大切な「人」と忘れられない「物語」と共に「宝物」と出合えた僕は、本当に幸運だった。[山葡萄蔓の籠/山形県西村山郡]
山形県西村山郡「伊丹十三さんに憧れた」。ものとの付き合い方は、出合い方次第で宝物になる。
「愛用品や身の回りの接し方など、どうしたらうまく自分のライフスタイルへ取り込めるのか。それに触発されたのは、伊丹十三さんでした。伊丹さんは憧れの存在です」。
そう話すのは、エッセイストであり、Webメディア『くらしのきほん』の主宰も務める松浦弥太郎氏です。そんな松浦氏のものの選び方の「きほん」のひとつに、伊丹十三氏のエッセイ処女作、『ヨーロッパ退屈日記』があります。
「伊丹さんは、どんなものを使っていたのだろう。長く愛用していたものとは何だったのだろう」。松浦氏は、そんな思いを巡らせます。
「伊丹さんは、単なるこだわりではなく、対話できるものを選んでいました。その中のひとつが、“山葡萄蔓の籠”。ブランド品ではなく、日本のクラフトを選んでいたのです。しかも民藝を。写真で見たり、映像で観たり、本を読んだり。度々登場するこの“山葡萄蔓の籠”を伊丹さんは日常的に持ち歩いていたそうです」と、松浦氏は話し、「いつかは自分も“山葡萄蔓の籠”を使いたいと思いました」と言葉を続けます。
ここから松浦氏が「山葡萄蔓の籠」を求める出合いの旅が始まります。
旅の途中、一見、それに出合ったかのように思える場面もありますが、そう甘くはありません。「本物」と出合うまでの道のりは、遥か遠く、長い。しかし、一方でその時間の分だけ、心を育んでくれました。
山形県西村山郡どこへ行っても心のどこかで「山葡萄蔓の籠」を探している自分がいた。
その後、松浦氏はあてどのない旅を続けます。
「旅をしながら、どこへ行っても心のどこかで“山葡萄蔓の籠”を探している自分がいました」と、松浦氏は当時の自分を振り返ります。
その旅の中で、大分県は湯布院の小さな民藝店で、ある籠と出合います。
「“山葡萄蔓”ではなかったのですが、そこにあった“アケビ”の籠が素晴らしく、それを手に入れました。そのアケビの籠も長年愛用していたのですが、それでもいつかは、“山葡萄蔓の籠”を使いたいと思う気持ちをずっと持っていました」。松浦氏にとっての籠第一号です。しかし、長年愛用していたはずなのに何かが違う。「山葡萄蔓」ではなく「アケビ」だからなのか? そんな時、岩手で「山葡萄蔓の籠」を受注生産している方と出会います。
「これはチャンスだと思い、すぐにその職人の方に注文しました」。
それから半年以上後、待ちわびていた「山葡萄蔓の籠」は、松浦氏の手元に届きます。ようやく手に入れた待望の「山葡萄蔓の籠」です。それは今(2018年)から遡ること、約14年前(2004年)のことでした。
「やっと手に入れた!そう思いました」と松浦氏は話します。
とはいえ、「山葡萄蔓の籠」を持っている男性は珍しく、「色々な人にからかわれました」と松浦氏は言います。しかし、やっとの思いで手に入れた「山葡萄蔓の籠」との生活は、身も心も満たされ、周囲の目は全く気にはなりません。
「『暮しの手帖』の編集長時代もずっと使っていました。何を着る時も、どこへ行く時も、誰と会う時も」。それはまるで、松浦氏のトレードマークのように。
山形県西村山郡本物とは何か。民藝とは何か。「久野恵一さんという人物が僕を変えた」。
当時、今ほど民藝はまだ注目されていませんでした。
いや、厳密にいえば「本当の民藝」という意味では、今尚、知られてはいないのかもしれません。語弊を恐れずに言えば、民藝「風」の商品は、世の中には広まっていますが、本物、本質、文化までを継承する民藝は、まだ認知度が低いのかもしれません。
そこに松浦氏は、「疑問を抱いていた」と話します。
「僕は、民俗学者の宮本常一さんや思想家の柳 宗悦さんの本を愛読していたので、民藝に対するそんな風潮に違和感を感じていました。この違和感を僕自身が感じているのならば、“本当の民藝”とは何かを伝えたいと思い、『暮しの手帖』で民藝を紐解くための連載を始めることにしたのです」。
「民藝のルーツを知らない人へ、“本当の民藝”を伝えたい」という思いはあるが、では誰にその連載を託せばよいか。「日本で一番民藝に詳しい人は誰か」松浦氏は悩みます。
「民藝が一番リアルな時代に生きた人にお願いしたいと思いました。そんな時に出会った人が、鎌倉の『もやい工藝』の店主、久野恵一さんでした」。
久野恵一氏とは、武蔵野美術大学在学中に、宮本常一氏と出会い、宮本氏が日本全国の道具をリサーチする旅に同行した経験を持つ人物です。更に、柳 宗悦氏の民藝運動にも感銘を受け、その後、「日本民藝協会」の理事(1987年)も務めます。鎌倉の『もやい工藝』の店主になったのは、その後のことです。
そんな久野氏との出会いをきっかけに「本当の民藝」を知らない人にも分かる言葉で綴る久野氏の連載がスタートしたのです。
もちろん、この連載を久野氏へ依頼する時にも「山葡萄蔓の籠」を持って。
ある時、久野氏は松浦氏の「山葡萄蔓の籠」を見てこう言うのです。
「今すぐ捨てるか、作った人へ送り返しなさい」と。
それを聞いた松浦氏は、言葉を疑いました。
久野氏は続けてこうも言います。
「籠の命とは、何かわかりますか?」。
松浦氏は答えられませんでした。
「籠の命も分からないのであれば、籠を使ってはいけません。どんなものにも命はあります。職人がどこに命を注いで、どこに愛情を込めているのかを見極めなければいけません」と久野氏。
その時、松浦氏は「イチから勉強しなければならない」と思ったそうです。
「憧れや願望で曇ってしまった自分の目が、私欲に負けてしまったのです」と、松浦氏はその時の自分のことを話します。
では、なぜ松浦氏の持っている「山葡萄蔓の籠」には命が宿っていなかったのか。
「編み方が甘い、形が良くない、縁や持ち手が緩い。これのどこに命が宿っているのでしょうか? これは商売として作っているもので、民藝ではありません」と久野氏は、松浦氏に言います。
「こんな風に自分を正してくれる人は大切だと思いました。ここから僕は、久野さんに民藝のことを徹底的に教わりました。器のこと、家具のこと、染めのこと、織りのこと……。ものの何を見れば良いのか。どこに着目すれば良いのか。ものを見る目は、久野さんとのお付き合いの中で訓練されました」。
当時、松浦氏は40歳。ある時、そんな松浦氏に久野氏は、「これが本物だ」と、自身が持つ「山葡萄蔓の籠」を見せてくれたそうです。
「その籠は、僕が今まで物色してきた籠でもなければ、使ってきた籠とも全く違いました」と、松浦氏は話します。
「きほん」を大切に生きる松浦氏の「きほん」は、いつの時代にも「学び」があったのです。
山形県西村山郡その出合いは突然やってきた。僕は本物の「山葡萄蔓の籠」を手に入れた。
この「山葡萄蔓の籠」を語る上で、もうひとり欠かせない人物がいます。
それは、佐藤栄吉氏です。佐藤氏こそ、「本当の民藝」と呼べる「山葡萄蔓の籠」を作った人です。
「久野さんが日本全国の民藝品をリサーチしている時に出会った方が佐藤栄吉さんです。山形県西村山郡西川町大井沢の更に奥、見附という集落が佐藤さんの拠点なのですが、“こんなところに人が住んでいるのか!?”というくらい、僻地。そこで農業をやっている人たちに籠を作っている知る人ぞ知る名工が佐藤さんなのです」と、松浦氏は話します。
この地方では、籠のことを「はけご」と総称し、肩に背負う籠を「しょいはけご」、腰に下げる籠を「腰はけご」、そして山葡萄の皮のことを「ブドッカワ」と呼ぶそうです。
「久野さんは、“佐藤さんの仕事は丁寧で上手だということは眺めていて分かった”とおっしゃっていました。“他の人が作る籠は、網目もスカスカで縁作りも締めが弱いように見えた”とも。ですが、そんな佐藤さんが作った籠も“もっとこうすれば良くなる”と思い、それを遠慮なくどんどん言ったそうです。
ゆえに、ふたりは喧嘩状態に。しかも、人里離れた山の中で。ですが、不思議と佐藤さんは久野さんの言うことが信じられたのです。そして、久野さんの意見を取り入れ、“山葡萄蔓の籠”を作ってみたのです」。
その時に作った試作品がいくつかある。前出の「これが本物だ」と、久野氏が松浦氏に見せてくれたのが、そのうちのひとつです。
ここで改めてお伝えしたいのが、今回、あえて「山葡萄蔓の籠」と表現していますが、「山葡萄蔓の籠“バッグ”」では? と思う人も少なくないでしょう。しかし、実際には、「籠バッグ」というものは世の中には存在しないのです。
「そもそも民藝品とは道具です。現地では、山葡萄蔓の皮で編んだ大きな背負い籠にキノコを入れて歩いたりしています。ですから、本来は持ち手もありません」。ではなぜ?
「この持ち手も“もっとこうすれば良くなる”と久野さんが言ったアイデアのひとつだったのです」と松浦氏は話します。つまり、現在、普通に呼ばれている「籠バッグ」の原型はここから始まったと言っても過言ではないでしょう。そして、そのアイデアの中でもうひとつ特筆したいことが「フォルム」です。
「籠を編むには木型が必要で、当初、佐藤さんの籠は寸胴に近い形でした。ですが久野さんは、籠の中心部が少し太った曲線を描く形を提案したのです。佐藤さんは、“中心部が太っていたら完成した時に木型が抜けないから無理だ”と言ったのですが、久野さんは木型を縦に三分割すれば実現できることを再度提案し、この“山葡萄蔓の籠”が完成していくのです」と松浦氏。
奇跡的だったことは、佐藤さんの息子さんが大工だったこと。この木型を誰が作ったかとことは言うまでもありません。
曲線とは、機械では出せないフォルム。ゆえに民藝には曲線が必要であり、そのフォルムが人間味を醸し出すのです。この「山葡萄蔓の籠」は、久野氏のアイデアとある種のデザイン、そして佐藤氏の技術が結実した民藝美なのです。
そんな本物を習う学校もとい、連載が続く中、久野氏が「倉庫を整理していたらこんなものが出てきました。よかったら使ってみませんか」と松浦氏に差し出したものが、試作品で作ったうちのひとつの「山葡萄蔓の籠」だったのです。
山形県西村山郡「僕からもらったと言わないように」。それが「山葡萄蔓の籠」を受け継ぐ条件。
この言葉と一緒に、松浦氏は久野氏から「山葡萄蔓の籠」を譲り受けたと言います。
「ずっと言わないでいましたが、もう時効かなと思って」。そう、松浦氏は話します。
なぜ久野氏は「僕からもらったと言わないように」と言ったのか。それは、この「山葡萄蔓の籠」が技術的にも歴史的にも価値あるものであり、貴重な文化遺産だからです。
「山葡萄蔓は、一年のうちでもほんのわずかしか取れない希少な素材です。年々材料も減り、職人もいなくなってきています。それに、そもそも本業は農家。ごく短い時期のみ籠を作っているため、量産もできません。“山葡萄蔓の籠”は、ある特殊な人たちから見たら憧れの逸品。買いたくても買えない長い順番待ちのものなのです。それを僕が横入りして譲ってもらったなんて、やっぱり言えないですよね。しかもその譲ってもらったものが、現役だった佐藤さんが一番良い時代に作った一級品だなんて」。
この「山葡萄蔓の籠」の素材は、約30年かけて育った太く幹のように直線立ちした山葡萄蔓を用いているそうです。直線立ちした蔓が育つ環境は、沢沿いのブナの原生林で陽の当たらない場所。そこのなるべく上の方から鎌を引っ掛け採取し、蔓はその場ですぐに剥ぐ。剥ぐのに適した時期は、6月半ばから7月半ばの一ヶ月のみ。梅雨時には蔓の中の水気が上がり、皮を増やすため、皮が剥ぎやすくなるのです。その一番内側の幹の芯にくっ付いた皮が、この籠の素材となるのです。
そうやって取った皮を集めて自宅に持って帰って干す。そして、編む時に編む分だけの量を沢の冷たい水に漬け込み柔らかくして戻し、更にそれを乾かしてから型にはめ込んで編んでいく……。壮絶な手仕事です。
そんな「山葡萄蔓の籠」が松浦氏の手元にやってきてから約10年。経年変化を帯びた黒光りもまた、色気を感じます。
「みんなこの黒光りをさせたいんです。僕が以前使っていた籠は、新品が恥ずかしいのでくるみの実を砕いてその油で磨いて黒光りさせていました。ですが、その行為も久野さんに怒られました。“そんな恥ずかしいことをやってはいけません”と」。
10年経ったその黒光りは、本物の黒光り。持ち手や縁、体に触れる部分などが特に年季を感じ、圧倒的な存在感を放ちます。松浦氏は、そんな「山葡萄蔓の籠」と自分の関係を「人間関係に似ている」と話します。
「僕は、この“山葡萄蔓の籠”を10年前からずっと見続けているのですが、今改めて見ても本当に綺麗だと思います。むしろ10年前よりも今の方が美しい。僕はものを選ぶ基準のひとつに手で作られたものかどうかを大切にします。手で作ったものは手で直すことができます。壊れてもまた修復して使うことができれば、ものとの絆はより深くなるでしょう。これは人間関係にも似ていると思います」と松浦氏は話します。
壊れても修復できる。修復することによって更にその関係は強くなる。10年前に知り合った友人はいつしかかけがいのない存在になっていきます。そう考えれば納得です。
「山葡萄蔓の籠」と松浦氏の関係は、10年経った今、ようやく友人から親友になれたのかもしれません。だからからでしょうか。「この“山葡萄蔓の籠”を見ていると、僕に語りかけてくる気がするのです。“豊かさって何だ”って聞いてくるような……」。そんなものとの対話を楽しみながら思い出すのは、やはり「久野さんのこと」だと松浦氏は言います。「出会った時のことや一緒に旅したこと、怒られたこと、連載以外でも色々な活動を共にしました。その全てがフラッシュバックします。だから僕は、この“山葡萄蔓の籠”と何時間だって対話できるんです」。松浦氏が、憧れの伊丹十三氏に一歩近づいた瞬間かもしれません。
「山葡萄蔓の籠」を通して松浦氏が出会った久野恵一氏と佐藤栄吉氏。この両人は、今は亡き人です。
本物を手に入れることは、ある意味伝える役目も担っているのかもしれません。それはまるで久野氏が松浦氏に「本当の民藝」とは何かを伝え、「山葡萄蔓の籠」を託したように。
「ものの寿命は長く、僕が死んでもそのものは残ります。ですが、ものの価値がわからない人の手に渡ってしまったら、捨てられてしまうかもしれません。そうやって世の中からなくなっている貴重なものもたくさんあります」と松浦氏は話します。
「大切な“人”と何度でも思い返したい“物語”と共に、この“山葡萄蔓の籠”と出合えた僕は、本当に幸運でした」。
山形県西村山郡松浦弥太郎氏が考える、「ジャパンクリエイティヴ」とは。
「日本のクリエイティヴの根源は、その精神性にあると思います」と松浦氏。
それを、今回の「山葡萄蔓の籠」を例に、こう話します。
「この“山葡萄蔓の籠”も、“もっとこうすれば良くなる”、“もっとこうすれば使いやすくなる”、“もっとこうすれば便利になる”という、使い手のことを思うホスピタリティから成り立っています」と松浦氏。では、その成り立っているものとは何か。それは「工夫」だと松浦氏は言います。
だからこそ、その「工夫」を経て形成されたものには「命」が宿り、作り手の「生き様」も込められているのかもしれません。更には、「ただ“使いやすくする”という機能だけに止まらないところも日本のクリエイティヴだと思います。その先には、“美”の追求もしています」と松浦氏は言葉を続けます。
「全ての日本のクリエイティヴは、“工夫”だと思います。相手を思う気持ちが技術も向上させるのではないでしょうか。そして、その“工夫”は、“親切”と“真心”で成り立っているのです」。
松浦氏が考えるジャパン クリエイティヴとは、日本が世界に誇る日本人の精神性から創造される「工夫」なのです。
2005年から「暮しの手帖」編集長を9年間務め、2015年7月にウェブメディア「くらしのきほん」を立ち上げる。2017年、(株)おいしい健康・共同CEOに就任。「正直、親切、笑顔、今日もていねいに」を信条とし、暮らしや仕事における、楽しさや豊かさ、学びについての執筆や活動を続ける。著書多数。雑誌連載、ラジオ出演、講演会を行う。中目黒のセレクトブックストア「COW BOOKS」代表でもある。
@adidasfun
展覧会のお知らせです
展覧会のお知らせです 藍染 梅崎由起子 展 会場 陶季 2階ギャラリー 熊本市中央区黒髪3-11-2 会期 6月9日〜17日 10時〜18時 最終日16時まで 天然灰汁発酵建てという手法で日々藍色の美しさを追求し続ける梅崎由起子さんの展示会です。リネン素材の洋服やストール、bag、浴衣、団扇など、藍のある生活を提案します。 また、...