生と死に向き合い、花の命と対峙する。[金高刃物老舗/京都府京都市]
東 信×金高刃物老舗
使い始めて約20年。一生涯、このハサミを使い続ける。
国内外、いや、むしろ世界を主軸に活動し続けている東 信氏。その一貫した姿勢は今も昔も変わりません。フラワーアーティストである一方、オートクチュールの花屋『JARDINS des FLEURS(ジャルダン・デ・フルール)』も主宰する東氏は、「花屋として、毎日花と触れ合っているからこそ花を表現できます」と語り、「季節ごとはもちろん、新しい花は常に増えています。それは、現場の最前線にいないとわかりません」と言葉を続けます。
芸術家である前に花屋であれ、そんな風にも捉えられる言葉の意味は、花の命と真摯に向き合っていることに尽きます。
表現する時のみ向き合うだけでは偽物。24時間365日、花と生きることが必要なのです。生きる花を作品にするということは、言い変えれば、その命を絶つということです。東氏の表現は、常に生死が表裏一体。覚悟と責任の上で形成されているのです。
その命と対峙する上で必要不可欠な存在、それは花に直接触れるハサミです。
「花屋の道具といえばハサミと桶。後は水さえあれば十分です」とは東氏の言葉。
使い始めて約20年のそのハサミは、京都の『金高刃物老舗』のものです。
『金高刃物老舗』は、寛永末期に日本剃刀の鍛冶屋として創業し、約200年の歴史と伝統を持つ老舗。花の世界だけでなく、伝統工芸の盛んな京都にて織物や呉服、表具、料理など、各分野の職人からの信頼も厚く、一つひとつ丁寧に仕上げています。
東 信×金高刃物老舗最初はハサミに使われていた。今、ようやくハサミに追いついてきた。
「花を扱う行為で大切なことは水揚げです」と東氏は話します。
水揚げとは、花の茎を切り、その切り花に水を再び吸わせてあげることです。切り口しだいで花の寿命が変わるため、「水揚げの基本は、水切りにあり」といわれています。ゆえに、ハサミが重要なのです。
「外国製のものも含め、様々なハサミを使用したことがありますが、日本の花には日本のハサミが一番合うと思いました。特に『金高刃物老舗』のハサミは、斜めにスパンと鋭く切れ、その切り口も美しい。ただ切れ味が良いだけでないことは、その後の花を見ればわかります。咲き方や生き生きとした姿は、あきらかに他のハサミで切った花と『金高刃物老舗』で切った花とではあきらかに異なります」と東氏。
その結果、何が大きく異なるのでしょうか。それは「命の長さ」です。
前出の水揚げの「行為」は、東氏にとっては命を吹き込む「儀式」なのかもしれません。
しかし「昔はこのハサミに値する技術が自分には足りなかった」と、東氏は約20年前の当時を振り返ります。
今、東氏が使用している『金高刃物老舗』のハサミは2種。主なハサミとそうでないものです。そうでないものとは、特に太い茎などを切る場合にのみ使うハサミです。
「昔はもっと多くの種類のハサミを使い分けていました。それぞれ異なる形状の茎をうまく切る技術が足りなかったので、ハサミの機能に頼りすぎていたのです。ですが、今は2種。切る回数も使う頻度も昔よりはるかに多いですが、今の方が持ちも良く、昔の方が消耗も早かった。使い方や研ぎ方など、ようやく自分の技術がハサミに追いついてきたのかもしれません。とはいえ、まだまだですが」と東氏は話します。
そして東氏は「いずれは一本を目指したいです。出刃包丁一本で何でも作れる料理人や刀一本で勝負する侍のように」と続けます。
東 信×金高刃物老舗「消える芸術」。それは命ある生きた芸術ゆえ、必ず結末を迎える。
東氏の創造する芸術は様々なスタイルがあるため、ひと言で表現するのは難しいです。しかし、あえてひと言で表すならば、それは「消える芸術」だということです。
「命ある花は生で見るのが一番美しいです。だから、生で見た人の心に残ればそれでいいのです。命に永遠はありません。生きた作品がそのまま残り続けていたら感動は与えられないので」と東氏は話します。
根を大地から切り離し、育つ環境の異なる花を組み合わせ、新たな世界を創造する東氏の作品は、ある意味では自然の摂理に反しています。華道の世界でも用いられる言葉ですが、その表現は人間のエゴイズムや欲望 です。
「時に残虐的にも映るかもしれません。時に可哀想だと思うかもしれません。食材だって同じです。命を頂くということは、そういうことだと思います。だからこそ、命と向き合うことが大切なのです。ゆえに、その道具にもこだわります」と東氏は話します。
花と東氏の関係は、強い絆で結ばれているのかもしれません。花は東氏を信頼し、その身を委ね、東氏はその花を一番美しい表情へ導き、別世界へと誘うのです。
花を生かす東氏もまた、花に生かされているのです。
東 信×金高刃物老舗東 信が考える、「ジャパンクリエイティブ」とは。
「表現することだけでなく、伝えたい」。
花を通して世界中を旅している東氏は、各国を回り、「表現することだけでなく、伝えたい」と感じているそうです。
その「伝えたい」気持ちとは、芸術のことではありません。
ただ花が美しいということ、花を贈ることの素晴らしさ、花のある生活……。
そう思い始めてから展開したプロジェクト、それが「希望 KIBOU」です。これはアーティストとしての東 信ではなく、花屋としての東 信の活動です。
世界を巡り、「希望 KIBOU」という1日限定のゲリラショップを立ち上げ、各国の人々に花を配り、花の魅力を伝えているのです。
「花を配って思うのが、まず笑顔にならない人がいないことはもちろん、その花を私欲にしないことでした。例えば、お墓に手向けたい。大切な人にプレゼントしたい。家族を笑顔にしたい。その美しさをシェアしたい、感動を共有したい。そう思わせる花の力は、やはりすごいと思いました」と東氏は話します。
「例えば、新たな命が生まれる時に花は人を幸福にし、また別の命がなくなった時に花はその心を癒します。ある学者の話によると、はるか昔のミイラの棺の中に花が添えられていたそうです。そんな昔から花と人は密接な関係にあったのです。なぜ花を贈るのか? なぜ献花するのか? それが花でなければいけない理由はないですし、なぜ花を贈るのかもわかりません。しかし、考え続け、命と向き合い続け、生きていくことが大切なのだと思います」と東氏は語ります。
芸術活動や「KIBOU 希望」プロジェクトを通じて、おそらく世界中の花市場を巡っている日本人のひとりである東氏。
「世界中の花市場を見て思うのですが、日本の花市場は間違いなく世界一。花が綺麗なだけではなく、きっちり揃った陳列、花を収めた箱。そこには、花を作る生産者だけではなく、携わる様々なプロフェッショナルな方々が仕事に対して手を抜いていない姿が見えます。規模の大小を問わず、何かを成し遂げるには、時に辛いことや大変なこと、もう無理だと感じることもあると思います。ですが、日本人は、そこからもうひと踏ん張りできる国民性、スピリッツを持っていると思います。これは海外にはないメンタル。極論すれば、花は花さえ美しければ成立しますが、その周辺のことまでこだわるクラフツマンシップや匠の精神は、僕の身も引き締まる思いです」と語る一方で、「その技術などに関して危惧する思いもある」と東氏は言います。
東氏は、「伝統、歴史。これは世界的に見ても日本はトップレベルです。しかし、それらが衰退する恐れもあります。薄利多売、現代人は便利な方に流されていってしまう傾向が見られます。ですが、時代の文脈を理解し、本物に触れ、長く付き合うからこそ得られる事柄が大切なのだと思います。技術を継承する方や継承される方はもちろん、その継承される方が、また次世代に継承できるような環境をつくる責任が我々にはあると思います。需要がなければ供給はできません。本物が生き難い時代だと思います」と話します。
しかし、東氏の言葉のとおり、苦しい時ほどもうひと踏ん張りできるのが日本人。逆境に直面した時ほど、我武者羅になれるのも日本人なのです。
東氏が考える「ジャパンクリエイティブ」とは、そんな日本人の「精神性」なのです。
1976年生まれ。フラワーアーティスト。2002年より、注文に合わせてデッサンを起こし、花材を仕入れ、花束を作るオートクチュールの花屋『JARDINS des FLEURS』を銀座に構える(現在の所在地は南青山)。2005年頃から、こうした花屋としての活動に加え、植物による表現の可能性を追求し、彫刻作品ともいえる造形表現=Botanical Sculptureを開始し、海外から注目を集め始める。ニューヨークでの個展を皮切りに、パリやデュッセルドルフなどで実験的な作品を数多く発表する他、2009年より実験的植物集団『東 信、花樹研究所(AMKK)』を立ち上げ、欧米のみならずアジア、南米に至るまで様々な美術館やアートギャラリー、パブリックスペースで作品発表を重ねる。近年では自然界では存在し得ないような地球上の様々なシチュエーションで花を生ける創作を精力的に展開。独自の視点から植物の美を追求し続けている。また、世界各国を巡り、花の美しさや植物の存在価値を伝えるプロジェクト「希望KIBOU」も展開。
http://azumamakoto.com