンには「ヴェジャ」のオフィスがあり、常駐のスタッフ6人が地元の方々と連携しています。ブラジルの生産者たちは小さなグループに分かれ、さらにそれを統括する協同組合のような団体が存在します。私たちはそういった組織と直接契約を結んでいます。

WWD:彼らは元々ゴム生産に関わっていたのですか?

フランソワ:はい、元々ゴムの生産技術は持っていましたが、価格が非常に低かったため生計の主軸にはしていませんでした。収入の約30%がゴムからで、残りはナッツの収穫や農業、畜産などで得ています。「ヴェジャ」が適正価格で買い取るようになったことで、ゴム生産への関心が高まり、生産量も増えています。

WWD:コットンも持続可能な方法で生産していると伺いました。

フランソワ:はい。私たちは約2000家族と「アグロエコロジー」方式で契約しています。これは、単一作物の栽培を禁止し、最低3種類以上の作物を同じ畑で育てるというルールです。例えば、コットンのほかにトウモロコシや豆などを育てることで、土壌の多様性と肥沃さを保っています。生産地は主にブラジルで、一部はペルーにもあります。2005年からこの方式で栽培されたコットンを継続的に使用しています。

WWD:新作の「パネンカ」では革素材も使っていますね?

フランソワウルグアイ産で、完全な自然放牧によるものです。森林を切り開くことなく、広大な自然草原で、1ヘクタールに1頭という贅沢な飼育環境で育てられています。飼料や飼育方法にも自然に配慮しており、「コンパ」と呼ばれる場所で自由に放牧されています。

WWD::リサイクルポリエステの仕組みは?

フランソワ:私たちは15年以上前から再生ポリエステルを使っています。ただし、私たちは「どこから来たペットボトルなのか?」という点まで重視しています。ブラジルの産廃業者と協力し、現地で回収されたペットボトルを洗浄・分類し、小さなチップ状にしてから再生糸にしています。特に「ヴェジャ」では、これらを持ち込む回収者(多くは女性)に対し、通常の2倍の価格で買い取ることで、独自のサプライチェーンを築いています。

WWD:マイクロプラスチック問題にはどう対応していますか?

フランソワ:マイクロプラスチックが問題であることは認識しています。衣類のように頻繁に洗濯されるものに比べ、靴は洗濯されにくいため、発生量は少ないと考えています。とはいえ、内側のライニングにリサイクルペット素材を使っており、これはコットンよりも耐用年数が長く、結果として環境負荷が少ないと考えています。

理想は、20〜30年後にはペットボトル自体の使用がなくなることですが、現状では使い終わったペットボトルを有効に循環させることが大切だと考えています。

私たちは常に自問自答を繰り返しています。以前、リサイクルポリエステルでスウェットを作ったこともありましたが、マイクロプラスチックの懸念から制作を中止したこともあります。完璧ではないからこそ、疑問を持ち、間違いを修正する柔軟さが必要だと考えています。

WWD:グローバル基準についての意見をお聞かせください。

フランソワ:グローバル基準の整備には賛成ですが、懸念もあります。基準を作る側(主に北半球の国々)が、基準を守るよう求める一方で、そのために必要なコストを十分に支払っていないという問題があります。

たとえば、発展途上国や小規模生産者に「この基準を守れ」と求めるだけでは不公平です。使用する側、つまり私たち消費国がそのコストを負担するべきだと考えます。私たちはブラジルの生産者に対しても、その理念に基づいて適正価格での取引を行っています。本来、サステナブルな基準とは、生産者に押し付けるものではなく、それを使用する企業や消費者が共に支えるべきものです。

売り上げよりも、共感を広げるために

WWD:ブランド設立から20年となり、日本ではこのほど、Seiya Nakamura 2.24と日本総代理店契約を結ぶなど、ビジネスの新展開にも意欲的です。現在の売上高は?

フランソワ:2024年は約2億4,500万ユーロ(約395億円)でほぼ横ばいで安定しています。

WWD:その売り上げに満足されていますか?

フランソワ:私たちは売上至上主義ではありません。共同創業者のセバスチャン・コップ(Sebastien Kopp)と私の二人が会社の株式を100%保有しており、外部の株主はいません。だから「もっと売り上げを上げろ」といったプレッシャーもありませんし、自分たちがやりたいことに集中できています。

特に今は、日本に来て、日本市場に私たちの考え方を知ってもらうこと、そして日本の文化を学ぶことの方がずっと大切です。売上数字よりも、価値観を共有できることの方が重要だと考えています。

WWD::買収や投資の話も多いのでは?

フランソワ:たくさんあります。でも私たちはそこを目指していません。投資の話は多く来ますが、「それは私たちの目標ではない」と断っています。

WWD:米国のトランプ政権の施策はビジネスに影響していますか?

フランソワ:弊社の生産はブラジルで行っており、アメリカに輸出する際は関税が10%かかります(2025年4月11日時点)。1足あたり約5ドル程度の影響ですので、特に大きな打撃は受けていません。それに政策が日々変わるので、深刻に受け止めすぎないようにしています。

WWD:地産地消に関しての考えを聞かせてください。

フランソワ:私たちはパリを拠点にしつつ、生産はブラジルで行っています。そして世界中に商品を届けていますが、空輸ではなく船便を使用しています。そのため、物流が排出するCO₂は全体のわずか3%にとどまっています。

一部ポルトガルで生産している商品もあり、それはパリまでトラック輸送しています。実は、ブラジルからの輸送の方が環境負荷が少ないケースもあるのです。「遠くで生産しているからサステナブルではない」というのは誤解で、実際にはより環境に配慮した仕組みで生産・輸送しています。

WWD:迷いなく、明確ですね。

フランソワ:ありがとうございます。私たちは完璧ではありませんし、間違えることもあります。でもその都度立ち止まり、考え直し、変化を受け入れる姿勢を大切にしています。科学技術も日々進化していますから、時には立場を変える必要もあります。それは当たり前のことであり、恐れることではありません。

銀行員時代、「自分はこれをやりたくない」と思った

WWD:創業時から広告に頼らないビジネス方針を掲げていることが広く知られています。改めて、現代ではチャレンジングな戦略では?

フランソワ:広告を使わないという方針は、「ヴェジャ」にとって不可欠です。なぜなら、私たちはラバーやコットンなどの原材料を、生産者が生活できるだけの適正価格で購入しており、競合の約2倍のコストがかかることもあります。それでも大手ブランドと同じくらいの価格で商品を販売できるのは、広告費を一切かけていないからです。もちろん、広告を使えばブランドがもっと大きくなる可能性もあります。しかし、それによって商品の価格が上がったり、素材にかける予算が減ったりすることは、私たちの信念に反します。だから、最初から一貫して広告を使わない方針を続けています。

WWD:経営学を学び、最初のキャリアは銀行だそうですが、それらの経験は役立っていますか?

フランソワ:大学では経営学を学びましたが、金融の実務経験は半年ほどしかなく、それを“キャリア”と呼べるかは疑問です。ただ、その短い経験から、「自分はこれをやりたくない」という気持ちを明確に持てたのは大きかったです。銀行で働いていたとき、上司たちの姿を見て「自分もこうなりたい」とはどうしても思えませんでした。

卒業前に共同創業者のセバスチャンと一緒に旅をして、多くの場所を訪れました。その中で「サステナビリティは非常に重要だ」と感じ、学校にその学びの機会を求めたのですが、校長先生には「そんなの誰も興味を持たない」と一蹴されました。でもその2年後、普通にサステナビリティの授業が始まっていて、「僕たちは少し早すぎたのかもしれない」と感じました。

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【大阪・関西万博】「世界最大の西陣織建築」、開発秘話を細尾真孝社長が語る

かつてない規模の西陣織を外壁に用いた建物として大阪・関西万博で話題を集める飯田グループと大阪公立大学の共同出展館。メビウスの輪を応用した三次元の構造物に、京都・西陣の細尾が手掛けた西陣織を全面に纏わせ、「伝統と進化の融合、持続性や循環性、継承や進化を表現した」という。「世界最大の西陣織で包まれた建物」としてギネス世界記録にも認定された。細尾はこれまで「織物の領域を広げていきたい」として、さまざまに取り組んできたが、外壁として西陣織を用いるのは「前代未聞の挑戦」だったという。開発秘話を細尾真孝社長に聞く。

PROFILE: 細尾真孝/細尾12代目、社長

細尾真孝/細尾12代目、社長
PROFILE: (ほそお・まさたか)1978年生まれ。音楽活動とジュエリー業界を経て2008年に細尾入社。12年、京都の伝統工芸を担う同世代の若手後継者によるプロジェクト「GO ON」を結成。16年からMITメディアラボ・ディレクターズフェロー。17年、ミラノデザインアワードベストストーリーテリング賞受賞。24年に「Forbes JAPAN日本の起業家ランキング特別賞」、「BoF 500」に選出

WWD:飯田グループホールディングスと大阪公立大学の共同出展したパビリオンの外壁を手掛けるに至った経緯を教えてほしい。

細尾真孝社長(以下、細尾):パビリオンの設計者である建築家の高松伸さんからの依頼だった。構想段階の4年前にお声がけいただき、3年前から実装させるために本格的に動き出した。西陣織を外壁として用いるのは前代未聞のこと。「ホソオ(HOSOO)」としては2010年に150cm幅の織機を開発してインテリアの内装材への活用を始め、20年には「レクサス」の内装に搭載するなど織物の領域を広げてきたが、西陣織が“外”に出ることはなかった。しかも巨大なサイズで半年間風雨や日光に耐えうる建築素材である必要があった。建材として耐火性、耐水性、耐光性をクリアする必要があり、素材の選定から始まった。

WWD:シルクではなく耐久性や耐光性を付与したポリエステルを用いて実現した。

細尾:建築家の高松さんから膜構造で世界有数の技術を持つ太陽工業を紹介いただきタッグを組んだ。最初は「不可能でしょ?」という感じで、太陽工業、当社、高松さんそれぞれの知見を持ちよりながらゼロから探っていった。実際に織り始めたのが2年前だった。

WWD:最もハードルになったことは何か。

細尾:大きく2つある。1つ目は外壁の建築素材としての耐久性と機能性を実現させながら寄っても引いても美しい織物として成立させること。普段使わない糸を用いて、糸の撚り方や織り方で西陣織ならではの立体感を表現することに注力した。織りが染めと違う点は立体感や光の当たり方によって表情が変わること。コーティングが厚すぎても織物らしさは出ない。制限がある中で織物の装飾的な美しさを実現した。

2つ目は柄を1枚の絵になるようにつなぐこと。そもそも平面の織物を平面上でつなぎ合わせて柄にすることはできても3Dにすると辻褄が合わなくなりつながらない。当社の研究部門ホソオスタディーズ(HOSOO STUDIES)の数学者やプログラマーを動員し、3Dマッピングの技術を応用して3Dにしたものをカットして張り合わせた時に柄が合うようなプログラムを開発した。着物の絵羽(えば、生地をつなぎ合わせていくことで連続紋様を表現する技法)でさえミリ単位での調整が必要だし、そもそも織物は経糸緯糸の交差なので織機や織る柄によってそれぞれ動きが出る。その動き幅を測定しながら織り上げた。1000以上のトライアルを経て実現できた。

WWD:伝統的な和柄が印象的だった。

細尾:依頼内容は「吉祥文様で日本を表現できる柄」で、当社が柄を起こした。伝統的な柄だが、最新技術を使わないと実現できなかった。これまでの蓄積があったからこそできた。柄の合わせを気にしないような現代的なものであれば楽だった。

WWD:改めて今回のプロジェクトを振り返ると。

細尾:これまでいろんな山を登ってきたが、今回の山はてっぺんが見えなくて、どう登っていいかもわからなかった。何回も登っては落ち、登り方を変えて再度登るようなプロジェクトだった。合理性や機能性ではなく、装飾美を上位概念において手間暇かけて織るのが西陣織。個人的に今回のプロジェクトは人間にとって装飾とは何か、美とは何かという問いが背景にあると感じた。

WWD:建物の外壁に織物を活用するというアイデアは以前の取材で「いつか『ホイポイカプセル』のような移動可能な建物を作りたい」と話していたことに少し重なる。

細尾:思いの他でかくなった(笑)。「ホイポイカプセル」みたいに即座にドーンと展開できないけれど、ギネス世界記録に登録されるほど大きな建築物になった。われわれはコンセプトに「More than Textile(織物の領域を広げていきたい)」を掲げて取り組んできており、今回の外壁も(西陣織本来の)着物とはかけ離れているように感じられるかもしれない。けれど、僕にとっては結局“着物”。着物は人が着るものだけど、部屋が着れば内装になるし、これまで車にも着せてきた。今回構造物に着せたことで、最大級の着物ができたという思いだ。人が着るのか、構造物が着るのかの違いで、いずれも人を感動させる美がそこにあることが重要だ。

WWD:今回のプロジェクトで西陣織を外壁に活用できるようになった。今後の展望は。

細尾:半年間外装材として西陣織が使える、と証明できると思う。織物の領域を広げられたことは、スタンダードになるだろう。織物の建物ができるかもしれないし、織物で覆われたモビリティができるかもしれない。宇宙領域も可能性があるかもしれない。織物の可能性は無限大だ。その前提に美しさがある。美しいものは残る。人に感動を与えられる究極のものづくりを目指したい。

また、展望としてエネルギーも美の要素となるだろう。テクノロジーの活用を始めて10年になるが、実験レベルではソーラーパネルを糸化したものを織り込めるようになった。実装はこれからだが、構造物で発電・蓄電して発光させることは、実は「ホイポイカプセル」構想のときからある。

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【大阪・関西万博】「世界最大の西陣織建築」、開発秘話を細尾真孝社長が語る

かつてない規模の西陣織を外壁に用いた建物として大阪・関西万博で話題を集める飯田グループと大阪公立大学の共同出展館。メビウスの輪を応用した三次元の構造物に、京都・西陣の細尾が手掛けた西陣織を全面に纏わせ、「伝統と進化の融合、持続性や循環性、継承や進化を表現した」という。「世界最大の西陣織で包まれた建物」としてギネス世界記録にも認定された。細尾はこれまで「織物の領域を広げていきたい」として、さまざまに取り組んできたが、外壁として西陣織を用いるのは「前代未聞の挑戦」だったという。開発秘話を細尾真孝社長に聞く。

PROFILE: 細尾真孝/細尾12代目、社長

細尾真孝/細尾12代目、社長
PROFILE: (ほそお・まさたか)1978年生まれ。音楽活動とジュエリー業界を経て2008年に細尾入社。12年、京都の伝統工芸を担う同世代の若手後継者によるプロジェクト「GO ON」を結成。16年からMITメディアラボ・ディレクターズフェロー。17年、ミラノデザインアワードベストストーリーテリング賞受賞。24年に「Forbes JAPAN日本の起業家ランキング特別賞」、「BoF 500」に選出

WWD:飯田グループホールディングスと大阪公立大学の共同出展したパビリオンの外壁を手掛けるに至った経緯を教えてほしい。

細尾真孝社長(以下、細尾):パビリオンの設計者である建築家の高松伸さんからの依頼だった。構想段階の4年前にお声がけいただき、3年前から実装させるために本格的に動き出した。西陣織を外壁として用いるのは前代未聞のこと。「ホソオ(HOSOO)」としては2010年に150cm幅の織機を開発してインテリアの内装材への活用を始め、20年には「レクサス」の内装に搭載するなど織物の領域を広げてきたが、西陣織が“外”に出ることはなかった。しかも巨大なサイズで半年間風雨や日光に耐えうる建築素材である必要があった。建材として耐火性、耐水性、耐光性をクリアする必要があり、素材の選定から始まった。

WWD:シルクではなく耐久性や耐光性を付与したポリエステルを用いて実現した。

細尾:建築家の高松さんから膜構造で世界有数の技術を持つ太陽工業を紹介いただきタッグを組んだ。最初は「不可能でしょ?」という感じで、太陽工業、当社、高松さんそれぞれの知見を持ちよりながらゼロから探っていった。実際に織り始めたのが2年前だった。

WWD:最もハードルになったことは何か。

細尾:大きく2つある。1つ目は外壁の建築素材としての耐久性と機能性を実現させながら寄っても引いても美しい織物として成立させること。普段使わない糸を用いて、糸の撚り方や織り方で西陣織ならではの立体感を表現することに注力した。織りが染めと違う点は立体感や光の当たり方によって表情が変わること。コーティングが厚すぎても織物らしさは出ない。制限がある中で織物の装飾的な美しさを実現した。

2つ目は柄を1枚の絵になるようにつなぐこと。そもそも平面の織物を平面上でつなぎ合わせて柄にすることはできても3Dにすると辻褄が合わなくなりつながらない。当社の研究部門ホソオスタディーズ(HOSOO STUDIES)の数学者やプログラマーを動員し、3Dマッピングの技術を応用して3Dにしたものをカットして張り合わせた時に柄が合うようなプログラムを開発した。着物の絵羽(えば、生地をつなぎ合わせていくことで連続紋様を表現する技法)でさえミリ単位での調整が必要だし、そもそも織物は経糸緯糸の交差なので織機や織る柄によってそれぞれ動きが出る。その動き幅を測定しながら織り上げた。1000以上のトライアルを経て実現できた。

WWD:伝統的な和柄が印象的だった。

細尾:依頼内容は「吉祥文様で日本を表現できる柄」で、当社が柄を起こした。伝統的な柄だが、最新技術を使わないと実現できなかった。これまでの蓄積があったからこそできた。柄の合わせを気にしないような現代的なものであれば楽だった。

WWD:改めて今回のプロジェクトを振り返ると。

細尾:これまでいろんな山を登ってきたが、今回の山はてっぺんが見えなくて、どう登っていいかもわからなかった。何回も登っては落ち、登り方を変えて再度登るようなプロジェクトだった。合理性や機能性ではなく、装飾美を上位概念において手間暇かけて織るのが西陣織。個人的に今回のプロジェクトは人間にとって装飾とは何か、美とは何かという問いが背景にあると感じた。

WWD:建物の外壁に織物を活用するというアイデアは以前の取材で「いつか『ホイポイカプセル』のような移動可能な建物を作りたい」と話していたことに少し重なる。

細尾:思いの他でかくなった(笑)。「ホイポイカプセル」みたいに即座にドーンと展開できないけれど、ギネス世界記録に登録されるほど大きな建築物になった。われわれはコンセプトに「More than Textile(織物の領域を広げていきたい)」を掲げて取り組んできており、今回の外壁も(西陣織本来の)着物とはかけ離れているように感じられるかもしれない。けれど、僕にとっては結局“着物”。着物は人が着るものだけど、部屋が着れば内装になるし、これまで車にも着せてきた。今回構造物に着せたことで、最大級の着物ができたという思いだ。人が着るのか、構造物が着るのかの違いで、いずれも人を感動させる美がそこにあることが重要だ。

WWD:今回のプロジェクトで西陣織を外壁に活用できるようになった。今後の展望は。

細尾:半年間外装材として西陣織が使える、と証明できると思う。織物の領域を広げられたことは、スタンダードになるだろう。織物の建物ができるかもしれないし、織物で覆われたモビリティができるかもしれない。宇宙領域も可能性があるかもしれない。織物の可能性は無限大だ。その前提に美しさがある。美しいものは残る。人に感動を与えられる究極のものづくりを目指したい。

また、展望としてエネルギーも美の要素となるだろう。テクノロジーの活用を始めて10年になるが、実験レベルではソーラーパネルを糸化したものを織り込めるようになった。実装はこれからだが、構造物で発電・蓄電して発光させることは、実は「ホイポイカプセル」構想のときからある。

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アパレル企業が過疎地域再生の一助に 島根県大田市長が語る

PROFILE: 楫野弘和/大田市長

楫野弘和/大田市長
PROFILE: (かじの・ひろかず):1955年大田市静間町生まれ。78年鳥取大学工学部卒業後島根県入庁。2005年商工労働部産業振興課長、09年商工労働部次長、10年西部県民センター所長、12年地域振興部長、13年総務部長を経て15年に退職。同年公益財団法人しまね産業振興財団副理事長に就任。17年退職。同年10月から現職。現在が2期目。趣味は読書、スポーツ、孫守り

地域づくりは行政との連携が欠かせない。島根県大田市大森町に拠点を置く群言堂グループは「地域一体型経営」を掲げ、市や県と連携しながら持続可能な地域づくりに取り組む。島根県大田市は人口約3万人の小規模自治体。「人口減少を止めきれていない」と楫野弘和大田市長はいうが、大森や温泉津(ゆのつ)の人々と協働して、移住者や関係人口が増える取り組みを推進し、その成果が生まれ始めている。楫野市長に地域づくりについて話を聞いた。

WWD:大田市にとって「群言堂」が拠点とする大森はどんな存在か。

楫野弘和大田市長(以下、楫野市長):なくてはならない。経営者含め働いている方々が不可欠な存在になっている。重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に選定されている歴史的な町に群言堂グループと(義肢・装具・人工乳房などの医療器具を扱う)中村ブレイスの2社があるからこそ現在の大森の状況が生まれている。2社の創業者は同世代でその親世代は人口減少で衰退する大森をなんとかしようと働き、彼等はそれを見ていた。そして現在は創業者の子世代に想いと行動が引き継がれようとしている。群言堂も中村ブレイスも約50年前に2人で創業した企業で今は多くの従業員を抱えている。

「行政主体では金の切れ目は縁の切れ目」

WWD:地域づくりは自治体との連携が不可欠だ。大田市はどのように企業と連携しているか。

楫野市長:(地域づくりで)行政と企業が直接コミットすることはほぼない。コラボレーションできるところはする。行政の役割は各地域に人々が活躍できる環境をつくること。行政が持つツールを紹介して地域に活用いただいたりもする。私が市長になって最初に手掛けたインフラ事業は大田市内全域に光ファイバーを整備することだった。そうすれば誰でも世界中と取引ができるから。行政が作った基盤を活用してビジネスであれば儲けてもらい、地域のことは地域でマネジメントしていただき、行政の大きな手助けがなくても自立できる地域を数多くつくることが必要だ。大田市ではトップバッターが大森、二番手が温泉津、そして三番手はこれから頑張ろうとしている三瓶(さんべ)だ。

WWD:大森から山を1つ越えた港町で温泉街の温泉津は移住者によるカフェやバーなどが増えていて、若い経営者の姿が印象的だった。

楫野市長:温泉津は旅館に泊まって温泉を楽しむだけではなく、夜を楽しめる旅館街になってきた。そぞろ歩くことができる町になり、土曜は神楽を見にやってくる人もいる。盛り上がりのきっかけの一つは2022年に地域おこし協力隊の短期制度「遊ぶ広報」(暮らすように13泊14日でまちに滞在しながら心が動いた瞬間をSNS発信すると7万円の滞在費が補助される取り組み)の取り組みだろう。地域を盛り上げようと長年取り組んで来た若い経営者と外から来た人々との交流が生まれて移住者が増えている。地域の人々が行政の制度をうまく活用した好例だ。来訪者の体験の価値が上がるように、現地事務局の西田優花さんが希望に沿うようなマッチングやコーディネートしたことで、出会った人との新たなビジネスが生まれ、リピーターが多い制度になった。

WWD:国は観光産業に力を入れ、さまざまな助成金制度を設けている。地域で新しい事業を興すにはチャンスが多いと感じる。

楫野市長:日本の生きる道は経済を引っ張る都会の存在と日本の暮らしや文化を継承する田舎の両輪が必要で、インバウンドも将来的には田舎がトレンドになるだろう。オーバーツーリズムは懸念材料になるが。

持続可能な地域づくりは、地域に生きる人にしかできない。県職員時代は地域振興や産業振興の分野を担当して持続可能な地域づくりに取り組んできた。そこで感じたのは行政主体では金の切れ目は縁の切れ目になるということ。行政が資金を用意しなければいけないときもあるが出し続けられない。理想は財源を含めて地域で経営することで、振興ではなく地域が地域をマネジメントしないと持続可能にならない。「地域経営」が大切だ。始めるのに遅い早いはない。やるかやらないかだ。どの地域にもいろんないい素材があるのでどれを核にするかを地域で議論して、やる気のある人だけでまず始めることが大切だ。そして徐々に人を巻き込むことが必要になる。

WWD:大森とは条例の改正が必要な取り組みも行う。

楫野市長:資料館などの施設やゴルフカートを活用した移動手段グリーンスローモビリティなど地域のことは全て地域で一括運営できるようにするため、(群言堂グループ社長の松場)忠さん、(群言堂創業者の松場)大吉さんなど大森の方々が、まちの防災・教育・福祉・観光に取り組む民間組織「一般社団法人石見銀山みらいコンソーシアム」を立ち上げられた。将来的にはコンソーシアムが運営する。行政ができることは市の施設の指定管理を委託したり、地域おこし協力隊などの人材を提供したりすることだ。

また、コンソーシアム立ち上げと同時に地域限定の協同組合型人材派遣業「石見銀山大田ひと・まちづくり事業協同組合」を創設してもらい、そこで人を雇って地域に派遣している。事業協同組合は1年目から黒字で新しいビジネスが出てきたり、ビジネスが大きくなったりと面白い流れが出てきている。この2つの事業の両輪を回しながら地域を活性化する仕組みは今後温泉津や(国立公園がある)三瓶にも展開する。

WWD:条例の改正が足かせになる場合があると聞く。

楫野市長:柔軟に民間が対応できるように自治体が整えることが大切だ。そのためにはトップマネジメントも必要だが、職員一人一人が地域の人と話して何が必要かを考え取り組むことが大切になる。仕事をするのは職員で市長の仕事は決断することと責任を持つこと。前例踏襲主義ではなく、自分が前例を作る気合で取り組むことが必要になる。今、前例を踏襲したら誤りであることも多くなっているし、常識は時代によって変わるのでそれにコミットすることが大切だ。

WWD:群言堂グループは町屋改修など初期投資が必要な部分は助成金を活用している。

楫野市長:群言堂グループは、これまで行政の支援制度をあまり利用してこなかった。経営が苦しい時期もあったと聞いている。近年では、例えばサテライトオフィスは大田市と、KITTE大阪の店は島根県の制度を活用している。

WWD:大森に限らず、大田市としてのまちづくり政策についてこれまでの成果と課題は。

楫野市長:一番難しいのは人口減少を止めきれないこと。生まれる子どもの数が激減している。私が市長になった頃に比べると1年で生まれる数が240~250人から約150人と100人程度減っている。日本全体で言えることだが若い世代の可処分所得が伸びないことが原因だろう。田舎の方が都会に比べると厳しくないはずで、例えば大森は子どもの数が3人以上の家族も多く、祖父母や地域が子育てを手助けしている。

われわれ世代は未来を不安に感じなかったが、今の若い方は未来を不安に感じている。それに対して政治が安心感を与え切れていない。マスコミも同じで不安をあおることしかしていない。若い方が重視するタイパやコスパは刹那的な判断だと感じている。人生85年と考えてトータルで幸せな人生を送らないと人生ではないし、10代20代の若い感覚だけで人生を判断してしまっていいのか。

小規模自治体は財政に恵まれないから都会に比べると見劣りする部分はある。そこを暮らしやすさやお金じゃないものの価値で判断してもらわないと定住につながらない。若い人にその価値を受け入れてもらえるかどうか。タイパ・コスパといわれると難しいが、住むとトータルで幸せな人生を送れる可能性がある町をどうやって作りあげ、維持していくか。一方、都会的な要素を欲しがることに対してどうコミットするかも大切で都市的な機能を加えるような再開発も行っている。ない機能は他の都市に頼りつつ、地域間連携で必要なサービスを確保する。選ばれる市になるのは難しいですよ。

WWD:地域づくりをするときに行政として必要な視点やリーダーの立て方など、民間と行政が地域づくりに取り組む際に参考になるような視点とは?

楫野市長:リーダーは自然発生的に生まれない。人材育成には10年かかるし、遅れれば遅れるほど、継続性が生み出せない。地域づくりには時間が必要なのでバトンをうまく渡すことができるリーダーの育成が必要になる。大田市では市役所職員に頑張っている地域を見てもらう研修を始めている。火をつけるのは行政の役割だ。地域に伴走しながら必要なときに手助けをして、自走に向かうのを見守ることが必要だ。

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NY「アダム リペス」が本格上陸 “日本起点”の世界戦略をデルヴォー出身の辣腕CEOに聞く

PROFILE: マルコ・プロブスト=アダム リペス最高経営責任者

マルコ・プロブスト=アダム リペス最高経営責任者
PROFILE: 1966年ドイツ出身。チューリッヒ大学で経営管理を学ぶ。経営コンサルタントとしてキャリアを積んだ後、ヒューゴ ボス日本法人で最高財務責任者、クロエでグローバル最高執行責任者を歴任。2012年にデルヴォーの最高経営責任者に就く。24年8月1日から現職
ニューヨークのコレクションブランド「アダム リペス(ADAM LIPPES)」が8月、海外初進出先とする日本での本格展開をスタートする。すでに1月に日本法人を設立しており、代表にはエス・テー・デュポン ジャポン(S.T. Dupont Japan)元社長の横山麦氏が就いた。2025年プレ・フォール・コレクションから百貨店やセレクトショップでの卸販売を始め、ポップアップショップやショップ・イン・ショップの出店も段階的に進める。5月には国内ECも始動する計画だ。このほど、マルコ・プロブスト(Marco Probst)最高経営責任者(CEO)が日本上陸を控え、来日。日本市場への期待とグローバル戦略について聞いた。

デルヴォー再建を成功させた、日本経験豊富なCEO

「アダム リペス」は「ラルフ ローレン(RALPH LAUREN)」や「オスカー デ ラ レンタ(OSCAR DE LA RENTA)」といったアメリカを代表する2ブランドで経験を積んだデザイナーのアダム・リペス(Adam Lippes)が2013年に、“クワイエット・ラグジュアリー”を掲げるシグニチャーブランドとして立ち上げた。ヨーロッパを中心に調達したシルクやカシミヤなどの上質な素材を用い、手作業による刺しゅうや緻密なテーラリングを組み合わせた独自のモダンラグジュアリーのスタイルは、メラニア・トランプ(Melania Trump)大統領夫人ら著名人からの支持も集めている。

プロブストCEOはエス・テー・デュポンに加え、クロエ(CHLOE)でグローバル最高執行責任者、ヒューゴ ボス(HUGO BOSS)で日本法人の最高財務責任者を歴任。その後12年にデルヴォー(DELVAUX)のCEOに就いた。デルヴォーではグローバル戦略を推進し、日本初の旗艦店を表参道に出店。デジタル施策の強化やEC事業の導入なども主導した。

アダム=デザイナーについては、「ファッションにとどまらず、建築やアート、空間デザインにも美学を投影する人物だ。また素材やクラフツマンシップへのこだわりはもちろん、顧客やパートナーに対する敬意も、ブランドの根幹にある価値観に通じている」と語る。「チームは40人ほどで規模は小さいが、情熱とブランドへの深い理解を持つ仲間がそろっている。『デルヴォー』に加わった初日のことを思い出したし、当時と同じ熱量と可能性を感じている」。横山社長とはエス・テー・デュポン時代の同僚だったことから、「共にブランドを育てていける心強いパートナー」と厚い信頼を寄せる。

成長のカギは日本。グローバルブランドを目指すロードマップとは

「アダム リペス」のグローバル化に向けた再構築が着々と進んでいる。まず、「ジル サンダー(JIL SANDER)」や「スポーツマックス(SPORTMAX)」の広告ビジュアルなどを手掛けるパリのデザインエージェンシー、ブーロ パリ(BUERO Paris)と組み、ロゴやウェブサイトを刷新。ブランドメッセージとなるビジュアルアイデンティティーを明確にした。

また卸売中心だったビジネス構造を見直し、直営店展開を強化。これまでNYダウンタウンの1店舗のみだったが、ヒューストンやパームビーチなどに拡大し、現在は米国内に4店舗を構える。中でも、5番街の歴史ある建物に設けたスペースは、予約制のプライベートサロン兼ショールームとして改装し、ショッピングを楽しむ顧客や商談に訪れたバイヤーをもてなしている。

海外進出にも意欲的で、その第一歩に日本を選んだ。プロブストCEOは、「アダムのコレクションを初めて見たとき、日本市場との親和性を感じた。日本の人々の誠実さ、品質へのこだわり、そしてリスペクトを忘れない文化は、『アダム リペス』の世界観と精神に共通する部分が多くある。ここでブランドの価値を正しく伝えることができれば、韓国や中国へと広がる地盤になる」と意気込む。

日本での出店は、表参道エリアが有力候補になる。メイン通りではなく、あえて裏路地のようなロケーションに、5番街のプライベートサロンのような、顧客に寄り添った特別な空間を作る。「日本の消費者はコレクションの素材や縫製から、ブランドの思い、接客の会話にいたる全てにおいてクオリティーを大切にする。まずは信頼できる卸先との取引からスタートし、ポップアップなどのタッチポイントを経て、ゆるやかに認知を広げていく」構えだ。

9月には、フランス製にこだわったレザーバッグをローンチする予定で、アイウエアやビューティカテゴリーの展開も計画している。まずは日本事業をグローバル展開の端緒とし、パリやロンドンなど欧州の主要都市に進出。5年以内に、東京や大阪、名古屋、福岡など日本国内に最大10店舗、グローバルではパリやロンドン、ソウルや北京、上海など計30店舗を出す。

「真のラグジュアリーとは買ったものにどれだけ喜びや愛着を持てるか」

プロブストCEOは現在のラグジュアリー市場で進む“マスラグジュアリー化”への懸念を抱いている。価格高騰とブランドの過剰露出により、かつての“特別感”が薄れてきていると指摘する。「誰もが同じブランドを持ち、どこに行っても同じロゴが並ぶ。そんな時代だからこそ、“本当に自分のための一着”を探す顧客は増えていくはずだ」と語る。「私にとってのラグジュアリーとは、いくらお金をかけたかではなく、買ったものにどれだけ喜びや愛着を持てるか。自分にとって意味のあるものでさえあれば、それは立派なラグジュアリーだ。私たちに大きな広告は必要ない。信頼関係を大事に、ゆっくりと時間をかけながら、ブランドの根を広げていきたい」。

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「マーカウェア」が情報開示ブロックチェーン導入 素材起点のトレーサビリティを前進

「マーカ(MARKA)」「マーカウェア(MARKAWARE)」を運営するエグジステンスはこのほど、アパレル業界に特化した情報開示ブロックチェーンソリューション「タドリチェーン ツナグ フォー ファッション(TADORi CHAiN– Tsunagu for Fashion、以下タドリチェーン)」を導入し、ウルグアイ産オーガニックウールのカプセルコレクションを発売した。これまでも長く、トレーサブルな素材調達に尽力してきた石川俊介デザイナーはいまWeb3(ブロックチェーン技術によって実現される分散型インターネット)の技術も取り入れながら、洋服の一生を「見守る」挑戦をしている。

トレーサビリティはブランド立ち上げ当初からの思い

「ファッションは農業だ」と語る石川俊介デザイナー。その言葉通り、服作りはオーガニックウールやコットン、アルパカといった原料の栽培地から始まり、着る人の手元に届いた後のケア方法まで見据えている。2000年代初頭からトレーサビリティを意識し、原料の牧場や紡績工場に足を運んできた石川デザイナーは「ブランドを始めた頃から、日本の工場の面白さを伝えたかった」と振り返る。まだ「トレーサビリティ」という言葉が一般的でなかった2000年代初頭、製品タグに協力工場の名前を明記し始めたのがその原点だ。「2014年には、工場名を明記した製品ラベルを導入し始めました。2012年頃にコーヒーショップを開いたとき、ちょうどアメリカでサードウェーブコーヒーが注目されていて、コーヒー農園のトレーサビリティが話題になっていた。じゃあ洋服でもできるだろうと考えたんです」。

その後、QRコードやウェブサイトを活用した情報提供を経て、今回のWeb3による「デジタルパスポート」へとつながった。導入した「タドリチェーン」はアップデータ(UPDATER)が提供する情報開⽰ブロックチェーン ソリューションで、フェーズに合わせた3つのバージョンがある。今回は、 “初期フェーズ”の導入で、製品タグのQRコードから原料の生産者や工場といった情報を得ることができる。

石川デザイナーの人生のテーマは「洋服・旅・食」。観光地ではなく、現地のリアルな暮らしに触れられる場所に惹かれる彼にとって、原料の生産現場を訪れることはまさに「旅の目的地」でもある。「コーヒー農園を訪ねるように、僕たちもコットンやウールの農場に足を運びたいと思うようになったんです。現地の生活や文化に触れることも、ものづくりの一部だと感じています。」これまでに訪れた場所はペルー、アルゼンチン、エジプト、ウガンダ、モンゴルなど多岐にわたる。中には自らネットで調べ、直接連絡を取ってアポイントを取りつけた場所もある。

垂直統合と認証──日本の産地を残すために

現在力を入れているのが、「スモールビジネスの限界」を超えるための拡張だ。商社などに頼らず単身で原料輸入も広げてきたが、「オーガニック原料を使うだけでは、スモールビジネスのままでは、産地に何も還元できない。原料をトン単位で買える規模にならないと、産地に影響を与える提案もできない」。そのため、近年は3t〜7t規模の発注も行っており、間の紡績工場と連携して年単位で素材を仕入れるスキームを構築中だという。

ヨーロッパを中心とした国際的なサステナビリティ基準の高まりを前に、日本の繊維産地は危機にあると石川デザイナーは指摘する。「2025年以降、日本の生地はハイブランドの選定対象から外れつつある。いま日本が動かなければ、世界市場で取り残されてしまう」。

それもあり注目するのが、「垂直統合」。紡績から仕上げまで一貫して対応できる体制を整えることが、持続的な輸出と競争力の鍵だという。「一貫生産ができる工場には、RWS(Responsible Wool Standard)やGOTSの認証取得を提案しています。最終的には生地ブランドとして海外に販売していきたい。目指すはそうですね、“一人「ロロピアーナ」”かな(笑)」。

洋服の一生を追いかける。ウエブ時代のトレーサビリティ

Web3技術によるNFT化された製品情報は、ユーザーの手に渡った後もその洋服の「一生」を見守るための仕組みだ。「製品のライフサイクル全体が見えるようになれば、アフターケア、二次流通、保証など多様な展開が可能になる」。それは思いだけではなく、実践に直結している。自らクリーニング師の資格を取得し、YouTubeでケア方法を発信。洗濯やアイロンの楽しさを伝えることで、「洋服を長く着ること」が本当のサステナビリティだと伝えている。「男性のお客様は、背景のストーリーやヒストリーにお金を払う。だからこそ、服の“ロマン”を伝えることが大事なんです」。

「タドリチェーン」の第⼆フェーズではサプライチェーン動脈の情報開⽰に加え、顧客が製品購⼊後の所有権移転や リペア履歴などの情報を管理することができる。25年秋冬コレクションではウルグアイウールだけでなくモンゴルカシミア製品に第二フェーズ用のプロダクトを導入する予定だ。

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「ルメール」のバッグも手掛けるデザイナーによる「ボナストレ」 アフォーダブル・ラグジュアリーなバッグ作りへのこだわり

PROFILE: フェルナンド・ボナストレ・デ・セリス/「ボナストレ」創業者兼クリエイティブ・ディレクター

フェルナンド・ボナストレ・デ・セリス/「ボナストレ」創業者兼クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: スペイン北部のカンタブリア出身。大学卒業後、フランス・パリに移住し、「クリスチャン ラクロワ」でキャリアをスタート。ウィメンズのプレタポルテやオートクチュールのデザイナーとして経験を積んだ後、「クロード モンタナ」を経て独立。2011年に自身のバッグブランド「ボナストレ」を立ち上げ、13年にマレ地区に旗艦店をオープンした。好きなブランドは「ヨウジヤマモト」と「リック・オウエンス」

ラグジュアリーブランドを中心にレザーグッズの価格が高騰し、手が届きにくいものになっている今、デザイン性とクオリティー、そして6万〜10万円台というリアリティーのある価格帯を併せ持つレザーバッグへのニーズは高まっている。2011年にパリで設立された「ボナストレ(BONASTRE)」は、そんなニーズに応えるブランドの一つだ。創業者兼クリエイティブ・ディレクターのフェルナンド・ボナストレ・デ・セリス(Fernando Bonastre de Celis)は、ファッションデザイナーとしてキャリアを積んだ後、バッグデザイナーに転身。「ボナストレ」を手掛ける傍ら、「ルメール(LEMAIRE)」や「マリーン セル(MARINE SERRE)」といったデザイナーズブランドのバッグ制作にも携わっている。パリのマレ地区に構える旗艦店で、彼にデザインやモノづくりへのこだわりを聞いた。

バッグは服よりも持ち主にとって親密な存在

WWD:バッグデザイナーになろうと思ったきっかけは?

フェルナンド・ボナストレ・デ・セリス「ボナストレ」創業者兼クリエイティブ・ディレクター(以下、ボナストレ):もともとプレタポルテ(既製服)のデザイナーとして働いていたが、次第にとてもインダストリアル(工業的)だと感じるようになった。けれど、私が求めていたのは、もっと“手”を使ったものづくり。その点、世代を超えて受け継がれる技術を有する職人によって生み出されるレザーバッグには“人間味”が感じられ、バッグデザイナーに転身することを決めた。

WWD:ファッションとバッグではデザインのアプローチなども異なるのでは?

ボナストレ:レザーの知識や扱い方は、「クロード モンタナ(CLAUDE MONTANA)」で働いていたときに培った。服は常に特定の女性の体を基に考える必要があるが、バッグはオブジェを作るようにより自由な発想で取り組むことができるし、建築の設計にも似ていると思う。そして、バッグは服よりも持ち主にとってインティメイト(親密)な存在。それは、持ち主に必要なパーソナルなアイテムを詰め込んだもの、すなわち、その人の“生活”を入れて持ち運ぶようなものだから。プレタポルテでは感じられない感覚だと思う。

WWD:「ボナストレ」だけでなく、「ルメール」や「マリーン セル」など他ブランドのバッグ制作にも継続的に関わっている。「ルメール」ではヒットバッグの“クロワッサン(CROISSANT)”も生み出したが、そもそも取り組むことになったきっかけは?

ボナストレ:約7年前、「ルメール」がバッグビジネスを本格化させようとしているときに、もともと親交のあったサラ=リン(・トラン、Sarah-Linh Tran)から声をかけてもらった。それまで「ルメール」で提案されていたバッグはとても硬い印象だったが、必要だと感じたのはクリストフ(・ルメール、Christoph Lemaire)とサラ・リンが提案するポエティックで柔らかな服と同じように軽やかで自然と体に寄り添うようなバッグ。そこでコンセプトから一緒に構想した。“クロワッサン”はアイコニックなアイテムになったが、もともと“イットバッグ”を生み出そうとしたわけではなく、ブランドの世界観に溶け込むものを作った結果と言える。

WWD:デザインを手掛ける際、自身のブランドと他のブランドで違いはあるか?

ボナストレ:「ボナストレ」では建築から着想を得ることが多く、クリーンなラインを生かしながら、平面から彫刻的なボリュームを作ることを意識している。一方、他のブランドと仕事をする時に大切なのは、そのブランドのDNAやデザインコードにフィットすること。例えば、「ルメール」と「マリーン セル」はコンセプトもスタイルも顧客も全く異なり、それぞれに合ったバッグのアプローチや戦略がカギになる。

WWD:他のブランドと取り組む基準は?

ボナストレ:クリエイティブ・ディレクターがナイスな人柄であること(笑)。そして、自分がDNAに共感できないブランドとは仕事をしないと決めている。

“典型的なレッテルにとらわれず、
それぞれの個性を引き立てるものを生み出したい”

WWD:「ボナストレ」のバッグをデザインする上で、特に大切にしていることは?

ボナストレ:「ボナストレ」では、男性用や女性用といったようにジェンダーを分けてデザインしていない。それはジェンダーや年齢、スタイル、シーズンなど典型的なレッテルや枠にとらわれることなく、それぞれの個性を引き立てるものを生み出したいから。そこで重要なのは、バッグとしての機能性に優れながらも、表面的なトレンドに左右されることのないシンプルなスタイルであること。ミニマルに仕上げるには本質を突き詰めなければいけない。それは、デザインを加えることよりもずっと難しい。

WWD:使用している素材や生産背景についても教えてほしい。

ボナストレ:ヨーロッパではイタリアのフィレンツェとスペイン南部のウブリケが高級レザーバッグの生産地として知られているが、「ボナストレ」もウブリケにあるラグジュアリーブランドも手掛ける工房で全てのバッグを生産している。使用するレザーはスペインのものが大半。ただ、イタリアやフランスのタンナリーから調達したものもある。

WWD:レザーバッグの価格が高騰している現状について、どのように考えているか?

ボナストレ:バッグビジネスを知る者としては、今の状況は馬鹿げていると思う。ビジネスを続けていく上でマージンが必要なことは分かるが、過剰な値上げは消費者に対して失礼だ。

最初の顧客はトゥモローランド
最大市場は設立以来ずっと日本

WWD:ビジネスの現状と売れ筋のアイテムは?

ボナストレ:卸先は現在、世界15カ国に約30アカウント。実は最初のクライアントは日本のトゥモローランド(TOMORROWLAND)で、それ以来ずっと日本が最大の市場だ。日本ではトゥモローランドやヒビヤ セントラル マーケット(HIBIYA CENTRAL MARKET)、ジャーナルスタンダード レサージュ(JOURNAL STANDARD L’ESSAGE)、ビュートリアム(BEAUTRIUM)などで扱われている。現在のベストセラーは2つあり、昨冬にローンチした“ライダー(RIDER)”と昔ながらのキャンディーの包み紙からヒントを得た“ボンボン(BON-BON)”。2月には、“ボンボン”に特化したポップアップストアもデ・プレ(DES PRES)丸の内店で開催した。

WWD:そんな日本には、どのような印象を持っている?

ボナストレ:日本の文化も食べ物も人々も大好きで、毎年訪れている。日本のお客さまは、クオリティーやクラフツマンシップを重視し、プロダクトの背景にあるストーリーへの関心も高い。もちろん知名度やロゴで有名ブランドのバッグを選ぶ人もいるが、日本ではデザインがクールというだけでなくプロダクトとしての完成度や独創性を大切にする人が多いと感じている。

WWD:今後の展望は?

ボナストレ:チームの成長とともに、「ボナストレ」のビジネスをさらに発展させていく。特にデジタルに力を入れ、お客さまと直接やりとりすることができる公式ECサイトをさらに強化していきたい。また卸しに関しては、これまで通り私たちのバッグの背景にあるストーリーをしっかりと理解してくれる小売店とだけ取り組んでいく。

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「ルメール」のバッグも手掛けるデザイナーによる「ボナストレ」 アフォーダブル・ラグジュアリーなバッグ作りへのこだわり

PROFILE: フェルナンド・ボナストレ・デ・セリス/「ボナストレ」創業者兼クリエイティブ・ディレクター

フェルナンド・ボナストレ・デ・セリス/「ボナストレ」創業者兼クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: スペイン北部のカンタブリア出身。大学卒業後、フランス・パリに移住し、「クリスチャン ラクロワ」でキャリアをスタート。ウィメンズのプレタポルテやオートクチュールのデザイナーとして経験を積んだ後、「クロード モンタナ」を経て独立。2011年に自身のバッグブランド「ボナストレ」を立ち上げ、13年にマレ地区に旗艦店をオープンした。好きなブランドは「ヨウジヤマモト」と「リック・オウエンス」

ラグジュアリーブランドを中心にレザーグッズの価格が高騰し、手が届きにくいものになっている今、デザイン性とクオリティー、そして6万〜10万円台というリアリティーのある価格帯を併せ持つレザーバッグへのニーズは高まっている。2011年にパリで設立された「ボナストレ(BONASTRE)」は、そんなニーズに応えるブランドの一つだ。創業者兼クリエイティブ・ディレクターのフェルナンド・ボナストレ・デ・セリス(Fernando Bonastre de Celis)は、ファッションデザイナーとしてキャリアを積んだ後、バッグデザイナーに転身。「ボナストレ」を手掛ける傍ら、「ルメール(LEMAIRE)」や「マリーン セル(MARINE SERRE)」といったデザイナーズブランドのバッグ制作にも携わっている。パリのマレ地区に構える旗艦店で、彼にデザインやモノづくりへのこだわりを聞いた。

バッグは服よりも持ち主にとって親密な存在

WWD:バッグデザイナーになろうと思ったきっかけは?

フェルナンド・ボナストレ・デ・セリス「ボナストレ」創業者兼クリエイティブ・ディレクター(以下、ボナストレ):もともとプレタポルテ(既製服)のデザイナーとして働いていたが、次第にとてもインダストリアル(工業的)だと感じるようになった。けれど、私が求めていたのは、もっと“手”を使ったものづくり。その点、世代を超えて受け継がれる技術を有する職人によって生み出されるレザーバッグには“人間味”が感じられ、バッグデザイナーに転身することを決めた。

WWD:ファッションとバッグではデザインのアプローチなども異なるのでは?

ボナストレ:レザーの知識や扱い方は、「クロード モンタナ(CLAUDE MONTANA)」で働いていたときに培った。服は常に特定の女性の体を基に考える必要があるが、バッグはオブジェを作るようにより自由な発想で取り組むことができるし、建築の設計にも似ていると思う。そして、バッグは服よりも持ち主にとってインティメイト(親密)な存在。それは、持ち主に必要なパーソナルなアイテムを詰め込んだもの、すなわち、その人の“生活”を入れて持ち運ぶようなものだから。プレタポルテでは感じられない感覚だと思う。

WWD:「ボナストレ」だけでなく、「ルメール」や「マリーン セル」など他ブランドのバッグ制作にも継続的に関わっている。「ルメール」ではヒットバッグの“クロワッサン(CROISSANT)”も生み出したが、そもそも取り組むことになったきっかけは?

ボナストレ:約7年前、「ルメール」がバッグビジネスを本格化させようとしているときに、もともと親交のあったサラ=リン(・トラン、Sarah-Linh Tran)から声をかけてもらった。それまで「ルメール」で提案されていたバッグはとても硬い印象だったが、必要だと感じたのはクリストフ(・ルメール、Christoph Lemaire)とサラ・リンが提案するポエティックで柔らかな服と同じように軽やかで自然と体に寄り添うようなバッグ。そこでコンセプトから一緒に構想した。“クロワッサン”はアイコニックなアイテムになったが、もともと“イットバッグ”を生み出そうとしたわけではなく、ブランドの世界観に溶け込むものを作った結果と言える。

WWD:デザインを手掛ける際、自身のブランドと他のブランドで違いはあるか?

ボナストレ:「ボナストレ」では建築から着想を得ることが多く、クリーンなラインを生かしながら、平面から彫刻的なボリュームを作ることを意識している。一方、他のブランドと仕事をする時に大切なのは、そのブランドのDNAやデザインコードにフィットすること。例えば、「ルメール」と「マリーン セル」はコンセプトもスタイルも顧客も全く異なり、それぞれに合ったバッグのアプローチや戦略がカギになる。

WWD:他のブランドと取り組む基準は?

ボナストレ:クリエイティブ・ディレクターがナイスな人柄であること(笑)。そして、自分がDNAに共感できないブランドとは仕事をしないと決めている。

“典型的なレッテルにとらわれず、
それぞれの個性を引き立てるものを生み出したい”

WWD:「ボナストレ」のバッグをデザインする上で、特に大切にしていることは?

ボナストレ:「ボナストレ」では、男性用や女性用といったようにジェンダーを分けてデザインしていない。それはジェンダーや年齢、スタイル、シーズンなど典型的なレッテルや枠にとらわれることなく、それぞれの個性を引き立てるものを生み出したいから。そこで重要なのは、バッグとしての機能性に優れながらも、表面的なトレンドに左右されることのないシンプルなスタイルであること。ミニマルに仕上げるには本質を突き詰めなければいけない。それは、デザインを加えることよりもずっと難しい。

WWD:使用している素材や生産背景についても教えてほしい。

ボナストレ:ヨーロッパではイタリアのフィレンツェとスペイン南部のウブリケが高級レザーバッグの生産地として知られているが、「ボナストレ」もウブリケにあるラグジュアリーブランドも手掛ける工房で全てのバッグを生産している。使用するレザーはスペインのものが大半。ただ、イタリアやフランスのタンナリーから調達したものもある。

WWD:レザーバッグの価格が高騰している現状について、どのように考えているか?

ボナストレ:バッグビジネスを知る者としては、今の状況は馬鹿げていると思う。ビジネスを続けていく上でマージンが必要なことは分かるが、過剰な値上げは消費者に対して失礼だ。

最初の顧客はトゥモローランド
最大市場は設立以来ずっと日本

WWD:ビジネスの現状と売れ筋のアイテムは?

ボナストレ:卸先は現在、世界15カ国に約30アカウント。実は最初のクライアントは日本のトゥモローランド(TOMORROWLAND)で、それ以来ずっと日本が最大の市場だ。日本ではトゥモローランドやヒビヤ セントラル マーケット(HIBIYA CENTRAL MARKET)、ジャーナルスタンダード レサージュ(JOURNAL STANDARD L’ESSAGE)、ビュートリアム(BEAUTRIUM)などで扱われている。現在のベストセラーは2つあり、昨冬にローンチした“ライダー(RIDER)”と昔ながらのキャンディーの包み紙からヒントを得た“ボンボン(BON-BON)”。2月には、“ボンボン”に特化したポップアップストアもデ・プレ(DES PRES)丸の内店で開催した。

WWD:そんな日本には、どのような印象を持っている?

ボナストレ:日本の文化も食べ物も人々も大好きで、毎年訪れている。日本のお客さまは、クオリティーやクラフツマンシップを重視し、プロダクトの背景にあるストーリーへの関心も高い。もちろん知名度やロゴで有名ブランドのバッグを選ぶ人もいるが、日本ではデザインがクールというだけでなくプロダクトとしての完成度や独創性を大切にする人が多いと感じている。

WWD:今後の展望は?

ボナストレ:チームの成長とともに、「ボナストレ」のビジネスをさらに発展させていく。特にデジタルに力を入れ、お客さまと直接やりとりすることができる公式ECサイトをさらに強化していきたい。また卸しに関しては、これまで通り私たちのバッグの背景にあるストーリーをしっかりと理解してくれる小売店とだけ取り組んでいく。

The post 「ルメール」のバッグも手掛けるデザイナーによる「ボナストレ」 アフォーダブル・ラグジュアリーなバッグ作りへのこだわり appeared first on WWDJAPAN.

石川涼と「ごゑもん」が語る 世界で戦う“日本のものづくり”の未来

ユニークな発想で世界に挑み続けてきた「せーの」代表・石川涼が、一目惚れした一足の雪駄。“雲駄(unda)”というその履き物は、ミッドソールにPU素材とエアーソールを採用し、柔らかさとクッション性を備えている。雪駄とスニーカーを融合させた、まるで雲の上を歩いているかのような、ふわりとした履き心地が特徴だ。この常識を覆すプロダクトを生み出したのは、プロダクトデザインユニット「ごゑもん(goyemon)」。工業高校の同級生だった大西藍と武内賢太によって、2018年に立ち上げられた。「あなたの常識を盗みます──」。そんな挑戦的な想いを込め、ブランド名は“天下の大泥棒”石川五右衛門にちなんで名付けられたという。4月26日には、石川が手がける「#FR2」とカフェ「兎珈琲」とのコラボレーションモデルも発売予定だ。石川と「ごゑもん」の3人の視点から、日本のものづくりが世界で戦うためのヒントを探る。

出合いは直感。
“雲駄”を履いた石川涼

──まずは、3人の出会いから教えてください。涼さんが最初に「ごゑもん」の雪駄“雲駄”をプライベートで履いていたとか。

石川涼(以下、石川):そう。インバウンド向けのビジネスをやっていると、外国人に刺さるものが肌感でわかる。“雲駄”もネットで見かけて、「うわ、これ売れそうだな」ってピンと来たから、すぐにオーダーして自分で履いてみた。

大西藍(以下、大西):履いているところをインスタのストーリーズで見て、「あの石川涼が履いている!」と思って、すぐにメッセージさせていただきました。返事が来るとも思っていなかったんですが、すぐにお返事をいただけて。

石川:それで、そのあとお店(オーナーを務める会員制のバー)に挨拶に来てくれたから「じゃあ、とりあえず仕入れさせてよ」って。自分たちのお客さんに売れるのはわかっていたから、すぐにやらせてって言ったんだけど、全然在庫を分けてくれなくて(笑)。

武内賢太(以下、武内):いや、本当に在庫が無かったんです(笑)。でもやっぱりインバウンドと相性が良かったのか、すぐに売り切れました。

日本の伝統×最新技術で
雪駄を現代的にアップデート

──「ごゑもん」はクラウドファンディングから始まったんですよね?

大西:はい。当時はクラウドファンディングを使いたかったんです。それで、「マクアケ(クラウドファンディングサービス)」をすごく研究していたら、日本の伝統と最新技術のミックスが支持を得ていることに気づきました。そんな商品を作りたくて、2人でブランドを立ち上げることにしました。

──雪駄を“発明”するアイデアはどこから?

大西:僕ら自身が雪駄を履いていたのもあるんですが、あれってもともと江戸時代のものじゃないですか。砂利道を歩くために作られてるから、現代のアスファルトには合っていないんです。だったら、底をスニーカーの素材にしたら?って思って。

武内:伝統的な製品に支援金が集まっているのは、モノ自体にストーリー性があるから。単にかっこいいだけじゃなく、生活に寄り添った機能がある。それを僕たちなりに表現するとしたら、最新技術ってどんどん進化していくものだから、伝統も日々アップデートできるんじゃないかって。

大西:実際にクラファンに出してみたら、予想以上の反響でした。3カ月の予定だったんですが、1週間で2000万円分のオーダーが入り、そこで打ち切ることにしました。初めての試みだったので、職人の手が回らず、お届けが何年も先になるリスクがあったため、早めにやめようと。

石川:面白いのは、2人は「マクアケ」の中で、お金が集まるものを研究した結果、“雲駄”が生まれたってこと。でも、結局それが今の日本に求められている“個性”というか。最初から世界に売ろうとして作ったわけじゃない。「マクアケ」の中でウケがいいものを考えたら、それが結果的に、外国人にも求められている日本のコンテンツと合致したんだよね。

──涼さんも常々“ただ洋服を作っていてはダメ”と言っていますが。

石川:やっぱり「記念に残るもの」っていうか、日本らしいもの。そういうものが、より求められるようになってきたと思うんだよね。昔はインターネットでものなんて買えなかったから、旅行のお土産には特別感があった。海外旅行でも国内旅行でもそう。でも今は、なんでもネットで買える時代になっちゃったから、逆に“そこにしかないもの”の方が価値が高くなっている。パリに行ったらやっぱり「パリっぽいもの」が欲しいじゃん。でもそれが日本でも買えるってなったら、わざわざ現地で買う意味が薄れる。でも「現地じゃないと手に入らない」ものって、どんどん減ってきてる。ネットで何でも買えるから。世界はどんどん便利になっていってるし、実際その方向を目指してるけど、便利になればなるほど、“わざわざ買う意味”が薄れていく。例えば、Apple製品みたいなデバイス系は、どこでも同じクオリティで手に入るのが便利だし、世界中の人が使ってるから意味があるんだけど。

──インフラに近い存在というか。

石川:うん。洋服も気づかないうちにそっち寄りになってきてると思う。みんなが感じている“本当の価値”って、“便利”とはまったく別物なのに、なんとなく、そっちが正しいって思い込んでいるというか。本来ファッションって、もっと“特別なもの”であるべき。一見、ネットでいつでもどこでも誰でも買えるようなものの方が売れそうに見えるけど、それって要するに日用品なんだよね。靴下とか。そういうのは、どこでもいつでも買えればいいと思う。だって消耗品だから。でも、より便利になってきたからこそ、「その土地でしか買えないもの」ってすごく価値があるし、そういうものにしかお金を払わなくなると思う。これからますます外国人が増えていくからこそ、「ごゑもん」がやっている“日本っぽいもの”って、すごく可能性があると思うんだよね。

“売れるもの”の先にあった
「日本の個性」

大西:僕らが意識しているのは、「日本の伝統と最新技術」というコンセプトをしっかり前面に打ち出すこと。その軸はずっと大事にしていて、そのコンセプトの上で「自分たちが本当に作りたいもの」を作っています。でも、そうなると当然コストも手間もどんどん増えてくるから、量産は難しいし、価格も上がっていく。お客さんからすると、ちょっと遠い存在に感じられることもあるかもしれません。でも、むしろそこにこそ価値を感じていただけているのかな、と思っています。

──日本らしさといえば、「#FR2」も「梅」や「柳」など、店舗名に漢字を多用しています。

石川:当初は、それも社内では反対された。でも、俺は「もうこれしかない」って思ったの。日本を“売る”しか、突破口がないと思ったし、しかも誰もやってなかった。だから、思い切って全て漢字にして、日本語のプリントも始めた。当時は「日本語のプリントなんてダサい」って、みんなに言われたけど。

──ファレル・ウィリアムスとNIGOさんが手掛けた「ルイ・ヴィトン」の2025-26年秋冬メンズコレクションにも日本語が多用されていましたよね。

石川:そう。やっぱり“そういうこと”だと思うんだよね。それが俺たちの個性なんだから。歴史的に見れば、戦後のコンプレックスや欧米信仰で、日本人の中に劣等感があるのかもしれない。でも結局、真田広之の「SHOGUN 将軍」がゴールデン・グローブ賞を獲ったように、海外の人から見た日本は、今でも“侍”と“忍者”なんだよ。だから本当はもっと自信持って、日本人自身が、日本の歴史とかアイデンティティーをもっと大切にすべきだと思う。いつの間にか、「アメリカの方がかっこいい」とか、「ファッションはヨーロッパ」って思い込んでるけど、それはそれでいいとしても、俺たちは俺たちで、自分たちの個性を持たなきゃ、そもそも価値がない。だって今は、インターネットで世界中がつながってるわけじゃん。世界がひとつになってるこの時代に、「世界の誰かと同じこと」をやってても、意味がないと思う。

「ごゑもん」が目指す
“粋”を伝えるデザイン哲学

武内:“雲駄”の“左右がない”デザインも、もともとの雪駄のストーリーから着想を得ました。昔の雪駄には、定期的に左右を入れ替えて履くことでソールが均等にすり減り、長く使えるという日本人の知恵があったんです。でも現代のサンダルになると、どうしても履きやすさを重視して“左右がある”設計になるんですよね。でも僕らとしては、「左右が同じ形のフットウエア」なんて今まで見たことなかったし、それを現代の玄関で“あえて左右を入れ替えて履く”という所作が、すごく面白いなと思って、あえて左右の区別をつけずに、「定期的に入れ替えて履いてくださいね」という思いで作ったんです。

──サイズ展開もS・M・Lの3サイズ展開なんですね。

大西:そうなんですよ。実は最初、「マクアケ」でクラファンやったときは、MとLの2サイズ展開でした。在庫リスクのことも考えて、「サンダルを売るのは難しいな」と思ったのもあって。

──あと、雪駄はかかとを出して履くのが粋だとか。

武内:そうなんです。僕らの世代って、「粋な履き方」とか「デザインの意味」とか、そういった文化をほとんど知らないんですよね。でも、そういう日本人独自の美意識をちゃんと伝えていきたいなと思っています。僕らも「雪駄をやろう」ってなったときに、あらためて調べてみたら、めちゃくちゃ面白かったんです。「あ、こういう深い背景があるんだ」って気づくと、一気に世界が広がるというか。だから、そういう部分も含めて伝えていきたいと思っています。

──「ごゑもん」では、アパレルも展開しています。そもそも、プロダクトデザインとファッションを結びつけようと思ったきっかけは?

大西:正直言うと特に無いんですが、ブランドにする上で広がりを考えたときに、コレクション性が高いのではと思いました。

──オリジナルアパレルのこだわりは?

武内:クリエイターの身の回り品をサポートするラインとして「ゴヱモンジェネラルガジェット(GOYEMON GENERAL GADGET)」と名付けています。僕らが仕事をするために使う道具なので、例えばスウェットでは、デスクワークで最も消耗するであろう手首まわりにナイロン製の補強布を取付けました。エルボーパッチではなく、“リストパッチ”仕様です。シャツは、クイックに袖をまくれるように、カフスをリブにしました。

──今回コラボレーションした“雲駄”について教えてください。「#FR2」が黒とベージュの2色、「兎珈琲」がネイビーの1色ですね。

大西:ナイロンをベースに織った生地で、草履っぽい見た目が特徴です。涼さんに最初に買っていただいたものに近いカラーでもあります。日本の伝統と最新技術の対比がもっとも強く出ているモデルですね。涼さんのこだわりで、雪駄らしく左右を入れ替えて履けるように、ロゴは片側に入れています。左右対称に入れると入れ替えて履けないので。

武内:毎年少しずつクッション材を変えたり、軽量化したり、鼻緒の形状を改良したりしていて、ぱっと見ではほとんど分かりませんが、履き心地はかなり向上しています。

石川:「ごゑもん」は、本当に可能性に満ちていると思うんだよね。和柄とか着物とか、そういう安易な表現じゃなく、日本が大事にしてきた“本質”を突き詰めてる。だからそのポリシーをこれからも大事にしてほしい。あと、なんか2人とも漫画のキャラクターみたいで、そこもいいよね(笑)。

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石川涼と「ごゑもん」が語る 世界で戦う“日本のものづくり”の未来

ユニークな発想で世界に挑み続けてきた「せーの」代表・石川涼が、一目惚れした一足の雪駄。“雲駄(unda)”というその履き物は、ミッドソールにPU素材とエアーソールを採用し、柔らかさとクッション性を備えている。雪駄とスニーカーを融合させた、まるで雲の上を歩いているかのような、ふわりとした履き心地が特徴だ。この常識を覆すプロダクトを生み出したのは、プロダクトデザインユニット「ごゑもん(goyemon)」。工業高校の同級生だった大西藍と武内賢太によって、2018年に立ち上げられた。「あなたの常識を盗みます──」。そんな挑戦的な想いを込め、ブランド名は“天下の大泥棒”石川五右衛門にちなんで名付けられたという。4月26日には、石川が手がける「#FR2」とカフェ「兎珈琲」とのコラボレーションモデルも発売予定だ。石川と「ごゑもん」の3人の視点から、日本のものづくりが世界で戦うためのヒントを探る。

出合いは直感。
“雲駄”を履いた石川涼

──まずは、3人の出会いから教えてください。涼さんが最初に「ごゑもん」の雪駄“雲駄”をプライベートで履いていたとか。

石川涼(以下、石川):そう。インバウンド向けのビジネスをやっていると、外国人に刺さるものが肌感でわかる。“雲駄”もネットで見かけて、「うわ、これ売れそうだな」ってピンと来たから、すぐにオーダーして自分で履いてみた。

大西藍(以下、大西):履いているところをインスタのストーリーズで見て、「あの石川涼が履いている!」と思って、すぐにメッセージさせていただきました。返事が来るとも思っていなかったんですが、すぐにお返事をいただけて。

石川:それで、そのあとお店(オーナーを務める会員制のバー)に挨拶に来てくれたから「じゃあ、とりあえず仕入れさせてよ」って。自分たちのお客さんに売れるのはわかっていたから、すぐにやらせてって言ったんだけど、全然在庫を分けてくれなくて(笑)。

武内賢太(以下、武内):いや、本当に在庫が無かったんです(笑)。でもやっぱりインバウンドと相性が良かったのか、すぐに売り切れました。

日本の伝統×最新技術で
雪駄を現代的にアップデート

──「ごゑもん」はクラウドファンディングから始まったんですよね?

大西:はい。当時はクラウドファンディングを使いたかったんです。それで、「マクアケ(クラウドファンディングサービス)」をすごく研究していたら、日本の伝統と最新技術のミックスが支持を得ていることに気づきました。そんな商品を作りたくて、2人でブランドを立ち上げることにしました。

──雪駄を“発明”するアイデアはどこから?

大西:僕ら自身が雪駄を履いていたのもあるんですが、あれってもともと江戸時代のものじゃないですか。砂利道を歩くために作られてるから、現代のアスファルトには合っていないんです。だったら、底をスニーカーの素材にしたら?って思って。

武内:伝統的な製品に支援金が集まっているのは、モノ自体にストーリー性があるから。単にかっこいいだけじゃなく、生活に寄り添った機能がある。それを僕たちなりに表現するとしたら、最新技術ってどんどん進化していくものだから、伝統も日々アップデートできるんじゃないかって。

大西:実際にクラファンに出してみたら、予想以上の反響でした。3カ月の予定だったんですが、1週間で2000万円分のオーダーが入り、そこで打ち切ることにしました。初めての試みだったので、職人の手が回らず、お届けが何年も先になるリスクがあったため、早めにやめようと。

石川:面白いのは、2人は「マクアケ」の中で、お金が集まるものを研究した結果、“雲駄”が生まれたってこと。でも、結局それが今の日本に求められている“個性”というか。最初から世界に売ろうとして作ったわけじゃない。「マクアケ」の中でウケがいいものを考えたら、それが結果的に、外国人にも求められている日本のコンテンツと合致したんだよね。

──涼さんも常々“ただ洋服を作っていてはダメ”と言っていますが。

石川:やっぱり「記念に残るもの」っていうか、日本らしいもの。そういうものが、より求められるようになってきたと思うんだよね。昔はインターネットでものなんて買えなかったから、旅行のお土産には特別感があった。海外旅行でも国内旅行でもそう。でも今は、なんでもネットで買える時代になっちゃったから、逆に“そこにしかないもの”の方が価値が高くなっている。パリに行ったらやっぱり「パリっぽいもの」が欲しいじゃん。でもそれが日本でも買えるってなったら、わざわざ現地で買う意味が薄れる。でも「現地じゃないと手に入らない」ものって、どんどん減ってきてる。ネットで何でも買えるから。世界はどんどん便利になっていってるし、実際その方向を目指してるけど、便利になればなるほど、“わざわざ買う意味”が薄れていく。例えば、Apple製品みたいなデバイス系は、どこでも同じクオリティで手に入るのが便利だし、世界中の人が使ってるから意味があるんだけど。

──インフラに近い存在というか。

石川:うん。洋服も気づかないうちにそっち寄りになってきてると思う。みんなが感じている“本当の価値”って、“便利”とはまったく別物なのに、なんとなく、そっちが正しいって思い込んでいるというか。本来ファッションって、もっと“特別なもの”であるべき。一見、ネットでいつでもどこでも誰でも買えるようなものの方が売れそうに見えるけど、それって要するに日用品なんだよね。靴下とか。そういうのは、どこでもいつでも買えればいいと思う。だって消耗品だから。でも、より便利になってきたからこそ、「その土地でしか買えないもの」ってすごく価値があるし、そういうものにしかお金を払わなくなると思う。これからますます外国人が増えていくからこそ、「ごゑもん」がやっている“日本っぽいもの”って、すごく可能性があると思うんだよね。

“売れるもの”の先にあった
「日本の個性」

大西:僕らが意識しているのは、「日本の伝統と最新技術」というコンセプトをしっかり前面に打ち出すこと。その軸はずっと大事にしていて、そのコンセプトの上で「自分たちが本当に作りたいもの」を作っています。でも、そうなると当然コストも手間もどんどん増えてくるから、量産は難しいし、価格も上がっていく。お客さんからすると、ちょっと遠い存在に感じられることもあるかもしれません。でも、むしろそこにこそ価値を感じていただけているのかな、と思っています。

──日本らしさといえば、「#FR2」も「梅」や「柳」など、店舗名に漢字を多用しています。

石川:当初は、それも社内では反対された。でも、俺は「もうこれしかない」って思ったの。日本を“売る”しか、突破口がないと思ったし、しかも誰もやってなかった。だから、思い切って全て漢字にして、日本語のプリントも始めた。当時は「日本語のプリントなんてダサい」って、みんなに言われたけど。

──ファレル・ウィリアムスとNIGOさんが手掛けた「ルイ・ヴィトン」の2025-26年秋冬メンズコレクションにも日本語が多用されていましたよね。

石川:そう。やっぱり“そういうこと”だと思うんだよね。それが俺たちの個性なんだから。歴史的に見れば、戦後のコンプレックスや欧米信仰で、日本人の中に劣等感があるのかもしれない。でも結局、真田広之の「SHOGUN 将軍」がゴールデン・グローブ賞を獲ったように、海外の人から見た日本は、今でも“侍”と“忍者”なんだよ。だから本当はもっと自信持って、日本人自身が、日本の歴史とかアイデンティティーをもっと大切にすべきだと思う。いつの間にか、「アメリカの方がかっこいい」とか、「ファッションはヨーロッパ」って思い込んでるけど、それはそれでいいとしても、俺たちは俺たちで、自分たちの個性を持たなきゃ、そもそも価値がない。だって今は、インターネットで世界中がつながってるわけじゃん。世界がひとつになってるこの時代に、「世界の誰かと同じこと」をやってても、意味がないと思う。

「ごゑもん」が目指す
“粋”を伝えるデザイン哲学

武内:“雲駄”の“左右がない”デザインも、もともとの雪駄のストーリーから着想を得ました。昔の雪駄には、定期的に左右を入れ替えて履くことでソールが均等にすり減り、長く使えるという日本人の知恵があったんです。でも現代のサンダルになると、どうしても履きやすさを重視して“左右がある”設計になるんですよね。でも僕らとしては、「左右が同じ形のフットウエア」なんて今まで見たことなかったし、それを現代の玄関で“あえて左右を入れ替えて履く”という所作が、すごく面白いなと思って、あえて左右の区別をつけずに、「定期的に入れ替えて履いてくださいね」という思いで作ったんです。

──サイズ展開もS・M・Lの3サイズ展開なんですね。

大西:そうなんですよ。実は最初、「マクアケ」でクラファンやったときは、MとLの2サイズ展開でした。在庫リスクのことも考えて、「サンダルを売るのは難しいな」と思ったのもあって。

──あと、雪駄はかかとを出して履くのが粋だとか。

武内:そうなんです。僕らの世代って、「粋な履き方」とか「デザインの意味」とか、そういった文化をほとんど知らないんですよね。でも、そういう日本人独自の美意識をちゃんと伝えていきたいなと思っています。僕らも「雪駄をやろう」ってなったときに、あらためて調べてみたら、めちゃくちゃ面白かったんです。「あ、こういう深い背景があるんだ」って気づくと、一気に世界が広がるというか。だから、そういう部分も含めて伝えていきたいと思っています。

──「ごゑもん」では、アパレルも展開しています。そもそも、プロダクトデザインとファッションを結びつけようと思ったきっかけは?

大西:正直言うと特に無いんですが、ブランドにする上で広がりを考えたときに、コレクション性が高いのではと思いました。

──オリジナルアパレルのこだわりは?

武内:クリエイターの身の回り品をサポートするラインとして「ゴヱモンジェネラルガジェット(GOYEMON GENERAL GADGET)」と名付けています。僕らが仕事をするために使う道具なので、例えばスウェットでは、デスクワークで最も消耗するであろう手首まわりにナイロン製の補強布を取付けました。エルボーパッチではなく、“リストパッチ”仕様です。シャツは、クイックに袖をまくれるように、カフスをリブにしました。

──今回コラボレーションした“雲駄”について教えてください。「#FR2」が黒とベージュの2色、「兎珈琲」がネイビーの1色ですね。

大西:ナイロンをベースに織った生地で、草履っぽい見た目が特徴です。涼さんに最初に買っていただいたものに近いカラーでもあります。日本の伝統と最新技術の対比がもっとも強く出ているモデルですね。涼さんのこだわりで、雪駄らしく左右を入れ替えて履けるように、ロゴは片側に入れています。左右対称に入れると入れ替えて履けないので。

武内:毎年少しずつクッション材を変えたり、軽量化したり、鼻緒の形状を改良したりしていて、ぱっと見ではほとんど分かりませんが、履き心地はかなり向上しています。

石川:「ごゑもん」は、本当に可能性に満ちていると思うんだよね。和柄とか着物とか、そういう安易な表現じゃなく、日本が大事にしてきた“本質”を突き詰めてる。だからそのポリシーをこれからも大事にしてほしい。あと、なんか2人とも漫画のキャラクターみたいで、そこもいいよね(笑)。

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「プラザ」が選んだ“HEARTS UP!”アイテムが集合「プロジェクトキャンプ」2025SSの魅力を深掘り

プラザ,PLAZA,プロジェクトキャンプ 2025SS

新スローガン「HEARTS UP!」を掲げ、日常の心拍数を上げる原動力となる「ライフモチベートブランド」へアップデートした「プラザ(PLAZA)」。昨年に始動した内覧会「プロジェクトキャンプ」は、独自の目利き力と売り場編集力で各時代のライフスタイルを彩ってきた強みをあらためてアピールするイベントとして成功を収めた。今年は規模を拡大し、バイヤーこだわりのセレクトブースを目玉に、注目の韓国コスメや人気ブランドとのコラボアイテム、キャラクターグッズの最新作、海外のポップな菓子などをそろえ、今年のトレンドまる分かりの内容に。各ブースと敏腕バイヤーの「推したい」アイテムから、「プロジェクトキャンプ」2025SSをレポートする。

「プロジェクトキャンプ」とは、「プラザ」がいま注目するモノ・コト、ネクストブレイクアイテムを集めた内覧会。敏腕バイヤーが厳選したトレンド必至のアイテムや「プラザ」限定コスメ、新作の輸入菓子など、今シーズンの最新トレンドがいち早く体感できる。

バイヤーの審美眼が光る!
コスメの最新トレンド予測

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注目度が高いビューティは、展示数も最多。ブランドの個性が反映されたブースの中、目を引くのがトレンド予測から厳選した製品をカテゴリー別に展示したバイヤーズピックだ。カテゴリー別で最も売り上げ構成比が高いメイク製品は、ブラウンリップにフォーカスし、「ラカ(LAKA)」の限定色をお披露目。スキンケアは“肌管理”トレンドを意識し、PDRNやイデベノンなど話題の成分配合の製品をセレクトした。美髪トレンドが続くヘアケアは、スキンケアと同様に配合成分にこだわった製品に注目。UVケアは、メイクやスキンケア効果などプラスアルファの機能が付いたアイテムがそろった。

ビィーティーバイヤーがピックアップしたアイテムの1つ目は、「ラカ」“フルーティーグラムティント P101 Pave”プラザ限定(4.5g、1980円※5月中旬発売予定)。「大人気のティントリップに『プラザ』限定色が登場。既存のブラウンより赤みを抑え、パーソナルカラー問わず使いやすい色味に仕上げたアイテム」(ビューティバイヤー)。

2つ目は、「ルルルン(LULULUN)」“ハイドラIDマスク7枚入り”プラザ限定(770円※5月15日発売予定)。「注目の成分を妥協なく配合した『ルルルン』のプラザ限定品。肌に艶を与え、明るく滑らかな“レタッチ肌”へと導く」。

3つ目は、「サミュ(SAM'U)」“センシティブポケットサンスティック”(3300円)。「2個入りでシェアができるミニサイズのスティックUVアイテム。コンパクトなバッグにも余裕で入るサイズ感がうれしい」。

4つ目は、「アンドペア(&PAIR)」“コントロールリペア2in1ヘアミルクミスト”(150mL、1595円)。「ゆっくりプッシュするとミルク状、素早くプッシュするとミスト状に。うねりケアと寝癖直しが1つでかなう2in1ヘアミスト」。

新学期や新生活を
“プラザらしく”提案

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雑貨のバイヤーズピックブースのテーマは「バック・トゥ・スクール」。パステルカラーとビビッドカラーを掛け合わせた「プラザ」らしい世界観で展開した。注目は、6月後半から「プラザ」で先行発売する韓国発の人気キャラクター「エスターバニー(ESTHER BUNNY)」のアイテム。そのほか、iPhone用ケースが人気のロンドン発ファッション雑貨ブランド「スキニーディップ(SKINNYDIP)」や、「プラザ」を代表するステッカーブランド「ミセス・グロスマン(MRS.GROSSMAN'S)」、アイコニックなハンドル付きステンレスタンブラーを展開する「スタンレー(STANLEY)」といった生活雑貨アイテムまで、「プラザ」ならではの雑貨ブランドブースが並んだ。

雑貨バイヤーがピックアップした1つ目のアイテムは、「ミセス・グロスマン」“ステッカー”(ベア250円、ハート220円)。「『プラザ』でロングセラーを誇るカリフォルニア生まれのステッカーブランド。アイコニックなベアやハートは根強い人気」(雑貨バイヤー)。

2つ目は、「プラザ ベーシックス(PLAZA BASICS)」“スライダーバッグSセット“(660円)「『プラザ ベーシックス』の中で特に人気のジッパー付ビニール袋。文字記入のスペースがあり、ちょっとしたプレゼントを入れるのにもおすすめ」。

3つ目は、「スキニーディップ」“iPhone用ケース ハローキティCS、マイメロディCS、クロミCS”(各3960円※4月30日発売予定、5月13日までプラザ先行販売)。「『スキニーディップ』の新作は、欧米でも人気のサンリオキャラクターズとコラボ。逆輸入のニュアンスも感じられるデザインにも注目だ」。

全140種を超えるデザインTシャツが集結!
目玉は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」

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「プラザがTシャツ屋さんに大変身!」をテーマに、前回の130を超える140種以上のデザインを展開する。「音楽」「映画」「テレビドラマ」「キャラクター」「おもちゃ」のジャンルをそろえ、目玉は今年で公開から40周年を迎える『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だ。40周年限定のアートを使った特別なデザインや、カラフルなピクセルゲーム風のデザイン、全3部作それぞれのイメージがミックスされたデザインなど、全10デザインがそろう。誰もがきっとひとつはときめくデザインを見つけられるであろうバリエーションの豊富さは、古参ファンも最新トレンドに敏感な若者も訪れる「プラザ」ならではの魅力だ。

アパレルバイヤーがピックアップした1つ目のTシャツは、「ハンナ・モンタナ」“Tシャツピンク(”4620円)。「大ヒットドラマ『シークレット・アイドルハンナ・モンタナ』。マイリー・サイラスのレトロなヘア&メイクがキュート!」(アパレルバイヤー)。

2つ目は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」“Tシャツブラックピクセル”(4620円)。「公開40周年を迎えるSF映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をピクセル画でゲームテイストにした1枚。クールにも個性的な着こなしにもぴったり」。

3つ目は、「ファービー」“Tシャツホワイト”(4400円)。「ぱっちりお目めがトレードマークのファービーが、目をつむっているレアな1枚。自身で撮影したこだわりのアイテムだ」。

フードや季節のアイテムも
「プラザ」の魅力が盛り沢山

会場フロントラインには「テイスティングバー」を設置した。「プラザ」で人気の数々の菓子を試食でき、多くの人が集った。バイヤーズピックコーナーは、「楽しい味覚体験」をテーマにした海外のサワー系グミやキャンディがセレクトされた。6月には全国の「プラザ」に並ぶという。

そのほか、ライセンスキャラクターからプライベートブランドまで、「プラザ」はオリジナル性にこだわり幅広く事業を展開している。

スキンケアブランド「デュナミス(DUNAMIS)」は、数多くの化粧品を販売する「プラザ」が、スキンケアに迷っている人への「伝えたい」を詰め込んだオリジナルブランド。皮脂テカリをはじめとした等身大の肌悩みに着目し、独自のスキンケアラインを展開する。ブランドディレクター自身の経験から、自分に合った肌ケアをすること、自分の肌を知ることの大切さも発信している。

「レイジースタイルズ(LAZY STYLES)は、「OFF DAYS ON」をコンセプトにした、「プラザ」初のプライベートウエアブランド。シーンやジェンダーに捉われず、曖昧さを楽しむ“FUZZ-ISH”ウエアを展開する。シーンを選ばないデザイン、男女問わず着用できるサイズ展開で、何気ない日常のレイジーな時間も自分らしくポジティブでいられる、最旬のストリートスタイルを提案している。

「プラザ ベーシックス」は、「プラザ」のプライベート雑貨ブランド。“POSITIVE BASICS”をスローガンに掲げ、毎日をちょっとポジティブな方向へ導く、デザイン性と利便性を兼ね備えた生活雑貨を展開する。新生活にそろえたいランチボックスやランドリーボックスなど日常に取り入れて気分の上がるアイテムが充実している。

PHOTO : TAMEKI OSHIRO
TEXT : NAOMI SAKAI
問い合わせ先
プラザ カスタマーサービス室
0120-941-123

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価格40%、年齢マイナス5歳 「ジェイエムウエストン」のヴィンテージが生む新たな接点

ブランドが自社製品を顧客から回収し、修理・補修をして再販売するビジネスが広がっている。1891年創業のフランスの靴ブランド「ジェイエムウエストン(J.M. WESTON)」もそのひとつ。革靴には修理しながら長く愛用するカルチャーが根付いているが、同社は2019年からそれをビジネスモデルに組み込み、グローバル展開している。通常の40%という価格設定も手伝い、「ウエストン・ヴィンテージ(WESTON VINTAGE)」の顧客年齢は通常ラインと比べてマイナス5歳と新規顧客獲得にもつながっているという。伊勢丹新宿店メンズ館でのポップアップストアを控えて来日したマーク・デューリー ジェイエムウエストンCEOにその戦略と成果、課題を聞いた。

ヴィンテージを事業化するという挑戦

WWD:「ウエストン・ヴィンテージ」プロジェクトを始めたきっかけを教えてください。

マーク・デューリー ジェイエムウエストンCEO:このプロジェクトを始めたのは2019年です。実は「ジェイエムウエストン」では創業当初から靴の修理を行っており、現在では毎年約1万足をフランス・リモージュの工房で修理しています。多くのお客様が修理のために靴を持ち込まれる中で「もう履けない」と言われることが増えました。理由はさまざまで、足の形が変わった、ライフスタイルが変わったなどです。

お客様から「もう履けないけれど、この靴をどうすればいいか?」という声を受けて、われわれは「では、それらの靴を何かに活かせないか?」と考え始めました。同時に、当社のアーティスティック・ディレクターであり、ファッション史家でもあるオリヴィエ・サイヤール(Olivier Saillard)が、当社の“修理のDNA”を活かして、古い靴で何ができるかを模索していました。彼は、ヴィンテージの靴をカスタマイズしてパフォーマンスとして見せる試みを行っていて、それを店頭で展示しました。そこからこのプロジェクトがスタートしました。

2020年には、お客様から300足を買い取りました。24年には2000足と、23年から倍増しています。確実に関心が高まっていると感じています。

WWD:プロジェクトを開始したとき、チームや顧客の反応はどうでしたか?

マーク:19年当時、ヴィンテージや回収の取り組みを行っているブランドはほとんどありませんでした。「ジェイエムウエストン」の顧客はすでに修理に慣れていたので、靴を「売る」という新たなステップも比較的受け入れていただけました。

正直なところ、私自身もこの会社に入るまではヴィンテージの靴を履いたことがありませんでした。でも、「ウエストン・ヴィンテージ」では靴を完全に内部まで消毒し、インソールを交換して新品同様に仕上げています。また、「ジェイエムウエストン」の靴は伝統的な作りで、新品は硬く感じることがありますが、ヴィンテージはすでに履きならされているので、最初から快適です。

23年は2000足を回収し、そのうち670足を販売

WWD:若い世代の顧客が増えたそうですね。

マーク: はい、ヴィンテージ靴は新品より約40%安いため、若い世代にとって魅力的です。実際、ヴィンテージ製品の購入者の平均年齢は、通常の顧客より5歳若くなっています。日本でもフランスでも新しい顧客が増えており、初めて「ジェイエムウエストン」の靴を購入するきっかけになっています。

WWD:ヴィンテージ靴の魅力とは?

マーク: 例えば、長年履かれた革のパティーナ(経年変化による艶や風合い)は唯一無二の美しさを生み出します。また、すでに販売終了となっているモデルとも出会える可能性があります。5年前の靴もあれば、20年、25年前の靴もあります。当時の革は、現在の規制とは異なるなめし方法で加工されており、より深みのある表情を楽しめます。

WWD:回収した靴のうち、再販可能な割合は?

マーク: 23年は2000足を回収し、そのうち670足を販売しました。つまり約33%です。前年までは1000足回収して600足販売していたので、通常は60%前後です。昨年は回収数が急増したため、販売率が少し下がりました。

WWD: 「ウエストン・ヴィンテージ」を2019年にスタートして、これまで6年経ちました。特に印象に残っていることや、顧客の反応はありますか?

マーク: いくつかありますが、私が特に気に入っているのは、“宝探し”のような感覚です。ラグジュアリー業界では、世界中どこへ行ってもだいたい同じ商品が店頭に並んでいます。でも、ウェストンのヴィンテージはその都度違うので、サイズ、カラー、スタイルが毎回異なり、思いがけない出会いがあります。これは本当にワクワクする体験です。私自身、店舗でヴィンテージコーナーがあると、必ずチェックしています。

また、多くのお客さまが「この靴は修理できて、また再販売できるんだ」と発見してくださるのも素晴らしいことです。当社の価格帯では「長く大切に履ける投資価値のある靴」であることを実感していただきたいですし、二度、三度と履き継がれていくことで、さらにポジティブな気持ちになっていただけます。

日本について一つ紹介したいエピソードがあります。私たちが2回目のヴィンテージイベントを伊勢丹新宿店メンズ館で開催した際、開店初日に予想を超える反響がありました。地上階のポップアップスペースから、なんと7階まで行列ができたのです。お待たせしてご迷惑をおかけしましたが、その反響の大きさは本当に嬉しかったです。

伊勢丹新宿店で5回目のポップアップを開催

WWD: 日本の顧客は職人技やタイムレスに価値をおく傾向がありますから。

マーク: 日本のお客様は本当に職人技に敏感で、非常に知識が豊富です。時には私たち以上に靴の製法に詳しい方もいて、昨日も店舗マネージャーとの夕食で、縫製について非常に専門的な質問を受けました。こうした対話があるのは日本ならではで、多くのスタッフの教育が必要だと感じています。

WWD: 職人と深く話すこと自体がエンターテインメントですよね。

マーク: まさにその通りです。だからこそ、今年はマーケティング部門のスタッフの一人が、自ら靴を一足丸ごと作れるようになりました。彼は以前、靴工場で働いていたんです。こうした人材がいることで、クラフトマンシップをよりわかりやすく伝えることができます。個人的にも、日本のお客様は伝統的なものづくりを世界でもっとも理解してくださるマーケットだと感じています。

WWD: 4月30日から伊勢丹新宿店で5回目のポップアップを開催しますが、これまでとの違いは?

マーク: 初年度はミックスイベントだったので実質6回目ですが、本格的なヴィンテージイベントとしては今年で5回目になります。フランスから多くの靴を日本に持ち込みます。限定商品も一部用意しています。ヴィンテージ自体が一点物ですが、さらに特別な商品も並びます。

100足すべて違う靴を修理する難しさ

WWD: このプロジェクトにおける課題について教えてください。

マーク: 最大の課題の一つは、すべての靴が修理可能なわけではないということです。アウトソールを取り外して、新たに取り付けるには、アッパーの革が十分にしっかりしている必要があります。お手入れが不十分だと、革が乾燥してしまい、修理に耐えられないことがあります。これはお客様にとって理解が難しい点でもありますが、時にはどうしても修理できない靴もあるのです。

また、サプライチェーン面でも大きな挑戦があります。毎回違う靴が届くので、店舗ごとに回収した靴を一旦工場に集めて修理する必要があります。100足同じモデルを修理するのではなく、100足すべて違う靴を扱うことになるのです。

WWD: サイズの問題も大きいのでは?

マーク: そうですね、重要なポイントです。履き込まれた靴は、サイズが変わっていることがあります。オリジナルのサイズを表示するべきか、実際のサイズを再評価するべきか悩むところです。店舗スタッフにとっても、適切なフィッティングの提案がより難しくなります。ただし、履き心地自体は柔らかくて快適なことが多いです。

日本ではヴィンテージを「売る量」のほうが「買い取る量」より多い。つまり、フランスで回収した靴が日本市場のサイズに合わないことがあり、それも課題の一つです。ただ一方で、「パリで履かれていた靴を、今は東京で誰かが履いている」というロマンチックな物語にもなります。

新製品の開発に与える影響

WWD: 新品にはないストーリーですね。このプロジェクトは、新製品の開発にも影響を与えていますか?

マーク: はい、間違いなく影響があります。当初はアイコニックなモデルのみ修理対象としていましたが、今では全製品の100%を修理可能にしたいと考えています。たとえば、スニーカーではアウトソールを交換可能なように、全周にステッチを入れるなどの設計をしています。現在ではすべてのコレクション開発において、将来的に修理ができる構造かどうかを検討しています。

WWD: EUで進む消費者の「修理する権利」の規制への対応にもなりますね。それには職人の育成も必要です。

マーク: その通りです。靴産業では通常、工場ごとに特化した製品しか作らないのが一般的です。フランス・リモージュの工場では130年間、グッドイヤー製法の靴だけを作っていましが、現在はスニーカー製造を含めた職人技の幅を広げました。

最初に復刻したスニーカーは、1938年に作ったテニスシューズの再現です。もともと1920〜30年代、ウェストンはスポーツシューズのメーカーでもありました。社内で修理技術を持つことが、外部に依頼せず修理を可能にする重要なポイントなのです。

■ジェイエムウエストン 伊勢丹新宿店メンズ館 ポップアップ
日時: 2025年4月30日(水)~5月13日(火)
場所: 伊勢丹新宿店 メンズ館1階「ザ・ステージ」
住所:東京都新宿区新宿3-14-1
ジャズライブ: 5月10日(土)14時~/15時~/16時~ 各回約20分予定

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”イケおじ”“あざとかわいい“は通用しない 台北のラグジュアリーモール「微風」担当者に聞く台湾市場のリアル

日本と文化的親和性が高く、消費意欲も旺盛な台湾。日本国内のアパレル市場が飽和しつつあるなか、日本企業の台湾進出がここ1、2年で再び加速している。3月には三井不動産が、台湾北部の最大都市台北に同地域最大規模の商業施設「三井ショッピングパーク ららぽーと台北南港」をオープン。yutoriによるストリートブランド「9090」や「グラニフ(GRANIPH)」など、台湾初進出となる日本ブランドが現地の話題を集めた。

台北で10店舗を運営するラグジュアリーモール「微風(ブリーズ)」も、ここ数年日本企業の誘致に力を入れる。小森大資・微風廣場股份有限公司リテール・ディビジョン・マネージャーに、台湾と日本の親和性や成功する企業の秘訣を聞いた。

PROFILE: 小森大資/微風廣場股份有限公司リテール・ディビジョン・マネージャー

小森大資/微風廣場股份有限公司リテール・ディビジョン・マネージャー
PROFILE: (こもり・だいすけ)1972年生まれ、福岡県出身。日本国内の総合デベロッパーにて商業施設運営のキャリアを積み、2018年より台北に渡り現職。現在は、日系企業の投資誘致や共同開発プロジェクトを担当。日台間の国際事業の経験を活かし、講演活動やアドバイザーとしても活動する。グロービス経営大学院にてMBA取得。趣味は音楽、特技はピアノ。二児の父

WWD:台湾市場は成長基調にあると聞くが実際は?

小森大資・微風廣場股份有限公司リテールディビジョン・マネージャー(以下、小森):肌感覚としても非常に良い。台湾の2024年の実質GDP成長率は前年比4.3%。日本の成長率が1%未満であることを踏まえると、その勢いを理解してもらえるだろう。台湾の人口は約2300万人程度で、日本と比較すれば市場規模は小さいが、台湾の強みである半導体やIT産業が外貨を稼ぎ、人々の暮らしが豊かになっている。また、労働党が3期連続で政権を取り労働賃金の底上げなどに注力した結果、中間層も拡大している。そうした背景も踏まえ、これからグローバル展開を目指す日本のアパレル企業が狙うべきはまず台湾市場だろうと強調したい。

WWD:日本企業が台湾に注目すべき理由は?

小森:まず、台湾では日本ブランドに根強い人気がある。「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」や「コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)」といったデザイナーズブランドから「ユナイテッドアローズ(UNITED ARROWS)」や「ビームス(BEAMS)」といったセレクトまで全般的に日本ブランドが売れている。加えて、「微風」が初めて誘致したリユースショップ「セカンドストリート(2nd STREET)」も非常に人気だ。当初は日本の古着が買えるという点から爆発的に人気が出たが、今や台湾で30店舗以上出店し、地元の二次流通を構築するインフラ的役割を担っている。日本の服は、台湾では日本の約1.5倍の価格になることが多い。それでも、デザイン性や品質の高さから日本ブランドを選ぶお客さまが多い。

台湾攻略の秘訣とは

WWD:台湾の中でも盛り上がっている地域は?

小森:北部の台北桃園商圏だ。台北市、新北市、桃園市の3都市から成るこのエリアは、台湾の人口の40%にあたる約900万人が住んでいて、国内消費の半分程度を占めているとされる。市場規模で考えれば、順に東京・横浜商圏、韓国のソウル・仁川商圏、大阪・関西商圏、名古屋中部商圏、その次に当たるのが台北桃園商圏となる。中国を除く東アジアの国で5番目に大きな市場と捉えることができるだろう。ここにドミナント戦略で出店をかけるのが成功の秘訣だ。

WWD:日本と比較した際の台湾市場の独自性とは?

小森:まず日本と大きく違うのは、台湾の民主化からまだ40年弱しか経っていないという点だ。つまり、自由にファッションを楽しめるようになったのも比較的最近。私は日本で生まれ育った50代で、若い時に多くのファッションやカルチャーに囲まれて育った。だが、台湾では特に50代以上の男性でファッションに関心のある人は少ない。そのため、たとえば日本の“イケおじ市場“のようなものはほぼ存在しない。50代以上の男性をターゲットにしたゴルフウエアやパジャマブランドなどを日本ではよく見かけるが、台湾で流行らせるのは難易度が高い。一方で、Z世代や30代は日本人とほぼ変わらないようにオシャレを楽しむようになった。

WWD:台湾で成功する日本ブランドの特徴は?

小森:尖ったデザイン性とユニセックスの提案だろう。台湾ではいわゆる“あざとかわいい“と言われる複雑なテイストよりも、特に若い世代からは、ユニセックスやジェンダーを問わないファッションが支持を得ている印象だ。定番的なデザインよりも他にはないような希少性の高いブランドが流行っている。「イッセイミヤケ(ISSEY MIYAKE)」は代表例だろう。もちろん「シーイン(SHEIN)」のようなウルトラファストファッションも台湾には入ってきている。現地の日本企業の動向を見ていると、そうした中間市場で戦うのと同時に、よりファッション性を打ち出し、高級化する戦略を取るところも出てきた。前述のように、現地のファッションを楽しみ始めた若者たちは今、常に新しいトレンドを求めている。日本では消費の関心が服以外にも多岐にわたっているが、これからの台湾においても、日本ブランドはもっと支持されると確信している。

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ベイクルーズが元コレットのサラとポップアップ コレットのエネルギーを再現

ベイクルーズは、人気を誇ったパリのセレクトショップで、2017年に惜しまれつつクローズしたコレットを手掛けたサラ・アンデルマン(Sarah Andelman)をキュレーターに迎えたポップアップストアを、東京・虎ノ門ヒルズの「セレクト バイ ベイクルーズ(SELECT BY BAYCREW’S)」でスタートした。期間は5月25日まで。

サラがセレクトした、日本未上陸のパリブランドをはじめ、ファッションからアートまで多彩なジャンルの商品がそろう。また、彼女と親交の深い小木“POGGY”基史もキュレーターとして参加し、日本とパリのクリエイティブシーンを融合させた空間になっている。日本のファションブランドでは「ヨーク(YOKE)」「ダイリク(DAIRIKU)」「コッキ(KHOKI)」「タナカ(TANAKA)」などがコラボレーションアイテムを製作。ほか、伝説的レーサーとして知られる生沢徹の娘である生沢舞によるファッションブランド「チームイクザワ(TEAM IKUZAWA)」や、フォトグラファーRKの作品なども並ぶ。

サラはコレットを閉店した後、自身の会社「ジャスト アン アイデア(Just an Idea)」を設立。アートブックの出版やブランドのコンサルティング、キュレーションを通じて、アートとファッション、カルチャーを横断的につなぐ活動を続けている。オープンに合わせ来日したサラに、ポップアップの見どころや最近の活動まで、話を聞いた。

WWD:今回のポップアップは「エディフィス(EDIFICE)」からのラブコールで実現したと聞いた。最初の出会いは?

サラ・アンデルマン(以下、サラ):Poggyさんの紹介で、「エディフィス」のチームと知り合ったのが最初だったと思う。コレット時代にもベイクルーズのバイヤーとは交流があった。少し前に私が大ファンの「パリ・サンジェルマン(PARIS SAINT-GERMAIN)」の新宿店を訪れたとき、今回のポップアップに向けた話が出たの。時期は桜の季節がいいねとも話していたので実現できてうれしいわ。

WWD:ポップアップの見どころは?

サラ:東京にまだ上陸していないブランドを中心にセレクトした。アーティストたちにも、ここでしか手に入らないような新作を用意してもらった。それから私の「ジャスト アン アイデア」で制作したアート本シリーズ、「Just an Idea Books」もぜひ手に取ってほしい。

WWD:今回のポップアップは、コレット時代の仕事と通じる部分があった?

サラ:そうね。確かにコレットのエネルギーと似たようなものは感じてもらえるんじゃないかしら。私はいつだって、アートとファション、本、フード、いろんなジャンルを掛け合わせるのが好きなの。普段は別々の場所に存在しているモノやストーリーを同じ場所に集めて生まれる化学反応のようなものを見るとすごく満たされた気分になる。

WWD:特に「セレクト バイ ベイクルーズ」は、セレクトショップの面白さをあらためて感じられるような店作りにこだわっている。今の時代における、面白い店作りに必要なことは?

サラ:他では手に入らないものに出合えること。「セレクト バイ ベイクルーズ」もビンテージ時計から、インディペンデントな若いブランドまで幅広くそろえている。価格帯もジャンルもさまざまなものが混ざっていて、それがまた面白さにつながっている。あらゆるジャンルを超えたモノを組み合わせて自分らしいスタイルを作れるような空間にこそ、セレクトショップの魅力があると思う。

WWD:今注目しているアーティストやクリエイターは?

サラ:今回のポップアップにも参加している「オン ブラック パリ(EN VRAC PARIS)」はおすすめ。デザイナーのマリーヌ・ナレ・バラベス(Marine Nallet Barrabes)は「エルメス(HERMES)」に20年勤めた後に独立して自分のプロジェクトを立ち上げた。ビンテージのシャツに、日常のモチーフをシルクスクリーンでプリントしているの。新しいものをゼロから作るのではなく、既存のものを変化させるという視点がすごく面白いと思う。

WWD:ファッション以外に今気になっているコトは?

サラ:アート本には引き続き惹かれている。今回の滞在でも神保町の古本屋を見るのが楽しみの1つだったの。あと最近は車もファッションの世界とどんどん近付いている気がする。今回参加している「チーム イクザワ」もいい例。他にも「キス(KITH)」と「BMW」のコラボだったり、この前のミラノデザインウイークでもたくさんの車メーカーがポップアップを出していたりしたことが印象的だった。それから、クラフトにも興味がある。新しいムーブメントではないけど、今の時代により人々の関心が集まっている分野だと思う。

WWD:「ジャスト アン アイデア」で次に仕掛けることは?

サラ:今有名なブランドのコンサルティングに入っているけど、まだ詳しくは言えないわ(笑)。次のメンズファッションウイークでは、大手スポーツブランドとのプロジェクトがお披露目になる予定。

WWD:仕事の外では今何をしている時間が楽しい?

サラ:家族と過ごす時間ね。それと旅行。なるべく時間を作って、いろんな場所に旅行に出かけることが楽しみね。

■JUST AN IDEA in TOKYO

日程:4月17日〜5月25日
場所:SELECT by BAYCREW'S
住所:東京都港区虎ノ門2-6-3 虎ノ門ヒルズステーションタワー3階

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ジョーディー・グリープが語る「松丸契や梅井美咲とのコラボ」からボアダムス、ブラック・ミディの今後まで

2024年夏に無期限の活動休止を発表したUKのバンド、ブラック・ミディ(black midi)。その突然のニュースから間髪入れずにソロ転向を宣言し、24年10月に電光石火の速さで届けられたジョーディー・グリープ(Geordie Greep)のデビュー作「The New Sound」は賞賛をもって迎えられ、多くのメディアで昨年を代表するアルバムに選ばれるなど高い評価を受けた。ロンドンとブラジルのサンパウロで現地のミュージシャンとレコーデイングされ、ジャズやラテン・ミュージック、プログレッシブ・ロックからイージー・リスニングまでが高度な演奏によって組み合わされたようなサウンドは、博覧強記の音楽体験を誇るグリープにしかつくりえない代物。それはブラック・ミディの記憶を押しやるに十分な、まさに「新しい音」と自ら謳うとおりのインパクトだった。

そのジョーディー・グリープが2月、ソロ・ツアーで来日した。ヨーロッパやアメリカですでに行われたこのワールド・ツアーは、地域ごとにグリープ自身が集めたミュージシャンとバンドを組み巡業する形が取られ、今回の来日公演では、松丸契(サックス)や梅井美咲(キーボード)、日本のバンドのgoatにも参加しているAkio Jeimus(ドラム)という日本のジャズ/即興音楽のシーンで活躍する若手プレイヤーに、“New Sound Band”のメンバーとして、ヨーロッパ・ツアーにも帯同したマイケル・ダンロップ(Michael Dunlop)を加えたクインテットを結成。アレンジやアドリブを交えながら曲のフォルムを変えていく演奏はスリリングで、テンション高く「エンターテイナー」のようにステージを沸かしたグリープのパフォーマンスは今の充実ぶりを存分に印象づけるものだった。「すごい達成感があって、最高に気持ちいい」。順風満帆に進み始めたソロ・キャリアについてそう語るグリープに、韓国での公演を終えて日本に“帰国”後、中目黒のオフィスで話を聞いた。

日本のミュージシャンとのコラボ

——東京でのライブを観たのですが、とてもエキサイティングで楽しかったです。今回一緒にバンドを組んだ日本のミュージシャンは、いずれもジャズや即興音楽の世界で活躍する若手の演奏家たちということで、刺激を受けたり感化されたりした部分が大いにあったのではないですか。

ジョーディー・グリープ(以下、ジョーディー):間違いないね。彼らは音楽に何か違うもの、新しいものをもたらしてくれた。それは僕がまさに求めていたものだった。つまり、このミュージシャンたちと一緒にやって最高だった曲が、他のバンドと一緒にやって最高だった曲と必ずしも同じじゃなかったということ。だから、セットリストのハイライトになる曲が変わったり、セットリストを組み立てる軸になる曲が違ったりした。新曲もいくつか演奏したし、曲によってはこれまでと違うアプローチで即興演奏もしてみた。それに、ミュージシャンと知り合ってすぐにツアーに出るなんて初めてだったから、学ぶことも多かった。まずは小さなライブから始めて、そこから大きなショーへとステップアップしていくように戦略を立てていこうと思ってる。今回のツアーは、今まで一緒に演奏したことのないメンバーなのに、いきなり900人もの観客の前でライブをやるっていうものだったからね。それでも本当に素晴らしかったし、すごくいい経験になったよ。

——そもそもどんな流れでこのメンバーとバンドを組むことになったのでしょうか。

ジョーディー:松丸とは、もう3年くらいの付き合いになるのかな。彼はいろんなバンドで演奏しているんだけど、その中の一つがDos Monosでさ。彼らはブラック・ミディと一緒にイギリスとヨーロッパでツアーをしたことがあって、その時に初めて松丸がサックスを吹いている姿を見たんだ。日本でブラック・ミディのサポートをしてくれた時のDos Monosはトリオ・ラップって印象だったから、とても新鮮だったんだよね。

それで、ツアー中にあちこちで少しずつ話すようになり、だんだんと打ち解けていって。そしてツアーの最後に、彼が自分のアルバム「The Moon, Its Recollections Abstracted」をくれたんだ。聴いてみたらすごくクールでさ。それまで彼が主にフリー・インプロヴィゼーションのジャズ・プレイヤーだなんて知らなかったから、「へえ、面白いな」って興味を惹かれたんだよね。その後、休暇で日本を訪れた時、彼ともう少し一緒に過ごす時間があって、いくつかの即興グループで演奏する彼を見に行ったんだ。そしたらその流れで、「せっかくだし、観客の前で一緒にやってみようか」って話になって。彼が小さなライブをブッキングしてくれて、観客の前で1時間半から2時間くらい即興で演奏したんだ。その後、ドラマーのAkio Jeimusと一緒にリハーサル・ルームでジャム・セッションもやったんだけど、これがうまくハマってさ。「いつかこのメンバーで、もっと正式な形で一緒に何かできたらいいな」って思ったんだ。それで、その後にアルバムをつくって、いろんな地域で異なるミュージシャンと演奏しようってなった時、真っ先にその2人が浮かんだんだよね。そしたら彼らも「よし、やってみよう」ってすぐに乗ってくれて。

そこから、キーボード奏者について彼らに相談したら、(松丸)契が推薦してくれた候補の1人が(梅井)美咲だった。ほんと完璧だったよ。素晴らしいプレイヤーで、音楽にもツアーにもすごくマッチしてた。それで、バンドを完成させるために、イギリスからマイケル・ダンロップを連れてきたんだ。彼は僕の友達で、イギリスのバンドで演奏しているんだけど、全ての曲を把握していて、スケジュール的にも僕より先に日本に来てリハーサルができるメンバーとして最適だった。少なくとも1人はそういう人がいると心強いし、やっぱりいて良かったなって思うよ。

——ブラック・ミディ時代にはおとぼけビ〜バ〜などとも共演されたことがありますが、そうした自分と近い世代の日本のミュージシャンと接してみて、何か感じるところはありますか。

ジョーディー:今ってほんと面白い時代だと思うよ。たくさんの人がいろんな種類の音楽を演奏してるんだけど、昔みたいにバーでバンドを見て影響を受けるってよりは、インターネットを通じてさまざまな時代やスタイルの音楽を発見するようになっている。そして、歴史上初めて、誰もがこれらの音楽に平等にアクセスできるようになった。CDを買ったり、ラジオを聴いたりする必要がなくて、興味があればインターネットで自由に探して聴けるし、誰でも自分の好きなものにどっぷりハマれるんだよ。

そのせいか、今の世代って“ジャンル”への偏見がかなり少ない気がするんだ。10年、15年、20年前は、音楽の楽しみ方が雑誌やラジオ、テレビでガチガチにキュレーションされてて、特定のジャンルや音楽的なアプローチに偏見があった。例えば、プログレッシブ・ミュージックとかジャズ、フュージョン、ワールド・ミュージックなんかは、近寄りがたくて敷居が高いと思われがちだった。インディー・ロックとかオルタナティブ・ミュージシャンを目指すなら、いろんなジャンルを受け入れるんじゃなくて、自分のスタイルやレーンに留まるべき、みたいな風潮もあったと思う。でも、今はその状況が大きく変わった。ここ10年くらいで、若い人たちはいろんなジャンルに挑戦したり、多様なスタイルを取り入れることにずっとオープンなマインドを持つようになってる。音楽への向き合い方が自由で柔軟になってきたなって感じるよ。

ボアダムスからの影響

——一方、今回のツアーでは∈Y∋がDJセットでサポートを務めていて。ボアダムスはジョーディーさんにとって特別なバンドですよね。

ジョーディー:ボアダムスの音楽に初めて出会ったのは、インターネットがきっかけだった。今話したみたいに、もしネットがなかったら、彼らを知るのにもっと時間がかかっただろうね。13歳か14歳の時に聴いて、すぐに大好きになったよ。ほんと最高のバンドだと思う。彼らの音楽って、いろんな時代やスタイルを渡り歩いてるんだけど、常に一貫した哲学があるんだよね。それは、可能な限り強烈なものをつくり出すってことだと思う。例えば、初期のアルバムの「チョコレート・シンセサイザー」や「ポップ・タタリ」だと、熱狂的で一つのアイデアに突っ走る感じが強いけど、そこにだんだん催眠的なスタイルが積み重なってくる。その後、サイケデリックやドローン・ノイズ、長尺のインプロヴィゼーションみたいな方向に進んだ時期もある。でも、サウンドは柔軟で変化に富んでるのに、全体を通して同じビジョンが貫かれてるんだよね。そこがすごい。

で、僕の音楽にもそういう部分がある気がするんだ。今回のアルバムは、ブラック・ミディの時とはサウンドが少し違うけど、目指してるビジョンやゴールは一緒。結局、自分が好きなもの、自分が音楽をやりたい理由と共鳴するものをつくりたいだけなんだ。

——今回の∈Y∋のDJはどうでした?

ジョーディー:2、3年前の(ブラック・ミディの)名古屋公演でも彼がDJセットをしてくれたんだけど、今回はさらに荒々しくて擦れたプレイだった。前回は、激しくてノイジーで、クレイジーなエレクトロニクスって感じのグリッチなミックスから、クールなバラードやワールド・ミュージックみたいな曲まで展開していく感じで。でも今回は、さらに磨きがかかってて、終始グリッチでアグレッシブなエレクトロニック・サウンドが中心でさ。それがまた最高で、すごく面白かった。東京での初公演の後、Xで反応を見てたら、「何だこれ? このDJ誰だ?」とか「ただのノイズじゃん」みたいな声もあって。いや、こいつはマジで伝説の男だから。ちゃんと調べてこいよっていう(笑)。

——ははは。

ジョーディー:実は、僕が自分の音楽をやる上で一番影響を受けたのは、10年前にロンドンで観たボアダムスのライブなんだ。彼らはバンドだけで演奏するんじゃなくて、88人のランダムな人たちにシンバルを叩かせてた。まあ、ある意味ギミックっぽいよね。「88人にシンバルやらせちゃおうぜ」みたいな思いつきだったのかもしれない。でも、実際にそれが始まった瞬間、そこにはまさに、その瞬間にしか体験できない何かがあったんだ。

ライブってさ、最初はよく分からないものじゃないか。 半分くらいまで観てても、これが好きなのか嫌いなのか、楽しめてるのかどうかすら曖昧で。映画を観てる時と同じでさ。でも、ライブの最後の5分くらいで突然、「あ、これ最高! 本当に好きだ。観に来てよかった!」って、全部が腑に落ちる瞬間がある。このボアダムスのショーがまさにそうだった。2時間か3時間の長丁場で、ずっと「これ何だ? 何がしたいんだろう? 楽しんでるのかな、まあそうかも」って思いながら観てたんだ。でも、最後に気づいたんだよ。「このシンバルの音って、もう二度と聴けない音なんだ」って。この会場にいる誰にとっても、完全に唯一無二の音なんだって。それがすごく不思議で、魔法みたいな感覚だった。「うわ、彼らは本当にすごいものをつくり出してる!」って。

しかも、ただユニークなだけじゃなくて、そのサウンド自体がとても素晴らしかった。シンバルの音がまるで海みたいに響いて、でも、もっとコントロールされた海って感じで。そしたら、スクリーンに海の映像まで映ってたんだよね。たぶんあれはジョークだったんだろうな(笑)。でも本当に最高だった。あれはほんとすごいショーだったよ。

——ちなみに、ボアダムスよりさらに前の時代の日本の音楽、アンダーグラウンド・ミュージックについてはどんなものに触れてきましたか。例えば、裸のラリーズや、タージ・マハル旅行団とか?

ジョーディー:ああ、裸のラリーズは知ってるよ。ただ、どうだろう……僕がハマった日本の音楽って、主にノイズ・ミュージックなんだよね。一番古いラインで言うと、グラウンド・ゼロとか大友良英あたりから入った感じで。もちろん、坂本龍一みたいにみんなが知ってるアーティストの曲も聴くよ。でも、もっと“クラシック”なものだと、日本のクラシック音楽……特に武満徹が今でも大好きだね。武満徹の音楽って、ある種の忍耐が必要でさ、聴いててぐっとくるんだよね。統一感がないっていうか、組み立て方が独特で素晴らしい。ミニマル・ミュージックって、催眠的だったり気分を高めてくれたりするのはいいんだけど、ちょっとギミックっぽく感じる瞬間もある。同じフレーズを何度も繰り返して、面白さや催眠効果を引き出してるだけ、みたいな。でも、武満徹は全然違ってて、ちゃんとメロディックなアプローチもありつつ、少し無調っぽいところもある。でも、ふとした瞬間にロマンティシズムが顔を出すんだよ。それがたまらないんだよね。

あと、他に自分が聴く日本の音楽っていうと、面白いことに、西洋で人気があるジャンルが多いかな。シティ・ポップとかね。山下達郎なんて、もはや“クラシック”って感じだよね。

——なんか意外です。

ジョーディー:まあ、ああいうタイプの音楽って、本当に好きな人は何でも「おお、これいいね」って言うんだろうけど、正直、僕からしたらほとんどの音楽ってクソみたいだなって思うんだ。でも、まあ10枚くらいは「これは最高!」って思えるアルバムがあるかな。大貫妙子とかね。いくつかは退屈だったり、超安っぽく感じたりする作品もあるけど、全体的にクールでかっこいいと思うよ。

あと、個人的に日本のアルバムで最高な1枚って言ったら、(清水靖晃が率いたMARIAHの)「うたかたの日々」だね。1980年代のニューウェーブっぽい雰囲気で、とてもクラシックな感じがしてさ。そんなに詳しくは知らないんだけど、最高にクールで大好きなアルバムだよ。

日本のカルチャーについて

——今回のソロ・アルバム「The New Sound」のジャケットを見て、そういえば、前回ブラック・ミディとして来日した際にあなたがSNSに上げていた日本での買い物リストの中に、佐伯俊男の画集があったことを思い出したんですね。彼の絵のどんなところに惹かれたのでしょうか。

ジョーディー:素晴らしいよね。あの絶妙なバランスが最高だと思う。この前、betcover!!のボーカルの(柳瀬)二郎と話したんだけど、彼が言うには、現代の日本って、ちょっと変態的っていうか、異端的なアートの歴史を隠そうとする傾向があるみたいなんだ。それで彼は、「いや、そうじゃなくてさ、僕らはそれを受け入れるべきだし、なんでダメなんだって声を上げるべきだ。少なくとも、避けたり尻込みしたりしないで向き合うべきだ」って考えてたんだよね。

でさ、佐伯俊男みたいなアーティストって、その表現が行き過ぎてるのかちょうどいいのか、品がいいのか悪いのか、その微妙な境界線にいると思うんだ。僕がアルバム・カバーに使った絵も、彼の作品の中では実は結構おとなしめっていうか、道徳的に受け入れやすい部類だと思うんだよね。だって、彼の作品って時々ほんとぶっ飛んでるものもあるからさ。でも正直、佐伯の作品って悪意が込められてるようには感じないんだ。なんか嫌な気持ちでつくられてるわけじゃなくて、よく見ると変なユーモアとか皮肉っぽいニュアンスがあったり、とても美しい一面があったりする。ただショックを与えるためだけのものじゃない。それって僕が好きなもの全てに共通してるんだけど、常にそのバランスが大事なんだよね。本当に不快だったり意地悪だったりするだけのものは、すぐ飽きちゃうから。

例えば、三島由紀夫とかもそうで。彼の文章って大好きだし、とても巧みで素晴らしいと思う。でも、しばらく読んでると、「この人、ほんとこの世界が全部嫌いなんだな」って感じになってくるんだよね。全てが最悪、みたいなさ。で、彼の人生を調べてみると、結構ひどい奴だったみたいで。そしたら、「なんでこんなの読んでるんだろ? なんか精神的な毒だな」って思えてくるんだ(笑)。でも、明らかにすごい才能のある作家だよね。だからさ、そういう異端的な要素を取り入れる時、そっち側に引っ張られすぎないようにバランスを取るのって、ほんと難しいと思うんだ。

——ちなみに、その買い物リストの中には、アラーキーの写真集や、三島由紀夫が表紙を飾る日本のボディービルダーに関する本もありましたね。ジョーディーさんの日本のアートへの関心についてぜひ伺いたいです。

ジョーディー:素晴らしい映画もたくさんあるよね。もちろん黒澤明は有名だけど、僕が好きなのはホラー映画で、三池崇史の作品とかさ。「オーディション」はサイコウデス(日本語で)。あと、90年代の映画だと、黒沢清の「CURE」も超エピック。日本映画って素晴らしい作品がいっぱいあって、音楽や芸術も含めて、日本の文化的伝統ってほんと豊かだと思う。

でさ、日本の芸術の興味深いところの一つは、それが世界にどんな影響を与えてきたかってことで。いろんな時代で影響が見られるよね。例えば、19世紀だと、フランスの芸術や文学が日本からとても影響を受けていて、モネが着物姿の妻を描いた絵とかもある。あと、プッチーニの「蝶々夫人」とかもそうだよね。本とかオペラでもその影響が感じられるよ。

それから20世紀になると、オリヴィエ・メシアンとかが出てくる。彼は日本の伝統音楽や野鳥にインスパイアされた曲をたくさんつくってて。メシアンってほんと創造性に溢れた音楽家で、驚くべきことに、世界中のあらゆる鳥の鳴き声を楽譜に書き起こそうとした。いろんな国に行って、森で耳を澄ませて、それを採譜してね。で、日本の鳥をモチーフにした曲の一つが「Chronochromie」で、あと「Harawi」ってのもある。それは日本の鳥や音楽を題材にした声楽曲なんだけど、面白いよね。正直、その手の影響ってエキゾチックで表面的な感じになりがちかもしれないけど、「なんでダメなの? クールでいいじゃん」って思うんだよね。

——エロスとタナトスじゃないですが、表裏一体や紙一重といったものが、自身の美意識や好奇心がくすぐられるポイントだったりするのでしょうか。

ジョーディー:まあ、必ずしもずっとそうってわけじゃないんだけど、よく思うのは、心に残ったり、じわじわくるものって、ちょっとした違和感がある時なんだよね。何が現実で、どこまでが道徳的で、どこまでが必要なのかよく分からない感じっていうか。例えば、アルフレッド・ヒッチコックの古典的な作品もそうだけど、彼の映画って、当時のハリウッドの厳しいルールの中でつくられていて、露骨な暴力とかセックス・シーンは出せなかった。ただ、それでも全体に心理的な違和感がずっと漂ってるんだよね。特に当時の観客にとっては、すごく葛藤を覚えるような複雑な反応を引き起こしたんだろうなって思うよ。

例えば、彼の初期の作品の「疑惑の影」だと、少女の叔父が家族と一緒に住むためにやってくるんだけど、彼女だけがその叔父が犯罪者だって知っている。でも他の誰も気づいていない。彼は彼女をずっと殺そうとしてて、それがすごく露骨で、威嚇的で、不気味なんだよね。他のハリウッド映画とは明らかに違う異質さがある。センセーショナルというよりは、もっとリアルで具体的な脅威とか、暗闇みたいなものがしっかり伝わってくるっていうか。

でさ、そういうバランスをどうやって取るか、どうすれば観客に「搾取的だ」と感じさせないかを考えるのって、とても興味深い課題だと思うんだ。スラッシャー映画とか、クレイジーで大げさなエクスプロイテーション映画なら誰でもつくれるかもしれないけど、リアルでダークな脅威を感じさせつつ、それでいて搾取的じゃない感じに仕上げるのは本当に難しい。まさにバランスが大事だと思う。それができれば、異端的な要素も含めて、とても力強い表現になる。もしヒッチコックがいなかったら、こういう倒錯的なものが身近にあるっていう感覚って、たぶん理解されなかっただろうね。彼の作品には常にそういう倒錯的なものが潜んでいる。「めまい」とか「サイコ」といった作品が、なぜ人々の心を捉えて離さないのか。単にストーリーが面白いからだけではなくて、テーマや暗黙の了解、つまり何を暗示してるのか、何を匂わせてるのかが重要なんだよ。

音楽と政治

——例えば、70年代の佐伯俊男のイラストや、かつての日本のフリー・ジャズ、あるいは今回のソロ・アルバムに影響を与えたMPBも、単なるアートや音楽という以上にカウンター・カルチャーとしての性格を帯びていて、当時の政治状況や時代と密接に関わり合いながら育まれた側面がある表現だと思います。そうした背景にも惹かれるところはありますか。

ジョーディー:まあ、確かにさ、僕自身、政治をガッツリ追いかけてるわけじゃないし、世の中で起こってるほとんどのことについてそれほど知識があるわけでもない。でもさ、一つ分かっているのは、政治関連の話って、ぶっちゃけ90%くらいは大多数の人には響かないってことだと思うんだ。音楽とかアートに興味がある人からしたら、政治の話なんてほぼ全部「もういいや」って感じになるっていうか。明らかにひどいよね、どっちの側もね。政党で勝つ方法とか、変化が起こる仕組みとか、そういうのってほんと魅力的じゃないし、ただ不快で気持ち悪いだけなんだよ。

だからさ、このカウンター・カルチャー的な動きって、ほとんどの政治そのものを拒否してるって感じがするんだよね。ただ、難しいのは、僕が好きなミュージシャンって、政治的意見がとても曖昧だったり、完全に無関心であることが多くて。

例えば、僕はレオ・フェレというフランスのシンガーが大好きなんだけど、彼はたぶんアナーキストで、あらゆることに反対するというスタンスだった。60年代後半のフランスで、若者の社会主義的な反乱のシンボルみたいに祭り上げられたこともあった。で、彼自身もある程度乗り気だったんだけど、でもあるとき「いや、それも嫌だ」って言っちゃったんだよね。ジョン・レノンとかも典型的な例だけど、結局、僕らはただ良い人生を送って、やりたい仕事をしたいだけなんだよ。わかんないけどね。

でもさ、同時に、政治の模範としてミュージシャンの意見に耳を傾けるべきかって言ったら、そうではないと思うんだ。政治って、ほとんどの人が考えてるよりはるかに複雑だし、何が正しいかなんて分からないから。

で、ブラジルの音楽とか見てると面白いんだよね。なぜかって言うと、その音楽のほとんどが禁止されたり、認められなかったり、極めて“政治的”な背景を持ってるから。例えば、ミルトン・ナシメントの「Milagre dos Peixes」――僕の中では史上最高のアルバムの一つなんだけど、録音中に「歌詞はダメだ」って言われてさ。10曲中7曲、つまりアルバムの70%に歌詞がなくて、「ラ、ラ、ラ、ラ」って歌ってるだけなんだよ。全部禁止されちゃったから。ただ、それでもメロディとコードだけで最高に素晴らしいアルバムなんだよね。でも、考えてみればクレイジーだよね。ジルベルト・ジルとかもそうだけど、軍事政権がひどすぎてブラジルから逃げてロンドンに住んでたんだから。彼らにとっては、政治ってただのアイデアとか理論的な意見じゃなくて、現実そのものだったんだよ。リアルで、とても恐ろしい現実だったんだ。

——最後に、ブラック・ミディの今後についてどう考えているのか、教えてもらえますか。こういう機会なので、ぜひあなたの口から直接聞きたくて。

ジョーディー:正直なところ、ノーだろうね。僕らこれまで3枚のアルバムをつくってきたけど、どれもほんと最高だった。そして今回のソロ・アルバムもとても楽しくて、全てが順調に進んでる。いいインパクトを与えてると思うし、みんなにも気に入ってもらえてるみたいだ。それに、ツアーも今までで一番楽しくてさ、最近やったアメリカ・ツアーも今回の日本ツアーも、ほんと完璧だった。ツアー中に音楽がこれほど変化したことはなかったし、リハーサルにこんなに時間かけて、こんなにハードに働いたこともなかった。毎晩ショーの後にメモを取って、次の日のリハで調整するくらい頑張ると、その分ほんと報われるんだよね。だからツアーの最後にはすごい達成感があって、最高に気持ちいいんだ。

ブラック・ミディの今後のことは誰にも分からないよ。今のところこれがめっちゃうまくいってるからさ、あと何年かはこのまま続けたいなって思ってるんだ。どうなるか、見てみようよ。

PHOTOS:TAKUROH TOYAMA

「The New Sound」

■The New Sound
Geordie Greep
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=14318

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「群言堂」の“植物担当” 染料調達・営農・朝食のおもてなし、3足のわらじを履くに至るまで

PROFILE: 鈴木良拓:他郷阿部家 暮らし紡ぎ人兼SUZUKI FARMS代表

鈴木良拓:他郷阿部家 暮らし紡ぎ人兼SUZUKI FARMS代表
PROFILE: (すずき・よしひろ)1988年福島県南会津町生まれ。秋田公立美術工芸短期大学プロダクトデザイン科でデザインの基礎を学び、文化服装学院テキスタイルデザイン科でテキスタイルを学ぶ。2012年に石見銀山生活文化研究所に入社と同時に島根県大田市大森町へ移住。企画担当として主にテキスタイルデザインを手掛ける。19年に独立。「他郷阿部家」での朝食、台所周りの掃除や「阿部家」のメンテナンス業務、お客さまの感動価値を上げるものづくりに取り組みながら、随時里山パレットの染料となる植物の調達を行う

島根県大田市に拠点を置く群言堂グループが運営する宿泊施設「他郷阿部家」で朝食を担当する鈴木良拓さんは、自ら育てた野菜と卵を宿泊客にふるまう。聞けば、もともとは「石見銀山 群言堂」のテキスタイルデザインを担当し、大森町周辺で採取した草花や枝木などから染めた「里山パレット」を開発した人物で、今も「里山パレット」の染料になる植物を採集しながら、「阿部家」の仕事と営農を行う。

WWD:仕事のタイムスケジュールを教えてほしい。

鈴木:朝6時半に「阿部家」に来て8時からの朝食を準備し、朝食後はお客さまに群言堂の関連施設のご案内などを行う。11時のチェックアウト業務後は14時頃まで洗濯や掃除などを行う。お昼休憩後、15時頃からは(群言堂グループの創業者)登美さんからの頼まれごとや畑仕事、「里山パレット」の業務を行っている。18時には帰宅して家族のために夕食を作っている。「里山パレット」の下げ札に描かれた植物画も僕の担当。

WWD:大森町に移住したきっかけは?

鈴木:学生時代に生地の産地を巡り、機屋や染工場を見学させていただく中でインターンを経験した。そこでさまざまなブランドの生地ファイルが並ぶ中で「石見銀山生活文化研究所」というファイルを見つけた。「石見銀山」「研究所」って何だ?と興味を持ちファイルを見るとちゃんとした生地を作っていて惹かれた。調べると島根を拠点に面白い取り組みをしていた。求人は出ていなかったが問い合わせると面接することになり、学生時代に取り組んでいた自生する植物繊維で作った物や植物で染めた衣服などの作品をたくさん持って臨んだ。

WWD:大森町の本社で面接を行った。

鈴木:(創業者の)登美さんと大吉さん(夫妻)はもちろん経営陣がそろい10人に囲まれた面接だった。いろんな質問をされて答える中で大吉さんが盛り上がってきて「この町には手つかずの自然の資源があるが、生かし切れていない。植物資源を使ったものづくりをやってみないか」と言われた。後に登美さんが教えてくれたのは、登美さんは面接の時点では迷いがあって、面接帰りの電車で偶然一緒になりいろんな話をする中で採用を決めたそう。

WWD:12年にデザイナーとして採用され、テキスタイルデザインを担当した。

鈴木:入社後すぐに大森町周辺の植物を生かしたものづくりに取り組みはじめ、今は食堂になっているかやぶき屋根の建物で実験的に染め始め入社して1年が経ったころに「里山パレット」をスタートすることになった。

WWD:「里山パレット」は完全な草木染めではなく化学染料も用いる「ボタニカルダイ」を採用した。

鈴木:流通させるにはある程度の耐久性が必要だった。「ボタニカルダイ」は従来の草木染めで用いるような重金属を使わない自然由来の糊で色を吸着させる。色落ち防止のための化学染料を用いたハイブリッドな染色法で、文化服装学院時代に染め織りのアドバイスを頂いていた有機化学研究者が在籍する染めの会社が取り組んでいた。

WWD:「里山パレット」はどんな植物を用いているのか。また、染料になるかどうかをどう見極めているのか。

鈴木:畦道にある蓬、梅や桜の剪定をするときに出た枝、収穫が間に合わず落ちてしまったブルーベリーの実、山に自生する香りの良い黒文字(クロモジ)や湿気の多いところに生えるシダ植物など、大森の環境で得られるいろんな植物を使っている。大森らしい植物は何かな?という視点で探している。

色に関してはどの植物も色素を持っているので、例えば枝や幹、渋み味が強い植物はタンニンが多いのでブラウン系かな?とか、ブルーベリーやヨウシュヤマゴボウだったらアントシアニン系が多いかな?と大体の予測は立てながら集めている。

WWD:現在何種類くらいの植物から染料を作っているのか。

鈴木:少しずつ増えていて今は100種類以上ある。植物別にデータ化してシーズンごとに選んでいる。人気なのは明るめではっきりとした色。嬉しいのは10年続けると、「今年の黒文字の色が良かったよ」と徐々に色ではなく植物で見比べてくれる人が増えていること。気に入った形の服で10色そろえてくれる方もいる。

WWD:染料をどのように作り、染めているか。

鈴木:大森で染料となる植物を集めて乾燥か冷凍してストックし、それを「ボタニカルダイ」ができる会社に送り染料にしてもらった後に染工場で染めていただいている。1種類50~60kgストックしているものもあれば、集めにくいものは1kg単位でストックしてキロ単位で出荷している。採集しやすい植物も難しい植物も価格は一律で、どれくらい貴重か(採集が難しいか)などは「里山パレット」のページで紹介している。特に貴重なのは冬頃に集めるサカキやヒサカキの実で、小粒の実を寒い冬に集めなきゃいけないので手が冷たくなるし大変だけど、色がいい。

WWD:今は「里山パレット」の材料収集と営農、「阿部家」の運営に携わる。なぜ3足のわらじを履くことに?

鈴木:大森に移住してきてから田畑が荒れていくのが徐々に目立つようになった。もともと植物や森に興味があり「自然と自分の繋がり」を畑で表現してみたくなった。群言堂のお取引先などのお客さまが大森にいらしたときにスタッフたちが採ってきた山菜やイノシシ肉などでおもてなすることもあり、野菜も自分たちの手で育てたものが提供できればと考えた。また、大森町で畑や田んぼをしている人は少なく、1人くらい農業に注力する人がいると面白いいかな?とも思った。独立を選んだのは農家じゃないと農地が借りられないことに加えて、畑を借りるための資金がなかったから。借金をするために独立した。「群言堂」の仕事も引き続き行うことも決まっていたから独立できた。

実態は「群言堂」で稼いで畑に投資、それでも営農する意味

WWD:荒れた畑を野菜が採れる畑にするのは簡単ではない。今ではニホンミツバチが畑にやってくるまでになった。

鈴木:最初の3年は全く野菜ができず、意味があると思って始めたことだったがしんどかった。「群言堂」の仕事をしながら、もともと田んぼだった場所を畑にするなど土木工事から行っていたからとにかく必死だった。4年目からは人参や葉物野菜が採れるようになり、野菜による売り上げはわずかだったが心が安定した。その頃に「阿部家」に合流して、野菜のおもてなしを始めた。自分たちの手で育てた野菜と卵でつくる朝食は納得感があっていい仕事だと感じている。今は手放しでも野菜の花が咲いて種がこぼれ、新しく芽がでて放っておいても自然環境に任せることができるようになった。

育てた野菜は「阿部家」の朝食をメインに大森町にあるドイツパン屋べッカライコンディトライヒダカや近くのジビエ料理屋さんなど、顔が見える数店舗に卸している。そのほか、近所におすそ分けしたり、野菜のある時期に町の人や滞在されている人、保育園や学童の子どもたちに畑に入ってもらって収穫してもらっている。つい先日も保育園の子どもたちがタケノコ堀りに畑に来て、町の中での立ち位置ができて営農する意味を感じている。

WWD:畑で利益を出すのは難しいと聞く。

鈴木:大規模農家や土壌環境がいい畑以外はほぼ赤字なのではないか。僕は経費をかけずにやっていても営農だけでは赤字で、「『群言堂』で稼いで畑に投資」が実態に近い(笑)。今は投資になっているが、教育など何かをきっかけに活用できる可能性があるとも感じている。また群言堂グループとして「生活観光」を打ち出しているので畑が自分を表現できる場所として確立したい。

WWD:自然農法にこだわっている。

鈴木:森のような畑を作りたくて、農薬や肥料を使っていないので結果的に「自然農法」になった。人が支配的に管理するのではなく、自然環境に近い畑を作りたいと思った。というのも、父親が林業に関わっていたこともあり、家族の話題は森や自然のことが多く興味を持つようになった。中学生の頃に出合った植物生態学者の宮脇明さんの本に「本来の自然(森)というは、いろんな生き物がせめぎ合っている場所である。高木の下に亜高木、低木、下草、そして地面の下にもミミズや様々なバクテリアがいる」とあった。空間の中に色んな生き物がせめぎ合っているのが「自然」だという言葉が強く印象に残った。宮脇さんの植樹方法は本来そこにあったであろう植生を神社の鎮守の森などから導き出して何十種類もの木を混生密植させるもので、僕もそれを参考に60種類くらい科の違う野菜の種を混ぜて、はなさかじいさんのように畑に種をばら撒いて「小さな森のような畑」を作っている。農業というよりもものづくりに近い感覚で、生態系が成立する畑をつくっている。

WWD:結果的に「群言堂」の価値を上げる取り組みになった。

鈴木:経済優先の効率重視した農業ではなく、大森の「暮らし」の延長線上にある畑で採れたものをお客さまへのおもてなしとして提供した点がよかったのではないか。「里山パレット」もそうだが、里山の暮らしから環境に負荷をかけずに少しずついただいていることが「群言堂」らしく結果的に価値を高めることになるのではないか。

WWD:「群言堂らしさ」とは。

鈴木:よそのものに価値を見出してありがたがるのではなく、価値あるものは自分の身近にあると「群言堂」は考えている。僕の領域でいうならこの土地にある植物を活用すること。

WWD:大森町の暮らしについて教えてほしい。

鈴木:よそ者に対して壁がないのが第一印象だった。着いて1週間くらい経った頃、男子寮の前に軽トラを乗り付け「港にアジがあふれているから乗れ、いくぞ」と町の人が声をかけてくれた。

大森町は栄えていた時期はIターンで出来上がった町で、それが大森の気質として残っているのではないか。400人の小さな町で1本道に家が並んでいるので、それぞれの暮らしぶりがなんとなくわかるし、外から来た人でも感じられるところがユニークなところ。

WWD:群言堂で働くことについてどんなところが面白いか。

鈴木:単に出勤してから退勤するまでの関係でなく、そこで働くスタッフも(全員ではないが)大森に暮らしがあり、その家族や子どもたちも大森で生活している。働く場と暮らしの場、子育ての場がつながっているところが面白いと感じる。単に仕事の関係だけではなく、みな町民でもあり消防団や町の役割も持っていて町の機能を担い、助け合っている。仕事とプライベートが曖昧でそれが面白いと思う。夫婦、兄弟、親子で働く人もいて家族の延長の雰囲気がある。

WWD:今後取り組みたいことは?

鈴木:大吉さんが旗振りをしている町のコンソーシアムによって500年祭(2027年は石見銀山発見500年)に向けて山の整備が進んでおり、その際に切られる木を活用したい。町では森に関わる勉強会も行っていて、今年の6月頃から本格的に整備が始まる予定だ。例えば暮らしにつながる製品として「阿部家」の食卓に並べる食器を作るのはどうかと試作品を作っている。半年後に登美さんにプレゼンする予定だ。経済的な循環を生まなくても暮らしに溶け込む循環を生みたい。

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元カリスマホスト、年商20億円の社長になる 目指す頂は「ビューティ業界のLVMH」

2010年代に歌舞伎町のトップホスト“神7”に名を連ねた男がいた。源氏名は縁賀希蓮(えんがきれん)。ホストクラブでは誰よりも早く出勤し、誰よりもストイックに努力を重ね、シャンパンタワーの夜を駆け抜けた。

お金、名声、地位ーー欲しいものはすべて手に入れた。だが、心は空っぽだった。ふと蘇ったのは、かつて生死をさまよった交通事故の記憶と、444日かけて歩いた四国八十八箇所、そして“森翔太”(本名)という素の自分だった。

「人に支えられてきた人生だからこそ、恩返しをしたい」。そう決意した森が次に選んだ舞台は、美容業界。2018年、イスラエル発のスキンケアブランド「クリスティーナ」の日本総代理店としてクリスティーナジャパンを創業。またたく間に、年商20億円に迫るまで事業を成長させた。

「美容業界のLVMHを作る。誰も見たことのない景色を見せる」。ビューティビジネスの頂を目指す森は今、その挑戦への意志を自ら証明するかのように、世界最高峰・エベレストへの登頂に挑んでいる。

イスラエルの過酷な環境が生んだ
本物のコスメを“人の手”で届ける

WWD:まず、クリスティーナジャパンという会社について教えてください。

森翔太クリスティーナジャパン社長(以下、森):「クリスティーナ(CHRISTINA)」は、イスラエル発のスキンケアブランドです。砲撃や極度の乾燥といった過酷な環境で傷ついた兵士の肌を治すために生まれた製品には、科学と哲学が詰まっています。僕たちが届けたいのは、単なるスキンケアではありません。肌が変われば、自信が生まれ、未来が変わる。僕らは“人生に自信と希望を持てる未来”を売っているんです。

クリスティーナジャパンは、2018年に日本総代理店として事業をスタートしました。僕らが大切にしているのは、お客さま一人ひとりの悩みに寄り添い、その人生に伴走する存在であること。そのために、僕らは“カウンセリングコスメ”として専門のスタッフによる接客を徹底しています。

生死を分けた事故
「人に恩返しをしたい」

WWD:森社長は元ホストと聞きました。

森:はい。隠すことは何もありません。源氏名は縁賀希蓮(えんが・きれん)。大阪・心斎橋のホストクラブでナンバーワンになり、東京へ進出。“神7”と呼ばれる全国トップホストの一人に選ばれました。

WWD:それまでに、どんな紆余曲折が?

森:実は小学校時代は学級委員を務めるような真面目な子どもだったんです。ただ、中学に入って環境が一変しました。ラグビー部に入部したもののいじめに遭い、家庭でも両親が家庭内別居状態。家にも学校にも、自分の居場所がどこにもないと感じていました。そんなとき、姉の彼氏がヤンキーで、いつも僕を守ってくれた。その姿に憧れ、自分も暴走族に入り、バイクを乗り回すようになりました。

18歳で車の営業職に就いたんですが、超ブラック企業でした。朝7時集合、夜は10時〜12時まで勤務。片道1時間半をバイクで通う日々。ある日、疲労困憊の中で車で帰宅する途中、居眠り運転でトラックと衝突してしまったんです。

車は大破し、顔面にフロントガラスが突き刺さり、20〜30針を縫う大怪我を負いました。意識不明の重体で、警察には「生きているのが奇跡」と言われるほどの事故でした。

WWD:それは……壮絶ですね。

森:この事故で、自分の中に強烈に刻まれたんです。「この命は“生かされている命”なんだ」と。だったら人のため、社会のために使わないといけない。価値観が一気に変わりました。

事故の1カ月後、僕は四国八十八箇所の遍路に出ました。普通は車やバスで回る人が多いのですが、僕はあえて歩くことを選びました。444日かけて、路上やバス停、公園で寝泊まりしながら、自分の罪を償い、自分自身と徹底的に向き合う旅でした。

その旅の中で、やっぱり最後に気づかされたのは“家族”の存在でした。どれだけ反抗しても、どれだけ迷惑をかけても、最終的に自分を支えてくれたのは両親や兄弟でした。この人たちに恩返しがしたい。そのためには、世の中に貢献できる人間にならなければ。そう心に決めました。

“当たり前のこと”を実践
歌舞伎町のトップに

WWD:ホストという仕事を選んだ理由は?

森:当時の僕は、ほぼ中卒同然。社会に出たとき、選べる仕事は限られていました。けれど負けず嫌いな性格もあって、「どうせやるなら、ナンバーワンになってやる」と腹を括ったんです。僕にとってホストは、あくまで経営資金を貯めるための“手段”でした。

大阪・心斎橋でホストとして修行を始めたときは、とにかく“当たり前のこと”を誰よりも徹底しました。誰よりも早く店に入り、キャッチに立ち、トイレ掃除をして。そのスタンスで働き続け、入店からわずか1年でナンバーワンになったんです。大阪でも知らない人がいないほどの知名度を手に入れることができました。

WWD:それほどの短期間に、結果を出すことができたのはなぜ?

森:当時、僕が何度も読み返していたのが「7つの習慣」(スティーブン・R・コヴィー著)という本です。これは今でもクリスティーナジャパンの“バイブル”にしています。

この本に書かれている「求める前に与える」「靴を大事にする」「人が嫌がることを率先してやる」といった価値観は、ホスト時代に徹底的に自分に叩き込みました。先輩たちに「1年以内にナンバーワンになります」と宣言し、それを本当に実現したのも、こうした哲学を実践し続けた結果だと思っています。

大阪でやり切ったあとは、自然と次の舞台が見えてきました。それが東京。ホスト業界において、大阪と東京は「日本のプロ野球とメジャーリーグ」くらいの差がある。全国区で名前を知られるには、東京で結果を出すしかないと覚悟を決めました。

東京でも一つ一つ実績を積み上げ、“神7”と呼ばれる全国トップホスト7人に選ばれるまでになりました。目標としていたのは、ローランドさんや零士さんといった一流のホストたち。彼らの背中を追いながら、自分もストイックに挑戦を続けていました。

“全て”が手に入り
思い出した原点

WWD:ホストをずっと続けるという選択肢もあったのでは。

森:もちろんありました。実際、僕は“ストイックな自分”が大好きだったんです。人が遊んでいるときに働き、人が休んでいるときに努力している。そんな自分に酔っていたし、それが自信にもなっていた。

ホストとして、街を歩けばちやほやされる。お金も、地位も、名誉も手に入った。歌舞伎町では「会えるアイドル」を自称して、自己顕示欲も満たされていました。

でも、それでも心のどこかは満たされなかったんです。夜の世界で競い合い、勝つことだけに夢中になる日々。人生が狂っていくお客さんたちも目の当たりにしていました。自分は何のためにお金を稼ぎたかったんだろう。そんな問いが、ふと頭をよぎるようになりました。

WWD:そのとき、原点を思い出したんですね。

森:はい。交通事故で死にかけ、四国遍路を歩きながら、自分が決めた人生の目的。それは「恩返し」であり、「人の役に立つこと」だったはずだと。ホストとして、女性に支えられ、応援されてきた自分が次に挑戦すべきなのは、女性の人生を豊かにする仕事。そう思ったとき、自然と“美容”という答えにたどり着きました。

ホスト時代の後輩2人と一緒に、3人で会社を立ち上げました。最初は、妻が経営していたクリニック事業を手伝いながら、事業の土台をコツコツとつくっていきました。

その中で出合ったのが「クリスティーナ」でした。製品の背景や理念に共感し、日本でこのブランドを広げたいと強く思った。ちょうど日本総代理店権があると知り、「これを軸に勝負しよう」と決めたんです。

2018年、青山に借りたオフィスは、机もパソコンもない空っぽの部屋。社員は3人だけ。まさにゼロからのスタートでした。でも、届けたいものがある。叶えたい未来がある。そこだけは最初からブレていなかった。

経営に生きたホスト経験
「求める」前に「与える」

WWD:どのように事業を軌道に載せましたか?

森:正直、経営のことなんて何もわからなかった。完全に素人。でも、やりながら学ぶしかないと思って、とにかく行動し続けました。

初年度の売上目標は3億円。走りながらも軌道修正を重ね、結果的に5億円、7億円、10億円と右肩上がりに伸びていった。現在は日本で1000以上のクリニック・サロンで取り扱いがあり、年商20億円に迫る規模になっています。

WWD:成長を支えたものは?

森:間違いなく、製品そのものの力です。創業時に僕らが大きな広告を打ったことは一度もありません。それでも、有名な芸能人やモデルの方たちが「クリスティーナ」を自分で購入し、SNSで自然発信してくれたんです。

これはPRで仕掛けた“演出”ではありません。本当に使って、良いと思ってもらえたからこそ起きた現象でした。だからこそ、製品の説得力が世の中に伝わったのだと思います。

WWD:会社の組織づくりで大切にしていることは?

森:どれだけ商品が良くても、それだけでは限界がある。最終的にブランドを支えるのは“人の力”です。だから僕は、社員教育に特に力を入れています。僕たちは“カウンセリングコスメ”として、専門家による丁寧な接客を徹底しています。単に商品を売るのではなく、お客さまの肌と人生に寄り添う存在でありたいと思っているからです。

WWD:ホスト時代の経験は経営にどう生きていますか?

森:たくさんありますが、まずは「絶対にナンバーワンになる」という意識。大阪でホスト修行をしていたとき、僕は誰よりも早く出勤し、キャッチに立ち、トイレ掃除まで自ら進んでやっていました。当たり前のことを、誰よりも徹底する。これはビジネスの本質でもあるはずです。

もうひとつは、先ほども触れた「求める前に与える」という考え方。お客さまに対しても、社員に対しても、思いを先に読み、先に価値を提供するようにしている。すると信頼が生まれ、関係が育ち、もっと大きいものが返ってくる。

ホスト時代、僕は7年間、無遅刻・無欠勤で働きました。誰かに言われたからじゃない。自分との約束を守るためです。ストイックにやり抜く姿勢は、いま経営者としての僕の“芯”にもなっています。

誰よりもまず先に「自分が」挑戦

WWD:だからこそ、山に登る?

森:そうです。言葉だけで「挑戦しろ」と言っても、説得力はない。僕は“背中で語る”タイプなんです。だからこそ、自ら動き、実践する。昨年には標高8163mのマナスルに登頂しました。

酸欠で何度も吐き気に苦しんで、シャワーなんて数日に一度、ちょろちょろの水でもありがたかった。それでも、Wi-Fiがつながるときは現地から会社のビデオ会議にも参加しました。経営者は、どこにいても責任を果たさなければならないと思っているので。山頂では、「クリスティーナ」の美容液でしっかり肌を整えましたよ。当然のことでしょう。

そして、いよいよ4月15日から、世界最高峰・エベレストへの挑戦をスタートします。

WWD:エベレストの頂の先に、何を見るのでしょう?

森:まず、生きて帰ってきます。その上で、次は“日本一過酷なレース”と呼ばれる「トランスジャパンアルプスレース(TJAR)」への挑戦も考えています。北アルプス・中央アルプス・南アルプスを、8日間以内に自力で縦走するレースです。

WWD:会社としての構想は。

森:美容だけにとらわれない会社をつくっていきます。すでに飲食事業もスタートしていますし、今後はホールディングス体制への移行や、多ブランド展開も視野に入れています。

僕が目指すのは「美容業界のLVMH」です。単なるブランドの集合体ではなく、理念と哲学でつながる本物のグループをつくりたい。美容を軸にしながらも、社会に貢献し、価値を届け続ける会社を、本気でつくっていきます。まだ誰も見たことのない“頂”の景色を、この目で確かめにいく。これからも挑戦をやめることはありません。

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「群言堂」が目指す「地域一体型経営」、衣料品と観光事業から過疎地域を活性化

「石見銀山 群言堂」――島根県大田市大森町を拠点に“根のある暮らし”をコンセプトに衣料品や生活雑貨を手掛ける企業が、過疎地域の再生に一役買っている。「群言堂」は生き方や暮らし方を提案するライフスタイル産業の先駆け的存在でもある。大森町の人口は380人(令和7年3月31日現在)。そのうち小学校児童は24人、保育園児は28人と子どもの数が多く過疎地域としては極めて珍しい。群言堂グループ本社で働く社員は6人がUターン、25人が14の地域からのIターンと若い世代が移住している。同グループは衣料品の製造販売だけではなく、保育園留学や滞在型シェアオフィスを運営しており、中長期滞在者が増えて町の関係人口が増えている。

創業者から子どもへ引き継がれたバトン、「地域一体型経営」を目指して

「群言堂」を手掛ける株式会社石見銀山生活文化研究所は2019年、アパレル・飲食・観光事業を統合した石見銀山群言堂グループを設立し、創業者夫妻が経営を娘婿や娘に引き継いだ。そのときに創業者の一人松場大吉は次の世代に伝えたいこと12ケ条を示した。

一、 里山を離れることなく事業を進める覚悟を持て
二、 業種、業態にしばられるな
三、 改革、チャレンジを恐れるな 勇気こそ力である
四、 常に日常の暮らしに着目せよ
五、 類あって非のない価値を創れ
六、 対峙する人が憧れるスタイルを創れ
七、 常に若者に投票せよ
八、 儲けることは大事だが使い方がもっと大事である
九、 「経済49%、文化50%、崇高な理想1%」のバランスを持て
十、 どんな判断も里山でおこなえ
十一、紡いできた風景と生活文化を相続せよ
十二、根のある暮らしをとことん深く耕せ

同年、「生活観光」をコンセプトにした石見銀山生活観光研究所を設立し、観光業に本格的に乗り出す。町屋や古い建造物を改装し、中長期滞在者向けの宿泊施設や滞在型シェアオフィスをつくり、大成建設や中小企業のDXを支援するスタートアップのスタブロなどの企業を誘致した。

群言堂グループが掲げるのは「地域一体型経営」だ。松場忠社長は「地域を一つの会社のように捉えて地域内の事業者が連携して収益を最大化し、地域全体の発展に繋げる経営モデルだ。観光資源を有効活用し、地域全体の魅力を高めて町の存続を目指す」と意気込む。行政や異業種、町民たちと地域の在り方を探っている。本社のある島根県大田市大森町で「群言堂」の歩みと現在地、描く未来について、松場忠群言堂グループ社長と峰山由紀子石見銀山生活文化研究所所長、創業者の松場登美・群言堂グループ取締役に話を聞いた。

世界遺産でも土地の「暮らし」が残る場所

石見銀山はかつて世界の1/3量の銀を採掘していたとも言われる日本最大の銀山で、お膝元の大森町周辺はピーク時には約20万人が住んでいたという。しかし1923年の閉山後は“取り残された町”となり過疎化が進んだ。他方、開発が入らなかったことで街並みが残り1987年に伝統的建造物群保存地区に指定された。2007年には自然環境に配慮した「自然環境と共存した産業遺跡」であることが評価され世界遺産に登録された。

世界遺産登録後に観光地化が加速して地域の暮らしや生活文化が失われる場所は少なくない。大森町も世界遺産登録時にオーバーツーリズムを経験するが、その時町民たちは住民憲章を制定する。石見銀山遺跡を守り、活かし、未来に引き継ぎたいという願いを示すと同時に自らの暮らしを守るためだ。

住民憲章には「暮らし」という言葉が3回繰り返され、歴史と自然を守りながら大森町での「暮らし」を大事にしたいという住民の総意が示された。経済優先の観光ではなく、大森町ならではの地域づくりを重視した。

大森町に残る「暮らし」は世界に誇る遺産

群言堂グループがこれまで改修した町屋は16軒。「誰かのために景観を作るのではなく、まっとうな生業が行われていればおのずと美しくなる」とは創業者の松場登美取締役の言葉だ。本社やカフェを併設する本店、社員寮、そして武家屋敷を21年かけて修繕した宿泊施設「他郷阿部家」、中長期滞在者向けの宿泊施設など、町屋や建物の状態によって中の構造を残したり、現代風に改修したりと一軒一軒の個性を最大限に生かしている。同グループのシンボルで現在は社員食堂として活用している大きなかやぶき屋根が印象的な建物は1997年に広島県から移築したもの。「引き取り手が見つからないという新聞記事を偶然見つけたのがきっかけだった。今思えば、よくあそこまで多額の借金をして引き取ったなあ」と登美取締役は振り返る。

大森町を拠点に「石見銀山 群言堂」を創業したのは大森町出身の松場大吉と三重県出身の登美夫妻。仕事をつくるためにパッチワークの布小物の販売から始まり、89年に大森町に庄屋屋敷を改修して本店を開いた。

「大森町に戻ったのはバブル全盛期。その価値観の中では取り残された地域だったが、夫の大吉と私はここを選び事業を興した。ビジネスの舵は夫が切り、危機はしょっちゅうだった(笑)」と登美取締役は振り返る。「群言堂」の前進「ブラハウス(BURA HOUSE)」はカントリー調パッチワークの布小物ブランドで、「私たちは石見銀山を愛し、この地に根を下ろしてモノ作りをしたいと考えています」と商品ラベルに書き、広島など近隣地域の百貨店などへ赴き行商した。その「ブラハウス」が徐々に人気を集め、コピー商品が生まれるほどに成長した94年、「町を深く知れば知るほど、カントリー調のものを作る事業がふさわしいのかと考えるようになった。検討を重ねて日本人による日本人のためのものづくりをしようと『石見銀山 群言堂』を立ち上げた。「群言堂は中国人留学生が教えてくれた言葉。仲間が集まっておいしいものを食べお酒を飲みながら語り合う様子を見て『中国ではみんなが目線を一緒にして意見を出し合いながらいい流れをつくっていくことを“群言堂”という』と教えてくれた」。企業理念に造語“復古創新”を掲げた。「ただ古いものを蘇えらせるのではなく過去・現在・未来をつなぎ、未来のために今何をすべきかと暮らしの在り方を考えることを大切にしている」と登美取締役。98年に石見銀山生活文化研究所を設立した。

石見銀山の暮らしを伝える店として百貨店を中心に31店舗出店

群言堂グループの2025年6月期の売上高は25億5000万円を見込む。現在の従業員数は235人。古民家を再生した路面店や百貨店を中心に31店舗を展開し、顧客層のコアは60代後半だ。「石見銀山」を大々的にうたい、地域の暮らしを前面に打ち出し全国各地に31店舗を展開するのは稀有かもしれない。

衣料品は日本の繊維産地の技術力を生かした生地作りから産地と取り組む。近年存続の危機が叫ばれる産地を支えるためにコロナ禍の21年、厚みのある発注に切り替えるために1シーズンの型数を約200型から100~110型に絞った。そのうち20型が定番品だ。

創業者夫妻の娘で石見銀山生活文化研究所の峰山由紀子代表取締役所長は「私たちの強味は大森町という実態があること。大森町の暮らしの中で着たい服を大森町でデザインし、日々目にする景色からこの色が美しいといった感覚を大事にしている。山間にある町ならではの吹き下ろす風や湿度を感じながら正直に服づくりをしている」と語る。大森町の色を取り入れたいと考え、周辺で採取した草花や枝木などから染めた「里山パレット」は人気を集める製品の一つだ。ファッションブランドの多くはブランドとは直接関係のないところにインスピレーションを求め、ある種の夢やフィクションと製品を重ねて提案するところがあるが、「群言堂」は常に大森町の暮らしが中心にある。どちらがいいではなく、町に根差したものづくりが「群言堂」の独自性といえる。

大森町の工房を拡大、中長期滞在者を誘致

「群言堂」は20年からお直し・リメイクサービス「お気に入り相談室」に取り組む。この春、事業を拡大する。「中長期滞在と工房は相性がいい。お直しから仕立てまで相談のために町を訪れることができるよう工房を拡大する」と由紀子所長。現在、「お気に入り相談室」は舞台衣装を手掛けた経験を持つスタッフが全国の顧客の要望に応えているが、専門スタッフを増やして需要の広がりとともに体制を整える予定だ。「ものづくりの現場を大森町に持ちたい。創業期は内職さんを集めて大森で生産しており、本店の半分は工場だった。サプライチェーン構築や人を抱える難しさから大森での生産を断念したが、社会が変わってきているので、大森に工房を再び整えることはブランドとしてあるべき姿なのではないか」と由紀子所長。

ポイントを貯めると登美さんが手掛けた「他郷阿部家」で登美取締役と食事

21年かけて改装した築230年の武家屋敷「暮らす宿 他郷阿部家」は登美取締役の「捨てない暮らし」のアイデアが詰まった場所だ。飾りガラスをパッチワークした戸や和紙を張り合わせた障子、古材を活用した柱や廃校になった小学校のパイプ椅子など。「昔の日本の暮らしは廃材すら捨てず再利用していた。それはとても美しいこと。できるだけごみを出さないことを難しく考えるのではなくて楽しむことを伝えたい」と登美取締役。

「群言堂」には画期的なポイント制度がある。ポイントを貯めると登美取締役が10年間住みながら理想の暮らしの場をつくった「他郷阿部家」に宿泊できる。1日2組限定で、宿泊者は夕食を登美取締役とともにして会話を楽しむ。全国各地から顧客を大森町に招き、「群言堂」が大切にする暮らしを体験できる仕組みが秀逸で、08年にはじまりこれまでのべ1万1900人が宿泊した(一般客の宿泊は1組2人からで1人あたり4万4000円~)。登美取締役は「阿部家」とは「群言堂」にとって暮らしの豊かさや日本の美意識を伝える場だという。「ビジネスを通じて世の中にメッセージを伝えたいと思いながら活動してきた。この暮らしはどうですか?と提案したのが『阿部家』で、実際に感じてもらう場所をつくることが重要だった」。

「阿部家」は訪れた人にとって生活や暮らしを見つめ直すための機会になるだけでなく、群言堂グループが大森町で積み上げてきたことを顧客に見てもらう機会になり、コミュニティーづくりの場になっている。その結果、大森町の関係人口増加に一役買っている。

暮らしを体感する「生活観光」を事業に

石見銀山群言堂グループは「地域一体型経営」を掲げて町にも投資する。娘婿の松場忠社長は「投資額の売上高に対する割合などを決めているわけではないが、地域への投資は大事だと考えている。国や県、市からの補助金を活用しながら持続可能な地域づくりのためにいろいろなことに取り組んでいる」と語る。現在、観光業に力を入れるが経済合理性を優先しない。「観光産業は文化を守るためにあるはずなのに産業モデルによって文化を壊していることも多い。私たちはこの町の暮らしや生き方を感じていただきたいと思っている。町人と他愛のない会話を楽しむような、かつての日本に当たり前にあった豊かな交流がここにはある」と話す。

「地域にとって重要なのはその土地に思いを持つ企業や個人が増えること。大森町の今があるのは当社だけでなく、大森町をなんとかしたいという同じ想いを持った(義肢・装具・人工乳房などの医療器具を扱う)中村グレイスもあったから。人口減少社会が進めば進むほど支えなければいけない割合は増える。そうなったときに町を支える企業は多い方がいいし、対応できる枠組みを作っておく必要がある」。今後は中長期滞在者を増やすための取り組みを強化する。引き続き保育園留学や地域おこし協力隊インターンプログラムを活用した二地域居住推進事業「遊ぶ広報」、大企業との連携を進めていく予定だ。「全ては町の共感者を増やすため。応援者が増え、この地域で新事業を始める企業が増えることを期待している」。

大田市のサポートを受けて24年に開業した滞在型シェアオフィスは、専用個室が3室とフリーアドレスの大部屋を用意していて、運営は順調だ。「私たちの考え方に共感してくれる人たちとのマッチングを重視して誘致している」と忠社長。現在、中小企業のDXを支援する企業や抹茶などを輸出する商社を誘致しており、大成建設とはメタバース事業を協働している。「地域を守っていくためには特定の強い存在だけではなく、多様な企業や団体、個人との連携が重要だ。滞在型シェアオフィスもそのための拠点として活用していく」。

これからの地域づくりは民間主導、ガバナンスが重要に

「地域づくり=行政だったのが、民間の役割が大きくなり民間主導でやらなければいけない時代になっている。大切なのは民間が暴走し過ぎないようにカバナンスを効かせることと、外部資本と組むときは経済的利益だけを目的にしている企業ではなく、地域を一緒に作っていくという意識を共有できるところを選ぶことが大切だ」と忠社長。群言堂グループは文化庁や観光庁、大田市や島根県からの助成金を元に新たな活動を興すことも多い。例えば、キッテ大阪の店舗は島根県、滞在型シェアオフィスは大田市、二地域居住の推進は日本郵政や国土交通省とともに取り組む。「国の政策を理解し、自分たちの強味を生かして地域を盛り上げることが大切だ。事業化するときに大切にしているのは地域に足りないものを補完できるか、そして地域にとってプラスになるかだ。『阿部家』のように補完的な役割を担う事業もある」。オーバーツーリズムの経験が丁寧なまちづくりに生かされている。

群言堂グループの事業と直接関係ないが、創業者の娘で忠社長の妻である奈緒子さんは、地域の子育て支援の必要性を感じ、保育園と学童を運営する社会福祉法人の理事を務める。もともとあった保育園の運営団体がNPO法人から社会福祉法人に変わるタイミングで奈緒子さんが関わるようになった。「町の福祉を考えた時に子どもたちの居場所を優先して作ることが大切だと考えた。その結果子育てがしやすい環境を求めて移住してきた人も増えている。他方、住宅の供給が追い付いていない。現在の課題はすぐに居住できる住宅がないことだ」と忠社長。

構造自体を変える必要がある事柄は行政と連携

群言堂グループは行政とも積極的に連携する。「構造を変えないとうまくいかないことも多い。まず思いや考えを伝えて計画書にする。短期的、中長期的な構想を描き、構造を変えるための実証事業を行いながら改善を進めていく。行政の力による構造変化は丁寧に進めることが大切だ」。例えば、大森町の観光施設の運営を集約し、共通券を発行することで両方の施設に足を運んでもらえるようにするなどだ。運営団体が市であれば条例の改訂も必要になる。

持続可能な町づくりに一役買っているのが創業者の大吉さんだ。大吉さんは群言堂の経営から退いた後に、若い世代とまちの防災・教育・福祉・観光に取り組む地域運営組織「一般社団法人石見銀山みらいコンソーシアム」と地域限定の協同組合型人材派遣業「石見銀山大田ひと・まちづくり事業協同組合」を創設し、地域の在り方を日々検討しているという。

当面の人口目標は500人だ。「大森町には五百羅漢というお地蔵様があって、その中に必ず自分に似た顔があると言われている。500は一つのコミュニティーの目安になると思っている。急速な増加ではなく緩やかに増えていくことが理想」と忠社長。町の将来像については「これまでの500年は銀という資源による発展の歴史だった。これからの500年は小さくても幸せに生きていける社会を作ることが目標で、生き方やライフスタイルを世界に広める町にしたいと考えている」。

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「群言堂」が目指す「地域一体型経営」、衣料品と観光事業から過疎地域を活性化

「石見銀山 群言堂」――島根県大田市大森町を拠点に“根のある暮らし”をコンセプトに衣料品や生活雑貨を手掛ける企業が、過疎地域の再生に一役買っている。「群言堂」は生き方や暮らし方を提案するライフスタイル産業の先駆け的存在でもある。大森町の人口は380人(令和7年3月31日現在)。そのうち小学校児童は24人、保育園児は28人と子どもの数が多く過疎地域としては極めて珍しい。群言堂グループ本社で働く社員は6人がUターン、25人が14の地域からのIターンと若い世代が移住している。同グループは衣料品の製造販売だけではなく、保育園留学や滞在型シェアオフィスを運営しており、中長期滞在者が増えて町の関係人口が増えている。

創業者から子どもへ引き継がれたバトン、「地域一体型経営」を目指して

「群言堂」を手掛ける株式会社石見銀山生活文化研究所は2019年、アパレル・飲食・観光事業を統合した石見銀山群言堂グループを設立し、創業者夫妻が経営を娘婿や娘に引き継いだ。そのときに創業者の一人松場大吉は次の世代に伝えたいこと12ケ条を示した。

一、 里山を離れることなく事業を進める覚悟を持て
二、 業種、業態にしばられるな
三、 改革、チャレンジを恐れるな 勇気こそ力である
四、 常に日常の暮らしに着目せよ
五、 類あって非のない価値を創れ
六、 対峙する人が憧れるスタイルを創れ
七、 常に若者に投票せよ
八、 儲けることは大事だが使い方がもっと大事である
九、 「経済49%、文化50%、崇高な理想1%」のバランスを持て
十、 どんな判断も里山でおこなえ
十一、紡いできた風景と生活文化を相続せよ
十二、根のある暮らしをとことん深く耕せ

同年、「生活観光」をコンセプトにした石見銀山生活観光研究所を設立し、観光業に本格的に乗り出す。町屋や古い建造物を改装し、中長期滞在者向けの宿泊施設や滞在型シェアオフィスをつくり、大成建設や中小企業のDXを支援するスタートアップのスタブロなどの企業を誘致した。

群言堂グループが掲げるのは「地域一体型経営」だ。松場忠社長は「地域を一つの会社のように捉えて地域内の事業者が連携して収益を最大化し、地域全体の発展に繋げる経営モデルだ。観光資源を有効活用し、地域全体の魅力を高めて町の存続を目指す」と意気込む。行政や異業種、町民たちと地域の在り方を探っている。本社のある島根県大田市大森町で「群言堂」の歩みと現在地、描く未来について、松場忠群言堂グループ社長と峰山由紀子石見銀山生活文化研究所所長、創業者の松場登美・群言堂グループ取締役に話を聞いた。

世界遺産でも土地の「暮らし」が残る場所

石見銀山はかつて世界の1/3量の銀を採掘していたとも言われる日本最大の銀山で、お膝元の大森町周辺はピーク時には約20万人が住んでいたという。しかし1923年の閉山後は“取り残された町”となり過疎化が進んだ。他方、開発が入らなかったことで街並みが残り1987年に伝統的建造物群保存地区に指定された。2007年には自然環境に配慮した「自然環境と共存した産業遺跡」であることが評価され世界遺産に登録された。

世界遺産登録後に観光地化が加速して地域の暮らしや生活文化が失われる場所は少なくない。大森町も世界遺産登録時にオーバーツーリズムを経験するが、その時町民たちは住民憲章を制定する。石見銀山遺跡を守り、活かし、未来に引き継ぎたいという願いを示すと同時に自らの暮らしを守るためだ。

住民憲章には「暮らし」という言葉が3回繰り返され、歴史と自然を守りながら大森町での「暮らし」を大事にしたいという住民の総意が示された。経済優先の観光ではなく、大森町ならではの地域づくりを重視した。

大森町に残る「暮らし」は世界に誇る遺産

群言堂グループがこれまで改修した町屋は16軒。「誰かのために景観を作るのではなく、まっとうな生業が行われていればおのずと美しくなる」とは創業者の松場登美取締役の言葉だ。本社やカフェを併設する本店、社員寮、そして武家屋敷を21年かけて修繕した宿泊施設「他郷阿部家」、中長期滞在者向けの宿泊施設など、町屋や建物の状態によって中の構造を残したり、現代風に改修したりと一軒一軒の個性を最大限に生かしている。同グループのシンボルで現在は社員食堂として活用している大きなかやぶき屋根が印象的な建物は1997年に広島県から移築したもの。「引き取り手が見つからないという新聞記事を偶然見つけたのがきっかけだった。今思えば、よくあそこまで多額の借金をして引き取ったなあ」と登美取締役は振り返る。

大森町を拠点に「石見銀山 群言堂」を創業したのは大森町出身の松場大吉と三重県出身の登美夫妻。仕事をつくるためにパッチワークの布小物の販売から始まり、89年に大森町に庄屋屋敷を改修して本店を開いた。

「大森町に戻ったのはバブル全盛期。その価値観の中では取り残された地域だったが、夫の大吉と私はここを選び事業を興した。ビジネスの舵は夫が切り、危機はしょっちゅうだった(笑)」と登美取締役は振り返る。「群言堂」の前進「ブラハウス(BURA HOUSE)」はカントリー調パッチワークの布小物ブランドで、「私たちは石見銀山を愛し、この地に根を下ろしてモノ作りをしたいと考えています」と商品ラベルに書き、広島など近隣地域の百貨店などへ赴き行商した。その「ブラハウス」が徐々に人気を集め、コピー商品が生まれるほどに成長した94年、「町を深く知れば知るほど、カントリー調のものを作る事業がふさわしいのかと考えるようになった。検討を重ねて日本人による日本人のためのものづくりをしようと『石見銀山 群言堂』を立ち上げた。「群言堂は中国人留学生が教えてくれた言葉。仲間が集まっておいしいものを食べお酒を飲みながら語り合う様子を見て『中国ではみんなが目線を一緒にして意見を出し合いながらいい流れをつくっていくことを“群言堂”という』と教えてくれた」。企業理念に造語“復古創新”を掲げた。「ただ古いものを蘇えらせるのではなく過去・現在・未来をつなぎ、未来のために今何をすべきかと暮らしの在り方を考えることを大切にしている」と登美取締役。98年に石見銀山生活文化研究所を設立した。

石見銀山の暮らしを伝える店として百貨店を中心に31店舗出店

群言堂グループの2025年6月期の売上高は25億5000万円を見込む。現在の従業員数は235人。古民家を再生した路面店や百貨店を中心に31店舗を展開し、顧客層のコアは60代後半だ。「石見銀山」を大々的にうたい、地域の暮らしを前面に打ち出し全国各地に31店舗を展開するのは稀有かもしれない。

衣料品は日本の繊維産地の技術力を生かした生地作りから産地と取り組む。近年存続の危機が叫ばれる産地を支えるためにコロナ禍の21年、厚みのある発注に切り替えるために1シーズンの型数を約200型から100~110型に絞った。そのうち20型が定番品だ。

創業者夫妻の娘で石見銀山生活文化研究所の峰山由紀子代表取締役所長は「私たちの強味は大森町という実態があること。大森町の暮らしの中で着たい服を大森町でデザインし、日々目にする景色からこの色が美しいといった感覚を大事にしている。山間にある町ならではの吹き下ろす風や湿度を感じながら正直に服づくりをしている」と語る。大森町の色を取り入れたいと考え、周辺で採取した草花や枝木などから染めた「里山パレット」は人気を集める製品の一つだ。ファッションブランドの多くはブランドとは直接関係のないところにインスピレーションを求め、ある種の夢やフィクションと製品を重ねて提案するところがあるが、「群言堂」は常に大森町の暮らしが中心にある。どちらがいいではなく、町に根差したものづくりが「群言堂」の独自性といえる。

大森町の工房を拡大、中長期滞在者を誘致

「群言堂」は20年からお直し・リメイクサービス「お気に入り相談室」に取り組む。この春、事業を拡大する。「中長期滞在と工房は相性がいい。お直しから仕立てまで相談のために町を訪れることができるよう工房を拡大する」と由紀子所長。現在、「お気に入り相談室」は舞台衣装を手掛けた経験を持つスタッフが全国の顧客の要望に応えているが、専門スタッフを増やして需要の広がりとともに体制を整える予定だ。「ものづくりの現場を大森町に持ちたい。創業期は内職さんを集めて大森で生産しており、本店の半分は工場だった。サプライチェーン構築や人を抱える難しさから大森での生産を断念したが、社会が変わってきているので、大森に工房を再び整えることはブランドとしてあるべき姿なのではないか」と由紀子所長。

ポイントを貯めると登美さんが手掛けた「他郷阿部家」で登美取締役と食事

21年かけて改装した築230年の武家屋敷「暮らす宿 他郷阿部家」は登美取締役の「捨てない暮らし」のアイデアが詰まった場所だ。飾りガラスをパッチワークした戸や和紙を張り合わせた障子、古材を活用した柱や廃校になった小学校のパイプ椅子など。「昔の日本の暮らしは廃材すら捨てず再利用していた。それはとても美しいこと。できるだけごみを出さないことを難しく考えるのではなくて楽しむことを伝えたい」と登美取締役。

「群言堂」には画期的なポイント制度がある。ポイントを貯めると登美取締役が10年間住みながら理想の暮らしの場をつくった「他郷阿部家」に宿泊できる。1日2組限定で、宿泊者は夕食を登美取締役とともにして会話を楽しむ。全国各地から顧客を大森町に招き、「群言堂」が大切にする暮らしを体験できる仕組みが秀逸で、08年にはじまりこれまでのべ1万1900人が宿泊した(一般客の宿泊は1組2人からで1人あたり4万4000円~)。登美取締役は「阿部家」とは「群言堂」にとって暮らしの豊かさや日本の美意識を伝える場だという。「ビジネスを通じて世の中にメッセージを伝えたいと思いながら活動してきた。この暮らしはどうですか?と提案したのが『阿部家』で、実際に感じてもらう場所をつくることが重要だった」。

「阿部家」は訪れた人にとって生活や暮らしを見つめ直すための機会になるだけでなく、群言堂グループが大森町で積み上げてきたことを顧客に見てもらう機会になり、コミュニティーづくりの場になっている。その結果、大森町の関係人口増加に一役買っている。

暮らしを体感する「生活観光」を事業に

石見銀山群言堂グループは「地域一体型経営」を掲げて町にも投資する。娘婿の松場忠社長は「投資額の売上高に対する割合などを決めているわけではないが、地域への投資は大事だと考えている。国や県、市からの補助金を活用しながら持続可能な地域づくりのためにいろいろなことに取り組んでいる」と語る。現在、観光業に力を入れるが経済合理性を優先しない。「観光産業は文化を守るためにあるはずなのに産業モデルによって文化を壊していることも多い。私たちはこの町の暮らしや生き方を感じていただきたいと思っている。町人と他愛のない会話を楽しむような、かつての日本に当たり前にあった豊かな交流がここにはある」と話す。

「地域にとって重要なのはその土地に思いを持つ企業や個人が増えること。大森町の今があるのは当社だけでなく、大森町をなんとかしたいという同じ想いを持った(義肢・装具・人工乳房などの医療器具を扱う)中村グレイスもあったから。人口減少社会が進めば進むほど支えなければいけない割合は増える。そうなったときに町を支える企業は多い方がいいし、対応できる枠組みを作っておく必要がある」。今後は中長期滞在者を増やすための取り組みを強化する。引き続き保育園留学や地域おこし協力隊インターンプログラムを活用した二地域居住推進事業「遊ぶ広報」、大企業との連携を進めていく予定だ。「全ては町の共感者を増やすため。応援者が増え、この地域で新事業を始める企業が増えることを期待している」。

大田市のサポートを受けて24年に開業した滞在型シェアオフィスは、専用個室が3室とフリーアドレスの大部屋を用意していて、運営は順調だ。「私たちの考え方に共感してくれる人たちとのマッチングを重視して誘致している」と忠社長。現在、中小企業のDXを支援する企業や抹茶などを輸出する商社を誘致しており、大成建設とはメタバース事業を協働している。「地域を守っていくためには特定の強い存在だけではなく、多様な企業や団体、個人との連携が重要だ。滞在型シェアオフィスもそのための拠点として活用していく」。

これからの地域づくりは民間主導、ガバナンスが重要に

「地域づくり=行政だったのが、民間の役割が大きくなり民間主導でやらなければいけない時代になっている。大切なのは民間が暴走し過ぎないようにカバナンスを効かせることと、外部資本と組むときは経済的利益だけを目的にしている企業ではなく、地域を一緒に作っていくという意識を共有できるところを選ぶことが大切だ」と忠社長。群言堂グループは文化庁や観光庁、大田市や島根県からの助成金を元に新たな活動を興すことも多い。例えば、キッテ大阪の店舗は島根県、滞在型シェアオフィスは大田市、二地域居住の推進は日本郵政や国土交通省とともに取り組む。「国の政策を理解し、自分たちの強味を生かして地域を盛り上げることが大切だ。事業化するときに大切にしているのは地域に足りないものを補完できるか、そして地域にとってプラスになるかだ。『阿部家』のように補完的な役割を担う事業もある」。オーバーツーリズムの経験が丁寧なまちづくりに生かされている。

群言堂グループの事業と直接関係ないが、創業者の娘で忠社長の妻である奈緒子さんは、地域の子育て支援の必要性を感じ、保育園と学童を運営する社会福祉法人の理事を務める。もともとあった保育園の運営団体がNPO法人から社会福祉法人に変わるタイミングで奈緒子さんが関わるようになった。「町の福祉を考えた時に子どもたちの居場所を優先して作ることが大切だと考えた。その結果子育てがしやすい環境を求めて移住してきた人も増えている。他方、住宅の供給が追い付いていない。現在の課題はすぐに居住できる住宅がないことだ」と忠社長。

構造自体を変える必要がある事柄は行政と連携

群言堂グループは行政とも積極的に連携する。「構造を変えないとうまくいかないことも多い。まず思いや考えを伝えて計画書にする。短期的、中長期的な構想を描き、構造を変えるための実証事業を行いながら改善を進めていく。行政の力による構造変化は丁寧に進めることが大切だ」。例えば、大森町の観光施設の運営を集約し、共通券を発行することで両方の施設に足を運んでもらえるようにするなどだ。運営団体が市であれば条例の改訂も必要になる。

持続可能な町づくりに一役買っているのが創業者の大吉さんだ。大吉さんは群言堂の経営から退いた後に、若い世代とまちの防災・教育・福祉・観光に取り組む地域運営組織「一般社団法人石見銀山みらいコンソーシアム」と地域限定の協同組合型人材派遣業「石見銀山大田ひと・まちづくり事業協同組合」を創設し、地域の在り方を日々検討しているという。

当面の人口目標は500人だ。「大森町には五百羅漢というお地蔵様があって、その中に必ず自分に似た顔があると言われている。500は一つのコミュニティーの目安になると思っている。急速な増加ではなく緩やかに増えていくことが理想」と忠社長。町の将来像については「これまでの500年は銀という資源による発展の歴史だった。これからの500年は小さくても幸せに生きていける社会を作ることが目標で、生き方やライフスタイルを世界に広める町にしたいと考えている」。

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英「ハンター」売上倍増のナゼ 現クリエイティブ・ディレクターに聞く

PROFILE: サンドラ・ロンボリ/「ハンター」クリエイティブ・ディレクター

サンドラ・ロンボリ/「ハンター」クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: 1974年生まれ、フランス出身。「アディダス」「リーボック」「アンタ」などで、主にフットウエアのデザインの経験を積む。2022年末に「ハンター」にジョインした PHOTO:KAZUO YOSHIDA

英国の「ハンター(HUNTER)」といえば、レインブーツ。そんなイメージを持つ人が多いだろう。しかし同ブランドは近年、ウエアからバッグまで幅広いラインアップをそろえるライフスタイルブランドに進化している。

この流れを加速させているのが、現「ハンター」クリエイティブ・ディレクターのサンドラ・ロンボリ(Sandra Romboli)だ。彼女の手で生まれた新商品は、25年の現時点で売り上げの75%以上を占めるまでになった。“スノー ブーツ”や“365 デイズ シューズ”といった、レインブーツ以外のシューズやバッグがブランドに新たな魅力を吹き込んでいる。

ロンボリ=クリエイティブ・ディレクターは、商品バラエティーを増やしただけでない。昨年度の売り上げは、彼女がチームに加わった2022年度比で2倍と、業績拡大にも大きく貢献している。直営店と卸先、公式ECがそれぞれ同じ比率で売り上げを上げており、特定の販路に偏ることなく成長を続けている点も特徴の1つだ。彼女は「ハンター」の何を受け継ぎ、何を変えたのか?

WWD:「ハンター」での役割は?

サンドラ・ロンボリ「ハンター」クリエイティブ・ディレクター(以下、ロンボリ):「ハンター」が持つイメージに新たなストーリーを加えることだ。「英国発のブランド」「ロゴ入りのレインブーツ」など、「ハンター」にまつわるイメージは、誰もが似通ったものを持っていると思う。ブランドイメージが確立していることは「ハンター」の強みの1つ。私はそれらを生かしつつ、フレッシュさを加えている。

WWD:具体例を挙げると?

ロンボリ:「ケイト・モス(Kate Moss)が、音楽フェス『グラストンベリー・フェスティバル(Glastonbury Festival)』で着用したレインブーツ」というイメージは今後も守っていきたい。野外という会場の特性上、機能性は大切だが、特別なイベントだからファッションにも気合を入れたい。そんなとき、頭に浮かぶのが「ハンター」のレインブーツでありたい。

私たちは今、このレインブーツの特性を旅行用のシューズに応用している。コロナ禍以降、旅行ニーズは拡大の一途を辿っている。そして、軽さや防水性など、野外フェスと旅行シーンで求められる機能性は同じ。今後は、フェスと同様、旅行というイメージも付けられるよう注力していきたい。

WWD:「ハンター」と言えば、ブラックやミリタリーレッド、ネイビーという印象だったが、パステルカラーのシューズが多い。

ロンボリ:今日もブラックのコーデに身を包んでいるように、私はもともとカラフルな色使いが得意なタイプではない。しかし、これまでの経験から、カラーリングがブランドの売り上げに大きな影響をもたらすことは理解している。

現職に就いてからはまず、コレクションで使用する色をあえて減少させた。ブランドイメージが鮮明になり、世界観を分かりやすく伝えられるようになったように思う。また、市場に合ったトーンを選ぶことも意識した。ここに用意したのは、7色の虹から取ったような単純なカラーではない。ベビーブルーやグリーン、ピンクなど、これまでの「ハンター」にはないパステルなカラーだ。これらは特に日本市場と相性が良い。22年度比で2倍という売り上げがそれを裏付けている。

ロンボリのもう一つの側面

WWD:パリのデザイン学校で教師としても活躍しているとか。

ロンボリ:主に、スポーツやフットウエアを教えている。教鞭を取るということは、今を見つめるだけでなく、「次は何が流行るのか」「未来はどうなるのか」「イノベーションとは何か」など、思考を未来につなげること。ここ1年ほど続けているが、良い刺激をもらっている。

WWD:生徒は若年層が中心だ。彼らに何を伝えているのか?

ロンボリ:若い世代は日々膨大な情報と接している。私が今、10代、20代を送っていたら、インスピレーションにあふれた環境に歓喜していたことだろう。このような環境下で大切なのは、得たインスピレーションから独自のストーリーを作り出すこと。私はいつも「情報リテラシーを最大に、好奇心も最大に」と生徒に伝えている。学校という形式上、専攻を設けているが、興味をそれだけに絞る必要はない。

ときどき、生徒より私の好奇心の方が強いと思うときさえある。私はこれまで、ドイツのアディダス(ADIDAS)から中国のアンタ(ANTA=安踏体育用品有限公司)まで、さまざまな国の企業で働いてきた。その度に新たな人と出会い、新たな学びを得て、モノ作りへ生かしてきたように思う。

WWD:デザインをする上で大切にしていることは?

ロンボリ:大きな企業で働くときは、自己流のデザインを押し付けるのではなく、ブランドストーリーを生かしたモノ作りに励むことが何より大切だ。これをやり続けていると、自分自身のデザインもブラッシュアップされる。これは、前述した通り、現職に就いてからも意識していることだ。

WWD:「ハンター」は、サステナビリティの分野でも存在感を示している。昨年5月に始動した、“リバイタリゼーション(Revitalization)”について教えてほしい。

ロンボリ:“リバイタリゼーション(Revitalization)”は、その名が示す通り、亀裂が入ったラバーブーツにオリジナルパッチを貼り付け“生き返らせる”取り組みだ。「お気に入りのブーツを長く履きたい」という顧客の思いと、「サステナビリティは楽しいもの」という私たちの思いが合わさり実現した。さまざまな組み合わせが可能なパッチは、単にブーツを補強するだけでなく、ブーツに対する愛着すら強めることだろう。

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英「ハンター」売上倍増のナゼ 現クリエイティブ・ディレクターに聞く

PROFILE: サンドラ・ロンボリ/「ハンター」クリエイティブ・ディレクター

サンドラ・ロンボリ/「ハンター」クリエイティブ・ディレクター
PROFILE: 1974年生まれ、フランス出身。「アディダス」「リーボック」「アンタ」などで、主にフットウエアのデザインの経験を積む。2022年末に「ハンター」にジョインした PHOTO:KAZUO YOSHIDA

英国の「ハンター(HUNTER)」といえば、レインブーツ。そんなイメージを持つ人が多いだろう。しかし同ブランドは近年、ウエアからバッグまで幅広いラインアップをそろえるライフスタイルブランドに進化している。

この流れを加速させているのが、現「ハンター」クリエイティブ・ディレクターのサンドラ・ロンボリ(Sandra Romboli)だ。彼女の手で生まれた新商品は、25年の現時点で売り上げの75%以上を占めるまでになった。“スノー ブーツ”や“365 デイズ シューズ”といった、レインブーツ以外のシューズやバッグがブランドに新たな魅力を吹き込んでいる。

ロンボリ=クリエイティブ・ディレクターは、商品バラエティーを増やしただけでない。昨年度の売り上げは、彼女がチームに加わった2022年度比で2倍と、業績拡大にも大きく貢献している。直営店と卸先、公式ECがそれぞれ同じ比率で売り上げを上げており、特定の販路に偏ることなく成長を続けている点も特徴の1つだ。彼女は「ハンター」の何を受け継ぎ、何を変えたのか?

WWD:「ハンター」での役割は?

サンドラ・ロンボリ「ハンター」クリエイティブ・ディレクター(以下、ロンボリ):「ハンター」が持つイメージに新たなストーリーを加えることだ。「英国発のブランド」「ロゴ入りのレインブーツ」など、「ハンター」にまつわるイメージは、誰もが似通ったものを持っていると思う。ブランドイメージが確立していることは「ハンター」の強みの1つ。私はそれらを生かしつつ、フレッシュさを加えている。

WWD:具体例を挙げると?

ロンボリ:「ケイト・モス(Kate Moss)が、音楽フェス『グラストンベリー・フェスティバル(Glastonbury Festival)』で着用したレインブーツ」というイメージは今後も守っていきたい。野外という会場の特性上、機能性は大切だが、特別なイベントだからファッションにも気合を入れたい。そんなとき、頭に浮かぶのが「ハンター」のレインブーツでありたい。

私たちは今、このレインブーツの特性を旅行用のシューズに応用している。コロナ禍以降、旅行ニーズは拡大の一途を辿っている。そして、軽さや防水性など、野外フェスと旅行シーンで求められる機能性は同じ。今後は、フェスと同様、旅行というイメージも付けられるよう注力していきたい。

WWD:「ハンター」と言えば、ブラックやミリタリーレッド、ネイビーという印象だったが、パステルカラーのシューズが多い。

ロンボリ:今日もブラックのコーデに身を包んでいるように、私はもともとカラフルな色使いが得意なタイプではない。しかし、これまでの経験から、カラーリングがブランドの売り上げに大きな影響をもたらすことは理解している。

現職に就いてからはまず、コレクションで使用する色をあえて減少させた。ブランドイメージが鮮明になり、世界観を分かりやすく伝えられるようになったように思う。また、市場に合ったトーンを選ぶことも意識した。ここに用意したのは、7色の虹から取ったような単純なカラーではない。ベビーブルーやグリーン、ピンクなど、これまでの「ハンター」にはないパステルなカラーだ。これらは特に日本市場と相性が良い。22年度比で2倍という売り上げがそれを裏付けている。

ロンボリのもう一つの側面

WWD:パリのデザイン学校で教師としても活躍しているとか。

ロンボリ:主に、スポーツやフットウエアを教えている。教鞭を取るということは、今を見つめるだけでなく、「次は何が流行るのか」「未来はどうなるのか」「イノベーションとは何か」など、思考を未来につなげること。ここ1年ほど続けているが、良い刺激をもらっている。

WWD:生徒は若年層が中心だ。彼らに何を伝えているのか?

ロンボリ:若い世代は日々膨大な情報と接している。私が今、10代、20代を送っていたら、インスピレーションにあふれた環境に歓喜していたことだろう。このような環境下で大切なのは、得たインスピレーションから独自のストーリーを作り出すこと。私はいつも「情報リテラシーを最大に、好奇心も最大に」と生徒に伝えている。学校という形式上、専攻を設けているが、興味をそれだけに絞る必要はない。

ときどき、生徒より私の好奇心の方が強いと思うときさえある。私はこれまで、ドイツのアディダス(ADIDAS)から中国のアンタ(ANTA=安踏体育用品有限公司)まで、さまざまな国の企業で働いてきた。その度に新たな人と出会い、新たな学びを得て、モノ作りへ生かしてきたように思う。

WWD:デザインをする上で大切にしていることは?

ロンボリ:大きな企業で働くときは、自己流のデザインを押し付けるのではなく、ブランドストーリーを生かしたモノ作りに励むことが何より大切だ。これをやり続けていると、自分自身のデザインもブラッシュアップされる。これは、前述した通り、現職に就いてからも意識していることだ。

WWD:「ハンター」は、サステナビリティの分野でも存在感を示している。昨年5月に始動した、“リバイタリゼーション(Revitalization)”について教えてほしい。

ロンボリ:“リバイタリゼーション(Revitalization)”は、その名が示す通り、亀裂が入ったラバーブーツにオリジナルパッチを貼り付け“生き返らせる”取り組みだ。「お気に入りのブーツを長く履きたい」という顧客の思いと、「サステナビリティは楽しいもの」という私たちの思いが合わさり実現した。さまざまな組み合わせが可能なパッチは、単にブーツを補強するだけでなく、ブーツに対する愛着すら強めることだろう。

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杉野遥亮、烏野高校バレー部員に!? 「ハイキュー!!」への愛とコラボ服を語る

PROFILE: 杉野遥亮/俳優

杉野遥亮/俳優
PROFILE: (すぎの・ようすけ)1995年生まれ、千葉県出身。2015年、第12回ファインボーイズ専属モデルオーディションでグランプリを獲得。17年、映画「キセキ -あの日のソビト-」で映画初出演を果たし、劇中の4人組グループ「グリーンボーイズ」のメンバーとしてCDデビューも果たす。「ばらかもん」(22年)、「マウンテンドクター」(24年)、「磯部磯兵衞物語」(24年)では主演も務めた。パーソナリティーを務めていたラジオ番組「杉野遥亮の今夜もオフトーク」(TOKYO FM)では、「ハイキュー!!」への愛を20分間熱弁している

WWDJAPAN4月14日号は、アニメコラボを特集している。表紙を飾ったのは、俳優・杉野遥亮。アニメ「ハイキュー!!」のファンである彼に、「ハイキュー!!」と「レイジブルー(RAGEBLUE)」のコラボ商品を着用してもらった。シャツを腰に巻いたり、襟をクルーネックからのぞかせたり、パンツを重ねばきしたりと、今っぽい小技使いが光る。彼にとって、“アニメをまとう”ことは何を意味するのか?

アニメも演技も世界観に入り込んでこそ

WWD:「ハイキュー!!」の好きなところを教えてください。

杉野遥亮(以下、杉野):青春を体感できる作風が好きです。僕はもともと、青春もののストーリーにハマりがちで。「ハイキュー!!」以外だったら、「あひるの空」(テレビ東京系列)や「黒子のバスケ」(毎日放送ほか)、「スケットダンス」(テレビ東京系列)もお気に入り。「こんな青春を過ごしたかった」「熱い気持ちで何かと向き合えていたら」って、つい感情移入してしまうんですよね。

WWD:憧れの気持ちですか。

杉野:幼いころ読んだ漫画に、キラキラした高校生活が描かれていて、すごく影響を受けました。でも、いざ入学したら全くそんなことなくて(笑)。その理想と現実のギャップを埋めるために青春アニメを見るようになって、今に至るって感じですね。

WWD:好きなキャラクターは?

杉野:烏野高校の日向翔陽と影山飛雄が好きです。2人とも自分と似ているところがあるから。日向は無鉄砲なところ、影山は無骨なところが自分と重なります。チームだったら、星海光来率いる鴎台高校に引かれます。青と白を組み合わせたユニホームカラーがいいですよね。

WWD:表紙でも、烏野高校に着想したスエットの上下を着ていただきました。

杉野:実際に着て、ある意味“危険”だと感じてしまいました。僕自身、「ハイキュー!!」には、家でスパイクの素振りをしてしまうくらい熱中してしまっていて。だから、こんな風にコラボ商品を着たら、ますます現実との境目が分からなくなりそう(笑)。

WWD:俳優も“世界観に入り込む”仕事ですよね。

杉野:そうですね。台本を読んだ瞬間から、作品の世界観に入り込みます。僕の場合、現実の世界に戻るのも少し大変なくらいです。その点、“アニメをまとう”ことと役を演じることは似ているのかもしれません。

WWD:コラボ商品をどのようなシーンで着用したい?

杉野:撮影現場に着ていきたいです。服が自分の「好き」を物語るから、会話のきっかけにもなるだろうし。好きなものを見つけるって、実は結構難しいことだと思っています。だから、好きなものは「好き」と言いたい。「ハイキュー!!」、大好きです!

PHOTO : SAKI OMI(io) HAIR&MAKE : AZUMA(M-rep by MONDO artist-group)
STYLING : MASASHI SHO
MODEL : YOSUKE SUGINO
ART DIRECTION & DESIGN : RYO TOMIZUKA

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広瀬すず × 杉咲花 × 清原果耶 3人だからこそ表現できた映画「片思い世界」の親密な関係

PROFILE: 左から、杉咲花/俳優、広瀬すず/俳優、清原果耶/俳優

PROFILE: (ひろせ・すず)1998年生まれ、静岡県出身。2013年、ドラマ「幽かな彼女」(KTV)で女優としての活動を開始。映画「海街diary」(15/是枝裕和監督)で第39回日本アカデミー賞新人俳優賞ほか、数多くの新人賞を総なめにする。16年、「ちはやふる」シリーズで映画単独初主演を務める。第40回日本アカデミー賞において、「ちはやふる-上の句-」(16/小泉徳宏監督)で優秀主演女優賞、「怒り」(16/李相日監督)で優秀助演女優賞をダブル受賞した。19年には100作目となるNHK連続テレビ小説「なつぞら」でヒロインを熱演。近年の主な映画出演作に「キリエのうた」(23/岩井俊二監督)、「ゆきてかへらぬ」(25/根岸吉太郎監督)など。待機作に「遠い山なみの光」(25/石川慶監督)、「宝島」(25/大友啓史監督)がある。 (すぎさき・はな)1997年生まれ、東京都出身。映画「湯を沸かすほどの熱い愛」(16/中野量太監督)で第40回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞・新人俳優賞はじめ、多くの映画賞を受賞。2018年、「花のち晴れ~花男 Next Season~」(TBS)で連続ドラマ初主演を果たす。その後、主役を務めたNHK連続テレビ小説「おちょやん」(20~21)と「恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~」(21/NTV)で橋田賞新人賞を受賞。近年の主な出演作に「市子」(23/戸田彬弘監督)、「52ヘルツのクジラたち」(24/成島出監督)、「朽ちないサクラ」(24/原廣利監督)、連続ドラマ「アンメットある脳外科医の日記」(24/KTV)などがある。 (きよはら・かや)2002年生まれ、大阪府出身。15年、NHK連続テレビ小説「あさが来た」で俳優デビュー。映画「護られなかった者たちへ」(21/瀬々敬久監督)で第45回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。21年には、NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」で主演を務めた。23年、「ジャンヌ・ダルク」(演出・白井晃)で舞台初出演にして初主演を務め、第31回読売演劇大賞・杉村春子賞を受賞した。近年の主な映画出演作に「1秒先の彼」(23/山下敦弘監督)、「青春18×2 君へと続く道」(24/藤井道人監督)、「碁盤斬り」(24/白石和彌監督)などがある。

公開中の映画「片思い世界」は、「花束みたいな恋をした」の脚本家・坂元裕二と監督・土井裕泰のタッグによる最新作だ。坂元の「広瀬すずさん、杉咲花さん、清原果耶さんの3人でお話を作れないかな」という思いから生まれた本作は、彼がこれまでの作品に込めた想いや願いが散りばめられた集大成となった。そしてタイプの違う天才女優3人が寄り添い合い、お互いを守り、輝かせながら、“ここではないどこかにある世界”の物語をスクリーンに存在させた。どのようにこの特別な力学が生まれたのかを主演を務めた広瀬、杉咲、清原の3人に聞いた。質問に答える人物を他の2人が愛おしそうに見つめ、その言葉に「うんうん」とうなずく。その光景を見て、彼女たちの関係性が劇中の3人に重なった。

※記事内には映画のストーリーに関する重大な記述が含まれます。

3人の共演

——最初、脚本がない状態でオファーを受けたそうですが、引き受けた理由をお聞かせください。

清原果耶(以下、清原):坂元さんがすずちゃんと花ちゃんと私に脚本を書いてくれるというお話を伺って、「そんなにありがたくぜいたくなことはこの先なかなかないだろうな」と思ったのが、大きな理由の一つです。すずちゃんとは今回3作目の共演で、花ちゃんとは朝ドラのバトンタッチ式のときに一度お会いしていたこともあって、お2人と一緒に作品を作れることが素直にうれしいなと思いました。また、土井監督とは「花束みたいな恋をした」でご一緒させていただいたときに「いつかまた作品でご一緒できたらいいね」と言っていただけたこともあって、「やらない他ないな」と思いました。

広瀬すず(以下、広瀬):もともと坂元さんのファンというのもあり、どういうものであれ絶対やりたいという前向きな気持ちがあるところに、(2人の)お名前を聞いて。これが実現することはもうなかなかないだろうなというか、「本当かな?」と思えるほどうれしいお話でした。清原ちゃんとは共演回数が多く、お互いに高校生ぐらいのときからいろいろなことを一緒にやってきた距離感があるから、「あ! また共演できる! うれしい!」という気持ちです。花ちゃんとは「もう(共演は)ないだろうな」となんとなく思っていたので、10年ぶりに会えて本当にうれしかったです。同世代の2人と切磋琢磨できる現場をお断りする理由は、台本がなかったとしてもなくて。 私も「すごくぜいたくなお話だな」と思いました。

杉咲花(以下、杉咲):私は坂元さん、土井監督とご一緒するのは初めてで、この座組やメンバーを聞いて、「なんてぜいたくな現場なんだろう」と。早く飛び込みたいなという気持ちでお受けしました。

※以下、ネタバレが含まれます。








親密さの演出

——設定のネタバレをすると、周りからは3人が見えていません。ダンスやアクションのように遵守すべき立ち位置や動きがありつつ、段取りっぽくなってはいけないという非常に難易度の高いことを、お三方が軽々とやっているように見えました。特殊なお芝居でしたか?

3人:(顔を見合わせて)特に……?

杉咲:初めて本読みで集まった日、倒れる練習したね。

——雑踏などで、人にぶつかられたときの。

清原:エキストラのみなさんのご協力のおかげだと思います。例えば3人はドアを自分で開けることができないので、他の人が開けたドアの隙間をすり抜けていきます。人と人の間を縫ってコンサートホールに行くシーンでは、前後にいてくださったエキストラの方にちょっと隙間を空けてもらって、「一拍間を置いてもらったらそこに私たちが入ります」といった調整を綿密にしました。簡単にやっているように見えて、みなさんのチームワークがなければ成立しなかったシーンだと思います。

——オーケストラが奏でる交響曲のようでした。

清原:不思議なことをしている3人なので、みんなの力が合わさらないとリアリティーが保たれない。映画作りって面白いなと思いましたし、みなさんへの感謝でいっぱいです。

——3人だけ違う世界線に存在しているというところで、寄り添って生きる3人の親密さみたいなものをどのように出しましたか? 分かりやすいところでいうとスキンシップが多いお芝居でしたが、意識していましたか?

広瀬:肌と肌が触れるとちゃんと温度を感じて距離感が近くなるので、私はとても意識していたかもしれないです。“触れる”ことがすごく大切だなと思っていました。それこそ他の人や物に触れられないからこそ、触れ合うことで自分の存在の仕方を認識できたり、2人の存在を確認できたり。(存在しないものを)“本当(リアル)”にしていく、みたいな。確かに距離は近かったと思います。

——監督から「もうちょっとくっついて」といった演出はありましたか?

広瀬:(2人を見て)なかったよね? みんな自然にやっていました。

杉咲:作品によっては(脚本の)ト書きに“触れる”と書いてあったり、演出によってそうなることもありますが、今回は自分が生理的に反応していたことの方が多かったように思います。それは12年間を共に過ごしてきたこの3人の関係性をどう演じていったらいいのかというところで、それぞれの指針や重要視している部分がきっと離れていなかったからこそ、そういった距離感になっていったのではないかなと。クランクインする前に果耶ちゃんが3人でご飯に行きませんかと声をかけてくれて、そこでいろいろな話ができたことで、お互いに心を許していくことができたのではないかなと思います。

——清原さんが、ご飯の言い出しっぺなんですね。

清原:はい、私が言い出しっぺです(笑)。役を通して深まる距離感もあれば、その人自身の魅力にはまって役と一緒に関係性が見えてくる場合もあるんですけど、私自身は今回の作品においては「2人のことを知りたい」「現場でどんな佇まいをされるんだろう?」と、お2人への興味がすごく大きかったんです。私の場合はその興味がさくらという役を通して、2人への愛情や末っ子らしさにつながったと思います。

——本番中以外もスキンシップは多かったんですか?

清原:普通です(笑)。

杉咲:でも、わりと近い距離にはずっといたかもね。

広瀬:待ち時間やちょっとした合間の時間とか、椅子が3つ、すでにぎゅっと置かれているんです(笑)。そばにいるのが当たり前だったことが、良かったなと思います。

杉咲:私は普段あまり多くスキンシップを取る方ではないのですが、リスペクトしている2人と共演できるうれしさと同じぐらい「足を引っ張ってしまったらどうしよう」と緊張する気持ちが当初は特にあって。もう二歩、三歩、精神的にも踏み込んだところに行きたい気持ちがあったんです。ですが撮影を通して2人とゆっくり関わり合っていく中で、気づいたら触れ合うということに対しても無理がない状態になっていました。それは大きな変化だったのではないかと思います。

広瀬:(しみじみとうなずきながら)分かる。

それぞれの好きな芝居は?

——お互いに好きなお芝居をあげていただきたいです。まずは清原さん(さくら)のシーンからお願いします。

清原:お願いしまーす!(笑)。

杉咲:私はペンギンのシーン!(※さくらが水族館の飼育員として、ペンギンゾーンで働くシーン)

広瀬:分かる!

杉咲:(清原に)あれ、クランクインの日? インしてわりと間もないと思うんですけど。

清原:(インして)すぐだった。

杉咲:撮影が始まったころに、確かそのシーンの映像を見せてもらった気がする。さくらの日常が何気なく切り取られたシーンですが、ただ1人で凛と立っている姿に圧倒されたんです。

広瀬:アルバイトのあのシーンは私もすごく好き。よくしゃべってるよね(笑)。それがすごくかわいいし、「さくらってこういう人なんだろうな」という存在の仕方を見て「お〜! すごい!」と気持ちが高まりました。

——広瀬さん(美咲)のシーンでは?

清原:外の階段で、泣いている優花を抱きしめるお芝居です。

杉咲:分かる。すてきだったよね。

清原:だから彼女は美咲であり、お姉ちゃんであり、大黒柱だということがすごくよく分かるシーンで。私はあの日、出番がなかったけど現場に行って見学しました。現場でもすごく良かったです。

杉咲:眼差しがとても雄弁で。私としても内容的に張り詰めていたシーンだったので、とても緊張していたんです。そんなときにただ目の前に、愛のある眼差しで見つめていてくれる美咲がいて。「この人のことをただ見ていたらいいんだ」と力が緩むような時間でもありました。

——杉咲さん(優花)のシーンでお願いします。

清原:お母さん(西田尚美)と女の子がクッキーを焼いているシーンで、「お母さんはこれだよー」って三日月形のクッキーを指して言うところ。そこの最後の方の花ちゃんの顔は、鳥肌もんです。

杉咲:うれしい。

広瀬:「三日月」の言い方、発音が好きです。3人いたら次女のような、姉でもあり妹にもなる器用さと自由さを持っている優花が、またぜんぜん違う“娘”という色に変わっていて。美咲として「優花のそばにいないとダメだ」と思えるシーンでした。

——では最後に、これからご覧になる方へのメッセージをお願いします。

広瀬:彼女たちなりに生きながら、それぞれが片思いを抱えていて。そこには恋しさや怒りなど、いろいろな色の感情があって。それを(映画を見た人に)知ってもらうだけですごく救われる気がします。きっと「(こことは違うレイヤーの)世界が本当にあったら?」と想像が働く、とても温もりのある、愛のある、優しい映画だと思います。

PHOTOS:MICHI NAKANO
STYLING:[SUZU HIROSE]AKIRA MARUYAMA、[HANA SUGISAKI]SAKI NAKAZAWA、[KAYA KIYOHARA]MEGUMI ISAKA(dynamic)
HAIR&MAKEUP:[SUZU HIROSE]MASAYOSHI OKUDAIRA、[HANA SUGISAKI]ASASHI(ota office)、[KAYA KIYOHARA]YUDAI MAKINO(vierge)

[SUZU HIROSE]パールジャケット 6万6000円/JOSE MOON(JOSE MOON 080-1908-2401)、ワンピース 1万9000円/エステ(バウ インク 070-9199-0913)、フープピアス 44万円、モザイクエクラリング 22万円、シャンデリアレイヤードリング 25万3000円/AHKAH(AHKAH GINZA SIX店 03-6274-6098)、フープピアス(リングとして使用) 5万8000円/LORO(LORO TOKYO info@loro.tokyo)、その他スタイリスト私物、[KAYA KIYOHARA]ジャッケット、パンツ/ジョゼフ(ジョゼフジャパン info@joseph-jp.com)、アクセサリー/ジュエッテ(ジュエッテ 0120-10-6616)

「片思い世界」

TOHO シネマズ 日比谷ほか全国公開中
出演:広瀬すず 杉咲花 清原果耶
横浜流星
小野花梨 伊島空 moonriders 田口トモロヲ 西田尚美
脚本:坂元裕二
監督:土井裕泰
配給:東京テアトル、リトルモア
(C)2025「片思い世界」製作委員会
https://kataomoisekai.jp

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広瀬すず × 杉咲花 × 清原果耶 3人だからこそ表現できた映画「片思い世界」の親密な関係

PROFILE: 左から、杉咲花/俳優、広瀬すず/俳優、清原果耶/俳優

PROFILE: (ひろせ・すず)1998年生まれ、静岡県出身。2013年、ドラマ「幽かな彼女」(KTV)で女優としての活動を開始。映画「海街diary」(15/是枝裕和監督)で第39回日本アカデミー賞新人俳優賞ほか、数多くの新人賞を総なめにする。16年、「ちはやふる」シリーズで映画単独初主演を務める。第40回日本アカデミー賞において、「ちはやふる-上の句-」(16/小泉徳宏監督)で優秀主演女優賞、「怒り」(16/李相日監督)で優秀助演女優賞をダブル受賞した。19年には100作目となるNHK連続テレビ小説「なつぞら」でヒロインを熱演。近年の主な映画出演作に「キリエのうた」(23/岩井俊二監督)、「ゆきてかへらぬ」(25/根岸吉太郎監督)など。待機作に「遠い山なみの光」(25/石川慶監督)、「宝島」(25/大友啓史監督)がある。 (すぎさき・はな)1997年生まれ、東京都出身。映画「湯を沸かすほどの熱い愛」(16/中野量太監督)で第40回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞・新人俳優賞はじめ、多くの映画賞を受賞。2018年、「花のち晴れ~花男 Next Season~」(TBS)で連続ドラマ初主演を果たす。その後、主役を務めたNHK連続テレビ小説「おちょやん」(20~21)と「恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~」(21/NTV)で橋田賞新人賞を受賞。近年の主な出演作に「市子」(23/戸田彬弘監督)、「52ヘルツのクジラたち」(24/成島出監督)、「朽ちないサクラ」(24/原廣利監督)、連続ドラマ「アンメットある脳外科医の日記」(24/KTV)などがある。 (きよはら・かや)2002年生まれ、大阪府出身。15年、NHK連続テレビ小説「あさが来た」で俳優デビュー。映画「護られなかった者たちへ」(21/瀬々敬久監督)で第45回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。21年には、NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」で主演を務めた。23年、「ジャンヌ・ダルク」(演出・白井晃)で舞台初出演にして初主演を務め、第31回読売演劇大賞・杉村春子賞を受賞した。近年の主な映画出演作に「1秒先の彼」(23/山下敦弘監督)、「青春18×2 君へと続く道」(24/藤井道人監督)、「碁盤斬り」(24/白石和彌監督)などがある。

公開中の映画「片思い世界」は、「花束みたいな恋をした」の脚本家・坂元裕二と監督・土井裕泰のタッグによる最新作だ。坂元の「広瀬すずさん、杉咲花さん、清原果耶さんの3人でお話を作れないかな」という思いから生まれた本作は、彼がこれまでの作品に込めた想いや願いが散りばめられた集大成となった。そしてタイプの違う天才女優3人が寄り添い合い、お互いを守り、輝かせながら、“ここではないどこかにある世界”の物語をスクリーンに存在させた。どのようにこの特別な力学が生まれたのかを主演を務めた広瀬、杉咲、清原の3人に聞いた。質問に答える人物を他の2人が愛おしそうに見つめ、その言葉に「うんうん」とうなずく。その光景を見て、彼女たちの関係性が劇中の3人に重なった。

※記事内には映画のストーリーに関する重大な記述が含まれます。

3人の共演

——最初、脚本がない状態でオファーを受けたそうですが、引き受けた理由をお聞かせください。

清原果耶(以下、清原):坂元さんがすずちゃんと花ちゃんと私に脚本を書いてくれるというお話を伺って、「そんなにありがたくぜいたくなことはこの先なかなかないだろうな」と思ったのが、大きな理由の一つです。すずちゃんとは今回3作目の共演で、花ちゃんとは朝ドラのバトンタッチ式のときに一度お会いしていたこともあって、お2人と一緒に作品を作れることが素直にうれしいなと思いました。また、土井監督とは「花束みたいな恋をした」でご一緒させていただいたときに「いつかまた作品でご一緒できたらいいね」と言っていただけたこともあって、「やらない他ないな」と思いました。

広瀬すず(以下、広瀬):もともと坂元さんのファンというのもあり、どういうものであれ絶対やりたいという前向きな気持ちがあるところに、(2人の)お名前を聞いて。これが実現することはもうなかなかないだろうなというか、「本当かな?」と思えるほどうれしいお話でした。清原ちゃんとは共演回数が多く、お互いに高校生ぐらいのときからいろいろなことを一緒にやってきた距離感があるから、「あ! また共演できる! うれしい!」という気持ちです。花ちゃんとは「もう(共演は)ないだろうな」となんとなく思っていたので、10年ぶりに会えて本当にうれしかったです。同世代の2人と切磋琢磨できる現場をお断りする理由は、台本がなかったとしてもなくて。 私も「すごくぜいたくなお話だな」と思いました。

杉咲花(以下、杉咲):私は坂元さん、土井監督とご一緒するのは初めてで、この座組やメンバーを聞いて、「なんてぜいたくな現場なんだろう」と。早く飛び込みたいなという気持ちでお受けしました。

※以下、ネタバレが含まれます。








親密さの演出

——設定のネタバレをすると、周りからは3人が見えていません。ダンスやアクションのように遵守すべき立ち位置や動きがありつつ、段取りっぽくなってはいけないという非常に難易度の高いことを、お三方が軽々とやっているように見えました。特殊なお芝居でしたか?

3人:(顔を見合わせて)特に……?

杉咲:初めて本読みで集まった日、倒れる練習したね。

——雑踏などで、人にぶつかられたときの。

清原:エキストラのみなさんのご協力のおかげだと思います。例えば3人はドアを自分で開けることができないので、他の人が開けたドアの隙間をすり抜けていきます。人と人の間を縫ってコンサートホールに行くシーンでは、前後にいてくださったエキストラの方にちょっと隙間を空けてもらって、「一拍間を置いてもらったらそこに私たちが入ります」といった調整を綿密にしました。簡単にやっているように見えて、みなさんのチームワークがなければ成立しなかったシーンだと思います。

——オーケストラが奏でる交響曲のようでした。

清原:不思議なことをしている3人なので、みんなの力が合わさらないとリアリティーが保たれない。映画作りって面白いなと思いましたし、みなさんへの感謝でいっぱいです。

——3人だけ違う世界線に存在しているというところで、寄り添って生きる3人の親密さみたいなものをどのように出しましたか? 分かりやすいところでいうとスキンシップが多いお芝居でしたが、意識していましたか?

広瀬:肌と肌が触れるとちゃんと温度を感じて距離感が近くなるので、私はとても意識していたかもしれないです。“触れる”ことがすごく大切だなと思っていました。それこそ他の人や物に触れられないからこそ、触れ合うことで自分の存在の仕方を認識できたり、2人の存在を確認できたり。(存在しないものを)“本当(リアル)”にしていく、みたいな。確かに距離は近かったと思います。

——監督から「もうちょっとくっついて」といった演出はありましたか?

広瀬:(2人を見て)なかったよね? みんな自然にやっていました。

杉咲:作品によっては(脚本の)ト書きに“触れる”と書いてあったり、演出によってそうなることもありますが、今回は自分が生理的に反応していたことの方が多かったように思います。それは12年間を共に過ごしてきたこの3人の関係性をどう演じていったらいいのかというところで、それぞれの指針や重要視している部分がきっと離れていなかったからこそ、そういった距離感になっていったのではないかなと。クランクインする前に果耶ちゃんが3人でご飯に行きませんかと声をかけてくれて、そこでいろいろな話ができたことで、お互いに心を許していくことができたのではないかなと思います。

——清原さんが、ご飯の言い出しっぺなんですね。

清原:はい、私が言い出しっぺです(笑)。役を通して深まる距離感もあれば、その人自身の魅力にはまって役と一緒に関係性が見えてくる場合もあるんですけど、私自身は今回の作品においては「2人のことを知りたい」「現場でどんな佇まいをされるんだろう?」と、お2人への興味がすごく大きかったんです。私の場合はその興味がさくらという役を通して、2人への愛情や末っ子らしさにつながったと思います。

——本番中以外もスキンシップは多かったんですか?

清原:普通です(笑)。

杉咲:でも、わりと近い距離にはずっといたかもね。

広瀬:待ち時間やちょっとした合間の時間とか、椅子が3つ、すでにぎゅっと置かれているんです(笑)。そばにいるのが当たり前だったことが、良かったなと思います。

杉咲:私は普段あまり多くスキンシップを取る方ではないのですが、リスペクトしている2人と共演できるうれしさと同じぐらい「足を引っ張ってしまったらどうしよう」と緊張する気持ちが当初は特にあって。もう二歩、三歩、精神的にも踏み込んだところに行きたい気持ちがあったんです。ですが撮影を通して2人とゆっくり関わり合っていく中で、気づいたら触れ合うということに対しても無理がない状態になっていました。それは大きな変化だったのではないかと思います。

広瀬:(しみじみとうなずきながら)分かる。

それぞれの好きな芝居は?

——お互いに好きなお芝居をあげていただきたいです。まずは清原さん(さくら)のシーンからお願いします。

清原:お願いしまーす!(笑)。

杉咲:私はペンギンのシーン!(※さくらが水族館の飼育員として、ペンギンゾーンで働くシーン)

広瀬:分かる!

杉咲:(清原に)あれ、クランクインの日? インしてわりと間もないと思うんですけど。

清原:(インして)すぐだった。

杉咲:撮影が始まったころに、確かそのシーンの映像を見せてもらった気がする。さくらの日常が何気なく切り取られたシーンですが、ただ1人で凛と立っている姿に圧倒されたんです。

広瀬:アルバイトのあのシーンは私もすごく好き。よくしゃべってるよね(笑)。それがすごくかわいいし、「さくらってこういう人なんだろうな」という存在の仕方を見て「お〜! すごい!」と気持ちが高まりました。

——広瀬さん(美咲)のシーンでは?

清原:外の階段で、泣いている優花を抱きしめるお芝居です。

杉咲:分かる。すてきだったよね。

清原:だから彼女は美咲であり、お姉ちゃんであり、大黒柱だということがすごくよく分かるシーンで。私はあの日、出番がなかったけど現場に行って見学しました。現場でもすごく良かったです。

杉咲:眼差しがとても雄弁で。私としても内容的に張り詰めていたシーンだったので、とても緊張していたんです。そんなときにただ目の前に、愛のある眼差しで見つめていてくれる美咲がいて。「この人のことをただ見ていたらいいんだ」と力が緩むような時間でもありました。

——杉咲さん(優花)のシーンでお願いします。

清原:お母さん(西田尚美)と女の子がクッキーを焼いているシーンで、「お母さんはこれだよー」って三日月形のクッキーを指して言うところ。そこの最後の方の花ちゃんの顔は、鳥肌もんです。

杉咲:うれしい。

広瀬:「三日月」の言い方、発音が好きです。3人いたら次女のような、姉でもあり妹にもなる器用さと自由さを持っている優花が、またぜんぜん違う“娘”という色に変わっていて。美咲として「優花のそばにいないとダメだ」と思えるシーンでした。

——では最後に、これからご覧になる方へのメッセージをお願いします。

広瀬:彼女たちなりに生きながら、それぞれが片思いを抱えていて。そこには恋しさや怒りなど、いろいろな色の感情があって。それを(映画を見た人に)知ってもらうだけですごく救われる気がします。きっと「(こことは違うレイヤーの)世界が本当にあったら?」と想像が働く、とても温もりのある、愛のある、優しい映画だと思います。

PHOTOS:MICHI NAKANO
STYLING:[SUZU HIROSE]AKIRA MARUYAMA、[HANA SUGISAKI]SAKI NAKAZAWA、[KAYA KIYOHARA]MEGUMI ISAKA(dynamic)
HAIR&MAKEUP:[SUZU HIROSE]MASAYOSHI OKUDAIRA、[HANA SUGISAKI]ASASHI(ota office)、[KAYA KIYOHARA]YUDAI MAKINO(vierge)

[SUZU HIROSE]パールジャケット 6万6000円/JOSE MOON(JOSE MOON 080-1908-2401)、ワンピース 1万9000円/エステ(バウ インク 070-9199-0913)、フープピアス 44万円、モザイクエクラリング 22万円、シャンデリアレイヤードリング 25万3000円/AHKAH(AHKAH GINZA SIX店 03-6274-6098)、フープピアス(リングとして使用) 5万8000円/LORO(LORO TOKYO info@loro.tokyo)、その他スタイリスト私物、[KAYA KIYOHARA]ジャッケット、パンツ/ジョゼフ(ジョゼフジャパン info@joseph-jp.com)、アクセサリー/ジュエッテ(ジュエッテ 0120-10-6616)

「片思い世界」

TOHO シネマズ 日比谷ほか全国公開中
出演:広瀬すず 杉咲花 清原果耶
横浜流星
小野花梨 伊島空 moonriders 田口トモロヲ 西田尚美
脚本:坂元裕二
監督:土井裕泰
配給:東京テアトル、リトルモア
(C)2025「片思い世界」製作委員会
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「パタゴニア」アンバサダーに6年ぶりに日本人が加入 トレイルランナー木村大志に聞く山の魅力

PROFILE: 木村大志/「パタゴニア」アンバサダー

木村大志/「パタゴニア」アンバサダー
PROFILE: (きむら・ひろし)1993年生まれ、秋田県出身。高校時代から自衛隊在籍中まで、ノルディック複合のスキー選手として競技に打ち込む。21歳で、新潟・妙高にある国際自然環境アウトドア専門学校に入学。野外活動の専門知識を学ぶ過程でトレイルランニングと出会う。現在は長野・木島平を拠点に、北信エリアを中心としたトレイルランニングのツアーや大会運営に関わる。同時に活動エリアの登山道整備にも力を注ぎ、長野の高社山・カヤの平や三登山、新潟の中ノ俣古道などの維持管理に積極的に取り組む。2025年3月から現職

米国発のアウトドアブランド「パタゴニア(PATAGONIA)」のアンバサダーに今春、長野・木島平を拠点とするトレイルランナー、木村大志が加わった。同ブランドの“代弁者”であるアンバサダーは、現在グローバルで125人、日本では18人。日本人の加入は6年ぶりだいう。「ストイックなところもありつつ、アウトドアスポーツを心の底から楽しんでいて、10年前に出会った当時から人柄もすばらしい」と「パタゴニア」担当者がコメントする木村に、トレイルランニングや山の魅力を聞いた。

WWD:トレイルランニングとの出合いを教えてください。

木村大志「パタゴニア」アンバサダー(以下、木村):高校卒業後、自衛隊をへて新潟・妙高のアウトドア専門学校(国際自然環境アウトドア専門学校)に通いました。トレイルランニングというスポーツを初めて知り、挑戦したのはそのころです。ただ、秋田・鹿角にある実家はすぐ裏が山だったので、子供のころから山を駆け回っていました。それが自分にとってのトレイルランニングの原点かもしれません。

WWD:トレイルランニングの魅力はどんなところですか。

木村:いろんな魅力があって、まずは純粋に爽快感がある。山ですばらしい景色を見るのは気持ちがいいですし、少し危険な場所を越えていくときはドキドキと胸が高鳴ります。それに加えて、自分流の楽しみ方ができるのもトレランの魅力。花が好きな人なら山で花を見るのもいいですし、僕は山菜を採るのが好きなので、春になると山菜を探しながら走っています。山菜を探してすぐに立ち止まってしまうので、春は練習になりません(笑)。気づいたらポケットがいっぱいになっていて、トレーニングをしているんだか山菜採りをしているんだか分からない、なんていうことも。速く走れば遠くまで行けて、その分たくさん山菜を収穫できるのがいいですね。そのように個人の趣味嗜好に合わせて、走ることに楽しみをプラスオンできるのがトレランの良さだと思います。

WWD:トレランは“玄人のスポーツ”というイメージもありますが、そんなふうに自分流の楽しみ方を見つけると、挑戦したいと思う人も増えそうです。

木村:専用のギアが必要となることも多いアウトドアスポーツの中では、トレランは割と始めやすく、間口が広いんじゃないでしょうか。ロードランをきっかけにトレランを始める人もいますし、登山の延長で山を走るようになる人もいます。マラソンなどのロードランはタイムやスピードの向上を目指すムードもありますが、トレランはたとえ同じコースを走るのであっても、その日の天候やコースコンディションによって出せるペースが全く異なってきます。それゆえ、「30キロを走るならこのタイムを目指せ」といった基準もあまりない。タイムやスピードではなく、完走を目標として、純粋に走ることを楽しんでいる人が多いという印象です。

「長く使い続けることがかっこいい」

WWD:「パタゴニア」との出合いは。

木村:専門学校時代に、性能に魅力を感じて「パタゴニア」製品を購入するようになりました。アウトドアのウエアやギアは安くはないので、買うなら長く大切に使いたい。「パタゴニア」製品の耐久性や、修理してなるべく長く使い続けるといった考え方に共感したのも、ファンになったきっかけです。初めて買ったのはフリースの“R-1”だったと思います。季節ごとにお気に入りのアイテムがありますが、夏は“リッジ・フロー・シャツ”は走るときはいつも着ています。

WWD:アンバサダーとなったことで、ブランドとの関わり方はどう変わりますか。

木村:これまでも、「パタゴニア」のサポートアスリートといった形で発売後の製品を使わせてもらい、その感想をブランド側にフィードバックしていました。アンバサダーになったことで、今後は発売前のプロトタイプ製品のテストにも参加し、今まで以上にコミットしていくことになると思います。自分が製品開発に参加し、「パタゴニア」の未来に関われるというのはすごく光栄で、とてもうれしく思います。

WWD:アンバサダーとして、ブランドの考え方や思いを代弁していくという役割も期待されています。

木村:自分はギアやウエアが使い込んで汚れていたり、破れた箇所を直した跡があったりする方がむしろかっこいいと思っているふしがあります。ファッションも楽しむおしゃれなランナーの方もいるので、皆がそういう考えであるべきというものではないですが、ギアやウエアを大切に長く使い続けること、長く使い続けることがかっこいいんだという価値観は伝えていきたいと思っています。

WWD:今は新潟に近い長野・北信エリアの木島平村を拠点にしています。

木村:木島平に住んで6、7年になります。その前は3年間東京に住んでいました。トレランと共にスキーも好きなので、東京時代は冬に雪がないのが寂しくて、専門学校時代を過ごした北信エリアに帰ることにしたんです。北信の魅力は四季がはっきりしていること。11月の下旬から5月くらいまではしっかり雪があって、夏もすばらしい。僕はトレランやスキーのほか、自転車も好きなので、季節の変わり目の5月は朝はまずクロスカントリースキーをして、その後山を走って、自転車に乗ってとフルで楽しめる。一日中アクティビティーが堪能できて、木島平は僕にとって本当に夢みたいな場所です。

「大好きなエリアを知ってもらいたい」

WWD:トレランレースなどを企画・主催している宿泊施設のスポーツハイムアルプで働き、アルプの仲間の方たちと古い登山道の整備にも取り組んでいますね。

木村:アルプでは、「奥信濃100」という100キロメートルのトレランレースを21年から開催しています。使われなくなっていた古道を通らないとレースのコースがつながらないということで、登山道の整備を始めました。最初は知識もない中で道を切り開いていったんですが、いろんな方と出会う中で、“近自然工法”という整備手法も知り、今はそれを勉強しながら整備を進めています。“近自然工法”は、言葉通り自然に近い形での整備を目指すもの。ふもとから人工物を持ち込んで整備するのではなく、現場にあるもので保守していきます。たとえば、自然の中に規則正しい木の階段を作ると、その階段の脇を人が歩いたり、雨水が流れたりして、かえって荒廃が進んでしまうんです。

WWD:荒廃していた道を整備し、レースを開催して都会から人を呼び込むことは、インフラ的な面でも、経済的な面でも地域貢献につながりますね。

木村:レースで多くの人が登山道を通ると道が整っていくので、地元の方の整備の負担は減らせているのかもしれません。アルプで登山道の整備ツアーを行ったり、レースを行ったりすることで、自分が大好きなこのエリアを多くの方に知っていただけることが何よりうれしい。整備ツアーに参加された方は、皆さん里親になったような気持ちでこの地域に愛着を持ってくれます。「修復箇所はその後どうなったかな」と、何度もこの地を訪れてくれる。整備をすると自然に対する意識も変わって、山で走るときに木の根を踏まないようにしようとか、山ではこういうことをしたら良くないなというように、意識が向くようにもなります。

WWD:「パタゴニア」の公式サイトには、木村さんが22年に行った、木島平の自宅から信越トレイルを踏破して、また自宅に帰ってくるという総距離175キロメートル、累積標高8000メートルの山行記録も掲載されています。この山行でもそれ以外のレースでも、走っている最中に、辛い、もうやめたいと感じる瞬間もあるのでは。

木村:眠いとか休みたいとかは考えますが、誰かに強制されているわけではなく、自分がやりたくて計画を立てて、ルートや装備を考えてやっていることなので、辛い、やめたいという思いはないです。むしろ、辛いのすら楽しい。ノルディック複合の選手としてスキー競技に明け暮れていた高校時代は、やらされている感じもあって、それが嫌でした。でも、社会に出て働き始めてみると、自分はやっぱり体を動かすことが好きなんだと気づいたんです。今はトレーニングにおいても、「今日は天気がいいから山に行こう」「今の時期は雪があるから、ランニングはさておき滑りに行っちゃおう」というように、山を楽しんでいます。最近子どもが生まれたので、一緒に山に行ったり、スキーに行ったりするのも楽しい。そんな暮らしの中、トレーニングでも、登山道整備でも、薪割りなどの宿の仕事でも「パタゴニア」の服はもうずっと着ていて、欠かせないものです。

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「パタゴニア」アンバサダーに6年ぶりに日本人が加入 トレイルランナー木村大志に聞く山の魅力

PROFILE: 木村大志/「パタゴニア」アンバサダー

木村大志/「パタゴニア」アンバサダー
PROFILE: (きむら・ひろし)1993年生まれ、秋田県出身。高校時代から自衛隊在籍中まで、ノルディック複合のスキー選手として競技に打ち込む。21歳で、新潟・妙高にある国際自然環境アウトドア専門学校に入学。野外活動の専門知識を学ぶ過程でトレイルランニングと出会う。現在は長野・木島平を拠点に、北信エリアを中心としたトレイルランニングのツアーや大会運営に関わる。同時に活動エリアの登山道整備にも力を注ぎ、長野の高社山・カヤの平や三登山、新潟の中ノ俣古道などの維持管理に積極的に取り組む。2025年3月から現職

米国発のアウトドアブランド「パタゴニア(PATAGONIA)」のアンバサダーに今春、長野・木島平を拠点とするトレイルランナー、木村大志が加わった。同ブランドの“代弁者”であるアンバサダーは、現在グローバルで125人、日本では18人。日本人の加入は6年ぶりだいう。「ストイックなところもありつつ、アウトドアスポーツを心の底から楽しんでいて、10年前に出会った当時から人柄もすばらしい」と「パタゴニア」担当者がコメントする木村に、トレイルランニングや山の魅力を聞いた。

WWD:トレイルランニングとの出合いを教えてください。

木村大志「パタゴニア」アンバサダー(以下、木村):高校卒業後、自衛隊をへて新潟・妙高のアウトドア専門学校(国際自然環境アウトドア専門学校)に通いました。トレイルランニングというスポーツを初めて知り、挑戦したのはそのころです。ただ、秋田・鹿角にある実家はすぐ裏が山だったので、子供のころから山を駆け回っていました。それが自分にとってのトレイルランニングの原点かもしれません。

WWD:トレイルランニングの魅力はどんなところですか。

木村:いろんな魅力があって、まずは純粋に爽快感がある。山ですばらしい景色を見るのは気持ちがいいですし、少し危険な場所を越えていくときはドキドキと胸が高鳴ります。それに加えて、自分流の楽しみ方ができるのもトレランの魅力。花が好きな人なら山で花を見るのもいいですし、僕は山菜を採るのが好きなので、春になると山菜を探しながら走っています。山菜を探してすぐに立ち止まってしまうので、春は練習になりません(笑)。気づいたらポケットがいっぱいになっていて、トレーニングをしているんだか山菜採りをしているんだか分からない、なんていうことも。速く走れば遠くまで行けて、その分たくさん山菜を収穫できるのがいいですね。そのように個人の趣味嗜好に合わせて、走ることに楽しみをプラスオンできるのがトレランの良さだと思います。

WWD:トレランは“玄人のスポーツ”というイメージもありますが、そんなふうに自分流の楽しみ方を見つけると、挑戦したいと思う人も増えそうです。

木村:専用のギアが必要となることも多いアウトドアスポーツの中では、トレランは割と始めやすく、間口が広いんじゃないでしょうか。ロードランをきっかけにトレランを始める人もいますし、登山の延長で山を走るようになる人もいます。マラソンなどのロードランはタイムやスピードの向上を目指すムードもありますが、トレランはたとえ同じコースを走るのであっても、その日の天候やコースコンディションによって出せるペースが全く異なってきます。それゆえ、「30キロを走るならこのタイムを目指せ」といった基準もあまりない。タイムやスピードではなく、完走を目標として、純粋に走ることを楽しんでいる人が多いという印象です。

「長く使い続けることがかっこいい」

WWD:「パタゴニア」との出合いは。

木村:専門学校時代に、性能に魅力を感じて「パタゴニア」製品を購入するようになりました。アウトドアのウエアやギアは安くはないので、買うなら長く大切に使いたい。「パタゴニア」製品の耐久性や、修理してなるべく長く使い続けるといった考え方に共感したのも、ファンになったきっかけです。初めて買ったのはフリースの“R-1”だったと思います。季節ごとにお気に入りのアイテムがありますが、夏は“リッジ・フロー・シャツ”は走るときはいつも着ています。

WWD:アンバサダーとなったことで、ブランドとの関わり方はどう変わりますか。

木村:これまでも、「パタゴニア」のサポートアスリートといった形で発売後の製品を使わせてもらい、その感想をブランド側にフィードバックしていました。アンバサダーになったことで、今後は発売前のプロトタイプ製品のテストにも参加し、今まで以上にコミットしていくことになると思います。自分が製品開発に参加し、「パタゴニア」の未来に関われるというのはすごく光栄で、とてもうれしく思います。

WWD:アンバサダーとして、ブランドの考え方や思いを代弁していくという役割も期待されています。

木村:自分はギアやウエアが使い込んで汚れていたり、破れた箇所を直した跡があったりする方がむしろかっこいいと思っているふしがあります。ファッションも楽しむおしゃれなランナーの方もいるので、皆がそういう考えであるべきというものではないですが、ギアやウエアを大切に長く使い続けること、長く使い続けることがかっこいいんだという価値観は伝えていきたいと思っています。

WWD:今は新潟に近い長野・北信エリアの木島平村を拠点にしています。

木村:木島平に住んで6、7年になります。その前は3年間東京に住んでいました。トレランと共にスキーも好きなので、東京時代は冬に雪がないのが寂しくて、専門学校時代を過ごした北信エリアに帰ることにしたんです。北信の魅力は四季がはっきりしていること。11月の下旬から5月くらいまではしっかり雪があって、夏もすばらしい。僕はトレランやスキーのほか、自転車も好きなので、季節の変わり目の5月は朝はまずクロスカントリースキーをして、その後山を走って、自転車に乗ってとフルで楽しめる。一日中アクティビティーが堪能できて、木島平は僕にとって本当に夢みたいな場所です。

「大好きなエリアを知ってもらいたい」

WWD:トレランレースなどを企画・主催している宿泊施設のスポーツハイムアルプで働き、アルプの仲間の方たちと古い登山道の整備にも取り組んでいますね。

木村:アルプでは、「奥信濃100」という100キロメートルのトレランレースを21年から開催しています。使われなくなっていた古道を通らないとレースのコースがつながらないということで、登山道の整備を始めました。最初は知識もない中で道を切り開いていったんですが、いろんな方と出会う中で、“近自然工法”という整備手法も知り、今はそれを勉強しながら整備を進めています。“近自然工法”は、言葉通り自然に近い形での整備を目指すもの。ふもとから人工物を持ち込んで整備するのではなく、現場にあるもので保守していきます。たとえば、自然の中に規則正しい木の階段を作ると、その階段の脇を人が歩いたり、雨水が流れたりして、かえって荒廃が進んでしまうんです。

WWD:荒廃していた道を整備し、レースを開催して都会から人を呼び込むことは、インフラ的な面でも、経済的な面でも地域貢献につながりますね。

木村:レースで多くの人が登山道を通ると道が整っていくので、地元の方の整備の負担は減らせているのかもしれません。アルプで登山道の整備ツアーを行ったり、レースを行ったりすることで、自分が大好きなこのエリアを多くの方に知っていただけることが何よりうれしい。整備ツアーに参加された方は、皆さん里親になったような気持ちでこの地域に愛着を持ってくれます。「修復箇所はその後どうなったかな」と、何度もこの地を訪れてくれる。整備をすると自然に対する意識も変わって、山で走るときに木の根を踏まないようにしようとか、山ではこういうことをしたら良くないなというように、意識が向くようにもなります。

WWD:「パタゴニア」の公式サイトには、木村さんが22年に行った、木島平の自宅から信越トレイルを踏破して、また自宅に帰ってくるという総距離175キロメートル、累積標高8000メートルの山行記録も掲載されています。この山行でもそれ以外のレースでも、走っている最中に、辛い、もうやめたいと感じる瞬間もあるのでは。

木村:眠いとか休みたいとかは考えますが、誰かに強制されているわけではなく、自分がやりたくて計画を立てて、ルートや装備を考えてやっていることなので、辛い、やめたいという思いはないです。むしろ、辛いのすら楽しい。ノルディック複合の選手としてスキー競技に明け暮れていた高校時代は、やらされている感じもあって、それが嫌でした。でも、社会に出て働き始めてみると、自分はやっぱり体を動かすことが好きなんだと気づいたんです。今はトレーニングにおいても、「今日は天気がいいから山に行こう」「今の時期は雪があるから、ランニングはさておき滑りに行っちゃおう」というように、山を楽しんでいます。最近子どもが生まれたので、一緒に山に行ったり、スキーに行ったりするのも楽しい。そんな暮らしの中、トレーニングでも、登山道整備でも、薪割りなどの宿の仕事でも「パタゴニア」の服はもうずっと着ていて、欠かせないものです。

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創業以来毎年3倍成長を継続  LVMHが出資するノンアルコール「フレンチ・ブルーム」創業夫妻に聞くブランディング

PROFILE: 左から、ロドルフ・フレールジャン・テタンジェ、マギー・フレールジャン・テタンジェ / フレンチ・ブルームCEO、創始者

左から、ロドルフ・フレールジャン・テタンジェ、マギー・フレールジャン・テタンジェ / フレンチ・ブルームCEO、創始者
PROFILE: ロドルフは、フランス生まれ。シャンパーニュメゾン「テタンジェ」の創業者のひ孫。シャンパーニュ地方で育ち、兄弟のギョーム、リチャードと共にグランクリュとプルミエ・クリュのシャンパーニュ「フレールジャン・フレール」を手掛ける。また、1767年創業のコニャックメゾン「クタンソー・エネ」を復活させた。2019年に妻のマギーと立ち上げた「フレンチ・ブルーム」ではCEOとしてあらゆる製造技術とノウハウを注ぎ込んでいる。マギーは、ニューヨーク生まれ。「ミシュランガイド」でキャリアを積み、妊娠をきっかけに友人のスーパーモデルであるコンスタンス・ジャブロンスキーとフレンチ・ブルームを創業 PHOTO:SHUHEI SHINE

フランス発ノンアルコール・スパークリングワイン「フレンチ・ブルーム(FRENCH BLOOM)」から新作“エクストラ・ブリュット”が登場した。アルコール、糖質、亜硫酸塩はゼロで、わずか1カロリー。オーガニックのシャルドネを使用した酸味とミネラルが融合した複雑な味わいが特徴だ。新作発売を記念し、20周年を迎えた「マンダリン オリエンタル 東京(MANDARIN ORIENTAL TOKYO)」(以下、マンダリン)と協業で24日まで、同ホテルでペアリングコースやピクニックセットなどを提供。「マンダリン」の野坂昭彦ディレクターオブワインは、「ブドウの旨味が感じられ、自信を持って薦められるノンアルコールだ」とコメントしている。

「フレンチ・ブルーム」は2019年に「ミシュランガイド」出身のマギー・フレールジャン・テタンジェ創始者とシャンパン「テタンジェ(TAITTINGER)」の創設者のひ孫であるロドルフ・フレールジャン・テタンジェ最高責任者(CEO)が創業。創業のきっかけは、マギーの妊娠。市場に出回っているノンアルコールワインは糖度が高く食事には不向きだった。そこで、食事とペアリングできる「フレンチ・ブルーム」を考案し、シャンパン造りのノウハウと革新により試行錯誤を重ねて完成させた。その複雑な香りと味わいにより、一流ホテルやレストランが選ぶノンアルコールワイン。「フレンチ・ブルーム」は、昨年10月には、LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(LVMH MOET HENNESSY LOUIS VUITTON以下、LVMH)が出資する初のノンアルコールのブランドになった。イベントのために来日した、テタンジェ夫妻に今後の戦略について聞いた。

フルコースにペアリングできるノンアルコール

WWD:新作“エクストラ・ブリュット(以下、ブリュット)”の特徴は?

ルドルフ・ フレールジャン・テタンジェ=フレンチ・ブルームCEO(以下、ルドルフ):脱アルコールの試行錯誤を重ね、ラングドック地方のリムーのブドウを採用している。このテロワールの土壌を感じさせる爽やかでミネラル感のある味わいだ。酸化を最小限に抑え、木樽で熟成。製造のレベルを引き上げたので、より複雑かつ余韻が感じられる。ドライで、酸味と塩味があり、食事とのペアリングにふさわしい。ホタテなどの魚介料理にぴったりで、子牛やラムなどのメインコースにも合うワインだ。

WWD:現在の商品のラインアップは?

マギー・ジャンフレール・テタンジェ フレンチ・ブルーム創始者(以下、マギー):4種類。“ル・ロゼ”ル・ブラン”“ラ・キュヴェ・ヴィンテージ2022(以下、ラ・キュヴェ)”に”ブリュット“が加わった。“ル・ブラン”は祝賀を含めた乾杯にふさわしく、“ル・ロゼ”はデザートに合う。“ブリュット”は食事に合うので、スパークリングだが、どちらかというとワイン的な存在、“ラ・キュヴェ”は、熟成した深みのある味わいが特徴。この4つのラインアップがあれば、フルコースにペアリングができる。

WWD:ターゲットと実際の購入層は?

マギー:当初、ターゲットは妊婦や健康的、宗教的理由から飲酒ができない人を想定していた。ところが実際の購入者の8割は、フレキシ・ドリンカー。全体の7割が女性で、年齢は20〜50代と幅広い。ノンアルコールであっても、ふくよかな味わいを求める層に選ばれている。“ラ・キュヴェ”は男性の割合が高く、ワインが好きなシャンパン愛飲家から支持されている。“ブリュット”はあらゆる人に好まれると思う。

ノンアルコール市場の広がりにより毎年3倍成長

WWD:現在何ヵ国で販売しているか?トップ3の市場は?

ルドルフ:50カ国以上。1位がフランス、2位がアメリカ、3位がイギリスと日本。日本はワインの愛好家が多く、大きなポテンシャルがある市場だ。

WWD:創業してからの売上高の推移は?

ルドルフ:創業以来、毎年3倍成長している。大きな要因は、飲酒に対する文化の変化が理由だ。世界中の消費者が節度ある飲酒をするようになり、味に妥協しない洗練されたノンアルコールドリンクの選択肢を求めるようになったのが大きい。また、ワイン同様の香り、味わいの深みを出すためにテロワールから製造までこだわり、高級ホテルやミシュラン星付きレストランなどで選ばれるようになった。ロンドンの「ハロッズ(HARRODS)」やパリの「ギャラリー・ラファイエット(GALERIES LAFAYETTE)」など高級百貨店でも販売されている。それにより、ブランドの魅力や信頼性が高まっている。

WWD:ブランドの認知度アップのために行っていることは?

マギー:パリ・ファッション・ウィークや音楽の祭典「ブリット・アワード(BRIT AWARDS)」、音楽フェスティバル「コーチェラ(COACHELLA)」などに参加している。このような活動を通して、ファッションやスポーツ、文化、ビジネスで影響のある人々とのコミュニティーを築いてきた。「マンダリン」といった素晴らしいパートーナーとのコラボレーションもその一環だ。

LVMHのサポートでノンアルコールのプレミアムメゾンに

WWD:LVMHの出資比率は?初のノンアルコールブランドへの出資だが?

ルドルフ:30%。LVMHはノンアルコールという新しいカテゴリーに可能性を感じたのだと思う。また、「フレンチ・ブルーム」は、単なるシャンパンやワインの代替品を提供するのではなく、リムーのテロワールに根ざし、研究開発を行い独自の製造法(サヴォワフェール)を生み出した。一過性ではなく、長期的視野でメゾンとしての完璧さを求め歩んでいる点に関心を持ってもらえたのだと思う。

WWD:LVMHのパートナーシップに期待することは?

ルドルフ:新市場進出や市場拡大の大きな鍵になる。また、いかに、より良い商品を作るかというサヴォワフェールを深めるための研究開発も積極的にサポートしてもらえると思う。

WWD:今後のノンアルコール市場については?

ルドルフ:ノンアルコール市場は、もはやニッチではなくムーブメントとして捉えるべきだ。あらゆるカテゴリーにおいて、品質や経験を犠牲にしないラグジュアリーが求められる時代。「フレンチ・ブルーム」は、革新的な製造方法により、ノンアルコールでありながら高級ワインと同様に複雑なスパークリングワインを提供している。ノンアルコールのプレミアムブランドとして、味はもちろんのこと、ブランド体験両方を提供していきたい。

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創業以来毎年3倍成長を継続  LVMHが出資するノンアルコール「フレンチ・ブルーム」創業夫妻に聞くブランディング

PROFILE: 左から、ロドルフ・フレールジャン・テタンジェ、マギー・フレールジャン・テタンジェ / フレンチ・ブルームCEO、創始者

左から、ロドルフ・フレールジャン・テタンジェ、マギー・フレールジャン・テタンジェ / フレンチ・ブルームCEO、創始者
PROFILE: ロドルフは、フランス生まれ。シャンパーニュメゾン「テタンジェ」の創業者のひ孫。シャンパーニュ地方で育ち、兄弟のギョーム、リチャードと共にグランクリュとプルミエ・クリュのシャンパーニュ「フレールジャン・フレール」を手掛ける。また、1767年創業のコニャックメゾン「クタンソー・エネ」を復活させた。2019年に妻のマギーと立ち上げた「フレンチ・ブルーム」ではCEOとしてあらゆる製造技術とノウハウを注ぎ込んでいる。マギーは、ニューヨーク生まれ。「ミシュランガイド」でキャリアを積み、妊娠をきっかけに友人のスーパーモデルであるコンスタンス・ジャブロンスキーとフレンチ・ブルームを創業 PHOTO:SHUHEI SHINE

フランス発ノンアルコール・スパークリングワイン「フレンチ・ブルーム(FRENCH BLOOM)」から新作“エクストラ・ブリュット”が登場した。アルコール、糖質、亜硫酸塩はゼロで、わずか1カロリー。オーガニックのシャルドネを使用した酸味とミネラルが融合した複雑な味わいが特徴だ。新作発売を記念し、20周年を迎えた「マンダリン オリエンタル 東京(MANDARIN ORIENTAL TOKYO)」(以下、マンダリン)と協業で24日まで、同ホテルでペアリングコースやピクニックセットなどを提供。「マンダリン」の野坂昭彦ディレクターオブワインは、「ブドウの旨味が感じられ、自信を持って薦められるノンアルコールだ」とコメントしている。

「フレンチ・ブルーム」は2019年に「ミシュランガイド」出身のマギー・フレールジャン・テタンジェ創始者とシャンパン「テタンジェ(TAITTINGER)」の創設者のひ孫であるロドルフ・フレールジャン・テタンジェ最高責任者(CEO)が創業。創業のきっかけは、マギーの妊娠。市場に出回っているノンアルコールワインは糖度が高く食事には不向きだった。そこで、食事とペアリングできる「フレンチ・ブルーム」を考案し、シャンパン造りのノウハウと革新により試行錯誤を重ねて完成させた。その複雑な香りと味わいにより、一流ホテルやレストランが選ぶノンアルコールワイン。「フレンチ・ブルーム」は、昨年10月には、LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(LVMH MOET HENNESSY LOUIS VUITTON以下、LVMH)が出資する初のノンアルコールのブランドになった。イベントのために来日した、テタンジェ夫妻に今後の戦略について聞いた。

フルコースにペアリングできるノンアルコール

WWD:新作“エクストラ・ブリュット(以下、ブリュット)”の特徴は?

ルドルフ・ フレールジャン・テタンジェ=フレンチ・ブルームCEO(以下、ルドルフ):脱アルコールの試行錯誤を重ね、ラングドック地方のリムーのブドウを採用している。このテロワールの土壌を感じさせる爽やかでミネラル感のある味わいだ。酸化を最小限に抑え、木樽で熟成。製造のレベルを引き上げたので、より複雑かつ余韻が感じられる。ドライで、酸味と塩味があり、食事とのペアリングにふさわしい。ホタテなどの魚介料理にぴったりで、子牛やラムなどのメインコースにも合うワインだ。

WWD:現在の商品のラインアップは?

マギー・ジャンフレール・テタンジェ フレンチ・ブルーム創始者(以下、マギー):4種類。“ル・ロゼ”ル・ブラン”“ラ・キュヴェ・ヴィンテージ2022(以下、ラ・キュヴェ)”に”ブリュット“が加わった。“ル・ブラン”は祝賀を含めた乾杯にふさわしく、“ル・ロゼ”はデザートに合う。“ブリュット”は食事に合うので、スパークリングだが、どちらかというとワイン的な存在、“ラ・キュヴェ”は、熟成した深みのある味わいが特徴。この4つのラインアップがあれば、フルコースにペアリングができる。

WWD:ターゲットと実際の購入層は?

マギー:当初、ターゲットは妊婦や健康的、宗教的理由から飲酒ができない人を想定していた。ところが実際の購入者の8割は、フレキシ・ドリンカー。全体の7割が女性で、年齢は20〜50代と幅広い。ノンアルコールであっても、ふくよかな味わいを求める層に選ばれている。“ラ・キュヴェ”は男性の割合が高く、ワインが好きなシャンパン愛飲家から支持されている。“ブリュット”はあらゆる人に好まれると思う。

ノンアルコール市場の広がりにより毎年3倍成長

WWD:現在何ヵ国で販売しているか?トップ3の市場は?

ルドルフ:50カ国以上。1位がフランス、2位がアメリカ、3位がイギリスと日本。日本はワインの愛好家が多く、大きなポテンシャルがある市場だ。

WWD:創業してからの売上高の推移は?

ルドルフ:創業以来、毎年3倍成長している。大きな要因は、飲酒に対する文化の変化が理由だ。世界中の消費者が節度ある飲酒をするようになり、味に妥協しない洗練されたノンアルコールドリンクの選択肢を求めるようになったのが大きい。また、ワイン同様の香り、味わいの深みを出すためにテロワールから製造までこだわり、高級ホテルやミシュラン星付きレストランなどで選ばれるようになった。ロンドンの「ハロッズ(HARRODS)」やパリの「ギャラリー・ラファイエット(GALERIES LAFAYETTE)」など高級百貨店でも販売されている。それにより、ブランドの魅力や信頼性が高まっている。

WWD:ブランドの認知度アップのために行っていることは?

マギー:パリ・ファッション・ウィークや音楽の祭典「ブリット・アワード(BRIT AWARDS)」、音楽フェスティバル「コーチェラ(COACHELLA)」などに参加している。このような活動を通して、ファッションやスポーツ、文化、ビジネスで影響のある人々とのコミュニティーを築いてきた。「マンダリン」といった素晴らしいパートーナーとのコラボレーションもその一環だ。

LVMHのサポートでノンアルコールのプレミアムメゾンに

WWD:LVMHの出資比率は?初のノンアルコールブランドへの出資だが?

ルドルフ:30%。LVMHはノンアルコールという新しいカテゴリーに可能性を感じたのだと思う。また、「フレンチ・ブルーム」は、単なるシャンパンやワインの代替品を提供するのではなく、リムーのテロワールに根ざし、研究開発を行い独自の製造法(サヴォワフェール)を生み出した。一過性ではなく、長期的視野でメゾンとしての完璧さを求め歩んでいる点に関心を持ってもらえたのだと思う。

WWD:LVMHのパートナーシップに期待することは?

ルドルフ:新市場進出や市場拡大の大きな鍵になる。また、いかに、より良い商品を作るかというサヴォワフェールを深めるための研究開発も積極的にサポートしてもらえると思う。

WWD:今後のノンアルコール市場については?

ルドルフ:ノンアルコール市場は、もはやニッチではなくムーブメントとして捉えるべきだ。あらゆるカテゴリーにおいて、品質や経験を犠牲にしないラグジュアリーが求められる時代。「フレンチ・ブルーム」は、革新的な製造方法により、ノンアルコールでありながら高級ワインと同様に複雑なスパークリングワインを提供している。ノンアルコールのプレミアムブランドとして、味はもちろんのこと、ブランド体験両方を提供していきたい。

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【ARISAK Labo vol.4】今夏でデビュー2周年 KID PHENOMENONが目指すもの

フォトアーティスト・ARISAKがファッション&ビューティ業界の多彩なクリエイターと共鳴し、新たなビジュアル表現を追求する連載【ARISAK Labo】。Vol.4となる今回は、2023年8月にデビューした注目の若手グループKID PHENOMENON(キッド フェノメノン)から、夫松健介(以下、KENSUKE)、遠藤翼空(以下、TSUBASA)、山本光汰(以下、KOTA)の3人が登場。1月にファーストアルバムをリリースし、夏にはLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~を控える彼らの前進し続ける姿を、ARISAKが自身のフィルターを通じて表現した。

“A new adventure begins!”
KID PHENOMENONが目指すもの

「昨年ファーストアルバムを出し、この夏にツアーに行く彼らにとって、今はまさにどんどん前進していくようなタイミング。彼らのアルバム『PHENOMENON』に収録された前向きな楽曲にインスピレーションを受け、これから冒険に向かう彼らをイメージして撮影しました。撮影の裏設定として、KENSUKE君はエレガント勇者、TSUBASA君は魔法使い、KOTA君は剣士みたいな設定。架空のゲームの世界に迷い込んだ彼らが、最終的に桜舞い散る目的地にたどり着く、というようなストーリーです」。

By ARISAK

PROFILE: KID PHENOMENON

KID PHENOMENON
PROFILE: 7人組ボーカル&ダンスグループとして2023年8月に結成。楽曲"Party Over There""Unstoppable"は共にYouTube再生回数400万回を突破。1月にファーストアルバム「PHENOMENON」をリリースし、今夏国内10都市を巡るLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~を実施。左からKOTA、TSUBASA、KENSUKE

Inside stories of
KID PHENOMENON × ARISAK

WWD:ARISAKとの出会いと、今回の撮影の感想は?

遠藤翼空(以下、TSUBASA):昨年の秋ごろ、僕が偶然行ったイベント会場でARISAKさんを紹介していただいて。以前から作品を見ていたし、いつか撮影してもらいたいなと思っていたので、その場でたくさんお話をさせていただきうれしかったのを覚えています! 未来っぽいムードを感じるARISAKさんの写真は、僕達KID PHENOMENONらしさをより際立たせてくれるんじゃないかと思い、撮影前日は楽しみすぎて眠れないほどでした(笑)。ずっとARISAKさんの作品を見てきたので、大袈裟かもしれないですけど、夢の一つがかなったような気分です。僕達のリクエストをたくさん取り入れてくれて、アーティスト側の意見を反映しながら作ってくれる、リスペクトがあるクリエイターさんなんだと改めて尊敬しました。

山本光汰(以下、KOTA):撮影前に、ARISAKさんとディスカッションする時間を設けてもらい、今の自分達の状態やどんなことをやっていきたいかを伝え合うことができたので、ただ撮ってもらうのではなく一緒に作り上げるような感覚が得られたのがうれしかったです。こういった撮影が初めてだったので新鮮でしたし、僕達自身の新たな可能性を感じられた時間でした。

夫松健介(以下、KENSUKE):今回、衣装やネイルなど、本当に自分がやってみたかったようなことを全てやらせていただけて、本当に楽しかったです。僕自身、奇抜なスタイルが好きなのですが、グループとして全体のバランスを考えた時にあまり自分が思うような理想をかなえられないことが多くて。「数年後にはプライベートでもツノをつけても良いかも」と思いました(笑)。

WWD:ARISAKから見たKID PHENOMENONの印象は?

ARISAK:TSUBASA君に会った後に作品を見せもらい、「自分がずっと見たいと思っていたアーティストに出会えた」と衝撃を受けました。MVでメンバー全員が「ウィンドウセン(WINDOWSEN)」を着ていたりなど、衣装も結構攻めていて、本当にかっこいい。「なんで今まで知らなかったんだろう」と思うほどでした。

今回の撮影でさらに彼らの魅力を知ることができたと思います。KENSUKE君の大胆なメイクやスタイリングもモノにできるカリスマ性や、少ない指示の中でこちらの意図を汲み取り自ら色々な提案をしてくれるTSUBASA君のスマートさ、どの角度で撮影しても必ず絵になるKOTA君の美しさ。みんなそれぞれ違う魅力を持っていて、もっと違う姿も見てみたいと思うようなグループです。今回の撮影に至るまで、彼らから何回も「撮ってもらいたいです」と言ってもらえて、その意欲的な姿勢に私もエンジンがかかり、自らマネージメントに相談に伺いました。

WWD:2023年のメジャーデビューからそろそろ2年が経つが、グループ結成当時と今を比較し感じる変化とは?

TSUBASA:自分の中の軸がしっかりしてきたと思うし、物事に対する解像度がすごく上がって、活動に対しての向き合い方も変わりました。当時と比べて考え方がかなり変わって、目標までの道筋を立てられるようになったことが、自分にとって一番大きな変化だと思います。

KOTA:僕の場合は、何より“人間力”です。デビューしてから自分達で色々なものを作って、何かを形にするという時間がたくさんありました。みんなで話し合って1つのものを作り上げていく経験から、自分1人では気づくことができなかったことにたくさん気づけたと思います。この2年半は7人みんなで切磋琢磨した実感があるし、グループとしての団結力が強まったんじゃないかな。

KENSUKE:僕はリーダーとしての自覚が強くなったと思います。「どうやってみんなと関わればいいのか」「どうすればグループのためになるのか」など、リーダーとして色々なことを考えるようになります。そしてビジュアルもかなり変わった。デビューするタイミングで体を絞って、そこから体作りについて色々勉強して試行錯誤しました。今では目標の体型に対してどのくらいの時間が必要で、どんなことをしなければいけないかとわかるようになりました。

WWD:ファッション感度が高い3人。それぞれ、今気になっているブランドは?

KENSUKE:最近はジェンダーレスっぽいファッションにもっと挑戦したくて、僕が好きなラッパーのエイサップ・ロッキーも着ていた「チョポヴァ・ロウェナ(CHOPOVA LOWENA)」というブランドが気になっています。1枚持っていたらいいアクセントとしてコーデが充実しそう。

KOTA:「マハタマ(MAHATAMA)」というタイのブランドで、日本には店舗がないんです。商品は全てリメイク品なので一点ものばかりで、なかなか見つからずずっと探していた時に、たまたま入った古着屋で見つけることができました。

TASUBASA:個性的なアイテムがたくさんある「エスプリ・デスカリエ(ESPRIT D’ESCALIER)」。一昔前のラフ・シモンズっぽさを感じさせながらも、かわいらしさを感じる組み合わせが気に入っています。

WWD:ファーストアルバム「PHENOMENON」をリリースして感じた手応えと今後の目標は?

KENSUKE:昔はイベントに出演するにも、自分達が持っている曲が少なすぎて頭を悩ませることが多かったんですが、今ではアルバムを出せるほどに曲数が増えていることに感動しています。特に"Party Over There"と"Unstoppable"は、MVの世界観も含めて「やっとKID PHENOMENONが出来上がってきた」と思える大切な2曲なので、アルバムのどこにこの曲を置くかが一番悩みましたね。メンバーとたくさん考える中で、「曲の流れよりもメッセージを大事にしよう」と決めて曲順を決めました。自分達がオーディションを受けてきた中のストーリーを表現していて、それが今何かに向かって頑張ってる方が夢を叶えるまでのストーリーになったらいいなって思います。そして僕達のグループ名にある“PHENOMENON”には、世の中に現象を起こしたいという意味が込められています。時代の流行を作っていくようなグループになりたいです。

WWD:最後に、今夏控えるLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~についてコメントを!

KENSUKE:今回のツアーは各地のライブハウスで行うもので、僕達のパフォーマンスを近くで見て感じてもらえると思います。ツアー名“D7SCOVER”のロゴにもこだわり、最初は“目”を描こうとも考えていたのですが、将来どんなふうにでも変わっていく“細胞”を描いて僕達らしさを表現しました。今回はライブ&ファンミーティングということもあり、自分達主導で色々なアイデアを出し合い、思っているものを全て詰め込んでいます。演出メインより音楽メインのライブを目指して、とにかく音を楽しめるようにこだわりました。僕達のことを知らない人もきっと楽しめるはず。皆さんに会えるのを楽しみにしています!

◼︎KID PHENOMENON LIVE & FAN MEETING TOUR 2025
日程:7月4日〜8月23日
場所:福岡、新潟、兵庫、三重、東京、岩手、千葉、大阪、静岡、福島
※詳細は公式サイトにて

CREDIT
LOOK1[KENSUKE]ジャケット9万6800円、シャツ1万5400円/ディゼムバイシーク(info@disembysiik.biz)、スカート6万
6000円/ランディ(ダフオフィス info.dafllc@gmail.com)、パンツ4万1800円/ドレスアンドレスド(https://dressedundressed.com/)、その他 スタイリスト私物[KOTA]トップス7万9200円/ランディ(ダフオフィス info.dafllc@gmail.com)、その他 スタイリスト私物[TSUBASA]ジャケット22万円、シャツ7万3700円、パンツ5万5000円/以上、リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、その他 スタイリスト私物

LOOK2[KENSUKE] トップス3万4100円/ディゼム バイ シーク(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、 デニム19万8000円、リュック(参考商品)/以上リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、ブーツ6万8200円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、 その他 スタイリスト私物[TSUBASA] シャツ6万8500円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、パンツ5万3900円/ディゼムバイシーク( info@disembysiik.biz)、イヤリング6万3000円、リング[右手人差し指]3万1000円/以上、カレワラ(kalevalashop.jp)、シューズ6万3800円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、 その他 スタイリスト私物[KOTA]フーディ6万500円、デニム6万1600円/以上、リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、イヤリング[右耳]3万8500円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、アームピース/ショーコニシ(https://www.shokonishi-official.com)、その他 スタイリスト私物
LOOK3[KENSUKE]ジャケット7万1500円/リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、ジャケット13万5300円、パンツ4万1800円/以上、ドレスドアンドレスド( https://dressedundressed.com/) 、ブーツ6万8200円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、右耳のイヤリング4万9500円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、胸につけたメタルパーツ1500円、ショルダーピース2万790円/以上、レポ トキヨ(lepus-official.com)、その他 スタイリスト私物[TSUBASA]シアートップス3万2450円/ディゼムバイシーク( info@disembysiik.biz)、シーチングトップス(参考商品)/リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、 パンツ6万4800円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、 イヤリング3万3000円/リョウ トミナガ、 ネイルチップ3万8500円/リュウール バイ マユオー(以上すべてザナドゥ トウキョウ 03-6459-2826)、スニーカー5万2800円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、その他 スタイリスト私物[KOTA] ジャケット7万5800円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、 肩からかけたベルト1万3900円/デシグアル(デシグアルストア 銀座中央通り店https://www.desigual.com/)、 ジャケットにつけたチェーンネックレス22万円、リング[左手人差し指]2万5300円、[左手中指]3万800円、[左手薬指]2万7500円、[左手小指]3万1900円、ダブルリング[左手薬指と中指]2万6950円/以上、ヨシコ クリエイション(ピーアールワントーキョーhttps://www.yoshikocreation.com/)、ネックレス5万7200円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、 その他 スタイリスト私物


DIRECITON & PHOTOS:ARISAK
MODEL:KENSUKE SOREMATSU, TSUBASA ENDO, KOTA YAMAMOTO
STYLING:CHIE NINOMIYA
HAIR:NOBUKIYO
MAKEUP:JUNA UEHARA
LIGHTING DIRECTION:SOTA SUGIYAMA
3DCG:HIROKIHISAJIMA
POSE DIRECTION:MACOTO(RHT.)

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【ARISAK Labo vol.4】今夏でデビュー2周年 KID PHENOMENONが目指すもの

フォトアーティスト・ARISAKがファッション&ビューティ業界の多彩なクリエイターと共鳴し、新たなビジュアル表現を追求する連載【ARISAK Labo】。Vol.4となる今回は、2023年8月にデビューした注目の若手グループKID PHENOMENON(キッド フェノメノン)から、夫松健介(以下、KENSUKE)、遠藤翼空(以下、TSUBASA)、山本光汰(以下、KOTA)の3人が登場。1月にファーストアルバムをリリースし、夏にはLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~を控える彼らの前進し続ける姿を、ARISAKが自身のフィルターを通じて表現した。

“A new adventure begins!”
KID PHENOMENONが目指すもの

「昨年ファーストアルバムを出し、この夏にツアーに行く彼らにとって、今はまさにどんどん前進していくようなタイミング。彼らのアルバム『PHENOMENON』に収録された前向きな楽曲にインスピレーションを受け、これから冒険に向かう彼らをイメージして撮影しました。撮影の裏設定として、KENSUKE君はエレガント勇者、TSUBASA君は魔法使い、KOTA君は剣士みたいな設定。架空のゲームの世界に迷い込んだ彼らが、最終的に桜舞い散る目的地にたどり着く、というようなストーリーです」。

By ARISAK

PROFILE: KID PHENOMENON

KID PHENOMENON
PROFILE: 7人組ボーカル&ダンスグループとして2023年8月に結成。楽曲"Party Over There""Unstoppable"は共にYouTube再生回数400万回を突破。1月にファーストアルバム「PHENOMENON」をリリースし、今夏国内10都市を巡るLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~を実施。左からKOTA、TSUBASA、KENSUKE

Inside stories of
KID PHENOMENON × ARISAK

WWD:ARISAKとの出会いと、今回の撮影の感想は?

遠藤翼空(以下、TSUBASA):昨年の秋ごろ、僕が偶然行ったイベント会場でARISAKさんを紹介していただいて。以前から作品を見ていたし、いつか撮影してもらいたいなと思っていたので、その場でたくさんお話をさせていただきうれしかったのを覚えています! 未来っぽいムードを感じるARISAKさんの写真は、僕達KID PHENOMENONらしさをより際立たせてくれるんじゃないかと思い、撮影前日は楽しみすぎて眠れないほどでした(笑)。ずっとARISAKさんの作品を見てきたので、大袈裟かもしれないですけど、夢の一つがかなったような気分です。僕達のリクエストをたくさん取り入れてくれて、アーティスト側の意見を反映しながら作ってくれる、リスペクトがあるクリエイターさんなんだと改めて尊敬しました。

山本光汰(以下、KOTA):撮影前に、ARISAKさんとディスカッションする時間を設けてもらい、今の自分達の状態やどんなことをやっていきたいかを伝え合うことができたので、ただ撮ってもらうのではなく一緒に作り上げるような感覚が得られたのがうれしかったです。こういった撮影が初めてだったので新鮮でしたし、僕達自身の新たな可能性を感じられた時間でした。

夫松健介(以下、KENSUKE):今回、衣装やネイルなど、本当に自分がやってみたかったようなことを全てやらせていただけて、本当に楽しかったです。僕自身、奇抜なスタイルが好きなのですが、グループとして全体のバランスを考えた時にあまり自分が思うような理想をかなえられないことが多くて。「数年後にはプライベートでもツノをつけても良いかも」と思いました(笑)。

WWD:ARISAKから見たKID PHENOMENONの印象は?

ARISAK:TSUBASA君に会った後に作品を見せもらい、「自分がずっと見たいと思っていたアーティストに出会えた」と衝撃を受けました。MVでメンバー全員が「ウィンドウセン(WINDOWSEN)」を着ていたりなど、衣装も結構攻めていて、本当にかっこいい。「なんで今まで知らなかったんだろう」と思うほどでした。

今回の撮影でさらに彼らの魅力を知ることができたと思います。KENSUKE君の大胆なメイクやスタイリングもモノにできるカリスマ性や、少ない指示の中でこちらの意図を汲み取り自ら色々な提案をしてくれるTSUBASA君のスマートさ、どの角度で撮影しても必ず絵になるKOTA君の美しさ。みんなそれぞれ違う魅力を持っていて、もっと違う姿も見てみたいと思うようなグループです。今回の撮影に至るまで、彼らから何回も「撮ってもらいたいです」と言ってもらえて、その意欲的な姿勢に私もエンジンがかかり、自らマネージメントに相談に伺いました。

WWD:2023年のメジャーデビューからそろそろ2年が経つが、グループ結成当時と今を比較し感じる変化とは?

TSUBASA:自分の中の軸がしっかりしてきたと思うし、物事に対する解像度がすごく上がって、活動に対しての向き合い方も変わりました。当時と比べて考え方がかなり変わって、目標までの道筋を立てられるようになったことが、自分にとって一番大きな変化だと思います。

KOTA:僕の場合は、何より“人間力”です。デビューしてから自分達で色々なものを作って、何かを形にするという時間がたくさんありました。みんなで話し合って1つのものを作り上げていく経験から、自分1人では気づくことができなかったことにたくさん気づけたと思います。この2年半は7人みんなで切磋琢磨した実感があるし、グループとしての団結力が強まったんじゃないかな。

KENSUKE:僕はリーダーとしての自覚が強くなったと思います。「どうやってみんなと関わればいいのか」「どうすればグループのためになるのか」など、リーダーとして色々なことを考えるようになります。そしてビジュアルもかなり変わった。デビューするタイミングで体を絞って、そこから体作りについて色々勉強して試行錯誤しました。今では目標の体型に対してどのくらいの時間が必要で、どんなことをしなければいけないかとわかるようになりました。

WWD:ファッション感度が高い3人。それぞれ、今気になっているブランドは?

KENSUKE:最近はジェンダーレスっぽいファッションにもっと挑戦したくて、僕が好きなラッパーのエイサップ・ロッキーも着ていた「チョポヴァ・ロウェナ(CHOPOVA LOWENA)」というブランドが気になっています。1枚持っていたらいいアクセントとしてコーデが充実しそう。

KOTA:「マハタマ(MAHATAMA)」というタイのブランドで、日本には店舗がないんです。商品は全てリメイク品なので一点ものばかりで、なかなか見つからずずっと探していた時に、たまたま入った古着屋で見つけることができました。

TASUBASA:個性的なアイテムがたくさんある「エスプリ・デスカリエ(ESPRIT D’ESCALIER)」。一昔前のラフ・シモンズっぽさを感じさせながらも、かわいらしさを感じる組み合わせが気に入っています。

WWD:ファーストアルバム「PHENOMENON」をリリースして感じた手応えと今後の目標は?

KENSUKE:昔はイベントに出演するにも、自分達が持っている曲が少なすぎて頭を悩ませることが多かったんですが、今ではアルバムを出せるほどに曲数が増えていることに感動しています。特に"Party Over There"と"Unstoppable"は、MVの世界観も含めて「やっとKID PHENOMENONが出来上がってきた」と思える大切な2曲なので、アルバムのどこにこの曲を置くかが一番悩みましたね。メンバーとたくさん考える中で、「曲の流れよりもメッセージを大事にしよう」と決めて曲順を決めました。自分達がオーディションを受けてきた中のストーリーを表現していて、それが今何かに向かって頑張ってる方が夢を叶えるまでのストーリーになったらいいなって思います。そして僕達のグループ名にある“PHENOMENON”には、世の中に現象を起こしたいという意味が込められています。時代の流行を作っていくようなグループになりたいです。

WWD:最後に、今夏控えるLIVE & FAN MEETING TOUR 2025 ~D7SCOVER~についてコメントを!

KENSUKE:今回のツアーは各地のライブハウスで行うもので、僕達のパフォーマンスを近くで見て感じてもらえると思います。ツアー名“D7SCOVER”のロゴにもこだわり、最初は“目”を描こうとも考えていたのですが、将来どんなふうにでも変わっていく“細胞”を描いて僕達らしさを表現しました。今回はライブ&ファンミーティングということもあり、自分達主導で色々なアイデアを出し合い、思っているものを全て詰め込んでいます。演出メインより音楽メインのライブを目指して、とにかく音を楽しめるようにこだわりました。僕達のことを知らない人もきっと楽しめるはず。皆さんに会えるのを楽しみにしています!

◼︎KID PHENOMENON LIVE & FAN MEETING TOUR 2025
日程:7月4日〜8月23日
場所:福岡、新潟、兵庫、三重、東京、岩手、千葉、大阪、静岡、福島
※詳細は公式サイトにて

CREDIT
LOOK1[KENSUKE]ジャケット9万6800円、シャツ1万5400円/ディゼムバイシーク(info@disembysiik.biz)、スカート6万
6000円/ランディ(ダフオフィス info.dafllc@gmail.com)、パンツ4万1800円/ドレスアンドレスド(https://dressedundressed.com/)、その他 スタイリスト私物[KOTA]トップス7万9200円/ランディ(ダフオフィス info.dafllc@gmail.com)、その他 スタイリスト私物[TSUBASA]ジャケット22万円、シャツ7万3700円、パンツ5万5000円/以上、リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、その他 スタイリスト私物

LOOK2[KENSUKE] トップス3万4100円/ディゼム バイ シーク(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、 デニム19万8000円、リュック(参考商品)/以上リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、ブーツ6万8200円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、 その他 スタイリスト私物[TSUBASA] シャツ6万8500円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、パンツ5万3900円/ディゼムバイシーク( info@disembysiik.biz)、イヤリング6万3000円、リング[右手人差し指]3万1000円/以上、カレワラ(kalevalashop.jp)、シューズ6万3800円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、 その他 スタイリスト私物[KOTA]フーディ6万500円、デニム6万1600円/以上、リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、イヤリング[右耳]3万8500円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、アームピース/ショーコニシ(https://www.shokonishi-official.com)、その他 スタイリスト私物
LOOK3[KENSUKE]ジャケット7万1500円/リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、ジャケット13万5300円、パンツ4万1800円/以上、ドレスドアンドレスド( https://dressedundressed.com/) 、ブーツ6万8200円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、右耳のイヤリング4万9500円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、胸につけたメタルパーツ1500円、ショルダーピース2万790円/以上、レポ トキヨ(lepus-official.com)、その他 スタイリスト私物[TSUBASA]シアートップス3万2450円/ディゼムバイシーク( info@disembysiik.biz)、シーチングトップス(参考商品)/リコール(エスティーム プレスpress@esteem.jp)、 パンツ6万4800円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、 イヤリング3万3000円/リョウ トミナガ、 ネイルチップ3万8500円/リュウール バイ マユオー(以上すべてザナドゥ トウキョウ 03-6459-2826)、スニーカー5万2800円/グラウンズ(フールズcustomer@fools-inc.com)、その他 スタイリスト私物[KOTA] ジャケット7万5800円/レポ トキヨ(lepus-official.com)、 肩からかけたベルト1万3900円/デシグアル(デシグアルストア 銀座中央通り店https://www.desigual.com/)、 ジャケットにつけたチェーンネックレス22万円、リング[左手人差し指]2万5300円、[左手中指]3万800円、[左手薬指]2万7500円、[左手小指]3万1900円、ダブルリング[左手薬指と中指]2万6950円/以上、ヨシコ クリエイション(ピーアールワントーキョーhttps://www.yoshikocreation.com/)、ネックレス5万7200円/リョウ トミナガ(ザナドゥ トウキョウ03-6459-2826)、 その他 スタイリスト私物


DIRECITON & PHOTOS:ARISAK
MODEL:KENSUKE SOREMATSU, TSUBASA ENDO, KOTA YAMAMOTO
STYLING:CHIE NINOMIYA
HAIR:NOBUKIYO
MAKEUP:JUNA UEHARA
LIGHTING DIRECTION:SOTA SUGIYAMA
3DCG:HIROKIHISAJIMA
POSE DIRECTION:MACOTO(RHT.)

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注目の俳優・髙石あかり、初の単独主演作「ゴーストキラー」で得た自信

PROFILE: 髙石あかり/俳優

PROFILE: (たかいし・あかり) 2002年12月19日生まれ、宮崎県出身。19年に俳優活動を本格化。21年の映画初主演作「ベイビーわるきゅーれ」が大ヒット。23年には第15回TAMA映画賞最優秀新進女優賞を受賞。 主な出演作に、映画「ベイビーわるきゅーれ」シリーズ、「新米記者トロッ子 私がやらねば誰がやる!」「私にふさわしいホテル」「遺書、公開。」、ドラマ「御上先生」「アポロの歌」など。 アニメ映画「たべっ子どうぶつ THE MOVIE」(5月1日公開)や「夏の砂の上」(7月4日公開)にも出演予定。今秋放送予定のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」ではヒロインを務めることが決定している。

俳優・髙石あかりが主演を務めるアクション映画「ゴーストキラー」が4月11日に公開される。同作の監督を務めるのは「ベイビーわるきゅーれ」シリーズなどの作品でアクション監督として活躍し、「HYDRA」(2019)で監督業にも進出した園村健介で、脚本は「ベイビーわるきゅーれ」シリーズで監督を手掛けた阪元裕吾が担当する。

ストーリーは、日々に鬱憤を抱える大学生のふみかに元殺し屋・工藤の幽霊が取り憑き、最初は反発し合っていた2人だったが、少しずつ心を開き始めたふみかは、工藤の成仏のために協力することになるが……。

主人公のふみかを演じる髙石は、「ベイビーわるきゅーれ」で脚光を浴び、近年は「私にふさわしいホテル」(24)や「遺書、公開。」(25)など話題作に次々出演するほか、今秋放送のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインの座を獲得するなど、今最も注目を集める俳優だ。また相棒となる元殺し屋の幽霊・工藤を演じるのは、アクションを得意とし、「HYDRA」で主演を務め高く評価された三元雅芸。本作では髙石と三元がシンクロするようなアクションを披露する。

意外なことに本作が初の映画単独主演作だという髙石に、「ゴーストキラー」の魅力やお気に入りのアクション、大好きだと語る芝居の魅力について語ってもらった。

「ベビわる」とどう差別化するか

——まずは「ゴーストキラー」のオファーがどのような経緯で来たか教えてもらえますか?

髙石あかり(以下、髙石):「ベイビーわるきゅーれ」(以下、「ベビわる」)や他の作品でもお世話になっているプロデューサーからお話を頂いたのが最初でした。その方が次はどんな作品を手掛けるのかすごく楽しみでしたし、その後に監督が園村さんだと聞いてますます期待が膨らみました。それまでアクション監督としての園村さんしか知らなかったので、今作ではどんなお芝居ができるんだろうと撮影前からワクワクしていました。

——阪元裕吾さんの脚本を初めて読んだとき、どのように感じられましたか?

髙石:これがどう映像化されるんだろうという疑問と、これはものすごい作品が生まれるなという確信を同時に抱きました。園村さんが監督で、三元さんが工藤を演じられる時点でアクションは確約されているとは思いましたが、そこに自分のお芝居やアクションがどう説得力を持って付いていけるかという不安もありました。

——本作で髙石さんが演じるふみかは暴力を目の当たりにすると恐怖で泣いてしまうし、殴ると痛みに悶えるしで、とてもリアルな感覚の持ち主ですよね。「ベビわる」を観ていただけにそれが新鮮に映りましたが、どのようにふみかという人物を作り上げていったんでしょうか?

髙石:阪元さんは「ベビわる」の杉本ちさとを当て書きに近い形で作り上げてくれて、私がお芝居で表現する喜怒哀楽もすごく近くで見て知ってくれている方。その土台の上で生まれたであろう今作のふみかもちさとに近しい部分はあるんですが、そこをどう別の人間として見てもらえるかは試行錯誤しました。どうしても「『ベビわる』製作陣が送る……」と謳われる作品だと思うので、私だけじゃなく園村監督やプロデューサーも「ベビわる」とどう差別化するかということは常に意識して話し合いながら進めていきました。

——まったく新しい主人公像だと感じましたが、皆さんの努力の賜物だったんですね。親近感のあるふみかというキャラクターには髙石さんも共感する部分があったのでは?

髙石:共感というより、格好良いなと思う部分が多かったです。襲われることや暴力に対する恐怖がある中で、一歩踏み出していくって相当な覚悟や勇気が必要じゃないですか。それを持っているふみかは自分とは違うし、だからこそすごく格好良くて魅力的な人物だと感じました。

芝居での「聞く力」

——ふみかと(取り憑いた)工藤というまったく違うキャラクターを自分の中につくり、一つのシーンで切り替えて演じるのは相当大変だったかと思います。

髙石:今までだと相手の台詞を聞いて、それを受けて演じるキャラクターはどう感じ、何をするかというやりとりを通して演技やシーンの流れを組み立てていたんです。お芝居では相手の台詞を「聞く力」ってすごく大切だと思っているので。でも今回は対相手のお芝居を自分一人でやらないといけない。例えばふみかと工藤が会話するシーンでは切り替える時間がほんの一瞬しかありませんが、ふみかが喋った後にふみかとしての余韻を持たせすぎると会話っぽさがなくなってしまいます。だからその切り替えと二つの役の見せ方は自分なりにかなり繊細に組み立てていきました。それがこの作品の肝になると思ったので。

——お芝居において「聞く力」が大事だというのはよく聞きますね。

髙石:話をすると相手がどういう気持ちで何を考えているのかってなんとなく感じとれますし、それを受けてこちらもお話ししますよね。お芝居においてもきちんと相手の話を聞いて、そこから生まれた感情を出すことは大切だなと思います。今回はその「聞く力」を自分の台詞に対して使いましたが。

アクションシーンの見どころ

——今まではアクション監督として関わってきた園村さんがメガホンをとる姿を見て、新たに発見したり驚いた面はありましたか?

髙石:むしろあまり変わらないことに驚きました。アクション監督としての園村さんには常に優しさがベースにありましたが、監督として接した今回もその点ではまったく同じで。でも監督のチャーミングな部分は今回一層知れたかなと思います。

——演技のスイッチだけでなくアクションもこなしていて本当にお見事でした。演技面では監督からどのようなディレクションがあったんですか?

髙石:杉本ちさとと明確に差別化したいということで、本読みの段階から喋り方のトーンやテンポなど何度も何度も調整しました。でも撮影に入ってからはそのことをあまり考えず、自然にふみかという人物でいられたんじゃないかなと思います。

——大迫力かつ斬新なアクションが見所ですよね。髙石さんと三元さんがカットの度に入れ替わる格闘シーンはものすごく面白かったです。

髙石:あの入れ替わり方は園村さんの案なんです。柱とかで一瞬私の姿が見えなくなった瞬間に三元さんに変わったり。もちろん現場ではカットがかかっているんですが、映像で観たときに、こんなのどうやって思いついたんだろうって驚きました。

——ふみかの中にいる工藤が闘っているということで、男性の動きや仕草はアクションの中でも意識したのでしょうか?

髙石:三元さんのようなアクションはできるわけがないと思いつつ、少しでも寄せられるようには意識しました。とはいえ自分のアクションに精一杯で、それができていたかは分かりませんが。ちなみに闘う時の手の握り方は三元さんに教えてもらいました。

——トンネルでのローキックが素晴らしいですよね。身体の使い方が変わったことが、あのシーンだけで見事に表現されていて。

髙石:うれしい! 実は阪元さんも「あの蹴りはすごい」って褒めてくれたんですよ。ただ監督から教えてもらった通りにやっただけなので、私としては他のアクションシーンと比べてもそこまで意識はしていないんです。だから阪元さんにそのシーンが好きと言われたときも「そこなんだ!」と思いましたが、そう言ってもらえてうれしかったです。

——髙石さんが気に入っているアクションシーンはどこですか?

髙石:ふみかと工藤が激しく入れ替わりながら闘うシーンは大好きです。あとバーのシーンで連打して殴るシーンも楽しかったです。台本には何発殴るとかじゃなくただ“連打”って書かれていたので好き勝手やらせてもらいました(笑)。

——アクション撮影時のケア体制はいかがでしたか?

髙石:もともとアクション監督ということもあり、園村さんは常に身体的・精神的なケアをしてくれましたし、俳優陣ともしっかりコミュニケーションを取られていてとても安心できる現場でした。どうしても撮影中は体力も使うし大変でしたが、いろいろと監督にサポートしていただき本当にありがたかったです。

初の単独主演映画への想い

——「ベビわる」では敵として登場した三元さんが相棒になるのが面白いですよね。改めて三元さんと共演されていかがでしたか?

髙石:とにかくすごく優しい方なんです。工藤には渋さや深みと同時に純粋さや優しさ、かわいらしさもありますが、それは三元さんが本来持っているもの。役にそれが滲み出ているからこそ、私は工藤というキャラクターが好きなんです。私が工藤を演じるシーンでは、既に自分のシーンを終えた三元さんが自主的に現場に残って工藤の台詞を再現してくれたり、撮影期間中は三元さんの真っ直ぐで優しい部分にすごく救われました。

——今回が初の単独主演映画だというのは意外でした。これまでと感じ方の違いはありましたか?

髙石:撮影期間中は誰が何かを背負うでもなく、全員がまっすぐ熱量をかけてつくり上げたので特に意識はしていませんでした。ただ試写を観る2、3日前から急に“主演”という言葉の重みに怖くなりまして……。これまでプレッシャーという言葉にそれほどピンときていなかったんですが、今回少し分かった気がしました。ただ試写を観たらそんなことどうでもよくなるくらい面白くって「なんだこの作品は」と思いながらずっと笑ってました。自分が「この作品は面白い」って思えることが何よりうれしかったですし、観た後に監督が放った「すごく自信があります」って言葉にもすごく救われました。だから今は早く皆さんにお届けしたいなと思っています。

——そんな自信作ですが、改めて髙石さんの思うおすすめポイントを教えてもらえますか?

髙石:ふみかが感じる日々のモヤモヤや鬱憤って、きっと共感できる部分がたくさんあると思うんです。だからふみかと自分と重ねて観ることで、嫌なことをたくさん発散できる作品になったんじゃないかなと。ぜひ気軽に映画館へ足を運んでいただけるとうれしいです!

俳優としての成長

——映画「遺書、公開。」にドラマ「三上先生」、「アポロの歌」と最近だけでも話題作に次々出演され、2025年ネクストブレイクランキングの女性俳優部門で第一位を獲得するなど大活躍中ですが、ここ1年間で仕事の環境は大きく変わったのでは?

髙石:去年は本当に濃密な1年で、撮った作品を挙げるだけで色が濃すぎてチカチカしそうなぐらいです。そういう作品に出会えたことはすごくありがたいと思いますし、どの作品からもいろんなことを学んで吸収させてもらいました。そこから少しずつ俳優としても広がっている感じが自分の中であるので、今後また新たな作品で広げていって……という感じにもっと貪欲にいろんな役をやってみたいと思います。

——いろんな作品に参加する中で、日々複数の役を演じ分けているのは本当にすごいですよね。役に入って、また別の現場では違う役をしてという切り替えは大変なように思えるんですが、そこはどのように気持ちを切り替えているんでしょうか?

髙石:とにかくカットがかかったらちゃんと自分に戻ってくるということはすごく意識しています。自分の中に役を残さないというか、ちゃんと自分と役の間に距離を置く。もちろんあまり遠すぎるのもよくないので、演じている間以外は適度な距離を保つようにしています。そういうオフになる時間があるからこそ、スタートの合図がかかったときには大きなバネになってより高いところへ行ける気がするんです。撮影時間以外しっかりオフにすれば、毎回気持ちを切り替えられますし。

——髙石さんはインタビューで常々「お芝居が大好き」と仰られていますよね。それが演技にも表れていてすごく素敵だなと感じていますが、その気持ちは大忙しな今も変わらずですか?

髙石:この間は「アポロの歌」の二宮健監督に、「前より一層演技が好きになっているよね」って言われたんです。自分ではそういう実感はなくただずっと好きだったつもりでいたんですが、他の人からそう見えているのがすごくうれしかったです。

——きっと現場ではすごく楽しそうにお芝居をやっているんでしょうね。お芝居のどういった部分にそれほど惹かれるんでしょうか?

髙石:説明できない何かには絶対惹かれていて…。私がお芝居をしていて特にワクワクするのが、感覚的に相手の役者さんと目が合う瞬間。それはただ単に目と目を合わせるだけじゃなく、この人は「聞く力」で私の台詞を聞いてくれているな、私のお芝居が伝わっているなというのが目でわかるんです。それが相手と互いにできている瞬間はすごく楽しいです。

——昨年には連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインに抜擢という大ニュースもありましたが、周りからの反響もすごかったのでは?

髙石:想像の何百倍、何千倍も大きかったです。「こんなにか」と驚きっぱなしでしたし、これから何が起こるかも未知数なのでワクワクしています。

——朝ドラのヒロインが子どもの頃からの夢だったとも語っていましたよね。朝ドラにどのような印象を持たれていたんですか?

髙石:主人公が夢に向かって進むなかで、いろんな苦悩や挫折があって。でもその苦悩や挫折も前向きに捉えて進んでくれるから、観ている私たちもつらいことや苦しいことをポジティブに変えていけるんだって思わせてくれる。そんな作品が多い印象です。だからこそ、その一員になれることがすごく嬉しいです。

——ここ最近だけでもいろんな方と共演されていますが、中でも刺激を受けた方はいましたか?

髙石:映画「夏の砂の上」(7月公開予定)で共演した松たか子さんです。先ほどお話した目のやり取りをしたときにビリビリ感じるものがあって。なんていうか……目があった瞬間、「お芝居を受け取っているよ!」という感覚がダイレクトに伝わってきたんです。とても優しい方でしたし、本当にお芝居がすごすぎて驚きました。とにかく最高でした!

——では最後に、今後トライしてみたい役や演技があれば教えてください。

髙石:私は人間味がある役がすごく好きなんです。不器用だったり、他の人からよく思われてなくても、そこで必死にもがいているキャラクターに惹かれるといいますか。だから今後は、広義的な意味でどこか欠けている役柄に挑戦してみたいなと思っています。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLING:KENSHI KANEDA
HAIR&MAKEUP:AYA SUMIMOTO

映画「ゴーストキラー」

■「ゴーストキラー」
4月11日公開
出演:髙石あかり
黒羽麻璃/三元雅芸
監督・アクション監督:園村健介
脚本:阪元裕吾
2024年製作/日本
配給:ライツキューブ
©2024「ゴーストキラー」製作委員会
https://ghost-killer.com

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注目の俳優・髙石あかり、初の単独主演作「ゴーストキラー」で得た自信

PROFILE: 髙石あかり/俳優

PROFILE: (たかいし・あかり) 2002年12月19日生まれ、宮崎県出身。19年に俳優活動を本格化。21年の映画初主演作「ベイビーわるきゅーれ」が大ヒット。23年には第15回TAMA映画賞最優秀新進女優賞を受賞。 主な出演作に、映画「ベイビーわるきゅーれ」シリーズ、「新米記者トロッ子 私がやらねば誰がやる!」「私にふさわしいホテル」「遺書、公開。」、ドラマ「御上先生」「アポロの歌」など。 アニメ映画「たべっ子どうぶつ THE MOVIE」(5月1日公開)や「夏の砂の上」(7月4日公開)にも出演予定。今秋放送予定のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」ではヒロインを務めることが決定している。

俳優・髙石あかりが主演を務めるアクション映画「ゴーストキラー」が4月11日に公開される。同作の監督を務めるのは「ベイビーわるきゅーれ」シリーズなどの作品でアクション監督として活躍し、「HYDRA」(2019)で監督業にも進出した園村健介で、脚本は「ベイビーわるきゅーれ」シリーズで監督を手掛けた阪元裕吾が担当する。

ストーリーは、日々に鬱憤を抱える大学生のふみかに元殺し屋・工藤の幽霊が取り憑き、最初は反発し合っていた2人だったが、少しずつ心を開き始めたふみかは、工藤の成仏のために協力することになるが……。

主人公のふみかを演じる髙石は、「ベイビーわるきゅーれ」で脚光を浴び、近年は「私にふさわしいホテル」(24)や「遺書、公開。」(25)など話題作に次々出演するほか、今秋放送のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインの座を獲得するなど、今最も注目を集める俳優だ。また相棒となる元殺し屋の幽霊・工藤を演じるのは、アクションを得意とし、「HYDRA」で主演を務め高く評価された三元雅芸。本作では髙石と三元がシンクロするようなアクションを披露する。

意外なことに本作が初の映画単独主演作だという髙石に、「ゴーストキラー」の魅力やお気に入りのアクション、大好きだと語る芝居の魅力について語ってもらった。

「ベビわる」とどう差別化するか

——まずは「ゴーストキラー」のオファーがどのような経緯で来たか教えてもらえますか?

髙石あかり(以下、髙石):「ベイビーわるきゅーれ」(以下、「ベビわる」)や他の作品でもお世話になっているプロデューサーからお話を頂いたのが最初でした。その方が次はどんな作品を手掛けるのかすごく楽しみでしたし、その後に監督が園村さんだと聞いてますます期待が膨らみました。それまでアクション監督としての園村さんしか知らなかったので、今作ではどんなお芝居ができるんだろうと撮影前からワクワクしていました。

——阪元裕吾さんの脚本を初めて読んだとき、どのように感じられましたか?

髙石:これがどう映像化されるんだろうという疑問と、これはものすごい作品が生まれるなという確信を同時に抱きました。園村さんが監督で、三元さんが工藤を演じられる時点でアクションは確約されているとは思いましたが、そこに自分のお芝居やアクションがどう説得力を持って付いていけるかという不安もありました。

——本作で髙石さんが演じるふみかは暴力を目の当たりにすると恐怖で泣いてしまうし、殴ると痛みに悶えるしで、とてもリアルな感覚の持ち主ですよね。「ベビわる」を観ていただけにそれが新鮮に映りましたが、どのようにふみかという人物を作り上げていったんでしょうか?

髙石:阪元さんは「ベビわる」の杉本ちさとを当て書きに近い形で作り上げてくれて、私がお芝居で表現する喜怒哀楽もすごく近くで見て知ってくれている方。その土台の上で生まれたであろう今作のふみかもちさとに近しい部分はあるんですが、そこをどう別の人間として見てもらえるかは試行錯誤しました。どうしても「『ベビわる』製作陣が送る……」と謳われる作品だと思うので、私だけじゃなく園村監督やプロデューサーも「ベビわる」とどう差別化するかということは常に意識して話し合いながら進めていきました。

——まったく新しい主人公像だと感じましたが、皆さんの努力の賜物だったんですね。親近感のあるふみかというキャラクターには髙石さんも共感する部分があったのでは?

髙石:共感というより、格好良いなと思う部分が多かったです。襲われることや暴力に対する恐怖がある中で、一歩踏み出していくって相当な覚悟や勇気が必要じゃないですか。それを持っているふみかは自分とは違うし、だからこそすごく格好良くて魅力的な人物だと感じました。

芝居での「聞く力」

——ふみかと(取り憑いた)工藤というまったく違うキャラクターを自分の中につくり、一つのシーンで切り替えて演じるのは相当大変だったかと思います。

髙石:今までだと相手の台詞を聞いて、それを受けて演じるキャラクターはどう感じ、何をするかというやりとりを通して演技やシーンの流れを組み立てていたんです。お芝居では相手の台詞を「聞く力」ってすごく大切だと思っているので。でも今回は対相手のお芝居を自分一人でやらないといけない。例えばふみかと工藤が会話するシーンでは切り替える時間がほんの一瞬しかありませんが、ふみかが喋った後にふみかとしての余韻を持たせすぎると会話っぽさがなくなってしまいます。だからその切り替えと二つの役の見せ方は自分なりにかなり繊細に組み立てていきました。それがこの作品の肝になると思ったので。

——お芝居において「聞く力」が大事だというのはよく聞きますね。

髙石:話をすると相手がどういう気持ちで何を考えているのかってなんとなく感じとれますし、それを受けてこちらもお話ししますよね。お芝居においてもきちんと相手の話を聞いて、そこから生まれた感情を出すことは大切だなと思います。今回はその「聞く力」を自分の台詞に対して使いましたが。

アクションシーンの見どころ

——今まではアクション監督として関わってきた園村さんがメガホンをとる姿を見て、新たに発見したり驚いた面はありましたか?

髙石:むしろあまり変わらないことに驚きました。アクション監督としての園村さんには常に優しさがベースにありましたが、監督として接した今回もその点ではまったく同じで。でも監督のチャーミングな部分は今回一層知れたかなと思います。

——演技のスイッチだけでなくアクションもこなしていて本当にお見事でした。演技面では監督からどのようなディレクションがあったんですか?

髙石:杉本ちさとと明確に差別化したいということで、本読みの段階から喋り方のトーンやテンポなど何度も何度も調整しました。でも撮影に入ってからはそのことをあまり考えず、自然にふみかという人物でいられたんじゃないかなと思います。

——大迫力かつ斬新なアクションが見所ですよね。髙石さんと三元さんがカットの度に入れ替わる格闘シーンはものすごく面白かったです。

髙石:あの入れ替わり方は園村さんの案なんです。柱とかで一瞬私の姿が見えなくなった瞬間に三元さんに変わったり。もちろん現場ではカットがかかっているんですが、映像で観たときに、こんなのどうやって思いついたんだろうって驚きました。

——ふみかの中にいる工藤が闘っているということで、男性の動きや仕草はアクションの中でも意識したのでしょうか?

髙石:三元さんのようなアクションはできるわけがないと思いつつ、少しでも寄せられるようには意識しました。とはいえ自分のアクションに精一杯で、それができていたかは分かりませんが。ちなみに闘う時の手の握り方は三元さんに教えてもらいました。

——トンネルでのローキックが素晴らしいですよね。身体の使い方が変わったことが、あのシーンだけで見事に表現されていて。

髙石:うれしい! 実は阪元さんも「あの蹴りはすごい」って褒めてくれたんですよ。ただ監督から教えてもらった通りにやっただけなので、私としては他のアクションシーンと比べてもそこまで意識はしていないんです。だから阪元さんにそのシーンが好きと言われたときも「そこなんだ!」と思いましたが、そう言ってもらえてうれしかったです。

——髙石さんが気に入っているアクションシーンはどこですか?

髙石:ふみかと工藤が激しく入れ替わりながら闘うシーンは大好きです。あとバーのシーンで連打して殴るシーンも楽しかったです。台本には何発殴るとかじゃなくただ“連打”って書かれていたので好き勝手やらせてもらいました(笑)。

——アクション撮影時のケア体制はいかがでしたか?

髙石:もともとアクション監督ということもあり、園村さんは常に身体的・精神的なケアをしてくれましたし、俳優陣ともしっかりコミュニケーションを取られていてとても安心できる現場でした。どうしても撮影中は体力も使うし大変でしたが、いろいろと監督にサポートしていただき本当にありがたかったです。

初の単独主演映画への想い

——「ベビわる」では敵として登場した三元さんが相棒になるのが面白いですよね。改めて三元さんと共演されていかがでしたか?

髙石:とにかくすごく優しい方なんです。工藤には渋さや深みと同時に純粋さや優しさ、かわいらしさもありますが、それは三元さんが本来持っているもの。役にそれが滲み出ているからこそ、私は工藤というキャラクターが好きなんです。私が工藤を演じるシーンでは、既に自分のシーンを終えた三元さんが自主的に現場に残って工藤の台詞を再現してくれたり、撮影期間中は三元さんの真っ直ぐで優しい部分にすごく救われました。

——今回が初の単独主演映画だというのは意外でした。これまでと感じ方の違いはありましたか?

髙石:撮影期間中は誰が何かを背負うでもなく、全員がまっすぐ熱量をかけてつくり上げたので特に意識はしていませんでした。ただ試写を観る2、3日前から急に“主演”という言葉の重みに怖くなりまして……。これまでプレッシャーという言葉にそれほどピンときていなかったんですが、今回少し分かった気がしました。ただ試写を観たらそんなことどうでもよくなるくらい面白くって「なんだこの作品は」と思いながらずっと笑ってました。自分が「この作品は面白い」って思えることが何よりうれしかったですし、観た後に監督が放った「すごく自信があります」って言葉にもすごく救われました。だから今は早く皆さんにお届けしたいなと思っています。

——そんな自信作ですが、改めて髙石さんの思うおすすめポイントを教えてもらえますか?

髙石:ふみかが感じる日々のモヤモヤや鬱憤って、きっと共感できる部分がたくさんあると思うんです。だからふみかと自分と重ねて観ることで、嫌なことをたくさん発散できる作品になったんじゃないかなと。ぜひ気軽に映画館へ足を運んでいただけるとうれしいです!

俳優としての成長

——映画「遺書、公開。」にドラマ「三上先生」、「アポロの歌」と最近だけでも話題作に次々出演され、2025年ネクストブレイクランキングの女性俳優部門で第一位を獲得するなど大活躍中ですが、ここ1年間で仕事の環境は大きく変わったのでは?

髙石:去年は本当に濃密な1年で、撮った作品を挙げるだけで色が濃すぎてチカチカしそうなぐらいです。そういう作品に出会えたことはすごくありがたいと思いますし、どの作品からもいろんなことを学んで吸収させてもらいました。そこから少しずつ俳優としても広がっている感じが自分の中であるので、今後また新たな作品で広げていって……という感じにもっと貪欲にいろんな役をやってみたいと思います。

——いろんな作品に参加する中で、日々複数の役を演じ分けているのは本当にすごいですよね。役に入って、また別の現場では違う役をしてという切り替えは大変なように思えるんですが、そこはどのように気持ちを切り替えているんでしょうか?

髙石:とにかくカットがかかったらちゃんと自分に戻ってくるということはすごく意識しています。自分の中に役を残さないというか、ちゃんと自分と役の間に距離を置く。もちろんあまり遠すぎるのもよくないので、演じている間以外は適度な距離を保つようにしています。そういうオフになる時間があるからこそ、スタートの合図がかかったときには大きなバネになってより高いところへ行ける気がするんです。撮影時間以外しっかりオフにすれば、毎回気持ちを切り替えられますし。

——髙石さんはインタビューで常々「お芝居が大好き」と仰られていますよね。それが演技にも表れていてすごく素敵だなと感じていますが、その気持ちは大忙しな今も変わらずですか?

髙石:この間は「アポロの歌」の二宮健監督に、「前より一層演技が好きになっているよね」って言われたんです。自分ではそういう実感はなくただずっと好きだったつもりでいたんですが、他の人からそう見えているのがすごくうれしかったです。

——きっと現場ではすごく楽しそうにお芝居をやっているんでしょうね。お芝居のどういった部分にそれほど惹かれるんでしょうか?

髙石:説明できない何かには絶対惹かれていて…。私がお芝居をしていて特にワクワクするのが、感覚的に相手の役者さんと目が合う瞬間。それはただ単に目と目を合わせるだけじゃなく、この人は「聞く力」で私の台詞を聞いてくれているな、私のお芝居が伝わっているなというのが目でわかるんです。それが相手と互いにできている瞬間はすごく楽しいです。

——昨年には連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインに抜擢という大ニュースもありましたが、周りからの反響もすごかったのでは?

髙石:想像の何百倍、何千倍も大きかったです。「こんなにか」と驚きっぱなしでしたし、これから何が起こるかも未知数なのでワクワクしています。

——朝ドラのヒロインが子どもの頃からの夢だったとも語っていましたよね。朝ドラにどのような印象を持たれていたんですか?

髙石:主人公が夢に向かって進むなかで、いろんな苦悩や挫折があって。でもその苦悩や挫折も前向きに捉えて進んでくれるから、観ている私たちもつらいことや苦しいことをポジティブに変えていけるんだって思わせてくれる。そんな作品が多い印象です。だからこそ、その一員になれることがすごく嬉しいです。

——ここ最近だけでもいろんな方と共演されていますが、中でも刺激を受けた方はいましたか?

髙石:映画「夏の砂の上」(7月公開予定)で共演した松たか子さんです。先ほどお話した目のやり取りをしたときにビリビリ感じるものがあって。なんていうか……目があった瞬間、「お芝居を受け取っているよ!」という感覚がダイレクトに伝わってきたんです。とても優しい方でしたし、本当にお芝居がすごすぎて驚きました。とにかく最高でした!

——では最後に、今後トライしてみたい役や演技があれば教えてください。

髙石:私は人間味がある役がすごく好きなんです。不器用だったり、他の人からよく思われてなくても、そこで必死にもがいているキャラクターに惹かれるといいますか。だから今後は、広義的な意味でどこか欠けている役柄に挑戦してみたいなと思っています。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLING:KENSHI KANEDA
HAIR&MAKEUP:AYA SUMIMOTO

映画「ゴーストキラー」

■「ゴーストキラー」
4月11日公開
出演:髙石あかり
黒羽麻璃/三元雅芸
監督・アクション監督:園村健介
脚本:阪元裕吾
2024年製作/日本
配給:ライツキューブ
©2024「ゴーストキラー」製作委員会
https://ghost-killer.com

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韓国の新鋭ファッションブランド「ジヨンキム」の魅力とは? ジヨン・キム ×「グレイト」Yoshi

韓国出⾝デザイナーのジヨン・キムによるファッションブランド「ジヨンキム(JIYONGKIM)」。デザイナーのジヨン・キムは、日本の⽂化服装学院卒業後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins) を卒業。在学中に「ルメール(LEMAIRE)」やヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がデザイナーを務めていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」でインターンを務めた後、2021年春夏から自身のメンズブランドをスタートした。

同ブランドの特徴は、⽔や化学薬品を使わずに⽇光で1〜3カ月ほど服を⽇焼けさせる「サンフェード」を行うことでできる独特のデザインで、24年度「LVMH」プライズのセミファイナリストに選ばれるなど、今注目を集める若手デザイナーの一人だ。

3月にはセレクトショップ「グレイト(GR8)」 で、デザイナーのジヨン自らが監修を行ったポップアップを開催した。もともと「グレイト」のYoshi・スペシャルプロジェクトマネージャーとはブランド設立時から親交があったという。今回、ポップアップに合わせて来日したデザイナーのジヨンと「グレイト」Yoshiに、2人の出会いからブランドの成り立ちや特徴、そして最近スタートしたウィメンズについて語ってもらった。

ジヨンキム」創設時からの交流

WWD:Yoshiさんは創設時から「ジヨンキム」のファンだったそうですが、2人はいつごろ知り合ったんですか?

ジヨン・キム(以下、ジヨン):確か2021年ごろだったと思います。私のセントラル・セント・マーチンズの卒業制作をYoshiさんがインスタで見て、「オーダーしたい」と連絡がきたんです。最初は個人オーダーかなと思っていたんですけど、聞いたら「『グレイト』で販売したい」って言われて。当時はまだ学生だったので、値段のつけ方もよく分からなくて、Yoshiさんにいろいろと相談しながら、「グレイト」で販売してもらえることになったんです。

Yoshi:もともと「コマウェア(CMMAWEAR)」っていう韓国ブランドのデザイナーのギズモという2人の共通の友達がいて。彼から「この人やばいかも」っていうメッセージがきて、それがジヨンのインスタのアカウントだったんです。当時は自分の作った服をいっぱい投稿しているわけでもなく、学校の課題の制作過程とかを投稿していたくらいだったんですけど、その感じがめちゃめちゃ良くて。それで、「『グレイト』で販売したい」ってインスタのDMを送りました。

当時はジヨンから「まだ売ってない」って言われたんですけど、社長の久保(光博)に話して、「この人はすごくなるかもしれないから、ちょっとトライしたい」と話して。普通に考えたらセレクトショップの店員がブランドの立ち上げから関わることって多分ないと思うんですけど、チャレンジしたいなと思って。それくらいすごく可能性も感じたんですよね。

それから週に何回も電話しながら、値段のつけ方とかを2人で話し合って。当時はコロナ禍で緊急事態宣言が出ていたこともあって、僕が1人でディスプレーして、その写真をジヨンに送って確認してもらったり、プレスリリースも作ったりして。そこから僕らがつながっている世界中のファッション好きの人たちが気に入って、結構SNSで拡散してくれて、広まっていった感じです。最初の販売はオンラインのみだったんですけど。初日で60〜70%ぐらい売れて。その後、日本のショールームを紹介して、毎シーズンパリでも展示会をやっていて、着実に人気を得ていっている感じです。

WWD:ブランドの立ち上げにも関わっていたんですね。その卒業制作作品では、今のテイストの服を作っていたんですか?

ジヨン:その時から今でも私の服の特徴にもなっている「サンフェード」っていう服を外に置いて自然に日焼けさせる加工方法はやっていました。最初に「グレイト」で販売した時って今よりも高かったんですよね。

Yoshi:全部高単価だったんですけど、ジヨンがやっていることを考えると、それくらいの値段をつけないとマイナスになっちゃうし、最初のコレクションだったので、それでも売れると思ってました。ラフ・シモンズじゃないですけど、歳月が経てば経つほど、すごく価値が付くと思ったので。

ジヨン:全部一点物だったし、「サンフェード」ってすごく時間がかかるので、その値段でも売れたのはうれしかったですね。

ビンテージ好きが買いたい服を作る

WWD:「サンフェード」の手法はいつごろから始めたんですか?

ジヨン:セント・マーチンズの卒業制作を準備する前からです。子供のころからファッションが好きで、特にビンテージが好きでした。日本でも文化(服装学院)に通ってる時にも、友達とよくビンテージショップに行ってました。でもセレクトショップなどに行った時に僕が買いたいと思う服があまりなくて。僕みたいなビンテージ好きが買いたいと思える服ってどんな服なのかって考えていたら、「サンフェード」という手法を思いついたんです。全て微妙に柄が変わるので一点物になるし、サステナブルで持続可能性があるのもいいなと思いました。

あと、僕がプリントがあまり好きじゃないんです。ロゴとかどんなブランドを着ているのか、相手が分かるのがあまり好きじゃなかったんですよね。それでビンテージが好きだったっていうのもあって、そういう趣向が今のブランドにつながったと思います。

WWD:「サンフェード」での日焼けの柄はある程度デザインできるんですか?

ジヨン:厳密にはできないですが、自分たちで想像しながらこういう風にやってみようみたいなのはあります。でも、天気も日々変わるので、思い通りにはいかなかったりして。でも、そういうランダムさも好きなんですよね。

WWD:日焼けというと、服にとってはマイナスなイメージがありますが、それをデザインとして活かすのはいいですね。

ジヨン:その発想の転換がやりたかったんです。ショーウインドウに飾ってあって日焼けした製品って売れなくなるじゃないですか。だから日焼けを美しいデザインとして提案できれば、新しい美学を作れるんじゃないかと思いました。

WWD:サステナブルへの意識はいつごろから?

ジヨン:もともとはサステナブルなファッションをやりたいとかは意識していなくて、自分が好きなのがビンテージの服だったり、素材だったので、自然とサステナブルな志向になっていきました。それでリサイクルされたポリエステルやアップサイクルした素材を使うようになりました。

毎シーズン新しいことに挑戦

WWD :Yoshiさんはジヨンさんの服に対して、どこに魅力を感じていますか?

Yoshi:セレクトショップのスタッフなので、もともとはそのシーズンのはやりのものとか、どっちかというと他の人が着ていないような奇抜なデザインの服を着ることが多かったんですけど、最近は落ち着いたものが好きになってきたりもして。そんな中で、ジヨンの服を見た時に、明らかに他の服と違いがあって、「サンフェード」もですが、色味だったり、素材だったり、パターンの取り方だったり、派手ではないんだけど、感覚として「すごい」って感じたんです。毎シーズン、ジヨンの新しい感覚に刺激を受けるので、そこが魅力ですね。あとはやっぱり、服を作る工程を見ているので、ジヨンの服にはストーリーが詰まっている。

WWD:ジヨンさんと出会って4年ほど経ち、変わったなと感じる部分は?

Yoshi:毎シーズン、コレクションを作っている時に連絡を取り合ってるんです。そこで売り上げの話もしていて、「今シーズンはこれが良かった」とか「これがちょっと動きが悪かった」とかも話すんです。それで、その意見をちゃんと次のシーズンに反映してくれていて。それこそ「サンフェード」が特徴ですけど、全部が「サンフェード」した商品だと単価も高くなってしまうし、時間もかかるから、それ以外のアイテムもあったらいいよねって言ったら、そういうアイテムを作ったりもしているし。そこのバランスの取り方だったりとか、毎シーズン、何かしらの進化を感じます。

WWD:今回のポップアップはどういう経緯でやることになったんですか?

ジヨン:私のブランドは基本的にはランウエイではなく、展示会でプレゼンテーションをやっているんです。韓国では6、7回ぐらいやっていて、結構大きな場所でやらせてもらっていて。そこでは服だけを見せるんじゃなくて、どんなふうに「サンフェード」しているのか、制作過程やインスピレーション源とかも見せているんです。それを韓国以外でもやってみたいと思ってました、最初はやっぱり「グレイト」でやりたいと思って、それでYoshiさんに相談したら、「ぜひやろう」っていうことになりました。

Yoshi:韓国だとすごく大きい場所を借りてやっていて、毎日多くの人が並んでいたり、BTSのような韓国のアーティストも来たりしているんです。そうした韓国での展示会を見ていたので、日本でもやりたいなと思っていたんですけど、なかなかタイミングが合わなくて、今回ようやくタイミングがあってやることになりました。

日本でやるにあたって、ファッション好きな人がデザイナーと触れられる機会を作れたらと思って、2日間店頭にも出てもらったんです。これをきっかけに「ジヨンキム」の制作過程とかを知ってもらうと、若い人たちの服作りの可能性も広がるかなと思って。

新しくウィメンズをスタート

WWD:そもそもジヨンさんが韓国のファッション学校ではなく、日本の文化服装学院を選んだ理由は?

ジヨン:ビンテージが好きで、高校生のころから日本のヤフオクとかで服を探して買っていたんです。日本には、アメリカやヨーロッパのビンテージがたくさん集まっているので、それで日本に行ったら、ビンテージショップにいっぱい行けるなと思って(笑)。

WWD:韓国には古着屋はあまりないんですか?

ジヨン:今はたくさんできてるんですけど、当時はあまりなくて。やっぱり日本の方がたくさんあります。

WWD:文化を卒業して、セントラル・セント・マーチンズに入学しますが、その経緯は?

ジヨン:文化は2年で卒業したんですけど、通ってる時はウィメンズの技術を中心にパターンや服の作り方をすごく勉強して。それでもっとデザインやクリエイティブなことやメンズをしっかりと学びたいと思って、セント・マーチンズに入学しました。それで大学を卒業後に大学院に入学したんですけど、大学在学中にCOVID-19になってしまって、大学院は韓国にいながらオンラインで勉強しつつ、自分のブランドもやって、忙しかったですね。

WWD:ブランドができて4年ほど経ちますが、手応えは感じていますか?

ジヨン:まだまだです。毎シーズン新しいことに挑戦したくて、23年秋冬から「サンフェード」をしていないデザインの服を増やしているんですけど、すごく評判がよくて。あと25年の秋冬シーズンからはウィメンズも始めたんです。

WWD:ウィメンズを始めたのは何かきっかけがあったんですか。

ジヨン:もともと文化に通っている時はウィメンズを学んでいたので、いつかやりたいとは思っていたんです。だから今シーズンのウィメンズはマーケティング的なことを考えずに本当に自分の作りたい服を作りました。自分にとっても新しい挑戦だったので、面白かったですね。でも、次のシーズンからは、もっと着てもらう人の感覚とかも考えながらデザインしていくと思います。

Yoshi:僕もそのウィメンズの展示会に行ったんですけど、リアルクローズでさらっと着る感じではなくて、ちょっとアート寄りの感じの服でした。一緒に行った友達はすごく気に入ってましたね。

ジヨン:自分的にメンズウエアは、ウエアラブルなことを意識して作っているんですが、ウィメンズだともっとクリエイティブなことができるんじゃないかなっていうのもあったんです。僕がやってるメンズウエアって、パンツにはパンツの、シャツにはシャツのルールがあって、そこを守って作っていたんですけど、ウィメンズはドレスだと「サンフェード」の見せ方もまた違ってきたり、もう少し自由に作れるかなと思って。

WWD:今後はメンズ、ウィメンズ両方やっていく?

ジヨン:やっていきたいですね。

WWD :メンズでも服のシルエットも変わったものがありますが、どう考えているんですか?

ジヨン:僕の場合は実際にハンドドレーピングしながらデザインを考えることが多くて。絵を描いて、パタンナーさんにお願いするのではなくて、自分でポケットとかシルエットとかまで組んでから、パタンナーさんと話しながら、もっといい服になるように、作っていく感じです。

WWD:今後のブランドのビジョンは?

ジヨン:今まで作ってきた価値をちゃんと守って、服作りを続けていきたい。あと、4月にはソウルに旗艦店を作るんです。それができると、そこでインストレーションしたり、もっといろんなことができると思うので、楽しみにしていてほしいです。

WWD:Yohiさんがジヨンさんに期待することは?

Yoshi:一番はこのブランドに集中して、ずっと継続してもらうことなんですけど、どこかビッグメゾンのデザイナーになることも期待しています。それぐらいの技術やアイデアは持っていると思うので。

WWD:ランウエイでの発表については?

ジヨン:ランウエイはやりたい気持ちはあるんですけど、自分のブランドの場合は展示会でしっかりとプレゼンテーションをして、じっくりと見てもらう方がストーリーも伝わるので、合っていると思います。でも、機会があればいつかはやってみたいですね。

「ジヨンキム」

「ジヨンキム(JIYONGKIM)」は、韓国出身デザイナージヨン・キム(Jiyong Kim)によるブランド。文化服装学院卒業後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins)を卒業。在学中に「ルメール(LEMAIRE)」やヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がデザイナーを務めていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」でインターンを務めた後、アシスタントデザイナーを経験。現状のファッション業界の生産サイクルに疑問を呈し、CSMの卒業コレクションは、ビンテージのベルベットや工場で余ったナイロン生地で構成。無駄のない自然エネルギーに着目し、水や化学薬品を使わずに日光で1〜3カ月ほど服を日焼けさせる「サンフェード」を使用し、サスティナブルに特化しながら全く新しいものを作り上げ、唯一無二のコレクションを発表している。
https://jiyongkim.net/

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韓国の新鋭ファッションブランド「ジヨンキム」の魅力とは? ジヨン・キム ×「グレイト」Yoshi

韓国出⾝デザイナーのジヨン・キムによるファッションブランド「ジヨンキム(JIYONGKIM)」。デザイナーのジヨン・キムは、日本の⽂化服装学院卒業後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins) を卒業。在学中に「ルメール(LEMAIRE)」やヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がデザイナーを務めていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」でインターンを務めた後、2021年春夏から自身のメンズブランドをスタートした。

同ブランドの特徴は、⽔や化学薬品を使わずに⽇光で1〜3カ月ほど服を⽇焼けさせる「サンフェード」を行うことでできる独特のデザインで、24年度「LVMH」プライズのセミファイナリストに選ばれるなど、今注目を集める若手デザイナーの一人だ。

3月にはセレクトショップ「グレイト(GR8)」 で、デザイナーのジヨン自らが監修を行ったポップアップを開催した。もともと「グレイト」のYoshi・スペシャルプロジェクトマネージャーとはブランド設立時から親交があったという。今回、ポップアップに合わせて来日したデザイナーのジヨンと「グレイト」Yoshiに、2人の出会いからブランドの成り立ちや特徴、そして最近スタートしたウィメンズについて語ってもらった。

ジヨンキム」創設時からの交流

WWD:Yoshiさんは創設時から「ジヨンキム」のファンだったそうですが、2人はいつごろ知り合ったんですか?

ジヨン・キム(以下、ジヨン):確か2021年ごろだったと思います。私のセントラル・セント・マーチンズの卒業制作をYoshiさんがインスタで見て、「オーダーしたい」と連絡がきたんです。最初は個人オーダーかなと思っていたんですけど、聞いたら「『グレイト』で販売したい」って言われて。当時はまだ学生だったので、値段のつけ方もよく分からなくて、Yoshiさんにいろいろと相談しながら、「グレイト」で販売してもらえることになったんです。

Yoshi:もともと「コマウェア(CMMAWEAR)」っていう韓国ブランドのデザイナーのギズモという2人の共通の友達がいて。彼から「この人やばいかも」っていうメッセージがきて、それがジヨンのインスタのアカウントだったんです。当時は自分の作った服をいっぱい投稿しているわけでもなく、学校の課題の制作過程とかを投稿していたくらいだったんですけど、その感じがめちゃめちゃ良くて。それで、「『グレイト』で販売したい」ってインスタのDMを送りました。

当時はジヨンから「まだ売ってない」って言われたんですけど、社長の久保(光博)に話して、「この人はすごくなるかもしれないから、ちょっとトライしたい」と話して。普通に考えたらセレクトショップの店員がブランドの立ち上げから関わることって多分ないと思うんですけど、チャレンジしたいなと思って。それくらいすごく可能性も感じたんですよね。

それから週に何回も電話しながら、値段のつけ方とかを2人で話し合って。当時はコロナ禍で緊急事態宣言が出ていたこともあって、僕が1人でディスプレーして、その写真をジヨンに送って確認してもらったり、プレスリリースも作ったりして。そこから僕らがつながっている世界中のファッション好きの人たちが気に入って、結構SNSで拡散してくれて、広まっていった感じです。最初の販売はオンラインのみだったんですけど。初日で60〜70%ぐらい売れて。その後、日本のショールームを紹介して、毎シーズンパリでも展示会をやっていて、着実に人気を得ていっている感じです。

WWD:ブランドの立ち上げにも関わっていたんですね。その卒業制作作品では、今のテイストの服を作っていたんですか?

ジヨン:その時から今でも私の服の特徴にもなっている「サンフェード」っていう服を外に置いて自然に日焼けさせる加工方法はやっていました。最初に「グレイト」で販売した時って今よりも高かったんですよね。

Yoshi:全部高単価だったんですけど、ジヨンがやっていることを考えると、それくらいの値段をつけないとマイナスになっちゃうし、最初のコレクションだったので、それでも売れると思ってました。ラフ・シモンズじゃないですけど、歳月が経てば経つほど、すごく価値が付くと思ったので。

ジヨン:全部一点物だったし、「サンフェード」ってすごく時間がかかるので、その値段でも売れたのはうれしかったですね。

ビンテージ好きが買いたい服を作る

WWD:「サンフェード」の手法はいつごろから始めたんですか?

ジヨン:セント・マーチンズの卒業制作を準備する前からです。子供のころからファッションが好きで、特にビンテージが好きでした。日本でも文化(服装学院)に通ってる時にも、友達とよくビンテージショップに行ってました。でもセレクトショップなどに行った時に僕が買いたいと思う服があまりなくて。僕みたいなビンテージ好きが買いたいと思える服ってどんな服なのかって考えていたら、「サンフェード」という手法を思いついたんです。全て微妙に柄が変わるので一点物になるし、サステナブルで持続可能性があるのもいいなと思いました。

あと、僕がプリントがあまり好きじゃないんです。ロゴとかどんなブランドを着ているのか、相手が分かるのがあまり好きじゃなかったんですよね。それでビンテージが好きだったっていうのもあって、そういう趣向が今のブランドにつながったと思います。

WWD:「サンフェード」での日焼けの柄はある程度デザインできるんですか?

ジヨン:厳密にはできないですが、自分たちで想像しながらこういう風にやってみようみたいなのはあります。でも、天気も日々変わるので、思い通りにはいかなかったりして。でも、そういうランダムさも好きなんですよね。

WWD:日焼けというと、服にとってはマイナスなイメージがありますが、それをデザインとして活かすのはいいですね。

ジヨン:その発想の転換がやりたかったんです。ショーウインドウに飾ってあって日焼けした製品って売れなくなるじゃないですか。だから日焼けを美しいデザインとして提案できれば、新しい美学を作れるんじゃないかと思いました。

WWD:サステナブルへの意識はいつごろから?

ジヨン:もともとはサステナブルなファッションをやりたいとかは意識していなくて、自分が好きなのがビンテージの服だったり、素材だったので、自然とサステナブルな志向になっていきました。それでリサイクルされたポリエステルやアップサイクルした素材を使うようになりました。

毎シーズン新しいことに挑戦

WWD :Yoshiさんはジヨンさんの服に対して、どこに魅力を感じていますか?

Yoshi:セレクトショップのスタッフなので、もともとはそのシーズンのはやりのものとか、どっちかというと他の人が着ていないような奇抜なデザインの服を着ることが多かったんですけど、最近は落ち着いたものが好きになってきたりもして。そんな中で、ジヨンの服を見た時に、明らかに他の服と違いがあって、「サンフェード」もですが、色味だったり、素材だったり、パターンの取り方だったり、派手ではないんだけど、感覚として「すごい」って感じたんです。毎シーズン、ジヨンの新しい感覚に刺激を受けるので、そこが魅力ですね。あとはやっぱり、服を作る工程を見ているので、ジヨンの服にはストーリーが詰まっている。

WWD:ジヨンさんと出会って4年ほど経ち、変わったなと感じる部分は?

Yoshi:毎シーズン、コレクションを作っている時に連絡を取り合ってるんです。そこで売り上げの話もしていて、「今シーズンはこれが良かった」とか「これがちょっと動きが悪かった」とかも話すんです。それで、その意見をちゃんと次のシーズンに反映してくれていて。それこそ「サンフェード」が特徴ですけど、全部が「サンフェード」した商品だと単価も高くなってしまうし、時間もかかるから、それ以外のアイテムもあったらいいよねって言ったら、そういうアイテムを作ったりもしているし。そこのバランスの取り方だったりとか、毎シーズン、何かしらの進化を感じます。

WWD:今回のポップアップはどういう経緯でやることになったんですか?

ジヨン:私のブランドは基本的にはランウエイではなく、展示会でプレゼンテーションをやっているんです。韓国では6、7回ぐらいやっていて、結構大きな場所でやらせてもらっていて。そこでは服だけを見せるんじゃなくて、どんなふうに「サンフェード」しているのか、制作過程やインスピレーション源とかも見せているんです。それを韓国以外でもやってみたいと思ってました、最初はやっぱり「グレイト」でやりたいと思って、それでYoshiさんに相談したら、「ぜひやろう」っていうことになりました。

Yoshi:韓国だとすごく大きい場所を借りてやっていて、毎日多くの人が並んでいたり、BTSのような韓国のアーティストも来たりしているんです。そうした韓国での展示会を見ていたので、日本でもやりたいなと思っていたんですけど、なかなかタイミングが合わなくて、今回ようやくタイミングがあってやることになりました。

日本でやるにあたって、ファッション好きな人がデザイナーと触れられる機会を作れたらと思って、2日間店頭にも出てもらったんです。これをきっかけに「ジヨンキム」の制作過程とかを知ってもらうと、若い人たちの服作りの可能性も広がるかなと思って。

新しくウィメンズをスタート

WWD:そもそもジヨンさんが韓国のファッション学校ではなく、日本の文化服装学院を選んだ理由は?

ジヨン:ビンテージが好きで、高校生のころから日本のヤフオクとかで服を探して買っていたんです。日本には、アメリカやヨーロッパのビンテージがたくさん集まっているので、それで日本に行ったら、ビンテージショップにいっぱい行けるなと思って(笑)。

WWD:韓国には古着屋はあまりないんですか?

ジヨン:今はたくさんできてるんですけど、当時はあまりなくて。やっぱり日本の方がたくさんあります。

WWD:文化を卒業して、セントラル・セント・マーチンズに入学しますが、その経緯は?

ジヨン:文化は2年で卒業したんですけど、通ってる時はウィメンズの技術を中心にパターンや服の作り方をすごく勉強して。それでもっとデザインやクリエイティブなことやメンズをしっかりと学びたいと思って、セント・マーチンズに入学しました。それで大学を卒業後に大学院に入学したんですけど、大学在学中にCOVID-19になってしまって、大学院は韓国にいながらオンラインで勉強しつつ、自分のブランドもやって、忙しかったですね。

WWD:ブランドができて4年ほど経ちますが、手応えは感じていますか?

ジヨン:まだまだです。毎シーズン新しいことに挑戦したくて、23年秋冬から「サンフェード」をしていないデザインの服を増やしているんですけど、すごく評判がよくて。あと25年の秋冬シーズンからはウィメンズも始めたんです。

WWD:ウィメンズを始めたのは何かきっかけがあったんですか。

ジヨン:もともと文化に通っている時はウィメンズを学んでいたので、いつかやりたいとは思っていたんです。だから今シーズンのウィメンズはマーケティング的なことを考えずに本当に自分の作りたい服を作りました。自分にとっても新しい挑戦だったので、面白かったですね。でも、次のシーズンからは、もっと着てもらう人の感覚とかも考えながらデザインしていくと思います。

Yoshi:僕もそのウィメンズの展示会に行ったんですけど、リアルクローズでさらっと着る感じではなくて、ちょっとアート寄りの感じの服でした。一緒に行った友達はすごく気に入ってましたね。

ジヨン:自分的にメンズウエアは、ウエアラブルなことを意識して作っているんですが、ウィメンズだともっとクリエイティブなことができるんじゃないかなっていうのもあったんです。僕がやってるメンズウエアって、パンツにはパンツの、シャツにはシャツのルールがあって、そこを守って作っていたんですけど、ウィメンズはドレスだと「サンフェード」の見せ方もまた違ってきたり、もう少し自由に作れるかなと思って。

WWD:今後はメンズ、ウィメンズ両方やっていく?

ジヨン:やっていきたいですね。

WWD :メンズでも服のシルエットも変わったものがありますが、どう考えているんですか?

ジヨン:僕の場合は実際にハンドドレーピングしながらデザインを考えることが多くて。絵を描いて、パタンナーさんにお願いするのではなくて、自分でポケットとかシルエットとかまで組んでから、パタンナーさんと話しながら、もっといい服になるように、作っていく感じです。

WWD:今後のブランドのビジョンは?

ジヨン:今まで作ってきた価値をちゃんと守って、服作りを続けていきたい。あと、4月にはソウルに旗艦店を作るんです。それができると、そこでインストレーションしたり、もっといろんなことができると思うので、楽しみにしていてほしいです。

WWD:Yohiさんがジヨンさんに期待することは?

Yoshi:一番はこのブランドに集中して、ずっと継続してもらうことなんですけど、どこかビッグメゾンのデザイナーになることも期待しています。それぐらいの技術やアイデアは持っていると思うので。

WWD:ランウエイでの発表については?

ジヨン:ランウエイはやりたい気持ちはあるんですけど、自分のブランドの場合は展示会でしっかりとプレゼンテーションをして、じっくりと見てもらう方がストーリーも伝わるので、合っていると思います。でも、機会があればいつかはやってみたいですね。

「ジヨンキム」

「ジヨンキム(JIYONGKIM)」は、韓国出身デザイナージヨン・キム(Jiyong Kim)によるブランド。文化服装学院卒業後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins)を卒業。在学中に「ルメール(LEMAIRE)」やヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がデザイナーを務めていた「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」でインターンを務めた後、アシスタントデザイナーを経験。現状のファッション業界の生産サイクルに疑問を呈し、CSMの卒業コレクションは、ビンテージのベルベットや工場で余ったナイロン生地で構成。無駄のない自然エネルギーに着目し、水や化学薬品を使わずに日光で1〜3カ月ほど服を日焼けさせる「サンフェード」を使用し、サスティナブルに特化しながら全く新しいものを作り上げ、唯一無二のコレクションを発表している。
https://jiyongkim.net/

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「デニム生地生産量日本一」の新リーダーが同業他社や異業種、行政と連携して目指す「市民の認知度100%」

PROFILE: 篠原由起/篠原テキスタイル代表取締役社長

篠原由起/篠原テキスタイル代表取締役社長
PROFILE: 1907年創業のデニム生地機屋「篠原テキスタイル」の5代目。大阪工業大学卒業後大正紡績に入社。紡績の製造現場、商品開発室、営業を経て、2012年に篠原テキスタイル入社。新規事業開発リーダーとしてデニム産地内同業他社、異業種、行政、教育機関との連携を深め、デニム産地の発展に取り組む。19年デニム製造工程で発生する残糸やBC反を活用したアップサイクルブランド「シノテックス」を立ち上げる。22年社長に就任。海外展示会への出展や国内他産地とのコラボ素材の開発、デニム・ジーンズの製造工場を回る工場見学ツアーの企画や若手デザイナーの支援を積極的に行う

日本一のデニム生地生産量を誇る広島県福山市。古くから繊維産業が盛んで備後産地として栄えてきたがその認知度は低い。産地継続の危機が叫ばれて久しいが近年、産地をブランディングして産地観光を目指す取り組みが増えている。福山市でも篠原テキスタイルの篠原由起社長がその認知度を高めてシビックプライドを醸成しようと同業他社や異業種、行政と協働しながら産地をけん引する。

篠原テキスタイルは日本三大絣のひとつ「備後絣」の生産から始まり今年で創業118年目。15年前から自社で生地展開をはじめ、旧式のシャトル織機や最新のエアージェット織機を活用してさまざまな風合いのデニム生地を生産する。現在の月産量は2500反(12万5000m)。ラグジュアリーブランドから国内のデザイナーズやデニムブランドに生地を供給する。篠原社長に現在の取り組みと未来の展望を聞く。

WWD:篠原テキスタイルの強味は?

篠原由起社長(以下、篠原):生地の自社展開を始めて15年。生地メーカーとしては後発だったので、アジアの量産型工場が作らないような織りにくいものを織って価値をつくることを目指した。これまで織っていた人工セルロースの「テンセル」に加えて、経糸と緯糸の番手や素材を変えて風合い豊かな生地をつくっている。また、カシミヤやシルクのネップ糸など従来デニムに使われていなかった糸を用いたデニム生地を提案している。特にラグジュアリーブランドから評判が良く、「なんじゃこりゃ」「これはデニムなのか」という触り心地の生地を提案している。

WWD:織りにくい生地を織るのは熟練技が必要だ。どのように技術をつなげているのか。

篠原:当社もちょうど技術を引き継ぐタイミングにある。これまで「見て覚える」「手を動かしてみる」といった感覚的な方法で技術を継承してきたが、動画を撮影してマニュアル化しているところだ。中学卒業後に入社して現在74歳のベテランスタッフが機械を動かす様子や機械のメンテナンスや改造の方法を記録している。現場の技術は日々進化するし、改善が必要になってきているので技術のマニュアル化は必須だ。

WWD:自社の生産工程から生まれる残糸や端材を用いて靴下や手袋、ニットキャップやバブーシュやハンドバッグなどを提案する「シノテックス(SINOTEX)」ブランドを19年に始動した。

篠原:例えば靴下の編立は福山の老舗ニットメーカーに依頼するなど、地元企業と協働することで福山市にさまざまな技術が集積していることを訴求している。人と人がつながり、企業と企業がつながることで新たな価値を生み出したい。自社ECサイトや地元の百貨店、福山や広島の雑貨店などに卸していて、お土産的に販売している。

WWD:残糸や端材の活用以外でのサステナビリティの取り組みと成果は?

篠原:定番のデニム生地をアメリカ産のリジェネラティブコットン糸(環境再生型農業で栽培された綿糸)に変えた。欧州基準で戦うために現在GOTS認証を申請中だ。リサイクルポリエステル糸を用いたデニム生地の開発にも力を入れているが、先日出展した欧州の素材見本市では反応がいまいちで、強味の「テンセル」、カシミヤやシルクなどセルロース系繊維の反応が良かった。

工場の省エネ化も進めており、LEDへの切り替えや太陽光パネルの設置、省エネタイプの機械への切り替えなどで電気使用量は2018年に比べて約30%削減できた。近年特に電気料金も上がってきているのでコストにも効いている。

WWD:異業種・行政・教育機関との連携について、何を目指しどのように連携しているのか。

篠原:目的は福山市がデニムの町だという認知度を高めること。現在の市民の認知度は42.6%で、タオルで知られる今治ならばほぼ100%だろう。認知度を上げるために大学や高校に出向きデニムについて伝えたり小学校の工場見学を受け入れたりしている。結果は10~20年後になるが、地道な活動を重ねることで就職先の選択肢にデニム産業を残したいと考えている。こうした活動を続けると地元でマルシェに出店すると「デニム屋さんだ」となり、やり続けることでデニムファンを増やせていると感じる。

行政とは福山市が「備中備後はデニムの産地」をPRするために16年に始動した「備中備後ジャパンデニムプロジェクト」を軸に、福山の企業の成長や人材確保の取り組みを支援するための「グリーンな企業プラットフォーム事業」に参画したり、福山市と一緒に一般家庭のジーンズの回収リサイクルプロジェクトを行ったりしている。市役所や商業施設、ガソリンスタンドや銀行など市内6カ所で回収したジーンズを反毛(はんもう)して新たな生地にしてバッグにしたりしている。企業から声がかかり、「ネームプレートにしたい」という話もある。

WWD:回収から再生産する事業は手間がかかり事業として成立させるには難易度が高そうだが。

篠原:部分使いであればコストに見合う。例えば企業の制服の一部に使用し回収の取り組みに賛同してもらうなど、デニムを福山市内で循環させることで、地元での認知を高めることが目的にある。回収拠点が町中にあることで福山市がデニムの町であることを訴求できる。また「つくる責任、つかう責任、回収も日本一」になれば、一般の方にもデニムの町だという認知が広がるのではないか。

WWD:工場見学について、地元小学校の受け入れだけでなく多くの事業者も受け入れている。

篠原:バイヤーさんを対象とした工場見学ツアーは昨年30~40回ほど実施した。またスノーピークが日本各地のものづくりや文化を継承することを目的に始めた「ローカル ウエア ツーリズム」とも協働している。

WWD:2023年のG7広島サミットの「サミットバッグ」に採用された。

篠原:広島県織物工業会が製作した。企画はディスカバーリンクせとうち、染色は坂本デニム、撚糸は備後撚糸、織りは当社に加えてカイハラと中国紡績織が行い、縫製は大江被服とC2が手掛けた。福山は市内で生地から製品まで作ることができる。そのほか、福山市内に6軒の医療施設を運営する医療法人徹慈会と制服づくりも始めている。当社とカイハラが素材提供をして縫製はC2が手掛ける予定だ。

また、産婦人科から退院のお祝いに提供するマザーズバッグをデニムでつくりたいという要望があるなど、今まで声がかからなかったところからも依頼があり、地道な活動の成果が見えてきている。

WWD:現在の課題は?

篠原:福山市でデニムを盛り上げるための連携はあるが、サプライチェーン全体の足並みをそろえるのが難しいとも感じている。福山市は素材や技術の町で製品ブランドが少なく、一般の人への訴求が難しい。そんな中で小売店との協働は直接生活者に届けられる一つの方法だと感じている。例えば、松屋銀座が日本のものづくりを紹介する「東京クリエイティブサロン」で紹介いただいたり、広島市拠点のセレクトショップで東京にも店舗を持つアクセが産地デニムブランド「ジャパンデニム」を立ち上げ、販売していただいたり。ただ、地元福山でも盛り上がりを作りたいので、BtoB向けの事業者が多い中でどのような仕組みにするのかを地元の地域商社などと検討しているところだ。

WWD:地域として目指すところは?

篠原:地域指名で来てくれる人が増えること。例えばシャンパーニュのシャンパン、今治のタオルといったように、業界内はもちろん一般での認知度を上げたい。

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「デニム生地生産量日本一」の新リーダーが同業他社や異業種、行政と連携して目指す「市民の認知度100%」

PROFILE: 篠原由起/篠原テキスタイル代表取締役社長

篠原由起/篠原テキスタイル代表取締役社長
PROFILE: 1907年創業のデニム生地機屋「篠原テキスタイル」の5代目。大阪工業大学卒業後大正紡績に入社。紡績の製造現場、商品開発室、営業を経て、2012年に篠原テキスタイル入社。新規事業開発リーダーとしてデニム産地内同業他社、異業種、行政、教育機関との連携を深め、デニム産地の発展に取り組む。19年デニム製造工程で発生する残糸やBC反を活用したアップサイクルブランド「シノテックス」を立ち上げる。22年社長に就任。海外展示会への出展や国内他産地とのコラボ素材の開発、デニム・ジーンズの製造工場を回る工場見学ツアーの企画や若手デザイナーの支援を積極的に行う

日本一のデニム生地生産量を誇る広島県福山市。古くから繊維産業が盛んで備後産地として栄えてきたがその認知度は低い。産地継続の危機が叫ばれて久しいが近年、産地をブランディングして産地観光を目指す取り組みが増えている。福山市でも篠原テキスタイルの篠原由起社長がその認知度を高めてシビックプライドを醸成しようと同業他社や異業種、行政と協働しながら産地をけん引する。

篠原テキスタイルは日本三大絣のひとつ「備後絣」の生産から始まり今年で創業118年目。15年前から自社で生地展開をはじめ、旧式のシャトル織機や最新のエアージェット織機を活用してさまざまな風合いのデニム生地を生産する。現在の月産量は2500反(12万5000m)。ラグジュアリーブランドから国内のデザイナーズやデニムブランドに生地を供給する。篠原社長に現在の取り組みと未来の展望を聞く。

WWD:篠原テキスタイルの強味は?

篠原由起社長(以下、篠原):生地の自社展開を始めて15年。生地メーカーとしては後発だったので、アジアの量産型工場が作らないような織りにくいものを織って価値をつくることを目指した。これまで織っていた人工セルロースの「テンセル」に加えて、経糸と緯糸の番手や素材を変えて風合い豊かな生地をつくっている。また、カシミヤやシルクのネップ糸など従来デニムに使われていなかった糸を用いたデニム生地を提案している。特にラグジュアリーブランドから評判が良く、「なんじゃこりゃ」「これはデニムなのか」という触り心地の生地を提案している。

WWD:織りにくい生地を織るのは熟練技が必要だ。どのように技術をつなげているのか。

篠原:当社もちょうど技術を引き継ぐタイミングにある。これまで「見て覚える」「手を動かしてみる」といった感覚的な方法で技術を継承してきたが、動画を撮影してマニュアル化しているところだ。中学卒業後に入社して現在74歳のベテランスタッフが機械を動かす様子や機械のメンテナンスや改造の方法を記録している。現場の技術は日々進化するし、改善が必要になってきているので技術のマニュアル化は必須だ。

WWD:自社の生産工程から生まれる残糸や端材を用いて靴下や手袋、ニットキャップやバブーシュやハンドバッグなどを提案する「シノテックス(SINOTEX)」ブランドを19年に始動した。

篠原:例えば靴下の編立は福山の老舗ニットメーカーに依頼するなど、地元企業と協働することで福山市にさまざまな技術が集積していることを訴求している。人と人がつながり、企業と企業がつながることで新たな価値を生み出したい。自社ECサイトや地元の百貨店、福山や広島の雑貨店などに卸していて、お土産的に販売している。

WWD:残糸や端材の活用以外でのサステナビリティの取り組みと成果は?

篠原:定番のデニム生地をアメリカ産のリジェネラティブコットン糸(環境再生型農業で栽培された綿糸)に変えた。欧州基準で戦うために現在GOTS認証を申請中だ。リサイクルポリエステル糸を用いたデニム生地の開発にも力を入れているが、先日出展した欧州の素材見本市では反応がいまいちで、強味の「テンセル」、カシミヤやシルクなどセルロース系繊維の反応が良かった。

工場の省エネ化も進めており、LEDへの切り替えや太陽光パネルの設置、省エネタイプの機械への切り替えなどで電気使用量は2018年に比べて約30%削減できた。近年特に電気料金も上がってきているのでコストにも効いている。

WWD:異業種・行政・教育機関との連携について、何を目指しどのように連携しているのか。

篠原:目的は福山市がデニムの町だという認知度を高めること。現在の市民の認知度は42.6%で、タオルで知られる今治ならばほぼ100%だろう。認知度を上げるために大学や高校に出向きデニムについて伝えたり小学校の工場見学を受け入れたりしている。結果は10~20年後になるが、地道な活動を重ねることで就職先の選択肢にデニム産業を残したいと考えている。こうした活動を続けると地元でマルシェに出店すると「デニム屋さんだ」となり、やり続けることでデニムファンを増やせていると感じる。

行政とは福山市が「備中備後はデニムの産地」をPRするために16年に始動した「備中備後ジャパンデニムプロジェクト」を軸に、福山の企業の成長や人材確保の取り組みを支援するための「グリーンな企業プラットフォーム事業」に参画したり、福山市と一緒に一般家庭のジーンズの回収リサイクルプロジェクトを行ったりしている。市役所や商業施設、ガソリンスタンドや銀行など市内6カ所で回収したジーンズを反毛(はんもう)して新たな生地にしてバッグにしたりしている。企業から声がかかり、「ネームプレートにしたい」という話もある。

WWD:回収から再生産する事業は手間がかかり事業として成立させるには難易度が高そうだが。

篠原:部分使いであればコストに見合う。例えば企業の制服の一部に使用し回収の取り組みに賛同してもらうなど、デニムを福山市内で循環させることで、地元での認知を高めることが目的にある。回収拠点が町中にあることで福山市がデニムの町であることを訴求できる。また「つくる責任、つかう責任、回収も日本一」になれば、一般の方にもデニムの町だという認知が広がるのではないか。

WWD:工場見学について、地元小学校の受け入れだけでなく多くの事業者も受け入れている。

篠原:バイヤーさんを対象とした工場見学ツアーは昨年30~40回ほど実施した。またスノーピークが日本各地のものづくりや文化を継承することを目的に始めた「ローカル ウエア ツーリズム」とも協働している。

WWD:2023年のG7広島サミットの「サミットバッグ」に採用された。

篠原:広島県織物工業会が製作した。企画はディスカバーリンクせとうち、染色は坂本デニム、撚糸は備後撚糸、織りは当社に加えてカイハラと中国紡績織が行い、縫製は大江被服とC2が手掛けた。福山は市内で生地から製品まで作ることができる。そのほか、福山市内に6軒の医療施設を運営する医療法人徹慈会と制服づくりも始めている。当社とカイハラが素材提供をして縫製はC2が手掛ける予定だ。

また、産婦人科から退院のお祝いに提供するマザーズバッグをデニムでつくりたいという要望があるなど、今まで声がかからなかったところからも依頼があり、地道な活動の成果が見えてきている。

WWD:現在の課題は?

篠原:福山市でデニムを盛り上げるための連携はあるが、サプライチェーン全体の足並みをそろえるのが難しいとも感じている。福山市は素材や技術の町で製品ブランドが少なく、一般の人への訴求が難しい。そんな中で小売店との協働は直接生活者に届けられる一つの方法だと感じている。例えば、松屋銀座が日本のものづくりを紹介する「東京クリエイティブサロン」で紹介いただいたり、広島市拠点のセレクトショップで東京にも店舗を持つアクセが産地デニムブランド「ジャパンデニム」を立ち上げ、販売していただいたり。ただ、地元福山でも盛り上がりを作りたいので、BtoB向けの事業者が多い中でどのような仕組みにするのかを地元の地域商社などと検討しているところだ。

WWD:地域として目指すところは?

篠原:地域指名で来てくれる人が増えること。例えばシャンパーニュのシャンパン、今治のタオルといったように、業界内はもちろん一般での認知度を上げたい。

The post 「デニム生地生産量日本一」の新リーダーが同業他社や異業種、行政と連携して目指す「市民の認知度100%」 appeared first on WWDJAPAN.

ポン・ジュノ監督が映画「ミッキー17」で描きたかったこととは? 「この映画はラブストーリーだ」

映画「パラサイト 半地下の家族」から約5年、待望の最新作「ミッキー17」を携えてポン・ジュノ監督とプロデューサーのチェ・ドゥホが来日した。エドワード・アシュトンの小説「ミッキー7」をポン・ジュノが脚色・監督した「ミッキー17」は、ヒューマンプリンティング(人体複製)により何度でも生まれ変われる“使い捨ての労働者”となった青年ミッキー(ロバート・パティンソン)が主人公。人間が宇宙船で入植した惑星を舞台に、17体目のミッキーと手違いで複製された18体目との出会いによって生じる騒動や、先住生物として登場するクリーチャーとの関係などを、VFXを駆使して描く超大作だ。ポン・ジュノと、彼の英語作品(「スノーピアサー」「オクジャ」「ミッキー17」)のプロデューサーを務めてきたチェ・ドゥホへのインタビューから、「ミッキー17」で彼らが試みたこと、そして世界が認めた天才映画作家、ポン・ジュノの現在地を探る。
※記事内にはエンディングに関する記述が含まれています。

タブーである“ヒューマンプリンティング”に惹かれた

「パラサイト 半地下の家族」(2019)がパルムドール(カンヌ国際映画祭)とオスカー(アカデミー賞)を獲得し、ポン・ジュノは名実ともに世界最高峰の映画監督となった。その成功を、ポン・ジュノはどう受け止めていたのだろうか? プレッシャーだったのか、創作の自由を手に入れた喜びなのか。2011年からポン・ジュノと仕事をしてきたチェ・ドゥホの見立てとは。

チェ・ドゥホ(以下、チェ):ポン監督は自身のフィルムメーカーとしての道筋を自分で考えながら、一歩一歩進んでここまで来ています。私から見ても、「スノーピアサー」と「オクジャ」の体験から彼はフィルムメーカーとして学び、変化しました。その結果、韓国を舞台にしながらも普遍性をもった「パラサイト」を作ることができたのだと思います。「ミッキー17」に取り組む上で、「パラサイト」の成功が生み出した大きな影は確かにありましたが、監督は「『パラサイト』の成功に見合う作品を作るにはどうしたらいいのだろう?」と考えるようなタイプではまったくありません。彼はとにかく仕事が好きなので、制作会社Plan Bを通じてワーナーから提案された原作を気に入り、それを映像化することに取りつかれていました。

そう、「ミッキー17」はポン・ジュノにとって初となる、自身のオリジナル脚本でもなければ自身で見つけてきた原作の映画化でもない、外部から与えられた題材の映画化なのだ。本作の主人公ミッキーは、借金取りから逃れるために、植民地となる惑星での過酷な「エクスペンダブルズ(使い捨て)」職に応募する。到着した惑星で、研究室のラットのように扱われるとはつゆ知らず。

ポン・ジュノ(以下、ポン):この原作のストーリーやコンセプトの中で私を最も惹きつけた要因は、絶対的なタブーである“ヒューマンプリンティング=人体複製”です。本来個人個人が尊重されるべき存在である人間が複製されるなんてことは決してあってはいけないのに、紙1枚の人間が何度もプリントされる場面を頭の中で想像していると、悲しくもあり面白おかしくもありました。原作の主人公は歴史学者、つまり知識人でしたが、映画では善良でふびんな労働者に変更しました。そんな彼が書類のように出力される職業に就くという設定そのものが、私の想像力を無限に刺激しました。

ヒューマンプリンティングにより、ミッキーは過酷な任務で命を落としても、ボタン1つで繰り返し生まれ変わる。ポン・ジュノの作品は極上のエンターテインメントでありながら、大きな括りでいうところの“人権”に関する問題提起を内包してきた。今回の主人公の属性の改変も、現代社会が抱える労働問題へのアンチテーゼだと感じた。

ポン:私の好みの問題です。無能で善良なミッキーは、1カ月の間に2回くらい同じ人に詐欺に遭って損をしてしまいそうな人物です。実際に友人のティモ(スティーブン・ユァン)に何度も利用されたことが原因で、このような状況に陥ってしまうわけですし。このように少し抜けたところのある彼がヒューマンプリントされることで、より多くのドラマが生まれるのではないかと思いましたし、私の中にミッキーをふびんに思う気持ち、同情心のようなものが生まれたのです。

「ポン監督は最初からはっきりとビジョンが見えている」

「ミッキー17」でチャレンジしたことを尋ねると、チェは「ポン監督と仕事をするときは、チャレンジという考え方をしないようにしています。彼は毎回『次はもっと(規模の)小さい映画にするから』と言いながら、いざ渡された脚本を読むと『……大きくなってるじゃないか!』の繰り返しなのです。パニックにならないように、平常心を保つようにしています」と笑う。

チェ:プロデューサーとブレストすることで自分が何をやりたいのかが見えてくる監督もいますが、ポン監督には最初からはっきりとビジョンが見えています。ただ、それをそのまま実現することが不可能だったりはします(笑)。プロデューサーとしての私の仕事は、彼がたくさんの最高のおもちゃと遊びながら映画を作れるように、ベストな状況を提供することです。とはいえ金銭的にやれることには限界があります。監督には3つやりたいことがあるけれど、どう考えても1つしか実現できないとなったときに、私はポン監督がやりたいことをちゃんと理解できているので、「3つは実現できないが、Aが一番大事だと思うのでそれをやりつつ、BとCの要素をどうストーリーの中にフィットしていくのか」という話し合いをします。

ポン・ジュノとチェ・ドゥホは2022年5月にロンドンに入り、8月から12月までロンドン北部にあるワーナーのリーブスデン・スタジオで撮影を行った。惑星の先住生物“クリーパー”を筆頭に、17体目のミッキーが死んでいないのに手違いでリプリントされてしまった18体目のミッキーと共演するシーンなど、本作ではVFXが重要な要素となっている。

チェ:私がポン監督ととても良いコラボレーションができているのは、彼が制作費の事情をおもんぱかってくれる映像作家だからだと思います。「グエムル-漢江の怪物-」で「クリーチャーを見せるために100カットしか撮れない」となったときに、彼は「であればここは音でクリーチャーを表現する」と工夫しました。監督はよく「制限や限界があるからこそよりクリエイティブなアイデアや、問題を解決するためのソリューションが出てくる」と言いますが、彼のそのプロセスには非常に興味深いものがあります。

「ミッキー7」を「ミッキー17」にした理由

労働者階級がヒエラルキーから抜け出せない過酷な現実を描いているとも読み取れる本作は、「パラサイト」までのポン・ジュノの作風にならうならば、ダークなトーンで描かれていてもおかしくない。ところが本作は過去作に比べると比較的映像が明るくカラフルで、俳優の演技もコミカルに寄せている。

ポン:クリーチャーが登場する惑星が雪原なので、映像がダークではないという印象を持たれたかもしれませんが、それ以上に全体的に、登場人物の中にある情緒がそのような印象を与えたのではないかと思います。前作までは、過酷な状況に置かれた人物たちが、最後には破滅の道に進んでしまい、暗い結末を迎えることが多かったと思います。この作品において暗くてダークで残酷なのはミッキーを取り巻く環境であって、その真っただ中にいるミッキーは最後まで破壊されることなくエンディングを迎えます。それは私の望みでもありました。彼が破壊されなかったのは、ナーシャ(ナオミ・アッキー)との愛があったからだったと思います。あえて言うと、私はこの映画をラブストーリーだと考えています。だからこの映画が少し明るく感じられるのではないでしょうか。

「監督にとって初めてのラブストーリーですね」と確認すると、日本語で「本当に初めてです」と言って我々を笑わせた。再び韓国語に戻り、ラブストーリーへの思いを少しだけ言い足した。

ポン:この映画は、小説から本当に多くの改変をしました。小説にはいない登場人物もいますし、新たに書き加えられた登場人物もいます。ディテールも多く変わっています。でも原作のチャプター18か19で、ミッキーとナーシャの胸が締めつけられるような愛の描写があったんです。このチャプターはぜひ映画に取り込みたいと思って書きました。原作者もそこの部分を見てとても喜んでくださいました。ただ、ラブストーリーはこれが最初で最後になりそうです(笑)。

改変といえば、原作の「ミッキー7」では、7体目のミッキーと8体目のミッキーが対峙する。ポンはそれを「ミッキー17」に“増殖”させた。チェは「監督が『死ぬシーンをたくさん見たい』と言って増やしました」と、とあるインタビューで冗談めかして答えていたが。

ポン:ハハハハハ!(笑)。ミッキーの職業は死ぬことです。職業というのはルーティーンなので、繰り返されることによってその職業の醍醐味が生まれます。「ミッキー37」や「ミッキー50」にすることもできましたが、いくつかの理由によって数は抑えました。ミッキー17からミッキー18へと変わっていくタイミングを描いたのは、日本でも同じかどうか分かりませんが、韓国では18歳というのは成人に切り替わる年齢でもあるからです。18という数字が持つニュアンスを生かしたいという気持ちもありました。

ポン・ジュノの作家性や独自性とは?

「ミッキー17」はポン・ジュノのフィルモグラフィーにおいて、言語、俳優、キャラクター、文化など、韓国の要素を一切含まない初めての作品となった。これは一つのミッションだったのか、それともネクストステージに進んだのか。

ポン:あえてそうしたというよりも、ストーリー上の理由でそうなりました。本作は宇宙の植民地への移住やヒューマンプリンティングが描かれた物語です。この世界では民族や国籍というものがあまり意味をもたないので、韓国だけでなく全ての人種性や国籍性というものをキャラクターから意図的に消しました。ここで使われている英語のアクセントは、アメリカ式やイギリス式などがないまぜになったものです。主人公がどこの国から来ているのかも明示はしていません。そうすることで人間の本質を描くことに集中したいと思ったのです。

チェ:ご指摘のとおり「ミッキー17」はポン監督にとって、韓国のカルチャーに一切のルーツをもたない初めての作品です。でも実は、「ミッキー17」において監督と私が絶対にやりたいこととして、「スノーピアサー」に出演したスティーブン・パクと「オクジャ」に出演したスティーブン・ユァン、つまり「2人のスティーブンを同じカットに収めること」がありました。スティーブン・パクはアメリカの映画界で韓国系アメリカ人としての道を切り開いたパイオニアであり、スティーブン・ユァンは次世代でもっとも活躍している俳優です。ですので、ガッツリ芝居をさせるというよりは、同じシーンで歩いている2人がフレームの中にさりげなく収まるというカットを撮ることが重要であり、ポン監督の夢だったのです。

作劇においては韓国文化を消しながら、アメリカで活躍する韓国系アメリカ人俳優へのリスペクトを込めたワンカットを忍ばせる。この粋な遊び心を共有するチェが思う、ポン・ジュノの作家性や独自性とは。

チェ:彼にはちょっと「変態的(perversion)」なところがあり、人生や世界の見方が普通の人とは違うのです。数日前にロサンゼルスで俳優組合のイベントがあり、我々の映画が上映されました。モデレーターのエイヴァ・デュヴァーネイ監督がポン監督に「あなたは監督として勇敢だ」と言っていました。私はそれを聞いて「なるほどな」と。彼がアーティストとして何も恐れていないのは、最初から全てがクリアに見えているからなのです。見えているものを撮影し、編集などのポストプロダクションでさらに極めていきます。彫刻を丁寧に削っていくように。恐れがないから、普通の監督だったらハリウッドの大きなスタジオの映画ではやらないようなとんでもないこともやってのけてしまう。そこがポン・ジュノ監督らしさであり、私や彼のファンは彼のそういうところを愛しているのです。

最後に、フィルムメーカーとして、今までで一番うれしかったことをポン監督に質問すると、「たくさんありますねえ〜」と数秒間考えてから、「ミッキー17」の写真集を手に取り、惑星の場面が映った写真を見せながら語り始めた。

ポン:雪原のシーンはイギリス北部のカディントンという場所に作ったセットで、塩を地面に敷き詰めて撮っています。格納庫のような場所だったので、実際にものすごく寒く、ロバート・パティンソンやマーク・ラファロの口から出ている白い息はCGではなく本物です。ある日この場所にケータリングでフードトラックが来てくれて、イギリスで有名なトーストおじさんが作るトーストを食べました。それがものすごくおいしくて、今でも忘れられません。残念ながら、あれから一度もあのトーストを食べる機会がないのです。アメリカ、韓国、日本、どこにもない。イギリスでしか食べられないものなのかもしれません。あのトーストに出会えたことがこの仕事をしていて一番うれしかったことかもしれません。(オスカーやパルムドールよりも?)もちろんそれもうれしかったですよ。もしかしたら私は今、お腹が空いているのかもしれません(笑)。

「ミッキー17」

■「ミッキー17」
⼈⽣失敗だらけの男“ミッキー”が⼿に⼊れたのは、何度でも⽣まれ変われる夢の仕事、のはずが――⁉ それは⾝勝⼿な権⼒者たちの過酷すぎる業務命令で次々と死んでは⽣き返る任務、まさに究極の“死にゲー”だった︕ ブラック企業のどん底で搾取されるミッキーの前にある⽇、⼿違いで⾃分のコピーが同時に現れ、事態は⼀変。使い捨てワーカー代表ミッキーの、予想を超える逆襲がはじまる︕

全国公開中
監督・脚本:ポン・ジュノ(「パラサイト 半地下の家族」)
出演:ロバート・パティンソン、ナオミ・アッキー、スティーブン・ユァン、トニ・コレット、マーク・ラファロ
配給:ワーナー・ブラザース映画 
© 2025 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.
https://wwws.warnerbros.co.jp/mickey17/index.html

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三枝こころが導くゴルフブランド「ジュン アンド ロペ」原点回帰 着倒したから言える「これじゃ売れないよ」

ジュンは、ブランド設立15周年を迎えたゴルフウエアブランド「ジュン アンド ロペ(JUN & ROPE)」のディレクターに、モデルの三枝こころを起用した。同ブランドは2024年秋に、メンズで上質&ベーシックを打ち出す新ライン“ノワール”を立ち上げたが、改めて主軸であるウィメンズにも注力。三枝ディレクターはレギュラー77の好記録を持つアマチュアゴルファーであり、クローゼットの中は日常着よりもゴルフウエアの方が多いというほど、ウエアにもこだわりを持っている。これまでは同ブランドのトップアンバサダーを務めてきたが、今後はディレクターとして商品開発により深く携わる。ゴルフ好きとしても知られる佐々木進ジュン社長と三枝ディレクターに、話を聞いた。

WWDJAPAN(以下、WWD):ジュンとして、「ジュン アンド ロペ」を含むゴルフブランド事業は近年どのような状況か。

佐々木進ジュン社長(以下、佐々木):コロナ禍中のゴルフブームで若いゴルファーは急激に増え、ゴルフマーケットでは新規ブランドも多数生まれた。ただ、コロナが明けてレジャーの選択肢が増えた中では、ゴルフ人気はひと段落している。しかし、中高年をはじめとしたコロナ以前からのファンの間では、ゴルフ人気は根強い。そのような、成熟したライフスタイルを送っている方たちに向き合い、ゴルフ業界をしっかり成長させていく。それが当社の役割であると再認識している。

WWD:三枝さんをディレクターに起用した理由は?

佐々木:「ジュン アンド ロペ」では近年はメンズで“ノワール”を立ち上げるなど、メンズも拡充してきた。ただし、もともとはウィメンズから始まったブランドであり、改めてウィメンズにも注力し、再成長を図る。三枝さんはプライベートでも「ジュン アンド ロペ」のウエアを愛用し、着倒していただいている。実際に着た感想やゴルフ仲間からの反響を、良い点も悪い点も事業部にどんどんフィードバックしてくださっている。ブランドを再成長させるためにどうしたらいいか、事業部としては悩んだ部分もあったが、三枝さんから「『ジュン アンド ロペ』は上品で、おしゃれなかわいらしさとスポーツウエアとしてのバランス感が最大の魅力。そこを突き詰めるべき」というコメントをいただいて、改めて自信を持った。事業部を長くやっていると、ブランド本来の良さが分からなくなってしまうこともある。そんなときに、ブランド元来の魅力を思い出すきっかけをいただいた。事業部のメンバー以上に、ブランドの魅力を俯瞰で理解していただいている。そこが三枝さん起用の最大の決め手だ。

「攻めているけど
上品さもある」

WWD:三枝さんと「ジュン アンド ロペ」との出合いは。

三枝こころ「ジュン アンド ロペ」ディレクター(以下三枝):9年間アンバサダーを務めてきた。展示会に初めてお邪魔したのは15年の秋のこと。当時はまだゴルフウエアというとスポーツブランドのイメージが強く、一般アパレルのようなかわいいウエアはあまりなかった。その中で「ジュン アンド ロペ」は、色使いやグラフィックもスポーティーすぎず、攻めているけれど上品さもあって、こんなブランドがあるのかと衝撃を受けた。ピンクという色1つをとっても、ただのピンクではなく絶妙なピンク。しかも機能性もしっかりしており、他にはないゴルフウエアだなと愛用してきた。

コロナ禍のゴルフブームの少し前にも、「#ゴルフ女子」としてインスタグラムでかわいいウエアを着こなす女性ゴルファーに注目が集まった時代があった。「#ゴルフ女子」ブームやコロナ禍のゴルフブームの中で、ブランドアンバサダーを務めさせていただき、ゴルフ本を出版し、ゴルフにフォーカスした自身のyoutubeチャンネルを立ち上げて何百本と動画を出し、女子向けゴルフイベントをやらせてもらった際は何度も満員御礼を出すなど、ゴルフで“魅せる”ことはやり切ってきた自負がある。この9年の間に、母親になるなどの変化もあった。今37歳になって、さてここからどうしようか、どうゴルフと向き合っていこうかと考えていたときに「ジュン アンド ロペ」のディレクター就任の話をいただき、そんな道も開けるのかと非常にありがたく感じているし、責任の大きさに緊張感も持っている。

WWD:ディレクター就任を報告しているYoutubeの中では、事業部のメンバーから、「三枝さんには『こんなんじゃゴルフできない』『なんでこんなデザインにしちゃったの?』など辛口の意見もいただく」と明かされている。

三枝:展示会で見るだけでは分からない点も多いが、ビジュアル撮影時には毎シーズン、全アイテムを着用する。そうすると、ファッション好きのゴルファー目線で気になる点が出てくる。例えば、「ファスナーの位置がここでは邪魔だ」とか、「このトップスはスイングする時に肩周りが動かしにくい」といったことを、撮影時には必ず伝えるようにしてきた。「バックリボン付きのデザインがかわいいから、このトップスはカラーバリエーションをもっと増やすべき」といった提案もしてきた。バックリボン付きのデザインは、一般アパレルだけでなくゴルフウエアでもはやったが、ゴルフブランドの中では「ジュン アンド ロペ」の提案が比較的早かったように思う。

佐々木:直近では、「このニットは重い」というご指摘をいただいている(笑)。

三枝:デザインや色使いはすごくすてきなニットなのに、重さだけが惜しいと強く感じたのでお伝えした。近年はゴルフ用インナーのクオリティーが上がっている。ニットを分厚くしなくても、インナーに保温性があるので不都合はない。私は夏にノースリーブのワンピースなどを着る際も、日焼けを防ぐためにロングスリーブの機能性インナーを合わせるという着こなしを自分流でよくしているが、私のスタイリングを発信源として、そうしたレイヤードが女子のプロゴルファーなどの間にも広がったとゴルフメディアの方に言っていただいたこともある。「ジュン アンド ロペ」のアイテム1つ1つがもともとすてきだからこそ、スタイリングが映える。

「アンバサダー時代とは
プレッシャーの大きさが異なる」

WWD:近年のゴルフマーケットでは、モノトーン中心のストリートテイストのウエアが支持される傾向がある。

佐々木:そうした傾向は確かにあるし、ゴルフ市場の中でさまざまな選択肢があるのはいいこと。本来ゴルフは上品なスポーツで、ゴルフの上品なあり方に共感する人が増えて、ゴルフが発展していくのは当社としても望むところだ。ゴルフはボールを打つというスポーツとしての側面だけでなく、その周囲に旅、仲間とのコミュニケーション、精神を整えるといったさまざまな価値があり、ポテンシャルは大きい。非常にすばらしいスポーツかつ文化であることを、もっと幅広い方に知っていただきたい。

WWD:ディレクターに就任し、三枝さんはアンバサダー時代にはなかったプレッシャーも感じているか。

三枝:出てきたものに対して意見を言うことと、どういうものがいいか、イチから意見を出すのとでは全く異なる。アンバサダー時代にもコラボとして数型の企画に携わったことがあるが、コラボは自分の好きなものだけを作ればよかった。ディレクターとしては、シーズンに数十型ものアイテムに責任を持たなければならない。好きなものだけでなく、シンプルなもの、スポーティーなものなど、全体のバランスを追求していかなければならず、そこが難しい。コラボ商品に反響があった際もすごくうれしかったが、ディレクターになってからの商品がヒットしたときの喜びは、恐らくその何倍にもなりそうだ。

「絶不調もあるのがゴルフの面白さ」

WWD:三枝さんはいつゴルフを始めたのか。

三枝:始めたのは21歳のとき。練習場に初めて行ってハマってしまい、その週にはラウンドに行って、空振りもしたけどパーも取れた。とにかく楽しくて、人に会えば「ゴルフ行きましょう」と声掛けし、すぐに年間100ラウンドを回るようになった。目標スコアを達成したら、次は試合に出てみたい。試合に出たら、成績を残したい。次はゴルフ番組に出たい、自分で番組を持ちたいといったように、ゴルフを通して向上心やネットワークがどんどん広がっていった。

WWD:最後に、佐々木社長と三枝さんの最近のゴルフの成績は。

佐々木:あまり良くない(笑)。でもそんな時期もあるのがゴルフの面白さ。例えばテニスやマラソン、野球は、強い人はいつも強いが、ゴルフはうまい人やプロでさえ絶不調になることがある。同じプレーができる再現性が低く、そこに歯がゆさがある。しかし、毎回変わらずできるようになってしまったらきっとつまらない。繰り返しになるが、スポーツとしてだけでなく、仲間とのコミュニティーやジェントルマンの精神など、文化として受け継がれている面も奥深い。

三枝:私も絶不調で、ディレクターに就任したのにどうしようかと思っている(笑)。これを機に一度リセットして、新しいウエアのデザインを考えながら、技術を磨き直していく。まさかこんなに不調になるとは思っていなかった。上へ上へ頑張らなきゃという意識で、辞めたくてもゴルフは辞められない。ディレクターに就いたことで、どうしてもカジュアルになりがちなゴルフウエアを、もっと女性が楽しめるものに変えていきたい。ゴルフの経験とモデルとしての知見を生かし、他のブランドが真似したくなるようなデザインを考え、「ジュン アンド ロペ」のファンを増やしていきたい。

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北青山のTWO ROOMSがエンターテインメントダイニングとしてリニューアル 帽子職人トム・オブライアンとのコラボルームも

2009年に開業した北青山のTWO ROOMSが4月2日、エンターテイメントダイニングとしてリニューアルオープンする。16年間で築いてきたコンセプトをアップデートし、インテリアや料理、音楽、アートなど、多彩なコンテンツでもてなす新たなホスピタリティー空間を提供する。

まるで世界を旅するような気分にさせるフュージョン料理は、オーストラリア出身のマシュー・クラブ(Matthew Crabbe)シェフが率いるチームによるもの。新メニューには和牛タルタルやウニ、キャビアなどを包み込んだ“海苔ラップ”や鰹の藁焼きを菜の花と合わせて仕立てた“鰹の藁焼きカルパッチョ-菜の花&カラスミ(高知)”などをラインアップ。シグネチャーの“TWO ROOMS シーザーサラダ”や、シェフのこだわりが詰まった“クラブケーキボール”など、長年愛され続けてきたメニューも並ぶ。マシューシェフは「TWO ROOMSはこれまでも洗練されたダイニング体験を提供してきたが、今回のリニューアルで更なる進化を遂げる。日本の美意識や職人技にインスパイアされた新たなコンセプトは、料理の精緻さ、季節感、そして芸術性を大切にしながら最高の食材をシンプルかつ洗練されたスタイルで提供することを目指す」とコメントした。

内装は、テラスや大きな窓から望む外景との調和、上質さと軽やかさのバランスを意識した空間にデザイン。ライトサンドやキャメル、ハンターグリーンなどの柔らかな色彩と、御影石、真鍮、レザーなどの自然素材を融合し、都心の風景と自然光と共に感じられる情調を重視した造りになっている。シーンに合わせ、洗練されたエレガントがテーマの“アトリエ246”、デジタルアクティベーションで現代的なエッセンスを加えた“ヴィスタラウンジ”の2つの空間を楽しめる。さらに“ヴィスタラウンジ”のワインセラーの奥には、創造性、ファッション、クラフツマンシップを讃える新たなプライベートダイニングルームが登場。ここにはオーストラリア出身で、東京を拠点に展開するハットーメーカー「ボナ・カペロ(BONA CAPELLO)」を展開するトム・オブライアンとのコラボレーションにより、世界の帽子文化の進化を表現したインスタレーションが掲示されている。

また毎週金曜日には、ジャズの生伴奏を聴きながらディナーを楽しめるほか、22時以降は世界で活躍するDJを迎えたパフォーマンスも披露。エンターテインメントダイナーとして、よりイマーシブな体験を提供していくという。

◼︎TWO ROOMS
オープン日:4月2日
住所:東京都港区北青山3-11-7 AO ビル 5階
営業時間:月~火曜日11:30~26:00、水~金曜日11:30~27:00、土曜日11:00~27:00、日曜日11:00~24:00

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北青山のTWO ROOMSがエンターテインメントダイニングとしてリニューアル 帽子職人トム・オブライアンとのコラボルームも

2009年に開業した北青山のTWO ROOMSが4月2日、エンターテイメントダイニングとしてリニューアルオープンする。16年間で築いてきたコンセプトをアップデートし、インテリアや料理、音楽、アートなど、多彩なコンテンツでもてなす新たなホスピタリティー空間を提供する。

まるで世界を旅するような気分にさせるフュージョン料理は、オーストラリア出身のマシュー・クラブ(Matthew Crabbe)シェフが率いるチームによるもの。新メニューには和牛タルタルやウニ、キャビアなどを包み込んだ“海苔ラップ”や鰹の藁焼きを菜の花と合わせて仕立てた“鰹の藁焼きカルパッチョ-菜の花&カラスミ(高知)”などをラインアップ。シグネチャーの“TWO ROOMS シーザーサラダ”や、シェフのこだわりが詰まった“クラブケーキボール”など、長年愛され続けてきたメニューも並ぶ。マシューシェフは「TWO ROOMSはこれまでも洗練されたダイニング体験を提供してきたが、今回のリニューアルで更なる進化を遂げる。日本の美意識や職人技にインスパイアされた新たなコンセプトは、料理の精緻さ、季節感、そして芸術性を大切にしながら最高の食材をシンプルかつ洗練されたスタイルで提供することを目指す」とコメントした。

内装は、テラスや大きな窓から望む外景との調和、上質さと軽やかさのバランスを意識した空間にデザイン。ライトサンドやキャメル、ハンターグリーンなどの柔らかな色彩と、御影石、真鍮、レザーなどの自然素材を融合し、都心の風景と自然光と共に感じられる情調を重視した造りになっている。シーンに合わせ、洗練されたエレガントがテーマの“アトリエ246”、デジタルアクティベーションで現代的なエッセンスを加えた“ヴィスタラウンジ”の2つの空間を楽しめる。さらに“ヴィスタラウンジ”のワインセラーの奥には、創造性、ファッション、クラフツマンシップを讃える新たなプライベートダイニングルームが登場。ここにはオーストラリア出身で、東京を拠点に展開するハットーメーカー「ボナ・カペロ(BONA CAPELLO)」を展開するトム・オブライアンとのコラボレーションにより、世界の帽子文化の進化を表現したインスタレーションが掲示されている。

また毎週金曜日には、ジャズの生伴奏を聴きながらディナーを楽しめるほか、22時以降は世界で活躍するDJを迎えたパフォーマンスも披露。エンターテインメントダイナーとして、よりイマーシブな体験を提供していくという。

◼︎TWO ROOMS
オープン日:4月2日
住所:東京都港区北青山3-11-7 AO ビル 5階
営業時間:月~火曜日11:30~26:00、水~金曜日11:30~27:00、土曜日11:00~27:00、日曜日11:00~24:00

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藤田ニコル「遠回りして見つけた、“かわいい”の近道」 100歳になってもギャルマインドで突き進む

PROFILE: 藤田ニコル/モデル・タレント

PROFILE: (ふじた・にこる)1998年2月20日生まれ。オスカープロモーション所属。愛称は「にこるん」。2009年「第13回ニコラモデルオーディション」でグランプリを獲得し、専属モデルとなる。14年からは雑誌「Popteen(ポップティーン)」で活動し、バラエティー番組などでも活躍。17年からは「ViVi」の専属モデルを務める。2023年に結婚。アパレルブランド「カルナムール(CALNAMUR)」、コスメブランド「シーメル(cimer)」などをプロデュースし、24年からはパーソナルジム「スイ(sui)」も経営している。 PHOTO:TAMEKI OSHIRO

2025年3月、7年半務めた「ViVi(ヴィヴィ)」の専属モデルを卒業する藤田ニコル。同誌との最後の大きな試みとして美容本「私が垢抜けた82の方法」を制作した。これまで、写真集やスタイルブックなどの書籍を出版してきたが、美容をテーマとした1冊は初とのこと。

「私が垢抜けた82の方法」では美容遍歴を振り返り、メイクからスキンケア、ボディーメイクなどに加え、今回初めて語ったという美容医療からSNSで話題をさらった“花嫁メイク”まで、余すことなく出し切った。「あか抜けには必須」と藤田が語るマインド面についても掘り下げ、新しい門出にふさわしい充実の1冊が完成した。藤田にその読みどころと今後の展望を聞く。

本には今まで話してこなかった美容医療や歯のことまで

WWD:「私が垢抜けた82の方法」を出版した背景は?
藤田ニコル(以下、藤田):卒業前に「ViVi」チームと一緒に本を作りたいと思い、美容本「私が垢抜けた82の方法」の制作をスタートしました。これまでの人生を振り返ると、見た目も内面も「あか抜けた」と自分で感じたことから、テーマは美容がいいと提案しました。ファンからも、ファンじゃない方からも「最近かわいくなった」という声をもらうことが増えたんです。

WWD:「82」という数字に何か意味があるのか。
藤田:本を作るために20時間インタビューを受けたのですが……(笑)、美容にまつわることを数えたら82個だったんです。本当は100個と言いたいところですが、82個がリアル。自分が日常でやっていたことが、気付けば美容法になっていて、マインドの部分などは「こういう性格だったんだ」と自分を改めて知れた部分もありました。

WWD:美容本だからこそ明かしたことも?
藤田:今まで話したことがないパートもあります。本なら買って開いてくれる方だけが見てくれるので、全部さらけ出してもいいかもって思ったんです。SNSだといろいろな人が見てるので、何を言われるか分からないですから。これまであえて言っていなかったことも赤裸々に全部書いたし、特に内面について触れている部分は読んでもらいたいな。

WWD:美容医療や審美歯科についても率直な感想が書かれてあり、読者にとっては大変参考になる。
藤田:美容医療のことは友達同士で話したりするけれど、別に隠していたわけじゃない。わざわざ言うことでもないと思って、SNSでは発信していませんでした。でも、自分の美容を振り返ったときに、やっぱり美容医療や審美歯科がターニングポイントになっている。良いことも悪いことも全部みんなに教えた方が、美容本として正直だと思ったので取り上げました。

ちなみに、好きなエピソードは自分の前歯。写真で分かりやすく第1形態から第3形態まで並べているページがあるのですが、歯の印象でどんどんあか抜けていったのが分かると思います。

WWD:最短ルートであか抜けたい人に、おすすめなことを一つ挙げるとしたら。
藤田:まずは、清潔感。これを意識してヘアメイク、身だしなみを整えるだけでも印象が大きく変わると思います。メイクは道具も何も変えなくていいし、明日からできる。いつもの工程を丁寧に、まつ毛は1本でもダマになっていないか、眉毛は左右対称か、ファンデーションはむらなくきれいに塗れているか。細かなことを意識すると、あか抜けて見えるのでトライしてみてほしい。

WWD:あか抜けに直結したことが具体的に書いてある。
藤田:いろいろな失敗や経験を経て、今の私があるんです。別に今も完璧じゃなくて、常にかわいいを更新し続けていきたい。だから「私が垢抜けた82の方法」には、私が遠回りして見つけた“かわいい”の近道を詰め込みました。

モデルは新しい自分を見つける場、テレビはビジュアル研究の場

WWD:モデルとして撮影に臨むときは、自分のアイデアやリクエストもヘアメイクに伝える?
藤田:モデルの仕事はブランドの世界観や商品の魅力を伝えることが一番大切なので、自分の意見は言いません。その企画に合ったファッションやメイクが、私の中では“正解”だと思っています。自分の意見を伝えてしまうとコンセプトとずれてしまったりして、ヘアメイクさんを困らせてしまうので、自分が盛れていなくても気にしないです。

あと、いつもの盛れるスタイルに誘導しちゃうと、新しい自分に出会えないから。モデルの現場は新しい自分を引き出してもらえるチャンスなので、プロに委ねます。「盛れてないな〜」と思う日もありますが(笑)、企画が成り立っているなら問題ないし、それも経験の一つです。

WWD:テレビでは?
藤田:テレビ収録は、ビジュアル研究の場にしています。自分でコスメを持参してヘアメイクさんに使ってもらったり、試してみたいビジュアルに挑戦したりしています。そうすると、SNSでみんなが「盛れてる」「髪形かわいい」とか、「そうでもない」「もっとこうしたらかわいいのに」などの声を投稿してくれるので、「なるほど!」と思って意見を参考にすることもあります。誹謗中傷のコメントはスルーするけどね。

パーソナルカラーは全無視「ときめきでお買い物をしよう」

WWD:コスメはどこで購入している?
藤田:オンラインはもちろん、原宿の「アットコスメトーキョー」やドン・キホーテに行ってお買い物をしています。最新のものやSNSでバズっている商品は絶対にゲットしないと気が済まなくて、メイクやファッションを楽しむには、いかにミーハーであるかが大事だと思っています。本にも書いたのですが、リップの色見本がECサイトとかSNSに載っていると思うんですけど、あの発色は信じないこと。みんなそれぞれ唇の色は違うから、塗っても全く同じにはならないからね!

WWD:最近は自分のパーソナルカラーを認識している人が増えていて、それを基準にショッピングする場合も多いと思いますが。
藤田:私はイエベ春ですが、パーソナルカラーは全無視でコスメを買っています。ほしい!と思ってときめいたコスメが買えないなんてしんどい。だから、合わないとされているカラーでもビビッと来たら買うようにしています。

自分に似合わないかも?と思う色味を取り入れるときはコツがあって、ほかのパーツのメイクでバランスを取るんです。私は青みピンクが好きなんですけど、似合わないとされているので、ブルーの化粧下地で肌色から青み系に寄せてみたり、カラーコンタクトをグレー系にしたりと、統一感を出すんです。似合わないからと諦めるのではなく、自分にハマるように持っていくんです。

SNSの情報が多すぎて、(使う前に)否定された気分になってしまうと思うけれど、みんな「ときめき」でお買い物をしようよ。その気持ちを大切にしてほしい。

WWD:みんな正解を求めすぎている?
藤田:そうだと思います。「私似合わないから」とみんな口癖のように言うけれど、じゃあいつもの顔のままで、新しい自分を発見できなくてもいいの?って。お気に入りの一軍コスメに新しいエッセンスを入れていかなきゃ、つまらないよ。

「100歳になってもギャルマインドでいたい」

WWD:2023年8月に結婚を発表。SNSで発信した花嫁美容は、話題になっていた。
藤田:結婚式のときは、人生史上最高にビジュアルが良かった。たくさんの反響があって、正直「こんなに需要があるのか!」とびっくりしました。コスメや美容が好きなことは公言していたけど、みんなまねしてくれるんだと思ってうれしかったし、自信にもつながりました。

WWD:2月で27歳になりましたが、これまでと変わらない点は?
藤田:(即答で)ギャルマインド!50歳、100歳になってもこの気持ちで突き進みます。自分で考えて行動して、どうにかできるのがギャル。私は仕事でもプライベートでもギャルを経験したことが良かったし、今の自分にも生きていると思います。

WWD:この本の出版のきっかけでもある「ViVi」の卒業について、心境は?
藤田:7年半という長さに私自身もびっくりしています。どの雑誌の専属モデルよりも長く、寂しい気持ちはあるけれど、悔いはないし、やり切ったという気持ちが一番ですね。

WWD:最も印象に残っている撮影は?
藤田:初登場が表紙だったので、プレッシャーで震えましたね。大人になりたいギャルマインド全開の私が、かっこよくて、かわいくて、きれいで、一人一人の個性も立っていた「ViVi」モデルの中に飛び込んで。最初は否定的な声も届いたけれど、結果的に読者の皆さんに認めてもらえて7年半も頑張れました。ちゃんと「ViVi」に貢献できていたと思います。

WWD:ディレクターを務めているファッションブランド「カルナムール」も新宿ルミネエストがオープンして1年が経過。振り返ってみて。
藤田:新宿ルミネエストにお店を構えたことで、たくさんの人に「カルナムール」を知ってもらえた1年だった。だからこそ、これからも皆さんに来たいと思ってもらえるお店作りをもっと頑張りたいです。服作りは本当に大変ですが、それが楽しい。ゆくゆくは、自分の名前がなくても売れるブランドになるよう、まだまだ育てていきたいと思います。

WWD:今後の展望を教えてください。
藤田:ここまで全力疾走で駆け抜けてきたので、まずは充電したいかな。これからも大好きなモデルの仕事は軸にしつつ、まだ考えている途中ですが、皆さんがびっくりするようなプランを練る期間にしたいです。

これまでインスピレーションを得る時間がすごく少なくて、新しい刺激に触れてなかったので、4月からはいろんなものを吸収しに出掛けたり、旅行したりしたい!結果仕事のためなんですけど、さまざまなことをインプットして、もうワンランク成長した藤田ニコルになりたいです。

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藤田ニコル「遠回りして見つけた、“かわいい”の近道」 100歳になってもギャルマインドで突き進む

PROFILE: 藤田ニコル/モデル・タレント

PROFILE: (ふじた・にこる)1998年2月20日生まれ。オスカープロモーション所属。愛称は「にこるん」。2009年「第13回ニコラモデルオーディション」でグランプリを獲得し、専属モデルとなる。14年からは雑誌「Popteen(ポップティーン)」で活動し、バラエティー番組などでも活躍。17年からは「ViVi」の専属モデルを務める。2023年に結婚。アパレルブランド「カルナムール(CALNAMUR)」、コスメブランド「シーメル(cimer)」などをプロデュースし、24年からはパーソナルジム「スイ(sui)」も経営している。 PHOTO:TAMEKI OSHIRO

2025年3月、7年半務めた「ViVi(ヴィヴィ)」の専属モデルを卒業する藤田ニコル。同誌との最後の大きな試みとして美容本「私が垢抜けた82の方法」を制作した。これまで、写真集やスタイルブックなどの書籍を出版してきたが、美容をテーマとした1冊は初とのこと。

「私が垢抜けた82の方法」では美容遍歴を振り返り、メイクからスキンケア、ボディーメイクなどに加え、今回初めて語ったという美容医療からSNSで話題をさらった“花嫁メイク”まで、余すことなく出し切った。「あか抜けには必須」と藤田が語るマインド面についても掘り下げ、新しい門出にふさわしい充実の1冊が完成した。藤田にその読みどころと今後の展望を聞く。

本には今まで話してこなかった美容医療や歯のことまで

WWD:「私が垢抜けた82の方法」を出版した背景は?
藤田ニコル(以下、藤田):卒業前に「ViVi」チームと一緒に本を作りたいと思い、美容本「私が垢抜けた82の方法」の制作をスタートしました。これまでの人生を振り返ると、見た目も内面も「あか抜けた」と自分で感じたことから、テーマは美容がいいと提案しました。ファンからも、ファンじゃない方からも「最近かわいくなった」という声をもらうことが増えたんです。

WWD:「82」という数字に何か意味があるのか。
藤田:本を作るために20時間インタビューを受けたのですが……(笑)、美容にまつわることを数えたら82個だったんです。本当は100個と言いたいところですが、82個がリアル。自分が日常でやっていたことが、気付けば美容法になっていて、マインドの部分などは「こういう性格だったんだ」と自分を改めて知れた部分もありました。

WWD:美容本だからこそ明かしたことも?
藤田:今まで話したことがないパートもあります。本なら買って開いてくれる方だけが見てくれるので、全部さらけ出してもいいかもって思ったんです。SNSだといろいろな人が見てるので、何を言われるか分からないですから。これまであえて言っていなかったことも赤裸々に全部書いたし、特に内面について触れている部分は読んでもらいたいな。

WWD:美容医療や審美歯科についても率直な感想が書かれてあり、読者にとっては大変参考になる。
藤田:美容医療のことは友達同士で話したりするけれど、別に隠していたわけじゃない。わざわざ言うことでもないと思って、SNSでは発信していませんでした。でも、自分の美容を振り返ったときに、やっぱり美容医療や審美歯科がターニングポイントになっている。良いことも悪いことも全部みんなに教えた方が、美容本として正直だと思ったので取り上げました。

ちなみに、好きなエピソードは自分の前歯。写真で分かりやすく第1形態から第3形態まで並べているページがあるのですが、歯の印象でどんどんあか抜けていったのが分かると思います。

WWD:最短ルートであか抜けたい人に、おすすめなことを一つ挙げるとしたら。
藤田:まずは、清潔感。これを意識してヘアメイク、身だしなみを整えるだけでも印象が大きく変わると思います。メイクは道具も何も変えなくていいし、明日からできる。いつもの工程を丁寧に、まつ毛は1本でもダマになっていないか、眉毛は左右対称か、ファンデーションはむらなくきれいに塗れているか。細かなことを意識すると、あか抜けて見えるのでトライしてみてほしい。

WWD:あか抜けに直結したことが具体的に書いてある。
藤田:いろいろな失敗や経験を経て、今の私があるんです。別に今も完璧じゃなくて、常にかわいいを更新し続けていきたい。だから「私が垢抜けた82の方法」には、私が遠回りして見つけた“かわいい”の近道を詰め込みました。

モデルは新しい自分を見つける場、テレビはビジュアル研究の場

WWD:モデルとして撮影に臨むときは、自分のアイデアやリクエストもヘアメイクに伝える?
藤田:モデルの仕事はブランドの世界観や商品の魅力を伝えることが一番大切なので、自分の意見は言いません。その企画に合ったファッションやメイクが、私の中では“正解”だと思っています。自分の意見を伝えてしまうとコンセプトとずれてしまったりして、ヘアメイクさんを困らせてしまうので、自分が盛れていなくても気にしないです。

あと、いつもの盛れるスタイルに誘導しちゃうと、新しい自分に出会えないから。モデルの現場は新しい自分を引き出してもらえるチャンスなので、プロに委ねます。「盛れてないな〜」と思う日もありますが(笑)、企画が成り立っているなら問題ないし、それも経験の一つです。

WWD:テレビでは?
藤田:テレビ収録は、ビジュアル研究の場にしています。自分でコスメを持参してヘアメイクさんに使ってもらったり、試してみたいビジュアルに挑戦したりしています。そうすると、SNSでみんなが「盛れてる」「髪形かわいい」とか、「そうでもない」「もっとこうしたらかわいいのに」などの声を投稿してくれるので、「なるほど!」と思って意見を参考にすることもあります。誹謗中傷のコメントはスルーするけどね。

パーソナルカラーは全無視「ときめきでお買い物をしよう」

WWD:コスメはどこで購入している?
藤田:オンラインはもちろん、原宿の「アットコスメトーキョー」やドン・キホーテに行ってお買い物をしています。最新のものやSNSでバズっている商品は絶対にゲットしないと気が済まなくて、メイクやファッションを楽しむには、いかにミーハーであるかが大事だと思っています。本にも書いたのですが、リップの色見本がECサイトとかSNSに載っていると思うんですけど、あの発色は信じないこと。みんなそれぞれ唇の色は違うから、塗っても全く同じにはならないからね!

WWD:最近は自分のパーソナルカラーを認識している人が増えていて、それを基準にショッピングする場合も多いと思いますが。
藤田:私はイエベ春ですが、パーソナルカラーは全無視でコスメを買っています。ほしい!と思ってときめいたコスメが買えないなんてしんどい。だから、合わないとされているカラーでもビビッと来たら買うようにしています。

自分に似合わないかも?と思う色味を取り入れるときはコツがあって、ほかのパーツのメイクでバランスを取るんです。私は青みピンクが好きなんですけど、似合わないとされているので、ブルーの化粧下地で肌色から青み系に寄せてみたり、カラーコンタクトをグレー系にしたりと、統一感を出すんです。似合わないからと諦めるのではなく、自分にハマるように持っていくんです。

SNSの情報が多すぎて、(使う前に)否定された気分になってしまうと思うけれど、みんな「ときめき」でお買い物をしようよ。その気持ちを大切にしてほしい。

WWD:みんな正解を求めすぎている?
藤田:そうだと思います。「私似合わないから」とみんな口癖のように言うけれど、じゃあいつもの顔のままで、新しい自分を発見できなくてもいいの?って。お気に入りの一軍コスメに新しいエッセンスを入れていかなきゃ、つまらないよ。

「100歳になってもギャルマインドでいたい」

WWD:2023年8月に結婚を発表。SNSで発信した花嫁美容は、話題になっていた。
藤田:結婚式のときは、人生史上最高にビジュアルが良かった。たくさんの反響があって、正直「こんなに需要があるのか!」とびっくりしました。コスメや美容が好きなことは公言していたけど、みんなまねしてくれるんだと思ってうれしかったし、自信にもつながりました。

WWD:2月で27歳になりましたが、これまでと変わらない点は?
藤田:(即答で)ギャルマインド!50歳、100歳になってもこの気持ちで突き進みます。自分で考えて行動して、どうにかできるのがギャル。私は仕事でもプライベートでもギャルを経験したことが良かったし、今の自分にも生きていると思います。

WWD:この本の出版のきっかけでもある「ViVi」の卒業について、心境は?
藤田:7年半という長さに私自身もびっくりしています。どの雑誌の専属モデルよりも長く、寂しい気持ちはあるけれど、悔いはないし、やり切ったという気持ちが一番ですね。

WWD:最も印象に残っている撮影は?
藤田:初登場が表紙だったので、プレッシャーで震えましたね。大人になりたいギャルマインド全開の私が、かっこよくて、かわいくて、きれいで、一人一人の個性も立っていた「ViVi」モデルの中に飛び込んで。最初は否定的な声も届いたけれど、結果的に読者の皆さんに認めてもらえて7年半も頑張れました。ちゃんと「ViVi」に貢献できていたと思います。

WWD:ディレクターを務めているファッションブランド「カルナムール」も新宿ルミネエストがオープンして1年が経過。振り返ってみて。
藤田:新宿ルミネエストにお店を構えたことで、たくさんの人に「カルナムール」を知ってもらえた1年だった。だからこそ、これからも皆さんに来たいと思ってもらえるお店作りをもっと頑張りたいです。服作りは本当に大変ですが、それが楽しい。ゆくゆくは、自分の名前がなくても売れるブランドになるよう、まだまだ育てていきたいと思います。

WWD:今後の展望を教えてください。
藤田:ここまで全力疾走で駆け抜けてきたので、まずは充電したいかな。これからも大好きなモデルの仕事は軸にしつつ、まだ考えている途中ですが、皆さんがびっくりするようなプランを練る期間にしたいです。

これまでインスピレーションを得る時間がすごく少なくて、新しい刺激に触れてなかったので、4月からはいろんなものを吸収しに出掛けたり、旅行したりしたい!結果仕事のためなんですけど、さまざまなことをインプットして、もうワンランク成長した藤田ニコルになりたいです。

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敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 【PR職の流儀】

PROFILE: 南奈未

南奈未
PROFILE: (みなみ・なみ)アメリカの大学でマーケティングを専攻し卒業。米国や日本にて外資系企業などを経て、クリスチャン・ディオールに入社。その後ダミアーニ、ドルチェ&ガッバーナに転職。2004年に「ルイ・ヴィトン」で、ウィメンズとメンズのPRを担当。12年、マイケル・コースのコミュニケーション・ジェネラルマネージャーに就任。17年、ドルチェ&ガッバーナに復職し、PR&コミュニケーション ディレクターに就く。24年10月退職 PHOTO:MAKOTO NAKAGAWA(magNese) HAIR&MAKE UP:KIKKU(Chrysanthemum)
ファッション業界において、花形職とされるPR。そのトップに就くPRディレクターは、ブランドの“縁の下の力持ち”や“影の立役者”として認識されるほど、目立たずともブランドの大きな役割と責任を担っている。特にラグジュアリーブランドにおいては、常にVIP顧客やメディア、デザイナーやチームの中核的存在だ。交渉術やコミュニケーション能力も必要とされる。南奈未さんは約20年間、ファッションシーンをリードする数々の海外ブランドの日本法人のPRを統括。日本はもちろん、グローバルでその手腕を発揮してきた言わずと知れた人物だ。この10年でデジタルやマーケティングの概念が多様化する中、ファッションラグジュアリーの世界は大きく様変わりしているという。この連載では数回に分けて、南さんが培ってきたファッションPRの仕事そしてその裏側について語る。1回目は、ラグジュアリーPRという仕事の流儀について。

華やかなファッション業界の酸いも甘いも噛み分けて

まずは南さんのこれまでのキャリアから。アメリカの大学でマーケティングを専攻し、外資系企業などでキャリアをスタート。その後、フランスを代表するブランドである「クリスチャン・ディオール(CHRISTIAN DIOR)」(当時)から、ファッション業界に飛び込むことに。さらにイタリアの「ダミアーニ(DAMIANI)」や「ドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)」でPRとしての経験を積み、2004年には、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」に入社し、8年間ウィメンズとメンズのPRに。当時2000年頃はラグジュアリー業界でも黄金の時代と呼ばれ、多くのファッションブランドがメガイベントを日本で開催し輝いていた。「ルイ・ヴィトン」もシャンゼリゼのオープンやパリ以外で初めて行う東京夢の島公園でのファッションショー、アーティストとのコラボレーション等、業界でも先駆けとなるさまざまなプロジェクトを実現させ、前人未到の道を突き進んでいた。また、南さんに大きな影響を与えた日本における海外ラグジュアリーブランドPRの第一人者といわれる齋藤牧里さんに出会ったのもこの時。彼女から、本国と日本の架け橋となるPRのあり方やクリエイティブな仕事をする大切さを多く学んだ。

その後、12年に米国ニューヨークの「マイケル・コース(MICHAEL KORS)」でPRのトップに就き、4年で日本での大幅なビジネス拡大およびブランド復活に貢献。17年、「ドルチェ&ガッバーナ」にPR&コミュニケーション ディレクターとして復帰。デザイナー来日による伊勢丹新宿本店やイタリア大使館でのファッションショーやTVアニメ「呪術廻戦」とのコラボレーションを実現し、デジタルキャンペーンをはじめ渋谷のど真ん中にポップアップを展開するマーケティング戦略など話題を呼んだ。TVアニメ「呪術廻戦」のキャラクターたちが「ドルチェ&ガッバーナ」の服を着た広告ビジュアルは、出版社の垣根を超えてオン/オフラインメデイアに掲載され、日本雑誌広告賞の経済産業大臣賞(グランプリ)を受賞した。

と、これまでの経歴を振り返ると華やかできらびやかなファッションシーンにおいて、すばらしいクリエイションに間近で触れながらも、その裏側で時にドキッと時にヒヤッとしながら、酸いも甘いも噛み分け、PRの修行を積んできてかれこれ20年。普段はなかなか知ることのできないラグジュアリーファッションの世界、そしてPRという仕事について南さんのキャリアから紐解いていく。

きらびやかな世界で“黒子”に徹する超多忙な日々

南奈未:フランスの代表的ブランド「ルイ・ヴィトン」は、いわゆる最高峰を指すラグジュアリーブランドと呼ばれていて、世界中に多くのファンを抱え、夢や憧れを今もなお人々に与えていると思います。本国の基盤も大きく、店舗数や顧客数も多い分、企業としてもスケール感が異なり仕事もセグメントされていて上手に組織化されています。一方、規模やスケールが小さいブランドは、プロセスがスピーディーで風通しが良いのが利点ですが、ダブルワークやトリプルワークを担うことはよくあります。なので、これは「私の仕事ではないです」と明確な線引きは難しく、マルチタスクで常にブランドの立場に立って効率よく物事を進めないといけません。あとは信頼できる同じベクトルを持った少数精鋭チームを作ることも必須ですね。

デジタル施策を積極的に取り入れていた「マイケル・コース」では、PRや広告以外にもデジタルマーケティング、ソーシャルやイベントの企画などのさまざまな業務を担っていました。入社した時は「ルイ・ヴィトン」と売り上げも文化も何もかもが違いすぎて苦労しましたが、本社の人たちも聞く耳は持っていて、協力的だったのが救いでした。日本ではまだ珍しかったSNSを使った取り組みを仕掛け、デザイナーのマイケル・コース本人(Michael Kors)や当時日本で女神級に人気だったモデルのミランダ・カー(Miranda Kerr)が来日して、ファッションメディア以外にテレビ局も(NHK以外全部来た気がする……)大々的に取り上げていただきました。当時は会場の確認からメディアやインフルエンサーのアテンド、本国チームやプロダクションとのやりとりまで、全てが終わるまで気が抜けなかったのを今でも鮮明に覚えています。終わった瞬間、ホテルのエレベーターに倒れ込んだこともまだ記憶に新しいほど(笑)。でもそれをキッカケに“王道セレブから注目されているブランド”のイメージが印象づき順調に売れていった気がします。チーム一丸となって同じ方向を向いた結果ですね。

PRは基本的に裏方に徹する存在。華やかな世界の舞台裏で、主役は常にブランドであり、デザイナーのクリエイション。私たちは5分ごとに起こる“事件”に日々葛藤し、対応しなければなりません。そのために日ごろからチーム力を育て、方向性の是非を嗅ぎ分けたり、瞬時に決断が出来るよう判断力を養い、ブランドを良くすることに手間暇を惜しまない。最も大切なのは、自分がそのブランドの一番のファンでいること。下積み時代からそうした黒子の役割を教えられてきましたが、それは今も変わらないこと。多言語を話せて、海外でのマナーを知っていることも大切ですが当たり前のことを、相手の立場になって考えることをプロとしてできること。それこそが、PRとしての何より重要な仕事だと心得ています。

ブランドは街や歴史など人々の暮らしを通して理解する

同じファッションというフィールドとはいえ、国ごとに歴史も文化もトレンドも異なります。PRとして最初のステップは、ブランドを包括的に知ること。直近の業績からプレスリリース、経営陣やデザイナーのインタビュー記事、同僚からの情報まで、ブランドの最新動向を熟知することはもちろん、ブランドの会社や文化をいちはやく体得する、仲間として認めてもらうことが大切なのかもしれません。今向き合うべきブランドがどんな文化や背景で出来上がったのかを知る為に、滞在中に一人で街を散策し、タクシーや地下鉄に乗り、話題のレストランなどに行く。その拠点の空気を吸って、頭と体で体験することは必ず実行しています。

「ドルチェ&ガッバーナ」に移ったときも、世界最大の司教区といわれるミラノのドゥオーモ(大聖堂)を訪れました。隣接している博物館では、ラピス石の顔料を用いた繊細なテクニックを要する絵画や、キラキラの宝石や金をふんだんに使った美しい福音書のカバーを見て、ものすごく感動したんです。デザイナー2人が、イタリアの文化や伝統的なクラフツマンシップの精神に通ずるハンドメードの技術を長年大事にしてきたことに理解を深めることができましたね。

刺激と自由の感性に満ちた街、ニューヨークでもそう。どうしてサラダのためにあんなに並ぶの?じゃあ並んでみよう。って、現地の人と同じことをとにかく体験してみます。ブランドが発祥の地でどのような環境や風土で育ち、どう支持されているのか。その土地の人々や暮らしについて体験し、知識を深めネットで調べても実感できないブランドの魅力を再発見していきます。

やりたいことをただ主張してはダメ。本国チームとの理解と連携が大事

スタッフの仕事の進め方も国によって結構違うんですよね。儀礼的な日本やビジネス文化のアメリカの場合、ミーティングが始まればすぐに本題に入ります。一方でヨーロッパは、まず信頼関係を築くことから。初顔合わせなら自己紹介やこれまでの経歴など、その人のパーソナリティーを知ることを優先にしています。年数回の対面ミーティングでも、メンバーの近況を聞くウォーミングアップの時間をあえて設けることで、仕事を円滑に進めやすいし、パフォーマンス力も高まりやすいなと感じます。信頼関係構築の近道はイベントや大きなプロジェクトで同じ苦労を共にすることですね。大変なことを乗り越える中で互いに思いやること、そして私や日本チームのみんなを仲間として認めてもらうことが、PRディレクターとしても大事な立ち位置になるし、日本の存在感も高めていく重要なアプローチになります。

国によってファッションショーやイベントの枠組、プロモーションの考え方も違います。日本発信の企画について本国チームの了承を得ることは、PRにとって大きなミッション。例えば、渋谷のスクランブル交差点で大型広告を打ち出そうとするなら、ニューヨーカーにとって想像し易いタイムズスクエアを例に説明したりしたことも。どうしてもカルチャーや面白さの捉え方の相違はあるし、前例のないことを提案するので、何らかの壁はあります。私たちの主張やアイデアを一方的に伝えるよりも、分かりやすい例えを交えて相手の立場になりながら、短時間で理解を深めて進めていきます。ただやりたいことを主張してはダメ。各国のカルチャートレンドやマーケティングの観点の違いを念頭に、ブランドを盛り上げたいという思いがつながれば、それまでにないシナジーも生めるはず。経験も必要だけど、同僚に共通したランゲージと感覚を持っている人を見つけられるかが、同じベクトルで仕事をする上ですごく大事なことだと思っているんです。

他国メンバーとの信頼関係の話でいうと、ファッションショーのような緊張と楽しさが入り混じるドタバタの1日は、同僚のサポートのおかげで“命拾い”するようなトラブル回避もたくさんありました。例えば自国のセレブをショーに招待するとき、どうしても本国メンバーが彼らの顔を認知していなくて、ショー会場入り口のセキュリティゲートをなかなか通れないなんてことも。そうした時に、「奈未のゲストだから」とすぐにフォローしてくれて助かった!終始バタバタとしている会場で、少しでもトラブルを増やしたくないのはみんなの願い(笑)。ニューヨークでは、ショーのスタッフにインターン生がつくことも多くて、当時、大御所の元仏「ヴォーグ(VOGUE)」編集長だったカリーヌ・ロワトフェルド(Carine Roitfeld)を認識できない若いスタッフが会場入口で彼女を足止めしているなんてことがあって、さあ大変!それほどの著名人なら、インビテーションを持っていなくても“顔パス”ですぐに通すのが、PRのお作法なんです。UK担当者にトランシーバーで連絡をすると、可哀想に血相を変えて入口に向かって全力疾走してました。ヒヤヒヤしながらも楽しいエピソードもありますよ。それはまた次回に。

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敏腕PRディレクター南奈未が説くファッション業界の道標 【PR職の流儀】

PROFILE: 南奈未

南奈未
PROFILE: (みなみ・なみ)アメリカの大学でマーケティングを専攻し卒業。米国や日本にて外資系企業などを経て、クリスチャン・ディオールに入社。その後ダミアーニ、ドルチェ&ガッバーナに転職。2004年に「ルイ・ヴィトン」で、ウィメンズとメンズのPRを担当。12年、マイケル・コースのコミュニケーション・ジェネラルマネージャーに就任。17年、ドルチェ&ガッバーナに復職し、PR&コミュニケーション ディレクターに就く。24年10月退職 PHOTO:MAKOTO NAKAGAWA(magNese) HAIR&MAKE UP:KIKKU(Chrysanthemum)
ファッション業界において、花形職とされるPR。そのトップに就くPRディレクターは、ブランドの“縁の下の力持ち”や“影の立役者”として認識されるほど、目立たずともブランドの大きな役割と責任を担っている。特にラグジュアリーブランドにおいては、常にVIP顧客やメディア、デザイナーやチームの中核的存在だ。交渉術やコミュニケーション能力も必要とされる。南奈未さんは約20年間、ファッションシーンをリードする数々の海外ブランドの日本法人のPRを統括。日本はもちろん、グローバルでその手腕を発揮してきた言わずと知れた人物だ。この10年でデジタルやマーケティングの概念が多様化する中、ファッションラグジュアリーの世界は大きく様変わりしているという。この連載では数回に分けて、南さんが培ってきたファッションPRの仕事そしてその裏側について語る。1回目は、ラグジュアリーPRという仕事の流儀について。

華やかなファッション業界の酸いも甘いも噛み分けて

まずは南さんのこれまでのキャリアから。アメリカの大学でマーケティングを専攻し、外資系企業などでキャリアをスタート。その後、フランスを代表するブランドである「クリスチャン・ディオール(CHRISTIAN DIOR)」(当時)から、ファッション業界に飛び込むことに。さらにイタリアの「ダミアーニ(DAMIANI)」や「ドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)」でPRとしての経験を積み、2004年には、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」に入社し、8年間ウィメンズとメンズのPRに。当時2000年頃はラグジュアリー業界でも黄金の時代と呼ばれ、多くのファッションブランドがメガイベントを日本で開催し輝いていた。「ルイ・ヴィトン」もシャンゼリゼのオープンやパリ以外で初めて行う東京夢の島公園でのファッションショー、アーティストとのコラボレーション等、業界でも先駆けとなるさまざまなプロジェクトを実現させ、前人未到の道を突き進んでいた。また、南さんに大きな影響を与えた日本における海外ラグジュアリーブランドPRの第一人者といわれる齋藤牧里さんに出会ったのもこの時。彼女から、本国と日本の架け橋となるPRのあり方やクリエイティブな仕事をする大切さを多く学んだ。

その後、12年に米国ニューヨークの「マイケル・コース(MICHAEL KORS)」でPRのトップに就き、4年で日本での大幅なビジネス拡大およびブランド復活に貢献。17年、「ドルチェ&ガッバーナ」にPR&コミュニケーション ディレクターとして復帰。デザイナー来日による伊勢丹新宿本店やイタリア大使館でのファッションショーやTVアニメ「呪術廻戦」とのコラボレーションを実現し、デジタルキャンペーンをはじめ渋谷のど真ん中にポップアップを展開するマーケティング戦略など話題を呼んだ。TVアニメ「呪術廻戦」のキャラクターたちが「ドルチェ&ガッバーナ」の服を着た広告ビジュアルは、出版社の垣根を超えてオン/オフラインメデイアに掲載され、日本雑誌広告賞の経済産業大臣賞(グランプリ)を受賞した。

と、これまでの経歴を振り返ると華やかできらびやかなファッションシーンにおいて、すばらしいクリエイションに間近で触れながらも、その裏側で時にドキッと時にヒヤッとしながら、酸いも甘いも噛み分け、PRの修行を積んできてかれこれ20年。普段はなかなか知ることのできないラグジュアリーファッションの世界、そしてPRという仕事について南さんのキャリアから紐解いていく。

きらびやかな世界で“黒子”に徹する超多忙な日々

南奈未:フランスの代表的ブランド「ルイ・ヴィトン」は、いわゆる最高峰を指すラグジュアリーブランドと呼ばれていて、世界中に多くのファンを抱え、夢や憧れを今もなお人々に与えていると思います。本国の基盤も大きく、店舗数や顧客数も多い分、企業としてもスケール感が異なり仕事もセグメントされていて上手に組織化されています。一方、規模やスケールが小さいブランドは、プロセスがスピーディーで風通しが良いのが利点ですが、ダブルワークやトリプルワークを担うことはよくあります。なので、これは「私の仕事ではないです」と明確な線引きは難しく、マルチタスクで常にブランドの立場に立って効率よく物事を進めないといけません。あとは信頼できる同じベクトルを持った少数精鋭チームを作ることも必須ですね。

デジタル施策を積極的に取り入れていた「マイケル・コース」では、PRや広告以外にもデジタルマーケティング、ソーシャルやイベントの企画などのさまざまな業務を担っていました。入社した時は「ルイ・ヴィトン」と売り上げも文化も何もかもが違いすぎて苦労しましたが、本社の人たちも聞く耳は持っていて、協力的だったのが救いでした。日本ではまだ珍しかったSNSを使った取り組みを仕掛け、デザイナーのマイケル・コース本人(Michael Kors)や当時日本で女神級に人気だったモデルのミランダ・カー(Miranda Kerr)が来日して、ファッションメディア以外にテレビ局も(NHK以外全部来た気がする……)大々的に取り上げていただきました。当時は会場の確認からメディアやインフルエンサーのアテンド、本国チームやプロダクションとのやりとりまで、全てが終わるまで気が抜けなかったのを今でも鮮明に覚えています。終わった瞬間、ホテルのエレベーターに倒れ込んだこともまだ記憶に新しいほど(笑)。でもそれをキッカケに“王道セレブから注目されているブランド”のイメージが印象づき順調に売れていった気がします。チーム一丸となって同じ方向を向いた結果ですね。

PRは基本的に裏方に徹する存在。華やかな世界の舞台裏で、主役は常にブランドであり、デザイナーのクリエイション。私たちは5分ごとに起こる“事件”に日々葛藤し、対応しなければなりません。そのために日ごろからチーム力を育て、方向性の是非を嗅ぎ分けたり、瞬時に決断が出来るよう判断力を養い、ブランドを良くすることに手間暇を惜しまない。最も大切なのは、自分がそのブランドの一番のファンでいること。下積み時代からそうした黒子の役割を教えられてきましたが、それは今も変わらないこと。多言語を話せて、海外でのマナーを知っていることも大切ですが当たり前のことを、相手の立場になって考えることをプロとしてできること。それこそが、PRとしての何より重要な仕事だと心得ています。

ブランドは街や歴史など人々の暮らしを通して理解する

同じファッションというフィールドとはいえ、国ごとに歴史も文化もトレンドも異なります。PRとして最初のステップは、ブランドを包括的に知ること。直近の業績からプレスリリース、経営陣やデザイナーのインタビュー記事、同僚からの情報まで、ブランドの最新動向を熟知することはもちろん、ブランドの会社や文化をいちはやく体得する、仲間として認めてもらうことが大切なのかもしれません。今向き合うべきブランドがどんな文化や背景で出来上がったのかを知る為に、滞在中に一人で街を散策し、タクシーや地下鉄に乗り、話題のレストランなどに行く。その拠点の空気を吸って、頭と体で体験することは必ず実行しています。

「ドルチェ&ガッバーナ」に移ったときも、世界最大の司教区といわれるミラノのドゥオーモ(大聖堂)を訪れました。隣接している博物館では、ラピス石の顔料を用いた繊細なテクニックを要する絵画や、キラキラの宝石や金をふんだんに使った美しい福音書のカバーを見て、ものすごく感動したんです。デザイナー2人が、イタリアの文化や伝統的なクラフツマンシップの精神に通ずるハンドメードの技術を長年大事にしてきたことに理解を深めることができましたね。

刺激と自由の感性に満ちた街、ニューヨークでもそう。どうしてサラダのためにあんなに並ぶの?じゃあ並んでみよう。って、現地の人と同じことをとにかく体験してみます。ブランドが発祥の地でどのような環境や風土で育ち、どう支持されているのか。その土地の人々や暮らしについて体験し、知識を深めネットで調べても実感できないブランドの魅力を再発見していきます。

やりたいことをただ主張してはダメ。本国チームとの理解と連携が大事

スタッフの仕事の進め方も国によって結構違うんですよね。儀礼的な日本やビジネス文化のアメリカの場合、ミーティングが始まればすぐに本題に入ります。一方でヨーロッパは、まず信頼関係を築くことから。初顔合わせなら自己紹介やこれまでの経歴など、その人のパーソナリティーを知ることを優先にしています。年数回の対面ミーティングでも、メンバーの近況を聞くウォーミングアップの時間をあえて設けることで、仕事を円滑に進めやすいし、パフォーマンス力も高まりやすいなと感じます。信頼関係構築の近道はイベントや大きなプロジェクトで同じ苦労を共にすることですね。大変なことを乗り越える中で互いに思いやること、そして私や日本チームのみんなを仲間として認めてもらうことが、PRディレクターとしても大事な立ち位置になるし、日本の存在感も高めていく重要なアプローチになります。

国によってファッションショーやイベントの枠組、プロモーションの考え方も違います。日本発信の企画について本国チームの了承を得ることは、PRにとって大きなミッション。例えば、渋谷のスクランブル交差点で大型広告を打ち出そうとするなら、ニューヨーカーにとって想像し易いタイムズスクエアを例に説明したりしたことも。どうしてもカルチャーや面白さの捉え方の相違はあるし、前例のないことを提案するので、何らかの壁はあります。私たちの主張やアイデアを一方的に伝えるよりも、分かりやすい例えを交えて相手の立場になりながら、短時間で理解を深めて進めていきます。ただやりたいことを主張してはダメ。各国のカルチャートレンドやマーケティングの観点の違いを念頭に、ブランドを盛り上げたいという思いがつながれば、それまでにないシナジーも生めるはず。経験も必要だけど、同僚に共通したランゲージと感覚を持っている人を見つけられるかが、同じベクトルで仕事をする上ですごく大事なことだと思っているんです。

他国メンバーとの信頼関係の話でいうと、ファッションショーのような緊張と楽しさが入り混じるドタバタの1日は、同僚のサポートのおかげで“命拾い”するようなトラブル回避もたくさんありました。例えば自国のセレブをショーに招待するとき、どうしても本国メンバーが彼らの顔を認知していなくて、ショー会場入り口のセキュリティゲートをなかなか通れないなんてことも。そうした時に、「奈未のゲストだから」とすぐにフォローしてくれて助かった!終始バタバタとしている会場で、少しでもトラブルを増やしたくないのはみんなの願い(笑)。ニューヨークでは、ショーのスタッフにインターン生がつくことも多くて、当時、大御所の元仏「ヴォーグ(VOGUE)」編集長だったカリーヌ・ロワトフェルド(Carine Roitfeld)を認識できない若いスタッフが会場入口で彼女を足止めしているなんてことがあって、さあ大変!それほどの著名人なら、インビテーションを持っていなくても“顔パス”ですぐに通すのが、PRのお作法なんです。UK担当者にトランシーバーで連絡をすると、可哀想に血相を変えて入口に向かって全力疾走してました。ヒヤヒヤしながらも楽しいエピソードもありますよ。それはまた次回に。

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「BPQC」「コスメキッチン」のけん引者、小木充が化粧品業界に提言Vol.1 「コスメのレッドオーシャン市場、どうする?」

PROFILE: 小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント

小木充/ウェルネスビューティーコンサルタント
PROFILE: (おぎ・みつる)1997年伊勢丹入社、2000年にオープンしたBPQC(現、伊勢丹新宿本店ビューティアポセカリー)の立ち上げに参画。10年よりマッシュビューティーラボの副社長/クリエイティブディレクターとして「コスメキッチン」の運営や自社製品の開発に注力。21年末に退社し独立、ビューティ・ファッション企業のコンサルティングを行う。23年8月ナチュラル&オーガニックスキンケアブランド「ニュースケープ」を開始

空前の訪日客消費に沸いているのは化粧品業界も同様。とはいえ市場を見てみると、相変わらず元気がいいのはハイファッションコスメと韓国コスメ。日本のコスメブランドには何が足りていない? ビューティ・ジャーナリストの木津由美子が今回話を伺うのは、小売りの現場に長らく携わってきた小木充氏。現在はニュースケープ代表も務めるその独自目線から、5回にわたって提言をいただく。

――:昨年あたりから化粧品のプレス発表会が非常に増えていて、毎日5〜6件というのが当たり前になっています。新ブランドや新製品、あるいは今まで発表会というものをやっていなかったブランドがやり始めたりしていて、まさに化粧品業界のレッドオーシャンを日々体感しています。

小木充(以下、小木):“レッドオーシャン”というのは化粧品業界の人の主観のように思うんですよね。どのブランドもマーケティングの仕方が結構似ているから。例えばR&Dに投資して、幹細胞やレチノールといった話題の成分で注目を集める。それが「ポーラ(POLA)」の“リンクルショット”みたいに大きな生命線につながることもある。他の業界から見ると簡単そうと思って参入して、でもやってみたら難しいという壁にぶち当たっているように見えますね。

――:それは同感ですね。特にファッション業界から参入したブランドの多くはファッション同様に感覚的なアプローチが多くて、こちらから見ると差別化戦略が見えない。キー成分が違うか、アンバサダーが違うかといった程度。

小木:そう思いますよね。前職の場合、マッシュビューティーラボ(以下、MBL)という子会社を作って、経験や知見、チャレンジ精神のあるスタッフをそろえ、大手企業では成し得ないスピード感やエンパワーメントといったなかで作り上げてきました。でもファッション企業の人たちは専門の子会社やチームを作らずになんとなくコンサルだけ入れている。あるいは販売員をブランドの中核に据えたりするんだけど、製品企画・生産管理・営業などの経験がない。その人に才覚があっていろんなディレクションができればいいけれど、そこまでじゃない。社内でコスメに一番詳しいのはこの人と決めて進めていくやり方が多い。あとはアパレルブランドのファッションディレクターが「化粧品はよく分からないけどこんなの作りたいです」という、製品ターゲットを想定した他社ブランドの同ターゲット製品だけを持って打ち合わせして完全に外部に丸投げ、ということが多いように感じます。

――:そうしてうまくいったら3年後ぐらいにブランド売却、という目的が透けて見えたりします。

小木:yutoriというアパレル企業が上場1年を経て、化粧品に詳しいi.Dと組んでプチプラコスメ「ミニュム(MINUM)」を昨春立ち上げました。ドラッグストアを中心に販路を広げ、昨年末にはyutoriが事業を買い取っています。発案から製品発売までほぼほぼ1カ月半というスピード感で出してきているのが面白い。こういう他業種がいろんな発想でスピード感を持って進めるところが出てこないと、レッドオーシャンと思われている硬直化した化粧品業界に刺激がないんじゃないかな。

――:確かに韓国コスメがここまで急速に台頭した理由の一つに“スピード感”はありますね。渋谷ロフトに韓国コスメを入れているディストリビューターが言っていましたが、最初は“韓国コスメコーナー”というポップアップ展開で目立たせる必要があったが、そのうちそんなことをする必要もなくなり、日本のコスメと一緒に棚で展開しても売れていく、今では日本仕様のパッケージに変更せずハングル文字を残したほうが人気ということで、売り方もスピーディに対応しているようです。

小木:ただ、韓国コスメの購買客は高校生、大学生、新社会人あたりが多く、コスメ歴が浅く自分に合うものを知らない世代。成分が自分に合う・合わない、良い・悪いの判断がつかずに使っているから、それによって今、肌荒れ問題が起きていますよね。その揺り戻しが必ずあるだろうと考えたときに、広告施策やミューズの立て方、SNS戦略が韓国コスメほど上手くないがゆえに埋もれている、でもモノがいい国産ブランド、特にスキンケアブランドは闘えるだろうなと思うわけです。Yutoriが展開するブランドははまだメイクアップ中心ですが、これから新ブランドを続々と立ち上げてそこそこの中価格帯のブランドを出したときに、今の韓国コスメに肉薄するような売れ行きのものが出てくるんじゃないかな。ファッションだけでなくインテリア業界などから新規参入が続くと面白いことが起きると思いますね。

――:でも異業種参入やインフルエンサーコスメなどが急増していて業界に活気があるように見えながら、実は売れ残り廃棄ゴミを増やしているように感じるんですよね。成功しているブランドが思いつかないので。

小木:そう思われるブランドに携わっている人たちは、「なんとかなるだろう」と、どこか他人事に考えているのでは。少なくとも、自分ごとになっていないように感じます。化粧品を作るときはまず、こういう女性像を描いているとか、どうやってキレイになってもらいたいか、あるいは自分や家族にこんな悩みがあったからなど、コスメを通じて問題解決や前向きな生き方につながるような、一生かけてやっていこうというビジョンや哲学があるべきでしょう。ところが化粧品会社に入社したときはちょっとはあったかもしれない理想や夢も薄らいでいき、その後の配属以降一つ一つがセクショナリズムの理論優先で組織の歯車と感じるような部門を渡り歩くキャリア形成の中で、部署異動があったとしても年齢を重ねないとブランド全体を見ることができない。全ての化粧品会社とは言わないけれど、ブランド全体をディレクションできるような人間が育たないような人事の仕組みになっているように思います。僕は化粧品ブランドを作ったことはなかったけれど、MBLでは一人でブランドコンセプトからチームビルディングを請け負うほかないという状況で「トーン(to/one)」をつくりスタートすることで、化粧品ブランドにありがちなセクショナリズムに翻弄されずにブランドを成長させることができたと感じています。あるいは「セルヴォーク(CELVOKE)」の立ち上げ時期では、本当に使いたいと思えるファッション性が高くてカッコイイブランドが「スリー(THREE)」しかない、でも「スリー」よりもっとかっこいいブランドができるんじゃないか、とディレクターやチームが信じていたから誕生させることができた。yutoriも今だったら勝てると思うから参入している、でもこれからさらに育つには、強い芯があるかどうか。そんなところに注目したいですね。

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【ARISAK Labo vol.3】アーティスト・CYBER RUIに息づく“青”のDNA

フォトアーティスト・ARISAKがファッション&ビューティ業界の多彩なクリエイターと共鳴し、新たなビジュアル表現を追求する連載【ARISAK Labo】。Vol.3となる今回は、2021年にABEMA「ラップスタア誕生!」で脚光を浴び、スターダムへと駆け上がるアーティスト・CYBER RUI(サイバー・ルイ)をフィーチャー。最近ではABEMA「警視庁麻薬取締課 Mogura」で俳優デビューするなど躍進が止まらない彼女と、自身のキーカラーである“青”をテーマに撮り下ろした。

Paint it Blue
CYBER RUIに息づく“青の”DNA

CYBER RUIといえば、エッジが効いたファッションスタイルとメイクアップ、そしてブルーヘアの印象が強い。彼女がこんなにも“青”にこだわる理由とは。「中学生頃から、気付いたら青のものばかり集めていたんです。優しくて落ち着く色でもあり、尖っている色でもあるというところが自分にフィットしているように感じる。最近気付いたんですが、幼少期の写真を見ても青の服ばっかり着ていて。しかもエンジェルカラーみたいなの調べたら、それも青だったんですよ(笑)。理由はわからないけど、『青に満たされたい』みたいな感じなんだと思います」。

今回の撮影では“Pant it Blue”をテーマに、CYBER RUIが長い間夢見ていた“全身をブルーでペイントする”撮影を実行。顔の中心から少しずつ全身に青が広がっていく様を撮り下ろした。「ずっと全身青で撮影してみたいと思っていて、撮ってもらうなら絶対ARISAKさんだなって。イメージ画像をお互いシェアしたりして、今回のビジュアルへと辿り着きました」。

「あんなに全身を塗ることってこの先もないと思う。もう夢のようで、最初は実感がなさすぎて、自分がどんな気持ちなのかもよくわからないくらいでした(笑)」とCYBER RUI。「エアブラシで徐々に全身が塗られていく、ひんやりした感覚も面白かったです。あとは、普段の撮影ではあまりやらないような表情やポーズもしてみたりして、自分の中にある感覚を表現できた気がしています」。

これまでの連載を振り返ったARISAKは「個人的には前回の作品から今回の作品では心境的変化としてのつながりが表現できたと思っています。フゥジ君と作り上げた愛憎的で赤が際立つVol.2のビジュアル、そこから雨が降ったように静まったような心情を、今回ルイちゃんと青で作ることができました。彼女の中にあるブルーのDNAを映し出せたと思います」と締めくくった。

CREDIT
LOOK1:TOPS & SKIRT / GYOEM, CAP / GNASTY
LOOK2:TOPS / GNASTY, HEAD PIECE / JINKI NAOMATSU, OTHERS / MODEL OWN
LOOK3:TOPS / GYOEM , OTHERS / MODEL OWN

Inside stories of
CYBER RUI × ARISAK

PROFILE: サイバールイ(CYEBR RUI)/ラッパー

サイバールイ(CYEBR RUI)/ラッパー
PROFILE: 2002年11月18日生まれ、大阪府出身。幼少期からバレエを始め、現在はラッパーとして活躍。2021年のABEMA「ラップスタア誕生2021!」ではファイナルまで残り、その実力が認められる。昨年はABEMA「警視庁麻薬取締課 MOGURA」で俳優デビューした

出会いのきっかけはラッパー・OZworld

撮影を終えて、ARISAKとサイバールイ、2人の出会いのきっかけについて尋ねた。「これまでに何度か、ラッパーのOZworld(オズワルド)君のビジュアルを撮影したことがあるのですが、たまたまルイちゃんがそのビジュアルについて『こういう世界観を作ってみたい』って言ってくれている動画を見つけたんです。うれしくて私からDMを送り、その後彼女がライブをするときに誘ってくれて直接会うことになりました」とARISAK。サイバールイも「これまでも思い描くビジュアルはたくさんあっても、なかなかしっくり来る写真家さんに出会える機会がなく。そんな時にDMをもらえたので、これは何か面白いことができそうだと思って」と振り返った。

その後、アルバムのジャケットや雑誌で何度か撮影を共にし、更に意気投合したという2人。ARISAKは「私はフィギュアスケート、ルイちゃんはバレエっていう、近しい世界にいたこともあり、お互いの根底にある感覚が似ていたのかもしません。バレエからラップの世界に行くっていうギャップも素敵だなって思うし、撮影中のポージングにもどこかエレガントさが滲み出たりするのも好きです」と彼女の魅力を語る。

バレエからラップの道へ
サイバールイの次なる挑戦

3歳からバレエに邁進していたというCYBER RUI。なぜ音楽の道に進んだのか。「14歳くらいの時、身の回りで色々なことが起きて、自分の中のバランスが崩れてしまって。バレエもその時に辞めてしまい、息苦しさを感じていた時に癒しになったのが音楽でした。家や地元に居場所を感じられなかった同士の友達とたむろしたり、カラオケに行ったりする中で音楽に興味を持ち始めて、最初はギターを買って弾き語りをしていたこともあります」。

今やアーティストとして活躍しながらも、トラック作りやミュージックビデオの制作までも手掛けている彼女。ABEMA「警視庁麻薬取締課 Mogura」ではラッパー集団“9門”のメンバー・Haruを演じ、俳優デビューを飾った。初の演技の仕事について「めちゃめちゃ楽しかった。緊張したし、セリフはもちろんあるけど、自分らしくいないと違和感が出るだろうと思ってなるべく普段通りの自分らしくいることを心掛けました。過去の映像を使ってくれたのもうれしかったです。演技の中で自分と向き合うことができて、今の自分をもっと許せるようになったと思う」と自身の変化を語る。

俳優業を通じて更にパワーアップした彼女の今後の目標は「全部セルフプロデュースでやること」。「最近、本当に時代が変わる時が来ているんじゃないかって考えたりするんです。そんな中で人間として生きる意味をずっと提示していきたいーーどんな形でも自分を表現することをやめたくない。今もトラックやミュージックビデオを自分で作ることはあるけど、いつか全てにおいて自分でプロデュースしてみたいですね」。

DIRECTION & PHOTOS:ARISAK
MODEL:CYBER RUI
HAIR & MAKEUP:MARI ENDA
STYLING:JINKI
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注目のミュージシャン、ファビアナ・パラディーノが語る「音楽ルーツ」から「ファッションのこだわり」まで

伝説的ベーシストのピノ・パラディーノを父にもち、兄はイギリスのジャズ・シーンで活躍するロッコ・パラディーノという、音楽一家に育ったファビアナ・パラディーノ(Fabiana Palladino)。彼女が昨年発表したデビュー・アルバム「Fabiana Palladino」は、そんな出自もうなずかせる、タイムレスで洗練された魅力にあふれる作品だった。

幼い頃から彼女が親しんだ1980〜90年代のR&Bやソウル・ミュージックのエッセンスを現代に甦らせ、なめらかなグルーブと情感豊かなメロディーが織りなす奥深いサウンド。そして、アコースティックな楽器と交差するシンセサイザーの鋭いエレクトロニックの響きが、ソングライターであり「プロデューサー」としての彼女の革新性を強く印象づける。SBTRKT(サブトラクト)やサンファ(Sampha)らのセッション・ミュージシャンを務める中で身につけた生演奏のダイナミズムと、共同で制作を手掛けたジェイ・ポール(Jai Paul)との化学反応がもたらした直感的な音づくりのアプローチ。そうしてクラシックなスタイルに新たな息吹が吹き込まれ、枠を超えた自由な創造性が「Fabiana Palladino」には結実している。

コロナ禍の孤独とノスタルジーの中で生まれた「Fabiana Palladino」の楽曲たち。そこには、音楽が持つストーリーテリングの力が、彼女の手によって鮮やかに描き出される瞬間が捉えられている。アルバムのアートワークは、そんな内省的な心情を映し出す鏡であり、自身も制作に携わったミュージック・ビデオは、彼女のクリエイティブな冒険心が癒しへと昇華されるプロセスに視覚的な深みを与えている。そのサウンドや、ファッションも含めたビジュアル表現によって形づくられた彼女の独自のスタイルについて、今年1月に行われた来日公演2日目のステージ前に話を聞いた。

デビューアルバムにみる音楽的影響

——デビューアルバム「Fabiana Palladino」で、1980年代や90年代のR&B、ソウル・ミュージックのエッセンスを取り入れた音楽をつくろうとしたのはどうしてだったのでしょうか。

ファビアナ・パラディーノ(以下、ファビアナ):このアルバムをつくっているとき、子どものころに聴いていた音楽をよく思い出していたんです。特に、成長期から10代、20代にかけて夢中だったソウル・ミュージックやR&Bについて。ああいう音楽はずっと私の身近にあって、いつか自分でもそんな音楽をつくりたいって思っていました。だから私にとってはすごく自然な流れだったし、こういうサウンドこそが私が表現したい音楽そのものだったんです。

——他のインタビューではジャネット・ジャクソンや80年代にジャム&ルイスが手がけた作品からの影響について話されていましたが、例えば、その大好きだったR&Bやソウル・ミュージックの中にはシャーデー(Sade)も入っていたりしますか。

ファビアナ:シャーデーは大好きです。ただ、ちゃんと聴くようになったのはここ2、3年です。彼女の音楽はもちろん、その雰囲気やルックス、そしてミュージシャンとしてのエネルギーにとても惹かれます。彼女からはたくさんの刺激やインスピレーションをもらっているし、私にとって間違いなく大きな存在ですね。

——デビュー・アルバムの「Fabiana Palladino」ではさまざまなアコースティック楽器と並んで、シンセサイザーが効果的に使われているのが印象的です。いわゆるエレクトロニック・ミュージックと呼ばれる音楽とはどのように接してこられたのか、興味があります。

ファビアナ:私はエレクトロニック・ミュージックをそれほどたくさん聴いてきたわけではないけれど、好きなアーティストの中にはエレクトロニック・サウンドを取り入れて“遊んでいた”時期がある人がいます。その代表格がプリンスで、彼は80年代にドラムマシンやシンセサイザーを活用していました。ただ、私がそうした音楽に興味を持つようになったのは、実際に自分で音楽をつくり始めてからで、一緒に仕事をしたアーティストたちからの影響が大きいと思います。

例えばSBTRKTはその一人です。前(2014年)に彼のバンド・メンバーとして「フジロック」に出演したことがあるのですが、その経験を通じて、エレクトロニック・ミュージックへのアプローチの仕方や、ソングライティングと融合させる方法を学びました。さらに、サンファのようなアーティストをフィーチャリングする現場——特にアルバム「Wonder Where We Land」(14年)の制作過程――を間近で見ることで、多くのインスピレーションをもらいました。なので、SBTRKTからは間違いなく大きな影響を受けていますね。

——SBTRKTと制作を共にした中で特に印象的だったことはなんですか。

ファビアナ:彼のライブをつくり上げるアプローチやショーの構成は、本当に刺激的で独特なものでした。というのも、彼の音楽ではたくさんのことが“起こっている”からです。たくさんのドラム、たくさんのシンセ、たくさんのボーカルが織り交ざり、それらをまとめてライブで表現する方法を見つけるのはものすごく複雑な作業でした。でも、彼はそれを驚くほど見事にやってのけた。それも全て生演奏で。バックトラックに頼ることなく、全てのシンセがライブで演奏されていて、とても難易度が高い。成功させるまでには何度も試行錯誤が必要でしたが、彼が最終的につくり上げたものは本当にエキサイティングで、斬新で、大きな影響力があったと思います。

ジェイ・ポールとの協業

——ちなみに、ファビアナさんはクラブに行ったりしますか。

ファビアナ:ノー(笑)。めったに行かないですね。

——今作であなたと共同プロデューサーを務めているジェイ・ポールといえば、アンダーグラウンドなクラブ/エレクトロニック・ミュージックのイメージがありますが、彼とはどのようにして出会ったのでしょうか。

ファビアナ:出会ったのはクラブとは全く関係ない場所でした(笑)。彼からメールが届いたんです。私は彼のことを知らなかったし、共通の友人もいなかったのですが、彼はSoundCloudで私の音楽を聴いたことがあったそうで。彼が制作中の音楽でボーカルを探しているという話を聞いて、なんとなく会うことになったんです。そのころ、彼は次に何をしようか考えていた時期で、兄(A. K.ポール)と一緒にレーベル(「Paul Institute」)を立ち上げることを決めたばかりでした。それで、一緒に仕事をするアーティストを探していて。だから、私にとっては全てが絶妙なタイミングで重なった瞬間だったんです。

私は彼の音楽の大ファンで、彼を通じてアンダーグラウンドな音楽からも影響を受けているのを感じます。彼の音楽はとても折衷的ですが、その中に“ソングライター”としての要素がしっかりあって、単なるアンダーグラウンドにとどまらない音楽性も持ち合わせている。そこが彼の音楽の好きなところだし、私にとって刺激的なんです。

——実際に彼と一緒に作業してみてどうでしたか。

ファビアナ:ジェイってとても本能的な人です。私が彼と一緒にやり始めたころには、すでにほとんどの曲を自分で書いてて、6、7割くらいは自分でプロデュースしてたんです。それで彼に曲を聴かせたら、すぐにドラムマシンをいじり始めたり、ギターを弾いたり、いろんな楽器を次々と演奏しだして。彼って直感でどんどん音を重ねていくタイプなんです。だから私たちの間では特に話し合う必要もなく、自然と何か面白いものが生まれてくる感じでした。

彼のアイデアって、いつも私の音楽を引き上げてくれるんです。彼は私とは違ったアンダーグラウンドなエレクトロニック・ミュージックのアプローチを持っていて、私よりずっと実験的です。私はどちらかというとクラシックなスタイルだから、彼みたいな人と一緒にやることで、すごくいい化学反応が起きてるし、うまくハマってる気がします。

——ちなみに、ジェイ・ポールは素性がミステリアスな印象が強いですが、彼の人となりが分かるようなエピソードはありますか。

ファビアナ:たくさんありますよ(笑)。ジェイはとても愉快で、ユーモアのある人です。彼の音楽には独特な……なんというか、イギリス的なユーモアが詰まっていて。例えば「ハリー・ポッター」のサンプルを使ったり、挑発的で不遜な雰囲気があるんです。だから、一緒に仕事をしていて本当に楽しい。彼は気取らない人で、尊大な態度を取らない。何でも試してみるし、くだらないことだってやってみる。彼にとって音楽はとても大切なものだけど、いつも真面目にやっているわけじゃない。だからこそ、彼の音楽には遊び心が感じられて軽快なんだと思います。

MV、アートワークについて

——アルバム収録曲の「I Can't Dream Anymore」のMVでは、ファビアナさんが「コンセプター」としてクレジットされています。海や船上のシーンと、船内やベッドルームのシーンとの対比がとても印象的ですが、制作の背景について教えてください。

ファビアナ:その曲をつくったのはロックダウン中で、隔離された状態で1人、夜遅くまで作業していました。その時に、ラジオで「Shipping Forecast(船舶気象予報)」を聴いていたんです。昔から続いている番組で、船乗りやボートを持つ人たちに向けて海の情報を放送しているものなんですけど、あの時の私はそれを聴くことが心の癒しになっていて。実は私以外にも、深夜にリラックスするために聴いている人が結構いたみたいなんです。

それで、母がその放送を曲に入れるアイデアを思いついたんです。そして、そのことを母に話したら「船の上でビデオを撮るべきよ」って言われて。すると母は「Radio Caroline」のことを教えてくれました。それは60年代にあったイギリスの伝説的なラジオ局で、海賊ラジオの元祖だったそうです。そこから少し調べてみて、レーベルの人にそのアイデアを話したところ、(ラジオ局が置かれていた)当時の船がまだ一つ残っているのを探し出してくれて、そこで撮影できることになったんです。とても楽しくてエキサイティングな経験でした。視覚的にも曲の世界を表現できた素晴らしい作品になったと思います。

——ビデオでのファビアナさんはとても自然体に見えましたが、実際はどうでしたか。

ファビアナ:いや、とても不自然だったと思います(笑)。そうならざるを得なかったというか、経験がないことだったので難しかったですね。でも、演技の楽しさを味わうためにベストを尽くしました(笑)。

——音楽一家で育ったファビアナさんですが、音楽以外で自分を形づくったアート、映画や小説でも何かあったら教えてください。

ファビアナ:音楽ほどではないけれど、視覚的な要素は間違いなく私にとって重要なものです。例えば、「Paul Institute」からリリースされた最初の3枚のシングルはSFの影響を受けていて、それは彼ら(ジェイとA. K.ポール)との共通の趣味でもあります。私はずっとSFやファンタジーが大好きで、そうした作品に登場する、ちょっと過激で独特なビジュアルに惹かれていたんです。その影響がアルバムに直接的に反映されているわけではないけれど、シンセサイザーを使ってそうした世界観を音でつくり出そうとしたり、間接的な形で反映されている部分はあると思います。

——ちなみに、どんなファンタジーやSF作品が好きなんですか。

ファビアナ:エイリアン・シリーズが大好きなんです。特に「エイリアン」と「エイリアン2」にはとても影響を受けました。他にも好きな作品があって、ここ数年で観た中では、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」や「DUNE/デューン 砂の惑星」が特に印象に残っています。とても衝撃を受けた作品ですね。

——デビュー・アルバムはアートワークもとても印象的です。ベルリン時代のデヴィッド・ボウイや、グレイス・ジョーンズの作品も連想させる、無機質さとセンシュアルな魅力を併せ持ったイメージに惹かれます。

ファビアナ:(アートワークでは)曲の雰囲気や、アルバムをつくっていた当時の気持ちを表現したかったんです。その時期は、COVID-19の影響でかなり孤立していて、それ以外にも個人的な理由があって、内省したり過去を振り返ったりする時間でもありました。だから、アルバムのサウンドを反映したものにしたかったし、ノスタルジックな感じを取り入れながらもモダンな雰囲気を残して、その2つを融合させるようなアプローチを目指したんです。

それで、“孤独な人物像”について考え始めたとき、すぐにフィルム・ノワールや1940年代のミステリアスな深夜の街の映像が頭に浮かびました。それが最初のコンセプトだったんです。そして、グレイス・ジョーンズやデヴィッド・ボウイは間違いなく私のイメージボードにありました。彼らはロールモデルのような存在で、特にボウイの「ロウ(Low)」のような雰囲気は意識していました。とても印象的で大胆でありながら、どこかミステリアスなものにしたかったんです。

ファッションのこだわり

——アートワークと同様に、アーティスト写真やステージでの「ファッション」も、音楽や作品の世界観を形づくる大事な要素ですよね。その辺り、どんなこだわりがありますか?

ファビアナ:ステージで何を着るかは、今も試行錯誤しているところです。自分らしさを保ちつつ、より洗練された、進化した自分を見せたい。でも、コスチュームっぽくなるのは嫌なんです。私はファッションが大好きだから、ファッションとコスチュームをうまくミックスさせたいと思っていて、そういうことをよく考えています。どうやったらうまくまとめられるか、ずっと模索してますね。ただ、快適さも大事で。暑すぎたり寒すぎたりするのはダメで、そのバランスを取るのが難しい。だから、いろんなアーティストを参考にしてきてて、例えばPJハーヴェイはとても素晴らしいと思う。彼女のスタイルは本当にユニークで、ファッションとコスチュームが見事にミックスされている。特に90年代の彼女のスタイルが大好きで、過去にやってきたことや今やっていることにもすごく惹かれます。

——ファビアナさんというと、スーツ姿の印象が強くあります。

ファビアナ:そう、そこについては、ある意味でジェンダーに関係しているんです。私は、すごく女性的でも、すごく男性的でもなくて、ちょうどその中間なんです。アンドロジニー(両性具有)のような感覚にずっと共感してきました。時にはおてんば娘のようになりたいと思うこともあれば、フェミニンでいたい時もある。その2つをミックスするのが好きなんです。スーツは男性的な象徴でありながら、ビジュアル的にも力強くて、ステージ映えする。ステージに立つと、パワフルで強い自分を感じることができる。それが(スーツを着る)理由ですね。

——アンドロジニーという話は、先ほど名前をあげたボウイやグレイス・ジョーンズともつながるところですね。

ファビアナ:そうですね。2人ともインスピレーションを与えてくれるアーティストです。特にボウイは私にとって大きな存在です。

——音楽的な部分でもボウイから受けた影響は大きいですか。

ファビアナ:そうですね。彼は私が13歳か14歳のころからずっと大好きなアーティストの1人だったんですが、この半年くらい、彼のライブ映像を見たり、インタビューや晩年の作品をたくさんチェックして、改めてハマってしまいました。ずっと好きだったのに、今まで聴いたことのない曲や知らなかった一面もたくさんあって、知るたびに本当にすごいなって。これまで以上に彼を深く知ることができて貴重な経験になっているし、インスパイアされてますね。

——ちなみに、オフのファッションのこだわり、最近買ったお気に入りのワードローブを教えてください。

ファビアナ:昨夜のステージでも着た「ガニー(GANNI)」のジャケットを買いました。「ガニー」は好きなブランドで、このジャケットはシンプルで着心地が良くて気に入っています。あと、「ディーゼル(DIESEL)」のブルーのベルベットパンツもお気に入りです。それから靴は……そう、「アディダス(ADIDAS)」のテコンドーシューズ。これが大好きなんです。「アディダス」とかスポーツウエアが好きで、「Paul Institute」のスタイルにも通じる雰囲気があるんです。着心地が良くて生地もいいものが好きで、年齢を重ねるにつれて品質にもこだわるようになりました。だから、少しずつ質の良いブランドのものを集めたいなって思っています(笑)。

坂本龍一の大ファン

——ところで、ファビアナさんにとって「日本の音楽」というとどんなイメージをお持ちですか。「日本」から連想する音楽は?

ファビアナ:坂本龍一さんの大ファンなんです。昨夜のセットでは、彼の「Rain」を少しだけ演奏しました。他に好きなアーティストだと、小さいころから聴いて育った阿川泰子さん。それから、私の友人の何人かが(宇多田)ヒカルさんのツアーで彼女のバンドに参加しているので、最近は彼女の音楽もチェックしています。

——坂本龍一の音楽とはどのように出会ったんですか。

ファビアナ:きっかけは父なんです。父は90年代に坂本龍一さんの「Heartbeat」というアルバムでベースを弾いていて。ミュージシャンの友人たちも坂本龍一さんにすごく影響を受けていて、それで私も改めて彼のことを知るきっかけになりました。昨年公開された坂本龍一さんの最後のパフォーマンスを記録した映画「Ryuichi Sakamoto | Opus」も観に行きました。本当に素晴らしい映画でした。

——最後に、デビュー・アルバムをセルフタイトルにした理由について改めて教えてください。

ファビアナ:そう……タイトルを決めるのは本当に難しかったですね。いくつか他の候補も考えたんですが、どれもしっくりこなくて、結局セルフ・タイトルに落ち着きました。でも、これが私の初めてのアルバムにふさわしい気がしたんです。完成するまでにとても時間がかかったし、すごく個人的で内省的な作品になったから。なので、自分の名前をつけることに意味があるって思ったんです。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA

デビュー・アルバム「Fabiana Palladino」

■ Fabiana Palladino
release: 2024年4月5日
TRACKLISTING:
01. Closer
02. Can You Look In The Mirror?
03. I Can’t Dream Anymore
04. Give Me A Sign
05. I Care
06. Stay With Me Through The Night
07. Shoulda
08. Deeper
09. In The Fire
10. Forever
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=13882

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石川に日本最大の「観光できる繊維工場」、カジグループが社運をかけ70億円を投じたワケ

カジグループは4月10日、石川県かほく市に70億円を投じた新工場「カジファクトリーパーク(KAJI FACTORY PARK)」を稼働させる。同社は極薄のナイロン織物で世界でトップクラスの実力を持つ企業だが、企業規模は年商で数百億円の前半と見られる。そう考えると、70億円を投じて工場を新設すること自体が、かなり異例だ。加えてクラフトツーリズム(産業観光)型の工場として位置付け、4.3万㎡の敷地に織物生産工場のほか同社が展開するトラベル雑貨ブランドの「トゥー アンド フロー(TO&FRO)」、ファクトリーブランドの「ケースリービー(K−3B)」の店舗、レストラン、北陸産の漆器や雑貨などを集めたセレクトショップを集積する。敷地内には子ども用の遊具や樹齢1000年のオリーブの木、多数のベンチなども配置する。

大手企業ですら繊維事業から撤退するなど日本の繊維産業自体が苦戦する中、同社はなぜ新工場を新設したのか。梶政隆・社長に聞いた。

繊維では異例の観光できる工場「ファクトリーパーク」
樹齢1000年のオリーブの木も

WWD:「ファクトリーパーク」と銘打って、建物の中にはセレクトショップやレストラン、敷地内には樹齢1000年のオリーブや子どもの遊具、多数のベンチも設置した。

梶政隆カジグループ社長(以下、梶):いいでしょ。とてもワクワクしている。お客用の駐車場の隣には「ウェルカムガーデン」。ここは子ども用の遊具をたくさん作った。夏になるとグルグル動き回る10数個のウォータージェットが出るようになってて、水遊びができる。そのままスロープを上がると、南イタリア産の樹齢1000年とスペイン産の樹齢500年のオリーブの木のある「オリーブガーデン」。晴れた日にはベンチに座ってコーヒーを飲みながら立山連峰を眺めると気持ちいいんだ。

WWD:斜陽と言われる繊維産業の中で、70億円を投じて工場を新設した。投資の原資は?

梶:大半が銀行からの借り入れだ。実は当社はかなり財務体質が良かったが、工場の新設でだいぶ悪化した。

WWD:なのに樹齢1000年のオリーブの木など、繊維工場としては異例づくめの作りだ。なぜこのような工場を?

梶:このオリーブの木一つで織機が3台買えてしまう。だが、工場を観光地のように常に人が集まる場所にしたかった。「なぜファクトリーパークにしたか?」ということへのアンサーは、まさに「斜陽」と言われる繊維産業のイメージを変えたかったからだ。10年先、30年先を考えると、「雇用問題」はまさに経営危機と直結する。ただでさえ人手不足なのに、「斜陽」というイメージがあればさらに人は来ない。当社は2034年で創業100年を迎えるが、このまま何もしなければ人手不足に陥るのは目に見えている。特に当社は極細のナイロンを使って1メートルで10グラム前後という極薄織物が得意で、扱う糸が細いため、目のいい若い人が定期的に入ってこないと、事業自体が立ち行かなくなる。そういった危機感が強い。

WWD:以前からテキスタイルのブランディングに力を入れてきたが。

梶:もう一つの狙いはブランディングだ。当社はグループ内に糸加工や繊維機械の企業を所有しており、細かい工夫を積み重ねて極薄のナイロン生地を製造している。ナイロンの極薄生地に関しては、今なお世界のトップクラスのポジションにいると自負している。ただ、いくら世界でトップレベルのナイロン生地を作れる、と言ってもなかなか売値には跳ね返ってこない。最終消費者へのリーチが足りなていないからだ。2012年からトラベルグッズブランドの「トゥー アンド フロ-
」、19年にはファクトリーブランドの「K−3B」を立ち上げ、20年にはテキスタイルブランド「カジフ(KAJIF)」もスタートした。全てブランドを通じて直接、消費者にテキスタイルの付加価値の高さをアピールしたかったからだ。

WWD:「ファクトリーパーク」の構想はいつから?

梶:工場の新設自体は2017年ごろから考えていたが、当初はサステナブル対応の工場にしようかな、くらいの感じだった。ただ、縁があってこのかほく市の1万坪の敷地を見た瞬間に、ぱっととひらめいた。ずっと頭を悩ませていた人手不足やテキスタイルのブランディング、工場の新設が有機的につながって「パーク構想」が見えた。

WWD:トータルディレクターにはメソッドの山田遊代表、植栽・ガーデンにはプラントハンターの西畠清順氏、内装には佛願忠洋(ぶつがん・ただひろ)ABOUT代表とクリエイターを巻き込んだ。

梶:ファクトリーパーク構想がひらめいてから、一人ひとり個別に私の方から声をかけた。ファクトリーパーク構想を実現する上で、鋳物の能作が仕掛ける富山県の高岡市、スイーツのたねやによる「ラコリーナ近江八幡」、コスメ大手のSHIROの手掛ける北海道の砂川など、日本の産業観光の主だったところにはすべて足を運んで回って、勉強しながら、クリエイターたちと一緒に中身を練った。ブルネロ・クチネリのソロメオ村も直接行ったことはないが、ネットや本など手に入る情報にはすべて目を通した。

WWD:目指すのは?

梶:工場自体は2024年12月に織機が全部入って稼働しており、年明けからはすぐにフル稼働になった。延床面積は工場や店舗、レストランなどを含め2層で1万1219㎡。165台のウォータジェット織機を新たに導入した。ここから車で10分の距離にある高松工場(織機250台)も含めると、年産の織物生産は1000万㎡になる。

梶:新工場の設立を機にDX投資もかなり行った。今は高松工場も含めて織機も1台単位で稼働率をモニタリングできるようになっている。実は生産効率の面でかなり大きく、投資の返済原資はこの部分の粗利の増加分だ。

梶:ビジネスの面で言えば、テキスタイルのブランディングに成功したら、例えば当社の生地の平均単価900円が100円上がれば、年間1000万mの当社からするとそれだけで収益は10億円アップする。借金なんてすぐに返せる(笑)。

梶:これまでずっと、当社に限らず、テキスタイル、あるいは日本の繊維業界のイメージアップのため、何をすればいいのか考え続けてきた。繊維は衣・食・住の一つを担う重要な産業で、しかも日本の繊維は世界的にも高い技術や競争力を持つ。なのに、全然アピールができていない。この新工場は、「斜陽」みたいなイメージを払拭し、重要な産業であることを日本全体にアピールするの試金石だ。ここからいろんなモノ・コトを仕掛けていく。すでにいくつかのブランドとは協業して一緒に展示会やファッションショー、フェスをやろうという話が進んでいる。繊維やファッションだけでなく、エンタメやエレクトロニクスなどこれまで当社として接点のなかった異業種コラボレーションにもぜひ取り組みたい。目指すは、多彩な人が行き交う「イノベーションのハブ」。

こうしたイベントなどを仕掛けるため、新たに10人の専任スタッフで「産業観光部」も発足した。当社は24時間操業だが、正月とお盆などの工場が休みの日には、寿司や焼き肉などのマルシェを開いたっていい。

かほく市自体が実はとても素敵なところだが、宿泊施設などが少ない。工場のすぐ裏が海辺になっていて、とても気持ちのいい場所があり、そこにレストランや小さなホテルを誘致して、かほく市自体をもっと盛り上げたいとも思っている。今回は多彩なクリエイター後からも借りた。そうしたクリエイターも含め、この工場をハブにしてかほく市を盛り上げ、いずれは市全体のGDPを上げる。本気だ。

WWD:今後は?

梶:100年先も生き残るための投資と考えれば、70億円も100で割ったら大したことではない。繊維はまだまだ可能性はある。先ほど異業種交流と言ったが、実は繊維産地同士の交流だってまだまだ少ない。他の繊維産地とも一緒にぜひコラボレーションしたい。まずはぜひ工場を見に来てほしい。当社は何も隠さないオープンファクトリーでもある。これから先、現時点では僕が想像できないことがどんどん起こる。それに本当にワクワクしている。

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ステラ・マッカートニー、サステナに迷い、向き合う次世代に語る責任ある創造

デザイナーのステラ・マッカートニー(Stella McCartney)がこのほど来日し、三越伊勢丹が主催する「三越伊勢丹ミライアワード」に参加した。「三越伊勢丹ミライアワード」は、さまざまな企業から集めた残反などを素材に、服飾学校の学生たちが作品づくりに取り組むアワード企画。2023年に続く2回目の開催となった今年は、エスモード東京校、東京モード学園、文化服装学院の学生らが参加した。

ステラは同アワードの審査員を務めたほか、文化服装学院で開催された特別トークショーにも登壇。浅尾慶一郎環境大臣と近藤詔太・伊勢丹新宿本店店長と共に、サステナビリティに取り組む意義などについて語った。イベントを終えたステラに、若手に期待することや今のファッション産業についての考えを聞いた。

WWD:「三越伊勢丹ミライアワード」に参加した感想は?

ステラ・マッカートニー(以下、ステラ):とても楽しかったわ。学生たちの作品はどれも非常にレベルが高くて、本当に驚いた。彼らがどれだけ真剣に取り組んだのかが、作品を通じてしっかりと伝わってきた。次世代デザイナーの作品を審査する機会はたびたびあるけど、ここまで優秀な作品ばかりのアワードは珍しい。優秀作品を選ぶのが本当に大変だったくらいよ。

WWD:若手のクリエイションを評価する際に大事にしている視点は?

ステラ:創造性とアイデア、パターンカッティングの精度といったテクニック。そしてサステナビリティ。それから、よく学生たちに聞くのは、自分がそれを本当に着たいかどうか。コスチュームではなく、ちゃんと着たいと思うものに仕上げているかは大切だと思う。

責任あるクリエイションこそファッショナブル

WWD:サステナビリティに真面目に取り組もうとするあまり、自分らしいクリエイションを発揮しきれない学生も多い印象だ。

ステラ:サステナビリティがクリエイションの障壁になってはいけないと思う。もちろん、素材のバリエーションには制限があるけど、本来そういう時こそよりクリエイティビティーを発揮するべきだと思う。私でさえいまだに使いたい素材はあっても、デザインを変えなければいけなかったり、欲しい色が実現しなかったり、毎度何かしらの壁にぶつかって奮闘している。でも、どうやったら“マッシュルームレザー“を調達できるか、ペットボトル由来の糸で理想とするボリューミーなニットウエアを作れるか、そういうことを考える工程こそクールでファッショナブルだと思う。

WWD:一方で、サステナビリティを自分ごと化しきれない学生もいる。

ステラ:素材の製造過程で行われていることを知れば、迷いもなくなるんじゃないかしら。たとえば、「こちらのレザーは、牛を殺して人々がガンになるようなリスクのある化学薬品を使いながら作られています。加えて、森林を伐採して作られた穀物は、飢餓に苦しむ人々ではなく、バッグになるための牛の食糧になっています」としか思えない素材と、「こちらの“マッシュルームレザー“は、そうした犠牲がなく作られています」と思える素材。この2つを並べられた状態で前者と後者を迷うなんてありえないと思う。必要なのは、十分な情報と代替素材へのアクセス。そして、サステナブルな選択をしやすくなる法律。昨日環境大臣にお会いした際には、「責任は私でもなく、若手でもなく、行政側にあるのよ」ときちんと伝えたわ。

WWD:トークショーでは、「作る責任との狭間で葛藤しています」と言った悩める学生からの質問が印象的だった。

ステラ:彼らとの交流は楽しかった。私の世代は孤独だったから。今私が実践していることの価値を本当に理解してくれているのは、若い世代の人たちだと感じている。

ショーは見る人が動物と地球への敬意を思い出すきっかけに

WWD:パリで発表したばかりのコレクションでも多くのイノベーティブな代替素材が登場した。

ステラ:スネークレザーのように見える素材は、キノコの菌糸体由来。スパンコールもすべて木材や再生可能なバイオマス原料からできているの。従来のスパンコールは石油やガソリンから作られていて、マイクロプラスチックを発生させるし、分解されないし地球にとっては悪いことばかり。正直、もっと厳しく規制されるべきだと思う。スネークのモチーフを使ったのは、かつて人間が文化の中で、蛇をとても神聖な存在として扱ってきた歴史を祝福する目的もあった。今では残虐に殺されて皮をはがれている蛇もいる。でも昔は蛇を尊敬し、崇拝していた。多くの動物との関係性についても、同じようなことが言える。特に日本人に対して声を大にして言いたいのは、捕鯨は禁止すべきということね。

WWD:近年はショー会場で新聞を配ったり、マルシェを開催したりと、多くの情報を発信しているのは、人々を教育するため?

ステラ:私はただ情報を伝えたいだけなの。動物の命の尊さや、当たり前に使用している素材の環境負荷を少しでも人々に思い出してほしい。そしてそれを美しい形で伝えようと努力している。例えば昨シーズン発表したニットウエアも、誰もあれがペットボトルから作られているなんて分からない。見た人の多くは「すごいデザイン!」って思うだけ。でも、たった一人でもちゃんと読んで、いろんな情報を知ってくれたらそれでいい。誰もやらないのだから、それが私の役割なんだと自覚している。

WWD:特に若い世代には、ステラと考えを共有する人物も多いはず。ファッションや音楽、アートなど今注目している若手はいる?

ステラ:情熱を持って活動している人たちはたくさんいると思う。ビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)とかはまさにそうだけど、残念ながらファッション業界の中では本当に少ない。細かくは追えていないけど、若いデザイナーが私と同じような視点を持っていることは知っているし、これからの産業にはそういう人たちにあふれてほしいと願っているわ。

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ステラ・マッカートニー、サステナに迷い、向き合う次世代に語る責任ある創造

デザイナーのステラ・マッカートニー(Stella McCartney)がこのほど来日し、三越伊勢丹が主催する「三越伊勢丹ミライアワード」に参加した。「三越伊勢丹ミライアワード」は、さまざまな企業から集めた残反などを素材に、服飾学校の学生たちが作品づくりに取り組むアワード企画。2023年に続く2回目の開催となった今年は、エスモード東京校、東京モード学園、文化服装学院の学生らが参加した。

ステラは同アワードの審査員を務めたほか、文化服装学院で開催された特別トークショーにも登壇。浅尾慶一郎環境大臣と近藤詔太・伊勢丹新宿本店店長と共に、サステナビリティに取り組む意義などについて語った。イベントを終えたステラに、若手に期待することや今のファッション産業についての考えを聞いた。

WWD:「三越伊勢丹ミライアワード」に参加した感想は?

ステラ・マッカートニー(以下、ステラ):とても楽しかったわ。学生たちの作品はどれも非常にレベルが高くて、本当に驚いた。彼らがどれだけ真剣に取り組んだのかが、作品を通じてしっかりと伝わってきた。次世代デザイナーの作品を審査する機会はたびたびあるけど、ここまで優秀な作品ばかりのアワードは珍しい。優秀作品を選ぶのが本当に大変だったくらいよ。

WWD:若手のクリエイションを評価する際に大事にしている視点は?

ステラ:創造性とアイデア、パターンカッティングの精度といったテクニック。そしてサステナビリティ。それから、よく学生たちに聞くのは、自分がそれを本当に着たいかどうか。コスチュームではなく、ちゃんと着たいと思うものに仕上げているかは大切だと思う。

責任あるクリエイションこそファッショナブル

WWD:サステナビリティに真面目に取り組もうとするあまり、自分らしいクリエイションを発揮しきれない学生も多い印象だ。

ステラ:サステナビリティがクリエイションの障壁になってはいけないと思う。もちろん、素材のバリエーションには制限があるけど、本来そういう時こそよりクリエイティビティーを発揮するべきだと思う。私でさえいまだに使いたい素材はあっても、デザインを変えなければいけなかったり、欲しい色が実現しなかったり、毎度何かしらの壁にぶつかって奮闘している。でも、どうやったら“マッシュルームレザー“を調達できるか、ペットボトル由来の糸で理想とするボリューミーなニットウエアを作れるか、そういうことを考える工程こそクールでファッショナブルだと思う。

WWD:一方で、サステナビリティを自分ごと化しきれない学生もいる。

ステラ:素材の製造過程で行われていることを知れば、迷いもなくなるんじゃないかしら。たとえば、「こちらのレザーは、牛を殺して人々がガンになるようなリスクのある化学薬品を使いながら作られています。加えて、森林を伐採して作られた穀物は、飢餓に苦しむ人々ではなく、バッグになるための牛の食糧になっています」としか思えない素材と、「こちらの“マッシュルームレザー“は、そうした犠牲がなく作られています」と思える素材。この2つを並べられた状態で前者と後者を迷うなんてありえないと思う。必要なのは、十分な情報と代替素材へのアクセス。そして、サステナブルな選択をしやすくなる法律。昨日環境大臣にお会いした際には、「責任は私でもなく、若手でもなく、行政側にあるのよ」ときちんと伝えたわ。

WWD:トークショーでは、「作る責任との狭間で葛藤しています」と言った悩める学生からの質問が印象的だった。

ステラ:彼らとの交流は楽しかった。私の世代は孤独だったから。今私が実践していることの価値を本当に理解してくれているのは、若い世代の人たちだと感じている。

ショーは見る人が動物と地球への敬意を思い出すきっかけに

WWD:パリで発表したばかりのコレクションでも多くのイノベーティブな代替素材が登場した。

ステラ:スネークレザーのように見える素材は、キノコの菌糸体由来。スパンコールもすべて木材や再生可能なバイオマス原料からできているの。従来のスパンコールは石油やガソリンから作られていて、マイクロプラスチックを発生させるし、分解されないし地球にとっては悪いことばかり。正直、もっと厳しく規制されるべきだと思う。スネークのモチーフを使ったのは、かつて人間が文化の中で、蛇をとても神聖な存在として扱ってきた歴史を祝福する目的もあった。今では残虐に殺されて皮をはがれている蛇もいる。でも昔は蛇を尊敬し、崇拝していた。多くの動物との関係性についても、同じようなことが言える。特に日本人に対して声を大にして言いたいのは、捕鯨は禁止すべきということね。

WWD:近年はショー会場で新聞を配ったり、マルシェを開催したりと、多くの情報を発信しているのは、人々を教育するため?

ステラ:私はただ情報を伝えたいだけなの。動物の命の尊さや、当たり前に使用している素材の環境負荷を少しでも人々に思い出してほしい。そしてそれを美しい形で伝えようと努力している。例えば昨シーズン発表したニットウエアも、誰もあれがペットボトルから作られているなんて分からない。見た人の多くは「すごいデザイン!」って思うだけ。でも、たった一人でもちゃんと読んで、いろんな情報を知ってくれたらそれでいい。誰もやらないのだから、それが私の役割なんだと自覚している。

WWD:特に若い世代には、ステラと考えを共有する人物も多いはず。ファッションや音楽、アートなど今注目している若手はいる?

ステラ:情熱を持って活動している人たちはたくさんいると思う。ビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)とかはまさにそうだけど、残念ながらファッション業界の中では本当に少ない。細かくは追えていないけど、若いデザイナーが私と同じような視点を持っていることは知っているし、これからの産業にはそういう人たちにあふれてほしいと願っているわ。

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注目のオルタナティブK-POPバンド、Balming Tiger(バーミングタイガー) そのルーツは? 

PROFILE: Balming Tiger(バーミングタイガー)

PROFILE: 韓国で2018年に結成されたオルタナティブK-POPバンド。11人のメンバーで楽曲制作、MV撮影、パフォーマンス、PRなど、全てのプロセスを自分たちで行なっている。デビューシングル「I’m Sick」で注目を集め、19年にリリースされた「Armadillo」では韓国ヒップホップアワードにてMusic Video Of The Yearを受賞し着実に韓国国内の音楽シーンに影響を与えた。そして22年にはBTSのリーダーRMを迎えた「Sexy NUKIM」をリリースし、世界中に新たなK-POP現象の風を吹き込んだ。23年に1stスタジオアルバム「January Never Dies」を、24年11月にEP「Greatest Hits」をリリースした。

2018年に結成されたオルタナティブK-POPバンド、Balming Tiger(バーミングタイガー)。さまざまな才能を持った11人のメンバーで構成されておるオルタナティブ・コレクティブだ。ポップス、ヒップホップ、ロック、エレクトロニカなどさまざまなジャンルを取り入れた音楽で、韓国国内で独自のスタイルを確立している。22年にはBTSのリーダーRMを迎えた「Sexy NUKIM」をリリースし、一躍注目される存在になった。

今年はNHKドラマ「東京サラダボウル」の主題歌を担当したり、坂本龍一トリビュートフェス「RADIO SAKAMOTO Uday」にも出演。「フジロック ’25」への出演も決定するなど、日本での活動も徐々に増えている。今回、Balming Tigerのサンヤン(San Yawn)、オメガサピエン(Omega Sapien)、ソグム(sogumm)、bjウォンジン(bj wnjn)、マッド・ザ・スチューデント(Mudd the student)、イ・スホ(Leesuho)の6人に、メンバーのことや影響を受けた音楽、ファッションのこだわりを聞いた。

「意見の衝突を避けようとはしない」

——Balming Tigerはメンバー構成が流動的なチームですよね。まず、現在はどんな構成で活動しているか教えてください。

イ・スホ:今は構成員が11人います。ライブでステージに上がるのは、ここにいるオメガサピエン、ソグム、bjウォンジン、マッド・ザ・スチューデントとプロデューサー、映像監督の僕、イ・スホの5人。サンヤンさんはリーダー兼クリエイティブディレクター兼プロデューサー。あとは音楽プロデューサーのアンシカブル(Unsinkable)さん、実務を担当する、マーケターのヘンソン・ファン(Henson Hwang)さんとA&Rのアビス(Abyss)さん。映像監督のジャン・クィ(Jan'Qui)さん、ビジュアルアーティストのホン・チャニ(Hong Chanhee)さん。チャニさんはBalming Tiger全体のデザインの他、映像を含む撮影、スタイリングなどマルチに活躍しています。

——さまざまな役割を持つメンバーが集まっていますが、クリエイティブ制作はいつも楽曲から始まるのか、それともパフォーマンスやアートワークが先行することもあるのか……どのように進むのでしょうか?

サンヤン:多くの場合は音楽から始まるのですが、ケースバイケースです。「こういう映像を作りたい」というイメージから出発することもあるし、1枚の写真から曲作りが始まることもある。柔軟にやっています。

——メンバー間で意見がぶつかることはないですか?

オメガサピエン:(日本語で)社長(サンヤン)のリーダーシップがすごいので、大丈夫です!

サンヤン:(笑)。意見の衝突を避けようとはしないですね。それぞれに強いこだわりがあったらしっかり主張して、相手に分かってもらうように言葉を尽くすこともあります。

ソグム:いつも本当にいろんな意見が出るし、その衝突の中から生まれてくるものも多くて。それが私たちの制作において、いいエッセンスになっているんじゃないかな。常にそうしたプロセスを楽しみながら、Balming Tigerのならではの色を探求している感覚。すごく希望に満ちていると思います。

メンバーの音楽ルーツは?

——なるほど。Balming Tigerは“オルタナティブK-POP”を掲げていて、さまざまなジャンルを自由自在に取り込んでいる印象があります。皆さんそれぞれ音楽のルーツも異なるんでしょうか。

オメガサピエン:若い頃の自分にとっては、内面に湧き起こる感情を正直に外に出すことが大事で。そういったところから、ヒップホップに惹かれるようになりました。

イ・スホ:僕も同じで、若い頃はヒップホップやエレクトロニカなど、尖ったものを中心に聴いていました。怒りの感情などを素直に出せるタイプではなかったので、そうした音楽を聴くことで昇華していた部分もあると思います。

マッド・ザ・スチューデント:いつも姉が家でいろいろな音楽をかけていて。ポップにロック、ヒップホップ、エレクトロニカ……ジャンルもさまざまで、大きな影響を受けたと思います。ロックを熱心に聴いていた時期もありました。でも最初に楽曲制作をしたのはヒップホップで、そこが自分の基盤になっています。

ソグム:小6のとき、年下のいとこたちと一緒に、保護者なしで中国旅行に行ったことがあるんです。MP3プレーヤーにほんの数曲を入れて持っていったんですが、旅先でBoAさんの「Tree」という曲を夜に聴いて、音楽の力をすごく感じました。韓国語の歌詞がすごく染み渡ってきたんです。自分もそんなふうに音楽で人々を力づけたいと思い、創作活動を志すようになりました。当時の日記にもその決意が残っています。

bjウォンジン:僕はブラックミュージックをたくさん聴いてきました。特にディアンジェロ(D'Angelo)の自由な表現が大好きです。Balming Tigerとして活動しながら、多様な音楽に触れるようになり、いい影響を受けていると思います。

サンヤン:最初はラッパーや歌手になりたくてラップの歌詞を書き始めたのですが、さまざまな音楽を聴いているうちに、プロデューサーや作曲家など、裏方への関心が高まりました。振り返ってみれば僕は、常にプロデューサー型のアーティストに惹かれていて。そこから自然と、Balming Tigerの活動に行き着いたと思います。

——ちなみに、Balming Tigerの楽曲にはトロットなどのエッセンスも感じるのですが、大衆音楽には影響を受けていますか?

サンヤン:メンバーは皆、ロックやフォークを聴き始める前から、ポップミュージックが当たり前にラジオやテレビ、店先で流れている中で育ってきました。なので、やはり根っこには歌謡曲や大衆音楽があると思います。

オメガサピエン:リリックなどを含めてアメリカのヒップホップが最高だと思っていた時期もありましたが、自分の原点に立ち返った時に自然と、自分にとってのK-POPと向き合うようになりました。そこをBalming Tigerでどう表現するかということは、いつも考えていますね。

ファッションのこだわりと日本での活動

——ライブでは曲をただ披露するだけではなく、ダンスなどのパフォーマンスを盛り込んで、視覚的にも楽しませる工夫を凝らしていますよね。

オメガサピエン:僕らはインディペンデントから始まっているので、正直なところ、最初はセッションミュージシャンを雇ったり、LEDでカッコいい映像を流す余裕がなかったことが起点なのですが(笑)、自分たちでパフォーマンスのアイデアをいろいろ出していくことで、制限の中から創意が生まれたと思います。

——衣装は色味を合わせたり同じジャケットを着用したり、いつも統一感がありますが、どのようなこだわりが?

ソグム:そこも最初は、最小限の予算でやらなければならなくて(笑)。制約がある中で、色を合わせたり、ライブをひと目見たときに飛び込んでくるビジュアルを意識したりするようになりました。今は才能ある友人がデザインしてくれています。

サンヤン:やはりバラバラではなく同じ衣装を着て舞台に立つと、自分たちが1つのチームであるという一体感を感じられるんですよね。

ソグム:私はおそろいの衣装でパフォーマンスしていると、奮い立たせられるような感覚があります。あとは欧米でたくさんツアーをやっていく中で、東洋的な美的感覚も意識するようになりました。

サンヤン:YMOのように、東洋的な美学をうまく生かしたグループにもインスピレーションを受けているし、憧れています。

マッド・ザ・スチューデント:あとはもちろん、衣装にもK-POPの影響が自然に入っている気がします。

オメガサピエン:僕は居心地の悪さを演出したい。小さめのTシャツとかをよく着ます。ちょっと今の時代から外れているけど、レトロとは少し違って……7年前くらいの、中途半端な時代のイメージというか。

ソグム:オメガさんはファッションだけじゃなく、音楽の趣味とかも8年遅れているよね(笑)。

サンヤン:やっぱり生き方や性格がファッションにも表れるんだね。

オメガサピエン:ははは(笑)。

bjウォンジン:僕はオリジナルをアレンジしたようなデザインではなく、オリジナルのアイテムをしっかり着るということにこだわっています。

マッド・ザ・スチューデント:レディオヘッド(Radiohead)など90年代のロックスターに影響を受けています。ナチュラルだけどいろんな要素を持っている雰囲気に惹かれて。ビンテージのバンドTシャツを集めるのが好きですね。

ソグム:私は、お母さんが変わった人で、ファッションにもこだわりを持っていたんです。韓服をモダンに着てみたり。私が幼稚園の頃、奉仕活動や社会科見学で外に出るときに、他の子はジャージなど動きやすい服を着て参加していたんですよ。でも私の母は、私にプリンセスドレスを着せようとして(笑)。そういう独特のセンスがあったので、私も影響を受けて、ファッションへの関心や情熱が高まったと思います。

——昨年は渋谷パルコの館内BGMセレクターを務め、今年はNHKドラマ「東京サラダボウル」に主題歌「Wash Away」を提供したり、「フジロック ’25」への出演も決定するなど、Balming Tigerは日本での活動も活発化していますね。今後日本でやってみたいことや、コラボしたいアーティストはいますか?

サンヤン:これから本格的に日本での活動を行っていく予定で、やりたいことはたくさんあります。アニメのテーマソングなども興味がありますね。日本には尊敬しているアーティストがたくさんいるのですが、特に細野晴臣さんが大好きで。いつか一緒に何かできたらうれしいです。

マッド・ザ・スチューデント:僕はNUMBER GIRLが大好きだったので、ZAZEN BOYSとコラボしてみたいです。

オメガサピエン:あいみょんさん!

ソグム:私はアキツユコさん。あとは双子に見立てたセルフポートレートで知られるアーティストのfumiko imanoさんが大好きで、いつかコラボしてみたいです。

サンヤン:それからホンマタカシさんに是枝裕和さん、広瀬すずさん、奈緒さん……。

ソグム:挙げきれないくらいたくさんいます!

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
HAIR&MAKEUP:MAHITO

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「ジーユー」と協業2シーズン目、「ロク」のデザイナーが語る「コラボから受ける刺激」

PROFILE: 韓国ソウル生まれ、米テキサス・オースティン育ち。英ロンドンのセント・マーチン美術大学でメンズウエアとウィメンズウエアを学ぶ。2010年にフィービー・ファイロによる「セリーヌ」で3年間アシスタントデザイナーを経験後、フリーランスデザイナーとして「ルイ・ヴィトン」や「クロエ」のデザインを手掛ける。16年に自身のブランド「ロク」を立ち上げ、18年度の「LVMHプライズ」で特別賞を受賞。19-20年秋冬に初のランウエイショーをパリで発表、以来パリでの発表を続ける PHOTO:SHUHEI SHINE

「ジーユー」は4月4日、ロック・ファン(Rok Hwang)が手掛ける「ロク(ROKH)」との、2シーズン目となるコラボコレクションを発売する。「ジーユー」は2024年9月に満を持してニューヨークに常設出店し、グローバルな存在感を目指す段階にあるが、足元の業績は良いとは言えず、「確固たるブランドポジションの確立」が喫緊の課題となっている。メンズ軸では「アンダーカバー(UNDERCOVER)」の高橋盾と新ライン「ユージー(UG)」を立ち上げ、デザインアプローチを吸収し、商品精度を高めるべく研鑽を積んでいる。では「ジーユー」がウィメンズで胸を借りる相手は誰かというと、それが「ロク」だ。「このコラボは、ジーユーと私たち、どちらにとっても学びがある」と控えめに、穏やかに話すロク・ファンに、前シーズンに続き話を聞いた。

WWD:「ジーユー」との協業は2シーズン目になるが、今回はどのようにアイデアを組み立てていったのか。

ロク・ファン「ロク」デザイナー(以下、ファン):ファーストシーズンに続き“Play in Style”をコンセプトに、いろんな要素やアイテムを組み合わせていくミックスマッチの考え方でコラボレーションに臨みました。「ジーユー」と「ロク」それぞれが得意とする要素と、今シーズンは“ブリティッシュガーデン”の要素も加えて、それらをミックスして面白いものを作りたい、というのが出発点です。“ブリティッシュガーデン”の要素としては、例えばワンピースに取り入れた小花柄です。リボン付きのハットもまさにガーデニングをするときに被るようなスタイルですよね。また、ショート丈のコートは、庭いじりをするときに日差しから守るといったイメージで、ケープのようなシルエットになりました。

WWD:ガーデニングを意識したということは、ロクさん自身、自然との触れ合いを求めている?

ファン:自然がある環境はもともと好きですし、ガーデニングで土いじりをするのは自分を開放していくようなイメージがあります。自分が好きなように花や植物を植えて、遊びを込めて“自由”に庭を作っていく。それって、「ジーユー」に通じるところがあると感じましたし、ガーデニングという要素が、今回のコラボレーションにリボンをかけるようなアレンジになると考えました。

WWD:「ジーユー」のブランド名の由来が“自由”だということには、コラボのファーストシーズンのインタビューでも言及していた。

ファン:4年前に「ジーユー」チームと初めて軽く話した際、最初の会話がまさに「ジーユー」が意味するのは“自由”だ、という話でしたから(笑)。コラボとしては2シーズン目ですが、やり取りをするようになってからは4年と長いので、「ジーユー」と「ロク」のチームではさまざまな角度から会話を深めることができています。「ジーユー」チームのパタンナーや生地担当者もすばらしく、彼らからクリエイションの“自由”をもらっているので、とても仕事がしやすい状況です。

動きの中の美しさを追求

WWD:コラボ第2弾でロクさんが特に気に入っているのはどんな点か。ペプラムシャツなどの立ち上がるような立体的なフリルのディテールは、「ジーユー」のインライン商品とはやはりちょっと違うなと感じる。

ファン:立体的なパターンもそうですし、人が動いた時に服がどう見えるかということには非常に丁寧に、計算して取り組見ました。それゆえ、フィッティングの回数も多いです。フィッティングというより、お客さまが実際に着たときにどうなるかという研究をするような感じですね。例えばケープの袖は、ボタンを留めるか外すかでシルエットや動きが変わるので検証を重ねました。通常は合わないだろうと思うようなアイテムを組み合わせることで、非常に面白いシルエットができるという点でも、驚きや楽しさを感じていただけると思います。

WWD:「ロクさんはフィッティングの際にとにかくモデルをよく歩かせて、服の動きを見ている」とは、前回のコラボの際に「ジーユー」の海老澤玲子R&D部ウィメンズ部長も話していた。

ファン:動きの中で服が体の一部になっていくというか、動きの中にどう美しさがあるか、という点は自身のクリエイションにおいて非常に意識しています。止まっているときの美しさももちろん考えるんですが、実際にはお客さまが立って座ってと動いたときにどのように服が動久賀、お客さまがどう感じるかが自分にとっては大切ですから。

WWD:素材で注力したポイントはどんなところか。

ファン:小花柄プリントは今回のコラボレーションのキーになっていますが、着るのが難しい柄ではなく、お客さまが持っている服にも合わせやすいバランス感を非常によく考えて作ったものです。ペプラムシャツに採用したコットンポプリンは、着たときの肌あたりにフォーカスし、探っていこうとしたのが「ジーユー」チームとの対話の出発点でした。

WWD:前回のコラボレーションでは、客からどんな反応があったか。

ファン:「ジーユー」チームから、お客さまの着こなし写真や商品に対するコメントをフィードバックしてもらっています。“Play in Style”として、お客さまが自由に楽しめる余白のある提案をしているので、実際に皆さんが自分なりに着こなしてくださっているスタイリング写真を見るのはすごく楽しかったですね。前回はウィメンズのみのコレクションでしたが、それを男性が着こなしてくださっていたり、年齢によって、同じアイテムでもかなり違うイメージで着こなしてくださっていたり。皆さんハッピーに反応してくれて、とてもうれしかったです。今回メンズアイテムを出したことは、男性のお客さまが前回のコレクションを着こなしてくださった点にインスパイアされた部分ももちろんあります。

「お互いに学び合っている」

WWD:先日パリで発表した「ロク」の2025-26年秋冬は、エレガントで華やかなムードがいっそう高まっていた。一方で「ジーユー」とのコラボは、若々しくてフレッシュな感覚。意識的に分けているのか。

ファン:自身のラインと「ジーユー」とのコラボで共通することもありますが、ターゲットとするお客さまやマーケットが違うので、やはりアプローチは違います。自身のラインは彫刻を作るように、体の上での服の美しい動きを探っています。一方で、「ジーユー」との取り組みでは、より自由に、お客さまとのコミュニケーションを意識しながら作っています。前シーズンに続いて、キービジュアルはイタリア人アーティストの方と取り組みましたが、今回は野菜を使って撮影用の小物を作りました。そういう表現の自由さが「ジーユー」とのコラボにはありますね。

WWD:「ロク」では成熟した美しいものを作り、コラボでは楽しくフレッシュなものを作るというのは、ロクさん自身にいい影響をもたらしているか。

ファン:自分の中の異なる分野がお互いインスパイアし合っている感じですね。あと、コラボの仕事で日本にこのようにやってきて、日本の文化に触れるという機会もまた、「ロク」についても、コラボについても刺激をもらっています。どちらか一方にクリエイションが限定されることなく、さまざまな発見があることが自分にとって大きな喜びであり、良い環境だなと感じます。

WWD:今後もこのコラボが続くのだとしたら、挑戦したいことはあるか。

ファン:もし続くなら、カテゴリーを少しずつ広げていければと思っています。絵を描く際のパレットを増やすような感覚ですね。新しいアイデアを提案して、さらに楽しさが広がっていくようなものにしていきたいです。

WWD:「ジーユー」のチームからは、「ロクさんのような才能あるデザイナーとの取り組みの中で吸収するものは多い」という話が出ている。「ジーユー」のチームは、自身との取り組みを通し何を得ていると思うか。

ファン:関係性は一方的なものではなく、「ジーユー」のチームとわれわれはお互いに学び合っています。一緒に新しいものに挑戦すると、学びや発見がある。自分のアトリエでは、それを“スタディー”と呼んでいます。今回のコラボでいえばデニムの洗い加工だったり、カットやパターンの試作を何度も重ねることだったり、その中では失敗もあるんですが、「ジーユー」のチームはポジティブなので、一緒にやっていて楽しいですね。

WWD:最後に、ガーデニングは心を開放するという話が最初の方であったが、ロクさん自身は心を開放するためにどんなことを行っているか。

ファン:正直なところ、ファッション業界はリラックスすることがすごく難しいですね。いつも、何かに瞬発的に反応していないといけない。ただ、自分は旅をしたり、“スタディー”の中で何かが見つかったりすることが心のリラクゼーションになっていると思います。

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スノーボードの「バートン」が“子どもの体験格差”に一石 教えているのは「滑り方ではなく、人生」

ジェイク・バートン(Jake Burton)が1977年に創業したバートン(BURTON)は、北京冬季五輪金メダリストの平野歩夢選手とも契約するスノーボードの大手メーカーであり、スノーボードを世に広めてきたオリジネイターだ。同社は2019年にいち早くBコープ認証を取得するなど、気候変動や持続可能な成長といった社会課題に対する意識の高さでも知られるが、より良い社会を目指し、チル(CHILL)という活動を通じて子どもたちの支援にも力を入れている。児童養護施設などの子どもたちにスノーボードをはじめとしたスポーツの機会を提供し、社会とつながるきっかけを提供するというもの。ジェイクの配偶者であり、バートンのオーナー兼会長ドナ・カーペンター(Donna Carpenter)、チルCEOのベン・クラーク(Ben Clark)、チル ジャパンの小倉一男代表理事に、チルの活動について聞いた。

WWD:1995年にジェイクとドナでチルを立ち上げた。どのような考えからだったのか。

ドナ・カーペンター バートン オーナー兼会長(以下、ドナ):1977年に「バートン」を立ち上げて、以来スノーボードのビジネスをしてきました。その中で、スノーボードに恩返しがしたいと考えるようになったんです。恩返しの方法はいろいろありますが、何より、「バートン」を支えてきてくれた若い人や子どもたちにフォーカスしたかった。スノーボードがこの世にまだ存在しなかった時代に、彼らがわれわれの製品に興味を持ってくれて、裏山に持って行って遊んでくれたことで、スノーボードが始まったわけですから。それで、(金銭面や家庭の事情などの)環境的な要因でスノーボードをすることができなかったり、人生に何か困難を抱えていたりする若い人たちに、スノーボードをする機会を提供できればと思い、チルの活動を始めたんです。

彼らにスノーボードを教える中で、私たちは滑り方を教えているだけじゃない、スノーボードを通して、人生を教えているんだと気付きました。滑っていると転ぶこともありますよね。でも、立ち上がってまた挑戦する。その繰り返しの中で、人生にたとえ何か困難があっても、それを乗り越えて、自分で自分の人生を導いていけると伝えられると感じたんです。活動を始めてすぐ、「このプログラムを是非うちの街でもやってほしい」といった声も舞い込むようになり、ニーズの高さも感じました。現在、チルではスノーボードのほか、スケートボードやサーフィンなどの体験機会も提供しています。それらを通して、彼らの健全な成長を支援するのが目的です。チルの活動は9カ国24都市に広がっています。

WWD:チルの活動もその1つとして、バートンは社会をより良くすることに対する意識が高い企業だと常々感じる。それはどういった考えからか。

ドナ:生前ジェイクとよく、“トリプルボトムライン”について話しました。企業活動を経済、社会、環境の3側面から評価する考え方です。企業の成功とは何かを考えたとき、もちろんその1つは利益率ですが、人や社会に対して良い影響を与え、スノーボードをするコミュニティーや環境を守っていくこと。これら3つがそろって、初めて成功だとわれわれは考えています。バートンは1人1人の人生をより良い方向に変えていくことをミッションの1つに掲げています。アウトドアの業界やコミュニティーをより開かれた、公平なものにしていきたい。例えば米国では、有色人種や先住民の方たちはスノーボードにアクセスしづらいという課題があります。どんな人でも、どんな環境にあってもチャレンジできる環境を整えようとしています。

チル卒業生は世界で3万人

WWD:確かにスノースポーツは欧米の、中でも白人のものというイメージは根強い。

ドナ:開かれたアウトドアコミュニティーを目指し、バートンでは有色人種の方たちを積極的に採用していますし、チルのプログラムでも彼らを支援しています。バートンとして、有色人種や先住民の方たちが、スノーボードコミュニティーに参画する際にどんなハードルを感じるか、どうすればそれを減らせるかといったことを自らディスカッションする“カルチャーシフター”というイベントも行っています。いま、スノーボードでは特に中南米の方の参加率が上がってきていますが、われわれのこうした取り組みも反映されていると思います。

ベン・クラーク チルCEO(以下、ベン):アウトドア業界をより開かれたものにしていくためには、チルに参加した人が成長して、自身のキャリアを考えるようになったときに、アウトドア業界にはどんな仕事があるのかをイメージできることも大事ですよね。それで、チルではアウトドア関連職種の職場見学や、職業体験の機会も設けています。チルの卒業生は世界で既に3万人いて、彼らを組織することも今進めています。卒業生は子どもたちにとってのロールモデルになりますから。人生で目標となるような存在ができれば、勇気がもらえます。卒業生が互いに高め合えたり、仲良くなって余暇に一緒にスノーボードに行ったりできるような環境を整えることが、長い目で見てアウトドアコミュニティーをより良いものにしていくと思っています。

WWD:チル卒業生で、バートンで働いている人もいるのか。

ドナ:店頭でも本社でも、かなりの数の卒業生が働いています。

ベン:バートンのアンバサダーを務めているチル卒業生もいます。彼は11歳でウガンダから母親とアメリカにやってきて、チルでスノーボードを体験して、スノーボードが大好きになった。現在はアンバサダーを務めながら、次の夢としてスノーボーダーを助ける医者を目指し勉強しています。彼もチルのイベントで自身のことを子どもたちに話してくれるんですが、人生にはさまざまな可能性や未来があるんだと子どもたちが気づくきっかけになっています。

WWD:チルでは、子どもたちに無料でスノーボードや各種スポーツの機会を提供しているが、財源はどのように確保しているのか。

ドナ:バートンは利益の中から毎年一定の割合をチルに寄付しています。また、事務などのバックオフィスはバートンとチルとで共有しています。子どもたちにスノーボードを体験してもらう際に使うギアやウエアは、バートンから提供しています。

ベン:補足すると、米国でも日本でも、チルは独立したNPO法人です。財源の30%はバートンから、残りは個人や企業の寄付によって成り立っています。寄付はお金だけでなく、例えば北米ならベイルスキーリゾート、日本なら富士見パノラマリゾートなどは、リフト券やゲレンデでの食事の提供といった形でもサポートしてくれています。チルに年間で集まる寄付額(上記リフト券や食事提供などは含まない金額)は米国で約400万ドル(約5億8800万円)です。スノーボードを教えている点に共感してくださる寄付者もいますし、若者の支援プログラムとして価値を見出してくださる人もいます。イベント当日にボランティアとして関わってくださる支援者もいます。寄付や支援をしてくださる方たちに支えられて、チルがあります。

小倉一男チル ジャパン代表理事(以下、小倉):バートンのスタッフの協力も大きいです。彼らはイベントごとに、参加する子どもたちのサイズに合わせてギアやウエアを準備して、スキー場に送って、イベント後にはウエアやギアをメンテナンスして、といった大変な作業を担ってくれています。

「自分はスノーボーダーだ!
と自信を持ってもらいたい」

WWD:チル ジャパンはどのようにスタートしたのか。小倉代表理事はバートン ジャパンの初代社長でもある。

小倉:日本では、1995年に起こった阪神淡路大震災で被災した子どもたちを2001年に兵庫の六甲山のスキー場に招待して、スノーボードを楽しんでもらったのが始まりでした。NPO法人としてチル ジャパンができたのは03年、これまでに活動に招待してきた子どもたちは2000〜3000人です。日本に限らず、チルの活動は“LTR(Learn To Ride)”という板ができたことで進んだ部分は大きかった。初心者でもターンのきっかけがつかみやすく、逆エッジで転ぶことが少ない板です。自分も“LTR”で滑ってみて、「これなら子どもたちが履いても大丈夫」と思ったのをよく覚えています。

ドナ:子どもたちが使うギアについては、ジェイクが特にこだわった部分でした。最高のギアで子どもたちにスノーボードを体験してもらい、ターンすることを楽しんでほしい。そして、プログラムが終わるころには「自分はスノーボーダーなんだ!」と自信を持って思ってもらいたい。その点をジェイクは非常に大切にしていました。

WWD:子どもの“体験格差”については、日本でも報道されることが増えている。家庭の経済事情や環境に関わらず、誰にとっても子どものころのさまざま体験が必要だという考え方が世の中に浸透しつつある。

小倉:チルの活動をすればするほど、体験機会のない子どもたちがたくさんいるんだと感じます。チル ジャパンでは、もともとは阪神淡路大震災や東日本大震災などで被災した子どもたちにスポーツの機会を提供していましたが、いま特に力を入れているのは、児童養護施設やフリースクールに通う子どもたちを招待することです。児童養護施設は全国に600前後あって、約3万人の子どもが親から離れて暮らしている。虐待や育児放棄を経験した子もいる。チル ジャパンではスノーボードのほか、スケートボードやスラックラインなどの体験機会も彼らに提供していますが、複数のスポーツに挑戦してみると、不得意なものもあるけど、できるものもあると気づく。それはその人の人生にとって、すごくプラスになると思います。

ベン:アメリカでは、より多くの子どもたちに体験機会を提供することを目指して活動してきたため、同じ子を継続して招待するのは長くて2年です。でも、チル ジャパンは3〜5年にわたって継続して同じ子どもたちをさまざまなアクティビティーに招待しています。継続的な関係を築くことで、子どもたちが再び大人を信頼できるようになる。それは彼らの人生にとってすばらしいことだと思います。日本のやり方をアメリカでも生かせないかと、支援者の方たちとも話しています。このように、他地域のやり方から学び合えることは、グローバルな組織の強みですね。

日本はクラウドファンディング実施中

WWD:活動を続けていく上での課題は。

ベン:アメリカはリーダーシップ(大統領)が変わって、国際的な協調も、社会を良くするための活動も、多様性も以前より難しくなっており、これが一番の問題です。公平な社会を目指す活動の多くが、活動を阻害され、気持ちをくじかれている。まるで逆流を泳ぐ魚のようです。今まで活動に賛同してきた人も賛同しづらくなるでしょうし、こうした活動に公的資金が注がれることも減っていく。しかし、今が若者にとって厳しい時代であることは変わりません。SNSの影響もあって、心を病んだり、自ら命を絶ってしまったりという子どもが増えている。自分の価値を疑ってしまいやすい世の中だからこそ、われわれのような活動は大切だと思っています。

小倉:日本の課題は明白で、資金が乏しいことです。チル ジャパンとして必要な費用は年間で約1000万円。その半分を海外からの寄付でまかなっています。欧米のような寄付文化がない日本では、今シーズン初めて(3月31日まで)、クラウドファンディングを実施しています。ただ、近年われわれの活動に賛同してくださるスキー場は増えていて、それは非常にありがたいこと。目先の利益のみを追求するのではなく、未来ある子どもたちのために尽くそうという発想が日本の企業にも広がりつつある。また、スノーボード業界としてはスノーボード人口の減少は問題ですが、業界として子どもたちに投資しない限り、スノーボード人口は増えません。スノーボード関連業界で働く皆さんに、チルの活動は未来への投資となり得ると伝えたい。24-25年シーズンは、チル ジャパンとして7スキー場で計13回のスノーボード体験プログラムを実施します。1回あたりの参加は25〜40人ほど。小さな活動ですが、非常に大きな意味があると思っています。

WWD:最後に、チルの活動の中で印象的だったエピソードを教えてほしい。

ドナ:チルを通して出会う子どもたちのことを考えると、いつも非常にエモーショナルになってしまいます。チルの活動で子どもたちの笑顔を見るのは、私にとって大変大きな喜びです。この取材の前日には富士見パノラマリゾートで行われたチル ジャパンの活動に参加しました。参加する子どもたちは、子どもらしくいられない環境に置かれているケースも多いわけですが、滑走中に彼らの笑顔を見たり、プログラム終了後に「自分はスノーボーダーになったんだ!」という彼らの表情を見たりすると、彼らが得る喜びよりも私が彼らからもらう喜びの方が大きいんじゃないかといつも感じます。

小倉:(つらい出来事があって以降、会話をすることが減り)ずっと筆談をしていた子が、チルでスノーボードをした後に「ありがとう」と話してくれたことがありました。それがわれわれの活動によるものかどうかは分かりませんが、非常に胸をうたれたし、印象に残っています。チルの活動中は子どもたちの目が輝いていて、きっと忘れられない思い出になっていると思う。サンキューレターもたくさんいただきます。卒業生たちには、いつかまたスノーボードもやってもらいたい。

ベン:メキシコ出身で、今はロサンゼルスに住んでいる30代のチル卒業生がいます。彼は児童養護施設を転々として育ったんですが、チルで体験したスノーボードが彼の人生にとって初めてのスポーツでした。そこで彼は「自分にはスノーボードがある」と感じることができ、自信を得て、コミュニティーともつながることもできた。このような活動にアメリカや日本をはじめとした国々で携われていることを、大変うれしく思っています。

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スノーボードの「バートン」が“子どもの体験格差”に一石 教えているのは「滑り方ではなく、人生」

ジェイク・バートン(Jake Burton)が1977年に創業したバートン(BURTON)は、北京冬季五輪金メダリストの平野歩夢選手とも契約するスノーボードの大手メーカーであり、スノーボードを世に広めてきたオリジネイターだ。同社は2019年にいち早くBコープ認証を取得するなど、気候変動や持続可能な成長といった社会課題に対する意識の高さでも知られるが、より良い社会を目指し、チル(CHILL)という活動を通じて子どもたちの支援にも力を入れている。児童養護施設などの子どもたちにスノーボードをはじめとしたスポーツの機会を提供し、社会とつながるきっかけを提供するというもの。ジェイクの配偶者であり、バートンのオーナー兼会長ドナ・カーペンター(Donna Carpenter)、チルCEOのベン・クラーク(Ben Clark)、チル ジャパンの小倉一男代表理事に、チルの活動について聞いた。

WWD:1995年にジェイクとドナでチルを立ち上げた。どのような考えからだったのか。

ドナ・カーペンター バートン オーナー兼会長(以下、ドナ):1977年に「バートン」を立ち上げて、以来スノーボードのビジネスをしてきました。その中で、スノーボードに恩返しがしたいと考えるようになったんです。恩返しの方法はいろいろありますが、何より、「バートン」を支えてきてくれた若い人や子どもたちにフォーカスしたかった。スノーボードがこの世にまだ存在しなかった時代に、彼らがわれわれの製品に興味を持ってくれて、裏山に持って行って遊んでくれたことで、スノーボードが始まったわけですから。それで、(金銭面や家庭の事情などの)環境的な要因でスノーボードをすることができなかったり、人生に何か困難を抱えていたりする若い人たちに、スノーボードをする機会を提供できればと思い、チルの活動を始めたんです。

彼らにスノーボードを教える中で、私たちは滑り方を教えているだけじゃない、スノーボードを通して、人生を教えているんだと気付きました。滑っていると転ぶこともありますよね。でも、立ち上がってまた挑戦する。その繰り返しの中で、人生にたとえ何か困難があっても、それを乗り越えて、自分で自分の人生を導いていけると伝えられると感じたんです。活動を始めてすぐ、「このプログラムを是非うちの街でもやってほしい」といった声も舞い込むようになり、ニーズの高さも感じました。現在、チルではスノーボードのほか、スケートボードやサーフィンなどの体験機会も提供しています。それらを通して、彼らの健全な成長を支援するのが目的です。チルの活動は9カ国24都市に広がっています。

WWD:チルの活動もその1つとして、バートンは社会をより良くすることに対する意識が高い企業だと常々感じる。それはどういった考えからか。

ドナ:生前ジェイクとよく、“トリプルボトムライン”について話しました。企業活動を経済、社会、環境の3側面から評価する考え方です。企業の成功とは何かを考えたとき、もちろんその1つは利益率ですが、人や社会に対して良い影響を与え、スノーボードをするコミュニティーや環境を守っていくこと。これら3つがそろって、初めて成功だとわれわれは考えています。バートンは1人1人の人生をより良い方向に変えていくことをミッションの1つに掲げています。アウトドアの業界やコミュニティーをより開かれた、公平なものにしていきたい。例えば米国では、有色人種や先住民の方たちはスノーボードにアクセスしづらいという課題があります。どんな人でも、どんな環境にあってもチャレンジできる環境を整えようとしています。

チル卒業生は世界で3万人

WWD:確かにスノースポーツは欧米の、中でも白人のものというイメージは根強い。

ドナ:開かれたアウトドアコミュニティーを目指し、バートンでは有色人種の方たちを積極的に採用していますし、チルのプログラムでも彼らを支援しています。バートンとして、有色人種や先住民の方たちが、スノーボードコミュニティーに参画する際にどんなハードルを感じるか、どうすればそれを減らせるかといったことを自らディスカッションする“カルチャーシフター”というイベントも行っています。いま、スノーボードでは特に中南米の方の参加率が上がってきていますが、われわれのこうした取り組みも反映されていると思います。

ベン・クラーク チルCEO(以下、ベン):アウトドア業界をより開かれたものにしていくためには、チルに参加した人が成長して、自身のキャリアを考えるようになったときに、アウトドア業界にはどんな仕事があるのかをイメージできることも大事ですよね。それで、チルではアウトドア関連職種の職場見学や、職業体験の機会も設けています。チルの卒業生は世界で既に3万人いて、彼らを組織することも今進めています。卒業生は子どもたちにとってのロールモデルになりますから。人生で目標となるような存在ができれば、勇気がもらえます。卒業生が互いに高め合えたり、仲良くなって余暇に一緒にスノーボードに行ったりできるような環境を整えることが、長い目で見てアウトドアコミュニティーをより良いものにしていくと思っています。

WWD:チル卒業生で、バートンで働いている人もいるのか。

ドナ:店頭でも本社でも、かなりの数の卒業生が働いています。

ベン:バートンのアンバサダーを務めているチル卒業生もいます。彼は11歳でウガンダから母親とアメリカにやってきて、チルでスノーボードを体験して、スノーボードが大好きになった。現在はアンバサダーを務めながら、次の夢としてスノーボーダーを助ける医者を目指し勉強しています。彼もチルのイベントで自身のことを子どもたちに話してくれるんですが、人生にはさまざまな可能性や未来があるんだと子どもたちが気づくきっかけになっています。

WWD:チルでは、子どもたちに無料でスノーボードや各種スポーツの機会を提供しているが、財源はどのように確保しているのか。

ドナ:バートンは利益の中から毎年一定の割合をチルに寄付しています。また、事務などのバックオフィスはバートンとチルとで共有しています。子どもたちにスノーボードを体験してもらう際に使うギアやウエアは、バートンから提供しています。

ベン:補足すると、米国でも日本でも、チルは独立したNPO法人です。財源の30%はバートンから、残りは個人や企業の寄付によって成り立っています。寄付はお金だけでなく、例えば北米ならベイルスキーリゾート、日本なら富士見パノラマリゾートなどは、リフト券やゲレンデでの食事の提供といった形でもサポートしてくれています。チルに年間で集まる寄付額(上記リフト券や食事提供などは含まない金額)は米国で約400万ドル(約5億8800万円)です。スノーボードを教えている点に共感してくださる寄付者もいますし、若者の支援プログラムとして価値を見出してくださる人もいます。イベント当日にボランティアとして関わってくださる支援者もいます。寄付や支援をしてくださる方たちに支えられて、チルがあります。

小倉一男チル ジャパン代表理事(以下、小倉):バートンのスタッフの協力も大きいです。彼らはイベントごとに、参加する子どもたちのサイズに合わせてギアやウエアを準備して、スキー場に送って、イベント後にはウエアやギアをメンテナンスして、といった大変な作業を担ってくれています。

「自分はスノーボーダーだ!
と自信を持ってもらいたい」

WWD:チル ジャパンはどのようにスタートしたのか。小倉代表理事はバートン ジャパンの初代社長でもある。

小倉:日本では、1995年に起こった阪神淡路大震災で被災した子どもたちを2001年に兵庫の六甲山のスキー場に招待して、スノーボードを楽しんでもらったのが始まりでした。NPO法人としてチル ジャパンができたのは03年、これまでに活動に招待してきた子どもたちは2000〜3000人です。日本に限らず、チルの活動は“LTR(Learn To Ride)”という板ができたことで進んだ部分は大きかった。初心者でもターンのきっかけがつかみやすく、逆エッジで転ぶことが少ない板です。自分も“LTR”で滑ってみて、「これなら子どもたちが履いても大丈夫」と思ったのをよく覚えています。

ドナ:子どもたちが使うギアについては、ジェイクが特にこだわった部分でした。最高のギアで子どもたちにスノーボードを体験してもらい、ターンすることを楽しんでほしい。そして、プログラムが終わるころには「自分はスノーボーダーなんだ!」と自信を持って思ってもらいたい。その点をジェイクは非常に大切にしていました。

WWD:子どもの“体験格差”については、日本でも報道されることが増えている。家庭の経済事情や環境に関わらず、誰にとっても子どものころのさまざま体験が必要だという考え方が世の中に浸透しつつある。

小倉:チルの活動をすればするほど、体験機会のない子どもたちがたくさんいるんだと感じます。チル ジャパンでは、もともとは阪神淡路大震災や東日本大震災などで被災した子どもたちにスポーツの機会を提供していましたが、いま特に力を入れているのは、児童養護施設やフリースクールに通う子どもたちを招待することです。児童養護施設は全国に600前後あって、約3万人の子どもが親から離れて暮らしている。虐待や育児放棄を経験した子もいる。チル ジャパンではスノーボードのほか、スケートボードやスラックラインなどの体験機会も彼らに提供していますが、複数のスポーツに挑戦してみると、不得意なものもあるけど、できるものもあると気づく。それはその人の人生にとって、すごくプラスになると思います。

ベン:アメリカでは、より多くの子どもたちに体験機会を提供することを目指して活動してきたため、同じ子を継続して招待するのは長くて2年です。でも、チル ジャパンは3〜5年にわたって継続して同じ子どもたちをさまざまなアクティビティーに招待しています。継続的な関係を築くことで、子どもたちが再び大人を信頼できるようになる。それは彼らの人生にとってすばらしいことだと思います。日本のやり方をアメリカでも生かせないかと、支援者の方たちとも話しています。このように、他地域のやり方から学び合えることは、グローバルな組織の強みですね。

日本はクラウドファンディング実施中

WWD:活動を続けていく上での課題は。

ベン:アメリカはリーダーシップ(大統領)が変わって、国際的な協調も、社会を良くするための活動も、多様性も以前より難しくなっており、これが一番の問題です。公平な社会を目指す活動の多くが、活動を阻害され、気持ちをくじかれている。まるで逆流を泳ぐ魚のようです。今まで活動に賛同してきた人も賛同しづらくなるでしょうし、こうした活動に公的資金が注がれることも減っていく。しかし、今が若者にとって厳しい時代であることは変わりません。SNSの影響もあって、心を病んだり、自ら命を絶ってしまったりという子どもが増えている。自分の価値を疑ってしまいやすい世の中だからこそ、われわれのような活動は大切だと思っています。

小倉:日本の課題は明白で、資金が乏しいことです。チル ジャパンとして必要な費用は年間で約1000万円。その半分を海外からの寄付でまかなっています。欧米のような寄付文化がない日本では、今シーズン初めて(3月31日まで)、クラウドファンディングを実施しています。ただ、近年われわれの活動に賛同してくださるスキー場は増えていて、それは非常にありがたいこと。目先の利益のみを追求するのではなく、未来ある子どもたちのために尽くそうという発想が日本の企業にも広がりつつある。また、スノーボード業界としてはスノーボード人口の減少は問題ですが、業界として子どもたちに投資しない限り、スノーボード人口は増えません。スノーボード関連業界で働く皆さんに、チルの活動は未来への投資となり得ると伝えたい。24-25年シーズンは、チル ジャパンとして7スキー場で計13回のスノーボード体験プログラムを実施します。1回あたりの参加は25〜40人ほど。小さな活動ですが、非常に大きな意味があると思っています。

WWD:最後に、チルの活動の中で印象的だったエピソードを教えてほしい。

ドナ:チルを通して出会う子どもたちのことを考えると、いつも非常にエモーショナルになってしまいます。チルの活動で子どもたちの笑顔を見るのは、私にとって大変大きな喜びです。この取材の前日には富士見パノラマリゾートで行われたチル ジャパンの活動に参加しました。参加する子どもたちは、子どもらしくいられない環境に置かれているケースも多いわけですが、滑走中に彼らの笑顔を見たり、プログラム終了後に「自分はスノーボーダーになったんだ!」という彼らの表情を見たりすると、彼らが得る喜びよりも私が彼らからもらう喜びの方が大きいんじゃないかといつも感じます。

小倉:(つらい出来事があって以降、会話をすることが減り)ずっと筆談をしていた子が、チルでスノーボードをした後に「ありがとう」と話してくれたことがありました。それがわれわれの活動によるものかどうかは分かりませんが、非常に胸をうたれたし、印象に残っています。チルの活動中は子どもたちの目が輝いていて、きっと忘れられない思い出になっていると思う。サンキューレターもたくさんいただきます。卒業生たちには、いつかまたスノーボードもやってもらいたい。

ベン:メキシコ出身で、今はロサンゼルスに住んでいる30代のチル卒業生がいます。彼は児童養護施設を転々として育ったんですが、チルで体験したスノーボードが彼の人生にとって初めてのスポーツでした。そこで彼は「自分にはスノーボードがある」と感じることができ、自信を得て、コミュニティーともつながることもできた。このような活動にアメリカや日本をはじめとした国々で携われていることを、大変うれしく思っています。

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峯田和伸 × 甫木元空 2人が語る「吉祥寺バウスシアター」と「映画館の魅力」

PROFILE: 左:峯田和伸/音楽家 右:甫木元空/映画監督・音楽家・小説家

PROFILE: (みねた・かずのぶ):1977年12月10日生まれ、山形県出身。96~2003年までロックバンド。GOING STEADYのボーカルとして活動。その後、銀杏BOYZを結成。田口トモロヲ監督「アイデン&ティティ」(03)の主演で映画デビュー。以来、音楽活動の傍ら俳優業もこなし、「少年メリケンサック」(08)、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(09)、「色即ぜねれいしょん」(09)などへ出演。「俺たちに明日はないッス」(08)では銀杏BOYZとして映画主題歌を担当したほか、「ピース オブ ケイク」(15)では主題歌と出演を兼ねた。近年では、映画のみならずテレビドラマや舞台へも活動の場を広げている (ほきもと・そら):1992年埼玉県生まれ。多摩美術大学映像演劇学科卒業。2016年青山真治・仙頭武則共同プロデュース、監督・脚本・音楽を務めた「はるねこ」で長編映画デビュー。第46回ロッテルダム国際映画祭コンペティション部門出品のほか、イタリアやニューヨークなど複数の映画祭に招待された。「はだかのゆめ」(22)は、第35回東京国際映画祭Nippon Cinema Now部門へと選出。23年2月には「新潮」にて同名小説も発表し、9月には単行本化された。19年結成のバンド「Bialystocks」でもボーカルとして活動。映画・音楽・小説といったジャンルを横断した活動を続けている。

東京のカルチャーを代表するスポットだった映画館、吉祥寺バウスシアター。映画の上映だけではなく、音楽のライブ、演劇、落語など、さまざまな催し物が行われて、バウスシアターはアートの発信地として、多くの観客やクリエイターから愛された。そのバウスシアターを守り続けた家族の90年の歴史を描いた映画「BAUS 映画から船出した映画館」が3月21日に公開された。本来は青山真治監督が企画して監督を務める予定だったが青山監督が2022年に急逝。その企画を受け継いだのが、Bialystocks(ビアリストックス)のボーカルとして音楽活動をしつつ、小説も手掛けるなど多彩な才能を発揮している甫木元空(ほきもと・そら)だ。甫木元は青山監督から映画を学んだ愛弟子でもあった。そして、映画に出演しているのがミュージシャンで俳優としても活躍する峯田和伸。生前、青山監督は峯田の出演を熱望していたという。映画と音楽のシーンで活動し、両方の感性を持った2人に本作について話を聞いた。

青山真治監督の企画を引き継いで

——本作は青山真治監督が温めていた企画を映画化したものですが、甫木元さんはどのような想いで企画を受け継がれたのでしょうか。

甫木元空(以下、甫木元):物語の骨格はいじらず、自分ができることは何か、ということを考えました。青山さんの映画言語を使ってモノマネみたいになってしまうのだけはやりたくなかったんです。青山さんの脚本と一番違うのは、青山さんはバウスシアターを通じて吉祥寺という土地を描こうとした。青山さんの脚本は江戸時代から始まるんです。吉祥寺という寺が火事で燃えて、その焼け跡に流れ者たちが集まって共同体が生まれる。そして、時が流れて、その土地に映画館ができる。青山さんが土地に視点を置いたことに対して、僕は映画館で生活する家族に視点を置くことにしたんです。

——1927年に青森から上京してきた兄弟、ハジメとサネオが吉祥寺の映画館、井の頭会館で働き始め、社長になったサネオは映画館を家族で経営して、それがバウスシアターになる。本作には家族の年代史という側面がありますね。

甫木元:いろんな時代のエピソードでできた映画ですが、そのエピソードにどうやって一本筋を通すのか。いろいろ考えて思いついた一つが歌でした。ひとつの童謡が土地によって歌い回しが違ったり、流行歌が時代によって聞こえ方が違ったりすることに以前から興味があったんです。90年という時間を描いた物語ですが、敗戦までの歌のあり方を、峯田さんが演じたハジメを通じて描けたら、そこに一本筋が通るんじゃないかと思いました。

峯田和伸(以下、峯田):僕が歌うシーンではないんですけど、映画館の従業員が夕食を食べ終わった後にみんなで「早春賦(そうしゅんふ ※日本の童謡)」を歌うシーンが良かったですね。子供の頃から知ってる歌だけど、ああいう状況で聴くと聞こえ方が違ってくる。僕はその時代には生きてはいませんでしたが、戦争が終わった直後の日本の情景が伝わってきて、一つの歌でこんなにもいろんなことが伝わるんだなって思いました。

活弁士ハジメを演じて

——この映画では歌が重要な要素だったんですね。だからこそ、ミュージシャンの峯田さんがハジメ役に起用された。

甫木元:青山さんは亡くなる前に峯田さんに声をかけていたんですけど、断られたら映画は撮れないかもしれない、と言っていました。峯田さんはハジメと同じ東北出身なので土地の匂いもするし、当時、映画に携わっていた人たちは、ミュージシャンみたいにハイカラでいろんなアンテナを持っていた人だったんじゃないか、と青山監督は思っていたんじゃないかと思います。生まれたばかりの娯楽だったから今の映画よりもライブ感があって、今よりも演芸っぽい感じだったと思うんですよね。

——劇中でハジメが活弁士に挑戦して、お客さんにヘタクソだと言われるシーンがありましたが、活弁士が生で物語るというのは、まさにライブですよね。それにヘタクソな活弁士ってロックっぽい気がしました(笑)。

峯田:あれ、もっとうまくやりたかったんですけど(笑)。

甫木元:峯田さん、厳しい先生について特訓受けましたからね。でも、あのシーンはヘタという設定だったから(笑)。

——峯田さんから見てハジメはどんな人物でした?

峯田:うさん臭いヤツですね(笑)。戦争が始まったら、すぐに髪型とか格好が変わる。でも、完全に染まってるわけじゃないんですよ。娯楽とか芸術には人一倍敏感なんだけど、それを隠して周りになじもうとする。自分の本当の気持ちは友達や兄弟にも見せないんです。標準語を喋っている人たちから見ると、東北弁ってどこかかわいげがある感じがするみたいで良い印象を持たれやすい。それを利用してズルいことを考えている東北人って多いんですよ。そういうキャラクターを演じる機会はあまりないので。やりがいがありましたね。

虚実入り混じった「バウスシアター物語」

——そんなハジメのうさん臭さが、映画の草創期の混沌とした感じを象徴していました。この映画で面白かったのは、映画の虚構性を意識したような演出です。映画館を書き割りのセットで表現したり、スタジオで野外のシーンを撮影したり。それが不思議な空間を生み出していました。

甫木元:この物語は公園でおじいちゃん(老人になったサネオの息子、タクオ)が回想している話じゃないですか。人間の記憶というのは曖昧で、結構適当だったりする。原作は口伝えで映画館に住む家族の中で語り継がれた物語です。峯田さんが演じたハジメは、青山さんの脚本に登場していた3人くらいのキャラクターを集約させているんですけど、この話が伝えられた時にいろんな人のエピソードがごっちゃになったり、盛られて伝わったりさまざまなことが起きていると思います。そういう回想のいいかげんさを、映像で表現したらどうなるんだろうって思ったんです。

——事実に基づいた「記録」と脳が作り上げた「記憶」の違いですね。記憶を描くことでフィクションとしての表現の幅も広くなる。

甫木元:記憶の曖昧さをそのまま描く、ということに気づいたのは井の頭公園で音を録音している時でした。そこにはいろんな人がいて、いろんな声が聞こえてくる。現実も記憶もカオスなんですよね。この脚本には現実のカオスがそのまま描かれていることに気づいたんです。それにバウスシアターも、映画館でありながらライブをやったりもする混沌とした場所だったし。

——峯田さんは完成した映画をご覧になって、どんな感想を持たれました?

峯田:最初に鈴木慶一さん(タクオ)の背中を映すじゃないですか。それも結構長めに撮っている。そのシーンに青山監督の匂いを感じたんです。でも、それと同時に甫木元さんの色もあるんですよね。

——2人の監督の感性が混じり合っている?

峯田:どちらでもあって、どちらでもないというか……不思議な感じなんですよ。

——峯田さんが感じる甫木元さんの色というのは、どんなものなのでしょうか。

峯田:生と死が全く別のものではなくて、生の裏側に死があるというか。虚実入り混じった世界です。この映画は、いろんな伝承や民話を集めて作られた「遠野物語」みたいな感じがするんですよ。

——確かにいろんな逸話を集めた「バウスシアター伝説」みたいなところがありますね。

峯田:この脚本を初めて読んだ時、映画館が主人公のように思えたんです。90歳の人生を生きた生き物みたいに。だから少しファンタジーっぽいところもあるなって感じました。

——甫木元監督は青山監督の作品の匂いというと、どんなことが思い浮かびますか?

甫木元:一つは映画における時間感覚です。青山さんは映画を音楽のアルバムに例えて講義することもありました。映画と音楽を同じ時間芸術として捉えていて、そういった考え方には影響を受けましたね。この作品では、冒頭の慶一さんを撮影しているパート。敗戦までのパート。子供たちの目線のパートとそれぞれ時間の流れ方を変えたので、プログレみたいな映画になってしまいました(笑)。

——プログレ映画(笑)。映画で使用する音楽については、サントラを手がけた大友良英さんとは、どんな話をされたのでしょうか。

甫木元:最後に楽団が練り歩く、というのを青山さんから生前に伺っていて。(ミュージシャンの)ドクター・ジョン(Dr. John)のお葬式のイメージらしいです。ニューオリンズのお葬式は、陽気な音楽で街の中を練り歩いて、亡くなったことを人々に伝えるそうで、まずそのことを大友さんに伝えて、楽団が演奏する映画のテーマ曲を撮影までに作ってもらいました。あとは出来上がった映像を見てもらって曲を書いてもらったんです。大友さんはノイズからキャッチーなメロディーまで幅広く行ったり来たりできる方なんで曲をはめていくのは面白かったですね。

峯田:映画でニール・ヤングの曲が流れるじゃないですか、ぐわーって。大友さんの劇伴もニール・ヤングみたいでしたね。どっちがニール・ヤングか分からない(笑)。

——劇中の大友さんの演奏シーンもすごかったですね。ギターを爆音でかき鳴らして。

峯田:バウスシアターといえば爆音上映、というイメージが強いので、ニール・ヤングと映画はすごく合ってたな。

思い出に残っている映画

——この映画は映画との出会いの物語でもありましたが、お2人が子供の頃に観て印象に残っている作品があれば教えてください。

峯田:僕は実家が電気屋なんです。でも、家電製品だけではやっていけないということで、80年代に入ってからビデオのレンタルを始めたんですよ。僕は小学校3年生から店でバイトをしていて、ビデオの面出し(オススメのビデオのパッケージを前に出して陳列する)は僕の仕事だったんです。バイトが終わったらビデオをタダで借りられたので、映画をいっぱい観ることができたんですよ。あと、家族みんなが映画好きだったので、夕食を食べ終わったら、家族みんなで砂糖をかけたグレープフルーツを食べながら映画を観る会があって。うちのじいちゃんはマカロニウエスタンが好きで、父親は伊丹十三が好きだったんです。それで「たんぽぽ」を小学4年生で観たんですけど、女の人の胸に塩と胡椒をかけて舐めるシーンがあって、それを小学4年生で観て衝撃を受けたんです。

——性に目覚める前の子供には強烈なシーンですね(笑)。

峯田:今の家庭だったら子供には見せないですよね(笑)。でも、うちの親父は全然気にしなくて。「恥ずかしかったら下向いてろ」って感じだったんです。だから、子供の時に観て印象に残っているのは「たんぽぽ」ですね。

——そういう家庭環境だったら、いろんな映画が観られたんでしょうね。

峯田:子供のころって、友達の家に集まって誕生会とかするじゃないですか。そういう時、僕はビデオを持っていく係なんです。それをみんなで観る。そういう場で男子が集まって盛り上がる映画といえばホラーなんですよ。「死霊のはらわた2」「デモンズ」「バタリアン」……いろいろ観てホラーに詳しくなりました。

——そんなに映画が観られたなんてうらやましいです。監督はいかがですか?

甫木元:父親が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のビデオを借りてきたんですけど、うちのテレビが壊れてて字幕が出なくなっちゃたんです。それで、字幕がないまま「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を何度も観ました。英語だから何を言ってるのかわからないんですけど、音楽と映像だけで面白いんですよね。車がやって来て走り去る。そこに音楽が乗るだけで、なんでこんなに感動するんだろうって思ってました。最近、改めて見返したんですけど、(監督の)ロバート・ゼメキスは、絵で物語を物語る職人だなと改めて思いました。

峯田:俺、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の冒頭の15分間が大好きなんですよ。まだ世界で何も起こっていない15分が。

甫木元:時計がカチカチ鳴って、ギターを爆音で鳴らして吹っ飛んで(笑)。

峯田:もう、最高!(笑)。

——2人とも頭に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が刻み込まれている(笑)。子供のころはビデオの存在が大きいんですね。では、お2人にとって映画館の魅力とはどんなところでしょうか。

峯田:真っ暗な空間で、スマホの電源を切って、外界から遮断された空間で全然知らない人たちと同じ映画を観る。そういう体験が楽しいんですよ。「あ、この人はここで泣くんだ」って思ったり、「俺はなんで泣かないんだろう」と自分のことを考えたり。映画を観終わった後に外に出る時の感じも良いんですよ。「映画の主人公が食べてたラーメンがおいしそうだったから俺も食べよう」って主人公の気分になったりする。3時間くらい経ったら、いつもの自分に戻るんですけど、しばらくは映画の世界にいることができるんです。

——映画館を出た時って世界が変わって見えますね。

甫木元:内容は全然覚えていないのに、映画館を出た時の風景は覚えている映画ってあるんですよ。

——映画館に行って帰ってくる。その往復で見たことや感じたことも含めて映画体験ですよね。

甫木元:そうですね。バウスシアターに関していえば、映画館以上にバウスに行くまでの商店街の風景をすごく覚えていて。いつも「こんなに遠かったっけ?」って思うんですよ(笑)。バウスで観た映画を思い出すと街の風景もセットで浮かび上がってくる。映画で見た風景と実際に見た風景が混ざる。それってすごく異常なことだと思うんですよ。映画館で映画を観るというのは、一つの体験として自分の中に刻まれていくんでしょうね。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLIST:[KAZUNOBU MINETA]HIROAKI IRIYAMA、[SORA HOKIMOTO]KAZE MATSUEDA
HAIR & MAKEUP:[KAZUNOBU MINETA& SORA HOKIMOTO]CHIAKI SAGA

「BAUS 映画から船出した映画館」

■「BAUS 映画から船出した映画館」
3月21日からテアトル新宿ほか全国ロードショー
出演:染谷将太 峯田和伸 夏帆
とよた真帆 光石研 橋本愛 鈴木慶一
監督:甫木元空
脚本:青山真治 甫木元空 
音楽:大友良英
撮影:米倉伸
原作:「吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記」(本田拓夫著/文藝春秋企画出版部発行・文藝春秋発売)
企画・製作:本田プロモーションBAUS boid 
制作プロダクション:コギトワークス 
配給:コピアポア・フィルム boid
©︎本田プロモーションBAUS/boid
https://bausmovie.com

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峯田和伸 × 甫木元空 2人が語る「吉祥寺バウスシアター」と「映画館の魅力」

PROFILE: 左:峯田和伸/音楽家 右:甫木元空/映画監督・音楽家・小説家

PROFILE: (みねた・かずのぶ):1977年12月10日生まれ、山形県出身。96~2003年までロックバンド。GOING STEADYのボーカルとして活動。その後、銀杏BOYZを結成。田口トモロヲ監督「アイデン&ティティ」(03)の主演で映画デビュー。以来、音楽活動の傍ら俳優業もこなし、「少年メリケンサック」(08)、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」(09)、「色即ぜねれいしょん」(09)などへ出演。「俺たちに明日はないッス」(08)では銀杏BOYZとして映画主題歌を担当したほか、「ピース オブ ケイク」(15)では主題歌と出演を兼ねた。近年では、映画のみならずテレビドラマや舞台へも活動の場を広げている (ほきもと・そら):1992年埼玉県生まれ。多摩美術大学映像演劇学科卒業。2016年青山真治・仙頭武則共同プロデュース、監督・脚本・音楽を務めた「はるねこ」で長編映画デビュー。第46回ロッテルダム国際映画祭コンペティション部門出品のほか、イタリアやニューヨークなど複数の映画祭に招待された。「はだかのゆめ」(22)は、第35回東京国際映画祭Nippon Cinema Now部門へと選出。23年2月には「新潮」にて同名小説も発表し、9月には単行本化された。19年結成のバンド「Bialystocks」でもボーカルとして活動。映画・音楽・小説といったジャンルを横断した活動を続けている。

東京のカルチャーを代表するスポットだった映画館、吉祥寺バウスシアター。映画の上映だけではなく、音楽のライブ、演劇、落語など、さまざまな催し物が行われて、バウスシアターはアートの発信地として、多くの観客やクリエイターから愛された。そのバウスシアターを守り続けた家族の90年の歴史を描いた映画「BAUS 映画から船出した映画館」が3月21日に公開された。本来は青山真治監督が企画して監督を務める予定だったが青山監督が2022年に急逝。その企画を受け継いだのが、Bialystocks(ビアリストックス)のボーカルとして音楽活動をしつつ、小説も手掛けるなど多彩な才能を発揮している甫木元空(ほきもと・そら)だ。甫木元は青山監督から映画を学んだ愛弟子でもあった。そして、映画に出演しているのがミュージシャンで俳優としても活躍する峯田和伸。生前、青山監督は峯田の出演を熱望していたという。映画と音楽のシーンで活動し、両方の感性を持った2人に本作について話を聞いた。

青山真治監督の企画を引き継いで

——本作は青山真治監督が温めていた企画を映画化したものですが、甫木元さんはどのような想いで企画を受け継がれたのでしょうか。

甫木元空(以下、甫木元):物語の骨格はいじらず、自分ができることは何か、ということを考えました。青山さんの映画言語を使ってモノマネみたいになってしまうのだけはやりたくなかったんです。青山さんの脚本と一番違うのは、青山さんはバウスシアターを通じて吉祥寺という土地を描こうとした。青山さんの脚本は江戸時代から始まるんです。吉祥寺という寺が火事で燃えて、その焼け跡に流れ者たちが集まって共同体が生まれる。そして、時が流れて、その土地に映画館ができる。青山さんが土地に視点を置いたことに対して、僕は映画館で生活する家族に視点を置くことにしたんです。

——1927年に青森から上京してきた兄弟、ハジメとサネオが吉祥寺の映画館、井の頭会館で働き始め、社長になったサネオは映画館を家族で経営して、それがバウスシアターになる。本作には家族の年代史という側面がありますね。

甫木元:いろんな時代のエピソードでできた映画ですが、そのエピソードにどうやって一本筋を通すのか。いろいろ考えて思いついた一つが歌でした。ひとつの童謡が土地によって歌い回しが違ったり、流行歌が時代によって聞こえ方が違ったりすることに以前から興味があったんです。90年という時間を描いた物語ですが、敗戦までの歌のあり方を、峯田さんが演じたハジメを通じて描けたら、そこに一本筋が通るんじゃないかと思いました。

峯田和伸(以下、峯田):僕が歌うシーンではないんですけど、映画館の従業員が夕食を食べ終わった後にみんなで「早春賦(そうしゅんふ ※日本の童謡)」を歌うシーンが良かったですね。子供の頃から知ってる歌だけど、ああいう状況で聴くと聞こえ方が違ってくる。僕はその時代には生きてはいませんでしたが、戦争が終わった直後の日本の情景が伝わってきて、一つの歌でこんなにもいろんなことが伝わるんだなって思いました。

活弁士ハジメを演じて

——この映画では歌が重要な要素だったんですね。だからこそ、ミュージシャンの峯田さんがハジメ役に起用された。

甫木元:青山さんは亡くなる前に峯田さんに声をかけていたんですけど、断られたら映画は撮れないかもしれない、と言っていました。峯田さんはハジメと同じ東北出身なので土地の匂いもするし、当時、映画に携わっていた人たちは、ミュージシャンみたいにハイカラでいろんなアンテナを持っていた人だったんじゃないか、と青山監督は思っていたんじゃないかと思います。生まれたばかりの娯楽だったから今の映画よりもライブ感があって、今よりも演芸っぽい感じだったと思うんですよね。

——劇中でハジメが活弁士に挑戦して、お客さんにヘタクソだと言われるシーンがありましたが、活弁士が生で物語るというのは、まさにライブですよね。それにヘタクソな活弁士ってロックっぽい気がしました(笑)。

峯田:あれ、もっとうまくやりたかったんですけど(笑)。

甫木元:峯田さん、厳しい先生について特訓受けましたからね。でも、あのシーンはヘタという設定だったから(笑)。

——峯田さんから見てハジメはどんな人物でした?

峯田:うさん臭いヤツですね(笑)。戦争が始まったら、すぐに髪型とか格好が変わる。でも、完全に染まってるわけじゃないんですよ。娯楽とか芸術には人一倍敏感なんだけど、それを隠して周りになじもうとする。自分の本当の気持ちは友達や兄弟にも見せないんです。標準語を喋っている人たちから見ると、東北弁ってどこかかわいげがある感じがするみたいで良い印象を持たれやすい。それを利用してズルいことを考えている東北人って多いんですよ。そういうキャラクターを演じる機会はあまりないので。やりがいがありましたね。

虚実入り混じった「バウスシアター物語」

——そんなハジメのうさん臭さが、映画の草創期の混沌とした感じを象徴していました。この映画で面白かったのは、映画の虚構性を意識したような演出です。映画館を書き割りのセットで表現したり、スタジオで野外のシーンを撮影したり。それが不思議な空間を生み出していました。

甫木元:この物語は公園でおじいちゃん(老人になったサネオの息子、タクオ)が回想している話じゃないですか。人間の記憶というのは曖昧で、結構適当だったりする。原作は口伝えで映画館に住む家族の中で語り継がれた物語です。峯田さんが演じたハジメは、青山さんの脚本に登場していた3人くらいのキャラクターを集約させているんですけど、この話が伝えられた時にいろんな人のエピソードがごっちゃになったり、盛られて伝わったりさまざまなことが起きていると思います。そういう回想のいいかげんさを、映像で表現したらどうなるんだろうって思ったんです。

——事実に基づいた「記録」と脳が作り上げた「記憶」の違いですね。記憶を描くことでフィクションとしての表現の幅も広くなる。

甫木元:記憶の曖昧さをそのまま描く、ということに気づいたのは井の頭公園で音を録音している時でした。そこにはいろんな人がいて、いろんな声が聞こえてくる。現実も記憶もカオスなんですよね。この脚本には現実のカオスがそのまま描かれていることに気づいたんです。それにバウスシアターも、映画館でありながらライブをやったりもする混沌とした場所だったし。

——峯田さんは完成した映画をご覧になって、どんな感想を持たれました?

峯田:最初に鈴木慶一さん(タクオ)の背中を映すじゃないですか。それも結構長めに撮っている。そのシーンに青山監督の匂いを感じたんです。でも、それと同時に甫木元さんの色もあるんですよね。

——2人の監督の感性が混じり合っている?

峯田:どちらでもあって、どちらでもないというか……不思議な感じなんですよ。

——峯田さんが感じる甫木元さんの色というのは、どんなものなのでしょうか。

峯田:生と死が全く別のものではなくて、生の裏側に死があるというか。虚実入り混じった世界です。この映画は、いろんな伝承や民話を集めて作られた「遠野物語」みたいな感じがするんですよ。

——確かにいろんな逸話を集めた「バウスシアター伝説」みたいなところがありますね。

峯田:この脚本を初めて読んだ時、映画館が主人公のように思えたんです。90歳の人生を生きた生き物みたいに。だから少しファンタジーっぽいところもあるなって感じました。

——甫木元監督は青山監督の作品の匂いというと、どんなことが思い浮かびますか?

甫木元:一つは映画における時間感覚です。青山さんは映画を音楽のアルバムに例えて講義することもありました。映画と音楽を同じ時間芸術として捉えていて、そういった考え方には影響を受けましたね。この作品では、冒頭の慶一さんを撮影しているパート。敗戦までのパート。子供たちの目線のパートとそれぞれ時間の流れ方を変えたので、プログレみたいな映画になってしまいました(笑)。

——プログレ映画(笑)。映画で使用する音楽については、サントラを手がけた大友良英さんとは、どんな話をされたのでしょうか。

甫木元:最後に楽団が練り歩く、というのを青山さんから生前に伺っていて。(ミュージシャンの)ドクター・ジョン(Dr. John)のお葬式のイメージらしいです。ニューオリンズのお葬式は、陽気な音楽で街の中を練り歩いて、亡くなったことを人々に伝えるそうで、まずそのことを大友さんに伝えて、楽団が演奏する映画のテーマ曲を撮影までに作ってもらいました。あとは出来上がった映像を見てもらって曲を書いてもらったんです。大友さんはノイズからキャッチーなメロディーまで幅広く行ったり来たりできる方なんで曲をはめていくのは面白かったですね。

峯田:映画でニール・ヤングの曲が流れるじゃないですか、ぐわーって。大友さんの劇伴もニール・ヤングみたいでしたね。どっちがニール・ヤングか分からない(笑)。

——劇中の大友さんの演奏シーンもすごかったですね。ギターを爆音でかき鳴らして。

峯田:バウスシアターといえば爆音上映、というイメージが強いので、ニール・ヤングと映画はすごく合ってたな。

思い出に残っている映画

——この映画は映画との出会いの物語でもありましたが、お2人が子供の頃に観て印象に残っている作品があれば教えてください。

峯田:僕は実家が電気屋なんです。でも、家電製品だけではやっていけないということで、80年代に入ってからビデオのレンタルを始めたんですよ。僕は小学校3年生から店でバイトをしていて、ビデオの面出し(オススメのビデオのパッケージを前に出して陳列する)は僕の仕事だったんです。バイトが終わったらビデオをタダで借りられたので、映画をいっぱい観ることができたんですよ。あと、家族みんなが映画好きだったので、夕食を食べ終わったら、家族みんなで砂糖をかけたグレープフルーツを食べながら映画を観る会があって。うちのじいちゃんはマカロニウエスタンが好きで、父親は伊丹十三が好きだったんです。それで「たんぽぽ」を小学4年生で観たんですけど、女の人の胸に塩と胡椒をかけて舐めるシーンがあって、それを小学4年生で観て衝撃を受けたんです。

——性に目覚める前の子供には強烈なシーンですね(笑)。

峯田:今の家庭だったら子供には見せないですよね(笑)。でも、うちの親父は全然気にしなくて。「恥ずかしかったら下向いてろ」って感じだったんです。だから、子供の時に観て印象に残っているのは「たんぽぽ」ですね。

——そういう家庭環境だったら、いろんな映画が観られたんでしょうね。

峯田:子供のころって、友達の家に集まって誕生会とかするじゃないですか。そういう時、僕はビデオを持っていく係なんです。それをみんなで観る。そういう場で男子が集まって盛り上がる映画といえばホラーなんですよ。「死霊のはらわた2」「デモンズ」「バタリアン」……いろいろ観てホラーに詳しくなりました。

——そんなに映画が観られたなんてうらやましいです。監督はいかがですか?

甫木元:父親が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のビデオを借りてきたんですけど、うちのテレビが壊れてて字幕が出なくなっちゃたんです。それで、字幕がないまま「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を何度も観ました。英語だから何を言ってるのかわからないんですけど、音楽と映像だけで面白いんですよね。車がやって来て走り去る。そこに音楽が乗るだけで、なんでこんなに感動するんだろうって思ってました。最近、改めて見返したんですけど、(監督の)ロバート・ゼメキスは、絵で物語を物語る職人だなと改めて思いました。

峯田:俺、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の冒頭の15分間が大好きなんですよ。まだ世界で何も起こっていない15分が。

甫木元:時計がカチカチ鳴って、ギターを爆音で鳴らして吹っ飛んで(笑)。

峯田:もう、最高!(笑)。

——2人とも頭に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が刻み込まれている(笑)。子供のころはビデオの存在が大きいんですね。では、お2人にとって映画館の魅力とはどんなところでしょうか。

峯田:真っ暗な空間で、スマホの電源を切って、外界から遮断された空間で全然知らない人たちと同じ映画を観る。そういう体験が楽しいんですよ。「あ、この人はここで泣くんだ」って思ったり、「俺はなんで泣かないんだろう」と自分のことを考えたり。映画を観終わった後に外に出る時の感じも良いんですよ。「映画の主人公が食べてたラーメンがおいしそうだったから俺も食べよう」って主人公の気分になったりする。3時間くらい経ったら、いつもの自分に戻るんですけど、しばらくは映画の世界にいることができるんです。

——映画館を出た時って世界が変わって見えますね。

甫木元:内容は全然覚えていないのに、映画館を出た時の風景は覚えている映画ってあるんですよ。

——映画館に行って帰ってくる。その往復で見たことや感じたことも含めて映画体験ですよね。

甫木元:そうですね。バウスシアターに関していえば、映画館以上にバウスに行くまでの商店街の風景をすごく覚えていて。いつも「こんなに遠かったっけ?」って思うんですよ(笑)。バウスで観た映画を思い出すと街の風景もセットで浮かび上がってくる。映画で見た風景と実際に見た風景が混ざる。それってすごく異常なことだと思うんですよ。映画館で映画を観るというのは、一つの体験として自分の中に刻まれていくんでしょうね。

PHOTOS:YUKI KAWASHIMA
STYLIST:[KAZUNOBU MINETA]HIROAKI IRIYAMA、[SORA HOKIMOTO]KAZE MATSUEDA
HAIR & MAKEUP:[KAZUNOBU MINETA& SORA HOKIMOTO]CHIAKI SAGA

「BAUS 映画から船出した映画館」

■「BAUS 映画から船出した映画館」
3月21日からテアトル新宿ほか全国ロードショー
出演:染谷将太 峯田和伸 夏帆
とよた真帆 光石研 橋本愛 鈴木慶一
監督:甫木元空
脚本:青山真治 甫木元空 
音楽:大友良英
撮影:米倉伸
原作:「吉祥寺に育てられた映画館 イノカン・MEG・バウス 吉祥寺っ子映画館三代記」(本田拓夫著/文藝春秋企画出版部発行・文藝春秋発売)
企画・製作:本田プロモーションBAUS boid 
制作プロダクション:コギトワークス 
配給:コピアポア・フィルム boid
©︎本田プロモーションBAUS/boid
https://bausmovie.com

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ルーク・メイヤーが「ゴールドウイン」とのコラボを語る 目指したのは「温かみのあるテックウエア」

 

ルーク・メイヤー(Luke Meier)=クリエイティブ・ディレクターが手がける「OAMC」が、このほど「ゴールドウイン(GOLDWIN)」との2度目のコラボレーションを発表した。テクニカルコットンを用いたパーカやフィールドジャケット、トラウザーなど、テックウエアと天然素材の新たな融合を目指したアイテムがそろう。全国の「ゴールドウイン」店舗で販売中だ。なお、メイヤーは2024年春夏コレクションをもって「OAMC」を退任する意向を表明しており、今回が最後のコラボレーションとなる。節目となるこのコレクションに込めた思いを、メイヤーに聞いた。

WWD:コラボレーションが始まった経緯を教えてほしい。

ルーク・メイヤー(以下、メイヤー):数年前に東京でゴールドウインの渡辺貴生社長にお会いする機会があった。そこで、デザインに対する視点や質の高い製品作りへの目的意識に共通点を感じた。「ゴールドウイン」の可能性はとても広い。コラボレーションを通じて、「OAMC」にとっても新しい表現ができるのではないかと考えた。

WWD:今回のコラボレーションでこだわった点は?

メイヤー:素材と形の新しい表現だ。結果、生地の構造やボンディング、またプリントや仕上げにおいても、とても面白いアウトプットができた。シルエット自体も新しい方向に進化させられたと思う。

WWD:具体的なテーマは?

メイヤー:テクニカルウエアでありながら、ナチュラルな風合いを両立させたいと思った。私は服自体の生きている感覚やモノが持つ強いキャラクターのようなものを感じることを好む。今回のアイテムにも、ポジティブなエネルギーを宿らせることができたと信じている。従来のテクニカルウエアには珍しい、着る人が心地よさや温かみを感じられるものに仕上げられたと思う。

WWD:ゴールドウインはサステナビリティ分野の先進企業としても知られる。彼らの取り組みを見て感じたことは?
メイヤー:渡辺社長は会社をすごく良い方向へ導いていると思った。サプライチェーンの全体を把握することは非常に難しいが、ゴールドウインがその課題に対して真摯に取り組んでいる姿勢には大きな敬意を抱いている。

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ルーク・メイヤーが「ゴールドウイン」とのコラボを語る 目指したのは「温かみのあるテックウエア」

 

ルーク・メイヤー(Luke Meier)=クリエイティブ・ディレクターが手がける「OAMC」が、このほど「ゴールドウイン(GOLDWIN)」との2度目のコラボレーションを発表した。テクニカルコットンを用いたパーカやフィールドジャケット、トラウザーなど、テックウエアと天然素材の新たな融合を目指したアイテムがそろう。全国の「ゴールドウイン」店舗で販売中だ。なお、メイヤーは2024年春夏コレクションをもって「OAMC」を退任する意向を表明しており、今回が最後のコラボレーションとなる。節目となるこのコレクションに込めた思いを、メイヤーに聞いた。

WWD:コラボレーションが始まった経緯を教えてほしい。

ルーク・メイヤー(以下、メイヤー):数年前に東京でゴールドウインの渡辺貴生社長にお会いする機会があった。そこで、デザインに対する視点や質の高い製品作りへの目的意識に共通点を感じた。「ゴールドウイン」の可能性はとても広い。コラボレーションを通じて、「OAMC」にとっても新しい表現ができるのではないかと考えた。

WWD:今回のコラボレーションでこだわった点は?

メイヤー:素材と形の新しい表現だ。結果、生地の構造やボンディング、またプリントや仕上げにおいても、とても面白いアウトプットができた。シルエット自体も新しい方向に進化させられたと思う。

WWD:具体的なテーマは?

メイヤー:テクニカルウエアでありながら、ナチュラルな風合いを両立させたいと思った。私は服自体の生きている感覚やモノが持つ強いキャラクターのようなものを感じることを好む。今回のアイテムにも、ポジティブなエネルギーを宿らせることができたと信じている。従来のテクニカルウエアには珍しい、着る人が心地よさや温かみを感じられるものに仕上げられたと思う。

WWD:ゴールドウインはサステナビリティ分野の先進企業としても知られる。彼らの取り組みを見て感じたことは?
メイヤー:渡辺社長は会社をすごく良い方向へ導いていると思った。サプライチェーンの全体を把握することは非常に難しいが、ゴールドウインがその課題に対して真摯に取り組んでいる姿勢には大きな敬意を抱いている。

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もんぺを年間2万本売る「うなぎの寝床」、地域文化から経済循環を生む

福岡県八女(やめ)市を拠点とするうなぎの寝床は、「もんぺ」を年間約2万本販売する。文化や歴史をひも解いたブランディングとビジネス戦略が巧みだ。日本の農作業着「もんぺ」とアメリカのワークパンツ「ジーンズ」とを重ね、日本のジーンズ「MONPE」として販売を開始。物販の直営店は八女の2店舗に加えて、アクロス福岡やららぽーと福岡、愛媛・大洲、グループ会社と共同運営で下北沢と池袋・千川の7店舗を展開し、もんぺの卸先は100件を超える。グループの売上高は5億5000万円(2025年1月期)。「地域文化商社」と称し、地域文化の「つなぎ手」としてもんぺだけではなく地域のものづくりを紹介する店舗や宿泊施設「Craft Inn手[te]」の運営、ツーリズム事業など、地域文化を編集して伝えている。

うなぎの寝床が町屋を改装して店舗や宿泊施設として運営する八女福島の重要伝統的建造物群保存地区は2002年に指定された場所。これまで約70軒の町家がリノベーションされて新たな店舗や工房、住宅に活用された。そのうち約20人が県外からの移住者だ。うなぎの寝床創業者で現顧問の白水高広氏に地域文化から経済循環を生む方法について聞いた。

PROFILE: 白水高広/うなぎの寝床創業者・顧問

白水高広/うなぎの寝床創業者・顧問
PROFILE: (しらみず・たかひろ)1985年佐賀県小城市生まれ。大分大学工学部福祉環境工学科建築コース卒業。2009年8月厚生労働省の雇用創出事業「九州ちくご元気計画」に関わり2年半プロジェクトの主任推進員として動く。同事業は11年グッドデザイン賞商工会議所会頭賞を受賞。12年7月にアンテナショップうなぎの寝床を立ち上げる。24年、テイクオーバーと資本提携し代表職から外れ顧問に。現在はさまざまな企業のコンサルティングを行う他、2023年テキスタイルデザイナーの光井花と新会社hana material design laboratoryを立ち上げる

機能性を訴求した短期的に消費されないものづくり

WWD:なぜ「もんぺ」だったのか。

白水高広うなぎの寝床創業者・顧問(以下、白水):義母の実家が「久留米絣」の織元で、妻が八女市の伝統工芸館で働いていた時期に「久留米絣をどうにかしたい」と家族で考え始めたことがきっかけだった。物産館で「もんぺ」の展示を見て、日常着として提案してその歴史や機能性が伝われば履いてくれる人が増えるのではと考え、11年に「もんぺ博覧会」を開催した。3日で約1500人が集まり、地元のテレビ局や新聞社は取り上げてくれた。1回きりのつもりが依頼されて翌年も続けることになった。

WWD:それを機にもんぺの製造販売が始まった?

白水:「買いたい」よりも「箪笥の肥やしになっている久留米絣の生地で作りたい」という要望が多かったので、当初は型紙を販売した。型紙は反物幅の布を無駄にしないように設計すると細身になったので12年に「現代風もんぺ」の型紙として販売を始めた。すると現物が欲しいという要望が増え始め、13年に機屋が抱えている縫製の内職さんに頼んでもんぺを作り始めた。それがNHKの情報番組「あさイチ」で取り上げられ、在庫が一瞬でなくなった。内職さんでは追いつかないので織元から生地を買い縫製工場に依頼して作り始めた。全国の店から依頼が増えて卸すようになりファブレス(自社で工場を持たず製品の製造を外部に委託するビジネスモデル)のメーカーになった。

WWD:明確なコンセプトのもとでビジネスを始めたわけではなかった。

白水:思い付きのように聞こえたかもしれないが、物産館で見たときから「いける」感覚はあった。着心地がいいことに加えて「伝統工芸」「ある程度の量が確保できる」「文化的背景がある」など付加価値もあった。「もんぺ」は福岡県南部筑後地方の綿織物「久留米絣」を用いて作られ、戦時中の1943年には婦人標準服として厚生省が活動衣として指定し、「蛍の墓」でも描かれた。戦後も農作業着として着続けられて機能的に実証されている。こうした情報を整えれば価格が1~2万円程度と設定しても売れるのではと仮説を立てた。

WWD:情報を整えるとは?

白水:整える情報は「機能的要素」「文化的要素」「視覚的要素」だと考えた。

「機能的要素」の訴求は一般消費者のリピートや口コミにつながる。「綿100%」「腰ゴム」「膝当てがついている」など機能を分解した。

「文化的要素」は一般の人が興味を持たなくても、メディアが興味を示してくれる。戦時中の厚生省の文献や農業の歴史など古本を集めて歴史をひも解き「日本のジーンズを目指して」というコピーを打ち出すとメディアが取り上げてくれた。

最後に「視覚的要素」はコーディネイト提案をした。ファッション業界は視覚的要素がとても強く、半期や四半期でどれだけ集客できるかというアプローチだが、僕らが重視したのは機能性の訴求。ファッションアイテムではなく生活用品として売るので結果的に短期的に消費されない提案になった。

WWD:情報に複数のレイヤーがある。

白水:「もんぺ」はいろんな情報のタグがあり、見る人によって異なる。たとえば「テレビで見た」という無意識的なタグから「自分が知っている店の人から聞いた」「歴史的な背景」「伝統工芸」「日本製」「かわいい」などさまざまにあるが、重視するタグは人によって違う。人々がタグのどれかに主観的に接触できるように情報を仕組み、結果的に「人は着心地に依存する」という仮説のもと、「機能性」のタグに集約できると考えた。

地域に足りない事業を興して地域の人がやれないことを実現する

WWD:「久留米絣」だけではなく、全国の繊維産地の生地を用いたもんぺをそろえる。

白水:他の産地と比較することで「久留米絣」の特徴はもちろん、全国の繊維産地を知ってもらう機会にもなる。奄美大島の泥染めや福山のデニム、遠州のコーデュロイや会津の木綿、「有松鳴海絞り」など同じフォーマット(型紙)でいろんな産地のもんぺを履き比べることができると、消費者は価格の違いや産地や生地の特性に目が向く。

WWD:それがヒットにつながった。

白水:想い入れがなく淡々と取り組んだのが良かったのではないか。想い入れがあると「これが好きだからこれで作る」となるが、想い入れがないから「柄で作ると高いから、機能性で勝負するために無地で作る」「技術によって値段を分ける」といった判断ができる。「久留米絣」産地だけに興味があるとそういう判断にならない。とはいえ、僕らが博多産地の生地生産量の約1/4を買っていて、もんぺ立ち上げの目的である産地継続にも力を入れている。1年に約7000反を購入して製品化している。

WWD:「もんぺ」はうなぎの寝床のヒット製品だが、ツーリズムや宿泊、メディア、資源活用、特許庁の地域団体商標のPR動画制作までプロジェクトは多岐にわたる。「地域文化商社」として事業を興しているが、そもそも「地域文化商社」のコンセプトが生まれて定義するに至った経緯を教えてほしい。

白水:地域文化が伝わらない理由は、魅力があるのに知られていない、知らなければ消費者は買うことができないことにある。知らせる・買えるようにする地域商社的領域をどれだけやれるかの実験と実行に取り組むことにした。地域文化を研究・解釈して、活用方法を探り、それを商社機能を使って地域に還元することが大切だと考えて活動している。基本的には地域に足りない事業を興して地域の人がやれないことを実現する。

WWD:具体的にどのようなアプローチで事業を興すのか。

白水:地域文化がベースにあり、それを体感できる場所が宿であり、本屋はやめてしまったけれど、まちづくりの中で地域文化拠点を作ったりツーリズムで体感をつくったりする。価値の見立てを行い、当社の見立てと地域の人や世間が思っている価値のギャップを埋め、価値を高めることを目指している。

そのために当社は地域構造の中で「つなぎ手」の領域を目指している。

「つくり手」や「にない手」は自分が地域を担っている意識がないことが多いので、僕らは文脈をひも解いて解釈を一緒に考える。代わりに調査して企画書を作る感じで、それをテレビ局や新聞社などに送ると取り上げてくれる。すると「にない手」に自分たちが担っているという意識が生まれ、意識が育つとシビックプライドが育つ。これだけだとボランティアになるのでこの状況自体を「つかい手」に伝える事業を行う。「つかい手」がアクセスできる店舗やEC、宿やツーリズムというサービスを作っている。

WWD:23年7月に愛媛県・大洲に店を開いたが、八女の事業モデルを全国に広げていくのか。

白水:八女をコンセプトモデルに他地域で応用できるかに興味がある。産地の資源の見立てと商品の仕入れ、地域内での可視化する店を作り、ECや卸先を探す。

大洲は町屋を修繕することを目的にまちづくり会社のキタマネジメントが店舗開発などに取り組んでおり、同社から依頼があった。

WWD:「地域文化を纏った商品やサービスが現代生活において成立したら、地域文化は残って行くし、そうでなければ淘汰されていく」として、さまざまな製品やサービスを提供する。地域で取り組む意義は?

白水:機能性を突き詰めても大手の製品の方が優れているから、そこで戦っても仕方ない。僕らはその地域でしか見つけられない文脈や情報を掘り下げ、地域で行うことでその文脈を引き継ぐことができるし差別化できる。知ってもらう機会が増えれば残る可能性が広がる。ただし、体感的にもいい製品でないと難しい。例えば着物は、文化的要素は脈々とつながってはいるが日常的に着ることは難しい。カットソーなど着心地がいいものがある中で逆行するのは難しい。過去の文脈を踏みながら、現代生活や現代の情報や需要にフィットしていけているか、生き続けているかを模索している。

情報を逆手にフィットし続けないと残らないという点ではファッション的なのかもしれない。うなぎの寝床全体としては生活用品としてもまちづくりとしても提案する情報の設計が重要で、メディアをはじめいろんな人々が許容できるようにしている。

人は印象的な体験によって意識と行動が変わる

WWD:今の生活文化にフィットしないけど残したいものがあるときにはどう取り組むのか?

白水:それこそツーリズム事業を始めたきっかけだ。モノの需要はないが技術をリファレンスできる状態にしておくことが必要で、プロセスを見せることの価値を創出した。もちろんモノはある一定数は流通させる必要はあるが、多くの人に対しては情報として提案する方がいいので、工房見学などを行うことで収益を生むようにしている。

モノの売り買いだけをしているとモノの売り買いだけで終わる。人は印象的な体験によって意識と行動が変わる。だから、モノを通じた地域文化の伝達はうなぎの寝床で行い、体験を通した地域文化の伝達はUNAラボラトリーズが行っている。

「つくり手」は良いものを作ったら売れるという思考で取り組むことが多いが、実際は「つくり手」がどういう思考で取り組んでいるかということにも価値があり、それをサービスに変えることが重要だと考えている。

WWD:白水さんは「地域文化」をある一定の地域における文化「土地と人、人と人が関わりあい生まれる現象の総体」と定義しているが、“ある一定の地域”とは何を指すか。どのくらいの大きさで、都心部や歴史が浅いニュータウンも含むのか。

白水:地域文化は伸び縮みするととらえている。例えば八女ならまちづくりの観点では重要伝統的建造物群保存地区の範囲でとらえる人もいるし、ものづくりの町としてとらえている人もいる。海外からみると日本らしい町屋の街並みととらえる人もいる。どういう範囲やテーマで文化圏を捉えるかによる。行政区は行政区でしかない。

どこの地域でも文化はある。都市部は自然が失われているかもしれないが、人と人が混じりあって生まれる習慣や慣習は必ずある。そこには自然的背景、地理的背景、歴史的文脈がある。地域は都度設定して何の文化かを定義する必要がある。僕はひとつに絞らないような枠組みにして、あらゆることを許容できるようにあいまいな定義をしている。

「知恵は行動しまくったら生まれる」、知識とは別

WWD:「地域文化商社」として活動するときに大切なこととは。

白水:研究や調査をちゃんとして、商品の見立てをしてから行動してみること。売ったり話を聞いたり、流通させたり。うまくいくものいかないものがあるので、とりあえず行動してうまくいったものは仕組化して残し、うまくいかなかったものはやめる。

うまくいかなくてもどうしても残したいものは何かしら価値があるはずで、そのギャップを何かしらの事業で埋められるのではないかと知恵を絞り行動する。知恵は行動しまくったら生まれる。それは知識とは別の話だ。僕らはそんなに知識は深くはないけれど、地域で動いていたら何かしらの知恵が生まれる。

WWD:失敗したことは?

水:そもそも失敗や成功とは何か、から考える必要がある。会社としては、10年間赤字もなく、トライ&エラーをしながらも成長し続けている。例えば自転車事業や反毛(はんもう)事業に取り組んだがうまく回らず事業を畳んだが、今につながっているので失敗ではない。そういうのはたくさんある。

人に依存し続ける仕組みを作ることが必要

WWD: 後継者不足に対して優秀な人材を産地に送り込むのがいいという声もあるが、人に依存する産地経営は難しいのでは?

白水:基本的に人に依存しない会社や産業の仕組みをつくるべきだと考えているが、地域文化を深く理解して広げるために思考して行動できる人を獲得する仕組みをつくらないといけないとも思う。新しい思考や考えを生み出していくのは人だから、ある程度人に依存しつつ、その人がいなくなっても自走できるような仕組みをつくることは必要だ。いかに人を獲得し続け、許容できるか。その状況をどれだけ作れるかが重要だ。そこで僕は今、インキュベーションのようなことを事業化したいと考えている。能力を持った人の人生をずらし、産地にぶち込むのが重要だと思っている。

例えば、当社でツーリズム事業を取り組むのは東京出身でロンドン大学で人類学を学び、「物語を海外に伝えたい」とやって来た人。2年程度で大学に戻る予定だったが、地元の人と結婚して子どもが生まれた。そうすると八女に居続けるし、新たに人類学観点のあるツーリズムが生まれている。それで回る会社も増えている。

現代社会は「価値化は情報化」

WWD:無価値、無意味とされるような文化や歴史、地域から有価値、意味を引き出すには何に着目すべきか。

白水:無価値のものはほぼない。現代はネット上にないもの、つまり情報として拾い上げられないものは価値がないと特に都市部の人が思い込んでいる状態だと感じている。「無価値だけど価値があるもの」とは、知られてないことは無価値だとする情報としての価値の話が中心だ。現代においては、価値化は情報化でもある。地方の人はその流れを見ながら、情報を差し込んでいくための戦略が必要だが、それをひも解ける人が地方には多くいない。

情報化できる人が地域に入り地域がうまくいっているように見えるが、それが良い状態かというと必ずしもイコールではない。経済規模が大きければ豊かとは限らず、そうでなくても豊かな地域はある。経済、暮らし、ファッション、生活用品など、地域事業者はどの尺度に根差した価値創出を目指したいのかを考える必要がある。

WWD:一社だけではなく地域で連携していくために必要なこととは?

白水:みんなでやるとうまくいかないことが多い。これが面白いからやりたいと主観的に始めてそれが広がれば産地に貢献できて残せるものがあるのではないか。メディアが面白がるのは強い情報にひもづいた産地で、個の強い意志や理論がないと難しいし、その人が活動できるフィールドをどう作るかも重要だ。「これをやったらうまくいく」はないが、起点をどこにするかはビジネスのインキュベーションにおいて重要だ。

WWD:産地として、地域として何を目指すがのよいか。

白水:地域の活動で小規模事業者とある程度の規模の企業のレイヤーが交じり合っていないことが多いが、違うレイヤーの人たちがどう対話して議論を生んでいくかが重要だと思っている。それをつなげるのは行政なのかもしれない。地域資源や土地性、文化や歴史と地域産業をつなげるコーディネイト役が必要だが、それは市長であり、行政の役割なのかもしれない。「政治的にどうしていくか」も重要だと思う。

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大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

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大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

The post 大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ appeared first on WWDJAPAN.

大手アパレルから転身、53歳で漫画家デビュー 林田もずるが「本気で熱いアパレル漫画」を描いたワケ

PROFILE: 「アパレルドッグ」(講談社)

「アパレルドッグ」(講談社)
PROFILE: 週刊「モーニング」(毎週木曜発行)で絶賛連載中。社命でメンズブランドの立ち上げに奔走する29歳の大手アパレルMD田中ソラトを軸に、デザイナーやODM会社、宣伝、競合のグローバルブランドのMDなど、アパレル業界のさまざまな職種や人間たちを生き生きと描き出す。2月に待望の2巻が発売。全アパレル業界人必読の書だ (第一話) https://comic-days.com/episode/2550689798870437188

「モーニング」で絶賛連載中の漫画「アパレルドッグ」をご存知だろうか?29歳の大手アパレルMDである田中ソラトや新人の家入スバル(23)らがメンズブランドの立ち上げに奮闘する姿を軸に、アパレル業界のビジネスをリアルに描く物語だ。縮小する業界で働くことへの焦燥感とモノ作りやファッションへの熱い気持ち、新ブランド立ち上げの苦闘などをときに生々しく、けれども共感を持って描き出されたストーリーに、アパレル業界人であれば胸が熱くなるはずだ。また、MDやODM企業などアパレルビジネスの内実が丁寧かつわかりやすく描かれており、アパレルビジネス入門書としてもぜひおすすめしたい。実は作者の林田もずるさんは、某大手企業を中心にアパレル業界で約30年もの間デザイナー&ディレクターを務め、53歳で漫画家に転身した異色の経歴を持つ。全アパレル業界人必読の漫画「アパレルドッグ」の誕生秘話に迫った。

PROFILE: 林田もずる/漫画家

林田もずる/漫画家
PROFILE: 1970年生まれ、54歳。新卒で大手アパレルに就職。31歳で某有力ブランドのチーフデザイナーに。その後、複数のブランドのデザイナー・ディレクターを経て、53歳のときに「ファッションのお仕事」でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。2024年7月から週刊「モーニング」で「アパレルドッグ」の連載をスタート PHOTO:HIRONORI SAKUNAGA

WWD:大手アパレルの企業デザイナーから漫画家へ。今はどんな毎日ですか?

林田もずる(以下、林田):毎日がめちゃくちゃ刺激的で楽しいですね。50代になって漫画家になり、こんな日が訪れるとは、10年前の私ならまったく予想していなかった(笑)。アパレル業界以外で働くことも、何より漫画家になっていることが、本当に驚きというか、夢みたいです。

WWD:いつから漫画家になろうと?

林田もずる(以下、林田):昔から絵を描くのは好きで、中学生くらいまでは漫画を描いていた。でも中学生、高校生くらいになると、当時は漫画好きが「ヲタク」として迫害され(笑)、音楽やファッションが「イケてる」という時代。ついそっちの方に行ってしまった(笑)。それに漫画ってスクリーントーンが1枚400〜600円もするので、限られたお小遣いの中で漫画を描くのに使うのも大変で、描かなくなってしまったんですよね。高校生以降はファッションや音楽などに夢中で、「漫画家になりたい」と思っていたこと自体、実は30年以上忘れていました。

31歳で有力ブランドのチーフデザイナーに

WWD:就職は新卒でアパレルに?

林田:そうです。新卒で大手アパレルメーカーに就職し、デザイナーとして配属。31歳では念願のチーフデザイナーになりました。

WWD:順風満帆ですね。

林田:まあ、そうとも言えますが、とにかく仕事は大変でした。そのブランドは多いときに一週間で20型くらいをデザインしていて、当時は日本でもかなりの量を生産していたので、週の前半にデザイン画を描いて、週の後半に生産担当者とふたりで工場に出張し、その場で使う糸を決めてサンプルを生産し、2時間後に上がってきたサンプルを確認&修正。そのサンプルを持ち帰ってMDが5000枚、1万枚と発注数を決め、翌週に量産して店頭に並べる、といったスケジュール。それが毎週だったので、いつも夜中の3時、4時までオフィスで働いていました。2000年代初頭まではどこのアパレル企業もそんな感じだったし、自分も30代前半で気力も体力も充実していたころので、ガンガン働いていました。平日はそんな感じで服を作っていたのに、休みの週末はまたいろいろな店舗に服を見に行っていました。まさに洋服にまみれた生活です。大変だったけど、充実していましたね。

WWD:その後は?

林田:20年近くそのブランドに在籍していましたが、そのくらい長くやっていると、ブランド自体の浮き沈みが多くて、それが一番堪えましたね。その後はいくつかのブランドのディレクターを経験して、2015年にいったん退社。その後は古巣の企業のブランドもやりつつ、フリーランスとしてさまざまなブランドのディレクションをやっていました。

50歳を超え、漫画を描くことに熱中

WWD:転機は?

林田:コロナ禍です。コロナ禍で外出できず、家にいるときに、子どもが誕生日にプレゼントした液晶タブレットで絵を描いていたのを見たんです。私自身はそれまでデザイン画もずっと手描きだったんですが、自分でも液タブを買って、初めて液タブで絵を描いてみた。これが自分でも驚くほど楽しくて。それで「クリップスタジオ」というお絵描きソフトを触ってみると漫画も描けた。そうすると、30年以上忘れていた「漫画家になりたい」という昔の自分の気持ちを思い出して、夢中になって漫画を描き始めたんです。2021年ごろです。

WWD:はじめはどんな漫画を?

林田:最初は4コマ漫画から。空いた時間を見つけては、夢中で描いていました。仕事と家事をやって、夜の空いた時間や土日に部屋に引きこもって描いていました。最初は描いているだけで満足でしたが、当然すぐに誰かに見てもらいたくなった(笑)。そこで初めてツイッター(現X)を開設し、そこで発表し、リアクションをもらったりしていました。そうこうするうちに、4コマではなく、きちんとストーリーがあるものを描くことに挑戦しよう、と。初めて描いたのは16ページの「学生バトル」物。いわゆる少年漫画です。

WWD:漫画の基礎知識はどこで?

林田:全くの素人なのでツイッターでリアクションをもらいながら、本を買ったり、YouTubeのハウツー動画を見て勉強しました。苦労したのは表情や変なポーズ、キャラクターの書き分けです。アパレルのデザイン画って基本的には人も服もかっこいいじゃないですか?でも漫画だといろいろな人が出てきて、普通のおじさんおばさんも描かないといけない。逆に服や背景を描くのはそれほど大変ではなかったです。

ツイッター以外にも、コミティアなどの同人誌イベントの、プロの編集者が見てくれる「出張編集部」にも何度か行きました。初めて描いた16ページの「処女作」も見てもらいましたが、「絵が古い」「ストーリー構成が悪い」とか、ケチョンケチョンでした。もちろん凹みましたが、プロの意見はものすごく正しくて、まったくその通りなんですよ。帰宅後にすぐに描き直してみて、すごく良くなって。やっぱりプロはすごいな、と思いました。

WWD:若いころからブランドのチーフデザイナーになり、その後も複数のブランドのディレクターも務めた。年下の編集者にけちょんけちょんに言われてプライドが傷ついたりはしなかった?

林田:めちゃくちゃ凹みはしましたが、それはなかったですね。というかアパレル時代の方が、もっと大変だったので(笑)。よくブランドの店長や、それこそMDから「こんなんじゃ売れない」「わかってない」とかズバズバよく言われていました。
(*同席した「モーニング」の担当編集者から「林田先生のハートは稀にみる強さです」と補足)

WWD:2024年1月に53歳でちばてつや賞の一般部門準大賞を受賞。働きながら、漫画はどう描いていた?

林田:朝と夜は家事・育児、日中は仕事で、夜9時から3時間くらい描いて、深夜1時には寝るという生活です。昔と違って50歳を過ぎてそんなに無理はできず、睡眠時間を削ってまでではなかったです。ただ、すでにフリーランスだったので平日でも時間の融通がきき土日も含めると週3日4〜5時間は描いていました。

WWD:連載はどう実現した?

林田:23年3月に、53歳で「モーニング」の月例賞に入賞し、一番下の名前しか出ない賞ではあるけど、初めて担当が付きました。メールを見て「来たー!」と。その前にもいくつかの出版社に持ち込んでは断られていたので、担当がつくのは本当に嬉しかったです。けっこうタイトなスケジュールでも、担当さんから「ネームのコンペがありますがやりますか?」と聞かれれば「やります!」と即答していました。そうした成果もあって24年1月にちばてつや賞準大賞を受賞し、連載の話をいただけた、という感じです。アパレル時代も、デザイナーやディレクターが止まるとその後が全部止まってしまうので、とにかく手を止めない、仕事を止めない。そして絶対に納品するっていう経験が役立ちました(笑)。

そして53歳で念願の漫画家デビュー&専業に

WWD:週刊連載のいまのスケジュールは?

林田:連載の話をきっかけに24年2月にアパレルの仕事からは足を洗い、漫画家専業になりました。以前は時間があれば外出して、ショップを見て回るのが習慣だったけど、今は座って作業することが大半です。平日は朝6時に起きて家事などを済ませると、8時から8時半くらいから漫画の仕事をスタート。アシスタントが入るときは、オンラインでつなぎながら、20時か、21時までみっちり作業をしています。ネームが遅れたり締め切りがギリギリになったりすると、23時くらいまで作業しています。

WWD:一週間単位では?

林田:1週間でだいたいサイクルが決まっていて、大体週末の2日をネームに充てていて、ネームは紙とパソコンがあればできるので、人のいない朝の時間帯を狙って近くのカフェなどに行くようにしています。そうしないと外出することがなさすぎて。平日の3〜4日は作画です。その他は週2回くらい編集者との打ち合わせが入りますね。

WWD:「アパレルドッグ」の連載で苦労していることは?

林田:展示会に行ったり、知り合いに話を聞いたりはあるものの、現在のところ、多くはストーリーなども含めて頭の中にあるものを漫画にしているような状態です。ファッションビジネスや服に関わる部分は、これまでの経験が生きています。一番大変なのが、何気なく出てくるオフィスや店舗(笑)。例えば主人公のソラトが座っている席はシマに6席あって、部長がお誕生席で…など細かく設定したつもりだったけど、1巻を出す段階で連載分を校正さんにチェックいただいた際に、矛盾が出るわ出るわ(笑)。今はかなり細かい設定資料を作って、アシスタントも含め共有していますが、それでも内装というかオフィスや店舗などを描くのはかなり苦労していますね。自動ドアの動く方向など、実は知らないことだらけ。服はあまり苦労していない、と言いたいところですが、実は校正で、シーンによって身頃が左前だったり、右前だったりを指摘されたことも。とはいえ描く際には、アシスタントさんと一緒にワイワイ話しながらやっています。アシスタントさんの存在には、そういった部分にも助けられていますね。

WWD:漫画家になって変わったことは?

林田:昨年の2月にアパレルの仕事を完全に卒業して一番の変化は、洋服を買わない人の気持ちが、ようやくわかった。それまでは、自分も周りもバンバン服を買うのが当たり前だった。今は家にいる時間が長くなり、新しい服がなくても自分自身がよくなって、ようやく「一般的な」人の気持ちや考え方が理解できた、という感じです。50を超えて、この先の医療費とかローンとか税金とか、老後の不安とかそういったことを普通に冷静に考えられるようにもなった。逆に服をバンバン買うって、「普通じゃなかったんだ!」とようやく気づきましたね。でもだからこそ、「服を買う楽しさ」「新しい服を作ること&売ることの難しさや面白さ」を、「アパレルドッグ」の主人公であるソラトたちを通じて知ってもらいたいと思っています。

登場人物が全員、アパレルビジネスにまっすぐに熱い!

WWD:主人公のソラトは仕事にまっすぐ向き合っているZ世代だが、「アパレルドッグ」には40代、50代のちょっとひねたおじさんも登場する。20年近く縮小を続けるアパレル業界でもがき続けるそんな「おじさん」たちを若いふたりが揺り動かしながら物事を進めていく展開に、読んでいて胸が熱くなった。

林田:「モーニング」読者は40代50代も多く、私もアパレル時代に「もう自分の時代じゃないのかな」とか「後輩にもっと任せなきゃ」と思ったことが何度もあった。だから、一般読者にも、そういった気持ちに共感してもらえるはず、と思ったんです。あとは、「自分は今50代だけどこんなにも楽しい!!」というのも、同世代の人に伝えたかったです。

モノ作りのためなら一肌脱ぐ工場は実体験
&できる先輩がモデルにも

WWD:他にも取引先のODMの人が最初は怒っていたのに、モノ作りへの熱意が伝わると協力的に。そんなところも「業界あるある」。実体験ですか?

林田:若い頃によく墨田区のメーカーさんに「こんなんできるわけねえだろ!」って怒られながら涙目で何度も通ってなんとかやってもらったりした経験は入っています(笑)。「アパレルドッグ」のデキる生産担当の「宮さん」は、まさに自分が一緒に仕事していたある先輩をイメージしています。いいものをつくるためなら、大変であっても一緒になってなんとかしてくれる、そんなところがアパレルの工場さんにはあります。

WWD:「アパレルドッグ」は、これまでのアパレル漫画で主役になることが多かったデザイナーやモデルではなく、一般的にはマイナーな職種であるMDが主役。デザイナーも出てくるが、生産管理やODM企業、経営管理など、いろいろな職種の人が出てくる。ただ、どのキャラクターも魅力的だ。

林田:アパレルで働いているときに「チャラチャラした格好で遅めの出社。ルーズな仕事だな」と他の業種の人からは見られているんだろうな、とは思っていました。でも「アパレルドッグ」で描いている通り、主人公でMDのソラトもそうですが、本気で洋服に対して向き合って考えてビジネスをしている。職種、あるいは企業の大小にも関わらず、みんな真剣にビジネスやファッションに向き合っています。「アパレルドッグ」ではそういった部分をきちんと描きたい。その上で、こんな楽しそうな仕事ならアパレル業界もいいじゃんって思ってくれる人が少しでも増えてほしい、そう思っています。それが30年以上、私を育ててくれたアパレル業界への恩返し。今後の展開は秘密ですが、これは揺るがずに、変わりません。ぜひこれからの「アパレルドッグ」もお楽しみに!

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「イソップ」の反逆的な花の香り“オルナー オードパルファム”調香師に聞く 「香水が芝居だとしたら私は役者」

PROFILE: セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師

セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師
PROFILE: フランス・グラース生まれ。幼少時から地元の工場で漂うベチバーやイランイラン、パチョリなどの香りに触れ、香水のミニボトルや香水の広告を集めて育つ。2001年から米香料大手メーカーIFFの調香師として活躍

「イソップ(AESOP)」から、新作フレグランス“オルナー オードパルファム(以下、オルナー)”が登場した。同ブランドは2月、都内で新作発表イベントを開催。フローラルフレグランスの概念を覆す“オルナー”の世界観を表現するインスタレーションやワークショップを開催した。“オルナー”という名前は、古代スカンジナビア語で「装飾される、花々で飾られる」という意味。マグノリアリーフ、ローマンカモミール、シダーハートを組み合わせ、フローラルのハートノートとスパイスやメタリック、ウッディノートが織りなす複雑な香りだ。みずみずしい花弁とたくましい幹、植物と金属、女性性と男性性といった相対する要素を融合している。調香を担当したのは長年「イソップ」と協業するセリーヌ・バレル(Celine Barel)。来日したバレルに、「イソップ」との出合いやクリエイションについて聞いた。

概念を覆す“折れない”フローラル

WWD:“オルナー”はどのような香りか?

セリーヌ・バレル(以下、バレル):静かで反逆的なフローラルの香り。思いがけないコントラストがあり、優美さと強靭さの間にある詩的な張力をテーマにしている。香りの中心はマグノリアで花弁ではなくマグノリアリーフが持つ複雑で繊細さを持つ香りが特徴だ。

WWD:調香の出発点は?

バレル:「イソップ」のクリエイティブチームからのブリーフィングからスタートした“オルナー”は、中国人の詩人である清照李と歌手ニーナ・シモン(Nina Simone)の歌「ライラックワイン」、そして、ヒスイの緑色が着想元になっている。反逆的な恋愛をしていた詩人と恋焦がれる気持ちと怒りを秘めた歌手2人の共通点は、たおやかさと強さ。強さを出すために、「イソップ」の特徴的な香であるウッディを盛り込む必要があると思った。ヒスイからインスパイアされたグリーンノートはマグノリアリーフのフレッシュさに反映している。

WWD:この香りを調香する上でこだわった点は?

バレル:反逆性。フローラルというと優しさや儚さといったものを想像するが、“折れない”フローラルを表現したいと思った。思いがけずエッジの効いた現代的なフローラル。大胆で堂々としている強さのある新しいフローラルを表現したつもりだ。

WWD:“オルナー”はどのように他のフローラルと違う?

バレル:フローラル、アロマティック、フレッシュな要素があり思いがけない香のコントラストが特徴。基本フローラルに分類されるため、 “ローズ”や “グローム”と並ぶ形だが、フローラルとフレッシュ両方の側面を持つ。

創業者との出合いから生まれた香り“タシット”

WWD:イソップと協業を始めたきっかけは?

バレル:2006年に創業者のデニス・パフィティス(Dennis Paphitis)と出会った。文学やアートが好きのデニスとは共通点が多く馬が合った。私は調香の学校を出たばかりで経験がなかったが、ずっと連絡を取り続けて12年に初めて“タシット”を調香した。私が経験を積むのを待ってくれたのだと思う。“タシット”は特別で大切な作品。デニスからのブリーフィングは、イタリア人画家ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の絵。キリコの絵はシュールだが、「イソップ」にも常に奇妙な要素があると思った。それで、バジルを大量に使ってエッセンスを作り、ベチバーハートを使用し、奇妙な要素を表現した。

WWD:あなたにとって「イソップ」はどのようなブランド?

バレル:オーストラリア生まれで、全てのクリエイションプロセス全てに意味がある。多種多様なインスピレーション源から始まる香りの創造は、抒情的であると同時に科学に根ざしたものでもある。製品には完璧さが宿っているが、同時に不完全な中の美を内包するブランド日本との親和性が高いと思う。

香水が芝居だとしたら私は役者のようなもの

WWD:クリエイションで最も大切にしていることは?

バレル:美しさをどのように見つけ、表現するかという点。自然から合成まで、全ての香料を知り抜き、組み合わせて新しいものを生み出すのが調香師の仕事。自然香料は混ぜ合わせるとお互いに溶け合って複雑になるが、合成香料は香りがブロック状に重なる。自然香料を太陽の光とすれば、合成香料は人工光という感じで感情に欠ける。自然香料も合成香料も的確な意図を持って配合するが、香料を組み合わせて、1+1=3になる場合もあり、コントロールが非常に難しい。香りのインパクトや持続性、残り香といったさまざまな香りの旅をどのようにデザインするかが難しい。

WWD:自身が調香するフレグランスにあるシグニチャーは?

バレル:シグニチャーは作らない。なぜなら、香りはブランドのもので、私はそれを形にする媒介役だから。香りを芝居に例えると、私は役者のようなもの。いろいろなブランドのために、自分は香りのストーリーの登場人物になるように心がけている。毎回、香りが完成したら、新しい役になりきるのが大切。いろいろな作品でいろいろな役を演じるのが私のモットーだ。

WWD:尊敬する調香師は?

バレル:故エドモンド・ラウドニツカ(Edmond Roudnitsuka)。元祖“ソヴァージュ”など「ディオール(DIOR)」のフレグランスを多く調香した人で、著書も多い。“グルマン”カテゴリーを生み出したオリヴィエ・クレスプ(Olivier Cresp)も革新的で素晴らしい。「フレデリック マル(FREDERIC MALLE)」の“ポートレイト オブ ア レディー”を手掛けた故ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)は、センシュアルな誘惑する香りを生み出し、尊敬している。

WWD:あなた自身にとってフレグランス=香りとは?

バレル:現実逃避。いろいろな可能性が広がる目に見えないスーパーパワー。香りを通して何かを思い出したり、自然界に訪れたり、魔法のような存在だと思う。

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「イソップ」の反逆的な花の香り“オルナー オードパルファム”調香師に聞く 「香水が芝居だとしたら私は役者」

PROFILE: セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師

セリーヌ・バレル(Celine Barel) 調香師
PROFILE: フランス・グラース生まれ。幼少時から地元の工場で漂うベチバーやイランイラン、パチョリなどの香りに触れ、香水のミニボトルや香水の広告を集めて育つ。2001年から米香料大手メーカーIFFの調香師として活躍

「イソップ(AESOP)」から、新作フレグランス“オルナー オードパルファム(以下、オルナー)”が登場した。同ブランドは2月、都内で新作発表イベントを開催。フローラルフレグランスの概念を覆す“オルナー”の世界観を表現するインスタレーションやワークショップを開催した。“オルナー”という名前は、古代スカンジナビア語で「装飾される、花々で飾られる」という意味。マグノリアリーフ、ローマンカモミール、シダーハートを組み合わせ、フローラルのハートノートとスパイスやメタリック、ウッディノートが織りなす複雑な香りだ。みずみずしい花弁とたくましい幹、植物と金属、女性性と男性性といった相対する要素を融合している。調香を担当したのは長年「イソップ」と協業するセリーヌ・バレル(Celine Barel)。来日したバレルに、「イソップ」との出合いやクリエイションについて聞いた。

概念を覆す“折れない”フローラル

WWD:“オルナー”はどのような香りか?

セリーヌ・バレル(以下、バレル):静かで反逆的なフローラルの香り。思いがけないコントラストがあり、優美さと強靭さの間にある詩的な張力をテーマにしている。香りの中心はマグノリアで花弁ではなくマグノリアリーフが持つ複雑で繊細さを持つ香りが特徴だ。

WWD:調香の出発点は?

バレル:「イソップ」のクリエイティブチームからのブリーフィングからスタートした“オルナー”は、中国人の詩人である清照李と歌手ニーナ・シモン(Nina Simone)の歌「ライラックワイン」、そして、ヒスイの緑色が着想元になっている。反逆的な恋愛をしていた詩人と恋焦がれる気持ちと怒りを秘めた歌手2人の共通点は、たおやかさと強さ。強さを出すために、「イソップ」の特徴的な香であるウッディを盛り込む必要があると思った。ヒスイからインスパイアされたグリーンノートはマグノリアリーフのフレッシュさに反映している。

WWD:この香りを調香する上でこだわった点は?

バレル:反逆性。フローラルというと優しさや儚さといったものを想像するが、“折れない”フローラルを表現したいと思った。思いがけずエッジの効いた現代的なフローラル。大胆で堂々としている強さのある新しいフローラルを表現したつもりだ。

WWD:“オルナー”はどのように他のフローラルと違う?

バレル:フローラル、アロマティック、フレッシュな要素があり思いがけない香のコントラストが特徴。基本フローラルに分類されるため、 “ローズ”や “グローム”と並ぶ形だが、フローラルとフレッシュ両方の側面を持つ。

創業者との出合いから生まれた香り“タシット”

WWD:イソップと協業を始めたきっかけは?

バレル:2006年に創業者のデニス・パフィティス(Dennis Paphitis)と出会った。文学やアートが好きのデニスとは共通点が多く馬が合った。私は調香の学校を出たばかりで経験がなかったが、ずっと連絡を取り続けて12年に初めて“タシット”を調香した。私が経験を積むのを待ってくれたのだと思う。“タシット”は特別で大切な作品。デニスからのブリーフィングは、イタリア人画家ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の絵。キリコの絵はシュールだが、「イソップ」にも常に奇妙な要素があると思った。それで、バジルを大量に使ってエッセンスを作り、ベチバーハートを使用し、奇妙な要素を表現した。

WWD:あなたにとって「イソップ」はどのようなブランド?

バレル:オーストラリア生まれで、全てのクリエイションプロセス全てに意味がある。多種多様なインスピレーション源から始まる香りの創造は、抒情的であると同時に科学に根ざしたものでもある。製品には完璧さが宿っているが、同時に不完全な中の美を内包するブランド日本との親和性が高いと思う。

香水が芝居だとしたら私は役者のようなもの

WWD:クリエイションで最も大切にしていることは?

バレル:美しさをどのように見つけ、表現するかという点。自然から合成まで、全ての香料を知り抜き、組み合わせて新しいものを生み出すのが調香師の仕事。自然香料は混ぜ合わせるとお互いに溶け合って複雑になるが、合成香料は香りがブロック状に重なる。自然香料を太陽の光とすれば、合成香料は人工光という感じで感情に欠ける。自然香料も合成香料も的確な意図を持って配合するが、香料を組み合わせて、1+1=3になる場合もあり、コントロールが非常に難しい。香りのインパクトや持続性、残り香といったさまざまな香りの旅をどのようにデザインするかが難しい。

WWD:自身が調香するフレグランスにあるシグニチャーは?

バレル:シグニチャーは作らない。なぜなら、香りはブランドのもので、私はそれを形にする媒介役だから。香りを芝居に例えると、私は役者のようなもの。いろいろなブランドのために、自分は香りのストーリーの登場人物になるように心がけている。毎回、香りが完成したら、新しい役になりきるのが大切。いろいろな作品でいろいろな役を演じるのが私のモットーだ。

WWD:尊敬する調香師は?

バレル:故エドモンド・ラウドニツカ(Edmond Roudnitsuka)。元祖“ソヴァージュ”など「ディオール(DIOR)」のフレグランスを多く調香した人で、著書も多い。“グルマン”カテゴリーを生み出したオリヴィエ・クレスプ(Olivier Cresp)も革新的で素晴らしい。「フレデリック マル(FREDERIC MALLE)」の“ポートレイト オブ ア レディー”を手掛けた故ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)は、センシュアルな誘惑する香りを生み出し、尊敬している。

WWD:あなた自身にとってフレグランス=香りとは?

バレル:現実逃避。いろいろな可能性が広がる目に見えないスーパーパワー。香りを通して何かを思い出したり、自然界に訪れたり、魔法のような存在だと思う。

The post 「イソップ」の反逆的な花の香り“オルナー オードパルファム”調香師に聞く 「香水が芝居だとしたら私は役者」 appeared first on WWDJAPAN.

「キス」大阪上陸の理由を創業者ロニー・ファイグが明かす 豊富な限定品についても

「キス(KITH)」の新たな旗艦店「キス オオサカ(KITH OSAKA)」が、3月21日にオープンする。「キス」は、2011年にアメリカ・ニューヨークでスニーカーショップとしてスタートし、現在はファッションからカルチャーまでをピックアップするセレクトショップおよび、同名のライフスタイルブランドも手掛けるまでになった。20年7月には、アメリカ国外初となる旗艦店「キス トウキョウ(KITH TOKYO)」を東京・渋谷のミヤシタパーク(MIYASHITA PARK)にオープンし、直近5年でフランスやイギリス、韓国など海外出店を加速させてきた。

「キス オオサカ」は、3月21日に開業する大阪駅直結の商業施設「うめきたグリーンプレイス」内1階に位置し、総売り場面積は「キス トウキョウ」よりも広い約394平方メートル。通路を挟んだ向かいにはシリアルアイスクリームバー「キス トリーツ(KITH TREATS)」も併設する。店内では、メンズ・ウィメンズからキッズまでを豊富にそろえ、オープンにあわせて同店限定のアイテムも数多く用意する力の入れようだ。

実は、「キス」がアメリカ国外で複数店舗を構えるのは日本が初めて。「キス トウキョウ」が変わらずにぎわう状況とはいえ、他ブランドやショップが日本以外のアジア圏で出店攻勢をかける中、なぜロニー・ファイグ(Ronnie Fieg)クリエイティブ・ディレクター兼最高経営責任者は「キス オオサカ」のオープンを決めたのか。その背景について話を聞いた。

大阪出店の決め手は信頼と愛

ーー「キス」は現在、世界に約20店舗を出店していますが、創業地アメリカ以外で複数店舗を構えるのは日本が初めてです。なぜ、日本に2店舗目となる「キス オオサカ」をオープンすることを決めたのでしょうか?

ロニー・ファイグ(以下ロニー):日本が、アメリカ国外で「キス」と最も深く共鳴している国だと感じているからだ。2017年に初めての海外店舗としてシリアルバー「キス トリーツ」を渋谷にオープンして以来(*現在は閉店し、20年にオープンした「キス トウキョウ」に移転)、「キス」は日本での存在感を示してきた。この間に日本の人々はわれわれの成長と進化を見守り、ある意味で共に歩んできた関係性と言える。そして、東京に限らず日本全国に「キス」を愛してくれているファンがいると実感したからこそ、より多くの人々にブランド体験を届けたいという思いが強くなり、大阪に新たな店舗を構えることを決めたんだ。

ーー「キス トウキョウ」は、オープンから5年が経った今も前を通るたびに行列を目にします。やはり、日本での好調な業績もオープン理由の一つですか?

ロニー:間違いない。日本で築き上げられた「キス」のコミュニティーは本当に素晴らしく、ファンは世界観を心から理解し愛してくれており、その気持ちはわれわれも同じ。日本は“第二の故郷”のような国なのさ。それに、日本チームへの信頼とサポートも「キス オオサカ」のオープンを決めた大きな理由の一つ。「キス トウキョウ」のディレクターであるジュンヤ(俣野純也)は長年の友人で、彼とチームスタッフの存在が、「キス」らしい形で大阪出店を実現できると確信させてくれたんだ。

ーーいつ頃から「キス オオサカ」の構想はあったのでしょうか?また、「うめきたグリーンプレイス」を選んだ理由も教えてください。

ロニー:2年以上前から構想していた。理想的な空間を探していたところ、「うめきたグリーンプレイス」をはじめとした大阪駅地上部開発を知り、「キス オオサカ」が都市に新しく誕生する魅力的なエリアの一部になれる絶好の機会だと感じたんだ。

新店でしか体験できないこと

ーー「キス」は、店舗を訪れた際の「“五感”を刺激する“エクスペリエンス(体験)”の提供」に力を入れています。「キス オオサカ」ではどのような“エクスペリエンス”を用意していますか?

ロニー:「“五感”を刺激する“エクスペリエンス”の提供」は全てのフラッグシップストアの共通哲学で、単なるショッピングの場ではなく、志を同じくする人々が集い、ブランドをより深く体験できる場所であるべきだと考えている。その中で「キス オオサカ」の特徴は、1つの中央エリアに3つの異なるスペースを用意している点だ。1つ目のスペースでメンズとウィメンズコレクションを、2つ目のスペースでキッズコレクションを並べ、3つ目のスペースで「キス トリーツ」が楽しめる。このレイアウトにより、それぞれのスペースが独自の雰囲気を持ちながら、全体としては共通した没入体験ができる、洗練された空間に仕上がっている。

ーーオープンにあたり、何か苦労した点はありますか?

ロニー:新しい店舗をオープンする時は、常に何かしらの課題はあるものさ。でも、それも含めてクリエイティブなプロセスとして楽しんでいる。私にとっての一番の喜びは、完成した店舗に初めて足を踏み入れる瞬間なんだ。

ーーオープンに合わせ、大阪らしい限定アイテムを数多く仕込んだそうですね。

ロニー:「キス オオサカ」でしか購入することができない限定アイテムを数多くそろえている。例えば、背面に大阪を象徴するアートワークと虎の刺しゅうを施したリバーシブルジャケットなどのアパレルコレクションや、「ニューエラ(NEW ERA)」とコラボレーションした阪神タイガースとオリックス・バファローズのキャップ、日本の皇室御用達ブランドとしても知られる茶筒の老舗「開化堂」とのキャニスター(フタ付きの円筒形の保存容器)などだ。また、「ニューバランス(NEW BALANCE)」を象徴するスニーカー“1300”のアイコニックなカラーリングを私なりに再解釈し、“メイド イン USA 992(MADE IN USA 992)”に落とし込んだ1足も用意した。これは「キス」の公式オンラインでも販売するが、実店舗で取り扱うのは「キス オオサカ」だけだ。

ーーここからは、少し話の間口を広げさせてください。「キス」は、もともとスニーカーショップとしてスタートしましたが、現在はセレクトショップやライフスタイルブランド、コラボレーターとしての側面なども強くなっています。これは創業当初から意図した業態だったのか、それとも時代に合わせた変化だったのでしょうか?

ロニー:現在の業態を最初から計画していたわけではない。ただ、立ち上げの段階から「キス」というブランドが持つ可能性を最大限に引き出し、市場に新たなインパクトを与えるビジョンは持っていた。それに、より多くを求めるファンに気付かされたのも事実だ。当初はコラボレーションを中心に展開し、次第にオリジナルのアパレルを少しづつリリースし始めると、即完売するようになっていった。どれだけ増産しても需要が続いたことで「『キス』には無限の可能性がある」と確信したんだ。それからというもの、われわれは振り返ることなく進化を続けている。

「キス」の今後はどうなる

ーーまた、最近の「キス」の動きといえば、初のパフォーマンスライン“ケーテック(K-TECH)”をローンチしていましたね。これまでスポーツブランドやアウトドアブランドとの協業を数多く重ねてきた中で、満を持しての販売だったのでしょうか。

ロニー:私たちは毎年、ブランドを新たなカテゴリーへと広げることを目指し、独自の視点を生かせる領域を模索してきた。“ケーテック”は、アクティブウエアにインスパイアされたラインであり、今後もシーズンごとに進化させていく予定だ。

ーー最後に、スニーカーからファッション、スポーツ、フード、カーまで、さまざまな業界で成功を収めている「キス」の今後を教えてください。

ロニー:どの業界に進出しようと、どんな店舗をオープンしようと、ビジョンは常に変わらないーーそれは“「キス」を戦力的に成長・進化させること”。わたしたちは誰かの作った成功モデルをなぞるのではなく、自分たち自身で道を切り拓き、常に自分たちの限界を越え、正しい理由に基づき、最高のモノを生み出し続けていく。

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「キス」大阪上陸の理由を創業者ロニー・ファイグが明かす 豊富な限定品についても

「キス(KITH)」の新たな旗艦店「キス オオサカ(KITH OSAKA)」が、3月21日にオープンする。「キス」は、2011年にアメリカ・ニューヨークでスニーカーショップとしてスタートし、現在はファッションからカルチャーまでをピックアップするセレクトショップおよび、同名のライフスタイルブランドも手掛けるまでになった。20年7月には、アメリカ国外初となる旗艦店「キス トウキョウ(KITH TOKYO)」を東京・渋谷のミヤシタパーク(MIYASHITA PARK)にオープンし、直近5年でフランスやイギリス、韓国など海外出店を加速させてきた。

「キス オオサカ」は、3月21日に開業する大阪駅直結の商業施設「うめきたグリーンプレイス」内1階に位置し、総売り場面積は「キス トウキョウ」よりも広い約394平方メートル。通路を挟んだ向かいにはシリアルアイスクリームバー「キス トリーツ(KITH TREATS)」も併設する。店内では、メンズ・ウィメンズからキッズまでを豊富にそろえ、オープンにあわせて同店限定のアイテムも数多く用意する力の入れようだ。

実は、「キス」がアメリカ国外で複数店舗を構えるのは日本が初めて。「キス トウキョウ」が変わらずにぎわう状況とはいえ、他ブランドやショップが日本以外のアジア圏で出店攻勢をかける中、なぜロニー・ファイグ(Ronnie Fieg)クリエイティブ・ディレクター兼最高経営責任者は「キス オオサカ」のオープンを決めたのか。その背景について話を聞いた。

大阪出店の決め手は信頼と愛

ーー「キス」は現在、世界に約20店舗を出店していますが、創業地アメリカ以外で複数店舗を構えるのは日本が初めてです。なぜ、日本に2店舗目となる「キス オオサカ」をオープンすることを決めたのでしょうか?

ロニー・ファイグ(以下ロニー):日本が、アメリカ国外で「キス」と最も深く共鳴している国だと感じているからだ。2017年に初めての海外店舗としてシリアルバー「キス トリーツ」を渋谷にオープンして以来(*現在は閉店し、20年にオープンした「キス トウキョウ」に移転)、「キス」は日本での存在感を示してきた。この間に日本の人々はわれわれの成長と進化を見守り、ある意味で共に歩んできた関係性と言える。そして、東京に限らず日本全国に「キス」を愛してくれているファンがいると実感したからこそ、より多くの人々にブランド体験を届けたいという思いが強くなり、大阪に新たな店舗を構えることを決めたんだ。

ーー「キス トウキョウ」は、オープンから5年が経った今も前を通るたびに行列を目にします。やはり、日本での好調な業績もオープン理由の一つですか?

ロニー:間違いない。日本で築き上げられた「キス」のコミュニティーは本当に素晴らしく、ファンは世界観を心から理解し愛してくれており、その気持ちはわれわれも同じ。日本は“第二の故郷”のような国なのさ。それに、日本チームへの信頼とサポートも「キス オオサカ」のオープンを決めた大きな理由の一つ。「キス トウキョウ」のディレクターであるジュンヤ(俣野純也)は長年の友人で、彼とチームスタッフの存在が、「キス」らしい形で大阪出店を実現できると確信させてくれたんだ。

ーーいつ頃から「キス オオサカ」の構想はあったのでしょうか?また、「うめきたグリーンプレイス」を選んだ理由も教えてください。

ロニー:2年以上前から構想していた。理想的な空間を探していたところ、「うめきたグリーンプレイス」をはじめとした大阪駅地上部開発を知り、「キス オオサカ」が都市に新しく誕生する魅力的なエリアの一部になれる絶好の機会だと感じたんだ。

新店でしか体験できないこと

ーー「キス」は、店舗を訪れた際の「“五感”を刺激する“エクスペリエンス(体験)”の提供」に力を入れています。「キス オオサカ」ではどのような“エクスペリエンス”を用意していますか?

ロニー:「“五感”を刺激する“エクスペリエンス”の提供」は全てのフラッグシップストアの共通哲学で、単なるショッピングの場ではなく、志を同じくする人々が集い、ブランドをより深く体験できる場所であるべきだと考えている。その中で「キス オオサカ」の特徴は、1つの中央エリアに3つの異なるスペースを用意している点だ。1つ目のスペースでメンズとウィメンズコレクションを、2つ目のスペースでキッズコレクションを並べ、3つ目のスペースで「キス トリーツ」が楽しめる。このレイアウトにより、それぞれのスペースが独自の雰囲気を持ちながら、全体としては共通した没入体験ができる、洗練された空間に仕上がっている。

ーーオープンにあたり、何か苦労した点はありますか?

ロニー:新しい店舗をオープンする時は、常に何かしらの課題はあるものさ。でも、それも含めてクリエイティブなプロセスとして楽しんでいる。私にとっての一番の喜びは、完成した店舗に初めて足を踏み入れる瞬間なんだ。

ーーオープンに合わせ、大阪らしい限定アイテムを数多く仕込んだそうですね。

ロニー:「キス オオサカ」でしか購入することができない限定アイテムを数多くそろえている。例えば、背面に大阪を象徴するアートワークと虎の刺しゅうを施したリバーシブルジャケットなどのアパレルコレクションや、「ニューエラ(NEW ERA)」とコラボレーションした阪神タイガースとオリックス・バファローズのキャップ、日本の皇室御用達ブランドとしても知られる茶筒の老舗「開化堂」とのキャニスター(フタ付きの円筒形の保存容器)などだ。また、「ニューバランス(NEW BALANCE)」を象徴するスニーカー“1300”のアイコニックなカラーリングを私なりに再解釈し、“メイド イン USA 992(MADE IN USA 992)”に落とし込んだ1足も用意した。これは「キス」の公式オンラインでも販売するが、実店舗で取り扱うのは「キス オオサカ」だけだ。

ーーここからは、少し話の間口を広げさせてください。「キス」は、もともとスニーカーショップとしてスタートしましたが、現在はセレクトショップやライフスタイルブランド、コラボレーターとしての側面なども強くなっています。これは創業当初から意図した業態だったのか、それとも時代に合わせた変化だったのでしょうか?

ロニー:現在の業態を最初から計画していたわけではない。ただ、立ち上げの段階から「キス」というブランドが持つ可能性を最大限に引き出し、市場に新たなインパクトを与えるビジョンは持っていた。それに、より多くを求めるファンに気付かされたのも事実だ。当初はコラボレーションを中心に展開し、次第にオリジナルのアパレルを少しづつリリースし始めると、即完売するようになっていった。どれだけ増産しても需要が続いたことで「『キス』には無限の可能性がある」と確信したんだ。それからというもの、われわれは振り返ることなく進化を続けている。

「キス」の今後はどうなる

ーーまた、最近の「キス」の動きといえば、初のパフォーマンスライン“ケーテック(K-TECH)”をローンチしていましたね。これまでスポーツブランドやアウトドアブランドとの協業を数多く重ねてきた中で、満を持しての販売だったのでしょうか。

ロニー:私たちは毎年、ブランドを新たなカテゴリーへと広げることを目指し、独自の視点を生かせる領域を模索してきた。“ケーテック”は、アクティブウエアにインスパイアされたラインであり、今後もシーズンごとに進化させていく予定だ。

ーー最後に、スニーカーからファッション、スポーツ、フード、カーまで、さまざまな業界で成功を収めている「キス」の今後を教えてください。

ロニー:どの業界に進出しようと、どんな店舗をオープンしようと、ビジョンは常に変わらないーーそれは“「キス」を戦力的に成長・進化させること”。わたしたちは誰かの作った成功モデルをなぞるのではなく、自分たち自身で道を切り拓き、常に自分たちの限界を越え、正しい理由に基づき、最高のモノを生み出し続けていく。

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カナダ発ラグジュアリーEC「エッセンス」バイヤーが語る、ファッションと雑貨のボーダーレス化

カナダ・モントリオール発のECサイト「エッセンス(SSENSE)」はエッジの効いた個性的なブランドの取り扱いや商品構成に定評がある。主軸のウィメンズ、メンズウェアに加えて、最近好調なのがコロナ禍の2020年にローンチした雑貨を取り扱うセクションの「物とモノ」だ。

昨年冬からはウィメンズファッションの買い付けを統括するブリジット・チャートランド氏 が「物とモノ」にのバイイング・ディレクターに就任。ファッションと雑貨の買い付けを一挙に引き受けることとなった。それによりウィメンズファッションと雑貨のバイイングの親和性が増し、雑貨の売り上げが伸長。しのぎを削るファッションEC市場で「エッセンス」は独自の強みをどのように見出しているのか、チャートランド氏に話を聞いた。

ーー今までウィメンズファッションの買い付けを担当されていましたが、雑貨の買い付けの基準は?

ブリジット・チャートランド(以下、チャートランド):雑貨カテゴリーの「物とモノ」の買い付けはウィメンズの買い付けに似ている部分が多いと思っています。私が「物とモノ」を統括するようになってから、平凡なものから離れ、大胆でユニークなデザインへと舵を切りました。とはいえ、目立ちすぎるものだけをそろえることはせず、データに基づいた手堅い商品も従来通り揃えています。要はバランスが重要なのです。

また、「ドリス ヴァン ノッテン(DRIES VAN NOTEN)」や「トム ブラウン(THOM BROWNE)」のように、ウィメンズで取り扱う一部のファッションブランドで、ホームプロダクトやセルフケア商品を提供しているブランドにも注目しました。デザイナーのラフ・シモンズ(Raf Simons)とデンマークのテキスタイルブランド「カヴァトラ(KVADRAT)」がコラボレーションしたホーム&ライフスタイル グッズ ブランド「カヴァトラ/ ラフ・シモンズ(KVADRAT/ RAF SIMONS)」のように、ウィメンズですでに関係構築のできているブランドやコミュニティーに焦点を当てています。

新たなブランドを発掘し、
シナジーを生み出す

チャートランド:シモーン・ロシャ(Simone Rocha)の友人でもあるレイラ・ゴハー(Laila Hohar)がローンチした「ゴハー・ワールド(GOHAR WORLD)」がいい例です。すでに関係を築いていたシモーンの友人ということがきっかけで知ることができたブランドです。「エッセンス」にはすでにシモーンのファンたちがいます。その友人やコミュニティーにアクセスすることで、新たなシナジーが生み出せるのです。私たちはこうしたコミュニティーとの結びつきを大切にしています。

「エッセンス」ではエディトリアルのプラットフォームを活用して、デザイナーや業界の重要な人たちと関係を築いていくことも、とても重要だと思っています。限定出版物、たとえばイザベラ・バーリー(Isabella Burley)による「CLIMAX BOOKS」のような希少な商品はエディトリアルでもその魅力を紹介しました。

さらに「エッセンス」が得意とするのは次世代の若手アーティストの発掘です。日本はもちろん、デンマークや韓国などの新興国やローカル市場に目を向けることも重要です。これらの様々な要素が絡み合ったものが「エッセンス」の戦略と言えるでしょう。

ーー2つのカテゴリーを買い付ける上での大きな違いは?

チャートランド:雑貨はファッションと違って、必ずしもシーズンカレンダーに従っているわけではありません。季節性が強いわけではないからこそ、どのタイミングで何をリリースするかなどは細心の注意を払っています。また、家具などはサイズや重量が重いため、配送料を気にしないといけなかったり、収益にもフォーカスしないといけません。ファッションと異なる点は試着をする必要がないので、「フィット感」は気にする必要はなくとも、ファッションと同様、魅力的なデザインが求められます。

ーーウィメンズと雑貨の買い付けを1人で統括することのメリットは?

チャートランド:「エッセンス」がすでに得意としているウィメンズファッションに、雑貨の世界観を一致させることができることです。前述したように既存のシナジーを活用しつつ、ウィメンズファッションのために築いてきたブランドアイデンティティーを強化し、繋がりを作ることもできます。

2024年にシモーン・ロシャとともにビューティーバッグの企画を行いました。ホリデーシーズン向けにシモーンがデザインしたバッグの中に「エッセンス」で取り扱うビューティ商品を詰め込みました。このバッグは即完売したのですが、私たちのウィメンズファッションで培ったコネクションを活用することが成果につながるということを実証できました。

ーーファッションEコマースサイトにおいて、雑貨の存在意義は?

チャートランド:今まで付き合いのあった顧客たちも日々進化し、ライフスタイルが変化をしたり、家を購入したりするようになり、雑貨や家具、美容などのカテゴリーが受け入れられるようになりました。

また、特にパンデミックは人々の視点を家の中に向けました。ファッションブランドもトータルコーディネートという観点から雑貨やホームプロダクトにも目を向けるようになりました。ブランドのアイデンティティーをファッション以外の形で表現したいというブランドが増えたため、パンデミックの時期は雑貨を始めるのに適した時期であり、私たちのサイトでも雑貨を立ち上げる意義が生まれました。

ーーファッションEコマース市場における「エッセンス」の強みは?

チャートランド:ユニークなブランドや商品を取りそれることで唯一無二の視点を維持していることです。ブランドに特別なコラボレーション商品を作ってもらうことでの希少性は私たちのコアバリューになっています。

ーー「物とモノ」の中で注目しているブランドは?

チャートランド:個人的には「ゴハー・ワールド」のデザインアプローチも好きですし、「テクラ(TEKLA)」と「オーラリー(AURALEE)」のコラボが大好きだったのですが、すぐに売り切れてしまいました。メルボルン発の「ゾウゾウ ラグス(ZOUZOU RUGS)」は美しいラグを作っていて、「フェラガモ(FERRAGAMO)」のブティックとも密接な関わりを持っているので、ファッションブランドとの親和性もあります。日本の家庭にも馴染むパターンなので、日本のお客さんにもおすすめしたいですね。ロサンゼルス拠点の韓国系アメリカ人アーティストのラミ・キム(RAMI KIM STUDIO)の花瓶やタンブラーも大好きです。

ーー最近拠点をLAに移したそうですが、ライフスタイルは変わりましたか?

チャートランド:大きく変わりましたね。ただ、年始に起きた山火事では避難を余儀なくされました。モントリオールにいた時は冬の間は移動以外ではほとんど外に出ることはありませんでしたが、今はほとんど外にいてアクティブに過ごしています。今ではフラワーアレンジメントが週末の趣味になっていて、韓国から来たアーティストとワークショップを開催しました。

ーー今年「物とモノ」で予定されているコラボレーションを教えてください。

チャートランド:「エッセンス」では特別な商品をお客さまに届けるための限定商品なども販売しています。今年はロンドンを拠点とするデザイナー、ジェームズ・ショウ(JAMES SHAW)の作品をエクスクルーシブで取り扱うほか、選りすぐりの新規ブランドも多数導入予定です。

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ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る

兄のブライアン・ダダリオ(Brian D'Addario)と弟のマイケル・ダダリオ(Michael D'Addario)による兄弟デュオとしてニューヨークで活動し、“バロック・ポップの金字塔”とも謳われた2016年のデビュー・アルバム「Do Hollywood」以来、音楽ファンの間で高い評価を受け続けているザ・レモン・ツイッグス(The Lemon Twigs)。バイオリンやチェロ、トランペット、マンドリンも含む多彩な楽器を操り彼らがこれまで披露してきたサウンドは、ソフト・ロックやパワー・ポップ、グラム・ロック、そしてドゥーワップからロック・オペラ、ミュージカル風まで実にバラエティー豊か。その根底には、とりわけ1960〜70年代のロックやポップ・ミュージックへの深い愛情と造詣があり、卓越したメロディー・センスと複雑に構築されたアレンジによって彼らは、華やかでファンタジックで独創的な音楽世界をつくり上げてきた。昨年リリースされた5枚目の最新アルバム「A Dream Is All We Know」は、“Mersey Beach”と彼らが呼ぶ架空の空間(※リヴァプールとローレル・キャニオンの間の音の橋)をコンセプトに、ビートルズやビーチ・ボーイズ、60年代のスウェディッシュ・ポップにインスピレーションを得たダイナミックな曲調と美しいハーモニーが魅力的な作品だった。

そんな彼らの音楽に貫かれた美意識は、作品のアートワークやMV、あるいはデビュー時から個性的なファッションスタイルにも感じられるものでもある。そして、そうしたビジュアル的な要素は、ミュージシャンにとって作品の世界やアーティスト像を構成する重要な一部であることはいうまでもない。ちなみに、過去にはエディ・スリマン(Hedi Sliman)の被写体を務めたこともあるダダリオ兄弟。今回、1月5日の「ロッキン・オン ソニック(rockin'on sonic)」への出演のため6年ぶりに来日した2人に、そのあたりの関心や話題についてざっくばらんに聞いてみた。

ザ・レモン・ツイッグスとファッション

——久しぶり(※2019年のサマーソニック出演以来)の日本はどうですか。街並みにも新年独特の空気(※取材は1月6日)が感じられると思いますけど。

マイケル・ダダリオ(以下、マイケル):行きたかった店が全部閉まっていて。休もうと思って早く来たのに、最悪のタイミングだった(笑)。着いたのが12月30日か31日で、1日目も2日目も、3日目もずっと閉まっていてね。でも「ぷあかう」ってすてきなバーで年越しを迎えることができてよかったよ。

——SNSに写真を上げていましたね。ツアー先で必ず巡るお店はあるんですか。

ブライアン・ダダリオ(以下、ブライアン):ビンテージショップに行くのが大好きなんだ。ツアー先でその土地ならではの個性的な店を見つけるのが楽しい。最高のアクティビティだよ。

マイケル:高円寺で一緒に服を見に行ったこともあったね。僕もブライアンも、バンドのメンバーもみんな服が大好きだから。好みもバラバラで面白いよ。

——2人はどんなテイストの服が好きなんですか。

マイケル:いろいろなテイストの服を着てきたけど、結局は1960年代——64年から66年ぐらいのスタイルに落ち着くことが多いかな。ハイネックのボタンダウン・シャツにネクタイを締めるとか、少し襟の高いデザインが個人的に好きなんだ。それと、70年代後半のパワー・ポップをイメージさせるみたいな服も好き。ジーンズはストンとしたシルエットが好みで、極端なシェイプのものは好きじゃなくて。

ブライアン:僕は逆に、極端に広がったフレアパンツや、すごくシェイプされたものが好きなんだ。マイケルは僕よりも僕の好みに詳しいんだよ(笑)。

マイケル:バンドのメンバーが気に入りそうなアイテムを探して買うこともあるしね。

ブライアン:マイケルがくれた中で唯一手を出していないのは、ドクロのリングかな(笑)。マイケルがロングヘアだった時によくはめていたんだよ。あと、僕のガールフレンドで、チョッチキ(Tchotchke)ってバンドをやっているアナスタシア(・サンチェス)もいろいろアドバイスをしてくれる。彼女はファッション・センスが抜群で、よく服をくれるんだ。彼女の母親もとてもスタイリッシュで、スタイリストをやっているんだよ。

——ちなみに、新作の「A Dream Is All We Know」のジャケットで着ている服はどんな感じで決めたんですか。かたや白シャツに黒タイ、かたやオレンジのカットソーに緑がかったデニムと、そのコントラストが印象的ですが。

ブライアン:そうだな……お互い違うスタイルだけど、うまく調和していると思うよ。2人とも少しプレッピー風というか。

マイケル:何かの影響ってわけじゃなくて、ただ、ジャケットはシンプルで、余計な要素を入れたくないというのがあった。ブライアンの服もすごくシンプルな感じ――リンゴのマークと無地のパンツ――だから、僕の服もシンプルで、背景もシンプルにしたかった。遠くから見ても「僕たちの作品」って分かるようなものにね。細かいことは考えず、ディティールよりも全体の質感にこだわった感じかな。

ダダリオ兄弟のファッション・アイコン

——例えば、2人にとって「ファッション・アイコン」と言えるミュージシャンって誰かいますか。

ブライアン:その時の気分にもよるけど、2人とも大好きなのはトッド・ラングレン。僕自身は、60年代後半の(ポール・)マッカートニーのスタイルが好きだね。あのセーターを合わせた、すごくプレッピーなスタイルとか。

マイケル:僕がステージ衣装を選ぶ時は、タイトなシャツやシルエットが際立つパンツ、そして大胆なグラフィックTシャツが多い。ステージで映えるしね。でも、「自分もあんな風になりたい」と思って服を着ることはない。ただ格好いいと思うからで。それに、自分が着ていて気持ちいい服ってあるでしょ? だから僕も、あくまで自分に合ったスタイルを楽しんでいるって感じかな。ロン・ウッドだってきっとそうなんじゃないかな。

——ロン・ウッドは新作のインスピレーションにも挙げていましたが、今名前が出たミュージシャンは、音楽的な部分でも2人にとって「アイコン」であるわけですよね?

マイケル:そうだね、みんな音楽も素晴らしい。でもさ、その人のつくる音楽が好きで、その人のファッション・スタイルは好きじゃないってことはあまりなくない? 音楽とファッションは深いつながりがあると思うし、ファッションも音楽の一部というか。例えばラズベリーズ(Raspberries)みたいにちょっとダサく見えても(笑)、僕は好きなんだ。彼らには合っているし、音楽とも合っている。

ブライアン:音楽が彼らの服装をクールに見せているところもあると思う。

マイケル:それにギルバート・オサリバンだって、あの奇抜なセーターを着ていて、みんな彼のファッション・センスを面白おかしく話したりしていたけど、でもあれこそが彼の一部なんだよね。あの複雑なコードを書き、あの素晴らしい歌詞を書いたのは、あのニュースボーイ・キャップみたいな、ちょっと変わった帽子をかぶった彼なんだ。誰かに言われてそうしたのではなく、自分自身の表現として選んだんだと思う。それに、後期の彼のファッションもかっこよかったと思うよ。シャツをはだけて胸毛を出してたり、あの大きく「G」ってロゴが入ったセーターとかさ。あれも彼の一部なんだ。

——ちなみに、身近のミュージシャンで着こなしがクールだなって思うのは?

マイケル:フォクシジェン(Foxygen)のサム(・フランス)はクールでスタイリッシュだと思う。それに、ユニ・ボーイズ(Uni Boys、アルバムをダダリオ兄弟がプロデュース)とか、チョッチキもみんなめちゃくちゃおしゃれでかっこいい。あと、ジ・アンブレラズ(The Umbrellas)も素晴らしいバンドで、メンバーのファッション・センスも抜群だよ。

——マイケルが「ファッションも音楽の一部」と話していましたが、例えば、作品ごとにサウンドとルックのすり合わせみたいなことってありますか。「このサウンドだからこのファッションでいこう」みたいな。

マイケル:まあ、なんとなく統一感を出したいとは思ってるけど、でも、そこはあくまで自然体がいいと思うんだ。つまり、あまりルールはない。見た目がよければいいってことでさ。それに、あのアルバム(「A Dream Is All We Know」)のジャケットで全身レザーとか着てたらおかしいでしょ?(笑)。

——確かに(笑)。そういえば、「Songs for the General Public」(2020年)のジャケットでは、グラムというかゴス風の変わったテイストのファッションでしたよね。

ブライアン:あの時の僕らはキッス(KISS)にハマっていたんだ(笑)。キッスってすごく大げさな衣装で、僕たちも自分たちをもっと派手に見せたかったんだと思う。でも、あの時着てた羽が付いた衣装は、今となってはちょっと後悔してるかも。あれはステージ衣装としてデザインされたものだったんだけど、小さなクラブでやったライブで着てみたら羽が大きく広がってしまい、かなり滑稽な感じになってしまって(笑)。

マイケル:でも面白いよね。そういうのもかっこいいというか、自分らしさが出てていいと思うんだ。少なくとも、まったくもって普通じゃないでしょ?(笑)。とても個性的なスタイルで、実際、あのアルバムの楽曲の世界観と僕たちのビジュアルイメージはとてもよく合っていたと思うしね。

MVなどのアートワークについて

——今回のアルバムでは、「How Can I Love Her More」と「A Dream Is All I Know」の2曲で2人がMVの監督を務めています。それぞれテイストが異なりますが、どんなコンセプトで制作されたのでしょうか。

ブライアン:面白いことに、どちらもほとんど同じ場所で撮影したものなんだ。学校にある講堂みたいな無料で使えるスペースを借りて、そこにはスポットライトもあってね。その場所の制約に合わせて、できることをやったって感じだった。それでジョージ・ハリソンの「Blow Away」のMVを参考に、グリーンバックを使った演出を取り入れようってことになってね。それでできたのが「A Dream Is All I Know」のMVだった。

マイケル:僕たちの考えとしては、2曲とも曲の雰囲気にマッチさせることが重要だった。「A Dream Is All We Know」って、ウィングス(※ポール・マッカートニーが70年代に妻のリンダらと結成したバンド)みたいな感じの曲なんだよね。シンセサイザーとギターの音がそう感じさせるのかな。それに、ブライアンの衣装は70年代のパイロットのようなレトロなスタイルというか(笑)。で、もう1曲(「How Can I Love Her More」)の方は、明らかに60年代っぽい、サンシャイン・ポップみたいな感じで。

ブライアン:エジソン・ライトハウスとラヴィン・スプーンフルみたいな感じというかね。その2つはまったく違うものだけど、マッシュアップされて、より親密で温かみのあるサウンドになっている。少し控えめで、リラックスしている感じ。だからMVもそんな雰囲気に仕上がっていると思うよ。逆に、「How Can I Love Her More」はスケールが大きくて、開放的なサウンドだった。だからセントラルパークで、あの大きなバンドシェル(※音を反響させる半円形の壁)があるところで撮影することにしたんだ。そこで曲を聴いてみて、どんな映像が合うか想像してね。

——そうした映像制作や、アートワークも含めたビジュアル的な部分に関して影響を受けたアーティストって誰かいますか。

マイケル:そうだな……たくさんいて絞りきれないけど(笑)、僕たちのアルバム・ジャケットはよくスパークスとよく比較されるよね。独特な雰囲気があるから。それ以外で言うと、僕たちのジャケット・デザインは僕のガールフレンドのエヴァ(・チェンバース、チョッチキのベース/キーボード)が手掛けていて、彼女はビンテージの家具店で働いているんだけど、そこで扱っている面白いジャケットのレコードを見つけると、音楽が良くなくても写真を撮ってくるんだ。その彼女のコレクションからインスピレーションを受けることもあるね。

——ちなみに、好きな映像作家、映画監督がいたら教えてください。

マイケル:MVに関しては、僕たちにはかなり基本的なルールがあるんだ。つまり、曲が主役で、映像は曲の内容に沿ったものにしたいし、曲とバンドをセットにして、全てが美しく見えるようにしたい。不快なものや余計なものは排除する。例えば、(ライナー・ヴェルナー・)ファスビンダーの映画とかさ、とても美しいよね。それに、ブライアンが大好きな(アンドレイ・)タルコフスキーの映画も無駄なものが一切なくて、映像美が際立っている。当時の時代背景もあると思うけど、フレーム内に余計なものを置かないようにしている。そこには監督の意志が貫かれていて、こうしたシンプルな美しさは絵画に通じるものがある。だから、僕たちのMVもそうした芸術作品を目指したいと思っているよ。

——例えば、レモン・ツイッグスとしての活動において、音楽とファッション、あるいはビジュアル表現の理想的な関係について2人がどう考えているのか、興味があります。

マイケル:それは解釈次第だから、答えるのはすごく難しいね。僕が大好きなアーティストの中には、服装とかまったく気にするそぶりを見せない人もいる。ブライアン・ウィルソンとか、アレックス・チルトンとか、そういうのはどうでもいいって感じだった——アレックス・チルトンは意図的だったのかもしれないけど。でも、みんなそれぞれに自分にとっての完璧なバランスというのを持っていると思うんだ。例えば、スパークスはビジュアルについてモチベーションが高いし、デヴィッド・ボウイは明らかに視覚的な表現を重要視していた。だから……。

ブライアン:僕たちの場合、極端にどちらかに偏りすぎると、居心地が悪くなってしまう。だから心地よく表現できる範囲内で、自分に合ったスタイルを見つけていくことが理想的だと思うよ。

——ありがとうございます。では最後に、最近のお気に入りのワードローブについて教えてください。

ブライアン:一番好きなのはミニーマウスが描かれたセーター。たまに着ると気分が上がるんだ。そういえば、マイケルのガールフレンドが「私も欲しい!」って言ってたよ。「私が着るべきだ!」って(笑)。

マイケル:分からないけど、このカットソーかな。「Love & Peace」「Peace & Love」ってたくさんプリントされていて(笑)。彼女からのクリスマス・プレゼントなんだ。

PHOTOS:MASASHI URA

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ザ・レモン・ツイッグスの美意識——ファッションと音楽のつながりを語る

兄のブライアン・ダダリオ(Brian D'Addario)と弟のマイケル・ダダリオ(Michael D'Addario)による兄弟デュオとしてニューヨークで活動し、“バロック・ポップの金字塔”とも謳われた2016年のデビュー・アルバム「Do Hollywood」以来、音楽ファンの間で高い評価を受け続けているザ・レモン・ツイッグス(The Lemon Twigs)。バイオリンやチェロ、トランペット、マンドリンも含む多彩な楽器を操り彼らがこれまで披露してきたサウンドは、ソフト・ロックやパワー・ポップ、グラム・ロック、そしてドゥーワップからロック・オペラ、ミュージカル風まで実にバラエティー豊か。その根底には、とりわけ1960〜70年代のロックやポップ・ミュージックへの深い愛情と造詣があり、卓越したメロディー・センスと複雑に構築されたアレンジによって彼らは、華やかでファンタジックで独創的な音楽世界をつくり上げてきた。昨年リリースされた5枚目の最新アルバム「A Dream Is All We Know」は、“Mersey Beach”と彼らが呼ぶ架空の空間(※リヴァプールとローレル・キャニオンの間の音の橋)をコンセプトに、ビートルズやビーチ・ボーイズ、60年代のスウェディッシュ・ポップにインスピレーションを得たダイナミックな曲調と美しいハーモニーが魅力的な作品だった。

そんな彼らの音楽に貫かれた美意識は、作品のアートワークやMV、あるいはデビュー時から個性的なファッションスタイルにも感じられるものでもある。そして、そうしたビジュアル的な要素は、ミュージシャンにとって作品の世界やアーティスト像を構成する重要な一部であることはいうまでもない。ちなみに、過去にはエディ・スリマン(Hedi Sliman)の被写体を務めたこともあるダダリオ兄弟。今回、1月5日の「ロッキン・オン ソニック(rockin'on sonic)」への出演のため6年ぶりに来日した2人に、そのあたりの関心や話題についてざっくばらんに聞いてみた。

ザ・レモン・ツイッグスとファッション

——久しぶり(※2019年のサマーソニック出演以来)の日本はどうですか。街並みにも新年独特の空気(※取材は1月6日)が感じられると思いますけど。

マイケル・ダダリオ(以下、マイケル):行きたかった店が全部閉まっていて。休もうと思って早く来たのに、最悪のタイミングだった(笑)。着いたのが12月30日か31日で、1日目も2日目も、3日目もずっと閉まっていてね。でも「ぷあかう」ってすてきなバーで年越しを迎えることができてよかったよ。

——SNSに写真を上げていましたね。ツアー先で必ず巡るお店はあるんですか。

ブライアン・ダダリオ(以下、ブライアン):ビンテージショップに行くのが大好きなんだ。ツアー先でその土地ならではの個性的な店を見つけるのが楽しい。最高のアクティビティだよ。

マイケル:高円寺で一緒に服を見に行ったこともあったね。僕もブライアンも、バンドのメンバーもみんな服が大好きだから。好みもバラバラで面白いよ。

——2人はどんなテイストの服が好きなんですか。

マイケル:いろいろなテイストの服を着てきたけど、結局は1960年代——64年から66年ぐらいのスタイルに落ち着くことが多いかな。ハイネックのボタンダウン・シャツにネクタイを締めるとか、少し襟の高いデザインが個人的に好きなんだ。それと、70年代後半のパワー・ポップをイメージさせるみたいな服も好き。ジーンズはストンとしたシルエットが好みで、極端なシェイプのものは好きじゃなくて。

ブライアン:僕は逆に、極端に広がったフレアパンツや、すごくシェイプされたものが好きなんだ。マイケルは僕よりも僕の好みに詳しいんだよ(笑)。

マイケル:バンドのメンバーが気に入りそうなアイテムを探して買うこともあるしね。

ブライアン:マイケルがくれた中で唯一手を出していないのは、ドクロのリングかな(笑)。マイケルがロングヘアだった時によくはめていたんだよ。あと、僕のガールフレンドで、チョッチキ(Tchotchke)ってバンドをやっているアナスタシア(・サンチェス)もいろいろアドバイスをしてくれる。彼女はファッション・センスが抜群で、よく服をくれるんだ。彼女の母親もとてもスタイリッシュで、スタイリストをやっているんだよ。

——ちなみに、新作の「A Dream Is All We Know」のジャケットで着ている服はどんな感じで決めたんですか。かたや白シャツに黒タイ、かたやオレンジのカットソーに緑がかったデニムと、そのコントラストが印象的ですが。

ブライアン:そうだな……お互い違うスタイルだけど、うまく調和していると思うよ。2人とも少しプレッピー風というか。

マイケル:何かの影響ってわけじゃなくて、ただ、ジャケットはシンプルで、余計な要素を入れたくないというのがあった。ブライアンの服もすごくシンプルな感じ――リンゴのマークと無地のパンツ――だから、僕の服もシンプルで、背景もシンプルにしたかった。遠くから見ても「僕たちの作品」って分かるようなものにね。細かいことは考えず、ディティールよりも全体の質感にこだわった感じかな。

ダダリオ兄弟のファッション・アイコン

——例えば、2人にとって「ファッション・アイコン」と言えるミュージシャンって誰かいますか。

ブライアン:その時の気分にもよるけど、2人とも大好きなのはトッド・ラングレン。僕自身は、60年代後半の(ポール・)マッカートニーのスタイルが好きだね。あのセーターを合わせた、すごくプレッピーなスタイルとか。

マイケル:僕がステージ衣装を選ぶ時は、タイトなシャツやシルエットが際立つパンツ、そして大胆なグラフィックTシャツが多い。ステージで映えるしね。でも、「自分もあんな風になりたい」と思って服を着ることはない。ただ格好いいと思うからで。それに、自分が着ていて気持ちいい服ってあるでしょ? だから僕も、あくまで自分に合ったスタイルを楽しんでいるって感じかな。ロン・ウッドだってきっとそうなんじゃないかな。

——ロン・ウッドは新作のインスピレーションにも挙げていましたが、今名前が出たミュージシャンは、音楽的な部分でも2人にとって「アイコン」であるわけですよね?

マイケル:そうだね、みんな音楽も素晴らしい。でもさ、その人のつくる音楽が好きで、その人のファッション・スタイルは好きじゃないってことはあまりなくない? 音楽とファッションは深いつながりがあると思うし、ファッションも音楽の一部というか。例えばラズベリーズ(Raspberries)みたいにちょっとダサく見えても(笑)、僕は好きなんだ。彼らには合っているし、音楽とも合っている。

ブライアン:音楽が彼らの服装をクールに見せているところもあると思う。

マイケル:それにギルバート・オサリバンだって、あの奇抜なセーターを着ていて、みんな彼のファッション・センスを面白おかしく話したりしていたけど、でもあれこそが彼の一部なんだよね。あの複雑なコードを書き、あの素晴らしい歌詞を書いたのは、あのニュースボーイ・キャップみたいな、ちょっと変わった帽子をかぶった彼なんだ。誰かに言われてそうしたのではなく、自分自身の表現として選んだんだと思う。それに、後期の彼のファッションもかっこよかったと思うよ。シャツをはだけて胸毛を出してたり、あの大きく「G」ってロゴが入ったセーターとかさ。あれも彼の一部なんだ。

——ちなみに、身近のミュージシャンで着こなしがクールだなって思うのは?

マイケル:フォクシジェン(Foxygen)のサム(・フランス)はクールでスタイリッシュだと思う。それに、ユニ・ボーイズ(Uni Boys、アルバムをダダリオ兄弟がプロデュース)とか、チョッチキもみんなめちゃくちゃおしゃれでかっこいい。あと、ジ・アンブレラズ(The Umbrellas)も素晴らしいバンドで、メンバーのファッション・センスも抜群だよ。

——マイケルが「ファッションも音楽の一部」と話していましたが、例えば、作品ごとにサウンドとルックのすり合わせみたいなことってありますか。「このサウンドだからこのファッションでいこう」みたいな。

マイケル:まあ、なんとなく統一感を出したいとは思ってるけど、でも、そこはあくまで自然体がいいと思うんだ。つまり、あまりルールはない。見た目がよければいいってことでさ。それに、あのアルバム(「A Dream Is All We Know」)のジャケットで全身レザーとか着てたらおかしいでしょ?(笑)。

——確かに(笑)。そういえば、「Songs for the General Public」(2020年)のジャケットでは、グラムというかゴス風の変わったテイストのファッションでしたよね。

ブライアン:あの時の僕らはキッス(KISS)にハマっていたんだ(笑)。キッスってすごく大げさな衣装で、僕たちも自分たちをもっと派手に見せたかったんだと思う。でも、あの時着てた羽が付いた衣装は、今となってはちょっと後悔してるかも。あれはステージ衣装としてデザインされたものだったんだけど、小さなクラブでやったライブで着てみたら羽が大きく広がってしまい、かなり滑稽な感じになってしまって(笑)。

マイケル:でも面白いよね。そういうのもかっこいいというか、自分らしさが出てていいと思うんだ。少なくとも、まったくもって普通じゃないでしょ?(笑)。とても個性的なスタイルで、実際、あのアルバムの楽曲の世界観と僕たちのビジュアルイメージはとてもよく合っていたと思うしね。

MVなどのアートワークについて

——今回のアルバムでは、「How Can I Love Her More」と「A Dream Is All I Know」の2曲で2人がMVの監督を務めています。それぞれテイストが異なりますが、どんなコンセプトで制作されたのでしょうか。

ブライアン:面白いことに、どちらもほとんど同じ場所で撮影したものなんだ。学校にある講堂みたいな無料で使えるスペースを借りて、そこにはスポットライトもあってね。その場所の制約に合わせて、できることをやったって感じだった。それでジョージ・ハリソンの「Blow Away」のMVを参考に、グリーンバックを使った演出を取り入れようってことになってね。それでできたのが「A Dream Is All I Know」のMVだった。

マイケル:僕たちの考えとしては、2曲とも曲の雰囲気にマッチさせることが重要だった。「A Dream Is All We Know」って、ウィングス(※ポール・マッカートニーが70年代に妻のリンダらと結成したバンド)みたいな感じの曲なんだよね。シンセサイザーとギターの音がそう感じさせるのかな。それに、ブライアンの衣装は70年代のパイロットのようなレトロなスタイルというか(笑)。で、もう1曲(「How Can I Love Her More」)の方は、明らかに60年代っぽい、サンシャイン・ポップみたいな感じで。

ブライアン:エジソン・ライトハウスとラヴィン・スプーンフルみたいな感じというかね。その2つはまったく違うものだけど、マッシュアップされて、より親密で温かみのあるサウンドになっている。少し控えめで、リラックスしている感じ。だからMVもそんな雰囲気に仕上がっていると思うよ。逆に、「How Can I Love Her More」はスケールが大きくて、開放的なサウンドだった。だからセントラルパークで、あの大きなバンドシェル(※音を反響させる半円形の壁)があるところで撮影することにしたんだ。そこで曲を聴いてみて、どんな映像が合うか想像してね。

——そうした映像制作や、アートワークも含めたビジュアル的な部分に関して影響を受けたアーティストって誰かいますか。

マイケル:そうだな……たくさんいて絞りきれないけど(笑)、僕たちのアルバム・ジャケットはよくスパークスとよく比較されるよね。独特な雰囲気があるから。それ以外で言うと、僕たちのジャケット・デザインは僕のガールフレンドのエヴァ(・チェンバース、チョッチキのベース/キーボード)が手掛けていて、彼女はビンテージの家具店で働いているんだけど、そこで扱っている面白いジャケットのレコードを見つけると、音楽が良くなくても写真を撮ってくるんだ。その彼女のコレクションからインスピレーションを受けることもあるね。

——ちなみに、好きな映像作家、映画監督がいたら教えてください。

マイケル:MVに関しては、僕たちにはかなり基本的なルールがあるんだ。つまり、曲が主役で、映像は曲の内容に沿ったものにしたいし、曲とバンドをセットにして、全てが美しく見えるようにしたい。不快なものや余計なものは排除する。例えば、(ライナー・ヴェルナー・)ファスビンダーの映画とかさ、とても美しいよね。それに、ブライアンが大好きな(アンドレイ・)タルコフスキーの映画も無駄なものが一切なくて、映像美が際立っている。当時の時代背景もあると思うけど、フレーム内に余計なものを置かないようにしている。そこには監督の意志が貫かれていて、こうしたシンプルな美しさは絵画に通じるものがある。だから、僕たちのMVもそうした芸術作品を目指したいと思っているよ。

——例えば、レモン・ツイッグスとしての活動において、音楽とファッション、あるいはビジュアル表現の理想的な関係について2人がどう考えているのか、興味があります。

マイケル:それは解釈次第だから、答えるのはすごく難しいね。僕が大好きなアーティストの中には、服装とかまったく気にするそぶりを見せない人もいる。ブライアン・ウィルソンとか、アレックス・チルトンとか、そういうのはどうでもいいって感じだった——アレックス・チルトンは意図的だったのかもしれないけど。でも、みんなそれぞれに自分にとっての完璧なバランスというのを持っていると思うんだ。例えば、スパークスはビジュアルについてモチベーションが高いし、デヴィッド・ボウイは明らかに視覚的な表現を重要視していた。だから……。

ブライアン:僕たちの場合、極端にどちらかに偏りすぎると、居心地が悪くなってしまう。だから心地よく表現できる範囲内で、自分に合ったスタイルを見つけていくことが理想的だと思うよ。

——ありがとうございます。では最後に、最近のお気に入りのワードローブについて教えてください。

ブライアン:一番好きなのはミニーマウスが描かれたセーター。たまに着ると気分が上がるんだ。そういえば、マイケルのガールフレンドが「私も欲しい!」って言ってたよ。「私が着るべきだ!」って(笑)。

マイケル:分からないけど、このカットソーかな。「Love & Peace」「Peace & Love」ってたくさんプリントされていて(笑)。彼女からのクリスマス・プレゼントなんだ。

PHOTOS:MASASHI URA

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