未来志向で可能性を開拓し、歴史の再興から発展の立役者へ。[美の匠 ガラス工房 弟子丸/鹿児島県霧島市]

世界で愛される鹿児島ブランド、薩摩切子。

美の匠 ガラス工房 弟子丸

鹿児島県の中央部に位置する霧島市。霧島連山を筆頭に、豊かな自然に包まれたこの地に拠点を置くのが、弟子丸努氏率いる『美の匠 ガラス工房 弟子丸』です。
伝統工芸品である薩摩切子の技術を継承しつつ、新たな価値の創造にも取り組む同社。後編では、弟子丸氏の経歴や薩摩切子の製造工程と共に、薩摩切子づくりへの想いや今後の展望を聞きました。

▶前編は、薩摩切子の歴史と技法を守りつつ、新たな価値の創造に挑む。

『美の匠 ガラス工房 弟子丸』の代表兼切子師の弟子丸氏。

美の匠 ガラス工房 弟子丸社会人としてのスタートが、薩摩切子の新たな時代の幕開けとリンク。

鹿児島県霧島市は、鹿児島市に次ぎ県内で2番目に人口規模の大きい市。一方で市内中心部を離れると、雄大な霧島連山や、そのふもとから湧き出る湯で潤う霧島温泉郷、神話や伝説にまつわる高千穂峰や霧島神宮などが広がり、風光明媚な観光地としても賑わいを見せています。

そんな霧島市で生まれ育った弟子丸氏。高校卒業を控えて就職活動を始めようとしたタイミングで、薩摩切子と運命的な出合いを果たします。ちょうど卒業する1985年から、100余年の沈黙を経て薩摩切子の復元プロジェクトがスタートすることになったのです。そのために設立される薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)は、広く人材を募集。未経験の若者に対しても門戸が開かれました。

弟子丸氏は、「正直、この求人を見るまで、薩摩切子の存在は全く知りませんでした。ただ、子供の頃から工作などものづくりが好きだったので、何だか面白そうだと興味を持って。それから知れば知るほど、薩摩切子の美しさや、誕生から終焉までの歴史、そしてそれを再興しようという試みに強く惹かれ、やってみたい!と就職を決めました」と当時の想いを語ります。

こうして、18歳で薩摩切子の担い手として歩み始めることとなった弟子丸氏。同じく高校卒業したての若者から、ガラス工芸に携わっている者、江戸切子の職人まで、集まった十数名のスタッフで、薩摩切子の復元に挑みました。

まずは、わずかに残された当時の薩摩切子を実測しつつ、関連資料や写真、調査記録を読み解き、その特徴や工程、使用する工具の形状などを推測。必要な加工設備が整った工場作りを進めつつ、「薩摩の紅ガラス」と謳われた特徴的な紅色をはじめ、鮮やかな発色を再現、安定させるための色の研究も進められました。

試行錯誤の日々を振り返って弟子丸氏は、「ある程度の形になるまで、5年ぐらいはかかったと思います。私は素人からのスタートだったので、先輩方が削ったグラスを磨く作業から携わって。マニュアルがあるわけではないので、先輩の作業を見ながら、実際に自分の手を動かして経験しながら、体で覚えていきました」と話します。

厚い生地に多彩なカットを施し、磨き上げる。

美の匠 ガラス工房 弟子丸薩摩切子のものづくりは、いくつもの工程と職人技の結集。

薩摩切子の製造工程は、大きく生地作りとカット、そして仕上げの磨きに分けられます。まず、鉛を24~25%含む原料を調合し、高温の炉で泡のないきれいなガラスに熔融。その後、それぞれ別々の窯で水あめ状に溶融した透明ガラスと色ガラスを巻き取ったら、色被せと呼ばれる工程で重ね合わせることで2層の生地になります。最終的に型吹きという工程で成形したら、薩摩切子用の生地の完成です。

ここから先はカットの工程。始めに、施す文様に合わせて生地に分割線を引く割り付けを行います。その分割線を元に、高速回転するダイヤモンドホイールを使ってカット。この時の角度や深さで、薩摩切子特有の「ぼかし」が生まれます。

そして、最後は磨きの作業。まずは水で溶いてペースト状にした磨き粉をつけ、回転する青桐の円盤やセリウム盤で全体を磨きます。続いて、竹の繊維でできた円盤を回転させて、細かいカット部分の磨き。仕上げに、回転する布製の円盤と水で溶いた艶粉を用い、くもりのない鏡面に磨き上げます。

「全ての工程に高い技術が求められますが、やはり最も難しいのは要となるカットです。割り付けはあくまでも文様の配置目安でしかなく、分割線の中に描く文様自体の下書きはありませんから。ラインを一本入れるにしても、ホイールにどれぐらいの角度、強さ、長さで当てるかは感覚的なもので、経験を積むことでしか得られない技術です」と弟子丸氏。
手仕事とは思えない正確さで、均一な太さのラインを刻み、バランスのとれた文様を描くのは、まさに熟練の職人だからこそ成せる技なのです。

文様の配置が記された割り付けの指示書。

指示書を元に、生地に分割線を引いていきます。

文様に合わせ、様々な大きさ、太さのホールでカット。

3種類の円盤を使い分けて行われる磨きの作業。

美の匠 ガラス工房 弟子丸かつて存在したものの復元から、現代的な新しいものづくりへと発展。

薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)で薩摩切子の復元に従事し、切子師としての経験を積み上げていった弟子丸氏。入社から9年後の1994年には、薩摩切子の新たな工房となる薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に携わり、移籍しました。

弟子丸氏曰く、「それまでは、歴史ある薩摩切子を忠実に復元することが目標であり、その実現のために邁進してきました。それがかなった時、今度は自分たちらしい薩摩切子を作ってみたいと思うようになって。新しい工房ができることになりました」。

新工房では、伝統的な薩摩切子の器も手がけつつ、例えば大きな花瓶を作ってみたり、依頼を受けてゴルフ大会に使われるトロフィーを作ってみたり。時代に合わせた、今求められる薩摩切子の作品づくりを進めていきました。

中でも最も大きな取り組みは、2006年に携わった『薩摩黒切子』の開発。紅、藍、紫、緑、金赤、黄と色とりどりな薩摩切子の伝統色にはない、黒の薩摩切子への挑戦です。

「薩摩切子はカットの際、周りから光を当てて、外側に引かれた分割線を内側から透かし見て削り進めているんです。ところが、黒ガラスは透過性が低いので、内側から外側の分割線が見えづらく、かなり感覚に頼る部分が大きくなるんですよね。最初に黒切子を作ってみないかと言われた時は、そんな難しいこと無理だろうと感じました。でも、だからこそやる価値があるとも思い、その試みに乗ることにしたんです」と話す弟子丸氏。

最初は比較的簡単な文様から始めて、少しずつ精度をアップ。やがて細かな文様も描けるようになり、カラフルな薩摩切子の世界に、黒のラインが誕生しました。

通常は光を当て内側から外側の分割線を透かし見ます。

カラフルな薩摩切子に加わった黒の世界。

美の匠 ガラス工房 弟子丸今を生きる職人として薩摩切子の可能性を拓き、再興から進化の一翼を担う。

2つの工房で経験を積み、切子師として歩み始めて25年が過ぎた2011年。弟子丸氏は満を持して自身の工房『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げました。

弟子丸氏は、「薩摩びーどろ工芸も40名を超える大所帯となり落ち着いてきたので、これからは一人で自分の作品づくりを追求しようと、生まれ育った霧島に工房を構えました。また、どうせなら他の工房がやっていないようなことに取り組んでみようと、設立当初から新たな試みを展開していったのです」と言います。

そして1年目には、薩摩切子の廃材を活用したアクセサリーブランド『eco KIRI(エコキリ)』を、2年目には薩摩切子のステンドグラスを配したインテリアブランド『FUSION(フュージョン)』を発表。3年目には、霧島の地を拠点とする弟子丸氏ならではの視点で、豊かな霧島の自然を透明な世界で表現した『CLEAR LINE』と、『薩摩黒切子』をさらに昇華させ独自のニュアンスを加えた『BLACK LINE』から成る、『霧島切子』をリリースしました。

生地こそ古巣の工房から仕入れているものの、以降の割り付けからカット、磨きまでの工程は、全て自社の工房内で完結している『美の匠 ガラス工房 弟子丸』。弟子丸氏が一人で立ち上げて以降、年々志を同じくする者が集まり、今では16名の職人が在籍しています。弟子丸氏のような切子師に憧れて門を叩き修行に励む若手も多く、頼もしい後継者が着実に育っているのです。

「私たちは皆、伝統をトレースするだけに留まらない切子師をめざし、自ら高めた技法で、新たな価値を創造する道を歩んでいます。もちろん伝統技法を大切にしつつも、それらを時代の変化や現代のニーズに合わせて再解釈し、新しい作品を生み出しているんです」。そう語る弟子丸氏は、真っ直ぐに薩摩切子の未来を見つめています。

市内中心部から少し離れた住宅街に佇む工房。

廃材から作るアクセサリー『eco KIRI』のブローチなど。

『eco KIRI』用の極小パーツにも細かな文様を施す職人芸。

美しい透過光に酔いしれる『FUSION』のアートフレーム。

薩摩切子が輝く名刺入れは、革メーカーとのコラボ。

美の匠 ガラス工房 弟子丸灯してきた火を二度と絶やさぬよう守り、さらに大きく燃え上がらせる。

この道30余年の弟子丸氏が掲げるモットーは「炉火純青」。これは、炎が青色になると温度も最高に達するということから、技芸が最高の域に達することを意味する言葉です。

「切子師の生涯は、まさに“炉火純青”を追求する修練の路だと思うんです。どんなにキャリアを積んでも薩摩切子の表現を突き詰め、己の限界まで技を磨き続ける。だからこそ、世界に類を見ない煌めきを持つ薩摩切子が生まれ、人々を魅了し続けられるのだという信念を胸に、日々向き合っています」。

また、「幻となった薩摩切子が復活して早30年以上が経ち、国内での薩摩切子の認知度は高まっていますが、まだまだ。そのため、伝統と新しさを感じていただける作品を持って、全国の催事などに積極的に出向き、薩摩切子の世界を広めようと努めています。工房で行っている制作体験もそのひとつ。最終的には、日本はもとより、世界のガラス工芸史上で私たちの作品が評価されるようになれば嬉しいですね」と夢を語ります。

その技法を際限なく、極限まで高め創作し、「炉火純青」と称される最高点の煌めきを探求する。こうした現代の切子師たちの人生をかけた営みの果てに、かつてのムーブメント以上のものを感じさせる薩摩切子の未来が今、広がりを見せているのです。これからも『美の匠 ガラス工房 弟子丸』は、伝統を受け継ぐ魂とさらなる発展を目指すフロンティア精神で、伝統と革新に満ちた作品を生み出していきます。

住所:〒899-4304 鹿児島県霧島市国分清水1-19-27 MAP
電話:0995-73-6522
営業時間:9:30~18:00
定休日:日曜
http://deshimaru.jp/

鹿児島県霧島市出身。1985年に高校を卒業し、薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)へ入社。薩摩切子の復元に携わる。1994年には新たな環境を求め、薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に従事。同社で活躍した後、2011年に『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げた。薩摩切子の継承はもちろん、『霧島切子』や『eco KIRI』、『fusion』などオリジナルブランドも展開。従来の枠に捉われない作品づくりを行い、新しい薩摩切子の可能性を追い続けている。

未来志向で可能性を開拓し、歴史の再興から発展の立役者へ。[美の匠 ガラス工房 弟子丸/鹿児島県霧島市]

世界で愛される鹿児島ブランド、薩摩切子。

美の匠 ガラス工房 弟子丸

鹿児島県の中央部に位置する霧島市。霧島連山を筆頭に、豊かな自然に包まれたこの地に拠点を置くのが、弟子丸努氏率いる『美の匠 ガラス工房 弟子丸』です。
伝統工芸品である薩摩切子の技術を継承しつつ、新たな価値の創造にも取り組む同社。後編では、弟子丸氏の経歴や薩摩切子の製造工程と共に、薩摩切子づくりへの想いや今後の展望を聞きました。

▶前編は、薩摩切子の歴史と技法を守りつつ、新たな価値の創造に挑む。

『美の匠 ガラス工房 弟子丸』の代表兼切子師の弟子丸氏。

美の匠 ガラス工房 弟子丸社会人としてのスタートが、薩摩切子の新たな時代の幕開けとリンク。

鹿児島県霧島市は、鹿児島市に次ぎ県内で2番目に人口規模の大きい市。一方で市内中心部を離れると、雄大な霧島連山や、そのふもとから湧き出る湯で潤う霧島温泉郷、神話や伝説にまつわる高千穂峰や霧島神宮などが広がり、風光明媚な観光地としても賑わいを見せています。

そんな霧島市で生まれ育った弟子丸氏。高校卒業を控えて就職活動を始めようとしたタイミングで、薩摩切子と運命的な出合いを果たします。ちょうど卒業する1985年から、100余年の沈黙を経て薩摩切子の復元プロジェクトがスタートすることになったのです。そのために設立される薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)は、広く人材を募集。未経験の若者に対しても門戸が開かれました。

弟子丸氏は、「正直、この求人を見るまで、薩摩切子の存在は全く知りませんでした。ただ、子供の頃から工作などものづくりが好きだったので、何だか面白そうだと興味を持って。それから知れば知るほど、薩摩切子の美しさや、誕生から終焉までの歴史、そしてそれを再興しようという試みに強く惹かれ、やってみたい!と就職を決めました」と当時の想いを語ります。

こうして、18歳で薩摩切子の担い手として歩み始めることとなった弟子丸氏。同じく高校卒業したての若者から、ガラス工芸に携わっている者、江戸切子の職人まで、集まった十数名のスタッフで、薩摩切子の復元に挑みました。

まずは、わずかに残された当時の薩摩切子を実測しつつ、関連資料や写真、調査記録を読み解き、その特徴や工程、使用する工具の形状などを推測。必要な加工設備が整った工場作りを進めつつ、「薩摩の紅ガラス」と謳われた特徴的な紅色をはじめ、鮮やかな発色を再現、安定させるための色の研究も進められました。

試行錯誤の日々を振り返って弟子丸氏は、「ある程度の形になるまで、5年ぐらいはかかったと思います。私は素人からのスタートだったので、先輩方が削ったグラスを磨く作業から携わって。マニュアルがあるわけではないので、先輩の作業を見ながら、実際に自分の手を動かして経験しながら、体で覚えていきました」と話します。

厚い生地に多彩なカットを施し、磨き上げる。

美の匠 ガラス工房 弟子丸薩摩切子のものづくりは、いくつもの工程と職人技の結集。

薩摩切子の製造工程は、大きく生地作りとカット、そして仕上げの磨きに分けられます。まず、鉛を24~25%含む原料を調合し、高温の炉で泡のないきれいなガラスに熔融。その後、それぞれ別々の窯で水あめ状に溶融した透明ガラスと色ガラスを巻き取ったら、色被せと呼ばれる工程で重ね合わせることで2層の生地になります。最終的に型吹きという工程で成形したら、薩摩切子用の生地の完成です。

ここから先はカットの工程。始めに、施す文様に合わせて生地に分割線を引く割り付けを行います。その分割線を元に、高速回転するダイヤモンドホイールを使ってカット。この時の角度や深さで、薩摩切子特有の「ぼかし」が生まれます。

そして、最後は磨きの作業。まずは水で溶いてペースト状にした磨き粉をつけ、回転する青桐の円盤やセリウム盤で全体を磨きます。続いて、竹の繊維でできた円盤を回転させて、細かいカット部分の磨き。仕上げに、回転する布製の円盤と水で溶いた艶粉を用い、くもりのない鏡面に磨き上げます。

「全ての工程に高い技術が求められますが、やはり最も難しいのは要となるカットです。割り付けはあくまでも文様の配置目安でしかなく、分割線の中に描く文様自体の下書きはありませんから。ラインを一本入れるにしても、ホイールにどれぐらいの角度、強さ、長さで当てるかは感覚的なもので、経験を積むことでしか得られない技術です」と弟子丸氏。
手仕事とは思えない正確さで、均一な太さのラインを刻み、バランスのとれた文様を描くのは、まさに熟練の職人だからこそ成せる技なのです。

文様の配置が記された割り付けの指示書。

指示書を元に、生地に分割線を引いていきます。

文様に合わせ、様々な大きさ、太さのホールでカット。

3種類の円盤を使い分けて行われる磨きの作業。

美の匠 ガラス工房 弟子丸かつて存在したものの復元から、現代的な新しいものづくりへと発展。

薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)で薩摩切子の復元に従事し、切子師としての経験を積み上げていった弟子丸氏。入社から9年後の1994年には、薩摩切子の新たな工房となる薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に携わり、移籍しました。

弟子丸氏曰く、「それまでは、歴史ある薩摩切子を忠実に復元することが目標であり、その実現のために邁進してきました。それがかなった時、今度は自分たちらしい薩摩切子を作ってみたいと思うようになって。新しい工房ができることになりました」。

新工房では、伝統的な薩摩切子の器も手がけつつ、例えば大きな花瓶を作ってみたり、依頼を受けてゴルフ大会に使われるトロフィーを作ってみたり。時代に合わせた、今求められる薩摩切子の作品づくりを進めていきました。

中でも最も大きな取り組みは、2006年に携わった『薩摩黒切子』の開発。紅、藍、紫、緑、金赤、黄と色とりどりな薩摩切子の伝統色にはない、黒の薩摩切子への挑戦です。

「薩摩切子はカットの際、周りから光を当てて、外側に引かれた分割線を内側から透かし見て削り進めているんです。ところが、黒ガラスは透過性が低いので、内側から外側の分割線が見えづらく、かなり感覚に頼る部分が大きくなるんですよね。最初に黒切子を作ってみないかと言われた時は、そんな難しいこと無理だろうと感じました。でも、だからこそやる価値があるとも思い、その試みに乗ることにしたんです」と話す弟子丸氏。

最初は比較的簡単な文様から始めて、少しずつ精度をアップ。やがて細かな文様も描けるようになり、カラフルな薩摩切子の世界に、黒のラインが誕生しました。

通常は光を当て内側から外側の分割線を透かし見ます。

カラフルな薩摩切子に加わった黒の世界。

美の匠 ガラス工房 弟子丸今を生きる職人として薩摩切子の可能性を拓き、再興から進化の一翼を担う。

2つの工房で経験を積み、切子師として歩み始めて25年が過ぎた2011年。弟子丸氏は満を持して自身の工房『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げました。

弟子丸氏は、「薩摩びーどろ工芸も40名を超える大所帯となり落ち着いてきたので、これからは一人で自分の作品づくりを追求しようと、生まれ育った霧島に工房を構えました。また、どうせなら他の工房がやっていないようなことに取り組んでみようと、設立当初から新たな試みを展開していったのです」と言います。

そして1年目には、薩摩切子の廃材を活用したアクセサリーブランド『eco KIRI(エコキリ)』を、2年目には薩摩切子のステンドグラスを配したインテリアブランド『FUSION(フュージョン)』を発表。3年目には、霧島の地を拠点とする弟子丸氏ならではの視点で、豊かな霧島の自然を透明な世界で表現した『CLEAR LINE』と、『薩摩黒切子』をさらに昇華させ独自のニュアンスを加えた『BLACK LINE』から成る、『霧島切子』をリリースしました。

生地こそ古巣の工房から仕入れているものの、以降の割り付けからカット、磨きまでの工程は、全て自社の工房内で完結している『美の匠 ガラス工房 弟子丸』。弟子丸氏が一人で立ち上げて以降、年々志を同じくする者が集まり、今では16名の職人が在籍しています。弟子丸氏のような切子師に憧れて門を叩き修行に励む若手も多く、頼もしい後継者が着実に育っているのです。

「私たちは皆、伝統をトレースするだけに留まらない切子師をめざし、自ら高めた技法で、新たな価値を創造する道を歩んでいます。もちろん伝統技法を大切にしつつも、それらを時代の変化や現代のニーズに合わせて再解釈し、新しい作品を生み出しているんです」。そう語る弟子丸氏は、真っ直ぐに薩摩切子の未来を見つめています。

市内中心部から少し離れた住宅街に佇む工房。

廃材から作るアクセサリー『eco KIRI』のブローチなど。

『eco KIRI』用の極小パーツにも細かな文様を施す職人芸。

美しい透過光に酔いしれる『FUSION』のアートフレーム。

薩摩切子が輝く名刺入れは、革メーカーとのコラボ。

美の匠 ガラス工房 弟子丸灯してきた火を二度と絶やさぬよう守り、さらに大きく燃え上がらせる。

この道30余年の弟子丸氏が掲げるモットーは「炉火純青」。これは、炎が青色になると温度も最高に達するということから、技芸が最高の域に達することを意味する言葉です。

「切子師の生涯は、まさに“炉火純青”を追求する修練の路だと思うんです。どんなにキャリアを積んでも薩摩切子の表現を突き詰め、己の限界まで技を磨き続ける。だからこそ、世界に類を見ない煌めきを持つ薩摩切子が生まれ、人々を魅了し続けられるのだという信念を胸に、日々向き合っています」。

また、「幻となった薩摩切子が復活して早30年以上が経ち、国内での薩摩切子の認知度は高まっていますが、まだまだ。そのため、伝統と新しさを感じていただける作品を持って、全国の催事などに積極的に出向き、薩摩切子の世界を広めようと努めています。工房で行っている制作体験もそのひとつ。最終的には、日本はもとより、世界のガラス工芸史上で私たちの作品が評価されるようになれば嬉しいですね」と夢を語ります。

その技法を際限なく、極限まで高め創作し、「炉火純青」と称される最高点の煌めきを探求する。こうした現代の切子師たちの人生をかけた営みの果てに、かつてのムーブメント以上のものを感じさせる薩摩切子の未来が今、広がりを見せているのです。これからも『美の匠 ガラス工房 弟子丸』は、伝統を受け継ぐ魂とさらなる発展を目指すフロンティア精神で、伝統と革新に満ちた作品を生み出していきます。

住所:〒899-4304 鹿児島県霧島市国分清水1-19-27 MAP
電話:0995-73-6522
営業時間:9:30~18:00
定休日:日曜
http://deshimaru.jp/

鹿児島県霧島市出身。1985年に高校を卒業し、薩摩ガラス工芸株式会社(現・株式会社島津興業)へ入社。薩摩切子の復元に携わる。1994年には新たな環境を求め、薩摩びーどろ工芸株式会社の設立に従事。同社で活躍した後、2011年に『美の匠 ガラス工房 弟子丸』を立ち上げた。薩摩切子の継承はもちろん、『霧島切子』や『eco KIRI』、『fusion』などオリジナルブランドも展開。従来の枠に捉われない作品づくりを行い、新しい薩摩切子の可能性を追い続けている。

小林紀晴 秋の写真紀行「記憶の螺旋」。

 私はまた大内宿に向かった。そして、また高遠蕎麦を食した。この地を訪れるのは4回目で、すべての季節に訪れ、高遠蕎麦も4回食べたことになる。東京ではまだ秋の始まりだったが、すでにここは秋の只中という気配で、肌寒く、紅葉もかなり進んでいた。

 蕎麦を食べたあと、一軒のカフェに向かった。
 茶房やまだ屋
 大内宿の奥まった場所にあり、築400年ほどの茅葺き屋根の古民家の内を改装したモダンな造りだ。最初に目に入ったのは頭上にあるふたつの神棚。
 店主である男性にお会いした。諸岡泰之さん。冬に訪れたときに、会津若松の別の珈琲豆専門店にお客さんとして来ていたところを偶然お会いしたのがきっかけだ。ご自身は埼玉県の生まれだが、お母さんがここ大内宿の出身で、お母さんが実家を継ぐことになったため一緒に移り住み、共にカフェを始めたのだとそのとき伺った。

 この日の珈琲のメニューは新潟の雪室珈琲。雪を活用した「雪室」で低温熟成されたものだという。まずはその一杯をいただいた。雑味のないすっきりとした味わいで、低温熟成による効果だという。
 山田さんにとって大内宿は幼い頃から時々母に連れられて訪れる場所ではあったが、あくまで母の実家であり、自分にとっての故郷ではない。そんな彼にはこの地はどう映っているのだろうか。興味があった。
「移り住んで、一番印象的なことを教えてください」
「時間の流れが違います。こっちに来て気がついたのですが、東京は時間が直線的だと思います。それに対してここはコイル状というか……」
「コイル状?」
「同じところをグルグルと回りながら時間が積み重なっていく感じです。ここでは変わらないことが大事というか、いかに過去と同じことを継続するかが大事なのです」
「変わらないこと……」
「はい、去年と何も変わっていないことがとても大切なのです」
 私は帰りがけに、店内の雑貨コーナーで見つけたコーヒーカップを手に取った。いくつか並んだなかのひとつが気になった。上に向かって広がった側面にいくつもの家が描かれている。赤い屋根が印象的だ。ほんわかとした気持ちにさせてくれる。私は迷うことなくそれを購入することにした。会津本郷の窯場のひとつ、樹ノ音工房で作られたものだという。

 夕飯をとるために入った会津田島駅近くの居酒屋には、意外にも馬刺しがメニューにあった。会津で馬刺しを食べるという発想はまったくなかったので、不思議に思って店の人に訊ねると「会津には馬刺しを食べる文化」があるという。即座に注文した。出てきた馬刺しはいくつかの部位の盛り合わせで、どれも美味だった。
 私はまったく食通ではないし、食べ物にうるさくもなく、こだわりもたいしてないのだが、馬刺しには少しばかりうるさい。単純に子供の頃からよく食べてきたからだ。長野県の生まれだが伝統的に馬刺しを食べる習慣があり、お盆や正月などに食す。
 東京でも時折、居酒屋などでメニューに馬刺しを見つけると懐かしさから頼むことがあるのだけど、がっかりすることのほうが多いのも確か。半分凍っている状態で出されるからだ。
 ちなみに東京に戻ってから会津の馬刺しについて調べてみると、意外にもプロレスラーの力道山が関係しているという記事を見つけて驚いた。そもそも会津で馬肉を食べるようになったのは、戊辰戦争のときに傷ついた者たちに栄養を取らせるためだったようだ。ただ、生肉を食べることはなかった。それが昭和30年代に力道山がプロレスの興行で会津若松に来た際に、店先に馬肉があるのを見つけ、持参したタレにつけて食した。それがこの地の馬刺し文化の始まりだという。かなり劇的だ。
 ふと彼の顔が浮かぶ。名前はなんといっただろうか。名字は思い出せるのだが名前が思い出せない。小学校の同級生は常に下の名前で読んでいたのだから、その逆だったら理解できるのだが、どうしてだろうか。
 あれは小学3年生か4年生のときだったはずだ。登校途中、あとほんの少しで学校の下駄箱というところで、背後から急に声をかけられた。振り向くと彼が立っていて、ニヤニヤしながら手を顔の前にかざした。手首に白いものが見えた。包帯のようだった。
「どうしたのだ? それ」
「捻挫した」

「運動会で転んだ……家に帰ったら痛くなって……」
 おとといが運動会で昨日はその代休だったから、一日ぶりの再会だった。いつ転んだのだろうか。少なくとも彼がかけっこで転んだところは見ていない。
「包帯のなか、何が入っているかわかる、け?」
 彼はまたニヤニヤした。言っている意味が理解できなかった。包帯は包帯だろうと思ったからだ。
「こんなか、馬刺しがへえってるだぞ」
「バサシ?」
「ああ」
「バサシって、あの食べる馬刺し?」
「ほうだよ」
「……」
「驚いたけ?」
 私は頷かなかった。
「馬刺しは熱を取るだ」
 なんてつまらない嘘をつくのだろう。そんな必要があるのだろうか。包帯の下は湿布だろう。
 彼の席は私の斜め前の席で、授業中、机の上に載った白い包帯が巻かれた腕がよく見えた。時折、包帯に反対の手の指を伸ばし、次にそれを口元にそっともっていくのがわかった。何かを包帯のあいだからつまみ出し、食べているかのように映った。

 もう少し飲みたくてふらふらと歩き、駅前からほんの少しだけ離れたところにある小さなバーに吸い込まれるように入った。カウンターがメインのお店で、通りからはガラス張りのドアの向こうにそれが見えた。
 実は冬に来たときも、このお店の前を通りかかった。以前から気になっていたのだ。そのときも同じように夕飯を終えて宿に戻る途中だった。足下の路面は凍りついていた。だから慎重に歩いていたのだが、ガラス越しにぼんやりとした明かりが見え、カウンターでグラスを傾けている人の姿があった。そこだけ違う時間が流れているように感じられ、ふと雪でつくられたカマクラのなかで人々がお酒を酌み交わしているかのような印象をおぼえた。
 いま季節は大きく違う。夏にも思ったのだが、同じ場所とは思えない。風景が更新されている。

 私は大人になるまで、彼が言った「馬刺しは熱を取る」という言葉を信じていなかったし、それ以前にすっかりそのことは忘れていた。それが、あるときテレビを見ていて、遠い記憶と結びつく瞬間があった。上京した後のことだ。
 ニュース番組のスポーツコーナーに出演したあるプロ野球選手が「馬刺しは熱を取ります」と発言したのだ。どこかで似たようなことを聞いたことがある気がしたが、なかなか思い出せなかった。いつ、どこで、誰が言ったことだっただろうかとしばらく考え、やがて、ああ、あのときの彼の言葉だと思い当たったのだ。
 テレビ画面の向こうのプロ野球は腕の炎症を押さえるために「馬刺しを貼っている」と口にした。

 東京で私はたいがい二軒目の店ではメニューも見ずにモヒートを注文することにしている。その癖で同じようにモヒートを注文したのだが、残念ながらなかった。モヒートにはミントが欠かせないのだが、このあたりではカクテルを扱う店が少なく簡単に手に入らないという。おそらく手に入ったとしても、かなり高価になってしまうのだろう。
 カウンターの向こうの男性から説明を受けて、なんだか申し訳ない気持ちになった。似たような理由でライムも最近までなかなか手に入らなかったのが、ここ最近はスーパーにも置いてくれるようになったという。
 こんな時に、いつの間にか染みついてしまった東京中心の意識を全国共通と考えている自分に気づく。
 
「あたらしい靴を午後、下ろしちゃいけないって、いいますか?」
 カウンターの向こうの男性が言った。
「いえ……初めて聞きました。ということは、新しいスニーカーを買ったら必ず午前中に出かけるということですか?」
「はい」
「もし午後、初めて履いて出かけるとなったら?」
「鍋ブタをつけて、下ろします」
「鍋ブタ?」
「はい。大人になったいまでも、それは気になっていて、必ずそうしています」
 私は二杯目のジントニックを注文した。すると急に「馬刺しが熱を取るって知っていますか?」と訊ねてみたくなった。
 こんな時間や会話が私は好きだ。だから、人は深夜にグラスが載ったカウンターに向かうのかもしれない。グラスの縁を巡る想像と連想の旅をするために。
 翌日、思い立ち、私は茶房やまだ屋で購入した珈琲カップの窯元である会津本郷の樹ノ音工房を訪ねた。調べてみると樹ノ音工房には小売をするお店とカフェがあるようだった。平日だったためカフェは残念ながら閉まっていたが(週末のみオープン)、お店はしっかり開いていた。佐藤大寿・朱音さん夫妻が営んでいる工房だ。
 そもそも会津本郷焼は明治時代には窯元が100軒ほどあったのが、現在は13軒に減っているとういう。大寿さんはその一軒に生まれた。つまり後を継いだことになる。
 私が購入したカップは朱音さんが作ったもので、大寿さんが作ったものとは大きく作風が違った。そのことを着いてから知った。
「このカップに描かれた家にモデルはあるのですか?」
 私は自分が買ったカップのモチーフである屋根がどこから来ているのか、由来があるとしたら、それを知りたかった。
「子供の頃、絵本が好きでした。そのなかに『ちいさいおうち』という絵本があって、それを何度も何度も読みました。その世界観とフォルムがもとになっているのだと思います」 
 そうか、そういうことか。よいことを聞いた。ものにストーリーが付随すると、さっきまでとは大きく違って見えることがある。その体験のひとつとなった。

 力道山は果たして、馬刺しを湿布がわりに身体に貼ったことはあるのだろうか。そもそも、本当に力道山が会津の「馬刺し文化」をつくったのだろうか。
 確かめるべき新たな課題ができた。
 想像と連想は続く。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。

小林紀晴 秋の写真紀行「記憶の螺旋」。

 私はまた大内宿に向かった。そして、また高遠蕎麦を食した。この地を訪れるのは4回目で、すべての季節に訪れ、高遠蕎麦も4回食べたことになる。東京ではまだ秋の始まりだったが、すでにここは秋の只中という気配で、肌寒く、紅葉もかなり進んでいた。

 蕎麦を食べたあと、一軒のカフェに向かった。
 茶房やまだ屋
 大内宿の奥まった場所にあり、築400年ほどの茅葺き屋根の古民家の内を改装したモダンな造りだ。最初に目に入ったのは頭上にあるふたつの神棚。
 店主である男性にお会いした。諸岡泰之さん。冬に訪れたときに、会津若松の別の珈琲豆専門店にお客さんとして来ていたところを偶然お会いしたのがきっかけだ。ご自身は埼玉県の生まれだが、お母さんがここ大内宿の出身で、お母さんが実家を継ぐことになったため一緒に移り住み、共にカフェを始めたのだとそのとき伺った。

 この日の珈琲のメニューは新潟の雪室珈琲。雪を活用した「雪室」で低温熟成されたものだという。まずはその一杯をいただいた。雑味のないすっきりとした味わいで、低温熟成による効果だという。
 山田さんにとって大内宿は幼い頃から時々母に連れられて訪れる場所ではあったが、あくまで母の実家であり、自分にとっての故郷ではない。そんな彼にはこの地はどう映っているのだろうか。興味があった。
「移り住んで、一番印象的なことを教えてください」
「時間の流れが違います。こっちに来て気がついたのですが、東京は時間が直線的だと思います。それに対してここはコイル状というか……」
「コイル状?」
「同じところをグルグルと回りながら時間が積み重なっていく感じです。ここでは変わらないことが大事というか、いかに過去と同じことを継続するかが大事なのです」
「変わらないこと……」
「はい、去年と何も変わっていないことがとても大切なのです」
 私は帰りがけに、店内の雑貨コーナーで見つけたコーヒーカップを手に取った。いくつか並んだなかのひとつが気になった。上に向かって広がった側面にいくつもの家が描かれている。赤い屋根が印象的だ。ほんわかとした気持ちにさせてくれる。私は迷うことなくそれを購入することにした。会津本郷の窯場のひとつ、樹ノ音工房で作られたものだという。

 夕飯をとるために入った会津田島駅近くの居酒屋には、意外にも馬刺しがメニューにあった。会津で馬刺しを食べるという発想はまったくなかったので、不思議に思って店の人に訊ねると「会津には馬刺しを食べる文化」があるという。即座に注文した。出てきた馬刺しはいくつかの部位の盛り合わせで、どれも美味だった。
 私はまったく食通ではないし、食べ物にうるさくもなく、こだわりもたいしてないのだが、馬刺しには少しばかりうるさい。単純に子供の頃からよく食べてきたからだ。長野県の生まれだが伝統的に馬刺しを食べる習慣があり、お盆や正月などに食す。
 東京でも時折、居酒屋などでメニューに馬刺しを見つけると懐かしさから頼むことがあるのだけど、がっかりすることのほうが多いのも確か。半分凍っている状態で出されるからだ。
 ちなみに東京に戻ってから会津の馬刺しについて調べてみると、意外にもプロレスラーの力道山が関係しているという記事を見つけて驚いた。そもそも会津で馬肉を食べるようになったのは、戊辰戦争のときに傷ついた者たちに栄養を取らせるためだったようだ。ただ、生肉を食べることはなかった。それが昭和30年代に力道山がプロレスの興行で会津若松に来た際に、店先に馬肉があるのを見つけ、持参したタレにつけて食した。それがこの地の馬刺し文化の始まりだという。かなり劇的だ。
 ふと彼の顔が浮かぶ。名前はなんといっただろうか。名字は思い出せるのだが名前が思い出せない。小学校の同級生は常に下の名前で読んでいたのだから、その逆だったら理解できるのだが、どうしてだろうか。
 あれは小学3年生か4年生のときだったはずだ。登校途中、あとほんの少しで学校の下駄箱というところで、背後から急に声をかけられた。振り向くと彼が立っていて、ニヤニヤしながら手を顔の前にかざした。手首に白いものが見えた。包帯のようだった。
「どうしたのだ? それ」
「捻挫した」

「運動会で転んだ……家に帰ったら痛くなって……」
 おとといが運動会で昨日はその代休だったから、一日ぶりの再会だった。いつ転んだのだろうか。少なくとも彼がかけっこで転んだところは見ていない。
「包帯のなか、何が入っているかわかる、け?」
 彼はまたニヤニヤした。言っている意味が理解できなかった。包帯は包帯だろうと思ったからだ。
「こんなか、馬刺しがへえってるだぞ」
「バサシ?」
「ああ」
「バサシって、あの食べる馬刺し?」
「ほうだよ」
「……」
「驚いたけ?」
 私は頷かなかった。
「馬刺しは熱を取るだ」
 なんてつまらない嘘をつくのだろう。そんな必要があるのだろうか。包帯の下は湿布だろう。
 彼の席は私の斜め前の席で、授業中、机の上に載った白い包帯が巻かれた腕がよく見えた。時折、包帯に反対の手の指を伸ばし、次にそれを口元にそっともっていくのがわかった。何かを包帯のあいだからつまみ出し、食べているかのように映った。

 もう少し飲みたくてふらふらと歩き、駅前からほんの少しだけ離れたところにある小さなバーに吸い込まれるように入った。カウンターがメインのお店で、通りからはガラス張りのドアの向こうにそれが見えた。
 実は冬に来たときも、このお店の前を通りかかった。以前から気になっていたのだ。そのときも同じように夕飯を終えて宿に戻る途中だった。足下の路面は凍りついていた。だから慎重に歩いていたのだが、ガラス越しにぼんやりとした明かりが見え、カウンターでグラスを傾けている人の姿があった。そこだけ違う時間が流れているように感じられ、ふと雪でつくられたカマクラのなかで人々がお酒を酌み交わしているかのような印象をおぼえた。
 いま季節は大きく違う。夏にも思ったのだが、同じ場所とは思えない。風景が更新されている。

 私は大人になるまで、彼が言った「馬刺しは熱を取る」という言葉を信じていなかったし、それ以前にすっかりそのことは忘れていた。それが、あるときテレビを見ていて、遠い記憶と結びつく瞬間があった。上京した後のことだ。
 ニュース番組のスポーツコーナーに出演したあるプロ野球選手が「馬刺しは熱を取ります」と発言したのだ。どこかで似たようなことを聞いたことがある気がしたが、なかなか思い出せなかった。いつ、どこで、誰が言ったことだっただろうかとしばらく考え、やがて、ああ、あのときの彼の言葉だと思い当たったのだ。
 テレビ画面の向こうのプロ野球は腕の炎症を押さえるために「馬刺しを貼っている」と口にした。

 東京で私はたいがい二軒目の店ではメニューも見ずにモヒートを注文することにしている。その癖で同じようにモヒートを注文したのだが、残念ながらなかった。モヒートにはミントが欠かせないのだが、このあたりではカクテルを扱う店が少なく簡単に手に入らないという。おそらく手に入ったとしても、かなり高価になってしまうのだろう。
 カウンターの向こうの男性から説明を受けて、なんだか申し訳ない気持ちになった。似たような理由でライムも最近までなかなか手に入らなかったのが、ここ最近はスーパーにも置いてくれるようになったという。
 こんな時に、いつの間にか染みついてしまった東京中心の意識を全国共通と考えている自分に気づく。
 
「あたらしい靴を午後、下ろしちゃいけないって、いいますか?」
 カウンターの向こうの男性が言った。
「いえ……初めて聞きました。ということは、新しいスニーカーを買ったら必ず午前中に出かけるということですか?」
「はい」
「もし午後、初めて履いて出かけるとなったら?」
「鍋ブタをつけて、下ろします」
「鍋ブタ?」
「はい。大人になったいまでも、それは気になっていて、必ずそうしています」
 私は二杯目のジントニックを注文した。すると急に「馬刺しが熱を取るって知っていますか?」と訊ねてみたくなった。
 こんな時間や会話が私は好きだ。だから、人は深夜にグラスが載ったカウンターに向かうのかもしれない。グラスの縁を巡る想像と連想の旅をするために。
 翌日、思い立ち、私は茶房やまだ屋で購入した珈琲カップの窯元である会津本郷の樹ノ音工房を訪ねた。調べてみると樹ノ音工房には小売をするお店とカフェがあるようだった。平日だったためカフェは残念ながら閉まっていたが(週末のみオープン)、お店はしっかり開いていた。佐藤大寿・朱音さん夫妻が営んでいる工房だ。
 そもそも会津本郷焼は明治時代には窯元が100軒ほどあったのが、現在は13軒に減っているとういう。大寿さんはその一軒に生まれた。つまり後を継いだことになる。
 私が購入したカップは朱音さんが作ったもので、大寿さんが作ったものとは大きく作風が違った。そのことを着いてから知った。
「このカップに描かれた家にモデルはあるのですか?」
 私は自分が買ったカップのモチーフである屋根がどこから来ているのか、由来があるとしたら、それを知りたかった。
「子供の頃、絵本が好きでした。そのなかに『ちいさいおうち』という絵本があって、それを何度も何度も読みました。その世界観とフォルムがもとになっているのだと思います」 
 そうか、そういうことか。よいことを聞いた。ものにストーリーが付随すると、さっきまでとは大きく違って見えることがある。その体験のひとつとなった。

 力道山は果たして、馬刺しを湿布がわりに身体に貼ったことはあるのだろうか。そもそも、本当に力道山が会津の「馬刺し文化」をつくったのだろうか。
 確かめるべき新たな課題ができた。
 想像と連想は続く。

(supported by 東武鉄道

1968年長野県生まれ。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。新聞社にカメラマンとして入社。1991年独立。アジアを多く旅し作品を制作。2000~2002年渡米(N.Y.)。写真制作のほか、ノンフィクション・小説執筆など活動は多岐に渡る。東京工芸大学芸術学部写真学科教授、ニッコールクラブ顧問。著書に「ASIAN JAPANESE」「DAYS ASIA」「days new york」「旅をすること」「メモワール」「kemonomichi」「ニッポンの奇祭」「見知らぬ記憶」。