未来志向で可能性を開拓し、歴史の再興から発展の立役者へ。[美の匠 ガラス工房 弟子丸/鹿児島県霧島市]

世界で愛される鹿児島ブランド、薩摩切子。

美の匠 ガラス工房 弟子丸

鹿児島県の中央部に位置する霧島市。霧島連山を筆頭に、豊かな自然に包まれたこの地に拠点を置くのが、弟子丸努氏率いる『美の匠 ガラス工房 弟子丸』です。
伝統工芸品である薩摩切子の技術を継承しつつ、新たな価値の創造にも取り組む同社。後編では、弟子丸氏の経歴や薩摩切子の製造工程と共に、薩摩切子づくりへの想いや今後の展望を聞きました。

▶前編は、薩摩切子の歴史と技法を守りつつ、新たな価値の創造に挑む。

『美の匠 ガラス工房 弟子丸』の代表兼切子師の弟子丸氏。

美の匠 ガラス工房 弟子丸社会人としてのスタートが、薩摩切子の新たな時代の幕開けとリンク。

鹿児島県霧島市は、鹿児島市に次ぎ県内で2番目に人口規模の大きい市。一方で市内中心部を離れると、雄大な霧島連山や、そのふもとから湧き出る湯で潤う霧島温泉郷、神話や伝説にまつわる高千穂峰や霧島神宮などが広がり、風光明媚な観光地としても賑わいを見せています。

そんな霧島市で生まれ育った弟子丸氏。高校卒業を控えて就職活動を始めようとしたタイミングで、薩摩切子と運命的な出合いを果たします。ちょうど卒業する1985年から、100余年の沈黙を経て薩摩切子の復元プロジェクトがスタートすることになったのです。そのために設立される薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)は、広く人材を募集。未経験の若者に対しても門戸が開かれました。

弟子丸氏は、「正直、この求人を見るまで、薩摩切子の存在は全く知りませんでした。ただ、子供の頃から工作などものづくりが好きだったので、何だか面白そうだと興味を持って。それから知れば知るほど、薩摩切子の美しさや、誕生から終焉までの歴史、そしてそれを再興しようという試みに強く惹かれ、やってみたい!と就職を決めました」と当時の想いを語ります。

こうして、18歳で薩摩切子の担い手として歩み始めることとなった弟子丸氏。同じく高校卒業したての若者から、ガラス工芸に携わっている者、江戸切子の職人まで、集まった十数名のスタッフで、薩摩切子の復元に挑みました。

まずは、わずかに残された当時の薩摩切子を実測しつつ、関連資料や写真、調査記録を読み解き、その特徴や工程、使用する工具の形状などを推測。必要な加工設備が整った工場作りを進めつつ、「薩摩の紅ガラス」と謳われた特徴的な紅色をはじめ、鮮やかな発色を再現、安定させるための色の研究も進められました。

試行錯誤の日々を振り返って弟子丸氏は、「ある程度の形になるまで、5年ぐらいはかかったと思います。私は素人からのスタートだったので、先輩方が削ったグラスを磨く作業から携わって。マニュアルがあるわけではないので、先輩の作業を見ながら、実際に自分の手を動かして経験しながら、体で覚えていきました」と話します。

厚い生地に多彩なカットを施し、磨き上げる。

美の匠 ガラス工房 弟子丸薩摩切子のものづくりは、いくつもの工程と職人技の結集。

薩摩切子の製造工程は、大きく生地作りとカット、そして仕上げの磨きに分けられます。まず、鉛を24~25%含む原料を調合し、高温の炉で泡のないきれいなガラスに熔融。その後、それぞれ別々の窯で水あめ状に溶融した透明ガラスと色ガラスを巻き取ったら、色被せと呼ばれる工程で重ね合わせることで2層の生地になります。最終的に型吹きという工程で成形したら、薩摩切子用の生地の完成です。

ここから先はカットの工程。始めに、施す文様に合わせて生地に分割線を引く割り付けを行います。その分割線を元に、高速回転するダイヤモンドホイールを使ってカット。この時の角度や深さで、薩摩切子特有の「ぼかし」が生まれます。

そして、最後は磨きの作業。まずは水で溶いてペースト状にした磨き粉をつけ、回転する青桐の円盤やセリウム盤で全体を磨きます。続いて、竹の繊維でできた円盤を回転させて、細かいカット部分の磨き。仕上げに、回転する布製の円盤と水で溶いた艶粉を用い、くもりのない鏡面に磨き上げます。

「全ての工程に高い技術が求められますが、やはり最も難しいのは要となるカットです。割り付けはあくまでも文様の配置目安でしかなく、分割線の中に描く文様自体の下書きはありませんから。ラインを一本入れるにしても、ホイールにどれぐらいの角度、強さ、長さで当てるかは感覚的なもので、経験を積むことでしか得られない技術です」と弟子丸氏。
手仕事とは思えない正確さで、均一な太さのラインを刻み、バランスのとれた文様を描くのは、まさに熟練の職人だからこそ成せる技なのです。

文様の配置が記された割り付けの指示書。

指示書を元に、生地に分割線を引いていきます。

文様に合わせ、様々な大きさ、太さのホールでカット。

3種類の円盤を使い分けて行われる磨きの作業。

美の匠 ガラス工房 弟子丸かつて存在したものの復元から、現代的な新しいものづくりへと発展。

薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)で薩摩切子の復元に従事し、切子師としての経験を積み上げていった弟子丸氏。入社から9年後の1994年には、薩摩切子の新たな工房となる薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に携わり、移籍しました。

弟子丸氏曰く、「それまでは、歴史ある薩摩切子を忠実に復元することが目標であり、その実現のために邁進してきました。それがかなった時、今度は自分たちらしい薩摩切子を作ってみたいと思うようになって。新しい工房ができることになりました」。

新工房では、伝統的な薩摩切子の器も手がけつつ、例えば大きな花瓶を作ってみたり、依頼を受けてゴルフ大会に使われるトロフィーを作ってみたり。時代に合わせた、今求められる薩摩切子の作品づくりを進めていきました。

中でも最も大きな取り組みは、2006年に携わった『薩摩黒切子』の開発。紅、藍、紫、緑、金赤、黄と色とりどりな薩摩切子の伝統色にはない、黒の薩摩切子への挑戦です。

「薩摩切子はカットの際、周りから光を当てて、外側に引かれた分割線を内側から透かし見て削り進めているんです。ところが、黒ガラスは透過性が低いので、内側から外側の分割線が見えづらく、かなり感覚に頼る部分が大きくなるんですよね。最初に黒切子を作ってみないかと言われた時は、そんな難しいこと無理だろうと感じました。でも、だからこそやる価値があるとも思い、その試みに乗ることにしたんです」と話す弟子丸氏。

最初は比較的簡単な文様から始めて、少しずつ精度をアップ。やがて細かな文様も描けるようになり、カラフルな薩摩切子の世界に、黒のラインが誕生しました。

通常は光を当て内側から外側の分割線を透かし見ます。

カラフルな薩摩切子に加わった黒の世界。

美の匠 ガラス工房 弟子丸今を生きる職人として薩摩切子の可能性を拓き、再興から進化の一翼を担う。

2つの工房で経験を積み、切子師として歩み始めて25年が過ぎた2011年。弟子丸氏は満を持して自身の工房『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げました。

弟子丸氏は、「薩摩びーどろ工芸も40名を超える大所帯となり落ち着いてきたので、これからは一人で自分の作品づくりを追求しようと、生まれ育った霧島に工房を構えました。また、どうせなら他の工房がやっていないようなことに取り組んでみようと、設立当初から新たな試みを展開していったのです」と言います。

そして1年目には、薩摩切子の廃材を活用したアクセサリーブランド『eco KIRI(エコキリ)』を、2年目には薩摩切子のステンドグラスを配したインテリアブランド『FUSION(フュージョン)』を発表。3年目には、霧島の地を拠点とする弟子丸氏ならではの視点で、豊かな霧島の自然を透明な世界で表現した『CLEAR LINE』と、『薩摩黒切子』をさらに昇華させ独自のニュアンスを加えた『BLACK LINE』から成る、『霧島切子』をリリースしました。

生地こそ古巣の工房から仕入れているものの、以降の割り付けからカット、磨きまでの工程は、全て自社の工房内で完結している『美の匠 ガラス工房 弟子丸』。弟子丸氏が一人で立ち上げて以降、年々志を同じくする者が集まり、今では16名の職人が在籍しています。弟子丸氏のような切子師に憧れて門を叩き修行に励む若手も多く、頼もしい後継者が着実に育っているのです。

「私たちは皆、伝統をトレースするだけに留まらない切子師をめざし、自ら高めた技法で、新たな価値を創造する道を歩んでいます。もちろん伝統技法を大切にしつつも、それらを時代の変化や現代のニーズに合わせて再解釈し、新しい作品を生み出しているんです」。そう語る弟子丸氏は、真っ直ぐに薩摩切子の未来を見つめています。

市内中心部から少し離れた住宅街に佇む工房。

廃材から作るアクセサリー『eco KIRI』のブローチなど。

『eco KIRI』用の極小パーツにも細かな文様を施す職人芸。

美しい透過光に酔いしれる『FUSION』のアートフレーム。

薩摩切子が輝く名刺入れは、革メーカーとのコラボ。

美の匠 ガラス工房 弟子丸灯してきた火を二度と絶やさぬよう守り、さらに大きく燃え上がらせる。

この道30余年の弟子丸氏が掲げるモットーは「炉火純青」。これは、炎が青色になると温度も最高に達するということから、技芸が最高の域に達することを意味する言葉です。

「切子師の生涯は、まさに“炉火純青”を追求する修練の路だと思うんです。どんなにキャリアを積んでも薩摩切子の表現を突き詰め、己の限界まで技を磨き続ける。だからこそ、世界に類を見ない煌めきを持つ薩摩切子が生まれ、人々を魅了し続けられるのだという信念を胸に、日々向き合っています」。

また、「幻となった薩摩切子が復活して早30年以上が経ち、国内での薩摩切子の認知度は高まっていますが、まだまだ。そのため、伝統と新しさを感じていただける作品を持って、全国の催事などに積極的に出向き、薩摩切子の世界を広めようと努めています。工房で行っている制作体験もそのひとつ。最終的には、日本はもとより、世界のガラス工芸史上で私たちの作品が評価されるようになれば嬉しいですね」と夢を語ります。

その技法を際限なく、極限まで高め創作し、「炉火純青」と称される最高点の煌めきを探求する。こうした現代の切子師たちの人生をかけた営みの果てに、かつてのムーブメント以上のものを感じさせる薩摩切子の未来が今、広がりを見せているのです。これからも『美の匠 ガラス工房 弟子丸』は、伝統を受け継ぐ魂とさらなる発展を目指すフロンティア精神で、伝統と革新に満ちた作品を生み出していきます。

住所:〒899-4304 鹿児島県霧島市国分清水1-19-27 MAP
電話:0995-73-6522
営業時間:9:30~18:00
定休日:日曜
http://deshimaru.jp/

鹿児島県霧島市出身。1985年に高校を卒業し、薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)へ入社。薩摩切子の復元に携わる。1994年には新たな環境を求め、薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に従事。同社で活躍した後、2011年に『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げた。薩摩切子の継承はもちろん、『霧島切子』や『eco KIRI』、『fusion』などオリジナルブランドも展開。従来の枠に捉われない作品づくりを行い、新しい薩摩切子の可能性を追い続けている。

未来志向で可能性を開拓し、歴史の再興から発展の立役者へ。[美の匠 ガラス工房 弟子丸/鹿児島県霧島市]

世界で愛される鹿児島ブランド、薩摩切子。

美の匠 ガラス工房 弟子丸

鹿児島県の中央部に位置する霧島市。霧島連山を筆頭に、豊かな自然に包まれたこの地に拠点を置くのが、弟子丸努氏率いる『美の匠 ガラス工房 弟子丸』です。
伝統工芸品である薩摩切子の技術を継承しつつ、新たな価値の創造にも取り組む同社。後編では、弟子丸氏の経歴や薩摩切子の製造工程と共に、薩摩切子づくりへの想いや今後の展望を聞きました。

▶前編は、薩摩切子の歴史と技法を守りつつ、新たな価値の創造に挑む。

『美の匠 ガラス工房 弟子丸』の代表兼切子師の弟子丸氏。

美の匠 ガラス工房 弟子丸社会人としてのスタートが、薩摩切子の新たな時代の幕開けとリンク。

鹿児島県霧島市は、鹿児島市に次ぎ県内で2番目に人口規模の大きい市。一方で市内中心部を離れると、雄大な霧島連山や、そのふもとから湧き出る湯で潤う霧島温泉郷、神話や伝説にまつわる高千穂峰や霧島神宮などが広がり、風光明媚な観光地としても賑わいを見せています。

そんな霧島市で生まれ育った弟子丸氏。高校卒業を控えて就職活動を始めようとしたタイミングで、薩摩切子と運命的な出合いを果たします。ちょうど卒業する1985年から、100余年の沈黙を経て薩摩切子の復元プロジェクトがスタートすることになったのです。そのために設立される薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)は、広く人材を募集。未経験の若者に対しても門戸が開かれました。

弟子丸氏は、「正直、この求人を見るまで、薩摩切子の存在は全く知りませんでした。ただ、子供の頃から工作などものづくりが好きだったので、何だか面白そうだと興味を持って。それから知れば知るほど、薩摩切子の美しさや、誕生から終焉までの歴史、そしてそれを再興しようという試みに強く惹かれ、やってみたい!と就職を決めました」と当時の想いを語ります。

こうして、18歳で薩摩切子の担い手として歩み始めることとなった弟子丸氏。同じく高校卒業したての若者から、ガラス工芸に携わっている者、江戸切子の職人まで、集まった十数名のスタッフで、薩摩切子の復元に挑みました。

まずは、わずかに残された当時の薩摩切子を実測しつつ、関連資料や写真、調査記録を読み解き、その特徴や工程、使用する工具の形状などを推測。必要な加工設備が整った工場作りを進めつつ、「薩摩の紅ガラス」と謳われた特徴的な紅色をはじめ、鮮やかな発色を再現、安定させるための色の研究も進められました。

試行錯誤の日々を振り返って弟子丸氏は、「ある程度の形になるまで、5年ぐらいはかかったと思います。私は素人からのスタートだったので、先輩方が削ったグラスを磨く作業から携わって。マニュアルがあるわけではないので、先輩の作業を見ながら、実際に自分の手を動かして経験しながら、体で覚えていきました」と話します。

厚い生地に多彩なカットを施し、磨き上げる。

美の匠 ガラス工房 弟子丸薩摩切子のものづくりは、いくつもの工程と職人技の結集。

薩摩切子の製造工程は、大きく生地作りとカット、そして仕上げの磨きに分けられます。まず、鉛を24~25%含む原料を調合し、高温の炉で泡のないきれいなガラスに熔融。その後、それぞれ別々の窯で水あめ状に溶融した透明ガラスと色ガラスを巻き取ったら、色被せと呼ばれる工程で重ね合わせることで2層の生地になります。最終的に型吹きという工程で成形したら、薩摩切子用の生地の完成です。

ここから先はカットの工程。始めに、施す文様に合わせて生地に分割線を引く割り付けを行います。その分割線を元に、高速回転するダイヤモンドホイールを使ってカット。この時の角度や深さで、薩摩切子特有の「ぼかし」が生まれます。

そして、最後は磨きの作業。まずは水で溶いてペースト状にした磨き粉をつけ、回転する青桐の円盤やセリウム盤で全体を磨きます。続いて、竹の繊維でできた円盤を回転させて、細かいカット部分の磨き。仕上げに、回転する布製の円盤と水で溶いた艶粉を用い、くもりのない鏡面に磨き上げます。

「全ての工程に高い技術が求められますが、やはり最も難しいのは要となるカットです。割り付けはあくまでも文様の配置目安でしかなく、分割線の中に描く文様自体の下書きはありませんから。ラインを一本入れるにしても、ホイールにどれぐらいの角度、強さ、長さで当てるかは感覚的なもので、経験を積むことでしか得られない技術です」と弟子丸氏。
手仕事とは思えない正確さで、均一な太さのラインを刻み、バランスのとれた文様を描くのは、まさに熟練の職人だからこそ成せる技なのです。

文様の配置が記された割り付けの指示書。

指示書を元に、生地に分割線を引いていきます。

文様に合わせ、様々な大きさ、太さのホールでカット。

3種類の円盤を使い分けて行われる磨きの作業。

美の匠 ガラス工房 弟子丸かつて存在したものの復元から、現代的な新しいものづくりへと発展。

薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)で薩摩切子の復元に従事し、切子師としての経験を積み上げていった弟子丸氏。入社から9年後の1994年には、薩摩切子の新たな工房となる薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に携わり、移籍しました。

弟子丸氏曰く、「それまでは、歴史ある薩摩切子を忠実に復元することが目標であり、その実現のために邁進してきました。それがかなった時、今度は自分たちらしい薩摩切子を作ってみたいと思うようになって。新しい工房ができることになりました」。

新工房では、伝統的な薩摩切子の器も手がけつつ、例えば大きな花瓶を作ってみたり、依頼を受けてゴルフ大会に使われるトロフィーを作ってみたり。時代に合わせた、今求められる薩摩切子の作品づくりを進めていきました。

中でも最も大きな取り組みは、2006年に携わった『薩摩黒切子』の開発。紅、藍、紫、緑、金赤、黄と色とりどりな薩摩切子の伝統色にはない、黒の薩摩切子への挑戦です。

「薩摩切子はカットの際、周りから光を当てて、外側に引かれた分割線を内側から透かし見て削り進めているんです。ところが、黒ガラスは透過性が低いので、内側から外側の分割線が見えづらく、かなり感覚に頼る部分が大きくなるんですよね。最初に黒切子を作ってみないかと言われた時は、そんな難しいこと無理だろうと感じました。でも、だからこそやる価値があるとも思い、その試みに乗ることにしたんです」と話す弟子丸氏。

最初は比較的簡単な文様から始めて、少しずつ精度をアップ。やがて細かな文様も描けるようになり、カラフルな薩摩切子の世界に、黒のラインが誕生しました。

通常は光を当て内側から外側の分割線を透かし見ます。

カラフルな薩摩切子に加わった黒の世界。

美の匠 ガラス工房 弟子丸今を生きる職人として薩摩切子の可能性を拓き、再興から進化の一翼を担う。

2つの工房で経験を積み、切子師として歩み始めて25年が過ぎた2011年。弟子丸氏は満を持して自身の工房『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げました。

弟子丸氏は、「薩摩びーどろ工芸も40名を超える大所帯となり落ち着いてきたので、これからは一人で自分の作品づくりを追求しようと、生まれ育った霧島に工房を構えました。また、どうせなら他の工房がやっていないようなことに取り組んでみようと、設立当初から新たな試みを展開していったのです」と言います。

そして1年目には、薩摩切子の廃材を活用したアクセサリーブランド『eco KIRI(エコキリ)』を、2年目には薩摩切子のステンドグラスを配したインテリアブランド『FUSION(フュージョン)』を発表。3年目には、霧島の地を拠点とする弟子丸氏ならではの視点で、豊かな霧島の自然を透明な世界で表現した『CLEAR LINE』と、『薩摩黒切子』をさらに昇華させ独自のニュアンスを加えた『BLACK LINE』から成る、『霧島切子』をリリースしました。

生地こそ古巣の工房から仕入れているものの、以降の割り付けからカット、磨きまでの工程は、全て自社の工房内で完結している『美の匠 ガラス工房 弟子丸』。弟子丸氏が一人で立ち上げて以降、年々志を同じくする者が集まり、今では16名の職人が在籍しています。弟子丸氏のような切子師に憧れて門を叩き修行に励む若手も多く、頼もしい後継者が着実に育っているのです。

「私たちは皆、伝統をトレースするだけに留まらない切子師をめざし、自ら高めた技法で、新たな価値を創造する道を歩んでいます。もちろん伝統技法を大切にしつつも、それらを時代の変化や現代のニーズに合わせて再解釈し、新しい作品を生み出しているんです」。そう語る弟子丸氏は、真っ直ぐに薩摩切子の未来を見つめています。

市内中心部から少し離れた住宅街に佇む工房。

廃材から作るアクセサリー『eco KIRI』のブローチなど。

『eco KIRI』用の極小パーツにも細かな文様を施す職人芸。

美しい透過光に酔いしれる『FUSION』のアートフレーム。

薩摩切子が輝く名刺入れは、革メーカーとのコラボ。

美の匠 ガラス工房 弟子丸灯してきた火を二度と絶やさぬよう守り、さらに大きく燃え上がらせる。

この道30余年の弟子丸氏が掲げるモットーは「炉火純青」。これは、炎が青色になると温度も最高に達するということから、技芸が最高の域に達することを意味する言葉です。

「切子師の生涯は、まさに“炉火純青”を追求する修練の路だと思うんです。どんなにキャリアを積んでも薩摩切子の表現を突き詰め、己の限界まで技を磨き続ける。だからこそ、世界に類を見ない煌めきを持つ薩摩切子が生まれ、人々を魅了し続けられるのだという信念を胸に、日々向き合っています」。

また、「幻となった薩摩切子が復活して早30年以上が経ち、国内での薩摩切子の認知度は高まっていますが、まだまだ。そのため、伝統と新しさを感じていただける作品を持って、全国の催事などに積極的に出向き、薩摩切子の世界を広めようと努めています。工房で行っている制作体験もそのひとつ。最終的には、日本はもとより、世界のガラス工芸史上で私たちの作品が評価されるようになれば嬉しいですね」と夢を語ります。

その技法を際限なく、極限まで高め創作し、「炉火純青」と称される最高点の煌めきを探求する。こうした現代の切子師たちの人生をかけた営みの果てに、かつてのムーブメント以上のものを感じさせる薩摩切子の未来が今、広がりを見せているのです。これからも『美の匠 ガラス工房 弟子丸』は、伝統を受け継ぐ魂とさらなる発展を目指すフロンティア精神で、伝統と革新に満ちた作品を生み出していきます。

住所:〒899-4304 鹿児島県霧島市国分清水1-19-27 MAP
電話:0995-73-6522
営業時間:9:30~18:00
定休日:日曜
http://deshimaru.jp/

鹿児島県霧島市出身。1985年に高校を卒業し、薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)へ入社。薩摩切子の復元に携わる。1994年には新たな環境を求め、薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に従事。同社で活躍した後、2011年に『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げた。薩摩切子の継承はもちろん、『霧島切子』や『eco KIRI』、『fusion』などオリジナルブランドも展開。従来の枠に捉われない作品づくりを行い、新しい薩摩切子の可能性を追い続けている。

小林紀晴 秋の写真紀行「記憶の螺旋」。

 私はまた大内宿に向かった。そして、また高遠蕎麦を食した。この地を訪れるのは4回目で、すべての季節に訪れ、高遠蕎麦も4回食べたことになる。東京ではまだ秋の始まりだったが、すでにここは秋の只中という気配で、肌寒く、紅葉もかなり進んでいた。

 蕎麦を食べたあと、一軒のカフェに向かった。
 茶房やまだ屋
 大内宿の奥まった場所にあり、築400年ほどの茅葺き屋根の古民家の内を改装したモダンな造りだ。最初に目に入ったのは頭上にあるふたつの神棚。
 店主である男性にお会いした。諸岡泰之さん。冬に訪れたときに、会津若松の別の珈琲豆専門店にお客さんとして来ていたところを偶然お会いしたのがきっかけだ。ご自身は埼玉県の生まれだが、お母さんがここ大内宿の出身で、お母さんが実家を継ぐことになったため一緒に移り住み、共にカフェを始めたのだとそのとき伺った。

 この日の珈琲のメニューは新潟の雪室珈琲。雪を活用した「雪室」で低温熟成されたものだという。まずはその一杯をいただいた。雑味のないすっきりとした味わいで、低温熟成による効果だという。
 山田さんにとって大内宿は幼い頃から時々母に連れられて訪れる場所ではあったが、あくまで母の実家であり、自分にとっての故郷ではない。そんな彼にはこの地はどう映っているのだろうか。興味があった。
「移り住んで、一番印象的なことを教えてください」
「時間の流れが違います。こっちに来て気がついたのですが、東京は時間が直線的だと思います。それに対してここはコイル状というか……」
「コイル状?」
「同じところをグルグルと回りながら時間が積み重なっていく感じです。ここでは変わらないことが大事というか、いかに過去と同じことを継続するかが大事なのです」
「変わらないこと……」
「はい、去年と何も変わっていないことがとても大切なのです」
 私は帰りがけに、店内の雑貨コーナーで見つけたコーヒーカップを手に取った。いくつか並んだなかのひとつが気になった。上に向かって広がった側面にいくつもの家が描かれている。赤い屋根が印象的だ。ほんわかとした気持ちにさせてくれる。私は迷うことなくそれを購入することにした。会津本郷の窯場のひとつ、樹ノ音工房で作られたものだという。

 夕飯をとるために入った会津田島駅近くの居酒屋には、意外にも馬刺しがメニューにあった。会津で馬刺しを食べるという発想はまったくなかったので、不思議に思って店の人に訊ねると「会津には馬刺しを食べる文化」があるという。即座に注文した。出てきた馬刺しはいくつかの部位の盛り合わせで、どれも美味だった。
 私はまったく食通ではないし、食べ物にうるさくもなく、こだわりもたいしてないのだが、馬刺しには少しばかりうるさい。単純に子供の頃からよく食べてきたからだ。長野県の生まれだが伝統的に馬刺しを食べる習慣があり、お盆や正月などに食す。
 東京でも時折、居酒屋などでメニューに馬刺しを見つけると懐かしさから頼むことがあるのだけど、がっかりすることのほうが多いのも確か。半分凍っている状態で出されるからだ。
 ちなみに東京に戻ってから会津の馬刺しについて調べてみると、意外にもプロレスラーの力道山が関係しているという記事を見つけて驚いた。そもそも会津で馬肉を食べるようになったのは、戊辰戦争のときに傷ついた者たちに栄養を取らせるためだったようだ。ただ、生肉を食べることはなかった。それが昭和30年代に力道山がプロレスの興行で会津若松に来た際に、店先に馬肉があるのを見つけ、持参したタレにつけて食した。それがこの地の馬刺し文化の始まりだという。かなり劇的だ。
 ふと彼の顔が浮かぶ。名前はなんといっただろうか。名字は思い出せるのだが名前が思い出せない。小学校の同級生は常に下の名前で読んでいたのだから、その逆だったら理解できるのだが、どうしてだろうか。
 あれは小学3年生か4年生のときだったはずだ。登校途中、あとほんの少しで学校の下駄箱というところで、背後から急に声をかけられた。振り向くと彼が立っていて、ニヤニヤしながら手を顔の前にかざした。手首に白いものが見えた。包帯のようだった。
「どうしたのだ? それ」
「捻挫した」

「運動会で転んだ……家に帰ったら痛くなって……」
 おとといが運動会で昨日はその代休だったから、一日ぶりの再会だった。いつ転んだのだろうか。少なくとも彼がかけっこで転んだところは見ていない。
「包帯のなか、何が入っているかわかる、け?」
 彼はまたニヤニヤした。言っている意味が理解できなかった。包帯は包帯だろうと思ったからだ。
「こんなか、馬刺しがへえってるだぞ」
「バサシ?」
「ああ」
「バサシって、あの食べる馬刺し?」
「ほうだよ」
「……」
「驚いたけ?」
 私は頷かなかった。
「馬刺しは熱を取るだ」
 なんてつまらない嘘をつくのだろう。そんな必要があるのだろうか。包帯の下は湿布だろう。
 彼の席は私の斜め前の席で、授業中、机の上に載った白い包帯が巻かれた腕がよく見えた。時折、包帯に反対の手の指を伸ばし、次にそれを口元にそっともっていくのがわかった。何かを包帯のあいだからつまみ出し、食べているかのように映った。

 もう少し飲みたくてふらふらと歩き、駅前からほんの少しだけ離れたところにある小さなバーに吸い込まれるように入った。カウンターがメインのお店で、通りからはガラス張りのドアの向こうにそれが見えた。
 実は冬に来たときも、このお店の前を通りかかった。以前から気になっていたのだ。そのときも同じように夕飯を終えて宿に戻る途中だった。足下の路面は凍りついていた。だから慎重に歩いていたのだが、ガラス越しにぼんやりとした明かりが見え、カウンターでグラスを傾けている人の姿があった。そこだけ違う時間が流れているように感じられ、ふと雪でつくられたカマクラのなかで人々がお酒を酌み交わしているかのような印象をおぼえた。
 いま季節は大きく違う。夏にも思ったのだが、同じ場所とは思えない。風景が更新されている。

 私は大人になるまで、彼が言った「馬刺しは熱を取る」という言葉を信じていなかったし、それ以前にすっかりそのことは忘れていた。それが、あるときテレビを見ていて、遠い記憶と結びつく瞬間があった。上京した後のことだ。
 ニュース番組のスポーツコーナーに出演したあるプロ野球選手が「馬刺しは熱を取ります」と発言したのだ。どこかで似たようなことを聞いたことがある気がしたが、なかなか思い出せなかった。いつ、どこで、誰が言ったことだっただろうかとしばらく考え、やがて、ああ、あのときの彼の言葉だと思い当たったのだ。
 テレビ画面の向こうのプロ野球は腕の炎症を押さえるために「馬刺しを貼っている」と口にした。

 東京で私はたいがい二軒目の店ではメニューも見ずにモヒートを注文することにしている。その癖で同じようにモヒートを注文したのだが、残念ながらなかった。モヒートにはミントが欠かせないのだが、このあたりではカクテルを扱う店が少なく簡単に手に入らないという。おそらく手に入ったとしても、かなり高価になってしまうのだろう。
 カウンターの向こうの男性から説明を受けて、なんだか申し訳ない気持ちになった。似たような理由でライムも最近までなかなか手に入らなかったのが、ここ最近はスーパーにも置いてくれるようになったという。
 こんな時に、いつの間にか染みついてしまった東京中心の意識を全国共通と考えている自分に気づく。
 
「あたらしい靴を午後、下ろしちゃいけないって、いいますか?」
 カウンターの向こうの男性が言った。
「いえ……初めて聞きました。ということは、新しいスニーカーを買ったら必ず午前中に出かけるということですか?」
「はい」
「もし午後、初めて履いて出かけるとなったら?」
「鍋ブタをつけて、下ろします」
「鍋ブタ?」
「はい。大人になったいまでも、それは気になっていて、必ずそうしています」
 私は二杯目のジントニックを注文した。すると急に「馬刺しが熱を取るって知っていますか?」と訊ねてみたくなった。
 こんな時間や会話が私は好きだ。だから、人は深夜にグラスが載ったカウンターに向かうのかもしれない。グラスの縁を巡る想像と連想の旅をするために。
 翌日、思い立ち、私は茶房やまだ屋で購入した珈琲カップの窯元である会津本郷の樹ノ音工房を訪ねた。調べてみると樹ノ音工房には小売をするお店とカフェがあるようだった。平日だったためカフェは残念ながら閉まっていたが(週末のみオープン)、お店はしっかり開いていた。佐藤大寿・朱音さん夫妻が営んでいる工房だ。
 そもそも会津本郷焼は明治時代には窯元が100軒ほどあったのが、現在は13軒に減っているとういう。大寿さんはその一軒に生まれた。つまり後を継いだことになる。
 私が購入したカップは朱音さんが作ったもので、大寿さんが作ったものとは大きく作風が違った。そのことを着いてから知った。
「このカップに描かれた家にモデルはあるのですか?」
 私は自分が買ったカップのモチーフである屋根がどこから来ているのか、由来があるとしたら、それを知りたかった。
「子供の頃、絵本が好きでした。そのなかに『ちいさいおうち』という絵本があって、それを何度も何度も読みました。その世界観とフォルムがもとになっているのだと思います」 
 そうか、そういうことか。よいことを聞いた。ものにストーリーが付随すると、さっきまでとは大きく違って見えることがある。その体験のひとつとなった。

 力道山は果たして、馬刺しを湿布がわりに身体に貼ったことはあるのだろうか。そもそも、本当に力道山が会津の「馬刺し文化」をつくったのだろうか。
 確かめるべき新たな課題ができた。
 想像と連想は続く。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。

小林紀晴 秋の写真紀行「記憶の螺旋」。

 私はまた大内宿に向かった。そして、また高遠蕎麦を食した。この地を訪れるのは4回目で、すべての季節に訪れ、高遠蕎麦も4回食べたことになる。東京ではまだ秋の始まりだったが、すでにここは秋の只中という気配で、肌寒く、紅葉もかなり進んでいた。

 蕎麦を食べたあと、一軒のカフェに向かった。
 茶房やまだ屋
 大内宿の奥まった場所にあり、築400年ほどの茅葺き屋根の古民家の内を改装したモダンな造りだ。最初に目に入ったのは頭上にあるふたつの神棚。
 店主である男性にお会いした。諸岡泰之さん。冬に訪れたときに、会津若松の別の珈琲豆専門店にお客さんとして来ていたところを偶然お会いしたのがきっかけだ。ご自身は埼玉県の生まれだが、お母さんがここ大内宿の出身で、お母さんが実家を継ぐことになったため一緒に移り住み、共にカフェを始めたのだとそのとき伺った。

 この日の珈琲のメニューは新潟の雪室珈琲。雪を活用した「雪室」で低温熟成されたものだという。まずはその一杯をいただいた。雑味のないすっきりとした味わいで、低温熟成による効果だという。
 山田さんにとって大内宿は幼い頃から時々母に連れられて訪れる場所ではあったが、あくまで母の実家であり、自分にとっての故郷ではない。そんな彼にはこの地はどう映っているのだろうか。興味があった。
「移り住んで、一番印象的なことを教えてください」
「時間の流れが違います。こっちに来て気がついたのですが、東京は時間が直線的だと思います。それに対してここはコイル状というか……」
「コイル状?」
「同じところをグルグルと回りながら時間が積み重なっていく感じです。ここでは変わらないことが大事というか、いかに過去と同じことを継続するかが大事なのです」
「変わらないこと……」
「はい、去年と何も変わっていないことがとても大切なのです」
 私は帰りがけに、店内の雑貨コーナーで見つけたコーヒーカップを手に取った。いくつか並んだなかのひとつが気になった。上に向かって広がった側面にいくつもの家が描かれている。赤い屋根が印象的だ。ほんわかとした気持ちにさせてくれる。私は迷うことなくそれを購入することにした。会津本郷の窯場のひとつ、樹ノ音工房で作られたものだという。

 夕飯をとるために入った会津田島駅近くの居酒屋には、意外にも馬刺しがメニューにあった。会津で馬刺しを食べるという発想はまったくなかったので、不思議に思って店の人に訊ねると「会津には馬刺しを食べる文化」があるという。即座に注文した。出てきた馬刺しはいくつかの部位の盛り合わせで、どれも美味だった。
 私はまったく食通ではないし、食べ物にうるさくもなく、こだわりもたいしてないのだが、馬刺しには少しばかりうるさい。単純に子供の頃からよく食べてきたからだ。長野県の生まれだが伝統的に馬刺しを食べる習慣があり、お盆や正月などに食す。
 東京でも時折、居酒屋などでメニューに馬刺しを見つけると懐かしさから頼むことがあるのだけど、がっかりすることのほうが多いのも確か。半分凍っている状態で出されるからだ。
 ちなみに東京に戻ってから会津の馬刺しについて調べてみると、意外にもプロレスラーの力道山が関係しているという記事を見つけて驚いた。そもそも会津で馬肉を食べるようになったのは、戊辰戦争のときに傷ついた者たちに栄養を取らせるためだったようだ。ただ、生肉を食べることはなかった。それが昭和30年代に力道山がプロレスの興行で会津若松に来た際に、店先に馬肉があるのを見つけ、持参したタレにつけて食した。それがこの地の馬刺し文化の始まりだという。かなり劇的だ。
 ふと彼の顔が浮かぶ。名前はなんといっただろうか。名字は思い出せるのだが名前が思い出せない。小学校の同級生は常に下の名前で読んでいたのだから、その逆だったら理解できるのだが、どうしてだろうか。
 あれは小学3年生か4年生のときだったはずだ。登校途中、あとほんの少しで学校の下駄箱というところで、背後から急に声をかけられた。振り向くと彼が立っていて、ニヤニヤしながら手を顔の前にかざした。手首に白いものが見えた。包帯のようだった。
「どうしたのだ? それ」
「捻挫した」

「運動会で転んだ……家に帰ったら痛くなって……」
 おとといが運動会で昨日はその代休だったから、一日ぶりの再会だった。いつ転んだのだろうか。少なくとも彼がかけっこで転んだところは見ていない。
「包帯のなか、何が入っているかわかる、け?」
 彼はまたニヤニヤした。言っている意味が理解できなかった。包帯は包帯だろうと思ったからだ。
「こんなか、馬刺しがへえってるだぞ」
「バサシ?」
「ああ」
「バサシって、あの食べる馬刺し?」
「ほうだよ」
「……」
「驚いたけ?」
 私は頷かなかった。
「馬刺しは熱を取るだ」
 なんてつまらない嘘をつくのだろう。そんな必要があるのだろうか。包帯の下は湿布だろう。
 彼の席は私の斜め前の席で、授業中、机の上に載った白い包帯が巻かれた腕がよく見えた。時折、包帯に反対の手の指を伸ばし、次にそれを口元にそっともっていくのがわかった。何かを包帯のあいだからつまみ出し、食べているかのように映った。

 もう少し飲みたくてふらふらと歩き、駅前からほんの少しだけ離れたところにある小さなバーに吸い込まれるように入った。カウンターがメインのお店で、通りからはガラス張りのドアの向こうにそれが見えた。
 実は冬に来たときも、このお店の前を通りかかった。以前から気になっていたのだ。そのときも同じように夕飯を終えて宿に戻る途中だった。足下の路面は凍りついていた。だから慎重に歩いていたのだが、ガラス越しにぼんやりとした明かりが見え、カウンターでグラスを傾けている人の姿があった。そこだけ違う時間が流れているように感じられ、ふと雪でつくられたカマクラのなかで人々がお酒を酌み交わしているかのような印象をおぼえた。
 いま季節は大きく違う。夏にも思ったのだが、同じ場所とは思えない。風景が更新されている。

 私は大人になるまで、彼が言った「馬刺しは熱を取る」という言葉を信じていなかったし、それ以前にすっかりそのことは忘れていた。それが、あるときテレビを見ていて、遠い記憶と結びつく瞬間があった。上京した後のことだ。
 ニュース番組のスポーツコーナーに出演したあるプロ野球選手が「馬刺しは熱を取ります」と発言したのだ。どこかで似たようなことを聞いたことがある気がしたが、なかなか思い出せなかった。いつ、どこで、誰が言ったことだっただろうかとしばらく考え、やがて、ああ、あのときの彼の言葉だと思い当たったのだ。
 テレビ画面の向こうのプロ野球は腕の炎症を押さえるために「馬刺しを貼っている」と口にした。

 東京で私はたいがい二軒目の店ではメニューも見ずにモヒートを注文することにしている。その癖で同じようにモヒートを注文したのだが、残念ながらなかった。モヒートにはミントが欠かせないのだが、このあたりではカクテルを扱う店が少なく簡単に手に入らないという。おそらく手に入ったとしても、かなり高価になってしまうのだろう。
 カウンターの向こうの男性から説明を受けて、なんだか申し訳ない気持ちになった。似たような理由でライムも最近までなかなか手に入らなかったのが、ここ最近はスーパーにも置いてくれるようになったという。
 こんな時に、いつの間にか染みついてしまった東京中心の意識を全国共通と考えている自分に気づく。
 
「あたらしい靴を午後、下ろしちゃいけないって、いいますか?」
 カウンターの向こうの男性が言った。
「いえ……初めて聞きました。ということは、新しいスニーカーを買ったら必ず午前中に出かけるということですか?」
「はい」
「もし午後、初めて履いて出かけるとなったら?」
「鍋ブタをつけて、下ろします」
「鍋ブタ?」
「はい。大人になったいまでも、それは気になっていて、必ずそうしています」
 私は二杯目のジントニックを注文した。すると急に「馬刺しが熱を取るって知っていますか?」と訊ねてみたくなった。
 こんな時間や会話が私は好きだ。だから、人は深夜にグラスが載ったカウンターに向かうのかもしれない。グラスの縁を巡る想像と連想の旅をするために。
 翌日、思い立ち、私は茶房やまだ屋で購入した珈琲カップの窯元である会津本郷の樹ノ音工房を訪ねた。調べてみると樹ノ音工房には小売をするお店とカフェがあるようだった。平日だったためカフェは残念ながら閉まっていたが(週末のみオープン)、お店はしっかり開いていた。佐藤大寿・朱音さん夫妻が営んでいる工房だ。
 そもそも会津本郷焼は明治時代には窯元が100軒ほどあったのが、現在は13軒に減っているとういう。大寿さんはその一軒に生まれた。つまり後を継いだことになる。
 私が購入したカップは朱音さんが作ったもので、大寿さんが作ったものとは大きく作風が違った。そのことを着いてから知った。
「このカップに描かれた家にモデルはあるのですか?」
 私は自分が買ったカップのモチーフである屋根がどこから来ているのか、由来があるとしたら、それを知りたかった。
「子供の頃、絵本が好きでした。そのなかに『ちいさいおうち』という絵本があって、それを何度も何度も読みました。その世界観とフォルムがもとになっているのだと思います」 
 そうか、そういうことか。よいことを聞いた。ものにストーリーが付随すると、さっきまでとは大きく違って見えることがある。その体験のひとつとなった。

 力道山は果たして、馬刺しを湿布がわりに身体に貼ったことはあるのだろうか。そもそも、本当に力道山が会津の「馬刺し文化」をつくったのだろうか。
 確かめるべき新たな課題ができた。
 想像と連想は続く。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。

未知の『西宇和みかん』デザートコースを創造するため。現地を巡って体感した、西宇和の風土、生産者の志。[TERROIR OF NISHIUWA・真穴共選/愛媛県八幡浜市]

『西宇和みかん』の魅力を伝える為、白羽の矢が立ったのは、パティシエール中村樹里子氏。至極のデザートコースを開発するべく、愛媛県西宇和に視察へ訪れた。

テロワールオブ西宇和・真穴共選伝説の『KIRIKO NAKAMURA』復活に向け、中村樹里子氏、西宇和へ。

愛媛県西宇和の特産品『西宇和みかん』。その魅力をより多くの人に味わってもらう為、11月29日(木)から期間限定で『西宇和みかん』を主役に据えた、全6皿のデザートコースが、目黒『kabi.』に登場します。
「Kiriko Nakamura による西宇和みかんのデザートコース」詳細・予約はこちら

手掛けるパティシエールは、『KIRIKO NAKAMURA』で食通の注目を集めた中村樹里子氏。
中村氏は、オープンわずか2カ月でミシュラン一ツ星を獲得した白金台のフレンチレストラン『TIRPSE』で、すべてのデザートを担当した料理人。『KIRIKO NAKAMURA』は、その『TIRPSE』のランチタイムに、たった一年の期間限定で、デザートばかりが6品登場する、コースを提供していた伝説のデザート・テイスティング・レストランです。斬新で美しいデザートが話題となり、2015年当時、予約が取れないと評判になりました。

中村氏は『DINING OUT ONOMICHI with LEXUS』にも参加した実績があり、そのときも、地元の食材を巧みに用いて、2皿のデザートを創案しています。今の日本を代表する、気鋭のパティシエールが中村樹里子氏なのです。

今回の主役は『西宇和みかん』。
デザートコースの創造を決意した中村氏は早速、西宇和へ向かいました。

現場に行かなければ体感できない土地の空気を肌で感じ、生産者の気持ちに触れることでクリエイションのヒントを得たい。そう思ったからです。

今回の旅では、『西宇和みかん』に合いそうな、ほかの食材も探す予定になっています。
「愛媛に来たのは初めてですけど、スゴイですね」
見渡す限り、斜面を覆う西宇和みかんの畑を目の当たりにして、中村氏は思わず、感嘆の声を上げました。

最初に訪れた『西宇和みかん』の産地は八幡浜市・真穴。
「私たち、生産者が目指すのは高糖度、高酸度のみかんなんですよ」
傍らには、この地区で西宇和みかんを育てる、宮本定氏の笑顔もありました。

▶詳細は、TERROIR OF NISHIUWA/特徴的な地形が育む、伝統の『西宇和みかん』で進む、新たな価値観の創造。

オープンわずか2カ月でミシュラン一ツ星を獲得した白金台のフレンチレストラン『TIRPSE』で、すべてのデザートを担当したパティシエール中村樹里子氏。

真穴の生産者・宮本定氏から熱心に話を聞く中村氏。

「まだ早いけど、試しに食べてみて」。宮本氏から西宇和みかんを手渡される。

八幡浜の市街地からも近い、八協のみかん畑。作業効率を上げるため、舗装道路が縦横に畑を貫く。

訪れるみかん畑の美しさに、中村氏も感心しきり。

八協と八幡浜、日の丸という3つの共選が共同で運営する選果場も視察。

テロワールオブ西宇和・真穴共選生産者各人の熱意から育まれる『西宇和みかん』クオリティ。

訪れたのは、収穫が始まるおよそ2週間前のこと。まだ、糖がしっかり乗っていない時季でしたが、みかんの実はすでに美しいオレンジ色。試食して早速、インスピレーションを得たようです。
「今、食べて感じた酸味は収穫までに和らいでいくんですか?」
「そうですね、もう2週間もすれば、酸は下がっていきます。下がった分、今度は糖度が上がってくる。生果で食べて美味しいのは糖度で12、酸が0.9とか、0.8ぐらい。今は多分、もっと酸度があって1.1とか、1.2はあると思います」宮本氏が答えます。

「なるほど。皮ごと実をシロップ漬けにするなら、酸味がある程度、あった方がきっと美味しくなりますね。小さい実だと、コロッと丸くて、かわいく見えるから、なお良い(笑)」

まだ漠然とかもしれませんが、中村氏の頭の中で完成予想図が描かれ始めているよう。
続いて訪ねた、八協共選に所属する生産者の畑は、八幡浜駅の北側にそびえる、山の頂上付近にありました。
作業効率をアップするため、ここでは縦横に白く舗装された小道が巡らされています。木の下には土全体を覆うように、マルチシートが敷き詰められていました。真穴でも見られた、あのシートです。
「キレイですね」

美しく整地された八協の畑を見渡して、やはり溜息が漏れました。
今日はよく晴れていて、地面から照り返す陽光は眩しいほど。

「これまで、食材の産地に行くといったら一カ所というのが普通でした。けど、今回は同じ『西宇和みかん』でも、いろいろな畑が見られて面白いです」

真穴、八協と、畑はいろいろな場所に点在していますが、育った実は最新設備を導入した選果場で出荷前に、サイズはもちろん、糖度や酸度なども厳正にチェック。その結果、『西宇和みかん』という、高いクオリティを誇る、ひとつのブランドになる。八協の選果場を訪れた中村氏は、その事実も体感しました。

川上で『西宇和みかん』を育てる三木長光氏。「この辺は海抜にしたら、120〜30mあって、夕方になっても、日がずっと残るんよ」

川上でも『西宇和みかん』を試食。「たわわに実っていて、見るからに美味しそう」。出荷前だが、「もう十分に美味しいです(笑)」

テロワールオブ西宇和・真穴共選難しいからこそ挑戦したい。気鋭のパティシエールが抱く決意。

『西宇和みかん』の産地を巡って。

最後は、石垣も多く見られる川上共選の畑。作業をしていた生産者のひとり、三木長光氏に、「食べてみる?」と突然、1個のみかんを渡され、自然と笑顔になります。
「いい香りがしますね、特に皮」
そう言って、ひと房、口に運びました。
「あ。本当に美味しいです」
「鳥も狙っとるぐらいやからの」と笑う三木氏。
「これだけ美味しかったら、鳥も食べたくなりますよね」
こうした生産者との触れ合いこそ、求めていたもの。

「食材に対する愛着が沸きます」
そう言って、今度は真顔になって、語り始めました。
「温州みかんって、そのまま食べて美味しい、素朴で優しい味わいだからデザートに仕立てるって、スゴく難しいんです。それに『温州みかんでデザートコース、やります』と言われても、きっと、多くの方がピンと来ないと思う」

けれど、やってみたいと思う。そこにはパティシエールとして、これまで、様々なことにチャレンジしてきた、中村氏の気概がありました。
「何事も、やってみないとわからないじゃないですか。できません、で終わっていたら、何も生まれません。挑戦することで、自分の中にある引き出しも増えるだろうし、こうして、いろんな人との出逢いもある。長い目で見れば、きっと自分にとってもプラスになると思っています。それでお客様に喜んでもらえたら、もっとうれしいし、『西宇和みかん』を知ってもらういい機会にもなる」

「形がかわいくて大きい。お店に飾りたくなります」。西宇和特産の富士柿を手に、どう使おうか思案。

『脇水養蜂園』の脇水將文氏からレクチャーを受ける。「蜂蜜は元々、好きで、今回も使いたかった食材のひとつ」と中村氏。

西予市白川町で出合ったシナモンの一種、ニッケ。浦田嘉幸氏と安恵氏ご夫婦が木肌を採取し、乾燥させて作る。

『梅美人酒造』の上田英樹社長と。同社が手掛ける河内晩柑のリキュールを試飲して「なんて丸い美味しさ」と感嘆。

西予市『お茶の明芳園』の3代目、兵頭暁彦氏と茶畑で語り合う。「ほうじ茶の良い香りをデザートのどこかで使いたい」

テロワールオブ西宇和・真穴共選『西宇和みかん』に合わせたくなる、同郷の食材たち。

『西宇和みかん』の産地をいろいろと巡り、デザートコース全体のイメージを膨らませていった、今回の旅。
「同じ土地で育ったもの同士は相性が良い」という中村氏の考えから、西宇和みかんに合いそうな、ほかの食材も、西宇和とその周辺で探していきました。

「同系色の食材同士も、味の方向性が似る場合が多い」ということで、まず目を付けたのは、西宇和でやはり特産のひとつに数えられるオレンジ色の富士柿。
「ソルベにして合わせようかな?」
それ以外では、佐田岬半島の花々から採取される蜂蜜、西予市で木肌を剥いて作られる自家製のニッケ(シナモンの仲間)、八幡浜市で100年を越す歴史がある『梅美人酒造』のお酒、それから、宇和茶として出荷される西予のお茶。いろいろな食材との出合いは確かに、中村氏に数々のインスピレーションを与えたようです。
「『西宇和みかん』のいろいろな表情を引き出したい」
そう言って、中村氏の顔はまた一段と引き締まりました。

内子町で育てられる人参芋。現地では干し芋にするのが一般的。『東山』の名で知られる。

人参芋の畑は標高500mの高地に。「どうしてこんな高くに?」と驚く中村氏に「たまたまです」と笑顔で答える生産者の吉田豊氏。

テロワールオブ西宇和・真穴共選限定の西宇和みかんデザートはいよいよ本日から提供開始。

最後に訪れたのは、少し足を伸ばして内子町。愛媛の内陸にある、この町では幻ともいわれる人参芋が栽培されています。栽培する吉田豊氏から焼き芋の試食を促されます。

「甘い。初めて食べました。こんなん東京で見たことないです。ムチャクチャ黄色いから、タルトにしても良さそう」
豊氏のお母さまから、「畑の場所を毎年、変えて、土地を休ませながら人参芋を育てています。そうすれば、肥料をやらなくても美味しい人参芋ができる」
可能な限り、自然と寄り添い、自然の力を引き出す、その姿勢に、中村樹里子氏は「まさに、ヴァン・ナチュールの発想ですね」と、感慨深げに頷きました。

旅を終えて満足そうな中村氏の表情を見ていると、期待は高まるばかり。
西宇和というテロワールが育んだ『西宇和みかん』のデザートコースは、全6皿が予定されていますが、一体、どんなデザートが登場するのでしょう?

予約はすでに始まっています。
期間はわずか12日間(!)と短く、一日で受付けられる数も限られていますから、急がないと、すぐに満席になってしまう可能性も。

「Kiriko Nakamura による西宇和みかんのデザートコース」詳細・予約はこちら

目黒『kabi.』で復活する伝説の『KIRIKO NAKAMURA』。
この機会を逃したら、もう二度と、
『西宇和みかん』のデザートコースは、味わうことができません。


(supported by JAにしうわ

土地の空気を肌で感じ、デザートのイメージを膨らませていく中村氏。

住所:愛媛県八幡浜市真網代丙572-1 MAP
電話:0894-29-7014
真穴共選 HP:http://www.marumamikan.com/

大阪出身。関西の洋菓子店などを経て、29歳で単独渡仏。パリではシェフパティシエとして「L’Instant d’Or(ランスタン・ドール)」を1年でミシュラン1ツ星に導いた。帰国後は、東京・白金台の『TIRPSE (ティルプス)』に参加。軽やかでいて深みのあるデザートの味わいには国内外からの評価も高い。2015年7月8日より『TIRPSE』のランチタイムを1年間限定で『KIRIKO NAKAMURA』とし、6品の季節感あふれるデザートだけのコースを企画。
今回、目黒Restaurant『Kabi』にて、KIRIKO NAKAMURAデザートコースを2週間限定で復活させる。

生もよし、加工品もよし。豊かな海で育った海藻こそが、赤ウニの旨みを決定づける![Fisherman’s Wharf SHIMONOSEKI・赤ウニ/山口県下関市]

フィッシャーマンズワーフ 下関・赤ウニOVERVIEW

ウニと言えば北海道や三陸……。

漠然と、そんな北の海を連想する人にこそ、ぜひ味わって欲しいのが下関のウニ!

実は下関、日本を代表するウニの産地であり、そのクオリティは国内屈指。主に夏場に獲れる赤ウニは、ほかでは味わえない魅力にあふれていると言います。

同じ種類でも食べるものによって大きくその味わいを変えるのがウニ。例えば、北海道で肉厚の昆布を食べて育ち、厳しい寒さの中で栄養を蓄えるウニは、濃厚と評されますが、対象的に下関の場合は繊細かつシルキーな旨みと食感という言葉で表されます。理由は3つの海に面した下関ならではの立地。関門海峡、日本海、瀬戸内海と3つの異なる海が交わることで海藻が豊富に育つのです。ミネラル豊富な良質な海藻を食べて育った赤ウニは、口の中に入れた途端、まさに淡雪のように溶けていき、後には口の中に上品な旨みがゆっくり広がっていくのです。

さらには、瓶詰めウニ発祥の地も下関。古くから地元で愛されてきた、ウニという食材は、生もよし、加工品もよし、今なお下関市民の胃袋を支える、極上の海産物なのです。

▶詳細は、FIsherman's Wharf SHIMONOSEKI メインページ/豊かさの再発見。改めて知る海峡の街・下関へ。


(supported by 下関市)

【NEW】映えスポット完成!

 

 

 

 

 

 

 

 

こんにちはパンダ

 

皆様いかがお過ごしでしょうか??

最近は日中でもマフラーが欠かせないほど

寒くなってきましたね/無念

皆様体調管理には気をつけましょうビックリ!!

 

 

 

 

さて

 

最近インスタグラムやTwitterなどSNSが凄く流行っていて

嬉しいことにデニムストリートに来てくださった

お客様がSNSに上げてくださったり

人気のテイク商品や

キャラ工房にいるクマのぬいぐるみと写真を撮って

上げてくださったりしておりますにこにこ嬉しみ

 

 

 

 

そ  こ  で  !

 

 

デニムストリートはまた新たに

映えスポットを作成いたしました!

 

 

 

 

 

じゃじゃーん

 

 

 

 

 

 

(テイク横の壁面)

 

 

 

デニムストリートで大人気の

デニムマンやデニムバーガー等と一緒に

撮るのがオススメです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(雑貨館とレディース館の間)

 

 

下にデニムのソファがあるので

デニムソファも一緒に、座って撮るのがオススメ!

 

 

 

 

 

 

 

 

(レディース館前)

 

 

デニムの薔薇で作ったハートの前で

写真を撮るのがオススメ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実はこれ・・・

 

 

 

全てスタッフの手作業で作りました!!

(みんなでがんばったぞービックリ!!)

 

 

 

すでにSNSでお客様が

あげてくださっており嬉しい限りです--ハート

 

 

映えスポット間違いなし!!!

老若男女問わず撮ってくださってますにこにこ

 

 

 

 

 

倉敷に遊びに来られた際は

ぜひデニムストリートに足を運んでいただき

記念に写真を撮ってみてくださいね!

 

 

 

 

 

お客様にとって良い思い出になるよう願って

スタッフ一同お待ちしておりますパンダ--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名だたるブランド牛を生み出す、生みの親。[江藤ファーム/大分県竹田市]

宮崎や鹿児島など九州各地へ出荷され、その地のブランド牛として肥育される。

江藤ファーム和牛人気を支える畜産農家。

今、世界中で注目を集めている「和牛」。1991年の牛肉輸入の自由化により、オーストラリアやニュージーランド、アメリカなどから安価な牛肉が入って以降、日本では和牛の品質改良を促進。全国各地で多くの銘柄牛が誕生しました。美しいサシや赤身と脂身との絶妙なバランスを保つ和牛は日本食ブームの後押しも受けて、世界中でニーズが高まっているのです。

今回紹介するのは、竹田市の久住町でブランド牛の“素”となる子牛を育てる畜産農家。地元へUターンし、実家の畜産業を手伝う江藤圭介氏。100頭の大規模飼育に向けて奮闘する、彼の牛舎を訪ねてみました。


▶詳細は、TAKETA TIMES メインページ/高原野菜に名湯、秘湯。知られざる魅力が満載の、名水の里。へ。

大学卒業後は社会勉強のため東京で印刷会社の営業をしていたという江藤氏。

江藤氏の牛舎。通りから外れた静かな地にある。

江藤ファーム夢あるベビーシッター。

一言に畜産農家とはいえ、その種類は大きく2つに分かれます。雌牛に子を産ませ、子牛を育てる繁殖農家、そして立派な大人にまで育て、肉牛として出荷する肥育農家。牛飼いの世界では「生みの親」と「育ての親」が別れているのです。

竹田市久住町は、壮大な高原地帯が広がる地域。牛舎の敷地が広く取れるほかに、久住町が数多くの牧場を有していることも「生みの親」となる繁殖業が盛んになった所以です。広大な牧場では放牧をすることができ、自由にのびのびと過ごすことで牛たちはストレスを解消。病気にかかりにくく、たくましい牛に育ちます。また母牛たちを放牧している間に牛飼いたちは、子牛のお世話に注力することができるのです。一頭一頭丁寧なケアをしてあげることができるため、久住町では品質の高い子牛たちが育つようになりました。

江藤氏の実家でも人工授精士の父が黒毛和牛の繁殖農家をスタート。その跡を継ぐため、江藤氏は10年ほど前に東京からUターンし牛飼いを始めました。市場では子牛が1頭80万〜100万にもなるという夢のある産業。立派な牛に育てるためには、子育てと同様に細やかな気配りが大事なのです。

甘えてすり寄ってくる子牛。広々とした畜舎ですくすく育つ。

牛舎の裏手にある運動場。放牧ができると、餌やりや排泄などの世話が不要になるため、赤ちゃん牛の子育てに注力できるという。

江藤ファーム大きく強く育てるために。

母牛が30頭、子牛が20頭、50頭の牛たちがのびのびと暮らす江藤氏の牛舎。母牛たちは年に1頭を出産し、年間約30頭の子牛が市場に出ています。生まれた子牛を市場に出すまでに掛かるのは280日。その期間、牛たちが病気をしないように丁寧に丁寧に育てています。

「市場に出すときには330キロあるのが理想と言われています。だから1日に1キロ以上太らせないと育成失敗になるんですよね。太らせるために一番大事なのは、風邪を引かせないこと。だけど黒毛和牛は体温調節が苦手なんですよ。寒暖差の大きい久住では管理が大変で。風邪をひいて肺炎になると治らないですし、お腹を下すと背も伸びない。大きく育たせるために、一頭一頭毎日体調を見てあげるのが大事なんです」。

江藤氏の畜舎では、生まれてから2〜3日で母牛の元から離すといいます。その哺乳の段階が一番体調を崩しやすくなる時期。人間の赤ちゃんと同じように、気を張ってお世話を続けることで、病気をしない健康な牛が育つのです。

8月には7頭もの子牛が誕生したという江藤氏の畜舎。

背中が広くて、お腹が程よく膨らみ、骨太の足をもつ牛が市場で人気が高いのだという。

江藤ファーム手間を減らし、価値を上げる。

元気な子どもを産むために、母牛の管理も農家にとっては重要な仕事です。久住の高原で放牧をしたり、畜舎に併設されている放牧場で散歩をさせたり。牛たちのストレスを軽減してあげる他にも、江藤氏は様々な取り組みを始めました。

「父がやってきた手法を受け継ぎながらも、もっと良い牛を生んで育てるために自分なりの育て方に挑戦してみたいと思っていました。それを父に提案すると“いいぞ、やってみろ”って。だから今は何が一番良いのか色々試しながら、改良に取り組んでいます」。

江藤氏がはじめに取り組んだのは、餌の改善でした。長いままあげていた牧草を子牛でも食べやすいように細かくカットし、目分量だった餌を正確に計測。数値化してデータに残すようにしました。また濃厚飼料と牧草の分量を変えてみたり、野草や季節ものの草をブレンドしてみたり。さらに牛を温度センサーで監視し、分娩の時期を正確に把握できるシステムや監視カメラを導入。牛を健康に育てると同時に、人間の働き方改革にも試行錯誤をしながらチャレンジを続けています。

江藤氏には大きな目標があります。それが飼育頭数の拡大です。

「100頭飼育というのは大きな目標ですね。まずはちょっとずつ増やしていきたいですね。80頭くらい飼えるようになれば肥育も一部始めてみたいとも思っています」。牛飼いの世界では100頭飼育というのはかなりのチャレンジだと言います。質を落とさず量を増やすために、今後も改良を続けていきたいと江藤氏は情熱を燃やします。

2017年には和牛のオリンピックとして知られる「全国和牛能力共進会」の種牛部門で日本一を獲得した牛もおり、新規就農者も増えているという久住の牛飼い。盛り上がりを見せる畜産業のなかでどれだけ価値の高い牛を育てることができるか、江藤氏の挑戦は続きます。

母牛の発情のタイミングを見極めるのも大事なポイントなのだという。

牛は人工授精で妊娠する。雄の種牛は大分県畜産試験場で管理されている。

@adidasfun

ブラジルでは、「サロンフットボール」と呼ばれていた時代より、サッカー以上に身近なスポーツとして普及していた。そのためフットサルへのルール変更も、比較的スムーズに行われた。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

@adidasfun

ブラジルでは、「サロンフットボール」と呼ばれていた時代より、サッカー以上に身近なスポーツとして普及していた。そのためフットサルへのルール変更も、比較的スムーズに行われた。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

@adidasfun

フリーキックが行なわれたのち、ゴールキーパーが触れるか、クロスバー・ゴールポストに当たるか、ボールがピッチ外へ出るまで、他のプレーヤーはボールに触ることができない。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

リーフ柄 印台リング(小)

アイアン初の印台リング!

  • アイアンハートのシルバー製品ではお馴染みDEAR BLOSSOM松井氏による肉厚な印台リングです
  • 表面中央の台座にはシンプルなリーフ柄デザインをあしらっています
  • 裏面にはシルバーとアイアンハートの刻印が入ります
  • 程良い厚みと手に馴染みやすい形でストレスの少ない使い心地です
  • バイクに乗る時や普段使いまで幅広く使えるデザインです
  • サイズ展開は#8~#16号までで主に女性向けの設定です
  • 男性の場合はピンキーリングとしてもオススメです
  • 男性向けサイズ展開は【 IHSI-23 】リーフ柄印台リング(大)を用意しています
  • 素材はシルバー925を使用しています
  • ※力を入れすぎると折れる可能性がありますのでご注意ください

サイズスペック

  内径 内周
8号 15.4mm 48.2mm
10号 16mm 50.3mm
12号 16.7mm 52.4mm
14号 17.4mm 54.5mm
16号 18mm 56.6mm

素材

  • シルバー925

リーフ柄 印台リング(大)

アイアン初の印台リング!

  • アイアンハートのシルバー製品ではお馴染みDEAR BLOSSOM松井氏による肉厚な印台リングです
  • 表面中央の台座にアイアンハート(IH)のロゴをリーフ柄で囲ったデザインをあしらっています
  • 裏面にはシルバーとアイアンハートの刻印が入ります
  • 程良い厚みと手に馴染みやすい形でストレスの少ない使い心地です
  • バイクに乗る時や普段使いまで幅広く使えるデザインです
  • サイズ展開は#16~#24号までで主に男性向けの設定です
  • 女性向けサイズ展開は【 IHSI-24 】ベル柄印台リング(小)を用意しています
  • 素材はシルバー925を使用しています
  • ※力を入れすぎると折れる可能性がありますのでご注意ください

サイズスペック

  内径 内周
16号 18mm 56.6mm
18号 18.7mm 58.6mm
20号 19.4mm 60.7mm
22号 20.0mm 62.8mm
24号 20.7mm 64.9mm

素材

シルバー925

ベル柄 メタルチャーム

用途は無限大のメタルチャーム!

  • アイアンハートのシルバー製品ではお馴染みDEAR BLOSSOM松井氏による小ぶりなメタルチャームです
  • アイアンハート定番のベル柄をシンプルにデザインしたシルバー925製チャーム
  • 直径は8mmと小ぶりなのでネックレスのトップ使いであれば上品に1つ付けや、アクセントとして【 IHSI-09 】シルバーフェザートップとの重ね付けもオススメです
  • ジャケットやバッグのジップ部分やキーホルダーとしてもお使い頂けます
  • 素材はシルバー925を使用しています
  • ※力を入れすぎると折れる可能性がありますのでご注意ください

リーフ柄 メタルチャーム

用途は無限大のメタルチャーム!

  • アイアンハートのシルバー製品ではお馴染みDEAR BLOSSOM松井氏による小ぶりなメタルチャームです
  • アイアンハート(IH)のロゴをリーフ柄で囲ったデザインのシルバー925製チャーム
  • 直径は8mmと小ぶりなのでネックレスのトップ使いであれば上品に1つ付けや、アクセントとして【 IHSI-09 】シルバーフェザートップとの重ね付けもオススメです
  • ジャケットやバッグのジップ部分やキーホルダーとしてもお使い頂けます
  • 素材はシルバー925を使用しています
  • ※力を入れすぎると折れる可能性がありますのでご注意ください

畑の真ん中で生まれる「農家のシードル」。津軽のりんご事情を動かし始めた、小さな工房の物語。[TSUGARU Le Bon Marché・弘前シードル工房 kimori/青森県弘前市]

訪れたのは、たわわに実ったりんごが色づき始めた季節。「kimori」の運営元である「百姓堂本舗」の自社畑で、作業を進める高橋氏。

津軽ボンマルシェ・弘前シードル工房 キモリりんご畑に囲まれた三角屋根の小屋から、そのシードルは生まれる。

泣く子も黙るりんごの名産地、青森県・津軽地方。生産量は実に全国の約6割を占め、郊外には広大なりんご畑が。時期ともなれば、青果店の店頭は宝石のように輝くりんごで埋め尽くされます。そんな津軽のりんご文化を満喫すべく観光客が向かうのが、弘前市内にの「りんご公園」。りんご畑に囲まれたその公園の一角に、目指す「弘前シードル工房kimori」があります。

「kimori」が誕生したのは、2014年のこと。現在全国に増えているマイクロシードルブリュワリーの、ちょうど先駆けのように誕生した「kimori」のシードルは、りんごそのものの風味を活かしたフレッシュな味わいで、一躍注目の的となりました。生産量は決して多くないものの、今や都内のレストランやバーでもひっぱりだこ。そして、すっかり弘前の人気スポットとなったのがこの工房なのです。

建物の設計は弘前出身の若手建築家が担当。三角屋根のかわいらしい雰囲気ですが、ふと壁を見ると、何やら古めかしいモノクロの人物写真が飾られています。
「写真の2人は、りんご産業の礎を築いた菊池楯衛と外崎嘉七です」と教えてくれたのは、「kimori」の代表を務める高橋哲史氏。「りんごは本来、乾燥地を好む作物。雨も雪も降る津軽の気候はりんご栽培に向くとはいえない。でも明治初期に菊池さんが色々な西洋果樹を植樹して、たまたま生き残ったのがりんごでした。そしてこれが、津軽のりんご栽培を象徴する光景です」。氏がそういって指し示したのは、りんごの樹を剪定するひとりの男性と、それを取り囲む人々のモノクロ写真。「気候のハンデを技術でカバーしなければならない。その時彼らがやったのは、こうして剪定を公開、指導して、人の教育をすることでした。彼らが決して富を独占せず、人作りを頑張ったからこそ、今の津軽があるんです」。

▶詳しくは、TSUGARU Le Bon Marché メインページ/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!へ。

工房の建物は、弘前市出身の若手建築家・蟻塚学氏が設計。春から夏は、緑の中に浮かび上がる白い三角屋根が目印だ。

「りんご作りは人作り。津軽には昔から、新参者でも技術を得られる風土がありました」。壁のモノクロ写真を前に、話が止まらない高橋氏。

りんごの剪定会の古い写真。冬の剪定作業は、春夏の樹形を頭の中で計算しながら行われる、りんご栽培でもっとも重要視される工程。

津軽ボンマルシェ・弘前シードル工房 キモリ「りんごなんて」と思っていた農家の息子が、りんごにハマった理由。

シードルの話を聞きに来たのに高橋氏が話すのはりんご栽培のことばかり。その訳は、彼の出自にあります。高橋さんは幕末から代々続くりんご農家の息子。しかし「若い頃は映像の仕事がしたくて東京で進学し、そのまま就職。家業に責任感もなく、りんごが送られてくれば食べ切れず捨てていました」と高橋氏。その後、母親の病気をきっかけに帰省しますが、「ガンで、余命半年と宣告されて。でも母は痛みに耐えながら、ずっとりんごの樹を心配している。それが理解できませんでした」。

母親を安心させたい一心で家業を継ぐことを決めた高橋氏でしたが、当初は後悔ばかり。「分かったつもりだったりんごの剪定も大失敗。芽が伸びすぎたり、枝が死んでしまったり、もうめちゃくちゃ」。転機は5年後、多くのりんごの木の中で1本だけ、「これはいいぞ」と思える剪定ができた冬。「そうすると毎日その木が気になって仕方なくて。そこで、ようやく母の気持ちが分かったんです。りんごの木にも『こうして切ってほしい』と意思があって、それと向き合わなくちゃいけない。ガチャリとスイッチが入った瞬間でした」。

やっとりんご栽培のおもしろさに開眼した高橋氏。が、すぐに日本の農業が抱える問題に直面します。当時の津軽のりんご農家のうち、後継者がいるのが2割、後継者を探しているのが3割、後継者探しをあきらめ、自分の代でやめる農家が5割で、平均年齢は60歳くらい。「ほどなく津軽のりんご産業が廃れていくと焦りました。それに合コンでも、りんご農家だと自己紹介するとすっと引かれる(笑)。こんなにすごい職業なのに、後継者はいないし地位も低い。状況を変えるには、まずはみんなにりんご畑へ来てもらうべきだと考えました」。ようやく、ここでシードルの話が登場することになります。

工房内の貯蔵庫は、自社畑や近隣農家から届いたりんごの香りでいっぱい。色やサイズにより規格外となったりんごでシードルを造る。

この日は果汁の圧搾作業中。奥には醸造タンクが並ぶ。こうした仕込みの風景は、ガラス越しに見学可能だ。

現在の商品ラインナップは、定番の「ドライ」と「スイート」、秋限定の「ハーベスト」と春限定の「グリーン」の4種。オンライン販売も。

津軽ボンマルシェ・弘前シードル工房 キモリ目指すのは「美味しいシードル”より“みんなに愛されるシードル」。

「人が集まる場所には、お酒もあるといい」。高橋氏がシードル造りを思いついたのはそんな理由だったそうですが、時を同じくして津軽は未曽有の雹(ひょう)害に襲われます。「多くの農家が被害に合い、収入が激減しました。そんなときりんごで造る副産物があれば、代わりの収入源になる。シードルは農家のメリットにもなるんです」。当時はまだ“シードル”という言葉もさほど知られていない頃。無理だといわれながらも同世代のりんご農家に声を掛け続け、同業者22人でスタートをきったのが「kimori」でした。「モデルケースも、お金もない。でも根拠なき自信と運だけはあって、企業化の翌年に工房が着工、その翌年にはオープンを迎えられました」。

「kimori」のシードルは、「りんご農家が造るシードル」。ひと口飲めば、りんご本来の香りと味わいが大切に表現されていることが伝わってきます。そして特筆すべきは、日々の食卓にもするりと馴染むバランスのよさ。おしゃれなフレンチと合わせて気取るより、家でお惣菜と合わせて楽しみたいと伝えると、「だって昔は、りんご農家が作業の合間にコップで飲むお酒だったんですから。高級ではない、日常のものなんですよ」としたり顔の高橋氏。

弘前大学が培養する白神山地のブナ原生林から採取された酵母を使うのも、地元ならでは。作業風景をガラス越しに眺められる工房内には、りんごの木箱を利用した家具や地元の工芸作家の作品が置かれ、観光客を喜ばせています。「シードルだけ売るならこんなスペースはいらない。『kimori』は美味しいものというより、みんなに愛されるものであってほしいんです」。

「経営を勉強したわけじゃないし、いまだに思いつきで行動することも多い(笑)。悩むより『やってみたい』が勝つんです」と高橋氏。

「りんご公園」内の工房や自社畑は、名峰・岩木山を望む。津軽富士とりんご畑という、津軽を代表する景観を楽しめる絶好のロケーション。

人工的に炭酸を充填することはせず、無濾過のままのシードル。オリの味わいにも、りんご本来のほろ苦さが感じられる。

津軽ボンマルシェ・弘前シードル工房 キモリシードルのその先へ。先達に導かれながら、次の世代へ繋いでいく。

オープンから丸4年経った現在、シードルの出荷量は当初の倍の約2万本に。順調にも思えますが、今後生産量を増やすつもりはないと高橋氏。なぜなら、あくまでシードルは津軽のりんごに興味を持ってもらうための手段だから。今、氏が力を注ぐのは後進の育成です。「シードルを通じ、りんご栽培に興味を持ってくれる若い人が現れるようになった。でも後継者のいない農家に紹介したくても、技術がなければ意味がないんです」。この春から、担い手がいなくなったりんご畑を借り、4名の若手に栽培技術を指導。ゆくゆくは後継者問題に悩む農家など、働く場所も繋いでいく予定だそう。
                                                                                                               
りんご畑で、若者たちを前に作業をする高橋氏。その姿には、津軽のりんご産業の礎を築いた、モノクロ写真の先達たちが重なります。「津軽って不思議な場所ですよ。りんごを中心に、農家がいて、りんごの剪定鋏やりんご用木箱、かごを作る職人がいて……たったひとつのものが、これほどまでに地域と関わっている場所は他にありません。だからこそ、先達の存在は大きい。常に彼らの存在を感じるんです」。

工房名の「kimori」は、古来から伝わる風習「木守」から名付けられました。木守とは実りへの感謝を込め、高い枝にひとつだけりんごの果実を残す習わしのこと。真っ白な雪に閉ざされた津軽の冬、樹上にぽつりと灯る深紅の色は、神々しい美しさに満ちています。「kimori」のプロジェクトがスタートして10年。シードルから始まった計画がゆっくりと、でも着実にりんご産業を変えつつある今、ここは木守のりんごのように、津軽を照らす場所となったのです。


(supported by 東日本旅客鉄道株式会社

畑で若手の指導にあたる高橋氏。「シードル同様、津軽のりんご栽培を活性化させる切り口はたくさんあるはず」と新たな挑戦にも意欲を燃やす。

住所:〒036-8254 弘前市大字清水富田字寺沢52-3(弘前市りんご公園内)MAP
電話:0172-88-8936
弘前シードル工房 kimori HPhttp://kimori-shop.com/

ベル柄 槌目バングル(8mm)

細身ながらも存在感のあるNewシルバーバングル

  • アイアンハートのシルバー製品ではお馴染みDEAR BLOSSOM松井氏による肉厚なシルバーバングルです
  • 表中央にはシンプルなベル柄をあしらい、他全体は槌目(つちめ)という叩き出しのようなボコボコとした加工を施しています
  • 裏面にはシルバーとアイアンハートの刻印が入ります
  • 幅は8mmと細めなので女性の方でも気軽に使えるサイズ感です
  • 程よい太さで存在感のあるデザインの為1本付けはもちろん、時計や△バングル【 IHSI-10 】との重ね付けもオススメです
  • 腕廻りは14cmと△バングル等よりはひと廻り小さいです。通常のバングルでは大きいという女性の方に特にオススメです
  • 素材はシルバー925を使用しています
  • ※力を入れすぎると折れる可能性がありますのでご注意ください

素材

  • シルバー925

リーフ柄 プレーンバングル(8mm)

シンプルデザインのNewシルバーバングル

  • アイアンハートのシルバー製品ではお馴染みDEAR BLOSSOM松井氏による肉厚なシルバーバングルです
  • 表中央にはアイアンハート(IH)のロゴをリーフ柄で囲ったデザインをあしらっています
  • 裏面にはシルバーとアイアンハートの刻印が入ります
  • 幅は8mmと細めなので女性の方でも気軽に使えるサイズ感です
  • シンプルなデザインの為、時計や△バングル【 IHSI-10 】との重ね付けもオススメです
  • 腕廻りは14cmと△バングル等よりはひと廻り小さいです。通常のバングルでは大きいという女性の方に特にオススメです
  • 素材はシルバー925を使用しています
  • ※力を入れすぎると折れる可能性がありますのでご注意ください

素材

  • シルバー925

リーフ柄 槌目バングル(12mm)

武骨なデザインのNewシルバーバングル

  • アイアンハートのシルバー製品ではお馴染みDEAR BLOSSOM松井氏による肉厚なシルバーバングルです
  • 表中央にはアイアンハート(IH)のロゴをリーフ柄で囲ったデザインをあしらい、他全体は槌目(つちめ)という叩き出しのようなボコボコとした加工を施しています
  • 男らしく武骨ながらも華美になり過ぎない大人な使用です
  • 裏面にはシルバーとアイアンハートの刻印が入ります
  • 幅は12mmなので1本でつけるも良し、時計や△バングル【 IHSI-10 】との重ね付けもオススメです
  • 腕廻りは15cmと△バングルと同じ長さです
  • 素材はシルバー925を使用しています
  • ※力を入れすぎると折れる可能性がありますのでご注意ください

素材

  • シルバー925

ベル柄 プレーンバングル(12mm)

シンプルデザインのNewシルバーバングル

  • アイアンハートのシルバー製品ではお馴染みDEAR BLOSSOM松井氏による肉厚なシルバーバングルです
  • 表にはシンプルなベル柄のみをあしらっています
  • 裏面にはシルバーとアイアンハートの刻印が入ります
  • 幅は12mmなので1本でつけるも良し、時計や△バングル【 IHSI-10 】との重ね付けもオススメです
  • 腕廻りは15cmと△バングルと同じ長さです
  • 素材はシルバー925を使用しています
  • ※力を入れすぎると折れる可能性がありますのでご注意ください

素材

  • シルバー925

薩摩切子の歴史と技法を守りつつ、新たな価値の創造に挑む。[美の匠 ガラス工房 弟子丸/鹿児島県霧島市]

『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を率いる弟子丸氏。

美の匠 ガラス工房 弟子丸

鹿児島県の中央部に位置する霧島市。霧島連山を筆頭に、豊かな自然に包まれたこの地に拠点を置くのが、弟子丸努氏率いる『美の匠 ガラス工房 弟子丸』です。伝統工芸品である薩摩切子の技術を継承しつつ、新たな価値の創造にも取り組む同社。前編では、代表兼切子師の弟子丸氏に、『美の匠 ガラス工房 弟子丸』の伝統的かつ革新的なものづくりについて伺いました。

類まれな煌めきで多くの人々を魅了する薩摩切子。

美の匠 ガラス工房 弟子丸わずか20余年で幻となった薩摩切子を、100年後の職人たちが復元。

2011年、鹿児島県霧島市に設立された『美の匠 ガラス工房 弟子丸』。ここでは、鹿児島県が誇る伝統工芸品、薩摩切子のグラスや器などを製造しています。

薩摩切子とは、欧米諸国が日本に開国、通商を迫っていた1851年、28代薩摩藩主に就任した島津斉彬氏の指示により、海外交易品として開発されたもの。イギリス、ボヘミア、中国などのガラス工芸に源流を求めながらも、美しい色使いや繊細なカットでそれらを凌駕、日本の美として称賛されたと言われています。薩摩藩でのガラス製造は1846年、27代島津斉興によって始められましたが、当初は薬品を入れるためのガラス瓶などを製造。海外進出を夢見た斉彬氏の時代に、芸術的な薩摩切子として飛躍的な発展を遂げたのです。

しかし、誕生からわずか7年後の1858年、斉彬氏の急逝による財政整理のため、薩摩切子の事業規模は縮小。さらに1863年の薩英戦争で製造工場が大打撃を受けたこともあり、存続は厳しく、ついに1877年の西南戦争前後には完全に途絶えてしまいました。

このまま幻となるかに思われた薩摩切子ですが、約100年後の1985年、その歴史を再興させるプロジェクトが始動。当時の写真や文献とわずかに現存していた実物を参考に、ガラス職人たちが試行錯誤を繰り返しました。そうして見事復元されたことで、今日の薩摩切子があるのです。復元作業には、当時高校を卒業したばかりだった弟子丸氏もメンバーの一員として参加。切子師としてのキャリアは、ここからスタートしています。

現代に蘇った、鹿児島が世界に誇るガラス工芸。

この道30余年の切子師として活躍する弟子丸氏。

美の匠 ガラス工房 弟子丸鮮やかな色ガラスをベースに、幻想的な「ぼかし」と多彩な文様で魅せる。

薩摩切子の最大の特徴は、「ぼかし」と呼ばれるグラデーション。透明なガラスの外側に1~3mmほどの厚い色ガラスを被せた生地を用いる薩摩切子は、深くカットした部分は淡い色味、浅くカットした部分は濃い色味になります。「こうした深さや角度など削り加減を絶妙に調整することで色の濃淡を操り、薩摩切子特有のグラデーションを生み出すのです」と弟子丸氏。

例えば、江戸切子と比べてみると、その差は一目瞭然。江戸切子は元々の生地の厚みが薄いため、仕上がりの色味や重さも薄く軽く、全体的に透明感がありシャープな印象。対して薩摩切子は重厚感たっぷりで、色ガラス層を完全にカットした透明部分から、深くカットした淡い部分、浅くカットした濃い部分、全くカットせずに完全に残した部分まで、美しいグラデーションを描いています。

弟子丸氏曰く、「薄手の江戸切子が表面を削って文様を描いているようなイメージだとすると、厚手の薩摩切子は周りを削って、文様を浮き彫りにしているような感覚。同じ切子でも、全然アプローチが違います」。
また、ベースとなる色が豊富なのも、薩摩切子の魅力。紅、藍、紫、緑、金赤、黄と、鮮やかな6色が揃います。いずれも、斉彬氏の時代になされた、鉱物を原料とする着色ガラスの研究によって生み出された色味。中でも紅色は、当時の日本で初めて発色に成功した色味で、「薩摩の紅ガラス」として珍重されたと言われています。

さらに2001年には、「二色被せ」と呼ばれる新たな色のバリエーションが誕生。この場合、従来の生地に対して、その外側にもうひとつ、違う色のガラスを被せた三層構造の生地を用いるのです。これまで単色の濃淡で表現されてきた薩摩切子の世界に、新たな色彩の変化が加わりました。

そして、表情豊かな世界を作り上げるのに色と並んで重要なのが、独特の文様。細かい矢来を均等に施した様が魚の鱗や小魚の群れのように見えることから名づけられた「魚子文(ななこもん)」をはじめ、色ガラスを玉状に削り六角形で繋ぎ合わせた様が亀の甲羅のような「亀甲文」、ゆらめく炎のような「流炎文」など、様々な文様があります。

こうした基本となる文様をベースに、「矢来に魚子文」や「八角籠目に十六菊分」、「菱繋に小花文」、「六角籠目に麻ノ葉小紋と魚子紋」など、単一ではなく複数の文様を組み合わせた複合柄が多く見られるのも、薩摩切子の特徴。高いカット技術によるグラデーションと多彩な文様で、奥深い薩摩切子の世界が形成されているのです。

異なる個性を持つ薩摩切子(左)と江戸切子(右)。

「ぼかし」の美しさは、薩摩切子ならでは。

2色の色ガラスを重ねて生み出される「二色被せ」。

様々な文様が施されるのも、薩摩切子の特徴。

美の匠 ガラス工房 弟子丸土地の歴史と自然に敬意を表したオリジナルライン『霧島切子』。

時を超えて伝統的な薩摩切子の技術を受け継ぎ、今に伝える弟子丸氏。その礎を守りながらも、一方で現代における革新的な表現にも挑戦し、新たに3つのブランドラインを立ち上げ注目を集めています。

ひとつ目は、『BLACK LINE』と『CLEAR LINE』から成る薩摩切子の新潮流、『霧島切子』。『BLACK LINE』は、その名の通り黒がベースのグラデーションと大胆なカットから生み出された新たな世界観で、どこか都会的な印象。対して『CLEAR LINE』は完全なる無色透明で、美しく際立つ繊細なカットにより、神々しい煌めきを放ちます。

弟子丸氏曰く、「鹿児島は黒豚や黒酢が特産品であることからも分かる通り、古くから黒の文化が受け継がれている土地。それならば薩摩切子にも黒があったら良いのではないかということで生まれたのが『BLACK LINE』です。黒は透けない色なので“ぼかし”を施すのが難しく、経験と技術が問われます」。

一方の『CLEAR LINE』は、霧島市が誇る自然へのオマージュ。「霧島は昔から、豊かな天然の水で潤ってきた土地。そんな自然の恵、こんこんと流れ出る水の美しさを、無色透明の生地に細やかなカットを施すことで表現しています」。

また、こうも語ります。「『CLEAR LINE』は、色鮮やかな薩摩切子の世界にあって、かつて存在していたとされる無色透明バージョンを甦らせ、独自にアレンジしたものでもあります。一昔前までは、無色透明な薩摩切子の存在は参考資料止まりでした。それが近年の再鑑定により、正式に薩摩切子の一つだと認められたのです」。

独自のアレンジというのは、例えばグラスの周囲に施されている模様。伝統的なトライバルをベースに考案された、オリジナルのモチーフです。さらにこれを、通常の薩摩切子には用いない、砂を吹き付けるサンドブラストの技法で描いている点もポイント。こうして模様部分が乳白色に仕上がることで、全体の質感に新たなニュアンスがもたらされているのです。この模様は『BLACK LINE』にも描かれ、『霧島切子』のアイコンとなっています。

薩摩切子の技法を踏襲しつつも、伝統を重んじる薩摩切子の世界ではなかなかできないような試みを具現化した『霧島切子』。枠に捉われない自由な発想で、新たな薩摩切子の世界を切り拓いているのです。

霧島市を拠点とする弟子丸氏が考案した『霧島切子』。

鹿児島県の黒文化を受け継ぐ『BLACK LINE』。

霧島市の水の透明感を象徴する『CLEAR LINE』。

トライバルと共に頭文字のDも刻まれています。

美の匠 ガラス工房 弟子丸廃材に命を灯す、切子師の心技で生まれたアクセサリー『eco KIRI』。

『美の匠 ガラス工房 弟子丸』オリジナルラインの2つ目は、『eco KIRI(エコキリ)』。薩摩切子の廃材を使ったアクセサリーブランドです。卓越した技術の結晶である薩摩切子の製造工程において、廃材はかなりの割合で必ず出てしまうもの。それらを生かす方法として生み出されました。

「例えば、グラスを100個作るとすると、その過程で50個は不良品となってしまいます。それを、以前はそのまま捨てるしかなかったのですが、あまりにももったいないなと感じていて。何か別のものに再利用して生まれ変わらせたいという想いと、薩摩切子の美しい煌めきを日常的に身につけられたら面白いのではないかという想いで、アクセサリーに仕上げました」と弟子丸氏は話します。

『eco KIRI』は、不良品扱いとなった薩摩切子の生地を、加工しやすいように分割、カット。それを電気炉で加熱形成したパーツをベースに作られます。アイテムは、リングやピアス、ペンダント、ブローチ、ピンなど、十数種類。不揃いな廃材を使うからこそ、同じピアスでも一つひとつ形が異なり、オンリーワンの風合いを醸し出しています。

様々な形や色柄がある『eco KIRI』のリング。

小さなパーツながらも存在感たっぷりなピアス。

可愛らしい桜の花を模ったペンダントも。

3つ目のオリジナルブランド『FUSION(フュージョン)』。

革メーカーとのコラボレーションも展開中。

美の匠 ガラス工房 弟子丸インテリアや雑貨にも薩摩切子を取り入れ、暮らしを華やかに彩る。

そして3つ目のオリジナルブランドが『FUSION』。ステンドグラスに用いる着色ガラスを薩摩切子の技で創り上げ、行燈やランプといった間接照明やアートフレームに仕立てたインテリアブランドです。その煌びやかで幻想的な透過光には、思わずため息が漏れます。

また、最近は他メーカーとのコラボレーションも盛ん。現在は、奄美大島の革細工メーカー『革工房One』が作る財布や名刺入れ、キーホルダーなどに薩摩切子のパーツを施した、オリジナルアイテムを展開しています。奄美大島の伝統技法である泥染めレザーと、鹿児島の伝統工芸である薩摩切子が出合い、唯一無二の魅力を放っているのです。

器という枠を超え、アクセサリーやインテリア、革小物などと薩摩切子の融合を実現している弟子丸氏。現代に見合った斬新な発想で、薩摩切子のある暮らしを提案しています。

次回の後編では、弟子丸氏の経歴や工房の様子、薩摩切子への想いと展望を紹介します。

住所:〒899-4304 鹿児島県霧島市国分清水1-19-27 MAP
電話:0995-73-6522
営業時間:9:30~18:00
定休日:日曜
http://deshimaru.jp/

鹿児島県霧島市出身。1985年に高校を卒業し、薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)へ入社。薩摩切子の復元に携わる。1994年には新たな環境を求め、薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に従事。同社で活躍した後、2011年に『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げた。薩摩切子の継承はもちろん、『霧島切子』や『eco KIRI』、『fusion』などオリジナルブランドも展開。従来の枠に捉われない作品づくりを行い、新しい薩摩切子の可能性を追い続けている。

@adidasfun

スペインでは、フットサルは「フットボル・サラ」と呼ばれており、スペイン代表チームは2000年・2004年のFIFAフットサルワールドカップ、2005年のヨーロッパ選手権などで優勝した。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

100年以上も続く段々畑で、現代的な知見も導入して、高品質の西宇和みかんを育てる。[TERROIR OF NISHIUWA・真穴共選/愛媛県八幡浜市]

真穴地区の西宇和みかん。先日、初競りを迎え今年もしっかりと甘く、酸味も適度にあってバランスの良い美味しさに仕上がった。

テロワールオブ西宇和・真穴共選恵まれた環境で育つ、西宇和みかん。

温州みかんの名産地、愛媛県西宇和では今、「西宇和みかん」のブランディングを押し進めるプロジェクトが始まっています。

その一環として、目黒『kabi.』ではペストリーシェフ・中村樹里子氏が「西宇和みかん」のデザートコースを期間限定で提供します。
「Kiriko Nakamura による西宇和みかんのデザートコース」詳細・予約はこちら

今回はデザートコースの主役である「西宇和みかん」にどんな魅力があるのか?どのように育てられているのか。生産の現場をリポートします。

「西宇和みかん」は、3つの太陽が育むと言われます。

太陽から降り注ぐ日照量の多さは、土地を訪れれば、すぐに実感することですが、海からの照り返しもまた、眩しいほど。これが2つ目の太陽で、3つ目は急な斜面を活用した段々畑にあります。生産者や場所によっては畑の段々を、石垣で組み上げて作るケースもあり、この白い石が反射して3つ目の太陽となるのです。

西宇和にある共選のひとつ、八幡浜市・真穴を訪ねました。
共選とは、共同選果部会の略称。その地区の生産者たちで組織され、収穫した温州みかんの選別と出荷を行う選果場も共同で運営しています。

▶詳細は、TERROIR OF NISHIUWA/特徴的な地形が育む、伝統の西宇和みかんで進む、新たな価値観の創造。へ。

内海で穏やかな宇和海がすぐ西側に迫る立地。海の向こうに、佐田岬半島が見える。

テロワールオブ西宇和・真穴共選西宇和で最も歴史ある温州みかんの名産地。

真穴は、佐田岬半島の付け根に位置する生産地。西側に、すぐ宇和海が迫り、急な斜面とのコントラストはまさに、絶景。

穏やかに凪いで煌めく海の美しさに、思わず見惚れてしまいます。
「そう、あれが佐田岬半島。ずっと向こうに九州が見えるけど、大分ですね」

下から上へ、畑が続く斜面の中腹に、柔らかい笑顔で語る宮本定(さだむ)氏の姿がありました。真穴共選で生産委員長を務めています。
「真穴の生産者は今、174人。全体で、270haほどのみかん畑があります」

真穴に、温州みかんの苗木が移植されたのは明治33年のこと。西宇和で最も古い生産地のひとつです。明治40年以降、栽培は本格化し、一大産地に成長。昭和39年には、その年に農林水産大臣賞を受賞した産物の中から選ばれる天皇杯も、みかんの産地として初めて受賞しています。

海が近く、潮風によって運ばれた豊富なミネラルが斜面全体に届けられる。それが真穴の地形的な特徴。柑橘類の栽培に適した古生層の土壌で、西宇和のほかの地域と同様、急な斜面が続いているため、水はけが良いのも大きなメリットです。現在、年間でおよそ8,000から9,000トンの温州みかんを生産しています。

真穴共選で生産委員長を務める宮本定氏。自身も3代続く生産者として、日々、みかんの木と向き合っている。

低地から頂まで、畑はずっと続いており、海との美しいコントラストを成す。「西宇和みかん」を使ったデザートコースを開発するペストリーシェフ中村樹里子氏も、宮本氏のみかん畑を視察しにきた。

テロワールオブ西宇和・真穴共選みかん栽培に向いた土地に感謝する。

宮本さんも祖父の代から温州みかんを育てる生産者。海抜10mの低地から標高300mぐらいの高さまで、縦一列に「2haとちょっと」の畑を持っています。
「この辺りは下から上まで畑を持つ人が多いですよ。なぜなら、花は下から順に咲くから(笑)」

収穫は11月中旬から、わずか45日間で一気に行われますが、低地から順に花が咲き、実を結ぶことで、下から効率良く収穫することができる。昼夜の寒暖差が少ない気候も、美味しい温州みかんに必要不可欠な環境と言います。
「だから、とろけるように柔らかく、食べてスッと消える、質の良い“じょうのう”ができるんです。寒暖差が少ないのは、穏やかで温かい海が近くにあるから」

宮本さんはそう言って、自然に感謝するように、また海を見つめました。

「香りが良いですね」と中村樹里子氏。ひと房の実を包む、“じょうのう”が薄く、強い甘み、適度な酸味もあるのが「西宇和みかん」の特徴。

「樹齢40年から50年の木に美味しいみかんができる」と宮本さん。真穴は歴史ある生産地であるため、そうした木が点在する。

テロワールオブ西宇和・真穴共選新しい技術や知見も積極的に導入。

恵まれた自然があり、段々畑など、先人たちが築き上げた知恵と工夫も活かして、大切に育てられる「西宇和みかん」ですが、ただ伝統を継承しているだけではありません。

例えば、真穴でも、まだ一部と言いますが、「10年ほど前から導入が始まった」マルチドリップ方式の栽培があります。

マルチとは、みかんの木の下に敷設するシートのこと。降雨による余計な水分を除外して、水はけを、もっと良くするために導入されたものですが、シートは白く、陽光を反射して、木の下の方になる実を照らす効果も生みました。これを、4番目の太陽と指摘する生産者もいるほど。

ドリップとは簡単に言えば、液肥を満遍なく木々に与えるための仕組み。「みかんの点滴」と宮本さんは笑いますが、これにより、みかんの木が土にしっかりと根を張るようになったそう。
「根ができれば、アミノ酸など、微量だけど必要な栄養素がしっかり取り込めて、葉がたくさんできる。たくさんの葉があれば、余計な水分を十分に吐き出すことができ、みかんの味が凝縮する」

だから、あまり葉の剪定はしないそう。
受け継いだ技術に加えて、現代的な機器や知見も活用して、美味しい「西宇和みかん」を育てているのです。真穴共選では、出荷の前に行われる選果でも、光センサー選果機を採用。傷や腐敗を瞬時に検知するだけでなく、糖度や酸度も的確に測定しているとのこと。

高く評価される西宇和みかんを、今後もクオリティを維持しながら安定的に供給すべく、生産者の挑戦はずっと続いているのです。

この辺りで標高150mほど。木の下に白く見えるシートがマルチで、多くの生産者が導入している。

テロワールオブ西宇和・真穴共選常に「最高」を志す、強い気持ち。

「ずっと、みかんを育てて、出荷していますが、今年は最高だって思った年なんてありませんよ。毎年、課題は見つかる」

柔和な笑顔から一転、引き締まった面持ちで語り始めた宮本さん。
「とにかく、美味しいものを一生懸命、作る。それだけです」
「西宇和みかん」は、宮本さんのような生産者が真面目に、誇りを持って取り組んでいるから、今年も美味しく育つのです。

そんな、甘味、酸味、苦味、食感と『西宇和みかん』の魅力を最大限に楽しめるコースを11月29日(木)より、『Kabi』にて期間限定で提供致します。是非、西宇和の土地を五感で感じられるコースをこの機会にご賞味ください。
「Kiriko Nakamura による西宇和みかんのデザートコース」詳細・予約はこちら


(supported by JAにしうわ

宮本さんが被るキャップには共選のマークと、真穴みかんの文字が誇らしげに刺繍されている。

住所:愛媛県八幡浜市真網代丙572-1 MAP
電話:0894-29-7014
真穴共選 HP:http://www.marumamikan.com/

栃木レザー ミニトラッカーウォレット

定番トラッカーウォレットにミニサイズが登場!

  • 【IHG-082】栃木レザー トラッカーウォレットのミニサイズ版です
  • ポケットにすっぽり収まるサイズ感で、上着の内ポケットにも入ります
  • 背面、内側のカード入れは逆さにしても落ちないよう一般的なカードのジャストサイズ設定です
  • カード入れが2ヶ所とフラップ付きのメイン気室で構成されています
  • ミニウォレットやパスケース、また名刺入れ等小さいながらに用途の広い商品です
  • 各パーツは真鍮で表のボタン、センター部分にはアイアンハートの刻印入りです
  • ハトメを付けているのでウォレットチェーンやキーホルダー等も付けられるようにしています

情緒漂う茶屋街に生まれた2部屋だけのオーベルジュ。旅の本質を思い出させる、名宿の秘密。[東山のオーベルジュ 薪の音 金澤/石川県金沢市]

東山のオーベルジュ 薪の音 金澤OVERVIEW

重要伝統的建造物群保存地区に指定される金沢の東山ひがし茶屋街。石畳の路地の脇に連なる端正な出格子窓、風にたなびく柳の木、遠く聞こえる三味線の音。風情という言葉こそふさわしいこの街に2018年3月、新たなホテルが誕生しました。名は『東山のオーベルジュ 薪の音 金澤』。そう、2005年に富山県南砺市に開業し、各界の評判を呼んだ名宿『里山のオーベルジュ 薪の音』の別館です。

素朴な里山をテーマにした旅館である本館に対し、茶屋街に佇むこちらはどこか女性的でエレガントなホテルという印象。客室は2室。つまり1日2組しか得られない特別な体験が、この『東山のオーベルジュ 薪の音 金澤』では待っているのです。もちろんオーベルジュと銘打たれるだけに料理にも徹底的なこだわりが潜みます。ロケーション、部屋、料理、ホスピタリティ。すべてにおいてゲストの心に刻まれる、他に代えがたいひととき。その本質は「ここに効率という言葉はありません。無駄こそが魅力。それがこの規模のホテルの魅力」という山本氏の言葉に象徴されます。

日常を忘れ、無駄を楽しみ、土地の文化に浸る。旅の本来の姿を思い出させる名宿。その魅力に迫ります。

住所: 石川県金沢市東山1丁目15-14 MAP
電話: 076-252-5125

NEW シャーロットコート【レディース館】

 

 

 

 

 

こんにちは!!

 

最近は日中も肌寒くなってきましたね/無念

どんどん冬本番が近づいてきているんだなぁと

体感しております。

 

 

 

 

さて、そんな寒い冬に向けて

最近入荷したコートを紹介しますにこにこ

 

 

 

 

 

デニムクローゼット

シャーロットコート

 

 

 

正面

 

 

 

 

 

 

後ろ姿

 

 

 

 

 

 

前を閉じると・・・

 

 

 

 

スッキリとしたシルエットでとても綺麗です宝石ブルー

写真のようにパンツに合わせると

キレイめファッションにもなりますし、

スカートに合わせたら

可愛いファッションに変身もできちゃいますパンダハート

落ち着いたグリーンチェック柄が

とても良いですよねにこにこ

 

 

 

 

 

 

 

中のチェック部分が取り外し出来るので

春シーズンコスモスまで着ていただけます!!

 

 

 

 

サイズは

S  M  L

の3種類です。

 

 

 

 

お値段は

¥32,400(税込)

です。

 

 

 

 

 

倉敷にお越しくださった際は

新作も沢山入荷しておりますので

ぜひデニムストリートに足を運んでみてくださいね!!

スタッフ一同お待ちしておりますにこにこ

 

 

 

 

 

 

若者たちが未来を描ける、エモーショナルな離島。[海士町/島根県隠岐郡]

配流になって、1240年に崩御された後鳥羽天皇。明治6年に明治天皇の思し召しにより、合祀された後鳥羽上皇火葬塚。

海士町歴史と自然を残す人口2300人の島。

日本海に浮かぶ島根県・隠岐の島の中でも、海士町(あまちょう/中ノ島)は3番目に大きな有人島です。人口わずか2300人の島で、約2時間もあれば一周できるほど。その昔、「遠流の地」として定められ、鎌倉時代には「承久の乱」で配流になった後鳥羽上皇を始め、多くの政治犯や貴族を受け入れて来た歴史があります。海の中にポツンと浮かぶこの小さな島は、定義の通りの「離島」。美しい自然に恵まれた究極の離島であり、「遠流の地」だったのも頷けます。島内には後鳥羽上皇火葬塚や隠岐神社、小泉八雲が「清閑な地」と称えた家督山(あとどやま)、町の指定文化財の屋敷、村上助九郎邸など見所も点在しています。

隠岐神社。1939年(昭和14年)に創建。太刀銘来国光が県の指定文化財に。後鳥羽上皇にまつわる歌が詠まれた。

海士町「人づくり」を試みた地域再生の人間国宝。

数々の逸話が残る海士町ですが、歴史や自然よりも魅力なのがこの島に暮らす若者たちです。すでに引退された元町長・山内道雄氏は、先見の明があるアイデアマン。先駆的な考え方をお持ちの方で、離島の不便さを逆手に取ったユニークなキャッチコピー「ないものはない」を掲げ、移住者を引き寄せる町づくりで地域再生に優れた手腕を発揮されました。若い世代が生活できるよう様々な事業を展開し、海士町ブランドを築き上げただけでなく「島づくりは人づくり」という信念のもと、教育改革にも力を入れて全国から人材を集めた。まさに「地域再生の人間国宝」。Iターン、Uターンの成功例と言えるでしょう。あれだけの小さな島に大勢の若者が移り住んだことは、奇跡としか言いようがありません。若い世代が勝手に訪れたのではなく、元町長をはじめ、行政が一生懸命働きかけてバックアップした結果。島独自の取り組みは全国的にも注目を集めています。この好例は各地の地方自治体も見習うべきでしょう。将来的には海士町だけでなく、隠岐の島のエモーショナルな部分も含め、より一層力を入れて欲しいと思います。

中ノ島の東岸にある景勝地「明屋海岸」。火山噴出物が露出した、隠岐ユネスコ世界ジオパークのひとつ。

住所:〒684-0403 島根県隠岐郡海士町大字海士1490 MAP
http://www.town.ama.shimane.jp

1952 年生まれ。イエール大学で日本学を専攻。東洋文化研究家、作家。現在は京都府亀岡市の矢田天満宮境内に移築された400 年前の尼寺を改修して住居とし、そこを拠点に国内を回り、昔の美しさが残る景観を観光に役立てるためのプロデュースを行っている。著書に『美しき日本の残像』(新潮社)、『犬と鬼』(講談社)など。

@adidasfun

コーナーキック。ゴールラインを割ったときに最後に触れた選手が守備側だった場合、ボールの出たところから近いコーナーアークから相手に邪魔されない形でキックすることができる。直接ゴールを狙ってもよい。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

@adidasfun

コーナーキック。ゴールラインを割ったときに最後に触れた選手が守備側だった場合、ボールの出たところから近いコーナーアークから相手に邪魔されない形でキックすることができる。直接ゴールを狙ってもよい。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

建築とランドスケープの幸せな融合。[アートビオトープ那須/栃木県那須郡那須町]

カジュアルな滞在とアートなアクティビティが楽しめる「アートレジデンス」として、新たな旅の形を提案。

アートビオトープ那須ホテル・建築・造園の各界が注目!

昨今、旅のスタイルが変わりつつあります。せわしなく動き回る「移動」から、その土地の魅力をじっくり味わう「滞在」へ――今回ご紹介する『アートビオトープ那須』は、そんな「滞在」を心地よくサポートしてくれる大人のリゾートです。

那須の雄大な自然を生かした景観と、訪れる人々の感性に添った様々な滞在方法の提案。そのフレキシブルなコンセプトは、旅人だけでなくホテル業界や建築業界、造園業界などからも熱い視線を浴びています。

更にガラス工芸や陶芸といった「アートなアクティビティ」も提供。まるでアーティストがアトリエにこもるかのように、自然豊かな空間の中で、ゆったりと創作活動にいそしめます。

東京から約1時間半の地に、別世界のような光景が広がる。

長期滞在に適したミニキッチンつきの客室が嬉しい。

石上氏が手掛けた『水庭』など、世界的に活躍する建築家の作品や書籍などが美しくレイアウトされた落ち着いた空間も必見。那須の自然に溶け込みながら確たる存在感を示す。

アートビオトープ那須自由自在に楽しめる「アートな滞在空間」。

『アートビオトープ那須』の特長は、レジデンス・カフェ・スタジオなどの多彩な要素で構成された「アートな滞在空間」であること。自由な散策や創作活動はもちろんのこと、多彩なワークショップや植物の精油を用いたアロマトリートメントなど、心と身体のリズムを整えてくれる体験が目白押しです。

更に、こうした体験だけでなく、サイクリングなどのアウトドアレジャーも可能。もちろん何もせずにゆったり過ごすこともでき、別荘のような自由なスタイルで楽しめます。

長期滞在して大掛かりな作品を創り上げたり、楽器を持参して森で演奏したり。アトリエや別荘のように使うリピーターが多い。

本格的な設備を誇るガラススタジオでは、吹きガラス・カットガラス・バーナーワークなどが楽しめる。

「共に学び、共に食事をし、共に生きる場所」として、「自然と共生する未来の暮らしを提案する」プラットフォームでもある。

アートビオトープ那須まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのよう! 絶対に訪れたい『水庭』。

2006年にオープンした『アートビオトープ那須』ですが、2018年6月には、隣接する広大な土地に日本建築学会賞など多数の受賞歴を持つ話題の建築家・石上純也氏が手がけた『水庭』を新たにオープンさせました。
16,000㎡もの敷地に隣接する土地から318本の木を移植。その間に160個の池をモザイクのように点在させた、他に類を見ない庭園です。もともとこの土地にあった木・水・苔で創られており、地下で全てつながっている池は、川から引き込んだ清冽(せいれつ)な水を巡らせています。

当初はファームガーデンとして計画されたものの、検討を重ねる中で「人の手を加えて創った建築としての庭」として完成。4年もの歳月をかけて、これまで地球上のどこにもなかった庭園が誕生したのです。

空間と配置を綿密に計算することで生まれたデザインでありながら、自然の妙を感じさせる佇まい。石上氏が自身の体験を反映させながら配置した敷石に沿って歩くと、景色だけでなく、水流や葉擦れの音までもが美しく変化していきます。

訪れた人々の内面まで映し出す、哲学的な思索の場。「五感を働かせて瞑想するように楽しんでください」とはスタッフの言葉です。

ロケーションもデザインも他に類例がなく、世界的に注目を集めている。雑誌「新建築」の表紙を飾ったり、「GA JAPAN」に特集されるなど、建築界でも大きく評価された。

『水庭』の見学は事前予約制のツアーのみ。ツアーはティーまたはランチとのセットから選べる。

アートビオトープ那須さらなる進化も見逃せない。より心地良い空間へ。

この『水庭』に加えて、2020年には、坂 茂(ばん・しげる)の設計による「天と地を繋ぐ」寛ぎのコテージ群が完成する予定です。これを主体に、40km圏内で採れた新鮮な食材を提供する『ファームレストラン』もオープン。これらをもって、『ボタニカルガーデン アートビオトープ』の世界は完成します。

人と自然に心地良い未来を目指して、さらに進化し続ける滞在空間。何日も、何回でも滞在して、その世界観と魅力に浸りたいものです。

イタリアの名門ブランドCOLNAGOのスポーツサイクルと、起伏の多い山間部でも安心な電動アシスト付き自転車のレンタルも有。爽快な高原を思いのままに走る!

那須はレジャー施設も多いが、あわただしく出歩くよりも敷地内でのんびり過ごしたい(写真はガラススタジオでのマドラー作り体験)。

日常の喧騒を離れて心身のあるべき姿を取り戻す場所。

住所:栃木県那須郡那須町高久乙道上2294-3 MAP
電話:0287-78-7833 (代表)
アートビオトープ那須 HP:https://www.artbiotop.jp/

いよいよ謎多き解脱酒の本丸へ潜入。金の酒がベールを脱ぐ![加温熟成解脱酒/秋田県秋田市]

『加温熟成解脱酒』を造り出す蔵人たち。中央、白衣の紳士は社長の平川氏。

加温熟成解脱酒パリの熱気が冷めやらぬ内に、初秋の秋田へ。

パリでの取材を終えた、我々ONESTORY取材班は、10月中旬、パリで絶賛された不思議な日本酒の秘密を探るため一路、初秋の秋田へ。謎多き『加温熟成解脱酒』の本丸『秋田酒類製造株式会社』を訪れたのです。
詳しくは【日本人が知らない日本酒が、今、パリで話題!?】へ

『加温熟成解脱酒』とは、一体どんな酒なのですか?

インタビューは、ずばり直球勝負でスタートしました。
「その名の通り温度を加えて解脱を起こす酒なんです。日本中の酒蔵が、できたお酒をこぞって冷やす時代に、真逆の発想で生み出した酒。偶然と偶然の連鎖により生まれた酒でもあります」とは、『加温熟成解脱酒』の生みの親である古木吉孝生産本部長。

古木氏の放った解脱とは、日本酒を長く熟成させた際にできる澱のこと。澱の発生は完熟の証と言われ、一部の愛好家に間では非常に珍重されてきたそうなのです。

それを約半年という期間に、タブーとも言える酒を温めることにより熟成を促した酒こそが『加温熟成解脱酒』の正体だと笑います。
「最初は、スタッフが試験中の酒を持ってきたんです。普段めったにそのような状況はないのですが、『澱が出てます!確認してください』と言うんです。とっさに思ったのは、腐敗が起きているんじゃないかという不安。でもですね、見た目は腐敗のもとになる微生物の濁りではなかった」

大丈夫だとスタッフをたしなめつつ古木氏は、興味本位で味見をしたと言います。廃棄されてもおかしくない状況で、一転、美しく輝く黄金色の酒の味見をしたくなったと言います。

「これがとにかく美味かった。ですから、すぐに社長のところに持っていったんです」

澱の出た試験中の酒を飲んだ平川順一社長もまた、即決で開発を指示。すぐに開かれた取締役会を経て、約1ヶ月で開発チームは組織されたと言います。

「スタッフがチェックに持ってこなければ誕生はなかったですし、私が試飲しなければそのまま廃棄。さらに社長に試していただかなければこの短期間で、『加温熟成解脱酒』は生まれてこなかったと思います」と古木氏。

2016年4月の偶然を境に、なんと2017年1月には『加温熟成解脱酒』は、世に生み出されていたのです。

「シェリー酒が好きで、あの色を見たときに無性に味見をしたくなった」と古木氏。

こちらが加温することを可能にした熟成タンク。

「いい色なんですよ、味も驚きますよ」と笑顔の平川氏。

加温熟成解脱酒緻密な計算と、失敗を恐れない挑戦が美酒を生む。

「加温することで熟成はどんどん加速するのですが、普通にやるとまずは香りだけが熟成し始めます。ですから、味と香りのバランスを整えるために、冷やすのが常識なのです」

偶然、味わってしまった黄金色に輝く美酒を再現するため、温度と時間の反応速度を、何度も何度も繰り返し、まずは色と香りのメカニズムをコントロールし始めたと古木氏は言います。

「そうなると今度は味を追求したくなるんです。ここからは企業秘密にもなるのですが、酒質や酒米、酵母の違い、さらには温度と時間のコントロールを無数にこなすことで、いよいよ味、香り、色が交わってきたのです。そして解脱の瞬間は生まれた」

約半年の熟成であるのに10年古酒のような香りと色を放つ酒。であるのに味わいはまだまだ若々しいフレッシュさを併せ持ち、アルコール度数は12.5度と軽め。
「商品化にあたっては、解脱の証でもある澱はろ過することに決めました。だって黄金色が、とにかく美しいので」

穏やかな顔の古木氏は、約1時間のインタビューで『加温熟成解脱酒』の誕生について教えてくれました。日本酒を温めるというタブーに果敢に挑戦し、独自製法で生み出した不思議な酒を、ゆっくりと育てていきたいとも付け加えてくれました。

もしかしたら、数年後には加温熟成という新たな日本酒のカテゴリーは一般的になっているかもしれません。話を聞くたび、その可能性に期待で胸が膨らむほど、氏の挑戦は新たな酒の到来を予感させるのです。

秋田酒類製造株式会社の酒の指揮官・加藤均杜氏。

米粒ひとつ、美しい水が元になり、秋田の美酒は生まれていく。

加温熟成解脱酒酒の味のすべてを司る加藤杜氏へも直撃。

『加温熟成解脱酒』のもうひとりのキーマンがいると聞き、訪れたのはまさに仕込みが始まったばかりという酒蔵。待っていたのは杜氏の加藤均氏でした。

そう、『加温熟成解脱酒』といっても、熟成前は普通の純米吟醸酒。酒造りの指揮官に、その思いについても伺ったのです。

「麹菌はね、冬の10度とエアコンの10度は違いがわかるんです。不思議でしょ。だから、最後は人力。酒と会話しながらが大切なんです」

最新鋭の醸造設備を備える『秋田酒類製造株式会社』。24時間温度と湿度を調整できる酒蔵にあって加藤氏は、毎日必ず自らの握力で、蒸し上がった酒米の硬さを確認すると言います。
「機械化し合理化する部分はあっても、最後の最後は経験と勘。それが日本酒造り。だから面白いんですよ。解脱酒も、実は凡事を徹底することで生まれています」

日常を怠らない。清掃の行き届いたピカピカの酒蔵こそがウチの蔵の自慢と加藤氏は胸を張ります。
加温熟成させる前に、まずは旨い酒を造る。そんな基礎中の基礎に驚くほどの情熱と心血を注ぐ男がいる。それもまた、『加温熟成解脱酒』が旨さを増幅させる秘密なのかもしれません。

パリで話題になった黄金色に輝く『加温熟成解脱酒』。2019年いよいよ、日本でも飲める店は増えると言います。

まずは、先入観なく、飲んでみてください。

きっと今までの日本酒の概念は軽々と吹き飛びます。パリの地で、そして秋田で、我々取材班は、今秋、その奇跡の瞬間に何度も遭遇しているのですから。


(supported by  秋田酒類製造株式会社)

日本酒の概念を覆す『加温熟成解脱酒』は、いよいよ日本でも。

住所:〒010-0934 秋田県秋田市川元むつみ町4-12 MAP
電話:018-864-7331
http://www.takashimizu.co.jp/

@adidasfun

オーダーする際にはデザイン担当者と会って、詳細な打ち合わせをした方が出来上がってきたときにイメージと違ったようなトラブルにも巻き込まれることは少ない。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

驚き、発見の連続。荒天の沖縄で、未知の食材、自然とともにある人の暮らしに触れて。[DINING OUT RYUKYU- NANJO with LEXUS/沖縄県南城市]

南城市に残る「御嶽(うたき)」の神聖な空気に、樋口シェフの表情が引き締まる。

ダイニングアウト琉球南城「本場の台風」の厳しい洗礼を受けた、沖縄南城での第一歩。

11月23日(金・祝)、24日(土)の2日間限りで沖縄・南城市を舞台に開催される『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』。琉球神話の中では、はるか昔に「アマミキヨ」という女神が海の向こうの理想郷といわれた神の国「ニライカナイ」からやってきて琉球の島々や祈りの場「御嶽(うたき)」を創り、南城市の離島・久高島に降り立ったと伝えられています。

琉球を創成した女神「アマミキヨ」のゆかりの地で開催される今回を担うのは、『DINING OUT』史上初の女性料理人となる樋口宏江シェフ。『志摩観光ホテル』の総料理長であり『伊勢志摩サミット』でもディナーを担当した、今、日本で最も注目を集める女性シェフに白羽の矢が立った。

『DINING OUT』開催に向け、視察のために沖縄に向かった樋口シェフ。複数の食材の生産者とのスケジュールを調整し、10月初旬に初めて降り立った沖縄は、奇しくも、超大型の台風25号が上陸するというアクシデントに見舞われます。さまざまな予定変更を余儀なくされ、時に強い雨風に打たれながら、という悪条件の中の視察は、「沖縄の自然」を肌で感じる時間となりました。

ーーーーーーーーーー
DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS TOP

台風25号が直撃した視察日程。沖縄の自然の厳しさを実感する。

ダイニングアウト琉球南城風土とウチナーンチュが上質な食材を育む、沖縄の産地を巡って。

早朝に三重県志摩を発ち、中部国際空港セントレアから沖縄へ飛んだ樋口シェフ。那覇空港で、取材班をはじめとする東京からのスタッフと合流。台風がその日の晩から翌日にかけて直撃しようかという状況下、訪問先の生産者と慌ただしく連絡を取り合うスタッフを心配気に、そして気遣うようなまなざしで見つめる姿が印象的でした。『DINING OUT』開催当日まで2カ月足らず、限られた時間の中で、少しでも多く沖縄のことを知りたい。そう願う樋口シェフにとっては、まさに波乱の幕開けでした。

空港から車で約30分。最初の目的地は那覇市内の繁華街にある『琉球料理ふみや』です。昼食を兼ねて訪れたその店で、早速、最初の驚きに出会いました。運ばれてきた定食のお膳には、よもぎの炊き込みごはん「フーチバージューシー」や豚もつ入りの「中身汁」など、沖縄に古くから伝わる伝統料理がずらりと約10皿。どれもが初めて食べる味、そして身体に染み入るようなおいしさだったからです。

「実は、沖縄を訪れるのは今回が初めてなんです。何もかも新鮮で」

そう話す樋口シェフ。古い田舎家の広間のような畳敷きの店内では、地元の老若男女がテレビから流れる台風のニュースに耳を傾けながら、樋口シェフと同じ定食を食べる姿が見られます。昔ながらの郷土の味が、今も人々の日常に根付いている。最初に沖縄の食文化の豊かさを感じた瞬間でした。

初めて食べる本場の沖縄伝統料理に期待が高まる樋口シェフ。

ダイニングアウト琉球南城多種多彩、生き生きとした沖縄産ハーブがインスピレーションの源に。

素朴な伝統料理の滋味深い味わいにすっかり心をつかまれた様子の樋口シェフ。お次は宜野湾市にあるファーマーズマーケット『ハッピーモア市場』を訪れました。広々とした空間に並ぶ、色とりどりの野菜や果物は、島バナナにさまざまな柑橘など、沖縄らしい農作物が中心。「小さな農家応援隊」を標榜し、農薬や化学肥料に頼らず、安全でおいしい野菜や果物づくりに励む生産者の作物を集めて紹介しています。

新鮮な野菜を使ったフレッシュなスムージーも名物で、建物奥にある小さな自社農園で、スムージー用のハーブや柑橘類を栽培しています。レモングラスやヘンルーダーなど、何もかもが都市部のスーパーで見るものとは比べものにならない勢いで生い茂っていて、小さなジャングルさながら。樋口シェフが足を止めたのは、カラマンシーという柑橘の木の前でした。

「すだちやカボスとはもちろん、シークヮーサーとも違う、どこかオリエンタルな香り。沖縄にはいろんな柑橘があるんですね」
感嘆の表情で目を見開きます。

その日は、ハーブ農園『岸本ファーム』も訪問しました。
「白い花を付けたスイートメキシカンは蜜のような甘さがあります。これは長命草という沖縄のハーブ。琉球山椒(ヒレザンショ)は、ピパーツに似た香りがするはずです」

沖縄の在来種も含め栽培品種は年間200種以上。スタッフの指さすハーブを次々摘み取り、気になるものは味を確かめつつ、ハウスの奥へと進みます。

樋口シェフ自身も、ホテル敷地内のハーブ園で自らハーブを栽培しています。歴史あるオーベルジュ『志摩観光ホテル』伝統の味を、そのハーブ類も多用し、現代の嗜好に合わせフレッシュかつ軽やかに仕立てるのは“樋口流”味づくりの真骨頂。『岸本ファーム』のバラエティ豊かなハーブに、創造力が刺激されます。

カラマンシーの木の前で。果汁の風味や酸味、皮や葉の香りなどを確かめる。

開園から20余年、農薬・化学肥料を使わない農法を貫く『岸本ファーム』のハーブたち。みずみずしく、香りは鮮烈で色も鮮やか。

ダイニングアウト琉球南城信仰、祈りとともにある「聖なる食」のあり様を土地の歴史から探る。

生まれも育ちも三重県。料理人としても『志摩観光ホテル』一筋で仕事をしてきた樋口シェフ。『DINING OUT RYUKYU-NANJYO with LEXUS』は、ホテルを離れ、いつもとは違う環境、見知らぬ食材を使っての料理という、未経験づくしの挑戦となります。

ゆえに、沖縄を訪れたら、食材のみならず土地の歴史、文化、風俗を学びたいという強い希望がありました。
会場となる沖縄県南城市は、琉球王朝時代の聖なる祈りの場「御嶽(うたき)」が数多く残る、琉球はじまりの地。神話によると、太古の昔「アマミキヨ」という女神が「ニライカナイ」と呼ばれる海の向こう側からやってきて、琉球の島々や御嶽を作ったとされています。

神の海とされる東の海「ニライカナイ」と、そこから降り立ち、琉球の土地を作った女神「アマミキヨ」。沖縄の人々の心に今も残る自然信仰は、すべてのはじまりである海と、生命を育む女性に起源を持つのではないか。この考えが、『DINING OUT』開催を沖縄南城の地に導きました。

「単なる地産食材のショーケースに終わらず、神聖なる土地のあり様までもを皿に載せ、一夜の宴を完成させなければ」

南城を巡った樋口シェフは、想いをより強くしました。

琉球の信仰では、神殿などは設けず、森や山、川、泉などが「神が訪れる場」として祈りの場となる。

ダイニングアウト琉球南城熱意ある生産者から学んだ「生き方」が表れる仕事へ敬意を表して。

悪天候の中、視察の旅は続きます。

沖縄の食文化を語る上で欠かせない山羊を見るために『株式会社 大地』へ。代表の仲村嘉則さんが、農業用ハウスを利用した山羊小屋を案内してくれました。

「昔はどの農家でも庭先で2、3頭の山羊を飼っていたけれど、高齢化でその数は減る一方。大事な山羊を絶やしてはいけないと、仲間を募って会社を作ったわけです」

常時150頭の規模で飼育を行う業者は、県内でもわずか5軒ほど。湿気を嫌う山羊のため、床を上げて作った山羊小屋は、清潔そのもの。気持ち良さそうに寛ぐ山羊を見て、樋口シェフは思わず「かわいい」と、頭を撫でます。これまで使う機会のなかった食材だけに、地元の人たちはどう食べるのか、種や部位による味わいの違いは?と、仲村さんへの質問が止まりません。

沖縄の在来豚・アグー飼育の第一人者『なんくる農場』も訪問。

「豚は神様が人間にもたらしてくれたもの。命を頂いて生の糧にするのだから、肉になるまで病気せずに育てるのが、自分たちの仕事なんです」と、代表の我喜屋宗一さん。視察後、我喜屋さんのアグーをしゃぶしゃぶで試食。

「しっかりとした食感があり、噛みしめるほどに味が出る。シンプルに焼くだけでもちろんおいしいけれど、沖縄料理にちなんで“煮る”のも面白い。いろいろアイデアが浮かびます」と、樋口シェフ。

ほかにも、県外からも注目を集める国産紅茶の生産者『山城紅茶』、イギリスから移住して沖縄素材でチーズを作るジョン・デイヴィスさんのチーズショップ『チーズガイ』、大量のシークヮーサーを出荷、加工をしている『勝山シークヮーサー』などを訪問。荒天の中、盛りだくさんかつ濃厚な視察を無事に終えました。

高床式の山羊小屋は清潔そのもの。山羊たちの愛らしさに、樋口シェフもつい笑顔に。

米ぬかやもろみなどを独自に配合した国産の良質な飼料で育てられる『なんくる農場』のアグー豚。

「紅茶が沖縄の農業を変える」と話す『山城紅茶』代表の山城直人さん。80年前の創業以来、無農薬で茶葉を栽培。収穫は手摘みで行う。

『チーズガイ』では10種類以上のチーズを試食。ジョン・デイヴィス氏のユーモアと説得力にあふれる解説を聞くうちに、時間があっという間に。

『勝山シークヮーサー』のシークヮーサー。厳しい選果を行い、種をつぶさず、皮の苦みが出すぎないように搾汁した果汁を瓶詰に。

ダイニングアウト琉球南城地方発信を続けてきた自分だからこそ表現できる「南城ガストロノミー」を。

『志摩観光ホテル』のある志摩は、古代から神事の際、海産物を献上する役割を担ってきました。朝廷が「御食国(みけつくに)」に定めた、海の幸豊かな地。自然がもたらす恵みと、神事との関わりは、樋口シェフが伊勢志摩の食材を追求する過程で掘り下げてきたテーマであり、それは今回の『DINING OUT』の趣旨とも重なります。

「『DINING OUT』の役割は、日本各地に眠る素晴らしい価値を見出し、地域の発展のきっかけを作ること。今回、お話しを頂いた際、重責と感じつつもお受けしたのは、自分もずっと志摩という一地方で生活してきたがゆえに、そういった考えに共鳴するものがあったからだと思います」

視察の手ごたえについて訊ねると「食材のクオリティの高さはもちろん、生産者の方々が皆、素晴らしい」との答えが返ってきました。

「優しく穏やかで、強い信念をもって仕事に取り組まれている。台風など自然の影響を受けやすい土地で“そういうこともあるさ”と受け入れ、共に生きる。そのしなやかさにも刺激を受けました」

話をする表情に、充実感があふれています。すでにいくつかの料理の原型は、頭の中に浮かんでいるのでしょうか。
「沖縄・南城の食文化への敬意を表しつつ、ホテルでの仕事を活かした自分ならではの料理で、地元の方々も新鮮な驚きを抱いて下さるような料理を作りたい。それがゲストの方々の満足に繋がると信じています」

これまでの料理人人生で経験したことのないチャレンジ、しかもこの機に初めて訪れた沖縄・南城で。樋口シェフのクリエイションがどのように花開くか。参加するゲストや関係者はもちろん、ローカルガストロノミーに関心を抱くすべての人々が注目しているはずです。

視察日程第一弾の最終日。食材担当のスタッフと、試作のアイデアや必要なアイテムを共有する。

三重県四日市市生まれ。1991年、志摩観光ホテルに入社。2014年には、同ホテルで初めての女性総料理長に就任。2016年に、「G7 伊勢志摩サミット」のディナーを担当し、各国首脳から 称賛を受けた。翌年、第8回農林水産省料理人顕彰制度「料理マスターズ」のブロンズ賞を、三重県初、女性としても初めて受賞。今、最も世界から注目を集めている女性シェフである。
志摩観光ホテルHP:https://www.miyakohotels.ne.jp/shima/index.html

デニムベンチ

皆様いかがお過ごしでしょうか??

 

最近肌寒くなってきましたねイチョウ

 

季節の変わり目なので皆様体調管理には気をつけましょう!!

 

さて

 

最近インスタグラムやTwitterなどSNSが凄く流行っていますねキラキラ

 

嬉しいことにデニムストリートでもデニムまんやデニムバーガーなどをSNSに上げてくださったり

 

キャラ工房で、クマのぬいぐるみと写真を撮って上げてくださったりしておりますラブラブ

 

その中でデニムストリートは新たなインスタスポットを作成しました!!

 

その名も・・・

 

デニムベンチ!!

 

それがこちら下矢印下矢印

 

白色のベンチだったのですが、カッティングシートを貼って脚も青色に塗り直しました拍手

 

座ってみるとこんな感じです下矢印下矢印

 

一般のお客様に写真を撮らせて頂きましたパー

 

凄くオシャレになっておりますチュー

 

11月末までに、デニムストリートでインスタ映えスポットを更に増やしていきますので

 

はじめて来られる方も、何度か来て頂いている方も

 

SNSで可愛い写真を探している方も是非是非デニムストリートにお越しくださいキラキラ

年間いつでも甘い焼き芋を!負けず嫌いの行方気質が生んだ、日本一のサツマイモ。[茨城県行方市]

行方市で生産されるサツマイモは7種ほど。熟成させた後、各地に出荷される。

茨城県行方市野菜を通して人々の生活を支える行方市。

都心から約70km、霞ヶ浦の東岸に広がる行方市。読み方は、なめがた。しかし「漢字は読めないけれど、この名前は知っている」という方も多いのではないでしょうか。そう、スーパーの店頭や商店街の八百屋の店先に積まれている野菜。その多くに「JAなめがた」の文字が刻まれているのです。たとえば明日、少し注意して見回してみれば、きっとその字が目にとまるはず。なにしろ行方市は60品目以上もの野菜を育て、通年何らかの野菜を出荷しているのですから。そしてそんな行方市の豊かさと多様性を象徴する存在が、数々の品種が育てられ、一年通して出荷されるサツマイモなのです。そこで、地元生産者の間で甘藷(かんしょ)と呼ばれるこのサツマイモを追って、行方市を訪ねました。イモづくりにかける生産者の思いとは? そして官民が手を組んで進める六次産業化とは? 行方市のサツマイモづくりの秘密を、前編・後編に分けてお伝えします。
後編【日本一の誇りを胸に、さらに広がる行方市のサツマイモ。】はこちら

行方市を代表する絶景・霞ヶ浦。西に筑波山、南西に富士山を望む雄大な眺めも見どころ。

霞ヶ浦には不定期で観光帆引き船も出航。かつての漁業を支えていた帆船の底引き網漁船。

茨城県行方市かつての葉たばこ農家が、サツマイモ農家に転身。

「行方の人間は負けず嫌い。“アイツには負けたくねぇ”って気持ちが、良い甘藷(サツマイモ)になるんじゃないかな」JAなめがた甘藷部会連絡会会長の箕輪秋雄氏は、そう言って笑いました。しかもその負けず嫌いは筋金入り。その気質を反映したイモづくりには、根性論ではなく、徹底したロジックに裏付けられています。

関東ローム層の赤土、霞ヶ浦と北浦に囲まれた豊富な水源、傾斜があり水はけの良い地形、年間通して温暖な気候。そんな特性を活かし、行方市はかつて献上品用の葉たばこの一大産地として知られていました。ところが2011年に葉たばこ廃作の奨励があったことで、同じくこの土地に適したサツマイモに転作する農家が急増したのです。つまり、サツマイモの大産地としての歴史はまだ始まったばかり。「そのとき100haくらいが甘藷に変わったのかな。これはいままでと同じことしてたら余ってしまうな、と思いましたよ」と振り返る箕輪氏。そこで頭を働かせて行方産サツマイモのPRに乗り出しました。

しかしそれは簡単な道ではありませんでした。「JAなめがた」として品質の底上げを図るには、生産者の足並みを揃えることが第一歩。しかし年代も耕地面積もモチベーションも異なる生産者たちの意見は、なかなか揃いません。箕輪氏は「とにかく何度も会うこと」という地道な方法を選びました。生産者同士で何度も顔を合わせ、意見を交換する。そうすることで少しずつ、“妥協なきサツマイモづくり”という足並みが揃い始めます。

また、どの農家にもいえることですが、農業従事者の高齢化も課題でした。現在、甘藷部会の平均年齢は60代。とくに重量が嵩むサツマイモは「重労働な割にうまみが少ない」と思われ、若い世代に敬遠される傾向もあったのです。「きれいごとだけじゃなくてね、やっぱり“ちゃんと儲かる”っていうことも大事ですよ」箕輪氏はそのために、全国を巡り販路拡大を模索しました。

見渡すかぎりの芋畑。茨城県のサツマイモ生産量は、鹿児島県に次ぐ全国2位。

JAなめがた甘藷部会連絡会会長の箕輪秋雄氏。穏やかな人柄と論理的な考えから人望も厚い。

「新鮮さと食べ頃が一致しない」というサツマイモ。ここから寝かせることで糖度が増す。

茨城県行方市明確なデータを提示する地道なPR活動。

しかしサツマイモ業界では後発となる行方市にもアドバンテージがありました。それはイモづくりに最高に適した気候と土地があり、ひとつの区画で複数の品種を育てることが可能だったこと。サツマイモは品種によって、収穫後に糖度が増す速さが異なります。これを利用し、収穫後すぐが適した品種から、寝かせることで糖度を増す品種までを、リレー方式で出荷しました。つまり、品種と熟成期間を変えながら、いつでも市場に食べ頃のサツマイモを届けるように調整したのです。量販店のバイヤーも卸売商も、一年通して甘いサツマイモが食べられるとあれば放っておきません。さらにPRには糖度や食感の特性といったデータ、おすすめの調理法などを記した冊子も利用しました。「おいしいです、っていくら言ってもダメですよ。きちんとおいしい証拠を出さないとね」

さらに、サツマイモの出荷量を底上げすべく、加工品にも力を入れます。目をつけたのは焼き芋。当時としては珍しい石焼き機をスーパーの店頭などに設置し、焼き立てのサツマイモの販売を開始しました。この焼き芋の販売には、売上だけではない利点もありました。消費者の顔が直接見えるからこそ、年齢層ごとの好みが見えてきたのです。「年配の方は、ホクホクした昔ながらの食感が好き。一方、若い世代はしっとり、ねっとりした方を好まれます。このあたりを考えながら生産量も調整します」と箕輪氏。ニーズを正しく捉え、的確な配分で栽培すること。この計画性により、当初は余剰生産を心配していたはずが、現在では「足りないくらい」と引く手あまたなのです。

かつては手掘りだったが、芋掘り機が普及したことで一気に生産性が上がったという。

甘藷部会連絡会副会長の高木氏。明るく気さくな人柄で取材班を迎えてくれた。

紅優甘の焼き芋。しっとりとした食感と深みある甘さに驚かされる。

茨城県行方市最高栄誉の受賞で、名実ともに日本一に。

現在行方市で栽培されるサツマイモは、風味が良い昔ながらの紅こがね、日本一の生産量を誇るしっとり系の紅まさり、甘さが売りの注目品種・紅優甘など7品種。市の農産物出荷額およそ100億円のうち、実に3分の1近くをサツマイモが占めています。

そしてついに、その瞬間はやってきました。2017年には行方市のサツマイモが、全国の農産物10万点以上を対象にした農林水産祭で最高位となる天皇杯を受賞したのです。これは、時折耳にする「農林水産大臣賞」や「内閣総理大臣賞」よりも上に当たる、農産物の最高栄誉。名実ともに日本一のサツマイモとなった瞬間でした。幾度もミーティングを繰り返して生産者の意識統一を目指し、肥料や品種の意見交換も頻繁に行い、そして全国を巡り地道なPRをする。それらの活動が形になったのです。

「焼き芋って幸せな食べ物だよね」取材の終わり、箕輪氏は言いました。甘くて、あったかくて、そしてどこか幸せな記憶と結びついている。このおいしさの裏側に、頑ななまでのこだわりと行方愛が隠れていると思えば、その味わいはひとしおです。高速道路も鉄道もなく、陸の孤島などといわれる行方ですが、この幸せな味がいつもあると思えば、都心から70kmという距離などなんてことないでしょう。

「受賞の栄誉はもちろんですが、生産者が自信を持てたことも大きい」と箕輪氏。

天皇杯の栄誉を糧に、行方市のサツマイモは、さらなる躍進を目指す。

住所:〒311-3512 茨城県行方市玉造甲1963-5 MAP 
電話:0299-36-2781

地元で愛される、下関の冬の醍醐味。クエ鍋は高級にあらず、実は庶民の味方なのです。[Fisherman’s Wharf SHIMONOSEKI・クエ/山口県下関市]

フィッシャーマンズワーフ 下関・クエOVERVIEW

顔はちょっと怖いけど、それとは裏腹に美しいと思えるほど身は淡白。

さらに骨周りのゼラチン質は、得も言われぬ旨みと食感を纏い、食通の間では冬鍋の贅沢のひとつと言われているのが、クエ鍋です。

そう今回、我々ONESTORYが自信を持ってご紹介したい新たなる下関の恵みは、クエ。

地元・下関ではアラの名で庶民に親しまれている冬の味覚です。

「高級魚のクエが庶民に親しまれる?」と、疑問をお持ちの方も多いかと思いますが、そうなのです。東京や福岡の都市部では、驚くほどの高値で取引されるクエですが、ここ下関では、大衆居酒屋やスーパーなどでも、日常的に扱われている魚なのです。

ビッグサイズは超高級かつ都市部へ、少し小さめのサイズは地元で消費。とはいえ、ハタ類のなかでは国内では最大の大型魚のクエ。小さいとは言えど3〜4kgが一般的で、その味わいはやはり一級なのです。

食卓でも楽しめる冬の贅沢・クエを味わいに。下関で知る、知られざるクエの魅力に迫ってみました。


(supported by 下関市)

@adidasfun

スペインでは、フットサルは「フットボル・サラ」と呼ばれており、スペイン代表チームは2000年・2004年のFIFAフットサルワールドカップ、2005年のヨーロッパ選手権などで優勝した。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

@adidasfun

スペインでは、フットサルは「フットボル・サラ」と呼ばれており、スペイン代表チームは2000年・2004年のFIFAフットサルワールドカップ、2005年のヨーロッパ選手権などで優勝した。 #フットサル #サッカー #ユニフォーム

温故知新の花作りで、九州一のアルストロメリアを。[大窪農園/大分県竹田市]

品種名にはマカロンやミルクティー、レモンティーにアイスクリームなど可愛らしい名前がついている。

大窪農園色とりどりの花が咲き乱れる、九州一の花き産地。

鮮やかな色彩に、花弁の斑点模様。南アメリカ地方原産の“エキゾチック”と称される花、「アルストロメリア」。カラーバリエーションが豊富で花もちも良いため、花束やフラワーアレンジメント、冠婚葬祭など様々な用途で用いられる人気の花です。

国立公園を有する高原地帯の竹田市久住町は、花き栽培が盛んな産地。中でもアルストロメリアは九州一の出荷量を誇っています。新規就農者の減少が問題になっている中、若手の農家や女性の就農者も増え、盛り上がりを見せる久住の花き農家。市内の市場の1割を担う大窪慎二氏のハウスを訪ねてきました。

大窪慎二氏と妻のひとみ氏。二人三脚でアルストロメリアの栽培を続ける。

菊に変わって人気が高くなっているというアルストロメリア。花持ちも良いため、アレンジメントのリピーターも高いという。

大窪農園牛飼いからアルストロメリア中心の花き農家へ。

テッポウユリやリンドウなどの花き栽培が盛んだった久住町で、アルストロメリアの生産が始まったのは約20年前のこと。栽培のしやすさに目をつけた大窪氏は、もともと畜産と米、椎茸栽培を営む農家でした。

大窪氏は農業大学卒業後、実家の手伝いで牛飼いをしていました。結婚してからは花が好きだった奥さんの影響もあり、球根ユリやブルーファンタジアの栽培をスタート。牛に花、椎茸と家族一丸となって多角的な農業をしていこうと考えていた頃、狂牛病の流行によって牛の価格が急激に下落し、深刻な打撃を受けました。そこから大窪氏は花の栽培に注力。一度植えたら4年間繰り返し収穫できるアルストロメリアに着目したのです。

気候に影響を受けやすい露地の花き栽培が衰退し、ハウス栽培へと移行し始めたのも、アルストロメリアの栽培が盛んになった理由の一つ。

大窪氏のハウス。風速30メートルに耐えうる、強化型のハウスには10種のアルストロメリアを植えている。

収穫した花は自分たちで選別。その後JAに卸し、九州内で販売されている。

大窪農園4年間咲き続ける花が久住の名品に。

一つの球根から年間100本の花が取れ、4年間植え替え不要。さらに1年中収穫できるアルストロメリアは、手が掛からないということもあり、次第に久住の花き農家へと広がりました。

「野菜よりも病気は少なく、連作障害もない。もちろん土作りや花自体の管理、消毒、病気対策などはせんといけんけど、割と手がかからんのよ。しかも朝と夜の寒暖差があると色ノリも良くなるし、高冷地にある久住での栽培は合っちょったんや」。

しかしバラやユリのようにメジャーな花ではなかったため、農家全員が花き部会に加入し、共販。年に数回の市場訪問や新品種のPRなど販促活動にも力を入れ、ブランドの向上を地域全体で目指しました。

冬時期には2ヶ月も持つという花持ちの良さと、数百もあるという品種の多さ、カラーバリエーションの豊かさなどが市場で話題となり、現在は冠婚葬祭やフラワーアレンジメントに多く用いられるようになったのです。

数百種の中でも、人気なのはピンク系の品種なのだそう。

一年中収穫できるが、最盛期は3月。冬場の方が色づきの良い花になるという。

大窪農園花の名を全国へ轟かせるために。

久住町では現在14軒の農家がアルストロメリアを生産し、町全体で約200万本を収穫。そのうち約22万本は大窪氏が育てた花です。市場の1割を担う大窪氏の元には、土作りの方法や、扱う品種についてなど、様々な相談を受けることもあると言います。

「やっぱり情報交換はしていかんと。一人だけ良くても、アルストロメリアのブランド価値は高くならん。だからノウハウは共有してるんよ」。

市場を盛り上げていくためには農家が一丸となり、助け合うことが必要だと大窪氏は考えています。県内でもアルストロメリアの産地は他にあったと言いますが、どこも衰退。しかし周囲のサポート体制があることや、市場価値が次第に上昇してきていることなどから久住町では若手の新規就農者や、実家の花き農家を継ぐ若者も増えてきました。大窪氏のハウスで働いていた女性も「自分でやったみたい」と一昨年独り立ちをしたと言います。

「若い人がどんどん増えてきて、その人たちは市場で高値が付く段咲きのアルストロメリアを植えてみたり、いろんな品種に挑戦してみたり、冒険心のある人が多い。だから面白いよね」。

熟練の農家が安定して収穫ができるノウハウを伝え、若者からは冒険心やチャレンジ精神を得る。地方で始まった温故知新の花作りが、盛り上がりを見せています。

「良いかも」と思った新しい品種に手を出しても、なかなか花が出ないこともある。花作りは賭けも多いそうだが、挑戦する気持ちは忘れない。

原種に近いほど、花びらの中心に斑点模様がある。

住所:大分県竹田市久住町有氏1609番地 MAP
電話:090-9726-7725