半径25km以内の食材を味わう「スローフードな旅館」。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

自社農園『拓美ファーム』で飼育するサフォーク種の羊。年産15頭前後。12ヵ月の時間をかけ、嚙んだ時に旨みのある肉質に仕上げる。

北海道檜山郡江差の食材のポテンシャルを最大限に生かす味作り。

『江差旅庭 群来』の夜の食事は、棚田 清氏と妻の冨美子氏が漬けた自家製の果実酒からスタートします。旬魚を贅沢に使った椀物には白板昆布が浮かび、初夏なら殻付きの雲丹、ずわい蟹など、北の海の幸がずらり。平目や北寄貝など、魚介は何もかもが目を見張る美味しさです。飽くなき鮮度へのこだわりと確かな包丁仕事が、極上の素材の味を余すところなく引き出しつつ、上品かつ見目麗しい懐石のひと品へと昇華させます。

開業時の料理監修を手がけたのは中村孝明氏。まだ海のものとも山のものともつかない無名の小さな宿に著名な料理人が力を貸してくれたのは、まさにこの食材のレベルに感服してのことだったといいます。

海の幸はもちろん、川魚、春の山菜と、自然の恵みには事欠きません。加えて、『江差旅庭 群来』の料理を特別なものにしているのが、自社農園『拓美ファーム』で棚田氏夫妻が育てる食材の数々。有機栽培で育てる野菜や季節の果物に加え、地鶏、そして羊にいたるまで、自分たちの手で育てているといいます。これだけの食材を自給する旅館は、そうはありません。

夕食のお造り。江差産の雲丹、噴火湾の牡丹海老、海峡もののマグロ、平目など豪華な海の幸がずらり。

宿から100mほどの港で揚がる紅ずわい蟹。水揚げの時間から釜茹での時間を逆算し、最高の状態で供する。

拓美ファーム サフォーク種羊海洋深層水塩焼。アツアツに熱した石で焼いていただく。噛み応えがあり、香り、旨味ともに豊か。季節の野菜を添えて。

北海道檜山郡宿で提供する分だけ。自社農園の妥協なき取り組み。

今回の取材も、宿から車で10分ほどの場所にある自社農園『拓美ファーム』からスタートしました。「この宿は農園ありき。農園での仕事を見て頂ければ、宿が目指すもの、あり様が伝わるはず」という棚田氏の想いからです。

ひば造りの立派な農作業小屋を中心とした『拓美ファーム』は、周りをぐるりと歩くとこぢんまりした印象を受けますが、その広さは東京ドーム2個分。畑はアスパラガスなどの春野菜が終わり、ズッキーニやパプリカ、ブロッコリー、オクラなどの夏野菜の苗が育ち始めた頃でした。有機栽培で少量多品種を育てる畑から収穫される農作物は、年間約40~50種。イタリアンパセリやミント、野生のミツバに紫蘇や和洋のハーブ類も、都内のスーパーマーケットで見かけるものとは別の、生き生きと力強いものが、どれだけ採っても採り足りぬというほどの勢いで生い茂っています。

加えて食肉用の北海地鶏に鶏卵用の種であるシェーバーブラウン、サフォーク種の羊も飼育。平飼いで飼育される鶏は、広々とした鶏舎を自由に駆け回り、毛並みのいい羊はのんびりと草を食んでいます。
野菜も鶏も羊も宿で提供する分だけを、目の届く範囲で、丁寧に。これが『拓美ファーム』のモットーです。

平飼いで飼育される鶏卵用の鶏。生みたて卵で作る卵かけご飯は朝食の楽しみのひとつ。

栗や梅の木に囲まれた『拓美ファーム』の野菜畑。トマトのみハウスを使用、他は全て露地栽培を行う。

宿でゲストに提供したずわい蟹の殻。粉砕して飼料や肥料として活用する。

北海道檜山郡生ゴミゼロの循環型農業。地産地消を次のステージへ。

農地は棚田氏が両親から譲り受けたもの。広い畑を駆けまわり、新鮮な野菜、果物を好きなだけ食べて育った棚田氏にとって、自分自身で納得のいく農業を実践することは、旅館経営に乗り出す前からのライフワークでした。「農のある宿」という現在の姿は、『江差旅庭 群来』にとっては必然だったのです。

「イタリアのスローフードの考え方にも刺激を受けました」と棚田氏は話します。地産地消は明確な定義を持ちませんが、『江差旅庭 群来』では、宿で使用する食材は、原則、半径25km以内で調達したものと厳しく定めています。車でなら1時間で往復できる距離。手間暇かけた飼育と栽培、鮮度を保ったままの調理に徹底的にこだわった結果です。

『拓美ファーム』では宿の食事で出された蟹やホタテの殻、出汁を取った後の昆布などが粉砕して鶏や羊の飼料に使われ、生ゴミは堆肥にして畑の土作りに生かされています。理想的な循環型農業が実践されていて、開業から9年が経ちますが、瓶やペットボトル以外のゴミを一度も出していないというのは特筆すべき点ではないでしょうか。

「田舎だからできることを、江差を訪れて下さるお客様の喜びに」という棚田氏の哲学は、宿の食、味作りにおいて、もっとも徹底されているのです。

シイタケの原木栽培も行う。収穫したシイタケの一部は乾シイタケに。左は冬に水揚げした鮭を寒風にさらして乾燥させた寒干山漬という保存食。加工もすべて棚田夫妻が行う。

夜のコースの最後の食事として供される自家製の寒干山漬を使った茶漬け。凝縮された滋味が出汁にあふれ出す。

棚田氏と妻の冨美子氏。農作業は基本、2人の仕事で、繁忙期のみスタッフが手伝う。『拓美ファーム』の農産物を土台にした自給自足の宿経営は、冨美子氏の協力なしでは成し得ない。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

半径25km以内の食材を味わう「スローフードな旅館」。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

自社農園『拓美ファーム』で飼育するサフォーク種の羊。年産15頭前後。12ヵ月の時間をかけ、嚙んだ時に旨みのある肉質に仕上げる。

北海道檜山郡江差の食材のポテンシャルを最大限に生かす味作り。

『江差旅庭 群来』の夜の食事は、棚田 清氏と妻の冨美子氏が漬けた自家製の果実酒からスタートします。旬魚を贅沢に使った椀物には白板昆布が浮かび、初夏なら殻付きの雲丹、ずわい蟹など、北の海の幸がずらり。平目や北寄貝など、魚介は何もかもが目を見張る美味しさです。飽くなき鮮度へのこだわりと確かな包丁仕事が、極上の素材の味を余すところなく引き出しつつ、上品かつ見目麗しい懐石のひと品へと昇華させます。

開業時の料理監修を手がけたのは中村孝明氏。まだ海のものとも山のものともつかない無名の小さな宿に著名な料理人が力を貸してくれたのは、まさにこの食材のレベルに感服してのことだったといいます。

海の幸はもちろん、川魚、春の山菜と、自然の恵みには事欠きません。加えて、『江差旅庭 群来』の料理を特別なものにしているのが、自社農園『拓美ファーム』で棚田氏夫妻が育てる食材の数々。有機栽培で育てる野菜や季節の果物に加え、地鶏、そして羊にいたるまで、自分たちの手で育てているといいます。これだけの食材を自給する旅館は、そうはありません。

夕食のお造り。江差産の雲丹、噴火湾の牡丹海老、海峡もののマグロ、平目など豪華な海の幸がずらり。

宿から100mほどの港で揚がる紅ずわい蟹。水揚げの時間から釜茹での時間を逆算し、最高の状態で供する。

拓美ファーム サフォーク種羊海洋深層水塩焼。アツアツに熱した石で焼いていただく。噛み応えがあり、香り、旨味ともに豊か。季節の野菜を添えて。

北海道檜山郡宿で提供する分だけ。自社農園の妥協なき取り組み。

今回の取材も、宿から車で10分ほどの場所にある自社農園『拓美ファーム』からスタートしました。「この宿は農園ありき。農園での仕事を見て頂ければ、宿が目指すもの、あり様が伝わるはず」という棚田氏の想いからです。

ひば造りの立派な農作業小屋を中心とした『拓美ファーム』は、周りをぐるりと歩くとこぢんまりした印象を受けますが、その広さは東京ドーム2個分。畑はアスパラガスなどの春野菜が終わり、ズッキーニやパプリカ、ブロッコリー、オクラなどの夏野菜の苗が育ち始めた頃でした。有機栽培で少量多品種を育てる畑から収穫される農作物は、年間約40~50種。イタリアンパセリやミント、野生のミツバに紫蘇や和洋のハーブ類も、都内のスーパーマーケットで見かけるものとは別の、生き生きと力強いものが、どれだけ採っても採り足りぬというほどの勢いで生い茂っています。

加えて食肉用の北海地鶏に鶏卵用の種であるシェーバーブラウン、サフォーク種の羊も飼育。平飼いで飼育される鶏は、広々とした鶏舎を自由に駆け回り、毛並みのいい羊はのんびりと草を食んでいます。
野菜も鶏も羊も宿で提供する分だけを、目の届く範囲で、丁寧に。これが『拓美ファーム』のモットーです。

平飼いで飼育される鶏卵用の鶏。生みたて卵で作る卵かけご飯は朝食の楽しみのひとつ。

栗や梅の木に囲まれた『拓美ファーム』の野菜畑。トマトのみハウスを使用、他は全て露地栽培を行う。

宿でゲストに提供したずわい蟹の殻。粉砕して飼料や肥料として活用する。

北海道檜山郡生ゴミゼロの循環型農業。地産地消を次のステージへ。

農地は棚田氏が両親から譲り受けたもの。広い畑を駆けまわり、新鮮な野菜、果物を好きなだけ食べて育った棚田氏にとって、自分自身で納得のいく農業を実践することは、旅館経営に乗り出す前からのライフワークでした。「農のある宿」という現在の姿は、『江差旅庭 群来』にとっては必然だったのです。

「イタリアのスローフードの考え方にも刺激を受けました」と棚田氏は話します。地産地消は明確な定義を持ちませんが、『江差旅庭 群来』では、宿で使用する食材は、原則、半径25km以内で調達したものと厳しく定めています。車でなら1時間で往復できる距離。手間暇かけた飼育と栽培、鮮度を保ったままの調理に徹底的にこだわった結果です。

『拓美ファーム』では宿の食事で出された蟹やホタテの殻、出汁を取った後の昆布などが粉砕して鶏や羊の飼料に使われ、生ゴミは堆肥にして畑の土作りに生かされています。理想的な循環型農業が実践されていて、開業から9年が経ちますが、瓶やペットボトル以外のゴミを一度も出していないというのは特筆すべき点ではないでしょうか。

「田舎だからできることを、江差を訪れて下さるお客様の喜びに」という棚田氏の哲学は、宿の食、味作りにおいて、もっとも徹底されているのです。

シイタケの原木栽培も行う。収穫したシイタケの一部は乾シイタケに。左は冬に水揚げした鮭を寒風にさらして乾燥させた寒干山漬という保存食。加工もすべて棚田夫妻が行う。

夜のコースの最後の食事として供される自家製の寒干山漬を使った茶漬け。凝縮された滋味が出汁にあふれ出す。

棚田氏と妻の冨美子氏。農作業は基本、2人の仕事で、繁忙期のみスタッフが手伝う。『拓美ファーム』の農産物を土台にした自給自足の宿経営は、冨美子氏の協力なしでは成し得ない。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

北海道初、日本遺産の町の魅力を全国、そして世界へ。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

江差漁港から見る鴎島。宿からは車で渡ることができる。島からは江差の町を一望できる。

北海道檜山郡名は体を表す。「群来」の名に込めた想い。

「江差に群来が来た、群来が来たぞ」
2017年2月、江差の町全体が歓喜で湧きあがりました。
「群来」とは、ニシンの産卵活動で沿岸部が白く濁る現象を指します。江差で「群来」が確認されたのは、大正2(1913)年以来、実に104年ぶりのことでした。

江差は函館市、松前町と並び北海道で最も早く栄えた土地のひとつ。江戸時代はニシン漁が盛んで、北前船の交易港として栄華を誇りました。当時の人口は3万人。「江差の五月は江戸にもない」といわれたほど。「群来」は、江差の繁栄の象徴。棚田氏は、町の再生への強い願いを込めて、宿名に「群来」を掲げたのです。

「『江差旅庭 群来』は江差の町の一角に過ぎません。開業から9年間、無我夢中でやってきましたが、これからは地域と連携を深め、ゲストの方々に宿のみならず江差の思い出を持ち帰っていただくようにすることが何よりも重要です」と話します。

104年ぶりの群来を祝して建てた記念碑。宿のためではなく、「江差町の繁栄を再び」という願いを込めて。

夕食で供される浜干しニシン。宿の創業から8年、近隣で取れるニシンを使っていたが、2018年に初めて、江差産のニシンで作ることができた。

北海道檜山郡くつろげる宿を、「江差を知る旅」の拠点に。

「江差の地とともにある宿でありたい」とは、創業時から変わらぬ棚田氏の想い。『江差旅庭 群来』では、地元『五勝手屋本舗』の丸缶羊かんで到着したゲストをもてなします。創業は明治3(1830)年。150年前から変わらぬ製法でつくる羊かんは、道産金時豆の自然な甘みがいきたやさしい味わい。香ばしい黒豆茶とよく合い、旅の疲れをほっと癒してくれます。

「繁栄と衰退の歴史をたどった江差で、180年以上続く老舗は地元の誇り。現社長の息子さんが、精力的に新しいことにも挑戦されるなど、いい形で世代が受け継がれていて、ブランド力を上げている点にも刺激を受けます」

『五勝手屋本舗』は宿から車で5分ほどの場所に。丸缶羊かん以外にも、生菓子から焼き菓子まで多種多彩な和菓子が揃い、江差の味を旅のお土産に持ち帰ることができます。ほかにも小さな町内には、車で5分、10分の場所に、訪れるべき場所がいたるところに。「ぜひ足を運んで欲しい」と、棚田氏自らが案内してくれました。宿から望める、江差港の一角と砂州で繋がった鴎島と、その隣に立つ高さ10メートルの瓶子岩の眺めの美しさ。ニシン漁と檜材交易で隆盛を極めた江戸から明治期、問屋蔵や商家、町家が建ち並んだ海岸沿いの町並みは「江差いにしえ街道」として整備され、当時の面影を今に伝えています。

リピーターも楽しみにするという宿のウェルカムスイーツ。『五勝手屋本舗』の丸缶羊かんは、宿のロビーでも販売している。

『五勝手屋本舗』の5代目、小笠原隆社長と談笑する棚田氏。「自社の繁栄は町のため」という認識を共にする。

北海道檜山郡再生の道しるべを、他地域へ、次の世代へ。

旅行代理店や広告の力に頼らず、9年間の日々の営みの中で少しずつですが確実にファンを増やしてきた『江差旅庭 群来』。今やゲストの7割近くを、全国を旅する首都圏在住者が占め、人気は各地で名を馳せる高級旅館とも肩を並べつつあります。

「まず静かなこと、土地が安くさまざまな挑戦に贅沢に活用できること。これが地方の強み。循環型農業による自給食材の上に成り立つ『江差旅庭 群来』は、この強みを活かした試みだったといえます。ネットと交通網が発達した現代は、地方に固有の魅力を時差なく発信し、全国から人を集めることができる。形は違えど、どの地方にも普遍できる考えだと思います」
棚田氏は、言葉に力を込めます。

「何か気付いたことがあればぜひ教えて下さいね」とも。経験ゼロで始めた宿では、ゲスト一人ひとりも大事な先生だと話します。「老い先が短いんだから、やれることは急いでやらなくっちゃ」と、冗談で周囲を和ませながら。

2017年4月、「江差の五月は江戸にもない‐ニシンの繁栄が息づく町‐」というストーリーは北海道初の日本遺産の認定を受けました。同年2月、104年ぶりの群来の確認を経て、ニシン漁も再びにわかに活気づいています。2018年は、前年の3倍ものニシンが揚がりました。

「生まれ育った町への恩返しに」と、第二の人生のすべてを「群来」の名を冠した宿の経営に賭けた棚田氏を力付けるかのよう。そして氏の情熱の炎も、いまだ衰えず燃え続けているのです。

修繕された商家や町家が建ち並ぶ江差いにしえ街道。平成元年から江差町が「歴史を活かすまちづくり事業」をスタートし、平成16年に街路事業が完了。

「まだまだやれることがある」と、語気を強める棚田氏。宿とそれを取り巻く環境を意欲ある若い世代にいい形で引き継ぐことが目下の課題だ。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

悠々自適の老後を捨てて挑んだ、町のシンボルとなる宿づくり。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

客室はすべて同じ造りで、一室63㎡。床に座って丸石の庭を望めるよう設計しており、コンクリートの塀の向こうに港が見える。所有地内で建物が占める割合はわずか27%。

北海道檜山郡寂れた漁師町を、7室の高級旅館で再生させる。

函館空港から車で約1時間30分。道南の渡島半島の日本海沿岸に立つ『江差旅庭 群来』は、 静かな、ともすればやや寂しい印象をも受ける小さな町に忽然と現れます。コンクリートの壁、その奥に見える黒い建物は、古い民家が立ち並ぶ昔ながらの漁師町の中で、異質な空気を放っています。外側を囲む高い壁は、迷路のようなアプローチへと連なり、ゲストを建物の入口まで導いてくれます。扉が開くと、ロビーにはゆったりとしたソファが配され、一面のガラス窓から玉石が敷き詰められた中庭を望むことができます。外の街並みとは別世界。日常から離れ、無になり、ひたすら体と心を休めることに没頭できる空間です。

『江差旅庭 群来』の建設は、町を挙げたプロジェクトとしてスタートしました。漁業不振を背景にした若者の流出、観光客の減少に歯止めをかけようと、新たな観光の起爆剤として宿泊施設の建設が持ち上がったのです。町が先導役を依頼したのが棚田 清氏。生まれ育った江差で40余年、電機会社を営み、多いときは6つの会社を経営してきた手腕を買われてのことでした。

外観、夕景。モダンなコンクリートの壁に木造の石置き屋根が映える。

滞在への期待を高めるアプローチ。一歩進むごとに外界から遮断され、日常から解き放たれていくのを感じる。

北海道檜山郡旅館経営の経験ゼロ、60歳からの挑戦。

「『温泉が出たらやってみようか』と話していたら、どういうわけか出てしまったもんで。参ったなあ、と」
棚田氏は、笑いながらそう話します。
新たな宿泊施設の建設、運営を町から依頼されたのは2000年。60歳のときでした。
「自分の事業は後継者に任せて、妻と一緒に好きなことだけしてのんびり老後を過ごす予定だったんです。それがね、まったく予定違いになっちゃって(笑)」

それまでいくつかのサービス関連業に携わった経験はあるものの、高級旅館の経営は初めて。温泉の採掘は大きな後押しになりましたが、真に棚田氏を突き動かしたのは、生まれ育った町・江差に寄せる深い郷土愛です。恵まれた自然環境、海の幸をはじめとする豊富な食材。日本を代表する民謡のひとつ、江差追分や370年以上の歴史を持つ姥神大神宮渡御祭などの文化、伝統。
「江差が持っている魅力を活かし、きちんとしたサービスでご提供すれば、満足して下さる方がきっといる」
そう信じて、自ら“畑違い”という旅館経営の道に第二の人生を賭けたのです。

フロントデスクのあるロビーラウンジ。丸石の敷き詰められた中庭を望む。

河原で採取した丸石が敷き詰められた庭。時間の移りうろいとともに変わる美しさがあり、見飽きることがない。

北海道檜山郡逆境を越え、名もなき宿に“一流”の仕事を引き寄せる。

棚田氏の情熱とは裏腹に、宿の建設計画は決して順風満帆というわけにはいきませんでした。当初は5階建ての旅館にする予定でしたが、景観維持の観点から地元住民の猛反対に合い、建設計画は一度、白紙に戻ります。崖っぷちに追い詰められた棚田氏は、180度の方向転換を決断します。平屋造りで客室はわずか7室。1泊2食付きの宿泊料金は4万円からという高級旅館を造ることにしたのです。

「『こんな寂れた町に高級旅館を造っても、お客が来るわけがないじゃないか』。これが地元の人たちの意見。やり方を変えたところで、結局は四面楚歌でした」

逆境は棚田氏の心をさらに奮い立たせました。若い世代に交じって北海道大学大学院観光創造専攻課程を学び、各地の先達にも教えを乞いました。学んだことをそのままモデルにせず、「江差ならではの発信力、求心力のある形はどうすればつくることができるのか」を一つひとつ検証しながら形に出来たのは、江差を知り、愛する棚田氏の視点、洞察にほかなりません。

高い志と情熱、一軒の旅館建設に止まらない地域再生のビジョン、試みに多くの著名なクリエーター、料理人が賛同し、惜しみない協力を与えてくれました。その一人が札幌を拠点に世界で活躍する建築家の中山眞琴氏。木造船に例えた木造平屋建ての建物は、渋墨塗りの石置き屋根で、モダンで芸術的ながら、漁師町の文化を継承したスタイルに。客室はすべて独立していながら中廊下で繋がり、塀は外部からの視線を遮断しながら、室内から江差の風景を望めるぎりぎりの高さに設計されています。

開業時の料理監修は、日本料理界の重鎮、中村孝明氏が手掛け、スタッフの衣裳デザインは世界的なデザイナー、コシノジュンコ氏によるもの。

「まず自らが動けば、必ず応えてくれる人がいる。60歳を過ぎて『江差旅庭 群来』を造り、改めて学んだことです。あとは彼らの名に恥じない仕事を続け、お客様に期待を超える満足感を持ち帰っていただく宿に育てなければ」
現在76歳の棚田氏は、青年のような瞳で力強く語ります。

ベッドルーム。過度な装飾はなく、上質で落ち着いた雰囲気。リビング、ベッドルームのほか、和室もある。

浴場は客室内のみ。滞在中、自由に源泉かけ流しの湯に浸かれる。

ロビーラウンジにはバーも併設。ワイン、カクテルから日本酒まで酒の品ぞろえも充実。食後の時間をゆったりと過ごせる。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/

日本遺産の町を世界へ。北海道発、食糧自給率70%のラグジュアリー旅館。[江差旅庭 群来/北海道檜山郡]

北海道檜山郡OVERVIEW

宿の設計も、料理の監修を手がけたのも、第一線で活躍する有名建築家であり料理人。客室の浴槽には源泉かけ流しの湯が湛えられ、朝晩の食事に使われる食材は、地元で獲れた新鮮なものを贅沢に。スペックだけを並べてみると、『江差旅庭 群来』は、高級旅館として別段珍しい存在ではないかもしれません。しかしながらここには、語られるべきワン&オンリーな物語があります。

この宿を一からつくり、経営を手がけるのは、有名ディベロッパーでも大手ホテルチェーンでもありません。オーナーである棚田 清氏は、地元江差出身の76歳。旅館経営の経験ゼロで、60歳のときにこのプロジェクトをスタートさせました。更に驚くことに、朝晩の料理の食材の多くを、妻の冨美子氏と2人、自分たちの手で育てています。野菜や果物だけではありません。食肉用、産卵用の鶏から、羊に至るまでです。畑の最盛期の夏から秋には、食糧自給率は70%にも及びます。

ユニークな成り立ちゆえに、これまでなかなかメディアに登場することがなかった『江差旅庭 群来』。初夏の江差を訪ねると、棚田氏が笑顔で出迎えてくれ、1軒の宿を通じて伝えたかったこと、叶えたかった夢について、たっぷりと語ってくれました。

住所: 北海道檜山郡江差町姥神町1-5 MAP
電話: 0139-52-2020
https://www.esashi-kuki.jp/