小林紀晴 夏の写真紀行「濃厚で濃密な季節」。
季節は巡って、夏。
短い梅雨があっという間に去ると、恐ろしいまでの猛暑がやってきた。おそらく今年の夏のことは、しばらくのあいだ語り継がれるだろう。
桜の頃と同じく、浅草から列車に乗った。あのときは進行方向に向かって右側の座席だったが今回は左側。隅田川を渡る瞬間、窓からスカイツリーが見えた。乗客はお父さんと男の子という組み合わせが多く、私の隣は男の子の二人兄弟の弟くんだった。小学一年生のようだ。お父さんとお兄ちゃんは通路を挟んだ向こう側に座っている。どこから来たのかと訊ねてみる。
「チョウフ、デス……」
消え入るような、それでも生真面目な声が返ってきた。蒸気機関車をこれから見に行くのだ、と教えてくれた。
降り立った会津田島の駅はもわんとした熱のある空気に満たされていた。それでも、東京とは明らかに質が違った。かなり暑さが和らいで感じられる。陽射しは強いが湿気は低く、時折心地よい風が吹く。
私は大桃をめざす。
春に来たときと同様に厳冬にこの地を訪れたことが頭に浮かぶ。冬の記憶に、春の記憶が、さらに夏が重なってゆく。冬はとにかくその雪深さに驚いた。埋もれるように無言で雪をかく人の姿を、いたるところで目にした。誰もがまさに黙々と雪をかいていた。土地に生きる人の気質はこんなところから形成されるに違いない。
ひまわりの花がときおり道端に揺れている。冬のあいだ、この花たちはどんなふうに雪の下にいたのだろうか。もちろん種子としてそこにあったはずだが、あの雪深さを頭に描けば、花を咲かせること自体が奇跡のように思えてくる。
小学二年生の夏。私はひまわりの研究をした。私が通っていた小学校には「一人一研究」というものがあって、いってみれば「自由研究」にあたるもので、私は夏休みのあいだ、ひまわりを観察し続けた。
日向と日陰。
それぞれの場所でひまわりを育て、成長の違いを調べるというものだ。小学二年生がみずからそんな研究を発想できるはずなどなく、母に言われてやったにすぎない。果たして母がみずから考えついたのか、それともどこかで読み聞きしてきたものなのかは知らないが、成長記録をつけた。
夏が過ぎ、枯れると花からタネを丁寧に取り出し、その数を数えた。日向と日陰で数は大きく違った。いずれにしても私はその「一人一研究」により、それなりの成果を得た。というのはクラスで一人だけ選抜され、諏訪地方全体の何かの賞をいただいたからだ。どんな賞だったのか。思い出せないが賞状をもらったのは確かだ。
ただ、子供心に小さな罪悪感があった。自分で考えついたわけではないことはもちろんだが、それ以上に育ちすぎたひまわりについて。
日向のひまわりは畑で育てた。もともと肥料がたっぷりだったのだろう、恐ろしいほどに巨大になった。高さ2メートルをはるかに超えたし、茎もたくましく太かった。それに対し日陰のひまわりは納屋の裏で育てた。もちろん肥料などまったくあげないのだから、日向、日陰という対比以上に肥料による差が生まれてしまった。「肥料あり、肥料なし」の対比の方が「日向、日陰」より高かったはずだ。そのことに私は薄々気がついていた。でも伏せたまま、あくまで日向と日陰の対比で「こんなも育ちが違う」という内容にしたのだ。
そのことを今でもひまわりを目にすると、思い出す。ひまわりと目が合った、と感じる瞬間に。
冬に訪れたときに「落雪注意」という看板をいくつも目にした。その多くは窒息寸前という感じになかば雪に埋まっていたのだが、雪のやみ間にそれらがあらわになって、誰かの忘れものように居心地悪くあちこちに佇んでいた。考えてみれば、季節の忘れものという言い方もできるかもしれない。
私はその文字を何度も「落雷注意」と誤って読み間違えた。どうしてこんなところに雷が落ちるのかな?と疑問に思った後で、雷ではなく雪だと気付くことを繰り返した。人の身体も季節に同調しているのかもしれない。雪深い地に立ち、雪を雷とは間違えるはずなどないのだから。
大桃の舞台は濃い緑に囲まれていた。
季節の一片としてある。そんな言葉が浮かんだ。植物や花、川だけでなく、すべてのものが同じ速度で新たな季節を迎える。同じ場所にあって、少し先に進んでいたり、遅れたりということはない。すべてのものは、すべて同じ速度で同じ時を刻んでいる。逆にいえば、例外は許されない。
そんなふうに感じたのはやはり、ここを冬に訪ねた記憶が深く関係しているはずだ。あの日、この大桃の舞台は完全に雪にとざされていた。除雪された細い道をなんとか進んだのだが、あるところからはまったく進めなくなった。舞台のあたりは当然ながら除雪されておらず、それ以前に、集落内を除雪した雪が舞台の手前に、あたかも壁のように積まれ、立ちはだかっていた。私は雪の塊の端に登り、舞台を望んだ。かすかに屋根が見えた。そこから下は完全に雪に埋まっていた。
いまはセミの鳴き声に包まれている。「大桃夢舞台」が行われる前日だ。見上げた大桃の舞台は茅葺屋根に草が茂っていて、その上は小さな庭のようだ。あるいは草原を連想させた。
ひとりの男性に会った。地区の区長であり、翌日開催される「大桃夢舞台」の実行委員長をされている星さん。この地で生まれ育った方だ。
舞台の前で幼い頃の話を伺った。印象的だったのは、かつてはこの地区の小学生は11キロ余りも離れた小学校まで通っていというのだが、冬はカンジキを履いた大人が必ず付き添っていたという。ただ1年生から3年生まで、冬のあいだは地区に開校される季節分校に通ったという。
「では4年生から6年生は?」
「冬のあいだも歩いて通い続けていました」
時に命の危険を感じながら、通った記憶があるという。ちなみに現在は季節分校は存在せず、一年を通してバスで通学しているようだ。
「冬は本当に命懸け。だからここの子供の気持ちはすごい。どこにも負けません」
対して、夏。
「夏休みは早朝のラジオ体操をして終わると川で泳ぎ、泳ぎ疲れるとそのままこの舞台に来て柱をよじ登りました。屋根裏までみんなで登って、あの格子のあいだから遠くを眺めていました。柱を一人で登れなければ一人前ではなかった」
そう言って星さんは目を細めた。思い出にも冬と夏のコントラストがあった。
翌日はハレ。
客席の向こうの舞台は昨日とは明らに違って映った。多くのお客さんに見つめられて舞台そのものが緊張し、目を見開いている。そんな印象を覚えた。この日のために向かって左側に花道が作られている。ここは標高800メートルほどある。だから陽射しは強いが湿気は低い。風が吹くと心地よく、汗が自然とひいていく。
最初の演目は青柳八木節笠踊り。八木節とは群馬、栃木を中心にした民謡だ。南会津は、尾瀬(群馬)を通してそれら地方との繋がりが古くから強い。そのこととおそらく関係があるはずだ。
青柳というのは大桃に隣接する地区で芸能の集落として知られている。この踊りは明治時代から途切れ途切れに続いてきた歴史をもつ。戦時中には出征する者のために踊られた。そのことを知ったうえで舞台を眺めていると、出征する若者たちの姿を考えずにはいられない。セピア色に染まった古い写真の中からこちらを見ている誰か。
十年ほど前に、古いアルバムのなかに祖父の出征の写真を見つけた。記憶にあるはずもない、それでも私に関係のある人たちに囲まれた若い頃の祖父。私が生まれる前に壊された実家の前に集まった一族。家族と親戚に囲まれた軍服姿の祖父が中心にいる。私の父がその脇にいる。父はおそらく2、3歳だろう。
私はこの写真を、みずからの『kemonomichi』と名付けた写真集のなかに収めた。拝借したといってもいい。撮影者は不明。庶民が手軽にカメラを持てる時代ではなかったはずだから、地元の写真館の方だろうか。
その写真集を観た私の母の姉である90歳近い伯母が、漏らした言葉がある。
「みんな切なえ顔をしてるじゃあ」
意外だった。
私にはどの顔ももちろん嬉しそうには見えないが、だからといって悲しそうには映らなかったからだ。伯母は戦時中、10代半ばだったはずで、その頃の記憶は自覚的なはずだ。当時のことをよく知っている人には、そんなふうに見えるのか。新たな発見だった。
22歳の青年に舞台の裏で会った。久川城太鼓を演奏する、男ばかり三人兄弟の一番下。現在、この太鼓は彼の父と兄二人、さらにもう一人の方しか演奏する者がいない。年を追うごとに次第に減って来ているという。
「保育所に通っている頃からやっていました」
思春期の頃に辞めたいとい思ったことはないのですか。
「そういうものはありませんでした。逆に自分だけやっているという特別感があったし、親父、兄貴たちもやっているので、あまり抵抗はなかった」
後継者となる若い人がなかなか見つからないという。
「これからも、自分はやり続けたい」
力強い言葉。
私は来た道を戻る。まだ通ったことがない道へ分け入ってみる。すると、不意に花を咲かせた蕎麦畑が目の前に広がった。
(supported by 東武鉄道)
1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。
小林紀晴 夏の写真紀行「濃厚で濃密な季節」。
季節は巡って、夏。
短い梅雨があっという間に去ると、恐ろしいまでの猛暑がやってきた。おそらく今年の夏のことは、しばらくのあいだ語り継がれるだろう。
桜の頃と同じく、浅草から列車に乗った。あのときは進行方向に向かって右側の座席だったが今回は左側。隅田川を渡る瞬間、窓からスカイツリーが見えた。乗客はお父さんと男の子という組み合わせが多く、私の隣は男の子の二人兄弟の弟くんだった。小学一年生のようだ。お父さんとお兄ちゃんは通路を挟んだ向こう側に座っている。どこから来たのかと訊ねてみる。
「チョウフ、デス……」
消え入るような、それでも生真面目な声が返ってきた。蒸気機関車をこれから見に行くのだ、と教えてくれた。
降り立った会津田島の駅はもわんとした熱のある空気に満たされていた。それでも、東京とは明らかに質が違った。かなり暑さが和らいで感じられる。陽射しは強いが湿気は低く、時折心地よい風が吹く。
私は大桃をめざす。
春に来たときと同様に厳冬にこの地を訪れたことが頭に浮かぶ。冬の記憶に、春の記憶が、さらに夏が重なってゆく。冬はとにかくその雪深さに驚いた。埋もれるように無言で雪をかく人の姿を、いたるところで目にした。誰もがまさに黙々と雪をかいていた。土地に生きる人の気質はこんなところから形成されるに違いない。
ひまわりの花がときおり道端に揺れている。冬のあいだ、この花たちはどんなふうに雪の下にいたのだろうか。もちろん種子としてそこにあったはずだが、あの雪深さを頭に描けば、花を咲かせること自体が奇跡のように思えてくる。
小学二年生の夏。私はひまわりの研究をした。私が通っていた小学校には「一人一研究」というものがあって、いってみれば「自由研究」にあたるもので、私は夏休みのあいだ、ひまわりを観察し続けた。
日向と日陰。
それぞれの場所でひまわりを育て、成長の違いを調べるというものだ。小学二年生がみずからそんな研究を発想できるはずなどなく、母に言われてやったにすぎない。果たして母がみずから考えついたのか、それともどこかで読み聞きしてきたものなのかは知らないが、成長記録をつけた。
夏が過ぎ、枯れると花からタネを丁寧に取り出し、その数を数えた。日向と日陰で数は大きく違った。いずれにしても私はその「一人一研究」により、それなりの成果を得た。というのはクラスで一人だけ選抜され、諏訪地方全体の何かの賞をいただいたからだ。どんな賞だったのか。思い出せないが賞状をもらったのは確かだ。
ただ、子供心に小さな罪悪感があった。自分で考えついたわけではないことはもちろんだが、それ以上に育ちすぎたひまわりについて。
日向のひまわりは畑で育てた。もともと肥料がたっぷりだったのだろう、恐ろしいほどに巨大になった。高さ2メートルをはるかに超えたし、茎もたくましく太かった。それに対し日陰のひまわりは納屋の裏で育てた。もちろん肥料などまったくあげないのだから、日向、日陰という対比以上に肥料による差が生まれてしまった。「肥料あり、肥料なし」の対比の方が「日向、日陰」より高かったはずだ。そのことに私は薄々気がついていた。でも伏せたまま、あくまで日向と日陰の対比で「こんなも育ちが違う」という内容にしたのだ。
そのことを今でもひまわりを目にすると、思い出す。ひまわりと目が合った、と感じる瞬間に。
冬に訪れたときに「落雪注意」という看板をいくつも目にした。その多くは窒息寸前という感じになかば雪に埋まっていたのだが、雪のやみ間にそれらがあらわになって、誰かの忘れものように居心地悪くあちこちに佇んでいた。考えてみれば、季節の忘れものという言い方もできるかもしれない。
私はその文字を何度も「落雷注意」と誤って読み間違えた。どうしてこんなところに雷が落ちるのかな?と疑問に思った後で、雷ではなく雪だと気付くことを繰り返した。人の身体も季節に同調しているのかもしれない。雪深い地に立ち、雪を雷とは間違えるはずなどないのだから。
大桃の舞台は濃い緑に囲まれていた。
季節の一片としてある。そんな言葉が浮かんだ。植物や花、川だけでなく、すべてのものが同じ速度で新たな季節を迎える。同じ場所にあって、少し先に進んでいたり、遅れたりということはない。すべてのものは、すべて同じ速度で同じ時を刻んでいる。逆にいえば、例外は許されない。
そんなふうに感じたのはやはり、ここを冬に訪ねた記憶が深く関係しているはずだ。あの日、この大桃の舞台は完全に雪にとざされていた。除雪された細い道をなんとか進んだのだが、あるところからはまったく進めなくなった。舞台のあたりは当然ながら除雪されておらず、それ以前に、集落内を除雪した雪が舞台の手前に、あたかも壁のように積まれ、立ちはだかっていた。私は雪の塊の端に登り、舞台を望んだ。かすかに屋根が見えた。そこから下は完全に雪に埋まっていた。
いまはセミの鳴き声に包まれている。「大桃夢舞台」が行われる前日だ。見上げた大桃の舞台は茅葺屋根に草が茂っていて、その上は小さな庭のようだ。あるいは草原を連想させた。
ひとりの男性に会った。地区の区長であり、翌日開催される「大桃夢舞台」の実行委員長をされている星さん。この地で生まれ育った方だ。
舞台の前で幼い頃の話を伺った。印象的だったのは、かつてはこの地区の小学生は11キロ余りも離れた小学校まで通っていというのだが、冬はカンジキを履いた大人が必ず付き添っていたという。ただ1年生から3年生まで、冬のあいだは地区に開校される季節分校に通ったという。
「では4年生から6年生は?」
「冬のあいだも歩いて通い続けていました」
時に命の危険を感じながら、通った記憶があるという。ちなみに現在は季節分校は存在せず、一年を通してバスで通学しているようだ。
「冬は本当に命懸け。だからここの子供の気持ちはすごい。どこにも負けません」
対して、夏。
「夏休みは早朝のラジオ体操をして終わると川で泳ぎ、泳ぎ疲れるとそのままこの舞台に来て柱をよじ登りました。屋根裏までみんなで登って、あの格子のあいだから遠くを眺めていました。柱を一人で登れなければ一人前ではなかった」
そう言って星さんは目を細めた。思い出にも冬と夏のコントラストがあった。
翌日はハレ。
客席の向こうの舞台は昨日とは明らに違って映った。多くのお客さんに見つめられて舞台そのものが緊張し、目を見開いている。そんな印象を覚えた。この日のために向かって左側に花道が作られている。ここは標高800メートルほどある。だから陽射しは強いが湿気は低い。風が吹くと心地よく、汗が自然とひいていく。
最初の演目は青柳八木節笠踊り。八木節とは群馬、栃木を中心にした民謡だ。南会津は、尾瀬(群馬)を通してそれら地方との繋がりが古くから強い。そのこととおそらく関係があるはずだ。
青柳というのは大桃に隣接する地区で芸能の集落として知られている。この踊りは明治時代から途切れ途切れに続いてきた歴史をもつ。戦時中には出征する者のために踊られた。そのことを知ったうえで舞台を眺めていると、出征する若者たちの姿を考えずにはいられない。セピア色に染まった古い写真の中からこちらを見ている誰か。
十年ほど前に、古いアルバムのなかに祖父の出征の写真を見つけた。記憶にあるはずもない、それでも私に関係のある人たちに囲まれた若い頃の祖父。私が生まれる前に壊された実家の前に集まった一族。家族と親戚に囲まれた軍服姿の祖父が中心にいる。私の父がその脇にいる。父はおそらく2、3歳だろう。
私はこの写真を、みずからの『kemonomichi』と名付けた写真集のなかに収めた。拝借したといってもいい。撮影者は不明。庶民が手軽にカメラを持てる時代ではなかったはずだから、地元の写真館の方だろうか。
その写真集を観た私の母の姉である90歳近い伯母が、漏らした言葉がある。
「みんな切なえ顔をしてるじゃあ」
意外だった。
私にはどの顔ももちろん嬉しそうには見えないが、だからといって悲しそうには映らなかったからだ。伯母は戦時中、10代半ばだったはずで、その頃の記憶は自覚的なはずだ。当時のことをよく知っている人には、そんなふうに見えるのか。新たな発見だった。
22歳の青年に舞台の裏で会った。久川城太鼓を演奏する、男ばかり三人兄弟の一番下。現在、この太鼓は彼の父と兄二人、さらにもう一人の方しか演奏する者がいない。年を追うごとに次第に減って来ているという。
「保育所に通っている頃からやっていました」
思春期の頃に辞めたいとい思ったことはないのですか。
「そういうものはありませんでした。逆に自分だけやっているという特別感があったし、親父、兄貴たちもやっているので、あまり抵抗はなかった」
後継者となる若い人がなかなか見つからないという。
「これからも、自分はやり続けたい」
力強い言葉。
私は来た道を戻る。まだ通ったことがない道へ分け入ってみる。すると、不意に花を咲かせた蕎麦畑が目の前に広がった。
(supported by 東武鉄道)
1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。