@adidasfun
「まぐろが危ない!」。各界を代表するゲストが会し、まぐろの未来を本気で語り合った1日に迫る![まぐろミーティング vol.1/東京都中央区]
まぐろミーティング vol.1今から考えても遅くない! 太平洋クロマグロを救うのに何ができる!?
去る10月21日、築地で『まぐろミーティング vol.1』という名のイベントが、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の協力のもと密かに開催されました。ゲストとして登場する面々は、『すきやばし次郎』の小野禎一氏、『カンテサンス』の岸田周三氏、『一般社団法人 Chefs for the Blue』理事の佐々木ひろこ氏、タベアルキストのマッキー牧元氏、さらに、豊洲市場から『株式会社フジタ水産』の代表取締役・藤田浩毅氏、大間のまぐろ漁師の南芳和氏といった各界を代表する顔ぶれ。そんなゲストが一堂に会し、一体何が行われるのでしょうか? まぐろのうまい食べ方でも討論されるイベントかと思えば、事態はもっと深刻なものでした。
「太平洋クロマグロ(近海本まぐろ)が、危機に瀕している」
「寿司屋から本まぐろが消える日がくるかもしれない」
にわかに信じがたいそんなことを本気で語り合うのが、今回のイベントの趣旨でした。そのことを世に訴え、まぐろの未来を皆で考えようと『日本の魚を考える会』が先頭に立ち、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の協力のもと企画した今回のイベント。前述したゲストも皆、その危機に立ち向かおうと、登壇を決めた方々でした。
日本の食文化の一角を担う、まぐろがなくなる? まさか、そんなこと…。と、はじめは半信半疑だった取材班も、話を聞くにつれ、次第に考えが変わりました。大学教授が示したデータに目を疑い、漁師や仲卸など、まぐろと密接に関わる現場の訴えに悲壮感を覚え、料理人の声に焦りを募らせ、他人事ではないことを強く実感。たどり着いた答えは、日本人が本気でまぐろの未来について考えるのは、今しかないということ。
寿司屋から、日本の食文化から、まぐろが消えて無くなる前に…。
まぐろミーティング vol.1東京海洋大学・勝川教授が示した、太平洋クロマグロのデータ。会場に衝撃が走る!
今回、『日本の魚を考える会』が主催となり、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の協力のもと開催された「まぐろミーティング vol.1」。イベントは4つのプログラムで構成され、各界を代表して招かれたゲストたちが、それぞれの置かれた立場から、危機に瀕する太平洋クロマグロについて、その見識や経験を交えて問題提起をする機会となりました。
その先陣を切ったのが、東京海洋大学准教授・勝川俊雄氏。モデレーターは、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の理事で、フードジャーナリストの佐々木ひろこ氏が務め、イベントは幕を開けました。そこでいきなり、取材班は近海本まぐろの危機的現実を叩きつけられることになったのです。
太平洋まぐろ類国際科学委員会の出した報告書では、太平洋クロマグロ(近海本マグロ)の資源量は乱獲により過去最低レベルまでに落ちこみ、漁業が始まる以前の推定初期魚量に対して95%以上も減少したと言われています。
そして勝川氏が問題視するのは、産卵期における太平洋クロマグロの巻き網漁の漁獲だといいます。太平洋クロマグロは、その習性からある一定の温度帯の海水域でしか産卵せず、回遊魚でありながら、その産卵場所は日本の排他的海水域である、日本海と南西諸島の2箇所でしか産卵しないのです。そうして一堂に集まってくる太平洋クロマグロを、日本の漁船は産卵場で待ち構えるのです。
「巻き網は、群れになった魚を網でぐるりと巻いて、まさに一網打尽にできるため、効率が良い一方で、乱獲につながりやすい危険性もあるんです」
そこにモデレーターの佐々木氏が続きます。
「漁師が一本一本丁寧に処理する一本釣りやはえ縄漁と違い、一度にトン単位の魚が獲れる巻き網漁では、すぐに血抜きや神経締めができません。魚にとってはストレスのかかる状況で、太平洋クロマグロの体温も40度近くまで上がり、品質は一気に低下する。いわゆる身焼けをおこしてしまうのです」
さらにいえば、産卵期のまぐろは栄養が卵へといくため、身質はよくないと、勝川氏は説明してくれます。当然、そうして水揚げされた太平洋クロマグロは、市場で売れ残ることが多く、スーパーや回転寿司店などへと安く叩き売られることになります。問題は、ここまで資源が減少しているさなか、このように卵をはらんだ母まぐろが薄利多売されていることなのだと、勝川氏は提起してくれました。
それだけでなく、勝川氏は、漁獲量の減少、漁の種類、まぐろの幼魚(ヨコワ)を獲らずに6年後に漁獲した場合のメリットなどを、さまざまなデータと資料をもとに解説。太平洋クロマグロのおかれた現状を深掘りしてくれました。
まぐろミーティング vol.1資料から紐解いた危機感を、卸商と仲卸、漁師の3者が現場目線で説く。
そして、太平洋クロマグロについては現場目線からの声を聞き、さらなる深刻さを痛感することになります。大間のマグロ卸商である『株式会社魚忠』の新田忠明氏、豊洲市場のマグロ仲卸『株式会社フジタ水産』の藤田浩毅氏、大間でまぐろを一本釣りする漁師・南芳和氏の3名が登壇し、太平洋クロマグロの現状を、自らの仕事を通しての実感値で語ってくれました。
まず、新田氏からは、今年の卸値について。
「今年は最初からとんでもない価格から始まっていた。上はキロ2万円まで達し、その一方で下はキロ3,000円もあったりと。その差が大きすぎて、現場はますます混乱してしまっている状況ですね」
その説明に同じ反応を示すのが南氏で、「自分はただただ、一本釣りが好きで漁師を続けてきました。漁に出て、やって、やって、やりきって、どれだけいいまぐろを釣れるか。それが楽しかったし、この仕事のやりがい。ですが、いまは漁獲規制※の枠が少ない分、価格を気にしないといけない時代になってしまいました」
※2018年より成魚(30kg以上)の漁獲制限が導入されましたが、その内訳はというと、大中巻き網業者に全体の7割、一本釣りやはえ縄漁師など圧倒的に数の多い沿岸漁業者に3割。大中巻き網業者に対して圧倒的に少ない配分のため、沿岸まぐろ漁業者の生活は逼迫しているそうです。
一方で、藤田氏の口からは、豊洲市場での仲卸の立場としてこんな意見も。
「SNS全盛の時代で、いろんな情報が入ってくると思うのですが、目と耳で食べる人が多すぎて、『しっかり自分の舌で味わってほしい』ということをすごく思っています」といい、それがマグロの高騰にもつながっているのではないかと説きます。
「『サシがいっぱい入っている』とか『1番高いから』という情報が好きな人も実際たくさんいる。けれど、それが美味しいかといったら、必ずしもそうではない。脂ののりが味を決めるわけではなく、脂ののりは味を決める要素のひとつ。高いからいいわけでもありません」
自分でまぐろを味わって、本物の味を知ること。情報だけに流されず、味わい、知ることが、高騰が続く現状を打破する策のひとつにもなるのだと力を込めました。
次なる登壇者は遠洋まぐろのはえ縄漁業を営む『株式会社 臼福本店』の臼井壯太朗氏。一度は激減し、絶滅危惧種に指定された大西洋クロマグロの復活例を引き合いに、氏もまた、これから日本が取り組むべき課題をこうまとめていました。
「ヨーロッパでは、サステナブルな魚を選ぶ時代になっている。日本の消費者の価値観を変えていきたい。養殖のほうが手軽に食べられるとされるけれど、実はサステナブルとは言えない点が多い。そういう知識を持つことが、次世代へつなげることになる」
そこには様々な問題やしがらみがあることも承知の上で、こうした場でまぐろのおかれた現状を知った人たちが裾野から少しずつ情報を伝え広めていくことが、今後の鍵を握るとも話してくれました。
まぐろミーティング vol.1極上のまぐろに出会えるのは年に数本。30年前との激変ぶり!
最後のゲストは、寿司屋とフレンチを代表する2店からお二人が登場。『すきやばし次郎』小野禎一氏と三ツ星フレンチ『カンテサンス』岸田周三氏が登壇しました。モデレーターは、タベアルキストのマッキー牧元氏が務め、料理人、ジャーナリストの立場からの見解を示すことに。その中で小野氏は、ここ5年ぐらいで急激にまぐろを取り巻く状況が悪化したと嘆きます。
「30年くらい前は、毎日河岸に行って、好きな部位を好きなだけ買えるほどあったと、父(小野二郎氏)に聞いています。自分が河岸に行くうようになったのが25年ほど前で、その時はすでにいいまぐろと出会えなくなった日もちらほら出てきました」
そして、「それが“嫌な予感”となったのはいつぐらいですか」とのマッキー牧元氏の問にはこう答えます。
「15年くらい前からですね。そうしてだんだん少なくなって、ここ5年で急にいいまぐろは姿を消し始めた。いまは『これは素晴らしい!』というまぐろに出会えるのは、年に2、3本だけ」なのだそうです。
一方、岸田氏は、自らのレストランでまぐろを使うことはありませんが、太平洋クロマグロの置かれる状況については、料理人として真剣に向き合うべき課題だともいいます。
「私自身、まぐろに限らず、『魚の質が全体的に下がってきているな』という感覚はありました。2年くらい前に初めてまぐろの状況を佐々木(ひろこ)さんに聞いて、自分なりに勉強していくと、その中でもやはりまぐろはとくに危機的状況にあるんだなと実感したところです」といいます。
続いて、マッキー牧元氏が「これは小野二郎さんから聞いた話ですが」と前置きをし、
「いいまぐろを知っている客が少なくなって、それは言葉でしか伝えられなくなっていくのではないか」とも話してくれました。本物のまぐろの味が伝聞でしか知り得なくなるかもしれない。そんな状況までまぐろは追い込まれているのです。
まぐろミーティング vol.1問題提起で終わらない。知ってもらうことがまぐろの未来を救う第一歩に。
それぞれがそれぞれの立場で、太平洋クロマグロの危機的状況を説いてくれた今回の『まぐろミーティング vol.1』。しかし、これは単なる問題提起にしか過ぎません。これが何かを解決するものでもありません。これは解決のための第一歩なのです。
かつて大西洋クロマグロが絶滅の危機から復活した事例をみても、太平洋クロマグロの漁獲規制を整備していけば、問題が少しずつでも解消されるのは明らかです。現在はやっと導入が成立した段階で、その規制内容にはまだまだ問題が多いのが現実。より良い方向に進むためには、まず皆がこの状況を知ることが大切で、メディアがきちんと取り上げ大きな社会的問題になれば、規制に関わる法律の整備が急速に進むことでしょう。
そのための、まずは第一歩。多くの方に知ってもらうこと、関心を持ってもらうことが、まぐろの未来を救うとONESTORYも考えます。
「まぐろが危ない!」。各界を代表するゲストが会し、まぐろの未来を本気で語り合った1日に迫る![まぐろミーティング vol.1/東京都中央区]
まぐろミーティング vol.1今から考えても遅くない! 太平洋クロマグロを救うのに何ができる!?
去る10月21日、築地で『まぐろミーティング vol.1』という名のイベントが、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の協力のもと密かに開催されました。ゲストとして登場する面々は、『すきやばし次郎』の小野禎一氏、『カンテサンス』の岸田周三氏、『一般社団法人 Chefs for the Blue』理事の佐々木ひろこ氏、タベアルキストのマッキー牧元氏、さらに、豊洲市場から『株式会社フジタ水産』の代表取締役・藤田浩毅氏、大間のまぐろ漁師の南芳和氏といった各界を代表する顔ぶれ。そんなゲストが一堂に会し、一体何が行われるのでしょうか? まぐろのうまい食べ方でも討論されるイベントかと思えば、事態はもっと深刻なものでした。
「太平洋クロマグロ(近海本まぐろ)が、危機に瀕している」
「寿司屋から本まぐろが消える日がくるかもしれない」
にわかに信じがたいそんなことを本気で語り合うのが、今回のイベントの趣旨でした。そのことを世に訴え、まぐろの未来を皆で考えようと『日本の魚を考える会』が先頭に立ち、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の協力のもと企画した今回のイベント。前述したゲストも皆、その危機に立ち向かおうと、登壇を決めた方々でした。
日本の食文化の一角を担う、まぐろがなくなる? まさか、そんなこと…。と、はじめは半信半疑だった取材班も、話を聞くにつれ、次第に考えが変わりました。大学教授が示したデータに目を疑い、漁師や仲卸など、まぐろと密接に関わる現場の訴えに悲壮感を覚え、料理人の声に焦りを募らせ、他人事ではないことを強く実感。たどり着いた答えは、日本人が本気でまぐろの未来について考えるのは、今しかないということ。
寿司屋から、日本の食文化から、まぐろが消えて無くなる前に…。
まぐろミーティング vol.1東京海洋大学・勝川教授が示した、太平洋クロマグロのデータ。会場に衝撃が走る!
今回、『日本の魚を考える会』が主催となり、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の協力のもと開催された「まぐろミーティング vol.1」。イベントは4つのプログラムで構成され、各界を代表して招かれたゲストたちが、それぞれの置かれた立場から、危機に瀕する太平洋クロマグロについて、その見識や経験を交えて問題提起をする機会となりました。
その先陣を切ったのが、東京海洋大学准教授・勝川俊雄氏。モデレーターは、『一般社団法人 Chefs for the Blue』の理事で、フードジャーナリストの佐々木ひろこ氏が務め、イベントは幕を開けました。そこでいきなり、取材班は近海本まぐろの危機的現実を叩きつけられることになったのです。
太平洋まぐろ類国際科学委員会の出した報告書では、太平洋クロマグロ(近海本マグロ)の資源量は乱獲により過去最低レベルまでに落ちこみ、漁業が始まる以前の推定初期魚量に対して95%以上も減少したと言われています。
そして勝川氏が問題視するのは、産卵期における太平洋クロマグロの巻き網漁の漁獲だといいます。太平洋クロマグロは、その習性からある一定の温度帯の海水域でしか産卵せず、回遊魚でありながら、その産卵場所は日本の排他的海水域である、日本海と南西諸島の2箇所でしか産卵しないのです。そうして一堂に集まってくる太平洋クロマグロを、日本の漁船は産卵場で待ち構えるのです。
「巻き網は、群れになった魚を網でぐるりと巻いて、まさに一網打尽にできるため、効率が良い一方で、乱獲につながりやすい危険性もあるんです」
そこにモデレーターの佐々木氏が続きます。
「漁師が一本一本丁寧に処理する一本釣りやはえ縄漁と違い、一度にトン単位の魚が獲れる巻き網漁では、すぐに血抜きや神経締めができません。魚にとってはストレスのかかる状況で、太平洋クロマグロの体温も40度近くまで上がり、品質は一気に低下する。いわゆる身焼けをおこしてしまうのです」
さらにいえば、産卵期のまぐろは栄養が卵へといくため、身質はよくないと、勝川氏は説明してくれます。当然、そうして水揚げされた太平洋クロマグロは、市場で売れ残ることが多く、スーパーや回転寿司店などへと安く叩き売られることになります。問題は、ここまで資源が減少しているさなか、このように卵をはらんだ母まぐろが薄利多売されていることなのだと、勝川氏は提起してくれました。
それだけでなく、勝川氏は、漁獲量の減少、漁の種類、まぐろの幼魚(ヨコワ)を獲らずに6年後に漁獲した場合のメリットなどを、さまざまなデータと資料をもとに解説。太平洋クロマグロのおかれた現状を深掘りしてくれました。
まぐろミーティング vol.1資料から紐解いた危機感を、卸商と仲卸、漁師の3者が現場目線で説く。
そして、太平洋クロマグロについては現場目線からの声を聞き、さらなる深刻さを痛感することになります。大間のマグロ卸商である『株式会社魚忠』の新田忠明氏、豊洲市場のマグロ仲卸『株式会社フジタ水産』の藤田浩毅氏、大間でまぐろを一本釣りする漁師・南芳和氏の3名が登壇し、太平洋クロマグロの現状を、自らの仕事を通しての実感値で語ってくれました。
まず、新田氏からは、今年の卸値について。
「今年は最初からとんでもない価格から始まっていた。上はキロ2万円まで達し、その一方で下はキロ3,000円もあったりと。その差が大きすぎて、現場はますます混乱してしまっている状況ですね」
その説明に同じ反応を示すのが南氏で、「自分はただただ、一本釣りが好きで漁師を続けてきました。漁に出て、やって、やって、やりきって、どれだけいいまぐろを釣れるか。それが楽しかったし、この仕事のやりがい。ですが、いまは漁獲規制※の枠が少ない分、価格を気にしないといけない時代になってしまいました」
※2018年より成魚(30kg以上)の漁獲制限が導入されましたが、その内訳はというと、大中巻き網業者に全体の7割、一本釣りやはえ縄漁師など圧倒的に数の多い沿岸漁業者に3割。大中巻き網業者に対して圧倒的に少ない配分のため、沿岸まぐろ漁業者の生活は逼迫しているそうです。
一方で、藤田氏の口からは、豊洲市場での仲卸の立場としてこんな意見も。
「SNS全盛の時代で、いろんな情報が入ってくると思うのですが、目と耳で食べる人が多すぎて、『しっかり自分の舌で味わってほしい』ということをすごく思っています」といい、それがマグロの高騰にもつながっているのではないかと説きます。
「『サシがいっぱい入っている』とか『1番高いから』という情報が好きな人も実際たくさんいる。けれど、それが美味しいかといったら、必ずしもそうではない。脂ののりが味を決めるわけではなく、脂ののりは味を決める要素のひとつ。高いからいいわけでもありません」
自分でまぐろを味わって、本物の味を知ること。情報だけに流されず、味わい、知ることが、高騰が続く現状を打破する策のひとつにもなるのだと力を込めました。
次なる登壇者は遠洋まぐろのはえ縄漁業を営む『株式会社 臼福本店』の臼井壯太朗氏。一度は激減し、絶滅危惧種に指定された大西洋クロマグロの復活例を引き合いに、氏もまた、これから日本が取り組むべき課題をこうまとめていました。
「ヨーロッパでは、サステナブルな魚を選ぶ時代になっている。日本の消費者の価値観を変えていきたい。養殖のほうが手軽に食べられるとされるけれど、実はサステナブルとは言えない点が多い。そういう知識を持つことが、次世代へつなげることになる」
そこには様々な問題やしがらみがあることも承知の上で、こうした場でまぐろのおかれた現状を知った人たちが裾野から少しずつ情報を伝え広めていくことが、今後の鍵を握るとも話してくれました。
まぐろミーティング vol.1極上のまぐろに出会えるのは年に数本。30年前との激変ぶり!
最後のゲストは、寿司屋とフレンチを代表する2店からお二人が登場。『すきやばし次郎』小野禎一氏と三ツ星フレンチ『カンテサンス』岸田周三氏が登壇しました。モデレーターは、タベアルキストのマッキー牧元氏が務め、料理人、ジャーナリストの立場からの見解を示すことに。その中で小野氏は、ここ5年ぐらいで急激にまぐろを取り巻く状況が悪化したと嘆きます。
「30年くらい前は、毎日河岸に行って、好きな部位を好きなだけ買えるほどあったと、父(小野二郎氏)に聞いています。自分が河岸に行くうようになったのが25年ほど前で、その時はすでにいいまぐろと出会えなくなった日もちらほら出てきました」
そして、「それが“嫌な予感”となったのはいつぐらいですか」とのマッキー牧元氏の問にはこう答えます。
「15年くらい前からですね。そうしてだんだん少なくなって、ここ5年で急にいいまぐろは姿を消し始めた。いまは『これは素晴らしい!』というまぐろに出会えるのは、年に2、3本だけ」なのだそうです。
一方、岸田氏は、自らのレストランでまぐろを使うことはありませんが、太平洋クロマグロの置かれる状況については、料理人として真剣に向き合うべき課題だともいいます。
「私自身、まぐろに限らず、『魚の質が全体的に下がってきているな』という感覚はありました。2年くらい前に初めてまぐろの状況を佐々木(ひろこ)さんに聞いて、自分なりに勉強していくと、その中でもやはりまぐろはとくに危機的状況にあるんだなと実感したところです」といいます。
続いて、マッキー牧元氏が「これは小野二郎さんから聞いた話ですが」と前置きをし、
「いいまぐろを知っている客が少なくなって、それは言葉でしか伝えられなくなっていくのではないか」とも話してくれました。本物のまぐろの味が伝聞でしか知り得なくなるかもしれない。そんな状況までまぐろは追い込まれているのです。
まぐろミーティング vol.1問題提起で終わらない。知ってもらうことがまぐろの未来を救う第一歩に。
それぞれがそれぞれの立場で、太平洋クロマグロの危機的状況を説いてくれた今回の『まぐろミーティング vol.1』。しかし、これは単なる問題提起にしか過ぎません。これが何かを解決するものでもありません。これは解決のための第一歩なのです。
かつて大西洋クロマグロが絶滅の危機から復活した事例をみても、太平洋クロマグロの漁獲規制を整備していけば、問題が少しずつでも解消されるのは明らかです。現在はやっと導入が成立した段階で、その規制内容にはまだまだ問題が多いのが現実。より良い方向に進むためには、まず皆がこの状況を知ることが大切で、メディアがきちんと取り上げ大きな社会的問題になれば、規制に関わる法律の整備が急速に進むことでしょう。
そのための、まずは第一歩。多くの方に知ってもらうこと、関心を持ってもらうことが、まぐろの未来を救うとONESTORYも考えます。
@adidasfun
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人の命を救う卵を食卓へ。[グリーンファーム久住/大分県竹田市]
グリーンファーム久住3世代で営む平飼い飼育農場。
頑丈な殻をコツンと割ると、中からはぷっくりとした弾力のある身が。箸で黄身をつまむと白身までが一緒に持ち上がるほど力強い卵は、平飼いで育った健康でたくましい母鶏から産まれます。壮大な高原が広がる久住町で、全国でも数少ないヒナから平飼いで飼育を行う『グリーンファーム久住』。鶏たちのことを第一に考えた経営が、新鮮で高品質な卵を消費者へ届けることができると信じ、3世代にわたり養鶏を続けてきました。今回は、久住町が育んだ卵の魅力に迫ります。
▶詳細は、TAKETA TIMES/高原野菜に名湯、秘湯。知られざる魅力が満載の、名水の里。
グリーンファーム久住地域を救う鶏が産んだ、命を救う卵。
「地域を活性化するために新たな産業を」、1964年に竹田市久住町で協栄養鶏組合を立ち上げ、養鶏の事業を始めました。その中心となったのが荒牧 光氏でした。
牛飼いや米農家をしていた荒牧氏は、夫婦で温泉旅行に行った先でたまたま行われていた養鶏の講習会に興味を持ち参加。養鶏が環境に良いこと、そして地域の新しい産業に最適だということを学び、久住町へと持ち帰ったのです。
養鶏を始める際に荒牧氏が大切にしたことは「鶏にも自然にも良い環境を作る」こと。そのために高原地帯である久住町の広大な敷地を利用し、放し飼いで飼育する平飼い養鶏を取り入れ、更に鶏糞で作る堆肥を使い始めました。
生まれたてのヒナの時から太陽の光と高原の風が入る開放的な平飼い鶏舎で暮らした鶏たちは、ケージに一度も入らないためストレスを感じることなく、自然に近い状態で大きく育ちます。鶏舎の床には鶏糞を敷き詰めており、その上を鶏たちが縦横無尽に歩き回ることで鶏糞が堆肥化。栄養や微生物が豊富な堆肥を鶏がついばむことで、腸内環境が改善され、健康な鶏たちが育つのです。
一般的には生まれたてのヒナの時からケージに入り、箱入り娘状態のヒナ。それを生まれたてのヒナの時から、自然にもまれながらたくさん運動し、土の上で自由にのびのびと動き回る荒牧氏の鶏たちは、高品質な卵を産み、それらは人間用のインフルエンザワクチンに用いられる原料卵にも最適だと認定されました。そこから人の命を救う卵の出荷が始まったのです。
グリーンファーム久住こだわりの卵を食卓へ届ける。
インフルエンザワクチンの原料卵の生産を行ってきた荒牧氏は、需要の高まりを受けて大型養鶏場の「三本松種鶏場」を設立しました。息子の洋一氏と事業を続けていくうちに、品質の高さを知った生活協同組合から契約農場の話が舞い込みました。そして誕生したのが『グリーンファーム久住』です。今まで培ってきたノウハウを生かし、ヒナから平飼いで育てる鶏舎を設置。安全で安心な卵を食卓へ届けるために、遺伝子組み換えのない穀物や国産の飼料用玄米を使ったエサを与えています。
「卵の中身はどの餌を食べさせるかによって決まる。だから人が安心して卵を食べられるようにエサの品質には徹底的にこだわっているんです」と荒牧氏は話します。
更に『グリーンファーム久住』の卵は殺菌や水洗いを行わない「無洗卵」で出荷されます。
「卵の周りには母鶏から産み落とされた時に形成される「クチクラ層」という保護膜がついており、その膜は外部からの菌の侵入を防ぐという役割を担っているのです。その保護膜を守り、新鮮な卵を届けるためにここではブラッシングのみを行っています」と荒牧氏。
鶏のために、地域のために、そして消費者のために。様々なこだわりを持ち経営を続けてきた『グリーンファーム久住』は今、転換期に差しかかっています。
グリーンファーム久住変えるべきもの、変えないもの。
2017年夏、荒牧洋一氏の長男・大貴氏が、家業を継ぐため東京からUターンしました。
「会長や社長の思いを受け継いで、地域を良くするためにできることが私にはあると思って」と大貴氏は話します。
生産方法やこだわりはそのままに、東京での社会人経験で培った目で変えていくべきところは改革していこうと、社内システムの改善や対外的なプロモーションを実施。手書きが多かった育成記録のデジタル化や、養鶏に対する思いやこだわりを届けるためにホームページとパンフレットの制作に加え、『グリーンファーム久住』の品質にお墨付きを得るための品質認証取得にも取り組んでいます。
「安心・安全、環境維持を追求する『グリーンファーム久住』に時代が追いついてきたと思います。それをうまく捉えてこれからも社会にあり続ける会社であるために、変えるべきところは改善する。養鶏の基礎や鶏自体を深く知ることはもちろんですが、品質管理の向上や、IT化、認証の取得、顧客の獲得などに、時代の変化と照らし合わせながら会社をしっかりと存続させる体制をつくっていきたいですね。売り上げが上がって会社が拡大すれば、地域の人をもっと雇用できるし、従業員の休みも増やせるかもしれない。創業時の想いを受け継ぎ、私たちは常に社員にとって、地域にとって、鶏にとって、何が最善かということを考えて運営していきたいと思っています」と大貴氏は語ります。
今後は『グリーンファーム久住』の特長である平飼いの鶏舎を拡大し、会社も地域も守っていきたいと話す大貴氏。親子3世代、品質に正直な卵作りで地域の未来を担います。
住所:大分県竹田市久住町大字久住4066番地2 MAP
電話:0974-76-1411
グリーンファーム久住 HP:http://www.kuju-egg.jp/
※家畜伝染病予防のため、養鶏場内での卵の販売は行っておりません。
人の命を救う卵を食卓へ。[グリーンファーム久住/大分県竹田市]
グリーンファーム久住3世代で営む平飼い飼育農場。
頑丈な殻をコツンと割ると、中からはぷっくりとした弾力のある身が。箸で黄身をつまむと白身までが一緒に持ち上がるほど力強い卵は、平飼いで育った健康でたくましい母鶏から産まれます。壮大な高原が広がる久住町で、全国でも数少ないヒナから平飼いで飼育を行う『グリーンファーム久住』。鶏たちのことを第一に考えた経営が、新鮮で高品質な卵を消費者へ届けることができると信じ、3世代にわたり養鶏を続けてきました。今回は、久住町が育んだ卵の魅力に迫ります。
▶詳細は、TAKETA TIMES/高原野菜に名湯、秘湯。知られざる魅力が満載の、名水の里。
グリーンファーム久住地域を救う鶏が産んだ、命を救う卵。
「地域を活性化するために新たな産業を」、1964年に竹田市久住町で協栄養鶏組合を立ち上げ、養鶏の事業を始めました。その中心となったのが荒牧 光氏でした。
牛飼いや米農家をしていた荒牧氏は、夫婦で温泉旅行に行った先でたまたま行われていた養鶏の講習会に興味を持ち参加。養鶏が環境に良いこと、そして地域の新しい産業に最適だということを学び、久住町へと持ち帰ったのです。
養鶏を始める際に荒牧氏が大切にしたことは「鶏にも自然にも良い環境を作る」こと。そのために高原地帯である久住町の広大な敷地を利用し、放し飼いで飼育する平飼い養鶏を取り入れ、更に鶏糞で作る堆肥を使い始めました。
生まれたてのヒナの時から太陽の光と高原の風が入る開放的な平飼い鶏舎で暮らした鶏たちは、ケージに一度も入らないためストレスを感じることなく、自然に近い状態で大きく育ちます。鶏舎の床には鶏糞を敷き詰めており、その上を鶏たちが縦横無尽に歩き回ることで鶏糞が堆肥化。栄養や微生物が豊富な堆肥を鶏がついばむことで、腸内環境が改善され、健康な鶏たちが育つのです。
一般的には生まれたてのヒナの時からケージに入り、箱入り娘状態のヒナ。それを生まれたてのヒナの時から、自然にもまれながらたくさん運動し、土の上で自由にのびのびと動き回る荒牧氏の鶏たちは、高品質な卵を産み、それらは人間用のインフルエンザワクチンに用いられる原料卵にも最適だと認定されました。そこから人の命を救う卵の出荷が始まったのです。
グリーンファーム久住こだわりの卵を食卓へ届ける。
インフルエンザワクチンの原料卵の生産を行ってきた荒牧氏は、需要の高まりを受けて大型養鶏場の「三本松種鶏場」を設立しました。息子の洋一氏と事業を続けていくうちに、品質の高さを知った生活協同組合から契約農場の話が舞い込みました。そして誕生したのが『グリーンファーム久住』です。今まで培ってきたノウハウを生かし、ヒナから平飼いで育てる鶏舎を設置。安全で安心な卵を食卓へ届けるために、遺伝子組み換えのない穀物や国産の飼料用玄米を使ったエサを与えています。
「卵の中身はどの餌を食べさせるかによって決まる。だから人が安心して卵を食べられるようにエサの品質には徹底的にこだわっているんです」と荒牧氏は話します。
更に『グリーンファーム久住』の卵は殺菌や水洗いを行わない「無洗卵」で出荷されます。
「卵の周りには母鶏から産み落とされた時に形成される「クチクラ層」という保護膜がついており、その膜は外部からの菌の侵入を防ぐという役割を担っているのです。その保護膜を守り、新鮮な卵を届けるためにここではブラッシングのみを行っています」と荒牧氏。
鶏のために、地域のために、そして消費者のために。様々なこだわりを持ち経営を続けてきた『グリーンファーム久住』は今、転換期に差しかかっています。
グリーンファーム久住変えるべきもの、変えないもの。
2017年夏、荒牧洋一氏の長男・大貴氏が、家業を継ぐため東京からUターンしました。
「会長や社長の思いを受け継いで、地域を良くするためにできることが私にはあると思って」と大貴氏は話します。
生産方法やこだわりはそのままに、東京での社会人経験で培った目で変えていくべきところは改革していこうと、社内システムの改善や対外的なプロモーションを実施。手書きが多かった育成記録のデジタル化や、養鶏に対する思いやこだわりを届けるためにホームページとパンフレットの制作に加え、『グリーンファーム久住』の品質にお墨付きを得るための品質認証取得にも取り組んでいます。
「安心・安全、環境維持を追求する『グリーンファーム久住』に時代が追いついてきたと思います。それをうまく捉えてこれからも社会にあり続ける会社であるために、変えるべきところは改善する。養鶏の基礎や鶏自体を深く知ることはもちろんですが、品質管理の向上や、IT化、認証の取得、顧客の獲得などに、時代の変化と照らし合わせながら会社をしっかりと存続させる体制をつくっていきたいですね。売り上げが上がって会社が拡大すれば、地域の人をもっと雇用できるし、従業員の休みも増やせるかもしれない。創業時の想いを受け継ぎ、私たちは常に社員にとって、地域にとって、鶏にとって、何が最善かということを考えて運営していきたいと思っています」と大貴氏は語ります。
今後は『グリーンファーム久住』の特長である平飼いの鶏舎を拡大し、会社も地域も守っていきたいと話す大貴氏。親子3世代、品質に正直な卵作りで地域の未来を担います。
住所:大分県竹田市久住町大字久住4066番地2 MAP
電話:0974-76-1411
グリーンファーム久住 HP:https://www.kuju-egg.jp/
※家畜伝染病予防のため、養鶏場内での卵の販売は行っておりません。
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「雨」までも旅の魅力になる、新しい価値観の宿。[雨庵 金沢/石川県金沢市]
雨庵 金沢「弁当忘れても、傘忘れるな」。1年の約半分が雨の街。
金沢は日本でも有数の「雨の街」。年間約 160 日は雨が降るといわれ、2016年の年間降水量は東京の1,779mmに比べ2,390mmと約1.3倍。せっかく金沢を訪れたのに雨だった……という経験をお持ちの方もいるのではないでしょうか。
そんな金沢の天候を逆手に取った、「雨を楽しむ」というコンセプトのホテルが2017年12月に開業しました。それが『雨庵 金沢』です。運営は全国にホテルを展開する『ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ』ですが、ブランディングやデザインは山﨑晴太郎氏率いる「セイタロウデザイン」が担当。新しいホテルブランドを生み出すにあたり、『ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ』は「旅行とは何か?」「ホテルの概念とは何か?」という原点に立ち返り、新しい宿泊体験の提供を目指しました。その想いを汲み取り、「セイタロウデザイン」は金沢を丁寧に深掘り。そこで着目したのは金沢という土地の天候と文化との関係性でした。
「金沢の街には雨だからこそ気付く美しさや発見が溢れています。“今日は、雨で運が良かった”とお客様に思ってもらえること。本当の意味で金沢と深くつながる特別な時間をつくるために、意図的に『雨庵 金沢』という、今までのホテルではあり得なかったネーミングとコンセプトを設計しました」(セイタロウデザイン)。ホテルのデザインは、雨の金沢を最大限に味わえるよう、ハードとソフト双方から工夫を凝らしました。
雨庵 金沢茶屋をイメージ。一歩も外に出たくなくなるほどの心地よさ。
ホテルがあるのは兼六園、金沢城公園のすぐ近く。カラフルなステンドグラスが美しい尾山神社もそばにあり、情緒溢れる金沢の中心部です。ここにひっそり佇む『雨庵 金沢』は、まるで街に隠れるように、外壁が木の格子で覆われたシックな外観です。壁面には菱川師宣の浮世絵の雨の線表現からインスピレーションを受けた、ランダムな縦ルーバー。雨濡れで知られるひがし茶屋街の石畳をモチーフにした石材タイルも印象的です。
客室はわずか47室。こぢんまりした空間ですが、インテリアは現代の「茶屋」をイメージして1部屋1部屋に趣向を凝らしています。小さな坪庭が配されていたり、茶室を思わせるような丸窓が設けられていたりと、日本古来の美意識をそこかしこにしのばせ、訪れた人にまるで自分の部屋にいるかのような寛ぎを与えてくれます。
雨庵 金沢アートと工芸に触れられるホテル内ギャラリー。
なぜ、『雨庵 金沢』が「雨を楽しむ」ホテルなのでしょうか。その理由は、ラウンジ「ハレの間」にあります。まずはそのギャラリーのような展示空間。ここには金沢で活躍する作家や職人とコラボレーションした現代アートや工芸作品が飾られています。例えば、世界的書道家でアーティストの紫舟(Shisyu)氏による書の彫刻「雨」は、光をあてることで生まれる影も作品を構成する要素として、壁に「雨」の文字を映し出します。また書家が紙に文字を書く時の筆圧や紙の奥行き感を立体化した書のキュビスム「雨上天澄」も、新しい書の表現として独特な存在感を放っています。
雨庵 金沢加賀百万石の文化、伝統がそこかしこに。
他にも、金沢を拠点に活動するクリエイターチーム「secca」が「雨の街金沢で、雨のある景色を愉しむ」を6130本の糸によって表現した「雨虹糸」、和紙と漆という伝統的な素材を組み合わせた「金沢和紙アート」、幕能登・加賀・越中の風習「花嫁のれん」を受け継ぐ金沢の伝統工芸品「加賀のれん」、加賀藩独自の紺屋職人の技術や友禅染の繊細な美意識を感じられる「加賀風呂敷」なども展示され、まるで小さな美術館のように目を楽しませてくれます。
雨庵 金沢書斎にも、語らいの場にもなるラウンジ。
ラウンジで自分の自由な時間を過ごすためのサービスも充実。金沢は「天下の書府」と呼ばれたほど学問が盛んな街であり、ライブラリーにはアートブックや小説など様々な書籍が用意されています。読書をしながら、金沢の普段のお茶である番茶「加賀棒茶」をはじめ、コーヒーやジュースと一緒にお茶菓子を楽しめる無料サービスも。夜には食事の後のシメにピッタリな日本蕎麦も振る舞われます。また金沢には美味しい日本酒が数多くありますが、バーカウンターではこれらの日本酒のテイスティングを有料で楽しめます。
雨庵 金沢旅のお土産、思い出作りもホテル内で。
伝統工芸体験をホテル内で楽しめるのも『雨庵 金沢』の魅力。宿泊者限定で豆皿やぐい呑みの絵付け体験、加賀友禅きもの体験、水引のアクセサリー制作体験など、ここでしかできないワークショップを用意。「たとえ雨で出かけられなかったとしても、旅の想い出づくりを」という粋なはからいです。
雨庵 金沢加賀の風土で育った食材を詰め込んだ朝食。
近くに近江町市場があるので海鮮丼や干物の朝食もお勧めですが、ホテル内でも地元の味覚を頂けるので安心です。朝食は和洋から選べ、和食は、石川県産米「夢ごこち」の炊き立てご飯、ノドグロの焼き物、ご飯によく合う数種類の小鉢とお椀などの内容。洋食は、能登豚のハムやウインナーに、能登野菜を使ったポタージュスープ、地元人気店のパンが数種類つきます。
雨庵 金沢今日は雨が降るといいな、と言える旅を。
もちろん雨だからといって部屋に籠もっているのではなく、雨だからこそ出かけたくなる魅力があるのも金沢。雨に濡れる茶屋街の石畳、より緑が濃くなる兼六園の木々、しっとりと風情を醸し出す武家屋敷街……。もしかしたら金沢は、雨の日こそ輝きが増す街なのかもしれません。金沢の街では「置き傘プロジェクト」を実施しており、主要観光地のお店では誰でも無料で借りられる傘を用意しています。『雨庵 金沢』に泊まって、雨の街をあえて楽しむ。そんな旅もたまにはいいかもしれませんね。
住所:石川県金沢市尾山町6-30 MAP
電話:076 260 0111
雨庵 金沢 HP:https://www.uan-kanazawa.com/
「雨」までも旅の魅力になる、新しい価値観の宿。[雨庵 金沢/石川県金沢市]
雨庵 金沢「弁当忘れても、傘忘れるな」。1年の約半分が雨の街。
金沢は日本でも有数の「雨の街」。年間約 160 日は雨が降るといわれ、2016年の年間降水量は東京の1,779mmに比べ2,390mmと約1.3倍。せっかく金沢を訪れたのに雨だった……という経験をお持ちの方もいるのではないでしょうか。
そんな金沢の天候を逆手に取った、「雨を楽しむ」というコンセプトのホテルが2017年12月に開業しました。それが『雨庵 金沢』です。運営は全国にホテルを展開する『ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ』ですが、ブランディングやデザインは山﨑晴太郎氏率いる「セイタロウデザイン」が担当。新しいホテルブランドを生み出すにあたり、『ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ』は「旅行とは何か?」「ホテルの概念とは何か?」という原点に立ち返り、新しい宿泊体験の提供を目指しました。その想いを汲み取り、「セイタロウデザイン」は金沢を丁寧に深掘り。そこで着目したのは金沢という土地の天候と文化との関係性でした。
「金沢の街には雨だからこそ気付く美しさや発見が溢れています。“今日は、雨で運が良かった”とお客様に思ってもらえること。本当の意味で金沢と深くつながる特別な時間をつくるために、意図的に『雨庵 金沢』という、今までのホテルではあり得なかったネーミングとコンセプトを設計しました」(セイタロウデザイン)。ホテルのデザインは、雨の金沢を最大限に味わえるよう、ハードとソフト双方から工夫を凝らしました。
雨庵 金沢茶屋をイメージ。一歩も外に出たくなくなるほどの心地よさ。
ホテルがあるのは兼六園、金沢城公園のすぐ近く。カラフルなステンドグラスが美しい尾山神社もそばにあり、情緒溢れる金沢の中心部です。ここにひっそり佇む『雨庵 金沢』は、まるで街に隠れるように、外壁が木の格子で覆われたシックな外観です。壁面には菱川師宣の浮世絵の雨の線表現からインスピレーションを受けた、ランダムな縦ルーバー。雨濡れで知られるひがし茶屋街の石畳をモチーフにした石材タイルも印象的です。
客室はわずか47室。こぢんまりした空間ですが、インテリアは現代の「茶屋」をイメージして1部屋1部屋に趣向を凝らしています。小さな坪庭が配されていたり、茶室を思わせるような丸窓が設けられていたりと、日本古来の美意識をそこかしこにしのばせ、訪れた人にまるで自分の部屋にいるかのような寛ぎを与えてくれます。
雨庵 金沢アートと工芸に触れられるホテル内ギャラリー。
なぜ、『雨庵 金沢』が「雨を楽しむ」ホテルなのでしょうか。その理由は、ラウンジ「ハレの間」にあります。まずはそのギャラリーのような展示空間。ここには金沢で活躍する作家や職人とコラボレーションした現代アートや工芸作品が飾られています。例えば、世界的書道家でアーティストの紫舟(Shisyu)氏による書の彫刻「雨」は、光をあてることで生まれる影も作品を構成する要素として、壁に「雨」の文字を映し出します。また書家が紙に文字を書く時の筆圧や紙の奥行き感を立体化した書のキュビスム「雨上天澄」も、新しい書の表現として独特な存在感を放っています。
雨庵 金沢加賀百万石の文化、伝統がそこかしこに。
他にも、金沢を拠点に活動するクリエイターチーム「secca」が「雨の街金沢で、雨のある景色を愉しむ」を6130本の糸によって表現した「雨虹糸」、和紙と漆という伝統的な素材を組み合わせた「金沢和紙アート」、幕能登・加賀・越中の風習「花嫁のれん」を受け継ぐ金沢の伝統工芸品「加賀のれん」、加賀藩独自の紺屋職人の技術や友禅染の繊細な美意識を感じられる「加賀風呂敷」なども展示され、まるで小さな美術館のように目を楽しませてくれます。
雨庵 金沢書斎にも、語らいの場にもなるラウンジ。
ラウンジで自分の自由な時間を過ごすためのサービスも充実。金沢は「天下の書府」と呼ばれたほど学問が盛んな街であり、ライブラリーにはアートブックや小説など様々な書籍が用意されています。読書をしながら、金沢の普段のお茶である番茶「加賀棒茶」をはじめ、コーヒーやジュースと一緒にお茶菓子を楽しめる無料サービスも。夜には食事の後のシメにピッタリな日本蕎麦も振る舞われます。また金沢には美味しい日本酒が数多くありますが、バーカウンターではこれらの日本酒のテイスティングを有料で楽しめます。
雨庵 金沢旅のお土産、思い出作りもホテル内で。
伝統工芸体験をホテル内で楽しめるのも『雨庵 金沢』の魅力。宿泊者限定で豆皿やぐい呑みの絵付け体験、加賀友禅きもの体験、水引のアクセサリー制作体験など、ここでしかできないワークショップを用意。「たとえ雨で出かけられなかったとしても、旅の想い出づくりを」という粋なはからいです。
雨庵 金沢加賀の風土で育った食材を詰め込んだ朝食。
近くに近江町市場があるので海鮮丼や干物の朝食もお勧めですが、ホテル内でも地元の味覚を頂けるので安心です。朝食は和洋から選べ、和食は、石川県産米「夢ごこち」の炊き立てご飯、ノドグロの焼き物、ご飯によく合う数種類の小鉢とお椀などの内容。洋食は、能登豚のハムやウインナーに、能登野菜を使ったポタージュスープ、地元人気店のパンが数種類つきます。
雨庵 金沢今日は雨が降るといいな、と言える旅を。
もちろん雨だからといって部屋に籠もっているのではなく、雨だからこそ出かけたくなる魅力があるのも金沢。雨に濡れる茶屋街の石畳、より緑が濃くなる兼六園の木々、しっとりと風情を醸し出す武家屋敷街……。もしかしたら金沢は、雨の日こそ輝きが増す街なのかもしれません。金沢の街では「置き傘プロジェクト」を実施しており、主要観光地のお店では誰でも無料で借りられる傘を用意しています。『雨庵 金沢』に泊まって、雨の街をあえて楽しむ。そんな旅もたまにはいいかもしれませんね。
住所:石川県金沢市尾山町6-30 MAP
電話:076 260 0111
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津軽から、日本全国へ。生まれ変わったりんご箱が暮らしを彩る。[TSUGARU Le Bon Marché・キープレイス株式会社/青森県北津軽郡]
津軽ボンマルシェ・キープレイス株式会社りんご産業の「脇役」が、畑を飛び出し大変身?
秋から冬にかけてりんごが収穫のピークを迎え、にわかに活気づく津軽。市場に次々と運ばれてくるのは、もぎたてのりんごがぎっしりと詰まった木箱です。収穫後はプラスティック製コンテナに入れられる農作物が多い中、ここ津軽ではまだまだ木箱が主流。理由は、天然木ならではの調湿作用や当たりの柔らかさによる保存性にあります。が、りんご産業になくてはならないものである一方で、流通段階で役目を終えるため、ちょっぴり地味で、目立たない存在なのも確か。その木箱が今、活躍の場を広げているというのです。
訪れたのは、弘前市中心部から車で北へ20分ほどの所にある板柳町。町域の実に3割がりんご畑という津軽の一大りんご生産地です。車で国道を走っていると、パズルゲームのように積み上げられた何かのタワーがあちこちに。そう、それこそ出荷を今か今かと待っているりんご箱だったのです。板柳町で代々りんご用の木箱を生産してきた「青森資材うばさわ」の敷地です。
「青森資材うばさわ」は、一帯の木箱の半分以上のシェア率を誇るトップメーカー。現在代表を務めている3代目・姥澤 大氏は、この「青森資材うばさわ」と同時に、インテリア用品・家具メーカー『キープレイス』の代表も務めています。『キープレイス』のショウルームを訪れると、ローカル色溢れる町の雰囲気とは一変、洗練された雰囲気の家具がずらり。聞けば、どれもりんご用の木箱をベースに作られたものだそうです。さっき見かけたタワーとのギャップに驚きます。
▶詳細は、TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!
津軽ボンマルシェ・キープレイス株式会社身近すぎて気付かなかった木箱の魅力に、スポットライトを当てる。
『キープレイス』の木箱は、インテリア用の収納箱として、また店舗用什器として大人気。津軽の畑を飛び出し、全国各地で堂々たる活躍ぶりを見せています。それまでりんご搬出用の道具でしかなかった木箱にスポットライトを当て、津軽中を驚かせた姥澤氏。その着眼点は、家業を継ぐ前のキャリアにありました。
大学進学のため上京して建築を学び、建材メーカーに就職。もともと起業志向が強かった姥澤氏は、2005年にインテリア雑貨販売の会社を立ち上げます。それが現在の『キープレイス』の前身。「もともと起業したのは、『新しいものを世に出したい』という一心から。4年後に家業を継ぐことになった時も、市場開拓のための部署として、事業を継続することにしました」と姥澤氏は話します。津軽に戻り、木箱に囲まれる日々。姥澤氏はある日、その木箱の美しさに気付きます。「節もあって上等ではないけれど、独特の味がある。業務用だけにしておくにはもったいない、インテリアとしていけるんじゃないかと」と、姥澤氏はその時の思いを語ります。
新しいものを世に出す。そんな姥澤氏が見出したのは、津軽の人々が気付かなかった、りんご木箱の新たな魅力。予想どおり、ほどなく反響が出始めます。個人宅の収納ボックス、マルシェの陳列棚……。温かみのあるカジュアルな雰囲気の木箱は、私たちの日常にすんなり溶け込みました。そして2010年、青森駅周辺の再開発事業の目玉として開業した商業施設「A-FACTORY」の店舗什器にも採用。内装を手がけた国際的デザイナー・片山正通氏直々のオファーでした。
津軽ボンマルシェ・キープレイス株式会社農家仕様だから使いやすい。りんご用木箱が愛される理由。
たかが木箱、されど木箱。今や全国から注文が入る人気の理由は、農作物の出荷用だったことにあります。「昔から使われていたものだから、“尺”寸法で作られているんです。尺は人体寸法に基づいていて、2尺でちょうど肩幅ほどの長さ。一番スタンダードな木箱のサイズが、幅1尺、高さ1尺、奥行き2尺なので、無理なく持てる大きさになっています。それに日本の建築は現在でも尺寸法を基準に考えられているため、建築との親和性が高いし、人間工学がベースになっているから、扱いやすい。他にはない大きさですが、それがいいんです」と姥澤氏。
使いやすいサイズ感だけでなく、スマートな見た目も特徴。横向きに立ててシェルフにすると、奥行きが広く安定感があり、本棚にしても雑貨をディスプレイしても様になります。シンプルだから、北欧風のすっきりしたインテリアにも、インダストリアルで無骨な雰囲気にもマッチ。工夫次第で異なる表情を見せてくれます。
現在では一般的なりんご木箱のサイズ以外に、りんご用段ボールのサイズなど、様々な大きさを展開。素材も通常りんご木箱で使われる赤松や杉の他、青森ヒバや合板バージョンも作製し、よりインテリアに特化したバリエーションが広がっています。農業用資材としてだけでなく、収納・展示用家具へ。りんご木箱はもうひとつの役割を確立させたのです。
津軽ボンマルシェ・キープレイス株式会社地域を支え、支えられる存在に。木箱はこれからも進化する。
りんご木箱の会社の3代目として生まれた後、建築を学び、インテリアの会社を立ち上げた姥澤氏。当初別々のコンテンツだった木箱とインテリアは、歳月を経て自然とつながり、現在の『キープレイス』の形になりました。「ずっとやりたかったことが、今できている。同時に、これからやるべきことも見えてきました。木箱は主役ではなく、あくまで農家さんを手伝う脇役。農家さんありきの地域産業だからこそ、地域に貢献していきたいんです」と姥澤氏は話します。
2018年の春、姥澤氏は地元の若手建築家、家具職人とともに、新たな家具のプロジェクトを立ち上げました。通常は流通後に回収、再利用され、長ければ10年以上継続的に使用することができるりんご木箱。その過程で、表面には卸先の屋号やメモが書かれ、傷がつき、畑と街を行き交った年月が積み重ねられます。そんな痕跡をそのままデザインに取り込んだ家具「又幸 Matasachi」は話題を呼び、世界最大級の国際家具見本市「ミラノサローネ2018」にも展示されました。「木箱の板は薄くて天板向きじゃないし、家具としては掟破り。でもりんご木箱の存在を立たせることで、青森の風土や景色を表現したかった」と姥澤氏。
木箱がつなぐのは、過去と現在、津軽と日本、そして世界。家具として木箱を使う私たちもまた、津軽のりんご産業の歴史の一端に触れ、関わることができるのです。
(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)
住所:青森県北津軽郡板柳町福野田実田30-5 MAP
キープレイス株式会社HP:http://www.keyplace.co.jp/
直営オンラインショップ「木のはこ屋」HP:https://www.kinohakoya.com/
津軽から、日本全国へ。生まれ変わったりんご箱が暮らしを彩る。[TSUGARU Le Bon Marché・キープレイス株式会社/青森県北津軽郡]
津軽ボンマルシェ・キープレイス株式会社りんご産業の「脇役」が、畑を飛び出し大変身?
秋から冬にかけてりんごが収穫のピークを迎え、にわかに活気づく津軽。市場に次々と運ばれてくるのは、もぎたてのりんごがぎっしりと詰まった木箱です。収穫後はプラスティック製コンテナに入れられる農作物が多い中、ここ津軽ではまだまだ木箱が主流。理由は、天然木ならではの調湿作用や当たりの柔らかさによる保存性にあります。が、りんご産業になくてはならないものである一方で、流通段階で役目を終えるため、ちょっぴり地味で、目立たない存在なのも確か。その木箱が今、活躍の場を広げているというのです。
訪れたのは、弘前市中心部から車で北へ20分ほどの所にある板柳町。町域の実に3割がりんご畑という津軽の一大りんご生産地です。車で国道を走っていると、パズルゲームのように積み上げられた何かのタワーがあちこちに。そう、それこそ出荷を今か今かと待っているりんご箱だったのです。板柳町で代々りんご用の木箱を生産してきた「青森資材うばさわ」の敷地です。
「青森資材うばさわ」は、一帯の木箱の半分以上のシェア率を誇るトップメーカー。現在代表を務めている3代目・姥澤 大氏は、この「青森資材うばさわ」と同時に、インテリア用品・家具メーカー『キープレイス』の代表も務めています。『キープレイス』のショウルームを訪れると、ローカル色溢れる町の雰囲気とは一変、洗練された雰囲気の家具がずらり。聞けば、どれもりんご用の木箱をベースに作られたものだそうです。さっき見かけたタワーとのギャップに驚きます。
▶詳細は、TSUGARU Le Bon Marché/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!
津軽ボンマルシェ・キープレイス株式会社身近すぎて気付かなかった木箱の魅力に、スポットライトを当てる。
『キープレイス』の木箱は、インテリア用の収納箱として、また店舗用什器として大人気。津軽の畑を飛び出し、全国各地で堂々たる活躍ぶりを見せています。それまでりんご搬出用の道具でしかなかった木箱にスポットライトを当て、津軽中を驚かせた姥澤氏。その着眼点は、家業を継ぐ前のキャリアにありました。
大学進学のため上京して建築を学び、建材メーカーに就職。もともと起業志向が強かった姥澤氏は、2005年にインテリア雑貨販売の会社を立ち上げます。それが現在の『キープレイス』の前身。「もともと起業したのは、『新しいものを世に出したい』という一心から。4年後に家業を継ぐことになった時も、市場開拓のための部署として、事業を継続することにしました」と姥澤氏は話します。津軽に戻り、木箱に囲まれる日々。姥澤氏はある日、その木箱の美しさに気付きます。「節もあって上等ではないけれど、独特の味がある。業務用だけにしておくにはもったいない、インテリアとしていけるんじゃないかと」と、姥澤氏はその時の思いを語ります。
新しいものを世に出す。そんな姥澤氏が見出したのは、津軽の人々が気付かなかった、りんご木箱の新たな魅力。予想どおり、ほどなく反響が出始めます。個人宅の収納ボックス、マルシェの陳列棚……。温かみのあるカジュアルな雰囲気の木箱は、私たちの日常にすんなり溶け込みました。そして2010年、青森駅周辺の再開発事業の目玉として開業した商業施設「A-FACTORY」の店舗什器にも採用。内装を手がけた国際的デザイナー・片山正通氏直々のオファーでした。
津軽ボンマルシェ・キープレイス株式会社農家仕様だから使いやすい。りんご用木箱が愛される理由。
たかが木箱、されど木箱。今や全国から注文が入る人気の理由は、農作物の出荷用だったことにあります。「昔から使われていたものだから、“尺”寸法で作られているんです。尺は人体寸法に基づいていて、2尺でちょうど肩幅ほどの長さ。一番スタンダードな木箱のサイズが、幅1尺、高さ1尺、奥行き2尺なので、無理なく持てる大きさになっています。それに日本の建築は現在でも尺寸法を基準に考えられているため、建築との親和性が高いし、人間工学がベースになっているから、扱いやすい。他にはない大きさですが、それがいいんです」と姥澤氏。
使いやすいサイズ感だけでなく、スマートな見た目も特徴。横向きに立ててシェルフにすると、奥行きが広く安定感があり、本棚にしても雑貨をディスプレイしても様になります。シンプルだから、北欧風のすっきりしたインテリアにも、インダストリアルで無骨な雰囲気にもマッチ。工夫次第で異なる表情を見せてくれます。
現在では一般的なりんご木箱のサイズ以外に、りんご用段ボールのサイズなど、様々な大きさを展開。素材も通常りんご木箱で使われる赤松や杉の他、青森ヒバや合板バージョンも作製し、よりインテリアに特化したバリエーションが広がっています。農業用資材としてだけでなく、収納・展示用家具へ。りんご木箱はもうひとつの役割を確立させたのです。
津軽ボンマルシェ・キープレイス株式会社地域を支え、支えられる存在に。木箱はこれからも進化する。
りんご木箱の会社の3代目として生まれた後、建築を学び、インテリアの会社を立ち上げた姥澤氏。当初別々のコンテンツだった木箱とインテリアは、歳月を経て自然とつながり、現在の『キープレイス』の形になりました。「ずっとやりたかったことが、今できている。同時に、これからやるべきことも見えてきました。木箱は主役ではなく、あくまで農家さんを手伝う脇役。農家さんありきの地域産業だからこそ、地域に貢献していきたいんです」と姥澤氏は話します。
2018年の春、姥澤氏は地元の若手建築家、家具職人とともに、新たな家具のプロジェクトを立ち上げました。通常は流通後に回収、再利用され、長ければ10年以上継続的に使用することができるりんご木箱。その過程で、表面には卸先の屋号やメモが書かれ、傷がつき、畑と街を行き交った年月が積み重ねられます。そんな痕跡をそのままデザインに取り込んだ家具「又幸 Matasachi」は話題を呼び、世界最大級の国際家具見本市「ミラノサローネ2018」にも展示されました。「木箱の板は薄くて天板向きじゃないし、家具としては掟破り。でもりんご木箱の存在を立たせることで、青森の風土や景色を表現したかった」と姥澤氏。
木箱がつなぐのは、過去と現在、津軽と日本、そして世界。家具として木箱を使う私たちもまた、津軽のりんご産業の歴史の一端に触れ、関わることができるのです。
(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)
住所:青森県北津軽郡板柳町福野田実田30-5 MAP
キープレイス株式会社HP:http://www.keyplace.co.jp/
直営オンラインショップ「木のはこ屋」HP:https://www.kinohakoya.com/
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沖縄の食文化を尊び、地元生産者、料理人すべての想いを一皿にした「ぬちぐすい」。[DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS/沖縄県南城市]
ダイニングアウト琉球南城初の女性シェフが執り行う「感謝と祈り」の宴。
2018年11月23日、24日に開催された『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』。琉球王朝のはじまりの地といわれる沖縄県南城市に出現した二夜限りのレストランは、単なる野外レストランにとどまらず、15回の歴史を重ねてきた『DINING OUT』の成熟を示す宴となりました。
太古の昔「アマミキヨ」という女神が「ニライカナイ」と呼ばれる海の向こう側からやってきて、琉球の島々や御嶽(うたき)を作ったという神話になぞらえ、『DINIG OUT』初の女性シェフとして厨房を任されたのは『志摩観光ホテル』樋口宏江シェフ。「Origin いのちへの感謝と祈り」というテーマを余すところなく表現した11皿のコースで、訪れたすべてのゲストを深い感動へと導きました。沖縄独特の食材、食文化をいかにしてガストロノミーの表現として再構築したのか。料理の成り立ちを紐解きます。
▶詳細は、DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS
ダイニングアウト琉球南城香り、苦み、辛み、甘み。味わいの輪郭がはっきりした在来種の野菜。
今回の『DINING OUT』の視察で、初めて沖縄を訪れた樋口シェフ。聖なる食べ物・イラブー(ウミヘビ)やヒージャー(山羊)など、強烈なインパクトがある沖縄ならではの食材との出会いが続く中で、負けずに印象に残ったのが、在来種の野菜やハーブだといいます。
「香りも、味わいの輪郭も鮮烈。苦み、辛み、甘みとそれぞれの種が持つ味わいが生き生きと感じられる。この野菜やハーブたちをひとつでも多く使いたいという強い想いが芽生えました」
こうして誕生したのが「ぬちぐすい」。約30種類もの沖縄の野菜、ハーブが使われた一皿は、魚や肉料理に引けを取らないインパクトと食べ応え、深い味わいでゲストを驚かせました。
「ひとつでも多くの種類を使いたい」という想いには、もうひとつの動機が。それは意欲ある生産者との出会いです。亜熱帯という独特の気候条件、秋には台風の被害を免れない土地で、在来種を守るだけでなく、未来につながる農業にチャレンジする。樋口シェフに彼らの存在を教えてくれたのが、「オール沖縄」チームで結成された厨房スタッフのメンバーである地元の料理人たちでした。
ダイニングアウト琉球南城温故知新のスピリットで、沖縄の農の明日を切り拓く生産者。
10余年前に東京から沖縄北部・山原(やんばる)へ移住し、自ら畑を耕しながら、地域の農家と料理人をつなぐ「やんばる畑人プロジェクト」を展開する芳野幸雄氏。
「一カリスマシェフや、カリスマ農家に周りがぶら下がるのではなく、地域全体が主役になれる農のあり方を目指したい」と、活動を始めました。約20戸の農家と40軒の飲食店で構成される同プロジェクトでは、メンバーの地元料理人はもちろん、県外の料理人をも巻き込んで、収穫体験イベントや野外レストランも開催しています。
料理人と協働することで生まれる、農作物の新しい価値。例えばオクラひとつを例に取っても、収穫期を迎えた実だけでなく、花や脇芽、生育過程の小さな実など、あらゆるものが出荷の対象になります。皿を華やかに彩る見た目や個性ある香りは、料理人の創作意欲を刺激します。沖縄県北部の山間の地で活動を続ける芳野さんの作る野菜との出会いは、樋口シェフが「ぬちぐすい」を作る大きな一歩になりました。
地域の食を担うのは食材のつくり手、そこに光を当てるのが料理人の使命というのは、伊勢志摩でも貫かれている樋口シェフの料理の指針です。
ダイニングアウト琉球南城沖縄の「母の味」にインスパイアされた日々の、命の糧。
ひとつでも多くの野菜を使い、沖縄の食を表現する一皿を作りたい。そう考えたとき、樋口シェフの頭に浮かんだのが家庭料理の「ちゃんぷるー」です。沖縄の方言で「混ぜる」の意味を持つ、県外の人々にとっても、もっともポピュラーな沖縄料理のシンボル的存在です。
「沖縄の味の濃い野菜、とりわけ苦みのある野菜は、古くから体を調えるものとして食生活に取り入れられてきた伝統があるようです。加えて旬の野菜は、自然のエネルギーに満ちていて、それを無駄なく使い、家族にたっぷり食べさせようというのが、お母さんが作るちゃんぷるー」。
自然の恵みに感謝し、食べる人の体を調える。食材の生命が人の命を作るという自明の、しかし忘れ去られがちな理を、郷土料理の中に見出したのです。それは「Origin いのちへの感謝と祈り」という今回の『DINING OUT』のテーマにも繋がっていきます。
ダイニングアウト琉球南城毎日の食卓にある伝統食材「島豆腐」との出会い。
「ちゃんぷるー」に欠かせない食材に、島豆腐があります。樋口シェフは、創業60余年、昔ながらの製法を守る数少ない工房のひとつ『島袋豆腐店』を訪ねました。併設の豆腐料理店『島ちゃん食堂』は、地元の人が列を作る繁盛店。その裏手にある『島袋豆腐店』は、店というより小さな工房兼直売所といった雰囲気です。それでも出来たての豆腐を目当てに、鍋を持って買い物に来るご近所の常連が、早朝からひっきりなしという賑わい。地釜と呼ばれる大きな釜に向き合い豆腐を作るのは、この道40年というベテランの島袋幸子氏です。
「出来たては格別だよ」と、島袋氏に手渡されたゆし豆腐をひと口試食するや、樋口シェフは驚きの表情を見せます。
「大豆の風味を引き立てる絶妙な塩気、とろける食感。今まで食べてきた豆腐とはまったく別のおいしさに、感動しました」
ゆし豆腐は、型に入れて固める前の島豆腐。おぼろ豆腐よりずっと柔らかで、しっかりとした大豆の甘みがあります。島豆腐は、一般の豆腐が煮た大豆から豆乳を取るのに対し、ひと晩漬け置いた大豆を絞って豆乳を取る「生絞り」製法が特徴。木型に流し、重しでしっかり水分を切った島豆腐には、「嚙める」ほど強い食感と濃厚な風味があります。個性豊かな味の強い野菜に負けず、引き立て合う。この島豆腐に出会い、樋口版「ちゃんぷるー」の着地点が見えてきたといいます。
ダイニングアウト琉球南城素材ひとつひとつの個性が生き、合わさって輝く一皿に。
沖縄の11月は農作物の端境期。加えて2018年は10月、二度の大きな台風に見舞われ、農作物も大きなダメージを受けています。厳しい状況下で、あらかじめ使用する野菜を決め、調理法を組み立てるのは、不可能だったと樋口シェフは話します。
「実際、使用する野菜がほぼ出そろったのは、開催前日、いえ当日です。慣れない野菜ひとつひとつを、その特徴を最大限に活かして調理ができるよう助けてくれたのが、地元のシェフ達からなる厨房スタッフチームでした」
タイモは素揚げし香ばしさとねっとりとした食感、甘みを引き出して、紅イモはバターソテーと軽やかなチップで、空芯菜やハンダマはさっと湯がいて、という具合。30種という野菜のバラエティに加え「こうすると美味しいよ」、「前にこんな料理で使った」と本番直前の厨房で行われた熱い“セッション”も皿に載った「ぬちぐすい」。樋口シェフの地元、伊勢では神饌である鰹節をつかったエミュリュションの旨みやフーチバーのピュレの香味、シークワーサーの酸味で個性ある素材の味わいをまとめました。
アゲインストな状況下で、計らずも“あるもので作る”「ちゃんぷるー」の本質を体現する一品に。同時に、「日常の食」に着想を得ながらも、大勢の手があってこそ完成する料理には、どことなく祝祭感が宿ります。沖縄の、今この瞬間の大地に、そこに生きる多くの人々の想いを重ねたのが「ぬちぐすい(命薬)」というひと皿なのです。
三重県四日市市生まれ。1991年、志摩観光ホテルに入社。2014年には、同ホテルで初めての女性総料理長に就任。2016年に、「G7 伊勢志摩サミット」のディナーを担当し、各国首脳から 称賛を受けた。翌年、第8回農林水産省料理人顕彰制度「料理マスターズ」のブロンズ賞を、三重県初、女性としても初めて受賞。今、最も世界から注目を集めている女性シェフである。
志摩観光ホテルHP:https://www.miyakohotels.ne.jp/shima/index.html
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ふ・ゆ・が・はじまるよ~♪
皆様いかがお過ごしでしょうか??
12月に入ってグッと気温が冷え込んできましたよね
北海道から来られたお客様は明日が吹雪だから帰ることが出来ないと
おっしゃっていました
最近まで食欲の秋だとか運動の秋だと思っていたのですが
時が過ぎるのは早いものですね
さて、冬も本番に差し掛かってきましたので
あったかグッズのご紹介です
まずは定番のストールです
先月終盤ぐらいから種類豊富に取りそろえています
首もとから温かくなってください
毎年恒例のあったかグッズもありますよ
こちらは、ブランケット・フットインクッション・もこもこスリッパ
をご用意しております
クリスマスの贈り物なんかにもオススメです
その他冬の新商品も続々入荷しておりますので
倉敷に来られた際には是非デニムストリートへお越し下さい
倉敷も結構寒いので、是非暖かい格好でお越し下さい
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『西宇和みかん』が見せた、様々な表情。ついに完成した『KIRIKO NAKAMURA』の期間限定デザートコース。[TERROIR OF NISHIUWA/愛媛県八幡浜市]
テロワールオブ西宇和予約困難は必至。全貌がいよいよ明らかになった全6皿。
愛媛県西宇和が誇る『西宇和みかん』は、高糖度で酸味も適度にあり、“じょうのう”は薄く、とろけるような食感。主に首都圏へ出荷され、多くの人に愛される西宇和の特産品です。
そのまま、手で剥いて食べるイメージが強いみかんの可能性を広げる為、『西宇和みかん』を主役に据えて、『西宇和みかん』だけのデザートコースを創造する。そんな強い気持ちで、現地まで訪れたのは、パティシエールの中村樹里子氏でした。中村氏は、オープンたった2ヶ月でミシュラン最速の一ツ星を獲得した白金台『TIRPSE』の元パティシエール。現在は、目黒『Kabi』でその腕を振るっている新進気鋭の料理人です。
「急な傾斜地に畑はあるから水はけが良く、気候の変化によって、たったひと晩でも糖度は一気に上がる。生産者の方にお会いしなければわからないことが知れて、本当に勉強になりました」
西宇和への旅をそう振り返る中村氏。
ついにデザートコースが完成しました。
あの『KIRIKO NAKAMURA』が、わずか12日間(!)だけの期間限定で復活。提供はすでに始まっています。
▶「Kiriko Nakamura による西宇和みかんのデザートコース」詳細・予約はこちら
コースを通じて、ゲストに伝えたかったのは「そのまま食べて美味しい『西宇和みかん』にも、様々な表情がある」ということ。
全6皿には、中村氏がどんな魔法をかけて、『西宇和みかん』をデザートに昇華したのかを示す、英語のキーワードが付されていました。
「fermentation」
「fresh」
「roast」
「carbonization」
「reduce」
「candied」
全6皿を、順に追いかけていきましょう。
▶詳細は、TERROIR OF NISHIUWA/特徴的な地形が育む、伝統の『西宇和みかん』で進む、新たな価値観の創造。
テロワールオブ西宇和あるときは『西宇和みかん』そのまま。あるときは発酵させて。
まず、テーブルに運ばれてきたのは1脚のワイングラス。
色鮮やかな普通のオレンジジュースが注がれているように見えます。
しかし、香りを嗅いで驚嘆。えも言われぬ芳醇な香りが漂ってきました。同時に、スパイスや花のニュアンスも感じます。
「『西宇和みかん』を常温で発酵させたジュースです」
「fermentation」とは発酵。スパイスの正体は西予市で出合ったニッケで、やはり、「発酵させてある」とのこと。キンモクセイも別に発酵させて、仕上げに合わせています。
『西宇和みかん』の甘みとわずかな酸味、フローラル&スパイシーな香りが渾然一体となって広がる美味しさに、陶然となります。添えられた小菓子は春菊のパイですが、みかんシロップを塗って焼き上げているそう。だから、発酵ジュースとよく合うのです。
続いて登場した「fresh」は、文字通り、『西宇和みかん』そのままの美味しさを活かした一品。果汁のゼリーに優しく包まれた実は甘く、ヨーグルトキャラメル、ほうじ茶の香るアイスクリームが心地良いアクセントになっています。
「ほうじ茶の香りを、コースのどこかで活かしたい」
西予市の美しい茶畑で、中村氏が呟いたひと言が脳裏に甦りました。
テロワールオブ西宇和・真穴共選様々に手を加えることで花開く、『西宇和みかん』の知られざる魅力。
続いて登場した「roast」はオーブンで30分かけて焼いた『西宇和みかん』が主役。このローストみかんはソルベにもしています。しっとり濃厚なチーズケーキや、みかんの花の蜂蜜で作ったムース、富士柿のクリアなジュレ、さらに『西宇和みかん』で作ったパリパリのチュイールなども添えて、方向性の異なる甘みを重層的に組み合わせました。
蜂蜜は、「個人的に好きな食材で、西宇和では、たくさんの蜂たちにも会ってきました(笑)」と思いを寄せた八幡浜『脇水養蜂園』の特製品。富士柿は、みかんに並ぶ西宇和の特産品で、現地のテロワールが育んだ食材たちが見事に『西宇和みかん』の存在感を際立たせています。
次の「carbonization」は直訳すれば、“炭化”。『西宇和みかん』がどんな変貌を遂げるのか、期待していると、何と、真っ黒に焦がされたパウダーになって登場しました。パウダーだけれど、香りはしっかりと『西宇和みかん』。
「このデザート、どこに『西宇和みかん』が使われているの? という面白さを感じて欲しくて考えました」
食べ手の想像を易々と超越するクリエイションに、中村氏の才能を実感します。
この皿で、すべての土台になっているのは内子町で感激した人参芋。ケーキに仕立てました。人参芋ではムースも作り、ふんわり感もプラス。素揚げにしたチップスは、西宇和で広く栽培されている菊芋で、これが香ばしくて、パリパリ。菊芋は味噌漬けにもしており、こちらはシャキシャキ。多彩な食感の共演に、食べていて楽しくなってきます。
「6皿すべてが違う印象になるよう心掛けました。そこが一番、難しかったかも(笑)。けど、私自身も楽しんで作ることができました。皆さまにも楽しんで頂けたら嬉しい」
テロワールオブ西宇和食べることで、西宇和のテロワールが思い浮かぶ、渾身のコース。
温州みかんを食べたことがないという日本人は、恐らく、ひとりもいないでしょう。誰もが知るおなじみのフルーツです。けれど、その真価を、多様な調理法を駆使してアプローチすることで、6つの表情を引き出す。それが中村氏の狙い。
5皿目の「reduce」では、『西宇和みかん』を半量になるまで煮詰めて“凝縮”。パッションフルーツ、八幡浜『梅美人酒造』の濁り酒と合わせてソースにしました。かわいく丸まったクレープの中には、みかんのスフレが潜んでいます。
コースを締めくくるのは、砂糖漬けの『西宇和みかん』。つまり、「candied」で、皮ごと漬けているから、みかんの香りまで楽しめるのです。
「丸ごと、1週間ぐらい砂糖に漬けて、甘みを浸透させました。砂糖漬けですけど、本来の果汁もしっかり残っています。最後の一品ですから、プチフール的に、少し甘めに仕上げました」
素朴で美味しい『西宇和みかん』ですが、実だけでなく、ときには皮の香りもしっかり活用して、飽きさせずに食べさせる。
「同じみかんでどれだけ印象が変えられるかが勝負」
そう語っていた中村氏の創意が伝わってくる構成で、食べ終えて、改めて『西宇和みかん』の魅力を再認識しているのです。
テロワールオブ西宇和目黒『Kabi』で追体験する、中村樹里子氏の西宇和への旅。
「“じょうのう”が薄いのはもちろんですけど、実はしっかりしていて、ひと粒ひと粒が大きい。ジュースもたっぷりで美味しく、何より、香りが良い」
産地で『西宇和みかん』の魅力を、そんな風に語っていた中村氏。
目黒『Kabi』で復活した『KIRIKO NAKAMURA』は12月21日までの期間限定。(予約が満席になり次第終了となります。)
デザートに合わせて、ノンアルコールなら、例えば、発酵ウコンジュースのソーダ割など、個性的な飲み物とのペアリングも楽しむことができます。
もちろん、ワインを始めとするアルコールも用意。
ペアリングを創案するのは『Kabi』のソムリエ、江本賢太郎氏で、飲みながら中村氏のデザートを味わえば、今や予約の取れない人気レストランに上り詰めた『Kabi』の世界観にも触れられることでしょう。
また今回、より多くの方に『西宇和みかん』の魅力を感じてもらう為に、渋谷「WIRED TOKYO 1999」、表参道「発酵居酒屋5」、銀座「フタバフルーツパーラー銀座本店」の3店舗でも、中村樹里子氏プロデュースの『西宇和みかん』スイーツを体験できます。(12月10日よりスタート。)
▶「Kiriko Nakamura による西宇和みかんのデザートコース」詳細・予約はこちら
『西宇和みかん』をデザートコースで味わう特別な時間。それは、西宇和を巡って、『西宇和みかん』の魅力と土地のテロワールを感じ取った中村氏の旅の追体験。そして、デザートの新たな可能性を発見する、この上なく刺激的な旅にもなるのです。
(supported by JAにしうわ)
大阪出身。関西の洋菓子店などを経て、29歳で単独渡仏。パリではシェフパティシエとして「L’Instant d’Or(ランスタン・ドール)」を1年でミシュラン1ツ星に導いた。帰国後は、東京・白金台の『TIRPSE (ティルプス)』に参加。軽やかでいて深みのあるデザートの味わいには国内外からの評価も高い。2015年7月8日より『TIRPSE』のランチタイムを1年間限定で『KIRIKO NAKAMURA』とし、6品の季節感あふれるデザートだけのコースを企画。
今回、目黒Restaurant『Kabi』にて、KIRIKO NAKAMURAデザートコースを2週間限定で復活させる。
暮らしを支えてきた会津木綿の新たな価値を提案する。[NEW GENERATION HOPPING・IIE Lab./福島県会津坂下町]
ニュージェネレーションホッピング・イーラボ伝統工芸のイメージを覆すオープンファクトリー。
田園地帯を蛇行しながら流れる阿賀川に主峰・飯豊山をいだく飯豊連峰。長閑な景色に、突如現れる凸凹屋根のレトロな建物。ここは、廃校になった幼稚園を借り受け、現代のライフスタイルに取り入れやすい会津木綿の商品を提案する研究所「IIE Lab.(イーラボ)」です。明るく開放的な空間は、織機のある工房、縫製を行うミシンルーム、商品を販売するショップの3エリアに分かれています。
こちらを運営する㈱IIE代表の谷津拓郎氏は会津坂下生まれ。早稲田大学大学院環境エネルギー研究科在学中に東日本大震災が発生し、地元でボランティア活動を行う中でIIEを立ち上げました。取締役の千葉崇氏は、ビジネスパートナーを探していた谷津氏と縁あって出会い、地元で新しい価値を生みだそうとしている新会社の話を「面白そう!」と東京の出版社の仕事を辞め、奥さんの故郷でもあった会津にIターン。ペンキ塗りなどの改修も自分達で行い、今では県内に3軒しかない「会津木綿」の工房の仲間入りを果たしました。主に谷津氏が営業や経営面を担当、千葉氏が織りを担当し、新商品の企画は縫製担当のスタッフも参加してアイデアを出し合っています。
「会津木綿」は綿100%の平織物。その歴史は古く、1627年に会津藩主の加藤嘉明が伊予松山(愛媛県)から織師を招いたことに始まります。それからおよそ400年、会津木綿は夏暑く、冬は寒さ厳しいこの土地で作業着や普段着として親しまれてきました。特徴でもある縦縞模様はそんな地元の人々の信頼の証。丈夫で縮みにくく、経糸と緯糸の間に空気を含むため保温性・通気性に優れているのもよいところです。さしずめ、元祖アウトドア発・高機能生地といったところでしょうか。
▶詳細は、NEW GENERATION HOPPING MINAMI AIZU/南会津の一年を密着取材! 春夏秋冬を作家と巡り、若き力を発掘する旅へ。
ニュージェネレーションホッピング・イーラボ100年前の織機が紡ぎだす高品質の会津木綿。
もともとラボがある青木地区は藍の栽培が盛んでした。たびたび氾濫する阿賀川の水害に強い作物として育てられていたのです。やがて辺りには染屋が建ち並ぶようになり、紺地に白い縞を織りだした青い縦縞が特徴の「会津青木木綿」が生まれました。興隆を極めたのち、一時は衰退してしまった「会津青木木綿」ですが、谷津氏や千葉氏が地元の職人を訪ねて彼らの頭の中にしか存在しなかったレシピを継承。さらに新たな感性を吹き込んだIIE Lab.の商品はカラーバリエーションが豊富です。ショップには従来の伝統工芸品とは一線を画す色味のストールやネクタイ、ハンカチやブックカバーが整然と並び、物欲が刺激されます。
IIE Lab.内には日がなガション、ガションとゆっくりリズムを刻む機械音が響き渡ります。実はこの機械、豊田式鉄製小幅織機Y式と呼ばれる100年前の織機。70年稼働した後、使われなくなって30年放置されていた10台を廃業した織元さんから譲りうけたのです。「この織機を直して再び使えるようにするため、米沢、桐生、新潟といった木綿の産地を訪ね、諸先輩方にお話を聞いて回りました」(千葉氏)。それは、雑誌編集で培った足で稼ぐ取材とどこか似ていたといいます。廃工場から織機を移設し、ひとつひとつパーツを外しては錆を落とし、油を差し直してゆく……コツコツと修理を重ねて1年半から2年ほどたったある日、再び織機はリズムを刻み始めました。時間と手間がかかるため、出来る生地は1日にわずか12メートルほど。しかし、低速で丁寧に織りあげた生地は糸にストレスがかかっていないため風合いが良く、品質の良さは一目瞭然です。
とはいえ古い織機なので、故障しても新しい部品はのぞめず、もっぱら使用していない織機からの部品取りに頼っています。「70年働いてきたのにまだ働かせようというのですから、ちょっとかわいそうな気もするんですけどね」と千葉氏。織機がスムーズに動くよう常に油をさすので、各パーツから汗のように油が滴ります。その様はまるで生きもののよう! ふと見ると、油で床が汚れぬよう小さなトレーがいくつも並べられていました。「自分達でこの場所を作り上げてきたという気持ちが強いので、みんなで壁を塗りあげた日のことを思い出すと汚せないんですよ」(千葉氏)
ニュージェネレーションホッピング・イーラボ複数コラボに新ブランドも!広がるIIE Lab.ワールド。
「会津木綿を使ったこんなものがあるといいな」をひとつずつ商品化しているIIE Lab.では主力商品の「会津木綿ストール」以外にさまざまなアイテムがあります。例えば、赤ちゃんの産着のように柔らかな「5year stole」。会津木綿は糊づけした糸を使うため、最初は張り感があり、使いこむごとに柔らかくなっていく風合いの変化が楽しい布です。その特性を逆手にとり、この商品は購入から5年後の柔らかな風合いを最初から実現させるべく洗いをかけたアイテムです。12月1日からは“東北の山奥の織元”をコンセプトに掲げる「会津木綿 青㐂製織所」も始動します。新ブランドの第一弾は、サルエルのようなシルエットの「ヤマハカマ」。流行のワークスタイルを意識したデザインで、シンプルなトップスと合わせてもスタイルが決まります。
感度が高い企業とのコラボレーションも次々に実現しています。そのひとつが小学館刊行のハイライフマガジン『和樂』とのコラボレーションから生まれた「フェルメール会津木綿ストール」。フェルメールの名画『真珠の耳飾りの少女』の配色からインスピレーションを得た爽やかなストールは早々に完売し、現在は追加生産中なのだとか。ビームスと伊勢丹の共同プロジェクト「大縁起物市」では、会津木綿で作った「気持ちが伝わるご祝儀袋」で参加しました。贈られた人がハンカチとしても使える商品です。他にも多くのプロジェクトを手掛け、現在も複数のプロジェクトが進行中のIIE Lab.。その活動領域はさらに広がりそうです。
ニュージェネレーションホッピング・イーラボ価値あることをやって、きちんと稼ぐ。
会津木綿のバックボーンも製法も、それに関わってきた昔の人の知恵も「間違いなく価値あるもの」と考えている谷津氏と千葉氏。しかし、「この盆地を一歩出たら、認知度はまだまだ」と言います。「まずは『会津といえば会津木綿があるよね』と皆さんに思い浮かべていただくことが我々の第一の使命。そのためには、ここにしかない人々の暮らしや田舎暮らしの良さを商品に乗せることができたらと考えています。混ぜた納豆を入れて食べる納豆餅だとか、イナゴを捕まえて遊ぶだとか、自分自身がここで生まれ育って常識だと思っていたことを他人に話すと驚かれたりする。そこに、地元の人間が気付かなかった価値が隠れているかもしれないので、日々、会津の魅力について考えています」(谷津氏)
外から会津にやってきた千葉氏は、この土地の厳しい冬にこんなことを思うそう。「僕がこっちにきて思うのは雪がすごいということ。なんだか自然に試されている気がします。そんな環境で生きてきた人々の知恵を投影した商品を作りつつ、きちんと儲かる会社にもしたい。僕たちはいつも『技術だけではなく、アイデアのある職人になりたい』という話をしているんです。こだわったもの、いいものを作っても、それだけでは意味がない。それをいろんな人に伝え、売っていくことも同じぐらい大切だと思っています。職人が技術を公開しないというのもあまり好きではなくて、会津木綿の輪を広げるために自分が身につけたものは広く伝えていきたい。今は一緒にやろう という人が増えてきて、嬉しく感じているところです」(千葉氏)。
その言葉に頷き、「価値あることをやって、ちゃんとお金を稼いで、それを長く続けていくことが大事」と谷津氏。大量生産が叶わない昔ながらの製法を大切にしながら利益もあげる──相反する大事なことを両立させるため、お2人の挑戦はまだまだ続きます。
住所:〒969-6511 福島県河沼郡会津坂下町青木宮田205 MAP
電話:0242-23-7808
http://iie-aizu.jp/
DJブースがある酒舗が、人と酒との出会いを創出する。[NEW GENERATION HOPPING・植木屋商店/福島県会津若松]
ニュージェネレーションホッピング・植木屋商店植木屋から始まった400年の歴史を持つ酒舗。
地方取材に行くと、しばしば「ここは取材に行った?」と嬉しい情報をいただくことがあります。今回の取材中も複数人の方から、「植木屋という名前の酒屋さんがある」「DJブース(!?)がある酒屋」「頒布会のお酒がとにかく美味しい」と、気になる情報を得ることが出来ました。そこでお伺いしたのが『植木屋商店』です。
取材を快く引き受けてくださったのは店主の白井與平氏。まずは店名の由来をお伺いしました。「いま店がある場所は埋め立てられてしまった(鶴ヶ城の)外堀のすぐ外にあたりまして、初代はお城に仕える庭師であったと聞いております。それが、そのまま屋号になったようで、私は十八代目ですから代々400年以上この場所に居ることになるでしょうか。19世紀の初めには乾物や果物など会津ゆかりの特産品を扱う商いをしておりましたが、酒の扱いが増え、自然と他の物が縮小していった感じです」。現在、取り扱っている商品の8割は日本酒。そのうち9割5分は会津のお酒で、右側の冷蔵庫に要冷蔵の生酒など、左側の棚には常温の酒が整然と並んでいます。
▶詳細は、NEW GENERATION HOPPING MINAMI AIZU/南会津の一年を密着取材! 春夏秋冬を作家と巡り、若き力を発掘する旅へ。
ニュージェネレーションホッピング・植木屋商店余裕のあるときは、レコードに針を落として。
設計士と練り上げた改築を5年がかりですすめ、今年4月に現在の形になったという『植木屋商店』。まず目に飛び込んできたのは、さまざまな色やフォントのネオンサインを組み合わせた「UEKIYA」の看板です。「1文字ずつeBayで落札して、地元仲間の看板屋さんに仕立てて頂きました。笠の裏側には掛け軸などをかけるフックを取りつけてあります。蔵の中に会津藩ゆかりのもろもろがありますので、今後お披露目をかねてご紹介できれば」。他にも店内随所に400年の歴史を感じさせるものが散見されます。市内の銀行から譲り受けた重厚な金庫、金品の受け渡しの際に使われていた荷判取り帳、物資運搬用の古い木箱……そこには、内容物と共にヤマヨと記されています。「当主は代々、與平(ヨヘイ)という名を襲名しているのですが、そのヨをとってヤマヨ。うちの荷印です。昔は江戸からくる荷物に『若松のヤマヨ』と書いておけば、ここに届いたようです」
歴史深い品々と並んで存在感を放つのは、レジカウンターの両脇に置かれた巨大なJBLのスピーカー。そして圧巻のレコードたち!「新しい店に置こうとJBLのスピーカーは昔から用意していて、スピーカーを作っている友達にメンテナンスをお願いしてセッティングしてもらいました。レコードは高校生のときからの私の趣味で、多いのは黒人の音楽。ソウルにジャズ、レゲエ、ヒップホップなんでも聞きます。80年代シティポップからエレクトロニカ、現行ハウスも好きです」。大学は東京で、渋谷の『CAVE』等でDJとして活動していた白井さん。しかし、23歳の時に先代が倒れて会津に戻り、24歳で『植木屋商店』の跡を継ぎました。
「私がDJを始めた頃はCDJが普及していなかったので、現在ももっぱらアナログ派。最近は再発も増えて、以前よりレコードが手に入りやすくなりました」と語る白井さんは今も現役のDJ。忙しい時は針を落とす暇がないのでもっぱらデータを飛ばしていますが、時間がある時は「やっぱりアナログの音が面白い」とレコードをかけています。撮影時にかけていただいたのはニーナ・シモンの『My Baby Just Cares For Me』。躍動感のあるピアノとクリアで伸びやかな声が店内に響き、リッチな気分に浸ることができました。
ニュージェネレーションホッピング・植木屋商店寒暖差が育んだ米と豊富な雪解け水が銘酒を生む。
福島県の西部に位置する会津地方は、四方を磐梯朝日国立公園に囲まれた盆地にあり、寒暖差が激しい土地柄。ゆえに美味しいお米と清らかな水に恵まれ、昔から酒造りが盛んです。こだわりが強く、我慢強い会津人の気質も美味しいお酒を生みだす要因のひとつと言われており、「お酒といったら通常はアルコールを指すが、会津では日本酒を指す」「年配の方のなかにはマイ猪口をもって吞み屋に繰り出す御仁も」といった通説にも日本酒を愛してやまない土地柄が滲みます。
なかでも特徴的なのが“無尽”というシステム。これはメンバーが毎月お金を出し合い、積み立てられたお金で宴会を催す仕組みで、会津以外にも沖縄や九州各地、岐阜県の飛騨地方に見られます。「私も酒屋の仲間と無尽をやっていて、こんなイベントを開催しているんですよ」。見せていただいたチラシには、会津の街の17軒の飲食店と22の蔵元が参加し、チケットを買って呑み歩きができる「会津清酒弾丸ツアー」(今年分は終了)の概要が。さまざまなお酒と出会えるこのイベント、今年で第4回目を数えるそうです。
酒屋とお客さんの距離が近いのはもちろん、この店では両者と蔵元の距離も近いようで、蔵元の方がふらりとお酒を買いにみえて、先に店に来ていた蔵元の方と親しそうに会話を始める光景も見られました。お話し中のお二方にお伺いすると、「会津は日本を代表する酒蔵さんもたくさんございますし、みなさん仲が良くて、いい意味で切磋琢磨しあいながら(品質の)底上げを図っています」と、蔵元同士の交流も盛んな様子。ここにいると、会津という場所の地縁の濃さを感じます。
ニュージェネレーションホッピング・植木屋商店蔵元が魂込めた酒を責任を持って売る。
極めつけは、白井さんのこんな言葉。「うちに並んでいるお酒は造り手の心が宿ったもの。蔵元が命がけで造ったお酒を『私に売らせて欲しい』とお願いしに行き、『お前に託す』と委ねられ、逆に『あなたに売って欲しい』と託されて、『責任を持って売ってきます』というお付き合いをさせていただいております。蔵元とは運命共同体です」。蔵元の魂ともいえる日本酒、ここでは在庫もすべて氷温で貯蔵管理されており、ベストな環境が整えられています。「なるべく品質の新しい商品をと心がける一方で、しっかり熟成させて旨みののった古い酒を提案することも」。また、毎月会津のお酒が届く頒布会にも力を入れているそうです。
人口比率に対する居酒屋の数も全国的に高い会津。街中では、「会津 日本一おいしいお酒が飲める郷 宣言」と書かれた立て札も見かけました。そんな場所にあって、人とお酒のさまざまな出会いの場を創出しつづけている白井さん。帰り際にいただいた手ぬぐいの熨斗には、「会津磐梯山は宝のヤマヨ」とありました。ここでなら、一生の宝ものになるような好みの1本と出会えるかもしれません。
住所:〒965-0035 福島県会津若松市馬場町1-35 MAP
電話: 0242-22-0215
http://www.uekiya.net/
西洋と東洋の垣根を越えた自由な発想。漆器の新たな地平を切り拓く。[NEW GENERATION HOPPING ・塗師一富/福島県会津若松]
ニュージェネレーションホッピング・塗師一富まるでガラス!?な伝統技法「玉虫塗り」。
漆器と言えば思い浮かぶ味噌汁椀や、おせちを入れる重箱。そんな私たちがよく知る漆器とは趣が異なるスタイリッシュな漆器を生みだす職人がいます。南部鉄器のような風合いのお猪口にショコラのような小物入れ、さらには「アレキサンダー・マックイーン 青山店」の吹き抜けを飾るオブジェまで。これらは全て「塗師一富」三代目・冨樫孝男氏の作品です。
冨樫さんの工房があるのは福島県の会津若松市内。お邪魔すると、先代から使っているという工房の床には夥しい数の飛沫が飛び散り、まるでパレットのよう。「漆器の世界は分業制で、原型を作る木地師、塗り師、蒔絵師に分かれています。会津はさらに細かくて、お椀や茶托など丸い木地を造る人、四角い木地を作る人、丸物を塗る人、四角い物を塗る人と分かれています。塗りも下地、中塗り、上塗りと分かれていて……」。驚くべき細分化の理由は効率をあげるため。「会津塗り」で知られるこの地域、先代の頃は150軒ほどの漆器関連工房がありました。現在はその数も80軒ほどになり、40代の冨樫さんはなかでも若手。それより若い方は10人にも満たないそうです。
分業制が浸透している会津の漆器業界ですが、作品によって木地作りから仕上げまで一貫して行うのが冨樫さんのスタイル。例えばワインレッドの香水瓶は木地をカットして細部を彫り込み、下地を塗ってから純銀を塗ります。その上から赤い漆を塗ると下の銀地が透けてみえ、玉虫の羽のように輝くのです。「これは『玉虫塗り』という仙台発祥の技法です。たまたま倉庫で見つけて、『これなに!?』と父親に聞くまでは私も知りませんでした。とはいえ父親について習ったことはないんです。高校を卒業してすぐに輪島で2年、その後長野県の木曽で3年修行をしましたから」。それから他所で5年修行を重ね、独立したという富樫さん。修行時代に学んだのは技術だけではありません。「うちは代々請け負いをやってきたので、発注がないと技術が埋もれてしまうんです。親父は仙台で2年ほど勉強したそうですが、『玉虫塗り』も発注があった昭和50年代ぐらいまでしか作っていなくて。一方、私の師匠が請け負い仕事を一切しない人で、そのスタイルに憧れていたんです。代々の付き合いがありますので、今は並行しながら作品作りを行っています」。
▶詳細は、NEW GENERATION HOPPING MINAMI AIZU/南会津の一年を密着取材! 春夏秋冬を作家と巡り、若き力を発掘する旅へ。
ニュージェネレーションホッピング・塗師一富「漆掻き」に「刷毛」作り。漆器産業を支える職人たち。
会津では仕上げの工程を「花塗り」といいます。ハケ跡やムラを残さず光沢を持たせるのが特徴で、塵ひとつついただけでやり直しという繊細な世界。仕上げを行う際は防塵服を着用するそうで、今回は下地を塗る工程を見せていただきました。「漆はウルシの木の幹にひっかき傷をつけ、掻き取った樹液を使います。面白いもので、同じ木でも職人が変われば質も変わる。漆は空気に触れると固化が始まるので、手早く掻き集めなければ品質が落ちてしまうんです。昔は会津でも漆がとれたのですが、ウルシの木も少なくなり、漆を掻く職人もいなくなってしまって。いまは、懇意にしている職人に岩手から漆を送ってもらっています」。下地には生漆と土を混ぜたものを使います。冨樫さんが使うのは京都でとれた「黄土」に珪藻土を蒸し焼きにして砕いた「地の粉」を混ぜたもの。子供のころから工房が遊び場だったため免疫ができたのか、直接漆を触ってもかぶれたことはないそうです。
汁椀状の木地を取り、すっと下地を塗っていきます。その緊張感に思わず息を止めてしまうほど。その際に冨樫さんが使っている三味線の撥のようなものが気になりました。「これは『ヘラ』といって、下地を塗ったり混ぜたり、はみ出した部分を掬い取る時に使います」。そういって刃先が光る小刀を取りだし、ヘラ用の木片を削りだす冨樫さん。「これは『塗師小刀』といって、料理人さんの包丁のように自分で研ぎます。修行に入ってすぐは1ヵ月毎日ヘラを削り出していたので手が豆だらけに(笑)」。短い毛がびっしり詰まった刷毛も特徴的。「これ、実は人毛、女性の髪なんです。端から端まで髪の毛が入っていて、毛先がバラついてくると鉛筆のように先端を削り出して使います。この世界も後継ぎ問題が深刻で、漆の刷毛を作る職人は全国で2人だけ。最近、会津の20代の女の子が市内で独立して、貴重な3人目になりました」。先代や先々代から譲り受けたものも入っているという大小さまざまな道具たちは、みな使いこまれた端正な顔立ちでした。
ニュージェネレーションホッピング・塗師一富防腐効果に抗菌効果。知られざる漆の実力。
先に触れたように、漆は空気に触れた瞬間、固化を始めます。「漆器は曲面を塗り終わるたびに乾かさなければいけません。内側ひとつ塗るにも底面を塗っては乾かし、側面を塗っては乾かしという具合にとても時間がかかる。乾燥時間も季節によって違っていて、湿度で固化する漆は梅雨時が一番乾くんです」。意外なのはそれだけではありません。漆器にとって水や洗剤は天敵というイメージがありますが、それも誤りなのだとか。「水や洗剤はもちろん、酸でも溶けません。防酸以外に防腐効果もあって、うちの祖父は戦時中、要請を受けて弾丸に漆を塗っていたそうです。日本軍がジャングルなどの湿地帯で戦う時に、弾が錆びることを防ぐために」
漆は抗菌効果が高いことも証明されています。2005年8月発行の北国新聞によると、金沢工業大学の教授がポリウレタンなどの樹脂やヒノキの木材、伝統工芸の漆器に大腸菌を付着させ、気温36度の下で24時間放置した後に菌数を比較したところ、プラスチック製品はほとんど大腸菌が減少していなかったのに対し、漆器の大腸菌は約1000分の1に減少したそうです。「そもそも中国から陶磁器が入ってくるまで日本では、ご飯茶わんも漆器だったんです」。日本人にとって身近な存在だった漆器。古の人々は漆の優れた性質を今よりもよく知り、暮らしに取り入れていたのでしょう。修繕しながら長く使えるのも漆器の魅力。そこで冨樫さんは2012年より会津漆器技術後継者訓練校で講師を務め、技術の継承のみならず修繕技術の普及にも務めています。
ニュージェネレーションホッピング・塗師一富創りたいのは「触れてみたい」と思えるもの。
興味深い説明を受けつつ下地を塗り終えた作品が並ぶ棚をみせていただくと、内部には湿度計がついており、漆が乾きやすい湿度に保たれていました。ふと見ると、棚の右端に漆黒のシャンパングラス。このセンス、西洋を彷彿させます。「高校を卒業してすぐに弟子入りしたので叶わなかったんですけど、ずっと世界を放浪したいという想いがありまして。シルクロードを旅して器をみてみたいなとか、西洋のものを漆器で作ってみたいなとか……」。会津だから、輪島だから、西洋だから、東洋だから。そんな垣根なく、心が動いたものは取り入れる自由な感性があるからこそ、冨樫さんの作品は伝統工芸でありながら革新的なのでしょう。
「今後、創りたいものは山ほどあります」。そこで見せていただいたのは設計図やアイデアスケッチの山。「江戸時代の漆器って、めちゃくちゃ遊び心があったんです。例えば、木でできた鞘に鉄錆のような塗りを施して、『鉄のように見えて実は木なんだよ』みたいな。今の漆器はスタンダードなものか絢爛豪華なものかに2極化していて、技術は素晴らしくても遊び心を感じないんですよね。私が創りたいのは、『わー、触れてみたい!』『楽しい!』と思っていただけるもの。今後もそういうものを創ってみんなをびっくりさせたいし、それを気にいって使っていただけたら嬉しいですね」
住所:〒965-0861 福島県会津若松市日新町10-21 MAP
電話: 0242-27-8593
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「二年参りは花火と共に」。[奉納除夜煙火百八発打揚/新潟県小千谷市]
奉納除夜煙火百八発打揚花火を梯子した大晦日の夜。
毎年、花火で終わり花火で始まる私の年越しですが、長年の念願を叶えるべく昨年末訪れたのが花火の町「新潟県小千谷市片貝」でした。
この町のお祭りについては『片貝まつり』でご紹介させていただきました。片貝まつりでは世界最大級の四尺玉が打ち揚げられることで知られています。
昨年末、私は大晦日の花火を梯子しようと考えました。事前に花火仲間に声を掛け合流。まずは新潟県南蒲原郡田上町に向かいました。田上町では町内二つの地区から交互に花火が打ち上げられます。
「除夜の花火」と名付けられたその花火は今年で32年目になるそうです。果たしてどこから上がるのか全く情報の無い中で花火仲間と共に町内をあちこち走り回ってようやく花火にたどり着いたときの感動、花火仲間と共に観覧出来た喜びは良き思い出として心に刻まれました。
奉納除夜煙火百八発打揚花火の町での暖かな交流に心が和む。
田上町の除夜の花火を堪能した後は花火の町小千谷市片貝へと車を走らせました。片貝では40年ほど前から大晦日から年越しに掛けての奉納除夜煙火百八発打揚を行なっているそうです。打ち揚げを担当されるのは地元の片貝煙火工業さんです。午後11時40分を過ぎたころから浅原神社近くで花火が打ち揚がり始めます。
いよいよ年越しの瞬間が迫る中、真っ白に積もった雪を鮮やかに照らしながら揚がる美しい花火を眺めながら、あっという間に駆け抜けた一年が走馬灯のように脳裏を駆け巡ります。静まり返った浅原神社で厳かに揚がり始めた花火の音を合図に片貝町の方々が三々五々神社に集まって来られます。
そこかしこで交わされる年末の挨拶は町の方々の繋がりを感じることが出来、ひと時暖かな気持ちに包まれます。新年を迎えた瞬間には華やかなスターマインが打ち揚げられ、それを皮切りに笑顔で交わされる新年の挨拶が聞こえてきます。こちらも笑顔のお裾分けをいただいてなんだか良い年になりそうな気分になります。
片貝まつりをきっかけに5年ほど交流している町の青年たちと新年の挨拶を交わせたことも私にとって嬉しい年越しの思い出となりました。新年が明けて午前0時15分ころまで揚がる花火を観終わったとき、寒さを忘れて高揚している自分にふと気がつきました。
奉納除夜煙火百八発打揚花火と生活が密着する町、片貝。
片貝町の人々の一年、そして一生にはいつも花火が寄り添っています。澄み切った年の瀬の夜空に輝く百八発の奉納煙火で一年を終え、そして一年が始まる。片貝で生まれ育った人々は成人、厄年、還暦など人生の節目節目に同級生が一つになって片貝まつりで盛大な花火を打ち揚げます。
また町内行事の際にも町内放送の代わりに花火を揚げて町民に様々なことをお知らせすることもあるそうです。それほどまでに花火と生活が密着している地域は稀有な存在だと思います。昨今各地でイベントとしてカウントダウン花火が上がるようになってきましたが片貝町の花火はそれらのイベント花火とは趣が違うように感じます。
※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製等の行為はご遠慮ください。
日時:2018年12月31日 23:40頃から30分間程度
場所:新潟県小千谷市片貝 浅原神社 MAP
奉納除夜煙火百八発打揚 HP:http://www.ojiyakanko.com/index.html
1963年神奈川県横浜市生まれ。写真の技術を独学で学び30歳で写真家として独立。打ち上げ花火を独自の手法で撮り続けている。写真展、イベント、雑誌、メディアでの発表を続け、近年では花火の解説や講演会の依頼、写真教室での指導が増えている。
ムック本「超 花火撮影術」 電子書籍でも発売中。
http://www.astroarts.co.jp/kachoufugetsu-fun/products/hanabi/index-j.shtml
DVD「デジタルカメラ 花火撮影術」 Amazonにて発売中。
https://goo.gl/1rNY56
書籍「眺望絶佳の打ち上げ花火」発売中。
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=13751
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琉球王朝時代から続く祈りの場を舞台に。初めての女性シェフを迎え開催した第15回目の『DINING OUT』。[DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS/沖縄県南城市]
ダイニングアウト琉球南城「Origin いのちへの感謝と祈り」をテーマに、食の起源を辿る。
11月23日(金・祝)、24日(土)に『DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS』が開催されました。15回目の開催地は、琉球王朝の起源といわれる沖縄県南城市。太古の昔「アマミキヨ」という女神が「ニライカナイ」と呼ばれる海の向こう側からやってきて、琉球の島々や御嶽を作ったという神話になぞらえ、『DINING OUT』史上初となる女性シェフが抜擢されました。重責を担い、二夜限りの厨房を預かったのが『志摩観光ホテル』総料理長の樋口宏江シェフ。テーマは、「Origin いのちへの感謝と祈り」。
例によって、詳細はベールに包まれたまま。11月の沖縄を訪れたゲストを待ち受けていたのは、どんなレストラン体験だったのでしょうか。その全貌を、いち早くご紹介します。
▶詳細は、DINING OUT RYUKYU-NANJO with LEXUS メインページ
ダイニングアウト琉球南城琉球王朝の信仰が息づく島、「はじまりの地」でアペリティフを。
冬の入口ながら、照り付ける強い陽射しに晩夏の余韻さえ感じる秋晴れの日。しかし雲の流れひとつ、風向きひとつ変われば、気温の感じ方も都度変わります。送迎のLEXUSが到着したのは、沖縄半島南端に位置する安座間港。ゲストはここから船に揺られ、港から約5キロの場所にある久高島へと渡ります。
毎回、予期せぬ演出がゲストを驚かせるのが『DINING OUT』ですが、船で島へと渡るのは初めてのこと波に揺られながら、次第に小さくなる知念岬を眺めるひとときに、特別な夜宴への期待感が高まります。
久高島は琉球王朝の創生主である女神「アマミキヨ」が降臨したといわれる琉球神話の聖地。周囲わずか8キロの小さな島の中に、祭祀などを執り行う御嶽(うたき)などの祈りの場が今も残ります。ゲストはまず、島外から訪れた人が最初に挨拶をする徳仁拝所(ウガンジュ)に詣り、続いて12年に一度の秘祭「イザイホー」の二大祭場となる御殿庭(ウドンミャー)、外間(ウプグイ)と、祈りの場を訪ねました。ホストを務めるコラムニストの中村孝則氏と島の案内役の西銘まさひで氏が御殿庭でゲストを迎え、巡礼の案内役に。
「イザイホー」を執り行うのは、ノロと呼ばれる女性であること。最後に行われたのは1978年であること。御殿庭には、島で「神の使い」とされる神聖な食べ物・イラブー(ウミヘビ)の燻製小屋があること。中村氏と西銘氏の口から語られる島のしきたり、風俗は、沖縄を訪れたことがある人にとってさえ未知の世界、驚きの連続であったことでしょう。さらに一行は、バスで島の最北端・カベール岬へと向かいます。
バスから降りると、そこがアペリティフの会場に。特別な島で初めて聞く話に神妙に耳を傾けていたゲストたちも、テーブルに並ぶフィンガーフードを見て、小さな歓声を上げ、表情は明るく華やぎます。岬の突端に目を向ければ、アダンやオキナワシャリンバイといった風衛植物の濃い緑色と白い砂浜、ターコイズブルーの海が、鮮烈なコントラストを描く南国らしい景色が広がります。
祖神「アマミキヨ」は、カベール岬から久高島へ降り立ち、五穀をもたらしたといわれています。樋口シェフがアペリティフに用意したのは、五穀に因んだ南城産赤米のチップスや、樋口シェフが志摩から持ってきた鮑のスモークなど。砂浜へと進み「ニライカナイ」の方角に祈りを捧げたゲスト一行は、再びバスに乗り、ディナーの本会場へと、徳仁港に向かいます。いよいよ、樋口宏江シェフが司る、感謝と祈りの宴の幕開けです。
ダイニングアウト琉球南城聖地巡礼の拝所に浮かび上がる、二夜限定のレストランへ。
久高島・徳仁港で乗った船が安座間港へ近付くと、送迎のLEXUSがずらりと並ぶ圧巻の風景が近づいてきます。久高島での祈りのひとときを過ごし、どこか清々しい表情をしたゲストを乗せ、LEXUSが次々に海岸線を離れ、高台へと登って行きます。駐車場から柔らかな灯りが足元を照らす長い坂道を下っていくと、目の前に幻想的な景色が浮かび上がります。この日のために用意されたディナー会場を囲むのは、ライトアップされた知念城跡。琉球王国時代から続く聖地巡礼の拝所のひとつで、切石組みのミーグスク(新城)と、自然石を積んだクーグスク(古城)から成り、国の史跡にも指定されています。
客席の前に据えられた巨大なオープンキッチンでは、大勢の料理人たちが、忙しそうにサービスの準備を行っています。その真ん中に立つ樋口シェフを見つけるのは、難しいことではありません。落ち着いていて、もの静かな普段通りの立ち振る舞いが貫かれていて、フル回転する厨房内で静かなオーラを放っています。「Origin いのちへの感謝と祈り」をテーマに、『DINING OUT』史上最も神聖な場所で繰り広げられる二夜限りの祈りの宴。その“祭祀役”を務めるのが、樋口宏江シェフなのです。
この晩、供されたのはアミューズからデセールまで11皿。そのすべてが迷いなく、確信に満ちていました。わずか2カ月前に視察に訪れたのが、樋口シェフにとっての初めての沖縄であったとは信じられないほど。地域の人々の暮らしの中でそれぞれの食材が果たしてきた役割を踏まえ、郷土食から得たインスピレーションもフルに生かして作られた料理は、どれも堂々たるフランス料理でした。
ダイニングアウト琉球南城インパクトのある沖縄の食材を、その背景ごとフランス料理の皿に。
味作りはどこまでも緻密に、プレゼンテーションはときに穏やかなキャラクターからは想像が付かないほど大胆に。そんなコースを象徴するのが、アミューズの「久高島イラブーのシガレット」。郷土食のイラブー汁をヒントに、長時間煮たイラブーと、その出汁で風味付けした豚肉や豚足を細長く成形し、イラブーの皮を付けて揚げた手でつまめる一品に。多くのゲストにとって、もっとも未知の食材であるイラブーを、洗練されたスタイルで、ディナーの始まりに据えることで、ディープかつ聖なるものと結び付いた沖縄・南城の食の世界へとゲストを一気に引き込みます。
四季柑が爽やかに香る海の幸の前菜に続いて供されたのは、「ヒージャーのロワイヤル」。山羊のコンソメを贅沢に使ったなめらかな食感のロワイヤルに、卓上で山羊のコンソメをかけて仕上げます。器の中は一杯の茶のようにな静けさですが、身、骨、内臓と山羊の命のすべてが凝縮して内包されているのです。
沖縄の特産魚・マクブはういきょうを添えてスープ仕立てに。沖縄在来種の黒金豚は、伊勢志摩から持ち込んだ備長炭で炭火焼きに。「ぬちぐすい(命薬)」と題された皿は、味や香り、苦みが濃厚な在来種の野菜の“ちゃんぷるー”。それぞれの味わいを活かす調理法で火を入れ、ときには生で、単体で、あるいは一緒に味わうことで、体が調う心地に。家族の健康を気遣う母の味を出発点にした一皿は、野菜料理ながら、魚や肉に劣らぬ食べ応えです。
コースの合間に古くから祭祀舞踊として土地に根付く琉球舞踊が披露されました。三線や笛、太鼓の音に合わせたしなやかな舞いを照らすのは、煌々と輝く月明り。そう、23日は満月だったのです。月明りは、舞台だけでなく食卓を囲む人々をも照らします。日没から急激に強まった風の影響で、会場は一気に冬のような冷え込みに。でも、ブランケットで寒さをしのぎつつ、満足気に食事を楽しむゲストの表情が印象的でした。
ダイニングアウト琉球南城祭祀のように、多くの人の手を、心をひとつにした宴。
「ホテルで仕事をしてきた自分だからこそ出せる料理をお出ししたい」
開催に先駆け、樋口シェフが繰り返し話していた言葉です。では「ホテルの仕事」とはいったいどういうものでしょうか。
それは1皿に惜しみない手間がかけられる仕事。例えば「マクブとウイキョウのスープ」1品を取っても、まず魚の骨と野菜を炒めたもので出汁を引き、エビのコンソメを合わせでコクを出し、身は火を入れる前に塩と砂糖でマリネして脱水し、揚げたウロコを添えて食感を出すという具合。見えないところにかけられる膨大な仕事量は、“人の手”なくしてはありえません。沖縄南城の地で開催された『DINING OUT』では、阿吽の呼吸で通じ合うホテルのスタッフに代わり、県内から集まった料理人たちが樋口シェフの指揮の下、その役割を果たしました。その様子に神の使い役である女性の下、執り行われる祭を重ねたゲストも少なくなかったはずです。
「準備段階で焦りやプレッシャーはありましたが、いつも沖縄の方々が助けて下さった。食材の生産者の方々の真摯さやおおらかさ、厨房スタッフとして参加して下さったシェフの方々の惜しみない力添え。皆さんと作り上げた2日間を誇りに思いますし、それはこれからの私の仕事にも生かされていくと思います」
2日間の感想を樋口シェフに尋ねると「やり切った」という表情で、そう語りました。
初日の急激な冷え込みに続き、二日目は、いよいよディナー開始という場面で、二度のにわか雨に降られるアクシデントがありました。それでも慌てて席を離れたり、あからさまに不満を漏らしたりするゲストはいません。そこに「15回の歴史を重ねてきた『DINING OUT』の成熟を見た」と、ホストの中村氏は話します。
「単に野外で食事をするだけでなく、すべての人で“場”を作り上げる。『DINING OUT』は『DINING EXPERIENCE』。茶道の言葉でいえば、一座建立。素晴らしい会だった」と。
国の史跡にダイニングをしつらえ、海を隔てた2会場を船で行き来し、土地に縁を持たない女性料理人が厨房を仕切る。初めて尽くしゆえに、成功への願いと同じくらい大きな不安も抱えてスタートした『DINING OUT RYUKYU NANJO with LEXUS』は、大きな充実感とともに幕を閉じました。この成功は16回以降の『DINING OUT』に、そして携わったすべての人々のこれからに、いい形で繋がっていくはずです。
三重県四日市市生まれ。1991年、志摩観光ホテルに入社。2014年には、同ホテルで初めての女性総料理長に就任。2016年に、「G7 伊勢志摩サミット」のディナーを担当し、各国首脳から 称賛を受けた。翌年、第8回農林水産省料理人顕彰制度「料理マスターズ」のブロンズ賞を、三重県初、女性としても初めて受賞。今、最も世界から注目を集めている女性シェフである。
志摩観光ホテルHP:https://www.miyakohotels.ne.jp/shima/index.html
神奈川県葉山生まれ。ファッションやカルチャーやグルメ、旅やホテルなどラグジュアリー・ライフをテーマに、雑誌や新聞、TVにて活躍中。2007年に、フランス・シャンパーニュ騎士団のシュバリエ(騎士爵位)の称号を授勲。2010年には、スペインよりカヴァ騎士の称号も授勲。(カヴァはスペインのスパークリングワインの呼称) 2013年からは、世界のレストランの人気ランキングを決める「世界ベストレストラン50」の日本評議委員長も務める。剣道教士7段。大日本茶道学会茶道教授。主な著書に『名店レシピの巡礼修業』(世界文化社)がある。
http://www.dandy-nakamura.com/
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りんごと鋏(はさみ)。切っても切れないその関係は、津軽の文化そのもの。[TSUGARU Le Bon Marché・三國打刃物店/青森県弘前市]
津軽ボンマルシェ・三國打刃物店りんご作りの要、剪定作業を支える、農家の相棒・剪定鋏。
ひんやりした空気が街を覆う朝8時。『三國打刃物店』の中から、「カン、カン、カン」というリズミカルな音が響いてきます。さまざまな刃物を扱う『三國打刃物店』ですが、秋から冬を迎えるこの時期は繁忙期。「りんご農家さんが剪定作業に入るのは正月過ぎてから。それまでに製造や修理を終わらせないといけないから、今が一番忙しいんです」。そう教えてくれた三國徹氏は、創業130年近いこの工房をひとりで切り盛りする5代目鍛冶職人です。
街の中心地から少し離れるだけで、広大なりんご畑が広がる津軽。りんご生産にはさまざまな道具が使われます。中でも、作業中の農家の人々が必ずといっていいほど腰に付けているもの、それが剪定鋏。「昔はひとつの農家で1挺(ちょう)持つものでしたが、今は農家1軒当たりの栽培面積が広いから、ひとりで何挺も持つ人もいますね」と三國氏。つまり、りんご農家の人口以上に現役で活躍する剪定鋏が存在しているということ。剪定が要といわれるりんご栽培ゆえ、農家にとって剪定鋏は非常に重要な仕事道具であり、必ず修理に出してメンテナンスをするものなのだそう。
ここ『三國打刃物店』には毎年数百挺の鋏が修理に出されますが、現在弘前に5軒ある刃物店の中でも、剪定鋏を扱うのはここを含めて2軒だけ。津軽のりんご農家にとって、三國氏の存在は、なくてはならないものなのです。
▶詳細は、TSUGARU Le Bon Marché メインページ/100年先の地域を創造するために。多彩で奥深い「つながる津軽」発掘プロジェクト!
津軽ボンマルシェ・三國打刃物店全国に知られる名品が、りんごと歩んできた歴史とは。
津軽のりんご産業を支えてきた剪定鋏には、古い歴史があります。弘前市中心地に残る鍛治町というエリアは、その昔、弘前藩主お抱えの鍛冶職人たちがいた場所。時代の流れとともに、彼らが手掛けるものも刀から包丁や農機具へと広がり、津軽の一大産業となったりんご用の剪定鋏が生まれました。『三國打刃物店』の初代も130年ほど前に本家から別れ、分家として農機具全般を手掛けてきたそうです。
現在、日本有数の品質と称される津軽の剪定鋏ですが、その理由もまたりんごにあります。バラ科であるりんごの木の特徴は、枝がとても硬いこと。そのため2本の刃を組み合わせて作る鋏も、片方の刃は鋭利に仕上げ、もう片方の刃は枝を支える“受け”にする片刃式で、硬くて太い枝も安定して切ることができる仕様に。今の日本の剪定鋏で主流になっているこの片刃式は、元々ここ津軽から生まれた形なのだとか。
さらに毎日大量の枝を切っても咬み合わせが変わらないよう、緩みやすい一般的な右ねじではなく、ひとつずつ手で成形した左ねじを採用。仕上げ前の最終工程で再度焼き入れし“受け”の刃の硬度を調整、枝を柔らかく受け止める工夫を施すなど、素人目に見てもこだわりが詰まっています。「やっぱり、りんごがあったからこそできた形なんです」。そう三國氏がいう通り、りんご作りを支えてきた剪定鋏もまた、りんごのおかげで品質が上がり、りんごに支えられてきた道具といっていいでしょう。
津軽ボンマルシェ・三國打刃物店本体から道具まですべて手作業で作られる、贅沢な実用品。
実際に三國氏の剪定鋏に触れると、その握りやすさに驚きます。手に吸い付くようにフィットし、バネも柔らかい。剪定の経験がある人は分かるはずですが、作業するうち手のひらが痛くなるあの感じが、極力軽減されているのです。こうした使い心地のためのさまざまな工夫は、経験を積みながら重ねてきたものだと三國氏。剪定鋏作りには、もちろん教科書はありません。三國氏自身、先代である父の作業を見よう見まねでやり方を覚え、後は自分で考えるしかなかったそう。
「特に父は自分から説明しないタイプ。用途に応じた刃のサイズなどは書き残していましたが、手取り足取り教わるようなことは一度もありませんでした」。そのためか、それぞれの工程の呼び方を聞いても「鋼を打つのは“叩く”というし、仕上げも“荒仕上げ”とか“最後の仕上げ”とか……。ひとりでやっているから、呼び方とか関係ないんですよ(笑)」と三國氏。鋏作りに必要な道具も、工程と同じように、これといった呼び名はなし。しかし、原料の鋼を火にくべる際に使う大きな鋏も、鋼を叩く台も、さらには鋏の刃先を研磨するグラインダーの刃さえも、なんと手作りされています。「代々続く方法でやっているだけで、特別なことはしていない」という三國氏に、ことさら伝統やこだわりについて聞くことは無粋でしょう。しかしこうして1挺1挺、すべて手作業で作られる剪定鋏は、農機具であると同時に芸術品でもあると感じられました。
津軽ボンマルシェ・三國打刃物店手作りの鋏は持ち手とともに育ち、その性格も映し出す。
今から20年ほど前、剪定鋏を取り巻く状況が一変したことがありました。海外製の安価な剪定鋏がホームセンターに並ぶようになり、一気に普及。りんご農家にも手入れが必要な鋼鉄の鋏ではなく、安くて手軽なステンレス製の鋏を選ぶ人が増えたそう。「たまに、そういう鋏の修理を依頼される人がいるんです。でも修理するより、そもそも新しく同じものを買った方が安い。どんな鋏を選ぶかは人それぞれですが、ああいう鋏は使い捨てなんですよ」。
手作りの鋼の剪定鋏のよさは、長年使うことで手に馴染み、“その人の鋏”になること。「修理に出された鋏を見ると、使った人の性格が見えてくる」と三國氏はいいます。毎年刃がぼろぼろになるまで使いこまれてくる鋏、きれいに手入れされた状態で届く鋏……「どんな使い方をする人なのかが現れるから、それも考えて修理します。たとえば鋏の扱いが荒いと刃が欠けやすいのですが、そういう人には、刃先を刃持ちのよい"はまぐり刃"という形状にしておく。でも大事に使ってもらっているのが分かると、うれしいですね」。
丁寧に使えば30年以上持つという剪定鋏。先代が作った鋏を、息子である三國氏が修理することも多いそう。世代を超えて受け継がれ、愛される津軽の必需品は、今年も日本一の生産量を誇るこの地のりんご産業を、陰で支えてくれることでしょう。
(supported by 東日本旅客鉄道株式会社)
住所:青森県弘前市茂森町170-3 MAP