ベルロゴ シルバーピンズ

用途は無限大!アイアン初のシルバーピンズ

  • アイアンハート初のシルバー925製ピンズです
  • アイアンではお馴染みのベル柄をモチーフにし、周りを唐草模様で縁取っています
  • 100円玉程度のほど良い大きさで、アクセントにはもってこいのサイズ感です
  • コンチョ型の上にベル柄と唐草模様を乗せているので、とても立体的で高級感のあるピンズに仕上がっています
  • 素材はシルバー925を使用、使っていくうちに表情の変化が楽しめます
  • バッグ【 IHE-19 】、帽子【 IHG-077 】、ジャケット【 IHJ-46 】、ベスト【 9526V 】等に付けるのがオススメです
  • ※力を入れすぎると針の部分が折れる可能性がありますのでご注意ください

素材

  • シルバー925

その彩りで巡りくる季節を里の人々に伝える、格調高い桜のクロニクル。[馬ノ墓の種蒔桜/福島県会津美里町]

「馬ノ墓」とはこの一本桜が立つ集落の名。満開時には周囲に咲く桃の花のピンクと林檎の花の白との間で見事なグラデーションを織り成す。

福島県会津美里町ただ愛でられるだけではなく、農耕の日々の始まりを告げるために立つ桜。

果樹園と水田に囲まれるようにして立つ、幹回り6mのエドヒガンの大木です。樹齢は300年を超えるといい、桃や林檎の花が咲き誇る中、そうした果樹より頭ひとつもふたつも抜け出して紅色の花を開かせるその姿は、あたかも周囲の花々を従えた「春の王」のような風格を漂わせます。見頃は例年4月中旬から下旬で、近くの「馬ノ墓」の集落の人々が古くより、この力強い野生種の桜の開花を作物の種を蒔く時期の目安としていたことから、「種蒔桜」の名がついたといいます。観光客に広く知られるような存在ではなく、満開の時期に花見のために人々が押し寄せるということはありませんが、枝が地表付近まで伸びる見事な半球状の樹形を備えた「春の王」は、その花の気高い色合いをもって、会津の人々に農耕の日々が始まる時期を今日まで告げ続けてきたのです。

Data
馬ノ墓の種蒔桜

住所:福島県大沼郡会津美里町旭三寄字薬師堂 MAP


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仏都・会津の光陰を見つめ続けてきた、古刹の境内を満たす静謐さ。[法用寺/福島県会津美里町]

天台宗の寺院で山号は雷雲山。本尊の十一面観音は火中仏(火事で焼け焦げた仏)として秘仏となっている。会津三十三観音の第29番札所でもある。

福島県会津美里町穏やかな田園風景を一望できる高台に広がる、会津地方でも2番目に古い寺院。

『法用寺』は720(養老4)年に創建されたという寺伝を持つ会津屈指の古刹で、平安京を造営した桓武天皇の皇子である嵯峨天皇の祈願所でもあり、往時には多くの末寺を有して栄えたといいます。境内にあってひときわ目を引く三重塔は、初重から三重までの屋根の大きさの差が少ない均整のとれた姿が特徴。三重塔は、時代が下って1780(安永9) 年の建立ですが、会津地方ではこの『法用寺』以外では見ることができず、その意味でも貴重な存在です。三重塔に隣接した観音堂には、金剛力士像2躰と厨子(ずし)といういずれも国の重要文化財に指定されている寺宝が収められており、また境内に植えられている「虎の尾桜」は「会津五桜」のひとつにも数えられる名木です。境内の池の水面には、この田園の古刹を流れた時を映すかのように、今日も三重塔の影が静かに揺れています。

Data
法用寺

住所:福島県大沼郡会津美里町雀林字三番山下3554 MAP

小林紀晴 春の写真紀行「人知れず、花」。

 久しぶりに浅草から列車に乗った。浅草に足を運ぶのは久しぶりのことだ。いつ以来だろうか。数年前の冬に一人の小説家のポートレイトを撮らせてもらうために訪れたのが最後だった気がする。その方が浅草在住だったからだ。
 
 でも、初めて浅草に来た時のことはしっかりと憶えている。いまから32年前の春のことだ。わたしは18歳で、写真学校に入学して一ヶ月ほどしかたっていなかった。1986年5月。

 入学した写真学校では報道写真部に入部したのだが、その部では伝統的に三社祭を撮影することになっていた。当時は東京の地理のことはほとんど知らないに等しかったのだが、それでも浅草という地名は知っていた。雷門の前に立ったときには少なからずの感慨があったし、脇を流れる隅田川にかかる橋の上、中央に立って川面の写真を撮ったことをよく憶えている。

 記憶に刻まれていることがある。偶然、世界的に著名な写真家にばったり出会ったのだ。写真家の名はエド・ヴァン・デル・エルスケンという。オランダ出身の写真家で、若い頃にパリにやって来て、あやうさをともなった若者たちを撮影した「セーヌ左岸の恋」で一躍有名になった写真家だ。
 
 そのエルスケンに早朝のファストフードの店内で出会った。浅草寺の境内で一夜を明かし、早朝「宮出し」と呼ばれる神輿が浅草神社から出る場面を撮影したあと、数人の先輩たちと近くのその店で朝食をとっていたら、エルスケンが入って来たのだ。先輩もわたしもカメラを持っていて、テーブルの上に投げ出していたからだろう、エルスケンから話しかけられたのだ。

 ただ、先輩もわたしも、赤ら顔で長身の外国人が著名な写真家であるなどとは考えもしなかった。カメラを持った、日本好きの外国のおじいさん程度の認識だった。

 有名な写真家だと知ったのは数日後、たまたまアパートでテレビを観ているとあの赤ら顔が写し出されたからだ。著名な写真家が来日しているというニュースだった。名前もそこで初めて知った。それからエルスケンについて調べて、彼のことを好きになった。

 30代になってからドイツの田舎町まで彼の企画展に足を運んだこともある。エルスケンが亡くなったあとのことだが、あの日、浅草で出会っていなければ、わざわざ足を運んだりはしなかっただろう。

 列車が駅のホームを離れ隅田川が窓の外に見えた。その流れにカメラを向けたあと、シートに身を任せているとそんなことが自然と思い出される。あの頃と変わらないことより、変わってしまったことのほうがどれほど多いのだろうか。あるいはその逆はどうなのだろうか。30数年という時間の流れについてぼんやりと考える。窓の外にはスカイツリー。

 車窓を風景が流れていく。居眠りを誘う。土曜日の午前、車内には行楽へ向かうと思われる人たちの姿がいくつかある。

 東京ではすでに桜が散った。今年は例年よりずっと早く、満開の頃がずいぶん遠い季節のように思える。すると果たして、私がこれから向かう地にその花は咲いているだろうかと不安になる。

 奥へ奥へとわけいっていく。そんな感覚がやってくる。山の木々の多くはまだ芽吹いていない。春ではなく、まだ冬の続きにある。あたかも季節は逆行しているようで、そのことにホッとしている自分に気がつく。

 地下のホームで列車は止まった。湯西川温泉駅。駅名を目にして、小さく声をあげそうになった。ああ、あの湯西川かと。

 20代前半の頃、わたしは山を分け入った先、深い谷を越えたこの地に何度も車で通った。平家の落人伝説がある地なのだが、谷沿いの道をこわごわ運転しながら進んでいると、その伝説は十分にうなずけた。とにかく険しい谷あいを行くからだ。 

 親からお金を借りて買ったあの中古のカローラは、ずっと昔に売ってしまった。カメラマンとしてまだ駆け出しの頃のことで、湯西川のホテルや民宿のパンフレットを撮影する仕事だった。ただ、多くはカメラマンではなく、そのアシスタントとしてだった。

 アジアへの長い旅から帰ってきたばかりの頃で、身体全体が弛緩しているような、時間もまた弛緩しているような感覚をおぼえる日々だった。また再びアジアへ旅に出たいという強い思いに突き動かされるたびにそれを必死に抑え、日本でどうにかカメラマンとしての基盤を築かなければと自分に言い聞かせた。職業としての写真というものに直面した頃ともいえる。

 あの時に巡ったあの場所は、この地下ホームから上がったところにいまも本当に広がっているのだろうか。わたしは衝動的にここで列車を降りて、改札の向こうへ歩んでいきたい気持ちになった。

 平家大祭という祭りがあって、それを撮影しに行ったこともある。慣れない中判カメラにボジフィルムを入れて撮影した。そのフィルムは露出を少し間違うと明るくなりすぎたり、暗くなりすぎたりして扱いが難しいのだが、デジタルカメラが主流になってからは、もはや使うこともほとんどなくなった。

 ぼんやりと車窓に目をやる。流れゆくものたちが目の前を通りすぎてゆく。

 見ることは不思議だと改めて思う。意識しなくても、いろんなものが目の前を過ぎるだけなのに「こと」になるからだ。それは能動的な行為だろうか。いや、やはりどこまでも受動的なものだろうか。

 遠く、山の中腹にピンク色に染まった「何か」が見えた。目を凝らす。桜の花だった。それを合図とするように、桜の花が車窓の向こうにポツポツと広がり始めた。

 わたしは思い出す、いや正確には思い出そうとする。遠い日の桜を……。

 あれは小学3年生だったはずだ。わたしは父と母と祖父と姉と兄と、高遠(長野県伊那市高遠町)へ向かった。そのときのことはしっかりと憶えているのだが、肝心な内容は曖昧だ。何を食べたかとか、桜はどんなふうに咲いていたかとか……一切憶えていない。家族総出だという記憶も、もしかしたら残されたアルバムの中の写真をあとから見て、修正されたものかもしれない。

 あの頃、祖父も祖母もまだ若かった。60代だろうか。父と母は30代だったはずだ。あの頃を家族の青春時代と呼べばいいのだろうか。3世代なのだから、そんな言葉が正しくないのは十分わかっているのだが、ふとそう呼びたくなる。この冬に13回忌を迎えた写真の中の父はいまのわたしよりずっと若く、青年のように映る。

 高遠城址の桜。4月終わりのはずだ。家から峠をひとつ越えれば高遠だ。私の実家は古い宿場町にあって、子供の頃から親や学校の先生に何度も繰り返し、その地名を聞かされた。
「高遠の殿様が参勤交代で江戸へ行く時、ここを必ず通った」

 誰もがまるで直接目にしたような口ぶりだった。

 そんなこともあって高遠という場所には特別な思いがある。峠の向うの見はてぬ花園とでもいったような。徳川の直轄地だったから、特別な存在として誰もが語っていたのかもしれない。

 高遠の殿様、保科正之が会津藩主となったことは子供の頃は知らなかったはずだが、あるときそれを知ってからは会津に親しみを抱くようになった。

 高遠に花見へ行ったのはその時限りだと思う。それ以後の記憶はない。どうしてだろうかと考えるまでもなく、畑と田んぼの繁忙期と重なるからだと気がつく。実家には田んぼと畑があって、特に田おこしの時期にあたる。

 ちなみに子供の頃、ゴールデンウイークにどこかへ連れて行ってもらったことはほとんどない。連れて行ってもらえるという発想すらなかった。野良の手伝いばかりしていた。

 大内宿で高遠蕎麦に出会った。かすかに高遠とこの地が繋がって感じられ、遠い過去とか歴史の片鱗とかに触れた気がした。

 この山深い地に何故、主要な街道(会津西街道)があったのか。不思議でならなかったのだが、今回改めて調べてみると会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などと江戸を結ぶ重要な街道で、東北、新潟から江戸への物流と人の流れが盛んだった街道だったことがわかった。多くの藩が米どころであるのも特徴だ。それと会津と新潟が繋がっているとは思いもしなかったのだが、会津を流れる阿賀野川は太平洋に向かってではなく、新潟へ、つまり日本海へ向かって流れていることも今回初めて知り、ここが東北、新潟から江戸への人と物流の幹線だったことを理解した。多くの大名が参勤交代でここを通ったことを考えると、同時に政治の道でもあったはずだ。

 この街道を整備したのは保科正之といわれている。保科正之は二代将軍秀忠の実子だが、母は正室でも側室でもない女性だといわれている。そんな事情から高遠藩に養子にやられ、若くして高遠藩主になった。わずか三万石の小さな藩へ送られたのは、そんな出生の事情が影響しているようだ。その後、26歳で最上山形の領主をへて会津藩の藩主となった。

 司馬遼太郎の『街道をゆく』の「白河・会津のみち」には保科正之が「もっとも重視したのは、風儀だった」とある。風儀とは文化、士度、精神的慣習をつくることで、その代表的なものとして「会津家訓(かきん)十五カ条」を作り上げた。

 トンネルを抜けるたび桜の花が窓の外に増えていく。風景も次第に穏やかな里山のそれへと変わってゆく。列車は思い出したように小さな駅に停車する。ほとんど人影はない。どの駅前にも桜の木があって、人知れず花が揺れている。

 ふと、なにか、ものたりない。東京では常に桜の下に誰かがいる。そのことに慣れすぎていたのだろうか。

 わたしが父と娘を初めて一枚の写真におさめたのは桜の花の下だった。いまから13年前の4月の終わり、初めて娘をつれて信州へ帰省したときのことだ。満開を少しだけ過ぎたていた。

 生まれて数ヶ月の娘を父が抱いている。それが最後の父と娘の写真となった。父はその直後、癌であることがわかり、約10ヶ月後、大雪が降る日にこの世を去ったからだ。娘を抱いた父を立たせた桜の木は山の麓、田んぼの脇で誰にも気づかれないようにひっそりあった。

 南会津でいくつもの桜を訪ねた。会いに行くという感覚に近かった。そのなかに「馬ノ墓の種蒔桜」と呼ばれるものがあった。桃畑とリンゴ畑の先の巨木で、枝が八方へ地面につきそうなほどに伸びていた。その姿を神々しく感じた。

 木の脇に小さな立て看板があり、「ここには昔、薬師堂があり、境内の桜が美しい桜を咲かせていた。周辺の人達は桜が丁度、稲の種蒔き時期に重なる事から、いつしかこの桜を『種蒔桜』と呼ぶようになった」と記されていた。樹齢は約400年ほどのようだ。

 やはり、誰もいない。根元に小さな祠のようなものがあったが、花見をしている人の姿はない。ああ、ここも同じなのだと思う。父と娘を撮影したあの日のことが鮮明に甦る。

 桃の花越しに咲く桜にカメラを向ける。夢幻(ゆめまぼろし)という言葉が浮かぶ。ふと自分がそんな世界にいるような錯覚をおぼえる。ほんの数ヶ月前、厳冬にこの地を訪ねたときに見た風景が信じられなくもなる。例年にない大雪で、屋根の雪下ろしをする姿はあちこちで見た。見渡す限りの雪が春になったら本当にとけるのだろうかと、心配になるほどに圧倒的だった。

 ファインダーを覗き、シャターを押しながら思う。奇跡だと。
 
 そんなふうに感じるのは長い冬を経たからだと気がつく。
 
 寒さが厳しい地方では春になると、多くの花がほぼ同時に咲く。目の前で桜と桃とリンゴとタンポポ、さらに名も知らぬ花が同時に咲いている。それでいて目をつぶり、再び開けると、すべてが目の前から消えてなくなっていそうな、そんな儚さがある。どれもが風に揺れている。

 今回の旅は、この場所に、こうして立つために来たのだと唐突に思う。何かがシンクロしたという実感を得た。

 その夜、地ビールのお店へ向かった。この地で作られた「アニー」という名のそれを飲んだ。入り口のガラスドアの向こうは穏やかに暮れ、やがて闇に包まれた。誰もいない桜の木の下で、花見をしている気持ちになった。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。